860 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 09:05
>>854 五祖のことは最近まであんまり関心はなかったんですよ。
チョッと視点を変えてみて、何となく興味が出てきたんです。
だからこうゆうジャンルちゅのは、次から次へと発見がありますね。
そんだけ魅力的なんかと思います。
神秀の明鏡台についても最近深く考えるよになった。
「鏡」ちゅうのは深い意味があるんかと思う。
神秀が修行の集大成に何で「鏡」なんか?
「鏡」で神秀は落とされた。
「鏡」さえなけりゃ〜こんなことにならんかったのに。
以後、神秀は鏡をあんまし見なくなったんじゃないか?余計なことですが(w
861 :
名無しさん@1周年:03/01/11 09:33
時宗の一遍上人と法燈国師の話がある。
法燈国師に参じた一遍上人が差し出した詩を国師は許さなかった。
以下がその詩
「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏のこえばかりして」
念提しなおして再度差し出した詩に国師は印可を与えたと言う。
以下がその詩
「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
これは、話としては作為が無い話だと思う。
神秀の対句としてつくられた六祖の句にはあくまでも、神秀という対象物があった。
そこに六祖のいかがわしさが残るのである。
純粋に良心的な理解のみを取るならば、あれほどの宗教文学はないと思う。
しかし、常識的には当時の中国の時代の流れ等をふまえたうえで、
数少ない資料を並べてみても五祖〜六祖のあたりには、いかがわしさが残るのである。
いちいちソースは上げないが、ちょこっと検索するだけでも似たような論はみつかるだろう。
862 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 13:19
>>861 >「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
いわゆる絶対無なんかと思ふ。
無とゆうても「虚無」のよ−な否定的な意味に非ず。
いわゆる「絶対無」。絶対肯定。←私がいう無ちゅうんはこういう意味だね。
>仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
これがいわゆる、「ない」んだけど「絶対肯定の無」。
>そこに六祖のいかがわしさが残るのである。
そうだね。若干24歳の若造が、大先輩のフンドシで相撲をとちゃったんだね。
五祖は慌てて慧能の紙切れを剥したそうだ。
>数少ない資料を並べてみても五祖〜六祖のあたりには、いかがわしさが残るのである。
充分考えられる。
>>859 >生来アナログ人間なんでしょうかね。
ここには、ふか〜く共感するところがありますね。ホントに。(笑
私達は、存在としてはデジタルなんですが、アナログの方がシックリするんですよね。
時計なども私はアナログ派ですね。子供の頃はデジタル式がカッコよく思えたもんで
すが…。この辺の感覚の分かれには面白いものがあると感じています。
それにしても、若い時にセリカに乗っておられたよーでは、髑髏さんにも少しは私と
と同じような気があるのではないでしょうか?
そう言えば、髑髏さんのために?立てられたスレを発見しましたよ。(w
2ch流儀に従わないと決めた私は、他スレにカキコするのは、極力避けているんで
すが、面白い?ですね。見るとレスしたくなってしまうので、見ないようにしていま
すが…。つい見てしまう。時に知るとは恐ろしい力を生むものですね。(w
今は亡き、あの親友に私は「質問箱から派生した…」スレを躊躇いながらも紹介した
んですよ。生前よく人生について話し合ったり、仏教のことに付いて質問されたりして
いたもんですから。多分、スレを全部見通したことでしょう。何か得るものもあったと
思うんですよ。「難しい用語が並んでやがるな」とかこぼしていましたが…。
だから、重い病をを患って何とか回復してきた方がレスをしてきてくれた時には、渾身
の力を込めてレスしてみたつもりです。それで、計らずとも「奥の院」に近付いていた
のかも知れませんね。
864 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/11 19:39
>>863 >重い病をを患って何とか回復してきた方がレスをしてきてくれた時には
死の淵から生還した人で「私は病気になって本当に良かった」。「生きる意味が解った」。なんて事を言う人もいる。
身障者の子を持つ親で「この子からいろいろ教えてもらう」。「いつも感謝している」。なんて事を言う人もいる。
仏教ってうのはある意味逆発想なんかもしれませんね。
仏を求めて極めゆとする。そうするとドンドン仏は遠ざかる。
仏が遠ざかって、そんとき初めて「仏を知る」んかと思います。
遠近:分別のなせる業なんかと思いますね。。。
私は、悟り以上に内心の平安を望みますね。厳密に言うと、悟りと、心の平安は
違うのかも知れませんが、誰かにオナニだと言われても、心静かに微笑を保って
いる。そういう静かな心が、安定した精神が非常に重要だと思うからですね。
すぐに乱れてしまう意識では、何事も「正しく見る」などと言うことは不可能です。
瞑想、禅定の経験を省みても、心が鎮まれば鎮まるほど、深いものが見えてくる
とも云われていますよね。
しかし、それが分かっていても凡夫としての私は、刺激を求め、意識が盛んに働
くことも求める。でも…,これが「私」というもんだとも思うんですよ。
この「私」は存在だしデジタルだから、生滅の道理から逃れる事はできない身の
上でしょうが、生きて生活している間は、この活動も必要な事だとも思えます。
人間が、全体として、その種として目指しているものがあると思うんですよ。
そういう節が覗える。これが慈悲とか、愛の本性じゃないだろうか。ここに私は
人間の尊厳も覗えてくると思うんですよ。これは個人的な思想ですが…。
「人間」の尊厳だから、個人的な経緯を超えているんだと思う。
だから、そういう意味で人間が、ありのままに生きられない性を抱いているので
はないだろうとか、と思うし、それが本願なのかも知れない。
折角,人間として生まれて来たのだから、自然とは何か?その中で生き物とは何
か?その中で人間とは何か?こう云うものを理屈を超えた領域で、学んで整理し
て行くのが人間の「仕事」ではないかとも私は思うんですね。下手をすると自然
から人間は淘汰されてしまいかねないから、人間自身の可能性(仏性)が試される。
で、そこには苦しみが避けられない。しかしこの苦しみもデジタルであり、生滅
の道理に従って、生まれては消え、生まれては消えを繰り返す質のものでしょう。
しかし、何処かで始まり、生まれたものでもないものは、この奥に隠れて生滅を
起動させる原点なんだろう。ここから語るのなら、確かに無苦集滅道と言えるの
かも知れませんね。だがこれは、究極の理論ではないでしょうか。
以前いた、キリスト教の教えに私は、疑問を持った事があります。即ち、キリスト教に出会
えない、国や環境に生れ落ちた人々は、救われないのですか?と言う問いに対し「そうだ」
という答えが返ってきた時ですね。
ここで、疑念を持つと「悪魔の誘惑」だと言われる。ここが所謂、宗教の最も嫌らしい部分
だと思う。つまり、神にしろ、仏にしろ、疑念を向けるのは、最も恐ろしい罪だと言われて
しまうからですね。しかし、同じ「疑念」でも、動機が異なる場合があると思うんですよ。
物事にある種の「疑」を向けるのは正しく見る理性にも繋がるだろうと思います。人間は弱
いものですから、イザという時、そういう「超越者」に立てつく事は、とても恐ろしくなる。
しかし、そういう恐怖心で人心を縛るような宗教はローカルな教えだと思います。本当に恐
いのか、恐くないのかは自分自身で試してみる。闇夜の森林で、恐ろしい魔物がうごめいて
いる恐怖に襲われたら、それを自分で見定める。幾ら理屈で「お化けには実体がない」と知
り覚えているつもりでも、深夜の青木が原樹海で、心穏かに微笑んでいられる自信は私には
ない。一度、挑戦したが、すぐに恐ろしくなって逃げ出してきてしまった痛い記憶もある。
この辺は、自分で見定める以外どうすることもできないと思うから、挑戦してみたのですが
執着の強さや、縁起の作用には参ってしまうものがあると発見しましたね。
だから、諸行無常を知らなくても、諸行無常を正しく見ている人はいると思う。諸法無我を
知らなくても、それを見ている人はいると思う。涅槃寂静を知らなくても、こそに住する人
もいると思う。人間の業は、善い意味でも悪い意味でも深いなあと思います。
私がキリスト教に向けた疑念は、私の意味において正しかったと思っています。
868 :
名無しさん@1周年:03/01/12 09:52
シャンティ
869 :
名無しさん@1周年:03/01/12 12:26
聖書は何回にもわたる編纂の過程で輪廻やカルマの概念が削除されたよし
870 :
名無しさん@1周年:03/01/12 14:22
>>867 >ここで、疑念を持つと「悪魔の誘惑」だと言われる。ここが所謂、宗教の最も嫌らしい部分
>だと思う。つまり、神にしろ、仏にしろ、疑念を向けるのは、最も恐ろしい罪だと言われて
>しまうからですね。
へ?大疑団言うやん。「人生ってなんやろ」が修行の根本やねんから。
>>870 あの、すんまへん。大疑団てなんでっか???わて、無学なもんやから。
ぼくを食べないで。
ぼくを殺さないで。
切らないで。
あなたがたの内心の平安のために。
私は屠殺場で生きたまま皮を剥がれます。
頭蓋骨を割られます。
脳震盪を起こします。
血と脂の染み付いた石畳に倒れます。
「怖い。怖い。痛い。痛い」
そんな私を食べておきながら、内心の平安は、ないでしょう。
さぞかし苦しみなさい。
苦しみなさい。
人間よ!
悪魔って、保健所のこと?
わたしは首を切られます。
「この、偽善者!」
876 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 08:08
>>867ブランコ氏
いつか真宗スレで「南無阿弥陀仏」は結局は自省なんじゃんですか?と問うたら、
「自省」かと思うちゅうかたがいましたね。
そんでなんとなく漠然としとったんですが・・・
>「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」>861レス。
これなんか刀でバッサリ切ったような見事な手さばきを感じますよね。
この偈は非常に気にいりました。
仏教は、なんとなくピンとくることがありますよね。
そうゆうもんの積み重ねかとおもうんですよ。
ひとスレッドで良いレス(印象的なもん)は、ひとつあるか?ないか?
そんなとこかと思いますが、賊機あり。全部ひっくり返すこともある。
偽善者とは「誰」のことですか?この「私」のことを指していいたいのですか?
生きものが、生きるために生物を食う、食う為には殺さねばなない。
生きものを、食い殺すのは全ての生物の定め。しこもこれは「私」の作った定め
ではなく、自然の作った定めなんですよ。嫌でも動かす事はできない厳しもの。
生き物を食い殺す。そして生存していくのが「偽善」だというのなら、自然の中で
行われる「善」は全て偽善ということになってしまうだろうだろう。
そういう意味では「私」も偽善者だろう。他ならぬ「私」が善を選択したんだ。
そもそも、豚、牛、犬、鳥、がここにカキコする事はない。何処かの誰かが、そう
いうものに「なったようなつもり」になって?何某かの目的の為にカキコしている
のだろう。でも、その「何某かの動機」を定かにせぬ、輩が何をレスして来ようと
私は、そういうものを見る眼を持たないので説得力はあまりありませんね。
従って、好きなだけ中傷でも、誹謗でも行えば宜しいでしょう。ここで、レスして
くるそういう人々の誰かが私をどの様に思おうと、それを私は敢えて責任を取ろう
などとはとは思わない。
鳥、獣、魚類の気持ちが「分かる」という人は、自分がその業を背負っていけばい
いだろう。私は、私の分かる業を背負っていく。これ以上、荷物を増やすつもりは
ない。だから、自分の荷物さえ他人に背負わせようとしてカキコしてくるレスなど、
私が引き受ける謂れはない。よって、自分で背負うべきだろうという意思を沈黙で
示すか、受け取れないと言う否定をレスで示すだけですね。
878 :
名無しさん@1周年:03/01/13 10:45
treeに感情爆発。深呼吸せな。
>>876 綺麗に数字が並びましたね。(w
>「ともなれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
つまり、ここが髑髏さんの仰る「奥の院」ということでしょうか?
前レスにカキコしましたが、以前青木ヶ原樹海で静かな禅定に至れるだろうと
思って、挑戦してみたのですが、自信はあったものの、やっぱり恐ろしくなり
早々に立ち去って来たことがあるんですよ。(w
で、ご指摘を受けた様に、計らずともカキコしていた「奥の院」。私は海で溺れ
かけた時の事を思い出したのですが、これは経緯を超えて、緊急時や咄嗟の時に
自分の中にフッと湧いて来るもののような気がします…。
無苦集滅道。これは私が、内心の平安を求めて、様々なことに挑戦している事を
あざ笑うかのように、無色透明で捕まりません。そこでは私のやっていること等
草臥れ儲けの骨折り損ではないかとさえ思えてきます。でも、私の中には自然を
犯さなければ生きていけない性がある。これは人間の残念な事の一面だと思う。
しかし、自然は美しい。人間の内部には自然に回帰したいという欲求と、自然か
を超越したいという欲求が内在している。私はそこに人間の目指すものがある様
な気がします。自然の中から生まれた人間が、非常に長いスパンで目指している
もの。ここが髑髏さんの言う、唯識的なものの見方なのかもしれませんが…。
私は、縁起の中で善を求めて血みどろの闘いをしてしまう傾向がある。それはか
つて流された血の贖いに依るものだと思う。かつて人間が流してきた血の遺産を
受けざるを得ないのが、縁起と言うものの一側面だとも思います…。
しかし、そんな私にもふとしたキッカケで全てが流れ落ちてしまうような静かな清々
しさを感じる一時がある。だから「はて、これは何か?」と追求しているんですね。
ここでの困難は、リラックスしようと思ってできないリラックスのようなジレンマですね。
だから、青木ヶ原のような失敗は何時も起こるのでしょうね。
ここが「奥の院」に入っていくための、ひとつの難問だと思いますね。ここで、どうする
か道理から問われるのでしょうか。正しくなければ容赦なく叩き出される。
私が唯一、大乗経典の中で読んでみた「唯摩経」と言うものの中に「不可思議解脱」と言う
ものがありました。これには、深か〜く共感するものがありました。私の経験からもこの様
な縁起の束縛を超越してしまうものがあると洞察しているからです。でも、これは仏教に関
係なく人間、或いは生き物、或いは万象万物にあるもののような気がします。だから、仏教
があり、釈尊の境地があるんだと私は思うんですね。
881 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 11:38
>>879 浄土宗では、南無弥陀仏を唱える時に心が動かんように、阿弥陀仏と紐で繋いでおくんだすです。
しかしながら、フッとした瞬間その手綱を手放しちゃうらしい。
いわゆる「気づき」ちゅうヤシですね。
こっから↓につなげる・・・
>「となふれば 仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ佛」
実に深いもんがあります。
「仏もわれもない」んだけれど、無なんだけれど、これが肯定的無。
虚無が否定的無なんだったら、わたしが言う無は肯定的無。無門関。
882 :
名無しさん@1周年:03/01/13 11:40
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| アーヒャヒャヒャヒャ|
|______|……アヒャ …アヒャヒャ アーヒャヒャヒャ
∧_∧ ∧_∧ || ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ゜∀゜) ( ゜∀゜) ―( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ )
(つ つ(つ つ.-||-(つ つ (つ つ (つ つ
人 Y 人 Y ― 人 Y 人 Y 人 Y
し(_) し(_). || し (_) し (_) し (_)
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アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ アーヒャヒャヒャ!!
∧_∧ . ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ | || | | |アーヒャヒャヒャヒャ
( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ( ゚∀゚ ) ∧_∧ | | | || | |
(つ つ(つ つ(つ つ.(つ つ( ゚∀゚ )| | | | | || | | || | |
人 Y 人 Y 人 Y 人 Y (つ つ ∧_∧| |アーヒャヒャヒャヒャ!!!
し(_) し(_) し(_) し(_) 人 Y ( ゚∀゚ )| | | | ||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| し(_) .(つ つ ∧_∧||
| 人 Y ( ゚∀゚ )
________________________し(_)___(つ つ
| | | || | | | | | || | | | | | || | |
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(( ( ̄ ) ̄ ) | | | || | | | ドスッ ベシャッ アーヒャヒャヒャヒャヒャ
ドーン | | | ( ) ∧_∧ヒャヒャヒャヒャヒャ _∵;;∴
∴ (Λ_Λ)∴:| | ( ゚∀゚ )'':∵;; ⊂(。A。;)つ
⊂( ゚∀゚ )つ*∴¨:∴:~~~~~~*;;:; ::*;:::*;:V ̄V'':∵;; アーヒャヒャヒャヒャヒャヒャ
アーーーーヒャ  ̄*;;:; *¨ ○ ∧_∧アーヒャヒャヒャヒャ・○ ∧_∧;∴
ヒャヒャ *;:*;:∴:; ⊂ ´⌒つ ゚∀゚)つ∴*;::;:⊂ ´⌒つ ゚∀゚)つ
883 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 11:48
>>880 そうですね。
釈尊は、いうなればバラモン教の形而上学的存在をバッサリ切り離した。
善因善果・悪因悪果、→自己責任。
こうゆう釈尊の生涯を辿るちゅうのも大事なんでしょうね。
人間、捨て切るのは難儀なれど、そこで初めて眼が覚めるんかと思う。
884 :
名無しさん@1周年:03/01/13 12:03
+ ♪アーヒャアヒャヒャヒャーヒャー
アヒャヒャヒャ!! /l ヒャッヒャヒャーヒャヒャーヒャヒャヒャヒャッ
ヾ゚∀゚〃 l 」 .∧_∧
ヾ|〃 || (゚∀゚ ,,,)∩゛
□. ⊂ ∩ , ⌒つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ゚∀゚〃アーヒャヒャヒャヒャ!!! ♪アーヒャアヒャヒャヒャーヒャー
+____ ヽヽヽ アーヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!!!
\__|== ≡≡≡≡≡ ∧_∧
ヾ|〃シュッ!!//(゚∀゚ ,,,)∩゛
□. ⊂ ∩ , ⌒つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>881 そうなってくると、髑髏さんのカキコしていた、盤珪の無修行の修行というのが、
やはり「奥の院」と言う事にも繋がってくるようにも思えます。仏教も色々な枝葉
に分かれて観念的には難しくなってしまった側面もありますが、この根っ子の処だ
けは変わりようがなく、逆にひとつに繋がっているのだろうと洞察します。
>無なんだけど、これが肯定的無。
私は、ここに深いものを感じます。仏教用語の「無」これには、かなり迷いが生じ
ましたから。どうしても慣わしで有無の無に捕われてしまうんですよね。
無苦集滅道か…。これはやはり究極だと思う。人間の営みから発言できる言葉では
ないと思う。でも、ある時「ああっ」と呟いてしまうような感慨や、咄嗟に出てく
る直感が、その入り口なのではないでしょうか。こういう状態には経緯を超えてし
まう側面があるから。でも、こんな事は誰でも経験している事じゃないかと思える。
そこで気が付くか、気が付かないかも、大きな要素だと思います。
それに気付くための教えが仏教なのでしょうか。色々な枝葉に分かれてしまいまし
たが、やはり底流には変わり様のないものが貫かれているのでしょうね。
そこに辿り着くのは「誰」なのか?そこに辿り着いた時には誰もいない事に気が付
くのかも知れませんね…。う〜む。。。
ある時自分が「存在」するという概念が薄れていき、一心に何かに没頭している時
がある。苦しみから逃れる為に我を忘れるというような刺激の中で埋没していく時
とは違う、静かな清々しさが満ちてくる時がある。
スッタニパータより抜粋。
世界はどこも堅実ではない。どの方角も全て動揺している。私は自分の依るべき
住所を求めたのであるが、既に死や苦悩にとりつかれていないところを見つける
ことはついになかった。
そして生きとし生けるものは、終局においては違逆に合うのを見て、私は不快に
なり、また、私はその生けるものの中に見難き煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
この矢に貫かれたものは、あらゆる方角を駆け巡る。この矢を引き抜いたなら、
あちこちを駆け巡ることなく、沈むこともない。世間における諸々の束縛にほだ
されることなく、諸々の欲望を究め尽くして、自己の安らぎを学べ。
動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人々は、あくせくした営みから離
れて、至るところに安穏を見る。
887 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 13:21
>>885 >静かな清々しさが満ちてくる時がある。
そうですね。
眼横鼻直も、無一物も、仏もわれもなかりけりも、通じるもんは「清々しさ」。
これは虚無とは対象的ですね。
十牛図最後は「求めるもんがなかった」。ちゅうことかと思います。
内心の平安ちゅうんだったら、求めるもんがない。ちゅうのに繋がるんじゃないでしょうか?
盤珪流に言うんだったら「不生にて調ふべし」。
仏は遠くに行っちゃたんだけど、実は求めるもんではなかった。ちゅうことなんでしょうね。
白隠は、そっから法華経の紐を解いて逝くんでっしょう。
わたしは法華経にはあんまり関心がないですがね。
あなたは無視できない。
憑依する。
憑依する。
「虫のいい人だな」
あなたには、無理だ。
889 :
^x^動物霊^x^:03/01/13 17:16
>>888 綺麗に数字が並んだでしょう?
冗談じゃありませんよ。
我々の負の力をすべて、このスレッドの偽善者たちに突き刺します。
ほんとうに、冗談じゃありませんよ^x^
髑髏センセー、センセーの本スレ終わってしまったね。
あそこに書かれた批判は、真に受けたほうがいいと思うよ。
センセーは禅語を騙るけど、やっぱピンと来ないよ。
やはりきちんとしたお師家さんについて、坐ったほうがいいのでは?
あ、漏れ? もちろん参禅しましたよ。
何人か惚れたお師家さんはいますね。あっぱれです。
そういう方々の提唱を耳にして、一言一言が染みてくると
どうもね、髑髏センセーの禅語って、ポイントはずしているように思うのれす。
どうも神秀の鏡について、誤解しているみたいな…
891 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/13 21:53
892 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 01:35
コンコン。
誰かいらっしゃいますか?
あのー、
>>1のブランコと名乗っておられる方に、
あらためて伺いたいことがあるんですが・・・・。
また来ますので、必ず答えてくださいね^x^
893 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/14 08:36
887
(のつづき)
>十牛図最後は「求めるもんがなかった」。ちゅうことかと思います。
心の衆生も仏も、そのまんまで即心即仏なんだから仏を求めること非ず。
仏を忘れ、己を忘れ、二見を離れるゆうことなんでしょうね。
それが非心非仏。←これは否定的な方便ですね。
瓦を磨いても鏡にはならんとゆうことでしょう。
南嶽→馬祖。無門関。
894 :
髑髏仮面 ◆8Z1PfzdK1. :03/01/14 08:40
× 心の衆生も仏も
○ 心も衆生も仏も
895 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 18:53
コンコン。
>>893 ヤクザな坊主は
>>894 白紙に戻せ。
>瓦を磨いても鏡にはならんとゆうことでしょう。
ダイヤモンドを薪の代わりに燃やすことはできますよねえ^x^
896 :
^x^動物霊^x^:03/01/14 18:55
早くブランコさん帰ってきて。
行ったきりのブランコなんてあるのかな^x^
897 :
名無しさん@1周年:03/01/15 21:04
>>880 >ここでの困難は、リラックスしようと思ってできないリラックスのようなジレンマですね。
>だから、青木ヶ原のような失敗は何時も起こるのでしょうね。
むむむ。やはり、ある程度は劇的な神秘体験とか衝撃的な悟りとかよりも、日常の生活習慣が最も大切ではないでしょうか?
つまり、座禅や瞑想をするのでも、道元禅師が示したようになるべく、寒いときには暖かく、熱い時には涼しく、なるべく静かな所をえらんで、、、
という場所のセッティングや体調の整え方その全てが「座禅」なのではないでしょうか?
レースの世界でもあるのでしょうか?プロ野球の選手がバッターボックスに入る時にはベンチからでるときには右足からとか、ボックスに立ったときには咳払いをするとか
千変万化するボールに対して最高のコンディションを再現するおまじない、というか儀式めいたことをするそうです。
一回コッキリの人生に平安な心で対処する為には、しっかりとした「日常」が必要なのではないでしょうか?
そこの技術面と精神面を一度に示しているのが日本にある「道」という捉え方ではないかなと思います。
898 :
名無しさん@1周年:03/01/19 19:19
菜根譚
899 :
名無しさん@1周年:03/01/19 21:12
少欲知足。
900 :
(−人−):03/02/07 16:25
久しぶりに来ました。
お元気ですか?
901 :
ラッキーアイテム:03/02/27 01:01
902 :
名無しさん@3周年:03/03/17 17:54
千の利休は明智光秀
903 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:04
千の利休という人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦にもろくも敗
れて、ついに名もなき一土兵のために竹槍にて突き殺されたと、歴史に伝えられてあるが、
あれはうそである。天王山の一戦で勝敗の決することは、はじめからよく承知しておったが
光秀は将士のたびたびの迎えをうけながら、わざとグズグズしていて、ついに勝を秀吉に
譲ったのである。実はとくに光秀と秀吉との間には妥協が成立していたのである。聡明なる光
秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん主殺しの汚名を着たものが、天下の
将軍となっても永続きがせぬ、ということをよく承知していて、秀吉に勝を譲ったのである。
そしてかれは頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあって、天下の大事を論じ、
謀をめぐらして秀吉を太閤の地位にまで押しのぼしてしまったのである。かれは実に秀吉の
好参謀であったのである。朝鮮征伐なども、かれの献策に出たものである。茶室に這入るには
丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、
もってこいの場所方法であった。第一秘密を保つに絶好であった。のちかれは娘の美貌が
禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝えられているが、まったく
跡形もないことである。英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ。
904 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:13
太田婦人は、大正九年のころ、聖師様から「千の利休は明智光秀である」ということを承って、
それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたそうです。そうすると名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました。
すると円能斎氏の顔色がサッとかわって、しばらくは物もいわれなかったそうですが、太い吐息と
ともに口をついて出た言葉は、「まぁどうしてそれが分ったのですか」ということであったと
いうことです。そして、さらに語をついで、「そのことこそ、千家に伝わる、一子相伝の大秘密
であって、跡を継ぐ長男のみが知って、次から次へと言いつたえ語りつぎて、
世に知るものが絶えて無いはずです。どうしてそれが分ったのでしょう」と聞くので、
名倉氏は「霊覚によってわかったのです。丹波の国綾部町に、大神通力をそなえた聖者がありまして、
その人の霊覚によって、その秘事がわかってきたのです」とて、聖師様に冠するお話をせられました。
円能斎氏はいたく驚き、かつ感じいり、ついに執事を派して綾部に参拝せしめついで自らもまた参拝せられたそうですが、
905 :
名無しさん@3周年:03/03/17 18:49
深くこのことを秘して人に語らなかった。名倉氏もまた秘してしまったのですが、不思議なことには三人が三人とも、相前後して
同じ心臓病のため倒れてしまったそうです。
太田夫人は「これは秘してはならぬと思い、皆さんにお話ししております」と
語られました。一座のものはこれを聞いて、今さらのごとく驚き、聖師様のたたえつくせぬ
ご霊覚の程を感じいりました。そして聖師様がもし、この霊覚によって訂正さるるならば、世界の
歴史もずいぶん変って来るかも知れないと思いました。
人間は木から生れた
足魂から生魂が出る。大きな木が腐って人間が生まれた。あたかも小豆に虫が発生し、
橡に甲虫が出来、また栗の木から栗虫ができるようなものである。
藪 蚊
蚊のなかで藪蚊ばかりはボウフラから出ないで、木や何かのしげみに生くのである。そして
喰いつかなくてただ側に飛んでいても人間の血を吸うものである。
忍耐
忍耐せい、忍耐せい、忍耐よりほかに成功の道はないものである。わたしもずいぶん忍耐している。
腹を立ててはあかん。
芸術は宗教の親
芸術は宗教を生むのであるから、宗教の親である。長いあいだ子の研究をやったから、これから親の
研究をやるのじゃ。
906 :
名無しさん@3周年 :03/03/18 19:58
この「ツーちゃんねる」というHPを知って丸1週間がたちました。初めは常に繰
り返される罵詈雑言、叱咤罵倒の応酬に正直戸惑い、コメントのないURLをク
リックしては表示される死体画像、脱糞画像に嫌な気持ちになったのも事実で
す。ある時は、「ここすっごい面白いから見てみ!」というURLをクリックし
てみると、パソコンが「ガガガ」と音を立て画面が止まったこともありました。
何度試しても同じでした。すごい勢いでたくさん画面が開いていき、「こんなに
たくさん画像が見れるのか」とすごく期待しズボンもパンツも靴下も脱いで準備
して待っていたら、パソコンがプシューと音を立てて壊れた事さえありました。
後で調べてみると、ブラ・クラッシャーだということがわかった次第です。好奇
心があり信じやすい私なので、修理3台、買い替え2台で58万円ほど使いまし
た。今では「ツーちゃんねる」というのは、こういった画像や騙し合いを楽しむH
Pであり、少し賢くなったと思います。ところで私もトイレ盗撮画像があるので
すが、どうすればお見せすることができるのでしょうか?
907 :
名無しさん@3周年:03/03/18 23:38
変ったものに相手になるな
鰻の耳の生えたものは、反蟠竜といって竜の種類に属する。それを取って食べると、一家が
没落してしまう。時にはこの魚が群をなして来ることがあるが、家に持って帰っただけでも
よくない。ただの鰻でもあまり大きなものは食べぬがよい。七八十匁くらいが頃で、それ以
上になると味もおちるし、百匁以上のものは食うものでない。すべて何物にかぎらず、珍
妙な形をしたものには相手にならぬがよい。器具でも木石でもあまり変ったものは何かある
ので、そんなものを好んで持つのはよくないことで、思わぬ災害を受けることがある。人間
も同じで、奇妙な風をしたり、言うたりする人は、どうも信用がおけぬものである。すべて
あまり変ったものには相手にならぬがよい。
908 :
名無しさん@3周年:03/03/18 23:54
阿弥陀の実現化、弥勒仏
朝夕の教会詣でも、寺参りも、祝詞を奏上するのも、鐘をたたいて読経するのも、悪い事
ではない。それはただ信仰の行程であって、百万億土に極楽浄土があってそこへ行ったら蓮
華の台にのせられて、百味の飲食が得られると無我に信ずることができて、木仏金仏石仏、
絵仏を絶対に仏の姿だと信ずることのできる者は幸福者だが、現代の人間はそういう絶対他
力の安心の出来がたいものが多い。いよいよこれで確実だと自分の腹底にきめこんでいるも
のも、かならず助けてもらえると絶対他力の帰依者も、いよいよ死という一段に想いをいた
したときはぐらついて来るものが多い。あれほど信心深い同行でさえということがある。極
楽浄土から便りのあったものは今に一人もない。ただ信ぜよ弥陀を、キリストをと言っても、
それはあまりに安すぎて受取りにくい者が多い。こう思い考えてみると真個に信心のできた
ものが幾人あるだろうか。それを思って自分は阿弥陀を弥勒仏として実現化せんとするために努力しているのである。
909 :
名無しさん@3周年:
一星霜
太陽は一年に二度廻る。すなわち春分から秋分までに一度廻り、秋分から
春分までにも一度廻る。だから一年に二度廻る勘定である。月に二十九日と
数時間で一周してもとの位置に還ってくるし、星は一年に一周(太陽系天体内)する。それで
一年のことを一星霜というのである。(流星や彗星は別として)もちろん星自体が廻るのではなく、
地の傾斜運動によることは、霊界物語に出ているとおり、言うまでもないことである。
霊界での話
ある時わたしが霊界へ這入って行くと、天地茫漠として、人の子一人いない。たれかに
遇うて尋ねようと思って探しまわるけれども誰もいない。ふと私は、呼べば出てくるだろうと
思って「オーイ、オーイ、皆出てこい、ヤーイ」と声をかけると、ちょうど菌が生えるよう
に、あちらからも、こちらからもムクムクとたくさんな人間が出てきてお辞儀をした。
碁と将棋は嫌い
わたしは碁と将棋が一番嫌いだ。あんな事をして、いったい何になるのだ。
時間の空費ではないか。歌を読んでも字を書いても、何かそこに残ってゆくものがある。碁、
将棋には、残る何のものもない。まったく、時間と精力の空費である。
三千年に一度実る桃の実
三千年に一度実る桃の実というのは、無花果のことである、桃のことではない。優曇華(うどんげ)の
花咲く春というのも同じ意味である。優曇華は印度語であって、無花果のことである。大本
神諭の前豆にも花が咲くというのと同じ意味であって、稀有の出来事のいいである。