51 :
名無しさん@3周年:03/04/07 23:41
このスレに寄せられた質問に、何もかも答えている本があるよ。
講談社学術文庫 「老子 荘子」
老荘思想理解の定番
この本でおいらが一番面白いとオモタのは、従来から語られることの多かった「禅と老荘」の関係だけでなく
「禅と浄土系仏教」の密接な関係について、詳細に述べられていること。
まあかんたんなまとめをすると、現代の中国に残っている仏教は、ほとんど禅と浄土のみ。
その理由は、両者とも中国思想の2大柱「儒教・老荘」が「大乗仏教」とともに、主要な構成要素となっているから。ということ。
ただし浄土のほうは、「老荘思想」が表立っていないので一見そのように見えない。
52 :
名無しさん@1周年:03/04/08 22:34
ラジニーシが老子の生まれ変わりでも釈迦の生まれ変わりではないという
ことですね。
53 :
名無しさん@1周年:03/04/09 22:29
格義仏教は、道教の神秘的虚無主義が仏教の一切皆空の思想に酷似している
ことに基づいて展開された。『後漢書』によれば、既に後漢の明帝の異母弟
である楚王英(紀元一世紀の人)が、道教の開祖とされる黄老(黄帝と老子)
と浮屠(仏陀)とを合わせて信奉していたということは、中国人が道教的な
立場で仏教を理解していたということを意味している。道家あるいは後の道
教の教えをもう一度繰り返せば、それは、自己の欲望を制して、無為自然の
自適の生活を楽しみ、神仙方術によって精神と肉体の平安と不老長寿を得よ
うとするものであった。これは、仏教の一切皆空の教えと酷似してたのであ
る。
54 :
名無しさん@1周年:03/04/10 22:21
玄のさらに奥深い玄とは何でしょうか?
55 :
名無しさん@3周年:03/04/10 23:38
無為を為し、無事を事とし、無味を味う。小を大とし、少なきを多しとす。怨に報ゆるに徳を以てす。
難を其の易に図り、大を其の細に為す。天下の難事は、必ず易に作り、天下の大事は必ず細に作る。
この章は無為の生き方が聖人の根本的な生き方であることを説いているのです。
無為を為し、という最初の一言によって、後の言葉のすべては解決されるわけなのですが、
無為を為しだけでは、普通の人には判りかねますので、老子は種々と言葉をついやしているのであります。
今までの各章にもありますように、老子の教えの根本は無為であり、
それによって現われ出ずる道をそれぞれ説き明かしているわけなのでありまして、
この無為ということが心でも体でもはっきり判ってまいりますれば、他の如何なる生き方も自然に行じられてくるのであります。
そこで、無為を為しという言葉の意味を説き明かしてゆきたいと思います。無為とは一言にして申しますと、
為(ため)にしない、ということなのです。何をしよう、かにをしよう、というように、
肉体人間の頭脳でとやかく想いめぐらさないことが無為なのです。そう致しますと、
無為を為すとは一体どんなことをするのかという疑問が当然起ってまいります。
56 :
名無しさん@3周年:03/04/10 23:40
頭脳で考えないで一体何ができるのであろう、普通の人はこう考えるのが当り前であります。
ここが凡夫と聖者との違いであり、道に乗った人と外れている人との相違なのであります。
凡夫は当然のように、この肉体をもった人間を唯一無二の人間と想っています。
しかし聖人は、人間とは生命そのものであって、肉体は一つの生命の道具であり、
生命の現われる一つの場所であることを知っております。それは頭で知っているのではなく、
事実として承知しているのです。
そして自己という一つの生命の流れは、奥深いところから、浅い狭いところまで、
無限の段階において働きつづけているのであることも知っているのであります。
ですから、浅い狭い肉体頭脳という場所だけを経巡っているような想念や知識をいくら振り廻していても、
大宇宙の法則に乗り切ることはできない、大宇宙の法則に乗って生きてゆかなければ、
この狭い肉体世界での生き方さえ正しく行じてはゆけない、と自らの体験で昔からの聖者たちは知っていたのです。
57 :
名無しさん@3周年:03/04/10 23:41
そこで、老子は無為と説き、釈尊は空(くう)と説き、イエスは神のみ心のごとく、
といって全託を説いていたのであります。無為を為し、空になり、全託の境地になりますと、
肉体頭脳と奥深い大宇宙の根源の心、つまり宇宙神のみ心とが一つにすっきりとつながりまして、
宇宙神の智慧や能力が、そのまま肉体頭脳の智慧能力となってまいりまして、超越的な力を発揮してくるのです。
聖人とか達人とかいう人たちは、皆こうした超越能力をもっていたのであります。それ程にならなくとも、
人間が真剣に物事にぶつかった時には、瞬間的に想念が統一して、日頃は出もしない力がでてきたり、
超越した能力がでたりしてくるのです。これも無為や空の境地に瞬間だけでもなったことになります。
地球人間がいつまでも宇宙の法則に乗らずにいたら、いつかは滅び去ってしまいます。
ですから、出来るも出来ぬもない、絶対に宇宙法則に乗らねばならぬ時がくるのです。
その為に古来から各聖者が肉体頭脳の小智才覚に溺れずに、
奥深い神のみ心に波長を合わせろと説きつづけていたのであります。
老子はそうした無為の生き方を細かく説いております。無事を事とし、無味を味わう、
という言葉などは、うっかりすると、実に平凡な消極的な言葉のように聞えてしまいますが、
この世の中が平和で無事であること程有難いものはないのです。
「老子講義」 無為をなし無事を事とし より
58 :
名無しさん@1周年:03/04/11 22:38
世捨て人になろう。
真に老荘の道を歩む人はこの掲示板に登場することはないでしょうね。
ただ掲示板を眺めているだけ。否、もはやネットなんぞやらぬでしょう。
60 :
名無しさん@1周年:03/04/13 08:40
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。
度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。
空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。
不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。
無色 無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。
無眼界 乃至無意識界。無無明亦 無無明尽。
乃至無老死 亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩。依般若波羅蜜多故。
心無礙 無礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。
究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若 波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪日。羯諦 羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
菩提薩婆訶。般若心経。
仏教のエッセンスといえば般若心経ですね。
61 :
名無しさん@3周年:03/04/13 09:22
妙法蓮華経だという噂もある
62 :
名無しさん@1周年:03/04/14 22:10
お釈迦さまと老子が同一人物ということになると万教帰一が主張しやすくなります。
63 :
名無しさん@3周年:03/04/15 22:29
朝鮮には、道教の影響を受けた宗教がかなりあるようです。
64 :
名無しさん@3周年:03/04/16 22:25
韓国から道教系の宗教が日本に入って来てますか?
あぼーん
66 :
名無しさん@3周年:03/04/17 22:13
格義仏教の代表者は、竺潜の本無義、支遁の即色義、竺法蘊の心無義、および
仏図澄(二三二〜三四八)とその門下生の道安(三一二〜三八五)であった。
特に仏図澄は、数々の神異を表わして神変不可思議な術を用いて民衆を瞬く間
に教化したが、これは彼の伝教方法が当時の神仙方術的な道教の教えと合致し
ていたからである。
67 :
名無しさん@3周年:03/04/18 22:40
老子は実在したのでしょうか?
荘子は実在のようですが、老子は実在でない、というのが支配的です。
69 :
名無しさん@3周年:03/04/19 12:57
老子 道経 養身第二
天下皆美の美たるを知る、斯れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。
有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相和し、前後相隨う。是を以て
聖人無爲の事に処り、不言の教えを行う。万物作こりて辞せず。生じて有せ
ず。爲して恃まず。功成りて居らず。夫れ唯居らず。是を以て去らず。
70 :
名無しさん@3周年:03/04/19 13:21
実在しない人物の言葉をありがたがるなんて宗教はやっぱり狂ってるな
71 :
名無しさん@3周年:03/04/19 13:40
>>70 キリスト教もそうです。
イエスは架空の人物です。
新約聖書は後世の創作物です。
72 :
名無しさん@3周年:03/04/19 19:02
諸法無我、諸行無常じゃないのかな?つまり人生は、コントロールできない。人間の小さな智恵でコントロールできないほどに、
人間の小さな智恵でコントロールできないほどに、いのちの働きは大きい、
ってことだしょ。だから、みをまかせて、名誉や権力や富なぞという、不安定
なものを求めず、楽しく生きたらええやン。ってことなんじゃないの?
ちなみに、親鸞の鸞って文字は、老荘思想を実践する道教で使われる漢字で、
仏教には出てこないものです。阿弥陀信仰は、老荘思想にも、源があるのかも
しれないよね。
でも、老子と釈迦は、別人物だと思うよ。
老子のほうが、ちょっと深い。
世界の根源に関する洞察が含まれてるから。
仏教には、見つけられない視点だよ。
神道にはあるけどね。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
74 :
名無しさん@3周年:03/04/20 03:18
>>72 >世界の根源に関する洞察が含まれてるから。
それは仏教の得意とする分野だよ。
しかも論理的みたいだぞ。
75 :
名無しさん@3周年:03/04/20 07:24
『史記』中の老子の伝では,老子は最後は「函谷関を出て終わるところを知ら
ず」となっているが,この記事からまず166年(延喜9)に「老子は夷狄に入っ
て仏陀となった」とする説(襄楷の上奏文)が生まれ,またのちには「老子は
関を出てから,中央アジアをへてインドまでいき胡人を教化した。釈迦は老子
の弟子である」という説(『魏略』西戎伝)も生まれた。この説にのっとって
生まれたのが,『老子化胡経』である。この経は西晋の道士王浮の作とされて
いるが,ペリオによって敦煌で残巻が発見され,大正大蔵経に収められたもの
は開元年間の成立であり,王浮作のものとは別のものと考えられている。この
説の成立については,一般に仏教に対する優位を主張するために老子の徒がつ
くり出したものとされているが,布教を円滑にするために仏教側が考えだした
ものとする見解もある。『老子化胡経』は成立以来,仏道の論争のさいにはつ
ねに争点の一つになってきたが,元の1281年(至元8)の禁断によって滅んだ。
76 :
名無しさん@3周年:03/04/20 17:02
老子化胡経は、残っていないのでしょうか?
77 :
名無しさん@3周年:03/04/21 21:57
>>74 華厳経の世界ですね。
華厳経では、釈尊が法身である毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)と同化され、
あらゆる差別相を有するこの世も、真実には釈尊の成道によって実現した
真理の世界(法界、ほっかい)であるとする。
小さな塵の粒、一本の毛の穴の中にも無数の仏国土がある(一即一切、一
切即一)。そのような迷いの世界は、その本性において空であり、そのま
ま悟りの世界である。衆生が輪廻する三つの領域(欲界・色界・無色界の
三界)の存在は、すべて心から現れるという唯心説を説く。
78 :
名無しさん@3周年:03/04/22 22:42
中国では、華厳宗が盛んでした。
79 :
名無しさん@3周年:03/04/23 22:16
老子が釈迦になったり、義経がジンギスカンになったり、不思議だ。
80 :
名無しさん@3周年:03/04/24 22:13
玄の又玄、衆妙の門。
玄のさらに奥深い玄は、微妙な現象を生みだす門なのである。これを追求
するのが道教。
81 :
名無しさん@3周年:03/04/25 23:33
謎の人物ですね。
82 :
名無しさん@3周年:03/04/26 10:45
老子 道経 養身第二
世間の人は皆、美が美であることを知っている。しかし、美が醜の相対的概念
であることに気づいていない。また世間の人は善が善であることは知っている。
しかし、善が不善の相対的概念であることに気づいていない。
有と無、難と易、長と短、高と下、楽器の音と肉声、前と後、これらは皆、相
対的概念である。
このように無為自然の道を体得した聖人は、無為自然の境地に身を置き、言葉
という虚しいもので教えず、不言という方法で教える。道は万物を生じさせて
も一言も語らない。生じたものを自分の所有物とはしない。何かを成し遂げて
もそれに伴う高い地位に居座ろうとしない。居座ることがないから、いつも功
績が挙がるのである。
83 :
名無しさん@3周年:03/04/26 18:41
相対的な概念にとらわれない生き方が、無為自然ということですか。
84 :
名無しさん@3周年:03/04/27 06:40
仏教の悟りと共通するものがありますね。
85 :
名無しさん@3周年:03/04/27 16:26
無作の三身というものですか?
86 :
名無しさん@3周年:03/04/28 22:18
無為自然の境地に身を置きたいですね。
87 :
名無しさん@3周年:03/04/29 10:30
仏教では悟りといいますが、道教では何といいますか?
88 :
名無しさん@3周年:03/04/29 19:16
老子は、仙人だったのでしょうか?
89 :
名無しさん@3周年:03/04/30 22:11
万物の母である天地が創造という考え方を老子は受け入れています。
90 :
名無しさん@3周年:03/05/01 22:18
創造というのは、仏教の捉え方とは違いますね。
91 :
名無しさん@3周年:03/05/02 23:05
神という考え方があるのでしょうか。
無為を説く以上、神という考えは無いのでは。
神の意思も有意の内に入りませんか?
93 :
名無しさん@3周年:03/05/03 18:56
無為自然が禅の世界と共通するんですね。
94 :
名無しさん@3周年:03/05/04 10:26
禅宗は大乗仏教の宗派で、禅(具体的には座禅)によって精神的安定をえて悟り
にいたることを目的とする。不立文字(ふりゅうもんじ)を原則とするので、他
宗のように中心的経典はたてない。また、悟りの機微は師から弟子にうけつが
れるとする師資相承、師の心を弟子につたえるとする以心伝心、文字に書いた
教えだけでなく全人格的な教えが必要だとする教外(きょうげ)別伝など、種々
の特徴をもつ宗派である。元来、禅は仏教の基本的実践の重要な徳目であるか
ら、古くからインドで重視されていたが、宗派として確立したのは中国におい
てである。ただし、禅宗という語がもちいられるのは唐代末期であり、そのこ
ろから、禅宗の歴史の起源をどこにもとめるかが問題になってきた。そして初
祖と考えられたのが達磨である。
95 :
名無しさん@3周年:03/05/05 07:08
達磨は北魏のころ、インドから中国へきて、「二入四行(ににゅうしぎょう)」
という独特の禅法を説いたという。この教えは、弟子の第2祖慧可、3祖僧
(そうさん)、4祖道信、5祖弘忍とうけつがれ、禅宗教団は大勢の門下をかか
える大教団へと発展した。弘忍のあとは、神秀と慧能という2人のすぐれた弟
子がつぎ、神秀は北宗禅を、慧能は南宗禅をひらいたが、南宗禅が正統とみと
められ、慧能が6祖となった。
慧能ののち禅宗は、臨済宗、仰(いぎょう)宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の五
家が分立し、これに臨済系の分派である黄竜派と楊岐(ようぎ)派をくわえた五
家七宗が中国禅宗のおもな分派となった。ついで馬祖道一(ばそどういつ)や、
そのあとをついだ百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が禅宗の独立を確実なものに
し、禅宗は唐代から五代をへて宋代にさかえて、中国仏教の主流をなすにいた
った。
96 :
名無しさん@3周年:03/05/05 20:13
禅宗は中国では多くの派に分かれていますが、朝鮮では統一されたようです。
97 :
名無しさん@3周年:03/05/06 22:03
道教ではどんな修行をするのでしょうか?
98 :
名無しさん@3周年:03/05/21 20:59
保守アゲ
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
100 :
名無しさん@3周年:
山川草木国土=悉有仏性age