1 :
考える名無しさん :
2011/02/09(水) 03:11:26 0 血をもて書けよ。
2 :
考える名無しさん :2011/02/09(水) 03:14:31 0
>>3 タイトルが舐めとるから、こっにした。
(ニーチェまともに読んでない馬鹿が考えそうなタイトルだとよくわかる)
嫌なら書かなきゃいいし、削除依頼出してもいいぞよ?
bye!
あっちは◆Snn1vnkV5gが立てたんだよな??? なぁ…
こっちが本スレでいいのかな? ツァラさんは春になったら読みたいな
ニーチェは何もかも否定したが、結局階序に基づく道徳を目指した だが、」この位階とは、個人間のものなのか、或いは集団間のものなのか? 無論、力への意思が生命の本質である以上、各個体生命間のものとも考えられる 確かに彼は個人に途方もない価値を置いているが、 では普通の意味での社会や国家という集団の存在は否定されるのか? それだとギリシア人を高貴な種族と考えていることと矛盾する 結局のところ、貴族道徳に基づく集団がニーチェのたどり着くところなのか?
悲しい顔が出来ない性質なので損をしていると考えたあげく結論が出た。 悲しくないんだな。
9 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/11(金) 07:52:33 O
>>7 位階は個人間のものだね
ニーチェの価値転換はキリスト教文化の道徳倫理文明批判だよ
だから、先天的に付随した自然的な権威
(〇〇を司る、という性質の権威)を否定するものでは無いし、
矛盾するものでも無いと思うんだ
10 :
7号機 :2011/02/11(金) 08:29:14 0
>>9 >矛盾するものでも無いと思う
つまり、キリスト教はありもしない真の世界、現実から乖離した理想を
捏造し、そのために人間に道徳への服従を求めた
それが現実の苦悩と困難に対応できない弱者の考えだから
問題なのであり、現実の価値、生の価値を貶めるから価値転換を唱えたわけだ
それは集団の存在と個人間の位階とは矛盾しないってことか
だがそもそも道徳と生存は二律背反するのであれば、(WM6)
どのような道徳でも生存にとってはまずいものなのではないのか?
或いは二律背反するのは命令し服従を求める畜群道徳だけなのか?
11 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/11(金) 17:11:02 O
「道徳」と「生存」を比較の対象にする理由がわからないの 前者は知的生物が彼らの価値概念に基づいて創った概念で、 生存は本来、操作できないの自然現象でしょ
>>11 比較対象というより、
道徳そのものは概念だけど、
道徳的判断自体が生存と十分関わることじゃないかな?
生存という言葉からどういう印象を抱くかによるけど、
道徳的価値判断やその結果としての行動も含めて生存とも言えます。
生存にとって道徳がいかなる価値があるか?
を考えれば、比較対象というより、
生存に焦点を置いた考えのニーチェからすれば必然的にその土台である道徳
も問題とされるわけですよ。
生存=本能や生理現象とすれば、操作できないこともあるけど、
生理現象も、様々な判断も含めて生存と括れば別に疑問視することではないと思われます。
うんちが出るのが生理現象(自然)で、
人前で野糞はするかどうかは生理現象から感じる行動の道徳的判断です。
13 :
7号機 :2011/02/11(金) 21:59:29 0
>>11 『権力への意志』6参照。
わたくしニーチェの言葉にそって言ってます
道徳を取れば生存は取れず、生存を取れば道徳は取れない
道徳は生存を断罪する。なぜなら道徳は既存の価値を固定するから。
対して生存とは常に新しい価値を生み出そうとすること。だから背反する。
より皮相的に言えば道徳と生存の対立は全体と個人の対立かと。
>>12 ここで言う生存は生と同じ意味かと。つまり権力への意志。
道徳的価値評価は常に生存による解釈だよ。
世の中にはこの解釈以外は存在しないとされる。
ただ、道徳が生存の土台ていうのは私にはよく解らない
14 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/11(金) 22:50:46 O
>>13 あ、それなら納得できるかな
わからなかったのはニーチェが「位階」をどういう定義で持ち出したのか
原語ではなんていう言葉だったんだろう
『権力への意思』の「権力」なんて訳語をみると、どうもなあ…
キリスト教の道徳は、弱者が生存するのに役に立った。 しかしながら、そのような物に縋らねば生きていけないのであれば、 その生はニーチェにとっては価値が無い、のでしょうかね。 日本ではその昔、人柱という行為がありました。問題は、誰かを犠牲にするという事ではありません。 宗教を利用し、誰かを犠牲にするという疚しさから目を反らす事です。尊い犠牲という名の下に。 宗教は、弱者が疚しさから目を反らす事に役に立ちました。しかし、そんな生き方に価値があるのか。 ニーチェがギリシア人を尊敬したのは、 彼らが疚しさから目を反らさなかったと解釈したからではないでしょうか?
17 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/12(土) 20:33:59 O
>>16 それは違うと思うな
自然のままの世界には、強者も弱者も無いと思う
「ただ、そういうもの」
それがニーチェの永劫回帰でしょ
それを道徳や同情や、隠れた見栄・傲慢で「助け合い思想」を押しつけたのが「人間的」なもの
ニーチェの時代のドイツでは、たまたまそれがキリスト教文化だった
19 :
考える名無しさん :2011/02/13(日) 01:56:07 0
大きな恩恵を施す場合に気をつけねばならないのは、 恩恵を施す自らの衝動に、優越性や自己満足や同情が強く含まれる場合かもしれない。 施された相手というのは受け取った恩恵に喜ぶ半面、 恩恵を受けざるを得ない小ささを感じることもある。 これが強い場合、恩恵を施した側に対して怒りすら覚えるかもしれない。 ニーチェはこのこともしっかり見抜いて「ツァラトストラ」や「人間的な」 において気をつければならないと語っている。 「人間的な」において、恩恵を与える側への恩恵を施された側の 気持ちとして「自分の力以上のものをみせつけられたことへの」復讐 (こういう表現は使ってないが・・) という形で強者同士で感謝を示すことを例にあげている。 "感謝の復讐"という言葉を使っていた気がするが。 この例での復讐は溜まっりきった抑圧からの怒りの類ではなく、 瞬間的に感じさせられた自己の劣等を感じさせた相手への感謝という類のものだ。 恐らく、ギリシア人達はこういう類の復讐を義としていたのだろう。 個人的にはこういう細かい人間関係の中での考察に興味が湧く。 超人だと永劫回帰だのまだ先に話だと思っている。
ニーチェは「人間的な〜」で 善意の裏に隠された偽善のような形の心情を言葉にして箴言にしてます。 ラ・ロシュフーコーから触発されて書いたようだが、 『道徳的感情の歴史について』の章で、心情の解剖を行い、 実際に細かい箴言を作るだけでなく、それを披露して競い合う、 実地教育なるものが必要だと唱えた。 あの手の箴言に示されるような心情を言葉にしたい衝動はなくもないが、 残念ながら言葉にする気分もなければ、その能力もないし、時間もないのがつらい。 だが”自己分析”の時間だけは残しておかなければならない。 さもないと他人を理解することは無理だろう。
孤独なものは大抵「饒舌」である。
>>18 いや、弱者と強者は明確に分かれると思います。
つまり、ニーチェの言う所のルサンチマン。自分の中の弱さを美化し、
歪曲化し、肯定してしまう弱さ。
宗教での助け合いですが、何故「天国」という飴玉を用意しなければいけなかったのか。
褒美が無ければ、人を助ける事も出来ないのか。その卑しさを隠すための美化…。
23 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/13(日) 21:58:04 O
>>22 ニーチェってルサンチマンを否定してなかったっけ?
つまり、強者も弱者も無いってことじゃないかなあ
わたしは随分前に、"エリート"と言われる人たちが
本当はエリートなんかじゃ無いっていうのを見ちゃったからなあ…
>>23 ニーチェは遠近法の優位性を主張してるけど、もし遠近法を徹底するのなら、価値の位階を判断することはとても難しい
そこで、おそらくニーチェは、価値の位階を反動的なものか能動的なものかで判断していると思う
いわゆるエリートと呼ばれる人たちでも、反動的諸力によって突き動かされているのなら、弱者であると言えるのでしょう
ニーチェの「力への意思」「超人」がヒトラーに利用され ワグナーの音楽がナチスの士気を高揚に利用された
>>23 力への意志は元々ルサンチマンと密接な関係がある。だから当初は否定的なものとして記されていた。
しかしやがて力への意志を肯定的概念として捉え直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが
力への意志となり得ると解いた。当初ワグナーをリスペクトしていたが、やがて狂気じみたワグナー攻撃に転じる。
ニーチェ自身もルサンチマンの人である。
27 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/14(月) 22:24:39 O
>>26 ニヒリズムと自然享楽主義が同居したのがニーチェじゃないの
28 :
考える名無しさん :2011/02/15(火) 01:38:08 0
血のかけらも感じられない。
29 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/15(火) 02:03:37 O
>>28 感性が鈍っちゃったんじゃないの
自然に触れて来なされ
>>23 ルサンチマンの否定と、強者と弱者の違いが無い、という事がなんで繋がるんでしょうか?
ルサンチマンとはニーチェの考える弱者だと思うので、それを否定することはつまり弱者の否定です。
弱者を否定するのなら、その逆として強者を肯定するというのが、ギリシア人への憧れでは無いでしょうか。
普遍的な意味での強者と弱者は存在しないでしょう。
人は何度も試練を受け、その度に選択していきます。これは永遠に回帰します。
その選択の中で、強者が弱者に、弱者が強者に変わる事があるでしょう。
徹底的ニヒリズムで考えれば、強者と弱者は共に普遍的な価値はありません。
我々は何度も選択し、己の心を試されます。しかしその試練にどう応えようと、価値は無いのです。
これは悲劇です。しかし、たとえそれが悲劇であったとしても、胸の高揚は愉しみ足り得る。
悲劇を肯定し、力強く生きる事は出来るのだと思います。
31 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/17(木) 00:31:29 O
>>30 ニーチェの本質は強者弱者というキリスト教が造り上げた概念の否定だよね
みんな自然享楽にひたっているならルサンチマンなど起こらない
ニーチェの理想とする世界のあり方と
現実(ニーチェの言う“人間的なモノ”)は
かけ離れているから混同してはいけないの
人間的(キリスト教的価値概念)に縛られた世界ではルサンチマンが起こる、
と言ってるんだと思うな
ニーチェはよく婉曲的な皮肉で表現するよ
32 :
7号機 :2011/02/17(木) 00:44:56 0
>>22 >>23 ルサンチマンは強者も持ちますね、確か
ただ弱者のルサンチマンが屈折してるということ
>>23 階序とは最も皮相的に言えば優劣をつけることとも言える
むしろ人間の平均化を批判しているということ
なおニーチェは畜群の存在自体は否定してないということ
>>31 本質に関しては間違ってると思いますね
本質はもっと普遍的な問題であるということ
33 :
考える名無しさん :2011/02/17(木) 22:46:11 0
私には私だけの問題がある。 (それはなんら外部からくる知識で解決できるものではない。) なぁ、ニーチェ。
「ニーチェの作り方」って面白いよね
ニーチェ自身がルサンチマンの塊だろう。自分の言っていることの矛盾に苦しみ狂気になったんだろう。 大体この世に正しい答えなんて元々ないんだから。当然答えを出そうとすればするほど自己矛盾に気づき苦しむ。 所詮、無知の知
自己矛盾に気付き、それに苦悩を覚えるのなら、たとえ辛くても苦悩する。それが誠意でしょう。 苦悩自体を否定しようとすれば、誠意からかけ離れ、やがてルサンチマンに至ります。 誠意を持つ事を認める神も、ルサンチマンを罰する神もいません。 己自身が神となり、裁定者となり、善悪を決めねばなりません。それは孤高の道です。 ニーチェは、己以上に深い苦悩を持ち、さらにそれに打ち克つ力強い人間を夢見たのではないでしょうか。 苦悩を抱えながらも、力強く生きる人間を。 そのためならば、ニーチェが哲学をすることは、彼にとって価値を持つ事になると思います。
ニーチェ自身もルサンチマンだからルサンチマンに気づいたのか しかし真性の中二病患者だよなあ 読んでて恥ずかしくなった
チェーニ
39 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/19(土) 22:15:07.11 O
ニーチェってルサンチマンかなあ ルサンチマンだった時期はあったのかもしれないけど… 啓蒙はやろうとしたみたいだね しかし人間のあまりの低レベルさに匙を投げた感がある
人間全員を知ってるわけでもないのになぁ… 彼がネット社会にいたらまた違うんだろうか? いや、やっぱり発狂するなw
>>41 キュニコスのディオゲネスの逸話を思い出す。
ディオゲネスが昼間にランプを持って町を歩いていたので、
人が“何をしているのか?”と彼に尋ねると、
「俺は人間を探しているのだ」と答えた、と。
晩年のニーチェの姿が重なり合う。
ニーチェがこのスレ読んだらまた気が狂うだろうな ニーチェがもっとも嫌った形で理解されてる
>>42 へぇ!面白い話をありがとう
ツァラトゥストラだね
ゾロアスター(笑)
47 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/19(土) 23:48:28.11 O
>>41 考えすぎて発狂するのと
享楽にふけって梅毒になってオカシくなるのは違うでしょ〜
そりゃわかってます、ハイ
49 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/19(土) 23:51:12.13 O
>>41 梅毒の代わりにHIVになるだけで、発狂はしないと思うな
50 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/19(土) 23:53:17.48 O
52 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/20(日) 00:18:51.22 O
ニーチェが精神病的な意味で発狂したと騒いでいるのはキリスト教徒なんだよね? さぞかしいい気味だったろうね、まさに「死人に口無し」
ここに来ている人達は、なんだか、結構生ぬるいものを感じる… 寝ても覚めても苦悩にのたうちまわった年月、苦悩を掘り下げていった年月を、 どれ位経験しているのですか??? 失礼かもしれないが、強硬な思想を 語るには、それなりの覚悟がいると思うんだが。
>>53 じゃあ、まずお前がその体験について語れよ。
一大ベストセラーになるかもしれんが、脇から見たら
大した話じゃないかもしれないだろw?
生前のニーチェに対し、 死後のニーチェは何を語るのか/語れるのか
みんな新知恵さんを誤解している。
>>53 社会や他者や自分の理想と現実の差異から生じる苦悩や経済苦の困窮の苦悩など、苦悩する切っ掛けは様々あるとは思うが、
先進国の人間が苦悩する理由の殆どが自分と他者(親、兄弟姉妹、友人、恋人、妻、上司、同僚、…)の関係から生じるものだと思う。
その中でも、自らが他者に持っていた「信頼」が突然消え失せた時の失望や絶望は深刻だろう。
その他者を信じていた自分も信じられなくなるし、もちろんその他者も信じられないという地獄的な心理状態になる。
そして集団の中でも孤独を貫くにしろ、他者たちとの関係性の中で自分を信じる「自信」を失った時が最も苦悩が大きくなる状態だと思う。
それは自らの心身に強烈な神経症ないしは鬱病などを始め、日常生活に大きな支障を生じさせる病魔に侵される可能性がある。
そこで現世や周囲の他者の中には無い何か「神」や「真理」などを捜してそれを信じたり、先人たちの哲学や芸術などに触れて共感し、
何らかの「自由」を感じて少しの間でも「孤立」の苦悩から自由になろうとするのが人間なのかもしれない。
そして自ら夢中になって充実を感じる創作活動や表現に没頭出来る時があったら、どんなに自由で楽しいだろう。
あらら、変な改行になった。
(Snn1vnkV5gへの超個人的レスですのでスルーを)
>>57 あなたを、そうはいっても信頼している人が、あなたが しかも「○心行」など
という表現を用いたことを知っても、>自らが他者に持っていた「信頼」が
突然消え失せ…ないとでも思っているのかと…。 しかも○心行は、勝手な
人達が多い時代などと得意げに書いてさえいる。
あなたが、ニ心行であること自体を非難をする積りは無いが過去に大被害という
意識を未だに或るところでは見せながら、一方では同じ行為に至っていることに
ほとんど呵責らしいものも無いような様子に、本当に驚きを感じる…。セロトニン
過多なタイプには本当に呆気にとられる事が多い…。本人は幸せなのだが…。
60 :
59 :2011/02/20(日) 13:56:09.16 0
ひとつの裏切りが、この世の終わり的絶望に繋がるということは、それ以前の 若き日に接した相当数の?先人の書も、結局現実の一経験の前には何の役にも 立たずということか
61 :
考える名無しさん :2011/02/20(日) 23:42:57.16 0
修行は辛いぞ。 相当な。 生きる修行こそ。
>>Snn1vnkV5g そうでもなかろう、結局次から次と男三昧な人生はw
>>Snn1vnkV5g あなたの経験からすれば、尚さら周囲に気づかれないように配慮というのが当然の 筋では…。 ここに透視術があるわけでもない人間が、いとも簡単に気づいたのだから…。 誰が気づく可能性があってそれが何を招くか箇条書きで考えてみたらどうかとw
ちなみにSnn1vnkV5g って人はこのスレに4年はいるよね。 過去には名無しだったみたいだけど。 全部管理されてるのですよ。 特に以前どっかのコテと荒らしたあなたのような人はね...
軽蔑するのはけっこうなんですが、 軽蔑するほどに大きな才能を感じられないのですよね。 デカルトも聞きかじった程度の知識しか話さないし、 ニーチェに関しては全然書物を読んでないのがわかるのです。 引用によって知恵をひけらかそうとする誇張癖もあるわりに、 当の言葉の重み自体を全然理解できてない。 ランボーとかいい例です。 許せませんね。こういう方。。。。
67 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/21(月) 21:27:44.64 O
↓ のコトね > 寝ても覚めても苦悩にのたうちまわった年月、苦悩を掘り下げていった年月
苦悩とは、望んでする物ではありません。 それは災難のように、向こうからやってきます。 苦悩に気付く前に苦悩しようとすることは、先人の真似をしようとする滑稽さがあります。 苦悩に気付いた後に苦悩しないようにすることは、弱さです。 ニーチェは、苦悩の種を撒いた。その種によって苦悩に気付く人もあれば、 全く苦悩を見出せない人もいるでしょう。それはどちらも同じ事であり、 どちらかが正しいというわけでは無いのです。
>>64 65(この方への限定レスですので、他の方は、どうかスルーして下さい)
では、貴方は少なくとも”…の梅”と呼ばれている人なのですか?
なぜに今頃になって? 見物していたのですか?人が悪いのも随分では?
では、>Snn1vnkV5g は、この過去スレ何番のNo.幾つにいましたか?ソースを
お願いします。IDなら、同一IDが複数者に与えられることはあるようですが。
(貴方が、…梅さんなら、こちらのレスの内容には変更はありませんので。)
何故か自分が書き込みをすると変な流れになるので、多分もう二度とここにはカキコしません。
神に誓います!否、自分に誓うんだな。
それとスンマセンが意味不明なレスには絡めません。何故ならレスの内容が意味不明だし、
無意味な堂々廻り巡りになられても困るから。地球とかみたいにね!俺、太陽子だし^^
信じる者は巣食われる。おっと、救われるだった。
信じる神は見守ってくれてなど居ないし、イザ困った時に助けてもくれないし、物質的にも肉体的にも存在しないよ。
故に終生自分で自分に報いなければならない。でも稀に他人が親切にしてくれたらラッキーだね。
自分が思うに物質的に言えば神とは「太陽」のことではないかと。太陽光は地球上のすべての生命の起源だから。
太陽はただその光や熱を与えるだけで、自らは何も受け取らないただ能動的な存在。
木々は勿論、水の流動、人間の衣食住や身体や精神的のすべての健康の糧だから。朝陽の神聖さとか、夕陽の…とかも。
そして必然的にその光熱が生命を腐らせたり殺してしまうこともある。
自殺が一番多い場所は日照が弱い寒い地域みたいだし、時間帯は国や地域は関係無く日照が最も強い昼下りだとか。
それでも自分は自ら太陽になろうとした時期があったし、今もまだなろうとしているのかもしれない。アポロンに。
廻る、巡る、その核へ
http://www.youtube.com/watch?v=8ajy0paunsg 水、オミズヲクダサイ。ってことで、海だな、海子ちゃんに会いに行こうか。一緒に無重力の遊泳したい。
見つけた
何を?
永遠
太陽に融ける海
正しいか間違ってるかとかほんとどうでもいいよ。時に詩的。遊ばなきゃね。もっと笑って。楽しみましょう。
これって、Snn1vnkV5g さんでしょう?
【 117 】: 考える名無しさん 2010/03/05(金) 13:53:49 0
>>115 im sorry actually my japanese might sound bit weird but i love
japan and nietzsche.
i just want to talk about nietzsche with you guys
733: アーメン ◆Snn1vnkV5g 2011/01/02(日) 17:30:50 0 oh!yes!
全部小文字で書くのが、今風なのだとか
ニーチェの書物を全然読んでないなどと言われている割には、 nietzscheなんてスペルはあっさりタイプしているように一見みえる
スペルわかるのとあんまり関係ないと思うけどw
この前、コンビニで 図解でわかるニーチェ みたいな本置いてあったのみて 益々世も末だなと思った。 ニーチェがかわいそう。
>>76 それより、
>Snn1vnkV5g は、この過去スレ何番のNo.幾つにいましたか?
に答えれば解決するのにね
80 :
63 :2011/02/24(木) 00:05:59.50 0
>>64 >特に以前どっかのコテと荒らしたあなたのような人はね...
あなたというのは、63のことですか? コテと荒らした の意味が
理解できなかったので、
>では、貴方は少なくとも”…の梅”と呼ばれている人なのですか?
などとレスしましたけれど、…梅さんなのですね。
それから、何か解釈の違いです。自分は、誰かと徒党を組んで何かするということ
はしない主義です。結果的にそう見えてしまうことはあるかもしれませんが、
常に個人で行動する主義です。嵐?の積りも毛頭ありません。
>>65 >ニーチェに関しては全然書物を読んでないのがわかるのです。
でも、仮に、Snn1vnkV5gが梅さんではないのなら、誤解したのは私だけ
ではないような。 貴方が、実際この方と類似して見えるからでしょう。
それに、作品は、幾重にも読者の裏をかくような手法が印象的なので、こんな
タイミングで別人だというのも、手の込んだ創作に見えてしまったり…。
ただ、ニーチェスレを最初からチェックすれば解かることだから、今度は、
こちらの負けかな。それにしても、今頃指摘するのはやはり人が悪いと…。
再度ですが、こちらのレスについては、変わりありません。
物事や人、何に関しても意見があれば賛否両論あって当然と言うかそれが正常だと思うよ。 一つ(一人)のことの批評でも、ここは賛してここは否するとか複雑だからね。気分や状況よっても見方や評価が真逆に変わったりもする。 因みに自分に関して言えばもう自己弁護も罪悪感も何も無いかなぁ。今一瞬一瞬の判断を後悔しない主義になりたいから。 人間の自らの思言動で間接的に他人を生かそうが死なそうが、因果運命の過程や結果でこれは生存中の人間の宿命だから。静観諦観達観なう。 と言うか、◆Snn1vnkV5gの話題はもういいよ。 彼、紅茶(生姜と豆乳を少し入れたやつ)を飲みながら赤い林檎を齧る時が一番幸せなんだとさ。
唯一の真理は無いのだから、人の答えも変わっていく物だと思います 繰り返しては打ち寄せる波のように、苦悩は何度も此岸へと押し寄せます 一度出した答え。それも、いずれ崩れ落ちる時が来るでしょう。 その度に人は苦悩します。唯一の答えが無いのだから、何度でも苦悩します だから人は、苦悩する事自体を愚かしいことだと思い込もうとします 苦悩する事も、苦悩から目を背ける事も辛いから、苦悩から価値を奪いたいのでしょう 価値さえなければ、目を背ける自分を許せるのではないでしょうか
84 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/26(土) 00:02:25.57 O
>>78 それ、一時Amazonで凄い高値になってたよ
買う気も起きなかったけど
85 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/26(土) 00:03:54.10 O
86 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/02/26(土) 00:07:38.27 O
いやしかし、苦悩は嫌と言うほどいろいろしましたよ 社会人なんで読書の時間も限られてるし 他に積ん読本が列をなしているのです
87 :
考える名無しさん :2011/02/26(土) 00:09:00.70 0
あーニーチェってあの凡人の事ね。
まー入門書だの流行本だので読んでる人は理解が浅くならざるをえないと思うよ 彼が何について語っているのか理解してるのか?と時たま思う が、それはそれでいいのかも知れないとも思う。思想理解ではなく自分の成長を重視すれば。 が、少なくとも彼の思想について語るのであれば、入門書等の糞は一切抜きで 原典と勝負してから語るべきなのではあるまいか。 そうすれば入門書が如何に皮相のことしか書いてないかも解るはず
入門書が糞なのがわかる為には 入門書読まなきゃね☆
90 :
考える名無しさん :2011/02/26(土) 01:00:53.01 0
>>89 シーッ
せっかく良い気分で書いてらっしゃるんだから
>>83 精神的な苦悩よりも、身体的な苦痛の方が切実かもしれません。例えば「病」は勿論。
どちらも極まった場合は切実だと思います。 身体的苦痛は死に至ることで終りが来るのに対して、精神的苦痛は死を 選ぶことで終わりが来るという場合が多いのでは。 簡単には比べられないと思います。
死を選ぶといっても、選択肢があるという状態を越えるのだろう。球団関係者が 階上で躊躇した挙句に飛降りる場面がニュース放映されたことがあったが、あの ような状態になると難しいと思う。
人間は誰でも自分の苦痛・苦悩が一番だと思ってやがる
95 :
考える名無しさん :2011/02/28(月) 11:20:15.54 0
ニーチェってあの凡人の事か
>>94 寧ろそうじゃないと共依存とか面倒なことになる
>>91 精神は体の一部では無いだろうか、と考えたりします。
体が病めば、精神も病むのではないでしょうか。頭痛や痛みは精神にも影響しますし。
身体の苦痛は、そのまま苦悩となり得ると思います。
例えば、何故私は記憶力が低いのだろうか、と言った事も苦悩でしょう。
その苦悩は…場合によっては永遠に解決されません。
永遠に記憶力が上がらなくとも、記憶力を上げようと努力する。
それは、結果を見れば無意味でしか無いでしょう。しかし、徹底的ニヒリズムで考えれば
全ての事柄に意味など無いのですし、無意味である事は問題では無いのです。
無意味であるから、何もかも諦める事。それは一見正しいように思えますが…本当にそうでしょうか?
精神は神経の別名かと。心は心理の別名。個人的には。 無意味や意味うんぬんよりも、自分が生きている実感とか、そういったものを全く感じなくなったらオワリでしょうね。 苦悩や苦痛の実感ですら、生きている証拠です。自分や他人のそれが続こうがそれから開放されようが、もうどうでもいいですが。
100
101 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 11:50:49.89 0
こうなりたい。 1年後はこうであるべき。 あんな人間を目指したい。 ↑ これらは一見積極的で向上心があって、よい心がけのように見えるけれど、 裏を返せば、今の自分、今日の自分は不完全で不十分だという意識を深く 植え付ける。このような意識がある程度強まると、神経症等の精神症状や いわゆるグズ病、先延ばし症候群といった病気とは言えないまでも人を悩ます 性向が生じてくる。 ニーチェの言うように、目指すべき未来も今現在も無価値(結果として等価値) であるなら、「今」は何かへの途上ではない。 この意識の変革を享楽的人生の肯定へとつなげることは極めて愚かである。 享楽ではなく、自分の根源的ともいえる欲求・願望をこそ第一とすべき。 ニーチェの主張は森田正馬創始の森田療法にも通じるところあり、 非常に興味深い。
wwww
103 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 15:55:02.92 0
人間は、獣から超人へと渡された一本の綱で超人に至るまでの 段階というものもあるのなら、ニーチェの思想にも現在から未来への 低価値から高価値への変遷はあるのではないか
104 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/02(水) 16:00:53.58 O
105 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 16:11:18.25 0
>>103 俺もそう思う。
違うというなら
誰か分かりやすく解説してほしい。
あと、ニーチェが性善説なのかどうか。
もし性悪説だというのなら、
みなが力への意志のままに生きたら世界が滅茶苦茶になる、
という疑念をどう払拭してくれるのか。
106 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:04:33.03 0
力と力が拮抗して、世界は安定するだろ
永劫回帰なんだから、低価値から高価値に変遷しないと思うけど、超人は進化?
>>101 生の欲望と力への意志は通じるの?
森田の本で、ニーチェに触れてるとこありますか.
107 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:06:11.17 0
性善説でも、性悪説でもないだろう 善も悪もないだろうから
このスレの書き込みも遣り取りも無価値だな。かなしいな。
109 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:14:36.44 0
無価値が救いになる。
何か「死こそ救い」みたいだな。かなしいな。
無価値を肉体的に例えると、好きでもない女と番った後の人間的な男の心情って感じだな。 動物的な男なら「あ〜、きもちよかった」で満足するからな。 男なら誰しも金玉に種を仕込んでるが、それが入植もされずに実らずに吸収や排泄されるだけなら、かなしいな。
ニーチェは思想を著作として残して、中にはそれを売りながらでも受け継ごうとしてる人も居て、 そしてそれがニーチェと同類の男たちにモテはやされてる訳だから、なんかホモっぽいよな。 女に全くモテない男たちの思想ハッテン場みたいだな。このスレも。かなしいな。
113 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:32:23.09 0
死んでも、永劫回帰だから、死が救いではないと思うよ。 ニーチェは無救済の救済といった側面があるように思うんだ。 甘い救いがないから、よし、今を自由に生きてみよう、といった。 本当にあらゆる意味や価値から解放された自由というのか。 俺はそういうのに縛られて苦しんでるのかも知れないんで。 生意気をごめんね。
かなしいな。かなしいな。って言ってたらなんか面白可笑しくなってきて、全くかなしくなくなってきたぞw
115 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:39:38.31 0
>>106 森田の全著書を読んだわけじゃないけど
多分言及はしてない。
力への意志と生の欲望が通じるというのは俺の発案。
しかし、実際通じていると思う。
生の欲望を認識し、
どうにもならない感情や心に浮かぶ観念に振り回されずにこれを優先させ、
かつ、それに従って行動していくうことで、
神経症が症状が軽減していくことは実証されている。
(なかにはこの治療法が合わない人もいるけど)
力への意志という概念はこの生の欲望にかなり近いと思う。
少なくとも、生の欲望は「力への意志」と関係があるはず。
116 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 18:54:12.01 0
森田はベルグソンなんかは触れてるんだけどね。 力のへの意志と生の欲望はおもしろい視点だね。 森田はシロニーチェみたいで、もう少し、善意があるけど。
117 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール :2011/03/02(水) 21:41:42.97 0
おーれ、大学や大学院の時、イジメられっぱなしだったからさあー イジメられた体験から悪い発想ばっかりしちゃってさあー 現実とは関係ないけど、ほとんど想像に復讐してるぅー リスペクト
118 :
考える森田さん :2011/03/02(水) 21:56:20.30 0
>>115 生の欲望と力への意志が、ともに力と欲望について言っているということは、
森田とニーチェを知らない人に、いきなりその箇所を読ませても、
中学生であってもわかると思うよ。
119 :
考える名無しさん :2011/03/02(水) 22:24:42.96 0
↑ 文献で指摘できるの?
>>105 世界が無茶苦茶になるとは曖昧だな。何がどうなる情況の事なんだ?
そして、そもそも世界なんて物があるのか。私の見る夢で無いと言い切れるのか。
実際世界(地球上と言えば)のある場所やある人間は無茶苦茶になってるけどな。 歴史を観ても自然災害や戦争でメチャクチャになってるじゃん。 人間個人の死ですら何らか身体的な破壊によって終焉する。
122 :
考える名無しさん :2011/03/03(木) 00:51:16.21 0
>>120 夢である場合
→夢を見るという事象が起こっているのだから、
何も存在しないのではなく何かしらが存在してる。
つまり世界はあるというほかない。
夢でない場合
→夢でないのだから世界は存在してる。
>>122 知覚できない世界なんて、あっても無くても同じでしょ…
124 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/04(金) 00:17:17.28 O
知覚できなくても知らないところで影響しているんだよ
無意識の抑圧とか影響大ね
寧ろデジモン風にするとニーチェモン何ですよねー!?♪。
え?
はっはっはー
生とは元来的に創造するものである。 あらゆる意味付けや価値付けとは生の欲求に従って行われる。 だが、「汝なすべし」の道徳はこの生の欲求を断罪してきた。 人間は道徳に服従し、意味や価値を与えてくれる道徳に従う。 これは矛盾しないのか?生とは「我欲する」であるはずなのに、 なぜ「汝なすべし」の道徳に従うのか?
知覚できないものが影響したとして、その影響も知覚できないわけだから… ドンキホーテは風車を竜であると言った。我々には風車としてしか知覚できないし、 風車の物と思われる影響しか知覚できない。その場合、我々にとって風車は竜では無い つまり竜は存在しない
ニーチェを真に理解するにはどうしたらいいんだ? アンチクリスト、道徳の系譜、ツァラトゥストラあたりの著書と日本人による入門書を読破。 下敷きになってる思想史も知らないといけないので ゴルギアス、ソクラテスの弁明〜などのプラトンあたりを読破。 したんだが本当に理解できているのかわからん。 後デカルト、カント、ヘーゲルの純哲御三家と聖書も完璧に読んで、 しかもドイツ語マスターして原著にあたるぐらいしないと真に学んだことにはならない?
>>131 学んだことにになる、ならない という次元で考えている時点で、
すまないがあなたは思想向きの思考者じゃない。
「知識を詰め込む」姿勢で挑んでるなら、本自体を読まないでほしい。
何だって「真に理解」とかじゃなくて、「リアルだなぁ」と思うかどうかだよ。
>>132 「なるならない」っていうのは言葉の文だよ。
別に学んだことにしたいという意味で言ってるわけじゃない。
そこまで言葉を選ばないと発言しちゃいけないの?
哲学を学ぶ際には、自分の命題について考えるために他人の哲学を学ぶようにする。
一つ一つのロジックを突き詰めて考えていく。(それゆえに只の暗記学問とは対極に位置する)
このように学ばないと哲学なんてただの哲学学になるなんてことは重々わかってる。
しかし、思考することそのものやその姿勢が大事だ
なんて只言ってみてもある程度の下地や詰め込み(記憶)がないと
そんな一個人の妄想だけの哲学なんて砂上の楼閣であることも事実でしょ。
あなたは高尚な哲学的知見を持っているようだけどその知見は
一切詰め込み(記憶)に支えられていないと言い切れるの?
>思想向きの思考者じゃない〜本を読まないでほしい。
向いてないから本を読むなっていうのも傲慢な思想だよね。
向いてなくても大抵の学問にはある程度のところまで行ける舗装路があるわけだ。
しかし、哲学界隈は向いてない→即やめろって断定する人が多いと思うのは気のせい?
それってただ哲学するということについて何の理解もしていない人が多いからなんじゃない?
道徳を学ぶためにニーチェを読むのはかなり有益だと思う。 だが彼の議論の意味を知るためには哲学史とキリスト教を学ばなくちゃならない。 それを指して「思想は詰め込みのためのものじゃないから哲学の勉強はするな」 っていうは完全にお門違いでしょ。 じゃあどうやってニーチェの思想を理解するねん。エスパー能力か何かか?
哲学はするものであって思想は眺めるもの。 思想向きかどうかでいうなら詰め込みタイプは思想向きだろ。
哲学する能力さえあればツァトゥストラだけよんでもニーチェの思想はわかる 高尚な才能が無いと哲学はわからない。後からその力を高めることは不可能。
故にニーチェを理解できるこの私は高尚な存在である
詰め込みタイプは学者向き。
実際自分で哲学出来るような奴はニーチェスレに来ない。 知ってる単語つなげてしたり顔の哲学ワナビーしかいない。
別に哲学は高尚な才能では無いが、哲学に価値を感じる人にとっては意味のある才能でしょう。 >哲学はするものであって思想は眺めるもの。 言わんとする所は何となく分かる気がする。哲学とは、自分が正しいと思う事を 究める事であって、他人が正しいと言った事を鵜呑みにする事では無いって事ですかね。 ニーチェは、全ては解釈であるとして、、彼自身の哲学もまた解釈の一つに過ぎないと、暗に言っています。 また、吼える獅子の例によって、他人に従わず己の心に従う事を良しとしています。
142 :
考える名無しさん :2011/03/06(日) 23:05:07.33 0
>>141 何故何もないのではなく何かがあるのか。哲学とはこれに尽きる。
参考としてハイデガーやヴィトゲンシュタインなど読みながら
この根本的な問いに思いを馳せること。
人間原理だとか多世界解釈だとかの議論に飲み込まれず、
何故無ではなく有であるのかを自らに問いつつ瞑想すればいい。
百年考えるより1時間を座禅するほうが意味がある。
そしてまず自らの身体(人体)を意識してそれについて哲学するといい。 外面の作りがどうなってて、筋肉や内臓はどういう働きをしてるのかとか。 そこからこの身体と外側の関係性、呼吸から始まって云々。
>>134 どんなにがんばってもあなたは書物から何かを感じ取れない。
絶対。生まれつきそういう性質なんです。
そういう方が本を読むほど、真剣に読んでいる(考える)人達に有害なことはない。
馬鹿の罪でもあります。
感じ取れる取れないってオカルトの世界かよ。 そもどういう奴がどこで本を読んでようと他人に害なんか与えようがないわけで。 頭がいいって馬鹿でもわかることが分からないことなのか。
僧侶的であるまいとして結局僧侶的になってしまうというニーチェリアン。 彼らは哀れゾンビを捕り損なったゾンビに過ぎない
自分は考える人間なのだという強烈な自負のある人が多いみたいですね 突き詰めれば誰しもが何かしら考えているわけなのですが
人間は考える葦とかフザケテル。考える動物なのに
>>147 自負以外は戯言だよ。他人もまた自我の生んだ産物であるのだから。
自我の生んだ他人と言う像。
自負を否定し他人の賞賛を善しとすることは、
他人もまた自我の映した像であるということを知らない無知ゆえの蛮勇。
150 :
考える名無しさん :2011/03/09(水) 00:05:26.97 0
まず、低能種族の考え自体が蔓延ること自体が深く考える人間に有害。 書物を書くどころか、読むことすら禁止した方がよい。 学問を万人にできるようにさせることの方がはるかに人間に有害。
そして2chはあきらかに人間に有害
そうなると滅びが近づくな‥ 一つの出来事に対して考える人が たくさんいればいるほど いろんな考えがうまれる→可能性がうまれる 有事の際にお世話になるかもしれない
無事の為にね
知らぬが仏とか知らない方がいいこともあるとか言うが、盲目は罪なのだろう。 肉体的な盲目は罪ではないが、盲目的な思考や言動こそ不幸の端緒になりうる。 盲目的ということは、つまり「客観的に自他や現実を認識出来ていない状態」のこと。 もちろん有事も盲目的な端緒の結果です。
しかし社会や人間を知れば知る程に、君は厭世になるだろう。 厭世を知って、それを克服する術を知れば楽になれるかもしれないが。
恣意的な解釈や断言の危うさもある。 「男」や「女」について語る時も、男はちんこ女はまんことかなら自明だが、男論女論とか無意味かも。
自分だけは盲目的ではないという主観。 自らの背後を疑わない信仰をこそニーチェは強く否定したはず。
社会に出て演劇の舞台に立てば、客観性もかなり喪失される。
まず主客の観念の間違いを指摘するべきだ。客観と言う概念は、成立していない。 我々の眼から見て客観であると思われる、という思惟に過ぎない。 ニーチェ的に考えるならば、知るとは価値の低落を知る事だ。 善悪の破綻はその結果である。 何故ならば、我々は価値の無い善など想像もした事が無かったからだ。
日常的に世間や他人の行為を道徳的に批評している一般のニーチェ愛好家がいて、 うんざりすることがあるんですが世間や人の行為について、善悪の批判や批評を するのはどうなのですか? 人のあるべき姿をニーチェは、いろいろ示唆しているのだから、他人への 善悪の批評も別に矛盾してはいないということですか。
>>160 あなたもまた、人の行為に対して批評をしているのです。
あなたの論で行けば、あなた以外の人はうんざりしているでしょう。
それで、どうでしょうか。あなたは何が言いたかったのでしょうか。
「私はうんざりしているし、私の存在で私以外の人もうんざりしている」と言う事でしょうか?
それはまあ、妥当な意見ではないでしょうかね。
162 :
160 :2011/03/11(金) 01:19:25.81 0
>>159 ほかのレスに、価値の低落とか、善も悪も無いとかいったことが、
しばしば書かれているので、ニーチェの思想との関係において、質問している
のです。哲学的思考に長けていると自負しニーチェの思想書もかなり読み込んで
いるというニーチェ愛好家が、どこにでもありがちな善悪や自分の価値観に
基づく批評や批判を当然のように展開するあり方は矛盾していないのかどうか
知りたかったのです。矛盾していない、というのなら、それでいいのですが
理由は知りたいです。ニーチェ愛好家の「善も悪もない」という道理は、
どこまで一貫したものなのか、不思議に思ったのです。
>あなたもまた、人の行為に対して批評をしているのです
ということですが、自分はニーチェ愛好家では無いので、この場合の比較は
意味がないことになります。また批評する場合も、深い動機に基づくかどうかが
問題だと思います。
△深い動機にもとづくかどうか ○深い動機や慎重な検討に基づくかどうか
△自分はニーチェ愛好家では無いので ○自分は、この思想から学ぶべきことは学びたいが、愛好する者ではないので
△自分は哲学的思索ができると自負しているので ○自分ほ哲学的思索が本能の人間もいないので
162=163=164 ≠165 ○自分ほ哲学的思索が本能の人間もいないので ?「自分ほど・・・な人間もいないので」とはどういうことでしょう? 確かに、その人もそんな風に自負されているように見受けられますし、 言葉もまたそのように不用意…なことが多いのです…。
>>162 善悪がなければ、批判してはいけないでしょうか?
それは何故でしょうか?
不思議に思うのは、あなたは批判その物を否定しているそぶりがあるのに、
急にニーチェ愛好家うんぬんという言葉を持ち出す事です。
あなたはあなたの身勝手で、あなたの気に入らない人を批判していますが、
もしかしてその事を認めたく無いんですか?
168 :
考える名無しさん :2011/03/13(日) 05:09:43.91 O
ったく、こっちは地震でニーチェどころじゃない
うん、神は人間にお怒りなんだな…
ニーチェ「神は死んだってばよ」
神は死んだんですよねー!?♪。 永劫回帰を離脱する為に超越非常識究極哲学人に為りますよねー!?♪。
ツラストラは文学にすぎない
>>130 影響は知覚できるでしょ
それから「見えない竜」が居る可能性も否定できないね
あんまニーチェと関係無いけど
神は死んでいない!?♪。 神は今も生きてますよねー!?♪。 神は無事何打よねー!?♪。
例えば植物や木々が太陽光や雨水によって成長したとして、 その外側からの影響は表面的には知覚することが出来ない。 人間も、物事や人から無意識に影響を受けて、それを無意識的に言動で行っていることも多い。 まだ小さな子供が感謝の意味で「ありがとう」と言うのは、両親を初め周囲の人間に「ありがとう」と言う様に教えられたか、 「ありがとう」と言われて育ったからである。
A〜C〜
ニ〜チェ〜
178 :
考える名無しさん :2011/03/21(月) 03:06:44.97 O BE:810591034-2BP(0)
ニーチェがキリスト教にマジ切れしてる画像下さい!
179 :
考える名無しさん :2011/03/21(月) 03:10:37.18 0
神がいる に対し 神がいない という考えが出るのは 当然の成り行きだった
うほう
181 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/21(月) 16:44:54.66 O
>>175 > 例えば植物や木々が太陽光や雨水によって成長したとして、
> その外側からの影響は表面的には知覚することが出来ない。
できるんですけど…
植物が成長していることに気が付かない人なんか居ないでしょ
知覚の仕方は人によって違い、その違いには気が付かないだろうけどさ
影響は知覚できるけど、その個体的な差に無自覚なんだよ
どんどんニーチェから離れていってる気がするけど
183 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/22(火) 23:02:26.27 O
『ツァラトゥストラ』に突入なう 面白い。しかし、時間かかるな〜こりゃ
184 :
考える名無しさん :2011/03/23(水) 04:53:06.40 O
しかし今の短期トレンドがキリスト教である以上 短期トレンドに順バリするほうが利口だ
185 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/24(木) 20:23:57.97 O
賢者と愚者に違いがあるとすれば、それは呼び方だけだ
187 :
考える名無しさん :2011/03/24(木) 23:16:06.59 0
過去の思想に拘り過ぎれば新しい思想は生まれて来ない。 過去の思想が生み出された時代と現代は違う。 もちろん、未来に於いて現代の思想が陳腐な物と成る事も然り。
189 :
考える名無しさん :2011/03/25(金) 11:23:48.87 O
レサンチマンについて述べよ
レーニンとかマルクス主義の人からニーチェやユンガー評論あるのに 逆は全然ないね ハイデガーがマルクスを攻撃してるつまんない発言はみたことあるけど。。。
波動気功想念元根本螺旋回転ネ申神様精神世界究極超人何ですよねー!?♪。
192 :
考える名無しさん :2011/03/27(日) 15:43:17.74 O
>>188 ニーチェは、年金によって成立している自分のニート的生活に罪悪感を感じ、悩んでいた。
その道徳的な苦悩がニーチェ哲学の源泉だってことかな。
193 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/28(月) 21:43:05.89 O
>>192 それこそルサンチマンじゃ…
ニーチェの悩みは、他の人たちがルサンチマン思考を吹っ切れなかったことにあるんじゃないの
>ニーチェの悩みは、他の人たちがルサンチマン思考を吹っ切れなかったことにあるんじゃないの 「他の人たちがルサンチマン思考を吹っ切れなかったことに対して、ニーチェはルサンチマンを抱いていた」とも言えるね。 「高貴な人間」であれば、他人のルサンチマン思考をことさら摘発することはしないだろうから。 《他人のルサンチマン思考をことさら摘発すること》と、ニーチェが攻撃したものとのあいだに、なんら本質的な違いはない ・・・ 「目をそむけること、それが私の唯一の否定でありますように!」(『悦ばしき知識』二七六) つまるところ、ニーチェはこれができなかった、と。 度々指摘されることではあるが、ニーチェ哲学のダメなところであり、また魅力でもあるのは、 彼の哲学が、徹頭徹尾ルサンチマンを原動力にして書かれているということだ
195 :
194 :2011/03/29(火) 03:20:28.36 0
もっともニーチェは、自分のルサンチマンに気づかないほど傲慢でも馬鹿でもなかった と、俺は思ってるけどね。典拠?ないよ 妄想と思ってもらってもいい。 ところで、「自分のルサンチマンに気づいていないルサンチマン」と、「自分のルサンチマンに気づいているルサンチマン」は同じだろうか、違うだろうか。 他人から見りゃ一緒だろうけど、自分にとっては大違いである、と俺は考えている 前者:「自分のルサンチマンに気づいていないルサンチマン」は、ただ他人の道徳的誤りを摘発するということ(=否定)を目的としているが、 後者:「自分のルサンチマンに気づいているルサンチマン」は、そうであらざるを得ない自分自身であろうとすること(=肯定)を目的としている。 これはやはり大きな違いである。なぜなら後者は、もはや自分のことしか考えていないからだ―― 「人が高貴であることを示す《しるし》のようなものがある。みずからの義務を、すべての人への義務にまで引き下げないこと。みずからの責任を譲り渡すことを望まず、 分かち合うことを望まないこと、みずからの特権と、その特権の行使も、みずからの義務のひとつと考えること。」(『善悪の彼岸』二七二 中山元訳) なお本書二八七には、「高貴な魂は、みずからに畏敬の念を抱くのである――」ともある。 この「位階」――とニーチェは言う――までくれば、もはや「そうであらざるを得ない自分自身を積極的に引き受ける」なんて陰気臭いものではなくなるだろう。 そう、彼は、そうであらざるを得ない(俗人的パースペクティブから言えば、卑屈・不純であらざるを得ない)自分に、悦びと楽しみを見出す境地に至ることができたのだ! (たぶん) あ、 >彼の哲学が、徹頭徹尾ルサンチマンを原動力にして書かれているということだ これはある程度修正の余地がありそうだな あくまで俺の中で、だけれど
196 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/03/29(火) 18:19:00.23 O
孤高の孤独に悩むのはルサンチマンなのかなあ 別種だと思うけどな
こないだ、背広着た高年のおじさんが、 ブック〇フのオススメコーナーに置かれた 『超訳 ニーチェの言葉』を手にとってじっと見つめているのを見た どうなんだろう、これ
ニーチェは色んな事に悩んでただろw 女の事とか。 他の人がルサンチマンであれば、ニーチェはそれを指摘する。つまり闘争だな。 闘争そのものに悩みはしないだろう。問題は、その闘いが正しいかどうかだ。 もちろん、普遍的な意味での正しさは既に否定されている。 だからニーチェは、自分自身にとって正しいかどうかを、常に苦悩していたと思うよ。 それがつまりは、悩みなわけだ。
自分を褒めて上げたいとか自分にご褒美をあげたいとか自分との闘いとか敵は 他人ではなく自分だというような発想がルサンチマンと対極にあるあり方なの だろう。ニーチェ(的)思想は今の社会の身近に広がっている。
ルサンチマンでいいじゃない人間だもの、罪男
201 :
月の砂 ダニエル・カール :2011/03/30(水) 03:05:05.16 0
超人は ソンケー する〜 超人でもこれだけは無いと困るっていうのは価値観でしょ 超人になろうとしたら、価値を学んで貰わないと〜 何だか、価値観を持ったら、超人が輝いて見えてさあ 超人っていうのは、評価を気にもせずに自由な人のことだよな っかしいな〜、お〜れ、なんてさあ、 超人になれなくてさあ、何の値打ちも無い、誰一人として評価しない人間でしかないんだよ 俺なんて価値観の出来てない奴は、超人を評価すらできないんだよ 評価できない奴は超人になるの、止めようぜ〜
超人って株で儲けてるニートやリバタリアンみたいなもんだろ。 みんなが超人になったら社会が崩壊して人類全滅するだけ。 余程功績の残せる芸術家を除けばまさに害虫。
寧ろ明らかに考えて超只管随分無論人は社会が豊かに為りますよねー!?♪。
>>196 「孤高の」の意味はわからんが、「孤独に悩む」のはルサンチマンだと思うよ
「どうしてお前らボクの言うことがわからないんだ!!」みたいな。「お前らもっとボクにかまってよ!」とか?
(いずれも現実のニーチェの姿・実相だったんじゃないかなぁ・・・・少なくとも俺のイメージではそう)
いや、他人攻撃の矛先が自分に向けられる場合もあり得るね。「どうしてボクは○○なんだ!」って。
当然、生へのバイタリティをいちじるしく削ぐ「自己否定的」な生きかたは、超人や高貴な人間の生きかたのソレでは「ない」。
覚悟・決断をしてみずから孤独を選んだ人間は孤独に「悩む」なんてことはない
もし悩みが表象されたら、まだ孤独を「選んで」いない証拠。
ただニーチェの一筋縄ではいかないところは、自己否定(まあ他者否定でもいいけど)で《生き生き》できるなら、そしてそれを自覚しているなら、それもアリなんじゃないの?ってこと。
なにせ、世の中にはいろんな人がいるからね。自分を苦しめれば苦しめるほど生命力が満ち満ちてくる人もいるでしょう、きっと。
永井均はニーチェの主要な思想を3つの繋がった空間(ちょうど円形になってる?)にわけているけれど、やはりこれはいいアイデアだと思う
第三空間=永遠回帰の空間を通過した上で、第一空間=道徳批判の空間を見てみると、最初に第一空間に入ったときとは違う光景が見えるはずだ。
>>204 悩むことの無い人間、それこそルサンチマンだよ。
自分で選んだ事だとしても、人の誠意は苦悩を喚起するだろう。何故なら、それは真理では無いのだから。
ニーチェは貴族的道徳を尊び、ルサンチマンの姿勢を批判したが…それは別に正しい事では無い。
諸価値は低落している。価値ある事を正義としてきた我々は、正義もまた価値が低落している事を見落としている。
>>202 トロツキーの解釈まんまだなw「ヘンドラー(商人)よりむしろヘンデル!」というニーチェの叫びは無視か。
金っていう既存の価値に従属してる奴は奴隷道徳に囚われてんだよ。
芸術家の功績というやつも、既存の美意識から「やくできました」と言われる様なのは超人じゃないよ。「賞賛を求めず、理解を超えたことを為すこと」とニーチェも言ってるし。
ところで今夜から西研がNHKでツァラトゥストラの解説するらしいな。
「よくできました」でしたw やくみつるが褒められてるような文面になってしまった。
>>190 ドゥルーズは『ニーチェと哲学』とかでニーチェ的視点からマルクス批判してる。
>>205 ニーチェが尊んだのは「貴族的」+「道徳」なのかなあ
「貴族的」+「自由」ならわかる気はするけど
ただの呼び方の違いで内容は同じなのかも…
平行読書だとなかなか進まなくてタイヘンなの
ニーチェ(あるいは、ニーチェの入門書や解説書)を読んでいて、 「道徳批判」=「否定」と、「運命愛」=「肯定」が、どのようにしてつながるの?と思ったことのある人はいないだろうか。 ・・・・俺はある。 では、実際問題、「道徳批判」=「否定」と、「運命愛」=「肯定」は、つながり得るのだろうか。――つながり得る! ――ニーチェは、いつしか、どこかの時点で、他者批判をしているときの自分が一番《生き生き》していることに気づいたのではないかと思う。 彼は、他者批判を、いわば《趣味》として、受け取りなおしたのだ。 ニーチェは、普遍的な正義の名のもとに、プラトニズムやキリスト教やドイツ人や・・・・・を批判していたのでは な い 。 いや正確には、どこかで「普遍的な正義の名のもとに」それらを断罪することをやめているはずなのである。 少なくとも『道徳の系譜(学)』の時点では、既に彼の仕事は単なる《趣味》になっていたように思われる。 ・・・・究極的には、彼はプラトニズムも、キリスト教も、ドイツ人も、人間の未来も、もはやどうでもよかったのではあるまいか。 ニーチェはいつしか、「獅子」をやめて、「幼な子」になっていた。世界と遊ぶ幼な子に。 「幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。 ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。 ここに精神は 自 分 の 意志を意志する。世界を失っていた者は 自 分 の 世界を獲得する。」(『ツァラトゥストラ』 氷上英廣 訳) なお、「他者批判=純然たる趣味」という俺のニーチェ解釈は、単なる妄想である。したがって、俺のこの解釈を誰かに押し付けるようなことは、まあ可能な限り、しまい。
「子供の遊戯」が最上の肯定であり目指すところなのか。もちろん一つの隠喩だけど。
>>205 うん、まあ・・・・ついつい「覚悟」だの「決断」だの「選択」だの書いてしまったけれど、
俺もこれ、この一種の「賭け」、実はあんまりニーチェ的じゃないかもなぁ、と思ってるんだよね
キルケゴールとサルトルは、まあ間違いなく「覚悟・決断・選択」を主題にしてると思う。
ニーチェのアフォリズムなどからも同種のものを見つけてくることは可能だろうけれど、
果たしてニーチェは、一種の賭けともいえる、実存的自己投企を 主 題 化 しているのだろうか?という疑問を抱いている。
もし主題化していないのだとしたら、なぜか?・・・・さあここから例によって俺の妄想がふくらむぞ。
まあほとんど同意を得られないであろう俺の推測は、「ビョーキ(持病)と永遠回帰体験との力によって、ことさら勇気をふりしぼって決断をしなくとも、
《子ども》になることができたから」というものだ。彼のビョーキと彼の哲学に関係はないって入門書がチラホラあった気がするけど(永井均もだっけ?)ほんとかなぁ、って思う
>悩むことの無い人間、それこそルサンチマンだよ。
これに関してはもう少しkwsk聞かないと、そのレスだけでは、なんとも返答できないかな。
213 :
考える名無しさん :2011/03/30(水) 22:41:19.58 0
ニーチェにとって、ニーチェの教えを共感を以って良く理解し、その思想に 沿った人生を作り上げている人間は、キリスト教的あるいはルサンチマンに生きて いる人間より価値があるといっていいんですか?価値ある生き方とそうでない 生き方があるから、思想哲学なんですよね? 一切に価値がないというのは、人間の外の事象には一切の価値がないという意味 なんですかね?
214 :
考える名無しさん :2011/03/30(水) 22:43:35.09 0
さっきの番組分かりやすかった ルサンチマンってオレらの事じゃんw
ルサンチマン=無力感の中の歯ぎしり しかし、闘うべき壁が強固なら強固なほど、無力感の歯ぎしりも必然的では なかろうか?無力感の歯ぎしりを嫌というほどしたこともなくて、如何ほどの 哲学が語れる?とは言えないだろうか?
ある意味、ルサンチマンのどうしようも無さを味わったこともないような人間の 人生哲学なんか信用できないね
217 :
考える名無しさん :2011/03/31(木) 00:25:17.62 O
テレビでニーチェか。
>>213 ニーチェの思想は普遍的な哲学とは言えないな。
ニーチェと同じようなタイプの人間にしか言えない事が多すぎる。
ニーチェの思想は生い立ちが大きいという説が有力なんだろう
ニーチェのルサンチマンは、キリスト教思想への疑義・否定から生まれたというが 現代ではキリスト教徒は少ないから、キリスト教と関連させてルサンチマンを 語っても、ピンと来ない人の方が多いんじゃなかろうか キリスト教徒でも、当時のように、来世に期待をして今世はどうでもいいという ような思考はしにくくなっているだろう
>ニーチェと同じようなタイプの人間にしか言えない ニーチェ的思考で鍛錬することで解決に向かう人生と、ニーチェの思想では 上手く解決しない問題もあるんじゃないかな。ニーチェは、神の思想では 人間が自分自身幸せになれないと考えたのだというが、ニーチェがしたのは人の 幸せのための思想だといえるのだろうか?
幸福を求めるのは下賎な連中に任せておけってのがニーチェ。ツァラトゥストラにそう書いてある。 「真理は人類の福祉とは関係がない」ともどこかで書いてるし。 幸福ってのは満足を得るってことであって、そこに留まっていては自己超克はないからな。 どれだけの変化や多様性を内包できるかで生の価値を評価したのがニーチェでしょう。
223 :
考える名無しさん :2011/03/31(木) 15:54:09.53 0
寧ろ明らかに無論不幸と苦労と困難と害悪は人生の試練何ですよねー!?♪。
爪弾きモノがよくくだらない小理屈を練り上げたモンだな
225 :
考える名無しさん :2011/03/31(木) 16:09:12.32 O
単なる無駄な苦しみです。
「痛みは言う、去れ、と。だが、すべての喜びは深い永遠を欲する」とツァラトゥストラにあるように、 幸福の深さは苦悩の深さに比例しているというのもあるな。 ニーチェ的には、ウジウジとつまらぬことに悩む奴はとっとと世を去れということにもなるんだろうけど。 力への意志の追求として、生の可能性を展開しようとすると、それだけ障害にぶつかることもあるって意味での苦悩には立ち向かえと言っているのでは。 昨夜のテレビでも、「一度でも深い喜びがあるなら、生は永遠に繰り返す価値がある」って話は出てたな。
227 :
考える名無しさん :2011/03/31(木) 16:16:18.20 O
苦しみに意味と価値を与えたいのはわかりますが、 苦しみなんてものは歯痛のように無意味で無価値なものです。 ただし芸術には必要でしょうがね。 芸術は苦しみの発散と言えるかもしれませんな。 芸術家は…まあ物好きですな。
228 :
考える名無しさん :2011/03/31(木) 16:19:37.04 O
>>224 芸術の哲学なんですよ。
そして哲学的芸術なんです。
>>227 苦しみも痛みも、肉体から意識に対して発するシグナルだよ。
無意味でも無価値でもない、生の表現。無痛症は病気です。
>>213 「>ニーチェの教えを共感を以って良く理解し」、というのは、どういう意味なのだろう。
ニーチェ大先生のありがたいお言葉を片時も忘れず、「その思想に沿った人生を作り上げている人間」のことを君は言っているのだろうか。
「いまは、わたしはひとりで行く。弟子たちよ、あなたがたもいまは別れて、ひとりで行きなさい!
それが私の希望だ。まことに、わたしはあなたがたに勧める。わたしから離れて、このツァラトゥストラのおもかげをふりはらいなさい!
もっといいことは、ツァラトゥストラを恥辱と思うことだ!たぶん、かれはあなたを欺いたのだろう」(『ツァラトゥストラ』 氷上英廣 訳)
・・・・もっとも、俺は、「犀の角のようにただ独り歩め」というたぐいの命令に従うことは、原理的には無理である、と思ってるけどね。
この命令に忠実に従ってしまえば、「誰か他人(ニーチェとかブッタとか)の命令に従った」という意味において、「ただ独り」歩んでいることにはならない。
この命令に従わない場合は、つまり誰か(家族とか友人とか)と手を取り合って歩んでいることになるので、いわば普通の意味で、「ただ独り」歩むことにはならない。
それができるとすれば、命令者のことも命令の内容も、本質的な意味で忘れて(つまり忘れようとするのではなく、完全に忘れ去ってる状態で)、
自分のことだけ考えて生きてるときだけだろう
(しかしそれは本質的には命令に従っていることにはならない。命令の内容を忘れているのだから)
「いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見いだせ、ということだ。そして、あなたがたがみな、
わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう」(同前)
先のレスで書き忘れたことがある。 ニーチェを通過して、そしてその思想を極めて「共感を以って良く理解し」たうえで、(――そしていつしかニーチェのことをすっかり忘れて!) キリスト教徒になることも、原理的には可能である、ということだ。 この場合、そのキリスト教徒は、きっと 「聖書を読んでるとき、教会に行くとき、神に祈ってるとき・・・・が、一番自分が《生き生き》できるときなんだ!」 という理由 だ け で、キリスト教徒をやっているに違いない。つまりその人は、 本 質 的 に は 隣人愛どころか神すらもどうでもいいと思っているのである(ただし隣人愛や神への信仰は、彼にとっての純然たる趣味でもある)。 ・・・と書いてるうちに、「でもそれは 本 質 的 に は キリスト教徒と言えないのでは?」という反論があり得ることに気がついたw うん、そうかも知れん。 でも、ニーチェというハシゴを上り、頂上でニーチェというハシゴを地上に向かって打ち捨て、その後洗礼を受けることも十分可能である、と俺は言いたいのである。
「なーんだ、gdgd言ってるけど、要するに、プラグマティズムじゃないか」という人もいるだろう。 うん、俺もニーチェをプラグマティストとする解釈は、そんなに間違ってない、と思っている ただ、ニーチェ自身、この「すべては価値である」というプラグマティズム及びパースペクティブ主義の、 乗り越えを図っていた形跡がみられるのだ。たとえば、『道徳の系譜学』第一論文の最後の章。 「――問題はこれで終わったのだろうか?あらゆる理想の対立のうちで、もっとも巨大な対立が、これで永遠に片付けられたのだろうか。 それとも先延ばしされただけ、長期にわたって先延ばしされただけなのだろうか・・・・?(略)・・・わが読者諸君のように、ここから考え始め、考えを進めようとする人には、 この問題に決着をつけるのは困難なことだろう――だからこそわたしは自分で決着をつけようとするのだ。」(中山元 訳) で、これはあくまで推測だが、ニーチェはおそらく一度これを乗り越えている。正確に言えば、 た ま た ま 乗り越えた。「乗り越えてしまった」。 ドゥルーズは、『ニーチェ』という著作において、「永遠回帰は選択的である」とか、「〈永遠回帰〉は〈反復〉である。だが、それは選り分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである」 といい、また『ニーチェと哲学』においても、「永遠回帰を肯定するためには、蛇の頭を噛み切り、吐き捨てなければならない」とか、「倫理的思想としては、永遠回帰は実践的総合の 新たな定式化である。すなわち、君が意志するもの、それが永遠に回帰することをもまた意志するような仕方で、それを意志せよ」と述べている。 ・・・・うーん、ある意味定番ともいえる永遠回帰解釈だけれども、こういうふうにニーチェを解釈するならば、キルケゴールを読んだほうがいいんじゃないの?と俺は思ってしまう。 永遠回帰は、そんな苦し紛れの決断ではないのではないか?永遠回帰は、 た ま た ま その人を 襲 う ものなのではあるまいか。 つまり、蛇も鷲も 心 底 どうでもよくなる境地・・・・純然たる「(偶然的な)体験/直感」なのではあるまいか? (もはや煩瑣になるので引用しないが、たとえば『この人を見よ』の、『ツァラトゥストラ』について解説されてるあたりを読まれたい)
233 :
考える名無しさん :2011/04/01(金) 19:57:13.71 0
ニーチェの思想はハンマーである。 作っては壊しまた作っては壊す。 ニーチェはニーチェを求めず、次の哲学者を待っていた。 ツアラは超人ではなく、預言者である。 これが永遠に回帰する。 しかし、ワシや蛇のような水平回帰ではない。 スパイラル。
喜びや楽しみが無価値なように、苦しみや痛みも無価値である。 しかし、我々の心は、ふとした時に苦悩し…苦しむ事になるだろう。 苦悩を無くすために、悩みを放棄する時、人は卑しさを感じる。 その卑しさの誤魔化し方を覚えた者が、ルサンチマンなのだろう。 誰かの出した答えに縋る者。その卑しさを隠すために、卑屈さは増していく。 だからこそ、彼らは自分の信じる答えこそ真理であると…神であると、唱えるのだ。
>「一度でも深い喜びがあるなら、生は永遠に繰り返す価値がある」 >幸福を求めるのは下賎な連中に任せておけってのが・・・ 価値という発想はやっぱりあることになる。下賎か高貴かは正に価値判断。 >幸福ってのは満足を得るってことであって、そこに留まっていては自己超克は >ないからな 人間は、形は様々でも結局、何らかの満足感(幸福)を達成する為に色々な努力 をする生き物なのであって、一つの満足を得れば、その幸福感にはすぐ耐性が 出来て幸福を感じられなくなり、また別の満足感(幸福)を求めて努力を始める、 そういう風に出来ているというのが、定説みたいなものではないかな。 どんなものを得ても、必ず当初の満足感は薄れて行く。そうでなければ、人は その場に留まるようになってしまう。人が耐えず、次の目的に向かって行くのは 一つの幸福を抱きつづけることは出来ない存在だから。
236 :
考える名無しさん :2011/04/01(金) 22:16:06.61 0
科学文明の象徴機械の回転する斧鋸刀剣チェーンソーで神は死んだ!?♪。
>>235 価値という言葉は、普遍性を持つ事を前提としている。
誰も価値を認めない時、それは価値が無い事と同じなのだ。
しかし地動説のように、当時は否定された学説が、普遍的な価値となる事もある。
そういう経験則から、人は「真に価値ある物」、つまり真理を信じるようになる。
ニーチェは神を否定したが、それは真理の否定も含むと思う。
人々が一般的に持つ「価値」という概念は、ニーチェの中では既に否定されているんじゃないかと。
だからまず、価値と言う概念の否定、価値の低落が必要なんじゃ無いか?
>苦悩を無くすために、悩みを放棄する時、人は卑しさを感じる。 そうかな? 苦悩が極まる状態が続けば、誰しも何とかそこから逃れたい一心に なるというのが普通のことではないだろうか? 苦悩を無くす為に、悩みを放棄するなんてことは、普通は出来ないことで、 簡単には逃れられないからこそ「苦悩」とも言えるだろう。だから、そのほどの 苦悩から逃れることが出来た時、人はそこに安堵を感じても、後ろめたさなど 感じたりしないのが普通ではないかね?
>だからまず、価値と言う概念の否定、価値の低落が必要なんじゃ無いか? ? 下賎か高貴か、というのも、価値判断なのだから、それと矛盾するのでは ないか?と訪ねているんだが。
240 :
考える名無しさん :2011/04/01(金) 23:04:19.54 O
仏教は比較的健全だと思う。 自慰的で感情的な思考をしないから。 安全厨でも危険厨でもなく、客観的に身が置かれた状況を分析している 必要なのは肯定や否定ではない。
>>238 苦悩から逃れたい一心で、悩みの解決を安易に見つける。つまりは神の教えとか。
そして苦悩したく無いが為に、考える事を放棄すると言う方が正しいかな。
卑しさを感じるのは、考える人だけだろう。何も考えない人には、卑しさも無い。空っぽなのだから。
>>239 普遍的な価値は無く、自己満足しか無い。
下賎と高貴を分ける境界線は、ただニーチェの中にだけある。そのどちらが善いかという事も。
そしてその事は、一般的な観念で行けば、価値の無い判断基準だろう。
242 :
考える名無しさん :2011/04/01(金) 23:19:36.67 O
芸術的に身が置かれた状況に対処するのは、 主観的には激しく活動しはするが、 客観的には何もしていないのに等しい。デクノボーだ。 確かにそんな人間には事実などないだろうw 阿呆だわ。 まあ、芸術家が少数いる分にはいいが、 才能もないのに芸術家的に生きようなんて真似をみんながしたら、人類は滅ぶ。
243 :
考える名無しさん :2011/04/02(土) 00:42:13.06 O
ニーチェってそもそも生きることに意味はない 意味のないことに耐えて生きろ だからやたら宗教にはまるな神などいないんだからとか言ってた人でしょ? でも仏教は良いとか言い出して 力への意志があるものは良いとか言い出して まず良いとか言ってるこの時点で意味見いだしてるような気もする それはニーチェの自分なりの主観だから良いということか?
244 :
上空36000フィート :2011/04/02(土) 07:29:39.50 0
さあ、没落からはじめよう。 だってそれしかできないのだから。 高み住まう者は、下るしかないではないか。 さあ、没落からはじめよう。 君はそこからはじめるに値する人間か。。。 否。嘔吐。嘔吐。 はははh、君はすでにはじめている。 さあ、没落からはじめよう。
ものを2,3行書けば現実がどうなるかのような 自意識を破綻させたかっただけでしょうか?
>>243 ニーチェが影響受けてたらしい、ドストエフスキーの『悪霊』には、「神が存在しないなら、僕自身が神だ」という言葉がある。
つまり、「大地の意義」は個々の主体−主観によるもの。「世界に一匹の蟻しかいないとすれば、世界はその蟻に支えられている」みたいなことも言ってるし。
仏教がいいってのは、「宗教というよりは医学と呼ぶべきだ」というニーチェの言葉通り、「苦しみには原因(=煩悩)がある。それを沈めれば安静が得られる」というセラピー的な教えだからだよ。
俗流キリスト教みたいに、頭ごなしに「神がこう仰ってるんだから」という「道徳」じゃないからね。一方、「イエスは道徳を絶滅させようとしたのだ」と、イエスはそれなりに評価してるけど。
力への意志は、自他を変化させる力の解放なわけで、ある意味、宇宙の森羅万象と一体になるニルヴァーナに近いのかも。イエスの「永遠の生」に対するニーチェの解釈もそれと同じだろう。
生きることに意味が無い 自殺する/死にたいと思う これは全く違うことなんだけどな
>ニーチェは神を否定したが、それは真理の否定も含むと思う。 ということは、人間や世界に、真理はどこにも存在しないということ? ニーチェはその論証をしているのかな? すべて、真理を探究する学問も否定されることになってしまう。 心理学も、「理」である以上は、真理を追究する学問だろう?
神も真理も存在しない。特に神の方は確実に存在しない。
251 :
考える名無しさん :2011/04/02(土) 23:29:48.49 0
神も真理も死後の世界も霊魂も無論勿論充分随分実在するよねー!?♪。 ニーチェが有害なのは間違いない唯一の事実何ですよねー!?♪。
自然は肯定したよ
253 :
考える名無しさん :2011/04/02(土) 23:42:26.00 0
学問なんて、牙を抜いて誰でも安全に取り扱えるものだから 否定される。
なんかみんな、永井均『これがニーチェだ』でいうところの、「第二空間」で足踏みしてて、なかなか抜け出せないようだね
もっとも、別に馬鹿にして言ってるわけではなく、そこに哲学のアポリア並びに醍醐味があるように思われるから、
哲学という営みの価値基準(パースペクティブ)の限りにおいて、それはとても「良い」ことなんじゃないかな、と俺は思ってるけど。
>>249 >ということは、人間や世界に、真理はどこにも存在しないということ?
「ニーチェはその論証をしているか」について検討するのは正直メンドくさそうだから、一度ニーチェから離れて考えてみよう。
「世界のどこにも真理は存在しない」という命題が「真」であるならば、
「じゃあお前のその命題も真理じゃなくなるよね」ということになる。つまりこの命題は、自分で自分の主張を打ち消してしまうのだ。
じゃあどないすりゃいいっちゅーねん、ということになるわけだけども、
ニーチェはどこかで、真理を明らかにすることを「目的」にすることをやめてるんじゃないか、と俺は思う。
つまり彼は、真理(心理)の探求それ自体を「目的」にし始めたのではあるまいか。
これは、世界のあらゆる価値基準や事象、痛みや苦しみを肯定することになりうる。というのも、
戦争も、無差別殺人も、自然災害も、頭痛も性病も自分が無職であることも、すべて哲学するためのかっこうの資料になりうるからである。
世の哲学愛好家は、ニーチェのこの「ニヒリズムの解法」に不満を抱くだろうか・・・・?そんなことはないはずだ!あなたがほんとうに哲学好きであるならば、
考えることそれ自体を楽しんでいるはずだからだ。
俺、ニーチェはこないだ漫画で読んだだけだけど、
この人、別にそもそも、哲学してたつもりじゃないんじゃないの?
今の自分が嫌いで、じゃあ理想像はどんなのか、って真剣に考えてるうちに
いろいろ考えた過程をみんなが哲学としてありがたがってるんじゃないか?って印象受けたよ。
>>254 「世界のどこにも真理は存在しない」は「真理に思えるものでも、すべて必ず例外があり得る」
と言い換えられるよね
つまり、その論そのものも、真理っぽくても、例外があっていいんだから
そもそも「本論は真理である必要がない」という許容の意味が始めから含まれてるんだよ。
そして、逆に言えば、真でも良い。とも言える。
偽であるとするなら「世の中、どんなにがんばってもあやふやにしかわかんないっぽいねぇ」っていうだけだし
真であるとするなら
「「世界のどこにも真理は存在しない、ただし「世界のどこにも真理は存在しない」という例外的な真理の可能性は存在する」
とでも言えば良い。
つまり、矛盾じゃなくて、「これを言うならここまで言わないとおかしいよ」っていうことを省略している形。
って考えた方がいいよ。
別に始めから、矛盾にしておきたいならいいんだけど、
矛盾にしないことを目的にすればこういう考え方もできるよね?
どう?楽しい?
上の論は単なる哲学遊びの冗談で、 実際のところ、みんな勘違いしてると思うんだよね。 「真理は存在しない」 そんなこと言う前に、あらかじめ自分の中で存在しないものとして「真理」を定義しちゃってる、ってことに気づいてないんでしょ。 自分たちには到達できない凄いものとして残しておきたい気持ちが「真理」を存在しないものに定義したい気持ちを生む。 しかし、そんな凄いものを見つけたい、という気持ちが「真理」を存在するものとして定義したい気持ちを生む。 結局はただのそういう心の葛藤でしかないのに その気持ちを一つの「真理」という言葉に乗せて多者間でやり取りしても答えなんかでるわけない。 矛盾とか以前の問題。 そもそも、答えが出ないことこそが哲学だと思ってるような人は 「うん、答えがでない、哲学的だからOKだ」みたいに思いながら、話しちゃうのかもしれないけど・・・ 俺から言わせれば、存在しないのは「真理」ではなく、 「その論理を適用すると、ある未来の一瞬でも可能性が1つに収束してしまうような論理」だと思うよ。 だから、「複数の未来の可能性を許容する真理なら存在し得る」ということになる。 まぁ、その時点で、人はそれを真理とは呼ばないだろうけどね。 この方が「真理は存在しない」よりも、より多くの人の不満感を解消できる、経験論と違和感の少ない論理だと思うんだけど 「真理」に対する理想が重過ぎて、多くの人は受け入れられないだろうね。 人が知りえない「完全真理」に対して、知り得るが完全には未来が予想できないものを「二次真理」と呼ぶ。 人は「完全真理」に見切りをつけて「二次真理」を目指すべき次代がきたのだ。 なんて、名前は適当な思いつきで書いたけど、いずれ、人々の知能が底上げされれば、そんな時代が来ると俺は思うよ。 既にニーチェと関係ない持論だから、これ以上は自粛します。 未来で会いましょう。再会。
>>255 >矛盾にしないことを目的にすればこういう考え方もできるよね?
あはは、確かに愉快だ。クザーヌスの「反対対立の一致」を思い出した。
>>256 >結局はただのそういう心の葛藤でしかない
>この方が「真理は存在しない」よりも、より多くの人の不満感を解消できる
ありゃ・・・・また「プラグマティズムとパースペクティブ主義」になっちゃった
>まぁ、その時点で、人はそれを真理とは呼ばないだろうけどね。
君のように社会をより良くするために哲学を 利 用 し よ う とする人にとっては
それが一番優れた結論なんだろうけど、社会とか心底関係なく哲学したい人にとっては
――君の察するように――それは「不満」な結論になるだろう。
>人は「完全真理」に見切りをつけて「二次真理」を目指すべき次代がきたのだ。
実際にこれが「徳目」(とまではいかなくとも、努力目標)とされる社会が来たら、
この努力目標が心底不満な人々は、マジョリティによって阻害されちゃうだろうね。
その過程を描いたのが『道徳の系譜学』なんだけどな
なるほど君はどうやら、「矛盾にしないことを目的にすればいいんじゃないの?」と提言しているようだ これはヘーゲルの関心でもあるし、俺もヘーゲルはきっとこれからどんどん読まれても(利用されても)おかしくないと思う しかし、矛盾にしないことを目的にする限り、矛盾にしないことを目的にしたくない人々はどこまで行っても排除される ヘーゲルの物語では、まさに矛盾にしないことを目的にしたくない(笑)カント主義者も、結局は折れて両者は和解してしまうんだけど さて世の中そんなにうまくいくだろうか。 (カント好きのヘーゲル嫌いの人って、ヘーゲルのこういうところが嫌いなんだろうなぁ、きっと) ・・・・と、ニーチェとは関係ないか?でも、ニーチェからも、「道徳と多様性との一致はできるか」というアポリアを汲み取ることもできると思う
とはいえ >矛盾にしないことを目的にすればこういう考え方もできるよね? これはなかなか示唆的なレスで、それを目的「にする」(目標)のではなくて、目的「になる」のであれば、 きっとそんな人は、どんなこと(対立)が目の前で起こっても「否定」したり、ルサンチマンを感じたりしなくなると思うのだ クザーヌスの「反対対立の一致」は、矛盾を統一する神よりの、生成の存在論である。 で、ニーチェの「永遠回帰」も、似たようなものとして解釈してもよさそうな気がする(この点において、なるほどニーチェはスピノザである)。 ここで重要なことは、「永遠回帰」を、冷や汗をダラダラ流しながらの力ずくの運命愛と解しないことだ。 それは、運命を愛したくない自分に鞭打つルサンチマンの道徳である。 だから俺は、「永遠回帰」を、体験であり、状態であり、獅子からのたまさかの生成変化と解したいのである。 永遠回帰は、多くのニーチェ論者が言うような「仮説」などではない。無論、永遠回帰状態(?)の外側にいる人間にとって、 それは極めて幼稚な宇宙生成説であろう。しかし、永遠回帰のただなかにいる者にとって、世界は、確かに何度も何度も繰り返されているのだ・・・・! 「おお、生の真昼よ、晴れやかな時よ! おお、真夏の庭園よ! 立ちながら、様子をうかがいながら、待ちながらすごすこの不安で幸福な時よ―― 友たちをわたしは待っている、昼も夜もそなえながら どこにとどまっているのか、友たちよ?さあ、来るがよい!時が来た!時が! * * * この歌は終わったのだ――憧れの甘き叫び 口のなかで死に絶えた。 魔法使いの仕業だった、しかるべき時の友は 真昼の友は――否!それが誰なのか、尋ねてはならぬ―― ちょうど真昼だった。一が二になったのは・・・・・・・」 (高き峰々より 中山元 訳)
>矛盾にしないことを目的にすればこういう考え方もできるよね? 君は本当に普段から矛盾にしないことを目的にして生きてるのかね。今一度自分を振り返ってほしい。 >「世の中、どんなにがんばってもあやふやにしかわかんないっぽいねぇ」 >「「世界のどこにも真理は存在しない、ただし「世界のどこにも真理は存在しない」という例外的な真理の可能性は存在する」 なんか、僕が君に何をしたって許してもらえそうな勢いだw君は聖人か、それとも超人か? (これは、俺が「永遠回帰」を胡散臭い神秘主義として解した理由のひとつに関連する) そんな現実に即した話をしているんじゃない、と言うのであれば、ますます君はクザーヌスである(笑)。カントについて勉強することをすすめる 先のレスにも書いたが、「ひとそれぞれでいいじゃん」という主張は、「ひとそれぞれではよくない」という主張を排除することになり、 結果的には自分の主張を打ち消してしまうことになる。Aを措定したら、同時に非-Aも定立されてしまうというのは、哲学の、いわば常識だと思う だからとりわけ、人をまとめようとする倫理学や社会哲学はやっかいなのだ・・・・ニーチェの場合、人をまとめることを意図してない、という点において、 倫理学史において極めて特異な位置にいるけれども。 そもそも。僕は君が一体何を言いたいのか、よくわからないのだよ。 「反論」というよりは、パースペクティブ主義やプラグマティズムの「補足」にしか見えない。君なりに苦戦した痕跡はうかがえるけどね。 それと、最後の君の「持論」だけど、「より多くの人の」とか、「知り得るが完全には未来が予想できないものを「二次真理」と呼ぶ」とか、それ功利主義やんけ!(笑) 功利主義に対してどんな批判がありうるか。もはや完璧にスレ違いなので、自分で考えるなり調べるなりしてほしいと思う
訂正 × Aを措定したら、同時に非-Aも定立されてしまう ○ Aを措定したら、同時に非-Aが排除されてしまう もしくはAを措定したら、同時にそのAに「非-Aではない」が含意されてしまう・・・・と、これはあんま関係ないか
>>249 うーん、全てを検証する必要は無いと思う。論理の限界を指摘すれば。
例えば、過小決定とか決定実験の不可能性という考え方がある。
両者に共通するのは、「人に知りえない事」という論理の限界だ。
真理、という論理は、論理であるが故に人には知りえない。
その確かさを確認できない。
ニーチェはキリスト教の禁欲主義を批判して喜んで生きろと言うかと思えば 一方では、人が幸せを求めることを蔑視しているんだな
上のレス群、途中でめんどくさくなって読了してないがw、
ニーチェは真理を、生ける者が必要とする誤謬とどこかで定義していた。
つまり真理は権力量の表象というわけだ。
『善悪の彼岸』末尾では自らの思想に対し、「かつての新鮮さを失い、そのいくつかは真理と化し、はや退屈である!」と嘆き、
別のところでは「真理の所有は…あらゆる所有がそうなのだが…恐ろしくはなくて、退屈である」と。
この「真理」は「幸福」にも置き換えられる。
>>263 みたいに単純な図式でニーチェを批判してるつもりでいる連中は、
「権力量」という概念を把握してないだけなんだよな。
ニーチェが晩年求めていたのは、従来の西欧哲学とは別種の思考形式だったのかも知れない・・・
バグワン・シュリ・ラジニーシはニーチェについて、「瞑想」を知らなかったことを惜しんでいたが。
265 :
考える名無しさん :2011/04/03(日) 19:54:34.97 0
神は生きている!?♪。
神とか弱さや甘えの結果だな
禁欲主義とは何だろうか。彼らは、幸せになるために禁欲に励む。 ではその幸せとは? それは彼岸、あるいは来世での幸せでしょう。 言ってしまえば、ありもしない飴玉を求めて禁欲に勤しむわけです。 存在しない対価を求める事が愚かであると同時に、対価を求めて禁欲する事は…矛盾しています。 禁欲するというのなら…天国へ行くという欲望も禁じるべきでしょう。
ナックル早短パンにーせひかる みんな元気かな
ナックルんは東電に自爆テロ起こそうとして教授のパパに止められたと…
>神とか弱さや甘えの結果だな 弱さだということは、基督教徒は認識しているのが普通だと思うよ 弱さのまま強くなれ、さもなくば死も止む無し、というのがニ―チェ だろうか? 基督教徒は、それが出来ないから、神によって強くなろうとするのだろう しかし実際には、神の名の下に限りなく傲慢になりがちな人々もいるし、 弱さを補うために狂信的になった結果、思考停止してしまい、神の為には 場合によっては何をするか解らない怖さを感じたこともある。 基督教の弊害を知り尽くしたニーチェの批判について、基督教徒達は一度は しっかり接してみる必要はあるんじゃないかという気がする。
× 弱さのまま強くなれ、 ○ 弱いまま強くなれ、
>神の為には場合によっては何をするか解らない怖さを感じたことも 狂信的な人々の中にそのようなものを一抹感じたことがあるということです。
273 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/05(火) 21:33:41.41 0
神なんて最初から居なかった 性格の弱い人間が生きるために創り出した想像の産物 それすらエゴに利用されるだけになった 想像上のモノだって、 創造のトリッガー価値を失えば「死ぬ」のです
274 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/05(火) 21:36:18.07 0
「神」の擬人化 ここがポイントかな
擬人化されない神、それが真理ですね
277 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/05(火) 22:02:36.50 0
>>275 違うと思う
「神」なんて居ない、
それを認めて生きる強さを持つことが真理です
>>277 神なんて居なければ、真理も無いですよ。
誰が真理の正当性を保証するんですか? ただの人には、真理の正当性は保証できませんよ。
つまり、誰かが「これが真理だ!」と言った所で、それは確かめようが無いんですね。
279 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/05(火) 22:17:59.16 0
>>278 真理は一つでは無いよ
自分なりの真理があればそれでいいの
真理と神は、どちらも同じ考えの先にあります。 つまり、正しさに価値を見る事です。 正しい事は、間違っている事よりも価値があるという考え。 しかし、何が正しくて何が間違っているか、人に決める事が出来るのでしょうか? 我々はどっちへ動いているのか? その事すら、人の身では決める事が出来ないのではないでしょうか? だから人は神を求め、真理を求め、虚無の中から抜け出そうとするのでしょう。 しかし、それは不可能なのです。我々は虚無の中をもがく事しか出来ないのです。 暗い洞窟の外に出る事も出来ずに、彷徨い歩く事を永遠に繰り返すのです。 そして、虚無の中を歩く事を――悲劇を、強く肯定し、歓びを感じながら生きる事が出来るはずなのです。
ニーチェを単純にスピノザ主義者と言ってしまっていいものか、検討の余地はあるだろうけど、 あらゆる様態を産出する大地自然を神と言っていいのであれば、ニーチェはスピノザ主義者であり、有神論者であると言っていいと思うよ >神なんて居なければ、真理も無いですよ。 >真理は一つでは無いよ どちらもそのとおりだね。我々が無限に多様な真理を措定できるというその事実が、神=「あらゆる様態を産出する大地自然」の存在を示す証左になるんだ。 まさにこれはスピノザ『エチカ』第一部で論じられていることだ(一部引用しようと思ったけど、いいかげんウザイだろうからやめたw) 「無限」は「物自体」。それを措定することで、「無限」は「有限」になる。 「無限」なものがなければ「有限」なものもない。よって神=無限は存在する、と、まあ、こんな感じ。 ところでニーチェは大地自然以外に、「旧約は最高だけど新約は糞」って言ったり、ギリシアの多神教時代を賛美したりしてるよね(あとスピノザもね)。 つまり、そういうことなんだと思う。「なんだ、ロマン主義か」と言われれば、まあ要するにそうなんでしょう。ヘルダーリンのような。 ・・・・しかしニーチェに中世のスコラ哲学者やスピノザやハイデガーのような存在論的センスがあったかといえば、なかったと言わざるを得んと思うのよな〜 >いろいろ考えた過程をみんなが哲学としてありがたがってるんじゃないか? これは一理あるwドゥルーズも永井均も、ニーチェの「いろいろ考えた過程」から、無限に産出される様態を見出してるフシがあるし
まあ確かにそれは「現世=仮象/来世=真の世界」とするオーソドックスなキリスト教の神と 異質なものであることは言うまでもないけども。 俺がキリスト教徒じゃないからか、よく考えなくてもこれ(キリスト教的世界観)はおかしいんだよな ニーチェは確か『善悪の彼岸』のアフォリズムだったかで、「被造物に文句言うのは、それを創った存在に文句言うことにならんのけ?(大意)」 と言ってるけれど、同感である。
>>281 >それを措定することで、
「それ に 措定することで」 のほうがいいな
純粋で綺麗なもの(自体)に汚い(w)手で触れるイメージ
>「無限」なものがなければ「有限」なものもない。 のであれば、「神=無限は存在する」というテーゼも有限なものになっちゃうよね? という無限ループに陥る前に言っとくと、この命題は我々が「語って」はいけないものであって、世界自体がおのずと示してくれることなのよね 前の「ひとそれぞれ」で言えば、「ひとそれぞれでしょ」と言っちゃうと、「そんないいかげんなの認めない!」という人を排除することになるけど、 事 実 と し て 世の中いろんな人がいるよね、ということ。 ある意味ニーチェが本格的な存在論を展開しなかったのは正しいのかも。確信犯なんか偶然なんかわからんけど。 あ、そうそう、「語りえないものには沈黙しなければならない」と語ってしまってもいけないよw ニーチェなら、「ははーん、さてはお前、現世に嫌気がさして、語りえないものに救済を求めてるだろう!」と言うだろうね (事実ウィトゲンシュタインってそういうところあったよね)
何が正しくて何が間違っているかは自分が決めるでしょ マイルールが全て、それが真理 「神」というのは「マイルール」を創り出せない人たちが、 代わりに創り上げた仮想の存在/ルールでしかないよ 神は「死んだ」という表現がねえ 神は「居ない」と書かないあたりがニーチェの面白いところ やっぱり擬人化してる
マイルールが正しいんだ・・・・! 間 違 っ て る の は 奴 ら の ほ う な ん だ ・・・・・! ・・・ってならなければそれでいいんだけどねw 「ニーチェはマイルールの創造を勧める実存主義者」という解釈は、あまりにも定番であるため、 もはやいまさらこれにケチつけるつもりは毛頭ない なにより、こうした「解釈の違い」こそ、「あらゆる存在者を生成する自然」を 示 す 証左になるだろうからね で、俺の場合、ニーチェをある程度体系的に解釈しようとすると――それはニーチェが嫌悪したことであることを承知のうえで――、 永遠回帰説は、実際に無限のパースペクティブがあることを「体感した」という意味で解せざるを得ない、と思うのよな 今さらこんなこと書いても誰も信じてくれないだろうけども、俺は神秘体験なんて信じてないし、いや他人の神秘体験を尊重するとしても、 少なくとも俺自身にそんな神秘体験がおとずれるとは思っていない。だから俺は、ニーチェよりも、(神秘体験を信じておらず、ロマン主義もケナした) キルケゴールのほうがよほど好きなのである。
>虚無の中を歩く事を――悲劇を、強く肯定し、歓びを感じながら生きる事が >出来るはずなのです。 悲劇をつよく肯定してってw 大多数の人々は、虚無とかどうとかを真剣に問題として生きていたりするのかな? それに現世的に恵まれている場合には、それでも一向に問題ないんじゃないかね? 大多数の人々は、虚無とかどうとかを真剣に問題として生きていたりしないと 思うんだけど…。普通は、それより、如何に現世的望みや喜びを少しでも実現する かに生きているんじゃないの? その意味で、基督教徒でない人達だって、 大多数の人達は悲劇を肯定したりしてはいないと思う。そしてここに来て、 ニーチェの思想を理解しているようなことを言っている人々の多くも、実際には 日々幸福(選び取った苦難のようでも、それは望む幸福への過程なのだ)ばかり 追い求めている筈だと思う。自分の姿なんてものも、よくよく客観視しなければ 見えないものだよ。
× 大多数の人々は、虚無とかどうとかを真剣に問題として生きていたりする のかな? ○ キリスト教徒では無い大多数の人々は、虚無とかどうとかを真剣に問題と して生きているっていうのかな?
>>280 >虚無の中を歩く事を――悲劇を、強く肯定し、歓びを感じながら生きる事が
>出来るはずなのです。
「悲劇」というのは「虚無」をいみしているようだ。「極まった不幸」だけを
指しているのではなさそうだね。
>真理と神は、どちらも同じ考えの先にあります。
>つまり、正しさに価値を見る事です。
>正しい事は、間違っている事よりも価値があるという考え。
「正しいことは間違っている事より価値があるという考え」というのは、どういう
範囲のことを言っているのですか? 自分などは、かなり色々な秩序を致し方無く
無視しがちな人間だから、そういうことを他人に言われると、戸惑う感じもある
んだが、正しいこととそうでないことが、あらゆる点で共通認識されているから
この現実社会や人々の日々の秩序が保たれているんじゃないかと思うんだが。
誰でも、心が通い共感を抱き会える友が欲しいものではないだろうか?人間は
そういうものじゃないかな? 誰でも、震災を受けた場合のように弱っている
ところに温かい心ある支援を受ければ嬉しいものじゃないかな、これは真理じゃ
ないのかな?ヘドロの海を見るより赤く燃える夕焼けを見たほうが、美しいと
感じるものじゃないかな?それは真理じゃないかな?それは、ひとつの真理では
ないのかな?
アンチイスラムだったらとっくに殺されてるレベル
>>287 そうだね。「我々は」と言うけれど、「へ?俺は違うんですけど?」と言う人も当然いる。
「悲劇を強く肯定」に関しては、まあこれだけではなんとも言えないけども、
それが力ずくの、無理やりの肯定であってはならない、というのは、俺が前に書いたとおり(なぜならそれは肝心なものを肯定し得てないから)。
それと、「真理と虚無の問題」にせよ、「道徳と多様性の問題」にせよ、日ごろから孤独感や不幸感や不満感や疎外感や・・・・
を感じてしようがない人であればあるほど「ピン」ときやすい問いである・・・・ということは認めざるを得ないと思う
したがって、ニーチェに魅かれたり、ニーチェ(的問い)を深く理解したりできる人ほど、ニーチェに批判されてしまう人々に違いないんだ
(まあワタシのことですがw)
>選び取った苦難のようでも、それは望む幸福への過程なのだ
これはニーチェで言う「力への意志説」になるね。
>>289 この、「誰でも○○なんじゃないかな?」っていう、全部ひとくくりにする「暴力(!)」に対して、
キルケゴールやニーチェが好きな人々は、歯軋りするに違いないw・・・・まあワタシのことですが・・・・
「誰でも○○なんじゃないかな?」→「おい!なんでお前は○○じゃないんだ!このヒトデナシ!」
これがニーチェの系譜学。フーコーやアーレントもこれだね。全体主義の起源。
あ、でもこのたとえ(震災とか夕焼けとか)に関しては、僕も「共感」しますw
292 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/06(水) 01:55:44.10 0
やっぱりニーチェとブッダは似ていると思う
あー、それにしても >正しいこととそうでないことが、あらゆる点で共通認識されているから >この現実社会や人々の日々の秩序が保たれているんじゃないかと思うんだが。 これは確かにそうだよなー、と以前からつくづく思ってる。 共同主観性ってやつ?反ヘーゲルや現代哲学が好きな人は、ついつい「人と人とのわかりあえなさ」を悲観的に強調したがるんだけど、 じつはそこそこうまくいってると思うんだよね、社会は。いやそんなこと言うとある種の人から顰蹙買いそうだから もう少し言葉を選ぶと、「もっと荒れててもおかしくないのに、そうでもない」といったところか(変わってない?) 問題は、「○○なのがジョーシキでしょ?」がどこまで拡張できるかだけど・・・・この問いが気にならない人は、全然気にしなくていいと思う 僕は哲学はみんながみんなやるべきだ、なんて微塵も思わない。哲学はそんな高尚なものじゃないからね。
294 :
考える名無しさん :2011/04/06(水) 06:03:12.21 0
(スレ違いかもしれんがスマソ) 質問! wikipediaで調べたが、女性の哲学者は、全部で十数人しか挙がらなかった。 本当に著名な女性哲学者ってこんなもん? では何故、女性哲学者は少ないと思う? おせーておせーて!!!!!
>>206 テキスト買って録画見てみたけど既知の情報しかなかったな
テキスト読んでれば充分じゃないかと思った
>>289 この「共感の倫理学」――彼の望みではないかもしれないけれど、俺は「ヒューム倫理学」と呼びたい気がする――
について、ちょっと批判してみようかしらん。
君は「正しいこととそうでないことが、あらゆる点で共通認識されているからこの現実社会や人々の日々の秩序が保たれているんじゃないかと思うんだが」
と言っているね。しかし、カントを応用して言えば、君はいつのまにか「意思」と「意志」を混同してしまっている。
「○○に共感する」からと言って、すぐさま「○○をする」ことには、ならないんだ。
たとえば俺は「被災者のために募金をすることは善いことだ」という主張に「共感」するけれども、
だからと言って、実際に募金はしていない。つまり、「共通認識」が「社会の秩序が保たれている」ことの本質的な証明になるわけではないんだよ。
「共感」できるだけではちっとも「善い人」ではない。むしろ、「共感できるのに、ついついそれとは逆のことをやってしまう」のが人である、とも言えるんだ
これがヒューム倫理学に対する、カント側からの批判。
・・・・これだけではスレ違いになるので、無理矢理ニーチェを絡めると、「それは真理じゃないかな?それは、ひとつの真理ではないのかな?」というのは、まさにそうなんだ。
それは、「ヒュームや君にとっての真理」であって、少なくとも「カントにとっての真理」ではないんだ。じゃあ相対主義が真理かといえば・・・・・?
これは「力への意志説」と絡めて、別に論じてみよう。
と思ったけど、すでにさんざん語りつくしてるからやっぱやめ。
でも「力への意志説とパースペクティブ主義」について、ちょっとコメントというか補足というか、してみたい。
かつて俺は「選び取った苦難のようでも、それは望む幸福への過程なのだ」というレスに対して、「これはニーチェで言う「力への意志説」になるね。」
と書いた。
しかし、「いかなる人間も常に望みや喜びを少しでも実現しようと生きている」という命題が正しいのだとすれば、
「じゃあ君もそう思う(錯覚する)ことで自分の望みや喜びを満たしてるに過ぎなくなるよね」ということになり、またもや普遍化できなくなってしまうんだ。
俺が
>>284 で提示した「多様性は世界自身が示すものである」という命題ですら、それを語ってしまうと、
「多様性は世界自身によって示されなどしない」という命題の存在も認めなくてはならなくなり、無意味になる
(しかしこうして考えてみると、
>>255 の気持ちもちょっとわかってくる)。
じゃあ、では、「語りえぬものには沈黙せよ」は?
これは空気を読んで語りたいことを語らない日本人のほうがピンときやすいと思うんだけど、ニーチェなら、
「語りえないことだから語らない!」と意固地になってる人に対して、語りえないことを語らせてもらえない空気(他人たち)や
ウズウズしてる彼自身に対するルサンチマンを見出すだろう(そして自分が語りたいことこそ正しいと思っておく、と)。
ウィトゲンシュタインの世界で正しいことも、ニーチェの世界では何ら正しくない。逆に、先の「多様性は〜」という命題はというと、
永遠回帰の空間内にいるニーチェや、スピノザらにとっては正しくとも、ウィトゲンシュタインにとっては正しくない。
これらのことから 示 さ れ る こと、それが真理なんだと思う。
いや認識論者なら「それは錯覚だ」と言うだろう。いやいや・・・・・以下無限ループ。
デリダならこれを「差延」と言うだろうか?
真理、つまり不変の答えですが…それは人が持ちえるものでしょうか? なるほど、ニーチェは一つの答えを持ったかも知れません。しかしそれは、常に試されているのです。 不変では無いのです。 自分の持った答えに対し、永遠に苦悩を…懐疑を繰り返すのです。
299 :
考える名無しさん :2011/04/06(水) 22:00:46.60 0
教育でニーチェ
文系狂人をドンドン生産
>>298 そういうことを言いたいのであれば、かなり納得できる気がします。
簡単に答えを出して、その場所にずっと留まる、ということは、拙いことだ、
ということですね。人間は、そんなに簡単に答えが出せるほど優れた存在では
無い筈だということでしょうか。
それなら、なぜ、そういう風に、最初から言わないのですか?
なんだか、結局は、いろいろ断言していたことに対して、責任を負わないと
いうことなのですね、ニーチェは。
それなら、ニーチェが、いろいろ断言しているのは、それこそ拙いことなのでは。
(大思想家に対して失礼も甚だしいですが)
一般論でものが言える範囲は限られると思う。
超人になる道が、著しく険しく設定されている人間もいれば、平易に設定されて
いる人間もいる。それで、どちらが卑しくて、どちらが高貴だとか判断する
なんて…。
さしたる不満もない、幸福な人生が実現している場合には、神なんて重たく うざったい存在は居ない方が、むしろ心軽やかに自由な気分になれていいんじゃ ないかという気もしてくる。 不慮の事故にあったり、誰もが嫌うような病気になったり、愛する家族が理不尽な 運命を強いられたりでもしない限りは、予め定められた価値(神)なんかに呪縛 されないで生きる方が、それこそ心伸びやかに自由自在に羽のように生きて行ける んじゃないかという気もする… なぜ虚無などと言うのだろう?やりたいように生きればいいのだ。 苦悩したいように苦悩すればいいのだ。 (あの女のように何も苦悩するポーズを取らなくてもいいのだ、とまでは言わ ないでおくが、甘美な苦悩と思索を、黙って楽しめばいいのだ。)
哲学・思想が苦悩に起因する場合でも、それは贅沢な楽しみを伴うものでは ないだろうか。 実際の苦難の下では、面白味の片鱗もない行動や労働や恥や屈辱の甘受…のような 実際的犠牲によって、初めて、現実の道が切り開かれるのが普通なのだと思う…。
笑って死ねる道筋がどうにも見えない人生には、ニーチェの思想はより辛いと思う
>虚無の中を歩く事を――悲劇を、強く肯定し、歓びを感じながら生きる事が >出来るはずなのです。 虚無は、自由の代償でしょう。悲劇? 本当に貴方の人生は、悲劇なのですか?
>虚無の中を歩く事を――悲劇を、強く肯定し、歓びを感じながら生きる事が >出来るはずなのです。 人生が、虚無でも、取り立てて悲劇でも無い人々はいくらでも居ると思いますよ? 人生を強く肯定して喜びを感じることが出来るのは当然では?
×人生が、虚無でも、取り立てて悲劇でも無い人々はいくらでも居ると思いますよ ○人生が、虚無でも取り立てて悲劇でも無い人々はいくらでも居ると思いますよ
虚無に陥り、それや現実を肯定し、芸術や作品に触れて時にそれを産み出し、 意味を見つけたり見い出したりしながら死に至るまで生きること。
そして自分が好きな仕事や趣味などに夢中になり充実を感じること
310 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/07(木) 11:05:50.61 0
311 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/07(木) 11:07:45.02 0
>>309 笑って死ねる人にはそれらが欠落しているんだな
生命に対する敬意が無いの
312 :
考える名無しさん :2011/04/07(木) 12:45:50.46 O
ニートとニーチェは音声的に似ている分、 生態的にも似ている。
>>308 309
それは、ごく普通に前向きに生きようとする人間なら、普通に求め、普通に
やっていることだろう。
>>308 309
君がやっていることは、結局いいとこ取りだけ
いわゆる普通の人ってボケた神経で無意識のままに環境や本能に流されて生きてることが多いんじゃないだろか 人間なんだけど脳を殆ど使わないから生物や動物に近い生き物 人間の生殖活動について理性的に考えたら憂鬱になる自分は普通では無いのか 何故一つの物事や人を理性的な目と感情的な目で観た時にこんなにも違ってしまうのか
人間の言動がすべて性欲に関係していると言うか、自らの遺伝子の保存には関係してると思う。 そこには人間の我執(エゴ)が詰まってる。 我執(エゴ)と搾取(ケチ)は人間の二大罪悪だと思ってる。
皆子供の頃は何の疑問も無く苦痛も感じずに無意識のまま自然のままに生きている たぶん理性や性欲が無いのが大きいのかなぁ ニーチェも「子供」の状態を賞賛してるけど、子供ってなんであんなに正直な表情をするんだろうか 感傷的になるわ
318 :
考える名無しさん :2011/04/07(木) 22:02:32.52 0
>>317 子供は物心が付く頃から、理性も性欲もあるだろう。
俺の記憶では、4歳の時が初オナニーだ。
勿論、オーガズムもなければ射精もしないが
テニス部の中学生のお姉ちゃんを想像しながら、それなりに性的興奮は覚えていたのは事実。
小学生になるとクワガタ採りの時偶然見つけたエロ本スポットがかなり有って
それ目的に同級生とよく行ってたぜ。
地震の神の生存確認
>>301 最初から言っていましたよ。全ては解釈だと。
簡単に答えが出せない…という問題では無いですね。我々が答えに求める物、
即ち不変性。それが得られないという問題なのでしょう。
あなたが感じる思い…つまり、断言に足る神聖な言葉ではないでないか、という思いに対し、
私はこう答えます。そのような神聖で偉大な存在は、不在であると。
誰もがあての無い話をしている。それを力強く言うか…間違いを指摘されるのを恐れるか。それだけの違いです。
>>317 子供が素直であると感じるのは、子供が嘘をつくほど賢くないか、
上手く嘘をつける程賢くないからでしょう。
321 :
考える名無しさん :2011/04/08(金) 04:17:03.07 0
ここの住民は 「子供」に対する誤謬が激しいな。甘い甘い。 ・子供にも理性はある。カントも言ってるしな。 ・大人が触れてはいけないものとして禁じているから抑制が利いているけど 本来、子供の性に対する興味は凄まじい。特に男の子は歯止めが利かなくなる危険性を孕んでいる。 ・生得的に嘘が上手い子供は幾らでもいる。大人は騙されている事に気付いていないだけ。
子供も千差万別だからね
もう非言語的な何かを目指したいな もう言語で哲学したくない
>我執(エゴ)と搾取(ケチ)は人間の二大罪悪だと思ってる。 我執を否定してしまったら、その後に残るのはもう人間ではないと思うよ。
>我執(エゴ)と搾取(ケチ)は人間の二大罪悪だと思ってる。 我執を否定してしまったら、その後に残るのはもう人間ではないと思うよ。
我執=本能=原罪→禁欲 という風に基督教的だし
ニーチェが創造したツァラさんって凄く謙虚な人だと思った
ツァラとストラはかく語りき
自意識は病気だ
>>323 なら成瀬雅春の『瞑想法の極意』とかラジニーシの瞑想本とかを参考にしたり、参禅したりだな。
我執を罪だと思う事は間違いでは無い。 しかし、その考えもまた我執から出た物だろう。
>>330 瞑想って無思考の状態なのでは??
映像で哲学してみようか
ニーチェは頭痛を喜んでたんですよ。読んだことないですけどね。
狂った頭の頭痛は爽快なのかも
頭痛を喜ぶって、 世界中で俺だけが悩んでいる、そして俺の悩みに今誰も付き添わなくて良い、 と言い換えられないか? これって凄く倫理的だと思う
>>332 概念的思考を停止して、普段は概念に規定されている意識を別種の運動に移すんだよ。
映像(=イメージ)的瞑想もあるからな。
337 :
佃煮マニア :2011/04/10(日) 18:22:26.38 O
君は何の佃煮が好きなん?
339 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/10(日) 23:33:36.35 0
頭痛の意味が違うような
341 :
考える名無しさん :2011/04/11(月) 09:50:18.30 0
>>340 なんだその口の聴き方は!
せっかく話しかけてくれてるのに失礼じゃないか
ちなみにオレはのり以外佃煮はあんま好きじゃない
俺はアサリの佃煮が好き
343 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/12(火) 08:59:47.11 0
ニーチェの頭痛は思想によるものでは無く 梅毒によるものじゃないの 抗生物質ができてれば意外に図太く生き抜いたかもよ
哲学って詩や音楽などセンチメンタルなものを排除した理の世界ってイメージがある
345 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/12(火) 15:12:54.56 0
>>344 そうじゃ無いのがスピノザ―ニーチェ系列なんだってば
スピノザ-ニーチェ系列っていうとドゥルーズがそれを主張してたのを思わずにはいられないが、
スピノザは数学的な理の世界、ニーチェは詩や音楽、という印象がある。
ニーチェは、認識ってのは数学であるか音楽であるかだって言ってるけど、ドゥルーズによると、スピノザの数学的直観も、
幾何学図形の定理に言及しても、その図形が生成される運動の側から捉えているという解釈なので、その分、数的外延量と対比されたベルクソン的直観に近いのかな。
>>335 言ってることは何となく分かる。永井均の匂いも感じるw
>>346 数学だろうが音楽だろうが、
それを自己表現手段として愛する者にとっては
同じことなんだよ
スピノザもニーチェもそんなことに問題は見出だしていない
理、つまり論理だが、その不完全性はいくつも指摘されている。 なるほど論理は感情を排して成形されるが、そこまでしても…別に何と言う事は無い、 下らない呟きと同じ事だ。何故なら、論理の正しさは証明出来ないのだから。
349 :
佃煮マニア(津原ファン) :2011/04/12(火) 22:07:13.95 O
ニーチェが梅毒って説はわりと流布してるけど、じつははっきりと証明されてないんですよ。
350 :
考える名無しさん :2011/04/12(火) 23:11:56.61 0
神様は無事なのは前提ですよねー!?♪。
>>348 現実は多様多面で成り立ってるね。
自分の人体の作りや仕組みですら未だ解明されてないことも多いし、その働きも複雑だ。
そして人間の心理も複雑だ。喜びの心理や苦しみの心理も自明ではない。
何もかも論理や科学で解明出来る訳じゃ無いと思う。
社会に出て働いたり集団の中に入って感じたことは、 そこでは精神的なものや神聖なものが否定されると言うか見えなくなってしまうと言うか。 冷淡さを持って機械的に作業したり振舞わなきゃいけないから、感傷的になる若さとか芸術精神とか不要だった。
ニーチェと仏教って水と油に近いと思った。
ツァラさんと仏陀は水と油?
ニーチェは社会学とか人間学っぽい
>>351 身体に関しても、ヨーガや武道やその他宗教的な修行等、東洋では内的な感覚で捉える傾向がある。
西洋は解剖学的に、外的な特徴を捉えて論理体系化していく面が強い。
これが、数学的・アポロン的な認識と音楽的・ディオニュソス的なそれとの差異に等しいと言える。
音楽と舞踏を世界認識のモデルとするニーチェが仏教を「医学」として評価したのもその辺と関係するのかも。
プラトン的理想の型に肉体をはめ込もうとする西洋哲学への反逆。
358 :
考える名無しさん :2011/04/13(水) 20:48:26.40 0
別に神様は否定して居ないよねー!?♪。
>>351 現実が複雑だという事以上に、論理という物が不完全である。
論理の正しさは、神がいなければ証明できない。では神は何処だ?
360 :
考える名無しさん :2011/04/14(木) 01:27:36.29 0
永遠回帰と輪廻転生は似てるようで違うんでそ 輪廻転生は何度も生まれ変わるが宿業によっては違うものになるに対して 永遠回帰はまったく寸分違わぬ人生を繰り返す どちらかというと輪廻転生の方が自分に合ってるように思えるのは 東洋人だからなのでそうか
幽界でも中有でもアストラル界でも何でもいいが、死後に、肉体的・物質的な現世より精妙な世界が存在しようとも、 とにかく時間的に現象する世界であるなら、現世の延長線上に、同じロジックで捉えられるものなんじゃないのかな。 霊とか精神とか呼ばれるものも、所謂「物質」のより精妙なもの、乃至は内側から捉えられたものに過ぎないってのは、 エドガー・A・ポーのスピリチュアル系の作品だとか、神秘系の思想家の説にもよく見られるし。 つまり輪廻転生する世界もまた、永劫回帰する「永遠の今」として存在すると。 で、その本源は、善悪の彼岸にあるエネルギーとしてニーチェに捉え返された「神」、「意志」=「力」。結局、話の根っこは変わらない。 今回の100分de名著では、永劫回帰は「フィクション」「ファンタジー」だという通俗的な解釈をされていたけど、 ザロメにこの思想を告白した時のニーチェは深刻そのものだったというし、 『ツァラトゥストラ』などでの深刻な語り口も、演技やレトリックじゃないと思うんだよな。 この、永遠の繰り返しって説は、ニーチェがからかい気味に言及しているデューリングが、否定さるべき仮説として想定したものらしいんだが、 エンゲルスの『反デューリング論』くらいでしか知ることが出来ないのが歯痒い。あとはシュタイナーの『ニーチェ 同時代への闘争者』にチラッと引用されてるくらいか。 本人の『厳密な科学的世界観と生命形成論としての哲学教程』を誰か訳してくんないかな。
宗教や神を信じてない国や人程に自殺率も高いとか。 幻想や理想が時に救いになる。事実を探る理性や過度の緊張は死を招き易い。
近代文学や現代思想の人で自殺者が多いのは、神や宗教を捨象 した世界観で作品を制作しようとすればするほど救いがなくなり、 人生に行き詰まるからではないかと思った。 僕はポストモダンを評価するけど、プレモダンを捨ててしまっては、 ポストモダンは行き詰るのではないかと考えている。 前近代的な想像力の中に、ポストモダンを超えるものが含まれて いるのではないかと思っている。 しかし、前近代的な想像力の世界には、近代的合理性で批判する ならば、不合理な不純物があまりにも多く含まれているため、単純に 前近代的なものの復活を唱えることには同意できない。 自虐史観を超克するために皇国史観に回帰しようとするのは、 近代的合理性による前近代批判をすることなしに前近代的なものの 復権を目指そうとすることであり、それは誤りであると思う。
364 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/14(木) 18:10:09.71 0
>>352 ただのしがみつき合いだからね
>集団
要りもしない上下関係を作らないと始末にならなかったり
365 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/14(木) 18:10:57.63 0
366 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/14(木) 18:13:13.11 0
>>362 幻想にも理想にも神は必要無いし
集団になって同じ幻想や理想を拝む必要はさらに無いし
367 :
考える名無しさん :2011/04/14(木) 21:07:15.40 0
別にニーチェは宗教を否定してないよねー!?♪。
368 :
考える名無しさん :2011/04/14(木) 21:08:27.35 0
パラメシア思想
>>354 ショーペンハウアー経由で仏教の影響は大きいよ。
永劫回帰についてもニーチェ自身が「仏教のヨーロッパ的形式」って呼んでるし(『権力への意志』第55番)。
永劫回帰は輪廻転生の影響かな
371 :
考える名無しさん :2011/04/15(金) 06:13:54.40 0
ニーチェなんて知らないし理解できない あぁアップルパイが食べたいよう そんな素朴な時空に戻りたい
>>371 >そんな素朴な時空に戻りたい
ツァラで目指してた理想の境地ってたぶんそんな感じと同じだよ。最後の「徴」の項目とか。
何かに無我夢中になって楽しんだり、苦痛や苦悩で疲れた後に、紅茶と甘いアップルパイで「ほっ(´∇`)」とするみたいな。
あ、御免何か違うか。 徴って何かの予兆とかだしな。
せっかく上で長文書いてくれてるのに、ツイッタレスばかりでで申し訳ない。
全ては解釈だ、というなら、ニーチェは何故、高貴な人や末人・・・などと 色々な言葉で定義して広めようとしたりしたのだろうか?全てが解釈なら、 それが正しいかのように人々を啓蒙するのも意味が無いおかしなことでは?
全てが解釈なら、ニーチェの思想にあって人間は、最大限に自由であって いいはずでは? 運命はこう捉えろとか、こう生きるのが高貴だとか下賤だとか差別化を 迫るようなことをしているのはニーチェ自身では?
仏教は、煩悩を悪と看做すところが、何だか好きになれない 煩悩はあってしまうもの 煩悩は、人間の条件なのだ 煩悩を否定しないで生きて行くことの方が、人間的だと思うんだが…
ニーチェは、まだものの考え方が狭いような気がする 高貴な人になる道は、ニーチェ流の生き方しかないなんて…
煩悩の反対語は何だろう? 解らないので仮に理性だとして、煩悩の綱と理性の綱を結うようにして 生きてゆければいいのではないだろうか…
心や、自分を突き動かす何か、そして自由を束縛するような思想という ものは、……困ってしまう… ニーチェにも言われたくない これが正しい生き方ですよ… などと!
>>298 >自分の持った答えに対し、永遠に苦悩を…懐疑を繰り返すのです。
その文章は、理解に苦しみます。
永遠に同じ苦悩を繰り返すことと、自分の持った答えに対し、ずっと
懐疑を繰り返して、刷新して行くことは、全く違う事ではないでしょうか?
絶えず新しく懐疑することは、同じ事を繰り返すことではないでしょう?
ニーチェが、同じ苦しみ、刷新されないことを永遠に繰り返せ、と唱えるから、
苦しみの中に居る人々は、絶望を感じてしまうのではないでしょうか?
382 :
考える名無しさん :2011/04/15(金) 22:34:11.90 0
>>381 刷新をどう捉えるかというのも問題でしょうね。
進歩という意味なら、我々は進歩はしません。目指すべき目標が無いからです。
いえ、目指すべき唯一の目標が無い、という事でしょうか。
懐疑を繰り返し、刷新すると言いますが、何を持って刷新と言うのでしょうか?
己の基準しか無いのではないでしょうか。それは、傍から見れば同じ事の繰り返しでしょう。
その事に対して絶望するというのなら、すればいい。弱者が強者になる事にも別段価値は無いのです。
>>376 他者に対して、差別化を迫る自由もあるのですよ。
なるほど人間は自由です。であるなら、他者の自由を奪うのも自由です。
「他人の自由を奪ってはいけない」…この命令に対し、逆らう自由があるのです。
385 :
考える名無しさん :2011/04/15(金) 23:13:34.75 0
俺様は個人的に神様は生存して生きて欲しいですよねー!?♪。
>進歩という意味なら、我々は進歩はしません。 この断定形。何とかならないものか…
>弱者が強者になる事にも別段価値は無いのです。 嘘だ! 貴方も、自分が求める喜びの方向をいつも選択している筈。 それは、自分に喜びを与えてくれる事には「価値がある」からだ。 その選択をし易い人間が、一般的には社会的強者と呼ばれる。そのような選択を 絶えずしながら生きていることを認めるとしたら、この発言とは全く矛盾する。
>何を持って刷新と言うのでしょうか? >己の基準しか無いのではないでしょうか。それは、傍から見れば同じ事の >繰り返しでしょう。 己の基準しかない ⇒ 傍から見れば同じ事の繰返し ??? 論法が、いつも大雑把すぎませんか?
>その事に対して絶望するというのなら、すればいい。 ニーチェ的発想は、場合によっては猛毒だと思う。ニーチェの思想が困った形で 弱者の前に出現することも見てきている。本当に弱っている人達を殺しかねない と思う。その思想が、メディア特有の圧力になって、弱っている人々を理不尽に 圧迫することもあり得るわけで、絶望するならすればいいなどと言える権利が 貴方の何処にある? しばしば貴方のレスは言葉が実に偉そうだけれど何故 なんでしょうね?
>>388 自分にとって価値ある事が、普遍的な価値でしょうか?
そして自分だけの価値とは、端的に言って「価値が無い」事と同義でしょう。
抜いた髭が世界の何よりも大事な人がいたとして、その髭の価値はいかほどでしょうか。
>>389 では、どうなる事が刷新なんでしょうか?
>>390 弱っている人を圧迫したって良いじゃないですか。その逆でも良いです。
例えば、嵐が来れば困る人がいるでしょう。では嵐は無くなるでしょうか?
弱者を理不尽に圧迫してはいけないから、嵐は来なくなるでしょうか?
そうでは無いですね。嵐は何時かは不意に来ます。辛い事は必ずあります。
辛い事の無い世界が無ければ絶望するというなら、勝手にすればいいとしか言えません。
謙虚である…それは、非常に優れた「弱さ」の隠し方です。 謙虚でありさえすれば、人から間違いを指摘される事は少ないですから。 人は、何よりも自分が間違っている事を恐れます。 間違いを指摘されたく無いために謙虚に振舞うというなら、それは弱さでしょう。 他人の顔色を窺って、こそこそ答えを決めるような事になってないでしょうか? 謙虚である事は、他人に答えを委ねる姿勢であるかもしれません。責任を他人に負わせるために。
>>391 >自分にとって価値ある事が、普遍的な価値でしょうか?
人は、同じ生き物ですから、そういう意味で、普遍的に同様な喜びもたらすような
ことは当然あるのでは? 例えば、好きな人に好かれて喜びを感じる、という
ことはどうですか? 非常に例外的な性質の人や場合を除外すれば、普遍的と
言っても過言ではないと思いますが。
貴方は、自分の人生、自分の生活、自分の今日の行動、それと遊離したところで
思想を語るのは拙いと思いますよ?
>>392 別に特段に謙虚であれという風には言ってはいませんよ。
でも、貴方の断定形は、気になることが多々ありますね。
>人は、何よりも自分が間違っている事を恐れます。
これも、同様です。それに「人は、何より自分が正しくありたいものだ」という
考え方があるのでしょうけれど、「何より」と感じるのは、貴方の感じ方で
あって、思い込みだと思います。
思い込みを断定形にされると、レスし難いです。
>自分にとって価値ある事が、普遍的な価値でしょうか? >そして自分だけの価値とは、端的に言って「価値が無い」事と同義でしょう。 人間達に、ほとんど共通の喜びというものはあり、それは、普遍的な価値と いっても過言ではないと思いますがどうですか? 普遍的な喜びは普遍的な 目的にもなり得るでしょう。唯一の目的ではないかもしれませんが。 貴方は、そういった目的の為に、行動などしていない、というのでしょうか? 貴方が、そんなニヒリズムの中に生きているなどということは、とても信用 出来ない気がします。
>弱っている人を圧迫したって良いじゃないですか。その逆でも良いです。 >例えば、嵐が来れば困る人がいるでしょう。では嵐は無くなるでしょうか? >弱者を理不尽に圧迫してはいけないから、嵐は来なくなるでしょうか? >そうでは無いですね。嵐は何時かは不意に来ます。辛い事は必ずあります。 >辛い事の無い世界が無ければ絶望するというなら、勝手にすればいいとしか >言えません。 下の5行は、子供でも悟っているような当然なことをわざわざ書いていますね。 けれど、下の5行が当然だからといって、上の1行のように「何があっても 無くてもこの世は全然構わない」というようなことを平然と言い切ってしまえる 根拠が解かりません。 >弱っている人を圧迫したって良いじゃないですか。その逆でも良いです。 さぞかし、安らかな眠りの床に就かれたのでしょうね・・・
>弱っている人を圧迫したって良いじゃないですか。その逆でも良いです。 >例えば、嵐が来れば困る人がいるでしょう。では嵐は無くなるでしょうか? >弱者を理不尽に圧迫してはいけないから、嵐は来なくなるでしょうか? >そうでは無いですね。嵐は何時かは不意に来ます。辛い事は必ずあります。 >辛い事の無い世界が無ければ絶望するというなら、勝手にすればいいとしか >言えません。 貴女は、しばしば論証の中に感情が混じっていて、ディスカスしにくくなる ことを認識して欲しいです。 >謙虚である事は、他人に答えを委ねる姿勢であるかもしれません。責任を >他人に負わせるために。 何でも思いつくままにレスすればいいというものではないでしょう…
>他者に対して、差別化を迫る自由もあるのですよ。 >なるほど人間は自由です。であるなら、他者の自由を奪うのも自由です。 >「他人の自由を奪ってはいけない」…この命令に対し、逆らう自由があるのです。 文体については兎も角w、それでは、人間は自由だ、というのは普遍的真理だと いうのでしょうか。貴女にとって、ニーチェの言うことはそのまま真理のよう ですね。何故かな。
>>377 仏教といっても色々だから。「煩悩即菩提」って言葉もあるよ。タントラではむしろ性は重視されてるし。
学研の『性愛術の本』なんか読むと、性エネルギーの昇華によって解脱に至る、なんて思想・実践法も説かれていたのが知れる。
後醍醐天皇がハマッてたらしい真言立川流とか。
「セックス和尚」なんて呼ばれて(揶揄されて?)いたらしいラジニーシは、現代的で馴染みやすい形でそれを説いてる。ニーチェに対しても評価してるしね。
文明や、食の楽しみを禁じたガンジーを批判してるのも面白い。非暴力を説きながら、そのマインドは暴力的だとかね。
聖徳太子も解説を書いた「維摩経」も面白い。ググったら超訳が出てくるから読んでみたら。
父性と母性を兼ね揃えた神様は居てほしいですね。 ダメな時は励ましたり怒ってほしいし、何かいいことをしたら褒めたり抱き締めたりしてほしい存在。 やはり、神は存在しない。だけど神なるものを内側に秘めた人間は存在すると思う。
402 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 19:16:50.40 0
ブービー賞は人間の恥だ。 優れたものから順番によってたかって妬み潰してゆくと最後には一番出来の悪い 人間と二番目に出来の悪い人間が生き残る。 そして最後の二人の殺し合いでドベから二番目のやつがドベを倒して玉座に 座る。 ブービー賞の構造はまさに「最悪」のシステムだ。
403 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 19:26:40.88 0
ブービー賞はきわめて民主主義的なシステムだ。 ブービー賞のシステムが水面下の下部構造として強力に働いているからこそ、 例えば人間社会においては頭が悪く動きも鈍いチビデブハゲのブ男がまんまと 社会的成功を収めるというような、他の動物社会では考えられないような 「異常な事態」もまた可能になるのだ。 ブービー賞の構造はまさに「最悪」のシステムだ。
404 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 19:50:10.29 0
逆向きの不具者・・殆ど全ての素養が平均以下で一つだけ優れたところが あれば、大勢の癪に障らずしかも一個の道具としては役に立つので重宝される。 逆向きの不具者は道具として利用するためにおだてられ良い点だけを持ち上げ られるので、結果として万能な特性を遺伝された貴族的な人間よりも世渡り という点では百倍楽である。 貴族的なオールラウンドさは往々にして「器用貧乏」だとか「自慢たらし」 「半端者」などとみなされやすく、そして人は彼のほんの少しの欠点や ささいな失敗を見つけ出すことに血眼になる。
小泉ちょっと前から銭ゲバやってるだけだからね 体制側組織と芸能の類の対立じゃないの まあサヨクのアジビラでもいいけど
406 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 20:04:30.00 0
さて困った・・ 甲「今は緊急事態だ。”力を合わせて”困難を乗り越えよう」 乙「誰が指揮をとるのだ?それにふさわしい強力な人間はとうの昔に我々が ”力を合わせて”潰してしまったではないか?ちょうど我々が神を殺害 したときと同じ奴隷の嫉妬心で!」
世間同調で過剰な電力消費に罪悪感植えつけてるだけでしょ今
408 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 20:39:37.89 0
ニーチェ理論知識情報では不幸と苦労と困難と災害は試練ですよねー!?♪。
409 :
考える名無しさん :2011/04/16(土) 20:55:05.50 0
高すぎる代価・・・ 推論による思考は元々は優れた神経繊維のスペックによる高速情報処理機能に 恵まれていなかった大勢の者達が自身の能力不足をおぎなうために開発した 代用ツールに過ぎなかった。 今日推論による思考が常態とされほとんどそれ無しには共同体の運営が不可能 となってしまっているのは「認識における奴隷革命」がおよそ五千年ほど前 に成功したことの結果である。 我々の先祖の脳は、強大で精密ではあったが個々人がてんでばらばらな解釈 技術のコツを要した認識方法を捨て去る代わりに、粗雑で貧弱ではあるが 共通理解に適した思考法を選び取らざるを得ない羽目に陥ったのである。 今日の人間社会におけるシステムの肥大と複雑化、高度化は我々人間自身の 神経の性能の大部分を犠牲にすることで初めて可能となったのである。
日常です
>>393 人は同じ生き物でしょうか? そう思い込んでいるだけかも知れませんよ
>>394 なるほど、それはその通りでしょう。では言い方を変えましょう。
普遍的な答えが無いとすれば、答えとは自分の思い込みと同じでは無いでしょうか?
思い込みを否定するなら、その考えが「真に正しい」事を証明しなければいけません。誰の手で?
>>397 そうです。子供でも分る事です。
しかしあなたはそれを認められない。何故か?
それは、あなたの言葉を借りれば救いが無いからでしょうかね。
人間なんて地球にとったら癌細胞ですよ? 不幸?苦労?困難?災害? 被害妄想も甚だしい 勝手にそうおもっとれ馬鹿たれが
413 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/17(日) 01:03:52.18 0
ガン細胞にはガン細胞の言い分もあるだろう。 一方的に痛めつけられた細胞がガン細胞になるって説が正しければ、ガン細胞は 反旗を翻した悪党ってことだろう。苦難を重ねるうちに、おかしくなってしまう ということか。人間がガン細胞で、ガン細胞の目的が仲間を増やして本体を死に 絶えさせることだとすると、地球はもう危うい。増殖している原発がその急先鋒か
>苦難を重ねるうちに、おかしくなってしまうということか。 人間がおかしくなったのは、本能の大部分を失って目覚めた時だったと思うよ。 自他を認識し世界を客観視するようになった時。それが楽園を失ったことの 意味だと思う。そこから不条理の苦難が始まった。一方で、科学も始まった。 それが癌細胞化した時なんだろう。そして、今は原発やらの時代に入っている。
人間が癌細胞だとすれば、本能のかなりの部分を失ったことが癌細胞化 なのであり、それは生存のための相当な苦難を重ねた結果ということになる。
>>411 >人は同じ生き物でしょうか? そう思い込んでいるだけかも知れませんよ
同じ生き物だという側面に、ポイントを置いてレスしているだけです。
現実の刻々に、あなたもきっと同様の認識で生きている筈ですよ? そういえば
ふと思いましたが、最近など、金子みすずという人の例の「いいえ、誰でも」が
多く売れているそうですね?貴方のような人は、きっと別の場では、「いいえ、
誰でも」に深く肯いて見せたりしているタイプではないですか?
>普遍的な答えが無いとすれば・・・
人間にとって普遍的な事は皆無だとは言えないと思いますよ?何度も言いますが。
そういえば共通無意識ということも言われていますよね、あれはどうなんですか?
>それは、あなたの言葉を借りれば救いが無いからでしょうかね。
あなたの言葉を借りれば?どこにそんな言葉をレスしましたか?
>しかしあなたはそれを認められない。
どの部分を指すのか分かりませんが、貴女が勝手に間違ってした解釈でしょう。
現実(困難)への冷静な認識を行うことが、現実を認めることだと思います。
そのことと、現実をどう捉えてどう処するかは、別問題です。
自分は、人間は、解決のつかない存在だとは思います。貴女の場合、ニーチェの
思想よって、人間や人生は解決を見ている存在だということになるようですがw。
人生にどう解決を見出すか、或いは見出せないか、それは人それぞれの道だと
言うしかありません。
ニーチェ流の人間観を、流行のようにあらゆる人々にメディアが押し付けるような
風潮になるのは、ニーチェの言葉は猛毒の働きをする場合があるから、弱って
いる人々に作用する場合の危惧を感じる面がある、と言ったのです。
貴女の
>弱っている人達を圧迫したっていいじゃありませんか?またそうでなくても
いいです。
という言葉へのレスの流れでしたよね? 弱っている人を圧迫していいと、
きちんと理由も書かず、いきなり中途半端な文学的表現をしてくるのも貴女の
文章の特徴ですが、筋道立ててレスをして貰えたらと思いますね。
>>417 どこから話したらいいですかね。
確かに、普遍性はあるかもしれません。もしくは、無いかもしれません。
それを知るのは神々のみであり、神は不在です。誰も知りません。
ですから、普遍性があるという前提は、その時点で淡い仮説となります。
共通無意識はオカルトじゃないですかね。
そういう物が欲しいからという理由で、夢見ているように思えます。
>>417 現実は困難であり、それは克服できません。その中でより善く生きる事、そのがニーチェ的であると考えます。
ニーチェの考えは、ある人にとって夢を奪う事になるでしょう。
だからと言って、共通無意識やら魂の不滅性やらを信じるのが良いのでしょうか?
私が言いたいのはそこです。ニーチェの考えが辛いからという理由で、他の答えを探してしまって良いのか?
それは、物事に対して真摯な姿勢とは言えないでしょう。
>>417 良い例を思いつきました。
酸素とは毒です。体を酸化させ、痛めます。私にとって、あなたの言葉は
「酸素が毒だとすれば、弱った人を傷つける。だから別の答えを探そう」
と言っているように思えるのです。
ニーチェの言葉が正しいのだとすれば、例えそれが毒であっても、仕方の無い事じゃないですか。
>ニーチェの言葉が正しいのだとすれば、例えそれが毒であっても、仕方の無い >事じゃないですか。 (「正しい」というのはどういうことですか?正しいも誤りも無いのではないの ですか?貴女の論は、あちこち矛盾していて理解出来ない点が多々あります。) 上記3つのレスに関しては一応筋が通っているし意味も理解出来ますが…。ただ 貴女は、言葉としては説得力がある場合にも、思想を切実なものとしてではなく、 ご自分の中に思想を持つという豊かさが(殆ど)目的であるまま人生を歩んで行く 行く方のように見受けられるので、話は噛みようが無いのだと思います…。 そうでなければ、これまでのような乱暴な言葉を発するはずが無いと思うのです。 上記の言葉も、ニーチェ本もあるでしょうけれど色々な参考本を読んだ記憶や 理解から一般論として抽出された内容が主である可能性が高いと感じます。 自分は、どんな僅かな思想であれ、その人が人生の中で証明している血肉としての 思想しか信用する気にはなれません…。貴女が用いる時の「真摯」という言葉にも、 ある種の教養的な範囲の匂いのようなものを感じてしまうのです…。
前にも述べたとおり、貴女がいまレスしているような意味であれば尚更、ニーチェ の思想は、誰にとっても参考にするに値するものだと思いますし、ニーチェを 知らずとも現実を放棄していない人であればその意味での努力をしている人々は 多いのではないでしょうか?(多分現代では宗教に関わる人の多くもまた) けれど、一般論としての思想は、ある範囲まで人々が共有できるものでしかない と思います。「個々の人生こそが実際」なのです。それに向けて、貴女のように ただ一般論(例えばニーチェの思想の体系もそうですが)をいつも「正しい」と つきつけるだけのことをするのは稚拙なことと思います。ニーチェの思想は、 正しく伝えることが難しい?だけに、ただ徒に乱暴なことになってしまうという こともあると思います。また、ある意味で正しく非常に優れていても、それを 全てのように仰ぐのもどうかと。人はいつでも既成の思想の枠組みを超えて自由に 思索する方がいいと思います。 自分は、貴女が勝手に筋書きしたように、あくまで普遍と非普遍?を一般論と して対立させようという思いなど、どこにもありません。それは、貴女がいう ように、人々には証明しようがないことですよね?世界には何らかの普遍性は あっても奥義としての価値は無いとも言えるかもしれないですし、その逆もある かもしれないとも言えるのでは?ただ、その人以外の何ものかに人生を明渡して 放棄する為ではなくむしろその人生のより良き全うの為の、宗教的なものであれ 理論を超えた何かに時として思いを馳せることまで否定してしまうべきもの なのかどうか…個人的にはそうは思えない部分があることはお伝えしておきます。
話は噛みようが無い → 話は噛合いようが無い
424 :
考える名無しさん :2011/04/17(日) 23:56:09.81 0
不幸とか苦労とか困難とか災害とか悪夢とか失敗は試練ですよねー!?♪。
現実をありのまま受け止めろ 試練や運命といった自己欺瞞に逃げ込むな まあ、そういう事だよ
>>424 不幸とか苦労とか困難とか災害とか悪夢とか失敗とかです。
東北地方の復興だって他人任せなら、誰でも肯定的に力強いことをいえますが、
自ら文字通り血と汗を流して奴隷のように働くとなると、
多くの人は1日で、自分の言葉を裏切り、挫折しますよ。
ニーチェも同様でしょうな。
まあニーチェもニーチェですよ。
卓上なら解釈次第でどうにでもなりますが、 現場では、どう解釈しても何も変わりませんよ。
芸術家や作家は、人間の涙や糞尿や血で、絵や物語を書いてる人たちかもしれない。 彼らは、現実を直視し、それらを生かして何かを産み出そうとしている。
ニーチェが困難や不幸を崇めていることには、部分的に意味は認めるが、 賛同出来ない。
現実など、突き抜けていくような思想の枠など越えた衝動を持ち続けるべきだ
>>430 そうすると、とてもリスクや危険度の高い人生になる・・・
解釈の綱なんか渡るな 命がけで現実の綱を渡れ
・人生を危険にさらせ。―「悦ばしき知識」― ニー血ェ
法律はもちろん、自らの良心の枠を越える言動は不可能だ。
しかしニーチェの感覚は鋭い。 自分もそういう時期があったけど、その空間のすべての刺激が自らの心身に突き刺さる感覚。 眼球が重だろうけど、五感は研ぎ澄まされ第六感も働き、想像力も過剰になり…濃密過ぎて神経が焼き付く感覚。
感覚が鋭いだけならまだしも、それを物語化したり文章化したり出来た訳だからな。 しかも普遍的に的を射た文章ばかりで。
ニーチェの文は内容はともかく異常に芸術的だ。
>>419 >現実は困難であり、それは克服できません。
たぶん、その言葉も、貴方の場合、ほとんど知識で語っていると想像します。
貴方は、これまで、人生の困難をほぼ克服して生きて来た方のように感じられるし
今も実際に困難に出会えば、それを相当なエネルギーを以って夢中で克服しようと
される方のように感じられます。貴方が、この世界を冷静に学ばれていることは
貴重なことだとは思いますが。本当のことを、知識で理解することと、現実を
歩むことはまったく別のことだということも多少は念頭に置くべきだと思います。
>>430 それは、力への意志とは違うんでしょうか?
力への意志の別名は狂気
力への意志って未だによくわからんな。 活動しているもの(意志や生命活動や企業活動や国家)は 膨張するorしぼんで死んでいくの二択ってことだろか? なんとかが力への意志(帝国への意志)にとりこまれてしまった〜だか なんだか否定的な言葉っぽい意味合いで使われていたり、 優れたものは自分がどこまで届くのか試したくなって どんどん危険のハードルを上げていってしまうものだ〜とかあって 力への意志がある=生の肯定のようにも受け取れる。 ぼく哲学の才能ないな(・ω・;)
442 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/19(火) 11:10:53.29 0
>>441 ニーチェが或る時、偶然店頭で見つけてタイトルに惹かれて買ったという『意志と表象としての世界』
でショーペンハウアーは、「力」と「意志」は同じものを指す二通りの言い方に過ぎないと断定している。
つまり「力への意志」は、「力への力」「意志への意志」みたいな意味合いだよ。要は「己自身であれ」ということ。
ところでショーペンハウアーは、意志には時間的・空間的な区別は無いと言っている。
自己超克的に己自身であろうとすることは、そのまま、世界そのものであろうとするのと同じなんだな。
晩年のニーチェが自らを神になぞらえたり、力への意志に忠実であることで「没落」する者を愛するのも、
上述した意味での「永遠の生」(イエスが説いたものも本来そうしたもので、「死後の生」などではないとニーチェは考えた)の実現という意味でだろう。
>>438 分りやすく言うと、死は克服できません。
ここまで言わせんなよ、恥ずかしい/// って感じですが。
克服出来ない現実に直面した時、魂の永遠だの転生だの言い出す輩がいますが、
それは非常に惰弱であろうと思うのです。
445 :
考える名無しさん :2011/04/19(火) 22:03:39.85 0
人間は地球の視点では癌細胞の様だが哲学が有るのは人間だけです!?♪。
不死なる魂みたいなものはニーチェは否定してるけど、生々流転する世界、 力の永遠性は認めている。というかむしろ、無意味かつ無目的な世界が永遠に在るが故のニヒリズム。 ニーチェの永遠回帰説を最も真面目に受けとった哲学者は多分ドゥルーズだろうけど、 あらゆる個体がその個体性を力=強度に還元しつつ生滅する様を「輪廻」と呼んでいる(『差異と反復』)。 神智学なんかでは、転生の基盤になる魂もまた、遂には世界の根源へと解消されていく限定的な存在と規定している。
病者の光学やデュオニソス秘祭も力への意志を読み解くキーワード ただし、バタイユのように捉えたらだめだね
>>444 ←w
>分りやすく言うと、死は克服できません。
克服できないのは「死」だけ?それしか挙げられないほど、貴方の人生に
対するこちらの指摘が当たっているとは!・・・本当に恥ずかしいと思って
いいと思うよwww
克服できないことが「死」だけという人間が、他人に、
>>419 みたいなご高説を
垂れるとはwww ニーチェが毒でも異臭でも無く平気でスラスラ読める理由が
これで証明できたわけだwwwww
文化的衰弱が死を怖れやがては彼岸を設定する事によって生そのものを侮蔑する ギリシア古典研究を通して剔抉されたこの倒錯心理は そのまま19世紀ドイツにも適用され、 その倒錯心理(キリスト教道徳も含む)の克服が主張された だから、ハイデガーのニーチェ読解は間違いなのである
ニーチェが生を礼賛するなら、生の悦びが多くの人々に齎されて何が悪い のだろう?ニーチェの思想は簡単にいえば、優れた者はより多くの悦びを享受し、 劣った者は(社会的弱者)は身の程に従って生きるのが正しいという思想といえる
452 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 01:03:53.91 0
優れた者/劣った者の判断基準が違うのよ〜 生命そのもの、生への意志そのものに優劣は無いよ
453 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 01:05:24.21 0
あゝ曙光
そこが浅はかな把握の仕方であって ニーチェ的強者というのは現実をありのままに受け止める者をさすの 仮に最貧、病弱の者であってもあの世や運命といったルサンチマンから解放されていれば 生の蜜を味わう強者であり、それが力への意志なわけ だから、万人受けする思想ではない まあ、仏教哲学の亜流なんだけどさ
×仏教哲学 ○仏教思想
ニーチェの思想で、強者(資質の優れたもの)・弱者(できそこない)という のは、基本的な発想だろう?弱者の強者に対するルサンチマンがキリスト教の 発想を生んだのだから。
>>454 自己満足というわけだ。傍から見れば、裸の王様ともいえるな。
>>443 さんきゅー。つまり先天的な本来の自分を強めるってことね。
マガジンの不良漫画で「俺の純度を高める」とかいう台詞があったんだが
あれは力への意志が元ネタかも。
死が克服できないというが、アメリカで自分の死体を冷凍して未来の科学に託す 日本人もいるという。何も全員が死を克服する社会を目差す民主主義は要さず、 我こそは、未来の展開を恐れる事無く、冷凍を行う先駆的自律的決断の勇者は 「力への意志」の持主とはいえないのだろうか?
>>454 >それが力への意志なわけ
それが力への意志の定義というのは正しい?
物質にもある力への意志とはどう繋がるのだろう?
>>454 >だから、万人受けする思想ではない
万人受けしない思想を、今流行させようとしている出版業界の意図は何か?
功利主義でもなんでも言葉を広く深く受け取れば 隙の無い完璧に良い形で解釈できる。 あえて乱暴な狭く浅い解釈のもとメリット・デメリットを 浮き彫りにした立場の解釈のほうが俺は好き。混乱しないから。
>>454 >だから、万人受けする思想ではない
教養としての思想としてなら、ある程度は広まるだろう。この思想がおいしい
人達はいるだろう。貴女のように。
克服できないのは「死」だけというなら、「死」まで存分に豊かな生を味わえば いいのだから・・・。
465 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 01:46:46.27 0
>>454 最貧や病弱の人の方が
あの世やら運命やらからから解放され易いと思うんだけど
亜流仏教というか、
本質は仏陀と同じことを言ってると思う
466 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 01:52:29.57 0
>>461 なんで急にニーチェが流行り出したんだろうね
ロシア革命前のロシアで流行ったらしいが共通点はあるか?
468 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 03:15:24.81 0
何かしらあるだろうね ドストエフスキー流行りなんかを考え合わせると
ニーチェは、ロシア皇帝暗殺事件から「能動的ニヒリズム」の概念を着想したんだっけ確か。 ドストエフスキーの影響も大いに受けているし、逆輸入という面もあったのかね。 トロツキーは、浅薄な解釈でニーチェを批判してるけど。
全てを受け入れなさいの神の思想(ニーチェ)と こんな世の中認めねーの悪魔の思想(マルクス)は 相容れないようで両方スピノザに酷似してるようでもある。
太陽と死は直視出来んぜよ
472 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 12:06:24.99 0
うあ!まだ時間あると思って気を抜いていたら 再放送見逃してしまったあああああああああああああああああ
ニーチェ的ものの考え方というのは、我々は、いろいろなところで出会い 触れているものだと思う。というか、これまでの日本の半分くらいは、 この思想で覆われて来たんじゃ?まぁ、仏教思想なのかもしれないが。
>ニーチェ的ものの考え方 >仏教思想なのかも 脱俗隠遁の孤独な男の思想だよね。他者と共有し得ない様な。
だから何?
だから虚しいんだよ
478 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 17:24:20.51 0
ニーチェの思想そのものは別に孤独賛美では無いでしょ その証拠に弟子たちに 「自力でツァラさんの高みにのぼれ、 そうしたら再び話せるから」 みたいなこと言わせてたし ニーチェが孤独だったのは結果であって 目的では無いと思うよ
>>470 スピノザに似ている、という結論はまだ分かるが、ニーチェ観とマルクス観がなんか変。
>>472 ニーチェ初心者の方?100分de名著のことだったら、別に大した話じゃなかったと思う。
永遠回帰はフィクション、ファンタジーという解釈には賛同しかねるし。
ニーチェ流の、「真理は、その者が有する権力量の度合に応じた虚構」という意味で言ってるんならまだしも、
そうした意味の補足も無かったしな。
今夜は斎藤環が出てきて喋るらしいから、多少は歯応えあるかも知れんが・・・。ラカン流の他者論で何か言うのかな。
もちろん「群れから離れた孤独な俺かっこいい」とかじゃなくて、 「集団の中での孤立きっつい、自ら選んだ孤独を享受しよう」ってことだね。
481 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/20(水) 17:34:02.94 0
>>476 他者と共有できない思想は虚しいの
むしろ逆だと思うけど
例の『ニーチェの言葉』って本、書店では『ブッダの言葉』とよく並んで置かれているけど、 ニーチェの仏教に対する高評価を思うと、この極東の国でそういう扱いになっているのもちょっと面白い。 一般的には、岡本太郎やドラッカーやマルクスやなんかのブームと同様の、先人の言葉に指針を求めようって気運の一環なんだろうな。 結局、「人間的、あまりに人間的」に読まれているわけで、 『ツァラトゥストラ』の「万人に与える書」の後に続く「何人にも与えぬ書」という言葉に込められた峻厳さは一顧だにされていない感じ。
>「何人にも与えぬ書」 これはかっこつけすぎ
484 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 18:23:14.68 0
深淵をのぞきこむ者は、深淵からものぞきこまれる事を 理解せねばならない。
485 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 18:28:57.92 O
永劫回帰は超人にとっての真理。 存在を儚き生成と解するのはニヒリズムではあるが、 生成の本質として力への意志を認める超人は、 生成の儚さを自らの力への意志により永劫回帰させ克服させる。 反復を保証する力、再現能力、幼児のように遊びつつ学ぶ力は現象を存在に近似させる力である。 ニーチェはニヒリズムを否定したのはない。克服したのだ。消化してしまった。
486 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 18:36:34.11 O
生とは何か? まさしく己自身を繰り返し、その存在化を目指す現象であり、力への意志ではないのか。
487 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 18:39:58.23 0
ヨーロッパの哲学って カント以降から東洋思想のパクリしかないよ。
488 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 20:33:35.09 0
>>485 >>ニーチェはニヒリズムを否定したのはない。克服したのだ。消化してしまった。
その通りだ。
ニヒリズムの克服とは、意味の見出せないところで価値を見出すことだ。
芸術そのものは意味のない遊戯に過ぎないが、それは人間の生を悦ばせる。
同様に、神のごとく超絶的な個人の出現は、万物の生成や人間存在そのもの
の意味など最初から問う必要がなくなるほど人の心を震わせる価値がある。
ところで、人間社会のシステムそのものが現代のようにここまで高度で複雑な
ものになったところで、その構成員である当の人間自身の水準が眼も当てられ
ないほどみずぼらしく低下してしまっては意味はもとより何の価値もない。
ニヒリズムがペシミズムにまで悪化するのは、強弱美醜賢愚貧富の価値の序列
がルサンチマンによってあべこべにひっくり返ったとき初めて生じるものなのだ。
「私はニヒリストであるがペシミストではない。すばらしきかな人生!!」
489 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 20:37:24.31 0
大体ショーペンハウアーに心酔してたからなニーチェは ショーペンは仏教みたいだからね んでニーチェはそこから狂異的に踏み出した感じ ニーチェは一休さんに似てるね
490 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 21:25:08.66 0
あらゆる生はゴキブリや虫と同じように無価値であることを自覚せよ 既存の道徳・善悪を超えた強者による道徳をもって人類の支配者たることによって、新たな価値を打ち立て、現実の生を肯定せよ
491 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 21:45:34.20 0
ニーチェ理論では現実を直視して生命を感謝して人生を肯定するよねー!?♪。
492 :
考える名無しさん :2011/04/20(水) 22:00:46.37 0
教育 ニーチェ
>>449 死しか挙げられないと言われたら反論するしかないですが、
正直な所、あなたに理解できると思って無いんですよ。
まず、分りやすい死と言う例を挙げてみて、それでダメなら望みなしと思ってます。
しばし、子供にも分る話を偉そうに話しているだけだ、と指摘される事があります。 その反論としては、子供にも分る話を理解できてないから、それを指摘するのだと言わせてもらいます。
世間の理解できない超越理論によって自分を信じよ by タマキン
NHKニーチェ NHKの出演者の男性3人とも、実にスタイリッシュな出で立ちで出演している。 女子アナは勿論だけど。女子アナは兎も角、男3人とも同じ行動の価値を共有 している。 おとこ3人のあの並外れたオシャレにも、彼らの同じ企図、普遍性を感じる。 それだって、てんでばらばらの個人的価値観で行動できる社会じゃないことを 言外に語ってしまっている。社会で上手く生きることは、社会や時代の価値観と 当然の如く積極的に折り合うことだと、彼らはその主張とは逆にそんなところで も言外に語ってしまっている。普遍性はあるのだと。
>>474 =476?
自分が信じて自分の意志で選び取った思想で虚しくても致し方ないのでは?
それとも、仕方なく選び取ったとでも言うのかな?
>>493 「解かる」ということはどういうことか、それを先ず、貴女が理解できるとも
思っていません。それに、貴女は「なによりも自分が他人より高みに居ること」
これが、無条件で、絶対他人には譲れない人ですからね。「自分の方が正しい」
これは、貴女が譲れない命題なのですよ。「自分が正しいかどうか、それが
【何より】大事だと感じる貴女の成り立ち」がこちらには見えますし。
「解かる」=「理解できる」
ニーチェの思想は、人間という存在に、ある方向からスポットを当てたときには 妥当な思想なのだと思う。 普遍性は無い!と言い切れる人々に聞きたい。では、なぜ、医学によって人体は その全てではなくとも、普遍的な性質が解明されているのか?普遍的でなければ 医者にかかれますか?
人体の性質に、かなりの普遍性の方向があるということは、肉体として存在 している(精神であれ第一義的には、肉体の中に存在しているといえる)人間と いうものを洞察する上で、もの凄く重要なことなんですよ。
>>493 >まず、分りやすい死と言う例を挙げてみて、それでダメなら望みなしと思って
>ます。
w だから、貴女がやっていることは、教養の論だと言っているんですよ
人間は他人を犠牲にするしか文明を維持できないのか? とても脆弱で儚いものよのぉ
仏教思想やニーチェの思想が影響して、外面に出さず孤独に苦悩しがちな 日本人の性質を形成してきた側面があるということはないだろうか?
>>500 うーん、ニーチェの謂う普遍性批判は
健康という概念も無化するものだから医療自体が批判されるのだよ
悲劇の誕生や病者の光学はそういったことを主張している
だから、「万人に与えるが、万人に知り得るものではな」い
つまり、エリートのみが耐え得る強者の思想なんだね
で、この強者にはニーチェのような腺病質の者も含まれる
これが永劫回帰を契機とした力への意志なんだよ
>>503 だから、最初の一人がデリケートに振舞わなければならないのですよ。
大手を振って、不倫やりたいです、と言ってしまってはいけないのですよ。
あらゆる意味で、距離を上手に取ることが大事なのだと思います。
>>505 >健康という概念も無化するものだから医療自体が批判されるのだよ
まったく的違いなレスです。健康や医療などという問題についていっている訳
じゃない。逆に言うなら、そういう問題として捉えること自体、ニーチェの
守備範囲、思想の根拠は、狭いということです。
簡単にいうなら、人間というものの成り立ちが、人間の限界を規定してくる部分が
ある、ということを言っているのですが。
>>500 で、たとえば故・今村仁司はプラトニズムにファルマコンを見出したり
山形孝夫が「治癒神イエスの誕生」でキリスト教の医療的アプローチを読み解いた
こういう医療行為そのものがニーチェの思想ではひっくり返されているんで
たとえば衛生管理を旨とする近代医療批判なんかで悪用されているわけだよ
その残響はフーコーやイリッチにも容易に聞きとることが可能だ
でも、それが通俗ダーウィニズムに及ぶと
ナチスの優生学に悪用されるし、現に悪用されたってわけ
また始まったな。貴女の言葉で、纏めて下さい。表面知識の羅列は解かったから。
>>507 ほう
だったら
>>500 で
>普遍性は無い!と言い切れる人々に聞きたい。では、なぜ、医学によって人体は
>その全てではなくとも、普遍的な性質が解明されているのか?普遍的でなければ
>医者にかかれますか?
と言ってるではありませんか?
で、ニーチェが破壊したのは医療行為を支える健康という概念であり
である以上、医療も問題にはならない
だってニーチェ思想を徹底したら病院に行かないわけだから
>医者にかかれますか?
「かかりません」
とかえされるだけなんですよと指摘しただけ
人の話をよく聞きなさいよ
それから、「健康」とか「医療」に関してのレスではありませんよ?
>>509 まあ、どうでも良いけど
ニーチェの本をよく読んでその危ういところもキチンと理解しないとね
で、本を挙げているのは良かったら読んで下さい、ということ
学ぶという姿勢が無かったら駄目だね
あと、こういう場で使うのなら「貴女」ではなく「貴方」ね
>>510 あなたは、まずニーチェの思想ありき、なんですよ。
ニーチェは、こうだああだ、とニーチェの知識ばかり述べている。
それは妥当かどうか、自分で検証しながら読んでいるとは思えない。
>>511 ははは
さてはニーチェを読んだことないな
で、
>>500 で病院を出したのは君じゃないかね?
ま、連投規制に引っ掛かるので このくらいにしておくよ おやすみなさい、子猫ちゃん
>ニーチェ思想を徹底したら病院に行かない 人々が病院に行くのは、病院には、病気を出来る限り治せる、人々に対する 普遍的方法の多くがあるからではないですか?を問うているのです。 ニーチェの思想では、医療はどう扱われているか、などと尋ねてはいません。
>おやすみなさい、子猫ちゃん すこし違うパターンも体得したら?
518 :
考える名無しさん :2011/04/21(木) 00:25:49.85 O
「自己責任」は同情を糾弾したニーチェ由来? ダーウィン由来?
斎藤環さんが言ってた、「精神分析では、欲望を諦めないことが正しいと考える」みたいな話、 精神分析というより、ラカンがカントの倫理をサドの論理と結びつけて解釈したことに拠った話だな。 まぁ、永井均が解釈するようなニーチェ像と馴染むとは思うけど。 ニーチェは欲望に等級をつけるようなとこがあるから、例えば病的犯罪者としてのサドの欲望をそのまま肯定するとは思えないんだがな。 西研さん、超人といえど他者からの承認は必要なんじゃないかとか、「あまりに人間的な」ことを言ってたが、 ニーチェっていうよりヘーゲルだろそれ。 ニーチェは現代思想にも影響が、てところでバタイユ、フーコー、ドゥルーズ、デリダの写真が出てきたが、 知らない人が見ても何だか分かんない映像だと思う・・・。
狂ったニーチェが書き殴ったメモってのを初めて見られたのは収穫。五線譜上の音符みたいなのもあったな。 ニーチェ自身を特集した番組もやってほしいな。 結局、トークよりも、『ツァラトゥストラ』の初版本とか、当時のニーチェにまつわる部分の方が面白かった。
>西研さん、超人といえど他者からの承認は必要なんじゃないかとか、… それについて君自身はどう思うのかね?
522 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/21(木) 12:32:54.79 0
>>496 それ「普遍性」では無いでしょうが
>お揃いのスタイリッシュな服装
>>521 一個の人間としてのニーチェ自身は、真に話せる友人がいないと嘆いたりはしていたけど、
目標としての「超人」は、他の誰も達していない高みに至るってことだからな。
「複数の超人が必要なのだ」とニーチェが言っていたのも、超人同士で「だよね」と分かり合うためっていうより、
それぞれの仕方で人類から超脱した神々がいて初めて、地上に本当の豊かさや創造性がもたらされるって意味だろうし。
まぁ俺の解釈はそれとして、ヘーゲル的承認と対立するニーチェってのは、 ドゥルーズとかクロソウスキーが既に書いてるから、自分で勉強して下さい。
創造性なんていらないから、コンピューターのような力が欲しい。 アンドロイドのような能力が欲しいね。
そもそも正確な言葉使いをすれば誰もがその存在からして独創的で創造的であり、刻々とそれを発揮しているのだ。 殆どの者は、非力故に、低能であるが故に、創造性とは無縁だと見なされてるだけなんだよ。
ニーチェも「個人は何かまったく新しいものである。彼自身は何も生み出さないとしても、既存のものの解釈者としては不断に創造しているのだ」 みたいなことを言っている。 D.H.ロレンスが『黙示録論』で言ってるみたいな、より大きな力の持ち主の下にあることで、従う人間も力の増大を感じられるという意味で、 ニーチェも「階序」とか「権力量」を語ってるんだろう。支配欲が「贈り与える徳」と言われているのはそういうことだろうな。
528 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/21(木) 22:00:14.69 0
ニーチェの言う「階層」は 「貴賤」や「身分制度そのもの」では無いよ そこから発生し、定着してしまった心の事 ニーチェ系列は感性で階層(のようなもの)に位置付ける傾向がある それがわからない馬鹿はニーチェを差別主義だのなんだのと
ニーチェの説く「徳」はアレテーのように魂の本性へと導くものではなく 生活上の実践の過程で生成するものなのである で、こういった相関性を排して成立するアレテーこそ支配欲の権化なんですね ニーチェは哲学上の「徳」の再定義を行ったわけなの で、「贈り与える」という語が想起する互酬性の論理から 文化人類学の贈与論が指摘する支配関係を直ちに導き出し、 ファシズムニーチェへと結びつけるのは早計ですね むろん権力関係がひそむ事はニーチェも認めていますが
531 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 01:10:44.66 0
ニーチェ観たいに現実を直視して生を肯定して超人に為るよねー!?♪。
虚構に逃げて死への不安を払しょくしようと幻想に生きる人間 あわれなり、いとしきなり
533 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 02:27:50.58 O
534 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 02:45:16.96 O
古代ギリシャ人にとって善とは有能性であり、力への意志は徳だ… 有能な人間にとっては事実や現実などはないといえる。 「現実を直視する」とは何か? その「現実」は不動性、不可能性、生成の終わり、死を孕んでいるし、 それは直視する人間の無能と非力さを前提にしているからだ。
ニーチェは常々、とても有能な人間に向かって語っているので、 「とても有能な人間にとっては、」を前提にするだけで理解しやすくなる。
とても有能な人間にとっては、生の肯定とは、 己の欲望と行為の肯定であり、当たり前である。
日栄上人の脳梅思想
539 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/22(金) 08:57:59.70 0
540 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/22(金) 09:06:04.45 0
>>535 「有能な人」というと
>>536 みたいな誤解釈が
「経済的に裕福であるがゆえに自由に生きることのできる人」
といった方が近い
ニーチェの時代背景や
ドイツ独特の職業家継みたいな
文化的側面を介して解釈しないと
その辺は感性があれば超えられるんだけどな
541 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 09:42:52.97 0
進化論の頂点に現在、理性が誕生したが 結局、遅れて登場しても何の問題もない 重要度の低い部類だと推察される。 源初的部類に属す欲望の抑制のためとすれば、 終局のはじまりの誕生でもある退化論であろう。 よって彼は新たな進化論を書き始めた。
ならば欲望は妹へ… そんな近親相姦チックなニーチェであった
妹とは共依存みたいになってたのかな
超人思想じたいにかなり無理があるよな 要するにとことん無理せいっ!ということでしょ?
生殖や排泄をする人類が理性的であろうか
それは、普遍性
547 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 16:14:26.48 0
masason 孫正義
怒り大大大爆発‼‼ まとめて許せん‼‼ RT @sekenniikaru 「子供も、20mSv問題」原子力安全委員会は、助言しただけ、決めるのは文科省だと逃げた.。 #childF live at
http://ustre.am/xUPv 15時間前
ニーチェは妹のことはそうとう嫌ってたみたいだけどね。
妹は反ユダヤ思想の男と付き合ってたようだが、ニーチェは反ユダヤ主義者には嫌悪感バリバリだったからな。
知人への手紙の中でも、自分が苦悩して思索しているさなかに「兄さんのお好きな超人が」云々と
からかうようなことを言ってくる妹ムカつく、と書いてるしw「彼女は他人を拷問にかけることしか知らない」とか何とかも言ってた。
ニーチェがナチに利用された元凶もこの妹のようだからな。
>>545 北一輝みたいなこと言うね。
549 :
考える名無しさん :2011/04/22(金) 23:04:27.54 0
ニーチェの虚無主義と超人思想と永劫回帰と究極哲学を発見して妄想の理論を解明するよねー!?♪。
550 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 02:44:12.72 O
>>539 創造性なんて生まれつき誰もが備えていると思うがね。
創造的であれというのはキリスト教やプラトニズム批判でしょう
>>550 誰もがダ・ヴィンチや手塚治虫やヒッチコックやダリやetc.みたいに創造的なわけじゃないだろう。
蚤の糞程度の創造性しかなくても満足だというなら、それこそ末人だよ。
ニーチェ的には、生まれつきの何やらなんかに満足せず、絶えず自己超克的に力の増大を目指さない奴は終わってるんだし。
553 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 07:18:59.42 O
常に自己の拡大と変化を目指しなさい、という人間として至極まっとうな事を言ってるのに。 やれそれが出来ない人への差別だの、人間そんなに強くなれないだの陳腐化して怠けようとする雑魚が多過ぎる。 経営者的に見て社会構造に張り付いてるだけのリーマンとか、なんで流されてるだけでいっぱしの権利が貰えると思ってるんだろう、創造性ゼロのウンコ。
真に正しいのであれば、つまり真理であれば、誰もがその考えに辿り着く。 そういう考え方をしている人がいるような気がする。 その考えで行くと、ニーチェの考えは弱者にとって有害だから間違っている、となるのだろうか。 弱者にとっては「有害だから正しくない」…だから、ニーチェは真理では無く、間違っていると。 もしこういう考え方をする人がいるなら、彼はまずニヒリズムから否定しなければならない。
普遍化というのは弱者権力の源泉なので ただ、それを徹底化すると文化は死ぬ そういことをニーチェは指摘してるんですね
>>552 自分自体が世界でたった一つの存在で、
アンドロイドのようにスペックが著しく高ければ、
創造的な人間だと見なされることが出来ると思うがね。
己の非力さを、創造性の無さだと思いたがってないか?
557 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 10:15:57.50 O
スクリーンセイバーを考えてみれば、 美しいと感じることさえできれば、 コンピューターは非常に創造的な存在になると思うのだが。 逆に人間がコンピューターのような力を持っても同じことだとね。
天才というのはスペックが著しく高い人間のことだろう。
才能の差はハードウェアの差だろ。 スペックが低ければ才能もないのだ。 あるいは才能は誰にでもあるが、スペックが低ければ、才能を発揮することが出来ないのだ。
560 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 10:51:46.83 0
スペックが著しく高い人間は、天才ではなく 処理能力の高い人間であり、誰でも見てわかる。 天才は、凡人で理解できない。 この差は差ではなく、種を事にしている異である。
561 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 10:57:19.88 0
評価基準(スペック)を設ける理由は 分かりやすくするためだ。では誰に? 絶対多数をしめる凡人に。 つまり凡人の求める能力をもとにスペックは 構築される。 天才にかかわりはない。
天才が構築した枠組みに凡人が雪崩込まなかったら 天才とは呼ばれない というか天才というのはロマン派の作りだした神話だから
人は理解できる言葉しか理解できない。 キリストは偉大であると言いながら、今のキリスト教がキリストの考えに反している事に気付けない。 ソクラテスが偉大であると言いながら、プラトンがその考えを理解していない事に気付けない。 彼らが理解しているのは、歪められた言葉である。歪められた言葉だから理解できた、というべきか。 滑稽なのは、彼らが偉大であるとする人物の言葉は、彼らにとって猛毒である事だ。
キリスト教徒は、キリストを信じるが故に十字架を恐れ、キリストを反面教師にしているのでないかな。
別に滑稽とかじゃなくて、師に従うのは自殺行為だというだけだろ。 ニーチェがソクラテスを批判したのは合理的だったが、 キリストよりキリスト教を非難したのはおかしい気がする。
>>565 ソクラテスやキリストの言ってる言葉の意味が分らず、
勝手に自分の都合の良い言葉に置き換えてありがたがってるとするなら、それは滑稽でしょう。
まあ、ソクラテスらの言葉の意味を理解してない、とは私見ですが。
>>560 >天才は、凡人で理解できない。
日本語で頼む
>>567 天才は、凡人では(には)理解できない だろ?
570 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/23(土) 15:36:27.99 0
>>552 力の増大というか、
持っている力に目を向けろ
ってことじゃないの
571 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/23(土) 15:40:47.99 0
コンピューターそのものに創造性なんか無いよ それを使う人、創る人にあるの わたしの好みでは無いけど
572 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 16:51:03.51 0
円環の理って何ですか?
永劫回帰
>>571 いや感受性さえあればコンピューターは素晴らしいものを創り出せる。
永劫回帰と円環は違う 蛇を噛み切ることの意味するものは ウロボロス的円環を断ち切ることなので
576 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:05:15.19 0
自然のようにね。
578 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:10:11.38 0
円環の理
580 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:15:04.83 O
偉大なるピエロ、しかしピエロだ。
581 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:15:10.55 0
DONT DODGE THE SITUATION
582 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:20:22.13 O
或いは狂気の時代のカナリア。
583 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:23:57.85 0
SO WHAT?
『ニーチェの言葉』とか出ちゃって あの世のニーチェはさぞかし落ち込んでいるだろうな 人生訓にまで墜ちたら『孔子の言葉』なんかと全く同じ扱いだもんなw
585 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:28:45.61 0
IS THAT ALL?
586 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:29:36.81 O
末人の誤読は終わることがないな。
587 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:32:56.61 O
昔は世をあげて狂っていた。そう言って世の人はまばたきをする。 今や進歩が世界を圧倒した。人類はピョンピョン跳ね回る。
588 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:36:41.36 O
神は死んだ。超人になるために禁煙しよう!
589 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:38:50.06 0
OH SO YOU LAZY COWARD!
590 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:42:24.27 O
神は死んだ! スタバでミルクを飲もう。 コーヒーは大人の飲み物だぞ。
591 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 17:53:05.86 O
厨二病の英雄ニーチェ
592 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 18:46:10.24 0
津波も第一波、第二波と回帰します。ニーチェかぶれの 皆さんも高台に避難して、収まるのを待ちましょう!
593 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 18:47:44.09 0
ハリポタかニーチェか、お好きなのをどうぞ、だ。 ファンタジーだろう?
状況に起因する心理状態にすぎない 主義でやってるわけじゃない
595 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 19:26:00.98 0
良心を棚上げするには便利な思想家ってわけだな。 ただいまの地震で若干の潮位の変化はあっても、 津波の心配はない模様であります。
596 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/23(土) 19:39:14.61 0
というわけで、登張竹風訳 『如是説法ツァラトゥストラー』 を読んでみます 袋綴じw
597 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 19:58:02.12 0
超人諸君も津波が来たら真っ青な顔で逃げるんだろう? 首都直下が来たら下水道が止まって東京が巨大な ウンコ工場になるんだぞ。 超人もウンコしてるのバレちゃうんだぞ?
598 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 20:00:27.06 O
599 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 20:04:36.01 O
中二病が治るということは、体が退化する一方になるということだよw
600 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 20:05:10.03 0
死ななきゃ分からんらしいな。
中二病である限り、俺は退化しないだろう。
602 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 20:11:36.45 0
永劫回帰なんかしない。クズは地獄に落ちてそれきりさ。
例え一行でも出来るだけ感情を排したコメントしなきゃ 哲板なんだし
放射能とニーチェ
606 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 23:01:17.71 0
「悲しいかな。最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう。 最早、自分自身を軽蔑することの出来ない人間の時代が来るだろう」 今の日本人?
607 :
考える名無しさん :2011/04/23(土) 23:54:37.98 0
例えどんなクズでも地獄に落ちず永劫回帰するのがニーチェ哲学思想心理学の本当の真実の真相の正体ですよねー!?♪。
>>607 ツァラツストラで、そのようなことをツァラトゥストラが
恐れる場面がある。もしかして、最低なやつも永遠に回帰すると。
だが違うんだな。
610 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/24(日) 04:00:14.98 0
>>609 ブックオフにあるような本じゃないでしょ
個人の古本屋さんだよ
611 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/24(日) 04:03:57.62 0
>>608 永劫回帰とか輪廻転生の意味を
本当に理解している人は少ないと思う
それが無ければ物理的な意味で世界は存在しなくなる程
初歩的で簡単な話に過ぎないのに
死んで別人に生まれ変わるとか 歴史は繰り返すというような意味じゃないですよ 生を有限性に閉じ込めようとする制約から 意志の力で多様なものへと解放して行こうとすること それが永劫回帰の意味
永遠回帰って円環の事じゃないの? 人が進化するとするなら、人の生とは、一直線に延びる「神へと至る道」となる。 しかしそうでないとすれば、円環のごとく繰り返すだけになる。
>>603 ニーチェの思想を語るのに、感情を排してどうすんだよw
そういうのは、出来損ないの哲学でやるべきで、わざわざニーチェスレでやる事じゃ無い
>>613 そうではない、とツァラトゥストラで言ってるし
単なる回帰思想ならワグナーとの決別もない
そういったウロボロス的円環を断ち切るところに超人思想と
その最終段階である永劫回帰思想の意義がある
616 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/24(日) 09:21:35.14 0
>>613 人がいくら進化しても神になんかならないよ
>>615 円環を断ち切る、というのがどういう意味であるかの解釈が問題になりますね。
個人的には、文字通り断ち切る、という意味では無いと思います。つまり、出口と呼べる物は無い。
>>616 神へ近づく事は出来ると考えるでしょう。あるいは、真理に近づけると。
論理主義者が何故論理にこだわるのかと言えば、それが「正解に近づける」と信じるからです。
>>617 >出口と呼べる物は無い。
だから過去から未来へとつながる一本の道に建てられた
現在という名の門の下で永劫回帰の境地に浸るわけです
ちゃんと読みましたか?
619 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 12:18:38.70 0
で、円環の理 って何なの?
>>522 >それ「普遍性」では無いでしょうが
>>揃ってスタイリッシュな服装
オシャレへの指向は、人にとって普遍的…って発想は一切ナンセンスだという
のかな?そういえばニーチェのヒゲ、あれはどう分析されてる? 詳しい人
621 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 16:06:01.62 0
ある事柄を他に伝えてその事柄を変えることはできて、その事柄の変遷も正しく伝えてれば円転ループなんかしない
神とか彼岸とか持ち出してこの世の生を貶めることの否定だろ。 円環。 上のステージに逝くとかたぶらかしを否定して、 この卑小な生が永遠に繰り返されることを肯定できるか。 出来て肯定出来るなら、逃げないでその中で生を肯定する、 生き方を選択できるなら、それが永劫回帰の指輪を選択すること。 何も難しいことはない。 宗教や民主主義や科学なんかの平等の名で平均化し、 生の可能性抑圧し、上のステージ逃げるたぶらかしの否定。
623 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 17:56:35.79 0
なにかいってるようでなにもいっていないことって何?
>>623 毎日顔を合わせてるんだけど、全然印象に残らない人間ってことかな。
>>623 ただの受け売りなのに引用元を隠してドヤ顔してるってこと
道徳や天国持ち出して生を縛る宗教、 同じように抽象的な人権や全体の福利とシステムへの隷属、 持ち出す近代社会、 抽象的な一般的なことしか言わない言えない科学。 それらは時に他人を押しのけ、 道徳の縛りやそれまでのシステムの制約を引きちぎってやまない、 人間の欲望生のあり方を殺す。 全体主義や国家の暴力、抑圧を正当化する。 それを可能にしてんのが直線的な時間や来世のステージ。 それを否定するのが超人であり、永劫回帰。
超人って自問自答や自給自足の生活をする個人主義のことだと思ふ。脱俗隠遁
ニーチェ自身が、「死んで生を終えた後に猶予があると考えるのは勘違いで、 たとえ後世の者が、無限とも思える時間を数えることになろうとも、当人にとっては死後の瞬間と再生の瞬間は一致している」 ってなことを書いているよ。この点で、輪廻とは明白に異なるわけだ。 この、「有限な自分が永遠に繰り返される」という思想が、咽喉に喰い込んだ蛇みたいに苦しめてくるのを噛み切るってのは、 この自分自身をありのまま肯定するという意志に達するということであって、永劫回帰する在り方そのものが変化するわけじゃないだろう。
盲目や鈍感や無知は実は幸せなことだと思います。
>>620 ヒゲに関しては、ニーチェが、「それを見た人は彼を軍人的な人格と見るので、
彼自身はその印象の後ろに引っ込んでいられる」とか何とか書いていたような。
たぶん自分の経験から思いついたんだろう。
ニーチェの困るのは、アフォリズム形式だから、
文章そのものは憶えていても、どの本のどの箇所にあったか思い出せないことだなーw
ツァラトゥストラ第三部最終章に書いてあるでしょう? 私が死にともに魂も滅ぶ だが、やがて同じような「私」が生まれるだろう それを私は良しとする つまり、たとえボウフラと変わらない生であっても 真理や救済といった自己欺瞞に頼らずに そのありようを認めるのなら、その意志その物によって 生は輝きを放つのだ、というようなことだよ
632 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 19:51:11.15 0
意味を見い出せない生は悲しい。誰にも必要とされない人間も悲しい。
メタににげて狂ったふりを人のなかでしているだけですよね
その名はニーチェ!
636 :
考える名無しさん :2011/04/24(日) 21:58:00.25 0
例え最悪最低最弱の人物でも幾らでも永遠に永久永劫回帰するよねー!?♪。
喪家スレに張り付いてる亡霊がッ!!!
おれのような無職を叩いてくる有職によく”社畜乙”と言うんだけど 奴らは力への意思に従ってるだけなんだなと思った でも単に会社での底辺扱いの憂さを晴らしたいだけで やっぱ超人には程遠いと思った しかし会社員の超人て完璧な社畜だろうから”社畜乙”って言っても間違いじゃないよね
>>638 貴方は今何歳ですか?社会で普通に働いたことはありますか?
というか会社がお金出して養ってるんだから社畜じゃ無ければ詐欺師だよね
どうでしょうか?
有職は無職を馬鹿にしてるときだけ超人になれるんだよね
無職を見ると心配になるんでしょう。 不安を紛らわすためにバカにするんです。 何しろ社会もメルトダウンしてますからね。 一部はバベルの塔造りに張り切ってるんでしょうけど。
そうだよね 迷いも無く畜郡道徳を信じてる有職がバカにしてくるんだろうね 有職一般に言ってる訳じゃないけどね
自分より下を確認して優越を感じたり安心するのは人間の本性だよ
哲学板では考える人は無職では無く哲学者
647 :
考える名無しさん :2011/04/25(月) 22:40:59.46 0
超人の錬金術師VSニーチェモン!?♪。 神を超えて見せる虚無主義ですよねー!?♪。
>>646 唯一、哲学板だけで無職のクズでいなくなれるってことか
649 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/26(火) 13:08:02.18 0
人類総無職こそ哲学の最高峰 でしょ
みんな読んでる『ニーチェの言葉』(笑)♪
まさしくシニカルではないですか
652 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/26(火) 21:26:41.25 0
>>650 読んでないよ、そんなの
普通にニーチェが書いたやつを読まなきゃ駄目なのに
本当はドイツ語で読むのかいいんだろうけど、
独文や哲学専攻でも無いのにそんなことしてると
死ぬまでに読みきれないからね
哲学者は論理的なので忘れずに職業調査で就職して勤務してるよねー!?♪。
654 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/26(火) 23:55:33.90 0
いえ、職業を調査するのが哲学者です
そういう反動生成はやめれ。
656 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/27(水) 09:22:49.89 0
ニーチェが正気を保ったまま100歳まで生きて二度の世界大戦を見ることができたらなんて言ったんだろうか
ハイデガーと一緒にナチスを支持してたりして
659 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/27(水) 15:24:14.63 0
>>658 ニーチェはドイツ的なものを
あまりにも人間的なものとして
嫌っていたでしょ
いやあ、年を取ると人間どう変わるかわからんよ。たとえニーチェでさえも。
脳梅毒で病床につかなかったら たぶん妹をぶち殺していただろうな。。。
662 :
考える名無しさん :2011/04/27(水) 21:04:48.62 O
ありえすぎて笑える ニーチェさん実家の女共を毒虫扱いしてたからなww
663 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/04/27(水) 21:25:42.28 0
個々人の物理的生理的かつ具体的な優劣に基づく格差の増大とそれに伴う 露骨ないじめの構造こそが民族を強大にする。 劣位に置かれた者が積極的に虐げられ続けるという戦慄すべき現実の了解が 共同体の構成員全てを否応なしに恐るべき競争と自己強化の只中へと突進させる 原動力となる。 民族全体の水準を引き上げるための秘訣とは決して生ぬるい傷の舐め合いの 「みんなで助け合って云々」ではない。 そうではなくて、共同体内部に発生する物理的且つ具体的に発育不全な個体や 生理的に腐敗した個体を情け容赦なく振り落とすことこそが強化の秘訣なの である。 賢明で壮麗な古代ギリシャはこのような類の実践理性において徹底的に考え 抜かれた驚嘆すべき基準をすでに数千年も前に確立し遂行していたのである。
664 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/04/27(水) 22:00:17.60 0
今の日本に必要なのはうわべの仲間意識や小市民的道徳ではなく、訓育し育成 するための苛烈な基準である。 強力な支配者はあらゆる理想主義の誤魔化し抜きで支配し蹂躙する。 覇気横溢のままに自ら爆裂し燃え盛るその利己的な欲望が結果的には万民への 恩恵となるだろう。 太陽の光輝は権力のあるべき姿そのものを象徴する。 「それは果たして誰のことか?」
665 :
考える名無しさん :2011/04/27(水) 22:56:24.79 0
初心者です。 超人って孤独ですよね?自分で価値観を創造して生きてるんだし。 でも人間はやはり他者と交わりたいという欲求はあると思うし、結局欲望に忠実に生きられない・・・ ニーチェかじっただけなんですがやたらと自分の脳内で矛盾することが多くなってきます。
増大し続ける矛盾を抱えることこそニーチェの真髄だろ こういう変な人がいた、くらいの捉え方で良いと思う、ニーチェは
超人は一人だけとは限らない
超人は引きこもりだと斉藤環がさっきテレビで言ってた
>>666 ニーチェの思想にばかり基づいて考えるとなんか辛くなってきます。
バランスが大事ですね。
>>667 超人同士で価値観違うからやはり孤独ですよ。
>>669 辛い事とバランスの重要さは全く別問題だぞ
辛いからバランスが大事? 何故? 心が辛く無い事が大事なのか? 何故?
そういう欲求を持ったとして、その欲求を満たす事は重要だろうか?
今の時代じゃニーチェの争いでお互いを高めるってのも無理に思える 人間は炎に群がる羽虫のように絶滅するかもしれない 大地も汚れるだろうし
超人つまりスーパーマン… superって、aboveとかoverとかsurrealみたいな感じだよな ある意味絶人なんだなw
673 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MINORKEYcM :2011/04/27(水) 23:44:22.89 0
超人が社会的に孤立する(引きこもる)のは必然だよ 超人であるからにはその辛さは背負わなきゃならない
超人はつらいよ
>>670 ニーチェの思想に基づけば
辛くなりたくないという欲求に忠実に行動すべきではないでしょうか。
ニーチェの思想に基づくのはやはり辛いです。能動的ニヒリズムとか結局我慢しないとダメじゃないですか。
だからニーチェに拘泥するのではなく、他の思想も取り合わせないと生きてゆけないです。
辛いとか楽とかよりエネルギーを燃え上がらせて生きてるかどうか
679 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/04/28(木) 00:49:43.42 0
>>676 ニーチェの思想にニヒリズムは見当たらないけどね
むしろ逆だと思うのよ〜
ニーチェは「とにかく無理して生きろ!」ということを言っているんだよな 苦しんでいる人に「とにかく頑張れっ!」って片っ端から言ってまわるのと同じこと そんなの無理があるよなあ?
真剣勝負して弱ければ死ねんでも仕方がないって言ってるわけだから 今の社会で弱者が真に受けたら破滅する
弱肉強食でokということだと、どんどん死ぬ。
683 :
考える名無しさん :2011/04/28(木) 09:20:06.13 0
だって神はもう死んだんだから、当然、ニヒリズムはもう終わったんでしょう?
単純な弱肉強食の話になると、ニーチェが批判してたダーウィニズムになるよ。 ニーチェ的強者ってのは物理的・物質的に優位な存在のことじゃないからな。 過去に歴史が蓄積してきた多様なものを一身に体現している存在のことであって、 相矛盾するほどの多様性を抱えている点で、危うい存在でもある。 末人の方が気楽にこの世に存在していられるだろう。
そうそう生物や動物の様な肉体的・物質的な強者じゃない。 精神的強者のことだね。肉体的な遺伝子よりも、作品に重きを置くのかな。
勝ち組やらニートだ、弱肉強食だ。 システムの歯車にして、競争に駆り立て、 人々を蓄群に貶めて支配する道徳や社会のルール、 システムを疑い批判すること。それがニーチェのやったこと。 道徳や天国持ち出して生を縛る宗教、 同じように抽象的な人権や全体の福利とシステムへの隷属、 持ち出す近代社会、 抽象的な一般的なことしか言わない言えない科学。 それらは時に他人を押しのけ、 道徳の縛りやそれまでのシステムの制約を引きちぎってやまない、 人間の欲望生のあり方を殺す。 全体主義や国家の暴力、抑圧を正当化する。 それを可能にしてんのが直線的な時間や来世のステージ。 それを否定するのが超人であり、永劫回帰。
愛の概念で言えば、母が息子を思う気持ちや姉が弟を思う気持ちが最上の愛だらう。
>>676 辛さを厭う気持ちだけでしょうか? それと同時に、辛さに立ち向かおうとする気持ちもあるんじゃないでしょうか。
人の心は、一つの所に無い。同時に矛盾する心を持つものです。その気持ちに素直に生きるのが
ニーチェ的ではないでしょうか。
689 :
考える名無しさん :2011/04/28(木) 22:33:33.49 0
一般的現代人の価値観やら幸せやら理想やらを とことん突き詰めたらニーチェになると思う、それでニーチェは発狂しちゃったが 一般人は今日ものうのうと生きている、それは突き詰めてないからだと思う つまりは一般的現代の人間に根本的何らかの問題がある そのことをニーチェは身をもって示してくれたんじゃないかな、ある意味十字架にかかって つうわけでニーチェは結構好きなんです、みんなが問題をとことん突き詰めて みんながニーチェになれば現代の諸問題は解決する、みんなキチガイになるからねw
690 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/04/28(木) 23:15:23.66 0
未だ見ぬ数多の曙光あり。 その際何が前景に現れると同時に何が背後へと引っ込むか? 汝の宝のあるところには心もある。 最初は急激な変化に戸惑うがすぐに視野が開けて落ち着きを取り戻し、やがて 新しい現実を意外に素っ気なく受け入れるようになる。
人間界ではすべてが弱肉強食では無いけど、適者生存ではあるな。
692 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 00:14:25.79 O
精神的には信者が強いぞ。
693 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 00:19:27.71 0
小さなウィルスの増殖力たる適者生存の見本だね。
ルサンチマンが嫌いというなら時給750円で働いてみれ
695 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 01:16:42.81 O
最低賃金程度ならまだまし。 世の中には数多のブラック企業がある。 ニーチェ的にはブラックがお薦めなの?
>>688 そんなことは、ニーチェ的もなにも、殆どの人々が生きている中でやっている
ことだろ?
限界域を苦しんでいる一部の人達にニーチェの思想で迫る人達は、ニーチェの 思想を自分自身で極めるべき。逃げは許されない。
給料の高いNHKがお送りしております。
ニーチェの思想に心酔していると、他人が自殺しても、どうでもよくなって くるんじゃないかな? 運命を受け入れられない弱い人達は、仕方無いという ように。ある本を読んでいたら、精神科医でもそういう考え方の人がいて、 あーまた死んじゃった、という感じらしくて、であ然としたことがある。
>>698 NHKはともかく、あのいつも出ているらしい講師は、ずいぶん一般の人が、
抵抗感を持たないようにという意図なのか、異常にニコニコ媚びたような様子や
話し方をするのが好きになれない。視聴者一般を、逆に舐めている感じがする。
701 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 02:10:24.83 O
勝ち組がニーチェで自己正当化 ナチズムですか。
>>701 勝組はニーチェをやっても痛くも痒くもないことは確か
創元社のカラフルな新訳古典文庫?にツァラトゥストラが出てたな。 チラ見したけど、なんかツァラトゥストラの自称が「俺」だった(>_<) そういえば、おなじ文庫の純粋理性批判はわかりやすそうだった。 さすがに訳者が中村元だけのことはあると思った。
仏教の歴史のある国でニーチェみたいなものをあえて扱う必要は 感じない。一休さんでいい。
>>696 そうでは無いと思います。例えば、本音という言葉。
葛藤が生じた時、どちらかの気持ちだけが「正しい」という考え方があります。
正しく在りたいという欲求は、常に正しい存在を妄想させます。例えば、神、真理、本当の自分。
快楽主義もその一つでしょう。そうでは無く、葛藤する2つの気持ちをどちらも受け止める事が大事だと思います。
>葛藤が生じた時、どちらかの気持ちだけが「正しい」という考え方があります。 若ければともかく、歳を取るにつれて、人間の感情や価値観の複雑さを自分の 中に見るようになり、判断がつきかねることの方が多くなる面があると思うよ? 貴女のいう、素直に生きるとか、どちらも受け止めるということが実際には どういうことなのか、貴女の場合、結局、逃げや開き直りに使うことになる のでは?
解かったようなことを言うけれど、自分の人生は全然違ったりすることも 平気でしょう? (例えば、見返りを求めない母性に生きること<恋愛 とは言えない とかw) もし貴女が、葛藤するタイプの人間なら、自分の心の複雑さを知っているから、 安易に解かったようなことを言ったりはしないものだと思うよ?
>>706 他人を救うか見捨てるかで悩んだ時、救う事を選んだとします。
ああ私は「本当は」人を救いたかったのだ…と思うでしょう。
しかしそうでは無いのです。他人を見捨てようとした気持ちも本当の気持ちなのです。
その気持ちは、重く心に圧し掛かるでしょう。しかし、その気持ちを否定せず受け止める事。それが肝要だと思います。
そんなことは、貴女のご高説を聞かなくても、重々よく解かっていますよ。 貴女より、自分の心を見つめることに使ってしまった時間が長いのですよ。 貴女の場合、色々な思想や書物などに関して知識はあるようですが、それが 例えば、日常の出来事に対しての、より繊細な視点や洞察に繋がっていない ような気がするのですよ。それは、自分自身の葛藤や思索より、書物や新聞 やらの色々なインプットやその他の行動に時間を費やしているからだとも 言えるんじゃないかな。
>>707 解かったような事を「言うな」という命令に対し、我々は吼える獅子であらねばなりません。
何故なら、そのような命令に従う必要性は無いからです。
葛藤するタイプの人間なら、こうするはずだ…という概念は、あなただけの物です。
その点において、あなたもまた「解かったような」事を言っています。ですから、正直不毛なだけでしょう。
ダーウィン読んだことないな
ニーチェの凄味は、一切の自我の「救済」を人間的なものとして否定するところにある。
苦しい人間が自分の血肉で生み出した思想を 大多数の人たちは娯楽としてみてるんだろうな 映画とか、スイーツと一緒で、ポップコーン食いながら 見るコンテンツと同じ 今日、感銘うけていても、明日には忘れている
ってか他の国では今、ニーチェはどんな評価なの? オレは共産党一党独裁で拝金主義の中国と キリスト教会の力の強いアメリカと韓国の評価が気になるわ
715 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/04/29(金) 15:41:50.03 0
>>714 他人の評価なぞどうでもいい
『如是説法ツァラトゥストラー』訳良すぎる
“ツァラトゥストラー、齡三十の時、その故郷を去り、・・・”
訳文のリズムがたまらない
おめでとう!
>解かったような事を「言うな」という命令に対し、我々は吼える獅子で >あらねばなりません。何故なら、そのような命令に従う必要性は無いからです。 「言うな」などとは言っていない。仮に言ってもあなたのような人には無理だし 無意味なこと。ご自分の人生には無関係且つ全く架空のことを、さも訳知り顔で 唱えられる神経には驚くしそのことを伝えているだけ。しかし、語調が、一種の バイブルのようだw 硬直しているのを感じる。 一つの思想の枠の中に人間を縛ることはあらゆる場合に拙いことではないかと思う。 >葛藤するタイプの人間なら、こうする筈だ…という概念はあなただけの物です。 ならば、「葛藤無きところに思索無し」ということは、かなり言えるのでは? あなたのように、余りそういう過程を経ずして、知識として人間のアンビバレント な感情・価値観の共存を最初に肯定してしまうと、今度は、その知識を安易に乱用 することに繋がるのでは? 痛みも葛藤も経ずして簡単に自分の矛盾を許容する ことは、むしろ心から安易に目を逸らす逃げや開き直りへと繋がるのでは?
>>712 人間的なものは否定すべきものということに
人間は取るに足らない踏み台になるべきだから
神は 死に ましぇーーーーーーーーーーーーーーんっ!
曲解し誤読ニーチェ本も終わりってこったね
努力という言葉にルサンチマンを感じてしまう
女の又の力
ルサンチマンなら 奴の力 って感じかなw
725 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 22:00:07.20 O
726 :
考える名無しさん :2011/04/29(金) 22:01:50.79 0
そういえば、そんな名前の奴がいたな 何の理論を展開した奴だっけ?
727 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/04/29(金) 23:49:04.47 0
努力って突き詰めると自分をねじ曲げることになっちゃうんだよね うちの両親は努力厨だったけど 脱出するまで大変でした
ニーチェの書籍を探してます。 初めて読むのに、現在販売中の超訳 ニーチェの言葉 はどうなんでしょうか? 他に、お勧めの書籍ありましたら、教えてください。
手塚富雄訳のツァラトゥストラ ニーチェの言葉はやめといた方が
ニーチェって髭、食事するとき 邪魔にならなかったのかな? あんなに手入れもせずに伸ばしてると ご飯食べる時、ご飯粒がいっぱい髭に付いて困るはずなんだけど。。。 食べる時だけじゃなく、 飲む時も邪魔になるはずなんだけど。。。 ニーチェが ご飯を食べたり、コーヒーやビール飲んだりする時 どうしていたのか詳しい人、教えて下さい
ご飯www 介護されるてる時期は面倒くさいからって妹に剃られてたりして
つくづく女に恵まれなかったニーチェ・・・・
733 :
考える名無しさん :2011/04/30(土) 09:47:00.60 O
>>729 ツァラトゥストラって原文で読むのを前提にした直訳ってないの?
やっぱり、英訳かな。
手塚富雄訳に一票
>>728 >>ニーチェの書籍を探してます。
リストが少し古いかもしれませんが、
ツァラトゥストラ 手塚富雄訳 中央公論社
この人を見よ 手塚富雄訳 岩波文庫
善悪の彼岸 木場深定訳 岩波文庫
権力への意志 原佑訳 河出書房
全集では理想社のものを図書館などで(バラ買いでも)お薦めします。
ニーチェの著作は文学的表現が多いので、意味がよく分からなくても面白いと思う初心者は多いと思います。
>>736 訂正
善悪の彼岸を 信太正三訳 理想社ニーチェ全集第10巻 へ訂正
中村元訳があるものは中村元訳が良いよ。
>>728 初めて読むのなら適菜収の『はじめてのニーチェ』
もしくは『キリスト教は邪教です(アンチクリスト)』。
ツァラはその後でいいと思う。
『キリスト教は邪教です!』と『図解雑学ニーチェ』で良いよ
でも「超訳〜」書いた青森県の帽子かぶったオッサン、 次 どんな本書くのかな ちょっと興味あるわ それとも「チョ〜訳」1冊だけの1発屋かな どうせならチョビ髭やめて ニーチェみたいに髭伸ばしたら おもろいのに
超訳ってそもそも何?
超人ってそもそも何?
新しい価値観を自ら創りだす人 大地と自分の溢れ出る生命力に忠実な人 永劫回帰すら飲み込んですべてを肯定する人
新しい価値観を自ら創りだす訳 大地と自分の溢れ出る生命力に忠実な訳 永劫回帰すら飲み込んですべてを肯定する訳 ってわけか
スーパーマン
人類よりひとつ高みの存在
>>743 超人には二種類あってだね。正義超人と悪魔超人ってのがあるんだよ。正義超人の代表が筋肉マン、悪魔超人の代表がバッファローマン。要するにそういうこと
リング〜に〜稲妻走り〜♪
アシュラマンのテーマが最高 ブロッケンjrのテーマも良い
腐った現世を変えられる人>ちょうじん
現世が腐ってるかどうかは俺のパースペクティブ次第ですよ
753 :
考える名無しさん :2011/05/01(日) 22:53:42.57 O
大人の体は腐りたがってる。 病気だ。 力への意志? 身体を軽蔑する宗教を軽蔑する反宗教の旗を掲げることこそがニヒリズムの最もたるものであり、 力の放棄の最もたるものだろう。 それこそ没落を欲することだ。 病気だぜ。
たかが人間が太陽面するなw
>>754 原発利権に言え
そういえば、「太陽を盗んだ男」は良い映画だな
太陽はひとりぼっち
水爆程度で蒸発する分際で太陽のように生きんとするウルトラマンごっこは止めようねw 老化と病気が進行するだけだから。
太陽の映り方は人それぞれ 同じ一つの太陽なのに
すいません、ニーチェ初心者ですが ニーチェを知る「これぞニーチェ!」て本があれば読んでみたいです だれかご教示くださいますか。。。
まずはツァラトストラかく語りきとかを読みなさい
ファウストも手塚富雄が有名なんだっけ? ニーチェってゲーテのことはどう思ってたの?
ニーチェの思想ってうつ病治療に生かせないだろうか
>>762 英雄ナポレオンに認められた人間として高く評価してる。
765 :
考える名無しさん :2011/05/03(火) 01:45:47.22 O
ニーチェよりパスカルやキリスト教の方が健康的ですよ。 ヒルティの方がいいです。 ニーチェは恐らく最もバイタリティに溢れる人間の心身をも衰弱させ陰惨な引きこもり生活に導く毒です。 人間の豊さは太陽に比べれば無限に貧しいので真似しようとしないでくださいね。
766 :
考える名無しさん :2011/05/03(火) 01:50:07.49 O
音楽のプロが演奏の前日に読む分には効果的な麻薬かもしれないなあ。
767 :
考える名無しさん :2011/05/03(火) 02:49:24.08 0
ある人物なり事件なりを周囲の喧噪に邪魔されることなく、それらをあるがままに 見抜くだけの器量をゲーテは持っていた。 したがって、ゲーテは周囲の人が思っているよりもはるかに気苦労の多い人間だったに違いない。 「私が本当のことを言えば周囲は私を非難する。私が間違ったことを言えば周囲は私の言い分 を認める。」だそうである。
ナポレオンにとっては、普通の人は「人間」じゃなかったみたいだねw ラスコーリニコフとか真似しようとすんなってマジでw
>>763 わたしはキルケゴールをお薦めする
『死に至る〜』ね
第二部で笑えるよ
ゴールデンウイークだし今から引きこもってシオランの生誕の厄災でも読むわw 2ページ読んでみたがシオランは素直で誠実な奴だな。そして強い。 芸術家的にマイ世界で生きるのも一喜一憂だが、 誠実に生きるのも一喜一憂である。
なんだそのマニアックな本は
不吉で不気味な本です。
孤独な本です。
すこしエッチです(はぁと
ふーん
シオランは漫画や小説で使えるキャラしてるね。 Gackt系
モテそうな奴だ。
モテそうな哲学者に初めて出会ったw
「ニーチェという人はなんという幸運児か。 あの果てかた、多幸症で死ぬというあの果てかたを見よ。」by シオラン
シオランの画像まだー??
「生まれないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空間に恵まれることか!」by シオラン w 潔すぎw ここまで徹底していると気持ちがいいw ニヒリズムの極限的形式の権化かw なにかシオランは哲学者というか、存在そのものが哲学的だね。 シオランが哲学しているのではなく、シオラン自体が哲学だという感じだな。 シオラン自体が思考であるという感じがする。 デカルトは、我考える故に我あり、と言ったが、 シオランはその精神の働きそのものがシオランの存在そのものであるような人だと思うね。 だから、誠実なのだ。
若い時のシオラン画像まだ?
シオランは『絶望のきわみで』を6年ぐらい前に読んだ。 また読み返すか。
どこまでもネガティブな奴なんだな
シオランは深刻で重厚かつ晴れやかで、素朴で子供っぽい。 ニーチェが思い描いたようなものを、かなり体現してるようだ。
ショーペンもシオランとか言う人もただの厭世で終わってる ニーチェはそのニヒリズムを克服する何らかの方向性を模索してた気がするが
787 :
考える名無しさん :2011/05/03(火) 23:14:24.75 O
>>784 シオランはショーペンハウアーよりネガティブだが、ショーペンハウアーが闇を照らし出していくその明るさより明るい。
明りを備えているからこそ、闇の中で暮らせるんだろう。
象徴的には太陽のように生きることをニーチェは理想としている。 死と闇が支配する空間に打ち勝ち、生と光をもたらすことを。 シオランは人間としては異常に凄く頑張ってるw もの凄いといってもいいぐらいだ。
シオランは太宰治みたいな感じで好きになれん。
光は闇があってこそ存在理由がある。
>>781 太宰というより芥川じゃないの
「生まれてきて、すみません」
じゃ無く
「生まれないことを選びます」
という感じ
確かにw 「河童」の出産有無のシーンのブラックユーモアさは…
そういや、ニーチェを賞賛していたアルトー(「社会の自殺者ヴァン・ゴッホ」にて)も、 生まれてこないことを選択する云々てなことを書いていたな。
あまりに理性的になったり自意識過剰になると、人間は不幸になるだけだと思った。 世の中知らない方がいいことの方が多いんじゃないだろうか。 子供だった頃(大体小学校まで)ってなんであんなに毎日が楽しかったんだろうね。無意識の世界に居たからかな。
そこで超人を目指すわけですよ
超人とは具体的にどういった生活を送る者のことであるのだろうか。 モデルはあるのだろうか。
他人の目を気にせず自らの望がままに生きてる人。 蓄群から見ればワガママ自己中な人って評価。 って俺は思っているけど。
B型だな
超人って一番希少なAB型じゃないかな
ohとかrh-はどうなる
血液型が超人に関係あるなんてひと言も書いてないだろアホ
全部体に任せることって可能なんだろうか
ニーチェはオカルト
805 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/04(水) 19:29:15.82 0
>>795 余計なことを考えなければいいんだよ
今を楽しむことに集中するの
俺は「全ては無価値である」と思うようにしてから、 余計なことを考えるのが少なくなった。
言葉はモラトリアム
809 :
シオラン :2011/05/04(水) 23:21:46.16 O
私ならこういうだろう。 「どんな言葉でもいい、いまなおあえて言葉というものを用いるためには、酔っぱらってるか、気がふれている必要がある」
810 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 01:12:06.88 O
俺は神、俺以外に正しい存在はない、他人は信じるにあたいしないから信じない これを貫ける強さがある人間だけがニーチェを学ぶ資格がある
811 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 01:51:56.42 0
ニーチェの超人とは狂人だ。 狂いたければ狂いたい程狂えばいい! ニーチェになれ!そういう狂人が必要過ぎる現代だ!!!!!
>>810 ニーチェも最後には「俺も見よ」ってゆって狂った
813 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 02:02:09.07 O
俺も見ゆ?
俺を見ろ!!
余計な事を考えないってのは、ニヒリズムの初歩。価値の低落に対する反応だね。 そこから余計な事を考えていくのが、ニーチェ哲学。価値の低落の先にある姿勢。
816 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 11:30:25.43 0
この宇宙ってさ、ある種族からすると砂粒一つみたいなもんだろ で、人間はその砂粒に付いてる微生物みたいなもん この宇宙の外には宇宙の何兆倍もある生物がたくさん住んでるんだろうな なんかの拍子で宇宙の外から火炎放射器の炎が飛んできたら、宇宙なんて一瞬で死滅しちまうんだよ
817 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 11:38:28.42 O
ニーチェの理論て理想主義なのかね?
理想主義というか「絶対に無理なのにやせ我慢主義」だろうなw
ニーチェはシンデレラ症候群や熱狂的ファンみたいに他人に要求し過ぎる奴だね。 ニーチェは与えられることに関しては著しく積極的な消費者だ。 消費者として他者を評価し、他者に要求するのだ。
貴族というのは消費専門家なんだよねw
ニーチェは女の弟子だろ。
822 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 13:37:58.55 O
女ならニーチェの話の要点は聞くまでもなく、体得してる。 子供のニーチェが女の家で学んだことが、ニーチェの考えの核心だからなw
>>819 そして消費者として、これはうまいと他者に食らいついた挙げ句、飽きて新たな獲物を求めて見捨て去っていくw
出来れば一年毎ぐらいに男を乗り換えたいところなのだが、
どうしたことか、乗り換えるべきいい男が見当たらないではないか!
なんでこうもいい男がいないのか…。
ニーチェは実に女々しい奴である。
ちなみにキリスト教や奴隷道徳は男を女の子に仕立て上げようとする。 つまり「去勢」がその核心である。 事実上、勇猛果敢な人間は迷惑過ぎる存在なので、 遅かれ早かれ犯罪者として社会的に排除される仕組みになっているのだから、 それでいいようだが、 女々しいニーチェとしては、それが彼の幸せの可能性を奪ってしまっているものだから、どうしても許せないらしい。
ニーチェ自身去勢されたんだよw 女の子に仕立て上げられてしまったのだ。 でもキリスト教や弱者の道徳の影響より、 ガキの頃に女に囲まれて育った影響の方が大きそうだが。
827 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 14:13:44.49 0
シオランは「ニーチェのすぐ夢中になる態度がいやだし、彼の熱情までが気に入らない。」なんて書いてるねw
828 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 16:56:39.91 0
ニーチェは志願して戦場で衛生兵をしております。
ヴァレリーも、永劫回帰については気になって思考していたらしいが、 一方でニーチェの熱狂的なところは気に食わなかったみたいで。 ヴァレリーは、感情すら数学的に管理するのを理想としていたから、もとより真逆の志向だけどね。 ニーチェが衛星兵時代、血を見て失神したとかいう話を聞いた覚えがある・・・
衛星兵←なんでこんな変換が出てくる。SFにされてしまった。
ヴァレリー読んだけど内容忘れちゃったなあ。 一時期は一語一句に至るまで詳しく分析しながら読んでましたけど、 それを人に解説したら「難解だ」的なこと言われてそれっきりで。
832 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/05(木) 19:18:00.06 0
ニーチェの洞察力で書いた批評文とかは確かに凄いところがあるよ。 でも彼も現実の無意味さに耐えられずに現実を絡めた理想のマイワールド(ツァラ)を書いた。 そして超人という理想像を描いたけど、何もかも虚構でしかなかった。
834 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 19:33:13.25 0
俺も戦場で衛生兵をしたら失神する自信はある。
835 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/05(木) 19:33:49.53 0
理想の男性w
837 :
考える名無しさん :2011/05/05(木) 21:20:56.12 0
わかる人がいたら教えてください。 最近、よく見るのですが、ナチスはニーチェの思想を曲解して利用したと言うのは、何を読めばわかるのでしょうか? (ニーチェの言葉を書いた白鳥なんとかさんも言ってました) 私が読んだ本、ツァラトストラ、善悪の彼岸、この人を見よ、権力への意思を読んだ限りでは、逆に もしニーチェが正気でナチスを見たら肯定したのではないか?と思えるのです。 この本のここを読めばわかるよと言える人がいましたら、ぜひその本を教えてください。 ちなみに私は、もったいぶってるだけの人や、ソースも出さずに自分の意見だけ言う人は馬鹿にしてますw ごめんなさい。
>>837 それはナチスの実態を知ればわかると思います。
どの様な理念を持ってどの様な政治をしてどの様に行動していたか。
「夜と霧」という著作と映画はお勧めです。
ニーチェの妹がナチスシンパだったんだろ
女の男に対する影響力が落ちてきてるんだな。 その結果、女の理想とかけ離れた男ばかりになったのだ。 男は女に対して強くなったのだよ。
女の手のひらの上で踊る男が、ニーチェのいう「強者」なんだな。
ニーチェは女の傀儡だよ。代弁者だ。
女の肉体と大便は好きだが、女の精神は嫌い
ニーチェが好きな奴と二次元の女が好きな奴は去勢されてますw
837さんの仰るところはハイデガーの『ニーチェ』の問題だと思います。ニーチェは人間 のそれまでの歴史、知や精神のあり方を超えようとした。しかし、…現在の先進国国家社会 の様相、価値観を眺めて、そこでもニーチェが行き着いた場所を、未だに人間の精神は超え られずにいる、と思える。ニーチェがやったのは今の先進国で流通する世界観を先取りし たに止まり、決して超えている訳ではない。それがハイデガーの長大な『ニーチェ』の主題 であり、では何故そうなったかが問題になる。今の資本主義の則っている精神は、ニーチェ の力への意志でしょう。見事にそれを無意識に取り入れている。
等しからざるものを等しなみにしてしまう粗雑かつ凡庸な精神としての 論理学や科学、民主主義を散々批判したニーチェの思想が、 なんで資本主義と関連づけられてしまうのか。 リオタールやドゥルーズなどが、マルクスを参照しながら語るニーチェが全てだとは思わないが、 貨幣という数値に価値を還元する資本主義が「ニーチェ の力への意志」「見事にそれを無意識に取り入れている」とか、 何という大雑把かつ「あまりに人間的」な読み…。
>>837 『ニーチェ思想の歪曲 受容をめぐる100年のドラマ』と『エリーザベト・ニーチェ ニーチェをナチに売り渡した女』。
ヒトラーの思想形成に関しては『ヒトラーの秘密図書館』辺りを読めばいいんじゃないか(俺は読んでない)。
因みに『わが闘争(下)』の解説ではニーチェの思想との類縁性が指摘されてはいる。
『善悪の彼岸』第五章や『道徳の系譜』第一論文などが例に挙げられている。
本当にニーチェの思想とナチスのそれに類縁性があるかは、自分の眼で読み、自分の頭で考えてくれ。
俺が思うに、まずナチの人種論が前提としている進化論的世界観はニーチェが批判していた対象であること、
ドイツ的なものに対しても執拗に批判していたこと(ニーチェが愛国精神のようなものを記したものが何かあったろうか。逆の主張の方が目立つ)、
人種が混交して多様な可能性を生むことに肯定的な言葉を書いていたこと、等々でナチスとのズレがあると思う。
ユダヤ人に批判的な言葉も吐いているが、一方で、女性の理想はユダヤ人女性にあるとか言ってるし、新約とは逆に旧約聖書は讃えているし。
ナチが「ドイツ」とか「アーリア人種」とかいう、過去から存在してきた原型に(ナルシスティックに)範を求めるのに対し、
ニーチェは、未来の、未知の多様性に最大限に開かれていこうとしている点が最大の違いだろう。
>未来の、未知の多様性に最大限に開かれていこうとしている点 いいですね。
商人的根性への軽蔑を示していたニーチェだから資本主義は嫌ったろうけど、 社会主義や無政府主義への批判や、組織、習慣、伝統への評価を読むと、 『フランス革命の省察』のバーク的な、私有財産肯定などには賛成しそう。 ただし、創造的な個人が利用しうる環境として肯定するだけであり、 それ自体の価値を保守主義的に尊重するわけではないだろう(故にナポレオンは肯定される)。 だから左右両派のニーチェ評はどちらも一面的なんだよな。
『力への意志』に絞ってみると、現代資本主義、市場社会にみられる原理、最大限の利益を最小限 の作業で上げることを是とする原理に完全にマッチしていると分かるだろう。 全ては力の上昇のために価値として判断され、奉仕させられる。物自体、その人自体という観念は あり得ない。あるのは、関係項としての個体だけ。しかもそれが何か、ということは、どこまでも力 の上昇に役立つ、そのような解釈で量られる。《真理とは力の上昇の標識である。》《あらゆる認識は 生存に必需な誤謬である。》そこには力の上昇を希求し続け、あるゆるものをそのための使用価値 で量る、力(権力) macht の無際限の肯定がある。力への意志の思想は現代資本主義、国家にお けるあらゆる主体性を多分ニーチェの意図を超えて規定する。ここにニーチェ思想の最も深刻な暗 部がある。今、巷でニーチェが超訳で売れていることは、上記の符合と関係していると思う。ニーチ ェの思想が現代社会・国家の権力を裏付けてくれている、それはニーチェにとって、不本意な結末 かもしれない。ニーチェは意図せずして今の国家社会の力の思想を予告していた。一見現代に相反 するかにもみえるニーチェは、‘奴等’からすると、さほど危険性はない。搾取によって、価値増殖 のために、売るために手段を選ばない資本。尤もな理由をつけ他国の政治に介入する大国。その根 底にあるのが力への意志である。我々が現に生の原理としているのがこれだ。他でもない我々の 現実だろう。
左翼でも無政府しか認めないアナーキストとかならニーチェ肯定するだろうな
だからその「最大限の利益を最小限の作業で上げる」っていう金科玉条は、 市場価値という均質的な物差しへの従属であって、奴隷道徳なんだよ。 アナーキストはニーチェを肯定するだろうが、ニーチェは、創造者には道具としての奴隷が必要だと説いているから、 ニーチェ自身はアナーキストを肯定しないだろう。
あぁ一つ思い出したスマン、 ニーチェは功利主義に対して、「それは有用だから価値がある、と云うが、 "何にとって"という問いが抜けている」と言っている。「力の上昇」と「利益」を一緒くたにしてもらっては困る。 資本主義が、差異を生み肯定しながらも、資本という物差しそのものがリミットになっているってのは、 あのつまんない秀才君の浅田彰にすら理解できた話であって(というか、ドゥルーズが既にそう指摘していた)。
>>847 ニーチェはニーチェの、ナチスはナチスの理想を掲げてるだけだよ
その点では違いは無い。あとは好みの問題だ
おや?いつの間にかこんなにスレが伸びていたとは。 ところでユングについてはどう思ってるのかな?? やはり哲学板的には心理学の話は禁忌なのかな? 『タイプ論』を読めばユングも充分哲学的な話題になると思うし、ヒトラーとの関係で言えばかなり興味が湧くはずなんだけどね。 シオランとエリアーデの関係から言ってもユングは決して無関係ではないと思うのだがな。
856 :
考える名無しさん :2011/05/06(金) 20:38:36.39 O
心理テストで感銘を受けたのは、アメリカ人が作った心理テストで分かる事は、 アメリカ人から見てどうなのか、って事だけっていう話だな。 心理テストは、心の本質を問うような物では無い。自分から見て相手がどうであるか。 つまり、中心は自分である。ユングの心理学から分かるのは、ユングから見て他人がどうであるかだ。
858 :
考える名無しさん :2011/05/06(金) 20:40:13.06 O
859 :
855 :2011/05/06(金) 20:58:26.69 O
>>857 否。自分もユング心理学以外の心理学は全く解らないし興味が無いんだよね。
それと、ニーチェ自身が『偶像の黄昏』の冒頭で自らのことを「一心理学者」と言ってるんだけどね。
>>859 そりゃ、ニーチェの哲学じゃ、ニーチェから見てどうであるかしか言えないからなw
ニーチェの解釈がニーチェ哲学の全てであり、それに価値を見る事も見ない事も無意味だわな
他でも言ってね?>自分は心理学者 物理学者と言わなかっただけマシという感じ
今の社会に流通する〈勝ち組ー負け組〉、を初めとして、個人の単位でも、または企業の単 位でも、国家の単位でも、どちらを向いても力と、支配と、闘争しかない。それは明らかな ことでしょう。財の多寡が権力を表すなら、それも無関係ではない。あと、力への意志の思 想では、力の感情の上昇をもたらすかによって全て量られる。もたらすのが真理である。 資本が資本によってリミットをもつのは当然で、だからどうだというのか。資本だって力 の、支配を及ぼす権力の単位ですよ。世界企業とちんけな町工場と、どっちが企業として 強いか、支配力を持つのはどっちか、我々は暗に比べるでしょう。現代世界を動かすのは 様々な力(権力)の単位です。どちらが相手を捩じ伏せるのか、搾取するのか、そういっ た支配をめぐる闘争が重要だとしている。それこそが新たな価値定立の原理である。その 力への意志の哲学として、ニーチェは時の政治権力に活用されるであろうし、それは読み 返せば当然であろうと思える。そのようにしてニーチェ哲学は現に生きている。
863 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/05/06(金) 22:27:21.84 0
「悲劇の誕生」 模範的な紳士であり牧師であった心優しい父のむごたらしい死を目の当たりにし、 神を憎むようになる。 神を憎んで信仰を捨て学問の道で一通りの成果を上げるも、学術界の退屈で 卑屈なしがらみに耐えきれずにワーグナーやその取り巻きとの交友に走る。 ワーグナー音楽に自らの理想とする異教的典型を期待するも、しだいに大衆迎合的 な人気取りの色彩を強めていったワーグナーに幻滅を感じて絶縁状を叩きつける。 ついには彼の頭上には自分が身を委ねるべき「頼れる父親」が誰もいなくなった。 彼の主要な著作活動はこの時点から本格的なものとなってくる。 「父を失ったものは自ら父となる。神を失ったものは自ら神となる。」 現代思想のゴッドファーザーともいうべき思想家ニーチェの誕生である。
ニーチェとはニートの進化系である。
865 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/05/06(金) 22:40:52.21 0
「神さまはどうしてボクのパパにひどいことしたの? 神さまは口から泡を吹いてピクピクしているボクのパパをかわいそうだとは思わなかったの? あんなに神さまのことを好きだったパパをどうして殺しちゃったの?」
866 :
SPHERE ◆ZS5FJPpAlk :2011/05/06(金) 22:56:03.82 0
第七天の歌をうたえ 十字架にかけられた神=ディオニュソス
867 :
855 :2011/05/06(金) 23:25:44.55 O
>>860 自分にはあなたの伝えたいことがいまいち掴めないんだ。
>>860 そうなの?それは知らなかったよ。
このスレで書き込みをするのには自分はまだまだだな。
とにかくレスありがとう。
868 :
855 :2011/05/06(金) 23:38:27.70 O
867の書き込みの下のアンカーは
>>861 にでした。察しの良い方々ならわかってくれるとは思いますけれども。
どうでもいいことで無駄レスすいません。
>>857 心理学はまだまだ確立していないね。
女性が占いの代わりに頼りにするツール。
>>858 女の身体の中で好きなのはお尻と肛門。あと顔。
うんこが出てりゃ最高だな。美人は括約筋が発達しているから太いの出す。
SMクラブで8、9人プレイした。
870 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 00:51:36.55 O
アホが小難しい事話すんじゃねーよカス死ね
871 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 00:52:28.94 O
>>871 好きな女に刺されて死ぬのなら本望。
お前は一生右手が恋人www
874 :
855 :2011/05/07(土) 01:32:34.06 O
流れ的に
>>871 は女性の書き込みなんじゃないのか?
そういえば、この板にもIDは表示されないんだな。個人的にはその程度の板ではないと思えるのだけれども。全板、都道府県まで表示されればいいのに。本当。
と、いっても自分は広西チワン族自治区どまりなんだけどさ。
875 :
855 :2011/05/07(土) 01:45:08.40 O
それから自分は少年という齢ではありませんよ。確かに高齢童貞ではあるけれども。
>>862 ニーチェがいう「力」とか「権力」は、世俗的な権力とイコールじゃないよ。
そうでなきゃ、超人を、世俗的な権力から距離を置きながらも思想的に裏から世界を支配するカーストとして描く必要がどこにあるのか。
世俗の権力がニーチェ的な権力意志の対象なんだったら、社会階級としての「貴族」と自分の言う貴族とは違うとわざわざ断ったりしないだろう。
ニーチェ的な力は、陶酔感情と結びついた、芸術的で創造的なもの。金を稼ぐための創意工夫とは違うんだよ。
あんたは資本主義という体制の側からしかニーチェが解釈できないわけで、こういう存在を末人というんだよ。
「ニーチェは時の政治権力に活用されるであろう」かも知れんが、「そのようにしてニーチェ哲学は現に生きている」んじゃなくて、逆に殺されてんだよ。
ニーチェ曰く「ヘンドラー(商人)よりもむしろヘンデル!」。
>>862 さんは、ニーチェ自身の思想と、
その文字面を都合よく解釈した資本主義者という仮想の存在の言い分とを区別せずに語ってる感じだが、
そこは区別しようよ。
そんなに>862の話はおかしいだろうか? 町工場と世界企業を較べて、我々はどちらに引け目を感じるか。 財力に引け目を感じるとするなら、それは力を感じるからだ。 我々は、我々が価値があると思うものに力を感じ、そういう風に振舞う。隷属しようとする。
ニーチェだって、ユダヤ人の銀行家たちを世界支配の戦略に入れたりするような所もあるよ。
その意味じゃ、経済的な力も一つの力として得ようとする姿勢が無いとは言えない。
だがそれは、金銭的な価値に重きを置いているからではなく、自らの創造性を発揮する為の道具としてでしかない。
>>862 の言う力は、ニーチェには道具でしかなく、価値ではないってことだ。
まぁ、「我々」とかいって、隷属してしまう自分の奴隷根性が普遍的なものだと考えるのは、
ニーチェ的な「権力量」に乏しい人間の思考回路としては当然でもあるから、その意味ではどうしようもないが。
実際、世の大多数が多かれ少なかれ「隷属しようとする」んだろうけど、その隷属の対称は超人とは関係ないよ。
880 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 13:41:23.41 O
おまいらね、話は簡単なんだよ。 女にとって魅力的なものには力があるのだ。ok? 女を魅了する力、それがニーチェが魅了される力であり、ニーチェのいう力なんだよw ニーチェのいう力は要するに「魅力」なのだ。
男も女も魅了する力だね。それも人類すべてって訳では無くて、自分と似た魂に向けられる感じかな。
ニーチェ→古代ギリシャ→同性愛公認
ヒトラーは確かに魅力的だった。 ニーチェなら、あばたもえくぼということで総統を熱狂的に崇拝し、ナチの一翼を担った挙げ句の果てに、幻滅し、殺されるままに任せたかもな。
884 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 14:45:41.17 O
ニーチェは理想を現実に押し付けようとするからな。芸術家や作家に比べても、空想と現実の区別がつかなくなりがちであるし、 しかもそこには「事実などない」やら「全ては解釈である」と言っているように、 確信犯的に区別しないようにすることで、 自分を盛り上げたがっている冷めきった自分がいるのだな。極北の民。 熱狂的なファンは熱狂したい連中であり、 氷の心臓を動かすために熱狂が必要な生ける死体なのだろう。 熱狂的な空気を乱してみたまえ。憎悪されるぜw
止まったら死ぬという危機感を持って敢えて騒ぎたがる奴は、死ぬほど不健全なやつだろw 健全なのは、「不動」の真実と真理を追求する方だね。
887 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 15:00:20.36 O
>>884 しかしあくまで芸術的な熱狂だと思うよ。表現や感動それ自体を享受するみたいな。
だから政治なんか関係無いし、酒やドラッグなんかを用いてない場合は正統的だと思う。
>>888 ニーチェは熱狂出来さえすれば政治でも芸術でも何でもいいんじゃねえの。
熱狂的な奴らは、躁鬱病だよ。 瞬間的にギョッとするほど豹変する極めて不安定なおぞましい精神の持ち主なんじゃね。
>>890 それは偏見でしょw
普通の人でも一時的にテンション上がったりするじゃん。
ニーチェ自身もまた権力と成り得る。 偉大な哲学者として。 その権力への意思から自由になるには、 哲学という価値に隷属しない事が必要だ
「高揚した感情の≪持続≫が偉大さを形成する」とニーチェはどこかで言っていた。
一瞬の高揚感に酔うような奴ではなく、カント風に言えば「崇高」の感情を持続できるほどに強い者こそが肯定されているわけだ。
これは勿論、酒や麻薬で意識が混濁している状態でもなければ(ニーチェの言う陶酔は、感覚力の増大だから)、
金が儲かってテンションが高まってる状態でもない。
その金を使って何かクリエイティブなことをしようとするのなら、その時の高揚感はニーチェ的陶酔に近いかも知れないが。
>>889 ニーチェは愛国的熱狂(特にドイツのそれ)には皮肉っぽいことしか言ってないだろう。
第一、ナチスは或る意味「民主主義的」な熱狂の中から成立したわけで、その辺もニーチェ的には腐臭を覚えるだろう。
895 :
バッカス :2011/05/07(土) 18:27:45.90 0
「権力への意志」の概念について
「
>>862 」さんが理解するようなニーチェの「力」論は、何もニーチェを出すまでもないエジプト文明以前
の古代社会からの力と富と社会についての通俗的常識の一つを述べただけのものだ。それは「既存」
の権力意志に過ぎず、真の力の発動において付随的にそのような現象が現れたとしても、そもそもそ
のような「単純で通俗的な」力と富の論理はニーチェによって破壊された瓦礫の一片だろう。それは、
菅や小沢、会社内での専務と常務の派閥争い、女社員同士の争いなどのレベルと変わらない。
また、非常に内面的な思考力を持つニーチェが「世界企業とちんけな町工場と、どっちが企業として
強いか、支配力を持つのはどっちか」などということが問題となるレベルのアタマの中身(次元)で
あったとは思えない。なぜなら、社会的に置かれている環境や境遇がどのようなものであろうと、
内面的な精神の自己超克によってそれらに対処し生きていくことが、ニーチェの多くの著作で強調され
ているからだ。
ツァラトゥストラは国家サイドに群がる権力者たちに対してこう言っている。
「この余計なものどもを見るがいい。かれらは富を獲得し、そのためにますます貧しくなる。かれ
らは権力を欲する。そしてまず、権力の鉄梃(カナテコ)である多額の金銭を欲する―この無能力者ど
もは。」(「新しい偶像」 第一部)
ニーチェが言う新しい価値定立としての「権力への意志」または「力への意志を」を考える時に、
重要なキーワードであると私が思うのは、ニーチェ全般の著作を通じてのキーワードの一つである
「奉仕」という心情や人生態度であり、それがその力の行使者にあふれるようにあるかどうかということだ。
「搾取する」精神などはツァラトゥストラが再三罵倒している。
や、
>>895 さんの仰ることは概ねその通りだと思うんだが、最後がちょっと。
「こんにち至る所で世人は、科学的な仮装をしてまで『搾取的性格』を廃した、来るべき社会について喋々しているが、
私の耳には、一切の有機的な営みを停止した生命の発明を約しているように聞こえる。
『搾取』は、腐敗した社会や、不完全で原始的な社会に属するのではない。有機的な根本的機能として、生あるものの本質に属するのだ。
それは、生命の意志である力への意志がもたらした結果である」
『善悪の彼岸』第二五九節
897 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 19:05:28.47 O
>>894 でも志願して戦争いって、想定外のグロさに失神したんでしょ?
一時的に熱狂したんじゃないのw
ニーチェも若気の至り。ワーグナーにも熱狂していたしね。
前線で勇敢に戦いながら『論考』の草稿書いたり、 莫大な財産全て放棄したウィトゲンシュタインには敵わんなこの人結局
進んでなった乞食
ウィトゲンシュタインとは、哲学の仕方がはなから違うんだから比べても意味無い。
有機的な営みにおける食とは搾取に他ならない
903 :
バッカス :2011/05/07(土) 21:06:49.92 0
>>896 「搾取する」に関しては私の読み込みが浅かったです。
私は「搾取する」を、盗むとか、かすめとるとかの意味で使ったのですが、確かに第二五九節でも「搾取する」
という言葉が使われていますね。文脈から言っておそらくドイツ語でもその意味通りだと思います。
『ツァラトゥストラ』の第1部から第4部はそれぞれ1883年〜1885年にかけて完成し、『善悪の彼岸』は1886年に
完成させていますけど、手塚富雄氏の解説によれば(世界の名著 第46巻)、ニーチェは『ツァラトゥストラ』と
『善悪の彼岸』執筆の間の期間に、「マキアヴェリを読んで政治と道徳との根底について考えを鍛えた。その
最初の成果が『善悪の彼岸』である」―だそうです。
これから分かったことは「権力への意志」の思想は、『善悪の彼岸』の著作以降、『ツァラトゥストラ』よりも
数段発展しているということです。つまり「権力への意志」の思想を中心にニーチェの思想の全体像を捉えよう
とする時は、『ツァラトゥストラ』にこだわり過ぎてはいけないということです。
『善悪の彼岸』の「高貴とは何か」の章で書かれている第二五九節に即してニーチェを読めば、搾取することも
ニーチェの考える「高貴さ」の中に許容されるということになると思います。
904 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 21:39:42.42 O
ニーチェも無い物ねだりしてるだけだな。
907 :
考える名無しさん :2011/05/07(土) 23:52:11.55 0
《偉大な人間のうちには生の特殊な固有性ー不正、虚言、搾取ーが最大にある。(『権力への意志』 no.968) 《生長せざるをえないということ、ーおのれの権力を拡張し、したがって他者の力を体内へと摂取 せざるをえないということは、生あるものという概念に属している。》(no.728) 《国家ないし組織化された非道徳性、ー内に向かっては、警察、刑法、身分、商業、家族であり、外に 向かっては、権力への、戦争への、征服への、復讐への意志である。(同no.717) このように、支配した他者の力を摂取(注:または搾取ともいう)することは、権力 macht の あり方としてニーチェは重要視している。また、国家に関しては、機械的組成としての国家が民衆 の力を衰退させることへは否定的だが、no.717にあるように、非道徳性を伸ばす装置としての国 家は認めている。ニーチェの国家観には近代国家と民族国家という2種がある。双方あると知る べきだ。
それから、『ツアラトウストラ』に「贈り与える徳」というのがあるが、これは奉仕を美徳とするも のではない。《まことに、こういう贈り与える愛は、価値のあるあらゆるものの強奪者にならざる をえない。》とあるように、自ら世界を解釈し、闘争し、支配し、価値創造することをいう。それは おのれの生命さえ犠牲にし、蕩尽していく。その蕩尽を大地への贈与としたのだ。これを「奉仕の 美徳」を唱えた章とみるべきではない。『ツアラトウストラ』の「贈り与える徳」にこうある。 《わたしの兄弟たちよ、大地に忠実であってくれ、君たちの徳の力で。君たちの贈り与える愛と認 識とが、大地の意義に仕えるように。そうわたしは君たちに切願する。》《わたしがしているよう に、それらの飛び失せた徳を大地へ連れ戻せー肉体と生へ連れ戻せ。そしてそれらの徳が大地に 意義を与えるようにせよ、一つの人間的な意義を。》 これは「奉仕の美徳」とは無関係だ。誤解しやすいが、この辺がニーチェ思想の肝といっていい。 ニーチェ愛読者に特に言えるようだが、ニーチェは道徳に縛られる人間、同情や奉仕や、平等や 、その手の思想を嫌悪してるってことを、どうも掴めてないというか、教養人がひた隠しにする獣 性を肯定的にみてることを、把握出来てないんじゃないかね。だから戦争を肯定してますよ。感情 的で復讐にみちた殺し合いね。ちょっと身も蓋もないともいえる。けどそれがニーチェなんです よ。
>>906 同類の三島の方が向上心はありそうだな。
ニーチェは自分自身が力を持つことにはあまりこだわってないね。
ある他人の力を利用出来れば、その他人の力は自分の力だと感じるような奴だな。
910 :
考える名無しさん :2011/05/08(日) 00:10:24.40 0
RT @Akira_Shimada 渋谷反原発デモ‼開始前の集会、福島みずほさん、 宮台真司さんらのスピーチ撮影。宮台さん「こんなデモは、相手にとっ ては痛くも痒くもない。本当に効くのは不買運動。原発関連企業の東芝 ・日立・三菱などの不買運動を」 #miyadai 2時間前
まあ自分自身の長所にはこだわってないし、 誇ってもいないし、軽蔑さえしてるところがニーチェの良いところだろう。 スケベな美女みたいなもんで自分自身の価値には盲目的なんだよねw
912 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/08(日) 00:48:48.40 0
自分の価値には気付いてるでしょ 他者(サル呼ばわりしている)からの評価には・・・ どうだろう、微妙に気にしてはいるけど、 それで考えが変わった訳では無いよね 至上を目指す人にとって 近親者、特に女性の存在は煩わしいものだよ >ニーチェの妹
913 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/08(日) 00:51:29.13 0
>>905 無いもの?
有るのに人が目を向けないものに
気づかせようとしたのではないかな
ニーチェは梅毒だか病弱でツァラトゥストラを書き上げた訳だが その後発狂して更に苦しい状態に陥った その状況でも永劫回帰といえただろうか
>>899 行動だけ見れば何だかアッシジの聖フランチェスコみたいだが、ウィトさんは家系的に自殺願望が強い鬱気質だったらしいからな。
『論哲論』みたいに、論理構造を究明することで哲学の問題を全て整理整頓完了したことにしたがるのは、ニーチェ的には生の弱さの表れだろう。
俺はウィトさんは20世紀最大の哲学者の一人だと思って、ほとんど崇拝してるけど、ニーチェ的な問題を克服したわけではなく、最初から無関心だっただけだろ。
>>909 んなこと言ったら、天皇に象徴される「文化」と「みやび」っていう美に暴力を収束させることで、
天皇主義者である文学者としての「自分の力だと感じるような奴」だよな三島ってw
だいたい、ニーチェが三島と同類てのは、認識が雑すぎ。全共闘との討論なんかに見られるように、三島は未来に関心無いし。
ニーチェがあの時代の日本に生まれても、天皇万歳を叫んで切腹したりはしないだろ。その意味で、北一輝ならまだ分かるが。
>>914 発狂した晩年が苦しかったかどうかなんてニーチェ本人にしか分かんないだろ。
実際に会見したシュタイナー(人智学の人ね)は、ニーチェの崇高な印象に感銘を受けたとか書き残してるしな。
むしろ、思索の重圧から解放されて幸福だったかも。
通俗的な高揚と、芸術的な高揚を分けて考える必要は無いでしょう。どちらも高揚ですし。 あるいは、精神的な徳と、肉欲を分けて考える必要も無いでしょう。それこそルサンチマンです。 肉欲を肯定し、精神の高揚を受け入れる。芸術の偉大さと、肉欲の恍惚は同じなのですよ。
>>895 富だけがニーチェの言う権力では無い、というのはその通りでしょう。
しかし、富もまた権力、即ち力であり、それは芸術と大差無いのでは無いかと思います。
全ては解釈、という言葉が示すのは、通俗的な富もまた内面的な問題に過ぎないという事です。
ニーチェが超えようとしたのは、芸術も含めた「権力に隷属する」内面的問題ではないでしょうか。
芸術が「本質的に」政治や経済活動より上である、なんていうのは勘違いでしょう。 芸術に興味が無い人を下に見るのは、神官が神を信じない人を蔑むのと同じ事です。 ニーチェは単に、芸術の方にしか興味が無かっただけでしょう。 それを幼子のように、素直に表現しようとしただけではないでしょうか。
>>916 >芸術の偉大さと、肉欲の恍惚は同じなのですよ。
それぞれ違うと思うよ。前者の感動を味わったことがある人なら分かると思うけど、
ほんとに感動した時って鳥肌と言うか身体の内部からジーンとしてくると言うか、
言葉にならないし固まって動けなくなって涙が出てくる感じ。
男に肉欲の恍惚なんてあるかね
多分に主観的
「ニーチェ、カント、ショーペンハウアー、全て読んだが 尊敬できない。彼らはさして重要でないことを議論 するのに多くの時間を使い過ぎている」(マルコムX)
他人の尊する者を否定するのに自らが尊する者の言葉を借りるその愚かさよ
>彼らはさして重要でないことを議論するのに多くの時間を使い過ぎている この地球上にほんとうに重要なことや必要なことはあるのかどうか。それは個々の主観的な価値観によって変わるだろう。 人間共通の生存の為の水に価値を感じるのは、それが不足している時や欲している時だけで、 満たされている状態ならば水のことはたいていは忘れている。
すべては解釈があるのみだからな 真理など有りません
926 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/08(日) 17:03:53.57 0
>>907 おやおや・・・
どうもこの手のタイプは
個人を離れて組織論になると
荒っぽくなるねえ
でも、不正とか非道徳性は、まさか「人間的なもの」
を基準に定義している訳じゃ無いよね
搾取やら戦争やら復讐やらも、
これまでの「人間的な」行為とは意味が違うんでしょ
あくまでもツァラトゥストラに達した人たちにのみ
ニーチェはそれを認めてるんだよね
『権力への意志』、
未だ上巻がみつからなくて未読だから
一部抜粋だけではなんとも言えないけど
927 :
シオラン :2011/05/08(日) 17:18:01.77 O
「Nのやつ、何ひとつ造り出したってことがない。困ったものだ」と君はいった。 「そんなこと、どうでもいいじゃないか。Nは生きてるんだからな。 奴が本なんかひねり出して、計画の〈実現〉なんてどじなまねをしてたら、僕ら、さっきから一時間も奴のことを喋ったりはしなかったろうさ。 仕事をするという利益より、どこかの誰かであることの利益のほうがずっと貴重なんだ。 創るのなんぞはたやすいことだよ。 むずかしいのは、傲然として自分の才能を行使しないことさ」
>>917 >>918 言葉を変えて何度言われても全然理解が進まないことから見て、骨の髄まで賎民的だな。
経済的な力は、例えば貨幣経済から隔絶された囚人が煙草を貨幣代わりにしたりするように、
需要と供給に従って、最大公約数的なものが価値基準になるんだよ。
芸術のように、何が美であり価値があるか、を自らの力の表現として新たに打ち出す行為とは根本的に違うでしょうが。
あなたは単に、感性に乏しいからニーチェを読んでもニュアンスを掴むことがまるで出来ないってだけ。
あと、「芸術」という言葉を、額に収まった絵画や、本に印刷された活字、 舞台上のパフォーマンスみたいに固定的なイメージで考えない方がいいかも。 ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」みたいな姿勢もあるしな。 要は、身体的な力=感性がもたらす創造性と多様性が根源として考えられているという一点が大事。
930 :
バッカス :2011/05/08(日) 18:53:43.93 0
>>908 >>この辺がニーチェ思想の肝といっていい。
変な肝を作らないように。「贈り与える徳」をもう一度よく読み返した方がいい。とくに三節あるうちの最初の一節を。
言おうとしていることは「贈り与える徳」を与える相手は「大地」だと言いたいようだ。ここで語られる「大地」とは、
序説で「超人は大地の意義である」という言葉の通り、「天上」に価値を求めるキリスト教的な生き方を否定した
「地上の生に忠実なこと」を表す。その大地に忠実な生き方を「贈り与える徳」としてなるべく多くの人々に贈り与えようと
している。贈り与える愛が、「価値のあるあらゆるものの強奪者にならざるをえない」のは、最終的に贈り与える
ためのプロセスだということがテキストの前の数行に書いてあるでしょ。
《わたしの兄弟たちよ、大地に忠実であってくれ、君たちの徳の力で。(中略)一つの人間的な意義を。》の引用
された訳文は、上で述べたことを参考に動詞と助詞に気をつけて読み返してみてください。
>>ニーチェは道徳に縛られる人間、同情や奉仕や、平等やその手の思想を嫌悪してる
これは初歩。「
>>895 」で述べた「奉仕」という語は、ニーチェが使うキリスト教的な「奉仕」の精神だとか「利他主義」
ではありませんよ。
チベットの僧が中国軍に拷問をうけてるわけだが それでも永劫回帰といえるだろうか
チベット仏教ではこの世はオマケで死んだあとが本番
ナポレオン曰く「私は芸術家として権力を愛する。音楽家がバイオリンを愛するように。 権力から、音、調子、調和を引き出すために愛している」。
934 :
考える名無しさん :2011/05/08(日) 19:52:12.97 O
「ニーチェさん、なぜ力を求めてやまないのでしょうか」 「そこに魅力があるから」
935 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/08(日) 20:42:39.05 0
ちなみにプロメテウスとは簡単に言うと、神から火を盗み人類に与えた者のことです。
苦労したことがない人って芸術至上主義な傾向があるね。 鳥肌立って涙が出てくるぐらいで芸術云々言えるならそこらへんの 感受性豊かちゃんと同じ戯言。 人間において唯一価値があるのは快楽だよ。 芸術より美しいものがあってそれは自然だということに 若いころはなかなか気づかない。
アンチクリストは面白いが、ツァラトゥストラは蛇足。 飛躍しているし、超人とか。
確かに全く作為の無い自然の美の方が勝ってるかもしれんな。 でも「自然体」の表現やその人自身も美しいよ。
自然べた褒めってエマソンだよな
1.人間は人生に何らかの価値を持たねば生きていけない 2.全ての価値は真理ではない 3.1、2に気付いた者は全ての価値が幻想であると知りつつ、ある価値観の中でその自己矛盾の中に生きねばならない。 ニーチェ自体の言説も、2、から真理ではない 結局、あれ(Be)、どうでも、に至るんだろ。 なら般若心経の方が上。ニーチェ一人vs仏教徒の 段階で多勢に無勢。
944 :
考える名無しさん :2011/05/09(月) 01:49:35.98 0
‘生き方をなるべく多くの人に贈り与える’ことは出来んでしょう(笑)それは違うと思うぞ。 ‘価値のあるあらゆるものの強奪者’であることは‘贈り与える’ための前プロセス。も違うと思う 。2つは同じことを言ってると思った方がいい。価値評価する基準を持つことで価値を自分のもの とし、言い換えれば他人に影響されぬように、事物を評価することで生を高揚させ、闘争にさいし て死をも恐れず自己を消費してしまう。それが‘贈り与える’ってことだ。そういった生を形造るこ とが贈り与える徳とされている。そう考えた方がいいよ。誰かに、または大勢に、贈り与えることが 称えられているのではなく、使い道のない自己浪費をし、輝いている。そのことを‘贈り与える’と している。誰にも、何にも、役立つことのない犠牲。消費。輝き。それが徳であり、大地の意義に仕 える、とされている。難しいけどね。ここでの‘贈り与える’はむしろ価値評価し、それによって生 を、自己を高め、超える、の意味でとるべきだと思うけどね。
945 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/09(月) 02:12:58.36 0
>>940 しかし『ツァラトゥストラ』こそ
ニーチェ思想の真髄なんだよ
>>939 文面だけ見たら、愛人連れてどっかへ観光旅行に行く脂ぎったジジイの意見にしか見えないんだがw
ニーチェ的には、快を快として感じる前提となる価値基準が、どれほどの権力量を示しているかが問題。
単なる気分の高揚やら熱狂やら、快そのものに価値を置いているわけではない。
>>943 仏教徒の数なんかを引き合いに出すのは蛇足。
仏教徒を自称する連中の中に、色即是空を真に悟っている者がどれだけいるのか。
文字面だけ理解するのはねバカでない限り簡単。存在の根底から色即是空と一体化するのは超人的。
>>945 ニーチェがなぜ女にフラれたか?
相手の話の腰を折って勝手に脱線暴走したからだよ。
会話において調子コキは嫌われる。
>>943 何だ感だ人間にとって一番の価値って心身の健康だと思った。
>>947 話をするときに一々相手に合わせたら
超人じゃなくなるよ
950 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/09(月) 18:14:53.23 0
>>943 3の結論がよくわからない
何故自己矛盾の中に生きなければならないの
俺は
>>943 じゃないが、読めば分かる話では?
価値をもって生きなきゃいけない(1)が、どんな価値も偽りでしかない(2)からでしょ。
最後の「ニーチェ自体の言説も、2、から真理ではない」がさらに矛盾を補強しているわけだろう。
ニーチェの言説自体からこの2が出てくるわけで、ニーチェの言説も自己矛盾て話なんだろう。
だが、そういう
>>943 の懐疑自体が、偽や矛盾を排しようという意志の現れであって、
より強い真理を求めようとする姿勢が既にニーチェ的だと言えなくもない。
永劫回帰の教えは、ほとんど自己矛盾を動力として運動している教説なのかも知れない。
自分の人生の価値を真理にするか、 2の「全ての価値は真理では無い」を 「全ての価値は、等しく真理か否かで測ることはできない」 にすればいいのに ・・・というより、 そこまで行ったんだと思ったのにね
>>945 本人やお前らが真髄と思ってるだけで、超人なんか実現不可能なんだから
蛇足も蛇足。
遺稿『力への意志』を読むと、論理学をこう言っている。 《論理学を生長せしめた欲望の領域は、畜群本能を背後にもっている。いくつかの場合が たがいに等しいと想定される前提は「平等の魂」である。了解させて支配することを目的 としている。》(『権力への意志』no.509) 《論理学は、いくつかの同一の場合があったならばという条件に結び付いている。事実、 論理的な思考や推理がなされるためには、この条件がみたされていると虚構されなければ ならない。言い換えれば、論理的真理への意志は、すべての生起の根本的偽造が想定され おえたのちにはじめて、成就されることができる。》(同no.512) ニーチェにとって、論理的であること、無矛盾であることは真理であることの理由には ならない。言い換えれば矛盾もまた、真理を損なうことはない。真理とは生長に必要な誤 謬である。己に真だとされればそれが真理の証になる。己の生長に必需か否かだけが基準 になる。遠近法的仮象の意味もそこだ。
955 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/09(月) 22:30:24.92 0
956 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/09(月) 22:32:29.69 0
>>952 に書いた「等しく」は「全て」にでは無く
「できない」にかかってるんだよ、念のため
結局、人類は破局的な現象が起きないと目を覚まさないのか?
>>953 「超人」は、実現すべき何らかの存在形態というわけではなく、
自らを超克しようという絶えざる登攀の力強さこそが、
永劫回帰する世界を支え肯定する態度として求められてるんじゃないの。
『ウォッチメン』のドクター・マンハッタンみたいな文字通りの「超人」にだって、
なおも自己超克する余地は無限にあるだろうしね。
その反面、永遠にどこまでも自分自身でしかいられないのが永劫回帰だが、
そんな敗北、没落をも、力の極限に挑む行為として肯定するのが超人でもある。
押井守の『スカイ・クロラ』は、そういう気分によく合っているかも。
ニーチェとブッダは違うよ 一神教と多神教くらい違う ニーチェは人間にやさしくて ブッダは人間に冷たい ニーチェは自然に厳しくて ブッダは自然にやさしい
960 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/10(火) 14:35:14.78 0
ニーチェの考えって結局は完全な社会民主主義に帰結する 行政が政治のあり方を議会制民主主義に問う形ではなくて 行政自体を自己を確立した超人の手によって運用される感じで アメリカの政治をさらに発展させた形に近い アメリカの場合は、連邦や州の直轄地域で、 市民達が設立を宣言して自治体を作る その基本骨格に機能別の市民団体を承認して組み合わせることによって自治体機能を維持している つまり市民の中の超人達が運営していくスタイル もっともアメリカの場合は超人ではなくてキリスト教や拝金主義者や人権イデオロギーで自己を確立している人達の集団だが それをさらに前進させたのがニーチェの超人社会くさい
ニーチェはともかく、ウィトゲンシュタインやハイデガーは 道元の『正法眼蔵』に興味を持っていたようだね。 だけど日本人だって近代になってやっと解釈者が現れたぐらい 難解な哲学でしょう。 ニーチェは年代的に間に合わなかっただろうね。 おお、これこそ超人と同じだ、とか言った可能性もある。 親鸞の他力と違い道元は自力で悟りを得るのだから。
日本だと自己を会社組織や階級に見出すからな アメリカだと自己をまずキリスト教に見出すことによって 社会から自由になってる この時点で国家とかが嫌いなニーチェの思想と合致している さらにそういう人達が自己にのみに見出すことによって 本当の意味での超人社会が築かれる 日本の場合はまだまだ遠いし 完全自由化社会にしたときに保険になる一神教のような神がいないから ニーチェの言う超人社会になるのは難しい
965 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/11(水) 18:41:17.30 0
>>959 人間も自然のひとつ
とブッダもニーチェも気づいたんじゃなかったの
日本人の多くの価値観や倫理は大体がいわゆる世間が認めるものに見い出しますよね。古き慣習に従うのもそう。 他人の目を気にして行動する傾向が強いし、これは日本だけでは無いですがマスコミの情報に簡単に影響されて 政治の投票や消費活動に自らの意志もないまま流されていく。 たぶん超人社会と言うのは高度な理性や能力を持った個人たちの集合体のことだと思いますが、 まず人間の頭と身体が共に成長や進化することとはどういうことなのかを考える必要がありますね。
超人も変人も凡人も自然現象にゃ勝てまへーん
その通りだね。生物も物質も環境に必然的に支配され影響された結果に今がある。 森羅万象の中の孤独!
謙虚さこそが超人への第一歩!
「新世界の神になる」 ってことだろ
超人も寒さと飢餓と津波には勝てない。
「個人主義」についてはニーチェ自身が、超人へ向かう権力への意志の前段階と見做しているわけで。 既存の道徳から、より個性の重視へ向かう傾向自体は歓迎しつつも、それでは充分ではないということ。 集団が個人に還元された後、個人もまた、それを構成するものに還元されると言っている。 身体が、諸力の集合体として捉えられているわけだから、個人の人格という形態に自己充足する態度はニーチェ的でないわけだよ。 永井均流の独我論でニーチェを解釈する不充分さは、そこにあるわけで。
974 :
蝙蝠ちゃん出没中 ◆MinorKeyQs :2011/05/12(木) 17:24:18.41 0
>>972 「超人」という言葉にとらわれすぎだよ
ビックリ人間じゃ無いんだから
自然に勝てなんて
ニーチェは一言も言って無いでしょ
自然と一体化せよって感じよね。「子供」の境地って自然体だからね。
芸術でもスポーツでも最高のパフォーマンスする時って無意識の集中領域の時。
そんな時ってなんだかめちゃ微笑みたくなるんだぜー
978 :
考える名無しさん :2011/05/12(木) 20:59:20.95 0
>>976 トマソンが好い例だな、野球選手としても名人の域だった
自然と一体化して死ねばいいってわけだ。 それは賛成。
自然と一体化せよって東洋思想と親和性あるのかね?
>>975 「一体化せよ」というか
「その享受に気づけ」と言っているように思う
982 :
考える名無しさん :2011/05/12(木) 23:22:26.88 0
でも、そこがニーチェのつまらんところなんだよな。
983 :
考える名無しさん :2011/05/12(木) 23:27:10.76 0
>>973 >身体が、諸力の集合体として捉えられているわけだから、個人の人格という形態に自己充足する態度はニーチェ的でない
のであれば、「永井均流の独我論でニーチェを解釈する」のが正しいことになるのでは?
「個人の人格」という形態に自己充足するのを否定して、むしろ世界と一致させている点で同じになるから。
984 :
ヘヴィメタル ダニエル・カール :2011/05/12(木) 23:49:46.79 0
うそくせー なんかうそくせー 何もやらないで見分けないといけねえよ こいつ、うさんくせー
子供のように感受性が強かったから 放射性物質のようなのも簡単に受け入れちゃうんだよね それがいいのかわるいのかわかんないけど
手塚富雄の『ツァラトゥストラ』の訳注すごいね。かなり膨大にあるよ。これだけでも持ってる価値あると思う。
あれがなきゃ完全にちんぷんかんぷんやったで
確かに手塚さんの訳注も多いけど、これで驚いていたら、ちくま学芸文庫の『ツァラトゥストラ』は・・・。
訳自体は手塚さんの方がはるかにいい。
ニーチェは「自然と一体化」しようとしているわけではなく、自然の諸々の力を征服しつつ大地に意義を打ち立てる超人を称揚してるんだよ。
「我々が自然の中で解放感を味わうのは、自然が我々に対して何の意見も持っていないからである」(ニーチェ)。
所産としての自然というより、能産的な自然、つまり目に見える自然の内なる力を抽出し吸収しようというのがニーチェ。
>>983 『道徳は復讐である』とか『これがニーチェだ』とか、テーマ的に通底している『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読んだ限りでは、
倫理に対する独我論的アプローチをとっているので(またそれがニーチェの哲学と一致しているという解釈をとってもいる)、
「我」という意識をも力の構成に還元するニーチェとは、根本が違うと思うけど。
永井さんのアプローチでは、世界を全部<私>に取り込むことと、
それを語る哲学自体が他者と共有される論理でもあることとが絶えず行ったり来たりしつつ、
ニーチェ的な力の高低とか貴賎という価値観と関わりなく、独我論的<私>だけが論じられている。
簡単に言っちゃうと、永井さんの「我」は、どんな「我」かということと関わりなく、 純然たる「我」だけを論じている。換言すれば、身体性を欠いている。 論証の際、永井均という自身を構成する外的要素(「千葉大学教員である」とか)を捨象して、 <私>だけを残して論じるアプローチ。 川上未映子との対談でも、ドストエフスキーとテレビドラマも自分にとっては大して変わらないと言い放っていたように、 具体的な細部に関心が無い人なんだよ。だが、「我」を構成するものの組成が変われば別の「我」であり、 そうした構成物としてしか「我」はありえないっていう、一種の唯物論はニーチェの根本的な前提のはずなんだよな。
>>981 「その享受に気づけ」ってことだからその「一体化」の状態ですら何らかの客観視してることだよね。
芸術なら作品として残るし、スポーツなら映像として残るから、鏡を観る様に何度も「自分の最高」を見ることができる。
そしてその記録(作品や映像や)を他者が享受したりする。
超人はパンツ一丁で原野を走っている。 野営地点で水分や食料を補給するが、携帯ラジオを受け取り 世事も知ることができる。 姿が見えないときは林で用を足しているとき。 寝る際は岩場の蔭で自慰行為も可能。
992 :
考える名無しさん :2011/05/13(金) 20:54:45.45 0
もっと血を濃くしてかけよ おまえら。
ニーチェなんかもただの人
994 :
考える名無しさん :2011/05/13(金) 21:56:14.24 0
終末に近づいてます。
ニーチェは脳梅毒の影響で一時的に脳が活性化して著作を残しただけです。
急に昏倒したというのは脳梅のせいだな。
>具体的な細部に関心が無い人なんだよ。だが、「我」を構成するものの組成が変われば別 の「我」であり、そうした構成物としてしか「我」はありえないっていう、一種の唯物論はニ ーチェの根本的な前提のはずなんだよな。 ニーチェに於ける〈私〉自体、そんなものは自分がそうだと思ってるだけで、実際には異 なる力のせめぎ合いに過ぎない。というのがニーチェだろう。 《主観という「アトム」はない。主観の領域はたえず増大しつつあるか減少しつつあるかで あり、体系の中心点はたえず変動しつつある。》(『権力への意志』no.488) 《「統一」として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。 私たちはつねに統一の見せかけをもつにすぎない。》(同no.489) 《私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか。つまり、それは一つの共同体 の頂点をしめる統治者である》(同no.492) このように、主観などは虚構だとし、プラス、次のような論理によって無意識も否定する 。 《「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこ ってしまったあとで、原因が空想されるというのが「内的経験」の根本事実である。》(同 no.479) よく「私とは?とか考えても答えなんかない」という答え方をするが、その手の答え方の 元祖みたいなもんだろう。無意識など、虚構なんだから。だが、この理論は晩年の病気によ って自らにより裏切られたと言える。プラス、ニーチェ理論では〈物自体=他からの関係的 意味付け〉として、〈自体〉という意味を否定してしまう。徹底的に「自己」をそのものして 考える仕方を否定した。現代思想から歓迎され継承されたニーチェ理論だが、もてはやさ れた割りに、何のリアリティーもない理論だと思う。
998 :
考える名無しさん :2011/05/13(金) 22:40:05.33 0
20世紀でみれば 前半はニーチェの言うとおりだったけど 後半はむしろニーチェ拒否の流れだったな
999 :
考える名無しさん :2011/05/13(金) 22:48:09.73 O
ハゲても少年のように生き生きと堂々と軽快に歩め。 テカりは大地の意義である。
1001 :
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