キリスト教徒よ!
新約聖書正典について誕生と成立について語ろう!
そこで旧約聖書まで話を広げると大変なので、【新約聖書についてのみ】の話に限定します。
このスレッドの趣旨は<<新約聖書の正典性を擁護すること>>です。
よって、この趣旨を受け入れた人のみが、このスレッドに書き込んでください。
さらに、管理人である私に不快な発言が予想されますが、このスレッドの管理上、
私に対する質問や意見および要望は禁止します。
もう一度、念のために言います。
このスレッドの管理上、私に対する質問や意見および要望は禁止します。
また、当スレッドの趣旨にそぐわない投稿はやめて下さい。
不適当と思える投稿をしたものは、当スレッドの管理人である私が、このスレッドからの<<退場>>を命じます。
また、<<退場>>を命じても、まだこのスレッドに投稿するものは、その時点で
「負け犬」の烙印を押させていただきます。私もできるだけそれは避けたいと思うの
ですが、このスレッドの運営上必要なものと判断します。
投稿された方は、すべて上記に同意したものとみなされます。
2 :
「T氏の落書き」の嘘吐き:02/05/24 11:21
630 :名無しさん@1周年 :02/05/22 02:13
過去ログで、あんたが実はdendo.だっていう説が出てたけど、
そこどうなの?
>>629 633 :T氏の落書き ◆RSrQg8hk :02/05/22 02:32
>>630 >過去ログで、あんたが実はdendo.だっていう説が出てたけど
そうかもしれない
635 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/22 02:38
嘘吐き!
>>633 638 :T氏の落書き ◆RSrQg8hk :02/05/22 02:55
私落書きはこの2チャンネルから退去する
理由1、ここには相手にできるほどレベルの高いものがいない
2、勘違いレスが多い
# 嘘がばれたので一時「撤退」したらしい。
3 :
「T氏の落書き」の自作自演その1:02/05/24 11:23
638 :T氏の落書き ◆RSrQg8hk :02/05/22 02:55
私落書きはこの2チャンネルから退去する
理由1、ここには相手にできるほどレベルの高いものがいない
2、勘違いレスが多い
641 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/22 11:16
管理者がいなくなったぞ!
自由に話せるじゃないか!!
すばらしい!!!
この板って数えてみたらだいだい6人ぐらいしかいないね。
5 :
承前(本人はばれていないつもりでいるらしい):02/05/24 11:24
643 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/22 11:47
T氏の落書きは、いないのか!
一歩遅かったか・・・
644 :名無しさん@1周年 :02/05/22 11:56
自作自演ってそんな楽しい?
645 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/22 11:57
>>644 何の話?
646 :名無しさん@1周年 :02/05/22 12:34
胴衣>644
オナニストは独り遊びが好きなんだね。勝手に遣ってろ。
さあ、新約聖書について、語れ語れ語れ
dendo. ◆Dpy6mDYE という方は、私ではないですね。
私なら、山本誠一に負けるはずがない。
むかし、dendo.というHNを使ったような覚えがある。
かなり前の話だから、dendoだったか、dendousiだったか忘れたが・・・
しかし、あんな無惨な負け方をする人と私を一緒にされては困る
さあ、語れ語れ語れ
8 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:26
で、誰が翻訳したの?
9 :
「T氏の落書き」の自作自演その2:02/05/24 11:27
534 :名無しさん@1周年 :02/05/19 23:53
山本誠一=サンキュージーザスは、福音派でしょ。
だから逐語霊感じゃないの。
たしかに粘着と、まじめなのかふざけているのかはっきりしないところなど
そっくり。
535 :名無しさん@1周年 :02/05/19 23:53
cjmlで山本誠一はGW中に、オリゲネス研究をすると言っていた
オリゲネスについて知っているということは、T氏の落書き=山本誠一に間違いなし!
542 :tinn :02/05/20 00:07
で、dendo.ってだれ?
岸田編集長がいないから、誰かわからない。
だれか、また2チャンネルのクリスチャンリストをつくってくれないかなあ。
543 :名無しさん@1周年 :02/05/20 00:08
>>542 あんた、岸田編集長だろ。
544 :tinn :02/05/20 00:08
山本誠一はペンテコステ派だよ
546 :名無しさん@1周年 :02/05/20 00:10
>>543 落書きって、頭隠して尻隠さず、だね。おまえ、猿か(藁
10 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:28
岸田秀だ!。
それにしても、私がスレッドを立てると盛り上がる
私はイベント性があるからね。
さあ、語れ語れ語れ
語れない者は、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
12 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:29
ペンテコステ派コテハンってMoccと山本誠一なのか。
……お里が知れるとはこういうことをいうんだな。
両方、2chのルールがわからない、荒らしだし(w
このスレは
<<T氏の落書き 問題を語る>>スレに変わりました。
不毛だと思われる方は直ちに退去ください。
15 :
「T氏の落書き」の自作自演その2:02/05/24 11:31
かたるよー
○ О ο
o 老若男女一心揚踊 оo
m 不問皮有無 . . / Y \
/ \ ( . )
( ) . | |
| | /Y\ /Y\ . . . | |
| | (( ) 三 ,,)) |ノノノノノノ
( ・∀・) ヽ ( / ミ ( ・∀・)
) ( キ .メ ./ . ) (
(__Y_) 乂 ノノノノノノ ノ 一斉一同 (__ Y_)
( ・∀・) 珍珍揉揉! _∧_______
香少年風 ) (⌒) . . . │
要洗落垢 (((__)⌒ ̄ │我望頭部珍珍揉揉
. └─────────
∧ ∧ 珍珍揉揉 我喜♪
ヽ( ´∀`)ノ Å 珍珍揉揉 我幸♪
へノ / / \
ε ノ . ヽ(´∀`)ノ
> 珍珍揉揉 ( ヘ) 珍珍揉揉皆平和
我快心♪ ♪ く ω
17 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:32
>私がスレッドを立てると盛り上がる
ワラタ、悪い意味でそのとおりだ。モック(現シエラ)と双璧だね。
18 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:32
もう最高に盛り上がってる!・・・・・の?
さっそく盛り上がってきましたね
最初はいつもこうですな。
しかし、語れないものは去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
とにかく1000を目指せ!
20 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:33
わあいヽ(´▽`)ノ
21 :
T氏の落書き=山本誠一、暴言を吐く:02/05/24 11:35
T氏 dendo. を騙ろうとする
>>2 後日
687 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/23 23:33
それと。
あたしと同一かどうか誰かに問われて、はぐらかそうとしたわね。
どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
698 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:21
[長文投稿制限にひっかかるため省略]
>どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
でかいんだよ、態度が。調子扱くなっての。聞くんだから、ちゃんと頭を下げなさい。
何度も懇願して、額をこすりつけるなら、考えてやっても良い。
前回のスレッドで、山本誠一に負けた連中は、ここでリベンジするといい。
山本誠一が来るか分からないが・・・・
ルサンチマンの塊となって、山本誠一を論破せよ!
23 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:36
T氏 dendo. を騙ろうとする
>>2 後日
687 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/23 23:33
それと。
あたしと同一かどうか誰かに問われて、はぐらかそうとしたわね。
どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
698 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:21
[長文投稿制限にひっかかるため省略]
>どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
でかいんだよ、態度が。調子扱くなっての。聞くんだから、ちゃんと頭を下げなさい。
何度も懇願して、額をこすりつけるなら、考えてやっても良い。
とはいうものの、ここ新規参入の俺とあんたしかいないしな・・・
24 :
実はスレタイトルが理解できない山本誠一(1/2):02/05/24 11:38
※キリスト教@質問箱で訊くという頭はないようだ。
291 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/15 19:10
>>290 ワラタヨ。
それはそうと、
>>1は自分が考えるところの「逐語霊感説」について
定義を紹介する必要があるんじゃねーのか?
ちぃヨハ%糞袋だって、もうちょっと自説について自分から語ってたぞ。
686 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/23 23:31
で、それどう聖書解釈と関係あんのよ(呆)
あんた600レスついやして、まだあたしの質問に答えてないんだけど
いつ答えてくれるの?
696 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 00:10
[省略]
[あんたの考える逐語霊感説って何?」
つーと明解かつ単純な問いに、どうして答えられないのかしらね?
それなしに正しいもくそもないんですけど。つづく
もし、君たちが山本を論破できないなら、私が代わりにやってあげようか?
でも、私は山本誠一にそんない恨みがないし・・・
そうだな、別に負けた連中のためにやる義理もないしな。
26 :
実はスレタイトルが理解できない山本誠一(2/2):02/05/24 11:40
(
>>24)承前
698 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:21
>ヴィットゲンシュタインがどこでそんな御託ならべたのよ。
ヴィトゲンシュタインならそう言うでしょう。
だから、「ヴィトゲンシュタインにいわせると」といったんだよ。
>「あんたの考える逐語霊感説って何?」
つーと明解かつ単純な問いに、どうして答えられないのかしらね?
T氏の落書き氏にいわせると「自分で調べろ!甘ったれるな!!」ってところでしょう。
ただ、一つ言えることは、君の言っている逐語霊感説は、偏見と誤解にもとづいている。
704 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 00:27
あたしは「逐語霊感説って『何』」てきいてるの。述語づけなんて
行なってません。話かってにつくんないでくれる?
27 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:41
ところで山本清七って誰?
相当悔しかったんだな・・・
かわいそうに・・・
まあ、負けは負けだから・・・
それにしても、負けた後って、なんともミジメ
くやしそーっ。
リベンジだよ。ほら、がんばれ。ほら、ほら、ほら。
29 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:44
ちなみに「ウィトゲンシュタイン」が正しい
30 :
呼んだことのない哲学者者について語る山本誠一(その1):02/05/24 11:44
※時系列を変更しています。
691 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/23 23:53
ヴィトゲインシュタインにいわせれば、「逐語霊感」も沈黙すべきものなのだ。
698 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:21
>ヴィットゲンシュタインがどこでそんな御託ならべたのよ。
ヴィトゲンシュタインならそう言うでしょう。
だから、「ヴィトゲンシュタインにいわせると」といったんだよ。
31 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:46
山本誠二の「ホワイトヘッドの宗教哲学」によればウィトゲンシュタイン
の言語ゲームは語りえないことについては語ることではなく筋道を示す
ことは不可欠であるから、語っていいらしいよ。
32 :
>>30参考資料:02/05/24 11:48
>>30とあわせてごらんください
96 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 00:10
>>691の最後の文わけわかなんだけど。
ヴィットゲンシュタインがどこでそんな御託ならべたのよ。
704 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 00:27
[省略]
ちゃんと引用箇所示しなさいよ。でなきゃ認めないわよ。
いったいどこにそんなこと書いてあるのよ。
論理哲学論考?青い本茶色い本?
……じゃ、アウグスティヌスの時間論が引いてあるヴィットゲンシュタインの本の名前、
すぐでてくるわよね。ヴィトゲンシュタインならこういう、なんていえる
くらいに、よーく御存知のようだから。
33 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:48
しあわせな人だね、山本って。
なんでも自分に都合よく解釈してしまうところなんて、逐語霊感的だね。
>>30 スレッドのアドレスを貼ればいいじゃない。
どうして、わざわざ編集しているの?
それに、負けは負けだから、仕方ないんじゃない。
言いたい事があるなら、山本誠一がここに来てから、彼本人に直接言ってよ。
まあ、くやしかった気持ちは分かるからさ。
ね、負け犬だって認めたくない気持ちは分かるからね。
まあ、山本誠一本人に直接お願い。
それにしても、くやしそう・・・ ぷ
35 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:50
俺もそう思うべ。なんせ原典引用がまるでないしね。
せいいちだよー♪
37 :
読んだことのない哲学者について語る山本誠一(その2):02/05/24 11:51
(
>>30承前)
652 :ブルネルス :02/05/23 01:00
そもそも、「世界は自分が生まれる3分前にできた」と根っから信じている人に対し
て、世界はもっと以前からあるということを証明することはできない、という考え
もある。すべての事象は、この信念を動かさずに、つじつまが合うように説明でき
るからだ。
こういうことを前にしては、逐語霊感説をまず真なるものとして信じ込み、これに
あわせてすべての事象、すべての不都合な点を、つじつまが合うように説明するこ
とができるのも、理解できるだろう。(以下転記者により省略)
653 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/23 01:31
[省略]
ブルネルス氏のレスは、その展開の方法から判断するに多くの偏見を含んでいるように感じる。
それは、まず、第一に<「世界は自分が生まれる3分前にできた」と根っから信じている人>など
というクダラナイ人間像を、まるで逐語霊感説を唱える人々にダブらせるかのような論法をもって
あとに続く文章を展開していることにある。
38 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:52
にしても12時前におれらなにやってんだろうなーー(w
39 :
>>37参考資料:02/05/24 11:54
(
>>37とあわせてごらんください)
713 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:44
おお、ヴィトゲインシュタインを知っているのか!
私はかじる程度だ。
かなり前だけど、『論理哲学論考』(法政大学出版)を読んだよ。
それから『ウィトゲンシュタインの講義T〜ケンブリッジ1930ー1932』を
3分の1だけ読んでそのまま放ってある。
これもかなり前だな、5年くらいたってる。
懐かしいではないか。
>……じゃ、アウグスティヌスの時間論が引いてあるヴィットゲンシュタインの本の名前、
すぐでてくるわよね
これは知らない。
残念ながら、私自身ウィトゲンシュタインは上記にあることのうるおぼえくらいの記憶しかない。
40 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:56
哲学探究のもろ最初ね
41 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:57
>>31 でも
> ヴィトゲインシュタインにいわせれば、「逐語霊感」も沈黙すべきものなのだ
だから、分かった上でいっていないことにかわりはない(ぷ
42 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:57
でもよく考えたらあれは時間論じゃないのでは・・
>>40 やはりこれは落ちとしては最後にもってこなければと思いましてん(藁
>>42 罠は多重に貼らないとつまらないでしょ:-)
45 :
名無しさん@1周年:02/05/24 11:59
>>41 わかった上で理解する(cf、私は痛みを感じるということを理解でき
るのか?)云々というのが主題だから、まさしくそうだよね
46 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:00
いやつうかそもそもウィトゲンシュタインの「時間論」ってなに??
47 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:01
この板って実は分析屋さん結構多いの?
つかいるところにはいるのは知ってるんだけどドイツ観念論を分析的手法で
読む人て日本だと少ないから(Dantoとか読んでる連中がいることはいるけど)
48 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:03
読んだことあったら一蹴できる筈のことをいって、逃げまわるのを
鑑賞するのがたのしいんですがな。(藁
負けを認めて、現実をしっかりみつめて、生きて生きなさい。
山本に負けたのが悔しい気持ちは分かる。
しかし、そんなことでは、また負けちゃうよ。
さあ、こんどは新約聖書の正典問題だ!
がんばれ!ガンバレ!負け組!!
つぎは、負けるなよ!打倒、山本誠一だ!!
50 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:04
>>47 dantoってしらんなあ・・・・新カント学派ですか?
あ〜あ、って感じ。
いっぺん氏んだ方がこれはよさそうだが、こーゆーのに限って長生きを・・・。
52 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:07
やはり罠??と思わせる罠
53 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:08
てか(冷静に分析してみる)
・自教派で「逐語霊感説は正しい」と教えられた
・でも本人は「逐語霊感説」の内容については、実は知識がない
・なのにいきなり擁護しようとする
・でも知らないものを擁護できないから、人にやらせようとする
・ついたレスはよくわからないので、たぶん反駁に違いない、と決めこむ
(のでブルネルスとの珍問答が発生する
・そのうち投稿者、呆れて誰もいなくなる
・「論破した」(あんた議論してない)、と喜ぶ
てのが基本的に山本糞スレの展開の仕方だからさぁ。
で、聖絶スレあわせると三本目だよね。二度あることは三度あるって
ほんとうだなあ。
54 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:09
で、筑後霊感説(ちくごれいかんせつ?)って何?
55 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:09
新約聖書の正典性問題、いいテーマだけど、
スレ立てた人がちょっとね、、、
これでは、テーマとは全然関係ない方向に話しが進んでいく予感。残念
56 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:10
Arther Danto.まだ生きてるよ。もともとはヘーゲルだけど、
(そのときの奥さんがアーティストだったのもあって)
美学関係の著作がいくつかある。
"Beyond the Brillo Box" (ウォーホルを主題とするある種の「芸術終焉論」)
"The Artworld" (本人は制度論じゃないといってるが……ある種の制度論だな)
とかが、その分野では主著。
57 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:11
逐語霊感説ってなんですか おしえてくんですんまそん
>>53 さすがdendoタン、頭いい。
dendoあとはエホ証時代に身に付いた党派心なんとかしてくれりゃあ、
貴方言うこと無いわ。
カトがオーソがプロが・・・すぐ言うクセなおせよ。
59 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:12
聖書に何いれるかで色々揉めないと思うのね、と素朴につぶやいてみる
テスト。
795 :名無しさん@1周年 :02/05/24 03:21
つか、聖書自体が聖伝のひとつをまとめたものではないのか、とつぶやいてみるテスト
60 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:13
おっと Arthur ね。すんまそ.
>>55 前のスレも山本誠一のコピペ(語れ語れ語れってやつ)
あれぜんぶとっちゃうと、けっこう良スレなんだけどねえ。
自分で荒らして喜んでるんだから世話ないよね。
同名のスレッドたてる技術的制約はないんだから、55さが
立てちゃえば? トピックとしては魅力的だと思うよ。
わたしは聴き役にまわるけんど。
61 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:13
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
あなたがたにはっきり言っておく。
>>1はこの先の人生、すべて不幸になる。
その罪の重さゆえに、すでに神に見放され、
>>1は必ず不幸になる。
62 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:14
アーサー、c、ダントね!聞いたことはあったわ・・
まあ美学のほう俺はさっぱりだが。
63 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:14
64 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:14
>>58 党派心じゃないよ。ただ分類して整理するだけ。
65 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:15
このスレッドの管理デキテネー
66 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:15
67 :
62 ◆MqCfL50I :02/05/24 12:16
ダントって一応ポストモダニストとして受容されてるのかな?
68 :
おねがいすますた:02/05/24 12:16
聖絶について語るスッドレはここですか?
69 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:16
>>62 Danto けっこう面白いんだけど、けっきょく相対主義になっちゃうのが
ちょっともにょるところ。
Grobalism と同じとこあってさ、相対主義自体が絶対的な価値として
あらわれてくるってところにちと自覚がたりんかなと。
まあ極論しちゃうとヘーゲルに限らずド観屋はみなそういうところ
あるよね(自分も含めてさ)。絶対性への希求がそうさせるのであろか。
70 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:17
71 :
62 ◆MqCfL50I :02/05/24 12:19
ド観屋か(w おもろいな。
>>64 あなたはその分析に主観が入りすぎてる。「優れた」キリスト教を求める
ばかりに。
イエスの視点からどうかと考えてみたらよいと思う。
クソスレなので雑談させていただきました。
73 :
62 ◆MqCfL50I :02/05/24 12:21
イエスの視点から・・俺なんか知り合いの視点からすら考えることすら
できんけどなぁ。まあ神様みたいなヒトもたまにいるからなぁ。
74 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/24 12:22
そだねえ、そゆことになってるねえ。
モダニズム的歴史観の終焉、という主張だから、
Danto 自体は posthistoric といういいしてるけど。
Danto 自体はあんまり postmodernism っていういい方されるの
好きじゃないみたいだけどね。postmodernism って結局、それ自体が
価値だけど、Danto 自身は過去の歴史に reference する限りで、
現代の芸術状況は歴史的でありうると考えているふしがあるので。
75 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:24
そりゃポストモダニストって言われて喜ぶやつはおらんわな(w
ポストモダニズム自体が価値っていうのはどういうこと?
そもそもの建築学の範囲でってこと?
76 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:31
名無しさんになる
>>73 いいやん。自分が何かんがえるのかも、わし実はようわからん。
が自己言及性についてここで主題的に論じることはせず、
>>72 いや、「優れた」といえばそうなんだけど、美的適合性のほうが
実はわたし個人としては大事なんだな。とかうそぶいてみる。
……教派が教義という形で保持している logisch な中核を
どのように解釈し展開し、他の事象や教義からでてくる美的/論理的
表象を統合した表象体系と、さらに(またっこで循環するわけだが)
読解戦術を提供するか。
ただこのとき「キリスト教の表象体系」っていった場合、どこまで
含むのかってのは、ひとそれぞれだと思うよ。どのみち作業仮説
なんだから、どんどんお互いにつっこめばいいだけじゃん。
人につっこんでいいかえせない作業仮説ならはやめに放擲する
ほうが、たぶん本人のためでもある。
77 :
62 ◆MqCfL50I :02/05/24 12:34
真・善(?)・美っていうみたいな・・・
でも教義(教理)っていうのでいったらまだ全然研究すすんでなくて
難しそうだなあ・・といってみるテスト
78 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:36
いったん帰るねーおつー
79 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:39
普遍は視覚的なものにも存在し得ると思うんだけどね。
視点の立場を何処に置くかは悩みどころだ。
80 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:41
ポストモダニズムってこの議論だとモダニズム理念の終焉状況を
いうはずの概念だけど、実際にはある種の様式ジャンルとして機能してない?
# まあ、「美術マーケット」つーもんがはさまるからなあ。
で、建築だけじゃなく、現代芸術全般考えてると思うな、あの辺の人たちは。
# つか Brillo Box 自体が立体作品だ。建築じゃなくて。
でも私はどっちかつーと 1970年以降ってあんまり面白いとおもえる
作家いなくて(一部のアースワークの人を除くと)……なんで
ポストモダンを巡る言説というのは、もう最初からどーでもいい、
という面はありますです。
81 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:44
さて、実は昨日入稿してる筈の原稿、土曜日にこそーりのばして
もらた(ぉ なので、おちますね。ごはんもたべおわったし
# サンドイッチ以外のものがたべたい。。
>>79 視覚ね。西洋的なものだと論理性を語るタームがそもそも視覚的な
もの中心にしてるから、かえって可感性を語るのは緻密な作業を要する
んじゃないかな。ベーム(Boeme)なんかどですか。フィードラーの
再評価してる人。
>>79 教会に普遍性を求めるべきか、という議論もあるよ。
まじめにスレッドタイトルみてあけたひと、ごめにょ。
でも「批判を許さない」時点でこのスレッド糞だし、
立てたやつが荒らしにくる状況では機能しないと思うでし。
(どういう奴かは
>>1-50でもみてね)
というわけで、以下sage推奨。雑談すれつことにしません?>All-(
>>1)
>>83 マジメなスレタイをみてあけて、がっかりする人がさらに
増えるだけだと思われ。
85 :
名無しさん@1周年:02/05/24 12:52
このスレッドの管理デキテネー
おまえがいなければ機能するって。
87 :
名無し仔猫@1周年 :02/05/24 20:54
ポスト・モダ二ズムってのは、モダ二ズムより新しい、進歩してるっていう
自負心において、モダ二ズム、あるいは進歩主義の継続なの。屋上屋を架すっ
て風だね〜。仔猫としては、強いて言えばトランス・モダ二ズム。
88 :
名無しさん@1周年:02/05/24 23:37
このスレッドの管理デキテネー
age
このスレッドの趣旨は<<新約聖書の正典性を擁護すること>>です。
よって、この趣旨を受け入れた人のみが、このスレッドに書き込んでください。
さあ、そろそろマトモな議論を展開してください。
スレッドの趣旨にそわないことを書き込むのはやめましょう。
2チャンネルは結構おもしろいなあ
天使を装う悪魔の「基地外スレ」
新約聖書の正典性を擁護することは、そんなに困難なことではないでしょう。
キリスト教徒が「これが正典だ!」と共通に認めれば、それでお終い、めでたし、
めでたし、なんじゃない?
だれか、擁護しなければならんような、特別な反対議論があるんでしょうかね。
あるいは
>>1 は、「正典性を擁護する」ということで、何をしようとしているので
しょうか?
最近、マルコの福音書がパウロ神学に対抗するために書かれたとか
へんな憶測をさもそうだったかのように本にしているやつがいるじゃない。
マルコがマタイの後にあるのが気に入らないらしく、それにもイチャモンを
つけるんだから、正典は擁護されていいんじゃないの?
トリップをかえよっと!
手をかえ、品をかえ、HNをかえ、いそがしいねぇ・・・。
こっちはどうだ!?
これに決めた!
(
>>93 「キリスト教徒」って何ですか?と素人なので素朴な質問。
たとえば「エホバの証人はキリスト教ではありません」というなら(てか私もそう思うが)
……アレイオス派はキリスト教内の異端で、エホ証は異教というのは
定義としては美しくないな、
とか
「エホ証は聖書を改竄しているからキリスト教じゃない」というなら
「マナセの祈り」や「集会の書」の載ってない「聖書」を使う教派も
やっぱりキリスト教じゃないのか(東方超保守派はそこで「異端です!」といふ)?
# だけど西方の異端なので「西方さんで、好きにして」と続く。
といろいろ疑問がむくむくとわいてくる。
とはいえどうせ「言語の意味は使用によって決まりますが、何か?」
と一蹴されるだけだろうから、まあここはシンプルに
100げと!
……とだけいってみるテスト)
101 :
名無しさん@1周年:02/05/25 04:58
のスレッドの管理デキテネー
正典問題を語るべきだと思う
dendo. ◆Dpy6mDYE さんは、山本誠一に負けたからって、T氏の落書きのスレッド
を荒らすのは、間違っている。
T氏は山本氏ではないし、また、たとえそうでも、クリスチャンとして
dendo. ◆Dpy6mDYE はそんなことをすべきでないと思う。
やめた方がいいと思う。
103 :
名無しさん@1周年:02/05/25 09:08
うん?
山本誠一=tinn=T氏の落書き というのは、この板の暗黙の了解では?
dendo.に山本誠一が負けたのは、暗黙ではなく、明白な事実では?(w
参照:逐語霊感説スレ
104 :
名無しさん@1周年:02/05/25 10:19
>最近、マルコの福音書がパウロ神学に対抗するために書かれたとか
>へんな憶測をさもそうだったかのように本にしているやつがいるじゃない。
誰れよ、それって。
逐語屋の妄想?
105 :
山本誠一の「今日はこのくらいにしといたら」こと:02/05/25 11:36
でも
パウロは「イエスを信じる信仰」についてなど語っていないとか
さもそうだったかのように本にしているやつならいるじゃない。
あれを駁論してほしいねえ。:-) ちゃんと本買ってきて、逐語的に。
山本誠一的世界では、あずみ説同様、あれも異端の教説なんでしょ、
違うの?
※もっともそう読んだから canolized でなくなるというわけではなく、
ややスレ違いぎみの話題ではある。
パウロがなんでイエス伝承にほとんど触れていないのか、って、昔からある難問だぜ。
tinnか山本か落書きなら、明快に答えられるかもしれんが。
やっと落ち着いてきましたね。
dendo. ◆Dpy6mDYE さんは、山本誠一に負けたことが相当くやしかったんだろうなあ。
もう悪口ばっかりだもんな。
ようやくおさまったかな。
それにしても、山本さんはここのスレッドを見ているのだろうか?
109 :
名無しさん@1周年:02/05/26 00:37
このスレッドの管理デキテネー
110 :
名無しさん@1周年:02/05/26 00:48
美学の話を再開せねば・・
111 :
名無しさん@1周年:02/05/26 00:50
>>95 マルコとパウロの思想の違いを云々する人たちは、どちらかは正典に含める
べきではない、などという主張をしているのですか?
むしろ、そういうレベルのことはどうでもよいんじゃない。あえて言えば、そもそ
も正典であるかどうか、ということは自分たちの論点とは全く別問題だ、と思って
るように思う。
>>100 のように、まさに宗教としての活動の中で、正典としてどの範囲が認められ
ているか、というようなことなら、正典性の話題になるだろうけど。
>>113 使徒パウロは、生前のイエスの関心をもっていなかった。彼にとっては、イエスが十字架上で
万人の罪の贖いのために死んだこと、そして復活が中心的な関心であった。(第二コリント5:16)
イエスの生前の言行こそが福音の中心であると考える人々がいた。その流れを代表して、
『マルコ』は、パウロ的なイエス理解に批判的な視点から福音書を書いたのである。
後に、パウロ的な理解がキリスト教の主流・正統派となっていったのであるが、そういう立場からは
『マルコ』は困った存在であったに違いない。そこで、そういう立場から、マタイの福音書が
書かれた。これはマルコの福音書を下書きにして書かれたのである。ついで、ルカの福音書も
同じくマルコの福音書を下書きとして書かれた。
正典を結集した教会は、上記の事情から、マルコの福音書の批判的視点を隠すために、『マタイ』『マルコ』『ルカ』
の順にマルコの福音書をサンドイッチにした。
116 :
名無しさん@1周年:02/05/26 06:49
悔い改めるって ギリシア語で teshuwa
ってゆーんだよ。
立ちかえるってゆー意味だーよ。
こっちの方が原語の意味に近いんだって。
もち立ちかえるさきは神様のもとだーよ。
中州さんが言っているのは、田川が言っていること
118 :
名無しさん@1周年:02/05/26 19:58
中州=あずみに決定!
119 :
名無しさん@1周年:02/05/26 20:02
「マルコ」について114-5の内容を主張している人は何人かいるが、
その大本は田川健三。
1は要するに田川批判がしたいんだろうね。
1は新約聖書正典の話をしたいんじゃないの?
だって、趣旨がそうなっているじゃない。
田川なんて、まともなクリスチャンからは全く相手にされていないでしょ。
わざわざ、田川を批判するために、スレッドを立てる理由がないじゃない。
相手が小物すぎるよ。
121 :
名無しさん@1周年:02/05/26 20:23
だとするとまともな新約学者どころか、まともな院生クラスでもクリスチャンいなくなっちまうなあ。(わら
122 :
名無しさん@1周年:02/05/26 20:24
ご免、言い過ぎた書き過ぎた。
まともな学部生でも(以下
123 :
名無しさん@1周年:02/05/26 20:38
ギリシャ語の悔い改めるはメタノイア(μετανοια)。
へブル語ではナーハムです。
ギリシャ語の発音にsやps、ksはありますが、shの発音は
なかったと思います。
またwに匹敵する発音シオンもなかったと思いますので、
悔い改めのギリシャ語はteshuwaというのは、間違いではないで
しょうか。
ちなみに、メタノイアの原義は、方向を変えるとか、立ち返る
心を変えるといった意味で、そこから悔い改めるとなっています。
124 :
名無しさん@1周年:02/05/26 21:50
イレナエウスは4つの福音書を正典として主張したんでしょ
使徒性が4福音書の権威の根拠になったらしい。
114の逝ってることは、田川やそのシンパの高尾のそのまんまだけど、
1みたいなアホな原理主義者で田川をまともに批判できるやつなど
お目にかかったことがないね。大抵120みたいな知能指数50以下の
無内容なおバカ丸だしのツッコミだけ。おれは田川批判側だけど
逐語霊感支持者って頭の構造どうなってんの?
もしかして本当にバカ?
田川が相手にされていないって?、お前より100倍はまともだと思うがね。
田川ってだれ?
実名で書き込むのはあまり好ましくない。
最低でもT川くらいにしてくれ
128 :
名無しさん@1周年:02/05/27 10:11
┌─────────────────────────────┐
│ \_ _/ _/ │
│ \ / / ========================== │
│ ξ ※ 電波発生警報発令 ※ │
│ ∧⊥∧ ========================== │
│ ( `∀´) │
│ ( ) 平成14年 5月 26日 │
│ | | | 午前11時35分発表 │
│ (__)_) 2ch災害対策本部 │
└─────────────────────────────┘
本スレッドにおいて、人体に害をなすレベルの電波の発生が確認され
ました。よって2ch災害対策本部は「2ちゃんねる災害発生緊急時措
置要綱」の第8条「電波発生注意報等の発令基準」に基づき、電波発
生警報を発令します。
2ちゃねらーは、上記要綱に定める対応基準を確認の上、即刻に本
スレッドより退避されますようお願いします。なお、これまでに電波発
生源として特定された投稿は以下のとおりです。
【投稿番号】
1,3,5,7,8,…(省略されました)
【投稿者】 (順不同)
>>1 今後の情報に注意し、パニックにおちいらないよう各自冷静な行動を
おとりください。また、情報の詳細に関しては削除依頼板にてお問い
合わせください。
>>114-115 が言っていることの内容については、私もそんなところだったろう
と思っている。
その話は、パウロがかくかくの思想を持っていて、書簡にそれが反映され、そ
れが流布すると、マルコ的考えの人がそれに批判的な文書を書いて・・・とい
う初期キリスト教思想史のジャンルの話が中心だ。
「新約正典はいかにして成立したか」についての歴史的・批判的研究は、上記
の話題のさらに何世代かあとの歴史の流れの中で、どれを正典と認め、どれを
認めないか、ということについての多様性から、統一への流れの話が中心とな
るだろう。
>>124 が指摘するような場面の話だね。
「正典性」について話題にするというのは、以上のどちらでもなく、新約27文
書を、そしてそれだけを認めるという前提の上で、どうしてこれらが正典なの
か、の論のように思われる。そうなら、もう単なる宗教内のおはなし。勝手に
ありがたがっていてちょうだい、ということになりそう。
それはともかく、「正典」ということで何を考えているのか、うかがいたい
ものだ > 1
「以上のどちらでもない」と言ったのは間違い。
>>124が指摘するような、
使徒性がどうしたこうした、という点は、「正典性の擁護」というテーマに
関わるだろう。
ただし、逐語霊感説ばかりがキリスト教ではない。例えば、あるパウロ書簡
はパウロが書いたものではない、と考えることと、それでもその書簡を正典
に入れて宗教的活動に勤しむこととが両立するような境地もあるわけだ。
そうなると「使徒性」ということの意味も変わってくるなんてこともあるだろ
う。
正典が成立していくプロセスにおいてだって、「内容」で判断しているという
ことがあるだろう。内容で判断するとは、どれが啓示として認められ、ど
れは認められない、という判断をするわけで、その時の判断の物差しは?と
いうのがおもしろい問題かな。教会の伝承というところでえばれるグループは
あんまり問題を感じないかも。
>ただし、逐語霊感説ばかりがキリスト教ではない。例えば、あるパウロ書簡
> はパウロが書いたものではない、と考えることと、それでもその書簡を正典
> に入れて宗教的活動に勤しむこととが両立するような境地もあるわけだ。
いまどきの教派はたいていそうじゃないですか?
典礼では「聖使徒イオアンによる福音経の読み〜♪」っていってても
教会の勉強会に行けば「学者さんはこれこれ。聖伝によればこれこれ」
と複数の情報が提示され、また「〜による」というのはかならずしも
その聖人が自分で書いたということを意味しない、むしろその精神に
よって書いた(ということを教会が伝承において追認した)ともいわれる。
そこで、信者としては複数のかならずしも両立しない情報を
どう受けとめるかが問題になるのが、多く以下の三つにわかれる傾向が
あるように思う(自教派での観察)
・後者を歴史的事実と等しいものと聴き、前者には関心をもたない
・後者はあくまでも伝承としてだけ聞き、前者に依る
・キリスト教成立史上事実としての前者と、その受容/読解戦略としての後者
の成立を批判的に追構成し、そのような読解の成立過程にも「霊感」を見る
二番目の人は、なのであまり聖伝には関心を示さないことが多い。
もたないが、逆にそういう人は聖伝をまさに伝承/物語として聴くので
「本当かどうか」というような争いには逆にかかわらない。
……というわけで、同じ教派のなかでも多様な受容の仕方が共存しえる。
伝承の支えを持たない(えばってないけど、でも聖書も結局は伝承の一部だから)
ところでは、どうか、というのはノーコメント。
では聖伝がいうところの「筆者」とはなにか、ということだけれど
著者不明の二つの文書、いや下手すると五つを、
それなりの伝記的情報がすでに与えられている――その情報が
史実とどれだけ一致しているかどうかは、今は問わない――
人物上に帰属させる、つまりある一定の方向性を共有するもの
とする作業だろう。キリスト教に限らず古代の偽名作家たちは
あるいは、権威性を借りるためだけの偽名というに留まらず、
かえって自分がある既存の思想によって思考していることを宣言
している――と好意的に考えることすら可能かもしれない
(まあ大抵どこかに逸脱なり発展なりがあるわけだが)。
近代でも、コローの署名がしてある絵の4/5だかは事実上弟子の作品だとか
ある時期までの画家は工房制作なので細部はほとんど弟子が仕事しているが
名前が出るのは師匠の名前だけ(まあ不粋な現代人はそれを工房制作と真筆に
分けて考えるわけだが)、なんてこともあって、特定人物名にある思想上の
傾向を縮約させる、というのがそんなに不自然な態度には思えない。むしろ
我々のほうが窮屈で不自由な、いわば個体性を過度に強調する世界に生きて
いるので、それを奇異に感じるだけなのかもしれない。
さて話を戻すと、そのとき教会内において要求される「公認された方向性」、権威性
をもった読解戦術が「使徒性」だとすると、主の兄弟たちにも
使徒の称号を関する伝承は、むしろ自然なことと思われる、とこれは余談。
>>132 うん。こういう話は、逐語霊感説スレでしたほうがいいかもしれないが、
まさにそういう文化の違いに配慮しないとね。
つまり、パウロの名前で書くということは、決して現代思われているような
偽作
ではなく、いわば擬作であったこと、歴史記述にしても、パウロの演説を
記録してあるからといって、書いた本人は、パウロがこの場所で演説すると
したら、どういうことを語るのがもっとも相応しいか、という基準で考え
て書いた可能性が高いのであって、それこそが「本当のこと、真実」であっ
たこと、等々。
そういうことを無視して、現代の真偽、歴史的にまっとうな記述かどうか
の基準を当て嵌めて論じるのは、時代錯誤だということね。
そうしたことを認めた上で、正典として新約聖書を受入れるということは
どういうことか、ということになると、
そこに、いわゆる「信仰と生活」についての基準となることが書かれている
とみなすことになるかな。カノンということはそういうことだ、ということ
になろう。
ただし、こう理解してもなお、信仰と生活についての基準として、何が読み
とれるか、について、多様性があり得るわけだねえ。
例えば、「復活なくしては、希望がない」とパウロが言ったことを、その通り
受け取るか、そのような言い方もまた文化的限定の下で言われたことだから、
そこから私たちがくみ取ることは云々、というように読むか。解釈の問題ね。
・・・こうやって限りなく、解釈の多様性を認めていくと、そもそも正典だ
と認めること自体が、あまり意味のないことになっていって、読み、解釈す
る私の判断によって、なんとでも読めるなら、それは聖書が基準なのではなく、
読者が基準だということになるでしょうが、となるね。
実際、私は読者が基準だ、と思っているけどね。だから、正典という見方は
私にはないのよ。
しかし、こういうのはいくらでも暴走できるわけだから、それを避けて安定した
線が欲しいとなると、ある意味で分かりやすーいのが、逐語霊感的枠をはめて、
あるいはファンダメンタルな箇条を挙げて、これは解釈によって相対化しない
という線を引くやり方ね。
「信仰と生活についての基準」というような限定も、どこからが「信仰と生活」
なんだというような話になるので、そういう限定もとっぱらおう、となるね
「読者が基準だ」というのは、誤解を招くかな。
むしろ、解釈の基準は、著者が著述に際して意図していたことが、テキストの
意味だ、というところに置かれる、と言っておこう。ここでは読者の恣意性は
解釈の作業の中で排除することが目指される。
解釈した上で、自分はそれを認めるか、否認するか、というところで、読者が
基準になる、ということが言いたかった。
実は、パウロはかく考えていた――で、私はそれを真っ当だと思うかどうか、
パウロに倣おうとするかどうか。という二段階ね。
もっとも、上の最初の段階で、解釈者の意図が入ってしまうのは否めない。
ことにイエスは何を主張したかというようなことになると、解釈者の自己投映
がほとんどの場合、認められるわけだし。
>>134 >「信仰と生活についての基準」というような限定も、どこからが「信仰と生活」
> なんだというような話になるので、そういう限定もとっぱらおう、となるね
信仰が主観的で実践的な行為(というのは冗語なのだが、行為をここではまだ
定義していないので残しておく)である限りにおいて、客観的な・つまり実在的な
ものとして措定されている限りでの外部世界への働きかけとしての行為(これは
存在者一般に対して――つまり経験的であるとないとは問わずなされうる)と、
主観的行為としての信仰が排他的である場面を想定する必要を筆者は認めない。
てのは?:)
神への関係規定としての信仰が他の存在者への関係の基礎となるのであれば、
# これをあえて区別するなら、後者は信義とでも呼びましょうか。
# もちろんシンプルにこれを「信」と呼んでもいいが。
必然的に、個体においては自らを含む存在者一般への働きかけは信仰を
前提とするだろう。そのような働きかけの総体とその場所が
>>133-134 でいわれる「生活」と同じものを指しているならば、
信仰と生活とは個体における実践的なものの領域を端的に指示する、
ということになるだろう。
>>135 > むしろ、解釈の基準は、著者が著述に際して意図していたことが、テキストの
> 意味だ、というところに置かれる、と言っておこう。
つまんない読み方だね、といい放つ。
というか素朴な読み方というべきか。
受容理論をすでに前世紀のものとしてもつ現代の状況で、あえてそれをいうの
は、なかなかに勇気のいることで――とくに福音書のような物語にそのような
読み方をほどこすのにどれだけ意味があるのかどうかは疑問だ。
いいかえれば、読者には誤読する権利もある。というよりは、あらゆる読み方は
解釈者抜きにはありえず、つねに誤読であることを含んでいる。もちろん生産的でない誤読と
いうのは、たんにDQNなだけなのでおいといて、テキストの中だけでなく、
あるいは先行する他のテキスト群との照応関係で矛盾なく指摘できることを
読みこむのは、著者の意図を越えている場合でも、必ずしも恣意的なものと
して排除する必要はないのではないだろうか。
もちろん準備作業としてそのような「忠実な読み」が必要であることを認める
ことに私はやぶさかではない。また思想史のエピソードとして特定筆者を
取りあげるなら、そのような読み方を採用するほうがむしろ自然であることには
同意する。さらに、歴史的にみれば読解とは、得てしてそのようなものとして
想定されてきた。「正典」もまたしかり。「固定した、誰が汲んでも同じよう
に読める書物」として想定され、それゆえに超時代的な権威として利用されて
きた――少なくとも、正典を正典として保持するというのはそのようなテキスト
の固定化抜きには意義をもたないだろう。
しかし、次のような事態を想定してみよう。たとえば、こんな風な。
――ある寓話のなかの驢馬の名を冠したある匿名の筆者が、
三一性の、というよりは第二位格がそのようなものとしてあることを論じる、
そのことと福音書に、というよりはすでに旧約にすでにある
「人の子は驢馬に乗って来る」という記述が重なるとき読者がもつイメージが、
そもそも元来その筆者に想定されていたか、というとたぶんそうではない、
ゆえにそれは著者の意図を基準とすれば、誤読である。
――しかしどちらがより面白いかといえば、前者だ。少なくとも私には。
そしてまた、著者が著述に際して意図していたことが、精確にテキストに
反映されうるという可能性もまた完全には保証されない。テキストの意味
連関を正確に追うことで、かえって著者が意図しなかった意味の連関が
現れる、ということだってある。そのときテキストの意味は著者の意図と
独立に――むしろ読者によって構成されることであらわになる。
聖伝は、それ自体がテキストであると同時に、自らの読み方に
枠をはめる基準として機能してきた。それだけではなくて、
超時代的な権威として取り置かれた聖書の上の規範を、
別の時代へと当て嵌めるときに必要な媒介項なのではないか、
つまりまさに「信仰と生活」の有機的な連関を与える美的/
信仰的な枠組ではないかと私は考える。複数の思想家になる叢書として
聖書を捉えるなら
>>135 の態度はしごくまっとうで、またそのような
立場では「正典」という問題設定自体が意味を失うというのも理解できる。
しかし私は、むしろ、それを「一群」の書物として編纂し保持してきた
解釈体の多様なありように注目したい。あえていえば、筆者が「何を」
考えてきたか、よりそれがどのように読まれてきたかのほうに私は注目
する。
むろん、この読み方の総体のうちに、というよりはその中核には
>>135 がいう(我々読者が解釈によって構成する)「筆者の意図」があるのだが
それはカントにとっての物自体と同じく、もはや我々には触れようの
ないものだろう。もちろん
>>135はそのことを自覚して書かれているの
だが(
>>135最終段落をみよ)、私はあえて、「本来の筆者が主張する読み方」
がたとえあったとしても、それは他の読み方と比べてなんら特権性を
有さない、と主張する。
そして「正典性」とは、口頭伝承をも含む伝承体のうち、ある解釈者集合体が
なにを解釈の中心におくかどうかの選択である、と私は考える。この意味で、
新約聖書の正典性というのは、特定教団のありようを抜きにしては考えられない
だろう。
もっとも、新約聖書の構成におけるその種の異義申し立てを、私はマルキオン派と、
グノーシス文書と、ヨハネの黙示録を巡る議論以外には知らないので、
>>1 が考える「正典性」および「正典性問題」とはなにかということにブルネルス
同様、なにを考えているかうかがいたい、と思う。
それから、新約の正典性と銘打ちつつ(新約限定)と付すのは、いったいどの
ような意味があるのか、私にはよくわからない。この点についても、ぜひ
うかがいたいところである。
141 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/29 02:06
>例えば、「復活なくしては、希望がない」とパウロが言ったことを、その通り
> 受け取るか
もちろんその通りにきまってます(憮然)。
ニカイア=コンタンティノポリスにもあるでしょ。
「聖書に通いて第三日に蘇り、天に昇り、父の右に座し」
……って、クリスチャンではないのでしたっけ :-)
ハリストス墓より復活し
死を以つて死を滅ぼし
墓にあるものに命を給へり
ハリストス復活!実に復活!
……早課age。
>>141 復活についての主張をどう受けとめるか、という発言を、私は私が信じるか
どうかの話としてではなく、キリスト教徒がどう受けとめるかの可能性の
問題として話したのです。
ですから、現代のキリスト教徒の中には、新約正典を正典として認めつつも、
その中で、当時の時代的・文化的制約の中で語られた部分と、現代にも通じる
部分とを区別することを認める人もいる、ということを言ったつもりです。
そうした傾向にあっては、ニカイア=コンスタ.にご指摘のようなことが書か
れてあっても、それもまた当時の時代的・文化的に相対化される信仰の表現
だったのだというでしょう。
だから、そこは守るdendo.さんは、そうした立場からは逐語霊感主張者と、
同列に見られるかもしれません。
私は、上に言及したような立場について、「そこまで相対化するんだったら、
いっそ正典だ、啓示だというのをやめたほうが、いいんじゃない?」と言い
ます。
歴史的復活は?だが、古の信徒が「復活を信じる」と言った時に思っていた
信仰の普遍的要素は○だ、といった方針は、どうもね、というとこだね。
>>136-140 で言われていること(難解な表現なので、すべてを理解したわけ
ではないですが)の骨子は、私は同意します。
テキストが書かれたものとして提出された上では、著者の意図を離れ、あるい
はそれを超えたものを、読者がそこに読みとるということがある、
ということの典型が、
ある著作がある宗教の正典として採用された場合に起こる、わけでしょう。
宗教活動の中で、読まれる時、読む者の共同体としての、主体的読み方こそが
正典に相応しいのでしょう。
だが、私自身は、そういう既成宗教の読み方という枠を壊した時に、何が見え
てくるか、を追求したいのです。著者の意図を、というスローガンは、そうい
う文脈においては、必ずしも陳腐ではなく、むしろ既成のものを破壊するため
の方法だと考えます。
主イエスが「悔い改めよ」と言われた時、信じる者の全生涯が悔い改めであ
ることを意図されたのだ
うろ覚えですが、ルターの96箇条の提題のトップです。「悔い改めよ」と訳し
ましたが、当時一般には「悔悛の秘蹟をなせ」とでも訳せるような意味で受け
とめられていました。教会の読みです。それをいわば脱構築しようとしたとき
にルターがとったのも、イエスが語った時に意図していたことに向かう、とい
うやり方だったのでした。
↑ 95箇条の誤り その他、何かいろいろ間違ったことを言っているような
気がしないわけでもない。まあ、いいか。
新約聖書の正典性について、「使徒性」という基準がでてきたところまではいいが、
あとは見るに堪えないほどスレッドの趣旨とは関係ない、ゆえに意味のない論議が続いていますね。
いつまで続くんだろう。
146 :
名無しさん@1周年:02/05/30 02:14
マンセー T氏=山本誠一=tinn マンセー
せっかく御返答いただいたので、少しばかり私見を申し述べておく。
>>143 :
>>136-140 で言われていること(難解な表現なので、すべてを理解したわけ
: ではないですが)の骨子は、私は同意します。
ありがとうございます。
解釈者集団としての特定教団が特定の文書(群)を受容する際の一様態が「正典」である。
正典性というのが何を指すのかはともかくとして、少なくとも
・文書群の構成が安定する(むしろ固定するというべきか)こと
・他の伝承ないし当該文書群の理解において、この文書が絶えず参照点として
用いられるべきであるという意識が認められる
・その際、読みはかならずしも個々の文書にのみ則するものではなく、「正典」
として認容された文書群が相互矛盾しないという前提にたって行われる
――このあたりでは同意が取れていると思ってよろしいでしょうか?
雑駁にいえば、正典とは特定の宗教的文脈におけるテキスト受容に際し、
その解釈学的循環を支えるひとつの極として設定される文書群をいう――
とでもなろうか。
ところで、「著者の意図を復元する」ということに特権的な地位を与えない
ということは、逆にいえばそのような読みの可能性を排除する必要を持たない、
ということでもある。文書群が全体として整合性を持つという主張は、ある
文書が単独で整合性を持つということと排他的ではないからだ。
この限りで、テキストがつねに読者によって生成されることが忘れられる
ような、つまり「文書」といいながら特定の読み方が権威として用いられる
ときには、テキストを生産的に読む態度を読者=信徒集団が取り戻す仕方として
「著者の意図」を強調する
>>143の戦略はたしかに有効であろう。ルターの
例がそうであったことに、同意するに筆者はやぶさかではない。
しかし同時に、そのような読み方は、当該文書の正典性が保持されている限りで、
他の読み方と「同等の」資格で、教団内のテキスト解釈に回収されうる、という
可能性を筆者は指摘しておく。教派によっては、テキストの特定箇所に
複数の読みを許容する教派もあり、そのようなところでは、「著者の意図」
もまた、ありうべき読み方として、というよりは既存の解釈と両立するもの
として受容される可能性があるだろう。もっとも、複数ある解釈のうち、
どれがより妥当であるかどうかの判断には、それこそ時代や文化状況に
応じて、揺れや変化がありうるだろうけど。
なんだかまとまりのない文章になりました。御容赦。
NK抑えてるのは御指摘の通りですけど(ですから処女降誕も復活も信じてますが、何か?)
それだとそこだけみたいなんで、
信経にないとこ(「始めに神天と地を作り給へり……。神、光あれと言い給ひければ光ありき」とか
「始に言ありき」とかももちろん受けいれています、って後者はNKのサブセットか。ま、いっか。
実際に迫害を受けたであろうリベラル?なマルコ教団(但、彼らは教義?を
或る時期から変更したかにも読める)、山の上から語るイエスを描く律法主
義的マタイ教団、イエスを理念化してしまったルカ教団のそれぞれの福音書、
そしてそれらに批判的態度を示すかの様なパウロの文書が一つの「書」とさ
れたのでしょうか。傍流教団連合の書かとも思う。
151 :
名無しさん@1周年:02/05/30 06:10
弟子批判をしてる福音書が「使徒的」っていうのもねえ。。。
パウロが「使徒的」っていうのもねえ。。。
ましてやその弟子が。。。
どうやら、聖書の正典性について、まともに語れるものはないようだな
困ったものだ・・・
聖書の正典性について、語れ、語れ、語れ
語れないなら、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
↑「まともに語る」とはどういうことか、模範を示してください。
あなたの今の態度は、人にやれ、やれと言っておきながら、自分では
針一本も動かさない、とイエスに言われた人たちと同じですよ。
>>147-148 は、正典性を保持しながら、正典の新しい読み方の可能性を認める
集団の態度として、まあ自然だと思います。
ただ、
>>150 が指摘するような歴史を知ってしまうとねえ、それでもこれらは
正典ですよ、と「統一性」あるものとして認め続けられるか、ということは
ありますね。
あ、これは正典性を棚上げした者からみてのことで、そちらから見れば、べつ
にどうということはなく、「それがなにか?」とでもおっしゃるでしょうがね。
>>150 ご指摘ごもっともだけど、実はこういう正典の結集の仕方は、うまいやり方
だったとも言えるのでは?
つまり、一枚岩的文書ばかりだと、深みがなくなるわけね。これはどういう意味な
のだろうと疑問を喚起することもない。
他方、実は相対立していた諸見解を集めて一つにして、正典ですよ、というと、
統一的に解するには、どう理解したらよいか、と考えさせ、さまざまな解釈が
でてき、また、どこかで行き詰まった時に、正典を読み直して、新しい道を考え
だす、というようなことが可能になるわけで。
集めた時代がそもそも、諸々の傾向が前代から流れてきているのを寄せ集め、
辻褄をあわせつつ、一つの線を出そうとしていたのだろうから、相反するはず
のものを一つにして、両方正しい、としてしまうことが、思想傾向に深み(と
見えるもの)を与えたのではないだろうか。
156 :
名無しさん@1周年:02/05/30 16:38
フォローアップというか、レスというか、とにかく反応してしまうと
「可読性を損なう投稿」として削除規定に当てはまるものでも、削除
申請が通らなくなる場合があります。ブルネルス氏以下、各位御留意
されたく。
>ただ、
>>150 が指摘するような歴史を知ってしまうとねえ、それでもこれらは
> 正典ですよ、と「統一性」あるものとして認め続けられるか、ということは
> ありますね。
正典というのは「これこれの文書群を統一した読み方として読む!」という
読者集団の宣言だと考えます。ですのでわたしの立場からは、御期待どおり
「それが何か?」
とご返答申しあげておきましょう。
もっとも、聖書を正典とする教派群が、そのような立場で聖書が正典である
ことをみな主張しているというわけではないでしょうね。為念。
ああ、日本語が変だ。何も考えないで書いていることがこういうところで
露呈する。
第三段落第一行以下のように訂正。
正典というのは「これこれの文書群をある一貫性をもった読みをほどこすことが可能なテキストの総体として読む!」という
158 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/30 16:48
つか教会の出版局から出てる偉い坊さんの解説本読んでても
聖書のここと、かしこで、こう矛盾している。これは後者が「……」
という見地にたって、ほげほげを強く主張する立場で書かれている
ことを反映しているのだろう。て言いきっちゃってて、
# この方が教団内でリベラルな立場にいる可能性はあるが。
でもってそういう多様な信仰のあり方をもってはいても
「聖にして一なる公の使徒の教会」がありうべきうことを信じる、
つー教派ですから、うち(ってまだ未受洗だけんど)。
聖伝もいろいろ異動があるけど、あえて整理してないで両方
聖人伝にのせてるしね。むしろ「伝承はいろいろありえる、が
それはすべて一つの真理、神を証するものだ」という確信が
根底にあるのでしょう。……どだい、キリスト教における神は、
人間が一言でいいあてられるようなものじゃないんじゃござんせん?
>>156 「それが何か?」
私 「いえいえ、そういうお立場であることを、私は解説したつもりですので、
何もございません。どうぞ安らかに信じていてくださいませ」
>>158 「どだい、キリスト教における神は、
人間が一言でいいあてられるようなものじゃないんじゃござんせん?」
私 「はいはい、
>>155 に書きましたように、そのようなおっしゃりかたができ
るのも、相反する主張を集めてまとめて、正典にしたからでしょう。
相反する主張を考量して、その深ーい含蓄(とみえる)中から、そのときそ
のときの教会に都合のいい解決をなさってくださいやし」
161 :
2ch心と宗教板の歩き方:02/05/31 02:53
本郷くん「博士、
>>159-160はどういうことでしょう」
死神博士「うん、つまり正典性というのは一度正典が確立してしまえば、
『だって正典なんだもん』で片付けられてしまう問題だということだね」
本郷くん「よくわかりませんが……」
死神博士「つまり正典だから、というので矛盾は脳内あぼーんしてしま
えるとことだ。逆にいうと、正典としてある文書群をくくるまでは、
この便利な物差しが使えないから、いろいろ大変だってことだ」
本郷くん「じゃあ、教会はどうやって正典を確立させたんです?」
死神博士「大変よい質問だね。ではそろそろ
>>1に正典性とはなにか、語って
もらうとしよう」
来週のお題はこの三本でーす。
・
>>1による正典性の定義
・
>>1による「正典性問題」の解説
・
>>1による「まともに語る」とはどのような姿勢か
来週もまた読んでね。んがぐぐ。
>>161 >本郷くん「じゃあ、教会はどうやって正典を確立させたんです?」
ようやくスタートラインについたようだね。
いままで、あまりにもクダラナイ書き込みしかなかったので、暇だった。
さあ、語れ語れ
語れないなら、去れ去れ
語れ語れ
語れ語れ
語れないなら、去れ去れ
こう語る T氏の落書き氏は、まず自分自身にこの指令を適用したまえ。
……と、T氏の落書きにマジレスするブルネルス。
166 :
名無しさん@1周年:02/06/01 01:51
>155
>実は相対立していた諸見解を集めて一つにして、正典ですよというと、
>統一的に解するには、どう理解したらよいか、と考えさせ、
>さまざまな解釈がでてき、また、どこかで行き詰まった時に、
>正典を読み直して、新しい道を考えだす、というようなことが可能になる
カトリックなどを見ていると「正典」と「教理」の間に一定の距離があって
集団をまとめる整合性あるルールは「教理」が担って、
「正典」は教理の源泉の一つとしてやや奥まったところに置かれた感がある。
古代の教会にも同じような感覚があって、教理を定める際は整合性を追求し
論争を繰り広げたが、そのソースである聖書に対しては教理に対するような
整合性を求めず、大筋ではテキストの保存を優先した。
プロテスタントの「聖書主義」はこの正典と教理のダブルスタンダードを
なくして一つにしてしまおうという動きであったといえる。
しかし多様な立場で書かれた様々な見解が共存する正典(聖書)と
体系的整合的なテーゼの集まりである「教理」との間には
当然ながら距離があるので、「聖書主義」には無理が生じる。
聖書の一字一句を大切にするといいながら、
実際には正統とされる教理を読み取ることにのみ力が注がれるのだ。
この状態を解消するには、正典と教理のダブルスタンダードを認めるか、
あるいは「整合的な教理を見いだそう」という発想を捨てるかしなくてはならない。
現在のリベラルがあまり教理に関心を示さないのには、
後者の考え方に近いものがあると思う。
もっとも、「教理」に集約することなく正典の統一性を見出す
有力な方法が見出されたら、状況は変わっていくかもしれない。
167 :
名無しさん@1周年:02/06/01 01:59
T氏=山本誠一=tinn マンセー!!
168 :
名無しさん@1周年:02/06/01 02:19
資料的に読むことと、霊感的に読むことの2面性は同居出来得るのであるよ。
バラバラの資料を集め正典と定めたかった人々の意思ってなんだろう?
統一見解を出そうとするほどのこともしたくなかったのかな?
最近、信仰の源泉ってなんだろな?と考えちゃうんだよねー。
>>168 人々の意思っつってる時点では、まだ霊感的には読めないんでわ。
あなたちには、あきれました。
本当に、語れないのですね
調べれば少しはまともなことが言えると思うのだが・・
それすらも、ダメか・・・
なんだか・・・
スレッドの趣旨のことについて、何も語れないのだろうなあ
>>171 つうかお前が掲示板というものを分かっていない。
去れ 去れ 去れ
173 :
名無し仔猫@1周年:02/06/01 04:22
174 :
150台へのレス:02/06/01 05:33
なんか雰囲気悪くなったので口直しに。
まあ多様性があるのはいいことだけどね。
旧約と新約読み比べると、やっぱり新約は「薄い」ですよ。
まあ物理的な厚みに欠けるっていうのもそうだけど、成立年代の幅が違う。
逐語霊感説なんて無粋なこといってると解釈の幅まで狭められそうだ。
福音に触れるっていうのと書物の記述を信じるっていうのが同列視されるのが今ひとつわかりませんのでどなたかフォロー希望。
175 :
名無しさん@1周年:02/06/01 07:54
てかさ、最低バーと田川ぐらいは読んでからだよな、この議論は。
田川健三すら知らない山本氏などは明らかに参加資格に欠ける。
バーの方は読んでるようだが、それもマグレで手にしたらしいし。
176 :
名無しさん@1周年:02/06/01 11:16
バー氏は知らないので書誌データきぼんぬ。読む暇が作れるかどうかはまた別だが。
まともに語れるようになってから、来なさい
調べたり、誰かに聞いたり、もっとなにかできるだろうに
178 :
名無しさん@1周年:02/06/01 12:36
ばー、てのはこの問題に対して最適の専門家とは思えない節もあるが、
入手性を優先しているんだろうな。たぶんこの本のこと。
ジェームズ・バー「聖なる書物」教文館 \2500
これは教文館の《聖書の研究シリーズ》(通称「ビニール本」)の巻37。
福音派諸氏は無邪気なままでいたかったら読まんほうがいい。
こいつは伝説の酷評本「ファンダメンタリズム」の著者だ。
179 :
名無しさん@1周年:02/06/01 14:48
>>174 >旧約と新約読み比べると、やっぱり新約は「薄い」ですよ。
それは新約のほとんどが、そもそも旧約と併せて読まれることを想定した
文書であることにも起因するのではないだろうか。
とはいえ、そのことは新約に含まれる文書のうちに、他の文書との照応関係を
抜きにしても、それ自体が堅牢な構築性を持ち、よって独立した思想書として
論理的な批判に耐えるものがあることを否定することにはならない。
……およそ独自性をもった思想とは、そもそもが、通時的また共時的な
同伴者として他の思想家をもちつつ、しかし個体であることの孤独をも
引き受けるとき、はじめて可能になるのではなかろうか。……その限りで
「聖書に固有な特権的解釈方法などない」というシュライヤーマハーの
主張に、私もまた賛同する。
その上で、「聖伝とその抽出物としての聖書」という仕方で読解の方向を
定めている、というところかな。その基礎作業として個々の文書を当たる
作業はもちろん必要だけれど、それよりは「矛盾」を収束させることで、
何か新しいものが出てくる可能性に賭ける(つか、すでに人がやっている
その作業結果を追認する)ってこった。ここが思想史研究の枠組を崩さない
人たちとの相違かな。
>福音に触れるっていうのと書物の記述を信じるっていうのが同列視されるのが今ひとつわかりませんのでどなたかフォロー希望。
具体的に
>>151-160のどこで出てきましたか?
よくわからなかったので、該当する箇所の提示きぼんぬ。
とはいえ「福音」もまたさしあたっては、書かれたものからしか読みとれ
ないのではないですか?
カトリックや正教会のように、口頭伝承をも重視する教派では違うかもしれないけど。
仮説1)正典は礼拝での実践に伴って受け継がれた書物群である。
(以下コピペ)
ユスティノスの『第一護教論』には、「使徒の記録」と「預言者の書物」、
つまり今日の旧・新約聖書の朗読が礼拝のなかで行われたと言われます。
礼拝における聖書朗読の実践も多様でした。四世紀のアンティオキアを中心
とするシリヤの教会では、会堂での律法の書と預言書の朗読が残され、それに
続いて使徒書と福音書の朗読が行われたり、アルメニア、古代ビザンティン、
古代ガリア(フランス地方)、モザラブ(スペイン地方)、古代ミラノ、
そしてエジプトの礼拝では一般に旧約聖書が読み続けられました。
一方コプト教会やエチオピア教会では、新約聖書のみの四朗読(パウロの手紙、
牧会書簡、使徒言行録、福音書)もあったそうです。
七世紀以降はビザンティンでもローマでも、聖餐式の聖書朗読は使徒書と
福音書だけになっていきます。
仮説2)正典とは教会会議(神学会議)において信仰の正当性を認められた書物群である。
(以下コピペ)
新約文書では,まず〈パウロの手紙〉や〈福音書〉が2世紀前半には旧約聖書
に近い権威をもつようになり,次いで正典化された。
〈パウロの手紙〉以外の書簡もしだいに公認されるようになったが,問題と
された文書もいくつか存した。西方教会ではことに《ヘブル人への手紙》が,
東方教会では《ヨハネの黙示録》が認められず,西方教会でこの問題に一応の決着がついたのは,4世紀末になってからであった(ヒッポ会議,393。カルタゴ
会議,397)。東方教会が新約文書の全体を公認するまでには,その後も数世紀
を要した(コンスタンティノープル会議,692)。
新約文書の正典化を促進した重要な動機として挙げられるのは,グノーシス
主義者やマルキオンがイエスとパウロの独特な解釈を行い,とくにマルキオン
が旧約聖書を排斥して簡略福音書を作成し,独自の排他的な正典を制定した
ことであった。
仮説3)なぜ今、正典論議なのか…?
(休憩とともにしばらく保留)
仮説3)ではなぜ今、正典論議なのか?
(以下は持論)
新約聖書の文書群の扱いにおいて重要な位置を占めるのはキリストの存在である。
ナザレ人のイエスはメシアであるというモチーフを巡って様々な証が立てられ伝承される。
そのためにキリスト伝承は様々な教団による多様な告白でキリストが描かれる。
教会の営みはそのような告白と交わりの共同祭儀にあると言ってよいと思う。
一般に正統の座はイエスから弟子たちへ、という伝承の系図によって成り立っている。
その継承の方法を巡って教派が分裂をしていると言っても過言ではない。
しかし一方では、継承の歴史的な厳密性というものは意外にあいまいな部分を残している。
それは各地方の教会が集結した会議において信仰の正当性を議論したのと同じ性格で
伝道の広がりに一定のあいまいさを許容する方法が採られてきたからだと思う。
もし新約聖書に正典の座があるとすれば、私はそのあいまいさの基準にあるように思える。
…しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。…
というパウロの証と符合して、伝道の継承的な営みが語られており、
…ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、
御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。…
というキリストの主体的な救済と礼拝行為とが結びつけられる。
つまり伝道と礼拝という実態を抜きにして、聖書の正統的な座は確認されないし
その確認の営みは教会の歴史のなかで長く続けられてきたのである。
もしこれが人の手を借りず自動的に行われたと解釈されるのであれば、
それは新しいキリスト論であり、受肉も十字架も復活さえも否定される。
補足
1. 東方での聖体礼儀で朗読される箇所が使徒経(行伝・書簡)と福音経なのは
その通りですが、各時祷では詩篇が朗詠されます。聖体礼儀だけを行うことは
むしろまれであることを申し添えておきます。また聖体礼儀だけだとしても、
ポロキメンなど典礼文各所に詩篇など旧約からの引用や参照を見ることができます。
2. 各大祭では旧約の各部から誦経(早課と晩課かな)が行われます。
また大斎節の主日以外の早課および晩課では通常の倍の詩篇朗読に加えて
創世記・箴言・イザヤ書の輪読が行われます。
なお枝の祭以降の聖大月曜日から聖大木曜日は出エジプト紀・エゼキエル書から
朗読が行われます(こちらは通読ではない)。
※もちろん聖体礼儀のある日は加えて使徒経・福音経が誦経される。
本来聖大月曜から聖大木曜で四福音経輪読が行われるのだが、日本では
諸般の事情によりマルコ通読のみ(のところが多いと思われる)。
某神父曰く「やりたいんですけどねー。司祭が二人いないとつらいんですよ。
みなさんも大変でしょ?それに全部わたしひとりでやったら死んじゃいます」
# ちなみにマルコだけでも受難週の祈祷、聖体礼儀なしで3時間。
黙示録はいまでも微妙な扱いですね。公祈祷では用いませんし、「一度は
読んだほうがいい、いや読むべきなんだけど、自分で解釈しようとは思うな」と
司祭から釘をさされまいたのこと。
183 :
名無しさん@1周年:02/06/02 18:04
なるほど、みなさんは新約聖書の正典性問題については、あまり知らないのですね
わかりました!
なるほど、あなたさまは新約聖書の正典性について以上で書き込まれたことを、あまり
理解できなかったのですね。
わかりました!
本スレでご発言のみなさま、どうもスレ創始者たるT氏の落書きさまにおかれましては、
みなさまのおっしゃることが、理解できなくてとまどっておられるようです。
そこで、以下ではもう少し分かり易ーい表現で、噛んで含めるようにお書きいただけない
ものか、とご相談申し上げる次第です。
もっともかく申す私も、書く内容を変えたいとも思いませんので、皆さまのご賛同が得ら
れるとも思いませんが、一応申し上げるだけは、申し上げます。
>>186 本郷くん「博士、大変です!」
死神博士「どうしたんだ、本郷くん」
本郷くん「
>>186みたいなクレームがついてます」
死神博士「おかしい。我々はとてもわかりやすく解説したはずなんだが」
本郷くん「そうですよねえ、博士。あっ、
>>162で観察対象が反応しています」
死神博士「君はその反応をどう解釈するかね」
本郷くん「厨房氏すべし、じゃなくて、我々がいっている内容に関しては、
少なくとも
>>1は理解しているようで……」
死神博士「そう。つまり
>>1は
>>161で予告されたお題三つが何をいっているか理解した、
あるいは理解したようにふるまっているというわけだね」
本郷くん「……そのふたつはどう違うんですか」
死神博士「本郷くん、君もたいがい不粋だね」
本郷くん「すんません」
というわけで
>>162再掲です!(一部訂正)
今週のお題はこの三本でーす。
・
>>1による正典性の定義
・
>>1による「正典性問題」の解説
・
>>1による「まともに語る」とはどのような姿勢か
んがぐぐ。
188 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/03 01:55
>そこで、以下ではもう少し分かり易ーい表現で、噛んで含めるようにお書きいただけない
> ものか、とご相談申し上げる次第です。
却下。
189 :
名無しさん@1周年:02/06/03 02:32
あれれ?
ブルネルスとdendo.が意見合ってない。
>>186 ブルネルスさん、正典性については、そんなレベルの話をいつまでもしていては、
課題の山積みとなってしまいます。
論点が定まっていないのではないかと疑いましたが、どうやらそうでもないらしい。
論点に掠るけど、また離れる。論点に掠るけど、また離れる。
結局、みなさんはこの問題について、あまりご存じないのだという結論を下しました。
ただ・・・知らないなら調べればいいだけの問題です。
191 :
名無しさん@1周年:02/06/03 11:24
>そこで、以下ではもう少し分かり易ーい表現で、噛んで含めるようにお書きいただけない
> ものか、とご相談申し上げる次第です。
T氏の落書きさんになんでそこまで気を使う必要があるのですか。
大学の講義に紛れ込んだ幼稚園児に分かり易く説明する必要などないのです。
>>187 まず、正典とは
次に、正典成立の起源
そして、正典の基準および範囲
などなど
ムラトリ正典目録についての言及もない
教父たちの引用例もない
ディダケーやバルナバの手紙などの資料における引用例もない
こんなことで、正典性を語っていると言えるのか!
いい加減にしなさい。
もっと、わたしに言われる前に、まともな理論展開のあらすじをシュミレージョンしなさい。
このスレッドで検証すべき問題がたくさんあります。
彼らでは役不足かなあ・・・
おそらく、自分の言いたいことを論旨よりも優先させてしまうことが
彼らをして意味のないスレッド化している原因ではないかと考えている。
ここに参加されているみなさまへ
勉強してから来なさい
さあ、語れ語れ語れ
語れないなら去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
195 :
名無しさん@1周年:02/06/03 11:57
もしかして、どこかに出すレポートをここででっちあげるつもりなのか……?
>>192 >彼らでは役不足かなあ・・・
ここは激しく同意。T氏の落書きの個人教師にはみなさんもったいなさすぎ。
196 :
名無しさん@1周年:02/06/03 12:03
偉そうに、ムラトリとか挙げているのに、マルキオンやグノーシス主義
を挙げてないつうのでは、正典問題がわかってないと言われても、仕方ない。
勉強してから来なされ
>>192 は、掲示板をどういう媒体と心得ているのでしょうか。192が言及して
いるようなことは、適当な書籍を読めばいいというだけの話でしょう。
こういうテーマのリストを挙げること自体が、192の思想構造を暴露していると、
意地悪な人なら言うかもしれません。つまり主体的思考ではなく、既成のお仕
着せの「これが正しい答えよ」というものを復誦することが、「語る」ことだ
と思っているわけです。これはエホ証などの教育法と大して違わない、注入教育
を受けた結果とも考えられます。
以上の点について私は決して断言するものではありませんが、これまでの192の
発言からは、こういう可能性が高いと思う次第です。
私の誤解であり、かつ誤解を解きたいと思われるなら、内容に立ち入って、ご自
分の意見を書き込んでみてくださいね > 192 T氏の落書きさま
とはいうものの、
190、192など、これまでよりも少しは踏み込んだ発言に接することができて、
私としては、T氏の落書き氏が顔をちょっとは見せたような、と歓迎するもの
です。さらに踏み込まれることを期待します。
>>189 両者の意見が合ってないことは、正典として見るかどうかというそもそも
このスレの根本的問題のところで合ってないので、驚くにあたらないのです。
しかし、189が言及している点では、両者の意見は一致しています。
脅し役とすかし役、あるいはボケとツッコミという役割分担とごらんください。
200 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/03 13:19
>>198 ブルネ、ほんとに、優しいんだね……(涙)
>>199 >このスレの根本的問題のところで合ってないので、驚くにあたらないのです。
そんな、はっきりいわなくっても(ぽっ)
じゃなくて……わかってないだろうね。
>>1は。
でもって、そうはっきり書いても、やはり分からないだろうほうに99カノッサ。
でもその手の「他の誰にも分かっているが
>>1だけ分からないとこ」を
いちいち解説してったら、レスいくつあっても足りないのでは?
201 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/03 18:19
今気がついたけど200げと! わーい!
# と、ここで喜ぶのが伝統なのよね。なので、よろこんでいるように
# 見えるように振舞ってみるテストをしているように見えるように……(略)
……
>>100あたりでで出た話の蒸し返しになるけど、新約の構成でいまのとこ争われる
点ってないですよねえ。せいぜい配列順くらいなもので(東方だと行伝のあと
公同書簡がくる)。キリスト教徒を今名乗るグループでそうでないところという
のは、知らない。欽定訳だの新世界訳だのにこだわるところでも、構成自体の
争いはないよね。
つか、教団とそこでの礼拝行為を抜きにしたら、意味のない概念ですよね。
もっとも、そうした概念と離れて聖書の文書を読む思想家が、たとえば
非護教論的立場で、でもパウロ書簡なりヨハネ伝なりを主題的に取りあつ
かう、ってのはどういうことなのか、というのは別の意味で考察に値する
ことかもね。その選択には特定教団にとっての正典性(とその中でのさらに
正典性の濃度の違い)は介在していないのか? とか。
結局それは違う形で正典性を意識してることにならないのかなあ。
もちろんその人にとって、その「正典」はなんら権威性を持たないだろうけど。
話を戻すと、新約に対して正典性を主張する、ってのはキリスト教を名乗る
団体の中ではもはや意味のない行為だろう。いや、そうでもないか、新約
を正典として持つということが教団としての自己同一性の重要な条件である
ってことはたぶん教団外とのかかわりなしにでもいえることだろうから。
もっともこんなこと、教団、つうか信仰者集団としての「キリスト教徒」で
あることにいかなる仕方でも自己規定を関らせる必要を感じていない人には
たぶんどうでもいいことだわね。
>脅し役とすかし役
あらん、慰め役とおっしゃってもよろしかったのに。:-)
ムラトリには何々がリストアップされていました、ってえのは事実問題なんだよね。
誰それは、かくかくの理由で、何書の正当性を主張してましたってえのも、さしあ
たっては事実問題。ただ、「かくかくの理由」なるものが、いわば権利問題に関す
る言説なので、それに賛成するかどうか、という話になる。
で、正典性を論じるというと、権利問題が結局はメインなんだろうが、こういうと
ころに入り込むと、正典結集というのは、教会の伝承の話でもあるわけだ。
宗教イタでは、マリア崇敬をめぐって、よく話題になるとこだな。プロも伝承を
認めざるを得ないじゃないか、とね。そこをプロが切り抜けようとすると、ますま
す、権利問題に入りこんで、誰それ教父の言ったことについて、教父が言ったから
という理由ではなく、言った内容が正当だと主張しなければ、マリア崇敬と差異化
できなくなる。
ま、この辺を1はやりたいのかねえ。しかし、今のところ誰もそういう必要を感じ
る人はここには出てきてないわけで・・・
ですよねえ。
ところで「伝承」の話だけども、プロ各教派にしたって必ずしも聖書だけで
信仰を十全に表現しているわけではないですね。ニカイア・コンス……スなり、
使徒信経なりの、プロテスタント以前の「使徒継承教会」が伝承してきたもの
にはじまり、
# この辺も、ある意味「聖伝」の一部であるといえなくもない。
プロテスタントとしての自立性を確保するための文書(和親条項とか教派ごとに
いろいろ)。カトも聖伝のすべてと聖書が同列だなんてことは必ずしもいって
いないだろうし、そうであれば、プロとカトの間にある違いは、
たんに伝承の質量をどこまで主張するかである、といえなくもない。
聖書だけの信仰、ってのは実際には無理だろうと予想する。そうした主張を
する教派があるかどうかは知らないけど。
……だって無理じゃないですか?解釈をいっさいせずに、
聖書の一字一句を崇め賞め奉るんでもない限りは。
ここに参加のみなさん
どうして、そんなレベルの話しかできないのでしょうか
いつまでですか?
いい加減にしなさい。
私が導いてあげないと、あなたたちは正典性の問題についても語れないのか。
では、導くかなあ、どうしようかなあ。
じゃあ、一つだけ。
Tコリント15:1ー4を見ましょう
「あなたがたが受け入れ」「しっかりと保って」「大切なこととして伝えた」「私も受けた」
パウロは伝承を受けたものであり、伝えたものでした(Tコリント11:23)
ここでパウロの言っている「伝えたもの」とは、キリストの受難と復活に関する初代教会の
使徒的宣教(ケーリュグマ)のことです。
新約聖書における伝承は、キリストの出来事の「初めからの目撃者で、御言葉につかえる
ものとなった」(ルカ1:12)使徒たちにによるケーリュグマです。そしてこの使徒的伝承は、
使徒たちの権威と不可分です。だから、正典性の問題においてまず使徒性が問われることとなる
のです。
しかし、正典性を問題にするときは、使徒性ではなく聖書にこそその礎石をもうける。
さあ、この辺でちょっとずつ軌道修正を始めましょうか!
205 :
名無しさん@1周年:02/06/04 00:32
>正典性を問題にするときは、使徒性ではなく聖書にこそその礎石をもうける。
どういう意味だろう。正典性が問題に付されている対象は当然聖書の諸書だ。
聖書の正典性を何に求めるかという根拠は、使徒性でもありえ、その内容の真実性
でもありえ、等々だ。
しかし、聖書に礎石を設けた正典議論って、意味がわからない。
206 :
名無しさん@1周年:02/06/04 00:50
わかんないね。「聖書」がまだないからこそ正典化が行われると理解
してたんだが、俺の考えは素朴にすぎるのだろうか。
プロテスタントに於いての「聖書のみ」のスローガン(とあえて書きますが)
は聖書に救いに関する総てが含まれている(つまり十分条件として)事を(単
に文字列の意味のみならず)前提とした上で、全てのキリスト教団の一致を、
その目的としてると思うんですが・・・
(もっとも、そこに地上に於ける教会の分裂を予期と云うか、それへのあきら
めも見られるんですが・・)→曲解してる教団も多いと思う。
>>204 聖書は正典です。ご安心を。
けど、「聖書は正典だ」と皆で言えばそれで事は済んでしまって
面白くない。
210 :
名無しさん@1周年:02/06/04 08:01
「T氏の落書き ◆RSrQg8hk お前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めやお前空気読めや
お前空気読めや」
お前空気読めや
>>205 >>しかし、正典性を問題にするときは、使徒性ではなく聖書にこそその礎石をもうける。
ここにたどり着くのは、早すぎる。
まず、正典の基準を探り、正典の範囲について、十分な考察を加える必要がある
それなくして、上塗りの知識でウダウダ言っていても蓋を開いて何もなかったという
状況になるのは目に見えている。
ちゃんと腰を据えた議論となるように、上向法的に話をすすめましょう。
212 :
ブルネルス:02/06/04 14:58
>>211 いいぞいいぞ、その調子! どんどんリードしてください。
とはいえ、発言が重なると、疑問もどんどん重なります。
「正典性を問題にするときは、使徒性ではなく、聖書にこそその礎石をもうける」
となるまでに、
「正典の基準を探り、正典の範囲について、十分な考察を加える」
とおっしゃる。なにかぐるぐる循環が始まっているような。
>>204 ケリュグマ・使徒的伝承に言及されました。ここで話を終わらせると、
「だから、聖書にはケリュグマが含まれているという限りで権威を認めよう」といった結論もありえますね。そうはしたくないんでしょ?
それなら、さらにご教示ください。わくわく、わくわく(でもないか)。
>>212 とうとうT氏に教えを請うのか・・・
君には、プライドがないのか?!
T氏と戦え!
そして、勝て!!
うおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!
あげ
加藤隆 一神教の誕生 講談社現代新書 別に高い神学書を買うことはない。
業界人以外理解できるかどうか不明だけど。
217 :
名無しさん@1周年:02/06/05 06:28
|\___/|
| .|
| Θ Θ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| .| < 自作自演で盛り上げろ
∈AA∋ ∧∧ \_______
(゚‥゚ ) ( ゚Д゚)
∪∪|___⊃ ⊃
/|__.| |__|\
| | | | \_|
| ノ ノ \_|
\_ノ| |
| |
プロテスタントでは27文書を正典と限定したのは1643年の
ウェストミンスター信仰告白文の制定に於いてなんですが、それ
が、ここの議論の対象になるべき一つなんですか?
>>218 「第二スイス信仰告白」より
…われわれは、ラテン・ギリシアの聖なる教父の解釈を決して軽んぜず、
また、聖書と一致する限り、聖なる事柄についての彼らの議論と論文を
否認しない。…われわれは、それが聖書と一致しているか相違している
かを吟味するよう命じ、聖書に一致することなら受け入れ、相違する
ことなら否認するように求めるのである。…
…同じように、あたかも神的なまたは使徒的な由来をもち、使徒の生ける
声と使徒的な人々の手を通じ、その後継者たる司教の手によって教会に
伝えられてきたかのごとき麗しい称号で飾られている人間の言い伝えを
われわれは拒否する。…
正典問題に関する限り、どの信条も397年のカルタゴ会議での決定を尊重しており、
その後に発生した文書群に神の権威を新たに付け加えることを拒否しています。
むしろ現在の正典論議は、使徒的伝承という枠を全く取り払った聖書の権威を巡り
脱宗教化を図っていて、イエス自身も政治や経済の思想家として扱う切り口まで
存在します。聖書が及ぼす文化的影響は思いのほかに広がっていて、
聖書を科学的現象論として証明することが権威の発現であるかのような扱いは
教会の内外で起こっています。
もちろん祭儀にもそうした側面がないわけではないのですが、それが直接的に
神の力を表わすものではなく、むしろ霊的な事柄を確認するために公徳がある
という控えめな姿勢があると思います。先の第二スイス信仰告白での聖書を巡る
姿勢の確認は、その控えめな距離感を言い表したものでもあると思います。
聖書を巡る問題は、時代々々の実効性の場へと引き出されたときに
今生きているキリストとキリスト者の関係が問い質されているのだ
ということなのかもしれません。
220 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/05 09:51
>もちろん祭儀にもそうした側面がないわけではないのですが、それが直接的に
> 神の力を表わすものではなく
でもエウカリスティアで司祭の祈祷に応えて聖神(聖霊)が下るとき
聖餅は聖体へと全実体変化し端的に神の力が表れるのですか。
# 西方だとまた解釈が違うが、実体変化するのは同じ。
コプトやネストリウスの聖体論まではよう知らんけど
コプトの聖体礼儀も聖マルコ/聖金口イオアン(正教で通常用いる)だから、
全実体変化主張しててもそんなにおかしくないだろう。
……と祭儀性の位置付けはプロと両使徒継承教会(&非メルキト)で
だいぶん違う可能性があるので、
>>219後半はそのままでは後者には妥当
しないかもと思います。……そういや、ロシア人はどうダーヴィニズム
受容したんだろう。だれか科学史の偉い人、解説きぼんぬ。
>>220 まぁ、改革派独特の解釈で、御体→記念、血→契約、という図式で受け取り
祝うものですので…キリストの実体は祭儀を行なう教会全体にあるという
神秘的な理解があったうえで、予め準備された聖餐の祝宴を行ないます。
多分ユダヤの伝統における過ぎ越しの食事の演技的な所作を元にして
聖餐を象徴的な営みとして考えていたように思うこともあります。
実際は改革派教会のなかでも聖体と思って受けとっている人も多いようで
今でも議論の余地が多いものでもあります。
逆に聖なる勤めに関する広がりは、職業の関係を含めて異常に多岐に議論
される傾向があります。教会会議がそういう牧会的事情と密接に関わって
営まれているもので…ウェストミンスター神学会議も結構、審議の途上で
地域的な事情の横槍が多いことに驚きます。信仰告白と牧会とは切っても
切り離せない関係であることに、むしろ気付かされたという感じがします。
カルヴァンの好きな「徴」という言葉は、良い行ないや奉仕に対しても
適用されるユニークなものです。神を普遍の実体とした場合の射影として
人間の営みを解釈するのですが、それが冷淡に感じるときもしばしば…。
って、正典問題とは別の問題のような気がしますが、新約聖書の場合
キリストの実体を巡って多岐に渡る文書が編纂されたわけで、
キリストと共にあるべき教会の営みを含めて考えなければいけないように
思うわけなのです。ここら辺は私自身極めて保守的ですね。
222 :
ワン公@スレ違い御免:02/06/05 18:21
>>220 >そういや、ロシア人はどうダーヴィニズム
>受容したんだろう。だれか科学史の偉い人、解説きぼんぬ。
別に偉くはないんですが…ネットで調べる限りでは、こんな感じです。
多くは植物学での研究が多かったようですね。
*ルイセンコ説
1934年に、ルイセンコは、獲得形質の遺伝と品種改良についての学説を発表する。
ルイセンコ によると、生物の形質は、環境との関連の中でとらえなければ、
実践的な品種改良はできないという。また、生物が環境と相互作用する過程で、
細胞内には物質代謝の葛藤が起こり、環境に適応するための闘争をのり越えて、
新しい代謝の型、すなわち新しい形質が獲得され、子孫に伝えられ、
改良品種ができるという。
ルイセンコ学説には、階級闘争をのり越えてよりよい社会を実現するという
共産党の方針が正しいことが証明されたかのように演出する効果があったため、
学説はスターリンの支持を得た。次第に、ルイセンコは共産党の政策に沿った
学説を発表しつづけるようになる。ルイセンコは、形質について環境との相互作用を
一切考慮しないメンデル遺伝学は、機械論的・形式主義的な理論であり、
資本主義の理論である、と批判する。一方、スターリンは、形質は闘争を経て
弁証法的に変化してゆくというルイセンコ学説を、共産党の思想の正しさを
裏付けるものとして、党が公認する学説とした。
*植物遺伝学者バビロフ
一時期はルイセンコによって投獄の憂き目にあったことのあるダーウィン派のバビロフは
植物の遺伝的性質の多様性を多く有する地域が原産地であるという地理的微分法を提唱。
バビロフ植物生産研究所(略称 VIR)は古くから世界でも有数の植物遺伝資源保存施設で、
1985年における総保存点数は340,500点に及ぶ。
以下の本があるそうです。
「ロシアの博物学者たち」 ダーウィン進化論と相互扶助論
ダニエル・P・トーデス 垂水雄二=訳
定価 本体3800円+税 A5判/上製 412頁 1992.10
生命の進化のカギは、闘争よりも協調にあると考えた博物学者たち。植物学者ベケトフ、
生理学者メチニコフ、魚類学者ケッスラーなど革命前夜の誇り高きロシア科学精神が蘇る。
>>216 加藤隆著「『新約聖書』の誕生」は私の手元にある。
彼の書には重大な欠陥がある。
一番肝心な部分が抜けている。
それはカルヴァン自身がまさにそこに立った主張であって、もし新約聖書の誕生を
語りたいなら、絶対に欠かすべきではないものです。
とにくP196ー210は見事に論点をすべて外す程の勢いがある。
ちゃんとした参考文献を見ていないのだろう。
思った通り、田川や荒井の本ばかりが参考文献に書かれている。
>生命の進化のカギは、闘争よりも協調にあると考えた博物学者たち。
データありがとうございます。正教徒か共産主義者かはしらず、
発想そのものは東方っぽいかも。スレ違いにつきsage。
225 :
名無しさん@1周年:02/06/06 07:36
./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ / このスレの1さんには、スレの趣旨(しゅし)が
( ´∀`) < 難(むずか)しすぎたようですね。漢字(かんじ)にふりがな
( ) \ をつけて教(おし)えてあげるよ♪
| | |. \_________________________
(__)_)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
書(か)き込(こ)む時(とき)は、スレの内容(ないよう)をよく把握(はあく)しましょう。
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./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧ / みなさん、わかりましたか?
( ´∀`) < こんどカキコをする時(とき)は、きちんと内容(ないよう)を
( ) \ 理解(りかい) してからにしようね♪
| | |. \_________________________
(__)_)
…………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注:
このスレご覧のお子様のお母様各位へ
ネット上では、子供だからといって頭の悪い書き込みをすることはまかりとおりません。
お子様がまだ小さい場合、必ず同伴でインターネットを楽しんで下さい。
226 :
ワン公@雑談大好き:02/06/06 11:31
加藤隆さんてのは私は読んでいませんが、
エチエンヌ・トロクメの「キリスト教の揺籃期」「受難物語の誕生」とかを訳していて
一般には復活とか聖霊とかの超自然的な出来事を抜きにした教団成立史としての
聖書の位置についてアプローチしているようですね。
宗教的社会現象を求めているのになぜ「聖書のみ」なのか…という疑問もあるが、
それも信仰のうちなのかもという下司の勘ぐりもあり。
「キリスト教は、メディオロジーの基本モデルを提供している。
その意味でも、聖書の成立を歴史的に読み解いていこうとする
同書はきわめて示唆的だ。」
という書評を書いている、嶋崎 正樹さんの意見は面白い。
http://www.asahi-net.or.jp/~di4m-smzk/art5/book0001.html 結局、今の時代ほどメディアの影響力が強い時代はないし、
ある意味で古代社会におけるヘレニズムのように、多様な文化が外来メディアに
照射されて事物を語るようなことが日常化しているように思える部分があります。
カメラや報道という記録技術が、聖書の時代の記憶技術との関係のうえで
今の時代にどのように拮抗して行こうとするのか、という問い返しもありえます。
(ここら辺はイコノロジーという観点も必要かもしれませんが、私はパス)
口承伝授の手法は、宗教改革時代も説教と信仰問答、そして会衆讃美において
豊かに用いられていますが、聖書の座が神と共同体の交わりにあるということを
再起させます。まだ古代的な方法を保持していたんですね。
とは言っても、ルター派のパンフレットには漫画が多用されましたが。。。
メディアと聖書という観点は、現代社会の事実把握の神話的側面を表わしている
ように思えるのは私なりの解釈です。
227 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/06 11:48
イコノロジー(パノフスキーらの)は、特定文化が共有する表象体系を前提と
して図像の示唆する文化的メッセージを読み解く手法ですから、逆に現在の
文化所産を<読む>手法としてはあまり有効ではないかもしれません。そう
した、共有される文化的背景が崩壊しているというのが近代以降の状況でしょ
うから(多文化状況では、さらにそうだろう)。むしろ、自分のもっている
文化的背景とその読解戦略を、多文化に自覚なく適応することが現代の我々の
問題かと思います。
とはいえ、とくにマスメディアは加工され自動化された<文化>理解を再生産し
蕩尽することで、ある特定の読解方式を受容者に刻印しようとしているふしは
ありますね。いわゆるグローバリズムがアメリカニズムに過ぎないという批判も
この線上にあるように思います。その意味でも、我々が持っている、というよ
り我々に残されている、通時的に展開されてきた多様な文化表象のパタンのひとつ
として、「正典」という形で隠蔽されつつも保持されてきた、「聖書」に伏蔵
する文化的多様性に注目することには、「聖書」を固定化せず、生きいきと
した生産的なテキストとして読む上で重要な視点になりうるのではないかと
思います。
歴史の記述ということと、今という時の記憶(読解)というのは
連関しているようでいて、いまいちギクシャクしている感じがあります。
レヴィ・ストロースやW.ベンヤミンという人たちは、歴史と神話、生活
といった人間の思考を形作る記憶のシステムにユニークなアプローチを
しています。しかし複製技術と文化継承の関係が工業技術により身体性を失い
アンディ・ウォーホルの版画のように強烈な印象をもったスーパースター
(スープの缶やマリリン・モンロー)のみが、生活の記憶の枠を形成する
という皮肉さえ受容される時代でもあるのでしょうか。
W.ベンヤミンはマルクス主義者の歴史家でしたが
階級闘争的歴史観を絶対的な進歩主義とは解せずに、
アンチテーゼとして時代の群像を描写する方法を取っていました。
ユダヤ人でもあったベンヤミンは晩年の歴史哲学テーゼ(草稿)において
歴史の群像に主権者の淘汰的要素を廃して夜空と星座の総体として把握し、
歴史把握で感じる「今」という時間の現出を、歴史を開放するメシア的瞬間の
きらめきとして受け止めるようなことを言っています。
(このような現象把握にプラトン主義的な輪廻の用語も充てています)
階級闘争の歴史観をさらに批判的に見つめて、歴史の星屑をまったく掃除せずに
丁寧にスケッチする姿勢は、パリのパサージュ論において際立っていましたが、
そうした群像の記述というのが、聖書においてなされれば面白いものだと
色々と考えます。教会史や教理史は本来そのようなキリストと教会との交わりを
描写する豊かな広がりをもっているように思うのです。
これもケリュグマと聖霊の力ですかね。
229 :
名無しさん@1周年:02/06/07 08:37
『パッサージュ論』は読んだ。
230 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/07 10:28
ベンヤミンにはたしか『ミッキー・マウス論』がありましたね。未読ですが、
学会発表でそれを取りあげられた方がいて、その方は積極的な評価をなさって
おられたのですが、消費を前提に大量生産されるそのようなイメージには
むしろベンヤミンは批判的だと読むべきだろう、というのがフロアの大半の
反応だったように記憶しています。
生活の記憶の枠といえば、やはり我々は身体を備えた人間なのであって、
むしろこういうべきなのかもしれません。われわれが覚知できる現実は、
というより生活世界は、かつて知られていた、自然諸物と、手による作品と
だけではなく、いまや工業製品と執拗に生産される(作り手にとっては
一過性のものとして殺那的に消費されるべき)事物のイメージとから成り
たっているのだ、と。とくに最後のものが自分の生活のなかで用いられた
もの、自らにとって何らか意味を占めたことのあるものであるときには、
特に。
231 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/07 10:29
(承前)
大量生産されたものでも、人がそれを日常世界で使用するとき、そこには
その個体の独自のありようが刻印される。なるほどウォーホルの100個の
キャンベル・スープの缶は、アウラを剥ぎとられた空虚な日常を露呈する
ものです。しかしそれを子細に見ていけば、ひとつひとつのスープの缶は
あるいはコーン・ポタージュ、あるいはトマト・スープ、trivial な差異
に充満しています。――もちろん、その差異ですら意味を剥ぎ取られ、ゆ
えにそこにアウラを見いだそうという試みは不当なものであろうけれど、
でも、そこに描かれたスープの缶と、たとえばある亡き人と共に食した
(のと同じ種類の)キャンベル印のある特定のスープを店先で手にするもの
とき、私を襲う感動は同じものだろうか?
――私は違うと予想します。アウラを剥ぎとられた芸術作品と、そして
おそらく教会において(というのはシェリングによれば教会は端的に芸術
作品だから――ここで彼が念頭におくのはカトリックの典礼だと思われます)、
幻影としてのアウラでなく、行為と生活によって、それに参与するそれぞれ
の個体が、教会が保持してきた真と信に、自らのそれを主体的に重ねるとき、
教会は真理の座として<その個体に関する限りでは>機能しうるのではないか、
そんなことを
>>228を拝読して、考えるしだいです。
ワン公へ
あなたは、関係ないことばかり書き込むので、退場です。
二度とこのスレッドに来ないように警告します。
関係ありますよ。現在は聖書が大量消費される未曾有の時代ですから。
そのなかで、古代の教会会議の決定を尊重する意見は教会内ならともかく
教会の枠に納まらない人々によってかなり自由に語られているのでは
ないでしょうか?
例をあげると、教会に年配の未信者の方が見えられて山上の垂訓について
詳しく教えて欲しいとやってきた。他の聖書を引用しながらイエスの権威と
語られた背景を語ると、その人はイエス・キリストのことはどうでもいい
山上の垂訓だけ教えてくれればいいという答え。
このような場合、その人はキリストの教えに興味があるが、
聖書が全体性をもって影響しあっているという正典編纂の手続きを経ずに、
聖書の言葉を聞こうとしている。こうした例は五万とあると思いますよ。
正典編纂の意義は他愛ない風評によっても崩れかかっているんです。
新約の正典規定が問われたのはマルキオン派のように自己の編纂する聖書で
新しい教会を建ててしまったことの影響があるように言われるが
そうした問題意識を現代の問題として語らないで済ますことができるのか?
232はマルキオン派を知らないことに100カノッサ。
……ってかムラトリ文書に言及してもマルキオン派に言及しないって時点で
正典編纂についての歴史的反省を232=
>>1に期待するほうが無駄というか。
>>234 >232はマルキオン派を知らないことに100カノッサ。
あなたは終わっていますね。
では、一応本来言及すべきを並べますね。
ローマのクレメンス
ポリュカルポス
イグナティオス
ディダケー
バルナバの手紙
ヘルマスの牧者
タティアノス
殉教者ユスティノス
バシリデス
マルキオン
エイレナイオス
テルトゥリアヌス
ペシッタ
ムラトリの断片
オリゲネス
それからエウセビオス
>>234 では、もういちど当スレッドの方針をお読みください。
管理人である私に不快な発言が予想されますが、このスレッドの管理上、
私に対する質問や意見および要望は禁止します。
もう一度、念のために言います。
このスレッドの管理上、私に対する質問や意見および要望は禁止します。
また、当スレッドの趣旨にそぐわない投稿はやめて下さい。
不適当と思える投稿をしたものは、当スレッドの管理人である私が、このスレッドからの<<退場>>を命じます。
ということで、dendo. ◆Dpy6mDYEさん、あなたは関係ないことしか言えないので、
このスレッドから<<退場>>です。
さようなら、dendo. ◆Dpy6mDYE さん。
もう、来ないように。
皆様、ルールを守り、正典の正典性について語りましょう!!!
さあ、語れ語れ語れ
語れないなら、dendo. ◆Dpy6mDYEやワン公のように、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
あら、今日も楽しそうね。
239 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 01:17
よほど暇なんだね。ディダケーをもちだすなら、金曜と水曜は斎したり
とかいろいろあるはずなんだけど、そういうところは気にしないみたい
だね。
変なの。
# 内容の真理性だけで攻めりゃあいいのに、なんでそこで使徒的権威を
# もちだすかねえ。「じゃなんで帰一しないの?」っていわれるだけだと
# 思うんだが。
240 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 01:19
あ、気になってたんだけど
>>233 >そのなかで、古代の教会会議の決定を尊重する意見は教会内ならともかく
> 教会の枠に納まらない人々によってかなり自由に語られているのでは
> ないでしょうか?
これ、一行目は「尊重しない」の間違えですか?
もし意図された通りの表記なら、もう少し噛みくだいて説明してくだ
されば幸甚に存じます。
>>240 ほとんどの教会は基本的に結果を尊重していると思いますよ。
でなきゃ正典という言い方はまずしないでしょうね。
むしろ私が自由に論議するべきだと言っているのは、
古代教会の正典編纂の緊張関係に立ち戻って、
今の世界のキリストとの緊張関係を読み解くべきだ
という考えです。アイディアでしかないかもしれませんが…。
一方で教会の枠に収まらない人々は聖書の引用範囲が恣意的になるし
愛の作法ひとつにしても社会正義の欺瞞を適用したり
自己のコンプレックスの裏返しのように受け取る面も多いように
個人的には思います。そうした奔放さとは一線を画すこともありますが
わざと一線を画さないという自由もキリスト者にはあります。
聖書の正典編纂をどのような座に置くべきなのかの論議は
過去の歴史を尊重するのと同様に、今も生けるキリストの現実に
照らされているのだという自覚を呼び起こすものでなければ
ほとんど意味がない(ケリュグマ的作用を持たない)のではないか
と個人的には思っています。
本当、脳天気なヤツだね、毎度。
そのこと、自分では、全然気付いてないようだけど。
235で抜け落ちてる非常に重要な文書があるが、
やっぱりその程度なんだね(W
>>241 新約聖書正典の成立について、もっと学んだ方がいい。
なんか的外れなんですけど・・・
もう<<退場>>した方がいいよ。
どうも君では無理なようだから。
244 :
名無しさん@1周年:02/06/08 02:40
他人の言説に寄生して上からモノ言うだけって楽な戦術ですね。
>>245 新約聖書正典の正典性について、語れ語れ語れ
語れないものは、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
>>244 寄生する前に、彼らの文章がだらしないので寄生しようにも
それができないと思う。
新約聖書正典の正典性について、語れ語れ語れ
語れないものは、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
248 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 02:50
>>242 ちゃんと査読(w してあげてるんだ。偉いなあ。
あたしなんか「省略されました」で萎えて、表示されてる部分も
碌に読んでないっすよ。
249 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 02:52
>今も生けるキリストの現実に
> 照らされているのだという自覚を呼び起こすものでなければ
あ、そだ。いま euangelion kata ioanne~n の読書会を某スレで
やってるんですよ。ちょうどその話にいまから入ってくとこなんで、
よろしければ是非。(……しかしつくづく粘っこくて読みにくい文章だ……>Jn)
250 :
名無しさん@1周年:02/06/08 11:42
>>245 じぶんにつっこんでどーするんだおまえわ
251 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/08 12:19
>>250 いや、ブルネルスくらいしか、もうつっこむ人いないから
でもってブルネルス昨日いなかったから
一人ボケつっこみというのはパフォーミング・ストラテジーとしては
むしろこの時点では最善の戦略だと思うが、どよ。
>>246 結論には禿同。つか私にもワン公氏にも寄生していないことだけは確かだ(w
252 :
名無しさん@1周年:02/06/08 14:02
>加藤隆著「『新約聖書』の誕生」は私の手元にある。
>彼の書には重大な欠陥がある。
>とにくP196ー210は見事に論点をすべて外す程の勢いがある。
つうか、見事に著者の視点を理解してない読み方をしているってことだね。
あの箇所が論点を外しているなんて声高に主張して、恥かしくないの?
ワン公さんが紹介している書評にもある通り、メディオロジーなんだけど、
どうせわかんないだろうね。
>思った通り、田川や荒井の本ばかりが参考文献に書かれている。
そうそう、田川といえば、あずみに田川のどこがマズイか具体的に指摘しろって
突っ込まれて、シドロモドロになってしまった落書きくんだから、
加藤隆のこの本もとんちんかんな読み方をしてしまっても仕様がないか…
253 :
いちげんさん:02/06/08 15:11
メディオロジー、何度勉強してもイマイチ了解できていません。みなさんお詳しい様ですので、教えて下さい。
>>253 メディオロジーって自分で紹介しておきながら結構難解なのですね。
思想の発信者とその具現の結果を主体にした評価方法から
その間で働く媒介者の役割を主体として歴史や技術を評価する
学問領域のようです。
キリスト教に興味があるなら以下のリンクを読んでみてください。
http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/medio208.htm 哲学と技術の問題については以下を。
http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/socinfo06.htm 最初から読む場合は以下から。
http://www.thought.ne.jp/html/text/medio/medio11.htm 私も斜め読みしただけなので、気付いた点があれば教えてください。
現在のような情報社会のなかでは、ニュースに判断を加えるという
古典的な理解に加え、その現象がメディアまるごとに蓄積されるという
数値処理的な側面も出ているので、社会現象のなかで生じる
記憶の媒介は時間進捗においてパラレルなドラマを演じています。
過去のことが今日突然発見したニュースとして語られ、
今日あったことが過去の記録との連帯をもとめるかのように、
ネットで共有する今という時間はパラドックスを持っている
とも考えられます。(これは私だけの経験かもしれませんが…)
メディオロジーは社会現象のなかでもとりわけ平和な関係を重視し
紛争を起こす政治的ヒエラルキーの問題をあえて無視しているようなので、
学問が熟した時点で一般の人が自律性のあるコントロールができる
社会思考になっていればいいようにも思います。
もちろんメディオロジーに全ての責任を被せるのは所詮無理ですが
フランスでは政治や放送業界のお偉方が仕切っているようなので
論の行方には政治的な目的も含まれやすいと思います。
単純にそのことの賛否は倫理や宗教といった思想・概念によって判断する
べきかもしれませんが、その実現にも歴史と方法が必要であることは
メディオロジーの示すところかもしれません。
255 :
dendo.@ロケット団 ◆Dpy6mDYE :02/06/08 20:14
>過去のことが今日突然発見したニュースとして語られ、
> 今日あったことが過去の記録との連帯をもとめるかのように、
> ネットで共有する今という時間はパラドックスを持っている
そかなあ。The Gutemberg's Galaxy はそれをかの時代についていってたと
思うんだが。私はネットワークが原理的に新しい何かを付け加えたという
意見には懐疑的です。過去と現在の状況がまさに<メディア>によって
共有される、そのことこそが我々の知のありようを支えているという事実を
より顕わに、より鮮明にしたとは思っているけれど。
(まあ、過剰な量的拡大は質の変化に転じるという意見を認めるのにやぶさか
ではないが、なので印刷革命は革命だと思うけんど、今の状況とそれと、
「開かれた」ということでは原理的には同じだろうと)
というわけでルター萌の人は何かいうことある?
>>252 ふふふ
君は読んだのかね。
あれを読んで、ちろりと知っている人なら、彼のマズイ点がすぐに指摘できるはずだよ。
大切な点が見事に抜け落ちている。
さあ、新約聖書正典について語れ語れ語れ
語れないなら、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
dendo.@ロケット団 ◆Dpy6mDYE さんは、論点を外しまくっている
ので<<退場>>です。
もっと、ましな事をかたってください。
それができないようだから、言いますが<<退場>>
>>256 僭越ながら、加藤隆のその本は私も読みましたよ。
是非、その「大切な点」を教えて下さい。
>>259 >是非、その「大切な点」を教えて下さい。
そうでしょう。彼の本を読んでも、その「大切な点」に触れられていないので、
あなたは分からないでいるのです。
その「大切な点」は福音派における伝統的な理解です。
カルヴァンに始まり、長く支持されている解釈です。
ワン公 へ
あなたは<<退場>>です
261 :
名無しさん@1周年:02/06/09 02:07
>思想の発信者とその具現の結果を主体にした評価方法から
>その間で働く媒介者の役割を主体として歴史や技術を評価する
うん。三位一体なんだな。
地上の事物にはすべからく三位一体が存在するんだな。
263 :
名無しさん@1周年:02/06/09 09:14
伝統的な理解が聖書学の進歩により成りたたなくなってきたので、対応としてはふたつ。
1.聖書学の成果を無視し、伝統的理解にしがみつく。
2.聖書学の成果を有効に活用し伝統的な理解を新しい面から捉えなおす。
>>262 がんばれ!
>>263 残念ながら、カール=バルトは、これに関して伝統的な立場に立っています。
落書きさんがどう考えているかは分からないけど・・・
それにしても、このスレッドは本当に新約聖書の正典性についてがテーマなんだろうか?
落書きさんの言いたいこともわからないではないなあ・・・
266 :
名無しさん@1周年:02/06/09 09:38
言いたいこと→おまいら<退場>
268 :
名無しさん@1周年:02/06/09 14:56
>その「大切な点」は福音派における伝統的な理解です。
一般の善良なキリスト教徒には、福音派の理解など無用な長物なんだがな。
悪いが、キミにとって「大切な点」は、うちらの世界では「粗大ゴミ」扱いされている可能性大だ。
>ふふふ
> 君は読んだのかね。
キミこそ、第8章で足踏みしてしまったようでは、あの本の最終章(正典の成立)は
まったく理解できていないんだろうね。
まあ、平易に書かれすぎていて、却って分かり辛い本であることはたしかだ。
2チャンネルも終了だな
得るものナシ
もうこのスレッドは終了とさせて頂きます。
ちなみに <<退場>>された方は、今後もここに書き込むことを禁止します。
271 :
名無しさん@1周年:02/06/09 22:25
vげらげらv
圧勝
272 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/09 22:30
思ったんだが、仮に「完全な新約聖書」が手に
入ったところで、我々に迷いがなくなるかって言
うと、違うよな。イエスの直接の弟子だって、本
人を前にして叱られっぱなしなんだから。
273 :
名無しさん@1周年:02/06/09 23:13
南無
>思ったんだが、仮に「完全な新約聖書」が手に
入ったところで、我々に迷いがなくなるかって言
うと、違うよな
まあな
275 :
名無しさん@1周年:02/06/09 23:15
.%%%%%%%%%
%%%%%%%%%. 6|-○-○ |
6|-○-○ | | > |
| > | \ ∇ /
\ ∇ / /⌒ ⌒ヽ %%%%%%%%%
/, / /_/| へ \ .6|-○-○ |
(ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \.| > |
/ /、 / ./ ヽ \ ∇ /
/ ∧_二つ ( / ∪ , /
/ / \ .\\ (ぃ9 |
/ \ \ .\\ / /ヽ ,、
/ /~\ \ > ) ) ./ ∧_二∃
/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ
/ ノ / / / / / ._/ /~ ̄ ̄/ /
/ / . / ./. / / / )⌒ _ ノ / ./
/ ./ ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、
( _) \__つ \__つ).し \__つ
>>270 T氏の落書きをシバイてやろうと思ったのに・・・
なんだよ、おわっちまったのか!
277 :
名無しさん@1周年:02/06/09 23:22
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この頃、私のHPに来てくれる人が多くなった。
いいことだ。
でも、なーんにもないHPだから、つまらないだろうと思う
だから、掲示板を用意した。
なんでも良いから書き込んでください。
でも、中傷はダメさ。
私の牧師が新約聖書緒論を神学校で教えている。
そのテキストを入門版にしてアップした。
まだ、3分の1しかできてないけど、みてね。
現在、牧師さんは牧会書簡を教えている。
また、テキストができたら、加工して載せるつもり。
このスレッドは閉鎖されたので、私山本誠一がもらいます。
今後は、私のルールに従ってもらいます。
ルールその1
投稿する際、必ず一発ギャクをいれること
ルールその2
もし、つまらなかったら、あやまること
・・・ ・・・
太平洋がなくなったら、大変よ
それでは皆さん、バイバイブー
あ、決定的な事かいちゃったかなあ
>>281 どこで、決定的なことをいっちゃったの?!
283 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/09 23:38
妙な突っ込み入れちゃって失敬。
実際的な問題として、新約正典の枠組みは
尊重した方が混乱が少なくていいかもね。
>>283 ふむふむ、そうかなあ・・・
じゃあ、やめておくか。。。
このスレッドはまだ200番代後半だ。
もったいない。
このスレッドを、仔猫さん、有効利用しよう!
とりあえず、ここで2チャンネルでのランキングをしよう!
ちょっと3分ちょうだい!
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 と山本誠一 ◆1P./8snQ が選ぶ!
<<<<<<2チャンネルランキング!!!>>>>>>
異端 NO.1 あずみ
勘違いNo.1 青眼
ナイスガイNO.1 山本誠一 ◆1P./8snQ
286 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/09 23:48
外典トマスの「石を割ってみよ、木をどけ
て見よ、そこに私がいる」って一節は、禅的
で面白いとは思う。
トマスの福音書かあ、それ有名なイエスのセリフな。
トマスの福音書は早い段階で、正典問題からは外されていたね。
私もトマスの福音書を買ったけど、読んでいない。
講談社学術文庫の荒井ささぐ訳のやつだけど、なんかあいつの編集と解説が
読みにくさを増している。
やっぱり、読んでおくべきか・・・
あっ!
トマスによる福音書って、どっちの?
289 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/10 00:11
>>288 いや、拘らなくてもいいよ。もちろん、ナグ・ハマディの方
だけどさ。
290 :
名無しさん@1周年:02/06/10 01:15
トマス福音書も読んでいないで、正典性問題か…
自意識過剰なのか、ヴァカなのか…
>>290 まあ、読んでおいた方がいいとは思うけどね。
でも、トマスの福音書は、実は正典の成立問題とはあまり関わらない。
関わらないといっては、なんだけどトマスの福音書を正典に入れるという考えかた
自体がそもそもキリスト教側にないことは確かです。
ですから、聖書の正典性の問題を語るとき、T氏の落書きさんの挙げたリストに
この書がないことは、当たり前のことだと思っていました。
また、逆に、「リストに一つ足りないよ」といった投稿がなされていたとき、すぐに
この『トマスの福音書』の事を言いたいのかなあと思い、もしそれを言い出したらT氏
の前に、私が突っ込みを入れようと思っていました。
この書はアグラファについて考えるときには必要だとは思っています。
オリゲネス「教会は四つの福音だけを受け入れる。それに反して異端者たちは、エジプト人の
福音書だとか、トマスの福音書だとか、その他、多くの福音書を持っている。これらの書物に
記されている事柄に通じているならば、何か特別なことを知っているかのように考える人々
について、われわれが全く無知であると思われないために、われわれはこれらの書物を読む
のである。」
アンブロシウス「これらの書物が他の人々によって読まれないように、われわれがそれらを
読むのである。そして、彼らがあのように誇っている事柄の本質を知るために読むのである」
『新約聖書緒論』(ハリソン著:いのちのことば社)
それらの書を読むことは、上記引用のためには必要かも知れません。
ちなみに、私も290さんが誇るトマスの福音書がどれほどのものか、知っておく必要が
ありますね。以前私は『トマスの福音書』(荒井献:講談社学術文庫)をP134まで読んで
放ってありました。
P326まで一応読みますね。
『トマスの福音書』についての荒井献氏の評価
<トマスの思想は、明らかに、キリスト教史上最大の「異端」グノーシス派に
連なる。トマスはこのグノーシス主義に視点を置いてイエス語録を全体として
編集した。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書には存在しない『知られ
ざるイエスの言葉』の多くは、このグノーシス主義の立場から創作され、イエ
スの口に入れられたものと思われる。>
なぜ、T氏が『トマスの福音書』を正典成立について押さえて置くものリスト
から外して、同じグノーシスだけどマルキオンを入れたか分かりますか?
まあ、T氏が何を考えてそうしたのか知りませんが・・・
マルキオンに関しては、まず彼らなりの正典を作成しましたが、逆にみると、彼ら
自身すらそれらを権威ある書として正典と認めていたということになります。
それから、マルキオンの認めなかったパウロの書とされる牧会書簡についての
問題があるからです。
もしT氏のリストに付け加えるなら
ヴァレンティヌスの作とされる『真理の福音』かな。
私はリストにおいて、一番重要な証言は、イレナエウスだと考えています。
296 :
名無し仔猫@1周年 ◆DMOUBKE2 :02/06/10 02:55
くわしーね。「真理の福音」は読んでないな。
ちょっと興味があったけど。
頑張ってちょんまげ。
>>294 T氏はマルキオンを「押さえて置くものリスト」に入れていたんですか?
私は彼がマルキオンを無視しているところを指摘されたのではなかったかと
思ってたのですが。
299 :
名無しさん@1周年:02/06/11 02:54
げらげら
300 :
名無しさん@1周年:02/06/11 02:54
300
301 :
名無しさん@1周年:02/06/11 06:33
301
>>298 マルキオンを無視しているといか否かの問題ではないと思います。
私が言うのもなんですが、正典成立についての資料を見れば、マルキオンを
知っている知らないとかいう以前の問題だと思います。
それをわざわざマルキオンを無視している?
たとえば、「君、自分の名前知っている?」と言われたら、どうですか?
そんなの当たり前だろといって、呆れられるのは必至でしょう。
T氏が呆れて、ここに来なくなったもの頷ける。
私に言わせれば、これまで散々ここで意見を交換している君たちの方が問題だった
んではないですか?
マルキオンのマの字も出てこなかった。
ムラトリ正典目録についての言及ぐらいすでにしていて良いはずが、T氏に言われる
まで何一つでてきていない。
T氏がいなければ、趣旨に沿った議論ができないのですか?
だんだん、私も呆れてきました
304 :
名無しさん@1周年:02/06/11 12:59
ひ
っ
し
だ
ね
>>302 >私が言うのもなんですが、正典成立についての資料を見れば、マルキオンを
>知っている知らないとかいう以前の問題だと思います。
マルキオンはマルキオンの著作によって知られているのではなく
正典擁護側の論駁によって知られるんじゃなかったっけ?
宗教改革の信仰告白にも出てくる反正典編纂の有名人ですよ。
なんの資料を読んでいってんだか。
旧約の預言とメシアを脱落したキリスト論がグノーシス主義に傾き易い
ことぐらい常識ですよね。書物や人物のリストアップだけで議論した
つもりになっているとは…。
現世のことどもなら、最後は金で解決できるんだけどねー。
スーパーマーケットから段ボール箱もらってこようと思ってたら
すげえ雨なので掃除の日に切りかえる。ちょっとひといき。
>書物や人物のリストアップだけで議論した
恣意的な引用と、オリジナルの文脈を理解していない謎の縮約もお忘れなく。
お、そうだ、見積り取りにこさせるとき、段ボールも持ってきてもらえば
いいんだな。なにごとも言語化してみるって大事だなあ。雑談すまそ。
>>302 「趣旨に沿った議論」についての一定の枠があるわけですね。
山本氏もT氏も、正典性について議論するなら、こういう順序で、こういう
ところに言及してする、という模範解答を前提として持っているみたいです。
これって、エホ証の教育と大して変わらない文化の中で生きていることを
示しているのではないか、と邪推してしまうのですが、違いますか?
エホ証の場合は、堂々と模範解答をおおっぴらにするのに、
山本誠一の場合は、突っ込まれるのが怖くて、なかなか模範解答をみせようとはしない。
威勢がいい割には、結構小心者。
>>305 >マルキオンはマルキオンの著作によって知られているのではなく
正典擁護側の論駁によって知られるんじゃなかったっけ?
宗教改革の信仰告白にも出てくる反正典編纂の有名人ですよ。
なんの資料を読んでいってんだか。
だから、なんで今更、「有名人ですよ」なんだっての。
君ね、「私は山本誠一ですよ」って言ったら、「そんなの知っているワイ、なんでここで
そんなことをわざわざ今更言う必要があるんだ?」って思わない???
「有名人ですよ」????
正典成立についての資料を見てみなさい。マルキオンの文字はゴロゴロでてきているでしょ。
マルキオンを知っている知らないという問題じゃないのさ。
マルキオンが有名人ですよ、じゃないんですわ。
>>307 T氏は議論が煮詰まるのを期待していたんだろうね。
でも、君たちがあまりにもトンチンカンな投稿を繰り返すから、もう諦めて
しまったようだ。
私はT氏ではないので、わからんけどね・・・
>>310 あ、そう。T氏じゃないの。
( ̄− ̄)フーン
312 :
名無しさん@1周年:02/06/11 17:08
>私はT氏ではない
ひ
っ
し
だ
ね
新約聖書正典の正典性について、語れ語れ語れ
語れないものは、去れ去れ去れ
語れ語れ語れ
↑ ちなみにこれが「議論が煮詰まるのを期待していた」人がやっていたことだ(w
314 :
名無しさん@1周年:02/06/11 17:44
>1はこれを暗記しろ
3.141592653589793238462643383279502884197169399375
10582097494459230781640628620899862803482534211706
79821480865132823066470938446095505822317253594081
28481117450284102701938521105559644622948954930381
96442881097566593344612847564823378678316527120190
91456485669234603486104543266482133936072602491412
73724587006606315588174881520920962829254091715364
36789259036001133053054882046652138414695194151160
94330572703657595919530921861173819326117931051185
48074462379962749567351885752724891227938183011949
12983367336244065664308602139494639522473719070217
98609437027705392171762931767523846748184676694051
32000568127145263560827785771342757789609173637178
72146844090122495343014654958537105079227968925892
35420199561121290219608640344181598136297747713099
60518707211349999998372978049951059731732816096318
59502445945534690830264252230825334468503526193118
315 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/11 17:52
一段落ついた。梱包こみだと+三万。……総額月収×3なのだが
「批判学術版全集二巻分ですむならいっかー(はぁと)」と丸投げ。
……金銭感覚麻痺してるなあ。うぅ。
>>313 ところで「強引な煮つめ方」というところでは「落書き」筆者と
ムラトリ表筆者は共通するところあると思うんだけど、どう?
ってそりゃいちおうは論述によって人を説得しようという後者に
対してあまりにも失礼か。
316 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/11 18:11
>これって、エホ証の教育と大して変わらない文化の中で生きていることを
> 示しているのではないか、と邪推してしまうのですが、違いますか?
エホ証はもっと自派文書と聖書を引用参照するよう奨励してます。てかしてました。
たとえどんなにごーいんだろうと、詭弁だろうと、ともかくも何か
参照可能なものを支えに語らなければ他者を説得できないことは教えられる。つか教えてた。
# いまどうだかは、さすがに知らん。
それを「大して変わらない」といわれちゃうと、さすがにもにょるな〜
とエホ的教育のおかげであとさんざん惨憺を嘗めたわたしですら思うの
だった。そりゃJWも逐語霊感説だし正典性も信じて疑わない心性は
共有してると思うけんどね。
>>316 「大して変わらない」といったのは、「これが正しい考えです」という
ものを、なぞり、覚えこみ、復唱することが、「(聖書)研究」であり、学習
であり、議論であると思っている点を指しています。
逐語霊感説論者というにせよ福音派というにせよ、まあ内部ではそれなりに
いろいろあって、自分の頭で考えようとしている人もいますが、自分の正統
意識が強いと、大体が、教えられたこと、覚えこんだことから外れる線は、
だめだと決め付ける傾向が強くなりますね。
正典性ということだって、いくらでも自由に考えて、それぞれの道を辿って、
いったって構わないのに、できあがった考え方の順序や筋から外れると、
もうそれはだめだ、退場だ、とくるわけで、上のような症状だろうと思った
次第。
もっとも山本氏は、発言には必ずギャグを入れるように指令を出してます
から、これまでのすべての発言は、全体としてギャグなのかもしれないで
すけど−−結果としてそうなっているわけですし。
.
,
((
`ヽ、 _,。、.ヾソ
. ` > :ヽゝ>
⊂ヽ __/l.. 、___ゝ ヽ::lノ
""'. ) l /,-r’ ヾ‐-‐, ・ |::::|
ヽ`"ヽ/ ,,,, ( ../::人 ,,,,
⊂ヽ,-、,ノゝ ,ノ . /ノ`´ヽ'ヽ
`k ノ. 、 rっ. ,,,, . /'ノ /'/ ""
/ノ|ノヽ `'ノ ミ_ノ,,,. (_ミ ,,,
,,,, `´ """
,,,, `´ """
↑
>>1
319 :
名無しさん@1周年:02/06/11 20:12
<<新約聖書の正典性を擁護すること>>ト論じることは違う。
哀れだな 1.
320 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/11 20:18
>>317 ここでいわれていること(というか何をいおうとしていたのか)については
了解した、つもり。
>「大して変わらない」といったのは、「これが正しい考えです」という
> ものを、なぞり、覚えこみ、復唱することが、「(聖書)研究」であり、学習
> であり、議論であると思っている点を指しています。
ここ、もしかして決定的にブルネルスと私が相入れないところだと予想するんだけど、
私は「最初は」それでいいし、むしろそうある"べき"だとすら考えている。ただ、
「正しい」というとズレるな。「ある(任意の)妥当なやりかた」とでもいうべきか。
ヨハネ伝を読む、なんて知の作業とはまた別の次元でさ、
宗教というよりはその制度を支えている認識のありよう、すなわち信のありようは
知のありようとは異なり、つねに行為する主体、客観的な何かへの関心づけを
伴っているだろう(人は何かを知るためにそれを所有することを必要とはしない)。
で、行為においてはつねにある特定のやり方しか選べないんだとしたら、
最初の一歩はともかくも自分の身体をある行為の形式に馴致させること、
それをヘクシスとすることからはじまらざるをえないんじゃない?
内面での信仰だけならともかく、祭儀が表演性を要求するかぎりは、
それはある種の技芸たらざるをえんわけだし、信がなにがしかの行為を
ともなって表明されるところでは、それは身体の行為であることを
必然的に要求するわけで。……でもって宗教が「正しい」ことを教える
というのを大前提にしないとここに参与できない以上、「正しい」こと
をそのまま飲みこむ時期ってのも、このヘクシスを自分のものとする過程では
どしても必要なんじゃないだろか。
認識としての芸術に対して技芸の実践としての技法がもつくらいには
信の表明としての宗教的活動において、この手の縮約は正当性を要求しうる
……と思うのだけど、どうでしょ。(で、そういうものとして、正典もまた
ありうる)
もちろん、それがたんなる自動化された思いなしであり、
あるいは自動化された行為であることを越えて、
個人の主体的な信の表明になるためには、
このヘクシスは反省にもたらされなければいけないのだけど。
321 :
名無しさん@1周年:02/06/11 22:55
デザインが騒々しいし、中身が軽薄だし、いかにも山本のHP>このHPはいいよ
私のHPは手抜きだよ
まあ、いいじゃないですか
あぐら坂に匹敵するほど目が痛くなった。
やはり私のHPは素晴らしい
はっはっはっははっはっはは
HPを覗くとクッキーを抜かれ、PCをのぞきます。
Javaアップレットを使用している模様
気をつけたまえ!
山本誠一は永遠に不滅です
HPのカウンターが666になりそうだったんで
2チャンネルで紹介させて頂きました
現在671となりました
ここに紹介すると、いっぺんにカウントが上がります
永遠に不滅の山本誠一でした
329 :
dendo.%ノンクリ ◆Dpy6mDYE :02/06/11 23:48
>>305 >書物や人物のリストアップだけで議論した
> つもりになっているとは…
>>307 >山本氏もT氏も、正典性について議論するなら、こういう順序で、こういう
> ところに言及してする、という模範解答を前提として持っているみたいです。
こういうのみると「クリスチャンて善良だなあ」と思うんだけど(いやコメントしなくていいよ)
どしてここまで読んでて、いまさら「『議論』しようとしてる」ことが前提に
出来るの?
スレ立てしたら神授の権能が与えられるかのように誤解してて、
人に「退場」とかなんとか命令するのに快感を覚えてるスレ立て厨、ってだけじゃん。
# 効力ないんだけど、発話だけで全能感に浸れるんだろうねえ。おしあわせなことで。
だからスレタイトルはなんでもいいのよ。たぶん。まあ一定の方向性はある
ようだけど。
331 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:05
お前バカか。
しつっこいぞ。
お前が仲良くできるのは、せいぜいチビクロくらいさ。
332 :
T氏の落書き=山本誠一、暴言を吐く(再掲):02/06/12 00:06
T氏 dendo. を騙ろうとする
>>2 後日
687 :dendo. ◆Dpy6mDYE :02/05/23 23:33
それと。
あたしと同一かどうか誰かに問われて、はぐらかそうとしたわね。
どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
698 :山本誠一 ◆1P./8snQ :02/05/24 00:21
[長文投稿制限にひっかかるため省略]
>どういうつもりだか、あたしには訊く権利があると思うんだけど、
そこんとこ、どうよ。
でかいんだよ、態度が。調子扱くなっての。聞くんだから、ちゃんと頭を下げなさい。
何度も懇願して、額をこすりつけるなら、考えてやっても良い。
山本誠一の「仲良く」とはどういう概念なのか、小一時間問いつめたい。
334 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:09
癒されるより、へんな病気うつされそう
中傷は良くないと思う
同じ神を信じている者同士
仲良くすべきだと思う
神を見上げましょう!
お前は、ニセモノだな!
クリスチャンがクリスチャンを中傷するから、キリスト教はおもしろいんだよ
dendo.の中傷攻撃に対して、山本は何の反撃も無しか・・・
山本も中傷を仕返せ!
337 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:13
ヤフーで、チビクロをいじめまくっているくせによく言うよ。
なんだか、山本だか、山田だか、ワケがわからないな
すべて自作自演ということにして、それは今日はもうお別れしましょう!
>>337 チビクロさんは弱いから面白い
>>338 お別れだぁ?
今日は今始まったばかりじゃないか
いま、何時だと思っているんだ!
341 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:19
ひとり芝居してて、そんなに楽しい?
ボク、いくつ?
denndo.さん、中傷はやめてください。
どうして、ボクが何も中傷していないのに、あなたは中傷し続けるのですか?
ボクが中傷をしたことを書いたでしょうか?
あ。たばこ
私は思います。
正典性とは先天性の間違いではないでしょうか。
348 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:44
そんなに宣伝したいんなら、手伝ってあげようか。
悪戯好きのハッカーがタムロする掲示板に
HPのアドレスをコピペしてやってもいいんだけど。どうする?
>>320 本質的な問題提起だね。確かに教育・学習には、もっとも基本的なこと
は、ことばを習い覚えるように、刷り込まれるしかない、というとこがある。
しかし、それでも、私が若いころから見てきたある種の宗教の信徒たちの
特徴としてある、上から教えられたことを覚えて、繰り返すだけ、というの
は、私がカルトと感じる中心的特徴であって、そのような信じ方をしている
人の目つき、顔つきが何かおかしくなっていく、ということへの拒否反応は
変わらない。ことばを覚えるのと、どう違うのだろうね。
また、花道にせよ、茶道にせよ、最初は型を教え込まれた通りに模倣する
とこからはじまるわけだけど、それとも違うところがあると思う。
何が違うのかな。
別スレでプラトン的学習についての論への言及があったけど、それかな。
いわばマニュアルないしFAQを頭から覚えて、それにしたがって相手と応対
しようってえのと、自分で考えて、応用が効く知として持つようになるの
と。
うん。自分の知っている(と思っていること)、信じていることは、間違って
いるかもしれない、という可能性を認めるかどうかの違い、といってみよう。
(そういう可能性を認めるのは、信仰が弱いからだ、とくるかもしれないが)
350 :
名無しさん@1周年:02/06/12 00:51
ナイスなお考えと思はれ。
>>349 本質的な問題提起だね、じゃねーっての
本来の問題からの逃避だろうに。
そういう底の浅いことしか言えてないから、denndo.もブルも山本誠一に馬鹿にされるんだよ
まあ、あなたたちじゃあ、山本を追いつめることはできないだろう。
ここは、ハッカーにお任せした方がいい。
いろいろな復讐の仕方ってあるじゃない。
だらしないな
山本誠一には勝てないようだな
そもそも山本に勝とうと思うことが間違い
内心で勝ちたいとか関係ない欲求があるから、
山本に足下をすくわれるんだよ。
ちょっと待った!
山本?山本が何をしたんだ?!
山本は結構良い奴じゃん。
悪いのはT氏だろ。
山本誠一とT氏は別人だと思うな。
山本に勝てるのは・・・
たぶん、ヤフーのネコだな
あれは勉強家だからな
ヤフーのネコはあれ、議論するときは正攻法だよ
ちゃんと調べて、論駁するからね
見習った方がいい
浮ついたことを並べれば、山本に勝てるなんて思いこまない方がいい
ふふふ
みんなが山本誠一になっていくね。
ミイラとりがミイラになるようだって、むかしT氏が言っていた言葉を思い出す。
カラスは白だと主張したら、いくら頑張っても必ず現実が負けを持ってくる。
ワニはやさしい動物だと主張しても、現実にワニに手を差し出せば、認識を改め
なくてはならない現実に迫られる。
真実を語ろうとするのでなければ、必ず議論に負ける。
中傷に走っても何も現実は変わらない。
真実に自分自身の身を置くことが、議論に負けないコツ。
そのためには、そのテーマにおいての良識と時代の感性が大切なんだと思う。
どうする?
正典性について、ちゃんと議論してみる?
私は部外者だから、いなくなるけど・・・
358 :
つるっぱげ:02/06/12 01:34
山本さんは勝って何がしたいんですか。
自己顕示欲?
街角で目立つように祈るなって言われなかった?
ちなみに、山本誠一に勝とうなんて思わない方がいい。
勝ち負けではなく、真実を語ろうとしないとね。
だって、正典性についての問題でしょ。
山本誠一の教会の牧師は、神学校でそこを専門にやっている人だぜ。
ボクは勝って勝って勝ちまくって
故郷の両親を喜ばせてあげたいと思います。
苦労して育ててくれたんだから、まず勝った喜びは、お母さんに伝えたい。
361 :
名無しさん@1周年:02/06/12 01:37
うんうん
おかあさーーーーーーーーんんんんん・・・・
誠一は元気だよ!!!!
ボブもジョナスもお母さんにありがとうって言っていたよ!
父ちゃんによろしく!
夏休みに帰るよ!
カツラはいるか?
たくさんの投稿があるけど
私、tinnがいえることはただ一つ!
denndo.さん、中傷はやめましょう!!
366 :
名無しさん@1周年:02/06/12 06:17
キ
音 l
だ 叩
午 け く
前 響
ニ .く
時
圖
∧_∧ ̄||ヽ、カタ
( ;) ||_| カタ
(__ つ三_ |
/__ヽ) || ||
_||_J || ||
367 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/12 11:09
>>349 >また、花道にせよ、茶道にせよ、最初は型を教え込まれた通りに模倣する
> とこからはじまるわけだけど、それとも違うところがあると思う。
> 何が違うのかな。
流儀にもよるけど、ある流派を習っての観察
・ひとつひとつの動作にどのような意義があるかを(も)教えられる
・教える側は(動作なんだけど)徹底的に言語化するよう心がける
・「別のやり方」もあることを教えられる(どういうやり方か、について立ちいるかどうかは別)
・かつ、別のやりかたにもそれなりの合理性があることが示唆される
・「別のやり方」の人とも交流をもつ: というか宗匠といわれるような人たちは
他流の流儀も習いにいくものだ。家元嗣ぐような方々は、そもそも他流の先生に
つくものだし
……ああ、あと、意識的であることの要求ね。
「日常的な動作になるな」ということはいわれますね。ヘクシスとして
身につけつつ、たえず行為が他者にとってどのように見られるか、自分が
表現しようとする何物かにどれだけ忠実であるか、そのことを絶えず反省
することで、自動化を避けようとする。
……ただここまでくると、ある程度身についてからの話で、最初はやはり
「よくわけがわかんないけど必死でいわれたとおりする」という時期が必要
なんじゃないかと。
楽器習ってたことがあるんですけど、「考えて弾け」「メカニカルになるな」
ってのをいわれるようになったのは、そですね、やはり10歳くらいからだった
ような気がする。それまではただ、「弾いてるとなんだか嬉しい」だけで
済んじゃっててね。
……そか、だからエホ証すんなり*抜けられたのかな。(独り言)。
* でもないんだが、なんか端で聞いてると、PTSDに近いような人もいるんで。
368 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/12 11:37
つづく
とするとだ、
>うん。自分の知っている(と思っていること)、信じていることは、間違って
> いるかもしれない、という可能性を認めるかどうかの違い、といってみよう。>
ここまで踏みこむ必要性はないのじゃないかな?つまり正邪の判断じゃないってこと。
これ正教徒になろうという人間がいうことじゃないかもしれないけど
# 司祭さんはいいますね「ただしいキリスト教は正教だけです!」。あとは寛容な方でもせいぜい近似と
# みている節がある。
「唯一正しいやりかた」じゃなくて「多数ある妥当なやり方」の可能を
認める、とでもいうんだろうか。いや、もしかして、唯一正しい信の
ありようというのがあるかもしれないよ。でもそれ信仰と神学の解釈学的循環の
外で証明できないでしょ?
あといったん個体性を認めてしまえば、ある個体にもっとも適合した
神表象が、他の個体にも適合するかどうかって問題もでてくるだろう。
(この辺、ちとライプニッツ=ヴォルフ的な可能世界論入ってるかも)
というわけで「唯一の正しい」が迷妄であるとすれば、
「間違っている」というのもその裏返しだから、やっぱり外してるって
ことにならない?……石ころだって石ころなりに自己(と世界)を表象して
るんだし:)
369 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/12 11:44
でおわったつもりだけど、そうか、これを云おうとしてたんだと
気がついたのでさらにつづく。
「唯一の正しい」方法を誰が判定するのか、ってのが次に問題になる。
次の主日は正教じゃニカイア第一全地公会の記憶日なんだけど(諸聖神父の主日)、
それこそ「聖神の恩寵によって」ってことにキリスト教じゃなるんだろうね。
でも、これ、端からは必ずしも合意してもらえない、っていう以上に、
直接知を否定する立場からは、キリスト教の側からですら「端的に
正しい・それ以上に妥当するものがありえない」方法は提示できない
ことを含意するんじゃないだろか。
……だから、「もっとも正しいものに近い」くらいしかいえないんじゃ
ないのかな。原理的に。少なくともキリスト教というこの宗教に関する限りは。
# 否定神学うけいれない人――そんなドキュソがいるかどうかしらないけど
# ――は、ちがうこというのかもしれないけど。
あ、私は正教が(人間に赦されている限りでの)もっとも正しい教えだって
ことを毫も疑っておりませんですのでよそさまからの勧誘は御無用。為念。
>信仰と神学の解釈学的循環
帰依というのは生涯の全体と関わってくることなので
罪によって全ての霊の知識にいたることを阻まれている
人間としつこく付き合っていくことを神の側が決意された
という啓示の歴史かと思います。
そうした歴史のなかに立つのは主体的な行為ではなく
むしろ自分の主体から神を主と讃えることにあります。
礼拝(信)の方法に純粋性というものがあるとすれば
それは神の存在に依存し、人の側にあるのは礼拝の状況
だけかと思われます。
(アブラハムやヤコブの礼拝、パウロの牧会の多様性)
形から入るというのは状況の限界のなかでの
一種の謙虚さのなかで展開されるものであり、
少なくとも生涯かかっても判らない事柄に対し
他人の資料を自らの権威の盾にしか思っていないのは
暴力的ともいえる事態かと思います。
>>369 やはり信じるとはそのようなことなのでしょうねえ。
では、
「自分にとっての前提(信じる内容として、それ自体は議論の対象にも疑い
の種にもならないことども)は、相手にとっては前提であるとは限らない」
と理解して、自分とは生きる文化の違う人たちとコミュニケーションできる
かどうか、
という区別ならOK?
>>371 同意。いや前半について私も同意見であるというのではないけれど、
おっしゃることはよく分かり、かつ、私がキリスト教的姿勢をとるとすれ
ば、こういうところだろうと思うという意味で、同意します。
>>372 やっぱりブルネって骨の髄からキリスト教文化のなかで育ってた人なのね:)
キリスト教的な(見えざる神を奉じる/観念的な一神教)信のありようとしては
それでOK。異論ございません。
でも多神教世界にいる人たちは違うんでない?:)
%と某スレ見てても思いませんか?
ヘロドトスは「エジプト人はとくにアテーナーを尊崇し」といい、
タキトゥスは「ゲルマーニーはメルクリウスを特に崇拝する」といった。
ここはキリスト教の特定経典問題にしてるからとりあえずは372でいいとしても、
「信ずる」こと一般に話を及ぼすなら、そういう神把握も現にあることを
前提にしないと有効な議論にならないと思うの。
とくに日本みたいな元来多神教的神把握が支配しているところではね。
多神教のなかのひとつとして数え上げられるので
単純にはコンセプト作りは難しいぞよ。
マリア観音もあり、またサンタクロースも一種の豊穣神か?
結局、信仰のありようというものは人間を主体にしたときには
かなり多様であり、複雑化する傾向にあるように思うし、
教会会議はそうした難関を何度も経験して
信経による一致という道を見出したのだと思います。
パウロが勧める礼拝の秩序とか、タレントの協力体制によると、
教会はキリストの身体として機能するという神秘的な理解が
あったうえで、個人の信仰のありようが問われると思います。
それは使徒が自分の意志によっては疑念や躓きを経験しながら
主イエスの派遣ということで力を得ているのと同じだと思います。
375 :
dendo. ◆Dpy6mDYE :02/06/13 17:01
>>374 > 多神教のなかのひとつとして数え上げられるので
> 単純にはコンセプト作りは難しいぞよ。
もち(はぁと)
そうじゃなくっちゃ面白くないもん。
てか、キリスト教にしか通用しない神概念とか信仰概念とか
そんなしょぼいもんに人生捧げる物好きって、いまどきそうはいないと
思うんだけど、どう?
>>375 >キリスト教にしか通用しない神概念とか信仰概念とか
>そんなしょぼいもんに人生捧げる物好きって、いまどきそうはいない
私の身の周りには結構います…天然記念物…そうかもしれないですね。
私もそうした一面を持っているし、そうでない面も持っている。
もしかしたら神概念とか信仰概念と、社会での善や奉仕ということを
あまり混同せずに取り組むことはあるかもしれません。
結局、人生の捧げ方についても、部屋にこもって思索するよりは行動を伴いながら
転んでは置き、転んでは置き…と繰り返しているのでしょう。
とは言いつつ、祈るときは部屋で一人で祈れ、とはキリストの言葉。
単純にはキリスト教にしか通用しない信仰の理解もあるので
コアな部分と周辺的な事柄との区分けは重要に思っています。
377 :
名無しさん@1周年:02/06/13 19:23
\ フーン /
\ ( ´_ゝ`)≡=-. /
\ U┌/ )□≡=-. /
ウフーン? \ ◎└彡−◎≡=- /
( ´_ゝ`) \ ∧∧∧∧ / / \ \
/ 。)`⌒\_ \ < .> / \ |
/ /_ 。) >、 \ニ-_ \< フ 激 .>/| / |
|__つー-―ヽ、 __,____つ < │ > \ _ フーン ノ
―――――──―――――――< ン し >―――─――――――――
< な >
< 予 く >
/ < 感 . >\ ( ´_ゝ`)フーン
フーン ( ´_ゝ`)y--~~ / < .> \ (( ( つ つ
( ´_ゝ`)( ,,ノ フーン / ∨∨∨∨ \ ),ィ⌒( ´_ゝ`)フーン
( つーo皿 / ( ´_ゝ`)< フーン \ (_(__人__,つ 、つ
(_ ̄)'^◎ / ( ) \
|/(_) / | | | \
◎ / (__)_) \
あげ
379 :
名無しさん@1周年:02/06/14 18:27
;.; :.
::◎.:,:
ヽ|〃
____ .l ̄l___
\ (__) \
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ||
.|| ||
>>1へ。今まで無視しててごめんね。
もう思い出すこともないけど、
お陰で楽しく充実した学校生活だったよ。
君がいじめられるたび、みんなで笑ってた。
今思い返すと、最後の一日がこれまでに
一番、ほんとうに心の底から笑ったよ。
これからは君の分も幸せになるから、
あたたかく見守ってね。
学級一同
380 :
名無しさん@1周年:02/06/20 21:31
晒しあげ
age
382 :
名無しさん@1周年:02/06/24 10:09
地下水
384 :
名無しさん@1周年:02/06/25 13:07
南無
385 :
名無しさん@1周年:02/06/30 14:16
age
386 :
名無しさん@1周年:02/07/05 09:25
サラシ保全
あげ
388 :
名無しさん@1周年:02/07/12 01:07
続編も入れろ
389 :
名無しさん@1周年:02/07/16 23:19
層化さん?
390 :
名無しさん@1周年:02/07/16 23:23
邪典では?
391 :
名無しさん@1周年:02/07/29 04:09
あんさんICFの撲滅戦士かい?
392 :
名無しさん@1周年:02/08/03 02:37
age .
393 :
名無しさん@1周年:02/08/05 09:05
書き逃げ晒しあげ
394 :
ヨハン君 ◆uB/wIgFk :02/08/05 09:47
山本誠一さんご無沙汰してます。お元気そうですね。
dendoさんは正教会なんですね。
ヨハン君は新参者ですか?
396 :
名無しさん@1周年:
ラクガキはなぜ書き逃げして出てこれないのかを
語れ
語れ
語れ
語れ。