カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じ

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1記憶喪失した男
カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じことをいっているのではないでしょうか。
わたしは脱ヨーロッパ中心歴史観を目指しており、カントの哲学を仏教が先取りしていたのなら、
大成果なのですが。

カントの「純粋理性批判」を読みましたが、
カントははっきりと、物自体は認識できない物質そのものだといっています。

それに対して、仏教は少し旗色が悪いです。いわゆる色即是空といっています。
色が認識を示し、カントと同じであるなら、空は物自体を指すはずなのですが、
空というともっと虚ろな印象を受けます。まるで唯心論のようです。

詳しい人の検証をお願いします。
2考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:18:47.15 0
記憶喪失したんですか、大変ですね。
3考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:27:58.16 0
むしろ色が物自体で空が無認識です
4考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:30:37.30 0
諸法無我は三法印の一つでより正確に言うと「法(ダルマ)」なんじゃないか
5考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:35:24.29 0
んなこと言ったらラカンだって岸田秀だって「物自体」に相当するような概念出してるじゃない。
6考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:38:19.68 0
ダルマについては玉城康四郎を読め
仏教の根底にダルマがあることがわかる
7考える名無しさん:2012/06/08(金) 08:49:22.31 0
空は縁起説で縁起つまりカント的に言うと因果律のカテゴリーの話じゃないか
8考える名無しさん:2012/06/08(金) 09:29:41.57 0
ここまで全部無職波○の自演
9考える名無しさん:2012/06/08(金) 10:13:47.75 0
最近の発狂する波平の勇姿ってどこ?
10リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 10:20:20.00 0
>>1
あきらかに純理読んでないな
超越論哲学を学んでからいえ
11リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 10:24:58.93 0
別にカントが超越世界を発見したのではないぞ。
超越を論理的に枠組みして語る方法論を提示しただけ。
だからむしろ認知科学に似ている。
12考える名無しさん:2012/06/08(金) 10:35:34.39 0
>>11名前:リーマン小太郎
>超越を論理的に枠組みして語る方法論を提示しただけ。
>だからむしろ認知科学に似ている。

ピンとはずれ。
カントは物自体は認識の対象にはならないと言っている。
認識に関しては、物自体は、単なる「限界概念」。
物自体は、実践理性の領域で重みをもつものだ。
13リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:01:06.16 0
>>12
重要なことは、認識できないことを示したことでなく、
あるということを神的でなく、(言語論的)理論的に示したこと
14リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:04:10.92 0
超越論哲学とは、そういう意味
15リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:07:48.30 0
まあ、カントは超越論哲学とはいってないが
16考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:11:40.78 0
>>13-14
全然違います。
「超越論」は、カントでは普通「先験的」と訳す。
「先験的観念論」は、「現象」がアプリオリに認識される仕方を示している。
「現象」であって、「物自体」ではないよ。
17考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:16:40.69 0
物理学でいうと具体的にどういう事態を指しているんでしょうか。
18リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:20:57.48 0
>>16
だから限界を規定することであることが示される意味での認識として、
超越論哲学と呼んでる。
19考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:21:56.30 0
>>17
物理学(自然科学)が扱う対象は、カントのいう「現象」です。
大雑把な言い方をすれば、「物自体」そのものに関わるのは、宗教など。
20リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:24:26.30 0
>>17
ヒモ理論とか、もはや実証できないが、数学的に延長として「認識」される。
もの自体な近いかも
21リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:29:35.04 0
>>19
もの自体を宗教と呼ぶと、カント以前だろ
純理の本質は言語論理の限界を認識の限界としたところ
だから超越「論」哲学
22考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:29:47.70 0
>だから限界を規定することであることが示される意味での認識として、
>超越論哲学と呼んでる。

意味不明
23リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:31:44.56 0
>>22
純理な後半読んでないか?
24考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:32:58.28 0
>>21
「言語論理の限界」が認識の限界ではない。
認識の限界は、感性的直観が与えられるかどうか、ということ。
そこが重要なポイント。

>もの自体を宗教と呼ぶと、カント以前だろ

カント自身、それを道徳と宗教の領域としている。
25リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:37:28.15 0
>>24
後半よめ
純理の本質は言語論だ
それがなければたいした本ではない
26考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:44:46.37 0
>>25 名前:リーマン小太郎
だいぶ勘違いしているね・・・

たとえば「先験的弁証論」の、有名なアンチノミー論は、
定立の側が宗教の立場をあらわしていて、反定立の側が自然科学の立場をあらわしている。
カントが「現象」と「物自体」を峻別したのは、
宗教と自然科学に、それぞれの場所を割り振ることによって、このアンチノミーを解決しようとしたから、とされています。
「現象」と「物自体」を峻別、そして「科学」と「宗教」との峻別、ここがわからないと、
「純理」を読んだことにはならない。
27リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:49:18.56 0
純理はいまでいう認知科学的な分析までをカントがあーだこーだいって、
いいたいほうだいだ
しかし純理は最初に論理学的限界から認識の限界についての枠組みがあり、
それを肉付けするようにほどよく認識論が作られている。

純理ではなぜかこの順番が入れ替えられている。
28リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 11:53:36.26 0
>>26
論理学からくるアンチノミーの片方が宗教(超越)?
なんかメチャクチャだな
29考える名無しさん:2012/06/08(金) 11:55:23.58 0
>>1
カントについては西田幾多郎が仏教的というか東洋的な立場
からぐだぐだといろいろ述べておるよ
30考える名無しさん:2012/06/08(金) 12:01:46.90 0
>>28
哲学史の基礎レベルですw
宗教と科学、と書いたけれども、より具体的には、キリスト教とニュートンの対立。
例えば第三アンチノミーで、必然性を主張する立場は、物理学的立場だね。
31考える名無しさん:2012/06/08(金) 12:06:57.21 0
カント読んだ今からふり返ると読む前に思ってたよりはるかに宗教の人だよ
32リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 12:21:07.57 0
>>30
超越言説から超越論哲学の転回はなにかってことだよ。
宗教的なんでもありドグマの排除でしょ

ここには認識をニュートン力学的に基礎付けたいという考えがある。
その方法が論理であり、アンチノミーによる言語認識の限界
33リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 12:22:34.01 0
>>31
そりゃニュートンでもそうだから
34考える名無しさん:2012/06/08(金) 12:26:27.10 0
もちろんカントは偉大だが最近はライプニッツのほうがすごいんじゃないかと思うようになった
カントも追う所は大きい
35考える名無しさん:2012/06/08(金) 12:30:40.31 0
>>32 名前:リーマン小太郎
>その方法が論理であり、アンチノミーによる言語認識の限界

『純理』の「超越的論理学」に、
「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である。」という有名な言葉がある。
小太郎氏は、ここが分からないのだろう。
ここで「思惟」とか「概念」と書いてあるのが、小太郎氏の言う「論理」だよ。
言い換えれば「カテゴリー」。

カントの認識論の基本は、「直観」と「概念」との協働によって「認識」が成立する、ということ。
そのどちらが欠けても、「認識」は成立しない。そのことを上の言葉は示しています。
「論理」だけでは、理性は空回りして(上の言葉では「空虚」)しまう、ということ。

36考える名無しさん:2012/06/08(金) 12:41:25.72 0
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070926#1190746348
http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/6193145.html#comments
>拙著「応用神学」の見えなかったものを可視化する能力は道教の4倍以上はある,と自負しています。是非御読みになってください。
37考える名無しさん:2012/06/08(金) 16:01:54.35 0
>>1
違うと思う。カントは概説レヴェルでしかしらないが、
仏教の縁起は西洋思想とはレヴェルが違うから。

恐らくカントは、ピュロン、セクストス・エンペイリコスを通して
間接的に仏教の影響を受けていると思われるけど、
全然、不徹底で話にならない。
38リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 16:14:35.84 0
>>35
ヒント アプリオリな総合判断
39リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 16:17:58.71 0
>>37
いや、カントと仏教をいう前に、形而上学の源流プラトンと仏教はどうかという
レベルの話だと思う
40考える名無しさん:2012/06/08(金) 16:20:59.03 0
あらゆる議論以前にそもそも、AとBは同じであると論理的または科学的に論じることよりも、
AはBのように素晴らしいのである、AではこれからBの威光を使わせてもらう、
というような「利権」確保的な物の考え方が根底にありそうなんだよ。
41リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 16:33:06.50 0
そもそも形而上学の領域において
インド宗教の系譜を次ぐ仏教と、
プラトンに毛が生えたカントを比べるって、レベルが違いすぎる。
42リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 16:35:37.17 0
>>40
カントの話?
もの自体は絶対真理の領域だからね
43考える名無しさん:2012/06/08(金) 16:46:06.65 0
>>39
そう思います。合わせただけ。
それなら、自信をもって、パルメニデス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスは、仏教の形而上学の一部しか捉えられていないと断言できますよ。

これはハイデガーやウィトゲンシュタインが格闘していたことで、
要するに同一律やライプニッツの問いに集約できると思います。

それを仏教はやすやすと超えています。
44リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 17:03:45.94 0
>>43
だから形而上学でインド宗教に比べて、西洋哲学は赤子どうぜん。
45リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 17:07:51.10 0
西洋哲学の形而上学はピタゴラスで止まってるんだし、
カントからは形而上学そのものより、認識の限界の向こうとして、否定神学と語るだけだから
46考える名無しさん:2012/06/08(金) 17:11:02.27 0
>>45
キミ、学歴低いでしょ?
47考える名無しさん:2012/06/08(金) 17:42:53.83 0
>>42
カントと絶対領域
48記憶喪失した男:2012/06/08(金) 18:28:01.93 O
おや、物質を認識することはできないのは明らかかと思ったのですが、まだ議論があるのですか。
わたしとしては、認識が物自体に与える影響や、認識と別の認識が会話できることについてまとめるべきだと思うのですが。
今、アク禁なので書きづらいのです。
49記憶喪失した男:2012/06/08(金) 18:42:46.29 O
純粋理性批判は、カントの主題は神の存在証明だと思います。それに成功したかは疑問ですが、現代における価値は物自体への言及だと思います。
50考える名無しさん:2012/06/08(金) 18:50:22.62 0
ラカンとウィトの理屈を駆使して有耶無耶に勉強不足を誤魔化し
自分の土俵に引きずり込むというリーマン小太郎のいつものやり方。
本当はカントすら真面目に読んでないだろうに。
51リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 18:56:06.83 0
>>49
現代的価値がもの自体?
どういうこと?
52リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 18:57:40.89 0
>>50
ラカンとウィトの理屈?
たとえば?
53記憶喪失した男:2012/06/08(金) 18:58:59.23 O
仏教に詳しい人は、諸法無我の根拠となる経典の名前教えてください。
いまいちはっきりしません。般若心経では原典でないです。
仏典は三万あるらしいですが。
54記憶喪失した男:2012/06/08(金) 19:02:18.02 O
>>51
物自体が認識できないことはわかる?
55リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:10:45.59 0
>>54
なんとか
56リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:19:19.52 0
ポストモダンを経過した現代でカントのもの自体の重要性ってなんだろ?
カラ谷的他者論?
57記憶喪失した男:2012/06/08(金) 19:20:09.01 O
おれは大学で学んだハイゼンベルグの「すべての科学は近似にすぎない」というところから物質は認識できないということに至ったんだけど。
青色という色は電磁波にはないわけ。
眼球が電磁波で興奮して色付けして始めて青色は誕生する。
ここで電磁波が物自体で、青色が認識だ。
58リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:22:47.18 0
>>57

59リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:25:24.65 0
>>57
入門書でいいからカントまなぼうな
60記憶喪失した男:2012/06/08(金) 19:27:54.00 O
で、仏教の色が青色で、空が電磁波なら大成果たが、
いまいち賛同者がいない。
61記憶喪失した男:2012/06/08(金) 19:29:58.84 O
おれのどこがまちがってる
62考える名無しさん:2012/06/08(金) 19:30:52.92 0
フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。
それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、
超越論的な心理学である。その観点からみれば、
カントが超越論的に見いだす感性や悟性の働きが、
フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、
しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、
よりカント的である。
仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。
むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。
(「トランスクリティーク」p59)
63リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:37:23.28 0
>>61
間違ってるというか、難しいな
もの自体の電磁波ってなに?
科学的な周波数はかっても一つの表記でしかない
64考える名無しさん:2012/06/08(金) 19:40:05.97 0
>>1
「色即是空 空即是色」の色とは、すべての物事であり、これは西洋哲学の主体的認識に
該当する。「空」の解釈には種々ありますが、「空」の現象を構成する因縁の関係が空である。
又は、無我の存在が空であるとか、空の本質は無自性空である等、種々の解釈がある。
共通している事は、「空」とは、「無我」であり、主体的認識(精神)のない存在であり、
客観的存在(自然的=物質)と言う事ができると思う。

日本仏教の今後の方向性として、西洋哲理との比較分析は重要な意味を持っている。
現代哲学に於いて、西洋哲学の二元論(精神と物質)は、一種の行き詰まりの状態にあると考えられる。
その壁を打ち壊す意味に於いても、仏教哲理を西洋哲学の視点より考察する事が必要であると思う。

例えば一例として、ギリシャ哲学に於ける第一実体を色(主体的認識)とし、第二実体を空(全体=自然)
として考察してみる。又、実存主義に於ける本質存在(空)とし、現実存在(色)として考察する。
この様に視点を変えて考察することにより、仏教哲理と西洋哲理の、共通点と融合点が見つかる可能性が、出てくると思う。

65記憶喪失した男:2012/06/08(金) 19:43:19.70 O
確かに物自体から電磁波だけをとりだすのは主観が混ざってるけど、
きみは何がわからないの?
66リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 19:55:14.40 0
>>65
とりだすとかではなく、電磁波という考えが認識法

カントのもの自体はヘーゲルに批判されるなど、ドクマな概念といわれる。
すなわちいらないだろと
67記憶喪失した男:2012/06/08(金) 20:06:03.91 0
>>64
まさに期待通りの解答である。
しかし、これを仏教寺院が認めるだろうか。
悟りを解明されることを恐れ、受け入れない可能性も高い。
みんなが>>64のようにいってくれると非常に助かる。

>>66
カントが正しく、ヘーゲルがまちがってるんだろう。
物自体が存在するだろうというのは信仰にすぎないが、世界の主流派であると思う。
ヘーゲルを読んだことはないので失礼だが。
68リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 20:17:30.41 0
仏教と哲学の偏狭な共通点を探して何の意味があるかわからんな
仏教の実践切り離して論理を取り出してもなんか意味あるの?
69考える名無しさん:2012/06/08(金) 20:30:18.25 0
>>53
『ダンマパダ』279
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=80&mid=278070

『ウダーナヴァルガ』12-8
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=71&mid=208565

『八千頌般若』11章
traidhAtukaM zUnyaM sarvadharmA anAtmAnaH |

『菩薩地』『仏教要語の基礎知識』旧版146はこれに基づいているようです。
anAtmAnaH sarvadharmA iti dharmoddAnam

龍樹菩薩『宝行王正論』2-2
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=69&mid=117024

世親菩薩『倶舎論』1-39
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=63&mid=118258

『大乗荘厳経論』18-101
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=85&mid=284926

Varṇārhavarṇastotra
https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=record&view=record&vid=197&mid=444706

とりあえず、こんなとこで。
70考える名無しさん:2012/06/08(金) 20:31:31.66 0
68 名前:リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/08(金) 20:17:30.41 0
仏教の実践切り離して論理を取り出してもなんか意味あるの?

波平さんはニートらしいですが、自らの実践切り離して文字を取り出してもなんか意味あるの?
71考える名無しさん:2012/06/08(金) 20:36:05.85 0
>>64
>「色即是空 空即是色」の色とは、すべての物事であり、これは西洋哲学の主体的認識に
>該当する。「空」の解釈には種々ありますが、「空」の現象を構成する因縁の関係が空である。
>又は、無我の存在が空であるとか、空の本質は無自性空である等、種々の解釈がある。
>共通している事は、「空」とは、「無我」であり、主体的認識(精神)のない存在であり、
>客観的存在(自然的=物質)と言う事ができると思う。

 空は知覚・姿・形だけで中身からっぽ、実体、本質、アルケーがないという意味。
 仏教では知覚・姿・形は、自立的に実在するものではなく、過去の業と世俗の言い習わし(ラング、言語ゲーム)が結びついて、
仮設(ラベリング、表示、仮象)された幻のようなものと捉えます。

72考える名無しさん:2012/06/08(金) 22:22:09.11 0
>>71
「空」は中味からっぽ、本質がないと述べていますが、>>64で「あらゆる
現象を構成している因縁の関係こそが「空」である。」と述べている。私は、この
因縁こそが空の本質であると思う。経典に書かれている文面の奥にある真意を現代的
に創造的に考察する事も必要と考える。 私はこの空に於ける「現象を構成する因縁」を
西洋哲学の、ベルグソンと対比してみた。ベルグソンは存在に対する認識には、二つの方法が
あると述べている。第一の方法は、視点により限定を受ける記号(言語)による固定化を免れない
認識である。第二の方法は、観点(前提)にも記号(言語)にも依存せず、無媒介的に、事物の内に
這入りうる、絶対的な認識である。」と述べている。

この第二の「認識」が、仏教に於ける「空」の本質である「因縁」に類似していると考えています。
ベルクソンの第二の「認識」が西洋哲学では、「直観」と言われている。
73考える名無しさん:2012/06/08(金) 22:28:32.80 0
>>72
ベルクソンは確かに西洋思想の中で仏教に接近するものだと思います。

ですが、絶対的な認識が空という捉え方は間違いですよ。

その方法だとパルメニデス・プラトン以来の現象/実在解釈になるでしょう。
現象/実在という捉え方は、インドではマーヤー/アートマンなどという記号で捉えられてきました。
しかし、そういう捉え方はパーリ『梵網経』以来、勘違いと捉え、解脱に至らない道と捉えるのが仏教です。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html
74記憶喪失した男:2012/06/08(金) 23:00:04.36 O
輪廻とか解脱はどうでもいいです。
諸法無我あるいは空が物自体か虚無かを論じてくれると嬉しいです。
75考える名無しさん:2012/06/08(金) 23:07:42.12 0
>>74
どちらでもないですよ。
そういう発想が、有無という論理形式でしか考えられない西洋形而上学、論理学の網に囚われている証拠です。
といって「有でも無でもある」のでも「有でも無でもない」のでもありません。


76考える名無しさん:2012/06/09(土) 03:26:42.62 0
自分はどんどん西洋哲学にリンクさせるのはありだと思ってる
なぜなら何か真理があるならそれは洋の東西を問わぬはずだから
77考える名無しさん:2012/06/09(土) 04:15:26.28 0
「空」「無」なんてのは否定神学
78考える名無しさん:2012/06/09(土) 07:05:22.02 0
>>76
リンクさせるのはありだが、 >>77みたいのは三十センチの物差しで、
太陽を測って仏教は二センチだの三センチだの言ってるようなもの。
79考える名無しさん:2012/06/09(土) 07:46:38.83 O
哲学者は「有」「無」「空」といった言語的実体・表象的実体(思考時間・思考空間のどこかに位置するもの)に興味が無い。
関係・力作用・構造をひたすら思考することに価値がある。

西洋哲学は思考対象を重視した、東洋哲学は思考そのものを重視した。思考は同じ
80考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:00:47.09 0
西洋哲学対東洋哲学、馬鹿は俗説ラベリング好きだね
81考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:31:25.64 O
例を出して言えっつってんのに、例を細かく分析してばっかでなかなか例えられず、さらには意訳のできない残念な奴は使えない
82考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:33:57.79 0
>>79
>哲学者は「有」「無」「空」といった言語的実体・表象的実体(思考時間・思考空間のどこかに位置するもの)に興味が無い。

 ほんとか? 空はともかく有無はパルメニデス以来ずっとテーマで、その短慮の限界にやっとニーチェ・ハイデガーあたりが気づいたってかんじじゃないか?

>関係・力作用・構造をひたすら思考することに価値がある。

 西洋思想は、どうなってるかばっか考えてるように思うけど、仏教は基本的にどうすべきかを述べる。

>西洋哲学は思考対象を重視した、東洋哲学は思考そのものを重視した。思考は同じ

 仏教は思考なんか重視してないよ。先ずはアナタが仏教・東洋について情報不足であることを自覚すること、そこからしか始まらないでしょう。
83考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:46:04.89 0
いちいち自問自答して監修をいれてくれるのを待ちつづけるスレ
84考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:47:43.07 0
>>83
哲板ってこういうヤツが多いんだよなあ。

前も自演とか言われたし。2ちゃんらしいといえば、らしい。
85考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:47:56.83 0
>>83
たまに監修いれる奴がいてもニート学生とかひきこじじいとかだからもうぐちゃぐちゃだろうねw
86考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:49:53.91 O
経験しなければわからないことについて、経験的解を出そうと考えても無駄…無記

(実際的な)「死」後どうなるのか?…経験的事実を問う、不可知に対する執着
(概念的な)「死」後どうなるか?…推論可能な問い

前者は否定されるが、後者は否定されない(派生した新興宗教を除いて)


判断・意思決定・過去経験に対して思考するのは迷いだから無駄
87考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:50:06.88 0
>>84
あさっぱらから新スレ立てたみたいですねw

【3:1】■禁欲の系譜 1beチェック
1 名前:リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY 2012/06/09(土) 08:45:07.71 0
なぜ人は禁欲するのか。
禁欲とは洗練である。
禁欲が洗練であるのは禁欲が自己管理術であるからだ。
88考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:51:33.41 0
>>84

禁欲の系譜 1 ← 2まで保守するつもりですか
89考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:57:23.57 O
「犬」の像には何の価値も無いでしょ?
むしろ、その知覚的に限定された像が、流動的な思考や自由な感性を引きずり束縛させる。

思考に役立つのは、それの機能や役割、関係性
90考える名無しさん:2012/06/09(土) 08:59:12.63 0
>>86
そりゃ、完全な誤解だ。

確かに知覚可能なことしか仏教は認めないが、知覚可能なことは必ずしも凡夫の常識、コモンセンス、ボン・サンスではない。

仏教は最初から最後まで輪廻とか変わってるよ。一部のアホ学者がいうような輪廻と無我は矛盾するとか、仏教は輪廻思想からの解脱というのは単なる現代への阿諛としての詭弁以外のなにものでもない。
91考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:00:08.70 0
>>87-88
その人とは全く関係ないんだが
92考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:03:31.10 O
主が西洋vs東洋!って分け方をしてるなら、その分類法を読み取って模倣するのは、コミュニケーションには結構重要なんだよね

顧客から電話が来て、その独特の言語使用・分類法を否定する人なんて居るの?
93考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:07:34.07 O
あらゆる座標系で一定なもの、無我無常なものなーんだ?
有我常駐ならばそれは座標系によって相対速度が変わる
94考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:07:46.83 0
>>92
というか、言葉はみんなそんなもんでしょ。
単なる過去の習慣による、適当な分類への適当な共通認識に基づいて話してるだけ。

ソクラテスあたりが、勘違いして本質追求しちゃったから、
言葉の対象が一義的で揺るがないと勘違いしてる人が西洋系思考者に多い。
95考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:10:33.15 O
輪廻思想はシステム・シンキング
96考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:11:43.32 0
>>95
輪廻は思想じゃなく、聖者の直接知覚なんだけどね〜
仏教にしろ、ヒンドゥーにしろ。
97考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:17:39.29 0
リーマン小太郎=第三の波平=哲板に10年以上常駐している煽りのプロ
このコテにずっと名無しで粘着叩きしてるのが純一

過剰にリーマン小太郎叩きしてるやつは間違いなく純一だから
出来るだけスルー推奨。
98考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:26:17.98 0
>>94動的平衡の類いか
マクロに空間とか力とか質量とか考えても、ミクロでは化学物質しか無い的な

たんぱく質が存在するって考えても、指示したそれは既にたんぱく質じゃなくなってる
じゃあ、空間を考えるとき何かを指示しているだろか
99考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:32:52.28 0
>>97
叩くのは勝手だが、乱射して誤爆するのはやめちクレヨンしんちゃん
100考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:36:55.00 0
概念「愛」は一義的である。どの観測者にとっても絶対的である。
↑(ある社会的に使われている音声・文字記号「愛」があり、その使われ方から抽出した)を付け加えてもいい。

ある音声・文字記号「愛」は社会的に一義的でない。観測者によって解釈が異なる。

どっちも正しくね?
101考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:43:37.94 0
>>96
直覚したから正しい?
or
他の思想を含むことができるから正しい?
102リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/09(土) 09:46:24.68 0
>>96
直接知覚?
古代インドから続く思想でしょ

宗教のもっとも大きな役割は、死の恐怖への回答
その意味で輪廻はすごいよい
発明は古代インドでも、その利便性から
プラトンにまで普及した

キリスト教の終末思想までは
103考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:48:34.55 0
>>102
死なんて存在しません!っていう宗教ってある?
104リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/09(土) 09:49:21.82 0
>>103
ない!
105考える名無しさん:2012/06/09(土) 09:56:32.51 0
死んでから妻のことが心配な人を、死んでから新しい面白いゲームができなくなくなると嘆いている人を
安心させるためには、どんな死の思想が一番ですか?

終末?輪廻?永劫回帰?その他?
106考える名無しさん:2012/06/09(土) 11:12:14.44 0
>>90
いや如来なんて直接知覚不可能でしょ
107考える名無しさん:2012/06/09(土) 11:19:57.71 0
浄土も直接見られるわけじゃない
いわば二世界論でグノーシスに近い
108リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/06/09(土) 11:31:49.87 0
>>105
何人?
109考える名無しさん:2012/06/09(土) 13:54:44.91 0
>>100
>概念「愛」は一義的である。どの観測者にとっても絶対的である。
>↑(ある社会的に使われている音声・文字記号「愛」があり、その使われ方から抽出した)を付け加えてもいい。

>ある音声・文字記号「愛」は社会的に一義的でない。観測者によって解釈が異なる。

こういう考えは記号か意味・対象か、どっちかが本質で自立・実在してると考えてるからでしょ。
意味・対象が本質と考えると前者、逆なら後者。
そうではなく記号も意味・対象も、適当な習慣によって曖昧に成立していて、緩やかに結びついてるだけ。

>>101
真偽を言ってるんじゃないだが

>>102
そう捉えるのは文献学者の一部。インドだと聖者の直接知覚。
少なくとも仏教は釈尊以来そう。

>>106
そりゃ、二重に誤解してるだろ。如来の死後は無記で、如来が知覚不可能でも死後が知覚不可能でもないぞ。


>>107
浄土も聖者には直接知覚なんだは。
110考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:04:52.84 0
何でも見える・見えるものだけ信じるっていう仏教解釈は極端すぎる
111記憶喪失した男:2012/06/09(土) 14:09:26.34 O
おまいら、見えないものについて語るこのスレで何いっとんじゃあ
112考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:24:48.47 0
仏教とカント哲学を架橋する→ショーペンハウアー嫁
113考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:35:43.13 0
>>112
全然だめだしショーペンハウアーの仏教理解

西洋の仏教理解はやっと二十世紀最後にまともになったんで、それまでは全然ダメです。
文献学者は未だにダメだし。ちゃんとしてるのは伝統僧についてちゃんと修行もした人。
たとえばマチウ・リカールとか。
114考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:43:10.98 0
チベット密教はチベットでの展開込みだろ
もちろん参考になるがそれが仏教のすべてではなかろう
115考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:50:16.12 0
>>114
ゲルクは全くそうだが。他は違う。実にインド大乗の正当な継承者だとおもう。
形相は縁起するものだから、そこを視ては分からないよ。
それにビルマ・タイ仏教や禅宗の影響も否定できない。

スリランカはどうも現代日本のように単なる文献学っぽいが。
116考える名無しさん:2012/06/09(土) 14:52:06.30 i
論理能力が無いから説明はできないけど全然違うくね?
諸法無我は、それをもって本当に全てが"無い"と言ってるわけじゃないだろ
現在の純粋な知覚に浸潤するようなイデア的なものの実態が無いと言ってるだけでさそもそもこれって方法論に過ぎないし。
物自体が無いって言ってるのが諸法無我?でもそもそも物自体だってそれが不可能だという文脈で用いられるよな?
やっぱよくわからん
117考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:02:02.61 0
>>116
いや、だから現象は姿・形が見えて知覚できても、それは仮設(ラベリング)で中身からっぽで本質・実体がないという意味が、
諸法無我なんだが。

これは通仏教的に一致していて異論はないよ。まあ、文献学者には異論があると思うけど。
118考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:03:37.14 0
>>116
理解のレベルでしか物事を捉えられない君には無理。
119考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:10:29.55 i
言語が慣習によって成立してるっていう条件反射説は日常的実感とはあまりにも乖離していて受け入れ難いもんがあるな
実際、俺たちは初めて見た単語の意味を想像から理解することができる
この事例を慮れば、「言語の指示する意味なんてものは全く無い、あるのはいい加減な慣習だけ」なんて極論は通らないはず
120記憶喪失した男:2012/06/09(土) 15:16:34.14 O
だよね。
お坊さんはものごとの本質は実体がないと考えてるよね。
つまり、物自体を信じてないよね。
ここが最大の論点で、おれは物自体を信じてるんだ。

それならば、ニーチェのごとく、仏教は邪教です。と主張せねばならない。
121考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:16:41.40 i
その本質=実体が人間による意味形象であって、その意味形象が「場」として指し示す生々流転の相を無い(ということを言葉で伝達すれば破綻するが)と言ってる訳じゃないだろ

>>>118
この通り、理解のレベルを越えようとはしてるんだ。まだ難しいけど
122考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:20:56.24 0
>>119
それはあるラング、言語ゲームの中にいるから、それら習慣の中である程度固定された記号を、
諸記号との関係から意味を推理するからでしょう。実際、記号の意味はそういった諸習慣の関係から適当に生成すると考える。

>「言語の指示する意味なんてものは全く無い、あるのはいい加減な慣習だけ」

とは言ってない。言語の指示する「自立・実在した」意味なんてものは全く無い、あるのはいい加減な慣習によって「生成・縁起する意味」だけと言い換えれば、だいたい同じこと。
123記憶喪失した男:2012/06/09(土) 15:21:27.82 O
つまりは、認識は物自体を知覚できないけど、物自体に近似するのはまちがいないんだ。
124考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:24:18.54 0
実体的なものがあるという実在論がが半分でないという反実在論が半分だろう
たとえば小乗は説一切有部といういっさいは有(実在)の立場
125考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:26:58.79 0
龍樹や彼を受けた中観派は説一切有部への対抗上やや行き過ぎたと思う
126考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:32:33.94 i
>>122
しかし「木」という言葉自体はそれが指し示す木が成熟して枯死しても不滅だよね。
同時に「木」という言葉が喚起させる「木」のイデア的なイメージも不滅だよね。
その意味で「木」という言葉から、実体としての木が指示されるまでに

1.「木」のラング/ 2.「木」の表象 / 3.指示された実在的な場としての木

の3つの層を通過することになる。
問題は1と2が同一のものではないかという疑念だけど、
言葉の上で千一角形と千角形を区別できても、
イメージの操作の上では両者を区別するのは困難なことからもから1と2が同一のものとは言えないのではないか
127考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:35:12.14 0
>>123
というか、仏教は物自体、実在を認めない。
これは虚無ではない。知覚も認めるし、対象の妥当な作用も認める。
しかし、それらの形相は仮設で、無我(本質・実体はなく)空性(空っぽ)で幻のようなものとする。
その幻を実体・本質と捉える習慣が苦の因だとして、

それを除くために三宝に帰依し、戒定慧の修行をするわけ。
戒は、悪い行為を抑制し善い行為を行うとともに散乱するような行為も慎む。
悪いとはその行為の結果、苦がもたらされることで、具体的には他を害すること。善いはその逆。
定は精神集中で、禅定・三昧のこと。
この集中力を身に着けて初めて、縁起観によって諸現象には実体がないことを直接知覚し、
智慧が生じ、それによって現象に執着しなくなり、悪い心の働きがなくなり、解脱する。

というのが大まかな筋道です。
128考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:36:56.88 0
>>127
それは中観派的な仏教ですべてではない
129考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:37:23.89 0
>>124
それらとか唯識とかは、方便だから。


>>125
別に対抗したわけではないよ。
龍樹菩薩は、釈尊の教えそのものだよ。
そう思わないのは、文献学者が実在論的にアーガマ・ニカーヤを読んでいるだけのこと。
130記憶喪失した男:2012/06/09(土) 15:43:22.31 O
わかった。
物自体と諸法無我はちがう。
仏教は過去の遺物だ。
131考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:45:01.34 0
>>130
そうなるか。まあ、どうぞ〜
132考える名無しさん:2012/06/09(土) 15:45:37.38 i
「何もない」という教えこそ方便だったのではないのか
般若心経全体が修行者を悟りの導くための徹頭徹尾道具的な思考様式だったからこそ
般若心径の中で、龍樹は仏陀の口から直接出た教えさえも否定するようなそぶりをする必要があったんじゃないのか
133記憶喪失した男:2012/06/09(土) 15:49:43.88 O
ひとつ確認するが、
シッダルタがいったのは諸法無我で、
空といったのは後世の仏僧だな
134考える名無しさん:2012/06/09(土) 16:03:25.54 i
仏陀の教えってのは、
五蘊とか四諦の方ね。一応。
135考える名無しさん:2012/06/09(土) 16:06:47.18 0
>>134
それは方法(過程)の術であって、本当の教えではない。
136考える名無しさん:2012/06/09(土) 16:14:28.42 i
まぁそうだろうな。ところで本当の教えってあるのか?
それが諸法無我だってことか。でその意味内容は言葉を越えていて誰も正確には把握できないと
137考える名無しさん:2012/06/09(土) 17:20:37.26 O
社会的言語や対象指示言語なんてのは言語ゲームとして自明じゃん

それよりも
個人が、思考によって新たな考えを生み出し、それを恣意的に言語化し、その言語をまた思考に利用する。その言語の意味はどうなん?
138考える名無しさん:2012/06/09(土) 17:24:04.00 O
実体が無いから苦痛でない←これ、統合失調か何かではないの?
139考える名無しさん:2012/06/09(土) 17:45:27.14 0
不可知であるが実在していると考えねば非合理に陥るのが「物自体」
それは実体であるともないとも言われていない

「諸法無我」は常住不変の実体はない、という主張だったはず

さしあたり遠い議論であると言わざるをえない
140考える名無しさん:2012/06/09(土) 17:49:12.89 0
哲学サイドでは黒崎宏が中観派・言語ゲーム論だね
でも哲学全体的にはやはり言語哲学派は一部にすぎない
141記憶喪失した男:2012/06/09(土) 19:53:45.22 O
ところで、0という概念がインドで発明されたのはいつだっけ?
これと空が混同された可能性はある。
四元素説に空を入れ、五元素にしたのもインドだった。
142考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:09:43.74 0
>>132
「何もない」と断定してるのではないよ。

A, 非A, A∧非A, 非{A∧非A}という四つの論理形式による何らかの断定、承認、認識という戯論(妄想分別)を鎮める道としての
〜でないという表現なわけ。

その意味では「般若心経全体が修行者を悟りの導くための徹頭徹尾道具的な思考様式」というのは正解。
それは般若経だけではなく教えすべてが、導きのための方便であって、何らかの真実を指し示すものではないんです。
真実、戯論寂滅の状態に至るための道なんです。

『般若心経』は龍樹菩薩説じゃないし、龍樹菩薩は釈尊、ブッダを全く否定してないよ。
全くそのまんま。

>>133
先ずシッダルタという呼称はテーラワーダのローカルな呼称だ。
北伝系ではサルヴァ・アルタ・シッディと呼ばれる。
諸法無我は、パーリニカーヤでは諸法非我だ。
空はニカーヤでも出るよ。いずれにせよ、言い方は異なるが意味は同じだ。
以下をよく熟読した方がいいよ。恐らく全く理解してないと思う。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html

143考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:10:03.56 0
>>134
アーガマ・ニカーヤと中観など大乗は基本変わらない。
変わるのは、菩提心、誓願、普賢行など方便の側面と一切智。

>>137
それは言語ゲーム内の単なる戯論に他ならない。
戯論というのは、人が本質的に持っている妄想力、言語本能で、次々の構想想像を広げ膨らましていく能力のようなもの。

>>138
現代人はそう考えるかもしれないが、私は違うと思うよ。
苦しまないというのは、苦が現れないという意味じゃなくて、苦にしろ楽にしろその現れ・知覚に執着し引きずられないという意味。

>>139
まあ、物自体とかが西洋思想の常識。それを疑問視したのがハイデガー。軽々と超えたのが仏教なんだが。

>>140
黒崎さんは、着眼点はいいがツッコミが足りなすぎ、もうちっとテキストを原典で読まんと重要な部分に入れないと思う。
144考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:11:20.55 0
>>141
そういう素人の発想で色々言っても、不毛だと思うよ。
145記憶喪失した男:2012/06/09(土) 20:23:52.32 O
Wikipedia見たら、「0」の発明はいつの間にかインドじゃなくなってるんだねえ。
これ、どのくらい信じれるの?
146考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:30:43.90 0
西欧哲学の基本線は「言葉と物」であり「物自体と現象」であり広い意味の「形式と内容」なんだよね。
言語哲学はその一方にだけ比重がかかっているので多数派にはならない。
空観や中観を強調しすぎる仏教解釈も同じだと思うよ。
147考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:34:20.41 0
>>146
そう思う。だけど、聞かれるのは大抵そこなんだよね。
帰依、菩提心、戒律、禅定などについてはほとんど聞かれたことがない。
148記憶喪失した男:2012/06/09(土) 20:39:21.36 O
>>146
そういう類型はあまり信じられないなあ。
西洋哲学者も実に様々だと思うが。
最初がプラトンだから全部そうだと勘違いするのだろう。
149考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:41:50.60 0
哲学はプラトンへの注釈だから
功罪相見えるがね
150考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:48:48.26 0
ウィトゲンシュタインについていわれるように独我論的なところがあるよね。
むしろ我々は唯物論的な世界観の方が納得できる。
151考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:51:44.59 0
>>150
独我論ではない。我がないんだから。
あらゆるものは固有の基盤とか、アルケー、第一原因を持たず縁起してるだけの幻のようなもので、
自分の意識・知覚も例外ではない。

この点、唯識は方便説以外のなにものでもない。
152考える名無しさん:2012/06/09(土) 20:54:25.19 0
物自体がどうかというのはおいておくとしても、意識と無意識についてはもはや誰も異論がないでしょ?
意識では割り切れない無意識、エスがわれわれを突き動かしているという点については
物自体というよりショーペンハウアーのは意志はこの無意識、エスに相当するものであって実際フロイトに影響を与えている
153考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:11:00.01 O
>>143
うん、そういった言語はどのような能力によって作られるかは、みんな知ってる。
思考・イメージ(意味)のみで未だ言語化していない時点と、言語化した後に思考に用いる時点で、意味のあり方・使いやすさ・効能はどう異なるのかって話だったんだけど。
言語の周辺の話ではない。
154考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:15:38.92 0
自分は最初の方で「物自体」に相当するのは玉城康四郎がいう「法(ダルマ)」じゃないかと言った者だが
このダルマはやはりエスや意志のように思われてならない
155考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:20:08.29 0
>>153
戯論という記号について説明しなくても分かった?

そりゃ、重要じゃないよ。要するに無意識の妄想と、意識的妄想の違いでしょ。
単純に言えば、ウィトゲンシュタインが言うように後者こそ哲学だと。
仏教もほとんど同じことを言う。
156考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:20:51.57 O
仏教関係で質問

「非想非非想…」
いつまで「非」という自意識に酔ってるの?

「俺は波であり粒でもある」
なんで「〜である」という断定行為に酔ってるの?

「多即一」
「一緒と思うことにしよう」を「即」と言ってるみたいだけど、形而下の手段で示せないの?
157考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:21:17.55 0
>>154
そのダルマは玉城さんの妄想だよ。テキスト的にそういう用法はないと思う。
158考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:25:55.67 0
仏教では法はまた空間的にまたは身体・物体的に法「界」や法「身」と言い表わされるが
これがちょうども現象「界」や物自「体」との平行現象になっていて面白い
159考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:33:50.64 0
現実界な対応関係で言うと
160考える名無しさん:2012/06/09(土) 21:36:22.99 O
脳みそ占い
左脳派は執着をやめて悟って終了
右脳派は既存に執着せず創造する
161記憶喪失した男:2012/06/09(土) 22:19:07.88 O
やはり、0の発明はインドのようだ。
それも、シッダルタより古い紀元前628年。
シッダルタはゼロの概念を空として教えたのだろうか。
それとも、諸法無我は物自体か?
162考える名無しさん:2012/06/09(土) 22:50:52.31 0
器官なき身体
163考える名無しさん:2012/06/09(土) 23:22:12.22 0
哲学とかわからないけど、ざっと調べてみたけど、龍樹の「空」ってまさに、
超越論的観念論だね。
164考える名無しさん:2012/06/09(土) 23:37:21.02 0
そこでカント哲学でいえば、それは物自体から人間が受けとる内容に対する形式ということになる。
そして中観派のうち極端な説では、物自体的なものは存在しないという反実在論をとっている、というのが上の議論。
165考える名無しさん:2012/06/09(土) 23:39:54.25 0
0と言う数はまさにカント的には数的カテゴリー
166考える名無しさん:2012/06/09(土) 23:46:29.41 0
量的カテゴリーでもあるし実際は空は0というより縁起説がベースなので縁起=因果論的関係のカテゴリーの面もあり
残りの質と様相も含めてようするに純粋悟性概念の話のように見える
167考える名無しさん:2012/06/09(土) 23:52:15.34 0
0を否定性ととれば質のカテゴリー。原因と結果を可能性と不可能性あるいは必然性と原因性から捉えれば様相のカテゴリー。
168記憶喪失した男:2012/06/09(土) 23:56:48.94 O
0は物自体ではないね。
169考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:18:17.99 0
内容を持たない形式であるという意味でカテゴリーは確かに「空」であり「無」であり、
物自体は常に移ろいゆく「無常」でありカオスであるだろうが、
そのようにして感性を刺激する物自体が「ない」と言うのは行き過ぎだろう
170考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:19:45.62 0
仏教の諸概念は宇宙論で言うとどの要素に対応するの?
171考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:19:59.59 0
>>1
概念を提出すること自体は凄くもなんともない(ことがある)ってことさ
その概念を使ってどれだけの(純理論的/工学的)展開が出来るかが重要

ろくに算数も出来ない未開人にゼロの概念"だけ"を教えたところで、彼らにとっては、だから何?ってなもんだ
算術を使う機会のある人間にしか有難味はわからない
172考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:23:55.25 0
>>164
中観派の 「物自体的なものは存在しない」 って、
物自体」そのものが無いんじゃなくて、物自体」という名称をつけたとき、
それは人間の認識の範疇になるから、超越的じゃなくなっちゃう・・・、
だから、物自体が無いんじゃなくて、有る無しという人間の認識の範疇に置くな・・、
名称をつけるな・・、つまり、認識の範疇では無い(空)ってことが言いたいんじゃないの?
173考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:27:59.41 0
>>172
そういう意味なら正しいと思うよ。
少なくとも今「無意識」の存在は否定して説得力のある哲学を立てることは難しい。
「無意識」あるいは「意志」(あるいは上の「ダルマ」?)はあるとしか言いようがない。
174考える名無しさん:2012/06/10(日) 00:38:48.43 0
>>172
実際に有を完全否定する驚くべき人たちもいる
175考える名無しさん:2012/06/10(日) 04:27:22.90 0
>>163
少なくとも観念論じゃない。

>>164
だから、存在しないとは言わない。だからといって存在するとも言わない。
あらゆる断定、認識を鎮めるですは。>>142に言ったように。

>>166-167
そうカント的形式に押し込めて理解するのは誤解ですね。

>>169
そう何か絶対に無くてはならないというのが、実在論、我論の基本で、それは仏教ではないです。

>>170
仏教はどうなっているかと、アルケーを探求するものではなく、
どうすべきかという道だから、そもそも発想が違う。

>>172
上の通り。違う。

>>173
仏教だと無意識に相当するのが、行・サンスカーラ、潜在的勢力、あるいは業でしょう。
しかし、それも実在とは考えないのが仏教。
176考える名無しさん:2012/06/10(日) 06:00:22.11 0
             __
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         /∵∴∵∴ ヽ
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         |:: | ト‐=‐ァ' |:|  
        |:: | ` `二´' |:|、   どうだね?
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      `、  !-、 .  l゙ヽ- `、   ,-,
       `,  ゙i .ヽ    ヽ  t-' ̄ .´-‐っ
  __ ., - '´   .!  i      ,-、ニ‐--‐'´ 
. i-゙ニ>`´  , -‐''゙゙´  i     丿 ノ .`ヽ,
 i^∩n-'´       ノ   (__,!__)   ',
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   r  .ヽ__ .    人 .{、_
    ̄ヽ--‐'´     `ー―゙
177考える名無しさん:2012/06/10(日) 09:17:25.07 0
>>175
これが極端な意見の例だね
178考える名無しさん:2012/06/10(日) 09:45:42.99 0
>>177
まあ、極端に見えるかもしれないが、きっちりテキストを読めばそうなる。
多くの文献学者は、実在論的前提、あるいは西洋論理を前提として読もうとするから、仏教が読み切れない。


179考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:32:39.24 0
そもそも原始仏教時代から最初に成立した上座部(小乗)は説一切有部
最初から実在を否定しているわけではない
180考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:34:16.69 0
そして龍樹を経てふたたび日本やチベットの密教に向かうわけでしょ
密教つまり潜在的な実在性の理論だね
181考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:37:53.09 O
>>175
どうすべきかっていう実践方法を考えるの?
宇宙論って、やる人によっては、宇宙像をつくるだけだったり、物事を処理する思考のあり方を意味したりする(情報を時空に乗せて加工する、より深い実践)けど
182考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:43:01.16 0
龍樹自身はその後のどんな宗派も取り入れている至極まともな理論だが、一部原理主義的空至上主義者がいるんだよ
最近の日本だと袴谷松本の駒沢学派
でも道元を編訳してる玉城康四郎のように存在論に立っている仏教学者もいる(というかそれが正論)
183考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:45:36.42 0
>>179
それは誤解だ。有部は明らかヴァイシェーシカの影響を受けて、原子論的還元主義で仏教を体系づけようとした部派の一つで、
上座部、つまりパーリニカーヤを保有する現代東南アジア系仏教とは異なる派か、分派と考えられる。
明らかにアーガマ・ニカーヤで説かれる内容とは、異なる原理を導入していることに異論はないよ。


>>180
>密教つまり潜在的な実在性の理論だね

この認識も全くの誤解だよ。「如来蔵思想は仏教にあらず」などという実に浅薄な学者がいたが、
密教は完全に空性に基づいている。如来蔵も大日如来も空性に他ならない。
そして、儀礼や本尊がヒンドゥー的なのは偶々、インドの習慣を縁としたからに他ならない。
儀礼や本尊の形相、姿、形は重要ではない。それはチベット、シナ、日本でも変化するように縁に他ならない。
もちろん、そういう縁も尊重すべきことだが、本質ではない。本質は空性に他ならない。

日本で密教を宇宙とかコスモスとか実在論的に解釈する学者が多いが、全くの誤解に他ならない。
184考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:48:42.84 0
中観も正しいがたくさんある理論の1つにすぎない
185考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:53:51.50 0
>>183
極端な中観派の狙いの1つはブッダのオリジナリティーやユニークさを際立たせるために、
インド的な思想の流れからブッダを切り離したいというのがあると思うが、君がそれだね。
自分はブッダもインド思想の流れの中にあると思う。この立場を取る学者も多い。
原始仏教の第一人者の中村元は空をインド思想の流れにある神秘主義的なものと理解されている。
186考える名無しさん:2012/06/10(日) 10:55:48.76 0
カントが西洋哲学の流れの中にあるのはあたりまえだがそれでもカントの偉大さユニークさは損なわれはしない。
同じようにブッダがインドの思想潮流のなかにあったとしてもブッダの偉大さユニークさは損なわれはしないはずだ。
187考える名無しさん:2012/06/10(日) 11:03:35.42 0
>>185
中村先生はヴェーダーンタの第一人者であって原始仏教の第一人者ではない。
訳は誤読が多いし、基本的にドイツ学者の説に依っている。

原始仏教の第一人者は、同世代なら明らかに水野弘元先生

仏教を神秘主義と捉えるのは明らかな誤解で、如何に縁起を理解してないか告白しているようなもの。

縁起こそ、正に神秘主義であるヴェーダーンタなどの諸外道と分つ道に他ならない。
この縁起・空性・仮設・中道をアーガマ・ニカーヤの諸説そのままにキッチリ論理的に記述したのが中論に他ならない。
中村先生は、そこら辺全く理解できてない。
188考える名無しさん:2012/06/10(日) 11:16:04.02 0
基本的な立ち位置が違うんで平行線だけど、少なくとも君の依る反実在論がすべてでない。
実在論をとる人も多いということだ。
そして神秘主義という言葉も悪いんだがようするに実在論、潜在性を重視する実在論だね。
189考える名無しさん:2012/06/10(日) 11:42:55.23 0
>>188
文献学者は実在論に立つ人が多い。

ここでいう実在論は、なんらかアルケー、基体を想定する立場という意味ね。

伝統仏教では、そういう立ち位置の人は少ない。

ここでいう伝統仏教は、ビルマとチベット系仏教を指している。

この二つ以外は、ほとんど伝統が生きていないという意味で。

平行線といってもレヴェルが違うことは認めてよね。
190第三者:2012/06/10(日) 11:52:14.78 0
>>188
>>189
実在論か否か、なんて、見方によっては、言葉にとらわれているだけだと思う。
「アルケー」といっても、それを、どう捉えるかにもよる。

「空」といっても、何もないわけではない。
では「ある」んじゃないか。
これは、見方によっては「実在」と言えなくもない。

要は、それぞれが「空」をどう理解しているかだろうと思う。
191考える名無しさん:2012/06/10(日) 12:11:30.55 0
>>190
そうすか。実在論という記号に囚われてるのはアナタじゃないか?
アルケーについても同じ。

オイラはそれらの記号が指す一般的用法に依って、アーガマ・ニカーヤや中観が言っていることを、
現代人に分かりやすいように言い換えただけなんだけど。
言い方なら、なんとでも言えるよ。

実在論を本質・実体としてもいいし、伝統的漢訳に従って、自性、本性としてもいいよ。

だが、問題はそういう記号、アナタのいう「言葉」ではない。

「有る」「無し」について釈尊は、それは単なる習慣であると明解に『カーティヤーヤナ経』で説かれている。
その「有る」「無し」を習慣としては用いるが、勝義としては「有る」「無し」に依らず中道を歩むと説かれている。

この中道というのは、A, 非A, A∧非A, 非{A∧非A}という四つの論理形式に依らないという意味であって、
なにかマッタリとしたバランス感覚で程良い所を取るという意味ではない。

そして『カーティヤーヤナ経』こそが、『中論』で明示的に指示される唯一の経典であり、
明らかに内容から『中論』つまり、中道の論書という題名の典拠に他ならないんだよね。

まあ、これ以上は止めとくは。じゃね〜
192第三者:2012/06/10(日) 12:18:40.80 0
君の書き込みは、前にも何度か見たことがあるが、
「我」の強い人だね・・・w

「我」の強さを隠し切れないところに、君の「レヴェル」が現れてしまっている・・・
193記憶喪失した男:2012/06/10(日) 13:25:58.37 O
仏教は唯心論なの?
もう、仏教を熱く語ってくれればくれるだけ、それがまちがってると思うんだけど。
194考える名無しさん:2012/06/10(日) 14:21:26.09 0
>>190
「空は見方によっては、「実在」と言えなくもない」と述べているが、
「空」が「実在」であると言う貴方の、論理をぜひ知りたいと思います。
195考える名無しさん:2012/06/10(日) 15:16:47.16 O
黄猿ハゲの中身の無い「空」論についてあれこれ考えるのは無駄
悟るだけ悟って何も作り出せないのでは話にならん
196考える名無しさん:2012/06/10(日) 15:29:26.67 0
梶山・上山の中観の解説書も持ってるが、彼らも龍樹に神秘主義
(この言葉がよからぬ印象を喚起するところがあるのが難しい)の肯定を読みとっている
197考える名無しさん:2012/06/10(日) 20:15:21.59 0
手元にあるうちでは定方晟の新書が反実在論的中観だね。
井筒俊彦のように仏教を含めた世界宗教には通底するものがあるのではないかという問題意識を持ってる人が
おおまかにいって実在論をとるように思われる。
198考える名無しさん:2012/06/10(日) 21:27:58.65 O
確かにカントとカルトは2文字同じだ
199考える名無しさん:2012/06/10(日) 22:31:55.33 0
物自体は認識できないっていってるけど、物自体と名づけた段階で、
認識の対象になっちゃってるんだよね。
そうすると、超越的な「物自体」じゃなくて、人間の認識の範囲で捉えることのできる
狭い範囲の物自体になっちゃう。
そうなるともう物自体といえなくなる。
そこを龍樹(仏教)は「空」という言葉で認識の及ばない世界を表現してる。
仏教の(空)はカントの「物自体」の一歩先を進んでいる。
もっとも、空という言葉も認識の対象になりかねない危険をはらんでいるが・・・
200考える名無しさん:2012/06/10(日) 22:34:27.07 0
ホラホラ宮大でてこいよ!
201考える名無しさん:2012/06/10(日) 22:39:43.18 0
むしろ、何故空という言葉だけは認識の対象にならないだろうと楽観できるのか、大変不思議だ
202考える名無しさん:2012/06/10(日) 22:43:38.71 0
その論理ギャップを聴衆に悟らせないようにするのが宗教家の話術なわけだ
203考える名無しさん:2012/06/10(日) 22:47:34.06 0
「物自体」は認識の対象ではなくて、推論するための機能・役割を持つ道具では?
それを観え方というスタンスで言うと「空」になる、と
204記憶喪失した男:2012/06/11(月) 01:18:21.02 O
0という存在しないことばがあるように、物自体という認識できないものを指すことばがあってもいいと思うけどね。
205考える名無しさん:2012/06/11(月) 02:02:02.18 0
知ることができるのは選民だけなのだ。
206考える名無しさん:2012/06/11(月) 02:25:43.99 0
たまに西欧の哲学と東洋の思想を対比させて、東洋の方が
先取りしていると主張する人が出てくる
これはありふれたロマン主義である

カントが新しい形而上学を構築するという意志を持っていたように
感官が触発される限りにおいて物自体の実在を確保するということの
内実は存在論の系譜にある
これを認識論の議論でしか捉えられないと、主客対立や物自体の実在を
否定する典型的な観念論が成立してしまう
仏教にも存在論の次元があるし、対比すべきはその点でないと
両者を本質的に比べた議論にならない
207考える名無しさん:2012/06/11(月) 03:37:14.94 0
認識できなくても「ある」と考えたら西洋的な意味の実在だよ
それが「ない」っていうんでしょ1方は
208考える名無しさん:2012/06/11(月) 03:46:14.66 0
http://ameblo.jp/i-am-193/

哲学好きな人カモーン♪
209考える名無しさん:2012/06/11(月) 03:48:22.49 0
実在の知覚できないレベルを認めるか認めないか
認めるほうは神秘主義的態度で西洋哲学ではイデア説をとったプラトンからそうでしょ
210記憶喪失した男:2012/06/11(月) 07:31:31.56 0
中学生でもわかる色即是空を、シベリア板のラノベを含む読書スレに書いた。
出来れば読んでもらって感想を書いて欲しい。
211考える名無しさん:2012/06/11(月) 11:58:34.92 0
色即是空は論正しいが空即是色は誤謬だというスリランカ上座部のスマナサーラは
大乗の空観をとらない仏教の例として興味深い
212考える名無しさん:2012/06/11(月) 12:25:27.24 0
>>210
哲学も仏教も、用語の理解がとても重要なので、
できれば哲学辞典や仏教辞典を手元において勉強するのが良いけれど、
「色即是空」ぐらいに有名なものは、国語辞典にも載っていますよ。
ttp://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%89%B2%E5%8D%B3%E6%98%AF%E7%A9%BA&dtype=0&dname=0ss&stype=0
【色即是空】・・・「この世にあるすべてのもの(色)は、因と縁によって存在しているだけで、
固有の本質をもっていない(空)という、仏教の基本的な教義。」(大辞林)
このウェブ国語辞典を見るだけで、
「この世にあるすべてのもの」が「色」で、
「固有の本質をもっていない」ことが「空」、という大まかなことは分かる。
貴方も、一つ一つの用語の意味を調べることから始めるのが良いのではないか。
貴方の理解は、出発点から間違っているように思われます。
213考える名無しさん:2012/06/11(月) 19:54:29.47 0
空ってのはどういうことかというと、たとえば、月の左半分と右半分があったとする。
実際はひとつしかないんだけど、人間の認識で、左の月と右の月に分けたとする。
このとき、左の月と右の月は、縁起によって結ばれている。
左の月があれば、そこには必ず右の月がある。
逆に、左の月が無ければ、右の月も存在しない。
「縁起ゆえに空」 というのは、縁起で結ばれているものは、ある、分解できない一つのものを形成している、
それを人間の認識で分解しても、その分解された一つ一つのものに、固有の本質は無い・・・
月の例で言えば、月の左半分も、右半分も、それぞれ固有の本質は無い。
もし固有の本質があるとすれば、西の空につきの左側、東の空に月の右側、という風に、
それぞれが各個に動けることになる。
実際は、月の左半分、月の右半分、という固有のものは存在しない、が、
本当に月の左側、右側が無いというわけではない。
固有のものと見えるものは存在しないが、無ではない・・・
そういうのを、「空」 というのだろう。
214考える名無しさん:2012/06/11(月) 19:58:26.50 0
>>1

カントは「物自体」を認識主観(自己)に現れた現象としての「物」ではなく、
認識主観(自己)とは独立し、それ自体として存在する「物」であると述べている。

自己の主体的な認識(精神)とは、独立し、それ自体として存在するもの「無我の領域」と
解釈される。 つまり、「無我の領域」とは「諸法無我」のことであり同じ概念と思う。
又、「経験の彼方にありながら、現象の究極原因・真実在と考えられるもの」とも述べている。
これは、主観的認識は出来ないが、客観的存在としての「無我の領域」では、真実在として認識(体得)が
出来る事を述べていると考えられる。

サルトルは、認識主観(自己)の本質を常に超越的対象(外的対象)を目指す指向性として捉え認識主観から
独立して存在する即自存在=物自体を認めた。 そして、常に外部にある即自存在(物自体)と関わるものとして
主観的意識を捉える事により、個人と社会との関わりを深め、建設的発展が持続すると述べている。
215考える名無しさん:2012/06/11(月) 21:40:03.31 0
>>191
>中道というのは、A, 非A, A∧非A, 非{A∧非A}という四つの論理形式に依らないという意味
この人と自分は立場が逆だし、これは論理学的な捉え方ではあるがそのかぎりで悪くないと思う。
そしてこの論理学の彼岸の一つの定式化がライプニッツの
「AがAであるには十分な理由がある」だ。
この充足理由律がカント哲学の底流となっているのはいうまでもないし、ショーペンハウアーもそうだ。
216考える名無しさん:2012/06/11(月) 22:17:51.36 0
つまりAA哲学じゃな?
217考える名無しさん:2012/06/12(火) 05:47:25.71 0
>>215
>そしてこの論理学の彼岸の一つの定式化がライプニッツの
>「AがAであるには十分な理由がある」だ。
>この充足理由律がカント哲学の底流となっているのはいうまでもないし、ショーペンハウアーもそうだ。

そう、それを問題にしたのがハイデガー。しかし、苦闘したが美しい論理を提示できなかった。
それは『形而上学入門』『論理学の形而上学的な始元諸根拠』『言葉の本質への問いとしての論理学』に明瞭。
もっとも後期はほとんど読んでないので、あるいは後期でなされているのかもしれませんが。
それに対し釈尊は以下の一詩句で軽々と乗り越えているのが分かりますか?

『スッタニパータ』762, 763(757, 758)
あらゆる条件(因縁)によって[x と]思う。それ(x)は[次の瞬間]それ(x)と異なるものになる。それ(x)はそれ(xと異なる)ゆえ虚妄です。
なぜなら[x と思う]虚妄な法はその場限りのものだから。不虚妄な法は涅槃です。それを聖者は真実と知る。彼らは真実を現観し無執着になり完全に涅槃する、と。

『スッタニパータ・ブッダゴーサ註』
「あらゆる条件によって」とはあらゆる色や感受によって「私の色、私の感受」などと考えて「[xと]思う。それ(x)はそれ(x)と」思った姿が、その名色と「異なるものになる」。
 理由は何か? 「それ(x)はそれ(xと異なる)ゆえ虚妄です」[つまり]それは思った通りの[認識した]姿が虚妄だから、異なるものになっているという意味です。
しかし、なぜ虚妄なのかというなら、「なぜなら[x と思う]虚妄な法はその場限りのものだから」何かその場限りのものとは短い今ここの有様で、それは虚妄な法、消滅する法です。そしてそのようなものが名色です、と。

以下もどうぞ
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html
218考える名無しさん:2012/06/12(火) 11:30:35.11 0
>軽々と乗り越えているのが分かりますか?

こういう書き方に「我」の強さが現れてしまうことが
自分では分からないんだろうか。
(頭悪いな・・・)
219考える名無しさん:2012/06/12(火) 11:46:18.71 0
>>218
しょうがないなぁ〜、そういう人格攻撃というか、どうてもいいこと言ってもしょうがないでしょ。

哲板なんだから、論理、形而上学、認識論、存在論などを根拠を示して筋道だてていいましょう。
220考える名無しさん:2012/06/12(火) 12:05:10.89 i
論理に対する無知、それが超論理
221考える名無しさん:2012/06/12(火) 14:25:07.58 P
是諸法空相a、不生不滅b、不垢不浄c、不増不減d。

上記はカントのカテゴリーにそれぞれ対応し得る。

参考:
カント、純粋理性のカテゴリー
量(単一性、多数性、全体性d)
質( 実在性c、否定性、限界性)
関係(実体性、 因果性b、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性a)

カントが挙げているアンチノミーには、(カテゴリー順に)四つ(a-d)ある(それぞれのテーゼにアンチテーゼが対応)。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。d
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在しない。c
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。b
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者など存在しない。a
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html

1量 2質
3関係4様相

1不増不減d2不垢不浄c
3不生不滅b4諸法空相a


  
222考える名無しさん:2012/06/12(火) 14:36:43.00 P


「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説。

   /\       /\
  /  \     /  \
 / 色  \   /  空 \
/      \ /      \
\      / \      /
 \    /   \    /
  \  /     \  /
   \/       \/

     /\    /\
    /色 \  /空 \
   /    \/    \
  /色不異空 /\     \
 /     /  \空不異色 \
/     /色即是空\     \
\     \空即是色/     /
 \     \  /     /
  \     \/     /
   \    /\    /
    \  /  \  /
     \/    \/

223考える名無しさん:2012/06/12(火) 14:37:31.09 P
       ______
      |  識   |
      |  /\  |
      |_/__\_|
       /    \
  /\  /      \  /\
 /  \/        \/  \
/ 色 /\   空    /\ 行 \
\   \/        \/   /
 \  /\        /\  /
  \/ _\_    _/_ \/
    |  \|  |/  |
    | 受 \  / 想 |
    |   |\/|   |
    |___|  |___|

人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)
224改訂版再送:2012/06/12(火) 14:40:47.67 P
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。 受想行識、亦復如是。」の解説。

三つの領域に区分される。
「色であり、かつ空でない」領域1、
「空であり、かつ色ではない」領域2、
「色であり、かつ空である」領域3の三者である。
この段階でさらに色と空は異ならないという規定を適用すると、前二者が否定されてしまい、
「色であり、かつ空である」だけが残る。
ここまでくると「色即是空 空即是色」と実質的に同じ意味になるだろう。
したがって、「色不異空 空不異色」は、ここまで両者を一体化させるために両者の観念を
重ね合わせようとする働きをしていたのである。


有の極端(=対象の実体化)でもなく無の極端(=虚無)でもない中道をゆくのが仏教である。

あえて集合論的に表現するならば、「人間=空性∩(色∪受∪想∪行∪識)」と表記されるだろう。
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2008/02/9_7cc1.html
http://kongou-koji.tea-nifty.com/blog/2009/12/12-2f05.html
225追記:2012/06/12(火) 14:45:04.07 P

「無智亦無得。以無所得故 ?」:解説

1931年,ゲーデルによる「『プリンキピア・マティマティカ』やその関連体系での形式的に決定不可能な命題について」という論文によって,いわゆる「不完全性定理」が証明され,ヒルベルトの計画は挫折に終わる.

つまり式G(Gは,ゲーデル数 sub(n, 13, n)をもつ式は証明不能であるという超数学的言明を,体系内の算術的な命題で表したもの)はその否定が証明可能なとき,そしてそのときにかぎり証明可能である.
ところが体系は無矛盾であるから,これはあり得ない.つまりGもその否定も,証明可能ではない.

つまり体系は完全ではない.
http://aozoragakuen.sakura.ne.jp/taiwa/taiwaNch01/taikaku/node9.html
226考える名無しさん:2012/06/12(火) 16:14:33.41 0
>>219
>哲板なんだから、論理、形而上学、認識論、存在論などを根拠を示して筋道だてていいましょう。

筋道が立っていることが分からないところに、
君の「レヴェル」が現れてしまっているw

このスレのテーマである「諸法無我」と、君の「我」の強さの関わりを
君は示せないから、君の書き込み全体が説得力のないものになっている。
それが君には分からないんだろうが、読む人には分かってしまう。

まぁ、「仏教とは本来こういうものである」というスタンスはあまり有意義ではない。
そもそも「仏教そのもの(an sich)」などは存在せず、
仏典のどの部分を重視するかによって、既に仏教は「私にとっての仏教」になっている。
その「私にとっての仏教」にもとづいて、
《だから私はこういう生き方をしている》ということ
・・・そこが一番肝心なところで、そこにつながらないと意味がない。

つまり君のように、《頭》で考えていることと、《行為》(つまりこの場合は書き込みの仕方)との
間に齟齬が見られるようでは、それだけでその人の「レヴェル」が分かってしまう、ということだね。
そういう「筋道」です。単なる人格攻撃でないことが分かった?w
227考える名無しさん:2012/06/12(火) 16:32:22.28 0
ヘリクツですなあ
228考える名無しさん:2012/06/12(火) 16:57:17.69 i
仏教なんてヘリクツだから
229考える名無しさん:2012/06/12(火) 19:17:23.51 0
>>220
カントは実践理性批判で、人間理性の限界を述べている。 主体的理性(論理を含む)の限界の
先にあるものが、カントの言う「物自体」としての「縁起の領域」であり、西洋哲学で述べている
「観点(事象の定義化)にも、記号(言語)にも依存せず無媒介的に事物の内に這入りうる純粋持続
としての認識」であり、それが「超論理」と解釈できると思う。
230考える名無しさん:2012/06/12(火) 20:04:07.33 O
それはAであると認識した
直後には、それはAでなくなっている

言語Aは時間・空間の一部のみを示す名前だからでは?
より概括的な言語なら、刹那滅なんて関係なくね?
231考える名無しさん:2012/06/12(火) 20:09:08.50 0
>>230
>より概括的な言語なら、刹那滅なんて関係なくね?

って何?
232記憶喪失した男:2012/06/12(火) 20:15:03.66 0
カント「純粋理性批判」1巻92ページ
053 物自体は認識できない
(前略)人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、
これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。

仏教
「スッタニパータ」中村元訳
236ページ。
「どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り超えることができるであろう」

「ブッダの真理のことば 感興のことば」 中村元訳
49ページ
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆空)
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我)

以上より、カントは、物自体を認識できない物質の本質としているが、
仏教は、物質の本質を空虚としており、また、物質の本質が認識できないともしていない。

これによって、カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じという議題は、まちがっていたと結論づける。
233考える名無しさん:2012/06/12(火) 20:17:47.32 O
石ころがある。
それが変化しようが、種類が違おうが、石ころは石ころであり大して重要でない。

現実のそれが何であるかを判断することよりも、必要な手段で創造することのほうが重要であ〜る。
234考える名無しさん:2012/06/12(火) 23:10:31.33 0
間違えてるかもしれないけど、カントの「物自体」って、
ヒンドゥー教のブラフマンのようなものじゃね?
後に仏教では、ブラフマンとか、アートマンを否定したよね・・・
否定っていうか、空にしちゃった。
認識を超える存在でありながら、それに名前をつけると、それは認識の対象になることを意味する。
「カントは物自体を認識できない物質の本質としている」 この言葉はもう矛盾している。
物自体を認識できないとしながらも、「認識できない物質の本質」という風に認識している。
名称をつけた時点で、ああ、そこに何かが有るんだな、と、「個」としての存在が生まれてしまう。
名称をつけた時点で枠にハマっちゃって、認識を超えた超越的なものにはならなくなる。
ただ、カントの「物自体」も、ヒンドゥーの「ブラフマン」も、仏教の「空性が示すものも」も、
言ってることは同じ。
認識を超えるという点では、仏教の「空」が一歩進んでる。

>>232
物自体 → 認識できない物質の本質 = 空虚 ってことじゃね?
カントの「物質の本質」を存在物のように扱ってるから、仏教とカントは違うって結論付けたんだろ。
こういう間違いを防止するために、仏教ではブラフマンを徹底的に否定し、認識に捉われないようにしたんだろ。
235記憶喪失した男:2012/06/12(火) 23:28:36.38 O
236考える名無しさん:2012/06/13(水) 06:06:13.77 0
>>234
違うと思うよとくに「物自体 → 認識できない物質の本質 = 空虚」が君の意見なら
そういうスタティックなものでなくて感性を刺激してやまない力の源だよ
フロイトのエスのようにカオス的なエネルギーであり
あるいはニーチェの意志のように指差的な諸力のエレメントだよ
237考える名無しさん:2012/06/13(水) 06:10:29.15 0
仏教の法もそうだと思うよあるエネルギーだよ
238考える名無しさん:2012/06/13(水) 15:24:46.14 0
>>232
>229で、彼は「主観的な人間理性の限界の先にある領域」について述べている。
この主観的人間理性の限界の先にある領域は、客観的存在(物自体)と解釈できる。
カントは、物自体(客観的存在)の概念を「時間、空間と言う自然法則とは独立した存在である」と、
言う主旨を述べている。

西洋哲学では、主観的認識(理性)に対して客観的認識が、東洋哲学よりも、主観(自己)に対する
客観(全体)と言う形で、より現実的、且つ、学問的に捉えている。

例えば、デカルトの場合は、主観(精神)に対して客観(物質)として、ヘ−ゲルは、主観(精神)の弁証法的
展開による客観的認識を明確にしている。 しかし、東洋哲学の場合は、客観的認識である「空」の概念が、今一つ
学問的(論理対象として)に明確化していない事が、西洋哲学と仏教哲学の論理的展開の障害となっていると思われる。
239記憶喪失した男:2012/06/13(水) 19:55:11.89 0
なぜ仏教が物質そのものを認識出来ないとしているのか、中学生でも分かるように解説した。

「電磁波が物質で、青色が認識で、空は真空で、物自体は物理実体」

どう思うか、哲学板のみんな感想をくれ。
240考える名無しさん:2012/06/13(水) 20:06:53.91 O
電磁波が物質だったとは知らなかった
241考える名無しさん:2012/06/13(水) 20:16:21.69 0
電磁波は光子という素粒子と見なせるけどそれはボソン(ボーズ粒子)といい
物質をなしている素粒子はフェルミオン(フェルミ粒子)という
242考える名無しさん:2012/06/13(水) 20:25:42.70 0
なぜボソンが物質をなせないのかというと「複数の粒子が同一の状態をとれる」からだ
フェエルミオンはそうではなく原子殻に電子が1つずつ入って行くところでそれがわかると思う
それで物質をなせる
243記憶喪失した男:2012/06/13(水) 20:27:18.84 0
>>239の意見を求む。
244考える名無しさん:2012/06/13(水) 20:57:00.57 0
それは一つの空論だね
245考える名無しさん:2012/06/13(水) 21:26:33.24 O
仏教にパラダイム転換を起こすほどの転回力は無い
所詮は認知レベルの話にすぎない
無記が許されるほど社会は甘くない
246考える名無しさん:2012/06/14(木) 00:36:26.70 0
東洋哲学も西洋哲学も同じものを追求してると思う
仏教=東洋哲学ではないがキリスト教=西洋哲学でもないのでおあいこだ
そういうように何か通底している派だから優劣という概念はあまりない
247考える名無しさん:2012/06/14(木) 00:39:52.90 0
ブッダがみずから執筆しなかったり無記の立場であったからこそ仏教はかなり面白く展開できたと思いたい
それはちょうど同じ時期に生きていたソクラテスが自分では執筆しなかったのに似ている
248考える名無しさん:2012/06/14(木) 01:17:55.23 0
哲学者って何を分かり切った簡単な事を難しく言うかね
249考える名無しさん:2012/06/14(木) 01:21:40.31 0
>>248
プログラマにソースコードを見せられたマカーが「こんなものマックだったら難しいこと考えずにスワイプジェスチャ一発で簡単にできるのに」と言うが如しだな
250考える名無しさん:2012/06/14(木) 02:08:43.46 0
>>249
簡単な事を難しく言う奴は下の下だろw
251考える名無しさん:2012/06/14(木) 02:12:21.61 0
>>250
すごい固定観念ですね。型にはまった仕事しかお願いできなさそう。
252考える名無しさん:2012/06/14(木) 02:17:02.04 0
>>251
形にはまって無い仕事なんてあるの?
新しいもの開発する人とかは別だけど、大体毎日同じ作業じゃん。
253考える名無しさん:2012/06/14(木) 03:00:14.55 0
>>252
新たな創出とかが一切無いわけですねwww
何という無味乾燥な日々
254考える名無しさん:2012/06/14(木) 03:12:24.52 O
理を通すのでもないのに、簡単なことを難しく言うのは欺瞞だよ。
聴衆に対しての、もしかすると自分自身に対しての欺瞞。

自分は理屈を通しているつもりでも反論にあうでしょう。
全部が全部、道理に合わない的外れな反論or相手の誤読だと本当に思うか?
255考える名無しさん:2012/06/14(木) 03:16:39.43 0
ほんとに表現することが難しくて苦労するってのなら納得だね
256考える名無しさん:2012/06/14(木) 03:23:50.95 0
>>253
そうとうクリエイティブな毎日過ごしてるんですね(笑)
257ゲッパリラ:2012/06/14(木) 03:42:31.17 0
物事の本質は「単独で存在するもの」と「連帯として存在するもの」の二つあり、これを善悪の対立の構図にしたものが宗教である
258考える名無しさん:2012/06/14(木) 03:44:56.88 0
ゲッパリラは連れといつも一緒だから「連帯として存在するもの」だね。
259ゲッパリラ:2012/06/14(木) 04:00:59.96 0
性欲は単独で存在するが、性交は連帯として存在する

どちらが悪いと決めることは宗教的論説である

学術的論説は単独で存在するが、宗教的論説は連帯として存在する
260考える名無しさん:2012/06/14(木) 08:59:58.13 0
>>256
人生とはクリエイティブに満ちているんですよ。
261考える名無しさん:2012/06/14(木) 11:29:47.50 0
>>257
「物事の本質は、単独(自己)で存在するものと、連帯(全体)として存在するもの」と、
述べているが、鋭い考察ですね。 宗教だけでなく、思想(哲学)も、根本に二元論があって、
自己(精神)と全体(物質)の対立と調和を、くり返しているのだと思う。
262考える名無しさん:2012/06/14(木) 20:38:41.59 0
>>260
言ってて恥ずかしくないの?
263考える名無しさん:2012/06/15(金) 08:21:34.94 i
言語を越えた真理を捉えようと挑みかかるためには言語を越えた言語が必要
小難しいターム、論理的な飛躍、破綻はその述定が日常言語を越えているという了解のために用いられる
264考える名無しさん:2012/06/15(金) 13:23:40.18 0
言語を超えた言語と、日常言語とは意味が違うだろ。
265考える名無しさん:2012/06/16(土) 00:04:03.30 0
なるなる
266記憶喪失した男:2012/06/16(土) 09:36:46.90 0
「科学哲学講義」

駄本である。
とにかく、第一章の帰納的推論より演繹的推論が優れているという主張に
おれは賛同できない。アプリオリな真理などは、演繹的推論が行われるために正しいのではなく、
人が定義したことそのものだから正しいにすぎない。
だから、この本のいっていることはまちがっている。
現代科学哲学の最先端の状況がわかったのはありがたいが、その水準は失望するものだった。
読む必要はない。
267記憶喪失した男:2012/06/16(土) 09:37:50.83 0
そもそも、1+1=2というのも普遍的な前提ではない。
男と女を合わせれば、男と女と赤ん坊の三つになることがあるのは誰でも知っている。
しかし、その現象を無視し、自然が1+1=3になることはなく、
1+1=2だと考えることは、先入観であり、文化に洗脳されているのである。
数学もまた普遍的な前提とはなりえない。

だから、とにかく、演繹的推論は必ず正しいという科学哲学はまちがっている。
268考える名無しさん:2012/06/16(土) 09:47:38.06 0
1+1=2に拘る
ということは、根底からちゃぶ台返しをしたい欲望が動機となっているような気がする。
物事を進めるには動機が必要だが、
ちゃぶ台をひっくり返した場面を誰かに見ていてもらいたい、
そしてその偉業を行ったのは「私」であると示したい、
そんな”始まり”が見える。
自然という全てが歯車である風景の中で、
あるひとつの歯車が「私」として分離して認識される景色は
不自然にみえてしまう。
269記憶喪失した男:2012/06/16(土) 16:25:14.56 O
おれの偽者が出てるようですが、
現代の科学哲学は正しいとは思えません。
演繹的推論は必ず正しいと考えてるようですが、
三角形の内角の和は必ず180度になるというのは、地球儀の経線と緯線でできる三角形では正しくないです。
270記憶喪失した男:2012/06/16(土) 16:30:04.77 O
あと、
仏教の「あるがままにあれ」という教えの原典を教えてください。
三つの原始仏典には書いてなかったです。
271考える名無しさん:2012/06/16(土) 16:39:33.10 O
大パリニッバーナ経>>270
272考える名無しさん:2012/06/16(土) 16:48:44.93 O
>>269
その三角形の話は真面目に言ってるのか?w
なら、お前は>>267と同レベルだよ
273記憶喪失した男:2012/06/16(土) 18:06:54.20 O
もちろん、真面目にいっている。
どこがまちがってるのか教えてほしい。
三角形の内角の和や1+1=2は演繹的推論の前提ではないのかね?
274考える名無しさん:2012/06/16(土) 18:20:41.61 O
数学で三角形の内角の和というのは、平面上の三角形のこと。
数学の知識がないのに、さも知ったかぶりをするのは恥ずかしいだけ。
275考える名無しさん:2012/06/16(土) 18:29:04.15 0
>>269
人工無能はどうしたの?、小説はどうしたの?
276考える名無しさん:2012/06/16(土) 18:39:02.15 0
曲面ではそういうユークリッド幾何は(成り立つとしても部分的にしか)成り立たない。
するとこれは超越論的形式としての時空概念では捉えられないように一見思われる。
ところがこの場合だと接平面を考えれば(あるいは虫眼鏡で拡大してやると)ローカルにはユークリッド幾何が成り立っている。
だからカントの超越論的形式はより抽象性の高いレベルで生き延びていると言える。
277考える名無しさん:2012/06/16(土) 19:01:53.90 0
曲面上もユークリッド平面なんだが。
前提のなる数学の知識がないから、お笑いの結論になる。
いくら地球が丸くても、2本の直線から出来ている平行線が交わることはない。
278考える名無しさん:2012/06/16(土) 19:01:54.89 0
曲面上もユークリッド平面なんだが。
前提のなる数学の知識がないから、お笑いの結論になる。
いくら地球が丸くても、2本の直線から出来ている平行線が交わることはない。
279記憶喪失した男:2012/06/16(土) 19:02:23.99 O
ニュートンの運動方程式は演繹的推論の前提ではないのかね?
水が零度で凍って、百度で沸騰するのは演繹的推論の前提ではないのかね?
あとで気圧を条件に加えることを科学哲学では何というのかね?
280考える名無しさん:2012/06/16(土) 19:07:19.39 O
>>273
それらを定理ではなく前提と捉えて話をしていたの?
演繹は前提から何かを導くことであり、前提が正しければ結論も正しいことが期待されるものだけど、
前提が正しいかどうかにはノータッチよ。
そもそも前提がデタラメなら結論の妥当性は保証されない。誰でもわかることだよね?
あんたが勝手に想定した前提が間違っているとして、どうしてそれが演繹への批判になり得るのさ。

それと、既に他の人が指摘しているように、三角形に関する定理にも当然に仮定(前提)があり、三角形という用語にも定義がある。
平面上の三角形、球面上の三角形、あるいはもっと抽象的なグラフの一種としての三角形、…
同じ「三角形」という名前を用いていても、文脈によって異なる定義を用いるのはよくあること。

いくら啓蒙書には定義なんて書かれていないからとはいえ、こんな勘違い(というか斜め上の解釈)をするのは、まずあんたが論理的思考の下地すら持っていないからだと思う。
とても哲学書を読めるような状態ではない。
281考える名無しさん:2012/06/16(土) 19:15:55.83 O
水が0度で凍るのではなく、純水が1気圧で凝固する温度を摂氏0度と定義しただけ。
282考える名無しさん:2012/06/16(土) 19:16:20.33 0
>>278
平行の定義、きちんと言えるかい? 曲面の場合は平行概念を拡張して定義してやらないと「平行線」というものが考えられない。
この平行を定義する手法は曲面の接続と言う。
283記憶喪失した男:2012/06/16(土) 19:33:26.13 O
おれは人類は絶対に正しい前提はひとつも知らないから、
演繹的推論は必ず正しいという科学哲学はまちがってると主張している。
284記憶喪失した男:2012/06/16(土) 22:34:54.19 O
もちろん、惑星の軌道を正確に計算できない一般相対性理論も演繹的推論の前提にはなりえないことになりますねえ。
285記憶喪失した男:2012/06/16(土) 23:03:47.08 O
例えば、一般相対性理論をもとにブラックホールの解を導いたシュバルツシルトの計算は演繹的推論だと思いますが、
科学哲学では演繹的推論ではないということになるんですねえ。
286といづて:2012/06/16(土) 23:44:47.76 0
計算って演繹的推論だったんかw
287考える名無しさん:2012/06/16(土) 23:59:43.14 O
計算は典型的な演繹だけど。


記憶喪失の人は>>280は理解できた?
前提と結論、今自分がどちらに言及してるか、はっきりと自覚できてる?
288考える名無しさん:2012/06/17(日) 00:10:25.02 0
>>もちろん、惑星の軌道を正確に計算できない一般相対性理論も演繹的推論の前提にはなりえないことになりますねえ。

>>例えば、一般相対性理論をもとにブラックホールの解を導いたシュバルツシルトの計算は演繹的推論だと思いますが、
>>科学哲学では演繹的推論ではないということになるんですねえ。

もうどこから突っ込んでいいのかわからんレベルだな。w
この手の統失さんには理屈で言っても理解しないから言ってもムダだし。
289考える名無しさん:2012/06/17(日) 00:16:24.25 0
>>287
その人、入退院を繰り返してるガチの糖質さんで、意味不明な妄想理論あちこちに
垂れ流してる完全なる病人だから言っても無駄だよ。
290考える名無しさん:2012/06/17(日) 00:24:27.93 0
117 名前: 記憶喪失した男 忍法帖【Lv=4,xxxP】 投稿日: 2011/10/06(木) 21:41:12.23 ID:HlZ3j3Qm0 ?2BP(1)
おれの組織体験の情報は、証拠はないが、重要な情報な気がしているのだ。
知らないで終わるのは、かわいそうだ。
どこかに記録しておかないと。

でも、おれもまともなネット論客となるには、組織体験は避けた方がいいだろうな。
書くべき組織体験は全部書き終わった気がしたが、やはり時々、思い出す。

円も天も日本からなくなって、いったい大丈夫なのかと本気では思っている。

そして、正直にいえば、おれは津波が原発を爆発させることを、組織体験では知っていた。
ずっと黙っていたが、津波による原発の爆発は、おれが後継者である世界一位の謀略だ。
世界一位と一分だけ会っている。
世界二位たち五、六人の小学生の集団だった。
世界一位は、おれが組織と関わった記憶を消し、おれの意見を聞くのをやめた。
世界一位は、おれの力の百分の一ぐらいで世界を運営しているようだが、
おれの意見を聞くことを嫌っていた。おれの影響力を受けたくないらしい。
291考える名無しさん:2012/06/17(日) 00:36:30.95 O
なるほど。以後、記憶喪失の人間の相手はしないことにしよう。
292考える名無しさん:2012/06/17(日) 01:09:01.52 0
記憶喪失って、知識も知力もないバカのくせに、あちこちで妄想理論を
連投する有名なキチガイだ
293考える名無しさん:2012/06/17(日) 01:35:34.69 0
検索してみたらこんなの出てきてワロタw
何を書いてあるのか妄想まみれでよくわからないけど、どうやら記憶喪失って、元世界の支配者さんなんだってw

820 名前: 記憶喪失した男 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 投稿日: 2011/10/21(金) 20:36:45.57 ID:EVFapS160 ?2BP(1)
これは、おれが五年前以上まえからずっと考えて、
観察してきたことだ。
元世界の支配者として、責任を感じるのだ。

おれは世界一位がおれの全盛期の百分の一の力しかもっていないのは確認している。
おそらく、世界一位は、おれの障壁を超えられないだろう。

むかし、セックス妄想として片づけられたが、
おれが人類が滅亡するかどうかの検証をしていたが、
その結果では、人類は滅亡すると出ているのだ。
危機なのだよ
294記憶喪失した男:2012/06/17(日) 02:27:31.64 O
おれは統合失調症患者だが、今のところ論理的思考ができないということはない。
>>283のどこがまちがってるのか教えてほしい。
295記憶喪失した男:2012/06/17(日) 04:48:50.18 O
>>287
あまり理解できないですねぇ。
つまり、演繹的推論の前提は、人類の考えだした公理にあり、科学哲学は演繹的推論が正しくなるように後付けで公理を修正しているということでしょうかねえ。
証拠はニュートンの運動方程式と、平行線の定義ですね。
296考える名無しさん:2012/06/17(日) 05:54:21.88 0
ネットが普及してしまうとただググった結果をさも知っているかのように返してくる輩がほとんどになっている。
もうほとんどが質問して役にたたないこたえがかえってきてじこ解決というパターン。
だから、ググった結果をすぐ返してきたとすぐ分かった場合は、解決しました、ありがとうございます。
というふうにまだ解決してないけど逆の反応をするようになった。
297考える名無しさん:2012/06/17(日) 07:38:16.97 O
ググって返事するのもどうかと思うけど、ネットで聞くのもどうかと思う
298考える名無しさん:2012/06/17(日) 10:20:11.35 0
>>証拠はニュートンの運動方程式と、平行線の定義ですね。

わけわけんねえ
299考える名無しさん:2012/06/17(日) 14:37:03.47 0
>>294
元世界の支配者とか言ってる時点で論的思考力ゼロじゃねえかwww
300考える名無しさん:2012/06/18(月) 22:16:59.30 0
開祖はまともなことを言ってても、大衆化すると頭の悪い信者が余計な後付けするんだよな
301考える名無しさん:2012/06/19(火) 16:34:28.51 0
地方分権の罠

テレビで韓国ドラマばかり放送されても、見なければ大きな問題はありません。
しかし地方分権で警察組織・権力を地方の犯罪については国から移管し
採用条件、組織等も地方で決めれるようにたらどうなるでしょう。
今のテレビ局が数10年前に在日枠を受け入れて、今や完全に在日朝鮮人に乗っ取られ
在日の都合の悪い報道は一切しなくなり、民主党が与党になったように
地方分権された警察組織が数十年後に、反日感情を持った外国人に支配されたらどうなるでしょう。
在日の犯罪は野放しで、日本人の犯罪は過大な刑を与えられたりしないでしょうか。
地方分権は全国の地方自治体を、反日国家のコントロール化に置くための工作活動に等しいのです。

維新に近い、みんなの党は道州裁判所を設ける案もだしてます。
橋下氏(維新)の大阪都構想。
中部の大村氏、河村氏も地域政党を作って国政で候補者を立てるようです。
選挙までまだ時間はあります、じっくり検討する必要があります。
302考える名無しさん:2012/06/19(火) 20:43:27.35 O
二項対立は矛盾を作り出しそれを解決するために重要
二項対立から逃げて悟るのは論外
303考える名無しさん:2012/06/19(火) 20:48:18.86 0
>>302
ヘーゲル・マルクスみたいだが、ほんとに解決してるのかいな?
304考える名無しさん:2012/06/19(火) 21:21:14.04 O
悟り=主観的に解決してその説明を渋ること
305考える名無しさん:2012/06/19(火) 21:29:55.12 0
>>304
私が知る限り釈尊、仏教ほどその境地と、その境地へ至る道を詳細かつ論理的に説かれたものはないと思うけど。
306考える名無しさん:2012/06/19(火) 21:46:16.42 O
境地=全体の中の辺境

実在的な世界像(宇宙モデル)で表現して初めて共有される
307考える名無しさん:2012/06/19(火) 22:02:42.07 0
>>306
なにマンダラの中沢解釈?

それじゃ現象と実在解釈で、仏教じゃないな〜
308考える名無しさん:2012/06/19(火) 22:07:46.78 O
価値観の逆転に洗脳されてはならない

この類いの思想では
実在志向(対象を理解すること・創造すること・理想を実現すること)から、自分志向(思考を身に付けること・能力を得ること・悟ること・ある感覚になること)にすり替わる
309考える名無しさん:2012/06/19(火) 22:32:33.92 0
>>308
妄想オツ
310考える名無しさん:2012/06/19(火) 22:34:22.28 O
言語のすり替わりも起こりうる。

「無」「全」などは、
機能・役割・関係性を持つ言語であり、主体はより高次な視点からそれらを運用する。

「無」「全」などは、
「〜である」「〜と観ずる」ときの名前であり、主体はどれか一つの状態である。
それらを組み立てることはしないが、「即」を用いて重ねることはできる。
311考える名無しさん:2012/06/19(火) 23:12:57.04 0
空 形を成さないエネルギー
色 形を有するエネルギー

氷と水蒸気 
312考える名無しさん:2012/06/20(水) 09:57:37.43 0
>>308
おもしろい視点だと思う。
もう少し展開してみてくれ。
313考える名無しさん:2012/06/20(水) 13:06:46.68 0
>>302
二項対立の矛盾を作り出し解決するために重要(ヘ−ゲル、マルクスのことと思う)と
述べている。 この二項対立法と弁証法の解決法を、具体例と、論理的プロセスを
もう少し詳しく説明してほしい。
314考える名無しさん:2012/06/20(水) 14:03:39.48 0
>>313
オイラも知りたい!
315考える名無しさん:2012/06/20(水) 19:46:55.00 O
非局所相関と光速度不変性は等価
316考える名無しさん:2012/06/20(水) 19:59:13.68 0
粒でもあり波でもある!で終わるのが悟ってる人にありがち
粒と波の性質よりも、粒であると思うことと波であると思うことのほうに興味があるから
317考える名無しさん:2012/06/21(木) 08:08:08.38 0
>>1の最新記事

シベリアにラノベ含む読書の話その2
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1336826578/869

869 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2012/06/20(水) 21:39:06.77 発信元:180.196.34.231 ?2BP(3)
読書がはかどらないんで、組織体験を書くけど、

組織体験ってのは、受け持ちの担任のない若い教師が仕切ってるんだけど、
これがえいがで。最も命令のトップは、学校へ行こうのプロデューサーだったわけだけど、
それとは別に、おれに干渉する部隊の指揮をとってるのは国家三種に合格した一年目か二年目の
新人公務員なんだね。
で、その国家三種は、「ニッポンなんとか」と表示される端末をもって、
指揮しているんだけど、何いってるかっていうと、「建国記念日に皇居に来い」っていってるんだよ。
まあ、国家三種の新人の仕事としてはありえるだろう。
で、建国記念日の皇居の近くの道路で、外交シミュレーションが行われてるんだな。
要は、組織というのは、この外交シミュレーションが本隊なんだ。
で、この外交シミュレーションの関係で、これはシミュレーションだから、
ルールを破れば、簡単に得できるんだ。それをワープというんだけど。
ワープした参加者が出たら、罰則がつくんだ。
で、仕組みはわからないけど、大きな財産がそこにたまってるんだな。
で、天皇の役をした本物の天皇ではない人物が、
「ここで遊んで来なさい。ただし???」ことば忘れちゃった。
とにかく、日本の枠組みを超えて遊んではいけないでちゃんと時間がたったら
戻ってくることを約束するようにいうんだな。この約束を守らなかった日本男児はいないと
いうんだ。それで、なぜか、おれたちは、約束してくれることに感動して、
約束を守って帰ってくるんだ。この遊びは十五分間だけだけど。
この遊びが、機密の奥。
318考える名無しさん:2012/06/21(木) 08:08:31.82 0
870 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2012/06/20(水) 21:41:24.27 発信元:180.196.34.231 [5/8] ?2BP(3)
一回目は、おれも約束を守り、天皇よりは贅沢したけど、とびしよりは絶対に贅沢しなかったんだ。
で、だけど、約束を守るかぎり、支配されるんだな。支配構造を打開できないんだ。
それで、「どこまでも高く飛べ」と日本語で書いた文章があるところに置いてあり、
二回目は、おれはとびしも日本も無視して、どこまでも高く、できる限界まで贅沢したんだ。
で、外交条約違反なのかどうか知らないけど、思いっきり限界に挑んで、
世界で贅沢しているやつらを攻撃してきたんだ。そいつら、むちゃくちゃ強いんだけど。
だから、おれがそこで得た知識や道具で得を振りまくことは、組織がどんな善行でも排除していくんだ。
それで、おれは排除されないように、おれが得をするのでもなく、世界すべてが得をするように
振りまいていたんだ。これが作戦で。世界すべては、組織でも能力が足らず、おれの振りまきを削除できないんだ。
それで、おれが外交シミュレーション違反をして世界を幸せにしようとして、
それが一部は成功したことがわかったのが「まどか☆マギカ」の完成など。
319考える名無しさん:2012/06/21(木) 08:08:55.62 0
871 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2012/06/20(水) 21:47:00.33 発信元:180.196.34.231 [6/8] ?2BP(3)
だから、おれが世界の支配者として行った善行はすべて、ルール違反なのかもしれない。
それで、痕跡が消えていく(歴史を改竄するのも辞さず消されていく)のだが。
そういう事情があるんだな。

でも、おれとしては、外交条約なんかに支配されてたまるかって怒りが強い。

872 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2012/06/20(水) 21:59:59.63 発信元:180.196.34.231 [7/8] ?2BP(3)
ちなみに、おれは一回も建国記念日に皇居に行ったことはない。
おれが来ないので、拉致されて参加した。

というのが組織体験。
320考える名無しさん:2012/06/21(木) 08:09:25.10 0
873 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2012/06/20(水) 22:45:18.69 発信元:180.196.34.231 [8/8] ?2BP(3)
話すと本当に長いんだけど、

外交シミュレーションってのも、うさんくさくてね。
非常に公正な国連の名のもとに行われてるんだけど、
「どこまでも高く飛べ」で飛んだところでは、
白人が、天地創造ができるのでいちばんすごい、とかいってるんだけど、
よく調べれば、天地創造ではなく、旧約聖書にのっとってエデンの園をつくってるだけなんだよね。
たいしたことない。

で、すごいやつらのランキングをつくるんだけど、一位は忘れた。
二位がインドのブラ歩マーというワープ装置で、三位がスパイネットワークなんだよ。
このスパイネットワークがめちゃくちゃ嫌なやつらなの。
すごい苦戦して戦ってたけど、正体はかなり後期にわかった。

外交シミュレーションに参加する国は、参加者を善人と悪人にわけることが多く、
日本も、善人の男をキンキンという仕事人、悪人の男をボロ服という汚れ役にして参加しているんだけど、
アメリカはちがうんだな。
アメリカは、善人を国連に送り、悪人を国連をのっとるスパイネットワークに送るんだ。
つまり、アメリカは外交シミュレーションに参加している人たちはすごく真面目で優秀だなあとみんな思うんだけど、
この外交シミュレーションでいちばん厄介な悪人はスパイネットワークという国籍不明の集団だと思ってるわけ。
で、スパイネットワークとは、アメリカ人のうちの悪人が送り込まれる組織なの。
やってられないよね。アメリカは、ルール違反をして悪人を利用していたんだ。

で、このスパイネットワークは、国籍がないから、世界中の悪人が加盟するんだ。
時に、アメリカ人でない悪人集団が世界をのっとることも何度かあった。
でも、アメリカが悪いんだよ。
321考える名無しさん:2012/06/21(木) 14:44:02.78 0
>>317
お前もいい加減うざいわ
統失に粘着して笑いものにして満足か?
322考える名無しさん:2012/06/21(木) 19:35:43.23 0
実在を捉えようとする認識ってのは進化した人間
諦観したら退歩する
323記憶喪失した男:2012/06/21(木) 20:22:26.93 0 BE:4311430597-2BP(3)
宗教板で教えてくれないので、誰か教えてください。

質問です。

「ブッダの真理のことば 感興のことば」
の「法句経」の
51ページ
「ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている」
というのが、
浄土宗、浄土真宗の南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土にいけるの根拠である。

これ、正しいかどうか教えて。
324考える名無しさん:2012/06/21(木) 20:34:30.96 0
>>323
答えたろうに

あれ以上ほとんど誰も答えないと思うよ。

それから言ったように君はネットやめて、仏教するなら師匠につきな。

適当に本読んで妄想しても苦しむだけだぞ。
325記憶喪失した男:2012/06/21(木) 20:39:26.11 0 BE:1026531735-2BP(3)
>>324
そうなのか?
昔、シッダールタがいったという根拠を教えてもらったことがあったけど、
それかと思ってね。

それとおれは仏教を解明したいとは思うけど、もう信者じゃないよ。
仏教の悟りは、真理にたどりつかないと今は考えているね。
326考える名無しさん:2012/06/21(木) 20:50:46.72 0
>>325
別に仏教でなくてもいいが、適当に本読んで妄想するのは混乱して苦しむだけだぞ。

そんなことより、ボランティアでもやった方が君にはいいと思う。

とにかく人の役に立って、愛を感じた方がいいよ。
327記憶喪失した男:2012/06/21(木) 21:00:42.49 0 BE:615919133-2BP(3)
>>326
いってることの根拠がさっぱりわからないんだけど、
あなた、だれ?
328考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:02:30.08 0
>>327
まあ、そいういうこと考えずに信じなさい。

とにかくネットとか、哲学・宗教書を読むのは止めた方がいいよ。

それが混乱の元だから、アナタの場合。
329記憶喪失した男:2012/06/21(木) 21:04:27.34 0 BE:821225434-2BP(3)
>>328
なんで、おれが混乱していることになってるの?
そんなことより、あなた、誰なのさ? 仏教系か、哲学系か、おれの粘着系か、だれ?
330考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:05:20.56 0
混乱してるのは、その人にまともな思考力がないからだと思うけど
たぶん何を読んでも誤解するから他人にそっぽ向かれる
331考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:11:48.47 0
>>329
おまえさんのこれまでのレスを見れば誰だってそう思うさ
今やるべきことは、「何故俺が混乱していると言えるのか」と問い詰めることではなく、
少しでもまともな頭に近づこうと努力することだ
332考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:35:20.12 0
>>329
統合失調症って自分が病気だって自覚ないって本当なんだね。
自分の言ってることが支離滅裂だとわからないんだね。
ご愁傷様。
333考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:36:44.35 0
>>331-332
もうちょっと、優しい言葉をかけてあげて
334考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:37:46.54 0
>>333
甘やかすとつけあがるだけ。
335記憶喪失した男:2012/06/21(木) 21:42:14.84 0 BE:1094967528-2BP(3)
はあ? 何いってんの?
おれのどこが支離滅裂なんだよ。
確かに、このスレには偽者もでてるから、
その関係であなたたちが混乱しているのかもしれないけど、
おれのどこが支離滅裂なんだよ。

あと、なんで、支離滅裂だと、ネットとか哲学とか宗教とかやっちゃいけないんだよ?
まったく意味がわからない。
336考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:44:47.56 0
まともに議論が出来ない頭のおかしい人は来ないでください。
メンヘル板でどうぞ。
337記憶喪失した男:2012/06/21(木) 21:52:54.06 0 BE:684354825-2BP(3)
おれの粘着系だねえ。
338考える名無しさん:2012/06/21(木) 21:59:12.26 0
何の根拠もなく粘着系ってレッテル貼れば思考停止出来るらしい。
粘着系って自分がそんなに有名人のつもりなんかね。
このスレ以外のどこにいるかも知らんけど、どうせどこでも嫌われてるんだろうな。
339記憶喪失した男:2012/06/21(木) 22:02:34.63 0 BE:4311430597-2BP(3)
まさかのつくだに反応!!!

つくだにさん、やめてください。
340考える名無しさん:2012/06/21(木) 22:05:07.69 0
つくだにとか脈絡なく何言い出したのこの人?
マジで統合失調症なの?
341v(・x・)vピース ◆JSPf4VvHXo :2012/06/21(木) 22:18:50.33 P
おやおや(笑)
342考える名無しさん:2012/06/21(木) 22:20:51.62 0
668 名前: 記憶喪失した男 投稿日: 2012/06/18(月) 21:09:47.99 発信元:118.159.133.16
おれは、十四歳までに人を殺した子供で、学級一成績のよい子供だったので、
かなり複雑だった。
基本的には、組織によると身分が低いので、いろんな待遇が落ちるらしい。

マジキチ
343考える名無しさん:2012/06/21(木) 22:42:53.60 0
同じ糖質でも純一の方がまだまともだ
344考える名無しさん:2012/06/21(木) 22:44:44.69 0
674 名前: 記憶喪失した男 投稿日: 2012/06/18(月) 21:53:37.44 発信元:180.197.185.65 ?2BP(3)
国連がついてるんで、世界の社会風習を体験できるんだけど、
つまり、世界の裏の支配者の考えた興奮する女の盛り上げ方を体験できたんだけど、

なんか、キリスト教圏でおれが裏の支配者のやってることを参考に
立てた企画があったな。
「十六歳で理想の相手とセックスすることになる」と知らされて、それまで処女を
守ることになった女に、乱交のだんどり役をやらせて、
十六歳になったら、「予定が狂った。一年後だ」と知らせて。
十七歳で、「また予定が狂った。一年後だ」と知らせて、
十八歳で迎えに行くという国がどっかにあったなあ。
十八歳で後背座位で挿入して、女の動くままにさせる。
ちなみに、やってきたおれはキリスト教の天使ってことになってた。
洗脳教団なのか、本当の教団なのか、国連なのか、おれには区別付かない。

345考える名無しさん:2012/06/21(木) 23:02:03.22 0
>>323
正しいと思えば正しい
間違いと思えば間違い
346考える名無しさん:2012/06/21(木) 23:07:05.21 0
とぼけても無駄じゃよ谷垣君wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
347考える名無しさん:2012/06/21(木) 23:53:56.36 0
つのがらいクリじゃからなあ・・・
348考える名無しさん:2012/06/22(金) 00:23:49.52 0
>>1Mask_of_Darkness_and_Light ◆KjV5V9dJA6Beは自殺しろ
183 +1:Mask_of_Darkness_and_Light ◆KjV5V9dJA6Be (122) ::2011/11/20(日) 21:34:22.23 0
俺の家の家系がいかにひどいかご覧あれ

母親 PTSD 蜘蛛まっか出血で左半身不自由 おそらくアスペ
父親 アル中 借金有り 
母方祖母 統合失調症
母方叔父 元ひきこもり
父方祖母 自殺
父方祖父 葬式で暴れだしたりする基地外
父方叔父 アル中で体がまっ黄色になって死亡
俺    人格障害、統合失調症、アスペルガー、境界例、知的障害、2ちゃん廃人、顔面奇形、友達ゼロ、引きこもり50代、シャブ中

ハハハ

110 +1:Mask_of_Darkness_and_Light ◆KjV5V9dJA6Be (22) ::2012/01/14(土) 19:30:59.54 0
馬鹿じゃね?

俺はコテで以外は書き込みしてないよ

http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/entrance2/1326015611/55
Mask_of_Darkness_and_Light ◆KjV5V9dJA6Beが名無しで代行を頼んだ証拠
349つくだに:2012/06/22(金) 06:09:08.31 0
>>338>>340も私じゃないです。

この記憶喪失した男って人と、v(・x・)vピース ◆JSPf4VvHXoは文学板に常駐して毎日荒らしている超糞コテですよ。
記憶喪失は入退院を繰り返してる重度の統合失調症、ピースはスカトロマニアで窃盗常習犯、前科持ちのシャブ中。
どっちも頭がすごくおかしくて妄想の中で生きています。とにかく最悪な連中です。
だから二人とも最悪板にスレがあります。
議論するにしても相手を選んだ方が良いですよ。

【多分】記憶喪失した男語録【元世界の支配者】
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1313410731/l50


【ウンコゲロシャブ】鈴木雄介【窃盗犯】←鈴木=現ピース。このスレが立った頃は他人の実名を成り済ましに利用していた。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1318091668/l50
350考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:05:38.88 0
もうすぐ消滅するくせに、必死っすねw
351つくだに:2012/06/22(金) 09:21:50.95 0
>>350
頭おかしいんじゃない?
たかだか粘着のくせに。
352考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:30:08.31 0
つくだにさんはマジで提訴される(もうされた?)ハイパーゲロコテです
みなさん信じちゃダメですよ☆
353考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:31:32.60 0
どうでもいいから、テーマをテキストに基いて語ってくれ
354つくだに:2012/06/22(金) 09:33:52.04 0
>>352
キチガイの妄想乙
こんなとこまで私のネガキャンに来る必死さって何なの?
355つくだに:2012/06/22(金) 09:39:00.95 0
カントなんて。中島義道のカント解説ぐらいでしか読んだ事ないし、定言/仮言命法と芸術論ぐらいしか興味ないんだけど、
頭のおかしい記憶喪失がわざわざ私のいるスレでありもしない妄想(つくだににいやがらせされているとかの内容)をぶちまけてて、
まえからこいつに陰湿な嫌がらせされて、こいつより遥かに上の筈の学歴から容姿までボロクソ言われててうざかったので、
クギを刺しに来たのです。本人が謝るまでこのスレはしばらく監視します。
356考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:39:33.75 0
ネガキャン()
ピースが前科持ちとか記憶は病気とか(いや病気だとしてそれは悪いことなのか)、
自己申告であって事実である保証はないんだが、つくだにが法的にアレなのは客観的に確認できる事実なんで
357つくだに:2012/06/22(金) 09:40:59.79 0
>>356
カスは黙ってろ
358考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:41:48.24 0
いつまで監視できるやら
まあせいぜい頑張ってね
359つくだに:2012/06/22(金) 09:44:26.75 0
法的にアレってたかだか民事でしょ。離婚調停とかそれレベル以下のくだらない迷惑訴訟だ。
360つくだに:2012/06/22(金) 09:49:16.17 0
>>350>>352>>356>>358
こいつうぜえええええええええええええええええええええええええええええええ!
ゴキブリストーカーキメエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!
死ねやあ!
361考える名無しさん:2012/06/22(金) 09:53:38.99 0
全部自分に跳ね返ってますよ^^;;;;;;;;;;;
362つくだに:2012/06/22(金) 10:09:46.19 0
これまでの流れ

>>64にたいして>>65の返答で統失ワードが登場し、
そのとんちんかんさあたりで馬脚が現れ始めているけど、波平が気づいていない。

その後記憶が荒らしてアク禁になってるあいだに粛々と議論がすすむ。

>>286でオカ板の面子が書き込み。

>>290あたりから住民が異常に気づき始め、記憶のアホさ加減が晒され始める。

>>339で記憶が発狂。毎度の醜悪な妄想炸裂。
そしてなぜか文学板の川上未映子スレで応援を頼む。

津原軍団が到着。盛大にスレ荒らし。

その後も記憶は晒される。カオスになる。

ってとこか。

363考える名無しさん:2012/06/22(金) 10:24:06.61 0
なんでそんなに改行多いの?
364つくだに:2012/06/22(金) 10:29:19.30 0
弁護士の立てたスレを破壊してアク禁されるきちがい

491:記憶喪失した男 :sage:2012/06/21(木) 19:37:49.97 Be:2BP(3)
アク禁、解除されました。

いやあ、苦労したなあ。
おれが解除されたってことは将臣くんも解除されるのかな?
それはそれで困るううう。

498:吾輩は名無しである :sage:2012/06/21(木) 20:38:29.46
なんで規制されてたの?

499 :記憶喪失した男 :sage:2012/06/21(木) 20:52:09.08 Be:2BP(3)
VIPが弁護士の立てた依頼スレに突撃して、一斉規制されて、そのまきぞえ。

513:吾輩は名無しである :sage:2012/06/21(木) 22:15:46.59
>>499
バカだろお前。単なる荒らしじゃねえか。
365つくだに:2012/06/22(金) 10:33:22.93 0
思考盗聴システムは実在している!!!その86
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1331456302/l50

ここでも徹底的に嫌われてフルボッコされてるきちがい
366考える名無しさん:2012/06/22(金) 10:34:33.67 0
つくだにさんはアホだから理解できないんだろうけど、
それ、記憶さんと同じ地域の同じISP使ってる人が荒らして、まとめて規制されたって意味だから
つくだにさんのせいで、荒らしてもいないのに書けなくなった福島ソネットの人がいたのと同じように
367つくだに:2012/06/22(金) 10:44:44.02 0
創作文芸板でもこの記憶喪失は嫌われまくって、記憶喪失が立てたスレを記憶の隔離スレにされたりしてた。
とにかく利己的で冷酷な人間性である上に、重度の妄想を振り回して周囲を巻き込み疲弊させる。
スペックは、Fラン大学を出てブラック企業に勤め発狂して実家に強制送還。障害年金で親元に暮らす童貞の35歳。
368ゲーム:2012/06/22(金) 10:49:50.93 0
>>1 についてだけレスすると…といっても般若心経しか知らないのだがw
それによると“物自体”などない、いうこと。物自体は“真実在”つまり「本質」の謂い。
そのような本当のもの、本当のことなど仮象(空)だというのが心経の主旨。

カントは、ヒトには認識不能だが物自体(存在の本質)はある、と考えていたらしい。

369つくだに:2012/06/22(金) 10:57:22.23 0
>>366
低能乙。
そんなことは記憶以外の誰も言い訳できない。
バカなんじゃないのこのクスは。
自分が低能なのを人のせいにするな、ゴミ。
370考える名無しさん:2012/06/22(金) 11:06:25.53 0
>>366は確実に>>1の自演だろうな
晒し上げ
371つくだに:2012/06/22(金) 11:26:49.59 0
82 :本当にあった怖い名無し :sage:2012/03/12(月) 09:31:04.83 ID: ifhL5/t50
>>79
文芸板では記憶は小説のアイディアをくれと言っておいて、
いざアイディアをくれた人が出ると
「面白くなりそうもないから却下」
「気に入らないから却下」
とわがまま放題にふるまって、ついに基地外は
どっかいけと隔離スレに追い出された。
同じパターンになるのは目に見えとる。

84 :道化 :sage:2012/03/12(月) 09:38:29.95 ID: JMBPgP3r0 (12)
>>82
はいはいw
そういう文芸サロンだかで記憶のそのやりとりをウリも見た事ある。
ありゃあ、駄目でしょ。

昨日のやりとりで、記憶がプログラム構文とかを学習する気は全くと言って良いほど無く、
手っ取り早く結果だけを求めているのは思いっきりわかっちゃっいましたよね。
なにせ拡張子の表示の仕方から教えろってんだからwww
自分で調べろよ、少しはwww

記憶のような質問や追求の仕方では、技術的に真面目な人はカチンと来ると思う。
だからロボット技術板でも板違いやスレ違いを理由に、
記憶が石もて追われてもおかしくないですが、
心優しい分裂さん及び名無しさんがキッとカバーしてくれるでしょう。

てか、記憶は何処の板なら温かく迎えて貰えるんだろう?
哀れな奴。
まあ、100%自業自得だけどw
372考える名無しさん:2012/06/22(金) 11:28:54.93 0
-創作文芸板-
記憶喪失( ^_^)=O=(^_^ )しゅらけん
-哲学板-
しゅらけん( ^_^)=O=(^_^ )つくだに
373つくだに:2012/06/22(金) 11:47:55.05 0
98:本当にあった怖い名無し :sage:2012/03/12(月) 12:37:46.69 ID: FVnvB9Ue0 (2)
統合失調症の薬って、脳の働きを低下させて
妄想を抑えるものだ。
だから飲み続けていると、少しずつ知能が低下する
んだってよ。
記憶も数年前はまだまともだったけど、今じゃ小学生なみの知能と分別しかないもんな。
怖い怖い。

236:本当にあった怖い名無し :sage:2012/03/15(木) 18:47:55.53 ID: NkJg1gfO0 (2)
自覚がないどころか、記憶は自分が知的なつもりでいるんだぜ?
実際は誰が見ても頭が足りない君なのにな。
統失と人格障害と薬でクルクルパーなんだろうね。

428:ハマ作 :sage:2012/03/23(金) 21:38:13.31 ID: cYh2/nyo0 (2)
記憶さんお薬増やしておもらいなさいょ(´・ω・`)
久々に見たけどヤバいょ
374つくだに:2012/06/22(金) 11:56:47.69 0
記憶喪失は才能がなくいつまでもデビューできない老害ワナビ。小説のネタもつきた。
だから、どの板でも、単発質問スレを立て、アイデアを住民に出させて上司気取りでダメ出しし、
楽をして2ちゃんねるで小説のネタをかき集めようとしている。
しかし、毎度スレ内の情報を処理できず半狂乱になるか、他板での悪行がバレるかして錯乱し、
住民に総攻撃されてシベリア超特急板の自分の隔離スレで遠吠えするか、
他のコテを自分の変わりに矢面に立たせて自分は逃げるのが記憶喪失の行動パターン

このスレの住民は自分のアイデアがぞんざいに扱われ搾取されて利用されている事に気づかねばならない
375考える名無しさん:2012/06/22(金) 12:03:51.80 0
成功しない人に搾取されても、その人の作品は世間からカウントされないから、
成功するためにその人から搾取しかえしても問題ない。
花咲かない人に搾取されても無害。幽霊にオナニー見られても無害なのと同じだろう。
376考える名無しさん:2012/06/22(金) 12:32:26.83 0
剽窃は違法行為だろ。
377考える名無しさん:2012/06/22(金) 13:11:33.36 P
「哲学板コテ訴えられる」でスレ立ててそっちでやれ
378記憶喪失した男:2012/06/22(金) 13:14:47.05 0 BE:1368708645-2BP(3)
最近、読んで感心したのは、
自然界に2を見つけてみろといわれると、数学者は答えられずに混乱する
というのがあるね。
なんか、ないかもしれないね。2とか。
379考える名無しさん:2012/06/22(金) 13:15:06.58 0
記憶喪失した男は逮捕されろよ
380つくだに:2012/06/22(金) 13:43:49.45 0
>>378
さっさと土下座しろ廃人
381記憶喪失した男:2012/06/22(金) 13:48:03.21 0 BE:2874287467-2BP(3)
文学板の方で謝っておいたよ。まちがえてすまなかったね。

おれの粘着多くて。
382考える名無しさん:2012/06/22(金) 15:31:21.65 0
-創作文芸板-
記憶喪失( ^_^)=O=(^_^ )しゅらけん
-哲学板-
しゅらけん( ^_^)=O=(^_^ )つくだに
383森ノ内さかな:2012/06/22(金) 17:43:08.75 0
「社会思想史」が一応専門のひとつの俺なのですが、、
アニマ煮佃←さん、
今度、サリバンかフレスカで一緒にランチしませんか?? ふふ^^
384考える名無しさん:2012/06/22(金) 17:43:29.63 0
>>378
どこで読んだんだそれ?
385森ノ内さかな:2012/06/22(金) 17:51:31.95 0
あー>>1さんへ。
「概念」と「形象」を一旦完全に分離したあり方として捉えて、
再び統合する経験を通じて物自体の存在を体験し、、
証明の仕方も見えてきますよ。
大事なのは原始仏教でいう悟りの体験を経ているかという観点です。
では!
386考える名無しさん:2012/06/22(金) 17:57:34.73 0
>>1は真性の統合失調症で、論理的思考力ゼロだからレスつけてもまともな返事は帰ってこないよ
387考える名無しさん:2012/06/22(金) 18:03:37.74 0
( ^_^)=O=(^_^ ) この記号の意味は?
388記憶喪失した男:2012/06/22(金) 18:12:01.68 0 BE:3284899586-2BP(3)
>>385
いや、仏教のように、悟れば、空(あるいは物自体)が見えるとは考えていないんだ。
物自体は絶対に見れないはずだ。
389考える名無しさん:2012/06/22(金) 18:46:34.52 0
>>388
空=物自体って仏教界の定説なのか?
ソースを求む。
390考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:03:00.82 0
>>388
何回措置入院になったの?
病名は糖質と人格障害と池沼?
391考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:05:19.11 0
>>390
もう五回くらい家族に閉鎖病棟に叩きこまれてるらしいよ。一生出てこなければいいのにね。
392記憶喪失した男:2012/06/22(金) 19:06:37.07 0 BE:2189932984-2BP(3)
>>389
いや、仏教で空=物自体と考えている人はいない。
どちらも、見えない本質という点では同じだが。
おれは、カントの物自体を支持し、仏教の空を否定している。
393考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:09:04.43 0
>>391
ええ〜怖いな。マジキチじゃん。
>>392島流しされろ!
394考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:17:10.46 0
>>392
>>いや、仏教のように、悟れば、空(あるいは物自体)が見えるとは考えていないんだ。

え?じゃあ↑はどっから出てきたんだ?
395考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:18:56.03 O
空は認知的すぎて役に立たん
396つくだに:2012/06/22(金) 19:24:59.42 0
>>383
さかなさんって真間さんと同一人物?
だったらツイッター一緒にやりましょうよ。
他のスレで垢晒そうかな。
始めたばかりなんです。
397考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:32:05.84 0
>>392
なぜ空を否定する?
398考える名無しさん:2012/06/22(金) 19:34:16.93 0
そもそもなんで>>1は「物自体」と「空」を二者択一みたいに扱ってんの?
同じ概念じゃないって自分でいってるのに、矛盾してる
399記憶喪失した男:2012/06/22(金) 19:59:04.62 0 BE:2874287467-2BP(3)
>>398
物質の本質について、第三の候補があるのかな?
400考える名無しさん:2012/06/22(金) 20:02:32.18 0
だから、物自体と空という概念は対立事項かって聞いてるんだよ
意味わかってる?
401考える名無しさん:2012/06/22(金) 20:04:40.64 0
リスパダールで小学生並みになった知能にカントとか仏教とか教えても身に付く訳がない
402考える名無しさん:2012/06/22(金) 20:08:14.93 0
小学生なら可愛げあるけど、こいつはバカな上にに頑迷だからなー
403森ノ内さかな:2012/06/22(金) 20:13:08.95 0
>>396 アニマ煮佃←さんへ。
まあ、内緒にしてもw単なるHNですがその通りなのです。^^

で、実は自分はツイッターやってないのですよね。
ちと知人に聞いて試みてみますね。また連絡するかもです、済みません。
よろしくー♪ では!
404考える名無しさん:2012/06/22(金) 20:22:02.85 0
>>399
ジプレキサは体重増加する傾向が統計上あるらしいね
エビリファイ何mg/日飲んでいるの>>1さん
寛解はあっても治癒はないおそろしい病気です
どうせだから言語新作してしまえば大丈夫なのでは。
405記憶喪失した男:2012/06/22(金) 20:36:35.59 0 BE:821224962-2BP(3)
>>400
両方とも、物質の本質を示すことばだろ。
406つくだに:2012/06/22(金) 20:52:58.77 0
>>403
やっぱり真間さんなんだ!

ツイッターの登録楽しみにしてますよ。
私顔出しして待ってますよ。

ではー♪
407考える名無しさん:2012/06/22(金) 21:04:03.02 0
>>記憶喪失した男
他人の人生をめちゃくちゃにしたいという欲望は、金がより自分の方に寄り集まってくるから
という資本主義的価値観で説明できるのでは
408記憶喪失した男:2012/06/22(金) 21:06:44.94 0 BE:1642450638-2BP(3)
>>407
いや、それは慎重な検証が必要だろう。
ヒトという個体を見て、神経がそんな風にできているとは思えない。

そもそも、他人の破壊が自分の利益になるというのは、狩猟採集の原始的生活では成り立つが、
資本主義経済では、他人の破壊より、労働の蓄積の方が大きな富を生むはず。
409考える名無しさん:2012/06/22(金) 22:03:08.37 0
>>405
空というのは物質の本質が無いことを言うのだろ?
空=物質の本質 じゃねーだろ。

物自体も同じ。
物質の本質なんてものがあったら、物自体なんて必要ないだろ。
410記憶喪失した男:2012/06/22(金) 22:20:56.66 0 BE:1231838036-2BP(3)
>>409
空が物質の本質かは、空性についてのややこしいことばの装飾と解釈によるので、
ひとまず、おいておくとして(おれは空は物質の本質だと思う)、

物自体は物質の本質だよ。
411考える名無しさん:2012/06/22(金) 23:02:31.89 0
>>ひとまず、おいておくとして(おれは空は物質の本質だと思う)、

お前が思うってだけかよ
知るかボケ
412考える名無しさん:2012/06/22(金) 23:07:49.83 0
大事なことをひとまず置くなよアホ
413森ノ内:2012/06/23(土) 00:17:47.70 0
ふむ。存在の仕方、「ありのままののすがた」を「如何に捉えるか」に通じる問題だと考えて正しいでしょうね。
実は、言語や人種をこえて遺伝子、「生命そのもの」レベル以上の深みのある洞察が出来ないと単なる
「かも知れない」wという結論に落ち着くと想見します……。では
414ひろっち:2012/06/23(土) 00:34:19.18 0
>>406 つくだにさんへ。Twitter登録してみました。(メアド欄見てくださいね)
では!
415考える名無しさん:2012/06/23(土) 03:40:52.31 P
>>388
空ってのは物自体じゃなくていわば物自体は認識不能だって意味で、空=縁起と考えれば、非物自体について述べていることになる。
>>392
>いや、仏教で空=物自体と考えている人はいない。
というのは正しいと思う。
>どちらも、見えない本質という点では同じだが。
同意するが、空とは「本質などない」という意味。
そして空をよく知ることが正覚者への道だとなるので、「非物自体をよく知ること」だという意味になる。
416考える名無しさん:2012/06/23(土) 04:25:37.60 0
刷れぬしの自演刷れ
・哲学草庵「時空」
417記憶喪失した男:2012/06/23(土) 05:05:49.07 0 BE:2737416858-2BP(3)
>>415
おれのいってることと同じだろ。
空虚が非物自体になっただけで。
418考える名無しさん:2012/06/23(土) 05:08:39.50 0
チンコパンパンじゃな
419考える名無しさん:2012/06/23(土) 05:16:30.38 O
そうですけどそれは後です。今話してます
420つくだに:2012/06/23(土) 05:35:09.84 0
>>414
何かみつからないけど、とりあえずこっちのユーザーはメル欄です。
ツイッター検索に入れてくださいね。顔アイコンが左に出ますので、
フォローしてみてくださいね〜
421考える名無しさん:2012/06/23(土) 06:56:27.21 P
>>417
そうか、なら君の意見に同意し補足するレスとして取り扱ってくれ
422考える名無しさん:2012/06/23(土) 08:59:08.71 0
記憶喪失全然会話が噛み合ってないじゃん。邪魔だから病人は閉鎖病棟入ってろや。
423考える名無しさん:2012/06/23(土) 10:53:53.89 P
そもそも物自体の「認識不可能な本質」という意味が「虚空の花」のごときもの
空はむしろ物自体という概念を否定する
424考える名無しさん:2012/06/23(土) 11:29:18.16 0
記憶喪失はばかだからどっか行けよ
レベル低すぎ
425考える名無しさん:2012/06/23(土) 12:30:44.86 O
本質は実在しないが、
本質的概念は物事を理解したり構想したりする上で非常に役立つ

真理なんざ糞食らえ
426考える名無しさん:2012/06/23(土) 12:42:47.60 0
そもそも真理に拘る人は同時に、真理を確かめる手段はないと言うからな
決して終わらないし決定的に間違えることもない安全圏で哲学ゴッコがしたいだけ
427考える名無しさん:2012/06/23(土) 12:45:17.59 0
まあ言葉の遊びなんぞやってる暇ないな
428考える名無しさん:2012/06/23(土) 12:47:20.45 0
時代を経ても色あせない名言なんかは真理じゃないか?
429考える名無しさん:2012/06/23(土) 13:59:47.21 0
名言はただの名言だろ
真理じゃあない
430考える名無しさん:2012/06/23(土) 14:25:46.27 P
幻想の共有だな
431考える名無しさん:2012/06/23(土) 19:11:07.95 0
>>415
「空」も「物自体」も言ってることは同じじゃないかなぁ・・・?
例えばゼロを基点として、そこに余計なものが「5」ついていたとする。
空ってのは、「5」が空なんだから、マイナス5で表現される。
マイナス〜〜でゼロ基点に戻すのが「空」。
つまり「空」とは、基点にあるものを指し示している。
「物自体」はこの場合で言えば、「ゼロ基点に存在するもの」
「ゼロ基点に存在するもの」と言おうが、マイナス5と言おうが、
言ってることは同じだと思う。
432記憶喪失した男:2012/06/23(土) 20:12:27.93 0 BE:5543267999-2BP(3)
>>431
例えがうまくないと思います。
433考える名無しさん:2012/06/23(土) 20:26:39.75 0
えらそうに批評すんな低能
434考える名無しさん:2012/06/23(土) 20:30:19.70 0
関連スレ:
仏教哲学を物理学的に語るスレ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/sci/1303601970/

仏教徒は虎の威を借るのに必死だな
仕舞には先取権を主張し出す厚かましさ
435考える名無しさん:2012/06/23(土) 20:34:15.73 0
しゅらけん、キリエ、佃煮は哲板では上位美形
436記憶喪失した男:2012/06/23(土) 21:00:05.66 0 BE:547483542-2BP(3)
>>435
つくだにさん、やめてください。
437考える名無しさん:2012/06/23(土) 21:08:54.81 0
またトーシツの発狂かやれやれ
438考える名無しさん:2012/06/23(土) 21:16:54.91 0
さてはコシイシーマン尊師の陰謀じゃな?
439考える名無しさん:2012/06/23(土) 21:25:52.86 0
記憶喪失した男のプロフィール

統合失調症
無職
デブ
童貞
ブサイク
バカ
妄想を2ちゃんに連投する荒らし
440記憶喪失した男:2012/06/23(土) 21:48:08.56 0 BE:1437143573-2BP(3)
737 名前:記憶喪失した男 :2012/06/23(土) 21:46:04.72 2BP(3)
記憶喪失した男のプロフィールは、

天才と称するには逸脱しすぎた異端
日本政界の黒幕
ちょっと太めの人
恋の記憶を忘れていく若年健忘症
局所的魅力あふれた美男子
虚々曖昧な麗しきことばの狂人
マゼラン星雲親交大使



738 名前:記憶喪失した男 :2012/06/23(土) 21:46:38.33 2BP(3)
おれのアンチどもは、何度いっても真実に気づこうとしない。
おれは、ちょっと太った人だ。
ちょっと太った人であり、決して、デ○ではない。
なぜ、おれがちょっと太った人だということが見抜けずに、○ブなどと呼ぶのか。
まったく知性が足りない。
441考える名無しさん:2012/06/23(土) 21:54:35.43 0
>>437
この人?:糖質ですが ◆/dRpTBnZTC3y
442考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:06:39.88 P
>>431
ゼロ基点そのものを否定するのが空だと思うんだけど
たとえば長い棒はそれより長い棒があれば短い棒だとなる

>>432
がんばって理解しようとしたのに!
443考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:14:12.42 P
>>425
これはその通りなんだよな
「本質などない」というより「常住としての本質などない」って意味だな
仮定としての、ラッセルが言っているごとき「フック」としての本質的概念まで否定しているわけではないと思う。
444記憶喪失した男:2012/06/23(土) 23:16:32.92 0 BE:1642450346-2BP(3)
いや、そうじゃなくてさ、
存在の根拠は認識できないって方向の話なんだけどさ。

それから外れてる意見は、全然見当ちがいです。
445考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:24:04.88 0
お前が見当違いだバカ
446考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:30:04.48 P
>>444
>存在の根拠は認識できないって方向の話なんだけどさ。

それは空も同じ
ただし認識できないものを「本質」や「物自体」などと名付けないとするのが空の立場という話
447記憶喪失した男:2012/06/23(土) 23:31:41.72 0 BE:2463674494-2BP(3)
>>446
だから、認識は物自体に近似するという結果がたぶん統計をとると出る。
確かめれば、論文が通るかもしれないんで、誰か試して。
448考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:34:07.69 P
>>447
認識こそが縁起だよ
449考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:35:07.51 P
というか>>447の意味がわからない
もう少し詳しく
450考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:36:19.14 0
>>447
何を言っとるんだお前は
451考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:37:04.98 0
物自体がとらえられないのに統計がとれる、と
集団錯覚の可能性は考えないのかね
452考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:39:49.67 P
物自体は認識できないのだから、逆に統計がとれないことが物自体を証明することになるよなあ
453考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:40:21.33 0
統計がとれてるかどうかすらわからないのに?
454記憶喪失した男:2012/06/23(土) 23:40:48.34 0 BE:3695512469-2BP(3)
>>448
縁起については、仏典を読んでないんで知らないんだ。
どの仏典に出てくるの?
455考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:41:33.04 P
>>454
いっぱい
456考える名無しさん:2012/06/23(土) 23:58:38.17 0
>>432
じゃあ、もうちょっと上手い喩えに挑戦してみますw

>>442
>ゼロ基点そのものを否定するのが空だと思うんだけど

ちがうちがう、ゼロってのは空のことなんだよ。
だけど無じゃない。
認識の止んだ世界のこと。
認識が止めば、基点の世界が出てくる。

例えば1メートルの棒があったとして、この棒は比較対象がない場合、
短いも長いも無い、ただの棒ってことになる。
ところがここに、2メートルの棒が出てきたとすると、とたんに比較が起こって、
1メートルのほうが短い棒、2メートルのほうが長い棒ってことになる。
逆に、70cmの棒が出てきたら、1メートルのほうは長いってことになる。
もとにある1メートルの棒が、二項対立的な認識によって、短い棒にもなるし、長い棒にもなる。
常に変化変滅している。
これがおそらく諸行無常というヤツだろうけど、実際は短い棒、長い棒という実体のあるものは存在しない。
短い、長いは縁起で、それゆえに諸行無常・・・ゆえに空。
短い棒、長い棒を空にして、最後に残ったものは何か・・・?
ただの1メートルの棒だよ。長いも短いもない。
これがゼロ基点。
空というのはゼロ基点を否定するものじゃなくて、
余計なものを取り払ってゼロ基点に戻すってことでしょ。
無じゃなくて基点に戻すってこと。

457考える名無しさん:2012/06/24(日) 00:21:50.17 P
>>456
>ゼロってのは空のことなんだよ。
>だけど無じゃない。

うむ、それが「基点ではない」ということです。
458名無し草子:2012/06/24(日) 03:12:14.75 0
>>1 あのね。君は何も分かっていないね。

異なる思想体系で違う言葉が用いられているのに「同じことを言っているのか?」とか、
差異云々というより何の冗談、、どういう意味? ユーモアのつもり??

そもそも、思想体系全体に限らず、用いられている言語や歴史学的時代背景なども異なっているのに、
比較対象とする試み自体が間違いだよ、……まったく無意味です。

いい大人が「言葉あそび」の哲学ごっこしていて面白いのかい??

死ねよ! このキチガイ!!
459考える名無しさん:2012/06/24(日) 05:26:48.53 0

死ねよ! このキチガイ!!

これが言いたかっただけだろw
460考える名無しさん:2012/06/24(日) 06:57:00.73 0
そもそも仏教は何語で考えているのか
哲学も何語で考えているのか
単純に割り切れる話ではない
461考える名無しさん:2012/06/24(日) 11:27:17.05 0
空論ってモデル化の一つですよね
462考える名無しさん:2012/06/24(日) 12:10:03.85 O
「檸檬」を書いた梶井基次郎の「ある崖の上の感情」でカフェーで話している
二人の青年の会話で
「空の空なる恍惚万歳だ」というのがでてくるけど
この空の意味が文学の仏教的意味らしいね
463考える名無しさん:2012/06/24(日) 12:27:53.04 0
文学的影響では宮沢賢治がよく挙げられるが、まあ古くから受容してるから枚挙に暇がない
仏典自体がジャータカや華厳経の善哉童子のように物語形式であることも多い
東海道五十三次の五十三は善哉童子が学ぶ徳の数らしい
464考える名無しさん:2012/06/24(日) 12:39:25.08 O
夏目漱石の小説にもたくさん出てくるしな特に「門」と「明暗」は仏教の思想に基づいているし
「こころ」には日蓮宗の寺の息子が出てくる。名前が思い出せんが日蓮のことがあるチャプターで
たくさん語られてる。三島の場合如実に思想がでてくるが空についても法相宗を解して出てくる
豊穣の海の4部さくはニルバーナに至るための輪廻転生を描いた生まれ変わりの話だし
465考える名無しさん:2012/06/24(日) 15:07:41.77 0
>>1
カントは「物自体」を主観的認識に現れた「現象」としての物ではなく、
主観的認識とは、独立にそれ自体で存在する。と、述べている。つまり、
主観的認識から独立した存在とは「無我の領域」であり、その「無我の領域」とは、
「客観的存在」と言うことが導きだされる。従って、「物自体」は単なる「機械的な物」の
集合体ではなく客観的存在としての領域と考えられる

カントは、実践理性批判の中で、「理性の実践的(道徳的)な使用のうちにその「根拠」を見出す
と言う事しか我々には、出来ないのである」と述べている。これは、純粋理性そして実践理性の主観的領域内で、
「物自体」を認識し、理解しょうとした為である。

何故かと言うと、純粋理性と実践理性は、主観的領域であり、客観的実体としての「物自体」は客観的領域からのみ
認識されるものだからである。この点は、カント自身が、十分に客観的存在を理解していないと考えられる。
カント以後、主観的存在と対立する客観的存在を明確化した哲学者としては、サルトルが客観的存在を「即時存在」と記述し、
ハイデッカ−は「世界=内=存在」として表現している。ベルクソンは「直観的領域」として表現している。又、近代では、フ−コ−が
「生の権力」として、客観的領域を捉えている。フ−コ−の場合は、主観的存在と客観的存在が、互いに対極する形で、個人の倫理の発展
として実存的立場から認識論を展開しているところが、現代社会に適応した哲理と思われる。
466考える名無しさん:2012/06/24(日) 15:22:41.70 0
ceci n'est pas une pipe
言葉と物のオーダーの間には埋めがたい亀裂があるというのがフーコーだね
467考える名無しさん:2012/06/24(日) 15:40:15.30 0
>>465
>>1はバカだから親切に説明してやってもムダだよ
468第四の波平:2012/06/24(日) 17:30:42.22 O
まあ蓼食う虫も好きずきと申しますがね
469考える名無しさん:2012/06/24(日) 21:36:16.22 P
>つまり、
>主観的認識から独立した存在とは「無我の領域」であり、その「無我の領域」とは、
>「客観的存在」と言うことが導きだされる。

このへん、カント解釈としては
かなり無茶だなあ
470第四の波平:2012/06/24(日) 21:46:46.42 O
今さらカント読む気にはならんな。昔は主要なのは全部読んだが
もう8年も絶つとすっかり忘れるな。
471考える名無しさん:2012/06/24(日) 21:58:55.91 0
他のひとの本を読んでるときもずっと心の中ではカントを読み続けてるみたいな気がする
472記憶喪失した男:2012/06/24(日) 22:05:08.61 0 BE:3832382887-2BP(3)
あのさ、客観的存在ということはダークマターを解決しているんだよ。
そんな認識するのは、シッダールタにも、誰にも不可能だよ。
473考える名無しさん:2012/06/24(日) 22:05:47.65 0
もっともカントに限らずこれまで主著に取り組んだことのある哲学者にはつねに立ち返るな
474考える名無しさん:2012/06/24(日) 23:12:55.64 0
>サルトルが客観的存在を「即時存在」と記述し、
 ハイデッカ−は「世界=内=存在」として表現している。ベルクソンは「直観的領域」として表現している。又、近代では、フ−コ−が
 「生の権力」として、客観的領域を捉えている。

結局、哲学って真理の洞察みたいなもんだから、行き着く先は
宗教的な領域だよね・・。
475考える名無しさん:2012/06/25(月) 16:16:57.85 0
>>474
「哲学は真理の洞察みたいなもんだから、行き着く先は、宗教的な領域だよね」と
述べている。西洋哲学と仏教も真理の探究の行き着く先は、同じと思う。

西洋哲学の場合は、主観的存在と客観的存在の概念が、明確化されている。その時代
の多様性に同調しそれに応じて、哲学の概念と思想形態が創造的変化を繰り返している。
近年を見るだけでも、デカルトから始まり、ヘ−ゲル、フッサ−ル、ハイデガ−、パ−ス、
サルトル、クワイン、フ−コ等々その時代に即応した、主観的概念と客観的概念を明確化
している。

その点、仏教は、天台宗、真言宗、そして中世の浄土真宗、禅宗の様に部分的な変革はあったが
総じて経典の用語、仏教言語の概念が時代に適応した創造的変化をしていない。 例えば「空」
の概念にしても、いろいろな解釈を客観的存在という観点から統合化し、明確化する必要がある。
私達の社会環境も複雑化、多様化している現在に於いて、仏教哲理が西洋哲学の言語論理を導入
して、主観的存在と客観的存在の概念を明確化し、時代に適応した創造的変化が必要と考えられる。
476考える名無しさん:2012/06/25(月) 16:25:44.64 0
>>475
>例えば「空」
>の概念にしても、いろいろな解釈を客観的存在という観点から統合化し、明確化する必要がある。
>私達の社会環境も複雑化、多様化している現在に於いて、仏教哲理が西洋哲学の言語論理を導入
>して、主観的存在と客観的存在の概念を明確化し、時代に適応した創造的変化が必要と考えられる。

客観的存在なんか認めたら、そもそも空性じゃなくなっちゃうんだが。

上のような発想では仏教はちっとも理解できないでしょ。

せいぜい、仏教を西洋思想の枠に押し込めて分かったつもりになることぐらいしかできないと思う。
477考える名無しさん:2012/06/25(月) 17:08:05.39 0
>>476
「空」とは、色(自我の領域)から独立した領域である。自我から独立した領域
とは「我のない存在=無我」の領域となる。自我(自己)は主観的存在であるならば
無我(自己以外の存在)は、客観的存在と定義出来る。従って、「空」とは無我の領域
であり、「空=空性」とは、客観的存在であることが証明される。
478考える名無しさん:2012/06/25(月) 18:27:37.84 0
仏教は仏教で多種多様に展開していてそれは哲学に比してもひけをとらない知的営為じゃないか
もちろんイスラーム哲学もそうなんだがな
西洋哲学と緊密に結びついているキリスト教を除いても
479考える名無しさん:2012/06/25(月) 18:38:20.52 0
時代の状況に応じて答えを探究するのもいいんだが
もし真理というものがあるのならそれは反時代的なものではないのか
つまり正しい奴は最初から正しいということがありえる
480!ninja:2012/06/25(月) 18:58:31.98 0
カントVSサイエンスフィクション小説!?♪。
481考える名無しさん:2012/06/25(月) 19:08:34.67 0
「実体は関係性から成る」系の論なら、仏教よりも一般相対論のほうが進んでる。
「関係性から成る」だけなのと、「関係性が局所に集中した」というのとで
482考える名無しさん:2012/06/25(月) 19:36:16.63 0
>>481
それを仏教系の人に習った事があるな
483考える名無しさん:2012/06/25(月) 20:09:08.72 0
>>477
まさに、西洋思想の枠に押し込めたね。

その領域は論理領域、あるいは観念領域でしょ。

しかも、仏教の文脈を離れてかってに設定した。

そんな読みじゃ、ダメ〜、ダメ〜
484記憶喪失した男:2012/06/25(月) 20:38:24.04 0 BE:684354252-2BP(3)
仏教は、悟れば真理にたどりつくと考えているの?
おれは人類の知り得る知恵は、真理の近似にすぎず、真理にたどりつくことは不可能だと思ってるんだけど。

つまり、悟りを開くことは不可能だと思ってる。
誰か、物質の本質が空虚だと見えた人が一人でもいるのかな?
どんな修行しても無理だと思うけど。
つまり、仏教はまちがってます。
485考える名無しさん:2012/06/25(月) 21:53:57.12 0
悟ったのは確実でそこがスタート
ただ悟りの内容が空と一言では言えないだろう
486考える名無しさん:2012/06/25(月) 22:00:46.27 0
>>477
これ、いくらなんでも酷すぎね?
そのへんの初心者向けムック本より酷いんだが。
487考える名無しさん:2012/06/25(月) 22:11:13.51 0
はいはい、悔しかったね。
488考える名無しさん:2012/06/25(月) 22:37:51.30 O
物事の捉え方・意識の違い

観察的・分析的・静的な学者は因縁生起論…事物は因縁から成る、他の事物と関係性を持つ

創造的・実践的・能動的な学者は一般相対論…事物は時空の歪み、それは他の事物に力を及ぼす
489考える名無しさん:2012/06/25(月) 23:45:00.23 0
>>484
>人類の知り得る知恵は・・・・つまり、悟りを開くことは不可能だと思ってる

悟りって、人間の知恵で追求するものじゃないんだよ。
むしろ知恵(我)を捨てたところに、悟りがある。
あんたは悟りを人間の我(知恵)で追求するもんだと勘違いしてる。
490考える名無しさん:2012/06/25(月) 23:50:33.39 0
>>1からここまで 空の概念がほぼ間違っている・・・

>>1
仏教の「諸法無我」は、実在の否定の上に成り立っているから、そもそもカントの「物自体」全く別の考え。
物自体は、実在しないとするなら、ある意味で同じといえるかもしれないが
カントは、
? diesen Begriffen korrespondierende Anschauung gegeben werden kann, folglich wir von keinem Gegenstand als
Ding an sich selbst, sondern nur so fern es Objekt der sinnlichen Anschauung ist, d.i. als Erscheinung, Erkenntnis haben konnen,
wird im analytischen Teil der Kritik bewiesen; woraus dann freilich die Einschrankung aller nur moglichen spekulativen Erkenntnis
der Vernunft auf Gegenstande der Erfahrung folgt.“ (B XXVI)
と言ってるから違うわな。
491考える名無しさん:2012/06/26(火) 00:16:16.28 0
訳してよ
話はそれからだ。
492考える名無しさん:2012/06/26(火) 00:47:59.69 0
>>491
概念が対応する直観が与えられる場合以外は、私達が、認識しうるのは、物自体としての対象ではなく
唯一物が客観であり現象としての対象についてのみということは、この批判の分析的部門で証明されている。

ほい
まあ、物自体の存在についての件はこの後なんだけどね。
493考える名無しさん:2012/06/26(火) 00:58:19.01 0
>>490
何回もいうように仏教を実在の否定と解釈する中観派がすべてではない
494考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:12:52.36 0
>>493
中観派にかぎらず、少なくても大乗仏教であるならば(多くの上座部でさえ)、外界を実在を認めない。
そもそも初期仏教で、バラモン教のアートーマンの否定が諸法無我の大本であるから、その流れを組んでいる仏教が
外界を空として捉えているというのは、自然であり現にそうなっている。ただ、空の概念自体に対しては、あなたのいいたいことは分かる。
495考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:20:00.80 0
無我は無論認めるよ理論の第一のステップとしてね
空観そのものは絶対的に正しい
カントがらみでいうとヒュームは絶対的に正しいと思うよもっとも基層では
だが中観が提起されて仏教の理論的展開が終わらなかったようにヒュームで哲学は終わらなかった
496考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:25:52.07 0
つまり無我をまあ認めたとしてそこでそれ以上は語りえぬものとして終わるのか
無我なのになぜ現に今あなたがあなたとしてある持続のもとにいるのかを問うのかだね
仏教の場合だと輪廻説という非常に強いある持続のもとに人間はおかれているから
497考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:29:39.64 0
>>496
>>あなたがあなたとしてある持続のもとにいるのかを問う
こんなことを問う時点でそもそも無我ではなく、煩悩に捕らわれていることが分かる。
498考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:32:47.77 0
もちろん我々は業にとらわれてるからね
我々は無我で一瞬一瞬作られては解体される知覚の束なのになぜあなたはあなたの記憶を存在なんだろうね
と問うわけ
499考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:35:49.45 0
ミスタイプしたが記憶をもつ持続としてある存在なんだろうね?
あなたの主張の一貫性はある持続がないとないわけでしょ
500考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:37:33.44 0
その問にピッタリの答えが、唯識にある。
501考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:42:25.36 0
しかも輪廻説というただならないある持続をどうとらえるのか
502考える名無しさん:2012/06/26(火) 01:48:59.73 0
輪廻説は、バラモン教からの輸入だろ、ただ輸入する時に、魂の実在を否定して輪廻するのは業であるとした。
しかも、本当は無いのに、主張の一貫性はあるだの持続するだのと錯覚させる根本原因でもあるわけ。
503考える名無しさん:2012/06/26(火) 04:41:32.40 0
>>490
そうか?

実在の否定じゃないだろ。否定というと、それは戯論であり、「ない」と断定することになっちまうぜ。


>>494
これもだめ。空として捉えたら戯論だ。

>>502
その見解もちょっと違うな。思想展開と見てないか?
504記憶喪失した男:2012/06/26(火) 06:03:04.15 0 BE:2189932984-2BP(3)
>サルトルが客観的存在を「即時存在」と記述し、
>ハイデッカ−は「世界=内=存在」として表現している。ベルクソンは「直観的領域」として表現している。又、近代では、フ−コ−が
>「生の権力」として、客観的領域を捉えている。

カントと仏典しか読んでないので、断言はできないが、
カントの物自体は、認識に対応する物質の本質であって、

サルトルの「即時存在」はまったくカントの認識論を把握していることばとは思えず、
ハイデガーの「世界=内=存在」は、物自体だけでなく、心などの情報も含めた存在に聞こえる。
ベルクソンの「直観的領域」はカントの思想とはまったく異なるだろうし、
フーコーの「生の主権」は何がいいたいのかわからない単語だ。

単語だけ見れば、おれが求めている単語は、カントの物自体が最も適切です。
505考える名無しさん:2012/06/26(火) 06:56:23.64 0
>>504
バカだろデブ記憶。
506考える名無しさん:2012/06/26(火) 09:55:20.45 0
イデアとして物自体をとらえる典型的な誤認だな。
507考える名無しさん:2012/06/26(火) 09:57:30.98 0
>>504
閉鎖病棟に行けデブ
508考える名無しさん:2012/06/26(火) 10:46:17.98 0
>>504
哲学の概念を日本語訳の字面だけのイメージで、適当に想像して判断する
なんてお前もうバカすぎる。
オカ板から出てくるなキチガイデブ。
509考える名無しさん:2012/06/26(火) 12:56:46.60 O
断定しないならば、代わりに何らかのアウトプットが無ければ
それは怪しい
510考える名無しさん:2012/06/26(火) 12:57:39.43 0
>>503
実在の否定を、「ない」と断定してしまうと言う時点で、490にも書いたが
だから 空の概念が間違っているって言ったんだ。縁起がわかってない。
それでは、ただの虚無主義になってしまう。

空と捉えたら、戯論だってその根拠はなんだ?
たしか龍樹自身も、空の定義を日常がら切り離してしまったら戯論に陥るといっているが、
(龍樹じゃ無かったらすまん)それは、定義の問題であって、空と見る事自体は、戯論ではない。
まあ、空を虚無主義とかと誤解してるなら、それもわからんではないが・・・ただ、そう誤解したのは
何も、アタナだけではなく、西洋の哲学者たちも同じ誤解をしている。また、中観派たちが、しきりに
「空見に陥るな」と言っている。
おそらく、あなたのレスを見る限り、空を西洋哲学者の様に虚無主義の様に捉え、その空を元に、
空見に陥ったら、戯論だと言っているが、それは2重の意味で間違っている。
まあ、前にも書いたが、わからん話ではない。
511考える名無しさん:2012/06/26(火) 13:33:01.12 0
>>510
空見に陥るなというのが、正に空と捉えるなということなんだが。

「xは空である」ということで般若や中観が導いているのは、
「xは空である」という見解を取れ、捉えろということではない、
x、非x、x且非x、非{x且非x}のいずれの見解、知覚も離れ、
戯論を鎮め、寂静の境地を導いていることだからに他ならない。

512記憶喪失した男:2012/06/26(火) 13:53:54.54 0 BE:821225726-2BP(3)
「龍樹」は三年以内に読むよ。

「空見に陥るな」か。
「スッタニパータ」で「空と観ぜよ」と書いてあったんで、
空見に陥るところだったぜよ。
513考える名無しさん:2012/06/26(火) 14:17:29.71 0
>>511
空を論ずる中観派が「空見に陥るな」と説いているのは、縁起説によらない空は、空とは言えないから。
大智度論にも大宝積経にも「空と捉えるな」とは、書いてない。ただ「空見に陥るなかれ」と書かれている。

そもそも、空は縁起そのものであるから当たり前といえば当たり前だ、「xは空である」「xを空として捉える」
「xは縁起によって成り立っている」これらはすべて同義、初期仏教は、十二縁起から空を導き、それを中観派が発展させた。
多くの大乗がその流れをくんでいる。また空は、形式論理学は愚か記号論理学ですら捉えられないのだから、
>>x、非x、x且非x、非{x且非x}
みたいに論理学の真似事をしても、何の意味もない。むしろ、510にも書いたが、日常を離れたこのような定義こそ戯論である

と龍樹は言っている。

このスレタイで話すなら、「物自体」と「諸法無我」の話でこれらは、2つとも外界の話だろ。外界を仮ですらなく実在と捉える仏教の
宗派は、数えるほどしかない。その上、これは概念そのもの話であって、その概念を個人がどう捉えるかと言うのは全く話が違うだろう。
しかも、涅槃の境地とか、「物自体」と「諸法無我」の関係で言えば全く的を外した話だ。
514考える名無しさん:2012/06/26(火) 14:41:15.50 0
>>513
どこで言ってんの?

逆に龍樹菩薩は、その四句分別を用いてるぜ。

チベットだとタシ・トゥーデル、四つの論理的限界の戯論を離れることが中道と術語化されてるし。
515考える名無しさん:2012/06/26(火) 15:04:44.43 0
>>514
510にも書いたが、何処で龍樹が言ったかは正直記憶があやふやで自信がない。たしか読んだのはチャンドラキールティ「中論註」だったと思う。
でそのなかの、無を空の意味であると偏執して、戯論の網を広げて「空用」をしらない。(たしかこんな感じだったと思う)という一節がピッタリだったから
使ったいう話。
516考える名無しさん:2012/06/26(火) 15:09:24.14 0
>>515
そりゃ、誤解だろ。

全く分かってない。

違うってんなら、『明句論』の該当箇所あげてね。
きっちり、読んでみようではないか。
517考える名無しさん:2012/06/26(火) 15:23:34.34 0
>>516
違うも何も、最初から自信が無いって書いてるだろ、今現物も手元にないし。
そもそも、文脈から考えて、「物自体」と「諸法無我」の関係で、490に書いた通り
>>仏教の「諸法無我」は、実在の否定(一応空と同義)の上に成り立っているから、そもそもカントの「物自体」全く別の考え。
に対しての、503の
>>実在の否定じゃないだろ。否定というと、それは戯論であり、「ない」と断定することになっちまうぜ。
がまさに空を無と誤解していて戯論と言う言葉使っているので、515の一節を思い出したというだけのこと。
なにか、深い意味や根拠があったわけではない。

むしろ、何が違うのか、自分ではよくわからないので、その誤解だと思う所を説明してくれるとうれしい。
518考える名無しさん:2012/06/26(火) 16:36:44.16 0
>>517
「カントの「物自体」全く別」と捉えるのは正しい。ただ「考え」ではない。

中観というのは、思想や考え、見解ではなく、戯論寂滅への導きだから。

これを中観思想と捉え、自性・実在・実体を否定する思想や考え、見解と捉えるなら、
「中観思想は自性・実在・実体を否定する思想」という知的な把握があるだけで戯論寂滅にならない。

こういう論理主義に中観を変えちゃったのがゲルクの中観で、本来の中観ではない。

月称菩薩が清弁菩薩を批判したのも、論証にしちゃうと戯論が残るので、
戯論寂滅にならないから。決してゲルクがいうような形ではないし、
一部の学者が言うような論証法の違いではない。

そもそも本来の中観は論証なんかしてない。
論証したら、戯論が残ってしまうから。

ここでいう戯論は分別の元になる言語能力としての妄想力、言葉の広がりを指してる。

519考える名無しさん:2012/06/26(火) 16:58:49.93 0
>>518
その通りだとおもいますよ。
詩や喩え話ならともかく、言語できちっと「空」にかぎらず仏教思想を定義するのは難しいですからね。

ただ、これまで中観派の空について書いてますが、490での空は、厳密には唯識派の特に依他起性の
レベルの空を意識していました。心の実在を仮にでも認めなければ、外界以前にカントとの比較などそもそも成り立ちませんからね。
ただ、私自身、無著菩薩と弥勒菩薩の唯識の違いがいまいち分かっていないので、偉そうなことは言えませんが・・・
もし、上で書いた無著菩薩と弥勒菩薩の唯識の違いについて理解が有りましたら教えていただけないでしょうか?
520考える名無しさん:2012/06/26(火) 17:52:56.12 0
>>492
「概念が対応する直観が与えられる場合以外は、私達が認識しうるのは物自体
としての対象ではなく、唯一物が客観であり現象としての対象についてのみと言うことは、
この批判の分析的部門で証明されている。」と述べている。

この概念が対応する「直観」とは、どの様な存在でしょうか。カントを熟知したベルクソンは、
客観的存在を直観(純粋持続)と述べているが、この直観とは異なるのでしょうか。又、
「唯一物が、客観であり」の唯一物とは、客観的存在としての「物自体」のことなのか、又は、
「空の領域」を指すのでしょうか。
521519:2012/06/26(火) 17:55:49.94 0
詳しく言うと無著菩薩と弥勒菩薩の違いというよりも、弥勒菩薩から無著菩薩と世親菩薩に伝えられ
無相唯識派と有相唯識派に別れていった唯識学派の違いね。
有相唯識派は、法相宗があるからそのての物を調べれば分かったようなわからんような気はするんだけど。
無著の流れを組んでいる無相唯識派は、何処を調べればの時点でさっぱりわからんと言うこと。
522519:2012/06/26(火) 18:15:19.97 0
>>520
そこでカントが言ってる直観とは、時間と空間の感覚的直観だから、純粋持続とは違うでしょ。
「唯一物が、客観であり」ではなくて「唯一、物が客観であり」ね。これは書き方が悪かったわ。
523考える名無しさん:2012/06/26(火) 19:52:52.34 0
>>519
私は唯識は疎いので分かりません。

ただ印象としては弥勒菩薩は見解が高く、無著菩薩・世親菩薩はそれをアビダルマ等で解釈しているように思います。

以下が参考になるかもしれません。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/30.html
524考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:03:58.20 0
>>490
ここでいう「実在の否定」って、自性が無いってこと?
カントの物自体も、似たようなもんじゃないの?
五感の認識によって知覚されるものは、仏教では「虚妄」と言うのでしょ?
カントの物自体も、「空間の中で直観した物は何であれ決して物それ自体ではない」って
ことなんでしょ?
言ってることは同じじゃない?
「実在」= 認識されるもの というなら、物自体=空でしょ。
525考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:04:58.59 0
>>522
カントの言う「直観」とは、主観的領域での感覚的直観ですが、「物自体」の
存在とは別として、カントは、客観的領域に於いて、純粋実践理性の延長線上
で感覚的でない、時間、空間を超越した客観的な「直観」を認識していたのでしょうか。
この点、ベルクソンは、客観的な「直観」を純粋持続(純粋記憶)と述べている。
526考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:19:42.08 0
欧米の文明

無から白人が古代ギリシャ文明を起こす→・・・・無・・・・・→ルネサンス→
いわゆる科学革命が起きいわく「我々は古代ギリシャ文明だけに
影響を受けた」→そのまま世界のすべての科学技術、哲学などは古代ギリシャの
白人が起源となる

イスラエルの「我々は2000年前の人種」という主張と何ら変わらん。
527考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:19:57.60 O
要するに仏教は役に立たない
528考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:24:41.54 0
白人は今から2000年以上前の古代ギリシャ文明を自分たちの単独起源と
しており、他の人種や文明からは一切なんの影響も受けなかったという。
仮に何かあったとしても「その国や地域自体がヘレニズムの影響によって
文明開化したのだから、結局世界のありとあらゆる文明は古代ギリシャに
なる」という。
ほんとうに彼らは古代ギリシャの「白い文明」が唯一の起源なのだろうか?
529記憶喪失した男:2012/06/26(火) 20:37:05.83 0 BE:3353335177-2BP(3)
おれは、ゾロアスター教が成立するちょっと前くらいに、
インド・ヨーロッパ語族が中央アジアから拡散するけど、
その時、白人に何か画期的発明があったんだと思うよ。

インド・ヨーロッパ語族が広がった理由は知らないけど、そっちのがギリシャより興味あるなあ。
530記憶喪失した男:2012/06/26(火) 20:48:42.45 0 BE:1231838036-2BP(3)
>>489
悟りが我をなくすことなのかどうかは、「あるがままにあれ」の原典を読んでから考えます。
あるがままにあれば、人は考えるものです。無我とか、生きた人ではありません。
531考える名無しさん:2012/06/26(火) 20:56:20.25 0
>>530
日本語で書いてください。
532記憶喪失した男:2012/06/26(火) 20:59:26.92 0 BE:1642450638-2BP(3)
39 :ジャネットです:2012/06/26(火) 14:03:44.69 発信元:175.135.181.131
記憶喪失様へ、カントの物自体と諸法無我スレへ転載ねがいます。

「諸法無我」もしくは「空」というアイデアは、もとより徹底的に関係主義的なものだろうから、西田幾多郎が述べたように、
どちらかといえば、カント哲学よりも、(たとえそれが予定的なものだとしても)ライプニッツ&ヴォルフ哲学寄り、のもので
はないのか。あるいは、(一般相対論のように?)力学の幾何学化(いわば形相実在論化)をどんどん進めれば、実体的な「物質」
というものを想定せずに、時空が何らかの状態にあるときを、そこに物象が在る、と一般的にも云えるようになるのかもしれ
ない。なお、このような場合、おそらく同時存在性(とりあえずは共時性でもよい)とはすべからく、一般共変性のようなもの
になるだろうと思う。
たしかに、《感性的直観能力は本来、受容性にほかならない。換言すれば、表象によってある仕方で触発せられる能力である。
そしてこれらの表象の間の相互関係が即ち空間および時間という純粋直観(感性の純粋形式)なのである》(岩波文庫『純粋
理性批判』中巻)ということだから、「ライプニッツ寄り」とのみはいえないとしても、「リレイティヴィティー」というもの
への重点の置き様が、それしかない、としているかのように見えるライプニッツ&ヴォルフのほうがはっきりしているかと受
け取れる。そうして、ライプニッツの発想のネタは、東インド会社が欧州にもたらした漢訳の仏典だというのは、むかしたま
にいわれたことであった。ライプニッツは漢字が読めたという。
533記憶喪失した男:2012/06/26(火) 21:00:51.96 0 BE:3353335177-2BP(3)
40 :ジャネットです:2012/06/26(火) 14:05:09.59 発信元:175.135.181.131
わき道にそれるが、上で「接平面」のことをレスした明晰な名無しさんがあった。たとえば、
ドゥルーズが微分=差異というアイデアを用いたことで、われわれの「認識」が、その「接平
面」のアナロジーといえる、(下部構造はたまた無意識の構造ないし形式というべきか)微分可
能多様体上の、局所的ユークリッド空間においてあると看做せるようなものだ、ということを、
あらためて主張することになったと思われる。これを受けて言うと、名無しさんが述べたように、
カント哲学の「基本」は、かならずしも時代錯誤になったものではないとはいえるのではないか。
柄谷も似たようなことを『トランスクリティーク』で述べていた。
ともあれ、これ以上この線で述べるのは、ありがちで詰まらないから、以下では偏頗な理解をこ
ころみる。

さて、「内的経験」の外部に自存的にして根本原因的な何かを想定すべきか否か、というのは、長
らく認識論がこだわってきた問題意識だろう。しかし、正直なところ、私としては、その種の問
題にほとんど関心がない。外を表象する内面と、そうした内面を成り立たしめる外とを並置する
ということは、けっきょく主観とその他であるところの客観とを、「原理」的には関係しえない関
係という矛盾的同一的な関係において考察しようとすることでしかないように思えるからだ。よ
って、以下で物自体と呼ぶのは、教科書的な意味での認識論が想定する「外部」のことではほと
んどない。とはいえ、(文学板では話題を占めている)川上某さんでも津原某さんでもないので歯
だと云いたいわけでもない。
534記憶喪失した男:2012/06/26(火) 21:02:15.48 0 BE:821225726-2BP(3)
41 :ジャネットです:2012/06/26(火) 14:08:55.74 発信元:175.135.181.131
ハイデガーは『言葉についての対話・問う人と日本人とのあいだの』のなかで、色をアイステー
トン(感じられるもの)、空をノエートン(考えられるもの)、だとしている。

物自体とは、認識主体というものの空虚な形式性(ことに時間形式)が一貫的であることへ、対応
するものだと思う(付言すれば、「現存在の基本構造たる時間性」(『存在と時間』)とカント的な時
間形式の一致的であることが、主体の能作性(=対象支配の構造)を保持させる)。そして、全く実
内容を欠いたその形式自体は、自然的因果の法則に従う現象ではありえない。純粋直観とは、直
観の形式上にあるものではなく、いうなれば形式そのものである。多分それは思惟によってのみ
見出せるものだろう。

「禅」が、(情報伝達的な)言葉によって伝えられるものとしての「教」の外部であるということ
は、象徴界の裂け目が現実界であるというのと――ジャック・ラカンは、「禅」の領域を、象徴界
の裂け目だとしていたそうだ。ポスト・ラカン派ならば、現実界は象徴化の挫折としてある、と
いうところだろう――そうは変わりがないように思われる。そして、この裂け目にあって露呈す
べき「現実」は、無意識、存在、構造、などと言い換えられるのであって、これらのそれぞれを、
「物自体」の様相論的表現の一つといってよい、というようなことを上に引用があった『カント
とフロイト』で柄谷は述べていたと記憶している。
535記憶喪失した男:2012/06/26(火) 21:04:31.38 0 BE:1642450638-2BP(3)
ラカンが云うところの「象徴的なもの」にあって、重視されているのは、やはり象徴系の構造―
―(カント哲学的には悟性的な)その規定力――だろう。そして、表象との間に、同形性、類似性、
類比性、などが成立するのは、想像力の主たる作用(カント哲学的には図式機能化)を介してだと
されるだろう。ただ、フロイトがいった象徴性(die Symbolik)と、ラカンがいうla symbolique
は、異同相半ばするとされるようだ。フロイトの「象徴性」のほうは、象徴と象徴が指示するも
のとの結合関係――この結合の仕方は「非反省的」なことがある――に重点があるという。した
がって、フロイト的な象徴系の構造の働きとは、自体的にカタストロフィックであるケースを予
想させる、「機械的」(ドゥルーズ)なもの、だという見方ができよう。また、象徴系の構造が人間
存在における「現実」を整序しているという考え方は、構造言語学をモデルにしたものだとされ
てきたが、これは、もともと大陸哲学方面ではカッシーラー哲学など一部の新カント主義的なも
の――「構造主義は超越論的主体性なきカント主義」(リクール)――でもあったろう。ついでに
いうと、フロイトのいう「象徴性」においては、規定する「構造」のほうよりも、むしろ「語る
主体」に重きを置いていたと取ることができるのではないか。ようするに、「ラングは語る主体に
おいてある」(『一般言語学講義』。だが、丸山圭三郎によれば、いかにもド・ソシュールがそう
言いそうではあっても、じつは本人の言葉ではないとのこと)。感性的存在者としてではない、理
性的存在者としては、行為的なものとして物自体に属する。そして、「実践理性批判」でいう物自
体としての主体(Subject als Ding an sich)とは、叡智的基体(intelligbele Subject)であって、例え
「分裂したものとして白日に照らされる」(ヘーゲル『精神現象学』でオイディプスを論じたとこ
ろから)のだとしても(ハイデガー哲学だと、「(道徳)法則と(来歴をもつ)基体」との齟齬・軋轢含み
の「拮抗的親和性」Innigkeitということになりそうだ)、語る主体として自己定立するもの――(デ
カルト的)自我主体となること即ち自らの(遂行文的)言葉を聞くこと、それが、いわば「差異とし
ての場所」だと云う論者もいるが――ということになるのでないか。
536記憶喪失した男:2012/06/26(火) 21:05:26.31 0 BE:1847755793-2BP(3)
43 :ジャネットです:2012/06/26(火) 14:12:00.41 発信元:175.135.181.131
べつに構造主義を待たないでも、ある種の仏教思想では、主体ないし主観は、言葉(現代思想語を
遣えば「シニフィカシオン」などとなる)の際限なき変換作用の繰りひろげられる空白地のごとき
ものだとされていたろう。三諦すなわち「空仮中」とは多分そういうことを指し示していた。こ
の「様態」は、主体(主語)およびそれを成り立たしめる述語の総体というものではなく、いわば
「構文的」にその都度編成される主語とそれに相同的な述語態(カテゴリアイ)のことであろう
。そして、かく云う際にあって、自らが自らへ述べるということが性起すべき場所とは何か、と
いう、ときに衝迫的な何処からともなく来る問いかけはある。

《かりに諸物自体がまず第一に、そして真実に、理性の他の関心の対象になっていなかったとし
たら、思弁的理性もこれに関心を寄せることはなかったであろう。それゆえ、このいっそう高い
関心とは何か、と我々は問わねばならない。》(ドゥルーズ著・中島盛夫訳『カントの批判哲学』)
537記憶喪失した男:2012/06/26(火) 21:06:40.03 0 BE:273742122-2BP(3)
44 :ジャネットです:2012/06/26(火) 19:13:14.96 発信元:175.135.181.131


「なにゆえ存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか?」(ライプニッツ)

 判断とはことごとく、主語と述語とを以てなされるものだというのは、
哲学的論理学では、まずまず常識といえるだろう。そして、存在に類する
もの(ここでは「実体」のほうがよいか)に関して考察するには、主語主義的
と述語主義的、大きく見て二通りの方法があったといえるのではないか。
これなどは、ミニハンさんが、過去の文学板雑談スレで何度となく言って
いたことだ。ついでに彼女はずいぶん前に、ポモ思想は主語はずし(おおむ
ね、私が上で言う「述語主義」ということになる)とも言っていたが、私も
だいたい同感であった(というよりか、最近では私が、言いだしっぺだった
かもしれない)。
アリストテレス以来?主流たる「西洋形而上学」は一面で、主語になって
も述語にはならないものにこそ、実体にあたる地位を与えてきたといえる
のだろう。なおアリストテレスによると、たとえば、「人間」などはそれに
はあたらないそうだ。よく引かれる言葉で、「ソクラテスは人間である」と
いうような場合には、「人間」は述語になる。そして、もちろん「ソクラテ
ス」のほうならば、(ふつうにいえば)主語になっても述語にはならないので
ある。
538考える名無しさん:2012/06/26(火) 21:09:38.94 0
記憶喪失した人は緻密な思考に向いてないから諦めた方がいいよ
詩文とかソッチ方面で頑張んなさい
539考える名無しさん:2012/06/26(火) 21:13:27.05 0
>>523
ありがとう 参考にさせてもらいます。

>>524
金剛般若経では、五感によるものだけではなく縁起によるものはすべて虚妄っていうからね。
そもそも「諸法無我」と「物自体」は=か否かという話で、諸法無我は、縁起説という因果律に
基づき「物自体」は、因果律によらないとしているのだから、全く違う。それに、仏教少なくても龍樹の
言う実在は、認識されるものではない。

>>525
カントは、著作によってころころ考え変えるから、正直わからない。
540考える名無しさん:2012/06/26(火) 21:17:07.76 0
>>538
文学板などが迷惑するのでいらんこと言わないでください
まともな詩が書けるわけ無いでしょ
妄想羅列するだけが関の山
541考える名無しさん:2012/06/26(火) 23:22:04.45 0
>>532-537は、結局何が言いたいの?と言いたくなるような論旨の曖昧な文章だが・・・w
せっかくの転載なので少しだけコメントする。
ライプニッツとカントの決定的な違いは、哲学史を見れば明らかなように、
カントが合理論と経験論の総合者である点にある。
だからカントの認識論ではあくまでも「感性」と「悟性」との協働によって「認識」が成立するのであり、
そしてそこから、「物自体」は認識できないということがでてきて、形而上学への批判がでてくる。

(だからそもそもこのスレで「物自体」と「諸法無我」が比較されているのが見当違いなのであって、
もし敢えて比較するのであれば、カントの認識論つまり「不可知論」と、仏教の「無記」ではないの?)

それから仏教の関係主義は、いわゆる「実体無き関係論」であるので、ライプニッツではなくて、
ソシュールに始まる《関係が先にある》という現代の関係論に近いです。

542考える名無しさん:2012/06/26(火) 23:40:17.35 0
無記って、ブッタは、ほんとに何も言わなかったから想像するしかないけど、毒矢の喩えみたいに
形而上学的もっとスべきことがあるだろって言っただけで、つまり、お前ら考えてる暇があったら修行しろって
ことで、カントの不可知つまり二律背反に陥るとは、考えていなかったんじゃないかな。
現にその後の仏教では、死後の世界とかの形而上学的問題に対して熱心に研究してるし。
543考える名無しさん:2012/06/26(火) 23:41:36.40 0
形而上学的もっとスべきことがあるだろって言っただけで、つまり、お前ら考えてる暇があったら修行しろって

形而上学的問題よりもっとすべきことがあるだろって言っただけで、つまり、お前ら考えてる暇があったら修行しろって
544考える名無しさん:2012/06/27(水) 01:00:53.80 0
>>539
>諸法無我は、縁起説という因果律に
>基づき「物自体」は、因果律によらないとしているのだから、全く違う。それに、仏教少なくても龍樹の
>言う実在は、認識されるものではない。

因果律、縁起は「空」だよね・・・?
それに基づいて、「諸法無我」 と言ってるわけでしょ?
つまり、「諸法無我」は因果律によらないんじゃないの?
因果律が空ってことは、因果律の否定だよね?(空)
545考える名無しさん:2012/06/27(水) 01:01:57.47 0
>>539
物自体をニーチェやショーペンハウアーの意志、フロイトのエス、ラカンの現実界、ドゥルーズの器官なき身体へとつらなるもの
と考えるのなら仏教でそれにあたるのは法(ダンマ、ダルマ)だというのが自分の主張だ。法は現実界に比するように法界、
器官なき身体に比するように法身と捉えることもできる。
>>541
ライプニッツもまた人間知性新論を書いてロックに対峙しているように、やはり経験論(的なもの)との総合を試みているのだと思う。
彼とスピノザの達成は哲学史上でも最高峰の一つだと思うが、彼らの源泉といえるドゥンス・スコトゥスにますます魅了されている。
自分は仏教を反実在論とはとらずに実在論と考えていて、もちろんこの論争はインドからずっと続いてるものだが
西洋哲学ではスコラ哲学の普遍論争がこの構図にとても似ている。もちろん自分は実在論のスコトゥス支持なわけだ。
546考える名無しさん:2012/06/27(水) 01:08:58.04 0
>諸法無我は、縁起説という因果律に
>基づき「物自体」は、因果律によらないとしているのだから

「基づき」 って言葉がちょっとよく分かんないなぁ・・・
諸法無我が因果律によってたら、おかしくなるよね?
547考える名無しさん:2012/06/27(水) 01:29:08.54 0
>>544
因果律、縁起は「空」ではなく因果律、縁起が「空」
龍樹自信は言葉を使い分けているけど
空とは「縁起する」という理解で一応は問題ないと思う。
あと、なんども書くが「xは空」と「xはない」は、イコールではない。

>>545
仏教の最大の謎の一つは、仏陀は、覚りを開きダルマ(法)に気づいたといっているが、
そのダルマが一体何なのか具体的には何も言っていないということだ。つまり、ダルマとは
なんなのか正直な所、誰でも分からない。

>>546
これは、書き方が悪かったかもしれんが、つまり、諸法無我は、三法印で考えなければならない。
548考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:38:00.05 0
>>545
>自分は仏教を反実在論とはとらずに実在論と考えていて、もちろんこの論争はインドからずっと続いてるものだが
>西洋哲学ではスコラ哲学の普遍論争がこの構図にとても似ている。もちろん自分は実在論のスコトゥス支持なわけだ。

??
普遍論争は、「普遍」と「個物」の問題であって、「普遍」が実在するか否かという問題だろうに…

549考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:40:44.21 0
それはwikiの中観派の項目にも載ってるるように特におかしな見方じゃないよ
550考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:53:04.61 0
いや、そのwikiがおかしいでしょw
プラトンとアリストテレスは、超越か内在か、という問題だしね…
551考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:55:02.41 0
いや普遍論争にはプラトンアリストテレスの代理戦争の様相がある
552考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:58:16.36 0
いやだから、プラトンとアリストテレスは、実在論と反実在論の関係ではないんだって言ってるのに…w
553考える名無しさん:2012/06/27(水) 02:59:01.35 0
譬えられるってことでしょ自分も似てると思うよ
そしてそれは中村元の引用だね
554考える名無しさん:2012/06/27(水) 03:03:55.47 0
つまり あれか イデアを認めるか認めないかと言いたいのか?
555考える名無しさん:2012/06/27(水) 03:06:15.44 0
認めるかどうかというか、
イデア(普遍)がま「超越的に」実在するかってこと。

プラトンはもちろん普遍重視。
それに対してアリストテレスは、普遍は個物に内在するとして、
ある程度個物重視の立場にたった。
それが普遍論争を通過して、
個物重視の立場が、現代の実存思想につながる
・・・哲学史的に見ればこんな感じだね。
556考える名無しさん:2012/06/27(水) 03:10:08.31 0
そうだねそしてプラトンの系統には神秘主義的な傾向がある
557記憶喪失した男:2012/06/27(水) 04:07:18.58 0 BE:958095672-2BP(3)
45 :ジャネットです:2012/06/26(火) 19:14:07.78 発信元:175.135.181.131
ところが、我らが西田幾多郎はといえば、述語になるといえども主語には
ならないもの、のほうが実在的なもの(西田矛盾流的には、非実体であるよ
うな実体、だろうか)だとした。華厳経やモナドロジーに説かれるところの
ように、個が徹頭徹尾孤立したものだとしても、ある個と他のあらゆる個
とのあいだには何らかの関係がある(その「関係性」が、予定的なものとし
て)とするならば、とりあえずそこには一般的な何らかがなければならない
というわけである。このような一般性とは述語的なものだが、しかし、上
の「人間」集合のようなものでは、ことの初めからアリストテレスが述べ
ていたように主語にもなりうるのである。
かくして西田は、述語になって主語にならないものとは、ようは「無」(西
田は「無」というが、あるいは「空」のほうがよいかもしれないのだ)だと
いうのである。つまり西田哲学的には、真実体は「空無」的ということに
なる(もちろん、私がおなじように考えているわけではない)。
ちなみに、ヘーゲルにしても「純粋な存在とは無と同じもの」と述べてい
るところがある(『小論理学』の「質」の項目をご参照)。
558記憶喪失した男:2012/06/27(水) 04:07:54.95 0 BE:1231837463-2BP(3)
46 :ジャネットです:2012/06/26(火) 19:14:39.73 発信元:175.135.181.131
さて、上のライプニッツの「問い」に関して、『形而上学入門』の冒頭でく
どくどとレトリックこねくり回しながら論じたハイデガーの問題意識は、
いちおう一面で西田と近しかったといえるだろう。まあそれも、西田派中
心人物たちの第二の師匠といえそうなので、当然と云えば当然ではあろう。
スター思想家では、たしか「対自存在は無」だとしたサルトルや、およそ
ヘーゲル的「自己意識」=空虚だとした初期のアルチュセール、「(無なる)
否定的なものの元への滞留」の頃のジジェクなどにも似たところが目立つ
と思える(まあ、ほかにもそういう人はたくさんいるだろう)。これらは、簡
単に言ってしまうと、「有即無、無即有」という我々にはいたって耳慣れた
主張なのである。ちなみに、「諸法実相」というのが、「諸法無我」の裏バージョン?にある
のではないか。
とはいえ、ハイデガーが「実体」にあたるものをすべからく、西田のいう
ような「無」的なものと考えていたか、といえば、疑問がある。

《「はじまり」は、必然的に自らを覆い隠すが、この自己隠蔽は無ではない。》
(ハイデガー『形而上学入門』)
しかし、ハイデガーにとっても「空」的ではあるかもしれないが。

なお、知ってのとおり、「空無」も、場合によっては?容易く主語になる。
559記憶喪失した男:2012/06/27(水) 04:08:34.51 0 BE:3079593959-2BP(3)
47 :ジャネットです:2012/06/26(火) 19:36:53.83 発信元:175.135.181.131
ともあれ、一般的(このさい、普遍的の方がより適切だろうから以下はそうする)なものと個的
(だったら、こちらは特異的ということになるだろう)なものの差異とは、「意識」の領域では反照
的(反省的)なものであって、あくまでも合わせ鏡的に相等即相異的なものになる。これは、(回帰
すべき)「等しきもの」もしくは「差異的なもの」、あるいは、本来的な自他未分の一表現だろう。
普遍性は、特異性に媒介されることによって、いうなれば存在者の存在の外から規定されるとし
ても、もう一方で、普遍性はこれを規定する特異的な媒体のそれぞれにおいて同一だということ
になるのだ。よって、もしも「まこと」の差異があるとすれば、またそれが「反復」(繰り返し)
するものであるとしたら、この差異の差異であるところの「隠れるもの」としてにほかならない
のではないか。そうして、ここでドゥルーズを都合よく援用すると、「まこと」に存在するのは、
この同一性の領域と差異の領域との間を絶えず往還する「機械」の終わりなき運動としてのいわ
ば根源的な差異だということになるのだろう。しかし、ハイデガーによれば、こうした同一性=
差異性の基底であろうところの差異については、いかようにも陳述すること(私は、たとえばアク
ティング・アウトのような極端なケースでもある種の陳述だと考える)はできないとされるはずだ。
なお、このように云うときでも、普遍性について述べることは、特異性を「普遍」的なものの在
り様とすることなのである。こういった普遍性とは、特異的なものの肥大ないし特権化、そうし
たものといえよう。これは「まこと」の普遍というに及ばず、やはり単にある特種の事態という
ことになるのではないのか。
560考える名無しさん:2012/06/27(水) 04:15:51.25 0
なんでこのスレにいない奴の言葉をありがたがるのかが分からないが
分かりにくくものごとを書く才能があるね
561記憶喪失した男:2012/06/27(水) 04:20:54.67 0 BE:4379866188-2BP(3)
以上、レディー・ジャネットさんからの投稿でした。
562考える名無しさん:2012/06/27(水) 04:26:53.61 0
>>557-559の人は、すべてが中途半端だね。
中途半端なところで、いつも他の哲学者の名前が出てくるw
西田幾多郎の「無の場所」について書きたいのなら、ちゃんと書けよ、と言いたい。
ちゃんと書いてあれば、反論もできるけど、中途半端すぎてコメントしようがないな…
563考える名無しさん:2012/06/27(水) 07:47:25.64 0
文学系特有の、衒示的言説を振り回してればなんかえらいこと言った気分になれるってやつじゃない?
564考える名無しさん:2012/06/27(水) 08:49:01.47 0
ジャネット某も所詮記憶が賢いと思い込む程度のオツムだろ
記憶は波平が哲板で一番頭がいいって言ってたぞw
565考える名無しさん:2012/06/27(水) 09:04:28.34 0
誰が賢いとかバカだとかはどうでもいいけど
いろいろ中途半端にそれっぽいタームや哲学者を振り回してる人より
概念を地道に検証してくれてる人のほうがはるかにためになる。
566考える名無しさん:2012/06/27(水) 09:12:27.37 0
>>565
同意、テキストに基いてマテリアルに分析する人の方が確実に信用できる。
567考える名無しさん:2012/06/27(水) 11:41:40.70 0
>>547
>>539の文章は、二種類の文章が入り混じってるような気がするんだよね・・・。

>諸法無我は、縁起説という因果律に
>基づき「物自体」は、因果律によらないとしているのだから、全く違う。

1.諸法無我は、縁起説という因果律に基づき、導き出されているが
  物自体は、因果律に基づいて、導き出されていない。

2.諸法無我は、縁起説という因果律によっているが、
  物自体は、因果律によらない。

1.は導き出し方の問題で、物自体や諸法無我が因果律によるかよらないかって問題じゃない。
2.は、物自体は生じたわけでもなく、滅するとか、生じるとか、そういう因果律の世界とは全く関係ないから、
物自体が因果律によらない ってのはその通りだと思うんだけど、諸法無我が因果律によるものだったら、矛盾してるよね・・・?
諸法無我は、原因があったから生じた・・っていうことになっちゃう。
諸法無我は、原因とか結果の世界を、超越した概念でしょ?

結論的には、「諸法無我も物自体も、因果律を超越している(よらない)」
でいいんじゃないの?
568考える名無しさん:2012/06/27(水) 13:56:21.59 0
>>567
普通の因果律で考えるとそれで問題ないんだけどさ
ココでの因果律ってホントは 仏教の空のことだから。
単純に時間的な原因と結果って意味では無いんだよね。

これがあるときにかれがあり これが生ずることによりかれが生ずる
これがないときかれがない これが滅することによりかれが滅する (サンユッタ・ニカーヤ)

この仏教の縁起の意味がわかんないと正直話が咬み合わないと思う。
569考える名無しさん:2012/06/27(水) 14:41:23.09 0
まるで違う概念を「仏教でもあるんだぞ」といいたいひとが投影的に解釈位置付けしてるんだろ?
ふー
570考える名無しさん:2012/06/27(水) 14:42:51.54 0
要素論的なカントと非要素論的な諸法無我が同じなんてのはチャンチャラオカシイ
571考える名無しさん:2012/06/27(水) 15:03:43.36 0
>>568
その此縁性が最高です。
572考える名無しさん:2012/06/27(水) 15:13:40.92 0
此縁性これ なんて読むんですか?
573考える名無しさん:2012/06/27(水) 15:18:14.01 0
しえんしょう ダッヨ〜ン

これ一つで、論理学、存在論、認識論、言語学を軽く超えてしまう。
もっとも深淵な格言じゃないかと
574考える名無しさん:2012/06/27(水) 15:57:15.00 0
タイタンの妖女の話しようぜ
575考える名無しさん:2012/06/27(水) 17:12:00.02 0
>>568
>ココでの因果律・・・単純に時間的な原因と結果って意味では無いんだよね。

そもそも因果律というのは、原因と結果という時間的なものでしょ?
龍樹の縁起は因果律じゃなくて、相依性じゃないの?

>「(龍樹の)縁起説という因果律に基づき・・・・」 

この文章おかしく感じるんだよね・・・
「物自体が因果律によらない」というのは、原因と結果という時間的な因果律のことだよね?
物自体と諸法無我が因果律によるかよらないかって話をしてるときに、相依性の縁起を持ち出すのは、
ちょっと違うような気がするんだけど・・・
釈迦の十二縁起ならまだ分かるんだけど・・・
576考える名無しさん:2012/06/27(水) 17:41:44.87 0
>>575
ああ ごめんごめん 自分のレス見なおしても 初期仏教と龍樹と唯識の空をあまり明記せずに使ってるし コレじゃわかりづらいね。

まず>>490では、唯識の空を意識していて、唯識派は中観派の影響を受けている&空について龍樹は多くを語っているので
それ以降は、(外界という意味では同じなので)中観の空を意識している。また、龍樹自身が、空は「縁起する」と同義てあるといっているので、
虚無主義と誤解される「空」を縁起(因果律)として使っている。次に、縁起(因果律)は、通常の意味の因果律ではなく、中観派の空は相依性であるけれど、
そもそも中観の空の元となった初期仏教の十二縁起の時点で時間的な原因と結果という意味ではない事を568で書いたつもりっだったんだけれど・・・ちゃんと明記すれば良かったね。

どちらにせよ。諸法無我は、初期仏教の三法印から来ているので、初めから十二縁起で説明するのが良かったかもね。
577考える名無しさん:2012/06/27(水) 20:15:27.61 O
平面的なイメージの空よりも、理論物理系の空間のほうが立体感があっておもろいやん
578考える名無しさん:2012/06/27(水) 20:18:05.05 0
空は、多分空間よりもっと次元が高いと思うぞ
579考える名無しさん:2012/06/27(水) 20:32:56.65 0
248 記憶喪失した男 sage 2012/06/27(水) 20:20:44.75 ID:Exx0uVrg0 BE:3284899968-2BP(3)
381ページまで読んで、感銘を受けることばがひとつもない。
ひょっとして、ハイデガーはバカなんじゃないだろうか?

ハイデガーはカントに及ばない、のはほぼ確実っぽい。

なんで、こんな本が褒められてるんだろう?
580考える名無しさん:2012/06/27(水) 21:28:25.92 0
次元高くないでしょ
次元思考なんかしてないし、空なんてのは認知であって宇宙論をやってるわけじゃないんだから
高次元といったところで異なる次元との関係なんて何も考慮してないでしょ
581考える名無しさん:2012/06/27(水) 21:42:52.25 0
それが、宇宙論やってるんだなそれが 仏教にかぎらず インド系の哲学や宗教は、宇宙レベルの流出説を人間レベルに置き換えているのがほとんどだし
582考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:18:28.96 0
宗教屋の言う「高次」とは「すげえ」という意味合いでしかない
583考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:20:52.70 0
妄想の意味だな
584考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:21:32.22 0
Dimensionというのは文字どおり2D3Dの意味もあるがある拡がりを表す言葉で日常語としてはその用法が多いね
585考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:23:31.39 O
なぜ宇宙論的に語ろうとする人が少ないのか?
なぜわざわざ遠回しに主観的捉え方のほうで語るのか
586考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:24:33.57 0
宇宙論的に語る?
宗教スレイキな。
587考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:25:36.38 0
単語の多義性からの連想ゲームを「根拠」と言い張るのは妄想家の十八番
語源にまつわる話ならともかく、連想ゲームが学術分野の専門用語にまで及ぶともう手がつけられない
588考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:27:38.02 0
質量は即ち空間である。
いや捉え方変えただけで、実際は同じじゃないやろ。力が生じてるやんけ
589考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:33:31.02 0
>>585
概念を擬人化して理屈なんてすっ飛ばした物語仕立ての方が愚民にとって受け入れやすいから
ってドーキンスおじちゃんが言ってた
590考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:44:52.12 0
擬人化・比喩であることすらわからない超愚民が暴走して拡大解釈を始めるわけですね
591考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:49:13.93 0
一応瞑想を通しての実体験としてインドの哲学の宇宙観はあるから
西洋的な言葉や記号の羅列の結果とは、仮に結論が同じでもすこし意味合いが違うね。

ってこの話題荒れるからやめたほうが(ry
592考える名無しさん:2012/06/27(水) 22:50:46.05 0
結論同じではない
593考える名無しさん:2012/06/27(水) 23:45:04.42 0
空など、一つの語で世界を捉え(ようとす)る
vs
エネルギーと質量の関係式など、複数の語の組み合わせで世界を記述する・世界像を映し出す
594考える名無しさん:2012/06/27(水) 23:50:06.13 0
実体験or記号並べ <<<越えられない成功者の壁<<< アイデア・創造的活動に役立つ思考
595考える名無しさん:2012/06/27(水) 23:59:38.23 0
>>593
現代の数理的証明方法や現象そのものを観測する場合では、決定不可能な命題・偶発性を排除出来ないため。
>>エネルギーと質量の関係式など、複数の語の組み合わせで世界を記述する・世界像を映し出す
行為は、これらの問題を解決出来なければ、不完全に終わらざる負えない。

そもそも、空で世界を捉えるって何の話だ?ww
もしかして仏教の話をしてるんだったら、勘違いだぞ
596考える名無しさん:2012/06/28(木) 00:02:45.18 0
仏教の悟りとは端的に言って思考放棄・もうどうでもいーやの境地なので
世界の仕組はどうでもいいのです
でも2chで布教活動はしたい微妙な心持ちなのです
597記憶喪失した男:2012/06/28(木) 05:22:47.64 0 BE:684354825-2BP(3)
>>593さんは物自体がわかってないねえ。
598考える名無しさん:2012/06/28(木) 05:36:58.77 0
おめえも 勘違いしてたろうが
599考える名無しさん:2012/06/28(木) 06:08:01.85 0
>>597
てめえが一番わかってねえぞ、体重105キロのデブ
600考える名無しさん:2012/06/28(木) 06:15:35.39 O
>>596
全然違うわ。仏教の六波羅蜜と般若の思想を勉強してこいやハゲ
601考える名無しさん:2012/06/28(木) 10:56:48.80 0
白人が言ってたけど「生まれ変わりは科学的に証明できないので仏教は
迷信である」だってさ。
602考える名無しさん:2012/06/28(木) 10:59:28.32 0
>>1さんが言いたいのはたぶん「科学的に証明とは一体なんなのか?」って
トコに行き着くと思うのね。仏教は科学で説明できないから迷信だけど、
タレスやソクラテスらから始まるイデア・アルケー論、それを批判する
アリストテレスらの説は「科学的に証明できる」から哲学だ、おっしゃり
たいことはそんな
感じだと思う。
603考える名無しさん:2012/06/28(木) 11:01:45.57 0
ところである方法を記号などで記す方程式って
古代ギリシャ起源だと当然思ってたのだけど、
古代エジプトやバビロニアのころからあるんだね。
白人野郎に騙されたわ。何がルネッサンスで科学革命だよ、
無からすべてを発見したみたいに言いやがって。
604考える名無しさん:2012/06/28(木) 11:40:49.19 0
>>601
そりゃ馬鹿だろ。科学的に証明できないものは多いっしょ。
それらを使わないと生活すらできないのに。
605考える名無しさん:2012/06/28(木) 11:58:18.58 0
散々言われてることだが
結局釈迦牟尼は輪廻転生を認めてたんだか、認めてなかったんだか。

普通の仏教では認めてたって解釈だよね?
学者は認めてなかったって解釈するほうが多いのかな。
606考える名無しさん:2012/06/28(木) 11:59:37.34 0
>>605
認めてないとか、方便だという学者は少数。

まあ、そういう学者は信用出来ないと思って間違いない。
607考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:09:03.70 0
>>605
輪廻転生は、アートマンが実在だとするバラモン教と言うのは言うまでもなく
そのバラモン教のアートマンを否定し輪廻から解脱しようとしたのが、釈迦だから、
本来の意味では、認めてなかったと見るのが筋。出家者には、ないと言っても、
当時のバラモン教の影響が強い多くの在家の者たちには、方便として輪廻を認めた(話した)と言うのは
想像に難しくない。

が、どちらにせよ、仏教はアートマンを認めないのだから輪廻を認めるにしてもそれは、仮のモノだとすることには変わりない。
608考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:19:38.02 0
>>606
そうなんだ。

>>607
> アートマンを否定し輪廻から解脱しようとしたのが、釈迦だから、

だったら、認めてたことになるんじゃない?
単に輪廻するのは実体としてのアートマンじゃないってだけで。
609考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:23:27.61 O
世界に対して無記であっても、世界観を構築することについて無記であってはならない
610考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:27:29.66 0
空から輪廻は説明できないね
空と輪廻の間にあるのが仏教
611考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:31:51.82 0
解脱は輪廻から解脱することだから根幹でないか
612考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:37:22.32 0
>>601
科学的に証明できるできないなんて言いぐさは、科学音痴であることの証左
「科学的に証明」なんて言いぐさは、せいぜいが

ある科学理論を真とみなした上で投影的に理論内事象として演繹的に論証できるという意味でしかない。

当の科学理論の妥当性は仮説せいを免れることはできない。
よく、「この事実ないし法則はすでに十分実証され仮説の域をでている」たる俗論をそこそこに名のある科学研究者が述べることがあるが、
それは「自覚されていない特定条件下での特異な「理論空間」でありうることへの謙虚さを失い既に
科学の名を冠した絶対的反映論たるう形而上額学に陥っていることを意味する。
その末路は恐ろしい。そが為の不幸と被害がどれほど人類を襲ってきたことか。

613考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:44:13.90 0
輪廻と輪廻転生がゴチャになってるな。
アートマンたる実体的、要素論てきな発想への意義申し立てとして存立するゴータマの思想に輪廻転生などうまれるわけはないのはその通りだと思う。
チベットで盛んだった生まれ変わり思想が大乗に流れ込んできて
訳のわからん輪廻転生などという恐ろしく反仏教てきな魂実体論が幅を聞かせている。
偶像崇拝と輪廻転生。日本仏教堕落の象徴だな
614考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:45:05.06 0
ミス 聞かせている
正 効かせている
615考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:46:15.31 0
偶像崇拝になるのは大抵の宗教で起ってる
イスラムは違うのかな
616考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:47:49.47 0
輪廻と輪廻転生の違いというものを詳しく
617考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:56:11.11 0
理論空間なんて言葉を使う人で科学をよく知ってる人なんてついぞ見たことないわ
618考える名無しさん:2012/06/28(木) 12:59:24.06 0
科学をよく知っているという言い方をしてる時点で、科学屋であっても科学者ではない。
619考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:02:05.13 0
仏教などのインド哲学の宇宙観が、最新の量子力学と似ていると言う話はよく気が、
そこんトコロ!、どうなの?
620考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:02:44.84 0
>>615
ユダヤとイスラムはいまだに偶像崇拝を基本的にしない。
仏教はガンダーラでギリシャ彫刻文化と接触して以来急速に偶像文化になったな。
ただし、キリスト教にしても仏教にしても、自らが拝んでいる対象を「偶像」とは言わないことは無論だ。ははは
キリスト教はなにしろ「偶像崇拝はいけません」だし。
ただし、「私たちのキリストやマリア像は偶像ではないのです」
アホー

621考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:06:25.25 0
科学者というのは科学哲学者のことだから(科学哲学者にとっては)
マジで
622考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:09:30.28 0
仏教徒なら、別にいいんじゃね?たしか仏陀は、偶像崇拝を否定も肯定もしてないし。
極論、今拝んでる仏像を、次の瞬間こんなもの空だ!!!と叩き割っても何の問題もない。
回りの目は、気になるかもしれないけど、そんなもの諸行無常(-∧-;) ナムーでおわり。

まあ何度も言うけど極論ね
623考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:11:19.17 0
>>619
たとえばひもの運動方程式を書き下せるぐらいの学力は自分にあるが安易にリンクさせたくはないね
しかし仏教は正しいだろうと思ってる
624考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:24:53.91 0
でもドゥルーズみたいな人は本当に面白いね
専門家ではないのに本質を掴んでるところがあ
625考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:25:33.47 0
要素的実体論たる輪廻転生論とは対局てきな輪廻の思想は実のところ多様に存立可能だが、1つの代表的なものをのべると、

イメージとしては有機物まみれの沼でブカブカと沫が水面に出てきてはプチんと消えてなくなる様子を思い浮かべるといい。
水面のうたかたの如しだな。
その泡自体(この言い方は方便だ。個的実体という発想自体が「特定条件の理論空間ない事象」でしかない)が消えたとして、その泡をあらしめていた「それ」まで消えることはない。その「それ(ら)」は改めて別の泡をあらしめる。
そのあらしめ方は、仏教的な言い方をすれば因縁生起によってと概括的に表現される。
アートマンたる実体など仏教は想定しないが、アートマン的にいえば、
個を構成するアートマンがその個を構成していなかった他のアートマンと相まって、亦、他の個をあらしめるというところだ。
生成流転、事象(この存在もそれにふくめて)は場たるなにがしかによって生成変容のうちにあり。
ま、そんなところが輪廻思想の1つの核となる。
そのポイントは俗てきな意味での個別の転生とは無縁だ。


626考える名無しさん:2012/06/28(木) 13:56:50.09 0
>>608
そう。


こういうこと言う人が和辻以降そこそこいるが、学者としては不当と思う
>>607 >>610 >>613


>>625
いい線いってる。無常とか八喩系でしょ。より端的なのが『中論』24-14
627考える名無しさん:2012/06/28(木) 18:40:57.72 0
>>625
そこで言ってるアートマンって業や唯識の種子と実在を認める認めない以外で何が違うの?

>>626
輪廻転生を認めていたとする学者としての根拠は?
628考える名無しさん:2012/06/28(木) 19:20:41.22 0
輪廻転生があるとかないとか、以前にカースト制と一緒に語られる輪廻転生は、危険思想にほかならない。
どの学者が云々言ってんのは知らんが、お前らインド言ったことあるのかと聞きたい。まだカースト制はあるんだぞ。
629考える名無しさん:2012/06/28(木) 19:58:35.36 0
>>628
そのとおりだな。
俗称バラモン教は輪廻転生でもってカースト制度を神学的に絶対化した。
その実情はインドに限らずネパールでも惨たるものがある。
630考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:02:56.02 0
>>627
テキストを自然に読めば、どこでも根拠だよ。ニカーヤ、アーガマ、大乗仏典、諸論書。
むしろ、輪廻を認めてないと読む方がおかしい。

明らかに意図的に常識、あるいは科学信仰に擦り寄った読み方。
631考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:14:22.01 0
佐々井秀嶺は仏教を反カーストの宗教とするために輪廻を否定してるな
632考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:17:11.35 0
>>631
アベンドカルは仏教じゃなくて新興宗教か、社会運動でしょ。
633考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:19:53.03 0
>>630
「テキストを自然に読めば」といってる時点で論外。ふー
自然に読むと「正しく追認できる」とでもおもっているのだろうか・
634考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:29:01.70 0
>>633
>自然に読むと「正しく追認できる」とでもおもっているのだろうか・

そりゃ、複雑な内容は別だが、輪廻に関しては明解だよ。
そんなの意図的に読み替える和辻系の学者がおかしい。
635考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:40:50.81 O
>>619
カレーとウンチが似てるのと一緒ですね
636考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:41:52.65 0
和辻系?
おいおい、俺のどこが和辻さんだ
和辻さんなんて名前をしってる程度だ。風土がなんたらとかいう思想だったかな。

和辻に投影されても困るぞ。
あるひとは現象学ぽいといい
あるひとはプラグマティズムといい
あるひとは広待つさんといい(これは確かににてる。学生時代驚いた)
あるひとはニーチェだといい
今日は和辻さんかあ
いうほうは、いい加減なものだ。

俺はええと
>>613
>>620
>>625
>>629
>>633
以上
637考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:46:51.41 0
>>636
和辻系というのは、彼らが述べる思想や見解などではなく、
明らかに輪廻が説かれてるのに、無理筋で読み替える輩のこと。
君のことを言っているわけじゃない。自意識過剰じゃない?
638考える名無しさん:2012/06/28(木) 20:48:45.40 0
>>630
たしかに、方便なんだから自然に読めば輪廻を認めているて読めるわな。
ニカーヤ、アーガマ、大乗仏典、諸論書。が偽経かどうかは置いておいても
最古仏典のひとつスッタニパータなどでは、来世前世なんかよりも現実の修行を
重きにおいている阿含経の毒矢の例えのように。確かに、完璧に輪廻を否定しているするのは
おかしいかもしれないが、逆に、絶対に肯定していると読むのもどうかしている。そもそも、
多くを語っていないんだから。その数少ない言葉の一つ一つから想像して輪廻を認めてぃるというなら
かなり科学的ですね()。

それに、仏典を読む時は、釈迦は、教える相手によって話のレベルを変えたのだから、それを考慮しないと間違える。
少なくとも、在家のものには、道徳として輪廻の思想を説いた事は大いにありえる。
仏陀の言葉ではないが、ミリンダの問いの「罪ある者は生まれ変わりますが、罪なき者は生まり変わりませぬ」に近い。
ニカーヤ、アーガマ、大乗仏典、諸論書の輪廻に対する教えも、コレと似たり寄ったりだろ。
639考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:00:00.51 0
>>638
>最古仏典のひとつスッタニパータなどでは、来世前世なんかよりも現実の修行を
>重きにおいている阿含経の毒矢の例えのように。確かに、完璧に輪廻を否定しているするのは

オイオイ、読んでないだろ。スッタニパータ657以下、及びその前の散文読んでみ。
724以下でもいいは。どこよんでも輪廻が前提になってるよ。断章取義で読まないかぎり。
毒矢の例えで言うのは、如来死後であって、一般人の死後じゃないんだよ。
それを京都の学者が、一般人の死後と読み替えた。
それは注釈に如来が、有情と解釈されているからだが、それは特殊な理由があることが多くの学者によって論証されている。
だから、毒矢の例えを輪廻否定の根拠に使うのは間違いに他ならない。
640考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:04:31.85 0
>>638
輪廻方便説ね。
それもだめだ。
なぜか、修行の果として宿命通ってのが出るんだは。
宿命通というのは、あらゆる過去世の記憶を知ること。
それがアーガマ・ニカーヤのほとんどの長部・中部経典に説かれてるし、
原始仏教じゃなくても、部派にしろ、大乗にしろどこでもそれは同じだから、以下のように
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html

だから、そんなこと書いてる本は、全く信用できないってことになる。
641考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:06:26.22 0
輪廻は仏教の出発点だろう
ただ仏教の輪廻とは何かというのは問題
差別的だといわれるように仏教の輪廻でカーストが保持されるのか
642考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:07:56.19 0
輪廻が仏教の出発点
どれだけ汚染されてるんだか・・
ふー
643考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:10:12.76 0
>>641
そういう社会的なことに仏教は関わらないよ。
それは単なる習慣。その時代、地域それぞれの習慣と争わないのが仏教。
だから、方便として先祖供養も認め利用するわけ。
利用するというのは、先祖供養という習慣によって供養や布施をすることで、
持ち物を少しでも手放すことが、福徳に繋がるからに他ならない。
644考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:12:28.27 0
自分もカーストがくっついたまま輪廻するとは思えない
645考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:15:09.46 0
>>639>>640
そうか?コーカーリヤは、モッガラーナたちに敵意を持っていなので地獄に落ちた。
だから、聖者を恨んだり、悪口を言ったり嘘を付いたりしてはいけませんよって言ってるんだろ。

これ、輪廻を肯定していると言うよりも、後者の悪い事をするなということを言いたいだけで
その為に地獄への生まれ変わりを方便として使っているとしか読めんのだが・・
646考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:16:30.60 0
そうか?コーカーリヤは、モッガラーナたちに敵意を持っていなので地獄に落ちた。

そうか?コーカーリヤは、モッガラーナたちに敵意を持っていたので地獄に落ちた。
647考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:25:01.84 0
それは確かに方便としていってる面が大きいが輪廻=100%方便というわけではないだろう
仏教のなりたちにかかわる根本的な認識として輪廻といわれるものがあるのではないか
648考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:26:57.60 0
すっかり物自体となんたらの差同性認識はどっかにいってるが、
輪廻転生なんていってる連中、すこしは考えてるのか?

輪廻転生たる発想において、
ある個的生命が生まれ変わるとして、生命数の増減はどう「説明」するんだ?

人類の人口はつい100年まえあたりからひどく増えてるぞ?
増えた分は、どこからきた?
「ええと、魂の待機所があるんや」
とでもいうか?
「いや、人類だけをみればそうでも、生命数全体は常に不変なんや」
とでもいうか?

地球がそれなりに形成された当時は生命なんぞいなかったと思われるが、それはどうなるんや?

「ええと、やっぱり待機所にいたんです」とでもいうjか?

ここは哲学スレとなってるが、すっかり宗教思想の巣窟になってるな。

転生思想は、キリスト教の「死ぬとね、天国か地獄にいくんだよ」以上にすぐ破綻する。

そういえばチベットの生まれ変わりも悲惨だな
リンポチェの生まれ変わり!が同時代に100人以上いて大騒ぎ

「これからはね、だれが誰の生まれ変わりかどうかは、国がきめるきめるから、僧侶が自分で決めてはいけません!増えすぎて困ります!」

笑止

649考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:29:24.64 0
人間が増えている一方で絶滅してたり激減している種は膨大だぞ
650考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:31:36.33 0
だからなに?
「生命数全体は不変」とでもいうのか?
なら、よく読んでくれよ。
生命誕生以前から誕生後の数の変化は?

ふー
651考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:34:44.91 0
ジョークだが地球しか考えてないだろお前
652考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:37:47.37 0
仏教に限らず、来世や地獄天国の話にも必ずだから、現世でこうしなさいってのがセットになる。
つまり、死んでからいいことがあるから、今良いことをしなさいということだ。
このスレにならって、カントを引き合いに出すなら、コレ仮言命法だよね。
カントに言わせれば、地獄とか天国にいけるとかで、いいことをするとかそれこそ地獄に落ちるぞ。
ほんとに良いことなら、地獄に落ちる落ちない関係なく、スべきだろう。
そもそも、人を恨んだだけで地獄に落とされたらかなわんよ。それじゃ大抵のひとは地獄に落ちちゃうじゃんか
653考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:41:30.95 0
>>651
でた、はいはい、地球以外をこうりょすると、どうなる?
どうせ破綻するというか、かんがえてないんだろう?
やめましょうね。うふん
654考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:51:11.32 0
>>653
ウィキ - ウッダーラカの「有」の哲学によれば、宇宙のはじまりは当初「有」のみであったが、「有」は火・水・食物を創造し、
そのなかへアートマン(真我)として入り込み、3者を混合して名称 n?ma および形態 ruupa となって運動を繰り広げることとなった。
人の死は、このプロセスを逆にたどって「有」に帰ることであるとした。wikiより

宇宙全体で質量保存の法則みたいに考えれば、何の矛盾もない。
655考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:51:13.31 0
というか何言ったって、
「まだ確認されていない宇宙/生命がある」
と返すんでしょ
656考える名無しさん:2012/06/28(木) 21:57:55.32 0
>>654
仏教の神秘性を否定したい向きには受け容れがたいだろうが、ショーペンハウアーがすべての価値の転換点にあるという
TAT TVAM ASI(汝はそれなり)というインド的神秘主義の定式は正しいと自分も思ってる。
657考える名無しさん:2012/06/28(木) 22:15:52.19 0
存在は一義的であり、我々にも如来にも存在はひとしくそういわれるのだと思う。
それが我々の成仏の可能性であり、われわれはライップニッツ的にいうとさまざまな判明さのもとにあるが仏性を備えているはずだ。
これはトマス・アクィナスのアナロギア説といういわばカースト制への異議申し立てでもある。
658考える名無しさん:2012/06/28(木) 22:18:58.52 0
>>642
こう考える人が多いから、和辻系の人たちは仏教と輪廻を切り離そうと屁理屈をこねたわけだ

>>645
そういう読み方してたら、仏教はわからんは。

>>655
というか、空なんだから、そんな質量保存の法則が守られると思うのは、縁起・空を理解してない証拠

>>656
仏教ではないと言いたい。
659考える名無しさん:2012/06/28(木) 22:23:11.67 0
このスレで仏教を説いてる人の論旨がさっぱりわからん
「あれは違う、それは仏教を理解してない証拠」みたいな単なる否定でなしに
まとまった主張はないものか
あるいはそもそも文章で表現できないものなのか
660645:2012/06/28(木) 22:33:20.91 0
>>658
じゃあ、スッタニパータ657以下、及びその前の散文をどう正しく読めば、輪廻を方便でなく本当だと読めるんだ?

個人的には、>>652の様に、輪廻などの考えは、世俗の道徳の為の方便であり。本当に悟ったのならば、地獄天国
関係なく、正しい事をしなさいと説くべきであるし。現にそうしてあるところも多い。地獄などを引き合いに出す場合は、
繰り返しになるが、在家の者などレベルの低い(と言うと語弊があるかもしれないが)世俗から、離れられないものに対する、
方便だと読むのが、妥当だと思うのだが。


>>659
最大の問題は、仏陀本人が何を悟ったのか仏陀自身がほとんど具体的に語っていないので、本当の所誰にも分からないということだ。
661考える名無しさん:2012/06/29(金) 01:01:39.73 0
>>639
>>毒矢の例えで言うのは、如来死後であって、一般人の死後じゃないんだよ。
>>それを京都の学者が、一般人の死後と読み替えた。
>>それは注釈に如来が、有情と解釈されているからだが、それは特殊な理由があることが多くの学者によって論証されている。
>>だから、毒矢の例えを輪廻否定の根拠に使うのは間違いに他ならない。

ここの如来死後と一般人の死後の違いと特殊な理由ってどういうこと?
662考える名無しさん:2012/06/29(金) 04:22:17.85 O
楽しませるほどのエンタメ性や創造性が無いからゴミだな、宗教全般は
663考える名無しさん:2012/06/29(金) 05:05:05.95 0
>>659
まず、問われないと仏教は語りません。

端的に言えば縁起・空性・仮設ですよ。
ただ、そういっても分からないでしょう。
分かるように説明するのは、少なくとも本一冊ぐらいかかる。

そんなことはここでやれないでしょ。

>>660
そんなのまんまよめばいいしょ。中村訳は誤訳が多いけど、輪廻についてはまんまでいいよ。
つか、なんで方便って読むわけ、アナタがいうような意味で方便となると嘘ということになり、
ブッダは嘘をつかないという通仏教的認識が崩壊するし、スッタニパータと、
宿命通が説かれる長部・中部経典や、その後の論書や大乗経典、あらゆる地域の伝統仏教などが矛盾することになるよ。
そんなのありえないっしょ。

>>661
オイオイ、そんなこと分からないのか?
一般人は輪廻にいる。だから死後も輪廻する。これは当時シュラマナの常識だった。
苦行者文学とも呼ばれる通念というか、似たような言い回しを用いる。

それに対して如来は輪廻から解脱した。その解脱した方は、死後どうなるかというのはパラドキシカルな問いだろ。
アンチノミーといってもいい。
それに対して釈尊はそのような問いは役に立たないと答えたわけ。
一般人の死後は輪廻すると、あちこちに説かれているよ。まさに上のスッタニパータのように。
664記憶喪失した男:2012/06/29(金) 06:11:31.00 0
ここはおれが建てたスレだ。
665記憶喪失した男:2012/06/29(金) 07:14:24.46 0
おまいらおりが提案した>>1にそった話をしろ。
666考える名無しさん:2012/06/29(金) 07:29:59.68 0
>>665
もう違うで解決してるし、アナタはもうネットや哲学思想書を見ない方がいい。
667考える名無しさん:2012/06/29(金) 08:27:51.80 0
>>666
つーか末尾に2BP(3)が付いてないのは偽物ね。
記憶に粘着して記憶を貶めたい暇人がいるんでね。
668考える名無しさん:2012/06/29(金) 08:34:21.86 0
>>667
本物でも偽物でも、どっちでも言うことは一緒。

しかし、めんどくさいなあ。
669考える名無しさん:2012/06/29(金) 09:47:32.29 0
記憶喪失なんてわざわざ貶めなくたって、すでにバカだから相手にされてないのにな
670645:2012/06/29(金) 11:56:15.67 0
>>663
ちょっとまて、なんでお互い話が咬み合ってないか分かった。
>>つか、なんで方便って読むわけ、アナタがいうような意味で方便となると嘘ということになり、
なんでそうなる。「嘘も、方便」と言う言葉がある通り嘘=方便ではない。
大乗経典の一つ維摩経では、在家の維摩居士は、ブッダと同じ行状に立ち、巧みな方便に通達しているとあるではないか。
ブッダにしてもそう。方便とは、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のこと。少なくても、最初期の仏教に理解があるなら
そんな事わざわざいう必要もないと思ったが・・・それに、上のレスでも書いたが、私が言っているのは、バラモン教の輪廻転生のこと。
六神通の宿命通にしても、業や種子の輪廻ならわかるが、スッタニパータ657の死んだ人間がそのまま地獄へ行くと言うのはどう読んでも、正にバラモン教の
それそのまんまではないか。

ということを初めから言っているのだが、わかったかな?
671考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:34:56.36 0
>>656
宗教すれで信じていることいってなさい。
672考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:48:09.14 0
ショーペンハウアーを支持するということだから哲学じゃないの
673考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:48:12.06 0
>>670
いや、そちらの言い分は分かってるよ。全く問題ない和辻系の阿諛論者だ。

それじゃだめだ。方便といっても釈尊は嘘はつかない。それは経典を読めばわかる。
相手の嫌がることは言わない。聞くなという。それでも求められれば言う。

>六神通の宿命通にしても、業や種子の輪廻ならわかるが、スッタニパータ657の死んだ人間がそのまま地獄へ行くと言うのはどう読んでも、正にバラモン教のそれそのまんまではないか。

分かってないな。仮設ならなんとでも言えるだよ。実際、意識、ヴィンニャーナが輪廻することが『サンユッタ・ニカーヤ』に説かれてるぜ。中村訳『悪魔との対話』52,324註19で中村先生も「魂のようなもの」と言ってるぜ。

意識でも魂でも心相続でも、仮設ならなんとでもいえるんだよ。現に今の我々も「私」とか「アナタ」とか言ってるでしょ。
それも無常で無我だぜ。でも言葉上の習慣として「意識」「魂」「心相続」というわけだ。
ただそれを恒常な魂、意識というような実体、アートマンと捉えるサーティ比丘のような見解は邪見なんだよ。

分かってないなあ。まあ、説明しても分かんないだろうけど。記号に捕らわれてるようじゃ、仏教はわかんないぜ。
まあ、最初は記号で考えるしかないけど。そんな段階じゃ、無理だ。
674考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:49:19.35 0
「俺の仏教解釈が唯一正しい」と思ってるレス魔がいるな。
あたかも釈迦掌上の損の行者に見える。
「学者」コンプレックスが強いようだが恥ずかしいから学者云々いうのやめな。
哲学的とはとても思えない宣言的な体質の方は宗教すれたてなさい。
ま、このスレ自体が「なにかんがえてんだか」とは思うが。
存在論の基底が正反対ともいえる枠を持っているのに、同じってのは「かく視点から見る限りにおいて同型を見てとれる」程度の話だ。
2つの基底的な存在の性格についての想定は記述済みなので省略。


675考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:54:02.98 0
>>674
偉そうだな。
676考える名無しさん:2012/06/29(金) 12:59:46.57 0
存在論の基底は同じだろう
そもそも何かが本当に正しいとすれば日本でだけ正しくてドイツでは正しくないなんてことはおこらないだろ
677考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:13:10.32 0
>>676
>存在論の基底は同じだろう

これは空性ってことかな?

だとするなら、ほとんどの西洋思想は間違ってたってことになるよね?
678考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:15:06.85 0
日本では中国が間に入ってるから見えにくいけれどインド人は印欧語族で非常にヨーロッパ的だな
言葉がインドから広まるにともなってインド思想がヨーロッパのベースになっていったのは容易に想像できる
679考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:22:28.64 0
>>677>>677
あなたの言ってる縁起・空性・仮設(仮説のことかな?)って、もしかして初期の釈尊の教えより中観派の龍樹のこと意識してる?
もしそうだったら、根本的に相容れないわ。
680679:2012/06/29(金) 13:23:16.21 0
>>673>>677
681考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:25:36.80 0
>>678

>日本では中国が間に入ってるから見えにくいけれどインド人は印欧語族で非常にヨーロッパ的だな

こうだろ、

サンスクリット・プラークリットは印欧語族で言語的にヨーロッパに近いな
しかし、考え方はユダヤ・ギリシャを起源とするヨーロッパとは隔たりがあるな

>言葉がインドから広まるにともなってインド思想がヨーロッパのベースになっていったのは容易に想像できる

どうみてもベースにはなってないな。影響は大きかったかもしれないが。
有名なところでは、ウパニシャッド、仏教、サンスクリットでしょ。
ウパニシャッドはショウペンハウエル、ニーチェに、サンスクリットはソシュールに大きな影響を与えた。

そしてほとんどの西洋人の学者は否定するが、ピュロンは仏教の影響らしい。
そのピュロンがセクストスを通して、デカルト、ヒューム、カントなど西洋近代思想に影響を与えたのはよく知られている。
682考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:28:29.89 0
>>679
龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだから。オイラは自分でアーガマ・ニカーヤから確認したよ。
もっとも多くの文献学者は別と考えるが、それは単に読みが甘いだけ。

アナタは自分で確認してるの? それとも文献学者の説を信じているの?
683考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:29:34.93 0
>>681
まあ言葉足らずだったが東洋的な思想は西洋のメジャーからは異端視され隠されてきるが
ときに哲学者や宗教家によって発掘される地下を流れていた東洋的な思想が西洋思想を刺激してきたんだろう
684考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:35:06.20 0
ま、例としてはヘーゲルの弁証法に一定の影響をあたえたらしい太極思想、実存に結構影響をあたえた様子のある禅。
近代だとそのあたりか。

685考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:36:56.00 0
>>682
「 龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのもの」
こういうことを本気でいってるから宗教スレいけといってる。
信じたものが真実

686考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:39:43.31 0
>>676
おいおい、どう同じなんだ?
アトミズム基幹とトータリテート基幹は水と油だぞ

687考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:40:42.90 0
仏教がブッダに発してる以上仏典とくに初期仏典には立ち返るべきだな
もっともここにいるやつは少なくとも哲学も追ってるわけだから専門家のようには読めない
688考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:46:25.49 0
翻訳書しか読めなくても哲学ができないわけではないだろ
専門家はサンスクリット語やパーリ語ができないと話にならないだろうがそれができない俺らはまず翻訳から入るしかない
689考える名無しさん:2012/06/29(金) 13:51:33.11 0
>>682
龍樹菩薩の説が、釈尊の教えの発展系であるというならわかるが、
「龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだ」というのは・・・まあ、
自分で原典を確かめたわけではないので、仮に認めるとして、
釈尊の十二縁起の線形因果と龍樹菩薩の縁起・空性の同時因果関係は、明らかに違うものだろう。
また、十二縁起を仮説だとするとしても、龍樹菩薩は、説一切有部との論争で、
過剰防衛ならぬ過剰反駁、拡大解釈をしているとしか読まない(あってる間違ってる関係なく)。
690考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:01:11.54 0
翻訳をもとに語る場合は署名性が大切
訳者やそのIDを晒していないものは学問的に俎上にあげることはできない
691考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:15:28.76 O
サンスクリットなんて集中して3年やれば結構できるようになるんだから、インド思想好きならやって欲しいね
たいして難しくないよw
692考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:17:52.28 0
>>691
何も知らない状態からサンスクリット語を独学で勉強しようと思ったら まず何からやればいい?
693考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:27:02.68 O
一般的にはゴンダって人の文法書から入って次に辻直四郎の岩波の文法書を学ぶのが日本に於けるオーソドックスコースだね。

ゴンダの文法書は2000円ぐらい、辻さんのも2800円、あとはモリエルの辞書を買っておけば、いいんじゃないかな。


まんどぅーかってタクシー運転手のおじさんのサイトが猛烈に充実してるから、とりあえずそれ見て参考書や辞書の一覧を参考に自分で作戦考えてくれ。
694考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:40:21.26 0
たしかに印度哲学科のオーソドックスコースだが、独学向きではないだろう。
というか、こういうマイナー言語は、独学に向かない。
695考える名無しさん:2012/06/29(金) 14:50:59.82 O
たいして頭良くない俺でさえいきなり辻文法から入門しても問題なく独学でできたよ。

だいたい哲学板に出入りしてる奴なら何も困難はないと思うが、
サンスクリットは論理的に整然と整理されてるからとっかかりは難しい感じがしてもやってみると以外と簡単だよ。

般若心経なんて日本語訳・漢訳・英訳・サンスクリット読み比べしてもサンスクリットが一番すっきり理解できるぐらい明晰だよ。
696考える名無しさん:2012/06/29(金) 16:42:16.13 0
>>685
信じる信じないじゃなくて、テキスト的に確認できるんだは。


>>687
つまり、アーガマ・ニカーヤなわけだ。それを梵パ蔵漢で確認したよ。

>>689
違うな。その読みは学者の浅薄な読みだ。
龍樹菩薩は、有部と論争なんぞしてないぞ。論
争と読むのは近代学者および、部派やゲルクなどの誤読だよ。

有部の戯論を寂滅へ導く教えは説いたが、しかも有部だけではない。
外道や他の部派も含む。

>>695
そりゃ、頭いいか、ギリシャ、ラテン、独仏の文法を知ってるからでしょ。

>>693
このコースはギリシャ、ラテン、独仏の文法知識を前提としてるので、
それがないと無理。マンドゥーカから入るといいよ。
辻文法が頭に入ってれば、梵和で一応読める。
モニエル、アプテは買わなくても、ネットで十分です。
697考える名無しさん:2012/06/29(金) 16:58:45.27 0
>>696
じゃあ
>>龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだから
と言っている通り、何処がどう同じなのかという事とその阿含経の文は書かなくてもいいから引用箇所を教えてくれ
ついでに689で言ってるが二人の縁起についてもお願い。
698考える名無しさん:2012/06/29(金) 18:29:38.08 0
カントの物自体と諸法無我はむしろ逆のことを言っているんでないの?
A君という人物を例にとると、カントによれば
A君=(現象界に属する手足などの肉体)+(A君それ自体)
のように、五蘊+アートマンのような構造をとってるってことだよね?
手足や頭や心臓を剥ぎ取っていくと、常住不変のA君それ自体が残るようなイメージ。
(A君それ自体を認めないと、人間を代替可能な道具とみなすことになり、倫理が無くなる、と)

一方で仏教は、「それ自体」とかアートマン的な常住で、構成要素を司る根本のようなものを
前提として認めない世界観を持ってるんだと思ってた
構成要素である五蘊を取り除くと、そこには何も残らないっていう

詳しい人、間違ってるところ、読むべきレスの番号を教えてください
699考える名無しさん:2012/06/29(金) 18:42:24.13 0
問題設定がおかしくて物自体に相当するのはダルマだろう
これはダルマで検索してくれ
700考える名無しさん:2012/06/29(金) 18:49:47.37 0
物自体は、ダルマじゃないぞ
ってこのナガレ何回目だ
701考える名無しさん:2012/06/29(金) 19:02:15.58 0
>>699
「五蘊とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一」
ってwikiにあるように、ダルマって五蘊、つまり現象界に属するもの(≠物自体)なんじゃないの?
先の例で言えば、手足や心臓は色蘊にあたるんだと思う
702考える名無しさん:2012/06/29(金) 19:08:29.31 0
>>696
お気楽でけっこうなこと。

そういう人たちが
「俺様の解釈こそ正しい」という。
しかし彼らでも
「テキスト通り」とまで破廉恥なことはあまり言わない。
703考える名無しさん:2012/06/29(金) 19:30:17.09 0
>>698
カントが
>>五蘊+アートマンのような構造をとってる
仏教が
>>構成要素を司る根本のようなものを前提として認めない世界観を持ってる
というような、論点から逆であるしているのは、だいたいあっている。
がカント仏教ともに根本的なところで間違って理解しているように読める。
特に、カントの物自体は、物質的な云々より認識のレベルの問題。
704考える名無しさん:2012/06/29(金) 19:32:08.18 P
      分析
       |
    量  |  質
  (物自体)|
規定_____|_____反省
    関係 | 様相
       |(諸法無我)
       |
      総合

カント体系にとって物自体は量に、諸法無我は様相に相当する。
参考 >>221
カントの「物自体」を「物自体は認識できない」という意味でとらえる時、
諸法無我を浮き彫りにする、ということは言える。
705考える名無しさん:2012/06/29(金) 19:35:25.90 0
まったくわかりまてん
706考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:09:47.88 0
>>698
物自体はA君自体という意味ではまったくない。
それではあたかもイデア論的発想の枠組みで物自体を捉えるがごとし。
(代表的な誤認の一例)

物自体は(カント的な)理性的認識の彼岸として要請された概念。
その意味にはA君自体に含意されている 常住不変であるとか本質であるとかの意味はない。

(理性的な)認識は或る定在として抽象化されて存立せざるをえないが、
「そのように認識可能なそれ」たる「もの」を思うとき、それについてなにも(理性的に)認識する事はできず、
しかし、そのように認識可能な何かが構成上要請され、 常住不変かどうかもわからない「なにか」を物自体と称したものだ。
ただし、「構成的に要請される」の意味合いと、その主張には多様な異論がある。

諸法無我と因縁生起(輪廻概念の基礎)と合いまったイメージとしてシーツの例がある。
四隅が止めてシーツをピンと張る。
一ヶ所をつまむと山ができる。
その周辺をもう片方の手でつまむと、また山ができるが、それに影響されてもとの山が変形する。
そして、それぞれの山は山として独立した存在なのか?というとたかだかシーツのあり方でしかない。
手を離せば山は「消える」。
この例では、変容し生成消滅させる「力」がたかだか、自分の手でしかないが、空間内ないおけるそれ自体は空間ではない(空間から独立した)ある(要素的な)実体(またはその集まり)が個別としてあるたる典型的にヨーロッパで優勢だった思想との差がわかるだろう。
また、この点をみて現代宇宙論に似ているとかいう人もいるわけだ。
因縁うんぬんは
「そがかくあるゆえ、こはかくあり。そかくなければ、こかくなし」を基礎とするわけだが、そこでいう「そ」「こ」はいわく、独立的個別の意味としてのべられ切るわけではないのは当然だ。

707考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:10:16.16 0
>>698
追記

西洋におけるアトミズム的な存在論のイメージは
空間にそれ自体空間ではないある実体を想定することがメジャーだった。
イメージとしては碁石意がいいいかな。
碁石はそれぞれが他から独立したものであって、その上で他の石との間畏敬が生まれる。個人主義思想とあいまつものだ。
碁をするとき、あるいはじゃらじゃらしてぶりまけるとき、個自体はそれ自体の本質を失わず他との関係性がかわるだけだ。

ただし、西洋といっても多様であり、あくまで代表的なイメージであるに過ぎない。ヘーゲルにしても
ビットゲンにしても上の個別関係論には組みしない。
708考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:10:30.78 0
>>703
kwskつっついてください。
カントの物自体は、物質的というイメージとは逆で、凄く形而上学的なイメージなんだけど。
物質的なのは、目の前に写る、認識される、現象としての机。

>>704
あ〜…わかったかも。
釈尊の「五蘊はどれもアートマンじゃないですよね」という発言を、
「あれ、アートマン見つかりませんね」という風に解釈すれば、
カントの「物自体ってあるかもしれないけど認識できないね」
と同じように見えるわ。
709考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:12:46.22 0
>>697
あいよ。ほんの一例だが。

『中論』13-1, 2の根拠が『分別六界経』大正1、692a; MN III., dhātuvibhaṅgasutta, CSCD, 4.366.; P: PTS p.245
それを裏付けるのが、『無畏』D58a『青目釈』大正30、17a『仏護註』D217b『般若灯』』大正30、90a; D 147b
『明句』Poussin 237, Vaidya 117; D80b

『中論』15-7の根拠が『カーティヤーヤナへの教戒』Tripāṭhī, Fünfundzwanzig Sūtras des Nidānasaṃyukta, Berlin 1962, Sūtra 19; 大正2、85c; SN, CSCD, II.1.2.V.15; PTS v.2, p.14
『カーティヤーヤナへの教戒』を受けているのは『中論』15-7の本文に明らか。且つこの経典が中論という題名の根拠に他ならず、また典拠を明示する唯一の経典である。

『中論』 24-18の根拠が『勝義空性経』大正2、92c; 大正15、807a; 梵蔵は諸論書の引用から再構成されるが省略。
『中論』 24-18の『青目釈』大正正30、33bは以下のように読める。

 [a]縁起するもの。それは空性と私たちは言う。なぜなら、諸縁を満たして結合して物が生じる。
この物は縁起するから本質はない。本質がないから空です。[その]空もまた空です。
 [b]ただ有情を導くために仮設によって説く。
 [c]有無の二辺を離れるから中道と名づける。
 この法は実体がないから有と言えない。虚無でもないから無といえない。もし、法に実体があれ
ば、諸縁によらずに有るが、諸縁によらずに法は無い。それゆえ、空でない法はあることがない。

これがそれぞれ上に対応する。

 [a]縁起は空性。諸行が虚妄と述べる『分別六界経』などに基づく教え
 [b]縁起は仮設。『勝義空性経』などに基づく教えで、此縁性によって世俗の習わし通り記号付けられて、表示されるという意味
 [c]縁起は中道。 これは『カーティヤーヤナへの教戒』に基づく教えで、有無などが世俗の習わしを般若で見て、表示された対象を有とも無とも掴み取らないという意味

ホントはもっと緻密に対応し、八不も『梵網経』の六十二見に対応するなど、いろいろあるが、一々論証してたら、スレがうまっちまうので、これで止めとく。しかし、これが要点だよ。
710考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:21:02.25 0
>>701
ダルマには複数形単数系があり、そのように現象をしているようにみえるのが男性複数形のダルマ。
「諸法無我」の状態がこれで、その原理はまさに無我であり空。これが一方の極。
同じダルマの他方の極あるいは基層として女性単数系のダルマがあり、これがいわば物自体的なものだといえる。
このダルマの仕組みについては中村元の弟子の津田真一が示唆的な研究をしている。

唯名論のオッカムには実在論のスコトゥスの弟子としての側面があり(その意味でもプラトンとアリストテレスだが)、
「個」の重視もスコトゥスから受け継いでいる。じゃあ、オッカムとスコトゥスの「個」の違いはなにかというと、
オッカムの個はそれ以上でも以下でもない個だが、スコトゥスの個は個体化する個であることだね。つまり普遍と個の媒介原理がある。
複数形と単数系のダルマはこの原理を内包してるといえるだろう。
711考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:30:40.61 0
>>709
ありがとう 
712考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:30:42.71 0
即物的にはヒューム的な刻々解体されている無我であり空の世界であるはずなのに、なぜ現に今「私」が「私」として持続している
(ように映る)のかに対するスコトゥスからの説明はこの個体化の原理となる。
そしてヒュームもさすがに偉大で、彼も個体化の原理を提出するのを忘れるわけはなかった。
それがハビトゥスという反復の原理だが、このハビトゥスも何あろうスコトゥスとオッカムが源流だ。
もちろんヒュームはオッカム流にこれを使っているわけだ
713考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:34:46.80 0
>>710
はいはい、無明と明との両極構造ね。

中性単数のダルマがアートマンに対応すると、それじゃ外道なんだよね。
男性複数のダルマが縁起した現れである諸法、女性単数のダルマを智慧・般若、中性単数のダルマを空性とすればまあまあかな。
714考える名無しさん:2012/06/29(金) 20:57:35.36 0
>>713
そう、中世単数のダルマを物自体的とすべきだったかもしれない。
実在論者の考え方というのはこのような媒介、仲裁、連続性であり、唯名論者の考え方は切り捨て(オッカムのカミソリとは言い得て妙)
そしてケチ(思考節約)の原理、不連続性。中観論者がよくいう「中観にあらざれば仏教にあらず」は切り捨ての精神ともとれる。
ばっさり切り捨てるのは非常に批評的でかっこよくみえるが、カントの「批評」は実はこっちじゃない。
諸能力という分析対象の存在根拠を問うというライプニッツ的な態度だと思う。
ただし、理性の越権行為を固く禁じカテゴリーを重んずるところは唯名論的というかアリストテレス的なところといえなくもない。
715考える名無しさん:2012/06/29(金) 21:00:02.82 0
>>708
カントの物自体は、純粋理性批判(第二版XVIII)で書かかれているコペルニクス的転回の末
我々が認識できるのは現象だけであるとした。しかし、認識できないにしても、少なくとも現象として
現れる当の物がなければ矛盾が生じる。ココで初めて、「物自体」として<思推する>という概念がうまれる。

だから、
>>「物自体ってあるかもしれないけど認識できないね」
より「認識できないけど、物自体があるとしなければ矛盾が起きるよね」
の方が正確。

一方、諸法無我は
「この世の現実存在はすべて諸行無常だし、永遠不滅の実体なんてないよね」
と言ってるんだから、そもそも一緒には語り得ない。
716考える名無しさん:2012/06/29(金) 21:00:26.35 0
>>714
そういう松本史朗とかの中観は、知的遊戯で中観じゃないから
中観は上に書いたように戯論寂滅への導きだよ〜
717考える名無しさん:2012/06/29(金) 21:54:08.85 0
ああ やっぱり自称中観派は、めんどくさい
そもそも龍樹菩薩の定義の空でないものって言うのは、
それ自体で自立していて常住かつ不変不滅なもの。
んなもんあるわけねーだろ。この定義じゃ世界は全部空だわ。これを根拠に論理を作り上げるもんだから、
1+1=0だから四則計算の答えは全部0です(( ー`дー´)キリッみたいに
一切は、空・空性、あり得ないけど仮にカテゴライズされないものが出てきたらは、それは仮説です。
思想としては、面白いけど、めんど臭い。何言っても最後は、全ては空性、例外は仮説だもんね。

不立文字的なことを言うのは良いが、自分自身が達磨大師の
「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」
の呪縛に捉えられてるぞ。学者ならそれも仕方がないが。。。聞こえますか、アーガマ・・・
718考える名無しさん:2012/06/29(金) 22:00:09.62 0
>>717
違うよ。全ては縁起・空性・仮設だよ。

仮設というのは、仮に設けたものと訓読すべきですが、本来の意味は表示、仮象、ラベリングだよ。

どういう意味かというと、知覚対象として立ち現れるものを言い習わしに添ってラベリングして、記号づけ表示するというような意味。

だらか八喩で示されるように一切諸法は幻なんだよ。それぞれの有情にそれぞれに見える。だから、空性。
719考える名無しさん:2012/06/29(金) 22:15:04.46 0
>>718
は?なにが違うの?龍樹菩薩は、縁起も空(空性)も同じ用なもんだと言ってるだろ。
違うなら違うでいいんだけど、それらにカテゴライズされないものを仮の名前をつけて説明するという意味で仮説(けせつ)
とするんだろ。空の定義にしても一切諸法は幻ならそう書けば良いのに、てかそれこそ不立文字でいいじゃんってところを
グダグタグダグタ言ってるじゃん。で結局中身はない。箱を開けたら正に一切諸法は幻なんです。ハイ終わり。
720考える名無しさん:2012/06/29(金) 22:22:06.83 0
>>719
違う。上の説明をよく読んでくれ。自分の理解は一回捨てて。

721考える名無しさん:2012/06/29(金) 22:33:59.10 0
>>720
だらか八喩で示されるように一切諸法は幻なんだよ。それぞれの有情にそれぞれに見える。だから、空性。

中観派あと唯識派もそうだけど、言いたいことは、この最後の一行でしょつまり。
こちらが言ってるのは717でも書いたけどそういう一切幻とか心がどうとか言う前に、そもそも空・空性の定義おかしいでしょって事。
722考える名無しさん:2012/06/30(土) 01:34:41.36 0
幻と空は違うような気がするね。
723考える名無しさん:2012/06/30(土) 04:02:37.59 0
>>721
いや、そういう短絡的な理解じゃ分からないよ。

もう繰り返しになるから止めるは。
724考える名無しさん:2012/06/30(土) 05:28:39.71 0
>>723
中観派を名乗る人々の空・空性の定義がおかしいと言ってるだけだよ。 難しいことなんて、何も言ってない。


具体的に言うと、龍樹菩薩の言った空・空性の定義は、717に書いたけれど、仮にそれが正しいとしても
その空を、真だと、言えるまたは考えられる人は、どれだけ居るのかという話。

文献だけに頼って、実地に修行をせずに、仏教の教義(特に龍樹菩薩の空)を本当に理解できるのか。
修行といっても、龍樹の言ってる空は、中観に一定の理解があるなら分かると思うが、ほんとに何でもかんでも
空性だと言っているわけだから、生半可な修行ではない。それこそ、体現するには夢精をしてしまうような阿羅漢では足りない。

熱心な信者が聖書に書かれたことを一字一句信じるように、信じているというなら、宗教だからなんの問題もないが
難しいことなど考えず、胸に手を当てるだけで、龍樹菩薩の教えを自分自身の体が否定しているが分かる。

こんなむちゃくちゃな定義概念を本気で、理解してるとかいう人は、本物の修行者かただの嘘つきしかいない。
725考える名無しさん:2012/06/30(土) 07:50:52.39 0
>>724
ただ単にアナタに理解力がないだけなんだけど。

中論は、戒定慧の慧の部分しか説かないから勘違いされやすいけど、
勧戒王頌、宝行王正論、四百論、入中論、入菩提行論を見れば分かるように戒定慧の行をする。

そりゃ行はしなくちゃ悟れないが、その行をする前に教えの意味を正確に理解しないと行も意味がない。

仏教は、聞思修だぞ。つまり、教えを伝統の師、サンガから聞く、その教えをよく考えて理解するのが思。
理解して修行するわけだ。

津田説は、戒定はあるが慧がない。慧とは縁起・空性によって観じること。
津田説は縁起・空性の理解がない。だから、外道と同じで現象(マーヤー)と実在(アートマン)になっちゃう。

松本説とかは慧はあるが戒定がない。しかも慧といっても縁起・空性を凡人の論理認識と解釈する。
だから、凡人の常識そのままで、そこにいろんな妄想を加え混乱に混乱を重ねるだけになっちゃう。

だから、こういう説によって縁起・空性を理解してると思ってるのが間違いなわけなんだが。
726考える名無しさん:2012/06/30(土) 08:26:21.60 0
>>725
そこまで中論がわかってると言うなら、
その手の解説本等でおすすめありますか?出来れば日本語で
あと、参考になる著者でもいいです。
727考える名無しさん:2012/06/30(土) 08:29:07.74 0
>>726
石飛道子『龍樹』これが最高。
山口益『仏教思想入門』これは石飛先生と同じ方向を示し仏教全体の中で中観を論じたもの。

それと近刊『入中論自註』ね
728考える名無しさん:2012/06/30(土) 09:24:27.73 0
>>727
ありがとう

なるほどね、釈尊と龍樹ともに一切知の応身として位置づけて
衆生秘密、如来秘密的な意味で、釈尊に嘘はないと言っていたのね。

一方コチラは、プラトン、アリストテレスから現代に到るまで、間違いを犯さなかった哲学者、思想家はいない
当然釈尊龍樹も間違いを犯したと言う立場で、(専門知識は、あなたに大きく劣るにしても)懐疑をしていたので、
そもそも論の所で相容れなかったね。アタナにとって、私の話など、赤子の手をひねるようなものだったかもしれないが
こちらとしては、勉強になりました。
729考える名無しさん:2012/06/30(土) 10:35:55.15 0
>>728
そもそも「間違いを犯す」っていうのが、あんまり哲学的表現でないよね。

「真」については、様々な立場があって、「真理は存在しない」という立場もある。
「真」ということについて、よく考えてみました?

730考える名無しさん:2012/06/30(土) 12:36:26.60 0
>>729
「真」については、様々な立場があると述べていますが。現代の
社会状況(テクノロジ−の高度に発達した世界)で、西洋哲学と
仏教哲理の「真」の立場として、どの様な方向性があるのでしょうか。
731考える名無しさん:2012/06/30(土) 20:10:01.91 0
>>729
最初から、宗教的「真」理以外の意味で、真と言う言葉を使ってない。
人間として、間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。
釈尊も龍樹も間違いなく現実に実在した歴史的人物。神や仏ではなく人間として、
彼らを尊敬し彼らの言葉を一つ一つ吟味すべきではないか?

麻原彰晃の言葉をオウムの信者達が、盲信したように、開祖の言葉を無条件に信じるのは
宗教ではあるかもしれないが哲学ではない。

また、単純に真理が存在するしないとかそんな下らないことを考える前に、形而上学的問題を
考えると行為自体がカントの言葉を借りるなら、アンチノミーだ。可能な経験を超えている場合は、
理性は合理的な真理を確立する役割を演じることができない。

話を戻すと、インド哲学では、古くから、ブラフマン・アートマンの存在を紀元前数千年も前からの
瞑想体験(経験)によって認められていた。それを釈尊や龍樹は、否定したわけだから、カントに従えば、
紀元前数千年からなる瞑想の体系を可能な経験として超えていなければならないと言う命題が残る。
732考える名無しさん:2012/06/30(土) 21:15:53.61 O
考え抜いた人は思考の自由度が広いため、どんな状況でも自由に解釈し行動できる

考えないですぐ悟った奴は思考の自由度が乏しいために、状況が変動するとすぐ摩擦を生じる
733考える名無しさん:2012/06/30(土) 21:27:37.90 0
仏教の真理を知ったにもかかわらず、まだ考えたり、学んだりする迷いを断ち切れていない者のことを有学という。
734考える名無しさん:2012/06/30(土) 21:56:59.84 0
悟りは痴呆兆候ですよ

宗教は情動を悦ばすだけのドラッグです
735考える名無しさん:2012/06/30(土) 22:04:59.45 0
宗教は、アヘンです
やめましょう
736Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/06/30(土) 23:07:06.03 0
どんな煩悩にも因がある。すなわち、その因を取り除くことで煩悩は断たれる。
因は個人の記憶の中を探れば探すことができる。それは、個人の欲が全ての
行動の指針であるからだ。消し去られた煩悩は空になる。すなわち、色即是空
とは、色が空であるように努めよということである。滅却の、あるいは消しさるような
悟りが仏教的教えである。弁証法とは違う。
737Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/06/30(土) 23:33:50.28 0
悟りの考えを得たものは同じ過ちを繰り返さない。これを敷衍すると輪廻からの
脱出ということになる。
738記憶喪失した男:2012/07/01(日) 08:13:04.89 0 BE:2737416285-2BP(3)
「存在と時間」(全2巻) ハイデッガー
128位/142作品。翻訳小説SF以外。
まったく読む価値はないと思われる。
カントを理解し、肯定していること以外に褒めるべき点はない。
この本を読んで、存在論とか時間論に理解が深まることはまったくないであろう。
ハイデガーの時間論は、まったくくだらない。 ハイデガーは、死が時間の終わりであるとしている。
そして、個体の死を内包しつつある世界=内=存在(物自体)は臨死にあるという。
くだらなすぎる。
東浩紀が「ハイデッガーより難しいことを考えるなんてできないんじゃないの?」
といったそうだが、ハイデッガーは難しいことなんか考えていないし、
少なくともこの代表的著作には披露していない。
もちろん、若者が大志を抱くのに、目標をハイデガーなんかに見据えるのは、
志が低すぎると警告しなければならない。
ハイデガーがカントを超える点は、ひとつもない。
739記憶喪失した男:2012/07/01(日) 08:14:41.22 0 BE:684354825-2BP(3)
ハイデガーを読んだが、
ハイデガーの使う単語「世界=内=存在」がカントの「物自体」に対応することばとして、
適切とは思わない。
同じことをいっているようだが、ことばとして不適切である。
740記憶喪失した男:2012/07/01(日) 08:30:43.77 0 BE:1642449964-2BP(3)
>ハイデガーは、死が時間の終わりであるとしている。
>そして、個体の死を内包しつつある世界=内=存在(物自体)は臨死にあるという。

ここから、ハイデガーの「世界=内=存在」は個体の主観を含めたものであり、
物自体より幅広い概念だといえる。
よって、世界=内=存在は物自体ではない。
741考える名無しさん:2012/07/01(日) 08:45:21.39 0
ハイデガーはパルメニデス以来の形而上学・論理学に疑問を持った稀有な西洋人。
彼の言説はウィトゲンシュタインとならんで結構いいは。
もっとも仏教読んでりゃ、二人とも仏教により完全なものを発見していたと思うが、
当時の仏教学が一歩も二歩もダメだったからな。

仏教学は今でもだめだけど、西洋には本物の仏教がやっと入ったから、今なら二人は分かったと思う。
742考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:31:09.87 0
>>731
>カントに従えば、紀元前数千年からなる瞑想の体系を可能な経験として超えていなければならないと言う命題が残る。

貴方はカントをかなり誤解しているようです。
『純粋理性批判』でカントが「認識」と言っているのは、科学(学問)的な認識のことだよ。
そもそも『純粋理性批判』という書物は、科学的認識を基礎付ける意図で書かれたんだ。

それで、あなたのいう「形而上学的問題」は、カントにおいては「実践理性」の領域で重要な意味をもつ。
そしてカントは、純粋理性よりも実践理性に優位を与えている。

だから、科学(学問)的な認識が成り立たなければ意味がない、というようなことでは全くないのであって、
科学(学問)的な認識が成り立たなければ、それは「宗教」だ・・・ということにもならない。
哲学的思索の多くは、カントの言う「科学(学問)的認識」が成り立たない領域で行われているでしょう。
743考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:37:53.83 0
>>741
アリストテレス主義的なもののおおきなその2人は、プラトン主義的なものに惹かれる自分にとってはいわば逆の立場だが、
それだけに読むと勉強になる。そしてこちらからすれば、ウィトゲンシュタインが仏教に及ばないのは「表象としての世界」
しか認めずに「意志としての世界」を認めなかったからということになるね。
ニーチェはもちろんプラトンを批判したが。この普遍論争的な流れからすればプラトン側といえるね。
744考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:41:22.71 0
>>740
哲学とか全く分からないんだけど、ザッと調べたところ、
カントや仏教は、「現象の世界に本質は無い」 っていう立場で、
現象世界は空虚というニュアンスだけど、
ハイデガーはその空虚な現象世界に捉われてる感じがする。
物自体より幅広いどころか、ものすごくチャチな考え方に見える。
745考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:50:32.62 0
なんだか、いろんな哲学者の名前がでてきているんだけど、
ただ漠然と比べていても意味がないと思うよ。
ハイデガーの関心事は、「存在そのもの」でしょう。
「存在そのもの」に関心をもっていない人がハイデガーを読んでもチンプンカンプンなのは当たり前。
それと同じように、それぞれの哲学は、それぞれ別の角度からの思想なんだから、
平面的には比べられないんだよ。
746記憶喪失した男:2012/07/01(日) 10:51:01.97 0 BE:3079593959-2BP(3)
>>744
カントは、現象の本質は認識できないが存在するとしているよ。
仏教は、現象の本質は認識できる(空と観ぜる)としているが、空性の問題は、
まだ、おれは仏典を読んでないので断言して答えられないが、空虚としているようだ。
747考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:53:34.39 0
月は認識してなくても存在するよね、量子などとは違って
748考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:53:47.88 0
>>745
わからんでもないが哲学者自身が他の哲学に対する異議申し立てを盛んにしてるんだよ
749考える名無しさん:2012/07/01(日) 10:55:33.42 0
>>743
いや〜、そういう現象と超越とか、現象と内在みたいな西洋の枠に疑問を持ったのが二人でしょ。
仏教はヒンドゥー的な現象(マーヤー)と実在(アートマン)ではないから、

750記憶喪失した男:2012/07/01(日) 11:02:48.41 0 BE:2053062465-2BP(3)
あの、仏教至上主義者が誰ひとりとして、カントより優れた存在論を提示してはいない件について、
身長に考えてもらいたいですね。

おれはまだ仏典を二冊しか読んでないですから、理解が浅いですが、
仏教がカントに勝てるとはあまり思えないんですがね。
751考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:06:20.13 0
>>749
ヒンドゥー的でない現象と実在だな
752考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:09:32.49 0
>>750
貴方はまず、「仏教がカントに勝てる」みたいな中学生的発想をやめることから始めてくださいw
753考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:15:40.94 0
>>751
実在のヴァリエーションが多様なのは分かる。

しかし、どんな実在を設定するとしてもそれは妄想だと仏教は考える。

なぜなら、その実在の根拠は把握できないものを根拠としているから。
例えば、把握できないアルケー・アートマンが実在すると推論・想定するように。

ここらへんがライプニッツの問いに繋がり、ハイデガーは乗り越えようともがいたように思う。
754考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:21:13.87 0
>>753
仏教が考えるでなくて君が考えるでしょ
仏教にも実在論がある
755考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:22:07.44 0
>>754
有部とか唯識ね。それは逸脱か方便だから。
756考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:25:19.05 0
潜勢態の実在を認めるかどうかだね。無意識や電磁場のように現勢態でないが「ある」ものがある。
757考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:27:30.12 0
中観の人は輪廻はじゃあ中観で把握できないものではなく把握できるものだから認めてるんだよね?
758考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:28:24.58 0
>>753
>ここらへんがライプニッツの問いに繋がり、ハイデガーは乗り越えようともがいたように思う。

ハイデガーは、「存在」は「無」であるとしているんだけど、
それは、「主観」-「客観」という構図を乗り越えることと結びついているね。
つまり「存在」は、「主観」としての人間が「客観」として、つまり対象的な「何か」として
規定できるようなものではなく、その意味で「無」である、と。
759考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:30:48.97 0
>>757
もちろん。世俗として認めるよ。
760考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:31:45.14 0
>>758
>ハイデガーは、「存在」は「無」であるとしているんだけど、

どこで?
761考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:34:40.07 0
>>760
今手元に何もないので場所は指摘できないけど、何箇所かあるよ。

君はハイデガーの言う「無」を、どう考えているの?
762考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:36:00.19 0
>>761
オイラは無とは思わない。

有無を超えた何かに行きたかったんじゃないかと思う。

まさに縁起・空性・仮設だと思う。
763考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:37:39.87 0
世俗や方便としてではなく、輪廻説はやはり仏教の根幹に深く関わっていると思うね。
764考える名無しさん:2012/07/01(日) 11:38:02.94 0
>>762
「君はハイデガーの言う「無」を、どう考えているの?」
という問いに対して
「オイラは無とは思わない。」
は、
会話が成り立っていないな。
765考える名無しさん:2012/07/01(日) 12:00:01.07 0
電磁場というのは(もっといえば場というのは)不思議だね。
コンデンサの電極の間に生じるのも電磁場なんだが、それらひっくるめて原理的には宇宙は一つの電磁場なんだよ。
つまりたとえばここにある下敷きを擦って起こした静電気による電磁場が原理的には宇宙の隅々まで届いている。
ベルクソンは『持続と同時性』を失敗作として全集から外させたが、ドゥルーズが擁護したようにあながち間違いじゃない。
766記憶喪失した男:2012/07/01(日) 12:29:52.02 0 BE:1231837463-2BP(3)
>>758
ハイデガーは、存在を無とは考えていないよ。
認識できない何かがあると考えているんだよ。
767考える名無しさん:2012/07/01(日) 12:44:48.69 O
物自体に従属した思考…物自体の立場?科学の立場?
思考そのもののみでする思考、それを事物・記号で表す…空の立場?哲学・理論科学の立場?

概念をその性質によって自在に操るには、物自体を捨てなければならない?
768考える名無しさん:2012/07/01(日) 13:10:58.09 0
>>740
ハイデガ−の「世界=内=存在」の存在とは、主観的存在である「自己」を世界の
中で認識すると言うことだから、カントの言う「物自体」は客観的存在なので
「存在」の概念が異なるものと思う。
769考える名無しさん:2012/07/01(日) 13:23:36.12 0
>>746
「カントは、現象の本質は認識できないが、存在する」と述べている。
これは、カントが、主観的領域(科学的認識)から客観的領域(物自体)を
考察しょうとしたからであると思う。 又、実践理性批判を読むと、カントは、
客観的領域を、サルトル程に明確に実体化していなかったと思われる。
770考える名無しさん:2012/07/01(日) 15:18:42.38 0
>>477で「空」とは、「客観的存在」であることが証明される」と述べている。
 ここで証明されている様に、客観的存在である「空」と、西洋哲学の「客観的存在」の
概念は、同じ存在と考えられる。 従って、「空」の客観的存在としての概念と、「物自体」の
客観的存在としての概念も同じものと解釈できる。 この観点を糸口として、仏教哲理と西洋哲理を
考察することは、「>>478」でも述べている様に、仏教哲理と西洋哲理の互いの良い面を引き出すことが
出来るのではないかと思う。

771考える名無しさん:2012/07/01(日) 23:25:36.02 0
>>715
そのとおり、はじめてまともな書きこみみた
772考える名無しさん:2012/07/01(日) 23:42:15.13 0
>>741
完全になどといってる時点でただの形而上学。笑止。
哲学的精神のかけらもないな。
そうだとしてしまいたいですに引きずられ、語るに落ちてるが真を求めらゆえに、あるとしてしまい、それがそうだと宣言するのみ。
完全と真の隷徒たち。
ま、そういう思想ファッショとの戦いが近現代の戦いであったが、このではその残党が宣言しまくってるな。

>>733
>>736
これらも詭弁の常套に満ちている
その構造が一読了解しえるようになってようよう現代に迎え入れられる。
欺瞞の仮言
しくまれた全称仮
こうした妄考は既に博物館入りとは言え、なお少数に担われていくのでいろう。
ま、井戸端でやってなさい。
773考える名無しさん:2012/07/01(日) 23:45:55.94 0
ミス 全称仮
訂正 全称化
774考える名無しさん:2012/07/02(月) 00:10:33.28 0
ブーメラン
775Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/02(月) 00:53:39.62 0
>>772
別に現代に受け入れられようとして考えを添え曲げてないから。
死んだあとで忘れ去られる現代的思考なんて、何もないのと
一緒じゃないの?例えば石原慎太郎とかみたいに。
776考える名無しさん:2012/07/02(月) 01:34:15.73 0
人の批評ばっかりやって、自分の意見を書かない人ってなんなの?
777考える名無しさん:2012/07/02(月) 01:58:40.28 0
バカにしてるから。
こんなことで書くか
778考える名無しさん:2012/07/02(月) 02:46:40.02 0
>>777
パブロフの犬かお前は。
779考える名無しさん:2012/07/02(月) 06:36:52.81 0
>>771
最初からそう言ってるんだが
780考える名無しさん:2012/07/02(月) 07:35:13.79 0
>>779
結論が同じでも 全然ちがうだろ
781考える名無しさん:2012/07/02(月) 09:07:16.80 0
>>780
そうか。まあ、カントについては概説書と一冊ぐらいしか読んでないんで言及は避けたが、
仏教に関してはどうみてもオイラの方が正確だとおもうが。
782考える名無しさん:2012/07/02(月) 09:17:58.60 0
>>766 :記憶喪失した男
>ハイデガーは、存在を無とは考えていないよ。
>認識できない何かがあると考えているんだよ。

「存在」は、「認識できない何か」ではなく、「表象できない」「対象化できない」と言ったほうがいいね。
それにそれは、「何か(something)」ではない。
「何か(something)」として表象(対象化)されたものは、「存在者」であって、「存在」ではない。
だからそれは、主観にとっては「何ものでもないもの」、つまり「無」なんですね。

>>715は、ちょっとおかしいと思う。
感性的直観が与えられていれば認識は成立するんだから、物自体がなくても別に矛盾はないだろう。
一般には、カントはアンチノミーの問題を解決するために「現象」と「物自体」を峻別したと考えられているよ。
つまり、科学的認識が成り立つ「現象」と、実践理性の領域に属する「物自体」を峻別することによって、
カントは道徳と宗教のための場所を確保したかったんだね。
783考える名無しさん:2012/07/02(月) 09:33:04.63 0
カントに詳しいって自称するほど、カント知ってるわけではないけど

>感性的直観が与えられていれば認識は成立するんだから、物自体がなくても別に矛盾はないだろう。
これは、科学的認識?というか、現象としての客観であって、715は、その現象を認識するためには、物自体が
そこにあるとしなければならないと言ってるんじゃないの?
784考える名無しさん:2012/07/02(月) 09:48:14.22 0
>>783
>その現象を認識するためには、物自体が
>そこにあるとしなければならないと言ってるんじゃないの?

715の人が言っているのは簡単に言うと《現れるためには現れるものがなければならない》ということだと思うよ。
つまり、現象の《出どころ》がなければならないということだと思う。
たぶんカントがそういう感じの言い方をしている箇所があると思うので、全くの間違いとは思わないけど、
カント以降の現象学では物自体は消去されたように、《出どころ》なんてなくても矛盾はないと思うよ。
785考える名無しさん:2012/07/02(月) 10:14:41.84 0
>>784
そうなんだ。スレチかもしれないけど、
現象学とか実存主義って以前よくわかんなくて投げちゃったんだよね。
特にハイデガーの文が意味不明で(あとヘーゲル)
これって、個人的に通読する程度だったら、まず何処当たりからはじめるべき?
一応キリスト教には一通り理解があったから、キルケゴール辺りは、読めた。
786考える名無しさん:2012/07/02(月) 10:44:54.93 0
>>785
ハイデガーは『形而上学入門』から入るといいと思う。

そこで分かんない所を全集で補ってみる。

それでも分かんない部分は、独英仏を見てみると分かると思う。

基本的に西洋の形而上学・論理学の根本的不備を乗り越えようと、もがいてるかんじ。


787考える名無しさん:2012/07/02(月) 10:56:20.58 0
不備!!
なんのことやら
まるで仏教とやらには不備がないとでもいうのか?
788考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:03:39.93 0
>>787
上に書かなかったか? 

簡単にいうと、有無という二項を絶対と見ているところと、同一律の根拠。

あるいは一度、xとしてしまうとそれが恒常不変にxとしてしまう実在論・本質主義。

西洋はずっとこれでやってきて、私が知る限り問題としているのはハイデガーとウィトゲンシュタインぐらいだと思う。
789考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:05:39.12 0
なんかハイデガーの「現存在」って、説一切有部の「ダルマ」に似てるような気がする。
カントや仏教は、「時間と空間の認識の世界に本質は無い」 って言ってるような機がするけど、
ハイデガーは時間と空間の中に本質を求めた感じ。
非常に幼稚な理論のような気がする。
790考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:10:34.48 0
>>788
単純な見方だなぁ・・・
まぁ、ハイデガーという人の書き方が、そういう書き方ではあるが。
つまり、過去の哲学者を悪玉に仕立て上げて、それに対抗するものとして自分の哲学を提示する、という書き方をハイデガーはします。
そのへんを理解して割り引いて読まないといけないよね。
791考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:18:09.98 0
>>790
いや、正しい。それを仏教以外で指摘したのはハイデガーのみ。
だから、論理学が使えない。現象と論理に齟齬があるわけ。

まあ、分からなそうだが。
792考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:28:09.56 0
>>791
>いや、正しい。それを仏教以外で指摘したのはハイデガーのみ。

790への答えとして、その答え方は、かなりおかしいだろう・・・

昨日も君は日本語として会話が成り立たない書き方をしたが。
君の日本語は少しへんだよ。

793考える名無しさん:2012/07/02(月) 11:32:23.52 0
カントの人間を超えた所謂神のような存在の認識を
直観知みたいな言葉で言ってなかったけ?
ヘーゲルで言う直観的悟性みたいなもん。

これって、「あるがままを見よ」とした仏陀の覚の状態に近いんといえるんじゃない
根拠は、ないけど
794考える名無しさん:2012/07/02(月) 12:29:38.80 0
その通りだと思うよ。
795考える名無しさん:2012/07/02(月) 12:31:34.62 0
>>792
そう感じるのは、君が実在論・同一律的前提に立っているのに無自覚だからだろう。
そこはもう上で説明したので、繰り返すのも面倒だし、恐らく説明しても分からないから省略しているからだろう。
どういうことかというと、西洋思想的枠の中で問いを立てている、そういう考え方がの枠組みがダメなんだということ。

言葉に違和感があるなら、オイラが梵蔵的書き方に馴染んでいるからかもしれない。
それはもはや無自覚。

現代日本人の多くは英文法的書き方するでしょ。それにはオイラは違和感ある。
そういうことかもしれない。
796考える名無しさん:2012/07/02(月) 12:34:32.72 0
>>793
違う。それはヒンドゥー的アートマン・三昧禅定体験で、以下のようブッダはそれは違うと言っている。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html

上のように井筒先生とか、現象と実在解釈で仏教を観るのは間違ってるよ。
797考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:02:08.91 0
>>796
井筒先生ってコーランの井筒俊彦先生の事?

>>如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、
>>見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
>>微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。

これ結局釈尊は、具体的に何を悟ったんだろうね。
その立場が、はっきりしないと、そもそも否定の根拠がわかりづらい。
悪意を持って読めば、口だけって事になる。宗教ならそれでいいかもしれないけど。

素人考えだけど、最終的にはアートマンみたいな実在を立てないと
認識って成り立たないんじゃないのかな?
唯識派が、仮ではあるけどそれに近いものを認めたみたいに。
798考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:15:30.09 0
>>797
そう。『意識と本質』や、その後の諸著でそのような説を繰り返し述べているよ。

>これ結局釈尊は、具体的に何を悟ったんだろうね。

その「何を」というのが、正に西洋的限界なんだよね。
こういうと、西洋だとパルメニデスやアリストテレスが否定したドグサや矛盾か、神秘主義と解釈され、
井筒先生のようになってしまうんだけど。
仏教でもパルメニデスやアリストテレスが否定したドグサや矛盾、神秘主義は、四句分別として否定されている。
四句分別が鎮まった、戯論寂滅の境地であり、それは「何」xという本質や形式であらわす戯論・幻が鎮まった境地。
ここを説明すると結構、面倒くさいので端折ってます。

>素人考えだけど、最終的にはアートマンみたいな実在を立てないと
>認識って成り立たないんじゃないのかな?
>唯識派が、仮ではあるけどそれに近いものを認めたみたいに。

そう考えるのは本質的に仏教の縁起・空性・仮設からの逸脱で、まさに西洋哲学の本質であるアルケーの追求。
あるいは、正にライプニッツの問いですね。
それは妄想以外のなにものでもないというのが、仏教で、ウィトゲンシュタインがそれに接近する。
理解できない人のために、あるは方便として唯識や有部、ゲルク説などが説かれたと考えなければ、逸脱です。
799考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:32:27.88 0
>>798
こうやって、考えると、仏教って思ってた以上に論理的(西洋とは別の意味で)なんだね。
イメージとしては、議論はいいから修行しなさい。って感じで、釈尊の無記もそこから来るものだと思ってたけど。
それ以降の仏教徒たちは、ヨーガスートラ見たいに、瞑想で三昧に行ければ、哲学的に不完全でもかまわん。という立場には
立たずに、一生懸命仏教教義を論理的に研ぎ澄ましていったって感じがする。その意味では、カトリックのカテシズムにしてるね。
800考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:42:51.85 0
その人のは反実在論的仏教観であって実在論的仏教観もずっとあるわけ
もちろん実在論のほうも理論的だ
仏教はかなり知的だよ
801考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:43:00.34 0
>>799
釈尊・龍樹菩薩の論理は美しいよ〜
簡潔明瞭で、徹底して破綻がなく、しかも自分を守るためでなく他人を導く論理。

無記は、重要。その十四無記が、六十二見、八不に繋がるから。

仏教の道はいろいろです。論理に徹する人もいれば、そうでない人もいるし、
それぞれ合った道をいけばいいだけ。
道は矛盾するように見えるけど、そうでないことが分かるまで結構時間かかる。
少なくともオイラはかかった。
802考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:50:43.94 0
日本は仏教と神道がうまく共存してたから理論的な論争がすくなかった
インドやチベットやスリランカやその他大陸の仏教は他宗教との争いがあったので論争的だな
803考える名無しさん:2012/07/02(月) 13:58:05.71 0
うーん やっぱり 本来の仏教って(こう言うと怒る人いるかもしれないけど) 哲学だよね。
特にエリートの為の。その意味では、ほぼ同時代のプラトンの開いたアカデメイアに近いように感じる。
ただ、大きく違うところは、一方は、「幾何学を学ばざる者この門に入るべからず」としたのに対し、
出家者でない在家のものにも、教えを説いた。これが、仏教が世界宗教たる所以だと思う。
ただ、最終的には、エリートと大衆を同時に導くことはデキず上座部と大乗に分裂した。

と言う妄想。

804考える名無しさん:2012/07/02(月) 14:07:44.64 0
ふと思ったんだけど、行き過ぎた反実在論的仏教観?って そんなもの仏教じゃないと、
如来蔵思想とか掲げてる多くの既存の宗派を、否定しかねない危険思想じゃないか?
805考える名無しさん:2012/07/02(月) 14:28:18.43 0
ここでもやってきてるように反実在論では他を切り捨ててしまう傾向がある
カントが粘り強く経験論と観念論の仲裁をしようとしたのとは反対だな
806考える名無しさん:2012/07/02(月) 14:48:03.68 0
駒沢大学の批判仏教派が日本では論争を仕掛けてきた
ここの人は彼らには批判的みたいだ
807考える名無しさん:2012/07/02(月) 15:20:55.05 0
>>803
哲学もあるけど、道ですね。
多くの人に開かれた、多くの道のある。
その道の一つに哲学的な道もある。


>>804
如来蔵思想は仏教にあらずと説く松本さんとかは仏教を説いてませんから、話になりません。
以下『梵網経』で説かれる凡夫の立場、つまり、つまらないことしか見ない人ね。
>http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html


伝統仏教では如来蔵も空性です。

ただし、その部分は諸説あって難解です。
恐らく、言葉を超えた境地を、比喩的に表現しているのを、比喩と捉えない人がいるためだと思います。
808考える名無しさん:2012/07/02(月) 15:24:19.59 0
道って聞くと道教が思い浮かぶ

仏陀と老子を同一視すると 双方から 大バッシングだろうけど

わからん 話ではない
809考える名無しさん:2012/07/02(月) 15:29:08.06 0
>>808
それについては中観派は断固否定だろうね
810考える名無しさん:2012/07/02(月) 17:52:59.21 0
>>795
>西洋思想的枠の中で問いを立てている、そういう考え方がの枠組みがダメなんだということ。

やはり、単純な見方だ。
>>788で君が書いていた「有無という二項を絶対と見ている」と「xとしてしまうとそれが恒常不変にxとしてしまう」
について、少し説明しておこうか・・・

西洋哲学には古くから「存在」の哲学と並んで「生成」の哲学という流れがあるのを君は知っている?

「有はあるが、無はあらぬ」というパルメニデスの思想は、「有」と「無」とを截然と分けることによって、
「ある」のか「ない」のか分からないような「動き(生成)」を退けた。
パルメニデスの弟子のゼノンの、アキレスと亀のアポリアは、「有」と「無」とを截然と分けると「動き」がとれなくなることを示している。

この「有無」の哲学とよく対比されるのが、ヘラクレイトスの「全ては流れる」という「生成」の哲学。
つまりこれは、「有無」が分かれる以前のところに「流れ(生成)」があるという考え方。
これは、仏教の「無常」にも通じるのであって、だからそれは「本質」に対する疑念につながり、したがって実存思想の流れにもつながるんだ。

「生成」の哲学の流れをくむもので特に有名なのは、へーゲル、ニーチェなどだね。

へーゲルの弁証法は、《「有」「無」「成」》のトリアーデで説明される。
これは、はじめに「有」と「無」があって、そののちに「成」が生じるという考え方ではなくて、
「有」と「無」という二つの契機の共通の根として「成」がある、という考え方。

西田幾多郎がへーゲルの弁証法に着目したのは、さすがにするどいのだよ。
811考える名無しさん:2012/07/02(月) 19:24:54.28 O
空や悟りを求めて空を得た人…非実践者
実際の苦痛を無くしていき空を得た人…実践者
812記憶喪失した男:2012/07/02(月) 19:41:03.50 0 BE:1026531353-2BP(3)
>>782
カントがどうかとか、ハイデガーがどうとかの解釈には詳しくないけどさ、
無ではない認識できないもの=物自体を信仰するという思想があるのは
認めてもらいたいね。
認識できない、すなわち、無だという論理はまったくわからないね。
813考える名無しさん:2012/07/02(月) 20:11:30.82 0
>>809
中観は否定するといってもいいけど、
単に論理的に否定して、それは違う、こうだというのではない。
それぞれの妄想を止めて、寂滅の鎮まりに導くんです。

>>810

はいはい、生成と存在の対立はもちろん知ってますよ。ハイデガーもそこに拘ってるし。

>へーゲルの弁証法は、《「有」「無」「成」》のトリアーデで説明される。
>これは、はじめに「有」と「無」があって、そののちに「成」が生じるという考え方ではなくて、
>「有」と「無」という二つの契機の共通の根として「成」がある、という考え方。

いや〜、これだと神秘主義になっちゃうよ。まさにパルメニデスとアリストテレスが退けた論理。
インドにもある。ジャイナがそうと言われることがある。もちろん、仏教では退けられる。

西田まだまだ、だと思う。だから、絶対矛盾的自己同一なんて言っちゃう。まさに神秘主義、ドグサ、矛盾に他ならない。

全然、幼稚だと思うぞ。仏教、インドからすると。
814考える名無しさん:2012/07/02(月) 20:33:39.13 0
>>813
実在性を否定してかかるのにどうしてハイデガーの存在論は支持できるのかか詳しく頼む
815考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:02:10.18 0
ハイデガーは西洋に生成と存在の対立があり、近代でそれを指摘したのがニーチェだとします。

> パルメニデスは言う。有るものはあり、有るものでないものはない。いっさいの生成、つまり発生と消滅とは、まだないこ[125]とと、もはやないことである。いっさいの生成は、ないという性格をもち、無的である、と。
> それに対してヘラクレイトスは「いっさいは生成、たえざる生成」と言う。有はないのだと。ニーチェも同様に言う。生成しかない。
> 有と、……であるとは、仮象にとどまる。このように仮象が生ずる根拠は、生成について語りながら、語の意義においていっさいの物を固定化し硬直化してしまう論理ゆえである。有る世界とは虚構であり、生成する世界しかない。[『言葉の本質』125]

816考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:03:58.44 0
では、なぜ言葉によって一切の物は固定化し、しかもそれが論理ゆえに固定化するでしょう?

> 「論理学」〔ロジック〕という表現はギリシア語の論理学 <ロギケー> という省略形の語である。
> それには、知 <エピステーメー> 、すなわちロゴスはここでは語り、しかも言表や述語づけの意味における語りというほどの意味である。述語づけは、或るものについて或るものを言表することにおいて成り立つ。
> 例えば、物体は重い、その三角形は等辺である。このような言表は、何かを何かとして規定することに、すなわち <determinatio> に表現を与える。この規定するはたらきをわれわれは思惟と名付ける。論理学、すなわちロゴスの学は、それゆえ思惟の学である。
> 或るものについて或るものが(言表されている)という「関係」、すなわち述語づけは、それ自身において同時に、これらの規定のなかで或る規定がそれについて与えられるところの、ひとつの有るものに関係づけられている。
> それについて〔規定が与えられているもの〕は、[3]有るものそのものである。それにかんして〔規定が与えられるもの〕は、述語づけの対象としてのそれについて〔規定が与えられるもの〕である。
> したがって問題は、有るものそのものを分節しながら発見して規定することであって、これをわれわれは上〔図〕のように表せる。
> O 対象(object)
>       /⊥\
>      S ― P 或る基体(subject)、述語づけ(predicate)
> そのように解された規定のはたらきは、それに固有な傾向にしたがって、言表がそれについて発せられるところのものに自己を合致させようと求める。
> それについて規定や言表が発せられるところのものへのこうした合致、あるいは適合性こそ、言表の真理でわれわれが一般に意図しているものを特徴づける。
> ロゴスは合致していたり合致していなかったり、真かまたは偽であり得る。事実遂行されたどのロゴスも、それが本質的にいつも或るものについての言表であるがゆえに、必然的に真かさもなくば偽である。[『始元諸根拠』3]
817考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:05:15.34 0
 これが教科書化された論理学です。それは、

> 言表という形をとるとロゴスそのものが何か眼の前に見えているものとなってしまった。目の前に既にあるこのものはだから、正当性としての真理を獲得して安定させるために操作するには手ごろで便利なものである。
> ここからもう一歩進めば、真理獲得のためのこの把手を道具(オルガノン)と解し、この道具を正しい方法で手ごろなものにするようになる。
> このことは、フュシス[存在者としての自然]がエイドス[本質としての姿]に変わり、ロゴス[存在的集約]がカテーゴリア[規定としての言表]に変わるとともに、存在者の存在の根源的開示がますます決定的に消滅し、
> かろうじて正当なものという意味での真なるものが議論や学説や規則などを介して広まり、拡がり、平坦になればなるほど、ますます必要になる。
> つまり、そういうことのためにロゴスを道具になるように仕立てなければならない。すなわち論理学の誕生の時がやって来たわけである。 [『形而上学入門』306]

これはあるがままの自然がロゴスによって真に言い表されることから、手ごろな妥当性としてロゴスが規定としての言表、まさにカテゴリーとしての分類体系などに矮小化して論理学が誕生したというような意味でしょう。
その結果、学問として言葉を扱う場合以下のような手段をとることになります。

> 学の自然な手順にしたがえば結局わたしたちは、言葉を問おうと試みる瞬間に、辞書と文法とに出会うことになるけれども、その場合わたしたちは、すべての文法が、言語活動の基本概念や規則をさだめたギリシアの論理学に由来していることを確認するにいたる。
> こうしてわたしたちは一方で論理学から解放されると同時に、他方でふたたび論理学のくびきにつながれるという奇妙な立場におかれるのである。[『言葉の本質』29]
818考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:06:36.97 0
 なぜ、そうなるかというと、

> [本来]論理学とは、第一に思惟の遂行制約ではまったくない。それはただ諸規則そのものについて、或る伝統のなかで確立された学に過ぎない。
> 第二に、もし論理学が諸規則の学であっても、伝統的形式における論理学は、諸規則をその本質において解明することも根拠づけることもできない。
> 第三に、或る事柄のその内的可能性が、根拠づけるそれとして、事実的な遂行とその諸制約よりも先に秩序づけられているかぎり、思惟一般の内的可能性を露にすることが、思惟の諸規則に関する学としての「論理学」の前提なのである。
> 第四に、論理学に先行した形而上学の、ないし形而上学に先行した論理学の可能な秩序づけというこの問題全体それ自体は、論理学によって立てられることも、究明されることも、そして解決されることもありえない。
> もっとも論理学そのものは真理の形而上学として概念把握されるのではあるけれども。
> もし、形而上学のやり方で〔いまの問題の〕究明が可能であるにしても、形而上学の遂行にとって、諸規則の使用も、他の制約とならんでもちろん一つの制約ではある。[『始元諸根拠』145 cf.『形而上学入門』199]

 つまり、論理学は実在論という形而上学に基づいているので、この実在論に基づく西洋論理学によっては、その根拠である形而上学を検討することができないということです。
819考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:08:04.61 0
 どのようにかというと、アリストテレスが、初めて言表命題という意味でのロゴスのもっと明瞭な形而上学的説明をした。[『形而上学入門』101]
 言表とはカテーゴレインであるから、存在者の存在のこの規定はカテゴリーと呼ばれる 。[『形而上学入門』304]
 言表すなわちカテーゴリアとしてのロゴスが存在に関して裁きを行う法廷になってしまったから、したがって言表の方が言表自身に属しているこの「有るという語からして存在を規定するようになったのである。 [『形而上学入門』327]

 その結果、ロゴスは我意によって正しく把握するのを妨げられ、紛い物をつかまされる[『形而上学入門』214]ようになってしまったということです。ですから、

> わたしたちにとっても依然として論理学とはロゴスをあつかうものである。けれどもわたしたちは闇雲にこれまでの西欧の精神史に属する把握の仕方に固執するわけではない。
> 論理学とは思考の定式と規則を単に寄せ集めて構成しただけのものではない。論理学とはわたしたちにとってはむしろひとつの問いである。だからわたしたちはロゴスの概念と本質を最初から一定の把握の仕方のうちに組み入れてはならないのである。[『言葉の本質』39]
820考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:10:17.88 0
さらに『言葉の本質』編者はこう言っています。

> 論理学とは「思考の進め方をよりよい方向に、またはより悪い方向に向けて訓練するといったこと」ではなく、「有の深淵を問いつつ歩測すること」である。
> それはまた「思考の永遠の法則をよせあるめた無味乾燥な集合」などではなく、「人間にとって問うに値する事柄の場」である。[『言葉の本質』編者後記193]

以上を要約したのが、

> われわれのテーゼ、a)論理学は形而上学に基づく、b)論理学はそれ自体真理の形而上学にほか[142]ならないに対し、かの議論は、第一に、論理学は自由に浮遊しており、或る究極のものであり、いわば「唯一の思惟」であるという先入見に基づいている。
> 第二に、論理学はあらゆる学に先んじて優位に立つという論点に立脚している。[『始元諸根拠』142]

そしてハイデガーの形而上学的問いの基盤にあるのは、

> 論理学はロゴスの言表の認識である。その根本性格は真理である。さらに言表真理は、直観やそれに類した作用のように、言表の性格をもたない諸行動のうえに第一次的には基礎づけられている。
> これらの行動は、露にすることの性格をもち、有るものについて有るもの的な真理として、有の理解のうちに、すなわち、有るものが露にされうることを可能ならしめるもののうちに根拠づけられている。
> このことはまさに世界への進入であり、すなわち世界の - 内に - 有るという出来事なのである。有の理解は超越である。
> 有の一切の理解は、時性の脱自的統一[ekstatische Einheit 忘我恍惚の一性]のうちに、すなわち諸地平の時熟せしめる破開[こじ開け]のうちに含まれているところの、露にするはたらきである。
> このような露にすることは、形而上学的に根源的な真で有ること[真の存在]超越そのものであるところの真理、すならち超越論的真理なのである。この真理が、それぞれの有るもの的 - 志向的な真理の可能性の制約である。[『始元諸根拠』296]
821考える名無しさん:2012/07/02(月) 22:16:48.69 0
脱自的統一、忘我恍惚の一性。これはアートマンとの合一とか見性体験と言われるものでしょう。それを超越論的真理などと述べているわけです。

> ライプニッツにとっては、彼が真理の本質を同一性のうちに見ているがゆえに、原真理はA=Aという同一性 であることを見た。われわれのテーゼは、論理学の第一の根本命題は根拠律である。[中略]
> 根拠律の形而上学的な実質は、何事モ根拠ナシニハナイ、すなわち、スベテノ有ルモノハ根拠ヲモツという根拠律の通俗的定式から読み取られる。[中略]
> これらの諸命題が根拠律のうちに基づくのだとすれば、それは、これらの根本諸命題もただ根拠の根拠からのみ、すなわち自由からのみ、さらに言いかえれば時性からのみ学的に解釈されることができるという謂いである。
> しかし、根拠律の本来的な意味についての最初の特徴づけに際しては、、ヨリモムシロということを含んでいる点を示そうと試みたのである。根拠律のうちには優先的性格が含まれている。
> しかしいまわれわれが積極的に根拠の本質と根源について、自由から、超越から示し得たものは、実際にどの程度根拠の本質に優先ということが属しているかを示唆している。
822考える名無しさん:2012/07/02(月) 23:01:46.29 0
> というのは、このムシロ ということは、世界の凌駕性〔Übertrifftigkeit[より優れたこと]〕の、〔あるいは〕可能性へ向かう自由の超振動の、その表現でしかないからである。
> 根拠の持つムシロの - 性格がさて具体的にはどのように見えるのか、またそれに応じて、まさに根拠、基づくこと、根拠づけることの諸々の仕方がどのように多様化されてくるかという点は、難しい熟考を必要とする。[299]
> 有の本質には本質的に根拠が属している。この形而上学的連関への具体的な洞察によって、私はあなたがたを、プラトンが『国家』のなかで次の文章(『国家』<Politeia>, V1509b6-10)を書いたときに立っていた地点に連れ戻しただけである。
> その文章をもって、私は終わりとする。また君は言わねばならない、すなわち、認識されたる有るものに対して、またこれと共に同時に現臨[real presence]しつつ、
> すなわち善に基づいて現臨しつつ認識する作用だけでなく(善は有るものに対して、認識されることのみならず、またそれゆえ世界への進入をも提供する)、さらに有および何で有るかも、かのもの(すなわち善)によって有るものに配当されている、と。
> しかし、「のために」ということ(超越)は有そのものではなく、有が、しかもそれが有るものを尊厳と力とにおいて超えて振幅振動することによって、超出するところのものなのである。[『始元諸根拠』298 cf.149]


残念ながらハイデガーは、ヒンドゥー的アートマンには到ったようですが、縁起・空には到らなかったようです。しかしながら、西洋の形而上学・論理学に根本的な疑問を呈した、その姿勢、その問いは大いに評価すべきでしょう。
823記憶喪失した男:2012/07/03(火) 00:16:48.38 0 BE:2874287467-2BP(3)
81 :ジャネットです:2012/07/02(月) 23:30:31.76 発信元:175.135.181.131
私が言い忘れており、また、物自体・諸法無我スレでもいう人がいないことを、
一つ書いておきます。
ディング・アン・ジッヒ(物自体)というのは、英吾に直訳すれば、シング・イットセルフになるでしょう。
物だけでなく事柄の含意もあるといっていいでしょう(だから、「正確」に近代日本語にしたいなら、物事自体、となるかもしれない)。
もちろん、「もの」というのは、ものすごい、ものさびしい、ものがなしい、
などとあるように、事柄も指しましたから、古典語がわかったかつての人たちにとっては、「もの」自体でも一向にかまわなかったのですが、
いまは分からない人が多いので、「こと」のほうの意味も強調したほうが良いか喪知れないと思いました。
同スレでの議論の展開に、難があるのは、そういう古典語理解の不足によるような気がします。
ちなみに、英訳だと「物自体」は、「シング・イットセルフ」ではなく、「ヌーメノン」というギリシャ語になっております。
このヌーメノンは、「精神」と訳されることが多いのですが、べつに「物質」でもいいものです。
そもそも、精神と物質の区別が、近代とは違っていたのですから。
ある種のキリスト教神学的には、物質というのが、霊的なものの凝集のようなものだ、という考え方があるのもご存じでしょう。
たとえば、あまり良い例ではないですが、いまどき風のとっつきとしていうと、量子力学の「観測問題」などをイメージすれば、
ピンときやすいかもしれません。

82 :ジャネットです:2012/07/02(月) 23:51:17.60 発信元:175.135.181.131
付記。上の「英訳」で、前置詞を省いているのは、イン、アット、などをつけるとニュアンスが固定するのではないか、
と思うからです。

83 :ジャネットです:2012/07/03(火) 00:14:46.92 発信元:175.135.181.131
ついでにもう一ついうと、
記憶さんが気づいている通り、ハイデガーでは、「イン」の意味が強く出ているでしょう。
824考える名無しさん:2012/07/03(火) 00:40:53.99 P
そんなでたらめな書き込みコピーしなくても・・・
Noumenonってのは物自体の英訳じゃないですよ
825考える名無しさん:2012/07/03(火) 01:15:51.39 0
>>822
TAT TVAM ASIのほうに軸足を移しませんかね。ライプニッツの充足理由律の重要性については、以前も述べたけど同じ認識だ。
ハイデガーはなかば自分の反対側にいるけれど、それだけに鋭い。卒論等を別にすれば、処女作の一つがスコトゥス論なのもそう。
ライプニッツはスコトゥスの問題意識を引き継いだ反時代的なスコラ哲学者といえるでしょう。
しかしハイデガーはこの方向をつきつめるのではなくて、スコトゥス論にも少しその傾向があるが、その後ナトルプ草稿の時点でやや
自分とは違う方向に歩き出したように見えるのが残念だ。

>>823
知ってか知らでか、物自体は英語がむしろオリジナルで、つまりロックからきてる。と思う。
デカルトvsスピノザ、ロックvsライプニッツ、ヒュームvsカントはわかりやすいが、実はカントはロックにもかなり影響受けてる。
826記憶喪失した男:2012/07/03(火) 04:37:14.39 0 BE:1231837463-2BP(3)
おれでは、何が何やらさっぱりわからないが。質問が来てます。

85 :ジャネットです:2012/07/03(火) 01:13:50.22 発信元:175.135.181.131
記憶さん、お手数だけど、フェノメノンの対義語が何か、と文学板からわざわざ出張しているらしい私への粘着さんらしき人に、
に訊いてみて。
記憶さんのためにいうと、ヌーメノン、フェノメノン、でググるとあれこれ出てくると思うよ。
827考える名無しさん:2012/07/03(火) 05:18:58.38 0
ロックとかの哲学って、古代ギリシャのphilosophyって言うより
politicalって感じだよね正に政治哲学。言葉の意味には深く言うつもりは無いけど、
愛智より明日の飯って感じで、あんま好きになれないんだよね。コレ系統の人たちはさ。
828考える名無しさん:2012/07/03(火) 07:16:26.01 0
>>825
いいですよ。どうぞ。

といって私は、ウパニシャッドやヴェーダーンタは得意じゃないので時間がかかりますが。

できれば仏教中心でお願いします。
829考える名無しさん:2012/07/03(火) 07:44:16.09 0
TAT TVAM ASIって よくわからないんですけど 梵我一如の事ですか?
830考える名無しさん:2012/07/03(火) 08:52:45.23 0
>>829
そう。tat(それは)tvam(お前)asi(だ)

「それ」梵、「お前」が我。

いろいろヴァリエーションがあって、 so 'ham それは私だ。とか。

マハーヴァーキャ(大格言、偉大な言葉)とか言われてるものです。
http://www.boreas.dti.ne.jp/~shanti/vedanta.htm

起源はウパニシャッドで、ヴェーダーンタが重視します。

まさにこのタイトルの論文が井筒俊彦『イスラーム思想史』に収録されてます。
といってもインドについて冒頭の部分だけで、本論はスーフィーのバスターミー

単純にいうと現象はマーヤー(幻)で我は梵(実在)であるという捉え方。
つまり、現象と実在で西洋だとプラトニズムやドイツ観念論、神秘主義が典型でしょう。

そして仏教ではそれは以下のように聖者の分類に入り、解脱には至らないとされます。
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/16.html
831考える名無しさん:2012/07/03(火) 10:16:53.94 0
>>830
>単純にいうと現象はマーヤー(幻)で我は梵(実在)であるという捉え方。

ここで言う「我」ってどいうこと?
832考える名無しさん:2012/07/03(火) 10:36:03.51 0
>>831
諸説あるが、世界と私という場合の私だと思います。
833考える名無しさん:2012/07/03(火) 10:43:27.21 0
>>832
梵我一如の「我」って、真我の「我」・・じゃないの?
自我とか肉体人間の「我」・・じゃないよね?
834考える名無しさん:2012/07/03(火) 10:59:56.70 0
>>833
そう解釈されるけど、私は上のような解釈が本質だと思う。
その理由はウパニシャッドの原文がそうであり、『梵網経』などの仏教文献もそう解釈するように、
世界と私という意味に還元されると思うから。これは現象としての意味で、実在を示す記号とは捉えないという意味です。

835記憶喪失した男:2012/07/03(火) 11:00:11.12 0 BE:1642450638-2BP(3)
質問が来てます。

86 :ジャネットです:2012/07/03(火) 06:23:49.73 発信元:175.135.181.131
お手数ついでに、同スレにはヨーロッパ中世にも詳しい人がいるようなので、
暇なときに、質問しておいてください。

ヨーロッパ文化史は、古くなると、ほとんど知らないのですが、thing in itself ないし、things in themselves
こういうのは、英国では、「ヌーメノン」のことをいうのに、神学哲学などでは、誰でも使っていたということはないんですか?
それともロックにかかわるエピソードみたいなものでもあるんでしょうか。それとも英語で著述するようになったことと関係ありますか?


87 :ジャネットです:2012/07/03(火) 08:11:08.74 発信元:175.135.181.131
もう一つ、充足理由律の今日的な意義というものが何かあれば、
書いていただけますか。

以上。

記憶さんも忙しいでしょうから、たまにしか書きません。ご苦労様でした。
836記憶喪失した男:2012/07/03(火) 11:33:21.28 0 BE:2189933748-2BP(3)
>>833
真我ってなんすか?
宗教ですねえ。
837考える名無しさん:2012/07/03(火) 19:18:30.21 O
「真」と付くと宗教っぽくなる

あらゆる主観にとって、自分から見て絶対的なものは自己
運動しようが静止しようが不変的
838考える名無しさん:2012/07/03(火) 19:55:43.21 0
>>あらゆる主観にとって

主観がいくつもあるように読めるのだが、主観って普通一つしかないよね。
839考える名無しさん:2012/07/03(火) 19:58:15.24 0
>>813
>いや〜、これだと神秘主義になっちゃうよ。

どこがどう「神秘主義」であるのかを説明しもせずに、ただ「神秘主義」としてしまうから、
君は単純だとか日本語がへんだとか言われるw

「有」と「無」のように二分して、そのようにして二分されたものを固定化する二元的思考法を、へーゲルは「抽象的悟性の立場」と呼んだ。
二分されるからには、二分される以前のものがあるはずであり、「有」「無」として二分される以前のものを「成」と考える。
そのどこが、「神秘主義」なのか・・・
君は「有無という二項を絶対と見ている」として、それを「西洋思想的枠」として単純化してしまっている。
そういう単純化がおかしいことを示す例として、僕はへーゲルの考え方を挙げたわけだ。

ニーチェでもいいのだが、君に言わせればニーチェも「神秘主義」なのかな・・・
唯一の「仏教」なるものがあると思っているらしい君には、ニーチェの次の言葉を贈りたいw
「『認識』という語がそもそも意味をもつかぎりでは、世界は認識し得る。だが世界は別な風にも解釈し得るのだ。
世界は背後に一つの意味を携えているのではなく、無数の意味を携えているのだ。遠近法主義。」
唯一の「仏教」があると思うなら、ニーチェに言わせれば、それは「背後世界論者」だろう。
840考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:04:50.77 0
>>839
もういいは、あんたは
841考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:07:19.49 0
中観派の仏教観(中観派に限らないかもしれないけど)って、いかなるものであろうと、
西洋の論理、定義に当てはめられることを極度に嫌うよね。それこそ、拒絶って感じに。
842考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:09:45.80 0
>>841
西洋vs東洋、という図式がすでに二元論的であり、胡散臭いわけだが・・・w
843考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:16:15.32 0
西洋が、仏教などに興味を持つのも、仏教が西洋的な物に拒否感を持つのも、
結局、互いが互いにコンプレックスがあり、本質的には、同じである。
つまり、一元論であるように思う。
844考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:23:50.24 0
>>841
拒絶しているといってもいいかもしれません。

しかし、それはこういう見方であるというものではないから仕方ないでしょう。

西洋で私が知る限り最も中観に接近するのはピュロン、セクストス。

恐らくピュロンはインドで仏教を教わっているからでしょう。

西洋人は四句分別がアリストテレスにも見られるから、そうではないという学者が大勢だけど、
四句分別という論理形式を知ってるだけでは違うんです。
その四句分別によって戯論寂滅に導くところが、正に仏教。

>  懐疑主義とは、いかなる仕方においてであれ、現れるものと思惟されるものとを対置しうる能力であり、これによってわれわれは、
>  対立[矛盾]する諸々の物事と諸々の言論の力の拮抗のゆえに、まずは判断保留にいたり、ついで無動揺[平静]にいたるのである。[金山弥平『ピュロン主義哲学の概要』9]

この「対置、対立、矛盾」と訳されている言葉が難解ですが、『概要』1.202

>  「対立[矛盾]する」を一般的に「抵触する」という意味に解し、

『概要』1.203

>  「ドグマティスト流に何ごとかを立論するあらゆる言論に対して、――信憑性と非信憑性の典で前者の言論と同等で、それと抵触する言論――をわれわれは対置する[対立させる]ことにしようと言っているのである。

という用法から対論者の主張に対立する言論を述べて矛盾に導くことと考えられます。すると、懐疑主義とは現象と思考を矛盾に導くことで断定を止め静寂に至るといった意味になり、正に戯論寂滅で仏教が伝わっていると考えるべきでしょう。

845考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:41:43.64 0
>>844
私の仏教に対する理解は、八宗綱要ぐらいしかないから、難しいことはわかりませんが
>>懐疑主義とは現象と思考を矛盾に導くことで断定を止め静寂に至るといった意味になり、正に戯論寂滅で仏教が伝わっていると考えるべきでしょう。
を読む限り、カントの
「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」
という言葉通り、戯論寂滅とは、まだ浅瀬である様に思えます。
846考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:44:22.60 0
>>845
>「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」

懐疑論とピュロンを捉えるのは間違いだと思います。
847考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:49:18.74 O
これこれが真我…真の〜と言っている辺りからして、自分探ししてる人

どの視点から捉えても、共通しており変わらない、大前提的なものは自己…思索による経験的事実
848考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:53:07.33 0
>>大前提的なものは自己…思索による経験的事実

これってつまり、デカルトのコギト・エルゴ・スム?
849考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:55:38.67 O
自身の日常の苦痛・悩みを解決していく人は、「真我」「真理」などという言葉を使わない

宗教的でない、これらの人々の思索は、理・我の真なるものよりも、「こう考えたら効率的」「こう捉えれば矛盾しない」という実践的事実の総体である
850考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:02:41.61 0
私は仏教なら、道元が好きだ。
851考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:03:45.10 O
>>848
それ、大前提でなくて、思考という現象にそれの主体を置いただけ。
思考の大前提としての役に立っているわけではない。自分探し


各主体固有の空間を大前提として運動・思考する
主体の外部の絶対空間に対して動くのではないパターン
852考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:18:16.03 0
>>844の人は>>815-822と同じ人?
引用の意図が分からない引用は、くそだよ。
引用の仕方をもっと工夫してみて。
853考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:24:03.57 0
どっか他のところに書いたののコピペだろうから読む気もしない。
854考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:28:25.55 0
>>851
そうかな。デカルトの物心二元論で考えると確かに
思考と言う現象に主体を置いただけで、思考の大前提として役になっているとはいえないとなるけど。

物心二元論ではなくて、あらゆる物を疑って最後に残った「我」。だけで考えると、
思索による経験的事実として、「真我」に近いものに至ったと言えるのでは?
855考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:33:33.24 0
デカルトはあらゆることを疑ったのちに、「疑っているという働き」が存在することを「疑う」ことはできないとした。
それを実体化したのがデカルトの「我」だから、「真我」とかとはあまり関係ないような・・・
856考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:37:57.87 0
真我でも偽我でもなんでもいいし
自分に真なんて求めてない
857考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:43:50.47 0
>>852-853
引用するだけいいだろ。しょうもない、コメントよりマシ。

ファインにするにはとっても時間がかかる。そこまで要求するなら、まず自分からやってくれ
858考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:48:50.46 0
引用するのはいい。
だができるだけ簡潔にまとめてくれ。長くなるなら引用したい場所だけ教えてくれればイイ。
引用箇所の方が自分の意見より多いなら何のための引用かわからん。
859考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:51:08.64 0
>引用するだけいいだろ。しょうもない、コメントよりマシ。

そうでもない。引用の意図が分からない引用は、非常にいらいらする。
860考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:51:16.83 0
>>858
そりゃ、ロケーションだけでいい人もいるが、
テキストも訳も持ってない人もいるでしょ。

オイラは、本当に読み慣れた一部は別にして、引用があった方がいいは。

861考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:57:54.72 0
>>859
引用意図は明解だぞ。以下に対する回答だ。

>>814
>実在性を否定してかかるのにどうしてハイデガーの存在論は支持できるのかか詳しく頼む

詳しくとあるから、ああした。

>>844
の引用意図は、ピュロンが仏教の四句分別による戯論寂滅を伝承している例証に他ならない。
そんなの流れから明らかだと思うが。

それとピュロンを懐疑主義と捉えるのが誤りだというのは、デカルトやカントが用いる意味で懐疑主義と捉えるのは誤りという意味。

つか、なんかもうライプニッツの人以外と話気が失せるは。
862考える名無しさん:2012/07/03(火) 21:59:14.91 0
>つか、なんかもうライプニッツの人以外と話気が失せるは。

去れ。
863考える名無しさん:2012/07/03(火) 22:04:20.20 0
認識論はヒュームの帰納法への懐疑で話全部終わってるじゃん
864考える名無しさん:2012/07/03(火) 22:12:26.47 0
引用する場合は、その箇所を引用すること自体に引用者の解釈が入り込んでいる。
引用者がその点について無自覚だと、説明不足になる。
865考える名無しさん:2012/07/03(火) 22:25:42.41 0
>>864
そりゃ、分かるが。

なんで、そこだけ要求高いんだ。

まあ、いずれにしろオヨビデナイなら去るは
866考える名無しさん:2012/07/03(火) 22:29:28.89 0
ばいなら
867Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/04(水) 01:37:03.12 0
釈迦の涅槃図に動物たちが描かれていることは重要だ。動物の思考も世界を認識している。
釈尊が書いたものを残さなかったのは、言葉こそが色であるという考えであったためでは
ないかと思う。
868考える名無しさん:2012/07/04(水) 07:54:46.06 0
>>865
たかだか一人にケチつけられただけで去ることないじゃんよ。
869考える名無しさん:2012/07/04(水) 09:57:57.56 0
真我はなんで否定されるの?
870ゲーム:2012/07/04(水) 12:09:19.89 0
>>860
仏教に詳しそうなので、このスレに沿って質問します。

“空”と“縁起”の関連がわかりにくい。
ちなみに辞書によれば“空”とは「実体も本性もない」とある。
一方、縁起については「事物の起源、沿革や由来」と載っている。

この両者がいかなる関係にあるのか、教えていただきたい。
なるべく辞書に載っている言葉による説明を請う。
871ゲーム:2012/07/04(水) 12:52:34.39 0
>>839
キーワードは“生成”ですね?
これは「(モノが)生じる、(モノを)生じさせる」という意味。

ところで君は、こういっている。
たとえば有/無、主/客、物/心…というふうに二分する前に「成」がある、と。
この「成」が何なのかが、わかりにくい。現象?実体? ではあるまい。
「成す」「成さしめる」という“動態”を指しているはずである。違う?






872ゲーム:2012/07/04(水) 13:14:34.64 0
>>860 >>839
縁起なる言葉も「縁起する」という動的な使い方のほうがわかりやすい。
前レスの“生成”と“縁起”は、どう違うのか。それとも同義?

ちなみに縁起にも生成にも“時間”を要する。
“時間”とは何? これも「空」かな。 
873考える名無しさん:2012/07/04(水) 14:22:53.84 0
龍樹の縁起って、正確に言えば、因果関係じゃないんじゃね?
同時生起っていうか、時間的なものじゃないと思う。
874ゲーム:2012/07/04(水) 15:10:47.48 0
>>873
その説明に納得できるのは「龍樹を信仰している」ひとたちだけでしょう。
もし“生起”や“生成”あるいは“縁起”に「時間」を必要としないのなら、
「存在」を“時間”抜きに言述しなければならない。

“空間”だけを残すわけにはいかないので、それも消去する必要がある。
生起、生成、縁起には「時空」を要しないということになる。
では、それは何処に(というと、おかしいので)何において生じているの?

875考える名無しさん:2012/07/04(水) 18:56:46.36 0
>>874
>生起、生成、縁起には「時空」を要しないということになる。

これはその通りだと思う。
仏教的に言えば、生起、生成は、実体のないものだから。(空ってこと)

>それは何処に(というと、おかしいので)何において生じているの?

認識において生じてるのかなぁ・・・
よく分からないけど。
876考える名無しさん:2012/07/04(水) 19:25:00.63 O
時間の無い空間を、静的な空間として捉える…単なる傍観者
877考える名無しさん:2012/07/04(水) 19:34:19.78 O
真我という考えは、それ以外のものを我と思い込んでる人が至る。
真我は、真でない我を我と思い込むという誤り・間違いを前提とした言葉。
つまり、真〜という言葉は、中立的・客観的な人に、真〜以外のものも〜であるという前提を吹き込む。


普通の人なら
自己といえるものは何か?→どこへ行っても何をしようとも年月が経っても、いつも不変的に付きまとうから〜は自己である
878考える名無しさん:2012/07/04(水) 20:31:26.66 0
実在を疑う場面は実際多くあると思うけど、
我を疑わなきゃならない場面っていうのが思いつかない。
879コアラッコ:2012/07/04(水) 23:14:47.26 0
私はなんとなく時間がわかるんです。
なんとなく時間が正確にわかるんです。
まるでカントのように
880考える名無しさん:2012/07/04(水) 23:25:30.58 O
イメージで物を捉えるのは一長一短あるが
カントの物自体は理論的要請で現象を纏める為に必要なものとして考えられているわけだから、言わば諸法をそこに収束させるようなもんだろうが、諸法無我は空に拠って束ねるものが外れて離散していくようなイメージだな。
881考える名無しさん:2012/07/05(木) 02:51:51.22 O
方便とは、説明能力が無いかつ社会的に無責任な人間が用いる手段である。
カルトは、持論が「皆もう知ってる」「間違ってる」のを恐れて逃げ道を確保する。

哲学したことがある者ならば無意識を対象として掘り起こす努力を経験しているが、
宗教信者は対象化する努力をしたことが無い。
882考える名無しさん:2012/07/05(木) 08:48:12.77 0
物自体は簡単に言えば人間が何かを認識できる為の物理的な時間と空間の事。
時間と空間は時計や幅、長さなどそれを限定的に測る事によってしか確認するしかないので、
そのものを人間は認識出来ない。
諸法無我はそれの中での人間の人間認識だからカントさんの方が根源的だね。
ただ仏教には物自体を認識する必要はまったく無かっただけで、
たどり着けなかったわけじゃないと思う。
物自体の先にはビックバン以前の時間も空間も無い世界があると思われるけど
そんなモノは俺達の生活には意味が無いのと一緒。
883記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 08:54:00.22 0 BE:2874287276-2BP(3)
「大パリニッバーナ経」読んだけど、

「あるがままにあれ」とはどこにも書いてなかったよ。
輪廻からの解脱が強調されていた。
「あるがままにあれ」という教えはどこに書いてあるのかな?
884考える名無しさん:2012/07/05(木) 08:54:08.31 P
>物自体は簡単に言えば人間が何かを認識できる為の物理的な時間と空間の事。

時間と空間は直観の形式であって物自体ではない

少なくともこの理解は、カント理解としては
かなり独自で特殊ですよ
885考える名無しさん:2012/07/05(木) 10:30:24.08 0
我がないとはどういうことなのか
思考、感情、知覚、触覚というものがある。
これを、我のもの、というか、我のものじゃないというか
それはただの言葉遊びじゃないだろうか、
中身が何もないんだから。
886考える名無しさん:2012/07/05(木) 10:46:39.81 0
>>882
物自体は、時間と空間の外にあるんじゃないの?
「外」って言い方も当たらないと思うけど・・・
887考える名無しさん:2012/07/05(木) 11:10:46.31 0
>>885
「無意識のうちに完璧な動作をする」ってことがあるんだよね。
それが我の無い状態。
そういう時は記憶に残らない。
気づいたらやっていた・・・という感じ。
悟りっていうのは24時間そういう状態にあることを言うんでしょ。
888記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 11:31:28.80 0 BE:3353335177-2BP(3)
>>886
カントの「純理」には、空間の内側に物自体があると書いてある。
時間は、主観的なものだと書いてある。

>>887
そんなのは大脳生理学的におかしな状態。異常状態。
過去のまちがった思想にもとづく邪教。
889考える名無しさん:2012/07/05(木) 12:06:18.73 0
>>888
>空間の内側に物自体があると書いてある。

どこに書いてあるの?
具体的な文章を頼む。
890記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 12:23:01.14 0 BE:821225243-2BP(3)
>>889
第一章に書いてあったと思うよ。
疑問形だったけど。
891考える名無しさん:2012/07/05(木) 12:23:05.57 0
>>888
>そんなのは大脳生理学的におかしな状態。異常状態。
>過去のまちがった思想にもとづく邪教。

花っていうのは花の「我」で咲いてるわけじゃないよね?
自然の運行そのものっていうか、そもそも花に我は無い。
我が無いけど、花という完全な結果を生じさせることが出来る。
人間や動物の営みもこれと同じ。
自然の運行そのものに任せていれば、完璧な結果を生じさせることが出来る。
我があることによって、自然の運行を乱している。
892考える名無しさん:2012/07/05(木) 12:23:51.15 O
「認知―空の外界」…主観に引きこもる人はこれ

「宇宙―宇宙外」…モデルを構築する宇宙論者はこれ
893記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 12:25:25.90 0 BE:547483542-2BP(3)
>>891
意識を特別なものとして取り扱いすぎだね。
意識はあるし、それが自然でありあるがままである。
意識のない花とかがあるがままにあるからといって、
意識を持って生まれてくる人が意識をなくすのは不自然だね。
894考える名無しさん:2012/07/05(木) 12:30:26.77 O
>>887
だとすると、

哲学者…シンプルな抽象モデルを意識しながら、同時並行的に身体が完璧な動作をする

(身体)科学者…動作の仕方を意識しながら、身体を完璧に操作する

悟り…意識は無く、無意識に身体が完璧な動作をする
895考える名無しさん:2012/07/05(木) 12:37:23.47 0
それか我がないというのは独我論のことなんじゃないか。
独我論とはすべてが我という意味だ。
外界は仮定にすぎない。
我しかないなかで、もはや我と外界という区別は不必要。
という意味
896考える名無しさん:2012/07/05(木) 14:22:21.57 0
>>770で、カントの「物自体」は客観的存在と述べている。 西洋哲学で
カントの「物自体」の概念は、フォイエルバッハへと受け継がれていく。
客観的存在である「物自体」は、より具体的・実体として「私と汝(類としての人間)」
と言う概念となって、より明確に主観的存在と客観的存在の領域が論理的に明確になって行く。
従来の主流となっている観念論的な西洋哲学に対して、「私と汝(類としての人間」の哲学的概念を、
源流として、キェルケゴ−ル、ニ−チェ、サルトル、ハイデガ−の実存主義が創出し又、マルクスの
唯物論が創出する。その意味に於いては、「類としての人間」の概念が西洋哲学の転換点と考えられる。

897839:2012/07/05(木) 15:02:29.00 0
>>871 : ゲーム氏
>この「成」が何なのかが、わかりにくい。現象?実体? ではあるまい。
>「成す」「成さしめる」という“動態”を指しているはずである。違う?

「生成」を、動的に言えば、「成る」。ヘラクレイトスの言葉では、「流れる」。
いずれにせよそれは「動き」であり、作用面に重きを置いて言えば、「働き」。

ただしそれは、「『何かが』働く」ということではなくて、ただ「働き」だけがあるという意味での「働き」です。
その点については、ニーチェが分かりやすい説明をしています。
彼は「稲妻が光る」という表現は我々の言語的悪癖であると言います。
本来あるのは「稲光」という「働き」だけであるのに、我々は、動詞には主語があるという言語的習慣から、
そこに「稲妻」という主語、つまり「働くもの」を付け加えてしまう・・・と。

(ニーチェは、このような「主語(主体)」への信仰が「物自体」への信仰の根源にあると考えている)
898839:2012/07/05(木) 15:05:04.34 0
>>872 : ゲーム氏
>前レスの“生成”と“縁起”は、どう違うのか。それとも同義?

ある種の「作用」「働き」である点は同じですが、縁起の場合はそこに「関係性」という要素が加わる点が違います。
縁起というのは、《同時的な相互作用や共存の関係》であると僕は思っています。
(仏教の縁起思想にも様々あり、その中で僕の考えは法界縁起に近いと思う)
それが「関係」であるからには、そこには、関係し合う「項」があります(生じます)。
(「生成」の場合は、「項」のようなものはとりあえずは考えられていない。)

縁起を説明する例として、互いに寄りかかり合って立っている三挺の銃を考えてみると、
三挺の銃が三つの「項」にあたります。
その場合、「項」が先にあって、それからそれらの「項」が関係し合うのではなくて、
「関係」も「項」も、《同時的な相互作用や共存の関係》にあります。
つまり、どの銃も、他の二挺の銃に支えられてのみ、今ある状態にあるのであって、
それらの諸条件に支えられていなければ、どの「項」も存在し得ないことになります。

この「支える」ということを、「作用」、「働き」、さらには「力」と考えると、
縁起思想と、ニーチェの力への意志の思想は、極度に接近します。
ニーチェが「生成」を「力への意志」と呼び、この世界は力への意志の相互作用であるとする時、
それぞれの力への意志が、ある種の「項」となるからです。

>ちなみに縁起にも生成にも“時間”を要する。
>“時間”とは何?

僕は「生成(存在)」と「時間」は別のものではない(分けられない)と思っています。
(例えばハイデガーや道元の考え方が、そのような考え方だと思います。)
899記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 17:30:43.94 0 BE:3079593195-2BP(3)
「龍樹」の中にある「中論」の全訳を読んだ限りでは、ナーガルジュナは、
空を無とはしていなかったようである。解説とは無関係に、わたしはそう読んだ。
だが、「中論」に「始まりも無く、終わりも無い」以外にこれといって面白い着想を
わたしは見い出さなかった。空をめぐる解釈の論争に、興味をなくした。
少なくとも、「中論」にこの世に本質はないと書いてあるのである。
空が本質だろうと、本質でなかろうと知ったことか。空は、無でも有でもない仮名であろう。
そんなもの無意味だ。「中論」はあまり高く評価しない。
900記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 17:41:21.26 0 BE:2395239757-2BP(3)
だから、龍樹を中興の祖とする大乗仏教自体を評価しない。
901考える名無しさん:2012/07/05(木) 18:42:28.38 0
世間虚仮 唯仏是真
902考える名無しさん:2012/07/05(木) 19:32:35.53 0
>>899
だからこそ 素晴らしいんじゃないか
法華経と同じだよ 
903記憶喪失した男 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/05(木) 20:41:15.60 0 BE:2053062656-2BP(3)
>>902
法華経は読んでないけど、
中村元の原始仏典を読み終わったら、仏教はやめる。
あんまり支持しない。諸行無常は高く評価するけど、諸法無我はあまり評価しない。
904Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:11:19.72 0
>>903
諸法無我を評価しないのはよくわかる気がする。なぜなら、この世で一番幸せであると
感じられるのは、主体性がある時だと思うからだ。物自体にしたって、人間の感覚を
超えたところにあるものであるから、人間の認識を超えている。そういうものが
真であるといったところで、積極的な関わりはできない。
905Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:13:08.49 0
物自体と空の関係を考えると、空とは人間の想像、しかも妄想的なものであると
思える。色も空も、人間にとっては害悪をなすものである。
906考える名無しさん:2012/07/05(木) 22:18:34.49 0
そりゃ幸福って観点から評価するなら
輪廻を背景にして人生を苦と捉える世界観と、死を先延ばしして人生には苦楽ありと捉える世界観じゃ
違ってくるのは当たり前だろうなあ。
俺には主体性という言葉ほど空虚なものはないと思えるが。別に仏教信じてないけど。
907Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:24:05.50 0
>>906
主体性じゃなかったら、流されないかなあ。
908考える名無しさん:2012/07/05(木) 22:28:20.50 0
>>907
正直なところ、俺には主体性っていうものがなんなのかさっぱりわからない。
自律に基づいて行動する的なことを言ってるんだろうが
そうすると今度は自律がわからなくなる。
最終的に自我にまで行き着いても、自我そのものがまったくわからない。
909Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:30:14.36 0
>>907
僕の使った意味は、外界に対して自由な態度で過ごせるという意味だよ。
その時の気分は、楽しいとか、充実とかいったものです。
910Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:31:28.56 0
失礼、>>909>>908宛。
911考える名無しさん:2012/07/05(木) 22:39:07.27 0
>>909
例えばいきなりメロン食いたくなったから食べる、って行動は主体的な行動、あるいは自由なの?
あるいは絵かきになりたいから絵の学校に行く、っていうのは主体的な行動なの?
メロン食いたいとか絵かきになりたいという欲望が発する場所を自我なり主体なりって言葉で言い表せば
それは楽しいとか充実って言うのはわかる。わかるけど、当の自我なり主体なりの内容がわからない。
「自」とか「主」と言う概念が本質的に成立するという理解ができない。
912Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:41:34.12 0
>>911
欲求を満たすための行為を主体性とは呼びたくない。もっと、日常的な、
気分的なことで、行動に対して付随する性質みたいなものだと思うんです。
だから、お祈りをするなんていうのは、主体性が充実した行動であるって
ことです。
913考える名無しさん:2012/07/05(木) 22:44:31.15 0
>>912
う〜ん、俺にはメロン食うこととお祈りをすることの間に「主体性」の差を認めることができないんだよね。
俺が主体性ってものを理解してないからかもしれないけど。
いや、本当に心の底から理解できないんだよ。
914Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/05(木) 22:46:17.63 0
>>913
生きていて嫌になることには主体性がないことばかりとか考えていくと、
そう言う結論に結びつきやすいと思うよ。
915考える名無しさん:2012/07/05(木) 22:52:25.37 0
>>914
> 生きていて嫌になることには主体性がないことばかりとか考えていくと

いや、そもそも主体性が理解できてないから、そう考えることすらないんだよね。
たぶん日常的なレベルでは充実感などは感覚としてさほど違ってはいないんだろうけど
主体性という言葉で言い表すものがズレてる、というか俺には理解できないってことね。
というかみんな理解してるんだろうか。なんとなく雰囲気で使ってるだけなんじゃないだろうか。
916考える名無しさん:2012/07/05(木) 23:14:54.12 0
知ってる人も多いと思うが、ブッダは遺言で「自灯明、法灯明(自己を拠りどころとせよ、法を拠りどころとせよ)」といっている。
これを踏まえても、単純に「無我」というのとは違うと思うんだよね。
917考える名無しさん:2012/07/05(木) 23:38:12.94 0
無我って何も ほんとに我が存在しないって言ってるわけでないからな
918考える名無しさん:2012/07/06(金) 00:41:48.63 O
仏教がー釈迦がーはカルト、無価値
何の苦悩も無い幸せ者の娯楽、真似事


うつ病や依存症から確たる自己を持とうと自己解決を積み重ねる者は同じような智恵に至る
919考える名無しさん:2012/07/06(金) 01:29:34.47 0
>>835
古来使われているのはヌースのほうですね。理性、知性、精神等々。万物は一者から流出したヌースのはたらきという
プロティノスのように。これから考えるという動詞ができ、その受動態がヌーメノン(考えられたもの)ということ以上はわかりません。
ロックにはあまり術語として物自体を使う意識がなかったようで、解説されてなかったり、訳者によってもまちまちですけど、
カントはこれを概念としてきちんと定式化したのでしょう。充足理由律についてハイデガーは単一の命題として捉えているではなくて、
彼にちなんで今日ではライプニッツの「24命題」と呼ばれている命題群を考えています。検索すれば読めると思いますが、
狭義の理由律を含めたライプニッツ哲学の基本方針を述べたものですね。上の引用にもみられるように、ハイデガーのこれに対する解釈は
存在とは根拠づけることであるというのが基本で、そこには無であることより存在することが好まれるという選好性があるといいます。

ライプニッツが立てた問題は、ヒューム的な明日太陽が昇るかどうか知れず、私は解体し続ける世界のはずなのに、現に今なぜ
何もないのでなく何かある(ようにみえる)のか、なぜ私が私としてある(ようにみえるのか)といういわば哲学の基本問題といえます。
最近だと永井均などもそうですが、彼はやはりウィトゲンシュタインな部分がおおきく、それ以上は語りえない地点に到達するのが早い。
920考える名無しさん:2012/07/06(金) 01:44:32.58 0
「汝はそれなり TAT TVAM ASI」という表現を自分が好む理由はいくつかありますが、梵我一如に囚われずにより解釈の幅を出したいのと、
ショーペンハウアーや井筒俊彦がそう呼ぶことと、それから、我々が浸っているある潜在性はフロイトがエスといったように
端的に「それ」としかいいようのないものとしてまず現われる、ところに何か真実がある気がするからです。

津田真一によればインド後期密教の到達点は「汝は汝の父である」しかもそうと知ったならば「汝は汝の父にならなければならない」
という2命題だそうです。最初のは「汝はそれなり」のひとつの変奏であり、次の命題はそれからくる倫理あるいは仏教における
「行」の規定だと思います。つまり振り返れば「汝はそれなり」も「汝はそれにならなければならない」という倫理を含んでいるのでしょう。
921考える名無しさん:2012/07/06(金) 07:33:50.23 0
ここでいまある個の生成・個体化が起ったとすると、その個によって根拠づけられる事物がそのまた別の事物を根拠づけるという具合に、
ライプニッツのいう共可能な事物の連関(いわば縁起)の世界が一瞬にして立ちあがる。

そんなSFみたいなことあるかと思うが、縁起としての空性というのはまさにこの幻のような可能世界のありかたじゃないかと津田はいう。
たとえば『華厳経』では、ある人が発心して、菩薩道・利他行に身を投じた瞬間それは起り、普賢法界という可能世界の一つ(マンダラ)
が現出する。浄土教でいうなら信を開き念仏を唱えた瞬間に極楽浄土が一気に現出するのでしょうか。
922ゲーム:2012/07/06(金) 11:14:50.43 0
>>897
「成る」という自動詞に変えたからといって“主語”を消すことはできない。
「何が、どう、成るのだ?」という疑問を押さえつけることは不可能である。w

これは次の「働きだけがある」という言表にも同じ疑義を感じる。
主語幻想の一例として君は「稲妻が光る」という語句をあげ、それを悪癖だと断じる。
そこにあるのは「稲光という働きだけである」ともいう。

ちなみに「働きとは“力”が働いている」ことだろう。これには二重の意味がある。
この例に即していうと… 「稲光」は何某かの“力”の表出であり、表出された「稲光」
にもまた何某かの“力”が宿っている。
稲光という現象に見出すことができるのは“力”である。

“働き”の均衡→破綻→均衡→…という現前の変移を支えているのは“力”であり、
大風呂敷を広げるなら「生成の主語は力である」ようにみえる。
>>898 につていは、のちほど。




923考える名無しさん:2012/07/06(金) 11:27:13.81 0
>>921
つまり縁起の世界とは、この世界のことじゃなくて、
仏の世界ってこと?
924ゲーム:2012/07/06(金) 13:19:04.30 0
>>898
「生成」が“図”に焦点を合わせ“地”を捨象して、その変移をそう呼ぶのに対して、
「縁起」は“地”を結集して、そこから“図”を浮き彫りにする方法をとる。
しかし後者のみららず、生成もまた“関係”から生じる。換言すれば、諸力の均衡が
崩れ、新たな関係が構築される事態を「生成」と称している。生成と縁起は、照準の
違いであり、同じ事態を指している(ようにみえる)。

「3挺の銃」の例は一見そのとおりだけれども、その凭れあいを可能にしているのは
“周囲世界”との関係にもよる。地震があれば、崩れるだろう。
しかしバラバラになった3挺の銃(項)は、なおも「ある」のではないか。
崩れ去ったのは「項」ではなく、諸力の均衡としての“関係”ではないのか。




925考える名無しさん:2012/07/06(金) 13:19:56.19 0
>>896で、フォイエルバッハの、「私と汝(類としての人間)」と言う概念が、
従来の、ギリシャ時代からヘ−ゲルに至る、西洋の観念論的哲学の転換点になったと
言うのは、この時代を起点として、どの様な哲学的体系へと変わったのでしょうか。
926ゲーム:2012/07/06(金) 13:52:10.48 0
>>898
ニーチェの『力への意志』については詳しくは知らぬが「意志」という
表現が曖昧なのである。即「だれの、あるいは何の意志?」と問われる
だろうからだ。
あえて答えれば「力を意志するのもまた“力”」というしかあるまい。
生成も縁起も“力”なしには生じないからである。

諸力の総和(関係の総体)を仮に“世界”と呼ぶとして、それが仏教の
いうように“空”なのか、カントの指摘するように畢竟、ヒトの認識
には不可知なモノ自体を残さざるをえないのか、それとも“世界”の
根源にいつかは到達するのか…

927考える名無しさん:2012/07/07(土) 00:08:54.40 0
>>923
ライプニッツにおいてもそうですが、現実的に世界が変わる。「賽は投げられた」とはシーザーがルビコン川を渡ったときの言葉ですが、
そのシーザーの選択によってその選択と共可能な現在我々が住んでる世界が生起した。これはほんとうに不思議な生成の理論です。
仏教ではこれを一種の二世界論として捉えていて、ある人の発心によって生起した普賢法界(マンダラ)や極楽浄土が世界と重なるように
拡がり我々の世界を加持する、あるいは本願力で支えてくれるのだと説かれます。
もちろんそれが空=縁起のすべてではないでしょうが、一つの現れと津田真一は考える。縁起=共可能性説は彼の意見じゃなく私見です。
928考える名無しさん:2012/07/07(土) 00:53:27.42 0
しかしそういう選択によって変わった世界のあり方なので普賢法界や極楽浄土という美しい世界の維持には
そのひとが選択しつづけなければならないわけです。それが仏教の「行」なんじゃないでしょうか。
929考える名無しさん:2012/07/07(土) 06:00:23.28 0
そういうの読んでると密教とか浄土教とかって
やっぱりヒンドゥー的な神秘主義が入り込んでるんだなあと感じる。
930ノウ:2012/07/07(土) 08:58:19.38 I
てす
931839:2012/07/07(土) 16:07:23.28 0
>>924
>しかしバラバラになった三挺の銃(項)は、なおも「ある」のではないか。
>崩れさったのは「項」ではなく、諸力の均衡としての“関係”ではないのか。

関係の布置が変化するとともに、その関係の結節点にある「項」も変化するはずだと思います。

一挺の銃を支えている諸条件には、ゲーム氏が書いたように、周囲世界の全てが含まれています。
だから、一挺の銃をAとすると、Aは、(B、C、D、E、F・・・)という、見渡し得ない無数の諸条件に支えられて存在している。
そして、それらの諸条件に「支えられて存在している」ということは、それを裏側から言えば、
それらの諸条件がなければ、(B'、C'、D'・・・という風に、諸条件の関係の布置が変化する場合も)、
Aは、Aとしては存在しない、ということになると思います。
だから、Aには固定した「自性」はない、ということになり、そこに、《縁起=無自性=空》という考え方が成立します。

Aには固定した自性はないということは、別の言い方をすれば、「Aは〜である。」という風にポジティブな言い方をすることはできない
ということであり、Aを支えている(B、C、D、E、F・・・)という見渡し得ない無数の諸条件との関係から、Aの意味が決まってくるのだと思います。

三挺の銃は、地震の前も後も、同じ三挺の銃であるだろう・・・と、僕も思います。
しかしそれはおそらく、長い間、僕が実体論的なものの見方をしてきた結果なのだろう・・・とも思います。
ニーチェが、主語(主体)への信仰を「我々の言語的悪癖」と呼んだように、習慣によるところが大きいと思う。
932839:2012/07/07(土) 16:09:30.38 0
>>922
>「何が、どう、成るのだ?」という疑問を押さえつけることは不可能である。
>これは次の「働きだけがある」という言表にも同じ疑義を感じる。

ゲーム氏のように「“力”が働いている」と言ってもいいのですが、
その場合にニーチェが問題視するのは、「力」と「働いていること」とを分離して捉えてしまう場合です。
それが分離してしまうと、「力」というものが次第に実体化していき、そして「力」が「働いていること」の原因であるかのように見なされてしまう。
そういう風にして、アトムやモナドのような実体概念が生まれた、とニーチェは考え、実体論を批判します。

それに対して、ニーチェ自身の考え方は、(「“力”が働いている」の場合には)、
「力」と「働いていること」を分離せずに、「力」=「働いていること」、として捉える考え方です。
彼の言葉では、例えば、

「一つの『事物』は、その作用の総体である。」(遺稿14[98])

ニーチェのこの考え方は、縁起の思想にかなり近いと思います。

さらにニーチェの次の言葉は、《縁起=無自性=空》とほとんど同じことを言っているように思えます。
彼はそこで「物自体」にも言及しています。

「一つの事物の特性とは、その事物が他の諸事物に及ぼす諸々の作用のことである。
他の諸事物がないと考えれば、事物は何ら特性をもたないことになる。
つまり、他の諸事物なしには事物は存在しない。
すなわち、『物自体』は存在しない。」(遺稿2[85])

「『本質自体』などは存在しない。諸関係がはじめて本質を構成するのだ。」(遺稿14[122])
933考える名無しさん:2012/07/07(土) 17:14:18.27 0
では、色即是空 空即是色の意味を、あなたならどうとりますか?
934考える名無しさん:2012/07/07(土) 20:13:13.97 0
「「本質自体」などは、存在しない。諸関係がはじめて本質を構成するのだ。」と
ニ−チェが述べている。 他の諸事物なしには、事物は存在しないと言うことは、
主観的存在である自己(自我)は、他の諸事物(客観的存在=世界)の存在認識の
中に於いてのみ、自我は実体として認識されると述べているのだと思う。この考え方は、
ハイデカ−の「自己は世界の中に存在する」と言う概念と同じであると考えられる。つまり、
「客観的領域は、自己(自我)に先立つもの」と言う、優先的認識論を基本概念としていると思う。
935Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/07(土) 21:40:24.08 0
>>933
全然関係ねえ奴だけど、色と空をアウフヘーベンしろってことだとオモウ
936考える名無しさん:2012/07/07(土) 23:26:18.20 0
>>929
ほかの経典でも、たとえば『法華経』では釈迦牟尼仏(如来としてのブッダ)が我々衆生の世界を加持している様が
描かれていますね。いつからか、如来や菩薩はかならず彼らが加持するワールド(仏国土)とともに語られるように
なりましたが、ライプニッツの可能世界論はその仕組みを案外うまく描いているような気がします。

可能世界論はこのように、ある出来事やある個人の選択が世界のあり方を現実に変えることができるという、
一種の革命の原理として自分は捉えたい。現実世界が神によって選ばれた最善な世界だとする予定調和説は、
目的論、決定論として自由の可能性が閉ざされているように見えますが、およそ自由の余地などなさそうな
強い決定論に見えるスピノザの理論が、実はその逆の可能性を開いているのと同じだと思います。
937考える名無しさん:2012/07/07(土) 23:57:41.29 0
>>935
最初の「色」を、時空内の現象、
最後の「色」を、時空を超越した世界
と捉えることは出来ないですかね?

938考える名無しさん:2012/07/08(日) 00:15:22.62 O
実体は関わり合いから成り立つ…老後のごとく能動的意識が無い、仕事はできない分析屋

関係思考の硬直化…子供のように能動的意識がある、仕事ができるポジティブ人
939Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/08(日) 00:18:18.15 0
>>937
その捉え方は結構考えられるね。最初の「空」は、時空内の現象を固定する世界の
枠で、次の「空」は、それについて言及するためのピン止めで、「色」に時空を
超えさせるための認識作用素であるとか。「空」をはさんで意味にねじれを起こさせる
わけだね。
940考える名無しさん:2012/07/08(日) 13:07:37.59 0
>>932
ニーチェのそのような諸力の複合体、意志をどう捉えるか。そこに「ある」のは「なる」ことだけ。いわば存在=生成のような
領域です。自分はそれは潜在的(潜勢的)ではあるがリアリティとして扱います。フロイトでいえば諸力のコンプレックスである
「それ」(無意識)をリアリティとするかどうかですね。基本的にニーチェの意志はやはり、汝は「それ」なり、という
ショーペンハウアーの意志を引き継いでいる。ショーペンハウアーが仏教でいう「無明」の極に比重をおいているのに対し
ニーチェが「明」の極を顕揚する違いはありますが、これは同じ事態の二つの側面でしょう。
941考える名無しさん:2012/07/08(日) 23:28:25.06 0
ここの趣旨に戻りカントならどうかというと、実在性というのは観念性の対義語で、意識の外に意識とは独立してあるあり方をさす。
したがってショーペンハウアーやニーチェの意志は、彼からすれば実在になると思います。
それから、モナドの本質は「力」にあります。ハイデガーのニーチェ講義は後半1/3もをライプニッツに費やしていますが、
これはニーチェにつながる「力」の哲学者としてライプニッツを捉えているのが一因です。
942考える名無しさん:2012/07/09(月) 01:46:15.25 P
>カントならどうかというと、実在性というのは観念性の対義語で、意識の外に意識とは独立してあるあり方をさす。

Realitaetの話? Wirklichkeitの話?
943ゲーム:2012/07/09(月) 01:57:48.50 0
>>931
一挺の銃は「諸条件」に支えられて「存在している」という。
その“諸条件”を君は「縁起」と称している(らしい)。ここまでは、いい?

この“諸条件”は重層的な「関係」を意味しており、一挺の銃は諸条件=諸関係
すなわち「縁起」の産物ということになる。そして、その銃は“空”だいう。

これは「初めに諸条件=諸関係=縁起ありき」ということ?
その場合、諸条件、諸関係すなわち「縁起」は実在するの?

944考える名無しさん:2012/07/09(月) 02:23:47.23 0
>>942
Realitaetですね、Wirklichkeitは通常「現実性」の訳語を当てると思います。
945ゲーム:2012/07/09(月) 02:23:54.92 0
>>932
「力が働いている」と述べましたが、別のスレで「力とは、働き、作用」と
辞書的な定義を与えています。

諸関係(諸条件)も、したがって縁起も“力”なしには生起しない。
縁起とは、流動する“力”関係を意味しているらしいからである。

この“力”は実在するの? 力もまた“空”?
946考える名無しさん:2012/07/09(月) 02:24:45.01 P
>>941
>カントならどうかというと、実在性というのは観念性の対義語で、
>意識の外に意識とは独立してあるあり方をさす。

この対比から、空間論の箇所での対比の話をしたいのだと思うけど
そうだとすると、これはカント解釈としては完全に間違ってるよ

あそこで言ってる
「empirische Realitaet(経験としての内実性)」というのは
空間が、私たちの主観に現れる限りでの現象の内容として、
実質を有しているという意味であって、
「意識と独立は独立してある」というのとは全く正反対の話。
また、あそこでいう
「transzendentale Idealitaet(超越論的なイデア的性質)」は
それに対して、空間や時間が、そうした現象の内容の形式として
経験には現れない形で形づけている、という事を示すもの。

そういう対比じゃありません

なんでこのスレのカント理解はこんなにめちゃくちゃなのか
947考える名無しさん:2012/07/09(月) 02:29:15.34 P
>>944を読まずに945書いてしまったけれど
そうだとしたら、カントのRealitaetは
そういう意味での、主観とは切り離された「現実性」という意味ではないよ
948考える名無しさん:2012/07/09(月) 02:45:48.51 0
objektive、そしてそのempirischeがつくと実際に現れてるということで現実性とほぼ同義になるんじゃないでしょうか。
まあ、そのうち見直しておきましょう。
949考える名無しさん:2012/07/09(月) 03:11:05.27 P
>>948
カントの場合、それは
>意識の外に意識とは独立してあるあり方をさす。
という意味では全くないのです
そこにカントの独自性があるのです

あの箇所で Realitaet に説明としてついている
objective Gueltigkeit というのも
「(認識の)対象として成り立つ(内実を持つ)という事」という意味です
950考える名無しさん:2012/07/09(月) 11:56:43.87 0
>>945
「力」には、二通りあると思います。 主観的領域に於ける時間、空間の現象世界
としての「力」と、客観的領域(即自存在領域)での「力」とが存在する。
カントの「物自体」と、「空=縁起=無自性」は、客観的存在として「力=生命力」として
実在している。 この「力=生命力」の存在論は、ベルクソンの「創造的進化」の中で、
「生命の飛躍=力」として述べられている。
951考える名無しさん:2012/07/09(月) 13:41:40.63 0
判断力批判では感性に働きかけるのは自然だと強調するようになるね
952記憶喪失した男 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2012/07/09(月) 15:38:09.46 0 BE:2463674966-2BP(3)
「あるがままにあれ」というのは仏教の教えではなかったらしい。
かなり素敵な教えだと思って、信仰していたんだが、仏教でないなら、
誰の教えなんだろう?
953記憶喪失した男 忍法帖【Lv=7,xxxP】 :2012/07/09(月) 18:33:13.26 0 BE:2395239375-2BP(3)
「中論」では、殺人の罪を定義しているが、すべての殺人を否定しているわけではない。
盗みの罪は禁止されている。が盗みというのは、当時、かなり新しい概念だったようである。
所有権について、かなりいい加減な定義をしている。
姦淫は罪としている。

原始仏典は、あと四冊あるが、今までに読んだ三冊では、ゴータマは殺人も盗みも姦淫も禁止していない。
954839:2012/07/09(月) 20:06:33.24 0
>>940
>自分はそれは潜在的(潜勢的)ではあるがリアリティとして扱います。

「リアリティとして扱う」とは、どういうことだろうか・・・
そこで「リアリティ」というものが、「イデアリティ」に対する概念であるにせよ、
あるいは「仮象」に対するものであるにせよ、それはニーチェの考え方とは違うと思う。
ニーチェは「実在/仮象」のような二者択一的思考法をとても嫌うから。
それはニーチェの考え方の中心に、「プラトニズム-キリスト教」への批判があるからだと思います。

彼にとっての「プラトニズム」とは、一言でいえば二世界論、つまり「英知界と感覚界」「彼岸と此岸」と、世界を二重化する考え方で、
そのように二重化された世界の一方に重きを置く(プラトンは「英知界」に、キリスト教は「彼岸」に)と、
もう一方の「此岸」「感覚界」からは、重みが失われてしまう。
ニーチェはそのようにして世界が「真の世界」と「仮象の世界」に分裂して、「仮象」とされるものが重みを失っていることを批判する。

そしてニーチェは・・・
「真の世界をわれわれは処分した。どんな世界が残っているのか? ひょっとしたら仮象の世界が?
 とんでもない。われわれは真の世界と一緒に、仮象の世界をも処分してしまったのだ。」(『偶像の黄昏』)

だから、ニーチェの言う「生成」や「力への意志」は、「真/仮象」「実在/仮象」という対立が生じる以前のところで考えられているはずでしょう。

>基本的にニーチェの意志はやはり、汝は「それ」なり、という
>ショーペンハウアーの意志を引き継いでいる。

カントの「物自体と現象」も、ニーチェのいう二世界論の一種であり、
力への意志の思想が生まれた時点では、ニーチェはカント主義者であったショーペンハウアーに対しても批判的でした。
だから「力への意志」には「生への盲目的な意志」への批判が含まれており、それへの批判から生まれたと言っても良いと思う。
955839:2012/07/09(月) 20:10:04.40 0
>>941
>ここの趣旨に戻りカントならどうかというと、実在性というのは観念性の対義語で、意識の外に意識とは独立してあるあり方をさす。
>したがってショーペンハウアーやニーチェの意志は、彼からすれば実在になると思います。

「意識とは独立してある」ものが「実在」であるとすれば、力への意志は実在ではないでしょう。

「この世界は力への意志である、そして君たち自身もこの力への意志である」
と、ニーチェは人間と世界とを同質的に捉え、そしてその力への意志の働きを解釈作用として捉えます。

そうすると、力への意志という無数の解釈作用の作用連関によって「世界」と呼ばれるものが形成されることになり、
その中で、個々の「意識」は、それ自体が力への意志として、その作用連関の中の一つの項として組み込まれていることになります。
(つまり言い換えれば、個々の意識も「世界」を形成することに参加している。)
もちろん「この世界は力への意志である」というニーチェ自身の解釈も同じです。

するとそこには、ある種の循環が生じますが、ニーチェはその点について、
「君たちは、それ(力への意志説)も一つの解釈にすぎないと言うのだろうか。それならば、ますます結構だ。」
と書いています。

だから、それは「意識とは独立」というようなものとは違うでしょう。
956839:2012/07/09(月) 20:13:07.58 0
>>943
>一挺の銃は「諸条件」に支えられて「存在している」という。
>その“諸条件”を君は「縁起」と称している(らしい)。

「諸条件に支えられて存在している」という事態全体を、「縁起」と考えたほうがいいのではないかと思う。
ゲーム氏は「縁起する」と動的に捉えたほうがいいと書いていたけれども、その点は同感です。

>これは「初めに諸条件=諸関係=縁起ありき」ということ?

「関係」と「項」は、どちらが《先》とも言えず《同時的》だと思います。

>その場合、諸条件、諸関係すなわち「縁起」は実在するの?
>>945
>この“力”は実在するの? 力もまた“空”?

空でしょう。
上でも「実在」が出てきたけれど、「実在」を「意識から独立・・・」と考えると、
「意識」とはどういうことなのか・・・から考えなければならなくなり、問題が、とてつもなく大きく、複雑になってしまう。

とりあえず、「ある」のか「ない」のか、とすれば・・・
「有るようで、なく、無いようで、ある」というのが、仏教的な考え方だと思います。
これは、高神覚昇氏が「色即是空 空即是色」について説明した言葉です(『般若心経講義』)。
(「あれかこれか」の二者択一的思考を嫌う点で、ニーチェと仏教は似ている。)

前の銃の例では、それが「空」だと言われても、常識的には、かなり分かりにくい。
内山興正という人は、雲を例にしています。これなら常識的にも(銃よりは)分かりやすい。

「大空に浮かぶ雲のようなものです。雲はこまかい水滴が集まって、いかにもそこにあるように見えるが、
またフーッと消えてなくなる。『空』とはそういう意味です。雲はないわけではないが、固定した自性というものがない。
固定した自性として捉えられないけれども、しかしないわけではない。」(『現成公案を味わう』)
957考える名無しさん:2012/07/09(月) 21:11:39.59 0
>>954
順を追って、実在は個人的に援用している術語でニーチェは用いないかもしれませんが、まさに狙うところはプラトニズムの顛倒で、
力への意志を我々の世界から超越した世界とはとらえず、純粋な内在性一元論です。我々個体はこの内在性の平面上の個体化する個体です。

次に、力への意志は盲目的な意志の別の側面だと思います。これは以前述べたように仏教ではダルマの明の極と無明の極に相当します。
生の欲動と死の欲動は無意識(「それ」)の二つの側面ですよね。そしてそれらは、衰弱していくツァラトゥストラのフェーズと
恢復していくツァラトゥストラのフェーズに対応していると思います。

三つ目はそれはカントならそうかな・・・ということで、自分の立場からはやはり、自分の裡にあるのも外にあるのも意志(ダルマ)です。
958考える名無しさん:2012/07/09(月) 21:26:08.18 0
諸法無我はむしろ超越論的統覚に通ずるのでは?
959考える名無しさん:2012/07/09(月) 21:59:33.32 0
ショーペンハウアーもニーチェもプラトンやカントを批判しながらも批判的に継承する部分がすくなからずある。
ショーペンハウアーの盲目的な意志というのは、カントの枠組みを借りながら、カントの盲目的でない意志としての純粋実践理性に
対置させた概念でしょう。この定言命法を発する純粋実践理性は、心身二元論いえば精神の物自体といえるかもしれません。
そしてニーチェの道徳律も、カントの枠組みを借りながら、永遠回帰するように意志せよというものでした。
960考える名無しさん:2012/07/09(月) 22:13:07.59 0
仏教自体に形而上学的は存在しません
故に、形而上学を超えるということも原理的にありえません

どうして仏教徒って馬鹿ばかりなんでしょうかw
961考える名無しさん:2012/07/09(月) 22:37:47.20 0
結局、哲学コンプのアホ仏教徒が
一生懸命似てるよね?似てるよねって哲学に擦り寄ってるだけじゃねーかw

哲学と宗教は違う

そんなこともわからないからこんな糞スレ立てちゃうんだよ
哲学史勉強してから来いや
962考える名無しさん:2012/07/09(月) 22:40:56.46 0
宗教と哲学が無関係にみえるって
それこそ哲学史勉強してこいってやつだ
963考える名無しさん:2012/07/09(月) 22:57:30.68 0
>>962
哲学と宗教が「違う」を「無関係」に
脳内変換するような日本語不自由なアホは
日本語をよく勉強してきてくださいね〜^ ^

まず、精緻な議論をする前提ができてないよキミ
あり得ない鈍感さ
964考える名無しさん:2012/07/10(火) 07:18:18.00 0
お前ら、カルシウム足りてる?
965考える名無しさん:2012/07/10(火) 08:01:57.30 0
哲学と哲学史を一緒に考えちゃうところが正に典型的な日本人的哲学観だな
哲学史なんて、大学の教授になるような人たち以外は、必要ないものだろ。
哲学することと哲学史を勉強することの違いをしっかり理解していれば
そもそも、そんな見当違いなレスは出来ないが。
966記憶喪失した男 忍法帖【Lv=8,xxxP】 :2012/07/10(火) 10:04:33.35 0 BE:410612832-2BP(3)
ミニハンさん解説。中論。

中論ってーのはそれこそ例えばAという立論とそれと正反対の非Aという立論の中道を行くってものだからな。
Aだと思い込んでいる奴には非Aと言う、非Aだと思い込んでいる奴にはAと言う。
そんな風に言う奴はA派、非A派からも「無責任だ」と言われよう。
またこういった論法を使っているから中論の祖、龍樹は西洋人から「詭弁家」などと呼ばれている。

「責任逃れ」ではなく、「責任」という事象とはどういうものかをきちんと考えれば、「責任」「権利と義務」という
概念に本質などないとわかるだろう。

「一切是空」とは「すべてが相対的であるゆえ、それぞれの本質などない」という意味だ。
であるなら「責任」も「空」である。
それは相対的なものであるゆえ本質などない。

ラカン曰く「転移とはその本質において詐欺である」。
転移という心理作用から「責任」という概念が生じているのだから、「責任とはその本質において詐欺である」と言いうる。
967考える名無しさん:2012/07/10(火) 10:52:15.41 0
具体例で考えないから話か空回りする
決定的な具体例をださなきゃ
968ゲーム:2012/07/10(火) 11:54:54.04 0
>>956
内山氏の著書を読んでいないので、例示されている“雲”について述べると…
“雲”は儚く消える。それに比して“銃”は緩慢とその姿をかえる(そうだ)。
一切は変移する。それをもって“空”すなわち「無自性」といえるかどうか。

“雲”も“銃”も「かたち」を変えながらも保持されるものがある。“力”である。
それは散逸することこそあれ、増減しないのではないか。
変移しつつも、保持されるものがあるのなら“無自性”とはいえまい。

もう一つ、変移(変化と運動)は無規則なのか。
もし、そこに“理”があるのなら、事象(色)は規則に従う“秩序”を有している。
事物の「構造とその“性”“質”つまりタチ」を規定する何かを“理”と称しているからだ。

存在と呼ぼうと生成と呼ぼうと、それが“理”によるのなら「世界」は“空”とはいえまい。
一定の構造と機能を有する“秩序”ということになる。


969考える名無しさん:2012/07/10(火) 12:04:45.02 0
中庸と中道はちがうんだよね
970Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/10(火) 17:31:47.00 0
>>968
>もう一つ、変移(変化と運動)は無規則なのか。

運動量保存則っていうのはあるね。規則の中で物事の変化があった場合、
それは“理”とよべるのかどうか。“理”というのが、規則なのか、物質の本質
なのか。よくわからない。
971考える名無しさん:2012/07/10(火) 19:35:18.10 O
こんなもん、悟ってるだけでアイデアを創る上で何の役にも立たない
役立ってもせいぜい古臭いプライド維持
972839:2012/07/10(火) 20:57:14.85 0
>>957
「二つの側面」というのがどういうことなのか、よく分かりませんでした。
(大雑把にまとめすぎている感じがしますが・・・)

>>959
>そしてニーチェの道徳律も、カントの枠組みを借りながら、永遠回帰するように意志せよというものでした。

それはニーチェの思想ではなく、ジンメルの思想でしょう。
973839:2012/07/10(火) 21:00:07.09 0
>>968
>“雲”も“銃”も「かたち」を変えながらも保持されるものがある。“力”である。
>それは散逸することこそあれ、増減しないのではないか。
>変移しつつも、保持されるものがあるのなら“無自性”とはいえまい。

存在(生成)の本質は「力」である・・・としても、
ゲーム氏が考えている「力」と、物理学的「力」、ニーチェの考える「力」は、おそらくそれぞれニュアンスが違うでしょう。
それは、「力」として本質規定している人間の考え方が違うからですね。
つまり、《本質は「力」である》よりも前に、《「力」として本質規定している人間がいる》のであって、
それぞれの「力」概念は、それを本質規定している人間の考え方によって違ってくる。

だからその「力」概念は、それを本質規定する人間との関係においてのみ存在している、
つまりそれも「諸条件に支えられて存在している」と言えると思います。


>もし、そこに“理”があるのなら、事象(色)は規則に従う“秩序”を有している。

これも上と同じことが言えると思う。
その「規則」の例として、物理法則を考えてみると、
物理法則というのは、《そのように説明できる》ということではないかと思う。
だとすれば、《法則がある》よりも前に《説明する人間》がいるはずであり、
そしておそらく同じ事柄を、別の秩序として説明することも可能でしょう(例えば「神の恩寵」として)。

物理学者たちが存在しなかったとしても、物理法則は存在する、と考えるのならば話は別だけれど。
974考える名無しさん:2012/07/10(火) 22:46:23.71 0
>>1は、形式論理学的には明らかに「偽」の命題。
弁証法云々を適用するなら、所謂「言語新作」でも試みてみれば♪

そういう勇気があれば、だ・け・ど・ね☆! ^^
975考える名無しさん:2012/07/10(火) 22:58:32.94 0
>>972
最初の方については、円環的思考というのでしょうかね。ツァラトゥストラが辿る衰弱と恢復との円環運動。
ニヒリズムによるニヒリズムの克服ですから、ともすればニヒリズムへ陥ってしまう力もやはり「意志」は含むように思われます。
お気に召さないのであれば、ショーペンハウアーとニーチェの「意志」を合わせたものが、私の言う「意志」だと思ってください。

二番目はニーチェの哲学と倫理学の結節点なので押さえておきたいところですが、あいにく典拠を失念してしまいました。
検索するとそれらしい引用がみられるのですが・・・もちろん文庫版全集なら全巻手元にあります。

それに対してニーチェは、同じく意志に関する選別の原理ではあるが、普遍化ではなく、永遠回帰を持ち出してくる。
「すべてはすでに無限回繰り返されているかのように意志せよ。」田崎英明
http://www.rakuhoku-pub.jp/special/01lingis.html
976839:2012/07/11(水) 00:10:38.14 0
>>975
それはたぶんニーチェの言葉の引用ではないでしょう。
永劫回帰をそういう風に倫理的にとらえる代表的な人はジンメルですね。
他にもいないことはないけれども、今では数少ないのではないか…
977ゲーム:2012/07/11(水) 09:44:34.91 0
>>970
唯物論者ではないので「物質の本質」なる表現は使いません。
物質、というよりも触れ、みききすることのできる“物体”は本質的なもの
ではなく、流動的かつ複合的な“力”関係の結節(一つの表われ)とみている。
たとえば>>389氏が例にあげた「銃」や「雲」がそれにあたるだろう。

それらは現前し、消えたり、かたちを変えたりする。(変移する)
それを“空”の説明の例示として用いていたので、必ずしも当たらないのでは?
と、疑義を呈したのである。

その変化や運動が規則的なら、もう一つはその過程に終始「保持される何か」が
「ある」のなら「色即無自性=空」とはいえまい、と申しあげたのである。

978ゲーム:2012/07/11(水) 11:03:35.47 0
前レスの>>389>>839の間違いです。
>>973
「存在(生成)の本質が“力”である」とは述べていない。
また“力”の意味がヒト(主観)ごとに異なる、というのは終点ではなく、
そこが始発である。主観を一つの局に据え、そこから対象を意味づける、
主/客相関による“世界解釈”はありふれていて、君が忌避する俗流では?

たとえば持っているコップを放つと、それは「落ちる」 ここには力が働いている。w 
この“力”は主観ごとに異なるや否や? 

もう一つ例をあげると…
マルコ伝に、イエスが洗礼を受け、水からあがったとき「空が裂けて、精霊が鳩の
ようにイエスの頭上に降った…」という一節がある。ここにも“力”の発現をみる
ことができる。

「コップが落ちる」のと「精霊が降る」のは異なる“力”によるもの?
私は「違う」つまり主観の相違ではない、と思っているのだが。

以下、幾つか疑問点がありますが、それはのちほど。
まず、ここまでの質問に答えてください。


979考える名無しさん:2012/07/11(水) 14:19:15.33 0
主観ごとってなんだろうね・・。
ここでいってる主観って、人それぞれの主観じゃなくって、
人間の認識そのもののことでしょ。
980考える名無しさん:2012/07/11(水) 15:16:24.48 0
764:リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY (175) ::2012/07/11(水) 13:47:51.86 0
このたび、ボク、リーマン小太郎、旧名ぴかぁ〜、第三の波平など、は
哲学板を引退することに致しました。
いつから哲学板に来たかは自分でも定かではありませんが、
いわゆる自スレをはじめて立てたのが、2003/02/11でしたので、
9年5ヶ月間以上、この板にお世話になりました。

まったく哲学なるものを知らなかったボクがブログをもてて、
多くの人にブックマークなどの評価をいただけたのも、
この板で育てていただいた多くの考える名無しさんたちの
おかげだと思っております。
特に今は泣き、しろうとさんには初期において哲学とはなにかを
多く学びました。またいまだによくわからない荒らしの純一さんとは
もっと長い時間を過ごしたように思います。その他多くのコテハンの
みなさんとの交流はボクの人生の一時期を楽しいものにして頂きまいた。

引退する理由は、残念ながらもう哲学というジャンルへのこだわりが
もてなくなったという個人的な理由です。
本当にいままで長い間ありがとうございました。 pikarrr
981考える名無しさん:2012/07/11(水) 15:20:40.06 0
>>898
縁起思想とニ−チェの力への意志の思想は、極度に接近する。と、述べている。

ニ−チェの「力への意志」の概念は、フォイエルバッハの「類としての理性」の
概念と同じ客観的領域であるならば、「力への意志」は、時間、空間の有限的世界
へどの様なプロセスで働きかけるのでしょうか。又、客観的存在である「縁起」が
有限的世界(時間・空間)に対して、どの様な方法で、「生成」と「力への意志」との
統合化による接近をするのでしょうか。
982考える名無しさん:2012/07/11(水) 18:50:21.95 0
意志とはいくつかの諸現象をひとまとめに説明する原理のこと
983839:2012/07/11(水) 22:06:35.93 0
>>977
>その変化や運動が規則的なら、もう一つはその過程に終始「保持される何か」が
>「ある」のなら「色即無自性=空」とはいえまい、と申しあげたのである。

その「保持される何か」が、「その『何か』は『X』である」として固定されていれば(例えば「力」として)、
そこには固定された自性(本質)があることになると思いますが、
しかし、その「『X』である」は、初めから固定してあるのではなくて、そこには、それを「固定した者」がいるはずだろう・・・
ということを>973で書きました。

もし、ただ《「保持される何か」が「ある」》というだけで、その「何か」が何であるのかを特定しないのであれば、
それは、「何かがある」と言っているだけだと思うので、
「無自性=空」について、高神氏が「無いようで、ある」と言い、内山氏が「ないわけではない」と言っているのと、矛盾はしないと思います。

(「規則」についても同じことが言えると思う。)

>>978
>主/客相関による“世界解釈”はありふれていて、君が忌避する俗流では?

この前は、「本質規定する人間がいる」と、常識的な書き方をしましたが、「本質規定する働きがある」としたほうが良いです。
僕はゲーム氏のようにそれを《起点》のようなものとしては考えていません。

>「コップが落ちる」のと「精霊が降る」のは異なる“力”によるもの?
>私は「違う」つまり主観の相違ではない、と思っているのだが。

「主観の相違ではない」とはどういうことなのか、よく分かりません。どういうこと・・・?

例えば、物理学者でありかつキリスト教徒である人の中には、
「コップが落ちる」のと「精霊が降る」のは、異なる「力」によるものであると理解している人もいるだろうし、
また、そういう人の中でも特に信仰心の強い人は、キリスト教的に自分の考えが統一されているかも知れない・・・
984839:2012/07/11(水) 22:09:17.08 0
>>981
「力への意志」の思想と「縁起」の思想が似ていると思われる点については、
>>932の後半に、ニーチェの文章を引用しました。

>客観的存在である「縁起」が有限的世界(時間・空間)に対して、・・・

そもそも力への意志の思想においても、縁起の思想においても、
「客観的存在」と「有限的世界」とは、分けて考えられていないのではないかと思います。
985考える名無しさん:2012/07/12(木) 15:55:58.39 0
>>984
「力」の概念は、それを本質規定する働きは、人間との諸条件に支えられている。と、
ニ−チェが述べている。この内容から、自己(主観的存在)が「生成」として存在認識
されるのは、主観的領域に於いてなされており、「力」概念は、「空=縁起=無地性」概念と
同じ客観的領域と解釈出来る。従って、「力」と「縁起」とは客観的存在であり、有限世界は、
「生成」と「色」を包含する主観的存在と思います。
986ゲーム:2012/07/12(木) 17:51:48.34 0
>>983
固定? 固定できないのが“力”なのである。そう述べたはずだが。
少し前に“流動する働き”と緩く意味づけたと思う。

諸関係、すなわち君の好きな“縁起”を生じさせるのも“力”である。
もう一つ、君の好物の「生成」も“力”が産み出す。それは「存在」もまた“力”の
所産であることを意味している。

君の言葉を借りれば、それは“固定する者も固定される者”も、換言すれば主/客を
巻き込み、貫徹する。「存在」を動態たらしめているのは、この“力”なのだろう。

起点? そのような言葉をここで使った覚えはないが“力”は「起点」ではない。
それが「なぜ」発祥したかのはしらぬが、力は“点”状ではない。“点(無)”は何も
産出しないからである。

ここで私が問いかけているのは、その“働き(力)”が規則的かどうか。
大風呂敷を広げれば「存在は秩序を有しているのか、それとも混沌なのか」と問うて
いるのである。

「落ちる」「降る」は舌足らずだったので、のちほど。
987839:2012/07/13(金) 14:42:05.88 0
>>986
>固定? 固定できないのが“力”なのである。そう述べたはずだが。

「固定」は、そういう意味で書いたのではありません。
その部分は>973の要約として書いたので、
>973を見れば、「固定」は>973の「本質規定」に相当することが分かるはず。

ゲーム氏は、《「保持される何か」が「ある」のなら「色即無自性=空」とはいえまい》と言うけれど、
その『何か』が「『X』である」として「固定」されるのであれば、・・・という話の流れです。
だから、ここで「固定」されるのは、『X』という概念です。
実際、ゲーム氏は、その『何か』を『“力”』としている。

ゲーム氏がそれを『“力”』として「固定(本質規定)」しているのであって、
その『何か』が初めから『“力”』であるのではない、ということです。
それは例えば、「すべては流れる」と言ったヘラクレイトスは、その『何か』を、
『“力”』ではなく、『永遠に生きる火』としたことを考えてみても明らかでしょう。

>983で僕が、《その「『X』である」は、初めから固定してあるのではなくて、
そこには、それを「固定した者」がいるはずだろう》と書いたのは、そのような意味です。
そしてそれは、「この“力”は実在するの? 力もまた“空”」というゲーム氏の問い(>945)への答えにもなっている。

>君の言葉を借りれば、それは“固定する者も固定される者”も、換言すれば主/客を
>巻き込み、貫徹する。「存在」を動態たらしめているのは、この“力”なのだろう。

特に異論はない(ただ、その“力”の意味、内容をどう捉えるかについて見解が分かれるはず・・・)のだが、
そこからゲーム氏が、「“無自性”とはいえまい。」と主張するところがおかしいです。

>ここで私が問いかけているのは、その“働き(力)”が規則的かどうか。

ゲーム氏の言う「規則」や「秩序」がどういうものであるのか分からないので、
とりあえず物理法則を例にして>>973の後半を書きました。
それに対するゲーム氏の返答(感想)はなかったのではないかと思うが・・・
988ゲーム:2012/07/14(土) 12:45:20.52 0
>>987
本質規定? 相手を自分好みの言葉で“規定”したがるのは君の悪癖です。

たしかに“力”につき定義とはいいかねる緩ゆるの意味づけをしたけれども、
それは君が“縁起”について「関係」なる曖昧語で説明したのと同レベル。w

ただ私は、こういっている。君の愛好する「生成」は“力”によって発現し、
そのさなかにも“力”は終始、そこに「ある」と。縁起も、しかり、である。
“力”なしに、それらは生じようがないし、保持できない、とは述べた。

“力”のほうが「生成」「縁起」よりも先立っている、との言い方が過ぎるの
なら、前者は後者を包括する概念である、とはいえるだろう。
君が反論するのなら、ここでしょう。

さてヘラクレイトス言葉だが、ここでは「永遠の…」は措き、「火」に関して
述べるなら「火もまた、それが発生するためには“力”を必要とし、その渦中
には常に“力”のやりとりがある」 これは「火」を「水」や「土」その他に
置き換えても同じである。それら様々な“本質”をも「力」は包括してしまう
のである。

“力”は存在のいたるところに遍く「ある」けれども、換言すれば“点在”する
のではなく“遍在”しているけれども、それが生成、存在の“本質”とは到底、
思えない。生成や存在の、消去できない条件であり、君好みの言葉を使うなら、
「事実規定」しているつもりである。
989ゲーム:2012/07/14(土) 13:29:19.02 0
>>987
>>973 で君が述べていることは「人間が起点である」wとの言い方が
乱暴なら「人間が基準、尺度である」かに読めぬこともない。

おそらくニーチェは、そして私もwwそれを否定する概念として“力”を
もちだしたのである。アプリオリな時・空形式において感性と知性に
よって“対象”を意味づける、そのような人間の二元的、二項的認識上
の桎梏を解体する概念が“力”なのである。それが何であれ、“力”は
認識に先立つからである。主/客の二項を“力”は超越的に貫徹する、と
述べたのはそういうことである。


990ゲーム:2012/07/14(土) 14:06:50.07 0
>>987
「規則」とは、どういう意味?と無意味な質問をしないように。
たいていの場合、私は辞書に載っている範囲で言葉を使っています。

それによれば「決まり」とある。したがって「規則的」とは“決まり”に則って、
“決まり”に従って、という謂いになる。この決まりに従う領域を「秩序がある」と
称しているのである。これで理解できなければ、この議論はここまで。

君に対する質問は、生成は規則的なのか、縁起には秩序があるのか、というもの。
ニーチェが“力”によって描出する「世界」観は、それを否定していないように感じられる。
少なくとも無作為、無方向、無内容ではあるまい。

物理学者(人間)のいう“法則”は観測事実を寄せ集め抽象し、そこに数“理”をあてたもの。
それを普遍的な“理”とみなす立場と、そうでない立場があるようだ。

秩序を有しているのか、混沌なのかわからないので、ここで問いかけているのだが、少しずつ
機械氏や抄録氏の“秩序”派に染まりつつある。(苦笑)


991Absalom ◆owNN8RDlXo :2012/07/14(土) 17:46:45.11 0
>>977
物体が主で力がそれの生み出すもの、というのが物理(物体の理)では言われていると、
解釈すると間違いなのかな。“力”自体というものが存在するのかどうか怪しいと僕は思うけど。“力”
自体というものが存在しなければ、それが“関係”において“結節”することもありえない。
でも、それ(物か力のどちらが先か)を決める決めては思い浮かばない(Help me!)
992考える名無しさん:2012/07/14(土) 18:37:09.08 0

「物」か「力」かは、素粒子の世界でも、ヒッグス粒子が発見され、その質量も分かってきたが、
では、最小単位の粒子の先にあるものは、質量(物)のない「力=エネルギ−」と言う事になる。
しかし、西洋哲学の歴史を見ると、「何、何、に先立つ」という、優先的存在論は、往々にして、
その思想は独善的な、多様性のないものとなる傾向が強い。
993考える名無しさん:2012/07/14(土) 19:29:38.70 0
物理学では物質を構成する素粒子はフェルミオン(クオーク、電子等)、力を伝える素粒子はボソン(光子、中間子等)とされる。
フェルミオンはカントにもかかわるが同じ状態(時間、空間等)をとることができない(だから物質ができる)、ボソンはその逆。
現在ではこれら物質と力の素粒子を相互変換する「超対称性」理論という、いわば一元論が標準になっているね。
994839:2012/07/15(日) 16:16:37.86 0
>>988
>“力”のほうが「生成」「縁起」よりも先立っている、との言い方が過ぎるの
>なら、前者は後者を包括する概念である、とはいえるだろう。
>君が反論するのなら、ここでしょう。

“力”は「本質」ですが、生成や縁起は「本質」ではありません。

『岩波哲学思想辞典』の「本質」の項から引用します。
「物・事がそれ自体として本来何であるか、を規定し与える根本の自己同一な固有性。
本質を表すギリシア語の表現はこの『何であるか』の問いを定式化したものである。
これと『どのようなものか』は峻別されなければならない。」

ゲーム氏は「『何か』がある」の『何か』を『“力”』としているのだから、『“力”』は、存在の「本質」だと言えるでしょう。
それに対して、「生成」や「縁起」は、『何であるか』ではなく『どのようにあるか』についてのものなので、「本質」ではありません。

「生成(成る)」は「存在(有る)」に対するものだから、「『何か』がある」に対して「『何か』が成る」ということを言っているのであって、
その『何か』が「何であるか」(つまり本質)については触れていない。
(ヘラクレイトスが生成を「永遠に生きる火」とし、ニーチェが生成を「力への意志」とするとき、それらが「本質」になる。)

また、縁起は《諸条件に支えられて存在する》ということなので、これも、『何であるか』ではなく『どのようにあるか』についてのものです。
995839:2012/07/15(日) 16:19:43.34 0
>それらの様々な“本質”をも「力」は包括してしまうのである。

この前僕は、「その“力”の意味、内容をどう捉えるかについて見解が分かれるはず」と書きました。
そのことを、ニーチェの力概念の例で説明しましょう。

ニーチェは、熱力学第一法則を確立したマイヤーなどの物理学を研究して、物理学的「力」概念に対して不満を持っていました。
そして例えば次のように、物理学的「力」概念を批判しています。
「我々は線を使わずに運動を思惟することができない。それゆえ、我々にとって運動の本質は隠されてしまう。
数学的な点と線とで表された『力(Kraft)』・・・これがその最終的帰結なのであるが、それは全くナンセンスなものなのだ。」(遺稿11[235])

だからニーチェの「力(Macht)」概念は、物理学的「力(Kraft)」概念とは全く異なるものです。

そのように、様々な「力」概念があります。
ゲーム氏が書いている“力”というのは、例えば、マイヤーの「力(Kraft)」概念と、ニーチェの「力(Macht)」概念とのどちらに近いのだろうか・・・
と考えてみるだけでも、ゲーム氏の“力”概念には、ゲーム氏による《意味の選択》があるはずだということ、
別の言い方をすれば、そこにはゲーム氏による《読み込み》が入っているはずだということが推察できるのです。

ゲーム氏は、存在のいたるところに“力”が偏在しているとし、それが「事実」であり、また、「認識に先立つ」とまで書いているけれど、
その“力”概念自体にゲーム氏の《読み込み》が入っているはずなのです。
ゲーム氏の《読み込み》が入っている「事実」とは・・・、どういうことだろうか・・・
996839:2012/07/15(日) 16:21:56.03 0
>>989
>>973 で君が述べていることは「人間が起点である」wとの言い方が
>乱暴なら「人間が基準、尺度である」かに読めぬこともない。
>おそらくニーチェは、そして私もwwそれを否定する概念として“力”を
>もちだしたのである。

>955で書いたように、ニーチェは彼の「力への意志」説も、一つの「解釈」であるとしています。
だからゲーム氏とは違って、そこに自分自身の《読み込み》が入っている、ということをニーチェは自覚しているのです。

「事実」に関しても、ニーチェは
「事実は存在しないのであり、存在するのは解釈だけである」(遺稿7[60])と書いています。
これは言い換えれば「存在するのは《読み込み》だけ」ということですが、
ここでニーチェは、「《読み込み》が入ってしまう」とネガティブに考えるのではなく、
「《読み込み》を入れ込む」ことをポジティブに捉えています。


>>990
>君に対する質問は、生成は規則的なのか、縁起には秩序があるのか、というもの。
>ニーチェが“力”によって描出する「世界」観は、それを否定していないように感じられる。

ニーチェは、明晰な秩序が支配する「アポロン的なもの」と、
秩序を破壊する「ディオニュソス的なもの」との交互作用によって世界が生起すると考えているけれども、
ディオニュソスのほうを、より根源的なものと考えており、後期になるにつれてその傾向が強くなっていると思います。
997考える名無しさん:2012/07/15(日) 17:58:40.13 O
横レスだが、
線で表される力は(観測)結果的軌跡であって、力そのものは既存の状態を変えようとする意識だ。
概念「力」に限ったことではなく、概念に意識が無いと実践性に欠けた理論になる。


概念「力」から力(意識)が消えて、概念「力」は(自己意識とは独立して)力を持つ機械となる。
998ゲーム:2012/07/16(月) 00:06:46.56 0
>>991
「物体」という存在者が“存在する”ためには「力」が必要だ、と述べているのである。
“無”から「物体」は生じないからである。また存在せしめられた「物体」は変化しつつ
運動しており、ここにも力が関与していることがわかる。

力は物体(存在者)に先立っており、より包括的(概念)だと申しあげているのである。
(機械氏なきあと、だんだん機械氏に口調が似てきましたw)

では何が“力”に先立っているのか。ここから云々かんぬんするのも一興かと。w
999ゲーム
>>994
単純な誤解なのか、お得意の曲解なのか。「規定」の“規定”がごちゃごちゃです。w

“存在”の本質が「何であるか」を私は述べたことがない。そもそも“本質”“基底”が
「あるや否や」もわかっていないのに(なければ“空”w)それが「何であるか」など語り
ようがなかろう。
「〜である」に対して「〜がある」が事実規定。いつのまにか君は両者を混ぜ合わせている。w

「〜ように…」は属性につき言及したもの。いいかえれば「何か」の様態の形容である。
君は何にも属さず「〜のようにある」とも述べていた。もし何にも属さず(包括されず)
それ自体として「ある」のなら、それは存在の“本質”を指しているのでは? ww

たとえば縁起という概念を使うのなら、何が「縁起している」かをいわねばならない。
「関係」も同じ。何と何が関係しているかに触れずに“働き”だけがある、というのは
反則である。w ちなみに、その“働き”を私は「力」と称しているのだが。w

もう少し述べたいが、その余裕がなさそうなので瑣事につき訂正しておく。
君は案の定“偏在”と記している。私は、せっかくニーチェの“点在”に対して「遍在」と
したのだが、これでは台無しである。(苦笑)