1 :
いすたんぶーる:
ヒトコロシタラダメ。
ワカラナイ。
2 :
考える名無しさん:2001/04/26(木) 01:30
>1
だったら自分を殺して満足してくれ。
3 :
考える名無しさん:2001/04/26(木) 03:05
4 :
器官なき身体:2001/04/26(木) 05:35
そう言えば、厨房んとき、「罪と罰」にはまったな〜。
おんなじスレ立てすぎなんだよな〜。
過去のスレを持ち上げるって考えはないのか?
6 :
考える名無しさん:2001/04/26(木) 07:48
澤口俊之の「わがままな脳」、まえにもあったのかな。
進化の過程で生態学的にその性質がホモ・サピエンスに埋め込まれた、
で一件落着。種の保存に適合したまでの事。
もしこの傾向に反する奴が出たら、現在地球人口が過剰になった事に
対してオートポイエーシスが機能し始めたという事らしい。
もうこれでいいんでない?
>>1
7 :
名無しさん@_@:2001/04/26(木) 20:39
なんでそんなこといってんの?
人って殺せるじゃん
殺してみれば何かわかるかもしれませんが。
殺人教唆はしたくないので、お勧めはしません。
9 :
ライオン:2001/04/26(木) 22:56
うおう、俺はライオンだけど、俺が人を
殺しちゃいけないって、誰が決めたんだ?
ライオンはね、ライオンを殺しちゃだめなんだけど
人は人を殺しちゃだめなんだよ。
でもね、ライオン同士が殺し合いするように、
人間も戦争とかでは殺し合うみたい。
平和な時はどうして人を殺しちゃだめなの?
って質問にかえたほうがいいんじゃない?
ライオンからの提案でした。
>「殺人ダメ?」ネタ
もうさんざんやってる。過去ログ見れや。
11 :
誰か:2001/04/26(木) 23:30
過去ログの URL貼ってやってよ。
101以下のスレッドにはないみたいだし。
12 :
ほいよ。:2001/04/27(金) 00:03
13 :
考える名無しさん:2001/04/27(金) 16:37
しかし、なんですなあ 類似を”乱立”させるのは良くないが、
「立てんな」と言う方、過去に答えが出ているなら、
すぱっと答えてくれればいいのに。え?出てないの?
15 :
14:2001/04/27(金) 17:38
他の板にもあるこれと類似したスレを挙げて、
どのような議論になっているか調べようと思ったが、
流石に骨が折れる。挫折。
(哲板だけで充分でしょ、ね。)
16 :
考える名無しさん:2001/04/27(金) 20:27
まず、人の前に、自分が飼っている犬やネコで考えてみたら
どうでしょうか?そうすれば、今までと違う
見解が出てくるはずです。
いやいや違う
なぜ人を殺してはいけないのか→法律で禁じてるから
これでいいのだ。法律で禁じてるから駄目なの。それを破ったら
罰せられるというだけ。それで納得しない奴は本当は体制に甘えてるだけ。
戦争を知らないボンボンの発想。
18 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 01:16
>>17 それでは、あなたのご両親か子供で考えてみて下さい。
それでも答えは同じですか?
19 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 01:30
17の答えは聞かずとも、小学生でも想像できます。
赤の他人は、法律があるから殺さない。
血を分けた人間は、
他に変え難い唯一の存在だから殺さない。
20 :
>>19:2001/04/28(土) 01:42
でも17がターミネータだったら、
「殺すプログラムがまだロードされていないので」
て答えるな、確実に。
21 :
いぬのめい:2001/04/28(土) 01:50
そもそも人は独りでは生きていけない。
我々が集団を形成する初期において(まだサル?)なぜ人が集団をつくる様になったかと言うと。
それは「生きる為」であり、また「よりよく(便利に)生きる為」だった。
・・・というよりも、そうすることでそういう恩恵を受けることができた。
(今も受けている)→事実。
そこでは必然的にルールがあった。
生存するために集ったのだから、そこで最も尊重されるべきことは、「生存権」であり
それを頂点とする様々な「人権」である。
これは全ての人々の同意を持って成立したものであって。
同意することによってその社会の一員となり、その保護を受けることができた。
また、同意しない者は、(即ち殺人者等)は、その一員とみなされず。
故に「人はみな生存権を持っている」と謳いながら同じ憲法は
その者を死刑にする、即ちそれはその保護の範疇にあることを自ら拒否したものであると見なし
(即ち法が与えた生存権を捨てたと見なす)
故に最早守るべき者を害する「敵」となったその人間(最早人間とは認めない)を
法は抹殺するのである。
だから、「人は殺してはいけない」のではなく、
「人を殺さないことこそが自らの生存権を主張すること」なのである。
「人(仲間)として認められたければ、人は殺してはいけない」
と言い換えることもできるだろう。
立てるなと言ってても、立てる奴がいる。
そして、既出だと言ってるのにもかかわらず、
なし崩し的に少しだけ議論して、終わる……。
スレをむやみに立てずに、
前のスレッドを上げてみよう。
そのあと人殺しの問題も考えてくれ。
23 :
いぬのめい:2001/04/28(土) 01:52
↑どんな感じ?
24 :
いぬのめい:2001/04/28(土) 01:52
ずれた・・・
25 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 02:19
もうちょっと続きを許して下さい。
>>21 絶対君主がいて、庶民の生死と君主の利害が無関係とし、
君主は他人を殺してもいいという法律もあったとします。
この場合、君主は庶民をなぜ殺してはいけないのでしょうか?
それとも気紛れで殺してもいいのでしょうか?
>>25 眠くてぼけっとしてるので、明日返答します。
ごめんね。
おやすみ
既に出つくした論点ですな
28 :
いぬのめい:2001/04/28(土) 14:26
よく寝た。
>君主は他人を殺してもいいという法律もあったとします。
そこに住む住人は自らが君主に殺されてもよいことを同意して
されにそのデメリットを上回るメリットを享受しているわけだから
彼らは殺されても文句は言えないし、君主はそれをしてもよい。
武士の時代、君主を守るために戦いに出かける武士を考えればいいかな。
29 :
仏陀:2001/04/28(土) 14:31
人を殺したいの?
あ、そう、じゃあ自分を殺してください
・・・これが仏教的な答えです
30 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 19:24
>>28 それでは、あなたのご両親か子供
を殺しても法には触れず、しかも一生遊べる報奨金が出るとします。
それでもあなたは殺しますか?
31 :
鏡:2001/04/28(土) 19:41
1にとってはヒトゴロシはきっとただの観念にすぎないんだろ〜ね。
生にリアリティを感じることが出来ないんだろ、現状。
生活にリアリティがあればヒトゴロシが悪であることは自明。ひ弱すぎ。
もちろん「悪=絶対しない」とはならない。俺の場合は現状戦争とは
無縁な人生だから、殺人するとしたら、復讐または自衛だろうね。
もし仮にそうなったとしても、それが出来ればするべきでない悪いこと
であることは明確に意識してするだろう。
32 :
いぬのめい:2001/04/28(土) 21:09
>>30 自分の場合?
するわけない
自分の求めているのはそんな紙切れじゃないから。
何でそんなただの紙切れのために自分の尊厳と未来を犠牲にしなくちゃならんのかわからん。
でも誇りもなく、紙切れに価値を感じている正にぺらぺらな人間は
殺すんだろう。
33 :
鏡:2001/04/28(土) 21:25
>>31の補足
一般にモラルの問題は、「良い、悪い」「する、しない」の二つを
わけて考えないといけない。「良い、悪い」はヒトとして自明のこと、
生にリアリティがあるならば、ヒトゴロシが悪であることは自明。
次に、ホントに逃避せずにモラルの問題を考えるならば、社会的な
モラルを一度外部から眺めて相対化しなくてはならない。
その上で、「良い、悪い」の前提のもと自分で規範をつくらなければ
いけない。そのことに附随する責任もともに考え、つねに自分で判断
しなければならない。
34 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 22:01
なぜ人殺しするのが悪いことなのか。それは人を殺してはならないと
いう法律である。しかし法律は人が作ったものである。そして、人が法
律を作るには何らかの理由があるのである。
さて、その理由はというと、誰もが他の人によって殺されるのは例外
を除いて、迷惑極まりないことである。自分で死を選ぶのならいいが、
人によって死を強制されるのはたまらない。普通一般に人は殺されたく
ない。だから、私も貴方を殺しませんから、貴方も私を殺さないでね、
というきまりができて、それが国家による権力を得て法律となったので
ある。つまり人は、人殺しが多大な不利益(自分が人に殺される、大事
な人を殺される)を生むことがわかったから、それを禁じたわけである。
その通り、答えは簡単なのだ。
なのになぜ性懲りもなく同じ質問をしたがるのか、その欲望について
考えてみた方が有益なのではないかい?
36 :
いすたんぶーる:2001/04/28(土) 23:38
いや、スレ立てた時点での中身が遊び心入れ過ぎだった。
カタカナ+キ○ガイ風で過去ログ見なかったのも確かです、はい。
善悪の基準・モラル・生のリアリティだとかいってるけど・・・
それは現在のモラル、現在の善悪の基準であって
過去においてそれらが適用されていた訳ではない。
戦国の世、昭和初期など戦時中などは「敵に限る」だろうが
コロスことは悪でもなんでもなかったはずだ。
むしろ誉め称えられていたぐらいである。
更に過去に遡ると生贄、殉死など敵に限らずコロスこともある。
さすがに無意味にコロスはないだろうが殺人が悪でないトキもあったはず
では何故、現代の社会では殺人は禁止されているのか・・・?
P.S.
くれぐれも種の保存だとかは言わないで下さい。
後々、人口過多で食糧危機だとかいってるので・・・
37 :
考える名無しさん:2001/04/28(土) 23:51
何故、人をころしてはいけないのか?
ではなく、お前はどうしたいのだ?
自己言及は他でヤレ。
過去ログも大量でホネだろうけど、とりあえず全部読んでみたら?
あなたの言うとおり、殺人はすべての時代で禁止されていたわけじゃありません。
それどころか、現在でも許されていますよね(死刑、戦争、正当防衛、尊厳死、安楽死etc)。
だから、
「どうして人を殺していけないの?という問題の立て方自体が、誤りである(虚偽問題である)」
という意見も、過去にはありました。
そういう面から有効なサジェスチョンがあれば、この板の人たちも、まだこの問題についてなにかお喋りしだすかもしれません。
是非ログを一読し、その上に積み重なるような問題提示をお願いします。
39 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 00:11
自分の利益とそれを保証する法以前に、
人間の生命には物質にはない尊厳と恐れがある。
だから、容易に殺せないし、殺してはいけない。
と思います。
40 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 00:25
過去は「人権」の概念が社会全体に適用されてなかったからじゃないかな。
あと、今でも戦争になったら敵を殺すだろ・・・
41 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 00:30
>>39 「人間の生命」と限定していますが、他の生命体はどうなのですか?虫とか。
殺してもいいんです
捕まりますがね
43 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 00:39
>>41 あらゆる生命には物質にはない尊厳と恐れがある。
なので、無益な殺生は罪です。
>41
虫も人間も生命は等しく無価値。
ただ、39のような社会的な理由を持たせるために
人間の生命だけが尊いとされるようになったんじゃない?
45 :
39:2001/04/29(日) 00:54
補足です。
生物は、本来的に、自己防衛本能の延長で、
同じ生命や同一種を殺すことを避ける行動を取る。
人間も動物から進化した
生き物なので、本能として他人は殺さない。
本能に基づく感情を強いて言葉で表すと
「愛情、慈しみ、哀れみ、尊厳、恐れ」などになると思います。
しかし、大脳皮質が進化し、戦略思考を手に入れた段階で、
本能を上位意思で制御し、自分とその延長である、
家族、民族、国の利益、存続
目的で、人の殺生の許可を、法や国際法の一種である戦争
などの決めるようになったのでは?
と思います。
46 :
39:2001/04/29(日) 01:00
すみません、45で訂正です
>人の殺生の許可を、法や国際法の一種である戦争 などの決めるようになった
人の殺生の許可を、法や国際法の一種である戦争で許可するようになった。
「何故、あなたは人を殺したことがないのか?」にはどんな風に答えます?
48 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 01:19
>>47 今までずっと殺したいと微塵も思わなかったから
「何故、あなたは同性愛を経験したことがないのか?」
「したいと思わないんですけど・・・」
>>48 それを「ただ単に、その機会が無かった」と解釈することは出来ませんか…?
50 :
いすたんぶーる:2001/04/29(日) 02:23
>47
そういう風に育てられてきたから。
殺しちゃいけない。殺そうと思っちゃいけない。
現代の日本社会ではほぼ全員がそう育っているんじゃ?
幼い頃からそう育てられた(洗脳?)から
ソレを破るのにたいして葛藤があるわけだ。(一部ないのもいる)
51 :
>1:2001/04/29(日) 02:28
お前を殺す。
どう思う?
52 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 02:58
「人を殺してはいけない」も「人を殺してもよい」も趣味の違いでしかない。
お互いに一般化できるような理由(社会的利益のためなど)を挙げることは
出来るだろうが、その理由を含めた上でなお「何故人を殺してはいけないか
(殺してもよいか)」という問をたてることができる。
結局趣味(宗教)の違いでしかないとしか言いようがない。
法律は絶対的な物ではなく「特定の時代・特定の地域の人々の価値判断の表れ」
でしかないので、現行法で殺人が禁じられているのは、単に「人を殺してはいけ
ない」という趣味の人が多数を占めているからに過ぎない。
例えばアフリカ諸国の中には、ホモ・セクシャルを禁じ法定刑を死刑として
いる国が多いが、これは現在のアフリカ諸国の多くの人が「ホモ・セクシャ
ルはいけない」という趣味(宗教)なだけで、ホモ・セクシャルに絶対的な
「悪さ」があるわけではない。
だから「何故人を殺してはいけないか(殺してもよいか)」と人に問うことは
意味を持たない。
「何故私は人を殺してはいけない(殺してもよい)と思うのか」と己に問うし
かないのだ。その答えは人によって様々だろう。「何故私はトマトが嫌い(好
き)なのか」という問いかけと同じである。
53 :
地雷ゼロ:2001/04/29(日) 03:04
地雷逝ってよし!
54 :
47・49です:2001/04/29(日) 03:07
>>50 それは「殺しちゃいけない…」との倫理観?からではなく、
それを上回る動機がなかった、
また、その様な状況に置かれたことがないからだとは考えられませんか?
>>48 「何故、人を殺してはいけないのか?」の問いかけに対しては、
”私は「何故、人を殺してはいけない」と言わねばならないのか”で答えるほか無いですよね。
論理を倫理の優位に置く限り、この問いと答えは無限ループになってしまいます。
55 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 03:10
人を殺した人間が死刑になるのは認めるわけだから
必ずしも人を殺していけないというわけではない。
56 :
地雷ゼロ:2001/04/29(日) 03:15
花*花の右の方はエロいな。 顔面性器だな。
とりあえずイタイ1がいるスレということでよろしいか?
58 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 03:23
新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』読めば。
ユリカンいい子といってます。
59 :
いぬのめい:2001/04/29(日) 03:57
善悪を判断するのは主観だから、当然其処には初めから真の「善悪」などは存在しないよね。
(善もないし、悪もない)
それを決めるのは結局「個」の独善だけど
問い:「人類にとって人を殺すことは善か悪か、その他か」・・・(A)に真の答えを出すことは可能である。*
このスレのタイトルにあるように心情的には「やっぱいけない」と結論したいし、そう決め付けたいけど
そういう思考回路は哲学やるなら捨てましょう。
*この問い(A)は問いとして成立しているので、答えは必ずあります。
(問いが問いとして成立する条件の説明はする?)
さて、まずここでは立場が与えられているよね
→「人類にとって」
だから、ここで「人類に共通する性質」を持ち出してこの答えを人類にとって普遍化しよう。
そして問題は、その共通性質から導き出せる結論がどうでるか、である。
やってみよう
「人類に共通する性質」は、「本能」「地球(同地域)に住んでる」「意思疎通ができる」とか色々。
→ちなみに、これらは強制的に与えられた条件なんだよ。
トランプのルール(定義)のように、強制的に与えられたルールでナイト
「勝ち」も「負け」もない(結論できない)。
ではここでは、何が「勝ち(善)」で、何が「負け(悪)」か
今思いつくのは「本能」=「種の保存」を持ってくる。
これが真であったと仮定すると、これが示唆(結論)するのは
「人類にとって人を殺すことがとても蔓延するのは好ましくない(悪)」
「でも、人類の多くに危害を加える種の保存にとっての敵は
たとえそれが人類の一員でも抹殺すべきである(種の保存のために)→死刑、終身刑」
「種を守ることは個々を守ることにも通じるから「生存権」を与えよう」
等々の結論に達する。
ねむいよぅ!
どう?
>>59 「種」は広すぎ。それでは戦争を説明できない。
人は自分が属する「共同体」のために殺人を規制する。
61 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 06:46
心に聞け。
62 :
ななし:2001/04/29(日) 08:21
心に聞いたあげく殺すやるもいる。
63 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 13:46
いつのまにか、殺生を理屈で考え始め、
一番重要なことを忘れている。
自分や家族の命をなんで奪ってはいけないのか?
人は盆栽やペットをどうして愛好するのか?
だから過去ログ見てくれよお。。たのむよお
>>63 理屈でなければ感覚で物を言うしかない。
しかしそれはまったくの独善で、「自分だけの真実」しか語れない。
それは非常に危険で、カルトやわがままな殺人者を見ても判るように、
「感覚」で物を語る人間は「根拠」を提示せず(ないんだから)
自分の感覚と違うことを全て悪として排除する。(だから殺す)
感覚は重要だが、根拠にはならないし、それは単なるサルだよ。
例え洗脳されても「感覚」で行動しなければ人は自らの独善に気づく。
・・・どうでもいいか
>>60 もうさあ、閉鎖された環境じゃないんだから(情報とか)。
今までは「共同体」が「其処に住んでる仲間」だったけど。(だから敵(人でなし)を排除した)
もういいかげん「共同体」=「人類」にしようよ。
宇宙人でも攻めてくりゃあ即そうなるんだがなぁ。
67 :
いぬのめい:2001/04/29(日) 14:20
さげちゃった
68 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 16:21
>>65 何故人を殺してはいけないかを「人類にとって」という視点から
考えるのも、「人類の本能」=「種の保存」というのもあなたの
感覚(独善)でしかないでしょう。
つまりあなたが
>>59で語っているのは「自分だけの真実」でしか
ありません。
何故「私が」人を殺してよいか否かを「人類」の視点で考えなけ
ればならないか?(考えることに意味はあるのか?)
何故人類の本能が種の保存だと仮定できるのか?
(ちなみにこれは現代生物学的に根拠のない仮定です)
といった問がまだまだ立てられます。
あなたも自分の感覚に基づいて「殺人」=「悪」と断罪
しているに過ぎないのですから、あなたが言う「カルト
やわがままな殺人者」同様、「自分の感覚と違うことを
全て悪として排除」していると言えます。
69 :
いぬのめい:2001/04/29(日) 16:34
>>68 59で >今思いつくのは「本能」=「種の保存」を持ってくる。
>これが真であったと仮定すると
「仮定」した場合の話だよ。
それにぼくは客観的な「根拠」を述べてるもん。
あと、本質的には善悪などこの世のどこにもないことを
最初の行で言ってるよね。(だから「殺人」=「悪」を真、なんて断定なんかできない)
これは、「我々で我々のルールを作ろう」
「だれもが納得できるよいルールを」
そしてそれを「善」としよう運動、なんだよ。
70 :
いぬのめい:2001/04/29(日) 16:37
あ、ちなみに表現は
×殺人=悪
○殺人→悪
だね。(高校数学参照)
71 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 16:59
「集団の利益のために」殺人が否定される場合もあれば、
「集団の利益のために」殺人が肯定される場合もある。
社会のなかにおかしな人間・危ない人間が現れた場合、その人間を
排除しようとする性質を人(社会性動物全般)はもっている。
「人を殺してはいけない」というルールは人がつくったものであり
人がうまれもったルールではない。
72 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 17:26
同種殺しを避ける機制は動物にも広く一般に見られるので、
人間の殺人禁忌が本能に基づいてる可能性はある。
また最近では進化倫理学のように、人間の動物種的社会進化が
道徳の起源であるとする立場も有力になってきている。
73 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 17:29
自分の命がなぜ意味もなく奪われてはいけないのか?
人は何故生きなければならないのか?
それは、宇宙の進化を促進するため。
人類の都合レベルの問題ではない、宇宙レベルの本質。
74 :
39:2001/04/29(日) 17:47
感覚も統計を取れば、独善ではなくなります。
自分や肉親を殺すことに罪悪感を覚えるひとが100人中99人入れば、
それは科学データになり得ます。
上記問いを1億人に投げかければ、答えが出るでしょう。
本能に基づく感情で拒否する事を。
75 :
いちご姫:2001/04/29(日) 18:10
>>74 科学データはせいぜい
「人を殺してはいけないと(罪悪感を)感じる人が多数いる」
を報告できるのみです。
たとえ、全ての人が、人を殺してはいけない、と感じるとしても、それ
と「人を殺してはいけない」とは全く異なる命題です。
「本能に基づく感情で拒否する」としても、その事実指摘は1.が問う
た疑問には何ら答えていないのです。
(一般的に存在命題から当為命題は導出できない、という自然主義的<
誤謬>ですね。これを否定するのは、未だに自然主義的倫理学者が決定
的成功を見ていない厄介な問題です。)
76 :
>>75:2001/04/29(日) 18:56
少なくとも大多数は「本能に基づく感情で拒否する」
という事実確認だけで、十分答えは出ていると思います。
77 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 19:01
ある意味それは多数の暴力であって
78 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 19:40
>>77 そういう問題ではない。
論理構造として「〜である。」から「〜すべきだ。」は導き出せないというだけだ。
例「人間は自然界を生きる動物である。」だから「人間は自然界の法則に従うべきだ」
「人間は神の子である。」だから「人間は神の意志に従うべきだ」
自然主義的誤謬はヒュームが言ったものだ。
一見理由を述べているようだが、実は前後は全く無関係だということだ。
しかし当為命題はそれよりさらに大きな当為命題を用いないと導き出せない。
論理にこだわりすぎるのも問題であるかもしれん。
79 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 19:50
以下、ヒュームの著作より
↓
どの道徳体系においても、私は常に気がついていたのだが、その著者は、しばらくのあいだ
通常の仕方で論究を進め、それから神の存在を立証し、人間の事柄について所見を述べる。
ところが突然、出会うどの命題も<である>(is)とか、<でない>(is not)とかいう普通の連辞で命題を結ぶかわりに、
<べきである>(ought)または<べきでない>(ought not)で結ばれていることに気づいて、私は驚く。
なぜなら、この<べきである>あるいは<べきでない>というのは、ある新しい関係、表現を断言しているからである。
(『人性論』三編一部一節、大槻春彦訳、岩波文庫、四の三三項)
80 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 20:01
もう一つ、サールによる批判を提出したい。
@ジョーンズは「スミス、私はこれをもって君に5ドル払うことを約束する」という言葉を口にした。
Aジョーンズはスミスに5ドル払うと約束した。
Bジョーンズは自らをスミスに5ドル払うという義務の拘束下においた。
(もしくは義務を引き受けた)
Cジョーンズはスミスに5ドル支払う義務の下にある。
Dジョーンズはスミスに5ドル払うべきである。
この例文を要約すると次のようになる。
「その支払いは約束である。ゆえに、支払うべきである。」
「である」から「べきである」を導き出した一つの例として参考にして欲しい。
81 :
いちご姫:2001/04/29(日) 20:55
>>80 これは「約束した」という語の使用の問題です。
Aを「「ヤ・ク・ソ・ク」とそれについて発音される、その当の事を行
った。」と解する(Aα)なら、@からAαは導出されるが、Aαから
Bは導出されない。
他方、Aを「約束という<行為>を行った」と解する(Aβ)なら、Aβ
からBは導出されるが、@からAβは導出されない。
(もしくは@で「スミス、ワタシハ・・・・」という音声を発した、と解する
か「スミス、私は・・・・」と言語の発話を行ったと解するか、の相違、と
見てもよい。)
80氏の提示した事例は、サールによる失敗例です。
語る我々に共通していることは
このスレのタイトルを自明のものとしたい。(こういう思考はおかしいが)
そのための説得力のある普遍の証明法を模索しているわけだ。(結果がどうあろうと)
仮定の証明で「本能」出したけど
「おかれている状況(共通の)」
から、→こうするべきだ、ッてやったらどう?
こういう状況下に置かれているからこうせざるを得ない。と
(今の時代にしか通用しないけど)
外食いってました。
83 :
いちご姫:2001/04/29(日) 21:54
>>82 で、「こうするべき」の「可き」を状況からどうやって出すの?
「こういう状況下に置かれているからこうせざるを得ない」も、「せざる
を得ない」という可能のはなし(他に可能な道がない)で当為の話し(
こう為す可き)ではないでしょ。
スレタイトルに対する答えは、
(1)「あたりまえ」 でつっぱなす
(2)「人を殺してはならないのだ」といってつっぱなす
(3)殴って質問者の性根を入れ替える
(4)「何故無しに」と正しいがずれた答えを言う
なんてところでしょう
私は(3)をおすすめします
84 :
考える名無しさん:2001/04/29(日) 22:20
>>69 >「仮定」した場合の話だよ。
分かってますよ。ですからその仮定自体に客観的な根拠がないし、その仮定に
たどりつくまでの過程にも客観的根拠が示されていないのが問題だと言ってい
るのです。
「本能」=「種の保存」というのはあなたの感覚で客観的事実ではありません。
「本能にしたがうべき」というのもあなたの思想で、客観的事実ではありません。
真実性が証明されていないことを仮定してルールを作るのであれば、
「人を殺したら地獄に堕ちるから人を殺してはいけない」と言うのと変わらない
ではないですか。
>それにぼくは客観的な「根拠」を述べてるもん。
どの部分でしょうか?
>(だから「殺人」=「悪」を真、なんて断定なんかできない)
そうですねですからあなたの
「人類にとって人を殺すことがとても蔓延するのは好ましくない(悪)」
という発言は真実を述べているのではなく、思想を語っているに過ぎませんね。
>これは、「我々で我々のルールを作ろう」
>「だれもが納得できるよいルールを」
>そしてそれを「善」としよう運動、なんだよ。
そのつもりでも、実際にやっているのは「自分の感覚でみんなのルールを
作ろう」「だれもが納得できると自分が感じる、よい気がするルールを」
作りそれを「善」にしたてあげるという運動でしかありません。
教祖が教義を作る作業と同じです。
激しく既出ですが、殺してはいけないわけではありません。
86 :
いぬのめい:2001/04/29(日) 23:43
どきどき 僕は今試されている。がんばるぞ。
「仮定する」のは、「この仮定が正しい場合」
について述べるものでありますから、もし「この仮定が間違っていた場合」
にはその以下の結論はまったく意味のないものになることくらいわかるよね。
だから、僕は「本能」に「種の保存」があると仮定した場合について、以下を述べました。
「仮定」についての真偽は抜きで語ったのです。(仮定=真と決め付けてない)
「本能に種の保存があるか」については僕は今わかりません。(答え)
「本能に従うべきであるか」についても厳密には答えを出せません(超長くなるから)(答え)
(→が正しい「場合」の話を述べたんだって:正しいかどうかは判らない)
「客観的な根拠」→すみません、「根拠」は述べてませんでした。
「客観的に」述べてました(あくまで仮定の話で断定がないこと)
眠かったのかな?
「(真ん中らへんの意見)」→真実なんか(本来は)述べようがない+思想も述べていない
理由:だから「仮定」の話だってば。(仮定の性質わかってる?)
「下段」→そんな下等な洗脳作業ではない。
(理由:だってみんなが同意できるルールだから→僕が独断するんじゃない)
参考↓
か‐てい【仮定】
@実際とは無関係に想定されること。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]より
ふう。以上。もっと色々聞いてね。
88 :
いすたんぶーる:2001/04/30(月) 00:03
本能=コロシ×
↑は現代社会のメディアに洗脳された思考であり本能たりえない。
何故、現代社会でコロシは刑罰の対象となりえるのか・・・
それは銃規制(日本)と同レベル?
あるいは死体遺棄が罪にとわれるのは何故か?(食人禁止然り)
何故、罰する必要があり、規制・禁止する必要があるのか。
こんなもの哲学で扱うような問題か?
なぜ人を殺してはいけないのか→そう禁止しないと人は人を殺すから。
人間は動物と違って本能図式が壊れている。同族でも殺すことがある。だから
わざわざ禁止を作って規制しなくてはいけない。それだけのことです。人を殺して
いやだと思う気持ちは動物的本能が残っている部分で、殺したいという気持ちは
本能が壊れている部分。禁止する理由は、共同体の秩序のため。こんな疑問が出てきた
のも、共同体維持に対する危機感が薄まっているからでしょう。要は、平和な時代の
戯言のようなものです。さーさ、終了終了。
>>89 なぜ共同体の秩序を保たねばならないのですか?
91 :
いちご姫:2001/04/30(月) 01:27
>>89 人が人を殺す、という事実があるとして、
何故禁止をしなければいけないのか(何故禁止をするのか、ではないですよ)
また、禁止する、とはいかなる概念か、それらに答えられないと終了しません
すぐれて哲学学的な問でしょう
>>90 みんな死にたくないからです。
>>91 なぜ禁止しなければいけないのか→共同体の維持のためです→(90に戻る)
禁止するとはいかなる概念か→タブーのことです→なぜタブーが必要なのか→共同体の維持のためです→(90に戻る)
93 :
いぬのめい:2001/04/30(月) 01:39
>>92 みんな「自分が」死にたくないだけだから殺すじゃん。
>>93 ??
むしろ「自分が」死にたくないから共同体を維持したいのでは?
95 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 01:50
>>92 ふむ、では問いの本質は個人と共同体の関係にあると言えるのかもしれませんね。
私と共同体は全く独立したものなのでしょうか?
私が思うに個人と共同体はロゴスという媒介を経て何らかの関係を形作っている感があります。
言語能力や理性はたった一人でも育むことができるのでしょうか。
ごめんなさい。
僕、よく読んでなかったんだ・・・(眠)
殺すことにより生じるリスクを負うんであれば殺せば。
98 :
39:2001/04/30(月) 01:55
86,89に同意です。
>>91 「物理的に種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる為。
精神的には、罪悪感を覚え、結果的に心の不健全、病を蔓延させ、
免疫力、生命力の低下をまねき、種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる。
罪悪感をもたらす要因には、先天性(本能)と後天性(環境)がある。」
と思います。
99 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 02:00
>>86 >「本能」に「種の保存」があると仮定した場合について、以下を述べました。
だから分かってるって、つまり
>>59の結論はもとから、真実と思って書い
てないんでしょう。
じゃなんで最初に
>問い:「人類にとって人を殺すことは善か悪か、その他か」・・・(A)に真の答えを出すことは可能である。*
>*この問い(A)は問いとして成立しているので、答えは必ずあります。
なんて事を書くのかな?
真の答えを出せると話をはじめたのに、真の答えに行かず仮定を論証せず、
仮定は仮定のままで不確実なルールを語る方向に進むのでしょうか。
「『本能』=『種の保存』を持ってくる。」より前の話も仮定の域を出て
ないですよ。
「人を殺してはいけない・殺してよい・その他」というようなルールに到達
できるような「人類に共通する性質」がなければ、「人類にとって」の真の
答えなんか出しようがないでしょう。
その点についても何も論証していませんよね。
本来の問は「何故、人を殺してはいけないのか?」なのに「人類にとって」
というパースペクティブを持ち出して、強引に答を探るのも無意味に思えます。
それは、「『だれもが納得できるよいルールを』 そしてそれを「善」とし
ようという運動」だからなんだろうけど、そもそも「何故、人を殺しては
いけないのか?」という問は、「人を殺してはいけない」というルールが
あり、それが「善」とされている現在の道徳的価値観をふまえてそれに対
する疑いからの問なのだから、それに対して「だれもが納得できるよい
ルールを」 「善」としようなんて道徳の押しつけを繰り返しても答えた
ことには全くならないでしょう。
>思想も述べていない
>>59での考察による結論は「人類は本能に従うべきであり、本能とは即ち
種の保存である」と考える人の思想までしか達していないでしょう。
仮定の部分の真実性に全く言及しないで、ブラックボックスに入れてしまっ
ているんですから。
>だってみんなが同意できるルールだから
その同意点を見いだす作業を棚上げして仮定で語っている限り、みんなが
同意できるルールとは言えないでしょう。
100 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 02:16
>>81 >いちご姫
くると思ってましたよ。その批判。
とりあえずマッキーから引用
↓
サールの示唆するところによれば、
「べきである」を「である」から導くことを不可能だと思わせた、記述と評価の間の裂け目、鋭い区別は、
ある独特な種類の事実を認識すれば橋渡しされるのである。
すなわちナマの事実(brute facts)ではないが、制度的事実(institutional facts)を認識すれば橋渡しされる。
人が引き受け、それに応じて一定の義務を負うということは、ナマの事実にはなくとも、制度的な事実にはありうる。
しかし、この説明は2つの違った言い方を混ぜこぜにしている。
われわれは、まるで外側から見るようにしてひとつの制度を記述することができる。
約束というような制度もしくは社会的慣行もあるし、チェスをするという慣習のようなものもある。
そして制度には、それに参加する人々への一定の要求がその一部として含まれる。
チェスが特定の種類の駒はこびを要求するのと同じように、
約束するという制度は、約束が守られることを要求する。
制度やその要求を外側から記述する代わりに、制度の内側から語ることもできる。
単純に、「君はそのルークを動かしてはいけない(チェックがかかっている君のキングをそのままにすることになるから)」とか
「ジョーンズはスミスに5ドル払うべきである。(彼はそうすると約束したのだから)」
と言うことができる。
(『倫理学』 加藤尚武藍訳 哲書房 92項ー93項)
101 :
39:2001/04/30(月) 02:19
仮説:『本能』=『種の保存』
の検証を進めればいいいわけですね?
生命の基本性質を挙げると、外界と自身を分離する皮膜を備える。
エネルギーを採取し、自身のコピーを作り増殖する。遺伝子を介在に進化する。
命生が備える目的の一つである、種の保存を達成する
基本行動プログラム=本能で、種の保存に関係するものがあるのは明らかで、
議論の余地なしと思います。
102 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 02:26
同じことでも、制度を外から語って「〜の約束である」という文は、
中から語れば「〜べきである」となる。
制度、習慣、約束、義理、黙約などは義務の一種であり、
これらの単語には言葉の意味の中に「べきである」という内容が含まれている。
ヒュームのいう自然主義的誤謬はこれらの語が使用されていない時にのみおいて通用する。
存在論的自然主義が成り立つ余地はあるということだ。
103 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 02:27
100=102
104 :
いぬのめい:2001/04/30(月) 02:31
>>99 >「人を殺してはいけない・殺してよい・その他」というようなルールに到達
>できるような「人類に共通する性質」がなければ、「人類にとって」の真の
>答えなんか出しようがないでしょう。
→正にその通りですね。
真になかった場合、答えは「その他(善でも悪でもない)」。となるだけ。
>本来の問は「何故、人を殺してはいけないのか?」なのに「人類にとって」
>というパースペクティブを持ち出して、強引に答を探るのも無意味に思えます。
→「人類にとって」とする意図は、
すなはち、「共同体にとって」では共同体同士が、
「個人にとって」では個人同士が殺しあうからですよ。
(その共同体ごとに性質(状況)が違うから、結論も違くでる)
本来ならば「絶対的な視点を取って」物事を語り、そう結論できればベストなのです。
でもいま、自分はその手段を持たない。
ちなみに
>>59は結論に対してアプローチをかけているだけで
結局この問いには答えていません。
ただ、答えは必ずあると言うことを述べたまでです。
「みんなが同意できるルール」についてはまだ何にもいってないよう。(内容を)
105 :
39:2001/04/30(月) 02:35
101の補足
仮説:『本能』に『種の保存がある』
の前に、
仮説:『人間』は『本能で行動の一部を決定する動物』
の検証が必要ですが、これも自明と思います。
106 :
いぬのめい:2001/04/30(月) 02:39
>>105 あと、
仮説:『人間は本能に従うべき』の検証も
→これはむずそうだ。
107 :
68:2001/04/30(月) 02:49
68=84=99です
>>101 >自身のコピーを作り増殖する。
から
>命生が備える目的の一つである、種の保存を達成する
までが説明できてません。
自身のコピーしか作り得ないのに、何故種の保存と言い切れるのですか?
現在の生物学では、個体は種の保存よりもその個体自身の遺伝子を次の世代に
残そうとする(利己的に振る舞う)という説が有力です。
つまり、本能は自己の遺伝子の保存であり、種の保存ではないことになります。
自分の子孫を残すために自分以外の個体を殺すのは、本能的に正しいといえる
立場を否定できてません。
また、「本能」=「種の保存」が正しいことが証明されても、「本能に従っ
て行動しなくてはならない」という点が論証されないと、「人を殺してはい
けない」とは言い切れません。
108 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 02:54
>>105 『本能』には従うべきも何もないでしょう。
食欲、性欲、睡眠欲、これらを理性で押さえつけることは可能でしょうか?
食欲や性欲ならまだ何とかなるでしょうが睡眠欲は無いと死にます。
でも私たちは死なないために寝るのではなく、寝たいから寝るのです。
もっと言えば寝たくなくても眠くて寝てしまうのです。
1週間食事を抜いた人間の前にご馳走を用意して理性で止めることは不可能でしょう。
もし殺人禁忌が本能に基づくものであったとしても同じことでしょう。
純粋に人間は人を殺したくないという感覚を持っているということです。
それがどうしようもない場合を抜きにして、基本的に殺したくないということです。
しかし『種の保存』ではないと思いますね。
遺伝子の保存であっても、種の保存ではないと。
109 :
いぬのめい:2001/04/30(月) 02:57
>>105 あ、それと「自明」は根拠にならないよ。
110 :
39:2001/04/30(月) 02:57
>>106 原始動物は基本行動プログラム=本能
のみで行動する。
人間は原始動物から進化し、本能で行動の一部を決定する
(意志決定の要因となる)。
腹が減ったら、食事を取る。眠くなった寝る。
議論の余地なしです。
111 :
39:2001/04/30(月) 03:11
>>108 すみません、読まずに110をかいてしまいました。
108にほぼ同意ですが、
「遺伝子の保存であっても、種の保存ではないと」
遺伝子=種の設計図
と考えて、遺伝子のみ保存することが目的ではないと考えています。
遺伝子は
種が再生され、種が実際に生きる行為を達成するための手段、道具
と考えています。生きて経験をつんで学ことが生きる目的と考えて
いますので。
112 :
いぬのめい:2001/04/30(月) 03:14
人間は原始動物じゃあなくて、理性がある。
眠くても、仕事が残っていてそれを優先させなくてはならないのであれば
本能より理性を優先「すべき」でしょう。
はやまった!!!!?
112は「なし」
115 :
39:2001/04/30(月) 03:24
108の補足
宗教、世界観の問題に行き着付きますが、
結局、ここのスレの問題の本質はここにあると思います。
経験をつんで学んで進化することを目的とし、その
恩恵は、最終的にはユングのいうところの種の共通意識、
さらには、その上位意識が確得すべき成果と考えています。
検証不可能な問題なので、ここらへんで寝ます。
それでは
116 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 03:37
原理主義的科学論を援用する宗教観念の図。
117 :
68:2001/04/30(月) 03:45
>>108 >純粋に人間は人を殺したくないという感覚を持っているということです。
>それがどうしようもない場合を抜きにして、基本的に殺したくないということです。
それでも「殺しては<いけない>」理由にはならないですよね。
眠るのが本能といっても「眠らなくては<いけない>」わけではないのと
同じです。
>>111 >遺伝子=種の設計図
個体の遺伝子はあくまでも個体の設計図であり、種の設計図ということは
ありえません。
種全体の遺伝子プールが種の設計図ということは出来るかもしれませんが、
遺伝子プールが個体の本能・行動に影響を与えることはありません。
>遺伝子は
>種が再生され、種が実際に生きる行為を達成するための手段、道具
>と考えています。
ある個体の遺伝子はその個体にしか働きかけませんし、ある個体が残せる遺伝子
はその個体の遺伝子でしかないので、その個体のための道具という言い方しか
出来ないと思います。
さらに、生物学界にはドーキンスのように「個体は遺伝子が自己の複製を増や
すための入れ物でしかない」という考え方もあります。この考え方に立つと生
命にとって本質的なことは、自己の遺伝子の複製を作ることだけになり、男性
の個体が自分以外の男性を殺しまくるのは、本能に従った行動ということにな
ります。
何故、地球人を殺してはいけないのですか?
地球人は火星人の後裔だから(参考資料:ミッション・トゥ・マーズ)
120 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 04:22
>>117 >それでも「殺しては<いけない>」理由にはならないですよね。
>眠るのが本能といっても「眠らなくては<いけない>」わけではないのと
>同じです。
一概に同じというのは早計ではなかろうか。
殺人禁忌が本能に依るものだとして
他の本能と異なるところはそれが禁忌の欲であるという点だ。
仮に殺人欲なら同じ方法で<殺さなくてもよい>が導き出せるだろう。
ではこれをどうやって対比させるか。
試しに睡眠欲を禁忌に置き換えてみよう。
「おきていてはならない」という禁忌に発展するまで本能を置いたとして
それでもなお「寝なくてもよい」が導き出せるであろうか。
それは決して不可能ではない。
想像上は大いに可能であると思われる。
しかし現実にそれをなせる者はいない。
極限状態まで達すれば本能に反する行為はまず不可能である。
殺人禁忌が本能に根ざすとするならば
同じく禁忌という性質上、その行為をすることに理性以上の点で歯止めがかかるのではないか。
類似例として、毒の摂取などはどうであろう。
タバコなどの毒は食すことが非常に困難である。
例え意志を持って食すとしても、たいていの者はその困難さに諦めるであろう。
それをもって「毒を摂取しては<いけない>」が崩れるとは思えないが。
>68
社会世評板の住人でしょ。 ひとの影響を受けやすい人だね(笑
122 :
68:2001/04/30(月) 16:32
私は「何故、人を殺してはいけないか」という問に答えるためにヒトの本能か
らアプローチすることに意味はないと考えます。
先ず第一に人を殺す・殺さないを本能の範疇に入れて考えることに無理がある
からです。摂食・睡眠・排泄はおそらく全てのヒトが生きるために必要なこと
ですから「本能」と言うことも可能かもしれませんが、人を殺さない(殺した
くない)のが本能と言える理由はどこにも無いでしょう。実際の世の中には、
人を殺したいと思う人・人を殺したくないと思う人(また実際に人を殺した人
・人を殺さない人)が存在しますし、同じ人の中に両方の感情が芽生えること
もあります。どちらの感情が本能の働きによるかを決めることは出来ません。
第二に、人を殺さない(殺したくない)のが本能と仮に証明されたとしてもな
お「何故本能に従わないのはいけないのか」という問が立てられるからです。
殺すことが本能に反しても、殺すことを「いけない」とすることはできません。
ヒトは食料を摂取しないと生きていけませんが、摂食を拒否することを「いけ
ない」と言えるでしょうか?餓死することは「いけない」ことでしょうか?自
ら食料も水もたって即身仏になった人は「いけない」ことをしたのでしょうか?
私は「いけない」とは言えないと思います。「本能に反しているからいけない」
と言う人は「本能に即した行動をとるべき」という価値評価を押しつけている
だけに過ぎません。
>>104 質問者がもとから人類にとって殺人の善悪を尋ねたのなら「人類にとって」と
いう観点から答えを探すべきでしょうが、「私は何故人を殺してはいけないか」
という意味で質問を発していたら、「人類にとって」という観点は何の意味も
なさないでしょう。
質問者は、人類にとって殺人が「悪」だと言うことが分かってもまだ「私は何
故人を殺してはいけないか」(何故人類全体にとっての悪が、私にとっても悪
なのか)と問い続けるでしょう。
>>120 「毒を摂取するのは<いやだ>」と「毒を摂取しては<いけない>」は明らかに
違いますよ。
ヒトが「人を殺すのは<いやだ>」と思いがちだと仮定してもそこから「人を
殺しては<いけない>」を導き出すには、何らかの価値評価が行われていると
思います。「ロミオとジュリエット」でロミオが服毒したことは<いけない>
ことでしょうか?
>極限状態まで達すれば本能に反する行為はまず不可能である。
不可能なことなら「何故いけないか」という質問自体無意味になりますよ。
「何故人は光合成をしてはいけないのか」という質問が意味をなさないの
と同じです。
>殺人禁忌が本能に根ざすとするならば
>同じく禁忌という性質上、その行為をすることに理性以上の点で歯止めがかかるのではないか。
ですから、殺人禁忌が本能と仮定してもその歯止めを超えて殺人をしたときに
<いけない>と言い切れる理由を問われているわけです。
光合成と違って殺人は可能でしょう?
>>121 社会世評板には行ったこともないし、存在自体知りませんでした。
なんでそんな勘違いをされたのでしょう。
123 :
考える名無しさん:2001/04/30(月) 17:36
なぜ人を殺してはいけないか、よりもなぜ殺人衝動があるのかを考えた方が
いい.殺人衝動が無ければ殺したいとも思わないはずだ.
よって上のような問いすらも浮かばない.
124 :
いちご姫:2001/04/30(月) 17:53
>>123 仮令、誰一人殺人衝動を持たなくとも、仮令、誰一人殺人を犯さなくとも、
だからといって軽軽に、「人を殺してはいけない」という命題は無意味である、
とは必ずしも言えない。そして、それがかりに有意味であるとすれば、「何故
人を殺してはいけないか」という問いもまた妥当性をゆうする。(問いが思い
浮かぶか否か、という事実問題と、問いが問われ得るか否か、という権利問題
とは、別個の問題である。)
125 :
ココイチ:2001/04/30(月) 18:01
殺しても良い完全な理由が、見あたらないから。
例え被害者でも、やり返すことは、殺す理由になっても、殺してもいい
理由には該当しない。
126 :
39:2001/04/30(月) 18:22
>>117 以下は絶対価値を含む個人的仮説です。哲学板にふさわしくありませんが。
遺伝子は、宇宙の知性を詰め込んだコンピュータの設計図みたいな存在です。
それに基づいて、コンピュータハードウェアを製造し、
さらに最上位意思を司どるソフトウェア(精神)を伴なわなければ、
単なる設計図(情報)でしかありません。
コンピュータは、情報処理、思考を行う目的で存在します。
遺伝子は知的生命を進化させながら存在させしめる強力な道具で、
知的生命が、経験し、学び、思考し、知識を得、
それを種の共通意識に集積する手助けをします。
種の共通意識は、個々の種が得た知識に基づいて、
進化し、その乗り物である種の設計、遺伝子の改善も行います。
>>122 [殺人禁忌が本能と仮定してもその歯止めを超えて殺人をしたときに <いけない>と言い切れる理由]
無法的に放置すると、種そのものの存続が危機にさらされ、種の絶滅を招く危険があるからと思います。
98の繰り返しになりますが、
「物理的に種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる為。
精神的には、罪悪感を覚え、結果的に心の不健全、病を蔓延させ、
免疫力、生命力の低下をまねき、種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる。
罪悪感をもたらす要因には、先天性(本能)と後天性(環境)がある。」
やがて太陽系、地球は滅び、宇宙そのものも崩壊するとすれば、
生命体もその遺伝子も全て消滅します。その時、宇宙開闢以来の全知識は
宇宙意識の成果として残ると考えます。
127 :
39:2001/04/30(月) 18:28
126訂正です
>>個々の種が得た知識に基づいて、
種の個々の個体が得た知識に基づいて、
128 :
39:2001/05/01(火) 01:00
追加
絶対価値を前提にしなければ、従来の結論になると思います。
つまりここで新に議論する必要もないと思います。
「個々人は、その人なりの生への強い執着、願望、
目的意識を持っている場合が多々あり、少なくとも自分はそうである。
よって、生きる行為を他人から奪われると、大変迷惑であり、
遺憾である。おそらくあなた方もそうでは?
よって、お互いの命は大切にしましょう。スローガン『人は殺してはいけない』」
129 :
考える名無しさん:2001/05/01(火) 01:25
130 :
考える名無しさん:2001/05/01(火) 01:31
>39
だからってキミの電波っぽい倫理観、宗教観を絶対価値なんて決められても
困るよ。
哲学板だからね一応。哲学で語ってよ。
>遺伝子は知的生命を進化させながら存在させしめる強力な道具で、
>知的生命が、経験し、学び、思考し、知識を得、
>それを種の共通意識に集積する手助けをします。
遺伝子を持っている生物の99%が知的生命ではない。
経験、学習、思考したものは遺伝子には影響を与えないし次世代に
遺伝もしない。
種の共通意識なんてものの存在は誰も知らない。
>物理的に種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる為。
結果的に殺し合いに勝った強いオスが子孫を残すので強い子孫が
生まれ易くなり種の保存にとって殺し合いは有利。
>精神的には、罪悪感を覚え、結果的に心の不健全、病を蔓延させ、
>免疫力、生命力の低下をまねき、種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる。
罪悪感を感じない人は人を殺してもいいわけだ。
>罪悪感をもたらす要因には、先天性(本能)と後天性(環境)がある。
だから人を殺しても罪悪感を感じないように教育を施すべきなんだね。
>その時、宇宙開闢以来の全知識は
>宇宙意識の成果として残ると考えます。
これはモロ電波。
隣人には欲しくないタイプだな。
>個々人は、その人なりの生への強い執着、願望、
>目的意識を持っている場合が多々あり、少なくとも自分はそうである。
つまり人生に絶望している人は殺してもいいわけだ。
>よって、生きる行為を他人から奪われると、大変迷惑であり、
>遺憾である。
死んじゃうんだから迷惑だと感じるかどうか分からないよ。
そもそもなんで人に迷惑をかけたらいけないの?
迷惑だからやめてくれって人殺しに言っても説得力ないよ。
哲学板ってこんな穴だらけのハナシをする所なの?
レベル低いね。
131 :
39:2001/05/01(火) 01:47
>>130 あなたの人生観、世界観、生ることの絶対価値はなんですか?
搜している最中ですか?
あなたは、赤の他人に、いきなりなぐられて、迷惑かけられても平気ですか?
あるいはナイフで刺されても全然平気なんですか?
132 :
考える名無しさん:2001/05/01(火) 02:00
>>130 きみと同じ考えのものを集めて、
共同体作ったらどうなるか、思考実験してみたらどう?
ある意味、なにも執着をもたず、
人から何をされても許す寛大をもつ社会だが、
一握りの人殺鬼が強力な殺戮兵器を持った時点で、
あっというまに共同体は絶滅するだろう。
133 :
130は:2001/05/01(火) 02:10
逆説だろう
134 :
39:2001/05/01(火) 02:15
>>130 電波な部分は押し付けで不毛なので止めます。
「>物理的に種の保存、遺伝子の継承が危機にさらされる為。
結果的に殺し合いに勝った強いオスが子孫を残すので強い子孫が
生まれ易くなり種の保存にとって殺し合いは有利。」
大量殺戮兵器を開発した時点で、逆にその性質が、種保存に不利に働く。
「罪悪感を感じない人は人を殺してもいいわけだ。」
罪悪感を感じない人もいれば、そうでない人もいて、
本脳が関わるので、後者が多く、心の荒廃が進む。
「だから人を殺しても罪悪感を感じないように教育を施すべきなんだね。」
あなたの願望ですか?ここに来る前に、
人生相談板か、医者に見てもらったら?
よほど生きてることが嫌みたいですね。
それとも自分だけは生きていたいけど、他人は死んで欲しいの?
135 :
考える名無しさん:2001/05/01(火) 06:27
>39
おいおい頼むよ。130の内容は、39の主張が人を殺してはいけない
理由にならないことを証明するための例示だよ。
つまりキミの主張は人殺しを肯定する社会の下地にもなるの。
なんでそんなに感情的になるかな。
倫理を信じてる人って何でも決めつけるから怖いね。
人を殺すのがいけないなんて主張してるクセに自分の倫理観を否定
されるとすぐ攻撃的になる。
>ここに来る前に、
>人生相談板か、医者に見てもらったら?
立派な物言いだ。
道徳的理想は不道徳な手段で達成されるっていうのは誰の言葉だったっけ?
ホントその通り。
>あなたの人生観、世界観、生ることの絶対価値はなんですか?
>搜している最中ですか?
なんで議論を個人的な価値観の問題に置き換えたがるのかね?
哲学板でしょ?
>あなたは、赤の他人に、いきなりなぐられて、迷惑かけられても平気ですか?
>あるいはナイフで刺されても全然平気なんですか?
あのね、俺は”自分が殺されたくなかったら他の人を殺すな”っていう
相互関係に疑問を投げかけてるのよ。
A「俺は殺されてもいいから人を殺したい」
B「俺が人を殺すことと俺が殺されるこに何の関係がある」
っていう2種類の人達に「迷惑をかけられたくなければ迷惑をかけるな」
って説いても意味ないでしょ?
>大量殺戮兵器を開発した時点で、逆にその性質が、種保存に不利に働く。
じゃあ大量殺戮兵器が開発される前までは、人殺しは種の保存に有利だから
善いことだったのかね。
ナチスの優生学に基づいた種の選別の為の殺戮は当時としては善いことなのかね。
戦後になって優生学は科学的に否定されたけど正しいと信じられていた
当時の尺度で考えれば善いことになるよね。
俺が否定しているのは種の保存なんてことで殺人をいけないこととすることの
おかしさだよ。
>罪悪感を感じない人もいれば、そうでない人もいて、
>本脳が関わるので、後者が多く、心の荒廃が進む。
殺人に対する罪悪感が本能なんて誰が決めた?
殺人に嫌悪感を覚える人が少数派だったら人を殺してよいのね。
殺人に嫌悪感を覚える人に知られないようにだったら殺し合いをしてもよいのね。
>あなたの願望ですか?
何でも個人的な価値観に置き換えるなって。
キミのいう人を殺してはいけない理由が今現在殺人が悪とされている
からっていうだけの主張でしかないってことがいいたいの。
それはトートロジーなんだよ。
>それとも自分だけは生きていたいけど、他人は死んで欲しいの?
俺は違うけどそういう人もいるよね。
そういう人に対してキミの主張は全く無力だよ。
136 :
130だが:2001/05/01(火) 06:29
書き忘れたけど135=130ね
137 :
みさえ:2001/05/01(火) 15:08
>>125 おバカ!(『クレヨンしんちゃん」のミサエ風に)
ある行為をしても良い完全な理由がない限りしては悪いのか!?
で、その行為をしてはいけない完全な理由があるのか!?
138 :
どきどき名無しさん:2001/05/01(火) 15:44
139 :
考える名無しさん:2001/05/01(火) 15:50
だからよう。
人を殺しちゃいけないというが人は人を殺せるんだじょ。
決まりをやぶると先生に起こられるでちょ?
決まりをやぶってはいけないの。うちにおばあちゃんがいってたよ。
決まり作った方もあんまり考えてないんだから答えなんてでましぇん。
人を殺しちゃいけないと既に洗脳されているのでーしょうがないんですう。
140 :
39:2001/05/01(火) 19:22
>>130 「現代社会で、一般市民が日常生活において、何故他の一般市民を
殺してはいけないのか」という問いの、あなたの答えは?
殺していけない理由は無しとかんがえますか?
もしそうだとしたら、その理由は?
141 :
39:2001/05/01(火) 19:54
130=前スレ258さんですか?
>うん、じゃー、なぜ「社会の維持の為」に殺人がタブーとされなく
>てはならんのかな?そもそも、「社会の維持」って具体的にどう
>いう意味なのかな?みんなが殺人を容認する社会だってあっていい
>んじゃないの?駄目だとしたら、何故?
>いろいろ疑問が沸くなー...。
この問いは、社会維持、人類生存の本質的な理由は何か?
という理解でいいのでしょうか?これは絶対価値を持ち込まないと、
答えは出ないと思いますが?如何でしょうか?
もしそうだとしたら、繰り返しになりますが、
あなたの人生観、世界観、生ることの絶対価値はなんですか?
てつ板にそぐわないかもしれませんが、
本当はこのことだけ議論したくて、このスレに参加したのですが。
142 :
130だが:2001/05/02(水) 02:43
>>138 全然違う。スレ読んだけど俺とその258言ってることが全然違うじゃない。
どこに目つけてんの?
>39
>「現代社会で、一般市民が日常生活において、何故他の一般市民を
>殺してはいけないのか」という問いの、あなたの答えは?
何かの評価基準に立たなければ”いけない”とは言えない。
いけないと決められる材料がないんだから。
>殺していけない理由は無しとかんがえますか?
だから何らかの視点に立てばいけない理由はたくさんあるよ。
殺すべき理由もたくさんある。
どれも絶対じゃないというだけ。
視点が変われば理由も変わる。
「殺してはいけない」が「殺すべきだ」にも変わる。
俺は258だなんて言ってないんだから他スレから発言まで引っ張って来るなよ。
俺は自分の人生観なんか語る気はないから他の相手見つけてね。
下がりすぎ(;´へ`)
age
144 :
39:2001/05/02(水) 19:24
>>130 258の件はすみませんでした。
死刑、安楽死、戦争、人口爆発防止、避妊。
すべてにおける答えなんて最初から誰も考えてないでしょう。
「現代社会で、一般市民が日常生活において、
何故、他の罪のない一般市民を、法を犯して殺してはいけないのか」
という前提条件付きの問題提起と認識しています。
そういう前提条件においても、殺人を肯定しうる論理が有るのでしょうか?
145 :
考える名無しさん:2001/05/02(水) 19:37
空虚
146 :
考える名無しさん:2001/05/02(水) 19:50
全てにおいて完全に自由な人間において
その自由の中で自ら規制する禁止条項についての適切な理由など
全く持って無いのかもしれん。
自由な人間は何をしても自由だ。
自然状態にある限りは。
むしろ問題は人間が歴史的な何ものもを全く踏まえずに
産み出された、というほうにあるのかもしれん。
147 :
いちご姫:2001/05/02(水) 19:53
>>144 なぜ法を犯して(殺して)はいけないのか――法の根拠
なぜ殺してはいけないのか――倫理の根拠
違う話題ですよ
148 :
39:2001/05/03(木) 02:16
>>147 後者だけに論点を絞りたいというのが意図です。
もっと単順にいえば「ぶらっと街にでかけて、見知らぬひとを
いきなり殺すのがなぜいけないのか?」
これを是とする論理は、はたして存在しうるのか?
149 :
39:2001/05/03(木) 02:42
>>146 >自由な人間は何をしても自由だ。
>自然状態にある限りは。
これに賛成ですが、人間は宇宙の自然法則の前には
自由ではなく、因果応報に従属する存在です。
人間を超越する神が存在するとしても、その神さえも自由ではない。
そういった法則を踏まえながら、どう振る舞えば、最善なのか
という問いがあった場合、人間の存在に、
絶対的意味を持たせない限り、絶対的倫理の根拠は消滅すると
思います(人それぞれの主観に基づくものはあるにしても)。
絶対価値が実証不可能であるならば(現状そう思われますが)、
哲学に問うこ自体、間違いかもしれませんね。
少なくとも、希望、生きがい、欲望を掻き立ててくれるような
答えは得られそうにないと思います。
150 :
_:2001/05/03(木) 03:04
絶対的真理の存在は証明できないかも知れません。
しかし、人にとって重要なのは何を真理と信じるか…ではないでしょうか。
人はあらゆる意味で自由である、と信じる人は、あらゆる意味で自由でしょう。
人は社会性の生き物であると信じる人は、社会性の生き物でしょう。
真理は存在しない、と信じる人にとって、真理は存在しないでしょう。
信じるものは…。ですか。
151 :
39:2001/05/03(木) 03:40
>人にとって重要なのは何を真理と信じるか…ではないでしょうか。
同意です。何を真理と信じるかで、
まったく変わってしてしまう、特殊な生き物ですね、人間は。
逆に、容易なことでは信じない、非常に危険なので。
ヤパーリこれ系のスレはレス数が多いズラね
153 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 05:27
>>148 「ぶらっと街にでかけて、見知らぬひとを
いきなり殺すのがなぜいけないのか?」
これを是とする論理は、はたして存在しうるのか?
殺人者がその殺人によって人生を善いもの、意味あるものと肯定
できたのなら、殺人者にとってその殺人は善いことになるでしょう。
人生の肯定まで行かなくても、その殺人者個人の問題として殺した
いのなら殺すべきです。
「私」は殺したいときに殺すべきだし、殺したくないときに殺さない
べきです。
「殺してはいけない」と「私」以外の人が言ったりルールを作ったと
してもそこには「正しさ」はありません。(拘束力があるだけです)
「私」が「したい」「したくない」と思ったことこそが、正しいのです。
人間は外的な「正しさ」を持ち得ないのですから。
殺人を犯した「私」が罰せられるべきかというのは別の話です。
154 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 07:00
他人を殺すのがいけないのは「たまたま」です。明確な理由はありません。
他人を殺しても罰にならない社会とそうでない社会がありえますが、
結果的に他人を殺してはいけないという現実が成り立っており、
いまのところこれを法律として皆のルールとなっています。
なぜ結婚相手を一人に決めないといけないのか?などと同じでこれは「慣習」です。
戦時中などのように、将来変わる可能性がありこの慣習は絶対ではありません。
155 :
名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 08:51
人を殺してはいけない理由なんてないが
ほとんどの人間は「人を殺したくない」と思うようにようにできているはずだ
うんこを食いたくないみたいなもんだな。食いたい奴は食えばい
ただしやってしまったことはあとから取り返しはつかないし
間違いなく人を殺せば自分が損をするだろうから
本当に人を殺したくなる奴は診てもらったほうがいい
156 :
名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 10:02
人を殺していけない理由は無いって簡単に言ってますが、
理由が沢山あるだけじゃないでしょうか?
で、時には人を殺すしかしょうが無い時があって(戦争、死刑、正当防衛)
その時と状況の区別がついていない、議論が多すぎる。
157 :
155:2001/05/03(木) 10:24
>>156 殺してはいけない理由はないよ
人間を規制しているのはその人間自身(個人)なんだから
ただどんな状況下でも殺した後に残るであろう罪悪感みたいなのは変わらない
戦争で人を殺しても一生それを引きずっていくだろうし
死刑執行人は複数でやって自分が殺したとは思わないようにするらしいし
正当防衛でも同じ
自分自身が損をするから自分自身で規制をするべきんだと思う
158 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:15
>殺人者がその殺人によって人生を善いもの、意味あるものと肯定
>できたのなら、殺人者にとってその殺人は善いことになるでしょう。
>人生の肯定まで行かなくても、その殺人者個人の問題として殺した
>いのなら殺すべきです。
>「私」は殺したいときに殺すべきだし、殺したくないときに殺さない
> べきです。
他人の命が関わることなのに、こんなことを軽々しく言う輩は
神経おかしいんじゃないか。
この理屈だと Natural Born Killer 快楽的殺人者をわれわれは
非難できない。殺人者が「わたし」以外の他人を殺すそうとしても、
「わたし」にはそれを食い止める理由を持てない。
ただそれと対立し、無言のうちに社会から排除するしかない。
説得も馴致も教育も治療も、なにもなしに、抹殺するしかない。
(それを殺人者に「わたしにとって善きことではない」と
言われたら、もうなにも出来ないから)
この世界が、その個にとっての個の価値だけが最大限に重んじられる世界に
なったらどうなるか。
その世界は一夜にして瓦解するだろう。
159 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:24
個にとっての価値を、どんなときも最上におく哲学は、
やはりなにかおかしい。
それは人間は他の人間との相互関係によって存在し、
哲学もまたその上にのっているという、現前の事実と相反する。
ニーチェや永井均はやっぱり、なにかおかしい。
そこには"個の牢獄"がある。
神になり損ねた人間=超人のひきこもる、狭苦しい神学がある。
(この世に絶対的なものがなにもないのなら、個の価値を絶対とする
この神学もまた、虚ろな幻影に過ぎない)
160 :
名無しさん@1周年:2001/05/03(木) 11:29
>>157 >人間を規制しているのはその人間自身(個人)なんだから
社会の問題を言葉遊びで個の問題とすりかえている。殺人というものは、社会でしか起こりえない。
その点を考察しないで、理由など無いと言って良いものだろうか?
161 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:32
ふと思ったこと
人を殺してもいいとして
何人まで殺していいのだろうか
一人殺すのもいけないことだけど二人以上は絶対にいけない気がする。
二人殺すという行為は自分の責任以上の行為である気がしてならない。
162 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:38
レベル低いねえ、君たち
163 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:42
これは結局、殺人禁忌のみに関わることではない。
われわれは、すべての悪を非難できない。
腐敗官僚を非難できない。
掲示板荒らしを非難できない。
女子高生売春を非難できない。
それどころか女子小学生売春すら非難できない。
茶髪やピアスや授業中のケータイ使用を非難できない。
それに目くじら立てるオトナを非難できない。
後進国の飢餓や貧困や戦争を生む、先進国の身勝手を非難できない。
資源浪費を非難できない。
わたしたちの子孫のため、自然や環境を守るため、企業の経済活動を
規制することが出来ない。
わが国に潜入してわが国の人々を拉致し去る他国の謀略活動を非難できない。
親による子供の虐待を非難できない。
教師の体罰を非難できない。
過酷ないじめによって同級生を死に追いやった少年を、非難できず、
考えを改めさすことや、思いやりの心をもつことの必要性をかれに説くことはできない。
いとけない子供を誘拐し、親元から引き離し、監禁し、もてあそぶように虐待し、
ついには死に至らしめる変質者を、わたしたちはどうすることもできない。
164 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 11:45
>>163 非難はできるけど絶対に止められない。
彼の理性や良心を信じるしかない。
165 :
158=159=163:2001/05/03(木) 11:48
だからここで皆にもう一度問おう。
『何故、小さい子供を誘拐・監禁し、虐待の限りを尽くして
さんざんオモチャのように弄んだ挙げ句、それをボロ雑巾の
ようにそれを捨ててしまっては、いけないのですか?』
166 :
158=159=163=165:2001/05/03(木) 11:52
>彼の理性や良心を信じるしかない。
それは結局、道徳に頼るのと同じような事なんじゃないか?
そんな気がする。
道徳だって誰かに押し付けられるものじゃない。
個々の心の中から芽生えて来るものだろう? (そういうものだ、
と言われているだろう? 理性や良心と同じく)
いまから旅行にいくので、レスは遅れるかも知れない。
旅行先からアクセス出来ればいいのだが。
167 :
158=159=163=165=166:2001/05/03(木) 11:55
あ、そうそう、非難もできないらしいよ。
153の考えを正直に敷衍するとそうなる(158参照)。
168 :
158=159=163=165=166:2001/05/03(木) 12:00
これがほんとの最後。
166はもちろん皮肉だよ。
道徳への信仰が理性や良心への信仰に置き換わるだけだという。
そこにはやはり、道徳的社会と同様のおしつけがあり、抑圧があり、
鼻持ちならぬ"信仰者"が居るだろう・・・という。
169 :
153:2001/05/03(木) 13:29
>>158 >他人の命が関わることなのに、こんなことを軽々しく言う輩は
>神経おかしいんじゃないか。
「軽々しく」というのはあなたの感想でしかないでしょう。そんな勝手な
思い込みで、人のことを「神経がおかしい」などと軽々しく言えるあなた
の神経はおかしくないのですか。
安心して下さい私はおかしいとは思いません。
人の命が関わることを軽々しく口にするなと言いながら、「神経おかしい
んじゃないか」と人を傷つけるようなことを口にする。あなたにとってそ
れは「正しい」ことなんでしょう。
あなたは正にあなたが批判した私の論を体現しているのです。
>この理屈だと Natural Born Killer 快楽的殺人者をわれわれは
>非難できない。殺人者が「わたし」以外の他人を殺すそうとしても、
>「わたし」にはそれを食い止める理由を持てない。
そんなことないですよ「わたし」が殺人者を非難したいと思ったなら
非難することは「わたし」にとって正しいことなんですから、「わたし」は
「非難すべき」でしょう。
「食い止めたい」と思うなら食い止めるのが「わたし」にとっては正しい
ことです。
>説得も馴致も教育も治療も、なにもなしに、抹殺するしかない。
>(それを殺人者に「わたしにとって善きことではない」と
>言われたら、もうなにも出来ないから)
そんなことないですよ説得によって「殺したい」が「殺したくない」に
変われば「私」にとってもはや殺すことは正しくないことなのですから。
>この世界が、その個にとっての個の価値だけが最大限に重んじられる世界に
>なったらどうなるか。
誰も世界(周りの人間)が「私」の内面の正しさを重んじるべきとか論じ
てないです。
「殺すべき」というのは、「殺したい私」にとってだけの「正しさ」なん
ですから。
どうも何か勘違いされているようです。
170 :
153:2001/05/03(木) 13:35
私が言っているのは人は自分の中にしか正しいものを持てないから
ある行為をしてよいか、いけないかと問われたとき、その行為者の
視点に立てば、「やりたいならやるべきだ」となるというだけです。
宗教観、生命の大切さ、道徳的規範、法律なども「殺したい」とい
う感情同様「私」の内面で知覚されるものです。
「私」が内面で知覚した生命の大切さを<生命の大切さ>と表記す
ると、「私」がその<生命の大切さ>にリアリティを感じたりして
(まあ理由は何でもいいですが)「正しい」と思えば<殺したくな
い>という感情が形成され「人を殺してはいけない」ということは
「私」にとって「正しい」となります。
「私」が<生命の大切さ>を「正しくない」と思えば<殺したい>
が形成され殺すことが「正しい」となるのですが、そこで「私」に
対して道徳を説きます。法律を説きます。
その結果「私」の中に<道徳><法律>が形成され、「殺したい」
が「殺したくない」に変われば殺人を食い止めることは可能です。
殺させたくないのなら「私」が正しいと思える殺してはいけない理
由を教えてやればよいだけです。
宗教観、生命の大切さ、道徳的規範、法律などなど殺してはいけな
い理由はありますが、いずれにも全ての人が認めるような外的な正
しさがあるわけではありません。(法律には刑の執行という全ての
人に共通の拘束力がありますが、それは「正しさ」ではありません。
全ての殺人者が刑に服すわけではないからです。)
まずそのことを分かっていないと、他人を説得するなんて事はでき
ないでしょう。
生命が大切だと思えない人に「人の命はかけがえのないものだ」と
説いても無意味です。
でも同じ人に「死刑になるぞ」と言えば効果があるかもしれません。
「自分が死んでもいいから殺したい」と思っている人には、彼の才
能を評価したり、美味しい物を食べさせたり、恋をさせたり、生き
ながらえたいと思えるような体験をさせるのがよいかもしれません。
道徳などの外的な正しさに頼った論説は、それを信じられる人には
有効ですが、そうでない人にとっては空疎なものでしかないのです。
今から帰省するので、レスは連休明けになります
171 :
mt(158=159=163=165=166):2001/05/03(木) 18:47
>>他人の命が関わることなのに、こんなことを軽々しく言う輩は
>>神経おかしいんじゃないか。
>「軽々しく」というのはあなたの感想でしかないでしょう。そんな勝手な
>思い込みで、人のことを「神経がおかしい」などと軽々しく言えるあなた
>の神経はおかしくないのですか。
>安心して下さい私はおかしいとは思いません。
>人の命が関わることを軽々しく口にするなと言いながら、「神経おかしい
>んじゃないか」と人を傷つけるようなことを口にする。あなたにとってそ
>れは「正しい」ことなんでしょう。
>あなたは正にあなたが批判した私の論を体現しているのです。
ああ、まさしく、ニーチェはそのようなやり方で、道徳を「道徳的に」非難した。しかしわたしはそのニーチェ的道徳批判に疑問を投げかけているのだよ(それはもう書いた)。
人の命が関わることに軽々しい口を聞く輩に、「それは勝手な思いこみだ」と言われる筋合いはない。
「軽々しく」「神経がおかしい」といわれて、あなたは傷ついたかもしれない。しかし「勝手な思いこみ」と言われてわたしも傷ついた。
そして、そのあなたの行為(傷つけられたので、傷つけ返す)にはすでに互酬性への萌芽が存在し、それは道徳の基底的原理のひとつだ。
道徳によって道徳を非難する者は、しかし非難することによって自分がその道徳の上に存立してしまっていることを、じゅうぶん意識すべきだよ。
あなたが、自分が傷つけられたゆえに他者を傷つけようとしたように、わたしも傷つけられたもののために、あなたを傷つけたのだ。
172 :
mt:2001/05/03(木) 18:47
>>この理屈だと Natural Born Killer 快楽的殺人者をわれわれは
>>非難できない。殺人者が「わたし」以外の他人を殺すそうとしても、
>>「わたし」にはそれを食い止める理由を持てない。
>そんなことないですよ「わたし」が殺人者を非難したいと思ったなら
>非難することは「わたし」にとって正しいことなんですから、「わたし」は
>「非難すべき」でしょう。
>「食い止めたい」と思うなら食い止めるのが「わたし」にとっては正しい
>ことです。
個の価値が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まるのであれば、「わたし」が他者に容喙すべき理由・根拠はまったくなくなる。
だからその「わたし」が「殺人者を非難すべき、食い止めるべき」と思うことは、理屈の上から言ってあり得ない。
逆に言えば「殺人者を非難すべき、食い止めるべき」と思っている「わたし」は、個の価値が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まる、とは考えていないことになる。
問題なのは個々の価値、個々の善悪が、実際には同一平面上に並べられており、それら相反する善悪に対し、われわれはいちいち判断を下さねばならない、ということだ。そしてそれは、どうやっても個人の内的な善悪を越えてしまう。
「わたし」が殺人者を食い止めようとした瞬間、わたしは殺す側と殺される側の、それぞれの事情、それぞれの善悪を勘案している。「わたし」は明らかに殺人者ではなく、また殺される側の人間でもない。彼らの個人的感情、思い、善悪など、最終的には「わたし」の手の届くところにはない。
にも関わらず、「わたし」はなんらかの判断を、外的状況から推し量れる範囲での判断を下し、単なる「わたし」の内的な善悪を越えて、殺人を食い止めたり、食い止めなかったりするだろう。
内的善悪は、「わたし」が他者との相互関係の中にいる限り(相互関係の問題に関わろうとする限り)、外的善悪に変換されざるを得ないのだ。
173 :
mt:2001/05/03(木) 18:48
>>この世界が、その個にとっての個の価値だけが最大限に重んじられる世界に
>>なったらどうなるか。
>誰も世界(周りの人間)が「私」の内面の正しさを重んじるべきとか論じ
>てないです。
ん? 別にそんなことはいってないが、この文章は奇妙に思える。
1.わたしなら、なるべく、正当な範囲で「わたし」の内面の正しさを重んじて欲しい、と周りの人間に働きかけるよ。
2.殺人者の内面の正しさを絶対的に重んじなくてもいいのなら、仮にかれがそれでどんなに自己肯定感を得ようと、やはり彼は人を殺すべきではない。少なくとも無条件に「人を殺してもいい、人を殺すべき」だと言うことはできない。
174 :
mt:2001/05/03(木) 18:49
>私が言っているのは人は自分の中にしか正しいものを持てないから
ほんとうにそうなのだろうか? たしかに正しさの実感は自分の中にしか持てない。
しかしそれと正しさの根拠がどこにあるか、という問題は別のことだろう。
人は本当に、それで生の充実感を得られるのなら、人を殺してしまっても「善い」のだろうか?
「わたし」にとって、「わたし」の価値だけが、存在しうる最上の倫理なのだろうか? それは侵さざるべき神聖な体系なのだろうか?
これは153さんの問題意識とは重ならないかもしれない。しかし 159,163,165,166 でわたしが言いたかったのはそういうことだ(必ずしも 153さんに向けたものではない)。
175 :
_:2001/05/03(木) 18:59
>>174 善悪、という観念そのものが、各個人の主観によって異なると考えるのが妥当では?
善悪を論じるのは倫理学です。
善悪という観念が相対的である事は知っているはずです。
倫理というものに、疑問は感じないのですか?
176 :
mt:2001/05/03(木) 19:13
もちろんこれは「外的善悪」が絶対だ、などという話しでないし、
善悪の相対性は折り込み済み(のつもり)だよ。
>善悪を論じるのは倫理学です。
その通り! 昔はだから、わたしもこの種のスレに
「哲学板でやるな!」とレスつけていたんだけどね。
う〜ん、モバイルでアクセスしているのだが、なかなかうまく行かない。
観光も忙しいし、なるべくちゃんとレス肢体が・・・
177 :
ゆみ:2001/05/03(木) 22:22
他の人が”自分も殺されるかも”という恐怖を感じ、不安が蔓延するからである!
178 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 22:47
定言命法はいくらこねくりまわしても結論がでない。
誰か仮言命法に直してみて
179 :
名無しさんの主張:2001/05/03(木) 23:00
ちがいがわからん
180 :
考える名無しさん:2001/05/03(木) 23:37
難しいこと言ってないで簡潔に言いなさいって
そうやって複雑にしてけばしてくほど、泥沼にはまるよ?
181 :
無礼講:2001/05/03(木) 23:45
そうだそうだ
泥沼を楽しむのだよ。
183 :
無礼講:2001/05/04(金) 00:01
なんのため?
184 :
_:2001/05/04(金) 00:33
185 :
無礼講:2001/05/04(金) 00:46
>184
そうでした。
186 :
考える名無しさん:2001/05/04(金) 01:44
定言命法→ 〜しろ、〜 してはならない
仮言命法→ 〜を望むなら〜するべきだ、〜を望むなら〜すべきではない
187 :
考える名無しさん:2001/05/04(金) 02:14
自分が殺されたくないなら、人を殺してはならない。
自分が殺される場面や状況を具体的に思い描いて、そうやって
殺されてもいい、と心底思うなら、人は遠慮なく君を殺すだろうし、
君も、自分が殺されることを承知の上で、人を殺しても
いいんじゃない? <戦争だよ
>>184 簡潔でも思索できるんでは?
むしろそっちのが簡単のような
189 :
_:2001/05/04(金) 03:44
状況が変化する事で、思索の筋道が変化する事もあるのでは?
多角的考察というのは重要と考えますが…。
また、自分とは違う他人の意見との切磋琢磨により、矛盾の少ない思想を導く事も可能かと…。
191 :
153:2001/05/08(火) 02:24
>>171 ニーチェのようなやりかたと言われても、私はニーチェの本を読んだことも
ない哲学門外漢なので、どの辺がニーチェのようなのかも分かりません。
私はニーチェではありませんので「わたしはそのニーチェ的道徳批判に疑問
を投げかけているのだよ」と仰られても「ああそうですか、それが何か?」
としか言えません。
>人の命が関わることに軽々しい口を聞く輩に、「それは勝手な思いこみだ」と
>言われる筋合いはない。
なんでも勝手に決めつけずに、その筋合いのなさを説明してもらえませんか?
ご自分が正しいと仰るのなら、
>「勝手な思いこみ」と言われてわたしも傷ついた。
と傷ついたと言いたてる前に客観的な理由を述べて下さい。
1.私が
>>153で書いた内容が軽々しくなされたものだと断定する根拠はなんですか?
2.何故人の命に関わることを軽々しく口にしてはいけないのですか?
3.人を傷つけた人を個人の判断で傷つけて良い理由は何ですか?
1について、上に書いたように私は哲学について無知で、哲学書なども読
んだことがありません。ですから
>>153に書いたことは私が10年以上
「何故人を殺してはいけないか」について考え続けた結果到達した一応の
答えです。(小学3年生の時から20歳過ぎまで考え続けました)
祖父の死をきっかけに浮かんだ疑問を考え続けた結果でた意見を述べる行
為が何故軽々しいのでしょうか。
2について、人の命に関わることを軽々しく口にしてはいけない(口にす
る人は神経がおかしい)と仰るのなら、まず人の命を大切にしなければい
けないことの正しさを証明して下さい。それは「人を殺してはいけない」
理由にもつながるでしょう。
あなたはこのスレッドの答えにも到達しているのですね。
3について、私はあなたの意見で傷ついてはいません。「神経おかしいん
じゃないか」という言葉が人を傷つける可能性を指摘しただけです。
だから私は「傷つけられたので、傷つけ返す」為に
>>169を書いたわけでは
ありません。
しかしあなたは
>わたしも傷つけられたもののために、あなたを傷つけたのだ。
ということですから、私を傷つけるつもりだったのですよね。
つまりあなたは私に対する私刑として
>>158を書いたわけですが、何故その
ようなことをしてもよいのでしょう。一個人にすぎないあなたが、同じく一
個人にすぎない私を何故裁けるのでしょうか。何故刑を執行できるのでしょ
うか。さらにあなたの言う「傷つけられたもの」とは具体的に誰のことで
しょうか。
私にはあなたがした行為は、被害者がいないにもかかわらず罪を作り上げ人を
裁き処刑しただけに思えてなりません。
192 :
153:2001/05/08(火) 02:27
>>172 >個の価値が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まるのであ
>れば
だれもそれだけで善悪が決まるなんて言ってないです。個にとって
の善が有効な範囲はあくまでもその個の中に過ぎないのだから、他
者までその善に縛られるわけではありません。
>「殺人者を非難すべき、食い止めるべき」と思っている「わたし」は、個の価値
>が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まる、とは考えてい
>ないことになる
何故そうなるのでしょう。「私」にとって「私」は世界の中で
この「私」ただ一人ですから、「私」が尊重すべき善悪は、こ
の「私」の善悪だけです。
殺人者の個人的善悪感を「私」と同じ個の善悪として尊重しよ
うとする考えは、自分と同じように他者を尊重しようという道
徳的な価値観から生まれるもので、個人にとっての事実ではあ
りません。
私の「殺すべき」という意見は、その道徳的な相互尊重を否定
しているのですから、殺人者を非難する場合に相互尊重を持ち
出せばおかしな事になって当然です。
殺人者に殺される人は「殺されたくない」と思っているわけで
すから、被殺害者は自身の視点に立てば「殺されないべき」で
しょう。殺人者も相互尊重の立場で人を殺せなくなってしまい
ます。
>問題なのは個々の価値、個々の善悪が、実際には同一平面上に並べられており
それは道徳的な価値世界や法理論の中での話で、現実に「私」に
知覚される世界では個々の存在が同一平面上にはなく、突出した
「私」が存在します。
>>173 1について。
そのあなたの働きかけを周囲が聞き入れるべきか否かは別の話です。
>>153にも書いたように殺人者が罰せられるべきかというのは別の
話ですよ。
2について。
ですから、私が述べているのは「私は殺したいのなら人を殺す
べきだ」で「彼は殺したいのなら人を殺すべきだ」ではありま
せん。
もう一度
>>153をよく読んで下さい。
>>174 >「わたし」にとって、「わたし」の価値だけが、存在しうる最上の倫理なのだろうか?
>それは侵さざるべき神聖な体系なのだろうか?
ではお聞きしますが、あなたはあなたがやりたくないことをやっ
たことがあるのですか?
「やりたくないな」と思って渋々何かをやることもあると思いま
すが、そんな時でもやらないことで引き起こされるもっと嫌な結
果を考えて、それよりはましだと判断してそれをやるのではない
でしょうか。
「私」が「私」の価値以外で行動できるとは思えません。
193 :
mt:2001/05/08(火) 23:00
>ニーチェのようなやりかたと言われても、私はニーチェの本を読んだこともない
あなたがニーチェにも永井均にも接したことがなく、またその影響を受けた誰かのそのまた影響下にも無く、まったく独自で先述の結論に達したのだとしたら、それはまことに驚くべき事だ。
あなたはニーチェや永井と並ぶ、感嘆すべき哲学的資質の持ち主ということになるからだ!
あなたのいう「殺してよい理由」は、これら道徳批判者の言い分とほぼまったく同じものだし、「人殺しをすることで、自分の人生を意味あるものとして肯定できるなら、殺してもよい。殺すべきだ」という意の一文などは、ニーチェの(あるいはニーチェを紹介した永井の)言い回しと、そっくりといってよかろう。
また、自己肯定感が持てず「殺されたくないから、殺さない」という理由が成り立たない人間には、自分や人生への肯定感をこそまず与えるべきだ、という主張は永井の持論でもある。
特に永井は、現在最も読まれている日本の哲学者だろう。かれは<わたし>以外にはなんの理由も持てない<わたし>に関する独在論や、「人を殺しても善い」とする道徳論など、独創的な考察で人気を博している。
いや、むしろ、ニーチェや永井のそのあまりに独創的な道徳批判に、かれら以外の誰かが到達したことを、われわれは驚嘆と奇瑞の目を持って接すべきなのかもしれない!!
もしあなたが本当にふたりの哲学に触れたことがないのなら、是非かれらの本を読むべきだ。大いに意を同じくすることがあるだろう。
そしてまた出来得るなら、これら道徳批判の哲学に向けられた批判、反−道徳哲学を越えようとする哲学の流れにも接して欲しいと思う。
194 :
mt:2001/05/08(火) 23:01
>1.私が
>>153で書いた内容が軽々しくなされたものだと断定する根拠はなんですか?
これまで書いてきた事でだいたいわかると思うが、それが「他人の命の関わること」だからであり、そして他人の命は自分の「内側」にはないからだ。「自分の内側」にないものに関して、自分の内側からだけの価値判断で奪っても善い、いや悪い、といってもしょうがない。それはやはり「軽々しい」。
>2.何故人の命に関わることを軽々しく口にしてはいけないのですか?
1と重複するが、また別の答えをするなら、「命はひとつしかないから」だ。
命が無くなれば、すべてが無くなる。少なくとも、この世での存在は終わりだ。そんなものであるところの命、それも他人の命を奪う、奪わないという話しには、やはり慎重になるべきだ。
>3.人を傷つけた人を個人の判断で傷つけて良い理由は何ですか?
では逆に聞くが、わたしが「それはわたしの人生への肯定感を増すからだ」と言ったら、あなたはどう答えるのだろうか。非常に興味がある。
>3について、私はあなたの意見で傷ついてはいません。「神経おかしいん
>じゃないか」という言葉が人を傷つける可能性を指摘しただけです。
別にあなたが「傷ついた」と断定はしていない。ちゃんと
>>171 >あなたは傷ついたかもしれない。
と、書いてある。
揚げ足取りを揚げ足取り返すのはおくとして、ではなぜあなたは自分が傷ついたわけでもないのに、わざわざ「可能性を指摘」したのだろうか。それが親切心からでようが、それともまた別の意図でなされようが、どちらであれそこには「互酬性→道徳原理」という問題が横たわっている。
>あなたの言う「傷つけられたもの」とは具体的に誰のことでしょうか。
これくらいはわかると思ったんだけどなぁ。
たとえば家族を殺された人があなたの文章を見ていたら? 「人は己の自己肯定感のためには、人を殺しても善い。いや、殺すべきだ」という文言に触れたとしたら?
わたしがそのためにあなたを傷つけたもの、それは殺人禁忌そのものだよ。
195 :
mt:2001/05/08(火) 23:03
>>個の価値が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まるのであ
>>れば
>だれもそれだけで善悪が決まるなんて言ってないです。個にとって
>の善が有効な範囲はあくまでもその個の中に過ぎないのだから、他
>者までその善に縛られるわけではありません。
?
ではなぜ153で「人を殺しても善い」などと書くのだろうか。自分にとっての善は自分のとっての善だけでしかない。であるなら、それは善と呼べるかどうかもわからない。
それは「自分にとって良い」のであって「善い」のではない、と言うべきではないか。
>>「殺人者を非難すべき、食い止めるべき」と思っている「わたし」は、個の価値
>>が個によってのみ下され、なおかつ善悪がそれだけで決まる、とは考えてい
>>ないことになる
>何故そうなるのでしょう。
何故そうならないのか、よくわからない。
殺人者を道徳的に非難し、かつそれを食い止めようとしているのなら(その本音はともかく建前は)、相互尊重の精神に基づいて行うわけだ……その<わたし>は。
なぜ「相互尊重を否定」する者が、「Natural Born Killer 快楽的殺人者」を道徳的に非難できるかできないかという話しになってしまうのだろうか。
>私の「殺すべき」という意見は、その道徳的な相互尊重を否定
>しているのですから、
あなたは相互尊重を否定しているのか? だとすれば、すでに他の部分で言ったことと重なるので、省く。
(たとえば
>>159等)
(>個にとっての価値を、どんなときも最上におく哲学は、)
(>やはりなにかおかしい。)
(>それは人間は他の人間との相互関係によって存在し、)
(>哲学もまたその上にのっているという、現前の事実と相反する。)
196 :
mt:2001/05/08(火) 23:04
>>問題なのは個々の価値、個々の善悪が、実際には同一平面上に並べられており
>それは道徳的な価値世界や法理論の中での話で、現実に「私」に
>知覚される世界では個々の存在が同一平面上にはなく、突出した
>「私」が存在します。
永井均が用いる現象学に於いては、<わたし>とはまさにそのような存在だ。しかしこのわたし、mtであるところのこの<わたし>は現象学を採用せず、総合的・客観的に見て「わたし」が特に突出した存在であることを認めない。
それは<わたし>の内世界のみのことであり、わたしは、<わたし>の外側に世界が広がっていることを、「状況証拠的に」認める。
このような立場は道徳や法学だけではない。現象学・唯我論以外のすべての思考体系が、だいたい似たような立場、似たような前提を採っている。
ここでは現象学批判までは立ち入らないから、これ以上詳しく述べないが、認識構造における<わたし>の特異性を、強引に道徳問題に持ち込もうとしても無理がある。
道徳は(道徳以外のほとんど全ても)もとから「<わたし>は特別ではない。同等の重みを持った他者が存在する」という前提に立っいる。このことを哲学(現象学)が批判しても、それはイデオロギー/物語/宗教によって、別のイデオロギー/物語/宗教を批判する以上ではない(だから哲学板で道徳論争を演じるときは、いつもいろいろ面倒だ)。
197 :
mt:2001/05/08(火) 23:05
(以下はかならずしも153さんに向けて書いたものでない)
哲学であれ、その他のなんであれ、究極的にこの世の本質は「無」であり、物事に絶対的根拠などありはしない、こういう結論にはさほど違いがないだろう。
だから「人は殺しても善いの?悪いの?」という問いについては、「善いも悪いもあるものか」としか答えようがない。哲学は善悪を決める手段ではない。
ましてや「なぜ人を殺してはいけないの?(なぜ悪いことをやってはいけいないの?)」という問いに、与える答えなどあろう筈もない。せいぜい出来るのは「世間や道徳が人殺しをいけないと言う理由はなにか。いけないとされる根拠は何か」を教えてやることぐらいだろう。
すなわち、全てが無根拠であるという前提を維持したまま、問いに誠実に答えようとすれば、道徳を(その舞台裏に回って)代弁してやることくらいしか出来ない。その際、道徳の欺瞞性だけをあれこれ論っても、空しいことだ。なぜならその道徳に、おおかたの哲学者は守られているからだ。
道徳や、大江健三郎のような「道徳家」を激しく糾う永井均も、道徳が有用な社会的制度であることは認めざるを得なかった。
道徳とはたしかに汚いゲームなのだ。それは、みなが薄々感づいている「根拠のなさ」を塗色して、まるで絶対根拠が存在するかのように振る舞う。しかしこの汚さは必然なのだ。そして誰もこれに変わる得る代替システムは考案できていない。
それを「道徳的に」非難するニーチェを、わたしは大いなる共感としかし、ある種の落胆を持って見ずにはいられない。道徳以上に道徳的ということは、道徳以上に汚いということだ。かれは(あるいは永井も)道徳の有用性にはほとんど目を向けない。
無矛盾な体系は存在せず、どのような公理もその内部にゲーデル的不可能性を抱え込むことをわれわれは知ってる。それを思うとき、かれら反−道徳哲学者はそのあまりの真摯さゆえ、ときには滑稽にさえ映る。
198 :
mt:2001/05/08(火) 23:07
全てが絶対無根拠に漂ううたかたの夢であるならば、人間とはその無根拠の冥海に、なにがしかの根拠をうち建てずにはいられない存在である、そんな気がする。
このスレッドに道徳にまつわる(?)絶対価値を求める人がいるようだが、その希求行為自体には共感しないでもない。
そして所詮<わたし>という価値もこれと同じようなものなのではないか。
すべてに根拠はない、という原則を貫くのなら、<わたし>もまた幻想であり、ひとつのローカルな立場に過ぎないことに思いいたすべきだろう。この点では道徳となんら変わりない。
現象学者たちは反発するだろうが、デリダのおこなった現象学批判とは、そのような反発を念頭に置いたものだったと思う。
199 :
mt:2001/05/08(火) 23:09
>
>>173 >1について。
>そのあなたの働きかけを周囲が聞き入れるべきか否かは別の話です。
えーと、もちろんその通りだが?
>2について。
>ですから、私が述べているのは「私は殺したいのなら人を殺す
>べきだ」で「彼は殺したいのなら人を殺すべきだ」ではありま
>せん。
>もう一度
>>153をよく読んで下さい。
>>153には
>殺人者がその殺人によって人生を善いもの、意味あるものと肯定
>できたのなら、殺人者にとってその殺人は善いことになるでしょう。
>人生の肯定まで行かなくても、その殺人者個人の問題として殺した
>いのなら殺すべきです。
と、このように書いてあり、、<わたし>は殺しても善い、とは書いてない。たしかに後段には「私」は殺したいのなら殺すべきだ、とは書いてあるが、だとすればこれは、殺人者という不特定(代)名詞に関する原理ではなく、<わたし>という殺人者、<わたし>が殺人か否かの選択を迫られた場合の原理だろう。
この文脈で153の文章を省みれば、一般語としての「殺人者」が殺して善いのか悪いのか、などということは、<わたし>の善い悪いとさして関係ない。その殺人者の行為がわたしにとって善いのなら善い、悪いのなら悪い、ということに過ぎないし、そう書くべきだ。
<わたし>の人殺しが善い(良い)か悪いかという個別論と、「殺人者」が善であるか悪であるかという一般論は、同じものではない。
200 :
mt:2001/05/08(火) 23:11
ニーチェはその道徳批判のなかで、いわゆる「道徳一揆」によって内的善悪が外的善悪にすり替えられた可能性を論じた。
わたしの拙い理解によれば、それは「良い」が「善い」にすり替えられることであった。すなわち、個人にとってのいろいろな「良さ」を、道徳的な・外的な「善さ」に変換することで道徳は、多様な個の多様な価値観を押しつぶし、そのうえに一様な価値観として君臨する。
永井はそれを評する文章で、「しかしニーチェは負けた。この指摘にも関わらず、ニーチェは徹底的に負けた。その負けが負けと認識されることもなく、忘れ去られることで、徹底的に負けたのだ」と、そんな風に書いた。
しかし本当にそうなのだろうか?
なるほど「良い」は「善い」にすり替えられたのかもしれない。しかしその逆のこともあったのではないか。つまり、「善い」が「良い」にすり替えられことも。いやむしろ、現代ではそのことのほうが多いのではないか。
たとえば、「<わたし>は殺しても良いのだから、人は殺しても善いのだ」といったような。
だから、このスレッドの表題を次のように書き換えて、問題の在処をはっきりさせることもできる。
「なぜ、人を殺しても良くないの? or/and なぜ、人を殺しても善くないの?」
201 :
mt:2001/05/08(火) 23:13
>「私」が「私」の価値以外で行動できるとは思えません。
そのことについてはこういうスレッドがある。
ご参考までに。
http://mentai.2ch.net/philo/kako/975/975606601.html わたしは、わたし以外の価値以外でも、まあ行動しているよ。ドラスティックに「わたし」と「それ以外」を区別だてしても、あまり意味はないんじゃないかな。
自己引用しておく。
>「わたし」が殺人者を食い止めようとした瞬間、わたしは殺す側と殺される側の、
>それぞれの事情、それぞれの善悪を勘案している。「わたし」は明らかに殺人者
>ではなく、また殺される側の人間でもない。彼らの個人的感情、思い、善悪など、
>最終的には「わたし」の手の届くところにはない。
> にも関わらず、「わたし」はなんらかの判断を、外的状況から推し量れる範囲での
>判断を下し、単なる「わたし」の内的な善悪を越えて、殺人を食い止めたり、
>食い止めなかったりするだろう。
> ほんとうにそうなのだろうか? たしかに正しさの実感は自分の中にしか持てない。
> しかしそれと正しさの根拠がどこにあるか、という問題は別のことだろう。
202 :
考える名無しさん:2001/05/08(火) 23:23
今はじめて哲学板を覗いた者です。
このスレは大変興味深く、また有意義な物だとは思いますが―
―――改行は、もっと読みやすい様にしてください。
いや悪意はありません。たのみますよ、ほんとに(笑。
203 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 18:45
動物は殺してよくて人は殺してはいけない理由はなんですか
204 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 18:52
>>203 動物も殺してはいけない場合があります。ケースバイケースという意味ではどちらも同じ。
205 :
いぬのめい:2001/05/10(木) 18:52
>動物は殺してよくて
それはね、簡単に言っちゃうと人間は動物を殺さずに生きることは
難しいからしょうがなく肯定しちゃってるんですよ・・・うん(哀)
所詮それを善としようと思考するのはそういう心理があるのでは?
206 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 19:26
>人間は動物を殺さずに生きることは
>難しいからしょうがなく肯定しちゃってるんですよ
だったら人間を殺さないと生きることが出来ない人は殺していいよね
207 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 19:28
間違った
>>206訂正
だったら人間を殺さないと生きることが出来ない人は人を殺していいよね
208 :
いぬのめい:2001/05/10(木) 19:31
>だったら人間を殺さないと生きることが出来ない人は人を殺していいよね
少なくとも彼らはそれを「善」(やってもいい)とするでしょう。
さもなければ自我が崩壊するのでは?
209 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 19:39
>少なくとも彼らは
いや、周りの人間も認めてあげようよ。別に悪いことしてないっていう風に。
精神耗弱状態で人を殺した人って刑法では無罪だけど、入院させられたり
周りの人間も犯罪者として見るでしょ。
でも本人は「殺すことが正しい」「殺さないといけない」「殺さないと
自分が殺される」って信じてやったんだから、俺達が牛を殺して食うの
と同じだよねって理解してあげようよ。
210 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 22:05
>>209 ではあなたが殺されてあげてください。偽善でないのならばね。
「殺されたくない」と考えている人の気持ちも理解してあげようね。
というかほとんどの人がそう思っているだろうが。
悪い悪くないは人それぞれなんだから個人的な感情で
他人の自由を奪う権利はないはずだろう。
211 :
考える名無しさん:2001/05/10(木) 22:19
まぁ、個人の自由を尊重して生きるのは非常にいいことだとは思う。
が、それもこれも全て「生きていてなんぼ」殺されたほうはもう
恨むことも自由を尊重されることも無いわけだ。
生きていく上で自由は大事だが限度がある。
他人に迷惑をかけてしまうような欲望を押さえ込むのが「理性」
すなわち理性とは人間を人間たらしめている証拠。
それを放棄したのなら人間を放棄したようなものだろう。
このことを考えると、やはり自分以外の人間を殺すのは
エゴ以外の何物でもないだろう。
212 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 00:19
>「殺されたくない」と考えている人の気持ちも理解してあげようね。
だったら殺されたくないと思ってる動物を殺すのはやっぱりいけない事じゃないの?
はい、もう一回きくよ
動物は殺してよくて人は殺してはいけない理由はなんですか
>悪い悪くないは人それぞれなんだから個人的な感情で
>他人の自由を奪う権利はないはずだろう。
感情じゃないって、心神耗弱状態で状況判断が出来ない状態で、
「殺すことが正しい」「殺さないといけない」「殺さないと 自分が殺される」
って信じて殺した人の話。
分かってないネー
動物は殺しちゃいけないし(動物愛護、生命種多様性の保持、生命尊重)
人間を殺してもいいんだよ(死刑、戦争、自衛、尊厳死、堕胎)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| このスレってうざいよね〜
\ __________
V
∧_∧∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)´∀` )< だよね〜、ageてる奴は気づかないのかな?
( ) ) \_______________ ∧ ,∧
| | || | | (・д・,,)ペッ!!
(__)_)__(_) ?∧ ∧?∧∧? 、'(_@
(´ (´⊇`) `)
(オ(バカ)サン)
| || || |
∧ ∧ムカムカ (_(_)_) )_)
(#゚Д゚) ̄ ̄ `〜 ∧ ∧
U U ̄ ̄UU ( ) イッテヨシ!!
へ | ヽ
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ったく、サルみてーにくだらねーこと書きこんでんじゃねーよゴルァ!!
\___________________________
誰も君達のことなんて見てませんよ。。とりあえずみなさん氏んでくださいね。。。
215 :
210:2001/05/11(金) 07:07
>>222 >だったら殺されたくないと思ってる動物を殺すのはやっぱりいけない事じゃないの?
うーん、それを言ったら誰も生きていけないのでは?
人間も動物も食べていくために食料として殺してるんだから
いいも悪いもないような気がするんだが?まぁ生きるためのエゴなんだが。
だが人を殺したい奴は別に食うのに困ってやっているわけではない
でしょう?あくまで趣味の域を出ていないように見えるがどうか。
だからどうしても人を殺さないと生きていけないということは
あるの?と思ってしまうということです。
216 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:16
で、
>>222は自分だけは人を殺したいと思っている奴に
殺されたくないの?それとも自分は殺されてあげてもいいと
思ってたりする?これに答えないで相手の揚足ばかり取ってたら
話の進展はないでしょう。わかってないなぁ。
217 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:17
218 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:19
あのさぁ程度の問題って言う言葉知ってる?
>だからどうしても人を殺さないと生きていけないということはあるの?
あるよ、戦争で敵と相対した時とか。
でもこれは、とてつもなく大変な状況なんだよ、
とてつもなく大変な状況かどうかは周りの人たちが判断することなんだ。
219 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:32
>>222 >心神耗弱状態で状況判断が出来ない状態で、
>「殺すことが正しい」「殺さないといけない」「殺さないと 自分が殺される」
>って信じて殺した人の話。
これってただの精神異常者なのでは?
ここまで精神が病んでいる者は獣と同等の判断能力しか
持ちえていないような気がしますが?
人間特有の「理性」のかけらも見られないではないか。
それともあなたはこういう人に殺されても納得がいくんですか?
こんな人間ばかりになってしまったら今の人間社会など
一切成り立たなくなるではないの?
混沌とした世の中をお望み?
220 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:33
221 :
名無しさん:2001/05/11(金) 07:36
>>1 病気です。親を恨みましょう。社会を恨まないでね。
222 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 07:43
>>218 ふぅ、また揚足取り?
どうして自分に投げかけられた質問には答えないの?
これでは討論になっていないのでは?
だからこの世の中では戦争は秩序としてはいけないもの
だということになっているではないの?
今のこの世の秩序とか良識に不満でもあるの?
223 :
218:2001/05/11(金) 08:01
>>222 突然乱入したから混乱させちゃった?悪い悪い。
で、218が人を殺してはいけない理由だ。
人間一人では結論を下してはいけないんだな。
224 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 08:08
人を殺す人間には2つのパターンがある。
精神的、肉体的被害を受けた恨みの報復に仕返しをする者。
これに関しては殺されたほうにも落ち度があったので
加害者には情状酌量の余地はある。正当防衛。
かたや誰からも危害を受けていないのにもかかわらず猟奇的な感覚で殺す者。
これはもう個人的な趣味でやっていることなので、
情状酌量の余地はない。理性の無い獣。
人間は「理性」を失った時点でタダの獣と同等の存在だと思う。
225 :
218:2001/05/11(金) 08:15
>>224 状況を分けたりするの止めようぜ、それにそれは、人を殺した理由だ。
何で悪いかはみんなが決める。ただし実際に殺人があってからだ。
今の日本だとその役割を法律と裁判所が引き受けてる。
以上終了だ。
226 :
考える名無しさん:2001/05/11(金) 08:15
>>218 あ、そうでしたか、申し訳ない勘違いしていました。
確かに人間個人ごときが結論を出すのは間違いかもしれないね。
でも人を殺したい(猟奇的殺人限定)と思っている人物は一人戦争してるってこと?
誰からも被害を受けていないのに一人で被害妄想で危害を加えるわけだ?
だとしたら、タダの頭のおかしい理性の無い生き物ではないか。
227 :
218:2001/05/11(金) 08:20
>>226 俺もそう思う頭のおかしい奴だ。
それを獣と呼ぶかなんと呼ぶかは人それぞれ、「人殺しは獣だ」
なんてスレを立てて別に考えようぜ。
で、このスレは終わりにしよう。
なぜ我々は、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うのか?
別スレ立てろよ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うそのことが、人を殺してはいけない、まさにその理由である。
完結…合掌(-人-)
232 :
考える名無しさん:2001/05/13(日) 02:47
井沢元彦の本を読め。人を殺してはいけないわけは、怨霊に祟られるからだ。
日本人的理解としては、これでよい。どのような文化でも、それ以上はつきつめる
ことのできない公理のようなものがあり、それが西洋人ではモーゼの十戒であり、
日本人では怨霊信仰であった。
水子の霊を供養するのは、人殺しをして祟られないためである。
>>232 荒らしくさいぞ小僧!
終わった糞スレあげんな。お前菊地=かゆうまだろ?
234 :
考える名無しさん:2001/05/19(土) 22:45
nazeda
たしかに233の指摘するように理解浅過ぎ。
「公理のようなもの」などと思考停止を図ろうとする時点で失格。
しかも、その歴史的事象を「モーゼの十戒」「怨霊信仰」とするのは相当イタイ。
井沢なんて挙げて、よく恥かしくないな。
哲学板なんだから、せめて見栄でも、エリアーデとかにしとけ。
236 :
ただの人:2001/05/19(土) 22:57
理由なんてないよ
>>100 おそまきながら
マッキー、真っ当な事言ってますね
>>237 あ、投稿されちゃった
だからといって、「存在論的自然主義」とかいうものに賛成したわけではないですよ。
そのうちマッキー読んでレスするつもりです。(本が見つかれば、ですけど)
240 :
名無しさん:2001/05/20(日) 02:17
この種のスレがいつも立ってるのは、
殺人事件が起きたときに手がかりにする目的で
当局の関係者が立ててるんだと思う。
いいかげんこんなのやめましょう。時間のむだ。
>>239 激しく同意(w
つーか、鈍感だよね。この手のスレあげる奴ってさ。
哲学むいてないよ〜(w
時代によって違うので単なる慣習
−−−−−−−−−終了−−−−−−−−−
>>240 (自己れす)
殺人を妙に肯定するものを要注意人物としてマークするのではないかと。
もちろん哲学として語ることと現実に自分がどうするかとは別次元であるはずだし、
そのような言論領域の自由性は官憲からも守られなければならないが。
(あげてしまったのは不覚でした。)
245 :
考える名無しさん:2001/05/20(日) 03:03
242が過去レスを読まず、
スレ名とAGEという事実のみから判断したという
思考の軽薄さを露出しています。
過去レス読めや
246 :
吾輩は名無しである:2001/05/20(日) 16:26
殺すこと自体は善悪の対象ではなくて
その人が死ぬことによって悲しむ人を作ることが悪いんじゃないですか。
だから人を殺したら駄目なんです。と思います。
>>245 死ね。過去レス?読んだよ。その上でレス含めて糞って言ってんだよ。(藁
低能なレスしかないからね。もう一度言う。死ね!
>>242,247
>死ね。・・・糞って言ってんだよ
>・・・もう一度言う。死ね!
過去レスの内容がクソかどうかとは関係なく、貴方の物言いはクソです。
もしわからないなら、あなたはカウンセリングを受ける必要があるかも
しれないです。知人に貴方の書き込みを見せて判断を仰いでみてください。
仰げないなら、貴方は自身の行動に対する正当な評価を内心では下せている
でしょうから、その通りに行動すべきです。
249 :
saori:2001/05/22(火) 02:39
人を殺す前に考えることが沢山あって思いやりなど深く追求していこう。
要は、自分の思いどおりにしたいから、そういう発想になるんだよねぇ。
哲学知ってる人なら、そんなことは解ってるよね。
心の闇にあまりとらわれないよう自己をコントロールしていかなければ
ならないよね。それが答えだと思うけど。
君荒しなのか?
わざわざ終わったスレあげんなよ。
>250
終わってなどいません。
>249
あいまいすぎます。その程度の表現では、saoriさんが結果として
「好ましいあり方」をしている人だ、ということしか読み取れません。
たとえば、「殺す「前」に考えていたこと」の正しさは、因果的には必ず後から
判断されるわけですが、
あなたの表現だと、考えている段階自体がすでに道徳的意義を持ちえているかの
ように読めます。その段階を経て、良くない帰結を生んだ場合があることが
確認されているから、問題なのです。
252 :
軽飛行:2001/05/22(火) 04:27
>>1 自分で全ての責任取れるなら殺しても良いと思ふ。
憎まれようが恨まれようが服役しようが来世でとばっちり受けようが、、、
それでもいいなら好きなようにやれ。
253 :
考える名無しさん:2001/05/22(火) 04:30
どうしてもやりたければ殺すしかないし、それを止めることはできない。
泥棒などと同様の犯罪にすぎない。法律で罰せられるだけで絶対禁止ではない。
どうしても必要ならやれば?
256 :
考える名無しさん:2001/05/28(月) 02:27
何故、このスレををあげてはいけないのか?
257 :
考える名無しさん:2001/05/28(月) 19:30
何度もおなじ問いが反復されるのは、
歴史と個人とが切り離されて在るよりない、その宿命的条件のためである。
人を殺してはいけないという法(したがってそれを包摂する道徳)が
形成されたのは、たんに理性による判断によるばかりではなく、
歴史的な経験への反省に負うところが大きい。
実際に殺し合いを経てきた先人たちはそこから殺し合いの無意味さ、
不毛さ、不利益を学習したのである。
しかれども、後代に生まれる者はその生物学的条件から白紙の状態からスタート
しなければならない。
それゆえ不可避的に個人が歴史の流れから切り離されてしまい、
殺しがいけないのかがいまいちピンとこなくなってしまう。
理屈だけで考えるならば、別にいけないとは限らないんじゃないの、となる。
したがって、ここでわれわれにとって大切なのは、歴史を参照することの重要性を
あらためて確認することである。
しかし、それでも、生まれくる赤ん坊の遺伝子に歴史が組み込まれるようなことが
起こらない限り、人を殺すのは何故いけないか、という問いの反復が
なくなることはこれからもないだろう。
258 :
考える名無しさん:2001/05/28(月) 19:33
>>257 すげぇ意見だ、感動した。
それは戦争にもいえるな。
人殺しが悪いのは歴史的経緯です。
理屈じゃない。
260 :
考える名無しさん:2001/05/29(火) 00:50
幸せになる為だったら、人を殺しても物を盗んでも、何をしたっていいと思う。
人を殺して、警察に捕まって遺族が悲しむのを見て、刑務所の中に入って
それで一生を終えたい人がいるならば、その人は人を殺してもいいと思う。
その人は、誰がなんと言おうが、幸せな一生だったと思って、
幸せのまま死んでいけるわけだ。
ただ、やっぱり人間には心があって、世の中には警察があって、
自由がほしかったりいい人だと思われたかったりして
なかなかそれが幸せだと思える人がいないだけで、
結局のところ、みんな幸せになりたいだけで、
自分が思う幸せの為なら何をしてもいいと思うのですが
自分が死ぬのは最大級の不幸せだし、他人が死ぬのもあんまり好きじゃない。
「殺すなかれ」という律の存在は、わたしの幸せ度をアップする。
だからわたしはこの律を支持する。
その際、殺人者嗜好症者の幸せとわたしの幸せはコンフリクトするが、
そんなことは知っちゃあいない。わたしにはわたしの幸せのほうが大事だ。
262 :
e:2001/05/31(木) 14:10
我々人間は社会と文化の奴隷である。
生まれた時から文化の手によってすくい上げられ、死ぬ時も文化に従って埋葬される。
あらゆる行動が文化的価値観や行動様式に従う。
殺人が許されないとしたら、それはその属する文化が単に殺人を禁止してるだけであり、それ以上のものでない。
多くの発展した文化が殺人を禁止してることから、殺人の禁止はその文化・社会の発展に必要なものなのだろう。
例えば、なぜ人食は駄目かという問いに関しても同じことが言えると思う。
許す文化もあれば許さない文化もある。
その文化の価値観によってあらゆる行動が、善か悪か相対的に決められるのであって、絶対的な善や悪は存在しない。
1が日本人ならあなたは殺人は罪だという価値観をもってるでしょう。
そうでないなら社会から追放されることもありうる。
263 :
考える名無しさん:2001/05/31(木) 14:34
なぜ人を殺してはいけないか?という問いよりも、仮に人を殺したらどうなるか?という問いの方が重要であると思う。過去を十分に考察した上で、さらに先を見る思考力を持つのが大事。
264 :
ななしさん:2001/05/31(木) 14:45
265 :
考える名無しさん:2001/05/31(木) 15:02
>>1 なぜ人を殺してはいけないか?
一つ聞きたいのは
社会にとってと言う意味?
個人の倫理にてらしてかい?
両方かい?
266 :
ななしさん:2001/05/31(木) 15:17
「倫理」という言葉に「社会」という概念が含まれると思うが。
必然的に両方の問題を含むよな。発話者が意識する/しないとに関わらず。
267>265ね。
269 :
サトルの自転車:2001/06/01(金) 15:17
生き物の場合、本能で殺す。
食べるために、狩るために、そこには善も悪もない。
人間も殺すことがある。
ニュース等で見聞きする殺しを見ている限り。それはただ、本能で殺しているのではないようだ。
世間のしがらみや、コミュニケーションの不足、単なる自分の損得。
人間は、自然の生き物にはない、特別な力を持っているようだ。
考えることによって物事に特別な意味を見い出し、それを実行することができる。
すべての物に価値を見い出し、すべてものにとって共通の価値を見い出すことができる。
人間は、殺さないことを選択することができる。
「なぜ殺してはいけないのか?」その答えは俺にはわからない。
だけど、殺さなくてもすむのならば、殺さない方がいいに決まっている。
殺さずに活かす方が、より人間らしいことで、そういう生き方をした方が、人間はきっと幸せになれる。
それは人間に与えられた「特別な権利」であり、「特別な本能」なのかもしれない。
あーあ、誰かツッこんでやれよ、この空虚な作文によ。
271 :
考える名無しさん:2001/06/01(金) 15:50
別に殺してはダメっていう理由はないやろ
あほらし
>>270 切って捨てるぐらいなら誰でも出来るぜ。
下らない煽りは止めて他者を理解する振りぐらいしろよ。
それとも突っ込むぐらいの簡単な事も出来ないのかい?
いや、殺人に限らず所謂生命を失わしめる行為は
みな神の意に添う良き行いなのですよ。
神はこの世界を作ったときに完全に静止していた。
しかしながら悪魔が悪戯をして生命という不安定
なものを世界を破壊する爆弾として仕掛けたのです。
世界を守るために、今すぐ地球全体の核兵器をつかって
全生命をこの世から一掃することこそ神の思し召しです。
>>272 あれは「煽り」ではないよ。おれの正直な気持ち。
それにおれは「他者を理解する振り」などできない。自分のモラルに反する。
逆に言わせてもらえば人を罵倒することなど誰にでもできる。
特に下劣な人間にとってはな。
正直な気持ち、、、か。
いや、気にしないでくれ。
俺のは煽りだ。
277 :
サトルの自転車:2001/06/01(金) 19:45
>273
わからない。
俺は、人間は生きている意味があるし、
自分にも世界にも意味があるという前提でしか、この問題を考えられない。
それは、自分の願望も含まれているということで、真の意味で科学的、哲学的ではないのかもしれないけど。
宇宙的規模と、時間の中では、人間の絶滅ぐらい大した問題ではないのかもしれないけど。
だとしたら、自分が生きていることには何の意味もないし、
思考する必要も、哲学する必要もなくなってしまうんじゃないかな?
悟りというものを体得した人にとっては、自分の幸せや、命なんて大した問題ではないのかもしれないけど。
俺達は死ぬことは出来ず、この世界のすべてを悟っているわけでもなく、中途半端に生きている以上、
世界にも、命にも、自分にも価値があるという前提で考えることが、自然じゃないかと、
俺は思います。
278 :
田中洸人:2001/06/02(土) 19:58
279 :
考える名無しさん:2001/06/02(土) 21:36
もし自分にとって大事な人間が殺されたら殺し返すと思うよ。
だから殺されたくないなら殺すな、ってのはどうだい?
280 :
考える名無しさん:2001/06/02(土) 21:39
それはありがちな間違った意見です。
過去スレちゃんと読んで。
別に間違ってはないぞ? 何言ってるんだ。
283 :
愛と死の名無しさん:2001/06/04(月) 00:20
当たり前じゃん?
284 :
考える名無しさん:2001/06/04(月) 00:51
>>277 実存主義ですね。私も理想として同意です。
285 :
考える名無しさん:2001/06/04(月) 03:03
社会性の維持。
286 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 00:23
何故社会性は維持されないといけないのか?
とさらに問を立てるのが哲学的思考です。
287 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 00:55
どんなものにも、どこまででも問いを立てることは出来る。
288 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 00:56
てゆうか社会の維持が道徳の主目的なんでわ
「社会は必要か」という別スレが必要なのかも〜
290 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 02:29
場合によっては人は殺してもいいんだよ
291 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 02:31
殺されたくないから殺さないというのも変だな。
殺した方が殺されない可能性が高くなることがありうる。
「自衛の殺人」は許容範囲でしょ?
殺されたくないから殺さないが
殺されそうになったら殺す(可能性もある)
294 :
考える名無しさん:2001/06/05(火) 03:30
>>291 相手から殺されなくなっても、その遺族・知り合いから
殺される可能性がある。つまり、仇討ちの連鎖。
殺さなければ殺されない可能性が高い。
が、殺されそうになったら殺す可能性もある。
296 :
みかわけんじ:2001/06/05(火) 03:36
ころせばぁ〜。いいんじゃないのぉよぉ。
どうでもいいが、正当防衛なら殺してもいいとか
そういうことをわざわざ書くなよ。
そういう事を確認したがる奴に限ってどこかで
歪んでるからな。
ゴメソ >297
>勝手に気の済むまで遡って考えてろ(藁
(゚д゚)ハァ?
マアマア。
でも「別スレつくれ」に一票。収拾つかなくなる前に。。。
302 :
考える名無しさん:
kusoage