私、自己、自我、主体、基体、主観…などと呼ばれる【それ】は、いったい何か?
それらが、認識の基点、思考の起点、思惟の場であると、どうして言えるのか?
それらと、各種宗教的アプローチの底に見出されるもの等との違いはあるのか?
それらを記述することは可能なのか?(不完全な例 : デカルトの方法的懐疑)
また、記述方法には、どのようなものがあるか?
それぞれの記述方法の限界とは?(何が記述できて、何が記述できないのか?)
【それ】は、世界の中のどこかにいるのか?
【それ】は、身体の中のどこかにいるのか?
【それ】は、個物的なものか、それとも普遍的なものか?
【それ】は、物理的なものと、どのように関係しているのか、それとも関係していないのか?
【それ】は、複合的に形成・構成されたもの・成立したものか?(あるいは創発したものか?)
【それ】は、単独に存在しうる(成立しうる)ものなのか?(あるいは比類なきものなのか?)
【それ】は、妄想か? 錯覚か? 便宜上のラベルか?
【それ】は、体験か? 体験の実感か? 体験の実感の理屈付けか?
前スレ(後は「2ch DAT落ちスレ ミラー変換機」で)
【私】を記述してください【私の存在性】29
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1285858937/ 当スレは、妄想・錯覚を垂れ流す諸氏の隔離スレとして誕生したという経緯があります。
2 :
考える名無しさん :2011/07/09(土) 09:20:21.29 0
そして、親にあたる唯物論スレよりも栄えているという現状があります。 妄想こそ哲学の精髄なのでしょう。
3 :
考える名無しさん :2011/07/09(土) 10:09:04.39 0
そういえば、偉大な哲学者たちはみな妄想の大家でもある。 プラトン、デカルト、ヘーゲル…
どうせまた<『私』=「哲学者最高位」とは何か?>という議論 でスレ消費しつくすんでしょ。スレタイは「哲学者最高位の自分探し」 の方が現実に合ってると思うよ。
5 :
考える名無しさん :2011/07/09(土) 10:38:34.25 0
最高位の唯物論依存体質はパネエ
6 :
考える名無しさん :2011/07/09(土) 10:51:57.74 0
どうして、最高位が言う 主観性そのものな存在性が『私』なのか?
>妄想こそ哲学の精髄なのでしょう。 壁の染みに人の顔を見いだすのが哲学w
わざわざ言うほどのことでもないけど、せっかくスレが立ったようなので、一応 前スレ987 >>すると、 >>「もし同時に同じ場所を占めているのであれば、2つ以上の別々のものであることはない >>(同一のものである)」ということにもなると思われる。 >いやいやw >そもそもそれが巨大な錯誤でしょw >「>同時に同じ場所を占め る」なら、それは「二つのものがあって、それが同一である」ということではなく、 >『一つしかない』『それしかない』ってことでしょ。 「もし同時に同じ場所を占めているのであれば、2つ以上の別々のものであることはない(同一のものである)」 というのは、当然、一つのものだというつもりで書いていて、2つ以上のものが 同一である、なんてことを言ったわけではないけど。 だから 「もし同時に同じ場所を占めているのであれば、一つのものである」 と言い換えても構わない。 しかし、だからといって、 「もし同一のものであるならば、必ず時間・場所を厳密に特定して追いかけていくことができる」 と言えるわけではない(言うとすればさらに説明が必要ではないかと思われる)のは、 何も変わらない。 再建された金閣寺が、何らかの他の理由でならともかく、「時間的にいったん 途切れた」とか「空間的に以前とは1メートル違う場所に建て直された」とかいう理由だけで、 同一の金閣寺であることが否定されるとは、ちょっと考えられない。 もしそう考えるなら、なぜそんなに時間・空間が大事なのかの説明が必要ではないかね。
>>8 の続き
このことは、(今までは言わなかったけど)私とか意識とかで考えれば(もしうまく考えることが
できるとすれば)、もっと簡単じゃないかね?
だいたいが、我々はみな毎日眠っている(多分)から、時間的には毎日途切れて
いるわけだが、それで同一の私でなくなるとは
ちょっと思えない。
目覚めてみたら、さらに、眠る前と別の場所にした、なんてことがあったとしても、
やはりだからといって同一の私でなくなるとは思えない。
>>9 だから、
「自身に対して」そのように見ること(主観を対象化すること)は難しいのさ。(不可能であるという点は今は措く)
最高位が根拠とする如く、瞬間瞬間にありありと感じられる、
「今まさに思考しているという経験」「今まさに何かが感受されているという経験」、
これがある以上、それは、記憶をもそのように「リアルに」感受するわけだから、
当然、「継続して同一であった」ことは、『さも、疑いようのないことかの如く思われる』。
だが、本当にそうか? 目の前で修理作業がされている愛車の方が、
目を離さず凝視し続けるならw継続性の信頼度は遥かに高いだろうw
で、古人曰く「前後裁断せり」、と。
自身が、縁起する諸法の泡沫の一であることに気付くのは難しいのさ。
>>8 >「もし同一のものであるならば、必ず時間・場所を厳密に特定して追いかけていくことができる」と言えるわけではない
これが今一よく解らないんだが、 『 >(時間・場所を特定して)追いかける 』というのはどういうこと?
>>10 > >「もし同一のものであるならば、必ず時間・場所を厳密に特定して追いかけていくことができる」と言えるわけではない
> これが今一よく解らないんだが、 『 >(時間・場所を特定して)追いかける 』というのはどういうこと?
表現が曖昧だったか。
言いたかったのは、時間的にも空間的にも途切れないでつながっている、ということ。
もし、そのように考えるとすれば、時間的または空間的につながっていないものは、
一つのもの(同一のもの)ではない、ということになる。
例えば金閣寺は、再建に(何ヶ月かかったのか正確には知らないけど)3ヶ月かかった
とすれば、その3ヶ月間は時間的に途切れている以上、同一の金閣寺とは言えないことになる。
空間的にというほうは普通考えにくいけど、例えば金閣寺があっという間に再建されたとして、
しかし場所が敷地の都合などから30メートルずれていたとすると、空間的に
途切れて別の場所に行ってしまった以上、同一の金閣寺とは言えないことになる。
(この場所、本当は、「あっという間」であっても時間的に多少は途切れているはず
だから、すでに時間的なほうで同一でないことになるだろうけど、それはお目こぼし願って、
本当に一瞬で再建されたとして)
しかし、別にそんなふうに考えなくてもよいのではないか、もしそう考えるなら、
なぜ時間的・空間的つながりがそんなに重要なのかが疑問だ、ということ。
>>10 > だが、本当にそうか? 目の前で修理作業がされている愛車の方が、
> 目を離さず凝視し続けるならw継続性の信頼度は遥かに高いだろうw
こちらについては、ちょっと皮肉っぽい質問で恐縮だけど、なぜ、そのような場合の
愛車の継続性が、そんなに信頼度が高いの?
「私がずっと見続けている」から?
それは、見ている間は私が継続していることを前提にしてしまってるんじゃないのかねw
それとも上で引用した部分がそもそも何らかの皮肉だという趣旨なのかもしれないけど、
しかし、何の皮肉なのか私には分からない。
「継続してずっと見続ける」でも、あるいは前に私が書いた「右足の小指に
痛みを感じ続ける」でも、そういうことがあり得る以上は、その間は私も継続している
と考えて、どこがおかしいのか?
しかしあまりいろんなことを言ってると話がブレてしまうので、とりあえず 何を目指していたのかを勝手に書いておくと、 「再建された金閣寺の例を考えると、いわばコピーであっても同一のものと 考えることはあり得る。 人間であっても、コピーを同一のものと考えることはあり得るのではないか。 さらに、「私」についても、同様にはならないのか。ならないとすれば、どこが違うのか。」
別にコピーしなくたって、ダライラマは生まれ変わっても同一人物ですよ
>>11-13 だから、同一ではないのですw
変換ミスりましたが、「前後際断せり」とはそういうことです。
>>11 早産で子供を亡くした両親が、次の子を前の子と同一だと考えるでしょうか?
実は金閣寺でも愛車でも同じことなのです。そして、自らの意識についても「おそらく」同様なのです。
時間と空間が(どちらかが)連続していれば、或いは連携・関連が強固でゆるぎないものと見做せるような状況なら、
それを人々は『同一』だと見ます。
会議室のホワイトボードが壊れました。 部長は言いました。「『同じもの』を注文しろ」、と。
果たして『同じもの』なぞ購入可能でしょうか? 茨城工場と静岡工場くらい生産ラインの違う製品かもしれません。
材料に若干のリニューアルがあるかもしれません。 けど、皆誰もが、『同じ』商品だと【見做し】ます。
全てそうなのです。
時間・空間の断絶、構成要素の差異、有する性質の差異、などの基準・条件の取り方が
厳しいか緩いかの違いでしかないのです。 緩い条件設定なら、多くの物が『同じもの』としてカテゴライズされます。
厳しい条件なれば、より細分化されることでしょう。
また、A君は、音楽の授業を毎回「同じこと」ばかりやってつまらないと思うかもしれません。
B君は、毎回毎回違った特徴のある曲が聴けて、楽しくてしょうがないかもしれません。
太郎君は、本棚に漫画を沢山もっています。どれもこれも魅力的で、語りだしたら止まらない作品ばかりです。
花子さんは、太郎君の部屋に来るたびに思います。同じ(ような)漫画ばかりだわ・・、と。
「同じ」という「見做し」は、所詮こういうものなのです。
>>12 >見ている間は私が継続していることを前提にしてしまってるんじゃないのかね
勿論、その通りです。
>>10 の愛車の例は、まさに、それを前提としています。
ですから、外界(―この言い方も“ゲーム”は嫌いますが・・w―)の同一性も、認識論的には
自己の同一性と連続性によって担保されねばなりません。
では、自身の同一性や連続性は、何によって担保されればよいのでしょうか?
担保し得るものがあるでしょうか? (デカルトさんは、神様に御登場願ったのかもしれませんが・・・。)
>>13 だから、どんなもの、ことであれ、 >同一のものと考えることはあり ます。
というか、そうしなければ社会が円滑にまわっていきません。
ただ、それは(すべて)『見做し』であるだろう、と言っているのです。
金閣寺でも、人間でも、心・意識でも同じことなのです。
>>989 >私を見ている私を見ている・・・といった無限遡及(或いは無限後退)は、
>メタな視線を咬ませればそこで解決します。
>時系列において常に一瞬しかない以上(―それが「(コンマ数秒の)過去」か「今現在」かは措きます―)、
>そこには常に一度の遡及しかないわけです。一度の遡及が繰り返されているだけなので、
>それを定義してしまえば(その見做しを許容すれば)、そこで楔を打つ事ができるわけです。
それは、たぶん誤解でしょう。
まず、 「私を見ている私」という構造の、前者を【見られた私】(『客観』視された私)、後者を【見ている私】とします。
(これが「自己意識」の基本構造でしょう。)
そして次に、その構造全体を、あなたの言うような「メタな視線」で見る場合、
その「メタな視線」で見ているのは、実は、あなた(989さん)自身の視線であるはずです。
だからその時そこには、989さんにとっての、新たな【見ている私】が出現しているはずなのです。
そして、そのような新たな【見ている私】が出現することによって、初めの【見ている私】は、
新たな【見ている私】によって【見られた私】へと変化しているはずです(『客観』視される)。
さらに、989さんが、その「メタな視線」によって、遡及に「楔を打つ事ができる」と考える時にも、
989さんにとっての、また新たな【見ている私】が出現しているのであって、
今度はその「メタな視線」自身が『客観』視されていると思われます。
(初めの「メタな視線」と「楔を打つ」視線は、おそらく同じ視線ではないでしょうから。)
そのようにして、「楔を打つ」989さんにとって、実は、次々と新たな【見ている私】が出現しているのであって、
したがって、遡及に「楔を打つ」ことはできていないと思われます。
(続き) 「私を見ている私」(自己意識)というのは、【見られた私】と【見ている私】との問題です。 それに対して「メタな視線」を取ることは、誰しも日常的に行っていることだろうし、そのこと自体に問題はありません。 しかし、それによって「楔を打つ事ができる」と考え、そして「リンゴも私も変わりません」と、989さんのように考えてしまうと、 全てが【見られた私】になってしまい、いつのまにか【見ている私】が、どこかへ消え失せてしまっている… という印象を受けます。 別の言い方をすれば… 私は985で、デカルト〜カントにおいて確立された『主観』-『客観』関係について書きました。 その場合、『主観』と『客観』は、同時に成立します。 つまり、『客観』視することができるのは、そこに『主観』があるからなのです。 その点で、989さんの書き方は、『主観』のない『客観』、という奇妙なものについて書いているように思われます。
>>18 >『主観』のない『客観』、という奇妙なものについて
まさにその通りです。
「五蘊無我(非我)」「一切法無我(非我)」、「根境(識)の和合」、「此縁性」
とはそういうことなんです。
私は仏教畑ですので、こういう方向になります。
そして、遡及しているように思えますが、常に一回ずつの筈です。(瞑想の達人であれば違うのかもしれませんが・・w)
時間的に、常に一回ずつの対象化です。何度か繰り返せば、『同じことをしているだけ』という推測ができます。
(そして、違った状況が出現する事態というのは、未だ嘗て示されていません。(一部のムーブメント除くw))
だから、一回もしくは二回で手打ちにするのが賢明かと思うわけです。
同じ内容の昔のレスを探して、後で貼っておきましょう。
>>19 >何度か繰り返せば、『同じことをしているだけ』という推測ができます。
『同じことをしているだけ』なら、それでも良いのです。
『同じことをしている』のならば、【見られた私】と【見ている私】という構造は残っているはずだからです。
「奇妙」だと言ったのは、あなたの書き方だと【見ている私】のほうが消え失せてしまっているように見える点。
『主観』『客観』関係の中の『主観』を「メタな視線」に置き換えて、そしてそれを度外視しているように思われる。
だから【見られた私】、『客観』だけが残っているという印象を受ける。
あなたはそれを仏教に結び付けようとしているけれども…
『主観』『客観』関係から『主観』を度外視すれば「無我」につながるというものではないはずです。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない88◆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1173236496/683 683 素人 1/5 sage 2007/03/11(日) 19:02:38
>> 566(=>> 535=486(=酔いどれw))
> 何(だれ)が仮設するの?という突っ込みを
はい。よくわかります。
以前、「「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」
という無限遡及は一度で良い、と述べましたが、ほぼ同様です。
(幽体離脱ではありませんがw)<他者(外)から見た自己>という視点、
(これを哲学用語では「メタ」と言ったりするのでしょうか?)
そうした視点を採用することが不可能であるとは思いません。
『「腹減った」と思考する私』が居るとします。その時の【私】は『「腹減った」と思考している「私」』を見ます。
そして、【私】は『「私」』を、『腹減ったという思考状態にある「私」である』と見ます。
(基本的には、仏教という枠の中ではここまでですw)
さらに、【私】は『この【私】』は、『【「私」を、腹減ったという思考状態である「私」』と見做している思考状態】である』
と見ます。ここまでで十分でしょう?これ以上遡及することは徒労に他なりません。
つまり、≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫という構図が見つけられればそれでよいのではないでしょうか?
(注:肉体としての自己等、心理(脳内)以外の状況は省いています。)
人が、過去しか認識できないとしても、時間的推移の中で只一つしか認識できないものであるなら、
≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫と受け止めること(この場合は「受け止めている状態」と知ること)が、
人間にできる限界なんじゃないかな・・・と。
蛇足ながら、 ≪ ≫部分に注目するなら、仏教という枠組みの中では、 初っ端から(全てを)≪ 【××】とは、【○○という状態にあること(○○という事象であること)】 ≫ と見ることが根幹でもあります。 だから、「智慧」が最重要のものとされるし、「如実に見る」「あるがままに見る」ということが強く言われるのです。 > また「私」をどのように捉えようと、捉えるという言い方をするかぎり、 > 「だれが?」との問いを受けざるをえないでしょう? 上記と同様ですね。 「言い方」については仕方がないのではないでしょうか・・・。
◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない55◆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140273935/824 824 探求者 ◆IageKhlEwc sage 2006/02/25(土) 23:03:00
>> 811
仏教系の知識がほとんどないんで、関係あるところを分かりやすく語ってくれると俺は嬉しい
>その1:デカルト的懐疑(無限遡及)に対する印籠が用意できるかどうか?
> →結局、「受け止め方だよ。」としか言えなかったら、【このスレでは】意味がない。
> →個人的には、時間を楯に「一回でいいじゃんw」と言いたいのだが・・・。
一回的な「この私」「この疑い」を数えてしまうからまずいんだよね。
"2回"起こってるように見えても、それは1回と1回でしかない。
差異を無視して、グループでくくってはじめて2回になる。ここが無限後退の原因。
って概念的な説明するか、時間的な直感に訴えるか。
私を【今まさに疑っている】「この私」を、私が【今】疑うことができるのか?
これを事後的に見て、できるとみなすことが無限後退の原因。
実際俺が経験したのは、最後の「私」が俺ではなくて一言という他人だったことを忘れて
「俺が疑えたんだ」と錯覚してしまったという、似たようでちょっと違う話だ。
時間を楯にしたほう分かりやすいかなぁ?
【私】を記述してください【私の存在性】25
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1223203692/17 17 素人 sage 2008/10/05(日) 21:05:24 0
>【私】を記述してください【私の存在性】24
>
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1222213200/994 > 994 24 sage New! 2008/10/05(日) 19:58:45 0
>>> 992
>だから、どうして「逃れられない枷、縛り」なのかということだけど。
>枷だと考えるのは例えば君は「私の身体はなぜ私の身体であって他人のそれではないのか、いや他人の身体であってもいいはずだ」とか考えているということかな?
>私の身体はなぜ私の身体であって他人のそれではないのか
>他人の身体であってもいいはずだ
そういう方向とはちょっと違うでしょうね・・・。
思考している以上、それは「私が思考している」のでしょう。
五感でもって知覚し、情報収集している以上、「私の身体」なのでしょう。
その時、「思考がある」とだけ見る。「感受がある」とだけ見る。
そのように見ている何ものかをもまた、「そのように見ている」という観察がある、とだけ見るのです。
(この無限遡及は一度或いは二度で十分です。)
掘り下げ、潜行し、余分なものを削ぎ落とし、玉葱を剥いていった時、
『見ている何者か』、『観察している何者か』、は本当に必要なんだろうか・・・?という疑問を持っているだけです。
それは、玉葱の芯を探す(確定する)ことのように愚かなことではないのか? と・・・。
>>20 >置き換えて、そしてそれを度外視しているように
或る意味その通りでしょう。的確な評だと思います。
追いかけても無駄だから追いかけないだけです。
(開き直っている、とも言いますねw でも、しかたありません。哲学のように、『根源の探求』が目的ではないから・・。
十無記十四無記と言われるものがありますが、これら全て哲学では最大関心事だろうと思われますが、
仏教では、考えても答えが出ず、詮無き事だから他のことに時間を使いなさい、と言いますw 所謂「毒箭の喩え」です。)
>『主観』『客観』関係から『主観』を度外視すれば「無我」につながるというものではないはずです
勿論そうです。 ここで言われる「我」は、「自在者」であり、「恒常的・根源的自己存在の本質」であり、
「生命(的力)の源泉」であり、且つそのまま「宇宙の力の一部」であるような実体的存在だからです。
そして、却下、消去の方法は、「主観客観関係のメタ化」による主観の消去ではなく、
縁起する諸法の相の観察から導かれるものだから。
もとより、『主観』『主観性』は認められます。人は(≒生物は)五蘊仮和合の存在ですから。
述語で言えば『識』がそれに当たるからです。「色・受・想・行・識」の後ろ3つが、受(感受)以降の精神活動のこととなります。
>>16 事柄の性質とか基準の取り方によっては、例えば再建後の金閣寺も同一と考えることはあり得る
(もちろん考えないこともあり得る)ということ自体はいいの?
それなら、特に何か反論などすべきことはないけどね。
>>25 >答えになっているようには
問いの主軸は、
≪自己観察である以上、「遡及」が止まることはない。「主観」が消えることはない。≫
≪それを「消えた、消せた」とするのは、愚かにも忘却しているか、故意に無視しているか、どちらかだ≫
というものでしょう?
仰る通りだとは思います。 ただ《「時間的」に常に一回性であること》《常に一つの対象と一つの観察者しか現れない》
《観察という行為の解体は既に済ませている》《解体という行為もまた、解体される》
(構図としては同じです。後退りするもの(この場合「解体という行為」)が(解体という行為によって)追いかけられています。)
ならば、観察者の解体を以って終了させることに、それほど不都合があるとは思えません。
寧ろ、なぜ、『見ている見ている見ている・・・』と無限に遡及する必要があるのかわかりません。
先へ進んで答えが出るなら別ですが、おそらく出ないはずです。
だから、1回か2回くらいで止めても構わないと思うわけです。
しかし、“ゲーム”も昔、全く同じツッコミをしています。
≪どこまでいっても、「観察している者」「思考している者」が消えることはない≫と。
それに対しては、≪唯だ「観察」のみが(様相として)ある、思考のみが(様相として)ある≫と[見る]わけです。
勿論、(最高位同様w) 「ほら、そのように[見る]者がいるじゃないか」 と、ツッコまれますw
こういう時の「者」ってのは、果たして、所謂「人物的な“者”、《誰か》」なんでしょうか・・・?
そこに居るのは(≒在るのは)、人物的な何かでなければいけないのでしょうか?
世界には「様相しかない」、「自身の思考・観察」もまた、波打ち、玉虫色にめくるめく様相の一波に過ぎない
と「仮説」することは、そんなに奇天烈なことでしょうか・・。
連投規制にかかりました。 私も今日は勢いで書きましたので、少し頭を冷やしますw ノシ
29 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 08:19:35.42 0
【存在】(そんざい)名詞 「存在の存在性」に挑戦し「世界を了解しよう」との野心をいだいている青少年たちよ。 諸君は特別な少数者ではない。思索を始めれば誰でも通過する関門である。 なにがなんでも通り抜けるか、疑問のまま一生をすごすか、あるいは挫折して諦めるか、自分で選択しなさい。 わたしゃ「ほとんど世界の崖っぷち」まで旅をして、しかしそこで元いた場所に同時にいる自分を発見し、13歳のとき幸運にも独力で突破することに成功したが、かなり疲れたよ。 (「あのんの辞典」より引用)
30 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 09:04:28.52 0
その存在は、客観化された場合、もはや本来の存在でない、 それは反省的知識のために主体が自己を譲渡して対象としたものに過ぎず、 主体そのものはどこまでも内面的な存在である。 しかるにいわゆる主観には内面的存在性が欠けている、 その存在は自己の譲渡によって自己が自己の前に投射した客観に専ら相対的であり、 従って真の主観性を失っている。いわゆる主観は真の主観性ではない。 三木清
31 :
ゲーム :2011/07/10(日) 11:38:22.77 0
>>28 それは昔、最高位陣営にワラジを脱いでいた頃のレス。
その後に至った立場は「意識に先立つものはない」というもの。
意識とは「感覚、知覚、思惟、推論、想像…」など心的営為のすべてを指す。
おそらく、生まれながら感覚は開かれていただろう。
【私(自我)】は、感覚を通して事物を判別する“知覚”が可能になったとき、
「母」や「身体」とともに意識されるようになった後発である。
母や身体の判別、換言すれば自他の分別によって【私】は疎外(対象化)され、
“主語”の位置に坐ったのだろう。これらの一切は意識内の出来事であり、
【私】が意識の外部という超越的・特権的な場に立ったわけではない。
>前スレ984 638さん あなたは宗教板で私に話しかけてくれた人ですか? (律儀にレスしてくださって、ありがとうございました) >前スレ991 >>「あり」というのは、存在者が存在しているというコト。 >「存在者が存在しているというコト。」というのは「あり」じゃなくて >まんま「我あり」なんだけど? 「我あり」の「あり」 わかる? 『「我あり」の「あり」』 わかった? 「まんま「我あり」なんだけど?」という言葉が聞けて、一瞬うれしかったよ。 残念ながら一瞬だったけどね。 私の場合、「我あり」の「我」は、最高位のことなの。 キミの場合、「我あり」の「我」は、魂っぽい何かなの。 私がキミに書いたいちばん最初のレスに戻ってしまったね。 それでもキミがそれに気づいてくれたら、私は満足するよ。
33 :
417 :2011/07/10(日) 11:54:41.34 0
↑ 前スレ417です
34 :
ゲーム :2011/07/10(日) 11:59:35.48 0
ここまでは、一種の独我論である。 しかし、意識もまた特権的ではない。 意識はそれ自体としては存立しえないからだ。 常に何かの意識でしかなく、対象に依存している。 “世界”は知覚され、推論された、すなわち意識に浮かぶ蜃気楼だが、 意識は“対象(外部)”に侵食され、満たされなければ、それを映すこと も、構成することもできない。じいさん(生死おぼつかぬwコテ)のいう 主客の相対である。主客相対、主客相関、主客合体の“世界”観の本当 らしさをめぐって競いあっているわけだ。
35 :
ゲーム :2011/07/10(日) 12:11:18.68 0
旧素人氏を含む何人かで議論しているらしいが、捨てコテでもいいから つければどう? 素人氏は「内容が大事」などと、もっともらしいことを述べていたが、 仏教徒らしからぬ自分本位な意見。w 長文を書きこむものがコテにするのは、読み手に対する心配り。 サービス精神のないものはコミュニケーションする資格なし。ww
36 :
417 :2011/07/10(日) 12:19:25.14 0
ある多重人格(解離性同一性障害)者の人格がA〜E5つに解離しているとします。 5人それぞれの人格には、5人それぞれの人格で生きられた経験の記憶があり 5人それぞれの人格に5人それぞれの(人格で生きられた)固有の記憶が対応します。 1つの体の中に別の人格と記憶をもった5人の人間がいて 5人はそれぞれ別の「私なんていう主観性」をもっています。 5人はそれぞれ自分の「私なんていう主観性」こそが「比類なきもの」であり 他の4人の「私なんていう主観性」なんて認めるもんか!と喧嘩をするのです。 この5人の喧嘩をやめさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか? どうして1つの体に5つもの「私なんていう主観性」があるのでしょうか? それからもう一つ心配なことがあります。 実はこの多重人格者は体が弱く内蔵もボロボロで、このままでは死んでしまうということで 今年中には健康だった頃の身体データを使って新しい体を作ってもらうことになったらしいのですが それをEくんが独断で決めてしまったらしいのです。 それで他の4人がそんな大事なことをEくんの独断で決めていいのか!と猛反発しているのです。 新しい体になったら自分の「私なんていう主観性」はどうなるんだ!と4人は心配なのです。 なぜかEくんだけは自分の「私なんていう主観性」が新しい体にも生まれると信じているらしく それで新しい体を作ってもらう契約をしてしまったらしいのです。 もし5人全員の「私なんていう主観性」が新しい体にコピーできるなら心配いらないのですが。 5人のことはよく知らないのですが Aくんは、自分はどこから来て、どこへ行くんだろう? Bくんは、ぼくはなんだろう? ぼくはだれなんだろう? Cくんは、どうして私は他の国や時代ではなく、日本のこの時代に生まれたのだろう? Dくんは、なぜ僕はAくんでもBくんでもCくんでもEくんでもなくてDなんだろう? Eくんは、俺なんていう存在は、この世に俺しかない。何度生まれ変わっても俺は俺。 という疑問をもっているようです。(あ、Eくんは主張ですね) 今日は、以上のことについて神様に御相談しに参りました。よろしくお願いします。
37 :
417 :2011/07/10(日) 12:32:26.33 0
【自我体験】--- ルドルフ・フォン・デリウスの場合 私は自我意識が個人的にどのように始まったかを語りたい。 夏の盛りであった。私はおよそ十二歳になっていた。私は非常に早くめざめた。 たった一つの窓が庭に向かって開いている部屋。 私のベッドは部屋のいちばん後ろの隅に頭の方を窓に向けておいてあった。 私は起き上がり、ふり向いて膝をついたまま外の樹々の葉をじっと見た。 この瞬間に私は自我を体験した。 すべてが私から離れ、私は突然孤独になったような感じがした。 妙な浮かんでいるような感じであった。そして同時に自分自身に対する不思議な問い、 お前はルディ・デリウスか、お前はお前の友達がそう呼んでいるのと同じ人間か、 学校で一定の名前をもち一定の評価を受けるその同じ人間なのか、お前は同一人物か。 私に中の第二の私が、ここまでまったく客観的に名称としてはたらくこの別の私に向かい合った。 それは、今まで無意識的にそれと一体をなして生きてきた私の周囲の世界からの ほとんど肉体的な分離のごときものであった。 私は突然自分を個体として、取り出されたものとして感じた。 私はそのとき、何か永遠に意味深いことが私の内部に起こったのをぼんやり予感した。 それゆえその部屋、ベッドにひざまずいたこと、ふり向いたこと、この瞬間がやはり鮮明に記憶に残った。 何か精神的閃光が突然私の中に射し込んだようだった。(そして今なおたびたび繰り返される この体験からの結論は)血縁関係をもった古い自然――父という概念、兄弟という概念――が 突然何の意味も持たなくなってしまった。そして強くしばりつける力をもった故郷も離れ落ちた。 それは剥ぎ取られた皮膚のように下に横たわった。 ――自我は自由となり、解放され、漂い、自分自身の中に憩い、そしてそれゆえ無責任で、独自で、 価値があり、世界にとって到達しがたく、破壊しがたいものとなった。 ――自我体験は第二の誕生のごときものである。精神的な臍の緒が切れる。 われわれはもう環境という母胎の血にぼんやりと養われるのではない。 血の循環はいまや自分自身の中だけで行われなければならない。 自立して鼓動する心臓が生まれる。 参考図書 →『青年の精神生活』シャルロッテ・ビューラー 協同出版 絶版
38 :
417 :2011/07/10(日) 12:35:54.52 0
「自我体験」により誕生する第2の私を、いわゆる自我の目覚めとして捉えた場合について ルドルフ・フォン・デリウスの体験を世界で初めて「自我体験」として取り上げたビューラーは 「自我体験」を「思春期に起こる自我の構造的変化の<突然>の意識化」 「自我を<突如>その孤立性と局限性において経験すること」と定義しています。 ここで言われている自我の定義は「自分を客観視できる私という意識のこと」です。 「自我体験」は、不思議なことでもなんでもないことなんです。 私が思うには、ほぼすべての子供たちが通過してきている普遍的イニシエーションです。 このイニシエーションを通過できなければ「私の自己同一性」が実現されないからです。 だからこそ「なぜ私は私なのか?」なんていう「私の自己同一性」への問いが出てくるのです。 もちろん躓くことなくスムーズにイニシエーションを通過する子供もたくさんいるでしょうが 自己同一性を獲得するイニシエーションとして、それを通過しない子供はいないと考えれます。
39 :
417 :2011/07/10(日) 12:38:49.39 0
――なぜ私[1]は私[2]なのか?――発達心理学者の天谷祐子は「自我体験」は、 「『私[1](その人の属性や身体といった諸規定からなる私[2]とは独立した私[1])』への 『なぜ』という問い」と定義されている現象であると「定義」しています。(ややこしい) この定義からもわかるように「自我体験」とそれにともなって新たに誕生する私[1]は 一見神秘的ですし、事実心理学者たちも神秘主義者になったかのように反応しています。 永井均など、この問題の先駆者としてほとんど神の位置に祀り上げられています。(冗談です) ですが、この私[1]の問題は、一般に存在している心の問題の難しさと同じ水準にあります。 私[1]とは、私たちがよく知っている自分を見ている自分のことですから。 そんな自分が「その人の属性や身体といった諸規定からなる自分とは独立した自分」である というのは「自我体験の感じ」に脳が得意の合理的理由付け(妄想・錯覚)をした結果です。 このような状態は「自己の自明性(自己の自己同一性)の欠如・混乱」と言えるでしょう。 脳が作った思考経路・思考の癖(合理的理屈付け)は、ご存知のようになかなか手ごわい。 素朴実在論が哲学にとってどれだけ素朴でも、生きていくには受け入れなければなりません。 そのようなレベルで自我体験とそれの理屈付けが固着してしまう可能性が意外にあるのです。 自我体験を統計的に調べた結果では、自我体験は神経症傾向の人に強烈に体験されるようです。 同時に神経症傾向の人は自分の内面を見つめることが多いので 自我体験にこだわりつづける程度も強いとされています。 エレベーターに乗るとエレベーターの外には世界がないのではないか? などと考えては恐ろしくてたまらなくなってしまう今年還暦になる永井均など典型的でしょう。
40 :
417 :2011/07/10(日) 12:42:06.08 0
自我体験は「自己の自明性の欠如」(木村敏)に類する体験でしょうが 前-思春期にはじまるこの体験は「自己の自明性の欠如」というよりは 「自己の自明性の確立」が、実は驚くべきことなんだ!ということを示しているのでしょう。 いわゆる「物心がつく」時期に自我体験の初発の時期が重なるのは偶然ではないと思われます。 自我体験に特有の問い「なぜ私は私なのか?」は、自我が目覚めないかぎりは問えないのです。 なんとなく世界や他者に囲まれて生きている状態から、明確に世界や他者に囲まれて生きている自分を、 世界の中にいる自分を、大勢の人たちの中の一人である自分を、まさに自覚的に発見するということが 同時に、それを発見する自我の目覚めなんです。 この自我の目覚めが、<突然>に意識化され、<突如>その孤立性と局限性において経験されると (またそれを繰り返せばなお)それは自我体験として長く記憶に留まることになるのでしょう。 中学→高校→大学→成人と歳を重ねるごとに、自我体験は急激に忘れ去られていくようですが 言語表現のままならない小学生への調査は成立しないので、中学生以上に自我体験を思い出してもらい その初発年齢を尋ねるという調査方法しか今のところはないようです。 以上は、「自我体験」により誕生する第2の私(魂っぽい何か)を いわゆる意識としてとらえた場合の解釈です。 ゲームさん、割り込んでしまって、すみませんでした。m(_ _)m
41 :
ゲーム :2011/07/10(日) 13:02:21.27 0
「同一性」について議論していたが… たとえ焼失しなくとも金閣寺はもとより、あの太陽にも“同一”性はない。 これは時空が“存在の容器”ではなく、存在の“要素”だからである。 同一の時空はなく、これは同一の存在(者)がないことを意味する。 「昨日の太陽と今日の太陽は同一」というのは概念上の話。(同じであるわけがなかろう) したがって【私】にも“同一性”はない。 “私の同一性”は「昨日の太陽も今日のそれも同じ太陽」と同レベルの日常会話。 日常会話は、ほとんど概念(意味)のやりとりであり、そこでは昨日のA君が今日、 A´君に変わると不都合をきたす。そこで“同一の存在”という約束が仮設される。 厳密には「同一性はない」という定理は、しかし量子論では破れる…
42 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 13:47:00.56 O
みんな、むつかしいなw
>>13 他人が私のコピーを見れば、同一と考えることはあり得る。
私から見れば、コピーは他人なので同一とは考えられない。
43 :
417 :2011/07/10(日) 13:48:22.70 0
>>41 何ものかが現象するのには「何ものかが何ものかとして何ものかに」ということが必要です。
「何ものかが何ものかとして」というのは「何ものかがそれ自身である」ということです。
例として「今がそれ自身である」であるためには…については、もうお話ししました。
不在のオリジナルとオリジナルの不在とのあいだの差異の反復によって
偽の「それ自身であるもの」が成立することが現象することではないかと思っています。
私が何を言っているのかについては「0」について考えてみるとわかりやすいかもしれません。
ゼロを定義するとすれば「それ自身でないもの」になるのではないかと思いますから。
「それ自身でないもの」が「存在している」と言えるだろうか?
その前に「それ自身であるもの」が「存在している」ことが、現象であるとすれば
何ものかが偽のそれ自身として「存在している」という、その存在についてはどうだろうか?
と疑われるのは必然ではないかと思います。
最も根源的なところで「存在」と「存在の痕跡」とのあいだの差異の反復があるだろう。
では、それはどのような事態なのか?
私は「存在の痕跡」こそが「存在者」ではないかと思うのです。
時空であれ、世界であれ、人間であれ、それが存在するのであれば
それは存在の痕跡として存在するのではないかと考えています。
つまり、存在という不在のオリジナルによって存在するのが存在者ということです。
私が存在者を現象としてとらえるのは、このような考えが基本にあるからです。
ダライラマは異なる身体を通して現象しても同一人物 ダライラマが「私」というとき、その「私」は何世代にもわたる ダライラマの「私」と客観的に同一であり、そう認識されていなければ ダライラマではない。
45 :
417 :2011/07/10(日) 14:23:36.05 0
>>43 >私が存在者を現象としてとらえるのは、このような考えが基本にあるからです。
いきなり「存在の痕跡」とか使ってしまいました、すみません。
存在の痕跡とは、オリジナルの不在(であるもの)= 偽のそれ自身であるもの、です。
何ものかが何ものかとして何ものかに現れることを現象と考えたとき
何ものかに現れる ← この何ものかが、いわゆる主観です。
この何ものか(存在者の存在)を根源的なところでとらえれば
存在と存在者の存在論的差異の反復によって
偽のそれ自身であるもの(存在者)が存在すると考えることができます。
偽のそれ自身であるものが存在していることが現象しているということ、と私は考えています。
存在者が存在の痕跡(オリジナルの不在)であるとは、このような意味において、です。
存在するというコト(存在)がなければ、存在するモノ(存在者)は現象しないということです。
つまり、存在と存在者(存在の痕跡)との存在論的差異の反復がなければ。
>>42 >
>>13 > 他人が私のコピーを見れば、同一と考えることはあり得る。
> 私から見れば、コピーは他人なので同一とは考えられない。
ふむ、簡潔明瞭ですな。
さてしかし、金閣寺に引き寄せる(?)と、金閣寺だって元のものが存在しているうちに
隣にコピーを建てれば、そのコピーが元のものと同一とは考えられないと思われる。
人間であっても、ある人Aがいるうちに、その隣にコピーA′を作れば、AとA′が
同一とは考えられないと思われる。
このように、元のものが残っていれば(そして、どっちが元のものだったか
見失わないように注意しておけば)、ちゃんと区別はできるはず。
その区別と、「私」についての区別は、何か決定的に違うものがあるのかどうか?
逆に、元の私を残さずに分解して離れた場所にコピーを作ったら、どうなるか?
…というよりむしろ、こっちのほうが、(もしうまく考えられるとすれば)面白いか。
つまり、ふと気がついたら、実は私はコピーのほうだった、ということは考えられるか?
他人はみなそう証言しているとか、ビデオが残っているとかの事情がそろい、
他人たちも、元の私(?)も「お前はコピーだ」と言い、私自身もそれを認めざるを得なくなる。
さて、では、これは「私は私でない」(??)とか「私の同一性が失われた」(??)
とかいう事態なのだろうか?何が問題になるのだろうか?
>>27 >ということ自体はいいの?
構いません。
ですから、他者にも意識があり、主観があり、主体性を持って行為している、思考しているということを認め、
更には、脳神経系による精神活動と意識との関わりを認めるなら、
≪他者には、そして、完全コピー人間にも、【同じ】「私」が存在する(生じる)でしょう?≫
と最高位に言いたいだけです。 それは、紛れもなく「私」でしょう?と。
もし、そうではない、「唯一の、一回性の、そこにしかない(或る一つの肉体との相関だけを持つ)『私』」、
そのような限定的『私』であるなら、通常用いる【同じ】という分類は用いることができず、
いや、そればかりか、一つとして同じ『私』なぞ無く、『唯一一回性の、極度に個別的な『私』であるなら、
それが他者に存在しないのも、全てを完コピしても生じないのも、至極当然なわけです。
*(唯一、記憶まで完全コピーされるという条件であった場合、前の織田信長の話と同様、
親方様御本人は、継続して同一な自分である、と“主観的に”感得されるでしょう。
これを「同一人物」と見做すのであれば同一人物で構わないと思いますが、法律上どういう扱いになるのか、
法学者の方に聞いて見たい所です。)
しかし、肉体が一旦、消失・雲散霧消している以上、通常は【同じ】とは見做さないでしょう。
少なくとも、現代人の感覚からは違和感がありまくりです。
また、何十年と行方知れずだった者が帰ってきた時、(昔風なら“神隠し”などもそうかもしれませんが)
面影がある、記憶の整合性がある、などの検査を経て認められます。
ドラマの遺産問題・後継者問題でありがちですよね。戦火に紛れて行方の知れなかった孫が見つかった、とかw
同一人物認定は、どんな条件によってなされるでしょう? どんな差異は捨象されるのでしょう?
或いは、前世の記憶、傷痕等による生まれ変わり事例もそうですね。
金閣寺や織田信長を同一と認めるなら、こうした生まれ変わりも、同様に認められても構いませんよね?w
(ここでは、肉体こそ相違していますが、《心、魂、霊魂、主観(性)》等の同一性は保たれています。
記憶によって意識・心の連続性も担保されています。)
つまり、基準の取り方によって、多くのものを【同一】と括ること、その範囲を拡げることは可能ですが、 逆に、条件によって絞れば絞るほど、同一であると見做せる事象は限られてきます。減少していきます。 そして、(おそらく)、 ≪どのような条件、どのような基準に於いても相違するところがないような、そのような【完全同一なるもの】はあり得ないであろう≫ と。 必ず、どこかが、何かが相違しているであろう、と。 通常我々は、《肉体の同一性及び連続性》をもって、同一人物かどうかを判断しています。 今現在、この基準は大変有効です。肉体が消失し復刻されるという事態は、今の所ありえないからです。 せいぜい「義手義足」「人工臓器、移植臓器」等どまりです。総じて「激変した、別人、別の肉体になった」とは見做しません。 ましてや日々の新陳代謝なぞ、どーでもよすぎる次元の話ですw しかし、もし、医療技術が飛躍的に進歩し、脳神経系のみを残し、他を人口身体で補えるとなったら、 人々は大きなストレスを抱えることになるでしょう。(勿論、「慣れ」てはくるでしょうが・・。) 頭部のみ残し、首から下が人口身体だったとしても、特に恋人・夫婦のようにセックスが絡むとすれば、 最初のうちは互いに大きなストレスを感じることでしょう。 それほどまでに、我々は《肉体の「存在性」》に依存しています。 もし、(からくりサーカスという漫画もありましたが)記憶や意識といった精神活動諸々を、 PCのデータ移動のように移せるとした時、移った先の人物を、同一人物と見るでしょうか? (これは、生まれ変わり事例も同様のストレスを挟んでいます。前世を知る者がまだ存命中の場合などです。) メーテルは鉄郎に言った。「もし、どこかで出会ったとしても、貴方は私に気付かないでしょう」と。
どこまで変わったら、同一と見做せなくなるのか? 最高位の言う《私》を考える時は、この線引きがどこに設定されているの?が常に見極められねばなりません。 頭部が残っていれば(継続していれば)、彼は「以前の」ジョージ? 脳神経系が残っていれば(継続していれば)、彼は「以前の」ジョージ? 意識、心が残っていれば(継続していれば)、彼は「以前の」ジョージ? 500年後、超超スーパーコンピュータ(なんだそりゃwww)からのデータのダウンロードにより、 人口身体へインストールされたとしても(意識、記憶、心の特性等が“継承”されていれば)、 やっぱり彼は「以前の」ジョージ? 或いは、生まれ変わって魂を引き継いでいれば(意識、記憶、心の特性等が“継承”されていれば)、 やっぱり彼は「以前の」ジョージ? よしんば『以前の』とは言えないまでもやはり「ジョージ」? そもそも、《『以前の』ジョージ》と《『今の』ジョージ》は、違う?同じ? 「同じジョージだけど、以前の彼とは違う」という、ありきたりな言い回ししかできないのかもしれません。 同じだけど違う、違うけど同じ・・・。 厄介な存在ですな・・人間とは・・・。 一晩置いても、あまり冷えなかったようですw
あ、人工が全部人口になってるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
また長文を書いてしまいましたがw、 よーするに、 完全再現で織田信長が、『主観的に』同一人物として(「俺は俺だ!」)復活する、生じるならば、 最高位の言う《存在性、主観性としての私》は、他に於いても生じるであろうことが推測されるわけです。 もし、そうでないというなら、上記のような思考実験に於いて、織田信長が復活しないことを示さねばなりません。 (今現在、信長の復活がない理由は唯物論的理由に依っているわけですw) そして、これが一番重要ですが、 唯一無二であるということは「固有名詞的である」と言い換えることができます。 つまり、なぜ、「この私(鈴木佐太郎)がここ(この肉体)に!」ということだからです。 であるならば、上の織田信長の思考実験も成立を認める必要が出てきます。 「この私(織田信長)がここ(この肉体)に!」な状況だからです。 実は、唯物論的考え方だからこそ、固有名詞的だろうと普遍名詞的だろうと、 《私》の生起は担保され得るわけです。 そして、固有名詞的であるということは、「この私」と「ここ(この肉体)」との相関もまた唯一無二であることを意味します。 これは論理的帰結(或いは定義の問題)ですので、唯物論の成否とは何の関係もないわけです。
>>43 >私は「存在の痕跡」こそが「存在者」ではないかと思うのです。
「差異の反復」ということで考えれば、『0→1(存在)、1=存在者
1→0(存在の消去)、0=不在』と考える方がすっきりするし、
日常言語(「ひと(one)」)の用法、数学、物理、論理、神学
(「ひと(one)」=単位(unit)を統一(Unity))の似姿とする)
にずっとよく適合すると思うけど。
>>46 >つまり、ふと気がついたら、実は私はコピーのほうだった、ということは考えられるか?
もちろん考えられます。というか、その可能性は「常に」否定できません。
ある人間が寝ている間に完全コピーを100体作ったら、目覚めた後では
その100体全部が「この俺こそが唯一何十年も前から存在している私だ」と考え、
そう主張するでしょう。
この場合は、「本物の私」を特定するのは、客観的な「肉体の同一性」による
しかありません。ビデオが残っているとか他人が観察していて証言してくれるとか。
それもわからなければ、はっきりいえば、どれが本物かは誰にもわかりません。
本当は寝ている必要もコピーされる必要もないので、普通に暮らしていても同じことです。
まさに「常に」この私が立った今作られた、という可能性は排除できないわけです。
本物キタ━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━ ッ ! ! ! のかな?(´・ω・`)
55 :
考える名無しさん :2011/07/10(日) 21:01:45.00 0
んなこたーない
>>53 何だか逆にずいぶん大胆な話のような気もするけど、そのように考えるのなら、
どれが「本物か」なんてことにはあまり意味がないことになるんだろうかね。
57 :
417 :2011/07/10(日) 22:33:20.23 0
>>45 以下、自分のために
現象と存在について @
私が私として現象しているとはどういうことでしょうか?
私が私として現象するとは、私がそれ自身であること。
私がそれ自身であるとは、私が自己同一的なものであること。
私が自己同一的なものであるとは、私が私であること。…@
(別の表現をすれば、私であるとは「私が私として私であること」)
@を定式化すれば、A=(A=A)になります。
(A=A)がAであるということが、Aが自己同一的なものであることになりますが
(A=A)のそれぞれのAも自己同一的なものでなければA=(A=A)にはなりません。
ですから(A=A)であるとは(A=A)=(A=A)であることになりますが
その(A=A)=(A=A)のそれぞれのAも…というようにして以下無限につづきます。
ゆえにAの自己同一性は、どこまでも成立しません。
これが存在者(現象するものの)の自己同一性の不可能性です。
「私(である)とは、私が私であること」が自己同一性の言明であれば
これが成立しないのです。
でも、それでは何ものも存在することが不可能になってしまいます。
現象を、何かが何かとして何ものかに現われること、と定義すれば
何かが何かとして何かであることが不可能であるだけではなく
何かが何かとして何ものかに現われることも不可能になってしまい、現象が成立しません。
けれども、現に私は現象しています。
すでに差異の反復によって、偽の私が成立しているということになります。
すでに偽の私が成立しているとは、偽の私が存在しているということです。
偽の私が存在しているということは、偽の私が存在者として成立しているということです。
何ものであれ、それが存在するのであれば、原事実(存在)によって、ということでしたから
すでに成立していたのは、原事実(存在)だったことになります。
58 :
417 :2011/07/10(日) 22:35:17.19 0
現象と存在について A では、原事実が成立していると、どうして不可能だった自己同一性が成立するのでしょうか? もう一度振り返ってみます。(私自身のためです) 「私(である)とは、私が私であること」が、私の自己同一性の表明であれば、 私の自己同一性は成立しないのでした。 私の自己同一性は「私である」という仕方では成立ぜず、それは「私が私である」 という仕方ではじめて「私である」ことができるからでした。 この場合「私である」が不在のオリジナルであり、オリジナルの不在は「私が私である」です。 「私である」と「私が私である」とのあいだで差異の反復が起こっています。 ところで「私である」が不在のオリジナルというのは、どういうことでしょうか? 「私である」が現象するには「私である」がそれ自身でなければならないのでした。 そして「私である」がそれ自身でありつづけるためには差異の反復が必要でした。 すでに差異の反復は起こっていたのですから「私である」はそれ自身でありつづけています。 それが「私」が現象しているということでした。 すなわち、すでに起きている差異の反復によって「私である」の自己同一性が成立していたのです。 つまり「私である」と「私が私である」とのあいだに差異の反復が起きていて それによって「私である」の自己同一性が成立していたということになります。 そしてそれは原事実(存在)によって、ということでした。
59 :
417 :2011/07/10(日) 22:37:42.18 0
現象と存在について B オリジナルの自己同一性は「私である」で、「私が私である」は偽の自己同一性でした。 そして「私である」の自己同一性が、すでに成立していて、それは原事実によって、なのですから 「私である」は原事実によって、すでに自己同一性を与えられていたということになります。 それが「私である」ところの「である」において、すでに「私」は存在している ということなのではないかと考えられます。 すなわち「私である」は「である」において、すでに必然的に成立していたのです。 換言すれば「私」が「存在しているというコト」において「私である」は成立していたのです。 もちろん、それは「存在するモノ」としての「私」ではありません。 存在するモノとしての「私」は、差異の反復によってそれ自身を目指しているのであり それ自身であろうとしているところのそれが、実はすでに成立している「私それ自身」なのです。 どういうことでしょうか? そもそも不在のオリジナルが、すでに成立しているのでなければ オリジナルの不在(存在しているモノ)とのあいだに差異の反復は起こりようがないのです。 原事実(存在)と原事実の痕跡(存在者)との差異の反復が、存在者の自己同一性を不断に保存しつづけ それが存在者という現象を保証しているのだと考えれば、差異の反復とは、その根源において 存在者の存在(存在しているというコト)を創造していたということになるのではないでしょうか。 差異の反復とは、デカルトが考えた神に似て、存在を不断に創造する運動なのです。 どのような存在者も「存在しているというコト」無しには存在できないのだから その存在を流転する万物において不断に創造している運動(神の業)が差異の反復なのです。 不在のオリジナルが本当に無いのであれば、はじめから無いのです。 古代ギリシアの哲学者パルメニデスは「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」と言いましたが すべての存在者には必然的に存在が遍在しているのであり、存在を取り去ることはできないのです。
60 :
417 :2011/07/10(日) 22:40:04.38 0
>>52 >「差異の反復」ということで考えれば、『0→1(存在)、1=存在者
>1→0(存在の消去)、0=不在』と考える方がすっきりするし、
「0→1(存在)、1→0(存在の消去)」とは「生成消滅」が可能ということです。
「0→1、1→0」を認めることは「現象」の論理を認めることでしょう。
という捉え方をすれば「0→1(生成)、1→0(消滅)」という運動になり
「1」は、存在(真の実在としての、それ自身であるもの)
「0」は、それ自身でないもの、と考えることができます。
私の考える差異の反復は「1(それ自身であるもの)」と「0(それ自身でないもの)」
のあいだでの差異の反復です。
存在者の存在するモノとしての存在者(現象)性が、どこまでも「0(それ自身でないもの)」であり
存在者が存在するというコトの存在性(存在に存在性はないですが)が「1(それ自身であるもの)」
と考えています。
私は、存在するというコトがなければ、何ものも存在しないと思っています。
つまり、現象(存在するモノ)が成立しません。
言い換えれば、現象(生成消滅)が成立するためには、生成消滅しない存在が必要なのです。
生成消滅しないもの(時間で言えば、瞬間)が成立しないかぎり
何ものも姿を現す(現象する)ことができないからです。
現象と存在は、どちらが欠けても成立しないのです。(それぞれの原理が成立しないからです…省略)
私は、存在者は、存在するモノ/コトのあいだ(存在論的差異)に(として)起きている現象である
と考えています。
議論から導かれる結論の簡潔さと汎用性が重要だと思う。 汎用性があるかどうかは別の言語で表現しようとした ときにどうなるかを考えることが重要な手がかりになる。
62 :
考える名無しさん :2011/07/11(月) 00:49:59.07 0
オリジナルじゃないからつまらない 2ちゃん的な独創性がない
自分自身が「0」で他者が「1」 他者が存在して初めて自己が回帰として現れる Je suis un autre
「私」って今ここにしか存在できないんだから、 「10年後の私」とか「1秒後とか私」とか言ってるのがナンセンス。 コピーしたのを10年後に作ったら私が10年後に再現できるかとか考えたって、 「今ココの私」じゃないんだから考えても意味ない。 最高位は馬鹿。
65 :
佃煮マニア :2011/07/11(月) 03:15:25.82 0
66 :
ゲーム :2011/07/11(月) 09:59:14.10 0
>>417 細かく、というほどではないが、少しく突っ込みます。
あなたによれば「何ものかが何ものかとして…」主観に現前(現象)する。
主観に汚染(意味づけ)された“存在(コト)”が、すなわち存在者(モノ)である。
つまり存在を偽・存在である存在者にスリ変えるのが主観ということになる。
とすれば
>>57 の“私の現象”についての解説には疑問が残る。
「私が私として現象するとは、私がそれ自身である」との言表は“私の現象”を
述べたものではなかろう。むしろ“私の本質”規定といってよく、それ自身で
ある私は、最高位のいう『私』とほぼ同義である。
“現象としての私”は、むろん【私】の主観に現前し、そして「私という存在者」
に仕立てあげられる。しかし、他の存在者と同様に『私』には、本質(存在性)も
同一性もない。いわば偽・存在であり、主観(意識)の相関者でしかない。
ここに最高位のいう“私の存在性”を仮象とみなす端緒があるのでは?
このあたりは、あなたとの存在“観”の違いなのだろう。
67 :
考える名無しさん :2011/07/11(月) 10:58:05.26 0
>>46 >その区別と、「私」についての区別は、何か決定的に違うものがあるのかどうか?
元の『私』にとっては、コピーは他人。
この『私』は私の体に根差しており、いつの間にか他人の体にこの『私』が移動しているといった事態は考えられない。
意識が別の体にテレポーテーションして体が換わるというあり得ない事態。
だから元の『私』自身にはどうやっても区別は付く。が、それ以外の他人にはマーキングでもしていないと区別は付かない。
良く似た双子の判別が困難であるのと同じ事。
>つまり、ふと気がついたら、実は私はコピーのほうだった、ということは考えられるか?
コピーの方がそう思うという事は十二分に考えられる。元の『私』がそう思うとしたら、周囲が結託して騙した場合。
>逆に、元の私を残さずに分解して離れた場所にコピーを作ったら、どうなるか?
このコピーが上記のコピーと同じようなものならば、元の私は死亡・消滅し、離れた場所に別人が出来上がるというだけ。
だが、分解して即座にその分解物で復元したらどうなるのだろうか。離れた場所でならどうか。その場でならどうか。
1年後に復元した場合は元の『私』は消えてしまっているのか、復活するのか。
もし仮に1年後では消えてしまうとしても、1フェムト秒の間に分解・復元した場合はどうだろう。
他人には元の『私』まで復活したのかどうかは判別できはしない。
これを確認できるのは分解された本人だけだが、消滅した場合その事を世に伝達する術を失っている。
元の『私』が残っていても、別人としての『私』に代わっていても、どちらも「私は復活した!」と思う事だろう。
だから、復活した者の言い分を聞いても、分解した人間が元の『私』ごと復活しているという確信は持てない。
この人体の分解・復元をするごとに、どうなるか知る事が出来るのは本人一人のみ。
その度に元の『私』は死亡し、消滅している可能性もあるので、それが怖くなかったらどうぞいう感じだが、
『私』が体のどの部分に依存して発現しているのか、そこにあるどのような何が『私』を維持しているのかが判明したならば、
そのような時が訪れたなら、そこさえ壊さないようにすれば、あるいは断定できるようになるのかもしれない。
68 :
ゲーム :2011/07/11(月) 11:04:38.23 0
>>417 オリジナルについても疑義がありますが、いずれ。
たとえば「私である」は不在のオリジンだろうか。
それは主観による現象の意味(存在者を名辞したもの)ではないのか。
「コップである」「太陽である」と同様に。
>>36 神様って最高位のこと?w
最高位、来ないねー。
上段部分は五人が同時に出てこれるわけじゃなくて一人ずつだろうから、最高位の言う『私』は一つしかないだろね。
中段部分はその体に脳移植でもするなら別だけど、全体作っちゃったら別の人間ができあがっちゃうので最高位の言う『私』はコピーされないね。
>>65 中島さんて俺と同じこと言ってるんだ。なんて本?
>>67 どこからどう切り出すか、いろいろ考えられそうだけど、とりあえず勝手な仕方で
切り出させてもらうとして。
> >つまり、ふと気がついたら、実は私はコピーのほうだった、ということは考えられるか?
> コピーの方がそう思うという事は十二分に考えられる。元の『私』がそう思うとしたら、周囲が結託して騙した場合。
ここで考えてみたかったのは、「他人であるコピーがそう思った」でも「私が騙されて
そう思った(つまり実際は私はコピーではない)」でもなく、まさに、「なぜか
私がコピーだった」なんだけど、そういうことはあり得ないのかね?
なぜ、あり得ないのだろうかね?
「意識がテレポーテーションのように別の体に移ることはあり得ない」とあるけど、
もし、コピーが可能なら、(そして多少離れた場所にコピーされ、コピー前後の記憶が
ちゃんとあるなら)コピーにとっては実際にテレポーテーションみたいなことに
なってるんじゃないだろうか?「私は今までAだったはずなのに、なぜか離れたA′に
なってしまっている!」とでもいうような意識・記憶状態のはず。
> 『私』が体のどの部分に依存して発現しているのか、そこにあるどのような何が『私』を維持しているのかが判明したならば、
> そのような時が訪れたなら、そこさえ壊さないようにすれば、あるいは断定できるようになるのかもしれない。
すると、(もしそのような部分があるとすれば)結局、体のある一部分が「私」の維持に
必要だということだろうかね?
しかし、その部分も同じようにコピーされているはずだけど、それでも、私がコピーで
あることはあり得ないのだろうかね?
>>71 自己レス
このように書くと「お前は何を言いたいんだ」などと言われるかもしれないので、多少補足。
まず、「私がなぜかコピーだった」というのは、非常に不自然な想定なので、
そんなことはあり得ないという意見は当然あると思うけど、ただ、何がどういうわけで
あり得ないのかを考えてみたかったということなので、趣旨が分かりにくかったらご容赦ください。
そこで、テレポーテーションみたいなことはあり得ないという理由に対しては、
必ずしもそうは言えないのでは、というのを書いてみた。
いや、確かに、もし私が元のAであれば、「あっちにいるコピーA′は私ではない」
というのは自明のように思えるけど、これは、なんていうか、どのくらい使える理由なんだろうかね?
もし私がコピーだったとしても、「驚いたことに私はコピーA′のようであり、あっちにいる
あいつが元のAのようだが、しかし、それとは別に、私は(たとえコピーだろうが)A′であって、
あいつは(たとえ元のAだろうが)私ではない」というのも、やはり自明ではないだろうか?
>>71 ありえるかもしれないね。少なくとも、その推測を却下するだけの材料はない。
つか、最高位氏の問題点はまさにそこであって、「私が生じることはありえない」と言っているけれども、
その根拠は見出し得ていないわけさ。コピーの私がそこに生じている筈なのだから。
Aさんを完コピしてA´さんの肉体を作ったとします。おそらくそこにはA´としての私が生じていることでしょう。
(思考実験の条件上、肉体の完全コピーなわけですから。電池が入ってないとかガソリン切れとかでない限りねw)
さて、この時の、
≪オリジナルから見て、「あれは私じゃない!私はここにいる!」「あれは他人だ!」≫というのが、最高位氏の骨格なのです。
当たり前でしょう。
問題は、オリジナルがコピー誕生と同時に抹消される場合です。
もはや、A´という肉体と、そこに現象している意識活動しかないわけですが、
この時、≪オリジナルから見て、「あれは私じゃない!私はここ(A)にいる!」「あれは他人だ!」≫ の変換文として
≪【Aから見て】、「これは私じゃない!私はあそこ(A)にいる(いた)!」「これは他人だ!」≫と言い得るかどうかです。
或いは墨括弧が不自然ですのでさらに変えます。
≪【A´から見て】、「これは私じゃない!私はここ(A´)にいる!」「これは他人だ!」≫という言明が発生するかどうかです。
おそらく『否』でしょう。織田信長の例と同じく、文章はおそらくこうなります。
≪【今在る主観から見て】、「これ(私)は私だ!私はここ(A´)にいる!」「これ(私)は他人ではない!」≫ と。
おそらく、最高位氏の主張される『私』は、しっかりと保持され、その存在性を明確に主張するでしょう。
コピーとしての、《A´としての私》をね・・・。
ああ、しまったw 真ん中の文は 或いは墨括弧が不自然ですのでさらに変えます。 ≪【A´から見て】、「これは私じゃない!私はあそこ(A)にいる(いた)!」「これは他人だ!」≫という言明が発生するかどうかです。 だな。でないとおかしいw
>>67 >これを確認できるのは分解された本人だけだが
>この人体の分解・復元をするごとに、どうなるか知る事が出来るのは本人一人のみ。
これは違うと思います。基本的に「今の私が過去の私と同一であるかどうか」は、
私自身にも直接知ることはできません。そして、ここが肝心ですが、存在するのは
「今の私」だけであって、「過去の私」は今は存在しないので、何かを確認したり
知ったりすることはできないのです。
通常は、「自分は過去の特定の私と同一の私だ」と今考えている私は一人だけなので、
問題にはなりません。「コピー」や「分裂」の場合には、そう考える私が
(今)複数存在することになるので、何か深遠な問題を含むように錯覚しがちですが、
実際には物体のコピーや物体の分裂と全く同じことです。
コピーなら「過去の特定の私と同一の私」とみなされる今の私は一つだけですし
(ただしそうみなされる今の私にも自分がそれであることは直接はわかりません。
根拠は客観的な肉体の同一性に求めるしかありません。)、分裂なら複数存在することになります。
ここで「私は唯一なのだから、複数存在するのは矛盾だ」と考えがちなのですが、
それは単なる錯覚で、複数に分裂した以上それぞれが別個の私なのは当然です。
ただ、そのすべてが「元の私と同一の私」だと客観的にもみなされる、というだけです。
では「唯一の元の私」にとってはどうなのかというと、「元の私」は過去ですから
すでに存在しないわけで、「元の私」の視点を今考えることはナンセンスなのです。
「私は過去現在未来を通して唯一で、しかもそのことを直接認識し得る」かのように
錯覚することが、すべての混乱の元だと思われます。そう考えると、永井均のように
「私はなぜか現に分裂した複数のうちのただ一つである他はない」等と考えて、
思考の迷路に入ってしまうことになります。分裂してできた複数の私は全員そう考えて
いるわけで、別に何の問題もありません。
76 :
17-18 :2011/07/11(月) 22:06:00.65 0
>>28 >問いの主軸は、
>≪自己観察である以上、「遡及」が止まることはない。「主観」が消えることはない。≫
>≪それを「消えた、消せた」とするのは、愚かにも忘却しているか、故意に無視しているか、どちらかだ≫
>というものでしょう?
「遡及」ということはあまり問題ではなく、《私を見ている私》という構造において、
前者(【見られた私】)に焦点を当てて見ているのか、それとも後者(【見ている私】)に焦点を当てて見ているのか、ということが問題の主軸です。
最高位の思想はよく知りませんが、ざっと見てみると、【見られた私】のことではなく【見ている私】のことを言っているように見えます。
(例えば>682では、「最高位」は「客観」だが、「私」は「客観」ではない、と書いている。)
それに対してあなたは終始【見られた私】の話をしています。
(例えばあなたは「私」を「固有名詞」として捉えているようですが、「固有名詞」は【見ている私】ではありません。)
それでは話が噛み合わないのは当然でしょう…? というのが、私の言いたかったことです。
話が通じるためには、あなたの側からは、
《何故、【見ている私】を消去(解体)することができるのか?》
という問題を中心に書く必要があるように思われます。
今までのあなたのレスからは、その理由は読み取れません。
>>26 には、「追いかけても無駄だから」とありますが、【見ている私】の問題は、「無記」に対応する「形而上学」のようなものではなく、
むしろ、最も身近なこと、最もあたりまえの事柄、として考えられている問題だと思います。
(デカルトの「我思う」においても、あるいは日本では永井均をはじめとする現代の「私の哲学」においても。)
また、「縁起する諸法の相の観察から導かれる」という説明の仕方は、言い換えれば、
『私は【見ている私】に焦点を当てて考えていません』と言っているに過ぎないように思われ、
それではやはり、【見ている私】に焦点を当てて見ている人とは話が通じません。
《何故、【見ている私】を消去(解体)することができるのか?》
という点が、両者の接点になると思います。
77 :
17-18 :2011/07/11(月) 22:08:00.13 0
(続き)
なお、
>>21 を見て、「メタな視線」というのは、錯覚のようなものではないのか・・・と思いました。
自分自身を客観視する場合、我々はよく、自分自身を「外から」見る、というふうにイメージすると思います。
>>21 の「幽体離脱」も、それを表していると思います。
しかし、今ここにいる自分自身を「外から」見ることはできないのであって、実際は、自分自身を「対象化」して見ているのだと思います。
だから、『自分自身を「外から」見ている』というよりは、『自分自身を「外に出して」見ている』と言ったほうが近いだろうと思います。
より正確には、『自分自身を「外に出して」対象化し、その対象化された自分を「外から」見ている』ということでしょう。
その場合、自分自身を対象化して【見ている私】は、幽体離脱して今ここにいる自分の外に出ているわけではなくて、
やはり、「今ここ」にあります。
>986に書いた例でいえば、今自分がいる位置を、北緯…度、東経…度、として表す場合、
地図(地球儀)上に「私」を置き、「私」を対象化して、その対象化された「私」を地図(地球儀)の「外から」見ているのは、
「今ここ」にいる「私」です。
仏教においても、【見られた私】と【見ている私】とのそれぞれに焦点を当てた見方があるはずです。
だから、仏教的に見ればあなたのような見方になる、というわけではないと思います。
例えば、仏教で言われる「即今当処」とは、まさに、「今ここ」のことです。
78 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/11(月) 22:38:36.58 0
417さん
>>32 >キミの場合、「我あり」の「我」は、魂っぽい何かなの。
何故ですかな
魂ぽい何か である という可能性は否定できない が
そのほかの可能性が無い とは言えない
その可能性を否定できる理屈がない
要するに「わからない」のだから、その辺の事に結論づける事はできない
というふうに私は思っているのだが
キミは、どういう理屈で結論づけているのですか?
>>64 私は、そんな事は言っていないのだが?
79 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/11(月) 22:43:32.85 0
417さん キミも「我あり」である と言う そして「全一性」である と言う という事は、『独我論』なの?
鏡を見れば認識できます
私とは自意識の中で現れてくる仮想の観念である。 見ているときは見ているだけで、「見ている私」は意識に現れない。 よって、「見ている私」など存在しない。
「私」とは妄想観念である、と理解できれば 「私」など謎でも何でもないということが分かるし、 「私」を特別扱いする気にもならない。 最高位の思想は「私」を特別視する独我論思想で、 病気の思想である。
鏡を見れば認識できるのは何か? 自分が他人を見ているように 自分も他人に見られているということ?
84 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/07/12(火) 00:12:29.73 0
だれも「私」意識から逃れることはできない。それは自分が個であるからだ。「私」の周りを巡って、「我々」や「あの人」 といった観念が生じる。それを否定する物として、時間や他者理解が存在する。「私」がいろいろな形を取って、 存在的観念が生じる。
それは脳が作った意識だけどね。 順番として、まず脳が意識を生み出し、そして次に自意識(私という観念)が生まれる。
86 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 02:35:10.13 0
>>82 >「私」とは妄想観念である、と理解できれば
妄想 というのは、妄想している人がいるわけで
自分が存在しなければ、自分は妄想を抱けない
「我思う故に我あり」ですよ
極めて基本的な事です
>>86 脳内に誰もいませんよ
いる必要がないし
いたらおかしい
勉強が忙しくなって2ちゃんに来れなかったのですが、3.11から怖くて眠れなくなり災害板に常駐するようになり、 ついついここも覗いて戻って来てしまいました(泣笑 みんなよく御無事で。懐かしい。
最高位さんは相変わらず病気が直っていないようで。 病気だから無事とは言わないか(笑
90 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 03:01:44.06 0
>>87 脳内には、いない感じですよね
しかし「我思う故に我あり」は否定できないのでは?
>>89 私は基本的な事を積み上げているだけですよ
キミらこそトンデモ(苦笑
自我というものがあるかどうかという問いには、 あなたが有ると判断すればある、と答えられる。 なぜならば、自我があることを観測することは出来るのは、その自我だけであるからだ。
92 :
87 :2011/07/12(火) 03:07:10.65 0
>>90 「思惟の存在を疑えない」以上の内容は成立していませんよ
「疑えない」ことは「存在する」ことを意味しない
自我があることを否定したくても、他人に自我が無いことを観測することは出来ない。 逆もまたしかりである。
94 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 03:50:10.36 0
>>92 キミは何が疑えないと思っているのかね?
一般常識としては「我あり」
我が存在する事 が、疑えないわけだが?
>>94 なんで一般常識の話になっているの?
一般常識でいうなら、物質世界が存在しているのだって疑えない。
哲学的疑問なら、我が存在するかどうかはわからない。
96 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 07:57:39.69 0
>>95 もちろん哲学的な一般常識な
「我思う故に我あり」は、疑いえない
「疑いうる」または「我はいない」とする為には
それなりの理屈というものが必要
>>96 他の人も書いているが、それは存在することを意味しないんだよ。
疑えないというのも君が勝手にそう思っているだけであって、疑えるんだよ。
98 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 08:19:48.14 0
遺伝子の運び屋としての肉体
101 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 09:59:12.24 0
103 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 10:08:16.10 0
104 :
ゲーム :2011/07/12(火) 10:14:03.37 0
>>76 コピーの話にはうんざりさせられるけれども、それはともかく…
「みている私」と「みられる私」に整理したものの、どちらの「私」も解体
されていない。なぜか。「いま、ここ」が“実在”化されているからである。
「いま、ここ」は、時空の凍結を意味しており、空想上の“表現”である。
「いま」も「ここ」もみることは不可能だし、指さすこともできまい。
この仮空の「いま・ここ」を実在化し、そこに“私”を載せ、いま・ここ
だけでなく、ついでに“私”までも実在化してしまっている…。
これでは、最高位の術中から逃れられまい。w
「いま、ここ」を実在するかのごとく仮想することが、迷妄の根本である
“それ自体”という観念を生みだす契機となる。ここから神や幽霊などと
同列の「私」が仮象されるのである。w
>>103 疑うことは普通誰にもできるが、君にはできないのかもね。
106 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 10:22:25.90 0
>>105 疑ってみる事は出来るが
それは自分が疑っているんだから、自分が疑っている事は疑えないだろ
107 :
ゲーム :2011/07/12(火) 10:27:07.23 0
>>85 そのようにベタに突っ込むのなら、徹底しなければ…
では、脳は何がつくったの?
脳は物体の一種とされているけれども、その脳の構造と機能を、そのように
あらしめたのは何? どこまでも遡行するのが理性です。w
>>106 疑えるよ。
疑うことは、肯定を意味するわけでもなく、否定を意味するわけでもない。
また、疑えることや疑えないことが、存在や非存在を意味するわけでもない。
109 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 10:29:18.87 0
>>108 と考えてるのはキミじゃないの?
キミは、居ないのに考えれるわけか?
器用だな(苦笑
>>109 疑えるかどうかというのは、いるか、いないかによらない。
君がいなくても、いても、その存在は疑える。
疑えないものはない。
111 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 10:38:19.62 0
>>110 キミは疑えるんだろ?
キミはいないのに、どうやって疑ってるの?
>>111 いるか、いないか、に関係なく疑える。
例えば、「我あり」って表示するプログラムがあったら、君はそこに自我があると認めるわけ?
113 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 10:50:29.07 0
>>112 はぁ?
他人の話じゃないぞ
「我思う我あり」って、どういう意味か学校で習った事ないんか??
>>111 バカだな。110がいなくたって他の人がいれば疑えるだろ。
「われ思う。故にわれあり」であって「君は疑う。故に君あり」ではない。
115 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 11:12:06.33 0
>>114 「我思う故に我あり」だろ?と彼に言ってるだけだが?
>>113 >はぁ?
>他人の話じゃないぞ
もちろんわかっている。君に問題点をわかりやすく説明するために、まず聞いているのだ。
例えば、「我あり」って表示するプログラムがあったら、君はそこに自我があると認めるわけ?
117 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 11:21:28.07 0
>>116 >例えば、「我あり」って表示するプログラムがあったら、君はそこに自我があると認めるわけ?
それは具体的には何?
>>104 :ゲーム
>この仮空の「いま・ここ」を実在化し、そこに“私”を載せ、いま・ここ
>だけでなく、ついでに“私”までも実在化してしまっている…。
それは、読み手の側の問題(誤読)です。
どのような書き方をしても、読む人が、それを実在化、対象化して読んでしまえば、
「今ここ」も「私」も、【見られたもの】になります。
その時、【見ている私】は【見られた私】になってしまうので、その場合は、
そこに新たな【見ている私】が生じていることになり、
>>17 のような「無限遡及」が生じてしまいます。
そのようにして対象化された「今ここ」は、>986で書いた、案内板の中の「現在地」のようなものです。
「対象化」しないで《読む》ことが出来るかどうか、それがこういう問題を理解する一つのポイントになると思います。
これは、人によっては、非常に難しいことなのかもしれません。
このことは、「無」について考えたり書いたりすることに似ています。
「何か」について考えるということ、そして「何か」について書くことは、その「何か」を、或る意味では対象化することであるので、
その書かれた「何か」を、「何ものでもないもの」(つまり「無」)として《読む》ことができるかどうか…
(「何か」として、思惟の「対象」になってしまったら、それはもはや「無」ではない…)
ハイデガーの言う、「存在」を「存在」として思惟することの難しさも、同じような難しさですね。
整理すると、 最高位にとっては疑うって行為を行うために、自我が不可欠であるという風に「疑う」という単語の意味を規定している。 116は疑うという行為に自我は不要だという前提で話してる。 二人は同じ疑うって単語は使っているけど、 実際には違う意味のものについて話してるんだから、 そりゃお互いの話が通じないわけだよ
「我思う故に我あり」は、ただそれだけのことでしかなく、そこからの広がりを持たない。 「我思う故に我あり」は、「他者の身体あり、故に他者の自我あり」を担保するわけではないし、否定もしない。 「肉体が生じたところに自我が生じる」ことを保障もできなければ否定もできない。 思考実験の推論として「肉体の復元をしたとして、そこに自我が生じるか生じないか」のどちらをも担保しない。 ただただ、「私はある」だけだ。 つまり、唯物論的な自我の発生過程を否定する論拠とはならない。 他者にも「私」が生じるであろうことの方が、より蓋然性の高い推論なわけだ。 そこで、最高位絡みのポイントは唯一点、 「私はココにあって、アソコにはない」ということだけだ。そして、上のデカルトと同じく、 この文言も、何も担保しないし、何も否定しない。 「アソコにあるのはアソコの私」であり、「ココにあるから、“この”私なのであって」 「アソコにあれば、【アソコにある者として】(→それは既に「ココ」と化しているわけだがw)、 《“この”私》と彼は宣言することだろう」 何も証明しないし、何も否定しない。 ただ、壊れたレコードの如く「私は思考してある」をリフレインするだけだ。 ヒトが、受精と細胞分裂により誕生成長することを受け入れるなら、 まさに、そこで肉体が形成され、神経系により知覚が形成整備され、感受と対応がされていくなら、 「私はある」のリフレインは、プログラムされた人格ソフトと根本的に差異はない。 精密さが違うだけだ。
プログラムされた人格ソフトとか まったくおめでたいな君らは
122 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 11:56:55.83 0
>>116 はただの馬鹿
相手にする必要ないよ最高位
>>117 printf("我思う、ゆえに我あり。");
ってプログラムをPC上で実行して
我思う、ゆえに我あり。
と表示された場合。
125 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 12:27:57.84 0
>>123 それはただ標準関数使って出力させただけだろ
お前ホントバカだな
もう出てくんな
最高位(『私』)は自演が得意です
>>125 >それはただ標準関数使って出力させただけだろ
そうですよ。
これに最高位がどう答えるかが問題なの。
最高位に問題点をわかりやすく説明するために、
まず聞いて、その答えによって次のステップがある。
以下、最高位氏への質問。
例えば、「我あり」って表示するプログラムがあったら、君はそこに自我があると認めるわけ?
128 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 13:00:15.42 0
>>127 もし最高位が本物で以前と同じネット環境ならあいつは8回書き込んだらしばらく書き込めないんだよ
だからいちいち答えの分かりきったくだらん質問しないでさっさと説明しろ
お前にその能力があればの話だが
129 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 13:02:39.02 0
(続き) それに最高位は他人のことについて言っているんじゃなくてお前自身のことを聞いているんだぞ お前が私の存在を疑いえるのかと聞いている 他人の自我を認めるとかそういう問題ではない お前がお前自身について聞いてなんと答えるかだ お前がなんと答えようが、最高位はお前に「私」があるとは確信しない それとは全く別の話なんだ
おや、最高位とは別の人があらわれたか。 さてかれは凡夫を導くことができるだろうか。
答えたあとに次のステップが待ってるんだって 最高位氏気をつけて!
>>129 そんなこと聞いてどうするの?
君と何が関係あるの?
最高位がお前にそう聞いているって意味だろww
暗黒時代だな
認めるも認めないも、この話題って中国語の部屋以上に発展しないのが 最初からわかり切ってる感じがするんだが……
また、こんな記述もあるな。 >一方、知能の基準となっている【人間の場合でさえ】、脳内の化学物質や電気信号の完全な解析が行われず、 >知能の【仕組みが明らかになっていない】のだから、中国語の部屋も、【中身がどうであれ】 >【正しく中国語のやり取りができている時点で】中国語を理解していると判断してよいのでは >という、チューリング・テストの観点からの反論も存在する。
「私」って言うと『私』って言う。 「バカ」って言うと「キミはバカかね?」って言う。 「最高位でしょうか?」「いいえ誰でも」
>>128 >もし最高位が本物で以前と同じネット環境ならあいつは8回書き込んだらしばらく書き込めないんだよ
荒らしていないなら、そんな制限はありません。
>>129 そういう話でもないので。君が最高位でないなら、君と話しても無駄。
>>139 連投規制を知らんのかwww
恐れ入ったわw
>>140 知っているよ。荒らしていないなら、そんな規制には引っかからないから。
142 :
ゲーム :2011/07/12(火) 15:11:53.93 0
>>118 論旨がよくわからない。(苦笑)
【みている私】は“実在する”のですか、しないのですか。私は「しない」と
いっています。
「みている」のは常に“いま、ここ”からであり、この“いま、ここ”を捨象
すれば、無数の「みられる私」との差別化ができなくなるからだ。
“いま・ここ”によって【みている私】は定立されている、といってもよい。
しかし“いま、ここ”は前述のように(たぶん)だれにも経験できない仮象。
仮象のうえに据え置かれた【みている私】は神や仏や魂と同じく、理性が
つくりだした幻想ではないか、というのが前レスの主旨。
普通は短時間には8回しか書けない この板でその制限がないのはラビぐらい
145 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 15:20:12.85 0
ラビがきているようだね。 この暑さの不快さを、ラビの不快さによって打ち消したい、 すなわち、毒をもって毒を制したいとでもおもっているのなら、 お相手してあげなさい。
次から次と変なキャラが出てくるが、みんな最高位の自演なんじゃないの。
自演ができるのもラビだけ
148 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 16:00:47.95 0
ラビは自演しそこねて、大恥をかいたことがあった。 しばらく、自粛を余儀なくされていた。
ラビは自演していない。トリップバレして使われただけ。
あったなw
>>148 「ハンニの仕業です」とか見苦しかったな
ハンニっていたなあ。所沢の人らしいな。
>>142 :ゲーム
>論旨がよくわからない。(苦笑)
>>118 の主旨は、(
>>104 であなたがそれを「対象化」しているように思われたので…)
【見ている私】も【今ここ】も、(「無」と同じように)、「対象化」することのできないものだ、ということです。
おそらく、あなたは「対象化」ということが分からないらしく、
>>142 も全体として全然別のことが書かれています。
(【見ている私】も【今ここ】も、「定立」したり「捨象」したりすることのできないものだと思われます。「定立」(措定)は「対象化」とほぼ同意でしょう。)
「無」を対象化することができないことは、さほど分かりにくいことではないように思われますが…
ハイデガーは「対象化する」ことを、別の言い方では、「表象する(vorstellen)」とも言います。
「表象する(vorstellen)」ことは、「前に・立てる(vor・stellen)」ことです。
「無」が対象化され、前に立てられれば、それは「何かあるもの」(something)になり、「無」(nothing)ではなくなる(【見られたもの】になる)。
それと同じように、【見ている私】【今ここ】が対象化されれば、それは【見られたもの】になり、【見ている私】【今ここ】ではなくなる。
《対象化できない》ということは、【今ここ】の【私】の問題の核心に関わる事柄だと思われます。
永井均の<私>の場合も、彼は、「対象化」できないことを示すための記号として< >の記号を用いていると言っています。
大橋良介が学生だった頃の、ハイデガーとの対話について書かれた興味深い文章があります。
www.shujitsu.ac.jp/shigaku/hf/data08/ohashi_r.pdf
大橋良介 「ハイデッガー先生、あなたの思索は、問いに始まって、問いに終わります。先生の思索において、〈答え〉はどこで与えられるでしょうか」
ハイデガー「答えとは、どういうものかね」
大橋良介 「答えとは、ええ、つまり、〈今〉〈ここ〉で問いが解決される場です」
ハイデガー「〈今〉とは、どういうときかね?〈ここ〉とは、どこのことかね?」
そしてハイデガーは、「ここか?」「そこか?」と天井を指さし、床を指さし、左右をぐるっと見回した・・・
>>136 もともとのサールさんがどういう意味で言ってたかはわからんなあ。不勉強なもので。
137については、正しいと思う。中国語の部屋はチューリングテストをパスする。
つまり、チューリングテストを判定として採用した場合、部屋は知能を持っていることになる。
155 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 19:07:39.71 0
>>120 キミは本当に前時代的だね
まさかとは思うが、団塊の世代の人ですか?
>「アソコにあるのはアソコの私」であり、「ココにあるから、“この”私なのであって」
何度も言うが、それは結果論であって、単なる結果報告にすぎない
そもそも、問題が理解できていないんだよ
「『あり』だとされる『私』の正体は何なのか」ですよ
私の原因性について です
それを、ココだからコノ私 なんていう結果報告をされても、何の答えにもなってないわな
>ただ、壊れたレコードの如く「私は思考してある」をリフレインするだけだ。
レコードというのは、単にそういう音が出る仕組みの「構造」なんだよ
人間(私)には主観性というものがあり、観念的な価値観によって意味のある言葉を話す
そして、いかなる物質的な構造によっても『私』を還元する事はできない
根本的に種類が違うんだよ
>>122 もちろん、わかってるけど(笑
>>123 PCに自我なんてないだろ
てか、「我思う故に我あり」って、我の事であって他の事はわからんぞ(苦笑
キミは、そういう基礎的な事がわかってないから、おかしな方向へ行くんだよ
>>155 相変わらずお馬鹿さんですね・・・w
>それを、ココだからコノ私 なんていう結果報告をされても
その通りです。
というか、それしかないからです。
《「コノ」が「ココ」にくる、「ココ」と不可分のセットである》ことは、論理的必然であり、定義であり、
それ以外にどのようなケースもあり得ないからです。
なぜ解らないのかなぁ・・・w
貴方にとって、「 >私の原因性 」=《「コノ」が「ココ」にくる》原因性 なわけですが、
それは、上に記したように、定義であり、論理的必然なんです。
織田信長やA´の話をしましたでしょう?(読んでないのかもしれませんがw)
貴方が求めるような原因ではなく、論理上の帰結なのです。
(少なくとも感嘆子は一貫して、そう指摘していた筈だ。)
>何の答えにもなってない どころか、それしか答えはないのです。
>>155 >PCに自我なんてないだろ
>てか、「我思う故に我あり」って、我の事であって他の事はわからんぞ(苦笑
この二行が激しく矛盾してないか。
一行目で、PCの自我を否定しておきながら
二行目では我以外の自我についてはその有無を判定出来ないと主張している。
二行目が真であれば、PCに自我があるかどうかは
PCではない自分には判断出来ない、という結論になるはずだ。
158 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 21:18:36.67 0
>>156 >>何の答えにもなってない どころか、それしか答えはないのです。
キミは問題を理解できてないだけだよ
私は、いかなる原因性によって存在するに至っているのか です
>>157 これは別に矛盾していないよ
PCは決まった目的を実行するだけのシステムだからね
文字が出てくるだけでは、自我のシステムとは関係がない
>>158 なぜ自我についての哲学の話で、
「決まった目的を実行するだけのシステム」
「文字が出てくるだけのシステム」
に『自我が無い』と言い切れるんだい?
直感に頼ってそれらに自我が無いと言うのであれば、君は
全く逆のパターン(直感的には自我を持っている)の哲学的ゾンビについても
同じ直感で『自我はある』と言い切れるのかい?
160 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 21:58:35.23 0
>>159 直感に頼っているんじゃないよ
論理的な話
自我のシステムが解明されていないのに
どうやってPCに自我を付与するのかね?
というか
キミは話をすり替えようとしてるけど
自分自身に自我がない可能性がある と考えるに至った論理的根拠を教えてもらいたいんだけどな
>>160 自我のシステムが解明されていないからこそ、
石ころやHallo.World.に自我が有ることも無いことも
論理的には求められないんじゃないか。
「A」のシステム解明されていない
↓
「A」を持っていなさそうに見えるものに、「A」は付与されていない
……というのが、あなたにとっての論理的な話なのかい?
>キミは話をすり替えようとしてるけど
>自分自身に自我がない可能性がある と考えるに至った論理的根拠を教えてもらいたいんだけどな
残念。私の本日のレスは
>>154 ,
>>157 ,
>>159 だけであり、私は
>>123 とは別人なんだよ。
私は単純に
>>155 に対して「PCに自我がないと言い切ることの不適切さ」を
話しているだけさ。
# あなたこそ、返答に困って話題をすりかえようとしていないかい?
# 次のレスが話題逸らしでなく、「PCに自我がない」ことに対するもので
# あることを願っておくよ。
いや……、ごめん。なんかけんか腰すぎた。 自分の主張そのものは撤回とかしないけど、変にけんか吹っかける感じになったことに対しては謝るわ。 久しぶりの哲学板書き込みでテンションあがってんのかな
>>155 >てか、「我思う故に我あり」って、我の事であって他の事はわからんぞ(苦笑
PCに自我がないかどうかは「わからない」が正解ではないのですか?
何を根拠に自我がないと判断されるのでしょうか。
>>158 >PCは決まった目的を実行するだけのシステムだからね
人間も物理法則に従って、動いているだけのシステムですけど。
>>160 >自我のシステムが解明されていないのに
解明されていないなら「ない」ことも言えないはずですよね?
どこにあることも知らないのに、なんでないことが言えるんですか?
>>160 >自我のシステムが解明されていないのに
>どうやってPCに自我を付与するのかね?
自我のシステムが解明されていないんだったら、
どうやって他人に自我を付与するのかね?w
167 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 23:40:04.63 0
>>161 はいはい
石ころにも砂にも
リカちゃん人形にも、リカちゃん人形に付いてる汚れにも自我はあるかも知れないね
んで、何?
厳密的には、私は無いと言い切ってはいないよ?
「PCに自我なんてないだろ」 と言ったわけで
自我なんて無いとするのが論理的にも妥当だと言ったわけ
そんなこと言い出したら、ゴミも捨てられないし、トイレでウンコも流せないし
風呂で垢も流せないよ(笑
>>162 キミは誰?(苦笑
正直、名無しで話しかけられるとホント困る
168 :
考える名無しさん :2011/07/12(火) 23:44:28.54 0
そうそう都合でいいのさ。
>>167 >自我なんて無いとするのが論理的にも妥当だと言ったわけ
論理的な根拠なんてありませんが。
>そんなこと言い出したら、ゴミも捨てられないし、トイレでウンコも流せないし
>風呂で垢も流せないよ(笑
別に捨てれるでしょ。
虫に自我があっても殺したり、捨てたりするではないですか。
仮に論理的な根拠があるとしたら、人間とPCの「物理的なシステム」の違い 以外にありようがないと思うが。 しかし、それだともろに唯物論だが…
171 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 23:51:41.69 0
>>169 >虫に自我があっても殺したり、捨てたりするではないですか。
私は虫を殺すのにも、多少の良心の呵責を感じるがね
172 :
ゲーム :2011/07/12(火) 23:55:09.83 0
>>153 質問をはぐらかしている。
“対象化”できるかどうかを訊いているのではない。
現前しないものも、いいかえると直截的には経験できない、架空の存在に
ついても“対象化”することはできる。神も仏も無も、魂も、いま・ここも、
幽霊も、それらの概念があるのは、それらを“対象化”したことがあるから
だろう。(君は対象化という言葉を、どのような意味で使っているのかな?)
もう一度、繰り返すが、私の質問はこうだ。
「みている(対象化する)主体、というと語弊があるので、主語(一応【私】と
称されているそれ)は実在するのか、否か」
何かをみている(対象化している)さなか、それを対象化することは不可能、
というのは常識。
そこではなく、それが「実在するかどうか」を訊いているのである。
それについて、思惟(の対象に)することはできるからだ。
この答えを、まだ聞かされていない。これは「私の存在性」を問う、スレの
主旨に沿うはずである。答えられないのならスルーしてください。
173 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/12(火) 23:56:03.46 0
>>170 しかし、いかなるシステムを用いても
いや
何をどうやっても『私という主観性である存在性』を作れる理屈がないのですよ
>>173 だって、あんた虫にも自我があると思っているんでしょ。
虫なんて何千億と数え切れないくらい作られているよ?
176 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 00:11:42.64 0
>>174 いや、物は「物理状態」だから、同じ状態は作れます
「それ」と思っているのは「人間の観念的価値観」です
>>175 わからんけど
人間がシステムを理解してない事には変わりない
生物というものと、単に人間が作ったシステムとを一緒くたには出来ないよ
177 :
ん? :2011/07/13(水) 00:16:44.51 0
私にとっては「同じ状態」に思えるってだけのことで 誰にとっても「同じ状態」など想像もつかない
178 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 00:17:56.10 0
>>71 >コピーにとっては実際にテレポーテーションみたいなことになってるんじゃないだろうか?
>「私は今までAだったはずなのに、なぜか離れたA′になってしまっている!」とでもいうような意識・記憶状態のはず。
そりゃ、なってるでしょう。「コピーにとっては」ですからね。ただし、コピー元にそれは起こりません。
>ふと気がついたら、実は私はコピーのほうだった、ということは考えられるか?
の、「私」はコピー元の『私』の事を指していると考えればこそですよ。
コピーの私にそのような事態があり得るかどうかだったら、当然あり得ますよ。
>>72 >もし私がコピーだったとしても、「驚いたことに私はコピーA′のようであり、あっちにいるあいつが元のAのようだが、
>しかし、それとは別に、私は(たとえコピーだろうが)A′であって、あいつは(たとえ元のAだろうが)私ではない」というのも、やはり自明ではないだろうか?
自明ですよ。ただ、コピー元とコピー先の『私』は同じものではないという事であって、AをコピーしたらA本人にはならずにA'という別人ができるという事ですよ。
お互い、どちらから見ても別人です。コピー元のAには『Aの私』、コピーされた他人であるA'には『A'の私』が発生しているという事です。
>>75 「今の私」が消えてしまうかどうかという話です。
>では「唯一の元の私」にとってはどうなのかというと、「元の私」は過去ですから
>すでに存在しないわけで、「元の私」の視点を今考えることはナンセンスなのです。
唯一の元の私にとっての「今の私」が消えてしまうか継続されるかという話です。
すでに存在していないわけではなく、存在し続けている「唯一の元の私」の「今の私」から見てどうなるのかという事です。
その「今の私」が一旦消滅してしまうならば、復元されたものは『他人』の「今の私」になっているかどうか。
>>176 理解していなくたって、虫のシステムがあって自我があるんでしょ。
「いかなるシステムを用いても自我を作れる理屈がない」なんて、
言えるわけないじゃない。
あんた、馬鹿なのw
180 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 00:20:52.59 0
>>179 主観性について、自分をサンプルに分析すれば
結論として
「私という主観性である存在性」は、いかなる方法でも作れる理屈がないんよ
>>176 >いや、物は「物理状態」だから、同じ状態は作れます
作れません。この石は、この石であって、別の石ではないのです。
同じものは作れません。
182 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 00:23:02.14 0
>>176 同じ状態は作れても、同じものは二つとして無いよ。『私』と同じくね。
「同じ」と思っているのは「人間の観念的価値観」です。
>>180 だって、あんたはPCには自我がないけど虫にはあると思っているんでしょ。
PCを作っても自我は作れないけど、虫を作れれば自我は作れるということでしょ。
いかなる方法でも虫を作れる理屈がない、って、何でそんなことが言えるの。
あんた、本物の馬鹿なのw
184 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 00:39:03.53 0
>>182 >同じ状態は作れても
同じ状態であれば
『私』の原因性は、その状態によるものではない
という結論しかないだろ
>>183 虫を作る って、どうやって?
>>182 そこなんだよねぇ・・w
何度言っても何を言っても理解できない。
厳密な「同じ」がありえない―『この○○』が唯一で、その成立条件もまた唯一つであること―は、
○○が「私」であっても「主観性」であっても「石ころ」でも「馬」でも「猫」でも「トンボ」でも「チューリップ」でも変わらない。
逆に、非常に緩いレベルの「同じ」であるなら、それは「普通名詞」がカテゴリー内部の存在を括って表現されているが如く、
人類全てに於いて【同じように】、【同じ「私」】が
『私はここにいる!こうして思考している!』『私が存在しているのはなぜだ?』『なぜ、△△さんでなく私だったのか?』
と考えるかもしれません。
少なくとも、そうした緩い括り無しには、文明の発展も無かったでしょう。
絵画にしろ産業にしろ医療にしろ商業にしろサービス業にしろ『同じ』ことですw
>>184 どうやってって、普通に繁殖させてもいいし、細胞から培養することも
できるかもしれないし、何なら分子を一個一個組み合わせることだって
絶対不可能とはいえないし、どうやったっていいじゃない。
結果的に虫ができあがればそれでいいんでしょ。
「いかなる方法でも作れる理屈がない」って、何を根拠にそんなことが
言えるわけ?
>>182 ほらね・・・w
>>184 唯物論を否したいが故に、
【物理的事象には「緩い基準」を用いて】、《『同じ物』は作り得る(生じさせ得る)》《『同じ条件』を整えれば『同じ現象』が起こる》
と言うくせに、
【「私」という事象、(現象、精神活動)には「厳しい基準」を用いて】、
《『同じ私』は作り得ない(生じさせ得ない)》《『同じ条件』を整えても、『同じ現象』は起きない》 とする。
もうアボガドバナナ。 ノシ
同じ名前のものでも、存在している個々の時間と場所が違うと 最高位さんは何で理解できないのだろうか。
189 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 00:58:22.06 0
厳密に考えれば、 「同じ物理的状態の再現」などあり得んことくらい解りそうなものだ。
190 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 01:09:17.61 0
万物流転という古くからの唯物論的思想あり。 すべての物は変化しつつあり、相互作用し、 連鎖してしまうので、世界の物理的状態はつねに変化している。 「同じ物理的状態が再現されることはない」のである。
>>167 あー、ほっとする
やっぱ2chはオメーみたいなクソがいい
スゲエ煽りやすいからw
最高位のことは哲学モドキの勘違いをネタとして書いている釣り師だと思っていたが、 本物の精神病ではないかと疑うようになってきた。
193 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 07:16:43.29 0
>>185 キミの言わんとする事は、わかるんだが、そういう『自我一般』という観点からでは
現代哲学的な問題意識は理解できないままになってしまいます
落ち着いて、ゆっくり読んで下さい
まず
この思考実験の意味と目的を考えて下さい
それが大事なわけですよ
それを見失うと、どんどん脱線して的外れな所に行っちゃうわけです
たとえば水は、一定の気圧の中では一定の温度で沸騰する
同じ条件下では、同じ現象が起こるわけですよ
同じ現象が起こらないとするならば
それは、それに影響を与える何らかの条件が異なる と考えられるわけです
では、ここで思考実験として
「全く同じ条件にしたら」 という『前提』で考えればどうなるか
といえば、それは同じ条件なんだから同じ結果が出る以外にはない となるわけです
(これは世界は決まった物理現象が決まったように現象しているだけ という
唯物論を根拠とした決定論の主張の元になる物理的な前提)
物理現象が「気まぐれ」だと、とても宇宙になんかロケットを飛ばせないわけです
で、話を戻しますが
唯物論では、「人間の精神性も全ては物質による物理現象である」としています
条件が同じなら、同じ結果になる と主張するわけです
キミも「自我一般」が生じるだろうからオールOKじゃん と主張するわけでしょ?
(厳密的には、物理的条件が揃っても、そこに自我が生じるか、動き出すかどうかも不明だが)
しかし『自分本人』にとっては一大事なわけです
で結局
『私という主観性』『私自身』を物理的要素に還元する事ができないのは、依然として明確な結論として残るわけです
そこでキミ達は、それは「石ころ」だって何だって同じですよ と言うが
しかし前記の
『私という主観性』『私自身』を物理的要素に還元する事ができないのは、依然として明確な結論として残るわけです
(「石ころ」その他の客観は、本来は境目なく繋がっている物理世界における物理的な状態に対して
価値観によって切り取って「石ころ」と呼んでいるにすぎない便宜上での認識なのだが)
>同じ条件下では、同じ現象が起こるわけですよ だから、違う場所で同じ(似た)現象が起きてるんでしょ。 最高位のいる場所で起きてるのは最高位、違う場所で起きているのは他人。
195 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 07:46:06.81 0
>>183 >いかなる方法でも虫を作れる理屈がない、って、何でそんなことが言えるの。
これは、いつ言いましたかな?
>>186 >どうやってって、普通に繁殖させてもいいし、細胞から培養することも
>できるかもしれないし、
それは生物自身での繁殖であって、それを助けているにすぎないね
>何なら分子を一個一個組み合わせることだって 絶対不可能とはいえないし、
それでも実際のところは、自我が生じるかどうかは、わかりませんね
そもそも私は虫の話などしていません
私が言っているのは
「何をどうやっても『私という主観性である存在性』を作れる理屈がないのですよ」です
>>188 理解していますよ
>>193 参照
>>189 >>193 参照
>>190 あくまでも思考実験における「前提」の話です
>>193 参照
>>191 まぁ煽るだけで論破は出来てないけどな(笑
>>192 知能の次元が違うと、そういう勘違いが起こるのかな?
まぁ前時代的な思考回路を基準とすれば、キミらの方がマトモなのかも知れんが(笑
196 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/13(水) 08:02:15.50 0
>>194 >違う場所で同じ(似た)現象が起きてるんでしょ。
いやいや、似ているんじゃなくて
違う場所で同じ現象が起きる
>最高位のいる場所で起きてるのは最高位、違う場所で起きているのは他人。
だから
体の、いかなる物質的要素で、外ならぬ『私』という存在が発生しているのか という問題
もうちょっと
>>193 を、ゆっくり読んで、理解してからレスくれないかな
197 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 08:29:12.44 0
何をどうやっても同じ物理的状態を作ることはあり得ん。 すでに変化しつつあるのに、作ろうとして動けばなおさら物理状態は変化する。
198 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 08:51:50.45 0
最高位というコテをつけた人間は、そいつの肉体という物質的要素で現象しているだけだ。
>>193 >(厳密的には、物理的条件が揃っても、そこに自我が生じるか、動き出すかどうかも不明だが)
コピー人間て人間と全く同じなんでしょ?物理条件が全く同じなんだからw
じゃあ、意識を持ってるに決まってるでしょ。
人間と全く同じなのだから、人間でしょ。だって人間と全く同じなのだからw
だから、その人間(コピー人間)に意識が生じないわけないじゃないのw
キミの書くものは何もかもばかばかしい。キミの意見は全て唯物論そのものだし。
>>196 >いかなる物質的要素で、外ならぬ『私』という存在が発生しているのか という問題
「私」という現象は、私を構成する物質がそれを「私」だと思うといういこと
だから化学的な意味で同じ構成の物質を作っても、それは私の「私」にはならない
彼は自分を構成する物質を「私」だと思うからである
>>172 :ゲーム
>“対象化”できるかどうかを訊いているのではない。
《対象化できない》ということがこの問題の核心にあるのに、あなたがそのことを理解せずにレスをするので、
私は、対話を可能にするためにどうしても必要な事として、《対象化できない》ことについて説明しています。
そこを省略してあなたの質問に答えても、対話が成り立たないと思われるので。
>神も仏も無も、魂も、いま・ここも、
>幽霊も、それらの概念があるのは、それらを“対象化”したことがあるから
>だろう。
「無」を対象化すれば、それは「何かあるもの(something)」として表象されるので、それはもはや(本来の)「無」ではなくなる、ということです。
つまりその時、「無」という言葉を使っていても、その「無」は、実際には、「何かあるもの」(つまり「有」)として思惟されているのだ、ということです。
>君は対象化という言葉を、どのような意味で使っているのかな?
>>17 で使っていた《『客観』視》とほぼ同じ意味です。
「対象(Gegenstand)」は、「対して(gegen)立つ(stand)」ということで、
《対象化》の辞書的意味は
(1)あるものを認識するために、一定の意味を持った対象としてはっきり措定(そてい)すること。
(2)自己の主観内にあるものを客観的な対象へと具体化し、外にあるものとしてとして取り扱うこと。反省。 (大辞林)
「外に【ある】もの」として「はっきり措定」されたものが「無」であるのは、明らかにおかしいと思われます。
そして《対象化できない》という点では、【見ている私】【今ここ】も同じです。対象化すれば、それは(本来の)【見ている私】【今ここ】ではなくなります。
上の辞書の言葉でいえば、それは「措定」されたもの、「外にあるもの」になってしまうので、
【見ている私】は【見られた私】になり、【今ここ】は、案内板の中の【現在地】のようなものになってしまいます。
したがって、そのような事柄について思惟する場合は、《対象化できない》ものとして、思惟しなければならないことになります。
そのような思惟の仕方を要求する特殊な記号が、例えば永井均の< >という記号であり、また、ハイデガーが「存在」の上につけた抹消記号(×印)なのです。
>>172 :ゲーム
>もう一度、繰り返すが、私の質問はこうだ。
>「みている(対象化する)主体、というと語弊があるので、主語(一応【私】と
>称されているそれ)は実在するのか、否か」
「実在」という哲学用語には、「意識から独立な存在」とか、「常住不変の実体」という意味が含まれています。
なぜ、そのような危うい用語を使うのか、不思議ですが…
【見ている私】や【今ここ】は、そのような形では、《実在》していないと思います。
そうではなくて、【見ている私】【今ここ】は、《対象化できない》ものとして、現に《存在》しています。
>>104 であなたはこう書いています。
>「いま、ここ」は、時空の凍結を意味しており、空想上の“表現”である。
>「いま」も「ここ」もみることは不可能だし、指さすこともできまい。
【見ている私】【今ここ】は、《見ることも指さすこともできない》のですが、そのことがまさに、《対象化できない》ということです。
しかしそれは、あなたが考えるような「空想上の“表現”」なのではなくて、《見ることも指さすこともできない》という仕方で、現に《存在》しています。
ハイデガーが「存在」の上につけた抹消記号(×印)や、永井均の< >の記号は、それが《見ることも指さすこともできない》ことを表します。
それは、「空想上の“表現”」であるどころか、ハイデガーや永井均(その他の多くの哲学者たち)が考えるように、
《見ることも指さすこともできない》からこそ、根源的な《存在》であるのです。
「意識から独立な存在」と意識できる存在(笑)
205 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 10:52:50.90 0
《見ることも指さすこともできない》けど概念化はできちゃうわけね。 結局対象にはなるよ。
>>205 厳密には、「概念化」もできません。(「概念化」は、「対象化」「客観視」と密接に結びついているので)
(ハイデガー、永井均などはそのように考えているし、私もそう思います。)
(最高位の思想はよく知りませんが、「『自我一般』という観点から」は理解できない[
>>193 ]としているところは、似たようなことを言っているのではないでしょうか。)
ただ、上に書いたことと同じですが、《概念化できない》といっても、「概念化」しようと思えばできるし、実際、多くの人は「概念化」します。
しかしその場合には、「無」を《対象化》することによって、「無」が「何かあるもの(有)」になってしまうのと同じように、
<私>は《概念化》されることによって『自我一般』という別物になってしまいます。
つまり、《対象化》《概念化》をしてしまうと、「無」を「無」として、<私>を<私>として思惟することはできない、ということです。
(《概念化》ということについては、永井均は、<私>は概念化されることによって次第に『彼化』『三人称化』していく、という書き方をしています。)
(また後日。)
207 :
ゲーム :2011/07/13(水) 11:42:52.26 0
>>202 「対象化できない」のは“意識”にのぼらないものである。
君のいう“対象化”は、みることができ、指さすことができることだろう?
しかし「いま」「ここ」「私」や「神」「仏」「無」は、みることも指さすことも
できないけれども、思惟の対象にすることは可能。したがって、それらを
概念化でき、現にそうしている。それら(の意味)を「知っている」わけだ。
君のいう“対象化”は「知覚」のことだろう? 私はそれを「直接的な経験」
と表現している。原的な対象化だが、しかし知覚できぬこともヒトは対象化
できるのである。
208 :
ゲーム :2011/07/13(水) 12:03:52.52 0
>>203 「現に《存在》」することと“実在”の違いは何?
「現に」は“いま、ここに、実際に”という意味だが、
そのように存在することを“実在する”というのでは?
しかし、私はそれらの実在を否定している。
「いま」「ここ」「私」は、意識において意識(概念化)されたものだからである。
それらは“意識現象”として「ある」とはいえる。
ハイデガーや永井の述べたことは根拠になりません。w
209 :
ゲーム :2011/07/13(水) 12:18:06.57 0
>>203 これもおかしい。
「みることも指さすこともできないからこそ、根源的な存在である」
では「いま、ここ」「私」「魂」「神」「仏」「幽霊」…等々、が“根源的存在”
というわけ? “根源的存在”とは、大元、すなわち“実体”に近い概念である。
それらが“根源”に「現に存在する」ということだね?
>>207 :ゲーム
>君のいう“対象化”は「知覚」のことだろう?
違うと思います。辞書からも引用したように…
「対象としてはっきり措定」されたものや「外にあるものとしてとして取り扱う」ことのできるものが、《対象化》されたものであり、
それは、概念、イメージ…なども含みます。
私は「無」の《対象化》について何度もかきましたが、「無」を「知覚」するというのは、どういうことでしょうか…?
>>208 :ゲーム
>「いま」「ここ」「私」は、意識において意識(概念化)されたものだからである。
あなたはたぶん、《対象化できない》《概念化できない》ということが、どういうことなのかが、そもそも分からないのだと思います…
おそらく、私が
>>206 に書いた以下のような部分は、あなたにとっては全く意味不明なのではないでしょうか…
>ただ、上に書いたことと同じですが、《概念化できない》といっても、「概念化」しようと思えばできるし、実際、多くの人は「概念化」します。
>しかしその場合には、「無」を《対象化》することによって、「無」が「何かあるもの(有)」になってしまうのと同じように、
><私>は《概念化》されることによって『自我一般』という別物になってしまいます。
>ハイデガーや永井の述べたことは根拠になりません。w
根拠にしているのではなくて、そういう具体的な思想を挙げることで、この問題が現代思想の中の潮流の一つであることを示しています。
そのように哲学史的に見て、まずは、《問題の所在》を大きくつかむのが良いと思うからです。
そして、ハイデガーが抹消記号「×」を用い、永井均が< >の記号を用いた理由を考えることによって、この問題の核心に近づくことができると思うからです。
(ハイデガーや永井均が「正しい」と言いたいのではありませんよ…)
>>209 :ゲーム
上で書いたように、《対象化》=「知覚」というところが違うと思います。
(また後日)
私とは専ら他者たちによって作られ他者たちによって形成される個体 この世に産まれたくて産まれた訳ではない。しかし死するまで自律はしなければならない
>>195 >「何をどうやっても『私という主観性である存在性』を作れる理屈がないのですよ」です
君は、コピー人間にも自我はあるが、それは「私」ではないという立場じゃないの?
それなら、物質的に自我の発現が可能かどうかは論点じゃないよな。
コピー人間の自我と「私」が違うというのは、位置だろ。
そうでなかったら、なぜ「違う」と君に言えるの?
>>196 >体の、いかなる物質的要素で、外ならぬ『私』という存在が発生しているのか という問題
コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
>>202-203 (
>>172 >>104 )
>>206-210 ・対象化:知覚感受され、且つ、意識化されること
・知覚;知覚感受されるが、意識化されない。
>ゲーム
知覚感受されるもの(つまり「存在(実在)」するもの)は必ず対象化されるというわけではない。
たとえば、放射性物質の付着した塵或いは、放射線は、それが出ていて、肉体に照射摂取されていても、
意識には上っていない。対象化されていない。以前の貴方なら、それは「存在しない」こととしたろう。
しかし、意識に対しては存在してなくても、肉体にとっては存在している例は山ほどあろう。
*(瞑想の達人等であれば、そうしたものも、意識化対象化可能なのかもしれないがwww)
>17-18
この件は、上記『知覚≠対象化』という点を除けばゲームの言う通りでは。
「無」とラベリングしようが「虚無」とラベリングしようが「《見ることも指さすこともできない》もの」と【ラベリング】しようが、
既にその時点で対象化されている、ということです。
「○○なもの」として仮設・仮定するということが、既に意識化であり対象化であるわけです。
ゲームが言いたいのはこういうことではないだろうか?
「語り得ない何か」とは、《「語り得ない何か」として語られている》 と。
ただ、注意しなければならないのは、そのような形にしろ、他の通常の知覚認識にしろ、
『意識化・対象化されたからといって、それが「存在(実在)」するとは限らない』わけです。
そして、【今ここ】も【見ている私】も、仮に、考察のテクニック上対象化(≒仮設・仮定)されているが、
机の上のリンゴの如く存在するかとどうかは吟味の余地があります。
さらには、概念的に、例えば「国家」例えば「母性・父性」例えば「友情」例えば「憎悪」といったようなものの如きなのか、
も吟味されてよいでしょう。
勿論、これらすべてを『ある』と表現することはできますし、我々は実際、それらを『あるもの』として生きています。
実は、その「在り方」に差異があり、その差異への着目加減によって、今二人の意見の相違は生じているのでしょう。
一方は、「この条件のものは存在(≒実在)しているとは言わない」、
一方は、「この条件のものは存在(≠実在)すると言える」、と・・。
216 :
考える名無しさん :2011/07/13(水) 17:11:11.23 O
思考実験で「自分と全く同じ物理的存在」を作り出した場合、そこに「私」は存在するでしょ? 勿論「私」は意識とかそういう次元ではなく、所謂ただ一つしか無い私。 マックOS上でXPを動かしたりVISTA上でXPを動かしたりするようなもんでしょ? ただし、思考実験においては物理的存在としての私を、つまり私を構成する物理的要素やそれらの振る舞いを実際に演算として再現するのは不可能なだけで。 もしそれらさえ可能だと仮定してしまうのなら、人の身にそれらの具体的な検証や吟味は不可能だろう。 だから、「マシンAで走らせているOS」と「マシンBで走らせているOS」くらいの違いしか云々出来ないだろう。 それらのOSがどう違うかと聞かれたら、「マシンAで走らせている」か「マシンBで走らせている」かの違いを答えるしかない。
私って物理現象と一切関係無いの?
私って物質ではなく概念だからな。概念だから見ることも触ることも出来ない。 概念は脳が作り出している。考えるべきは脳と概念の関係だろう。
脳は物質だから物理現象だという還元主義の考え方では解明が難しく、 複雑な生物のシステムの一部であると考えた方がよい。 「私」の問題も生物として存在する人間のシステムの一部と言えるだろう。
境目無く繋がっている物理的な世界でチンコマンコ現象が起きてくっせえマンコ現象から 最高位現象が生まれてきたわけだ
>>219 複雑な生物のシステムというものは、物質の物理現象という還元主義の上にあるもの。
人間とは脳が発達した動物。時に赤面もする。
エロスケでクラナドが笑えるゲーで上位にランクインしてるんだけど おかしくね? 失笑したゲームっていう意味なら分かるけど
こんな恥ずかしい誤爆するなんて悲しい・・・
>>178 >すでに存在していないわけではなく、存在し続けている「唯一の元の私」の
そうではなくて、「唯一の元の私」は「過去」ですから、それ自体は現在存在することは
定義的にできないのです。
「自分は唯一の元の私と同一の私である」と感じる「今の私」が存在するかどうか、
問題はそれだけです。
通常は、たとえばAさんという人間はずっと一人しかいませんし、「自分は過去にAさんだった」
と考え感じている「今の私」も一つしかありませんから、そういう同一性が問題になることは
ありません。
ここで「コピー」とか「分裂」の思考実験を持ち込むと、そういう「今の私」が
いくつもあることになるので、「唯一の元の私と本当に同一の今の私は、どれか」が
問題になります。しかし、ここには難しい問題などは何もないので、要するに
肉体の同一性によって判断するしかないのです。
コピーの場合なら、オリジナルの肉体の私が「唯一の元の私と同一の今の私」だと
みなされて、コピーの肉体の私はコピーだとみなされます。
オリジナルの肉体が破棄されているのなら、「唯一の元の私は消滅して
今は存在しない」と通常はみなされるでしょう。
肉体の同一性があやふやな場合は(いくつも考えられますが)、私の同一性も
またあやふやであるというしかありません。
分裂の場合は、分裂した数だけ(百体でも千体でも)の「今の私」(もちろん
それぞれ全く別の私)は、すべて「唯一の元の私と同一の今の私」であるとみなされます。
ここには別に何の不思議もなければ問題もないのですが、「私は過去も現在も未来も
唯一で、しかもそれは私自身にとっては常に直接自明にわかるはずだ」という
固定観念にとらわれると、何か不思議があるように錯覚してしまうのです。
実際には、いつ何時であれ、自分がオリジナルなのかコピーなのか、誰にも判断はできません。
肉体が一瞬ごとに死んでは再生を繰り返しているとするなら(生物学の知見から
するとその方が実態に近いようにも思えますが)、私も常に消滅と発生を繰り返して
いて、同一性なんか本当はないのだと考えても、特に問題はありません。
意識は脳が生み出しているので、意識の内容は常に過去の情報に基づいている。 「私は現在に存在する」という観念も、過去の情報に基づいて形成された観念。
最新の過去が私?最古の未来が私? デデキント某だねw
自分をコピーしたとしてもコピーされた自分を認識してる自分は コイツがコピーだと思ってるって事だろ 相手が同様に思っても、<自分>は間違えようがないということ ただそんだけのこと
哲学的な思考に慣れてない人の思考実験はドラエモンとかの シナリオみたいなもんで、自分の思考の前提を問い直すことが できないんだよね。「自分」がコピーだろうとオリジナルだろうと、 コピーやオリジナルがどのように「自分」を「自分」として 認識するのか、どのようにコピーとオリジナルを区別する/しない のかを問わなければならない。
物理的には内容は同じで、「あいつは他人なんだから私じゃない」と思うことも同じなら、 私がいつの間にかコピーになってることもおかしくないの? もちろん、もし私が元のAなら、コピーA′が他人なのは明らか。 しかし、もし私がコピーA′なら、元のAが他人なのは同様に明らか。 ならば、どっちになるかはどうやって決まるの?
231 :
230 :2011/07/14(木) 00:38:34.30 O
ん、
>>229 とレスが前後してしまった。
区別すること自体は簡単だろうと思うけど。
>>230 思考実験上は、『どちらも、“この私”』です。
(ギャグ漫画でよくある、「どちらが遊んでどちらが宿題をするか」といった争いの場面と同じですw)
《どちらになるかが決まっている(=どちらか一方にしかならない)》と考えることが、
『「自我意識は恒常的に継続する」という先入観』によるものなのです。
(これの延長・拡大版が霊魂やら生まれ変わりやらです。)
どちらもが、唯一無二を【自己主張する】(俺は俺としてここにいる!と宣言する)《“この”私》です。
どちらにとっても相手は《他人》ですし、「“この”私は、なぜ“ここ(この肉体)”と共なるものなのか?」
「なぜ“アソコ(あの肉体)”に無いのか?」との疑問を抱く事ができます。
互いにそう考え合っている【二人】が存在するだけです。
で、どちらが【より継続性が強固か】?というのは、経過を観察していた者の記憶及びその記録を信用するしかありません。
この記憶・記録無き場合、オリジナルの特定は不可能です。受精卵が分裂する時と同じです。
物質かどうかなぞ(唯物論の成否なぞ)関係ないのです。
《私の唯一性》は、単なる定義(論理上の要請)でしかないのです。
>>232 客観的に体が継続してるのはどちらか(どちらがAの体で、どちらがA′の体なのか)は、
客観的な経過の記録・記憶でわかることで、それがはっきりしなければ区別がつかなくなるだろうけど、
それとは別に、私がコピー前のAだったら、コピー後にはどちらかにしかならんでしょう。
そうでないと、あっちにいるあいつは他人だ、ということにならない。
234 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 04:04:40.96 0
>>225 >そうではなくて、「唯一の元の私」は「過去」ですから、それ自体は現在存在することは定義的にできないのです。
「元の」という表現のせいで「過去」とされているのかもしれませんが、これはコピー元のAの事です。
>「自分は唯一の元の私と同一の私である」と感じる「今の私」が存在するかどうか、問題はそれだけです。
・・・えっ!?Aにとっては死活問題なんですけど?・・・いやいや、225さんはそんな事は問題にしないのかもしれない・・・・
>オリジナルの肉体が破棄されているのなら、「唯一の元の私は消滅して今は存在しない」と通常はみなされるでしょう。
みなされる、というかAは死んで消滅するということですが。「唯一の元の私と同一の今の私」と思っているA本人が死亡・消滅して、
「唯一の元の私と同一の今の私」と思っているコピーのA'という他人だけが生きている状態です。
A以外から見れば、「どっちが生きてたって同じじゃん?」と考えられるのかもしれませんが、Aにとっては自分が消えるかどうかの大問題だと思うのですが。
>分裂の場合は、分裂した数だけ(百体でも千体でも)の「今の私」(もちろんそれぞれ全く別の私)は、すべて「唯一の元の私と同一の今の私」であるとみなされます。
これは、ここまでとは異なった想定の話ですね。「分裂」ですからね。
いわゆる、脳を分割したらどうなるのかとして知られるものと同じ問題ですね。現状では確たる説明はできないものです。
235 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 04:05:28.35 0
>>230 これはコピーすれば自分は永久に生き続けられるのではないかという事でしょうが、残念ながらAはA'にはなれません。
Aは何体のコピーを作ろうが、それらはAにとっては全て他人であってAが死ねばAは消えます。残っているのはAにとっての他人ばかりです。
>>235 コピーするときに、どっちが私になるかはわからないのでは?
感覚を統合するのには時間がかかるのだから、私(自我意識)は無意識よりも時間的に遅れて現れる。 つまり、「今ここ」に存在するのは物質としての肉体である。 物質としての肉体から時間的に少し遅れて感覚を受容し、 さらに時間的に遅れて感覚を統合しそして思考や感情が現れる。 考える私(コギト)は現実には今ここに存在するのではなく、 今ここに存在すると考えているコギトであるに過ぎない。
238 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 04:40:24.58 0
>>236 コピーって、自分を残したまま自分を構成しているのと同様の物質で自分と同じ状態・構造の他人を作るって事でしょ?
何か、もっと複雑な事考えてる?自分を分子状態に分解して解析して、どっかからそれと同じ物質をかき集めてきて新たに2体作るとか?
いわば、コピー&ペーストじゃなくて、カット&ペースト×2という感じの。
所詮は思考実験なのだから、現実の物理法則など簡単に飛び越えてしまうことを忘れてはいけない。 ファンタジーを並べ立てるのは世迷い言に似ている。
240 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 05:17:28.65 0
>>232 このスレは最高位の言う『私』について考察する為に(そして最高位を隔離する為に)立てられましたが、
どうも貴方は「この私」と考える意識さえあれば、どちらの私にも違いは無いとしているように受け取れます。
>『「自我意識は恒常的に継続する」という先入観』によるものなのです。
自我意識が何を指しているかは正確に量りかねますが、『私』は恒常的に継続しているものですよ。
睡眠などで無意識状態に陥っても、自分が他人になってしまわないのは『私』があるからです。
『私』は最高位の独創というわけでもなく、古くは唯識思想の八識説にある末那識がこれにあたります。
最近の脳科学なんかではCore Consciousnessと言われる作用の事です。
この処理を通して感知される一貫した私(Core Self)の事を、最高位は『私』としているのです。
これはワーキングメモリ上に現れる所謂意識ではなく、記憶とも違うものです。
ですから、同じ記憶と意識を持っているからといって同一人物・同じ『私』ではないのです。
>>240 思考実験についてだが、いくら思考実験がファンタジーだとしても
その世界に論理一貫性がないとおかしい。
貴方は、われわれ現実社会の論理と、思考実験の中の世界の論理を混同しているようだ。
思考実験の中の世界は、人間を完全にコピー出来てしまう不可能な世界だ。
不可能なことが可能な世界であり、われわれの論理の枠内を越えている。
そのような思考実験の世界を、貴方は現実社会の論理の限定的枠内でのみ判断しようとしている。
232氏と貴方は、その点で議論が噛み合っていない。
私について語ることが出来るのはおれだけなのに他のやつらが 一般化して私を語るのはすげー違和感があるわ
>>242 ばっきゃろう 「私」について語ることができるのは俺だけだ
お前は語れん
>>235 それは、Aの体がずっと継続し続けていないと、私が消滅してしまうということ?
もちろん常識的にはそうなりそうだが、なぜそうなるの?
ちょっと前に、Aの新陳代謝で放出された物質をかき集めてコピーA′を作るwという
ちょっと面白い話が出てたが、もしそんなふうにうまくかき集められるとすれば、
コピーのほうこそ物質的には前のものが保たれているとも言えて、元のほうの物質は入れ替わって
しまっているわけだが、それでもAのほうのみが私であってA′が私になるはずが
ないとするなら、何が保たれていることによって、Aのほうのみが私であることになるの?
245 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 09:10:28.04 0
【現実的には不可能】だが 可能だという前提で考え、出来たと仮定して、さあ、どうするの? 今度は【現実的に考えて】「出来あがったそいつは私ではない」というオチかな?
246 :
考える名無しさん :2011/07/14(木) 09:16:09.17 0
唯物論は正しいと言う結論しか出てこんぞ 藁
247 :
ゲーム :2011/07/14(木) 09:42:19.85 0
>>210 「わかっていない」などと簡単に他人を否定する人間に共通する、曲解名人。
このスレに参加するのなら、よく相手のレスを読みなさい。
「対象化=知覚」と考えているのは君だろう、と私は批判しているのである。
このことは
>>215 が公平に裁いている。彼には、後ほどレスする。w
“対象化”とは
>>215 の定義とも異なりw古い言い方だが、感性、悟性、理性
の営為を指す。こういいかえてもよい。感覚→知覚、思考、推論、想像…、
つまり意識現象のすべてを“対象化”と私は称している。(そう述べたはずだ)
したがって、まず感性によって対象化され、ついで悟性、そして理性によって
も対象化される。「感じ、考え、推理し、想像する」ことを私は対象化と呼んで
いるのである。
「無」も「いま」「ここ」「私」も「神」「魂」「仏」等も、幾度もいうように
指さすことも、みることもできない。すなわち知覚できない。しかし、対象化
することはできる。たぶん、それらが理性の産物だからだろう。
しかし、それらは“実在”しないだろう、と私(という意識)は対象化している。w
248 :
ゲーム :2011/07/14(木) 10:37:42.29 0
>>215 その「知覚」の定義は、どこに載っていたのですか。貴方独自のもの?
辞書には、こうある。「感覚器官を通して事物を判別する意識の働き」
一般に“意識”を論じるとき、感覚→知覚から入るもの。
放射能の例も変。放射能は、みることも指さすこともできない。つまり、
知覚することはできない。しかし“情報”として知らされている。
したがって知覚できなくても、放射能について考える、すなわち対象化
することはできる。
「知覚できないものは存在しない」と述べた覚えはない…。意識(感覚、
思惟、推論)できないものは、有/無の埒外にある、とはいったかも。
249 :
ゲーム :2011/07/14(木) 10:59:44.81 0
>>215 >>210 と同レベルのw読み間違いしているのかもしれぬが…
たとえば眼前の“このリンゴは実在している”と、貴方は考えますか。
このリンゴも、そのコップも、あの太陽も“実在”という表現が適切かどうか、
私は疑わしく思っている。
それらを知覚し、それらが現象しているのは不可疑だが。
>>238 そうだけど、AさんのコピーBさんを作っても、
もとのAさんの「私」がどっちにいるかはわからないのでは?
本人たちに聞いても、自分こそがAさんの「私」であるというわけで。
また、私たちの体は、物質的には常に入れ替わっているわけだし、
自分の体を構成している原子を入れ替えても自分は変わらないわけでしょ。
だったらAさん原子を全部入れ替えて、取り出した元の原子でコピーであるBさんを作ったら、
物質的にはBさんが、もとのAさんの「私」であると言えるんじゃないだろうか。
>>250 この混乱は、「それ」がAさんであることを客観的に判定する定義を決めずに、
Aさんはどっちかを決めようとしてることによって引き起こされている気がする。
そこを明確にすれば、問題は何もないのでは?
>>251 最高位の「私」って客観的に判定する定義なんかあるか?
>>215 >「○○なもの」として仮設・仮定するということが、既に意識化であり対象化であるわけです。
>ゲームが言いたいのはこういうことではないだろうか?
>「語り得ない何か」とは、《「語り得ない何か」として語られている》 と。
その通りですが、今の話題は、初めからそういうことを前提とした上での(その先の)話です。
今までの話の流れを少し整理しながら説明すれば…
この話の流れは、「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」という話に関連して、
私はそういう、【見られた私】と【見ている私】という自我意識の構造における【見ている私】は《対象化できない》ものである、
ということを中心にして書いていました。
いったん、
>>21 の
>「「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」
の話に戻ってみましょう。
このようなことが起こるのは、この最後にくる「私」(私の言い方では【見ている私】)が、《対象化できない》ものであるからだろう、と私は思っています。
自分で自分を見ようとする自我意識において、自分の「全体」を見ることは、どうしてもできません。
なぜなら、見られているのは《対象化(客観【視】)された自分》であって、
その《対象化された自分》を《対象化している自分(【視】ている自分)》を見ることはできないからです。
その《対象化している自分》を含めて、もう一度、自分の全体を見ようとすれば、今度は、《対象化している自分》も、《対象化》されてしまいます。
そのようにして、その《《対象化》された《対象化している自分》》を、対象化している・・・、と、続くことになります。
このことから、「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」の、最後にくる「私」は、《対象化》することができない、と考えることができると思います。
それを、私は【見ている私】と呼んでいたわけです(ハイデガーや永井均のような特殊な記号は使っていませんが)。
(続き) そういう話の流れにおいて、「君は【見ている私】と書いてるんだから、それを対象化しているんだよ。」というような批判は、まったくの的外れなのです。 なぜなら、その批判は、私が【見ている私】として書いている事柄を、【見られた私】として捉えてしまっているからです。 「君は【見ている私】と書いてるんだから、それを対象化しているんだよ。」という場合の、「それを対象化している」のが、【見ている私】です。 ここで、特に大事だと思われることは、この【見ている私】は、一般的な事柄を言っているのではなく、《この私》の問題であるということです。 (したがって、常に、【今ここ】に結びついています。) だから、こういう問題は、常に、【我が事】として考える必要があります。 【我が事】として考えるのをやめたとたんに、それは一般化され、概念化され、「彼」化され、「意識一般」の話になってしまいます。 そしてその時、【見ている私】は、(《この私》によって)【見られた私】に、すり替わってしまいます。
厳密に完全に同一コピーするコピー人間は論理的に不可能だ。 論理的でない世界なのだから、非論理的な結論を出さざるを得ない。 つまりA=A A=B A≠Aの世界である。 思考実験の結論を言うとするなら、AさんのコピーはAさんであり、またAさんでなく他人であり、 なおかつ、Aさん本人はAさんではない、という事になる。
コピー人間の思考実験から導き出せる答えは、 「私」は「私」である。かつ、 「私」のコピーは他人である。かつ、 「私」のコピーは「私」である。かつ、 「私」は「私」では無い。
>>240 貴方の考えている「コピー人間」は厳密に言えば「コピー人間」ではなく、ただの他人だ。
他人について言うのならば、貴方の説明通りだ。貴方の説に異論はない。
貴方の説明はコピー人間の思考実験にそっくりそのまま適用することはできない。
何故なら、単なる他人についての説明であり、「コピー人間」についての説明ではないから。
>>255 >厳密に完全に同一コピーするコピー人間は論理的に不可能だ。
ここでいうコピーって、物質的に同じ原子配置という意味でしょ。
>>258 電流とか揚げ足取りが出るから、物理的な全ての特性とか言っといたほうがいい。
260 :
考える名無しさん :2011/07/15(金) 02:36:27.97 O
>>257 これ最高位のよくやる思考実験とは違うの?
あなたの考えてるコピー人間の思考実験とはどんなもの?
他人ではないコピー人間ってどういったものなの?
それ答えられたら、最高位に『私』の存在理由突き付けられるじゃん。
261 :
考える名無しさん :2011/07/15(金) 02:59:23.89 O
>>252 ないよ。主観的にしか判別できない。
客観的に判るものなら、こんなめんどくない。
262 :
考える名無しさん :2011/07/15(金) 09:48:08.48 0
>>244 >>250 とりあえず、ここを見てみてよ。最高位にはナイショだよ?w
ttp://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/sikou2.html >また、私たちの体は、物質的には常に入れ替わっているわけだし、
>自分の体を構成している原子を入れ替えても自分は変わらないわけでしょ。
そうなんだよね。『私』の不可思議な点は物質に依らないように思えるってところなんだ。
君たちもその理由について考えてみてよ。
例えば、
・動的平衡論に見落としがある
・物質が入れ替わるときに何か受け渡されるものがある
・物質ではない物理現象として『私』が維持されている
などなど
263 :
考える名無しさん :2011/07/15(金) 10:11:03.88 0
>>257 >貴方の考えている「コピー人間」は厳密に言えば「コピー人間」ではなく、ただの他人だ。
コピー人間ですよ。コピー人間とはコピー元となった人間の『私』から見れば他人なのです。
>貴方の説明はコピー人間の思考実験にそっくりそのまま適用することはできない。
コピー人間が他人とならないとは、いったい如何なる想定の思考実験なのでしょうか?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/philo/1285858937/879 528 3/3 sage 2008/08/27(水) 14:30:57 0
【私】を記述してください【私の存在性】17
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1214006280/ 461 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 11:22:46 0 (感嘆子)
〜 前段略 〜
>> 448
>≪なぜ、思考は「私の思考」(当人の思考)としてしか現われないのか≫
それは逆であって、それが「私」の定義なのです。
ちなみに、純粋に思考だけがあるのなら、それは人間ではなく、「ここにある」
とも言えません。従って「これでない他の思考」が存在する余地もありません。
思考が五感による経験を通じ「思考の外の世界」を認めることによって、
初めて自分が「他ではない私の思考」なのだという発想も「私ではない、
私には直接現れない思考=他の私」という発想も、可能になると思われます。
508 考える名無しさん sage 2008/06/25(水) 16:32:57 0 (感嘆子)
〜 前段略 〜
「私」の本質、「私性」は、主観的意識であること・思考することですから、
それでなくなる、ということは「私性をなくして私でないものに変化した何か」
が存在したとしても、それを認識することができません。ですから
あたかも「私には私以外のものである可能性がない」かのような観を
呈するわけです。
〜 後段略 〜
なわけです。
>あたかも「私には私以外のものである可能性がない」かのような観を 呈するわけです。 これは感嘆子にしては誤解を招きかねない表現だな。 まるでそれが錯覚であるかのような書き方だが そこも >それは逆であって、それが「私」の定義なのです。 じゃないか。 ま、本人いないからどうでもいいけど
「私の存在は個々の原子に由来する」という命題と 「私の存在は物理的現象に由来する」という命題は 別々のことを言っている。 前者を否定したところで後者については否定できない。 もし「私」の存在が個々の原子や分子に依存するのならば、死体となった後も「私」は存在してしまうだろう。 恒常性が機能しない分だけ、ある意味では純粋に「私」が保存されるかもしれない。 単なる世迷い言だが。
268 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 08:24:27.16 0
>>199 >コピー人間て人間と全く同じなんでしょ?物理条件が全く同じなんだからw
>じゃあ、意識を持ってるに決まってるでしょ。
これは決まってはいない
物理条件以外の条件が必要である可能性が、絶対に無い とは言えないからね
>キミの意見は全て唯物論そのものだし。
唯物論そのものな前提で話を進めながら、最後に唯物論の決定的な穴を説明しているわけさ
>>200 >「私」という現象は、私を構成する物質がそれを「私」だと思うといういこと
>だから化学的な意味で同じ構成の物質を作っても、それは私の「私」にはならない
>彼は自分を構成する物質を「私」だと思うからである
なんとなく説得力がありそうな意見ですが
それは主観性というものを甘く見た、前時代的で素朴な考えですね
それでは現代哲学の問題点すら理解できていない事がバレバレなのですよ
『自分』というものが存在している事の原因性が、物理的要素に特定できない事実が理解できませんか?
269 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 08:28:34.55 0
>>213 >コピー人間の自我と「私」が違うというのは、位置だろ。
ん? 位置?? ということは
物質的な要素は関係なくて、位置が『私』だと言うのかね?
物質的な要素は関係なくて、位置に幽霊みたいに『私』がいるのかね?(苦笑
その位置と重なると『私』だとか???
普通、実験とかでは『位置』は考慮に入れないんだけどね
位置が違っても、同じ条件にすれば、同じ現象が起こる
同じ条件なのに、位置が違うからといって違う現象が起こったら実験なんて無意味だよね(苦笑
位置によって違う現象が起こるなら、怖くてクルマも運転できなせんよね
「アレ?ハンドルを左にきったのに右に曲がっちゃったよ。あ!位置が違ったのか!」
ブレーキも、そのつど効きが変わったり
なんて事になったらとんでもないでしょ
とても宇宙になんかロケットを飛ばしたりなんて出来ませんよ
まぁ、位置が違うと、その他の条件も変わる場合が多いから微妙に違う現象が起こったりするが
条件が同じなら、位置は関係なく、同じ現象になります
こんなのは中学生でも常識的に理解できるよね?
物理現象なら、位置は関係ありません
270 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 09:12:59.05 0
説明不足と誤読 藁
271 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 09:22:47.25 0
もう1つの体にも自我が発生するなら唯物論は正しい
コピー人間は、人間と全く同じなのだから、人間。 人間なら、意識はある。 つまり、コピー人間ができるなら唯物論は正しい。 コピー人間のもつ意識と「私」が違うのは、 コピー人間の感覚器官、末梢・中枢神経と 「私」の感覚器官、末梢・中枢神経が違うから。
273 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 09:43:42.01 0
>>214 >コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
いかなる理由で、と聞かれても
逆に何で、それが私だと思えるかが不思議・・・
「コピー人間」という言葉は、多少誤解を招くかも知れないが
ようするに、いくら物質的な要素を同じに人体を作ったとしても
もっと言えば、何をどうやったとしても
それは私にはならない という事
私はここにいて、唯一な存在だから
>>216 >思考実験で「自分と全く同じ物理的存在」を作り出した場合、そこに「私」は存在するでしょ?
それは、自分の事を私と呼ぶ、『私』ではない、『私』とは別の人 がいますね
それは全くの他人でも同じです
日本語を使う人なら自分の事を「私」と呼ぶでしょう
しかし、それは私とは違う人です
当たり前・・・・(苦笑
>それらのOSがどう違うかと聞かれたら、「マシンAで走らせている」か「マシンBで走らせている」かの違いを答えるしかない。
これまた、もっともらしい意見ですが
これも主観性という存在性である『私』というものを甘く見た前時代的で素朴な考えですね
現代哲学における問題点が、理解すらできていない状態ですね
客観的にのみ考えていくと、それが正しいように見えますが
OSを、いくらインストールしても
そんなのを、いくら繰り返しても、『私ではない人』ばかりが存在するのが本来的です
歴史的に、ず〜っと『私ではない人』ばっかりだったわけですしね
そのまま『私ではない別人』を繰り返してりゃいいものを
なぜ『私ではない人』だけではなく、『私自身』が存在するに至ったのか
という問題です
また、なぜマシンXが『私ではない人』ではなく『私』であったのか という問題もありますね
274 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 09:56:09.12 0
>>271 >もう1つの体にも自我が発生するなら唯物論は正しい
自我が発生するかどうかなど、わからん事
それより何より
哲学をしているのは『自分自身』なのであり
この『自分自身』の存在原因を哲学した時に
唯物論は、その根拠性を完全に失う
誤解してもらっては困るが
これは何も、物理学を否定しているわけではない
物理学は物理学として存在していればよい
唯物論のように、人間の精神性も全ては物理現象である という結論
その『思想』は間違いであった という事実を述べているだけ
275 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 09:57:42.53 0
心の哲学では 主観性という存在性である『私』というものを 前時代的で素朴な妄想物としてとらえてますな
276 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 10:05:57.79 0
コピー人間を作るという仮想実験は 人間の精神も物理的な現象であるという唯物論を退けるのに役立っていない 唯物論は正しい、もしくは否定ではないという事実を述べているだけなんだな はやくそのことに気づかないとw
277 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 10:06:33.95 0
278 :
考える名無し :2011/07/16(土) 10:12:07.81 0
●一羽の雀が落ちるのも自然の摂理
279 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 10:14:23.86 0
>>274 その『思想』は間違いであった という最高位君の感想だけでは駄目なのよ
280 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 10:24:58.67 0
>>276 これもヤジってるだけで
何の反論にもなってませんなぁ
>>278 呉爆?
それとも
自然の摂理=唯物思想 と洗脳されてませんか?
>>279 感想だけじゃないだろ(苦笑
ちゃんと反論してみなよ
どなたか、機械くんの過去スレをまとめたサイト知ってる人いたら
貼り付けてもらえませんか
昔の自分の書き込みを、おさらいしたいのでお願いしますm(_ _)m
281 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 10:34:14.44 0
>>280 どうみても、証明されておらず、感想だけだろ(苦笑
282 :
ゲーム :2011/07/16(土) 10:39:32.17 0
>>278 そうかもしれない。
ただし、摂理(理法)は物質ではない。
283 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 10:40:11.35 0
>>281 「どうみても」じゃダメだろ
ちゃんと、どうみたんか説明してごらんよ
284 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 10:43:10.37 0
>>278 それは、自然主義と呼ばれる考え方だろな
285 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 10:55:20.67 0
>>283 まずは、体のない私、主観性そのものな私がいるということを証明しましょう。
>前時代的な素朴な妄想 なにこれ、流行ってるの?w
>>269 >物質的な要素は関係なくて、位置が『私』だと言うのかね?
位置は物理的要素です。
>物質的な要素は関係なくて、位置に幽霊みたいに『私』がいるのかね?(苦笑
位置は物理的要素です。
>その位置と重なると『私』だとか???
聞いているのはこっちだ。
君は、コピー人間にも自我はあるが、それは「私」ではないという立場だった。
コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるのか?
>普通、実験とかでは『位置』は考慮に入れないんだけどね
位置は物理的要素なので、考慮に入れる場合は普通にあります。
GPSを使った実験では、地球上での位置は当然関係あります。
>位置が違っても、同じ条件にすれば、同じ現象が起こる
位置が違ったら同じ条件ではありません。似た条件です。
>同じ条件なのに、位置が違うからといって違う現象が起こったら実験なんて無意味だよね(苦笑
同じ条件ではありません。
>位置によって違う現象が起こるなら、怖くてクルマも運転できなせんよね
カーナビも持ってない貧乏人ですか。
>>269 >物理現象なら、位置は関係ありません
位置は物理現象に関係ありますし、物理的要素の一つです。
>>273 >>コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
>いかなる理由で、と聞かれても
>逆に何で、それが私だと思えるかが不思議・・・
だから、なんで違うって言えるの?
違いがわからないことを、君は同じ条件だと言っているじゃないか。
もしかして「位置」を認識できない人間なの?
>>273 >私はここにいて、唯一な存在だから
コピー人間の私が「ここ」でない理由は何?
>>274 違うよ。物理現象だから、個物性があるの。
唯物論が正しいからこそ、コピー人間は「私」ではないんだよ。
292 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 14:25:02.70 0
>私はここにいて、唯一な存在だから 私は物理的な位置を占有している唯一な肉体だから、 これは、あれではない。ゆえに唯物論は否定できない と言っているようなもんだ
コピー人間が技術的に可能なら、並列処理する脳と 遠隔操作できる身体も作れる。 だから、私は100人いて、私はここにも、あそこにも、そこにも存在できる。 ゆえに、コピー人間の思考実験は、私は唯一の存在ではないと結論づけられる。
>>293 遠隔操作はコピーとは関係のない話。
1体でも、マトリックスの世界の可能性がある。
295 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 15:45:24.69 0
>>285 なんで?
>>287 >>288 位置と位置関係の違いもわかりませんか?
位置関係は二者の関係で結果報告にすぎず
位置が『私』の原因性となるのとは関係ありません
>>位置によって違う現象が起こるなら、怖くてクルマも運転できなせんよね
>カーナビも持ってない貧乏人ですか
カーナビというのは位置の問題ではなく、衛生との位置関係、二者の角度を測っているんですよ
衛生なしでクルマの位置だけでは、機能成立しないのですよ
例えば地球と同じ条件の星があって実験したら、全く同じ結果となり
どちらの星にいるのかわからない状況になります
しかし言うまでもなく『私』は片方の星にしかいませんよね
どうやっても同じ状況にはなりません
>>289 >コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
>>いかなる理由で、と聞かれても
>>逆に何で、それが私だと思えるかが不思議・・・
>
>だから、なんで違うって言えるの?
自分と他人の区別がつかない人ですか???
>>292 唯物論では、キミの言うような素朴な角度からの疑問には正しいように見えるが
私が書いた
>>273 のような現代哲学的な角度の問題には全くの無力
矛盾が露呈する
296 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 15:48:24.26 0
>>293 遠隔操作している『私』は一人でしょ(苦笑
297 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 15:57:35.62 0
>矛盾が露呈する どこが矛盾してんの?
298 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 16:02:24.18 0
>>273 のような矛盾した考え方では唯物論には全くの無力w
人間であるなら、物質的な体をもってるやん
それをまず否定してから物言えや
299 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 16:07:09.37 0
唯物論=決定論だと勘違いしている馬鹿は去れ
>>296 ちげーよ馬鹿。並列処理だから遠隔操作している私は100人。
ちゃんと読め馬鹿。
形は人間からアメーバー状へと自由自在に形を変える。
近代的個の自我ではなく、集合意識によって超複雑で同時多方向的に動く。
コピー人間が作れるくらい技術があれば、こういうのも可能。
記述スレは自分でミラー変換するしかないけどね。
303 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 17:01:03.42 0
過去ログみなおすやつなんていねーよw 最高位はムシがいちばん
304 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/16(土) 18:12:10.79 0
>>297 何回も同じ説明させるなよ
>>298 小学生並みの、きわめて素朴な考え方ですね
>>300 >遠隔操作している私は100人。
100人なんだったら、『私』は100人の中の一人だろ
>>301 ありがとう! 感謝 (=^0^=)
>>303 クソガキ丸出しだぞ(苦笑
中学生ぐらいか?
305 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 18:17:12.81 0
さースレ主の自演にエンジンがかかってまいりました
>>304 >100人なんだったら、『私』は100人の中の一人だろ
その通りです!w
100人が100人とも、貴方と同じ疑問を発するわけですよw
「なぜ、俺は、この俺なんだ? なぜ、この身体に俺なんだ? なぜ、あそこにあるあいつの身体でなくこの身体なんだ?
俺は、どんな理由で、この身体と結びついて生じているんだ?」
とね。 (思考実験の条件上)100人が100人とも、一人の例外も無く、ねw
100の「私」が、それぞれに、疑えない終着としての「私」として、「唯一無二の「私」がここに居る!」と叫ぶわけですよ。
解ります?w
この場合「私」は、100あって且つそれぞれ唯一なわけですwwwww
>>274 >>もう1つの体にも自我が発生するなら唯物論は正しい
>自我が発生するかどうかなど、わからん事
な、そうだろw 「わからん」のだろw
自我が発生するなら、唯物論は正しいわけだ。
「まだ存在していない自我」なら物質的に作れるということだ。
自我が発生しないなら、唯物論は間違いなわけだ。
「まだ存在していない自我」でも物質的に作れないということだ。
で、結論は「わからん」ということだ。唯物論が正しいかどうかはわからんわけだw
なんで素直に認められんのだお前はw
ちなみに、お前でも誰でも「すでに存在している自我」を「もう一つ」作るのは、
物質的にも超物質的にも精神的にも、神様でも、無理だ。何のことやら意味不明だからだ。
これと唯物論は全然関係がない。
もういい加減このことも理解しろw
308 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 20:26:13.08 0
なにしろ最高位は知恵遅れなものですから、生あたたかい目で末永く・・・
>>295 >位置と位置関係の違いもわかりませんか?
座標系の違いでしかありません。
>位置が『私』の原因性となるのとは関係ありません
関係あります。
>カーナビというのは位置の問題ではなく、衛生との位置関係、二者の角度を測っているんですよ
位置の問題だから、位置関係から位置を算出しているんです。
>衛生なしでクルマの位置だけでは、機能成立しないのですよ
代わりにジャイロを使えば、それなりに機能します。
機能がどうであるかに関係なく、位置の問題であることに変わりありません。
>例えば地球と同じ条件の星があって実験したら、全く同じ結果となり
>どちらの星にいるのかわからない状況になります
>しかし言うまでもなく『私』は片方の星にしかいませんよね
>どうやっても同じ状況にはなりません
それは唯物論が正しい場合に言えることです。
>>295 >自分と他人の区別がつかない人ですか???
それは私ではなく、君の問題でしょう?
私は位置によって他人と自分を区別しています。
君は、コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
>>293 > コピー人間が技術的に可能なら、並列処理する脳と
> 遠隔操作できる身体も作れる。
なんで?
「並列処理する脳」、「遠隔操作できる身体」とやらは、それぞれどういうもので、
それがコピーとどう関係するの?
312 :
考える名無しさん :2011/07/16(土) 23:30:24.10 O
>>273 私のようなものが存在するに至った経緯は、世界がそのように変化した、ということでしょう。
だから思考実験上で私の発生する状況、つまり世界を完全に再現したならば、そこには「私」も再現されていなければならない。
思考実験で再現された私はまさに思考しているこの私ではない、と言うならば、初歩的なことを一つ指摘させて頂きたい。
思考実験においては、思考する「私」は括弧に入れられねばならない。
思考実験における思考する「私」はつまり、世界を再現するという意味で、現実世界における思考する神の如き存在である。
しかし神は現実に存在することはない。
よって現実において神を問題にするのは不適当である。
同様に思考の場を構成する私と構成された私を直接比較するのもまた不適当となる。
ちなみに、さんざん突っ込まれてるところだけど
>『私ではない人』ばかりが存在するのが本来的です
>歴史的にずーっと『私ではない人』ばっかりだったわけですしね
という文章における本来的って何?
私が存在するのはイレギュラーなのでしょうか?
私自身が存在するに至ったのは、世界がそのように変化したからです。
世界を記述するのは歴史学ではなく物理学でしょうからね。
313 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 00:03:49.90 0
最高位級の馬鹿ですから、 本来は俺の出番じゃねーのに、よりによって俺が存在することになっちまった って、妄想してしまうのです。 末永くこのスレッドで飼っていきたいようなペットです。
314 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 02:37:15.52 0
>>306 >この場合「私」は、100あって且つそれぞれ唯一なわけです
という事は
キミの
>>293 の
>ゆえに、コピー人間の思考実験は、私は唯一の存在ではないと結論づけられる。
は、矛盾してるよな
それぞれ唯一なんだったらさ
>>307 >自我が発生するなら、唯物論は正しいわけだ。
しかし、それでも唯物論が正しい という結論にはつながらないわけだなこれが
自我が発生しても、それが物質的な要素に還元できない事実は変わる事はなく
システムが解明されない以上、そこに非物質的な作用などが「無い」などの結論を導く事はできないしね
要するに結局、物質的な要素に還元できない という時点で、唯物論の崩壊は決定してるんだよ
スキマを見つけようと頑張っても、無駄なもんは無駄なんだよな結局
結論出てるんだからさ
>>309 キミは、条件が同じなら座標の違いは物理現象に影響しない という事すら理解できないわけ?
マジで?
普通は中学生でも当たり前に理解できるけどな
>>310 キミは「私」というのを、どういう意味で理解してるの??
私ですよ私
私と他人は別人なんだから、違うのは当たり前でしょ
>>313 「俺の出番じゃねー」って、いったい何処で待機してたんだよ(爆笑
まぁ、これからも頑張って一生懸命に私の書き込みを拝読しに来なさい
少しでも理解できるようになるといいね(笑
315 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 02:42:46.85 0
なんでひとりで爆笑 ??
316 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 02:52:34.08 0
認識とは、表現された情報を受動的に受け入れるだけの営みではない。 認識は、観念論者が想定するような純粋な能動でも、 実在論者が想定するような純粋な受動でもない。 このことを理解するには、そもそも、 認識とは何のために行われるのかを考察しなければならないのではないか。
>>314 >キミは、条件が同じなら座標の違いは物理現象に影響しない という事すら理解できないわけ?
位置は物理的要素なので、条件は同じではないし、物理現象に影響します。
特定の物理的要素を無視できる場合はあります。
電場、磁場、に影響しないものもありますからね。
位置を物理的要素にしたくないからといって逃げ続けるのは無様ですよ。
318 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 02:53:59.46 0
>>315 関西人は、普通に一人で爆笑するよ?(笑
>>314 >私と他人は別人なんだから、違うのは当たり前でしょ
それが別人であるとは何を根拠に言っているのですか?
君は、コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
320 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 03:02:37.32 0
>関西人は、普通に一人で爆笑するよ? 大笑いと爆笑は違うぜよ。国語的に変だと指摘したまで。
321 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 03:05:51.21 0
>>317 位置は、何メートル移動しましたよ とかいう事でしかない
いったい何メートル移動したら、私の原因性の糸口が見えてくるというのかね?
私自身も位置は常に確定していないわけだし
結果論的には、この位置にいる とは言えるが
どういう感覚で、座標が私の原因性に影響すると考えてるのか、わけがわからん
最高位は、「聖人君主」と書いたり、「1人で爆笑」と書いたりしてるから、 中卒の馬鹿なんじゃないの。
323 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 03:08:05.37 0
>>320 「爆笑」というのは新しい造語で
国語的に全国共通の意味が確定しているわけではありませんよ
>>321 馬鹿だな。私の原因性なんて無いんだよ。
それは物質である水素にも言える。
水素が存在する原因性など無い。
「爆笑」なんて50年前の国語事典にも載ってるよ
327 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 03:27:21.85 0
>「爆笑」というのは新しい造語で すぐ分るような嘘つくなよ、まったく。
328 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 03:35:00.16 0
「爆笑」大勢が大声でどっと笑うこと。 広辞苑 岩波書店 昭和59年11月発行 じいさん愛用の辞書にものってたわ
329 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 03:54:36.85 0
>>324 位置が私の原因生と、どのような関係性があるわけですか? ということ
>>325 >水素が存在する原因性など無い。
それは単なる思いつきを信仰しているだけだね
そんな事は、わかっていない
それは宇宙の根本問題
いずれにせよ
「私は脳による物理現象の結果ではない」という事になるね
>>328 ん? ちょっと調べてみたけど
ばくしょう【爆笑】
[共通する意味] ★大きい口、大きな声で笑うこと。
[英] great laughter; Homeric laughter
[使い方]〔大笑い〕スル▽彼の外国旅行中の失敗談に大笑いをした〔高笑い〕
こういう説明してる事もあるぞ?
関西では、べつに笑ってなくても「爆笑やのぉ」とか言って、普通に使うしな
>>329 位置が違うからそれを他人と認識しているのでしょう?
それとも君は自分の肉体も他人だと思っていわけ?
君は、コピー人間の自我と、君のいう「私」は、如何なる理由で違うと言えるの?
聖人君主だってw 馬鹿w
>>314 >自我が発生しても、それが物質的な要素に還元できない事実は変わる事はなく
おいおい、人体というのは完全な物質的要素に還元できるんだろ。前スレで
自分でそう言っていたじゃないか。「哲学者最高位というのは唯物論で理解できる部分」
とか何とか言って。
その物質的要素を再現することによって、自我をいくつでも自由自在に作れるんだぞ。
工場で車を作るのとおんなじだ。
それで何で「物質的な要素に還元できない」ことになるんだ。なんでそう馬鹿なのお前w
>システムが解明されない以上、そこに非物質的な作用などが「無い」などの結論を導く事はできないしね
でも非物質的な作用などが「有る」という証明もできないんだろ?
つまり「非物質的な作用などが無い可能性もある」ということだろ?
つまり「唯物論は正しい可能性もある」ということじゃないか。
いい加減に理解しろw
333 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 09:00:41.05 0
334 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 09:22:53.45 0
最高位君、バレバレじゃないですか? 「少し」どころか、あちこち必死になって調べたんじゃないの? でさぁ、ごまかすしかないので、 わざわざ変則的に一部だけ抜粋、あたかもいう説明をしている辞書もあるよと(笑) ずるいのか、おっちょこちょいなのか、ほんとは分らないけどな。
335 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 09:30:37.78 0
>衛生なしでクルマの位置だけでは・・ こういう変換ミスはよくあるし、 脱字などもよくあることだからあまり指摘することもされることもないけど、 「爆笑」はほっとけまへん。 飽きたから、このへんでもうやめる。
別に最高位を擁護するわけではないが、 たとえ一人(自分)であっても、爆笑は使用される例はある。 言葉というのは、必ずしも、辞書通り、字義通りに用いられるとは限らない。 (あくまでも、辞書というのは、その編纂時の多数決的使用例の集積だから。) 語義が(時代によって、長い歴史の間で)変遷するのは、 原義・語源を外れた使用例が「蓄積され」「認知され」「定着する」からに他ならない。 現に、そのようにして正反対の意となった語句・文句は山ほどある。 「爆笑」で言えば、(特に、相手の言動を嘲笑する場合、荒唐無稽な発言を嘲る場合に) ≪ アホかw 『爆笑させんなwww』 ≫ という使用例となる。 これが、《「自分が大笑いさせられる」ような滑稽で馬鹿馬鹿しい発言》なのか、 《「【みんなが】大笑いさせられる」ような滑稽で馬鹿馬鹿しい発言》なのか、は 使用者に於いても明確にされていないが両義を含み得るし、 《爆発的な「笑い」(の発生)》という字義で取れば(寧ろ、イメージとしては、辞書の語義よりも腑に落ち易い)、 【大勢か一人か】ということが問題とされない傾向が発生しても、何もおかしいことはない。 (勿論、造語者は、大勢の笑いだから、爆発的な規模である、というところから持ってきたのだろうが・・。) 清少納言だったか紫式部だったか忘れたが、「小さきものは、みな【うつくし】」と言った。 今の「うつくしい」と同義だと習ったかい? >>ALL 過去、何度も何度も話題に上って、今また言われているので、一度横レスしておく。 私もまた、自分一人の笑いについても、「爆笑」を用いる一人だ。
独我論的にいえば、言葉の正しい使い方もくそもないわな。 自分が使いたいように使うまでだ。
338 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 09:48:43.38 0
それは「腑に落ち易い」wことですな。
>>336 補
もう少し今回の(というか、こうした方向での)使い方が発生する理由を探ってみれば、
『爆発的規模の笑い』というニュアンスは、字義からして、共通する要素と言える。
では、一人か大勢かという違いは何に起因するのか?
それは偏に、解釈の問題でしかなく、
≪「大規模で、爆発的に生じる笑い」は、大勢が集まっていて、全員が笑わなければその規模にならない≫
と見るならば、『大勢が笑うこと』であるだろうが、
≪「爆発的な」ということが、
>>333 の【1】にあるような「大笑い」の更に上のグレードとイメージされた場合≫
≪「爆発的な」ということが、「瞬間的に」「突発的に」(→「じわじわ来るなw」の対なるものとして)とイメージされた場合≫
どちらも、大勢である必要はない。
また、
≪「自分だけでなく、他の大勢の者も、貴方の言動に笑いを堪え切れませんよ?w」 という含みを持たせたなら≫
辞書の意味のまま、誤用せずに用いていることになる。「いやいやw たぶん、皆笑っちゃいますよ?w」と。
この件に関しては、辞書や国語学者がどうこうとか無意味な気がする。
340 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 10:03:20.96 0
指摘された本人が、辞書引いちゃってるからね。 “皆笑ってますよ”という意味を含めたつもりなのだ、 と開きなおっちゃえばよかったのに。
341 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/17(日) 11:26:59.93 0
う〜む どうやら辞書によると、爆笑については私が間違えていたようですね ごめんなさい 悪かった しかし納得がいかんなぁ・・・ 私は幼少時から、体験的に爆笑を使ってきたし これからも、もちろん使うだろう 大阪じゃ、いちいち分けて使ってる人の方が明らかに少ないからね なんで辞書では限定的な意味のみなのか、不服だね 責任者出てこい!て感じ 誰が、何を根拠に、何の権限で、爆笑の意味を限定しているんだろうかねぇ まぁネットでは普通に(爆)とか使うわけだし (爆笑)だけが虐げられねばならぬ謂れはないはずだよな
「聖人君主」と書いている最高位が言いわけしても全く説得力がない。
343 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 12:54:33.75 0
テレビ東京の「赤っ恥・青っ恥」でやってた
344 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 14:16:23.44 O
>>329 存在する原因が宇宙の根本問題であるのは、水素でも『私』でも同じ事です。ですから、
>『私』が存在する原因性などない。
それは単なる思いつきを信仰しているだけだね
そんな事は、わかっていない
それは宇宙の根本問題
いずれにせよ
「私は脳による物理現象の結果ではないとはいえない」という事になるね
345 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 14:19:33.55 O
なにしろ自分で「わかっていない」と明言しているのだからね
346 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 15:10:49.40 O
>>216 マシンAかマシンBかの機器の違いではなく、それぞれのマシンにおいて
走っているOSはそれぞれ別の現象であるというところに道があるような…
例えば、OSを走らせたままの状態を保ちつつ、代謝のように
マシンを構成する部品、いや分子でいいか、を入れ替えていったらどういう事になる?
そうして、そっくりマシンを構成する物質を入れ替えたならば、
その走っているOSは特定の物質に依存せずに発現している(物理)現象という事にならないかい?
>>346 >>267 で一応それっぽいことを言ったつもりなんですが。
今更同一人物を証明するのも不可能なのですが一応
>>216 は
>>267 です。
真面目な話をすれば、ここでマシンを例に出したのはその「分子単位で交換」をさせないためだったのです。
端的な例を挙げるならば、ハードディスクを取り替えたらそれは最早別のPCですよね。
PCには新陳代謝も恒常性も無いのだから、固定したモデルとして扱いやすかったのです。
他方、人間の場合は人体を構成する物質が絶えず入れ替わっているわけです。
エネルギー変換やホメオスタシスのような形でマシンを構成する原子を入れ換えられるなら、それは殆ど生物のようなものです。
物理的な複雑さを脇に置くためにマシンに例えたものと思ってください。
私個人としては、
>>346 氏の意見について特に反論することはありません。
また、
>>216 において特定の物質に依存しているという点を強調したつもりもありません。
あくまでも「私」の存在性というものについて、思考実験上で語る場合においては、物理的な現象の差異について語るしかないと言ったまでで。
348 :
考える名無しさん :2011/07/17(日) 17:23:28.08 O
>>347 そか、
>>267 を書いた人か。
最高位は物質に依らないから『私』の原因は絶対にあり得ないって言うけど、
そう断定する事はできないよねえ。
最高位の『私』については理解しているんだけど、
この原因がありえないって言い切ってるとこだけは賛同しかねるんだよなあ。
でも言っても聞かないし。
最高位の言ってる原因性とは、何故自分が存在するのか説明がつかないってことでそ。 そんなの自分だけでなく全ての存在についても同じでそって言っても最高位は聞く耳持たない。
350 :
考える名無しさん :2011/07/18(月) 05:42:13.09 0
馬鹿最高位は、無い物ねだりなんだよ。 主張するんだったら、存在に至る必然までとことん説明してもらおうじゃねえか、 じゃないと“無力だ、時代遅れだ”と罵倒してやんぞ、とやくざかガキの論理で押しまくる。 分ってない証拠。
351 :
考える名無しさん :2011/07/18(月) 05:53:27.98 0
やっつけるのが目的化しているのは、最高位が前時代的なマルクス主義的唯物論に嵌った世代なのかも
352 :
ゲーム :2011/07/19(火) 09:10:14.78 0
>>341 最高位、その「爆笑」の件では謝る必要はない。かなり以前にも、これが
取り上げられたことがあり、そのときは、この私が裁断した覚えがある。w
「爆」には“大勢で”という意味はない。
爆弾、爆発…
>>336 が指摘しているとおりである。(これ、素人氏?)
「はじける」といった意味に使われてきたのだろう。
では、なぜ爆笑に限って「大勢で」という意味が付与されたのか。
それは、日本人が一人で弾けるように笑うことはない、とされてきたから。
一人だと、せいぜいニヤニヤかクスクス。(これとて訝しがられるが)
それ以上のハデな一人笑いは、変人・奇人あつかいされるのがオチだった。
が、最近は一人暮らしも増え、テレビをみていて、一人でバカ笑い、大笑い
することもありうるのでは?最高位には、今後も一人爆笑していただきたい。w
これも
>>339 が述べているとおりで、言葉には確定した意味などない。
で、哲学者最高位の「私」の立場からは他者の存在やその他の存在は どう理解されるのかな?例えば、ニュートリノとかは「私」の体も常に 通り抜けてるはずだけど、他者が構築した大規模な施設や、他者が 組み立てた理論的枠組みがなければ、その存在自体確認しようもない よね。「私」的にはそいうものは存在しないことになるの?それとも 存在を認めるとすると、どういう意味で認めるの?
何も考えてないですよ。中途半端な独我論です。
355 :
考える名無しさん :2011/07/19(火) 15:05:44.36 0
中途半端なだけに、おさらいしないと整合性が保てなくなりました
356 :
考える名無しさん :2011/07/19(火) 15:26:02.57 0
昔の自分の書き込みを、おさらいしたい おさらいは、他人から教わった事を復習することですが、 『私』が中途半端な書き込みをしたのではないかと不安になり、過去のログを探してもらいました。 昔の『私』の書き込みを読み返し、それを繰り返し確認する事を余儀なくされた『私』が「いる」のです。
「昔の『私』」は、「私」じゃないでしょう?
>>357 いいね。鋭いツッコミだ。
スワンプマン問題の原理で、他人の記憶が脳内にできた時、その記憶の中の「昔の私」は私か?
とか、面白そうな話題だ。
359 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 00:53:30.76 O
最高位は他者の意識や自我といったものの存在は認めてるんじゃない? ただしそれらは「私」ではない、と言ってるだけで。 彼の言う「私」とは、つまり私の原因性とやらは、物理的な現象に還元できるものではない、っていうのが彼の主張でしょ? 唯物論に従って思考したら、唯物論とは矛盾する結論が出てきた。ゆえに唯物論は間違っている。 っていうのが最高位の言わんとするところだと解釈してるんだけど。 で、唯物論が間違っているんじゃなくて思考の過程に不具合があるんじゃないかっていう突っ込みをいろんな人からされてる。 現状はこんなところ?
最高位に反論してる人たちは、永井の〈私〉なんかも知らない人たちだろう。 ちょっとピントがずれすぎてるよ。。。
永井読んでますがそれが何か?
最高位はピントがズレてるどころじゃなくて、全てめちゃくちゃ。
こんなスレに来るやつで永井読んでないやついないだろw
へーw で、永井の〈私〉を、唯物的に説明できると思ってるの?ww
私とは何
>>364 説明出来ようが出来まいがどっちでもいいよ
>>364 「私」に限らず、この「石」が、この「石」であることだって、説明できない。
これは唯物論に限らず、どんな論でも無理。
そして、説明できないことは、唯物論の否定を意味しない。
368 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 09:30:59.03 0
『私』の正体は解りません、と言った時点で自滅しているのさ。 あとは、「ある」「ある」の連呼だけ。
369 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 10:35:41.84 0
安易に「自分自身」とかいって分ったつもりでいるわけなんだが
370 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 10:58:36.17 0
>最高位は他者の意識や自我といったものの存在は認めてるんじゃない? ズレまくりだな。他者の存在と「私」の存在の関係を説明しなければ 「私」の存在について論じることにならない。
372 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 11:29:07.27 0
“おさらい”だよw 755 :哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2005/12/10(土) 05:55:43 ただ、人間と同じく、天上天下唯我独尊の『自我』を、機械の作用によって作るなどという事は 物理の特性から考えて、原理的に不可能だよ と言ってるわけです ↑ ↑
373 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 11:30:51.95 0
はいはい、“おさらい”w 哲学者最高位 精神の根本には『私』という物理現象ではない存在が 鎮座している以上 作成は不可能 主観性を、外から設計図によって作成する事はできない
おさらいしときたいんだけど、哲学者最高位的には「我思う故に我あり」 だから、過去の自分は「我思った故に我あった」になるの?それとも 「我思ったと思う故に我あった」になるの? 生まれたばかりのときは「我思わない」から「我なかった」になるの?
375 :
考える名無しさん :2011/07/20(水) 15:00:59.07 0
生まれたばかりのときは 「忘れた」 と、馬鹿最高位は言ってたぞw
永井の「私」って魂のことでしょ? で、その上で最高位が明らかにするべきは「私」は物理現象ではない″ってことだよね。 この場合、他人から見た個人としての私とは違う意味で使われている。 例えば植物状態になった私がいるとして、その物理現象を見て尚それを私だと思う人もいるだろう。 しかし、植物状態になった人は一般には「思考する」ことはないとされている。 単純に含意関係で捉えた場合には、我思う″なら我有り″が導けるらしいのだけど、 この場合植物状態の私が思考する″ことが可能だと示さなければ、「私」があるかどうか確定出来ない。 ゆえに、他者が私を私と認識することと「私」の存在とは関係無い、と言える。 まあ、我思う故に我有りも色々と解釈次第で意味が変わるらしいから反論は容易だけどね。 しかし、「私」が物理現象ではないという点はどうにかして明らかにしてもらわなければ議論が進まない。 現在の最高位氏は、謂わば証明における正当化でつまづいている状態だ。 「自分ルール」以外の形で示すことが出来なければ、真っ当な議論にはならないだろう。
377 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 03:09:29.70 0
>>376 >しかし、「私」が物理現象ではないという点はどうにかして明らかにしてもらわなければ議論が進まない。
とても簡単な理屈ですよ
過去に何十回も説明したけど、一つ教えたら一つ忘れる人ばっかりなので
もう疲れちゃった
過去ログでも読んで下さい
>現在の最高位氏は、謂わば証明における正当化でつまづいている状態だ。
なんで? どこが?
>「自分ルール」以外の形で示すことが出来なければ、真っ当な議論にはならないだろう。
過去に何十回も何百回も説明したけどね
なんで一つ言ったら一つ忘れるのかなぁ
まぁ「我思う故に我あり」は「懐疑できる」とか言っちゃう人もいるしね
私の場合、いくら懐疑できる!と思っても、それを懐疑しているのは私なんだから
「我あり」は疑えない
という結論しか導けないのだが
2ちゃんには「疑いうる!」と胸を張って食い下がってくる人がいるし
そんな人に、いったい何を、どう説明すればいいのか
途方に暮れるね実際
>>377 論理学ってやったことあります?
記号論理学の、古典命題論理でいいんですけど。
所謂日常的に論理学と言われるやつ。
PとP→Qが前提とされている場合にQを結論出来る、等々。
そういう枠組みで言えば、あなたはいまRという命題を前提として話をしようとしているけれど、その命題ははたしてまともなのかという問題が出てくるわけです。
もしかしたらそれはゴールドバッハ予想かもしれないし、「ラーメンはカレーより美味い」という主張かもしれません。
その命題を使って主張をするのなら、その命題が妥当であると正当化しなければいけません。
あなたは正にその点でつまづいているのです。
「私」は物理現象ではない。なぜなら物理法則では「私」を再現することが出来ないからだ。
というのがあなたの主張だとしましょう。
その場合、本当に「私」は物理法則では再現することが出来ないのか″という批判が出てくるでしょう。
あなたはその批判に対し、どのように答えるのでしょうか。
思考実験上で私を再現してもそこに「私」がいないから、という理由の場合には
>>312 に返答願います。
そうでないのなら、その理由を説明願えませんでしょうか。
正当化というのはあまり正確な表現ではないかもしれないですね。 強いて言えば、問題設定に失敗しているというところでしょうか。 何が問題になっているのかある程度の合意が得られなければまともな話し合いにはならないでしょう。
>>377 >過去に何十回も説明したけど、一つ教えたら一つ忘れる人ばっかりなので
■最高位氏の問題点
・自分の考えをブログとかwikiとしてまとめて公開すればいいのにそれをしない。
・何度も繰り返して説明するのは面倒だけど、自分の考えをまとめておくのも面倒だとかいうワガママ。
■最高位氏の「私」は唯物論的「私」
そもそも最高位氏の「他の物体が私になる事はありえない」「私はこの体にある」という
主張自体が唯物論的制約によるものです。
この世界が唯物論的世界でないなら、多数のロボットを遠隔操作するように、
この世界とは別のところにある「私」が、この世界の「この体」だけでなくこの世界の「他の物体」
と繋がっていることがあってもいいでしょう。
ある存在性を特定の物体の存在の仕方に制限するのは唯物論の立場にほかなりません。
水分子Aの重力と水分子Bの重力は、その分子構造が同じでも、Aの重力はAの重力であり、
Bの重力にはなりません。唯物論では「私」はこの重力のように特定の物質に規定され従属するものです。
最高位氏の「私」もこれと同じであり、最高位氏はひたすら唯物論の正しさを唱えているわけです。
■最高位氏の問題点
・自分の考えをブログとかwikiとしてまとめて公開すればいいのにそれをしない。
・何度も繰り返して説明するのは面倒だけど、自分の考えをまとめておくのも面倒だとかいうワガママ。
■最高位氏は唯物論を理解できていない唯物論者
最高位氏は「私」の存在性を物理的に解明できるかどうかを問題にしていますが、
そもそも唯物論は説明や解明ができることを主張しているのではなく、
「非物理的なものは、(どういう仕組みでそうなっているのかはわからないが)物理的なものに従属し規定される」
という考え方であって、「他の物体が私になる事はありえない」「私はこの体にある」というように
物理的な「体」に「私」が制限されるのは、まさに唯物論の立場なのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96 唯物論(ゆいぶつろん、ドイツ語:Materialismus)とは、事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。
今までの最高位のレスをずっと追ってみたけど、 独断的教義と揚げ足取りと罵倒しか書いてなかったよ。 そんなのまとめたって意味無いし。カスカスのカス。
383 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 10:47:58.24 0
最高位の言う「私という主観性そのもの」は、 唯物論が対象とする「すべての物事」の内の1つとなりうるのか。 はなはだ疑問だわ。
384 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 10:59:33.05 0
最高位が言ってることはここ150年ぐらいに哲学の世界で行われた 独我論批判を無視(というより多分知らないのだろう)しているが、 哲学的主張の一つではあるだろうな。それに対し、反論は、 まったくトンチンカンなのが多いように見えるなw
385 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 11:41:12.86 0
『【私】を記述してください』というスレの趣旨に応えて いないし、「我思う故に我あり」で終わりなら、「私」 の時間的連続性や同一性すら確保できない。各時点で 「疑いえない」とする「我」を同一の我とする根拠が どこにもない。
最高位がトンチンカンだから、それに合わせて同じ土俵に降りてあげてるのに・・・
387 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 12:53:10.61 0
もともとあまり高いところにいるわけでない人が、 「降りてあげてる」つもりになるのはどんなもんだろうかw
最高位が低いんだから、普通でも十分高いってことだろ
最底辺のくせに「最高位」のつもりになるのはどんなもんだろうかw
390 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 13:21:45.34 0
warota
391 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 15:31:42.87 0
>>378 >「私」は物理現象ではない。なぜなら物理法則では「私」を再現することが出来ないからだ。
>というのがあなたの主張だとしましょう。
>その場合、本当に「私」は物理法則では再現することが出来ないのか″という批判が出てくるでしょう。
>あなたはその批判に対し、どのように答えるのでしょうか。
「私」を物理法則で再現できる可能性が、ほんの少しでもあるのですか??
その可能性を教えて下さい
>思考実験上で私を再現してもそこに「私」がいないから、という理由の場合には
>>312 に返答願います。
ん?
>思考実験における思考する「私」はつまり、世界を再現するという意味で、現実世界における思考する神の如き存在である。
>しかし神は現実に存在することはない。
>よって現実において神を問題にするのは不適当である。
「人間の精神も全ては物理現象である」という唯物論の考え方でいくと
「現実世界における思考する神の如き存在である。」というのは、おかしな話だし
その時点で「人間の精神性を唯物的な対象にはならない」という前提になり
唯物論の主張そのものが崩壊する
また、それ(人間の精神性)を哲学的な問題にするのは不適当であるという考え方そのものが
お話にならない
哲学的命題からの逃げ以外のなにものでもない
>という文章における本来的って何?
本来「的」でしょう?
ず〜っと、それで成り立ってきて、何も問題なかったわけですから
>私が存在するのはイレギュラーなのでしょうか?
イレギュラーではないんでしょうね
>私自身が存在するに至ったのは、世界がそのように変化したからです。
なんというテキトーな回答なんでしょうかね
小学生ですか?(苦笑
392 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:34:06.63 0
きたーーーーーーっ、逆質問www
393 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:37:15.50 0
>ず〜っと、それで成り立ってきて、何も問題なかったわけですから 何の問題も無かったって、どういうこと?
394 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:44:34.62 0
主観的に、というか独りよがりな見方からすれば、 『私』が生まれてこなければ、私が私の存在論的問題に苦悩することはなかった、というだけのこと
395 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 15:47:05.34 0
>>385 >『【私】を記述してください』というスレの趣旨に応えて いないし、
それは当時、『素人』というハンネの人が、間違えたスレタイを付けて立てただけの話
>「我思う故に我あり」で終わりなら、「私」
>>の時間的連続性や同一性すら確保できない。各時点で
>「疑いえない」とする「我」を同一の我とする根拠が
>どこにもない。
連続性や同一性 というのは、別の話であって
なんら「我あり」の否定にはつならがらない
>>388 >最高位が低いんだから、普通でも十分高いってことだろ
たまには普通の事を言ってくれよ
では、上記の
>>385 へのレスに対して、何か普通の事を言ってみ
396 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:48:49.10 0
唯物論は、 『私』を物理法則で再現できる可能性があるなんていってねーよ。 あほか。
397 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 15:53:50.92 0
>>393 >何の問題も無かったって、どういうこと?
問題なく成り立ってきたんじゃないの?
何か問題がありましたかな?
>>394 「主観性」という事の本質 がわからず
ただ客観的な見方だけの角度からだと
唯物論の間違いは見抜けなかったでしょうね
398 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:56:51.51 0
>問題なく成り立ってきたんじゃないの? 逆質問でかえすな。『問題なく成り立ってきた』とはどういうことだ?
399 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 15:57:07.68 0
>>396 じゃあ
「人間の精神性は、脳という物質の物理現象による結果である」というのは間違い
でいいんだね?
400 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 15:59:20.98 0
>唯物論の間違いは見抜けなかったでしょうね 唯物論の間違いを主観的に見抜いたとでもいうのかね?
>>399 なんという論理の飛躍。
こいつバカかよ。
402 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:01:18.92 O
唯物論は間違いであるとする根拠が余りに陳腐。 全く否定できていない。
403 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:01:49.03 0
「人間の精神性は、脳という物質の物理現象による結果である」ということと 『私』を物理法則で再現できる可能性がある ということは、まるで違う事だぞw
相変わらず頑迷で、そして愚かだなぁ・・w
>>391 あのな、横から見た時の、(貴方への皮肉としての)
>>378 の肝は
≪ >「ラーメンはカレーより美味い」という主張かもしれません ≫、これだよw
貴方の言う『私』の特殊性は、まさに↑の文の如きことなんですよ。
つまり、
「ラーメンはカレーより美味い」
→「《ラーメンがカレーより美味いこと》を唯物論は説明できない。物理的要素に還元できない」
→「よって、唯物論は間違い」
と言っているわけさ。 この【構図】が解るか? この歪さを散々指摘されてきてるわけだ。
カレーとの比較が具体的過ぎると言うなら、最初の前提を
「ラーメンは宇宙で一番美味い」 にしてもいい。
《私が私であること》は、《ラーメンの味が宇宙で一番美味い味であること》と何ら変わりがないのさw
>>399 いやいや
「人間の精神性は、脳という物質の物理現象による結果である」
で正しいよ。
406 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:15:15.92 0
揶揄するとすれば、最高位なるひとが言ってる説は、 「これと物理的属性が完全に同じ複製が仮に作れたとしても、 それは『これ』ではない。それゆえ『これ』は物理法則で 再現できない」みたいなもんだなw
ゆえに、最高位はただの馬鹿である
408 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:23:12.80 0
かなり人にとっては大事なことである、何が美味しいかを説明できない唯物論は不完全。 モノとココロは違う、という俗流二元論を克服できない所以もそこにある。
409 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 16:30:59.61 0
>>398 ん?
「成り立ってきたよね」「問題なかったよね」ということ
>>401 あのね
また、一つ説明したら一つ忘れるパターンだな
総合的に考える事ができないのかよキミは
>>402 なんで?
>>403 『私』を物理法則で再現できる可能性はゼロだが、脳という物質の物理現象による結果である
という主張なのかい?
どういう事か、詳しく説明してください
>>404 >《私が私であること》は、《ラーメンの味が宇宙で一番美味い味であること》と何ら変わりがないのさw
主観については他人が確認する事はできない という意味では、確かに近いが
「何ら変わりがない」というのは、あまりにも大雑把じゃないか?
擦り傷と切り傷が、どっちが痛いかは個人差はあるが、基本的には誰しも痛いんじゃない?
とか、全く理解できない事でもないでしょう
ラーメンが嫌いな人もいれば、カレーが嫌いな人もいるが
大抵の人は、手術する時は麻酔を希望するでしょう
これは主観的な感覚だが、痛みは軽減させるべきだと、一般的に医学として成り立っているしね
よほどのアホでなければ、「ラーメンが一番うまい」と何ら変わらない なんて思わんと思うけどな
何が美味しいかを説明できる理論て唯物論以外にないだろ。 何が美味しいかを唯物論以外で説明することは出来ない。
>>408 >何が美味しいかを説明できない唯物論は不完全
それを説明できそうなのが、唯一、唯物論なんだけどね。
物質の性質が、舌という器官にどういう反応を起こし、
信号が伝えられ、脳がどのように感じるのかを
トータルで説明しないといけないし、説明を受ける方の能力も問題になる。
デジカメの画像が0と1の信号であるのに、
人間に0と1で説明しても理解できないから、
バイナリ表記は不完全かと言えばそうではない。
説明が理解できるかどうかは、不完全であるかとは関係がない。
最高位はこのスレで完全に論破されたので悔しくて粘着してるんだね。 小学生みたいにダダをこねてる。 〃〃∩ _, ,_ ⊂⌒( `Д´) < 論破された悔しい! `ヽ_つ ⊂ノ ←最高位 ジタバタ _, ,_ (`Д´ ∩ < 論破ヤダヤダ ⊂ ( ←最高位 ヽ∩ つ ジタバタ
413 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:38:44.67 0
最高位君とその批判者の皆さんの議論はそれはそれでいいけど、 それとは別に「私」の記述可能性(定義可能性の方がよさそうだけど) に関してもっといろいろな意見を出して議論を広げていかないか?
414 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 16:40:48.82 0
415 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 16:41:10.78 0
>>406 いや
「これ」(この物質)が、何で『私』なのか
を物理法則で特定できない
という事だね
おいおいw
『私』ってのは物質だったのかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>415
417 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 16:52:16.04 0
418 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 17:28:38.44 0
>連続性や同一性 というのは、別の話であって >なんら「我あり」の否定にはつならがらない なら、「我あり」はその場限りのもので、再現性などもとからないわけだ だけど、それなら「我思う、即ち我あり」と言わなきゃならないね。 「故に」だと前後関係になって時間が既に導入されてしまっている
419 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 17:38:45.78 0
>>409 >「成り立ってきたよね」「問題なかったよね」ということ
誰に同意を求めているの?
君の勝手な思いの中では、そうなんだろうけどなw
俺には、問題があったとも無かったともいえん。
知らない事だから。
私が考えているのではない。 脳が考えている。脳が、私が考えると考える。
>>417 ハァ?(゚∀゚)
>>415 >「これ」(この物質)が、何で『私』なのか
≪ この物質が、『私』である ≫ことの理由(原因)を問う文章だよな?
≪ この物質が、『私』である ≫というこことが、まず目の前にある前提ということだよな?
そこから出発してる問いだよな?
『 >「これ」(この物質) 』ではミクロ過ぎるとして、それを「この肉体」と置換してもいい。
しかし事情は同じだ。
≪ この肉体が、『私』である ≫ことの理由(原因)を問う文章だよな?
≪ この肉体が、『私』である ≫というこことが、まず目の前にある前提ということだよな?
そこから出発してる問いだよな?
つまり、 『私』とは、今自覚される『この肉体』のことだな。少なくとも415の前提であるならば・・。
*(そのように「自覚している」、主体としての私はどこへ行ったんだい?
肉体が肉体を知覚するのかい?眼球が自らを視認するかの如き困難さを孕んでないか?)
だから、問い自体の構図を見極めろと言う。
≪『この肉体』は、なぜ『この肉体』なのか?≫≪なぜ、『あの肉体』でなく『この肉体』だったのか?≫
という問いと、100%のシンクロをするわけだw
解るか?w
422 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 18:28:17.36 0
機械論的唯物論スレで機械論的決定論につき合っていたら ああ、唯物論ってやつは、 『私』が存在するに至る必然性を全部語ってくれる論なんだ 私が存在する法則があるんだ。 と勝手に妄想するようになっちゃったのかねぇ だとしたら、トンデモなオバカだねぇ
423 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 18:31:45.58 0
>>418 >なら、「我あり」はその場限りのもので、再現性などもとからないわけだ
いや、それはどうかな
そもそも「連続性を、証明する事はできない」という事を、「連続していない」と結論づけるのは
とんだ勘違い
>>419 >俺には、問題があったとも無かったともいえん。
>知らない事だから。
じゃあそれでいいんじゃない?
>>420 >私が考えているのではない。
>脳が考えている。脳が、私が考えると考える。
ふむ、他人しかいない世界なら、それで説明終わりなのだが
でもちょっと知能の発達した人ならば
なぜ「あの脳」ではなく「その脳」がキミなのか
という疑問に気づくのですよ
で、『私自身』は、この脳の何の要素なのかな?とね
>>421 ん?
単にキミは、素朴実在論的な前提から先に思考を進められないだけだな
>だから、問い自体の構図を見極めろと言う。
キミのは素朴実在論で、私の問い自体を理解できてないんだからさ
無理だろうけど、こっちの話を見極めてくれないと、お話になりませんな
>解るか?w
文章的におかしいんで、結局何言ってるのかわかりません
ひょっとして、神経科とか通ってる人ですか?
424 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 18:37:41.87 0
唯物論を誤解しつつ 存在論的な問題にかってに思考を進めている馬鹿でしょ?
425 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 18:46:30.73 0
>>422 いや単に
唯物論の「人間の精神性も全ては物理現象である」とか
「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」という主張は
間違いだ という事を言っているだけなんだが?
なんだかキミは、いろいろと突拍子もない空想を広げるのが好きみたいだね(苦笑
>>424 >唯物論を誤解しつつ
では「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」というのは
唯物論的に見ても間違いであると言うのかね?(笑
>>425 >唯物論の「人間の精神性も全ては物理現象である」とか
>「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」という主張は
>間違いだ という事を言っているだけなんだが?
別に間違いではありません。それが間違いに思えるなら、君の頭がおかしいだけでしょう。
427 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 18:53:09.70 0
>「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」という主張は >間違いだ という事を言っているだけなんだが? で、その根拠は?
428 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 19:03:14.97 0
>>426 だったら、むしろキミが機械的唯物論者に影響されてるだろ(爆笑
>>427 新参者? もぉ何十回も説明してるから、いい加減にしてくれ
429 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 19:05:11.84 0
>「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」という主張は >間違いだ という事を言っているだけなんだが? 唯物論の主張が間違いであるという根拠を示せないものだから >「私」を物理法則で再現できる可能性が、ほんの少しでもあるのですか?? という逆質問で逃げるしかない。 しかも、人間の精神性という話から、 『私』はどうして私だったのかとかいうオバカな話に変えてしまう。
>>428 >新参者? もぉ何十回も説明してるから、いい加減にしてくれ
■最高位氏の問題点
・自分の考えをブログとかwikiとしてまとめて公開すればいいのにそれをしない。
・何度も繰り返して説明するのは面倒だけど、自分の考えをまとめておくのも面倒だとかいうワガママ。
431 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 19:12:39.97 0
「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」ということは 「脳という物質」が無くても、人間が思惟するということは無いということ。 実にシンプルな哲学的仮説だが、これが間違いだとする根拠が示せるのか??
>>423 あのな・・w
もう少し、自分の言葉遣いに対して慎重になれよw
>>415 >>「これ」(この物質)が、何で『私』なのか
という文章(言明)は、
≪【「これ」(この物質)を】【『私』だと】【見做している(≒観察・思考・自覚の上で判断・断定している)】≫
という意味でしょう?
つまり、【『肉体』を『私』だと見て】、なぜそうなのか?と理由を問うているわけだ。
だとしたら、「肉体が生じること」が「私が生じること」に他ならない。
少なくとも、【貴方自身の立てた前提、415の発言を成立せしめる前提】がそういうものなのです。
数多存在する肉体の中で、各々が唯一であることは、唯物論的には真です。
「この肉体」が「あの肉体」であることなどあり得ません。
で、「この肉体」が「この肉体」であるのも、「この私」が「この私」であるのも、同じことなのです。
「この肉体」が「この肉体」であるのも、物理的要素によるのでなく、論理的、定義上の必然なわけです。
433 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 19:16:50.77 0
「人間の」ということは、人間一般のことなんだよ。 人間一般ではない『私』なんていうものwを持ち込むから、おかしな論法になる。
434 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 19:23:38.83 0
435 :
哲学者最高位 ◆Trvm6PB/QQ :2011/07/21(木) 19:47:11.63 0
>>431 それも素朴な意見ですね
思惟というのは精神活動であって
これには確かに脳という物質が必要である可能性が高いですね
しかし、これは私の言っている『私の存在性』とは次元が異なるのですよ
どうやったって『我あり』は物質的な要素に特定できず(過去に説明ずみ)
「天上天下唯我独尊」なのですよ
>>432 >つまり、【『肉体』を『私』だと見て】、なぜそうなのか?と理由を問うているわけだ。
>だとしたら、「肉体が生じること」が「私が生じること」に他ならない。
それは素朴な結果論であって、とりあえず 「のかな?」にとどまらざるをえない
>少なくとも、【貴方自身の立てた前提、415の発言を成立せしめる前提】がそういうものなのです。
それは結果論的な事実報告としての、とりあえずの結果論的な前提 なのであって
ここからは
>だとしたら、「肉体が生じること」が「私が生じること」に他ならない。
は、導けない
これは、キミの希望的観測から来る論理的飛躍
厳密に考えると結局、なぜなのかという理由、原因性については明らかにできないのだが
キミの場合、素朴実在論的感覚に戻って結論づけてしまっているにすぎない
>>431 > 「脳という物質」が無くても、人間が思惟するということは無い
ちょっと微妙な表現ですな。
人間から脳を切り取って、例えば何らかのコンピューターに置き換えたとして、
その人間がいかにも思惟しているように見えた場合であっても、それは思惟ではない
という意味に解すると、そんなにシンプルでも自明でもないように思う。
また、脳も人間もコンピューターもない、ただの空間に、思惟だけがある、ということはない
という意味に解すると、それは逆にあまりに当たり前のように思われる。
(いや、これも自明ではないという人もいるか?いるならいるでもいいけど)
レスの流れと何も関係なくてすまんけどw
>>425 >唯物論の「人間の精神性も全ては物理現象である」とか
>「人間の精神性は、脳という物質の物理現象の結果である」という主張は
>間違いだ という事を言っているだけなんだが?
おい、最高位よ、お前、前スレで
「精神活動は脳という物質の集合体による物理現象の結果である
と考える事ができます」って、断言していたじゃないかよ(そんなこと
言っていいのかいなと思ったけどw)。もう忘れたのか。
お前の本来の問題意識では、「人間」とか「精神性」とか「自我」とか、
「一般名詞」を出したらだめなんだよ。
とにかく、<私>の一点張りで押し通さなけりゃ。
(本当はそうなると唯物論とは関係なくなるんだけどw)
自分の問題意識くらい、いい加減に把握しろ。
438 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 20:30:29.06 0
哲学者最高位の議論が破綻していることは、もはや誰の目にも明らか であり、まともに議論しようとしているようにも見えない。スレタイ どおりに「【私】を記述する」という哲学的議論が他者によって 行われることを阻止したいという意図だけが明確に伝わってくる。 おそらく最初からそれが目的なのだろう。
>>167 >厳密的には、私は無いと言い切ってはいないよ?
>「PCに自我なんてないだろ」 と言ったわけで
最高位の中ではこんなんが正しいと思い込めてるんだから、もうなにを言っても無駄だわ
440 :
考える名無しさん :2011/07/21(木) 20:38:36.06 0
>>435 >私の言っている『私の存在性』とは次元が異なるのですよ
唯物論は君のいう『私の存在性』とは違う次元の哲学的仮説なんだよ。
(土俵が違うので)論破が無理だと言う事がわかりませんかねぇ。
>どうやったって『我あり』は物質的な要素に特定できず
人間の誰かだったら、『我あり』は、
「この体ゆえ、私が在る」と物質的な要素に特定できますぜ。
これは、『私の存在性』なんてものwとは本質的に違うんだけどな。
>思惟というのは精神活動であって
>これには確かに脳という物質が必要である可能性が高いですね
「思う」ということ、「思っている我が在る」ということが意識されること。
これが、脳という臓器の活動に因るのかも知れない・・・ということは、
「思う我」は、脳という物質に依存している可能性を否定できないということだ
>>435 ふん。
まず、君が物質の正しい概念を持っているか、どうかが疑わしいね。
君は、物質が何であるのか、知っていて発言しているのか?
最高位に代表されるような自意識の哲学史は勘違いの歴史だろうな。
>>391 まず、誤解されているであろう点について補足します。
これはレベル分けというかクラス分けというか、物事を階層化した場合について述べたものです。
思考実験の場を構成している「私」は、直接思考実験の場に現れることは出来ません。
ゆえに、「私」が思考実験上で再現できないことに何ら不思議は無いのです。
また、思考実験上で現実の「私」について直接論じることも出来ません。
つまり、思考実験の結果というだけでは何の反証にもなりません。
思考の場と現実とはそれだけ隔絶しているのです。
思考実験は、扱いに注意しなければただの妄言になってしまいます。
簡単な話でしょう?
ところで、あなたの好みに合わせた言い方で存在の原因性をというものを表現すると、
それこそ本当に世界を持ち出さなければいけなくなる。
表現としては少々不思議になるけれど、世界が一度きりのトークンを積み重ねて出来上がったのが「私」です。
トークンという単位に問題があるなら、世界が続けている変化の一部に生じた現象を切り取ったものが「私」です。
物理法則というタイプから生成される使い捨てのトークンを積み重ねているのだから、トークンに一つとして同じものはない。
実際のところはタイプの存在を認めない方が論じやすい事例なのですが、それは心情的に難しいでしょうし。
ですが、世界は繰り返しなどではなく常に新規に現れ去っていく。
だから、同じ物理現象などと言うものは存在しません。
可能であるのは過去の物理現象の再現ですが、再現としては新規に行われるわけです。
物理現象は同じ事の繰り返しという構図をまず捨てて貰った方が話が早い。
そうすれば、現実世界において過去の「私」の再現しか出来ないことも分かって貰えるかもしれません。
所詮、西洋人に龍樹の理解は無理でしょ。
445 :
考える名無しさん :2011/07/22(金) 01:28:45.65 0
「心」というのは「幽霊」とか「怨霊」とかと同様にある時代の人間たちが妄信してきた ただの迷信だっていう考え方がだんだんと強くなってきてるんだろ? そんなものに言及することなく宇宙に起こる現象はすべて説明できそうだからね。
446 :
考える名無しさん :2011/07/22(金) 09:35:37.83 0
>>428 >もぉ何十回も説明してるから、いい加減にしてくれ
そうだな。そしてその説明では間違いだとは言えないわけだがなw
447 :
考える名無しさん :2011/07/22(金) 09:41:29.41 0
消去主義を始めとして 心の哲学者たちは、ぞくぞくと素朴心理学を攻撃し始めているな
正直言って私の原因なんて説明する必要ないだろ哲学思想として。 人間は自分のやるべきことをやりその道で上達すればよい。 今の自分は何をやるべきかを考えるべきで、なぜ私がいるかとか 私の原因はなんて言ってる奴はろくなもんじゃない。 そんな自意識過剰の思想ははっきし言ってゴミ。
心の哲学も還元主義に征服されただろ。 少なくとも自己の問題については。 クオリアの位置づけがアポリアとして残ってるが。
クオリアってなんで大事なのかよく分かんないんだよね。 それって問題にしなきゃいけないの? って思うんだけど、問題扱いしたい人にとっては問題らしいし。
物質的なものと違ってどうやって生成消滅してるのか解明困難だから
クオリアこそ疑似問題だと思うんだけど。
「擬似」ってのは、「愛」とか「友情」とかと同様の「抽象的概念」という意味で? 「痛み」とか「色味」とか、定数化できないけれども、その存在だけは認めざるを得ないようなものとして。 当然、『私』もまた同様の存在形式(被認知形式)を有すであろう、と。
「私」は全然違うだろう。 砂山のパラドックスにおける「山」みたいなもの。
とりあえず、疑似問題でggってください。 山の例なんかは正にそれ。 問題を定式化する際に不適当な前提によっているため、見かけ上はパラドックスや不具合が発生しているように見えること。 つまり、クオリアはそもそも妄想の産物に過ぎないかもしれない、ということを言いたかったのです。
もう少し言葉を足すと、そもそもクオリアなんてものは実際には無いのかもしれないということです。 それなのに、クオリアが問題なのだと騒ぎ立てるのは馬鹿馬鹿しい。 問題をひねり出すためにクオリアなる「張りぼて」の概念を作り出したのかもしれません。 いずれにせよ、それはどういう経緯で問題として扱われ、その扱われ方は適当なのかということを明らかにしておいて損はないでしょう。 間違った設問からは間違った解答しか導けません。
ていうか、クオリアはその定義からして直接物理的に観測することが不可能なものであるにもかかわらず、 物理的側面にその発生原因を求めて、それが出来ないから矛盾があるって騒いでるのがクオリア問題だろ?
458 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 12:33:59.39 O
>>457 違うよ
矛盾がある と言って騒いでいるんじゃなくて
科学的に解明するのは、どう考えたって無理である
という問題
べつに矛盾とか、パラドクスとか、不具合とかいう話ではありません
459 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 12:36:52.66 0
矛盾がないのに無理があるとか とっちらかってるな
>>458 だから物理的に解明出来ないことのなにが問題なんだ?
クオリアの定義が、物理から切り離されたものである以上はそうであってもなんの問題も無いと思うが。
462 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 13:00:41.17 0
物理的に解明出来ないからといって、物理世界が変わる訳ではないだろうな
463 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 13:11:53.80 O
名前書き忘れた 人間は、あらゆる事を解明したいと考えているからね しかし、どう考えたって、あきらめざるをえないんじゃないかな・・・ という問題
464 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 13:19:15.52 0
あきらめた時点で、無問題
465 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 13:21:37.95 O
あきらめざるをえない問題がある という事
466 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 13:27:29.14 0
クオリアが物理世界に作用するのではないから、物理的に解明すべき理由が無い。 ゆえに、物理学的な問題として存在しない。 と言う事。
諦めざるを得ない問題があるかどうかは置いといて、クオリアは擬似問題だけどな
468 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 13:40:49.64 O
その考え方でいくと どんなに科学が進歩しても、人間の精神は解明できない という事になるし いずれにせよ 知を求める人類にとっての大問題
469 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 13:55:09.88 0
解明すべき理由が共有しえないという問題だけだな。
470 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:02:05.23 O
解明すべき理由 とかではなく どう考えても解明のしようがない という問題
471 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:05:12.02 0
そもそも問題となるべき問題は無いのかもしれないと言う問題なんだよ
472 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:11:49.04 O
解明できない という問題なのだが その問題が無い とはどういう事?? 詳しく説明して下さい
473 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:17:20.32 0
解明のしようがない問題の対象として 「・・・」は、本当に『ある』のか? 『ある』という結論が導けたとして、それは物理学的な問題となりうるのか? 物理学的な問題ではないとしても、「人類の大問題」として共有されるだろうか? それとも、一部の人の知的好奇心を満たすだけの問題として残るだけなのか?
474 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:33:00.66 O
個人として関心があろうが無かろうが 解明ができないならば、できないという問題は 変わる事はない
475 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:33:52.93 0
1.クオリアを科学では解明できないものと考え、そこに特別な価値を見出す。
2.クオリアは脳を研究することによって科学的に解明できるとする。
3.クオリアは哲学上の混乱から惹き起こされた擬似問題ではないかとする。
476 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:36:21.17 0
疑似問題であるならば、そもそも「解明ができない問題」ですらない。
クオリアが擬似問題だと言ってるやつはそもそも哲学がわかってない。 哲学は物理学のように研究対象を客観的に解明することを目的としてない。 研究対象について最も納得のいく結論を得るのが目的。
>>475 >2.クオリアは脳を研究することによって科学的に解明できるとする
それすら心の哲学の物理主義とよばれる一つの立場に過ぎないし。
479 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 14:45:32.86 0
誰しもが最も納得のいくクオリアの哲学的解明などないと思うよ。
480 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 14:52:08.49 O
クオリアが擬似問題って 具体的に、どういう事?
481 :
はいはい :2011/07/23(土) 14:56:36.94 0
クオリアは擬似問題であるとの指摘。 デネット・・・クオリアの消去を試みている。 信原幸弘・・・志向性とクオリアの問題に取り組み、クオリアは主観的な例化された性質ではなく、 経験の志向的特徴であるとする主張を展開。 パトナム・・・「自然な実在論」の立場を提案しつつ、クオリア概念そのものを批判。 パトナムはキムの付随性概念も批判している。
482 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 15:01:14.04 O
それでは議論にならないでしょう 具体的に説明してよ
483 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 15:11:37.98 0
クオリアは概念として取り出さされているだけで、 記述すべき「クオリアの振る舞い」は『ある』のか?
クオリアの問題が解明されないとして、その場合何が問題なの?
逆にクオリア問題が、問題であるとする立場の各個人個人の人は、それぞれなにが問題だと考えているんだ?
487 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 15:42:31.25 O
逆にキミの説明は、余計な言葉の誤用によっての擬似問題化へのすり替え行為なのではないかね? 精神活動における概念 赤の赤さ が、どこから来るのか、その根拠性がどこにも発見できない 科学的に解明できない という事実は事実であり その際、科学に問うのが間違いである という事ならば、それは精神に対する科学の限界を露呈させる結果しか導けない という結論となるだけじゃないかな
488 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 15:49:58.64 0
科学的に解明できないのではなく、解明しなければならない理由がない。 科学の限界以前に、科学の目的にはなり得ないのではないか、と言う事。
489 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 15:55:02.10 O
人間の精神における具体的な概念、観念は、科学の範疇にない という事かね?
490 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 15:57:23.15 0
いや、科学と言っても、物理や化学といった分野だよ
491 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 16:03:33.58 0
クオリアよりも、アウェアネスを扱った方が役に立つということなんだろう。
492 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 16:05:06.29 O
うむ いずれにせよ 化学や物理学では、クオリアを解明する事は不可能である という事実は事実であり 結局、そこに帰ってきたね
493 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 16:09:05.16 0
クオリアの研究は役立たずという判断だろな
494 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 16:28:00.95 0
自分にとっての赤が感じられるからと言って、人類の大問題にはならない、ということでOK?
495 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 17:02:55.90 O
もちろんクオリアが科学的に解明できないとしても 全人類の生活に何か不都合がある というわけでは無いだろうけどね しかし人間の精神を科学的に解明したい と思っていた人達にとっては問題だろね そういう問題
496 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 17:43:16.83 0
それだけの問題と言う事でよろしいぞw
そういう問題って、あんたそれで哲学者のつもりなのかよw
実際こんなことはたいした問題じゃないんだよ。 アメリカ人がアホなだけ。
そんなのが哲学の解答なのかよw
500 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 18:03:10.38 0
問題にしたい人だけが問題にすればいいだけの問題ですw
501 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 18:34:48.08 O
まぁキミ達が、この問題の重要性が理解できなくても 問題が無くなるわけではないよ(笑 てか、クオリア程度の問題意識も理解できないのに 「私の存在性」なんて言っても、理解できるわけないわな(苦笑 かいかぶりすぎて悪かった
502 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 18:38:18.75 0
じゃ、哲学者最高位君、「クオリア」ってのは何のことなのか定義してくれよ
503 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 18:51:05.17 0
しかし人間の精神を科学的に解明したい と思っていた人達にとっては問題だろね そういう問題・・ と言った後で この問題の重要性が理解できなくても と言ってのけてしまうあたり、なんだかなーーー
504 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 18:52:31.50 0
ころころと変わるよ変わるよ オバカな態度
505 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 18:58:13.77 O
まぁ仕方ないけど キミらの知能では、理解が困難なんだろね 悲しい事だけどね
506 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 19:03:12.78 0
何の反論にもなってねー・ーーー最高位みじめw
507 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 19:05:14.01 0
まぁ仕方ないけど 馬鹿最高位の知能では、自分のチグハグさを乗り越えるのは困難なんだろね 悲しい事だけどね
508 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 19:24:21.25 O
あのなキミら なんぼなんでもクオリア問題ぐらい普通に理解できな なんぼなんでも恥ずかしいぞ
最高位さん携帯持つようになったのね(^Д^)
510 :
哲学者最高位 :2011/07/23(土) 21:00:12.52 O
イエ〜ス(^O^)/ でも打ちにくいわ〜
いやあ、でも実際、クオリアが「第三者にも明らかに観測、検討できるもの」ではないのは 確かと思われるので、「第三者にも明らかに観測、検討できるもの以外は、科学的にあやふやな ものなので、検討しない」という人が現れるのは、全くおかしくないと思うけどな。 そして、そういう態度は、一つの割り切った態度であって、何も間違ったことも おかしいこともないと個人的には思うけどな。 第三者にも明らかに観測、検討できるものを検討するだけでは不満だ、という人だけが、 クオリアについてやたらと騒いでいるんじゃないの?
512 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 22:41:57.29 0
クオリアは認知論的には問題にもなろうが、それだけのこと。 アウェアネスというような重大な問題にくらべると、人類にとっては何という事も無い問題。 とくに研究費をいただいてクオリアを研究しようものなら「役立たない研究すんな」と批難されよう。
>>511 >>512 だからクオリアは科学の世界ではほとんど研究対象になってない。
クオリアが問題になってるのは心の哲学。
科学と哲学の違いもわからないやついるとは・・・
夏休みだったなw
514 :
考える名無しさん :2011/07/23(土) 23:35:07.31 0
>>512 アウェアネスの問題というのは、たとえば誰が論じているの?
面白そうだね。
515 :
考える名無しさん :2011/07/24(日) 02:13:45.37 0
>>514 日本語で表せば「気づき」「自覚」といったような意味合いの用語。
基本的には自分の存在への気づきであり何らかの意思表示ができるような状態をいう。
哲学だけでなく、心理学、情報、 教育、医療、介護、多方面で扱われている。
哲学の方面で、日本では森岡正博さんとか。
516 :
417 :2011/07/24(日) 03:06:39.08 0
>>61 >議論から導かれる結論の簡潔さと汎用性が重要だと思う。
>汎用性があるかどうかは別の言語で表現しようとした
>ときにどうなるかを考えることが重要な手がかりになる。
当たり前のようにモノ/コトが区別できるのは、おそらく日本語だけです。
そのような言葉によってみがかれた感性をもつ日本人にだからこそ
俳句のようにコトを愛でるという文化(心性)も育ったのでしょう。
日本人は蛙の声や蝉の音を「コトにおいて」聴くことができますが
西欧人には「モノとして」聴こえてしまうので雑音にしか聴こえないらしいです。
人間は言語存在者ですから感性をも含めて徹頭徹尾言語の影響を受けます。
517 :
417 :2011/07/24(日) 03:09:29.87 0
>>63 >自分自身が「0」で他者が「1」
>他者が存在して初めて自己が回帰として現れる
>Je suis un autre
私にとって「ひとつの他者」とは、まさに「存在」なのです。
私という存在者の絶対否定、すなわち絶対他者・他性が「存在」と考えているからです。
しかし同時に私(存在者)は自らの絶対否定である絶対他者・他性によって存在します。
しかも私は私において絶対他者・他性でもあるという仕方で。
これが私の「Je suis un autre」についての理解です。
私が私において絶対他者・他性でもあるという事態を問いとして素直に表現すれば
「なぜ私[1]は、私[2]なのか?」になります。
>>57-60 (穴だからけの論)に引きつけて説明すれば、
私[1]は「Je suis un autre」であるところの私
= 存在者としての私において絶対他者・他性であるところの私
= 「私(である)とは、私が私であること」における最初の「私(である)」…@
同じことですが「私は私である」における主語なしの「私である」…A
@の「私(である)」は、(wikiに書いてある)アートマン(真我)として
Aの「私である」は、述語論理の「私である」と理解すればわかりやすいです。
とは言っても、@とAは同じことの別の言い方にすぎません。
私[2]は「自他に客観視される私」、「私が私である(私としての私)」、「我思う我」。
以下に参考に西田幾多郎の『私と汝』を載せておきます。
「絶対に他なるが故に内的に結合する」ということが、どうして可能なのか?
と、考えていただければ、私が言っていることが納得できると思うのですが。
518 :
417 :2011/07/24(日) 03:17:56.28 0
自己が自己に於て絶対の他を見ると考へる時、 〜(省略) 私の根柢に汝があり汝の根柢に私があると云ふことができる。 〜(省略) 自己の底に絶対の他を認めることによつて 内から無媒介的に他に移り行くといふことは、 単に無差別的に自他合一するといふ意味ではない、 却つて絶対の他を媒介として汝と私とが結合するといふことでなければならない。 自己が自己自身の底に自己の根柢として絶対の他を見るといふことによつて 自己が他の内に没し去る即ち私が他に於て私自身を失ふ、 之と共に汝も亦この他に於て汝自身を失はなければならない、 私はこの他に於て汝の呼声を、汝はこの他に於て私の呼声を聞くといふことができる。 〜(省略) 自己が自己の中に絶対の他を含んでゐなければならぬ、 自己が自己の中に絶対の否定を含んでゐなければならぬ、 何等か他に媒介するものがあつて、自己が他となり、他が自己となるのでなく、 自己は自己自身の底を通して他となるのである。 何となれば自己自身の存在の底に他があり、他の存在の底に自己があるからである。 私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何等の一般者もない。 併し私は汝を認めることによつて私であり、汝は私を認めることによつて汝である、 私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ 結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである。 ── 私と汝 ── 西田幾多郎
519 :
417 :2011/07/24(日) 03:37:07.66 0
>>66 ゲームさんへ(今更ですが、すみません)
>あなたによれば「何ものかが何ものかとして…」主観に現前(現象)する。
>主観に汚染(意味づけ)された“存在(コト)”が、すなわち存在者(モノ)である。
>つまり存在を偽・存在である存在者にスリ変えるのが主観ということになる。
存在了解とは、モノが「存在しているコト」の了解です。
モノが存在しなければ「存在しているコト」を了解するのは不可能です。
ただ「ある」と言われても、私たちは途方に暮れてしまうだけです。
コトはモノを通して了解されるのですから、すでにモノに汚染されています。
「主観に汚染〜」について議論するには、主観の定義が必要かと思います。
誤解を恐れず、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を利用すれば
「我思う我」が認識論的な主観、「我ありの我」が存在論的な主観です。
認識論的主観には、カントの「超越論的統覚」がピッタリではないかと思います。
存在論的主観には、すべての存在者の絶対他者・他性である〈私〉でいいと思います。
「存在しているコト」の側からの〈視線〉がありうるということです。
「私」の底にある絶対他者・他性である〈私〉=「「私」が〈存在しているコト〉」が
存在するモノとしての「私」の存在根拠であると同時に
「私」どころか、すべての存在するモノの絶対他者・他性(絶対否定)なのです。
ですから〈私〉は「魂っぽい何か(存在者)」ではありえません。
520 :
417 :2011/07/24(日) 03:44:24.92 0
>>66 ゲームさんへ
>“現象としての私”は、むろん【私】の主観に現前し、そして「私という存在者」
>に仕立てあげられる。しかし、他の存在者と同様に『私』には、本質(存在性)も
>同一性もない。いわば偽・存在であり、主観(意識)の相関者でしかない。
>ここに最高位のいう“私の存在性”を仮象とみなす端緒があるのでは?
『私』が、主観(意識)の相関者でしかなく、本質(存在性)も
だから真の自己同一性ももたない仮象(存在者)である、というのはその通りです。
また、最高位が「私の存在性」をモノ化(存在者化)しているのもその通りです。
「私の存在性」とは「我あり」のことであり「我あり」とは「私が存在するコト」です。
ここまでは最高位も認めるでしょう。
問題は「私の存在性」を「最高位の存在性」と言い換えられないことです。
「私の存在性」とは「最高位の存在性」であり
最高位の存在性とは、最高位の実在性・超越性「存在しているコト」ですが
最高位を超越した「魂っぽい何か」が存在しているというわけではありません。
それ自身であるモノがそれ自身であるコトにおいて超越しているのです。
それ自身である最高位(モノ)の超越性が、最高位がそれ自身であるコトなのです。
けれども、それ自身であるコトは、それ自身であるモノの絶対否定ですから
それ自身であるコトとそれ自身であるモノとのあいだに差異の反復が起こります。
この(存在論的)差異の反復が『私』という『自己同一性』を成立させているのです。
それ自身であるコトによって、それ自身でないモノが〈私〉で
それ自身でないコトによって、それ自身であるモノが「私」です。
〈私〉と「私」とのあいだの差異の反復そのものが『私』という『自己同一性』です。
521 :
考える名無しさん :2011/07/24(日) 09:08:00.39 0
乙
522 :
考える名無しさん :2011/07/24(日) 09:58:23.33 0
「Breivikの存在性」=「Fjordmanの存在性」なのか?
523 :
考える名無しさん :2011/07/24(日) 11:29:59.04 0
>>515 英米人が「アウェアネス」を哲学的問題として取り上げる場合、
クリシュナムルティの言説の影響があると思う。決して言及はされないけど、
ケアの概念などにも影響があったと私は思っているよ。
ん? クリシュナムルティって哲学なのか? 彼は反哲学の人だと思うが。 哲学ってのは言葉で普遍的なものを理性的に説明していくものであって、 彼は哲学ではなく、自分の特殊な神秘体験を言葉にしている。
何このスレ? また頭の悪い永井信者が【私】なんてお子ちゃまオカルト哲学で遊んでるの?w
526 :
考える名無しさん :2011/07/25(月) 20:17:13.74 0
陽気が陽気ですから 【私】なんてものも わいてきますがな
>>525 永井スレを見ればわかると思うけど、永井信者はそのオカルトを本気で信じてるからw
永井の<私>みたいな物質にも精神にも論理的に付随しないものが証明されたら、
それは容易に「魂」と読み替えることが可能だから、もし永井の論証が成功してるなら、
ローマ法王庁は緊急記者会見で「魂の存在が理論的に証明された」と発表するだろうw
永井信者は歴史上どれだけの哲学者が魂や神の存在証明を試みて失敗してきたか
知らないわけで、そんな底抜けの無知だからこそオカルト哲学にハマってしまうw
自演の懐疑
永井信者って永井教祖の本しか読んでないみたいだね。 たぶん自分探しとかしてる不幸なやつが<私>とか言ってる永井の本を見て、 そこで探してた自分を発見した気になってるんだろう。 対立する立場の哲学と比較して永井を批判的に検証するだけの知性も教養もない、 幼稚な連中が永井信者。 だから永井教からは金川真大みたいな基地外が育ってしまう。
相変わらず永井叩きは酷いね 金川の件があるからしようが無いのかな
531 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 09:39:00.24 0
ただ永井が無知なだけ。 哲学ばっかやってて他の科学分野に目を向けないから、 この程度の事でオカルトに陥るという愚を犯す。
自我が芽生えた幼稚園、小学1年生くらいの頃は独我論にハマりやすいんだよな。 俺も小学生の低学年の頃は永井と同じ感覚を持っていて、独我論者だった。 自分を発見した驚き。他者が自分ではないという不思議。 小学4年か5年の頃に、独我論は狭い世界観だと気づいて、 永井的な独我論からは卒業した。永井を見てるといい年してまだそんな事を言っているのか と呆れる。
同意ですなあ
最高位のいう私と永井のいう私って何か関係あるの? 最高位本人は「関係ない」あるいは「知らない」みたいなことを言ってたような気がするが。
535 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 10:56:16.59 0
永井の本は読んでいない しかし、永井の思想の解説や2chの永井スレ等は見て知っているだろ 永井の評判についての書き込みを29あたりでしてるじゃん?
536 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 11:01:47.93 0
大人になってもある種の問いにこだわってしまい、それを考え続ける人がいる。 永井均氏はそういう人のことを<子ども>と呼ぶ。 哲学は本来<子ども>の営みだというわけだ。
537 :
哲学者最高位 :2011/07/26(火) 12:49:05.66 O
>>532 >「他者が自分でないという不思議」
というのは、どういう事ですか?
538 :
哲学者最高位 :2011/07/26(火) 13:29:53.94 O
>>532 >「独我論は、狭い世界観だと気づいて」
永井さんて独我論なの?
独在論というのは聞いた事あるけど・・・
普通は一般的な世界観、プラス『私』という観点 という感じになると思うんですがね
「我あり」が、狭い世界観 というのは、どういう事ですか?
539 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 13:37:35.66 0
「独我論」も「独在論」も同じこと。
>世界観、プラス『私』という観点 ∴ 世界観+『私』ー世界観=『私』=独在論
541 :
哲学者最高位 :2011/07/26(火) 14:43:49.39 O
>>540 キミは>532の人?
このスレでは
『私』=独我論
という事ではないんだが
542 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 17:41:16.13 0
哲学者最高位=唯我独尊=『私』=独在論
「私は○○だと思います」と言葉では言うけど、 まさか本当に「私」が存在するとは誰も考えないでしょ。 「私」なんか存在しないよ。 人間の脳は、「私」なんか一度も見たことないもの。
544 :
哲学者最高位 :2011/07/26(火) 19:30:02.15 O
キミは、いわゆる哲学的ゾンビさんですか?
545 :
考える名無しさん :2011/07/26(火) 23:02:45.98 0
消去主義 VS 『私』
546 :
哲学者最高位 :2011/07/27(水) 02:59:05.52 O
哲学とは何かといえば 哲学する という営為であり それは主観による思索行為に他ならない その主観が、その主観自身を指し示すさいに用いる言葉が「私」である 消去主義的に「私」は存在しない という哲学的な結論を仮定した場合 哲学そのものも同時に消去してしまう事となり、本末転倒を招く
547 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 07:05:53.78 0
我田引水=独我論
最高位の自作自演=独我論
哲学は脳の営為。 扱っているのは普遍的な論理。 哲学に「私」など必要ない。
昔からある指摘だけど、思うことは疑えないとしても思っているのが私であることを保証するものは無いよね。 もしくは、例えば私を「脳」であると定義するのだとしたら、「私の脳」は「私の私」となってしまう。 みたいな論法によって、「私」を単純に定義することは困難であるように思われる。 後者に関しては割と簡単に抜け道はできそうだけれど。 あとは、「我思う」という命題は既に「我あり」という命題を前提しているという解釈もある。 「私は禁酒している」は過去に一定期間の飲酒習慣がその発話者にあることを前提としている、みたいに。
551 :
哲学者最高位 :2011/07/27(水) 13:38:22.79 O
私の脳は、私の脳として機能する そこから「私」を消去すると、「私の脳でない脳」となる 客観としての脳からは、電気信号や化学反応などの物理現象しか観測されない 「私」を消去すると、「まさに哲学している」という実感的な思索行為は、観測が不可能である という矛盾を引き起こす
552 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 14:56:10.58 0
この体の脳は、この体の脳として機能する
脳・モア・ワタシ
554 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 15:30:52.47 0
原因側に実感などありはしない
555 :
哲学者最高位 :2011/07/27(水) 15:36:17.07 O
私がない状態は語りえない だから無意味な仮定である。 あらゆる思考、感覚は私を前提としている。
557 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 16:08:55.84 0
>脳は体じゃないの? 脳は人体の一部を形成している器官だ。 >どういう事? たとえば、物が落下する原因が重力だとしても 重力には、自分が引き寄せているという実感は無い。
558 :
哲学者最高位 :2011/07/27(水) 16:20:02.27 O
じゃあ何が実感してるの?
559 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 16:56:00.50 0
実感しているものなんていうものがあるのかねぇ?
560 :
哲学者最高位 :2011/07/27(水) 17:28:41.60 O
実感しているもの というのがあるのかないのか知らないが 「哲学する」というのは、実感を伴うものである事は間違いないだろね
561 :
考える名無しさん :2011/07/27(水) 17:55:40.10 0
実感というのは、実際に何かに接した時に現れる強い感じだろう。 つまり以前からそのことについて想像したり漠然と考えていたことが あったということを示す。
私という言葉は存在するけど、私は存在しないってことでしょ。
それって、君は自身の禿を肉眼で確認できない。位の意味しかないな。
私のない思考、感覚は存在しない 思考や感覚そのものが私なのだ
だとすればわざわざ私などと呼ぶ必要はない。 私という語句が必要となるのは、私以外に思考や経験をもった他者が存在すると仮定したときに区別するときである。
夢見の中の人は私なのか?
>>555 論考の受け売り?
消去しないまま、使っても、誤用にはならんだろ。
>>564 ん?体全体を眼球は見ることはできないから、私は存在する?
何の論理性もないな。私なんかどこにも存在しないが。
見る目を持たない奴は、自分の禿に気づかない。 このような輩はアホと名指されても仕方ないな。
>>562 「思う」から「あり」または「なし」に話を持っていくのじゃなくて、「思う何かはある」かつ「その何かは私である」が言えるのかどうか。
>>551 私の脳から私を消去すると脳になりますね。
消去するということと補集合をとるということは違う操作ですよ。
574 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 02:48:34.77 O
>>572 「私の脳」から「私」を消去すると
一見、「脳」というようになるように見えるが
完全に消去するという意味では、絶対に「私の」であってはいけないのだから
「私の脳ではない脳」になりますよ
575 :
417 :2011/07/28(木) 03:15:59.53 0
仕事が忙しく2週間も間があいてしまったあげく
やっと書き込めると思って書き込んでたら(前回)
書き込み途中でパソコンが壊れてしまいました。
ゲームさんが見てないようなのでひとりごとです。
>>66 >とすれば
>>57 の“私の現象”についての解説には疑問が残る。
>「私が私として現象するとは、私がそれ自身である」との言表は“私の現象”を
>述べたものではなかろう。むしろ“私の本質”規定といってよく、それ自身で
>ある私は、最高位のいう『私』とほぼ同義である。
最高位は認めないでしょうが、私が言いたいコトは、たぶん最高位と同じコトです。
ただ最高位の『私』は本人が言うように「存在者!」(コトのモノ化)なのですよ。
しかも最高位(心身)には存在原因をもたない存在者です。
それでは最高位とは別の存在者「魂っぽい何か」が存在することになってしまう。
だから、ちがう! と言っているのです。
コトにおいてモノを、存在において存在者を、未生において生を、無限において有限を
コトの側からモノを、存在の側から存在者を、未生の側から生を、無限の側から有限を
日常の視線とは逆向きのまなざしがありうるのです。
自我「私」をかぎりなくゼロにまで縮退させれば、あるがままの世界が残ります。
それは在りとし在るものの世界ではななく、世界があること、そのことです。
世界があること、そのことが実在です。〈私〉です。
私の本体は幽霊です!?♪。
577 :
417 :2011/07/28(木) 03:19:15.38 0
>>68 ゲームさんへ(もう見てないみたいですが)
>たとえば「私である」は不在のオリジンだろうか。
>それは主観による現象の意味(存在者を名辞したもの)ではないのか。
>「コップである」「太陽である」と同様に。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から引用します。
思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がされ、
また、どの部分が私の意志に従い、どの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。
これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において
主体が存在しないことを示す方法である。
つまり、この本の中で論じることのでき‘ない’唯一のもの、それが主体なのである。(5.631)
「私が見出した世界」には、本を書いている自分も書き込まなければなりませんが
「本を書いているコト」としての「自分(主体)」は、本の中に書き込むことができません。
しかし行為する『私』には「本を書いているコト(主体)」→「存在しない主体」を
とらえることができるのです。(もちろん、あくまで「主体は存在しない」ですが)
なぜなら「本を書いているモノ」=「私」であると同時に「本を書いているコト」=〈私〉が
行為する『私』(モノ/コトのあいだの存在論的『差異の反復そのもの』)だからです。
ところで「私(である)とは、私が私であること」の「私(である)」は
単に「私」でもよかったのですが、あえて「私(である)」にしました。
「私・である」とは、それ自身であるコト(真の自己同一性)であり
「私が私・である」とは、それ自身であるモノ(偽の自己同一性)ですが
「私・である」/「私が私・である」とのあいだの差異の反復が、行為する『私』です。
行為する『私』が「私」/「私は私」を【である】において『位相の転換』をするのです。
もちろん『位相の転換』とは『差異の反復』ですが、『私』の二重性を【である】で
説明しようと思い、あえて「私(である)」という表現にしていました。
578 :
417 :2011/07/28(木) 03:21:59.72 0
モノ/コトのあいだの差異の反復【である】『私』は、(というように) すでに【である】によって『私』のコトの側面が内的にモノ化されています。 モノ/コトを【である】において『私』に内包してしまうことによって モノ【であり】/コト【である】というように コトを存在者の超越性(性質)としてモノ化するのは、言語の逆超越(存在の可視化)ですが あくまで存在を可視化できたかのように、言語が(言語存在者の私が)錯覚しているだけです。 このようにコトはモノ化の汚染を受けないかぎり了解されません。 これがモノ/コトのあいだに介在する言語の媒介性であり、同時に言語の限界なのです。 また、私たちが言語存在者であるかぎりでの世界の限界でもあります。 コトは言語の限界を超えていますが(言葉の語源は「事の端」です) 人間の限界を超えているわけではありません。 だれでも自分が存在しているコトは、わかっているでしょう。 ただそのコトを言い表そうとしても、言い表せないだけなのです。 でも言い表せないことは、わかっています。 そのわかっているコトが、まさにコトなのです。 伝わるモノではないからといって、伝わらないコトでは“ない”のです。 私が最高位や永井均の「魂っぽい何か」を否定するのは 〈私〉が存在するモノではなくて、存在するコトだからです。 存在するすべてのモノではない〈私〉が、どうして存在するモノになっちゃうわけ? 魂でもなんでもそれが存在するモノなら、絶対!に〈私〉ではありません。 ハッキリ言えば、対を絶した比類なき〈存在〉が〈私〉なんです。 すべての存在者に〈存在〉は遍在しているんです。 なにかとてつもなく大きなものが〈存在〉なんじゃありませんよ! 生きて在ること、そのことが〈私〉なんです。
579 :
417 :2011/07/28(木) 03:25:15.01 0
>>69 さんへ(前回書き込み中にパソコンが壊れました。今更ですが、すみません)
>上段部分は五人が同時に出てこれるわけじゃなくて一人ずつだろうから、
>最高位の言う『私』は一つしかないだろね。
最高位が言う『私』は「その人の一切に存在根拠を持たない存在者」です。
もちろん人格にも。
『私』が人格と関係を持つのは、ある人格がなぜか『私』だからですが
それはたまたまなので、ある人格が『私』の存在根拠になるわけではありません。
だから『私』は5つでも4つでも3つでも2つでも1つでも、存在しなくてもいいし
複数の人格が一つの『私』であってもいいし、時々別の『私』に交代してもかまわないのです。
>中段部分はその体に脳移植でもするなら別だけど、
>全体作っちゃったら別の人間ができあがっちゃうので最高位の言う『私』はコピーされないね。
「その人の属性や身体といった諸規定からなるものからは完全に独立した“存在者”」
または「その人の属性や身体といった諸規定からなるものには存在根拠を持たない“存在者”」が
最高位が言う『私』ですから、それは定義上『魂っぽい何か』としか言えません。
だから、全部作っちゃった別の人間であっても、それが『私』なら『私』でなければなりません。
というよりも、だれであろうと、それが『私』なら『私』でなければなりません。
もし可能なら、別の時代の別の場所の別人に転生したってかまいません。
580 :
417 :2011/07/28(木) 03:27:11.44 0
>>78 >>キミの場合、「我あり」の「我」は、魂っぽい何かなの。
>何故ですかな
あなたが言う「私」を定義すると
「最高位の属性や身体といった諸規定からなるものからは完全に独立した存在者」
または「最高位の属性や身体といった諸規定からなるものには存在根拠を持たない存在者」
になるからです。
>>573 すみません。発言の意図が理解できません。
解説を願えませんでしょうか。
>>574 完全に消去しなくても構いません。絶対に「私の」であってはいけないなんてこともありません。
一旦「私の」という部分を取り去れればよいのですから。
つまり「我」があるともないとも言えない状況に出来ればいいのです。
その上で、改めて「私」が想定されたものとして議論を進めたいだけです。
「私」が発見されたものか想定されたものかという区別は重要でしょう。
「我あり」を前提してしまうと、我思おうが思うまいがとりあえず我ありとなってしまいます。
ここはフェアに「思う何かは存在するに違いない」、「その何かはどうやら私と呼ばれるもののようだ」という段階を踏んで考えて頂きたい。
この場合、唐突に「私」が出てくるのが分かると思います。
そこで、その想定された「私」とは何なのかと問うことになります。
何を問題にしているのかを明らかにしておくわけですね。
ここでの「私」とはあくまでも想定されたものであって、発見されたものではありません。
つまり、目に見えるものではありません。
コップやキーボードやディスプレイのような対象ではないことはご理解頂けると思います。
しかし同時に、「私」が電気や空気などの肉眼では捉えられない物理的対象であるかないかも断言できないのです。
ですから「私」の正体については、余計な前提を取り払い慎重に議論すべきでしょう。
とりあえず今のところは、「私」は想定されたものにすぎないということについて合意を得たいと思います。
「私」は魂というより妄想だな。
「私」なんて哲学にとって大した問題ではない。 心脳問題こそ哲学の取り組むべき課題である。
心の哲学なんてただの流行でしょ。 その昔、三太郎とか実存主義とかポモとかが流行ったみたいに。 私の問題が解決しても、彼女との問題は容易に解決しないw
585 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 05:19:30.13 O
哲学じゃなくて精神病理の世界で考えろよ。
>存在するすべてのモノではない〈私〉が、どうして存在するモノになっちゃうわけ? 実在論というのは、実在を前提としているからだな。 ウィトゲンシュタインだって、独我論を突き詰めれば純粋な実在論と一致する。といってる。 ただ、ことば・言語は指し示すだけで、実在にアタッチできないから、ことばで哲学しても 無駄だから、哲学するなら実在を語っても仕方ない、あきらめろ。と性能不足のゆえの 哲学的言語行為の限界を示したに過ぎない。 永井はあきらめないで語ろうとするところに無理がある。この10年、一歩の前に進んでいない。
一歩の前に → 一歩も前に
>心脳問題こそ哲学の取り組むべき課題である。 脳の在り方は多様で脳機能が分散してたりするし、腸の神経細胞が 特化しただけともいえるから脳だけ切り離すのは「心理学的」な 錯誤であるとも言える。一般化すると「神経細胞とその機能の問題」 ということになるが、神経細胞だけ分離しても機能しない。結局、 は「細胞とは何か」、「生物とは何か」と問うことになる。
心脳問題は人間の言語機能の中心として分かりやすいから言っただけで、 もちろん神経系だけでなく内分泌系と免疫系もあるのは知っている。 免疫にも内部と外部(自己/非自己)を分けるスーパーシステムがあるのも知っている。 また、粘菌や無性生物のサンゴなど観察していると「唯一絶対の私」など存在しないことがよく分かる。
拡散してください。層化が近づいて来るのには理由がある。 必ず、魂胆があります。 「スイス政府民間防衛」より。敵国が侵略してくる際の戦争なき戦争 無血戦争ですね。 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」 最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」 ←(外国人参政権・子ども手当て) 今ココ!! 第一段階 自民党を取り込み、洗脳乗っ取り 第二段階 テレビ局に工作員を送り込み乗っ取り 第三段階 君が代日ノ丸排除 第四段階 24時間テレビ、27時間テレビ 第五段階 層化お笑い芸人だらけにして低俗な番組を垂れ流す 日本の今は、まさに危機的状況。
591 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 12:25:01.83 O
>>580 417さん
それでは結論づけられる理由にはなっていませんよ
592 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 12:41:18.21 O
>>581 >「私」が発見されたものか想定されたものかという区別は重要でしょう。
発見か想定かという問いならば、それは発見であるという事になります
ありありと実感的に哲学している自分を発見できない人はいないでしょう
あと
まずもって、あなたは基礎的な事が理解できていない
仕方がないので少し横道にそれますが
懐疑論という言葉がありますね
たとえばココにイスを「発見」したとしましょう
しかしそれは錯覚なのかも知れないわけですよ
だから、イスを「発見」したので、それがあると「想定」して座るわけです
全ての客観は、懐疑論に引っかかるのです
しかしながら、逆に
「我思う故に我あり」
発見も、想定も、妄想も、懐疑も、哲学的な思索も、全ては
まさにそれを実感的に認識しているのだから
その認識の中で、哲学を模索する中において
哲学をしている主観である「我」の存在を否定する事は不可能である という事が言えます
「発見」か「想定」か というような問題提起は、基礎を理解できていない素朴な考え方です
我の存在を否定したいのなら、基礎を理解した上で、否定できる根拠を挙げる必要があります
「見た事ないから無いんじゃね?」とかいうような事を言っても、アホだと思われるだけです
>心脳問題は人間の言語機能の中心として分かりやすいから言っただけで、 矛盾している 「人間」とは「私たち」の言い換えに過ぎない 「私」抜きの客観的立場を貫くなら、生物/無生物の区別を第1に優先すべき
>>581 「我なし」って発話は矛盾してね?ってことなんだけど。
それから581の
>ここはフェアに「思う何かは存在するに違いない」、
>「その何かはどうやら私と呼ばれるもののようだ」という段階を
>踏んで考えて頂きたい。
なんてのはデカルト自身そのように論証しているだろ。
いまそんなこといってるってことはコギト論証自体根本的に理解できてないってことじゃん。
>>592 違う、それなら「思う故に思うあり」だ
「我」を密輸入しながら、密輸ルートを隠蔽している
>>586 永井についてはあまり知らないがこれはトンデモだな。
語ることは「正当化」と「存在」を不可避的に含意する。
ラッセルはそう言って抽象概念の実在論をやり、
彼によると抽象概念も出来事の直接面識によって知られていることになる。
ウィトゲンシュタインが語りえないとしたのはこの直接面識の次元。
例えば、
(@)Pa:a (aは猫である)
(A)Px (xは猫である)
(B)ヨxPx (猫がいる)
(C)∀x(Px→Qx) (猫は哺乳類である)
であるとき、
直接面識は(@)であり、
(@)のような出来事を通して普遍(A)も知られる。
しかし、われわれが実際に語るときは(B)(C)のようなタイプの式である。
(@)の個体aは決して姿を現さない。
個体aはラッセルの世界に実はない。
個体aがある世界では真偽が判定できる。その世界が「語りえない」わけ。
われわれが語れるのはラッセルの世界だけだ。
ウィトゲンシュタインの世界は語りえない。
それは認識論的な自我の認識能力と実在の関数としての「世界」があり、
われわれが実在にたどりつけないという話とは違う。
597 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 13:26:02.55 O
>>595 隠蔽などしていないよ(笑
普通は、あまりにも自明であるが故に
誤解を避ける意味でも説明など省略しているわけだが
あえて説明するなら
他人の思いは認識できるはずもなく、ありありと実感している思いは唯一的な主観であり、このありありと実感できる唯一的な主観を指して「私」という言葉で表現しているわけです
この、ありありと実感できている主観が存在している事を、主観の中で(思いの中で、哲学の中で)否定する事はできないのだ ということ
>>597 それだと、存在するのは「ありありとした実感」だけで、
誰のものでもない「ありありとした実感」だけが存在する
とするのが正しい。
599 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 13:53:08.02 O
417さんへ あなたは「モノ」と「コト」という分類は、全てに当てはまる という前提で話していますが、主観性という概念にも当てはまるのかどうかは、はなはだ疑問です 心身というモノが存在するというコトが、すなわち『私』である というのは当てはまりませんし 『私』の存在様式をモノとしての側面から語る事もできません あと存在論的差異という言葉も誤解していますし 全体的に宗教的なマイ哲学を長々と語っている状況になっています
600 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 14:05:27.00 O
>>598 ありありとした実感は、実感している という事の表現であり
それを実感している主観なくしては、ありえません
601 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 14:09:35.91 O
ぴや?
602 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 14:20:16.60 0
それを実感しているのではない。それが実感なのだから 「ありありとした実感」は、主観ではない 「ありありとした実感」を実感しても、存在するのは 「「ありありとした実感」の実感」
603 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 14:31:12.31 O
>>602 実感というのは、感じている ということ
感じている存在なくして実感はありえない
604 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 15:06:16.51 0
>>603 実感というのは、実際に感じられているということ
感じられている存在なくして実感はありえない
605 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 15:08:19.78 0
はたしてその正体はw
606 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 15:34:05.16 0
「何」が、「何」に、実際に接して感じ入っているという話なん?
607 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 16:04:30.27 O
思っているという実感 だよ
結論: 哲学者最高位の自我=身体なき器官
609 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 16:23:25.10 O
>>604 感じている存在 の否定に、つながってませんよ
610 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 16:26:02.55 O
所謂「思考」というものが、「事象」である、ということを認めるかどうかが分水嶺だな。 これを認めれば、「主語無き事象」ということに素直に頷けるだろうし、 認め得ないならば、いつまでたっても、主語を探して右往左往することになる。 事象であるということは、「そのようなものとしてある」ということであり、 何か特別の、「名称と共なるもの」ではない。 それは、何歳からが老人なのか、何歳が大人なのか、何歳までが赤ちゃんなのか、という問いに似ている。 大人を大人せしめているのは、その時点での(社会的)文脈だ。 社会的文脈が、或る状態(或る経年下)の肉体所持者を「大人」と称し、分類し、認定し、レッテルを貼る。 同じように、「或る思考状態(思考しているという自己フィードバックの状態)」が、 「私が居る」と称され、分類され、認定され、レッテルが貼られている。 「私」が先にあるのではない。 「とある思考」が「私」として立ち現れるのだ。 だから、不思議で感動的事態だと思ってしまう。 だが、そうではない・・・。 そこには、畢竟「思考しているという事象」があるのみなのだ。
612 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 16:50:08.51 0
まぁそれを「我」ていってるんだけどね
613 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 16:55:15.33 0
ひしひしと、じわじわと、思ってるんだなぁと実感が湧いて来たぁぁぁぁ
>>612 そう。 だから、
もし、「思考しているという事象」が生じるならば、
そこには、(自己フィードバック的必然として)《我》《私》もまた生じていると“言える”わけです。
で、『当該事象と《私》との不可分・唯一な関係性』は、論理的必然であり、
物理的要素や、その他諸々の考え得る全ての条件とも、何の関係もないのです。
≪「この事象(この思考)」だから「この私」≫なのであって、それ以外はあり得ないからです。
「自己フィードバック的必然」とか適当なこと言うな
言ったモン勝ち
617 :
615 :2011/07/28(木) 17:10:21.75 0
だいたいフィードバック回路のどこに「我」の生成可能ポイントがある? 言ってみそ
>>617 だって、他に喩えようがないものw (´・ω・`)
619 :
615 :2011/07/28(木) 17:13:02.52 0
おまいさんらはフィードバック制御がどんなもんか知ってるのかね
620 :
615 :2011/07/28(木) 17:15:19.29 0
仮にだ、制御系がシステムとして超越的に「我」を生成するとして 意識の統覚の根拠をどこに求めるのかね
621 :
615 :2011/07/28(木) 17:18:31.38 0
あと言っとくが脳が「情報処理」なんかしている根拠など無い 虚構にすぎんよ
622 :
615 :2011/07/28(木) 17:20:09.23 0
なので桶の中の脳とか懐疑論とかもできの悪い虚構なのだ
623 :
615 :2011/07/28(木) 17:22:48.63 0
閉じた「自己フィードバック」という考えは「オートポイエシス」とか オカルト哲学の入口だな。どっちにしろ哲学者最高位の『私』はもっと 単純に説明できる。古くなったカントの主客二元論からさらに遡って デカルトの思考を主観一元論として稚拙に解釈しただけの独我論
625 :
615 :2011/07/28(木) 17:23:22.43 0
荒らしてすまなんだ
フィードバック【feedback】[名](スル) 1 ある機構で、結果を原因側に戻すことで原因側を調節すること。 電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能など。 2 反応すること。反響。「ユーザーの要望に対して迅速に―する」 [ 大辞泉 提供: JapanKnowledge ] *fed・bck[名][U][C]フィードバック. 1 電子帰還:出力の一部を入力側へ返送する操作. 2 心理学適否に応じて行動を修正する働き. 3 コンピュータ誤りを制御訂正するためにシステムからの出力の一部を入力側に戻すこと. 4 (機械・生体の)自動制御. 5 (…からの)反応,反響((from ...)). 6 増幅器[アンプ]からの不快な音. [ eプログレッシブ英和中辞典 提供: JapanKnowledge ] ふむ・・、制御する作用が無いと駄目だな。 そうすると、単なる自己言及にしかならないのか? 「出力(思考している)」と「入力(思考する)」がほぼ同時・同質なわけか・・。 なんかうまい言い方はないもんかねw
627 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 17:41:50.05 0
何だよw
628 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 18:14:04.12 O
>>611 仮に、「感じ」という思考が事象であるとして
しかしその事象を認識している主観が存在し
そしてこの認識も事象と考えた場合
しかしまた、その事象も更に主観が認識しているのだ
という具合に、どうやっても認識主体を消去する事ができない
また
「思い」を事象という客観として考えた場合
客観であるにもかかわらず、他人には認識できない という矛盾が生じる
さらに
客観としての事象、客観としてのフィードバック現象と考えた場合
それはあくまでも客観の域を出ない
そこに主観が発生する根拠がどこにもありえない
主観というものを甘くみて、客観的に簡単に考えた陳腐なSF小説であると言える
>>628 それは主観に甘えすぎじゃあないかな。
あと、ニーチェとかはきっと読んだことがないよね。
630 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 18:50:37.14 O
>>629 具体的に反論してもらえませんか
いかなる客観的事象の組み合わせにより、他でもない「私」という主観性が生じるのか
は、簡単な問題ではありませんよ
>>630 あほかw
「組み合わせ」じゃないというのが解らんかな・・w
632 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 19:39:36.30 0
「思考が存在するなら思考する者が存在しなければならない」という 経験則を疑おうとしなかったデカルトが不徹底だっただけさ、 と言ってみたらどう反応するかな、こいつらw
デカルトは中途半端。
635 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 20:08:03.20 0
精神障害者の収容施設の大部屋、もしくは動物園の檻の中に入ったような気分がするからだろうw
>>628 ただの独我論だな。
そういうこと言う前に、客観的事象が発生する根拠を考えろよ。
637 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 20:20:51.06 0
主観性ならあるけど、 「私」という主観性 なんてものがあるのか? ? ?
638 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 20:22:46.23 0
主観性に「私」という呼び名を付ける馬鹿だけが考えるべき問題だw
「唯一絶対の私」なんてナンセンス。そんなものは一種の脳の病気だ。
呼び名なんてどうでもいいんだよ
641 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 20:28:54.63 0
「名無し」という主観性・・・・でもいいんか?
「我思う故に我あり」のように「我」とか「私」があると考えるのが間違いで、 「思い」とか「主観性」とかがあるといえるだけだ、と言えるとして、それでどうなるの? 「ただ今のこの思いのみが確実に存在する」ということで、別に話は 変わらないような気がするけど。
えっ
644 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 20:42:23.40 0
今のこの思いのみが確実に存在するだけだっら、会話不能でお話になりませぬ
645 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 21:01:37.55 O
>>631 フィードバックさせようとすれば
システムを組まなくちゃならんだろ
>>632 「思考が存在する」というのは文学的表現だね
「思考する」という事だからね
「飛行する」とか「走行する」とは言うが
「飛行が存在する」とは言わない
というか、言わない
飛行が存在する状態は、ありえないからね
中論には「観去来品」というのがあってだな・・(以下略
>>644 ああ、もともと「お話にならない」ようなもの(少なくともその疑いがあるもの)を
話題にしようとしてたわけじゃなかったの?
それは失礼しました。
648 :
哲学者最高位 :2011/07/28(木) 21:19:29.07 O
>>636 なんで?
というか、2ちゃんの哲学板には
根拠を述べずに、感性だけで喋る人が多くて困るわ
これも、ゆとり教育の弊害というやつなの?
あんまり偏見持ちたくないんだけどさ
649 :
考える名無しさん :2011/07/28(木) 21:36:01.90 0
体は存在性ではないとか 自分の精神、主観性そのものである私のみ、確実なもの と言っているわけではないよな?
>>648 大丈夫。お前は偏見を持たれる側だから。
最高位ってつい最近デカルトの言葉を聞いただけの哲学素人じゃないの?
可能な限り段階を踏んで進めたいのですが、難しいでしょうか。 クオリアを持ち出さずに「私」について議論したいだけなのですが。
653 :
586 :2011/07/29(金) 04:18:36.38 0
>>596 別段、>596に異議があるわけでなはいが、
「ラッセルの世界」とか「ウィトゲンシュタインの世界」とかイマイチ意味不明なので
少し翻訳しながら考えてみた。
形式論理学的な p,q,r等の記号を用いた論理的真偽判断を考える際、
どちらかといえば、ノミナリズムな傾向が強いウィトゲンシュタインの論理学では、
要素命題こそが真理函数(要素命題の否定論理積(NAND)の)の主な操作対象。
文言表記可能な一般的な命題は常に複数の要素命題の否定論理積操作で構成される真理函数の
操作結果だとされている。(ちなみにNAND条件を組み合わせれば、AND OR NOT などの
他の論理式も表現できる)
「ウィトゲンシュタインの世界」とは要素命題という最小単位分節され得る事実的対象の 写像的記述による論理世界だから、要素命題で猫aは個別記述される。(これは仮説っぽい) ただし要素命題の否定論理積操作の結果が命題として記述され得る。 したがって、真な命題であっても偽判定の要素命題が含まれ得る。 「ラッセルの世界」は数学的論理学で、論理に内在し一般的でかつ自律的な性質が 備わっているとみなされている。だから、ラッセルの世界では、個体猫aをp,q,rなどの 記号で表記した時点で猫は個体的な意義を失うとしても論理に内在する論理性のゆえに 「客観的」な記述が(だれにでも)できる。 ======
なんつーか、「ウィトゲンシュタインの世界は語り得ない」という表現は俺的には意味不明だな、 わからん。「論考」は形式的論理学で、フレーゲやラッセルの記号論理学をインヘリットしてる。 異なる点があるとすれば、実在論的な部分を同語反復な論理命題で代替している点だろう。 後期の探求は、要素命題の使用を断念したことから随分違う構成になったけど、
656 :
417 :2011/07/29(金) 09:27:44.44 0
>>586 >実在論というのは、実在を前提としているからだな。
>ウィトゲンシュタインだって、独我論を突き詰めれば純粋な実在論と一致する。といってる。
以下、ウィトゲンシュタインの議論とは、まったく関係がない前提で読んでください。
存在しているもの「私」と存在していること〈私〉の差異それ自身が『私』ですから
『私』− 存在しているもの「私」= 存在していること〈私〉= 実在(存在)です。
「世界は、私の世界である」から「私」を差し引けば、世界が存在していること = 実在
だけが残りますので、実在論に一致する、と言えるのです。 それが、=〈私〉ですが。
ですが、厳密には「私」はかぎりなくゼロに縮退するだけで、決してゼロにはなりません。
また、決してゼロにならないからこそ、実在だけが残り、実在論に一致すると言えます。
これがウィトゲンシュタインが、ゼロになる(消えてなくなる、存在しない)とは言わずに
在るのか無いのか不明・微妙・曖昧な「“点”にまで縮退する」と表現した理由でしょう。
ウィトゲンシュタインが言う私は、世界を限界づける言語・論理空間としての私なので
存在するモノ/コトの私を議論しているのではありませんが、上記の理屈で考えれば
実在論を帰結することが、すでに存在論を語っていることになると、私は理解しています。
実在は、絶対的に私ではないので、私を消そうとしますが、その実在が〈私〉です。
ですが、「私」を本当に消してしまうと、実在が残らないので、点として曖昧に残した、
残さざるを得なかったというのが、私の解釈です。
ウィトゲンシュタインの議論と正確に対応させた私の存在論は、また機会があるときに。
657 :
417 :2011/07/29(金) 09:31:48.99 0
>>586 存在するものの絶対他性が存在そのもの(実在)です。
これを「私の絶対他性が第2の私として存在している」と読み換えるのが言語の媒介性です。
最高位や永井均(最近ましになったけど?)は、この読み換えに気づいていません。
たとえば、永井均は比類なき私が個体としての私の単独性・唯一性に読み換えられることを
しきりに強調しますが、それ以前にすでにまちがっているのです。
どのような存在者も、だから比類なき私も、もし存在するなら存在していることは確実です。
つまり、たとえ比類なき私が究極の超越論的存在者であるとしても、
存在者であるかぎりは 存在 を超越することは絶対にできません。
だから実は、この世界に比類なき存在者は存在しません。
この世界の存在者になるための条件があるとすれば、それは比類なさの消滅です。
ですが、存在者は存在していることにおいて自らを超越しているのです。ココが重要です!
>ただ、ことば・言語は指し示すだけで、実在にアタッチできないから、ことばで哲学しても
>無駄だから、哲学するなら実在を語っても仕方ない、あきらめろ。と性能不足のゆえの
>哲学的言語行為の限界を示したに過ぎない。
私たちは、自分が存在していることを理解しています。
だれでも理解していることなのだから、これほど説明しやすいことはないはずです。
でも、やってみたらわかりますが、それについてなにか意味のあることは言えません。
私たちは、自分が存在していることを、超越的に理解しているのです。
言語の限界を超えて理解している、ということです。
私たちが俳句を理解したり詠うことができるのも、この「超越的理解」が可能だからです。
私たちは、超越を言語を介して超越的に理解できるし
言語を媒体にして超越を他者に伝えることもできるのです。(言語の汚染を受けて不純ですが)
>永井はあきらめないで語ろうとするところに無理がある。この10年、一歩の前に進んでいない。
『〈私〉の哲学 を哲学する』にも「〈私〉とは〈現に〉のこと」という部分がありましたが
〈現に〉= 実在(存在)ですから、そろそろ〈私〉は「存在者ではない」と気づいてほしい。
658 :
417 :2011/07/29(金) 09:38:25.25 0
>>591 ,
>>599 >それでは結論づけられる理由にはなっていませんよ
なんで? 定義上、そのような存在者を「魂(っぽい何か)」って呼ぶんだよ。
狭義には「最高位の属性や身体といった諸規定からなるものからは完全に独立した存在者」
「最高位の属性や身体といった諸規定からなるものには存在根拠を持たない存在者」だけど
けっきょくあなたは「最高位」だけではなく
「すべての存在者(存在するもの)には自らの存在原因(根拠)を持たない存在者」
って言ってるのよ。
その存在者がなんでもかまわないけど、存在者なんだから存在原因(根拠)は存在なの。
だけど、存在は無根拠なの。
無根拠を原因(根拠)にして存在する存在者に存在根拠があるわけないの。
「最高位が存在すること」→「最高位が私(存在すること)」に原因なんてないの。
あなた(言語)は「最高位が私(存在すること)」を「最高位が私(存在するもの)」
に言い換えてしまう。(この言い換えは、言語を獲得してはじめて可能になります)
それからようやくあなたは「私が存在していること」を発見して、存在驚愕するわけ。
だけど、瞬く間に、あなた(言語)は、存在驚愕を存在するもののように可視化する。
この可視化(存在するもののように)された存在驚愕が「私なんていう主観性」なの。
存在驚愕が「私なんていう主観性」になってやっと「最高位が、なぜ私なんだろう?」
とか言えるようになるわけ。(可視化という表現を悪意をもって解釈しないように)
くりかえせば、あなたは、あなたではない「私が存在していること」を発見する。
だけど、あなたが発見したのは、まさに「あなたが存在していること」なの。
あなたではない私の発見は「あなたが存在しているものではない」コトの発見なの。
このコトの発見が、「あなたが存在しているコト」の発見なの。
あなたが存在していること、そのことがありえないこと、とんでもない奇跡なのよ。
だからこそ、あなたは(私を発見して)存在驚愕したの。
コレが理解できたら、「あなた」を、主体、主観、意識…好きに言い換えていいよ。
659 :
417 :2011/07/29(金) 09:42:48.06 0
>>599 >あと存在論的差異という言葉も誤解していますし
>全体的に宗教的なマイ哲学を長々と語っている状況になっています
ハイデガーを読んだこともないあなたが存在論的差異?
笑わせないでよ!
あなたは素直に私が言ってることを信じてたらいいの。
そう言えば、あなたはデカルトも読んだことがなかったから
デカルトが《《《神》》》の存在証明をしたことも知らなかったんでしょう?
私が教えてあげるまで。
そんなあなたが「我思う、ゆえに我あり」なんて持ち出していいの?
な〜んにもわかってないくせに?
…と我思う、ゆえに我あり/と我思う、ゆえに我あり/と我思う…なんだよ。
どうして「我思う、ゆえに我あり」で止められるわけ?
一度も考えたことがないんでしょう?
これも存在論的差異の反復なんだよ。
わからないでしょう?
まさか「我思う」が「我あり」の存在根拠とか思ってるの?
「我あり」が持続するのは「思っているあいだ」だけなんだよ。
だからデカルトは「我あり」が持続するための確実性の根拠は
「我思う」の外部にあると考えたの、それが神(の存在創造)なのね。
これも教えてあげたよ。
660 :
417 :2011/07/29(金) 09:46:09.10 0
>>599 私は寡聞にして宗教的にならないような、ろくでもない形而上学や存在論を知りません。
東洋の「無」を無断拝借したのが、ハイデガーの「存在」と囁かれれることもありますね。
ハイデガー本人が否定しなかったことでもわかるように、存在とは無のことなんですよ。
私が引用する西田幾多郎の宗教哲学は、現代哲学にも通じる世界に誇るべき哲学です。
どうせハイデガーなんて読めないあなたなんですから、西田幾多郎を先に読みなさい。
「西田幾多郎データべース」
http://www.f.waseda.jp/guelberg/nishida/datenb-j.htm それから、存在者(存在しているもの)と存在(存在していること)の差異が
存在論的差異でない理由を説明してください。
できることなら、以前のようにあらぬ方向に逃げないで答えてくださいね。
wiki以外にも、いくらでもタダで勉強できますので、少しはカッコつけなさい。
ちなみにハイデガーは存在が存在者に遍在していることがよくわかっていません。
だから『私』が存在論的差異そのものとして生きて在ることもわかっていません。
無批判に著名な哲学者を信じたり、無名の私と比較したりするのはやめなさい。
あなたがするべきなのは、まず議論の内容・本質を読み取ることです。
それから安易に「コギト・エルゴ・スム」を言う前に、デカルトを読みなさい。
それも批判的に自分の頭で考えながら、ゆっくり時間をかけて読みなさい。
とにかく単なる悪口じゃなくて、悪口でいいから具体的に批判してください。
ちなみに、あなたの「魂っぽい何か」の話しを、オカルトって呼ぶんですよ。
せっかく私がオカルトから救い出してあげようとしているのに
(私以外の人へのあなたの穴だらけの受け答えにツッコまないでしょうに)
あなたがあんまりバカだと、その気も失せてきます。
はい、わかってますよ、そんなこと頼んでないんでしょ。
661 :
417 :2011/07/29(金) 09:51:21.20 0
しかしデカルトの議論を使うときは、少し注意が必要である。 「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、厳密に確実なことよりも かなり多くのことを語っているからである。 私たちは、自分が昨日の自分と同じ人間であることを完全に確信している。 そしてそれは、ある意味で、間違いなく正しい。 しかし本当の自我(Self)は本当の机と同じぐらい到達しがたいものであり、 個々の経験が持つほどの絶対的で確信的な確実性を持つとは考えられない。 私が机を見て、それに特定の茶色を見るとき、その時点で完全に確実に言えることは 「私が茶色を見ている」ではなく、むしろ「茶色が見られている」である。 この表現はもちろん、茶色を見る何か(または誰か)を含意する。 しかしその「誰か」が、多少なりとも持続的な「私」という人物だということまでは含意されない。 直接的な確実性に関する限り、茶色を見ている何かは瞬間的な存在であり、 次の瞬間に異なる経験を持つ何かと同じであるとは断言できない。 ――『哲学の諸問題』 バートランド・ラッセル
662 :
417 :2011/07/29(金) 10:04:35.90 0
デカルトは「すべてが偽りであると考えている(疑っている)あいだも そのように考えている私は、必然的に何ものかでなければならない」 ゆえに「私は思考する、ゆえに私は存在する」と主張します。 しかしデカルトの主張は、たとえば「茶色が見られている」という現象の存在が否定できない ということであって、それが「何ものか」にたいしての現象であるにしても そのことが直ちに持続的に存在する「私」という思惟実体の存在を証明することにはなりません。 「私」の存在が偽りであったとしても「茶色が見られている」という現象が起こっている以上、 「茶色が見られている」は「何ものか」にたいしての現象である、とは言えるかもしれません。 しかし「何ものか」が要請されてしまうことと、それが「何ものかである」こととは別のことです。 「何ものか」は「茶色が見られている」を可能にする条件ではあるけれど、 「何ものかであるデカルト」(持続的な存在者)が「茶色が見られている」を可能にしている とまでは言えないでしょう。
663 :
417 :2011/07/29(金) 10:26:48.83 0
上記の議論を踏まえないで、以下。(疲れたので) ところで「ゆえに私は存在する」の「存在する私」は、 そもそもある人物(心身ともに連続する存在者)を指示しようとしているのでしょうか? …省略(^_^;) 私は思考する、ゆえに私は存在する/と私は考える、ゆえに私は存在する/と私は考える… ということですから、直ちに「私は思考する」が「私は存在する」の確実な根拠とは言えません。 実は「私は思考する」と「私は存在する」とのあいだで差異の反復が起こっているのです。 しかし差異の反復は、「相即の関係」でなければ成立しません。(説明済) 「私は思考する、ゆえに私は存在する」は、「相即の関係」として成立しているのです。 むしろ「私は思考する、ゆえに私は存在する」で止まるようでは、私は存在できません。 この差異の反復には、あきらかに存在の創造ということが含意されています。(説明済) 「思考する私」を認識論的主観(超越論的統覚)、「存在する私」を存在論的主観と考えます。 「思考する私」は、認識(経験)が成立するための可能性の条件であり「存在するモノ」です。 「存在する私」は「思考する私」が成立するための存在論的条件であり「存在するコト」です。 「思考する私」と「存在する私」は、相即の関係であり、互いが互いの根拠関係にあります。 …省略(^_^;) 「私は思考する」/「ゆえに私は存在する」の差異の反復が、行為する『私』です。 「存在するモノ」/「存在するコト」の議論を想い出せば、わかりやすいでしょうか。 「思考する私」については、認識論的にキッチリ説明できます。 「存在する私」は存在者ではなく「思考する私が存在するコト」=〈私〉です。(説明済)
664 :
417 :2011/07/29(金) 10:31:19.07 0
もちろん、デカルトが ↑ のように考えていたわけではありません。 不当にデカルトを利用して、私の論を書いただけと理解してください。
永井って原子的な個物としての存在=<私>とか<今>で 出来事の中の「私」はそれとは違う<<私>>みたいなやつじゃなかったっけ? モノとコトの区別がない人ってイメージはなかったな。
>ちなみにハイデガーは存在が存在者に遍在していることがよくわかっていません。 >だから『私』が存在論的差異そのものとして生きて在ることもわかっていません。 >無批判に著名な哲学者を信じたり、無名の私と比較したりするのはやめなさい。 これはひどいな・・・417君w
417君は大学に入ったぐらいだと思う。哲学者の批判をするのは20年早いんだよ(って、大学の先生なら確実に言うだろうw) だって君は、君が名前を挙げている哲学者の思想をぜんぜん消化できていないんだから。 名前を挙げたり引用したりしても、それを自分の言葉で掘り下げることがぜんぜんできていませんよ。
人の思想をちゃんと消化する前に、自分なりに勝手な理解をしてしまうから、
「マイ哲学」になっちゃうんですよ。
例えば君が
>>518 で引用した西田の「絶対矛盾的自己同一」と、
ハイデガーの思想との類似点と相違点について学問的に書ける?
「消化」とか無造作に言うところが 語るに落ちるというかご多分に漏れずというか 消化ってどういうこと?
一応書いてるけど・・・。国語力ないな。ここはつかれるねw 「自分の言葉で掘り下げる」。そのためには「勝手な理解」をしない。
>>670 ほらほら国語力があるとかないとか言っちゃうw
「自分の言葉で掘り下げる」行為から「勝手な理解」を排除する方法なんてあるの?
確実な解釈はないけど、真なる解釈はあるってことでしょ 喫茶店に入って「冷コーくれや」と言うじゃん で、暑いほうじ茶を出すのはよくないんだよ 冷たい飲み物とかなら客も怒らないよ 文句言いながら飲むよ うっすいなー、苦いな、、 いろんなコーヒーはあるよね でも熱茶出てきたら「ふざけんな」って言うよ
真なる解釈!
客が欲しいこの一品は満たせないよね 俺もコーヒー淹れるから分かるけど、なかなかに満たせない だから勝手な推測をして、「こんな感じなら満足かな?」って思いながら味付けするよ でもさぁ、客が不満をもつ一品はあるわけでさ なんでもかんでも好き勝手に解釈できるわけじゃないんだよね
すげー無意味なイチャモンだな 417に対してとくに反論はないわけねw
「真」って仕分けでしかないわけだ へぇぇ
677 :
Q :2011/07/29(金) 13:08:14.97 O
>673 うん、そう、「真なる解釈」 これは必ず成立する なぜなら、誰かが「α」と言ったとする これを「A」と解釈する するとその否定の「¬A」も解釈できる で、「α」から「A」と「¬A」の両方を解釈可能だとしても 「α」を言った人は「A∧¬A」と言う本旨を言うはずがないから 必ず「A」と「¬A」の解釈のどちらから一つ以上は間違ってるんだ これは「偽なる解釈」が存在することを論証するし 「偽なる解釈がある」ってことは「真なる解釈もある」ってことなんだよね
678 :
669 :2011/07/29(金) 13:09:31.28 0
>>675 「無意味」なんだ
へぇぇ
417なんか長すぎて読んじゃいねーよw
680 :
669 :2011/07/29(金) 13:15:58.51 0
>>679 なんか都合が悪いの?
「学問的」とか気楽に大口叩く奴は
どーにもらなんね
>>680 417のログを読んでいないあなたが、417へのレスだけみて怒ってるのは、へんですね。
まぁいいや。こんなところを見てるより、本を読もう!
682 :
669 :2011/07/29(金) 13:26:57.72 0
>>681 たまたまの出会い頭である
赦されよw
私も戻る
たしかに417は・・・・
アンチ最高位という点で 「敵の敵は、味方」? そういうのは、いただけない
685 :
Q :2011/07/29(金) 14:04:04.95 O
あまり417を叩くな ハイデガーを読んで、それについて語れるだけでもすごいぞ 俺なんかハイデガー読んだことないんだから
人間には2種類いる。 ってのと変わりないな。
解釈の裏に解釈者をおく必用はあるの? 権力への意志とかその辺の話。
688 :
Q :2011/07/29(金) 16:15:46.39 O
>687 例えば、このスレでも散々言われている「われおもうゆえにわれあり」 これをどう解釈するかはたくさんありえる いろんな解釈ができる あるマルクス主義者はこう書いてた 「われありゆえにわれおもう」が正しい、デカルトは間違っている この人のデカルト解釈は間違っているだろう また、一般的に、デカルトの「われおもうゆえにわれあり」を主観主義とか独我論とか懐疑論と勘違いする人もいる これも誤解だろう
689 :
Q :2011/07/29(金) 16:16:28.12 O
というのも、デカルトが「われおもうゆえにわれあり」と言った背景には デカルトが抱えていた問題があるからだ そのような問題に目を向けないで、デカルトの発言をただ勝手に解釈するのは 「われおもうゆえにわれあり」をただの格言のように扱っているだけだ デカルトは何を考え、どのような問題と向き合い その中で彼がどのように答えを出したのか それを理解することで、 我々はデカルトと同じ問題と向き合い、デカルトと対話するようにデカルトの議論と関われるのではないだろうか? 解釈において大事なのは、その言葉が問題にしていることではないだろうか? 『方法序説』が問題にしていること 問題に目を向けないで勝手に理解すると コーヒーを注文したのにお茶を出すような真似をしちゃうんじゃないだろうか で、やっぱり熱いお茶を出すのはまずいよね
690 :
Q :2011/07/29(金) 16:26:18.18 O
例えばさ、僕がニーチェを読んで 「ニーチェは道徳を正当化している。権力の犬だ。」とか批判したら、多分それは「ニーチェを誤解している」と言われるよね なぜならそれはニーチェが言っていることの真逆だから でもさぁ、そう解釈することはできちゃいそうだよね 無理矢理そう読めばね で、「解釈は自由だ」って言って自分の非を認めなくていいのかな? そうじゃないよね ニーチェの細かいニュアンスとかは分からないよ ニーチェを満足させるコーヒーなんて淹れることはできない だからといってさぁ、相手の好みを探りもしないで、勝手に変な飲み物を出したら、やっぱり怒られるよね だいたい方向性があってればいいけど てんで向いてないのはちょっとよくないよね 君が誰かと対話する時にさ、明後日の方向を向かれると失礼に感じるよね やっぱり相手の方向を向くべきなんじゃないのかな 俺はそう思う それは権力かもね
おまえが言うなよ
692 :
Q :2011/07/29(金) 16:56:01.08 O
>691 まったくだなw
693 :
Q :2011/07/29(金) 17:38:36.63 O
でもまあ、俺は自分で読んで相手が何を問題にしてるか理解しようとしているからね 読んだことないものについては語らないし 言わなくても常に満足させてくれるコーヒーが飲みたかったら いつもの喫茶店に行って常連の顔をして、でんと座って「いつもの」って言えばいいんですよ 何も足さない 何も引かない サントリーの山崎が好きな人はそれを飲んでりゃいいって話なんだよね
自分がたのまれてないお茶を出してることに気がつかないのも こまったもんだな
695 :
考える名無しさん :2011/07/29(金) 18:31:00.48 0
Qがくると、おもしろくなくなる
いやそうでもねーよw
697 :
考える名無しさん :2011/07/29(金) 18:37:37.61 0
∩___∩ | 丿 ヽ / ● ● | | ( _●_) ミ 彡、 ヽノ ,,/ お呼びかね♪ / ┌─┐´ |´ 丶 ヽ{ .茶 }ヽ r ヽ、__)ニ(_丿 ヽ、___ ヽ ヽ と____ノ_ノ
なんかズレてる
699 :
考える名無しさん :2011/07/29(金) 18:51:34.15 0
すべった・・・ようだ
700 :
Q :2011/07/29(金) 19:18:34.96 O
およびでない?、、、こりゃまた失礼しぁーした ま、今回、俺は結構長文なレスをしたじゃん? このレス自体はさぁ、場違いかなぁ? 頼まれてないお茶かな? それとも、「お!新しい味!」って感じのコーヒーかな? さて、またコーヒー淹れるか
私にはいくつかの性がある。 存在性、純粋性、主観性、自我性、唯一性、絶対性などである。 私には私以外の原因性がない。 だからどうした。
702 :
考える名無しさん :2011/07/30(土) 00:20:00.93 0
新神秘主義者の自己満足がある
703 :
哲学者最高位 :2011/07/30(土) 02:22:09.47 O
いや 現実主義者だな 現実から目を逸らして隠蔽しちゃいかんよ
704 :
哲学者最高位 :2011/07/30(土) 03:27:56.98 O
みなさん 徐々に私の言っている事が理解できてきたようですね
705 :
哲学者最高位 :2011/07/30(土) 03:54:50.81 O
>>658 417さん
キミは、『私』は「魂っぽい何か」であるという選択肢しか無い
という主張だが、確かに「魂っぽい何か」であるかも知れないけれども
違うのかも知れない
想像力を超えているのかも知れないのだから、根拠になっていないと言っているわけです
わからない事には、短絡的な決めつけは避けるべきだと思いますよ
私は『私の存在原因』が「脳という物質の物理現象の結果である」
という唯物論の主張は、間違いである
という事を言っているのであって
キミは何も私の言説を覆せてはいないのですよ
それどころか、「あらゆる存在に原因性などない」と、私の言説を強化しているだけでね
ここで私に反論している人達は、存在ではなく現象であるという事に、破綻しているにもかかわらず固執しているわけ
あと
モノとコトの反復が『私』だとか言うけれども、たとえ百歩ゆずったとしても
それは「自我一般」や「自我意識」についての論点にとどまるのであって、『私』の原因性とは関係がないわけですよ
>>705 >それどころか、「あらゆる存在に原因性などない」と、私の言説を強化しているだけでね
この箇所がおかしいね。
クオリアを持ち出されたら議論のしようが無い。 そんなに「私」を物理現象から切り離したいの?
確かに脳の物理現象からはどうやっても私は見出せないな おれは社会にあると思うわ
「私」なんて言葉に過ぎないだろ。
710 :
哲学者最高位 :2011/07/30(土) 05:33:16.23 O
>>707 クオリアで唯物論批判をした事はないよ
少し弱いんだよねクオリアじゃ
>>709 それじゃ何でも言葉にすぎなくなるね
711 :
哲学者最高位 :2011/07/30(土) 06:23:27.28 O
>>659 417さん
デカルトを読んでいないから教えた とか言っていますが
一応、言っておきますが
私は子供の頃の家庭教師がバリバリの左翼活動家で
哲学について必要以上に教え込まれてるし
その後、逆に右翼思想にも触れ、マルクス主義者達とも
あーでもないこーでもないと実践的に議論を繰り返してきたからね
その後、『私の存在性』という観点に気づくわけだが
まぁ昔の話だから、細かい事は、だいぶ忘れちゃったけどね
自己流で本を読んで誤読しているキミよりは
論点を理解していると思うよ
712 :
考える名無しさん :2011/07/30(土) 08:59:17.36 0
論点を理解していると思うが 読んだ事無いので どこが という根拠はねえよ
713 :
考える名無しさん :2011/07/30(土) 09:16:31.30 0
「主観性そのものな私」なんていうものがあるりだろうか? あると仮定して、それが何で、この私なんだ? おいら、人間やで
私なんて存在しないんだけどね。馬鹿には分からないことだが。
君は存在していないが、馬鹿は存在しているというわけ? 存在しない君が、存在している馬鹿に話しかけることは奇跡だな。 存在しない君が、存在していない馬鹿に話しかけるなら無意味だろう。 なん扇子で煽っても、風は生じないよ。
だから、馬鹿には分からないことだと言っている。
自己言及乙w
存在しないものが、他人を馬鹿呼ばわりできるとは、これ如何に。 とんちみたいだなw そうでなければ、「私」にどんな意味を与えているのか。
719 :
↑ :2011/07/30(土) 15:09:52.96 0
現にここに馬鹿が存在しているではないかw
おまえは存在しないのかよ。
721 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 01:15:25.75 0
「主観性そのものな私」なんて脳科学者の茂木や最高位が、 観念的な創作物やろ。世の中にそんなもんおるいかい。
722 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 01:18:12.64 0
へんな文章になってしもたw 「主観性そのものな私」なんて脳科学者の茂木や最高位が勝手に考えた 観念的な創作物やろ。世の中にそんなもんおるんかい。
世の中なんてほんとにあるんかい
724 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 01:56:56.28 0
人間たちが互いに関わり合って生きて暮らしていく場がないんかい
全部夢なんじゃないんかい 起きたらじつは立方体のかたちをした生物かもしれない。 起きたら自分は他の立方体に言うだろう。 「今日変な夢をみたんだ。その世界では体から枝分かれした部分がいくつもあって、 脳って言う器官でものを考えるんだよ」 この体も、脳も、自分の前に広がる世界のすべてが夢なのかもしれない。 とすると、そう考えている自分の存在だけが確実にあると言えるものだ。 これが超越論的主観性であり、「我」だ。
「私」なんて脳が作り出した妄想だよ。妄想が確実にある、なんて愚かな考え。
目が覚めたら、人間は全部(に限らず全ての生命、物理的存在)俺だった。かもしれないぞ。
>>727 じゃあ、ますます自分だけが確実に存在するってことだな。
>>726 でも、私もあなたもその妄想の「中」からしか世界を見ることは出来ないでしょう?
730 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 02:53:21.46 0
ちんぽしごいてみな。存在感じる?そんなもんじゃね?
わたしは強制失禁の暗示をうけてます
デカルトって下らないことしか言ってないな
733 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 04:52:56.05 0
そう考えている自分の存在だけが確実にあると言える(主張しうる)。 言える(主張しうる)のだ・・・とすると、自分は体をもたねばならない。 これが人間たる「我」である。
734 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 05:01:05.75 0
デカルトじゃねーよ フッサールだ 超越論的主観性なんてものに「我」という名前をつけた 何でやねん
735 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 05:05:17.20 0
決して現象しないものなのに、それを「我」と呼ぶとは 何たる・・・
736 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 05:24:36.83 0
すべての現象が現れる根拠となるものは思考作用 それを超越論的主観性とし、「我」と名付ける まあ、馬鹿・・・のように 「思考する為には脳は必要かも知れない」と言った時点で、 こんなもんは、ずっこけるのだが
「私」を知覚することは出来るの?
738 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 09:32:12.63 0
超越論的主観性なる「私」は 感覚受容器を通じて知る事の出来ることができないもの
739 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 10:00:24.33 0
主観は唯一の我であり、共同性として現れない。 コギト・・思惟主体・・主観性という図式は、実は独我論ではないかとの疑いが生じた。 独我論からの脱却として、フッサール的間主観性が登場したのだろう。
全ての哲学は独我論なんだよ その上に哲学が作られる
741 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 17:01:20.52 0
そのとおり。
742 :
考える名無しさん :2011/07/31(日) 19:27:11.58 0
だとよ
>全ての哲学は独我論なんだよ 多様な独我論。 複数個立てられた独我論。 哲学主張の相互間の差異に応じて異なる独我論。 冗談みたいな話だ。w
理解できてないからだよ
745 :
417 :2011/08/01(月) 01:41:52.41 0
>>665 >永井って原子的な個物としての存在=<私>とか<今>で
>出来事の中の「私」はそれとは違う<<私>>みたいなやつじゃなかったっけ?
そうですよ。
そんな比類なき個物が、存在していると思ってるんです。
並び立つものが1つも存在しない個物ですよ。
そんな個物が存在するって、本気で信じてるんです。
>モノとコトの区別がない人ってイメージはなかったな。
永井の哲学には、モノとコトの区別が必要ないんです。
そこを通り越して短絡させることが、永井哲学が成立する条件なんですから。
永井哲学がそこからはじまる独我体験(「独我が存在する」)そのものを疑えないんです。
なぜ独我なのか?しかもなぜ比類なきものなのか?と問わなければ哲学とは呼べません。
746 :
417 :2011/08/01(月) 01:44:57.60 0
存在するモノが、存在するコトは確実ですが、
自らに存在根拠をもつ存在者(存在するモノ)など存在しません。
ですから比類なき存在者は存在しません。
比類なさとは存在の絶対性のことであり
比類なき存在が読み換えられた比類なき存在者が〈私〉です。
だからこそ、比類なき〈私〉と表現したくなってしまうのです。
この読み換えに気づかないのは、すでに言語の獲得が無自覚に実践されているために
「私という概念」が獲得される現場に立ち会うことができないからです。(無自覚の前提)
これまでの永井自身の議論によって「〈私〉=〈今〉=〈現に〉」は認められるはずです。
私たちが、〈今〉にしか存在できないこと、〈現に〉しか存在できないこと、を考えれば、
〈私〉が〈存在していること〉は〈現に〉〈今〉しかありえない、ということになります。
どの山括弧〈 〉も同格であり、=で結べます。〈 〉は、同じことの別の表現です。
別の表現ができるのは、言語の媒介性「コトのモノ化」によって汚染されているからです。
〈今〉とは、〈現に〉とは、〈私〉とは、どれも〈存在していること〉を指していますが
この指し示しが、〈今〉を時制の現在に〈現に〉を様相の現実に〈私〉を人称の「私」に
読み換えてしまう。これが言語の媒介性(コトのモノ化)です。
永井の表現では「公的言語による読み換え」です。
ここまでわかっていながら「独我の誕生」が、すでに読み換えられたものだと気づきません。
永井は小学3年生の時に独我を自覚的に発見しています。
これは心理学の世界では「自我体験」と呼ばれています。
>>37 永井がそうであったように「自我体験」の典型は「第2の私」=「比類なき私」の誕生ですが
この「第2の私」は自覚的に発見された時点で、すでに言語の汚染(コトのモノ化)を受けた
存在者(存在するもの)として読み換えられているのです。
ここが永井が通り越して短絡させているところです。
747 :
417 :2011/08/01(月) 01:47:59.79 0
>>705 >キミは、『私』は「魂っぽい何か」であるという選択肢しか無い
>という主張だが、確かに「魂っぽい何か」であるかも知れないけれども
>違うのかも知れない
小さい頃は死んだら魂が天国に行くと信じていた。
死んでほしくない人が死んでしまうことがわからなかった。
私が死んでしまうことがどういうことなのかわからなかった。
私はいつも神さまに祈っていた。
神さまにもできないことが1つある。
死んでほしくない人が助かることでも、私が助かることでもなくて
私がどうしようもなく私で、あなたがどうしようもなくあなたということ。
私がほかのだれにもなれないこと、死んでほしくない人の代わりに死ねないこと。
小さい頃はまだ当たり前のことじゃなかった。
はやく天国に行きたいと思っていた。
死んでしまうよりもっと悲しいことがある。
>想像力を超えているのかも知れないのだから、根拠になっていないと言っているわけです
>わからない事には、短絡的な決めつけは避けるべきだと思いますよ
想像力を超えているのは、私が存在しているものじゃないからです。
私が存在しているものじゃないとわかるためにも、私はこの人間じゃなければならなかった。
この必然が読み換えられた偶然が、なぜかこの人間が私であることです。
私がこの人間なのは必然であって偶然じゃないんです。
存在の奇跡を忘れてしまうから、必然を偶然に読み換えてしまうんです。
748 :
417 :2011/08/01(月) 01:56:09.63 0
>>705 >私は『私の存在原因』が「脳という物質の物理現象の結果である」
>という唯物論の主張は、間違いである
>という事を言っているのであって
>キミは何も私の言説を覆せてはいないのですよ
>それどころか、「あらゆる存在に原因性などない」と、私の言説を強化しているだけでね
あなたが言う私が存在しているものだから、唯物論を否定しなければならないんです。
鳥が空を飛んでいることは存在していますか?
空を飛んでいる鳥や鳥が飛んでいる空や物理的に解明できる飛行という現象は存在しますが
鳥が空を飛んでいること、そのことはどこにも存在しません。
「飛ぶ鳥や光となりて空に散る」今生まれてはじめて作りましたが
想像力を超えて想像できませんでしたか? それがコトです。
あなたが存在しているなら、あなたが存在していることは確実です。
存在しているあなたの存在原因は、あなたが存在していることです。
>ここで私に反論している人達は、存在ではなく現象であるという事に、
>破綻しているにもかかわらず固執しているわけ
あなたが現象しているもののように、存在しているもののように言うからです。
私は現象ではなく存在しているものでもなく、それだけが本当に存在している実在です。
前に言いましたが、あなたの問いかけと私の問いかけは同じことへの問いかけです。
ただあなたが言っている私は存在するものではありません、と言っているだけです。
それだけが本当に存在していると言える比類なき実在が、あなたが言う私ではないですか?
現象がそれにおいてはじめて成立する根拠が私ですから、もちろん私は現象ではありません。
現象ではないから、私は存在するものではありません。
このように私の言説が、あなたの言説を強化するのは当然のことなんです。
749 :
417 :2011/08/01(月) 01:58:40.76 0
>>705 >モノとコトの反復が『私』だとか言うけれども、たとえ百歩ゆずったとしても
>それは「自我一般」や「自我意識」についての論点にとどまるのであって、
>『私』の原因性とは関係がないわけですよ
さっき書いたけど、それがコトをモノとして読み換えることそのものなんです。
哲学板らしく表現すれば、存在論的必然性を存在論的偶然性に読み換えることが
ハイデガーが言う、存在忘却なんです。
存在忘却を言っているハイデガーがいちばんわかっていない可能性がありますが。
なぜなら存在の忘却は倫理の忘却でもあるからです。
ハイデガーは、ナチになり、敗戦までナチでありつづけ、ラディカルに行動もした。
身を守るためにはしょうがないとか、臆病だからとかではありません。
存在忘却を言っている本人が存在驚愕したことがないからなんです。
東洋の無を万引きしただけの存在知らずが、20世紀最大の哲学者ハイデガーです。
存在驚愕は、一度きりの奇跡を共に享受する一期一会の間柄への気づきであり
そこにこそ、倫理の根源があるんです。
存在驚愕なき存在論、だから倫理なき存在論は、存在の奇跡を無差別に殺します。
そして存在驚愕の読み換えが、最高位さんや永井均の超越存在者の哲学なんです。
超越存在者が望めば、どれだけ奇跡を奪おうと、それが倫理的に正しい哲学です。
最高位さんは他人の比類なさも認めているようなので、永井均限定でいいですが。
750 :
417 :2011/08/01(月) 02:01:40.12 0
私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、 十分考えることが出来る。 人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。 例えば、あるものが存在する、という驚きについて考えてみよ。 この驚きは、問の形では表現され得ない。 そして、答えは全く存在しないのである。 我々がたとえ何かを言ったとしても、 それは全てアプリオリにただ無意味でありうるだけなのである。 それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。 … 言語の限界に対するこの突進が倫理学である。 … 倫理学においては、人は常に、事柄の本質が関係しないもの、 そして決して関係できないものを、を語ろうとする試みを行うものである。 … それはすでに聖アウグスティヌスが、 『なんだと、この不潔な奴め、お前は無意味なことを語ろうとはしないというのか。 お前みたいな奴は無意味なことだけを語れ、そうすれば害はないから』と言ったとき、 知っていたものである。 (ウィトゲンシュタイン全集 5)
751 :
417 :2011/08/01(月) 02:06:06.09 0
>>711 >デカルトを読んでいないから教えた とか言っていますが
>(省略)あーでもないこーでもないと実践的に議論を繰り返してきたからね
>(省略)キミよりは論点を理解していると思うよ
考える葦で有名なパスカルは「デカルトは神なしで済ませたかった」と言いました。
信仰心の厚いパスカルですから、デカルトの思想が機械論的に見えたのでしょうし
それでも地球は回っていると言ったらしいガリレオと同じ時代背景もありますから
それで「神なしで〜」と感じたのでしょうが、これでは完全に間違ってしまいます。
デカルトにとって神の存在証明は存在論的に!必然!なんです。
世界や人間が機械論的であってもいいし、事実そうかもしれないけれど
機械であるからこそ、いえ、本質が魂であっても、それが存在するものなら
その存在原因は存在するものには帰せられない(存在は自己原因ではない)
と考えたからこそ、存在原因である神、存在を創造する神が、絶対!に必要だった。
デカルト哲学の本質は、それが神の存在論でなければならないところにあるんです。
あーでもないこーでもない議論に、神の必然性についての議論がありましたか?
経験しうるものの限界を探求し理性を批判したカントは
コギト・エルゴ・スムのコギトを認識論の範疇で、私たちの経験の可能性の条件として
超越論的にとらえて(だから超越論的統覚として位置づけることで)引き継ぎましたが
私のようにコギト・エルゴ・スムをコギトとスムの存在論としてとらえて
神の存在証明の必然性と結合すれば、必然的に「コギト/スム」の存在論になります。
もちろんデカルトはそこまで到達していませんから、私がそれを引き継いでいるんです。
それを誤読というなら誤読ですが、それは「ハイデガーはそんなこと言ってない」と同じで
ハイデガーの思考の痕跡に留まるだけなら、ハイデガーの存在論を哲学することでは
なくなってしまいます。そんなものは哲学ではなくて、哲学者研究または単なる文献学です。
今言ったこと以外の意味で誤読があるなら具体的に指摘してください。
752 :
417 :2011/08/01(月) 02:29:51.73 0
私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見ます。 自分が、この広大な広がりの中の一隅に繋がれているのを見ますが、 なぜ、他のところではなく、このところに置かれているのか、 また、私の生きるべく与えられたこのわずかな時が、 なぜ、私よりも前にあった永遠と、私よりも後にくる永遠の中の 他の点ではなく、この点に定められたのか、知らないのです。 私は、あらゆる方向に無限しか見ません。 それらの無限が、私を一つの原子か、一瞬あとには、 ふたたび帰ることのない影のように閉じこめているのです。 私の知っていることのすべては、 私が、やがて死ななければならない、ということであり、 しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、 私の最も知らないことなのです。 私は自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らないのです。 (パスカル『パンセ』) パスカルは、まだ、私が存在していること、そのことの奇跡を知らない。 私は無限の虚無時空に漂う、やがて死す運命の孤独な存在者でしかない。 無限の中の点にすぎない有限者のこの宇宙的孤独が、比類なき〈私〉です。
>>417 宗教的な信念を哲学に持ち込むのはいかがなものか。
哲学というのは、所詮、概念開示のディベート。論理・弁証の叩き合い避け得ないからね。
そこで、哲学的正しさを主張するとき、どうしたって、○○の権威を持ち込む羽目に堕ちる。
それは、議論を台無しにするだろうし、せっかくの信念を下品にもする。
そこが、存在論がつまらないこころだね。証明とか云々は無用。ただ黙っていればいいのに。
独我論って克服されなきゃいけないの?
756 :
754 :2011/08/01(月) 04:03:08.52 0
>>751 (417)
存在論がつまらないこころだね → 存在論がつまらないところだね
>>755 独我論的な考えって、絶対孤独の観念論的理解だから。
生活実感として癒しや幸福感に満たされるなら、自然と消滅する。らしい。
758 :
考える名無しさん :2011/08/01(月) 08:20:20.05 0
消滅と言うより考えなくなるだけだろ
克服するとかそういう問題じゃないな 可能性の話をしてるだけの話であって、 独我論者だからと言って孤独感があるわけじゃない
760 :
考える名無しさん :2011/08/01(月) 12:42:03.65 0
独我論って、理屈で行けばそう言えそうってだけで、 お前らだって信じてないだろ? 厨房の屁理屈みたいなものさ。
761 :
考える名無しさん :2011/08/01(月) 12:48:13.62 0
417は今やポエムも交えて、マイ哲学全開!という様相を呈してきた。 マイ哲学ならマイ哲学でいいんだけど それならば哲学者の名前は出さないほうが良いよ。 どうせ突っ込まれても答えられないんだから。
独我論じゃないと説明できないことが多数なので 屁理屈でもなんでもない
763 :
考える名無しさん :2011/08/01(月) 12:54:58.44 0
は? その「説明できないこと」って何? 独我論だと説明できるわけ?w
>>763 神は全能だからxxも神のみわざである、ってのと同程度には説明できる
765 :
考える名無しさん :2011/08/01(月) 22:59:26.58 0
とても都合がよろしい
最高位さんはまた来なくなっちゃったんですか。
最高位のあたしって超ひもりろんのヒモっぽいねっ
768 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/08/02(火) 03:14:40.38 0
なんと懐かしい。最高位さんですか!
コテは名前を呼ばれることで「私」の精度が高まるけど名無しの「私」は精度が低い。 私は765である。
770 :
417 :2011/08/05(金) 02:05:25.34 0
>>754 私の議論を読んでくれていたら、わかるはずなんですけど
私が議論の前提にしているのは「存在するものが存在していること」だけですよ。
ですから、私の議論の正しさを言うのに、○○の権威はまったく必要ありません。
ましてや宗教的な信念であるわけがありません。
存在論を叩くなら「存在するものが存在していること」を論駁してください。
そんなの嘘っぱちだ、と。
私は、私が知っているかぎりの、ほとんどすべての存在論が、まちがっているか、
本当には存在論のレベルまで到達していないと思っていますので
自分で考えるしかありませんでした。(当たり前のことを当たり前に考えただけですが)
ですから、私の議論は既存の存在論とは似て非なるものです。
たぶんどの哲学書を読んでも書いてありません。
私がウィトゲンシュタインを引用するのは、彼が存在論を退けているにもかかわらず、
存在の神秘に触れ、それだけが本当に価値があるものとして位置づけているからです。
この部分を除いたら、彼の言語哲学は単なる記号論ですから無価値です。
ハイデガーや永井を批判するのは、存在論が陥るべくして堕ちる、その典型だからです。
とは言っても、私なりの先達者への敬意の表明でもあります。
批判だけが、その哲学への唯一の恩返しだと思っていますから。
771 :
417 :2011/08/05(金) 02:11:42.20 0
>>754 最高位さんが言う私を捕まえるには、存在論しかありません。
認識論的に把握されるものではないからです。
最高位さんが言う私は、もうどこかで触れましたが、
認識論的には、カントの超越論的統覚として把握しておけば十分です。
超越論的統覚は、認識(経験)が成立しうるための可能性の条件です。
感性が受け取る多様なものを「一」において統一するのが、超越論的統覚(我思う)です。
ですから、超越論的統覚は、かならず「唯一」のものでなければなりません。
しかし、この「唯一さ」は〈比類なさ〉ではありません。
私たちが、コンピュータで何やら計算してロケットを飛ばすと月に行けるのは、どうしてか?
ということに答えを出したのが、カントの認識論です。(言いすぎ)
カントの自我論は形式的には独我論ですが、独我たちが集まってロケットを飛ばすのですよ。
ですから、あくまで同格の独我たちの認識論であって、比類なき独我のそれではないのです。
対して〈我あり〉は、神だけが認識できる物自体に、だから存在者の創造にかかわることです。
それはもうあきらかに認識論の範疇を超えている、すなわち理性批判の対象になるわけです。
このように〈比類なさ〉は認識論では捉えられませんから、存在論によって捉えるしかなく、
存在論がつまらなくても、存在論でなければ、最高位さんが言う私には絶対に到達できません。
772 :
417 :2011/08/05(金) 02:18:47.59 0
>>761 ぜんぜん的外れかもしれないけど、伝わらないみたいなので、一応載せておきます。
wikiの【存在】の解説から抜粋します。(wikiの解説が正しいなんて思っていませんが)
ハイデッガーは「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在そのもの」(Sein、ザイン)を分け、
前者は後者を生成の根源とすると考えた。
自然科学は「ものが存在する」の「もの」すなわち「存在者」の方を問い、
「存在すること」そのことは問わない。
しかし、ハイデッガーなどは、まさに「存在すること」そのことを問うたといえる。
この問いは純粋に哲学的で、一般に理解されている自然科学の存在の理解とは次元が異なる話である。
どのようなものが「存在する」にせよ、「存在する」ということだけは変わらない。
要するに『どのような「モノが存在する」にせよ、「存在するというコト」だけは変わらない』が、
そのまま私が言う『存在論的差異』であって、『存在論的差異』そのものが、行為する『私』です。
私が言うように「存在するモノ」が「存在者」、〈存在するコト〉が〈存在〉と考えれば簡単です。
ただ注意しなければならないのは、ハイデガーにも疑われる存在者と存在の二元論的区別でしょう。
これをやってしまうと『存在者に存在が遍在している』ことに気づかないままになってしまいます。
ですから、いつまでたっても『私』の存在論には到達できません。
存在者即存在/存在即存在者でありながらも、絶対的に存在論的差異をもつのが存在者と存在です。
存在者「私」/存在〈私〉のあいだの動的な存在論的差異の反復そのものが、行為する『私』です。
存在論的差異の反復は、相即の関係(根拠関係)のあいだでのみ可能になります。
西田幾多郎を真似て表現すれば、「自己」の底に「自己」の絶対他者・他性を〈自己〉としてもち
同時に〈自己〉において「自己」であるところの『絶対矛盾的自己同一』が、行為する『私』です。
(「自己」→「存在者(存在しているモノ)」、〈自己〉→〈存在(存在しているコト)〉です)
>417 他者は(ウィトもハイデガーも永井も含めて)何に気づかないのか 貴方は何に気づいているのか 気づいているとは何ごとなのか 貴方の言葉が相手に了解されるとはどのようなことか再考してもらいたい 「私の議論(?)を読めば分かるはず」などという謂いは傲慢に過ぎるように思う 他者に了解されない言葉には何が残るのか 意味か?価値か?真理か? 貴方はひょっとしてここの住人を相手にしていないのでは?
>>770 >750の「ハイデッガーについて」の引用では、以下の文言が削除されているよね。
===
キルケゴールもまたこの突進を見ていた。そして彼はそれを全く似たように(パラドックスに対する突進として)言い表しているのである。
私の思うに、倫理に対する無駄口 -- 倫理的認識は存在するか、価値は存在するか、善は定義されるであろうか、等々 -- のすべてを終わらせるという事は、ほんとうに重要なことである。
人が善の定義として何を与えようと、その表現が人が実際に思っているものにほとんど対応していると考えることは、常に誤解である(ムーア)。このことはアプリオリに確かである。しかし、この突進という傾向は或るものを暗示している。
==
この削除された文言は、>770の主張とはかなり食い違う内容があるわけだが、それにも関わらず
「削除=ねつ造」を施して引用したのは、ウィトゲンシュタインの主張を自説に引き寄せて、いわば
正統化のための素材としたかったから。と読めるわけ。俺はそういうことはしなさんな。と云ってる。
ウィトの後期の思想は、「概念思考」の錯綜を詳らかにすることにあるわけだが、概念的に考えるばかり
だと、ドグマにはまって出口を失うこともあるから気をつけた方がいい。
>彼の言語哲学は単なる記号論ですから無価値です。
論考では、命題は等価値だとされているな。
正統化→正当化化
>>772 ハイデガーの存在論を考えるには、「主観と客観」という近代的図式が
大きなポイントになるんだけれど、417の話はその重要なポイントにかすりもしていない。
「存在の牧者」ということがどういうことなのかを考えてみると良いよ。
>西田幾多郎を真似て表現すれば、
「絶対矛盾的自己同一」というのは、一言で言えば「分別」と「無分別」との自己同一。
しかし417の話はすべて「分別」的であり、「無分別」にはかすりもしていないと思う。
竹田青嗣の最新刊でのハイデガー講義で竹田は大体に以下のようなことを喋っている。 《後期ハイデガーにおいて、存在の真理ということがよく出てくる。しかし、研究者でもそれが何か は言えてない。そのようなところに、後期ハイデガーの“難解故に我信ず”とも言える、宗教的性格 が表れている。》 真理というのはハイデガーにおいては非‐覆蔵態、すなわち覆蔵態が否定され、現成する、という 意味、しかし、また覆蔵態に帰る、という意味が籠められている。また、そういった存在の真理とは 、歴史的な現成であり、よく言われるが、〈既有的に‐将来する〉ということもその現成のありかた として重要となる。それは『有と時』から言われていることである。存在の真理という用語が曖昧模 糊としている、ということはない。それは重要な概念で、普通に著作を辿れば見えること、ハイデ ガー思想における重要概念であることは分かるものである。ただ、時期によって、そこに籠められ た歴史の深度に違いがあるだけである。それが曖昧模糊として読んでも分からない、分からないこ とで余計に有り難みが増している、しかし意味が分かっている人間などいない…、というのはそれ こそ読解の不足である。竹田の最新刊では講義での学生との対話も収録されているが、学生を指導 する立場にあるのなら、もう少し勉強すべきだろう。でなきゃ危なっかしくて講義などさせられな い。ハイデガーの中期後期というのはより拡がりや深度を増していき、私などは読んでて感心する ことも多い。竹田教授は読めていない。
778 :
考える名無しさん :2011/08/05(金) 13:29:19.90 0
>>705 >私は『私の存在原因』が「脳という物質の物理現象の結果である」
>という唯物論の主張は、間違いであるという事を言っているのであって
わからない事には、短絡的な決めつけは避けるべきだと思いますよ
>存在者即存在/存在即存在者でありながらも、絶対的に存在論的差異をもつのが存在者と存在です。 それはどうかな? 存在者には存在が必然的に伴うが、存在に存在者は伴わない (存在者即存在/存在即存在者)=存在論的差異であり、 存在論的差異には存在者と存在が必然的に伴う
780 :
考える名無しさん :2011/08/06(土) 13:04:15.33 0
>私は『私の存在原因』が「脳という物質の物理現象の結果である」 >という唯物論の主張は、間違いである >という事を言っているのであって ↑ 唯物論は人間の精神について言及してはいるが、 『私』の原因性には言及していない。 唯物論者の誰がそのように主張しているというのだ? 「唯物論はそのように主張している」とかってに妄想しているだけだ。 あきれた藁人形論法であり、完全に間違っている。
781 :
「機械的唯物論」者 ◆cFDtvU/EVU :2011/08/07(日) 00:10:28.63 0
「私(の意識)」が「私の肉体の消滅」=肉体死によって「消滅」することは 間違いない・・と誰でも信じている・・にも拘わらず「私の不滅」に拘りつづける 態度を「人間的あまりに人間的な」いう一言で表現した哲学者はニーチェです。
782 :
「機械的唯物論」者 ◆cFDtvU/EVU :2011/08/07(日) 00:26:36.15 0
>>777 「哲学者という職業」は「法律家という職業(要は儲かる弁護士稼業)」と
同じですので、竹田さんの「お言葉」に「(家計)経済的偏向」が存在しえる
可能性は十分ある・・ということです。
「欲望」についてポストモダーンのデリダ・フーコー・ボードリアール・ガタリ
等々・・「参照すべき思想」は(ニーチェだけだけではなく)沢山あります
>>782 そうだねぇ。例えば、新書の哲学(入門)書牡蛎達って、如実に経済的偏光の
スペクトルを放ってるよな。それは「哲学書」である。というような目眩まし。
実際には名を冊数を売らんが為本なのに。
私をこの掲示板に書かれた文章と仮定する。 そこで、私が私を操るパソコンの前に座る神の存在をつかむためにはどうすればいい? ひも理論のように私を覆う俯瞰できない存在を定義するとき、時間軸と理
785 :
417 :2011/08/07(日) 23:28:23.17 0
>>773 >他者は(ウィトもハイデガーも永井も含めて)何に気づかないのか
ウィトゲンシュタインは「存在の神秘と倫理学との関係について」と
「存在の神秘と事実との関係について」は、わかっていないと思います。
ハイデガーは「存在者に存在が遍在している」ことが、わかっていません。
永井は「存在の神秘の読み換えが比類なき〈私〉である」ことに気づいていません。
>貴方の言葉が相手に了解されるとはどのようなことか再考してもらいたい
>「私の議論(?)を読めば分かるはず」などという謂いは傲慢に過ぎるように思う
では、何が理解できないのか具体的に指摘してくれますか?
>貴方はひょっとしてここの住人を相手にしていないのでは?
私は独り言を含めて最高位さんに読まれることを期待して書いていました。
ですが、もう私の批判を最高位さんは理解しているのかもしれません。
786 :
417 :2011/08/08(月) 00:09:05.75 0
>>776 あらかじめ言っておきますが、私の存在論とハイデガーのそれはちがいます。
ですからハイデガーの存在論が根本的にまちがっていると批判していますが、
それは『私』の存在論が、より理解されることを期待して利用しているのです。
>ハイデガーの存在論を考えるには、「主観と客観」という近代的図式が
>大きなポイントになるんだけれど、417の話はその重要なポイントにかすりもしていない。
ハイデガーの存在論を考えるために「主観と客観」という近代的図式なんて必要ありませんが?
もとより存在論は認識論ではありませんので、ハイデガーは蛇足的な批判をしているだけです。
もっと言えば、『私』の存在論に到達していないことを、みずから暴露しているようなものです。
「デカルト由来の主観/客観図式・二元論的区別」というとらえ方自体が、デカルトの誤読です。
デカルト哲学は「コギト・エルゴ・スム」が、神の存在論によって成立するところがキモなのです。
認識論的には認識論的主観/客観図式があり、それは決してまちがっているのではありません。
主観自体が主観的自己と客観的自己からなり、その主観と客観を存在論的にとらえているのが、
『私』の存在論です。
>「存在の牧者」ということがどういうことなのかを考えてみると良いよ。
私のハイデガー批判を、人間を「存在の牧者」扱いするハイデガーはまちがっている、
と表現してもかまいませんよ。
>「絶対矛盾的自己同一」というのは、一言で言えば「分別」と「無分別」との自己同一。
>しかし417の話はすべて「分別」的であり、「無分別」にはかすりもしていないと思う。
かすりもしていないどころか、それそのものを表現しています。
787 :
417 :2011/08/08(月) 00:46:18.76 0
>>774 >
>>750 の「ハイデッガーについて」の引用では、以下の文言が削除されているよね。
忍法帖か、32行オーバーです。
>この削除された文言は、>770の主張とはかなり食い違う内容があるわけだが、それにも関わらず
>「削除=ねつ造」を施して引用したのは、ウィトゲンシュタインの主張を自説に引き寄せて、いわば
>正統化のための素材としたかったから。と読めるわけ。俺はそういうことはしなさんな。と云ってる。
食い違う内容なんて、どこにも見当たりません。
あなたは論理実証主義者のように誤解しているのではないですか?
>ウィトの後期の思想は、「概念思考」の錯綜を詳らかにすることにあるわけだが、
>概念的に考えるばかりだと、ドグマにはまって出口を失うこともあるから気をつけた方がいい。
『哲学探究』や『確実性の問題』の議論は、それが当たり前の人にとっては当たり前です。
そして存在論は、その先にあります。
私たちが本当に突き当たるべき岩盤についての解明が存在論です。
存在論は、本来、存在の奇跡、存在の神秘、存在への驚愕…からはじまるものです。
(もちろん、私に、路傍の石に、小さな昆虫の生き様に…存在驚愕してもいいのですが)
だから概念的に考えるところからはじめると、ハイデガーのように頽落させてしまいます。
私が前提にしているドグマは「存在しているものが存在していること」は確実ではないですか?
ということだけです。
たしかにドグマにはまっていますが、それがもともと入口も出口もない存在事実そのものです。
788 :
417 :2011/08/08(月) 02:57:24.09 0
>>779 >存在者には存在が必然的に伴うが、存在に存在者は伴わない
何度も書いてきましたが、存在者と存在は相即の関係(根拠関係)にあります。
仮にあなたが言うとおりだとしても、私たちにはそれを知ることができません。
それに存在者を伴わない存在は考えることも想像することもできないはずです。
ただ「在る」は、ただ「無い」と区別がつきません。
少なくとも存在者がいるのでなければ、存在に気づくことはできないでしょう。
私たちは「存在しているものが存在していること」によってはじめて
存在(存在していること、そのこと)に気づくのであり、
たとえ気づいた後であっても、それ以外の方法で気づかれることはありません。
ですから、私たちが知りうる存在は、かならず存在しているものに伴うのです。
(知りうる、と言っても、あくまで超言語的に知りうるのですが)
その意味では、存在に存在者は必然的に伴うとも言えるのです。
また、これが存在者が存在すること自体による存在の原汚染です。
もちろん、言語を獲得した後ではじめて、そうであることを知りうるのですが。
>>787 >忍法帖か、32行オーバーです。
言い訳っぽいですね。元々の翻訳文でさえ行区切りは32行もないですよ。
>そして存在論は、その先にあります。
いや、その先には無いかもしれませんよ。ウィトゲンシュタインがなぜ「存在論」に
手を出さなかったか、持論展開も他論批判も行わなかったか。考えたことすら無さそうですね。
永井はそこを「あえて」無視して存在論やってるみたいですが。君も同類ですか?
まあ、それは、尊いこととはいえ、「言語の限界=獄舎の壁にさからって走るということは、
まったく、そして絶対的に望みのないことであります。」ということらしいのでお気をつけて。
>「存在しているものが存在していること」は確実ではないですか?
それはトートロジーだから、間違いはないですが、何も言っていないに等しいですね。
存在するという語法に必要以上の意味を与えて過ぎているのが、君がハマってるドグマでしょ。
まあ、ウィトゲンシュタインにおいても、「記号論理学」はトートロジー。限界で語ることであった
わけだけど、それは梯子の比喩が示すように同時に「論」としては無意味らしいので、そこは
ぜひとも超克して欲しいとは思うけどね。自論の有意味さを強調するために、根拠も示さず、
彼は間違っている、奴はわかってない。とい連発するのは、いかがなモノかと。思うけどね。
790 :
773 :2011/08/08(月) 03:46:12.00 0
>>785 その「存在の神秘」とはなんですかね?
貴方のレスを読むとそれは「存在への驚愕」からくるものらしい。
そらならばそれは神秘ではなく「驚愕」たる心的状態に解消されてしまうのではないのか。
「気づき体験」による心的転換が貴方をしてそれを神秘としてしまう。
それは最高位が『私』をしてそれを神秘としてしまうのと同類であり、
「(ヒトにとって)平凡な状態」を「神秘」として理解してしまっただけなのではないのか、
・・・・と、考えたりはできないのですかね?
「存在の神秘」「存在への驚愕」は、「『私』に世界が理解される事態を神秘と理解する感覚」
とは区別される(べき)ものなのですか?
教えてください。
791 :
417 :2011/08/08(月) 03:49:43.63 0
>>789 >永井はそこを「あえて」無視して存在論やってるみたいですが。君も同類ですか?
永井は、むしろ表面上は、ウィトゲンシュタイン的格率を守っているように見えますよ?
もちろん、ウィトゲンシュタイン哲学の誤読と存在の読み換えに気づかないからですが。
永井の存在論は、存在者と存在の存在論ではなく、存在者と超越存在者の存在論です。
ですから、まちがった存在論です。
ところで、あなたは存在論をやることが、どうして尊いと思うのですか?
>それはトートロジーだから、間違いはないですが、何も言っていないに等しいですね。
「存在しているものが存在していること」に存在論的差異を認めるのが存在論です。
存在論や存在論に導かれる倫理学は、徹底的に無意味ですよ。
むしろこの世界において徹底的に無意味であることを示す議論が存在論とも言えます。
翻訳 ミック氏(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)哲学板の先輩。
http://www.geocities.jp/mickindex/wittgenstein/witt_lec_et_jp.html 絶対的な価値という言葉によって言おうとすることを
私が考えうるいかなる記述も記述できないし、
仮に誰かが提案できるような有意義な記述があるとしても、
私はまさにその有意義さの故に、最初からそうした記述を拒否するだろう、
ということです。
…
というのも、それらの表現によって私が成したいことは、
世界を越えて行くこと、すなわち有意義な言語を超えて行くことだからです。
それゆえにウィトゲンシュタインは語らなかったけど、それゆえに私は語っています。
792 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 04:06:23.71 O
ハイデガー存在神秘哲学読んだ 古東哲明著 しかしまあいくら解説書を読んだからって 原典にあたらなければハイデガーを知り得ない のちに存在と時間に手をだす
793 :
417 :2011/08/08(月) 04:18:53.08 0
>>790 >その「存在の神秘」とはなんですかね?
たとえば、あなたが存在しているという、まさにそのこと。
>>791 のウィトゲンシュタインの倫理学講話から抜粋させてもらうと
例えば私は、青空に見入っている間に、空が曇っているという場合に対して、
空が青いことに驚いた経験があります。
しかしそれは私の言いたいことではありません。
私は、どんな状態でもありうる、そういう空に驚いているのです。
のように、空が存在しているという、まさにそのことが「存在の神秘」です。
>そらならばそれは神秘ではなく「驚愕」たる心的状態に解消されてしまうのではないのか。
そうですよ?
「存在への驚愕」(存在しているということへの驚き)は「「驚愕」たる心的状態」という
存在するものではありませんが、「「驚愕」たる心的状態に解消されたもの」を通して
私はしゃべるしかありません。
「存在への驚愕」という文字を読んで、あなたが存在するものを想像するなら仕方ありません。
つまり、たとえば、俳句(存在するものの羅列)を読んで、存在するものを想像してしまうなら。
>「(ヒトにとって)平凡な状態」を「神秘」として理解してしまっただけなのではないのか、
存在していることは、私たちにとって当たり前すぎるのですよ。
平凡どころの平凡さじゃありません。
しかもそれに自覚的に気づいたからといって対象化できるものでもありませんし。
>「存在の神秘」「存在への驚愕」は、「『私』に世界が理解される事態を神秘と理解する感覚」
>とは区別される(べき)ものなのですか?
同じです。(対象を理解する感覚ではありませんが)
世界が、森羅万象が、私が、存在していることを奇跡として見ることです。
別にそのように見たくなければ見なくてもいいんじゃないですか。
少なくとも最高位さんが、そのようにして逃げることができないことが、私には重要なので。
竹田の哲学解釈は間違っていると哲学専門家に20年以上前から言われ続けていたそうだが、 間違っていても彼の切り口は新鮮であり面白いではないか。
795 :
417 :2011/08/08(月) 05:00:02.89 0
存在(無)を、とてつもなく大きな、世界を包み込むような、かぎりなく広く遥かな…のように
全体性としてとらえてしまうと、理想主義的全体主義(国家・覇権主義)に踊らされてしまうことになり、
まさにハイデガーや西田幾多郎が間違ってしまったように「理想のためには〜」になってしまいます。
逆に永井均のように超越存在者を立てれば、今度は超個人主義(悪の思想)になってしまいます。
どちらも存在の奇跡の読み換えであると同時に、他者の存在を完全否定する思想に他なりません。
「哲学は危険なものだから(永井)」ではなくて、まちがった哲学が危険なのです。
だから私は『存在者に存在が偏在している』と表現するように心がけています。
私たち一人ひとりが、今ここに存在の奇跡を体現している存在者なのですから。
もし存在論が宗教的でなければならないとしたら、それは存在論が倫理学だからです。
なぜウィトゲンシュタインは、存在の神秘と倫理学を同じように超越させたのでしょうか?
この問いに答えている、それ以前に問いにしている哲学者に、私は出会ったことがありません。
私にとっては、存在の神秘と倫理学は別のものではありえません。
私が存在の神秘を問うとき、それは絶対価値について問うことと同じだからです。
ちなみに、私は、
>>791 で紹介した『倫理学講話』の「罪を感じる第三の経験」は、
絶対的価値としての倫理を示し得ていないと思います。
つまり、ウィトゲンシュタインは、まちがっています。
おそらくカントが『実践理性批判』において道徳を超越させたのと同じように
倫理を考えているのでしょうが、絶対価値としての倫理は、それ自体としては、
いかなる規定としても働かないのでなければならないと、私は思っています。
ある種の規定として働きうること自体が、もうすでに意義を持つことだからです。
それは絶対価値が、この世界の倫理に読み換えられていることを示しています。
796 :
417 :2011/08/08(月) 05:02:47.11 0
後期ハイデガー、つまり戦後のハイデガー存在論は転回したと言われます。 誤解を恐れずあっさり言えば「人間→存在」から「存在→人間」への転回なのですが、 私に言わせれば、単に重み付けが人間から存在に変わっただけと言い切ってもいいです。 哲学的には、カントのコペルニクス的転回、ウィトゲンシュタインの言語論的転回とは 比べるのもはばかれるほど低次元の単なる世間への目眩まし転回(態度変更)にすぎません。 ハイデガーは、確信を持って「自分の哲学をナチに重ね得た」という言い訳できない誤りが、 すなわち哲学的誤りを犯していますから、狡猾な彼にとっては、当然すぎる言い訳転回です。 ハイデガーは、存在とは、存在者を存在者にあらしめているものでありながらも、 神でも世界の根拠でもないと言います。 また、存在者が現実に存在したりしなくなったりするのは、存在の運命であるとも言います。 (「現実に存在している」は、通常は「現存」と訳されています) 存在の運命が、存在者が現実に存在したりしなくなったりを決定している、と。 にもかかわらず、存在は神でも世界の根拠でもない…この議論が理解できるでしょうか? 存在の運命は、神ではないのだから、存在者の創造には関わっていません。 存在の運命は、世界の根拠でないのだから、世界が現実に存在することには関われません。 にもかかわらず、なぜか世界が現実に存在するかどうかは、存在の運命としてあります。 ということは、存在とは「世界が現実に存在していること」そのものを示していることになります。 だからこそ、存在者が現実に存在したりしなくなったりすることが、存在の運命であると言えます。 好意的に解釈しても、ハイデガーの存在論は、ここまでなのですよ。
>>793 難しく考えすぎ。という印象。
在原業平の歌には名歌が多いが、例えば、君の言う存在の奇跡なら
>世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし
自我・認識・時間論なら
>月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
とかね。31文字でもこれだけ表現できる。という良い例。
和歌や俳句などの表現を読めば、古来から世界に対する驚きを普通に示していると思うけどね。
それは決して特別な認識であるわけがない。
「もの・こと」に差異を付与して特徴づけるのは事実と実在とを概念的に切り分ける思考手順なの?
かもしれないが、ウィトゲンシュタインの「世界は事実の総和でモノの寄せ集めではない。」という
ことだから、ある意味、そうした差異は考慮外でしょ。
「存在の神秘」という表現はウィトの文脈限定とするなら曖昧。6.522は命題表現でしか示され得ないはず。
絶対倫理について、たぶん指摘通りウィトはカントの定言命法を念頭に置いてる。かもしれない。
シュリックとの対話でも人間による根拠付けを拒否しえるという点で
「あえて言えば、善とは神の命令」という表現を使っているから。
>絶対価値としての倫理は、それ自体としては、いかなる規定としても働かないのでなければならないと、
>私は思っています。
ま、それは言わなくてもいいことだよね。
>>788 >何度も書いてきましたが、存在者と存在は相即の関係(根拠関係)にあります。
根拠関係にはない。存在論的差異=存在者と存在の相即関係であり、
存在者が認識されていることに存在が必然的に伴い、その存在者の認識
そのものが存在論的差異である。
>全体性としてとらえてしまうと、理想主義的全体主義(国家・覇権主義)に踊らされてしまうことになり、 問題を見誤っている。リアルポリティックスとの関係を反省的にとらえる、つまり、リアルポリティクス そのものを洞察の対象とすることができない哲学はすべてリアルポリティクスに踊らされることになる。 理想主義的シオニズムの代表者、マルティン・ブーバーのガンジーに対する返答は、哲学によって政治 の暴力を覆い隠すという意味でハイデガーのナチス礼賛と双璧をなす。ブーバーが明示的に暴力を否定し、 非難していたとしてもだ。
800 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 13:49:32.51 0
417の書き込みは上のブログに酷似している。剽窃ですか?とくに以下の部分。(このブログ良くないね…) 【存在とは、存在者を存在者にあらしめているもの、存在者を光の中に現出させてくるものです。 人間が現存したり、現存しなくなったりの決定を行なうのは、人間ではなく、存在の運命だと言います。 存在は神ではないし、世界の根拠でもありません。】 こういうやり方をしないで、批判するならちゃんとハイデガーの著作から引用しながら 批判するようにしてくれれば、417の誤読も指摘できたりすると思うよ。
801 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 13:57:37.06 0
>>786 >私のハイデガー批判を、人間を「存在の牧者」扱いするハイデガーはまちがっている、
>と表現してもかまいませんよ。
ハイデガーはなぜ現存在を「存在の牧者」と呼んだのか?
そして、417はなぜそれが間違いだと思うのか?
この二点について詳しく説明お願いします。
802 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 14:01:36.29 0
>>786 >>「絶対矛盾的自己同一」というのは、一言で言えば「分別」と「無分別」との自己同一。
>>しかし417の話はすべて「分別」的であり、「無分別」にはかすりもしていないと思う。
>かすりもしていないどころか、それそのものを表現しています。
では、「分別」と「無分別」との自己同一とは、どういうことなのか?
詳しく説明お願いします。
803 :
考える名無しさん :2011/08/08(月) 14:37:53.95 O
◆未だ無き存在! ( ̄∀ ̄)
804 :
773 :2011/08/08(月) 17:36:41.03 0
>>793 概ね私の言う通りでもよい・・と言っておられるようにも受け取れますw
しかしそうだとすると問題は解消に向かっていないようにも思える。
貴方の言われるようにそれは「等価(?)な“読み換え”」ともとれるの「かも」しれないが
いずれの解釈(=読み換え可能な表現)が優先されるのかを判断することはできないのでは?
貴方の解釈がより根元的であり、それ以外は「間違っています」と
断じることを可能とする根拠とは何なのでしょう?
805 :
773 :2011/08/08(月) 17:38:49.66 0
「存在への驚愕」を心的状態に解消してしまうと 「驚愕を驚愕として現前たらしむ“由来としての存在”」は 「(『私』として)驚愕する“対象としての存在”」とは「別」の存在としてその存在(w)を要請する必要性が生じませんか。 なぜならヒトは自ら(の心)が“儚く生かされている”ことを知っているからです。 「存在者に偏在する(と驚愕を伴って了解される)神秘としての存在(性)」 とは異相の、想起不能だが危うく理解可能な、いわば“存在可能力(性)”を 「置く」必要がでてくるとは思われませんか。 そこまでやらなければ『私』の解消などできないのでは? それともそのような「存在の分裂」は無用な操作でしょうか。 存在の意味が驚愕の意味を越える必要に迫られるとき 417さんは存在の意味を消失するのでは? 杞憂ですか?w
【拡散お願いいたします】創価・集団ストーカー この被害に遭うとプライバシーは丸裸にされ、 悪質な嫌がらせをひたすら受ける生活を強いられます。 (忌野清志郎さんも集団ストーキングの被害者のようです) 米国ではすでに報道され法整備がなされようとしています。 ぜひこの犯罪の実態を知って下さい。
807 :
417 :2011/08/11(木) 05:49:52.19 0
>>797 >和歌や俳句などの表現を読めば、古来から世界に対する驚きを普通に示していると思うけどね。
>それは決して特別な認識であるわけがない。
ええ、だから俳句だ、コトだ、と言っています。
私は、言わされているだけで、言いたくて言っているわけではありません。
どうしてこんな当たり前のことに気づけないのか、当たり前のことがどれだけ凄いことなのか、
だれにもわかっていなさそうなので驚いています。
>「もの・こと」に差異を付与して特徴づけるのは事実と実在とを概念的に切り分ける思考手順なの?
もともとウィトゲンシュタインとは一切関係ありませんが、関連づけた場合にはそうなりますね。
存在者(現象)/存在 → 存在するモノ/存在するコト → 事実/実在 です。
本当は、ウィトゲンシュタインの議論なんてどうでもいいんです。まちがっているんですから。
永井均が、ウィトゲンシュタインの議論を誤用して、自分の哲学を正当化しているでしょう?
最高位さんの議論が理解できなくても、永井の議論を利用してなら言葉が通じるのかな?と。
>ある意味、そうした差異は考慮外でしょ。
ウィトゲンシュタインは、事実(事態の成立)と事実を消滅(論理空間を点にまで縮退)させた後に残る
実在との関係がまったくわかっていませんから、存在論的差異が考慮外なのです。
彼の言っている事実は、存在するモノの結合にすぎませんから、どこまで言っても事物なんです。
生命論的に喩えれば、この肉体を細切れに分解して、再び結合したって、その肉体は生き返りません。
事実が存在するモノの結合であるかぎり、どこまで行っても、存在する事実(コト)にはなりません。
だからこそ、存在論が語り得ないものになってしまう。
彼と話すことができるなら、余計な梯子を立て掛けないでよ、と叱ってやりますよ。
事実を消滅とは、正確には、事態の(成立/不成立にかかわらず)すべての可能性の消滅ですが、
簡単には、頭の中を空っぽにしたら、頭の中の世界(世界の写像)が消滅する、でもかまいません。
それから、点にまで縮退しても、私という事実は(世界の写像ではないので)消滅していませんので。
808 :
417 :2011/08/11(木) 05:53:57.82 0
>>797 >「あえて言えば、善とは神の命令」という表現を使っているから。
一神教の神など持たない日本人には、はじめから神の命令などありません。
(一神教の神のことなのか?とかいう質問は受け付けません)
当然のように批判できるはずの日本人が、だれひとり批判できないのはなぜか?
西欧の哲学者を神のように崇めているからです。バカを通り越して情けないです。
>ま、それは言わなくてもいいことだよね。
私は、それだけが言いたくて議論しています。
私がどうして「まちがっている」と批判するのかわかりますか?
私が批判しているのは、すべて存在論なんですよ。
ウィトゲンシュタインの哲学に好意的なのは、彼の哲学が存在論ではないからです。
でも、彼が存在論(倫理)を語れば、見事に自ら立て掛けた梯子を踏み外します。
性格が悪い私は、それを見逃さず、大笑いしながら批判します。
言わなくてもいいことを言わせるのは、キミのせいなんだよって。
809 :
417 :2011/08/11(木) 05:56:52.41 0
>>798 認識が、現象が、森羅万象が、私が…
だから、本当は、すべての存在者が、存在論的差異の反復そのものです。
その事情を説明するためには存在者と存在を区別しなければなりません。
古代ギリシア哲学者パルメニデスの「あるものはあり、ないものはない」を存在原理、
同じく古代ギリシア哲学者ヘラクレイトスの「万物は流転する」を現象原理とします。
存在原理は現象(生成消滅)を、現象原理は存在(変わらない)を、絶対否定します。
現象とは、万物が流転(生成消滅)することですが、
もし万物の流転(生成消滅)が徹底されれば、何ものも存在できないはずです。
何ものかが姿を表す瞬間(変わらないもの)を持っていないからです。
だから現象とは「変わらないものにおいての現象」と言えます。
この変わらないものが瞬間です。(議論は省略しますが、瞬間は存在の別称です)
(正確には、瞬間とは「変わらないもの」ではなく〈変わらないこと〉ですが)
存在は、ただ「ある」というようにではなく
現象(存在者)に貼り付いて(不離不即のコトとして)現前しているのです。
もちろん、存在するものの現前ではありませんから「存在しません」が
「存在するものが存在していること」のようにして現前しているのです。
本当に実在しているという意味で現前しているのは、むしろコトの方です。
存在者において存在が、存在において存在者が、現前しているのです。
(現前が気に入らなければ、存在者の実質と考えてもらってもいいです)
たとえば「鳥が空を飛んでいること、そのこと」は、存在するものではありません。
それなのに(存在しないのに)、ありありと『現前』しているではないですか?
810 :
417 :2011/08/11(木) 05:59:37.91 0
>>798 通常は、現前は存在者の専売特許ですから、存在の現前を否定するのが存在論です。
また、現代哲学一般が、現前は乗り越えられるべきものとして位置づけています。
もちろん、完全にまちがっています。
カントやウィトゲンシュタインが限界付けた領野から1ミリも抜け出せていません。
どのように理屈付けようと、それでも「鳥は空を飛んでいる」。
これが存在事実です。
これ以外の何ものも現前していませんから、すべては現前しているのです。
存在しているもの「現前」と存在していること〈現前〉とのあいだの
存在論的差異の反復そのものが『現前』であり、存在事実です。
すべてのまちがいが、存在の上に存在者を位置づけることからはじまります。
存在者と存在とのあいだの根拠関係(=相即関係)に気づかないまま、
二元論的区別をしてしまった時点で、ゲームオーバーです。
存在者と存在は、存在論的には、どちらかがどちらかより優越しているのではありません。
存在者と存在は、互いが互いの根源であり、根拠であり、原因なのです。
認識が、現象が、森羅万象が、私が…すべての存在者が存在していること、
すなわち、存在事実 = 『現前』とは、『存在者が今ここに現に存在していること』
以外ではありえません。
この存在事実が、解明されなければならないのです。
(議論は省きますが、〈私〉=〈今〉=〈ここに〉=〈現に〉=〈存在していること〉です)
何ものかが現前しているとは、何ものであれ存在者が存在していることであり、
「存在者が存在していること」が、私たちの、この世界の、存在事実そのものです。
また、私は「存在しているものが存在していること」を『存在論的必然性』と呼びます。
この存在事実を通り越して短絡させてしまうから、まちがってしまうのです。
私の存在論は、既存のすべての存在論を否定しますから、納得しがたいかもしれませんが、
虚心坦懐に存在事実を見つめられたら、存在者と存在の根拠関係にも納得されるはずです。
811 :
417 :2011/08/11(木) 06:08:19.75 0
>>799 >問題を見誤っている。
まちがった存在論は、なぜかわからないけど、悪の思想に加担するのですよ。
存在が、超全体性としてとらえられても、超個人性としてとらえられてもね。
私の存在論だけが、世界でただひとつ、そういう危険性とは無縁な存在論です。
私は、今あきらかに神を暗示していますね。(笑)
812 :
417 :2011/08/11(木) 06:10:11.14 0
>>800 >417の書き込みは上のブログに酷似している。剽窃ですか?
私は自分の主張の正当化のために都合の悪い部分をわざと引用しなかったり、
今度は(自分の主張の正当化のために?)だれかのブログを剽窃したのですか?
あなたがウィトゲンシュタインもハイデガーも勉強したことがないのがよくわかりました。
あなたは、もうウィトゲンシュタインもハイデガーも読まなくていいから、
そのひん曲がった性格を直しなさい。
バカで性格まで悪かったら救いようがないでしょ?
人生で一度くらい頑張ってみなさい。
>>801 >ハイデガーはなぜ現存在を「存在の牧者」と呼んだのか?
>そして、417はなぜそれが間違いだと思うのか?
>この二点について詳しく説明お願いします。
あなたが私の論を理解できないのは、あなたがバカだからであり、それは私のせいではありません。
すでに書かれていることを、せいぜい勉強しなさい。
自ずとわかります。
>>802 >では、「分別」と「無分別」との自己同一とは、どういうことなのか?
>詳しく説明お願いします。
あなたが絶対矛盾的自己同一を理解していて、私が書いていることを理解できないとしたら
それは、実はあなたが絶対矛盾的自己同一なんて、ちっとも理解できていなかったからです。
それは、あなたがバカだからであって、わたしのせいではありません。
あなたがバカだからわからないことに、私が責任を持つ必要はありません。
あなたは、自分では一切何も説明しないで、つぶやいてるだけです。
ツイッターでもやってなさい。
813 :
417 :2011/08/11(木) 06:11:43.03 0
>>804 >いずれの解釈(=読み換え可能な表現)が優先されるのかを判断することはできないのでは?
>貴方の解釈がより根元的であり、それ以外は「間違っています」と
>断じることを可能とする根拠とは何なのでしょう?
あなたは私の議論を読んでくれていたのでしょうか?
私は前スレから少しずつ議論を積み重ねてきたつもりです。
あなたは私にもう一度最初から話してくれと言っているんですよ。
私にはそんな暇も元気もありません。
レスが遅れるのは、申し訳ないと思っていますが。
814 :
417 :2011/08/11(木) 06:14:00.78 0
>>805 >「存在への驚愕」を心的状態に解消してしまうと
>「驚愕を驚愕として現前たらしむ“由来としての存在”」は
>「(『私』として)驚愕する“対象としての存在”」とは「別」の
>存在としてその存在(w)を要請する必要性が生じませんか。
驚きは心的状態ですよ?
心的状態に解消されたから存在驚愕と名付けられます。
本当の存在を求めて無限遡及する必要はありません。
もとより存在者に汚染された存在ですから。(存在者も存在に汚染されていますが)
あなたは、たぶん純粋存在者や純粋存在がありうると思い込んでいるのです。
たしかに存在そのものという言い方をすることは頻繁にありますが、
存在そのものにも存在者そのものにも到達できると思っていません。
ただ「ある」なんて言われて、途方にくれてしまうからではなく、
ただ「ある」は、存在者と存在の二元論的区別によってはじめて言えることであり、
そもそも存在者と存在は、そのようにはなっていないからです。
存在者と存在は相即の関係(根拠関係)にあり、どちらか一方が欠けても成立しません。
存在者がいなくても、ただ「ある」だけは残る、なんていうことは、絶対に言えません。
存在驚愕は、存在それ自体 → ただ「ある」への驚きではありません。
かならず存在者を通して気づかれています。
それは、足元の小さなアリでも、美しい景色でも、私でも、世界でも…
なんでもかまわないですが、それら存在するものを通して気づかれます。
かぎりなく「ただ在る」と表現するしかないような体験が可能であっても
そこには、かぎりなくゼロに近い存在者(私)が、かならず存在しています。
815 :
417 :2011/08/11(木) 07:06:37.25 0
>>797 >「あえて言えば、善とは神の命令」という表現を使っているから。
「神の命令」なら仕方ないのですが、私の存在論的には、神はまだ存在する必要がなく、
神を呼ぶためにも、まずは「神の命令である善」は、否定されなければならないのです。
カラマーゾフのような神なき自由、存在論的偶然性に侵された「すべてが許されている」を
私たちは超えていかなければなりません。
もちろん、それは神の倫理であってはならないし、いかなる規制であってもならないけれど、
私たちが存在の奇跡を生きるとき、奇跡そのものが人生讃歌になるのではないでしょうか。
そこに開かれる「すべてが許されている」こそ、私たちの本当の自由ではないのでしょうか。
私たちが今ここに存在していることだけが、この世界で唯一の必然であり根拠なのだから。
私たちは存在の奇跡を共に享受するだけでいい、私たちは自由に生きたらいいのです。
私たちにとって倫理があるとすれば、それは存在の奇跡において生きることだけなのです。
なぜ人は人を殺してはいけないのか?
倫理や道徳の禁止「いけない」は、あくまでトートロジーでしかなく根拠なんて示していません。
社会学者なら「社会(仲間内の関係)を安定的に維持するための道具」と言うでしょう。
生物学者なら「人間は進化の過程で互恵的利他主義を遺伝子レベルで獲得している」と言うでしょう。
哲学者なら、それがまちがっているとは言わずに「だから、根拠なんてないんだよ」と言うでしょう。
私には、哲学者が言う「根拠なんて無い」の「無さ」が、ひどく浅すぎるように感じるのです。
私の物言いは、それに対するせめてもの反抗にすぎません。
私たちが存在の奇跡に気づくということは、私たちがただ一度だけの存在の奇跡を共有する
一期一会の間柄なんだって気づくことなんです。
私にとってあなたという存在が奇跡以上の奇跡なんだって気づくことなんです。
存在の奇跡に気づいた私には、奇跡以上の奇跡であるあなたを殺すことはできません。
私には、もうなぜ人は人を殺してはいけないのか?という問いが存在しません。
816 :
417 :2011/08/11(木) 07:46:44.84 0
>>800 >【存在とは、〜世界の根拠でもありません。】
たぶん、これはハイデガーが戦後に発表した『ヒューマニズムについて』の書き込みです。
私はハイデガーの戦後の転回を単なる言い訳転回、態度変更にすぎないと批判している。
だから、私が念頭に置いているのは、もちろん『ヒューマニズムについて』です。
私は、わかる人にはわかるように書いているのね。(一応、あなたも考慮してたよ)
転回→現存したりしなかったり→存在の運命→神でも世界の根拠でもなく、存在は広く遥かな〜
私が抜き出しているのは、有名な転回の箇所からの数ページなのね。
しかもハイデガーが「現実存在」について批判しているくだりでもあるわけ。
だから、皮肉を込めて、現存を「現実に存在していること」と言い換えて、
それが「そのまま存在なんだよ!」と批判し返しているわけよ、私は。
ハイデガーなんて読んだことがない人に言ってもわからないと思うけどさ。
あなたみたいな人が相手だと、私はどんだけ孤独なんだって話しなの、わかる?
ハイデガーは、存在論は主観性を捨て去っていく思索と位置づけながらも
そのような思索を記述することができなかったので『存在と時間』は未完に終わってしまった。
だけど今度は、存在の真理に没入し、そこに立つことで、自ずと示されるようにしていく、と。
この転回は、私には「人間→存在」から「存在→人間」の、単なる重み付けの転回にすぎないの。
ハイデガーの言い回しでは「存在へと身を開き、そこへと出で立つあり方」が人間の本質だけど
人間は、そもそも身を開かなくても開かれているし、そこにいるから出で立つ必要もありません。
というのが、私の存在論です。(存在の奇跡に気づかないかぎり、存在論は絶対に成就しません)
ツッコミ入れるなら「ハイデガーの存在論は、ここまでなのですよ。」にしてよ。
一応、それに備えて次のレス分まで書いてたんだからさ。(笑)
っていうことで、これが最後ね。あんまりバカだと相手にしないから。
817 :
417 :2011/08/11(木) 08:10:24.19 0
>>796 のつづきです
「世界が現実に存在していること」の「現実に」と「存在していること」は、同義です。
存在は、世界であれ何であれ存在者を通して(存在者というモノの汚染を受けて)
「存在者が存在していること」というようにしかとらえることができないのです。
「存在者が存在している」とは「存在と存在者の存在論的差異そのものとして存在している」
ということなのです。
これを最高位さんが言う私に置き換えれば、存在しているもの「私」と存在していること〈私〉
のあいだの存在論的差異の反復そのものが『私』であり、私たち人間の存在事実なのです。
ということになります。
このように、かならず「存在しているものが存在していること」が『存在論的必然性』です。
また、存在論的差異の反復そのものが『私』である、というあり方が「自己の自明性」です。
「…我思う、ゆえに我あり/と我思う…」でも「…私が私を見る/私が…」でもいいですが、
このような『私』のあり方そのものが成立しうる可能性の条件が、存在論的差異の反復です。
カントで説明したように、認識論では、コギトの必然性・唯一性にまでしか到達できません。
人間を存在論的に捉えてはじめて「私の比類なさ」がどこから来ているのかが解明できます。
818 :
417 :2011/08/11(木) 08:16:12.27 0
「私は、なぜこの人間なのか?」という問いは、 この人間ではない「私の存在の比類なさ」に気づかれるからですが、 この「比類なき私」への気づきが、すでに読み換えられたものなのです。 もうどこかで説明したので、後は省略します。 今回は、コピーされた最高位が、なぜ〈私〉ではありえないのか? について説明してみます。 物理的にも心理的にも(可能なら時空位置も)完全にコピーされた最高位が「〈私〉でない」のは、 〈私〉と呼んでいるものが、最高位が〈現に〉〈今〉〈ここに〉〈存在していること〉だからです。 すなわち、〈私〉が、存在しているものとしての「最高位(心身)」ではありえないからです。 〈現に〉=〈今〉=〈ここに〉=〈存在しているコト〉が、すなわち〈私〉なのです。 (なぜ、イコールなのかについての議論は、もし要望があれば、そのときにします) 〈私〉とは、存在しているモノとしての最高位ではなく「最高位が存在していること、そのこと」なのです。 ですから、〈私〉とは、最高位(心身)ではない「魂」のことではありません。 「魂」であれば、コピーされた8番目の最高位が、もし〈私〉なら〈私〉でなければなりませんが、 〈私〉とは、「最高位が存在していること、そのこと」ですから、 オリジナルの最高位ではない、どの完全コピーにも〈私(最高位の超越性)〉は転移できません。 これが『存在論的必然性』(=『存在するものとしての最高位が存在していること』)です。 「比類なき私」とは、〈存在の比類なさ(絶対性)〉が「〈存在者の比類なさ〉」として 読み換えられたものなのです。
819 :
417 :2011/08/11(木) 08:21:03.53 0
存在者の比類なさとして読み換えられた〈私〉には、当然〈他者〉は存在しません。 存在は、存在者の絶対他者・他性だからです。 ******************* この読み換えが、存在論的独我論の独我を産み落とします。 もし独我が世界を滅ぼしたいと望むなら、滅ぼしてかまわないし、実際に滅ぼしても、 それが倫理的正しい!と言えてしまう、この独我の倫理は、 あくまで論理的必然として導かれるものですが、これこそ「純粋悪の思想」と呼べます。 なぜなら、悪とは同格の他者の存在を絶対否定することに他ならないからです。 それは、一度きりの存在の奇跡を共に享受する一期一会の他者の絶対否定なのです。 これは存在論として誤っているだけではなく、あきらかに危険思想です。 見えている実害だけではなく、見えないところまで深く浸透しているようで怖いです。 ******************* 存在者の絶対他者・他性を〈私〉として自覚しているのですから、 〈私〉は、存在者(存在するもの)である「私」の絶対他者・他性として存在します。 また〈私〉から見られた他人は〈他者〉ではありえないですから @〈私〉に同格の〈他者〉は、絶対に存在しません。 A〈私〉において存在する世界に〈私〉は存在しません。 B〈私〉において存在する世界に存在するのは、なぜか〈私〉がそいつであるところの (世界に位置づけられた)この人間「私」だけであり、そいつは〈私〉ではありません。 少し補足しておけば、 @存在に同格の〈他者〉は「他人が存在していること」です。 だから〈他者〉とは、存在するものとしての「他人」にとっても、絶対他者・他性です。 ですが、存在者にとっての絶対他者・他性において、私とあなたは出逢うのです。 私とあなたは、存在の奇跡において、一期一会の絆を結びうる間柄なのです。 A存在者の世界に存在は存在しません。(存在は存在するものではありません) B存在者が存在すること(存在するものが存在すること)が『存在論的必然性』です。 それを『存在論的偶然性』に読み換えると、なぜか〈私〉がそいつであるところの (世界に位置づけられた)この人間「私」が〈私〉ではない、という錯覚が生じます。
820 :
417 :2011/08/11(木) 08:32:04.09 0
>>807 誤解されると嫌なので、念のため。
>「もの・こと」に差異を付与して特徴づけるのは事実と実在とを概念的に切り分ける思考手順なの?
>かもしれないが、ウィトゲンシュタインの「世界は事実の総和でモノの寄せ集めではない。」という
>ことだから、ある意味、そうした差異は考慮外でしょ。
その通りです。
ですから、
>>785 に、ウィトゲンシュタインは、
「「存在の神秘と事実との関係について」は、わかっていないと思います。」と書きました。
『論考』は、事実からはじめて、事実を分析しますが、その事実は「事態の成立」であり、
事態は「モノの結合」ですから、存在論ではありえません。
というより、存在の神秘(存在していること、そのこと)が、すっぽり抜け落ちることで、
存在論を示しているのが『論考』とも言えます。
「世界は事実の総和でモノの寄せ集めではない。」と言いながらも、
だからそれは「世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。
神は世界のうちには姿を現しはしない(TLP 6.432)」「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、
世界があるというそのことである(TLP 6.44)」と、付け加たくなる。
だけど、実際には、モノが存在しなければ、事実を認識することができないので、
モノの存在を認めざるを得なかったのです。
ちょうどデカルトが神の存在を認めざるを得なかったのとは反対の方向で
モノの存在を認めざるを得なかったのかもしれません。
だからこそ私たちは、どうしたって梯子を外して存在論へ突入しなければならないのです。
821 :
考える名無しさん :2011/08/11(木) 08:37:02.57 0
>まちがった存在論は、なぜかわからないけど、悪の思想に加担するのですよ。 問題を見誤っている。現在、悪の思想に最も加担しているのは「存在論」 そのものを排除している分析哲学。その加担は、哲学から哲学的言説と リアルポリティクスの関係の考察を意図的に排除することにある。 リアルポリティクスによって与えられる世界観を自明のものとして、 哲学をその枠内にとどめることを哲学をする前提として強制している。
822 :
417 :2011/08/11(木) 09:11:03.09 0
>>821 >現在、悪の思想に最も加担しているのは「存在論」
>そのものを排除している分析哲学。
まちがった存在論だから加担してしまうのです。
ハイデガーが自分の哲学をナチに「重ね得た」のは事実です。
私は、彼の哲学がナチに「重ね描き」され得たということを批判しています。
哲学が、特殊状況的現実に「重ね描き」できるはずがありません。
ハイデガーや西田幾多郎の哲学が、国家礼賛(戦争の正当化)につながるのは、
まちがった存在論の宿命というか、必然なんですよ。
逆方向にまちがった存在論(永井均の存在論)の場合、金川のような独我を産み落とします。
超越存在者の存在論では、存在論的必然性が存在論的偶然性に読み換えられているので。
カラマーゾフ的自由が論理的に保証されている超越存在者の倫理は「純粋悪の思想」です。
他者の存在の絶対否定としてはじめて存在できるのが存在論的独我に他ならないからです。
分析哲学の人には理解できないと思いますが。
本来、存在論のあとに残るのは、相変わらずのこの世界と私たちの生活だけです。
いったい何を哲学していたのか?と感じられてしまうほどに何ひとつ残りません。
分析哲学の場合は、あってもなくてもどうでもいい哲学なので脅威になりません。
分析哲学は、存在論を排除しているのではなく、語りたくても語れないだけです。
言語の限界の内側で、と自らの限界を定めているだけです。
もちろん、それが人間の限界であるはずがありません。
そうですね、そう考えればちょっと怖いかも、いえ、相当怖いですよ、論理のオバケなんて。
最近流行らないけど、私は哲学するとは、真理を探求することだと思っています。
ああ私がこうして生きていることが真理なんだってわかったので、もういいかな?
823 :
417 :2011/08/11(木) 09:14:27.40 0
>みなさんへ たくさん書きましたが、来週から手術のために入院しなければなりません。 しばらく来られないかもしれません。 いつもレスが遅くなってしまって申し訳なく思っています。 レスがいただければ、できるかぎり返答したいと思っています。 遠慮なさらずにレスしてくださいね。 返答できない場合は、お許しを。 ちなみに、私の性格の悪さは、病気とは関係ありません。(笑) 今日はこれで失礼します。
824 :
773 :2011/08/11(木) 09:33:06.11 0
>>814 気づかれない存在は「ない」わけですか
誰も知らない小惑星Xが“気づかれないままに”存在している
と考えることはことは私にとっては妥当なことですけどね
レスありがとうございました
>分析哲学は、存在論を排除しているのではなく、語りたくても語れないだけです。 洗脳教育の現場を実体験で知っているから明言できるけど、そんなに生易しいもの ではないよ。教育の現場はトップダウンでリアルポリティクスによって支配されて いて、存在論を「主観の表現の場」と考えられている芸術/文学の枠組みを離れて 語ることは、言論の上で排除されるだけでなく、物理的に危害が及ぶ(もちろん、 表立ってではないが)可能性さえあり、そのことを多くが知りながら見て見ぬ振りをしている。
そういう電波はいいからw
忠告されたことも、圧力をかけられたことも、嫌がらせを受けた ことも、脅迫を受けたことも、行動を監視されたこともない人には 実感として分からないだろうね。
はやめに病院いった方がキミのためだと思うよw
私も以前はもっとナイーブだったから、何でこんな純粋にアカデミックな 世界に軍の情報関係者(肩書きを隠してもいない)が一教員として入ってる んだろうぐらいにしか思わず、深く追求もしなかったわけです。でも、 重要な地位にある教授がそういう人に説明責任を負っている姿や、全く 学問の基礎さえない人間がアカデミックの世界で昇進していく姿を目の当たり にすると、どんな鈍い人間でも気付くわけです。
具体的に言わないとただの創作にしか見えないですよ。 俺は出版の人間だからお前みたいな電波野郎こそ見慣れてるw
別に個人を特定できるような情報を晒してまであなたに信じて もらいたいとも思わないし、その必要性も感じません。 私にはあなたがどういう人間なのかもまったく分からないし。 私は自分の体験から知っている事実を語っているだけで、 他の人が自分の経験に照らしてそれが信じられない、 電波だと思うなら、それはそれで構いません。電波の感じ方 も人それぞれですね。
832 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/08/11(木) 12:13:58.68 0
最高位さんは来られていないのですか。 残念ですね。 ついでと言ってはなんですが仏教的な立場から一言言わせていただくなら あまりに「私」というものに対しての修飾が強すぎるかと。
>最高位さんは来られていないのですか。 ある意味では マイ哲学最強w 誰とも話が通じない・・・・ 417みたいなのは、はじめから放置するしか手はなさそう。
反論できないと腐すってのもテンプレ的だな
君も頓珍漢な奴だね。 または自演かな。 (このすばやい反応から見て後者の疑い濃厚)
417に何かあるんなら反論すればいい それができないんなら「放置」してればいいだけだよ まぁ馬鹿にはそれも難しいんだろうけどな
あらしに反論すると、どうなる?w あらしとは言わないまでも、似たような状況だということだね。 話が通じない人には、反論もできないということだ。
で、反論はないわけねw
おまえも話通じないなw (やっぱり本人か?w)
そりゃ、きみの話には何の前提もないからね〜
このへんで、「放置」となるわけだ。 (反論できないから「放置」になるんじゃない。話が通じないからだww)
きみの通じたかった話とやらは何一つ語られなかったけどそうなるんだろうねw イージーだなぁ〜
手術の成功を祈る。じゃw
「語順も含め完全一致」で《存在者を存在者にあらしめているもの》でググルと、二つのサイトがでてくる。 一つはここ。もう一つが417が写したブログ。 「にあらしめている」は、日本語おかしくない? 「たらしめている」だろうね。百歩譲って「であらしめている」かな。 へんな日本語をそのまま写すから、すぐばれる。
846 :
797 :2011/08/11(木) 15:17:29.77 0
>>820 「『存在論 命!』で上等!」なのね?
そこまでハマらなくてもいいのに。と重ね重ねいいたくなるな。
禅の有名な公案に「婆子焼庵」というのがある。
ある老婆が、一人の修行僧を世話をして20年が過ぎました。いつも、ひとりの娘に食事を届けさせ
仕えさせていたのですが、ある時その16の娘に修行僧に抱きつき誘惑するように言いつけました。
娘は修行僧に抱きつき「さあ、どうしますか?」とささやきました。
修行僧は「枯れた木が寒い岩に立つように私の心は熱くなりません。」と言って娘の誘いを断ったといいます。
娘からその報告を聞いた老婆は「私は、二十年もこんな俗物に供養してきたのか!」と怒りだし、
庵を焼き払ったというのです。
この公案、答え方には@婆さん酷すぎA修行僧は修行不足。B娘いいなり杉C修行僧堅物杉………等々幾通りも
ありえる。人聞きの二休禅師の答えでは
「娘の件は修行故の仏徳なのだから素直に受け入れてよし。さすれば春には新芽が出る」とかいうものだったらしい。
俺が学生時代に聞いた答えの一つは、そうした公案の文脈に限定された答えとは全く違っていた。
単純に「婆をころせ」というもの。ずっと後にある事件で有名になった語で言い換えれば「婆をポアしろ」。
当時の話では、婆娘の共同試しの後じゃなくて、話のロジックとして、婆さんがそもそも居なければ、
修行僧は婆さんの供養として修行することもなく、娘も修行僧と出会うこともなかったであろう。
つまり、そうした公案そのものが成立しないから問題は完全消滅する。そういう意味での「ポア」。
ある意味、禅っぽいな。と思いつつも、どこか違うなという印象もあった。Ω事件でこの話を思い出したよ。
この話の鍵の一つは、「修行」という語の理解のされ方が、修行者本人の僧と供養者である婆さんとでは
全く異なっている。ということ。存在論もいいのだが、「論」以前に、他者との相互理解はかくも難しいのは
なぜ? という視点は論点と別にありえるだろう。と思うけどね。
417は一度言葉を捨てた方がいいな。言葉を使わない相互理解から始めるべき。
TEST
で? その問題が「私」の話にどう関係してくるの?w
850 :
417 :2011/08/12(金) 07:07:30.47 0
>>825 大変興味があるのですが、あいにく詳しくありません。
学校?教育の現場に哲学が関係しているとは驚きですね。
分析哲学派対存在論派とは、左翼対右翼ということですか?
851 :
417 :2011/08/12(金) 07:25:19.47 0
>>845 世界の名著リバイバル!ブログ
http://liberalarts.jugem.jp/?eid=39 なるほどね、「存在者を存在者にあらしめているもの」が完全一致だわ。
性格のひん曲がったあなたが喜ぶわけがわかったよ。
あなたが剽窃と指摘する部分は、主に「存在の牧者」について書かれた部分なの。
だから『ヒューマニズムについて』を、あなたが読んでいたら、すぐにピンとくるはず。
だけど、あなたはピンとこなかった。
だから、あなたの頭の中がせいぜいウィキペディア程度ということが証明されたわけ。
私は、あなたが本当に「存在の牧者」についてわかっているのか試したのよ。
転回→現存→存在の運命→「存在の牧者」→神でも世界の根拠でもなく→存在は広く遥かな
ハイデガーを読んだことがないあなたが「存在の牧者」とか言っていいの?
最低限のモラルがあるでしょうに、哲学の徒としての。
それから「存在者を存在者に在らしめているもの」が正解だから。
「存在者を存在者足らしめているもの」では、存在者の性質や本質に受け取られてしまう。
また、基礎知識がある人であれば、端的に存在と受け取るはずです。
端的に存在を表現している文脈ではなく、「存在の牧者」を表現している文脈ですから。
(あなたが『ヒューマニズムについて』を読んでいる前提でしたから、無意味でしたけど)
次に「存在者を存在者で在らしめているもの」ですが、
これでは、存在者「そのまま」の意が強く不適当です。
「存在者を存在者に」には、単なる存在者からの差異・転位の意を込めています。
存在忘却と存在の真理との関係を、そのまま存在者に当てはめてみたらいいです。
「存在者を存在者に在らしめている」のは、だから人間を存在の真理の守護者としての
「存在の牧者」にしているのは、人間が存在の真理のなかへと投げ出されること、そのこと、です。
だから、ふたたび存在忘却と存在の真理について考察されなければならない〜と続く。
852 :
417 :2011/08/12(金) 07:28:01.77 0
>>846 >存在論もいいのだが、「論」以前に、他者との相互理解はかくも難しいのは
>なぜ? という視点は論点と別にありえるだろう。と思うけどね。
対話にならなくて、ごめんなさい。
853 :
417 :2011/08/12(金) 07:33:38.38 0
私という概念について 私たちは言語を獲得してはじめて、「私という概念」=「生きているコト」 → 「私(誰か)であるとは、生きているというコト」を手に入れます。…A その後「私(誰か)とは、生きているモノ(固有名)である」と知ります。…B 私たちが無自覚に獲得しているもの、そして今ではもう想い出せない「私という概念」を エマニュエル・ラボリという聾唖者が、手話を学ぶことで獲得していく過程「A → B」を 彼女の自伝から紹介してみます。
854 :
417 :2011/08/12(金) 07:34:55.62 0
昨日、明日、今日。 過去? 未来? それって、何のことなの? 世の中の最も簡単な概念さえ謎だった。 私の頭はいつも現在で機能していた。 7才で手話に出会ったおかげでようやく、 昨日とは自分の後ろにあるもの、明日は前にあるもの、 ということがわかるようになった。 夢のような進歩。 個人を指す言葉というものがあることも知った。 パパとは彼のこと。ママとは彼女のこと。マリは私の妹。 誰かであるということは、生きているということ、 それがわかってから、私は自分のことを私は∞私が と言えるようになった。それまではいつも彼女≠セった。 自分自身のことを彼女≠ニ呼びながら、 自分がこの世界のどこにいるのか? 誰なのか? 何故いるのか? ずーっと探していた。そして、ようやくその答えを見つけたのだ。 私、というものが存在している定義≠ェある。 つまり、生きている。 エマニュエル、それは私。 私はエマニュエル・ラボリです。
855 :
417 :2011/08/12(金) 07:39:46.66 0
言語を習得しなければ、時制や人称が成立しないことが、よくわかると思います。 決定的に重要なのが、私(生きているコト)が、エマニュエル(生きているモノ)として この世界に誕生するということ、そしてエマニュエルの誕生によって 私(生きているコト)が、忘れ去られてしまうことです。 A 私、というものが存在している定義≠ェある。 つまり、生きている。 B エマニュエル、それは私。 私はエマニュエル・ラボリです。 エマニュエルは自分が言語を獲得していく過程を想起して執筆していますが 彼女はすでに言語の世界の住人ですから、AとBとのあいだの絶対の断絶を いとも簡単に超えていきます。 この逆超越(存在→存在者)を可能にしているのが コトを汚染し隠蔽することでモノ化する言語の媒介性です。 私(生きているコト)は、対象として認識されるモノではありませんので 言語の世界では、すみやかに最高位(生きているモノ)の背景に退きます。 エマニュエルの体験は、私たちの世界が徹頭徹尾言語の世界であり そして言語の世界とは、エマニュエルが存在する!世界であり エマニュエルが私!の世界に他ならないことを教えてくれています。 「生きている(コト)」すなわち「存在している(コト)」と考えてみてください。 私たちが、当たり前に獲得している「私という概念」の正体が明確になります。 参考図書 →『かもめの叫び』青山出版社 エマニュエル・ラボリ 絶版
856 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/08/12(金) 07:41:21.24 0
おはようございます。休日になったので横から多少書いてみます。 昨日も書きましたが話題が「私」というものを説明するために あらゆる「修飾」をしていませんか? それよりも「私」と「世界」或いは環境でもいいでしょう。 そういった繋がりから考察するのも、また一つ別の意味での 「私の発見」になるのではないでしょうか。
857 :
417 :2011/08/12(金) 08:09:40.11 0
もしかして私に話しかけているのですか?
>>851 長いいいわけごくろうさま。
>>801-802 で私は、ハイデガーと西田幾多郎の思想の根源に関わる質問をした。
そして、貴方はそれに答えられなかった。
貴方との哲学の話は、それでおしまいです。
>絶対矛盾的自己同一
どうみても無理のある表現だけど、禅問答と解釈すれば言いたいことが
分からないでもない。要するに西田は「0」ではない「無」を
表現したかったんでしょ。存在を表す「1」の消去としての「0」ではなく。
>>417 じゃないので、質問への返答ではありますん
860 :
考える名無しさん :2011/08/12(金) 19:26:30.88 0
試験官は採点するだけで答えは示せられないらしいw
862 :
417 :2011/08/12(金) 23:06:06.02 0
>>858 >
>>801-802 で私は、ハイデガーと西田幾多郎の思想の根源に関わる質問をした。
>そして、貴方はそれに答えられなかった。
>貴方との哲学の話は、それでおしまいです。
あなたが理解できないのは、私のせいじゃないって言ってるでしょうに。
西田幾多郎を真似て表現すれば、「自己」の底に「自己」の絶対他者・他性を〈自己〉としてもち
同時に〈自己〉において「自己」であるところの『絶対矛盾的自己同一』が、行為する『私』です。
(「自己」→「存在者(存在しているモノ)」、〈自己〉→〈存在(存在しているコト)〉です)
(私が西田幾多郎を真似て言えるのは、私が西田の思想を理解しているからなのね。
絶対矛盾的自己同一についても、私は西田以上にわかっていると思うよ、後発者だもん)
あなたは ↑ に対して、
「絶対矛盾的自己同一」というのは、一言で言えば「分別」と「無分別」との自己同一。
しかし417の話はすべて「分別」的であり、「無分別」にはかすりもしていないと思う。
と、言ったのよ。だから私はそれに対して、
かすりもしていないどころか、それそのものを表現しています。
と、言いました。あなたが理解できないのは、わたしのせいじゃありません。
「自己」と〈自己〉=「私」と〈私〉の『絶対矛盾的自己同一』が『私』だよ。
絶対他者・他性とは、存在そのもの、「私」が存在していること、そのこと、それが〈私〉。
「私」は存在しているもの(存在者)/〈私〉は存在していること(存在)とのあいだの
存在論的差異の反復そのものが『私』であり、「私」と〈私〉は相即の関係(=根拠関係)。
863 :
417 :2011/08/12(金) 23:58:07.27 0
>>858 「 」は、たとえば「私」と「世界」・「私」と「環境」のように
分別されるものとしての存在者を表現しています。
〈 〉は、たとえば〈私〉と〈世界〉・〈私〉と〈環境〉であれば、
存在者と存在者との関係を表現しているのではなく、
〈私〉=〈世界〉・〈私〉=〈環境〉といように
存在論的に同一の位相にあることを表現していることになります。
私たちが、無分別について語れるのは、分別と無分別を分別できているからです。
これが、コトをモノ化する言語の媒介性であり、モノによるコトの汚染です。
分別されている、または分別できるのでなければ、無分別については語れないのです。
ここで、西田の『善の研究』まで遡ります。(これくらいは読んでいると思うから)
手元になければ、西田幾多郎データべースを見てください。
http://www.f.waseda.jp/guelberg/nishida/nkz1/nkz1-1.htm#9-1 どう? 純粋経験が無分別について言っていることがわかりましたか?
どうして無分別なのか、なんで分別と無分別が絶対矛盾しているのか?
それなのになぜ自己同一と言えるのか?
(というところまでは、まだ到達していない頃の著作だけどね)
私は、それを存在論的に解明しているの、それが今まで私が話してきたことなのね。
私は、存在論的差異を絶対矛盾的自己同一として見ることができると言ってるのよ。
経験には、日常の分別的な経験と西田が示したような無分別的な純粋経験がある。
双方の経験を分別して見るなら、これも絶対矛盾的自己同一としてとらえられる。
分別的(主客分離)な経験の根拠が、無分別的(主客合一)な純粋経験にあり、
無分別的(主客合一)な純粋経験の根拠が、分別的(主客分離)な経験にあるから。
たとえば、私と花が主客合一するためには、私と花が主客分離していなければならない。
そうでなければ、合一ということが起きようがないからです。(もちろん、逆もまた真なり)
ここで大事なことは、どちらが欠けても、そのどちらも成立しないということです。
だからこそ、絶対に矛盾しているにもかかわらず、即の論理によって同一と言えます。
汚染と言い切れるのかな?
汚染はモノかな、コトかな
即は論理かな
867 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/08/13(土) 00:12:31.14 0
>>857 さん
特には。おそらくお二方が議論されていると思うのですが
あまりに修飾が多いな、と思いまして。
ただ素直に私という存在を捉えるか、それは如何様にして成されるか
(後者は宗教的ですが)が重要なのではないかと。
矛盾を孕む論理 それを無意味という
無意味な言明は等価である(いずれがより正しいとも言えない
870 :
797 :2011/08/13(土) 03:57:41.42 0
>>863 西田の純粋経験論なんかより朝比奈みくるの時間論の方がずっと面白いよ。
====
時間というものは連続性のある流れのようなものでなく、その時間ごとに区切られた
一つの平面を積み重ねたものなんです。時間と時間の間には断絶があるの。
それは限りなくゼロに近い断絶だけど。
だから時間と時間の間には本質的に連続性がない。
時間は連続していないから、仮にわたしがこの時代で歴史を改変しようとしても、
未来にそれは反映されません。この時間平面上のことだけで終わってしまう。
何百ページもあるパラパラマンガの一部に余計な落書きをしても、ストーリーは変わらないでしょう?
====
MPEG2とかMPEG3とかは、みくるちゃんの2枚の絵の差異を数値化して圧縮・解凍再生する技法。
西田の「純粋経験」って、みくるちゃんの1枚の絵のこと。ウィトゲンシュタインの「事実」もそう。
二枚の絵は同一平面上にはない。というのが西田の「絶対矛盾」。ウィトの因果律は存在しないという主張も
また、みくるちゃんがきっちり説明していると思うw
ハルヒの憂鬱って、俺的にはとっても面白い。
871 :
797 :2011/08/13(土) 04:07:24.69 0
____ __,,/ _, ----`ヽ :. :. / _ ___ 、\ / / i \ \\ :. :. ,'./ i ヽ:. ヽ:.:.. ヽ.ヽ ,'/ / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :. :. |i .i i .i / ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ} |i .i l :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:} :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \ イjミトイイV :. な… .| :メヽ.', `ozZ} izN。ハ::{ なんなんですか? :. | :ヾ_! ゝ "゙゙ ' `゙ ハ.:', :. ここ、どこですか? | :.:_イ .:.ヽ. (二フ , イ :.:.:!:.ヽ なんであたし :. / rィイ | :.:.ヽ: >r/`<ノ .:.::.}ヽ、\:. 貼られたんですか? / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\ :. / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^` |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:. / / ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{ ∧/.-‐'": : |:.:. i ', ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、 : : : l:.:.: .ハ ', { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.} V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄ ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{ リ ヽ:.:{、.:.V : : ヘ : : {: : :/:.::∧| ヽ! )人 : : :人 : : : / \! :. " ヽ : : : : :/イ{ :.ノ: : : :.\ :. :. \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
872 :
797 :2011/08/13(土) 04:42:06.39 0
ちょい補足。
ハルヒの憂鬱は、元々ライト・ノベルだけど、
パラパラマンガなアニメでもあるわけで、みくるの時間論は見事な自己言及。
でもって、それはSFチックなネタでもあるわけで、正しさどうのこうのと無関に楽しめる。
そこがいいところだと思える。
哲学的議論で、正しさとか真理とかが問題とされる限り、どうしたって
俺は正しく奴は間違ってるな陶酔モードに入りがち。そんな陶酔モードの最右翼は
ニーチェのチャラトゥストラ冒頭とか、この人を見よだけど、まあ、哲学者は誰も
似たり寄ったりのナル大杉。ナルも美しければそれはそれで鑑賞に堪えるとは思うけど。
自己修飾大杉に陥らないためには、何が必要なのだろう?
>>867 第三者の理解の有り様を数多く知ることも重要だけど、柄谷とか浅田とかみたいに
博識なのも、それはそれでナルの別表現でありえるわけで。
「素直」さを保つのはそれはそれで難しいことだなあ。と思ったりもする。
873 :
考える名無しさん :2011/08/13(土) 09:56:25.10 0
>無意味な言明は等価である つまり、言いたいのは、こういうことじゃろ? 絶対矛盾的自己同一=das Nichten des Nichts どちらも禅問答じゃな
875 :
417 :2011/08/13(土) 12:23:21.27 0
>>865 >汚染はモノかな、コトかな
もちろん、モノがコトを、コトがモノを。
純粋なモノも純粋なコトもありえないという意味です。
言語の、という限定では、コトのモノ化が言語のお仕事のひとつですから。
876 :
417 :2011/08/13(土) 12:24:37.51 0
>>867 >あまりに修飾が多いな、と思いまして。
スレの性質上と、議論の便宜上と、論理的整合性を維持するためと
当たり前のことを当たり前の言葉づかいでわかったような気にならないためです。
>ただ素直に私という存在を捉えるか、それは如何様にして成されるか
>(後者は宗教的ですが)が重要なのではないかと。
あるがままを言うことはできません。
あるがままだということはできても。
だから、生きていること・存在していることが、私、と言う。
この肉体が消滅しても、永遠に消滅しない証としての私です。
もちろん、魂のことではありません。
唯識さんの、無駄な修飾を取り払った、私についての議論が知りたいです。
私には時間がないので、私に対してなら、今日・明日中に、お願いします。
宗教vs哲学で、面白いのではないかと思います。
877 :
417 :2011/08/13(土) 12:26:48.58 0
>>870 >西田の純粋経験論なんかより朝比奈みくるの時間論の方がずっと面白いよ。
西田の話しなので。
>====
一言、トンデモ。(哲学ではないからかまいませんが)
たしかに私は面白いとは言えません。
ふーん面白いね、なにしてる人?とか
へぇーすごいな、哲学者じゃないのに、とか言えません。
かたくななつもりはありませんが、さすがに内容がヒドイので。
それから797さんの西田やLWの解釈に反論してもいいのですか?
「ハルヒの憂鬱って、俺的にはとっても面白い。」で括られると
反論なんかしたら、わかってないヤツになってしまうでしょう?
私は、漫画・アニメ・ゲーム・芸術一般には、ほとんど興味がありません。
本も哲学関連のものしか読んだことがありません。
それ以外なら興味があります。
とくにスポーツは、見るのもするのも大好き。
今は、女子バレー頑張れ!ですね。
去年、世界バレーで3位になったときには感動して大泣きしたな。
今日と明日は、めいいっぱい応援します。
「純粋なモノ」とか粗雑ですな
まあ「汚染」で納得するようならそれでいいのか
880 :
417 :2011/08/13(土) 12:53:45.35 0
>>872 >ハルヒの憂鬱は、元々ライト・ノベルだけど、
>パラパラマンガなアニメでもあるわけで、みくるの時間論は見事な自己言及。
>でもって、それはSFチックなネタでもあるわけで、正しさどうのこうのと無関に楽しめる。
>そこがいいところだと思える。
ああ、やっぱり書いてあった。
そういうことだよね、だからなにも言わないことにする。
>哲学的議論で、正しさとか真理とかが問題とされる限り、どうしたって
>俺は正しく奴は間違ってるな陶酔モードに入りがち。
スポーツ選手のイメージトレーニングと変わらないと思う。
アーティストが「ぼくならできる、ぼくは天才だ!」とも似てる。
ちがうのは、本気で自分を信じたりしないことです。
哲学は、哲学すること、だから思想になったら終了。
>そんな陶酔モードの最右翼は、ニーチェのチャラトゥストラ冒頭とか、
>この人を見よだけど、まあ、哲学者は誰も似たり寄ったりのナル大杉。
こうでなければならない哲学者の典型がニーチェ、カントもウィトゲンシュタインも劣らず。
本物のナルシスト(自己愛性人格障害)は、ハイデガーくらい。
自分の哲学が批判されることから逃げず、それを嫌いながらも願ってしまうのが哲学者では?
関係ないけど、柄谷、浅田、東は読むに耐えないと東スレに一行レスしたら怒られました。(笑)
>>874 >"Yes, dear wife, you are quite right."
「妻が正しいに決まってる。どこにオチがあるんだ?」と思う人は
分析哲学に向いている(この話に出てくる妻のようなものである)
哲学では言葉の選択に慎重である必要がある 必然性のない要素を導入しないよう注意しなければならない 汚染とは、汚れに染まることを意味し、染めるものは汚れである 夕焼けに赤く染まった空を見て、空が汚染されたと感じる人間は少ない
883 :
考える名無しさん :2011/08/13(土) 13:32:30.75 O
未だ無い存在! しかし何かがある。 いったい何だよ!? 私
>>863 この貴方の書き込みは、今までの中ではまともな方だが、
やはり絶対矛盾的自己同一を理解しているようにはとても見えない。
根本的に違っている点は、貴方が「存在者」と〈存在〉、「自己」と〈自己〉との間の
『差異』を強調して、それを絶対矛盾的自己同一に結び付けているところです。
そのように「存在者」と〈存在〉、「自己」と〈自己〉という二つのものがあるのではなく、 「 」と〈 〉という二つのものは、あたかもある「かのように」見えるだけです。 したがって、その二つのものの間にある『差異』も、ある「かのように」見えるだけのものです。 そのように、ある「かのように」見えるだけのものが、ここで重要な役割を果たすはずはないのです。 (西田はよく「一即多、多即一」という言い方をするが、その場合も、 力点は「多」にも「一」にもないのであって、あくまでも、力点は「即」にあります。)
では、ここで最も重要な役割を果たしているのは何かといえば、それは、「自己否定」という契機です。 『絶対矛盾的自己同一』という短い論文の中で、西田は「弁証法」という語を二十回も使っています。 絶対矛盾的自己同一という論理は、「自己否定」によって媒介された「高次の肯定」である点が、弁証法的な論理なのです。
>即の論理によって同一と言えます。 「即の論理」ではなく、「即非の論理」です。 絶対矛盾的自己同一という論理は、西田の親友でもあった鈴木大拙の「即非の論理」と同じ論理であると西田自身も言っています。 「我は我ならず、ゆえに我なり」あるいは「自己即非自己是名自己」ということです。 これは弁証法的な論理であるので、はじめの「自己」と、否定によって媒介された後の「自己」は、もちろん別ものです。 (そして、真ん中の「非自己」が、鈴木大拙の言い方では「無我」「無心」、西田では「無の場所」にあたります。)
それから、できれば、「存在の牧者」についてもお願いします。
889 :
考える名無しさん :2011/08/13(土) 15:29:30.27 O
哲学関連の本しか読まないっていうのはずいぶん貧しい読書習慣だなぁ 偏食は良くないよ
>>872 製作サイドはそこまで掘り下げてるの?
それとも、視聴する側として「そのように見れる」ということ?
で、そういう多様な見方が可能な点を評価する、と?
もし、そういうスタンスだと、押井守とかはあざとくて(直接的過ぎて)嫌い?w
ビューティフルドリーマーに始まり、天たま、パト、攻殻とエスカレートする一方だが・・。
>>877 >一言、トンデモ。 ・・・・・・ さすがに内容がヒドイので。
そっくり同じというわけではないが、
仏教(アビダルマ教学)には「刹那滅」という言葉、考え方があってだな・・・w(以下略
892 :
797 :2011/08/13(土) 22:31:05.29 0
>>872 制作サイドの意図がどこにあるのか、どこまでなのか俺は知らない。
ただ、8話でみくるちゃの時間論の「過去未来の断絶性」と作中出来事と原因結果の連続性をキョンが
問題にしたとき、長門有希に「無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾性を証明することができないから」
とゲーデルを引用させちゃったりしている件があったり、哲学を意識したシナリオはそれなりにあるのだろう。w
閉鎖空間とかハルヒの世界創造能力とか、SF的だけど、たとえばデビッド・ルイスの様相論理・可能世界意味論な
解釈もできたりする。この辺はトンデモと云われても仕方ないところだけどね。アニメなので免責されていいのでは?w
個人的な好みを論っても仕方がないから、この話はここ辺で。
893 :
797 :2011/08/13(土) 22:32:52.89 0
>>877 ,891
以下に、西田自身の時間論と思われる一節を引用。瞬間=無時間性と捉えられるなら、
西田の「瞬間の美学(X-Japan)」とウィトの6.4311は相当近似しているように見えるのかもしれないね。
瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、
『時は非連続の連続として成立するのである。』時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。
具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。
それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、
それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、
現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、
それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。
時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、
現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、
時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として
真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の
現在の瞬間となるというにほかならない。
時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
絶対矛盾的自己同一
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
894 :
892 :2011/08/13(土) 23:45:48.44 0
895 :
417 :2011/08/14(日) 01:35:03.46 0
>>884 >やはり絶対矛盾的自己同一を理解しているようにはとても見えない。
では、絶対矛盾とは何?
存在者と存在は、あきらかに絶対矛盾。
お互いがお互いの絶対否定だから。
けれど『私』は、単なる存在者(存在するもの)ではない。
存在論的差異の反復によって存在者は存在する。
重要なのは、存在論的差異の反復そのものが、存在者が存在していることである点。
問題は、存在論的区別をした時点(存在を発見した時点)で
論理思考上の区別を真理としてとらえてしまうところにある。
つまり「私」は存在者であり存在ではないという論理思考上の区別を真理化するのがまちがい。
『私』は「存在するものが存在していること」という『存在論的必然性』の外には出られない。
その意味での存在者としての『私』が、存在論的差異そのものである『私』。
存在者が存在するとは、存在論的差異そのものとして、というところを通り越して短絡させたのが、
論理思考上の区別を正当化する、いわゆる既存のまちがった存在論。
>根本的に違っている点は、貴方が「存在者」と〈存在〉、「自己」と〈自己〉との間の
>『差異』を強調して、それを絶対矛盾的自己同一に結び付けているところです。
西田に囚われすぎ + 二元論的区別を脱していない = 現に存在する事実を無視。
存在と存在者は絶対矛盾であり、絶対矛盾の自己同一者として『私』が現に存在している。
まさにこの時点でこそ、絶対矛盾的自己同一を論理思考上で正しくとらえることが肝心です。
896 :
417 :2011/08/14(日) 01:42:45.88 0
>>885 >そのように「存在者」と〈存在〉、「自己」と〈自己〉という二つのものがあるのではなく、
>「 」と〈 〉という二つのものは、あたかもある「かのように」見えるだけです。
当たり前です。
だれかにも言ったけど、便宜上の区別にすぎません。
現に存在しているのは、「自己」でも〈自己〉でもなく『自己』、すなわち『私』です。
>したがって、その二つのものの間にある『差異』も、ある「かのように」見えるだけのものです。
>そのように、ある「かのように」見えるだけのものが、ここで重要な役割を果たすはずはないのです。
どうやって、生きていること が 私になり、やがて、生きているもの が 私 になるのか、
言語獲得の、私という概念獲得の、まさにその現場を、紹介していますよ、私は。
この原場面を超えて、すでに言語を十分に獲得した人間が「かのように」と宣うのです。
そして「かのように」は「重要な役割を果たすはずがない」と。
そのように言えることが、まさに言語によってであることを、もっと自覚するべきでしょう。
>(西田はよく「一即多、多即一」という言い方をするが、その場合も、
>力点は「多」にも「一」にもないのであって、あくまでも、力点は「即」にあります。)
私も言いたくないですが、すべて議論が終わっています。
「即」だからこそ、「私」でも〈私〉でもなくて『私』なんですよ、と言ってきたんです。
言い換えれば、私たち人間は、「存在者」でも〈存在〉でもなくて『存在者』なんですよ。
「一即多、多即一」を「私即世界、世界即私」に言い換えます。
この場合、あなたは「私即世界、世界即私」を、どのような事態として説明されますか?
これをキッチリ説明できるのが哲学であり、言いっぱなしで終わってしまうのが宗教です。
「即」だからこそ、私は既存の存在論を「即」ではない、と批判している。
それが私がハイデガーより西田を高みに位置づける理由です。
言語獲得は結果論
観念による観念の直接解析は必ず失敗する
哲学は通常何も説明しない ただ組み替えるだけ
900 :
417 :2011/08/14(日) 02:16:01.84 0
>>886-887 >では、ここで最も重要な役割を果たしているのは何かといえば、それは、「自己否定」という契機です。
>『絶対矛盾的自己同一』という短い論文の中で、西田は「弁証法」という語を二十回も使っています。
>絶対矛盾的自己同一という論理は、「自己否定」によって媒介された「高次の肯定」である点が、
>弁証法的な論理なのです。
「私」が「私」の絶対自己否定である〈私〉に媒介されたところの高次の肯定、
すなわち、絶対矛盾的自己同一が、まさに『私』ですよ。
>「即の論理」ではなく、「即非の論理」です。
私の「即の論理」です。
「主客の分離」即「主客の合一」です。
即非の論理は、我のみの論理です。
経験は、すでに主客の複合体ですから、即非の論理を当てはめるのは適当ではありません。
901 :
417 :2011/08/14(日) 02:22:09.11 0
>>889 >哲学関連の本しか読まないっていうのはずいぶん貧しい読書習慣だなぁ
>偏食は良くないよ
プルーストとかドストエフスキーとか哲学する足しになりそうなものは読みます。
プルーストを読んで、やっぱり過去って現在なんだ、と思ったことは、
今私がしている議論の支えになっています。
科学関係には興味があるけど、ペラペラして数式が書いてあったら読みません。
もちろん、数学の勉強をしなければならないからです。
数学の勉強をしなければならないほど、面白そうに感じられることがあるので
パチンと本を閉じてそこから逃げてしまいます。
でもまた覗きに行きます。
科学とはそういう微妙な関係です。
ファッションや服飾関係の本は読みますけど、仕事なんで意味がちがいます。
私は、いわゆる小説というものを読んだことがありません。
学校の宿題以外には。
小説を読もうとすると3分もちませんから、不眠の時に使います。
読まないけど、世界・日本文学全集以上に買い揃えてはいました。
本を買うのが趣味なんです。
読んだら捨てて、読みたくなったらまた買います。
カントの純粋理性批判なんて、読んでもわからないから十回くらい買っています。
読まない小説だけが山のようにたまって、まるで文学少女の部屋のようでした。
物が部屋にあるのが嫌なので、何年か前に古本屋と施設に寄付して処分しました。
絶版ものだけ、とってあります。
たしかに面白い本だけ食べているので偏食だけど、貧しい以外に問題ありますか?
902 :
417 :2011/08/14(日) 02:24:56.64 0
>>891 >そっくり同じというわけではないが、
>仏教(アビダルマ教学)には「刹那滅」という言葉、考え方があってだな・・・w(以下略
刹那滅は少しだけかじったことがあります。哲学として紹介されていたので。
まあでもみくるさんが寄っかかっているのは、現代物理学の方ではないですか。
簡単に「本質的に連続性がない」とか言っちゃうんだから。
時間の断絶が、イコール“本質的”に連続性がない、に行っちゃうところが。
前提になる議論がないのに、頭に“本質的”とか付けたりしませんよ、哲学者なら。
みくるさんは、哲学者じゃないので、ぜんぜんかまいませんけどね。
たくさんの人を喜ばせることが、みくるさんがしたいことでしょうから。
現代物理学は、相当に変なことをたくさん言ってますよ。
ほんとうにそんなこと言っているのかどうかを確かめるためには、
私はシュレディンガーの方程式とか解けないといけないわけでしょう。
やってやれないことはないでしょうが、想像するといつの間にか優先順位が落ちています。
やらなければならないことや、やりたいことがいっぱいあるから、けっこう重荷になります。
もし長生きできたら、ゲートボールなんかしないで、物理学を勉強したいと思います。
903 :
417 :2011/08/14(日) 02:47:53.76 0
>>893 絶対矛盾的自己同一の論文は、私もよく引用します。
自分の考えと矛盾しないからです。
時間論は、まだ議論していませんが、私が言う瞬間とは、永遠の今のことです。
結論だけ言えば、永遠の今とは、存在のことだと思っています。
〈私〉が〈今〉〈現に〉〈存在していること〉が、そのまま〈存在〉です。
〈 〉内は、すべて存在の別称ということです。
言語を獲得すると、言語の媒介性(コトのモノ化)により、
〈私〉(存在していること)は、「私」(存在しているもの)に(人称の成立)、
〈今〉は、未来現在過去の「現在」に(時制の成立)、
〈現に〉は、「現実」に(様相の成立)
〈存在していること〉は、「存在しているもの」に(存在忘却)、読み換えられます。
存在は存在しないので、読み換えられたものの見えない実質として隠蔽されます。
しかし見えない実質こそが、私たちの「ありあり、いきいき」の根源です。
904 :
417 :2011/08/14(日) 02:53:30.73 0
>>888 >それから、できれば、「存在の牧者」についてもお願いします。
自分から「ぼくはこう思う」と書くのが筋ではないですか?
注意したよね、あなたは自分では何も言わずに、つぶやいているだけって。
905 :
417 :2011/08/14(日) 02:56:17.68 0
>>863 (自己レス)
>ここで大事なことは、どちらが欠けても、そのどちらも成立しないということです。
ここがわかっていないから、ハイデガーのそれも含めて存在論はまちがってしまう。
認識論の限界も言語の限界も超えられないし成就しないのです。
存在へと身を開き・そこへと出で立ちながら、存在の真理を損なわれないように守るのが
「存在の牧者」である人間だと、ハイデガーは言います。
つまり、ハイデガーは、こう言っていることになる。
「存在の牧者」である人間(存在者)は、存在ではないのだ、と。
ここには、あきらかに人間(存在者)と存在との二元論的区別が見られます。
もちろん、この二元論的区別こそ、ハイデガーが言うところの「存在論的差異」ですが。
ところが人間(存在者)は、ハイデガーが言うようにはなっていません。
人間が存在するとは「人間が存在しているコト」です。
すなわち、存在者が存在するとは「存在しているモノが存在しているコト」に他ならない。
そうではないあり方ができない、ということを、私は『存在論的必然性』と呼んでいます。
ですから、人間(存在者)は、すでにそこにいるのです。
ハイデガーに言わせれば、すでに存在の真理へと投げ出されているのが人間なのですから。
すでにそこにいるのに、いったいどうやってそこへと出で立つことができるでしょうか?
そこへと出で立つためには、すでに存在の真理へと投げ出されている人間(存在者)が、
再びそこへと出で立つのでなければならないのですから、そのようなことはできません。
ハイデガーの「存在へと身を開き・そこへと出で立ちながら」のような言葉づかいは、
存在者と存在の二元論的区別によるものなのです。
「存在の牧者」とは、存在によって投げ出された人間ですから。(存在は神なのか?)
906 :
考える名無しさん :2011/08/14(日) 07:12:06.95 O
>>901 貧しさそのものではなく、それのもたらす限界が問題かな
貧しいってことは、とりもなおさずリソースに乏しいってことだね
つまり出来ることが限られるし引き出しも少ない
端的に言えば視野狭窄に陥りやすい
事実、現状においては物理学について語れないことを認めてるよね
「論じる能力はあるけれど論じません」ではなくて、「論じる能力がありません」という形でさ
つまり思考を展開する場に制限がかかってる状態だよ
例えばある問題を扱うに当たって、制限と抵触するから扱えないなんて事態が起こり得る
その点に関して言えば、貧しさはあまり望ましくないかな
いざというときに制限を取り払うのも難しそうだ
というか、自らに制限を課したのではなく単にその先を知らないだけか
単純に限界なんだね
食わず嫌いの多い料理評論家の評価なんてあまり当てにしたくはないし
と、age失礼
そもそも哲板で物理学をまともに勉強してるやつなどいない
自己矛盾ということを、世界の成り立ちの原理として西田は考えていると思う。 世界の成り立ちにおいて、矛盾がどうしようもなく含まれてしまうこと。 その矛盾の論理を瞬間と連続にみたり、多と一にみたりしているのだろうと思う。 人間という存在が、そもそも論理的に、矛盾をはらんだ存在であるから、そこから生まれる世界認識 そしてその展開としての制作者と歴史。 例えば命にしても、エントロピーの減少という、物理学のモノ原理と相反する存在である。 形というのが、空間的原理だとして、時間の存在が、人間的原理として保証されている。
>>900 >即非の論理は、我のみの論理です。
そうではありません。
この弁証法的な論理においては、「自己否定」(「無心」「放下」)が重要な契機であることを昨日書きましたが、
その自己否定において、しかもその自己否定と同時に、「自己ならざるもの」がそこに現れているのです。
そのことについて、鈴木大拙は、例えば次のように書いています。
「『兀然として無事にして坐すれば、春来りて草自ら青し』 これは自らの内に自らならざるもの、自らよりも大にして深く遠いものを見つけたという自覚からくる安心です。 一面からすると絶対的受動性であるが、また一面からすると、絶対の自由を享有するといえるのです。 自分以上のものが自分を通して動くとすれば、自分は無の状態、幾何学的点であるが、自分が主人公であるところからすれば、 絶対の矛盾が即非的に自己同一性を生きるということになります。」(『佛教の大意』)
>>905 >すでにそこにいるのに、いったいどうやってそこへと出で立つことができるでしょうか?
人間は様々な在り方(生き方)をしており、誰もが「存在の牧者」として(本来的に)在るのではなく、
大抵は「ダス・マン」として日常性に埋没してしまっています。
「存在の牧者」たり得るのは、ごく少数の哲学者や詩人(ヘラクレイトス、ヘルダーリンなど)であるとハイデガーは考えています。
「存在の牧者」という言い方においてハイデガーが問題にしているのは、(「存在」に対する)人間の『態度』(在り方)についてです。
ハイデガーは従来の哲学を「主観性の形而上学」と呼んで批判しています。 「主観性の形而上学」は、「主観」としての人間が、「客観」である『存在者』を自分の前に置き、 これに人間的尺度(概念など)を当てはめて、分析したり総合したりする。 そのような態度(「存在者の主人」)に対立するのが、「存在の牧者」という態度(在り方)であり、 それは、「主観」としての自己を克服し、存在者をもはや「客観」として表象しない態度です。 (この態度は、芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という態度に近いものです。)
(なお貴方は、人間は「存在者」であると書いていますが、「現-存在」は「存在者」ではありません。 「現-存在」は、「存在」が開示される「場」のことです。)
「態度」とは何か 「存在の牧者」が人間(例えば、犬ではなく)であるのは何故か 「現-存在」の「現」とは何か 「開示される」とはどういうことか(誰/何にどのように開かれ、示されるのか) 「場」とは何か ますます複雑になってきましたw
いや、当事者同士では通じているようだから ちょっと見ていたい
存在性もそうだが、、、 創価学会はフランス、オーストリア、チリ、ベルギー等でカルト指定。 さらにアメリカ下院議会では、危険な組織として指定。 ドイツでは、なんとアルカイダ並みのテロカルト組織に指定されている。 集団ストーカー犯罪組織の創価信者達 を日本から追い出すべき。 そうでないと僕は存在性について語る気になれない、、、
919 :
417 :2011/08/15(月) 02:24:47.37 0
>>906 専門よりも総合ということですね。
専門人は、専門を侵犯されることを嫌います。
特に素人には。
その割に自分は自由に振る舞いますが。
実益のなさ、役に立たなさであれば、哲学は学問のエリートです。
揶揄しているわけではなく、人間にとっての最大の贅沢ではないかな、と。
生きているなら考えているわけですが、実益について考えているなんて貧しいでしょう?
だから哲学するって、とっても豊かなことなんです。
要するに、好きなことだけしていたいんです。
長文だったんですが、忍法帖で書けませんでした。
レスしてくれて、ありがとう。
920 :
417 :2011/08/15(月) 02:38:37.05 0
>>909 Absalomさん、はじめまして。
エントロピーの増大が、世界の原理とすれば、エントロピーの減少は、生物の原理です。
生物の原理は、生命意思の原理です。
蟻が生きているのは、生きているからです。
このトートロジーは、科学では解明できません。
「生きているものが生きていること」、すなわち生命論的差異の反復そのものが生物です。
生命論的差異の反復そのものが、生物の生命の創造です。
存在論的差異の反復そのものが、存在者の存在の創造であるのと相似です。
本当は、生きていないもの(生成消滅しないもの)は存在しませんので、
存在論は生命論に回収されるべきです。(存在しているとは、生きていることです)
921 :
417 :2011/08/15(月) 02:57:09.93 0
忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖 忍法帖
922 :
417 :2011/08/15(月) 03:12:55.28 0
忍法帖ってなに? なんで書けないの? 言いたいことが山ほどあるのに。 そういうことで、ぜんぜん書き込めません。 書き込めません。 書き込めません。 書き込めません。 書き込めません。 書き込めません。 書き込みません。があったから、どこで8レスになるかわかりません。 なので、今のうちに言っておきます。 レスできなくて、すみません。 よいレスができると思ったのに、残念です。 みなさん、トンデモバカの私を相手にしてくれて、ありがとうございました。 さようなら。
923 :
417 :2011/08/15(月) 03:30:16.10 0
なるほど、文字数が多いのか。 だったら、そういってよ。 長文しか書けない私は、いらないってことか。 哲学板で文字数制限するって、なに考えてるんだ。 ちょっと私が席を外した隙に勝手なことして、それでいいと思ってるの。 忍法帖って、どんなセンスしてんのよ。 ほんとうにわからないよ、忍法帖ってなに? どういう仕組みなの? どうして突然書けなくなるの? なにも悪いことしてないのに。 悪態ついたからか。 最悪版じゃ、悪態つかないと追いだされるんだぞ。 ん? 最悪板は書けるぞ、いくらでも書けるぞ。 なんだか悪意を感じる。 最悪版出身者は哲学板に来ちゃいけないのか。 それは差別じゃないのか。
>>923 ウザい。病院行け。ここはお前の日記帳じゃない。マナーや常識が守れないやつは来るな。
925 :
417 :2011/08/15(月) 03:57:23.05 0
2chでマナーとか言ってんな、アホ もっと書き込めよ、クズ 忍法帖は書いているうちにポイント加算され、突然0に戻るシステムらしい。 どうして0に戻るのかは、まだ解明されていないらしい。
>>920 417さん、はじめまして。
1、存在者は存在を創造する、とおっしゃったことから考えたこと。みること、感じることは絶対的であり、錯誤はそこには
存在しない、生命の論理が指向する非生命の方向への認識の不謬性に関する僕の信念です。
これは、ウィトゲンシュタインが事実の総体としての世界と言ったことについて、事実を認識する際の、時間に関しては
間違えようのないこと、などを、例証としてあげられると思います。
未来からみた過去という、西田哲学も、そういうことを考えた上で理解しています。時間が人間的である。
2、存在の二重性について、遅延を考えると、認識の向こうに物理的世界はあるということから、二重性は証明される と思います。ここに今存在するという認識が、未来において考えられて、存在を相対化します。相対化された存在は、 存在者に現存在という特権を与えることになりますが、現存在もまた相対的にみられるものであって、絶対的 存在は、絶対性と相対性の間で、二重性を帯びます。どちらも存在には変わりなく、しかし、物理的絶対性と、 認識的相対性の両方に属する存在は、イデアと現象という言葉で置き換えられると思います。 存在の相対化は言語による把握を可能にするものだと思います。 また、過去は、すでに相対化の対象となった存在の集まりだと思います。
928 :
797 :2011/08/15(月) 08:19:55.90 0
>>923 これかもね。
http://info.2ch.net/wiki/index.php?%C7%A6%CB%A1%C4%A1%B4%AC%CA%AA ===
複数レスのメッセージ容量制限 其の弐 †
一定の時間内に「忍法帖」が適用される書き込みで規定量を超えるメッセージを書き、さらに続けて同サイズのメッセージを3回連続で書こうとすると、レベルに関係なくレスが制限されるとともにレベルが1になる。
判定対象となる投稿期間 5分
判定が開始されるメッセージ総量 6144バイト超
同容量の連続レスとしてチェック対象になるメッセージ容量 384バイト超
* 「忍法帖」で制限に引っかかると、以下のようなメッセージが出る
ERROR!
投稿量大杉:おなかいっぱい(3)
やっちまったなぁ(-Lv40)
===
こっちかも
====
複数レスのメッセージ容量制限 其の壱 †
一定の時間内に「忍法帖」が適用される書き込みで規定量を超えるメッセージを書こうとすると、レベルに関係なくレスが制限されるとともに忍法帖のレベルが下がる。
判定対象となる投稿期間 5分
規定されるメッセージ総量 20480バイト超
下がるレベル量 10レベル
* 「忍法帖」で制限に引っかかると、以下のようなメッセージが出る
ERROR!
投稿量大杉:もちつけ(3)
やっちまったなぁ(-Lv10)
===
今日から入院? 入院にはiPad+モバイルルーターが便利だよ。リハビリは3行レス10日間ですね。
929 :
417 :2011/08/15(月) 09:28:58.55 0
930 :
417 :2011/08/15(月) 09:33:27.10 0
>>926 Absalomさんへ
以下は、書き込めなかった残りです。
「存在しているものが存在していること」が、存在論的必然性ですが、
まちがった表現ですが、存在しているものにとっての存在していることが、時間と空間です。
永遠の〈ここ〉のモノ化が空間、永遠の〈今〉のモノ化が時間です。
だからベルクソンが言っている、純粋持続の空間化が時間であるという説明はまちがいです。
本来の時間と空間は、永遠の〈ここ〉と永遠の〈今〉のことであり、
すなわち「存在していること」の別称ですから、同じひとつのコトです。
ベルクソンの純粋持続は、現象からの空間と時間の分離であり、本質的ではありません。
分割できない空間と時間を分割してみせたかのように「みせかけ」ているだけです。
(突然、ベルクソンなど持ちだしてすみません)
931 :
417 :2011/08/15(月) 09:33:54.22 0
>>926 Absalomさんへ
以下は、書き込めなかった残りです。
「存在しているものが存在していること」が、存在論的必然性ですが、
まちがった表現ですが、存在しているものにとっての存在していることが、時間と空間です。
永遠の〈ここ〉のモノ化が空間、永遠の〈今〉のモノ化が時間です。
だからベルクソンが言っている、純粋持続の空間化が時間であるという説明はまちがいです。
本来の時間と空間は、永遠の〈ここ〉と永遠の〈今〉のことであり、
すなわち「存在していること」の別称ですから、同じひとつのコトです。
ベルクソンの純粋持続は、現象からの空間と時間の分離であり、本質的ではありません。
分割できない空間と時間を分割してみせたかのように「みせかけ」ているだけです。
(突然、ベルクソンなど持ちだしてすみません)
932 :
417 :2011/08/15(月) 09:37:48.83 0
>>926 Absalomさんへ
>未来からみた過去という、西田哲学も、そういうことを考えた上で理解しています。時間が人間的である。
私は上記のように考えています。ですから、時間が人間的であることは認めています。
空間については、不相応なことを言わせてもらえば、量子の振る舞いを見てもわかるように
もはや究極の実体(モノ)の存在は否定されざるをえない状況です。
量子は、この世界・宇宙を形作る究極のモノではなく「状態」なのです。
933 :
417 :2011/08/15(月) 09:45:23.55 0
虚無の空間は、そこにモノが位置づけられるというよりも、モノがモノになる前の力の状態、 アリストテレスが言った潜在態のようにとらえるのでなければならないのです。 確率波は、潜在態(可能性)と顕在態(現実)の中間に位置する物理的実在なのです。(ハイゼンベルク) この物理的実在は、潜在態と顕在態との絶対矛盾的自己同一とも考えることができそうです。
量子力学は量子力学でしかないですよ それが建設された経緯があり、適用範囲がある オカルトに引っ張らないでください
935 :
417 :2011/08/15(月) 09:47:31.87 0
>>927 Absalomさんへ
今までの私の議論を見ていただければ、ほとんど同じ考え方だとわかってもらえると思います。
一応、私なりに認識論の限界(独我論、不可知論)は、通過しているつもりです。
936 :
417 :2011/08/15(月) 09:49:36.90 0
>また、過去は、すでに相対化の対象となった存在の集まりだと思います。 私なりに表現すると、存在者の集まりです。(つまり記憶が) しかし、プルーストの過去にみられるように、過去はいきいき・ありありと体験されうるのです。 私たちは、永遠の今にしか生きることも存在することもありません。 すなわち、私たちは「生きていること・存在していること」しか経験できないのです。 生きたことも、存在したことも、一度もありません。
937 :
417 :2011/08/15(月) 09:51:41.96 0
「鳥が空を飛んでいるコト」も「私が2chに書き込んでいるコト」も永遠の今において、 すなわち「生きているコト・存在しているコト」において、失われることはありません。 プルーストの過去がありうるというのは、プルーストの過去とは「コト」だからです。 生きているコトが「いきいき」の、存在しているコトが「ありあり」の根源だからです。
938 :
417 :2011/08/15(月) 09:53:45.95 0
私たちは死にますが、死とは「存在者の死」であり、 存在しているモノの消滅、あるいは存在形態が変わることであり、 対して生命そのもの・存在そのものに裏付けられたコトは、永遠であり滅びることはありません。 Absalomさん、時間がなく、適当なレスで済ませてしまって、大変申し訳なく思っています。m(__)m
939 :
417 :2011/08/15(月) 10:02:27.52 0
>>934 ハイゼンベルク自身が『物理学と哲学』で述べている言葉を引用したまで。
アリストテレスの概念を引用して物理的実在を説明しているのは、ハイゼンベルク自身。
だったらそれを私がさらに哲学に引きつけなおして解釈したって、許されるんじゃないの。
940 :
417 :2011/08/15(月) 10:11:50.04 0
いつまでも子供で生意気で、みなさんには、ご迷惑をおかけしました。 あったかい大きな心で受け止めてもらえたと、感謝しています。 ありがとうございました。 それから最高位さん、しばらく会えなかったですが、感謝しています。 ほんとうに良い刺激をいただきました。 哲学するってやっぱ最高!とあらためて思わせてくれました。 どうもありがとうございました。 それでは、気合入れて頑張ってきます。 みなさんも、お元気で。
>>939 ハイゼンベルグは数学と物理を結びつけることに成功した天才だが
哲学については超過傾向がある
そのことを何度かボーアに諫められて泣かされていると聞く
量子力学の巨人であるハイゼンベルクの言葉を貴方の感覚に合わせて都合良く解釈し
「量子力学」とか「現代物理」を貴方の『思想』の補強に使うのは止めていただきたい
これまで貴方が引用してきたハイデガー、ウィトゲンシュタインについても
我田引水なのではと疑わしくなってしまう
942 :
考える名無しさん :2011/08/15(月) 13:18:34.31 0
>哲学については超過傾向がある >そのことを何度かボーアに諫められて泣かされていると聞く 逆でしょ。哲学的なこだわりが強くて、不確定原理の論文発表を渋ったのは ボーアのほう。パズルを解くのが好きなエンジニア系なのがハイゼンベルク 哲学的解釈なんてどうでもいいと考えるシュレーディンガーの態度が受け入れ られなくてボーアが常軌を逸した粘着ぶりを示したのは有名な話
943 :
哲学の神 :2011/08/15(月) 13:25:57.19 O
そろそろ反射的私性の役割に気付けましたか?
残念ながら、ハイゼンベルクの伝記を書いた人には哲学の素養が全く欠けている。 どっちみち自らの哲学的議論を他の哲学者の引用で補強しようとするのは無駄、 というかそういう補強ができるならもはや哲学ではない。できるのはせいぜい 読者の理解を助けるために、他の知られている議論と自らの議論がどこまで 重なっているかを示すことだけ。
945 :
哲学の神 :2011/08/15(月) 13:33:45.27 O
>>944 >そういう補強ができるならもはや哲学ではない。
つまりあなたの論だと、「私が興す物は哲学ではない」と言っている事になり、もしそうだとすれば、私を記述出来なくなりますが。
946 :
考える名無しさん :2011/08/15(月) 13:42:18.44 0
>>945 そのとおり。貴方が興す物は哲学ではない。哲学に神は存在しない。
貴方を記述できるのは神学であって、哲学ではない。
947 :
941 :2011/08/15(月) 14:01:37.40 0
>>942 そういうことを言いたいのではない。
ハイゼンベルグは天才であるが故に数理世界(複素行列)を(空想的)実在にまで推し進めようとする。
シュレディンガーもその傾向があり、波動一元論により「ドブロイ波の実在こそ世界」と企てる。
ボーアは、
量子力学の於ける「状態」がマクロな事態(≒観測可能な事態)に依るしかない以上、
その(マクロな)観測状態をもって了解すべきであり、(※量子力学に於ける「状態」とは観測可能なマクロ状態)
見えない“ミクロ”についての実在的判断は保留しなければならない、
と極めて哲学的に慎重且つ妥当な旗を立てたのである。
量子力学がその常識を外れた内容によりポエムに飛び火してしまうのを防ごうとした。
コペンハーゲン解釈がいまもって標準なのはその慎重な妥当性にあるのだ
しかし現状、本来慎重であるべきはずの哲学が思想と化し、適用範囲を超過してポエムに走る
ボーアもまさかと驚いているだろうw
前屈校靴
「私を見ている私」(自己意識)というのは、【見られた私】と【見ている私】との問題です。 それに対して「メタな視線」を取ることは、誰しも日常的に行っていることだろうし、そのこと自体に問題はありません。 しかし、それによって「楔を打つ事ができる」と考え、そして「リンゴも私も変わりません」と、考えてしまうと、 全てが【見られた私】になってしまい、いつのまにか【見ている私】が、どこかへ消え失せてしまっている… という印象を受けます。
950 :
哲学の神 :2011/08/15(月) 16:56:03.81 O
ではみなさんに一つ質問をしましょう。これに答える事が出来れば全て解決です。 存在の無い私が存在しているという無い私の実体性は、どこから来たものですか?
951 :
春川次郎 :2011/08/15(月) 17:25:27.09 0
>>950 あなたが無いと思い込んでいるあなた自身からです
>>929 :417
あちらのレスに対する感想は、あちらに書きました。
(>460-461)
今年はどうして蝉が鳴かないのか
>>947 コペンハーゲン解釈なんてまともな物理屋は採用していません。
忍法帖【Lv=1】w
きつい私はゆるい私と罎翕である。 〜カラッチャーム談〜
ふえhろもゆ
言うよねぇ
私とあなたはいわばワタシからの脱却である。 〜ユーチャーム・バッハル談〜
老荘か
人生にギャカは狭い
相棒
監察医制度
ぼいん
せんちょうかんせつ
掃除機と同じ?
きれよりこくだな
価値なし
そもそもクオリアなんてものは実際には無いのかもしれないということです。 それなのに、クオリアが問題なのだと騒ぎ立てるのは馬鹿馬鹿しい。
最も重要な役割を果たしているのは何かといえば、それは、「自己否定」という契機
言葉遊びは
つぶやき君は何をしたいのかよくわからないw
>>911 はい、その通りです。
>>912 選民思想を除けば、その通りです。
もしあなたが、私の「存在の牧者」批判を批判するとしたら?
すでに存在の真理へと投げ出されている人間が、ふたたびそこへと出で立つというのは、
存在の真理へと投げ出されている人間が、存在忘却しているからなのであり、
だから「ふたたびそこへと出で立つ」とは、存在の奇跡に気づくことに他ならないのです。
すなわち、存在の真理に投げ出されている人間が、存在の真理に気づくということは、
存在忘却に気づいた人間が、ふたたび存在の真理へと出で立つことに他ならないのです。
だから、ハイデガーが言っているのは、あなたが言っていることと同じことなのです。
存在忘却に気づいた人間、すなわち存在の奇跡に気づいた人間こそ、
存在の真理を損なわれないように守っていくことができる人間であり、
それが「存在の牧者」であるとハイデガーは言っているのです。
だから、あなたの批判はまちがっていると指摘せざるを得ません。
↑ は、あなたが私を批判するなら、このようでなければならない例として
あらかじめ私が用意していたものです。
でも、やっぱりハイデガー哲学は、存在の奇跡なき存在論ですし、まちがった存在論です。
>>913 >それは、「主観」としての自己を克服し、存在者をもはや「客観」として表象しない態度です。
存在へと身を開き・そこへと出で立ちながら、存在の真理の中から存在者をまなざせば、
この世(存在者)こそが、比類なき奇跡であり、実はあの世(天国)だったという体験になる。
これが、「私」からのまなざしではなく、〈私〉からのまなざしがありうると言っていたことです。
存在へと身を開き・そこへと出で立つまでもなく、『私』は存在そのものでもあるのだからです。
身を開く相手は〈自分〉であり、「私」の底で両手を広げて待っている。
そこへと旅立たなくても青い鳥は、いつでも〈ここ〉にいる。
今度私が戻ってきたときには、最初から実力を見せてくださいね。
ありがとうございました。
さらに批判すれば「存在の真理」という表現もいただけないですね。 「存在という真理」でなければならない。(存在=真理ですから) 真・偽や正・誤が求められるのであれば、それは真理とは言えません。 真理は、絶対でなければならない。 対を絶しているとは、同格のものがいないことです。 犬と猫はちがう生き物ですが、哺乳類として括れば同格のものです。 鳥と犬はちがう生き物ですが、動物として括れば同格のものです。 世界は他の世界を求められる、宇宙も他の宇宙を求められるから、絶対ではありません。 要するに、今、私は、絶対の述語を求めているのです。 絶対の述語とは「存在している」です。 すべての存在者が「存在している」からです。 見えるものでも見えないものでも、それが存在するなら、存在していることは確実です。 と言えるので、正確には「存在していること」が、存在者にとっての究極の述語ですが。 「存在していること」において、すべての存在者が存在します。 存在、すなわち存在していることは、絶対であり、真・偽も正・誤もありえません。 今、私は、存在だけぬき出していますが、もちろんこれはまちがいです。 ただここでは「存在と無」という対照がありえないということが言いたいのです。 無が在るという表現は許してもらうとして、無が在るなら存在との区別が付きます。 それでは権利上、真・偽を問うことが可能になってしまいます。 存在とは、たった一つ輝く太陽が、もはや存在しているとは言えないように すなわち、無と区別することができないように(もちろん存在は位相を異にしていますが、 それでは、ただ「ある」になってしまい想像できませんので、この例で理解してください) 存在者なき存在そのものというのは、もはや無でしかない、と考えます。 真・偽も正・誤も問えない絶対の存在こそ、真理と呼ぶにふさわしい。 「存在の真理」は「存在という真理」(存在=真理)でなければならないと思います。
概念としての存在について たとえば、存在者 + 存在 = 世界(真の世界の姿)とします。 そして、世界 − 存在者 = 存在 ← これがまちがっています! 私が批判しているのは、このような操作が可能であるということが、 存在者と存在との相即の関係(=根拠関係)なき二元論的区別だからです。 世界 − 存在者 = 存在 なんて成立しません。 たとえそうであったとしても、残された存在は無と区別がつかないはずです。 この「たとえそうであったとしても」が、思い込みからの脱却を阻止している犯人か? ただ「ある」とか、ありえないことを、そうであるかもしれないと思い込み、 存在論を語りえないものとして位置づけることで満足するって、どうなの?って思う。 存在は、存在していること、そのこと以外ではありえない。 ここまでなら、首を縦に振る人もいるけど、 本当は、ただ存在していることなんてありえないと言った途端、 思い込みに抵触するからか、あまりにも簡単に既存の存在論が否定されてしまうからか とにかく状況が変わってくる、私はびっくりしてしまう。 ただ「ある」なんて想像できた人がこの世にいるの? 人類の歴史上に、たったひとりでもいいけどいたの? ただ「ある」が存在そのものと言われて、それがなんだかわかる人がいるの? だれにもわかりもしないのに、存在そのものが成立してしまっている。 どうしてだれもツッコミいれないのかな?
哲学者がこぞって、概念の、わかりもしない存在についてわかっているフリをする。 とんでもなく簡単なことを、どこまでも晦渋に、難解に、意味不明に語っている。 存在は、存在していること以外ではありえない、 と、私が言えるのも(私がわかるのも)絶対に!存在するものを通して。 ここを素通りした存在論なんて、ぜんぶウソっぱち。 「存在者が存在していること」=「存在しているものが存在していること」 これ以外の方法で存在に気づくことなんて、絶対に!できないにもかかわらず、 論理思考上は、それができると思っている。 存在が概念ではありえない前提を忘れて、概念として存在する存在が存在だと思っている。 だからいとも簡単に、ただ「ある」とか言える。 ただ「ある」(たとえば、ハイデガーが「存在そのもの」と呼ぶそれ)は(意図に反して) 存在という概念のさらなる存在者化であり、それがもはや「存在ではない」ことには気づかない。 言語表現上の「仕方なさ」を逸脱して使用していることに無頓着すぎるからではなく、 ただ「存在」についてなにもわかっていないからです。 「存在者が存在していること」=「存在しているモノが存在しているコト」 これが存在論的必然性であり、この必然性をすり抜けて存在する存在者はいません。 たとえば、『私』は「存在しているモノである私が存在しているコト」であり、 「存在しているモノである私」と「私が存在しているコト」は、存在論的必然性によって 分離することができません。(どちらが欠けても『私』は成立しないということです) 以上のことに本当に!気づくことが、そのまま存在論を成就させることになります。 私たちが存在しているということは、私たちが存在者を超えた存在であると同時に 存在を超えた存在者でもあるということなんです。これが私たちの真実です。(存在論的には)
>>976 >ただ「ある」が存在そのものと言われて、それがなんだかわかる人がいるの?
>だれにもわかりもしないのに、存在そのものが成立してしまっている。
>どうしてだれもツッコミいれないのかな?
その点については、「存在」と「存在者」という観点から考えるよりも、
「実存」と「本質」という観点から考えると分かりやすくなると思います。
サルトルに、「実存は本質に先立つ」という有名な言葉があります。
哲学史上古くから、「存在」は‘exsistentia(実存)’と‘essentia(本質)’とにわかれていました。
前者は日本語の「〜がある」に相当し、後者は日本語の「〜である」に相当します。
だから「実存は本質に先立つ」は「『〜がある』は『〜である』に先立つ」と言い換えることができます。
例えば「石『がある』」「りんご『がある』」「人間『がある(いる)』」と言う場合、
それ以前に、「これは石『である』」「これはりんご『である』」「これは人間『である』」という『本質規定』がなされているはずです。
つまり、「何か(X)」を、人間が既に『本質規定』しているから、「石『がある』」等々と言うことができるわけです。
では、本質規定される以前の「何か(X)」とは、何であるのか・・・
それに対して、「それは〜である」という形で答えることはできません。
そう答えてしまえば、それは再び本質規定されたものになってしまうからです。
このようなことから、「実存(〜がある)は本質(〜である)に先立つ」ということが言えるわけです。
さらに言えば、『本質規定』しているのは「誰なのか?」という問いに対しても、正面から答えることはできません。 『本質規定』しているのは「人間『である』」等々という答え方をすれば、「それ(X)」は、『本質規定』された側のものになってしまうから、 そして常に本質規定「する」側にあり、本質規定「される」側にはならないのが「それ(X)」であるからです。 「(X)」は、本質規定されることによって「(〜である)もの」になるので、 ハイデガーの「存在/存在者」は、このような「実存/本質」の問題と深くつながっています。 (もちろん、概念化を拒む<私>の問題も、常に本質規定「する」側にあり、本質規定「される」側にはならない「それ(X)」と深くつながっています。)
980 :
Absalom ◆owNN8RDlXo :2011/08/16(火) 17:30:53.99 0
>>978 僕の考える実存とは、言語ゲームのことであり、本質とは、論理のことです。
実存には様々な意味が持たされ、本質はいつも変らないものだと思います。
>>887 >「即の論理」ではなく、「即非の論理」です。
「即」と「非即」とでは、たいして違いはないのでは?
というか、「非即」は「即」に否定論理記述子(NOT)を付加したに過ぎないと思えるのだが。
鈴木大拙の「即非」は金剛般若経の以下の一文に論拠しているらしい。
「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」
で、ここで「仏説般若波羅蜜多を形式的概念Aに置き換えるなら
「A 即非 A 即名 A」つまり 述語「即非」は形式概念Aを挟み込む用法で用いられている。
これに、有名な般若心経の「色即是空 空即是色」。「色(A)と空(B)」とするんら
A 即 B、 B 即 A はさみ込まれる形式概念 A B は同一ではないし、むしろ二律背反に近しい概念。
B は NOT Aであり、A は NOT Bである。とするなら、重要であるのは、「即」という
述語の語法理解であって、非即は単に否定文を生成する NOT付きの「即」の用例に過ぎない。
「即」「非即」の違いは単にNOT否定論理記述子が付加されているかそうでないか
の違いでしかないようにみえるのだが。どうなのだろう?
それと、上述の「即」「非即」はいずれも金剛般若経の内部論理。全く異なる文献などで
「即」「即非」を用いている例をご存じなら、ご教授いただけると幸いです。
×非即 ○即非
×これに、有名な般若心経の「色即是空 空即是色」。「色(A)と空(B)」とするんら ○これに、有名な般若心経の「色即是空 空即是色」を対照する。「色(A)と空(B)」とするならば
ぐだぐだじゃねーかw
、「実存は本質に先立つ」 という文章の記述行為は 「実存」や「本質」の語の理解の後になされる。 もちろん、「実存」や「本質」の語の理解が不十分でも文章記述だけは行い得る。w
>>887 、984 (書き直してみた)
>「即の論理」ではなく、「即非の論理」です。
「即」と「即非」とでは、たいして違いはないのでは?
というか、「即非」は「即」に否定論理記述子(NOT)を付加したに過ぎないと思えるのだが。
鈴木大拙の「即非」は金剛般若経の以下の一文に論拠しているらしい。
「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」
で、ここで「仏説般若波羅蜜多を形式的概念Aに置き換えるなら
「A 即非 A 即名 A」つまり 述語「即非」は形式概念Aを挟み込む用法で用いられている。
これに、般若心経の有名な一節「色即是空 空即是色」を対照する。「色(A)と空(B)」とするならば
A 即 B、 B 即 A はさみ込まれる形式概念 A B は同一ではないし「色と空」むしろ二律背反に近い概念。
上記二文の論理構成は B は NOT Aであり、A は NOT Bである。と「即」を挟みながらも共通している。
だから重要なのは「即」という述語の語法理解。即非は単に否定文を生成する NOT付きの「即」の一用例に過ぎない。
「即」「即非」の違いは単にNOT否定論理記述子が付加されているか否かの違いだけでしかないようにみえるのだが。どうなのだろう?
それと、上述の「即」「即非」はいずれも金剛般若経の内部論理。全く異なる文献などで
「即」「即非」を用いている例をご存じなら、ご教授いただけると幸いです。
987 :
哲学の神 :2011/08/17(水) 05:02:53.57 O
そろそろ答えを出してもいい頃でしょう。
答えを言う私、私が答える私としての点対私気質。
存在を最少に留めるなら、私はおのずと再現化されなければなりません。
>>986 さんのお言葉を借りるならば、即に準じた私こそが本来成り得る私の幼体てあり、芽を摘む過程での枝葉的侵食作用が私以上の私という結論に達します。
そうだとは思いませんか?
何度も伝える私性の根幹が点という部分で発せられる事に違いはありませんが、微生な理で維持しようとすればきっと無意味な第二の私が誕生してしまうでしょう。
異論は勿論認めますが、まずは私性の進むべき私道を構築してください。
988 :
哲学の神 :2011/08/17(水) 05:06:15.87 O
言いそびれましたが、感覚だけでは「私」と「自身」が織り成す相互媒体は「存在」の喪失という事です。
>>986 『重要なのは「即」という述語の語法理解』であることは、その通りだと思いますが、
『即非は単に否定文を生成する NOT付きの「即」の一用例に過ぎない』と言うと、鈴木大拙の考え方とは違ってくるのではないかと思います。
鈴木大拙は、「AはAにあらず故にAなり」という即非の論理が、仏教の「根本義」であるとしているからです。
それは、
>>886 に書いたように、「Aにあらず」という「自己否定」の契機によって媒介される弁証法的論理です。
もともと「色即是空、空即是色」の中にも、弁証法的なものがあるのだと思いますが、
西田幾多郎や鈴木大拙は、それを、はっきりと、絶対の否定を含む弁証法的論理として取り出したのだと思います。
西田幾多郎は、「自己自身に於て絶対の否定を含む絶対矛盾的自己同一」は「般若の即非的弁証法が最も能く之を表して居る」と書いています。
(鈴木大拙はどうなのか知りませんが…)西田幾多郎は、ヘーゲルの弁証法を深く学んでそれを乗り越えようとした人です。
弁証法は、静的な論理ではなく、それ自体が「動き」そのものであるようなものですが、
或る哲学者は、ヘーゲルの弁証法について、次のように書いています。
「弁証法というのは決して既成の図式ではなく、一つの思考方法でもなく、論法でもない。
事柄そのものの中に含まれている否定的なものの威力に身をゆだねてそれに従って自ら動くことによって、
具体的現実的な真理を知るということなのである。」
『否定的なものの威力に身をゆだねてそれに従って自ら動く』のは、即非の論理も絶対矛盾的自己同一も同じだと思います。
大事なのは「矛盾そのものの真中へ飛び込むことです。」と、鈴木大拙は書いています。
(「全く異なる文献などで「即」「即非」を用いている例」・・・わかりません。)
990 :
986 :2011/08/18(木) 00:59:06.06 0
>>989 >
>>886 に書いたように、「Aにあらず」という「自己否定」の契機によって媒介される弁証法的論理
ここがよく分からない。特に「自己否定って何?」といいたくなる。だからって再々の説明は不要ですよ。
「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」 の「般若波羅蜜多」を「わたし」に置換し
異議が比較的少ないであろう平易な表現に置き換えてみる。
『今現在のわたしは子供の頃の私のままではない。それでも、子供の頃のわたしもいまのわたしもわたしであることに変わりはない。』
ここで、「子供の頃のわたし」を「3秒前のわたし」と置き換えたら文意は変わるであろうか?
さらに、「子供の頃のわたし」を「1000年前のわたしと書き換えたら文意は通るであろうか?
時間的な幅・レンジを可変にしてみると、ナンセンスと有意の間で濃淡に変化が見られるのが面白いとも思える。
>『絶対矛盾的自己同一』という短い論文の中で、西田は「弁証法」という語を二十回も使っています。
実際に読んでみると、多用されている「弁証法」という語はそれぞれ微妙にニュアンスが異なるみたいだね。
ヘーゲルのそれだったり、経時的発展とか論壇的合意とかだったり。
その中であえて西田的な表現があるとすれば、「多と一の合一・同一」だったり。というニュアンスだろう。
俺的には、このニュアンスと「正・反・合」の弁証法とはかなり乖離があるように思えるのだけどね。
「たとえばテスト(思考実験)」として「今日の私は昨日の私ではない。」
と毎日の目覚めの時に唱える。そしてそれを一年間繰り返してみるとする。
同じ文言を毎日唱えても、日付を付加して言えば、日によって言ってることは全く違うことに気付くことができる。
一年間繰り返した後、365日分の私が、振り返ったその日のわたしに於いて、同一・合一していることがわかる。
西田の「絶対矛盾的自己同一」を軽目に説明するとすれば、こんなところか。ですかね?
991 :
986 :2011/08/18(木) 01:07:29.30 0
即非の論拠である「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、是名般若波羅蜜多」は、「色即是空 空即是色」
が言い表している「色と空」の中でもことさら「主体論」的側面に的が絞られた表現なのだろう。
「色の相」にあるわたしは過去の記憶のあつまりとして「空の相」では解体されえるが、総体として
わたしはわたしでありえている。と。西洋哲学の主体論との対比に有用であるから採られたのだと思える。
これをあえて「自己否定」と呼ぶなら呼べるのかもしれない?
「空の相」はより常識的な「色の相」に対して解体的に機能する。ウィキペディアの「空」の解説には、
>そこらの草木を建材として庵を結ぶ場合、庵が出来上がれば庵という現象が成立していることになる。
>しかし、庵を分解して草木にしてしまえば、庵という現象は成立していないことになる。
>つまり、庵は「存在している」とも言えるし、「存在していない」とも言える。
>これこそが竜樹の解釈による「空」の概念である。
とある。ま、この程度が限界w。ここから先は「空論」にならざるを得ないなあw。
「空」には、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢竟空・無始空・散空・性空・
自相空・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空の十八種類あるとかいう話だそうだから、
それぞれを概念把握して違いを説明するのは無理。だいたいプロであるお坊様でも、
解説文としての経文を暗記したままに復唱されるあたりで止められている方も多いらしいし。
空 (仏教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29 二十空
http://baike.baidu.com/view/1151021.htm
992 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2011/08/18(木) 08:42:22.00 0
>>876 さん
遅くなりましたがまだ居られるでしょうか。
「修飾を取り払った私」これは至極明快です。
それは「自心が其れ」という言葉で表わせるのではないでしょうか。
また肉体が消滅しても消えないものとありますが
それは自我と捉えてよろしいものでしょうか?
般若経典が挙がっていますが分かり易い訳は金剛般若経ですね。
993 :
考える名無しさん :
2011/08/18(木) 11:18:16.58 0 >>986 本当の問題は、「TO B or NOT TO B」です。