◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない88◆

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683素人 1/5
>>566(=>>535=486(=酔いどれw))
> 何(だれ)が仮設するの?という突っ込みを
はい。よくわかります。
以前、「「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている・・・・」
という無限遡及は一度で良い、と述べましたが、ほぼ同様です。
(幽体離脱ではありませんがw)<他者(外)から見た自己>という視点、
(これを哲学用語では「メタ」と言ったりするのでしょうか?)
そうした視点を採用することが不可能であるとは思いません。
『「腹減った」と思考する私』が居るとします。その時の【私】は『「腹減った」と思考している「私」』を見ます。
そして、【私】は『「私」』を、『腹減ったという思考状態にある「私」である』と見ます。
(基本的には、仏教という枠の中ではここまでですw)
さらに、【私】は『この【私】』は、『【「私」を、腹減ったという思考状態である「私」』と見做している思考状態】である』
と見ます。ここまでで十分でしょう?これ以上遡及することは徒労に他なりません。
つまり、≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫という構図が見つけられればそれでよいのではないでしょうか?
(注:肉体としての自己等、心理(脳内)以外の状況は省いています。)
人が、過去しか認識できないとしても、時間的推移の中で只一つしか認識できないものであるなら、
≪ 【私】とは、【○○という状態にあること】 ≫と受け止めること(この場合は「受け止めている状態」と知ること)が、
人間にできる限界なんじゃないかな・・・と。

蛇足ながら、
≪  ≫部分に注目するなら、仏教という枠組みの中では、
初っ端から(全てを)≪ 【××】とは、【○○という状態にあること(○○という事象であること)】 ≫
と見ることが根幹でもあります。
だから、「智慧」が最重要のものとされるし、「如実に見る」「あるがままに見る」ということが強く言われるのです。

> また「私」をどのように捉えようと、捉えるという言い方をするかぎり、
> 「だれが?」との問いを受けざるをえないでしょう?
上記と同様ですね。 「言い方」については仕方がないのではないでしょうか・・・。