悟りや、経典などの解釈に付いては多くの意見が飛び交っているが
心の安らぎを得るにはどうしたらよいのだろう?何物にも依らない
内心の平安とは、どんなものなのだろうか?またそれがニルバーナ
涅槃寂静と呼ぶものなのだろうか?
悟りを得ることと、涅槃寂静の世界を垣間見ることは同じなのだろ
うか?
私にはよく解らず、どなたか御指南よろしくお願いします。
2人で一緒に2ゲットオォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ (´⌒(´
∧∧゚ー゚*)⌒ヽ〜 (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂∪⌒つ´ ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
3 :
名無しさん@1周年:02/10/24 23:46
大悟しても何も変わらぬ日常が続くのだ。
方法は二つある。
何も考えぬこと。
全てを考え尽くすこと。
さすれば心の平穏を得よう。
中途半端に思い悩むものではないぞ。
>>3 貴方の提案その一。
「何も考えぬこと」
これは人間には不可能なのです。
提案その二。
「全てを考え尽くすこと」
人間は不完全なものなので、「全て」というとこれもまた不可能なのです。
>大悟しても何も変わらぬ日常が続くのだ。
「何も変わらぬ日常」という意味が一体どういうことなのかが問題ですね。
5 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/25 20:20
>>1 自分が「生きている」「生かされいる」とゆうのが明確に解った時。
またそれは、明確に「死」を受け入れる。とゆう意味を有する。
この相反するものが「同一」と解った時。
これが涅槃寂静かと思う。
私は別に悟りたいとはそんなに思わない。けど、内心の平安は得たいと願う。
今まで沢山の宗教家や僧侶にも見えたが、大抵の人は内心の平安を得ている
ようには残念ながら見えなかったな。全てではなく、大部分ですがね。
この2CHでも、セオリーはともかく、内心の平安を得ていると見うけられ
る御仁は非常に、非常に少ない様に私には見うけられますね。
非常に少ないですが、これはと思わせるようなレスを打つ人も確かにいます。
これを目にした方で、内心の平安を得ていると自覚している方がもしいたら
どうか御指南願頂きたいものであります。
>>5 髑髏仮面さん
実は、私は貴方のレスには心の琴線にふれるものを感じていたんですよ。
今の私の心は、まさにブランコのように右往左往していますけど。(w
早速の、意味深なレスありがとうございます。でも、愚かな私にはイマイチ
どころか、イマニ、イマサンも届かぬ心境でございまして。
まあ、そこより遥か彼方の心境で必死によじ登ろうとしている訳です。(w
髑髏仮面さんは大歓迎なので、宜しくお願い致します。
8 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/26 06:52
人間は、人生のアクシデントの時、それまでの固定概念を一瞬見直す時がある。
そうゆう時に「自分とは何ぞや?」ちゅうのを深く考える契機になる。
あたりまえに人生約80年。これは経験則。
やはり「自分が生きている」ちゅうのを深く受け止める事が大事かとも思います。
そうゆう単純な事が一番大事な気がします。
えてして宗教は教条主義に陥りがちですね、これでは本当に自分のものには成り得ない。
こうゆうドグマのところから考察することも肝要かと思う。
そうですね。「人生のアクシデント」まさにこの時、固定観念が崩れ去っていく。
今は、まさにその真っ只中で右往左往している最中なんですよ。(w
実は、大の親友が亡くなりましてね、それも突発的な急病であっけなく…。
まだ30代の青年なのにね。
人間とは、一人、また一人と屠殺場に連れて行かれる牛みたいですね。それなの
に、なに薔薇色の夢をみていたのだろうなってね、思っちゃうんですよ…。
髑髏仮面さんは、人間は死んだらやはり消滅してしまうものだと思いますか?
私も人間だから、何時かは否応無しに自分自身の死を受け入れなければならん時
が来るでしょう。それは、その時は本当に否応無しに…。人間とはそう言う身の
上なんですよね。
しかし、自分自身の身に起こったことと、親しい人の身に起こったことだと違う
意味での苦しみがある。例えば、勇猛果敢な人物でも、家族の身に危害を加えら
れる事などには、自分の身以上に恐れを抱いてしまうようにね。
仏典の中で、御釈迦様はゴータミ−という女性を回心させていますよね。アング
リマーラという殺人鬼も御釈迦様の説かれた法の前に回心しているようです。
仏典中では、非常に簡略化されていますが、私はこの二つの物語に深い本当の正
法を感じてしまうんですよ。
だって、仮に私が連続殺人犯の前に立って、御釈迦様と同じ台詞を語ったとして
も、まあ、やられてしまうのが落ちでしょうし、立て続けに家族を亡くして悲観
に暮れている女性に同じ事をしても、逆に心を頑なにしてしまうだけでしょうか
らね。何が人間を回心させるのでしょうね?決して理論理屈の教学ではないと思
いますね。理論、理屈の合理不合理を超えて柔かくも剛い自由無碍な精神。法に
根ざした心。私はこういうものではないかと思うんですね。
でもね、まだまだ私の心は法に暗いんですよ。まあ、だからこそ、そこへ行こう
と自分なりに精進?している人生ではあると思うけど。
そう言えば、以前違うスレで髑髏仮面さんが、人生は一刹那、一刹那。一期一会
だと言っていたのを思い出したが、まさにその通りだと思うな。
さっきまで居た人も、今ではもう居ない。その、たったさっきにさえ戻ることは
できない。もう二度とその人に会うことはできない。その、さっきは、そんな事
になろうとはつゆ知らず、これが人間というものでしょう。
悟ったと言え、いつ訪れよう交通事故、災害まで予期することはできないのですね…。
11 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/26 20:56
>>10 一期一会とゆうのは、縁があったらそれを大事に。とゆうことでしょうから。
つまりは、縁がなくなる事を前程にしてるんですね。
武士の真剣勝負の前に一礼するのは、いわゆる「今生の別れ」を意味するらしい。
つまりは、互いに生きて逢う事はあるまい。ちゅう意味なんでしょうね。
茶道の茶禅一味は、この死生観を織り成すもんと思います。
>つまりは、縁がなくなる事を前提にしているんですね。
考えてみたら、どんな些細な事でも出会いは人には作れない。本当に奇蹟のような
ことが、当たり前の様に起きているのかもしれませんね…。それは素晴らしくもあ
り、恐ろしくもある事ですが。
さっきまで居た人や、何気ない日常で普通に逢っているのが当たり前になっている
人など、別れる時が今生の別れになるとは思いもよらない。それが悲しくも人間の
限界というものでしょう。
だが、そんな当たり前に出会っていた人でも、死んでしまえば、もう二度と会う事
はできませんね。彼らが居た、ほんの数分前にも戻ることはできないのですから…。
そう言えば、彼と最後に見えた時、偶然か?死についての事を話し合ったのですよ。
その時、どういう訳か私の心臓が早鐘の様に打ち出して気分が悪くなったものです。
あれは、なんだったのでしょうね。数年前、家族が亡くなった時も、その時は深夜
だったので寝ていたのですが、ビックリした様に目が覚めて、やはり心臓が早鐘の
様に打っていましたね。その時はハッキリと時間も覚えていたのですが、医師の死
亡診断時刻とピタリと一致していました。不思議な事もあるものです。
私は何度かそういう経験があるので、親しい人の亡骸を見た事があるのですが、ど
ういう訳か、その第一印象として「彼はもうここには居ない。これはもう抜け殻だ」
という感じを受けるんですよ。それは考えるより早く、直感的な感じなんですがね。
これは頭の中にある「死んだ」というイメージとはかなり違いますね。しかし、未
だに私には正直「死」というものが理解できません。と言うか、生と死の間に葛藤
があるのですね。世間一般で常識とされる生と死が、私の中のものとは折り合わな
いのですよ。
ちなみに、ブランコよ、テメーは、内心の平安なんてものを、望んでるのかい?
心がかき乱されるのは、嫌なのかい?
発情するのは、嫌いかい?
セクシャルに興奮させられるのは?
興奮しつつ、内心の平安を望む。
それが、人間だ。
「煩悩を捨てないまま涅槃に至れないかなあ」
それが、まあ、だいたいの、凡人の考えることだ。
結論から言えば、それで、いいのだ。
それが。悟りだ。
それで、いいのだ。
>>13 見ず知らずの人間に、いきなり「テメー」呼ばわりするのが貴方の礼儀か?
まあいい。まず…
五感の興奮と、内心の平安の、どちらを選択するのか?と問われるなら、私
は内心の平安を望むよ。五感の興奮は確かに魅力的だ。誘惑もされる。でも
一時的なものだし、他との争いも避けられない。しかも、何時奪われるかも
知れぬ不安定な性質のものだろう。その事から得られる満足と、支払う代償
を天秤にかけてみれば、どちらがより重要かが判断できるくらいの理性は私
にもある。
世の中にはセックス以上に興奮する事もあり、それに没頭して得られる本当
の満足は、ほんの一瞬、束の間の刹那なんだよ。その一瞬を求めて色々努力
しながら究極に迫っていこうとするのも人生かもしれない。
しかし、私はそんなに強い人間じゃなくてね、何時壊れるか、何時奪われる
か判らないものを求めるだけでは、不安でしょうがないんだよ。
だから、壊れる事も、奪われる事もない、内心の平安を得たいんだ
確かに、貴方の言うように、人間は正反対のものを必死で掴みながら、求め
ているものを掴んでいると錯覚しているところはあるよね。そして貴方も私
も人間だ。貴方は、それを知った上で「それでいい」と仰るのか???
15 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/27 08:51
>12
>生と死の間に葛藤
私の経験ですと、「死」とゆうのが身近に感じられますと、先ず「拒否」がありますね。
「自分に限ってそんなことはい」。この葛藤があります。
しかしながら人間ちゅうまんはそれを段々受け入れていく。受容です。
こうなりますと、先ずは自分の近辺整理に入ります。
保険とか貯金の情報を身内に開示します。そうこうしているうちに段々精神も落ち着いてきます。
じっくり「自分」について考える余裕とゆうのも出てきますね。
ある意味、こうゆう時とゆうのは最も平安なんかもしれませんね。
「すべてを捨てて」「すべてを受け入れる」。この同一性とゆうんでしょうか。
武士道について、「葉隠れ」にある・・・
「武士道とは死ぬことと見たり」。この言葉を思い出す。
いいスレッドなので宜しければsageでお願いします。
>>15 う〜む、髑髏仮面さんはやはり一度は、人生を諦めた人なのですね。というか、自分
の死を受容してきたのかもしれない…。
私は、まだまだそこまで自ら「苦」を受容することは経験していませんし、自信もな
いですね。正直なところ。(w
しかし、仏典を見るまでもなく、人間は皆、死刑判決を受けた囚人の様な身の上すよ
ね。親しく身近な人間の死を垣間見ると、その事実に愕然とします。
ひとつ、言えることは、人間(自分)が死ぬものであるという事実に気付いてしまっ
たなら、まず、生きる事は大いなる苦しみになると思うということです。まさに死を
拒絶すると、同時自然的に生も拒絶してしまう仕組みなのではないでしょうか?
私も、友人の唐突な死を垣間見て、青年としての人生の受楽に楽しみを見出す事が難
しくなり、虚しさばかりが募ってきます。何となれば、私も何時、何処でこの身が崩れて
しまうか解らず、生命の保障はなにも実はないのですからね。
しかし、私には善かった事がひとつあります。一応なりとも、仏教の教えを生活に取
り入れていた事ですね。あれや、これやと頭の中に浮かんでくる暗い妄想から「『今こ
の時、生きている自己』という事実に戻って来い」という教えに肖れるからです。
親友の死も、悲しく辛く、とても暗い気分になりますが、これが縁になって色々と
洞察も進んでいるような気がしますよ。
・・・
>「すべてを捨てて」「すべてを受け入れる」。この同一性とゆうんでしょうか。
人間とは、本当に魔法か何かに懸かっているかのように、求めているものと正反対
のものに、必死でしがみつこうとしてしまうものですよね。一切皆苦というのはそ
こから生まれて来た教えなのかも知れないなあ。幸福を求めながら、どう言う訳か
不幸に陥ってしまう悲劇が、人生にはありますよね。
春になると、大地から植物が芽をふきますね。
そして秋になると、段々弱ってきて枯れてくる。
冬になると、何もなかったよーに雪が積もる。
まあ、人間はこれで良いんでしょうね。
芽をふく前、なにもない大地。
植物が枯れたら、なにもない大地。
これなんかと思いますね。
禅師が風雅を楽しむのは、これなんかと思います。
春に花 夏ほととぎす
秋は月 冬雪冴えて冷やしかりけり by 道元
>>18 今の私の精神状態で見ると、何と言うか、18のレスからは、虚無的な感じを受けて
しまいますね。
先日、東工大の学園祭に行ってきたのですが、それはね、東工大の学園祭には、毎年
彼と一緒に訪れていたからなんですよ。
在りし日の彼と、日程の確認まで済ませていたものです。私は彼の葬儀にも出席して
いない…。私の心の中では、彼はまだ生きていたのだから…。死なす事はできずに…。
東工大の学園祭に行くのが私なりの儀式だったのですね。彼はもう、この世にいない。
それを確認しに行く。二人で議論した場所、色々な想い出が走馬灯のように浮かんで
は、消えていった。環境としては去年と全く変わらない。ただ、彼がいないだけ。
確かに、彼はどこにもいなかった。前にも後ろにも横にもね…。確かめるように見ま
わした。心の中の彼に、万感の想いでハッキリと告げた。「もう、お前は死んじまった
んだよ…」と。今度は、彼の遺影に線香をあげに行くこともできるだろう…。
心の中の彼に、そう告げたら、何か少し吹っ切れたようだ。何か、心の重荷をひとつ
下ろしたような感じがしますね。
私は、常に生きている自分しか見出す事ができない。どんな瞬間でも生きている。死
と呼ぶものも、誰かのものを客観的に見て、あれこれ考えて嫌悪ている面が多いよう
な気がしますね。「生きる」事を客観的に捉えられない様に「死ぬ」事も客観的には
捉えれるものではないと思うのですよ。
死という「概念」を拒絶しているだけかもしれない。いずれその現象は誰の身にも起
こるだろう。でも、私は生きる事のみ考えるようにする。そうしないと、明日を生きる
力など湧いてこないから…。私は明日を信じて今日を生きる人間です。
私は個人的に、輪廻転生を肯定しているしね。この身体でとは限らないが、必ず明日
と未来は全ての生き物に約束されているものだと思うのですよ。だから人間は、より
善い明日を迎えるために努力することが大切だと私は思います。これが精進というも
のでしょう。だから、いずれ誰も「これで善い」と思える広い心を得られるでしょう。
20 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/29 21:50
>>19 禅では「父母未生の前の本来の面目」という言いかたをしますね。
つまり、お父さん、お母さんが生まれていなくとも「私はあった」。
たまたま「この世に縁があって」→「私はこの世にある」。
貴女と彼の出会いとゆうのも「稀なる縁」なんでしょうね。
これだけでも凄いことなんではないでしょうか?
今は「縁」がなくなりましたけどね。
「縁があった」とゆうのを大事にしたら良いかと思いますよね。
これが貴女の人生で大きな支えになるんじゃないでしょうか?
輪転生は、貴女自身が決めれば一番良い事かと思います。
それを信じて生きるのが、貴女に一番合った生き方だと思うんですね。
「父母未生の前の本来の面目」とは、そうゆうことかと思うんです。
遥かかなたの大昔から貴女は「あった」。
そしてそれは永遠に貴女で「ある」。
>>20 あれっ!?髑髏仮面さん、私は男性であります。私が少し感傷的な文面に「彼」なんて
書いたから、てっきり彼の彼女だと思ってしまわれたのでしょうか?「奴」って書けば
良かったかな。 奴は、私の親友だったんです。
まあ、私が男性であろうと女性であろうと、人間であることに違いないのでレスの内容
自体を受け取る事には、なんら問題はありませんのでオッケーなんですが…。
>禅では「父母未生の前の本来の面目」という言い方をしますね。
そうなんですか。不思議な印象です。私はその言葉から、ナザレの男、イエスの台詞と
される、生みの母に向かって「私の母とは誰の事か?」という言葉の意味を連想しまし
たよ。「いのち」と言うのは本当に摩訶不思議なものだと思います。
回復の見込みのない重病の患者が、元気に回復してしまったり、元気に生活していたと
思われる人が、ある日不意に行ってしまう事もあったりしてね。
「自分でありながら、自分でない」「自分でないようで、自分である」言葉を付けると
何だか、訳が解らなくなりますが、自分の感覚としては「然り」とする部分は、ある様
な気がします。
今日も天候が素晴らしく、外に出て景色を観回してみると、色んな感慨が涌き出て来ま
した。自然の景色が心を癒してくれたのですね。私は、世界が素晴らしいと思わずには
いられませんでしたよ。一瞬ですが、私の心が「ありのまま」の世界に触れたのかも知
れませんね。その時だけは、私も図らずとも内心の平安を得ていたようですね…。
私は今までに、今日ほど太陽の光が素晴らしく見えたことはない様な気がして来て。是
もまた面白いものです。私は一体、人間は一体、何を「見ている」のでしょうね…。
※いつもレスを返してくれて、どうも有難うございます。髑髏仮面さんがレスをしてく
れるお陰で、私は随分助かっているところがあります。(^^
このスレが荒れ模様にならなければいいですね
マターリと逝ってください
23 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/30 22:00
>私は、世界が素晴らしいと思わずにはいられませんでしたよ。一瞬ですが
私もそうゆう経験がありますね。
数年前なんですが・・・。木の葉が舞う丁度今くらいの時期ですかね。
ジッと木の葉の舞を見ていたんですね。
頬にあたる風の感覚と、木の葉の動きが妙な感覚になりまして、
あれは丁度スローモーションのように見えてきたんですね。
非常に綺麗ですね。「ああ、なんて素晴らしい」。と、思いました。
そのとき以来、少々人生観が変わりました。
あの経験は一回こっきりですね。
大自然のリズム見たいなもんだろうか?。とか、いろいろ考えますがね、
>※いつもレスを返してくれて、どうも有難うございます
いえいえ、こちらこそ女性に間違えて失礼しました。
2ちゃんで、以前にも女性に間違えた人がいますね。
「赤のホットパンツを穿く」。ちゅう方ですね。
この人は後で分かったんですが「男」でしたね(w
>>23 >ジッと木の葉の舞いを見ていたんですね。
>その時以来、少々人生観が変わりました。
私もね、その時、その僅かな時間だけは人生観が変わるのですが、私の場合はまた
基に戻ってしまうのですよ。(w
後に、そうは言っても、もごもとむにむに…。と色々言い訳が湧き出て来てしまう。
さっきまで「然り」と感じていたものが、まるで夢、霞のように消失してしまうの
ですから、しょうがないといえばしょうがないのですが。そして、厳しい現実生活
に戻り参ぜねばならない。まあ、そこからが人生の実践になるのでしょうけど…。
昨日のレスの続きになりますが、髑髏仮面さんは是をどのように思われるでしょう
か?
人間は、一体、何を見ているのか?ということを。人間の眼は、その物体の位置や
運動等に付いては、正しく見定めることが出来るが「どの様に見えるのか?」とな
ると、譬え同一人物、例えば私としても、同じ太陽を見て、昨日我が目を疑うほど
に素晴らしく見えても、ギラつく太陽光が煩わしく見えた日も確かに覚えがありま
す。「見ている」と言う事を、普通人間は、肉眼で捉えるものは、客観的なものだと
思っているふしがある。つまり「私に『赤』がこの様に見えているのだから、誰の
目にも、何時もこの様に映っているはずで、これは誰が見ても同じに見えるはずだ」
と…いうような。
髑髏仮面さんはこういう人間の「見る」と言う事に付いて、どういう意見を持ってい
らっしゃいますか?
>>16 >>22 何処の何方か存じませんがスレの行方を心配してくれて有難う。sage進行
に異存はないのですが、倉庫落ちしちゃうと私の手には負えないのですよ。
26 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/10/31 21:44
太陽を見ることにより「見ている自分」を認識できますね。
つまり、自分ちゅうのは「何らかの対象物」によって「自分を認識できる」。
じゃぁ、自分とは何ぞや?となりますと、対象と被対象を明確に分けられませんね。
つまり、対象?が無ければ「自分」も無い。
対象があって、自分がある。
自性としての「我」が無い。これを「無我」ちゅうんかと思います。
「木の葉の舞の素晴らしさ」は、こんな感覚ですね。
落ち葉のような無機質でも、やはり見ようによってはダイナミズムを感じるんじゃないでしゅか?
心のありかたで、どうゆうふうにも見えるんだと思いますね。
「対象を見る」んじゃなくて、対象と自分は明確な線引きができない。ちゅうことかと思います。
「見る」という事についての御意見、どうも有難うございます。何事も、どの様に「みる」
のかという事はとても大切な事ですね。人間にとって一切世界は、全て自分の鏡とも言う
事が出来るかも知れませんからね。
もし、世界に自分以外何者をも存在しなければ、自我という意識も芽生える事もなかった
かもしれませんしね。小さな赤ん坊や、幼児達がその様ですよね。
そう言えば、私も、幼い頃はゴミを捨てるというのが可哀想に感じたりしたものです。
対象と、被対象になっているもの、つまり相対的なものは片方だけを取り除く事は不可能
ですね。なにか反対の捉えるものがなければ、それに付いての我意というものもあり得ま
せんね。
で、その対象物をひとつ、ひとつ丹念に取り除いて行く事がもし、可能ならば、最後に残
るものは虚無でしょうか?つまり何も残らない。これが「無我」「無自性」と言う事なの
でしょうか?私にとってこれこそ、まさに「死」のイメージそのものですね。全くの虚無。
そこは、まさに虚無ですから、全ての意味も意味を失うんですね。慈悲も慈悲でない。愛
も愛でない。私も、私でない。人生も人生でない。なんの意味もないのですね。虚無なん
ですから。だから、私は無我に付いては仏教の説と言えど、中々受け入れられんのです。
28 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/02 06:18
>>27 「虚無」と逝っても、貴方が自然に感動するように「大慈」「大悲」はあると思う。
で、この「虚無」をずーーーっと深く入り込んだときに「感じる」もんがあるか思います。
これが一般的概念の「虚無」ではないかとおもいます。
なにも存在しない、空虚。この「虚無」ではない。
これのドンデン返しの「無」とでも言うんでしょうか?
いわば、来世がある、とか無いとかの概念を全部ヒックルメタてしまたのが「無」なんかと思います。
釈尊の言う「中道」とゆうのは勿論「真ん中」とゆう意味もあるんでしょうが、
私はモット広義にファジーに捉えています。
相対立のない「無」。これを円相とゆうんかとおもいます。
全て調っている。平安である。相対立することをも包含せしめる。一番安堵な状態。
来世があるなら、そのように。
来世がないなら、そのように。
この「無」かと思う。
う〜む、痛く感服しますよ。貴方のレスからは、ただの観念論以上のものを感じてきま
したからね。
多分、以前の髑髏仮面さんにとっても、自分自身の「死」と向い合って、この「虚無」
と対峙してきたのでしょう。他スレのレスも含めて洞察するに、一度、今際の際とでも
いうような体験の中で「虚無」であろうが何であろうが、とにかく自らの「死」を受容
してきたのじゃないかと思うんですね。
私も、この身が危険な目に逢って死ぬかもしれないような状況には陥ったこともありま
すが、如何せん咄嗟の事故なので、対応する事で精一杯で、あれこれ考えている暇がな
かった訳です。
私は、思うのですが死の恐怖も、虚無に対する不安も、頭の中で必要以上に脹らんでし
まうと。「思考の恐怖」とでも言うのでしょうか?とにかく「恐怖」と言う現実はあり得
ないでしょう。危険な状況と言う現実はあり得る。
まあ、とは言うものの、個体維持の強烈な本能の働きがあるのだし、知能も発達して自我
意識も目覚めている人間にとっての「死」は、あらゆる動物の中で、最も苦悩するものに
なっているのだと思います。食物連鎖の頂点に登り詰めている人間にとって食われてしま
う実質的な敵がいない変わりに、自らの死にはじまる、様々な苦悩発生装置が内在してし
まっていると言うことかもしれませんね。そういう人間にとって重要なのは、思想家の言
う「己を知る」事。さらに武道家の言う「己に克つ」事。これが人生の王道でしょう。
人間は、はるばる外国まで行って敵を倒してこなくても、勇者になれると言う事でしょう
ね。理想郷、ユートピアを探して、遥々遠方に旅をしなくても「ここ」にもあるという事
でもあるのかも知れませんね。う〜む、何というじれったい事かっ!!
「無」に付いての洞察は、まだまだ私は「虚無」の不安と恐れに立ちはだかれているよう
であります。(w
いや、前レスの
「己を知る」事。「己に克つ」事。を「自己を知り、自我に克つ」と訂正します。
31 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/03 06:06
例えば、動物なんかで「死」について予見できなけりゃ「生死」の概念は無い。
人間なんかが「死」を恐怖するんは、「生→死」この連続性を頭にインプットしているからなんでしょうね。
生にしても、死にしても、そこには常に相対立する概念が「あって」のこと。
つまりは「生⇔死」は同一。これを生死一如とゆうんでしょうね。
人間が永久に死ないのであれば、生について考える必要はありませんね。
つまり、そもそも「生きる」ちゅう概念そのものが無いでしょうし、
また「生きる」ちゅう言語もなくなりますからね。
これを、ずーーーと突き詰めていくと、「生→死」の連続性ではなく
その瞬間が「たまたま生」であった。
その瞬間が「たまたま死」であった。
これは殆ど同じことですよ。
二項対立して考えれば明らかに差異はあるにしても。
ここをずーーーっと内省していくんかと思います。
32 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/03 07:23
>「自己を知り、自我に克つ」
仏教の素晴らしさちゅうのは、こうゆうとこにあるんかとおもいます。
常に自己と対峙できる。
声聞・縁覚・菩薩、この三道ですね。
髑髏仮面さんは、朝が早いですね。私も今日は休日ですが、少し早く起きて、朝の散歩
と洒落込んで来ました。やはり空気が澄んでいて、スカッと晴れた早朝には、誘われる
ものを感じます。
>人間なんかが「死」を恐怖するんは、「生→死」この連続性を頭にインプットしている
からなんでしょうね。
う〜む、そうなんでしょうね。以前の髑髏仮面さんのレスを覚えているのですが、死を
ある程度、従容と受け入れられるタイプの人と、そうでないタイプの人がいると言う事
ですが、それなどは死の事象以上に、本人の「頭の中」の違いを如実に表しているのじゃな
いでしょうか?つまり、死の捉え方の違いです。これも「見解」の違い、先の、どの様
に「みる」のか?という問題とも大きく絡んでいますよね。
勿論、生活上の諸問題の違いが、その問題に絡んでくることはいうまでもありませんが。
例えば、本当の僧侶のように無一物で、心も鍛錬されていれば別に僧侶でなくても間違
いなく死を従容と受け入れられるでしょう。もうひとつ、これは死を従容と受け入れる
というより、全てを失って死を求める状態が、人間にはあるようです。
しかし、前者の見解が、実相であるのに、後者の見解は妄想だと言うことでしょう。
自我意識が盛んに活動している内は、実相には大変気付きにくいですし、妄想はどんど
ん脹らんで行ってしまう傾向が、人間にはありますね。
仏教に「ニルバーナ」という表現がありますが、なにかを「吹き消す」という意味合い
もあるそうですね。盛んに活動する自我意識を、吹き消して行く。是、私の解釈的無我。
アートマンがあると思おうが、ないと思おうが、そんなことは取り敢えずどっちでもいい。
とにかく、まず自我意識の妄想、転倒の類に気付き、それを取り除いて行こう。と…。
そうすれば、人間なら誰だって、自ずから観えてくるものがある。解ってくるものがある。
自ずから来る。如く来る。だからその極みが、いわゆる「如来」というものなのでしょう
か??如来と言うのは、人間の心の中にでも、そのように顕れるのかもしれませんね??
34 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/03 14:33
>まず自我意識の妄想、転倒の類に気付き、それを取り除いて行こう。と…。
この「自我意識」ちゅうんも非常に曖昧ですよね。
認識すれば「ある」んでしょうし、認識しなければ「ない」。
手をナイフで切れば、「痛い」はあるんでしょうし、「痛い」は段々なくなる。
縁にふれて「ある」もんでも、縁がなくあれば「ない」。
つまりは非常に曖昧なもんが、あったりなかったり。
これを、ずーーっと突き詰めていったのが「自性」として「ある」ものは「ない」。なんかと思います。
これが、差別のない、平等の相ちゅうんかと思います。
これで「我」ちゅう捉え方が変われば、当然アートマンの捉え方も変わると思います。
>この「自我意識」ちゅもんも非常に曖昧ですよね。
なるほど、そういうことであるかもしれませんね。認識すれば「ある」し、認識しな
ければ「ない」。赤ん坊や、幼児は、認識していないから、彼らには自我意識はない。
私は、自我意識というものを「世界から独立、孤立して自分というものがある」と。
こう言う意識の傾向を差しているのですが、どうでしょうか?3才位までの幼児には
まだ、世界と自分、他人と自分というような「他と違う独特の自分が存在しているんだ」
と言うような意識は芽生えてきていませんよね。
でも、レスを読んでいて思ったのですが、成人でも幼児でも身体に傷を負えば「痛い」
感覚はあると思いますよ。そして「痛い」は段々なくなる。
これは、人間に限らず鳥獣魚虫すべて身体のあるもののプロセスだと思う。自我意識
があろうが、なかろうが「痛み」は取り敢えずは神経の問題ですよね。つまり「色」は
無常という事で…。「痛み」の程度は、自我意識の影響を受けるものでしょうが、それ
はまた後に回します。
レスで仰っている意味が巧く汲めてないのかもしれませんが、この様に「色」が無常
であるように、自我意識も無常である。縁に依って生じ、縁に依って滅する。察する
に多分この様なことを仰っているレスだと思うんですが…。まあ、中盤までは…。
しかし、後半の…
>これを、ずーーっと突き詰めていったのが「自性」として「ある」ものは「ない」。
なんかと思います。
これは難しい!正直、今のところサジを投げるしか、私にはできそうにありません。
で、先ほどの自我意識と「痛み」についてなのですが、同じ傷でも自我意識で
「大変な傷である」と思うのと「大した傷ではない」と思うのでは「痛み」の
感じ具合に違いがあると思うんです。傷を見るまでは痛みを感じない場合もあ
る様ですね。
認識、という問題もあるかと思いますが、確かに曖昧です。竹を割ったような
スパッとした答えは痛快ですが、それは部分的なものでしかないのでしょうね。
しかし、この身体がある以上傷を負えば「痛み」があるのが当然で、その「痛み」
があっても「痛み」を感じないとしたらオカシイぞ。と。
傷を見て、ビックリして慌てふためき「痛み」を倍増してしまうのも損だぞ。と。
さらに、傷を見ても驕りから過小評価して、後で泣きをみるのも損だぞ。と。私
は思うんですよ。
まあ、自我意識の妄想、転倒の類に気付き、それを取り除こうとはそういう態度
なんですね。
いや〜、それにしてもレスの後半は難しかった〜。髑髏仮面さんは、ずーーっと
突き詰めてきた方だから、それが自分の言葉として言えるんですよ。文字言語で
は、一応客観化してしまう道程があるので「意」の伝達は困難な面がありますし
それに私にはまだ、理解できるに至っていないと云う事かもしれません。(w
37 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/03 20:10
>私は、自我意識というものを「世界から独立、孤立して自分というものがある」と。
>こう言う意識の傾向を差しているのですが、どうでしょうか?
だとしても・・・
五蘊で認識せねば「我」は無い訳ですから、世界との関係性?においてのみ「我」がある。かと思う。
じゃあ、世界と自分の関係性は?となれば、ここが対象・被対象が曖昧。ちゅうことですね。
これがいわゆる「自他不二」なんかと思いますよ。
>>これを、ずーーっと突き詰めていったのが「自性」として「ある」ものは「ない」。
林檎が木から落ちるのも、木がそこにあるのも、それを見ているんも、これが全部「縁」で・・・
たまたま「落ちる瞬間に遭遇した」だけことで、これが「ありのまま」なんでしょうね。
つまりは、太陽とか、土とか、風とか、あらゆるもんの因と果だけで自性としてあるもんは何一つ無いちゅうことです。
これが「我」も同じことで、自性である、ちゅうことではない。
まあ、これは私の世界観ですから、貴方の世界観も教えてくだされ(w
38 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/03 20:22
>>36 つまり、五蘊は空ですね。
ありでもなし、なしでもなし。
ありでもあり、なしでもある。
痛みはありでもあり、痛みはなしでもあり。
なしでもなし、ありでもなし。
痛みは「色」ですから、いわゆるこれが空。
色即是空。
かと思います。
おはようございます。
>だとしても…
>五蘊で認識せねば「我」は無い訳ですから…
う〜〜〜〜〜〜んっ…。大変難しい!そもそも自分というものを表現するのに沢山の
言葉が多すぎる。所謂、自分、自我、私、己、自己、我輩、余、なんてのもあるし…。
多分、髑髏仮面さんは、言語自体にはあまり拘らないで、感性の部分で捉えるべきも
のを仰っているのだとは思うのですが…。まあ、厳密に分析すれば全てが解かるとい
う訳ではありませんからね。私は、自分に解からないものは、解からないでいいと思
うんですよ。髑髏仮面さんに観ぜられても、私に観ぜられぬものがある。また、その
逆もありうる訳です。それが自然だと思う。同じ、仏教徒で同じ経典、同じ御本尊に
帰依していたとしても、やはりそれぞれ内面では違うものを見て、聞いているんじゃ
ないかなあ。だから、同じ御本尊、同じ経典に帰依しているのに、貴方のやり方は変
で、オカシイと言ったりしてケンカ、果ては分裂までしてしまうのでしょう。内面ま
では洞察が届かないのですね。普通、仏教でも何でも、宗教などを心得ている人でも
やはり人間ですから、基本的に「愚か」なんだとおもうんですよ。だから基本的関係
は、助け合う事でしょう。許し合う事でしょう。普通、他人の愚かさ未熟さが目に付
き易い傾向がありますが、自分も愚かで未熟だということを、つい忘れがちですよね。
どんなに努力しても、この「愚かさ」「未熟さ」は拭い切れず、完全にはなれない。
それなのに「私は何某の禅定に達している」とか「何々の経典を読破理解している」
となって「他は達していない」とか「他は理解していない」などと一段偉くなってし
まう。これは明かに禍を呼ぶものだと思いますね。まあ、ガンジーのような人は偉い
と思いますが、彼は自分を「偉い人間で、貴方達が劣り間違えている」等という態度
を取ってはいませんでしたよね。
と言う事で、取り敢えず「自称、偉い人」は演じたくもありませんね。しょっちゅう
演じていますがね…。まあ、誰でもそうなんでしょうが、そうなってしまう、そうな
り易いものが人間の内側にありますから…。
私は「普通の人間」がいいな〜と思ったりしてます。
>ブランコさん
こういう話を聞いたことがあります。
「人はそれぞれ状況が違う。人は自分の状況の中で最善の選択を選ぶ。
だから他人のアドバイスが聞くけないのは当たり前なのだ」
これが分からないと自分の考えを押しつけてしまう。
自分の状況を基準にしても言うことを聞かないのは当然ですよね。
>>37,38
う〜む、37のレスのお陰で、少し洞察ができてきたようです。
つまり、私が21のレスで書いた「自分のようで自分でない」また「自分でない
ようで、自分ともいえる」ここに通じるものがあるのではないでしょうか?
自我意識で調御できる自分と、自我意識ではどうにもならない自分とも言えるも
のがあり、それもまた自分とも言える。無意識、潜在意識と沈潜していく道もあ
るとされ、その極み近くに「観自在」と言う境地もあるさしいが、私にはそれは
解からない。
ただ、世界から独立した独特の「自分」なるものは存在しない。あるとするなら
その「想い」だけなのかもしれません。世界から独立して生存できる自分なる者
はいない。様々な縁に支えられて、今「私」が存在している。ならばこの縁が無
くなれば、今の「私」も存在しない。今の縁に支えられて存在している「私」に
は、恒久不変な「私」と言う性はありえない。こういう理解で宜しいでしょうか?
それにしても、自分を如何に見るか?捉えるか?これで明かに、アートマンの捉
え方も変わりますね。どう変わるかが問題ですが。見る。捉える。考える。と言
うのは正見と正思。基本的な事柄すが、果てしない程に奥が深いものですよね。
えっ!私の世界観ですか?それならば、それよりもまず、明かにしておきたい事
があるんですよ。私には、それを明かにする必要があると思うからです。
まあ、大した事ではありませんが、私「ブランコ」は「草レーサー」と同一人物
です。また、古くなりますが「ベーシック」と名乗っていた事もあります。私の
記憶が正しければ、こちらの方も御存知かと思うんですよ…。
>ブランコさん
>観自在
人間の能力の中に「自在性」と言うのが在るんです。
自分が例え最悪のコンディションだとしても、周りの状況にパッっとあわせられる能力です。
「信じる・信じない」と言うのは別で話しますが、観自在菩薩などは場合によって色んな人として生まれてくるそうです。
悪事を働く人を辞めさせるときは菩薩の方がその人の子分などになって実際に悪事を働いて痛い目に遭う。
それから「兄貴もうこれ以上はやめましょうぜ」とそれとなく話すそうです。
他の状況では町中の人間が疫病などで苦しむ、と言う良くある状況で、全員に治療を施す医者になるかも知れません。
観自在菩薩は状況に合わせて身体をはってでも対処します。
我々で言えば、カラオケで一段落つきそうな頃にタイミング良く「はい!私歌います!」と盛り上げる訳を買って出る。
これが「自在性」だそうです。
43 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/04 11:21
>>41 ベーシックさんは確か「人間の尊厳とは何か?」。のスレを立てた人ですね。
考え方とすると、どちらかた言えば唯識論に近いですね。
私はどちらかと言うと中論に近いです。
で、私は別にこれを線引きするつもりはないですね。
40さんが言うよに、表現の仕方が微妙に変わる。
どっちが正論か?ちゅことにするとナカナカ難しい。
で、私は貴方が言ってる事もよく分かります。
>ただ、世界から独立した独特の「自分」なるものは存在しない
で、ここの解釈ですが・・・
存在ちゅうよりも、縁にふれそのときにそこに「あった」。
縁にふれそのときにそこに「なかった」。これかと思います。
これがいわゆる諸行無常なんかと思います。
変化はあっても本質的なもんが変わったわけではない。
これが「生死一如」の死生観に繋がる訳です。
>>4 全部は無理ですが、「出来るだけ考える」ことは出来ますよ。出来るだけですから。
>>40 850さん、貴方とは「始めまして」かも知れませんが、ようこそ歓迎します。
ただ、私はここが2CHだからと言って、2CH流が全てだとは考えてません。
「2CHらしくない」と批判されるかもしれませんが、先日、私の親友はこの
世を去りました。その親友が私に2CHを教えてくれたんです。そして、その
親友は、「質問箱から派生した…」スレで、髑髏仮面さんと私の、あまり2C
Hらしくないレスの遣り取りを見て、羨ましがっていたんですよ…。
だから…、心静かに、そして人生の本質に少しでも深く迫れるような、そんな
スレにして、私の心にポッカリとあいてしまった虚無を満たしたいのです。
また、それを親友に対する私の2CHでの鎮魂歌にもしたいのですよ。
何しろ、奴がいなければ私は「レーシングドライバー」になることすら難しか
たし、今後私が「レーシングドライバー」に復帰することもないからです。
40のレスなんですが、私はクルマに喩えると、意味は理解できましたね。
つまりは「一台のクルマに二人のドライバーはいらない」と。言うことなんで
すよね。私もクルマの横に乗っている時は、勝手にハンドルを切ってしまった
り、ギアを変えてしまったりはしません。恐ろしいことになるのは見え見えで
すからね。しかし、人生となるとその辺の事情が、ハッキリと見えないので難
しくなるかと思うんです。
46 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/04 16:05
>>45 >私の心にポッカリとあいてしまった虚無を満たしたいのです。
虚無だったら、そこのところをずーーっと突き抜けるんかとおもいますよ。
つまりは、「風がふけば林檎が落ちる」。
「あるようにある」。ちゅう事かと思います。
あるようにあるんなら、何も思い煩う事はない。
来世があるも、来世がないも、思い煩う事はない。ちゅう事かと思います。
「無」ちゅうのは、二項対立の「無」ではない。
虚無の「無」ではない。ちゅう事かと思います。
>>42 凄い、やはり「観自在菩薩」には、南無に値するものがあるような気がして
きますよね。(w
「身体を張ってでも」というところに、私などは感銘を受けてしまいますよ。
異存があるかもしれませんが、かつて髑髏さんと別スレで、アイルトンセナ
というレーシングドライバーの話題を持ち出したのですが、私は彼は、菩薩
級の人物だったと思っているんですよ。
印度流に言えば、彼が、もし出家していたなら、仏陀にさえなれた人物では
なかったかなと思っているんです。まあファンの戯言と受けていて下さって
結構な話なんですが。
しかし、確かに人間には天から地まで「世界」を見渡すことができますよね。
>>43,46
同時レスになりますが…。
>存在ちゅうよりも、縁にふれてそのときそこに「あった」縁にふれてそのとき
>そこに「なかった」。これかと思います。
うん、その表現の方がシックリするようなので賛成します。(^^
しかし、その後の…「変化はあっても、本質的なもんが変わったわけではない」
の「本質的なもん」これは髑髏さんにとって、どの様なものなのですか?
46
>虚無だったら、そこのところをず――っと突き抜けるんかとおもいますよ。
う〜〜〜〜〜〜〜んっ、そう言われると、ぐーの音も出んのですよ…。
その通リだと私も思うからね。情けないが、今の状態の私にそこを付き抜け
る精神の瞬発力はないと思う。じわりじわりと水が滴るような持続力で切り
抜けて行こうと思っています。(w
49 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/04 17:07
>>48 >「本質的なもん」
いわゆる「空」です。
「空」は、いろんな言い方がありますが、私は「理(ことわり)」。ちゅうんがシックリきます。
「そのようにある」。「そのようにない」。
これが同じちゅうのが「空」かと思います。
>>3で・・・
>考えることはない
ちゅうのは、この事なんではないでしょうか?
考えても、考えなくても、そのようにある。ちゅう事かと思います。
話の流れを無視してカキコ
>>27 >>対象と、被対象になっているもの、つまり相対的なものは片方だけを取り除く事は不可能ですね。
>>なにか反対の捉えるものがなければ、それに付いての我意というものもあり得ませんね。
>>で、その対象物をひとつ、ひとつ丹念に取り除いて行く事がもし、可能ならば、最後に残るものは虚無でしょうか?
昔読んだ「無境界」という本の受け売りですが、
対象と被対象の境界を取り除くと「全て」になります。
>>49 私の感覚として「空」というと、全知全能の神なんですね。つまり、一番の根っ子。
「神」と言うと宗教的な胡散臭さを感じる趣も否定できませんが、まあ、私の世界
観ということですからね。印度的に言うと「梵天」「ブラフマン」というところな
のでしょうか。まあ、言葉をそんなに厳密な意味で私は使っていないのですが…。
髑髏さんは「神」という言葉に抵抗がありますか?でも、人間皆、神が見えている
と私は思うんですよ。ただ、それが「神」だとは思わないだけで。別にそれを「神」
と名付ける必要もないのですが。私にとってはシックリする言葉なんです。
肉眼で直視すれば眩し過ぎて眼をやられてしまいますがね。そう、太陽のことです。
太陽は、まさに「神」の現し身だとしか思えないのです。太陽は、まさに小宇宙の
中心にあって天体を司っている神々の姿に思えてしまうんですね。(w
仏教では神々より佛の方が上位に位置付けられていますが、そんな事は私はどうで
もいいことなんです。
「生きている」と言うことを広義に捉えますと、天体もまた「生きている」といえ
ると思う。だから、太陽も生きているんだと思う。「太陽」という生存の状態もあ
り得ると思うんです。でも、大変でしょうね。貰う事なく、あげるだけですからね。
でも、太陽にすると嬉しくて、喜び一杯で燃えながらエネルギーを放射しているん
じゃないかなーとも思います。
私はどうも「無」だとか「空」という言葉に弱いようですね。確かに、優れた思想
だとは思うし、私もそこから多くを学んでいる。でも、その言葉に馴染めない。
コンセンサスを得るという意味で同じ言葉を使う意味は理解できますが、その辺は
別に何でも良いと思ってしまいます。
しかし、太陽は有り難いものの代表として非常に分かり易いし、誰でも確認できる
ものです。まあ、通常は当たり前過ぎて感謝の念など湧いてこないのでしょうが。
だた、私は仏教の思想の何処かに、どうしても人生をニヒルに捉える面が否めなく
あるような気がするという事は言えると思う。その代表格が「無」と「空」なんです。
>>50 >対象と被対象の境界を取り除くと「全て」になります。
これは、私も「そうなのではないだろうか」とおもいますね。
矛盾が矛盾でなくなる次元。相対の世界の枠組みが消えていく世界。
これが、一切そのものの根底であり、本質的なものだと思います。
53 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/05 06:45
>>51 >髑髏さんは「神」という言葉に抵抗がありますか?
人間が、神の奴隷となるのは抵抗があります。→byニーチェ。
そうゆうかたちでなけりゃ別に抵抗は無いですね。
「即心即仏」⇔「非心非仏」。おんなじことです。
拝むも良し。拝まぬも良し。
二項対立の「無」ではない。ちゅうのはこういう意味ですね。
つまり、プラスとマイナスを包含しても0(ゼロ)。無限⇔無。
なんにもない。ちゅう意味ではない「無」。
だからこの「無」ちゅうのは、ニヒリズムとは概念が全く違う。
他スレで「知識じゃない」。「捨てきる」。「全て受け入れる」。と逝ってるのはこれです。
>>53 >だからこの「無」ちゅうのは、ニヒリズムとは概念が全く違う。
私も、髑髏さんがそういうニヒリズムの持ち主ではないか?と思っている訳じゃあ
りませんが、仏教の教学としての「無」と「空」ですね。非常に私には分かりにく
いのですよ。まあ「神」が分かりにくいと仰る方も多いと思いますがね…。(w
言葉は時にじれったい。同じ言語でも、真意の伝達は非常に困難だし人生の違いか
ら誤解にも容易く通じてしまう。釈尊が、法を説く決心をするまで、徒労に終るの
ではないか?と思案したというその気持ち「だけ」は良く分かる。(w
>二項対立の「無」ではない。ちゅうのはこういう意味ですね。
宇宙空間の「無」のような、+と−が中和されて「無」の様。所謂、零。宇宙は+と
−と中の3元素から成り立っているんだと思います。で「中」は無い様に見えますが
この宇宙で、作用と反作用が等価になるのは「中」があるからなんでしょうね。
相対の世界で、どちらか一方に偏りすぎないのも「中」があるからなんでしょうね。
と、まあ私も知識では、道理を理解することはできるますね。(w
>他スレで「知識じゃない」。「捨てきる」。「全て受け入れる」。と逝ってるのはこれ
>です。
私の経験で、人はパニックに陥ると、知識は殆ど役に立ちません。咄嗟の行動で
知的手順を踏んでいる余裕もないからね。で、何が役に立つかというと、場数と
深く身に付いた技術ですね。稀に神懸りになって凄い事を成し遂げる人もいます
が。
これは経験から誰でも察する事だと思う。つまり、クルマの運転でも上達を目指
そうとすると、知識で学んだ事は、自身が消化するまでは役に立たたない。
で、どうしたらいいのか?と言うと、とにかくクルマを走らせて経験を積む以外
に道はないのですね。宗教、仏教等の場合ですと、生きる事そのものが実地実践
になるのでしょうね。神社、仏閣は、サーキットの様に一般の人々に迷惑をかけ
ないように行くのかな?宗教暴走族は、やはり迷惑ですよね。(w
55 :
名無しさん@1周年:02/11/06 01:04
捨てきることも,すべて受け入れることも出来ない自分で生きていくしかない
という状態をたもって安定するというのはどうですか?
心の平安とは願っているその時もしくは何時かくると考えているのなら未来に
あるものかも。
空虚な揺れ動いている今が平安なのかも。
訳分かりませんね(笑い)僕の場合どうあがいてもだめだなと自分に見切りをつけ
たとき、そのままで、いやむしろそんな自分だから救うという願い(摂取不捨)に共感し、
安定してない自分のままでちょっとだけ安定しています。
>>55 実際、やってみれば分かる事ですが、全てを受け入れる。全てを捨てる。なんていう
事は、人間には通常は不可能なことなんではないでしょうか?
禅定などをしていて、そいういう境地などに瞬間的になら成る事もあるでしょうけど。
やはり、人間には時間というものがある。そして、その中で生活という現実もある。
捨てても、捨てても、また生まれて来てしまうものがあると私は思います。
で、全て捨てるのが無理でも、一つでも捨てられるものがあれば捨てればいいのじゃ
ないかと、思っているんですよ。
以前に、エディーマーフィーの「ホーリーマン」という映画を見たのですが、その中
で、こんな一節がありました。海岸にヒトデが沢山打ち上げられていた。それを見た
少女が、一つ、また一つとヒトデを海に帰している姿を見て「そんな事をしても無駄
だよ。だって、こんなに沢山のヒトデが打ち上げられているんだから」と、その少女
に向かって彼が言いました。で、少女はこう言い返したそうです「助けられたその一匹
一匹にとっては、無駄ではないんじゃないですか」と。
人生にも、問題が山積みです。全てを解決する事など、最初から到底無理だと思う。
でも、先ほどの話の様に自分が「やった事」の一つ、一つにとっては全く無駄とい
うことはないのですね。どんなに小さな出来事だとしてもね。
つまりは、御釈迦様の弦の喩えにも、ある様に「弦は張り過ぎれば、音は善くなく、
緩め過ぎても、音は善くない。弦は中ほどに張って、音は善い」と。
自分自身の内面を観察して、自分にあった「中道」を実践しようと私は思っています。
人それぞれ、同じ教えに帰依していても、その人にとっての「中道」は、その人の
人生の道、その一つしかないんだと私は思うのです。
私は、先頃親友を亡くして、心痛の最中です。内心の平安は貴方の言うように今あ
るのかもしれない。でも、今の私には、それを感じ取る心の余裕があまりないので
すね。人生には、ただ、耐えるしかない。そうするしかない時もありますよね。
レスをどうも有難うございました。
57 :
名無しさん@1周年:02/11/07 00:36
58 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/07 03:29
>>56 >全てを捨てる。
これはつまり、「あっち」と「こっち」がある場合、取りあえず両方手放す。ちゅうことかと思います。
その状態を、まあ「受け入れる」と言うております。
だから意味とすると同じような事です。
「捨てる」と言うても、捨てるもんがなければ捨てた事にはならんでしょうし・・・
捨てたら又自分のところに還ってくる場合もあるでしょうし・・・
二項対立の「捨てる」でなくて良いんかと思います。
「受け入れる」ちゅうのは、捨ててそのまんで良かろうに。ちゅうことです。
それで。あっちにするか?、こっちにするか?が分別智なんかと思います。
>>57 私もその本は知っています。でも、人生を変えるヒントは実はどこにでもある
のじゃないだろうか。と、私は思う。何故かって、そう鍵を握っているのは自
分だからですよ。でも、鍵は鍵穴に合わないと巧く開きませんね。
>>58 実によ〜く理解できるレスです。何となく髑髏さんのゆー事は分かるような
気もするのですが、実はよくわかっていない気もする時もある。(w
「全てを捨てる」などと言うと、私もそうかもしれませんが、「この命さえ
捨てる覚悟を…むぬむぬ…」と、思想的に突っ走っちゃう傾向があると思う
んですよね。これも一つの極端なんですけどね。
御釈迦様は、その極端を徹底的に突き詰めたのでしょう。まさに身体が生と
死の間をさ迷うほど衰弱するまでに。
で、苦行では釈尊の苦悩は解決されなかった。さらに、そのままでは解決す
る前に死んでしまう。と気付いたわけですよね。
そこまで行って、初めて解かる事というのもあるのでしょう。釈尊は、この
命を捨てても、という「覚悟」はあったと思います。
例えば、髑髏さんの場合、心の中に何か執着や、嫌悪が生まれた時、どの様
に修行するのですか?やはり、とにかく捨てるのでしょうか?
>捨てるもんがなければ捨てた事にはならんでしょうし・・・
物質的なものなら、とにかく手放してしまえば、捨てることはできますが精
神的なものというのは「どうやって『捨てる』」のでしょうか?
例えば、私が、執着を捨てるために、ある物を捨ててみたとしましょう。
しかし、それを捨ててしまったが故に、余計に気になり、悩み、後悔したり
してしまったとします。
で、その後悔や悩みは、物質の様に、ポイと捨ててしまえるものでしょうか?
58は、よ〜く理解できるレスだと思うのですが、も少し突っ込ませてくだ
さいね。お願いします。(w
61 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/07 19:21
>>55 浄土真宗などの考えはそんな感じですよね。
私はそうゆう捉え方は共感持てます。
で、そこのところを渡海(コテハン)さんに伺おうかとォモータんですが、
私の質問が下手で、うまい具合に聞けませんでした(笑
渡海さんの考えてる「坐禅念仏」とはどんなもんか?まあ。聞けずしまいですた。
まあ、それはともあれ・・・
真宗では般若心経は読まんらしい。
>>55 捨てようという意思を捨てること、と理解すればいいの?
でもこの意思を捨てると、他が捨てられない
63 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/07 19:46
>60
>例えば、髑髏さんの場合、心の中に何か執着や、嫌悪が生まれた時、どの様
頭をぶつけたら「痛い」があるように、執着や嫌悪はあるかとおもいますが長続きするか、しないかかと思う。
つまりは「縁」がなくなれば自然に消えるのが「ありのまま」かと思う。
修行ちゅうのは、一期一会、その時を大切に。ちゅうことです。
さすれば極自然に過去は過去となりましょう。
>精神的なものというのは「どうやって『捨てる』」のでしょうか?
精神的なもんは、もともと無我だから無いですね。
無いといっても縁にふれ「ある」もんですから、固定概念
これを捨てる。
捨てるとゆうても、二項対立の捨てるに非ず。
64 :
名無しさん@1周年:02/11/08 01:41
>>62 それも捨てなくてよいと思います。こぼれるにまかす、もしくはそのこぼれたものを
取り返そうとあがいても、それでもこぼれたと嘆いたとしてもよいと思います。
65 :
名無しさん@1周年:02/11/08 02:52
66 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/08 05:00
>>65 渡海さんのHPですね。
南無阿弥陀仏を唱える時、仏になれるとゆう観想するんですね。
無想禅定もこれを包含し、これが歓喜に繋がると・・・
日蓮宗の、題目を唱えるよーな感じなんでしょうね。
私はチョッと違う印象を持ってますた。
阿弥陀仏に全てを任せするとか、そんな観想をするんかと思うてますた。
そこのところを渡海さんに聞きたかったところですね。
よって、大変参考になりますた。
親鸞さんが坐禅を推奨してるとか・・
なるほど、参考になります。
>>63 >頭をぶつけたら「痛い」があるように、執着や嫌悪はあるかと思いますが…
つまり、そういうものに付いて「無抵抗」ということでしょうか?
「あるがまま」と、いうのはある意味無抵抗状態ですよね。
しかし「自己を整えて、自己を拠所とせよ」という教えが仏教にあります。
これは「あるがまま」と言うよりも、能動性が出てきます。
「筏の喩え」にもあるように「自分に必要なものを選択して、必要がなくなれば捨てて
しまえばよい。名色に拘らずに」と、私は筏の喩えをこのように理解しているのです。
でも、まあ教えとしては理解できても、人間を迷わし苦しめているものの多くは、精神
的な苦悩や迷いだと思うんですよね。
御釈迦様も出家した動機は、精神的な苦悩や、迷いを解決するためだったと思う。
>精神的なものは、もともと無我だから、無いですね。
そうは言っても、私を含め、多くの人間が苦しんでいるのは精神的な迷いや、苦悩です
よ。無いのかもしれませんが、その無いもので、苦しむのが私の様な衆生の苦しみとい
うものです。こういうものを現代風に言うと「ストレス」なんでしょうね。
現代病の多くは、ストレスからと言われています。無いものから、物質的な器官の異変
を発生させるとしたら、私には何か妙な感じがしてきます…。有無の「無」ではないと
言うことだと、私にも理解は出来るのですが。
で、その様な衆生から「この精神的苦悩は耐え難い」と言ってアドバイスを求められた
ら、髑髏さんの場合ですと、どの様なアドバイスをしますか?
そんなものは「無じゃ」と言うのもアドバイスなんでしょうけど、そこをもう少し噛み
砕いてお願いシマス。
そして、髑髏さんが思うに中間派と唯識派の違いとはどんなものなんでしょう?
68 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/09 11:42
>>67 >>頭をぶつけたら「痛い」があるように、執着や嫌悪はあるかと思いますが…
>つまり、そういうものに付いて「無抵抗」ということでしょうか?
そうじゃなくて、「痛い」が直ぐ治まるように、執着・嫌悪も直ぐに治まるもんじゃないでしょうか?
人生において、問題が解決できないことも間々あります。
こうゆうことは、思い悩んでもどうしょうもないことですから、
解決する事だけを考えて、それでも駄目なら→そのように。こうゆう事かと思います。
執着・嫌悪は、既に過去になったのでしたら、もう此処には無い。とゆう事かと思います。
>その様な衆生から「この精神的苦悩は耐え難い」と言ってアドバイスを求められた
つまりま「記憶」に苦しんでる訳ですね。耐え難いちゅうのは。
「記憶」が頭に住み着いてるんでしょうね。
「記憶」が自分を苦しめる。だったらその「記憶」を引っ張り出してしまえば良い訳かと思います。
>髑髏さんが思うに中間派と唯識派の違いとはどんなものなんでしょう?
端的に言うと、唯識派は阿頼耶識・概念がありますね。
中間派はない。
中間派は、認識する手段と対象はそこに明確な線引きがない。
つまりは「我」の概念が違う。
>>68 そうですね。執着、嫌悪を「我がものである」とみるのは、仏教の教えではないです
よね。感覚も感情も思考も意思をも無常とみる。無常なものに囚われてしまうのは苦
しみであるとみる。仏教は自由を目指す。仏教徒なら、一番最初に習うことですよね。
>「記憶」が頭に住み着いているんでしょうね。
過去に対しては「記憶」でしょう。未来について思い悩むことも人間にはありますの
で、これらは、含めて「観念」とか「想念」と言った方がいいかもしれない。
「観念する」の観念じゃなくて、印象とか残像のイメージの世界の方です。
私の方は、過去は過去。現在は現在。未来は未来。と区別して割り切るのは難しいで
すね。それでは、人間が成り立たないと思うんですよ。反省や、教訓が生きないと思
いますから。
つまるところ、そこが、中間派と、唯識派の異なるところの境界線付近なのかもしれ
ませんね。
私の見るところ、端的に言うと中間派は、縁と縁が出遭うのを「偶然」と見る。唯識の
方は「必然」とみる。私は阿頼耶識概念というより、因縁の「因」の部分の見方が違う
のではないかと思います。
私は唯識派という訳ではありませんが、その「因」のところに「無」をみない。この
場合の「無」は有無の無という意味の「無」でですが。
私は親しい人が亡くなる事と言うのは、人間にとって避けられい苦しみなのだと思う。
つまり、実は誰もが経験する事。特別に「私」だけに起こり「私」だけが苦しむべき
事柄じゃない。誰もが親しい人を亡くし、苦しみ悲しむ。この「私だけ」の世界に閉
じ篭ってしまえば、苦しみは絶対的なものとなって、何時までも心の中に居座るんだ
と思うのですよ。
髑髏さんの言うように、人生にはままならぬことがある。その「ままならぬこと」に
ついては、やはり「耐えるしかない」んだと私も思います。
確かに、精神的な苦しみというのは、不思議と大きくなったり、小さくなったり、長
くなったり、短くなったりするものです。いわゆる、主観、自分の世界ですからね。
ブランコさんったら髑髏仮面の必死レスに余裕の受け答え。
時に共感を全面に表しての肯定、時に足らぬ語のフォロー。そしてさりげなき訂正。
慈悲深きこと幼稚園のせんせーが如き。人間こうなりたいもんだ。
どうかこれからも髑髏仮面をあたたかく見守ってやってくださいませませ。
71 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/09 18:08
>>69 >髑髏さんの言うように、人生にはままならぬことがある。その「ままならぬこと」に
>ついては、やはり「耐えるしかない」んだと私も思います。
「耐える」ちゅうのがチト分かりません。
「ままならぬこと」ならそのように「あれ」ば良いんじゃないでしょうか?
さすれば非常に楽になるかと思います。
私の経験では、むしろ耐えない方が良いかと思う。
苦しい中に自分がどっぷり浸かってみて、苦しむ自分とは何ぞや?
これを考えたほうが良いかと思います。
つまり仏教とは自分との向き合い。
苦しいなら、苦しい自分と向きあったらど−でしょうか?
そうゆう中にこそ答えが導き出されるかと思います。
これがいわゆる仏縁。かと思います。
72 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/09 18:15
>70
そうですね。
ブランコさんには、大変学ぶところがあります(^^)
73 :
見習いの天使:02/11/09 19:31
こんばんわ、ブランコさん、髑髏さん、名無しさん、創作スレから来ました。
>ついては、やはり「耐えるしかない」んだと私も思います。
やはりつらいことはつらいのですね。
でも、全ては完璧にあります。ですから、どんなに苦しみが根深くとも、終わりはあります。
それらは、創造されたもの一部だからです。自分がその創造主であることを忘れた時、そこに悲哀があります。
駅で財布を忘れたことに気付いた時、電車に乗れないと嘆き悲しむ必要はありません。
それよりも、こんどは財布を忘れない工夫を出かける前にちゃんと行えばすむことでしょう。
あらゆる不安と同様に悲哀は、自己憐憫が姿を変えただけかもしれません。
憐憫は憐憫の持続の為だけに憐憫を行い続けます。
74 :
見習いの天使:02/11/09 19:34
ごめんんさい、本とはもっとマターリと書きたかったのですが、つい口バシッテしましました。
75 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/10 07:53
>>73 >でも、全ては完璧にあります。ですから、どんなに苦しみが根深くとも、終わりはあります。
>それらは、創造されたもの一部だからです。自分がその創造主であることを忘れた時、そこに悲哀があります。
仏教的には言い方が違いますが、捉え方とすると同じような事かと思います。
本来、人間は迷いなどない。
これを「ありのまま」ちゅう言いかたをしたんでしょうね。
>>70 髑髏仮面さんは、私よりか遥かに仏教に付いて知識も経験も優っていると思いますよ。
さらに、髑髏さんは、そうとうに突き詰めて自分自身とも向き合ってきている方だと
も思いますし。しかもレスを付ければ大抵は丁寧に返してくれる…。
一方、私はここでは一応カタチを整えてレスを打つことを心掛けていますが、現実の
生活の中では、怒ったり、怯えたり、迷ったりしまくっている人間ですよ。(w
でも、あなたの御好意は有り難く受け取っておきます。何かご意見があれば遠慮なく
カキコしてください。(^^
>>71 >「耐える」ちゅうのがチト分かりません。
「耐える」というのは「ありのまま」になりきれない人間の試練だと思います。
「ありのまま」に成り切れる人には、そういう必要は確かにないと思う。でも
人間には「目指すもの」とか「理想」とかもあると思うんですよ。その人なり
の「目指すもの」や「理想」が…。それに応じて試練はやってくるのかじゃな
いかと思うんですよ。
その「目指すもの」や「理想」を捨ててしまえば、試練も去っていくのかも知
れません。と言うか、多分そうなのだろうと思います。
ただ、問題なのは、その「目指すもの」とか「理想」ですね。一体、どんなもの
なのか?これがとても重要な点で、その試練に耐えた方が良いのか、耐えない方
が良いのかが別れる所でもあると思います。明かに、耐えない方が良い場合もあ
ると思う。しかしながら、これは結構難しい問題だと思います…。
>「ままならぬこと」ならそのように「あれ」ばよいんじゃないでしょうか?
いや、全くその通りかもしれませんが、私は「ありのまま」が人間にとっての
最高のの状態なんだとは、あまり思えないんですよ。
私の理想としての人間像は「ありのまま」から一歩踏み出すんですね。能動性
とか主体性とかを少し、発揮するものだと。思うんですよ。
「ガーデン」というのかな「庭園」でもいい。ありのままの自然の姿もとても
美しいのですが、何かそこから学んでもう一歩人の手を加えて何かを作り出す
事に、人間は生きる喜びを見出すものだと私は思うんですよね。それに満足を
も覚えるもんだと思うんです。「ありのまま」の自然をぶっ壊して行くんじゃ
あなくて「ありのまま」の自然の良さを活かして創造したいっていう気持ちが
とても強く私の内にはあるんですね。
>>71 >私の経験では、むしろ耐えない方が良いかと思う。
>苦しいなら、苦しい自分と向き合ったらどうでしょうか?
これは、私もそうだと思っている。つまり「耐えている」自分の中にも、複雑な
想いがうごめいているから。ただ、とにかく耐えるだけと言うのでは良くないな
と思うものもあるような面があります。
「耐える」と言うのにも大まかに別けて二つのものがあると思う。苦しんでいる
自分自身と向き合うために必要な時間。と、自分自身の苦しみの本元からの逃避
という意味でのね。後者の場合は、髑髏さんの言うように耐えない方が良いんだ
と私も思います。
しかしながら、仏教の教えの中にも「忍耐」の功徳について非常に大きなものだ
と教えているのを記憶しているのですが、この記憶が正しければ「忍耐」につい
ての髑髏さんの意見も伺ってみたいです。
>>73 どんなに苦しみが根深くとも終りはあります。
ご存知のように仏教の教えの中核に「無常」というものがありますよね。この
「無常」というものの性質には、始りがあり、終りがある。こういうものだと
教わりました。私もその通りだと思います。
確かに、人間の心の内部に生じた苦しみは、生じたが故に、何時か終りを告げ
るものなのでしょう。この道理を理解しただけでも、苦しみの終わりを確信す
ることができますね。
>今度は財布を忘れない工夫を出かける前にちゃんと行えばすむことでしょう。
そうですよね。しかし、人間ここでいらぬ苦しみ、悲しみを拵えちゃうんです
よね〜。どうしてでしょ?失敗から学び成長していくのが人間の善い所なのに
ですね。これは非常に重要なことだと思いますよ。失敗から学ぶこと…。
>あらゆる不安と同様に、悲哀は自己憐憫が姿を変えただけかもしれません。
う〜ん、厳しいお言葉です。人間誰しも自分自身に甘いからね、このような
事実は簡単には理解できないようです。我が子を失って悲観に暮れる母親の
心には、到底届かないことでしょうね。
経典では、ゴータミ―と言う女性が釈尊に帰依したあたりのことが、非常に
省略されてしまっていると思う。彼女は自ずから理解した。釈尊はそのよう
に衆生達の苦悩を見取り、解決法を提案されていたのでしょう。
つまり、自分自身の苦悩を解決する事は、実は誰にでも出来ることなんじゃ
ないだろうかと。ただ、それが「どうしたら良いのか分からない」だけで。
80 :
名無しさん@1周年:02/11/12 00:19
81 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/12 07:07
>>77 >私の理想としての人間像は「ありのまま」から一歩踏み出すんですね。能動性
>とか主体性とかを少し、発揮するものだと。思うんですよ。
この「ありのまま」が「空」で仏の智恵(仏智)かと思います。
ここから「色」で分別智(生活の智恵)で、能動性・主体性が発揮されるんかと思う。
これはつまりは『即』で、色即是空・空即是色。
つまりは「即」はプロセスではなくて、「空」そのものが「色」かとおもいます。
よって、「ありのまま」はそのまま分別智で、能動性・主体性を発揮するのが智恵なんかと思う。
本来、無苦集滅道(般若心経)で「苦は無い」。
だけど凡夫は、苦を滅する事に精進する。
いわゆるそこに、能動性・主体性の生き方ちゅう智恵が同時に生まれるもんかと思う。
だから四諦はトータル的な意味があって、単に「苦を滅する」ちゅうだけでは無いかと思う。
82 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/12 07:37
>>78 忍耐ちゅうのは、どうも現象面だけクローズアップしますね。
どんどん思考の範疇が狭くなる。
こうゆう時は、自分を客観視したり、広い範囲で物事を考えたりします。
つまり、主体的にあまり囚われないよう心がけます。
こうゆう時、新たなるハケーンがあります。
つまり、観えなかったところが観えてくる。
いかに人間が現象面に囚われているか。
これが良く観えてくるかと思います。
>>81 >この「ありのまま」が「空」で、仏の智慧(仏智)かと思います。
そういうことなんだと私も思います。ただ、人間はやはり人間だと思うんですね。神
でも、仏でもない。瞬間的に「空」を観ずることができても、生活となると人間臭さ
が出てくるものだと思うんですよ。それが人間でしょう。(w
釈尊自身、正覚後も色々な事に苦集滅道を実践していただろうと私は思う。無苦集滅
道というのは、あくまでもそういう境地に人間の精神は成れるということを示してい
るだけだと私は思いますよ。で、境地は、境地ですが、生活となると即、境地という
訳にいかないのが人生というものだと私は思っています。
境地、というのは人間の捉える時間感覚にとっては「瞬間」でしかないだろうとも私
は思いますよ。ただ「瞬間」を捉えようとしなければ「瞬間」が間延びする事がある
様ですが…。ここに来ると確かに能動性や主体性と言うものが、ある意味邪魔になって
くる事があると私も思います。いや、それよりも様々な既成概念が邪魔なのだと思う。
>だから四諦はトータル的な意味があって、単に「苦を滅っする」ちゅうだけでは無い
>かと思う。
ここのところがどういう意味なのか…。戸惑っています。(w
>>82 >忍耐ちゅうのは、どうも現象面だけクローズアップされますね。
>どんどん思考の範疇は狭くなる。
う〜ん、分かるような気もしますが少し具体的な喩えをお願いしたいです。(w
例えば、私が勝手に喩えを出させてもらいますと…。
髑髏仮面さんが誰か悪い奴に、やつ当りなどで「ぶん殴られてしまった」
とします。髑髏仮面さんの場合、どうなさいますか?
バカみたいな例で申し訳ないのですが…。
85 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/12 19:34
>>83 四諦、苦とは何ぞや?は、つまりは人間とは何ぞや?かと思う。
人間は分別する動物ですね。
もしも「楽」がなけりゃ「苦」もない訳ですから、初めから分別しなけりゃ苦楽の概念なし。ちゅうことかと思う。
無苦集滅道は、つまりは苦楽一如の「空」かと思う。
初めから、苦もあけりゃ楽もない。分別こそ迷い。このことかと思う。
つまりは、楽を求めることなかれ。は、またそこに「苦」もなし。
人間が幸福を求めるのは、またそこに苦もあり。
常に一つを求めることは、また相反するものを付いてまわる。
つまりは一つを求めることなかれ。二つ(相反)を手放す。これかと思う。
これが十牛図の最後の「ありのまま」なんかと思う。
幸福を求めることなかれ。悟りを求めることなかれ。
そのままにて安住なされの最後の境地。
86 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/12 19:51
>>84 >髑髏仮面さんが誰か悪い奴に、やつ当りなどで「ぶん殴られてしまった」
そのことばかりを考えていますと、どんどん怨念が増幅しますね。
他の事がなかなか考えがいかない。
「楽」は大体そう長続きがしなで忘却しちゃう。
つまりは、苦・楽は一過性で、記憶が残るか残らないか。
記憶によって人間は苦しみますね。
「殴られた」事は過ぎ去っても、記憶で苦しむ。
こういった、自分ちゅうのを客観的に観察していきます。
そうすれば良いかと思う。
>>85 > つまりは一つを求めることなかれ。二つ(相反)を手放す。これかと思う。
これは第四図「得牛」である。
> これが十牛図の最後の「ありのまま」なんかと思う。
そうではない。
>>83 確かに人間は分別する。しかし人間の分別は分別というより「差別」だと思う。人間
以外の動物でも相手等に好き嫌いの違いを示すものです。これも分別でしょう。でも
人間の場合は「何某の人種は、野蛮である」だとか「何処そこの国の人間は愚劣だ」等
の観念とか、概念というもので、他を「差別」しているんだと思いますよ。
髑髏さんもよく言いますが、分別は智慧なんですね。火が熱いのが分かるのは智慧があ
るからでしょうし、善いものと悪いものを分けるのも智慧があるからなのでしょう。
前者のような観念的な分類、比較、自他、などの差別は明かに煩悩だろうと思う。
>無苦集滅道は、つまりは苦楽一如の「空」かと思う。
私は「空」にも色々あると思うのですが、髑髏さんはどうでしょう。これは仏典で見た
のじゃないかもしれないが、像の喩えというんでしょうか?ある王が盲目の人間を集め
て「像とはどんなものか?」と、問いかけるともう、答えはマチマチになってしまうの
ですよね。で、それぞれの人達は確かに像に触ったし、その感触から「像とはこういう
ものだろう」というそれぞれの「思い」に依って語る事しかできないのです。
だから同じ「空」を観ずるにも、それぞれが辿ってきた人生から自ずと辿る道が微妙に
異なる。そこで先ほどの例ではないですが、一人の人間としての経験には限界があり、
その限界から「全体」を洞察するしか方法がないのだと思う。これは所謂、声聞、独覚、
菩薩の三乗に該当するのかも知れません。だから、声聞、独覚、菩薩は「空」を観ても、
その「空」が同じに観える訳ではないんだと思うんですね。所謂、仏と云われる境地に
立って初めて「空」の実相を如実に観るんだと思います。
だから、仏といわれる状態に人間がなるまでは「あーである」とか「こーである」と言う
ような様々なものから捨て離れることは、事実上できないのだと私は思います。
また、ある意味それでもいい。という思いもある。煩悩即菩提というんでしょうか?
修行中の身の上ですから、様々な迷いも、葛藤も、恐れも、怒りも、欲望も、つまりはそ
こから「学ぶ」という姿勢があれば、確実に人生を向上させてくれると思うからね。
髑髏さんが「空」を観じている時、どんなモノが観えるのでしょうか?
像→象 いちお
91 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/14 08:20
>>88 >髑髏さんが「空」を観じている時、どんなモノが観えるのでしょうか?
山川草木悉有仏性を観じても、それは空を観じてることではないと思います。
空は、あくまでも直覚による「気づき」かとおもいます。
だから「気づく」か「気づかないか」。これは大きな違いかと思います。
>どんなモノが観えるのでしょうか?
これはあくまでも、「山川草木悉有仏性」を観ずるまでのこと。
それによる至福観は、副次的なもんでありさして意味は無いかとおもいます。
つまりは、この至福観により誘発する「気づき」が非常に大事かとおもいます。
この「気づき」がありませんと、至福観はただのドラッグに酔っているのと同義かと思う。
この段階では、生死の概念は越えられない。
至福に酔ってる自分が「ある」訳ですから。
自分が「ある」うちは、まだまだ越えるのは至難かと思う。
>>91 流石は髑髏仮面さんですね。凄いことを仰ります。(w
私の経験では、やはりレースカーの運転中が最もその状態に近かったと思うなあ。
ただ、一切悉有仏性の至福感には、運転中には浸れませんが…。
運転中は決して時間を止めてはいけないんです。時間を止めるとは、どういう事かと申しま
すと、概念化とでもいうのかな?とにかく概念というのは「これはこれである」と言うよう
に、物事や事象を「止めて」解釈しているものですよね。
運転中はこれは禁物なんですよ。よく、教習所などで事故の原因が「…だろう運転」等と言
われているものと同じなんですね。
「あの人はまさか飛び出して来ないだろう…」とか「あのクルマはこう動くだろう…」等と
いうのは、概念の世界ですから、事実ではないのですよね。でも、人間は一度そう無意識に
でも判断を下してしまうと、もう咄嗟には正しい反応はしきれなくなっているんですね。
こんなバカみたいな話、誰でも分かっていると思うのですが、でもこれがクルマ社会で起き
ている事故の大きな原因になっているんですよ。だから、人間は通常ほとんどこれをやって
いると言ってもいいかもしれない…。
運転は「流れ」ですからね。止めてはいけないというのは「流れ」だからなんですね。一つ
一つの動作が有機的に繋がっていて、一つとして「これだけ」というのはない。
私は、人生も同じだと思います。「流れ」を「無常」と置きかえればいいだけだと思うから。
ただ、私の場合、人生になると難しくなってしまいますね。やっぱり、レース中というのは
特殊な精神状態になってしまうんだと思う。やっぱり、この身を危険に晒しているので本能
が刺激されている状態だからでしょう。
レース中も「やったっ!!」とか「くそっ!!」とか色々な想いは動いているのですがね、
それはそれ、あくまでも流れそのものの中で、今の状態に気付く、その意思があるだけ。
レースドライバーにはレース中に生死の「概念」は無いと思う。そんなものがあったら恐く
てレースになどやってられませんからね。その前後にはその「概念」が生じてきます。(w
93 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/14 21:11
マラソン選手なんかの、ランナーズ・ハイちゅうのがありますね。
走行しているうち、極限状態になりますとハイ(快感?)になるそうですね。
有森さんが「楽しんで走ってます」とか言うてましたね。
やはり有森さんは、この快感?をご存知だったんかと思います。
一種の至福感なんでしょうね。
で、こうゆう状態は「我」が歓んでいるんですから「無我」ちゅうのは分かりません。
気分的には、結構気が重いんが数ヶ月続きます。私の経験では。
でも、やっぱりこうゆう経験は「引き金」としては重要かと思います。
>レース中というのは特殊な精神状態になってしまうんだと思う
時間とか、リズムは特殊な状況を誘発しますね。
私の場合は、時間が非常にゆっくり流れる感覚になった時、至福感に見舞われます。
スローモーション感覚的に世界が輝いて見える時があります。
非常に稀ですけどね、こうゆう感覚は。
以前に鈴木亜久理がこんなこと言ってました。「ドライバーは、まず自分のマシンとの
闘いに勝たないと、ライバル達と競うレースはできない」と。
クルマというものも、結構扱いが難しいですね。なかなか、思った様には動いてくれな
い時がある。「こうしたい」という意思に、どれだけクルマを従わせる事ができるかが
ドライバーの技量になります。
私は、クルマは仏教用語で言う五蘊、六根に似ていると思うんですよ。何故なら、自分
は「こうしたい」という意思があるのに、五蘊、六根はそれに従わない事が多いからで
す。しかし、人生になると難しくなりますね。レース中は常に精一杯の状態で頑張って
いるわけですが、人生全て精一杯というわけにはいきませんからね。でもここでも中道
という機軸が大切なんでしょうね。弦は張りすぎれば音は善くないわけですから。
ところで、髑髏さんのいう「無我」の無は、有無の「無」という意味の「無我」なので
しょうか? あと、どうして気が重いんが数ヶ月続くのだろうか?
私の場合ですと、生命が躍動している感じが非常にダイレクトに伝わってくる感じとで
もいうのでしょうか?そこで我に返ると確かに非常に「重たい」感じはしますが…。
>スローモーション感覚的に世界が輝いて見える時があります。
やっぱり、座っている禅定中なんですか?そういう体験などは。私も非常に稀にですけ
どね、座っている禅定中とは限らないんですよ。(w
95 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/16 18:53
>ところで、髑髏さんのいう「無我」の無は、有無の「無」という意味の「無我」なので
>しょうか?
有無の「無」ではないですよね。
全て森羅万象が「調ってる」「矛盾がない」。このことかと思います。
河の流れが上から下に流れるように、それだけの事かと思います。
そのように「ある」なら、そのように「ある」を知る。
これだけの事かと思います。
>どうして気が重いんが数ヶ月続くのだろうか?
「無我」とゆうのがどうも分からんかったんですね。
だから、こうゆう分からん時は気が重いもんです。
「捨てきる」の意味が分かった頃に「無我」の意味も段々分かるようになりました。
つまり、生死一如を会得して、生死一如を捨てるんですね。
ようするに概念自体を捨てる。不一不二。ふたつに非ず、ひとつに非ず。なんですね。
>そこで我に返ると確かに非常に「重たい」感じはしますが…。
これは分かるよーな気がします。
>座っている禅定中なんですか?そういう体験などは。
これは、禅定したあとの風景の動きなんかをぼんやり見ている時です。
明鏡止水の時ですね。
>>95 >有無の「無」ではないですよね。
そういうことですね。ただ、たまに髑髏さんのレスの中には虚無的な感じを受けるもの
があったもので、そうなってしまうと非常にレスの意味を汲むことは難しくなるんです。
だが、肝心なことが明白になったのでこれでかなり私としては髑髏さんのレスが理解し
やすくなった思います。
>「無我」とゆうものがどうも分からんかったんですね。
う〜ん、私にもその「無我」がイマイチ分からないですね。ただ、私の心はそれを理解
することをそれほど欲していないのかも知れません。(w
本々からして私は「悟り」が得たくて仏教に惹かれたのでもなくて、ただ、人生に対し
ての疑問の様なもの、例えば体験の世界と、観念、概念などの世界の間でかなり葛藤が
あり、自分自身で体験する事と、教えられたり、常識とされているような当然の前提の
間で、かなり不器用に立ち回るしかできないような時期があったんですね。(w
そういう時期は、やっぱりかなり苦しみますね。自分自身の体験に素直になれば、周り
との関係が悪くなり、周りの調子に合わせれば、自分の内面が空虚になってくる。
まあ、そんなこんなでも、唯一、自動車レースは、自分の内面の体験がそのまま生かせ
る世界でしたね。「詰め込み教育」と言うんでしょうか?これには相当に抵抗しました
ね。最も、個人的に内面的にですがね。私のとって仏教とは、現在抱えている当面の問
題を解決してくれればそれで良いのかもしれません。(w
ただ、現在抱えている当面の問題といっても、大局的に見れば人生の問題ですからやは
り生、老、病、死の問題も含まれているのですが…。
97 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/19 18:57
>>96 >ただ、現在抱えている当面の問題といっても、大局的に見れば人生の問題ですからやは
>り生、老、病、死の問題も含まれているのですが…。
これは、私は仏教的にどう解決するか?
とゆうよりも、これを受容する。というふうに思ってます。
で、これは虚無的でも何でもなくて、受容することが無苦集滅道なんかと思います。
つまり「苦」とゆうのは、「受け入れたくない自分」があって「苦」なんかと思いますよ。
じゃあ何で受け入れたがらないんか、とゆうと、そこが無明なんかと思います。
>自分自身で体験する事と、教えられたり、常識とされているような当然の前提の
>間で、かなり不器用に立ち回るしかできないような時期があったんですね。(w
で、仏教とゆうのは、やはり自分の思い違いみたいのを「気づかせて」くれるもんかと思います。
98 :
名無しさん@1周年:02/11/19 20:10
>>97 >で、仏教とゆうのは、やはり自分の思い違いみたいのを「気づかせて」くれるもんかと思います。
ありがたい仏のおしえも道具なんだ。髑髏仮面にとっては。
いったい何に気づいてるんだろうか? 空しくない?
99 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/19 20:20
>>98 >空しくない?
虚しくない。かと思ふ。むなしくない。
>>97 これは、私は仏教的にどう解釈するか?
というよりも、これを受容する。というふうに思っています。
以下略 ・・…そこが無明なんかと思います。
う〜ん、禿銅ですなぁ〜。
つまりある解釈も、ある理解も入り口(法門)とも言えるんでしょうね。で、そこから
が本当の始まり。それぞれの「道」が開けてくる処のような気がしますよ。
ところで、髑髏さんは「感動」とか「愛情」というものを、どう思いますか?人間は色々
と様々な事柄で感動したり愛情を表現したいと思っていますよね。
かつて、本田宗一郎氏が言っていた。「人生は心から感動する事によって実っていく」と
言うような事を。そして人間は感動の「ドラマ」も求めますよね。
セナはこう言っていた。「ボクは、ポールポジションから飛び出して、そのままゴール
するような理想的なレースよりも、何かのトラブルで出遅れて、後方に下がりそこから
猛烈な追い上げをして必死で掴むような勝ち方が好きだ」と。
これは、見ている方も感動します。実際に彼は初めて日本でワールドタイトルを決めた
時、そのような勝ち方でファンも湧かせていたものです。彼自身の想いも一入だったの
は当然のことでしょうが。
私がいわゆる「仏教」に対してどうも腑に落ちないのは「愛情も感動も、そんなものは
執着であって、取るに足らないものである」と言うようなものの見方なんですね。
私は、どーしてもそうは思えんのです。人間には感情や情緒がある。これは自然に与え
られたものだし。これを価値なきものとして捨て去ってしまってはどうかと思うなあ。
しかし人間の起こす様々なトラブルも感情的なものが原因なのも否めない。だがやっぱり
人間って何かドロドロの汚物の中でも、キラリと輝く「何か」が堪らなく好きなんじゃな
いかなと思うなあ。誰もがどこかでそれを求めているような気がする。いや、実は切実に
求めているんじゃないだろうか?
横やりです
>>100 「取るにたらない」のではなく、固執するな、ということだろうと思います。
●某話
女人禁制の坊さんが、2人(師匠と弟子)。川縁に妙齢の女性が一人。
川を渡れず困っていて、弟子は師匠がどうするか見てると、師匠は彼女を抱きかかえて
川を渡ってしまった。
しばらくして弟子が「師匠、女人禁制では?」の問いに師匠応えていわく
「なんだ、おまえはまだあのおなごを(頭の中に)抱えているのか」と応じた、という話。
●別な某話
修行を積んでる坊さんに、部屋と日に3度の飯の支度をし続けるばあさん。
20年ほどこの関係が続いた後に、若い娘に、この坊さんを誘惑するようにしむけた
ところがこの坊さん悟っていたようで「枯れ木がよってきたような・・・」という
発言をして相手にしなかった。そしたらこのばあさん、俗物め、と坊さんを追い出してしまい、
部屋も焼き払ってしまった、という話。
このあたりがご参考になるかと。
前の話は「こだわらないということ」の解説として
後の話は「取るに足らないもの、ととらえるのはまちがい」の解説としてあげました。
どちらも仏教の本に出てくる話です。
102 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/20 20:02
>>100 >「愛情も感動も、そんなものは
>執着であって、取るに足らないものである」と言うようなものの見方なんですね。
禅師が風雅を楽しむは、やはりその時の「今」を楽しんでんかと思いますよね。
瞬間か感動するんでしょうけど、また瞬間忘れちまうんかと思います。
これがいわゆる「大愚」ちゅうんかと思います。
で、一休和尚も結構女が好きだったんですが、いわゆる「直ぐ忘れる」。都合が良いんかもしれません(w
そうゆうのを「なりきる」ちゅうふうに言いますよね。
女と居る時は、結構「なりきり」なんですが、別れるとアッサリ執着から離れちまうんかと思います。
>髑髏さんは「感動」とか「愛情」というものを、どう思いますか?
これは非常に大事かと思います。
同時に、こういった事から離れて、一人静かに「静」の時間を持つ事も好きですね。
一人お時間ちゅうのは、つまりは自分との向き合いの事ですよね。
人間は、社会との関わりにおいて常に演技・演出してますね。
たまに本来の自分と向き合うことも肝要かと思う。
103 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/20 20:14
>>101 川を渡る話は、一休ですね
次のは公案で有名な「婆子焼庵」ですね。
白隠の弟子が、「私でしたら娘を抱きます」。と言うたら白隠が破門したとゆうヤシですね。
>>101 親切な横やりさん、どうも有難う。そろそろこの事に付いては、自分で判断を下すべき
時期がきているのではないかと思っています。何となくですがね、自分の中で輪郭が浮
かんできたような気がします。だいぶ長い間このことの前で戸惑っていたのですが…。
だめ押しです。
「この場における今の瞬間」を最大限に大事にすると言う、人生のコツを教えて
くれてるのが仏教だと思ってます。(もちろんほかにも教えてくれてますが)
最大限に今を今として堪能するためには、過去に引きずられない自分である必要がある。
だからここから一期一会もでてくるし、執着はよくない、という考え方も出てくる。
生きるために感動を切り捨てるのではなく、逆に、今の感動を最大限に味わうための
コツとして、過去の迷妄にとらわれるな、執着するなと言ってるのだろうと思います。
>>105 ご親切な横やりさん、どうも有難う。実によく理解できます。実際、私なども「レース」
の最中はこの様な事をやっているんだと思います。
しかし、実生活となると余裕が有る分、やはりあっちこっちと考えがふらついてしまい
ます。人間、本当に猶予感覚が吹っ飛ぶくらいの出来事に遭遇すると、余計な事を考え
ず「今やらねば成らんこと」に全力投球する事もありますよね。火事場の馬鹿力の如く
智慧も湧いてくる事もあるようです…。
例えば、災害や事故などの際の人命救助などでプロは勿論ですが、たまたまその場に居
合わせた通りがかりの普通の人が、我が身を挺してでも誰かを救おうとする様な事実も
あるのは驚きに値する。家族でもなければ、友人でもない「他人」のためですからね。
そういう人に「何故あんな事をしたのか?」と問うてみても、その理由は本人もよく分
からないらしいんですよ。(w
逆に犯罪などに手を染める場合も「つい出来心で…」というように後で正気に返ってみ
ると「何故あんなことをしたのか?」実はよく分からない事が多いそうです。(w
つくずく、人間とは不思議ないきものだと思います。こういう事柄からも私は仏教の無我
の教えにも頷けるものがあります。これは仏教の教えからの洞察だけじゃなく、この世の
衆生からの洞察も含まれるのですから頷けるものがあるんですね。
まあ、私も人間ですし、その同じ人間としての自己の探求は人生を生きる上で非常に重要
なものであると思ってます。
107 :
名無しさん@1周年:02/11/21 19:07
お金や時間、労力がかからずに、内心の平安と死後の幸福を得られる宗教ってなんですか?
>>102 >禅師が風雅を楽しむのは、やはりその時の「今」を楽しんでいるんかと思いますね。
私は、仏教の教えとして「そういうものを楽しんではいけない」というような
思いがありましたね。その辺は非常に厳しいものがあるのだと考えていたんで
すよ。人間でありながら、全ての人間性を捨て去らねばならんような…。
しかし、釈尊が御身80才、最後の旅でこんな感慨を弟子に話したそうですね。
曰く「何某の木は楽しい木であったな。何某の森は楽しい森であったな。人間
の命とはまこと甘美なものだ…」というような事を。
釈尊は人間苦から出家し大いなる悟りを開いた。そして労を惜しまずに法を説
いてまわり、人間をその人間苦から開放するための道を示された。
そして現代にもその法と道が継承されている。人間苦から、その法に出会った
なら、人間は「自らの」その道を捜し求め、自ら歩むべきだろう。
だがしかし、人間苦からの開放や、真の自由への道を歩むということになると
とかく生真面目に額に青筋を立ててしまいがちかとも思う。言わば釈尊、苦行
時代の心持でありましょうか。しかし、脅かされる事のない、内心の平安を己
ずから見出した釈尊は、中道を機軸とせよ申された。
ここに全てが要約されているとも思う。絶妙なる調べには、程好い張りがあり
程好い弛みがある。相対の調和、張りと緩みの中和こそ「妙」というものなの
かもしれません。
人間として生きるというのは、苦しみを突き抜けても、妙なる味わいがあるの
かもしれませんね。釈尊の言葉からしても、何かそういうものが覗えます。私
は、なんとなくなんですがそんな感じがするんですよ。
ところで、髑髏さんは善悪というものをどの様に捉えていますか?善悪とは何
なのでしょう?
>>107 それは本来の自己に返ることではないだろうかなあ。本来の自己なんですから
お金は無論払う対象はいないでしょうし、本来の自己なんですから、労力もか
からないんじゃないでしょうか…。
ただ、その道中に迷う事はありますよね。そんな時は、自分がこうすれば内心
の平安と死後の幸福を得られるのではないかと思うものに賭けてみるしかない
と思います。じっと耐える時は耐えるしかない。そうとしか私には言えない。
まあ、何れの人も何をやっても結局は自分一人になりますよね。この世でも最後
は自然に自分一人に戻っていくように。
そのように道中どうあれ、最後は誰もが本来の自己に返ってくるものではない
だろうかと私は考えています。
だから、最初から内心の平安も死後の幸福も約束されているものだといえるの
かもしれませんね。我々凡夫は、ただそれに気付けない。忘れている。思い出
せない。実はそういうことなのかもしれませんよ。勿論これは誰かに保障でき
るようなことではありませんが…。
110 :
名無しさん@1周年:02/11/21 21:27
死と隣り合わせという環境は悟りを開きやすいのと違うかなあ。
髑髏さんもそういうところで何かを得たと言うし、
「剣禅一如」という境涯も生か死かのぎりぎりのところを問いつめる環境によって醸成されたものだし。
だからもしブランコさんが本当にレーサーなら、悟りを開きやすい環境にあるのだろうなと
少しうらやましくも思います。
自分なんぞは日常の自堕落に漂流してしまっていて、お恥ずかしい限りです。
焦らないことにしてるんですが・・。
>>107 死後については、まだ死んだことがないので何とも言えず、発言を差し控えます。
存命中の部分についてのみお答えします。
それは、「感謝すること」です。徹底的に感謝すること。命がけで感謝すること。
順境はもとより、逆境にも感謝すること。
逆境になぜ感謝できるのか?そこが知性総動員の、自己との戦いになります。
これに徹すれば、やがて運命向上環境好転まちがいなし。
しかも労力お金お題目一切かからない。
補足材料として、鏡を使って笑顔の練習をしてください。誰もいない部屋で。
でないとキチガイと思われます。一年くらいやれば、確実に人生が変わります。
ただし、一日二四時間やるつもりで。寝る直前と起きる直後は特に重要。
ここをしっかりすれば、寝ていた数時間がすべてきっちりやってたことになるからです。
難しい論法も、秘技も、お題目も、宝塔もなんもいりません。
その本質はすべてあなたの中にすでにあります。
そのあなたの「良き本質」を表層世界に引きずり出す手法として「笑顔の練習」「感謝の訓練」が
あるのです。金もかからず、副作用もありません。是非一度おためしください。
112 :
名無しさん@1周年:02/11/21 22:07
>>109 今はちょうどいろいろ迷っているところです。
>>111 ありがとうございました。
感謝の言葉です。(^^)
113 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/22 08:23
>>108 >ところで、髑髏さんは善悪というものをどの様に捉えていますか?善悪とは何
>なのでしょう?
菩薩道とは、あんまり善悪の事は考えないかとおもいます。
「今ここ」は自然体で、そうゆう生き方自体が廻りの環境を和やかにし、しいては幸福に導くもんかと思います。
人が何らかのアクシデントで倒れていれば、極自然に助ける。
これは善悪とゆうよりも、本来の仏性、大慈大悲なんかと思います。
ここのところは法華経の範疇になりますよね。
>>110 >「剣禅一如」という境涯も生か死かのぎりぎりのところを問いつめる環境によって醸成されたものだし。
武道も「円相」とゆう言葉を使いますよね。
真剣勝負は、一瞬で勝負が決まるらしいですよ。
つまりは、一呼吸の刹那に相手のコテを入れる。
これで戦意が消失して勝負は決まるらしい。
これが仏教の無我と重なるところがあるんかもしれません。
ちなみに中国では「武道」とゆうよりは「剣術」。「道」の思想は無いらしい。
この「道」の文化は日本独特なもんかと思います。
>>110 う〜ん、私の場合、レーサーと言っても「草レーサー」ですからね。(w
しかも、先日ずっと一緒にレースをやってきた友人がこの世を去ってしまったので、戦意
喪失状態ですし、他の誰かと組んでさらに…という気は起こらないのです。
ただ、私は思うのですが、レーサーは確かにレース中は色々と面白い体験をしている人が
多くいるようですが、それを特別な事と思わず、みんなに起こるものとして別に気にもし
ていない事が多いようです。私がその様な事を問い質しても「だから何?」という具合に
取りあってさえくれないことが多い。(w
どんな凄い事でも、当人が「当たり前」と思っていたら、別に何でもない普通のことになって
しまうんですね…。
それに私だって自堕落な遊びはするし、人間なら誰にでもどうにもならないような欠点はある
と思いますよ。みんな胸の内では知っているのでしょう…。
生死ぎりぎりのところで、なんて言うとカッコイイですが、耐え難い苦悩や問題でも抱え
ていない限り、無意味な苦労になると思うし、万一命を落してしまうようなことになった
らもったいない。これは悔やみが残ると思います。私が思うのは、現代人はもう少し本来
の野性を開放する手段を持った方がいいのになと思うくらいです。
そんなことよりも、111で横やりさんが提案してくれた事が素晴らしいと私も思う。
私も自分が想像できる最上のものを感想したりしてますよ。自分が嫌悪感やイライラに襲
われているなと思った時などは、呼吸を落ち着けて自分の内部で何が起こっているのかよ
く見るように努めて、最上の自己を感想して、高次の自己を感想して行くんです。
顔で笑いながら、腸が煮え繰り返るような瞋恚を抱いてどうすることもできなかった私が
これでかなりストレスを抱え込まずに済むようになった。
>>108 仏教が、いろいろなものを禁止しているのは、遮断によっていっそう鮮やかに
そのものの本質に迫ることができるから、本質に迫るための便法ではないかと思います。
たとえば、外に出ず、穴蔵生活を三日三晩連続したあとに、外に出たときの、木の緑の鮮やかさを
ご存じですか?まさに、木の1本1本、緑の葉の1枚1枚が、「俺は生命だぞ、俺は生きてるぞ」
と、堂々と、きらきらとまぶしいくらいに自己主張しているのを感じることができます。
命が爆発して、その爆発の形が瞬間的に固まったかのような勢いすら感じます。
このような雑草の1本1本の美しさ。これは、外界と遮断された後に、出会ったあとに
味わうことができる発見です。こういう教え方をするのが、仏教だと思います。
ある意味、仏教とは、どん欲に人生を味わい尽くすためのマニュアルなのかもしれません。
少なくとも、人生のヒントの宝庫のように私には思えます。
116 :
名無しさん@1周年:02/11/22 23:45
>>114 あまり小難しく考えず、高橋徹のように「今、ここ、俺」で生きればオッケーでしょ。
今、ここ、俺、ばりばり でOK
>>116 そうそう、それでオッケーですよ。(w
今、ここ、俺、バリバリ 最高ッスね!!
あーっ、気分がスカッとした!!
ところで、高橋徹のファンだったのですか?
それにしてもバリバリかぁ〜、懐かしい響きだなぁ〜。
>>113 >菩薩道とは、あんまり善悪の事を考えないかとおもいます。
髑髏さんが思う、その自然体を最も顕著に示しているのは、著名人でいうと、どんな人
なんですか?
私が思うに、菩薩ともなれば善で悪を包んでまうような影響力があるんじゃないかな。
全てを善とみてしまうようなね。どちらにしてもこの世は完全じゃない。善を行うにし
ても、悪を行うにしても、不完全なもの。ならば、善の中にも悪の芽があって悪の中に
も善の芽があるのだろう。故に菩薩の眼はいつも善に傾いているのかも知れない。だか
ら、善悪のことを考えるまでもないということだろうか…。
しかし、私は新宿の街で、倒れている人がいても手を出さなかったな。香港で物乞いを
している貧しい人を見ても、何も与えなかったな…。
でも、どんな人でも仏道を歩んでいるんだと思う。その中の菩薩道ですよね。自然体と
いうのは、人間には誰にでも当たり前の事でもあろうが、自我という殻付きの状態では
改めようとしても最も困難なことになってくることだと思う。
でも、敢えて再び質問します。善とは何で、悪とは何だと思いますか?菩薩道が善と悪
を知らないわけではないでしょうし、菩薩の善悪感は、概念、常識の善悪感を超越する
ような、深みに達しているのだと思います。だから、時々、突飛な行動や、変に見える
行動も平気でやってしまいそうですね。
120 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/23 19:30
>>119 >菩薩の善悪感は、概念、常識の善悪感を超越する
>ような、深みに達しているのだと思います。だから、時々、突飛な行動や、変に見える
>行動も平気でやってしまいそうですね。
菩薩ちゅうのは、善と悪、相対概念から開放された捉えかたをしてるんかとおもいます。
じゃあ。どーゆうふうに考えてるかと言うと、これが大慈・大悲なんかと思います。
命のはかなさ。それへの慈しみ。共有する歓び。それゆえの美しさ。
こういったのが根底なって、それにて考え、行動するのが菩薩道なんかと思います。
つまり、善と悪とゆうんは相対するもんですから、善と悪の分別に迷いますね。
人間、そう正確に分別できるもんじゃないですからね。
つまり、そういった相対概念から解き放ったのが一如の法門かと思いますよ。
善を求めるのでもなく。
幸福を求めるのでもなく。
悟りを求めるのでもなく。
ここのとこが「気づき」なんかと思います。一般的価値観とは違いますが、
しかしながら、ここのところが妙にして深遠なるかと思います。
>>115 >いつも味のあるレスをしてくれて有難う。髑髏仮面さんとは、もうかれこれ一年くらい
前から主に二つのスレでレスを交換してきましたので、私も一年前とはかなり違ったモノ
の見方になってきましたよ。有り難いものです。
だから、髑髏仮面さんのいう「空」や「無」も今では少し理解しているような気がします。
面白いものですね、何処の誰とも分からない人とこんなに意見交換しているんですから。
しかし私のように小難しいことをレスする奴に付合ってレスしているのだから、虚しい心
の人ではないことは間違いないでしょうね。
いや、済みません。ここで、落ち着いて意見の交換ができる人というのは、非常に少ない
ような気がしまして。だからとても有り難く思うんですね。
さて、私の場合明日のジョーが好きでして、憧れてボクシングをしていた時期があったん
です。まあ、親の反対を押し切ってですから、成人してからなんですが、減量というもの
がどんなものなのか我が身で味わってみようと思って、実行してみましたんですよ。
やはり夜、目が覚めるんですね。体温が上がっちゃってよく眠れないんです。やたら水の
匂いに敏感になりますし。もう、本当に匂うんですよ。(w
でも、我慢して我慢して、少しだけ水を飲むんですね。美味いですよ。もう、堪らんです。
実は色々なことがそうなんですよね。人間の背負う苦しみとして貧、病、争も揚げられる
けど、病気に罹らんと健康の素晴らしさも気付き難い。戦争と平和もそうでしょう。貧し
さと富みもそうだと思う。
私の小さな経験では、平和な時、富んでいる時、健康な時、そう言う時は私は堕落してし
まうような気がしますよ。自分に何処までも甘えちゃってね。そういうものを剥ぎ取られ
ている時の方が、むしろ目覚めていられますね。しかし、自分をそこに追い込むのはなか
なか楽な状態の時はできません。その価値さえ忘れかける。こう言う時、善友というのは
素晴らしい友になるんでしょうね。
あなたの仏教感は、とても参考になります。(^^
わけもわからず誕生し、人間をしている私達。
だから、内心の平安は得られなくて当たり前。
人生の解答がないから、変な教祖が勝手に解答を作る。
神は、空や無を人間に理解して欲しいと願っているのか
どうかもわからない。
わかりにくい神という存在に「はっきりしろ」と言いたい。
でも、神がわかりやすくて干渉されたら、うっとうしいだろうなぁ。
スレッドは、たてた1の性格によって、ふさわしいレスがつくものです。
実りのある意見交換ができるのだとすれば、それは1さんが実質のある
お方だからでしょう。
ところで
私の小さな経験では、平和な時、富んでいる時、健康な時は、どっぷりと
つかって堪能してしまいます。充分に味わうことにしています。人生の醍醐味です。
そして不幸なとき貧しいとき、病気な時は、そのものがもたらす人生の意味の
善なる部分を意識して受け取るように努めています。逃げずに充分に味わうように
つとめています。堪能でないのは、修行が足りないからです。(汗
どんなに苦しくても、命までは取られることはないのだし、たとえ命を奪われても
それで苦しみが終わるのですから、どちらにころんでも最悪ではないわけです。
そういう詭弁を自分に対して使うことにしています。
禍福どちらもありがたいとわかれば、世の中過去現在未来、すべてありがたいことだらけです。
ただし、禍をありがたいことと受け止めるには、かなりの努力と想像力が必要となることを
白状しておきます。
何も答えを与えられない我々は、
自問自答し、自らの中に神を見い出すしかない。
しかし、それは ただの自己満足でしかない。
皆がそれぞれ自分の中に神を持っている。
それについて、良いも悪いも解答は無い。
解答を求めるのを止めたら、内心の平安が得られるのでは
ないだろうか。
人間がどんな風に神を求めるのか試されているとしたら
気分悪いね。
125 :
名無しさん@1周年:02/11/23 21:36
126 :
名無しさん@1周年:02/11/23 22:24
貴様ら全員屑だ。
死んでしまえ。
そして目を覚ませ。
127 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/23 22:49
>>124 >解答を求めるのを止めたら、内心の平安が得られるのでは
>ないだろうか。
答えを得られなのは随分ありますよね。
で、よくよく考えてみますと、答えは別に必要じゃない。
釈尊の十無記は、別に答えが分からん方が良いよな気がします。
善悪は、「命」の取り扱いで判断すると考えるのが妥当だと考えています。
ここでいう命の意味は
1、肉体の持つ生命 2、精神・心としての生命 3、そのものの本質
です。
「命」を大事にするのが、善。粗末にするのが、悪。
なお、上の3つでは、数字が大きくなるほど、意味が深くなり、優先順位が高くなります。
では、なぜそうなのか。
論拠はただひとつ。
「すべては自分自身だから」であろうかと思われます。
「です」と断定できないのは、自分は、その実感にたどりついていないためです。
いろいろな知識を寄せ集めて再構築して洞察すると、どうもそういうことらしいようだ
ということです。(体得してないので、残念ですが自分のものとしては発言できません)
仏教はある意味とんでもない教えで
「洞察を深めていくと、自分自身と他人とはつながっている別物ではない。ということがわかり、
さらにはすべての生命がつながっていることがわかり、最後は大宇宙そのものが
ただ一つの生命であり、それの一部が自分という生き物の現れなのだ」という
ことなんだそうです。
もはや神話だとしかいいようがないようにも思うのですが。
ただそういう前提を補助線にして考えると、上記の命の論理は
あまり正解からはずれていないようにも思えます。
世の中のすべての人が「自分はこの仕事で世の中に貢献するために
生まれてきたんだ」という実感と確信をもって日常の仕事に
喜々として没入できていれば「菩薩の大願成就」なのでしょう。
130 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/24 08:36
>>128 >「洞察を深めていくと、自分自身と他人とはつながっている別物ではない。ということがわかり、
自他不二ちゅうのは、つまりは「関わり」の中に自分がある。とゆう事なんでしょうね。
心の平安とゆうんなら、こうゆうところに見出していったのが仏教かとおもいます。
ただジッと坐っていても、関わりがあって「ある」。
今が確かにあるんだと・・・。これを実感したのが「今ここ」。
これで良いじゃぁないか。
これなんかと思ふ。
いや、レスが幾つもついているので、想いが「わーっ」と湧きあがってきています。
で、取り敢えず少し独り言を呟いてみたくなってしまった。(w
かつてボクシングをやっていた時、職場の上司にこんなことを言われたことを思い出す。
「OO君もよくやるねぇ。ボクシングなんて好きじゃなきゃとてもやれんだろう」
私は内心「んーっ、別に好きって訳じゃないけど、確かに自分からやりたくて始めた事
ではあるなぁ」と思ったり思わなかったり。。。それから時間は飛び現在になります。
私は時々知人との会話に仏教の話を少し取り入れるのですが、時々人の言う事であの
当時自分が上司に言われた言葉を思い出す。「好きでなきゃできんことだよなぁ…」
曰く「坊さんなんて、つまらんよなぁ。人生の楽しみを全て味わあず孤独に過ごしてさ」
そう言われると私も、無常とか人生の苦を語りたくなってきますが、少し黙って聞いて
いたりします。
そこで想いを馳せると、釈尊苦行時代にあの方は好きで苦行を行っていたのだろうか?等
と考える「道の人よ、あなたは好きで苦行を行っているのですか?」と質問すればこの様
な答えが返ってくるかな。「私は人生の苦しみから逃れ、涅槃を実証する為に出家した」と。
苦行が好きであったか、嫌いであったかは私には分からないが「苦しみから逃れるため」
という理由は間違いないと思う。だが、釈尊はある時苦行を潔く捨ててしまった。
そこには、大きな心境の変化があったのは理解できる。苦しみから逃れるために苦行を
行うというのにも、納得できる理由は認められる。しかし、そこを超越してしまう何かが
よくわかったのだろう。それは多分「個」としての存在の限界を超えたものなんじゃない
だろうかと私も洞察しています。
私はアイルトンセナを今でも尊敬しているんですが、ある時「…この時、ボクの精神は
肉体の限界を遥かに超えている」と言っていた事があるんです。彼のパフォーマンスを
見ればその言葉も頷けるものがあるような気がします。
(続)
彼は間違いなくレースが好きだった。だが、あのような結果は望んでいなかっただろう。
過ぎ去ってみれば、誰の人生も儚く、後悔が残るものかも知れません。でもそれは人生
が好きだからに他ならないとも思う。素直な「好き」という気持ちには感謝の気持ちも
混じっていますよね。感謝には自然に何かを差し出したいという気持ちもありますよね。
こういう気持ちには、なかなか成り切れん束縛も強力ですがね。
お釈迦様が出家して苦行をしたのも、イエスが十字架から逃げなかったのも、ソクラテス
が毒を飲んだのも、セナがレースから逃げなかったのも、私がボクシングを始めたのも、
根本には「人生が好き」という自然な気持ちからではないのだろうかと思う。ただ、普通
は小さな自分に限定された「好き」なんだと思う。六根の世界に惑わされる転倒もあるん
だと思うし。しかし、確かに根本にはそれがあるような気がします。素直になると徐々に
れが分ってくるような気がします。何か権威あるものに対してだけじゃなく、自分自身に
対してですね。だから、今ここ、オレ、バリバリ。これは俗っぽい表現ですが、本質的に
はそういうことなのかも知れませんね。
>>124 解答を求めることをやめるというのは、それが自然な内面からの働きの結果ならいいのですが、
人為的に逃れようとするのは、「くさいものにふた」であり、本質的な解決にはなっていません。
「何のために自分は生きているか」
これは人生で一番重要な問いであり、絶対解のないものであり、ある意味一生
格闘していくべきテーマでもあります。その解答を求めて練り上げていく過程から
人生が練り上げられて来るものでもあります。
少なくとも、10代から20代前半あたりの人なら、この問いに逃げてはいけない
と思います。もちろん、のめり込んで実人生をおろそかにしてもいけないですが。
人は(自分は)何のために生きるのか、という問いは、青年期には自然な心情です。
これとの格闘から、基本人格が練り上げられてくる。本当の意味での自分を作り上げるための
儀式みたいなもんです。ある意味、自分なりの解答ができたところが、真の意味での
成人式なのかもしれない。・・・・ちょっと横道にそれましたが。
(続き)
かつて多くの人が、この問いに挑戦し、或いは今も多くの人が挑戦し、それぞれの立場で
それぞれの解答を得ています。もちろん学校の試験ではないので、誰にとっても正しい
解答が何なのか、というのを探し求めるのは、ないだろうし、ナンセンスです。
なぜなら
他の人に、自分の飯を食ってもらうわけにも行かず、トイレに行ってもらうわけにもいかんでしょ。
ただ、他の人がトイレに立った後をついていくとトイレの在処がわかるから自分も用をたせる
というメリットはあります。だから他の人の考えを横目で接するのは意味のあることです。
ただ、ここで注意するべきは、われわれは仏教者(仏教関係で飯を食うこと、職業とすること)でも
なければ学問とする人でもない、ただの素人である、というスタンスを忘れないことです。
そうしないと膨大な知識の底なし沼に引きずり込まれてしまって訳がわからなくなる。
(続き)
知識は、最低限で良い。本来、なくてすむなら、ない方が良い。
専門家は、底なし沼のすごさ恐ろしさを知ると同時に、そこに埋没しないための方法論も
知ってるわけで、彼らはそれで良いのですが、我々素人がまねをするとどつぼにはまります。
知識が多いと悟れるのかというとそうでもなく、はたき1本をもらって常日頃「はらいたまえ、
清めたまえ」っとそればっかりやっていた阿呆が、悟りを開けた、という話も仏教の話にある
くらいです。
知識が多いとか些末枝葉にこだわって正しい間違いをぐちゃぐちゃ言うのは、
銀行員が札束を勘定してるようなもの。いくら美しく早く正確に札束の中の枚数を
勘定できても、自分の預金額が増えるわけではないのです。
知識は、ときに本質を覆い隠すゴミの役割を果たします。
特に2chを見ているとゴミを投げ合ってるスレッドが多いようです。
「宗論は どっちが負けても 釈迦の恥」くらいの気持ちでニュートラルで
いるのがいいだろうと思います。
136 :
横やりの横やり:02/11/24 14:55
知識はあっても構わない。 寧ろあった方がいい。
それが「善知識」でありさえすれば。
善知識は自分という人間を成長させる為に必要不可欠な「道具」だから。
ただし善知・悪知識を判断し、善知識を受け入れ、悪知識を拒むには
「見性の眼」を持つしかない。どうすれば持てるようになるのか。
「八正道」の実践。これしかない。不断の努力。これしかない。
日々の精進・研鑚が心眼を作り出し、心眼によって得られた善知識が
更なる人間性の向上を促すのだ。これ無くして成道した者はいない。
「今 ここ 俺 八正道バリバリ」 これだね。
なんだか、ジュゲムだね
するってーと、おつぎは「やっぱり衣食住は人間の基本だから・・・」
てことで、
「今 ここ 俺 食う寝るところに住むところ 八正道 バリバリ 」
かな?(ワクワク)
>>120 菩薩ちゅうのは・・…それにて考え、行動するのが菩薩道なんかと思います。
私も、その菩薩感には非常に共感が持てますよ。まさにそうだと私も思います。
しかし、実践となると難しいですね。私は、声聞で頑張っていると、時々に独覚になり
インスピレーションが湧いて来ます。ただ、菩薩は、独覚を含み、独覚は、声聞を含ん
でいるもんじゃないかと考えます。そしてその三乗と六道も含み全てを佛が包んでいる
のじゃないか、そういう世界の構造なんじゃないかと思う。だって、人間の中に十界の
全てが入っているように思えるのですよ。この世には儚くても天上の様な優雅さもある。
同時に地獄のような状態もある。で、その中で真実に向かおうとする理性や知恵もある。
だから、非常に時々ですが私も菩薩のような行いが出来ることもあるんですね。
本当に人間は色々なものを「見る」ことができますね。自分が何を見ているのか、気が
付いていないことも多いような気がする。そういう時は大抵、あまり善くないものを見
ているような気がします。しかし、世間では、ホラー映画が盛んですよね。佛や菩薩が
人々を救い教化していくような映画って髑髏さん知ってますか?
>>128 善く整えられていますね。私も賛成します。善悪の基準は「いのち」にあり。段々と深く
になるにつれ、霞んでしまいますが、究極は「そのものの本質」そのものなんでしょうね。
それを求めている道ですね。だから、そのものの本質は自分自身の内にあっても、道に終り
はないのは自明の理になりますね。
人間は究極には至れませんからね。お釈迦様も、修行完成者などと呼ばれるようですがその
ゴータマとしての命が尽きるまで道を歩んでいたんじゃないのかなあ。心の迷いは無くなって
いたと思いますが。実践という意味での歩みは仏陀になっても終りではなかったと思います。
>>113 >ちなみに中国では「武道」とゆうよりは「剣術」。
そうなのかナー? 武術、じゃないのかナー? 「武学」という概念ならあるらしいがナー。
>「道」の思想は無いらしい。
武道、茶道、の「道」はないけれど、武術を学ぶものが、それを修養としての意義も込めて練習していることは珍しくはない筈だがナー。
>この「道」の文化は日本独特なもんかと思います。
日本的な「道」という意味なら、そうかもナー…。
詰まらん野次で悪かったナー。異論があるなら、チョト調べるなり、ちゃんと人に訊くなりしてから頼むナー。
ブランコさんへ
髑髏仮面さんは私も好きですが、教科書通りの立派な人生を
歩んできたのではなく、私と同じく、間違い、挫折、過ちを
犯してきた人間くさい人だと思います。
あまり尊敬して見られたくないのだと思いますよ。
また、これは絶対にこうだという解答を避ける人です。
髑髏仮面さんは、50歳以上の人だと思われますが、
悟りを持っている方だからこそ、普通のただのおっさん扱い
で良いのです。教祖視されるのはイヤだと思います。
>>140に蛇足しとくかナー。
近代の中国の名人の有名な言葉に、「拳術と丹道は同じものであることが判った」というような椰子、確かあったナー。
143 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/24 19:00
>>138 >佛や菩薩が人々を救い教化していくような映画って髑髏さん知ってますか?
そうゆうのは知らないけど、良寛の生き方は大いに学ぶべきもんがありますよね。
「生き方」とゆう事に関して、後世の人達に多く影響を与えたかと思います。
数えきれない人に影響を与える。←これが正に菩薩道。
「生き様」そのものが菩薩道。かように思う。
救済する訳でなし。そのままの人間の営み。
これが善といえば、そうなんかと思う。
>>142 ぐぐったら、そんなのが出てきましたか?
老荘思想と禅も根っこのとこは同じようなもんですよ。
これは茶道にも言えるんです。
>>143 なんでそういう風に勘繰るのかナー…。
技芸の習得に全人的修養を求める風潮は「日本独特のもの。中国にはない」という意見に、?、と書いただけだったんだけどナー。
それへの返事がなんで、
>老荘思想と禅も根っこのとこは同じようなもんですよ。
>これは茶道にも言えるんです。
に、なるのかナー…? ちゃんと答えちゃいけない決まりでもあるのかナー?
つまり、髑髏仮面というHNの人は、「自分に反対する椰子は悪い椰子」と思っているのかナー?
まあ、確かに武術と関係ないスレの見当違いな下記子に一々茶々入れた漏れがアフォだったナー。
このスレにはもう書かないことにするナー。ごめんナー。
146 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/24 19:41
>>145 分からんなぁ?レスの意味が・・・
宗教と文化は密接に繋がってるとゆう事をカキコしたんだが。
ルネッサンスにおいても、キリスト教の影響なくして語れんでしょうし?
そーゆーてるんだけど、何とも分からんな。
>>146 > 分からんなぁ?レスの意味が・・・
> 宗教と文化は密接に繋がってるとゆう事をカキコしたんだが。
113にて「『道』の文化は日本独特のものだと思います」と髑髏は述べています。
それに対して142で名無しさんが「中国にも『道』がある」といった主旨の反論をされた。
しかし144の返答レスは「老荘思想も禅も根っこのとこは同じようなもんですよ」。
すっとぼけ。何故「武」と「宗教」の関係性の話をしているのにそうなるのか?
145さんはこの時点で「髑髏は論理性の無い人間だ」と諦めた。
さらにその返答。
>分からんなぁ?レスの意味が・・・
>宗教と文化は密接に繋がってるとゆう事をカキコしたんだが。
>ルネッサンスにおいても、キリスト教の影響なくして語れんでしょうし?
>そーゆーてるんだけど、何とも分からんな。
・・・・・・・・なにこれ。勝手に宗教と文化の話に変えてるし。
しかも「ルネッサンス」。お笑いです。
「自分の思考展開についてこれない奴は馬鹿だ」位に考えているのでしょう。
髑髏マニアのみなさん。間違っても全面的に信頼しないように。ただの教えたがり親父です。
今までのレスもよく読めば、話が噛み合っていない部分たくさんあります。
お気をつけて。
>>148 他スレのパクリ?相変わらず面白味もなくへたくそな引用ですね。頭固いね。
「今 ここ 俺 空練る 遊ぶ バリバリ」 これ最強。
研鑚しつつそれを根底から笑い飛ばすような柔軟な思考。
「うわ〜この人悟ってるわ〜」って人は皆これ。人生の達人。
スレの流れで例を出すなら「本田宗一郎」。言うことなすこといい味出まくりです。
髑髏、これまったく無いです。自虐或は中傷的笑いに終始。
本人は確信犯のつもりでしょうけど、笑えない。
相手レスの内容については触れようとしないところも「髑髏らしい」です。
「僕、悪くないも〜ん」状態なのでしょう。
これ以上は敢えて申しません。この一連のレスを読まれた皆様方の判断におまかせします。
批判を受け入れることの出来ない髑髏。自分の考えを改めることの出来ない髑髏。
面白味のない髑髏。 髑髏、髑髏、髑髏に清き黙殺を。
(と書くと変に同情してしまう人もいる。「母の愛」だけじゃ駄目です。おかしなところは指摘するのも愛。
他板ならともかくここは「真の心の平安」を願う方々の集いなのですから)
ところで外心ってあるの?
>>149 >「うわ〜この人悟ってるわ〜」って人は皆これ。人生の達人。
そうゆう事では無いんですよ。
賢者も愚者もない。これは少々難しいんですが・・・。
つまり概念に自ら押し潰されてはいかんのです。チョッとむずいですよ。これは。
何の先入感も持たずに、美しいもんを「美しい」と感じるだけなんですよ。
また同時に醜美一如。これは非常に難しいんですが。
田村亮子も一如。これはなかなか解りずらいけど。
いうなれば、既成概念をドンドン膨らませても、ただそれだけの事。
それとはベクトルが違う。こうゆう事なんです。
>ところで外心ってあるの?
内心・外心あらず。
>150
ま た す り 替 え で す か 。 。 。
オツムの話なんかしてないでしょ?なにこれ「賢者と愚者」って。
おすぎとピーコだったら「何この人!最高にバカバカ、も〜〜大バカ!!」呼ばわりです。
では質問
「醜美一如」ということは「犬猫一如」?
152 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/25 17:49
>>151 私が、どっかの御令嬢と合い向かいに坐るとしますね、そんで真ん中に茶碗を置く。
そして二人で替わりばんこに茶碗を眺める。
そうすると、大体話題は「スケールのおおきいテーマになる」。
つまり、感性ちゅう共通するもんが互いに出来上がっている。
これは理屈じゃないんだよ。
老若男女共通認識。これがいわゆる「道」とゆうもんなんだね。
何の説明もいらんのだよ。こうゆう世界が極自然に出来あがる。
そうゆう世界では、犬猫一如は無いだろーね。
ただし陰陽合一はあるかも知れん。
醜美一如はあるかも知れん。
ただし、犬猫一如は無いだろーね。聞いたためしがない(w
>>152 「スケールが大きいテーマ」とはこの場合例えばどのような展開になるのですか?
茶 碗 の 中 に 宇 宙 が あ る ね
とか
織 部 の 瓢 軽( ひ ょ う げ ) は こ の 世 そ の も の だ ね
とか出来の悪いCMのようなセリフを吐いちゃうのですか?
茶室だからこそ俗っぽい会話の方が艶有りでナイスなのにな。わかってないな。
>>154 >分からんなぁ。そうゆう難しい問題は。
ならばどのようなテーマが話題に上るのだろう。
「スケールのおおきいテーマになる」んですよね?
>>155 犬猫一如など知らんよ。
猫ちゅうのは、いわゆる女性とゆう意味の隠語。それしか知らん。
何で一如になるんだろーか?
教えて下され。
>>156 は?
>私が、どっかの御令嬢と合い向かいに坐るとしますね、そんで真ん中に茶碗を置く。
>そして二人で替わりばんこに茶碗を眺める。
>そうすると、大体話題は「スケールのおおきいテーマになる」。
>つまり、感性ちゅう共通するもんが互いに出来上がっている。
>これは理屈じゃないんだよ。
>老若男女共通認識。これがいわゆる「道」とゆうもんなんだね。
>何の説明もいらんのだよ。こうゆう世界が極自然に出来あがる。
「男と女」「茶室に二人」「茶碗を眺め合う」「そして語り合う」「スケールの大きなテーマ」
「共通する感性」「理屈じゃない」「道」「何の説明も要らない」
私が再三お尋ねしている設問の内容は
「このウルトラナイスな状況を以って、果たしてどのような会話が紡ぎ出されていくのだろう、
具体的にちょこっと教えてもらえないかな、興味深いな」の一点ですが。
153の時点で既に「犬猫一如」の事なんか聞いていないのがわからないのですか?
ちなみに「犬猫一如」は「自他一如」とのベクトル差異をどのように説明してくれるのか、
と思って訊ねたまでです。「中途半端な人間による、中途半端な解答が返ってきたな」が感想。
>>157 >果たしてどのような会話が紡ぎ出されていくのだろう、
これは、言うても分からんよ。私の仕事は軽弾みには言えん。
それに、別スレでチト言い過ぎた。
あまり仕事の事は言うもんでもない。まあ、職業だからいたしかたあるまい。
それ以外なら良いがな。
しかし、っま、これからは自粛せねばならんだろうよ。
>ちなみに「犬猫一如」は「自他一如」とのベクトル差異をどのように説明してくれるのか、
犬猫は分からん。どーゆうんで「犬」「猫」なんか?
この概念たるや難題なり。
ただし「自他不二」は分かる。分かるとゆうても人に話す器にあるず。
この自己矛盾たるや如何に?
「言えん」ばっかりですね。
「もったいぶる人」「思わせ振りな人」は「偽者」か「詐欺師」だそうです。
「身」「口」「意」は密接に連結しています。
「身」とは実践。「口」とは言葉。「意」とは心(思考)。
実 践 ・ 思 考 両 方 無 く し て 言 葉 は 生 ぜ ず
本人にすれば両方やっている積りかもしれないですが、掘下げがまったくもって足らんです。
言うでしょうが、「百尺竿頭一歩を進む」と。
(髑髏は4〜5尺進んだところで勝手に「わかった」気になっているのかもしれませんが)
「相対を否定して絶対へ。さらに其処を超えよ。
しかし観念としてでなく、実践と経験に徹し、今一度体に受け止めよ」
「仏身」なんてぇもんは、お経や祖師の語録や仏教書を読んで得られるもんではありません。
仏法を以って自らの体にこびり付く泥を落とし、自己の本質を露わにしていく。
それは弛まぬ研鑚(精進・努力)と深き禅定(心を静めきった状態での思索)だけが可能にするのです。
ブランコさんもそう思いませんか?
仏教の物語出典のお話をします。
ある町で、旗がぱたぱたとはためいていました。
町人A「旗が揺れている」
町人B「いや、揺れているのは風だ」
町人A「いや、揺れているのは旗だ」
町人B「いや、・・・・(以下略)」
町人C「揺れているのはおまえさんらの心だヨ」
もうひとつ
求道者「和尚に問う。仏道とはなんですか?」
和尚「まあ、お茶でもお上がり」
162 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/26 07:48
修行僧「生死一如とはこれ如何に?意味を教えて下され」。
和尚「生死一如など、そんなもんありゃせん」。
160は町人ではなく僧侶の話です。町人Cは「六祖慧能」です。
161は髑髏も大好きな趙州の「喫茶去」です。
お二人とも「当意即妙」な受け答えをされる代表的な方です。
しかし、ここまで徹見し克つ光り輝く語を発せられるようになるには
不断の精進・禅定の賜物に他なりません。
釈迦もありとあらゆる苦行をした末に「苦行はいらない」と言えた訳で
それを聞いた者が「しんどい事をしなくてもオッケーなんだ」と思うのは誤りです。
上記の趙州にしても、師の南泉和尚に60歳まで付き従い、師没後80歳(!)まで行脚し、
その後住職となられた方です。
それを踏まえた上で
http://www.fsinet.or.jp/~tozanji/bn.html 是非ご覧になって下さい。素晴らしいです。
164 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/26 08:27
>>163 良いHPですね、ブックマークしときますた。
その中からの抜粋。コピペ
::::::::::::::::::::::::::::::::::
(2)「死んで死んで死に切って思いにままにするわざぞよき」(至道無難)という、生きながら死ぬ方法があります。至道無難禅師は、白木屋のご先祖筋にあたるという江戸時代初期のひとです。別にこういう語があります。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::
なかなか良いもんです。
166 :
横やりの横やり:02/11/26 09:48
念のため、レスしときます。
ちなみに
160は、知識に気を取られて揺れ動き本質をどこかに置き忘れた
それまでのレスに対するアンサーです。
「内心の平安」を探求するスレッドにふさわしからぬ問答を
している方々へのアンサーです。
いわば町人ABは髑髏さんにかみつく人と、髑髏さんです。
ごちゃごちゃと枝葉をつっつきつっつきしている一連の論議に対してです。
この件について、仮に自分が直接制すると、その瞬間に自分も町人AかBです。
ですから町人Cを出す必要があったのです。
町人Cはいわば自分を含めそれをROMしている者たちの思いです。
それを原典通り坊さんとするのは、心理抵抗がありました。
客観的に見て、イヤミです。だから町人Cとしました。
それと、
161では、知識に気を取られ、言葉で
それと、
161は、言葉(知識)でどうしようこうしよう、という切り口に対して
そんなことじゃあいかんじゃろという意味です。
>>159の方がかかれているとおり、体験と洞察がなくては言葉は出てきません。
しかし、言葉に出せばいいと言うものではない。
あくまでも大事なのは、日常の修養であり、言葉にとらわれたり知識に
振り回されると本質から遠ざかってしまう。
もちろん、遠ざからない人もいます。
しかし自分も含めて、凡人は充分に気をつけないといけない。
自戒の意味を含めて書き込んだ次第です。
蛇足
160や161になぜ解説をつけなかったかというと
ここにカキコしている方々には読みとっていただけそうな
感じがしたからです。
でもそうでもなさそうなので、野暮とは知りつつ、
「横やりの横やり」をしたためさせていただきました。
170 :
名無しさん@1周年:02/11/26 11:39
急につまらなくなった。
ジサクジエン
>160>161とその説明をされた方へ
「まったく」とは言いませんが、「かなり」的(まと)外れです。
正論のように見えますが、この方もまた洞察が足らないです。
しかし私は今から出張ですのでこれ以上語る時間がありません。あしからず。
>>170 まあ、まあ、私はこうゆうのは慣れておる。突っ込みはしたことはない(w
仏の智恵で突っ込みなしでどーじゃろ。
2ちゃんゆえ、そのようでエエではないか。
明鏡止水。
>>141 赤影さんへ
その辺は大丈夫ですよ。私の髑髏仮面さんに対する態度は、人生、仏教、道、の先輩
としての敬意です。何処の誰かは存じませんが、多分、私より年齢も上だとおもいま
すし。でも、それはそれ、それでいいと思うのですよ。2CHの流儀に従うつもりは
私にないとはいっても、やはりその制約は受けざるを得ませんからね。その中でもた
だ、善いものは善いと思う。そういうことなんですよ。ここの誰に対してもそういう
こと以上に期待することはどうかなと思います。それより、こここそ「無我」と捉え
て対応していきたいですね。
しかし、そんなに年齢の上の方とは…。私より、少し上くらいだと思っていたのだが。
もしかして、お見逸れしていた?(w
>>173 髑髏仮面さんはとても正義感の強い人です。
レベルの高い話に付いて行けない人達から反感を買っていますが、
悪気はなく、あたたかい思いやりが根底に有ります。
今の若者には理解不能な昔気質の人です。
175 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/26 19:51
>>173 私が、あなたと最初にレスを交わしたのが・・・
「人間の尊厳とは?」。これでしたね。
私が「ん〜〜なもんはない」。これが答えでした。
なかなか貴殿の真意が掴めなかったのですが、
ああ、この思想が友達を偲ぶことに繋がってるんかと思いますた。
>そんなに年齢の上の方とは…。
そーですか?
赤影さんの推測が良い線逝ってます。
1970年くらいが私の青春時代ですよ。
176 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/26 19:55
>>174 >髑髏仮面さんはとても正義感の強い人です。
いやいやどーも、おそれいります(^〇^)
まあ、そんなんでもないですよ(w
スレが賑やかになっていて有り難いものです。だ〜れも来てくれなかったら、私は亡き
友に合わす顔もない。彼は2CHが結構好きだったからなぁ。よくこの2CHに付いて
も色々と話し合って楽しんでいたものです。
まあ、それはともあれ、基本的に私は「誰がどうである」とか「彼がこうである」と言う
事にはあまり興味がありません。心の平安を重要視します。だから、髑髏さんが嫌いだ
という人が反対意見をカキコするのを押さえたいとも特には思いませんよ。髑髏さんに
は迷惑になってしまったとしたら申し訳ないと思うのですが…。
ただ、たまたま私が長く髑髏仮面さんとレスの交換をしてきて、私の内面が善くなった
と思うだけです。それは、髑髏仮面さんが善いから、善くなったと断言できるものでも
ありません。何しろ、私は人物としての髑髏仮面さんのことは何も知らないのですから
ね。また、そこに付いてはあまり知りたいとも思わない。私はここにはスレがありレス
があるだけだとおもっています。「誰か」がいるというわけでもないと思うのですよ。
ただ、ある心にとって善いと思うレスがある。ある心にとって悪いと思うレスがある。
ある心にとって善くも悪くもないと思うレスがある。それでいいんじゃないのかなあ。
事実、誰の意識の中もそういうもんなんでしょうからね。
ただ、私は善いものをカキコしたいと思っているし、自己を誤魔化して心の平安を得る
というのも心外です。今の私は悟りのレベルの高低や仏教の教学の博識さ確かさよりも、
心の平安の深さを個人的に重視したいということなんです。
178 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 11:32
>>177 >私はここにはスレがありレスがあるだけだとおもっています
そうですね。
私も、その時の心情をパッとカキコしちゃうだけですね。
だから誤字・脱字なんかもあんまり気にしないんです。あまり良いとは言えませんが(w
>今の私は悟りのレベルの高低や仏教の教学の博識さ確かさよりも、
>心の平安の深さを個人的に重視したいということなんです。
私の考えに近いですね。
例えば「わび」とゆうのは説明はあんまり必要ないですからね。
これが、どーだ・こ−だと言っても意味がない。
「心の平安」が、必ずしもイコール仏教とゆう拘りはありません。私は。
宗教と殆ど関わらない幼児にだって大切なテーマですからね。
根っこのところは幼児の段階から問題はあると思います。
私の子供の時代と比較にならないほど環境が急変してますからね。
こうゆう子供達が、やがては大人になっていくんですからね。
宗教だけではかかえきれない社会になっていくと思います。
いわゆる「空」の文化」とゆうんでしょうか?
そうゆう文化の面にまで考えていかねばならんかとおもいます。
あまりジャンルに拘らず大局的な、ものの見方考え方ちゅのを大切にしていくのが大事かと思います。
179 :
名無しさん@1周年:02/11/27 13:12
わびさびとよく言われますが、わびとさびの違いは何ですか?
180 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 13:49
>>179 違いとゆうのはないですね。
同じでもなし。
仏教の考えと同じです。
181 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 13:56
>>179 気のきいた幼稚園では、茶道の授業がありますが、そういった場合は「わびさび」はあまり重要ではありません。
182 :
名無しさん@1周年:02/11/27 14:07
>>181 幼稚園では、わびさびよりも、ポケモンカードかドラえもんの方がよろこばれそうです。
辞書には
『わび』とは「飾りやおごりを捨てた、ひっそりした味わい」
『さび』とは「古びて趣のあること」とありました
あまり、その差を考える必要はないということですね。
でも、使い分けることとかはないのでしょうか。
183 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 15:20
>>182 わびは・・・
究極的狭い茶室(二畳弱くらい)において「狭い」から無限を顕現する。
これは、部屋でも便所でも茶碗でも同じ宇宙。
さびは・・・
いうなれば、当時の金ぴか文化の対極に美をみいだしたもの。
これがかえって新鮮な趣だったんだろう。
184 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 18:08
>>182 >でも、使い分けることとかはないのでしょうか。
花を飾る竹は新鮮なもんじゃなければ駄目。
見た目には分からないから、昨日切り出した竹を使うか。ってんで使えば分かる。
だから、作法はそれなりに意味があるんで、分けるもんはキッチリ分ける。
古けりゃ良いってもんでもない。
そんなこと逝ったら80歳の婆さんのほーが良いって事になっちまう。
こうゆう場合はどっちが良いか?って問題ではない。
きちんと掃除したから良いってもんでもないし。
かと逝って掃除をしないのも良くない。
>>178 「わび」と「さび」の世界を私も少し覗かせてもらいました。私は、それらに付いて実は
何の事なのかよくわかっていなかったんですよ。(汗
私事になりますが、以前の私は物事は白黒ハッキリと区分けしておきたくなる衝動が結構
強かったんですよ。
人間の思考では、手に負えない形而上の世界の問題に付いても理解したいとまで思ってい
た時期もありましたしね。でも、ある時「解らないものは、解らない」と、サジを投げて
しまった。納得はいかなくても、実にどうしようもないこととしてですけれども。
で、瞑想や洞察中等に、あらゆるものを分別して行こうとすると、どうも白黒ハッキリと
区分けできないものがでてくる。自分の中でも、何となくそれを感じ出してくる。
髑髏さんのいう「ファジー」というもの、私も何となくだけど、本質に迫れば迫るほどそ
のようになってくるのかも知れないと思うようになってきた。それは見方が悪いからだと
一方的に決めてしまうと、円相というのでしょうか?自分の内部で巧く納まらなくなって
何処かに角が出てきてしまうような気もするんですよ。
正確さ、というのも勿論重要なファクターですが,クルマの操作系にしても「遊び」と言
うものが必要です。どんなにシビア―なセッティングをしても「遊び」を全く無くしてし
まうと、トンでもなく扱い難いクルマになってしまうように。
八正道の中に、正精進というのがありますから、人生において目的に向かって努力する事
は大切なことだと思う。しかし、人間です。ついつい向きになり、執着し、拘りを作って
その事に生真面目になり過ぎてしまう。私は今そこのところを少し反省、洞察しています。
186 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 20:18
>>185 >どんなにシビア―なセッティングをしても「遊び」を全く無くしてし
>まうと、トンでもなく扱い難いクルマになってしまうように。
茶の湯でも「和」においては遊びは大切ですよね。
誠心誠意尽くした上の遊びですが。
ハンドルの「遊び」と良く似てるかもしれませんね。
つまりは客人に「遊び」ちゅう共通空間を伴にするのがモテナシですから。
これは伴に歓ぶ訳です。
緊張の中の緩和。ファジーですね。
究極の緊張と、究極の緩和。中道に通じますね。陰陽思想も入ってますが。
いわゆる、茶禅一味でもドグマみたいのが無いですから、そこが宗教と違うとこかもしれません。
>>111 で、提案してくれた「感謝すること」の副産物として紹介してくれた、顔を作る練習です
が、私の生活に取り入れてみました。
まだ、さわりの部分なんですが、面白いですよ。やり甲斐がありますね。実は私は111の
レスを見た時に、修行僧プンナが旅に出る時に釈尊が彼に問われたとする話しを想い出し
してしまった。
釈尊曰く「プンナよ、そなたが目指すその街の人々は、粗暴であるそうだ。もし、激しく
罵られたらどうするね?」
プンナ曰く「師よ、私は思うでしょう。この街の人々は善い人だ。殴ったりしないから」
釈尊曰く「もし、殴られたらどうするね?」
プンナ曰く「師よ、私は思うでしょう。この街の人々は善い人だ。棒で殴ったりしないから」
と、このような問答が続き、最後は命を奪われてしまうことまで釈尊は問うたそうです。
それでも、修行僧プンナは「この街の人々は善い人だ」と答えたという。
一体、仏陀の教えとは何なのでしょうね。四諦も八正道も釈尊の教えではありますが、諸仏
の教えというのがありますね。
所謂「善いことをせよ。悪いことをするな」ですね。仏教では人間の行いを三つに分けてい
ますよね。身、口、意の三業と言う風に。その中で仏教では、心(意)の罪が最も重いとも
言われているようです。つまり原因と言う意味でなのでしょうが。
人間は身体や言葉に付いては、凡夫でもある程度は注意をする。世間体や人目が気になるか
らね。しかし、心の中となると「無法地帯」と言えないこともないと私は思うのですよ。
で、諸仏の教えは、その「無法地帯」で「善い事をせよ」と言う事なのではないかと思う。
修行僧プンナは、布教の旅に出て、実際の環境としてその身に「無法地帯」を受けるかも知
れなかったのでしょう。それでも修行僧プンナの心は、害心を離れていたのでしょう。
諸仏の教えとは、実はそういうことなんではないかと私は思う。
それで、自分の内心において「無法地帯」が暴れ出しても、静かに微笑を保っていたい。
そう言う意味で「笑顔の修行」は私にためになると思うんです。有難うございました。(^^
>>187 ありゃ、最上列のところが、顔を作る練習になっている…。(w
「笑顔を作る練習」でした。
早速ご採用いただきましてありがとうございます(笑
補強をひとつ。
何も感謝するもの、感謝することがないと思う場合があるでしょう。
そのときのしのぎかたのコツをお知らせします。
たとえば外部のニュースを見て「北朝鮮が大変。日本人で良かった」
みたいに縁遠いものを関連づけても良いです。それらも出尽くした場合は、
自分の体に感謝してみてください。指が動く、目が見える、唇が動く・・・
こういう当たり前のようなことでも、ようく考えてみると、あたりまえではないのです。
過去のいやなこと、これが今の良いことにどう結びついているか、これも考えてみてください。
事実というよりは、解釈、に力を入れると良いでしょう。やっているうちに
うまくなります。
禍福はあざなえる縄のごとしといいます。今のマイナス要因と感じられることの
良い面を洞察してみてください。あるいはそこに込められてると思われるメッセージを
自分なりに読み解いてみることも大事です。
事例で説明しましょう。
たとえば自分の場合、ある時電車に洗濯屋から持って帰ったYシャツをごそっと
置き忘れて紛失したときがありました。その中にはスーツも入ってました。
気がついて呆然としたのですが、「これはきちんとしたスーツを着ろと、思い切って
整えろという意味だな」と「読みとり」、購入の踏ん切りをつけさせてくれた自分の
うっかりミスに感謝することにしました。
ご参考:感謝訓練の応用として、良かったことやうれしかったことをメモに記載して、
それを折に触れ読むという方法があります。
190 :
名無しさん@1周年:02/11/27 21:37
>>186 >きちんと掃除したから良いってもんでもないし。
>かと逝って掃除をしないのも良くない。
たとえば落ち葉の趣ですね。
191 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 22:07
>>190 そーですね。
ひとつ際立たせる、ちゅうんもあります。
朝顔を摘む話は有名ですね。
その人の為に、特別に用意したものがあります。
勿論それは客人の帰った後は捨てるものです。
そーいった、特別なもんを引き立てる。ちゅうことでもある。
ト−タル的には「わび」だけどね。
192 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 22:09
× わび
○ さび
193 :
名無しさん@1周年:02/11/27 22:19
>>191 朝顔の話、知らないので教えてください。
194 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 22:46
>>193 利休の屋敷に、朝顔が咲いてるちゅうんで秀吉が「明日の朝見に逝く」ちゅう事になった。
次の日、秀吉が逝ってみると殆ど朝顔が摘みとられてあった。
つまり、朝顔の「美」を引き立たせるには、一つか二つの花を残せば良い。
男をひきたたせるのは、対極的な満開の桜の下。
女をひきたたせるには、対極的な柳の下。
っま、これに似たよーなもんです。
195 :
名無しさん@1周年:02/11/27 22:51
>>194 なんか、命がけの気合いのようなものを感じるお話ですね。
利休が秀吉を接待するためだったなら良いけれど、
接待するためという口実で、実は意地悪をしてたりして・・・。
その場合、別な意味で鬼気迫る気合いを感じます。
196 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 22:54
そろそろ寝ます。
197 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/27 23:02
>>195 そーでつか?
実は、茶の湯では利休も秀吉も上下の身分の差はない。
勿論、利休は秀吉を一生懸命接待はするけど・・・
で、この「同じ人間」とゆう茶の湯の精神が、利休の命取りに繋がる。
利休は逝って、茶道の文化は残したけどね。
198 :
名無しさん@1周年:02/11/28 00:53
秀吉公が訪れる早朝、利休は庭にある全ての朝顔を摘み取らせた。
庭を見て激怒し、茶室に怒鳴り込んできた秀吉公が見たものは
床の間に活けてある一輪の朝顔。
「無の有」を見事に演出した利休の才。
199 :
名無しさん@1周年:02/11/28 00:53
利休は信長公の大志(天下統一後の近代国家建設のビジョン)に共鳴。
軍事・政治参謀として、また当代一流の文化人として安土桃山文化を築き上げ、
蔭に日向に信長公を支えた人物である。
信長暗殺の際、裏で蠢き(暗殺に関与)、その後釜に座った「猿」に対し、
利休は「人物ではない」と見限っており、次代を「徳川」に託するべく動いた。
前レスの如き様々な形で自らの才を見せつけ、信任を得、進言に従わさせる事により
太閤一代限りで豊臣を滅ぼす為の深謀遠慮を巡らせた。
そして晩年には秀吉公と仲違い(するように仕向け)、とどめとして大徳寺山門に自らの木像を安置。
切腹を命じた秀吉公に対し、利休を篤く信望していた諸大名が反発。
「関が原」へと向かう大きな一因となった。
利休は侘び寂びを打ち出した人物であるが、それは政治的必要性からでもあった。
その政治性とは「万民安楽」につながるのだが。
いずれにせよ、利休はただの「茶の人」ではなかった。
言ってみれば「スピリチュアル・リアリスティック同化人」。
200 :
200get:02/11/28 01:05
>>199 みずからの木像を安置したのは、秀吉挑発のためですか?
切腹を命じられることは計算できるだろうから・・・。
茶人というと趣味人のような線の細いイメージがありますが、
この利休という茶人、結構線が太いですね。
201 :
名無しさん@1周年:02/11/28 07:49
>みずからの木像を安置したのは、秀吉挑発のためですか?
すべては利休の思惑通り。「これで良し」と死んでいった。
利休遺偈
「人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺
堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛つ」
この偈に侘び寂びを見受ける事は出来ない。
利休の本性は臨済和尚と等しく「峻烈」。
202 :
名無しさん@1周年:02/11/28 11:04
和文和訳
人生ここに七十年,えい,えい,えい(忽然と大悟した時に発する声)。
この宝剣で祖師仏陀も我も共に断ち切ろうぞ。
私は手慣れた武器である一振りの太刀をひっさげて,今まさに我が身を
天になげうつのだ。
祖に会っては祖を殺し、仏にあひては仏を殺し、自分と遭っては自分を殺す
まさに裂帛の気合いが胆の奥底まで届いていますね。
>>186 >究極の緊張と、究極の緩和。中道に通じますね。
ある意味、生と死という「概念」も、どちらか一つに偏ってしまうような気がします。
生という概念は「快」で、死という概念は「苦」につながる。生を貪るというのは善
くない意味で快楽主義になりますか。一方、死を愛好するというのも、E,フロムが
虚無主義として、その心理を説いていますよね。
例えば、死を受け入れると言う言葉も、その内面においては全く逆の事を言っている
場合もあり得ますよね。生を愛するということを見ても、同じ様にそこには禍福が含
まれている。よく一つの事柄をみていくと、そこには福あり、禍ありになってしまう。
私も以前、人生に愛想が付き、もうどうにでもなれと、かなり内面が荒んでいた時期
がありましたが、そうするといつの間にか荒みの中に福を見出してしまう自分がいる
んですよ。
我々の世界では、よく「人生は矛盾だらけだ」などと言われるようですし、私もまだ
時には矛盾に悩む事もあるんですが、この矛盾というのは中道が解決してくれる問題
だと思います。矛盾と言うのは「あれ」と「これ」の間で、特に人間の思考や概念か
ら起こるものですからね。人生の矛盾を超え、相対の彼岸へいくには中道を歩むしか
ないんでしょうね。
私の母親は栗栖ちゃんなんですが、良寛さんは好きみたいですよ。少し良寛さんの
影響を受けているみたいですね。面白いです。
204 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/28 22:57
>>203 >死を受け入れると言う言葉も、
あれは、一瞬の空白みたいなもんなんでしょうかね。
襖(ふすま)なんかも空白部分があって、それが図柄を引き立たせる。
日本人は、こういった空白の美みたいな感性がありますよね。
「空」の文化は、生活にも息づいているんかと思います。
生死一如と言うのは、実は生死が無いのを一如なんでしょうね。
「死」を受けいれる。ちゅうんはこうゆう事なんかと思います。
こういった「無」の文化を日本人は極自然に継承したきたんかとおもいます。
205 :
名無しさん@1周年:02/11/29 01:24
余白の美
206 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/29 06:40
>>203 >私の母親は栗栖ちゃんなんですが、良寛さんは好きみたいですよ。少し良寛さんの
>影響を受けているみたいですね。面白いです。
良寛は、大抵の人は好きみたいですね。
やはり心の奥底では、あのよーな逝き方に憧れみたいのはあるんかと思います。
だから慕われるんかと思います。
あの良寛の姿が菩薩そのものですよね。
私の菩薩のイメージそのものですよ。
善・悪の概念から程遠い、平等、仏智、空。
>>206 私は一応、仏教の教えを学んでいるのに、良寛さんを良く知らない。キリスト教の教え
に影響を受けている母が、良寛さんを好いて結構知っていたりする。面白いですね。
実は、このように宗教等の本家、本元を辿っていくと、そのようになるんじゃないかな
と思うんです。宗教や思想でぶつかり合っているのは、本元ではなく、人間の側で拵え
た固定的な理念や観念なんだと思うんですね。仏教の喩えで言うと、それは「筏」と言
うことになるんでしょうか。
本元というのは、これでもなくあれでもない。正しく言い表す言葉が無い。だから仏教
では「無」とか「空」という表現を取り入れたのかもしれない。でも、そうしても誤解
の禍は避けることはできない。ただ、今思うと、誤解こそが人生なのかとも思う。
つまり、誤解に気付いていくという意味でですね。自分の誤解に気付いていくと、そこ
には、あるパターンの様なものがあるように思う。以前違うスレで仏陀フェイスと言う
のをカキコした事があると思うのですが、以前は仏陀が嫌いでしてね、あの無表情な顔
をみていると、まさに死のイメージが浮かんできたからなんですが、あれらは悪までも
芸術で、物体に現さなければならない。本来物に現し様のないものを現すのだから無に
するしか他に方法がなかったのかもしれないですよね。
「無」と言うのは、本元の方が無いのではなくて、人間の側の方法として、究極の本元
を現すモノ(道具)などは何も無い。と、言う事をいっているのかも知れませんね。
私は、善悪を見極めることも重要だと思いますが、でも「善・悪」が根本的なものかと
問われたなら、私は違うと思うと答えるでしょう。本元は一つ。究極は一つ。第二の
究極はあり得ない。私の思う究極は頂点のようなものじゃなく、広大無辺なもの。
第一、第二、というもので無く、無数、無限…。均等。摩訶不思議。
実は私にはよく解っていない事だが「これが大切なもの」だと智っているとも言える。
いわゆるこの感覚が仏教用語で言う、一切衆生悉有仏性というものかも知れない。
宗教の違いを超え、思想の違いを超え、人種の違いを超えて響くものがあるんだと思
うんですよ。
>>189 横やりさん、お元気ですか?
笑顔の訓練は続行しております。誰かのために作る笑顔ではなくて、自分のために笑顔
を作っているのですから、ストレスが溜まるようなことはまだありません。(笑
通常の作り笑いは、誰かの顔色を伺うような卑屈さがあるのでストレスが溜まりますね。
人間が、どんな時に幸せを感じているかと思うと、自ずと感謝の気持ちが湧いている様
な時は幸福なんだと思います。満たされているんだと思いますから。
人間の社会は、豊かな生活を求め、そこに向かって発展していくんだと誰も思いますよね。
しかし「豊か」とは物質的に便利で快適なものばかりじゃないですよね。それと同等以上
に精神的な豊かさも重要ですよね。しかし周りを見ると、そういう意味では豊かな人はと
ても少ないように見受けられてしまう…。
人間の習慣というのを,仏教では「業」と名付けているようですが、習慣化される事に
よって我々の生活は助かります。習慣と言う働きがなければ、我々生物は常に大変な状態
に置かれるでしょう。しかし、その同じ習慣力が人間をマンネリと化して大切なものを覆
い隠してしまう。ここで葛藤が起こると思う。楽な道を選ぶか、苦の道を選ぶか。
私は思うのですが、苦行というのはこの習慣力によるマンネリ化を防ぐ為に行う価値が
あるのではないかと。だからこの習慣力に依る禍をハッキリと観止めるところまで成長し
てくれば、苦行はもはや禍となって我が身を滅ぼす刃になってくると思うんですね。
仏教では一般的に移り変わる現象を差して「無常」と言いますよね。本で見たのですが、
「無常」を「非常」と釈している釈者もいたようですね。無常、無我を、非常、非我とい
う具合に。「非常」というと、我々は「無常」とは違った解釈をしますよね。前回のレス
で解釈に力をいれてみるというご指摘で、様々な事柄から「『非常』に有り難い事」を探
しまわっております。(笑
そう思って見回すと、非常に有り難いことが見つかりますよ。これも自分のためですから
ね。誰か偉い人に「感謝が足りない」等といわれてしまって、無理矢理感謝するのとは訳
が違ってきますね。無理矢理は無理矢理でも動機が虚栄から内実に逆転してる。(笑
なんのかんの言っても、結局ここも「○年の主張」スレだったか・・・・・
>>208 元気です(笑
笑顔の練習。自分のきっかけをお話しします。
サラリーマンをやめて独立開業したのがずいぶん前の某年7月。ところが
顧客は見つからず固定費がどんどん出ていって貯金がとろけるように
目減りして。。。その年の11月にはあせりまくりでした。
そのとき、ふと目に入った鏡の向こうの自分の顔。
あーこれじゃあ、見込み客も逃げるよなぁっていう貧乏神顔でした。
それから笑顔を意識するようになったんです。
手近に鏡を置いて置いて、なにかで自然と笑顔になったとき、たとえば面白い
てれびを見たときとか、そういうときに自然に笑顔になってる。その瞬間に
鏡に映して、そのままの状態で、どの筋肉をどの程度使ってるのか、分析したりも
しました。作り笑いとは、微妙に違うんです。
で、笑顔の研究を業務の必要上やってたんですが、面白いことが起きました。
不安と焦燥感丸出しだった心が少し癒されてたんです。なるほどなあと、思いました。
その後、だんだんゆっくりと手抜きになっていき、いつしかやらなくなってしまいましたが
なるほど、というのは残っています。
ある意味、必死だったから見つけた方方法とも言えるし、偶然だったとも言えます。
もっといい方法があるのかもしれないですが、、まあ、自分はこうやって乗り切った、という
あくまでもご参考としてご理解いただければと思います。
212 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/11/30 14:38
>>207 >まさに死のイメージが浮かんできたからなんですが、
人間、生まれる前は死んでいたよ−なもんですからね、それが本来の面目ちゅうもんでしょうか。
確かに仏陀の表情はあまりありませんね。
あれは「無の美」ちゅうんでしょうか、見る人の心象でいろいろ印象が変わるかと思います。
私なんかは美術品として見ますよね。
重厚さとゆうのは、やはり無表情が一番引き立つかと思います。
見る人の「思い」が投影されるんかと思いますよ。
>>210 お元気でなにより。レスを拝見して頷けるものがありましたよ。私も、ここの処
親友を亡くして心痛を隠せない毎日です。やっぱり長年付合った友が、いとも
あっけなく行ってしまったのは、思いの他心傷のようですから。。。
年若い人の唐突な死というのは、やはりショックも大きいもんです。真理云々の
話じゃなく、いやそれを含めても、当にこれこそ人間苦だと思います。
まあ、それはともかく笑顔の訓練は非常に実践的であり、効果的な修行?だと私
は、111のレスを見てすぐ思いましたよ。一日二十四時間という訳にはいきま
せんが、凹みそうな時。また、イライラな時は必ず逆に笑顔をと心掛けています。
誰かのためじゃなく、自分のための笑顔だから、作り笑いではないんですね(^^
顔がほころんでくると、半自動的にその時の心情などが浮かび上がってくるよう
でもありますよね。天に向かって善い笑顔を上げてみようとすると、何か最高の
笑顔が心の中に浮かんくるような気がします。別に、ケチる訳ではありませんが
これは秘密の内に行われなければなりません。(笑
で、私は自分の心が映せる最高のものを呼び出そう、引っ張り出そうとします。(笑
で、「ああ、これはある意味、念仏に近いのではないか?」と思ったりします。念仏
とは、南無阿弥陀仏であると言われると「そうですか…」と答えてしまいますが
自力と他力は、お互いに呼び合う相互作用じゃないかと思ったりします。ここにも
やはり中道の教えを活かせるところなんだとおもう。片方だけじゃ成り立たない。私
は自力だけでは、決して生きて行く事もできないし、他力だけでは自分が修行する
意味というものが失われてしまうと思います。
「ああ、こういうことなのかも知れないなあ」と妙に納得してしまうものがある
んですよ。それと少々古いのですが、昔の歌謡曲にあった「悲しみよこんにちは」
という歌を思い出して、引っ張り出して聞きながら「う〜ん…」等と唸っており
ました。(w
その中の一フレーズで「不意に悲しみはやってくるけど、仲良くなってみせるわ」
というがありましてね、この「悲しみと仲良くしよう」という心意気に「う〜む」
と唸ってしまったんですね。古くてスマンけどね…。(汗
>>212 >あれは「無の美」ちゅうんでしょうか、見る人の心像で色々印象は変わると思います。
私は、ああいうものから「無の美」というものを感受する感覚は疎いようです。(w
子供の頃、両親が仏像か観音像か忘れましたが、頭を下げている姿を見て怖く思ってい
たんですね。「何であんなもんに頭下げなあかんのかなあ」というような感覚でしたか。
どういうわけか、それが怖かったんですよ。
何故に仏像を作ろうとしたのか、その動機は窺い知れませんが、私は仏教の教えでは仏
像などは作ってはいけない。と言う方の意見の方に傾くなあ。
宗教的な美術、芸術の世界では、やっぱり私はキリスト教の方が好きです。聖母マリア
像は誰が見ても慈愛を見る事ができると思う。磔のキリスト像は好きじゃない。天使の
像等も好きですね。ミケランジェロの天井画などは見てみたいと思うなあ。
仏教的な無や空は、私は自然の環境から覗い知ったり洞察するのが善いと思います。人間
の能動性や主体性を主張する私が言うのもなんですが。ただ、私は仏教美術の仏像とかの
人物像などは好きになれんのですが、寺院の庭園には素晴らしいものを感じています。ま
あ、これはあらゆる宗教に共通しているんだと思うんですが…。
あれは素晴らしいと思う。掛け値なしに素晴らしい。これにはキリスト教のマリア像も適
いませんね。自然の智慧と、人間の叡智が醸し出す絶妙な調和…。「庭園」「ガーデン」。
私は、これが堪らなく好きなんですね。人間社会も何れはあのようになって欲しいものだ
と思うものです。まあ、実際には難しい夢物語かも知れませんがね。
>>213 笑顔で参考になるのが、意外にも仏像でした。
半眼というか、ようするに二重まぶたの部分を強調するような
薄目の開き方とでもいったらいいのかな。
仏像の顔を見て、その目の感じをまねてみて、鏡で映してみて、なるほどと。
軟らかい表情になるんですね。で、相手を受け入れる心の準備がありますよと
いう顔になる。昔の人はやはりすごいと思った次第です。
「笑顔」というと、みんな口に力を入れるけれど、ポイントは、目なんです。
追記
日頃から相手の幸せの実現に心を砕き、相手に対する感謝の気持ちを持ち続けると
自然といい笑顔になるもんです。
相手の顔色をうかがったり、相手を商売の道具にしようと思うと、下卑た顔になり
いい笑顔にはならないです。
・・・言うは易く(継続的に)行うは難し、というのも現実です。
>>125,126
>笑顔で参考になるのが、以外にも仏像でした。
やはり、人の好むところは様々ということなんでしょうね。あと、幼少時の何気ない
体験と言うのも、結構影響が残るものだと思います。これが原体験になっているんで
すね。子供の頃の私には、仏像の醸し出す「妙」など窺い知る術はなかったから。
それが心の中のどこかにこびり付いているんでしょう…。
やはり、私にとっては「天使の笑顔」が最も輝いて見えます。で、確かに「眼」が
ものを言いますよね。作り笑いでも、眼で歓びを表していれば、役者としても相当な
ものなのでしょう。そういう人は、内面の「念」の世界まで介入していると思う。
私の個人的な感覚としては、自分の心が映しているものが眼に映っているんだと思い
ます。で、眼にうつったものが空(そら)に映るような気がします…。で、空はそれ
を包み込んで(時に優しく、時に厳しく感じる)平然としている。だから、空はとて
つもなくでかいし、凄いなあと思います。仏教用語の「空」じゃなくて、大空のそら
(空)ですけどね。
悲しみに対しては、私は空(そら)を見上げるのが一番好きなんです。何物か対象物
があると、どうしてもそれに引っ掛りやすくなってしまうんですよ。まあ「そら」も
対象にはなりますけど。晴上がって澄んだ空気の朝などは、やはり誘われるものがある。
逆に、冬のどんよりした灰色の景色や空にはげんなりするものを感じますからね。
世の為、人の為という大義名分は、キリスト教時代に疑念を抱き、今の私にとっては
それは「自分の為」なんですね。極小さな我から無限大我に至るまでの我が含まれて
いるんだと思うんです。そういう私にとっては、まず「自分のためにやっているんだ」
という認識がとても大切なんですね。仏教的な解釈だと、私は自力小乗仏教の時代かも。
無我というのが分からんので「無限大我」など変な言葉を拵えましたが、悪までも私の
個人的な感性から出ているだけなので、あまり拘らないでくださいませ。(笑
※私の母がクリスチャンで、その影響から中学生まで、私もキリスト教会に通っていたんです。
髑髏仮面さんにしつも〜ん。
無我というので、引っかかったのですが、以前私が「神」についてレスした
時、神に支配されるのは「嫌だ」とレスしておられたと思うんですが、無我
でしたら、支配されても「別にいいよ」となるのではないでしょうか?
少し、意地悪な質問かもしれないので、このレスは無視されても結構で〜す。
219 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/02 06:08
>>218 支配するのであれば、それが「ありよう」ですから「そのように」なんかと思います。
世界が「そのよう」であれば「そのように」。
これが「気づき」なんかと思います。
真理がある訳ではない。
真理がない訳ではない。
これが空かとおもいます。
220 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/02 06:15
二項対立せにゃならんもんは・・
「悟る」⇔「悟らない」。これだけかと思ふ。
>>219,220
あれ、答えてくれましたね。ありがとう。でも、返ってくるとしたらおそらく219の
ようなレスが返ってくるだろうとは思っていました。多分、その「云わんとしている」
ところの意味は分かっていないだろうと思いますが。
>二項対立せにゃならんものは…
多分、私は「悟らない」と思う。髑髏仮面さんもお気付きでしょうが、私はまだ今のと
ころ、悟りが欲しくない。(w
だって、悟ってしまったら「もう生まれてこない」とも云われている。私の教えてもら
った仏教では、悟ったら宇宙から完全消滅するとも云われてる。まあ、私にはそれを確
かめる術はないが、私は完全消滅などまだしたくないんですね。(w
現在私の称名の身体では、人生の可能性の全てを味わい尽くすことはできない。だから、
私???はまだまだ、生まれ変わる事を願うんですね。愚かと言われようが何と言われ
ようがそれは今のところ如何し様とも思わない。私は無とか空の境地に定住したくは無
いようだし「喜」の世界を捨て去って、もういいと思い切るとも思えない。(w
それに、生老病死が苦しいからと言って、そこから離脱する事を只管願うというのも何
となく現実逃避のような思いも私には否み切れなくありますね。
私の中には、ネガティブな劣等感とか、嫌悪などもかなり積り積もっていると思うんで
当分の間は、修行を積んでも人間界を廻り続けるんじゃないかなあ…。だから精々徳を
積んで悪道に堕落しないように自分を戒めたり、善い事を進んで行えるように精進する
のが目標ですね。平和な環境、安らぎのある生活、自由な意思。この三つの要素で納得
がいくまでは人間の身体で転生したいなと思ふ。この辺が私の限界だろうかと思ふ。(w
だから、これらを捨てて悟りたいという気持ちが湧いてこないのではないかと思ふ。(w
そう言えば髑髏仮面さんも、殺生は罪であると思うのですか?で、罪には罰が
付いてまわるものだと思うのですか?
よく「武士道とは、死ぬ事と見つけたり」等というカキコを見ますが、武士と
は、つまり命のやりとりをする戦闘者であろうかと思う。その、他の命を頂戴
して成り立つ戦闘者の世界では、殺すものは自らの死に場所を求めるもの…。
しかし、戦闘者でなくとも、我々人間は他の生き物の命を頂戴しなければ生き
ることができない。人間は殺めてはならんが、他の生物なら構わんというのも
人間が一方的に取り決めた法律でしかない…。
もし、自然が殺生を「罪」とするなら、その罰として食物連鎖の頂点にいる人間
は、死別と言う苦悩をどこまでも自覚するというのも頷けるような気もする…。
しかし、仏教経典の中には「迦葉仏のげ」として「自分が、思ったり想像した
りしなければ、諸々の概念は生じてこない」という教えもあります。これにも
頷るものがあるのですが…。
ここで私は理解に苦しむ。つまり「生き物を殺めた」という罪の自覚には苦悩
が伴う。しかし「生き物を殺めた」という事に歓びを見出す心もあるのも否め
ない。確かにこれらは「その人の想い」に依って分かれるものだと私も思う。
だが、法句経には「その報い、よもや我には降掛かるまいと愚者は考えるが、
因縁が満ちればその報いは必ずその者に降掛かる」という教えもみられる。
で、例えば間違った事をしても「私は正しい事をした」という思いであればそ
れは「正しい事」と言えるのだろうか?と言う事なんですよ。
私も髑髏さんにお尋ねします。
>二項対立せにゃならんもんは・・
>「悟る」⇔「悟らない」。これだけかと思ふ。
ここのところを今一度、解りやすくお願いします。
224 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/04 05:52
>>223 システムが根本的に違う。
倫理的整合性をルールとするシステム。→常識的凡夫システム。
これに対して・・・
このシステムから逸脱したのが「悟る」システム。
一端逸脱したもんから、新たに二項対立を創造するもん。→悟り。
根本的に「違う」んだから、これは二項対立せにゃなるまいのぉ。
>>224 ホントに、根本的に違いますか???だとしたら、凡夫の仏性は決定的に虚しくなる
と思うな。今日の朝刊でも、自殺未遂男を巡査が我を忘れて抱きとめてしまったとい
う記事があったけどなあ…。
多分「脳内のシステム」が違うだけだろうと私は思います。つまり「色」に囚われて
いるという意味でも。精神の活動速度はとても速いので、一瞬でそれを飛躍してしま
うことがあると思う。まあ、通常は「あっという間」に基にもどりるんでしょう。
それに気が付けないという状態が凡夫なんじゃないかと思います。
226 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/04 08:28
>>225 >精神の活動速度はとても速いので
そうですね。
以前わたしは「スローモーション的」と表現しましたが、正に映画フィルムの如し、
一瞬、一瞬がフィルムの一こま。
これを言い表すに、「生じ滅する」とゆう言いかたをするんでしょう。
この説明が適当なもんとは言えないまでも、言いかたとすればそんなもんかと思います。
結論から言えば、生命は連続性でない。とゆうことなでしょう。
これだけを取り上げても、倫理的整合性は成り立たない。
227 :
142 ◆G/W22wo.56 :02/12/04 11:14
ああ、なるほど「悟る」⇔「悟らない」を固定したものとして読んだから、しっくりこなかったんですね。
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
228 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/04 15:56
>>222 >で、例えば間違った事をしても「私は正しい事をした」という思いであればそ
>れは「正しい事」と言えるのだろうか?と言う事なんですよ。
自分にとって「正しい」ちゅうのは普遍的「正しい」ではないですよね。
普遍的「正しい」とゆうのも、これも立場より「正しくない」こともある。
阪神大震災の時、ボランティアで食料を分配したのは、被災者にとっては「正しい」。
復興を願う、地域の商店街にとっては「正しくない」かもしれない。
商店街にとっては、いち早く経済活動するのが「正しい」なんでしょうから、
ボランティアは、商店主にとっては迷惑なもんだったかもしれない。
自分にとって「正しい」は、必ずしも善を意味すもんでもない。
かつて三島由紀夫が陽明学に傾倒して、三島にとっての「至上善」が必ずしも万民に通じるもんでもない。
このように、これはあくまでも「三島にとっての至上善」。これに尽きる。
>>226,228
>結論から言えば、生命は連続性ではない。ということなのでしょう。
これが、私には分からんのですよ。私も、素早い動きがスローモーションのように見え
た事はありますが、フィルムのように一こま、一こまをゆっくり観察できるほどには至
っていません。ただ「おや、変だな…」と思う程度ですね。
222の質問の要約なんですが、グダグダと長文になってしまったので意図を絞り切れ
なかったようです。
簡単に言うとこういうことです。菩提樹の下で正覚を得た釈尊が、どうしてそれを自ら
「これは正覚である」という見解に至ったのか?世の中には自ら悟っていないのに自ら
「悟った」と自認したり、誰かから「あの方は悟って居られる」と他認されている人が
多いのは実に不思議な事だと私には思われるのですね。
自他称「悟った人」にとって、それは「その人の至上善」これは分かります。でも、釈尊
の「正覚」は普遍的な善だと私は思うんですよ。で、その差は何なのか?と言う事です。
私にもその「差」がよくわからないから質問しているわけです。分かりたくない自分も居
るようですが、その辺はアンビバレントな感覚があるようです…。実のところ私にはこ
こまでくると正しい答えを導き出せません。
そう言えば「十牛図」ですね、一冊本を買いましたよ。図書館で借りると、数冊纏めて
飛ばし読みしちゃうので、買いました。大分、吟味して「十牛図を歩む」という新刊本
を選択しました。買ったばかりで、まだほとんど読んでいないのですがなるほど、どう
いうものなのかは分かりましたよ。古い禅宗のテクストだったんですね。
「解説」の方はまだ読んでいませんが、私の経験は第七図までだろうと思う。レース中
でも八図までは行っていないと思う。私の場合、十牛図から、十車図に置きかえればす
ぐに洞察ができましたから。(w
で、私が好きなのは、四図から六図のプロセスですね。自分(クルマを含めた廻りの環境
全て)との闘い。そして経験として自分の中で昇華させていく過程。
小さくても克己を続けていくと、人生の新しい側面がまだまだ見えて来たりするもんで
すから、まだまだ悟りに入りたいと思えないのかも知れませんね。(w
230 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/04 21:02
>>229 >釈尊の「正覚」は普遍的な善だと私は思うんですよ。
私の考えだと、善も悪もなかったんだ、そうゆう概念の記憶が引っ張る(連続性)だけなんだ。
ないはずの記憶が残っている。残存しているだけなんだ。
瞬間、瞬間に命が「ある」。これを禅でいう「今ここ」なんかとおもいます。
道元なんかも、この命の連続性は否定してますね。
この思考法に人間は慣れちゃてる訳ですから、このところをッハっと気づいたのが頓悟か思う。
だから「気づく」のは難しいですよね。
つまり思考システムそのものに問題があるんですから。
そのシステムではシステム自体を変えるんは難しい。こうゆう事なんでしょう。
>>230 >つまり思考システムそのものに問題があるんですから。
これは、禿銅でござりまする。この思考システムには大難がある。工業生産の有効効率
を見ても、労力の割りに無駄も多い。通常の日常生活から見ても、この思考システムが
感情と結び付いてしまう事が、概ねの問題がを作り上げているのは明白だと私も思うし、
問題なのは感情の方ではなく、思考システムの方だろうと考えます。思考というのは考
えれば考えるほど枠が狭くなってきますよね。焦点が絞れるというメリットもあります
が、でも、その狭くなった思考回路と感情の絡まりは、ある意味非常に危ない事がある
と思います。小さくは喧嘩、大きくは戦争まで、ここで起こっているんだと思うので。
そこで…
>そのシステムではシステム自体を変えるんは難しい。
私は、まずこの禍に気が付くことが先決だと思います。それは危険なものなんだと言う
事を、骨身に知らせるくらいのインパクトが必要かもしれませんが…。
これが「危ないものである」と解ってくると、葛藤や、迷いも避けられませんが、徐々
に、徐々にですが変化は訪れるだろうと思います。誰でもない、私がそうですから。
でも、この延長線上に「無我」があるかは分からない。私は、多分ないだろうと思いま
すが…。それに、人生で無我を理解するのが必要不可欠だとも思わないのですね。
何のために無我を理解するのかの、その辺の動機もイマイチ理解できないんですよ。
人生には、悲苦がある。その問題を解決するのに、宮沢賢治の言葉を借りると「自分を
感情に入れずに良く見聞きし覚えて忘れず…」で十分だと思うんですね。
人間というのは、「これが最高のものだ」と云われると、それを理解したくなってしま
うものだと思う。仏教用語の「無我」や「空」等も例外ではないと思います。
>道元なんかも、この命の連続性は否定してますね。
道元禅師は「正法眼蔵」でしたよね。その中に…
「無常が至る時には、国王、大臣と言えどたくするものなし。ただ一人黄泉に赴くのみ
なり。己に従いゆくは、ただ是、善悪業等のみなり…」
と言う一文があると思うのですが、ここで黄泉に赴くのは「誰」でもないが、己ではな
いのでしょうか?善悪の業を従えるのは「誰」でもないが、己ではないのでしょうか?
先程の続きですが、無我を考察するにあたって、それを理解する必要性に納得で
きるものが私にはないが、一つだけ引っ掛るものがある事は確かですね。
それは「質問箱から派生した…」スレでセナの事を書きましたよね。それを引用
すると「98%でも、99%でもない。100%全てオートマチックに動くんだ…」
と言うのがありましたよね。確かに、自分の体が自動的に動くというのはレース
中に経験がある。まあ、100%には遠く及びませんがね。ここで、98%でも、99%で
もない。100%全てオートマチックに動くとしたら、それを動かしているのは「誰」
なのか???と言う事は言えてきますよね。セナは人生の中で十牛図でいうところ
の、第八図以上まで到達していたのだろうと思う。そこへいけば自然と人もクルマ
も消えてしまう…。
私の経験でも、先にクルマが消えてしまう。消えると言っても物理的に消えるわけ
じゃありませんが、人車一体になってクルマが自分の一部になっているという意味
でですね。で、運転者も100%オートマチックに動いているとしたら、運転者も消え
えているとも言えてくるのですよね…。
ただ、ここ迄来ると「誰なのか?」と言うことをあまり厳しく追及するのもナンセ
ンスになってくるかも知れませんね…。
もうここまで来れば「誰なのか?」とか「何なのか?」はあまり意味が無くなる
と思われてもくる。ここまで来て「ありのまま」というものがどんなものなのか、
始めて本当のありのままに理解できる処に入ったと言えるのかも知ないですね。
まあ、先は長いということで…。(w
233 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/05 21:25
>>231 >善悪の業を従えるのは「誰」でもないが、己ではないのでしょうか?
道元の「心身脱落」は、文字通り絡みつく肉が削げ落ちた・・・
いわゆる、比較・対立から脱した仏の智恵・第三の智恵そのものを意味するんかと思います。
十牛でしたら八図のとこですよね。
この八図で大きな転換を迎えるんかと思います。
一番大事なとこですし、またここより出発点にならねば、全てが水泡に帰すとこかと思います。
心身脱落、脱落心身。いわゆる心身一如。
心身ともども削げ落ちて、己か?己にあらざるか?この分別なし。
比較・対立から脱した円相の位相、即心即仏の無我、無差別相の空。かと思ふ。
>>233 >十牛図でしたら、八図のところですよね。
う〜ん、そう言われても、私には第八図以上のことは、良く分からないんですよ。私は
大体、五図のあたりをうろうろしているんじゃないかと思う。つまり、何をどうすれば
どうなるのかというところが解って来ているところ。だから、まだまだ克服せねばなら
ん自我も出てきますし、克己の清々しさも湧いて来る。まあ「自分が機軸を据えている
ところで、やることをやってから次に行きましょう」とでもいうところでしょうか…。
人は誰でも自分の居場所に引き戻される。それは如何云う事かというと、遣り残しの未
練、本当の処がまだできていないからに他ならないと思います。善悪の業は確りと自分
に付き従ってくるからです。そこで遣ることを遣れば誰に急かされずとも自然に赴く様
になっているんだと思う。そういう仕組みなんじゃないかな。
もし、アイルトンセナその人の「あの言葉」を聞いていなかったら、私は無我というも
のを、洞察する余地がなかったかも知れません。自分も半自動くらいまでは経験してい
るので、その感覚から彼の言葉を洞察する足掛りもかろうじてあります。
しかし、98%でも、99%でもなく、100%全てオートマチックに動くとは、私にとってはそ
れだけでもう、驚異の世界ですよ。そういう時の彼を評して、よく「神懸り」なんて云
われていたものです。天候とシンクロさせるような何かを覗えるようでは、常人にはそ
う言う以外にはありませんからね。
>全てが水泡に帰すとこかと思います。
では「第八図」が解らない衆生の活動は、全てが水泡に帰すと思うのですか?
おそらく、禅宗ではそういう風に云われるかも知れませんね。
私の教わっている仏教でも、衆生のやる事は滅茶苦茶で殆ど意味はない。と云われたり
もします。でも私はそれに同意していません。私はね、ホトケになる前に、人間として
当たり前の人間になりたいんですよ。当たり前の人とは、人を人と確りと思う事ですね。
そう言えば、十牛図というのも、作者によって食い違っているものもある様
ですね。詳しく見た訳ではありませんが、第八図と、第十図が入れ替わりに
なっている様なものがありました。
236 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/06 19:25
>>234 >私はね、ホトケになる前に、人間として
>当たり前の人間になりたいんですよ。当たり前の人とは、人を人と確りと思う事ですね。
ホトケとは、当たり前の人間をホトケとゆうんかと思いますよ。
これを・・・・
即心即仏→非心非仏。
本来の人間そのものをホトケ。→法華経。
戻って帰ってくる。それが本来の人間なんでしょう。
つまりそれが「気づき」なんかと思います。
237 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/06 19:32
>>235 そうですか。
私は、八図のとこが一番のクライマックスなとこかと思ってます。
山登りでも、降りるのが大儀なように九図・十図は結構至難かと思う。
>>236 >ホトケとは、当たり前の人間をホトケというんかと思いますよ。
ハッハッハッ、そういう見方もありますね。というか…
本々を辿れば真理を悟った「人」=「仏陀」ですからね。ただ、それにしても大変な道の
りに変わりはありませんよね。どちらにしても私の歩む道は長いということです。
この問題には「人間ってなあに?」ということが当然含まれてきますから、ここは実践と
なると厳しいものが出てきます。「人間らしくありたい」と願いはあっても決断が出来ず
に流されてしまったり、そこに人が居る事に、全く気が付かない事も多いですね…。
例えば、横断歩道を通過する時に、人が居ても人と思わない時がある。私はこれは不思議
だな〜と思うんですね。自分の好きなものなどは、高速で通過していてもちゃんと分かる
のに対して…。だから、客観的に考えて「人だ」という情報が入っている事は間違いない
と思う。
多分「気が付いていない」ということでしょう。そしてその私の「分からない処」で本能
的な分別が生じ、それに感情などが盲目的についていってしまっているんだと思う。
好き嫌いの分別も、気が付く間もなく行われて、本当に気が付いていない時が多い…。
これは、無明の状態とでもいえそうですね。
ただ、運転一つを取っても、全てに気が付いているというのは、人間には不可能な事だと
思います。全てを遣り遂げようとする人生では、十牛図の第一図も完成はしないでしょう。
そんな事をしようとしたら、逆に何もできなくなってしまうのが人間の厄介なところか。
重要な事は、現在の自分が、何をどの様に見ているか?そしてそれに気が付いていようと
いう気だと思う。で、これを二十四時間となると私には厳しすぎるので、せめて一人で運
転している間くらいは…と心掛けいるのですがそれでも難しいものがあるんですね…。
240 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 20:21
>>239 人間は、言語を使うことにより極自然に「美しい」とか「汚い」とかの分別が生じるんかと思う。
これが一般常識的思考システム。
疑う余地もない程の事でも、ドンドン「疑」を向けて逝ったのが十牛図なんかと思う。
だからこの十牛には壮絶な人間のドラマがあるんかと思いますよ。
推理小説でいうならば、一転逆転が隠されているかと思います。
これをどー読むか。ここが最大のポイントかと思う。
がんじがらめの思考システムを、がんじがらめの思考システムで変える。これが至難なんかと思う。
>>238 いつもありがとう。親切な横やりさん。私は、最近まで十牛図がどんなものなの
かさえ知らなかったんですよ…。(藁
以前、禅関係のスレで髑髏さん達が引き合いに出していたのですが、私には何の
ことだか、さっぱりだったんですよ…。(汗
すぐに調べりゃ〜いいのに、遅まきながら本を一冊買ってきました。でも、買わ
なくてもよかったみたいですね。(笑
>>240 ちょっとまって!!
言語を使わないでも生じてくる相対的な分別はどうなりますか?
言葉から生じる「美」と「醜」の概念は、動物的本能の「快」と「苦」又は
「好」と「嫌」を土台にしていると思う。私はこれはわりのままの世界だと
思うので、否定すべきものではないと思う。
で、その上に盲目的にに乗っかってくるものが人間的問題を起こすんだと思う。
それにしても、壮絶な人間のドラマですか…。問題がなければドラマも生じない。
ドラマ性のない人生など、クリープを入れないコーヒーと同じで味気ない。しか
し映画やTVと違って我々は痛み苦しみを我が身で引き受けなきゃならん厳しさ
がある。
>雁字搦めの思考システムを、雁字搦めの思考システムで変える。
確かに至難ですね。もう、泣きたくなる時もあるくらい。しかし、泣けど喚けど道
は黙してただ示すのみ…。だが、何も示されないよりはマシですね。(^^
でも、髑髏さんは個人的に第七図から、第八図に向かった動機とは何だったのです
か?私が察するに、第七図で人間的な欲望は滅する。もう、満足しきっちゃう。
矢吹丈の言葉を借りると、「燃えたよ…。燃え尽きた…。真っ白だ…」かな…。
これが第七図の終焉でしょうか。だが、それなら人間やってる意味がないと思う。
だからあそこで作者は、矢吹丈を眠らる以外なかったんじゃないかな…。
あの・・・・・・
はっきり言って第七図だ、第八図だ、と気楽に言っているところが笑っちゃうわけで。
普通、提唱に於いても各老師方は十牛図に関してはさらっと流すわけで。
それは「こんなもん一方便に過ぎねえのに、読んだだけでなんだかすっかり分かったような気になっちまう」
奴等が多いからなわけで。
「牛過窓櫺」という公案があるわけで。
「たとえば水牛が格子窓を通過するようなものである。頭・角・四本足が全部通過しているのに、
どうして尻尾だけが通過できないのか」と問いかけているわけで。
十牛図を会得しているならば、こんな公案なんぞお茶の子さいさいなわけで。
「牛過窓櫺、牛過窓櫺っと」なんて一々ネットで検索すること無く、
このレス読んだ瞬間に自分なりの見解を出してみなさいな、自称「お茶の子さいさい」髑髏仮面さん。
(見解をここに書く必要はないわけで。)
244 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 22:34
>>242 美醜とゆう概念があるなら、花にも石にもその認識において生じるのみ。
花や石の本質はなんら変わらない。
>それなら人間やってる意味がないと思う。
ある意味、既成の思考システムが破壊されたとき初めて気づくもんがあるかと思う。
いつも前を向いて歩いていて、瞬間うしろを振り向くようなもん。
人間は、ある方向性(整合性)に順応していけばそれが既存の固定観念として構築される。
これに疑を向けるとゆう事なでしょう。
気づきとは、新しいベクトルの構築なんかと思ふ。
>>243 悟りってなんですか?
悟るとどうなるんですか?
246 :
名無しさん@1周年:02/12/07 22:46
>>244 >気づきとは、新しいベクトルの構築なんかと思ふ。
では、また最初にもどって普通の人が普通やってることと、何処がどのようにちがうんでしょうか?
何も変わってないどころか、余計な事をしているだけのような気がします。
スッタニパータ 第4章から。
「どのように見、どのような戒律を保つ人が、『平安である』といわれるのか?
ゴータマよ。お尋ねしますが、その最上の人のことを私に説いてください。」
師は答えた。
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思い巡らすことが無いならば、かれは未来に関しても特に思い煩うことが無い。
かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、後悔をなさず、神呪を語り、そわそわすることなく、ことばを慎む。未来を願い求めることなく、過去を追憶して憂えることも無い。
感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の
見解に誘われることが無い。貪欲などから遠ざかり、偽ることなく、
貪り求めることなく、物惜しみせず、傲慢にならず、嫌われず、陰口を
事としない。快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌
さわやかに、信ずることなく、欲を去ることも無い。利益を欲して学ぶ
のではない。利益が無かったとしても怒ることが無い。妄執の為に他人
に逆らうことが無く、美味に耽溺することも無い。平静であって、常に
正しい想いあり、世間において他人と自分を等しいとは思わない。また
自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。
かれには煩悩の燃え盛ることが無い。
わだかまることのない人は、理法を知ってこだわることが無いので
ある。彼には、生存のための妄執も、または生存の断滅の為の妄執も
存在しない。
諸々の欲望を顧慮することのない人、かれこそ『平安なる者』である
、と私は説く。
かれには縛めの結び目は存在しない。彼は既に執着を渡り終えた。彼に
は、子も、家畜も、田畑も、宅地も存在しない。既に得たものも、未だ
得られなかったものも、彼のうちには認められない。
諸々の凡夫、または道の人、バラモンどもが彼を非難して、貪りの咎が
あると言うであろうが、彼はその貪りなどを特に顧慮することは無い。
それ故にかれは諸々の論議を受けても動揺することが無い。
聖者は貪りを離れ、物惜しみすることなく、『自分は勝れたものである』と
も、『自分は等しいものである』とも、『自分は劣ったものである』とも
論ずることが無い。
かれは分別を受けることの無いものであって、妄想分別におもむかない。
かれは世間において所有が無い。また無所有を憂えることも無い。
かれは諸々の事物に赴くことも無い。
彼は実に『平安なる者』と呼ばれる。
251 :
名無しさん@1周年:02/12/07 23:10
>>245 > 悟りってなんですか?
「阿呆」
> 悟るとどうなるんですか?
「あ〜、しんどいけど仕事しよ」と思う。
253 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 23:15
>>246 >何も変わってないどころか、余計な事をしているだけのような気がします。
この反対かと思うよ。
私は、般若心経スレである程度議論が進んだけど、あれ以上の進展がないなら議論はあまり意味がない。
だから、こればっかしは自灯明、法灯明しかないかと思ふ。
その範疇で議論するのが正解かと思ふ。
>>251 別にいいじゃん、そんなことどうでも。それが
>>1の決めたルールならともかく。
255 :
名無しさん@1周年:02/12/07 23:34
>>253 ついでだから、↓にも自灯明、法灯明で答えていただきたい。
>では、また最初にもどって普通の人が普通やってることと(日常的な心意識の作用)、何処がどのようにちがうんでしょうか?
256 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 23:44
>>255 先ずは「命」の認識が変化しますね。
価値観の変化とでも言うのでしょうか。
基本的にはこれ
がベースかとおもいます。
それから派生する諸々なもんはおしてしかるべし。
257 :
名無しさん@1周年 :02/12/07 23:44
日常的な心意識の作用?
258 :
名無しさん@1周年:02/12/07 23:57
>>256 たんなる命の認識や価値観の変化ならば経験や学習でいかようにも変化しそうですね。
特異性は感じませんが?
氏の言われる新しいベクトルってどっちをむいてるのでしょうか?
生返事ならご勘弁です。
259 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 23:58
>>257 これは般若心経スレでも言うたが・・・・
特別に思えるもでも執着しない。
ここのところが噛み合わなかったがな。
飛び超さんと、ど−にもなりません。
260 :
名無しさん@1周年:02/12/07 23:58
>1
少なくとも2ちゃんねるへのアクセスをやめることですね。
261 :
名無しさん@1周年:02/12/08 00:20
>飛び超さんと、ど−にもなりません。
↑これは生返事ですか?w
飛び越すにしてもどっちゃ向いて飛び越すか正しいベクトルが必要でしょう。
自家薬籠中のものならば、出来うる限りでケッコウですから答えていただきたい。
まことに心の平安を得たいのであるならば、
高橋佳子先生と是非出会っていただきたい。
高橋先生は、まさしくそれをもたらしてくれる方です。
高橋先生によってのみ、私たちは本当の私たちに出会えます。
扉を開く鍵は高橋先生が持っています。
高橋先生はあなたにそれを渡そうと待っておられます。
鍵を渡されたならば
「扉は自分で開け」
高橋佳子氏著作HP
「新しい力」「『私が変わります』宣言」
http://www.new-human-force.com/top.html
263 :
名無しさん@1周年:02/12/08 00:35
256 :髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/07 23:44
>>255 先ずは「命」の認識が変化しますね。
価値観の変化とでも言うのでしょうか。
基本的にはこれ
がベースかとおもいます。
それから派生する諸々なもんはおしてしかるべし。
↑これが自灯明・法灯明?(ワハハッ
「基本的にはこれがベースかとおもいます」だってさ。
あーっはっはっはっはっは!!
264 :
名無しさん@1周年:02/12/08 00:40
>>263 いや、そこまで言わなくても。。。。
良スレですから真摯に紳士的におながいします。m(_ _)m
265 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/08 00:43
>>263 高橋圭子先生が、お待ちかねらしいですよ。
あーっはっはっはっはっは!!
あーっはっはっはっはっは!!
266 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/08 00:48
まあ、ジョークですよ。
では、お休みなさい。
あーっはっはっはっはっは!!
あーっはっはっはっはっは!!
267 :
してやられたかw:02/12/08 00:54
おやすみなさい^^/
268 :
名無しさん@1周年:02/12/08 01:05
>>251 彼は阿呆であると同時に、自分が阿呆であることに気がついていない。
人は彼を幸せな人と呼ぶ。
まあ、要約すると、こんなところです。
269 :
名無しさん@1周年:02/12/08 01:18
/ \
/ / ̄⌒ ̄\
/ / ⌒ ⌒ |
| / (・) (・) |
/⌒ (6 つ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( | / ___ | < ほれっ髑髏仮面、しっかり腰をお振りなさいな!
− \ \_/ / ∫\_________
\____// ̄ ̄ ̄ ̄ \
/⌒ - - ⌒ /\ / " \|
/ /| | | | (゚) (゚) |
\ \|≡∨ ∨| (6------◯⌒つ| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\⊇ /干\| | _||||||||| | < 高橋先生っ・・・ひぃ〜!
| | \ / ι_/ / \_________
( /⌒v⌒\_ \____/
パンパン| 丶/⌒ - - \
/ \ | | / |
/ ノ\__| |__三_ノ| |
/ /パンパン| | | |
/__/ | | | |
⊆ | | ⊇
あーっはっはっはっはっ!
270 :
名無しさん@1周年:02/12/08 01:18
>268
宮沢賢治みたいですね。
こんなのもステキかも。
彼は阿呆であると同時に、自分が賢者であることに気がついていない。
人は彼を幸せな人と呼ぶ。
コピペごめんなさい。^^
>265>266
この辺りの切り返し方については、まったくもってアイタタタ・・・・
冴えない人だ。
こんなに「機」の無い人の話を聞いて(言葉だけってこと。所謂「学者バカ」タイプ)、
何か得られるもんがあるんかねぇ・・・・・
ほとんどカルトの世界だねぇ・・・・・
ブランコさん、あんた思いっきり騙されてるよ。
それとも騙されたがっているの?
大きなお世話焼でした。チャンチャン
272 :
名無しさん@1周年:02/12/08 21:25
>>268 菊池寛の「屋上の狂人」が確かそんなテーマ。
273 :
名無しさん@1周年:02/12/08 22:09
友人がパソコン教室の講師をしている。
シニアクラスのおじいちゃん、おばあちゃんが
イロイロやってくれるらしい。
この間もマウスの使い方を教えていたら
皆さん机の端から端まで使って動かしている。
その時だ。70歳ぐらいのおじいちゃんの動きが止まった。
とうとうマウスが机の端に追い詰められたらしい。
助け舟を出そうと近づいたその時
おじいちゃんはマウスを机の裏に瞬間移動した。
友人は笑いを堪えるのに必死で何も言えなかったそうだ。
274 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/09 19:43
>>273 マウスを手放せばイイんですけどね。
簡単なよーで難しい。
手放した気になっちゃても駄目で、まるっきし手放さんと。
手放すためは苦悶がないと。
それでよーやく手放せる。
あっ 「あの」髑髏だ
277 :
男にストーカーか?:02/12/09 20:07
>>271 >>273 >>275 寂しいからって、髑髏にかまってもらおうとするな。
ていうか、君らのネタにもう飽きた。
髑髏さんが好きなら、君らが髑髏仮面さん用の板を作れよ。
他の板で相手にされないからって、ここに来るな!
あの…
幾らでも笑ってください「馬鹿、アホ、奴は何もわかってない」等、何とでも思って
くださって結構です。それに…
騙されている?誰が誰に騙されているのですか?髑髏さんに?私が…。あの、このスレ
にレスを付けてくれるのはあり難いですが「ここに誰かが居る」というような思いから
は離れてからにして欲しいのですよ。だから…。騙すとか、騙されるじゃなくて、もし
何か間違いがあったとしたら「自分が勘違いしているだけだ」という「厳しい掟」をこ
のスレに定めておきます。以後、宜しく御願い致します。
物事を変にカテゴライズして正誤を問う、そういうスレにはしたくない。人生の問題
を広義に捉えていきたいんですね。その結果、善い事も結構あると思いますよ。
まあ、時には善くない事もあると思うが、大人ですからね、判断は自分でするという
ことで…。
誰かの過ちを追求するのは自由ですが、ならばその前に自分の過ちもカキコしてから
と言う「厳しい掟」も定めておきますので、重ねて、宜しく御願い致します。
279 :
(−人−):02/12/09 21:59
>ブランコさん
ズシリとくるレスでした。
貴方のお気持を尊重いたします。
今後とも宜しくお願い致します。
>>278 真剣にレスしなくて良いですよブランコさん。
中学生のイタズラ書きですから。
他のスレ(題名:僧侶の僧になって・・・)で髑髏仮面さんを馬鹿にしてる連中です。
最近、かまってもらえないので、寂しがってるんです。もう少し素直になれば遊んでやっても良いのですが、強情なんですよ(w。
まあ、文章読んでもおわかりかと思いますが、相手は困った子供達です。
>>280 訂正。スレの題名は、
「禅僧の僧となって生活したいのです」でした。
>>244 でも、概念以前に「美」「醜」という感覚はありますよね。概念というと人為的に
拵えたものですから、文化などの違いによってマチマチなものになるでしょうけど。
さらに深くにある感覚による分別は時代や文化を超えているものがありますよね。
以前に、中観派と唯識について取り上げましたが、この辺に「阿頼耶識」概念と言
うものも出てきそうですね。唯識学など、あまり勉強しておりませんが、私は阿頼
耶識で終ってしまうとは思えないですね…。現在の人間では阿頼耶識まででも行き
過ぎではないかと私見しますが…。
まあ、それはともあれ、私の解釈でいうと、髑髏さんの意見では、この阿頼耶識さ
えも離れてしまうという事になるんですよね。そういう事ですか?
でも、雁字搦めの思考システムを、それを使って離れる(私は破壊という言葉は使
いたくないので)のは、至難。これは、禿銅にしても…。
自分の感覚を信じられなくなったら、人間生きていけませんよ。私はそう思うな…。
>ある意味、既成の思考スステムが破壊された時、初めて気付くもんがあるかと思う。
これなんですけどね、私が思うに、既成の思考システムが破壊された時、人格も崩壊
するのではないかと…思うんですよ。破壊してしまったものは、二度と元には戻りま
せんらね。もう戻ってはこれなくなってしまうのではないかな…。
禅宗などでは、よく自我の粉砕などと言われますよね。禅病というのもあるくらいだ
し、この辺は私は慎重にいこうと思う。(w
レーシングドライバーは、慎重さと大胆さを使い分けます。これは自身の感覚に依る
ものなんですね。これなくして何も判断できません。そして、徐々に、徐々に成熟し
て行きます。私はまだ、この道を歩む。捨てる気は今のとこありません。(w
私の飛躍はまだまだ先でしょう。。。
あーそっか。 「赤影=髑髏」だったんだ。 これで全部納得。
「内心の平安」語る奴がジサクジエンしたり出鱈目言うなよナー。
煽る時はコテハン捨てるのも素敵すぎるナー。
>>280 時々現れては、疾風の様に去って行く。赤影さん。ありがと。了解です。
最近、他スレに行かないもので…。
>>282 「八識頼耶の暗窟」 これ、どういうことかわかる?オツムで考えてもわからないよ。
「人格崩壊マンセー」 ここ試験に出るよ。
>>284 どうもです。私も今は仕事に多忙で、たまにしかこの類のスレを見られないのです。
定年後には、こういった心の世界を探求したいと考えています。宗教に入信するつもりはありませんが...。
従って、ブランコさんや髑髏仮面さんには百歳まで生きて宗教板で頑張ってほしいというのが私の希望です。
>286>287
少し哀しい気持ちになってきた。そんなことまでわざわざせんでもいいのに。
289 :
(−人−):02/12/09 23:32
>>282 >概念以前に「美」「醜」という感覚はありますよね。
「美」も「醜」も人間にしか「理解」出来ませんよね。
それは何処までも概念でしかないのではないでしょうか?
快・不快ならわかりますが・・・・。
阿頼耶識は認識システムの深層の一部のことです。
それはそういう仕組みに出来てますよ、ということですから越えるも何も無いと思われます。
>レーシングドライバーは、慎重さと大胆さを使い分けます。これは自身の感覚に依る
>ものなんですね。これなくして何も判断できません。そして、徐々に、徐々に成熟し
>て行きます。
これ以外に最上の方法があるのでしょうか?
あるならわたしも知りたいですね。
290 :
ネタにマジレス:02/12/09 23:34
>>288 君は、283で >煽る時はコテハン捨てるのも素敵すぎるナー
と書いたので、287をコテハン無しの髑髏仮面で書いた。
髑髏仮面は、自作自演をしているとブランコに示す為に。
しかし、ブランコは無反応だった。
そこで、わかりやすく説明するために
>>288を書いた。
しかし、学生君、君の行動はわかりやす過ぎる。
291 :
名無しさん@1周年:02/12/09 23:57
292 :
名無しさん@1周年:02/12/10 00:11
ここは「内心の平安」のスレです。
以前にも書きましたが、誰がどれの自作自演かどうかということは
特にこのスレではあまり意味がありません。
誰がどれの自作自演かどうかなどという、匿名前提の場に置いてがちゃがちゃ
書き込むその行為自信が周囲の「内心の平安」を乱していることを自覚していただきたい。
もっとはっきりいえば、その手の輩は、迷惑です。
遊ぶならほかのスレに行ってください。
あなた方厨房にこのスレをじゃまする権利はないはずです。
ないはずです。
294 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 05:46
>>289 ほとんど同意です。
阿頼耶識は、それはそれまでのこと。
であるから、概念を膨らませても膨らませるだけのこと。
これを「般若心経スレ」で指摘したんですが、話に進展見られず。
よって私は退散した。
つまり「乗り越える」「飛び越す」は、これを全部包含せり。
>>273 >>274 放てば手に充てりの楽しい暗喩ですね(w
それはそれとして。
説示一物即不中という言葉がありますね。
「乗り越える」「飛び越す」
髑髏仮面さんなりの一超直入如来地を示していただきたいです。
296 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 09:29
>>295 山登りを計画しますね。
準備万端調えます。リュックサックに必要と思われるもんを詰めて、いよいよ出発です。
これがいわゆる登山における定石。通常だれでも考えること。
だから何とも思わない。誰でも考えることですから。
で、ここでリュックサックはチト重いな。と、考えるかもしれない。
じゃあ何で考えるかと言えば、一つの陥りやすいジレンマ。これを気づくか、気づかないか、この違い。
ここで大きく「ものごとの捉えかた」が変わるかと思ふ。
思いリュックを担ぐのは愚とゆう考えかたも一つの考えかた。
>>273>>274 は、これを象徴的に逝ったもんですね。
はたして
>>273>>274を何方が眼を止めるか?注視しておりますた。
貴殿が止めましたね。いやはや(笑
297 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 09:33
× 思いリュック
○ 重いリュック
298 :
(−人−):02/12/10 09:39
>>269 レスありがとうございます。^^
なるほど、よくわかりましたw
無駄な努力もやってみなけりゃワカラナイことがよくわかりました。w
ココも無駄ではありませんねww
299 :
名無しさん@1周年:02/12/10 10:36
りんごダイエット
これも・・・
りんごの芯をくり貫いて、それを使ってオナ●ーすれば、痩せるってことだろ?
こんにゃくを人肌に温めて丸めてオナ●ー。
りんごを人肌に温めて芯をくり貫いてオナ●ー。
300 :
名無しさん@1周年:02/12/10 13:00
>>299 ォィォィ・・このスレは「内心の平安」だヨ。「無い芯の平安」じゃないよ。
301 :
pypシリーズ:02/12/10 14:26
人間はなぜ結婚するのか。
結婚という制度があるからに他ならない。
好きな相手が現れる前から、すでに結婚しようと考えているのだ。
すなわち、結婚とは結果ではなく目的なのだ。
http://www.tyousa.com
302 :
名無しさん@1周年:02/12/10 14:37
303 :
名無しさん@1周年:02/12/10 14:57
>>301 独身者は内心の平安を求めて結婚する。
既婚者は内心の平安を求めて別居する。
304 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 17:15
>>282 >既成の思考システムが破壊された時、人格も崩壊
>するのではないかと…思うんですよ。破壊してしまったものは、二度と元には戻りま
つまり、
>>296レスのリュックを降ろすことも一つの選択肢とゆうことですね。
リュックとゆのは象徴的言いかたで・・・
つまりは、阿頼耶識概念とか、神秘体験とか、もろもろの余計な概念です。
これを捨てる。
まあ、こういっても簡単に捨てられるもんじゃないでしょう。
しかしながら、ドンドン「疑」を向けて逝ったら捨てざるをえないんじゃなでしょうか?
で、やっと捨てたとこでようやく見えてくるんかと思います。
つまり、リュックを捨てて、弁当がない、雨具がない、寝袋がない、なんにもない。
これでようやく見えてくると思いますよ。
これは私の自論ですがね。
305 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 17:31
で、言うときますが、ここから煽りが入って、その残党が私の「追っかけ」をしてるんです。
ここのとこが、いわば一番のクライマックスかと思ふ。
306 :
名無しさん@1周年:02/12/10 17:32
内心が平安になってしまったら何も起こらないだろ
307 :
(−人−):02/12/10 17:34
>>305 アチャコチャでチョッカイだすからですよ、因果応報ですねw
楽しんでるでしょ?w
308 :
名無しさん@1周年:02/12/10 18:18
>>304 何でわざわざ捨てる必要がある
根拠はなあに?
じつはリュックが真理だったという可能性も否定するの?
309 :
名無しさん@1周年:02/12/10 18:31
>>305 自意識過剰・・独善・・勘違い
追っかけではなく、追い出して隔離
310 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 19:01
>>308 良い質問だね。
それで答えが出せるんならそれで良いかと思う。
でも私は答えが出なかった。
「無」という意味が掴めなかったんだね。
して、「捨てる」とゆうキーワードが大事かとオモータよ。
捨てきって「無」かと思うよ。これが円相の位相だと思ふ。
捨てるとゆのは「囚われない」。こうゆう意味だね。
概念として温存しているうちは「無」になりきれない。
真理か?真理でないか?それに囚われない「無」。
二項対立の無でなくて、有無を超えた無。
>>310 言葉の指す対象の機能を無視して、
言葉だけの抽象論とすれば
あらゆることを煙に巻いて無意味にすることができます。
実証的な知識の無かった、古代の仏教人がよく使った手です。
312 :
名無しさん@1周年:02/12/10 19:39
>>311 偽者が 姑息なコピペしてる。
厨房は去れ。。
313 :
名無しさん@1周年:02/12/10 19:44
◆ちんぽを出さずしてなにが人間か
<質問>
ちんぽを出すのが好きらしいですが、どんな時に出すのですか?
<解答>
重要なのはタイミングです。
ここぞという時に出してこそ、ちんぽのインパクトも際立ちます。
<どんな時にちんぽを出すのがグッドタイミングなのか>
・お見合いの席上で
少し照れながら出しましょう。慎み深い人と思われます。
・取調室で
自分は殺ってないという強い意思のもとに。
・道端で
一般常識に囚われない自分であるために。
・試験の最中に
カンニングと間違われないように注意しましょう。
・新幹線で切符を確認するためにやってきた車掌さんの手に
座席の上に立つなどして、ちゃんと車掌さんの手に乗せるようにしましょう。
手乗りちんこ。 手乗りちんこ。
<こんな時にちんぽを出すのはNG!>
・飲み会の席上で
酔っているからなどといって安易にちんぽを出してしまうのは考え物ではないでしょうか。
ちんぽはしらふで出してこそ華であると言っておきましょう。
・ファッションヘルスで
ちんぽを出すことを頑なに拒否しましょう。「さては俺のちんぽを狙っているな!」
巧みなガードを駆使してなんとしても己のちんぽを守りぬきましょう。おそらくつまみ出されます。
・銭湯で
銭湯だからといって、なんの躊躇もなくちんぽを出してしまうのは邪道ではないでしょうか。
水牛のツノを用いるなりして、決してちんぽを出さないようにしましょう。
314 :
名無しさん@1周年:02/12/10 19:50
<ちんぽを出す上での正しい作法>
・物陰(電信柱等)に隠れて獲物がやってくるのを待ち構えます。
・恥をなくすために、内なる情動を徐々に高めていきます。
・誰かやってきました。
・女学生(割とかわいい)の接近を確認。迎撃態勢へと移行します。
・さあ、女学生がすぐそこまで来ています。
・今、この瞬間が自分の人生で最も輝いているのだという認識と共に、自分の中の何かを高めていきます。
・更に高めます。高めて、高めて、高めて…。
・「フンナマー!」大宇宙へと呼びかけるかけ声(オリジナル)を発します。
・「え、なに!?」こちらの存在に気付き、驚き身構える女学生。
・ちんぽを出していることを最大限にアピールするために、思い切りのけぞりながら
(横から見るとCになるように)女学生に向かって今、華麗なるジャンピング!
・「フンナマー!」更なるかけ声によって、より大宇宙へと近づきます。
・「キャー!」悲鳴を上げる女学生。
・「お前がこんなとこを通るから、ちんぽを出すことになったのだ!」
女学生に対し訳のわからないいちゃもんを付け、更にのけぞりつつ、二度目のジャンピング!
・「フンナマダー!」少し進化したかけ声により、気分はもうパラダイス。
・「キャー!」逃げる女学生。
・「逃がさん!」追いかけようとするも、のけぞったままでは早く走れない。大誤算。
・遠く離れていく女学生の後ろ姿をのけぞったまま目で追う。
・「逃げる女を追いかけることもできない。まるで私の人生のようだ…」遠い目で呟く。
・少し寂しくなって、これからの人生について考える。
・自転車に乗ったお巡りさんの接近を確認。言い訳不可能。
・のけぞりを解除し、ダッシュで逃亡。
以上です。コツは最大限にのけぞること。後は気合でゴー!
(注)エロくない!エロくない!削除イクナイ(・A・)
315 :
名無しさん@1周年:02/12/10 19:53
>>313 ◆50億貯めずして何が人間か
よしき、もうやめとけ。怒られるぞ。
316 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 19:54
>>311 >言葉だけの抽象論とすれば
ぜんぜん違うと思うよ。
抽象的概念に拘るな。こうゆうこと。
荒らしは自尊心が人一倍強い。ならば、その自尊心に見合うように自らを
かえる努力をすべきなのだ。にもかかわらず、彼らは努力を怠っている。
人生あきらめが肝心であると思い込んでいるのである。
そこで彼らは自らを高める努力の代わりに他人を貶めることで自尊心を
慰めるという、憂さ晴らしをし続けているのだ。
>>285 >「阿頼耶識の暗窟」これ、どういうことかわかる?オツムで考えても分からないよ。
あなたは何故に自分が「歩ける」のかわかる?オツムで考えても分からないよ。
319 :
名無しさん@1周年:02/12/10 20:40
>>317 俺の友人Aの第1次好調期は、中学2年の時。誰とでも友達になろうとする積極性を持っていた彼は、ワルのグループと遊ぶようになり、暴徒と化していた。
クラスは別だったが、俺はAから見下されていて、何度か悪態をつかれた事がある。 しかし、中3になると皆、受験勉強で忙しくなり、Aが遊ぶ相手は、同学年の悪友達から近所の子供達に変わる。
俺に悪態をついていた事など忘れて、俺の家にもたまに遊びに来ていた(元の弱いAに戻る)。一浪して俺の高校の後輩として入学して来た彼は、レベルの低い男子校の人気キャラクターになった。
第2次好調期はこの頃。高卒後、社会に出た彼を待っていたのは勉強、我慢、努力という、彼が避けていたものばかりだった。無職のAは現在、宗教板で遊んでいるらしい。
320 :
名無しさん@1周年:02/12/10 20:58
319の続き。 宗教板で遊んでいるらしいと書いたのは、俺が努めて連絡を取っていないから。お金を貸してくれと言われそうで怖い。
3ヶ月前に電話で雑談をした際は、サラ金からでも借りないと年を越せないと言っていたが、もう年末だ。
あいつは、自分は宗教板の奴等よりは賢いと言っていた。
321 :
名無しさん@1周年:02/12/10 21:06
乾杯
作詞 不詳
作曲 長渕 剛
唄 長渕 剛
1.かたい絆に 想いをよせて
語り尽くせぬ 2ちゃんの日々
時には傷つき 時には喜び
>>1を叩きあった あの日
あれから どれくらい たったのだろう
沈む駄スレを いくつ数えたろう
故郷の
>>320は 今でも
>>1の 心の中にいますか
乾杯! 今
>>1はこの板に 大きな 大きな駄スレを立て
遥か長い道のりを 歩き始めた
>>320に幸せあれ!
322 :
(−人−):02/12/10 21:15
荒らしている人もそうでない人も
今よりマシな何かをもとめています。
言葉に悩み言葉に惑わされ言葉に苦しみ言葉に喜び言葉に辱められ言葉に悲しみ言葉に・・・・・・・・・。
私の信念に対して、心無い言葉や概念にどれほどの力がありましょうか。
皆さん心の平安を忘れずに。^^
>>293 親切な横やりさん。助け舟をだしてくれてありがとう。しかし、私はこう思ってる。
いくらスレが荒れたからといって、内心の平安が変わるということはない。変わる
のは、我々のざわめく意識の方で、それを見れば、修行者の状態も分かるというも
んです。偉そうに御託を並べていてもね。そういうものですよ。実践とは…。
それに、自分の心が荒れ乱れる事を考えれば、どうってことない事だと思うんです。
周りが荒れても、心は静かに内心の平安に微笑んでいる。ここが釈尊の教えの根本
的なことかも知れませんよ。あのお方は、決して凡夫人間が理解に苦しむような難
しいは説かなかったと思うんです。
最近「大パリニッバ−ナ経」というのを読んでいますが、私の心にこびり付いて離
れなかった、あの「ブッダフェイス」が変わり出しているんですよ。
教団の指導者が、ひとりの修行者、やがて人間に返っていく様子が描かれている様
で、とても楽しみです。
横やりさんの、善い修行の成果を願っております。誰とは知らずともお互いに精進
しましょう!善く道を修めたなら、果報は寝ていてもその如くに来るのでしょう。
324 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 21:38
私のテーゼである・・・
>抽象的概念に拘るな。こうゆうこと。
これについて、異論が無いとゆ−ことか?
まあ、よくよく考えればこれが仏教の本髄である「拘るなかれ」。
ゆーなれば仏教の触りのとこだね。
なんも難しく考えることはない。
ジレンマとゆうのは、こうゆう事かと思うよ。
「気づき」なんだろーね。
325 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 21:44
今から風呂に入って寝ます。
では、では・・・。
326 :
(−人−):02/12/10 21:53
>>324 異論は全くございませぬが。
私も言葉を紡いでみますた。
出来ればご感想などきかせてくらはい。(恥
ただね、、、、。
この道が何処に行くのかはわかりません。
今ある処で今持ってる道具を駆使して最善を尽くすだけです。
成功するのか失敗するのかそれもわかりません。
何が変わったのでしょう?
何も変わってないかもしれません。
そうですね、ほんの少しだけ思い悩む事が怖い事じゃなくなったのかもしれません。
ほんの少し損をするのが苦痛じゃなくなったのかもしれません。
ほんの少し優しく慣れたのかもしれません。
でも、相変わらず私のまんまですねw
キネンカキコ
カルトスレ キモイ
328 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 22:29
>>326 何か変わればイイ。
何か変わってほすい。
この自分から離れたとき、「今の大切さ」を知るかと思います。
で、今ある自分を突き詰めていって・・・
>何か変わればイイ。
>何か変わってほすい。
これが段々読めてくるかと思います。
つまり、一端離れると思考システムが変わってくる。
死生観が変わってくる。
前レスにありました「命」の認識が変わると、そこよりは派生して全てが変わる。
実は、「迷いであることを認識してない迷い」とゆう事を知る。
329 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 22:34
つまり、分かりやすく言うと・・・
命の連続性を断ち切る、とゆうことでしょう。
330 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/10 22:35
では、では、寝ます。
331 :
(−人−):02/12/10 22:47
おやすみなさい。^^
332 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/11 06:29
>>317 >そこで彼らは自らを高める努力の代わりに他人を貶めることで自尊心を
>慰めるという、憂さ晴らしをし続けているのだ。
そーだね、こうゆう段階だとマダマダかもしれんねー。
実は私は、長い人生において色々な「死」に巡りあっている。
一言でいうならば、命とはあっけないもんだ。無常なんだね。
はかない命なればこそイトオシイ。これが慈悲なんだろうね。
つまり、現実を正見する。これが大事なんかと思うよ。
で、
>>327の・・・
>カルトスレ キモイ
これはマルッキシ違うね。
いわゆる仏教は、「はかなさ」を言うておる。
そこからの「無の哲学」。なんも神秘的なもんはない。
髑髏さんは、ひょっとすると私なんかよりもずっと優しい人なのかもしれませんね。
いちいちキモイレスにレスしてる。誰かが勝手にキモイと思ってる事には私は干渉
などしませんよ。まあ、御気の毒に…。と、思いますが…。
踊る阿呆に、見る阿呆。私なんかは勝手に躍らせておく。勝手に一人で踊っている
事に気が付けば、大抵の阿呆も勝手に踊りを止めますからね。まあ、普通は気付き
ませんでしょうが…。誰もが本当にそれに気が付くことが大変な事ですからね。
334 :
名無しさん@1周年:02/12/11 08:22
>333 あんたもしつこい人だね
335 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/11 09:17
>>333 >いちいちキモイレスにレスしてる
つまり私は、キモイレスを「話の切り口」に持ってくる場合がある。
そのとき自分の書きたい事を書く。
その私の書き方でスレの流れが大きく変わる場合がある。
このダイナミックなとこが2ちゃんの魅力なんかもしれない。
まあでも、煽りは殆ど糞レスだけどね(w
337 :
(−人−):02/12/11 20:58
????
どうしました?
ブランコさんらしくありませんね?
なんかコワイです。。。
>>319 >>320 を書いた者です。
一応、ネームを「借金男A」としましたが、学生がこの
名前を使用して、私になりすます事も有ります。
この板にいる学生は、そんな卑怯な連中です。
で、私の書いたAなる人物は、私の友人から10万円を
借りたまま、1年以上も返していません。最近、電話が
料金未払いで不通になりました。10万円貸している
友達から相談されたので、この板で遊んでいると言って
いたAを探しに来たわけです。もうネットする余裕はないかも。
彼(A)は、ADSLでインターネットを利用
しているので、電話は止まってもパソコンのネットは
見られます。メールのやりとりはできる状態ですが、
最近、返信メールが来ない。逃げに入ったのかも。
Aよ、俺の友達に10万円返せ!!
>>333 髑髏仮面さんというのは優しい人という前に、悟りを持っている方なので、どんな誹謗中傷にも動じない「無」の境地がいられる人だと思います。
以前、私が書いた「ただのオッサン扱いで良い」というのは、それだけ広大な愛を持っている方だからこそ。
2chの文字だけの世界でも、相手の心を読む力は秀逸です。悪意の書き込みであっても、相手(人間)というものを尊重する人です。
だから、私も含めて皆、髑髏仮面さんへ安心してオッサン扱いの書き込みができるのです。
人の罪を認めて許せる方です。
誤解が有ってはいけないので付け加えておきますと、
私はオッサン扱いの書き込みはしない性格です。では。
342 :
名無しさん@1周年:02/12/11 21:51
344 :
名無しさん@1周年:02/12/11 21:55
【隔離】”キモスレ”【注意】
>>335 >つまり私は、キモイレスを「話しの切り口」に持ってくる場合がある。
う〜む…。しかし、私は2CHの流儀に従うつもりは毛頭ありません。
昨日、横やりさんにレスした後で、私は考えましたよ。私に心の平安があれば
それでいいのかなってね。ここで、誰が何を言おうと、確かにどうって事はな
い。荒されようが、ケチをつけられようがね。たかが、2CHだという考えも
ある。でも、何もカキコしなくても黙って見ている人がいるのかもしれない。
横やりさんも、殆どレスを付けてはくれないけど、要所、要所にはカキコして
くれる。つまり、カキコするから「誰かいる」と思うのも間違いだが、カキコ
しないから「誰もいない」と思うのも間違いだろうとね、思ったわけですよ。
このスレを見ていている心ある人達が、荒れている様子を見てスレを守ろうと
もしてくれました…。
そういう行為に対して、私は悟り澄ましたような態度を取っていることが相応
しいとも思えなくなってきたんですよ…。
で、スレが荒れてしまう原因を考えてみると、その一つに、髑髏さんのレスに
対してそういうものが湧いてくる面も否めないと思う…。つまりある種のレス
に対して、挑発返しのようなレスで返す事ですね。
キモイレスを話しの切り口に持っていく事は、他のスレでも幾らでもできると
思うのですよ。スレは沢山ありますしね。ここにはスレが荒れるのを好まずに
静かに見ている人々もいるようですし、私だって荒れない方がいいのです。
「自分の書きたい事を書く」がここの流儀かも知れませんが、髑髏さんのレス
にある種のレスが付いてまわる。この種のレスをせめてこのスレだけででも無視
することはできんですか?
346 :
(−人−):02/12/11 22:07
>>340 髑髏仮面さんというのは優しい人という前に、悟りを持っている方なので、どんな誹謗中傷にも動じない「無」の境地がいられる人だと思います。
それは、髑髏仮面氏の個性で悟りとは関係無いとおもわれます。w
ホメスギは一読の方が引いちゃいますよww
ネタニマジレスごめんなさいm(_ _)m
>>332 >はかない命なればこそイトオシイ。これが慈悲なんだろうね。
イトオシイが外に向かったら慈悲で、我が身に向かったら執着ということでしょうか?
>>337 どうして???私がしつこい性格でも、しつこくない性格でも334にとって
は、差し当たりどうでもいい事じゃないかな。。。
そんな事より、あなたにレスを返さないといけませんね。
「美」と「醜」のところで…。少し待っててください。意見があるんです。
赤影さんは、髑髏さんの御弟子さんか何かなのですか?まあ、どちらにしろあなたも
悟りを開いているのでしょう。。。
>>348 いや、ちょっと待ってください。
そんな立派な人間ではないですよ。
髑髏仮面さんのファンに過ぎません。
350 :
名無しさん@1周年:02/12/11 23:14
ここは、明日の早朝に髑髏仮面さんの登場を待つしかないですね。純粋なブランコさんを悲しませるなんて、荒らしの学生は許せません。
>345
>う〜む…。しかし、私は2CHの流儀に従うつもりは毛頭ありません。
でも、ここは2CH。荒らしも「文化」。荒らしも闇雲に荒らしてはいないよ。
「荒らして然るべきレス」(適切な言い方では無いかもしれんが)に対して荒らしていると思う。
ホントーにマターリやりたいんならメーリングリストでも作った方が無難。
352 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 06:55
スレが、かなり良い流れになってますね(w
私はこれから仕事で、あと1時間くらいしたらジックリ拝見しましょう。
>>351 誠実なご意見、有難うございます。あなたのご意見は最もなものだろ思います。
しかし、スレの初めの方にカキコしましたが、私に2CHの存在を教えてくれた親友
が先日亡くなってしまったのです。だから、私はせめて、このスレだけででも、ここ
で、人間として出来るだけのことをしたいんです。。。
その「人間とは」の部分をこの場で問いたいと思って。悟りでも、経典の理解でもなく、
善人ぶってほすい訳でもなく、悪人ぶってほすいわけでもありません。
でも、私の意見を無視される方もいるでしょう。それは分かった上で言っているんです。
だから「私は」という前書きがあるんです。仏教の教えの基本に「自分の思い通リには
この世界はいかないですよ」というのもありますからね。
354 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 08:54
>>340赤影さん。
おそれいります。
今後の私の人生において、よき縁を大事にしとう存じます。
>>345 おそれいります。
各自、2ちゃん観は持ってるみたいですね。
そこを鑑みながら、今後の勇躍躍進のあるべき公共掲示板について考察してまいります。
2ちゃんは、その先駆的役割をになうであろー。
今度わたしも、「2ch公式ガイドブック・2003バージョン」を買ってみよかな。
一度は読んでみたい。
なんかしら、私のハンドルも紹介されてるみたいだ。
宗教板に髑髏が「いる」ちゅうだけだが(w
355 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 09:10
>>346 >イトオシイが外に向かったら慈悲で、我が身に向かったら執着ということでしょうか?
ここのとこは、無自性、自他不二かとおもいますよね。
他人が「あって」自分が「ある」。
他人が「なくて」自分も「ない」。
慈悲は、外に向くもんでもないし、また内に向くもんでもない。
対象・被対象は既になし。これが般若。
無差別相(仏智)は、いわゆる「平等と慈悲」が車の両輪かと思います。
ですから、一方的に慈悲を「施す」もんでもないでしょうし・・・
また、慈悲を「施される」もんでもない。
いわゆるこれこそが、菩薩道なんかと思いますよ。
356 :
名無しさん@1周年:02/12/12 09:40
>>354 ぶるぶるぶる
さりげない自慢 仏教ではどう解釈するの?
357 :
名無しさん@1周年:02/12/12 10:35
>>355 このお答えに関連して質問です。
「慈悲喜捨」を「慈」「悲」「喜」「捨」と一語ずつ見た場合、
髑髏さんはそれぞれどのように解釈されていますか?
358 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 11:40
>>357 【慈】これは、おもいやり・いたわり・とかの慈愛かと思いますよ。
【悲】これは、悲しみ・嘆きを受け止めるおもい、かと思いますよ。
【喜】これは、喜びを共に分かちう、思い。
【捨】これは、不動心みたいなもんでしょうね。
>>358 お答え頂きありがとうございます。
さらに質問させていただきまと、
髑髏さんは「慈」を「思いやり」と解釈されています。
しかし「思いやり」とは「相手の立場になって考えること」だとすると、
「悲」「喜」の持つ概念にあてはまるのでは、と思いました。
どのような違いがあるのでしょうか。
もうひとつ質問させていただきますと、「捨」を「不動心」と解釈されていますが、
何を捨てる事によって「不動」となるのでしょうか。
よろしくお願いします。
360 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 14:46
>>359 >どのような違いがあるのでしょうか。
違いとゆうよりも、そのときの「心のあり方」なんで本質的なもんは違いはない。かと思う。
瞬間が「慈」であったり、瞬間が「悲」であったり、瞬間が「喜」であったり。
そうゆう状態なんでしょうから、明確に分けられるもんじゃないかと思ふ。
>何を捨てる事によって「不動」となるのでしょうか。
そうゆう心で八正道を実践したとて、見返りがあるじゃなし、功徳がある訳じゃなし。
こうゆう事でしょうね。
つまり、何かの期待をしてはいかん!
そうゆう邪心は捨てろの【捨】かと思いますよ。
瞬時、瞬時に「生」があり、「今ここ」こそに生きるべし。の仏法の極意やに思ふ。
361 :
名無しさん@1周年:02/12/12 14:52
>>360 バカ信者
へんてこな 原理を教え込まれて 吹聴してんじゃねえ タコ
362 :
(−人−):02/12/12 15:21
>>360 >そうゆう心で八正道を実践したとて、見返りがあるじゃなし、功徳がある訳じゃなし。
>こうゆう事でしょうね。
>つまり、何かの期待をしてはいかん!
>そうゆう邪心は捨てろの【捨】かと思いますよ
素晴らしい。
かつて沢木興道老師がこういわれたそうです。
「迷いは得、悟りは損」
簡潔にして奥深いと思いませんか?
363 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 19:08
>>362 >「迷いは得、悟りは損」
>簡潔にして奥深いと思いませんか?
奥深いですね。
捨てきって、捨てきったところで見えてくるかと思いますよ。
「あれは迷いだったんだ」。
「これも迷いだったんだ」。
迷いと認識していないもんでも『実は迷い』。これを知るんかとおもいますよ 。
削げていくんですね。
道元の心身脱落は「削げる」とゆう言いかたしますね。
良い表現かと思ふ。
>>360 お答えいただきありがとうございます。
「慈・悲・喜」が「思いやり」、「捨」が「期待をしない」ということですね。
この2つを身につければ心の平安がもたらされるのでしょうか。
他に留意点はあるのでしょうか。
365 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/12 20:51
>>364 色即是空の「空」は、仏の智恵(仏智)ですね。
これは善悪一如。平等一枚で慈悲の心です。
「施しをしよう」とか「人に〇〇をしてあげよう」とかの対外的な考えを超越し、
慈悲がそのまんま「ありのまま」。
平等がそのまんま「ありのまま」。
これにて無我を突き詰めれば、本来の自分とゆうのが見えてくるかと思いますよ。
つまり「人に〇〇してあげよう」とゆのは善行のようで、実は自我の発露。
これに「気づく」かと思います。
>>289 遅レスになりましたが…。
>それはどこまでも概念でしかないのではないでしょうか?
>快・不快なら分かりますが…。
自らの感覚を深く尋ねていくと、私には美=快。醜=不快。というように思われるの
ですよ。辿っていくと、美の根に快の感覚があり、醜の根に不快の感覚があるような
気がします。我々人間が「美しい」と感じ、思うものがありますよね。
例えば、ある女性を「おおっ、美しい!!」と言う具合に。で、その「美しきもの」
の本質は何ですか?と、自分に問いかけていくと、最終的には実はよく分からないと
いうことになってきちゃう。その実体は我がものとして掴めないものですから…。
精一杯の私の洞察では、快の感覚、つまりは美の根本は、何某かの秩序、法則性の様
なものだろうと思うんです。自然界には法則があり、秩序もある。それで、人間もその
自然界の一部に相違ありません。いくら人間が人工的なものに取り囲まれていてもこ
こから逃避することはできないし、大きく逸脱するような事があっても、環境問題と
か、人心の荒廃などの社会問題としても必ず顕現してくる。そして、秩序、法則は事
実物事を動かしていても、その実体を「わがもの」として掴む事は誰にもできない…。
昔の人は、これらを神の裁きと捉えていたようですね。しかし、自然世界の定めた掟
がどうして人生に不幸を呼んだりするのか?自然世界には、人生や、社会が益々発展
していく法があり、方や人生や社会が益々廃退していく法がある。これは現象を観察
すれば、誰でも納得のいく事でしょう。ただ、我々にはそれを理解し、応用する能力
がある意味乏しい事は否めない事実だと思うんですよ。
幸福や満足を求めて、どう言う訳か益々廃退していくような法に走ってしまうのが人
間の悲惨でしょう。これが分かれば人生の悲惨を減少させる事は可能でしょうし、幸
福を増大させる事も可能でしょう。それは、成熟と呼べるものだと思います。そして
それは広義な意味で美しいものだと私は思う。それは人間の拵えた美意識より、遥か
以前の「美」だと思うんですね。
367 :
(−人−):02/12/12 22:54
>美=快。醜=不快。
と捕らえたのですね、なるほど微細な解説に納得です。^^
>自然世界には、人生や、社会が益々発展していく法があり、方や人生や社会が益々廃退していく法がある。これは現象を観察すれば、誰でも納得のいく事でしょう。
>ただ、我々にはそれを理解し、応用する能力がある意味乏しい事は否めない事実だと思うんですよ。
>幸福や満足を求めて、どう言う訳か益々廃退していくような法に走ってしまうのが人間の悲惨でしょう。
↑このあたりを読んでいて
>>13のレスをなぜか思い出しました。
案外この↓あたりに病原が潜んでいるのではないでしょうか?
>心がかき乱されるのは、嫌なのかい?
>発情するのは、嫌いかい?
>セクシャルに興奮させられるのは?
>興奮しつつ、内心の平安を望む。
>それが、人間だ。
>「煩悩を捨てないまま涅槃に至れないかなあ」
>それが、まあ、だいたいの、凡人の考えることだ。
>結論から言えば、それで、いいのだ。
>それが。悟りだ。
>それで、いいのだ。
このレスとのブランコさんのやり取りが、初っ端の読みどころかと勝手に思ってますw
368 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/13 06:08
(365のつづき)
アレフの「民衆救済}。
統一教会の「先祖霊の供養」。
こういった考えが、あたかも「善行」なよーに一見思えてしまう御仁がいるであろう?
しかしながら、これは大変な大間違い。
そもそも発想自体が大変な勘違いをしている。
菩薩道も、実は「救済」ではない。
これは「平等一枚」にて鑑みればそれは明らか。
ここが仏教の、深遠なる一如の法門の妙なるや。
>>367 なるほど、実は私も13のレス、今でもハッキリと覚えています。そのもの図星なの
かもしれないです。凡夫と言えど、大抵は「わかっちゃいるけど、やめられない」と
いうように、心のどこかでは知っているようですよね。よ〜く考えて後この問題には
再びレスさせてください。
370 :
(−人−):02/12/13 07:25
>>368 様々な慈善事業がありますが、しっくりくるというか素直に喜べないものがおおいようなきがするのは、ここのところなのかもしれませんね。
私は「偽善」臭いのにアレルギーをおこして荒れたことがありました。
そんな時に出会った言葉に頭をガツンとやられましたね。
「良いことをしてさえ悪いのに、悪いことをすれば余計悪いにきまっている。二重の僻事である。」
関係ない話の横レスで申し訳ない。
371 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/13 07:55
>>370 マザー・テレサの行為に、いち早く敏感に反応したのはインドのキリスト教団だったらしい。
理由は、テレサの「神の被造物破壊」。
当地において、テレサは相当な圧力を感じていたんかと思ふ。
テレサは実に強い女性だったんかと思ふ。
釈尊、ガンジー、テレサ、クリシュナムルティ−(確かインドかと思ふ)。
インドは偉大な偉人を輩出している。
372 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/13 08:08
(371のつづき)
説明不足でした。
つまり、テレサはインドのキリスト教団に「叩かれた」らしい。
テレサのご冥福を祈る。
373 :
(−人−):02/12/13 09:04
>>369 「わかっちゃいるけど、やめられない」で、思い出したお話を一つ。
植木等の生家がお寺なのは有名な話ですね。
で、親父の和尚曰く
「神も仏も無いのは、ワシらぼんサンがが一番よくしっている。」
だそうです。(w
>>370 >>372 そういうことならば、、、、。
所謂、凡夫がいう「心の平安」と仏が言う「心の平安」というのは
じぇんじぇん趣が違ってきますね。
仏が言う「心の平安」は、楽してマターリとは正反対っぽいですね。w
善悪が相対的な概念でしかないのに、「良い事」「悪い事」なんかあるはずが無い。
「内心の平安」を得たいなら、この世界の実相に気づくこと・・・・。
世界はあるがままなのに、勝手に「違い」をつけて分別してる・・・・・・それは貴方の「エゴ」。
375 :
名無しさん@1周年:02/12/13 09:16
>>347 あなたは、マダマダ浅い所に立ち尽くしているのですね。
様々な菩薩たちがわざわざ、「本覚に還らず。正覚をとらず」で我々と同じ目線で歩もうとしているのに・・・。
世界の実相が見えていないのは、あなたのほうですね。
376 :
(−人−):02/12/13 10:24
『『マザーテレサのことば』より
>もし貧しい人々が飢え死にするとしら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。
神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。
キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度こられたのに、
わたしたちがキリストだと気づかなかったからなのです。
>神は飢えている人、病める人、裸の人、家のない人のなかにおられます。
飢えといってもパンがないためだけでなく、愛、思いやり、だれかの“あなた”でありたいことの飢えなのです。
また裸といっても服がないだけのことではなく、見ず知らずという理由だけで、優しい心づかいを示してもらえない意味での裸であり、
家がないというのは、石で造った家だけでなく、自分を招き、受け入れてくれる人を持たないゆえの家なしなのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
377 :
名無しさん@1周年:02/12/13 10:52
道元「愚人思わくは利他を先とせば、自らの利省かれぬべしと、しかにはあらざるなり。利行は一法なり、普く自他を利するなり」
いやはや、お偉いさん方が総勢で凄いですね。私には何のことだかさっぱりという処
も多いです。。。分からないものは分からない。これはしょうがないですね。(^^
しかし、私の教えてもらっている仏教では、神々、様々な次元での生存というものを
肯定していますよ。ただ、人間は人間を理解すればいいという教えですね。
私の尊敬するアイルトンセナも神を見たと言っているし。。。
善悪が概念でしかないなんて、私には一生分からないだろう。それでも文句はありま
せんけれどね。。。善悪が概念でしかないなんて、誰かに偉そうに吹聴する神経も理
解できません。。。まあ、師弟関係を結んでいる人同士なら話は別でしょうが…。
ただ、人間の行為する、全ての善が偽善であるというのは、間違いだと思いますよ。
咄嗟に我が身を捨てて他人を救ってしまう市井の人がいるんですから…。
私には、善は分かっても、禅はじぇんぜんわかりましぇ〜ん。(w
>>375 浅瀬で、アッチへふらふら、コッチへふらふらしているから「ブランコ」なんですよ。
だから、確りとした善悪感で自分を制していないと、どこへ吹っ飛んで行くか分から
ないわけです。どんなものにしろ、他人に押し付ける善悪感ではありませんね。私の
場合は…。
>>378 >善悪が概念でしかないなんて、誰かに偉そうに吹聴する神経も理 解できません。。。
「ブランコ 初の髑髏批判」の巻
びつくりしますた!
382 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/13 19:16
>>378 僭越ながら私の自論を・・・
つまりこーゆー事かと思います。
人間が一切の悪行をしないとすれば、「善」に満ちた「絶対善」になるでしょうか?
いんや、そ〜じゃぁないですね。
そこで既に「善」の意味がなくなります。勿論その概念もなくなる。善悪の概念はなくなる。
つまり、善あって悪あり。悪あって善あり。相対するから意味がある。
善は常に概念としては、悪と相対することによりその意味をなす。
悪は常に概念としては、善と相対することによりその意味をなす。
じゃぁ、この相対こそ本来の実相なんか?とゆうたら、これは疑問。なんでか?
それは概念が相対分別しているにすぎない。
概念は概念でしかない。
これでどーでしょうか?
>>380 378レスは指定されてはいませんが、概ね374に対するレスですね。そんなに
善悪の概念が嫌いなら、自分で勝手に捨てていればいいでしょう。と、言いたい。
たとえそれが「真理」だとしても、誰かから押し付けられるものは嫌なものですよ。
特に、それは、あなたの「エゴ」なんて、大きな御世話ですからね。
私はそんな事、誰かに言えませんね。恥ずかしくて…。これが恥ずかしくない人は
よっぽど偉い人だろうなと思ったんですよ。
第二の理由は、虫の居所が悪い時に、気晴らしのつもりでここを覗いてしまった事
かな…。私の至らなさもあるんですね。。。
>>381 私も間違えます。(^^
間違いを間違いと知って、訂正する人は智慧と勇気のある人です。
そんな人に腹を切らせる訳にはいかないです。(w
ブランコ 壊れてきた。
みんな引いてるぞ。
>>382 髑髏さんの言っている事は、少しは分かってきていると思います。あなたは人に
意見を押し付けるような事はしてきませんでしたね。
随分レスを交してきましたが「私はこう思うが、どうだろうか?」というように
クッションを置きますよね。私もそういうやり方を好みます。
確かに、善悪の事情については異なった考えを持っているようですが、今の私に
は、それが根源的に「概念」なのか「概念」でないのか分からないわけです。
だから私の言っていることは「私の意見」に過ぎない事は承知の上のこと。
まあ、時には私もしつこく食い下がりますが、分からないものはそれでいいので
はないのかな?と思う。こういう姿勢は髑髏さんから学んだ処もあるかと思う。
しかし、髑髏さんとはまた違うところでコンセンサスが得られているんじゃない
だろうか。
それは「人間・人生」と言う大きなテーマです。私には神々や、ホトケの世界は
知りうる術がない。悟ろうにも、悟りたくない自分が邪魔をする。でも、今自分
は生きている。どうせ生きているなら、何か少しでも善い事を実践したい。
そういう実践という意味で、生活と密着しながらレスを交換していくことで髑髏
さん流に言えば、無分別→分別の智慧が活きてくると思います。直接、生活から
湧き上がってくる疑問が「ナマモノ」ですからね。そのナマモノをどう料理する
かが、無分別→分別の知恵なんだと思うんです。これは、使えば使うほど切れ味
が良くなると思う。私はここの処でこれからも精進したいわけです。(^^
まあ、根源的なものは、まだまだ私には解らない。それで良いのですよ。と言う
わけで、宜しく御願いします。
善悪の「概念」に付いては、概念は概念に過ぎない。これには同意します。
ただ、我々人間が「善悪」と呼んでいるものに該当するものそのものが、根源的
に概念だとは思えないし、それがなんなのかやっぱりよく解りません。
>>386 >随分レスを交してきましたが「私はこう思うが、どうだろうか?」というように
>クッションを置きますよね。私もそういうやり方を好みます。
一緒一緒。若干丁寧だけど言い回し方が違うだけ。
>>385 ばれちゃ〜しょうがねえな。最初から壊れてるのさ。(w
みなさ〜ん、私ことブランコは壊れていますよ〜。
若い頃は、湾岸線を250キロで走っていると言ったら
狂気の沙汰だと言われましたね。
怖い人は退散してくださいね〜。(^^
でもね、壊れているからこそ、直し甲斐がある。
悪人が回心する瞬間を見た事がありますか?
とても感動的ですよ。
心を閉ざして来た人が、心を開く瞬間を見た
事がありますか?
とても、感動的ですよ。
>>387 全然違うと思う。言い回しというような、表面的な問題じゃないでしょう。
まあ、言い回しが違うだけという場合もあるでしょうが。内容は色々と言
うことです。
相手の顔色を伺って、丁寧にするのと、慈悲の心からそうするのではかな
り違いますよね。これは自分を省みてのことですが…。
「ぶらんこ」は何故揺れるのか?・・・・・・・・・・・・!
反動をつけるから!
後ろに一回
>>383 「それは、あなたの「エゴ」なんて、大きな御世話ですからね。
私はそんな事、誰かに言えませんね。恥ずかしくて…。これが恥ずかしくない人は
よっぽど偉い人だろうなと思ったんですよ。」
前に一回
>>386 「あなたは人に意見を押し付けるような事はしてきませんでしたね。
随分レスを交してきましたが「私はこう思うが、どうだろうか?」というように
クッションを置きますよね。私もそういうやり方を好みます。」
ブランコさん、ぶらんこ好きの貴方の為に、背中をもうひと押し。
391 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/14 07:15
>>386 >ただ、我々人間が「善悪」と呼んでいるものに該当するものそのものが、根源的
>に概念だとは思えないし、それがなんなのかやっぱりよく解りません。
じゃぁ、概念を越えたところを仏教では何と逝ってるか?
これを「無分別の仏智」とゆう言い方をしてるんかと思いますよね。
つまり、森羅万象如来の当体そのものが慈悲である。そのものが仏である。本来仏であるんだと。
で、この「仏」とゆうのが、無差別相においての仏智であるというのが仏教の非常に深いとこかと思う。
つまり、善悪で迷うことなく既にそこにて答えが出てる。
で、人間本来仏も段々にその解釈の仕方が変わってくるかと思います。
仏教でいう「仏」とは何ぞや?
この究極の問いかけを、自ら探りださねばならんのでしょうね。
>>390 仰っていることの意味は大体わかります。(^^
ただ、正直最初のジャブ一発目には面食らいましたが…。
私も、人間やめる時には、ぶらんこ遊びを止められるようにしましょう。(w
これは、他ならぬ自分自身のためですよね。
心の平安の中にエゴを捨てていくには、まだまだ長い道のりが、私には
必要だと思うんですよ。
>>391 >じゃぁ、概念を超えたところを仏教では何と逝ってるか。
>これを「無分別の仏智」という言い方をしているんかと思いますよね。
これは、何となく分かるような気がします。(^^
しかし、自らに厳しく問い質してみたところ…
>つまり、森羅万象如来の当体そのものが慈悲である。そのものが仏である。
この辺になってくると、正直言いまして、仏教とのスタンスをどの様に取ったらよい
のか分からなくなって来ます。そうかも知れない…。そうだと思う。だが、その確信
には至れない。第八図以上が解らない私にとっては無理もないと思います…。
でも、そこで落ち込む私ではない。髑髏さんは、非常に厳しい精進を乗り越えて来た
からこそ、それだけの果報が得られているのでしょう。
機根において、精進において、果報は正しく赴くものでしょう。それが法だと思います。
仏教は自らには厳しい精進を果たしても、どこか大らかで自由の匂いがする仏教は素晴
らしい教えだと思います。中道の機軸が偏狭な思想に縛られてしまう宗教の禍を免れさ
せているのでしょうね。
私にも、中道が最上の機軸になる事はよく解ります。全ての現象は、非常であり非我
である。これが解るだけでも「善かったな」と思ってます。ここら辺になると仏教と
のスタンスが確りしてきます。
私はDQNなので漫画の台詞ばかりで恐縮なのですが、明日のジョー矢吹は、泪橋の
下に住んでいるんですね。その「泪橋」とは、人生に敗れ、最後に行き付くどや街に
向かう人が、泪で渡る橋という意味なんだそうです。で、矢吹丈の育ての親、丹下段
平は、丈にこう言うんです。「お前はな、この泪橋を厳しい精進の泪で逆に渡るんだ」
ってね。
曲りなりにも仏道を歩んでいる今と、子供の頃では、同じ物語でも、かなり違って見
えてくる。恨みを晴らす為でもない。世間を見返すわけでもない。人間の悲惨を乗り
越えるという意味で、上の言葉が心に染み入っています。
394 :
名無しさん@1周年:02/12/14 19:27
髑髏さんに弟子入りしたい
395 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/14 20:43
>>393 泪橋とゆうのは、山谷の中心部あたりですよね。
「橋」とゆうのは、昔はあったんでしょうけど今は名前だけの、交差点近辺を言うんでしょうね。
100円で泊まれるベッドハウスなんかもありましたね。
100円ババアなんてのもいました。→知る人ぞ知る。
私が若い頃は、あそこらあたりに住んでいたんですよ。
南千住とか、三ノ輪とか、バーテンなんかをやってました。
あそこらあたりは、日雇いなんかもいましたが、結構インテリなんかもいましたよ。
三日のうち、一日のオールナイトの仕事をすれば、後の2日は結構リッチな生活が出来ました。
良い時代だったんですね。今おもえばの話しですけど。
まぁ、そんなことよりも・・・
慈悲の具現が、ブランコさんの言う「善行」なんじゃないでしょうか?
善行せんでも、あえて分別すればそのまんまで善行なんかとおもいます。いうなればなんですけど。
どーでしょうか?
>>395 >どーでしょうか?
使う言葉や、認識は違ってもそれでいいと私も思います。(^^
無財の七施
1 眼 施 がんせ 慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。
温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。
2 和顔施 わげんせ 和顔悦色施ともいいます.いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。
喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。
3 愛語施 あいごせ 言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で
言葉を交わす行ないをいいます。
4 身 施 しんせ 捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。
5 心 施 しんせ 心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや
苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。
6 牀座施 しょうざせ たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。
また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。
7 房舎施 ぼうしゃせ 風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように
傘を差し掛ける思いやりの行為など。
理屈をこねくり回すと、理屈に絡め取られてしまいます。行為が主、知識は従。
398 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/15 06:20
>>397 そうですね、そんなところかと思います。
私は良寛が好きなんですけど、あの方は「善行しよう」という認識は無いかと思いますよ。
子供が危険に晒されれば身を挺して守るかと思いますが、これが「ありのまま」なんかと思います。
この「ありのまま」が慈悲なんかと思います。
良寛に魅了されるのは、やはり菩薩の生き方をそこに見るからかと思います。
禅師には、それぞれ個性がありますが、それぞれに学ぶところ多し。
>>398 >禅師には、それぞれ個性もありますが、それぞれに学ぶところ多し。
そうですか。私は、禅師に限らず、僧侶で好きな人って思い当らないなあ。好きじゃない
人はいます。(w 私はある意味、お坊さんらしくないお坊さんが好きかも…。
>あの方は、「善行しよう」という認識は無いかと思いますよ。
遅まきながら、髑髏さんの使う「無」の意味がまた少し分かってきましたよ。私はどーし
ても「無」と言ういと、有無の無に行くように脳の中が固まってしまっているようで。(w
現段階の私には無常、無我も、非常、非我の方が、この塊を解かせるみたいですしね。
まだ、観念的理解の段階でしょうが、ここでも「分からない」という事を表明しないと話
がコミュニケーションにならない。私の感触では、髑髏さんのレスは結構重いですね。
ベーシック時代は、どちらかというと私の方がまくし立てていたという感じですが、今回
は私の方が、髑髏さんの中にあるものを引出してみたいですね。
良寛さんの事は、あなたから吸収させて頂きます。良寛さんの残したものは、髑髏さんの
中からも見出す事ができるでしょうからね。こういう意味では無我というのも分かります。
私の方にも、私の中に先人達が残したものが無数に入り込んで自分になっているんですか
らね。個人の中には、実はいろんな人が残したものが入っていますよね。
私が善行をしようと思わずに善行する時は、極自然にというか、我ならざるものが動かし
ていると言う感覚もある。勿論、善い事をしようと思って善行をする事の方が多いのです
が、やはり自負心とか、プライドが芽生え易いかも知れない。さらに見返りを求める心が
善行の対象からの反応で不満や怒りに早変わりしてしまう事が多い。これは相対の定めと
しての禍なのでしょうかね。
極自然に湧き上がってくる好意を、極自然に受け入れてもらえる時が、一番清々しい。
こういう時は、人間やっててよかったなと思いますね。嬉しいですよ。「やってやった」
という気持ちは湧いてこないから。でも、世間、世の中では、これはかなり実践が困難な
ことですね。今、街を歩いていても、普通の人間としてのコミュニケーションすら非常に
難しいような気がする。無関心や、不審感が蔓延っていて。自分を省みての事ですが…。
400
横やりさん
いつもこのスレに御布施してくれて、どうもありがとう。
仕事で、お客さんの所などへ行った時、いい笑顔を示されると気持ちが善い。
私も、いい笑顔をできるだけ心掛けています。そうすると時々、爽やかな風
のようなものが、ふっと心を過ぎったりして、仕事の疲れや、嫌な思いを掻
き消してしまう。相手の眼を見ても、それは感じることがありますね。
そういう時は、静かな喜びが心に湧いてきます。実践は、ほんの小さな事で
すが、毎日心掛けています。(^^
402 :
弟子丸泰仙:02/12/15 18:58
沢木和向がいった。「成功しないように努力する。莫妄想」に、は、感心したものの、あまり次元
が高すぎて、さて、私のいまの会社での悶々の情を具体的にどう解決するか・・となると、それに
は西洋の哲人たちは、俗人には大変わかりやすく、細かに、分析的に教えてくれる。そのとき、シ
ョーペンハウアーの文が浮かんできた。
「われわれを時カ刻力悩ましている数多くの小さな不運は、われわれを練磨して、大きな不幸にも
耐えるようた力を養成し、辛福になってもけっして気がゆるんだりしないように鍛錬する使命をも
っているのだ……」
「そうだ、いま私の会社における小さな不運も、かえって将来のためには、いい経験となり、薬と
なるかも知れない・・・」
と思われてきた。そうしたらこんどはべートーベンの言葉が浮かんできた。
「偉大なる人間の本質的な特徴は、困難な逆境に耐えぬくことである……」
「そうだ、和筒は成功しないよう努力するといったが、私はすでに努力を要せずして、しかも成功
していない。もっと成功しまいと思えぱ、窓際で仕事をせずに、西洋の哲人の随想録でも読みつづ
けておればいいのだ。こんな楽な逆境はたい。それにできたてのチョコレートはタダで食べられる
し、……いや、こうとわかっていたら、チョコレートより、いっそ生麦のビールエ場へでも就職す
ればよかった・・・」とつまらぬ妄想をしていたらまた和尚が口宣でどなる。
403 :
弟子丸泰仙:02/12/15 18:58
「妄想を除かず、真を求めずと証道歌にあるのじゃ…」
「そうか、妄想を除かずか、ではまだ妄想をつづげてもよさそうだ…べートーベンは逆境に耐え
ぬけぼ、偉大なる人間の本質的な特徴を養成することになるといっておる。…この会社で逆境に
耐えぬげぱ、いつかどこかで、まかり間違って偉大なる人間にたるかも知れない…」などと、と
んでもたい妄想がつぎからつぎへと湧いてくる。そしたらまた和筒の口宣がつづいて聞こえてくる。
「妄想から逃げてもいげないし、それを追っかげてもいげない…」
「なんだか和筒はわげのわからぬことをいってるわい……。妄想を追っても、それから逃げてもい
けなけれぱ、妄想はいったいどうなるのかな…」と坐禅中の妄想はさらに方向を転換した。和尚
の口宣はしぱらくつづいた。
「逃げず、追わず、一法も捨てず、一法も取らず、一切合財打ち方やめじゃ。…おれのように正
しい者はあるまいといっている者に、けっして正しい者はいない。わしのような悪い者はないとい
う者には、けっして悪い者はない。そうすると妄想をしておるということが分かったということは、
妄想をしておらぬ証拠である…」
「なるほど、これでよくわかったわい・……」
「無明の実性即仏性、無明とは迷いの根本、迷いと、悟りと、品物が二つあるように思うげれども、
二つあるのではない。仏と悪魔とは同じ顔をしておるのじゃ…」
「和尚、途方もないことをいってるわい…」
このようにして、私の会社における悶々の情は次第に雲散霧消していったのである。
404 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/15 19:06
>>399 >有無の無に行くように脳の中が固まってしまっているようで。(w
この「固まり」を解いていくのを、「思考システムの破壊」と言うています。
「人格破壊」とは意味が違いますね(w
で、そこをドンドン突き進むと「瞬間」とゆうのが見えてくる。
瞬間は、生死の概念は既に意味がない。
あってなき。なきてあり。空。
あってあり。なきてなき。空。
405 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/15 19:33
>>403 >「逃げず、追わず、一法も捨てず、一法も取らず、一切合財打ち方やめじゃ
これは、馬に乗ってて手綱を引っ張たり緩めたりしてて、一瞬手を離した瞬間なんでしょう。
そのまま馬に跨ってれば良いんでしょうね。
落馬するかどーかは分からんけど。
406 :
名無しさん@1周年:02/12/16 20:06
止まりましたね。
>禅の宿命は、精神世界の自己確立。
>これの精神世界が、見性において一律同一か?ここが問題。
>本人のみ知る世界ゆえ、第三者が知るよしもない。
>ここが大きなジレンマなのではあるが、しかしそこを何とかクリアしないと前に進まない。
>えてして、こういった事を前提にしてみると、必ずしも「答え」が主眼でなくて
>トータルで「禅問答」の意義というものがあるのではないか?そう思ってしまうのです。
>勿論「答え」には、それなりの精神世界が反映されえいることには興味があるのだが・・
もう語ることは無くなりましたか?
もう語り尽くしましたか?
もう顎がだるくなりましたか?(w
>>406 禅を端的に表した素晴らしい文だと思います。
もし、書物から引用された部分がありましたら書名を教えてください。
一応、一応つっこみを入れさせてもらいますと、この場合「顎」では無く「指」です。(ご承知の上でしょうが)
>>404 >この「個まり」を解いていくのを「思考システムの破壊」と言うています。
なあ〜んだ。そうだったんですか。これならば私にも理解できます。(w
私は、今まで禅宗というと、人格を破壊するのが「禅」かと思っていました。(w
天上天下唯我独尊。仏陀におうたら、仏陀を殺せ…。こういうのが禅だと思っておりま
すものですから。いや、私の誤解も多いにあるのですが…。
>そこをドンドン突き進むと「瞬間」というのが見えてくる。
そうなんですか?よく、疑問に思うのですが「瞬間」というものですね。これは飛び飛
びなのでしょうか?つまり、有無、有無を繰り返すように。以前「映画の一こま一こま
のように…」とカキコしてありましたが、一こま、一こまというと、あるコマから次の
コマには、厳密に言うと連続性が無く(この無いは、有無の無という意味で)違うもの
です。時計で言うと、デジタル式になります。我々の認識方法では、それをどこまでも
追求していても、無限大や無限小の靄の中に隠れていってしまって、正確な認識には至
れない。
で、その「瞬間」が観えてくると、それが究極で、これ以上の追求は意味がないと言う
事になるんですか?
確かに、人間が悩んでしまうのは現象としての生死ではなく、概ね概念としての生死で
あるということには、納得がいきます。つまり、この概念というものを「本当にそうな
のかと、徹底的に疑ってみる」これも大変な道のりですが、非常に重要なことですよね。
自我の砦は、巌のように固く、それを精進で砕いても、死んだ振りも得意です。とても
一筋縄でいくようなものではありませんね。
専門家として教学も修行も、修めてきた僧侶達の中にも、様々な誘惑から道を外れてし
まう人がいるのは、それを如実に物語っているのでしょう…。
409 :
名無しさん@1周年:02/12/16 21:28
>>407 それは、髑髏氏に尋ねてくださいな。
>この場合「顎」では無く「指」です。(ご承知の上でしょうが)
いいえ、私は指でレスに「噛み付き」ますから、顎でいいんですよ。w
>>406 このスレの如き解説文の羅列を読んだところで無為、無作を会得する事は不可能、ということですか?
411 :
(−人−):02/12/16 22:04
>>410 いいえ、取り組まなければ避けて通れない疑問が在るのならば、語って語り尽くして搾り出して
尋ねて尋ねて尋ね尽くして、行き着くところまで行かないと心の平安は無いと言いたいのです。
>411
では、例えば複雑な要件が絡み合っている北朝鮮拉致問題に関し、
仏教者であるならばどのようなアプローチをすべきなのでしょうか。
413 :
(−人−):02/12/16 22:26
私なら、先ず今すぐ出来る事から始めたいとおもいます。
>>413 仏教者として、今すぐ出来る事とは具体的にどのような事でしょうか。
また、あなたはそれを既に実行されているのでしょうか。
415 :
(−人−):02/12/16 22:49
>>414 謙虚に実行させて頂いています。
人間であれば、人の痛みがわかるひとであれば、何方でも出来る事です。
いえ、既にしていることです。
誰でもわかることですが、世界中の「私だけ」に大切な事です。
とても傷付き易いものだから、あえて言いません。(^人^)
416 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/17 05:39
>>408 >で、その「瞬間」が観えてくると、それが究極で、これ以上の追求は意味がないと言う
>事になるんですか?
そうゆうことでは無いですね。あくまでもそれは原点です。
「今いる」とゆうのは、繋がり、関連性において「いる」んで、ここのとこを深く洞察するのが肝要かと思う。
私が「縁」と書かなかったのは、いろんな言葉で表現してみる。
そうするとより明確に把握できるようにる。
つまり、言葉の持つ概念に囚われれことのないように、自らの心のままの位相。
そのままでよろし。かと思ふ。
>>416 >私が「縁」と書かなかったのは、いろんな言葉で表現してみる。
これは、いい試しみだと思いますよ。そういう意味での禅の経典に頼らないという態度
は優れているのと思います。反面、一歩間違えれば…独禅的な境地に陥りやすい傾向
もあり、かなりの厳しさもあるでしょうが…。この厳しさを向けるベクトルのようなもの
を専門家でも間違えやすいということなのか…。
これは、誰から教えられるというよりも優秀な人物から直伝、若しくは己の地道な実践
からの反芻でしか、ものにできないのかも知れない。己の地道な実践というのも、孤独
なものでしょうけどね。ここになると、もう、学問ではなくなりますよね。ある意味
「遊び」の感覚に近くなってくるのかも知れない。
418 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/17 17:15
>>417 そうですね。
白隠の見性体験とゆうんがあるんでが、これは読み手の受け止め方で随分解釈が違ってきますよね。
神秘体験と言えば、神秘体験なんでしょう。そのまんま受け止めれば正に神秘の世界なんでしょう。
でも、神秘の世界がある訳じゃあないでしょう。
そこで何を受け止めるか。これが大事なんかと思います。
事象に気を取られて本質が観えず。
素敵な女性が歩いていて、美しさに気を取られ本質が観えず。
ここに通じるやに思ふ。
じゃぁ、その本質とは何ぞや?と煽られそうでつが、これは自灯明なんでしょうね。
私が既に答えを書いてある通りです。
ゆうなれば、白隠は女性の美しさを言うてるのとは違いまっせ。こうゆう事なんでしょうね。
419 :
(−人−):02/12/17 18:16
>>事象に気を取られて本質が観えず。
的を得ようと求める事が、かえって的をはずす事にもなる。
「目横鼻縦」自分らしさからははみ出すことは決してありえないが、
さりとて、如何なる時も自分自身の構えをチェックすること
この繰り返しが大事と言う事でしょうか?
ブランコ氏、髑髏氏、スレの上を行き交う人々が手を変え品を変え同じ問いかけを繰り返しながら
自己を創造してゆく姿には恐れ入ります。
「人間の尊厳」スレでブランコ氏の↓この言葉が私の胸を捕らえて放しません。
>必至に努力して、これさえ手に入れば満足だという物を手に入れて、
>客観的にその物自体に変化はないのに、何時の間にか色褪せてしまうということも考えられない。
>そうであれば外にある物を求めても求めても、ある意味徒労でもある。
>だからそんな時、心はある種の虚しさを感じるのだろう。自分の心がお留守になってますよって。
>なるほど私は納得して安心したのです。が・・・。では、内面にある不確かな心をどうやって掴めば良いのだろう?
>どうやって不確かなものを確かにすることができるのだろう?
>という疑問にいつの頃か発展していったんです。でも、その答えも、今ではかなり近付いたような気もします。
>で、同時進行でこれを他と共有し合うにはどうすれば良いか?集団心理と言うものがまだまだ理解できない。
>一人で居る時と誰かと居る時や集団で居る時では、明らかに引出される心理が異なっている。
>善く解釈すれば、一人の時はできない善行でも、集団化すると可能になってしまうのは何故か?
>その逆も然りということです。
420 :
(−人−):02/12/17 18:19
>目横鼻縦 ×
>眼横鼻直 ○
m(_ _)m
421 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/17 18:51
>>419 >さりとて、如何なる時も自分自身の構えをチェックすること
>この繰り返しが大事と言う事でしょうか?
そうですね。
参禅帰りの白隠が急に見性する。
「木々も私も一体となり命が繋がってる」。「なんと素晴らすい」。要約すればこんなとこ。
で、これは超リアルな世界のことかと思います。
木々と繋がっているんで「認識」できる。
この一瞬だから「素晴らしい」。
後に大悟して「眼横鼻直」。
神秘体験も「なんてことはない」。と、思えて「大悟」なんかも知れません。
実は「なんてことはない」。と。思えないのが無明なんかも知れません。
422 :
(−人−):02/12/17 21:11
あはははは。
何処かで見たクリシュナムルティ氏の
「真実は信仰と不信仰の間にある」ってやつでしょうか?w
「なんと素晴らすい」と「なんてことはない」の狭間ですね。
ブランコ氏はその狭間でブランコ遊びをしてるんでしょうか?
あはははは。
>>419 人間の尊厳スレですか…。だ〜れも見ていないだろうと、タカを括っていたのですが
流石は2CHですね。誰が見ているか分からない。まあ素人だから、多少はいい加減
な事をカキコしても許されると思ってはいるが…。
でも、扱っているものが扱っているものだから、身が引き締まる思いがしてきます。
私も結構「これさえあれば…」っていうものを手に入れてみたり、その立場に立って
みたりしたのに、ミルとヤルでは大違いで大変落胆していた時期もありましたね。
「こんなはずじゃなかった…!!」っていうやつでしょうか。
今では少しは分かって来て「こんなはずじゃ…」という事は少なくなりましたが後悔
すると分かっていながら、ツマランものに手を出してしまう事が結構ありますね。(w
これは、ハッキリ言って我ながら情けないところがあると思う。(w
生きている内に何とか直したいと思っているんですが、厳しい精進が必要なことなん
ですね。ここのところは言訳が立たない世界ですから。まだまだ自分自身に難儀して
いる日々でございます。雁字搦めの思考システム、侮り難しですね。気を抜いている
と、何時の間にかそのシステムで動いている自分を発見する。ではと、逆に気合を入
れていても、何時の間にかそのシステムが動き出している。わたしゃどーすりゃいい
んだよと投げ出してしまうと、更にそのシステムが迫ってくる。だからこそ、雁字搦
めというんでしょうね。
>>418 白隠さんのことはよく分からないのですが、釈尊の正覚もそうですよね。人に
依って解釈がマチマチで、その正覚も掴めない。
神秘体験と言えば、釈尊の六神通等もいろいろと言われていますね。私の個人
的な意見としては、そういうものも否定はしていません。私自身、神通とまで
はいかずとも、五感を超えた何かを感受する事が度々ありますから。
神秘という一言を取っても、受け止め方、感じ方は様々なものがあるでしょう。
以前、私は大枚を叩いて、霊能者と言われる人々を訪ね歩いた事があるのです
が、確かに、私には分からない何かを感受しているようですね。で、その中の
ある霊能者曰く、霊が見えたりするだけでは、ただの霊感に過ぎずそれをどの
様に受け止め、そのように解釈するかが、本当の霊能力なんだと仰っておりま
した。
これらのことに付いての私の意見は「世界には私の分からない事、理解できな
い事が山ほどある」ですね。そして、神秘の世界と、常軌の世界という具合に
分別するのはどうかと思います。これこそ私は一如の世界なんだと思う。
神秘というのは、何故に神秘なのか?常軌と言うのは何故に常軌なのか?毎日
太陽が昇るのが常軌で、極稀に不可思議なものを見たら神秘の世界だというの
なら、それは禍を呼ぶ解釈かも知れない。神秘即常軌。と言えるかも知れない
と私は思う。
以前、好きな僧侶は見当たらないとレスしましたが、尊敬できる僧侶ならおり
ます。海を越え、大陸を渡り、まさに命を賭けて仏教を学ぼうとした僧侶。
同じ様に、海を越え、大陸を渡って正法を伝えようと命を賭してやってきた僧侶。
頭が下がります。
425 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 06:40
>>424 >ある霊能者曰く、霊が見えたりするだけでは、ただの霊感に過ぎずそれをどの
>様に受け止め、そのように解釈するかが、本当の霊能力なんだと仰っておりま
>した。
そーですね。
まず、どーにでも解釈できる事を→知る。これが大事なのかも知れません。
禅師は、不立文字を駆使してトクトク説明しようとする。
これは伝統的なんでしょうけど・・・
クリシュはそのてん、言葉の使いかたが非常に上手かと思いますよね。
「信仰と不信仰のはざ間」。とゆう表現は芸術の域のような感動をおぼえます。
426 :
(−人−):02/12/18 07:30
>禅師は、不立文字を駆使してトクトク説明しようとする。
>これは伝統的なんでしょうけど・・・
>クリシュはそのてん、言葉の使いかたが非常に上手かと思いますよね。
言語学的な漢字の壁が横たわったまま禅を導入したからでしょうね。
道元禅師はその誤解をなるべく取り除きたかったのだろうとおもいます。
新しい経典の作成を考えてもよい時代なのかもしれません。
で、ガイシュツかもしれませんが良し悪しは別として、そのような取り組みをされている方を一人。
↓
あたりまえのことを方便とする般若経
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/
>>425 そう、暗くて寂しい夜道を歩いていれば、風のざわめきもお化けの仕業に見えて
くるわけですよね。神秘と言う言葉も、解釈の幅のある言葉の代表格かもしれま
せん。以前に友達が、神秘的な音楽を聞きたいと言われて、私はこれは神秘的な
音楽だろうと思って、聞かせてみたら「全然神秘的じゃねーじゃねーかよ」と言
われてしまいましたよ。(w
私は、オカルト的なものは阿頼耶識的な部分から出てくるものではないかと思う。
そこで、引っかかってしまう修行者も多いだろうし、衆生となれば幽霊騒動など
は、大騒ぎも無理はないと思います。しかし、ここのところに確りとしたスタン
スが持てると、無明に向かう姿勢は、レーザー光線のようになるのかもね。
私自身のオカルト的なものとのスタンスは、今のところ「暗闇怖し」です。だか
ら、森林での夜間の禅定に挑戦中です。まだ、厳しいです。(汗
でもね、たった一人、暗闇で瞑想していると、暗闇だからこその、無明が見えて
くるような気がします。昔の修行者は、これが平気だったのだろうから、凄いな
と思います。まあ、世界が暗かったからもあると思いますが。
428 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 09:43
>>426 HP見ました。
このHPの管理人は、随分自由な発想する方ですね。
で、釈尊も「自由な発想」においてはこの管理人と共通性があるかと思います。
私は一通り読んだんですが、私と考え方は似ています。
後でジックリ読んでみようかと思いブックマークはしときました。
宗教特有のドグマがないんで非常に高く評価はしとります。
現段階の印象ですが・・・
も少しHPを拝見してみませんと分かりません。
429 :
名無しさん@1周年:02/12/18 10:00
\ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O 。
, ─ヽ
________ /,/\ヾ\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_ __((´∀`\ )< 髑髏仮面=釈尊というお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/''' )ヽ \_________
||__| | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从 | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\ / ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/ = 完 =
430 :
名無しさん@1周年:02/12/18 13:58
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431 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 17:34
>>427 >私は、オカルト的なものは阿頼耶識的な部分から出てくるものではないかと思う。
ユングの集合意識とか、フロイトの夢判断とかの世界に発展しそうですね。
何らかのかたちで、胸騒ぎとか虫の知らせとか、そんな経験?した人だと入り込みそうな気がしまつ。
ユングは元々神秘主義者だから、オカルトと言えばそんな感じもしまつね。
どーなんでしょうか?私もそこのとこは分かりませんが・・・。
>>431 私くらいの世代になると、オカルトものは避けて通れないものだったと思いますよね。
UFОだとか、超常現象の世界などは、子供ながらに惹かれていた記憶があります。
まあ、全ての人がという訳でもないでしょうが、割とそう言う事に肯定的な人が多い
ような気がします。
でも、そういうものの情報の殆どが、警告ものだとか、暗いものが多かったのが残念
だと思う。そうなると必然的に良いイメージが湧いてきにくくなりますからね。
私は個人的には、フロイトやユングはそれぞれ唯識でいうところの真那識、阿頼耶識
に該当するものを扱ったのだと思います。だから、唯識学というのも凄いものだと思
いますよ。でも、この辺にさ迷い込んでしまうと、出口のない迷路をいつまでも歩き
続けることになると思いますね。私も、大分迷いましたから。その迷路で…。
まあ、その辺の苦悩が仏教と私を繋ぐ橋になったのでしょうが。私の意見としては幽
霊等の類も全て阿頼耶識から出てくるものだと思います。つまり、人間の作った「概念」
なのだろうと…。そこでは、ガンジーの言葉を借りると「我々がもし、皆神の子なの
ならば、全ての人間の犯す罪も、全て共有しているはずだ」と、いうようなものに通じ
ているのではないかと思います。でも、これも一つの「概念」ですよね。真如を表す。
天台思想に「十界」と言うのがありますよね。六道輪廻の世界から、三乗の世界、佛の
世界というように。これも、そうだと思うんですよ。人間の心に掛け甲斐の無い仏性が
あるならば、どうにも救われない絶望の地獄もあるわけです。でも、これも「概念」な
のだと思います。真如を表すための。
433 :
名無しさん@1周年:02/12/18 19:53
(続)
で、その「概念」を使って様々なものを創造できるのが、人間の精神なのかも
知れないと思うんです。逆に「概念」を創造できるから人間と言えるとも言え
ますが。
だから、以前「その、阿頼耶識さえも捨てるのですか?」と聞いてみたんです。
つまり阿頼耶識は「人間の作ってきた」概念の限界なんじゃないかと思うんです
ね。だから、必然的に十牛図の第八図では、人間さえも消えてしまうのでしょう。
ここまで行って、初めて全ての事の、本当の意味が理解できるんじゃないかと
私は考えているんですね。無我になって初めて我が分かるというような…。
それが、無我という境地なのかも知れません。だから、この境地まで辿り付く
までは、自覚的に阿頼耶識を超えることは不可能ではないかと思います。
無自覚的に超えてしまえば、それはもう「私は神だ。私は仏だ」の世界に足を
掬われてしまうか、幽霊、亡霊の恐ろしい類に悩まされる事になるのでしょう。
しかし、そこまで辿り付いていなくても、これらは全て「概念なんだ」という
事に気付く事が、何よりも重要な心構えだと仏教では、教えていますよね。
人間は「概念」を使って様々なものを創造できる存在なんですね。で、その
「概念」を使って何をしますか?と言う、これが人生なんだろうと思う。
だから、人生はどれだけ自覚的でいられるか?これが一つの勝負のようなもの
のような気がします。
で、髑髏さんに聞きたいのですが、自覚的でいるのと、無我は相反するものだ
と思われますか?
私は、相反しないだろうと考えています。つまり何某かの概念に乗っかってし
まっているのが「我」で、全ての概念を「これは概念である」と自覚している
のが無我なんではと考えるからですね。如何なものでしょう?
434 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 20:49
>>433 >で、髑髏さんに聞きたいのですが、自覚的でいるのと、無我は相反するものだ
>と思われますか?
有と無相反しますね。だから本来でしたら有も無もない。どちらが有か、どちらが無か分からない。
無自性なんだから、有無は無。無とゆうのがない訳ではない。無とゆうんが有る訳ですね。
だから空は自体化できない。空は空なり。よって無我は相反ではない。二項対立の無ではない。
>私は、相反しないだろうと考えています。
そうゆう意味では相反しない。
>全ての概念を「これは概念である」と自覚している
>のが無我なんではと考えるからですね。如何なものでしょう?
これは認識かと思う。識は色で五蘊。→これを空の位相において無我。五蘊は空→無我。
435 :
(−人−):02/12/18 20:58
>自覚的でいるのと、無我は相反するものだと思われますか?
>つまり何某かの概念に乗っかってしまっているのが「我」で、
>全ての概念を「これは概念である」と自覚しているのが無我
>なんではと考えるからですね。如何なものでしょう?
私も興味あるところですから横レスしちゃいます。
m(_ _)m
心に浮かんでくる様々なもの全てが所謂ココで議論
している所の「概念」であったり、自覚的「我」で
あったりするわけですね。
で、その「概念」や自覚的「我」そのものの本質が
無我(様々な縁によって一時的に成り立っているもの)
であると、観念的に解釈いたしましたが、如何なものでしょう?
436 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 21:21
>>435 そうですね。
縁によって「我」を認識できる。
縁がなけりゃ認識できない。無自性だとすれば。
437 :
(−人−):02/12/18 21:43
ところで、、、、。
>髑髏仮面氏
「あたりまえ〜」HPの小論文にありました「いつも化システム」
ですが、如何受け止められましたか?
氏の常々論じておられる「雁字搦めの思考システム」にからんできそうですね。
何でもかんでも明らかになりすぎるのも、道が狭くなったようで曰く言いがたいようにも感じますが。w
438 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/18 21:52
>>437 >「あたりまえ〜」HPの小論文にありました「いつも化システム」
>ですが、如何受け止められましたか?
本文と自己紹介のとこをよみました。
小論文は、明日の早朝にでも読んでみます。
タイトルの印象より、かなりアカデミックな感じのHPですね。
少々興味はあります。
では、では、おやすみ。
>>434 >そういう意味では相反しない。
今の自分にはそれだけ分かれば十分ですね。
そう言えば、昨日亡くなった親友が夢に出てきましたよ。これで二度目ですね。
最初は、学園祭に行った晩に。夢の中で私は告げた。「お前は死んじまったんだよ」
ってね。そうしたら、何か怒っているように「上等ッスよ」と開き直っていた感じ
だったな。昨晩は、「あれっ?お前、死んじまったんじゃなかったっけ…」と言った
ら「死んだわけじゃあねえッス」と言って、何かあっけらかんとしていたな…。
しかし、夢の世界というのも、摩訶不思議なものですねえ。普通の感覚では、出鱈目
不条理もすんなりと受け入れられてしまう。現実に奴がドアを開けて入ってきたら、
ぶっ魂消ること間違いなしだとおもうのに、夢の中ではそれは当たり前という感じ。
440 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/19 07:39
>>439 信長の舞もこんな感じですね。
「人生50年、下天の内にくらぶれば夢まぼろしの如くなり」。
光秀の謀反にあい、あっけない人生の最後。
信長は、ある程度じぶんの最後は予想してたんかもしれませんね。
下克上の世の中は、常にこの恐怖があったんかと思ふ。
いわばこの恐怖の表れか?
あの舞は・・・。
441 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/19 09:59
>>437 >「あたりまえ〜」HPの小論文にありました「いつも化システム」
>ですが、如何受け止められましたか?
現象である自己が、現象である自己をどう問うのか?
この命題に関して、以前私が「主客未分化」を言うたら、「未分化」の表記は可笑しいんじゃないか?とレスが入った事がある。
「未分化」とゆうのは「未だ分けられてない」と受け止めたらしい。
この私の説明しづらいとこが非常に上手く説明してある。
つまりこうゆう事なんだろう・・・
色即是空→空即是色。
色→空→色。
主客対生成→色
主客対消滅→空
主客対再生→色
ここのとこの説明(神秘体験。主客未分化)が良くできてる。正誤は別として説得力はある。
また、神秘体験と精神分裂病は興味を持って読ませて頂いた。
類似性?とゆう考察がなかなか面白い。
神秘体験が瞬時であり、反面ビョ−キは永続性があるもんでしょうから、再考察が必要と思われる。
だがしかし、ビョ−キに接点をもってきたとこのユニークさは高く評価したい。
この探求心こそが重要なのだある。
442 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/19 10:05
>>437 トータル的には・・・
「いつも化システム」は共感できる。
非常に参考になりました。
いわゆる今回は、お題を頂戴しましたから色々私なりに答えを出していきます。
443 :
名無しさん@1周年:02/12/19 19:45
>>441 >神秘体験が瞬時であり、
反面ビョ−キは永続性があるもんでしょうから、再考察が必要と思われる。
そうは思わんがね。(クス
444 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/19 19:48
>>443 ああ、瞬時の意味が分からんか・・・。
それでもよかろう。
445 :
名無しさん@1周年:02/12/19 20:13
>>444 言句に頼らねばならぬものなれば、投げ出さずに「瞬時」の意味も明確にしておくべきであろうものよ。
446 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/19 20:54
>>445 そうだね。
30分でも瞬時であり、3時間でも瞬時なんだね。
つまり時間の単位ではないんだね。
連続性がない、とゆうことだね。
447 :
名無しさん@1周年:02/12/19 22:30
懲りん香具師やなしかし・・・
>>440 私などは、下克上の世界に生きているわけではないけれど、そういう「恐怖」はあり
ますね。信長といえど、というか、独裁者って割りとこの「恐怖」の虜なんじゃないの
かな。力世界の頂点なんて究極の「我」を演じるんだから、それもそうだと思いますよ。
その立場は想像以上に厳しいと思う。信念と夢幻の狭間で己を見失っていく…。
そういえば「信仰と不信仰の狭間」というのは、巧い表現ですよね。ともあれ、人間
というのが、そういうものなんだな〜と、つくずく思いますよ。
人間を語るなら、そういうドロドロした部分というのも無視できないと思う。体裁が
あるから、普段はそういう部分というのは隠されていますけどね…。
それだけでは、えげつなさ過ぎるが、それを抑圧して隠さねばならんようなのもまた
苦しいですからね。で、何処かで切れてしまう…。最近巷では心を病んでいる人がと
ても多くなっているような気がする。神秘体験などしていないのにね。
まあ、世間には力の理論がまかり通っていますからね。つまり強力なパワーで他を制
せれば、それは安穏であるはずだ。というような。
一方、求道者は力で制するものは儚く、道理を乱すと知って心の安らぎに向かってい
くのでしょうね。人間というスケールになると、極少数派でしょうが。。。
そういえば、434の最後…
>これは認識かと思う。識は色で五蘊。→これを空の位相において無我。五蘊は空→無我。
確かに433の最後は認識ですよね。
で、五蘊の全ては無常なものだから、この識も我ではないということでしょうか?
しかし、これは…。まさに、雁字搦めの思考システムですね。雁字搦めの思考システムで
雁字搦めの思考システムの鎖を噛切るのか…。確かに壮大なドラマが必要かも。
449 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/20 08:33
>>448 >この識も我ではないということでしょうか?
自性しての我はない。ないけど識(認識)において「ある」。
ないけど「ある」。「ある」けどない。これが、明確な区別がつけられない。とゆう訳です。
じゃあ、なんでそうなるのか?と言うたら縁起なんでしょう。
こうゆうところを禅師なんかが言語を駆使して不立文字で表すんでしょうけど、
>信仰と不信仰の狭間」というのは、巧い表現ですよね
こうゆう言いかたもある。
つまり、言語自体が既に分別してますからね。その概念で全ての真意は伝わらない。
じゃあど−するか?
何々のあいだ。とか・・
中道、中庸なんかが良いんかとおもいます。
やっぱ、逝きつく先は一如の法門かと思いますよね。
450 :
(−人−):02/12/20 09:25
でもね、ほんとにほんとのところは、人は何によって心の平安を得るのか
又は不安を離れるのか、誰にもわからないことだよね。
一応、道らしきものは在るみたいだけれど。
鰯の頭で救われる人もいれば、マザーテレサでさえ裏切る人もいる。
素晴らしい学問もあるにこしたことないけれど、鰯の頭みたいな他愛も無い
副作用の軽い薬じゃ効かなくなる。
こう言う事もタマには考えてみる。
451 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/20 12:25
>>450 >一応、道らしきものは在るみたいだけれど。
道らしきもんがあれば、ワラジを履いて充分あるける。
キャビアじゃなくても、鰯の缶詰でもご飯があれば充分だし、
あとは、雨露しのげば何とかなる。
「生きる」とは、こうゆうことかも知れんね。
道に倒れた人がいたら「どーすますたか?」。と尋ねる。
宮沢賢治の世界か・・・・。
「生きる」とは、こうゆうことかも知れんね。
452 :
(−人−):02/12/20 12:27
それにしても、ツバメの渡りには何か意義があるのでしょうか。
長旅をして、巣を作り、卵を産み、一所懸命餌を運び、また長旅をして、、、。
ツバメの生活に生活を超えた目的や意義を求めてもむなしいだけです。
そうではなく、風を切って翻る瞬間の身のこなし、
大きく開けた雛の口に餌をほうり込んでやる瞬間、電線に並んで夕日を浴びながら羽を繕う時、
そういう瞬時、時間が、かけがえのない時で、意味があるとかないとかは問題にならない、
けして対象化されない生きた時間であり、それこそが他のなんのためでもない、
それ自身で価値のある時間なのだと思います。
-------------------------------------------------曽我氏HPより
453 :
(−人−):02/12/20 12:33
>>髑髏氏
「どーしますたか?」
と尋ねてくださるのですね。
けふは心が泣いているのでありますよ。
少し時間がひつようなのでありんす。
ありがとう。
>>452 割り込み御免。
以前、グッドウィルハウンティングという映画を見たのですが、最愛の妻を亡くして
生きる気力を失った精神科医が、心を病んだ青年と心を通わせていく映画なのですが
ね、そこでその精神科医が亡き妻との想い出を語るんですよ。「日常の何気ない仕草、
第三者にとっては何でもない些細な事がとても大切な想い出なんだよ」ってね。
これ、私はいい得ているな〜と思うんですよ。私も大好きな兄を失いましたが、同じ
思いです。何か、私もね、今際の際になったら、何か特別な事をした事が恋しくなる
んじゃなくて、何気ない日常が恋しくなるんじゃないかと思う。愛する事の素晴らし
さは、それを掴んだ時じゃーなくて、手を離した時こそ本当に分かってくるんじゃな
いのかな…。人間には、無くした時に初めて重要な事の理解に至る事が多いと思ふ。
かの、釈尊でさえ、自分の命の火が消えるのを前にして、何をしたかと言うと、故郷
に帰る旅に出たそうですからね。80才の老体にとっては、厳しい旅であろうにそれ
でも故郷を目指すんですね…。
何処で死のうが「ありのまま」と言う境地はあったのでしょうが、釈尊は故郷を目指
したんですね。故郷へ帰るというのは、愛着があるのを認めるようなものですけどね。
私は裸の人間としては、愛着があるのが自然の人間だと思うな。これがなければ人生
砂漠でしょう。。。
えらい湿っぽいスレになってきたな
457 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/20 20:35
>>455 そうだね。
人間、裸で生まれてきて色々な縁によりて生かされてるんだね。
母乳であったり、山の幸・海の幸だったり、瞬時・瞬時が関わりをもってる。
それで生きている、生かされている。これのことなんだね。
あとは何もない・・・・。それだけなんだね。
ちと寂しいか?
ん〜なことはない。これこそスンバラスイのか?
意見が分かれるかと思ふ。
実はここのところが一番深いとこかと思うよ。奥の院かと思う。
458 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/20 20:43
生死大海で溺れ死ぬか?
たどり着くか?
ギャ−ティー、ギャ−ティーのとこかと思ふ。
>>449 よく、瞬間、瞬間と、非連続ということを言われますが、存在、認識、言語
などは悉く、全てを包含するものでなく、ある部分を担っているものですよ
ね。こういう意味においては、瞬間、瞬間、非連続であると言う事も私にも
理解はできると思う。例えば…
>つまり、言語が既に分別していますからね。全ての真意は伝わらない。
こういうことだと私も思います。我々が何をしようとも常に不完全だとも言
えると思うし…。
釈尊の説法にしたところで、待機説法と言うように相手の機が見えなければ
話し様がないとも言えるのでしょう。さらに、反対する事に存在意義を見出
すような人には「何を言っても伝わらない」という意味で、縁なき衆生は…。
というのが出てくるんだと思う。
>じゃあどーするか?
という部分では、私は、私になるのが一番良いんだと思っています。その「私」
というのが、根本的に何なのか?が問題ではあるのですが…。
しかし、それが解らない自分にとっては、取り敢えず分かる自分で生きるしか
ない。その分かる自分というのは、過去、現在、未来で変化していく自分ですね。
仏教的に言うと、こんな感じでしょうか…
かつては怠惰に流され、流転の人生を送っていたが、善く説かれたる仏の教えに
出会った今となれば、私に精進があり、やがては流転の苦しみを終える涅槃に赴
くであろう。まあ、こんな感じなんでしょうか。。。
>>456 >いらい湿っぽいスレになってきたな
砂漠のような乾燥地帯には、丁度善いのではないかな。(w
プロテスタントだの禅だの、皆博学だあね。
あっちふらふら、こっちふらふら。
あれは良い、これも良い、釈迦はこう言ってます、この人はこう言ってます、良いHPがあります、髑髏さんの意見は素晴らしい、・・・・・・
それで一生終わるぞ。
>>462 貴方は他人にケチ付けて一生終わりますか?
ぜひ貴方の高邁なご意見を伺いたいです。^^
>>459 関係なくないのではないかな…。割り込んだのは私だしね。それにこのスレ
は仏教に限らず、もっと広義な意味で人生や、心の安らぎをテーマにしたい
と思ってるんですよ。
私も激しくお勧めを鑑賞してみようと思ふ。今度感想カキコしますよ。
>>463 ケチつけていると思ってしまう所が直さねばならぬ所。
>>465 空気を読め。
流れから見て、明らかに
>>462はけちをつけている。
>>465は、「ケチつけていると思ってしまう所が直さねばならぬ所」と
思ってしまう所が、直さねばならぬ所。
467 :
(−人−):02/12/20 22:38
>>465 おゃ、ご親切に。w
貴方の慈悲に感謝いたしましょう。
468 :
(−人−):02/12/20 22:45
469 :
幻想暇問答スレ:02/12/21 00:34
直ぐお隣りの北チョソの映像を見たまえ
生きるとは、ああいうことなのだよ
不生不滅なぞ、何の意味がある
470 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 04:54
>>460 >かつては怠惰に流され、流転の人生を送っていたが、善く説かれたる仏の教えに
>出会った今となれば、私に精進があり、やがては流転の苦しみを終える涅槃に赴
>くであろう。まあ、こんな感じなんでしょうか。。。
十牛図によく似たお話がありますよね。「青い鳥」です。
「青い鳥」を探し求めたんだけど結局は見つからなかった。だけど大切な事が何なのか?が解った。
こうゆう事なんでしょうね。
即心即仏なんだけど非心非仏。いわゆる無なんだけど、ただの無なら溺れ死んじゃう。
「無」の何たるやを知る。ちゅうのが彼岸に渡るとゆう事なんかと思います。
>>469 あなた、それを経験して言っているわけじゃあるまいし、分かったような事言うもん
じゃありません。夢幻、幻想にしろ、自分達の事を語るのが宜しいかと思う。
夢幻幻想の類でも、自分の内側に語るだけのものが観えれば、の話しですがね…。
>>466 >空気を読め。
このスレの空気?病院の待合室。顔色悪き病人達が発するジトッと饐えた臭いが充満。
自分の病気について得々と語る奴、同じ病気仲間を見つけて喜ぶ奴、医者気取りの奴、
病気であることを知っているのは自分達だけだと言わんばかり。そして傷の舐め合い・・・・
一番の問題は、肝心な医者がいない事。 ここは医者のいない病院。
473 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 08:30
>>472 >肝心な医者がいない事。
この発想がオモロイ。
なにやら、高橋圭子と称する名医がおるそうじゃ。
それらしきHPもあると思うぞ。
尋ねて逝ったらどうか?
474 :
(−人−):02/12/21 08:44
>>472 幸せという漢字の語源をご存知ですか?
「幸」の字はもともと死刑囚を縛る手枷の形を表すものなんだそうです。
所謂「死」を象徴するものなんですね。
それがなんで「しあわせ」なのかというと、ナニカの弾みで皇帝の恩赦をえて
命を永らえた時に感じる感情を表現したものなんだそうです。
我々定命の者は皆、死刑囚であり不治の病と戦うものとも言える訳ですね。
定めし命の中で何を如何「観ずる」かは、囚人に残された最後の自由です。
>>472さんも、ここまで言えばもうお分かりでしょう。
願わくば貴方の心にも平安が訪れますように。
475 :
名無しさん@1周年:02/12/21 08:47
>>472 糞みたいなれすにも、イパーイれすが付いていいナー。
>>475 何が言いたいのかようわからんが、ほれ、おまえの糞れすにもれす付けてやるよ。
>474
博学だな。しかし言葉は言葉だ。言葉食って生きているのか。
病院患者の戯言は無責任さから来る偽善で散りばめられている。
478 :
幻想暇問答スレ:02/12/21 12:16
>>471 あなたが如何ほどの内的仏性とやらを、例えば光の曼荼羅世界、たちのぼる
虹、宇宙創生の原初音の中に実際に体現したかは検証する由もないが、
>夢幻、幻想にしろ、自分達の事を語るのが宜しいかと思う。
>夢幻幻想の類でも、自分の内側に語るだけのものが観えれば、の話しですがね…。
の文面からは、他人を見下したような心の断面しか観えてはこないよ。
自己の経験世界に埋没しないで、
よろず生きとしいけるもの、山河草木、ふく風 立つ波の音までにも、
その体験を共有しようと思うなら、尚更の事。
479 :
(−人−):02/12/21 12:34
>>477 懐かしい。^^
私にも丁度今の貴方のような時がありました。
いえ、今でもありますね。w
ここだったか何処のスレだったか忘れましたが、今の貴方のような気持ちのときに
出合った言葉をも一度紹介しましょう。
「善い事をしてさえ悪いのに、悪いことをすれば余計悪いに決まっている。二重の僻事である。by道元」
今の貴方のヤルセナイ気持ちが何によって救われるのか私には解るはずもありません。
ただ、誰もがそんな気持の一つや二つ抱えている事をお忘れなく。
でもねぇー。そんな時に正論言われると余計腹立つのヨねぇ。w
だから、もっと優しくいってあげるね。^^
ビョーキはお前じゃ!ヴォケ!
あふぉは黙って早いとこ病院いけ!!w
熱いレスをお待ちいたしております。m(_ _)m
480 :
(−人−):02/12/21 12:42
>>478 売られた喧嘩は気持ちよく買うのが2ch的愛。
481 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 12:59
誰に言うともなく、スレの流れで思いだした事を書きましょう。
されど我らが日々。
そうであった、あれは人生の「はかなさ」を知ってしまった日でもあった。
そう「人生ははかない」。
しかしながらそれは、生命の輝きを知ってしまう一瞬でもある。
何たる事や?
妄想・幻覚に非ず。
しかしながら、私は深いことを言うておるので分かる人と、そーじゃない人と二分されるであろー。
482 :
名無しさん@1周年:02/12/21 13:18
深いだの浅いだの言う人は絶対に信用してはならない。
483 :
名無しさん@1周年:02/12/21 13:45
>>481 クサイけどツンとくるぜぃ。(TーT)凸
私は深いことを言うておる。
私が善悪の基準じゃ。
485 :
名無しさん@1周年:02/12/21 14:06
言ってる本人からして二分している
迷いじゃな
486 :
名無しさん@1周年:02/12/21 14:13
そうじゃよ
そーいうておる
セリフ以外にこんなしゃべり方する人いるの?
487 :
名無しさん@1周年:02/12/21 14:18
>>486 いるじゃん。やたら芝居がかった人が、このスレに。
488 :
名無しさん@1周年:02/12/21 14:20
489 :
名無しさん@1周年:02/12/21 14:55
>>486 夜中に徘徊して車に轢かれてしまった近所のボケじいちゃん
490 :
名無しさん@1周年:02/12/21 15:38
\ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O 。
, ─ヽ
________ /,/\ヾ\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|__|__|__|_ __((´∀`\ )< 結局は、ナルシスな駄スレというお話だったのサ
|_|__|__|__ /ノへゝ/''' )ヽ \_________
||__| | | \´-`) / 丿/
|_|_| 从.从从 | \__ ̄ ̄⊂|丿/
|__|| 从人人从. | /\__/::::::|||
|_|_|///ヽヾ\ / ::::::::::::ゝ/||
────────(~〜ヽ::::::::::::|/ = 完 =
491 :
名無しさん@1周年:02/12/21 15:43
>490
荒川区ボデービルダー大会スレへようこそ
492 :
名無しさん@1周年:02/12/21 16:39
>>478 ちょっと、ちょっと、469の自分のレスを棚に上げて何を言い出すのか。そもそも私
の人格など、あなたには関係のない事だろう。いきなり469のようなレスを打ってく
るような方には文面から察するが如く、個人的な人格など窺い知って欲しくもない。
そもそも、北チョンの映像を見たくらいで、何が分かると思ってレスをして来たのかな?
そんな映像を見ても、幻想、妄想を膨らますのは同じ事。何か訴えたい事があるのなら
素直に心を開いて、第三者にも理解しやすいような文面にしたらどうなのかな。何も恥
ずかしがることもないだろうと思う。
素直に、私の内面を語りたいんですけど…。と何某かを語るのなら、私も人格を表す様
なレスを頑張って打つでしょう。相互関係とは、そういうもんですよ。
だから私は、基本的に好意的なレスを打ってくれる人にしか、好意的なレスは打ちませ
んよ。しかも、その好意は分かり易いものじゃないとダメですね。神仏とレスを交して
いるわけじゃなく、人間同士でやっているんですから、当然の礼儀の話なんですがね。
494 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 18:30
「されどわれらが日々ー」 柴田翔著 (抜粋)。 わたすが青春時代に読んだもんでふ。
そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。・・・人は生きたということに満足すべきなのだ。
やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。
その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じような困難があった。
もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。
そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、
時代の困難から抜け出し、新しい世界へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。
#学生運動に興味のある方は是非とも読んでくらさい。
495 :
:幻想暇問答スレ :02/12/21 18:37
>>493 生真面目な性格なんですね
そういう写実画的お怒りをいただくとは、2chでは感激もんです。本当!
あなたのような方こそ、求道者の鏡と申せます。
善財童子のような一途な初々しい内面が垣間見えるようです。
他スレで散々に叩かれて、その叩かれた者が、今ここにて見ず知らずの
他人を叩く。人間の業ですなあ。悲しい性ですなあ。
不快感を与えた事、切にお詫び致します。
スレを復活なさって下さい。
何人たりとも、中断させる権利なんて持ってはいないんですからね。
追:拙者がレスしたのはほんの数えるほどなれど、
流れを変えたのは申し訳ない。合掌
496 :
名無しさん@1周年:02/12/21 18:43
>>493 夏の北海道のユースホステル的ノリを求めているわけだね。
スレオフ会は全員フォークギター持参で。
>1の時点でそう書いておけばいいのに。
それよりもボクの僧帽筋、ビューチフルな盛り上りを見せてるぜ。
>>472 そうだよね。病人だよ。おまけに壊れてる。以前に湾岸線を250キロで走りまわり
何とか300キロにまで達したいなどと、狂気をホザイテいた若造がこの私だからね。
しかも、心の中は怒りで一杯でね、ボクシングなんかやったりして周りに迷惑をかけ
ないようにしておった。しかし、本気で殴って殴られている内に、私は誰かを殴るの
が嫌いな人間なんだと初めて分かったよ。
まあ、それはさておきだ。釈尊も心の病気だったんだぞ。しかも自分で治した。医者
にばかり頼るなということを我々に教えていった人でもあると思うぞ。
先ずは、自分の病気に気が付くことが先決だ。ところで、あなたはどんな病気かな?
恥ずかしくて、語れないか…。無理もないな…。
自分の欠点を白昼のもとにさらけ出すのは、勇気もいることだからね。
498 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 19:07
そうか?若者は病んでいるのか?
しかしながら「生きてきた」んだと、年老いた時に言える青春を過ごしてもらいたい。
「路傍の石」の吾一少年のよーに、たった一つの命、精一杯生きるんだ!
それじゃないと生きてきた意味がないじゃなか。
青春を無駄にすることなかれ。
499 :
(−人−):02/12/21 19:21
>>496 あはははははははははは。
貴方すごいよ!!!!
よくぞそこまでいえたもんだと、感動すら覚えます。w
捻くれたまんまでいいから、なにが言いたいのかちゃんと言ってみて。
怖くないから、ね。^^
500 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:24
若者よ太陽にほえろ!
今を生きろ!
団塊の50代野郎どもから産まれた世代が一番腐ってる
子育てを誤った
501 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:30
年寄りと行く忘年会はつらいよ
昔の自慢話ばかり
相手にしてあげると喜ぶが
きつい
502 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:32
ブランコと髑髏仮面似てるな
503 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 19:33
>>500 さりげなく500をgetして、さりげなく若者を批判しとるね。
504 :
(−人−):02/12/21 19:35
今宵はよくうごきますね。
500を越えて今一度スレを振り返ってみております。
505 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 19:41
>>501 >昔の自慢話ばかり
そーか?
しかしあの時代はベトナム戦争があったからね。
反戦→左、と結びつきやすかったんだろーね。
こりゃなんとかせにゃあかん。とゆーことで若者が立ち上がったんだろーね。
そーゆー時代だったんだな、あの時代は。
こうゆう話を聞きたがる若者が多いね。なんでかなぁ?
506 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 19:47
実は、若者は学生運動に興味を示すのは、そうゆう時代に生きたかった。ちゅう願望があるんだろーな。
それも分からんでもない。
よーわかっとるよ(w
507 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:53
学生運動やってればカッコイイと思ってた
なんちゃってが多かったんだね
思想もないのに
そんなバカ親に育てられた子供は・・・・
508 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:56
残念ながら今の若人にあるものは。。。。
セックス・ドラッグ・電文的人間関係・世界は変わらないという思い込み
雁字搦めの知識・電気やガスがなければ今日も生きられない脆弱さ・
脆弱さを隠す為の傲慢さ・・・・・。
生物としての限界が見えるな。
509 :
名無しさん@1周年:02/12/21 19:58
510 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:00
団塊ジジイは、単なる敗北者リーマンか、世捨て人か、今でも己を貫いている生き残り。
敗北者よ! お前らの熱気は何だったんだ! 単なる麻疹だったのか!
総括もしないで、のうのうと生き恥を晒している無様な姿を、鏡に映してみろ!
511 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:02
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 総括しる!
\
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
( ´Д`)
/⌒ ⌒ヽ
/_/| へ \
(ぃ9 ./ / \ \.∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ ./ ヽ ( ´Д` )< 総括しる!
( / ∪ , / \_______
\ .\\ (ぃ9 |
.\ .\\ / / ,、
> ) ) ./ ∧_二∃
/ // ./  ̄ ̄ ヽ
/ / / ._/ /~ ̄ ̄/ /
/ / / )⌒ _ ノ / ./
( ヽ ヽ | / ( ヽ、
\__つ).し \__つ
512 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:05
>>510-
>>511 かの団塊のオジサマ達も若いときそうやって親を困らせたもんじゃよ。
進歩が無いのう。ヤレヤレ。
513 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 20:06
>>507 >学生運動やってればカッコイイと思ってた
つーより、青春の血潮を熱くしたことあるか?
こうゆう経験が出来ないからなぁ、こうゆー不景気な時代じゃ。
そういった、青春を駆け抜ける経験がほすいと思うね。
こればかりは自分で探さねばならんのだろーが。
514 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:08
そうだ おじさまたちのウィークポイントは今の自分に自慢する内容がないことだ
悟った ありがとう
>>495 いえいえ、あなたがお詫びするなら私もお詫び申し上げますよ。人はみな同じ
穴の狢だと思うんですね。私も同じ事をした覚えがありますから。
人間はみな同じだと思うんですよ。怒り、恐れ、貪り、掘れば掘るほど湧いて
きてみんな困っているんだと思います。
私は、求道者の鏡なんかじゃないですよ。あなたこそ求道者の鏡を観ているの
だと思います。善財童子のような清々しい内面もあなたの心が映したものです。
私のではありません。レス一つ交しただけでそれが心に映ってきたのでしょう
から、私は、ほんの小さな縁にしか過ぎないんですね。でも、善き縁になれて
幸いに思います。
516 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:11
>>513 青春の血潮とは景気と連動するのだな
なるほど
517 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:23
今の中学生以下は恐ろしくしっかりしている。
高校生・大学生・フレッシュマン連中もしっかりしている。
年寄りも不遇の青春を送ってきた分、味がある。
一番駄目なのは25歳から55歳まで。
つまり俺達だ。
この世代をまるごとブッコ抜けば良い社会になるらしい。寂しい限りだ。
518 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/21 20:24
>>516 時代が変わっても「困難」な事には変わらない。
以下はコピペ。
**********************************************************************
そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。・・・人は生きたということに満足すべきなのだ。
やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。
その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じような困難があった。
もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。
そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、
時代の困難から抜け出し、新しい世界へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。
**********************************************************************
519 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:28
>>517 35歳から45歳くらいまで外してもらえないか?
520 :
名無しさん@1周年:02/12/21 20:57
>>519 それはちょ〜っと で〜き〜ない〜 相談ね〜♪
>>457 >実はここのところが一番深いとこかと思うよ。奥の院かと思う。
図らずとも、いきなり奥の院ですか?
確かに何時の頃からか、勝手に生きていると言う考えから、生かされていると言う
考えに変わってきたとは思う…。この思考システムのシフトもキツかったですね。
>生死大海で溺れ死ぬか?
>たどり着くか?
これが「悟る」と「悟らない」の分別か…。
生死大海で溺れても死ねないのが苦しい。溺れては生き返り、溺れては生き返りを
繰り返している。ブランコは行った切りでなく、戻ってきちゃくから。飽きないん
ですよ。懲りないんですよ。と言うことは私はやはり悟れないと言う事か…。
まあ、いいや。私が悟ってもどうせすくにコケルんだろうから。一瞬、心が広がり
大きくなっていく事はあっても、すぐに戻ってコケテしまう。まだ心に垢がこびり
付いているんですね。そこで「おや!」と考えてしまう自分がいる。う〜む、雁字
搦めの思考システム、これは確かに侮り難いですね。
522 :
名無しさん@1周年:02/12/21 21:29
一番ダメな世代か…。ニュータイプ覚醒に失敗した世代だな。シャーアズナブル
の世代ということか…。通常の衆生の3倍の精進が必要かな?(w
524 :
(−人−):02/12/21 22:08
とりあえず、500の折り返し地点を過ぎたところで前半のマトメを私なりに。
良いとか、悪いとか、悟ってるとか、悟ってないとか
泳いでいるとか、もがいているとか、
安らいでいるとか、苦しんでいるとか、関係無し。
何処までいっても、わが人生から落ちこぼれる心配は無し。
「今 ここ バリバリ」←これ最強。
皆様いかがでせうか?
525 :
(−人−):02/12/21 22:11
あ、「俺」は、わざとはずしました。m(_ _)m
>>524 結論も出たことやし、ほな終わりにしよか。撤収〜♪
527 :
名無しさん@1周年:02/12/21 22:45
おまいら! 今の40歳前後は、スポコン世代だから気合い入っているぞ!
みんな飛雄馬にあこがれて、大リーグボール養成ギプスをしていたもんだ。
528 :
名無しさん@1周年:02/12/21 22:55
そうだそうだ 40歳前後を髑髏仮面といっしょにするな
桜木健一を見て柔道を始め
森田健作を見て剣道を始めた世代だ
529 :
名無しさん@1周年:02/12/21 22:57
531 :
名無しさん@1周年:02/12/22 00:15
自分、最近死にかけまして、
それ以前は自分が死ぬなんてちっとも考えてなくて好き勝手にっていうか
別に人に迷惑はかけてないけど、ほぼ自分のためだけに生きてきました。
でもって、ある日突然死ぬかもよって感じの宣告されまして、
そりゃもうびっくりしまして病気が治るかどうかより死ってものでげっそり疲れました。
今まで生きてるうちで精神的に1番というか飛びぬけて苦しみました。
まあ…いま治療して治っちゃったわけですが。
喉もとすぎればなんとやらで、今ちょっと精神的には復活してますが、
またあのときのような暗闇状態にもどるかも…と想像するだけで恐怖です。
今も病、様子見の最中なんで、もしもの時のために死ってものをちゃんと考えてみようと
挑戦中です。でもまだなんせ初心者でして、今はまだただただ死=恐怖です。
このスレ発見して読みまして、かなり勉強になりました。
でもまだ読んだだけで理解するまでは遠いです。
死ってのを意識しだして以前のように心の底から物事を楽しめなくなった。
自分のためだけに生きてきたから、自分の心配ばっかしてるんです。
自分より大切な誰かを持つことができたら、そういう苦しみから解放されるものなのですか。
でもこういう考え方ってやっぱ自分勝手なんですかね。
死に対する初心者はまずなにをすべきなんでしょうか。
なんかすごい色々考えてる人たちがいるので、
なんかちょっとでもアドバイスくれたら嬉しいです。
532 :
名無しさん@1周年:02/12/22 01:31
533 :
砂上の楼閣:02/12/22 01:54
センエツながら
あれから八年の1・17阪神・淡路大震災から
何かを感じとっていただければ、うれしゅうございます。
神戸三田キャンパスはどうなったかしら?
535 :
神戸からの手紙:02/12/22 02:43
神戸市内でも北区は、大阪や京都並の震度だったので三田市ともなれば
まったくと言っていいほど被害は、なかったと思われます。
キャンパスは、くゎんがく?
今、TVで「拉致家族」のドキュメンタリーやってますけど神戸の有本サン
震災もかいくぐり、死なずにまた逢えると思っていたのに・・・・
生きていると確信して、また元気取り戻してガンバっておられますが
「つらいですね。つらいですねぇ・・・・」
>>535 あなたいつ寝てるの?
私はもう寝るニダ
537 :
震災、死にそこない:02/12/22 03:09
苦しみ・悲しみにうちひしがれて・・・
健康には好ましくないでしょうが、考えるところがありまして
振り返ってみれば、この一年、睡眠時間は一日五時間そこそこ
だったでしょうか。もう、寝ます。しかし、先程の番組を見て
今夜も、なかなか寝れそうにありませんが。おやすみなさい
538 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 05:55
>>531 >自分より大切な誰かを持つことができたら、そういう苦しみから解放されるものなのですか。
情緒的なもんはあまり関係ないかと思う。
ただ、自分が死んだときに残された家族や周囲の人になるべく迷惑のかからんように日頃から考えておくべきかかと思う。
保険や預貯金の情報はPCに入力いておくのが最低限のマナーかと思います。
あと、不用になった自分の持ち物なんかは早めに処分しとく。
そうゆ行為において、段々自分なりに「生死」と真っ向から対峙する時間をもつ。これだ大事かと思う。
人間の命は、はかないもんです。
しかしながら、貴殿は医師や看護婦(士)達の縁によって、かろうじて生き長らえた。
人との繋がりが如何に大事か。
「今ここ」に居るのが如何に大事か。
これを深く思推すべきかと思う。
されば答えが見つかるかと思う。
如何でせうか?
539 :
名無しさん@1周年:02/12/22 07:30
「真の癒し」はどこまでも孤独な作業
改めてそう思わせるスレ也
540 :
名無しさん@1周年:02/12/22 07:58
>>531 > 死ってのを意識しだして以前のように心の底から物事を楽しめなくなった。
死にきっていない、つーか、精神的な死を体験すべきだったと思われ。
> 自分より大切な誰かを持つことができたら
そりゃ、依存だな。
541 :
名無しさん@1周年:02/12/22 08:09
ひとつ ひとつ
かたずけてゆくんだね
具体的にね
みつを
542 :
名無しさん@1周年:02/12/22 08:11
>>531 マジレスしますよ。
「死」に付いて思い悩むのは、一つの悟りのステップだと思いますよ。仏教の祖師で
ある御釈迦様も、煎じ詰めれば「死ぬのが怖いから出家した」のだと私は思います。
つまりそれだけ自分にとって「死」がリアルだったということでしょう。その辺の件
は、経典にも記してあります。要約すれば「私は、人間が死ぬものであると気が付い
た時、青春を謳歌する気分は、全く無くなってしまった」と言う事ですから。
で、俗人は凡夫(仏教用語では悟りを求めない人)ですから、如何に快適に、気分良
く、楽しく過ごせるか、こう言う事を追求するのが幸福への道だと何処かで思ってい
るんですね。人間として生れ落ちたなら、誰もそうなるのが当然の事とも思いますよ。
そこで、何故に宗教などが生まれてきたか?なんですが、それは多分、隠して隠して
隠し通しても、何処かで人間の「死」と言うものを無視する事ができないというのも
また、同じ人間としての性なんだと思うからですね。
「死」に対しての心の平安を得る為に、或いは死までの限られた時間を有効に活かし
たい為に、宗教と言うものが活きてくるんだと思います。これが真理だ、あれが真理
だとか、争う為にじゃないでしょうね。つまり宗教の究極は、自らの「死」に向いて
も、心穏かで過ごせる精神、心、これに尽きると思うんですね。
(続)
で、私はどうかと言うと、やはり死ぬのは嫌だし、怖いんですよ。(w
でも、それと同時に「人間として生まれてきて善かった。色取り取りの様々な
想い出に有難うよ」というような思いもあるんです。(w
これは、混在しているような感じですね。そこで、自分がどちらへ向かいたい
のか?向かっているのか?これを知るのは自分以外の何者でもありません。
これは、何人たりとも同じ事だと思います。この処だけは、直接的に誰かに助
けて貰う訳にはいかないようです。
人間は、自らの死を悟ったならそれを何とかして追い払おうと、必死の努力を
するでしょう。その努力が何処へ向かっているかが、一つの分起点かなとも思
います。
恐ろしい事に、人間は何処かで死に憧れる。死のう、死のうと願っている部分
傾向もあるようですからね。分かり易く言うと自殺願望でしょうか。
こういうものに乗っかってしまうのは、前者の選択だと思います。殆ど無自覚
的だと思いますが。でも、その反面全てを活かそう、活かそうといする傾向も
あるんですね。これは後者の選択だと思います。これは侭に反転している時が
あるようですから、観ぬくのには少しコツがいるかもしれません。
最後に、あなたの恐れている死は、その現象でしょうか?それともそれに対す
る概念でしょうか?多分、後者だと思うのですが、これをよく洞察することを
お勧めします。あと、本当に悩んでいるのなら、確りとした教えに学ぶのが何
よりの近道かと思います。
545 :
(−人−):02/12/22 08:52
>>531 貴方の心が安らかでありますように。
貴方を支えている身の回りの方たちにも心安らかでありますように。
同じく命定めしものとして心からお祈り申し上げます。
死出の旅路は誰にとっても初めてのもの、
ココもお互いの足元を照らしあえる場となりますよう
宜しくお願い申し上げます。
昨晩、というか今朝はこのスレにしては大盛況だったみたいだなあ。
私も一緒に遊びたかったが、疲れていたので早めに休んでしまった。
ゼナを飲まなかったのが、不味かったか…。
「疲れがなんだ〜〜〜!!」と、パワフルに遊びまわればよかった。
547 :
名無しさん@1周年:02/12/22 09:30
薬の力で遊んでどうすんの。このスレに対する執着が相当強いな。。。。
>>538髑髏仮面
531も笑ってるだろうよ
私も腹が痛いほど笑ってる
どうしたらいいですか?
549 :
名無しさん@1周年:02/12/22 11:44
>加護亜依
何が如何可笑しいの??
あんたの頭がおかしいのか?
550 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 11:48
>>548 存分に笑ってくれたまえ。存分にな・・。
「あーーーっはっはっはっは」。
こーうーふうに笑うんじゃよ。
そのまんまでよろし。
分からんでイーーのだよ。
それでも生きていける。
551 :
名無しさん@1周年:02/12/22 11:48
>>549 もしかして、どこがおかしいかわからないの?
それはスレを立てた本人ですからね。当たり前でしょう。私だって遊びたいんだよ。
薬の力で遊ぶのも悪くはないと思うぜ。ところで、食事は摂ってますか?あなたは
食事を摂って遊びに備えることはないんですか?ないとしたら、可哀想な人ですね。
食事も薬も根は同じでしょう。食わなきゃこの身はすぐに衰えてしまうものだから。
仏教では、食事は薬と同じという認識だそうですよ。どんな時に、何をどう摂るか?
これが智慧というものだそうです…。
現代のハイテクで生み出された医療用の薬剤にしたところで、服用して元気に世で
活動できる御時世だよ。正法はハイテクを禁止するとでも思うの?使いこなせるの
なら、使いこなす方がベターでしょう。変な知識に翻弄されてハイテクは環境に悪
いだの、薬剤は副作用が怖いだの、そういうものが先行し過ぎている嫌いがある。
つまりは、その辺の自己責任という重荷を背負うのが怖いからかね。誰かのせいに
して、自分は安穏を貪りたいと思うからかね。
私は、昨夜ゼナを飲まずに早く休んだ。折角の機会だったのだから、ゼナを飲んで
遊べばよかったなと思っただけなんだよ。
それで、いきなり「執着が強いな。。。」かい。あなた、相当執着に拘っているね。
きっと、こっちへ行っても、あっちへ行っても誰かの執着が目に付いてしまうんだ
ろうね。で、何処まで執着から逃げるつもりですか?「執着がなんだ〜〜〜!!」
とそれを背負って超えるのが本道だろう。執着から逃げて道を生きられるかって。
執着上等!!執着してやるさ。とことんな。だが、道だ。執着に翻弄されながらも
「是が執着の味であり、これが執着の禍である」と自ら覚るための執着上等ッスね。
なんだ、加護亜依って統一教会なのか。
ただの私怨でココ荒らしてるのね(;´Д`)
他の荒らしも大凡ご同業だろう。
吉外ドモよ勘弁してくれ、ここは真面目なすれなのだ。
556 :
名無しさん@1周年:02/12/22 12:20
558 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 12:29
別に分からんでも良いぞ。
「死にきる」。
分からんでもイイ(ワラ
>>558 おまえが一番わかっとらん
まあそれがかわいいところだ
あーーーっはっはっはっは こうじゃな?
>加護亜依
いいから、いいから、ココはね幼児性の抜けない人の来るとこじゃありませんよ。
おうちに帰っておとーたまにすがりなさい。
それが貴方の安心。(w
一日数分だけ遅れる時計と、止まってしまっている時計では、どちらが良い
時計だろうか?一日数分だけ遅れる時計より、止まっている時計の方が正確
な時間を差す事は多い。だが、それが正しい時間だとどうして知ることがで
きようか…。ああ――っ、分からん!!縁って冥福魔道を行く。(w
>>560 真剣に貧弱マッスルを見せ合うスレがスキ
楽しいな、楽しいな、お化けは死なない〜
試験もなんにもない!
ゲ ゲ ゲゲゲのゲー
みんなで歌おうゲゲゲのゲ(w
下下下の下にはならないようにしたいね。
まあ、そこまで落ちなきゃ分からない時もあるかもね。
南無三
髑髏仮面も貧弱な大殿筋を見せるときは顔を隠すんだね
565 :
名無しさん@1周年:02/12/22 13:02
不妄語、綺語、
お釈迦様は戒めておられます。
566 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 13:04
>>564 んなことはない。
ドンとぶつかってきなっしゃれ!
いつでも受ける所存なり。
東より陽いずることりありても西よりいずることなし。
迷うことなかれ。
いつでもわらわはそちの味方じゃよ。
>加護亜依
脳内サミット中だから、わかんないだろうけどね。
わたすは髑髏ぢゃないよ。
それとね、最初はわからなかったけど
今は、よーっくわかるよ、アナタノ言葉には何も無い。
虚無だね。ムナシク過すのと己を空しくするのとアナタには
分からんだろうなぁ。
だからといって、憐れとは思わないよ。
それもアナタが望んだ生き方。
アーメン
568 :
名無しさん@1周年:02/12/22 13:09
>>566 住所教えて。
ぶつかっていきたい。 4tトラックで。
569 :
名無しさん@1周年:02/12/22 13:10
>549
「虚無」と「無」の違いは?
残念ですが、少し遊びから離れます。出かけなきゃならなくなった…。
仲良き事は美しき事なり。袖擦り合うも他生の縁。縁は大切に…。
気が済むまで、とはいかずとも結構遊ばせてもらいました。ありがとう。
貧弱なマッチョメン達よ、また遊ぼうネ。私も貧弱故、鍛えておくから。
>>567 勘違いもいいかげんにしなさい
髑髏の別人格は名無しだ
わたすを放置できないあなたはだあれ?
>>531 遅レス(?)ですが。
解決策は、自分以外のものの中に、「自分自身」をみつけることです。
最初のステップとして、共生・共存を意識するあたりから
はじめてみられてはいかがかと。
>>569 コップ一杯の水を見て
一杯しかない、と思うか。
この一杯に無限の恵みをもたらすには是いかに、と思うか。
の違い。
572の続き
究極の「内心の平安」は、全宇宙が自分自身であると実感することのようです。
これを悟りというそうです。(推定でスマソ)
「
>>571 勘違いも甚だしいのはアナタ
>>549・
>>556 のレスは私。
流れをよく見ろ、イチャモンつけてるのはそっち。
それすらも、わからんか?
>>573 無知があなたの救いであるということだ
覚えとけ
>>575 無知君
おまえが髑髏に似せるために(ニガワラヒを使ってみたのは知ってるわい
そんなことではない あぁ鈍感
でも利用させてもらった
579 :
名無しさん@1周年:02/12/22 13:32
>>573 >この一杯に無限の恵みをもたらすには是いかに、と思うか。
洒落た事言うね。般若心経の解説で伝家の宝刀の如く出てくるやつだね。
たださ、無限であるのなら糞レスも恵みだぜ。恵みに対する扱いが粗雑じゃないか?
結局、気の利いた文章読んでなんとなくその気になっちゃっただけだろ?
そりゃあさ、老年の良寛に「無限の恵みじゃよ」と言われちまえば「すげえ」となるけどさ。
おおー
良寛もそう言ったのですか。w
残念ながら、先ほどのはわたしのオリジナルですよ。
>たださ、無限であるのなら糞レスも恵みだぜ。恵みに対する扱いが粗雑じゃないか?
そうですね、糞スレを必死で投げてきたら糞スレを必死で投げ返すのがココの礼儀と心得ております。
良寛みたいにはなれないでしょうが、必死でかかわり合う姿勢は見ていただきたい。w
どんな糞レスでもついているだけでうれしいモンですよ。^^
581 :
あいぼんファソ:02/12/22 13:42
>加護亜依 頼むからこの「加護亜依」という固定ハンドルは、やめてくれ。
あいぼんを貶める行いは、ヤメテクレ〜〜〜
あいぼんを貶める行いは、ヤメテクレ〜〜〜 ヤメテクレ〜〜〜
出かけなきゃならなくなったから別の名で出てくるよ
583 :
メロン記念日:02/12/22 13:45
>>581 本人だって言ってるでしょう
加護ちゃんはもういないよ
584 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 16:29
分からん自分を捨てきってみなされ。
それとて不増不減。さよう、もうお解かりだろーよ。
増えることもなし、減ることもなし、なんにもなし。
「生まれいずるも分からねば、死んだ先まで分かりょうか?」。 by盤珪
もともと「ない」もんが、こうして心臓が動いていて、なおかつ息を吸ったり吐いたりしてるではないか。
それで充分ではないか。
こうゆうことだと思うよ。
>髑髏仮面さん
前にも書いてられましたよね。身辺整理はさっそく実践してます。
いろいろ片付けはじめると、これが不思議と楽な気持ちになってくるのが不思議です。
>「今ここ」に居るのが如何に大事か。
これを感じるのはとても難しいです。
今はただ、将来起こるであろう妄想にひたすら悩まされている状態です。
答えがみつかるかるとしたら、たぶんずいぶん先に進んでからだろうと思います。
>ブランコさん
ありがとうございます。たいへん勉強になりました。
実は入院中頼ったのは聖書です。仏教系の本も手にしたのですがわたしには難解でした。
それまでは神の存在など信じない宗教などアホらしいと思うタイプでした。
ただ聖書にはずいぶん慰められたのは事実ですが受け入れがたいものも感じます。
>最後に、あなたの恐れている死は、その現象でしょうか?それともそれに対す
>る概念でしょうか?
自分自身に対する執着、周りの人に対する執着が強くあるのではないかと思います。
自分が自分でなくなることが怖い。
大切な身内や友人と永遠に会えなくなることが怖い。
…自分でも死のどういう部分が怖いのかと具体的に考え出すと、
これが自分でもさっぱり分かってなかったりします。
どっちにしろ、このままではどうしようもないので仏教系の本などで勉強してみます。
ただ、いまでも目に見えるものしか信じられない人間ですので、
どこまで理解できるか不安ではありますが。
>545
ありがとございます。これからもこのスレはロムしつづけると思います。
586 :
名無しさん@1周年:02/12/22 16:56
髑髏仮面はお坊さん?
587 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/22 18:21
>>585 >今はただ、将来起こるであろう妄想にひたすら悩まされている状態です。
あんまり考え過ぎますと精神的にガックリきますからね。
ストレスが一番良くありませんよ。
こうゆう場合、私は「自分とは何ぞや?」とゆうふうにベクトルを変えますた。
「汝自身を知れ」ちゅう格言がありますが、なかなか自分とゆうのは分からんもんですよ。
>>586 坊主ではありませんね。
お茶飲み話しが好きな、せこい爺さんですよ。
粗食なんですが料理にはウルサイ方ですよ。
588 :
メロン記念日:02/12/22 20:16
589 :
メロン記念日:02/12/22 22:34
590 :
(−人−):02/12/22 22:50
今宵は平和な夜ですね。
それぞれの夜には眠れぬ夜も恐怖に怯える夜もあるでしょう。
そのいずれもが尊いと貴方は仰るのか。
願わくば只、心安けく。
おやすみなさい。
>>585 仏教の本は、われわれ素人が読むときは専門書は避けた方がいいと思います。
法話集とかエッセイとか講演録とか。そこからでもいろいろと見えてくるものはあります。
弟子丸泰仙、大森そうげん、山田無門、あたりは読みやすいかと。
それと、特筆は無能唱元。ある部分の経をかなりわかりやすく解題してますので
参考になると思います。
聖書系は、いったん咀嚼し直したもののほうが良いでしょう。
マーフィーシリーズとか、ナポレオンヒル系。日本では桑名一央の系列です。
周辺から攻めていった方が、本質をつかみやすいと思います。
教義化しているものを学問チックに、あるいは原書を読め的アプローチでは
永久に本質に出会えないと思います。
(もっとも、非力な素人が、と言う前提です。宗教を職業的にアプローチしている人は
また別の土俵で論じるべき問題であろうと思います)
それと、
小室直樹の「宗教原論」は、それらの宗教のさらに外枠を知る上で、触れておくのが
良いと思います。宗教というもののおおまかな全体像が見えるので、個別に触れるときに
ガイドラインになるからです。
592 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 01:44
>>521 >>実はここのところが一番深いとこかと思うよ。奥の院かと思う。
>図らずとも、いきなり奥の院ですか?
やはり四苦の「生老病死」は避けて通れない。
特に「生死」は大事なとこかと思います。
>>569の・・・
>「虚無」と「無」の違いは?
ここのとこが非常に重要ですよね。
つまり、現象である自分が現象である自分を内観する。このジレンマ。
これを「生死大海を渡る」なんかと思います。
593 :
ちゅうどくたいりく:02/12/23 02:06
2ちゃんをやってると、平安。
裏を返せば、2ちゃんをやってないと
もっと言うと
2ちゃんしか楽しみが・・・・(以下、筆舌に絶えず
594 :
名無しさん@1周年:02/12/23 02:17
>>592 おっさん、今日は夜なべかい?
にしても「生死大海を渡る」が好きだネー。
もそっとだね、自分の言葉にならないのか?
いつまでも人の言葉を借用して得々としてんじゃねーよ。
595 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 07:42
>>593 >2ちゃんしか楽しみが・・・・(以下、筆舌に絶えず
2ちゃんの時は、なりきって書き込む。
料理を作る時は、なりきって作る。
種を畑に蒔く時は、なりきって蒔く。
生きるとは、そうゆうことかと思ふ。
後ろめたい気持ちがあるんなら、2ちゃんはやらんほうが良いかと思うよ。
596 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 08:17
>>585 >生死大海を渡る
一般的、抽象的いいかった。
大きな船でも、小さな舟でも「渡る」。そうじゃない「渡る」。
舟に乗らないで、ヨイヨイの爺さん、病気の婆さんが渡る。
生老病死で、現実のまんま渡る。
だから生死大海。
分からんかったらそれでも良いんだよ。
それでも生きていくのに支障はない。
597 :
(−人−):02/12/23 08:56
>>596 達磨大師が武帝との会見の後、折り取った葦一本で揚子江を渡ったという伝説を思い出しました。
異国で我が信念のみを頼りに生きていく事は、まさにその様な心境であったことでしょう。
>>591 横やり氏の紹介された本の中のいくつかは、私もご縁をいただいた事があります。
最初から最後まで付き合える本ですね。私からもオススメいたします。
598 :
名無しさん@1周年:02/12/23 09:06
>>591 をゐをゐ、無能唱元が「特筆」かよ。
小室『日本人のための宗教原論』は、宗教音痴のニッポン国民必読の書だな。
599 :
名無しさん@1周年:02/12/23 09:18
皆が最も愛する書は何だい?
ちなみに俺は「ドン・キホーテ」だな。「世界で最も優れた本」に選ばれただけのことはあるな。
ドンちゃん基地外だと思って読んでいたが、どうやら俺の方が基地外だったらすい。
未読の御仁、もし読むなら全巻読むべし、じゃよ。
600 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 09:19
>600
少なくとも会話じゃないんだからさ、残るものなんだから。
勢いに任せず見直してから送信しような。これ常識、エチケット。いい加減覚えなさい。
ちみの大好きな「整える」ってそういうことだぞなもし。
はじめまして
私はある全国チェーンの支店に勤めていましたが、店の方針について
実績だけを追求しながらお客さんを大切にすることを忘れている上司と
意見が合わずに退職しました。
しかし職安に行っても全く仕事が決まりません。もう、退職してから2年です。
アルバイトだったらあるのですが、家族6人を養えません。
退職金も底をつき、生活費としての借金も増えてきました。
一生懸命生きるだけでは救われないのでしょうか?
もう死ぬほうが楽です。
603 :
名無しさん@1周年:02/12/23 10:31
>>602 >アルバイトだったらあるのですが、家族6人を養えません。
んなこたない。俺もそうやって育てられてきたから。アルバイトだけでも生きていける。結局「やる気」だろ。
604 :
(−人−):02/12/23 11:02
>店の方針について実績だけを追求しながらお客さんを大切にすることを
>忘れている上司と意見が合わずに退職しました.
お客様を大切にすることはわかっても、貴方が背負っている家族を大切にする事を少し忘れていたようですね。
大変残念な事です。お父さん頑張ってください。家族みんなで足並みを揃えて頑張ってください。
人並みを忘れれば、食べていく事は難しい事じゃありません。
弱気に潰されてはいけません。頑張ってください。
605 :
名無しさん@1周年:02/12/23 11:07
家族にも働いてもらえや。親戚は活用できないのか。
インターネットができるようならまだまだ大丈夫。
世の中には11人の子供を育ててる人もいるぞ。
しかもひところ、生活保護状態にあった。
北朝鮮を見ろ。牛の糞を洗って出てきたトウモロコシを食料にしてるぞ。
もう死ぬほうが楽?
みんなもそれぞれそう思いながらもがんばってるんだから、
あんただけ抜け駆けしようってのは甘い。
家族、親戚、公共施設など、いろいろ力を借りれるところを探して頼んでみたらいい。
死ぬ気になったらたいていのことはできる。
606 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 11:26
私は今の世相を観て、結婚を敬遠している者です。
家族などの背負うものがないほうが得策なのではと思っています。
昔、中村雅俊のふれあいという歌の歌詞に「人は皆、一人では生きて
いけないものだから」というのがありましたが、最終的に、人は一人で
生きていかなければならない。私は、いい年ですが、借家住まいで、
ローンは有りません。貯金こそが、将来の不安を払拭してくれます。
私の場合、リストラに脅かされている現状の為、結婚というのは、砂の
上に家を建てる行為に等しいのです。結婚しないと心の平安が得られない
わけでもない。皆さんはどう思われますか?
607 :
名無しさん@1周年:02/12/23 11:27
>>602 なんだかんだいって、みんなおまいさんにガンバッテ欲しいんだナー。
608 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 11:28
>>601 すまんこってす。
慈悲の心で整えてくだされ。
>>602 >実績だけを追求しながらお客さんを大切にすることを忘れている上司と
最近、中間管理職で能力が著しく低下しているのが以外と多く見受けられるね。
営業でも、下手な人間が多すぎる。
私は、独自で練りあげた「100円商法」を考えだした。
色々野菜を取り混ぜ「100円こっきり」。これはなかんか評判が良かった。
最初は100円の客でも、200〜300円は買うようなる。そこが商売。
軽トラで売りあるいたもんだよ。
よーするに、アイデアを活かせてはどうか?
小額取引で客を取り込む。ここが先決。地固めしてそれから商売。これが順序。
それぞれに自分の才能を活かせたら、それが一番いいんだけど。
609 :
名無しさん@1周年:02/12/23 11:30
>>606 人それぞれ、と言ってしまえばそれまでだけど。
アル←→ナイは究極的には関係ないとおもわれ。
610 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 11:39
>>609 なるほど。
貯金額の大小=心の平安の大小 というのはあると思います。
あと、健康というのは一番の財産ですね。
611 :
名無しさん@1周年:02/12/23 11:44
>>610 分に応じて足るを知る。としか言いようがないですね。><
健康は授かりものですね。無くして初めてわかるのは何でも同じ。
612 :
あー、なりたきゃねえ なりたきゃねえ :02/12/23 12:02
こらっ、仮面ジーサン
>>593 は、1年365日ずーーーーーーーーーーーっとやってる
テメーのことを言ってるんだよっ。 テメー、テメーなんだよっ!
ったく、これだからガンコじじいは
613 :
名無しさん@1周年:02/12/23 12:04
>>612 あなたも好きなのですね、○○仮面さんが。
614 :
名無しさん@1周年:02/12/23 12:05
もしルーレットして下のどれかにあたったら凹んでしまう順に順位つけてね
おたく・ヒッキー・二浪して法政・一浪して工学院・現役Eランク大・高専・不細工・貧乏・童貞・低身長・デブ
主観でいいよ
615 :
名無しさん@1周年:02/12/23 12:08
>>614 低身長−デブ−貧乏−不細工
それ以外はヘコむ程のものじゃないな。
616 :
名無しさん@1周年:02/12/23 12:09
ヒッキーは凹むだろ
617 :
名無しさん@1周年:02/12/23 12:11
>>616 精神的にキツイのはわかるが、家族に守られながらの生活でしょ。
まだまだ甘いよ。
618 :
(−人−):02/12/23 12:15
>>610 横レスすみません。
個人的なことですが、禁煙を初めて小一年がきます。
喫煙しているときには、タバコが(一時的にも)ストレスを解消してくれていると思っておりました。
やめてみてよく解かったのです、がタバコが欲しいという事自体がストレスなんですね。
ストレスでストレスを誤魔化してる。そういうこともあるのだなぁということです。
わけ分かりませんが当てはまるところもあると思うのです。
619 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 12:22
>>618 タバコ=ストレスでは無いと思います。私はストレスが多い時は
無性にチョコレートが食べたくなります。タバコは結果的に有害
であるというだけではないでしょうか。
620 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 12:26
>>606 >最終的に、人は一人で生きていかなければならない。
レスを拝見しますと、「中村雅俊」ちゅうとこで年代は私と近いと思いまふ。
そうですね、あのころですとダンディイズムとかローンウルフとかヒッピーとかの一種の美学がありましたね。
人間形成に大事な時期に培われた精神構造は、今なお健全ですよ。
一人暮らしの時期が長かったですから、炊事・洗濯・掃除が結構スキな方です。
私は家族がおって、それなりの責任は果たしますが、やっぱりどこか一人暮らしの魅力とゆのは根底にはあります。
だいたい人間そうなんじゃなかと思います。
「濡れ落ち葉」なんて老後もあるみたいですけど、私はそうなりたくはないですね。
621 :
(−人−):02/12/23 12:28
う〜ん。
タバコは例え話でして。。。
622 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 12:35
>>620 男にとって孤独・一人の時間・自由は必要だと思います。人間形成の
為に家族が有ったほうが良いというのはありますね。
>>621 これは失礼。深い読みをする感覚で読んでいませんでした。
623 :
(−人−):02/12/23 12:36
>>622 うまくいえなくてすみません。m(_ _)m
624 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 13:16
>>622 不妊症の夫婦がおりまして、どーしても子供がほすい、とゆうことでセッセコセッセコ婦人科に通った。
しかし、何年経っても妊娠する気配すらない。
とうとう夫婦は不妊治療を止めて、子供を諦めた。
数ヵ月後に自然妊娠したそうです。
夫婦は歓ぶのかと思いきや、子供を堕胎したそうです。
つまりに人間は、ほすいと思えば限りなく「ほすい」。なんでしょうし・・・
「ほすい」とゆう概念に雁字搦めになるのも人間。
一端あきらめて・・・
その概念がなくなった時に「ほすい」もんがかえって邪魔になる。
ああ、かくたるや人間かな。
625 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 13:28
>>624 普通の人生という枠組みを気にし過ぎてる所ってありますよね。
サザエさんに違和感を感じます。私の友人によると、小学生の運動会
での昼食は、ござを敷いて家族で食べないで、教室で食べるそうです。
離婚して母子家庭の家が多いのを考慮しているとのこと。
離婚するなら結婚しないほうが良いのですが、人並みのものは、ほすい
という事で、結婚をあせりますね。結婚が苦労の本格的なスタートに
なると思うのですが。私の友人のお小遣いは、月3万です。
626 :
(−人−):02/12/23 13:34
人間何処までいっても持って無い物がホスイですね。
ないものを欲しがるひとは多けれど、あるもので満足できるひとはほんとに稀です。
それゆえに、涅槃寂静の道は厳しいのでしょうね。
ヤレ耳の痛いはなしです。(笑
皆様に触発されて・・・・(藁
今回の私の発言は、思い切り極私的感想です。
肉体的 精神的 財政的 時間的 空間的。
これらすべての自由と引き替えにしても惜しみないもの。
こういう結論が出たら、結婚しても後悔はしないだろうと思う。
誤解と錯覚という力を借りずして、こういう結論を出すことが果たして可能であろうか。
人生観や趣味性行が、大から小に至まで同じ人というのはあり得ない。
ギャップを埋めるのは厳しい。どちらかが或いは両方が耐え忍ばねばならん。
おまけに、自分のわがままによる相手の苦痛をお互いに自覚するのに
時間と愚かな失敗の繰り返しが必要とされる。
人生のハードルをうまく飛び越せればいいが、そうはうまくいかない。
628 :
横やり 2:02/12/23 14:51
結婚は小さな社会生活。心の下着をはずす場所を確保すること無しに
心の平安が得られようか。結婚の1/3が別れ、1/3が家庭内(精神的)別居、
残る1/3も平安から大なり小なり遠い。
「結婚は、するべきだ。人生の苦労を知るために」こういう言葉が実相でないか。
独身者に結婚を勧める奴は、たいてい家庭がうまくいってない。
幸せなときはひっそり楽しむもの。自分だけ何で貧乏くじをひくのかという不条理を
すべての者が味わうべきだと一念発起したときに目障りなのが独身貴族。
まったく、よけいなお世話である。
629 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 14:51
>>625 >離婚して母子家庭の家が多いのを考慮しているとのこと。
児童保育は母子家庭が殆どですね。
現実は厳しくて、月7〜8千円くらいの保育料が払えない家庭も結構多い。
子供は受身ですから、そういう現実を真っ向から受けて生きるしか方法がない。
>結婚が苦労の本格的なスタートに
男と女は忍耐しあう。僅かな妥協点の中で生活を営む。
互いに「もろいもん」だとは知っている。
あえてそうゆうところは見せず、あるときは仮面を被り「良き夫」「良き妻」を演じる。
ああ、かかくたるや人間かな。
630 :
横やり 3:02/12/23 14:52
そもそも、男女の感性感覚は相互に異形である。
昔から深くて暗い河が横たわってるのだ。
たとえば、結婚するまでは甘い権利だったはずのセックスは、結婚後には苦い義務と化す。まさに結婚生活は青春の墓場である。セックスも家庭を築くには必要かもしれないが、築かれた家庭ではむしろ邪魔である事が多い。
結婚に女性は安定と安楽を求める。男性は安らぎを求める。
朝のゴミ出しに亭主が使われ、休日の掃除を共同でやらされる。
子供がいれば家族サービス。男の英気を養う時空間はどこで見つけるのか。
トイレ?風呂場?・・・・独身なら24時間、すべての空間。
国民の義務として、出産育児養育教育はあるやもしれぬが、個人の選択として
結婚を考えた場合に、あまりにもリスクが大きい。
631 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 15:03
>>628 男と女は、互いに愛し合い、また互いに傷つけあうもんかも知れんね。
そうやって段々老いてく。
人間とは・・・
そうなんじゃろうね。
632 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 15:08
>>630 >結婚後には苦い義務と化す。
あんまり元気の良すぎる女性は貰わんほーがイイかな?
633 :
平安に生きたいだけ:02/12/23 15:13
横やりさんの1〜3に同感です。
>独身者に結婚を勧める奴は、たいてい家庭がうまくいってない
お前も結婚して地獄を見ろという人間の醜い感情が伝わって来る人という
のはいますね。
>結婚生活は青春の墓場である
私の友人はそういう人ばかりです。結婚して得をするのは女性のほうである
場合が多いのに、なぜか男性のほうが立場弱い。
>昔から深くて暗い河が横たわってるのだ
想像をかき立てられる意味深い表現ですね。
634 :
名無しさん@1周年:02/12/23 15:30
みなさんには合同結婚式をお勧めする
635 :
(-人-):02/12/23 15:33
>>横やり氏
ああああああ、涙で画面が歪んで見えます。
暗闇の中で目をもつものは見よと、明かりを照らしてくださったかのようです。
くやしいが、全くそのとうりであります。
誰か反論してください。(笑
さあ、みんなー
ボヤけー、ボヤけー
四苦八苦 四苦八苦なんかと思いますね。 なんかと思いますね。 なんかと思いますね。
637 :
名無しさん@1周年:02/12/23 15:36
そうなんじゃろうね そうなんじゃろうね そうなんじゃろうね
638 :
名無しさん@1周年:02/12/23 16:25
>>630 そういう無明の縁に連なる人生を選んだのでしょうが。
西行坊さんのように、我が胸に走り寄って来る愛娘を、
煩悩の源じゃといって縁の下に突き放す訳にもいかない
のであるなら、愚痴などこぼさずに生きなされ。
639 :
名無しさん@1周年:02/12/23 17:04
泣く人は他人の為に泣くのではない。
自分が泣きたいから泣くのだ。
自分の人生を振り返り、自分の為に泣くのだ。
640 :
名無しさん@1周年:02/12/23 17:42
641 :
名無しさん@1周年:02/12/23 19:42
>>640 一服の清涼剤。ありがとうございました。
炎症とゆうのは、けっきょくは、羯諦 羯諦の気づきなのかと思う
精子大海を如何にして渡るか
精子大海に、あるいは溺れ死ぬか
炎症とゆうのは、けっきょくは、…
643 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 20:21
>>640 「濡れ落ち葉」の意味が分からなかったんで検索したんでつね?
定年退職のリーマンが、やることがないんで奥さんにベッタリ引っ付いているのをいうんだよ。
まあ、こうなっちゃうと双方哀れだね。
そうゆう意味でつ。
644 :
名無しさん@1周年:02/12/23 20:22
入れる前には触りますよね。
私の場合、まず、パンツの上からそれはもう丹念にこすります。
そして、パンツを引っ張り尻とまんこに食い込ませます。
その時、マンコをもみ続け、気が乗ったら脱がさずに脇からベロ突っ込んで舐めてみたりもします。
頃合がよくなった頃にようやく、パンツを脱がすわけですが、その間も口はまんこから離しません。
十分濡れてきたら、自分のちんぽをまんこに当てるのですが、そこでもすぐに入れず表面をなぞったりして楽しみます。
所謂「素股」という行為ですね。
これも実に気持ちがいい。
そこで双方の気持ちが高みに達してついに、まんこにちんこをブチこみます、ええ。
入れた後、動かしながらも尻を揉んだり、乳首をべろで転がしたり、バックの際は
クリトリスや大陰唇を弄っています。
という訳で、まんこを触るということは必要不可欠なのです。
もちろん、指についたまんこ汁は一嗅ぎした後、ちゃんと舐めますよ。
あ、もちろん事の後は、女のまんこを拭いてあげるときもあります。
中には自分で拭く女もいますが、拭いてあげると思わせつつ、またまんこ触ってます。
で、第二回戦と相成るわけです。
尻のあな(以下けつめど)も悪くはないのですが、以前 ある女を私の顔の上に座らせようとしたんですよ。
ところが、その時、けつめどにティッシュの切れ端がくっ付いていたのです。
ちょっとその時は萎えそうでした、ええ。
ま、そういうのがお好きな方にはたまらない状況ではありましたが。
ちなみに、その時はべろでけつめどを舐める振りをしつつそのティッシュを取って、気づかれないように布団の下に擦り付けました
645 :
名無しさん@1周年:02/12/23 20:28
>>644 「深見東州の連続セクハラ事件」の板にも同じコピペを貼るな。
646 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 20:41
647 :
:名無しさん@1周年 :02/12/23 20:54
生々しいですねえ
ところで、般若心経と理趣経の宇宙観て違うの
648 :
名無しさん@1周年:02/12/23 21:58
スイマセン、突然乱入ですが髑髏センセに質問で〜す。
@官休庵好みのお棚の一つに蛤棚というのがありますが、
これは何代家元のお好みでしょうか?
A武者小路千家の家元は代々「宗守」を名乗っていますが、
では宗守を名乗る以前、時期家元は何という号を名乗るでしょうか?
もっと色々出しても良いけど、これぐらいで充分だろ。
センセ茶道教授だったら当然答えられるはずだよな?
下らない話ばっかりしてないで、せめて答えてみれ。
電光石火で間髪居れずにおねげーします。
ネットで検索なんかしちゃいやよ。たぶんわからんだろうけど。
649 :
(−人−):02/12/23 22:04
ブランコ氏ならこういうでしょうね。
彼が本物か偽者かそんなことは如何でもよいこと。
他人が付けたレスを通して、自分の心と会話する事が最も重要なことであると。
高潔な魂は何処にあっても眩しいものですね。
650 :
名無しさん@1周年:02/12/23 22:09
くだらね〜、自分を詐称してる人間が真実を語れるはずが無いだろう?
そういう奴は自らの妄想の中で理想的な人格になろうとしているだけ。
生きている価値があるのか?
小一時間問い詰めたい…省略。
俺は敢えて”死ね”とは言わないが、良い年してどうするんだ?ハァ?
残された時間は僅かだぞ。サイナラ。
651 :
(−人−):02/12/23 22:16
>>650 貴方が仰る通りです。
貴方の言葉には真実が無い。
残念な事です。
652 :
名無しさん@1周年:02/12/23 22:18
653 :
名無しさん@1周年:02/12/23 22:23
六道というのはほんとうにあるのでしょうか。
654 :
名無しさん@1周年:02/12/23 22:35
髑髏先生はいつも四面楚歌の中で頑張っていらっしゃる
優れた人は妬まれるのが世の常
誹謗抽象もいいけれど、相手を賞賛するのも四無量心の教え
自分のことを棚に上げて、どうして相手にだけ完全性を求めなくてはならないのか
2chというのは、悲しい人間の内面が吐露される磁場なのかもね
655 :
名無しさん@1周年:02/12/23 22:40
>>654 自分を発見できる場所でもありますね。優れたレスを返せる人には応援する人物も出てくる。
656 :
(−人−):02/12/23 22:40
>>2chというのは、悲しい人間の内面が吐露される磁場なのかもね
吐き出してスッキリするもよし。
一緒に落ちて歩むもよし。
でも、自分でも気がつかないところで何かが変わっている。
自分でも思いもよらないところで救われている。
そういうのがいいと思う。
657 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 23:02
いつまにか年老いて、そうですた私は総括をしておらんかったんでつね。
総括とゆうのは、やはりしなけりゃらんかったのでしょう。
人生とゆうもんはそんなもんでつ。
し忘れて、やがてそんなもん眼中になくなる。
罪障消滅を考えていたんかも知れん。dデモ悪いことした訳ではないが。
されどわれらが日々ー。
何も残らん。これからも何も残らん。そうではない。
虎は死んで皮を残す。
えらいもんじゃ、虎は。
髑髏は何を残すのであろうか?
総括せにゃあ何か残る。残ってはあかんのだろーよ。
658 :
名無しさん@1周年:02/12/23 23:11
歳は関係ないとはいえ。
五十代やそこらで総括出来るのか?
いつでも死ねる覚悟はできたのか?
659 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/23 23:21
>>658 総括の意味が分からんのだな。無理もないが。
今はあまり使わんだろう。総括。無理もない。
分からんでイイよ。
そんでも生きてはいける。
飯を喰ってれば、それで生きるに充分だよ。
660 :
細川隆一郎:02/12/24 00:14
どくろーーーーーーーーーーーーーー、バカモーーーーーン
全共闘世代だとおおお?
ビートルズと問えば、「レヴォリューション」て答えてこそ、
ソーカツと言える資格が、あるんだよー!
東大安田講堂の時には、まだ、あんた、中ボーだったんじゃねえのかい?
バカモーーーーーーーーーーーーーーン
>>651 >貴方が仰る通りです。
>貴方の言葉には真実が無い。
これはどういう意味?
「仰る通りである」ならば真実だし、「真実が無い」とも言っているし。
>くだらね〜、自分を詐称してる人間が真実を語れるはずが無いだろう?
>そういう奴は自らの妄想の中で理想的な人格になろうとしているだけ。
髑髏仮面の真偽はひとまず置いといて、上の2行は仏教の「綺語」に対する的を得た解釈だと思う。
闇雲に自分達の都合で排除しちゃ駄目だよ。
なんだかんだで感情的になってるでしょ、>651>652さん。それじゃ心の平安は得られない。
大いなる愛を。
>>654 完全性が必要なのではない。自己を律する心、それに基づく行・言が必要なのだ。
「心」「行」「言」どれが欠けても心の平安は無い。
例えば「綺語」は悪い業の一つであり、どんなに他の善業があろうと意味無きものになってしまう。
663 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 06:46
>>662 分別しとるな。無理もないが。
ここの住人の何人かは私の言うてる事は解っているかと思うぞ。
あっ、そうそう・・・
「分かる」→「解る」の違いかと思う。
分かる。文字通りこれは分別の「分」。
良いヒントかと思うぞ。
本日の大サーヴィスじゃわい(ワラ
普段だったらここまで言わん(w
664 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 07:00
言うとくけど、663の解説はせんよ。メンドイし。
665 :
(−人−):02/12/24 08:10
>>661 事実と真実、虚無と無、差別と区別。ココの処が肝要ですね。
他人を闇雲に貶める発言には毅然とした態度であたることも必要に応じて時にはあります。
なんでもかんでもナァナァであたるのが「大いなる愛」ではないでしょう。
「躾」ですね。やはり幼児教育の必要性を感じますね。(w
666 :
変態カンジチョー:02/12/24 14:52
>>ここの住人の何人かは私の言うてる事は解っているかと思うぞ。
賛同する方→1名あたりにつき / 反感・嫌悪される方→測定不能
つまり、賛同確率は、宝くじ1等当選確率と思っておっていいんかと思いますね。
いいんかと思いますね。 いいんかと思いますね。 いいんかと思いますね。 いいんかと思いますね。
667 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 15:32
>>666 選挙の、有効票・無効票を分けてるんじゃないんだからね。
「これが生ずるとき、かれが生ずる。これが滅するとき、かれが滅する。」
なんもない無を言うとるのに、なんして作りだすんじゃろう?
分からんか?
それでも、ライスカレーさえあれば何とか生きられる。
あの、昭和30年代のレアもんだけど(w
668 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 15:50
168 :加護亜依 :02/12/23 22:21
>>167 あなたのキャラはね私と微妙にかぶるのよね
もうチット違うのに変えてくれない
私を見てるようでこわいの
さて、ライスカレーでも食べよっと。 な
**********************************************************************
加護さまは、今でもカレ−ライスを喰うてるらすい。
おそらく統一の食口か?
669 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 15:53
>>668 スマソ。
× カレーライス
○ ライスカレー
あんまし、ライスカレーはくぁんのでな(w
670 :
(−人−):02/12/24 16:01
>髑髏氏
マァマァ、お遊戯ももうその辺で。
有意義なお話にもどりませう。
>男女の感性感覚は相互に異形である。
この論からすると、「内心の平安」を求めて思索の旅をするのは、
男特有のダンディズムである。
ということでありませうか?
日本は裕福そうで貧しい国という様相になってきた。正月のテレビを見ていると、
漂流教室という漫画本の中で、お菓子の入っているガラス棚を子供達がバットで
割ろうとするが、絶対に割れないというシーンをふと思い出す。テレビ番組は、
裕福な芸能人がバカ騒ぎし、何百万の賞金をめぐってのゲーム。成功企業が大金
を払って放送するハイクオリティなCM。そんな金銭感覚が圧倒的に違う人達で
賑わうテレビを見る一般庶民。裕福な暮らしが身近にありそうで遙かに遠い。
年間の交通事故死者数が1万人で、年間の自殺者数が3〜4万人もいる日本。
景気回復どころか、来年は一気に崩壊するという経済評論家の意見もある。
平安に生きられない日本で結婚して子供を誕生させる事に疑問を抱く人が増える
と予測している。もっと不況になれば、ライスカレーの復活もあり得るかも(w
クジラの肉と同じ位、食べてみたい一品ですな。
672 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 16:55
>>670 えてして人間ちゅうんのは、先達の生き様に影響をうけやすい。
主に命を掛けたよーな壮絶な生き方。
利休とか三島由紀夫とか四十七士とか・・・。
イデオロギーとかは別問題。
わたしにとってのダンディズムとは何か?
これは美学の追求なんだろね。
彼らにそうゆうもんを感じるね。何でか?と、問われれば分からんが。
そうゆう文化を潜在的に継承しきたんかと思ふ。日本人は。
葉隠れの思想というんかね。
そうゆうとこに「美」を見出していたんかも知れんね。
太平洋戦争における特攻隊は、葉隠れそのもんだよね。
彼らに、潜在的負い目があるんかと思うよ。日本人は意識せずともそうゆうもんはあるかと思ふ。
学生運動のエネルギーは、そういったもんも源流にあるんじゃないかと思ふ。
そういったとこに「美」を求めることにより、何となく救われる。ちゅうのが本心なんかね。
心の奥底は分からんが・・・。
673 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/24 17:21
>>671 そーでつね。
私の世代ですと、粉砕して何かを生み出す。
しかしながら気が付くと既に粉砕するもんが無いほどに国家は弱りきってる。
もっと弱りきってる国家もある。
マルクスが、貧乏人のプロレタリアを救おうしたが・・・
なんとしたことか、社会主義国家自体が債務国に転落。
プロレタリアは極貧生活に甘んじんねばならぬ。
ライスカレーを喰える人間は幸せのほーだろう。
まだ日本は喰えるだけいい。
ライスカレー復活なるか。あの竹輪の入った、あの小麦粉の入った、あのライスカレー。
>>673 竹輪を肉だと自分でマインドコントロールして食べたライスカレー。
コロッケも主食でしたな。
加護亜衣♂殿の地域では、カレーをライスカレーと呼ぶのかも知れませぬ。
マクドナルドは関西ではマクド。関東ではマックと呼ぶ位ですから。
675 :
ちゅうどくたいりく:02/12/24 17:31
12億の人は、エーヨーシッチョーなんだーーー
12億の人は、エーヨーシッチョーなんだーーー
12億の人は、エーヨーシッチョーなんだーーー
>>585 レスが少し遅くなってしまいましたが…。
>実は、入院中頼ったのは聖書です。
私も、聖書には善い言葉が沢山記してあると思っています。実は、私はクリスチャン
だった時期もあるんですよ。主体的に選択した訳ではありませんが…。
しかし、私がレスしなくても何人もの方が善いレスを打ってくれておりますね。(^^
私よりも先を歩んでいる人が、このスレには何人もいて助けてくれておるようです。
>自分が自分でなくなることが怖い。大切な身内や親友と永遠に会えなくなるのが怖い。
残念ながら、私にも同じ恐怖があるんですよ。それで、私は思うのですが、この恐怖は
理屈でどうにかなるようなものではないですよね。同時に誰かだけのものじゃなくて誰
でもそう言う時は襲われる「想い」の一つなんでしょう。私もある縁で「死」を観相し
盲目的な、まさに盲目的怖れがドッと心の中に湧いてしまって手におえなくなった事が
あります。もう、闇雲に藁にでも縋り付こうとするような「情念」とでも言いましょうか。
それは、波状攻撃のように何度も何度も私を襲って、震え上がらせてくれました。(w
しかし、気が付いてみると、まだ「生きている自分」を発見するんですね…。
この人生に来た時が一回だけしかないように、この人生を去る時も、一回コッキリなの
は誰にでも分かる自明の理ですよね。それなのに、心理的な「死」は何度も、何度も自
の心に降掛かってくるのです…。「死」に付いて考えたり、死を連想させるようなもの
を感じてしまう度に…、繰り返し、繰り返し…。何度も、何度も…。
(続)
これを仏教用語でいうと「生死の迷い」というのでしょう。迷いだから、それに
出口はないのですね。そこでは「生」と「死」の葛藤がある。生かとおもえば死
があり、死かとおもえば生があるような、そういう無限の迷路のような。
生と死が相対するものだから、どちらか一つが真実なのだと思うのが常識的解釈
でしょう。でも本当にでしょうか?あなたが「生」と考えるものは本当に生きる
事なのでしょうか?あなたが「死」と考えるものは本当に死ぬ事なのでしょうか?
多分それらは、世間一般で「常識」とされている概念を頂戴してきただけなので
はないかと思うんですね。誰だってそうですからね。
しかし、こんな時はないでしょうか?闘病中でも、自分が死ぬかもしれないと言
う事を忘れている時ってありませんか?さらに自分が生きているということさえ
忘れている時ってありませんか?その瞬間はあなたも、生死の迷いを越えた境地
にいるのではないかと思うんです。少なくとも、固定された二つの枠の中にはい
ない状態だと思うんです。如何でしょう?
※私は、一応健康な身の上からカキコしています。私があなたの人生に何を偉そ
うに言える人間だとは思っておりません。精一杯のものはレスしているつもりで
すが、私も迷える一人の衆生故、至らぬものが多いと思われます。その辺はどう
かご容赦ください。真剣に生死の迷いを超えたいと願われるのでしたら、やはり
確りとした教えに学ぶのが近道だと思います。私が勧めるのは、三宝印、四諦、
八正道。これは仏教の基本です。しかしこれだけ理解すれば仏教の真髄を掴める
と思いますよ。後はそれを応用した自分の実践だけだと思います。実践での指導
が必要だと思ったら、お寺に行くのが善いでしょう。
ライスカレーを使ってみたら、変な奴が釣れたわ
ウイスキーボンボン
679 :
霊長類研究所:02/12/24 22:54
>>678は天才チンパンジー「アイちゃん」が
言語訓練のために書き込んだものです。
アイと研究員とのやり取りに利用しますので、
関係者以外はレスしないで下さい。
霊長類研究所
>>674金田
信者の献金を横領して食うカレーはうまいか?
681 :
名無しさん@1周年:02/12/24 23:12
>>680 自作自演+性別詐称して貼るレスは面白いか?
>>681 それは金田聖也の専売特許よ
負けるわ
全部教えてあげようか?
683 :
名無しさん@1周年:02/12/24 23:19
>>682 もう金田さんは2軍落ちして、宗教板では過去の人なので解説は不要です。ここはスレ違いなので早急に立ち去ってください。
685 :
名無しさん@1周年:02/12/24 23:22
>>684 ブランコさん達の大切な場所を荒らされたくないからですよ。
687 :
名無しさん@1周年:02/12/24 23:25
すべては神です。アーメン。
688 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/25 06:39
>>677 >しかし、こんな時はないでしょうか?闘病中でも、自分が死ぬかもしれないと言
>う事を忘れている時ってありませんか?
そうですね。
条件ありて生じ、条件なきて滅する。生じ滅するは条件なり。
条件は概念。本来あるもんもなく「無」。
四諦も、本来あるもんでもなく無苦集滅道。→般若心経。本来無一物 by慧能。
689 :
名無しさん@1周年:02/12/25 07:52
老人は寝る時間が短い。
寝たままあの世に行ってしまうのが心配なんですね。
そうゆうことなんかと思いますね。そうゆうことなんかと思いますね。そうゆうことなんかと思いますね。
690 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/25 08:05
>>689 >寝たままあの世に行ってしまうのが心配なんですね。
まあ、どーでも良いんだけどね。
これが一番良い死に方かと思うよ。
だから普段から「死ぬ準備をしとけ」。と言うとる。
691 :
(−人−):02/12/25 10:53
関係ない話で申し訳ありませんが少し気になる考えが浮かんだものでして。
カルトにはまる若者たちの熱狂的盲目的な信仰は、いわゆる彼らの「ダンディズム」といいますか「陶酔的美学」なのではないでしょうか?
そうした、麻薬にも似た感情は当時の学生運動にもいえることでしょうし、あらゆる「熱狂的ムーブメント」に共通しているのではないでしょうか。
そうしたものと、いわゆるここで論じている「平安」とは異質なものであると、分けて考えてゆくべきだと感じます。
若き日の懐古趣味を打ち壊すようで申し訳ないがそこはキチンとしておきたいのです。
692 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/25 12:15
>>691 そうですね。
つい最近まで日本は封建社会でしたから、その官僚文化は根強いですね。
上司がヘマをすると部下に責任を擦り付けるんは儒教あたりからきてるんでしょうか?
忠臣蔵や水戸黄門に熱中するのも官僚文化ですね。
極自然にこういったもんがマインドコントロールされてきたんかとおもいますよ。
>カルトにはまる若者たちの熱狂的盲目的な信仰は、いわゆる彼らの「ダンディズム」といいますか「陶酔的美学」なのではないでしょうか?
これも、その延長線なんでしょうね。今おもえば。
>若き日の懐古趣味を打ち壊すようで申し訳ないがそこはキチンとしておきたいのです。
そうですね。それはキチンとせねばらんでしょうね。貴殿に同意。
日本人の精神構造の成り立ちは、またマインドコントロールの歴史でもあるのか・・・。
693 :
(−人−):02/12/25 12:17
>日本人の精神構造の成り立ちは、またマインドコントロールの歴史でもあるのか・・・。
ドキッとしました。よーく考えてみるべき問題であります。。。。
694 :
(−人−):02/12/25 12:44
いわゆるテクニックの上では「躾」も「マイコン」も同じなのでしょうが
そこに上手くいえませんが決定的な違いがあるとおもうのです。
虚無と無、差別と区別。
銀椀に雪を盛り、名月に鷺を隠す。
似て非なるもの。。。
695 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/25 14:27
>>694 ジンギスハ−ンに征服された民族は、先ずはハーンに屈服してハ−ンの味方につく。
そうじゃないと民族皆殺しで「種の保存」が出来ない。
そうゆう環境で育てば、そうゆう文化も育つんでしょうね。
日本にはそうゆう突発的侵略の歴史があんまりないですからね、
だから「恥の文化」みたいのが育っていったんでしょうね。
自決して、それを賛美する。美学みたいんが培われたんでしょうね。
「滅私奉公」ちゅう言葉がありますね。
山本有三著・路傍の石。あの時代の頃には世間一般の価値観でした。
そーいば・・・
統一教会のシックは「滅私奉公」の流れなんかもしれませね。
日本人のシックが一番良く働くらしい(ワラ
やはり、潜在的にこうゆう文化を継承してるんでしょうね。
696 :
名無しさん@1周年:02/12/25 16:20
>日本人のシックが一番良く働くらしい(ワラ
なるほどw
よいお手本が身近にありますのでよくわかりますネw
しかし、「恥」に関しては仏典に於いても大事な物として取り上げられていますよね。
遺教経では「漸恥」として奨励していますね。いったい何に対して我々「恥」を感じるのか。
恣意的に歪んだ「教育」によってではなしに、心底人間としての「恥」を常に意識してゆきたいものです。
697 :
(−人−):02/12/25 16:21
↑レスは私ですm(_ _)m
698 :
名無し585:02/12/25 20:06
ブランコさん、ありがとうございました。
ずっとこのスレを読んできて、自分はブランコさんの書いてることにとても感銘を受けてきました。
これからいろいろ考えていきたいと思います。
いまは恐怖は少し去って、ただ虚しい状態です。
いつかはこの気持ちもどうにかなる日がくるのかな。
教えてもらったことに感謝します。
>>698 いえ、私はやりたくてしているんですよ。ホントに…。
経典等の解釈がどーであるか等、あまり興味が持てない性格でもあるんですね。
これからもあなたが読んでいるという想定で勝手にレスを打つかも知れません
が、まあ、気楽に構えて読み、何かの参考になれば幸いです。(^^
>ただ、虚しい状態です。
実は私は「虚しさ」というのはあまり実感してこなかったんですよ。四面楚歌の
状態になると、私はヤケッパチになって荒れてしまう方かもしれません。
「虚しさ」というのは「もう、どうだっていいや」とか「どーせ最後は死ぬんだ」
みたいなものでしょうか?「努力しても失う事に変わりなく意味ない」みたいな…。
確か、最初のレスの時「自分より大切なものを見出すことか」と、言うような事を
書いていたと思うんですが、私はそれも一理あると思うんですよ。
どういう訳か、人間として生まれ、流される様に生きてきて、ふと気が付いてみれ
ば、突如人生の限界が垣間見えてしまった。これ以上人生に何の意味があるのか?
こんな感慨なのでしょうか?
私には推し量る術はありませんが、どうでしょう、これまで生きてきて楽しかった
事、理屈抜きに、とにかく楽しかった事などはないでしょうか?
何か、あると思うんです。或いは、悲しかった事でもいいと思います。
それらの事を、リアルに心に思い浮かべてみる事はできないでしょうか。どうして
楽しかったのか?どうして悲しかったのか?とかを、追求してみるために。
その一番根源の「どうして」の処に注意してみるのは、価値がある事だと思う。
「何故だか分からないが、楽しくてしかたがなかった」・「何故だか分からないが
悲しくてしょうがなかった」ここに、人間として忘れてはならなかった、大切な何
かが埋もれているのではないかと思うんです。理屈はどうあれ、とにかく楽しかった。
悲しかった。根っ子に何もなければ、心が喜んだり、悲しんだりはしないと思うん
ですよ。出会いに喜んだり、別れに悲しんだりですね。
(続)
人間は、生まれて何かに喜んだ。或いは、悲しんだ。それは、何かを得たと思う
からかも知れない。何かを失ったと思うからかも知れない。
虚しさは、その失ったもの、或いは失うかも知れないものを、自分の力ではどう
することも出来ないのが現実だという「結論」から来るものかも知れません。
その結論こそ、ある意味、現在の自分ともいえるもんじゃないかと思うのですよ。
その結論「自分」に少しマッタをかけられないでしょうか。そしてその結論以上に
大切な何かを見出す事ができるのなら、それは重要な発見になると私は思います。
昨日のレスは、聖書でイエスの言葉として伝えられる「明日の事を思い煩うな。
今日一日の苦労は、今日一日で十分である」という御言葉と本質的には同じ意味
ではないかと思います。厳密に言うと「現在という一瞬、一点にだけ集中して生
きろ。それを活かせ。過去の事も、未来の事も思い煩うな」だと私は思っていま
す。社会生活を送っている我々人間は、通常、過去、現在、未来を展望して「生活」
していますが、限界ギリギリの処まできたら、生活ではなくて、ただ生きる、活かす
これだけで十分なんだと云う意味だろうと思います。
701 :
(−人−):02/12/25 22:46
人は誰かの為に心を奉げる時、初めて己を忘れる事が出来るのかもしれませんね。^^
702 :
名無しさん@1周年:02/12/25 22:48
>どういう訳か、人間として生まれ、流される様に生きてきて、ふと気が付いてみれ
>ば、突如人生の限界が垣間見えてしまった。これ以上人生に何の意味があるのか?
>こんな感慨なのでしょうか?
その通りです。
人と話していてもこの人はいずれ死ぬんだなと思ってしまう。
テレビでコメディー見て笑っていても、頭のどこかでこの人はいずれ死ぬんだなと思う。
自分も含めてまわりの人みんな死人のような感覚というのでしょうか…。
なんのために今を生きているのかが分からなくなるのです。
もし輪廻転生があるとしても身内や大切な人との別れを前提としたものならば
人と関りあうことになんの意味があるのかよく分からなくなったのです。
でもひとつ救いがありまして、うちの祖母は早く死にたいが口癖です。
いつか自分もそういう言葉を口にできるようになるのだろうかと。
はやくそうなりたいと思います。
でもそうなるためには多分長生きする必要があるのでしょうね。
これからは色んな人の言葉を聞きながら勉強していきたいと思います。
聖書の心配と不安についての箇所は入院中にくりかえし読んで自分にいいきかせました。
にわか信者なもので身に付けることは到底無理でしたけど…。
思い煩っても仕方ない。
心配しても仕方がないことでくよくよ悩むことこそが意味のないことなのでしょうか。
人間の社会には、所謂、「ゴミ」というものがありますよね。要らないもの。
何かを生産すると、自動的に生まれてきてしまうもの。ゴミ…
人間にも「ゴミ」のような人がいますよね。所謂、要らない人。こういう人
にだけは、なりたくないと思ってみんな生活しているんだと思います。
でも、確かに「生活」という観点から見れば、そういう人達は最低と言える
のでしょうが、人間という観点に立てば、金持ちも貧乏人も同じはずですよ
ね。少なくても建前としては理解できる事です。生きているという観点から
見ても同じですよね。違うと思ってしまうのは、何故なのでしょうね。
また、生活物資でも、ゴミは出てきますが、生活していると実は心の中にも
ゴミが溜まってくる仕組みなのかも知れませんね。新鮮な思いも何時か風化
していくように…。
その、心の中に溜まったゴミは、どのように処理すればよいのでしょうか?
抑圧、というかたちで心の闇に葬ってしまうのかも知れませんね。
つまり、自分の一部であながら、要らないものとして葬ってしまう心の闇…。
その要らないものを、誰か外にいる人に押し付けていられる内は気が付かな
いのかも知れない。心の中にゴミが溜まっていることなど…。
しかし、社会の中でそれを弱者に押し付けても、受けとってくれるその弱者
がいなくなった時、或いは自分が弱者になってしまった時、その時はゴミは
差出人不明で元の持ち主に返っていくしかないだろう。
その心のゴミが自分に返って来た時に、私はゴミと一緒に生きていけるだろ
うか?要らないもの、価値のないものと一緒に生きていけるだろうか?
差出人不明で私の元に返ってきてしまったゴミの山があるとしたら、私は
自然に習って再び価値のあるもの、要るものにできるのだろうか?
それとも、ゴミと友に自分も要らないもの、価値のないものと同化して埋
もれてしまうのだろうか。
一切衆生悉有仏性。この言葉の前に、ゴミなどは本来はないはずだ。全て
仏の当体であろうはずだから…。
しかし、見回せば幾らでも目に入ってくる、人間すらゴミにされかねない
世の中がある。
>>703 それは「死」ではないと思う。あなたが拒んでいるのは「死」ではないと思い
ます。それは何故か?
あなたは「今」生きているからです。死にそこなったかも知れませんが生きて
いるのが現実ですよね。だから正しい「死」をあなたは知らないんです。
そう、あなたは「死」を知らないのです。誰も知らないのです。ただ、誰かの
「死」らしいものを見て「彼は死んだ」という観念があるだけではないだろう
か?普通人間が誰かの「死」らしい現象を見て、何を感じると思いますか?
恐らく、虚無ではないかと思います。あなたの心を捉えているのはニヒリズム
そのものだと思うんです。つまり、一切合切が闇の中に消失してしまうような。
生の結果が「死」であり、それは一切の喪失である。そういうような通念が我
々人間の精神に絡み付き、心が自由を脅かされているのが凡夫なのです。
それは死を畏れているのではなく、ニヒリズムなのではないかと思うんですね。
まあ、そうなってしまうのも無理もない事だと思います。生死の迷いを超える
のは、人間にとって大仕事であり、大きな覚りですからね。
で、覚りとは何か?と言うと、取り敢えず物事を「ありのままに」観ることら
しいです。その為の方法論が仏教には確立されています。この機会に、ひとつ
本格的に仏教を学んでみたら如何でしょうか?宗派は特に問いませんが、私の
経験では、小乗仏教が宜しいかと思います。先ずは自分を救わなきゃなりませ
んからね。禅宗に関しては私は門外漢なので、その方面の方に尋ねられてはど
うでしょうか?本を読んだりする思想や、色々と思索を重ねる観念だけでその
問題は解決できるようなものではないと思うんですよ。そして、誰も答えを与
えてくれません。自分自身で発見するしかないのです。でも、発見するための
方法論と実践法は仏教の中に確立されていると思うので、お薦めできます。
>>703 別れを前提とした、身内や大切な人との関わり合う意味について
だからこそ、今この一瞬がかけがえのないものになります。
茶道の一期一会というのはこの機微をあらわしたものなのかなと。
今、ここを生ききる、これが茶道であり禅なのではないかなと。
・・・・と、髑髏さんなら言うのではないかなと。
癌は確かに大変ですが、サリドマイドで末期癌を克服できるという
臨床報告もあるし、
精神力でなおしてしまったと言う人もおられます。
精神力が治癒に与える影響力は馬鹿にできないものがあります。
朗らかな笑顔を、ぜひすみやかに取り入れてください。
709 :
(−人−):02/12/26 12:33
>精神力が治癒に与える影響力は馬鹿にできないものがあります。
プラセボによって30%の人が治癒または症状の改善がみられるそうですね。
それはあくまでも副次的な効果ですが。。。笑うも人生泣くも人生。
大根役者でもいいから立派に自分の舞台をつとめたいものです。
710 :
神戸のあんちゃんへ:02/12/26 12:42
今晩9時半、フジFNN系列
運命の瞬間スペシャルで阪神大震災するってよ。
711 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/26 12:46
>>708 >精神力が治癒に与える影響力は馬鹿にできないものがあります。
>朗らかな笑顔を、ぜひすみやかに取り入れてください。
これは大事かと思います。
私は医師と話しをしたことがあるんですね。
通常の健康な人でも、癌細胞は一日二千個くらいは発生するらしい。
発生しても殆どが自然消滅、または身体の抵抗力で押さえつけちゃうらしい。
その中の一個でも細胞分裂が始まちゃうとヤバイことになるらしいが・・・。
今は化学療法(抗がん剤)である程度叩いたあとは、なるべくストレスを溜めないように生活する以外にない。
それしか今のとこは方法がないんだしね。
712 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/26 12:58
>>707 >今、ここを生ききる、これが茶道であり禅なのではないかなと。
そうですね。
将来、生きようと死のうの思い煩うことがなくなるかと思います。
色々とカキコされて、混乱しちゃうかもしれませんが…。私が最初のレスで、最後に
書いた、「確りとした教え」というのを分かる範囲で説明します。多分、三宝印とか
四諦、八正道など、なんのことか分からないかと思うので…。
初めに、三宝印というのは、仏教の教えの、二つの根本的な道理と、そこで生きる人
間存在としての、一つの結論を言っています。
一つめの「無常」は、この世の全ての現象、物事は、流転しながら関係性を変え、常
に変化している。という「道理」を説明している言葉です。
二つめの「無我」は、全ての事象、一切の物質でも、自分で所有することはできない
性質のものだという「道理」を説明している言葉です。
三つめの「苦」は、一つめ、二つめの「道理」を道理と知らずに生活している凡夫の
状態は、知らず知らずにの内に苦悩が堆積する状態であるので、これは苦しい事にな
るだろうと言う、一つの結論に達する事を言っている言葉です。
つまり、こういう事です。無常ですから全ての物事は常に変化しているんですね。そ
れなのに、物事の良いとこだけを部分的に抽出して、道理は無我なのに、それを私の
ものとして所有したがる心の状態がある。これは、一つ目、二つ目の道理に逆らって
いるのだから、苦しい状態を呼び込むのは時間の問題であると言えることなんですね。
世の中の現象全ては、移り変わってしまうのに、私は変わりたくない。私は何某を所
有している。失いたくない。この状態では、変わらざるを得ない時、失わざるを得な
い時、そういう時に苦しみ悩んで、悲しみに暮れてしまうのは、推察できますよね。
そういう様な事を三宝印は言っているんですね。「これは苦なり」と…。
で「これは苦なり」という事で、道理を納得し、それに対する自分自身の結果を苦し
みであると納得がいったなら、四諦が始るのです。
四諦とは、仏教用語で「苦集滅道」のことを言います。苦集滅道とは何かと言う
と、三宝印の最後の「これは苦なり」という結論に自分自身を省みて納得がいく
ならば、始りなのです。苦集滅道の「苦」は「これは苦なり」の苦と同じです。
「集」は、苦しみの構造を差しているんです。つまり、苦しみとは作られたもの
ということですね。どの様に作られているのかを説明しる部分です。これは数式
のような、敢えて言えば、足し算の話でもありますね。あるものとあるものを足
して苦しみが出てくるというような。
そこで「ああ、苦しみがあるのは分かった。苦しみに構造があるのも分かった」
と洞察と、納得がいくところです。
次に「滅」ですが、これは「集」の反対で、引き算の話でもあります。苦しみが
作られたものなら、壊れて無くなる性質のものだという洞察です。だから、引き
算で無くすことができるものだということを説明している言葉ですね。
そして、最後の「道」ですが、精神的で実体のないものを、どうやって引き算す
るのかということを、具体的に実践方法として説明しているものです。
それを、八正道といいます。苦しみを滅するための実践項目を八つに分けて教え
ているんです。それは、次回にカキコして行きます。
715 :
(−人−):02/12/26 21:53
長文お疲れ様です。楽しんでROMっております。m(_ _)m
ありゃあー、705の中の、差出人不明というのは、トンだ間違いでしたね。(藁
宛て先不明と言うことにならねばならんでしょうね。(w
717 :
通りすがり:02/12/26 22:38
>705 心の中に溜まったゴミについて
A.見るだけで自分にダメージを与えるゴミなら、一時保留で抑圧するのも1つの手だと思います。
B.迷惑を与えない方法で、抑圧感情を開放するのも1つの手だと思います。
C.目に見えるゴミを避けて通る方法もあるかと思います。
D.ゴミと共生できる精神を培うのも1つの手だと思います。
E.ゴミと共生できる手段を模索するのも1つの手だと思います。
F.ひょっとしたら、最善策は自分自身ではわかっているのかも。
言うは易し、行うは難しですけど。あと、いつも楽しんで読んでおります。
>ブランコさん
三宝印、四諦、八正道この三つに関してはブランコさんの書き込みを見てすぐに
ネットで検索しました。
いろいろ読みました。
もちろんただ読んだだけの状態で理解はできていませんが…。
いまはとりあえず三宝印のことを詳しく書いた本でも探してみようと思っています。
なんとか理解したいものです。
聖書よりも仏教のもののほうが、自分で探しださなければならない何かが多いような気がして
けっこう厳しいですね。
難しいですし理解しずらいですし突き放されるような寂しさを感じます。
でもなんというか…このスレにきてよかったと思います。
自分の家が何宗かも知らない仏教オンチですけど、
ここにこなかったら三宝印なんて一生知ることもなかったと思いますから。
ブランコさん、感謝してます。
>(−人−)さん、横やりさん、髑髏仮面さん
ありがとうございます。
でも今これを早く考えておかないと、もしぶりかえしたときにまた同じような
精神的な苦しみを持たなくてはならないのであせっているのです。(w
あせるとろくなことがないことは、分かっているつもりなのですが…。
これまで宗教などには人一倍疎かったほうですからなおさらです。
>>715 ありがとう。でも「人間の尊厳スレ」じゃないけど、誰が見ているか分かりませんね。
内心の平安という題名だし、誰かがひょんと覗いていくかも知れませんよねえ。
その誰かが、以前の私の様に「仏教なんて線香の匂いと、宗教団体の匂いしかしない」
というような誤解をしていたら残念です。仏陀の教えは、線香の匂いなんかしないし
宗教団体の匂いもしませんよね。その種を私なりに蒔いてみたいんですよ。
私自身も、ここで教えられた事が結構ありますし、誰が誰に、という訳ではありませ
んが、有り難いものは、有り難いままで御返ししたいんですね。多少の色違いは素人
故、ご勘弁をしてもらうしかありませんが。。。
720 :
(−人−):02/12/26 23:05
>>718 私の母も3回目の乳癌再発で治療中です。
貴方のお気持は察するにあまりあります。
どうか貴方様の心が平安でありますように。
名もお顔も知らぬ間ではありますが、お祈り申し上げます。
それと、私の好きな言葉をひとつ。
ブランコ氏の方がよくご存知かもしれません
「神よ。願わくばわれに 変えられることを変える勇気と 変えられないことを受
け入れる忍耐と 物事を見極める知恵を与えたまえ。」
721 :
新興宗教天国:02/12/26 23:13
ハッキリ、言っておく!
宗教にカネは、元来、かからない。まあ、五千円、一万円程度の小遣い程度なら
維持費ってことで大目に見るが・・・
宗教にカネをかけるなんてバカげてる。ましてや、宗教をビジネスにしている
なんて、論外だ!
さあ、みんなヨクヨク騙されないように呼びかけようでは、ありませぬかー。
722 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/26 23:19
>>718 仏教には「生死一如」とゆう熟語があるんですが、
わたしはこの熟語を、こんなありがたいもんはない。と、思いましたよ。
この四文字は実に深い。
>>718 精神的な苦しみをとる方法。次の3つを続けてやってください。
必ず楽になります。
1、現在自分が不安視している「最悪の事態」を明確化する。
2、それを受け入れる覚悟を決める。
3,それを回避するための方策を行う。
1、現在自分が不安視している「最悪の事態」を明確化する。
について。
何が不安?どう不安?なぜ不安?と、第三者的な立場の自分と心の中で
会話する。整理がつかない間は、黒いどんよりどよどよが渦巻きます。
2、それを受け入れる覚悟を決める。
について。
前向きに喜んで受け入れる覚悟を決めます。
その「悲劇」がもたらす効用を考えます。こじつけでもいい。
3,それを回避するための方策を行う。
について
思いつくまま、とりあえずとにかくどんどん紙に処方箋を書く。
書いたら、グループ分けして、優先順位を付ける。
きまったらどんどん実行していく。
実行しながら、さらに思いついたことをどんどん書いていき、
優先順位を吟味し続ける。
行動しているとき、その最中は、悩む余裕が無くなるから気持ちが楽になる。
ぼくの実例
ある苦しいことがあった。死にたいくらいだと思った。
で、いろいろ考えた結果
「どうなろうと、命までは取られる訳じゃない」
と居直ることができた。
さらに
「万が一、命が取られても、そのときは、この苦しみの連鎖からは
解放されるからいいじゃないか」
と居直ることができた。
あとは無我夢中だった。気がつくと、壁は崩れ道ができていた。
後で気がついた。あの苦しみは、今の自分の環境(心境を含む)を
得るための必然の砥石だったんだ、と。
728 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/27 18:38
>>723 >2、それを受け入れる覚悟を決める。
受容する、ちゅうのは大事かもしれませんね。
一昔ですと大体助からん命でも、今現在なればこそ「運良く」助かってる場合もある。
考えようでは「恵まれてる」。とも受け止められる。
今の「縁」により生かされてる。とも考ええられる。
本来死んでいたんかもしれん。
「縁」により「生かされる」つうのはこうゆうことか・・・。
こうゆう考えも出来るんだし。考えようですね。
まあ、いわゆる深く自分を考え直すいいチャンスかもしれません。
みなさんありがとう。
だいぶ落ち着きました。
自分の心配ばかりしすぎたようです。
自分にだけ執着しすぎているから、いらぬ心配をしちゃうんですよね。
もっとちがう視点で、これからは考えていきたいと思います。
また分からなくなったらお邪魔してアドバイスをもらうことがあるかもしれないけど、
自分なりに考えていきたいと思います。
ありがとうございました。
>(−人−)さん
お母さんの体がのこと、話してくださってありがとう。
自分もがんばります。
>髑髏仮面さん
確かに心のもちようが少し変化したと思います。
これからはそれを追っていきたいと思います。
>横やりさん
ありがとう。実践してみます。それで自分も同じように得られたらいいと思います。
>ブランコさん
相談にのっていただいてありがとうございました。
このスレたててくれたことにも感謝です。
本を読んでいます。
自分なりになんとかしてみます。
ここに書き込んでると、ついつい分からなくなったり答えがほしくなったらすぐに
みなさんに聞いてしまうような気がするので、
自分なりに考えがまとまるまで来ません。
みなさんありがとうございました。
731 :
(−人−):02/12/27 20:43
うううう。涙が止まらん。
がばれーーーーっ。(泣
>>718 そうですか。それなら私が敢えてカキコする必要もありませんね。良著も沢山ありま
すから、それで勉強する方がいいと思います。(^^
ただ、仏教の教えと言うのは、頭で理解するだけではなく、自分自身の実践と納得が
ないと進まないと思います。これを修める事もお薦めしますよ。
で、実践とは何かというと、瞑想、禅定、内省です。そこで助けてくれる人はいませ
ん。ただ、アドバイスしてくれる僧侶や、善友、経典類があるだけです。ある程度の
状態に達するまでは、自分の心すら信じてはいけないと云われています…。
ついでだから、八正道の内の「正見」だけ、ちょこっとカキコしてみましょうか。
正見の「見る」は自分が見ているもの、つまり自分が観察している事柄ですね。
眼に写ることから心に映ることまでの「みる」ということの総体を差しています。
その観察しているものを、正しく観察しているか、していないかをチェックする物差しが
基本的に三宝印なんです。
例えば、自分の身体をみて、この身体は永遠にあるものでないということが誰にでも
分かるんです。そして、この身体は完全なものではない事も分かるんです。不完全で
永遠でないということが承知できるなら、いつどこから不満が出てくるか分からない
性質のものということも承知できるのです。あなたがお笑い番組を見ていても、ふと
不安が心を過ぎるのは、ある意味どこかでそれを承知しているからなんです。素直に
心を開けば誰にでも理解できる事を仏教説いているんです。それが「道理」というもの
じゃないでしょうか。改めて、三宝印など教えられなくてもどこかで人間は知っている
様な気がしますよね。でも、どんな人にとっても素直に心を開くのは、簡単なようで難
しいことかもしれませんね。いや、大変難しい事かも知れませんね。
安全な状態になりたい。安心したい。と思いながら努力して逆に不安を募らせたり心配
をしてしまうのが「私」という計らいです。だから、仏教では何も信じるな「私」さえ
信じるなと教えているのでしょう。信じるより、観察することを薦めているのですね。
正しい観察、即ち正見です。正しい観察に至れば、誰でも涅槃寂静を垣間見るとも教え
ているんですよ。
>>730 その教えを実践する人が仏陀の一番近くにいるそうです。お寺にいるからでは
ないそうです。恐れても、焦っても必ず落ち付きを取り戻し、道理に至って自
ら涅槃を実証しようではありませんか。
「ああ、内心の平安が確かにあった」って感慨に至れるまで…。
またいつでもいらしてください。
>>592 >やはり四苦の「生老病死」は避けて通れない。
う〜ん、老いる事、病む事、死ぬ事は確かに辛い事ですよね。だが「生」生きる事が
どーして辛いか?生の結果として老、病、死に至るのは必然だからか…。
髑髏さんは「死」というのを何才くらいの時から意識し出しましたか?私は小学生の
高学年くらいだったと思います。その時「人間が死ぬものである」という概念が初め
て生じた時、どうしていいか分からないくらい怯えていたような気がします。
幼少時というのは「死」と言う概念を理解できませんよね。それがある時から忽然と
「死」と言う概念が生じてくる。子供の頃は怖いもの知らずで、よく昆虫などを殺し
ていたものです。「生」の仕組みを知りたかったんですね。機械のように、仕組みが
あって、何か「電池」のようなものが、内蔵されていると思っていたのです。
でも、その「電池」に該当するようなものが見つからなかったので、えも言われぬ畏
れを感じていたものです…。
>>「虚無」と「無」の違いは?
>ここのところは、重要ですよね。
確かに…。しかし、言語、特に漢字というのは難しいですね。同じ「無」でも、全然違
う意味を著すことが多いから…。とくに仏教用語などは難しく感じます。無我とい漢字
にしても、通常の理解として「我が無ければ良いのだろう」と言う解釈があると思う。
かつて、戦時中多くの高僧達が「祖国のために死ぬことが無我なのじゃ」と説いて周り
それを頑なに信じようとしていた当時の人間の様子も覗えますよね。
私は「悟り」も同じだと思う。言葉として、私なら「覚り」という漢字を選択します。
「無我」といわれているものに該当する状態も、あくまである体験を差して言っている
言葉でしょうから、その「体験」を経ていない、覚えていない人間にその事を言っても
「は…?」という認識に至るのも無理はないことだと思うんですよね。
「覚り」というのは、覚醒に向かう意識のベクトルではないかと私は思っています。
このプロセスを十分に経ないで体験する「悟り」は、暗闇で睡眠に陥るような夢の如く
ではないかと思う。大洋感情に溺れて我を失っていく状態でしょうか。無我と忘我の
違いがそれではないかと思います。
735 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/28 21:53
>>734 私も小学高学年の時近所の人が亡くなりまして、その時は怖かったすね。
しかし思春期あたりなりますと、どことなくスッと消えてしまいたい。みたいな自殺願望はありました。
具体的に実行するほどのもんじゃないですけどね。
それより遥かに女性に関心がありましたから、そっちの方が優先的でした。
しかし関心はあるけども、女性では何か満たされない。
こんな空虚感がありました。そんな青春時代でつ。
>>「虚無」と「無」の違いは?
「無」ちゅうのは「無限」ちゅうのも意味するんかと思います。
だから私は「二項対立でない無」ちゅう言い方をするんです。
これを「捨てて(無)得る(無限)」。同じことです。ちゅう言い方をします。
全部捨てきって、何か感じるもんがあるのは通常でも良く経験するじゃありませんか?
そうゆうことですね。
「無」になって「解る」もんがあるかと思います。
>>735 >全部捨てきって、何か感じるもんがあるのは通常でも良く経験するじゃありませんか?
髑髏さんは何を捨てて何を感じた経験があるのですか?
737 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/28 22:12
>>736 自分で構築した世界観をカラにしました。
なんにもない。ちゅうとこまでいかねばならんかと思います。
>何を感じた経験があるのですか?
霧が取れたみたく良く見えるようになるんじゃないですか?
余計な概念があったんじゃ、見えるもんでも曇ります。
>>735 >「無」になって「解る」もんがあるかと思います。
>全部捨てきって、何か感じるもんがあるのは通常でも良く経験する…
そうですよね。それは誰も経験によって洞察がいくものですよね。無心になって何か
をしている時があるから。スポーツや、芸術等でもそう言う面が分かり易いですね。
で、確かにこの辺の領域に来ると「思惟」というものが役に立たなくなってきますね。
逆に、思惟に足を掬われてしまう…。それが「何である」と意識することも、認識す
ることもできないものが、そこには確かにあるような気がしますよ。芸術家などはこ
の辺の狭間で、非常に苦しむんじゃないでしょうか。
そう言えば、スッタニパータにこのような記述がありますね。1076辺りです。
曰く「滅びてしまったものには、それを測る『基準』が存在しない。彼を、ああだ、こうだ
と論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆる議論の道がすっかり絶たれてしまった
のである」という。
確かに、洞察するよすがは残されていても、それを論じる相対的な縁は虚しいものかも
知れませんね。でも、そこまで到達するには、拘って拘って拘り尽くして「ああ…」と解る
時が来るんだと思います。自分が到達出来る相対的な認識の限界まで「我」で頑張る事
も道だと思う。筏と同じですね。生死大海を渡るには「我」が必要な概念なのかも知れ
ません。渡り終われば自ずと滅びていくでしょう。雁字搦めの思考を雁字搦めの思考で
乗り切るジレンマでしょうか。私のブランコ遊びはまだ終りそうにないです。(w
739 :
(−人−):02/12/29 07:58
大疑の下に大悟あり。
今、迷っている自分をみつければそれでよいのではないでせうか。
迷いも疑いも無く極悪非道な人が多すぎますね。
740 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/29 11:45
>>739 >今、迷っている自分をみつければそれでよいのではないでせうか。
そーですね。
下手な概念挿入するより、如何に?如何に?のまんまでイイんかと思います。
迷いなければ悟りなし。
>>738 >>全部捨てきって、何か感じるもんがあるのは通常でも良く経験する…
清貧の思想とは、あえて上質のもんを捨てる。
質素のなかに豊かさを見出す。
江戸時代の商家の上さんが、上物の反物を人にくれちゃう。
あえて自分は木綿の着物をツギをしいしい着る。
こうゆう生活ちゅうのは、まあ変人あつかいですね。
しかしながら、あえてそうゆう生活をしてみなくちゃ分からん。
こうゆ思想とゆうのは日本独自なもんかと思ってたら、
トルストイなんかも晩年は清貧だったらすい。
相当な資産があるにもかかわらず・・・。
>>740 釈尊も、商売をする事を薦めているわけではありませんが、否定する事もしないよう
でしたね。商売をする者は、商売から「何か」を学べるのでしょうね…。
「出家」というものが仏教にはありますが、私はこれには疑念があるんですね。
ある期間を決めて、その間瞑想三昧に浸るのは、これはこれで大いに私はお薦めしま
す。人間の成熟を見ると、無明から生まれて、明暗分別の領域を迷い、明暗分別の智慧
を修し、明暗分別の領域を超えた無分別「無我」の境地に至っていくのではないだろう
か。それもそれで、非常に多くの様々な事柄から学べるんだと思います。
だから「これだけが道である」と言うような偏狭な考えには拘りたくないですね。
清貧の思想は、私にも分かりますが敢えて実践するほど私はまだ人間できていないかな。
豊かさに溺れている状態でしょうか…。だから、ゴミがコワイのかもね。(w
私は、生活上大量のゴミを生み出してしまうので、我ながらオソロシイんですよ。
一応、自分なりにゴミを少なくする努力は少しはしているつもりですが…
この年末の大掃除でも、また大量のゴミを排出してしまうのです…
これが仏の当体かと思うと、どうしていいか分からなくなる。しかし、捨てないわけにも
いかず、結局捨ててしまうのですが。
>>739 >今迷っている自分を見つければそれでよいのではないでせうか。
禿銅で〜す。
しかし…。大掃除で排出する大量のゴミを、どーしたらよいでせうか?
仏(物)に詫びて、来年はもう少し少なくなるように頑張るしかないか…。
743 :
(−人−):02/12/29 15:01
>仏(物)に詫びて、来年はもう少し少なくなるように頑張るしかないか…。
これぞ、ワビ・サビの極意と心得まつ。(髑髏風味)
私は大掃除せねばトいう心を、ホウキしました。(笑
とかいいながら、粗大ゴミだしてきまつ。
そう言えば、清貧というのとは違うと思いますが、アイルトンセナが豪華な
フォーマルのパーティーに、カジュアルで一人、ポツリと現れるのは不思議
でした。滞在するホテルの部屋とかも、質素なもののようでしたね。カネも
女も自由にできる彼が…。
やはり、そこには私の尊敬するセナがいるんですね。。。
レーシングドライバーとして世界の頂点に立ち、全てを手に入れた彼がそれ
でも目指していたものがあるようでした…。
F1のピットリポーターの川井という男が、セナだけはどーしても理解でき
ない面があると言って漏らしていたな…。
>>743 私は、ワビ・サビの勉強が少ないのかも知れませんね。(笑
私は、日本人なのに、日本の文化があまり好きじゃないんですよ。
な〜んか、固っ苦しく感じられて…。まあ、勉強もしてないくせになんですが。(w
(髑髏風味)は、一味違っていて中々面白いと思いまつ。(笑
>>740 >質素のなかに、豊かさを見出す。
そーいうことが大切なのかも知れないですね。「豊かさ」が何なのか?ですよね。
異性にモテテ、カネが唸るほどあれば、豊かという訳ではないですよね。
確かに私もまだ若いし、異性や金品を求てしまう心に吝かではないが、振り返って
思うと、そういうもので満たされるのは、ほんの束の間のことで、すぐに飽きてし
まう。で、また次、その次…となっていくんですね。そしてこれを続行していくと
終いには自分が嫌になってきてしまう…。
反面、私は時々熱海の山の中の寺に篭って、瞑想三昧の日々を送ることがあるので
すが、新聞もTVもラジオも、PCも、オーディオもなく、会話も最低限で過ごす
日々に、とても豊かな感慨を得てしまうのも面白い。
質素の中に豊かさを見出す心で生活出来てくれば、ゴミも最低限になってくるかも
知れませんね。と言うか、多分そうなるでしょう。そうだったんだよなあ…。
747 :
(−人−):02/12/29 19:39
>>746 読んでいて嬉しくなりますね。
気候のよろしい熱海で瞑想三昧ですかー。
いいなぁ。
「菜根譚」など読んでいても、シンプルでなるべく刺激の少ない生活を好んでしていると、
五感や精神の感受性が研ぎ澄まされてそこに、深い味わいを楽しむ事が出来る。
ようなことがかいてありますね。
うーむむむ。ブランコさん何か変わりましたね?
思い込みかもしれませんが文章から伝わってくる雰囲気が、すこーし穏やかになったきがします。^^
>>746 いいなー 俺もそんなことやってみたいなー
でも稼がないと生活できないし
31日まで仕事だし
生活のために仕事に追われて
このまま歳とったらやだなー
本当にブランコさんはいいなー
>>748 まあ、人それぞれ歩んでいる道は異るのです。誰かを羨んでも何の得もありませんよ。
それに、私だって風流や、粋でやっているわけではありませんからね。
そこら辺は、人には分からないだろう問題があってのことです。
しかし、そんなに羨むような事でもあるまいに…。もしそうなら、あなたもやってみ
ればいいんですよ。一年に一回か二回、時間は作り出せば何とかなるでしょう。
私だってそんな感じでやっているんですよ。
>>747 え?何時頃の文章から言っているんでしょうか?
多分、質素な生活の中にある、大いなる豊かさがあるに違いないだろうという
洞察が、私をして穏かにさせたのではないでしょーか。
私の生活は質素とは、無縁のようなものですから…。もう、嫌なんです。(w
で、ここにきて漸くそれに気が付いたんですよ。何故に今まで気が付かなんだ。
質素の中の豊かさ、質素の中の豊かさって考えていたら、腑に落ちるものが出
てきたんですよ。(^^
751 :
髑髏さんをまねてみた:02/12/30 09:57
>質素の中に豊かさを見出す心
これは大事かと思います。
茶道には「わびさび」とゆう言葉があるんですが、
わたしはこの言葉を、こんなありがたいもんはない。と、思いましたよ。
この四文字は実に深い。
わびさび・・・質素の中の豊かさも、そうなんかと思います。
752 :
名無しさん@1周年:02/12/30 09:59
京都、平安神宮に初詣に行こう!
>>751 う〜ん、真似してみてもあまり(髑髏風味)が出ていないのが残念なところか…。
質素の中の豊かさは実に深いかと思います。ワビ・サビの世界は私にはよく分か
らないんですが。。
>>752 私は、神奈川なので、初詣に京都まではちょっと…。今年は寒川神社に行きま
した。人並みに押されて流れていくと、何と私の顔に、五千円札が降ってくる
ではありませんか!御心のお金に手を付けるほど、罰当たりな事はできません
ので、確りと賽銭箱に入れてまいりましたが。一瞬、悪い心が過ぎったのは言
うまでもありません。
先ほど、クルマでお寺に墓参りにいったのですが、まあ狭い道をクルマが通れ
なくて、大騒ぎになりましたよ。方や路肩にクルマを寄せて携帯中だし、方や
車両感覚が悪いのか、十分に通れる幅が残されているにも関らず、クラクション
を大げさに鳴らす。それでも携帯のドライバーは受話器から耳を離さない。
いい加減にして欲しいので、クラクションを鳴らしているドライバーに十分に
通れる幅があるんだから、早く通ってくれと言ったら、今度は怒りの矛先を私に
向けてきた。曰く「もしぶつかったら、誰が修理代を払ってくれるのか?」とま
で口から唾を飛ばしながら言ってくる。これくらいの車両感覚もないのならクルマ
になど乗るなと言いたかったが、ウルサイからつい早く行けと怒鳴ってしまった。
クルマに乗るならそれなりの腕を身に付けて欲しいものです。下手なドライバー
には、低級免許しか交付しないで欲しいと思ってしまう一幕でした。
756 :
貢げ 貢げーっ:02/12/30 21:31
交通安全協会 → ケーサツの天下り先ぃぃぃぃぃ
そう言えば、以前中国を訪れた時、幾つかのお寺にも行ってきました。まあ、上海だった
んですが、お寺は結構多かったですね。で、観音像が多かったような気がします。
仏像は、私の見た範囲内では割りと少なかったようです。でも、面白いことに仏像の胸の
ところには、円形の鏡が埋め込まれていましてね、その鏡に映る自分の姿を想像して、私
は少し覗き込むのを躊躇った…。
現地の案内によると、クエ(鬼)「多分、日本流に言うと、幽霊、妖怪の類だと察しましたが」
は、「鏡」を一番怖がり、苦手とするからだ。ということでした。
なるほどな〜と思いましたが、鏡を覗き込むのを一瞬、躊躇わせた私の心とは何だったの
でしょうかね…。
758 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/31 15:46
>>757 そうですね。
神社ですと、鏡とゆうのは「ご神体?」なんでしょうかね。
祭壇の中央に鏡がありますね。
古来、鏡とゆうのは神秘的だったんでしょうね。
心は明鏡台時々払拭せよ。by神秀。
こうゆう事なんでしょうかね。
759 :
(−人−):02/12/31 18:33
「晦日にあたっておもふ」
今年最後には思いもかけず、このスレにめぐり合う事が出来て幸せです。
この素晴らしいスレの1さんブランコ氏に感謝いたしますとともに、
来る年も本スレに集う皆様どうか宜しくお願い申し上げます。(^^
さて、本年最後に。
「不立文字」「教解別伝」「説示一物即不中」などと簡単に解釈することが許されなくなるような一文に出会いました。
思索の旅は果てしなさそうです。
龍樹菩薩の中論、第24章第10頌(レグルス文庫・三枝充悳「中論」下P641より)
「世間の言語慣習に依拠しなくては、最高の真実は、説き示されない。最高の真実に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。」
760 :
名無しさん@1周年:02/12/31 18:53
>「世間の言語慣習に依拠しなくては、最高の真実は、説き示されない。最高の真実に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。」
此処は言語が生み出す観念を絶せねばわからん罠。自分に都合良い文だと思っても無駄だ罠。
761 :
(−人−):02/12/31 19:00
>>760 あはははは。楽しい方ですね。^^
言語が生み出す観念を絶せねばわからん罠←これを言語による観念と言わずなんと言いますか?
貴方が仰ることを自身で実践してみてくださいな。
あははは。貴方からデムパでも届いてきたら誉めてあげましょう。
では、よいお年を。m(_ _)m
762 :
名無しさん@1周年:02/12/31 19:08
堂々巡りやんけ
メビウスの輪
>>758 髑髏仮面さんは、人気者ですね。あなたがレスをフルと、空かさずスレが賑わう
ようです。(w
私は、中国の文化はあまり好きじゃないのですが、中国人には結構好きな人がい
ます。個人の中には、その国の文化が否応なく染み込んでくると思うし、事実そ
の付合いからもそれが覗えます。それなのにその個人が好きなのは我ながら面白
いと思うんですよ。でもそれが、私の中で矛盾になることはないですけどね。
人間というのは面白い。私は「人間」であり「男」であり「東洋人」であり「日本人」
であり…と云う具合に幾らでも呼び方があり、それぞれ間違ってはいません。
で、人間以前には何であるか?と問われれば「生き物」と答えるでしょう。更に
畳み込むように問い続けていくと、最後は「?」しか残らない。これは回答には
ならないと「考える」でしょうね。通常は…。ここに「回答」は無いと…。
そして、最後の「?」は、恐らく幾ら追求しても分かるようなものではないんじゃ
ないかと思う。突き詰めればこの「?」の中に、生老病死の問題も含まれている
のでしょうけどね。この「?」に対する追及の態度が、私は求道というものでは
ないかと思います。これは、スポーツ然り、学問然り、芸術然り、ですよね。
でも、恐らくこれらは生死の問題には、無回答であろうと思います。
つまり「如何生きるか?」これが限界であろうと。これ以上の回答は無用の長物
であろうと…。これは具体性に欠け、実用性に欠ける。そう思うでしょう。私も
そうですから。
ただ「何故生きるか?」この回答は、この限界の向こうにあるんだと思います。
これこそ、生死の問題を解決する最後の回答が得られる場所ではないかと思い
ます。これが私の考える「奥の院」ですね。しかし、これは難しい…。
コミュニケーションでは、このコンセンサスが得られることはなかろうと思う。
765 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :02/12/31 22:18
>>759 > 「世間の言語慣習に依拠しなくては、最高の真実は、説き示されない。最高の真実に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。」
中論においてはチョッと目をひく文言ですね。こうゆうイメ−ジじゃないですからね。
新鮮な印象です。
龍樹菩薩は奥が深い。
来年も宜しく。
>>764 ただ「何故生きるか?」この回答は、この限界の向こうにあるんだと思います。
何故そこに山があるんか?何故木の葉が落ちるんか?
その延長線で考えておりました。
「奥の院」も考えてみたいですね。来年は。来年も宜しく(^^
肉を喰え!
殺生せよ!
生きるとは殺すことである!
生きよ!
殺せ!
日々殺していることを自覚せよ!
偽善者どもめ!
767 :
名無しさん@1周年:02/12/31 22:45
>766
原理仏教者さん、こんばんは。ご修行ごくろうさまです。
何も力んで「殺生せよ」もないでしょう。放っておいてもやがて死ぬのが生き物の定め。
生き物はみな、死ぬのが定めなんですよ。死を免れていない身の上なんですから。
私が偽善者なら、あなたは偽悪者ですね。どちらも「偽」故、本物ではありませんね。
生きることは新しいいのちを産む事でもありましょうに…。それは認めないのですか?
まあ、あなたの意思が「どーしても殺したい」というのなら、その自分を始末してはど
うでしょうかね。それなら誰も止めないでしょう。人間が自殺するのは、私は見て見ぬ
振りは出来ませんが、他人に殺生を薦めるような者は、私は人間とは言いませんね。
道元の「学道用心集」という著書に、仏道を学ぶは、良き導師に着くべし。
弟子は良材の如く、師は工匠の如く。だと言う。
良材も、良工を得なければ、綺麗今だ現れず、例え曲木といえども、もし
好手に遇えば妙功忽ち現ず。と言う。
しかし、一方で仏説には「如来はただ道を示すのみである。それでも道を
誤り迷子になってしまうものを如来といえど、どうする事ができようか?」
と言う一節もある。
では、釈尊は上記の道元禅師の言葉を否定なさるだろうか「そんなもので
はない」と。釈尊が幾ら、正法を説いても聞く耳を持たないもの、持論に
強く拘る者、こういう曲木のような者には、馬の耳に念仏のようで自分の
苦労が報われない事が多いにあり得ると。こう語るだろうか。
それとも、道元禅師の「例え曲木でも、好手に遇えば妙功忽ち現ず」賛成
して「その通りである」と認められるだろうか。私の見解では「まあ、そう
言う事もあり得る」と、こういう態度を釈尊は示すのではないかと思う。
で、具体的な「この学生」と「この先生」に付いてなら、その縁起をよくご
覧になって、リアルなことを説法するのであろうと思われます。ただ、良き
師に付くこと、これは「その通りである」と言われると思う。善友を得る事
は、道の半場ではなく、道の全てである。そう言い切っている節もあります
からね。問題は「例え曲木でも、好手に遇えば、忽ち…」と言うのはケース
バイケースで一概には言えないと私は思うのです。
どうやら、年を越したようですね。みなさん今年も宜しくお願いします。
「世間の言語習慣に依拠しなければ、最高の真実は説き示されない。最高の真実に到達しな
くては、ニルバーナ(涅槃)は、証得されない」
ここから私は、概念と己との関係性を示しているように見うけられました。スレの初めの方
に「全てを考え尽くす」というのがありましたよね、まあ、言葉通りに受け取ればそんな事
は無理なのですが、自己の知性を総動員して、それにあたることは出来ると思います。
修行?をしていると、様々な概念に出会いますよね。で、この概念が自分の修行?に役に立
つものか、立たないものか、この分別は必要でしょう。しかしここは、どんな求道者も悩み、
葛藤し、迷う処でしょう。この分別には非常な熟練や、勇気が必要とされる処です。
これは言葉を変えれば、縁起の達人になるとも言えるのではないでしょうか。実証すると言
う意味でもね。
その、縁起の達人の域にまで達した時に、みえてくるものがある意味、真実の欠片とも言え
るんじゃないかと思います。この真実の欠片から、ニルバーナが垣間観えてくるんじゃない
かと思いますね。でも、まだ垣間観えるだけでしょう。まだ道は続いているようですね。
道が絶えても道を開くのが求道者でしょうから、探したり、切り開らこうとしたりするでだ
ろうと思う。しかし、真実の欠片にまで到達した人ならば、匂いで嗅ぎ分けるように、真実
に向かっていく事だろうと思いました。そのセンシビリティは、縁起の達人に至る道のりで
自ずと会得してくる事でしょうからね。涅槃の匂い、無明の匂い。これは明かに違うもので
すよね。この分別は死ぬまで続行していくものだと思う。内心の安らぎに到達している人で
もそうなのでしょう。人生に完成は有り得ないと思います。
あけましておめでとうございます。
ブランコさん、髑髏さん、(−人−)さん、今年もご指導よろしくお願いいたします。
>>771 ご指導なんて、私にはとんでもありませんよ。(汗
友に学び合い、教え合えれば幸いです。こちらこそ、宜しくお願いします。
773 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/02 08:06
皆様、あけましておめどうございます。本年もよろしこ。
>>770 >その、縁起の達人の域にまで達した時に、みえてくるものがある意味、真実の欠片とも言え
>るんじゃないかと思います。この真実の欠片から、ニルバーナが垣間観えてくるんじゃない
>かと思いますね。
で、これを上手く言い表したもんが「眼横鼻直」かとおもうんですね。
考えてみますと、こうゆう言葉ちゅうのは簡単に出てくるもんではないですよね。
それまでにサンザン修行して・・・
何か言い表すとすれば、なんかの粉飾した言葉にしようとします。
非常にシンプルであるけども、ドンッと心の中に入り込みますね。
この冬、森林には無数の種子が眠ってますね。
やがて春になると一斉に芽を吹き出します。
このうち成木になるのは、百分の一とか千分の一とかで、他は自然淘汰。
つまりは強いもんだけ生き残る。
これも眼横鼻直なんでしょうね。
774 :
名無しさん@1周年:03/01/02 09:07
>>773 悟りはね、「ラーメンの味」にたとえる事が出来るんですよ。
つまり、味を言葉で説明するよりも、食べたほうが納得できる。
悟りを極めるには、食べ歩きをした方が早道なんですね。
で、一応自分では極めたつもりで、「悟り宣言」をするわけです。
そうしますと「君それは間違っているよ」とか言われ面食らってしまう。
つまり、正しく悟ったか、間違って悟ったかはあまり意味はない。
ようは、本人が「美味しい」と感じればそれでいいのです。
悟りの極意は、経験です。その積み重ねで本質が見えてきます。
二元論ではありません。悟りの中にも迷いが内在しています。
極論すれば、セックスのエクスタシーにも悟りは内在しております。
775 :
(−人−):03/01/02 09:31
あけまして、おめでとう御座います。
皆様本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m
大正大学様、御丁寧なお年始有難う御座います。
こちらこそどうぞ宜しゅうに、お引き回しの程を。
>>773 >で、これを上手く言い表したもんが「目横鼻縦」かと思うんですね。
う〜ん、私は禅語に弱いもので、その言葉が誰から、どの様に出てきたのか知らない
んですが、その言葉が表している意味は、至極当然、当たり前のことなんですよね…。
だが、縁起の達人(世間での様々な技芸事の達人も含む)から、奥義は何かと問うて
みたところ、誰でも知っているような当然の事を言われたら、馬鹿にされていると思
うか、考え込んで悩んでしまうのが落ちだろうと思います。まあ、これが名人級までの
心の反応じゃないかなあと思うんですね。大概にして達人級の仕事というのは理論的
には、説明不可能な域を武器としているような気がしますからね。
仕事でも達人級と言えるような人は、大抵リラックスの重要性を認識しているんじゃ
ないでしょうかね。何度かスランプに陥って、そこから抜け出す経験を積んできてい
るはずですから知っていると思います。そこが一種のジレンマになってしまう穴でも
あるとも含めて知っているんだと思います。
リラックスしている事は、実は自分にとって至極当然の状態とも言えるのですが、こ
れが自我の構造上「意識的に」と言うのは非常に難しいものでもあるようですよね。
この種の事は小学生の遠足等で、バスや乗り物に酔いやすい体質の者が陥り易い精神
的なある種の矛盾なんですね。まあ、こういう経験やスランプになど陥った経験もな
い人にとっても、笑い事で済まされない厳しい人間の精神的な厄介さが覗えると思い
ます。望んでいるものから、どう言うわけか離れていってしまうような事は結構普通
に経験している事じゃなかろうかと思うから。愛する人から、どう言うわけか離れて
しまうようなことをしてしまう自分とか、妄想概念から離れ様と思えば思うほど絡み
付いてくるというような事ですかね…。で、目横鼻縦がスッと心に染み入ってくる時
に、図らずともリラックスしている状態になっているんだと思いましたよ。
777 :
(−人−):03/01/02 22:32
眼横鼻直「がんのうびちょく」
今から750余年前曹洞宗開祖道元禅師は、24歳の時中国に留学し、
天童寺如浄禅師に学ばれ、28歳で帰国。帰国後の第一声が「空手還郷」
クウシュゲンキョウ、「眼横鼻直」ガンノウビチョクというものでした。
空手還郷とは、「経典や仏像など持ち帰らず、手ぶらで祖国日本に帰ってきました」。
眼横鼻直とは、「眼は横に鼻は縦についていることがわかった」と言われたのです。
以上コピペでした。m(_ _)m
>>777 空かさずレス有難うございました。実は私も今少し道元禅師についての書物を読んでいる
とことですた。神田の古本屋で仕入れてきたものなんですが、入門版レベルです。(^^
779 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/03 08:33
(773のつづき)
眼横鼻直「がんのうびちょく」
一見、強いもんが成木になると思えちゃうんだけど・・・それはそれ正解。
で、いんやそれは強いも弱いもない。ちゅう見方もあるんで、見方はそれぞれ。
条件が良ければ育つ。条件が悪けりゃ淘汰される。ただそれだけのこと。
そこに生滅のはかなさを垣間のぞかせたのか?
道元の心中しるよしもなし。
私は、そんな意味があるんじゃないかと、あくまでも推測の域。
780 :
(−人−) ◆1upcdpqOV6 :03/01/03 14:36
>>779 適者生存ということですか。
しかし、必ずしも適したものや優れたものが残らないのが浮世の常ですね。
たとえば、時計の右回り。
時計が作られた初期の頃には、左回りのものもあったようです。
どちらでも問題はないけれどなぜか右回りに統一されましたね。
たとえば、アメリカにおける鉄道網の発展が阻害されたこと、
ある時点において自動車会社が業績を伸ばすためにを優秀な鉄道路線を買い取って
わざわざ、潰したという歴史があるそうです。
最大多数にとって有益なもの、優れたもの、適したものが必ずしも残るものではない
ということは、結構ありふれたことだと思われます。
およそ歴史の大きな流れは、些細な出来事によって決定されることが多いようです。
このあたりに「あるべきよう」とはかけ離れたある種悪魔的な計らいの存在を感じるのです。
追伸:ちらほらと、私と同じHNが見られるようになりましたので、一応トリップを着けるようにいたします。
改めてよろしくお願いいたします。
781 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/03 15:30
>>780 マンションなんかも、経済性を第一義に優先するため必ずしも「人間の幸福」を追求したもんではないですね。
老巧化した場合、取り壊す時は莫大な費用がかかる。
古いマンションですと、水道管が錆び付いちゃうともう寿命に入りますね。
最近のコンクリは、塩分(海砂)が入っていてモロイらしい。
これも・・・
>このあたりに「あるべきよう」とはかけ離れたある種悪魔的な計らいの存在を感じるのです。
こうゆう事かと思います。
日本庭園ちゅのは、水は上から下に流れる。→これが仏教文化とするなら。
西洋式庭園は、噴水の水は下から上に流れる。→一神教文化というんでしょうか?
「あるべき」とゆうなら、まあ、前者が良いんかもしれませんね。
>>779 >眼横鼻縦「がんのうびちょく」
というのは、至極当然のこと、言わば「ありのまま」の事を言っているんだと思った
んですが、そういう事ではないのでしょうか?
>一見、強いものが成木になると思えちゃうんだけど…
この「強さ」と言うのにも剛柔の性質がありますよね。それに適者生存というと、と
かく弱肉強食の様相が思い浮かんでくるものでもあります。人間社会というのはどっ
ぷりと、この思想に浸かっているんだと思いますよ。経済的な利得の問題が絶対的な
テーマになって「人に優しく」とか「環境に優しい」等と社会で発言したとしても、それ
はまだまだ「建前」にしかならないと思う。これを超えられるのは個人の精神の中だけ
でしょう。でもその個人が社会に依存して生活しているのだから、こう言う問題に立ち
向かっていくには、相当厳しい状況に置かれるのを覚悟の上でないと、どうにもならな
いんじゃないかと思いますね。ここは縁起の達人達の仕事を期待したいですね。
個人的には好意を持てる人でも、社会的、或いは集団的となると、利得第一の役柄を
演じざるを得ない状況が、現としてあるように思いますから。
ここでも善悪は縁起に依って発生すると言える側面が出てくるんですね。誰かが善人
か悪人かを分けるのは、本質的なものではなくて役割りでしかなく、それは条件に依
り生じて、条件に依りて滅びていくものだと。
私は釈尊時代の仏教と言うのは、事の本質を問うたり語ったりするものではなくて、
この縁起を洞察して利用し、無上の善に向かっていくものだろうと思っています。
善悪の本質には触れずに、ただ、法句経の一番ニ番にあるように、縁起の中で生きる
人間には、縁起に従って福得と禍の果報を受け取らざるを得ないものがあると言う様な。
確かに身の回りでも、妻を幸福にしてあげるのも、子供を善い人間に成長させる為の
縁も、夫であり、父である「私」に負うものが非常に多く、これは紛れもなく縁起を如何に
「生きるか?」に懸かっている事だと思います。
783 :
(−人−) :03/01/04 18:42
>これを超えられるのは個人の精神の中だけ
>でしょう。でもその個人が社会に依存して生活しているのだから、こう言う問題に立ち
>向かっていくには、相当厳しい状況に置かれるのを覚悟の上でないと、どうにもならな
>いんじゃないかと思いますね。ここは縁起の達人達の仕事を期待したいですね。
実生活においての第一番の善行は、「貪らない事をもって十方に供養する」
ということでしょうね。
一見、消極的のようですが、その功徳は計り知れないものがあります。
784 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/04 20:22
歎異抄
「善人なお往生をとぐ、いかにいはんや悪人をや」
善人は往生できるんだから、悪人はなおさら往生できる。
善人は、自力で悟りを得ようとするから、仏をたよる心が欠けるらすい。
だから「悪人のまんまで往生さえてくれ」。とたのむ。
そのほうが良いらしい。by親鸞。
785 :
名無しさん@1周年:03/01/04 20:30
786 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/04 21:07
>>785 真宗を、あんましご存知ないんか?
実は、私もそんなに詳しくはないが・・・
しかしながら、間違った事は言うとらんぞ(w
787 :
名無しさん@1周年:03/01/04 21:47
実際問題、精神波動が低い悪人は往生できないと思うが。
788 :
名無しさん@1周年:03/01/04 21:49
>>787 「精神波動」ってなんでつか?
新手のデムパでつか?
デムパならオカ板でドーゾ。
789 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:00
>>788 電波はおまえ。
じゃあ、精神は波動じゃないってか?
ま、頭弱い奴に何を言っても無駄か。
790 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:05
>>789 すみません、カルトか新興宗教の方でつか?
791 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:11
792 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:22
>電波はおまえ。
>じゃあ、精神は波動じゃないってか?
>ま、頭弱い奴に何を言っても無駄か。
あ。
これ、ひょっとして質問だっだのでつか?
テキーリ、デムパが飛んできているのかと。(笑
お父さんやお母さん、学校の先生や友達には「ヤッパ精神って、波動だよねぇ〜。」
とか、言わない方がいいでつよ。
人が親切で言ってる間に大人しく言うこときいといた方が良いでつよ?
793 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:29
>>792 >最新の物理学理論では、宇宙の万物はすべて素粒子=波動からなる。
>「万物はすべて量子から成り立っている。量子とは粒であり波である」
精神は、「宇宙の万物」以外のものなのか?
波動じゃないんだな?
794 :
名無しさん@1周年:03/01/04 22:43
>>793 おおーっ。(笑
大きく出まつたねー。
今夜はヒマなのでお相手いたしまつ。
>精神は、「宇宙の万物」以外のものなのか波動じゃないんだな?
ソコマデ言うなら日本語は成り立たないでつね。
例えば。。。。
せんせーバナナは波動でつ。テレビは波動でつ。カップラーメンは波動でつ。
オウムは波動でつ。おでんは波動でつ。うんちは波動でつ。お○○こは波動でつ。
etc.etc.となりまつねー
或は、水は液体でつか?と質問されたら、いいえ波動でつとこたえまつか?
いずれにせよ「精神波動」が世間一般で通用する語彙ではないでつね。
百歩譲って仮に尋ねまつが、その「精神波動」ってどんなものでつか?
795 :
名無しさん@1周年:03/01/04 23:11
>大きく出まつたねー。
法則に大きくでるとか小さくでるとかいう問題があるのか?
>せんせーバナナは波動でつ。テレビは波動でつ。カップラーメンは波動でつ。
どこに問題があるのかわからんぞ?万物が波動なら、波動以外のものはないだろ?
大槻教授もテレビで宇宙のすべてのものは波動だと言ってたぞ?
>或は、水は液体でつか?と質問されたら、いいえ波動でつとこたえまつか?
日本語大丈夫か?万物が波動なら、液体も波動だろ?「いいえ」と否定する必要はないだろ?
>百歩譲って仮に尋ねまつが、その「精神波動」ってどんなものでつか?
精神の周波数の状態だろ?今のところ直接計測はできんとは思うがな。
脳波とかも周波数じゃないのか?違うのか?
796 :
名無しさん@1周年:03/01/04 23:27
>>大きく出まつたねー。
>法則に大きくでるとか小さくでるとかいう問題があるのか?
「精神波動」の法則があるのなら向学の為に拝見死体でつ。(笑
>大槻教授もテレビで宇宙のすべてのものは波動だと言ってたぞ?
(ニガワラヒ
>日本語大丈夫か?万物が波動なら、液体も波動だろ?「いいえ」と否定する必要はないだろ?
アナタ ニホンゴ イワレタク ナイ アルヨ
質問と答えがかみ合ってないとこが分からないところがデムパってまつね
>精神の周波数の状態だろ?今のところ直接計測はできんとは思うがな。
>脳波とかも周波数じゃないのか?違うのか?
つまり、「精神波動」とは。
脳波みたいだけど、今のところ観測不可能で存在は証明できないけど
全ての存在が「素粒子」から成り立っているので多分存在するものでありまつ。
「精神波動」は精神の周波数の状態のことで悪いひとは「低く」いい人は「高い」
かもしれないもの。(証明は出来ないけれど(笑))
ということなのでつね?
因みにあなたは「精神波動」ビンビン感じてまつか?(笑
797 :
名無しさん@1周年:03/01/04 23:46
>「精神波動」の法則があるのなら向学の為に拝見死体でつ。(笑
「精神波動」の法則があるというよりも、「万物が波動である」という法則に、
「精神は波動」も含まれるんじゃないのか?それとも万物に精神は含まれないのか?
>質問と答えがかみ合ってないとこが分からないところがデムパってまつね
「水は液体である」「水は波動である」「液体は波動である」
つまり、「水は液体であり、波動である」「波動である水は液体である」
なぜ、「水は液体ではなく、波動です」と答える必要があるんだ?
>「精神波動」は精神の周波数の状態のことで悪いひとは「低く」いい人は「高い」
厳密には良いも悪いもなくて、高いか低いかがあるんだろ?
>因みにあなたは「精神波動」ビンビン感じてまつか?(笑
感じられる人がいたとしても客観的に証明の仕様がないんじゃないのか?
798 :
(−人−) :03/01/04 23:51
スレも残り少なくなってきました。
>>787-797 板違いなネタはすみませんが、よそに行ってしてください。
精神波動も知らずに強気に出て、その後慌てて調べて取り繕い互角の勝負を演じている788は凄い。
とにかく論理のすり替えが上手い。あくまで強気な姿勢。これも素晴らしい。これは素人DQNでは無い。
787は、どうしても論理性を以って話を推し進めようとしている。これでは勝てない。髑髏の爪の垢を煎じて飲め。
そして788にも忠告がある。
>(ニガワラヒ
これは、あまりにも頭が悪そうだ。使わない方が賢明。
800 :
名無しさん@1周年:03/01/05 00:13
ここがあなたのソースでつね?(笑
天野仁(あまの ひとし)
天野仁 著「新世紀への波動―癒しと調和の創造的文化を探って」(創土社、2002年1月 出版)より
波動のすべて
最新の物理学理論では、宇宙の万物はすべて素粒子=波動からなる。
そこに、精神世界と物質世界との区別はない。
理学博士・国際波動研究所顧問
天野仁
天野仁 著「忍者のラビリンス」(創土社、2001年11月12日 第1刷)(第11回日本トンデモ本大賞受賞作)より
京都大学博士課程修了。理学博士。国際地球環境大学(在ニューヨーク)教授。理論物理学専攻。
宇宙論・宇宙科学の分野で国際的に活躍。詩人でもある。近著『宇宙の存在に癒される生き方』(徳間書店)
『聖書の科学』(PHP研究所)、『人生をすばらしく楽しく生きる本』『宇宙の疑問602をカラーで楽しむ本』(ともにエコー出版)。
801 :
名無しさん@1周年:03/01/05 00:20
>>800 「万物は波動」というのを引用したくて、
ネットで検索して出てきたところから引用しただけだけど?
もう一つのはホーキング博士の言葉らしいぞ?
随分時間掛かったみたいだがそれでおしまいか?
802 :
名無しさん@1周年:03/01/05 00:26
いいえ、注目はここでつ↓(笑
(第11回日本トンデモ本大賞受賞作)より
(爆
dデモくんのお相手は楽しかったでつ。
ココイラでおやすみでつ。
またねー。
最後まで自分の馬鹿さの自覚のない奴だな(藁
804 :
名無しさん@1周年:03/01/05 00:38
>>802 googleの検索結果一覧から目にとまったものを引用しただけだが?
「万物は波動」の箇所が正しければそれでいいんじゃないのか?
>>804 馬鹿の相手はしないほうがいいぞ
時間と体力の無駄
>精神波動も知らずに強気に出て、その後慌てて調べて取り繕い互角の勝負を演じている>788は凄い。
>とにかく論理のすり替えが上手い。あくまで強気な姿勢。これも素晴らしい。これは素人DQNでは無い。
かなり偏った批評じゃないかい?
全然凄いとも素晴らしいとも思えないんだけど。
>全然凄いとも素晴らしいとも思えないんだけど。
禿げ同。
ただの馬鹿だろ。
見苦しいだけ。
こういうのは今後放置すべし。>804
808 :
名無しさん@1周年:03/01/05 07:04
>>806 おまえあほか。素人DQNじゃねえってこたあ玄人DQNってこった。
809 :
名無しさん@1周年:03/01/05 07:19
810 :
名無しさん@1周年:03/01/05 10:38
「救い」とはなんでしょう。
「救われる」とはなんでしょう。
811 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/05 11:06
>>783 >実生活において第一番の善行は「貪らない事をもって十万に供養する」
そうですね。これは身においても、口においても、心においても回りに対する礼儀に
もなりますし、自分自身にとってもこの上ない修行になり得ると私も思います。
私はこう言う地味で誰でも知っているような事が奥義に達する道だろうと思うんです
よ。馬鹿にしないでやってみれば誰でも何かが分かるんですね。真摯に、実直に…。
まあ、実際はこういうシンプルで簡単な事が難しいから、色々と言訳を拵えてしまう
んでしょうけどね…。
ところで、こう言う事を言うと「どこまでが貪り」で「どこからが貪りでないか」を問う
議論が湧き上がってくるようですが、これは議論して明らかにするより、貪りを自分
で実行してみることが、それを知る近道だと思いますね。身体的な感覚は分かり易い
いので、何かを貪り行ってみれば徐々に「ああっ」と分かってくるものがあると思う。
いきなり戒律などで貪りを禁じてしまうのにも方法でしょうが、まあ、許される範囲
で試してみるのも、私は実行する価値があると思うんですよ。理屈をこえた処で納得
がいくのも、自分自身非常に落ち付くものがあると思います。
>>810 >「救い」とはなんでしょう。
あなたは、自分の人生を省みて、救われたと思う経験はないのですか?
814 :
名無しさん@1周年:03/01/05 12:12
救われたと思った経験はあります。それが迷いなのでしょうか。
815 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/05 12:19
そのようであれば、そのようにあることが・・・
「救い」も「救われ」も非ず。
ただ、そのようにあることを→「気づく」だけ。
かように思ふ。
816 :
名無しさん@1周年:03/01/05 12:23
人生は苦である
と釈迦は悟ったらしいが
人生は迷いと苦しみとかりそめの快楽・救いの連続に過ぎないのだろうか?
四苦八苦に振り回されて老いさらばれるなんて悲しいけど
結局、人間の宿命なのかな。
>>814 それは迷いかどうか、具体的な事例で示して頂かないと、私には何ともいえません。
ただ、私は以前、海水浴をしている最中に足をツリ、もう岸からかなり離れていた
所だったので、大分焦ったんですが、機転をきかせて全身の力を抜いた時、すぐに
海面に浮かび上がることができました。この時の焦っている自分と、脱力して浮力
が働いて自然に浮上する自分の違いはハッキリと今でも覚えています。
救う、救われるとは、宗教的な意味ではひたすら道理を道理と知って、道理に生き
る事、これに尽きると私は思います。そういう智慧を社会生活で活かして病魔貧困
争い事などの改善に努める人が「救う人」と呼ばれるのでしょう。
救われたと思う経験もあるんでしょうし、救ったと思う経験もあるんじゃないかと思い
ます。それがあなたの「救う」と「救われる」の法門になると思いますよ。
文字から了解し、そこで納得のいく類のものではないと思います。
818 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/05 12:43
人生は苦なんだけど、その四諦もなし。無苦集滅道(般若心経)。
つまりは、森羅万象すべてが矛盾なく調っている。ちゅうことなんでしょうね。
人間の主観が分別おこして、この概念で迷うんかと思う。
四苦八苦が、そのようなら、それが「ありのまま」なんでしょうね。
「ありのまま」と思わない概念は分別して「苦」とおもうんでしょう。
819 :
名無しさん@1周年:03/01/06 18:37
母上様
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、
いつも我儘でお心に背きたうたうこんなことになりました。
今生で万分の一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生でご報
じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうか信仰といふのでなくてもお題目で私をお呼びだしてください。そのお
題目で絶えずおわびもうしあげお答えいたします。
九月二十一日
旅先の病床にて。 宮沢 賢治
>>816 >人生は迷いと苦しみとかりそめの快楽、救いの連続に過ぎないのだろうか?
自分というものを含めて、人間というものをどの様に見るか?という態度で道を求める事
がそういう疑念に対する答えになってくるだろうと私は思っています。
最高神や阿弥陀仏を呼び出して、その疑念を問う事はできないし、そういうものがいるか
どうかも人間は確認できない状態であるという事を肝に命じておく必要が先ずあるでしょ
うね。人間というのは、自分の問題は、自分で解決するように仕組まれているんだと私は
思います。それを自由と呼んでもいいかも知れない。人間の心とか精神と言うのは、実は
外側から法律や権力で束縛できるようなものではありませんよね。誰かから「お前はこう考
えろ」と命令されても、その様に考えるか、考えないかは、自分が決めるものでしょう。
環境的な制約から「そう考えざるを得ない」という限界はあるかも知れませんが、心の中で
迷いがあるとしたら、それはその限界を超えるものを認めているからだと思うんです。
人間は、長年の願い事や、心願が叶った時には、とても大きな満足感が得られるものだと
私は経験から考えます。この時には過去の失敗や悲苦が何であったのかが、自分で納得が
いくような事があります。これが、欠かす事のできないものだったと自分から考えるよう
になる事もあるんです。私は、そういう一本筋を通すような生き方が、仮初の快楽や救い
に耽ってしまう自我を引っ張り出し、成長させる道程になると思っています。
人間は、何かを遣り遂げることに、非常な満足感(幸福)を得られるものだと思うんです。
だから、自分は何を願い、どんなことをしたいのか?ここで機軸を持つ事が人生では大切
だろうと思うんですよ。自由というものが重要視されますが、それは不自由さをとことん
自分が味合わなければ自由が自由である事も解らない無明のままなのではないでしょうか。
私は人間とは自由を求める生き物なんだと思っています。そこに至るための挑戦や闘いは
避けて通れないと思います。これは、自分自身に対する挑戦と闘いですけどね。人生に完
成は有り得ないからです。
821 :
名無しさん@1周年:03/01/07 00:20
>>819 涙なしには読めんのを ヽ(`Д´)ノ ウワァァン
人生は苦である
このことに気がつけば、覚悟が定まり、苦の度合いが小さくなる
人生は苦である
逃げようとすると苦しみは倍加する
苦を受け入れる覚悟を決めると楽になる
どっぷりとつかる胆が、苦をやわらげる
人生は苦である
山頂のご来光の美しさの感動は、登頂に至る苦しさの代償である。
料理をおいしくいただくための最良の調味料は、空腹という苦しさである。
人生は苦である
苦すらも楽しめるとき、人生は楽園と化す
人生は苦である
人生の苦をやわらげるための智恵の言葉である
823 :
名無しさん@1周年:03/01/07 16:27
楽しんでますか?
>>819 私は、宮沢賢治さんの事をあまり知らないのですが、何時ぞや夢の中に彼が登場して
何やら川原で二人、握り飯を食っていたことがあります。
私は、愛について彼に問うた。彼は盛んに愛は信じるに値するものだと、力説するの
ですが、私は頑なに「愛など信じられない」と、裏切られたり傷つけられた過去の経
験をふりかえって、内心の疑念を吐露していた。
いい加減、彼も怒り出して「あんたにもいずれ解る時がくるでしょう」と言って去って
いってしまいました…。
場面は変わり、不気味な気配の漂う夜の畑で、彼が一生懸命に桑を振っていた。暴風雨
に雷の中で働いている彼に、私は「危険だから引き上げよう」と語りかけますが、そん
な私を振り払う様に桑を振り続けます。その内に私が居たたまれなくなって懇願する様
に「とにかく帰ろう」と強引に迫った。そこで漸く彼も桑を振る手を休め、私の眼を見
つめながら「どうして私を止めるのです?」と厳しく問いかけてきた。
「危険だからだ」と答えますが「私の危険などあなたには関係無いでしょう。少なくと
もさっきのあんたの理屈では、そういう事になる」と、手厳しく言われて、私にも自分
の考えが間違っていた事に気がついてきた。私が彼を放っておけなかったように、彼も
私を放っておけない気持ちがあったに違いないと、夢の中で考え直していましたよ。
ただの夢に過ぎないのですが、私には考えさせられる夢だった。で、現実にも人間の心
には、そういう側面があるのだろうと妙に納得がいきましたね。
咄嗟に我が身の安全を省みず、人命救助などを行ってしまう時があるのは、多分こう言
うことなんだろうと納得がいったんですね。それまではどうしてそんな事をする時があ
るのか、自分でもよく分からなかったんですよ。
無苦集滅道というのは、私にはよく分からないんですガ…。
四諦の、是は苦である。是は苦の集である。是は苦の滅である。是は苦の滅に
至る道である。というように、第三の時点で、苦の滅を説いているのにどーし
て態々無苦集滅道を説かにゃならんのでしょうか?
第三の苦の滅が、無苦集滅道と同じではないんでしょうか?
テングになってる者たちへの戒めじゃぞよ!
827 :
ヌッキリ君 ◆YDILyDvd46 :03/01/08 00:02
ヹッヹッヹッヹッヹ
>>824 よい! 感動した! エッセンスの詰まったレスだ!
これまでROMだったけど、自分自身も夢日記をつけたりしているんで
漏れの琴線にふれるところがあったよ、マジ。
ところで、ブランコタンは、どうして湾岸スターをやめて
こんなに内省的なヒトになってしまったのですか?
閲覧できる過去ログとかあれば教えてけろ。
漏れはブランコ氏とは逆だな。
若い頃は禅寺生活をしていたのに、今はホットハッチを夜な夜な乗り回している。
音楽もかけずに静寂の中、猿人音を聴いていると、なぜか心が安らぐ。
2速、3速でヴァゥォォォォーンと吹け上がる音が好きなのさ。
829 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/08 04:54
>>825 四諦の最初の「初めに苦ありき」ちゅうのは、楽と相対した苦ですね。
楽も苦もなけりゃ「苦楽一如」なんかとおもいます。
「抜苦与楽」という言い方もあります。
つまり、分別して「苦」なんかと思います。
苦と思えば苦なんでしょう。苦と思わなけりゃ苦ではない。
これが無苦集滅道なんかと思います。
つまり般若は、無分別のことを逝ってるんかと思います。
830 :
名無しさん@1周年:03/01/08 12:43
>>826 四六時中、無分別なのになにもいまさら言わなくても、いいとおもわれ。
各人がそれぞれ適当なところでやめとく。
荷物は少なくなるべくシンプルなのがよいですあ。
>>828 >どうして湾岸スターを止めて、こんな内省的なヒトになってしまったのですか?
湾岸や箱根を去ったのは、一般公道での限界走行は危険を関係のない一般車にまで及ばせ
てしまうからですね。私、公道で一度、結構大きな事故をやらかし怪我をさせてしまった
人がいるんですよ。完全な自分のミスでです。それから、公道で飛ばすのは止めたです。
う〜ん、そう言う過去ログとかはないんだけど、親しい人の死、理由はこれに尽きると思
います。本々子供の頃から結構死を恐れる性格だったんですが、まあ、私を含めて家族や
親戚達は死なない。という観念の上に立って生活していたのですが、それが脆くもあっけ
なく崩れ去ってしまったからですか…。その時はもう、生活は乱れに乱れてしまいました。
性格的に脆弱なところがあったんですね…。死魔や病魔を恐れるくせに、それを超えるも
のが私の中で無明のままだったからでしょう。あなたは、若い時にその答えを自分で掴ん
でいたのではないだろうか?だから私と逆なのかなと…
私は幼少時悪戯小僧だったので、母親から近くのキリスト教会に通うように強制されてい
たんですが、そこで説かれていた、神に縋り付く事では救われた気持ちにはなりませんで
したよ。まあ、プロテスタントの弱小教団だったんですが…。
でも、何と言ってもアイルトンセナの言動が大きな影響を与えているんだと思います。
彼も内省的になって、大きく変わったドライバーだったと思うんですよ。で、彼は日本人
と接している内に、自分の中にも日本人と同じような精神があることを発見したと言って
おりました。何事でも限界というものを追求していくと、何時の間にか精神的な問題の領域
にまで踏み込んでいるもんだと思います。
以前に、髑髏仮面さんと、妖刀と名刀というテーマでレスを交した時、私はクルマを題材に
してカキコしました。私は、時々クルマに魔性を感じる。。。
>>831 ありが豚。いま車板に出入りしていますが
そこで出会う人たちには、ブランコさんのような内省は感じませんね。
これはしかたのないことなのかもしれませんが。
833 :
名無しさん@1周年:03/01/09 08:37
米国の諺だったでせうか。
Big car and small dick.
思い道理にならないことの鬱憤と
自在にあやつれる自殺機械
あるいは車=女を暗喩しているのやもしれませんね。
834 :
名無しさん@1周年:03/01/09 11:37
Big man is big shit!!!
神の言葉である。
>>829 >つまり、「分別」して苦なんかと思います。
>苦と思えば苦なんでしょう。苦と思わなけりゃ苦ではない。
仏教で扱う「苦」と言うのは、思慮分別の観念的なものと言う事でしょうね。肉体的で
生理的な苦しみとは、またちょっと違うものとも言えるのでしょうか。。。
釈尊も正覚後、怪我をしたり病気になったりして、結構苦しい思いをしていたような事
が記してある経典もありますよね。
しかし…。無苦集滅道というのは、天国のような処なんでしょうか?「抜苦与楽」ですと
そんな印象が出てきてしまうのですよ。まあ、私はですけど…。
私の解釈ですと、四諦の「滅」は不苦、不楽。つまり「ゼロ」なんです。仏教の目指す
境涯や尺度は中道だと思うのです。無苦集滅道は、中道とはまた違うのですか?
無苦集滅道が中道ならば、態々無苦集滅道を説く必要が、やっぱり私には分からないや。
836 :
(−人−):03/01/09 23:31
>>835 リラックス、リラックス。^^
たまには息抜きでもしましょう。
でも、ちゃんとROMってますよ〜(笑
私は美食家ではないので、食べ物やセックスの味覚は人並み以下の経験しかない
かも知れないので、豊かなものだとは思えませんが、クルマの事は人並み以上に
よく解る。それで、クルマにも自分なりの「最高のもの」というのがあるんですが、
でも何よりクルマの運転自体がとても面白いんですよね。
何処に行くか?目的地へ向かう移動の為の手段ではなくて、運転そのものが楽しい。
運転は、機械との、そして周りの環境との対話になる。そいういドライブなら交通
量の少ない深夜から早朝に限りますね。そう言う時に、郊外などで夜明けを迎える
と、ここで瞑想したいな〜と思うような所がよくありますね。
こういう時は「走っていれば、この世は天国」という感慨に浸れますよ。自由を感
じる一時です。私は昔からどちらかと言うと一人で走るのが好きな方ですね。
このひとときは、特別な時間なので一人がいいんです。最近はメッキリ少なくなり
ましたが…。もう、レースカーに乗る事もないので、ナンバー付きのセカンドカー
でも手に入れたい。生活臭が漂う乗用車ではやはりイマイチな感は否めないです。
838 :
(−人−):03/01/10 00:16
リラックス、しようと思ってできないリラックス。レースドライブは緊張の連続
ですが、自由なドライブは至ってリラックスしています。弛緩でも緊張でもない
とても善い状態だと思う。いろんなインスピレーションが湧いてくる時でもある。
以前は、よく深夜から早朝にかけてのドライブに出ていたのですが、そういう時
は、結構若人の無謀運転のクラッシュなどにお目にかかる。私も一度やりました
が…。人命救助第一ですね。こう言う時は結構みんな協力してくれるもんです。
しかし、交通渋滞だけは勘弁してほしいな。では、おやすみなさい。。。
840 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/10 07:28
>>835 >無苦集滅道が中道ならば、態々無苦集滅道を説く必要が、やっぱり私には分からないや。
レスを読んで思いだしたことをカキコします。
私はよく慧能のことをカキコするんですが、五祖弘忍も凄い人かと思う。
例の一件の後、慧能に衣鉢を渡して身を隠すように言うんだね。
その後、黄梅山東禅院七百名の僧に言うたのが「ここにもう法はあらざる」。
ここまで言い切れる五祖ちゅのは凄いかとオモウタ。
つまり私が言いたいのは、仏教の底流にあるスケールの甚大さ。
祖師西来意→庭前の柏樹子→賊機あり。→この流れのスケール。
841 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/10 08:21
>>837 >生活臭が漂う乗用車ではやはりイマイチな感は否めないです。
そうですね。
自分好みの車ちゅうのは、なかなかありませんね。
今、デリカ2800を乗ってるんすが、やはり車体が大き過ぎる。
で、私はオートマは乗る気にならん。
2000ccクラスのがっちりしたオールシーズン・タイヤ装備がほすいんですがなかなかない。
分別してる間は、まだまだなんかと思いますね。。。
843 :
名無しさん@1周年:03/01/10 11:44
観察に留まれないんですね
思考、感覚による意識の判断作用をしてるんですね
判断することにより執着が生まれる
2800は駄目、2000ccクラスはほすい
受容や拒絶は流転縁起に繋がるんですね
844 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/10 17:02
春になれば、どんな種をいつ頃畑に蒔くか?思慮します。
夏になれば、太陽の熱射から作物を如何に防御するか?を考える。
秋になれば、台風の被害を最小限にするこを考える。
冬になれば、水道管の凍結を如何に防止するか?を考える。
車は、自分の生活に馴染むもんを追求する。
これは全て分別智。
845 :
名無しさん@1周年:03/01/10 18:02
>車は、自分の生活に馴染むもんを追求する。
これは知恵。智慧じゃないよ。unkotare
846 :
名無しさん@1周年:03/01/10 18:47
街中に排気ガスを撒き散らしても気にしないんだろうね。
847 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/10 19:31
>>845 unkotare
掲示板の上にウンコはいかんぞ!
分別せんとな。
848 :
名無しさん@1周年:03/01/10 19:45
糞別も無糞別も恣意的に用いてるな
849 :
名無しさん@1周年:03/01/10 19:47
>>848 マッタクだ、その場その場の思いつきべったりだな。
850 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/10 20:01
ありのまま。これに拘るも是執着だね。
>>838 お門違いなクルマの話に付き合わせて済みませんです。F1ドライバーはみんな達人
中の達人です。佐藤琢磨も然り。彼らはクルマの運転に関しては、ホーンとに凄い。
しかし、セナの眠る場所かぁ…。一度私も行って見たいものです。
あの事故直後「彼にだけはそういうことが起こらないと思っていた」という人の中に
私も含まれていましたね。多くの人が、無意識的にしろ英雄とかヒーローのイメージ
を作り出していたんだと思う。私はどことなく、ナザレのイエスに似ているなあと思え
るんですよ。(笑
時折みせる何ともいえないような悲しいような切ないような眼差しが何処となく私の
中のイエス像と重なるんですね。
852 :
名無しさん@1周年:03/01/10 21:52
>1と髑髏との熾烈を争うオナニ合戦になりつつある
853 :
(−人−):03/01/10 22:09
>時折みせる何ともいえないような悲しいような切ないような眼差しが何処となく
>私の中のイエス像と重なるんですね。
やはりお母様と一緒に言った教会のイメージなのでしょうか。
深い悲しみを湛えた英雄象には、強い父性よりもなぜか
優しい母性を感じるものがあります。
それとも、もはや性別をこえたものがそこにあるのでしょうか。
ブランコさんのイメージに、悲しみと癒しを感じます。
>>840 とにかく、私の経験している世界は、まだまだ狭いという事ですね。しかし、髑髏さん
のように、広く仏教を学んでいないので、話についていけないのが少し恥ずかしい。
私も一応、仏教を学び修している立場だと思うのですが、世に云う高僧達のことは殆ど
知識がありません。(汗
この前まで、十牛図も知らなかったんですから、笑っちゃいますよね。以前にもカキコ
しましたが、私は南伝仏教の教えにもとずいて瞑想の指導を受けてまだ二年ちょいです。
その南伝仏教では、一切衆生悉有仏性というのは認めていない。私は個人的に認めてい
るのですが、それが修行を進める上で問題になるというような事はありません。(w
私は、北伝も南伝も、大乗も小乗も、同じ「仏教」という立場です。仏教は寛容な教え
だと思うし、仏性があるとかないとかで争うとしたら、その根本精神に反すると思います。
仏教というと、何々宗という話にもなりますが、本々はそういうもんじゃないだろうと
思うんですよね。あれもいい。これもいい。ではなくて、非常に甚大で深遠なものの様
ざまな一側面を見て、より深く根本的なものを洞察していく…。これも仏教かと思う。
だから、ホントのところは、何をしていても修行なんだと思う。そこまでできればです
けれどもね。。。難しいでしょうね。。。そこまでは。。。
篠塚健次郎
すでに、こころは来期へ!!!
856 :
名無しさん@1周年:03/01/10 23:15
>>841 >自分好みの車ちゅうのは、なかなかありませんね。
そうです。だから、自分で作るしかないのです。最初から設計、製作するとなると
莫大な資金と時間が必要ですし、素人がハンドメイドで作ったもので車検を通して
ナンバーを付けることは、今のところ不可能です。だから、改造車になるのですよ。
しかし「改造車」というと、どーしても響きが悪くなりますね。。。
>で、私はオートマに乗る気にならん。
えっ!そうなのですか?髑髏さんの住んでいるところなら、交通渋滞などはあまり
起こらないのでしょうか?私も27才の時までマニュアルで頑張りましたが、それ
以降、乗用車はオートマにせざるを得なくなった。乗用車というのは、家族や環境
の事も考えに入れるので、私一人の好みで決めるわけにはいかなくなってきますね。
私は、好きなクルマの為とは言え、お金を湯水の様に掛ける事は性に合いませんね。
その代わり、手間隙はある程度かけて仕上げようとしますよ。
少ない資金で、高いパフォーマンスを得る。これが私の目指しているクルマです。
>>846 気にしないわけではないですよ。しかし、いちいち気にはしませんけれど。
859 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 08:46
>>857 >>で、私はオートマに乗る気にならん。
あれは、Dに入れてブレ-キを離せば勝手に車が動きますね。
「おいおい勝手に動くなよ」。ちゅう感覚になります。
生来アナログ人間なんでしょうかね。
20代の頃に乗ってた、あのセリカ2000GTの棒ギアの感覚が私は好きなんですね。
その頃女性に「僕はこのギアが好きだ」。ちゅうたら、女性もあのギアの先端部分を撫で回すのが好きらしいですよ。
その時は何を意味するんか分からんかったけど、後に納得しましたけどね(w
スポーツカーの、あの棒ギアの感覚は車と人間の一体感みたいのを感じる。
感覚ですから別に深い意味はないんですがね。
オートマも乗ってた時期もあるんですよ。
都内を走るんじゃオートマのほうが良いかもしれませんね。
今の殆どの車はオートマですからね。需要がそうゆう流れになってるんでしょう。
860 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 09:05
>>854 五祖のことは最近まであんまり関心はなかったんですよ。
チョッと視点を変えてみて、何となく興味が出てきたんです。
だからこうゆうジャンルちゅのは、次から次へと発見がありますね。
そんだけ魅力的なんかと思います。
神秀の明鏡台についても最近深く考えるよになった。
「鏡」ちゅうのは深い意味があるんかと思う。
神秀が修行の集大成に何で「鏡」なんか?
「鏡」で神秀は落とされた。
「鏡」さえなけりゃ〜こんなことにならんかったのに。
以後、神秀は鏡をあんまし見なくなったんじゃないか?余計なことですが(w
861 :
名無しさん@1周年:03/01/11 09:33
時宗の一遍上人と法燈国師の話がある。
法燈国師に参じた一遍上人が差し出した詩を国師は許さなかった。
以下がその詩
「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏のこえばかりして」
念提しなおして再度差し出した詩に国師は印可を与えたと言う。
以下がその詩
「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
これは、話としては作為が無い話だと思う。
神秀の対句としてつくられた六祖の句にはあくまでも、神秀という対象物があった。
そこに六祖のいかがわしさが残るのである。
純粋に良心的な理解のみを取るならば、あれほどの宗教文学はないと思う。
しかし、常識的には当時の中国の時代の流れ等をふまえたうえで、
数少ない資料を並べてみても五祖〜六祖のあたりには、いかがわしさが残るのである。
いちいちソースは上げないが、ちょこっと検索するだけでも似たような論はみつかるだろう。
862 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 13:19
>>861 >「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
いわゆる絶対無なんかと思ふ。
無とゆうても「虚無」のよ−な否定的な意味に非ず。
いわゆる「絶対無」。絶対肯定。←私がいう無ちゅうんはこういう意味だね。
>仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
これがいわゆる、「ない」んだけど「絶対肯定の無」。
>そこに六祖のいかがわしさが残るのである。
そうだね。若干24歳の若造が、大先輩のフンドシで相撲をとちゃったんだね。
五祖は慌てて慧能の紙切れを剥したそうだ。
>数少ない資料を並べてみても五祖〜六祖のあたりには、いかがわしさが残るのである。
充分考えられる。
>>859 >生来アナログ人間なんでしょうかね。
ここには、ふか〜く共感するところがありますね。ホントに。(笑
私達は、存在としてはデジタルなんですが、アナログの方がシックリするんですよね。
時計なども私はアナログ派ですね。子供の頃はデジタル式がカッコよく思えたもんで
すが…。この辺の感覚の分かれには面白いものがあると感じています。
それにしても、若い時にセリカに乗っておられたよーでは、髑髏さんにも少しは私と
と同じような気があるのではないでしょうか?
そう言えば、髑髏さんのために?立てられたスレを発見しましたよ。(w
2ch流儀に従わないと決めた私は、他スレにカキコするのは、極力避けているんで
すが、面白い?ですね。見るとレスしたくなってしまうので、見ないようにしていま
すが…。つい見てしまう。時に知るとは恐ろしい力を生むものですね。(w
今は亡き、あの親友に私は「質問箱から派生した…」スレを躊躇いながらも紹介した
んですよ。生前よく人生について話し合ったり、仏教のことに付いて質問されたりして
いたもんですから。多分、スレを全部見通したことでしょう。何か得るものもあったと
思うんですよ。「難しい用語が並んでやがるな」とかこぼしていましたが…。
だから、重い病をを患って何とか回復してきた方がレスをしてきてくれた時には、渾身
の力を込めてレスしてみたつもりです。それで、計らずとも「奥の院」に近付いていた
のかも知れませんね。
864 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 19:39
>>863 >重い病をを患って何とか回復してきた方がレスをしてきてくれた時には
死の淵から生還した人で「私は病気になって本当に良かった」。「生きる意味が解った」。なんて事を言う人もいる。
身障者の子を持つ親で「この子からいろいろ教えてもらう」。「いつも感謝している」。なんて事を言う人もいる。
仏教ってうのはある意味逆発想なんかもしれませんね。
仏を求めて極めゆとする。そうするとドンドン仏は遠ざかる。
仏が遠ざかって、そんとき初めて「仏を知る」んかと思います。
遠近:分別のなせる業なんかと思いますね。。。
私は、悟り以上に内心の平安を望みますね。厳密に言うと、悟りと、心の平安は
違うのかも知れませんが、誰かにオナニだと言われても、心静かに微笑を保って
いる。そういう静かな心が、安定した精神が非常に重要だと思うからですね。
すぐに乱れてしまう意識では、何事も「正しく見る」などと言うことは不可能です。
瞑想、禅定の経験を省みても、心が鎮まれば鎮まるほど、深いものが見えてくる
とも云われていますよね。
しかし、それが分かっていても凡夫としての私は、刺激を求め、意識が盛んに働
くことも求める。でも…,これが「私」というもんだとも思うんですよ。
この「私」は存在だしデジタルだから、生滅の道理から逃れる事はできない身の
上でしょうが、生きて生活している間は、この活動も必要な事だとも思えます。
人間が、全体として、その種として目指しているものがあると思うんですよ。
そういう節が覗える。これが慈悲とか、愛の本性じゃないだろうか。ここに私は
人間の尊厳も覗えてくると思うんですよ。これは個人的な思想ですが…。
「人間」の尊厳だから、個人的な経緯を超えているんだと思う。
だから、そういう意味で人間が、ありのままに生きられない性を抱いているので
はないだろうとか、と思うし、それが本願なのかも知れない。
折角,人間として生まれて来たのだから、自然とは何か?その中で生き物とは何
か?その中で人間とは何か?こう云うものを理屈を超えた領域で、学んで整理し
て行くのが人間の「仕事」ではないかとも私は思うんですね。下手をすると自然
から人間は淘汰されてしまいかねないから、人間自身の可能性(仏性)が試される。
で、そこには苦しみが避けられない。しかしこの苦しみもデジタルであり、生滅
の道理に従って、生まれては消え、生まれては消えを繰り返す質のものでしょう。
しかし、何処かで始まり、生まれたものでもないものは、この奥に隠れて生滅を
起動させる原点なんだろう。ここから語るのなら、確かに無苦集滅道と言えるの
かも知れませんね。だがこれは、究極の理論ではないでしょうか。
以前いた、キリスト教の教えに私は、疑問を持った事があります。即ち、キリスト教に出会
えない、国や環境に生れ落ちた人々は、救われないのですか?と言う問いに対し「そうだ」
という答えが返ってきた時ですね。
ここで、疑念を持つと「悪魔の誘惑」だと言われる。ここが所謂、宗教の最も嫌らしい部分
だと思う。つまり、神にしろ、仏にしろ、疑念を向けるのは、最も恐ろしい罪だと言われて
しまうからですね。しかし、同じ「疑念」でも、動機が異なる場合があると思うんですよ。
物事にある種の「疑」を向けるのは正しく見る理性にも繋がるだろうと思います。人間は弱
いものですから、イザという時、そういう「超越者」に立てつく事は、とても恐ろしくなる。
しかし、そういう恐怖心で人心を縛るような宗教はローカルな教えだと思います。本当に恐
いのか、恐くないのかは自分自身で試してみる。闇夜の森林で、恐ろしい魔物がうごめいて
いる恐怖に襲われたら、それを自分で見定める。幾ら理屈で「お化けには実体がない」と知
り覚えているつもりでも、深夜の青木が原樹海で、心穏かに微笑んでいられる自信は私には
ない。一度、挑戦したが、すぐに恐ろしくなって逃げ出してきてしまった痛い記憶もある。
この辺は、自分で見定める以外どうすることもできないと思うから、挑戦してみたのですが
執着の強さや、縁起の作用には参ってしまうものがあると発見しましたね。
だから、諸行無常を知らなくても、諸行無常を正しく見ている人はいると思う。諸法無我を
知らなくても、それを見ている人はいると思う。涅槃寂静を知らなくても、こそに住する人
もいると思う。人間の業は、善い意味でも悪い意味でも深いなあと思います。
私がキリスト教に向けた疑念は、私の意味において正しかったと思っています。
868 :
名無しさん@1周年:03/01/12 09:52
シャンティ
869 :
名無しさん@1周年:03/01/12 12:26
聖書は何回にもわたる編纂の過程で輪廻やカルマの概念が削除されたよし
870 :
名無しさん@1周年:03/01/12 14:22
>>867 >ここで、疑念を持つと「悪魔の誘惑」だと言われる。ここが所謂、宗教の最も嫌らしい部分
>だと思う。つまり、神にしろ、仏にしろ、疑念を向けるのは、最も恐ろしい罪だと言われて
>しまうからですね。
へ?大疑団言うやん。「人生ってなんやろ」が修行の根本やねんから。
>>870 あの、すんまへん。大疑団てなんでっか???わて、無学なもんやから。
ぼくを食べないで。
ぼくを殺さないで。
切らないで。
あなたがたの内心の平安のために。
私は屠殺場で生きたまま皮を剥がれます。
頭蓋骨を割られます。
脳震盪を起こします。
血と脂の染み付いた石畳に倒れます。
「怖い。怖い。痛い。痛い」
そんな私を食べておきながら、内心の平安は、ないでしょう。
さぞかし苦しみなさい。
苦しみなさい。
人間よ!
悪魔って、保健所のこと?
わたしは首を切られます。
「この、偽善者!」
876 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 08:08
>>867ブランコ氏
いつか真宗スレで「南無阿弥陀仏」は結局は自省なんじゃんですか?と問うたら、
「自省」かと思うちゅうかたがいましたね。
そんでなんとなく漠然としとったんですが・・・
>「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」>861レス。
これなんか刀でバッサリ切ったような見事な手さばきを感じますよね。
この偈は非常に気にいりました。
仏教は、なんとなくピンとくることがありますよね。
そうゆうもんの積み重ねかとおもうんですよ。
ひとスレッドで良いレス(印象的なもん)は、ひとつあるか?ないか?
そんなとこかと思いますが、賊機あり。全部ひっくり返すこともある。
偽善者とは「誰」のことですか?この「私」のことを指していいたいのですか?
生きものが、生きるために生物を食う、食う為には殺さねばなない。
生きものを、食い殺すのは全ての生物の定め。しこもこれは「私」の作った定め
ではなく、自然の作った定めなんですよ。嫌でも動かす事はできない厳しもの。
生き物を食い殺す。そして生存していくのが「偽善」だというのなら、自然の中で
行われる「善」は全て偽善ということになってしまうだろうだろう。
そういう意味では「私」も偽善者だろう。他ならぬ「私」が善を選択したんだ。
そもそも、豚、牛、犬、鳥、がここにカキコする事はない。何処かの誰かが、そう
いうものに「なったようなつもり」になって?何某かの目的の為にカキコしている
のだろう。でも、その「何某かの動機」を定かにせぬ、輩が何をレスして来ようと
私は、そういうものを見る眼を持たないので説得力はあまりありませんね。
従って、好きなだけ中傷でも、誹謗でも行えば宜しいでしょう。ここで、レスして
くるそういう人々の誰かが私をどの様に思おうと、それを私は敢えて責任を取ろう
などとはとは思わない。
鳥、獣、魚類の気持ちが「分かる」という人は、自分がその業を背負っていけばい
いだろう。私は、私の分かる業を背負っていく。これ以上、荷物を増やすつもりは
ない。だから、自分の荷物さえ他人に背負わせようとしてカキコしてくるレスなど、
私が引き受ける謂れはない。よって、自分で背負うべきだろうという意思を沈黙で
示すか、受け取れないと言う否定をレスで示すだけですね。
878 :
名無しさん@1周年:03/01/13 10:45
treeに感情爆発。深呼吸せな。
>>876 綺麗に数字が並びましたね。(w
>「ともなれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
つまり、ここが髑髏さんの仰る「奥の院」ということでしょうか?
前レスにカキコしましたが、以前青木ヶ原樹海で静かな禅定に至れるだろうと
思って、挑戦してみたのですが、自信はあったものの、やっぱり恐ろしくなり
早々に立ち去って来たことがあるんですよ。(w
で、ご指摘を受けた様に、計らずともカキコしていた「奥の院」。私は海で溺れ
かけた時の事を思い出したのですが、これは経緯を超えて、緊急時や咄嗟の時に
自分の中にフッと湧いて来るもののような気がします…。
無苦集滅道。これは私が、内心の平安を求めて、様々なことに挑戦している事を
あざ笑うかのように、無色透明で捕まりません。そこでは私のやっていること等
草臥れ儲けの骨折り損ではないかとさえ思えてきます。でも、私の中には自然を
犯さなければ生きていけない性がある。これは人間の残念な事の一面だと思う。
しかし、自然は美しい。人間の内部には自然に回帰したいという欲求と、自然か
を超越したいという欲求が内在している。私はそこに人間の目指すものがある様
な気がします。自然の中から生まれた人間が、非常に長いスパンで目指している
もの。ここが髑髏さんの言う、唯識的なものの見方なのかもしれませんが…。
私は、縁起の中で善を求めて血みどろの闘いをしてしまう傾向がある。それはか
つて流された血の贖いに依るものだと思う。かつて人間が流してきた血の遺産を
受けざるを得ないのが、縁起と言うものの一側面だとも思います…。
しかし、そんな私にもふとしたキッカケで全てが流れ落ちてしまうような静かな清々
しさを感じる一時がある。だから「はて、これは何か?」と追求しているんですね。
ここでの困難は、リラックスしようと思ってできないリラックスのようなジレンマですね。
だから、青木ヶ原のような失敗は何時も起こるのでしょうね。
ここが「奥の院」に入っていくための、ひとつの難問だと思いますね。ここで、どうする
か道理から問われるのでしょうか。正しくなければ容赦なく叩き出される。
私が唯一、大乗経典の中で読んでみた「唯摩経」と言うものの中に「不可思議解脱」と言う
ものがありました。これには、深か〜く共感するものがありました。私の経験からもこの様
な縁起の束縛を超越してしまうものがあると洞察しているからです。でも、これは仏教に関
係なく人間、或いは生き物、或いは万象万物にあるもののような気がします。だから、仏教
があり、釈尊の境地があるんだと私は思うんですね。
881 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 11:38
>>879 浄土宗では、南無弥陀仏を唱える時に心が動かんように、阿弥陀仏と紐で繋いでおくんだすです。
しかしながら、フッとした瞬間その手綱を手放しちゃうらしい。
いわゆる「気づき」ちゅうヤシですね。
こっから↓につなげる・・・
>「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
実に深いもんがあります。
「仏もわれもない」んだけれど、無なんだけれど、これが肯定的無。
虚無が否定的無なんだったら、わたしが言う無は肯定的無。無門関。
882 :
名無しさん@1周年:03/01/13 11:40
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| アーヒャヒャヒャヒャ|
|______|……アヒャ …アヒャヒャ アーヒャヒャヒャ
∧_∧ ∧_∧ || ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ゜∀゜) ( ゜∀゜) ―( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ )
(つ つ(つ つ.-||-(つ つ (つ つ (つ つ
人 Y 人 Y ― 人 Y 人 Y 人 Y
し(_) し(_). || し (_) し (_) し (_)
_______________________________
アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ!!
∧_∧ . ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ | || | | |アーヒャヒャヒャヒャ
( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ∧_∧ | | | || | |
(つ つ(つ つ(つ つ.(つ つ( ゚∀゚ )| | | | | || | | || | |
人 Y 人 Y 人 Y 人 Y (つ つ ∧_∧| |アーヒャヒャヒャヒャ!!!
し(_) し(_) し(_) し(_) 人 Y ( ゚∀゚ )| | | | ||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| し(_) .(つ つ ∧_∧||
| 人 Y ( ゚∀゚ )
________________________し(_)___(つ つ
| | | || | | | | | || | | | | | || | |
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(( ( ̄ ) ̄ ) | | | || | | | ドスッ ベシャッ アーヒャヒャヒャヒャヒャ
ドーン | | | ( ) ∧_∧ヒャヒャヒャヒャヒャ _∵;;∴
∴ (Λ_Λ)∴:| | ( ゚∀゚ )'':∵;; ⊂(。A。;)つ
⊂( ゚∀゚ )つ*∴¨:∴:~~~~~~*;;:; ::*;:::*;:V ̄V'':∵;; アーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
アーーーーヒャ  ̄*;;:; *¨ ○ ∧_∧アーヒャヒャヒャヒャ・○ ∧_∧;∴
ヒャヒャ *;:*;:∴:; ⊂ ´⌒つ ゚∀゚)つ∴*;::;:⊂ ´⌒つ ゚∀゚)つ
883 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 11:48
>>880 そうですね。
釈尊は、いうなればバラモン教の形而上学的存在をバッサリ切り離した。
善因善果・悪因悪果、→自己責任。
こうゆう釈尊の生涯を辿るちゅうのも大事なんでしょうね。
人間、捨て切るのは難儀なれど、そこで初めて眼が覚めるんかと思う。
884 :
名無しさん@1周年:03/01/13 12:03
+ ♪アーヒャアヒャヒャヒャーヒャー
アヒャヒャヒャ!! /l ヒャッヒャヒャーヒャヒャーヒャヒャヒャヒャッ
ヾ゚∀゚〃 l 」 .∧_∧
ヾ|〃 || (゚∀゚ ,,,)∩゛
□. ⊂ ∩ , ⌒つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ゚∀゚〃アーヒャヒャヒャヒャ!!! ♪アーヒャアヒャヒャヒャーヒャー
+____ ヽヽヽ アーヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!
\__|== ≡≡≡≡≡ ∧_∧
ヾ|〃シュッ!!//(゚∀゚ ,,,)∩゛
□. ⊂ ∩ , ⌒つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>881 そうなってくると、髑髏さんのカキコしていた、盤珪の無修行の修行というのが、
やはり「奥の院」と言う事にも繋がってくるようにも思えます。仏教も色々な枝葉
に分かれて観念的には難しくなってしまった側面もありますが、この根っ子の処だ
けは変わりようがなく、逆にひとつに繋がっているのだろうと洞察します。
>無なんだけど、これが肯定的無。
私は、ここに深いものを感じます。仏教用語の「無」これには、かなり迷いが生じ
ましたから。どうしても慣わしで有無の無に捕われてしまうんですよね。
無苦集滅道か…。これはやはり究極だと思う。人間の営みから発言できる言葉では
ないと思う。でも、ある時「ああっ」と呟いてしまうような感慨や、咄嗟に出てく
る直感が、その入り口なのではないでしょうか。こういう状態には経緯を超えてし
まう側面があるから。でも、こんな事は誰でも経験している事じゃないかと思える。
そこで気が付くか、気が付かないかも、大きな要素だと思います。
それに気付くための教えが仏教なのでしょうか。色々な枝葉に分かれてしまいまし
たが、やはり底流には変わり様のないものが貫かれているのでしょうね。
そこに辿り着くのは「誰」なのか?そこに辿り着いた時には誰もいない事に気が付
くのかも知れませんね…。う〜む。。。
ある時自分が「存在」するという概念が薄れていき、一心に何かに没頭している時
がある。苦しみから逃れる為に我を忘れるというような刺激の中で埋没していく時
とは違う、静かな清々しさが満ちてくる時がある。
スッタニパータより抜粋。
世界はどこも堅実ではない。どの方角も全て動揺している。私は自分の依るべき
住所を求めたのであるが、既に死や苦悩にとりつかれていないところを見つける
ことはついになかった。
そして生きとし生けるものは、終局においては違逆に合うのを見て、私は不快に
なり、また、私はその生けるものの中に見難き煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
この矢に貫かれたものは、あらゆる方角を駆け巡る。この矢を引き抜いたなら、
あちこちを駆け巡ることなく、沈むこともない。世間における諸々の束縛にほだ
されることなく、諸々の欲望を究め尽くして、自己の安らぎを学べ。
動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人々は、あくせくした営みから離
れて、至るところに安穏を見る。
887 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 13:21
>>885 >静かな清々しさが満ちてくる時がある。
そうですね。
眼横鼻直も、無一物も、仏もわれもなかりけりも、通じるもんは「清々しさ」。
これは虚無とは対象的ですね。
十牛図最後は「求めるもんがなかった」。ちゅうことかと思います。
内心の平安ちゅうんだったら、求めるもんがない。ちゅうのに繋がるんじゃないでしょうか?
盤珪流に言うんだったら「不生にて調ふべし」。
仏は遠くに行っちゃたんだけど、実は求めるもんではなかった。ちゅうことなんでしょうね。
白隠は、そっから法華経の紐を解いて逝くんでっしょう。
わたしは法華経にはあんまり関心がないですがね。
あなたは無視できない。
憑依する。
憑依する。
「虫のいい人だな」
あなたには、無理だ。
889 :
^x^動物霊^x^:03/01/13 17:16
>>888 綺麗に数字が並んだでしょう?
冗談じゃありませんよ。
我々の負の力をすべて、このスレッドの偽善者たちに突き刺します。
ほんとうに、冗談じゃありませんよ^x^
髑髏センセー、センセーの本スレ終わってしまったね。
あそこに書かれた批判は、真に受けたほうがいいと思うよ。
センセーは禅語を騙るけど、やっぱピンと来ないよ。
やはりきちんとしたお師家さんについて、坐ったほうがいいのでは?
あ、漏れ? もちろん参禅しましたよ。
何人か惚れたお師家さんはいますね。あっぱれです。
そういう方々の提唱を耳にして、一言一言が染みてくると
どうもね、髑髏センセーの禅語って、ポイントはずしているように思うのれす。
どうも神秀の鏡について、誤解しているみたいな…
891 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 21:53
892 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 01:35
コンコン。
誰かいらっしゃいますか?
あのー、
>>1のブランコと名乗っておられる方に、
あらためて伺いたいことがあるんですが・・・・。
また来ますので、必ず答えてくださいね^x^
893 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/14 08:36
887
(のつづき)
>十牛図最後は「求めるもんがなかった」。ちゅうことかと思います。
心の衆生も仏も、そのまんまで即心即仏なんだから仏を求めること非ず。
仏を忘れ、己を忘れ、二見を離れるゆうことなんでしょうね。
それが非心非仏。←これは否定的な方便ですね。
瓦を磨いても鏡にはならんとゆうことでしょう。
南嶽→馬祖。無門関。
894 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/14 08:40
× 心の衆生も仏も
○ 心も衆生も仏も
895 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 18:53
コンコン。
>>893 ヤクザな坊主は
>>894 白紙に戻せ。
>瓦を磨いても鏡にはならんとゆうことでしょう。
ダイヤモンドを薪の代わりに燃やすことはできますよねえ^x^
896 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 18:55
早くブランコさん帰ってきて。
行ったきりのブランコなんてあるのかな^x^
897 :
名無しさん@1周年:03/01/15 21:04
>>880 >ここでの困難は、リラックスしようと思ってできないリラックスのようなジレンマですね。
>だから、青木ヶ原のような失敗は何時も起こるのでしょうね。
むむむ。やはり、ある程度は劇的な神秘体験とか衝撃的な悟りとかよりも、日常の生活習慣が最も大切ではないでしょうか?
つまり、座禅や瞑想をするのでも、道元禅師が示したようになるべく、寒いときには暖かく、熱い時には涼しく、なるべく静かな所をえらんで、、、
という場所のセッティングや体調の整え方その全てが「座禅」なのではないでしょうか?
レースの世界でもあるのでしょうか?プロ野球の選手がバッターボックスに入る時にはベンチからでるときには右足からとか、ボックスに立ったときには咳払いをするとか
千変万化するボールに対して最高のコンディションを再現するおまじない、というか儀式めいたことをするそうです。
一回コッキリの人生に平安な心で対処する為には、しっかりとした「日常」が必要なのではないでしょうか?
そこの技術面と精神面を一度に示しているのが日本にある「道」という捉え方ではないかなと思います。
898 :
名無しさん@1周年:03/01/19 19:19
菜根譚
899 :
名無しさん@1周年:03/01/19 21:12
少欲知足。
900 :
(−人−):03/02/07 16:25
久しぶりに来ました。
お元気ですか?
901 :
ラッキーアイテム:03/02/27 01:01
902 :
名無しさん@3周年:03/03/17 17:54
千の利休は明智光秀
903 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:04
千の利休という人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦にもろくも敗
れて、ついに名もなき一土兵のために竹槍にて突き殺されたと、歴史に伝えられてあるが、
あれはうそである。天王山の一戦で勝敗の決することは、はじめからよく承知しておったが
光秀は将士のたびたびの迎えをうけながら、わざとグズグズしていて、ついに勝を秀吉に
譲ったのである。実はとくに光秀と秀吉との間には妥協が成立していたのである。聡明なる光
秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん主殺しの汚名を着たものが、天下の
将軍となっても永続きがせぬ、ということをよく承知していて、秀吉に勝を譲ったのである。
そしてかれは頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあって、天下の大事を論じ、
謀をめぐらして秀吉を太閤の地位にまで押しのぼしてしまったのである。かれは実に秀吉の
好参謀であったのである。朝鮮征伐なども、かれの献策に出たものである。茶室に這入るには
丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、
もってこいの場所方法であった。第一秘密を保つに絶好であった。のちかれは娘の美貌が
禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝えられているが、まったく
跡形もないことである。英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ。
904 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:13
太田婦人は、大正九年のころ、聖師様から「千の利休は明智光秀である」ということを承って、
それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたそうです。そうすると名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました。
すると円能斎氏の顔色がサッとかわって、しばらくは物もいわれなかったそうですが、太い吐息と
ともに口をついて出た言葉は、「まぁどうしてそれが分ったのですか」ということであったと
いうことです。そして、さらに語をついで、「そのことこそ、千家に伝わる、一子相伝の大秘密
であって、跡を継ぐ長男のみが知って、次から次へと言いつたえ語りつぎて、
世に知るものが絶えて無いはずです。どうしてそれが分ったのでしょう」と聞くので、
名倉氏は「霊覚によってわかったのです。丹波の国綾部町に、大神通力をそなえた聖者がありまして、
その人の霊覚によって、その秘事がわかってきたのです」とて、聖師様に冠するお話をせられました。
円能斎氏はいたく驚き、かつ感じいり、ついに執事を派して綾部に参拝せしめついで自らもまた参拝せられたそうですが、
905 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:49
深くこのことを秘して人に語らなかった。名倉氏もまた秘してしまったのですが、不思議なことには三人が三人とも、相前後して
同じ心臓病のため倒れてしまったそうです。
太田夫人は「これは秘してはならぬと思い、皆さんにお話ししております」と
語られました。一座のものはこれを聞いて、今さらのごとく驚き、聖師様のたたえつくせぬ
ご霊覚の程を感じいりました。そして聖師様がもし、この霊覚によって訂正さるるならば、世界の
歴史もずいぶん変って来るかも知れないと思いました。
人間は木から生れた
足魂から生魂が出る。大きな木が腐って人間が生まれた。あたかも小豆に虫が発生し、
橡に甲虫が出来、また栗の木から栗虫ができるようなものである。
藪 蚊
蚊のなかで藪蚊ばかりはボウフラから出ないで、木や何かのしげみに生くのである。そして
喰いつかなくてただ側に飛んでいても人間の血を吸うものである。
忍耐
忍耐せい、忍耐せい、忍耐よりほかに成功の道はないものである。わたしもずいぶん忍耐している。
腹を立ててはあかん。
芸術は宗教の親
芸術は宗教を生むのであるから、宗教の親である。長いあいだ子の研究をやったから、これから親の
研究をやるのじゃ。
906 :
名無しさん@3周年 :03/03/18 19:58
この「ツーちゃんねる」というHPを知って丸1週間がたちました。初めは常に繰
り返される罵詈雑言、叱咤罵倒の応酬に正直戸惑い、コメントのないURLをク
リックしては表示される死体画像、脱糞画像に嫌な気持ちになったのも事実で
す。ある時は、「ここすっごい面白いから見てみ!」というURLをクリックし
てみると、パソコンが「ガガガ」と音を立て画面が止まったこともありました。
何度試しても同じでした。すごい勢いでたくさん画面が開いていき、「こんなに
たくさん画像が見れるのか」とすごく期待しズボンもパンツも靴下も脱いで準備
して待っていたら、パソコンがプシューと音を立てて壊れた事さえありました。
後で調べてみると、ブラ・クラッシャーだということがわかった次第です。好奇
心があり信じやすい私なので、修理3台、買い替え2台で58万円ほど使いまし
た。今では「ツーちゃんねる」というのは、こういった画像や騙し合いを楽しむH
Pであり、少し賢くなったと思います。ところで私もトイレ盗撮画像があるので
すが、どうすればお見せすることができるのでしょうか?
907 :
名無しさん@3周年:03/03/18 23:38
変ったものに相手になるな
鰻の耳の生えたものは、反蟠竜といって竜の種類に属する。それを取って食べると、一家が
没落してしまう。時にはこの魚が群をなして来ることがあるが、家に持って帰っただけでも
よくない。ただの鰻でもあまり大きなものは食べぬがよい。七八十匁くらいが頃で、それ以
上になると味もおちるし、百匁以上のものは食うものでない。すべて何物にかぎらず、珍
妙な形をしたものには相手にならぬがよい。器具でも木石でもあまり変ったものは何かある
ので、そんなものを好んで持つのはよくないことで、思わぬ災害を受けることがある。人間
も同じで、奇妙な風をしたり、言うたりする人は、どうも信用がおけぬものである。すべて
あまり変ったものには相手にならぬがよい。
908 :
名無しさん@3周年:03/03/18 23:54
阿弥陀の実現化、弥勒仏
朝夕の教会詣でも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、鐘をたたいて読経するのも、悪い事
ではない。それはただ信仰の行程であって、百万億土に極楽浄土があってそこへ行ったら蓮
華の台にのせられて、百味の飲食が得られると無我に信ずることができて、木仏金仏石仏、
絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることのできる者は幸福者だが、現代の人間はそういう絶対他
力の安心の出来がたいものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめこんでいるも
のも、かならず助けてもらえると絶対他力の帰依者も、いよいよ死という一段に想いをいた
したときはぐらついて来るものが多い。あれほど信心深い同行でさえということがある。極
楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀を、キリストをと言っても、
それはあまりに安すぎて受取りにくい者が多い。こう思い考えてみると真個に信心のできた
ものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。
909 :
名無しさん@3周年:
一星霜
太陽は一年に二度廻る。すなわち春分から秋分までに一度廻り、秋分から
春分までにも一度廻る。だから一年に二度廻る勘定である。月に二十九日と
数時間で一周してもとの位置に還ってくるし、星は一年に一周(太陽系天体内)する。それで
一年のことを一星霜というのである。(流星や彗星は別として)もちろん星自体が廻るのではなく、
地の傾斜運動によることは、霊界物語に出ているとおり、言うまでもないことである。
霊界での話
ある時わたしが霊界へ這入って行くと、天地茫漠として、人の子一人いない。たれかに
遇うて尋ねようと思って探しまわるけれども誰もいない。ふと私は、呼べば出てくるだろうと
思って「オーイ、オーイ、皆出てこい、ヤーイ」と声をかけると、ちょうど菌が生えるよう
に、あちらからも、こちらからもムクムクとたくさんな人間が出てきてお辞儀をした。
碁と将棋は嫌い
わたしは碁と将棋が一番嫌いだ。あんな事をして、いったい何になるのだ。
時間の空費ではないか。歌を読んでも字を書いても、何かそこに残ってゆくものがある。碁、
将棋には、残る何のものもない。まったく、時間と精力の空費である。
三千年に一度実る桃の実
三千年に一度実る桃の実というのは、無花果のことである、桃のことではない。優曇華(うどんげ)の
花咲く春というのも同じ意味である。優曇華は印度語であって、無花果のことである。大本
神諭の前豆にも花が咲くというのと同じ意味であって、稀有の出来事のいいである。