1 :
名無しさん@1周年 :
01/11/26 23:10 なのだ?
2 :
ジーザス・クライスト :01/11/26 23:16
じつはー、ぼくー実際には存在しないー へックション あ〜 架空の人物なんですー フィックション あ〜
4 :
ジーザス・クライスト :01/11/26 23:31
このー、はなしはー内緒だよっ
5 :
名無しさん@1周年 :01/12/01 23:09
イエス
6 :
名無しさん@1周年 :01/12/02 00:05
釈迦よりキリストより強いのはマホメットだー、 っていうことらしいイスラムは。
7 :
名無しさん@1周年 :01/12/07 23:07
なるほど
どっちもダメダメ。
9 :
名無しさん@1周年 :01/12/10 23:07
わかった
jesus降臨待ち
比べるようでは、アキマヘン!!!
12 :
名無しさん@1周年 :01/12/11 15:37
この話題、もう飽きたよ。 あと1年位してから、立て直してよ。
13 :
名無しさん@1周年 :01/12/13 07:33
わかった
15 :
名無しさん@1周年 :01/12/15 07:30
わかった
16 :
名無しさん@1周年 :01/12/15 08:32
17 :
名無しさん@1周年 :01/12/17 07:26
がんばれ
キリストも釈迦も日本にお墓があるぞ!二人とも日本で死んだのだ!
世界は一家・じんるいは、皆、キョーダイ〜 へっへっへっ、勿論、オレ様が家の長だーーーーーーーーーーー。
20 :
横山のやっさん :01/12/17 23:31
まくらんかい、まくらんかいっ。 オッ、会長!ささかわのリョーちゃんや、おまへんかっ!ご無沙汰してまっ!
21 :
∴会ちょ―は、 :01/12/17 23:48
いいことを言っていた・・・。 地球をきれいにしよう。お父さん母さんを大切にしよう。 水は命のお母さん、月月火水木金金 しかし土日が無いのはなぜだ?
働け、働けーーーー。国民は、国のドレイどぅわーーーー。
23 :
名無しさん@1周年 :01/12/18 00:16
ばんこ?
・・・。
25 :
名無しさん@1周年 :01/12/19 18:24
わかった
>>21 金曜が週二日もあるとムスリムさんたちが大変なのでは?
27 :
名無しさん@1周年 :01/12/19 19:34
土曜がないとセブンスデーが困るよな
28 :
名無しさん@1周年 :01/12/21 23:21
がんばれ
29 :
名無しさん@1周年 :01/12/23 23:43
うんうん
30 :
名無しさん@1周年 :01/12/25 23:26
よし
31 :
インフルエンザ :01/12/25 23:40
だからー、ぼくはー ヘックション あ〜 フィクションなんだってばー。 ヘックショ〜ン あ〜〜〜
32 :
名無しさん@1周年 :01/12/28 23:30
わかった
33 :
名無しさん@1周年 :01/12/28 23:38
おもんないわ
34 :
名無しさん@1周年 :01/12/31 23:32
がんばれ
35 :
大晦日に再度 :01/12/31 23:34
比べるようでは、あきませんなっ。
36 :
名無しさん@1周年 :02/01/01 00:33
釈迦=人間 キリスト=救い主
37 :
ののみ=娘。 :02/01/01 21:55
./| ̄ ̄ ̄| | │ I. .│ | │ N.│ | │ R.│ │ │ I. .│ヒ〜ン ____ _│_∋oノハヽo∈____ ....../| ⊂ヽ__ ( ;´D`;)_ _ ,,-'つ| .| | ゙ー-- 二二 ̄ 二-- '' ~ .| .| |_______゙ヽ ) )/ ´ _____| .|/______/| i の /..______/ | | | の.i | | / | | | i Y, .| | | | | | | | .| .| .| | | | i .ノ | | / イ/..| | | | // | | | | .|/......| | |( i .| .____| |i し |__ |\. | |し' | \ | \ .\.|_____| \ | \ .\ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | |
38 :
名無しさん@1周年 :02/01/03 23:45
うんうん
39 :
名無しさん@1周年 :02/01/06 01:07
よし
41 :
名無しさん@1周年 :02/01/08 23:20
わかった
42 :
名無しさん@1周年 :02/01/09 00:12
37の割れ目いい。
43 :
名無しさん@1周年 :02/01/10 17:47
そうか
44 :
名無しさん@1周年 :02/01/10 19:33
釈迦の方が偉いに決まっとるわ キリストさん、処女懐妊で生まれたってぇ? ふざけんじゃねーよヴォケ。ヤッたからに決まってんだろ。
45 :
名無しさん@1周年 :02/01/10 23:24
釈迦も脇腹から生まれて、いきなり7歩歩いて、天上天下唯我独尊っていったけどね。
46 :
名無しさん@1周年 :02/01/10 23:25
キリストはすごい、釈迦はえらい。
どっちが偉いって、あほみたい。どっちも偉い。
48 :
名無しさん@1周年 :02/01/10 23:35
どっちも偉いが、差をつけられないか?
ムハンマドも偉い。アッラーも偉い。
50 :
名無しさん@1周年 :02/01/12 00:59
がんばれ
51 :
名無しさん@1周年 :02/01/13 23:43
うんうん
52 :
名無しさん@1周年 :02/01/16 00:48
よし
53 :
名無しさん@1周年 :02/01/17 23:39
わかった
54 :
(*^。^*)/ :02/01/19 04:46
どっちが偉いかなんて客観的な答えが出るわけない。 問題は、その人が何を選択するかでしょ。 客観的真理でなく主観的真理の問題です。 私はキリスト教信者だけど、釈迦を大切にしたいと思う人を否定するつもりはありません。
55 :
名無しさん@一周年 :02/01/19 04:50
馬鹿と切り捨て。どっちもどっちだな。
56 :
名無しさん@1周年 :02/01/20 23:53
がんばれ
57 :
名無しさん@1周年 :02/01/23 01:15
うんうん
釈迦とイエスとマホメットは同一人物なのだ。
59 :
名無しさん@1周年 :02/01/24 20:45
>>58 無視。
>>45 それは弟子や仏教とが作った物語。
釈迦の教えを広めるために、伝記に教えを織り交ぜたのだ。
よって、フィクション。
60 :
名無しさん@1周年 :02/01/24 21:18
age
お釈迦様は世界は自分が造ったとは言って居ない。 キリストは神が世界を創造したと言っている。 やいどっちが嘘つきかはっきりしたろう。(爆)
45は44に対するレスです。
AGE
64 :
名無しさん@1周年 :02/01/26 14:30
お話したいのは釈尊 遠巻きに眺めていたいのはサルバトール
仏教の方が理性的で、心が落ち着く。 キリスト教は盲目的で攻撃的になる。 イスラムもキリストも同じ親を持つ、似たもの宗教。
お釈迦様の教えの方が論理的である。 仏教哲学って言うでしょう。 聖書哲学っての聞いたこと無い。 日本人には合わないとおもう。
67 :
仏教のイメージ悪い〜〜〜 :02/01/26 17:20
でんも、広まるのは、クライストのほうが視聴率的にはたけーんだよなぁ。
キリストの名においてどれだけの人間が殺されたか わからない。イスラムも同じだけど。一神教系は どうしてもこうなっちゃう。何千年たっても今でも 争っている。 そんなの広まったって言ったって 日本で広まらなければ良いと思うが。
69 :
名無しさん@1周年 :02/01/26 17:55
キリストは若い頃仏教を学んだことがある っていう話もあるよね
70 :
名無しさん@1周年 :02/01/26 17:56
キリストは死んで仏様になったらしい
キリスト教から、仏教に転身した欧米人は多いよ。 特に、学者とか頭のいい人たち。
そりゃ、初耳だ。俺も仏教を学ぼうか。
キリスト教は創価学会に似ている。 教えがそのもの。
釈迦は偉いね、でも創価学会なんか釈迦の教えとは全然違うね。 キリストは、イエスという人間のことだね。 彼は、ユダヤ社会を改革しようとしたが、権力者によって、死刑になったね。 その生き方は尊敬できるが、彼が神だというのは、信じない人にとっては、こっけいな話だね。
75 :
名無しさん@1周年 :02/01/27 11:16
>>73 ・とにかく「信じる」ことで救われるのです
・神は「絶対」なんです
・困難を試練として受けましょう「神は子を試される」
これらが同じ性質として上げられるものです。
なんと答えましょう?
76 :
名無しさん@1周年 :02/01/27 11:58
ブッタはインチキくさい
77 :
名無しさん@1周年 :02/01/27 12:15
>76 その根拠は?
仏陀(ブッダ)
どちらもエライ! 釈尊は菩薩道を説きイエスは隣人愛を説いた。ともに愛の道を説いたのでは。 当時の人々に理解できる言葉で。
まあ、あくまで人間と考えるなら、イエスの行動は当時としては、権力者に真正面にたてついたから、立派だし、身体障害者や売春婦やホームレスの方にも、暖かい目をそそいでいたから、尊敬できるね。 それを、神と考えるから、変なのだ。ユダヤ教の方がまともだ。
81 :
名無しさん@1周年 :02/02/01 04:18
よし
82 :
名無しさん@1周年 :02/02/01 04:23
メシアも転輪聖王も似とるけどね。
83 :
名無しさん@1周年 :02/02/01 23:21
わかった
日本テレビ系のジャンヌダルク、今やってるけど、とうとう火あぶりだね。
85 :
名無しさん@1周年 :02/02/03 23:30
がんばれ
86 :
名無しさん@1周年 :02/02/05 23:53
うんうん
87 :
名無しさん@1周年 :02/02/07 23:58
よし
とにかく世界の創造主が神ってのは信じがたいね。 実際誰も信じていないが。 その点釈迦は立派論理的といってよかろう。 宇宙の真理によって存在すると言っている。 だから仏教哲学といわれるのだろう。
89 :
名無しさん@1周年 :02/02/09 22:24
釈迦>キリスト
僕も釈迦がいいや。 イエスキリストも立派な人だと思うけど。 なんていうか釈迦の方が普遍性がたかそう。 あとシャカシャカって並べた時の音もいいし。 こういうのって大事だよね。
>>84 時の権力者によってキリスト教も都合よく利用されたの
ですね。
92 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 07:29
釈尊は「輪廻転生」も「あの世」も「神」も こういうオカルティックな概念は、生きてる人間にとっては 「存在する」とも「存在しない」とも言えない、証明不可能!と 言っている。 つまり神なんてものは存在しないといっている。 これって立派じゃない。!!”
93 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 10:18
>>92 スッタニパータに神様は、いっぱい出てくるし、転生も「これが最後の生」
とかいういい方で肯定してると思うけど。手元にないから引用できない。
94 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 21:08
>>93 確かに仏を守る神成るものはたくさん出てくるようだが、
殆ど後世に作られたもの。つまり仏教の教えをわかりやすく
民衆に伝えるために、できてしまったもの、
説明するために創作されたと見るのが学者の一般的な評価です。
95 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 21:13
シャカもキリストも「愛」を説いたのだろうか。 うちの寺(浄土真宗)の住職はキリストはシャカより人生経験が足りなく、深さに違いがあると説いていた。
96 :
世界宗教者会議 :02/02/10 22:05
比べるようでは、あきまへんなっ。
97 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 22:06
なるほど。 宗教には興味ないけど この歴史上の2人のカリスマを比較すると 何かがみえてくるかも…。
98 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 22:12
キリストは仏教の影響を受けていると言う。 本を見たことがあるが、イギリス人が書いていたのを本屋で見た。
99 :
BUDDAHまたはBUDDHAH :02/02/10 22:35
仏陀はさあ、いやもう少し個人としての人格を明確に するためにゴータマと呼ぶことにするか、とにかくあの人は 偉大な哲学者なのに、後世の愚か者によって宗教の始祖 みたいになっちゃってて残念だよ。 ゴータマは別に宗教なんて作ってないって。あえて言えば一種の 学派みたいのを形成したってとこだよな。 民衆を啓蒙するためだかなんだか知らないけど 下らない逸話やらなんやらくっつけちゃって…。 ということで俺は仏教徒ではないけど、ゴータマは好きだな。 キリストはどうだろ。あえて仏教になぞらえるならば 親鸞とか法然とか、まあ新しい宗派を作った人くらいじゃないの。 ユダヤ教に新しい解釈を加えたって感じで。 その後の影響力では親鸞も法然も比べ物にならんが。
100 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 22:38
あなた良く勉強していますね。・・・・(激賞)
101 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 23:19
>>93 いっぱい出てこないよ。
散文(後世に付加された部分)にちょっと出てくるだけ。
>>94 >…学者の一般的な評価です。
そんなこと言うとまた、「学者は瞑想経験がないからそんな戯言を言うのです。」ってやつが来るぞ〜。
103 :
名無しさん@1周年 :02/02/10 23:53
イエスは菩薩。如来ではない。 皮肉にもキリスト教にイエスは居ない。 仏教を学ばなくてはイエスの素顔を見ることは無い。
比べるようでは、あきまへんなっ。
105 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 07:03
キリスト教は人間に重点置いて 仏教は宇宙と死の論理に置いてるから 違いがでてくんじゃないの?
106 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 07:12
キリスト教はあまりにも人間中心になりすぎ。 いわば世界は人間様の為だけに有るみたいな教えだと思う。 それでこの地球、破壊をほんとに救えるのだろうか。?
お釈迦様はキリストの生まれ変わりでしょ? うちの先生はそう言ってたよ。 で、うちの先生はそのまた生まれ変わりなんだって。
108 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 08:01
仏陀のほうが先に生まれ居るぞ。(藁)
109 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 08:06
で、うちの先生はそのまた生まれ変わりなんだって その言ってる先生は危険人物では、、、、、、
110 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 08:35
>107 ネタだよね? 笑うしかないんですけど
>107どこの宗教?麻原もイエスと釈迦の生まれ変わりみたいに言ってたな。
112 :
名無しさん@1周年 :02/02/11 20:50
カルト宗教は殆どそのような事を言うようです。(藁)
113 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 00:29
あげ!
キリスト教徒ですがその議論は不毛なのでは・・・。 まぁ、それじゃ、面白くないんで意見。 キリスト教は自然という存在に対してそれを動かす神を見た宗教でしょう。 つまり、何かあれば絶対それをしたものが存在する。これは仏教の因果応報に 考え方があると思います。 一方仏教ではその存在についてはぼやけているように感じますが、 キリスト教の考え方にも因果応報の考え方があるためにキリスト教から 仏教を否定する考えは難しいと思います。 でも、僕はキリスト教徒。何となくこっちの方がかっこいい感じがする。ははは。
大峯顕は非公式にだけど 「(後期)フィヒテの絶対者は阿弥陀さんと同じやね」 といったことがある。 114さんでふとそれを思いだしました。
116 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 18:14
>114 キリスト教は神を「外」に求めたから、ある存在に対して絶対服従ということになる。 それが政治権力に利用されたことが最大の悲劇だね。仏教は神を説かないが、それは 「神」と言ったとたんに反射的に皆んな天を仰ぐだろ?人間には神を「外」に求める 悪い習性があるから、それを恐れて釈迦は「神」の存在についてはノーコメントを通した。 仏教では原則として神を「内」に、もっと正確には「外も内も超越したところ」に求める。 釈迦の教えは「おのれ自身こそ、おのれの寄る辺」で、形あるものを一切拠り所にするな というのがポイント。神という大海の一滴である自分を自覚し、それに従うということ。 イエスもまた「神の支配」という言葉で同じ境地を説いているんだけど、いかんせん、 早死にしすぎたし、残された弟子どもがボンクラすぎた。
117 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 18:56
>釈迦は「神」の存在についてはノーコメントを通した。 神も悪魔も仏典にでてくるけど?
>>117 仏典に出て来る神は、造物主じゃなくて、人間と同様に輪廻転生から免れない
存在です。バラモン教の神などを教義に取り入れていった結果でしょう。日本
で、天照大神を大日如来の化身としたのと同じ原理です。
119 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 19:37
ていうか、釈迦はバラモンの全否定のうえに、仏教を構築したとは 思わないので(おかしくなっている所を批判したり、バラモンの師 に導いてもらえなかった境地に自力で達したりはしたけど)、 取り入れたという表現はちょっと疑問。
>>119 「取り入れた」のは釈迦じゃなくて、後世の弟子達でしょう。他宗派との論争の度に、
自分達の優越性を確保するため、「辻褄合わせ」の修正を加えていった。私自身は確認
したわけではなく、孫引きになるが、阿含経ですら釈迦の時代にはなかった貨幣とか文書
の話が出て来る。酷いのになるとアショカ王の名前すら出て来る。これらは、後世の人間
がどんどん経を書き足していった証拠です。
手を加えたっていうのは、もちろんあると思うけど、スッタニパータだと18の句で もう神ってでてくるんだよね。33で悪魔、86で神々・・・と続々でてくるわけで、 スッタニパータは仏典じゃないってぐらいに言わないと、釈迦の世界観と「神」 っていうのを切り離すことができないと思うわけ。 で、それらが「輪廻転生から免れない存在」っていうのは同意するよ。梵天は造物主 っぽいけど、実はこの方も無常なのだとオレは思ってる。
122 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 21:05
「あら〜」が、いちばん偉いに決まっているだろ〜が!
123 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:02
世尊が神を語らなかったのは神を語るには 神の言葉が要るからだ。凡人には理解できない。 イエスの神は弘法の説く大日如来に近い。
124 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:15
こども「おばあちゃんはどこに行ったの?」 お母さん「おばあちゃんは天国に行ったのよ。」 この場合、お母さんは必ずしも「天国」が実在しているとは思ってないでしょう? いわゆる「方便」ってやつですね。 仏教における「輪廻」の問題もそういうことだと思う。 当時のインドでは「輪廻」は、当り前のこととして信じられていた。 そのため仏教でも、「輪廻」に対して何らかの回答が求められていたと。 それに対して「輪廻は迷いである」という回答をしたわけ。 最終的に仏教では「輪廻がある、ない」の囚われから解脱する。 「神」の問題もまた然り。
125 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:21
極楽へ行ったんでしょう。!
う・う・う・キリスト教徒には分からんチンの会話・・・。 やっぱ、自分に馴染みがないとわかんないってことなのかな。 やっぱり、その偉い偉くないというのは自分が育ってきた価値観の 中でであって、それ以外では決して無いと思われる。 まぁ、こういうと議論の仕様がなくなるんだけどね。 だって、僕は仏教わかんないから仏陀に敬意は示すけどどれくらい偉いのか わかんないし。 だれか、バイリンガルみたいにバイ宗教の人っていませんか? でも、それはそれでどっちの宗教も分かっていないんだろうが・・・。
127 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:31
>>124 釈尊に同じ事を聞いたらなんと答えると思う?
如来に都合の良い方便は無い。
それはキリスト教だ。
128 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:35
キリスト教では世界の地球の環境問題は解決しない。
129 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:38
輪廻を頭から信じてる人に対しては、輪廻がある事を前提に世の理を説いたと思うが。 なぜなら、仏教が目指す所は輪廻があるないに関わらないから。
130 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:42
仏教の真理は、真実を求めて、真実に生きん。 です。したがって輪廻などはあまり興味が無い。 かえって邪魔である。
>輪廻を頭から信じてる人に対しては、輪廻がある事を前提に世の理を説いたと思うが。 で、輪廻を頭から信じている人に対して、輪廻があることを前提に話しをしていたとしても、 輪廻を肯定しているわけではないわけ。
132 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 22:54
輪廻っつーのはあれじゃないのか。 インドだと雨期があって乾期があって、 花が咲いて、散って、一年たつとまたそこから草が生えて、 という自然界の生命連鎖のサイクルをイメージしたモノなのじゃないの。 一神教って砂漠とかキッツイ環境で発生しているから、 「死んだら砂漠の土に帰る」って感じになるんだと思う。 何かアホっぽい書き方でスマン
133 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 23:19
理趣経は良く出来たお経だが世尊が居られたら完全に否定する。 キリスト教の到達点は所詮理趣経。イエスはまた別だが。
134 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 23:46
>>133 具体的言うとどういう事?
おせぇーて。
135 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 23:49
輪廻が幻影の世界の仕組みならば、それを知ることは別に邪魔じゃない。 仏教の体系的把握にもつながる。興味ない人は別にいいけどね。 んで、段階があるわけで。仏教に辿り付いたものでも、今生で煩悩全部 落として涅槃なりなんなりできるほどの機根のある者がどれだけいる? 六師外道が全員、輪廻を説いていたっけ?非輪廻を受け入れる人は当時もいた。 輪廻ないし転生を抜いたら、さらに神、悪魔など抜いたら、スッタニパータは スカスカになるぞ。 519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、 よく心をしずめ持(たも)って、みずから安立し、輪廻を 超えて完全な者となり、こだわることのない人---このよう な人は<バラモン>と呼ばれる。
136 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 23:55
>>135 だからそれは概念だちゅーの。
全然スカスカにならないよ。
輪廻とかそういう囚われから解脱することを薦めてるんだよ。
>>116 >イエスもまた「神の支配」という言葉で同じ境地を説いているんだけど、いかんせん、
>早死にしすぎたし、残された弟子どもがボンクラすぎた。
遅レスだが、おおむね同意。
早死にしすぎたとか、弟子がボンクラばっかだったというのもあるが、
やはり何といっても生まれた土地が悪すぎた。
ユダヤ教徒が釈迦のような境地に至ったイエスを理解できたとはとても思えない。
きっと誰からも理解されなかったのだろう。
だから福音書を読み解くのはどうしても謎解きのような作業になってしまう。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ 17:20-21)
「神の国はあなたがたの間にある」とは、あまりにも仏教的な言葉ではないか。
138 :
名無しさん@1周年 :02/02/12 23:58
139 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 00:14
>>13 >輪廻とかそういう囚われ
輪廻に言及することがとらわれではない。四諦を口にすることがとらわれか?
141 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 00:38
>>135 仏教の中核(空、四諦、八正道、三宝印、縁起)は、輪廻、転生、神、悪魔、これら無しに成立する。
ゆえにスカスカにはならない。
ほいさ、 初期の仏教教団では、教えの中心はニルヴァーナに達することであったが、 在家の信者に対しては主として「生天」の教えが説かれた。 道徳的に善い生活をしたら天に生まれるという教えである。 施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本柱であった。 この天の原語はいろいろあるが、いずれも単数形でのみ用いられている。 すなわち、天は一つであって、[後代に現れたような]天の細かな内容規定や、 階層的な区別はなかったのである。誰でも能力に応じて布施を行い、 道徳的に善であれば、死後に天におもむくとされたのである。 この天の思想は、仏教独自のものではなく、当時のインドの一般民衆の信仰であって、 仏教はそれを教義の中に取り入れたのである。 ただ、仏教では、この世界に対してどこかに空間的に存在する天を考えたのではなく、 あくまで、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、 一般民衆は俗信のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていたのであろう。 ・・・後世の大乗仏教における浄土の信仰は、この天の思想の発達した形である。 浄土もまた、絶対的な境地を表現したものであり、彼岸とは完成を意味することばであったが、 天の場合と同じく、一般民衆には、死後の理想郷と受け取られたのである。 (『仏教語大辞典』、東京書籍、昭和58年発行、979頁)
144 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 00:56
>>141 いやいや、スッタニパータから、それが書いてある部分を、実際に
切り取っちゃたらていうこと。スカスカという表現が妥当かは
置いといて結構切るとこあるぞということ
>>144 そういうことか。
それはしょうがないんじゃない。
スッタニパータは、詩(うた)であって、論文じゃないんだから。
で、表面的には切るところがあったとしても、内容的には切れないと思うよ。
何を言いたのかということを考慮すれば、スカスカになるとは言えないよ。
146 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 01:06
>>143 中村さんの解説かや?別に民衆の間に流布していたものが真実でないとは言えんだろうに。
コピペ
「ていうか、釈迦はバラモンの全否定のうえに、仏教を構築したとは
思わないので(おかしくなっている所を批判したり、バラモンの師
に導いてもらえなかった境地に自力で達したりはしたけど)、
取り入れたという表現はちょっと疑問。
>>146 いや、
>>143 は、至極もっともなことを言ってる。
どこかは忘れたけど、スッタニパータに、
「…このような人は、幸せな世界を体現する。」とかいう詩があって、
「幸せな世界(天?)」というのは、どこか別の場所にあるわけではないことを示唆していた。
これは禅の悟りにも通ずる。
「極楽とは、どこにあるのでしょうか」
一休宗純
「極楽は、西あれども、東にも、来た(北)道探せば、皆んな身(南)にある」
(真の幸せの世界とは、どこか他のところにあるのではなく、今ここにある)
また、浄土仏教の「娑婆即浄土」にも通ずる。
また、キリスト教でも似たようなことを言っている。
>>137 から
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ 17:20-21)
>>145 そう、論文じゃない。体系的じゃないからこれだけで修行するのって
やりにくい。で、体系的な経典が編まれ、スッタニパータで、漠然と
していた、天、阿修羅とかがはっきりしてくるわけで。教えの理解の
ために世界観を確立することは、別におかしいことではない。
つーことでに輪廻にする言及することが、即、とらわれであろうか?
輪廻があってもなくても仏道修行にはなんの関係もないと思うんだが。
あくまで中核は、空、四諦、八正道、三宝印、縁起であって、輪廻、転生、神、悪魔、は飾り。
で、その飾りに拘ると、飾りが中心になっちゃう。 言及というか、あるとかないとか言い出すとそれが即ち囚われ。 なぜなら、そのような形而上学的問題は、人間の知識領域を越えた問題であり、 真実としてとらえられないのであるから。
もう寝る。
>>147 >幸せな世界を体現
ニルヴァーナのことじゃないですか?じゃなくても、すでに人間の煩悩を切って
あるいは天界にいけるだけの徳があったら、人間界にいても天界みたいなもんで。
んで、身が壊れてから、ほんとの天界にいくわけで。
極楽って欲の天界だと思ってないんだけど。浄土もそう。輪廻と涅槃が同一という
密教系的概念は多少知っているから、別におかしくは感じない。ルカはなー、
ノーコメント。
>>151 だから別にこだわってないっつーの。スッタニパータを素直に読んでるだけ。
>輪廻があってもなくても仏道修行にはなんの関係もないと思うんだが。
教義の有機的?理解は煩悩を切るのに役立つと思うが?ほったらかしじゃ
なくて切り込むやり方を取得しようとおもってるでな
輪廻はチベットがしっかり説いてるぞ。
あと、一切皆苦とかいってだな、思いっきり執着しあってる夫婦に
どう接するんだ?わかっちゃいるけどやめられない人たちに何を言うんだ?
155 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 09:09
>>154 >あと、一切皆苦とかいってだな、思いっきり執着しあってる夫婦に
>どう接するんだ?わかっちゃいるけどやめられない人たちに何を言うんだ?
それは、「一切皆苦」が自分の体験に裏打ちされたものでなくて、単なる形而上学
的な言葉にすぎないからでしょう。キリスト教でいう「原罪」と大なり小なり似た
ような、「メロドラマ的お涙頂戴」の代物。こたつでせんべいをばりばりカジリな
がら、ひとときの「感動」に酔いしれる。そんなものは宗教ではない。
執着するカップルにも、必ず倦怠期が来るし、その時には「一体自分は相手の何に
そんなに恋焦がれていたのか、自分は盲目だった」という後悔がある。その時にこそ
「一切皆苦」の意味が納得できる。仏道を歩めるのはそこからです。イエスも福音書
で、罪人や売春婦の方が先に天国にはいる、と宣言していますが、これも同じ理由から
です。罪を実体験を通じていやというほど自覚し、後悔した人に対してのみ、宗教の門
が開かれるからです。これは仏教でもキリスト教でも同じ。
強烈なる悔悟なき宗教は、所詮、メロドラマ。
156 :
メフィストフェレス :02/02/13 09:50
私にとっては、どちらも偉くない。 金と快楽を与えてくれるなら、いくらでもついて行きます。
157 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 10:16
>>155 なんか噛み合わんな。
>執着するカップルにも、必ず倦怠期が来るし、その時には「一体自分は相手の何に
>そんなに恋焦がれていたのか、自分は盲目だった」という後悔がある。その時にこそ
>「一切皆苦」の意味が納得できる。仏道を歩めるのはそこからです。
だから段階があるんだって。倦怠期に入る人もいれば、初期の燃え上がるような
情熱とは違うかもしんないけど、とらわれから脱却できない人だっている。
仏道を歩めるのはそこからっていったって、1生でスパっと終わらせることができる
人がどれだけいるよ?仏道っていうぐらいだから、途中の道程があるわけよ。
涅槃はキーであっても、キーだけで全体が構成されてるわけじゃないんだぜ。
>>157 それは、あなたの説いている涅槃が形而上学上の産物だという証拠だよ。
釈迦は、苦からの脱却を説いた。だから、苦を自分のものとして体感している
人にしかわからないよ。自分以外の誰が「一切皆苦」を教えてくれるわけ?
仏教にあるのは「抜苦与楽」。それ以外はない。
159 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 10:42
>>158 「それは」ってどこにつながるんだよ。わかりにくいよ。
形而上っていうか自分の体験、世間にたいする洞察がないのはあなただと
思うが。倦怠期にはいりゃ、男女の執着から脱却できると思うか?ま、
できる人もいるかもしんない。が、多くはまた魅力的な異性があらわれたら
とらわれるんだ。で、そういう人達を仏教は見捨てないのさ。
釈迦が成道して、一度法をとくのを躊躇する。真偽はともかく仏典上の
表現としてだ。で、それは法が理解されがたいものであったからだろ?
機根のある人には、究極にいたる法をとく。そうじゃないものには、途中
の段階の法をとく。全部ひっくるめて仏教だ。
>>159 >倦怠期にはいりゃ、男女の執着から脱却できると思うか?ま、
>できる人もいるかもしんない。が、多くはまた魅力的な異性があらわれたら
>とらわれるんだ。
それで満足している人には仏教なんて不必要でしょう?現に、世間の多くの
人はそうなんだけど。仏教の根本が「四諦」である以上、「苦」を実感しない
と何も始まらない。釈迦は、あれこれ理屈を捏ねずに体にささった矢を抜けよ、
と諭したので、「何、俺のどこに矢が刺さっているって」と返答する人には絶句
するしかなかっただろう。
>機根のある人には、究極にいたる法をとく。そうじゃないものには、途中
>の段階の法をとく。全部ひっくるめて仏教だ。
もちろんそうだが、いかに方便であっても欲望充足であってはならない。
欲望からの解脱、欲望がもたらす「苦」の自覚でなくては仏教ではない。
161 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 11:54
>それで満足している人には仏教なんて不必要でしょう? な、ことはない。仏教的システムにある程度乗っかって生活してる国だってある。 それが悟り・解脱に直結しないのは事実だけど、その苦の自覚ができたとして そこに仏法がなければ、仏教は実践できない。単に積徳から天界転生をいってる んじゃなくて、仏(法)との縁が重要になってくる。 矢を抜くだけの機根のある人には、議論してないで、矢をぬけっていうさ。人生は短い。 実際矢の話の対象は出家者だろう。ぬく能力のないひとには、それに応じた法があるの。 欲望の肯定なんて言ってないし。
>161 >仏教的システムにある程度乗っかって生活してる国だってある。 仏教的システムと仏教とは別物だと思いますけど。「四諦」を離れた仏教があると おっしゃるなら、私としては「私の目からするとそれは仏教ではない」と申し上げる しかありませんね。
163 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 12:33
別もんじゃないよ。何回も言ってるのは、段階があるってこと。 精髄だけをやるのはいいよ。別に。 ただ、精髄じゃない部分も含めて仏教なの。
164 :
名無しさん@1周年 :02/02/13 14:12
>>148 >>159 途中の人には、(途中の法)方便として輪廻やら神々やらを説く。
それが後世に体系化されて世界観が確立したと。
>>163 具体例を挙げましょう。念仏宗は、架空の存在である阿弥陀如来の誓願にすがって、
極楽往生すると教えます。だから、これは方便の仏教です。しかし、念仏を始める
動機というのは、親鸞さんが悟ったように、人間というのは悪とわかってもそれが
やめられない、自分の力ではどうしようもない、という「我の放棄」の面があるの
です。「苦」の中でもがき苦しみつつ、もはや自力に見切りをつけて、他力にすがる。
妙好人才市の歌を読んだことがありますが、彼の境地は自他の区別を超えていて、
禅僧の境地にひけをとらない。自力とともに「我欲」も捨て去るからです。こういう
信仰ならば、方便の教えと言いつつ、ちゃんと仏教の「四諦」を実践することになる
ので、仏教のひとつと言えるでしょう。
一般の日本人のように、仏教は死んだ人の追善供養のため、なんて思っている内は
ちっとも仏教じゃない。釈迦の時代、バラモン教で血道をあげていたことで、それを
釈迦は否定したから仏教が始まったのではないか。死後の魂の供養がメインになったら、
立派な「断見」外道です。段階なんてものじゃない。反仏教ですよ。
166 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 14:13
死んでから始まる宗教なら仏教ではないが 家人が死んだときに戻る場所なら仏教といえる。 世尊との繋がりではなく遍照金剛の誓い。 地蔵菩薩の祈り。日本仏教は特殊。
167 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 17:33
>>165 根本的なところを抜いて仏教じゃないのは、あたりまえ。親の面倒をみることを言ってる
場面もあるけど、それだけを抜き出したら、「世界は一家、人類は兄弟」のおじさん
がいってることと変わりない。人間は中心となるべき背骨があるわけだが、背骨だけが
人間じゃないし、筋肉だけとりだして「これが人間だ」というのも変。
「仏教は死んだ人の追善供養」なんて突然ださないで。いわゆる仏典にかいてある
ものがすべて真実なんて思っていない。なにが真実かを考える時、体系的に捉える
ことが役にたってくる。大乗でも密教でも釈迦の教えが基本となるべきで、応用は
あっても、あっちとこっちが矛盾してたら、あやしいと考えるべきだろう。
>死後の魂の供養がメインになったら、立派な「断見」外道です。段階なんてものじゃ
>ない。反仏教ですよ。
そりゃそうだよ。途中の段階は途中の段階、低級な法として捉えることが、全体として
体系的に捉えるということ。
うっかりして間違ってしまった。
>>165 の「断見外道」は「常見外道」の誤り。
「断見外道」:人間は死んだら終わりという唯物論。
「常見外道」:死んだ後の世があると考える。一般的に、今の内に供養を積んで地獄へ落ちずに
天国へ行こうとする信仰にはまる。
どちらも仏教ではない。どちらも釈迦が否定しているからね。どうしても、と言うなら、「もぐり
の仏教」位の自称は許してやってもいいぞ。
169 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 18:30
どんぞ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~pali-bud/dhamm4mj.htm 011:{thag_0304} na hi dhammo adhammo ca ubho samavipaakino ;
adhammo nirayamz neti , dhammo paapeti suggatimz . // 304 //
|{thag_0304} 正しいことと正しくないこととの両者は、等しい果報
をもたらすものではない。正しくないことは人を地獄に導き、正しい
ことは善い境界(天上)に達しめる。@
112:{s_102_b03_c03_$05_n15_g5} yo dhammacaarii kaayena //
vaacaaya uda cetasaa // idh-eva nam pasamzsanti // pacca sagge
pamodatiiti13 // //|{s_102_b03_c03_$05_n15_g5} 身体により、
言葉により、心による、法にかなった行いをなす人を、この世では人々が
賞賛し、死後には天界で楽しむ。と<中村注>なし<前後無用>@
170 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 18:30
509:{s_034_b01_c05_$09_____g8_0}_8 ye dha laddhaa manussattam // vadanwnwuu viitamaccharaa // buddhe pasannaa dhamme ca // sanqghe tibbagaaravaa // ete sagge pakaasenti11 // yattha te upapajjare12 // //| >>>> s_035_b01_c05_$09_____g9 < p . 35 > sace enti manussattamz // adzdzhe ajaayare kule // colzamz pinzdzo ratii khidzdzaa // yatthaakicchena1 labbhati // //| >>>> s_035_b01_c05_ $09_____g0 parasambhatesu bhogesu // vasavattiiva modare2 // ditztzhe dhamme sa vipaako // samparaaye3 ca suggatiiti // //| {s_034_b01_c05_$09_____g8_0} この世で、人たる身を得て、気前よく わかち与え、ものおしみをしない人々が、仏陀と真理の教えに対して、 信仰心あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっているなら、 彼等は天界に生まれて、そこで輝く。もしも人間の状態になっても、 裕福な家に生まれる。そこでは、衣服食物、快楽、遊戯が労せずして てには入る。また(来世には)他人の蓄えた財物を他化自在天のように、 喜び楽しむ。現世ではこの報いがあり、死後にはよいところに生まれる。
>>169-170 カン違いしちゃ困るな。仏教では決して来世を否定していない。来世を否定するのは
断見外道だ。しかし、来世を肯定もしない。なぜならそれは来世に囚われて常見外道
になるからだ。釈迦は、過去や未来のことはどうでもいい、ひたすら今「四諦」を
行じて苦を脱せよ、と説いたのだ。
サクルダーイよ、本当に清浄であって超人的な天眼によって、
有情の生死を見、貴さ、卑しさ、美しさ、醜さ、善趣、悪趣を見、すなわち、
『これらの衆生は、身口意の悪行を具え、聖者をそしり、邪見を抱き、邪見のカルマを積んだ。
そのため、その身が壊れ、その命が終わってからは、
悪しき生であり、悪趣であり、随処である、地獄に転生した。
諸賢よ、身口意の善行を具え、聖者をそしることなく、正見を抱き、正見のカルマを積んだ。
そのため、その身が壊れ、その命が終ってからは、善趣である、天界に転生した』と、
カルマに従って、有情を知る人がいるとして、その人が私に未来に関して尋ね、
あるいは、私が彼に未来に関して尋ねたならば、
彼は私に未来に関する質問を解答して心を満足させるであろうし、
あるいは、私は彼に未来に関する質問を解答して心を満足させるであろう。
したがって、サクルダーイよ、
過去に関してはしばらく置いておくがいい。
未来に関してはしばらく置いておくがいい。
それでは、私はあなたに法を説こう。
『あれがあるとき、これがある。あれが生じることで、これが生じる。
あれがないとき、これがない。あれが滅することで、これが滅する』と」
(サクルダーイ小経)
それに、169-170で説かれているのは、在家信者に対する心得だよ。
(補足) 釈迦の時代、バラモン教が主流で、一般人は皆、輪廻転生や因果応報を信じていた。 こういう人が釈迦に対して「死んだ後に天界に生まれるにはどのような生活をしたら よいのでしょう」と質問しただろう。釈迦は対機説法の名手だから、相手と同じレベル に立って、169-170のような答え方をしただろうね。
173 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 18:56
釈迦がちょくで否定している常見外道って六師外道のどれかのこと?
釈迦って来世の否定、肯定はしなくても他の思想の否定はやらかしたの?
175 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 18:59
>それに、169-170で説かれているのは、在家信者に対する心得だよ。 だから、途中の法といっとろーが。
先に生まれたほうです。あとから出てきたのは、真似っこです。
177 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 19:04
.
>173
六師外道はちょっと違う種類だと思う。以下、引用。
釈迦牟尼の時代に六つの宗教があった。
第一に、非業論を説くプラーナ・カッサパの教団。
第二に、輪廻浄化論を説くマッカリ・ゴーサーラの教団。
第三に、唯物論を説くアジタ・ケーサカンバラの教団。
第四に、本質不変論を説くパグダ・カッチャーヤナの教団。
第五に、禁戒を説くニガンタ・ナータプッタの教団。
第六に、詭弁論を説くサンジャヤ・ベーラッティプッタの教団である。
>175
文盲ばかりの大昔じゃあるまいし、
>>171 の日本語をわからん人などおるまい。
それならなぜ正攻法で行かずに、わざわざわき道に逸れるのか理解できんよ。
それを許すから、クソ坊主が先祖供養をダシにして金儲けするんじゃ。
>173 六師外道は以下の通り。 第一に、非業論を説くプラーナ・カッサパの教団(悪いことしても報いはない) 第二に、輪廻浄化論を説くマッカリ・ゴーサーラの教団(どうせ、善も悪もすべて経験した 後に涅槃に入るんだから、自然にお任せ) 第三に、唯物論を説くアジタ・ケーサカンバラの教団(これは断見ですね) 第四に、本質不変論を説くパグダ・カッチャーヤナの教団(変わるのは状態だけで、すべて のものは不滅と説く。常見に相当。) 第五に、禁戒を説くニガンタ・ナータプッタの教団(罪を犯さないことだけに熱心な、善行 には積極的でない、ネクラな律法主義者) 第六に、詭弁論を説くサンジャヤ・ベーラッティプッタの教団(いわゆる野弧禅の境遇)
あらら、二重投稿になっちまった。六師外道については179の方を見てね。 さっき読み直してみたら、第三と第四が「断見」と「常見」に相当するようだ。
181 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 19:34
ところで、 観音は菩薩だから、如来の釈迦の方が偉いと思うけど、 同じ如来の釈迦と阿弥陀とではどっちが偉いの?
阿弥陀如来は、後世の人が書いた仏典に登場するので、フィクションだな。強いて 言うなら、阿弥陀様は人々の心の中に生きている。如来になった以上、差別はない。 滴水が大海へ帰ったようなもの。
183 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 19:44
>>182 じゃあ、やっぱり「浄土宗」や「浄土真宗」は異端なんですか?
死に際に、
「唐土我朝に、もろもろの智者達の、沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
また学問をして、念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。」
なんて言う法然なんて破門しないといけませんね。
185 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 19:50
体系的に理解することなくちゃんと批判しないから、「先祖供養をダシにして金儲け」 する輩が跳梁跋扈するんだ。 >しかし、来世を肯定もしない。なぜならそれは来世に囚われて常見外道になるからだ。 途中の、低級な法と捉えることが肯定かっつーの。 116の「神の存在についてはノーコメント」っつーカキコのながれから来てるのが わからんか?神、輪廻について書いてるんじゃないか。サクルダーイはもともと 修行者で、しかも弟子もち。大経と小経があるけど、一発で釈迦の話を理解している。 そこらの在家と一緒にはできん。 あと理解できることと、実践できることは違う。
>183
いや、私はそのようには思わない。私の見解は
>>165 に書いた。六字に没頭
することで、禅の修業と同じような原理で無我の境地に至れるのです。実際、
念仏と禅を双修していた禅師は多い。元をたどると、天台宗あたりかららしい。
法然さんは本当の聖者だったと思う。彼の書いた文章からは菩提心の後光が
差しているよ。もちろん、私は浄土宗じゃないけどね。すごく尊敬している。
>>185 実践って、そんな難しいことじゃないと思うが。
キサーゴータミーのように、「無いものを求めること」の虚しさを悟ればいいのさ。
日常生活を離れて仏道はないよ。あなたも仏道を歩むひとりなら、他人の過去の言動
に突っかかって、無駄な議論を続けるのをやめたら如何?
189 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 20:19
>実践って、そんな難しいことじゃないと思うが。 覚者だったのですね。失礼しました。 過去の言動とは116のことですか?それに関する私のカキコに横レスしてきた 人に反応していただけですが? 議論したくない、あるいはやめるべきだと思うなら「他人の過去の言動に突っかか」るとか、 「無駄な議論」(ご自分がそれに加わっていたはずですが)とか中傷してないで、自ら、回線 きればいいだけのことです。
190 :
名無しさん一周年 :02/02/14 22:03
盛者必衰 会者定離。 これ仏教の教えの一つ。 キリスト教には無い教えなり。
191 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 22:27
>>190 現在キリスト教として知られていることの多くは
イエスを滑稽にパロディ化したものだよ。
そしてイエスはこうなることを知っていたのさ。
本当にイエスが神を恨み、墓の底から蘇生してきたと
考えているのか?
本当のイエスの横顔に触れたときイエスは
魂の主としてその人の心の中に鮮やかに蘇る。
イエスに生物としての再臨しか認めない御仁は
天なる神からの祝杯を拒むものだろう。
もっとも仏教の徒に何が解ると言われるかも試練が。
192 :
藤野なんだけど :02/02/14 22:27
藤野なんだけど。最近やっと風俗ONLYの生活から抜け出れそうなんだけど なぜならんだけど!!女ができたんだけど。長年の妄想オナニー生活から抜け出るんだけど 青学入学以来軽く100以上の女で抜いたんだけど。四角い顔をチェケラッチョンだけど。 まだ厚木だから新入生の諸君は僕に挨拶しろんだけど。ギャグじゃないんだけど!
193 :
名無しさん@1周年 :02/02/14 23:42
「途中の人には途中の法(方便)を説くんだから、それはそれでいいんだ。」 と言うが、方便って言ってみれば嘘なわけで、俺は途中の人だが、 嘘と分かっててそれを信じることは俺には出来ない…
ん、途中の人とは、途中の法の実践者ということではないのか? 愛情、性欲、その他一切の煩悩と正面から取り組むことができるならやればよし、 そうでないなら、できるとこから、やるしかないだろう。もちろん、四諦とかの 根本法則を意識しながらね。
195 :
プロテスタント改革派 :02/02/15 00:24
キリストは自ら自分を神という意味のことを言っていましたが、釈迦は後世の人々によって勝手に神格化されたものです。 そもそも仏教は宗教ではなく哲学だったはず。 キリスト教徒にとってはキリストの方が偉いってことになるけど、仏教徒にとっては、キリストと釈迦とどっちが偉いか?という疑問そのものがナンセンスでしょうな。
哲学ってどういう意味で使っているのですか? 一応仏教は三大宗教とかに含められたりしますが。
>>196 もともと哲学だったのは本当。それについては異論無し
>>197 ほんまでっか。
(1)世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。
という意味で哲学とかいってたらですね、考えるっていうのが入ってきますよね。
仏教には、そういう思考を超越する段階ってあると思うんですけど。
そもそも仏教には、神秘主義はなかった。 もっとも顕著なのは大乗仏教の方で、後世の後付が多いのだ。 だからって否定できるもんではないが。。
200 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 00:47
200もーらい!
神秘主義があったら、宗教なのですか? 話が116ぐらいのところに戻りますが、神、悪魔は初期の仏典から出てきますよ。 それはいいとして(非想非非想処定)とか(滅想受定)とかを哲学の範囲で 語ることができるのですかね。
202 :
プロテスタント改革派 :02/02/15 00:58
>>201 上座部仏教と比較したらわかるんじゃない?
俺はよくしらんけど、その漢字だらけの概念や、釈迦にまつわる多くの伝説は、上座部とほとんど一致しないはず。
>>202 原文がみつからないのですが、大パリニッバーナ経(けっこう古い
経典だと思うけど)より。
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan06.html そのとき尊者アーナンダは尊者アヌルッダにこう言った、
「尊いかた、アヌルッダよ。世尊はニルヴァーナに入られました」
「友アーナンダよ。世尊はニルヴァーナに入られたのではありま
せん。滅想受定に入られたのです」
~~~~~~~~
>釈迦にまつわる多くの伝説
神や悪魔のことですか?最古の仏典の一つといわれるスッタニパータ
にたくさんでてくるというのを上の方にかきました。
204 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 01:47
>>203 もいっかいスレ読み直せ。
ちなみに大パリニッバーナ経は(原始仏典の中では)それほど古くない。
>もいっかいスレ読み直せ。 どういう意味でっか? >ちなみに大パリニッバーナ経は(原始仏典の中では)それほど古くない 「上座部とほとんど一致しないはず。」に対応するものですから、これぐらいで 十分だと思いました。
まあ、これは独善的な仏教史観になるんだけども。友松円諦師などの意見を参考にする と、以下のような感じになると思う。 1.釈迦の時代:病に対する療法、という感じで、もっぱら「苦」からの解脱を説いた。 何ら難しい教義などなく、理屈よりも実践が重んじられた。神や悪魔などについても (恐らく)ノーコメントだった。釈迦の説法の内容は、法句経に見るような、生活に 即した単純明快なものだったろう。 2.釈迦の死後:結集後、釈尊の説法の内容が文字化すると、上座部はその言葉の意味 ひとつひとつに囚われ、解釈をほどこし、アビダルマ哲学という無用の長物を生み出す。 涅槃という概念も、釈迦の時代よりも拡大解釈されるようになり、とても今世限りの 修行では到達できない高嶺の花になってしまう。一方、在家は仏塔や仏舎利信仰に堕し、 「常見外道」に陥ってしまう。 3.大衆部の巻き返し:釈迦の心を取り戻すべく、二つの運動が起こった。ひとつは、 もはやオウム真○教のような修行三昧で、利他心を忘れてしまった上座部に対する もので、阿弥陀如来という利他心のかたまりのような、釈尊の弟子の理想像を掲げた。 もうひとつは、「常見外道」を改めるために空の思想が説かれた。ただし、般若心経に あるように、上座部を批判するあまり「四諦」まで否定したのは勇み足であった。 4.大乗仏教の形骸化:阿弥陀如来が今度は偶像化し、仏舎利の代わりに盲信されること になった。つまり、再び仏教は「常見外道」に堕した。以来、現代に至る。 たとえ初期の教典でも、結集の時期には2.の過程が進んでいたのだから、玉と石は取り 分けないといけないと思う。そのうち紹介すると思うが、キリスト教も同じような堕落 の歴史を辿っているのが面白い。
仏典を素直に読むとき、眼前にどのような世界が広がるか、 それを西洋人の書物で確認してみよう。 ヘルマン・ベック『仏教』 「仏教には神秘的要素が内在しているので、人類の太古に根ざす 神秘的傾向がつよく生きているような民族に対しては、仏教は特 に魅力があった。とくにチベットで仏教が独自の形態をもち強力 になったというのも、そういうわけである。 野蕃の状態にあった諸民族は、生きとし生けるものに対する哀れみ を説く仏陀の教えによって柔和な礼節をおぼえ、精神生活が向上した。 仏教は一面においてはいま述べたように、神秘的要素として、遠く 人類の過去にさかのぼるものを含んでいるが、また他面においては 「哀れみと慈しみの福音」という特徴という点ではキリスト教の先駆 と見られる。・・・・・・
(続き) たいていは、仏教は合理主義の体系、「無神論の道徳哲学」であると 言い、近代の有力な世界観とすぐにも調和し、この意味で、西洋の 思想の展開において宗教の代用につかえるものだと考えている。この ような見解は仏教の本質を誤解するもはなはだしい。」 と、まあこんな感じである。ま、妥当だろう。で、普通に読めば、 そう読める仏典を、仏教から「神秘的要素」を排除したいと願う「仏教徒」 は仏典の否定をはじめるのである。あるいは、「玉と石は取り分けないと いけない」といいつつ、実際取り除くのは、自分の好みにあわないもの なのである。例えば、「法句経に見るような、生活に即した単純明快なもの」 というが、ダンマパダでは、いきなり8で悪魔にたいする言及がなされる のである。15.16で来世について、17で地獄、18で天界転生、等々である。 (続き) たいていは、仏教は合理主義の体系、「無神論の道徳哲学」であると 言い、近代の有力な世界観とすぐにも調和し、この意味で、西洋の 思想の展開において宗教の代用につかえるものだと考えている。この ような見解は仏教の本質を誤解するもはなはだしい。」 と、まあこんな感じである。ま、妥当だろう。で、普通に読めば、 そう読める仏典を、仏教から「神秘的要素」を排除したいと願う「仏教徒」 は仏典の否定をはじめるのである。あるいは、「玉と石は取り分けないと いけない」といいつつ、実際取り除くのは、自分の好みにあわないもの なのである。例えば、「法句経に見るような、生活に即した単純明快なもの」 というが、ダンマパダでは、いきなり8で悪魔にたいする言及がなされる のである。15.16で来世について、17で地獄、18で天界転生、等々である。 人は見たいものを見るのである。
ちょっと失敗。それと天界、地獄は中村さんの解釈ですね。
>>207-208 よく言われることだが、同じ教典の中でお互いに矛盾することを言っているのが釈迦
の説法の特徴。もし、釈迦が神や悪魔と語ったというのが本当の史実だとすると、死んだ
らどうなるかについては答えない、という態度は無効になってしまう。このスレで前に
誰かが言っていたことだが、たとえ神や悪魔を抜いても、たとえ輪廻転生を抜いても、
釈尊の法はスカスカにはならないと思う。
仏教に限らず、どんな宗教の聖典も「神秘化」や「神学化」を免れないのは宿命なんだ
から、怪しい部分は保留して、仏教のエッセンスである「四諦」の部分を、「今、ここ、
自分」の切り口で捉える態度が一番妥当だと思う。道元も同じアプローチをしたし、私
は彼の見識を高く評価する。
>釈迦が神や悪魔と語ったというのが本当の史実だとすると、死んだら >どうなるかについては答えない、という態度は無効になってしまう。 ならない。例えば、出家の法と在家の法は異なる。繰り返しいってますが、 段階っていうものがあるし、それを理解できないのは、体系的な把握を していないから。 スカスカの例は、スッタニパータから、実際に切り取ったらの話。 >仏教に限らず、どんな宗教の聖典も「神秘化」や「神学化」を免れないの >は宿命なんだから、怪しい部分は保留して 保留したい人は保留してください。勝手に否定しないでください。 いや、あなたに言ってるんじゃないですけど。
212 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/15 20:10
この前から、別のスレッドでも、 原始仏教好きの輪廻を否定する方々の意見を聞いていて、 感じたのは、その方々が自分の経験として四苦八苦を 経験したことがないんだな、ということです。 どうやって死を目前にしておそれている人を救うのか、 不治の病、身体障害者の人たちをどうやって救うのか。 人生に絶望した人をどうやって救うのか。 どん詰まりの人生にどうやって光を見いだすのか。
>>212 漏れは、カルマを確信したな。>不治の病、身体障害者の人たち
214 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 20:33
キリストは処女から生まれた神の子 釈迦は輪廻とカルマを説いた はずかしいことじゃないよ、科学じゃなく宗教なんだから
>>212-213 この前、戦争中にシベリアに抑留されて、凍傷で両足切断した人の本を読んだよ。
その人は、両足を失った日から三日三晩、観世音菩薩に祈ったが、なくなった両足
は返ってこなかった。それで、「自分は両足がないのが当たり前、ということを受け
入れて生きてみよう」と決心し、初めて苦悩の淵から甦った。両足を失ったのは前世
の悪業のせいかもしれない。だけど、それが本当のことだとして、現世にどんな意味
があるのか。釈迦が説いたように、執着を解いて、あるがままの自分を受け入れるしか
生きるすべはないんだよ。
釈迦が今に生きていたら、彼にどう法を説くか。あなたは前世で悪業を積んだ、だから
あなたは両足を失った。よろしい。しかし、それで彼が救われるのか?両足も空、両足
がないのがあなたにとって当たり前、両足の執着から離れよ、と解くのじゃないか?
216 :
つ゚∀゚)つ ◆REN/0/PA :02/02/15 20:38
今日は釈尊入涅槃の日でございますよ〜
両足をもっていないからこそわかることもあるし、できることもある。今の自分にあたえられている環境を 最大限に利用せよととくほうがいいな。受け入れるだけでもいいが、積極的に利用しようとするほうがもっと いいように思う。
218 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 20:48
>215 おまえが足を切断しての、そういう台詞なら信じるが 絵空事の理屈立てならべにしか聞こえないのは何故?
219 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 20:49
>>219 いや、お前の青カビの生えた脳みそだろ。(藁
>>217 確かに私は五体満足だが、他の人には当たり前のことが欠けている。たとえ
両足でなくても、普通の人になら当たり前のことが欠けていることの辛さは
わかるつもりだが。そういうあなたには一体、何が欠けているのか?
>>221 お前には、人間性が欠けてるだろ?>ウジ
>>222 私はあなたを怨まないよ。ただ、哀れに思う。
225 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 21:14
>>224 >私はあなたを怨まないよ。ただ、哀れに思う。
これに君自身が同情しているということは――(藁
226 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 21:31
仏典に神が出てくる=神を肯定している
ではないでしょ。
例えば、あの世や天国地獄がある事を信じている人が、
「天国に行くにはどうしたら良いのでしょう?」と聞いてきたとしたら、
「善行を積め、功徳はかならず自分に返ってくるであろう。」と言うであろう。
それが対機説法であり、方便なんだから。
>>172 に同じ
そこで、禅坊主風に「生きるも死ぬも同じじゃ!」なんて言っても、「(゚Д゚)ハァ?」なわけだし。
阿弥陀仏という架空の仏が救ってくれると教える浄土仏教も、最終的には、
「なんと、阿弥陀仏とは自分の事だったのか。」という、他力→自力の境地に至るわけだ。
>>165 が、最初から「全ては自分自身の内ある…」なんて言っても、無明に迷ってる人々には理解してもらえないわけだから。
そういうわけで、仏典にある神やあの世などは、方便として理解するべき。
227 :
名無しさん@1周年 :02/02/15 21:38
>>212 スッタニパータの「矢」節を読めばわかる。
「死んでしまった人はもう返って来ないのだから、諦めなさい。」と言ってる。
決して「あの世で会えるから」とか「天に行って安らかに暮らしているから」とか言わない。
「四諦」そのものだ。
「クヨクヨしても仕方がない。そこから離れなさい」と言う。
まったくその通り。
神秘的なものにすがることなど薦めていない。
対機説法を使うならあの世があると信じてる人に対しては あの世で幸せにくらしいてるよということで その人の苦がやわらぐならそういうんじゃないの? この場合は対機説法はダメなのか?
>>229 在家者には方便で答えたろうね。
というか、いつでも方便を使うわけじゃないと思うが。
そろそろスレの本題に戻りませんか? キリスト蚊帳の外(藁
>>226 肯定という言葉で、積極的肯定を言ってるのか、存在の肯定を言いたいのか。
存在の肯定なら、仏典は肯定するぞ。
>>231 あ、悪い。じゃ、キリスト教に関係することをベックの『仏教』から。
西洋で仏教の影響がはじめてあらわれるのは、はなはだ奇妙であるが
中世によく読まれたバルラアムろヨサファト(ヨサアフ)の物語で、
その内容は仏陀伝説をキリスト教的に書きかえたにすぎない。
ヨサファトはインドの王子でのちにキリスト教に改修するが、この名は
インド語の「ボサツ」から来ている。(続く)
オカルトすきもいるからな。
235 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/16 11:05
>>215 >両足も空、両足がないのがあなたにとって当たり前、
>両足の執着から離れよ、と解くのじゃないか?
だから、あなたの言っていることは宗教じゃないんよ。
輪廻も魂も、そういうことを否定するんだったら、
学究的な哲学をしたら如何でしょう。
ニーチェ辺りは、同じ様なこと言ってるよ。
あなたの言うことでは、人の命も魂も救えないよ。
ニヒリズム。
ヘック 「神的な、霊的な、または超感覚的な生きものと、聖者が瞑想中に交渉をもつことは、 仏教でしばしば述べられているし、また仏陀みずからこういう生きもののこと、こういう 交渉のことを述べたことはきわめて確かである。しかし、宇宙のあらゆる生きものを 支配し、またそれらに内在している最高の統一体をどのようにかんがえたらよいか、 という問題は、・・・略・・・仏陀はこれについて沈黙を守った。」 そうかね?この直後に書いてあるように「インドの宇宙創造者と同一である梵天」 について言及してるんだけど。
ヘックじゃねーや、ベックね。 ということで、梵天=キリスト教的造物主という仮説を。
238 :
名無しさん@一周年 :02/02/16 11:38
そんなこじつけの仮説なんて無意味。わら
>>235 なぜ哲学では、人の命の魂も救えないんだ?
「四諦」は神秘的要素がなければ成立しないのか?
それから、彼は「輪廻」や「魂」を否定している訳ではないでしょ。
否定したり肯定したりすることを否定しているだけで。
>>168 >「断見外道」:人間は死んだら終わりという唯物論。
>「常見外道」:死んだ後の世があると考える。一般的に、今の内に供養を積んで地獄へ落ちずに
>天国へ行こうとする信仰にはまる。
>
>どちらも仏教ではない。どちらも釈迦が否定しているからね。どうしても、と言うなら、「もぐり
>の仏教」位の自称は許してやってもいいぞ。
「それでは救われない人もいる。」と言うのならわかる。
241 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/16 15:51
>>239 純粋に四諦の話だけ聞いて、悟れましたか?
基本的に、哲学的原始仏典論者の方々は
原始仏典を読んで諸行無常を頭で理解しただけで、
悟ったと勘違いしていないですか?
人生の最大の困難を自分たちの論理で乗り越えられると思いますか?
もし誰の目から見ても困難である状況を、その論理で乗り越えられたのなら、
教えてください。必ず帰依しますので。
242 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/16 15:54
それと、哲学的原始仏典論者の方々の誤謬は、 成道した仏さんの眼と、凡夫である衆生の認識を 混同している。 仏さんの眼には、生も死もなく、地獄極楽もない、が、 衆生には、あるんです。
240が正しいとおもう。
聞いただけでは悟れないよ。
当り前。
「四諦」についてよくわかってのかね?
苦諦・人生は苦であるということ。
集諦・苦は執着によって起こるということ。
滅諦・執着から離れれば苦は起こらないということ。
道諦・八正道がその方法であるということ。
中道とは八正道のこと。
その道を自らの足で歩むことで執着から離れ苦を克服するということ。
「四諦」とは、その道を示しただけ。
道を歩むのは自分自身。
「四諦」は神秘的要素なしで成立する。
これがニヒリズムかね?
>>235 始めからそれができない人には、方便として神仏を説くこともあろう。
だから「四諦」のみで救われる人もいれば救われない人もいる。
で、質問したいんだが、神秘的要素がなければ人は救われないと言うの?
>>235 →
>>239-240 →
>>241-242 この流れから見ると、「神秘的要素なしでは誰も救われない。」と言ってるようだが?
>「四諦」は神秘的要素がなければ成立しないのか?」
>「それでは救われない人もいる。」と言うのならわかる。
に対して反論してるから。
それと、哲学→ニヒリズム と思ってるのか?
禅には神やあの世などの神秘的要素がないが、
禅→哲学→人の命も魂も救えない→ニヒリズム と思ってるのか?
答えて。
「四諦」を聞いただけでは悟れない。 自らの足で歩まなければいけないからだ。
246 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 08:54
中庸なんてのは哲学、中道こそは仏教。
247 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 09:40
>227 まあ、全てが「縁起」によって成り立っているという世界は、計算機の世界 だからね、それだけで救われないのが生き物というものだって。 最もあなたが、縁起という計算機の世界だけで救われたというのなら、それ も勘違いに過ぎないとオレは思うけど・・…。まあそれはいいや。 あなたが、何を指して「神秘的要素」と言っているのか分からんが、多分、 それが、究極なんだと思うよ。仏教用語で言うと「無明」という部分とオー バーラップしているんじゃないか。あなたが「無明」を悉く明らかにしたの ならともかく「神秘的要素」は「無記」にしておくのが修行中の身の上にお いては賢明だと思うなあ。 四諦の素晴らしさが分かるのなら「神秘的要素」と遊んでちゃダメだよ。
248 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/17 14:19
>>244 まず、哲学=ニヒリズムとは思っていません。
プラトンはニヒリズムじゃないし、カントなんかもニヒリズムとは思えませんが、
西洋の哲学の中には、ニヒリズムに導くものも中にはあって、
それらがあなた達の言っている「仏教」とよく似ていると言うことです。
たとえば、ニーチェや構造主義哲学なんかとよく似ているんですよ。
彼らの言い分を要約すると、すべてのものには実体的なものがない、ということなんです。
249 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/17 14:20
それと、哲学では人の魂も命も救えないと、 極端なことを言ってしまいました。失礼しました。 言いたいことは、 人間が本当に困って前にも後ろにも右左、上下、 どこにも行くところが無くなってしまったときに、 自分の存在意義を問うんですよ。 それは宗教的な意味での存在意義で、 哲学的な存在意義じゃないんです。 それが凡夫なのかもしれないですがね。 でも、苦境の後、宗教的な存在意義を見いだしたときに、 どんなつらい現実をもうけとめていく力をもらえるんですね。
250 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/17 14:20
究極的な悟りの境地においては、 たしかに生も死もなく、地獄も極楽もない、 寂滅為楽の境地なんでしょう。 それには私も全く異論ありませんよ。 でも、それは本当に究極であって、 ふつうの我々が達している境地じゃないでしょう。 その境地は喜怒哀楽からも離れているんですよ。 ふつう我々はそうじゃないでしょう。 四諦をよく理解されているのだったら、 十二縁起も吟味してみてください。 十二縁起では、どうやって物事が物象化されるかを説いています。 「無明」から「生死」までの物象化。 あなたの言うところの、「神秘的要素」なんかも、 この十二縁起と同じ理屈で、存在たらしめられるんです。 我々の存在も、同じように、十二縁起と同じ理屈で、 存在たらしめられているんです。 「神秘的要素」の否定というのは、 我々の存在自体の否定にもつながるんよね。
251 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 17:51
>>238 スレの主題に関わらせようとした、オレの努力をその一言で踏みにじったな・・・むごい
信者の多さを考えたらキリストのほうがえらいのかな? マホメットもかなりのものだと思うけど。
253 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 20:04
>>252 キリスト自身がここまで信者を増やしたわけじゃないっす
その理屈だとキリストよりパウロの方が偉いって事になるっすよ
でもいずれにしても数論は無意味だと思うっす
>>247 う〜ん、ん?
いまいちわからん。。
>あなたが、何を指して「神秘的要素」と言っているのか分からんが、多分、
>それが、究極なんだと思うよ。
↑ここの「それ」とは何にかかってるの?
人の命も魂も救えない。
ではなく、凡夫にとっては、命も魂も救われない。か?
しかし、
>>215 は至極もっともなことを言ってると思うが?
スッタニパータ「矢」節で言われていることだよ。
生まれたものは、死を逃れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものの定めは、このとおりである。
若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。
すべての者は必ず死に至る。
たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。
だから尊敬されるべき覚者の教えを聞いて、人が死んで亡くなるのを見ては、「彼はもう私の力の及ばぬものなのだ」と悟って、嘆き悲しみを去れ。
たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、
立派な人は、悲しみが起ったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。譬えば風が綿を吹き払うように。
己が悲嘆と愛着と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が煩悩の矢を抜くべし。
煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
>>241 >人生の最大の困難
とは具体的どんなこと?
人を亡くして嘆き悲しんでいる凡夫に、 迷妄にとらわれ自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。 泣き悲しんで、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。 みずから自己を害いながら、身は痩せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。 だから尊敬されるべき覚者の教えを聞いて、人が死んで亡くなるのを見ては、「彼はもう私の力の及ばぬものなのだ」と悟って、嘆き悲しみを去れ。 と言っても、「それは聖者の視点であって、そんなことを言われても凡夫の悲しみはなくならない。」と? では、なんと言えばいいのか?
257 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 23:05
もちろん釈迦の方がえらい。何故ならば釈迦の本体意識は地球最高大霊の エルカンターレ様の一部霊体だからです。 そして、キリストは天に向かい主のアドバイスを聞いていたのだから、 そう主とはエルカンターレ様なのです。 そして今エルカンターレ様の本体意識自体がここ日本に御降臨されているのです。
258 :
名無しさん@1周年 :02/02/17 23:27
足を切断した人は、苦しみと楽とを比較し易いから、執着をきるいいチャンス ではあるが。 他方、恋人に執着している者、現在進行形で執着による喜びを貪っている者に 執着から解放されることを説いても、難しい。もちろん、理解できる者、そして 実践しようと思う者もいるかもしれない。それは個人の智性、機根による。 人を導くのは難しい。ゆえに、如来は「人々を調える御者」と言われる。
>>258 >>221 でもちょっと書いたけど、両足でなくて他の物が欠けているという意識は誰に
でもあるんじゃない?私は女縁かな(w。若い頃は散々な目に遭ったよ。結婚して
幸せになったけどね、二目を見られないような悲惨な青春時代だったよ(^^;
>>245 と同じことになると思うけど、やはり本人が「苦」を自覚しないと四諦は歩め
ないと思う。ちょっと気をつければ、そういう「苦」の矢が数本、誰の体にも刺さって
いるんじゃない?
「神秘派」の皆さんにお尋ねしたいのだけど。 キサーゴータミーが自分の愛児を失って、釈尊に甦らせてくれと懇願した時、 釈尊は「いまだ死人を出したことのない家の材料から妙薬を作れ」と指示を 出した。キサーゴータミーは町中の家を廻ったが、ひとつもそんな家などなく、 人間は死ぬものなんだという理を悟り、愛児への執着を絶ったという。 この場合、キサーゴータミーは苦のもとになる矢を抜き去ったので、四諦を 歩むという自覚もなく、苦を脱したのです。これだけでは不足なんでしょうか? もし、キサーゴータミーの心を慰めるためならば、神を担ぎ出して、あなたの 愛児は神の保護にあるから安心せよ、とか、○○神に供養をすれば愛児は良所に 生まれるだろう、と説いたはずだと思います。その方が、家を一軒一軒廻らせる よりも手っ取り早い。 釈迦は、神秘主義(方便を含む)よりも四諦の実践を重視した。
>>260 「神秘派」・・・まあいいけどね。
キサーゴータミーは尼僧の告白かなんかで(別のかも)、過去(前世)ある師
についたとき四諦をきいたと言っている。で、また別の生ではケーマーなんかと姉妹
関係にあり、その時は在家で精進したといっている。
そういう機根のある人なんですよ。そういう人を、子供をなくしたという、苦の
認識のしやすいときに、慰めてどうするんですか。根本法則に導くべきでしょう?
段階だって。
私は若い頃に神秘主義にあこがれていてね、某新興宗教に入っていたことがある。かなり 真面目に修行したら、いろいろと神秘体験をしてね。当時はそれこそが正法の証だと信じて いたよ。しかし、気づいたら、人間同士の人情とか、哀れみとか、そういう人間らしさが かけらもないところでひたすら神仏に近づかんとする自分の姿があった。 その教団でも前世の鑑定とか、運命学による未来予知とか、先祖の追善供養とかの名目で、 巨額の布施を取っていたけど、結局のところ、決して安心は得られなかった。未来の自分や、 先祖の様子など、知れば知るほど不安は増すばかりだよ。そこをやめて、改めて釈迦の教え をひもといてみて、真の意味で「最勝」の教えだということが身にしみてわかったという次第。 いくら段階だと言っても、四諦につながる方便などないと思うよ。前世のことを言えば、普通の 人間はそれに囚われたり、現世の修行をなまける理由にしかしない。同様に、神秘主義に走れば、 かえって釈尊の命ともいうべき四諦がほやけるばかりだと思うんだが。
263 :
よくぞ気付いた! カンドーした、わたしは落ち目 :02/02/18 13:00
オカルトとかチョーノーリョクと言う若モンに言ってやってくれ〜〜〜
>キサーゴータミーが自分の愛児を失って、釈尊に甦らせてくれと懇願した時、 >釈尊は「いまだ死人を出したことのない家の材料から妙薬を作れ」と指示を >出した。キサーゴータミーは町中の家を廻ったが、ひとつもそんな家などなく、 >人間は死ぬものなんだという理を悟り、愛児への執着を絶ったという。 すごいね。この時代の人は必ず死ぬってこと理解してない人がいたってことか.
>神秘主義に走れば、 そんなことを主張してません。また、 根本法則としての四諦の重要性には、 たびたび言及しています。 >四諦につながる方便などないと思うよ。 徳を積んで天界へいっても無常。 だけど下に落ちるよりまし。
266 :
名無しさん@1周年 :02/02/18 13:53
キリストは釈尊の垂迹神であり、畢竟同じものであるので優劣の差はございません
両足を失った人に、なんて言葉をかけるべきかな?
>>215 >両足がないのがあなたにとって当たり前、両足の執着から離れよ、と解くのじゃないか?
これが駄目ならなんと言ったらいいのだろうか。
>>235
268 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/19 14:29
>>267 この人間の世界って、「執着」によって成立しているよね。
執着から離れることが、正しい見方だからといって、
オリンピック選手に金メダルをとることを「執着」だと言って、
説くでしょうか。
政治家の人も、環境問題に取り組むNGOの方々も、
世の中を良くしようと「執着」していますよね。
彼らの活動も[空だ」と言いきれますか?
お釈迦さんが、諸行無常、諸法無我と言ったのは、
間違っていないでしょう。確かにそうだが、それは、
本当に悟りきった存在に分かることで、知的な理解だけでなく、
肉と魂で分かるようなことだ。頭で分かって「悟った」と思っているのは、
増上慢ではないでしょうか。
それとも、本当に悟っているのでしょうか。
悟っているんだったら、教えてください。
ちゃんと耳を傾けます。
269 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/19 14:30
人間の世界で生きている人で、完全な悟りに至っている人は、ほとんどいないでしょうね。 だから、たとえば、両足が無くなった人は、 両足に対する「執着」で苦悩するのは当然のことです。 その両足が無くなったという現実を、どうやって受け止め、 現実を進んでいくかということが、その人にとって一つの 使命のようなものでないでしょうか。
270 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/19 14:31
苦悩している問題を現実的に受け止められるようになるのは、、 理屈でもって説明された哲学によるのではなくて、 まさしく宗教的な心底からの理解によってなんです。 それがキリストさんの贖いだったり、阿弥陀如来だったり、アラーだったり、 観音さんだったり、お題目だったりしても構わないのじゃないですか。 空を悟ったつもりで達観するよりも、宗教的な理解でもって自分の存在と、 自分の環境に対して積極的に取り組んでいけるようになるのが宗教でしょ。 その後もまだまだ旅は続くんですから。 空を悟ったつもりになってしまったら、そこで終わりでしょ。 その先に何がありますか? かといって、空とか、諸行無常、諸法無我、 と言うのを否定しているんじゃ、全然無いですよ。 それだけでは、人間世界の現実が見えてこない ということを言いたいだけなんです。 念のため。
>「あにょうきゃじんにょ」さん
では、
>>267 さんの問いかけについてはどう答えます? 両足を失って悲しむ人に
あなたはどのように説いて、「宗教的な心底からの理解」を与えるのですか?
具体的にやってみてくださいよ。
少なくとも禅では、「両足がないのがあなたにとって当たり前、両足の執着から離れよ」と説く。 つまり、 「禅は哲学的な意味での存在意義は説いているが、宗教的存在意義については無視している。禅では救われない。」 というわけだ。 ちなみに、「十二因縁」は、お釈迦さんの死後ののち付加された教えという説が有力。
>>272 >「禅は哲学的な意味での存在意義は説いているが、宗教的存在意義については無視している。
>禅では救われない。」
それはあなたの誤解だよ。ちゃんと勉強したのかい?宗教的存在意義について、禅ほど深く
探究している宗教はないよ。探究し尽くして、自分の外に神仏など求める必要さえなくなった
のが禅だよ。「本来の真面目」=自分の宗教的存在を探究するのが禅の真骨頂。
両足失った人には 5体不満足という本を渡す。 同じ環境の人の話じゃないときき耳もってくれない可能性もあるしねぇ。 まぁなにを説こうが本人の気持ち次第だし。
>>273 ちゃうよ。
「あにょうきゃじんにょ氏の解釈
>>235 でいくとこうなるわけだ。」と言う意味だが。
俺自身は、禅で救われないとは思わない。
しかし、彼は救われないと主張している。
276 :
名無しさん@1周年 :02/02/20 15:00
どっちもどっちだよ。 両方の教団ともに、後の宗教は、だんだんと教祖の悟りの世界から 離れて別のものになってしまっている
277 :
名無しさん@1周年 :02/02/20 15:05
しかし、「阿若驕陣如」って聖句をハンドル・ネームにする感覚がわからん。
前に「スッタニパータ」ってハンドルのやつがいたけど、
オウムの「マハーカッサパ」とかのホーリー・ネームと同じセンスだな。
>>276 ところで、「両方」ってどことどこの事言ってるの?
279 :
名無しさん@1周年 :02/02/20 15:29
キリストわ救世主 釈迦は神様
キリスト教と、仏教に決まってますよ。
281 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/20 17:09
「あにょうきゃじんにょ」が不快なようなので 名前を改めて、「太郎」にします。 「太郎」なら問題ないでしょ。 HNに拘ったりするんですね。
282 :
あにょうきゃじんにょ :02/02/20 17:11
>>271 私の言葉でやるのは力不足で不可能です。
すみません。
ただ、私自身は大変だったときに、
法華経で助けてもらったので、
苦境に立たれている方には、
法華経の話をさせてもらいます。
あ、ごめん。 名前変わってなかったみたい。 今後は、「太郎」です。
太郎っていぬみたいだなー
285 :
名無しさん@1周年 :02/02/20 17:53
そもそも「阿若驕陣如」ってなんすか?
>>282 >ただ、私自身は大変だったときに、
>法華経で助けてもらったので、
>苦境に立たれている方には、
>法華経の話をさせてもらいます。
やっぱりね。法華経信仰の人の論理には独得の飛躍があるね。あるのは感情論だけだ。
すまん。思わず、日蓮嫌いが顔を出してしまった。法華経はいいんだが、それ だけが「サイコー(ですか!)」で、後はすべて魔道なんて言い出したら仏教 を激しく逸脱していると思うからな。 みっつだけ確認させてくれよ。正直なところを知りたい。 1)法華経は紀元後1-2世紀に成立した大乗経典であるという事実をご存知か? 2)人が書いたものである以上、法華経自体に神通力があるはずがない、と思われないか? 3)日蓮が「立正安国論」を書いたとき、彼は法華経が釈迦直説の説法という誤った 知識を元にしていた。それでもあなたは法華経のみが正しい教えだという彼の説を 支持するのか?
あぁ、もう。 ものすごいですね。 1)知ってます 2)法華経自体に神通力があるという話は初めて聞いた。 3)知ってます 法華経と言ったら、日蓮さんだけじゃないよ。 比叡山も法華経だし、道元さんの「正法眼蔵」にも、 法華経からたくさん引用しているよ。 それに私は法華経だけが正しいものだとも思っていないよ。 法華経に狂っている人や集団がいるけども、それがすべてじゃないですよ。 すごい偏見ですね。 やっぱり、あれでしょうか、あの集団のせいでしょうかね。
>288 いやあ、悪かった。「法華経で救われた」というコメントにひっかかったので、悪いと 思いつつ、鎌をかけさせてもらったんだよ。 ずいぶん前になるけど、会社の同僚から折伏を受けたことがあってね(ただし、S学会 ではない)。せっかくの週末を潰された怨みがあるんだ(笑)。思わず、お前、頭は大丈夫 か、とおでこに手を当てるような「狂気」を感じたナ。
今更の感があるけどあえて言うと、
>>260 の説法は何を語っているのであろうか?
・1「祈祷によって死者が甦るということはあるし、○○神に供養をすれば愛児は良所に生まれるということもあるが、
人間は死を免れぬものである。あなたはこれを機に無常を悟りなさい。」
それとも、
・2「祈祷によって死者が甦るということはないし、○○神に供養をすれば愛児は良所に生まれるということもない、
人間は死を免れぬものである。あなたはこれを機に無常を悟りなさい。」
それとも、
・3「祈祷によって死者が甦るということはあるともないとも言わない、
○○神に供養をすれば愛児は良所に生まれるということもあるともないとも言わない、人間は死を免れぬものである。
あなたはこれを機に無常を悟りなさい。」
このうちのどれなのか?
その辺が曖昧になっている。
>>261 189やあにょうきゃじんにょ(太郎)は「1」を主張してるみたいだ、俺は「3」を主張するのだが…
291 :
カトリック信徒、でも宗教きらい :02/02/28 19:01
2人をただの人間として考えると、貧乏の大工で成り上がりのイエスより 王子としての地位を捨て、修行を積んだ釈迦のほうが、同じ電波でも偉いという見方はできる。
292 :
brown :02/02/28 22:21
ちなみに十二支縁起の第一「無明」の「明」とは神秘力のこと。 曰く,阿羅漢に六明あり。すなわち,神足通・天眼通・天耳通・他心通・ 宿命通・濾尽通,このうち,神足通から宿命通はでたらめで,濾尽通が本当に 得られる明ですが,これを「神秘的要素」というのであれば,全く正しい。 この要素なくして解脱も悟りも仏教もない。
>>290 私も3.に近いですね。もし、人間は死を免れぬものだという「無常」を悟って、
生に対する執着を絶てば、祈祷によって我が子の来世の福を祈ろうという執着も
なくなると思うのです。禍福もまた、生死と同様に不二のものですから。生死だけ
は超越するが、禍福は超越しない、というのは仏教と呼べるのでしょうか。あらゆる
相対的価値観を超越するのが仏教の教えだと思いますので、1.も2.も仏教として
は不完全です。
294 :
名無しさん@1周年 :02/03/01 11:25
無常は無常ですね。完全な仏教など絵に書いた餅。無常と言うのは不完全という意味も 含まれているんだ。
>無常と言うのは不完全という意味も含まれているんだ。 すごい屁理屈だな(^^;
>>290 227さんへ
要は、何を質問されているのですか?
因みに、私の意見は1ではないと思う。
死んだ子供は生き返らないだろうし、
○○神を頼めば、子供がいいところに生まれ変わる、
とも思っていないよ、個人的には。
私が主張しているのは、スッタニパータにも書いていることです。
だた、あなたの様に自分の解釈に都合のいいように、
韻文だけが、お釈迦さんの金言で、
散文は間違っていると思って読んでいません。
韻文も散文も、本当のことを言っていると、
素直に読んでみたら、私の言っていることが理解できると思いますよ。
227さんの悟りが本当なら、
韻文と散文をまとめた「スッタニパータ」の
解釈も理解できるでしょう。
そのまま素直に読むのが間違っていると思われるのなら、
それでよろしいんじゃないでしょうか。
297 :
名無しさん@1周年 :02/03/01 12:28
>王子としての地位を捨て 妻と子供も捨ててるよ。悟りの幅が狭くなるのはあたり前だね。 人間は、永遠の真理の前に、自己の内側外側を問わず、相互作用の中に 「生きている」本質のかけらを持っているんじゃない?妻や子を捨てた 後に見えてくる悟りの限界を釈迦に感じる。イエスは、「婦人よあなたは 私に何のかかわりがあるのです?私の時はまだ来ていません」とか いうけど、母親の期待に応え、初めての公の奇跡をなさる。これは、 有名なカナの婚礼と言われているけど・・・。 王子としての記憶、妻と子供を持つ夫、父としての記憶を語って欲しかったね。 お釈迦様に・・・。もしも、そう言う部分が仏教の言い伝えにあるなら、 俺はそれを聞いてみたい。
>297 ウソはいかんぞよ。イエスもまた、自分の母親を拒否している(マタイ12:46-50)。 それに、ヤコブとヨハネにも自分の父親を捨ててついて来いと命じている(マタイ 4:18)。あるいは、わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない と断言している(マタイ10:37)。
お釈迦さんの場合には、後で自分の妻子も出家させたんだよね。 イエスも釈迦も、求道の過程においては妻子も父母も捨てるだけの勇猛心を 持て、と教えているのだと思うよ。スッタニパータには、家族を捨てられない 奴はダメだ、と書いてある所と、家族に対する愛情を忘れるような奴はダメだ、 と書いてある所の両方があったはず。
300 :
chebjcro :02/03/01 14:06
300! よっしゃ!
301 :
名無しさん :02/03/01 14:35
努力では釈迦 思い込みでは基督 戦略ではムハンマド
302 :
元オウム信者 :02/03/01 21:19
>111 >53様 >>107 >どこの宗教?麻原もイエスと釈迦の生まれ変わりみたいに言ってたな。 彼は「キリスト宣言」という本において、救世主宣言はしましたがイエ ス・キリストそのものとして転生したとは一言もいっておりません。 また釈尊の時代は在家信者だったと言ってました。
303 :
brown :02/03/01 22:03
>301 戦略ではムハンマドってなんですか?
304 :
名無しさん@1周年 :02/03/01 22:05
>>303 一旦退散しながらも、自分でメッカを占領したでしょ。
世俗的成果をあげている。
母国を滅ぼされた釈迦や、エルサレムで処刑された基督とは偉い違いだ。
釈尊も基督も創造主のメッセンジャー(使い走り)です 宇宙人は創造主と同等です
306 :
名無しさん@1周年 :02/03/01 23:28
星の数ほどいる宗教家のなかで釈尊だけは創造主に否と言えた唯一の方。 あまりの難解さに布教を躊躇われたほど。
307 :
brown :02/03/02 16:08
>305さん 宇宙人ってかなり偉いんですね。 宇宙人とムハンマドとどちらが戦略的に勝っているのでしょうか。 でも306さんによると釈尊は創造主=宇宙人に否といって抵抗勢力を演じたよう ですので,使い走りの業務に忠実ではなかったようですね。
308 :
ぱしり ぱしり ぱしり :02/03/02 18:16
お釈迦しゃんは、むしんろんしゃ で〜す!
釈迦は王子だったけど、小さな村の村長さんの息子くらいのもん だったと書いてあった。。
310 :
名無しさん@1周年 :02/03/02 21:31
預言者としてはマニが偉大だと思う。 経典がかなり失われてしまっているのが悔やまれる。
>302そうでしたか。ただ、直接いうと信憑性がなくなる。 それらしく、匂わすというテクニックがうまいですね、 深見に似てる。 大川は仏陀宣言してますね。 >309小さな村というほど、ちいさくはないでしょう。 小さな国くらいだと思います。
お釈迦様は29歳で出家し35歳で悟りを開いた。しかしイエス・キリストは 33歳で殺されている未だ修行の身。それに対して釈迦は35歳に悟った後45 年間80歳まで法を説いているから仏教は解りやすく後の仏教徒が解説できてい る。しかし、キリスト教は未成熟のためイエス・キリストが生まれる前の教えで ある、旧約聖書に頼らざるえない。
313 :
名無しさん@1周年 :02/03/03 21:56
>>312 年齢より修行した年数ではないか?
イエス・キリストが出家?したのはいつ?
仏典は多すぎて学者にも読みこなせないそうですよ。
315 :
brown :02/03/04 23:24
>313 イエス・キリストは生まれたときから処女懐胎だからゼロ歳じゃないかな。
316 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 00:31
なんか、このスレの結論として 蚊帳の外のキリスト教は、仏教の深遠さには到底及ばない。って感じ。 って事でいい?藁
317 :
297>155.298 :02/03/05 01:33
>>298 >自分の父親を捨ててついて来いと命じている(マタイ4:18)
この部分の聖書引用はゆがんでるぞ!父親を置いてついて行ったという事実は
イエスが「父親を捨ててついて来い」と命じたからではない。彼ら自身の意思で
父親さえもおいてイエスに従ったというのがこの個所で書かれていることだ。
一言も「父親を捨てて・・・」とイエスが命じたことなど書かれていないではないか?
その他のあなたの引用も、おかしい解釈ばかりだと思うぞ。
イエスは父や母を捨てろとはどの場面においても一言も命じていない。
まず神を愛し、同じように人を愛しなさい、というのがキリスト教の愛だろ?
神への愛を第一にしなければ、真の愛からは程遠いのだ。神の目には虚しく映る。
ということだよ。
イエスが父や母への愛をないがしろにして神に従うように促すところは聖書には
ひとつもないはず。神を差し置いて父母を自己本位に愛してもそれは意味がない
という愛に対する間違った人々の愛への認識を警告しようとして事あるごとに
彼は人々を諭していたに過ぎないよ。
318 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 01:43
>>317 故郷に戻ったときシカトしてんじゃん。非道!
319 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 02:04
>>317 誰が、誰を、どの時点で?聖書のどこに書いてあること?
>>318 319は、宛名を間違えた。ゴメン。
で、シカトしたというのは、イエスが聴衆の前で教えている時に母親と
兄弟が外に来ている場面のことか?
これは、仕方がないよ。何せ、イエスは狂っていると告げ口をした人の
言葉によって母と兄弟が動いてるんだ。卵が孵って雛が生まれるのは、
卵自身にその力があったからというよりもその卵を生んだ母鳥が卵を温める
からだろ?イエスは、母親や兄弟がイエスの反対者にそそのかされてノコノコ
と教えの場に顔を見せるのを良く思わなかったに違いない。
だから、あえて、私の父、母、兄弟は神の言葉を聞いて行う人であると明言を
して、母親と兄弟にも自分の意思をはっきりと伝えたんだと思う。
イエスは普通の人ではないから、その辺のユダヤの民の企みやなんかもよく
ご存知だったに違いない。
日本語のおかしいところがあるが、あしからず。すみませんでした。
>>317 あなたはご存知ないようだが、古代インドの風習では、上流階級の男子は一定期間の間
出家するのが当たり前だったんだよ。今で言う兵役義務のような感じでね。釈迦の出家の
動機については、当時の風習に従って何年か修行をしたのがきっかけだろう、と推測する
学者は多いよ。だから、釈迦が妻子を意図的に捨てて修行に出たという歴史的事実を証明
する証拠はないと思う。
福音書は、イエスの取り巻き達が口伝えで伝承してきた逸話が元になっている。だから、
イエスが自分の母親達にした冷たい仕打ちや、弟子達が自分の父親を捨ててイエスに従った
という話は、後々まで語りつがれるほどショッキングだったはずだ。そうでなかったら、
イエスの死後何十年も伝承が残るわけないだろう?
個人的には、求道のために父母をも顧みないというのは、宗教家なら当然の ことだと思うけどね。六祖も自分の母親を郷里に残して出家したが、いつも 自分が早く悟りを開いて母親を導きたいという慈愛心を忘れることはなかった。 親元を離れつつ、遠くから見守るというのは、親を捨てたことにはならないと 思うが。イエスや釈迦がいい年こいて、マザコン三昧やっててどうするね?
324 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 09:19
父母ってもんがえらいもんか。まんこにちんこをつっこんだヤツってことが明らかなことは確かだネ。 マリアは寝てるうちに打たれたけど。14歳だったんだね、ジュリエットと同じだね。
325 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 09:27
>>323 お前は宗教家なのかよ?え?宗教家でもないのに偉そうな事ぬかしてるんじゃねえ。
>>325 宗教家じゃなくても、大成するために故郷を後にするようなことは世間には
いくらでもあるさ。私も大学卒業してから親元離れて生活したし、数年間
外国生活もしたよ。親元離れるのが嫌で故郷に閉じこもっていたら、今より
もっとダメになっていたと思う(^^;
親の側だって、手元に置いておきたいのを我慢して、かわいい息子の大成を
願って送り出すのが本当の親の愛だと思うよ。
327 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 14:20
>>326 その意見自体には頷けるよ。「可愛い子には旅をさせろ」っていうからね。親に
しろ子にしろ、必要以上の依存心は禍を作る基だよね。
聖フランチェスコとか良寛さんとかも見方によっては、すごい親不孝ものですね でも儒教だと親孝行ていうのが絶対の規定で、子供が犠牲にならなかいけないのかね? 親の側の道徳も説いて欲しいよ
329 :
名無しさん@1周年 :02/03/05 21:57
イエスは 「神があなた方を愛するように隣人を愛しなさい」 と言いたかったのであって髪と同じように愛せと言ってるわけではない。 何故こんな簡単なことが2000年も経って伝わらん? イエスの考えていたことくらい仏教徒なら有る程度推測できるぞ。 キリスト教徒の考えは永遠に謎だ。それはイエスにも分からん。
330 :
317>155 :02/03/06 00:40
>>322 自分が問題に思うことは、故意かどうかは別としても、釈迦の王子としての責任、
両親と妻と子供への関わりを全て放棄したことが悟り(修行)の出発点として間違い
はないのかという点だ。期間を限定した出家の習慣が当時あったのならばなおの事、
その出家体験の意味を汲むべきではなかったか?出家の間に自分を見つめなおし、
責任のある王となるために何かを身につけなくてはいけなかったのではないだろうか?
独身の身で本格的な修行を試みるというならばまだ話がわかるが、子供までいる身
で、出家をした理由が自分にはにわかには飲み込めない。また、父親が風習としての
出家の意味を悟らせ、王の自覚を彼に促せられなかったのも腑に落ちない。
そこで、博識の155氏に逆にお尋ねするが、当時の「男子は一定期間の間出家する」
のはその社会にあってどういう意図、あるいは配慮があったとお考えになるかお聞きしたい。
福音書が今日まで伝わってきたのは、あなたの指摘の個所などがショッキング
であるからではなく、その内容がグッドニュース(福音)であるからだ。偏見があなたに
ありすぎるから、福音書が文字通り「福音書」と呼ばれていることすら忘れてしまいがち。
お気をつけて!
331 :
>329さん :02/03/06 00:47
>イエスは >「神があなた方を愛するように隣人を愛しなさい」 >と言いたかったのであって髪と同じように愛せと言ってるわけではない。 あなたは、神の愛を知っている? 神があなたを愛していることは、あなたが示す神や隣人への愛の深さでわかる のかもしれないよ。あなたが示す愛の深さはあなたが神からどれだけ罪を赦さ れたかに比例するらしい。神を知っているという人はまだ神を知らなければ ならないようには知っていないものだよ。自分もそうだよ。主の眼差しがあなたの 上にも注がれ、回心しますように・・・。
332 :
名無しさん@1周年 :02/03/07 00:43
>>331 イエスは人の愛を広めたかった訳ではない。
神の愛とは人の愛とは違うところにあると
伝えようとしたのだ。
それともイエスもまたあなたと同じ考えなのか?
神様への愛が一番だて事じゃないかね。 聖書には家族愛や夫婦愛のメッセージも載ってるから 柱となるのが神様への愛っていう
>>332 ルカによる福音書の7章後半をお読み下さい。特に7章47節前後。
Tコリント8章2節とその前後も読んでみて下さい。
自分は、この個所のことを思い出しながら書きこみをしたまでです。
>それともイエスもまたあなたと同じ考えなのか?
とあなたが問い返すので、自分の出典とした聖書の個所をちょっと調べてみました。
ところで、あなたの考えは、イエスと同じなのでしょうか?手がかりとなる福音書
の記述や資料やどなたかのお話などの体験がおありでしたら、教えてください。
自分の誤りがあれば、快く訂正しますし反省しますから・・・では。
335 :
名無しさん@1周年 :02/03/08 09:54
336 :
名無しさん@1周年 :02/03/08 10:14
>>335 「人間がもしそのことに正しさを見出すならば、それを認め実践するというのが、
分別のある人の良識であります」
というのが痛烈だね。キリスト教側は、口と裏腹なことをやって平気だった。植民地
支配そのものがイエスの教えに反するからね。釈迦は、カースト制からの解放を主張
していた。それが世俗権力に邪魔扱いされて激しい宗教弾圧を受ける。宗教弾圧を
恐れて、教義を骨抜きにすれば、キリスト教のように堕落する。堕落した宗教が論争
に勝てるわけがない。
337 :
名無しさん@1周年 :02/03/08 10:16
なにが有利なの?二人ってか(w まあアウェーでスリランカの民衆にひびくようなことを僧侶がいやそりゃ 圧勝で勝たないと恥でしょ
>>330 遅レス、スマソ。まず、私は博識でもなんでもない、受け売りのばらまきを
やっているだけなので、その点はよろしく。
釈迦の当時、良家の男子が一時的に出家した理由は、バラモン教の考え方で、
来世によいところへ生まれる(輪廻転生が前提)ためには、出家して神々に
供養を捧げる必要があるという動機があります。これは表向きの理由で、実は
社会的な要請があったのではないかと言う学者もおります。一家のあるじが居
座ると、金も女性も同一人物が独占することになり、たちまち組織が老害にやら
れるので、一時的に家を追い出して、次の若い世代に活躍してもらうのです。
現代のわれわれが考える「家を捨てて、出家する」というのとニュアンスが全然
違うのです。
>その内容がグッドニュース(福音)であるからだ。
それはそのとおりでしょうけど、その福音の中身を支えているのは伝承なんです。
では、何が伝承に残っていたかといえば、ショッキングなものが優先されただろう。
福音書というと、筆記者が24時間イエスに付き添って、言行を書き留めたように思う
人がいるかもれしれないが、実際にはイエスの死後20-30年経って、思い出話を集めて
イエス伝のようなものを残したのです。20-30年も覚えているだけで、ショッキングな
ことだと言えませんか?
339 :
名無しさん@1周年 :02/03/08 14:38
>>337 二人も有利だけど、最大の条件はこれ。
> 五 初めの時間は、キリスト教徒側に与える。その時間は、仏教の虚
> 偽性を提示することに使用し、次の時間は仏教側から、仏教の虚偽性
> に対するキリスト教の対論に対して必ず答弁した後、キリスト教の虚
> 偽性に対する対論を行わなければならない。
なぜか? 始めに問題を投げかけることで、優位に立てるからです。
なぜなら、論証に対して周到な準備が可能であるからです。
その準備された論証に始めに仏教側が答えなければならないからです。
要するに、この時点で勝敗は決まるといってもいいのです。
仏教側がこれを反証できなければ、印象はとても悪く、
その後で、同じような準備された論証で、いかに優れたことを言っても
信用されないでしょう。あるいは心理的要素も含めれば、
負けたも同然です。
だが、グナーナンダは勝った。
しかも民衆に訴えるような卑怯な方法は一切とっていません。
終始一貫、聖書を用いて合理的に論証しています。
まあ、簡単なこととは思えません。
>>339 禿同。こんなにハンディもらっておきながら、勝てないとなると、あとはヘソ噛んで
死ぬしかないワイ。
もっとすごいのは、仏教側は一切自分の手の内を見せていない点。仏教の教義をひとつ
も出さずに、相手の論理の矛盾だけを突いて、やっつけている。仏教では、こういう理屈
を捏ねることは、本当はご法度なんだよ。理外の理を悟ることを重視するからね。だから、
仏教からキリスト教へ切り込むというのは元々そぐわない。キリスト教が抜き放った殺人剣
を逆さまに取って、それで相手を自害に追い込んだところがすごいね。毒をもって毒を
制しつつ、自らは毒を用いず、ってとこかな。いずれにせよ、仏教側の完全勝利。というか、
キリスト教側の完全自殺。
いいとこがないんでケナして誤魔化したってことですね
仏教のお坊さんが、キリスト教の坊主と論争して負けた話しも 歴史上いくらでもありますがな 戦国時代 宣教師と禅の坊さんが論争して最後は、禅の坊主が暴力沙汰に及んだとか。
日本の仏教は堕落してると、 釈尊の教えにむりろ近い考えの 南伝仏教の国々から批判を受けてますが それについてはどう考えてるんですか
イエスの教えは革命的なんでショックなのは当たり前なんです 昔のバラモン教の人にとっては釈尊の教えはショックだったはずです
345 :
名無しさん@1周年 :02/03/10 05:50
キリスト教徒って、もしイエスが目の前で語りかけてくれても 聖書引合いに出して聴く耳持たん奴ばかりだろうな。
346 :
名無しさん@1周年 :02/03/10 05:54
>>343 日本の坊主が堕落していないと逝ってくれる国が
一つでも有るんなら教えてくれやと考えています。
347 :
はい質問です :02/03/10 06:11
そんな日本の坊主が俺は好きさ〜
348 :
ぶっでいすと :02/03/10 15:49
戦国時代、信長がキリスト教の宣教師と坊さんを論争させようと したけど、京都や奈良の坊さんが不勉強で話にならず、鎌倉まで 呼びにいったのは有名な話。ひどい堕落で信長の虐殺の一因と なったようである。 ただそのことが、仏教の教えが劣っていることにはならない。その 教えの深さはあきらかにキリスト教を凌駕していると思う。 ただ私は聖書も何回か読んでますが、キリストもまた愛を説く 救世主であり、釈尊とは違う目的のために生まれた偉大な人 ではあると思います。 比較する必要はないでしょう。
ヒンズー教徒でもなんでも、ヨソの宗教の方が優れててあるいは深い教えだと 思ってる人はいないって
350 :
名無しさん@1周年 :02/03/11 04:16
>>349 もっともです。それはそのとおりです。
ただ、キリスト教最高説の西洋にウパニシャッドや仏教が驚異となり、
盛んに研究されたのは否定しようもないでしょう。
その結果、キリスト者の反応はシュヴァイツェルのようにアレルギー反応みたいな
本が雨後の筍のように出た。
その後、禅ブームが来て、それからチベット仏教に至っています。
>>438 禿同。仏教の堕落は、本覚思想(人間は修行するまでもなく、元から仏という存在
だという教え)の濫用が原因。キリスト教の堕落が、「贖罪」の濫用を源にしてい
るのと共通していて面白い。要するに、人間は元来怠け者なので、楽して助かりたい。
それが噴出したのが本覚思想の濫用であり、贖罪の濫用なんだよね。
仏教もキリスト教も、どちらも堕落していて、教祖の本当の教えを伝えていないん
だから、どちらが勝とうが負けようが、意味がないと思う。ただ、仏教は「物の見方
や考え方」が中心教義だったので、キリスト教のように根幹部分が腐って空洞化する
結果にはならなかった。キリスト教の場合、自己浄化作用が働かねばならないほど
腐敗が進み、宗教改革が起こった。もっとも、宗教改革によっても腐敗部分は取り
除けなかったが。
私見ですが、キリスト教と仏教の根幹の部分だけを比較すれば、348さんのおっしゃる
通り、大きな違いなどないという結論になると思います。
352 :
名無しさん@1周年 :02/03/11 13:02
本覚思想は実に優れた教えであり、 一部の学者が言うようなものではありません. 確かに弊害はあったかもしれませんが、 本質は実に高度で素晴らしいものです.
353 :
競争がすべてです :02/03/11 13:19
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>352 それについては同感です。本覚思想そのものは大乗仏教の中核ともいうべき 重要な思想です。キリスト教の贖罪もまた、同じくらい重要な思想であること は間違いありません。しかし、残念ながら両方とも濫用され、本来の意義が骨 抜きにされている。 具体的に書けば、仏教の「小我」=キリスト教の「罪を犯さざるを得ない自己」 で、その仮の「我」を殺すことによって、仏教でいう「大我」、またはキリスト 教で言う「神の支配」が実現するのです。本覚思想も、贖罪思想も、「小我」が 仮の「我」にすぎないのだということを示している(その「小我」を捨てれば いいのだから、天国は決して遠くはない)のですが、怠惰な人間は、あれこれ理由 をつけてそれを「小我」の肯定へと置き換えたがる。「小我」を肯定しだしたら、 仏教もキリスト教もダメです。
355 :
名無しさん@1周年 :02/03/11 17:52
>>352 155さん賛成です。
大我をどう捉えるかが難しいです。
私は実感がなく正確なことは言えませんが、やはり空で、
かつ慈悲に溢れた法身であると思います。
それを宇宙とかブラフマン、神といっていいかどうかは疑問で、
仏教の諸学者の多くは否定的ですが、
仏教を超えた大成就者は、同じといっていたかもしれません。
いずれにしろ言葉を超えたものであることは確かで、
これは確信をもっています。
356 :
仏教側から :02/03/11 18:44
キリストも仏陀も同じくらいすばらしいですよ。違う持ち味が あります。
>>355 これはどうもです。
よく使われる表現では、神が大海の水で、人間ひとりの実態(俗な表現をすると魂)
はそのしずくだ、と言いますね。神と人間が本来同質であれば、人間が神を愛する
ことも、人間同士が愛し合うことも当然のことになる。これを頭においてイエスの
言葉を理解すると、納得の行くことが多いと思います。
>いずれにしろ言葉を超えたものであることは確かで、
>これは確信をもっています。
禿同です。弟子達は言葉を超えたイエスの教えを、言葉で曲解してしまった。イエス
には運がなかった。せめて、神は人間と同質だ、位のことを言い残してくれてたら
よかったのに。やっと「とうちゃん」と説いたところで早々と殺されてしまった。
358 :
名無しさん@1周年 :02/03/11 18:49
>349 いや、私はカトリックだけどヒンドゥーのほうが教義的に完璧だと思ってます。 輪廻転生があるほうが、世の中不平等や理不尽な理由も納得がいくけど、生まれつき盲目の理由が「神様の栄光」じゃ、ちょっとね・・・; ただ、ヒンドゥーを信じる根拠が何もないので。
>>358 それはおかしいですよヒンズー教の方が完璧だと思うならば
ヒンズー教に改宗すればよいのです。
>>351 キリスト教のように根幹がクサって空洞化することはなかったとかっていうのは
そっくりお言葉をお返ししたいですね。葬式仏教とはまさに教えの空洞化なんですから。
むしろ仏教のほう釈尊お教えから隔たっているんですから。
日本の仏教は仏教じゃないとみなしている学者も海外には多いのです。
聖書なんですけど仏典と比較して 弟子が正しい教えを伝えなかったなんて言われると疑問を感じますね 仏典結集だとや大乗経典の成立と比べて、精度が劣ってるとは思えないですね。 かなり古いイザヤ書なんかの写本でもけっこう正確だそうですよ 例えば、アーナンダが廃止してよい戎としてはならない戎の確認もしてなかったとか。 で実際に解釈の違いから教団が凄くたくさんに分裂しちゃってるわけですから。 仏弟子がイエスの弟子より優れてるとも思ってないです。 仏教徒の人が思う分には、ま、自由かなと。 で、チベット仏教とか禅なんですけどほんとに仏教を望んだのかって疑問でしょ 当時の流行で流行ってたんだもの。今でもあれはなんだったのかみたいな話は出ますけどね
他者を貶めるような書きこみってのは 釈尊もイエスも望まないはずなんですがね
363 :
名無しさん@1周年 :02/03/11 23:02
364 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 09:07
>>362 は真髄をついたかな
自分はクリスチャンで仏教のことはよく知らないが
このスレ読んでちょっと感心するところもありますね
イースターの記念に
イェス・キリストは処刑されてから生き返ります
そのことを信じる信じないは人それぞれでしょうが
よみがえってからあのぼんくらな弟子たちに数々の印をのこし
天に帰りましたその後弟子たちに聖霊が降りて数々の奇跡をのこし
そしてイェスと同じように処刑されそれを証明しました
問題はぼんくらな弟子たちが立派なお坊さんのようではなく
私たちと同じお金が好きで快楽を求めるもの
えらいお坊さんが死を持って何かを追及するというなら話は
べつですが、このような弟子たちゆえの実証であると思うのですが
そうでなければわれわれのような凡人でも救われてクリスチャンに
なれるということがここまで普及しなかったでしょうね
>>360 私も、今の葬式仏教が仏教だなんて思っていないよ。ただ、いくら坊主が堕落
したところで、仏教思想は揺るがないということ。仏教の根幹はその「物の
考え方」にあるんだから。「生きる者はいつかは死ぬ」という命題は、人種や
文化に関わらず、万人に対する真理でしょう?無神論者であっても、仏教の教え
は否定できない、そういう厳粛さを持っている。
キリスト教の根幹にあるものは、パウロが作り上げた「贖罪思想」だけだよ。
パウロが詐欺師だったなら、キリスト教全体が引っくり返る。それを、「聖霊が
弟子たちに下って...」などと脚色で誤魔化しているにすぎない。そういう誤魔化
しを全部取り払って、「万人にとっての真理」を拾い出すと、イエスの「神は悪人
の上にも平等に太陽の光を恵まれる」とか、「明日のことを思い煩うな」という
言葉に行き着く。後のは全部、後世の連中のつけたし、堕落の言い訳でしかない。
>>361 確かに、仏典の結集の時にも福音書の時と同様、不完全な編集や、意図的な
書き換えがあったでしょう。原始教典と呼ばれるものでさえ、明らかに後世の
付けたしと考えられる部分が混じっていることはよく知られた事実です。
ただ、仏教とキリスト教の大きな差は、365でも書いたように、教えの根幹の
違いなのです。キリスト教では、「イエスは、救世主であって、その死によって
全人類の罪が贖われた」というのが根幹教義だけど、「イエスは救世主だと自ら
宣言していた」、「自分の死は全人類の贖いだとイエスが宣言した」、「イエス
が死後復活したのを弟子達が目撃した」、などの一連の事実が完璧に伝承されて
いないかぎり、その教えは本物だと断言できない。ガラス細工など比べ物にならぬ
ほど脆いものが根拠になっているのです。
仏教は、物の考え方が根拠だから、極端な話、釈迦が架空の人物だったとしても
全く問題ない。釈迦自ら、自分は昔の真理の道を発見したひとりにすぎない、と
宣言している。仏教にとって、釈迦をめぐる伝承など初めから問題じゃないの
です。
結論:文献成立の不正確さは、仏典も聖書も同じようなものだが、キリスト教に
とって、それが致命的であるのに対して、仏教にはほとんど影響がない。
個人的には、クリスチャンの人は、仏教的な悟りを得た上でキリスト教を信仰すれば 完璧だと思っているよ。仏教では「仏」を拝めなんて強要してないんだから、偶像 崇拝にはならない。不勉強な上に自分の想像で仏教批判して、恥知らずにも本まで 出版している内○牧師なんているけどね、ああいうガイキチはどんな宗教にもいるもん だから、相手にしないことだよ。 仏教の「自他不二」(自分は独立に存在するのではなく、相手あっての自分だ)を理解 すれば、イエスの説く隣人愛だって素直に受け入れられる。仏教の教えは、福音書を深く 読むヒントにはなっても、キリスト教の信仰の邪魔にはならない。その上で、キリスト教 の信仰に打ち込めばいいんだよ。
368 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 12:21
知恵と信仰は矛盾すると思う。 究極において信仰は知恵には勝てない。 つまり、(正しい)仏教のほうが上。 本当に知恵があれば何かを信じる必要はないはず。 知恵がないから信仰が必要になる。
>368 >知恵と信仰は矛盾すると思う。 そうは思わないな。知恵と矛盾する信仰は、盲信だよ。本当の信仰ならば 知恵とも矛盾はしない。 >究極において信仰は知恵には勝てない。 これも違うと思う。究極において、知恵が知恵でなくなり、信仰と一致する という感じだと思う。言葉でできない知恵こそが、究極の知恵で、かつ信仰 なんだよ。知恵を頼りにして、はばたいて上昇を続けると、やがて空気が なくなってそれ以上は上がれなくなる。 >本当に知恵があれば何かを信じる必要はないはず。 >知恵がないから信仰が必要になる。 これも、信仰を「盲信」に変えた場合のみ賛同できるね。自分が神の大海の 真っ只中にいることを「知っている」のに、どうして神を無視することなど できましょうか。それが本当の知恵だよ。究極の知恵は信仰と一致する。
>>368 様
「認識は信仰の完成である」(アレキサンドリアのクレメンス)
皆が最初から悟っているわけではありません。
カトリシズムにおいても、神の本性の直観によって対神徳としての信仰は不要になります。
(ベネデイクトウス十二世。デンツィンガー教会文書資料集1001参照)
371 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 17:04
>155さん。 仏教の理解は様々な装置によって進む。 その最たるものが輪廻思想だ。 仏教ではこの世からの完全な消滅を問題解決の最終形態と考える。 一方キリスト教では復活を信じ永遠の命を理想とする。 水と油だ。 仏教理解の究極のエッセンスのみを都合よく利用できるような非常識な センスを持っているキリスト者のみが仏教の真理を信仰に生かせる。 なんて考えるがいかがでしょう。
372 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 17:31
仏教のなかで慈悲ってありますよね。 あのエッセンスって、キリスト教の中にあります?
>>371 う〜む。私は輪廻転生がなくても仏教の教えは成り立つと思っているけどね。
輪廻転生するとしても、それは「小我」にすぎないから、「大我」に目覚めれば
輪廻もなくなるという教えでしょう?
キリスト教でいう「永遠の生命」を「大我」に置き換えたらどうだろう。同じ
概念なんじゃない?人間は、「小我」という虚構の自我を作り出し、神の国から
自ら出て行った(追放じゃなくて)、というのがエデンの追放の話だと解釈
しているんだけど。パウロが「古い自分が十字架上で死に、自分の中でキリスト
が生きる」という告白も、「小我」を捨て去って「大我」に目覚めたと解釈すれ
ば矛盾しない。
確かに「形」は違うけどネ、究極のところは「有限でやがては消え去る、仮の自我を
離れて、永遠に存在し続ける、自他の差もない、本来の自我(=神)にすべてをゆだ
ねる」という教えなんだよ、キリスト教も仏教も。
>>372 あると思うよ。唯一の違いは、仏教のように動物や植物に対する愛を説いて
ないだけでしょう。たとえば、こういう聖句。
「第一の掟は...力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』第二の
掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる
掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
375 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 18:09
>>373 155さん、仏教は輪廻を前提とします。
輪廻なしに仏教はありえない。
しかも、それは我々が包丁で指を切れば痛いと感じるのと
同じリアリティがあります。
輪廻なしに本覚とかいってもそれは単なる言葉の遊びですよ。
他者への慈悲も輪廻を苦しみから出てくるし、
殺生や自殺しないこと、人間の人生の意味も輪廻という
前提があって初めて切迫したぎりぎりの焦りにもにた、
意味が照らし出されると思うし、伝統的仏教徒は、
大乗でも小乗でも、みんなそう考えてきた。
考えないのは近代日本仏教学という奇形だけです。
私見ですが、仏教的な回答としては、以下のいずれかになるんじゃないでしょうか。 1)輪廻があるというのも、輪廻がないというのも、迷いである。 2)輪廻するときは、それに従えばよく、輪廻しないなら、それに従えばよい。 3)輪廻するかどうかは、死んでから考えればよい。
378 :
名無しさん@1周年 :02/03/12 19:18
小我、大我という言葉を使っているけど一般的?ちょっと教えて。
輪廻ですか。確かに仏教では、積極的な意味づけは行われませんね。 ただ、仏教で問題になるのは「輪廻」というより「輪廻する(自分と 思っている)我」に対する執着のような気もします。あえて言えば 「輪廻する自分がいる」と断じるのは迷いである 「輪廻はないと断じる自分」により、輪廻を否定するのは迷いである 「輪廻する自分は作り出された幻影であるから存在しない」と断じ、 その思いを生じさせる自らを無視するだけで「我によって作り出され た自らという思い、そしてその輪廻は絶えた」と断じるの者は、その 自らの思いによって新たな輪廻と迷いを作り出す という感じなのでは。
>>375 >輪廻なしに仏教はありえない。
これは間違い。
「マールンキャプッタよ。
人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
人間は死後も存在する、と私は説かない。死後存在しないとも説かない。
なぜ説かないか。なぜなら人間は死後存在するとか、しないとかいうことは苦を滅する事、涅槃の役に立たない。
それゆえ私は説かない。
マールンキャプッタよ。私は四諦を説く。なぜ説くか。なぜなら四諦は、苦を滅する事、涅槃の役に立つ。
それゆえ私は説く。マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(中部経典)
以上の「人間は死後も存在する」を「輪廻はある」に、「人間は死後存在しない」を「輪廻はない」に置き換えてみればよい。
仏教とは「輪廻がある、ない」を超えた教えなのである。
以下コピペ かようにわたしは聞いた。 あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。 その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。 二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。 「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。 これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」 「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」 「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」 「そうではない。」 ・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、 人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。 だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。 かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。 「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」 すると世尊は、かように教えて言った。 「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、 人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、 独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。 それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。 (中部経典) このように、ブッダは「人は死後にもなお存するかどうか」 というような種類の形而上学的問いには答えなかった、と仏典は記録しています。 そのような問いに対する見解はドグマ(独断)に過ぎないからです。
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、 このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、 『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」 「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」 (中部経典22) 「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、 つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。 このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、 ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。 現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。 初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。 ・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。 (中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁) ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、 もっと根本的な批判だったのです。 つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、 そのような問答は無意味であると批判したのです。 ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。
>>380 なるほど。
知識として理解できているのは、
確かにすごいことだと思いますが、
実際に、自分に我執があるということが
認識できない人もいるんですね。
その辺が問題なんでしょうね。
「断見外道」:人間は死んだら終わりという唯物論。 「常見外道」:死んだ後の世があると考える。 一般的に、今の内に供養を積んで地獄へ落ちずに天国へ行こうとする信仰にはまる。
386 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 05:44
>>376 http://www.cam.hi-ho.ne.jp/h_sakamoto/thought/thought.htm >仏教を一言で表すと、この世を苦とし、苦からの救済について述べている。
「この世」というのがこの現世に限定された思想だというのでしょうか?
いや便利なHPですね。
>川崎信定 著、「インドの思想」、放送大学教材 '93
に基づいてインドの思想をまとめているようですが、随分自分の言葉で
書き換えているようです。それは問題多いです。
上の内容は、川崎先生の本では、
>ブッダの教えは、現実に苦しみ悩む人々をいかに救済するかという、
>差し迫った動機からの具体的な対応を説くものであった。(p.62)
となっていて巧妙に輪廻を肯定も否定もしてません。
それから、輪廻前提は一貫してジャイナ他のヒンドゥー各派との共通点で、
それは『サルヴァダルシャナサングラハ』等に明らかです。
中村元訳、『インドの哲学体系I』を読んでみてください。
輪廻否定は順世外道だけで、その輪廻否定説は、
仏教徒ダルマキールティの論理によって否定され、
他のヒンドゥー各派もその論理によって輪廻を論証しているようです。
ジャイナとの違いは、いくらでもあります。無我、縁起、中道が大きな
違いではないでしょうか。
また、仏教は心を重視し、ジャイナは身体を重視したとか。
それに実際、ジャイナと仏教は結構似てるんです。
似てるからといって無理に差別化しなくてもいいでしょ。
要するに心が鎮まり、他に優しくなれればいいわけで、
それ以外、オマケでしょう。
ところで歴史的事実なんてないと思いますけど。歴史は過去に起こった事象の
ある視点から観た解釈であって、還元できる事実なんてまさに空でしょ。
387 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 06:21
>>381 >仏教とは「輪廻がある、ない」を超えた教えなのである。
227さんこれは確かです。確かにに輪廻は空であり実在しない。
しかし、幻だけれども我々が自分があると思い、苦を感じる程度の
効果としては無いわけではなく、そこから抜けでなくては、
他を抜けださしめなければならないのです。
また、一歩譲って「死後存在する」とは説いていないことは
認めますが、それは、マールンキャプッタが死後存在するかどうかが、
分からなければ修行するのはやめようという前提の問いに対して
「役に立たないから説かない」と明言しているではないですか?
388 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 06:23
>>381 引用は、世界の名著からですね。もっと別の所も読んでみてください。
>釈尊が目ざめた者の眼をもって世界を観察されると、(中略)
>来世に生まれて苦をうけねばならぬおのれの罪業について
>おそれを知りつつ暮らしている者たちもある、ということが知られた。(p.433)
>これが最後の生存であって、いまや再び迷いの生存にはいることはない。(p.438)
>悪行を行った彼は、肉体が滅んだ死後、苦悩・災いの世界、不幸な状態、
>煉獄に生まれる。(p.444)
>善行を行った彼は、肉体が滅んだ死後、善い場所・天上界に生まれる。(p.444)
同様、pp.446, 465-6, 493, 501
>比丘は過去の生存の境涯を想起する知(宿住通)に、心を傾け、心を向けます。
>彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。
>そしてそれは幾多の生成・壊滅をふくむ宇宙期を(通して)想起します。
>『あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。
>家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、
>こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。
>そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、そこでも同じように、
>自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、
>これこれの幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。
>そしてその世からいまのこの世に生まれ変わってきたのだ』というように、
>具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。(p.535)
389 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 06:27
390 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 06:44
391 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 06:51
もちろんキリストですよ
392 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 16:35
>>390 >じゃあ、ヴァッチャに対する説法はどういうこと?
ども。ゆうまでもないから省略したのですが、こゆことです。
>>382 >独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。
>それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、
>厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
要するにそのような思想追求は、覚りに意味がないということ。
>それは、方便としての死後の話では?電波男と対話してみたら?
それは不毛です。もう実証済みです。まさにここで対話、というかテストしました。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1010788424/ 人のことは言えないけど、彼こそ見取の結縛、つまり仏教学で抽出した
結果に囚われていて、覚りにも利他にも役に立たない。
「苦をともない、悩みをともない、破滅をともない」ことばかり言ってるし、
仏教学は結構できるが、自分の非をほとんど認めないし、あれじゃ対話にならないよ。
あのレヴェルのサンスクリットで、できるといったり、大口叩くのは無理があるです。
かといってオラはできるって訳ではなく、へなちょこですけど。
一つだけ彼に感謝したいことがあります。小川英世さんの論文を教えてくれたことです。
こんなとこで、ありがと。(おこんないでね)
彼の輪廻否定は創価学会に対する反動形成でしょう。
う〜ん。どんどん泥沼にはまっていくように思えるなあ。
要するに、釈迦の四諦が仏教の根幹である以上、
>>381 にあるように輪廻転生があろうと
なかろうと関係ないんだ、という結論にならないかな?
この問題提起は、「輪廻転生が仏教思想に不可欠かどうか」であって、「輪廻転生があるか
ないか」じゃないと思うのだが。いつの間にか問題がすりかわっているぞい。
もし、仏教思想が輪廻転生を仮定しないと成り立たないのなら、ここでいくら議論しても
キリスト教の人は到底受け入れられないだろうし、私もウソを言ったことになるので、
むしろ、それが心配だ。
394 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 16:51
395 :
名無しさん@1周年 :02/03/14 17:35
>>393 >要するに、釈迦の四諦が仏教の根幹である以上、
>>381 にあるように輪廻転生があろうと
>なかろうと関係ないんだ、という結論にならないかな?
155さん。なりません。これは確信を持って言えます。四諦の一つ「一切皆苦」を本当に実感し、
輪廻しないなら、すぐに自殺することが導き出されませんか?
そうなるはずです。あらゆることが苦しみであるというこの現世、しかし自殺しても、
苦しみはケイゾクするから、自殺せず、善行をし、他の苦しみも理解し、利他行をする。
逆に四諦が仏教の根幹である以上、輪廻を前提にしなければ自殺するのが当然だと思いますが、
何故、そうならないか説明できますか?
私は四諦を認めた仏教肯定派が輪廻を否定できる根拠を知りたいので、教えて欲しいです。
また「輪廻転生」という言葉は、あまり伝統的仏教では使わないので、できれば「輪廻」と
いってください。
輪廻転生が、あろうとなかろうと関係ないという結論は、
生老病死が、あろうとなかろうと関係ないというのと、
同じような結論であることが、理解できるだろうか。
輪廻転生の問題は、自我意識の問題なんよ。
生老病死の問題も、自我意識の問題なんよ。
>>395 同意。
>>396 そう言われると納得できるような気もするけど、結局のところ「輪廻」も
「生死」も仮の自我の迷いにすぎないわけでしょう?その自我の奥に、輪廻
も生死も超越した真の自我がある。それを感得して、仮の自我への執着を
離れるのが仏教だと思うけど。「生死」に迷う人間に対して、それから解脱
せよ、というのは理解できるが、キリスト教徒や現代人のように「輪廻」を
信じていない人に、わざわざ「輪廻」という迷いを押し付けなければならない
理由がわからない。
出典は忘れてしまったが、釈迦は「大切なことは体にささった矢を引き抜く ことだ」と教えているよね。最初から「輪廻」という矢がささっていない人 に、「仏教を理解するにはこの矢が必要だ」と言って、わざわざ矢で傷つける ことは釈迦の意向に反していないだろうか?
というか、あれなんですよ。 解脱して仏になった世界というのは、 生死、黒白、男女、仏と凡夫、というような 相対的な世界じゃなくて、絶対的な世界なんですね。 それを「空」とか「無」とか「涅槃」って言うでしょう。 我々のように、相対世界で生きると言うことは、 苦楽を必ず伴いますよね。 矢が刺さっていない人がいるんじゃなくて、 矢が刺さっているのを知らない人がいるんです。 無理矢理矢が刺さっていることを 教えてあげる必要はないけれども、 いずれは必ず知ることです。 つまり、矢が刺さっていることを知らない人には、 知ったときに仏教の教説を話すればいいのではないでしょうか。
でも、キリスト教徒の人は、 輪廻のことをどのように考えるんだろうね。
>>399 悪いが、やっぱり論旨がずれているようだよ。私が言いたかったのは、今ここに
現代人がいて、生死に迷っているとして、彼の苦を抜いて楽を与えるのに、輪廻
を持ち出す必要が本当にあるのかどうか、ということ。
もし、輪廻を持ち出したときに「私はそんな荒唐無稽な作り話は信じない」と
きっぱり言われたら、もうその人は救えない?仏教って、そんなに融通の利かない
代物だとは思えんけどね。
>>395-396 わかってないなー。
輪廻を否定しているんじゃなくて、肯定したり否定したりすることを否定してるんだよ。
真理とは、いつの時代、どこの場所でも真理のはずだ。
真理は、輪廻思想という、インドの土着思想に縛られるものではない。
即ち「生・老・病・死」に代表される、人間が今この場で受けている迷いである。
答えの出ない、形而上学的問題(死後、輪廻)は、いくら考えても答えが出ない。
それは、仏教以前のバラモン教によって、散々やられていた事だ。
その迷いからの解脱が仏教である。
>>395 >155さん。なりません。これは確信を持って言えます。四諦の一つ「一切皆苦」を本当に実感し、
>輪廻しないなら、すぐに自殺することが導き出されませんか?
>
>そうなるはずです。あらゆることが苦しみであるというこの現世、しかし自殺しても、
>苦しみはケイゾクするから、自殺せず、善行をし、他の苦しみも理解し、利他行をする。
「四諦」について、まったくわかってない。
なぜなら「一切皆苦」というのは、「この世のあらゆるもの(色)」は、
「無常ゆえに変化し、滅びる」その色に対し、「執着し変化しないで欲しい」と固執する。
しかし「一切」は変化する。ゆえに「苦」である。
これが「四諦」の意味。
つまり、この世は、もともと「苦」でも「楽」でもないの。
「苦」ではないから自殺などしない。
「常見外道」か… 質問したいんだが、「仏教とは死後や輪廻を前提とした教えである」と主張するの? 「死後、輪廻を前提としない仏教は外道」とも、主張するの? 「禅」では、「死後や輪廻」については説かないが、「禅」は外道なのか?
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。 「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、 鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。 これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。 さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。 何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (サンユッタニカーヤ 33.1.3) このようにブッダは、五感を超えた形而上学的問題は、 「人間の知識領域を超えた問題であり、真実としてとらえる事の出来ない問題である」 として、退けた。
だからこそ、
>>383 >ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、
>もっと根本的な批判だったのです。
>つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、
>そのような問答は無意味であると批判したのです。
そのような問答は「空論」である。としたわけだ。
そして、「そのような、答えの出ない形而上学的問いに終始せずに、
今この場で実感される「苦(生老病死)」を問題とせよと言ったわけだ。
まあ、バイオレット吉川のように「瞑想によって、五感を超えた判断能力(超能力)が使えるようになる」
と言うのなら別だが。
>>401 そういう人に輪廻の話を突然する必要はない。
まだ、自分の矢には気づいていないようですね。
それはそれで仕方がない。
ささっている矢はキューピットの矢かもねぇ。 矢がささっている早くぬかなきゃと思うのも自由、矢等ささってないよんのほほんと思うのも自由。 仏教やってる人って仏教に真理があるって思ってるんだろうけど(じゃないとやってないだろうし) そうじゃない人を見下す傾向、強かないか? 特に外道なんて言葉なんとかならんのかな。
>>408 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、
──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人、
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?
『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、
『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。
かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
(スッタニパータ)
他人を見下すのは、戒められてるはずなんだけどね…
410 :
お釈迦しゃ〜ん :02/03/14 22:58
比べるようでは、あきまへんなぁ。
はんせい
412 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:20
関係ないようで双方の教えには共通する部分もあるのが不思議
413 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:39
>>408 >>409 まず、オラを含めてこんなとこでカキコしてる仏教徒はへなちょこなんです。
確かにご指摘どうりの傾向があります、それこそ我に基ずく欲望以外のなにものでもないです。
再び、反省いたします。但し、輪廻は仏教体系内の話し、つまり仏教を信じるなら、
輪廻は受け入れなければ、ほとんど無意味という話しなので、これは許していただきたいです。
ただ、外道というのは、外なる道という意味で、それ程悪い意味ではありません。
断見こそが最悪の意味です。
414 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:41
>>402 要するに仏教は現世に限定した教えだって読みたいわけね。
では、
>>388 に引用した部分はどう解釈して整合性をとるんですか?
415 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:43
>>403 >「四諦」について、まったくわかってない。
>なぜなら「一切皆苦」というのは、「この世のあらゆるもの(色)」は、
>「無常ゆえに変化し、滅びる」その色に対し、「執着し変化しないで欲しい」と固執する。
>しかし「一切」は変化する。ゆえに「苦」である。
>これが「四諦」の意味。
確かに上の記述は正確な理解だと思います。
「この世」という限定の典拠が、
>>405 (サンユッタニカーヤ 33.1.3)だって訳ね。そう書いてよ、ひっかけないで。
なるほど釈尊は感じられるものを一切と言ったわけね。結構です。ですが、
>つまり、この世は、もともと「苦」でも「楽」でもないの。
>「苦」ではないから自殺などしない。
上の考えは全く賛成できない。問題は迷ってる凡夫の苦ですよ。
それでも<「苦」ではないから自殺などしない>というなら仏教など必要なくなるでしょ。
このような説が仏典に説かれているのを見たことがないです。
苦は苦でない、輪廻はない。確かに勝義、聖者の立場ではそうでしょう。
しかし、凡夫には苦、輪廻なのです。それはもう苦しいし、生まれ変わり死に変わりして、
苦しみ悶える、というか私は今、苦を感じてるのだが、貴方は感じない聖者なのですか?
苦を全く実感していない言葉の遊びにしか思えないです。典拠あるの?
416 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:44
>>405 同じくサンユッタニカーヤ から、逆に自殺する例をお目にかけましょう。
ゴーディカ尊者は六度解脱し後退した。七度目に解脱した時、自殺した。そして、
>16 尊師はゴーディカ尊者が床座の上で肩をまるめて上向きに臥しているのを、遠くから見た。
>17 そのとき、煙のような、朦朧としたものが、東に行き、西に行き、北に行き、南に行き、
>上方に行き、下方に行き、中間の四維に行った。
>18 さて尊師は、諸々の修行者に告げられた、
> 「修行者たちよ。そなたらは、この煙のようなもの、朦朧としたものが見えるか?
>東に行き、西に行き、北に行き、南に行き、上方に行き、下方に行き、中間の四維に行く」と。
> 「そのとおりでございます。」
>19 「修行者らよ。これは、悪魔・悪しき者が、立派な人ゴーディカの識別力を探し求めてい
>るのだ。『立派な人・ゴーディカの識別力はどこに安住しているのであろうか?』と。しかし、
>立派な人・ゴーディカの識別力が安住していないで、完全なニルヴァーナに入ったのだ」と。
そこで悪魔は釈尊にゴーディカの意識はどこに行ったのかと聞き、釈尊が答えて、
>21 「かれは思慮深く。しっかりとしていて、つねに瞑想し、瞑想を楽しんでいた。
>昼夜、道にしたがって努め、生きることを求めなかった。
>死魔の軍勢に打ち勝ち、再び迷いの生存にもどることなく、
>妄執を、根こそぎにえぐり出して、ゴーディカは完全に消え失せた。」
中村元訳、『悪魔との対話』岩波文庫、pp.49以下
この例は明らかだと思いますが、解脱していれば輪廻せず、退転すれば輪廻する。
だから、ゴーディカは自殺した。悪魔は輪廻にさまよう識を探したが、
完全なニルヴァーナに入ったので識はなかった。
自殺したのは退転することが恐ろしいからだ、輪廻には苦しかないからです。
417 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 05:47
>>404 >質問したいんだが、「仏教とは死後や輪廻を前提とした教えである」と主張するの?
>「死後、輪廻を前提としない仏教は外道」とも、主張するの?
>「禅」では、「死後や輪廻」については説かないが、「禅」は外道なのか?
主張するよ。少なくともインド・チベットではそうだ。
インドでは、断見外道に対して清弁、法称、寂護、法上などが輪廻の論証を、
それは必死で書いた。なぜなら、断見こそがすべての善を破壊するからだ。
断見だと善をする要請が出ない、出離の気持ちが湧かない、
>>403 >「苦」ではないから自殺などしない。
では慈悲は生まれない。
禅は輪廻とくよ。道元さんの言葉を集めた『修証義』
>今我等宿善の助くるに依りて既に受け難き人身を受けたるのみに非らず
>遇い難き仏法に値ひ奉れり生死の中の善生最勝の生なるべし
これの「宿善」過去世の善、「生死の中の善生」は複数の生を意味し、
輪廻を前提にしてるとしか思えないけど。
輪廻なしには「生死の中の善生」は、いまここに生きている中でと解釈するのかな?
しかし、「宿善」はどうにも解釈できないと思いますが? どう?
418 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 06:10
>>417 横レスですまんが、道元さんは別のところでこうも言っているよ。
この生死はすなはち佛の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのち
をうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなふなり、
佛のありさまをとどむるなり。
(中略)
佛となるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生
のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ
心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを佛となづく。又ほかにたづぬること
なかれ。(『正法眼蔵』生死)
つまり、生死にこだわる心が迷いなので、生死を捨てるのではない。生死を、喜ばず厭わずありの
ままに受け入れるのが仏なんだ、と説いている。生死を解脱しようという心こそが「突き刺さった
矢」なんだよ。輪廻もこれと同じ。生死や輪廻から脱したいという欲望がある内は仏にはなれない。
それもまた凡夫の妄想にすぎないからだ。そんな迷いを一日の早くふりきって、人並みに「もろもろ
の惡をつくらず」まっとうな生活をするのが真の仏法。「又ほかにたづぬることなかれ」だよ。
>>419 もしかするともう悟ってるの?
あなたの言っていることは確かに正しいんよ。
でもそれは最終段階の悟りの境地ですよ。
私なんかは、その段階にはほど遠いし、
ここ何十年かで悟れるとは思えないんよね。
確かに知識としては、悟りの境地は、
相対的ではない、絶対の境地であることは分かるが、
実際には、病気になると非常につらいし、
失業しても滅入ってしまうんですね。
たぶん、輪廻肯定派は自分の未熟さを実感しているし、
人生の悲哀を味わっているが、どうも、
輪廻があってもなかっても関係ない派は
悟っちゃっているような印象を与える
ことを言うね。
悟っているんかもしれないけど。
421 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 09:52
で、どっちが偉いのかね。
>420 私は自分が悟ったとは思っていないけど、ただはっきり言えるのは、たとえ 悟りに至るための途中段階であったとしても、生死を脱っせんとする修行を すれば野狐になるということ。「半仏」どころじゃなくて、「反仏」だよ。 南極を目指すのに、北極星の方角に進むようなもんだよ。あなた、かなりヤバ そうだから忠告しておくよ。
423 :
dendo. :02/03/15 10:22
誰が偉いとか考えること自体くだらないと思うんだが…… そもそも入信するときにそれが判定基準になる人っているの?
>>422 同意。420さんのは「頭上に頭を載せる」という考え方だね。
>>422 反応の仕方が、良く理解できないな。
生死を脱しようと特別な修行なんかしてないんだけど。
日々の精進じゃないの?
私がどういう修行をしていると思ったの?
憶測でものを言いますのでご了承下さい。
たぶん、まだ、生老病死の苦のどれも
味わっていないでしょう?
>>425 424さんはちゃんとお分かりのようだ。決して偉そうぶって言うつもりはない
が、この辺の呼吸はわかる人でないとわからない、という他はないな(嘆)。
四苦八苦を経験したかどうかは別の問題。仏教のエッセンスをたとえ概念の上
でも掴んでいるかどうか。最初を間違えるととんでもない方向へ彷徨うことに
なる。危ない、危ない。
427 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 12:00
有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、 考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、── それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。 また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 正しく見る人々の考えは、一切の世間の人々と正反対である。 他の人々が安楽であると称するものを、諸々の聖者は苦しみであると言う。 他の人々が苦しみであると称するものを、諸々の聖者は安楽であると知る。 解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。 ・・・・・スッタニパータより
つまり仏教の究極の教えとは、 「余計なこと、なーんも考えんな」って事かな?
悟空「無になるって、こうか?……」 ミスターポポ「それ、何も考えてないだけ。無になるのと違う。」
>>414-415 太郎よ。
ハンドル入れ忘れてるぞ。
あの世や輪廻を頭から信じこんで疑わない人に対して説法をしようとしたら、
まずは、あの世や輪廻があることを前提(方便)として、説法をしたであろう。
>>388 >>415 言ってること滅茶苦茶だぞ。
>上の考えは全く賛成できない。問題は迷ってる凡夫の苦ですよ。
>それでも<「苦」ではないから自殺などしない>というなら仏教など必要なくなるでしょ。
>このような説が仏典に説かれているのを見たことがないです。
>苦は苦でない、輪廻はない。確かに勝義、聖者の立場ではそうでしょう。
>しかし、凡夫には苦、輪廻なのです。
特にここ。
もう一回よく考えてみろ。
あと、
>>388 のP-433や535は仏典としては最古のものではない。
神秘主義の根強いインドにあっては、神秘性の流入は避けられなかった。
>>太郎 しつこく、「聖者の立場では輪廻はないのだろうけど、輪廻に迷っている凡夫はどうするんだ?どうするんだ?」 って言うが、 「輪廻がある、もしくはないと思う(断見外道・常見外道)ことが間違い。」と、 諭す以外あるまい? 「凡夫は輪廻があると思っている」と「凡夫は死後に輪廻(生まれ変わり)する」は違うぞ。 なんか勘違いしてない?
433 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 15:43
>>419 >つまり、生死にこだわる心が迷いなので、生死を捨てるのではない。生死を、喜ばず厭わずありの
>ままに受け入れるのが仏なんだ、と説いている。生死を解脱しようという心こそが「突き刺さった
>矢」なんだよ。輪廻もこれと同じ。生死や輪廻から脱したいという欲望がある内は仏にはなれない。
>それもまた凡夫の妄想にすぎないからだ。そんな迷いを一日の早くふりきって、人並みに「もろもろ
>の惡をつくらず」まっとうな生活をするのが真の仏法。「又ほかにたづぬることなかれ」だよ。
155さん、これじゃ勘違い本覚思想と同じだよ。
このように思われてもしかたがない。
>>428 >つまり仏教の究極の教えとは、
>「余計なこと、なーんも考えんな」って事かな?
そんなことはないでしょ。
434 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 16:09
>>413 >あと、
>>388 のP-433や535は仏典としては最古のものではない。
>神秘主義の根強いインドにあっては、神秘性の流入は避けられなかった。
なんだそうゆう読みをする人か、それじゃ何を言っても無駄だ。
じゃ、アッタカヴァッガでもニッデーサでも輪廻前提としてるけど、それも添増?
要するに自分の解釈以外の要素は非仏教的とかいってすましちゃう
松本史郎タイプね。
もし仏教学とかやってるなら止めた方がいいよ罪だから。
435 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 16:12
>>227 太郎さんじゃにゃいよ。文章が読めない証拠だよ。よく読んでみ、違いが分かるよ。
だから自分のアーラヤに引き付けた読みをするんだよ。
>あの世や輪廻を頭から信じこんで疑わない人に対して説法をしようとしたら、
>まずは、あの世や輪廻があることを前提(方便)として、説法をしたであろう。
>>388 その解釈は全く逆、釈尊が生天とかから説法を始める場合、
あいてが断見に陥ってないかの確認のようなものでしょう。
もうちょっとその近代仏教学に凝り固まった考えを捨てて、現実に適応して考えてみ!
エイズとか借金苦とか失恋でくるしんで自殺しそうな人に、
<「苦」ではないから自殺などしない>とかいうのと同じだよ。
そら間抜けでしょ。それと同じことを貴方は言ってるわけ。
もう無駄だからやめとくけど。
「断見外道」:人間は死んだら終わりという唯物論。 「常見外道」:死んだ後の世があると考える。 一般的に、今の内に供養を積んで地獄へ落ちずに天国へ行こうとする信仰にはまる。
437 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 17:33
喩例だしとくね。 例によって毒矢で苦しむ人を想定しよう、 彼は、「一切皆苦」を実感している、毒矢の痛みは耐え難い、 そして、こう考える、 「すべては苦か、本当に人生は苦しい、 しかも死ねば終わりだ。速く痛みを消すために自殺するか」と考える。 それに対して、貴方は「その苦しみは迷いであり、空である、 だから、自殺などするのは馬鹿げてる」と言うのでしょうか? 死にたい人が「俺はほんとに苦しいんだ、この痛みが、お前に分かるか?」 という。 貴方はその痛みも「迷いであり、空である」というだけですかー? これはほんの一例にすぎないよ、輪廻を前提としない仏教は矛盾だらけだ。
438 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 17:36
「常見外道」はアートマンなどの永遠不滅の実体があるという見方です。 その定義はちょっと違わないか?
>>433 >そんなことはないでしょ。
むむむ?では仏教の究極の教えとは?
一言で表すのは難しいかな?
教えて君でゴメソ。
悪いな。
>>415 のアフォーぶりに血がのぼって過激になってたよ。
>>434 それほど単純じゃない。
古い経典には神秘的要因が少なく、後の経典には多いことは間違いない。
輪廻について、どう解決するかについては当時の大きな関心だった、
仏教にもその解答が求められたのは当然。
で、「(もしも輪廻があったのなら)執着がなくなれば、輪廻しない」と言ったんだろ。
441 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 18:02
>>432 >しつこく、「聖者の立場では輪廻はないのだろうけど、輪廻に迷っている凡夫はどうするんだ?どうするんだ?」
>って言うが、
>「輪廻がある、もしくはないと思う(断見外道・常見外道)ことが間違い。」と、
>諭す以外あるまい?
227さんが何を言いたいかやっと分かった。要するに輪廻は迷信だ、みたいなことが言いたいわけ?
それは絶対違うでしょ。輪廻とこの世の痛みと迷いだが、アルタクリヤーはある。
つまり、両方ともリアルに苦しいんですけど。
ま、無駄か。
五感を超えた形而上学的問題について、仏教以前のバラモン教などで散々言い尽くされていたわけだろ。
それに対して釈迦は、
「五感を超えた形而上学的問題は、結局真実としてとらえることができないのであり、
答えの出ない問題に終始していても現実の苦はなくならない。まずは現実を見据えよ。」
と、説いたわけだろ。
そうじゃなきゃバラモン教で十分なんだし、わざわざ仏教を主張する必要がない。
>>383 >>405 「輪廻がある」とするのも「輪廻はない」とするのも、どちらも五感を超えた形而上学的問題であり、
「答えが出ない問題」なんだから、それが迷いなわけじゃん。
だから「断見」も「外道」だし、「常見」も「外道」なだろ。
>>437 「説得が難しい」という事と「理論が矛盾している」という事は別。
あと、「すぐに答えろ」と言われたら、難しいけど。
必ずしも「説得が不可能」とは思わないな。
そういう君は、どう説得する?
私は、
>>428 の意見がかなり真理に近いと思っているけどね。
人間は輪廻する-->輪廻するのは困る-->だから輪廻しないように仏道修行
をしよう、というパターンは仏教じゃない。常見外道で、輪廻(からの脱却)
に執着しているからね。
仏教の教えとは、道元さんの教えにあるように、輪廻にはこだわらないという
こと。
人間が輪廻するかどうかなど関心はない-->輪廻するならすればいいさ、輪廻
しないならしないでいいさ-->輪廻から解脱する、これが仏教の教え。
ところで、このスレで「人間は輪廻する」という説にこだわる人は、無門関の 「百丈野狐」の則をどう解釈するわけ?
446 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 18:55
>>444さん、輪廻から解脱する。すごいぞ。 人間何人できるのやら、うんうん。 でも、わたしは、釈迦もイエスもマホメットもどうでもいい。 居たかどうかもわかりゃしない、のち弟子がいいこといっぱい 書き残してくれてるのは解る。一部のやつらはその教えを あだにして好き勝手してる。 そんなこんななら、アレキサンダーのほうがよほどいい。
>>444 >人間が輪廻するかどうかなど関心はない-->輪廻するならすればいいさ、輪廻
>しないならしないでいいさ-->輪廻から解脱する、これが仏教の教え。
無意識的に輪廻は存在すると思ってないか? それをいうなら
人間が輪廻するかどうかなど関心はない-->輪廻するならすればいいさ、輪廻
しないならしないでいいさ-->苦から解放される、これが仏教の教え。
となるはずだが。
輪廻をどうするか考えた時、
>>444 という答えになる。ということでは?
449 :
名無しさん@1周年 :02/03/15 19:32
生まれ変わりがあるか、ないか? それを知ろうとする心のありようが迷いだよ。 ようするに心は物事を対象化しないと気がすまない。 そこにリアリティーを幻想化する迷いがある。
.
>>444 >常見外道で、輪廻(からの脱却)に執着しているからね。
つまり
執着がいけないってわけね?。
とすると
輪廻に対する執着がだめだとすると
解脱も執着の対象となり
そのための修行も又執着の対象であり
何もしないのが悟りだ。
となり本覚思想となり
凡夫がそのまんま仏
となり
『仏教』自体が執着である。(笑い)
事故レス HN449は HN450です。 >449 すまそ。
ちと書き方が悪かったな。「輪廻から解脱する」じゃなくて、「輪廻の苦から
解放される」と書くべきだった。河童になれば、水が怖くなくなるのと同じ
だな。
>>447 さんの意見が近いよ。
>>450 さんのは正しいところもあるんだけど、ちと極端論に走りすぎている。
執着する人に「執着するな」と言っても無駄だ。なぜなら、その執着は自発的
なものだからね。ヤケ火箸を握っている人は、いくら「熱いもまた実態がない」
と頑張ったって、手のひらは焼ける。仏になろうが、夏は暑くて冬は寒い。ただ、
仏は暑さ寒さも苦にならないだけだ。ヤケ火箸を離せば済むんだよ。そのために
は、なるほど火箸を握り締めていた自分がアホだったという「自覚」がいる。450
の詭弁は、この「自覚」までも否定した結果だよ。
まあ、以下にある「百丈野狐」の公案でも考えてみてください。仏になっても現在
と何ひとつ変わらないんだよ。変わるというのが執着であり、魔道への入口なんだよ。
ttp://www.th-d.co.jp/club/index27.htm
・釈迦のことを尊敬していたであろう仏典編纂者は、
釈迦のことを超人的・神的存在として仏典に書き残したいと考えていたであろうこと。
・古い仏典ほど、釈迦は人間的存在として書き残されていること。
・後世の仏典ほど、釈迦は超人的・神的存在として書き残されていること。
これらを考慮したら、「如来は何劫でもこの世にとどまり続けることができる」とか
「如来の諸器官は衰えることがない」とか「一瞬で好きな所に現れる(行く)ことができる」
などの神格化された記述は除外されるべきだ。
>>414 >>431 そういう意味だが。
>>452 君のおつむのなかで
>450さんのは正しいところもあるんだけど、ちと極端論に走りすぎている。
と言う判断から
>450の詭弁は、この「自覚」までも否定した結果だよ。
詭弁という結論に至る論理的プロセスというものが
まるでないではないか。
仏教やるまえに言語の習得が必要に思われ。(わらひ
456 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 02:56
155さんありがとう。よくわかったよ。 なぜ、日本仏教学が輪廻を否定したかが。 近代日本仏教にはそれぞれはまる人の傾向がある、 禅宗=科学的人、真宗=キリスト教的人、日蓮宗=国粋的人、真言宗=オカルト的人 とかねあくまで傾向だけど。 問題は禅宗で、禅宗は優秀な仏教学者を輩出してきた、 で、禅宗系学者の一部は禅宗を顕揚するために、禅は輪廻を否定する理性的で 合理的な仏教ですみたいな方向で仏教学を押し進めた。典型は宇井伯寿さんですね。 その結果、輪廻は非仏教的要素という 世界的にも歴史的にも珍奇な、断見仏教学が誕生した。 断見仏教学は近代的精神によく適っているので、 知的に仏教を理解する人には、ぴったりで迎合され、今も支持されている。 こうゆうことだった訳ですね。納得、納得。
457 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 03:23
>世界的にも歴史的にも珍奇な、断見仏教学が誕生した。 珍奇だろうがなんだろうが真実なら良いのではないか? 断見仏教学を否定する材料を揃えてから議論するべきであり、 それなしに納得とは求道に不十分だと思いますが。
458 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 04:26
確かに生まれ変わりがある、というのも断見だが、ない、というのも断見だな。 断見が問題なんであって、生まれ変わりは別にあってもなくてもいいと思うが。
459 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 05:00
>>456 輪廻を否定してるのか>仏教学
否定も肯定もしないんじゃないのか?
少なくとも155はそう(否定も肯定もしていない)。
>>456 >日本仏教学が輪廻を否定した
「日本仏教学が輪廻を否定した」というソースをキボンヌ。
文献でもなんでもいいから、仏教学が輪廻を否定している記述をうpしてね。
461 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 09:10
輪廻を否定している、というより、転生を否定している、ということだろう。 まあ、一部の学者だけかもしれないが。
462 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 09:18
ソースが欲しい ダメなら根拠を言ってくれるだけでもいい
463 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 09:38
科学的に認められないから、ということを理由に転生を否定するなら、それも断見。
>>456 >典型は宇井伯寿さんですね。
>
>その結果、輪廻は非仏教的要素という
>世界的にも歴史的にも珍奇な、断見仏教学が誕生した。
ということは、宇井伯寿さんは輪廻(転生?)を否定した断見仏教学の典型の人ということ?
宇井伯寿さんが輪廻を否定している記述をうpキボンヌ。
465 :
せきぐちひろし上げ :02/03/16 14:20
明日、17(日)よる9時 「知ってるつもり90分拡大版」は、人間・釈迦を取り上げます。 初心者向きのため、ひらにひらにご容赦を!
>>465 いや、容赦しない。
間違ってる所があったら、鬼の首でも取ったかのように指摘してやる。
467 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 17:33
そんなソース持ってないですよ。だってそんな本、持ちたくないでしょ。 宇井さんは巧妙だからはっきり断言してないかもね。 唯一持ってるのが、これ和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』、 >我々は経典自身の証拠からも、また経典以外の証拠からも、 >業による輪廻の思想が四諦の体系と立場を異にするものであることを >明かにした。しかしこれによつて我々は業による輪廻の思想が「仏教」に >属するものでないと云うのではない。それは阿含の経典が示す如く >明らかに原始仏教の中に取り入れられている。我々の主張するのは >この思想が原始仏教に特有のものでないこと、及びそれが >原始仏教特有の実践哲学に属せざることである。 私の言う否定は「原始仏教特有の実践哲学に属せざることである」という意味です。 要するに非本質的要素で、迷信だけど当時のインド人が信じてたから、 方便的に説いただけであるという考え方をも含むということです。 随分昔の記憶だけど、以下のものも否定していたと思います。 秋月龍岷 の『間違いだらけの仏教』とかなんとかゆう本、 定方晟『 空と無我―仏教の言語観』 松本史郎『縁起と空』
>>467 >私の言う否定は「原始仏教特有の実践哲学に属せざることである」という意味です。
>要するに非本質的要素で、迷信だけど当時のインド人が信じてたから、
>方便的に説いただけであるという考え方をも含むということです。
とすると、それを「輪廻を否定した断見仏教」と断言することは、行き過ぎだ。
なぜなら、
>>383 >>405-406 のような
「輪廻を否定も肯定もしない。五感を超えた形而上学的問題であり、真実としてとらえることのできない問題であるからだ。」
とする、輪廻を否定も肯定もしない仏教解釈を「輪廻を否定している」とは言えないから。
輪廻を否定も肯定もしない仏教解釈の、どこが輪廻を否定した断見仏教なんだ?
せめて、「輪廻を前提としない仏教」と言ってくれ。
それとも、あなたは自分の解釈以外の仏教解釈は非仏教的とかいってすましちゃう
松本史郎タイプなのかな?
あなたは、「輪廻を前提としない」=「輪廻を否定してる」と勝手に解釈して、勝手に断見仏教と批判している。
469 :
名無しさん@1周年 :02/03/16 22:35
あはは、最初は前提としないと書いてたんだけど、 前提って書いても否定と読んでくる人が多いので、 まあ、どっちでも意味は一緒に取られるなら、もういいやと思ってね。 始めから、貴方のように気が付いてくれれば嬉しかったんだけど。 要するに輪廻が教えの基盤にあるかないかです。 しかも、私の解釈ではなくインド、チベット、上座、中国、日本の 伝統仏教に添った一般的解釈で、仏教経典を普通に読めばそう書いてあるものですよ。 あなたのような解釈は近代仏教学が作り出した文献学者のもの。 本当に仏教をするなら輪廻は重要だと言いたいだけです。 言い争っても無駄ですけど。とりあえず今回はこれで終了にします。 収穫あったよ、ちょっと嬉しい。
470 :
せきぐちひろし上げ :02/03/16 23:43
まぁ、そんなこと言わずに、泣いてくださいよー。
釈迦は輪廻を肯定したのか、 或いは否定したかの論議ですが、 輪廻の在る無しについて囚われることに対する心の話とは別に、 釈迦は「宿命智通」という神通力で、 ご自分のあらゆる過去世を見たと証言しているのではなかったでしょうか? つまり、自分の過去世を知り、人々の過去世を知り、 遙か宇宙の発生と破壊を繰り替えす一切の過去を見たことで 人々の過去からのカルマの経緯と結果をハッキリと知った。 この驚異の体験を得た釈迦だからこそ、 体験に裏付けられた教えに重みがあるのだと思うのですが、 皆さん、如何でしょうか? コレは間違い?? ご意見プリーズ!!
472 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 02:40
どっちもどっちだと思うよ。それぞれ必要なとき時代に現れて それぞれの教えを説いた。どっちが優れているなどと比較 すべきではないのでは?
473 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 03:03
474 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 04:11
>>471 釈迦の輪廻問題でははっきりしないね。ヒンドゥーだからそれが前提ってのもなんだかなぁ。と。
475 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 04:33
493 名前:名無しさん@1周年 :02/03/17 04:31 日本人は馬鹿か? なんだこのスレは・・・・ イエス・キリストが、国・時代・宗教を超越した愛のお方であることは否定しようがない、 と思うけどさ・・・
>>469 >あはは、最初は前提としないと書いてたんだけど、
>前提って書いても否定と読んでくる人が多いので、
>まあ、どっちでも意味は一緒に取られるなら、もういいやと思ってね。
>始めから、貴方のように気が付いてくれれば嬉しかったんだけど。
う〜んん、つまり、輪廻を前提としない仏教解釈を指して「輪廻を否定している仏教解釈」と、
輪廻を非仏教要素とする仏教解釈(輪廻を否定はしていない)を指して、
「輪廻を否定している断見仏教」と呼んでいたと?
…かなり厳しいが…(特に
>>456 は…)そういうこと?
477 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 08:54
そゆこと。感情に流されたというか、あんまりきっちりしたやつではないので 許してね。「ゴルラァ、発言は厳密に書け!」とか言わないで。 どうせ迷いの上に迷いを重ねるようなことなんだから、ここでオラたちが、 やってることなんて。 それよりとりあえず仏教徒なら優しい言葉で書くように注意しましょ。 オラモナー、ゆわれる前に逝っときました。
478 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 23:09
みんな「知ってるつもり」は見たかい?
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静 創価学会は、自分だけが正しいといって、他宗を攻撃するので、仏教ではない。 阿含宗は、原始仏教を説きつつ、先祖供養を密教式で行うので、仏教ではない。
キリストだろうが釈迦だろうが、重要なのはそれで救われる人々がいるということだ。
481 :
名無しさん@1周年 :02/03/17 23:19
キリストも釈迦も偉さ比べなんて否定するよ
基督教にしろ仏教にしろ、どんな宗教でも、 生死の問題は大きな問題だと思いますが、 「輪廻を前提としない派」の方々は、 生死の問題に関わること自体が、 迷いの第一歩と考えるのでしょうか? それか、「輪廻を前提としない派」の方々は、 仏教を宗教だと思っていない人たちですか? そうであるなら、これまで話がかみ合わないのも理解できます。
”輪廻を前提としない派”の方々の中には、 道元さんに傾倒していらっしゃる様ですが、 「正法眼蔵」で、道元さんが「妙法蓮華教」について、 たくさん言及しているのをご存知でしょうか。 かなり高く評価していますよ。 「妙法蓮華教」を読んだことがありますか? ”輪廻を前提としない派”の方々には、 猟奇的なものとして映ると思うんですが、 いかがなものでしょう。 「妙法蓮華教」では、お釈迦さん自体がかつては 輪廻転生していたことにも言及していますが、 どのように考えますか? 道元さんは、「妙法蓮華教」というお経を認め、 曹洞宗では、読経していると思いますよ。 たぶん。 どうします?
484 :
名無しさん@1周年 :02/03/18 13:55
まず太郎さんは、輪廻と転生が全く別の概念だと気がつく必要がある。 その意味で転生を前提としなくても、 キリスト教のように生死を問題にできる、ということに気がつきましょう。
>>483 「妙法蓮華経」は、釈迦の没後数百年後に書かれたお経ですよ。どこかの新興宗教
みたいに、釈迦が人間に憑依して語りださない限り、そこに書いてあるのは釈迦の
言葉だとは言えない。私は、何も釈迦の直説でないから価値がない、などと言う
つもりはないが、こういうイロハについては事実を明らかにして議論するべきだと
思う。
>「妙法蓮華教」では、お釈迦さん自体がかつては
>輪廻転生していたことにも言及していますが、
>どのように考えますか?
これは、「妙法蓮華経」を書いた連中が、釈迦は輪廻を認めていたと信じていた
ということしか意味しない。
(参考)岩波文庫版『法華経』(坂本幸男、岩本裕訳注)の解説記事によると、 布施浩岳の『法華経成立史』によると、法華経は以下の4つの段階を経て成立 した。 一、原始法華の成立は西紀前一世紀 二、第二期法華の成立は西北インドにおいて西紀後一世紀 三、第三期の成立は西北インドにおいて西紀100年前後 四、第四期の成立は西紀150年前後
もう、わざわざ言ってくれなくても知ってますよ。 ただね、お釈迦さんが言った言葉だけが「仏教」である、というのは、 あまりにも窮屈な考え方じゃないですか。 お釈迦さんもすごい方であることは言うまでもないが、 それを担ってきた人たちがないと、これまで続いてきていないでしょう。 法華経の成立た時代だけで、その内容も否定しきるのは、 如何なものでしょう?
たぶん、世の中にはお釈迦さんが直接話した言葉は、 そのままの状態で残っていないんじゃないですか、阿含経にしろね。 お経が本当のことを説いているかどうかの判断は、 それを読む人の資質であり、成立史云々は、宗教的には、二の次ではないでしょうか。 でも、内容よりも成立史を重視するその感覚は、 私にはないものなので、興味深く思いました。
「輪廻を前提としない派」の方の中に、 道元さんに傾倒している方がいたので、 法華経の話を出した次第です。 道元さんは間違いなく法華経を評価していますよ。 法華経の話をすると、過剰反応をされることがあるので、 この辺で終わります。
>太郎さん おい、君はもっと素直にならんといかんなあ。 >「妙法蓮華教」では、お釈迦さん自体がかつては >輪廻転生していたことにも言及していますが と書いてあったから、指摘したまでのことだよ。間違った部分は素直に謝る というのも仏教の八正道のひとつだと思うぞ。
491 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 13:24
釈迦もイエスも神(法則)を伝えた偉い人。
私の表現の仕方が悪かったのでしょうか。 すみません。 >「妙法蓮華教」では、お釈迦さん自体がかつては >輪廻転生していたことにも言及していますが ↑ これは、法華経の中で、お釈迦さんが 転生していた話が出てくるという意味です。
>太郎さん ああ、わかった。私のカン違いでした。どうも、すまなかった。m(_ _)m
494 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/19 19:14
227さんはじめまして。 生まれ変わりとしての「輪廻転生」に対して肯定することを否定し、否定する事も 否定したら私も「断見仏教徒」と言うレッテルを貼られました。釈尊は「愚か者は 両極端を否定する中道に対して、自身の理解が及ばないので「嫉妬心」を生起する ことになろう」と言っておりますが、まさにその通りです。一方、つまり自説を否 定する者は必ずその極端にある説を有するものだという思考の執着から生まれる不 自由さは否めません。
肯定することを否定せず、否定することも否定しないのがよろしいかと。無意味ないがみあいを避けるためにも。
496 :
名無しさん@1周年 :02/03/19 22:11
ま、断見とは何か?ということですね。 肯定を否定し、否定も否定しているから自分は断見に陥っていない、 という断見に陥ってしまう方もいるし、 それを自分では断見だと思っていないのに、 周りから断見仏教徒というレッテルと貼られたと思い込んで、 さらに、そう思われたのは、自分のすぐれた理解力が嫉妬心を生んだからだ、 という断見を起こすわけですが、それが自分の理解を否定するなら、 周りの連中は、その反対の無理解を有しているからだ、 という思考の執着から生まれる不自由さは否めませんね。
私に決まっている。
どっちも敬意を表すべき。信心とは別問題。
499 :
名無しさん@1周年 :02/03/22 14:02
断見というのは断言ではないですよ。 因果律が無いとか、人生は一度だけで死後はないという考え、見方、思想のことです。
断言はダンケではないですよ。 ドイツ語でありがとうのことです。
イエスは酒豪だったみたいだから 仏教の五戒のひとつ ■不飲酒戒(ふおんじゅかい 酒を飲むな) とは無縁だったみたいね。
502 :
名無しさん@1周年 :02/04/02 21:58
お だ ぶ つ で す
503 :
名無しさん@1周年 :02/04/06 16:11
神は居ない。 と釈迦は説いた。
504 :
名無しさん@1周年 :02/04/12 13:40
ageageageageageageageageageage
イエスは「神への信仰」を基礎としてこの世が恵みに満ちる可能性を追求し、それを 説いた。 釈迦は「理性と理知」を極めることで平静なる心で冷静にものを考え、無用な欲望で 心を満たさない道が、まず何よりも大切であると説いた。 この2つが互いに争ったり否定しあったりする必要はなく、その論理的な根拠もまた 存在していない。 なぜならそれらは「体系としては噛み合わない」わけだから、互いに互いを否定する 論理も生まれないはずだからである。 私を否定しない者は味方であるともイエスは言った。釈迦はそれが破壊を求めない ものならおそらく否定しないであろう。 だから本来、世界は宗教で争いは起こらず、平和でやっていけたはずである。 平和を壊す者とは、 「これが真理だから、お前は今すぐに考えを変えるべきだ」と迫る者 であり、 「これが絶対であり、これは永遠に変わらない、お前が屈服するべきである」 と言い張る者たちであった。 彼らには「世界を乗っ取ることを本来的に目的とし、元々ヨコシマな野望のために そうしている。
輪廻転生が事実であるかどうかは、実際のところ証明できない。 従ってそれを信じるか信じないかは、本来その人の自由である。 根拠が明白な事柄は、事実は事実として教育すべきであるが、 そうでないものは、そうするだけの根拠を持ち得ない。 従ってあたかもそれが「科学的な真理」であるかのように信じさせるのは おそらくは正しくないであろう。 それを立証するだけの証拠がなければ「科学的真理」とはなり得ないからである。 ならば、あくまでも「そういう考え方をして自己に安心を満たすことができるなら それを認めてもよい」とすることはできる。 しかし、それを信じなければ、おまえはますます地獄に行くだろう、と言うことは おそらくできない。 要は、そう信じてその人が良くなり、善くなれるかどうかである。 ただ単えに、「善くなれない輪廻転生説」を信じてはならない。
507 :
神が言ったんだから仕方がない! :02/04/13 01:13
シオニストさんたちに、これを言ったら・・・
禅、は人が善くなり良くなることを説いていよう。 であるから、禅は「輪廻転生」を説かざれども、人が良くなる方法を 考案しているだけであった。 神を信じざれども、人が善くなる道があるならそれでもかまわない。 それらが無用な争いを起こすなら、どちらも否定される。 ただそれだけである。
509 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 01:16
釈迦は食あたりして下痢をして他界して 復活しなかったよね(^^;;で、私は信じる気持ちが失せた。
510 :
インド人のおっちゃん :02/04/13 01:19
信じる ということに仏教は、当てはまらないと思うのだが。
>>507 シオニストらは断罪されるに違いない。
釈迦の第一弟子たる現代の一般市民によって彼らがはすでに否定されていよう。
ただし、彼らには歴史があった。日本にも歴史があったように。
日本もその歴史をあがなうために時間を要している。
それと同じく、彼らも厳しい経験をしなければならないかもしれぬ。
それを因果応報と呼ぶのなら、それも可能であろうか。
約束の地・カナンを手離すことはできない。
>>512 同様に、目には目、歯には歯で済むうちはまだ未来はあっただろう。
しかし、一定の妥協点が追求された後もテロを止めなかったパレスチナも
同罪であろう。
要は、基本が現在の平和を乱す者が反価値であり、それだけが「根底的に」
否定されるのだ。。
サダム、カダフィは手を結ぶぞ!
515 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 07:54
>>509 >釈迦は食あたりして下痢をして他界して
>復活しなかったよね(^^;;で、私は信じる気持ちが失せた。
盛者必衰 会者定離 生きているものは必ず死ぬと釈迦は説いた。
キリストみたいに復活するなんて。
釈迦が聞いたら腹を抱えて大笑いすると思うが。(爆)(爆)
>>514 そうではない。そうではないのだ。
釈迦は理知を以って何事も正しく考えるべきことを説いた。
だから、イエスは復活しなかったと言ってはならないのだ。
イエスが復活したのかどうかは、現代の人間が誰か見たわけではない。
それは伝承であり、誰もが確認不能なのである。
誰もが確認不能なことに対して、「それはなかった」とも
「それはあった」とも言ってはならない。
釈迦はそうした当たり前のことを、理知のあり方として説いたのだ。
釈迦の弟子はそれを知らねばならぬ。
であるから、シャーリプトラよ、イエスが復活したかどうかは、
科学的真理として伝えてもならず、また、イエスが復活しなかった
のだとも反駁してはならない。
キリスト教とは、「イエスが神の子として復活の奇跡を起こしたと
信じる」宗教なのである。
それをそのまま受け入れよ。彼らの信条の自由を認めよ。
そうすればあなたも誤まりの道に進むことがない。シャーリプトラよ、
あなたは誤まった道に進んではならないのだ。
心を正しくして、この知恵の言葉を聞かねばならない。
現在では、キリスト教も信じない自由を承認している。 信じないから攻め滅ぼす戦争などしなくなった。 ならば両者は共存可能である。 であるから、両者は互いを理解し、争ってはならない。 現在の科学的常識がいつか覆り、人は誰でも死後に復活するようにならない とも言いきれないからだ。 釈迦は、「科学的に真であるかどうか」で他を裁けとは語っていない。 単えに、虚妄や迷妄があなたがたを不幸にする過程を論じたのである。 「イエスの復活」を科学的真実であるかどうかを考えて、互いに罵り合うの であればそれは虚妄である。 イエスの復活に関しては、「科学からは何も言えない」のである。 なぜなら、科学の認識は変化し、新しい事実が出てくればそれを説明するように 理論を構築するだけだからである。 将来誰でも復活するようになれば、科学は復活を科学し、新しい常識が作られるだけ である。 現代人はこうした釈迦の理知に立たねばならない。
キリストも復活なんかしてなくて、聖書を書いた人達の創作と思われ。
519 :
レノン&マッカートニー :02/04/13 13:24
ライター、何人の共作だろ?
520 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 21:58
>>515 釈迦は神格を持たない。キリストは神格を持つ。その大きな違いがある。
521 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 22:00
>>518 じゃ、黙示録に書かれていることが現実に起こるのは何故か。
2000年前の出来事が書かれている聖書が今もあるのは何故か。
単なる偶然か。考えてみよう。答えが分かったら、知らせてね。
今すぐ答えは出て来ないと思う。
522 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 22:22
キリスト教には宗教性がある。 仏教には哲学がある。 復活なんて全く馬鹿馬鹿しい。こんなこと議論していること自体 あほみたいな話。
>>521 信ずる者は、救われる____ だもんねえ。信じたい者は、信じる。
信じない者は、信じない。これでいいんじゃなーい!
524 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 23:53
>>522 仏教はキリストから生まれた哲学らしいよ、
525 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 23:54
>>524 何をかっかと怒ってるの??信じろとは言っていないじゃん笑
526 :
名無しさん@1周年 :02/04/13 23:55
>>523 何をかっかと怒ってるの??信じろとは言っていないじゃん笑
>>524 キリストの教えが、釈迦の教えを取り入れたんでは。
528 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 00:16
529 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 00:17
>>527 取り入れたんでは。というのはないじゃん。確信がないままで
そういうのは言わない方がいいよ。
530 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 05:10
>>509 >釈迦は食あたりして下痢をして他界して復活しなかったよね
復活する必要がなかったからである。釈尊は阿難の言葉により、涅槃を決めるが、
自分の涅槃後の教団の決まりを作るなど、やることをやってから涅槃しているのである。
一方で、生前に、ある1人の高弟に会うことのできなかった、ミラレパは復活したのである。
531 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 07:02
>じゃ、黙示録に書かれていることが現実に起こるのは何故か。 どんなことが起こった?
532 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 07:11
>釈迦は食あたりして下痢をして他界して復活しなかったよね 逆に釈迦は復活することなんかに関心を持ってなかっただろう。 彼が目指し、成し遂げたのは「解脱」だったはず。 死に様で人の優劣を決めるのもいかがなものかと思う。
533 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 07:15
釈迦が聞いたら噴出すだろう。(爆)(爆)(爆)
534 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 07:30
イエスは神の子。 偉大なオヤジを凌げないというヤツはどこにでもいる。
535 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 09:41
>>533 =515か?
>盛者必衰 会者定離 生きているものは必ず死ぬと釈迦は説いた。
これは、一般の人であって、釈迦は、1カルパ余り(?正確な言葉は忘れた)
でも、生きられると阿難にいっている。
536 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 10:03
537 :
イスラエルとパレスチナ :02/04/14 10:20
>>クリスチャンもブッディストも お互いの宗教で、わが宗教がわが宗教が と言うのは、お釈迦さんもイエっさんも 悲しまれるから、やめようではありませんかー。
538 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 10:51
>>536 ちなみに、中村元「原始仏教の思想T」
経典の古い層に示されている思想を最初期の仏教の思想と
みなしてこの書の中で扱う として 仏教の起源をさぐり、
最初期の仏教のすがたを明らかにするために、特に古いと
思われる次の諸聖典にたよった。
Suttanipata
Samyutta-Nikaya,Sagathavagga
Dhammapada
Udanavarga
Theragatha
Therigatha
Mahaparinibbana-suttanta(大ハツ涅槃経)
539 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:15
>>532 いや。釈迦は崇めるべき神ではないと言いたい。
人としては尊敬しているが、神格性を問いたいという事。
540 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:16
>>537 わが宗教とは言っていない。釈迦はまことの神であるかを確認したいんだ。
541 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:19
>>533 釈迦の事を神だと思うならば、そのあなたは人を馬鹿にしないはずなのでは。
むしろ真理を親切に教えてくれると思いますがね。それって私の見解違いかな。
542 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:22
>>524 一応、歴史的に釈尊はイエス・キリストの生誕の数百年前にお生まれになられております。
釈尊が歴史を超越されてキリストを採り入れたとでも仰りたいのでしょうか?
543 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:23
>>531 あなたが黙示録を読めば、理解しやすいと思います。
でないと、こっちが説明しても理解しにくいと思います。
ここに説明を書くとすごく長くなるので。
聖句を引用する必要があるから。聖書は共同訳、口語訳、新改訳のいずれか。
544 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 18:27
>>542 イエス・キリストが人の肉体を持って来られたのが2000年前です。
その前は神の所にいました。アダムとイヴが創造された時に
イエス・キリストはいました。旧約聖書を読むとはっきり分かります。
特にイザヤ書では鮮やかにイエス・キリストの事を書いています。
すべてを引用したら、このスレがつぶれてしまうので、
聖書をお読みになるといいかもしれません。
546 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 20:14
>544 釈迦は救世主のことなんか説いてないでないの?
>>544 キリスト教が東に移動して影響を与えたって言ってる宗教学者や仏教学者は
昔からいますよ。特に阿弥陀仏や悲母観音。
>524が言ってるのは極端すぎてどうかと思いますが。
大乗経典の成立のころには、既にキリスト教はインドにまで来てるんで 釈尊が後の経典ほど超人化してるのも影響があったかもしれない。 大乗経典自体影響を受けてる可能性があっても変じゃないですよ
549 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 21:53
キリストは高級天使で、そのような魂が地上に降りてきたのは奇跡に近い、、、 といわれている。実際、奇跡を起こしたエピソードが多い。 釈迦は霊力を持たない、私たちと同じ普通の人だった為に、神や転生のことに 多くを語らなかった。でも、2500年も前に、自分の人生の最善を尽くした。 身近に感じ、お手本にしたいのは釈迦の生きざまかもしれない。
550 :
ワッタワンダフーワー :02/04/14 21:57
要は、どちらさんもスンバラシイこと言ってるんだから、ありがた〜く いただきましょ。
そうですね。(はぁと)
552 :
名無しさん@1周年 :02/04/14 22:22
ラーブ ラーブ ラブ
富士山とエベレストってどっちがエライのですか?
554 :
名無しさん@1周年 :02/04/15 21:33
>>514 イギリスの著作者でキリストは仏教徒だったって書いてある書物が
本屋に並んでいたのを見たが。名前忘れた。
噂によるとトンデモ本らしいよ
556 :
名無しさん@1周年 :02/04/17 18:54
なーんかのギャク本にあったよな。 【キリスト】 1.救世主というフレコミながら未だに人々を救えないヤツ。 2.お釈迦様永遠のライバル。
557 :
名無しさん@1周年 :02/04/17 19:06
真理をつきつめていくと同じ所にたどり着くんだろう。
仏教とキリスト教では違う山(真理)を登っていると思われ。
559 :
名無しさん@1周年 :02/04/17 21:06
>>558 いやキリスト教は真理は神が創ったと言っている。
それは上る必要がない物である。仏教と同列に扱うのは如何かと思う。
560 :
名無しさん@1周年 :02/04/17 22:02
age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age age
スマソ
>>559 違う山とは真理というより宗教目的のことだった。
仏教では真理(ダルマ)に目覚める=悟りが目的なので、山に登る云々が例えでよく
使われます。その辺で混同しました。法の遍在については無論、山を登るまでも無い
ことです。
562 :
名無しさん@1周年 :02/04/18 20:06
キリスト教はイエスとそのオヤジにとことん頼らねば安心できない。 仏教では法に則り修行する自分を頼みとする。 そして解脱すれば、頼みとするものはなにもない。 こんなんでいいかな?
563 :
名無しさん@1周年 :02/04/18 21:05
>>562 あははは。言えている。という私はクリスチャン。
イエスとそのおやじだけでなくて、もう一つ。案内人がいないと
イエスとそのおやじとつながりを持てないんだ。つまり父、御子、聖霊の三位一体。
565 :
名無しさん@1周年 :02/04/18 22:42
普通さ、キリストと比べるのなら、ムハンマドじゃないのか? 同じ神様崇めてるんだからさあ。
566 :
名無しさん@1周年 :02/04/18 22:54
まああれだ 漏れが一番えらいってことだな
あっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらー あっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらー あっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらー あっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらーあっらー
568 :
名無しさん@1周年 :02/04/19 06:45
キリストよりも釈迦よりも、出口王仁三郎聖師のほうが偉大です。 これ常識。
569 :
名無しさん@1周年 :02/04/19 07:04
グル高橋は?
出口聖師の神通力に比べりゃ、キリストのそれなんて子供だまし。 ましてやグール高橋などに至っては精子レベル。
571 :
名無しさん@1周年 :02/04/19 21:57
奇跡を信じる宗教なんてカルト以外の何者でもない。 只のカルト教団だ。 ....特にキリスト教。
仏はパンチパーマだからカッコ悪い
>>じゃ、黙示録に書かれていることが現実に起こるのは何故か。 >どんなことが起こった? 誰か答えて〜
>>573 何も起こって無い。 彼らがかってに自己解釈してるだけ。 無理矢理聖書にあてはめています。 だまされるな。
575 :
名無しさん@1周年 :02/04/20 22:51
オウムがハルマゲドンがおきると言っているのと同列に扱おう。
とそつ天で、何億年も待機してる役立たずもいるしな。
>576 弥勒は仏界のヒッキーか?
578 :
名無しさん@1周年 :02/04/27 17:39
age
579 :
名無しさん@1周年 :02/04/29 22:55
>>576 そんなこと言ってやるなよ。
空海はそれでも待ってるんだ。
580 :
名無しさん@1周年 :02/05/03 16:59
age
581 :
名無しさん@1周年 :02/05/04 14:48
年功序列という意味では500年も先行してるし、より長生きしている釈迦に軍配が上がるか。
582 :
名無しさん@1周年 :02/05/04 15:22
映画化されたという点ではイェ〜スの一人勝ち。 「ジーザスクライスト・スーパースター」DVD化してくれ。
583 :
名無しさん@1周年 :02/05/05 07:57
釈迦もインドで未だ仏教が健在なら、年間製作数5000本といわれるボリウッドが決して捨て置かなかっただろうにな。
584 :
名無しさん@1周年 :02/05/05 09:18
二人の生き方をみんながまねしたら社会が成り立たないので、 二人とも偉くない。
どっちもただのオッサンなので二人とも偉くない。
>>585 偉くない、というのはともかくとしましてですね
ただのオッサンというのはいかがなものかと。
587 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 10:10
よし
588 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 14:43
アジアの仏教の国を見てみなさい。 容貌の醜い黄色人種が煩悩を捨てられず、人口は多くて貧しい国ばかりです。 ヨーロッパを見てみなさい。 容貌の整った美しい白色人種が低出生率で豊かな社会。
589 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 21:43
キリストと釈迦はただのオッサンデない。死ぬことはない、人は永遠に生きる。 と知っているのが共通。悪い人や自殺者は地獄に陥る、それも共通。六道と666 を語っているのも共通だと思われる。人の欲望の種類は6つにわかれていて、欲望 のままだと、人は6つの見解にわかれ、やがて喧嘩する。ただ、釈迦は死んだ人 の境地にたち、人は永遠に生きそれはこの上なき最上の喜びの境地だったので それに近いように生きようとした。キリストはそれを知っているにもかかわらず そんな生き方は一般の人にはできないと知っていて人々が死んでからその境地を 得させようとした。釈迦は生存者を解き放つ者として、キリストは人を釣る者 として神はこの地に放たれた。釈迦は経典で安易なキリストの教えに、人を釣る ために餌が投げ込まれたと、弟子たちを戒められている。どちらにせよ、人を天 国におもむかせようとするものであり、悪い状況に生まれ変わったり、地獄に陥 らせないようにするものである。
590 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 22:02
初歩的な質問でスマソ。 キリストは神だけどお釈迦様も神様なの?
591 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 22:20
キリストは死の境地を知っている経験者。釈迦も同様、人。決して 神ではありません。キリストは父なる神よといっている。ということ は別に神が存在するということ。釈迦も牛飼いが雨が降らず困っている ときに天にむかって雨を降らせよといって雨を降らせた。別に神はいる ということ。共に人を天国、極楽に、最低でも生まれかわったら現状維 持を保てるよう教えを説いた。
592 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 22:28
>>589 >>591 >釈迦も牛飼いが雨が降らず困っている
>ときに天にむかって雨を降らせよといって雨を降らせた。
アフォか…
スッタニパータよく読め
www.urban.ne.jp/home/sugano/butu/buuta0.html
593 :
名無しさん@1周年 :02/05/07 22:29
590ですが、 糞質問にご丁寧にお答えくださりありがとうございます。 貴方は神のような方ですね。(藁 ついでにもう一つ。 仏教では、故人は皆、仏様ですよね。 お釈迦様も仏様の一人ということでよいのでしょうか?
>>593 「仏(ブッダ)」とは「目覚めた者(真理を悟った者)」の意
故人を「仏」と言うのは、日本の俗習
詳しくは知らんが、おそらく
「迷わず成仏して欲しい」という所から来ているのだろう
>>589 釈迦は、「人は死後(天国などで)永遠に生きる」とか言ったのではないし、
そんな境地を目指したのでもない。
仏教は、泥中に蓮の花を咲かせる生きる法だ。
今この瞬間を、悔いなく生きるための教えなのだ。
>>588 大東亜キョーエーケンでも目指すか? 合掌
597 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 19:19
通常死者が死んで仏様になることはないでしょう。ブッタの教えを忠実に守り 一切を捨て、森の中に住み、この世もあの世さえも望まない心を身につけ、ある ものといえば自然だけ、その中で瞑想を行っている者のみ仏となれると思われ ます。
598 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 19:21
何を言ってるんだ。 イエスは100%人間であり、100%神だよ。
聖霊の問題があるので、一般の方には難しいと思われるが、イエス・キリストは、 畢竟、神であろう。 他方、ゴータマ・ブッダは、弟子の次の質問には一切こたえなかった。 「世界は時間的に、有限か無限か」「世界は空間的に、有限か無限か」 「身体と魂は、同じか別か」「如来は、死後にも存続するか、しないか」 ブッダは自身を神であるとは一度も言っていない。まして宗教の教祖などと は全く言っていない。彼は、無益な議論・争いに満ちた当時の腐敗した世に 善行を奨励した偉人である。後世の人間が彼を神にまつりあげたが、それは 彼の本意ではなかったであろう。
600 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 19:38
通常の人は、どうすればいいのか?というと「ブッタ神々との対話」で 「ことばと心を正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、 もし飲食豊かな(富んだ)家に住んでいるならば、信あり、柔和で、よ く分かち与え、温かい心でいるならば、来世を恐れる要がない」と言われ ています。その他の人は気をつけたほうがいいでしょう。ましてや、自殺 などしたら地獄へ陥ります。ブッタは修行僧にでさえ、「もういい、十分 修行したのだから早く死んで仏になりなさい」とは決して言わなかったの ですから。
601 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 19:49
どうでもいいけど三位一体説さえでっち上げなければ、 仏教もキリスト教も大差なさそう。 イエスは優れた人だが神様ではない、ですっきりするのに。
602 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 20:19
それで、私はブッタ、キリストどちらの信仰をしたらよいかといいますと キリストです。スッタニパータなどよく読まれている(知識がある)方が 実践ができない。実践するのが難しいからでしょう。よく「アフォか」と か、目にすると自分は知識があるので優れていると思ってしまいその言葉 がでるんでしょう。「優れていると思ってはならない」とスッタ二パータ に書いてあるのに。キリストは「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら 、ほかの頬をも向けてやりなさい。」といっておられます。敵は有益なこと の例えでしょうか。589の真の仏教は一般の人にできないを立証できまし た。
キリスト教って、日本人の大部分にとって、作り話にしか思えない。
604 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 20:23
日本語おかしい・・・
606 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 20:31
>>604 処女懐胎とか三位一体とかいい加減にしろよ。
全部後の政治権力と癒着してでっち上げた話だろ?
失われた福音書とかてめー読んだのかよ?
時間が経つにつれて話を大げさにしやがって。
大川隆法といっしょだ馬鹿野郎。
またもや厨が暴れ始めている・・・
608 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 20:45
>>606 失われた福音書とは、ナグハマディ系の
ことですか?
処女懐胎も政治権力など関係ない、キリスト
の死後約50年後には信ずべき教義と確立している
ことです。
>>608 いや、「失われた福音書」というのは、そう言うことではないと思う。
いわゆるトンデモ本にそう言うのがあったと思うよ。
610 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 20:51
>>609 なんだ。トンでもか。
不思議なんだけど、トンでもに引っかかる人って
左翼思想家がケッコウ多いんだってね。
で、キリスト教(特にカトリック)を攻撃
する。相関関係でもあるのかな。
>>610 左翼思想家と言っても、思想史をちゃんと勉強した人というのは、ごく少数。
ただ単に、左翼思想にかぶれているだけなのではないですかね。
本当に左翼思想を学んだなら、キリスト教リベラリズムの中にも、
左翼思想と通じるものがいくらでもあるのだから、
頭からキリスト教を非難するようなことは無いと思うのですが。
612 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 21:09
613 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 21:32
>>612 >死後五十年!
>平均寿命が四、五十年の時代の五十年だぜ。
>馬鹿も休み休み言え。
それはこっちのセリフよ。
乳幼児の死亡率を考慮に入れなよ。
>>611 ローマ時代の愚かな大衆に布教するには話を大げさにしたほうが便利だったろうし、
めくらの信者を管理するには絶対権威をでっち上げるほうが都合がよかったのかしれん。
だが現代人の君らはローマ時代の奴隷階級ほど愚かなのかね?
そういう時代に神学者のほうがんなことを言い出してる。
ただまあイエスの初期の弟子は釈迦の弟子と違ってドキュンが多かったので、
迷信的な尾鰭を取っちゃうとなんも残らんようになってしまう。
それが痛いところかな?
ま、経典のほうは経典のほうで、優れた弟子たちが哲学尾鰭で粉飾してしまっていて、
真実の釈迦の言葉を拾うのは大変な作業ではあろうが。
>>613 五十年後におまえ生きてると思うのか?
子供の頃イエスさまに頭を撫でてもらったとか?
616 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 21:37
>>614 なんか、イエス・キリストや弟子や当時の大衆より自分の方が偉い
みたいなカキコだけど、偉いの?
617 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 21:40
>>615 信じない人に何を言ってもしょうがないから言わないけど、あなたも
「人間イエスには感銘を受けるが、人間以上であっては
ならない。」というタイプなの?
>>616 奴隷よりは見識あろう、君らも?
それからイエスの弟子って漁師とかじゃねーのか?
しかも当時のパレスチナ人はローマの被占領下にあったわけで三級市民だな。
釈迦の弟子は有閑階級が多い、教育水準も高い…ということだ。
君らもっと自信を持ってくれよ。
>>617 そんなことより神様信仰のなんでもかんでも呑み込め!っていう強圧的な態度がむかつく。
グノーシス派って言葉知ってるだろ?
当時の知識階級はインドの宗教みたく自己の研鑚に励んでいた。
現代人にとってふさわしい信仰のあり方は、むしろそっちにありそうな気がするのだが。
「秘儀はわれわれ僧職階級が独占する。おまいら馬鹿な信者は黙ってついてこい!」って言われても、
納得いかない。その点日本仏教も大乗教とかいって、一般信者を嘗めとるが。
620 :
名無しさん@1周年 :02/05/08 21:49
>>618 教導職は多分おいらより頭よかったと思うよ。
新約聖書中にもパウロが「死と復活」について
ギリシアかローマあたりで説法に及んだ時
「その話しはまた今度聞かせてもらうよ。」
という今でも地上の自然の悟性からすれば
至極まっとうで頭のイイかわし方な答えが返ってきてる。
当時から「超自然」なことな教義だったわけ。
>>619 グノーシス派の偽福音書を少しでも読んだことが
あるなら知ってると思うけど、つまるところ、グノーシスは
「知識があなたを救う」という教義なのよね。
でも正統は
「あなたの信仰があなたを救う。」
他人のいのちを自分のいのち同様に大切にしなさい、
と神が言ってるから大切にする。
そんな素朴な信仰で十分だと思う。>キリスト教
議論するために信じてるわけではないんだし。
>>621 勿論、洗礼を受けること、教会の掟を守ることは
大前提だよ。
>>620 確かに、黙ってついていく信仰のほうが楽なのか知らんが、
それでもみんなもっと高いところまでいけるんでないか?
そりゃ地頭がいい教導職はいたろ。だが彼らに生活のゆとりがあったかね?
地頭もゆとりもあんたに与えられたタラントだ。それは生かすべきで、
そのためには今ある権威主義的な教義は邪魔になってないか?
もっとも、キリスト教はグノーシス派をやっつけすぎて、行法を失ってしまったのだが。
>>621 それでも宗教家の上のほうは議論ばかりしてる。
終いには戦争になったりしたんじゃなかったのか?
しかも自分の手は汚さず、下々の信者に殺し合わせた。
プロカト正教関係なし。坊主は全員有罪。
つーか今のクリスチャンはお利巧になってて、
坊主どもの言うがままに殺し合うことはない。
それってあんたらが坊主どもと肩を並べたってことでないかい?
あ、漏れ、クロでも仏でもないよ。
キリストは神ではなく、ただの人。 そして神は別に存在するのではなく、人間の妄想である。
キリストが、ただの人間だったなら・・・・ 30歳そこそこの元大工、わずか3年の伝道と死刑の生涯でしかない貧しい田舎の 男が、歴史を超えて未だに世界一の有名人であり続ける現実、あるいは 永遠のベストセラー聖書の預言、愛、これらを どう解せよう? 嘘であるほうが、神がかりの天才詐欺師、そのほうが確率的には限りなくゼロに 近いと思われる。 マザーテレサ、数多の殉教の英雄たち、偉大な指導者・王たち・・・・皆、神とは 言われていない。
599 :名無しさん@1周年 :02/05/08 19:37 聖霊の問題があるので、一般の方には難しいと思われるが、イエス・キリストは、 畢竟、神であろう。 他方、ゴータマ・ブッダは、弟子の次の質問には一切こたえなかった。 「世界は時間的に、有限か無限か」「世界は空間的に、有限か無限か」 「身体と魂は、同じか別か」「如来は、死後にも存続するか、しないか」 ブッダは自身を神であるとは一度も言っていない。まして宗教の教祖などと は全く言っていない。彼は、無益な議論・争いに満ちた当時の腐敗した世に 善行を奨励した偉人である。後世の人間が彼を神にまつりあげたが、それは 彼の本意ではなかったであろう。
非常に申し上げにくいんだけどー、ぼくはー、作家さんたちがー、書き上げたー フィックションなんざんすぅー。
>>612 これを翻訳した秦剛平氏は、外典、偽典の専門家。(でも、どういうわけか、女子美の教授をしておられる。)
もちろん、知ってますよ>この本
しかし、Q資料を学び、外典・偽典に触れようと思うのなら、その前提となる緒論学の知識を、少しは持ってないと。
失礼ながら、あなたの書き込みからは、そのあたりの専門的知識をお持ちでないと、推察致しました。
生兵法は大けがの元。
以前ある人が、別スレで、ちょっとかじっただけの事を書き込んだところ、
専門家(と思われる方々)によって、さんざん叩かれ、退散してしまいました。
通り一遍のことを書くのなら、かまわないと思いますが、
専門的な領域に入り込みそうなときは、用心された方がいいですよ。
深く静かにSAGE進行
632 :
名無しさん@1周年 :02/05/12 16:55
キリストはただの人、神は人間の妄想と誰かが言ったとき 信者は、それらをくつがえす決定的なことばもみつからず 釈迦とキリストはどちらも偉い人ということになった 今まで人々に何らかの影響を与えたただの人ということで
633 :
名無しさん@1周年 :02/05/12 21:44
キリストは神になってしまった。 お釈迦様は最後まで人間で生涯を全うされた。 私は釈迦の方を選ぶ。
634 :
名無しさん@1周年 :02/05/12 21:45
トラトラジオンジオンチトフルモ トオチャソウトチャソウホンミアン ジオンプラトアミアミ ミトラホンホントラツ トオライタチプララソト チタチトアミホン
私はキリストを選ぶよ。
奇跡の話が、半分ぐらいだたら、クリスチャンになていたんだが・・・
637 :
名無しさん@1周年 :02/05/13 22:00
これで℃やない尾
638 :
名無しさん@1周年 :02/05/14 15:55
>>629 その現場なら、私も目撃したよ。
しかし、あの専門家も大○鹿まるだしだったよな。相手は素人なんだし、間違った
箇所を指摘してやれば済むものを、しっかり弱い者いじめに走ってやがるんだから。
たとえ世界中の知識を得たとしても、永遠の生命を失っては何もならない、って
とこだろう。
>>629 >生兵法は大けがの元。
> 以前ある人が、別スレで、ちょっとかじっただけの事を書き込んだところ、
> 専門家(と思われる方々)によって、さんざん叩かれ、退散してしまいました。
それどこの板ですか?哲学?宗教板にそんな楽しいスレッドがあるの?
640 :
名無しさん@1周年 :02/05/14 17:11
>>639 宗教板だよ。
ここじゃあそんなこと、よくあるよ。
でも最近は少なくなったかな。
よほどひどい書き込みじゃないと、プロフェッショナルな方からの書き込みには、
先ずお目にかかれなくなった。
というか、どういう書き込みが、プロフェッショナルの書き込みを呼ぶのか、
と言うことさえ分からない厨房ばかりに、なってしまったような気がするな。
当人達は真面目に宗教(あるいはキリスト教)をこき下ろしているつもりなのだろうが、
素人が見ても、単なる厨房書き込みの域を出ていないし。
そう言う意味では、最近はあまり面白くない。
>>640 最近でもあるんだ。教えてよ。特にキリスト教系のとこ。
# 父スレは除く。あそこはなんのかんのいって平和だし。
# ……最近はそうでもないようだが。
うちの教会も教役者二人、スレに常駐してるから、質問の答えはもっぱら
そちらにおまかせ。またーりスレッドなので、叩きという感じではないけれど。
>>641 だね。無料なら仕方がないか・・・
>>642 をい。
教役者って、牧師のことかい?
をたくの教会のヴォクシは、こんなとこに常駐しとるんかあ??
しかも、二人?!
ネタでしょ?そうだよね、ネタだよねえ。。。。。
>>643 ううん、某使徒承継教会だから牧師じゃなくて、司祭っていう。神父様、だな。
常駐してる人たちはたぶんその下の輔祭(deacon)だね。ひとりは確実にそう。
もう一人はもしかしたら司祭さまかも。
他にもいろんな人がいて、情報の確度は高いよ。コテハン同士は礼拝の時に
顔合わせてるしね。教会行事のたびに板オフやってる感じ:-)
……なんつか、2chっつーより教会の青年会の補完掲示板みたいな感じ。
教会でやってる場合と違って他教派の人も遊びに来やすいようだしね。
まあ、またーりやってますよ。
>>640 と、教えてさしあげた返礼に、その「専門家御降臨」のスレ教えてよ。
あ、ブルネルスならおなかいっぱいだから、いいよ。つか、あの人は
人を叩いたりはしないから。はたからそう見える場合があるにしても。
647 :
名無しさん@1周年 :
02/05/16 16:40 >>609 マックの『失われた福音書』のことをさしてるなら
あれは新約聖書学の基本文献だとおもふが。。
(Mack. B.L. The Lost Gospel: The Book of Q & Christian Origins,1993)
609の書き込みはそれを知った上で書いてるようにはどうも思えないんだよね。
まあ、煽り騙りは 2ch の華だから、それでもいいんだけど。
で、私も御降臨スレッド知りたいです。教えて教えて。