「ポストモダン依存症」

このエントリーをはてなブックマークに追加
18考える名無しさん
何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振る舞いがちであります。たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解したかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。
19考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:35
だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」になるためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされていないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、むなしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にすぎないからであります。しかも、その虚構の内部にあっては「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のうちにわかちがたく結びついてしまうのです。
20考える名無しさん:2001/05/22(火) 01:36
実際、わたくしたちは、そのことで自分が変化する気遣いもないまま、あたりに何かの「問題」をみつけたり、なんらかの「方法」でその「問題」を解決したりしているのです。「何かを理解したかのような気分」へと人びとを誘っているのは、いずれもそうした虚構の「問題」にほかなりません。それが虚構にすぎないのは「問題」の解決が「問題」の側に起きる相対的な変化でしかなく、それを解決する主体は、そのことでいささかの影響を蒙ることがないと思われているからです。もちろん、それは社会の現実からは遠い振る舞いにほかなりません。社会に生きているわたくしたちは、何かを理解することで変化するのだし、当然、その変化は社会をも変容させる契機をはらんでいるはずです。ところが、「何かを理解したかのような気分」の蔓延は、そうした変化や変容の芽を、いたるところでつみとってしまいます。
21考える名無しさん:2001/05/25(金) 12:30
「社会=システム論」に対して、認識の不可能と主体の不可能
ということの自覚で対処できると考えるのは十分ではなく、確
かに、「懐疑的な自覚」は哲学の大前提であり(デカルトの方
法的懐疑等)、認識や客観を問い続けることは欠かせないので
すが、しかし、それだけではないのです。
なぜなら、人間は「より良い生を生きたい」といった生活世界
のうちがわの人間関係の中から切なる願いが、社会や認識を疑
う思考を生み出すからです。
新たな希望を見いだし力強く生きる人にとって、懐疑そのもの
は失いはしませんが、背後に引っ込んでいてもよいのでしょう。
(だだし、ポストモダン思想の流行のように、「懐疑のための
懐疑」は簡単に脱却できるものではないという自覚は失っては
ならないでしょう。)


参考文献
竹田青嗣「ニーチェ入門」