「ポストモダン依存症」

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1考える名無しさん
ポストモダン哲学は、知の最前線の美名のもとに多くの不幸な
哲学との出会い、多くの不幸な人々をつくり出してきたことを
を知ってる皆様の輝かしい脱却のメッセージをお聞かせ下さい!
哲学のオーソドックスな古典を読む努力を怠り
二次文献的な雑誌や邦訳文献やメディアの言説の中をその気になって戯れ
さも思想が理解しえたかのような錯覚の中をさまよい、ましてや
自分が哲学の最前線にいるかのような気構えで高らかに形而上学の終焉を肯定し
ブームが去ったらまるでそのブームが諸悪の根源であるかのように
踵を返して文句を言うような似非インテリのような輩に幸いあれ!!
ところでポストモダン依存症の具体的な症状をおきかせください
私は歴史意識だと思います。
5考える名無しさん:2001/05/16(水) 02:10
香山リカ、永井均等の事か
6考える名無しさん:2001/05/16(水) 02:33
例えば、「ドゥルーズ 流動の哲学」(宇野邦一著)は、「表
面」の哲学者の刺激的な言葉に流されずに、思考法を取り出し
た異色のドゥルーズ論なのですが、理解出来ることはその思考
法は現象学や実存哲学の真の思考法になどおぼつかないものと
いうことでした。

しかし、そのことすらも教えてくれなかった今までのドゥルー
ズ論とは一体、何だったのでしょうか?

それは、哲学の歴史に現われる決して小さくない問題に由来し
ているように思われます。

7考える名無しさん:2001/05/16(水) 03:24
ドゥルーズやデリダやフーコーといった固有名に依存した論文
の大きく山積みにされた光景があります。

丹生谷貴志氏のドゥルーズや故豊崎光一氏のデリダの読解の日
本語の読み易さに反して理解できることは、「出来事=遭遇」
(ドゥルーズ)により多くの思想上の努力は水泡に帰し(善意
よって思考するのはイカサマだから)、「弔鐘」(デリダ)は
めったなことでは鳴らないので結局、ドゥルーズやデリダのい
いなりに言葉を操るほかなくなります。まさしく、ドゥルーズ
を論じることでドゥルーズを、デリダを論じることでデリダを
理解することなど出来なくなるのです。

8考える名無しさん:2001/05/16(水) 04:01
フーコー依存症の最悪の場合は「日本近代文学の起源」(柄谷
行人著)の恋愛の観念の記述のように、現象学や実存からは許
せない結論があります。
「生きる」ことそのものを小馬鹿にしたような論じ方にはとて
ても納得が行かないのです。
9考える名無しさん:2001/05/16(水) 04:11
ドゥルーズやデリダやフーコーを同列に扱う日本の学識の軽薄さ
悲劇です
>善意(に)よって思考するのはイカサマだから
 へ〜そうなんだ。初めてききましたよ。
 さすがモ〜ホ〜の論理は一味ちがうね。
11考える名無しさん:2001/05/17(木) 01:12
ドゥルーズやデリダやフーコーを並べて論じるのがいけないの
は、まったく偶然に社会・認識・主体に論じる対象がそれぞれ
に片寄った為に、彼らがいかにも思想の全体像を刷新したかの
ような神秘的ともいえるイメージを生み出すだけだからです。
さらに目をむくような知識を付け加えれば(「構造と力」・「
チベットのモーツァルト」)、読者はマインドコントロールを
受けて、ポストモダン哲学信仰に強烈に染まっていくのでしょ
う。

ハァ????・
知識量だけに惹かれてマインドコントロール受ける三流インテリは
ソクラテスの時代からまとめて「逝ってよし」なんだよ。
そんなもの哲学じゃねぇよ。宗教だよ。
だから日本の知識人はクズなんだよ。
クズに共感したバカも自分のケツぐらい自分でふけよ。
13考える名無しさん:2001/05/17(木) 02:32
お奨めの名曲
ー「手引きのようなもの」(井上陽水 <ショッピング>より)
休日に釣りを楽しむのが趣味のような平凡な人物の独り言。
静に自分の生き方について考えていると浮かんでくる友への愛
情や幸福への思い。もしも、困難にあって打ち砕かれそうにな
っても、釣り糸を垂らすように心の水面に耳を澄ませばまた新
たな了解に出会うことが出来る。
難解で高遠な問いに頭を悩まして答えを求めて自分を「抽象的
で貧しい」(キルケゴール・死に至る病)ものにしてしまう時
にこそ、釣り糸を垂れてに水音の奏でるトレモロに耳を澄ませ
てみる。
自分とは、愛とは、生きることとは。
脳裏を川のように流れ続けるリリシズム溢れる名曲です。

「すべてを流して、水になるしかない」

参考文献
竹田青嗣「自分を知るための哲学入門」
14考える名無しさん:2001/05/21(月) 22:13
ポストモダン思想の源流はハイデガーですが、「気分」「不安
」「死」といった基礎概念による実存論とは無関係なものなの
で、哲学板の人たちには受け入れる素地が少ないのかも知れま
せん。ポストモダン思想で思い煩うのは、不可解なことだと感
じると思います。
人間存在への問いが含まれていないので、「生きることの喜び
や苦しみ」から慮るように、自分の身と置き換えて考えること
が困難だからです。


15考える名無しさん:2001/05/21(月) 22:50
<14の続きです。
ドゥルーズやデリダやフーコーが描きだした世界像が、いつ、
いかなる時でも可能であり(フーコーは古代ギリシャにまで遡
行しました)、かつ全てのモノに公平に作動するものですので
もしも、この世界像に苦しみを感じるようであれば、この世界
像をただすことも小さな問題ではないように思われます。
16考える名無しさん:2001/05/21(月) 23:10
てゆうか(常々感じていたんだが)、
「哲学」板でなんで現代「思想」なんだろうか。
そりゃ簡単だよ。
現代思想って一種の知的ファッションなんだよ。
そういう面がないと人が集まらんのだよ。
いまどきカントだけじゃ誰も見向きしないんだよ。
18考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:34
何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振る舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。
19考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:35
だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされていないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にすぎないからであります。しかも、その虚構の内部にあっては「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のうちにわかちがたく結びついてしまうのです。
20考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:36
実際、わたくしたちは、そのことで自分が変化する気遣いもないまま、あたりに何かの「問題」をみつけたり、なんらかの「方法」でその「問題」を解決したりしているのです。「何かを理解したかのような気分」へと人びとを誘っているのは、いずれもそうした虚構の「問題」にほかなりません。それが虚構にすぎないのは「問題」の解決が「問題」の側に起きる相対的な変化でしかなく、それを解決する主体は、そのことでいささかの影響を蒙ることがないと思われているからです。もちろん、それは社会の現実からは遠い振る舞いにほかなりません。社会に生きているわたくしたちは、何かを理解することで変化するのだし、当然、その変化は社会をも変容させる契機をはらんでいるはずです。ところが、「何かを理解したかのような気分」の蔓延は、そうした変化や変容の芽を、いたるところでつみとってしまいます。
21考える名無しさん:2001/05/25(金) 12:30
「社会=システム論」に対して、認識の不可能と主体の不可能
ということの自覚で対処できると考えるのは十分ではなく、確
かに、「懐疑的な自覚」は哲学の大前提であり(デカルトの方
法的懐疑等)、認識や客観を問い続けることは欠かせないので
すが、しかし、それだけではないのです。
なぜなら、人間は「より良い生を生きたい」といった生活世界
のうちがわの人間関係の中から切なる願いが、社会や認識を疑
う思考を生み出すからです。
新たな希望を見いだし力強く生きる人にとって、懐疑そのもの
は失いはしませんが、背後に引っ込んでいてもよいのでしょう。
(だだし、ポストモダン思想の流行のように、「懐疑のための
懐疑」は簡単に脱却できるものではないという自覚は失っては
ならないでしょう。)


参考文献
竹田青嗣「ニーチェ入門」

22考える名無しさん:2001/05/25(金) 12:48
>>18-21
荒しでないなら、一文で簡潔にいってほしい。
「『知ったらしまい』じゃダメだよ」とか。
長ければ長いほど言い訳じみて聞こえてしまうので。
23考える名無しさん:2001/05/25(金) 14:07
一言。皆人間大好きなんだね〜。あとさ、不況になるとさ
反動的にリージョナリズム持ち上げるのダサいから止めようね(ハァト)。
24考える名無しさん:2001/05/25(金) 15:49
中島君含め私は人間嫌いだぞ(w
2524:2001/05/25(金) 15:51
文法が変だ

中島君はじめ、私のように人間嫌いもいるぞ

 か

鬱だ死脳。。。
26考える名無しさん:2001/05/26(土) 00:52
「むなしいこと。賭事、狩り、訪問、演劇、名声の偽りの永続」
(「パンセ 断章153より」パスカル)
27確率くん:2001/05/26(土) 03:03
>>26
でぃヴぇるてぃすまぁ〜ん!
28考える名無しさん:2001/05/26(土) 12:45
>21の結論は、
ポストモダン思想は、共同体に対する懐疑力を賭けた市民の思
想どころか、「外部」「他者」「倫理性」などを語り、絶対的
な懐疑を振り回して言説と戯れてみせる王侯貴族のような遊び
とでも言えるかも知れないということです。

29考える名無しさん:2001/05/26(土) 13:25
一番犯罪的なのは、「ポストモダン」を肯定するにしろ否定するにしろ、
禄に本を読まないで語る人間を増やしたことだろうな。
30考える名無しさん:2001/05/28(月) 22:43
哲学・思想は、一体何のためのもので、自分にとって何になる
んだろうか、という執念深い疑問にどのように対処するのか。

「ライプニッツが、ピラミッドの頂に達して、暗がりの中で天
上の音楽とは<お月さまのピエロ>であることを発見する劇場。
リュクサンブール公園の番小屋では、ドゥンス・スコトゥスが
回転望遠鏡のところから顔をつき出している。彼はおびただし
い口髭をたくわえており、それはニーチェの口髭なのだ、クロ
ソウスキーに変装したニーチェの」。
(フーコー「哲学劇場」豊崎光一訳)

このような哲学・思想のプレイフルなロジックの空間で戯れる
のではなく、生きることの格闘の場から深い了解をともなって
目覚め、起きあがる方法を鍛えるものでなければ、何の意味が
あるのでしょうか?

31考える名無しさん:2001/05/29(火) 17:34
30さんの言う事はもっともだね。ポストモダンなんて多様な文脈と言説空間とに戯れているだけで(それゆえポストモダンなんだろうけれど・・)
中身が何にもないもんなァ。けどそれが知であり批評みたいなこというけど、生きてる人間にはなんのかかわりもない哲学になってら 
32考える名無しさん:2001/05/30(水) 22:01
「われわれは「アンチ・オイディプス」を二人で書いた。二人
それぞれが数人であったから、それだけでもう多数になってい
たわけだ」
(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー」宇野邦一訳)
複数性、多数性、集団性の中から言説が展開されているという
ことを理解し、彼らと同じ目線に立ち、様々な仮説を検証しな
ければ、その批判もなんら意味をもたないはずです。


33恋する器官なき身体:2001/05/30(水) 22:12
ココの題名のつけ方、うまい!!!
34恋する器官なき身体:2001/05/30(水) 22:17
ところで、ポストモダン依存症とは、簡単な事を小難しくいう連中のことですか?
35考える名無しさん:2001/05/30(水) 22:57
↑そりはポストモダン症候群と思われ
36考える名無しさん:2001/05/31(木) 01:06
ポストモダンとは精神分裂病側から見た神経症への
ノスタルジーである。
37名無しさん@1周年:2001/05/31(木) 01:29
>36

わかりやすく語ってくれ。
なんか、あんたからおもろいこと聞けそうやん。
38考える名無しさん:2001/05/31(木) 04:21
神経症をモダンとみなせば解決
39考える名無しさん:2001/05/31(木) 04:24
ノスタルジーなきポストモダン
人それをデムパと呼ぶ。
ノスタルジーを持ったポストモダン
これ「ポストモダンの条件」なり。
40考える名無しさん:2001/05/31(木) 04:44
>>32
それって社会学みたいなものですか?
41考える名無しさん:2001/05/31(木) 22:47
>40
恣意的な記号の学としての記号学。
「千のプラトー」では、科学(数学、生物学、言語学、等々)
芸術(文学、絵画、音楽)、政治(国家論、戦争論、等々)の
諸領域に記号分析が展開されています。
42考える名無しさん:2001/06/01(金) 00:09
<前衛意識、言いかえれば無知>
        ジャック・デリダ 高橋允昭訳
フーコーを批判するデリダの言説は正確なのですが、デリダや
ドゥルーズといった哲学者の問いが、現代において切迫した重
大なものだという認識は持てるものの、同じように展開するこ
とには、この問いの本体のように得体の知れない不安が増すば
かりなのです。

43恋する器官なき身体:2001/06/01(金) 02:06
う〜む、ポストモダンの次は、ポストポストモダンなのですかね。
44考える名無しさん:2001/06/01(金) 04:50
>>36
激しく同意!!
未だに宗教に惹かれるのはそのせいですね。
45考える名無しさん:2001/06/02(土) 02:08
「良くも悪くも、ドゥルーズの哲学には完了形で書かれるにふ
さわしいところがあった......自分の人生を完了形でし
めくくったこの哲学者の栄光なのでもあろう」
              「ドゥルーズのこと」坂部恵

46考える名無しさん:2001/06/02(土) 02:19
うーん、確かにリゾーム理論とか、ポストモダンの人は
頭良さそうだけど、僕は、日本人初の宇宙飛行士が、
一農民になったことのほうが、興味ある。
思想は難しく考えすぎてる。
思想でメシ食えるのって、大学教授くらいか?
47名無しさん@1周年:2001/06/02(土) 02:29
>>46
それは答えが出てますよ、しかもセミオテキストで(藁

アメリカやソ連のアストロノーツが
信仰や自然回帰してしまうのは打ち上げの衝撃の影響。
宇宙から地球をみる、という視線を勝ち得たからではなく
物理的身体が打ち上げの衝撃に耐えられなかった。
48考える名無しさん:2001/06/02(土) 03:35
「主体とは従属である」というフーコーの弁証法に
近代的(モダン的)主体への懐疑は全て現れていると思う。
構造主義者フーコーの言いたいことは、近代的主体には実は主体性はない、
だからこそ、近代的主体を否定し、真に主体的たれ、
ということだろう。
現に晩年のフーコーは「自己が自己に対して主人である」という
「主体性」の理想はいかにして可能かを問うたとされる。
だから主体性の否定を「ポストモダニズム」の特徴的思想だとすると、
それはむしろ、近代的主体性を従属の一形態と見抜いた上で、では
従属ではない真の主体性はいかにして可能かを人に啓発する
「真の主体性主義」であろう。
普通、モダニズムこそ主体性主義だとされているが、
そうならば以上の理由から、むしろモダニズム(近代的主体)こそ
ポストモダニズム(主体性の否定=従属)といわねばなるまい。
だから、ポストホダニズムはモダニズムへの批判から出てきたというより、
前者は後者の正統な必然的帰結だろう。
ポストモダニストの真の目論見は近代的主体(モダン)とその否定(ポストモダン)との
弁証法的癒着の暴露であり、そこからの脱却だろう。
そのためには、無論、モダニズムの否定が不可欠だが、
加えて、ポストモダニズムの否定も不可欠である。
従って、真の主体性主義としてのポストモダニズムは、まさに
ポストモダニズムの否定においてしか成立しえないのであろう。
モダン(近代的主体)とポストモダン(近代的主体の否定、その実、近代的主体の従属性の顕在化)
の弁証法を超えでて、「従属でないような主体性」の確立こそ所謂”ポストモダニスト”の
真の目論見だったのだが、その真意は誤解とともに記号的に消費されてしまったといえよう。
49考える名無しさん:2001/06/03(日) 22:56
君たちは、全裸であることを、つつしみ恐れるべきである。
さよう、君たちが神々なら、衣服を恥じるのもよかろうが。
         ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」
50考える名無しさん:2001/06/03(日) 23:22
「フーコーについて言えば、彼は私のするあとをつける。私は
彼の仕事が好きだが、フロイトの立場からは彼とそんなに関係
があるとは思わない。」
                 ジャック・ラカン
51考える名無しさん:2001/06/04(月) 00:08
<わずかばかりの骨折りで籠落したいと思う気持>
             ジャック・デリダ 高橋允昭訳
「デカルトの終局的、決定的思考をではなしに、非・哲学者、
哲学の素人の驚きを表しているのであり、この素人はそのよう
な疑いに怖気づいて抗弁し、こう言っているのだ、あなたが<
ひどく僅かしか五官に感じとれない、ひどくかけ離れた>事物
についての感覚的知覚の或るものを疑われるのは結構、だがし
かし他のことはどうなのか、あなたがここ、火のそばに坐って
、こうした口をきき、この紙片やそれに類するいろいろなもの
を手にしているということは!」
    ジャック・デリダ「コギトと狂気の歴史」豊崎光一訳


52考える名無しさん:2001/06/04(月) 03:25
まことに申し訳ないんですが、質問です。
質問スレッドに書いてもレスもらえないんで…
メタフォリカルってどういったイミですか?
フォリカルとは? お願いします
53考える名無しさん:2001/06/04(月) 03:37
今までの議論の補足として述べると、ポストモダンというのは究極的
には微分可能かどうかでしょう?つまり、最終的な主体=現存在が任
意の時間軸をとって右連続且つ左連続であるということがポストモダ
ンの必要十分条件であった筈。重要な点は、記号論的な修辞というの
は単なる付加価値的なものに過ぎなくて、そこでは記号と戯れる(つ
まり記号が可測であることを認識する)最終的な主体=現存在という
のを一つの集積点として見ると、いつの間にか特異点になっていると
いうのがポストモダンの本質であるということだったと思います(近
代だと最終的な主体=現存在は集積点のままで、そこが極限的に不動
点となる)が、どうでしょう?
54考える名無しさん:2001/06/04(月) 14:07
フーコー的ディスクールの空間は、(...)いわば「劇場」
と「図書館」を両極として、その中間に薄白く「砂浜」が拡が
っているというものです。
          「批評あるいは仮死の祭典」蓮実重彦
「そのときこそ賭けてもよいが人間は消滅するであろう、あた
かも波打際で砂の顔が消え去るように」。
       ミシェル・フーコー「言葉と物」豊崎光一訳
「この場合、特におどろくほどのことは何もないのだ」。
          ドストエフスキー「賭博者」原卓也訳


55考える名無しさん:2001/06/04(月) 14:59
うちの近所に「リゾーム若林」というマンションがある。
単に装飾過多な無様な建築物である。
56考える名無しさん:2001/06/05(火) 01:53
60半ばくらいに見える上品な女性に、テレビのインタビュア
ーがマイクをつき出し、サリン事件や、今度の捜査をどう思う
かと聞いた時、その人は、何ともいえない寂しそうなもの悲し
い表情をして、「そんなこと、絶対ある筈がありませんのに、
悲しいことです」とおだやかな声で静かに言い、そのまま瞑想
に入った。私は見ていて言いようのない感動に打たれた。...
          「オウム真理教の行方」瀬戸内寂聴
57絶望する器官なき身体:2001/06/05(火) 02:38
偉大なるTVメディア。
偉大なる情報空間。
偉大なる哲学。
はぁ。。。。。。。
58考える名無しさん:2001/06/05(火) 05:04
ポストモダンは許容力を強いるからなあ。
そこで弾かれる狭量な輩はこういう渾沌に憎悪してるのだろうか。
59考える名無しさん:2001/06/05(火) 11:26
彼はこの世に、ひとの日常の努力とはいつも異なった方向を向
いている「ほんとうへの欲望」というものが存在することの理
由を知るだろう。また、わたしたちの世界に対する異和が、幾
度共同体への欲望の中で相対化され宥められようと、理想を求
めようとする努力がその途次でどんな大きな難問や矛盾につき
当ろうと、それでも世界から、現にある世界を超え出ようとす
る欲望がつねに立ちあがり続けることの理由を知るだろう。
          「沈みゆくものの光景」竹田青嗣
60考える名無しさん:2001/06/06(水) 00:07
おいらはミシシッピーの牛ガエル 穴の開いた切り株の上に座っている

おいらはミシシッピーの牛ガエル 穴の開いた切り株の上に座っている
6158:2001/06/06(水) 00:26
ポストモダンの渾沌に耐えられない狭量君たちが
右翼思想(ナチズム)やミニマリゼーション(過合理化)を提唱してるのかね。
みんなはどう思う?
6258:2001/06/06(水) 00:27
ファシズムの間違いだった。
63絶望する器官なきドキューソ:2001/06/06(水) 00:59
資本主義を性的に捉えないで、静的に捉える輩が、
そのようなパラノった事考えるんでしょ。
64考える名無しさん:2001/06/06(水) 02:12
>>48
すごくわかるんだけど、
んで結局現代のパラダイムは?
そしてどこに向かってるの?
「近代的(モダン的)主体」を超越した「主体」の実現はどうすべきと
お考え?また達成するべきなの?
65絶望する器官なきドキューソ:2001/06/06(水) 15:41
なんだかんだ言っても結局私は、パトスの一回性の
激情空間を生きてます。
メディアに媒介され得ない日常の娯楽。会話。
特定の対象とコミットするのに貨幣というメディアが必要
だったりする中、私は無駄を省いた生身の生(性)を愛します。
そうなると情報空間は、現実の連帯を補完する二次的なモノに過ぎません。
しかし、オタク扱いはされます。泣きます。
66考える名無しさん:2001/06/06(水) 15:50
 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、
死あり、諸仏あり、衆生あり。
 万法ともにわれあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏な
く衆生なく、生なく滅なし。
 仏道、もとより豊倹より跳出せるゆへに、生滅あり、迷悟あり
生仏あり。
                 「現成公按」道元


67考える名無しさん:2001/06/07(木) 03:58
無限次元の不変群は観測者と観測される者の区別を消滅させる。かつては定数であり普遍的であるとみなされてきたユークリッドのπもニュートンのGも、今やそれらがもつ避けがたい歴史性の文脈の中で捉え直されることになる。そして、仮想的な観測者は決定的に脱中心化され、もはや幾何学のみでは定義され得なくなった時空点とのあらゆる認識論的な連結性を絶たれてしまうのである。
アラン・ソーカル「境界を侵犯する事―量子力学の変形解釈学に向けて」
68考える名無しさん:2001/06/08(金) 12:18
「デリダの場合は、或る領域のある概念を非常に拡張していっ
て、結局その概念が成り立たなくなるような場面にいきつき、
そこから戦略的に全体を脱構築するという行き方をとるわけで
す」。(「デリダの哲学」高橋允昭)読むことを、ある概念を
拾いあげることに限るのならば、デリダの方法が最も有利であ
ることは間違いありません。しかし、デリダの姿を追うことに
は大問題があります。

「デカルトが疑いを開始するのは、彼の属する共同体または共
同的なシステムの外に立つことよってです」。(「ポスト・
モダンにおける[主体]の問題」柄谷行人)無限円環のシステ
ムとしての社会像から、手っ取り早く抜け出すために、過去の
哲学者の膨大なテクストが解読され、誰が「外部性」の立場に
立ち、誰がそうでないかを指摘することで、彼方の出来事では
ないと語るため、柄谷氏の姿を追う人はテクストから外部を見
いだそうと必死になります。これが一種の異様な熱気の理由な
のだと思われます。本当は、哲学のテクストから「外部性」を
見いだすことは、うらやむに価することではないはずなのです。


69考える名無しさん:2001/06/08(金) 21:19
さあ、ビル、みんなを古いカントリー・ロックに連れていこう。タパハロックを通ってラパハノックへ行こう。みんながロックしてるときのビルを見てみろ。ビル、あの古いロックだよ。みんなでロック。年寄りもロック。若い衆もロック。男の子もロック。女の子もロック。ちょっとさがって、おれにもロックさせてくれ。ロックしてくれ、ねえちゃん、おれをロックしてくれ。汗びっしょりになるまでおれをロックしてくれよ。さあさがって、みんな、おやじさんにロックさせな。おやじもやり方知ってるよ。子供もロックする。アースティン姉さん、おやじさんに、あんたのロックの仕方、見せてやれよ。いいぞ、みんなロックしろ、ロックするんだ。雌牛が帰ってくるまでな。その箱ひっぱたけよ、ビル、ひっぱたけよ。悲しすぎるぜ、一般の人たちには、悲しすぎるぜ。あっちからこっちへ、またあの古いロックへ。ラパハノック、タパハノック。川を渡るんだ、みんな渡れよ。やあ、いきだぜ。ひいてくれ、ビル、警部が来るまでひいてくれ。
70考える名無しさん:2001/06/09(土) 10:19
「森林を焼いている白い煙が何本もたなびいているのが見えた」。
                    毛利 衛
71MtFTG・CD:2001/06/09(土) 10:55
妨害行為が止まった(一時休止?)ようですので、細かい経緯をレポートしておきます。
アタシがこのところ熱心に取り組んでいた「ゲイ・スタディーズ」スレッドですが。
たまたまスレの様子を観に来たところ、何者かが大量の空投降をしていたところでした。

アタシはその時点では事態を正確に掴んでいなかったため、直ちに、レス削除依頼をの提出作業に取り掛かりました。
削除依頼を出し終わった時点で、観てみたらすでに「ゲイ・スタディー」のスレは使用不能状態にされていたのです。
同じ手口で使用不能にされたのは「永井均スレッド」だそうです。
さらに、アタシが、「ゲイスタディーズ」への問題行為を指摘した「雑談・質問」スレが同じ手口で使用不能にされました
続いて、この卑劣な妨害行為が話題になっていた「哲学板自治(討議)スレッド」も今、同じ手口で使用不能にされました。

一連の妨害行為は、同じ手口であり、明らかに愉快犯ではなく、確信犯の仕業、としか思えません。
72考える名無しさん:2001/06/10(日) 11:09
 ジャン=ポール・サルトルの思い出についてわたしはただ一
つ具体的な経験を持っている。モンパルナス墓地にあるサルト
ルの墓を見にいったのである。素晴らしい散歩だった。
    「ジャン=ポール・サルトルの思い出」 丹生谷貴志

73考える名無しさん:2001/06/11(月) 18:53
人間が集団的かつ公人的な性格を持つのである以上、公共的な
視点に立って集団にたいする規制のことを議論し決定するのも
立派な自由である。
                     西部 邁
74考える名無しさん:2001/06/11(月) 21:29
75考える名無しさん:2001/06/11(月) 23:59
意味について語らないってことは恐ろしく辛いことなわけです。意味を語らないのは意味が見えないからでも、意味がそこにこめられてないからでもなくて、まさに意味ばかりが氾濫しているファシズムの中で、その意味の氾濫が人目から隠しているものを、意味というかたちではなく、ひとつの言葉の運動として積極的に産み出そうと思って、敢えて、ほとんどアクロバットのような姿勢で、意味を語らずにいたまでです。つまり、じっと耐えていたわけですけど、そのことに政治的な意味があると思って、一種の政治的選択をしただけだ。その政治的選択そのものの意味が見えず、ただ意味が無ければいいんだ、意味に到達しなければすべて革新的なことだと思っている人たちがいるとしたら、そうした新しいファシズムをぼくなり、われわれなりの仕事がつき崩していくだろうし、意味がないはずのところに群れ集まってしまった意味の圧政に対して、意味の無さということを戦略的に措定したということがあるだけなんです。それがもし、ひとつの流行になったり、あるいは本当に意味の無いところに意味の無いことを見てるんだったらば......(笑)。
76考える名無しさん:2001/06/12(火) 04:49
>>75
ワカッテシマッタ、、、分裂病質だからかな?
77考える名無しさん:2001/06/12(火) 15:07
竹田青嗣及びその読者の「ポストモダン」に対する被害妄想っていつになったら解消されるの?
78考える名無しさん:2001/06/12(火) 15:12
「ポストモダン」を叩くことによって延命を図る竹田青嗣及びその信者こそが「ポストモダン依存症」じゃなくって?
79 :2001/06/12(火) 15:26
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80考える名無しさん:2001/06/12(火) 22:04
always give my love
always give my love to you
          「always」  Mai Kuraki

そもそも、「デリダ」という名を冠されたテクストは「デリダ
の」ものだろうか?その「思想」なるものが存在するのだろう
か?その「テクスト」は何かを「意味する」(vouloir dire)
ものだろうか?
     「余白とその余白または幹のない接木」 豊崎光一

81考える名無しさん:2001/06/12(火) 22:35
わかるかい?
君は俺を誤解している
農夫のように見えるが俺は情夫だ
カバーを見たところで本の良し悪しはわからない
Bo Diddley "You Can't Judge A Book By The cover"
82考える名無しさん:2001/06/12(火) 22:47
>1
わたしの場合、
ドストエフスキー読んで、
ニーチェ読んで、
マルクス読んで、
ハイデガー読んで、
ベルクソン読んで、
カント読んで、
ヒューム読んで、
スピノザ読んで、
ヘーゲル読んで、
やっとポスト・モダンの本を読み始めたところなので
大目に見てね☆
83考える名無しさん:2001/06/12(火) 23:10
>>83
竹田青嗣で締めればヨシ。
8483:2001/06/12(火) 23:12
自爆もまたヨシ。
85考える名無しさん:2001/06/13(水) 00:42
>>82
さらにフレーゲ、ラッセル・ホワイトヘッド、ヴィトゲンシュタイン、
ゲーデルを経由してからポストモダンに行くベシ。
86考える名無しさん:2001/06/13(水) 01:19
ポストモダンを叩いてるやつは日本におけるモダニズムを
提唱しようとしてるの?
87考える名無しさん:2001/06/13(水) 01:38
知ってるぜ 嘲笑ってるんだろうョ
流行らねぇ 馬鹿野郎だってな
そんな事ぁ 俺が一番わかってらぁ
88考える名無しさん:2001/06/14(木) 01:46
大学的エクリチュールの諸規範や作法を乱調させるならば、そ
うした諸規範や作法の目的性が、つまりそれらが何を保護し、
何を排除しているかがさらけ出されると、こう期待できるので
す。(...)そんなわけで、間違って<形式>とかコードと
呼ばれているものに口をはさむことが重要になりますが、同時
にまた、哲学的な読解術とか能力の有無の点ではあくまで妥協
を排しつつ、別様に書くことも重要であるわけです。
      「哲学の痕跡について」デリダ高橋允昭訳

89考える名無しさん:2001/06/14(木) 23:04
真実以上に恐怖こそは私が欲し、求めるものだ。めくるめく遁
走が開く恐怖、思考にとっての......無限定性が達する
恐怖である。
     「有罪者」 ジョルジュ・バタイユ 豊崎光一訳
90代理いぬ:2001/06/14(木) 23:37
>38
>39
ふーん。
なるほど。
そこから状況を数値化して分析するのが経済学なのかな。

でもさ、物理学が条件を理想化するのと、
経済学が条件を理想化するのとでは大きな隔たりがあると思うんだな。
物理学が、理想化された条件の元でならかなりの精度を得られる一方で、
経済学は"人間の思惑"という、絶対的に隠れたパラメータを抱えざるを得ないもんな。
勿論、互いが常に有利を画策するという条件のもとでなら、
ゲーム理論みたいな分析の方法があるかもしれないけど、現実は、
互いが絶対的に有利を希求していない場合がほとんどだしねー。

あらゆる思惑が交錯することによってのみ新しい倫理規則が決まるのか、
それとも正しい原理によって正しい倫理規則を導き出せるのか。
後者はすごく不利に思えるけど、伝統や、
特定の宗教の教義によって円滑に営まれる社会が多数あるのもまた事実。
91代理いぬ:2001/06/14(木) 23:40
>90
ぎゃあ!
あらしじゃないよ。
2ちゃんねるがわるい。
わたしはわるくない。
92考える名無しさん:2001/06/15(金) 10:45
D.ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』ってポストモダンに入るの?
93 :2001/06/15(金) 16:50
ポストモダンのどのあたりがポストなのか?
方法論以外の新しさがわからないのです。

だれか教えてください。
94考える名無しさん:2001/06/15(金) 17:41
ある論理の展開とその極限=モダン
ある論理の展開とその極限とがそれ自身に折れ重なる=ポストモダン

そして、上述した意味でのモダンの展開と極限こそ、ポストモダンなのだ、というわけじゃなかったすか。
95考える名無しさん:2001/06/15(金) 17:43
ちょっとシャイで町角に立つと真っ赤になっちゃうところです。
96考える名無しさん:2001/06/15(金) 22:19
外見がいかにそう見えようとも、ロゴス中心主義の脱構築は哲
学の精神分析ではない
 「フロイトとエクリチュールの場面」 デリダ 高橋允昭訳

97考える名無しさん:2001/06/16(土) 04:11
ポストヒューマン
98ヘーゲル万歳:2001/06/16(土) 04:40
要はアウフヘーベンなんだって!
99考える名無しさん:2001/06/16(土) 12:57
止揚
100100:2001/06/16(土) 13:08
GET!
101だから:2001/06/16(土) 16:52
何だ!
102考える名無しさん:2001/06/16(土) 23:02
われわれは、果物籠が「ぎこちない位置におかれて狼狽して」
いるとか、春になって樹々が「かつがれて得意になり」「緑の
へどを吐き出す」とか、蝶が「毛虫時代の無定形のながい屈辱
に復讐する」とかいう文章を読む。
これが、ほんとにものの<味方>となって、<それら自身の観
点から>ものを描くことだろうか。ポンジュも明らかに、それ
ほどまでに勘ちがいするはずがない。彼がたえず実践してきて
いる、最も歴然たる心理的、精神的自然人間同性論は、その反
対に、総括的で絶対的な、或る人間的秩序の確立しか目的とし
ていないはずである。
 「自然、ヒューマニズム、悲劇」 ロブ-グリエ 平岡篤頼訳
103小松晴香:2001/06/17(日) 19:23
>71
それはどこの板の話ですか?ここでとりあげることではないような気がするのですが、、、、

質問いいですか?1 ぽすともだにすとを今だに必死で研究されてるかたはいるのですか?
そして 今はポストポストモダンの時代なのですか?橋爪はポストモダン依存症ですか?
104考える名無しさん:2001/06/17(日) 23:57
>103
ウィトゲンシュタイン、構造主義、ポスト構造主義に強くみら
れる真理主義批判、理性主義批判の思想、とくに、ポスト構造
主義は近代的な人間観や認識観の否定を強く押し進めたために
、その主張はポスト・モダン(post-modern:近代を超える)の
思想と呼ばれています。

現在のポストモダン(レフト)の主張は、フーコーやデリダの
論文をかき集めて、新しい社会について思想的になにを考えて
も、無駄だ、問題なのはただ、われわれが現にある社会を是認
するのか、それともこれを否定する立場に立つか、ということ
だけだ、というメッセージにすぎないのです。

「明日こそ、明日こそ、すべてにケリがつくことだろう!」
(ドストエフスキー、原卓也訳 「賭博者」のラストシーン)
105考える名無しさん:2001/06/17(日) 23:58
「明日こそ、明日こそ、すべてにケリがつくことだろう!」
(ドストエフスキー、原卓也訳 「賭博者」のラストシーン)

↑これモダンじゃん
106考える名無しさん:2001/06/18(月) 10:55
 実生活に於ける、つまらぬ位置や、けちくさい資格など、一時
潔く放棄してみるがよい。諸君の位置は、天下に於いて発見され
る。雲が諸君の友人だ。
 無責任に大げさな、甘い観念論で、諸君を騙さうとして居る
のでは無い。これは、最も聡明な、実情に即してさへゐる道で
ある。
               「諸君の位置」 太宰治
107通りすがり:2001/06/18(月) 11:27
日本の学問は、哲学を問わず、ほとんどがスキンディープ。
古代ギリシア哲学すら、消化不良。
108考える名無しさん:2001/06/18(月) 11:32
やさしく献身的、自己犠牲的で、どんな苦労もいとわず、何の
報いも求めず、ただひたすらわたしを愛してくれていた母とい
うイメージの背後から、ただひたすらおのれのために、わたし
がどれほど苦しもうがいっさい気にせず、あらゆる情緒的圧追
と術策を使ってわたしを利用しやすい存在に仕立てあげようと
していた母の姿が浮かびあがってきた。
               「わたしの原点」 岸田秀
109考える名無しさん:2001/06/19(火) 01:35
......、何とも許しがたいのは、武田鉄矢という非=フィルム的な顔であって、たとえ会社が何かの間違いで使ってくれるといっても、いえ、何せ、私はこんな顔ですからとひっこんでいればよいのに、あろうことか主演作品まで撮られてしまう始末、もちろんあの顔が積極的に醜いというわけではないし、また彼より醜くてもフィルム的な顔を持っている役者は映画史にはいっぱいいるわけで、そんな話をしたいわけではなく、ただあの顔が映画に対する無意識の冒涜にほかならぬということがいいたいわけで、カメラとの距離と画面上の位置と照明の加減でなら救われもしよう武田鉄矢が、あろうことか出ずっぱりでクローズ・アップまであるという映画を一時間半も見せられたりすると、いったい映画はそこまで自分自身を軽蔑していいものだろうかと暗澹たる思いに誘われるのだが、ここで一言ことわっておくと、自分ではどうにもならぬ顔の美醜に難癖をつけているわけではなく、画面の力学の中でその輪郭が何に抗がい、何に同調すればフィルムが躍動するかという点に関して自分では責任をとろうとしない顔の無責任さとその無責任さへの自己肯定的な安住を問題にしているわけで、......
110考える名無しさん:2001/06/19(火) 11:31
すべての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。それは自我の
形を整え、自我を安定させたい欲望である。
                    岸田 秀
111考える名無しさん:2001/06/19(火) 12:07
>109
 松尾貴史さん、大島渚のモノマネをお願いします。
(岡本太郎)「うーん、何だか 分からないね。真っ赤!真っ赤!」
(辻元清美)「わたしネ、ボートに乗って見に行ったんです。ソーリ
ソーリ、ソーリ、ソーリ。」
(広瀬隆)「灰で、死ぬんですよ。」
(武田鉄也)「ぼくは、死にましぇーん!偽善者だから。」
(大島渚)「みんな、馬鹿野郎なんだな!」
(田原総一朗)「もう、訳が分からないなぁ。CM、入ります。」
112考える名無しさん:2001/06/20(水) 10:10
ある確信、それは「グラマトロジーについて」が、しばしばそ
う考えられているように、断じて「現前」の「形而上学」批評
の書物ではないという確信である。「ディフェランス」を語り
「代補」を語りながら、デリダは「現前」の「刑而上学」なる
ものを、それなりに顕揚することになりはしまいか。
          「叙事詩の夢と欲望」 蓮實重彦


113考える名無しさん:2001/06/20(水) 21:41 ID:8Uootxrc
 報酬は入社後平行線で
 東京は愛せど何にも無い
      「丸ノ内サディスティック」 椎名林檎
114考える名無しさん:2001/06/20(水) 21:56 ID:???
>>113
uzai
115考える名無しさん:2001/06/20(水) 22:03 ID:???
Heathcliff, it's me, Cathy,
I've come home. I'm so cold!
Let me in-a-your win-dow.

Kate Bush
116考える名無しさん:2001/06/21(木) 01:09 ID:gwDyZ9/k
 ナルシスティックな「内面」に自閉し、ただ現代的な「世相」
や「風俗」の「風景」しか描けていないと思える林檎の詞に、
現実や歴史の困難を高度資本主義の現在の安易な肯定のなかに
解消するような感覚があり、それを批判するために「外部」や
「他者」の立場に立つ視線を要求するのが、ポストモダン的な
見解になるのかと思います。
 林檎の詞が外部現実に直面することを回避し自閉しているよう
に感じるのは、一時的にくすんでいた生が輝き出す日常を描い
ているために、生きることの燃焼感・躍動感などは社会や現実
なかに見いだすことはできないとするポストモダンからは社会
に埋没した毒々しい刺激を描いているとしか思えないからです。
 しかし、林檎の詞が告げ知らせるものは、生きることの意味を
自分や社会から見失い、そのことを心の底から了解した時にだ
け回復してくる生きることの手応えと困難に対する深い癒しの
響きに違いないと思えるのです。

    参考文献       竹田青嗣  「陽水の快楽」
117考える名無しさん:2001/06/21(木) 01:29 ID:???
どうでもええが引用ばっかだなこのスレ。
ポストモダン依存症とはそのことか。
118考える名無しさん:2001/06/21(木) 01:45 ID:sWbki6lw
やっとヘーゲルを読み終わったんで、
次デリダ行きます。
119考える名無しさん:2001/06/21(木) 02:17 ID:???
 あさきゆめ あわき恋
 とおきみち あおき空
 今日をかけめぐるも 立ちどまるも......
     (「結詞」) 井上陽水
120考える名無しさん:2001/06/21(木) 03:41 ID:???
ニーチェは どうですか。
121考える名無しさん:2001/06/21(木) 05:04
ニーチェはモダニズムの始祖というべき。
122考える名無しさん:2001/06/21(木) 22:27
オリオールズのとりわけ特色のあるレコードについてチャーリー・ジレットがこう書いている----「ただひとつの伴奏はギターで、それもきわめて静かなものだった。その唯一の目的はグループが完全に静止しないようにすることであったのかと思えるほどだ。ティルはその場から身を引こうとし、かかわるまいとしているような感じだった。ティルの震えるテナーはゲットウ体験を奇妙に反映したものだった。苛酷な、すさんだ生活がゆっくりとした、穏やかな反応を生じさせていた」。理解されるかされないかのうちに消えてゆく高く漂う呻き声、その背景のどこかにファルセットの亡霊がいる、そういう枠組のなかで発せられるティルの声は情緒上あまりに遠くに離れており、聴覚上あまりにぼんやりとしており、まったく歌唱とは思えない感じだった。それは言葉を口で発することを譲歩とみなしているような声だった。うたうというよりも、うたえるかどうかを考えている者の声だった。まるで「気にかけるということはどういうことなのだろう」と言ってるようだった。
123考える名無しさん:2001/06/22(金) 10:21
>>116
ギャグにしては笑えないが、真面目でやってるとしたらちょっと笑える。
124考える名無しさん:2001/06/22(金) 11:59
「日常言語」(ウィトゲンシュタイン)や「生活世界」(フッサール
)を嫌悪するレヴィ=ストロース。
『生まのものと火にかけたもの』のなかのことば、
「最初の状態で、イメージと記号深い森のなかにおいて、まだ
ひとを感動させうるあやしい魅力を、保ったままに、聴く手の
心をゆり動かしたときに持っていたような力と威厳」
このようなことばに、虚心に耳を傾けるとき、聴き取ることが
できるのは人間の思考に対する深いペシミズムであることはあ
きらかである。
そして『論理哲学論考』における認識批判の結論は、
「6・552 いい表せぬものが存在することは確かである。それは
おのずと現われ出る。それは神秘である。」
またロラン=バルトの『エッセ・クリティーク』のなかの一文。
「文学は、主体の不在以外の何ものも告知しないのである。」
人間の思考が仮死の状態にあるとしたら、わたしたちはもう一
度その思考の意味をよく受け取り直してみなければならない。
フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』より
「この主観性こそ、世界<われわれの自然的生活の地平である
ところの、われわれにとっての世界>の存在に代わって現われ
てこなければならないものなのである。これが、正当で必然的
な課題であるならば、それを遂行することは、独特な新しい学
の創造を意味する。」
125考える名無しさん:2001/06/22(金) 13:30
  Reach for the golden ring
  Reach for the sky
         『Reach for the sky』 Mai kuraki

そなたら、永遠的な者たちよ、そういう世界を永遠に、常に愛
するがよい。そして、苦痛に対しても、そなたたちは語るがよ
い、過ぎ去れ、しかし帰ってこい!と。というのは、一切の快
楽は...永遠を欲するからだ!
        『ツァラトゥストラ』、「酔歌」
126考える名無しさん:2001/06/22(金) 15:36
>>75
こう言ってもらうとわかりやすい。
127考える名無しさん:2001/06/23(土) 11:13
「私はお金のために闘っているわけじゃないんです。日本の民
主主義のために闘っているんです」
 (95年の)住専問題で国会が紛糾しているとき、ハンスト
中の婦人のTVのインタビュー
128考える名無しさん:2001/06/23(土) 11:42
 それを必要とするひとが取って食べたいと思ったとき、所有
者のいない森の木の実のようにいつでも誰でもすぐ手にするこ
とができること。そういうことが可能でないなら、どんな興味
深い考え方を含んだ哲学も無意味だろう。
             『現代思想の冒険』 竹田青嗣
129考える名無しさん:2001/06/23(土) 14:40
大衆文化状況という言葉が惹き起こしがちな誤解、それは、知の民主化を啓蒙の徹底化と錯覚することにほかならない。かつて、ほんのわずかの人数に限られていた特権的な読者が、それぞれの専門領域に固有な語彙と技術を駆使して解読していた真理が、いま、より多くの読者によって共有可能な対象になったということが重要なのではない。知の大衆化とは、一冊の書物をめぐって誰もが同じことを語り、同じことを思考するといった平等を意味するわけではなく、一冊の書物がそれのおさまるべき閉域というものを超えて、いたるところにその刺激の火花を散らし、それに応じて、著者さえ予期しえなかったよりいくつもの花火が、思いもかけぬ模様となって無方向に炸裂するといった事態こそ、大衆化された知のあり方にほかならない。
130考える名無しさん:2001/06/23(土) 14:41
誰にも言葉が書け、誰にも言葉が読めるということは、誰もが同じ言葉を口にすることとはまったく無縁の、ある拡散的な言葉の磁場の形成を意味している。「仮面の哲学者」がその無名時代に体験したという「書物の刺激が思いもかけぬ方向にとび散ってゆき、考えてもみない形態に描きあげてくれた」という状況こそ、まさしく知の大衆化にふさわしい自由な読まれ方にほかならない。知的な名声がたちどころに商品化され、その名前にふさわしい唯一無二の読み方に誰もが同調しうる知の領域が存在するがごとき錯覚が蔓延することは、実は知の大衆化現象とはまったく異質の事態であり、それは、現代の消費社会が無意識の郷愁として保存している知の十九世紀的な形態なのである。大衆化とは、誰もが特権的な作家となり、誰もが特権的な読者となることではなく、まさしくその特権の放棄によって可能になるコミュニケーションの無方向性、その唐突さ、その偏心性を意味している。
131考える名無しさん:2001/06/23(土) 14:41
にもかかわらず、名前という符牒の反動的な回帰が、いたるところで知の大衆化をさまたげ、二十世紀の後半に生きているはずのわれわれのまわりに、十九世紀にこそふさわしい記号の配置を性懲りもなくよみがえらせてしまう。だから、知的名声の商品化を現代の消費社会にふさわしい現象だとして安易に納得してしまうことの方が、無意識の郷愁に身をまかせる反動的な姿勢だといわねばなるまい。作家という個体だけが大衆化をまぬがれ、前世紀的な特権を温存させているかのごとく信じることの反=時代的な錯覚こそ、現代が思考すべき唯一の知的課題でありながら、大衆社会の批判者たちの多くが、それをごく曖昧に避けて通っているのだから。「仮面の哲学者」の存在が挑発的たりうるのはそうした理由による。
132名無し:2001/06/23(土) 18:59
ポストモダンは大人が味わうためのもの。
子供は手を出してはならない。
モダンの洗礼を受け、その良いところも
悪いところも十分知り尽くした大人だけが
特権的に味わうことのできる秘密の悦楽。
何も知らない子供が手を出すとロクなものにならない。
133考える名無しさん:2001/06/24(日) 03:12
仮面<おもて>とは、<うつつ>の世界に、<うつつ>の世界
とは別種の構成原理<コード>をもった下層の深みの世界が映
じ、たちあらわれてくるところに成立する、いわば一種の<反
ーうつつ>、超現実の世界においてたちあらわれてくるものに
ほかならない。
          『仮面の解釈学』 坂部恵

世界がどのようにあるかについての認識上の「真理」を求める
哲学が陥った奇妙な相対主義やニヒリズムが仮設してみせる<
戯れる仮面>の世界の闇に、ひとつの光を手にして降りてゆく
こと。

世界は、私自身の純粋な生のうちから、意味および確証されう
る妥当を、獲得してくるからこそであり、またその私自身の純
粋な生のうちで開示されてゆく他人たちの生のうちから、意味
および確証されうる妥当を、獲得してくるからこそである。
        『イデーン』 エドムント・フッサール

まやかしの喜びでなく、与えられた生命を燃焼させ、湧き出る
生の悦びを味わうための仮面ではなく<ほんとう>への哲学か
らのメッセージ。

あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択
することなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにま
で。
      『権力への意志』 フリードリヒ・ニーチェ
134考える名無しさん:2001/06/24(日) 10:28
猫たちはただひたすら猫たちであり、彼らの世界は徹頭徹尾猫
の世界である。
                   リルケ
135考える名無しさん:2001/06/24(日) 13:51
 「人間は考える葦である」
                    パスカル

ジャック・デリダが、哲学の最たる迷信である<現前性>が作
りだす根強いイメージから脱却するために<脱構築>の全体像
を膨大なテクストとして呈示してみせた時、神秘的ですらあっ
た思考としての哲学はかげろうのようなものに見える。

「その機械は死んでいる。それは死である。その理由は、機械
をもてあそぶと人びとが死の危険を冒すからではなく、機械の
根源が死への関連であるからである。」
   『フロイトとエクリチュールの場面』 高橋允昭訳

デリダ的脱構築を頭から信用しない言説は少なくない。哲学の
ことばのほんの一部分・一断片を見続けるために起こる思いこ
みという以上に安易な(<反->(anti-)も含めた)人間主義から
作りあげられる間違いについて。

「人間は一つの創作物であって、その日付が最近のものである
ことを、われわれの思想についての始源学は容易に明らかにす
る。そして、多分その間近い終りをも。」
              『言葉と物』 高橋允昭訳

わたしたちは、出口はすぐそこにあると語ることをやめること
からはじめよう。デリダ的脱構築にとって、どんな知の最前線
からの処方箋もたぶん意味はないだろう。

「あらゆる概念的対立関係の彼岸にいかにもこのBemachtigung
[力をもって或る物を占領する、わがものとする]は、欲動の
欲動としての支配欲動[Bemacht-igungstrieb]と『力への意志
』との間の交換体たちの一つを位置づけるのである。」
            『絵葉書』 高橋允昭訳
136哲学@名無史さん:2001/06/25(月) 07:23
この引用の嵐はパロディでやっているのだと思いたいが・・・・。
まじだったら怖い。
137考える名無しさん:2001/06/25(月) 22:36
すべてマジ。これが依存症ってやつよ。
138考える名無しさん:2001/06/25(月) 23:53
おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほ
うから示すとうりに、おのれ自身のほうから見させるというこ
とにほかならない。これが現象学とみずから称する研究の形式
的な意味なのである。
         『存在と時間』 マルチン・ハイデガー
139136:2001/06/25(月) 23:56
まじめにパロディをやったソーカルの偉大さが改めてしのばれる(藁)。
140考える名無しさん:2001/06/26(火) 01:09
>136
たしかにこの世の中は、デリダや竹田青嗣の哲学教室のように
人を教え導くようなものではなくて、ダメと選別されれば即刻
排除するだけの厳しいものですけれど、でも、知らないために
、また、誰も教え諭してくれないがゆえに、誤ったままでいる
人を放置するなら、それは哲学という学問の怠慢以上に大罪だ
と思っています。デリダや竹田青嗣の言葉を引用したのは私で
すが、生への深い洞察や知見は真剣勝負、まさに格闘ともいえ
るもので、私は魂の共感というものを得ました。機会があれば
一読をお奨めします。哲学は一人で何とかやっていくものでは
なくて、友を得て、スクラムを組みながら進んでいくことが大
切だと思います。このスレッドの引用の織物が、迷惑行為とな
ならないことを願っています。
141考える名無しさん:2001/06/26(火) 09:07
まあ、とにかくマジなわけだよ。
142考える名無しさん:2001/06/26(火) 22:25
こうした素人探偵の行動に警戒の目を向けずにいられないのは、何よりもまず、その特権的な代弁性が胡散臭く思われるからだ。彼は、選ばれた者の犠牲において、個人的な体験を共同体にとっての緊急の課題にしてしまう。血をわけた兄と妹との二人組は、謎の解明としてある「宝探し」の過程で誰ひとり信頼してはいなかったにもかかわらず、その孤独にして特権的な試練をくぐり抜けたのちには、その他人たちに物語を信頼せよと強制しにかかる。その姿勢は、人が前衛という名で知っている一群の特権的な啓蒙家たちのそれと寸分の狂いもなく一致する。だから警戒しなければならないのだ。
143考える名無しさん:2001/06/26(火) 22:25
「双子の兄弟」による「宝探し」の物語は、何よりもまず、他人を信頼することのない冒険家であるという意味で前衛的であり、個人的な試練を一般化するという啓蒙的な姿勢においても前衛的というほかはあるまい。そもそも物語というものは、それを享受する共同体の成員にいつでも前衛的な代弁性を発揮するものなのだ。だからこそ、人はその支配を胡散臭く思うのだし、そこからの解放を願わずにはいられないのである。
144考える名無しさん:2001/06/26(火) 22:26
村上春樹や丸谷才一、あるいは井上ひさしにその意図がなかったにしても、彼らが無意識のうちに依拠していた物語は、その構造において、前衛的な特権者の犠牲的な代弁性を語っていたことになり、それに対して小説が擁護されねばならぬ理由は明白だろう。小説とは、その無根拠性において、優れて反=前衛的なものであり、共同体の成員に対して何ごとをも強制したりしないという意味で、「完璧な捨子」と深い関係を持つものなのだ。共同体内部での前衛的な役割をいったん担わされていながら、その役割をあえて徹底させることで物語から苦しげに離脱する存在を描いた大江健三郎や中上健次の試みに注目をせざるをえなかった理由もそこにある。
145考える名無しさん:2001/06/26(火) 22:30
おれは最高潮だよ、好きなようにやるぜ
おれのことなんか気にするな、やつらの言うことも気にするな
おれには片手がある、それをぶらぶらさせるんだ
片手を自由にさせてくれ、それでおれは気持が晴れるよ、満足だ!
146考える名無しさん:2001/06/28(木) 18:21
>>140
「放置」しないでくださいよ。
147考える名無しさん:2001/06/28(木) 22:07
俺の歩き方で 歩いてゆく 今日も
迷い道 廻り道でも いいじゃない
俺の転び方で 転んでやる 今日も
格好悪くても 無様でも かまわない
これが俺流
148痴の帝王サトルレ:2001/06/28(木) 22:41
はじめて2ちゃんに来たが、
このスレッドは引用するだけなのか?
俺はコミュニケーションについて語りたいのだが、
コミュニケーションってなんだと思う?
ポストモダンを使うとコミュニケーションの否定に行き着くと思うのだが。
俺はコミュニケーションを「意志疎通・解釈共有のためのプロセス」と考えてるけど、
それって「相手が何を言っているのか?」っていう「相手の意図」を汲み取ろうとする姿勢だと思うのだが、
ポストモダンだとやっぱりこういうコミュニケーション概念は否定されるのかね?

>1 名前:考える名無しさん 投稿日:2001/05/16(水) 01:55
>ポストモダン哲学は、知の最前線の美名のもとに多くの不幸な
>哲学との出会い、多くの不幸な人々をつくり出してきたことを
>を知ってる皆様の輝かしい脱却のメッセージをお聞かせ下さい!

って書いてあるから、脱却のメッセージだと思うのだが、
他人の引用にすがっていては読み手の誤読を導くだけでは?
このスレッドは現象的にはポストモダンっぽいな。
しょせん2ちゃんとかインターネットのようなポストモダン的、
つまりドゥルーズのリゾーム的な世界内において、
ポストモダンを否定するのはナンセンスかもしれないぞ。

サトルレはポストモダニストではないが、
掲示板に書くという行為はポストモダン的世界に身を置くという危険を冒している。
というかポストモダンに吸い込まれている。

もちっと自分のメッセージを聞かせて欲しいな。
俺のメッセージは、
「インターネットというリゾーム=ポストモダン的世界において、
つまり常にシニフィアンを誤読される環境において、
いかにして当初のシニフィエを喪失せずに本来的な意味を追究することが可能か?」
という問いそのものにしてみよう。
149痴の帝王サトルレ:2001/06/28(木) 22:54
しまった送ってしまった。

つまりだな、
他人の引用に終わるということは自分の発言の責任を放棄していると言うことだ。
モラルがないのよね。
それからコレは賛否両論あるだろうが、
「捨てハン」を使うヤツは自分の発言に対する責任の放棄につながりやすいと思う。
いや、捨てハンは否定しないけどね。
「発言そのもの」と「発言者」を切り離して考えることができるので、
「発言そのもの」だけを追いたいときには便利だよな。
固定ハンドルを使うと即つまらぬイメージや憶測を呼ぶからな。
そんなのは読み手のモラルというか知的態度次第なんだがな。

「竹田セイジ」の引用を引っ張ってきただけで、
自分の語りたいことを自分の言葉で語らないヤツはやっぱりポストモダニストだな。
「竹田セイジ」の引用を引っ張ってきて、
そこから自分の概念を創造できないヤツはやっぱりエセ哲学者だな。
哲学とは新たな概念の創造だよ。
常に新たな概念の構築を試みる人間が真の哲学者だと思う。
つまり、結局は自分の言葉になっていくんだな。

つーことで、サトルレはコミュニケーション概念を構築したい。

「コミュニケーションとは、
意志疎通や解釈の共有のための、飽くなき努力。
複数のの主観がお互いがお互いの意図を読みとろうとすること。
もちろん他者(自分以外の主観)を完全に理解することはできないけど」

だと思うのだが。果たしてそんなことが2ちゃんで可能か否か。
そこに興味があります。
150痴の帝王サトルレ:2001/06/28(木) 22:57
そんでもってだな、
概念の構築を諦めて、
概念のズレを楽しんでいるだけなのがポストモダニストだ。

サトルレの世界観は複数の主観間のコミュニケーションということから始まる。
うぉ、間主観性? これは現象学か?
誰かのフォローを頼む。
フォローすることがコミュニケーションである。
151考える名無しさん:2001/06/28(木) 23:06
さるとる流の現象学的実存論だべ。
ハイデッガーは、サルトルが実存主義を曲解してなるってプンスカ
怒ってたそうだべ。
そのせいでもないと思うが、メルロ=ポンティとサルトルは思想的に
訣別した。
他者間のコミュニケーションや、間主観性の問題ははメルロ=ポンティ
の方がまだ、現在にも通用するものがあるべぇ。
サルトルもサルトルなりにおもしろいとこあるべぇが、別の方面だべさ。
152痴の帝王ナイチエ:2001/06/28(木) 23:24
>151
>さるとる流の現象学的実存論だべ。
別に俺はジャンポールなんて語ってるつもりないッス。
ジャンポールにもこだわりはありません。
哲学史の講義を聴きたいわけでもないっす。

151さんはなんで捨てハンなんですか?
で、151のカキコミで何を伝えたいのですか?
私は「コミュニケーションとは何か?」を語りたいのであって、
サルトルの哲学史的意義を訊いているわけではありません。
どうやらあなたとはコミュニケーションを失敗したようです。

コミュニケーションしましょ。
自分の言葉で語りましょ。
153考える名無しさん:2001/06/28(木) 23:36
>恥の帝王
何か唐突ですね。
流れを無視していきなり自説を押し出す。
『「相手が何を言っているのか?」っていう「相手の意図」を汲み取ろうとする姿勢』が微塵も感じられないな。
いったい何のための「意志疎通・解釈共有」なんですか?
イク時は一緒ってことを確認したいんですか?
面識のない人達と。
154痴の帝王ナイチエ:2001/06/28(木) 23:41
>153
君がボクを批判したいことが分かった。
155考える名無しさん:2001/06/28(木) 23:45
ジャレ合いたいのかな、コイツ
156痴の帝王ナイチエ:2001/06/28(木) 23:54
>155
いや、そんなつもりはありません。
ココの板にいる価値があるかどうかを計っています。
157考える名無しさん:2001/06/28(木) 23:56
お役に立てないようで。
オヤスミ...
158考える名無しさん:2001/06/29(金) 01:05
解釈共有が意思疎通だとか思うとこに大きな陥穽があるんだがね。
共有テクストの多様な解釈に構造的同型性を見出せたと、
思われたときコミュニケーションはその端緒につくんだべ。
しかるに優れた、テクストは構造的に同型と思われた解釈群の
間にすら間隙を関知させるだな。
間主観性の出番はやっとここからだがな。
そんだでサルトル(ジャン=ポール)よりメルロ=ポンティの
方がまだよかべぇ、とか言ってみただがね。
159糸圭:2001/06/30(土) 00:47
竹田と僕はかつて研究会みたいなことをやっていたんだけど、彼との分岐点というのは、やはり彼のカルト宗教的なところだったね。カリスマが好きなんだよ。彼は当時、和光大学の非常勤をやっていてちょっと覗いたことがあるんだけど、ほとんどある種のカリスマになるわけ。やはりヒーリングをやるわけですね、よく生きるとはどういうことか、なーんちゃって(笑)。
160考える名無しさん:2001/06/30(土) 02:13
>158
解釈共有とは、ものごとの本質(竹田青嗣の『現象学』では、
本質とは、言葉の形でだけ所有される意見や世界観という意味
です)に関する確信と理解するならば、人それぞれによって言
葉から受けとるエロス価値(色あい、情熱、等々)の多様性を
持っているからであり、ある言葉の共通の<意味>(指示性)
を持つのは間主観的な確かめを信憑として成立するということ
になります。竹田『現象学』はこのことの<意味>を問うこと
の方法と了解可能性の創造だと思います。
 ジャック・デリダの脱構築では、「現前性」の思考が、テク
ストに不法行為を仕掛けて、純然たる戯れを揺るがす様を明ら
かにし、手を変え品を変えて、私たちをつなぎ止めにかかる、
存在論=神学と形而上学のウソを見抜くことになります。イン
チキ知の商人のささやき(「フランスの哲学界のスターに心酔
すれば、知の最前線を安上がりに遊べて、さらに「かげろう」
のようなチャート図式を論文として何か意味のあるもののよう
に見させれば、金にもなる。」)に魂を売り渡すことへの抑止
にもなる筈です。夢見られ続ける「現前性」の罠との永遠の格
闘が続くことになります。一筋縄ではいかない「脱構築」のプ
ロセスには、『歓待』ということが原則であり、デリダは間主
観性構成体たる<意味世界>を「エクリチュール」と呼びます。
161考える名無しさん:2001/06/30(土) 08:02
>>160
お前っていちいちモノローグじみているね。
自分の「正しい」主張ばっかなんでウンザリなんだな。
それも竹田色にまみれた。
「痴の帝王」を呼んできて「ほんとうのコミュニケーション」でも展開してみたらどうだ?
162考える名無しさん:2001/06/30(土) 22:33
コミュニケーションの破綻といえば、デリダのテクストを読む
際に共時的にフーコー、ドゥルーズ、リオタール等々や、通時
的にマラルメ、ニーチェ、ハイデガー、ブランショ等々と等質
的な空間内に位置づけて知の最前線を自由自在に操る夢に魅了
されないことが大切です。魅力的な「著者」をアメに「読者」
を煽りライバル意識を芽生えさせることをニーチェはルサンチ
マンと呼びました。デリダの『声と現象』のあとがきで訳者の
高橋允昭氏が言うように「彼ら(=デリダとフーコー)のテクス
トに執拗に繰り返されるニーチェ、マラルメ、アルトー、バタ
イユ等」(渡辺守章)の捏造された知の最前線のお伽話に振り
回されるのではなく、注意深い閲覧こそが望ましい脱構築的コ
ミュニケーションとなります。
163考える名無しさん:2001/06/30(土) 22:42
まあデリダは真面目に「見える」のかな
164考える名無しさん:2001/06/30(土) 22:52
>>162  真面目なやつだなあ。
165考える名無しさん:2001/07/01(日) 00:10
>161
赤裸々な心の遍歴でも語ればいいのですか?
私は絶対的な懐疑やニヒリステックな相対主義が「破滅への道
」であり、現前性に固執することが統制不能を生み出すという
気持ちは変わらないと思います。
私は勇気と元気を分け与えてくれる本が好きなだけです。
あと、あなたの哲学も聞きたいですね。
166考える名無しさん:2001/07/01(日) 00:20
>>165 やっぱり真面目なやつだなあ。
デリダが死んだら地球も淋しい星になるよね。
167考える名無しさん:2001/07/01(日) 00:37
俺は竹田青嗣の文章を読むと食欲が減退するね。
性欲も萎えるよ。
味気ないんだな、世界観が。
お前が竹田を引いて書いた椎名林檎について文章はなんだい、ありゃあ?
俺にとっては竹田の最高の著作よりも椎名の最低の1曲のほうがマシなんだよ。
168考える名無しさん:2001/07/02(月) 00:36
ナルシシズム的諸人格とは、主体作用の<境界>に関連する退
行状態とでも言うべきもので、この場合<境界>とは、そこに
おいては<自我>(le moi)が<他者>(l'Autre)の中に見失われ
、<内>と<外>とが相互に入り組み、<表象>と<欲動>と
を分割することが困難となり、あるいはまた、それらの一方が
他方の機能を妨げてしまう、そうした決定不可能性のフロンテ
ィアを意味します。
                ジュリア・クリステヴァ
169考える名無しさん:2001/07/02(月) 01:50
>167
生きる虚しさ、心の空虚が人生に一体化してつきまとうことに
なってしまい、抜け出せなくなったとき、最新の世界像の理論
で一時的にその不安から逃げるよりは、竹田『現象学』やデリ
ダ的『脱構築』の門を叩くほうが自分にとっては良いと心から
思えたのです。カントがいう理性の推論の能力は「ほどほど」
ということが困難なものですよね。知の最前線にのめり込んで
ロクなことがなかったと思えた時や、自分の力で考えたいと強
い動機を持った時にだけ援助してくれる哲学なのだと思います。
音楽に関しては好きな音楽を聴くことが何よりも大切だと思い
ます。様々な(科学的な?)音楽効果をもてはやすのはポスト
モダンの理論家にお譲りします。
170考える名無しさん:2001/07/02(月) 12:08
生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ人間と
社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て
安らうことのできない欠陥生物であり、確定したサンスを持ち
合わない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反
自然的存在なのである。
              『構造と力』   浅田彰
171痴の帝王ナイチエ:2001/07/02(月) 14:02
あのー、質問なんですけど、
ここでは竹田セイジは評価されているんですか?
浅田アキラは評価されているんですか?
ジャック・デリダは評価されているんですか?
マルティン・ハイデガーは評価されているんですか?

私にとってはポストモダンっていうのは全部ニーチェの遠近法主義の援用で、
ニーチェ自身は19世紀最後の哲学者(まあ語弊がありますが)という意味でもモダンの末裔でしょう。
で、本当の「ポスト モダン」というのは、ハイデガーのことではないかと思うのですがいかがでしょう?
まあ、
「オマエはデリダもアドルノも読んでないんじゃねえのか、このクソヴォケが!」
という煽りが入りそうですけど、ハイデガーの思想というのは「ポスト モダン」全部を含んでいるように思いますね。
全部を含んでいたから、政治的な部分で脱線してしまったわけだが(w
門脇さんとかが、頑張って力説していたように思うなぅ。
172痴の帝王ナイチエ:2001/07/02(月) 14:14
>>158
>解釈共有が意思疎通だとか思うとこに大きな陥穽があるんだがね。
>共有テクストの多様な解釈に構造的同型性を見出せたと、
>思われたときコミュニケーションはその端緒につくんだべ。
>しかるに優れた、テクストは構造的に同型と思われた解釈群の
>間にすら間隙を関知させるだな。
んとですね、
解釈共有と意志疎通が違うことだというのは、それこそ字義の違いからして明確ですね。
で、究極的に他者と同じ「解釈の構造的同型性」を見いだし得ないということは同意します。
しかしながら、現実の日常生活レベルでは、
完全な解釈共有はありえなくても、ある程度の解釈共有によってコミュニケーションが展開されている。
実際に私があなたとこうやって文字のやりとりをしていることも、
そういう「ある程度」を保持しながら「何かお互いに納得できるところ」を求める作業だと思うのだが。
で、「ある程度」というのはその人の背景、
人格的な歴史であり、社会的にはハビトゥスに影響されると思うのだけど、
「ある程度」ってなんだろー? と思うのです。
こうなると、めるろ=ぽんちーかな?
誤解して欲しくないけど、サルトルの言説と自説とに、関連性があるとは思ってないっす。
173痴の帝王ナイチエ:2001/07/02(月) 14:19
つーことで、
「コミュニケーション」概念を哲学的に扱うのは非常に難しいのではないかと。
「コミュニケーション」は、論理学の文法に則ってなされるものではないし、
むしろ日常言語の多様な解釈の渦に巻き込まれながら為されるモノですよね?
で、日常言語での解釈共有なんてあり得ないんだけど、
これは何故か「ある程度」は為される場合がありますよね。
この板なら「ある程度」の哲学の知識が求められていると思うし、
「ある程度」の素養というか前提条件があればなんとかなる、と思ったりします。

たぶん、この板に常駐しているような人は、
女子高生とコミュニケーションするのは大変なんじゃないかと。
いや、私も自信ないっすけど、モー娘の話題くらいなら何とかなるかな(w
174痴の帝王ナイチエ:2001/07/02(月) 14:29
>>162
>魅力的な「著者」をアメに「読者」
>を煽りライバル意識を芽生えさせることをニーチェはルサンチ
>マンと呼びました。
ンン? よくわからないです。
ルサンチマンとは、「転倒した価値観を生むようなマイナスの感情」ですよね?
デリダにねたみとか感じる人がいるんですか?
あ、いるのか。
なんか、ロラン・バルドなんかは解釈の多様性を楽しんでるだけで、
それ以上のことは言わないから罪がないように思うのだけど、
デリダは勝手に多様に解釈して、
それこそ「脱構築」なんて価値観のでっちあげを行うからサイテーだな。
つーか、「脱構築」なんて言葉自体が、
デリダのモダンに対するルサンチマンでしょう。
「漏れも150年はやく生まれたかった・・・・・・そうすりゃモダニストの仲間に入れたのに」
というのがデリダの本音なんじゃないの?
175考える名無しさん:2001/07/02(月) 20:53
>竹田信者

>たしかにこの世の中は、デリダや竹田青嗣の哲学教室のように
>人を教え導くようなものではなくて、ダメと選別されれば即刻
>排除するだけの厳しいものですけれど、でも、知らないために
>、また、誰も教え諭してくれないがゆえに、誤ったままでいる
>人を放置するなら、それは哲学という学問の怠慢以上に大罪だ
>と思っています。

お前、あまりにも鈍感だから聞きたいんだけど、
こんなこと書き込んで端的に恥ずかしくないか?
世の中には様々な思考をする人間がいる。
最低限の了解事項だろ、これは。
お前がダメと思おうと思うまいとその人間の人生なんだよ。
それを、ありがたいことに「矯正」してくれるってな、クソったれ。
「矯正」されたら何だというのだろう。
お前は満足か?
他人への配慮ってもんが全くないんだな。
何なんだよ、お前?
176考える名無しさん:2001/07/02(月) 21:14
>痴の帝王さん
あなたのいう「モダン」ってなんですか?
177痴の帝王デスカルテス:2001/07/03(火) 00:17
>>176
ヒトコトで言いますと、モダンとは「意味や目的を求めること」だと思っています。
で、退廃的思想の「ポストモダン」は「意味や目的を求めないこと」になります。

ポストモダニストは自分たちが何処に向かうべきなのか考えないので遊んでいるのです。
バブル経済的享楽の思想と言えるでしょう。

ニーチェは遠近法主義を唱えますが、
自分の遠近法の正当性も強力に主張します。
超人、永遠回帰、マハトへの意志なんかがそうですね。
単なる相対主義ならルサンチマンによって批判する必要もないわけだから。

ところがポストモダンというのは意味や目的を求めないにもかかわらず、
「意味や目的を持つこと」を批判するわけです。
「批判」に意味を見いだしてもしょうがないでしょう。
本来「批判」すら意味や目的がないはずだから。
よーするに特権的に「批判」だけはしたい、という天の邪鬼なのではないでしょうか?
178考える名無しさん:2001/07/03(火) 00:29
バブルよ、もう一度!
あの時代は本当よかった。
人生は泡のようなものだから、
バブルこそ、人生の本質の直接的具現化なのさ。
179考える名無しさん:2001/07/03(火) 01:35
名立たるものを追って 輝くものを追って
人は氷ばかり掴む
つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を
     『地上の星』 中島みゆき
180考える名無しさん:2001/07/04(水) 23:30
おれの態度がおとなげないことはわかっている
これじゃまるで子供だよな
こんなにかっかしないで
自制心のあるところを見せなくちゃ
これも苦しみが付きものの”人生”だと
甘んじられればいいんだがなあ

そう、たとえば竹田青嗣みたいに
メロウになれたらいいんだけど
でも、『ニューミュージックの美神たち』なんて、なんだいありゃあ
マザーファッカー
おまえなんか消えちまえ
181考える名無しさん
>>180
ん?
ここへは始めてカキコするけど。
いや、独り言。勘違いだったら無視してくれ。

スレの趣旨に沿えば、ひとまず対話すればいいのでは?