【フワーリズミ】東洋教学総合スレ0007【関孝和】
1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 21:58:51 0
3 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 22:15:56 0
サーバ落ちが復旧されないかしばらく見守っていたが、どうやら復旧不能のようなので、新たに立て直した。
アメリカに2chのサーバ所有権が完全に移ってから、欧米に都合の悪いことを書いただけでこの始末。
テネシー州のキ○○イ牧師も911にコーランを焼いたようだが、今どき焚書坑儒の目などに遭わされるとはな。
秦代の焚書坑儒時に、家の壁中に「書経」を塗り込んでその一部を保全した伏生にもならって、過去ログも
個人的には保存している。どうしても読みたい人間がいるのなら、アップロードなり何なりしてやってもいい。
同名のスレが別人の手で立てられているようだが、番数もない上、自分たちで勝手な物言いをしてるだけ
のようなので、完全に無視の対象とする。「正統」な論議のしたい者は、必ずこちらに来て議論するように。
5 :
考える名無しさん:2010/09/16(木) 23:07:43 0
重要なのは〜学派であることでも〜論であることでもない。
その先に捉えられている真理の真贋や捉え方の巧拙だ。
『先達は何れの事にもあらま欲しき事なり』徒然草
7 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 00:38:09 0
欲するのは墓穴を掘り下げる先達ではなく、
墓穴を埋め立てて山を登り行く先達だがな。
・・・・
/
(より優良化) 大乗仏教
↑ /
……無学……………………小乗仏教・道家………
\ ↓ /
洋学 (より劣悪化) 儒学
\ /
ユダヤ 浄土教・イスラム
\ /
キリシタン
8 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 10:34:35 0
夏桀・殷紂・秦始皇・ナザレのイエス・・・
墓穴を深く掘り下げる愚行の面での先達も数多い。
しかし、それらはあくまでそのまま見習うべき存在ではなく、
「そうあってはならないもの」としての、反面教師にこそすべき存在。
「徒然草」は、日本古典の中でも道家的な側面の色濃い古典なので、
なんでもかんでも的なことも書いてあるんだろうが、やはり隠遁や
出家といった社会的退避の実践に基づいて書かれている。
何もしない立場から「なんでもアリ」とするのは高尚でも、
自分自身が本当に悪行に手を染めたのでは、一概な善人にも劣る。
9 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 10:54:19 0
一概な悪行に邁進<一概な善行に邁進<何もしないで善悪を諦観
というのが、弘法大師の「三教指帰」や「十住心論」などからもうかがえる、普遍的な序列。
「一概な悪行」のうちには、悪行が善行の分量を大幅に上回る善悪みそくそ行も含む。
何もしないでいるからこそ善悪全般を諦観している、道家や仏教などの論及に色めきだって、
一概な悪行に邁進している愚人どもが、道家や仏教の教義を自己正当化の材料にしようとする。
それこそは東洋教学における禁忌中の禁忌であり、東洋教学がカルト利用される黄金比でもある。
実践から何もしないでいてこその道家だし、乞食行などの超俗的な修行にのみ邁進してこその自力仏教でもある。
実践が金融強盗であったり、権力や財力の貪りであるのなら、道家や自力仏教の徒であることを自認して
いいはずもなく、俗世での善行や他力往生を追い求める儒家や浄土教にも及ばない、ただの犯罪カルトに過ぎない。
10 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 11:28:12 0
最高権力者だったカエサルやアレクサンドロスからして、
儒家で劣等扱いされる覇道を突き進んだきりでそれでよしとしている。
政治面からの本格的な実践など皆無だった洋学のペースに基づいて
道家や仏教の教義をも研究対象にしようとする。全く意味のないことだ。
武道の教則本を読んでああだこうだとわめき立てながら、
自分たちが本当に武道をすることは絶対にない。
ただ読むだけ、頭で考えるだけで済ませるのではなく、確かな実践を目的としているからこそ、
諸子百家の文言なども、ギリシャ古典などと比べて素朴で飾り気がない。孔子や孟子といった
思想家たちも、実際に政治家や政治顧問として大いに活躍もしていたために、本人たちの
著作がそんなに体裁を整えられた形で残されているわけでもない。そうであることをいいことに、
文飾豊かな西洋古典などと比べて東洋古典を劣等扱いしたりするのでは、全くの本末転倒であり、
東洋古典が素朴なのは、それが実践と密接に関わっていた証拠でこそあり、故にこそその
文言が、自分たち自身の本格的な実践材料とする上での確かな効能を持っているのでもある。
象牙の塔にひた隠された餅の絵ではなく、天下万民に食える餅を供する指南書であればこそ。
11 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 11:38:57 0
>>9 >一概な悪行に邁進<一概な善行に邁進<何もしないで善悪を諦観
>
>というのが、弘法大師の「三教指帰」や「十住心論」などからもうかがえる、普遍的な序列。
>「一概な悪行」のうちには、悪行が善行の分量を大幅に上回る善悪みそくそ行も含む。
>
>何もしないでいるからこそ善悪全般を諦観している、道家や仏教などの論及に色めきだって、
『十住心論』で説かれるのは、「何もしないで善悪を諦観」といっても凡人がなにもしないで、ボーっと何も考えない、何もしないで見てるだけということじゃないですから。
そりゃ現代語の「諦観」であって本来仏教でいう「諦観」ではないですから。
仏教でいう「諦観」は少なくとも三昧に入れる集中力が前提とされるものですので、そういった現代人の現状肯定のために仏教を使っているなら、やめてくださいね。
12 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 11:58:54 0
「史記」大宛列伝には、すでに既出の身毒(現インド)の他にも、西方の国名として
康居、大夏、安息、奄蔡、黎軒などが出てくる。康居は現キルギス、大夏は現北アフガニスタン、
安息は現イラン、奄蔡は現シリアと、一応かなりの知識的な地理把握が行き届いている。
そして黎軒が、ヨルダンのペトラだとの説もある一方で、エジプトのアレキサンドリアか、
はたまたローマだったとの説もある。「史記」の時点で、すでにローマの把握にまで行き着いていたと。
ギリシャ以東の世界を未だ「アジア」の一言で片付けようとする西洋と比べて、なんと見識の広いこと。
西南夷や大宛といった西方の隣国とも国交を開くことで、未だ自分たちが赴いたことのない西方の遠国にまで
把握だけは行き届かせている。知識としての把握があったから、無闇な恐怖感なども抱かずにいたので
あって、逆にアレクサンドロスの東征などは、東方への無知ゆえの恐怖感がけしかけたものでこそあった。
中国こそは世界の中心であるとする中華思想が、さも覇権主義的な性格までをも帯びていたかのように
思われがちだが、北方の匈奴などの特に悪辣な蛮族を除いて、隣国との国交はそれなりに親密なものであった。
自国の文化が中華的な色調を帯びる漢化も、隣国の側から自主的に取り入れていった場合が多く、日本も
そのうちに入る。他国を征服して強制的に文化を挿げ替えるようなことも、漢文化に関しては例外的なことで、
蛮族匈奴との外交もなるべく自粛するなどの措置がとられている。漢民族が伝統的に征服主義を重んじてきた
事実などはないのであって、征服主義一辺倒だった西洋史との混同がそんな誤解を生じてしまっている。
>>11 道家の「何もしない(無為自然)」は本当に何もしないことで、さも赤ん坊のごとくであると弘法大師も述べられる。
自力仏教の場合は「俗世において何もしない」という意味での「出家」のもとに、超俗での厳しい修行に励む。
道家の教理は何もしないだけの現代人にもそのまま適用できるが、自力仏教がそのまま適用できないのは確か。
ただ何もしないだけの現代人が、重犯罪者などよりはまだ仏教の境地に近いということは言えても、
決して仏教を会得できているなどとは言えない。聖道門の自得者となるのは、出家や受戒から先の話。
14 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:05:36 0
>>13 ぐちゃぐちゃな上に私見混入してるぞ
もうちっときっちり読めよ。
15 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:11:23 0
仏教って葬儀屋の一種だろ? 偉そうなこと言ってんじゃねえよw
16 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:29:39 0
>>15 いやいや、そりゃ勘違いも甚だしいぞ
現在の日本仏教が仏教を逸脱してバラモン教かシナの道教みたいな、
祖霊祭官みたいになってるってだけだ。
例えばシェークスピア原作の学芸会を見て、シェークスピアはマンガみたいなもんだろって言ってるようなもん。
本物の仏教はビルマとチベットにある。
その国の本物の僧侶を見て言ってくれ。
あの中共でさえ本物のチベット僧には敬意を払って収容所内で自由にさせていたんだよ。
そういう本物を見みてね。
17 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:30:05 0
廃仏毀釈後の、世襲制でなんとか系統を保っている今の仏門は、実質どれも浄土教止まり。
室町時代の蓮如のころから、浄土教だけは本尊をも商売道具扱いする俗人気質。ただ、
それにしたって、念仏に即して商売してるぶん、基づいてすらいない今の犯罪労働者よりはマシ。
労働者が誰も彼も凶悪強盗殺人犯と化したに応じて、仏門のほうもその程度を下げている。
犯罪労働者が軒並み檻の中に入るに応じて、仏門のほうもまた元の聖道門を活性化させる。
18 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:42:48 0
チベット仏教はボン教由来の呪術とか使いそうだから、
迷信深い中共の下っ端公務員脅してやりたい放題してたんじゃね?
それが威張れた話か?
19 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:51:39 0
ビルマとかチベットとか仏教の支配力が強く多くの利権を抱えている国の方が、
退廃振りはひどいんじゃねえの? そりゃ、卓越した個人はいるかもしれないが。
20 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 13:52:56 0
一般に、人類文化は東方に行くほど優良化し、西方に行くほど劣悪化している。
中国や日本などの東方へと伝播した仏教が、相当な変質を果たしたのも確かだが、
それはそれで独特の加味がなされており、特に道教や神道との混交が、独特の文化としても隆盛した。
そういうことは、西方への伝播としてはあり得ない。仏教と拝火教とキリスト教の混交宗教だった
マニ教に帰依していたアウグスチヌスが、小乗仏教の無賊害心(法句経)の教義を剽窃して
自殺しまくりだったキリスト教徒に自殺の禁止を布令したなど、確かに伝播がなかったわけではないが、
その伝播の仕方が姑息であり、異文化を直接受け入れる寛容さなどが全く見られない。
ヴォルテールやミュラーによって学術的に儒家や仏教が研究対象とされて以降も、
西洋で儒家や仏教が本格的な実践対象とされることはなく、孟子の易姓革命論がひどい曲解を
介しつつフランス革命の参考とされたり、座禅やヨガがエクササイズの一種として取り入れられたり
するに止まる。かつての中国や日本が仏教を取り入れたり、日本が儒学を取り入れたりした場合のような
本格的な実践込みの東方文化の受け入れというものが西洋には全くない。それは、東方文化のほうが
優良で西方文化のほうが劣悪だから、東方が西方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
シェイクスピアを漫画化することはできても、漫画をシェイクスピア化することもできない。
何しろ漫画のほうがまだシェイクスピアよりもマシだから。優良なほうは劣悪なほうを取り入れることが
できても、劣悪なほうは優良なほうを模倣することもできないのも、文化の非可換性の一つである。
>>21 スレ番も付いておらず、テンプレなどの体裁も整えられていない、
そっちのスレのほうが、どちらかといえば削除されるべきだ。
別に自分は削除依頼しないが、どちらかを削除するというんなら。
>>20訂正:
×東方が西方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
○西方が東方の文化を取り入れて実践することなどできないから。
25 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:10:48 0
>>18-19 想像とか伝聞で語るなよ。
>>20 妄想レヴェルだな。
ミュラーってマックス・ミュラーか?
そこら辺の西洋人の仏教理解はたかが知れてるよ。
オルデンブルグにしてもフラウワルナーにしても、
文献学は緻密だが、本質は分かってない。
ヒンドゥーと同じだと解釈してる。
それでは縁起・空・無我が分からないと告白してるのに等しい。
26 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:28:10 0
文字文化的にも、難解さの順位では明らかに
漢字>梵字>アラビア文字>ギリシャ文字>アルファベット
だからな。書道すらない、簡易な文字の扱いばかりに
慣れてきた連中が、東方に行けば行くほど難しくなる文字文化を
判読する努力をする気すら起きなくなるのも当然だろう。
難解な文字の理解度は、本人の精神力に比例する。
難解な文字ほどその理解により強靭な精神力を要し、
簡易な文字ほどその理解に薄弱な精神力しか要しない。
簡易な文字を理解するレベルの精神力しか養ってきていない人間は、
難解な文字を理解することには気が遠くなるような絶望感を抱かされる。
逆に難解な文字の判読に慣れてきた人間には、アルファベット級の
簡易文字を今さら本気で読む気にすらなれない。そこ込められている
意味が、精神薄弱者なりのものでしかないことが見るに明らかだから。
27 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:31:24 0
>>26 あんたもいいかげんスレチ。スレタイ偽装で削除が出てもいいくらいなのに
ちょっとは空気嫁
28 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:38:28 0
日出ずる東方を目指してそこに居ついた東洋人は、実際に光を欲していたわけで、
北半球では南側に太陽が昇ることから、中国の皇帝も南面(南を向く)することが正しい居座り方だとされる。
東西の違いによって日当たりの強さが変わるわけじゃないが、東を目指していた人々は
日当たりを欲して、明るみの中に文字も読み書きしようとしていたから、暗がりでは読みにくいような
複雑で難解な文字文化を醸成させた。逆に日当たりを忌んで西方や北方に逃避し、
暗がりの中での生活を欲した西洋人は、暗がりでも読み書きできるような簡易な文字文化に終始した。
東方にいくほど文字文化が複雑で難解となり、西方にいくほど文字が安易で簡略となるのにも、
こんな理由が備わっていたからだろうと思われる。日当たりへの好悪が、文字の難易度に比例したのだと。
29 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:41:56 0
東洋教学ってのはつまりト印空想のことなのか?
31 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:46:37 0
>>26 おいおい、複雑な文字なら高度なのか?
漢文とサンスクリット読み比べると明らかに論理性や明解さで、
サンスクリットの方が上に思える。
漢文は、伝承や解説がないと分からないようになっているが、
サンスクリットは、かなりのレヴェルで解釈可能。
しかも、パーニニという現代言語学が驚愕した勝れた文法がある。
一方、漢文はサンスクリットの影響でも文法は成立せず、
西洋文化が入ってからやっとしょぼいものが成立した。
まあ、詳細に比較すれば漢文も勝れた面も多いが、
サンスクリットの方が圧倒的だという印象をオイラは持つね。
32 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:49:11 0
>>31 その人はおかしい人だからかまわないように
33 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 14:54:41 0
げ、ネタにマジレスかよ(○_○)
うわw冗談かと思ったらマジで削除出てる
対応早すぎw
>>26井上さんでしょ?今はおとなしくしてたほうがいいよ
それが兵法。
35 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 17:13:07 0
>>31 高度さにもいろいろあるが、東方の複雑な文字ほど精神的に高度な一方、
西方の簡易な文字ほど精神的には低劣だ。ただ、精神的に低劣な連中ならではの
独特の文化文明を生み出したのも確かで、アルファベットやギリシャ文字で
構築された数式やプログラムを、すべて漢字や梵字に置き換えるのもなかなか難しい。
ただ、その数理情報科学などの面でも、東洋人による大きな貢献があり、
西洋がキリスト教支配で暗黒時代に突入していた頃に、科学知識を温存していた
中東の代表的な科学者の一人がフワーリズミであったりする。決して科学や数学も
西洋の専売特許ではなく、特に重大な部分において多くの東洋人による協力があった。
スレッド名が「東洋教学」だからといって、論題を東洋宗教などに限定する必要もない。
もちろんここは哲学板なので、あからさまな科学や数学の議論は避けるが、
東洋教学と科学文明との連関なども、一つの論題とするのはありだろうと思われる。
コーラン焼却すら「言論の自由」を根拠に是認したアメリカが、
自国内のサーバに書き込まれる聖書批判や欧米批判には制裁を加える。
そういう二枚舌姿勢が、資本主義社会の根本的な腐敗をも露呈している。
こちとらただ、考えうる限りで最も粗末なコミュニティへの書き込みをしているだけなので、
削除されようがサーバ落とされようが痛くもかゆくもない。むしろネットストーカーどもの
見苦しい横槍レスも見なくなって済むんだから、より精神衛生上健全になるぐらい。
わざわざ相手をしてやってるのは、おまえらじゃなくてこっちなのだから。
「おまえの意見なんか見聞きもしたくない」ってんなら、それでも全く結構なわけだが。
37 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 19:31:18 0
表音文字を用いるアラビアの、それもギリシャの科学を受け継いだ
科学者を取り上げ、それを「東洋人」の例として挙げるかね?
もう西洋をけなし東洋を褒め称えられれば、何でもありだな。
一昔前のヨーロッパ中心主義を裏返しただけのこういう偏見の吐露は
もううんざりだ。
スレの趣旨と違う内容は削除対象だから
続くようだったらスレ削除と同時にレス削除も出します。
39 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 22:14:34 0
>>37 まさにその、欧米中心主義の裏返しであり、欧米中心主義によって掘り下げられてきた
墓穴を埋め立てて、全欧米社会がムスリムあたりに禁治産処分を受けたあたりから、
もういちいち欧米なんかを引き合いには出さなくなる。
地球人類の2割以下の人口で、8割以上の地球資源を独占し続けている強盗集団の分際で、
矢面に立たされることなくひっそりとしていられるなどと考えるほうが大間違い。
その強盗行為の道具となっている近代科学の基礎も、この前アメリカが侵略を行った
イラクの大科学者などによっても温存されていたからこそ、今にまで伝えられている。
恩をあだで返す所業にも手を染めておいて、えらそうな口を利くほうがおかしいのであって、
何一つとして自分たちから積極的に意見すら述べず、完全に従順なままでいるぐらいでちょうどだ。
40 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 22:29:10 0
「こんな鬼畜集団が管理しているサーバーの、便所の落書きに
わざわざ意見を書き込んでいただいて、まことにありがとうございますぅ〜」と、
どぶの底で素っ裸でボウフラにまみれて土下座しながらでも感謝すべきところだ。
まだチラシの裏にでも意見を書いて、タンスの奥にでもしまっていたほうが
マシなほどにもしょうもない反応しか返ってこない、自意識過剰の精神薄弱者の溜まり場で、
水面の上に返しもなくまっすぐな釣り針をぶら下げて魚が釣れるのを待つ太公望ほどにも
実のない釣りをやっている。そりゃあ俺が、それほどにも自ずから大満足な人生を送れて
いるからできることで、不満や憤怒の塊であるなら、始めからこんなところに居すらしない。
不満たらたらな小人たちに、もう少し満足な人生の送り方を指南してあげようかという
菩薩にも紛う慈悲を抱いて、教えてあげることにかけてはやぶさかではないこの俺に、
逆に地獄の鬼畜どもが意見を述べて教え諭そうとする、糞喰らいが美食家にものの
うまさを教えようとする、その愚かしさもまたお前ら自身の不満の源であり、ただひたすら
人生の先達の教えに耳を傾けているのみであることでのみ、おまえらの渇きも癒される。
41 :
考える名無しさん:2010/09/17(金) 22:59:53 0
スレもレスも、削除したけりゃすりゃあいい。
砂漠のど真ん中で渇ききった自分たちの前にある飲み水を
撒き捨てたいってんなら、撒き捨てりゃいい。
それでより渇くのはおまえら自身なんだから、
自業自得の苦しみを自力で増やそうとする相手なんか、
阿弥陀様だって救済をご免こうむるだろうしな。
42 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 10:23:01 0
>>12で書いたとおり、司馬遷が「史記」を書いた前漢中期の時点ですでに、
中国人は知識的には中東地域までのかなり詳細な地理把握を済ませている。
ただ、あくまで隣国からの伝聞や伝聞の伝聞であり、中国人自身は中東はおろか、
より地理的に近いインドにすらまだ赴いたことはなく、その経路すら見定まっていなかった。
ヒマラヤ山系やゴビ砂漠、タクラマカン砂漠などの地理的障害に阻まれてというのもあるが、
何より春秋戦国時代までの中国においては、修身ならぬ「修国」が何よりの主題であり、
内政ばかりにかかずらわって、なかなか外交にまで配慮が及ばなかった。
中国それ自体が「一つの世界」というほどにも、甚大な規模をこの頃から帯び続けて
いるのだから、「小さな世界に引きこもって世界の大きさを知らない」などという構図が
当たるわけではないが、15000年以上前から長江流域などで土着的な農耕生活を
送り続けている漢民族にとっては、全世界中を駆け回るよりも、自分たち自身の
生活の堅固さの確保のほうが重大課題であり、そこから自明に王道優位覇道劣位の
結論が導かれもした。古来に農耕民族だったか狩猟民族だったかはともかく、農耕に
基づく堅実な生活基盤が確保されてこそ、初めて文明もある程度以上の発展を見せる。
東洋と比べればずいぶんと農作の発明や定着が遅れた西方社会においても、やはり
麦などの農作に頼りつつ人間社会の規模を拡大させることで、文明をも発展させている。
そうである以上は、外交を疎かにしてでも、土着農耕民族としての自分たちのあり方を
徹底して研鑽しぬいた漢民族の知恵を、遠い異文化として異端視しているわけにもいかない。
43 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 11:23:07 0
いまの地球人類社会こそは、東を絶海に、西を砂漠に、南を大山脈に、北を匈奴に阻まれて
どこにも逃げ場のない漢民族社会も同然の閉鎖状態となっていて、大枚をはたいて
数人の飛行士を大気圏外へと送り出す程度のことはできても、人類の大部分を地球外へと
送り出すようなことはまず不可能。ユーラシア大陸の西方へと追いやられていた白系種族が、
さらなる逃避の場としたアメリカやオセアニアなども、当人たちが征服してしまったからこそ、
もはや際限のない逃避先としての価値を失ってしまっている。
地球の裏側ともネットで通じ合える昨今、最重要なのはもはや外交ではなく
地球人類総力を挙げての修身であり、自分たちのあり方に対する内省でこそある。
そうであるが故にこそ、どこまでも侵略や博物の魔の手を伸ばしていった洋学などではなく、
「戸を出でずして以て天下を知り、窓をうかがわずして以て天道を見る(老子)」というほどにも、
自分たち自身の内省に努めていた東洋教学の価値が見直されるべきであるといえる。
諸子百家にも名家や雑家のような概念志向や博物志向の学派もあるし、
華僑や印僑のように外交戦術に長けた東洋人も多いわけだが、いま参考とすべきなのは、
外向性を疎かにしてでも自省に努めてきた東洋人の叡智であり、内的な不満を
外部にぶつけて気を紛らわす醜悪さの、十全な修身による払拭方法でこそある。
44 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 12:57:18 0
「史記」大宛列伝で、使いとして西方に赴いた張騫が、ペルシャこと大夏を見聞した感想として
「大国ではありますが、兵力は弱いです」と今上帝の武帝に奏上している。アレクサンドロスが
一騎当千の奮闘で破ったといわれるペルシャ軍も、当時の漢からすれば弱小の部類だったと。
もう、この件についてはこれ以上は触れまい。
大宛列伝まで読み終わって、邦訳「史記」の通読も残りわずかとなった。
陸賈や叔孫通といった大物よりはもう少し下位にあたる、小粒の儒者たちの漢代の行状を記した
儒林列伝も読んだが、だいたい五経の解説書やウィキペディアなどで学び終えていたことで、
そんなに真新しい発見はなかった。中国正史がことさらに学門を持ち上げたりはしていない。
それよりも特に印象的だったのは、儒林列伝よりもむしろ、その後に出てくる酷吏列伝のほう。
鬼平がいる。
「酷吏」とは今の警察や検察、裁判所や刑務所といった法務機関の従事者のことだが、
法律万能主義である現代社会や秦代の中国と違って、漢代の中国は徳治主義であったために、
いまの法務機関にあたる役所ですら、そんなに法律ばかりを振りかざしてはいない。もちろん
申不害だの韓非だのの法家思想を貴ぶでもなく、かなり融通の利いた刑事処理が行われている。
45 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 13:00:10 0
融通が利いた結果として、酷吏には盗賊上がりだの(義縦)、撲殺死体遺棄経験者だのの(王温舒)
ろくでなしが多く携わっている。もちろん公僕として振舞う程度の文武の素養は身に付けているわけだが、
賄賂で罪を許したりの悪辣な酷吏もいたわけで、司馬遷はあえてそのような最悪例ではなく、
犯罪者を懲罰する酷吏なりに有能だった人々を挙げているが、それでも履歴がひどかったりする。
若い頃には賭場や岡場所で遊びまわっていた鬼平にも通ずるところで、「法務は下賤の仕事(韓非子)」
という法家の本義にも実はかなっており、法律家が貴人ぶって偉そうに振舞っている今のほうがおかしい。
いまの法務官たる酷吏が賤人によって司られ、勧善懲悪どころか、もはや勧悪懲悪とでもいうほどにも
悪辣な手段すら用いて犯罪者の捕縛懲罰に臨んでいて、にもかかわらず世が治まっていたのは、
世の中を法律ではなく仁義道徳によってこそ規律し、そのために多くの儒者を養って、本格的な礼楽統治
をも国を挙げて実践していたから。治国のもといを法文ではなく経書にこそ頼っていたから、酷吏たちも
法文による自縄自縛を取っ払って、融通の利いた犯罪懲罰を実行することができ、世もうまく治まった。
法律万能主義は儒家による仁徳統治を害する上に、酷吏たちの存分な活躍すらをも抑え付ける。
結果、罪を犯させて罰を科す、善悪みそくそなマッチポンプの共食い状態へと、世の中全体が陥ってしまう。
儒者の復権のためだけでなく、鬼平のような有能な酷吏の活躍のためにも、法治主義の廃絶が急務である。
Warning! 警告
ttp://info.2ch.net/guide/adv.html#saku_guide 4. 投稿目的による削除対象
スレッド
掲示板の趣旨に関係があり、論理的で主観だけではない批判は残します。
掲示板の趣旨に関係があっても、利用者の気分を害するため・利用者を揶揄するために作られたと判断したものは削除対象になります。掲示板自体の事象や参加者に関するもので、議論にならないと判断した場合も同様です。
レス・発言
議論を妨げる煽り、不必要に差別の意図をもった発言、第三者を不快にする暴言や排他的馴れ合い、同一の内容を複数行書いたもの、過度な性的妄想・下品である、等は削除対象とします。
差別・蔑視 *
地域・人種などの差別発言は人権問題板で、蔑視的思想発言は政治思想板で、それ以外は削除対象になります。
上記2板を含めて、差別・蔑視の意図がある地域名または苗字等の書き込みは、その真偽を問わず削除対象になります。
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿
スレッド
それぞれの掲示板の趣旨は、カテゴリと掲示板の名称によって判断します。ローカルルールは、補助的ながら板違いの判断には重要です。
雑談系の掲示板を除いては、その掲示板の趣旨に無関係なもの、多少関係があっても他にふさわしい掲示板があるもの、掲示板の趣旨より掲示板自体の事象や参加者を重要視するもの、などは移動します。
レス・発言
スレッドの趣旨から外れすぎ、議論または会話が成立しないほどの状態になった場合は削除対象になります。故意にスレッドの運営・成長を妨害していると判断した場合も同様です。
以上。守られなかったら通報。
やかましい。
48 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 18:11:50 0
なにがおかしいのかが、やっと分かった。
おまえらは真理真実に世俗上の行動規範を求めている、それが決定的におかしい。
真理は何事をも人に対してけしかけない。また人間が自主的に何をしたからといって
それを許すことも禁止することもない。現象界に囚われたまがい物の真理はともかく、
本物の真理は世俗的な人間性などとは全く無縁なところにあり、人間に対して世俗上での
善行を肯定することも悪行を是認することもない。俗世における行動が真理に基づいて
いたりすることはなく、菩薩も真理を悟りきった仏とまではいかない存在であるからこそ、
俗世の衆生の救済などにもはげむ。真理を人間活動の糧にしようとしているところが
おまえらの決定的な誤りで、善行も悪行も、あらゆる行動も、真理真実とは全く無縁なものだ。
49 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 18:36:15 0
ここで一つ、俺がここに書き込みをする意図を明確にしておこう。
>>36でも少し書いたが、俺が意見発表の場として2chを選んでいるのは、
ネット上において考えうる限りでの最も粗末なコミュニティであるからで、
不快な書き込みなども事実上黙認状態にある本音吐露の場であるからだ。
ここにすら書き込めなくなるというのなら、あとはブログなどで自分から
一方的な投稿しかできなくなるか、チラシの裏に書いた意見をタンスの奥に
しまい込む、意見発表からの中止しかあり得ない。2chですらはじかれるものが、
mixiなどの他のコミュニティサイトで是認されるわけもないから。
意見発表として最低限の手法にのみ則りつつ、まだ意見発表を完全には
中止していないのは、説明責任を果たしておくことによる自らの責任回避のため。
2chといえど、一応はネット上に無制限に公開されているものだから、
閲覧しようと思えば誰にでも閲覧できる。別にCIAやMI6の諜報員でなくたって
誰でも閲覧できるところに、人類の破滅をも回避できる意見を一応発表しておく。
50 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 18:38:07 0
破滅回避の方法を知っておきながら、その知見を自分だけで溜め込んで
発表しないでいるのでは、自分にまで人類の破滅を黙認する従犯の嫌疑がかかる。
だから一応は、自主的に自己意見を公開しておいて、破滅を回避する選択肢を
提示しておいている。CIAの諜報員などはかえって人類の破滅を画策している
側だから、そいつらが俺の意見を盗聴しているだけじゃ、破滅回避のための
善後策を俺が十分に提示していたことにはならない。一応は自分から意見を
公に発表しておくことで、諜報員でもない不特定多数の人々に情報を提供し、
自分たちにも破滅回避の選択肢が提供されていたという既成事実を与えている。
その、俺のありがたい施しすらをも迷惑扱いして拒絶し、最低限の意見発表の
場からすら追い出すというのなら、それによる破滅の責任は全ておまえら自身に
かぶさるのであり、おまえら自身の全くの自業自得となるのだから、それはそれで
俺にとっては別にかまわないことだ。俺は俺で説明責任を果たす最善策を
講じていたのが、精神薄弱者どもの横槍で不可能になるというのなら、
それまでのことで、俺自身の責任はそこまででも十分に果たされたことになる。
最低限の意見発表の場すら奪われたのなら、そこで俺の意見発表という
選択肢がなくなるわけだから、意見を発表すらしないで済むところに、
俺自身の最善策が移行するだけで、それはそれウィンドウズすらうかがわない
老子の天道志向にもかなっている。俺にはそれでも十分に満足なことだ。
あと、俺の意見発表という選択肢が、2chのような最も低劣な場からすら奪われるのなら、
「真理は人を自由にする」という、耶蘇の発言が全くの大間違いであったことも証明されて、好ましい。
今の俺は、真理に即しすぎている部類の人間だから。
もう少し真理から遠のいて、世俗的な道理の範囲内での善行にも臨むつもりではいて、
だからこそこんなところへの書き込みも一応は続けている。しかしそれすら不可能となり、
ウィンドウズすらうかがわなくなるというのなら、不自由きわまりない一方で、真理との合致はより強固なものとなる。
俺自身は全くそれを望んでおらず、むしろ俗世での善行の自由のほうを望んでいるわけだが、
真理に即して不自由の極みに置かれるというのなら、それもまた仕方のないことだ。
それですらまだ、自業自得の罪悪の辛苦にあえぎ続けているおまえらのあり方よりは、よっぽどマシだから。
52 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 19:20:25 0
「殉教者気取れてよかったね」と20回唱えて寝なさい。
53 :
考える名無しさん:2010/09/18(土) 20:00:35 0
殉じすらするものじゃない。
精神薄弱者どもの不快で見苦しい反応を見なくても済むようになるんだから、
俺にとっちゃ本当に精神衛生上健全なことであり、より心地よいことだ。
俺自身が何一つ隠すことなく内面をぶちまけきった結果として、強制的に
意見発表禁止状態となり、否応なく公けで読み書きできなくなるというんなら、
それでこそ俺自身の真理把捉も完成するというもんだ。
俺自身にとっても好ましい状態への移行を、
なぜ殉教扱いなどすることができようか?
54 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 09:07:30 0
まだここに書き込めるというのなら、おまえらが不快とする欧米批判や聖書批判、
洋学批判なども続くだろうし、おまえらが到底受け入れがたい論理展開も行われるだろう。
罪福異熟の真理にも基づいて、重犯罪行為を道徳行為や真理にかなった行ないだと
思い込み続けている西方の劣等人種の跋扈の存続に応じた、相応の書き込みもする。
それすら強制的にできなくなるというのなら、それでもいいわけで、
俺自身にとってのできるかぎりの画策の中から、公けへの意見発表という選択肢が
消滅した場合には、そのような境遇にまた甘んじるのみ。君子は思うことその位を出でず。
君子のあり方に反する僭越な行ないに身を投じてまで何かをやったところで、その結果も
たかが知れているし、身の程をわきまえぬどこぞやの愚人にも近似することとなってしまう。
55 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 12:49:53 0
まだまだ分からないことだらけな中にも、分かったことへの精魂を込めたわきまえを欠かさず、
言葉や知識に現象的な説明としての価値はあっても、真理や道理そのものたり得ないことをわきまえ、
最高真理たるブラフマンと同等の真我たるアートマンが、ならずならず(ネーティネーティ)の
重畳によってのみ会得されるものであるが故、言葉や知識といった具体的現象の思考たり得ないという
純正な哲学思想的方向性をその原初から備えているのが東洋教学。その哲学的な原初である
ウパニシャッド哲学もギリシャ哲学より数百年以上古く、質でも量でも古さでも王道中の王道に当たる。
56 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 13:30:58 0
という風に、東洋哲学と西洋哲学の、比較文化上の単なる事実を述べただけで、半ば西洋批判になってしまう。
何らの私見も加えることなく、ただ事実をありのままに述べただけなのに、西洋への批判のように聞こえるのは、
それほどにも現代人の多くが、西洋や西洋文化を買いかぶりすぎているからに他ならない。
ただ事実をありのままに述べただけで判明してしまうような、真性の劣悪さを西洋文化がその原初から
帯び続けているのであり、東西の文化交流が(特に西洋の側からの拒絶により)行き届いていなかった
ほんのこの前まで、その劣悪さにも気づかないままに奇形的な文化発展を西洋も続けてきた。
ただ、今となってはもうその劣悪さが見るに明らかで、ただ事実を事実として把握するだけでも、
西洋こそは至上であると思い込んできた現代人などにとっては、大きな落胆が否めない。
ただ事実を事実として提示されるだけでも瓦解してしまうような、不確かな根拠に基づく思い上がりを
完全に払拭して、西洋文化によって掘り下げられてきた墓穴が完全に埋め立てられたなら、もういちいち
東西文化を比較する必要すらなくなる。今はまだ間違った根拠に基づく西洋至上主義の思い上がり込みで
議論が展開されかねない状態なので、あたかももぐら叩きのように、方々に西洋批判を散りばめる必要がある。
>>57 そのスレは、番数やテンプレなどのこのスレッドシリーズの条件を満たしていない。
どちらかが重複というのなら、そちらが重複であり、削除対象となるのもそちらのスレだ。
俺のここでの書き込みも、掲示板やスレッドの趣旨に反するものではない。
差別的な書き込みなるものも、単なる事実の提示でしかないのがその全て。
俺は一切今までのやり方を変える気はなく、それで削除や規制の対象になるんならそれでも結構。
事前の警告なども一切ムダであり、実力行使をちらつかせるぐらいなら、さっさとやればいいだけだ。
59 :
考える名無しさん:2010/09/19(日) 18:11:47 0
こっちは師匠スレ、向こうは弟子スレということにすればいいだろう。
俺からの直接教示が畏れ多いうちは、向こうで弟子同士で自習するということで。
別にまだ先生面もしたくないんだが、現代人の東洋教学への素養たるや、
まだ四書五経や諸子百家や主要仏典を通読した程度に過ぎない、今の俺にすら及ばない。
別にお大師さまとまでいかずとも、江戸時代までの日本にならば、今の俺などより
遥かに豊かな学知を備えていた人々が、そこら中に掃いて捨てるほどにもいたはずだが、
論語や老子すら読んだこともないのが当たり前な昨今、あまりにも低劣な下等競争の中で、
カタツムリよりも歩みの速い亀程度のマシさ加減で、俺などが師匠格にならざるを得ない。
60 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 11:37:18 0
孟子も「天下の英才を得て之を教育するは三の楽しみなり(尽心章句上)」と言いながら、
「人の患いは、好んで人の師と為りたがるに在り(離婁章句上)」とも言っている。
一見矛盾しているようにも思える両句だが、その心は、
「師弟の節義がわきまえられたところで、順当な教育を行うのはよいが、
節義もわきまえられないところに、無理に教え合おうとするのはいけない」
ということだ。
易経にも「我より童蒙に求むるに非ず。童蒙より我に求む(蒙卦)」とあり、
教育体制としてて、弟子の側から師匠に教えを乞い求めていく、師弟の節義が
わきまえられていることが易学的にも吉祥であり、その節義すらわきまえられない所では、
どんなに優秀な教師といえど、自分から教えてやろうとしたところでいい結果は得られない。
それは、自分から各国の王侯へと打診を行ない、半ばおせっかい気味に教示をすれども、
結局王侯たちは自分の意見を聞き入れなかった孟子自身の事跡によっても証明されている。
61 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 11:50:23 0
自分が本当に貴重な知見を蓄えていて、それを有効に啓蒙していこうというのなら、
なにがなんでも、師弟の節義がまずは整えられなければならない。
節義も整えられないところに、どんなに高度な言辞を弄した所で、相手は何も学びはしない。
わざわざ相手にこびへつらって、学知をねじ曲げてまで披瀝する曲学阿世(「史記」儒林列伝)も、
やはり相手にとっての学習にならないだけでなく、自分自身すらをも貶めてしまうもの。
どうしても節義のわきまえられた教育体制が整えられないのなら、
下手に学知をひけらかすよりは、自学自習に徹していたほうがよっぽどよく、
存命中の啓蒙に関しては半ば失敗に終わりつつも、絶え間ない自学自習によって醸成された
その学知は、後世にまで偉大な影響を及ぼし続けている、孔孟のような偉人にも倣うこととなる。
62 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 12:47:50 0
単なる学校教育に止まらず、実際の権力機構における
君臣間での師弟の節義すらも、やはり整えられて然るべきもの。
文王と太公望の釣り場での邂逅、諸葛亮に対する劉備の三顧の礼など、
師ともなる知者への臣従の促しのために、王侯すらもが相当な礼節を尽くした美談は数多い。
他にも、通りすがりの不審な老人に過ぎなかった黄石公に対して、わざと脱ぎ捨てた靴を
履かせたり、夜明け前から待ち合わせ場所で待ち受けたりの礼節を尽くすことで
兵法書の「六韜」「三略」をいただいたという張良の伝説もある。
儒学はその語源からして「学者学」でもあるため、学者が教師として世の中に影響を
与える上での適切なあり方までをも考え抜いており、あまり能力の上下による入学資格の
敷居を高めたりはしないものの、師匠に素直に従って勉強に励んでいく学習意欲が
弟子となるものに備わっていることが大前提とされる。その旺盛な学習意欲の現われとして、
師弟の節義がわきまえられていることが必須となるのであり、文王や張良や劉備ほどにも、
師となる者に対するへりくだった姿勢が、たとえ王侯であろうとも必要とされる。
63 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 13:08:12 0
儒学が全中国の国教扱いとなる漢代以前には、儒学の頒布もそこまで行き届いていなかったため、
師弟の節義を厳格にわきまえる、儒学的な指導体制が受け入れられているとも限らなかった。
特に春秋戦国時代には、「食客」と呼ばれる一種のフラタニティが構築されて、
とにかく何らかの能力の持ち主ですらあれば、有力者が食い扶持を与えつつ、その能力を自分のために
用いさせることが大流行りしていた。「鶏鳴狗盗」の輩すらも囲い入れることで危難を逃れた
孟嘗君をはじめ、春申君や平原君、始皇帝の実の父親とされる呂不韋など、食客の多さを競い合った
戦国時代の有名人は数多く、乱世における実質的な権力者として辣腕を振るっていた。
孔子や孟子といった、正学の節義に基づいた教育を重んじていた人々が中国思想のライトサイドなら、
曲学阿世の輩でも使えるなら使ってやろうというフラタニティに依存していた連中こそはダークサイドで、
白馬非馬説などの詭弁論を唱えた公孫竜などもその中に含まれている。
食客と同じように、封土を持ってはいなかったものの、学門としてはそこそこに大きな派閥となっていた
孔子や孟子が活動地域としていた魯や鄒には、学問を重んずる風習が根付いていた一方で、
あまり食客制が流行ることはなかった。逆にその食客制度を存分に活用していた孟嘗君のいた薛では、
孟嘗君亡き後100年以上の歳月が経過した後に赴いても、ならず者の溜まり場となっていることが
見るに明らかだったと、司馬遷も「史記」孟嘗君列伝において自己体験を述べている。
64 :
考える名無しさん:2010/09/20(月) 13:25:05 0
乱世の有力者だったからには、庶民を疲弊させて総体的な国力も弱体化させ、
匈奴などからの無道な侵略も呼び込んでいた元凶が食客制度の濫用者でもあったわけで、
本人たち自身は権力を増長させられたにしても、世の中にとっての益であるか害であるかでいえば
大害であったに違いなく、正攻法の教育姿勢であまり権勢を得られなかった儒家のほうが無害だったといえる。
もちろん大して益にもならなかっただろうが、漢代に天下が統一されて、私的なフラニティなどではなく
公的な儒学教育が敷かれるようになってからは、世の中の泰平を司る、多大なる公益の源泉となった。
力を付ければ付けるほど、世の中にとって有害無益と化す、乱世において有効なフラタニティ。
力を付ければ付けるほど、世の中にとって有益無害となる、泰平において有効となる儒家教育。
食客を囲っていた呂不韋の編纂である「呂氏春秋」にも、多少は儒学的な記述が見られるなど、
学知内容について儒家とフラタニティが全く相反しているわけではないが、師弟の節義がわきまえられた
教育に臨むか、鶏鳴狗盗でも役に立てば囲い込むかという、根本的な人間関係のあり方に断絶がある。
そのため学知の用い方も全く変わり、儒家は世のため人のために学知を用いようとする一方、
フラタニティは自分たちに不当で莫大な利益を呼び込むためにしか学知を用いない。
世の中の公益を考えるのなら、当然友愛志向のフラタニティを排して、師弟の節義を
時には君臣の関係以上にも重んずる、儒家に基づく教学体制が構築されてしかるべきだ。
65 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 08:10:47 0
黄老思想と言う言葉をよく見聞きしますが、老子の思想は「老子」がありますから
判るのですが,黄「帝」の思想と言うのが判りません。黄帝とはそもそも
伝説上の王であったとも言われて無いでしょうか?相すれば、その人の
著作などあるはずないというべきでしょう。相すればまた、その人の思想
もまたあるはず無いのではないでしょうか?後世の人の創作ならありえるでしょうが。
「黄帝の書」と言う言葉も聞きます。一体、どうなっているんでしょうか?
教えていただけるなら幸いです。
66 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 09:34:47 0
五帝の第一であり、易の六十四卦の発案者だったとも言われる(ただし神農説のほうが有力)
黄帝軒轅(前2510年−前2448年)、その詳しい事績を記述したもので最古の部類に当たるのは、
「列子」黄帝第二だと思われるが、司馬遷が「諸子百家の文体は典雅でなく理にかなっていない」
と指摘したうちの一つでもあり、やはり第一の原典は「史記」五帝本紀の記録になるかと思われる。
平たく言えば、黄帝は始めのうちは武力討伐などをも用いた積極統治を試みていたが、
なかなか統治がうまくいかないので、思い切って自分自身が宮室にこもり、できるかぎり
積極的な活動を控える消極統治に切り替えてみたら世もうまく治まり、最後には
黄帝自身が龍の背中に乗って天界へと昇っていったとすらされる伝説もある。
黄帝のこの事跡が、伝承上ではもっとも確実な「学識による無為統治」の始まりとされる。
黄帝以前にいたとされる伏羲や神農、天皇(てんこう)や地皇、人皇といった伝説上の聖王は
全く武力すら用いず、家の台所で政務を執るなどの先天的な無為統治を行っていたため、
そこには無為統治の有効性への学識的な確信はなかった(だからより偉大だったともいえる)。
黄帝にいたって初めて、自らの武威統治などと比較しての、無為統治の有効性が学識的
にも確信され、後天的に無為統治を重んずる道家の始祖としての特性をも帯びている。
67 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 09:58:14 0
>>66 >その詳しい事績を記述したもので最古の部類に当たるのは、
「列子」黄帝第二だと思われるが、司馬遷が「諸子百家の文体は典雅でなく理にかなっていない」
と指摘したうちの一つでもあり、やはり第一の原典は「史記」五帝本紀の記録になるかと思われる。
「史記」五帝本紀の記録は、「列子」に基づくということになりませんか?
「列子」が最も古い記述であるとすれば。
68 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 10:03:28 0
無為統治の元祖とされるのが黄帝である一方で、
儒家ではよく称賛の対象とされる舜や禹が有為統治の元祖であり、
悪辣な父母をなだめるためにあらゆる手管を尽くしたり、
すね毛が擦り切れてびっこを引くほどにも土木事業に奔走した姿などが
有為統治を重んずる儒家からは称えられる一方で、
列子などの道家からは「最もせわしない部類の人間」と揶揄される。
堯や舜や禹、湯王や武王や周公の発言は「書経」にも遺されているが、
やはりまとまった思想書ということではなく、政治上の発言集でこそある。
言行一致、文治一致が中国思想の基本であり、それは権力道徳学たる
儒学だけでなく、道家などにも当てはまること。実際の政治行為によって
ある種の思想を実践し、相応の効果をもたらしたのなら、たとえ文章一つ
書かなくたって、明らかに当該思想の思想家だったのであり、言葉以上にも
実行を重んじた点では、文書家止まりの思想家以上ですらあったといえる。
69 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 10:12:32 0
>>67 司馬遷はただ既存の文書を漁るだけでなく、古えの聖王の活躍地だったとされる場所にまで
実際に赴いて、当地の文化習俗などを見聞し、他の土地と比べての習俗の秀逸さなども鑑みて、
その実在性を確信しつつ、史書の編纂などにも臨んでいるので、相当に頭でっかちだった場合も
あるだろう諸子百家などと比べれば、実見に即しているぶんより写実的な描写ともなっている。
もちろん実地見聞すらすればより記事が秀逸になるとも限らず、耳目の欲求ばかりを満たそうとした
あまり、「戸を出でずして以て天下を知り、窓をうかがわずして以て天道を見る」の道家にすら及ばない
散漫な見解しか持てなくなる場合もある。実地の体験と、歴史家としての自己研鑽との両方が
備わっていたから、司馬遷は世界最高の歴史書「史記」を書けたというのが、総合的な結論。
70 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 10:55:39 0
列子の記述に拠れば、黄帝は国民を干渉した結果、国は治まらなかった。
黄帝は、疲れ果てて政務を放棄した。夢の中の理想的な国の有様を見て、
自分の政治のやり方とした。そしたら自分の国も夢の中の国のようになった。
と言うのですね。
ここには、黄帝が国民を干渉することと、干渉しない、その理論的根拠が
全く無いのですね。これでは学問的といいますか、哲学的といいますか、
干渉しない政治の根拠は無く、他者に伝える説得性が無いといわなければならない
と言うべきです。
しかし、老子にしろ、荘子にしろ、この根拠をこそ、自分たちの思想の根源であるとして
つまり真理真実として、他者に伝えたのです。
この根拠に基づけばこそ、無為の政治が行われなければならないと言う道理が生じるのです。
そしてまた、この根拠に基づけば、無為の意味が、単に何もしない政治と言うことにならない
のかなるのかの、疑問も解決できると言うわけなのです。
黄帝が出てから、老子が出るまで、黄帝と同じような政治が行われたと言う事実の
報告があるんでしょうか?
71 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 11:06:50 0
他者に理論的根拠を伝えて説得しようとすることが、すでに他者への不埒な干渉でもあるのでね。
それを踏まえてもいるからこそ、「列子」の記述はやたらにそっけないものが多いのかもしれない。
具体的に確認されず、自分から積極的に訴えられないものは全て無効であるとする決め付けが、
自分から何ら意見を発する能力も持たない、後進国での女子供たちの大量餓死をも生んでいる。
見えざるを図ること、表向きには現れない人々の恨みを慮るところまで含めて権力道徳であり、
まだ積極性を重んずる儒家の「書経」や「左伝」にもそういった意味の戒めが多く載せられている。
言語道断であるもの、言葉で表そうとしても表せないものまでをも捉えている道家ならばなおのことで、
経験則を排したガチガチの理論展開でどうにかできるものの限界を超えたところに、道家の本旨もある。
72 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 11:23:50 0
>>71 >他者に理論的根拠を伝えて説得しようとすることが、すでに他者への不埒な干渉でもあるのでね。
病気には直るものも直らないものもあると言うことですが、例えば怪我のようなものは、
手当てをすることによって治り、その人は治ってから、今までのように自由に活動
できるのです。
この傷の手当てはその被害者の自由を干渉したことになるでしょうか?
なら無いでしょう?反対に、その人を自由にしたのですよね。
この道理と同じなんですよ。国民が誤って考えているなら、その誤りを指摘し、
誤りから開放してやるのが、国民を自由にしてやっているのです。
干渉とは国民の自由を制限することを言うべきであって、国民を自由な人間に育てること
を干渉とは言ってはならないというべきでしょう?
老荘思想は、この国民の迷妄を破り、国民を真理真実に置く、鍵となる教えだと思うのです。
ここにおいても、干渉の意味は同じであります。人がわからなくて困っているときに、
判るようにしてあげることは、その人を自由に解放する行為であって、
自由を束縛する干渉ではないですよね。
怪我を治してあげようとする以前に、傷害で自分から怪我を加えないことだな。
マッチポンプという干渉行為全体の根絶。それが無為統治の基本でもある。
74 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 11:37:45 0
>>73 >マッチポンプという干渉行為全体の根絶。
マッチポンプと言うのは、自分で火をつけておきながら、自分で消火作業をする
と言うことですよね?
ところが、こういう行為はなぜするのかと言うと、これこそ他者の干渉が原因なんですよ。
マッチポンプ行為は、これほど、不自由な状態があるでしょうか?
人間皆自由でありたいのですよ。人から強制されて行うよりも、
どうせ不自由であるなら、マッチポンプ行為をする方が良いと考えるのですよ。
井上のだんなさん、どう思われます?
75 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 12:52:38 0
とにかくマッチポンプでもいいから何かをしていないといられない内面からの焦燥、
その結果として行われる万人の万人に対するマッチポンプ込みでの干渉のし合い、
そのような劣悪な人間関係をわざわざあえて必要もなく捏造するのが洋学や聖書信仰。
総員嫌がらせ合い状態の元凶となる内面の焦燥から根絶させるのが、道家だったり仏教だったり。
西洋批判や洋学批判などは、勧善懲悪のうちの「懲悪」であり、勧善ではない。
勧善懲悪の語源である「左伝」成公十四年にも「懲悪而勧善」とあり、断悪修善や破邪顕正とも同じように
やはり邪悪なるものを懲らしめ破り断ち切ってから、正善なるものを勧め顕らめ修めるのが筋になっている。
ただ、懲悪ばかりに固執したあまり、懲悪が済んでからの勧善を疎かにしてはならないのであり、
そのためには、項羽級の暴虐で秦国を滅多打ちにするような、やり過ぎの破壊行為は禁物である。
武装蜂起して投降すらすれば、後は公正な処分に徹するという誓約が勧善懲悪者には必須であり、
俺もまた、懲悪を超えた勧善者になるために、私怨などによる懲罰の過重化などは避けるように努める。
ただそれはもちろん、無制限に寛容であるということでもなく、あくまで公正な処分に徹するということなので、
何をやったってお咎めなしなどとは思い込んだりしないように。極刑級の罪人には極刑を科すことだってあり得る。
それは、科さないほうが被害者の恨みを溜め込ませるなどの落ち度になってしまうから。
重罰過ぎるのでも軽罰過ぎるのでもなく、罰を慎む。懲罰行為においてですら中庸を守ってこその儒家。
77 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 16:36:19 O
ここまで読んでて思った。
老・荘思想って、ある意味「引き寄せの法則」的な所があるな。
一緒ではないけど。
欲っするな
考えるな
じたばたするな
78 :
考える名無しさん:2010/09/21(火) 18:34:40 0
逆にじたばたしまくって、結局誰しもを引き離してしまうのが儒者だ。
「孤臣孽子は其の心を操るや危うく、其の患いを慮るや深し。故に達す(尽心章句上・一八)」
という孟子の言葉は、成王を独力で輔弼し過ぎたあまりに他の臣下からの恨みを買った魯の周公や、
父母の野合で生まれた「妾の子(孽子)」である儒祖の孔子を擁護した発言のようだが、世に突出
しようとし過ぎて、かえって孤立することの多い儒者全般を孤臣孽子に喩えたように思えなくもない。
俺のじたばたさ加減も、あえて自分への懇親をはね返らせて、天皇陛下のような正真の君主格への
畏敬に振り向けさせるための、追い込み漁的な方便の意図が一応はあるわけだが、なかなかおまえらに
そこまで気づかせるのも難しいもんだ。罪人に恩赦を発行する権利を持つのも当該国の君主格のみであり、
どうあがいたって臣下止まりな俺などには、罪を許す資格すらないから、許さずにいるのでもあるわけで。
法制に寄らずとも、権力道徳に基づけば天下全土に偏在している君臣の義にも基づいて(微子第十八・七参照)、
君臣の序列をわきまえた臣下ならではの振る舞いを、孤臣ながらに、おまえらにも先駆けて実践してるわけだが。
ちなみに俺は「孤臣」の自覚はあるが、「孽子(妾の子)」では全くない。
孤臣は自得のものでも、孽子は生まれつきの境遇如何により、事実としてそうでないのだから仕方がない。
孔子の他に、鬼平こと長谷川平蔵も孽子だったりするが、始皇帝やキリストすらも孽子であるため、
孽子だからといって必ずしも偉人や英雄になるとは限らない。人としての最善例と最悪例の両極端にふれ切るのが孽子。
孽子である恥じらいをバネに正攻法の研鑽に努めるか、孽子ゆえの呪詛を持ち越して害悪をまきちらすかの違い。
孟子の提示する「易姓革命」に基づいて、聖書から姓名を引用している西洋人が軒並み実社会の
表舞台から退場した時にも、一番初めにスポットライトが当てられるべきなのは天皇陛下であり、俺じゃない。
人類社会の浄化の旗印となるには、俺は穢れすぎている。自分自身がそんなに穢れていなくとも、
穢れた連中との付き合いが多すぎたから、毒を以て毒を制するように、酒盛りでヤマタノオロチを酔い潰れさして
斬り殺したスサノオのごとく、「破邪」の権化としては相応しくても、それを上回る「顕正」の権化としては相応しくない。
(これは俺だけでなく、石原都知事や大作などに関しても言えることだが)
何者かが何者かに勝ったのならば、勝った側が全権を掌握するというのが弱肉強食社会の常ではあるが、
その弱肉強食から終わらせて、破邪に関しては有能だとしても、顕正に関してはまだまだ至らない戦略的勝者が
顕正に関してこそ専門である人々に道を譲ることで、勝ち負け第一の乱世を越えたところにある泰平を企図する。
それこそは目的だからこそ、限りのない乱世をもくろむ覇権主義者どもにも勝利できるのだから、決して酔狂にも当たらない。
破邪の次にある顕正、断悪の次にある修善、懲悪の次にある勧善を見越していればこそ、覇権主義者などよりも遥かに
望みのある先行きが期待できて、極限的な戦闘状態にも平常心を保てるのだから、その恩義をちゃんとお返しする必要がある。
悪いけど、すごく楽しい。
俺が性悪なのでもサドなのでもなく、おまえらがカモネギすぎるだけだ。
83 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 07:22:31 0
井上さん、古代中国で、中心となる国は、秦の統一以前は、斉ですか?
諸子百家が集まるところも有ったそうではないですか?
84 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 11:12:42 0
斉の桓公が覇を唱えていたのは春秋時代中期だからな。
孔子の活躍よりもさらに100年以上昔の話。その後も斉は引き続き強国であり続け、
戦国時代中期にも、秦王と共に斉の湣王がほんの一時帝号を称したこともあったが、
「天に二日なく、土に二王(帝)なし(礼記)」の慣例に即して、すぐに廃している。
中心となる国がいくつも乱立して、無秩序状態と化していたのが春秋戦国時代。
ちょうど秦や斉が今のアメリカやロシア程度の勢力規模で、人員規模で世界の
大多数を占めていたわけではないが、とにかく軍事力や諜報力の面で強大化していた。
最終的には、ソ連が崩壊してアメリカの覇権が決まったように、斉をも飲み込んで
秦が統一帝国を樹立したが、なまじ戦国時代までに天下荒廃の大罪を犯し続けて来、
敵に勝って全権を掌握する乱世のペースでの支配に臨んだため、その支配は永く続かず、
封土を持たない陳渉や項羽の蜂起によって滅ぼされ、同じく封土は持たなかったものの、
今の日本ほどにもど田舎で交通の便の悪かった漢に封ぜられた劉邦が天下を握ることとなった。
その後の漢代における、儒家の礼楽統治をも取り入れた融通支配による成功は知ってのとおり。
孟子は「春秋五覇(斉の桓公を含む)は湯文武三王の罪人であり、いま(戦国時代)の諸侯は
春秋五覇の罪人である」というほどにも、無秩序状態と化していた春秋戦国時代の為政者を
一括して糾弾している。これほどもの理想主義が戦国時代の最悪の乱世に受け入れられなかった
のも当然のことで、どうも孟子にも、存命中に本気で世に受け入れられる気はなかったようだ。
85 :
考える名無しさん:2010/09/22(水) 11:39:52 0
孟子は、言ってることは完璧無比の天下無敵(離婁章句上・七)なんだが、
あまりにも完璧すぎて現実の為政者や権力者が近寄れもしないところがある。
その言説は漢代や唐代においてもまだ本格的に取り入れられず、
宋代の朱子学においてやっとその評価が定着することとなる。
その頃の中国たるや、漢代や唐代ほどもの隆盛には影が差し始め、
明代に一時独立統治を盛り返したものの、元や金や清といった異民族による
支配を立て続けに被るようになり、今でも「共産主義」という異文化による支配が続いている。
結局、孟子の学がその受容によって最大級の成功をもたらしたのは、江戸時代の日本で、
朱子学を通じてその王道統治のあり方が日本全土を挙げて実践され、260年の泰平を築き上げた。
忠臣蔵の赤穂四十七士の中にも孟子の末裔がいたのは有名な話。易姓革命論が万世一系の
天皇制にそぐわないために忌避されたなどと言われているが、中国本土においてですら
未だ本格的な実践の行き届いたことのない孟子の学が、最大級の成功を果たしたのもこの
日本でこそある。提唱から受容までの間延びの長さでも、孟子こそは世界記録保持者だといえる。
86 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 10:06:40 0
厚生官僚の汚職嫌疑からの開放事件、手回しが良いね。
公務員による公務員のための政治でつね。
日本もそうであったに違いないでしょうが、古代中国では、無実の罪で死んだ人が
たくさん居たでしょうね?
こうしてみますと、人間の自由と権利なんて、人間が想像した概念であって、
それは科学的な道理ではないと思いませんか?なぜなら、真実に人間に自由と権利が
有ったなら、其れが蹂躙された事実があれば、なんかかんかの事変が発生しなければならない
とならないと思うのです。つまり、必ず天から隕石が降ってきて真の不法ものに当たるとか、
天地がそのあってはならない自由と権利を回復させると言う、人為に拠らない
示しがなければならないと思うのです。
しかし、易学では、天と地が不法行為に感応し、いわゆる天罰を下す、と言う
教えがあるのではありませんか?
こういう思想は、洋の東西を問わずあるのですね。ギリシャ神話のエディプス王
事件。この事件は長年かかって誤った行為がその結果を現したと言うものです。
疫病の原因が、エディプス王の若いときの間違った行為であり、その間違いが
エディプス王に判明したのであります。
彼自身はその過ちを気づいていなかったのであります。
まして、気づいておきながら行った不法行為は、当人はその結末におびえなければならない
訳なんですが、其れが世間的な教訓に、なかなかなっていないのですね。
司馬光もこの点に関心があったのですね?
ところで、中国の思想には、死んでどうなるかを論じたものが無いのですよね。
インドには輪廻思想と言うものが有りましたが。ここは論じて於かなければならないところです。
87 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 10:55:34 0
>>86つづき
先のレスで、違法不法と言う、人権無視の行為が、王からであろうと
民からであろうと、有った場合でも、其れが明確な天の罰があると言う
ことは曖昧であると言うにとどめなければならない、と言いたかったのであります。
88 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 13:41:53 0
さて、般若の智慧に反するもの、換言すると、正法を誹謗するものの
状態はどのようなものであるか、其れについて何も言わないということは、
これら知者には、道理上有り得ないのである。
まずパルメについて言うと、プラトンの「パルメニデス」で、その混乱
を抽象的ではあるが詳細に論じている。其れは地獄と言うべきもので、
わかりやすい例を挙げるなら、あのギリシャ神話の話:山の頂上に大きな石を
おしあげるが、頂上と言うところで、その石が転げ落ちる。そこで再び
石を押し上げると言う行為を永遠に繰り返す、あの人のようであり、また
水を求めている人が、その人自身は水の中に居り、水自体はその人の
下唇のところまであるが、飲もうとすると水が下に引いてしまう、と言う人の例
のごとくなのである。
89 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 13:54:24 0
イエスについては、彼は以下の例え話を出している。ルカ福音書
1619> ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
1620> ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
1621> その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
1622> この貧しい人がついに死に、御使たちにつれられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
1624> そして黄泉について苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、
はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。
ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火災の中で苦しみもだえています』。
1625> アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪い物を受けた。
しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
1626> そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、
そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
1627> そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
1628> わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
1629> アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
1630> 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
1631> アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、
彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
90 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 16:38:53 0
91 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 17:09:48 0
そこで考えてみるに、実体が一つか複数かによる行為は現実の行為である。
そして、一つと考えるそれに従う人は安楽であると言うのである。
一方複数であると言う考えに基づく人は、いかなるものも得られない、と言うのも
現実のことなのである。
先にギリシャ人の例を挙げたのは、現実の世界のことと言うべきなんだ。
この生きている世界で、真実に付いた人、即ち、実体は一つであるという教えを奉じた人は、
この生きてる現実の世界で、自由に安楽に生きていけるのである。その人が死んだとしても
その人にとって死が何の変化であると言うのだろう?あるはずが無いのだ。
一方実体が複数であるという教えに従った人は、現実の世界で何物も得ることができづ、
その人の死と言う事実も本当のものであり、本当のものと考えるが故に、その以降の死の世界
もまた本当のものと考えざるを得ないのではないか?
仏教でもキリスト教でも、煎じ詰めてよく調べてみると、上の説くところに合致しているのだ。
正法を誹謗する罪は、如何に恐ろしいものであるか、知るべきなのであるが。
あまりにも曲学阿世のオンパレードすぎて、
一つ一つの意見に当たってまでの矯正が追いつかない。
(仮にしたとしてもその全てを患者自身も読みこなせない)
君みたいな重症患者は、間違いだらけの自分の意見を立て続けに
述べ立てることからやめて、相手の話を素直に聞き入れるだけの
従順さに徹していないと、治療もおぼつかないんだ。
93 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 17:53:16 0
94 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:00:03 0
1+1=2が正しく、1+1=3や4が間違っているのは、人間が定義する算術に基づく自明の結論だが、
それでもやはり1+1=3や4を文言として創作もできる。そのような過ちを巧みに組み合わせることで
長文を創作することもできなくはないわけで、この世界には事実問題として「過ちの体系構築」もまた実在する。
その、過ちの体系構築のことを古来から「無理」と呼び、逆に正しさの体系構築を「道理」とも呼ぶ。
無理が通れば道理が引っ込み、道理が通れば無理が引っ込む。
正しさの体系構築たる道理も、過ちの体系構築たる無理も、それぞれが単独で個々の人間の言動規範や
生活規範を全てまかなうことが可能であり、道理は道理だけで一つの国家を、無理は無理だけで一つの国家を
形成することすら可能である。そして道理と無理とは、1+1=2と1+1=3や4ほどにも相容れず、どちらかを
立てる以上はもう一方が立たない。仮に両者を同時に許容したとしても、過ちを許容した時点で1+1=2の
清廉さは穢されて、1+1=3や4の汚濁のペースに完全に乗せられることとなる。それゆえ無理が通っている
ときには道理が引っ込まざるを得ず、道理が通るときには無理が引っ込まざるを得ない。
95 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:13:21 0
96 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:23:32 0
上記における道理と無理の場合のような、位相の相反性を陰陽によって捉えたのが易で、
易の法則を経典化した「易経」は、もっぱら道理の通し方を述べているものの、
易というものそれ自体は、道理であるものと無理であるものほどにも相反する、清濁の両極を公平に捉えている。
清廉なるものを清廉なるままに捉えている度量たるや、仏陀以上だし、
濁悪なるものを濁悪なるままに捉えている度量たるや、キリスト以上。
絶対にそれ以上やそれ以外であることのあり得ない、道理や無理や現実や非現実といった全ての現象を
飲み込みつくしてなお泰然自若たるのが易であり、以上も以外もない天地万物に永久普遍の判定基準。
その易によっても肯定されるのが、道理と無理のように相容れないもの同士が、永久に相容れることがないという
場合があることであり、「どんな物事も絶対に相容れないわけがない」という、友愛の論理が通用しない場合があること。
97 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:38:53 0
>>96 >その易によっても肯定されるのが、道理と無理のように相容れないもの同士が、永久に相容れることがないという
場合があることであり、「どんな物事も絶対に相容れないわけがない」という、友愛の論理が通用しない場合があること。
其れは大変じゃないですか?
それで、其れって何ですか?その、絶対に相容れないものとは?
98 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:43:47 0
絶対に相容れることがない、相反性の対極にあるもの同士の実在を易が肯定した上で、
なお「易経」は、互いに相容れることのない陰陽の「調和法則」の記述を試みた上で、しかも成功している。
友愛も和解もあり得ない、相反性の対極にある事物同士を調和させた方法、それが序列。
道理であるものも無理であるものも、1+1=2であるものも3であるものも存命は認めるが、
両者が相まみえる時には道理であるものが優先され、無理であるものが劣後されるようにする。
道理も無理も、この宇宙のどこかに居続けてはいるものの、接触する場合に限って、
道理の側が一方的に自らのあり方を通し、無理の側は全ての自らのあり方を反故にする。
いついかなる時も道理が主人で無理が奴隷なわけではないが、ことに両者が並存する場合には
道理は主人以上にも主人たらんとし、無理は奴隷以下にも奴隷たらんとする。一切の態度姿勢が
主人以上に主人であるものと、奴隷以下に奴隷であるものとに分かれ、お互いの分を決して超えようとしない。
99 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:49:23 0
>>98 なんか、凡庸な。
それで、どうだと言うの?
100 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 18:59:23 0
たとえば、道理の把捉者と、無理への没落者とが相まみえて話し合う場合、
まず大前提として、道理の把捉者が無理への没落者に、一方的に意見を述べ立てることを常とする。
道理把捉者の側は意見を述べ立てることに専念し、無理没落者は意見を聞き込むことに専念する。
意見を述べ立てることに専念した結果、道理把捉者は自らの至らない部分に気づいて恥じるし、
意見を聞き込むことに専念した結果、無理没落者もその意見の立派さへの簡単の言葉を述べる。
それでこそ、道理把捉者と無理没落者の話が通じ合うのであり、始めから道理把捉者が
意見の発露を躊躇したり、無理没落者が自論を述べ立てようとしたりしたのでは、話は通じない。
通じない結果、どれほどもの長広舌による議論を交わしたとしても、何ら得られるものはない。
101 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 19:12:49 0
>>100 >それでこそ、道理把捉者と無理没落者の話が通じ合うのであり、始めから道理把捉者が
意見の発露を躊躇したり、無理没落者が自論を述べ立てようとしたりしたのでは、話は通じない。
それでは、われわれの関係は、どういうものなんでしょうか?
道理の把捉者が一方的に意見を述べ立てることを 欲する のでもなければ、
無理への没落者が一方的に意見を聞き込むことを 欲する のでもない。
あくまでそれらは大前提としてわきまえられていることとし、
当然のこととして道理把捉者が一方的に意見を述べた結果恥じ入ったり、
無理没落者が一方的に意見を聞き込んだ結果感嘆の意を述べたりする。
人間には、「欲する」という試み以前に「わきまえる」という試みが備わっており、
わきまえるかわきまえないかという大々前提において、あらゆる規範の正誤も左右される。
欲求以前のわきまえから正しさをわきまえれば、欲するものすら正しいものとなる一方、
わきまえから誤っていれば、今の君らのように、欲するものからして誤る結果を招く。
人の説教などを欲する以前に、いま君らが欲すべきものは
他にあるというのに、それを自分から欲することすらできない。
「罪を犯しても許される」とか、「刑死しても生き返る」とかの、
根本的なわきまえから誤っているが故に、欲するものもまた誤ってしまっている。
そのわきまえの誤りを是正した結果として、自ずと欲するものもまた変わっていく。
欲する以前にどうにかすべきものがあった所にまで立ち返って、何もかもをやり直す。
104 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 19:33:54 0
アテクシは、ゴーダマやイエスや、パルメ、老荘が人に知らせたい真理真実
をなるほどと受容し、其れをまたあなたなどに知らせたい、理解してもらいたいと思うわけです。
其れは聞き知るものを幸せにする道理なんですから。
こういう態度は弁えない者ではないと思うのですが、どう思いますか?
105 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 19:49:51 0
>アテクシは、ゴーダマや孔丘や、ザラスシュトラ、老荘が人に知らせたい真理真実
>をなるほどと受容し、其れをまたあなたなどに知らせたい、理解してもらいたいと思うわけです。
>其れは聞き知るものを幸せにする道理なんですから。
>
>こういう態度は弁えない者ではないと思うのですが、どう思いますか?
うん、その通り。
106 :
考える名無しさん:2010/09/23(木) 22:34:11 0
司馬遷の記述は正確なのか?例えば、40万人の兵隊を失ったとか、
二千人の処刑を行ったとか。40万人の兵隊が戦って死ぬとなると、
40万人の人間の身体を、刃を持って、、刺すなり切るなりしなければならないだろう。
何十年間に起こったことではないのだ。一つの戦争でだ、数年も無い間にだ。
短期間に二千人の処刑をするのだ。裁判の結果だ。遺体の処理をしなかったのだろうか?
中国の大地は血で肥え太っているのだ。
>>94 情念としては1+1=2が正しくて他は間違いだと思うけど
知の方では1+1=2の正しさも1+1=3の過ちも情念としか言えないのではないかと思えるんだよな
情念(幻)ではないという説明は難しいでしょうか?
ちっともわきまえ直してはいないな。
もっと、屈辱の限りを尽くして。
地面に思いっきり額を擦り付ける惨めな土下座を自分たちから好き好んだ挙句、
額から流れ出た血で大地が真っ赤に染め上げられるぐらいに。
ちなみに額を地面に擦り付ける土下座は、正座からの拝礼としては間違っており、
上目に相手を見れる程度の角度までの前屈であごを引くのが正しい礼法。
それでもあえて地面に額を擦り付ける。儀礼的に間違っているほどもの屈従を
自分たちから尽くした挙句に、相手の側に礼式への従いを許可してもらう。
それほどにも自分からはへりくだり続けた先に、正しい上下関係が生ずる。
110 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 09:20:54 0
司馬遷の中に出てくる儒者って、小走りになるときがあるんだね。
恭順のしるしに相するのだと言う。
儒教は抑圧以外何物でもないね。
111 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 09:24:55 0
支配者にとって都合が良い。
要するに孔子のおべっか思想に過ぎないんじゃないの?
列子が孔子の為になるやり方をしてるのはおかしい。
112 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 13:48:51 0
「道は須臾も離るべからず。離るべきは道に非ざるなり(中庸・一章)」と儒者なら捉えるが、
天地万物全ては道に通じ、「道の道とすべきは、常の道に非ず(老子・一章)」とする道家の見解とは確かに異なっている。
結局、わざわざ道を特定せずとも、何事にも道が備わっているのであり、地獄道や鬼畜道ですら一応は道である。
ただ、その道に正しい方向性を見出して、その方向に向かって歩みを進めるのが儒者の説く「道」に即すことであり、
実相の順逆を取り違えて、正しい方向からは180度逆走することが、儒者のいう「道」に反することとなる。
地獄道や鬼畜道、ユダヤやキリシタンですら、道家のいう「道」に則っているのは確かだし、最良の清廉も最悪の汚濁も併せ呑む
易の法則それ自体に従っているのも確かだが、その易の法則から正しい方向性を見定めている「易経」や、その易経を正典ともする
儒家において「道」とされるものには背いている。天地万物に遍き道に乗っかってはいる上で、その道理に背いている。
道家のいう汎用的な意味での「道」にすら則っておらず、清濁の両極を捉えた易の法則すらも逸脱しているのならまだしも、
道家や易の提示する、方向性抜きの道には乗っかった上で、その正しい方向性に背いているために、儒家や「易経」の記述とは相反する。
もちろん儒家のほうは、正しい方向性に即して道を歩み進むため、正しい方向とは反対の方向に道を歩み進もうとする
地獄道や鬼畜道とは相容れない。道に則った上でしかも一方向に歩みを進めるという、同じ段階にあればこそ相容れないのであって、
そもそも道を一方向へと歩み進めようとすらしない道家とは段階が全く違うために、一切が相容れないというようなことはない。
113 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 13:59:26 0
道家や易の提示する「道」:
―――――――――――――――――――――
人 人
類 類
の (特に方向性を示してはいない) の
破 繁
滅 栄
―――――――――――――――――――――
儒家や易経の提示する「道」:
―――――――――――――――――――――
人 → → → → → 人
類→ → → → 類
の → → → →の
破 → → → → 繁
滅 → → → → → 栄
―――――――――――――――――――――
地獄道や鬼畜道の提示する「道」:
―――――――――――――――――――――
人← ← ← ← ← ← 人
類 ← ← ← ← 類
の ← ← ← ← ← の
破 ← ← ← 繁
滅 ← ← ← ← 栄
―――――――――――――――――――――
114 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 14:16:26 0
ちなみに
儒家や易経と地獄道や鬼畜道のみそくそ:
―――――――――――――――――――――
人 ← → ← → 人
類 ← ← → ←類
の → → → ← → の
破→ ← ← 繁
滅 ← → → ← →← 栄
―――――――――――――――――――――
で、人類の繁栄を企図する儒家や易経と、破滅を企図する地獄道や鬼畜道が入り乱れて
収拾が付かなくなる。これは破滅にいたる狂乱を嬉しがる地獄道や鬼畜道の側からすれば
結構なことだろうが、人道でもある儒家などの側からすれば穢れた世の中で、そうであるよりは
そうでないほうがいいに決まっている。また、特に道に対して方向性を提示しない道家にとっても、
善悪が際立って入り乱れ合っている状態であるが故に、諦観すべき愚かしき事態であり、
無為自然の徳に安んじて、善悪の争いからは一歩も二歩も引き下がることが旨となる。
老子や荘子とて、春秋戦国時代という乱世における思想家であり、実践面では結局、
乱世における処世のあり方を主題として述べていて、その実践手段が何よりも「無為自然」だった。
泰平の時代においてであれば、文帝のように規制緩和の法律処理などに携わったり、
武帝のように封禅の儀式を執り行ったりの、道家的統治者ならではの行動的実践も生まれる。
それは、
>>113の一番上のような、道を一方向に進もうとする躍起さが取り払われた社会を
企図せんがためであり、正逆どちらかの方向性に即したり、とにかく歩みを進めようとする
多動性障害状態を冷却化せんがために行われる。方向性自体を根本的に否定して、無為に帰す。
115 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 15:06:25 0
結局、道の方向性ではなく道そのものを貴ぶ道家と、道の正しい方向性を貴ぶ儒家が
中国思想における勝ち組となり、道の誤った方向性を嬉しがる鬼畜道や、相反する
道の方向性の衝突が入り乱れるみそくそ状態を面白がる連中(縦横家など)は負け組となった。
>>113の上二つが中国全体において貴ばれ、
>>113の下一つと
>>114の状態が忌まれて、異端扱いされた。
根本的な部分における理念の面で、総体性が正しめのものを選び、おかしめのものを切り捨てたため、
相当に凶悪な暴君や凶賊なども生み出しながら、中国社会全体が滅亡級の破綻に見舞われることはなかった。
国家や社会全体の事跡を記録した正史が、何らのフィクションを踏まえることもなく楽しめ、
中華帝国全体を一人の人間として捉えた場合にこそ、その偉大さが際立ってくる。
部分を見れば相当におかしなものだらけなのに、全体としてはまともな調和を維持し続けてきており、
部分に関しては美麗さも見事なものなのに、全体としては破綻続きであるようなのとは真逆の位相関係にある。
一人一人は乱暴な野人も同然なのに、全体としてまとまれば偉大な仁徳者となる中国人。
一人一人は美男や美女でも、全体としては救いようのない凶賊と化すどこぞやの連中。
>>112 易の法則は情念(言葉遊び)ではないと言うのが分からないのですが…
とりあえず易経を読んでみます
117 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 19:06:05 0
情念を一切伴わないというのでもないし、過ちを一切許容しないというのでもない。
数学なら一切の情念を排し、数理的な過ちをも徹底して排除するが、
易は理性と情念、正しさと過ちの両者すらをも清濁の両極として受け入れる。
実際上ある程度の情念を持ち、数理論理的な過ちを犯すこともある人間という
生き物の全法則を一般的に捉えて、そこから普遍的な哲学構造を導き出している。
易の法則の前では、情念の赴くままに放蕩の限りを尽くすことも、
過ちこそを確信的に犯し続けることも、その全てが許容の範囲内となり、
易の側はどこまでも許容をし続ける一方で、情念や過ちばかりについて一概すぎた
側のほうが自動的に破綻を来たす。理性と情念、正しさと過ちの調和法則を見定めて
いるからこそ、一概な情念や過ちばかりに拘泥するもの以上にも、易のほうが
情念や過ちの許容についても底無しとなり、情念や過ちについて一概であり続けた
ものが自業自得で破滅する先の先の先の所まで、想定をし尽くすことができる。
原理的に、そういう風にしかなっていない。
一概な情念や過ちにひた走るものよりも、理性的正しさと情的過ちの調和法則を
考え抜いているもののほうが原理的に安定し、情的過ちに専らであるもの以上にも
原理的に長命となる。個々人に関して言えば、正しい人間よりも間違った人間のほうが
長生きすることだってなくはないが、総体的には清濁の調和を重んじるもののほうが、
清濁の両極に振れ切るものよりも原理的に安定し、長命ともなるようになっている。
118 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 19:22:32 0
易の法則とはどんなものですか?
>>117 情念と独立に道や人間が在ると言う形而上学ですね
私は情念一元論で数学も言葉遊びとしての情念と捉えています
結局は信仰の違いですかね
120 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 22:35:59 0
情念一辺倒でない一方で、理性一辺倒でもないし、
過ち一辺倒でない一方で、正しさ一辺倒でもない。
1+1=2のように人間自身の定義によって導き出される正しさと、
1+1=3や4のように、自ずからの定義が警告する過ちとを、
「正しさは優良で過ちは劣悪である」という程度の分別に基づいて、共に許容する。
正しさが過ちを一方的に滅ぼし尽くすのでも、過ちが正しさを滅ぼし尽くすのでも、
正しさと過ちをただひとしなみに扱うのでもなく、相応の序列を保った中に並存させる。
何はともあれ、それが最も安定的なものの考え方であり、理性一辺倒や情念一辺倒と
化す場合よりも長命となるために、実際に「易」も人類最古の古典ともなっている。
なるほど。読んでみます
122 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 22:58:31 0
知ってのとおり、「易経」は占筮の書でもある。
占いこそは、信じがたいものの最たるもの。
父親の周文王と共に、「易経」本文の執筆者ともされている
周公旦自身ですら「天命は易からず。天はェとし難し(書経・君奭)」といい、
易占によっても啓示されるはずな、天命の信じ難さを指摘している。
「易経」の扱いには、国家の中枢奥深くにも入り込む儒者などにとっての学問対象と、
街路で金をもらって占いを行う易者の商売道具との、二種類の扱いがあったと
「易経精義」のまえがきでも述べられている。易占の信頼度の低さなどは、
易者の占いの信用度の低さから派生してきたものなわけだが、一方で、
純粋な学問対象として「易経」を扱う儒者などにとっては、信仰の対象ではなく、
自らの徳性を養ったり、権力者などへ道理に適った助言を行ったりするための
ごく真面目な学知の資料であった。昔の権力者が重大な決断に迫られたときに
易占を行ったりしていたのも、あらゆる知見の動員を尽くした先に、さらなる
付加要素としての、より深遠な知見を占いの結果に期待していたからであり、
何もかもを占いの結果に依存するような、信仰の対象としていたからではなかった。
信仰の対象としてみようとするなら、易や易経は全く頼りのないものだが、
人事を尽くした先にある天命を、信仰ではなく学知の対象として求める上では、心強い。
123 :
考える名無しさん:2010/09/24(金) 23:46:25 0
易が世界最古の古典であるのは、易の基本構造である八卦や六十四卦が
約5200〜4500年前に活躍したとされる伏羲や神農、黄帝らによって構築されているためで、
「易経」本文に限ってみれば、周文王や周公、孔子といったかなり後代(約3200〜2500年前)の人間によって書かれている。
これは約3200〜2600年前の人々の詩集を蒐集した「詩経」とほぼ同年代で、4000年以上前の王侯の言行すら
実際通りに記録しているとされる「書経」よりも名目上は新しい。しかし、「書経」はそのほとんどが焚書坑儒や
永嘉の乱で遺失し、いま現存している「書経」の大部分も後代の偽書であるとされる。(ただし「孟子」などの諸子百家
の発言にも、「書経」偽書部分の記述が散見され、偽書部分が必ずしも全くの事実無根であるとは断定できない)
最古級で約5000年前の古代エジプトの遺跡にけがかれているヒエログラフなどから読み取れるエジプト神話や、
約4600年前のメソポタミアの英雄の姿をフィクション混じりで描いた「ギルガメシュ叙事詩」などは、
「易経」本文や「詩経」はおろか、本物だった場合の「書経」よりもその成立が古い。
ただ、易の基本構造である八卦や六十四卦の成立はさらにそれらよりも古い。
「易経」が世界最古の古典ではなくとも、その基本構造である「易」は世界最古の古典であり、
その世界最古の古典に基づいて、人類は一旦、ある種の方向性ばかりに基づいた無限発展をしめくくる。
124 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 09:04:52 0
井上さんの説明は要領を得ないと思う。
易とは陰陽五行説を基とする思想なのである。
陰陽五行説とは、自然界はすべて相対的に存在していると言うものなのだ。
その基本は陰と陽である。
しかし、陰と陽であるとすると、その中間に陰と陽を生じさせるものが無ければならない。
つまり、地球である。地球があってそれに日が刺せば陽となり、地球の反対側は、陰となる。
一つの地球が陰と陽とに分かれるのである。地球は変わらずに、地球の上に
陰と陽という変化が生じるのである。この現象が、「道:一」を見出す原因ともなり、
現象の説明にもなるので有る。
125 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 10:26:30 0
光と言うものは、色の一つである。先に色は形と不可分であるとしていた。
そうすると、光と言うものは形でもある。この宇宙にある光は形なのである。
暗い影と言うものも、形を持たないではありえない。
そうすると、光と影と言う形の変化、つまり陰と言う形から陽と言う形に変化する原因は
どこのあるのか、と人は追及したくなるのである。
ここが大事な問題点なのである。この原因を追究すると言う人間の欲心が
問題なのである。
126 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 10:45:46 0
>>125続き
欲心とは、根本として、光と影に実体があると考えることであり、
それ故に、光が価値有るものであるとか、影が価値有るものであるとかの
分別をし、できるだけ、自分に有利になるように考えることである。
現在の宇宙開発などは、その欲心である。
また易学などが中国で尊重されているなら、それは中国人にとって不幸である。
二兎を追うもの一兎を得ず、の例えのとおりになるだろう。
心中戦国時代の諸侯は、易学を尊重したと言う記述は、儒家を除いてないのである。
反対に、道家、墨家、要するに儒家以外は、易学を捨てているのである。真、この点は浅学の故の
間違いがあるかもしれない。
>>122俺は「易経は単なる占い・迷信の類」だとは思えないな。
あれは「太古のコンピュータープログラム」であって、その
数千年も以前のものを「現代」に当てはめて路傍で占いなんて
したって意味ありませんよ。初期のウィンドウズで現代の
エロ動画をダウンロードして見ようとし、結果旧いPCが
壊れるようなもの。易は「二分法」が重要で、その「卦」は
もはや無意味だと思います。
結局、易というものの真相は、未だ一般社会に行き渡っていないため、
既成の知識の範囲内でどんなに詳細な説明を尽くしたところで、要領を得ることはあるまい。
ライプニッツやボーアが易を研究し抜いていたことが多少のヒントにはなっているが、
だからといってその部分だけを示しても、まだ全く易の真相の把握には至らない。
俺はそれを知ってるから、自分では納得の限りなわけだが、
それを説明したからといって、おまえらが理解できるとも支持するとも思えない。
せめてでも、ホーキングやウィッテンが降参宣言でもしてからでないと。
ホーキングやウィッテンなんか、俺は今さらどうとも思ってないが、
おまえらにとっては未だあのへんが「人類の英知の究極」扱いなんだろ?
日本人なら、茂木健一か竹内薫あたりが。
そんな、俺が5年以上も前に通過した段階で手こずってるような奴らが、
俺の発言だけを聞いたところで、何一つ分かるわけがないじゃないか。
ホーキングや竹内の著書は昔俺も読み込んだが、ただ本を買って読んだだけで
本人たちに教示を受けたわけでもないので、まったく師匠だとも先生だとも思っていない。
著作を売って印税を稼ぐ商売人になるのと引き換えに、師弟の節義をかなぐり捨てた奴ら。
それも本人たち自身の自業自得なので、こちらが無礼扱いされるいわれもない。
そんな風に自分がなりたくないから、俺自身、世に阿って、
今の価値基準で正式な学者扱いされるような身分になることを拒んでいるのでもある。
曲学阿世の小人の儒などにはなりたくもないし、そもそもなろうとしたってできやしない。
130 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 14:26:02 0
まさに、孔孟などの諸子百家の思想書も、それを売って金を稼ぐためではなく、自分自身が
学問を教示したりするための道具止まりだったからこそ、あんなに粗末な体裁になっている。
孔子が編纂したとされる易や詩書などの経書も、既存の重要文献の成型版であるのみで、
編纂者である孔子が著作権を主張できるような作為の介在は極力控えられている。
「史記」を含む正史は、そのほとんどが太史公(歴史記録官)などの正式な職務に則って書かれており、
しかも司馬遷は今上帝の怒りに触れることを恐れて、存命中には「史記」を一般に公開しなかった。
中国の伝統的な書物分類である「経史子集」のうちで、著作を売りさばくことで著者自身が身銭を稼ぐ
「商業誌」としての性格を帯びているのは、小説文学集などにあたる「集」のみで、それ以外は一切、
販売目的で書かれてはいない。販売目的で書かれる書物はすべて「集」であり、経史子集の分類では
最下等に当たる。科学書だろうが数学書だろうが、それは同じこと。それを買って読んでもらったのなら、
読み手ではなく書き手のほうが感謝しなければならないほど。書き手や教え手としての威厳を、
売り手ともなることで相殺し、師匠や先生として畏敬される可能性をもあえてかなぐり捨てているから。
131 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 14:37:26 0
出版業界や広告業界との提携で、私的には商売人として大金を稼ぎまくっている学者が、
大手の大学などで教授をしていたりもする。だからそのような大学は、入学試験を難問化するなどの
あまり利口でない手段によって、有名教授の講義を受ける敷居を高めたりしなければならなくなる。
本当に教授に権威があるからではなく、貧乏人などには妬みも被る商業的な成功者だから、
利権のおこぼれに与ろうとする不純な動機での学生などを避けるために、学生を選抜する必要が出てくる。
しかし、逆に孔子や孟子のように、自分たち自身が社会的にも商業的にも成功しなかった学者であれば、
不純な動機の学生は近寄りもしない一方で、本当に正学を欲する学生のみが自然と集まってくる。
だから、難解な入学試験などによって学生を選抜するまでもなく、「去るものは追わず、来るものは拒まず」
の自由な教学姿勢を自然と保つことができる。孔子が商売で成功した弟子の子貢を咎めるなど、
儒者が商売を忌避するのにも、教学体制の健全化という確かな理由が伴っている。
132 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:25:30 0
その全てが「金になる」という、「採算度内」で構築されて来ているのが洋学であるのに対し、
個々人に関して言えば、ことごとく「採算度外」であるのが漢学。国のため、天下のために
我が身を殉じ、貧窮や非業のうちに人生を終えることすら必ずしも厭われていない。
そしてそのような、わが身をも超えた仁義を備えた人間が「君子」と呼ばれ、
わが身かわいさのために小利を貪る人間が「小人」とも呼ばれる。
インドの乞食行者のように、完全に利欲を捨て去る人間までもがそんなに多いわけではないが、
利欲が天下国家の富裕とも一致して仁義となる場合と、単なる私欲に止まる場合とが厳重に差別されて、
個々人の私益に関しては全くの採算度外であることが常套となっており、特にその傾向が強いのが
儒家や道家で、いずれも私利私欲を(少し別の段階で)非難している点では共通するが、自分たちの言説が
天下国家全体の利益になると保証している点も共通し、個を超えた公における採算度内とはなっていて、
そこが公私両面における採算すら度外視する、インド哲学などとは異なっている。
133 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:34:47 0
完全な採算度外視によって乞食行に没頭するインド人などと比べれば、
中国人は天下国家レベルでの採算は必ず計算に入れている。その一方で、
個々人については全くの採算度外である場合が極めて多く、個々人についても
採算度内であることが潜在的に約束されている西洋的価値観などからすれば、
人権侵害にも相当するような個人主義のかなぐり捨てが方々に見られる。
ただ、それによって中国人は天下国家全体の利益を西洋以上にも考え抜いており、
全体としての貧困や餓死の分量は、ブラックアフリカを含む西洋よりも遥かに低く抑えている。
134 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:43:26 0
中国思想:個々の採算を度外視。全体の採算を徹底追求。
インド哲学:利欲の捨て去りによって発見できるものを模索。
洋学:個々の採算だけが問題で、全体の採算は度外視。
個々の採算を度外視してでも、全体の採算を究明する中国思想の基本姿勢こそは、
全体の採算を度外視してでも個々の利益を追求する洋学などと犬猿の仲にある。
利欲全体を捨て去ってしまうインド哲学は、もはや意味不明(微妙不可思議)であるために
一概な敵対の対象とすらならないが、利得を追求している対象が決定的に
相反していることが、漢学と洋学の致命的な断絶を生んでいる。
135 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 19:57:35 0
しかし、個々の採算を度外視することが本論である漢学の中にも、
一応、個々の利得を追求することの意味が少しだけ説かれている。
諸子百家の中にも一応いたとされる「商家」などがそうだし、「史記」の
貨殖列伝も、そのような私欲志向の存在性をあくまで冷徹に述べている。
妻子もろくに養えず、飲食や被服すら親戚や知人にまかなってもらっておいて、慙愧の念も抱かないようでは下の下であるし、
山野に隠れて生活を送る清廉の士でもないのに、貧賤に甘んじつつ口だけは仁義を語るような輩は、愧ずべき存在である。
誰しもが普通はそう思うから、それよりはまだマシなものとして、私欲のために
「貨殖」を試みる商売でもいいから、とにかく手に職を付けておこうとする。
上記のようなろくでなしの有り様は、若き日の高祖劉邦や陳丞相平などにも
共通してはいるが、あくまで皇帝や宰相として究極レベルの成功を果たしたからこそ
称えられているまでで、ただのろくでなしのままでいるのでは、
愧ずべき下の下の存在であるに過ぎない。
136 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 20:15:31 0
商業といえど、一応は産業の一種なのだから、それだけで罪になるようなことはない。
流通を司る一端の職務として成功したり、失敗したりするのみで、そこに強奪したりされたりの
犯罪性は元来伴っていない。法律をねじ曲げてまで悪徳商売に走るような人間は、中国では
儒学を心得た徳治者などによって即座に潰されていたから、商業と権力犯罪者の結託による
世の荒廃などは、司馬遷は全く想定の対象とすらしていない。事実、中国には権力道徳学たる
儒学が実在していたから、それ抜きの歴史を考えるほうが空想となってしまうので、現実主義の
歴史家として正史を編纂した結果として、「商業は犯罪ではない」という結論をも述べている。
権力道徳が一切存在しない世界における、政財界の結託による自殺行為級の重権力犯罪などは、
古来の中国史上においては全くの想定範囲外で、それはとにもかくにも、儒学という権力道徳学が
中国には実在しているから。儒学抜きでの歴史展開などを、想定するほうが非常識となってしまう。
孟子が市場でのマネーゲームを批判してましたよね
138 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 20:30:25 0
権力道徳云々を語る以前に、自分自身の貧富のほうが問題である大部分の庶民は、
当然のこととして商売などによって私利私欲を追求し、時には大諸侯以上もの財物面での富裕を
手に入れることすらあり、窮屈な宮仕えなどをせずとも済むぶん、より悠々自適な生活を送れる。
だから、個々人としての幸福は素封(為政者でもないのに富裕でいる)に極まるとでも
言わんかというほどもの勢いで、司馬遷は貨殖の存在性を肯定的に述べている。
「史記」本文最後尾における貨殖列伝において。
史記は本紀→世家→列伝という風に、個々人の伝記の記述順序を、その位階や年代に即して厳格に
序列化しており、始めのほうに書いている人間ほど偉く、最後のほうに書いている人間ほど賤しく
なるようにその記述順序を徹底している。それは俺自身、邦訳「史記」の本文を通読して確認した。
一応貨殖列伝の後に「太史公自序」があるが、これは全文の箇条書きともなっていて、番外にもあたる。
個々人の伝記として実質最後尾に書かれているのが貨殖列伝で、その記述姿勢までもがもっぱら
貨殖に対して肯定的であるものの、その上で最後尾に書かれている。万物には肯定すべき道が
備わっているとする道家の説にも即した上で、劣後すべきものは劣後する儒家の説にも即している。
司馬遷自身に思想家としての特色はないが、道家と儒家を折衷しようとした程度の痕跡にはなっている。
139 :
考える名無しさん:2010/09/25(土) 21:22:28 0
>>137 たぶん公孫丑下・一〇における、季孫の発言の引用の中での悪例を指してるんだろう。
「史記」貨殖列伝における白圭の振る舞いなどが、この悪例と同等の所業となっているが、
あっちで高いものをこっちで安く買ったり、昔安かったものをいま高く売り捌いてみたりの
マネーゲームも、度を越した上で十分な取り締まりも受けなければ、人殺しすら伴ってしまう。
孟子のような有能な儒者がそうなることを予め的確に非難していた中国史上においては、
そのようなことは二度とあり得ない。ちなみに孟子はこんなことも言っている。
「人を殺して貨を于(盗)り、閔(くら)くして死を畏れず。凡ての民譈(うら)まざるなし」
(「孟子」万章章句下・四)
天下万民誰しもに怨まれ通しでいるからこそ、怨まれていることにすら気づかないんだろうが。
金銭欲が人の命すら蔑ろにする可能性も一応は想定していて、その弊害も如実に示している。
弊害も分からずに、誰しもに怨まれていることを逆に誰しもに怨まれていない証拠だと倒錯するような
可能性も、事実の明言によって予め防止されている。明示された以上は、過ちを繰り返す余地もない。
140 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 09:33:18 0
井上さん、このスレッドは歴史に重点を置いたものにしましょう。
他方の「東洋教学総合スレ」は哲学を重点にしましょう。
君たちに必要なのは、仕切ることではなく仕切られることなのだよ。
分厚い塀や頑丈な檻にもよって。
142 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 12:22:07 0
「史記」蘇秦列伝では、縦横家の鬼谷子に学んだものの生計を立てられず、
貧窮している姿を「仕事もせずに学問ばかりやっている自業自得だ」と親族にあざ笑われ、
蘇秦本人も「人は成功しなければ価値がない」と慙愧発奮して、諸国を巡って合従連衡を取り付け、
そのどさくさに紛れて自らも莫大な富を得る仮初めの栄光に浸っている。しかしその、
大義にも基づかない陰謀策が仇となって、蘇秦の策はたった15年で瓦解し、
諸国はまた殺し合いの戦乱へと陥り、蘇秦自身も咎を受けて車裂きの刑に所されている。
この蘇秦と、学友で秦での内部工作に回った張儀とを合わせて、司馬遷は「乱世を煽った危険人物」
と断定している。「史記」本文最後尾の貨殖列伝における、貧窮者を「愧ずべき下の下の存在」とする
言及とは打って変わって、「史記」中盤の蘇秦列伝においては、貧窮や頭でっかちを恥じて発奮し、
政治的な手管によって、一時の成功には与ることのできた蘇秦を惜しげもなく糾弾している。
143 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 12:31:03 0
一見、矛盾しているようにも思える司馬遷の態度、その心は、
「史記」太史公自序における以下の言からうかがうことができる。
「布衣匹夫之人、不害於政、不妨百姓、取與以時而息財富、智者有采焉。作貨殖列傳第六十九」
「無位無冠の匹夫の立場でいて、政治を害さず、人民を妨げず、時事を踏まえた売買で
財富を築き上げたものがあった。智者もこれをよしとするので、貨殖列伝にこれを書いた」
(「史記」太史公自序第七十より)
政治を害して人民を妨げるような、権力犯罪込みの悪徳商人は、初めから取り上げの対象としていない。
商民としての分をわきまえた中に、節度のある素封を試みて成功することは、それこそ孟子ですら咎めること
ではないから、本文の一番最後という、最も劣後した部分において、まっとうな貨殖の行状のみを記しておいた。
144 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 12:49:52 0
司馬遷は「春秋経」の専門家だった儒者の董仲舒に教示を受けていたために、自分自身
春秋経を非常に意識して書いたと自序でも吐露している。ただ、孔子の書いた春秋経は、
殺し合い奪い合いの横行する春秋時代という乱世において、善人であるものを称揚し、
悪人であるものを非難する「勧善懲悪」の意を込めて書かれたものであるため、
その筆法は司馬遷が生きた泰平の時代である前漢中期には相応しくなかったので、
あえて道家的な万物静観の方法論に基づいて「史記」を編纂したと述べている。
自分で読んでいても感じたが、やはり道家的な手法が「史記」の編纂姿勢には伴っており、
ただでさえ記述の正確な春秋経や左伝以上にも、私見を排した史実の整斉に特化している。
「書経」の歴史記録を保存した魯の周公から、「書経」の整理や「春秋」の編纂を試みた孔子までが
約500年。その孔子から司馬遷までがさらに約500年。どうも「500年」というのが歴史の再編修に
最適な周期のようで、司馬遷はその500年目に自分が史書を編纂することに天命を感じ取って
いたようだが、ただ編纂し直すだけでなく、当世の時勢に合わせた適当な編纂姿勢に則っている。
司馬遷の「史記」以降の「漢書」や「唐書」などの中国正史も、「史記」寄りの記述姿勢であったり、
むしろ「春秋」寄りの記述姿勢であったりと、臨機応変な編纂姿勢で書かれているようだ。
145 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 15:19:45 0
孟子はね「高い櫓に登ってあそこで売ってる野菜が高い、あっちで
売ってる穀物が今高い」なんて言って投資(先物)をするやつを咎めたの。
おそらく実体経済に悪影響がでるからでしょう。
いま、欧米人が困ってるマネーゲーム批判の、おそらく最古の例の
一つだろう。
146 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 19:16:17 0
投機によってあぶく銭を稼ぐ輩は確かに賤しいが、それでも即座に逮捕されるわけではなく、
贋金作りの厳禁や利息の制限、重税の課金や装束の限定などによって厳重な制限を課し、
政治への害悪や一般市民への妨害となることを十全に排した上で、多少の存在性を認める。
その伝記を記述する順序も、「史記」では易者(日者)よりも後の実質最後尾に置かれたり、
「漢書」などでは正式な記録から外されたりすらする。よくよくその存在性が劣後された上で、
あるかないか程度の存在としては認められるのが投機的な貨殖で、そんなものをやたらと
膨張させ過ぎて、政界をも司る支配者気取りをさせたり、何億人という無辜の市民を餓死や
戦死に追い込むまでもの我田引水に惑溺させたりするのは、為政者の側の落ち度であり、
天下万民の利益を慮らなければならない為政と、自分自身の利益すら考えていればいい
貨殖とが全くの別物であり、決して相容れるものではないことへの了解を欠いているから。
為政者には為政者なりの、商売人には商売人なりの財富の取り扱い方があり、商売人が
我田引水をもくろむのは当然でも、為政者までもが我田引水を旨とするのは明らかにおかしい。
それこそ、私益のために中国全土を引っ掻き回して車裂きにされた蘇秦も同然の行ないであり、
司馬遷もまた、単なる素封家以上にも、蘇秦のような権力犯罪者を第一の糾弾対象としている。
もうな、中国よりはむしろ、
アメリカやイギリスにこそ「よくやった!」と皮肉る気持ちすらわいてきたよ。
「史記」に書いてある程度のことすらわきまえていれば、絶対にやらなかったもの。
貨殖風情を祭り上げての狂乱なんか、国家権力の総力を挙げてまでは絶対に試みない。
それによってもたらされるのは、どこまでも「破滅」でしかないのだから、どうして試みようか?
今さら博物館やらネットやらで知識の収集を試みたところで、自分たちの国家体制からして
根本的な無知に根ざしているものなのだから、知識を取り込みまくる以前の問題。
確かな知見に基づいて国家体制から築き上げないことには、いくら後付けで優秀な学者など
を囲い込んだりしたところで、自分たち自身の破滅は免れえないに決まってるじゃないか。
148 :
考える名無しさん:2010/09/26(日) 22:43:12 0
政治家が経済成長を語る、笑止千万さ。
149 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 18:57:19 0
呉越同舟と言うのは史記の中にはありません。しかし、春秋時代の事跡です。
どうした司馬公は記録しなかったんでしょうか?
内容はとても徳行とはいえないですね。ある人の解説によって知ったのですが。
150 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 20:10:52 0
呉越同舟の出てくる「孫子」もそうだし、兵士の膿を吸って人心を得た呉子もそうだが、
とうてい徳性に基づいているとは言えず、何がなんでも勝つ冷徹さに即している。
楚漢戦争からもすでに100年の年月が経ち、一部の不穏分子の粛清程度の動乱しか
国内では起こらなかった前漢中期、司馬遷も相当に平和ボケして、兵法の極意なんか
いちいち探求し抜かずにいたせいか、「史記」太史公自序でも、孫子や呉子にも道徳的な
方向性が備わっていたかのような説き方をしている。兵法家とか遊侠とか貨殖とか、
儒学的な観点に基づけば一方的な糾弾の対象となる連中までをも、司馬遷は道徳的な
価値を見出した上で是認しようとしているが、それは上に挙げたような連中が軒並み
無力化されて、儒者による仁徳統治の行き届き始めていた泰平の時代においてこそであり、
儒者を穴埋めにしてまで悪辣な暴政を蔓延らせたような、時代の殺伐さには即していない。
何もせず、耳目を塞ぎきることすらをも春秋戦国時代には勧めていた道家が、むしろ
見聞きすべきもので溢れ返っている泰平の時代に至るに及んで、何もかもを見聞し尽くした
上で是認した。その結果として、道家的な見地に基づいて編纂された史書、「史記」がある。
それは、仁徳統治を多くの儒者の意見を取り入れつつ実現していった漢代にこそ実現された
もので、かえって儒家の支援を受けることで、道家の文化が華開いた結果であり、無為自然の
徳をも借り受けつつ、乱世に経書文化を打ち立てた儒家の側の恩返しであったのかもしれない。
151 :
考える名無しさん:2010/09/27(月) 21:24:13 0
邦訳「史記」は読み終わった。
ここから立て続けに「漢書」などの歴代正史を読み漁り始めてもいいが、
邦訳もあったりなかったりする上に、きりがない。「漢書」だけでも「史記」の倍近い分量だし。
しばらく歴史書の読み漁りは避けて、純粋思想哲学寄りに話を戻そう。
とはいえやっぱり、中国史はそのあり方が総体的に一まとまりの哲学となっていて、
それはそれで哲学の一種として扱えるから、これからも「史記」の感想のうちで
書き残した部分なども書いていくだろうが、一応は、必ずしも歴史性と合致しているとは
限らない、一般的な思想哲学のほうに話を戻そう。もう少し中国以外にも話題を広げて。
152 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 09:29:18 0
司馬遷の、「史記」太史公自序における「兵法すら道徳に通じている」という意見を
もう少し肯定的に解釈してみれば、兵法はそれ自体は「目的のために選ばれない手段」であって、
何がなんでも勝負に勝つために、非道な手口すら用いはするものの、結局それによって
勝ち得ようとする目的が正当でないことには、自他を滅ぼす諸刃の剣となってしまう、
だから、正当で道徳的な扱いによってこそ、利用者にも真の利益をもたらす
という点において、道徳にも通ずるとしたのかもしれない。
実際に「六韜」や「三略」では、前置きで道徳統治や英雄性の修練などを促した上で、
実際的な兵法においては極悪非道の限りが尽くされている。もし六三の前半部分における
兵法の正当利用の確約を飛ばして、中盤以降のやりたい放題な部分だけを身勝手に用いたならば、
目的も手段も不正であることの咎を受けて、誰からの支持も得ることはできないだろう。
徳川家康なども「六韜」の愛読者で、賄賂で相手を懐柔させたり、相手の弱みに付け込む
心理戦法を用いたりの、「六韜」においてこそ認められている非道な戦法を実用してもいる。
その部分だけを見て、家康を汚い男だと決め付けて、反幕勢力となる輩などもいたわけだが、
それらの戦法の活用によって実現したものは、確かに「六韜」前半において奨励されている
仁徳統治であったわけだから、物事を一面的にだけ捉えてその多面性を見ようとしない、
短絡的な神経に基づいて非難されているばかりであり、多面性を理解する者からの評価は高い。
153 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 09:46:28 0
目的も手段も正当ならこの上なく、手段が不当でも目的が正当であるならそれなりに認められ、
手段が正当めいていても目的が不当なら駄目で、目的も手段も不当なのでは救いようがない。
「目的のために手段を選ばない」ことが功を奏すのは、目的が正当である場合のみで、
手段も目的も不当なのは下の下。今はこの、目的も手段も不当な下の下の部類が、
なるべく手段だけは正当であるように見せかけることで、国民の支持を得ようとしている時代。
どんなに手段ばかりを取り繕おうとて、最終的な目的が不当であるのが見え透いているので、
国民からの支持も軒並み低迷し、目くそ鼻くその争いを続けている。その今にこそ必要なのは、
目的こそは正当である内面からの正しさであり、目的すら正当であるのなら、その目的を
達成するための手段が相当に汚くとも、目的が不当であるよりはよっぽどマシなものになる。
154 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 12:07:35 0
戦前に書かれた国訳漢文大成の「(武経)七書解題」では、
戦地での実戦論こそを専門的に説いている「孫子」を一尊として、
戦闘に至るまでの情報戦なども視野に入れている「六韜」や「三略」の価値を退けている。
戦前の日本軍は兵站を軽んじて戦線ばかりを拡大させるなど、
「孫子」の記述にすらもとる行ないを多々やらかしていたわけで、「孫子」すら実践できていたとは言いがたいが、
そもそも「孫子」のような純粋戦闘論に至るまでの、「六韜」などに書かれているような情報戦での最善を
尽くさなければ、個々の戦闘以前の総体面において不利な立場に立たされる。そのせいで「孫子」の記述に
反するような戦闘行為にすら及ばなければならなくなったわけで、七書全体の記述を軽んじた結果として、
その一部分である「孫子」の記述すら実践できない状況に日本軍は追い込まれていた。
「孫子」が「六韜」などと共に武経七書の中に入れられたり、「論語」が四書五経の中に組み込まれたり
していたのも、先人たちの深遠な慮りがあってこそのもので、それをわざわざ、今さら「論語」や「孫子」だけを
抜き出し、「六韜」や「礼記」や「孟子」などに書かれている、本格的な兵法や礼楽や仁政の実践は疎かにした、
その結果、自分たちが一尊に祭り上げた「論語」や「孫子」の記述の実践すら覚束ない有り様となってしまった。
部分の集注はもはや行き届いているのだから、今は量を稼ぐことによる総体的な有利性の確保が主題となる。
いい加減、閻魔さまのありがたいお怒りを頂戴して、心から罪を恥じ入る機会に与らねばな。
子供や学生のうちに十分な叱咤激励を受けることもなく、大人として行為能力を得て以降も
ふわふわした浮つきを持ち越してしまったせいで、色々と致命的な問題を世にもたらしてしまった
おまえらの場合には、閻魔さまのお怒りを頂戴すると共に、多少の実刑なども被らねばならないが、
閻魔さまの目前に立たされる心労と比べれば、事後の労苦などさほどでもなかろうなぁ。
156 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 20:57:57 0
>>154戦前の連中はクラウゼウィツを排出したドイツに習った。というか
当時(いまもそうか)支那思想は遅れた有色人種の戯言と捉えられて
いたので、孫子の考えを信奉する軍人はいなかった。しかしながら
戦勝国連合はすべて孫子的戦略方法で勝利を収めたのは、白人になりたかった
日本人にとって実に皮肉な結果であったろう。
157 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 21:19:44 0
俺なんか、誰も取り上げないほどの馬鹿ばっかりしてきた。
これってひょっとして善かったんじゃないかと思う。あまりにもバカが見え透いているので、
罪にならないんだ。人は簡単に許すと言うかね。真実その通りでありますように。
閻魔様のみ心を煩わすまでもないというわけでありますように。調子よすぎかw。
158 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 21:32:55 0
何よりも白人は知能指数が高い事実が優位性を証明していますよね。
東洋人は最低だそうです。アメリカでの記録です。wiki
ですから現実にアメリカ人がバカなことをしているようであっても、本当は相ではないんですよ。
また反対に日本人が現実にどんなに優れたことを言ったりしたりしていても、それは愚劣なもの
と考えるべきなんですよね。現実は真実ではなく、テストの結果の指数が大事なものです。
だから、我々東洋人は、どんなに良いことを言ったと思っても、それは愚劣で有ると思うべきなんです。
誰も取り上げないのが、実際にしょうもなかったからか、
あまりにも救いようがなさ過ぎたからかによるがな。
160 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 21:40:41 0
両方ですよ。
糾弾者をぶち切れさせて正常な裁決能力を失わせようとするのも
一種の逃避の手口だが、逃避したからといって抜け道が見出せるわけでもなく、
ありがたく怒りを頂戴する場合以上もの迷走に陥るだけだ。
実際にしょうもないものには罪はないが、救いようのないものには罪がある。
罪があった部分となかった部分とは丁寧に切り分けられて、罪のある部分だけが裁かれる。
あたかもガン患者の患部を切り開いて、正常な細胞からガン細胞だけを切り取って摘出するように。
別に、俺がおまえらの閻魔さまになるとも限らないからな。
中国やインドやアラブなどにより適正な人物がいれば、
それらの人々に裁決を代行していただく可能性ももちろんある。
ただでさえ40億人近くもいるんだから、厳選したって何万人といそうだ。
もちろん非道な蛮人などではなく、公正な裁決者こそを選んだ場合の話。
無道な蛮族であれば、わざわざ選ぶまでもなくそこら中にたむろしている。
163 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 21:57:07 0
救いようのない馬鹿な行為は、誰の目にも明らかなので、それにより被害を受けるものが
居ない、と言うことになるのではないかと、希望するのです。希望できると思うのです。
しかし、史記の世界は、良い読み物とは断言できないと思うね。
これを真似る者が出てくるでしょう。
心神喪失状態の犯行を理由に、相当に実刑が軽くなることは見込めると思うがな。
悪知恵を駆使して賢そうなふりをしながらの反抗を試みれば試みるほど、
「なんだ、こいつらにも自己責任を負う能力はあったんじゃないか」という疑いも強まるわな。
バカやキチガイのフリをする以上にも、罪深さを過剰なほどにもわきまえた上で、
相応な姿勢でその許しを乞うことが、罪が実際に解消される上での最善策ではあるだろうな。
恣意によって賞罰を左右したりする相手に対して、無根拠な免罪を求める上ではなく。
165 :
考える名無しさん:2010/09/28(火) 22:35:41 0
「史記」の大部分は、権力機構への従事者の行状で、そこにおいてこそ
血みどろの争いが繰り広げられているのであり、権力とは無縁な庶民たちは
取り上げられることすらなく、庶民として金銭的に成功した素封家の気ままさが
貨殖列伝においては半ば羨ましげにすら取り上げられていた事実を思い出そうな。
権力の動乱に巻き込まれてこそ、宮刑に処された司馬遷の思いも汲んで。
裁かれるのは、あくまで権力犯罪であった部分。
庶民として気ままであろうとした部分ではなく。
166 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 10:53:47 0
ギリシャ人、特にソクラテスは『徳』というものが何かの定義、それを
人に伝えることができるものかどうか、を哲学の大きなテーマにしてると思います。
古代中国人も、この『徳』を、ギリシャ人と同じ意味内容で、観念していたと言って良いと思うのです。
彼らの徳とはどのようなものか、というならば、あらゆる面で他者の世話をする人であり、
他者を自由にする能力のある人である、と言うべきだと思うのです。
この具体的な例としては、一家の『善き主人』であります。この人に『徳の実体』を見ることができます。
家族を空腹にさせないこと、安らかに休める場所を用意すること、寒さ暑さに対応できるように
衣服に不便を感じないようにすること、要するに、「衣食住」であります。
結局衣食住の世話をよくする人が、徳ある人といわれているのだと思うのです。
この世話において、家族みんなが平等に利益を得られるようにするために、『正義』が
生じ、欠けてる所を補う方策を見出すところに『智慧』が生じ、その他『勇気』『寛容』
、『節度』、と区分できることになるのです。これらに相応するものとして、儒家の仁義礼知
があるのだと思います。
この中の『智慧』が哲学的な『智慧』と重複するのです。
技術的な智慧と、真実が何であるかを説く『智慧』に分かれるのです。
真実が何であるかの『智慧』に基づいた「技術的智慧」が必要なのです。
この相違を説くのが、老荘であり、ゴーダマ、パルメ、イエス、なのですね。
一家における得は、一国家にそのまま移して考えることができるのです。
167 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 11:03:55 0
「史記」ではよく、重罪を犯した諸侯や士大夫が、
お上に死刑を言い渡されるものの、罪を贖って庶民になったという記録が出てくる。
死刑がただ庶民になるだけで贖われる――それほどにも当時の為政者が
誇り高かったというのもあるだろうし、下民が賤しめられていたというのもあるだろう。
もちろん庶民には選挙権も被選挙権もなかった時代、為政者たちの血みどろの争いに
徴兵でもない限りは関わらされずに済んだ一方、お上には絶対的な屈従が強いられていた。
百姓や町人の、侍と比べての卑屈さなども、日本人にとってこそ馴染み深いものではあるが、
あの卑屈さも、血みどろの為政に携わらなくて済む気ままさと引き換えに呈していたもの。
庶民といえども参政権を得た以上は、古代中国の為政者や日本の武家ほどにも血みどろの
事態を覚悟しなければならないのに、しなかったもんだから、全ての殺伐さを外界に押し付けて、
何億人もの人々を餓死や戦死に追いやる未曾有の大罪を犯した。参政権の剥奪はもはや必至だ。
168 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 11:17:24 0
「易経」の家人卦においては、妻たる女が家内にいて家をまもり、
夫たる男が家の外に出て熱心に働くことが吉祥であるとされている。
一方で、泰卦においては、天下国家の内部中枢が君子で固められて、小人が外部に排除されるのが
吉祥となるとされ、逆に否卦では天下国家の内部が小人で占められて、小人同士の友愛からあぶれて
君子が外野に放擲されることが不吉であるとされている。
「内か外か」という位相が、個々の家と天下国家とではひっくり返っていて、
君子たる男は自らの家内は妻に任せきって、天下国家の内部中枢にまで入り込むのが吉とされ、
君子たる男であるにも関わらず自分が家内にいて、国家の内部を小人に任せきるのが凶となる。
民主主義社会などは、国家の内部中枢こそを小人たる庶民に独占させる一方で、
封建主義を重んずる君子などは外野に放擲し、在宅謹慎でもしているしかないような立場に追い込ませる。
実相の吉凶という面において、洋学や聖書信仰を基調に変革されてきた社会構造は、明らかに腐敗化しており、
より劣悪な凶相ばかりを帯びる結果となっていて、実相において吉祥となることを重んずる儒家道徳とは相容れない。
169 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 11:32:24 0
イスラエルは地球上から消滅し、米英人は行為能力から大幅に制限され、
欧州人などは行為能力までは制限されないものの、参政権をおおむね剥奪。
もちろん聖書信仰も地球上から根絶され、
洋学も漢学やイスラムの厳重な制御下においてのみ用いられる。
このあたりが、妥当な総体処分になるだろうな。
イスラエルはもともとアラブの土地なので、ただ返却させるまでのこと。
米英は全国民を行為能力から制限するので、処分する側も相当な人員投入が必要になる。
欧州は庶民の行為能力までは制限せず、政権を剥奪されるのみなので、少数の人員投入で済む。
欧州にまで米英並みの制限を科すのはどうかと思っていたが、まあ、参政権剥奪ぐらいがいい所。
ロシアは冷戦期だと米英並みに扱う必要があったが、今だと欧州並みの扱いでもいいだろう。
西ユーラシア大陸の処分のめども立ったおかげで、全世界のこれからの処断の見通しが済んだな。
170 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 12:17:58 0
野蛮人と言う名称がある。この意味の煎じ詰めるところは、本当の智慧を
持っている人と、持って居ない人の相違を言うものなのだ。
自由な人と、不自由な人を言うものなのだ。
171 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 12:38:10 0
・・・というような処分を、俺一人でできるわけがないじゃないか。
何十億人もの人々からの支持や協力でも得られないことには、絶対に実現が不可能じゃないか。
俺にも無理な一方、欧米自身での自己処分でも無理。禁治産処分には、処分対象者の三倍以上
の人員が必要になると見て間違いなく、米英を欧州が禁治産下に置くことすら物量的に不可能。
どうしたって中国やインドやアラブの手を借りないことには、不可能な規模の総体処分になる。
おまえらがしょっちゅう非難や糾弾や迫害の対象にしている人々こそは、おまえら自身に内在する
深刻問題を無理なく解決する鍵を握ってるんじゃねえか。それなのにおまえらのほうが、彼らを
野蛮人や無知扱いもすることで、おまえらだけでは自己処分しきれない重大問題を解消させる余地
を摘み取って、世界の破滅ぐらいしか予期できないところに自分たちを追い込んでんじゃねえか。
実相への無知や無理解ゆえの自業自得で、
自分たちの活路すらもわざわざ反故にしてしまう。
まさに、野蛮人とは今の欧米人ような連中のことをいう。
173 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 12:57:14 0
>>171 真面目な論ではない。気の狂った論では?
相手が、自分と異なっているなら、それに応じた対応をする以外ないだろう。
不満不足は、相手が自分の思うようになってくれないということであり、
相手を自分の思うような人間と妄想してるところに原因がある。
要するに自己中であるのでは?
174 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:00:04 0
>>172 >実相への無知や無理解ゆえの自業自得で、
あなたの言う『実相』とは何ですか?
このまま欧米人が自意識過剰の無根拠な思い上がりを続けていれば、
それだけでも人口爆発や環境破壊で人類は破滅するという現実だ。
176 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:10:18 0
>>175 >欧米人が自意識過剰の無根拠な思い上がりを
この思い上がりとは何でしょうか?
欧米人は知能指数が高いということで、他人種を
従わせて当然である、と言う彼らの意識のことか?
177 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:21:32 0
息抜きといっちゃ失礼だが、かつては秘伝だったのが、今は公開されている
柳生宗矩の「兵法家伝書」の邦訳を読んでみた(短文なので原文もいまから読む)。
宮本武蔵の「五輪書」が武経七書中の「孫子」なら、「兵法家伝書」は「六韜」とでもいったところ。
まったく仏教や儒家の言葉すら借りず、武蔵が自分の言葉だけで実戦論を述べている「五輪書」と比べれば、
「兵法家伝書」は禅や老子や朱子学などの言葉も借りて、相当に精神的な部分までも述べている。
かといって「葉隠」みたいな精神論一辺倒でもなく、純粋に敵に勝つ武術について述べている。
そこが仁徳も実戦兵法も共に述べている、七書中の「六韜」などに比肩するところとなっている。
「無門関」に出てくる「殺人刀活人剣」という句を、柳生宗矩は剣術家としてごく現実的に解釈する。
「一人の悪によって万人が苦しむ所を、その一人を殺すことで万人を活かすから殺人刀活人剣だ」と。
特に刀一つ用いずとも悪政などによって人を殺すこともあれば、上記の意味などで剣が人を活かす場合もある。
将軍家の参謀としても活躍した経験からも、兵法は日々の生活から政治などの仕事にいたるまで、全てに通用するという。
朱子学の体用論を「大機大用」などの言葉によって実践論として述べてみたり、性と情を「神と心」に置き換えて
朱子学の性情論とも同等のことを述べたりと、儒学への接近も見られるが、世間一般の儒者に関しては、頭が固く、
「敬」の一点張りでかえって「敬」に囚われていることを非難してもいる。「それは階段を一段か二段上がる程度の
ごく初歩的な修行である」と。階段を上ろうとすらしない奴らで溢れ返っている昨今、一段目や二段目あたりの修練を
ことさらに奨励している自分にも、あまりにも程度の低い所で手こずらされていることへの恥じ入りを抱かせる。
178 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 13:37:18 0
>>176 実際の知能指数結果は黒人<白人<黄色人種<ユダヤ人だったな。
ユダヤ人は欧米版の東大生みたいなもんだから、東大生などに限れば
黄色人種の知能指数がユダヤ人すら上回るだろう。今でも理数系の
学力テストなどでは、軒並み上位を東アジア人が占めているし。
だからといって、知能の上下ばかりによって優劣が決まるわけでもない。
心が精神との連絡を保って「本心」である場合は、身体や知識の扱いも精巧となって
あらゆる考えや行ないが道理にかなう一方で、精神との連絡を絶った「妄心」である場合は、
身体や知識の扱いも拙劣となり、考えも行ないもことごとく道理に違うようになる。
(「兵法家伝書」活人剣要略)
知識があるから、体力が旺盛だから優秀だどうだという以前に、己の心が精神との
連絡を保つことで、知識や身体の道理にかなった活用をできるかどうかが問題なのであり、
いくら知識や体力を貪ったところで、欧米人にはこの、精神と心の連絡が決定的に欠けている。
早い話が「心神喪失」であり、何事も道理にかなう形で考えることも行うこともできなくなっている。
その、心神喪失こそは人類を破滅に陥らせる元凶ともなっており、檻の中や閉鎖病棟の中で
じっとしていればいいものを、大量の知識や暴力をも振りかざすことで、事態をさらに悪化させている。
知識や体力があるにもかかわらず、心神喪失状態であることが、かえって救いがたいものとさせている。
179 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 14:58:17 0
井上さんは、福沢諭吉をご存知でしょう、言うまでも無く。
彼は世界の人種について述べていますね。その詳細は言うまでも無いですね。
そこで、諭吉は、白人の知性ばかりじゃなく、その外見の優美さをも指摘してるんです。
優美であるかどうかは、一つの判断かもしれませんが、古代中国の工芸、美術品、建築などを
ミ、それから、ギリシャローマの工芸、美術、建築を見て、その相違を感じるでしょうが、
井上さんは、道思われますか?
単なる比較文化論に堕することは警戒すべきですが、ギリシャローマ美術は
その追求において、万民を納得させるようなものだと思いませんか?
一例を挙げますと、自然を表す葉っぱの描写一つを見ても、ギリシャローマは実に
自然のまんまと言うべきです。古代中国においての、葉っぱの描写で、前者に匹敵できる
ものがあるでしょうか?
ギリシャローマ人は、政治制度哲学学問においてばかりじゃなく、美術工芸建築
においても、心を注いでいたという事実を知るべきだと思うのですよ。
これは何を意味するかと言うと、庶民の生活そのものが、好ましい感覚に溢れていた
と言うことではないでしょうか?
今の日本人、日本人ばかりじゃ有りませんが、東洋人は西洋のデザイン感覚を
好んで居ます。東洋人ですら、西洋人のセンスこのましいからではないでしょうか?
お前はさ「相対性」という言葉を知ってるか?
自分を基準にしたら、すべては自分よりも遠ざかり、
下の存在になる。欧米の美術や知性は彼らを基準にした
場合、すべてが劣る。こんな詭弁は
数千年も前から言われてる、哲学の初歩中の初歩だ。
あほくさ。
181 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 15:54:03 0
だとしますと、諭吉を札の表紙にすることはやめるべきですね。
彼こそ日本人に、西洋人に対する劣等感を植え付けた人ですからね。
182 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:15:20 0
別に、恒久的な禁治産下や政権剥奪下に置こうってんじゃない。
ちゃんと聖書信仰を根絶させて、漢学や仏学にも基づいた、道理にかなった
知識や体力の扱い方をわきまえれば、徐々に禁治産を緩め、
参政権を付与してあげていくこともあるだろう。
もちろん、いつまでも聖書信仰や洋学一辺倒の泥沼に浸かっていたいのなら
それでもいいわけで、恒久的な禁治産下や政権剥奪下に置いてあげよう。
人類を破滅に陥れるほどもの暴走には及ばない程度の抑制下で、
今のままの西洋文化の存続を保護していってあげてもいい。
183 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:43:07 0
見た目の美醜と吉凶の関係性は、前々スレ(0005)の652以降にすでに述べてある。
視覚の欲求ばかりを偏って満たし続けるのが美術である一方、
四方八方全空間における形態の適正さをわきまえるのが易学などの実相学。
全空間の半分以下に過ぎない人間の視野の欲望だけを満たそうとするあまり、
美術はかえって吉凶面における凶相すらも呈してしまう場合が多い。
眼福を満たすことばかりに偏らず、四方八方全空間における適切さを見極める実相学が
とにもかくにも東洋教学の基本となっており、より吉祥な実相を追い求める陰陽道や密教
などの流派もあれば、不吉な中に吉祥への反転を試みる禅や浄土教などの流派もある。
それは、見た目の美醜と関係がないのではなく、見た目の美醜以上にも高尚な価値を
追い求めた姿なのであって、美しいともいえず、かえって醜い場合すらあるにしても、
凶を去って吉に入る万事万物の優良化という方向性を一貫して伴っており、見た目の
美しさと引き換えに万事万物を劣悪化する西洋流の美術とは相反している場合すらある。
凶相を美化する場合も極めて多いことからして、美術は「虚相学」とすらなっているといえる。
184 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:50:12 0
日本のテレビ番組、特にバラエティ番組では、登場者をバカとか勝ち組とか
、その様に差別することが、面白いかのように思っている様子ですね。
このような差別意識があるのは、諭吉のような差別判断が根底にあるから
だと思うのです。諭吉のようなものを日本全体が容認してるからです。
白人に対する劣等感は、日本人同士において、弱いもの、社会的地位の低いもの、
困っているもの、などへの優越感になるのですね。
バラエティ番組などは実に残酷な光景を呈しています。これが日本では当たり前であり、
こうでなければ、テレビには出られないんですよね。
むしろ弱いものを見せしめにしていたぶるんですよね。
タモリ、とか、こけし(タケシ)とか、巨泉とか今ではタカ&トシとか、ジョージとか、
東大教授の目玉を手術した人なんかも、残忍なことをテレビでやって、今の地位を築いているんですよね。
こういうことはアメリカでは絶対に認められないことです。差別的発言をしたというだけで、
大問題になるのですよ。
隔絶していますね。
185 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:56:53 0
小泉首相のときは、『刺客』と言う言葉をはやらせましたね。
現代の政治家においては、まさに『刺客』でしたでしょう。
この殺伐とした世情は、まさに戦国時代のものを思わせます。
186 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 16:58:52 O
フワーリズミでつよ
187 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:08:13 0
全世界全人類が総力を挙げての欧米社会封印後、実際にはおそらく、
旧来の文化体系を捨て去ってでも民族としての自立を取り戻そうとする派閥と、
旧来の文化体系を守る代わりに、禁治産や参政権剥奪を被り続ける派閥とに
現欧米人が二分化するのではないかと予想される。
民族としての自立を取り戻そうとする派閥は、聖書やギリシャ神話などからの
姓名の引用もやめて、一般名詞を組み合わせる東洋的な姓名に自主改称する。
先祖が聖書信仰や洋学に基づく文化を構築してきたことも一切なかったものとして、
洋学による侵略で一旦は漢学や仏学を捨てさせられた東洋人などとも共に、
東洋教学の本格的な復興やその受容に専念する。並みの東洋人と同等か
それ以上にも東洋教学が会得できた場合には、禁治産を解除したり、
参政権を付与したりの解放措置が執られる。
旧来の欧米文化を保全しようとする派閥は、姓名の自主改称なども必要なく、
慣れない東洋教学の習得なども強要されない。美醜以上にも吉凶を重んずる
東洋文化にアイデンティティーを完全に挿げ替えられたなら、吉祥とはなる一方で
見た目の美しさは殺がれる可能性も否めないので、自分たちの文化の独自性を
貫く一方で、見た目の美しさの追求によって引き起こされる相の凶悪化を十分に
抑え付けるために、禁治産処分や参政権の剥奪は引き続き強制され続ける。
どこの国、どこの社会がそうなるというのではなく、個々の国や社会の内側において
独立を試みる派閥と、服従と引き換えに現状維持を続ける派閥とに分かれる。
アメリカならアメリカの中で、イギリスならイギリスの中で、フランスならフランスの中で。
結局、両者が支配層と被支配層に分化して、自分たちだけでも立派な封建社会を
築き上げられるようになる。米英に関しては相当な人員投入も行われるので、欧米系
が少数派にもなるだろうが、欧米系が特定して差別されない程度にまで、成長する。
188 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:09:50 0
それから知能指数と言うのも大流行ですね。
アインシュタインが何ぼであったとか、有名人の知能指数を言うわけですよ。
東大生が幾らだとかね。相すればこれらからもれるものは、当然低いつまり、
馬鹿である、と言うことを当然言うことになるんですよね。学校や会社では
これまた知能検査をやり、天才を発見するとか、馬鹿を発見するとか、
やってるわけですよ。こうして国民に差別意識を植え付け、その結果は
どうなっているんでしょうかね。地獄だと思いますよ。公然とした名誉毀損行為
が違法ではないという事になっているんですよね。
古代中国で、平等と言う原理は思考の原理であるといっていた人が居ましたね、誰だったでしょうか?
189 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:14:36 0
訂正
思考の原理→至高の原理
顔の美醜についても、日本でも韓国でもいや世界中で、整形手術がはやっていますね。
差別をされたくないから、こういうことをするのですよ。
まさに、妄想の世界なんですよ。差別は妄想です。
190 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:18:00 0
人の話を聞かないために、自分から一方的に意見を述べ立てる。
「攻撃は最大の防御なり」も兵法の一種であり、目的のために選ばれない手段のうちだが、
選ばれない手段の先にある目的がアレなんじゃ、自滅の呼び水にしかならんよ。
191 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:26:03 0
>>190 >選ばれない手段の先にある目的がアレなんじゃ、自滅の呼び水にしかならんよ。
どういう意味でしょうか?
192 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 17:51:48 0
>>153の上二段参照。
見事なまでに何も聞かず、何も理解せず、
それでいて自己意見だけは述べようとする。
師弟関係として最も凶相を帯びた状態。
弟子が童蒙なくせして、童貞ではない。
193 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 18:13:51 0
>>192 アテクシは論客であります。自由な論客であります。
194 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 18:21:08 0
しかし、古代中国と言うのは、言論の自由があったのですね。
これは特筆すべきであると思います。しかし不幸を買うと即賭殺ですね。
悪い報告を持ってきたものまで賭殺ですからね。これって言論の自由があったといえるのかな?
195 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 18:22:47 0
相手の意見をちゃんと聞いて、対等レベルの応答ができる論客なら結構だが、
実のある論議を行うための、最低限の約束事すら踏まえようとしない、言論テロには用はない。
196 :
考える名無しさん:2010/09/29(水) 18:44:02 0
「兵法家伝書」無刀の巻で柳生宗矩がいうことには、
「相手が本気で打ちかかって来るときの刀は取れるが、刀を取られまいとしている時の刀は取れない。
しかし刀を取られまいとしながら打ちかかって来ることはできないために、それはそれで無刀となっている」と。
もはや防戦一辺倒となって、自分からの有効な攻撃が出来なくなっているのなら、それを無理やり
武装解除に追い込んだりする必要はもはやないのであり、刀を取られることも恐れずに打ちかかってきてこそ
何らかの事件が生じる。今に当てはめてみれば、もはや相手との実のある論議も捨てて、一方的に
自己意見ばかりを述べ立てることでの防戦一辺倒となっており、自分もそれで致命傷を負わずに済む一方で、
相手への有効な論撃も行うことができないで。たとえ相手に足をすくわれるような反論をされるのであっても、
相手の間合いの内側にまで切りかかっていく本気の攻撃でないと、相手にもダメージが加えられることはない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
それで虎に食い殺されるのであっても、実のない論議ばかりを続けているよりはマシではないか。
正式にではないが、かなり確定的な欧米処分案:
イスラエル・・・国家消滅。現国民は全員禁治産処分。罪の重さによっては入獄。
米、英・・・本土完全占領。全国民に禁治産処分。罪の重さによっては入獄。
欧州、露ほか・・・政府掌握。全国民から参政権剥奪。罪の重さによっては禁治産処分や入獄。
欧米ではないとはいえ、今の日本も資本主義国であり、一人頭の資源独占率も
世界平均を大幅に上回っており、ちょうど欧州のドイツと同等の資源占有率なので、
欧州と同等の処分が日本国民に対しても科される。ただ、伝統遺産に関しては、
日本は東洋教学の宝庫だし、俺のように、自主的な在宅謹慎によって資本主義後進国
への自己加害をほぼ0に食い止めてきた人間もいるので、比較的復興はしやすいだろう。
突出した重罪人を自分たちで自主的に入獄させるなどすれば、なおのことよい。
思うに、東洋教学の体得者ってのは、常人なら発狂してしまうような
精神的修羅場をも潜り抜けてきているので、共感し合おうにもし合えないから、
自然と畏敬を介しながらの接触しかできないのだと思う。
畏敬を介さずに接することで、発狂級の自己崩壊などに見舞われるのは、
東洋教学の会得者でない側のほう。直視すれば失明してしまうほどもの、聖賢の
威光を耐えしのぎつつ接するために、畏敬やそれに即した礼節が必要になる。
畏敬や礼節の実用的側面すら逸脱して、敬礼それ自体を金科玉条化する
儒者の姿勢を、柳生宗矩は「自ら繋がれた犬猫になろうとしている姿」と揶揄している。
儒者が敬礼を金科玉条化するのにも、それなりの意図があるのであり、
そのままでは敬意や礼節の何たるかも知らない庶民などにまで、一応敬礼の
形式を行き渡らせておいて、庶民までもが聖賢に接することで、真の聖賢の偉大さを思い知り、
自分たちもそうなれるように努めようとする取っ掛かりを作ってあげんがためのこと。
まさに自分自身は聖賢であり、これからも山の高みを登っていこうとする人々からすれば
儒者の形式主義は低劣なものにすら映るわけだが、高みに昇り詰めて逍遥遊する聖賢たちと、
聖性の階段を登ろうとすらしない庶民の間隙を埋めて、智愚の断絶による二極化を避けようという
儒者ならではの心意気があるのであり、それはもはや独走状態にある「名人」たちには与れない領分。
凡庸ながらにも、貴賤尊卑の架け橋にならんとする心意気を、ちっとは買ってくれや。
201 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 05:19:54 0
おいらは、マルクスの「生産手段の国有化」という考え方は、
大化改新の公地公民制のパクリなんじゃないかと疑っている。
パクリであるにしろないにしろ、「周回遅れの一等賞気取り」であるのには違いないな。
203 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 13:43:25 0
「人も運に乗じては、悪をなすといへども、其の悪十成(十分に完成)する時は、是をうつ」
(「兵法家伝書」殺人刀)
東洋教学の自己流での焼き直しによる悪用なども、何か高尚な目的が備わっているかのような
ほのめかしを帯びているうちは放任されてきたが、そのパクリセットが一通り揃いきるに及び、
できる限りのやりたい放題を黙認した先にあったのは、何億人もの人々を犠牲に追いやる地獄絵図。
十分に完成したところにおいてこそ悪は極まり、純粋に悪でしかなかったことも明らめられて、終焉を迎える。
「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。これ等誠に、
人を殺す刀は、人を活かす剣なるべきにや。(中略)兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。
人をきるにはあらず、悪をころすなり。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごと也」
(「兵法家伝書」殺人刀)
ここで柳生の扱っている善悪論は、善悪論ばかりに拘泥しているが故の結論ではない。
本書の後半では、禅僧が是非善悪を去りきった境地に至りつつ、なお現象面においては是非への判断にも
浴していることの意義が説かれてもいて、一旦是非善悪を超脱しきった先にこそ、上記のような半ば
冷徹でもあるような善悪論すらもが展開される。善悪に拘泥している限りにおいて、人はかえって
善や悪に囚われ、正常な是非の分別も覚束なくなる。正しい善悪の分別のためにこそ、
一旦は是非善悪を超脱することの意義までもが踏まえられている。
204 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:06:25 0
「兵法家伝書」は柳生宗矩の著ではあるが、上泉信綱から柳生石舟斎へと伝わった
新陰流(柳生新陰流は俗称)の正統奥義を認めたものなので、宗矩一人に全ての
文責を負わせるのもどうかと思う。なのであえて著者を「柳生」と呼ぶことにしよう。
「兵法家伝書」ではしょっちゅう、「病」とか「病気」とかいった言葉が出てくる。
これは「心の差し障り」といった程度の意味で、特定の医学的疾患を差しているわけではない。
しかし、ここで取り上げられている「病」が、図らずとも現代精神医学上の「心の病」
とも同等のものとなっていて、心の病が生ずるプロセスや、その治療方法が
現代の精神医学などよりも遥かに的確で簡潔な言葉によって述べられている。
純粋精神たる「神」こそは「心の主人」であり、この主人が使いに出した下人が、
使い先に行ったきり帰ってこなくなるように、心が神の支配から逸脱しての放蕩を行う、
すると何事も道理にかなわない形でしか思うことも言動することもできない「妄心」となり、
身足手の扱いについても致命的な差し障り=病を生ずるようになる。純粋精神としての
神の完全な支配下に置かれた心こそは「道心」となって、考えも行ないも全てが道理に
かなうようになり、身足手の扱いからも病が去って、武術などの技芸においても上達する。
205 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 14:41:09 0
「目で見るのではなく、心で見よ」という、正統な武術からオカルトに至るまで
よくよく引き合いに出されている名文句も、「兵法家伝書」活人剣に載っている。
目で見ることは、四方八方全空間に対する半分以下の空間把握ばかりに偏らせ、
目で見ている部分から攻撃が及んでくるとも限らない実際の戦いの場において、
視覚によって空間把握が偏ることは致命点にもなりかねない。その解決のためにも、
「心で見る」ことが空間把握の適正化と最良化をもたらす。これはちょうど、易の
八卦や六十四卦に基づいた空間把握にも通ずる所となっていて、実際に柳生も
陰陽を「静動」として捉えた力学論をも述べている。禅に限らず、易学に密教に
道家に儒家と、当時の日本の東洋教学の多くを網羅した上で、いちいちその解釈
が理にかなっている。物書きではなく剣術が本業であるにも関わらず、道を心得る
ものならではの勘によって、お客様状態でもない親密な教学理解に及んでいる。
ちなみに荘子は「心の目すら閉じよ」とも言っている。純粋精神を主人とする
道心が、視覚よりは適正に空間を把握することによる、武術の上達を説く柳生とは
違って、もはや無為自然に安んずる戦国道家の観点からすれば、心による観察
すら捨て去って、心が道に合致しきるのが最上だという。それも一つのあり方には
違いないが、司馬遷もいうとおり、ちょっとこれでは非現実的に過ぎるとも思う。
易程度の概括的な現象把握の下に、心の性情やそのあるべき姿などをも具体的に
述べる儒家や仏教のほうが分量的にも豊富で、心とか現象とかも全てナシにして
しまう道家の行き過ぎ加減は、それも東洋教学の一種ではあるが、全てではない。
206 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 18:40:50 0
「わが愛する所を人にくめば、怒り恨み、或いは又わがにくむ所を人同じ心ににくめば、悦びをなし、
非をまげて理となす。人至宝をあたふれば、是れを請けて悦びをなし、顔に笑みをふくみ、
血気顔にうるほひを生ず。此に於いて非を以て理と為す。是れ皆、この身の血気肉身より、
時にあたってわき出る心なり。是を妄心と云ふなり。この妄心がおこれば、本心(道心)かくれて
妄心となりて、皆あしき事のみあらはるるなり。然れば、道ある人は、本心にもとづきて妄心を
うすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり
濁れたる名を取るなり。(中略)妄心は皆、何事をなせども、邪まなり。この邪まの心が出でたらば、
兵法も負くべし、弓もあたるべからず、鉄炮もはづるべし、馬ものらるまじ、能も見苦しかるべし、
舞も聞き苦しかるべし、云ふ事もあやまりあらはるべし。一切皆なたがふべし。本心にかなはば、
何事も皆よろしかるべし。偽りをかまへて、偽りなきといふ。そのことは妄心なる故に、
速く其の偽りあらはるるなり。心まことなれば、ことわりに及ばずして、聞く人やがてしる。
本心にことはり入らざるものなり。妄心は心の病なり。この妄心を去るを病気を去るといふなり。
この病気をされば、無病の心なり。すなわちこの無病の心を本心と云ふ。本心にかなはば、
兵法は名人なるべし。ありとあらゆる程の事、一つもこの道理にはづるべからず」
(「兵法家伝書」活人剣より)
207 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 19:11:38 0
精神疾患の原理もその治療方法も、兵法の中だけで看破されきってんじゃねえか。
精神病院なんかに行くより、新陰流並みに正統な武術の道場に入門したほうが
よっぽど心の病を治せるだろう。まあ、プロレス並みに何でもあり状態と
化しているらしい今の警視庁剣道などに習うのもどうかと思うが。
それ以前に、実罪を犯すことで急性の精神疾患にかかっている連中は、自首を。
精神病患者は必ずしも犯罪者ではないが、犯罪者は必ず精神病患者でもある。
だから入獄には自明に禁治産と同等の権利制限が組み込まれてもいる。そして
禁治産にも実質的に参政権の剥奪が組み込まれているように、人間の落ちぶれ
具合には程度があり、小人→精神病患者→犯罪者という順に深刻化していく。
小人→凡人→君子→賢人→聖人という人間の偉大化とは真逆のベクトル。
犯罪者(入獄)→精神病患者(禁治産)→小人(参政権剥奪)→凡人→君子→賢人→聖人
ここまで不自由→|→ここから先自由
穴の底から山の高みを目指すことには、多大なる絶望感も伴うだろうが、
重犯罪のハウリングで得た偽物の自由などではない、本物の自由を目指して頑張れ。
(精神病患者に応援は禁物と言われているが、確かな治療方法があるから応援する)
208 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 20:00:13 0
マネーゲームを含む、民間人としての素封によって資本的に成功した庶民の事跡を記した
「史記」貨殖列伝に、今の民主主義社会の市民は、誰一人として掲載してもらう資格を持たない。
「一人一票」という、極めて希薄化された権限であるとはいえ、民主主義社会の市民には一応、参政権があるから。
>>143「政を害さず」という、司馬遷が貨殖列伝に掲載するために拵えた条件を、参政権の強奪によって
民主主義社会の市民はあえて破っており、マリー・アントワネットの断首と引き換えに「総員権力犯罪者」と化した。
だから、「智者もこれをよしとする」と司馬遷が言った、無辜の市民なりの貨殖としての権限を越えてしまっている。
「だからなに?」と、一票の権限の希薄さに甘んじている大部分の市民は、自分なんかに大した権限が
与えられた自覚もないことを盾に開き直りそうなもんだが、おまえらに一票が与えられていることも、
確かに国家や国際社会が重大権力犯罪に及ぶ上での、重大な役割を果たしてしまっている。
209 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 20:01:51 0
国際金融資本のような、体裁上は在野の民間人であることに甘んじている輩が、軍需産業などの国家にとっても
重大な基幹産業を乗っ取り、自分たちの選択で国家の一つや二つを崩壊に追い込むほどもの間接的権力を得る。
その上で、さらにメディア産業なども乗っ取って、民心すら自分たちの情報操作で自由に操れるようにして、
自分たちに都合のいい政治家は好意的に報道し、都合の悪い政治家は悪意的に報道するなどの操作で、
選挙における勝敗なども左右してしまう。メディア上の情報操作などで政治家をどうこうできるのは、
とにもかくにも当該社会が民主主義社会であり、民衆の投票によって政治家の去就すら決まってしまうからで、
自由意志を持つ独立者気取りでいて、実際には大手メディアの情報操作などで簡単に意向を左右されてしまう
付和雷同状態の愚民などに主権が譲渡されているからこそ、その愚民を裏から操る連中が、表向きの政治家
のような政治責任をも負わずに済みながら、夏桀殷紂並みかそれ以上もの暴政をヤラセて憚らなくなる。
210 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 20:04:38 0
民間の権力犯罪者の親玉としての国際金融資本は、飼い殺し状態にある勢力圏内の国民などに対して
直接的な牙は剥かず、よっぽど差し迫った抵抗をしてくる分子に対しても、冤罪や冤病などをあてがうことで
さも自業自得で駄目になったかのような体裁をあてがい、自分たちに迫害の嫌疑が及ぶことを徹底して避ける。
しかし、勢力圏外の人間に対しては容赦なく、貧窮への追いやりも虐殺も全く憚らない。それこそ民主主義なんか
存在しなかった場合以上にも劣悪な環境下に彼らを置き、毎年数千万人ずつの虐殺被害者すら生んでしまう。
それはあたかも、民主主義に浴せなかった人々の自業自得であるかのように、民主主義社会の内側に対しては
触れ回り、「彼らも民主主義に浴しすらすれば我々並みに豊かな生活を送れる」とでもいわんかのような報道の
仕方をすらする。愚民の妄心を裏から操作して、愚民には計り知れない国家レベルにおける重権力犯罪を
責任の所在も曖昧なままに進行させることで、民主主義社会の勢力圏外における、未曾有の荒廃を生んでいる。
これは、司馬遷が「史記」貨殖列伝における掲載条件とした「民を妨げず」という約束事にも反しており、参政権を
付与された民主主義社会の市民であることで、おまえらは「民を妨げず」という条件すらも破ってしまっている。
「史記」に掲載される上での最低条件であった、「政治を害さず、民を妨げずに、素封でそれなりに成功した民」
という「貨殖」の条件すらおまえらは満たせておらず、単なる無辜の市民に過ぎなかったことを口実に、
「史記」における権力犯罪者への苛烈な懲罰(車裂きの刑など)を回避する資格も、おまえらにはない。
211 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 20:43:43 0
犯罪者には服役などの刑事処分、精神薄弱者には禁治産などの民事処分、
不相応な参政権を与えられていた小人には参政権剥奪などの処分が加えられる。
人としての落ちぶれ具合に応じて、細密な段階分けに即した処分を頂戴するわけだが、
処分をする側の過剰な血気を緩和する手段としては、重権力犯罪の総合的な責任者を
無理やりにでも擁立して、当人に対してだけは八つ裂きや族滅などの極大処分を化す。
そしてそれを大々的に触れ回る。それだけでも懲罰者の側の血気は随分と和らげられる。
これは、「六韜」虎韜にも述べられている、純粋な兵法に即した便宜的な処理方法。
とにかく責任者中の責任者を壇上に祭り上げて、なるべくそいつだけには非業の最期を
遂げさせる。もちろんそれで誰しもの罪が解消されるわけではないが、他の罪人に対しての
血気にはやった過剰な刑罰などが抑制されて、実罪に即した相応の罰を科されるだけで済む。
「一人が罪を背負うことで、誰しもの罪が清められる」などというどこぞやカルト教学とは違い、
罪が不当な手段で解消されることなどはないが、逆に罪が過大に受け止められて、不当な
ほどにも過剰な重罰を科せられる事態を避ける程度には、責任者を特定して、当人だけには
あからさまな重罰を科して触れ回ることが有効となる。もちろん本物の責任者である場合の話。
212 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 21:01:04 0
随分と陰惨なことを述べてしまったが、それほどにも陰惨な状態をもたらしかねない
旺盛な血気を、今の中国人やアラブ人が帯びていることまでをも認めざるを得ないわけで、
脳天をショットガンで吹き飛ばしたり、死体の顔面の皮を剥ぎ取ったりの蛮行にすら
及んでいる場合もあるあの陰惨さを、こちらからどうにかしようと思うのなら、
領海侵犯者を解放したりする以上にも、自分たちの責任者の厳罰こそは効果覿面だろう。
やたらと宣伝技巧を凝らしている、先進国側のメディア網を、自分たち自身の
責任者の懲罰の触れ回りに逆用したなら、相当な血気緩和の効果も見込めるだろうな。
あくまで戦略の一つとしては。だからって罪や病が解消されるわけでもないが。
213 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 21:48:42 0
蘇秦は車裂きの刑を受けていませんよ。彼は自殺し、その死体を
車裂きの刑に見せかけるように遺言し、その遺言が実行されたのでした。
生きてる人間を車裂きの刑にすると言うことは、恐ろしい刑として成立しますが、
死んでる死体を車裂きの刑にしても、死んでることを知らない人には効き目があるかもしれませんが、
それも嘘がばれない限りのことですがね、蘇秦自身は車裂きの刑を受けていないわけです。
214 :
考える名無しさん:2010/09/30(木) 22:11:33 0
古代ギリシャも都市国家同士、それからペルシャと戦争を繰り返していました。
ペロポネソス戦争史、これを気ままに呼んでみましたが、戦争である以上、
何万人が死んだ、と言う記述が続くのです。史記ほど、その人間の内訳には詳しくない
と思うのですが、ツキジデスまでは、必要な範囲で記述されていると思います。
かれ以降はそれほど詳しくないと思います。ギリシャ人は、「美しい行為」であるか
どうかが大事でした。シナ人は、どうでしょうかね?戦史はいずれにしても
あまり為にならないのではないでしょうか?
>>213 陰惨な刑罰を受けることを取り繕おうとした裏側で、
車裂き(八つ裂き)の事前にはちゃんと自殺しておいた
ヘタレさ加減も含めて、天下の笑いもの扱いされてたわけだね。
見た感じの美しさの取り繕いぐらいじゃ到底
納得しない、中国人を懐柔するのは大変だねぇ。
実際に犯してしまった罪を、実状に応じた場合以上にも赦してもらおうとするのではなく、
実状以上もの罪をあえて背負って、その罰をも受けようとする、
重罰をあえて自ら受けようとする態度が、相手が科そうとしている罰の程度をも上回った時に、
相手も相応の罰を科すだけの冷静さを取り戻す。
決してそれによって罪が赦されるわけではなく、相応以上の重罰を被る危険性が回避されるのみ。
それも、自分自身の罰を軽んじめようとするのではなく、多くの人々を代表して、自分こそは
重罰を受けようとする場合などにのみ有効。あくまで自分自身は本当に八つ裂きにされる覚悟で。
あとは、人に教えられてどうにかなるわけではない部分、
教外別伝の部分で、自分たちの心の底の、神とも通じている部分からこみ上げてくるものが
如何様にして、どうなっていくかだな。
ことをよきにはからう上での最善の手だても、結局はそこにある。
「シナ」は実質中国の蔑称だし、
お釈迦様を「ゴータマ」などと呼ぶのも、東洋人一般が慕って来た仏教のあり方からは程遠い。
(浄土教の寺などで使えば、無礼を理由に義絶させられるだろう)
相手のペースを無視して自分のペースを押し通そうとすればするほど、裏目に出るしか
ないのならば、全てを相手のペースに委ねて自分のペースを放棄するしかないだろう。
「敬」の一点張りによって、自らをつながれた犬猫も同然と化す儒者のように。
219 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 09:15:26 0
>218
>「シナ」は実質中国の蔑称だし、
井上は何を言うものか?シナは蔑称などではない!
「シナの夜」と言う歌謡があった。シナ人とも言う。
フランス語では「シヌ」と言うのだ。日本人同士で「シナ人」
と言うとなんか落ち着いた感じがして良い。
>お釈迦様を「ゴータマ」などと呼ぶのも、東洋人一般が慕って来た仏教のあり方からは程遠い。
子供のようなことを。釈迦と言う呼称は、一般に使用されてるではないか。
釈迦がよくてゴーダマがいけない、と言うのは、日本語はいいがインドの現地語や、
英語はいけない、などと言う幼稚な見識である。
全世界の知者を交えて論じてるときは、ゴーダマまたは釈迦、と言うのが良い。
これが言い漢字ではないというのなら、他のパルメも、イエスも、老荘も、そのまま
呼べないことになる。
それに今ここは、信者の集会でもないのだ。
あ〜なかしこ
220 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 10:13:44 0
「シナ」が実質蔑称であるのは日本語での話だし、
「ゴータマ」が釈迦の呼び方として不適切なのも、日本語での話だ。
そしてその日本語で無礼にあたる思い上がった態度を、
中国語で中国人に晒しても、アラブ語でアラブ人に晒しても、
俺が今おまえに対して抱いているのと同じような不快感を抱かせるだろう。
おまえのその態度が、みだりに他者の不快感を煽ることに関しては
全世界において共通していて、そのレベルの無礼を自分たち同士では
まかり通らせてきた欧米人のペースが、欧米外で通用することもない。
221 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 11:02:25 0
自分たちの文化文明に対する誤った妄信によって、自分たちこそは世界最先端だとの
自意識過剰を持ち越したままに、欧米外の人間にも接する。しかも英語やフランス語など
の自国語を押し付けたり、その文法表現を他国語に押し付けたりまでする。そのような
無礼極まりない態度に呼応して相手をしてくれるのも、ろくでもないごろつきばかりで、
東洋中の究極レベルの偉人はもちろんのこと、下から二番目あたりの人間にとっても
唾棄すべきようなしょうもない賤人ばかりがおまえらに接する。それをおまえらは逆に、
一般的な東洋人が接して来てくれたものと勘違いして、東洋人一般を卑賤だとも思い込む。
卑賤な東洋人にしか接することのできないような境遇を、おまえら自身がその態度の不埒さ
によって招いているのであり、それじゃあ下から二番目以上の東洋人は見向きもしない。
ある程度はまともな品性の東洋人からの協力もなければ、欧米社会の総体的な処分も
覚束ず、全面核戦争のような最悪のシナリオによってでもなければ収拾が付かなくなる。
それは、それしか選択肢がないからではなく、目上の相手に相応の態度で接する恭しさを
欧米人が抱けなくて、自分たちを処分してくれるだけの素養を持つ、まともな東洋人からの
協力を始めから反故にしてしまっているから。自分たちのペースを相手に押し付けようと
するあまり、相手との本格的な交流を不可能なものとしてしまっている。自分たちのペース
を完全に捨て去って、相手のペースに完全に従いでもしない限りは、相手の側からも真に
有能な部分を引き出すことはできず、それを自分たちのために用いてもらうこともできない。
222 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 12:06:48 0
首切り画像をネット上に公開するアラブのテロリストの野蛮さも、
連中に武器の供与もしている欧米人の側の野蛮さの鏡映でしかないし、
ネット上に「殺してやる」級の日本人罵倒を書き込んでいる中国人の悪意も、
この2chを含むネット上に書き込まれた日本人の側の悪意の跳ね返りでしかない。
あのあたりが、おまえらの態度の不埒さにも呼応して相手をしてくれる、東洋中のろくでなしやごろつきの部類。
あいつらに自分らを処分してもらおうなんて考えれば、身の毛もよだつ思いだろうが、あいつらはあいつらで
東洋社会における底辺中の底辺であり、あんな奴らよりも遥かにまともな東洋人のほうが大多数を占めてもいる。
しかし、その大多数のまともな東洋人は、東洋人の底辺あたりと同等の品性しか持ち合わせていないおまえら
などに関わろうとはせず、なるべく東洋人だけでの生活を続けていようとする。それを無理やり引っ張り出して
来たところで、所詮は欧米人の側の無礼極まりない態度の前などで、自分たちの真価を発揮することもできない。
自意識過剰の思い上がりは、深刻な自家中毒を生み、外界に対しても、自分たちと同等程度のろくでなしとの
交流しか叶わなくさせる。そしておまえらレベルの品性の東洋人には、おまえらを救ってやることもできない。
おまえら自身が自分たちを救うこともできないのだから、おまえらレベルの外人がおまえらを救えないのも当然。
おまえら以上の品性の持ち主こそは、おまえらを救うこともできるのだから、彼らの協力を得るのならば、
当然おまえらの側にも、目上の相手に相応に接するだけの礼節が自明に必要となる。
おまえらが礼節と共に接しなければならない相手こそは、おまえらを救うこともできるのだから。
223 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 12:57:41 0
今でも茶道や華道や合気道などの、道統を重んじる芸道を学んだりするときには、
たとえ欧米人であろうとも、師匠に対しての厳重な礼節を要求される。
(柔道や剣道はスポーツ化し過ぎているので、必ずしもそうではないが)
ただ、それらはあくまで「芸道」であり、学問でもなければ宗教でもない。
武芸や伝統芸能とて、煎じ詰めれば学問宗教にも通じていることは、
柳生の「兵法家伝書」における巧みな東洋教学の使い回しなどからも明らかだが、
所詮は学問や宗教そのものではなく、全ての教学に代わる社会統治原理となったり、
人々の精神性を司る宗教原理となったりするわけではない。江戸時代までの日本に
おいてですら、武芸百般を正式に学んでいたのは、全体の一割程度に過ぎない武家階級
のみであり、後の被治階級である百姓や町人は、大刀の柄に手をかけることもなく一生を
終えていた。しかし、四書五経の「大学」や「論語」は、二宮金次郎のような貧農でも
学んでいたし、「南無阿弥陀仏」は小作人や部落階級にすら門扉を開いていた。
芸道にまで通じるのは、一部の余裕がある者に限ってのことで、誰しもに教化が義務
付けられた、質よりも量を稼ぐ一般常識としての教学が別にあり、その部分においてこそ
悪癖を捨てて刷新されなければならない部分が欧米人にあるから、そのための東洋人
の助けが必要になってもいる。寺子屋の先生程度の、極端に尊貴ではないながらも、
誰しもへの教化をも心がける、質と量の均衡を保ったあたりの師匠。芸道の名人ほど
高名でもなければ、おまえらにいま接している東洋人ほどにも賤しくもない。
224 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 13:58:05 0
「兵法家伝書」は「進履橋」「殺人刀」「活人剣(無刀の巻含む)」の全三巻から成り、
「進履橋」が上泉伊勢守秀綱直伝の新陰流を直系ありのままに網羅したものであり、
「殺人刀」と「活人剣」では、その新陰流に、柳生石舟斎宗厳や、その嫡子宗矩による独自の解釈が加えられている。
東洋教学からの引き合いが豊富なのも「殺人刀」と「活人剣」であり、巻名からして禅語からの引用だが、
元祖新陰流の純粋奥義を連ねた「進履橋」の巻名も、黄石公が橋からわざと落とした靴(履)を張良が拾い上げた
「史記」留候列伝の記述から引用されている。あまりにも東洋教学の引用のオンパレードであり、おそらく宮本武蔵も
この「兵法家伝書」のような武術への求道姿勢に反発して、ほとんど既成の教学用語を用いずに、「五輪書」を著した
のだと思われる。(ただし「地」「水」「火」「風」「空」の各巻名が、インド風水の「五大」と符合させられてもいる)
225 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 14:00:57 0
その「兵法家伝書」にも、当時の日本にもあったはずなのに、ほとんど引用跡の見受けられない教学がいくつかある。
一つは浄土信仰。百姓が主な信仰者であり、石舟斎の代にはまだ本願寺も二分化されず、一向一揆も頻発していたりと、
武家にとって好ましくない社会影響も及ばせていた。とはいえ宗矩が仕えた徳川家康も浄土宗信者であり、必ずしも武家が
浄土信仰を否定していたわけではなく、ただ、より武家に好まれていた聖道門たる禅のほうに傾倒して、浄土門には傾倒
しなかったようだ。そしてもう一つが法華信仰。法華信仰には、天台教学に基づく公家向けの高級信仰と、日蓮によって
卑俗化された町人向けの信仰との二つがあったが、いずれも武家には縁が薄い。曹洞宗を興した道元も晩年には法華を
研究していたようだが、曹洞禅は地方の豪族ばかりに支持されて、江戸上方尾張あたりの都市部では広まらなかった模様。
宗矩が強く影響を受けたのも、沢庵の宗門でもあった臨済禅であり、ただひたすら座禅に打ち込む黙照禅ではなく、
座禅の中から新たな発見を見出す看話禅であったことが伺える。「破邪顕正」的な邪正論も多少「家伝書」中にはあるが、
これも三論宗の般若思想から引き合いにしているようで、やはり日蓮系の破邪顕正ではない、本流の邪正論であると分かる。
柳生が「兵法家伝書」でほとんど取り上げなかった浄土信仰と法華信仰、この二つが江戸時代までの庶民の大部分が
帰依していた宗教で、柳生新陰流を最高名の武門とする武芸が、いかに百姓や町人から程遠いものだったかが分かる。
禅も儒学も陰陽道も密教も、般若も華厳も老荘もなんでもありのようでいて、ちゃんと武家なりの分も守られている。
226 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 17:33:58 0
「兵法家伝書」は、文部としての東洋教学それ自体を専門とするわけではない
武芸者である柳生一門が、一歩離れた所から東洋教学を“消費”した模範例ともなっている。
いくら全国全土に東洋教学が広められるのであっても、天下万民全てが儒者になるわけでも
なければ、全てが坊さんになるわけでもない。百姓や町人のように、自分自身は産業に従事
する平民がやはり大多数を占め、儒学や兵学は相当に専門的に学びつつも、本業は為政者
である武家のような支配階級がそれに次ぐ多さとなる。完全な専門家としての儒者や仏者は、
どんなに東洋教学が頒布されきった世界においても、やはり少数派に止まるのであり、
プロではなくアマとして東洋教学を消費する人間のほうが大多数を占める。
武芸者としてはプロ中のプロだったものの、文としての東洋教学に関してはアマだった柳生が、
沢庵のような禅僧の教示も得て剣禅一如の境地を見出し、武芸における至上の地位にも立った。
他にも、平安中期における紫式部などの女流文学も、東洋教学中では下賤の部類に入れられる
「文芸」の体裁を借りて、儒仏文化の影響も色濃い宮廷生活における日記や自己体験を模倣した
小説を書いており、半ば東洋教学それ自体にも入りかねないものの、若干アマ的な立場から本格的
な東洋教学を消費した実例となっている。(紫式部も幼い頃から「史記」を熟読していたという)また、
二宮尊徳も百姓という立場から儒仏道といった東洋教学を総合的に解釈し、農業のような必需産業を
奨励する上での材料としても消費している。まさに日本は、中国やインドで大成された東洋教学を模範的
に消費した実例の宝庫となっており、本格的な東洋教学それ自体である漢学や仏学と比べれば、若干
優先性では劣るものの、これからの人々が東洋教学を消費していく上で、どんなあり方が可能であるかの
ヒントにはなる。完全に儒者や仏者となる専門家ではなく、素人の立場から東洋教学を消費するヒントに。
227 :
考える名無しさん:2010/10/01(金) 19:02:24 0
既読ではあるが、宮本武蔵の「五輪書」のほうをおさらいしてみると、
武蔵は「儒仏の言葉を借りず」とは言いつつも、「天道と観世音を鏡とす」とも言い、
用語を借り受けたりはせずとも、神道や観音様への信仰を趣きとして「五輪書」を書いたことを独白している。
観音→観音経→法華信仰と短絡化もさせやすいが、武蔵もまた柳生と同じく参禅の徒であり、
秀逸な達磨図なども作品として遺している。どうやら武蔵は、禅には傾倒しつつも、公案による禅問答などを
専らにはしない黙照禅の立場にあったようで、武蔵のような田舎武士に強く支持されて、法華の研究にも
手を出していた道元の曹洞禅などに姿勢としては近い模様。小説や漫画などの創作では、武蔵が臨済宗の禅僧
である沢庵と交流があったり、日蓮法華宗の熱烈な信者だった砥ぎ師の本阿弥光悦と交流があったようにも
描かれているが、これらは史実上では判明していないフィクション部分であり、実際には武蔵は臨済宗でも
日蓮宗でもなく、曹洞宗の黙照禅を精神的なより所としていたようで、だからあえて禅問答などを著書中に
おいても引き合いに出したりはせず、逆に観音様への信仰をも独白したのではないかと思われる。
農夫や大工や商人などの被治階級の仕事を引き合いに出したりしているのも、支配者と被支配者の分断が
必ずしも決定的ではない地方社会の実情にも即しており、江戸や尾張といった都会の武芸者として成功した柳生が、
学問宗教の面からも、産業階級の信仰対象だった浄土や法華を省いているのとは対照的。「五輪書」だけを読んでも
分からないし、「兵法家伝書」をさしたる東洋教学の知識もなく読み継いでも分からないであろう部分。都会の武芸者
として臨済禅に傾倒した柳生、田舎の武芸者として曹洞禅に傾倒した武蔵。両者の違いは分かる人間にしか分からない。
228 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 10:14:52 0
「敬」の一点張りに努める儒者のように、一定の形(かた)を練習し抜くことで、
最終的には形すらをも忘れ去った自由自在な剣術へと到達する柳生新陰流。
一方で、二刀流で有名な二天一流の祖でもある宮本武蔵のほうは、始めから形などは
練習せず、ずば抜けた体力と天才的な勘だけによって、形から鍛錬を始める側から
しても理想的な二刀の構えなどを体得し、その剣術や本人の肖像画などに遺している。
ただ、武蔵個人の独力で極められすぎた技巧であることもあって、二天一流は後世に
おいて大きな発展継承などの日の目を見ず、その習得者数でも新陰流や一刀流などに
大きく水を開けられている。武蔵個人によって極められすぎた上に、形の稽古すらも
飛ばしてしまう一段抜かし二段抜かしの姿勢が、世間一般の武道習得者の支持を
受けることはできなかった。階段を昇る上での、一段目や二段目から抜かしてしまう
超越的な方法論では、武蔵のような天才剣士にはそれでよくとも、大多数の凡人なら
必ず失敗する。それと同じように、東洋教学の習得もまた、よっぽどの天才でもない限りは、
「敬」一点張りの儒学からでも始めるべきであり、それは柳生の言うとおり、階段の一段目か
二段目程度の初歩的な鍛錬でしかないわけだが、それがちょうど武術における形の稽古
のようにもなって、最終的には形を気にしなくとも自由に正しい振る舞いができるようになる。
そのほうが世間一般における修練法の常道であり、一段抜かしや二段抜かしは厳禁とまでは
いかないが、世間一般の大多数は凡庸でしかあり得ない点からして、決してお勧めできない。
229 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 13:03:42 0
「兵法家伝書」には、ある程度の武道習得者であれば「ああなるほど」と唸らせるような
技巧の宝庫となっているが、「五輪書」のほうは武道家ですら分からないような記述が多い。
それは別に、「家伝書」が初級者向けで「五輪書」が上級者向けというのでもなく、
「五輪書」のほうが良くも悪しくも武蔵の独走性をありのままに述べた書であるからで、
武蔵自身、己れの兵法をそんなに本気で世に広めようとした痕跡も見られない。
柳生が都会の武芸者の代表であり、武蔵が田舎の武芸者の代表であるというのなら、
孤高の存在に甘んじる武蔵の姿勢は、「より多くの人々が中央に囲われて、外様は
少数派でいたほうがいい」という「家伝書」殺人刀における柳生の主張にもかなっており、
田舎の武芸者に相応の立場をあえて守っていることが、一種の公共性にも即している。
全くの独走であるようでいて、宮本武蔵のあり方もそれなりに公共性に即したものであり、
世の秩序を乱すほどにも怪物的な存在であろうとしたわけではない。「孤立した家臣や
妾腹の子は日常的な注意を欠かさないので、かえって上達する場合がある」という孟子の
主張にも則って、「孤立者ならではの奉公」という、なかなか微妙な役目をも果たしている。
230 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 13:31:16 0
おそらく、今の熊本付近で生まれ育ったとされる宮本武蔵こと新免武蔵守藤原の玄信。
こちらが「田舎武士の模範」だった一方、幕末の坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作などは、
田舎から中央政権をも簒奪した、「兵法家伝書」の記述にあるまじき行状の田舎武士となった。
大政奉還後の薩長政権の興隆は知れたことだし、山内家率いる上士が佐幕派だったこともあって、
政府介入は板垣退助などの少数に止まった土佐藩からも、三菱の創始者である岩崎弥太郎などが生まれ、
田舎勢が政財界両面における近現代社会の権力機構の掌握者となった。幕府に大政を奉還させる
ための口実だった、尊皇攘夷も挙句には反故とし、アメリカやイギリスに尻尾を振る傀儡政権ともなって
久しいが、結局その取っ掛かりからして、地方から中央政府を脅かして妥当するという、柳生新陰流の
心法にも反する手法に則っているために、少なくとも一種の武道に反したあり方であるには違いない。
(もちろん薩摩藩にも示現流、土佐藩にも小栗流などの武術があり、全く武道を知らなかったはずもないが)
鹿児島出身者が今も多くを占めている警視庁の剣道も、喧嘩も同然のしばき合いと化しているという。
「あれこそは武道の本流だ」などと、三島由紀夫あたりも思っていたようだが、あれは西洋のスパルタ教育
などの影響も受けた近代以降のみの体育会系であり、江戸時代まで王道中の王道だった柳生新陰流
などとは相容れない部分を持ち合わせている。
武蔵よりも宗矩のほうが年上であり、「五輪書」よりも「兵法家伝書」のほうが先に著されているのに、
現代ではなぜか武蔵のほうが戦国江戸期の剣豪の代表であり、「五輪書」が武芸書の第一であるかのように
触れ回られているが、あくまで武蔵も柳生の領分を侵したりしない、分をわきまえた範囲で「五輪書」をも
認めており、武蔵や「五輪書」ばかりを優先して、柳生や「家伝書」を劣後した扱いにするのは、
模範的な田舎武士であろうとした武蔵の意向にも即していない。新陰流の心法に反してまで
中央政権を簒奪した現政府には都合が悪くとも、柳生や「家伝書」を武芸の第一として、武蔵や
「五輪書」を第二第三のものとして扱うほうが、柳生だけでなく、武蔵の意向にも適うことになる。
231 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 14:11:14 0
旗本や譜代の大名を厚遇し、外様を冷遇した徳川幕府の中央集権政策は、
天下分け目の関ヶ原以前にはすでに家康に臣従していた宗矩の意見にも即しているようで、
幕府が地方の武家の反意を買ったのも、都会の武芸者としての柳生を贔屓して、
その意見に傾倒し過ぎていたからかも知れない。だから柳生だけが存在し、
武蔵のような田舎武士の雄が現れなかったのなら、地方の不満のガス抜きが
不全化していたかもしれないとも言えるが、一応武蔵もまた実在していたわけで、
田舎武士が都会武士とは別の領分で、いかにあるべきかの見本となっていた。
その武蔵のあり方にも反して、薩長土肥の反幕勢力は政権奪取にまで及んだために、
自分たちの落ち度の言い訳のしようがない。たとえ今からであっても、「家伝書」と
「五輪書」の比較研究などから、地方の武士がいかにあるべきだったのかを学び直して、
相応のあり方に修正していくべきなのであって、地方の少数派として、都会の多数派の
利権すらも牛耳ってしまっている、今の自分たちのあり方を反省すべきだ。
欧米のような地球人類の少数派が利権を独占してしまっているが故に、
地球人類全体の真価が発揮できなくなっているのと同じように、地方出身の少数派が
全国の利権を独占してしまっているが故に、日本もまたその総力を発揮できないままでいる。
一部の悪のために万人が苦しむぐらいなら、その悪を殺して万人を活かせと、
これが殺人刀活人剣の意味でもあると、「兵法家伝書」においてこそ提示されてもいる。
232 :
考える名無しさん:2010/10/02(土) 14:26:19 0
「本当に中国やインドやアラブなどに、全欧米人を処分できるだけの人材があるのか」
という疑問は、ことに日本人にとっては、「地方勢力の専横が排されて、
都会人自身による権力機構の運営が取り戻されたときに、果たして健全に機能できるか」
という疑問に置き換えると、その結論を出しやすいかと思う。
都会人にだって悪辣な連中はいる。それどころか地方以上にも多かったりするが、
それ以上にも善良な人々も多くいて、全国の悪人を抑制させられるだけの人数に上る。
多数派を少数派が制御しようなどとするより、多数派同士での制御のほうが適正に決まっており、
さらにはその多数派に少数派までをも制御させるほうが、多数決の論理にも適っている上に、
本当に世の中を健全化させられる。柳生流兵法も参考に打ち立てられた多勢優先無勢劣後の
江戸時代の泰平と、地方勢力の専横で成り立っている無勢優先多勢劣後の現代日本の乱脈を比較
しても明らかな通り。結局、多数派を優先することを透徹させるだけでよくなるのだから、名目上は多数決を
重んじながら、大多数の地球人を貧窮にも追い込んでいる「国際民主主義」のねじれを取り払えばいいだけの話。
233 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 10:47:07 0
「兵法家伝書」でしょっちゅう引き合いに出されている沢庵和尚の文言に興味が湧いて、
今は「不動智神妙録」ほか沢庵の主要著作の選集を読んでいる。
しょっぱなから柳生宗矩個人への語りかけで話が始まっていて、
「あなたのいう無刀とはこういったものです」などと仏説的な解釈を述べている。
沢庵がこの「不動智神妙録」に当たる内容の書簡を宗矩の宛てたのが、
宗矩が61歳の頃で、この一年後に宗矩のほうも「兵法家伝書」を完成させている。
つまり、年代的には「不動智神妙録」のほうが先に成立したことになるが、
宗矩も「家伝書」以前に数々の兵法書の草稿を執筆しており、「家伝書」はその集大成だったと言える。
その内容も沢庵からの教示だけでなく、父石舟斎などからの影響もかなり色濃いとされ、
決して宗矩一人の独作ではなく、当時の日本における最高級の知識陣による思索の集大成となっており、
武蔵一人の独作である「五輪書」などとは、全くその成立の過程からして異なっていることが分かる。
234 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 18:22:09 0
「大用現前軌則を存ぜず(だいゆうげんぜんきそくをぞんぜす)」
「碧巌録」が出典であり、「兵法家伝書」と沢庵の「太阿記」で引用されている禅語。
この他に「大機大用(だいきだいゆう)」という言葉も引用されており、
「機」とは物事の本体、「用」とはその物事の振る舞いによって派生する現象をいう。
禅を参考にしている朱子学でも、おそらくこれを参考にした体用論が展開されており、
「体」を心を構成する要素のうちの「性」に見立て、「用」を「情」にも見立てている。
抽象的な論及なので解釈は人それぞれだが、物事の本体たる「機」が大いなる力を
働かせるときに、そこから派生する現象たる「用」も甚大な姿を帯びる。
これを「大機大用」と呼んでいるが、大機の働きによってもたらされた大用が
眼前に現出するときには、一定の規則ルールにも与らない、
未曾有の姿となる、これを「大用現前軌則を存ぜず」と言っている。
235 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 18:40:53 0
「規則を存ぜず」と言っているのだから、規則に囚われているわけでないのはもちろん。
一方で規則を存じないわけだから、規則を察知した上で破るということでもない。
規則に従うとか規則を破るとかの、規則ありきの不自由な状態全般を超脱すること。
たとえば、迷惑をかけた相手に謝るとき、「真摯に謝る」のが一般的な規則だが、
形式として真摯に謝るぐらいのことは誰にでもできるため、それだけではダメな場合もある。
規則に従って真摯に謝ってもダメなぐらいだから、ちょっと「sorry」とか言うだけでももちろんダメだし、
強盗殺人級の迷惑であれば、いくら莫大な謝罪金を支払ったところで許されない場合もある。
だからたとえば、地面が血で真っ赤に染まるほどにも、額を地面に打ちつけながら土下座する。
下手すりゃ失血死しかねないその姿は、生き物としてあまりにも愚かであり、額を地面に
打ち付けたりはせず、上目に相手をうかがえる程度の角度までに止めるという、正座からの拝礼の
正式な礼式からすらも逸脱してしまっている。しかしその、規則を守るとか守らないとかの
しがらみを逸脱してでも謝意を示そうとしたその有り様が、迷惑をかけられた側の心をも強く打ち、
その罪に相応の過剰な重罰を科すことを思いとどまらせる程度のことはできる。それは、
地面が真っ赤になるほどにも額を地面に打ち付けて謝罪したその有り様が、大用の現前で
あるが故に規則を逸しているのが明らかだからで、本物の誠意の現前であるが故に、
礼法の形式すら逸脱してしまったことが、かえって相手の心を打つからだ。
236 :
考える名無しさん:2010/10/03(日) 19:15:22 0
とはいえ、俺が上で例示した「地面が血で真っ赤に染まるほどにも、額を地面に打ちつけながらの土下座」は、
俺のような分析家が構造的な説明をし尽くした「既製品」ともなってしまっていて、実際「史記」の滑稽列伝でも、
人柱の悪習を残していた黄河流域の村落の、高齢の巫女などをあえて黄河の神への人柱として水中に投じ死亡
させた西門豹が、迷信深い村人たちに、地面が地で赤く染まるほどもの土下座(叩頭)をして許しを乞われてもいる。
確か、芸人の内村光良も、叩頭のし過ぎで額が膨れ上がった土下座の名人キャラをやっていたし、地面に頭を
叩きつけてでもの土下座などは、謝意を表す上での「大機大用」としてはもはや陳腐であり、仮に叩頭で地面が
真っ赤に染まる状態を再現したとて、「大用現前軌則を存ぜず」とまではなり得ず、せいぜい「滑稽」扱いに止まるのみ。
あらかじめ台本を決めておいてやるような、緩慢とした演劇趣味である時点で電光石火の参禅とはなっておらず、
大用が現前するが故に、軌則すら存ぜぬ颯爽さとは程遠い。型枠としての小説を超えて、型にはまらぬ禅に参れ。
237 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 13:42:06 0
「応無所住而生其心(おうむしょじゅうじじょうごしん)」
「金剛経」が出典であり、「不動智神妙録」でも引用されている禅語。
雀の子が猫に捕らわれたからといって、猫を縄でくくりつけておくのが
「敬」一点張りの一心不乱行、あるいは武芸における形の稽古などに当たる一方で、
猫によくしつけを尽くしておいて、もはやくくり付けておくまでもなくなってから縄をほどくと、
もはや雀の横に置いていようとも、猫は雀を捕らえようとはしなくなる、
これが「応無所住而生其心」の境地であり、「敬」一点張りの不自由さから脱しながらも
「心の欲する所に従って矩をこえず(為政第二・四)」でいられる状態であり、
また、形の稽古を乗り越えて、自由な剣技の中にも理合が行き届いている境地となる。
禅にしろ武芸にしろ、繋がれた猫になるような不自由の中での鍛錬の後に、
自由自在の境地を得るのであり、始めから放辟邪侈の限りを尽くしているということではない。
自主的に、禁治産や入獄にも等しいような苦境に自ら追い込むことで、ついに真の自由を手に入れる。
そのための過程としての、お縄を頂戴。喜ぶこととてあれど、なぜ悲しむ必要があろうか。
238 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 13:55:13 0
たとえば、別に厳しい修行に励むこともなく、ただ自堕落な生活を送っているだけでも、
強盗殺人込みの重権力犯罪に及んでいるよりはマシだったことも、軌則を存ぜぬ大用の現前であったし、
誰しもが重権力犯罪に及んでいる中で、あえて自堕落とはいえ無為の状態に自らを置き続けることで、
悪徳の虚栄からぐらいは身を避け続けていたことが、縄でつながれた猫となる不自由の修行にも
自然となっていたために、もはや縄を解かれた所で、重権力犯罪ぐらいには走らないのも、
一種の応無所住而生其心だろう。
ずるい、ひどい、あられもない、それでこそ大用現前不存軌則だし、
心の欲する所に従って矩をこえない程度で応無所住而生其心でもある。
禅の世界から遠くかけ離れてしまっているようでいて、やはり現代もまた禅の範疇にある。
239 :
考える名無しさん:2010/10/04(月) 14:15:07 0
「万事において我に師なし」とうそぶき、形からの鍛錬による剣技の上達をも否定した
宮本武蔵も、本当の出身地がどこだったのかすら定かでないようなど田舎での生活が、
自然と「浮世からの情報的断絶」という不自由さの甘受となって、都会の人間が
ただ生活しているだけでは必ず鈍化させてしまうような「野性の勘」を研ぎ澄まして、
心身の無駄な遊びを捨て去った応無所住而生其心へと自然に至ったのだろう。
禅語すら用いない独行姿勢が、自然と曹洞宗の黙照禅にも近似してしまっており、
自主的に傾倒しなかったり、かえって反抗しようとした人間ですら、その内に
包含してしまう度量の広さを、東洋教学全般は持ち合わせていることが分かる。
240 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 10:57:47 0
武芸者はもちろん、命のやり取りに及ぶ真剣勝負を大前提としている。
新陰流の祖である上泉秀綱や、柳生新陰流の祖である柳生石舟斎も、
基本は人の和を尊びながら、差し迫った戦場においてはその戦術で人を殺してもいる。
宗矩もまた大坂の陣において、秀忠の本陣に不意打ちを仕掛けてきた豊臣方の
兵士七人を斬って捨てており、その兵法が口ばかりでない本物であることを証明している。
その宗矩に禅僧の立場から助言を行った沢庵もまた、真剣勝負を大前提とした
法戦場のつわものであった。時に気違いじみてすら映る禅問答なども、生死への執着を
超脱したゆえのものであり、死への恐れから生じる精神異常などとは根本的に異なる。
禅問答よりは遥かに通常的な言葉を用いた、書簡として書かれている「不動智神妙録」では、
「こういう心持ちでいれば斬られず、こういう心持ちでいれば斬られる」というような実戦論と
心法の密接さを具体的に説いており、戦いだけでなく家臣の統率や子のしつけにまで話は
及んでいる。それらの助言の内容もごく現実的なものであり、一部禅語の引用があることなど
をのぞけば、全く常人の書簡とも体裁的には変わらないが、何しろその相手は当世至上の
剣客である柳生宗矩であり、常人なら恐れ入って助言の言葉など到底かけられはしない。
しかし沢庵はごく親密に、半ば叱咤すらこもった言葉で宗矩に具体的な助言を送っている。
上に立つものほど師の少なさにあえぐものではあるが、宗矩は師にも親にも恵まれていた。
241 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 11:49:58 0
武蔵が師を持たなかったのは、上等な師もいないような田舎育ちだったから。
逆に近畿・中部・関東あたりの都市圏を主な活躍の場としたからこそ、潜在的な
人材の多さや集約にも与れて、柳生は上泉や沢庵のような師にも恵まれた。
フィクション作品中では描かれているような、宮本武蔵と沢庵や石舟斎、本阿弥光悦や伊東一刀斎
などとの、師弟や友人にも相当するような人間関係は、武蔵には本当になかっただろうと思われる。
上記のような著名人でなくとも、無名の師匠や友人として、武蔵に親しんだ人間ですら皆無だったろう。
勝てば生き残り負ければ死ぬ、真剣勝負の前で浮ついた演技上の師弟関係や友人関係は無力であり、
本当に師匠として敬えたり、友人として親しめた相手がいたのなら、武蔵もいたことを明言しただろう。
しかしそうではなく、自分から師匠も友人もいなかったことを独白した以上は、本当にいなかったのだろう。
武蔵の真の評価点はあくまで、その絶望的なほどもの独行姿勢一つに尽きているのであり、
常人が想像もできないような孤高の境地にいながら、少しもぶれることのない道心を持ち合わせていた点。
武蔵級の独行者が、ヒロイックな悲劇性なども伴うことなく、透徹した超人として人生を送り通し、
その姿がありのままに評価対象となっているのも、弘法大師のような完璧超人も生み出した日本ならでは
の風潮。完全な超人などその存在性から否定し、何らかの落ち度や悲劇性をあてこするルサンチマンが
いつの時代どこの世にも溜め込まれているもんだが、ことにこの日本でだけは、真の超人が尊ばれている。
242 :
考える名無しさん:2010/10/05(火) 14:25:43 0
武蔵はそれでいいわけだ。独立独行の武芸者という、独特さこそは評価の対象であり、
そこにかけがえのない師匠や友達がいたなどというような下衆の勘ぐりも無用なこと。
都会の武芸者の代表であり、江戸時代までは武門の王道中の王道だった柳生こそは
師にも友にも恵まれた、人間関係の入魂さの中で、その威武を存分に活用してもいた。
現実上においてこそそうであり、柳生こそは世の大多数の支持するところ、武蔵は
きわ物の数寄物とするところだったのが、本人たちの著作内容からも明らかであるのに、
なぜかフィクション中では武蔵のほうが民衆の味方であり、柳生のほうが権力にも
取り入って、お高く止まった孤高の存在のように描かれてもいる。これもやっぱり、
柳生流を御用兵法とし、宗矩を政治顧問としても大きく取り立てた徳川幕府を倒して
地方出身の立場から今の日本を牛耳っている現政府の都合などにもよる所なのだろう。
形の稽古を重んじて、自在な剣技への到達を最終目的とする柳生流の武芸こそは、
技術面と精神面両面において、日本の武士の大多数が支持するところだったのであり、
始めから野性の勘だけで超人的な技を見に付けていった武蔵の姿勢などは、それは
それでありだとしても、あくまできわ物扱いであり、多数の支持するところではなかった。
243 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 11:38:13 0
「敬」一点張りとなる儒者の姿勢や、「放心を引き止めよ」という孟子流の心法などが、
初心者の心構えとしては適切であるものの、上級者には初歩的すぎると沢庵も言っている。
ひたすら「敬」にこだわらずとも、自然と適切な畏敬が備わり、良心が方々へ放散してしまうことを
恐れずとも、どこもかしこもが良心で満たされて放心への警戒の必要などがなくなるのが上級者。
東洋では主にその程度の人間を「聖人」と呼ぶのであり、聖人とは教学修得の上級者のことを指す。
しかし、「始め有りおわり有る者は、其れ惟だ聖人か(子張第十九・一二)」 ともあるとおり、聖人と
呼ばれるほどにも東洋教学を始めから終わりまで修得しきれる人間などはごくわずかであり、
大部分の人間は初歩的な段階までの修練で一生を終える。だから結局、「敬」一点張りで礼儀や
礼節を重んじる初歩的な儒生である程度の人間で世の中は埋め尽くされ、意図的な敬意や良心の
つなぎとめにこだわらずとも、自由自在に敬意や良心を扱えるような達人はごく一部にとどまる。
244 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 16:56:08 0
「玲瓏集」における沢庵和尚の信仰論や臣従論にも、なかなか含蓄がこもっている。
「神様を信じている」という以上は、あっちの神様を信じてこっちの神様を信じなかったりするのではなく、
神様全般を信じていることを指し、その上で実際上には特定の神様を信じていたりする。
それと同じように、「主君に仕える」ということも、どこぞやの主君に仕えて他の主君に仕えないとかの
主君の選別以前に、「主君」という目上の者全般に熱心に仕えようとする忠恕の心を抱く。
その上で、実際上は特定の主君に仕えるということがある。
どの神様を信じる、どの主君に仕えるなどという選別意識ばかりが一人歩きして、
神様全般を信じようとする敬虔さや、主君一般に仕えようとする忠恕の念が備わっていないのでは、
どの神様を信じ、どの主君に仕えようとも、思い上がりばかりを抱いてうまくはいかないということ。
神道家でも士人でもない、仏者である沢庵和尚こそが述べた信仰論や臣従論。
「何よりも自分が第一だ」という、今で言う個人主義の上にすら、
神への信仰や主君への臣従を上乗せしてこそ、真の信仰や臣従でもある。
245 :
考える名無しさん:2010/10/06(水) 17:12:52 0
どの神様を信じる、どの主君に仕えるという以前に、
神様全般への畏敬や、主君全般への忠恕があってこそ、信仰や臣従も道理にかなうわけだから、
特定の神だけを信じ込んで他を信じず、その神だけを主と崇めて他の主君などへの臣従を否定するのは、
そもそも信仰や臣従の仕方として誤っており、信仰一般や臣従一般以前に、本人自身の選別意識が
より優先されているのであり、その時点で信仰や臣従以上にも、自意識過剰の思い上がりが優先されている。
あらゆる神の中での特定の神を信じたり、多くの主君の中での特定の主君に仕えたりすることも
実際にあるわけだが、忠信の意識が真に透徹しているのなら、その忠信はどの神様、どの主君などに
限定せずとも、独立して貴い理念となるのだから、特定の神様を信じたり、特定の主君に仕えたりする
以上にも、神様全般を信じることや、主君全般に使えようとすることのほうを自然と優先させる。そうではなく、
神様全般への信仰や主君全般への臣従以上にも、どの神様を信じ、どの主君に仕えるかなどということを
優先させたがるのは、それだけ信仰や忠恕が不完全なものであり、自我によって物事を選別する個人意識に
忠信の心が勝てていない証拠でもある。だから沢庵和尚も、どの神を信じ、どの主君に仕えるなどということより、
神様全般を信じ、主君全般に仕えようとする、透徹した信仰心や忠恕の心を抱くことのほうが重要だと言っている。
246 :
考える名無しさん:2010/10/07(木) 19:54:14 0
「蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、
一歩も出でず、一歩も退かず。敵、我を見ず、我、敵を見ず。
天地未分、陰陽到らざる処に徹して、直に功を得べし」
沢庵「太阿記」冒頭の句。「真の兵法家は、争うまでもなく絶対的な勝利を得る」
という点は、武経七書に代表される、東洋兵法における定石。乱戦状態での
ストレスに耐えることなどが、今の体育会系では重視されているが、
そもそも乱戦に及ぶまでもなく完勝してこそ兵法家の勝利である。
「戦力の強弱にこだわらず、進退にもこだわらない」という点も先に倣っている。
「敵も我を見ることがなく、我も敵を見ることがない」という所、
沢庵和尚直々の解説を聞いて初めて分かったが、ここが最重要部分。
敵は真我に即してことを行おうとする我れの動向を見計うことができず、
我もまた個我(人我)に固執してことを行おうとする敵の動向をいちいち見計わない。
敵方は我が方の動向を見ようにも見ることができず、我が方も敵方の動向が
破滅へとまっしぐらな虚構の塊であることが明らかなために、あえてそれを見ない。
勝負を争おうとすらしない、自分が相手に完勝する上での定石として、
「相手は自分のことを見ようとしても見ることができず、自分は相手のことを
見る価値がないから見ない」という状況が生ずる。それは、天地万物が生ずる以前、
陰陽斯開の以前の、現象が展開するまでもない状態の純粋精神に
自らが到達し、相手は未だに到達しきれていない前提から自然と呈する。
247 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 09:01:45 0
たとえば、新聞やテレビなどの大手メディアでしょっちゅう報道されている
経済だの金融だのの情報の垂れ流し。見る側も見せる側も、カネという末節の部分ばかりにに囚われて、
より根本的な部分を見失っている劣悪情報であるため、そのような情報にかかずらわっている
連中には、より根本的なものに即さんとしている俺の本心を見ることも汲むこともできない。
まずこれが「敵、我を見ず」になっている。
一方で、俺もまた連中がかかずらわっているような、経済だの金融だのの末節情報は見ない。
路肩の新聞やテレビの垂れ流しなどで、多少は見てしまうこともあるが、なるべくその内容に囚われないようにする。
沢庵和尚もまたそのような、完全に目を背けているわけではないが、相手の動向に気を囚われない状態に
自分がいられていることを「我、敵を見ず」と言っているのだと「太阿記」で解説している。
末節の情報ばかりに囚われて根本的なものが見えない敵は我を見ず、
根本的なものの把捉に務めて末節に囚われない我もまた敵を見ない。
だから勝敗を争うまでもなく、我が勝ち敵が負ける、というのが、定石らしい。
248 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 09:30:37 0
「経済」という言葉が、元来は金融貨殖関連だけでなく、政治面社会面でも世の中を
全般的にうまく治める「経世済民」を語源としていることはWikiなどでも書いてあるが、
その「経済」がいつの間にか貨殖功利だけを偏重した意味で使われるようになり、
挙句には福沢諭吉が、産業調整を意味する「economy」の訳語として「経済」を
適用した経緯までもが、Wikiなどでも当たり前のように書かれている。
言葉の名辞をねじ曲げて、本来からは誤った語義に即して言葉を用いることが
当たり前のように認められて、今では元来の経世済民という意味以上にも、
産業調整や貨殖功利といった意味での「経済」という言葉のほうが多用されている。
「経済」という言葉が元来は高邁な意味を持っていたからこそ、単なる貨殖調整を
「経済」と呼ぶことで、さも貨殖調整までもが高邁な意味を持っているかのようにすら
思い込まれてもいる。「経済」という一つの言葉に対して、別個の意味をあてがうことにより、
経世済民と我田引水すらもがみそくそに扱われてしまっている。こういうことが起こって
しまうから、孔子や荀子も、巷における名辞の乱れを正すことを提唱していたのだろう。
249 :
考える名無しさん:2010/10/09(土) 10:30:45 0
たとえば「書経」において、「湯既勝夏(湯誓)」とか「武王勝殷(洪範)」とかいった表現が出てくるが、
湯王は夏の桀王を誅殺して殷王朝を開いたし、武王も殷の紂王を誅殺して周王朝を統一王朝にのし上げている。
「勝つ」という言葉が、「相手を殺し尽くして自分が活路を切り開く」という意味で用いられており、
これが元来の「勝つ」という言葉の名辞でもある*。ゲームやスポーツなどの仮想上の勝負での * 現行「書経」には偽書部分も混在しているが、
「勝ち」や「負け」のほうが後付けの名辞であり、真剣勝負での「勝ち」や「負け」のほうが、名辞として正しい。 上記引用の「湯誓」と「洪範」は真書部分にあたる。
最初期の達磨の頃から中国で布教が始まっている純中華風仏教の禅、その禅の坊さんである沢庵も、
名辞がよく正された中での物言いとして、当然のごとく「勝ち」「負け」を真剣勝負の意味で用いている。
だから斬り殺し合いの剣術において名人であった柳生宗矩にも助言することができ、宗矩も大阪の役などで
多大なる戦功を挙げてもいる。名辞が正されることで、自分自身は剣を持たない文化人ですらもが、
真剣勝負を前提とした「勝ち」や「負け」を論ずることができ、ことの勝敗を論ずるに足る覚悟をも持つ。
名辞を正して物事を論ずることは、非常な覚悟がいると同時に、実相に即した絶対性をも帯びる。
そのような覚悟や絶対性と共にある文こそは、武と合致した剣禅一如の境地にまでも昇華される。
250 :
考える名無しさん:2010/10/14(木) 20:32:21 0
勝負を決する意味として「雌雄を決する」という表現もたまに使われるが、
この場合は「勝ち負け」によって左右されるものを捉えている度合いがずっと大きい。
大軍同士の勝負であるなら、小兵も大量に殺されたりすることもある一方で、
大将の生死によってこそその勝敗が確定する。大将が殺された兵軍は完全に
烏合の衆となって、あっという間に敵方に取り込まれて「敗軍」となってしまう。
だから、大将格の人間にとっては「生死」が勝敗も同然の扱いとなるが、
いてもいなくても大して変わりない程度の不特定多数の小兵などに関しては、
「生死」ではなく「雌雄」が勝敗を決した後における概ねの果報となる。
紂王を殺して武王が君臨したことこそは「勝敗」を決した一方で、
天下全土の民が大量虐殺や部分生存に見舞われたわけではなく、
ただ雌雄が決したのみ。周こそは天下に雄となり、殷は雌に成り下がったのみ。
251 :
井上筑後守:2010/10/15(金) 22:59:05 0
おもむろに、弟子スレのほうへの書き込みに重きを置いてみたが、やはりしっくり来ない。
全体のペースを相手に握られた状態で何を教えたって、相手はふんぞり返ったまんま。
自意識過剰の思い上がりの中で、どんなにありがたい教えを教えても、まさに馬の耳に念仏。
弟子の側から積極的に師匠に教えを乞おうとする、「易経」蒙卦にも即した教学体制でないと、
教える側にとっても、教えられる側にとっても何ら前向きな成果が得られることはない。
全世界が、俺が自作した東洋教学スレにでもならない限りは、
俺がどこにいって、誰に何を教えてもいいだなんてことにはならない。
252 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 12:42:22 0
>>251 夏の事跡そして殷の事跡は存在するのでしょうか?
どこかで、黄帝とか尭舜は、伝説上のものでしかないという中国諸子百家の
言葉を聞いたことがるのです。
253 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 12:57:00 0
>>251 >全体のペースを相手に握られた状態で何を教えたって、相手はふんぞり返ったまんま。
自意識過剰の思い上がりの中で、どんなにありがたい教えを教えても、まさに馬の耳に念仏。
www
その内に良くなりますよ。
他の所で議論したりしても、「学会ではこういう風に」とか「学術的にはこうこう」とかいった
前置きで始まる冗談抜きの相手の論述が、あまりにも拙劣であることによく辟易させられる。
それこそ、今の学会なんて、孟嘗君が囲っていた鶏鳴狗盗の食客の集まりみたいなもの。
その輪に入れてもらうのももちろんイヤだし、たとえ最高権威として扱ってもらえるのでも断る。
今の学会になど一切正統な権威は存在しないことが断じられた上で、自分が寺子屋の先生にでもなる所から始める。
>>252 列子が「周のことすらもはや大昔の話、殷や堯舜などあったかなかったかも覚束ない御伽噺のようだ」
ということを、諸行無常の諦観を含意する文脈で言っている。家に引きこもりきった道家的な思索として。
自分から聖王の活躍地にも赴いて実地見聞を行なった司馬遷などは、
堯舜より以前の、黄帝の実在性すらをも確信したそうだが。
古すぎて分からないことは正直にそう書いてある「史記」においてこそ、そう言っている。
256 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:18:12 0
古代東洋人と古代のメソポタミア、エジプト、ギリシャローマ人の
美的センスの違いを、建築物を通して、以前から考えているのです。
まず屋根から言いますが、古代中東の遺跡には屋根が残っているものは少ないんでしょうか?
柱ばかりじゃないでしょうか?
屋根も柱も、中国であれ、中東であれ、その手法は伝統として、継続されているといって良いですよね?
中国のあの屋根の湾曲は、あれは中国人が、屋根の形を単なる平面的なものよりも、
湾曲させた方が、美的であると考えたものと言うべきではないでしょうか?
一方中東及び西洋では、平面的な屋根が主流だったことは疑い得ないもののようです。
ただし、柱については、初めは円柱でしたが、ギリシャにおいて、あの溝の入った優美なものが
発明されたのです。東洋ではこの種のものは皆無でしたね。
257 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:27:13 0
決して、このありがたい教えを、象牙の塔に隠し込んで披露するまいなどと
しているわけではなく、相応の姿勢で教えを乞うものには教える用意でもいる。
しかし、基本は耳を貸さず、耳を貸すとしても、自分の側の蒙昧な意見を押し付け返す体勢でいるから、
最低限の教学体制すら確立されることがなく、教える側も教えられる側も何ら得られるものがない。
無知蒙昧な童蒙であるくせに、童蒙に相応の貞節さ、童貞は欠いているので、無知蒙昧なくせに
自分が達観した何者かであるかのように威張り腐り、相手を打ち負かすことばかりで脳内が
常にいっぱいいっぱいであり続けている。「無知+陽剛」という凶相に凝り固まったままの状態。
258 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:34:50 0
それから、生活様式ですが、土足で家の中に入ることができる中東と、
中国古代の、家に入るには玄関で靴を脱ぐという生活様式の違いですね。
これは実に大きな違いを生んでいると思うのです。
ところが現代の中国では、テレビで見たのですが、土足様式が一般的なんでしょうか?
土足で家の中を行動してるのでした。
またそれに伴ってでしょうか、ベッドを準備してるのです。
また、古代中国でもベッドは有ったのでしょうか?
259 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:38:49 0
>日本縄文文明
これについては聞いたことがないです。
詳しく教えて欲しいものです。
260 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:41:04 0
決して、自分の側から他者を征服しようとするのでも、学会を簒奪しようとするのでもない。
ただ、いざ自分が教える側に回る以上は、教えを乞う側が身勝手な自己主張を寸分でも残して
いることを許さない。師匠と弟子の序列が完全にわきまえられた中での教学しか認めないからこそ、
自分から無理に教えていこうとするような、侵略征服的な姿勢を自分からは決してとらない。
261 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:47:32 0
束縛は誰も嫌がります。自由です。
そもそも、憲法が規定するように、人は生まれながら自由なものとして生まれているんです。
それも平等に。ですから、誰かから自由を与えられるというものではないのです。
学問は自由を獲得するためです。学問が人を不自由にする場合があるのであり、
その不自由を解消するのもまた、学問なんです。
もともとから自由な人を、学問により自由すると言うことはありえないわけです。
だから、学問は何の対価なしになされるべきものではないでしょうか?
262 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 13:58:01 0
そうやって教えたり教えられたりする学知は、ただ放辟邪侈を助長するのみであり、
教学姿勢から礼節を重んじつつ教え教えられる学知こそは、礼節に即して世を泰平へとも導く。
礼節に反する無礼が巻き起こす放辟邪侈、その放辟邪侈を諭吉が禅語を盗用して美化した、
現代的な意味での自由、その自由こそは、何億人もの人々を虐殺被害に追いやった
元凶でもあるかして、もう理想上の理念としてすら掲げることを憚るべきものだ。
263 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:02:39 0
自由と欲望とは正反対なものです。
自由な人には欲望はないのです。
反対に、欲望ある人は自由ではないのです。
欲望が罪を生むのです。自由は罪を生まないんです。
あなたは、自由が罪を生んだといっています。それは有り得ないことです。
自由は自足しています。欲望は飢えているのです。自足してるものが
誰かを束縛することはありえないでしょう?
264 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:07:49 0
欲望があるから放辟邪侈に走る、放辟邪侈を正当化するために「自由」という言葉でこじつける。
ただそれだけのことであり、禅語としての「自由」とはあまりにもかけ離れた、醜悪な内実に即している。
ナポレオンとかリンカーンとかケネディとかの、非業の最期を遂げた著名人を
好き好んであげつらったりするのも、孝悌意識を全く欠いた不誠実な姿であり、
誰も彼もが先人の不遇を面白がるような世の中は、誰も彼もが放辟邪侈に走るのみ。
そりゃあ、何億人もの人々を餓死や戦死においやってまで、欲望を膨れ上がらせ続けるのも当然のことで、
根本のところの忠孝の欠如から是正していくことこそが、同じ過ちを繰り返させないための最善策となる。
265 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:18:51 0
×
無知蒙昧な側が自意識過剰に即した自己主張を溜め込みつつ先生の話を聞く。
↓
先生の側は何とか自分の話を聞いてもらうために、修辞や文飾を凝らすことばかりに終始する。
↓
結果、ほとんど何も学ばれることはなく、先生を謙らせた悪影響で、余計に自意識過剰も膨れ上がる。
○
無知蒙昧な側が自意識過剰も自己主張も全廃棄した上で、恭しく先生の話を聞く。
↓
先生の側も修辞や文飾に拘泥することなく、自分の学知をストレスフリーなまま相手に教えられる。
↓
結果、無知蒙昧な側も多くを学び、先生の側も自分の学知の点検や修正が行なえて、両者のためになる。
266 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:28:47 0
>>257 >このありがたい教えを
それはなんですか?
何を教えてくれるのかも分からない相手に、何を学ぼうとしているのか?
268 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:43:56 0
>>267 ありがたい教えがあると言っておられます。
聞いてみないと判らないじゃないですか?
人の話を聞くことよりも、自分の無知を主張することのほうが大事な
自意識過剰地獄界の住人である鬼畜には、仏の声だって聞こえても分かりゃせんよ。
人の話を聞き入れる上での、根本的な資質を自分自身が欠いているのだから。
270 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 14:59:30 0
>>265 >○
無知蒙昧な側が自意識過剰も自己主張も全廃棄した上で、恭しく先生の話を聞く。
↓
先生の側も修辞や文飾に拘泥することなく、自分の学知をストレスフリーなまま相手に教えられる。
↓
結果、無知蒙昧な側も多くを学び、先生の側も自分の学知の点検や修正が行なえて、両者のためになる。
・・・・
この通りであることは、仏教でも同じであります。また人情に適っております。
ありがたい教えを承りたいと存じます。
271 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 15:54:57 0
沈黙は、負け。
人の話を聞くことよりも、自分の無知を主張することのほうが大事な
自意識過剰地獄界の住人である鬼畜
押し合いへし合い豚の小倅
思考は自我ではないから、考え方を替えたからといって
自我が失われるようなことはない。
むしろ誤った考えを無理に押し通そうとする時に、我を見失う。
275 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:03:24 0
どれもこれもしばらしいご意見
276 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:45:21 0
277 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 17:58:40 0
そもそも、
1.君臣の義 ┐
2.父子の親 ┼三綱
3.夫婦の別 ┘
4.長幼の序
5.朋友の信
が「天下の達道」の優先順位だから、
師弟関係を含む長幼の序よりも、夫婦の別のほうが本当は重要なわけだ。
もともと妻が夫に教えを乞うたりするのはお門違いで、領分の別個性が
重んじられるからこそ、夫婦の場合はもう少し親密であってもいいんだ。
最も、匿名掲示板上でしか話したことのない夫婦なんてないがな。
夫婦だああああああああああああああ????????
お前の脳みそが最初っから腐ってるんだろがあああああああああああ
279 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:40:09 0
いや、切実な話、師弟のうちの弟子となるよりは、
夫妻のうちの妻(雌雄のうちの雌)になるほうが、向いてそうだ。
おたくには東洋教学は向いてない。
280 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 18:55:06 0
東洋教学は儒教ばかりじゃない。
281 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:05:05 0
坂本“龍馬”の名でも言葉ばかりは有名だが、
「易経」乾卦と坤卦の動物での卦像がそれぞれ「龍」と「牝馬」。
龍のほうは場合によって地に伏せていたり(諸葛孔明の隠遁時のあだ名も「伏龍」だった)、
逆に一気に天上まで昇り詰めたりの、能動的な威厳の持ち主である一方で、
牝馬のほうは、「牛馬のようにこき使われる」という慣用句にもある通り、
目上の者などに受動的にこき使われる中でこそ、その能力を発揮する。
雌雄を決して、自分が牝馬となることで、牝馬ならではの本領が発揮される。
万事万物にはそうあるべき個別性があり、龍であることが相応しいものもあれば、
牝馬であることが相応しいものもある。確かに身分の上下などの差別も生じるが、
それはことに、易の卦爻表記などに基づいた場合には、完全に平等に扱われる。
282 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:34:32 0
師匠が弟子に教育上の序列を徹底さすのは、弟子を自分並みの境地にまで
上って来させるため。名刀を鍛え出すためにこそ、玉鋼も何度も何度も打ち固められる。
そもそも名刀になる素質もないくず鉄や非鉄金属のうちで、拵えの金具などに
する上では上質な材料などが、相応の加工を受けて美麗な姿ともなる。
そのようにして、妻や匹夫であるなりに相応の役目を果たすものであれば、
師匠に付いていく弟子ほどにも峻厳な仕打ちを被らなくても済む。
一生を妻や匹夫として終えるのならば、それでもいいのであり、
わざわざ上を目指そうとしない中にも、確かにそれなりの生き方がある。
名刀の鞘となれた拵えなどは、名刀ゆえに刀身の実用も憚られるために、
納刀された状態で人目に付くことのほうが多いから、名刀それ自体以上にも
人々の眼福を満たす素質が必要ともされるのである。
283 :
考える名無しさん:2010/10/16(土) 19:39:50 0
名刀は刀ではない。
実際論と比喩の区別も付かない。
285 :
考える名無しさん:2010/10/17(日) 19:17:55 0
妻となることと、弟子となることは別だ。
耶輸陀羅も仏弟子となった時には、すでに釈迦の妻ではなかった。
などという、高尚過ぎる例を挙げるまでもなく、家庭と教学は別だ。
教学部と婦人部を並べたりすることもなく、家庭のほうが上だ。
286 :
考える名無しさん:2010/10/18(月) 19:16:19 0
家庭と学問は、全くの別物。少なくとも儒家においては。
林羅山も、妻を亡くした時には多くの哀歌を詠ったほどの愛妻家だったが、
学問の峻厳さについては一歩も譲らず、ハビアンのような邪教徒を相手に
滅多打ちの論破を加え、自信喪失の後の棄教に追い込んだものだった。
スウェーデンの女王などとホクホクの講義生活を送ったデカルトのような、
学問面での遊びは一切許さない代わりに、家庭関係は師弟関係よりも大切にする。
それでこそ、一般名詞としての「儒者(学者)」の理想的な姿でもあるのであり、
利権や情愛などのために曲学阿世に及んだりするのでは、鶏鳴狗盗の食客止まり。
287 :
考える名無しさん:2010/10/19(火) 14:25:22 0
ハビアンが地動説を唱え、ラザンが天動説を唱えたと言うのは、矛盾してるのだ。
いい加減なことをいわないように。まして、ハビアンを打倒したという様な事はありえないこと。
打倒されてシクシク泣いてりゃいいじゃん。
そのほうがよっぽどかわいいよ。
289 :
考える名無しさん:2010/10/24(日) 18:42:56 0
「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
(岩波文庫「ウパディーシャ・シャーハスリー」一・一五・二七より)
「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
( 同 一・一六・六〇)
「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
( 同 一・一六・六一より)
「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
( 同 一・一六・六一-六二より)
これらの記述の意味するところが分かるか?
290 :
考える名無しさん:2010/10/27(水) 22:05:35 0
分からないから答えられないのか、分かっても答えられないのか知らないが、
一応答え合わせをしてみようか。
「それ自身の光によって〔統覚機能の〕諸観念を照らし、その諸観念を対象と
している認識主体を、統覚機能の諸観念の主体と呼ぶのは、愚者だけである」
→イデア論(概念論)の否定
「認識というアートマンの光輝に照らされて、統覚機能は、自分自身の内に認識があり、
他には認識主体は存在しない、と考える。これこそじつに統覚機能にある錯乱である」
→コギト(我れ思う、故に我れ有り)の否定
「認識はアートマンの本性であるから、認識は、統覚機能に対して、
〔用いられるとしても、それは〕つねに譬喩的に用いられるのである」
→グノーシズム(認識主義)の否定
「識別智の欠如もまた、始めのない永遠の昔からである。これが輪廻であり、これ以外の
なにものも〔輪廻〕ではない。解脱とは、正しくその〔識別智の欠如を〕止息することである」
→ソフィズム(智識主義)の否定
291 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 15:17:08 0
本流のインド哲学って、西洋哲学をことごとく否定した内容になってるんだな。
バラモン・ヒンズー教系のインド哲学に異を唱えている、仏教だけを見ても気づかないが。
シャンカラは唯名論だから仏教に近いし、カントにも近い。
293 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 19:38:55 0
近いもんかよ。カントとは真逆のことを言ってんよ。
自性(物自体)が経験や認識によって把捉することが不可能であるとするカントの主張とは違い、
シャンカラ含むヴェーダーンタ学派は、「そうではないそうではない(ネーティネーティ)」の積み重ねという
知識的な経験によって、あらゆる感覚的な現象を超えた所にある自性、アートマンが捉えられるとしている。
自性を肯定否定織り交ぜた構造的な論及によっていじくった挙句、「自性は捉えられない」と断じたカント。
徹底的な現象構造の否定の重畳によって、自性を捉えることによる統覚機能の解脱を可能としたシャンカラ。
否定の重畳の先にアートマンと呼ばれる主体的な自性が実在することを説いたのがヴェーダーンタ哲学で
あるのに対し、否定の重畳の先に一切皆空という真理を見出したのが般若哲学。これらもまた異質である
部分を持つのは確かだが、否定の重畳が解脱などの結実を可能とする点では一致しており、そもそも
否定の重畳を試みることも、それにより自性の実在を追い詰めきることもなかったカント哲学こそは、
ヴェーダーンタ哲学とも般若哲学とも相容れない、片手落ちの要素を持ち越したままでいる。
294 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 19:55:45 0
ヘーゲルの精神現象学も、原題は「Phanomenologie des Geistes」。
精神が現象構造であるという立脚は、構造的な思考が自我の根拠であるとするコギトにも依っているし、
自性の把捉が不可能であるとしたカントの主張にも即している。シャンカラに言わせれば、
そんなものは愚者の錯乱に過ぎないのであり、統覚機能が感覚的な把捉の対象とする
構造現象が「自性」や「精神」であるわけがないのであり、せいぜいそれは右脳が司る
感情的な意志である程度のもの。もちろん、意志を物自体と同一視したショーペンハウアーも
あまり高尚なことをしたとは言えず、西洋哲学はことごとくそのいずれもが、純粋精神アートマンの
把捉にまで到達できない範囲での、精神だと思い込んだ感情の分析に終始してしまっている。
『純粋理性批判』におけるカントのデカルト、プラトン、ライプニッツ批判は、立場は違うが
、理性の越権行為を禁じているという意味でシャンカラと同じ手続きを踏んでいる。
ただ、同じ批判が自己にも適用されるという部分がカントを近代的哲学にしている。
無論カントは西欧文明特有の二元論の欠点を抱え続けており、その点は指摘しなければならないが、
自己は世界外存在と考えた点は特筆されるべきだ。
297 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 20:48:02 0
>>295 そもそも、統覚機能が情報処理構造上に創造想像しようとする
概念(イデア)が理性であることからシャンカラは認めていない。
ならずならずの重畳、万事万物の現象的な構造を否定し尽くした先にある
認識主体たるアートマンこそは、自性であると共に理性の本源でもある。
理性が概念を本拠地としていることを論拠に、カントは理性を批判したが、
そもそも概念が理性であることから認めていないシャンカラの意見に基づくなら、
理性を概念に付与したプラトンがマッチであり、そういう意味での理性を
批判したカントがポンプであるだけの、無味乾燥としたマッチポンプ劇が
西洋において繰り広げられていただけにしかならない。
理性ではないことを根拠に概念論を否定したシャンカラと、
理性であることを根拠に概念論を批判したカントを同列に扱ってはいけない。
298 :
考える名無しさん:2010/10/28(木) 21:10:52 0
>>296 自己が世界外や宇宙外の存在であることを、シャンカラが認めたわけでもないのだ。
脳内の概念論などによって、真理(ブラフマン)とも同一であるアートマンが捉えられないように、
形而上に構造的な自己が存在する余地などもないのだから、構造的な自己を完全否定
し尽くした先にこそ、ブラフマンなるアートマン=理性でもある真我を見出している。
自性の把捉可能性を否定し、自性としての理性を批判したカントが、自己を世界外や
宇宙外の存在と捉えたのなら、それは、可能な限りでの上達に至らないままの自己を、
到達不可能な領域である形而上に仮託して、己れの至らなさを慰めただけであるといえる。
結局、西洋人のやっていることは、キリスト教を全廃でもしない限りは、
娼婦の私生児のカルト教義と同等であり続けるのである。
299 :
考える名無しさん:2010/11/04(木) 19:56:37 0
「認識主体と認識対象と認識――このすべては誤りである。なぜならそれは
君が誤って想定したものであるから。じつに認識対象は認識と異なっているとは考えられない」
(岩波文庫「ウパディーシャ・シャーハスリー」一・一九・九より)
あらためて、グノーシズム(認識主義)とイデア論(概念論)の完全否定の繰り返し。
認識が認識対象と異なっているような誤認がもてあそばれているからこそ、
実相からかけ離れた認識それ自体や不毛な概念などが偏重されたりするのである。
「真理そのものは言葉の語源解釈の領域にはない」
( 同 一・一九・二四より)
これはロゴス主義ないしロゴス信仰の否定になっている。
「そうではない、そうではない(ネーティネーティ)」によって真理が把捉されるとする
ウパニシャッド哲学から自明に導き出される、肯定的な言葉が真理そのもの足り得ることの否定。
ここで留意すべきなのは、シャンカラは「言葉で真理そのものが現せない」と言っているだけで、
「真理は捉えられない」などとは言ってはいない点。言葉のいじくりによって自性を把捉することが
不可能であったからといって、自性は捉えられないと断じたカントなどとは違って、言語を絶する領域に
おいてこそ真理そのもの、最高真理ブラフマンとも同一のものである真我アートマンが把捉されるとする。
300 :
考える名無しさん:2010/11/04(木) 20:28:39 0
「無眠状態のときの一切の苦しみは、覚醒によって止息するように、自分自身が苦しみを
受けているという観念は、内我はアートマンであるという観念によって、つねに〔止息〕する」
( 同 一・一八・一九一)
「無眠状態にある〔アートマン〕は、覚醒状態にある〔アートマン〕と異ならない」
( 同 一・一九・九)
眠っている時に見る卑劣な悪夢と、覚醒状態における「今あるがままに我こそは世界の帝王である」
というような現実把握とは、いずれもが内我アートマンからすれば虚妄に過ぎない。だから、現実における
尊大な誇らしさと共に、夢眠状態における苦しみまでもが両成敗されて、無苦無楽の解脱に至るということ。
荘子の「胡蝶の夢」にも類似する、覚醒と無眠両状態における虚妄の両成敗。
やはり、シャンカラのヴェーダーンタ学派を主流とするヒンズー教も、道家や神道と同じ天道に
属するものであると確認できる。しかも、中国の天道である道家の老荘列の論及などよりも遥かに
細密で、天道を含む六道全体を俯瞰する超越教学・仏教ともタメを張る哲学勝負に挑んでいる。
実際のところ、やはり仏教のほうがさらに細密で、「真理そのものは言語を絶する」といいながら、
文章化された天啓聖典ヴェーダ・ウパニシャッドの権威を主張したり、「オーム」という言葉の響きに真理性を
付与しようとしたりしている。仏教でも「阿吽」としてオームが貴ばれたりはしているが、二人の金剛力士に
「あ(阿)」と「ん(吽)」を発音する口元をさせたりと、不二一元論をも揶揄するようなもてあそびの範囲に止めている。
根無し草教学だからこそ、真理把捉が透徹している仏教と、オームとかブラフマンとかアートマンとかいった
言語的な荘厳によって、比較的真理把捉が疎かになっているバラモン・ヒンズー教と。仏教のほうが実は優位である
にしたって、全インド人が帰依するだけの方便の物量を稼ぐには、ヒンズー教ぐらいの濁りも必要ではなかったか。
×無眠状態
○夢眠状態
比喩も誇張も抜きにして、本当に、男が女を超えた。
漢が、妓を、超えた。
303 :
考える名無しさん:2010/11/26(金) 17:00:16 0
ここのスレ主は、無駄な事を書いてる暇があるなら、翻訳でもいいから
春秋社からでてる原始仏典を全読してからにしようか
大乗に染まってしまって終えてるなら無理かもしれないが
それよりも自首するといいよ。
305 :
あめのみやつこ:2010/11/26(金) 19:45:29 O
クンダリーニ
全読はしてなくても、主要な原始仏典の翻訳ぐらいは読み通してんよ。
お釈迦さまが自分の舌で、自分の鼻の穴をほじられていたな。
蓮如の寺の、阿弥陀如来像を枕に昼寝する一休和尚。
上座部教徒は悪いことしない。
307 :
考える名無しさん:2010/11/27(土) 10:07:31 0
「舜の深山の中に居るや、木石とともに居り、鹿豕とともに遊ぶ。その深山の野人に異なる所以のものはほとんどまれなるも、
その一善言を聞き一善行を見るに及びては、江河をきりひらいて沛然たるがごとく、これをよくとどむるもの莫きなり」
(「孟子」尽心章句上・一六)
善くも悪しくも、東洋には虚罪を非難する志向が全く希薄だ。
他者に危害を及ぼしはしないものの、精神衛生上不快とされるような行いや思いが、
「原罪」などという名で罪に指定されることがあるが、中国人はこのような虚罪を全く否定せず、
むしろ擁護の対象とし、インド人はそれなりに否定の対象とするが、あくまで強盗殺人のような
実罪のほうを厳禁した上で、さらに余裕がある場合にのみ、虚罪の禁止なども目指すようになる。
釈迦や達磨や一休など、王家の子息である名僧が仏教には伝統的に多く、
やることは乞食並みの賤業でありながら、人としての栄枯盛衰を全体的に征服する意図をも帯びている。
ある程度の権力者や金持ちこそはやり口も知っているような、重大な権力犯罪や金融犯罪ですらも、
頂点から底辺まで、あらゆる社会的身分を俯瞰する仏法の埒外であるなどということはない。
金剛にして、不壊なるもの。
鏡映認知障害を十分に排せたなら、
ホモとかオカマとか、あり得ないことが分かる。
男はどうあっても、女とやりたいから。
もはや性欲に基づいてやりたいのではないんだ。
性欲よりもより高潔な欲求に即してやりたいわけだ。
全く性愛でないわけではないが、必ずしも性愛ではなく、
それでいて単なる性愛よりもさらに上にあるのが純愛だ。
ううむ。
高家ちゅな・・というのは、すこし違う気がするな。第一、それは
他人にたいして使用する言葉だと思いますな。。。
まあ、そういう記述とも取れますが。
313 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 05:10:34 0
>>188 >学校や会社ではこれまた知能検査をやり
中学時代、結構一生懸命やった(多分、設問によってはパーフェクトもアリ)のに結果教えてくれなかったよ。
何のためにやったのか。結果を教えてくれないのなら、生徒のためではないと思った。
ちなみに最近また知能検査をうけたんだが、そしたら「高すぎる。」って言われた。
いやはや、高いときぐらいは教えて欲しいわ。青春かえせって感じ。
314 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 07:24:39 0
この世には、知らないよりも知っておいたほうがいい優良な知識と、
知るよりも知らないでいたほうがいい劣悪な知識との両方がある。
東洋教学の大半は知らないよりも知っておいたほうがいい優良な知識ばかりだが、
ネット上を含めた、昨今の巷に溢れ返っている情報の大半は
知るよりも知らないでおいたほうがいい劣悪な知識ばかりになっている。
それでは、それら全ての知識を取り入れることはどうだろうか。
結局、人間が一生のうちに取り入れられる知識の総量は限られているので、
第一には、取り入れる知識の配分が問題となる。優良な知識の分量が劣悪な知識の分量を上回っていれば、
何も知らないよりも優良な総合的知識であるといえるし、劣悪な知識の分量が優良な知識の分量を
上回っていれば、何も知らないでいるよりも劣悪な総合的知識であるといえる。
東洋教学のような優良な知識の構造量は、所詮は同じような洗脳情報の反復に過ぎない
劣悪な知識の構造量よりも遥かに多いので、もっぱらな劣悪知識の禁断などに努めずとも、
優良な知識の享受を恒常的に上回らせていくことができる。
劣悪な知識の享受ばかりにこそもっぱらであるために、
優良な知識の享受を撥ね付けてしまうほどもの重度洗脳下でもない限りは、
人間は自然な生活の中での、総合的な知識の取り入れを通じて、
何も知らない状態以上に退化することなく成長していくことができるようになっている。
315 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 07:46:43 0
人里離れた寺にこもって、肉一切れや酒一杯も口にしない
精進にでも勤めなければ、俗世の濁悪を乗り越えられないなどという
思い込み自体が、東洋教学の度量の広さへの見くびりともなっている。
万巻の教義資料を具備し、世界でも最も厳格かつ細密な戒律を擁する
本格仏教などにまで依らずとも、権力活動や肉食妻帯を認める
儒学や浄土教だけに依ったって、全ての俗悪さを超克することはでき、
濁世を浄化して後の封禅においてこそ、本格仏教などの真価も問われていく。
あまり高級ではないながらも、汎用性に秀でた簡易的な東洋教学である
儒学や浄土教が見くびられるのは、儒学の場合は、黄色人種である
中国人が興した非宗教的学問であるところが大きいし、浄土教の場合は、
仏教のくせして戒律がない生臭さ加減によるところが大きい。
黄色人種こそは最も高い平均知能を持つ人種であり、
敬虔を決め込んでいる宗教の中にもひどいカルトがあるのが
すでに察知されているのだから、すでに無効化された根拠に即して
儒学や浄土教が未だ見くびられ続けているのだとわきまえねばならない。
>>313 生徒指導などのために一応知能診断はしておくが、
診断結果の高低による差別やいじめを防ぐために
生徒たち自身への結果通知は控えていたのだろう。
極端に結果の悪かった生徒などに対しては、後々に
隠し隠しでの特殊な進路指導なども行なわれていただろう。
IQが高いからといって性格がいいとも限らなければ、
低いからといって性格が悪いとも限らない。
ダウン症患者の大部分は中軽度の知的障害を帯びているが、
その性格は明るい場合が多い。性格の良し悪しなどの
査定が以前「EQ」などとして取り沙汰されてもいたが、
人間の性格の良し悪しは、IQからだけでも察知できる。
IQが高いにしろ低いにしろ、一定のIQを保てる人間は性格がよく、
一定のIQを保てず、場合によって極端にIQの変動する人間は性格が悪い。
罪を罪とも思わないサイコパス患者などの人格障害者は、
正しいことと間違っていることの識別はできるのに、正しいことの価値と
間違っていることの無価値とをわきまえることはできなかったりする。
物事の理解に極端なバラつきがあるのは、知能が一定以上の高さを
保てていない証拠であり、人格障害とはすなわち、知能的な不安定の
ことを意味する。知能が一定の安定性を保てない原因には、
やはり精神的な理由があり、精神の病を治療していくことによって、
知能の側の不安定さも是正されていくことが期待される。
317 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 09:37:04 0
手前みそな話の振りになるが、東洋教学こそは、
一定以上の知能の高さの安定を育む学問宗教であり、
中でも儒学や浄土教などの初歩教学は、人としての最低限の知能、
IQ90〜100程度を堅持することを目的としており、儒学や浄土教を理解
できないかどうかが、人格障害であるかないかのボーダーラインともなっている。
洋学は、瞬間的なIQが180や200ともなるような難問を解いたりするが、
肝心の知能の安定さは全く育まず、瞬間的な知能の高さばかりを競うあまりに、
知能の安定性の確保がより疎かとなって、多数の人格障害者を輩出することともなってしまった。
聖書信仰の場合はさらにひどく、キリストの偶像を見ただけで自分自身の罪までもが償われた
気になる「鏡映認知障害」を煽り、鏡映認知能力を持ち、IQ40〜50に相当するチンパンジーよりも
さらに低い知能、IQ20〜35の重度知的障害レベルの低能への知能退行を信者たちに強制してきた。
古代ギリシャ・ローマを発祥とする洋学と、古代イスラエル・ローマを発祥とする聖書信仰と、
歴史の古さはどちらもどっこいどっこいで、漢学やインド宗教に数百年後れを取る程度だが、
いずれも知能の不安定さによる人格障害を深刻化させる点では共通しており、そのような
人格障害の排除や防止にこそ勤める東洋教学とは、そこが決定的に異なっている。
318 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 09:56:12 0
白痴も同然の低能と、人格障害でもある天才と、どちらともがいらない。
最低限の知能は保てている常人と、高知能を保ち続けられる天才や秀才だけがいればいい。
空海や道元のような天才的常人のほうが五十代や六十代で亡くなり、
(もちろん空海は密教的な解釈に基づけば今でも生きていることになっている)
法然や親鸞のような凡才秀才レベルの常人のほうが八十九十まで長生きしているあたり、
あまりにも高い知能を保ち続けることも、あまり身体にはよくないようなので、
人として最低限の知能の安定を保つぐらいが、確かに一番健全であるようだ。
319 :
トーヘンボク:2010/12/19(日) 12:43:47 0
儒学や浄土教は、何と比較して「見縊られている」のか、もう少し
お聞かせください。
浄土教や、法然を研究したり、平気物語を研究したりすれば、いいと
おもいますが、
儒学の場合は、まず、なにから取り掛かるべきなのか。。。
江戸時代に、林羅山をはじめて、多くの儒者がいたと思いますが
そのうちのどれが重要なのでしょうか。また、儒学とおっしゃった
場合、朱子学も含めますか?
320 :
トーヘンボク:2010/12/19(日) 13:07:30 0
わからないなあ。儒学はともかく、浄土教は「無学の者でも救われる」
というのが、売りであり、広範な大衆、農民層を確保したんじゃないの?
そもそも、なぜ、知能指数にこだわっいるのかわかりませんね。
親鸞が「悪人正機」と言った場合、その悪人には、多く、
無学の者を指しているはず。その無学の者が、念仏を称えること
によって、知能指数が向上するとでも言うのだろうか?
知能指数と浄土教に直接の関係はない、と思う。
ここでは鸚鵡(おうむ)だの、牛だの、猿などといったものもまた神の化身であるが、
それかといって、それらは別にその存在以上のものに高められているわけではない。
神的なものは主観に、すなわち具体的な精神に個体化されるのではなくて、
むしろ卑俗な物、無意味なものに引き下げられているのである。
以上がインド人の世界観の概要である。
要するに、ここでは人間が確固とした自由な自立性、人格、自由をもたないと同様に、
事物もまた合理性をもたず、原因結果の有限的な関連性をもたないのである。
「歴史哲学」ヘーゲル著、武市健人訳
いいかえると皇帝の前では、すべての人は一様に人間扱いをされないのだから、
もとより奴隷と自由民との区別は大したものではない。
また、そこには名誉心というものもなく、何人も他人と比べて特別な権利をもつというわけでもないから
自然に卑屈の感情が一般を支配することになり、それはまたやがて自暴自棄の意識に移っていく。
シナ人の甚だしい不道徳は、この自暴自棄と関係しているのである。
彼らは機会ある毎に人を騙すので有名である。(中略)
この道徳的な自暴自棄の意識は無を最高のもの、絶対と見、神と見て、個人の蔑視を悟りの極致とする
仏(Fo)の宗教が、あんなに広まっていることによってもわかる。(中略)
以上が、いろいろの点から見たシナ民族の性格である。
この民族の特徴は、彼らが凡そ精神に属する事柄に、すなわち自由な人倫とか、道徳とか、心情とか、
内的な宗教とか、学問とか、また正統的な芸術などに欠けている点にある。
「歴史哲学」ヘーゲル著、武市健人訳
「歴史哲学」からの引用ですみませんが、
>>321-322のように
ヘーゲルがインドとシナに暴言を吐いていますが、
そんなヘーゲル氏をどう思われますか。
このスレにおいては、答えを聞くまでもないでしょうか。
324 :
トーヘンボク:2010/12/19(日) 15:20:48 0
私には、ただの分析にしか、みえないのですが、どの辺が
暴言ですか? あのころ、まだ、シナやインドについての
詳しい情報を、ヘーゲルが有しているとは思えず、非常に
限定された知識によっての総括であるので、今の眼から、
みれば多々大雑把な点はあるにせよ、ヘーゲルなりの分析
を行なっているだけであり、別に暴言を吐いている、とは
感じられませんね。あなたのカン違いではありませんか?
トーヘンボクは辺り構わず目に入ったスレにマーキングしていく荒らしの犬だよ。
>>324 分析だから暴言ではない、と来ましたか。
多分、情報がなかったので
ヘーゲルはシナ哲学とインド哲学を舐めていたんだろうな。
327 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 18:24:17 0
>>319 今の一般的な大学で儒学を学ぶとすれば、
「○○大学文学部中国哲学科」とかで、中国哲学の一つとしての孔孟や朱子の学をかじったりするのみ。
しかもあくまで「文学部」だから、その内容の実践に勤めたりはせず、ただ文献学的な嗜好の対象とするのみ。
中国の伝統的な典籍分類の「経史子集」、経書と史書と諸子百家と文学集、このうちで、儒者が主な研究の
対象とするのは経書と史書であり、異端の哲学である諸子百家や、実践の伴わない単なる嗜好品である文学集などは
あくまで副次的な勉強の対象とされる。にもかかわらず、儒者の主な研究対象である経書と史書の勉強が、
文学部という学部における、総合的な中国哲学科での、いち嗜好材料にまでうずもれてしまっている。
まったく本末を転倒した学業体制に今の学校制度がなっており、少しも本格的な儒学の勉強などを支援してくれはしない。
もしも、大学が儒学を本格的な勉強対象とするのであれば、ちゃんと「儒学部」を設置して、その中に「経学科」や「史学科」、
ついでに「諸子百科」や「文集科」などを設置するべきなのであり、しかもどの学科においても経書や史書の一通りの勉強は
必修のものとする。さらに、儒学部を設置した大学における文学部や哲学科、歴史学部などは廃止して、中国以外の歴史や哲学、
文学などの研究は、儒学部史学科や儒学部諸子百科、儒学部文集科などにおける勉強材料の一つとするようにする。
そもそも「大学」という言葉からして、四書の一書である「大学」から引かれたもの。
大学に儒学部が設置されるのはおろか、儒学を根本に据えた大学機構が構築されたとしても全くおかしくなく、
そのような大学が近代以降に一つも構想すらされたことがないことのほうがおかしい。明治天皇も儒学を主体とした
学業制度の設置を望んでおられたのに、森有礼などの逆命害君によって洋学が主要な学問対象とされた上、
西洋の学業制度すらもが輸入されて、経史子集の序列も転覆した、根本から間違った体制で一律されている。
近代以降に、未だ一度も儒学を主体とした大学の設置が試みられたことすらないのは、今の大学の学業制度全般が、
儒学に即した学業制度からあまりにもかけ離れたところで凝り固まってしまっているからであろうことがうかがえる。
328 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 18:38:43 0
>>320 浄土教が、知能を向上させるのではない。
一定以下には退行しないようにしてくれるだけだ。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の悪人正機などが、
自然と仏性の位相にも即していることから、ただそれを信じているだけで、
一定以上の知能が常に確保されて、悪業を楽しむような低能な蒙昧が排除される。
浄土教の念仏が施してくれるのはそこまでであり、それだけでも、
重度知的障害レベルまでの知能退行を原因とした破滅などから人々を救う上では十分であり、
ただ破滅しない程度の最低限の安全性が確保されたところから、さらに優良な
自己や社会を目指していくというのなら、当然、浄土教以上の選択肢が広がっている。
浄土教以上である教学のうちで、最も最低限に当たるのが儒学であり、
自力仏教のような出家行などに及ぶまでもない、俗世での善行を推し進めていく上での
基本的な要項が凝縮されている。もちろん儒学以上である教学もまたごまんとあるために、
それらに進学していくことも認められるわけだが、一方で、儒学以下である学問宗教だって
いくらでもあるために(洋学や聖書教など)、あくまで基本中の基本である
儒学の修習を堅持し続けることにもそれなりの意義がある。
329 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 19:22:55 0
>>321-322 まともに相手をしてやるのもイヤになるほどの、暴言の塊だな。
元よりヘーゲルは「インド哲学には体系構築が存在しない」とかの
完 璧 な 事 実 誤 認 に即して好き勝手な物言いをしているだけなので、
(インド哲学の体系構築は文面上ではなく実践上にこそ存在する)
まともに相手をしてやる価値が本当になかったりもするわけだが、
おそらくはヘーゲルもまた、人格障害者の一人でもあったのだろうから、
なるべく邪険な扱いを避けて、丁寧な応答に勤めることにしよう。
330 :
考える名無しさん:2010/12/19(日) 19:23:36 0
>>321への応答:
インド人が、神的なものが俗世の卑俗さによって引き下げられているなどと主張した事実は一切なく、
最高真理ブラフマンとも同一のものである真我アートマンが、いかなる俗悪にも濁されることのない
清浄無垢なる存在であることがバラモン・ヒンズー教において主張されているし、そのヒンズー教の説に
反意を唱え、神性全般を否定して、挙句には虚無すらも否定し、絶無すらも否定した先にある空相の
不虚さを唱えた仏教もまた、不虚にして真実なる空相が不浄でありながら不垢でもあることをも認めており、
空相が俗世の濁悪さに引き下げられるものであることなどを認めてはいない。神的なものであるにしろ
空であるにしろ、インド人が、自分たちが最高真理であると認めたものが、俗世の濁悪さによって
引き下げられているなどと主張したことは、少なくとも正統なインド哲学の範囲においては一切なく、
神が俗世の濁悪さに引き下げられて、挙句には刑死すらさせられたのもキリストでこそある。
(この応答は>322の仏教に関するヘーゲルの意見への応答も兼ねている)
>>322への応答:
返しも曲がりもない釣り針を水面上に垂らしながら、招聘に来た文王を待たせ続けた太公望、
漢室の末裔である劉備玄徳が自宅に訪問しながらも、昼寝をし続けて劉備を待たせた諸葛孔明。
有能さを期待された重臣などが、皇帝や王侯に対して、師父も同等の振舞いを行なった例は中国史上に数多く、
しかもそのような親密な君臣関係が、中国では伝統的に持てはやされて来てもいる。絶対的な存在である
主への絶対服従を強制する、聖書信仰の傾向などをそのまま中国にも当てはめたから、本物の中国文化には
全く関係しないような、主人と奴隷の絶対非可換関係などが中国文化にまで“適用”された物言いになっている。
ヘーゲルはただ、自分たち西洋人の短所をインド人や中国人に当てはめようとしただけだ。
自分たちの姿こそを、さも他人事のようにひけらかす、鏡映認知障害者に典型的な症例だ。
ギリシャ、ローマ、フランス、イギリス、ロシア、そしてアメリカ・・・
色仕掛けでお茶を濁そうとしている派閥ほど、後々の救いようがないわけだが、
さりとて色仕掛けの道具にされている彼女が、決して可愛くないわけでもない。
未だ困窮していた頃の、高祖劉邦に見合わされて正妻となった高后呂稚のように、
死ぬまで幸せな人生が送れることだろう。その後はあえて言わないが。
>>327 経書と史書と、簡単におっしゃられても、こちらは素人なんでその点を
忘れてもらっては、啓蒙にならないんです。経書、史書とおっしゃるのは、
具体的には何を指しますか?
岩波文庫などで、手にはいるものはありませんか?それと、なにか良い、
そしてなるべくなら廉価の入門書をご存知でしたら、紹介してください。
わたしが持っているのは、島田虔次先生の「朱子学と陽明学」という本、
一冊です。。。
>>328 やはり、知能という言葉は使われないほうが良いと思いますが。
知能と悪行とのあいだに相関関係はなく、むしろ知能の高い人間こそが
悪行に染まりやすいとさえ言えるのではないでしょうか。
・・それが言いすぎであるにしても、わたしには知能と悪行のあいだに
相関関係がある・・という説には賛成しがたいですね。
もちろん、弁証法的に知能の高い、罪業の深い人間こそが、真の阿弥陀
信仰に至るであろう・・というのが、親鸞上人の「悪人正機説」だと
思いますが、328さんの言い方には、弁証法が欠如していて、まるで
予防医学的な言い回しをされているのが、非常に気になります。。。
333 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 10:30:37 0
>>332 素人なのも本当だろうけども、素人であることを開き直るようなら、
いつまでも素人のままだから、あまりその部分をひけらかさないようにな。
経書・・・十三経、四書五経などの儒家における最重要経典。「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書は入門書としても最適。
史書・・・「史記」「漢書」「後漢書」などの正史(正統な歴史書)。日本人なら「古事記」や六国史、三鏡や「延喜式」などもここに入る。
これらは、辞書やネットなどで「経書」や「史書」、「経史子集」などの言葉を調べれば
すぐに分かることだ。せっかくネットで話してんだから、これぐらいのことは自分でも調べてくれ。
334 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 10:44:08 0
悪人は、悪人であるだけに、善悪の“識別”は付く。
何が善で何が悪であり、何をすれば悪人になるのかも分かるから、
悪行を特定して為すことで悪人になる。これは、「善悪の識別」という、
一定の知能を備えた人間にのみできることであり、脳機能からの
欠陥持ちである知的障害者などには、まずできないことだ。
一方で、悪人には、善悪の“分別”は付かない。
善いことはなぜ善いことであり、悪いことはなぜ悪いことなのかという
善悪の価値の違いをわきまえることはできないから、糞尿を喰らうほどにも
下品下生な行いである悪行にも手を染める。これは、「善悪の分別」という、
これまた一定の知能によってのみ可能となる理解がないからであり、
四書程度の経書理解が可能な常人であれば、決してこのようなことにはならない。
四書に書いてあることは、本当に簡単なことばかりで、IQが100もあれば
十分に理解できることばかりなわけだが、やはり悪人には理解できない。
善悪を識別する知能は備えているのに、善悪を分別する知能は備えていない悪人。
重度の知的障害者もまた、善悪の分別は付かないだろうが、悪人には
善悪の分別は付かない一方で、善悪の識別は付く。善悪の識別にかけては
天才的でもあったりするのに、善悪の分別に関しては重度知的障害も
同然の低能である。IQが150や180の天才秀才並みになることもあれば、
20や30の白痴並みに陥ることもある。場合によって知能が極端に乱高下する
ことを原因として、悪人は善悪を識別した上での悪行を専らに行なうようになる。
>>334 >悪人は善悪を識別した上での悪行を専らに行なうようになる。
サドの「悪徳の栄え」みたいなものでしょうか。
336 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 11:02:14 0
知能が極端に乱高下する原因は、確かに知能自体にあるのではなく、
精神の側の障害が原因となってこそ引き起こされる。ただ、精神の障害を原因とした
サイコパスのような悪念は、確かに知能にも特殊な影響をおよぼすのであり、
それが、善悪の識別は付いても分別は付かないような知能の乱高下に当たる。
重ねて言うが、阿弥陀信仰が信者の知能を向上させたりすることはない。
ただ、健常な脳機能の持ち主である人間であれば、当然そうであることのできる
IQ90〜100程度の凡才よりも、さらに低い知能へと信者が陥ることを防いでくれるだけで、
それにより、最低限の善悪の分別を堅持させてくれるのみ。別に知能をそれ以上にも向上させてくれる
わけではないから、人並みの善悪識別能力が、それ以上に高まったりすることもない。
ただ、善悪の識別に関して天才的であろうとも、善悪の分別に関しては知的障害も同然であり、
善悪の価値の違いもまったく分からないために、専らな悪行を為したりするようなことが阿弥陀信仰
によって排され、善悪の識別力の高低はともかくとして、善悪の価値の違いにだけは気づかせる。
「罪業の深い悪人こそは阿弥陀信仰に至る」というのは、悪人正機ではなく善人正機だ。
むしろ、善悪の識別はできても分別は付かないような極悪人こそは、もっとも阿弥陀信仰に
至りにくい人種であり、一切衆生が阿弥陀様によって救われるのだとしても、最後の最後まで
信仰に至らないために苦しみ続ける人間である、だからこそ、無量の慈悲を抱かれている
阿弥陀様にとっては、罪悪極重の大悪人こそは、自らによる救済行為の主正の根機となる。
ちょっとやそっとで帰依には至らず、そのせいで最後まで苦しみ続ける、だからこそ阿弥陀様に
とっては救済の仕上げの対象ともなる。そんなに特別な存在であることが、特筆すべきだということだ。
337 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 11:55:06 0
マルチ投稿はルール違反だろ
マジ通報すんぞ
どっちかにしろ
338 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 12:28:39 0
339 :
考える名無しさん:2010/12/20(月) 12:54:38 0
>>335 SMは確かに、善悪の識別はできても分別は付かない状態に陥る過程を象徴化してはいる。
ただ、SM自体はあくまで単なる特殊性癖なので、歌舞伎町の奥底あたりでこっそりやってるだけなら
別にかまいやしない。問題は、SMも同然な性癖を本物の権力犯罪加害被害にも適用することで、
それにより人々は、社会総出を挙げての地獄道や餓鬼道、畜生道などへとも陥っていく。
>>338 善悪を識別することと分別することとは全くの別個ではなく、単なる識別に味わいを加味することが分別となる。
悪人とて善を美味、悪を不味であるとは識別しているわけだが、そこから善悪を積極的に味わう所には進まない。
ただ、善悪を識別する所までで理解が停止し、善悪を味わっていくことにはもはや頭が回らない。
識別と分別、両方ともが可能であってこそ、常時人並みの知能を具備した健全な知能だといえるが、
識別にかけては高い知能を擁するくせに、分別にかけては知的障害も同然の低い知能に止まる。
そのような思考回路を、一種の知的障害や脳機能障害として扱うこともできなくはないが、
善悪を識別できる以上は、その人間には善悪を味わう能力も必ず具わっている。にもかかわらず、
カルト教学などに基づく精神薄弱やサイコパスによって、善悪を識別しても分別しない異常な思考回路が
人工的に生成されているだけであり、それはわざわざ外科的な治療によらずとも、四書の勉強などの真っ当な
学習治療によって十分に完治が可能なものなので、脳みその器質障害として深刻に扱ったりする必要はない。
あくまで精神障害が悪人にとっての致命的な障害であり、脳機能の異常は本末の内の末に過ぎない。
精神の在り処は必ずしも脳みそではなく、
丹田や心臓のほうにこそ普遍的な精神もあるので、脳みその治療に全てを還元しようとしても、
大火事の末節を処理しながら火元をそのままにしておくようなことになってしまう。
善悪を識別する能力は、知能ではない。
ほんとうに、知能という言葉を使う真意が理解できないね。
知能という言葉は、仏典とは無縁だと思うね。
IQとか、仏典に関係あるわけないだろ。
トーヘンボクは知能が低いけど、自分では知能が高いと思っている。巷でよく見かけるタイプ。
ふん。
知能が高いと思ってないね。私が、そう思っている事を証明してみろ。
精神を知能に投影した結果、知能がどうであるかというだけの話だ。
知能という末節の根本である精神自身に関する論及とは必ずしも相容れない話だ。
近現代社会において、最善である女ですら、知能を司る精神の把捉には至っていない。
それは、俺自身の母親がそのようであるからこそ分かることでもあるが、
男のほうができる限りの最善を尽くした結果、知能を司る精神を把捉してしまうことが
不可能である根拠にはなっていない上に、知能全般を司る純粋精神の把捉者である男が、
もはやどうしようもない女に、知能を司る精神の根本基準を教えてあげることが
不可能であることの根拠にもなっていない。俺の父親がそのようであるから。
346 :
トーヘンボク:2010/12/21(火) 01:35:59 0
はあ?
347 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 13:16:53 0
臨床的な観点からいえば、重度の精神障害者は治癒の手前に、必ず自殺級の鬱を経験する。
ちょうど麻薬中毒者の禁断症状のようなもので、
俗に「お花畑」と言われるような、異常かつ陶酔的な思考回路に慣れきっていたのが、
現実の把握に引き戻されることで、極端な精神的苦痛を抱くようになる。
それは、確かに自殺すらもしてしまいかねないような激烈な苦痛であり、
危険物を取り払った閉鎖病棟などに監禁されていないことには、本当に自殺にも及びかねない。
しかもそのような禁断症状は、適切な治療を受けることで、
現実をわきまえる精神状態に順応しきるまで、いつまでも続く。
ちゃんと治療を受ければ数年程度で快癒できるが、治療を受けなければ一生続く。
それが恐ろしいから、精神障害者は、自分の志向がほんの少しでも治癒に向かうことすら拒絶する。
「極重の苦痛の中で死ぬぐらいなら、今のお花畑のままで死にたい」と思うからなわけだが、
お花畑状態での性懲りもない犯罪行為が、世の中を地獄餓鬼畜生の三悪道に陥れる
元凶ともなっているのだし、ちゃんと治療を受けさえすれば、現実を把握する健全な精神でいて、
しかも躁鬱の苦痛すら伴わないすがすがしい心境で暮らせるようになるのだから、逃げてはいけない。
まずはとにかく、東洋教学享受の量を稼ぐ。
各種仏典や歴史小説などの、東洋教学に根ざした文献を、
まだ意味がよく分からなくてもいいから大量に読み込んで、享受する情報量を稼ぐ。
享受した情報量が、今までに服毒してきた洋学や聖書信仰などの劣悪情報の
分量を上回ったあたりからやっと、快癒が可能な精神構造が確立される。
そこから四書五経や念仏などの、比較的理解がしやすい東洋教学の完全理解を試みる。
量は稼いでも、まだ東洋教学への十分な理解が追いついていなかったところを、
今度は初歩中の初歩からの徹底理解に移る。浄土教の悪人正機だけでも完全に理解
できれば、その時点で当人の精神障害は、治療時の禁断症状も含めて完全に快癒する。
ただ享受量を稼ぐだけでも完治はしないし、四書五経や念仏だけを修習しても、
今までに享受していた劣悪情報があまりにも多いのでは、その理解も覚束ない。
完全理解という質、情報享受という量、両者を達成することで精神障害も完治する。
精神障害が完治したところから、さらに上を目指すというのなら、
治療中には乱読しているだけだった東洋教学の専門書のちゃんとした理解や、
単なる文献理解に止まらない実践を目指していったってかまわない。
ただ、それはもう精神障害の治療ではなく、より健全かつ偉大な精神を持つ
聖人や賢人を目指す行であるからして、奨励はしても強制したりするもんじゃない。
ただ精神障害の予防に勤めるというだけなら、四書五経や念仏のような
最初等の東洋教学の理解だけに努めていればよく、それ以上を目指すのはもはや、
精神病予防の範疇すらも超えた積極的な聖行となり、あえて行なう山登りとなる。
「急性期」の一番辛い時期の鬱には、禅がかなりの効能を発揮するようだ。
何でも知っている、何でも分かるはずなのにまだ不満が募る、
万能感と精神的渇望とが両立した状態であることにより、もはやどこにも救いようが
ないような気がして、自殺衝動にもかられてしまうために、禅語の意味不明さが
「まだ知らないことがある」「まだ分からないことがある」という未知への希望に結びついて好ましい。
精神障害者だからといって禅語が分かるわけじゃないが、その不可思議さこそが、
まだ分からないことによって渇望が払拭される可能性を察知させてくれる。
(そしてそれは実際、本当でもある)
もちろん、禅語の意味不明さばかりで精神障害が完治できるわけでもなく、
禅によって急性期の最悪の苦しみが抑えられ、自殺衝動も多少は控えられるものの、
やはり少なからずの精神的苦痛を伴う「慢性期」に鬱が移行する。そこからもとにかく
東洋教学の物量的な摂取に努め続け、東洋教学の摂取量が、洋学や聖書教などの
劣悪情報の摂取量を上回るところまで頑張る。東洋教学1:劣悪情報1ぐらいで
やっと快癒の可能性が生まれてくるが、東洋教学3:劣悪情報2ぐらいの配分に
なるまでは必ず摂取を続けるべきであり、東洋教学4:劣悪情報1ぐらいの配分に
最終的になることが理想。4:1ぐらいにまでなれば、どんな人間でも快癒できる。
352 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 18:34:53 0
東洋教学を中心とした大学機構の例:
・儒学部(儒学の経史子集の主な研究)
・経学科(経書を主に研究)
・史学科(史書を主に研究)
・諸子百科(諸子百家を主に研究)
・文集科(詩文集を主に研究)
・仏学部(仏教の主な研究)
・密教学科(密教を主に研究)
・法華学科(法華を主に研究)
・禅学科(禅を主に研究)
・浄土学科(浄土を主に研究)
・インド学部(仏教以外のインド学の主な研究)
・ヴェーダ学科(ヒンズー教のヴェーダを主に研究)
・ウパニシャッド学科(ヒンズー教のウパニシャッドを主に研究)
・沙門学科(仏教以外の沙門宗教を主に研究)
・中東学部(中東学の主な研究)
・イスラム神学科(イスラム神学を主に研究)
・イスラム法学科(イスラム法学を主に研究)
・イスラム経済学科(イスラム経済学を主に研究)
・拝火教学科(拝火教を主に研究)
・雑学部(上記以外の主な研究)
・異端再利用学科(洋学の再利用を主に研究)
・異端警察学科(聖書教の再発防止策を主に研究)
353 :
考える名無しさん:2010/12/21(火) 18:47:27 0
儒学がやはり学門の第一であり、宗教性を少なからず伴っている
仏教やヒンズー教、イスラム教などは、学問としては副次的な研究対象となる。
たとえば「仏学部禅学科」に入ったからといって、即座に出家して座禅修行を積むのではなく、
禅学に関する一通りの勉強をするだけで、実践を伴う行はあくまで寺に入って行なう。
宗教信仰ではなく、あくまで学問対象として各種宗教も勉強するのであって、
宗教として信仰することは、大学の範囲外での各個人の勤めとなる。
雑学部で、いま大学での主な研究対象となっている学問のほぼ全てを研究するわけだが、
異端の学をそのまま模範的な研究対象とする「異端学科」は一切設置しない。
「異端を攻むるはこれ害あるのみ(為政第二・一六)」であるため、
あくまで無害化しての再利用目的や、カルト信仰の蔓延の再発を
防止するための警察目的などのためにのみ研究対象とする。
上記のような機構に即した大学を、別に新設したりする必要はない。
今方々に山ほどある大学を全て、上記のような機構に刷新改善すればいいだけ。
上記のような機構を持つ大学に入るために、小中高で学ぶ教材なども当然変わってくる。
354 :
トーヘンボク:2010/12/22(水) 01:10:14 0
確かに、東洋教学というのは、自分の弱点でもあり、魅力的です。
しかしながら、東洋教学に惚れ込むあまり、西洋の蓄積を馬鹿にする・・
という態度は、到底、頂けませんな。・・・東洋も西洋に劣らず、偉大
である。。。でいいではありませんか。西洋の実力を無視することなど
不可能です。東洋と西洋が互角に渡り合ってこそ、面白い社会と歴史が
開ける。。と思いますね。
反動は、いけませんよ。。。
355 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 10:42:40 0
反動もなにも、東洋と西洋を互角のものとして扱うことのほうが、
実際の地球社会の勢力均衡にも即していないからな。
中国一つ、インド一つや中東一つだけで、
全欧米並みかそれ以上もの文化的構築を果たしてきているため、
中国1:インド1:中東1:欧米1程度の知識量の配分であることが、
地球社会に生きる人間としての最も適正な知識配分ともなる。
地球上の8割以上の資源を独占しての、欧米社会の物質的な繁栄は、
あくまで他国からの重権力犯罪による利権の強奪によってのみ
成り立っているものであるため、到底欧米自身に自得の実力である
などとはいえず、早急な資源配分の是正によって、犯罪集団の
虚栄を取り止めさせようと考えるのが、これまた適正な考え方でもある。
356 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 11:08:13 0
たとえば、俺の父方の婆さんは、生粋の百姓の血筋で、
考え方から言うことから行いから、何もかもが野暮ったい。
常に自分を基準にしてしかものを考えられず、自分が砂糖菓子や柑橘類が
好きだからといって、大量に砂糖菓子や柑橘類を買い込み、
頼んでも、いるかどうか聞かれてもいないのに、「開封後はお早めにお召し上がりください」の
生ものなどを開封した上で大量にすすめてくる。「頼むからいるかどうか先に聞いてくれ」
と言っても、やっぱり相手に聞きもせずに、自分の好きな食べ物だけを大量にすすめてくる。
そして朝昼晩の飯も、小食なのが分かりきっている爺さんに対して、毎日過剰に盛り立てる。
もちろんそんなに食えないから、爺さんは自分の席に常に保存用のラップを用意している。
冷蔵庫は爺さんの食べ残しの皿だらけとなり、やもすればカビが生えて食えなくなる。
そしてそれを婆さんは「腹が立つ」という。自分が小食の爺さんに対して料理を盛りすぎ
だから残されるというのに、料理を残す爺さんのほうを逆恨みしている。じゃあ料理の盛り方を
調整できないのかといえばそんなこともなく、甘菓子の間食でいつも腹が張っている
婆さん自身は、自分のお膳をちゃんと少なめに盛る。自分を中心にしてしかものを
考えられないから、自分を基準にして相手への施しをするくせに、自分が嫌なことを
人にはしない配慮にも欠けているという、全く破綻した神経であり続けている。
357 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 11:27:46 0
一方で、大名に次ぐ上級武家の血筋だった俺自身の母親は、
考えも言動も何もかもが洗練されていて、上記の父方の婆さんのような
愚鈍な振る舞いは一切ない。自他の区別もちゃんと付いているから、
自分は肉をほとんど食わなくても、肉が好きな相手にはちゃんと振舞うような分別にも長けている。
もちろん分別の高い男には及ばないにしても、女性としては最大級の分別を備えた人だといえる。
どちらを見習うべきかといえば、当然母親のほうを見習うべきなんだ。
婆さんの振る舞いはただただ愚昧でトロいだけなので、ちっとも見習うには値しないが、
伝統的な武家の家風にも根ざした、女なりにしゃきっとした母親の振る舞いのほうが、
未だ頑是ない子供などに見習わせる上でも、模範的なものとなっている。
でも、どちらのほうが可愛いかといえば、婆さんのほうが可愛い。
いつもボケーっとしていて隙だらけな婆さんのほうが、いかにも守ってあげないと
いけないような慈愛を抱かせる一方で、あまりにも毅然とし過ぎた母親のほうには、
到底溺愛するような隙もなくて、だからこそ孝行の難しさを思い知らされもする。
東洋教学ってのは、俺の母親のようである一方で、洋学や聖書教は、俺の父方の婆さんのようなもの。
可愛いのはやっぱり婆さんのほうだが、あれはただ本能の赴くままに好き勝手でいるだけで、
ちっとも見習う必要があるもんじゃない。そして別に権威などを付与してあげなくたって、
ほっとけば勝手に増殖していく百姓の風俗。でも母親のほうは、自主的な家系の存続にでも
努めない限りは、あっという間に亡びてしまうような武士の血筋。あまりにも毅然とし過ぎて可愛がる
余地もないわけだが、見習いの対象として存続に努め、半ば人工的に権威を付与する必要すらある。
洋学や聖書教も、ただ人間の未洗練な本能や欲求を
ありのままに深刻化させていっただけのものだから、
ちっとも保護したり権威を付与したりする必要もない。
ちょうどAVやオタク向けアニメのように、抑え付けたところでも
勝手に増殖していく、人間の欲望のそのまんまの実現でしかないから。
さも東洋教学を称えるようにして、洋学や聖書教を称えることは、
洋学や聖書教にかけてこそ、必要のないことだ。
別に称えたりしなくたって、自分らで勝手に繁殖していくもんだから。
こうやって、東洋優先西洋劣後のペースで東洋教学を語りながらも、
カントだヘーゲルだデカルトだプラトンだの話も、多少は出てるわけだ。
その上でそいつらが、東洋教学を修習する者にとっての、よき反面教師ともなっている。
絶滅させようったって、すでに存在してしまっている以上は、完全に消滅させるのも難しい。
だから東洋教学と比べての、劣悪な誤謬例として、洋学や聖書教を再利用していったりはする。
それによって両者の格の違いも明らかになって、実在性ぐらいは認められながらも、
その価値が十分に劣後された、格に見合った適正な扱いに、洋学や聖書教もなっていく。
360 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 18:58:34 0
洋学は、その全てが「産業学術」でしかない。
商業従事者や工業従事者、農業従事者などにとって役に立つかどうかのみが問題であり、
政治学や法学のような、為政者が学ぶべき学問までもが、「いかに産業に奉仕するか」を念頭に置いている。
そのことを洋学者は「民主主義」だなどと開き直るわけだが、本当は民ではなく、
民の従事している産業をいかに活性化させるかこそが問題なのであり、そのために、高祖劉邦の行なった、
故郷の民を働かなくてもいいようにしてやったりする政策などはもっての他となっている。
たとえ民の労働時間を減らしてやるにしても、あくまで働く民の労働時間を適正化してやるということであり、
民への労役の強制を完全に取っ払ってやるだなどということは、考えも付かない。
それはもう、旧約聖書の編纂者である古代ユダヤ人からして商業民族であり、
旧約の最高神エホバがアダムとイブに労役義務を課したとされることからも、
労役が絶対的に強制されていることだと信じて止まないでいたからでもある。
産業ではなく、全産業をも統治支配する為政者がいかにあるべきかを、産業への屈従などを抜きにして
考察しているのが儒学であり、これが「君子の儒」。君子の、君子による、君子のための学問。
逆に、専らな産業学術である洋学は「小人の儒」。小人の、小人による、小人のための学問。
「なんじは君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ(雍也第六・一三)」
産業に対して親密だった墨家が、戦国時代後期から秦代にかけて滅ぼされ、
漢代以降に儒学が全中国の正学ともされたことで、学問が洋学のような産業学術として発展することが、
中国ではあえて駆逐された。学問が産業に親密でもあり得ることを察した上で、あえてそれを選ばなかった。
361 :
考える名無しさん:2010/12/22(水) 19:18:09 0
俺も解説書などをかじっただけで、詳しい内実などはまだよく知らないが、
ちょうどイスラム圏の学術こそは、為政学術である儒学と、産業学術である洋学の中間的な存在であるらしい。
イスラムの代表者であるアラブ人こそは、東西社会の交流を主体的に仲介した商業民族中の商業民族であり、
当初からごくごくわずかな少数民族でしかなかった古代ユダヤ人などと違って、大規模な社会も形成していた。
何百万、何千万などという人々の集う大社会で、たとえ商業を主な生業とするのであっても、
全体を取りまとめるためのトップダウン的な統治機構が必要となる。その国家社稷のあり方を、
拝火教やアブラハム教の系統から構築したのがイスラム教であり、儒学ほど為政学術として専らでもなければ、
洋学ほど産業学術として専らでもない、為政と産業を天秤にかけた社会運営上の基本原理となっているらしい。
儒学は為政に関して専らであり過ぎるため、儒学が隆盛していた漢代や唐代における政治体制や法制などを
今の世の中にそのまま適用すれば、洋学によってこそ発達してきた近現代産業の衰退までもが否めない。
かといって、産業に対してばかり専らであり過ぎて、為政に関しては権力犯罪のやりたい放題となってしまった
洋学をそのまま政治体制や法制に適用し続けることももうできない。そこで折衷案として持ち上がってくるのが、
為政一辺倒でも産業一辺倒でもない、イスラムの政治学や法学を参考とした、政治体制や法制を構築すること。
完全にムスリムになるというのではなく、あくまで学術上の参考として、イスラムの政治学や法学、
経済学などを拝借し、無宗教的な勉学の対象とする。そのため
>>352のように、これからの大学機構に
儒学部や仏学部などと並んで、中東学部を設置することが奨励される。異端の学であり小人の儒である
洋学をそのまま模範にすることはもうできないが、為政と産業を天秤にかけての吟味対象とする、
中国にもインドにも西洋にもないイスラムのバランス感覚が、これからの世の中にとって必要なものとなる。
んで、結局洋学の中にも、どうしたって今すぐには捨てきれないものがいくらかある。
工学を捨て去れば、肥大化させすぎた文明インフラが唐突かつ危険すぎる損壊を招きかねないし、
医学を捨て去れば、現代医療によってこそ命を保たれている年寄りや重病人の多くが命を失う。
いずれも、先進国のインフラの充実や人命の保護ばかりに役立てられて、金のない後進国の
インフラ整備や人命救助にはちっとも貢献していないので、所詮は益以上の害を伴う洋学の範疇で
しかないといえるが、洋学を完全排除した結果、今度は先進国などの側に多大な損害が及ぶ
ようなことになるのは避けるべきであり、ただ「奪っていたものを返す」ために、洋学の権威を完全に
剥奪して、金融学などの、利権強奪に関してこそ専らだった洋学などを筆頭に、害悪の度合いが
特に深刻だったような洋学から順々に、節度を保った排除とその再利用に勤めていく。
洋学を、害よりも益が上回る範囲内での存続や再利用に勤めた結果、果たして洋学が地球人類に対して
プラスマイナスゼロ以上の益を及ぼせるか、プラスマイナスゼロ以下の害を及ぼし続けるに止まるかは、
現時点では正確な予想が付かず、どちらになるとも断定しきれない。ただ、「異端を攻むるは害あるのみ」
であるのは確かであり、洋学を専らな模範として勉学対象にしたりすれば、その分だけ多くの害を及ぼす。
しかし、刃物がヤクザのドスとなることもあれば、武士の刀ともなるように、洋学のうちの、それ自体は
善とも悪ともいえない「無記」の部分が、東洋教学の理念などに即して悪用されることなく善用されれば、
プラスマイナスゼロ以上、害以上の益をもたらすことがきっと可能だろうと、信じるだけの余地はある。
363 :
トーヘンボク:2010/12/23(木) 00:58:51 0
ずいぶんと饒舌なひとだな。。西洋をわざと貶めようとしても
ひとりよがりの弁舌に終わるだけだな。あなたのいう、洋学には
哲学は入っていないのかな?
あの哲学史を全否定かい?出来るわけないね。
バッハやベートベンやショパンやモーツァルトの音楽は、永久に残ると
言われてますけど。。。??
364 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 01:34:34 0
東洋教学にのめりこむのも、結構だが、その反面、自分は西洋については、
何んにも知らないよ〜〜〜
って事を、ショージキに告白したほうが身のためだな。あなたの底の浅い
西洋批判のせいで、ちょっと目が覚めたよ。。。
それこそ、中庸を欠いた文章群だね。。。
>>362 >医学を捨て去れば、現代医療によってこそ命を保たれている年寄りや重病人の多くが命を失う。
そんな医学は捨て去っても構わないのではないでしょうか。
若者もそうですが、年寄りと重病人も天命を知るべき。
年寄りが増えすぎて国家の財政を圧迫しています。
366 :
トーヘンボク:2010/12/23(木) 06:21:49 0
仏道というのは、いわば「超越的ジャーナリズム」だ。
観察した事象に対して、人間ならばおのれの業に起因とする、ある妄念に
囚われやすい。しかし、「超越的(または俯瞰的)ジャーナリズム」の
立場としては、その妄念に曳きずられてはならない。おのれの妄念を
カッコに入れ、ありのままの事象を心眼に映し出そうと試みなければ
ならない。たとえ、それが至難な道であろうとも。それが、仏道という
道なのだから。
367 :
トーヘンボク:2010/12/23(木) 06:38:30 0
・・ある意味、それは冷徹すぎる視線と感じられてしまうかも知れない。
それはそれで、踏み外しなのだ。妄念を意識しつつ、妄念にも語る言葉を
与え、その冷徹さとのあいだに一種の均衡点(きんこうてん)を見出すので
なければ、真の中庸の実現とはいえぬ。すなわち、妄念に操られるのでは
なく、妄念にも、一種の市民権、発言権を与えてあげる訳だ。
仏道とは、かくの如くなかなかに至難な道、道なき道である。
368 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 08:46:53 0
権威なんかなくても、十分かわいいから心配いらない。
KAWAII!!
369 :
考える名無しさん:2010/12/23(木) 11:19:22 0
むしろ、権威と可愛さは相反しすらする。
権威を付与されればそれだけ、無理にでも
毅然として振舞うようになって、可愛げがなくなる。
権威も責任もなにもない、ニャン子ちゃんだからこそ可愛い。
・・ええっと。最後に宿題をだすから解いておいてね。
除夜の鐘は、通常、108回打つのが正式と言われていますが、
なぜ、108なのでしょうか?
トーの答えと一致したものを、正解とします。。。
では良い、お年を!
371 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 13:38:35 0
産業従事者は、根本からの情報弱者だ。
毎日高尚な学問などとは無縁な、産業奉仕活動に多くの時間を費やして、
帰宅時や日祭日などにも疲れ果て、難解な学問書などを読む暇もない。
仮に無理して読んだところで、それを十分に理解して実践する暇もなければ、
そんなことを上司が許してくれるはずもない。
仁義や菩提に即した善行を促すような、高尚かつ正統な学問などを学んだところで、
産業従事者が主体的にそれらを実践することなどは不可能であり、仮に豪商などの立場から
趣味的な実践の対象にしても、仁義や菩提からは程遠い我田引水活動に終始してしまう。
(商売人であるということは、我田引水を生業にするということだから当然といえば当然)
封建社会とて、世の大部分(9割方)の人間は産業に従事する百姓や町人であり、
それらの産業従事者をいかに統治支配するかが、為政者たる士人の勤めともなるわけだが、
あくまで産業従事者自身には、世の中全体を俯瞰しての大局的な政治活動などを担うことは
できないのであり、仮に国民主権などによって、民衆の顔色を伺いつつの活動を政治家に強制
したとて、民衆たち自身の無知蒙昧さこそが政治家に投影されて、政治腐敗を招くのみとなる。
372 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 13:42:31 0
長年の畑仕事で腰も背骨も曲がりきった百姓、
頑迷でまったく聞き分けの利かない百工、
肩をそびやかし諂い笑う商売人。
自分たちの職業柄によってこそ、どうしたって卑賤さを帯びてしまうのが産業従事者の宿命であり、
それを為政に投影した所で腐敗を招くだけなので、あくまで為政は産業から独立した存在でなければならない。
農産の神オホゲツヒメが、口や肛門から食い物をひり出すことを卑しんで、スサノオはオホゲツヒメを
斬り殺したが、斬り殺されたことによってこそ、オホゲツヒメもまた五穀豊穣の礎となっている。
女が十分に逝かされてこそ健全な男子をも産むように、卑しみによってこそ本領を発揮するのが産業従事者。
373 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 14:24:32 0
近代民主主義には一致しないような価値観を公言することで
世間とは違う何か思想のようなものを自分が持っていると考え、
自己満足に浸るのも高校生ぐらいなら悪くはないかもしれないが、
そろそろ、そういうのは卒業したらどうだ?
いい歳をしてまだそれじゃ、ただの幼稚だよ?w
旧約の編纂者である古代ユダヤ人が商業民族だった一方で、
キリスト教徒はそのユダヤ人と共に、商業を伝統的には差別対象として扱ってきた。
それは、旧約中のユダヤの教義に反意を唱えたイエスが、商業民族であるユダヤ人に
忌み嫌われていたローマの徴税人などをかばう発言が福音書などにもあるからで、
徴税などの統治活動を「賤しいもの」とした上でかばうという、最悪の偽善を元としている。
庶民を直接統治する為政者が敬われるどころか、賤しいものとした上でかばわれるという、
転倒した価値観を前提とした偽善であるために、かえって庶民が支配者をねたむようなルサンチマンの温床と
なった上に、庶民から恨まれるほどにも政治家が腐敗した存在であることがデフォルト扱いともなってしまった。
そもそも徴税人を含む為政者という階級が元から、庶民よりも上位のものとして丁重に
扱われるべきものなのであり、上位のもの故の責任を負ってこそ、今の日本の政治家や、
古代イスラエルの徴税人が横行させていたような、賄賂横領の腐敗なども許されなくなる。
庶民が為政者を賤しいものなどとして扱ってはならない一方で、政治家が自分たちよりも上位にあたる
畏敬すべき存在であると認めることでこそ、庶民並みの精神的堕落による政治家の腐敗を認めてもならない。
375 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 14:54:01 0
四書五経のような、もっとも初歩的な東洋教学の入門書であろうとも、
その本格的な実践は、学問や為政の専門家であることによってこそ叶う。
確かに、二宮尊徳のように、百姓でいて学問を志したものもいたし、
近ごろだと松下幸之助あたりが、丁稚出身の経営者でいて人徳者でもあったような
扱いになっているが、いずれもやはり、本格的な儒者や士人、僧侶や神官などからすれば
色物止まりであり、松下系の出版社であるPHPも、四書五経の一部に過ぎない「論語」や、
五千字余りに過ぎない「老子」を、仕事人向けにさらに抄訳して出版するザマとなっている。
まったくそれでは、東洋教学の受容も実践も覚束ない。
高校どころか、死ぬまで勉強し続けたところで、そのごく一部を把握できるかどうかという
ほどもの分量を持つ東洋教学のうちの、入門書の抄訳を参考程度にかじるまでしか、
産業従事者にはできやしない。そしてその本格的な実践だってまったくの不可能。
洋学や聖書教は使えるかもしれないが、東洋教学は、それじゃあまったく使えない。
孔子や孟子を含む古代中国人が「小人」と呼んでいた被支配階級、産業従事者が自分たち
の仕事につきっきりでいながら学んだり実践したりできるほど、東洋教学は甘くない。
376 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 15:01:39 0
なるほど、こういうアホどものせいで、シナや朝鮮が衰退したわけか。
どうしてそうなったのか、よく納得できた気がするw
377 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 15:08:09 0
クリスマスも、売り上げ向上キャンペーンとして、商売人ばかりが必死で盛り上げている。
日本では正式な祝日ではないから適当な扱いで、クリスマスイブ前日の天皇誕生日のように
国旗を掲げたりもしない。だからこそ商売人あたりが、自分たちに都合のいいものとして好きに使っている。
聖書圏ではクリスマスがそこまで適当な扱いではないのも知っているが、
正式な祝い事として日本では認められていないクリスマスが、小売業やラブホテルみたいな
商売人にとってこそ盛り上げの対象とされていることも、商売人の側の浅ましさの証拠となっている。
社会的な責任、政治的な責任を負わなくてよいものにこそ商売人などは群がるのであり、
その無責任さが小人として卑しまれるのも本当は当然のことで、逆に政治家や官僚のような人間が、
個別的な内部腐敗を理由に卑しまれることはあっても、天下全土の責任を負わされる政治家や官僚といった
身分自体が卑しみの対象などにされてはならず、政治家や官僚であること自体は敬われなければならない。
378 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 17:23:12 0
>>378 儒家教学のより模範的な実践によって、漢代や唐代の中国こそは最隆盛を果たした。
叔孫通らによって再興された礼楽統治も極まった武帝期には、官民の序列もよく徹底
されていたために、贋金作りの一律した禁止を布令したりの強攻策も施行することができた。
それが、宋代の朱子による四書の尊重の後、それまで五経こそは正学であったのが、
明代からは四書一経が官僚登用のための試験問題ともなって儒学の形骸化を招き、
(これは四書を五経の入門書として尊重していた朱子の意向にも即していない)
これが原因で官僚の腐敗をも招いた。
孔子と共に孟子や曾子、子思子らの学も尊重する朱子学の受容が成功したのは、
科挙試験によって広く人材を募っていた中国よりもむしろ、代々の世襲による
武家社会であった徳川時代の日本などのほうであり、これこそは士人と、
百姓や町人の階級的分断や序列が根本から徹底されていた社会。
379 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 17:28:37 0
「近思録」などには、科挙として登用されるために、30ぐらいまで猛勉強を続けた学生が、
うまくいけば官僚として登用され、至らなければエリートコースを外れて帰農したりする、
当時の中国の学業制度の内情も記録されている。
日本の足軽階級の下級武士などは、必ずしも世襲が制度上から約束されてはおらず、
帰農して畑を耕したりしながら、一応名目上は武家であるなどということもあったが、
やはり慣習として、武家の血筋であるものが武士となることが尊重されていたために、
四石取り程度の最下級の武士であろうとも、代々の系図などを大切に保管していた。
士人であるものと庶民であるものは、試験によって分かれるにしろ世襲によって分かれるにしろ、
徹底して分断だけはされていた。それは、両者の仕事がまったくの別物であり、両者の癒着や
行ったり来たりが、特に為政者の側の腐敗を招く原因となることがわきまえられていたから。
庶民がだらしなくて毅然さに欠けるのは仕方のないことで、天下万人誰しもが君子聖人に
なることなどが無理なのは、孔子も「上知と下愚は移らず」などという言葉で認めているとおり。
ただ、為政者たる士人であるものまでもが、庶民並みにだらしなかったり適当だったり
するのだけは許されないから、士人たるものが庶民の影響を受けて腐敗しないため、
庶民ではなく士人の側を庶民から隔離するためにこそ、上下の階級的分断が必要とされもする。
380 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:19:08 0
膨大な分量を持つ朱子学の部分ばかりが独り歩きしてしまった結果、
明代の中国では、朱子が五経の入門書として推薦した四書が主要な学問対象にまでなってしまい、
五経こそは儒学の根本とされてきた伝統にも背いた、「生兵法の儒」を量産することともなってしまった。
四書のうちの、「論語」や「孟子」の主人公である孔子や孟子たち自身は、確かに儒学の大成者だった。
でも、孔子や孟子たち自身が勉学の対象としたのは、詩経や書経、易経といった、漢代以降に「五経」と
指定された経典類であったのであり、自分たち自身の言行録である「論語」や「孟子」であるはずもなかった。
儒学の大成者とはいかなるものであるのかを知る上で、「論語」や「孟子」などが最適であるのは
もちろんだが、自分自身が本当に儒学の大成者になるためには、五経の勉強にこそ拠るべきなのだ。
日本の儒学研究者の中には、四書を「儒学」、五経を「儒教」の典拠とするものもあるが、これは逆だ。
四書こそは、儒聖の教えを金科玉条化した儒“教”の典拠であり、五経こそは、自力で儒者として大成する
ための儒“学”の典拠。両者あいまって“教学”となり、段階を追っての儒家教学全体の素養が身に付く。
朱子もそのような、段階を追った儒家教学全体の修習によっての、良質な儒者の量産こそを期待していた
はずなのに、かえって四書や朱子自身ばかりが至上の存在として扱われることとなったせいで、
四書止まりで五経には進まない生兵法の儒者ばかりが量産され、以って官僚腐敗を招くことともなった。
現時点において、朱子学の受容が最大級に成功したのは、やはり徳川時代の日本であるといえ、
藤原惺窩や林羅山のような優秀な儒者にも恵まれ、試験以上にも世襲での士人階級の存続を重んじたことが、
朱子学を正しく受容する上での条件にも適っていた。あまりにも高潔すぎて、そうそうには実践できない
孟子の教えなども、本当に自分たちで実践して、孟子の子孫と共に赤穂浪士たちも吉良邸に討ち入った。
中国人ですらまともに実践できたことのない孟子の学が、天下総出をあげての実践も
実際に可能であることを、江戸時代の日本人こそは、身を以って証明してくれている。
381 :
考える名無しさん:2010/12/24(金) 23:45:35 0
「論語」や「孟子」を読んだだけで、自分が孔子や孟子になった気になる、
それじゃあ「福音書」のイエスの磔刑のくだりを読んだだけで、自分自身の
罪までもが償われた気になった鏡映認知障害者とも何ら変わる所がない。
それはもちろん、朱子が望んだところでもないわけで、あくまで五経の体得による、
自力の儒者としての大成のための、便宜としての、四書の勉学を薦めていたはずだ。
五経も学ばず、四書のうちでも「論語」しか学ばず、「論語」すらもさらに抄訳でかじるのみ。
六級から始まる段級制の武道を、五級か四級あたりの稽古までで辞めてしまうぐらいのヘタレ。
級であるうちはまだ見習い。段になって初めて自力での研鑽が始まっていく。
四書は昇級のための勉学、五経は昇段のための勉学。昇級しきって段になった
からといって、即座に稽古をやめてしまうのでも、全くどうにも意味がない。
382 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 11:10:07 0
>>364 私もそう思う。自分が知らないものを知っていると思い込み、
浅薄な批判を繰り返す態度にはあきれかえる。
儒学などのシナの学問についての知識をいくら増やしても、
それだけでは徳が身に付かないことを自らが証明しているw
西洋が再評価されるとしても、それは“事後”からだ。
清算もなしに許しばかりを乞うことこそは、何よりもの過ち。
今はまだ、西洋を再評価できるだけの機会にも与れていない。
西洋人たち自身の相も変わらずの無反省という自業自得によって。
384 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 12:11:07 0
今はまだ、「西洋を許さない」という機会のさ中だ。
もちろん「許す」という機会や、「再評価する」という機会だってあり得るが、
ことに今はまだ、許さないことが時宜にかなった状況にある。
ただ待ってたって、その機会は終わりやしない。。
反省すべきものこそは積極的な反省に努めて、その反省を
十分な実践にも移してこそ、「許さない」という機会の終焉にも与れる。
ある種の機会を終わらせて、次の機会に移るための
適切な手順を踏もうとはせず、ただ待っていたり、
思い上がりを押し通したりの間違った方法による変革を試みたところで、
余計に「許さない」という機会の延長が続くのみ。
無理が通って道理が引っ込む機会もあれば、
道理が通って無理が引っ込む機会もあって、
今は後者の、道理が通って無理が引っ込む機会でもあるから、
無理を通そうとすることは、かえって自らの不利にもつながる。
385 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:07:14 0
いまちくま学芸文庫の「空海コレクション2」を読んでいて、
その内の「即身成仏義」を読み終わったところ。
あくまで門外漢としての参考止まりではあるが、一応わかる範囲内のことを引けば、
眼耳鼻舌身意の六識の上に末那識と阿頼耶識を置き、特に阿頼耶識による理性的識見の
把握を尊重する唯識派などと違って、密教においてはこれら全ての識見の展開する
場としての「清浄法界」を加え、清浄法界を自性とした「法界体性智」が想定されるという。
何のことやらチンプンカンプンだろうが、曼荼羅のごとき識見智覚の重畳がやはり
密教では試みられているということで、形而上の形而上のそのまた形而上を想定する、
荘子の宇宙観などにも近似している上、「きりがないから止めとけ」と促す荘子とは違い、
本当に形而上への考察の重畳を、あるがまに修習の対象として認めてもいる。
そしてその密教こそは、各種の大乗教派などによって否定されることもある、
あるがままのこの身のままでの成仏、「即身成仏」が可能であると保障する。
高次の識見などからすれば低劣となる五識や意識などもまた、成仏に至るための
機縁になるのであり、それらを捨て去る涅槃を必ずしも待つ必要もないとする。
386 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:21:35 0
高次の高次のそのまた高次までをも突き詰める密教こそは、
もっとも低次元な存在に過ぎない身体やその感覚からの成仏の可能性を認める。
儒学においてですら卑しみの対象とされる耳目口腹の欲求ですらもが、
より高次な識見と、法界体性智において統合されることにより、悟りの機縁に与る。
ただ、それほどもの奇跡を可能とする密教自体が、あらゆる宗教学術の中でも最も実践が困難なものであり、
弘法大師による密教伝来以降の日本にも、これといった真言密教の中興者が現れることもなく今に至る。
ましてや、廃仏毀釈によって、本格的な出家行の選択肢も軒並み剥奪されきっている現今社会において、
それ以前にも再興が困難とされていた密教が復活するなど、夢のまた夢のまた夢のような話でしかない。
結局、密教を主体的に実践できるほどもの機会に与れている人間は、俺自身を含めて
今の世のどこにもいないので、高尚な精神と低劣な身体との、高度な統合に即した成仏などが
本格の密教者によって人工的に実現されるなどということを期待することはできない。
密教の復興が可能であるぐらいにも、濁悪が相当量省かれてから初めて、
即身成仏が自力で実践されていくということもあり得るのであり、現時点では他力本願まででしかあり得ず、
さも自分自身が即身成仏を自力で可能とする実力者であるかのように振舞うのも、詭弁にしかならない。
387 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:29:36 0
金融物質主義の産業学術である洋学なども、
ちゃんと密教の復興が可能なぐらいに健全化された世の中では、
即身成仏のために善用されることなどがあり得るという教証ともなっている。
ただ、実際問題としてまだ、密教が復興できるほどにまともな世の中でもなく、
天下万人誰しもが密教を実践することも不可能な状態に未だあるために、
自明のこととして、金融物質主義の産業学術などの即身成仏への善用も覚束ない。
善用も可能だろうが、今はまだその時宜には当たらない。
数年後か、数十年後か、数百年後か知らないが、
仮に善用が可能だとしても、それが今ではないことだけは確か。
388 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 13:51:06 0
密教は、高度であると同時に繊細な教えでもあるから、
地獄餓鬼畜生の三悪趣に天下全土が覆われているような世界での実践などは覚束ない。
しかしその密教こそは、清濁善悪の最高真理に基づく統合をも可能とする。
逆に浄土教などは、低劣で粗雑な教えであればこそ、
三悪趣に征服された濁悪な世の中ですらも効力を発揮し、不心得者どもを地獄に叩き落して
閻魔大王の仕置きに追いやることもできる。しかし、如何せん粗雑な教えであるだけに、
善悪を俯瞰しての統合なども覚束ず、善悪の激烈な戦いの中での優勢を獲得したりするのみ。
密教が不二一元論的なヒンズー教の教えに近い一方で、
浄土教は善悪二元論に終始する拝火教の教えなどに近い。
善悪の分裂を忌んで、高度な統合を望むというのなら、そもそも浄土教みたいな粗雑な教え
ばかりが通用するような濁悪な世の中から是正して、密教のような繊細な教えであっても
興隆を可能とするほどに、まともな世の中であらねばならない。
世界の主導権が、悪に握られている限りは、善悪を分裂させる粗雑な教えしか通用しないが、
逆に善に握られている状態ならば、善悪清濁の高度な統合までもが可能となる。
世界の主導権までもが悪に握られていながら、善悪が高度に統合されるようなことだけはない。
389 :
考える名無しさん:2010/12/25(土) 22:08:22 0
善悪の争いが両極端に振れきって、際限のない状態に陥るのが乱世。
善悪という断絶がそれなりに収拾して、争いの解決などを欲することもないのが治世。
乱世は全般的に悪であり、治世は全般的に善であるために、
善悪でいえば、悪が懲らされて善が勧められるのが治世全般の流れになるわけだが、
勧善懲悪を全般的な主旨とする治世こそは、善悪の争いを最小限に収めようともする。
自分たちが支配している世の中だからこそ、善悪の争いを最大級に深刻化しようともする、
乱世の支配者に特有の性向は、治世の統治者が反面教師とするところでもある。
390 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 13:39:40 0
×争いの解決などを欲することもないのが治世。
○争うことでの勝利などを欲することもないのが治世。
今は、争いごとの解決すら欲しない劣悪な社会情勢に合わせて、
こちらも東西の対立を前提とした物言いなどを続けているが、
これは治世にまで持ち越すものでは決してなく、争い全般を
収拾させた世の中に特有の物言いも別にまたある。
楚漢戦争中には儒服を脱いで軽便な格好をすることで劉邦を喜ばせ、
弟子の儒生ではなく命知らずの侠客ばかりを推挙した叔孫通こそは、
前漢初期における礼楽統治勃興の礎ともなったように、
時宜に即して臨機応変であることも、東洋教学の認めるところ。
391 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 15:24:12 0
> こちらも東西の対立を前提とした物言いなどを続けているが
それが脳内一人相撲でしかも、相手の姿も見えていないところが滑稽だ。
しかし、シナ哲学の専門化にはその道では一流の研究者であるにもかかわらず、
西洋に関しては生半可な知識でアホらしい主張を繰り返す奴がいる。
ある儒学研究者の本を読んで、西洋のキリスト教の一般的伝統と
近代のプロテスタンティズムの特有の考え方の区別がまったく付いてないのに
驚いたことがある。よりにもよって「お前らは知らないだろうが、欧米人の
考え方は・・・なんだぞ」みたいな高飛車な調子で書いてたりするので、
失笑する以外にどうしようもない。
392 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 15:47:04 0
これ、どうやらシナ人の考え方の反映のようなんだよね。
シナ人は仏教以外外来の思想を本格的に受け入れたことがない。
自分たちとは別のところに自分たちよりも優れた文明があるのなら、
それを学ばなければならないという、西洋人や日本人の根底にある
態度が根本的に欠如している。シナ文明の衰退の主因はこれかも。
393 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 17:19:59 0
西洋を精神文明とみなした幕末・明治の薄ら馬鹿のせいで
アジアは全部滅んでしまった。本当は単なる技術文明にすぎないのに。
394 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 19:32:45 0
>>391-392 また鏡映認知障害が再発したのかよ。
自分たちの欠陥こそをさも他人事のようにみなして罵倒材料ともする、
欧米人の中でも、特にユダヤやプロテスタントの類いに多い症例。
自分たちよりも優等な文化文明の構築者が実在しうることがどうしたって受け入れられず、
挙句には、重権力犯罪による世界の破滅への陥れの主謀者に自分たちがなったことを
「自分たちこそが最優等な文化文明の構築者だ」などと思い込む欺瞞材料ともしている。
こちとら西洋文明がいかなるものであるのかを警察のためにでも察知するために、
基本文献なども粗方読み通して、西洋文化文明には一律して何があり、
また何がないのかをも確認した上でものを言っている。
西洋文化文明は、耳目口腹、眼耳鼻舌身といった現象界への物質的な欲望を、
矯正することもないままにただひたすら増長し深刻化させていくだけのものであり、
現象界を超えた所にある純粋精神の実在などを、ほとんど想定したこともない上に、
近代になってやっとカントなどが「物自体」などという拙劣な造語に即して純粋精神の
自性を想定してみたはいいものの、本格的な修行もなど伴わない机上の空論
だけでの言葉遊びに終始した挙句、自性は捉えられないだなどと勝手に決め付けて、
自分たちの思い込みで、純粋精神を虚構も同然の扱いとした上で今にも至っている。
395 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 19:53:22 0
西洋には、無洗練な物質的欲求をただひたすら増長深刻化させていく方向性のみがあり、
それ以外はない。一方で、東洋にはそのような、無洗練な物質的欲望をただひたすら
増長深刻化させていくような方向性にかけての、本格的な体系構築こそがない。
もちろん何らの体系構築もないのではなく、物質性を超えたところにある純粋精神の
本格的な実践込みでの把捉に関する体系構築が、ヒンズー教などの形で実在する。
また、それだけでなく、純粋精神の把捉にも即して、今度は逆に眼耳鼻舌身意といった、
現象界の物質性に即しての即身成仏すらも達成する、密教のような教学もまたある。
精神性を殊更に重んずる方向性と、精神性と物質性の調和を図る方向性が具わっている
一方で、物質性を殊更に追求することにかけては、一概な方向性に乏しいのが東洋教学。
物資性の追求にかけてこそ一概であり、精神性の本格的な追求や、精神性と物質性の
調和を重んじるような余裕は皆無である、洋学や聖書教などの西洋文化文明とは真逆。
396 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 20:18:26 0
物質性の追求にかけては、確かに手遅れな部分があったから、
近代以降の東洋社会は物質性の追求に関して、西洋を見習いもしたんだ。
その結果、日本人は西洋の工業製品すら上回る品質の工業製品を産み出せるように
なったし、台湾人や韓国人、東南アジア人や、一部の中国人やインド人なども、
先端技術工業(主にIT関連)での世界に先駆ける功績なども挙げ始めている。
そして、質はまだ至らないにしても、すでに中国が世界中の工業生産を一手に
引き受けて、世界中のどこもかしこもが中国製品で溢れ返るようにもなっている。
それが、善いことなのか悪いことなのかはともかくとして、
「物質性の追求」という、西洋文化にとって唯一かつ最大の長所である部分を
東洋人は見習って、工業生産などに関してはもはや西洋を追い抜いてすらもいる。
「そんなのはちっとも偉いことじゃない」とすれば、東洋人ですら見習おうとした
西洋の唯一にして最大の長所だった部分こそは、さして偉くもなかったということであり、
今の中国の工業発展による環境汚染などを非難の対象にしたりするのも、西洋人が、
自分たちが専門的な進取の対象としていたものこそが非難されているということ。
397 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 20:40:28 0
工業生産の乱発によって致命的な環境破壊を催している中国などに対して
西洋人が非難の論拠にするのが、「環境配慮が足りない」といった言い分。
そもそも工業生産なんか初めから志さずに、無為自然の先天的な
エコ生活を老荘思想などによって具体化しているのも、中国などの東洋社会。
地球人類を何十回も絶滅させるほどもの核備蓄などの、軍事物資的威嚇によって
無根拠なプライドに基づく虚栄を何とか保たせようとしているのも欧米露人であり、
莫大な工業生産に頼らないことには成り行かないような資本的だぶ付きを何とか
存続していくことで、自分たちの資本的な優越を何とか保とうとしているのも欧米人。
真のエコであり、また環境破壊による地球人類社会の破滅を本当に解決もできる、
無為自然の統治を解く老荘思想を擁するのが中国である一方で、その老荘思想に
180度逆行する、金融物質主義の推進を未だ主導しているのが欧米社会。その
欧米による金融物質主義の先導を、工業生産という下請け的な立場から後援して、
欧米人が自分たちの周囲からだけは排除し尽くした致命的な環境破壊などを
いま現在にこそ引き受けて、深刻な国土汚染にあえいでいるのが、これまた中国人。
確信的かどうかは知らないが、欧米を完全な手詰まりに追い込んで、自分たちの
主導によってこその、自業自得の自滅に追い込む布石が、確かに敷かれている。
398 :
考える名無しさん:2010/12/26(日) 23:57:45 0
>>394 鏡像認知障害はあなたの方だろ。何でこんな簡単なことも分からないのかな。
399 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 00:10:58 0
> 基本文献なども粗方読み通して、西洋文化文明には一律して何があり、
> また何がないのかをも確認した上でものを言っている。
このあたりがあなたの浅学ぶりの明らかな証明なんだよね。
西洋文明を理解するための基本文献って、一人の人間が一生かけても
読みきれない分量なわけ。そのうえ、これはシナでも同じだと思うけれど、
字面だけ追って自分の偏見を確認したつもりになるのは
「読む」のうちに入らないんだよね、これが。
400 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 00:15:47 0
自分のことがよくわかってるね。
あとは自分のことだとわきまえるだけだ。
401 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 00:16:11 0
>>399 残念ながら、その「つもり」の集積を続けるのが
実証性のない学問もどきの本質なんだよね。
402 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 00:54:25 0
>>401 全然違うよ。ちょっと勉強してごらん、そうしたきっと分かるから。
どんどんかわいくなっていくう
貶せば貶すほど、どんどん可愛くなっていく、俺の嫁。
405 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 13:06:33 0
カトリックや正教などの聖書信者はただ、聖書信仰によってIQ20〜35の
チンパンジー以下、重度知的障害者並みの白痴と化すことばかりに専念する。
しかし、プロテスタントとやユダヤなどの聖書信者は、聖書信仰によって
白痴同然の低能と化すことと、人並みやそれ以上の知能であることとを行き来して、
天才的な知能などを発揮しながらも、善悪の分別だけは付かないような、
高機能型のサイコパスであったりする。
どちらもおかしい。どちらも重度の精神障害であり、
ほんの一瞬たりとも知能が白痴レベルにまで低下するような時点で、すでに健常ではない。
天才や秀才でなくてもいいから、最低限人並みの知能を保ち続けることのほうが健常であり、
人並みの知能を保ち続けた上で、人並み以上の秀才や天才を目指していくこともまた健常だ。
これらの健常な知能こそを、高尚な精神と共に確立していくのが東洋教学である一方で、
少なからず知的障害を伴う知能構造を、低劣な精神と共に深刻化させるのが洋学や聖書教。
「高尚な精神」とは、たとえば「仁義」とか「菩提」とかいったものであり、これらは知能に換算すれば、
人並み以上の知能を保ち続けられる人間のみが抱けるもの。逆に言えば、仁義や菩提のような
高尚な精神を抱いた人間こそは、IQ100程度の人並みの知能をいかなる場合にも保つことができる。
「低劣な精神」とは、早い話がカルト教義などへの狂信状態のこと。「信は豚魚に及ぶ(易経・中孚)」
ともいう通り、信仰だけは豚や魚レベルの低能であっても抱くことができ、豚や魚が餌をくれる飼い主
への信頼をも欠かさないようにして、カルト信者たちも信仰対象への狂信こそを精神的拠り所とする。
406 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 13:14:46 0
西施のような絶世の美人であっても、
脳天から汚物をかぶった不潔な状態などでいたならば、
誰しもが鼻をつまんで、無視して通り過ぎていく。
(孟子・離婁章句下)
半ば無理やりにであっても、
脳天からかぶらされているその汚物を払拭して、
愛するにも値する存在へと修繕してから愛していくのだ。
407 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 14:17:42 0
たしかに西方一神教のキリスト教徒は自己反省とか他人の思いなんて
まったく考えない「女のように極めて自己中心的な世界」しか築けていないですな。
何か批判されれば銃口を向けて暴力をちらつかせることで正当化し、
国内の人たちにはウソを以て自己正当化をする。まさに典型的なサイコパスで
こんな者たちに支配されている現在の世界は不幸としか言いようがない。
ただ彼らを見てると我が国のアミタ信仰(他力依存)にも似ていて、
このおかげで信長の禁教令(政教分離令)が出るまで日本の治安は西洋のサイコパス統治
みたいに戦乱続きだったという。自らを省みないものは必ず破滅に向かうの
ですな。
408 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 14:49:34 0
浄土宗そのものがおそらくネストリウス派のキリスト教の影響を受けて
生じた宗派だろうという説を聞いたことがあるが、それは俗説かい?
409 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 14:54:23 0
ほら、こいつらの頭の悪さがまた露骨に示された。
私がキリスト教に言及したので私のことをキリスト教徒だと思い込み、
聖書やキリスト教を罵倒すればいいと思っている。
私はキリスト教徒でもなく仏教徒でも儒教徒でもない。
そういう党派的な見地から、西洋文明は他の文明より優れているとか
劣っているとか言うことのあほらしさを指摘してるだけなのになあw
410 :
考える名無しさん:2010/12/27(月) 18:50:08 0
>>408どう考えてもキリスト教のほうがインド宗教によってべらぼうに
変質したと思うのだが(三位一体説だの信じれば救われる、だの)
西からの施し
412 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 01:19:52 0
>>410 影響と言うのは一方通行のものじゃないから。
「西洋が東洋の影響を受けたのかその逆なのか?」なんて
問い方は、朝鮮人の日本−朝鮮比較なみのアホくささ。
413 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 13:37:16 0
西が東に、女が男に、産業従事者が為政者に謙るのは、実相学的に正当なことだ。
正当だから、為政者も権力道徳を実現できる上に、産業従事者もまた有益無害な能力を発揮できる。
逆に、東が西に、男が女に、為政者が産業従事者に謙るのは、実相上から不当なことだ。
不当だから、為政者も権力犯罪に走る上に、産業従事者も有害無益な仕事ばかりに惑溺する。
実相上から正当だったり不当だったりするから、諸法実相という真理にも即して、
どこまでも正当なものは正当であり続け、不当なものは不当であり続ける。
実相という根本を疎かにして、概念とかの末節の操作だけによって正当不当を覆そうとしたところで、
根本のところは相も変わらずであり、根本は常に末節以上にも普遍的であり続ける。
414 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 14:20:49 0
諸法実相とは、実相が根本であり概念が末節であるという真理の提示。
イデア論とは、概念が根本であり実相が末節であるという妄念の提示。
実際に、諸法実相を提示した釈迦のほうが、
イデア論を提示したプラトンよりも年代的に先輩であることからも、
時間軸という実相に即して、諸法実相のほうが根本的なものであるとわかる。
ただし、父神クロノス(時間の神)の王位を奪うことで
オリュンポスの王となったゼウスを最高神に祭り上げるギリシャから
すれば、時間という実相もまた概念寓話によってごまかされることとなる。
415 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 16:02:40 0
どんな反論を受けても、結局独断の繰り返しだけか。・・・あほくさ。
416 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 16:13:35 0
儒教的な考え方に近いものを西洋で主張したのはアリストテレスだろうが、
アリストテレスと儒教を比較して論じたいい文献ってないかな?
417 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 18:55:09 0
あるよ「世界のありとあらゆる思想・文明はすべての起源は古代ギリシャ」
ってほぼすべての白人がそう思ってるよ。あと某敗戦国のアジア人とかね。
そんなことより般若の金剛経が何を入ってるかさっぱりわからない。
「これは大きいことか小さいことか?」
「はい大きいです、なぜなら如来は大きいとか小さいとか言わずにいます。
だからそれは大きいです」
とかワケワカメ。
ギリシャ神話で一番人気の処女神アテネからして、産業の神だもの。
いかに西洋人の脳内には、物と金への興味しかないのかの証左。
419 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 19:16:27 0
悪いけど、知らないんだったちょっと黙っててくれない。邪魔なんだけどw
420 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 19:33:00 0
>>418 これは書き手にいかに知識がないかを示す好例だね。
古代ギリシャ人の主流の考えでは、産業労働は奴隷の仕事。
だからこそヘロドトスがわざわざ「労働は卑しいものではない」と
言う必要があったのさ。それから、このスレのアホが得意になって
書いている「産業従事者」と「為政者」の関係の話は、プラトンや
アリストテレスも似たようなことを言っているもので、
西洋か東洋かなんてことには関係ない。井の中の蛙って哀れだね。
421 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 19:43:23 0
なにげなく語っているように見える
>>417の発言なども、
本当は「儒学とアリストテレス」とすべきところを「アリストテレスと儒教」と取り違えたり、
般若経の引用でも、わざわざ質問者のほうが敬語を使わず、返答者のほうが
敬語を使うようにしたりと、正当な実相の序列にことごとく反した記述となっている。
東洋人にだって、金や物への興味がまったくないわけじゃない。
でも、金や物への興味以上にも、精神や道徳、真理などへの興味のほうが大きい。
虚構にまみれた概念遊びへの興味よりも、実相からの善悪吉凶への興味のほうがさらに大きい。
そして実際に、実相からの吉凶善悪をわきまえた純粋精神や人間道徳、絶対真理などに
関しての、文化文明的な体系構築を重ねてきた東洋教学のほうが、ただ虚構だけの
概念遊びによる物質性や金融詐欺の追及ばかりに陥ってきた洋学や聖書教などよりも、
質でも量でも古さでも、あらゆる面において完全なる優位にある。
でも、洋学や聖書教を進行させてきた西洋人や、今の日本人などには、
実相からの善悪吉凶をわきまえた純粋精神や人間道徳、絶対真理などへの興味は薄く、
虚構だけの概念遊びによる物質性や金融詐欺の追求ばかりに興味があるために、
質でも量でも古さでも、遥かに洋学や聖書教を上回るにもかかわらず、その志向性が
精神や道徳、真理などの方面にばかり専らである東洋教学の大部分が無かったものとされて、
質でも量でも古さでも東洋教学に遥かに劣るものの、ことに、概念遊びによる物や金の貪り
にかけてだけは、東洋教学をも遥かに上回っている洋学や聖書教ばかりが目に入り、
洋学や聖書教こそは、人類にとっての根本中の根本教学であるかのように思い込んでもいる。
422 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 20:16:32 0
金や物にしか興味がない人間こそは、まさに小人だ。
奴隷であれ、一般市民であれ、為政者であれ、
金や物への貪りばかりに陥って、最低限の人間道徳すらないがしろに
してしまうようなヤカラは、当然小人止まりの品性しか持ち合わせていない。
金や物への興味もあろうとて、それ以上もの道徳精神に対するわきまえがあり、
その道徳精神からの抑制によって、物欲や金銭欲にも節度を保てるのが君子。
「君子」と「小人」という言葉は、立派な人間への賞賛的形容や、俗悪な人間への侮蔑的形容として
用いられることもあれば、実際の社会的支配者や被支配者の身分を指す言葉として用いられることもある。
本当は、両者の意味が合致しているほうがより好ましく、立派な人間こそは支配者となり、俗悪な人間は
被支配者止まりでいることが、理想的な世の中の条件ともなる。しかし、実際にはそうであるとも限らず、
俗悪な人間こそは支配者となり、立派な人間こそは被支配者に甘んじているようなこともある。
そのような残念な世の中において、特に俗悪さきわまる重権力犯罪者などが、あえて「小人」という言葉で
貶されることもあるし、逆に、在野の被支配者でいながら立派でいる人間が、「君子」だなどと賞賛されることもある。
423 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 20:18:19 0
儒祖の孔子は、「大夫がてらが大きい顔をするような統治は五代ともたない(季氏第十六・二)」といった。
自らも侯公に次ぐ中下級官僚・士大夫の身分でありながら、冷徹な政治眼によって、本当のところを述べていた。
君臣侯公大夫士農工商といった、個々の階級の位において自らがなすべき仕事のみに専念し、
思うところその位を出ないのが君子でもあるわけで、誰しもが己の身分をわきまえてのお勤めに専念したなら、
底辺の商民から頂点の君子まで、誰しもが君子も同然の品性をわきまえることすらもが可能となる。
しかし、その逆もまたやはりあるのであって、古代ギリシャの支配階級のように、
ただのんべんだらりとして、民から財を収奪してホクホクでいればそれでいいというような支配者もいれば、
ユダヤ商民のように、商人階級の分際でいて、為政にまで口出しをし、挙句には政治的主導権すらをも
乗っ取るような場合すらある。支配者もなってなく、被支配者もなってない、誰しもが己が分をわきまえぬ
濁悪化社会においては、支配者と被支配者との違いにかかわりなく、誰しもが俗悪な小人と化しもする。
424 :
考える名無しさん:2010/12/28(火) 20:49:12 0
君子と小人の境い目も、「金や物に興味があるか否か」ではないんだ。
本当に金や物にしか興味が無く、精神や道徳への興味が全くわかないのが小人。
金や物への興味もあろうとて、精神や道徳への興味のほうがより大きいのが君子。
金や物に完全に興味がないのなら、出家して坊さんにでもなっているわけで、
財物への興味も多少はありつつ、それらをも超える純粋精神や権力道徳を持つ人間こそは
社会的身分からの「君子」にもなろうとするわけで、「君子」と呼ぶにより相応しい人間だといえる。
君子であるもの、君子となるものに、財物への欲求などを完全に捨て去ることを
期待するほうがおかしく、むしろ、最大級の物欲や金銭欲をも宿しながらも、
それらをも超える純粋精神や権力道徳、そして絶対真理をわきまえる人間こそは、
立派な人間でいて、しかも本物の支配階級でもある「君子」となるに相応しい。
社会的支配者としての君子でもありながら、絶対真理までをも自力で把捉するのは
まず不可能であるため、純粋精神や権力道徳とは違って、絶対真理だけは、
本当に出家して自力の修行に勤める坊さんなどに任せる必要もある。
今日も、かなり可愛くなったよ?
426 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 14:15:59 0
「余明紀を読むに、其の季世に至りて、君相其の人に匪ず。宦官宮妾事を用い、
賂遺公行し、兵馬衰弱し、国帑は則ち空虚となり、政事は只だ是れ貨幣を料理するのみ。
東林も党せざるを得ず、闖賊も蠢せざるを得ず、終に胡満の釁に乗じ夏を簒うことを馴致す。
嗟嗟、後世戒むる所を知らざる可けんや」(言志四録・後録・四〇)
官僚登用のための科挙試験科目が五経から四書一経に移行し、
孔子や孟子が学んだ内容よりも、孔子や孟子への個人崇拝に体制が移行してしまった、
まさに「儒学」が「儒教」と化した明代における、官僚に限らぬ、世相全体の腐敗の提示。
政府要人もろくでもないやつらばかり、卑賤な使用人の専横も跳梁し、
賄賂も半ば公然と行われ、下層の労働者(昔の中国なら軍部)は疲弊し、
国庫は空で借金まみれともなり、政治といえばただ「金をどうするか」だけ。
徒党を組むことを忌む儒者ですら徒党を組むことでしか面子を保てず、
鼠賊どもも蠢かざるわけにはいかず。そしてついには異国の餌食となった。
今の資本主義先進国とも、なんら変わりゃしない。違いといえば、四書のうちの「論語」すらもが
抄訳してかじられる程度にまで民度が低下している、今のほうがさらに深刻であることぐらい。
「後世の人間はこれをして戒めざることあるべからず」と佐藤一斎も念を押していたのに、
東洋史なんか未だ知らない西洋人はともかく、日本人すらもが明の二の轍を踏むとはな。
427 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 14:35:52 0
「君子にして不才無能なる者之れ有り。猶お以て社稷(国家)を鎮む可し。
小人にして多才多芸なる者之れ有り。まさに以て人の国を乱るに足る」
(言志四録・後録・一六六)
江戸末期にもまだ、こんなに真っ当な儒学理解の行き届いている人がいたのに、
明治以降には急にいなくなった。西郷隆盛も「言志四録」の愛読者だったようだが、
江戸で火付盗賊を煽って幕府の信用失墜を狙うなど、君子には程遠い行状も目に付く。
「儒学」が分かっている真の儒者がいたとて、当人やその書物への崇拝ばかりが
広められるのでは「儒教」止まりとなり、儒教信者が儒学を実践したりすることもない。
「教」に終始するのはあくまで初級者のみ。上級者や有段者ともなれば「教」から
自主的な「学」に進んで、自らが儒学を盛り立てていくほどもの実践性が要求される。
428 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 22:13:27 0
>>426これは知りませんでした。
穢土時代は実力主義(合理化が進む)から徳川を「ほとけ」として
信仰させる最低の時代でしたね。おそらく明の影響を
うけていたのだと思う。
その、鏡映認知障害が治癒せずに禁治産者となるか、
治癒して社会の底辺からやり直すかだ。
430 :
考える名無しさん:2010/12/29(水) 23:23:33 0
>>427 あなた、その儒学の「実践」として2チャンネルでの発言以外には何やってんの?
どうしようもない現実を、どうにでもなる彼氏と共に。
絶対他力こそは、女の美学。
乱世には世を避ける、
儒学の実践の半分ぐらい。
治世には率先して働く、
儒学の実践のもう半分。
乱世には烈火のごとく暴れまわる。
精神障害カルトの実践の半分ぐらい。
治世には大人の幼稚園児でいる。
精神障害カルトの実践のもう半分。
437 :
考える名無しさん:2010/12/31(金) 23:26:04 0
おまえらは、俺に携わったほどにも偉大だ。
438 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 11:59:24 0
439 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 12:05:59 0
>>433-436 昔、曹操という偉大な人物がいて、
「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と
評されていたんだよーん。
曹操のように乱世にこそ活躍するタイプもいる。
440 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 14:25:20 0
東洋では、勇気一本槍な英雄の評価は、聖賢への評価よりも劣る。
ヘラクレスやアキレスのような英雄よりも格上とされる、
ギリシャ神話の神々などは実在しないが、聖賢は実在するから、
実際上の聖賢への応対の如何が、英雄の運命をも左右している。
項羽は、人の言うことを聞かない頑迷な英雄であり、
知謀に長けた范増のような賢人の助言も無視し、挙句には見限られ、
無鉄砲な激戦を繰り広げた挙句に自ら首はねた。
知謀にも長けたオデュッセウス型の英雄だった韓信も、
友軍だった老儒の酈食其が、弁舌一つで自分以上もの功績を
挙げようとしていたのをねたんで酈食を殺し、その剣呑さが
後々に警戒される原因となって、挙句には誅戮されることともなった。
劉邦のように、儒者や隠者のような聖賢の言葉にも素直に耳を傾ける
度量の広さも備わっていればこそ、最大級の成功を得る英雄ともなれる。
聖賢が実在しており、実際に聖賢との関係が必要となる場合もあった
東洋であればこそ、英雄が聖賢の庇護を得るかどうかが命題ともなった。
441 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 14:51:36 0
英雄に限らず、臆病な人間不信の覇者だった始皇帝だって、
王君による絶対支配を法律による雁字搦めで画策する韓非の説などを取り入れ、
王に次ぐ権力を持つ各国の諸侯も廃し、儒者を穴埋めにして経書や史書を
焼き捨てるなどの愚行によって、自らの権力の絶対化などを図ったために、
わずか二代・15年にして秦帝国を自滅させることともなった。
ただ「大きいことをやってやる」「自らが絶対的な存在になってやる」などと志して
時と場合をもわきまえぬ多動に走るのは、それ自体が小人の証であり、
最悪の乱世と治世の違いぐらいはわきまえて、公害を排して公益をもたらす
善良な方向性を自らの活動に付与できるのが君子であり、聖賢だといえる。
小人のように、いついかなる時も多動でいようとするのではなく、分別をわきまえた
活動こそを志すので、聖賢自身が大成功を果たすということはあまり多くない。
というよりもむしろ、小さくて劣悪な環境の封土をあえて選んだ張良や蕭何のように、
聖賢であるものこそは節度をわきまえた成功のみにとどめることで、
身に降りかかる火の粉を未然に食い止めたりもするので、
やはり最大級の成功を欲するのも、得るのも英雄ということにはなるが、
英雄であっても小人ではなく、常人程度にはまともでもあるほうがいいのだ。
442 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 20:14:07 0
劉邦の儒者嫌いは有名で、彼は自分に会いに来る学者を必ず最初に
罵倒するか侮辱するらしい。がその後必ずすぐ謝って
その言わんとするところを選んで実行する。彼はまさに
不世出の大天才で、のちの人類の天才分類の一つの分野にまで
なってしまった(支配能力の才)。すごいよね、彼は。
443 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 22:28:07 0
そいつの嫁が「人豚」作成で有名な呂皇か?
444 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 22:56:01 0
今日は、初詣と、先年亡くなった母方の祖父のお参りをした。
始めは、祖父のお参りはしないつもりだった。
「書経」虞書・舜典に、すでに亡き堯帝の家を祭る祖廟で、舜が正式な帝位に就くことを正月元日に報告するなど、
元日に故人の霊廟をお参りすることは礼法上、故人の遺志を汲んで、その業績を引き継ぐことを意味することともなる。
前にも書いたとおり、俺の母方は大名に次ぐほどもの上級武家の家系で、
明治維新以降にも政府重役を代々歴任した名門の家だった。
祖父の叔父が満州帝国の建国にも貢献し、ラストエンペラー溥儀とも深い親交があるなど、
それはそれは、戦前にブイブイいわせていた家柄なわけだが、敗戦によって一挙に没落路線を突き進み、
今はどうということもない、普通の中流家庭となってしまっている。
祖父自身は、戦前にはまだ訓練兵の段階であり、自分自身が直接戦地に赴くこともなかったが、
やはり軍部の重役にも多くの人材を送り込んでいる家柄からも、軍隊などへの憧憬は大きかったようで、
戦後にも模造の軍刀を好んで買い入れるなどの、ある意味時代遅れな性向を持ち合わせた、
戦後のゆるゆるムードに馴れきった人々などからは厄介扱いされるような人でもあった。
445 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 22:56:56 0
そのような祖父の意志を、自分はそのまま引き継ぐつもりはない。
ただでさえ母方の祖父である上、戦前に特に大きな影響力を持った家柄。
明治維新以降、西洋文化の流入が認められて以降の、近現代の日本社会の正統性を認めていない俺としては、
戦前に大きな影響力を持っていたことは、むしろ減点対象ですらあり、だからといって憧憬の念を抱くなどということもない。
ましてや、元日に故人のお参りをすることは、故人の遺志を受け継ぐほどもの重大な意味を持つものであるからして、
遺志を受け継ぐつもりがないのなら、それこそ元日のお参りはあえて避けるべきものですらある。
それでもやっぱり、お参りをした。
遺志を受け継ぐつもりでもないが、やっぱりお参りをすることにしたのは、結局は親愛の情による。
血のつながりはないものの、堯帝の事業を継承する意向を明確化するために、堯帝の家の祖廟に元日参詣した
舜帝とは違って、俺と祖父とは当然、血のつながりがある。戦後には腑抜けの自衛隊しかなくなりながらも、
相変わらず軍隊を憧憬し続けていた祖父の遺志などを受け継ぐつもりはないが、やはり実の祖父であることを理由にお参りした。
親愛の情すらも欠けるところで、立派な為政などが立ち行くはずもない。
孔子も「三年父の道を改むることなきを孝と謂うべし(学而第一・一一)」というなど、
先年亡くなった祖父への態度と、堯の帝業を暫定的に引き継いで28年の後、堯が亡くなって、
さらに三年の喪に服した後に初めて、帝業の正式な引継ぎを堯の祖廟に報告した、舜の堯への態度などが全く同じでいいはずもなく、
同じ態度であってはならないからこそ、元日に故人を参詣するという行動のほうは一致することとなった。
446 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 23:09:46 0
法律万能主義的な姿勢に基づくなら、
「元日に故人をお参りすることは、故人の遺志を引き継ぐことなる」
と書いてあって、自分が遺志を引き継ぐつもりがないのなら、
絶対にお参りしてはいけないことになって、実際にお参りすることもない。
でも、礼儀は法律ではなく、その場その時において融通を利かせるべきものでもあるから、
孝悌の念を善悪のせめぎ合い以上にも尊重する孔孟流の正統儒学にも即して、
五経のうちの「書経」に明記された判例に従うことすらも、あえてしなかった。
このほうが、儒学の正しい実践の仕方といえるのではないか。
書いてあることをそのまま受け取って、杓子定規に従おうとするのではなく、
時宜に即して臨機応変なあり方を心がけてこそ、法家ではない儒家の実践になり、
また儒教ではない儒学の実践にもなるのではないか。そう自分は信じている。
447 :
考える名無しさん:2011/01/01(土) 23:40:30 0
>>439 フィクション以上にもノンフィクションを重んずる儒者にも、
漢室の帝位を簒奪して帝となった曹家を本朝も同然の扱いとする
正史「三国志」は非難の対象とされている。
フィクション混じりでありながらも、劉家の末裔である劉備や
その重臣諸葛亮などを主人公格として扱う小説「三国志演義」のほうが、
例外的に儒者からの評価も高い。(だからといって正史扱いまではしないが)
いま人気があるのも、正史三国志ではなく三国志演義のほう。
448 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 03:36:37 0
>>445すると戦国策に書かれてる「趙の某王(名前は忘れた)が
軍事力を上げるために胡服騎射を採用した」という話が気になりませんか?
俺はそういった「方法」や「技術」は敵の侵略をはねつけられないのなら、
甘んじて受け入れるべきだと思う。というか西洋が「もたらせた」と
される技術のほぼ全ては支那宋代に発明されたものが西に伝わり
発展したもの。むしろキリスト歴1400年くらいから惰眠を貪っていた
支那や日本など滅んで当然で、これからもっと強く豊かになれる
新しい国を作っていくべきでは?当然国家の芯は明治の薄ら馬鹿が軽視し
破壊した儒仏であり、その実践である。
449 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 08:08:17 0
祖父が亡くなった直後に遺品の整理をしていた所、戦前のまだ若い頃に書かれた手記が見つかった。
A5サイズのノートに、アリのように小さな文字でびっしりと当時の思いなどがつづられていて、
紙を含む資源不足だった時代にも、必死で読み書きに勤勉だったことがうかがえる。
その手記の内容はといえば、
まだ徳育教育が正式に行われていた時代、「孟子」や武経七書などの、東洋教学関連の書物から
特に精神論的な句が引かれて、そこに自分の感想などが書き込まれている。
一方で、ゲーテやトルストイなどの、個人的に読んだ西洋文学からの引用もあり、
そこにも孟子などと同じように、内容を真に受けた感想が書かれている。
当時の時勢に即した雑感なども多く書かれていて、アメリカの謀略に乗せられて真珠湾攻撃にも乗り出し、
戦線をどこもかしこもに広げすぎたあまり戦局が極めて不利と化していた当時の日本の情勢などを鑑みて、
「ユダヤは怖い存在だ」と述べていた。
450 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 08:10:44 0
今でこそ陰謀論の煙にも巻かれている、ユダヤやメイソンの危険性を、
軍上層部の身内であり、そこそこ勤勉だった若い頃の祖父などが察知していた。
完全に洗脳支配が行き届いてしまっている今の日本人よりは、
まだ戦前の日本人のほうが正気を保てていた証拠にもなっている、が、しかし、
それにしたって、祖父のユダヤへの恐怖も、完全に適正なものだったとまではいえない。
公衆の面前で、素っ裸のキチ○イが奇声をあげながら包丁を振り回していれば、
それも当然恐怖の対象になる。ただ、それは相手の危険性を適正に察知した上での警戒からくる恐怖であり、
即刻相手を警察や病院に引き渡すことをも念頭に置いていて、相手の社会適合性などを全く認めてもいない。
戦前の祖父の場合などはそうではなく、ユダヤをそれなりの社会適合性も持った立派な存在であると
認めた上で畏怖していたために、「ユダヤは怖い存在だ」という本音をもらしてもいた。
ゲーテやトルストイのような西洋文学も読み込んで、西洋文化もまた立派な文化だと
是認してしまっていたから、孟子や七書すら読んでいたにも関わらず、
公然と包丁を振り回すキチ○イどもを、対等以上の相手として畏怖するようなザマになってしまってもいた。
それですら、怖るべき危険性を怖れる警戒を欠かしていなかったぶんだけ、
警戒すら持たない「まな板の上の鯉」状態と化した今の日本人などよりは、
まだ正気を保てていたのも間違いない。西洋文化の肯定的流入によってすでに精神を蝕まれつつは
あったものの、まだ西洋を「異形の存在」として警戒対象にするぐらいの機転は働いていた。
今の日本人はといえば、西洋文化を完全に自分たちのもの扱いしてしまい、
逆に儒仏のような東洋文化のほうを他人行儀にすら扱う始末。
明治から戦前にかけての日本人がもろ手を挙げて称賛できる存在でないのは確かにしても、
その近代日本人よりもさらに劣化してしまっているのが、現代の日本人であるとわきまえねばならない。
ユダヤやプロテスタントギャングが「恐れるべき存在である」
という結論の部分だけは、自分も亡き祖父と変わるところがない。
しかし、それが「畏怖すべき対等以上の相手」だから恐れるのと、
「素っ裸で奇声をあげながら公然と包丁を振り回す相手」だから
恐れるのとでは、地と天ほどもの開きがあり、前者ではなく
後者として恐れるべきだと考えている点が、祖父とは違う。
×全く恐怖心を喪失したまな板の上の鯉状態でいる。
↓
△対等以上の相手として畏怖する。
↓
○即刻警察や病院に引き渡すべき危険物として警戒する。
452 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 12:28:50 0
「將とは、智、信、仁、勇、嚴なり(孫子・始計第一)」
「故に將の慎しむ所に五つあり、一に曰く理、二に曰く備、三に曰く果、四に曰く戒、五に曰く約。
理とは、衆を治むること寡を治むるが如し。備とは、門を出ずれば敵を見るが如し。果とは、敵に臨みて
生を懷わず。戒とは、克つと雖も始めて戰うが如し。約とは、法令省いて煩わしからず(呉子・論將第四)」
「將軍は身なり、卒は支なり、伍は指拇なり(司馬法・定爵第三)」
「將帥は心なり、群下は支節なり。其の心動くに誠を以てすれば、支節必ず力あり(尉繚子・攻權第五)」
「所謂五材とは、勇、智、仁、信、忠なり(六韜・龍韜・論將第十九)」
「將は冬、裘を服せず。夏、扇を操らず。雨ふれども蓋を張らざるを、名づけて禮將と曰ふ(六韜・龍韜・勵軍第二十三)」
「軍井未だ達せざれば、將渇けるを言わず。軍幕未だ?ぜざれば、將倦めるを言わず。軍竈未だ炊がざれば、
將飢えたるを言わず。冬裘を服せず、夏扇を操らず、雨にして蓋を張らず、是れを將の禮と謂う(三略・上略)」
祖父が手記の冒頭に貼り付けていた、武経七書中の「将の心得」に関する抜書きのメモ。
もしも、もう少し早く生まれるか、戦争が続いていたならば、祖父も将兵として活躍することができたはず。
しかし、上記の引用すべてが精神論。七書には、相当にえげつない実戦論なども多く書かれていて、
そのえげつなさを相殺する目的で、精神論にかけての高潔に過ぎるような記述も多く見られるわけだが、
その精神論の部分ばかりを抜書きして、肝心の実戦論の部分は一つも引用していない。
祖父に限らず、当時の軍部の人間はみんなこんな精神論への一辺倒に凝り固まっていたはずで、
だからこそ、七書を読んだりもしながらも、その実戦部分は疎かにして、兵站を疎かにしてまで戦線を拡大したりの、
「孫子」などで禁忌とされる下策にも及んだことが致命傷となって、日本軍は敗北することともなった。
453 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 12:51:43 0
戦前の祖父のように、日本人が対等級の相手として警戒の対象とすべきなのは、むしろ中国人や朝鮮人などのほうだ。
俺もいま、中国原産の儒家や兵家などを勉強しているわけだが、隣国を無制限な親交の対象とするのは、
なにも最悪の乱世に限らずとも危険なこととされる。儒仏文化の模範的な取り入れに勤めた聖徳太子も、
中国との対等外交に臨んで隋の煬帝を激怒させたりもしている。その国の伝統文化を尊重することと、
現代の国際交流などを同一視してはならず、未だ共産主義国である中国や北朝鮮からの侵略を防止するためにも、
最低限の軍備によって、日本の西側の社会への警戒を崩さないように勤めておかなければならない。
しかし、それは中国や朝鮮といった東洋の隣国に対してこそであり、西洋に対してではない。
西洋は、結局日本にとって対等な相手ではない。自ら光を嫌い闇を好んで、日没する西方へと逃げ込んでいった
精神障害者たちの集まり。そんな相手に対して対等な対決を試みるのでは、こちらの貫目を下げるだけとなる。
西洋人に対して、日本人のような東洋人こそは「優しいお巡りさん」や「優しいお医者さん」でいなければならない。
東洋人こそは、西洋人に対する手厚い保護を保障して、責任を持っての財産管理などに従事してあげなければならない。
もちろん、日本人だけで欧米人全員を管理保護してあげるのも無理があるから、ムスリム世界裁判所や、
インドのウパニシャッド哲学者などとも提携して、自性把捉を喪失して行為能力の濫用にひた走る
欧米人たち全員を、優しい優しい保護管理の下に置いてあげるようにしなければならない。
454 :
考える名無しさん:2011/01/02(日) 13:30:15 0
祖父の手記の中でもう一つ興味深かったのは、
当時同盟国でもあったドイツ人への思い。
「私はドイツ人が嫌いである。しかしこれは、
私の“盛者へのねたみ”という性格によるものであると思われる」
って、正直に独白してるんだ。
隆盛しているからねたみ、嫌悪の対象にする。
衰亡すれば、ねたみはなくなって、むしろ可愛がりの対象にもする。
確かに、俺とも性格が似てるんだ。
あの時代に俺が産まれてたら、やはり祖父と同じようでいたことだろう。
そして実際には、俺は今という時代に生きる人間だから、
ドイツ人などの欧米人を、もはやねたんで嫌ったりすることもない。
南無阿弥陀仏。
455 :
愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る。:2011/01/03(月) 12:01:52 0
中国や、インドやアラブが可愛いわけがない。
薄汚い、セックスアピールにも欠ける、男どもばかりの世界。
欧米こそは、色好みの塊な、女だらけの世界。
責任をもって養いたい気持ちにもさせるほど、KAWAII!
456 :
愛してしかもその悪を知り、憎んでしかもその善を知る。:2011/01/03(月) 12:03:57 0
中国やインドやアラブは自分自身。
欧米こそは貴女。
457 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 14:54:18 0
素敵な奥さん
スーパーファーストレヂー
「私は欧米人が好きである。しかしこれは、
私の“衰亡者への慈しみ”という性格によるものであると思われる」
武経七書には、祖父が引用していた
>>452のような精神論だけでなく、
諜報や賄賂も活用したえげつない実戦論が目白押しにもなっているわけだが、
その汚らしさを相殺するために、半ば高潔すぎるような精神論すらもが併載されている。
汚らしさを相殺することにもちゃんと意味があって、
「六韜」冒頭の文韜などでは、士農工商の四民の位階を正した立派な仁政が推奨された上で、
賄賂で敵を篭絡するなどの、汚いにも程がある特殊戦法を後に列挙していっている。
これは、徳川家康が得意とした戦法でもあるが、徳川の場合はちゃんと四民制に基づく
徳治社会も実施しており、戦術の部分ばかりを用いて乱世を煽るようなこともしていない。
高潔な精神論や仁政論も述べつつ、汚らしい実戦論も共に述べ立てるのは、
精神性や道徳性が通用する泰平社会と、実戦第一である乱世の分別を付けるべきだとしているからで、
この点が、武経七書などの東洋流の戦闘論と、「戦争は政治行為の延長である」とする
クラウゼヴィッツ流の戦争論との明らかな相違点となっている。
(東洋兵法は総力戦を避けることも兵法のうちに入れているため、
あくまで「戦闘論」であって、「戦争論」ではない)
460 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 18:47:37 0
精神論や道徳論も通用しない、総力を挙げての激戦状態においてこそ、
祖父を含む旧日本軍の関係者たちは、七書中の精神論的な部分の実践ばかりを試みていた。
そりゃあ、明らかに七書の扱い方をも間違えていたのであり、アメリカに戦争の早期終了を名目にした
原爆投下の口実を与えてしまうほどにも、絶え間ない積極戦争状態に当時の日本が陥っていたことは、
明らかに、戦争を政治行為の延長として捉えるクラウゼヴィッツ流の戦争論のほうの
実践になってしまっていたのだから、戦闘行為に対して消極的であることを第一とする
東洋兵法の体裁を保てていたのは、むしろアメリカなどのほうですらあったといえる。
イギリスなどの支援によって、ユダヤ人が無理やり中東の西方に建国したイスラエルに
莫大な軍事的援助を行い続け、中東人やアフリカ人のほうにすら軍事物資を売りつけて、
敵味方の区別もなく激戦状態を煽っている今のアメリカは、明らかにクラウゼヴィッツの戦争論の
ほうに則っており、この前にはイラクやアフガンにも侵攻して、国際社会からの支持を大きく損なった。
日本人のような東洋人であれ、アメリカ人のような西洋人であれ、
乱世と泰平の分別を付け、あくまで戦闘行為に消極的であろうとする東洋兵法に則った場合に優勢となり、
乱世と泰平の区別も付けずに、積極的な戦争状態に陥るプロシア兵法に則った場合に劣勢となっている。
461 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 19:34:34 0
戦いに対して消極的であることが、戦闘上の勝因ともなり、
戦いに対して積極的であることが、戦闘上の敗因ともなる。
意識的にであれ無意識にであれ、戦いにはまず消極的であれとする、
東洋兵法の実践者こそは勝者となり、戦いに対して積極的であっても
それでよしとする、プロシア兵法の実践者こそは敗者となっている
ことからも、上記の法則が普遍的なものであることがわかる。
じゃあ、東洋人がなぜ、戦闘への消極さの優位性を見抜いたのかといえば、
やはり道家の影響が大きい。太公望にしろ黄石公にしろ諸葛孔明にしろ、
中国の著名な兵法家には、隠者を兼ねていたり、以前隠者だったりした人間が多い。
無為自然の中にわが身を置く中で、数多の名戦術が編み出されてもいたために、
戦闘に対して消極的であることの優位さまでもが、自然とわきまえられた。
無為は、確かに強いんだ。戦って勝つ上での必勝法のうちにすら、行動への消極性がある。
動き続けているものはそれだけ疲労し、動かないでいるものが楽でいるのも当然。
当然のことなのに、近現代人のうちにこのことを意識的にわきまえられている人間は少なく、
執拗に動き回っていようとする自業自得によって、自ずから敗北者ともなっている。
462 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 19:56:18 0
今のローマ法王も加入していたヒトラーユーゲントなども、
体育をものすごく重視していたらしく、そのことなどを以て
「ナチスドイツは健康大国だった」などと言われもする。
しかし、本当は体育やスポーツばかりをやり込めることが健康なんじゃない。
人として適切な範囲の運動を、日常生活の中から心がけておくことが最も健康。
プロのスポーツ選手など、引退した途端に老け込んででっぷりと太ったりもするが、
完全に体育活動と日常生活を切り離していたから、あんなことになる。
もちろん、プロスポーツに匹敵するような過酷な運動を、
日常から行い続けることはできず、無理にしたりすればそれこそ健康を損なう。
太極拳やヨガや合気道などの、年寄りでもできるぐらいに軽い運動のほうがよく、
さらには一定の体育活動にすら頼らない、几帳面な日常生活を送れるようになればいい。
すなわち、礼儀作法をわきまえた日常生活。礼儀こそは、最も健康な活動だといえる。
(もちろん、スパルタ教育などと混同されていない、正規の純粋な礼儀作法に限る)
463 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 21:58:45 0
無為は、強い。強すぎるといっても過言ではない。
あまりにも反則的に強すぎるから、現行社会においては、
核兵器の実用並みかそれ以上もの禁忌扱いにすらされてしまっている。
でも、無為が人を殺すわけじゃない。
ロックフェラーのCEOなどもお先真っ暗なために自殺してしまったが、
あれもあくまで、自らが悪行を積み重ねて来たことによる自業自得であり、
善悪の分かれ目となった無為自然自体は、どこまでも無害無益なままであるのみ。
無害無益から、有害無益へと移行するのはもってのほかだが、
有益無害へと移行するのは全くよろしいこと。すなわち、道家の実践から儒家の実践への移行。
祖先の過ちをわざわざ述べ立てたりしている、今の俺の姿勢なども孝悌の念に欠けており、
「親が罪を犯しても、舜ならば帝位を捨てて親を背負い、共に山奥へと逃げ込むだろう(孟子)」
というほどもの孝行の実践からは、いささかかけ離れているといえる。
今の自分はむしろ、貨殖や遊侠の行状すらもありのままに「史記」に記録した司馬遷のような、
万物斉同の道家的な見地のほうに即して、ものを書いたりもしている。
これももし、自分が道家から儒家の本格的な実践へと移るのならば、変易の対象となるところであり、
祖先の過ちをあえて述べ立てたりすることも、もうしない。
一つ一つの言葉や思考から、万物斉同の無為自然ではなく、
専守忠孝の勧善懲悪となるように、心がけていく。
464 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 22:37:35 0
東条英機が敗北間際になっても「神風が吹く!」と本気で考えていたのはどういった
思想によるものなのでしょうか?
465 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 23:02:13 0
まあ、
「勝つための布石をしっかりと敷き詰めて、絶対に勝てる場合に限って戦え」
という、孫子の思想などに即していないことは確かだ。
「神風」の語源は知ってのとおり、元寇での台風襲来による蒙古軍の損壊だが、
当時の鎌倉武士たちも、「やあやあ我こそは」での一騎打ちから始まる国内流の
戦闘を改めて、夜間に蒙古軍の船中にこっそりと忍び込んで斬り込むなどの、
機転を利かせた戦闘行為に及ぶことで、蒙古軍の完全撃退にも成功している。
ただただ無鉄砲に激戦状態へと及びながら、万に一つもない僥倖を期待していた
東条英機などは、孫子でも鎌倉武士でもなく、漱石の「ぼっちゃん」あたりに比肩するものだ。
ちなみに東条英機は、俺の親戚でも上司でもないからな。今の管や鳩山などとも同じく。
466 :
考える名無しさん:2011/01/03(月) 23:58:51 0
敗戦後、自殺を試みたものの失敗し、
巣鴨プリズンに収監されて後に、東条英機は教誨師である
花山信勝の勧めで浄土真宗に帰依したという。
自らも自殺を試み、生き延びても処刑がすでに確定していた、
生ける屍と化して後に初めて、真宗に帰依した東条の姿勢は、
体失往生ではなく不体失往生を肯定した親鸞聖人の意向にも反している。
むしろ、禅宗あたりにでも帰依して、「心頭滅却すれば火もまた涼し」
とでもうそぶきながら死んでいったほうが、戦時中の威勢のよさとも
符合して、言行不一致の不名誉を避けるぐらいのことはできたろうに。
七書や四書五経や念仏だって、当時にもすでにあったはずなのに、
その受容の仕方を誤ったり、洋学などからの隔離優遇が行き届いて
いなかったりしたために、その効力を十分に発揮することができなかった。
「人も運に乗じては悪をなすといへども、
其の悪十成する時に、是れをうつ」(兵法家伝書・殺人刀)
ともいうが、まことに、時宜というものはうつろいやすいものだといえる。
467 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 00:23:13 0
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
じゃなくて、
「心頭滅却すれば首吊りもまた楽し」
か。
やけくそもそこまでいけば清々しかったのに。
468 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 02:40:11 0
スッタニパータは、素人が手出しするのも恐れ多い、本格の出家修行者向けの経典。
その文体も実用第一の素朴なもので、文学的な吟味対象としての魅力も低い。
あなた、出家するつもり?
470 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 05:40:41 0
なぜ当時の軍事官僚たちは孫子を知らなかったのだろう?
471 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 08:56:10 0
孫子も、知ってはいたさ。
知ってはいても、その戦略面からの実践を、
プロシア兵法や漱石文学のほうに譲っていたわけだ。
戦いに積極的な兵法を実践すれば、当然そのぶんだけ消極的な兵法の実践は疎かになり、
親譲りの無鉄砲で親指を切り裂く自己矛盾文学が持て囃されれば、当然そのぶんだけ
理詰めの戦略のみを専門的に畳み掛ける思慮深さは疎かになる。
どちらかを立てればもう一方が立たない、相反性による板挟み状態に甘んじていたから、
戦時中の日本軍関係者も、七書の内容すら察知しながら、その実践は覚束なかった。
だぁから、「東洋もありだけど西洋もありだ」みたいな、偽善的な平等志向じゃダメだってんだ。
優良なものと劣悪なものとは、互いに相反する方向性を主張し、
一方を立てればもう一方が立たないのはもちろんのこと、
両方を立てようとした所で両方の長所を打ち消し合うザマとなる。
可愛げはなくても見習うべきものと、
可愛くても見習うには値しないものとの扱いの区別ぐらいを付けた上で
初めて、両者の長所までもが活かされていくことになる。
472 :
考える名無しさん:2011/01/04(火) 19:11:17 0
可愛い子は、可愛いままでもいいんだよ?
たとえ社会の底辺まで身分を貶められようとも、
その可愛さすらあれば、決してみんなが見捨てることはない。
絶対他力なら、発言も含めて何もしないでいなければ。
何もしないどころか、むしろ何もできないぐらいになって。
・・ほう。
444以降の述懐(・・でいいよな?)は、なかなか読ませるね。
小人なりと言えども、それぐらいの感受性を欠きはしないさ。
ねぇ?東学さん。
475 :
考える名無しさん:2011/01/05(水) 17:15:06 0
反戦でも非戦でもなく、戦って勝つためにこそ、
戦闘への消極性が必要なわけだがね。
しかし、どうしたって、
夫以外の誰かに頼ることがやめられないのかね。
476 :
佞臣の専横に屈伏せるは無上の不忠なり:2011/01/05(水) 19:45:52 0
妻が夫以外の他人、特に、過去や架空の神さま仏さまに
頼ったりするのは、夫が頼りなくて、しかも宮仕えなどもしない、
百姓や町人などの庶民である場合のこと。
たとえ夫が頼りなかろうとも、夫が宮仕えをする士大夫であるならば、
神さま仏さまなどではなく、夫にとっての実の君父を頼るのが筋というもの。
甲斐性無しなり不行跡なりで家を汚そうものなら、
夫が仕官している主君や、夫の実親の裁きを仰ぎ、
最悪の場合にはお家取り潰しなどの断固たる処分を被る。
それが恐ろしいから、夫のほうも勤勉かつ清廉でいようとする。
これが「君臣」「父子」「夫婦」の、三つの人間関係を重んずる三綱の意義。
野獣のような欲望を自分独りで受け止めようなどとはせず、
相手の獣欲を十分に抑え付けられるだけの高貴さを持つお方を味方につける。
ヒントを出せば、天皇陛下では高貴すぎる。
誰もかれもが高位すぎる主君への直接的な臣従を望んだところで、
主君のほうも全員の面倒までは見切れない。
墾田永年私財法による荘園制の発祥により、徐々に国内の私有地が肥大化して行き、
ついには天皇を実質からの長とする律令制度による統治支配が行き届かなくなり、
権威以上にも直接的な武力によって百姓を治める、武家社会へと実権が移行することとなった。
そのような事情があるのに、庶民による土地私有は認めたまま武家社会だけは廃止して、
大化の改新による律令制発足時ともほぼ同等の政治体制に戻ってしまったのが、今の日本の政治体制。
仔細にまで統治支配が行き届かなくて当然なのであり、
武家社会以上もの大人数と化した国民全てを、天皇陛下への直接的な帰属に
押し込めようってほうが、無理がある話。天皇陛下の臣下の臣下だったり、
臣下の臣下の臣下だったりに帰属するほうが、大部分の士人の領分とすらなるだろう。
天皇に征夷大将軍に任命された徳川将軍家の、重臣にあたる大名である京極備前守、
さらにその部下である火付盗賊改長官、長谷川平蔵の下で働く同心、木村忠吾などが、
平蔵の怒りに触れることを恐れて、妻子をほっぽり出しての浮気を控えたり控えなかったり
する姿が「鬼平犯科帳」でも描かれている。これはあからさまなフィクションであるにしろ、
史実上の鬼平にしたって、若い頃には放蕩無頼の遊興三昧だったのが、家督を継いで
妻子を得、徳川将軍家にもお目見えして後には心を改めて、清廉なお勤めに専念している。
まあ、そういう感じだ。
上下関係が頂点と底辺ばかりではなく、緩やかな稜線を描いて親密なものとなる、
封建社会ならではの人情深さの下においてこそ、切実に守られるのが三綱でもある。
480 :
考える名無しさん:2011/01/06(木) 13:50:11 0
>>471欧州みたいに「ルネサンスで古代ギリシャ文明を復古させた」とか
なんとかいって異教徒の影響をなかったことにすればよかったのにねw
名か実かであれば、名を捨てて実のほうを取るべきだな。東洋人なら。
自分たちが西洋の劣悪な腐敗文化を積極的に取り入れてしまったせいで、
国や人々を台無しにしてしまったことをも積極的に認めて、
公然からの大々的な反省をもバネにした伝統文化の復興に臨んでいく。
優等な文化の構築者であったものが、劣悪な文化を取り入れたのならばそうする。
逆に、元々が劣悪な腐敗文化の構築者であったものが、
外界の異国人などの作り上げた優良な文化を借用なり剽窃なり
したのなら、それらの文化の紛いなりにでも享受によって、
人間様が作り上げた真の文化のありがたさを受け入れたことは継承するが、
「受け入れた」という名目のほうは執拗に隠蔽して、
さもウリナラ起源の文化であるかのようにうそぶいて誇り高ぶる。
キリスト教徒が人に「しろしろ」いいながら、自分たちでは一度もしたことの
ない「悔い改め」を、キリスト教徒ではない東洋人のほうが積極的に行う。
一方で、キリスト教徒のほうはといえば、そもそも悔い改める能力なんかない。
大人が子供にできることができても、子供には大人にできることができないのと
同じように、そもそも悔い改めるほどにも、改めていく方向性をも見定められない
分際で矯正などをほざく、身の程知らずを悔い改める所から始めねばならない。
>>477 天皇陛下が、至高というわけ? その高貴概念は陳腐かつ浅薄ですな。
>>478 何、その解釈。。。「国民全てを、天皇陛下への直接的な帰属に・・」
ってのは、戦前の話だよな? もちろん。
明治時代の話をしてるの? それに、誰が語っているのかよくわからない
よ。いいかげん、コテつけろよな。まさか、東学さんじゃないよな。。。
>>477 ・・自分なら、自分の五感を通じて、自分の魂を十分以上に納得させた
ものだけを「高貴」と呼びますね。天皇はそういう存在じゃない。
名辞から変節しようとするやからが、何を普遍的に変えられようか。
486 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 12:01:00 0
天皇という階位、天皇という存在性を「高貴なものである」と
定義したのは、われわれ人間自身のほうだ。
それこそ「1+1=2」のように、最も高貴な存在として「天皇」を定義している。
それを後から「高貴じゃない」とかいうのは、「1+1=3だ」とか
「1+1=2じゃない」とかいうようなもので、自分自身の名辞上からの
定義を破る自己矛盾行為。自分の脚を食べて飢えをしのぐタコのようなもの。
洋学の哲学用語なども、個々の哲学者が適当に使ってるだけのもので、
個々の学者同士で言葉の定義から違ってたりするから、まともな論説同士の
すり合わせすら立ち行かない。東洋教学の場合はそうではなく、一つ一つの
用語の定義は厳密に定められており、それらの用語を用いての意見の戦わせ
などが行われている。人と人とが触れ合う上での最低限の調和としての、
名辞の一致ぐらいは済ませて居り、名辞から変節しようとするような
やからこそは、特定して異端扱いともされる。オウムのように。
487 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 14:03:01 0
概念遊びによって原初の名辞を歪め、
執拗に定義をこねくり回すことが重厚なのではなく、
それこそは浅薄なこと。
原初からの名辞こそを概念遊びなども抜きに
しっかとわきまえて、その定義のみに即した堅実な
論議を進めていくことが浅薄なのではなく、
それこそは重厚なこと。
確かに前者のほうが七色変化で見た目にも
面白くはあるが、それも重厚ではなく浅薄であればこそ。
後者のほうが一貫してセピア色のままで、色調的な
面白味にも欠けるが、それも浅薄ではなく重厚であればこそ。
若年向け女性誌などの装丁こそはキンキラキンであり、
漢籍や仏典の装丁こそは質朴であるように。
ちょっ・・ちょっと、待ってくださいよ。その「われわれ」の中に私を
含めないでくださいね。天皇が「高貴な存在である」と定義しているのは
あなた自身じゃないですか。私は、そう定義していない、と言ったでしょう?
天皇が「高貴な存在である」と定義しているのは、東学さん本人ですよ?
カン違いしないでください・・・。概念遊びしているのは、あなた御自身ですよ?
誰も、天皇を「高貴な存在である」などと決めつけてなどいませんけど?
決めつけているのは、あなたです。
489 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 22:33:34 0
前々々スレで、誰かが「荘子」秋水篇からいい話を引用してくれてたじゃない?
> 荘子と恵子が濠水にかかる橋の上をぶらぶら歩きしていたとき,荘子が川の中を見ながら,「見ろよ,小魚がすいすいと泳いでいるよ。あれが魚の幸せというやつだね」と言った。
> 「君はその魚ではないのに,どうして魚の幸せがわかるんだよ」と恵子が言った。
> 「同様に,君は私ではないな」と荘子は言い返した,「どうして私にはわからない,とわかるのかね。」
> 恵子はいきりたって言った,「君じゃないのだから君の思うことはわからないとしよう,同様に,君は魚ではないのだから,魚の幸せなんてわかるまいよ。」
> 荘子は言った,「君の最初の質問は‘私がどうして魚の幸せがわかるか’だった。今の君の質問は,‘私が知ったことを君が知った’ということだよ。この橋の上で,(私の気持から考えて)魚の楽しみがわかったということだよ。」
荘子と恵子は、定義を統一した言葉を用いて語り合っているから、
自他の区別が付きながら、相手の気持ちや、果ては魚の気持ちまで共に分かり合える。
490 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 22:34:36 0
言葉ってのは元来、名辞を統一した構文で意思疎通を果たすための道具なのであり、
個々人が勝手な名辞を取り決めて話を交わそうとすれば、そのぶんだけ話は通じない。
話を通じ合わせるということは、定義を統一した名辞による構文を交し合うということ。
いま俺とあなたの話がある程度は通じているのも、ある程度は定義を統一した言葉でも
話を交し合っているからなのであり、定義の統一を乱した途端に話は通じなくなる。
そこにもはや、言葉を交し合う意味はないのであり、言葉の定義の統一を
認めている限りにおいてのみ、会話の価値すらもが認められるもの。
言葉の定義から疑い合うような議論は、そもそもするだけ無駄なことだ。
491 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 22:45:17 0
今から約1400年前、聖徳太子などが活躍していた時代に、
諸々の王侯や、さらには皇帝すらをも上回る語義を持つ「天皇」という階位が定義され、
遣隋使における日の出外交などの手続きを通じて、日本の大王が
「天皇」という言葉の定義に正しく適った立場に立った。
その体裁は、今のところ全壊まではいったことがなく、
あくまで正式な手続きのみを通じて、日本の君主が天皇を名乗り続けている。
1400年前と今とで、相当な言葉遣いの変容なども来たしてはいるにしろ、
現代人もまた当時の文書などを解読することができ、その意味を把握もできる。
把握できるということは、それだけ今も昔も言葉の定義が一致しているということで、
天皇が世界で最も高貴な階位である定義上からの根拠も、理解しようと思えば理解できるということ。
もちろん、理解しないでいようとすれば、理解しないでもいられる。
1+1を3にも非2にもする名辞の乱れの中におぼれ続けていたならば、
天皇という言葉が名辞上から最高貴の存在として定義されていることを、理解せずにもいられる。
492 :
考える名無しさん:2011/01/07(金) 23:07:09 0
名辞が統一されている限りにおいて、人と人とは話が通じ合い、
名辞が乱されている限りにおいて、人と人とは話が通じ合わない。
人と人とが論争をするということは、お互いの名辞の乱れを正し合うということであり、
いずれが勝つか負けるかではなく、お互いの名辞が正されていくことこそは重要なこと。
ただ論争において勝つことばかりを欲して、1+1=3のような間違った
意見を1+1=2の上に置いたりしようとするのは、それこそウンコな議論。
名辞を正していくどころかさらに乱そうとする、やればやるほど有害無益な議論。
確信的に名辞を乱そうとまではせずとも、名辞を統一すること自体に疑問を呈して、
誰も彼もが適当に言葉を定義しまくることを許すのも、無益かつ有害であり得る態度。
名辞を統一する限りにおいて話は通じ、統一されない限りにおいて話は通じない。
そこんところの根本を疎かにすればするだけ、言葉を使えば使うほど害を生むのみ。
複雑なことをあなたは言うのね。頭があたしより数段優れている。。。
という事は、認めるわ。でも、あなたが主張しているのは、天皇という
観念の由来から来る高貴さ、よね? あたしは、現実のひととしての
天皇のことを言ってるの。確かに、天皇という観念自体は高貴なのかも
知れないわね。でも、われわれは、いや、あたしは、その観念を当の個人
としての天皇が、いわば受肉しているとは、思わないわけよね。まあ、
受肉って、言葉づかいは適当でないけど。・・あのねぇ。やはりあなたは
戦前の現人神をなのっていた天皇と、人間宣言をして、象徴天皇になった
天皇を、ごっちゃにしてるわけ。もはや、戦後なのよ? 目が覚めてない
jっじゃない? いまだに、祖父の夢のなかをさまよっているの?
はやく、成仏したほうがいいよ?
494 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 01:46:35 0
現人神という名目での非人と化せられた戦前の天皇と、
人間でありながら象徴と化せられた戦後の天皇と、
いすれもが名辞の乱れだったな。
言葉の定義が受肉するのなら、
いったい誰が「若者」を受肉し続けられるよ?
495 :
トーヘンボク:2011/01/08(土) 06:51:35 0
だから、正確にいうならば「受肉」なんかないよ。ただ、ある企業において
ポジションを指示している役職は、ほぼ、「受肉」に近いけどね。営業時間
内ではね。そのルールを厳守しなければ、企業から追い出される危険がある
からね。戦前においては、天皇を公然と「現人神」と認めようとしない人間
は「アカ」とみなされて投獄されていたでしょう。その意味で、「受肉」し
ていたんだよ。観念としての天皇を。戦後、天皇は「国民の統合の象徴」に
なった。と同時に「言論の自由」も認められた。すなわち「戦後民主主義」
だね。ここに至っては、もはや、天皇に対して、どんな思想を抱こうと、
どんな言動に及ぼうと、「ほとんどおかまいなし」になった。すなわち、
天皇という由緒も伝統もある観念に対して、国民はいかなる態度を取ること
も、日本国憲法によって保障されている。あなたの「名辞の乱れ」論は、
あまりに分析不足だという言が、これでわかったでしょう?
あなたは、天皇という「観念」の高貴さについてだけ語っている。。という
点について、無自覚でしたね。
496 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 09:51:58 0
古代支那人てすごい天才だよね。「ウソは存在しない。なぜなら
言葉はみな虚にすぎないからだ」って。「ウソはどの脳の領域で
ついているのか分からない」って考える人にこういう
話を聞かせてやりたいね。
497 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 09:53:35 0
始皇帝「天皇よ、きみは何を以て自らを偉いといえるのか?」
>>495 戦前と戦後、いずれもが名辞を乱しに乱しまくる洋学の無条件の流入によって
天皇の語義が間違ったものと化せられた時代だったといっているのに、
なぜ戦前と戦後の天皇の定義の相違が、俺の名辞論への反駁になるよ?
天皇は「天人」だもの。
昔の言葉で神官が「神人」と呼ばれていたのとも同じように、
天界と人界の架け橋となる神道の祭司たる天人、その天人の長中の長が天皇。
アブラハム狂的な意味に即して唯一神とされるような意味での神でもなければ、
全く天界との関係性を断絶させられた、ただの人間であるわけでもない。
「天皇」という言葉に元来付与された名辞が「観念」であるわけでもない。
「王位を禅譲によって引き継ぎ、武力すらも用いずに世を治める」といった
実質的な語義が「天皇」という言葉には伴っており、必ずしもこれらの語義を
厳守できているわけではないにしても、現実上の天皇陛下もまた、上記のような
天皇という言葉に実質的に付与されている名辞に近似するように心がけられている。
「民主主義」なんていう言葉も、実際には為政を司る公務員も多数介在せざるを得ない
人間社会に対して、庶民こそは絶対の存在であることを常時強制する、無理な観念の押し付け。
誰しもがいつまでも若者でいられるわけもないのに、誰しもに対して「若者主義」を強制するのと同じ。
現実的な遵守可能性からかけ離れた、ピュアピュアな観念の無理な押し付けってのも確かにあって、
「現人神」という観念をあてこすられていた戦前の天皇と、「ただの人間」という観念をあてこすられながら
天皇でもいされている今の天皇と、いずれもが「天皇」という言葉の元来の語義からはかけ離れた
むやみな観念を「天皇」という言葉に押し付けた、はなはだしい名辞の乱れである点は同じ。
現実の人間が努力したって近似することもできないような、ピュアピュアな観念を「〜主義」として
現実上に押し付けたり、元来はそこまで無理な語義を伴っているわけでもない言葉にあてこすったりして、
何ものをも現実と言葉とが乖離した状態に追いやってしまう、洋学などに特有の悪癖。
現実上において一致できたり、近似を努力できたりする堅実な言葉もあれば、そもそも近似を努力する
ことすらできない観念一辺倒の言葉もある。そもそも観念一辺倒の実現不可能な言葉などから廃止して、
実現が可能なように整備された言葉の実現に勤めることが、文化として正統であるということでもある。
500 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 11:29:27 0
なるほど。しかしその「天」とはどういった思想に基づく世界なのですか?
501 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 11:30:36 0
ところで西欧が民主主義だったことなど一度もなく、彼らは単に
民草の感情を優先させる「民意主義」を至上のものとしてるにすぎませんよ
502 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 12:06:07 0
>>500 人界は此方、天界は彼方。
此方も彼方も共に捨て去るのが仏界。
天界に相当するのは、神道とか道教とかヒンズー教とか。
万物斉同とか梵我一如とかは、天部の思想。
特定の思想を持たない神道も、万物斉同を掲げる道家や、
ヒンズー教寄りの仏教でもある密教などに共通する点が多い。
仏界は、その天界よりも優位であるとされるが、
世襲などの家族性が天部では認められるのに対し、
自力仏教は出家第一であり、世襲も配偶者の保有も本当は認められない。
今の日本の世襲の生臭坊主などが、天部よりも上だなんてことは確かになく、
本当は総員他力本願の浄土信者然と化してしまっている。
現世における不体失往生を掲げる浄土教自体は、人界止まり。
503 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 13:04:37 0
ちょっと、長文なので最後まで、読んでないんだけど、東学さんの考えでは
江戸時代とかには、「名辞の乱れ」とかがなかった、と・・そういう主張を
していると、考えていいんですね? はっきり、答えてくださいね。
504 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 13:18:01 0
・・しかしながら、もし、あの時、黒船がやって来なかったとしても、
いずれにせよ、鎖国を続けるのは、不可能だったのでは?
もちろん、あの時、開国反対派がいましたよね。水戸藩を震源とした
尊皇攘夷運動・・・。
しかし、歴史的には、開国派が勝利し(・・と簡単に要約するのは無理
があるのは承知のうえで言うのだが、)いまの、平成の御世があるわけだ。
・・現実から目をそむけ、死んだ児の歳を数えて、どうするのか?
あなたが主張しているのは、そういう事だよ?
なぜ、現状ばかりをそこまで大肯定しようとするのか?
それこそ、四肢切断の盲聾の末期がんのエイズ末期でも「これでいいEs ist gut」ってなもんだ。
江戸時代から近代へと時代が移り変わったように、
現代がまた江戸時代のような正しい時代に移り変わることだってあるだろう。
その可能性すらまったく考慮せず、現状こそは全てってほうが、非常識な考えだ。
あるいは、為政に自らが携わることなど考えも及ばない、奴隷根性の吐露か。
506 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 13:27:21 0
現実的なプログラムを示してみろよな? 出来るものならな。。。
507 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 13:38:49 0
ひとびとに、ケータイもアイ・ポッドも液晶テレビもパソコンもクルマも
レイゾウコもコピー機もヒコウキもシンカンセンもロボットもエアコンも
デンワもビールも・・・いま、持っている総てを手放させる。。そういう
力が必要ですが、そんな魔法のような力が、どこかにあるのでしょうか??
ここにももう色々と書いてるだろ。
参政権剥奪から禁治産、強制入院から入獄まで、
個々の罪状の段階に応じた、適正なプログラムの諸々の提示。
もっとも、CIAやらMI6やらのわりことしが全員檻の中に
入ってから、初めて提示できるような処理も多々あるわけで。
アジアからアメリカへの民族大移動なども、
実際にアジアの人々とも綿密な相談を交わしてからでないと
具体化できないような部分が多々あり、彼らとの有意義な
相談を実現するためには、アジア人同士の対立を裏から
煽っている、陰謀屋などの駆除も未然に必要になるからな。
今の家電製品なんて、みんなMADE IN CHINAだろ?
なくなる心配なんて全くする必要なし。
人々を破滅に追いやる強力な軍事兵器などばかりが
今でも欧米で生産備蓄されていて、それは確かになくなる。
むしろ善いことですらあるだろ?
無害な製品の生産は保たれたままに、
有害な製品の生産だけが駆逐されるんだから。
510 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 13:46:57 0
そういう、ぶっそうな話には関わりたくもないね。あなたが、ひどく不幸
なことだけは、よくわかったよ。
・・犯罪だけには、手を染めないようにね。
誰だよ、今まさに不幸な現行逃亡犯でいるのは。
>今の家電製品なんて、みんなMADE IN CHINAだろ?
勘違いや妄想、幻想をいまだにいだいている人がいるようだが、いまやブランド品さえアジア製が多数だよ。
アローズ、アルマーニ、ブルオーニ、すでに中国製。
プラダももうすぐ中国製になろうとしている。
欧州人の大半は参政権剥奪ぐらいの処分で済むだろうから、
産業への従事までもが滞ることはないさ。
フェラーリやポルシェも、安くなることはあっても、無くなりはしない。
514 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 17:59:47 0
>>503「開国で いそぎいそいで 植民地」
明治で文明化した
島国は
戦争で敗北して
結局白人の植民地に。
これを最初から望んでいた(文明開化)のだから
よい結果ではないか
少なくとも
家畜やブタにとっては。
515 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 18:04:51 0
明治維新なんてのは
徳川家という日本列島の力を大幅に削いだキチガイ一家に
対する反抗勢力でしかなく、
「その後どうするか?」をまったく考えていなかった、
いまで言えば民主党と同じである
バカにバカが対抗して大馬鹿国家になってしまったのが
明治時代なのである。
ほんとうの国家は
いまだ日本人はここ五百年、体験せず
真にこの列島から生まれ住まう人々に
福利をもたらす人はいつあらわれるのだろうか?
いいかげん天皇とその側近では役不足だ
516 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 18:06:19 0
そう、役不足である
517 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 18:08:46 0
だってだれも天皇の役職をしるものなんていないもの。
西洋の礼服を着て
穢多非人の権力者の娘を娶って皇太子が生まれる。
なんと汚らわしい存在か。
こんなものは滅んだほうがいい
誰も必要としてない
それを必須とするものが
いつもこの国をダメにする
518 :
サイバー・エロリスト 景子:2011/01/08(土) 18:52:45 0
象徴天皇制を廃止・・それはどうかな?むしろそうなると、天皇家を
担ぎ出して何かやってやろうという、1のような人間にとっての
思うつぼになる。。。1のヤバイ計画は、亡国の妄想プランだから
阻止せねばならない。。。その為には、象徴天皇制が存続することが
絶対条件だ。危険思想に、1パーセントのチャンスも渡してはならない。
519 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 21:10:33 0
>>501 「君子の徳は風なり。小人の徳は草なり。草に之れ風を上うれば、必ず偃す」
「為政者の徳は風であり、民の徳は草である。草に風を加えれば、必ずなびいて伏せる」
(「論語」顔淵第十二・一九)
「民、后にあらざれば、克く胥い匡して以て生くること罔し」
「民は、帰服する君を頂かないことには、互いの欠点を正し合いながら生きていくこともできない」
(「書経」商書・太甲中)
520 :
考える名無しさん:2011/01/08(土) 21:16:33 0
実質に即したプライドというものはあるが、
プライド自体が実質を左右するなどということはない。
天皇皇后両陛下は上座に、おいらとその愚妻とは下座についた宴席で、
アホくさいメオト漫才を繰り広げて両陛下を楽しませるのが、何よりの楽しみ。
・・んまあ。勲章を陛下に戴けるということにでもなれば、
やっぱり、正装して行くわね。お行儀を良くしてるわ。。。
だって、最高のステータス・シンボルですもの。
・・それにしても、ヒョードルはどうしたのかしら。
ここ、何年もカレを見てないわ。欲求不満がたまる・・・。
アタシ、カレの大ファンだったのに。。。
正装して行儀よくなんかしなくても、
アメリカンウーマンの本性むき出しなビッチでいればいい。
そして俺がそれをはたく。そうして両陛下は大笑い。
汚れ役に徹することでの名利もまたある。
陛下が許しても、宮内庁が許さないよ。それに、正装もしてみたいって
気持ちが、アンタにはわからないんだな。。。
両陛下の今の正装からして、洋服だもの。
・・んまあ。とにかく、もしそうなったとして、
あたしが直接、出席するというのは、さすがに問題ありありね。
いちおう名前も顔も変えてあるとは言え、国際指名手配中だからね。。。
でも、代役を頼める友人が、何人か思い当たるから、
代理出席というかたちにしよっと。
小人は隙を見てはつけあがる。
・・それに、兵藤景子というのは、確かに偽名だけど、
れっきとした日本人ですからね。見当違いもいいとこだわ。
小人、小人って・・・あなた、何様のつもり?
立派なご先祖をお持ちな事が、そんなに誇らしいのかしら。笑止ね。
これからは、この板はあたしのモノにしようかしら・・・。
危険思想がスレ主なんて、あんまりですもの。
533 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 02:55:22 0
独善的なキチガイだったのか。
そうだったの。
大変な教養人であることは疑うべくもない人物だったのに
・・・心の奥に闇を抱えていたのね。
・・今後は、力不足は知ってるけど、あたしが何とかするつもり・・・。
一緒にゆっくり勉強していきましょうね。エロエロ、教えてね。。。
まず、朱子学と陽明学の定義から
仏教の汎神論的思想を受け入れて宋代に確立した朱子学、心即
理・致良知・知行合一を説く明代に生まれた陽明学。両者とも
近世中国を支配した儒教哲学であり、また唯心論的実践哲学で
ある。日本人の倫理観にも大きく影響を与えたこれらの学説の
成立過程と歴史的役割を明らかにし、中国思想史におけるその
位置づけを試みる。
(by 「朱子学と陽明学」島田虔次(1917〜2000)
表表紙見返しより引用。・・以下、この書名をSYと略記する。)
・・この豊かな(まあ物質的には)日本で、全体主義が出来るなんて
どうやったら、信じられるのかしらね。。。
触れてほしくない部分に触れる相手を危険人物扱い。
危険なことをやっているのも自分たち自身のほうなのに。
538 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 09:54:59 0
>>537 こういうナルシスト気味のキチガイは、
面と向かって言われたことを文字通りに咀嚼できないから
羊飼いのように犬を走らせて小屋に向かわせるのが効率的だよ。
封建社会が復興されるのなら、
俺自身は下級武士からやり直してもいいのにな。
ケータイとか、パソコンは、メイド・イン・チャイナだから、
許される・・・とか? 自分がナニ、言ってるかわかってんの?
あなたが、大嫌いなはずの「洋学」が創ったものの内、自分たち
に便利だと感じられたものは残すんだっさ・・・。オドロイチャウよね。
それで、「洋学」批判してるつもりなの? クルマ乗り回して、
ケータイを片手に持って、「洋学」のせいで総て台無しになった・・とか、
のたまうの? まったく首尾一貫していないと、自分や祖父に誓って言い
切れるか? いま、便利な器具は、みんな、洋学とやらが創ったんだよ。
それら、総てを放棄せよ!と叫んで、はじめて首尾一貫した主張になるん
だよ。それくらいの理屈、わかるだろう?
洋学もちゃんと「異端再利用学科」でリサイクルしていくから心配いらない。
聖書教のほうはさすがに「異端取締学科」での扱いになるだろうが。
(「異端警察」という言葉遣いは、「皇宮警察」とかの用法を考えるとやはり不適切)
まあ・・空想のなかでお幸せに。。。
まあまあそう言わずに、現実でも。
544 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 14:45:34 0
江戸時代までの日本は、為政者が「武士」として至尊のものとされる
一方で、百姓や町人は服装などから制限を受け、上級武士の前では
土下座してひれ伏させられるほどにも卑しめられていた時代。
今は逆に、為政者のほうが民の奴隷として根底まで貶められ、
毎日政見放送などでもピエロ然とした醜態を晒させられて、
毎日毎日視聴者などからも侮蔑の的にされている時代。
貴ばれていたものが卑しめられたり、卑しまれていたものが貴ばれたりの、
位相が反転しているだけのことで、差別平等云々に関して、別に今という
時代のほうが江戸時代よりも改善されているなどということもない。
ただ、明らかに違うのは、江戸時代の日本が鎖国によって外国への
危害をほぼ皆無に抑えていたのに対し、今の日本は欧米社会とも
つるんで資本主義更新国を虐げる、大権力犯罪国家と化している点。
民が卑しめられる封建社会と、為政者が卑しめられる民主社会と、
どちらも差別が横行する社会であることには変わりなく、ただ、全体として
害悪を及ぼしている度合いでは、民主社会のほうが遥かに抜きん出ている。
×資本主義更新国
○資本主義後進国
546 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 14:55:29 0
欧州にたんを発した人種差別思想ってもしかして
仏教のアミタユス(浄土)信仰に影響受けたのかな?
547 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 15:02:11 0
政治家や官僚やその他公務員などが腐敗していることを、
庶民の立場から侮蔑して、嫌悪の対象にしたりする。
本来は、士人として毅然とした態度でいるべき公務員にまで、
自分たちと同等の品性を民主化によってあてがったから、
今の公務員なども、あれほどもの体たらくでいるというのに。
自分たちこそは品位を貶めて、尊敬するに値しない賤人たらしめた相手を、
自分たちで嫌悪の対象にする。自分がやったことを忘れてさも他人事のように扱う、
鏡映認知障害並みの精神障害が、立派な士人からの矯正も受けていない
民草には当たり前のごとくつきまとう。そして、自分たちを矯正してくれるに
値する士人をこの世から排除し去ったのも、自分たち民草自身。
どこまでも自他の現状を劣悪化させてやまない悪循環。
>>519の
「書経」の言葉も、単なる意見に止まらない、普遍性の提示でこそあった。
548 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 15:11:58 0
封建社会の人々の品性:
上級士人・・・5
下級士人・・・4
富裕な民・・・3
貧しい民・・・2
民主社会の人々の品性:
為政者・・・1
富裕な民・・・1
貧しい民・・・1
誰もかれもが最低の品性に陥っていることを、
民主主義者たちは「平等」と言い換えてもいる。
549 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 15:33:59 0
「民主主義」という言葉に照らし合わせるなら、
封建主義は「官主主義」だといえる。
封建制とは「官主制」のことであり、封建社会とは「官主主義社会」のこと。
民主主義社会だろうが官主主義社会だろうが、官民が並存するのは同じ。
ただ、官優先民劣後なのが、封建社会こと官主主義社会であるのに対し、
民優先官劣後であるのが、民主主義社会であるというだけのこと。
官主主義社会とて大人数の民がいて、民を公正に養うことが
それこそ民主主義社会以上にも重視されるというのに、
なぜ民間の事業を蔑ろにしたりすることができようか。
近ごろの民間産業などが洋学によって司られているというのなら、
洋学を完全な廃棄や無視の対象としていいはずもなく、むしろ、洋学
というじゃじゃ馬を、東洋教学によっていかに飼いならしていくかこそは、
東洋教学を勉強する上での主題にもなるに決まってるじゃないか。
550 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 16:00:42 0
民間産業などに関しての論及も数多かった墨家の学などが早々と絶滅し、
為政を主題とする儒家や道家、法家などの学問のほうが中国では主流となった。
為政学術という華々しい光があったために、中国では西欧ほどにも本格的な
産業学術が体系化されることはなかった。紙や火薬や羅針盤や活版印刷などの
大発明もあったのに、別にそこから産業の体系的な発展などが試みられもせず、
産業関係で功績を挙げた人間などが、だからといって称えられたりもしなかった。
地雷や肉まんや知恵の輪などの、数多くの発明品を産み出した
天才・諸葛亮孔明も、だからといって称えられているのではなく、
昭烈帝劉備の忠臣として活躍したからこそ称えられている。
官主主義社会だから民衆の功績などは大して称えられず、学術も産業ではなく
あくまで為政に関してこそ専らであったから、洋学などに顕著な、産業や民への
厚遇には乏しいのが漢学。じゃあ漢学の勉学者が産業や民を全く扱わないの
かといえば、そんなはずはなく、産業や民をこそ俯瞰して、トップダウンに
制御支配することこそは、為政学術たる漢学の本分でもある。
頼りない妻子を養うために、男こそは男らしくある。民や産業こそは妻子である一方、
為政は男たる自分自身。自分自身がどうあるべきかでは、民主主義の産業学である
洋学などではなく、官主主義の為政学たる漢学などを参考材料にすべきなのだ。
わざわざ器量無しの妻を娶ったことで、
列侯諸将からの失笑も買った諸葛孔明。
「孔明のことだから何かある」と勘繰りたくもなるだろうし、
実際、忠臣としての清貧さをふれ回る意図などがあったかもしれない。
ただ、個人的にはこう予想する。
忠臣としての名を挙げる意図もあったかもしれないが、
さりとて妻を好いていないわけでもなかった。
知謀や賢明さで自らとためを張るほどもの優秀な妻ではなく、
その莫迦さ加減で仕事の疲れをも癒してくれる愚妻のほうを、
心から欲してもいたのではないか。
「新撰組内に色ごとが蔓延してはならぬ」との理由で、一番不細工な
見合い相手を娶った近藤勇のほうは、自分まで莫迦だったんだろうが。
552 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 16:46:49 0
産業の体系的な発展
ってなんですか?
・・まあ、東学さんのおっしゃるとおり、今の世では、儒教などの東洋教学
軽んぜられている事は、事実。そのことはね、個人がこつこつといい本を
出して、東洋教学のよさというものを、少しづつ、世間に浸透させていけば
それでいいわけ。あなたの説は、過激すぎて、到底、世間に受け入れられる
もんじゃないって、わかってる?・・あなたは、統治に主たる関心があるよう
だから、政治家あるいは、政治家候補の秘書か、下働きでもやって、政界を
めざしたら、どうなのよ?・・こんな所で、油を売ってるのは、いったい
どういう動機よ? ここに、何万行書き込もうと、政界には、一歩も近づか
ないよ?? ここで、一生懸命に、毎日、カキコしている理由って、いったい
何?
554 :
考える名無しさん:2011/01/09(日) 16:55:38 0
>>552 日本の三つの経済主体 家計(所得、支出)→企業(所得、支出)→国家(歳入、歳出)
企業→産業革命、イノベーション→株式会社制度→法人資本主義→多国籍企業
具体的に言えば、東洋教学のいい面を抽出して、いい本を書けば
それで済む話だと思うね。
あなたのように東洋教学は西洋よりはるかに優れている、だとか、
キリスト教徒はバカである、とか、
けっして言うべき事じゃない。言う必要もない。
君には、聡明さが欠如している、知識バカだ。頭でっかちだ。
・・あなたが「実に、自分にぴったりだ」と思っていらっしゃる、
この電子的媒体も、そのほとんどが、アングロサクサンの手によって
構築され、世界に与えられたものですが・・・、何か?
あなたのワギナが一番ぴったり
ああ。ちょっと、今日、Sモードはいり過ぎ。。。
反省しましたのよ?
たしかに、東学さんのオクシデンタリズムは、あんまりよ。
ビン・ラディンなみだわ・・。
でもね。ここに書く動機はあったの。
それは、「ひとに教える」という喜びよね。
なんの見返りがなくても、報酬がなくても、
「教えることが出来る」というその能力の純粋な消費=蕩尽こそが
得も知れぬ愉楽を齎すのよね。密かな愉しみってやつよね。
これは、個人的なゲームであり、東学さんにとっての祭り。。。
ほかのひとには関係のない、選ばれた麗人たちだけのための仮面舞踏会。。。
なにも悪いことなんて、なかったのよね。たまたま、Sモード全開中の
アタシとぶっかった事が運が悪かったと諦めて、これからは、仲良く
儒教の勉強でもしましょ? (無理か)
559 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 10:31:06 0
産業の体系的な発展ってのは支那宋代の経済状況じゃないの?
一般面会申込書に記入する
面会用件は「家庭」、関係は「許婚」でいい?
コンピュータ発明したのはアメリカ人でも、
パソコン発明したのは日本人だったり。
電子関係を含む特許数でも、日本はアメリカの倍以上で、全世界の特許の半分近く。
ただし、日本の特許数を稼いでくれているのは、
大会社の社長などではなく、いま、
おまえらが貶めた上で面白がっているアキバ系のキモオタどもだ。
ただでさえ外貌が見栄えしない上に、
電通などの電波利権とも仲が悪いから、
表に出てくる人間はごく限られているがな。ドクター中松とか。
東京の鬼門・寛永寺付近には、いま教養学部以外の東大がある。
漢帝国の鬼門には匈奴がいたが、日本の洋学校の
総本山である東大こそは、日本の匈奴だといえる。
裏鬼門の増上寺付近、芝公園にはアレがあるし、
汐留にはオタクの宿敵・電通もあるし、ソニーやサンヨーなどの
特許をパクっての、あこぎな商売に手を染める松下もある。
鬼門の日本匈奴・東大が支配面での悪の巣窟となっているのに対し、
裏鬼門近辺は慶応大も含め、産業経済面での悪の巣窟となっている。
もちろん何もかもが悪の巣窟になっているわけではなく、
東大の少し南にある秋葉原・神田付近は、
低学歴扱いながらも特許開発などの実務面で頑張る
オタクを量産する下流大学が集まっているし、
汐留よりももう少し南方の品川付近にも、
比較的成功したオタクが働くソニーや三菱自動車などがある。
(近ごろはどっちも馴れ合い利権からあぶれて叩かれまくってるが)
564 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 14:16:32 0
あなたはアメリカで仁義の道を説けばいいのでは?
日本というのは死んだ国で生きていない。
他者を傷つけ自分も傷ついている、いきた国アメリカの
政治家に仕え、王道を示させればいい。古代支那の
論客だって外国語を駆使(当時の支那世界に共通語などない)し、
強国の王の仁義政道を求めた。ときに生命の危機にまであった。
日本という閉ざされた囲いの中にいれば、実に夢・夢想で
あれこれいえるが、本当の生きた国ではそれができない。
実際に自分の行いが実現し、そのまま反ってくるからだ。
敗戦後の日本はたたきやすい。だれだって戦勝国連合の威を
かさにきてたたくことができる。即席正義でだれだって
できる。だが本当の国家にいけば本当のありのままのことが求められる。
あなたはアメリカにいきなさい。
行ってやろうさ。10億人のアジア人と共にな。
東大出身で、イギリスに留学した文学者、
夏目漱石が書いた「ぼっちゃん」などのやけくそ文学を
精神的なより所にして、戦前の日本人も
無闇やたらな激戦に突入した挙句に、大敗したわけでね。
負けたことも含めての責任追及でもある。
いま、警察官や警備員などが習得の対象としている剣道や柔道などの、
体育会系のスポーツ然と化した武道なども、本当は明治以前にはなかったんだ。
ただでさえ、武士は公務員を本業としており、武術は仕事ではなくたしなみとして習得されていた。
しかも、「武芸十八般」などというように、剣に柔術に槍に長刀、弓矢に馬術に水錬といった
多くの武術を全て習わされたから、今の剣道や柔道みたいに、そればかりに体力を消費しているわけにもいかなかった。
ちょうど、今の合気道ぐらいに、軽めの運動でありつつ多くの技を学ぶのが本来の武術の姿であり、
ただ気合い一本だけを頼りに全力をかける今の剣道や柔道なども、
本来の武術よりはむしろ、西洋的なスポーツと化してしまっている。
柔道創始者の嘉納治五郎からして、晩年には柔道のスポーツ化を嘆き、
高弟を合気道創始者の植芝盛平の所に送り込んだりしていたというが、
武術に下手にスポーツ性を取り入れたせいで、脳みそ筋肉の馬鹿力な体育会系などを
量産してしまったこともまた、将兵から思慮深さを奪うなどして、敗因の一つとなってしまった。
東大とか帝国大学ってのは要は「洋務運動」の中枢機関にすぎないさ。
西洋至上主義になっている点で真の学問の提供機関ではない。即席の
付け焼刃の、その場凌ぎの西洋化機関にすぎないわけさ。
そんなことはどうでもいい。
君たち若いひとは、アメリカにいきなさい。この国(というか単なる
家畜小屋の囲い)は本当に可能性のある者たちに有為な状況を生み出さない。
ブタが心地良く死ぬ小屋でしかない。
英語を学んで、アメリカに住みなさい。そこが貴方達の本当の
生きて死ぬ国だ。日本で満足するなよ。
敗戦後の日本をみよ。
皇族とか、米軍とか、血筋のよい名家とか、帝大出身のバカボン一家とか・・
こんなやつらの為にある世界最低の植民地だ。
自民党なんていらない。
ホワイトハウスの指令なんていらない。
可能性とよくも悪くも未来のある若いものにとっては。
570 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 18:11:23 0
天台宗の寛永寺や、浄土宗の増上寺だけじゃ、江戸時代はともかく、
今の東京の凶悪極まりない地相を祓い清めるには不十分だな。
東大は潰して真言宗の寺に建て替え。
慶応も潰して浄土真宗の寺に建て替え。
>>352の大学制度改革案は、ある程度偏差値の低い大学にあてがう。
官公庁や企業の改革も当然必要になるだろうが、「学而第一為政第二」でもある。
それに、俺の母方レベルの家格でも、正式な諮問も受けないうちから
国体を変動させるほどもの政策を自作するのは、専横になっちまうよ。
571 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 18:16:26 0
現アメリカ合衆国民3億人全員が幼稚園児扱いになるとして、
全員をお世話してあげるためには、最低でも9億人ぐらいは必要になる。
前にも言ったけど、中国から3億、インドから3億、中東から3億。
あと、日本や台湾や朝鮮、東南アジア諸国やモンゴルなどからも1億人以上動員。
もちろん公用語ももう英語じゃなくなり、
中国語とヒンディー語とアラブ語が三大公用語となる。
アメリカという国自体が「大人の幼稚園」となるわけで、
むしろ“旧世界”に留まっている人々のほうが優等扱いにすらなる。
アメリカに移動する人々は、今の自国への愛国心に欠けていてはならず、
それでいて、進んで難儀をも引き受けられる有志でなければならない。
上司と部下のうちであれば部下、兄と弟のうちであれば弟であるような人々が適切。
自分には兄はいないが、天皇陛下を上司と見た場合に自分が部下であるとして、
「自分もアメリカにも行ってやろうじゃないか」ということになる。
アメリカが東洋人の溜まり場となるから、アメリカという場所自体が極端に
格を下げることはなく、ただ旧世界の従順な弟分としての扱いにはなる。
旧世界のほうは、日出ずる東方ほど格が高くなり、日没する西方ほど格が低くなる。
日本と共に中国や朝鮮、台湾や東南アジアなどが最高等の国となる一方で、
いま偉そうな面をしているイギリスなどが最下等の国になる。
これは日本国外のことで、日本国外の国際関係を適正化することで、
自動的に日本が世界最高等の国へとも返り咲く。ただ、あくまで日本国外の
処理だから、日本国内の処理ほどにも専横の嫌疑を恐れる必要もない。
574 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 19:21:11 0
今でも、松下はサンヨーのエネループの技術をパクって、
自社の充電池であるエボルタのほうを販売攻勢で優勢に持っていってもいるが、
その昔、ポータブルカセットプレーヤーの再生時間競争が行われていた頃にも、
ソニーが再生時間の世界最長記録を更新した直後に、
その記録を若干下回る程度のプレーヤーをパナソニック名義で発売してた。
ありゃあ、ソニーのプレーヤーを買ってから、分解して技術を剽窃してたんだろうな。
こういう企業こそは、どんなに大きくたって上等な会社扱いしちゃいけない。
士農工商の位階にも即して、ものづくりを頑張っている企業は小さくとも優遇し、
功利ばかりに奔走するような悪徳企業は、大きくたって冷遇するように。
官公庁などの、政務機関への口出しはさすがにちょっとやばいが、
私企業のほうの仕置きなら、まだ自己意見を述べてもいいほうだろ。
575 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 19:51:50 0
官公庁の改革も、「昔に戻す」というまでの部分なら書いてもいいだろうか?
平安時代の律令制度下においては、
今の警視庁に当たる隼人司が、防衛省に当たる兵部省の管轄下に置かれていた。
今は警視庁も警察庁も法務省の管轄だが、防衛省の管轄にこそ異動すべきだ。それでこそ、
杓子定規な法文による雁字搦めなどによって、警察が権力犯罪者の跋扈を黙認したりもせずに済む。
前にも書いたとおり、律令制時の政治体制を参考にした上で、
警察を法務省の下に置くなどの改悪だけを加えているのが今の日本の政治体制。
そもそも億を超える民の統治支配をこなす上では不十分に決まっているため、
今の官公庁はそっくりそのまま京都にでもお返しして、東京にはもっと実地的な、
幕府制度下におけるような統治機構を別にこしらえたほうがいいだろうな。
天皇陛下も京都に一旦お帰りいただいて、
俺が東京の魑魅魍魎どもを封印する汚れ役の責任者にでもなろう。
もちろん全て、今はまだ単なる自己意見の範囲内。
実現するための努力すら、今はまだしない。
「天下に道の行われる時は、盗まず変ぜんか(荀子)」でもあるから。
576 :
考える名無しさん:2011/01/10(月) 20:21:21 0
かようにして、東洋教学の勉強成果を、
今の社会の制度改革にもちゃんと適用できるわけだ。
東洋教学が決して飾り物ではないことを実証するために、
あえて僭越の険をも冒して、適用例をいくつか述べてみたんだ。
これは、東洋教学を勉強しすらすれば、誰にでもできること。
別に俺個人が天才的な意見を創作できる特別な人物だったりするわけでもない。
東洋教学の内容とは相反する、洋学や聖書教を崇めたてるのをやめて、
東洋教学のほうの専修に努めれば、誰にでも考案できる程度のことだ。
>>516も言ってるとおり、こんな濁悪な世の中を
天皇陛下が直接治められたりすることからして、「役不足」なんだよ。
天皇陛下に直接帰服してもいいぐらいに上等な人間なんて、
今の世には一人もいねえんだよ。俺自身も含めて。
誰一人としていないから、かえって誰でも帰服していいようなつもりになって、
財界のパシリである街宣右翼などが、下劣な騒音活動に奔っていたりもする。
身の回りの世話をする側近はともかく、もうしばらく誰も陛下に謁見すらすべきでない。
テレビや雑誌でお姿を仰ぐようなことすら、もう禁止してしまったほうがいい。
収監中はまだ面会に来てほしくないってんなら、それでもいい。
所内では当然化粧もできないだろうし、髪の手入れもできないだろうし、
コンタクトも使えないから、目が悪ければ眼鏡になるだろうし。
そんなことはこっちは気にしないけど、そっちが気になるんなら。
東大も、元はといえば徳川幕府の洋務機関だったわけだから、
潰していいかどうかを、ちゃんと現徳川宗家に打診しなければならない。
あと、諭吉が作った私大である慶応は、潰すだけは勝手にしてもいいだろうが、
跡地に真宗の寺を建ててもいいかをやはり、浄土宗に帰依する徳川家に聞いとかないと。
(徳川家は伝統的に真宗こと一向宗との仲も険悪だし)
今はもう徳川家も、政治的実権を失っている家柄。
300年以上前に罰を受けた徳川忠輝を、近年になって赦免したように、
いずれの打診も聞き入れてはくれるだろうが、それでもやっぱり
正式な許可を得てからでないと、大義名分が立たなくなる。
許可を得てからなら認められるようなことが、
許可も得ずに行うことで認められなくなることもあるんだから。
580 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 14:06:23 0
先方にも、アリゾナで男が銃を乱射して六人が殺害され、下院議員まで重体になっている。
重火器で武装した害吉どもが溢れ返っている、地獄の大陸に赴く覚悟。
あくまで戦って勝ったりする相手ではなく、お世話すべき患者さんたちとしてこちらは応対する。
だから、時には命の危険すら危ぶまれることをも覚悟しつつ、なおかつ捨て身ではなく、
あっちの世界で平穏な世の中を築き上げていく志しすらもが必要となる。
東洋人ならば、それが可能だろう。
命が危ぶまれることを恐れないでいて、なおかつ平穏な社会を目指していく心意気。
自分の命が危ぶまれることばかりを恐れて、過剰武装なりなんなりで余計に世の中を
戦乱へと導く迷妄を、正反対の位相によって打ち消す。結局「害吉のお世話」というハンデを
負わされつつ平穏を目指していくわけだから、決してお得な役柄であったりはしないので、
自分ばかりが安穏を貪る自利志向を超えた、利他志向の持ち主であらねばならない。
581 :
考える名無しさん:2011/01/11(火) 15:49:11 0
「素晴らしい夢」ではなく、「夢のような素晴らしさ」を。
582 :
エロ・キャット オケケ:2011/01/12(水) 02:08:08 0
だいたい、東学を六道全体を俯瞰する立場が中道だと述べていながら、
実践では、妄想的な西洋嫌い。それのどこが「中道」だよ。
ちっとも、俯瞰なんかしてないでしょ、あなた。
西洋の力量も気概もよく知らないくせに、東洋を崇拝するアンタこそ
むしろ、東洋の最大の敵なの。・・・わかった?わかったら、返事を
してね。
583 :
エロ・キャット オケケ:2011/01/12(水) 02:12:01 0
まだ。。。初夢の続きなの? ずいぶんと長い夢ねぇ。
怖くない、怖くない
585 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 09:42:52 0
言葉の上で六道や十界を自由に述べ立てたところで、
実践から六道の俯瞰を貫けられるのは、本格の坊さんだけ。
俗世で屏処不定の匿名掲示板への書き込みなんかしてる時点で、
もうすでに自力の聖道門への道は閉ざされている。
あなたとの子供のうちの一人ぐらいは、東大跡地の密教寺に送り込んで、
六道も十界も十住心も本当に諦観できる、高名な僧侶になってもらおう。
586 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 09:52:39 0
いくら死をも恐れぬ東洋人とはいえ、
武装した害吉の巣窟に手ぶらで赴くのは心細いか。
・さすまた
・捕縛縄
・目明し用の簡易十手
これらのセットを量産して、できる限り多くの東洋人に支給する。
ただし、あくまで「質よりも量」で、取り押さえや身分証明のために
用いられる最低限の作りのものに限る。
防弾用の盾なども本当は支給してやりたいが、
10億人全員に支給するにはコストがかかりすぎる。
剣は持っても盾は持たない、日本の侍の心意気を買ってくれ。
587 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 10:49:27 0
欲望を全否定する本格仏教の教義は、確かに秀逸なものではあるにしても、
誰しもが自力で修習して体得できるほどにも、たやすいものじゃない。
かといって聖書教のように、どこまでも人間の欲望を
ただひたすら増長し続けるのでは、もう人類社会がもたない。
欲望を全否定も全肯定もせず、社会に対して
加える害悪を未然に防止した範囲内での欲望のみを認める、
儒家や他力仏教程度のバランス感覚がこれからの世の中にも必須となる。
ある意味、欲望の全肯定から、全否定に
振れきるよりも困難なことかもしれないが。
588 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 11:43:20 0
西欧は「誰かを養って活かし、育んでいる限りにおいて」これからも
覇権を握るだろうね。日本の場合は皇族とか名門貴族とか、そんなのしか
いかそうとしない。英国みたいに常時戦勝国でその臣民が世界中から(特に
英連邦から)畏怖されてれば、かの国のような階級国家でもいいだろう。
なぜなら「能力のあるものが上にある」のだから。だが敗戦国な上に
アメリカと、自民党と、利権屋と、皇族と、旧貴族と、こんなのに
支配されてる国の国民はたまったもんじゃない。日本人は英語を学んで
アメリカで可能性を試すべきだ。
589 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 11:43:58 0
機動隊のジュラルミン製の盾が日本円で1枚9万円。
ポリカーボネート製だと半額の4万5千円。
ただし、これらは暴徒鎮圧用であり、防弾機能はなく、
拳銃の銃弾ですら貫通してしまう。
軍用の徹甲弾などはともかく、拳銃の銃弾ぐらいは防げるように
強化された、チタニウム製の盾などは、1枚30万円はくだらないだろう。
30万円×10億=300兆円
資本主義国の潤沢な資本を投入すれば金銭的には可能っぽいが、やっぱり無理だ。
10億枚もの盾を作れるほどものチタニウムが、この地球上にはない。
仮にジュラルミン製の盾の厚さを増したり、厚めの鉄板製にするなどして、
軽さと引き換えに防護性だけは強化しても、結局同じような問題にぶち当たる。
資本主義経済というものが、いかに実物の資源産出から
かけ離れた所で水増しされているかということ。
590 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 11:52:23 0
当然、10億人もの人間をすべて航空機で輸送するわけにもいかない。
ほとんどの人間は、フェリーや資源貨物船などで赴いてもらうことになる。
アメリカの家はどれもでかいから、今あるアメリカ人の家にそのまま
管財人として入居してやればよく、それが無理っぽい場合には
自らの家財なども一緒に持っていくように。当然危険物の持ち込みは禁止。
そもそもアメリカ国内での、民間人の重火器の所有携帯から禁止になる。
さすまたや十手じゃ銃に対抗するには頼りないが、そもそも銃所有の
蔓延から駆逐していくことが前提なので、特に危険なのは始めのうちだけ。
591 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 12:04:35 0
欧州の大半は参政権剥奪の委任統治だけで済むだろうが、
イギリスだけは特に罪状が重いので、アメリカとも同等の扱いになるだろう。
つまり、国民総禁治産。政治行為だけでなく、産業活動に携わるのも禁止。
スコッチもロールスロイスもUKロックもダイソン掃除機も、もう終わり。
あるいは、ボランティアのただ働きで作ってくれるってんなら、それでもいい。
フランス料理やイタリア料理にはまだ金払ってやってもいいが、
イギリス料理なんか、金もらっても食いたくないし。
592 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 12:15:30 0
欧米が上記のような処分を受けたほうが、
より多くの人間が健全に養われ、活かし、育まれるようになる。
欧米8億だけで地球資源の8割以上を独占している現状が是正されて、
今はまだひどい環境での生活を強いられている地球人類の大部分が、
いま以上の豊かさに与れるようになる。たとえ、禁治産や参政権剥奪の
処分を受けた欧米人たちを、十分な養いの対象としながらであっても、
まだ今よりも豊かな生活を、地球人類の大多数が送れるようになる。
地球人類の大部分が極貧の環境に置かれたことへの対抗反応として
引き起こされている、人口爆発の収拾にも目処が立ち、いま以上もの
環境破壊による地球社会の荒廃も食い止められるようになる。
593 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 12:28:13 0
いったんソビエトとして崩壊している事情もあって、
ロシアへの対応が疎かになりがちだが、
今でもアメリカと一二を争う核保有大国ではあるので、見逃せない。
シベリアなどの東方は、もう白系ロシア人の領地ではなくなり、
モスクワなどの位置する西部だけが白系ロシア人の領地となる。
核保有は当然禁止して、その後は欧州とほぼ同等の扱いになる。
欧州のうちでもスイスなどは、テロリストご用達の銀行と化しているから、
やはり銀行としての業務を全廃した上で、他の欧州並みの扱いとしよう。
あなたたちには、その処分を受けるだけの価値があるから。
中国やインドや中東には、元から金も武力もないから、制限の科されようもない。
日本も金はあっても政治的には無力で、参政権を剥奪された後の欧州とも
同等の状態に今すでにあるから、これ以上の処分を受ける価値がない。
持つということの価値。持たざるということの無価値。
いずれもが益になることもあれば害になることもあり、
今は持つということこそは害になり、持たざるということこそは益になる時。
悪いことをしたから罰せられる、確かにそれも一つの恥であるには違いない。
でもそれは、戦って負けることの恥とはまた別物のはずだ。
罪を犯すことで罰を受ける恥を、欧米人は今までキリスト一匹に押し付けることで
ごまかしてきたわけだが、結局キリスト信仰なんてのは精神障害の一種でしかなかったわけで、
罪を罪として罰せられることを未だ認められないというのなら、ただ処分が刑事罰から、
強制入院や禁治産などの精神障害者向けのものに変わるだけのことだ。
罪を犯したから罰を受ける、それが恥ずかしい、あるいは未だに刑事罰を受けることには
不平を抱くから、強制入院や禁治産などの処分に切り替わる、これもまた恥ずかしい、
恥ずかしいには違いないが、それは犯罪行為や精神障害を原因とした恥であり、
戦いにおける敗北を原因とした恥ではない。
犯罪行為や精神障害の恥を、闘争上の敗北の恥と掏り返ることもまた、一種の欺瞞であり、
それ自体が精神障害の恥の上塗りになるだけのことで、余計に恥を増長させることともなる。
596 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 15:16:15 0
戦いってのは、修羅道で行われるもの。
お互いが恨みっこなしの同意の下で、命をかけて技を競い合うなどの、
一定の約束事が修羅道にはあるから、純粋な修羅道は罪深さなどを帯びない。
一方で、犯罪が行われるのが地獄道。
恨みっこなしもへったくれもなく、無防備の弱者などに一方的に危害を加えて
金品を根こそぎ奪い去って自らのものとし、被害者を破滅に追いやったりする。
修羅道と地獄道は、確かに混在することがある。
江戸初期の剣豪同士の決闘などが、犯罪性を伴わない純粋な修羅道だった一方で、
近代以降の、プロシア兵学などに基づきながら、他国の利権を奪うなどの権力犯罪
目的で行われている戦争行為は、軒並み修羅道と地獄道のみそくそとなっている。
いま、欧米人が地球社会のトップ付近からの退場を迫られているのは、
修羅道における純粋な戦いで負けたからではなく、地獄道における罪があまりにも深すぎるから。
無防備の他者に危害を加えて自分たちが肥え太る、地獄道の要件を満たしつつの暴れ回りが
あまりにもひどすぎたから、地球社会全体を自滅においやる引き金をも自分たちで引いてしまい、
いやでも処分を受けざるを得なくなってしまったから。
修羅と地獄を混同したままでの好戦主義によって、重権力犯罪で法外な利権をも蓄えつつ
戦争行為にも及ぶという畳み掛けによって、イギリスなども連戦連勝を重ねてきたわけだから、
犯罪行為が断罪される以上は、今までの戦勝の価値すらもが無効化されてしまうには違いない。
それも、あくまで戦いに負けたからではなく、あまりにも罪深かったから。
罪があまりにも重すぎたせいで、全ての勝利すらもがふいにならざるを得なくなった。
597 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 15:45:01 0
戦いにも戦い方があるし、嘘にも吐き方がある。
上手な戦い方もあれば、下手な戦い方もあり、
上手な嘘の吐き方もあれば、下手な嘘の吐き方もある。
イギリス人などは、今のところ悪運のよさから嘘も吐き通せて、
それによって戦いでの勝利も得られてはいるが、
そもそも嘘の吐き方が下手な上、戦い方も下手だったから、
ついには根本のところから無理を来たして、
嘘もばらして戦勝も返上せざるを得なくなっている。
それは、下手だったからだ。
戦い方も嘘の吐き方も下手だったから、後々に無理を来たしたのであり、
戦い方や嘘の吐き方から上手であれば、そもそも無理を来たしたりはしない。
上手か下手かのうちの、下手だからそうなったのであって、
戦ったから、嘘を吐いたから、必ずしもそうなるわけでもない。
確かにそうならざるを得なくなった原因があり、その後にこの結果がある。
因果に反する不条理も、嘘や戦いの範囲では確かに通用したりしたが、
天地万物に遍き諸法因果の理法の前では、もはや通用のしようがない。
598 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 18:36:11 0
今まで書いてきた全ての案は、
「よりよい案が他にあるのなら、そっちにしてください」
という程度の考えで提示しているものだ。
残念ながら、自分にはこれ以上の最善策は思いつかないが。
君らは、もうすでに、近い将来における人類の破滅がさも
決定事項であるかのようにものを考えたり、言ってばかりするが、
ちゃあんと西洋人たちが「重度精神障害者かつ重権力犯罪者」という
自分たちのはしたない身の程をつぶさにわきまえて、自分たちに相応の
処分すら受けたなら、人類も救われ得るのだという点を見落としている。
人類全体が救われるのであり、その中には当然西洋人たちも含む。
禁治産や強制入院や入獄などの処分を受けようとも、それによって
自分たちを含む全人類が最悪の破滅からは免れ得るのであり、
それは、西洋人たちが実情に即さない無根拠なプライドを頑なに
守り通し続けようとした結果、西洋人たち自身を含む全人類が
滅亡するよりも確実にマシな結果であると分かるはずだ。
かたや全人類が救われる選択、かたや全人類が滅亡する選択。
全人類には当然西洋人たち自身も含むが、救われる場合には、もう、
西洋人は無根拠なプライドを捨てなければならないという点だけが違う。
その醜いプライドすら捨て去ったなら、自分たちに相応の処分を
こうむることも、自分たちから進んで欲しすらするだろうから。
599 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 19:24:54 0
俺から言わせてもらえば欧米人はまだ人を活かす(負の方向にもだが)点で
マシだと思うよ。たとえば江戸時代。こんなの白人至上主義と何ら変わらない
徳川と戦勝国大名による超保守国家で、250年も人の育成を怠った結果、
欧米帝国に指先程度の力で滅ぼされてしまう。徳川や、大名たちを活かすために。
この逆に自らの国家に住まう者たちを極限まで育て上げ、教育し、活用し、
その可能性を開花させしめ、数百年前から現在に渡る覇権をもたらせている
白人は、さすがだと思える。君の提示する国家では天皇という敗北者と、
その周辺にタムロするクズしか栄えない。徳川幕府のように。こんな
国は滅んで当然。人を生かさないのだから。
600 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 19:35:25 0
君も欧米人たちと一緒に処分を受けなければならない側の人間のようだね。
大局を見据えず、物事の因果関係もわきまえられないから、
さも正しいものを間違ったもののように思い込み、
間違ったものを正しいもののように思い込む。
そうである側が我流を押し通せば破滅を導き、改悛して相応の処分を受ければ
破滅が免れるという点において、価値観の相対性も通用するものじゃない。
601 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 19:40:00 0
江戸は徳川一家を盛りたてるためのバカ時代。
明治以後はかえって反徳川をえ活かすためのバカ時代。
大正・昭和から学歴至上主義の、ダメ官僚が
すべてを破壊した最低の時代の一つ。
現在はそれらがアメリカに変わっただけだ。
ここで共通なのは「日本国という囲いの中にいる人々の
幸せは誰ひとりとして考えてしない」ということだ。
ダメな国の独裁政治の顔が時代によって変わっているだけである。
こんなある種不幸な人々を、俺は知らない。
メキシコのように国家ごと麻薬組織のものになる、とか
東西冷戦を引きずって内戦になるとか、それでも死者など
このダメ国家が産み出した比ではない。まず「国家とは
そもそもなんなのか?」をこの国の人々は考えて定義しないといけない。
これから自らの本当の幸せは始まるのだから。
602 :
考える名無しさん:2011/01/12(水) 22:28:49 0
そんな蒙昧な脳内妄想の吐露はいいから、
「よりよい案」があるんなら提示してみろよ。
人類が滅亡に陥らずに済む、上記以上に最善の解決策を。
東洋からアメリカへの「ご主人様(現アメリカ人にとっての)」の送迎に、
米軍の空母とかも用いるといいな。ご主人様がたの警備も兼ねて。
東洋にご主人様を迎えに行ったキティホークやニミッツやJFケネディが、
艦名から「諸葛亮」や「チャンドラグプタ」や「ムハンマド」になって帰ってくる。
初めて新大陸を踏みしめる時の合言葉は、「お帰りなさいませ、ご主人様♪」
603 :
エロ・キャット 009:2011/01/12(水) 23:27:21 0
ふん。
ただの、妄想狂だったか。。。無駄な時間を使ってしまったわ。
見掛け倒しも、いいとこ。
だまされないことね。
ただの妄想で済めばいいのに。
Well come back Master.
606 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 09:43:04 0
帰ってきたバカ殿さま
607 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 11:17:01 0
たとえば、解像度がQXGA(2048×1536)の液晶と、VGA(640×480)の液晶を、
単一のパソコンのマルチディスプレイで用いるとする。
VGAの液晶にはQXGAの解像度で表示する能力はないが、
QXGAの液晶にはVGAの解像度でも表示する能力が大体ある。
そのため同じ解像度で表示するのならば、最高でもVGAの画質でしか表示できず、
QXGAの液晶のほうは、本来の機能がまったく活かせない状態となってしまう。
本当はVGAのポンコツ液晶なんかもう繋げずに、QXGAの液晶だけで表示したほうが
手っ取り早いわけだが、どうしてもVGAのほうも使いたいというのなら、
専用のディスプレイコントローラなりで、それぞれの液晶に適正な解像度での
表示を割り振るようにしなければならない。
君子と小人、東洋と西洋の関係もこの、QXGAの液晶とVGAの液晶の関係のようなものだ。
608 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 11:34:55 0
俺の祖父もまだ若かった頃の戦前などには、
まだ「ディスプレイコントローラ」にあたるものがなくて、
しかも無理やり「マルティディスプレイ」を試みていたわけで、
案の定、「QXGA」に当たる武経七書と、「VGA」に当たるプロシア兵学などを
繋げたせいで、武経七書までもがVGA並みの解像度しか発揮できなくなり、
わざわざマルティディスプレイにしている無理も祟って、
VGA液晶での単一表示に専念していた鬼畜米英にも負けたわけだ。
今の俺なんかは、マルチディスプレイも試みずに、
QXGA液晶での単一表示に専念しているから、VGA表示ばかりに専らな
地獄米英のお粗末さも丸見え。VGAとのマルチディスプレイなどを試みず、
QXGA表示に専念しているからこそ、簡単に優位に立つこともできる。
何より難しいのは、ディスプレイコントローラによるマルチディスプレイによって
QXGA液晶とVGA液晶の両方に、適切な解像度での表示を割り振ること。
同一解像度でのマルチでもなく、QXGAのみやVGAのみでの単一表示でもなく、
両方の液晶の機能を最大限に発揮させつつ、同じものを表示させること。
609 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 11:57:37 0
解像度以外のスペックが同等でいて、
高解像度の液晶と低解像度の液晶があれば、
当然高解像度なほうが優良で、低解像度なほうが劣悪ということになる。
でも、低解像度の液晶しかないのなら、それを使うしかなかっただろう。
あるいは、高解像度の液晶もあったとて、その実在を察知もせず、
その活かし方も分からずにいた限りにおいて、低解像度での表示に
終始していたとしても、まだ仕方のないところがある。
しかし、すでに高解像度の液晶の実在を知り、
その活かし方も分かったのなら、当然そちらのほうに乗り換えて、
低解像度の表示の場合には見落としていたアラの修正などにも努める。
そうしなければ、それだけで怠慢になり、劣悪な態度姿勢にもなってしまう。
「寿命を保つためにとっておく」としても、液晶も所詮は道具だから、
世のため人のために用いてこそ、道具としての冥利にも尽きる。
そして、人間の側にも寿命があり、劣悪な液晶の延長利用ばかりに執着
していたなら、それだけ自分が優良な液晶を用いる期間を縮めるのみだ。
610 :
考える名無しさん:2011/01/13(木) 17:43:33 0
高解像度か低解像度かのうちで、一応高解像度を選択しておく程度のことは念仏だけでもできるし、
高解像度のみの選択を堅持し続けることも、儒学の勉強などによって比較的簡単にできる。
でも、高解像度と低解像度のマルチディスプレイで、両方のディスプレイに最高の機能を
発揮させることは極めて難しく、密教などの最高級の東洋教学の、本格的な習得によって
でもなければ不可能。それこそは、ただ高解像度のみを選択する以上もの、最困難事。
特に、今みたいな一切濁悪の世の中じゃ、どうあっても単なる直結にしかならず、
高解像度ディスプレイのほうが本来の機能を発揮できないか、低解像度ディスプレイのほうが
機能をいったん停止するかの、いずれかの応急措置を取る以外に余地はない。
実際、低解像度ディスプレイの解像度に合わせて、高解像度ディスプレイまでもが
低解像度での機能を強制されているのが現状であり、仮にいったん低解像度ディスプレイのほうが
機能を停止したとして、それ以降に、ただもっぱら高解像度のみの機能の存続に終始するのではなく、
高解像度と低解像度いずれのディスプレイも、適切なマルチ化によって本領が発揮できるように
持っていくのが最終目的。今はまだそれが無理にしろ、最終的にはそうなることを目指す。
低解像度に慣れきっているだけでなく、低解像度でしか機能できない輩がいるのも知っているから。
611 :
エロ・キャット 009:2011/01/13(木) 19:10:27 0
ふん。
ぜんぜん、「中道」なんかじゃないね? 理論は知ってても実践はまるで
駄目。。。という奴か。ホントに、惜しいよ。君は。
知識は、十分なのに、おのれの眼中の盲点に気がついていないとは。
君のオクシデンタリズムは、完全に間違っている・・と断言するね。
612 :
(ふしだら猫 大奥):2011/01/13(木) 23:36:37 0
完全に間違っている者同士、仲良く。
613 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 11:00:31 0
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
614 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 11:30:24 0
君らのような賤人と付き合うに値する程度の人間であるためにも、
あえていくらかの落ち度を残したままでいるわけでね。
完全に正しいものなどどこにもあり得ない世の中で、
完全に間違っているものなりにマシな存在であるのみ。
これ以上に高貴であろうとしたなら、もはやこの世のものですらなくなる。
自分が自首を促したり、相手が実際に自首したりするのも、
所詮はこの世での無明な生を長生きするために過ぎない。
「長生きも芸のうち(柳家金語楼)」ともいうしな。
615 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 12:59:35 0
梅原猛のいうことには、空海は今のインテリ層に嫉まれてんだってな。
偽者の天才たちは、本物の天才を嫉むのか。
たとえ空海に匹敵する大人物が今の世に現れたところで、
そもそも今のような濁世で「虚空蔵求聞持法」なりの、実際に空海が
会得したような本物の成就法に与る機会すらあり得ないからな。
空海個人の超人性と、平安初期という時代の貴さとが相まって、
初めて弘法大師・空海のような大聖が生まれ得たわけだ。
なまじ、そこそこの悪知恵があるから、
お大師さまですらもが嫉妬の対象になってしまう。
僧侶は絶対真理を突き詰めているだけあって、
反感を抱いたりすることが、そのまま罰当たりの原因ともなってしまうのに。
他者への素直な畏敬を抱けることも、凡夫にとってこその長所だといえる。
617 :
エロ・キャット 009:2011/01/14(金) 19:06:32 0
聞いた?
・・これ以上に高貴であろうとしたなら。。
ですって、うぬぼれの強さだけは、天才級と認めてあげるわ。
そこまで、うぬぼれられるとは、たいしたものね。。。
ノーベルうぬぼれ賞って、無いのかしら?
怖い、怖い・・・。
そこはイグノーベル賞にかけてウヌボーレル症が良い
俺だって、お大師さまの足元にも及ばない。
でも、おまえらはその俺の足元にすら及ばない。
食物連鎖でいえば、お大師さまが海の食物連鎖の頂点であるサメだとすれば、
そのサメに食われるマグロに食われるイカに食われるエビあたりが俺。
その、エビに食われる小魚に食われる
動物性プランクトンに食われる植物性プランクトンあたりがおまえら。
621 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 22:26:21 0
こんなところで藁人形プレイをしているのを発見
622 :
考える名無しさん:2011/01/14(金) 23:44:24 0
やぶにらみにモジャモジャ頭という不動明王の異様な風体も、
やはり「あえて」のものらしい。
仏僧の剃髪が古代インドの奴隷の装束であることは周知だが、
不動明王の垂髪も元々は奴隷の装束で、左右非対称のやぶにらみも
均衡を失した卑賤な姿の象徴だという。(すべて「吽字義」を参照)
しかも、仏道に入ったばかりの弟子の残り物を食みすらする。
そういう、あえて卑賤な振る舞いに及び、如来の化身という副次的な
存在に甘んじつつ、本当は仏にも等しい尊格を持っているのが不動明王。
物事への観点には「仏辺(仏の観点)」と「衆生辺(衆生の観点)」の
二つがあり、仏辺の語り方と衆生辺の語り方とでは、相反することすらある。
他力本願の衆生辺に即している親鸞聖人が悪人正機を提示した一方で、
弘法大師空海が仏辺から善人正機的な言葉を述べていたりもする。
それは、ある程度の段階にある人間にとっては、覚りへと導かれる言葉
ともなる一方で、未だ迷妄のさ中にある衆生などにとっては、
破滅へと導かれる言葉とすらなる。個々の段階に応じての場合分けは、
観点が逆転することもあればこそ、どうしたって必要となる。
623 :
エロ・キャット 009:2011/01/15(土) 00:18:56 0
ふん。
うぬぼれ屋だけど、やはり、ただ者ではないことは認めてもいいわ。
なかなか、すぐに、こういう文章を書けるもんじゃないからね。。
この哲板では、たぶん、3指にはいるヒトよね。。
たいした、教養人よ。
624 :
入門志願者猫 ヴァージョン01。:2011/01/15(土) 05:54:40 0
・・と持ち上げてはみたけど「上から目線」に変りはありませんのね。
あのう。。ここは、曲りなりにも「哲学板」ですのよ?
いちおう、全員が「衆生辺」の段階をパスしてうる・・とみなして頂いて
結構ですのよ。
ですから、これからは「仏辺」の語りのみに撤してもらって
かまいませんから。・・あなたが、みずからがダブル・スタンダードで
話してるんだと公言したら、われわれ聴衆は混乱するに決まってるでしょう?
・・だからこれから、余計な心配をなさったりしないで。
「仏辺」のことばだけで、われわれに話かけてくださるよう
伏し伏して、お願い申し上げます。。。師よ。
625 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 09:09:18 0
自力作善だと善人正機が仏性の位相に適合し、これが仏辺からの物言いとなる一方で、
他力本願なら悪人正機が仏性の位相に適合し、これが衆生辺からの物言いとなる。
このことは、親鸞聖人の「教行信証」における「華厳経」と「無量寿経」の読み比べからも察することが出来、
自力作善を旨とする「華厳経」には「罪福を信じて善行に励め」とある一方で、
他力本願を旨とする「無量寿経」には「聖道門の徒は罪福を信じて善行に励むが、自分たちは違う」云々とある。
この違いが仏辺からの善人正機の提示と、衆生辺からの悪人正機の提示の分かれ目ともなる。
626 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 09:10:36 0
もしも、密教の参考材料ともなっている世界最古の哲学、ウパニシャッド哲学などが
哲学の本流であると十分に認知されていれば、まだ仏辺からものを言う余地も
ありそうなものだが、事実はそうでない。
自分たちは民を円滑に治める自助努力に勤めるでもなく、
それでいて民から法外な暴利だけは貪り、ただのんべんだらりと
安逸な生活に耽っていた、古代ギリシャの有閑階級あたりが暇つぶしに
述べ立てていた戯れ言が哲学の本流とすら思い込まれている昨今、
哲学だからといって仏辺からものを言ってもいい保証などはどこにもない。
627 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 09:47:11 0
師よ。。。
ウパニシャッドでも、何でも勉強いたしますから、
どうか、西欧との比較はおやめください。
ことさらに西欧をもちだす必然性が、なにか有ると
おっしゃるのでしょうか。
西欧のことを、悪しざまに言われることは、われわれ総ての
躓きになります。
なぜ、あえて、まだ何も学んでいないわれわれに対して
師の最終的な見解をおぶつけになるのでしょうか。
東学を学んでいないわれわれに、師の最終見解がどうして
理解できるでしょう?
628 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 09:51:01 0
「仏辺からものを言ってください」とお願いされたところで、
こっちも仏辺からものを言うほどもの資格をあえて棄てているわけでね。
廃仏毀釈のあおりも受けて、密教寺ですらもが世襲で
運営されている昨今(小林よしのりも密教僧の孫)、
たとえ今の密教に入門したとて、完全な密教の修得者たり得ない。
他力本願の浄土教なら、肉食妻帯も大いに結構だが、
密教や禅のような本格仏教ともなれば、不邪淫戒なども当然守るべきだ。
哲学者本人の十分な実践が伴ってこそ、教えるに値する哲学=教学ともなる。
厳しい戒律も守りながら教えるに値する高尚な教学もあれば、
安逸を貪りながらでも教えるにも値するような低俗な教学もあり、
今は自分も後者のような教学しか、身を以て教える資格を持たない。
ただ参考材料を提供するのと、その意義を教示するのも違うから。
629 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 10:06:00 0
625を、まとめて言いますと
「華厳経」は仏辺からの物言いで、一方、
「無量寿経」は衆生辺からの物言いである、と。
そして親鸞聖人は戦略的に後者を選び取った、と。
少し乱暴にまとめてしまうとこれでよろしいでしょうか?
630 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 10:08:01 0
リカバリCDを用いての市販PCのリカバリの際、
ディスプレイの解像度設定は最初期中の最初期に行われる。
ハードディスク内にリカバリ領域を作成する場合などにも、
領域が作成される前にすでに解像度が設定されるため、
CDでのリカバリ時からQXGAとVGAのマルチディスプレイなどにしていると、
両方の解像度が認識されて、自動的に低解像度であるVGAのほうが
優先されるようになり、たとえハードディスクでのリカバリを繰り返しても、
初期設定がVGAであることを修正することができなくなる。
この問題の解決のためには、システムからVGAディスプレイを
取り外した上での、CDでの再リカバリを必要とするわけだが、
そこまでの隔離措置が、今のあなた達に行き届いているだろうか?
631 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 10:13:53 0
東学さんが、仏辺からの物言いを捨てているとすれば、
いったい、いかなるスタンスから、このスレッドを経営しておられる
のか、まったくわからなくなりますが?
もし、衆生辺の立場から。。と、おっしゃるならば、仏辺のことなど
ほのめかす事すら、タブーではないのでしょうか。
わたしは、東学さんの立ち位置を問題にしているのですが。
632 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 10:27:22 0
628で禅や密教の道を究めるためには、不邪淫戒(難しい言葉ですが
平易に言うならば、同性であれ、異性であれ、性交渉は避けよ。。という
意味ですね?)が絶対、必要だ、と強調しておられますが、
このことは、自分には、仏道の本質は「中道の道を行くこと」であり、
六道を俯瞰しつつも、そのどれにも執着すべきでない。。という、
自分と東学さんの(おそらくは)共通認識に抵触する、と
思われるのですが?
633 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 10:28:04 0
>>631 東洋教学は仏教だけじゃない。
儒学や道教やヒンズー教やゾロアスター教だってある。
その中でも、仏教は別格級に高級なものであり、
身分制度を完全に超脱した沙門宗教としての極北にも位置する。
大半の東洋教学はそこまではいかず、俗世でのそれなりの立場を保つ。
俗世の道徳者である儒者がそうであるのはもちろんのこと、カースト制の
最高位に当たるバラモンや、政治行為からの隠退を嗜む道術者ですらそれは同じ。
出家して完全に社会的身分を捨て去る沙門でいて、しかも認められるのは、
それほどにも仏法に優れている部分があるから。そしてその仏法を
自力作善によって会得できる人間もまた、極めて限られている。
自分にそれができるかどうかは別として、今はまだしていないし、
別にしようとも思いはしない。仏辺からの言葉が益になるほどにも
高い段階にある人間が、自分も含めて今の世のどこにもいないから。
634 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 10:31:46 0
戒律主義は、西欧では、イエスが激しく批判したものである。。
ということは、もちろんご存知の事と思いますが。
635 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 10:35:35 0
・・ですから、修行途上の東学さんが、このスレッドを経営なさっている
事の意味を問うているのです。
なにかの目的があるはずでは?
636 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 11:51:03 0
「修行」じゃないっての。「勉強」だっての。
勉強だけなら実践が伴わなくてもいいが、
修行は「行」なだけあって、本格的な実践が伴わなければならない。
今後の実践を見越しての、事前の勉強というのもあるが、
事後の実践が仏道の修行であるとも限らず、
儒学なら、政治家や官僚としての活躍であったりもする。
勉強第一の主知主義と、修行第一の実践主義の両方があり、
朱子学系の儒学や、ヒンズー教のヴェーダーンタ学派などが主知主義的である一方、
密教や禅などの本格仏教、陽明学系の儒学などは実践主義的な面を持っている。
ただし、本格仏教であっても「南無釈迦牟尼仏」や「南無遍照金剛」といった
他力の帰依を取る形であれば、必ずしも本格的な実践を伴う必要もない。
637 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 13:00:27 0
科挙官僚などは、試験に受かって後もただひたすら勉学を続け、
40か50にもなった頃にやっと一人前扱いされていたというが、
これは勉強しながらの実践ってことで、仏道でいう修行に近い。
ただ、もちろん俗世での行いであり、出家行である修行とはまた異なる。
けれどもそれもまた一種の東洋教学の実践であり、
なにも出家行ばかりが東教の実践に当たるわけでもない。
「勉強に実践が伴わない」という所までは、まだ認められる。
ただ、「勉強と実践が相反する」とまでいくと、さすがに認められない。
「富は道義に基づかなければ得ず(里仁第四・五)」と勉強しながら、
不正にまみれた富で友達を作っていたりするようじゃ、ちょっとな。
638 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 13:27:01 0
「世間虚仮、唯物是真」との名言を遺した聖徳太子も、
ご自身は俗世での政治家としての身分を守り、出家などもしなかった。
まだ本格的な仏教も国内になく、物部氏などの反仏教派もいた頃に、
ただ法隆寺などの基本的な仏門興隆に協賛しただけでも相当なもので、
自身が僧侶でないにも関わらず、親鸞を始めとする多くの仏者からの信奉も受けている。
本人自身が本格派の仏者として日本に現れたのは、外国人では鑑真和上が初。
日本人では、最澄と空海がしのぎを削る。彼ら以前の南都奈良の仏門などは、
ただ経典の字面を貴んだりするばかりで、そこにいかなる実践が伴うべきかということが
わきまえられていなかった。そのためいたずらに政治権力などへの介入もなされ、
朝廷の側が仏門勢力の専横を忌んで平安京へとも遷都してしまったわけだが、
最澄や空海が、実践面からの仏道のあり方を入唐求法などを通じて厳密化して
くれたために、仏門が鎮護国家の礎として健全に機能することまでもが確立された。
日本への仏教の流入も、聖徳太子→鑑真→最澄・空海という風に、段階を追って
本格化していっており、始めから一気に完全出家の本格求道が試みられたわけじゃない。
仮に今の世の中が仏門を復興するにしても、一挙での完全復興などは、無理をきたす
ばかりでうまくいかないだろうことが確かだから、数十年か、さらには百数十年程度の
長い期間をかけて、少しずつ復興を果たしていくことが肝要となるだろう。
639 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 14:39:28 0
自力仏教の本格的な興隆なんて、
どうあがいたって、俺らの世代じゃ不可能だっての。
それなりの努力に勤めた上でも、
俺らの子か孫かひ孫あたりの世代でやっと、芽が生え始めるかってとこ。
仮に「江戸東大寺」や「慶応寺」を本当に建立してみたところで、
ただ作るだけで実践からの魂を込めないのなら、
道鏡みたいな怪僧が世にはびこることにすらなり兼ねない。
政教分離は、何もカルト宗教に限らずとも、仏教のような
正統ではあっても超俗主義である宗教などに対しても
厳重に適用する必要があり、常人には守り通せないような
厳しい戒律もちゃんと守らせて、密教や禅宗などの看板を掲げながら
生臭に陥るような輩には、僧籍剥奪なりの措置も講ずるようにしなければならない。
640 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 14:40:40 0
すると、2つ可能性がありますね。
(1)自己の知識の高度化それ自体が目的。すなわち、知そのものへの愛。
普遍性そのものの探求そのものが、喜び。これは、ちょっと、スピノザに
似ていますね。
(2)目的は、あくまで世界の変革。理論を高度することにより、多くの
人間の認識を変革することが出来るようになる。その結果として、現実の
政治をも動かす力をも得る。これは、マルクス主義的なストーリーに似て
いる。
東学さんの場合は、あきらかに(2)の志向ですね。明治維新以後の西欧化
の流れに大きな不満を感じておられるわけだから。
だいたいの筋書きは、わかりましたが、やはり東学氏は、西欧または英米の
力というか、蓄積というか、文化というか・・・とにかくそれを正当に評価
しておられない訳です。わたしからみると、非常な自己欺瞞におもえます。。
そんな政治的野心さえなければ、すばらしい学者なのに、と残念ですよ?
政治的野心や不当な西欧評価は、止されたほうが良いと思いますが、
どうも、無駄のようですね。
私は、黙って東学さんの講義を聴く、おとなしい聴講生になるほうが
良さそうです。
641 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 14:55:31 0
その、(1)か(2)のうちのどちらかということもない。
実践を目的とした主知主義。
「戦いに対して消極的であれば勝ち、積極的であれば負ける」
という兵法上の法則にも似て、知行合一の行動主義では思慮深さに欠けて、
かえって行動すらもが稚拙なものと化してしまうのに対し、ある程度の思慮深さと
共にこそ、実践面でも最善を尽くすことができるという経験的な法則もある。
知識一辺倒の頭でっかちになるのでも、行動第一の馬鹿力になるのでもない。
より適切な行動に及ぶために、より思慮深くある、文武両道の切なる実践。
馬鹿力と悪知恵の両極に振れきるのでは、どんなに莫大な蓄積を果たしたとて、
馬鹿で非力なのび太くんにも劣る、ジャイアンやスネ夫と化してしまう。
642 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 15:02:01 0
・・まあ。正直にみずからを省みてみるならば、私自身にも、私の認識に
よって、世界を変えてみたいという欲望なり、野心があるのかも知れません。
しかし、私の場合、その欲望は識域下、つまり意識の表面には、通常、
現われていないのです。ですから、東学さんのように、その世界変革
への欲望みたいなものが、はっきり意識の前面に出ているのをみると、
おどろいてしまうのです。
確かに、世界をより良く変革しないような認識には、あまり価値がない
のかもしれません。しかし、わたしは、イデオロギーよりユートピアの
ほうですね。。。
643 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 15:10:13 0
ええ・・もう、百万言を費やしても無駄ということが良くわかりました。
644 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 15:10:45 0
QXGAとVGAのマルチディスプレイをやめて、
QXGAでの単独表示に切り替えたとて、VGAのほうを捨て去りはしない。
西洋文化をも、何一つとして捨てはしない。
秦の首都咸陽に劉邦の軍が入城した時にも、項羽が後からやってきて
宮殿を焼き捨てる前に、蕭何が書庫に秘蔵されていた国政関係資料などを
全て持ち出して保管したために、事後に漢帝国の運営も滞りなく行われ、
当該の資料などを参考に司馬遷も「史記」を編纂することができた。
確かに、「反面教師」としては優秀極まりなかった。
東洋人が「それだけはやめておこう」と固く決めていた最低最悪の墓穴掘りを、
重度精神障害と共にとはいえ、果敢に試み続けたその「功績」は、本人たちが
引退して後も、十分な無毒化の上での再利用対象として重んじられていくだろう。
645 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 15:16:47 0
>>642 まだ、あなたたちはQXGAとVGAのマルチディスプレイを続けている状態なわけで、
仮にQXGAである東洋教学の側から世を覗いてみたところで、まだVGAでの解像度でしか見えていない。
だから、世の中を変えていく具体的なヴィジョンなども描けるわけがない。
そして具体的なヴィジョンが描けないから、変革への願望なども所詮はユートピアへの幻想にとどまる。
具体的なヴィジョンが見えているから、幻想ではなく現実のこととしての、
世の中の変革が堅実に推し進められていくことへの気持ちも、しごくシラフなものに尽きている。
646 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 15:21:58 0
全てはあくまで、「もっといい案があるのならそっちにしてもらって結構です」という程度の発案。
意なく、必なく、故なく、我なし。
凝り固まりを解いた融通無碍でもないことには、人は最善を尽くすこともできない。
647 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 19:46:49 0
発案は臣下が行い、決断は君主が下す。
これが君臣関係の基本でもある。
もっとも、今の世の中の実権からの君主が、
天皇陛下であるだなんてことは、正直ないな。
むしろ、自分自身からして、自首しなければならないような
立場にある者こそは、今の世の中の最高責任者でもあるな。
648 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 19:49:09 0
実権からの皇位が、今の重権力犯罪皇帝から、
天皇陛下へと移譲されたとして、その様相が平穏な禅譲である場合と、
深刻な放伐である場合と、さらには現皇帝の自殺などによる場合とを
考えてみるに、現皇帝に自首を促す俺の諫言が聞き入れられたとして、
次期皇位継承者たる天皇陛下に実権が移り、俺も直属なり間接なりの、天皇陛下の臣下となる。
だとすれば、現皇帝が自殺したり、放伐同然の形で皇位が簒奪されたりの
体裁で皇位が移動するのでは、現皇帝に具体的な諫言を行った俺は、
「臣従させるに縁起の悪い相手」ということになってしまう。
正式な君臣関係にあるわけでもないにしろ、実質全世界の皇帝でもあるような相手を
悲劇的な形での屈伏に追いやったとしたなら、そうさせた人間は次の王権社会において、
王君の側に臣従を忌まれるような危険人物とも化してしまうことが必定。
たとえそれで世を安寧に導こうとも、皇帝の暗殺者も同然と化した人間が、
次期の皇帝に臣従する上でも不適切な人間扱いをされてしまったとしても仕方がない。
だから、今の世界における実権からの皇帝、おそらくデービッドあたりが
悲劇的な末路によって皇位を奪われるなどということは、決して望まない。
贖罪して禁治産保護下の庶民になるなどして、先行き短い余生をなるべく平穏に過ごせるように。
「殺してやりたい」と思うぐらい憎んでいたこともあったし、今でも好きになれたりまではしないが、
自分自身の今後の出処進退とも打ち合わせての、仁義にも基づく便宜によって、
これ以上の地獄にまで突き落とされることはないように計らう。
649 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 19:56:29 0
まあ、バッハや、モーツァルトや、ニュートンや、ライプニッツや、
カントや、ヘーゲルや、シェイクスピアや、ゲーテや、ダ=ヴィンチや、
モネや、セザンヌや、ショパンや、デカルトや、モンテーニュや、
スピノザや、ゴッホや、ルソーや、プラトンや、アリストテレスや、
ブラームスや、・・・みな、重度の精神障害だったんですねぇ。。。
うかつにも、気づきませんでした。ごめんなさい。
650 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 20:07:32 0
全員、精神障害者だから。
全て、心神喪失状態での犯行。
もちろん、犯罪行為でもあるのは確か。
他者の利権を侵害強奪して自分が豊かになる、
己れの欲せざるところを人に施し、不正な富を得て友達を作る、
法律に照らし合わせるまでもないほどに明らかな実罪(実質的犯罪)の積み重ね。
その規模もまた人類史上未曾有のものであり、夏桀殷紂や秦始皇、毛沢東といった
中国史上に悪名高い暴君ですら、実罪の分量では遥かに及ばない大罪となっている。
しかし、精神障害でもある。
そもそも自己責任に基づく治産行為に手を出していいほど、
精神の平穏を保てている連中ではないのだから、
そんな連中の病状を十分に察することもなく、
対等かそれ以上もの相手として応対してきた東洋人の側のほうが、
保護監督不行届の責任を追及されて然るべきですらある。
651 :
考える名無しさん:2011/01/15(土) 21:11:13 0
「女性」ってのは、精神異常であらざるを得ない生き物なわけだが。
気が狂うぐらいにイかされることで、初めて健全な男児をも産める、
生殖機能上からして精神異常を強要されている生き物なわけで、
気狂いを完全否定する仏門などからすれば、運命的精神異常者である女性と
共にのみ成り立つ世の中というものが、それだけで捨て去るべき濁世に値するわけだが。
男性の精神健常と、女性の精神異常の混濁によってこそ成り立つ世の中を全否定しているから、
仏教が基本、出家主義である一方で、健常と異常の混濁こそは世の摂理であることを見極めて、
その上で男性の側の精神健常の養いに徹しているのが儒学だったりする。
儒学と同じように、キリスト教も世の摂理を説きはしたが、その先にあるものが、
男性までもが女性並みの精神異常ないし精神障害に罹患しての放辟邪侈であったため、
男性が精神健常を保つことと引き換えに、女性は精神異常でもあっていいという、
世の正常な摂理を旨とする儒学などとは逆の、最低最悪の墓穴掘りと化してしまった。
性別からの女性は、生物の摂理に即して健常な精神異常となるが、性別からの男性は、
精神健常であるか、生物の摂理に反する異常な精神異常=精神障害の両極に振れきる。
女性もまた男性並みの精神障害と化すこともある。
652 :
入門志願者猫:2011/01/15(土) 22:33:07 0
あなたは、凄くおもしろいヒトですねぇ。。。
感心しました。マジで。
653 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 00:22:14 0
そして聖書は、全西欧人にとっての障害者手帳となったのだった。
655 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 08:01:28 0
先生にお尋ねします。
仏門は、気狂いを完全否定する。。とおっしゃいましたが、
その出典の明示をお願いします。
また、先生もその考えに同意なさるわけですね?
また、女性は、精神異常であらざるを得ない生き物である、
ともおっしゃいましたが、私には理解できない命題でありますので、
根拠、および出典を明示してください。とりわけ先生ご自身の言葉で
ご説明ください。
生物学的にいえば、女性こそが、生命樹の主流であり、男性は、必要悪
というか、補助的な立場であること、これは常識的な考えなのですが。
656 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 11:08:06 0
日本の皇室は万世一系の男系だが、これは「君主」だからだ。
臣下なら、男系でも女系でもよく、実際に、俺の家系を含む
武士の家系も、婿養子を取るなどして存続してきてもいる。
クモやカマキリやアンコウなど、オスの側がメスよりも遥かに矮小(矮雄)で
あるのは比較的原始的な生物に限り、哺乳類のような高等生物ともなれば、
大体オスのほうがメスよりも体格面などで優位に立つようになる。
これは、高等生物ほど、森羅万象を観察する傍観者としての機能が
発達するからで、万物の霊長たるヒトにおいて、その観察能力も極まる。
観察行為を知能の乱高下なども伴うことなく続けられるのは、
人間のうちだと男性のほうであり、女性は少なくとも性交中には我れを見失う、
というよりも見失わなければならない。観察行為に長ける高等生物なればこそ、
出産を直接つかさどるわけではない男性のほうが、主流として扱われる必要がある。
657 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 11:21:50 0
君臣、父子、夫婦、男女、兄弟、
全て最初に来ているものが主で、後におかれているものが副。
三国時代における蜀漢の様相などを見ても、
関羽や張飛、そして諸葛亮といった数多の名臣を、
名君である劉備玄徳が統率しきれていた限りにおいては、
魏や呉をも圧倒するような優勢を保てていたというのに、
初期からの重臣だった関羽や張飛が亡くなり、
そして遂には劉備も亡くなって、暗君である劉禅が
重臣中の重臣である諸葛亮独りに頼りきるという、
君主が孤臣に完全依存するという本末の転倒を来たしてしまった。
それでも諸葛亮は臣従を貫き、南北への勢力拡大などに
奔走したものの、遂には無理も祟って本人も亡くなり、
これといったほどの名臣を持たない蜀漢は崩壊せざるを得なくなった。
臣下が名臣であって、有能であるというのは確かに善いことだが、
君主の側が有能な孤臣ばかりにおんぶにだっこな状態となって、
自分こそは国権の主上たることを忘れてしまったりしたならば、
頼っていた臣下が亡くなった途端に国を亡ぼすようなことになりかねない。
いくら臣下が有能であろうとも、君臣の序を欠いてはならない実例だ。
____
rf"r r r rァ )) ジャーン
ィ⌒> || || || || || `'i ジャーン
( ,,ノ ||_||_||_||_|| |
_,.-―^--- 、 _[_゚___]_
r'_人____,,\ /−、 −、 ヾ、\
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| ─ 、 ─ 、 ヽ | フ / / `-●−′ \ l| ヽ
| ・|・ |─ | フ |/ ── | ── ヽ || |
|` - c`─ ′ | フ、 |. ── | ── | || |
. ヽ (____ レ′i ト. ── | ── | || l
ヽ ___ /ヽ_| | `ヽ、_|____ / ||/
/ヾ三三彡 l|+ヽ | ! ヾ \ / /
|ノ|゙`v´ ̄ ̄|l|++| | ! ヾ l━(t)━━━━┥
ヾi"こヾノ
659 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 11:51:30 0
のび太とドラえもんに比肩されるのは、
劉備と諸葛亮もだけど、劉邦と張良らのほうがより成功例だったな。
どちらも理想的な君臣関係だったのに、
片や漢室400年の礎となり、片や2代限りの泡沫政権に終わった。
第一の原因はといえば、やはり劉邦の時代が春秋戦国時代という
「乱世の終わり」の機会であったのに対し、劉備の時代は
五胡十六国時代や南北朝時代といった「乱世の始まり」の機会
だったからというのが大きい。これもまた一つの、時宜の移ろい。
660 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 12:01:10 0
ただ、三国時代が「乱世の始まり」だったというのは結果論であって、
なぜ乱世が始まらざるを得なかったかの説明にはなっていない。
劉邦と劉備、何が違ったかといえば、臣下のほぼ無条件な重用の有無。
劉邦には韓信のような、有能ながらも不良な臣下をも警戒する手厳しさが
あったのに対し、劉備には臣下を、その徳性の有無に関わらず甘やかす
ようなところがあった。そのせいで魏延のような不良な臣下も後々に
残されて、自分以外の臣下が小粒や不良ばかりと化してしまった
諸葛亮を悩ませる結果ともなってしまった。(かといって諸葛亮もまた
臣下の身であるため、臣下同士の仲たがいは避けざるを得なかった)
黄巾党も跋扈していた乱世極まりない時代に、臣下を選り好みしている
余裕もなかったのは確かだろうが、もう少し臣下の扱い方に節度が
あったほうがよかったかもしれない。もちろん劉備が名君であったのには
違いなく、ただ劉邦のほうが名君にも程がありすぎたということだ。
劉家の威徳も、さすがに400年も経てば衰えざるを得なかった。
661 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 12:33:51 0
仏教でも、禅宗がきちがいじみた禅問答などをやっている。
「臨済録」における臨済自身の物言いや、普化の言動なども相当におかしくはあるが、
あれも、気狂い状態の中に未だ涅槃静寂を司る仏性があることの確認でこそある。
「最大級の無知や驕慢の前ですら、虚空の徳は増えることも減ることもない(吽字義)」
と弘法大師も仰っているが、多くの体系的な実践行によって、密教が悩乱の波濤を
乗り越えた先にある即身成仏を目指すのに対し、禅は「心」という人間にとっての
根本の部分が、気狂いに打ちひしがれる試練を乗り越えて覚りを得ることを旨とする。
禅語が急性期の精神疾患の治癒に有効なのも、気狂いのような物言いの中にも
さらに重厚な仏性を付与しているからで、ただ気が狂っているだけに過ぎない物言いや、
生半可なわきまえのみで行われる生禅や野狐禅とも、明らかに違うものがある。
662 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 13:03:08 0
身心を伴う人々にとって不可避なる悩乱や気狂いを、乗り越えた先にこそ覚りがあるというのに、
女性はその、悩乱や気狂いを乗り越えることができず、また乗り越えてはならない。
悩ましげであること、きちがいじみていることこそは、女性の魅力でもあるから。
仮に女性が正式に仏門に入門して、女性の命である髪も剃り落として、
男性向けの比丘戒二百五十戒よりもさらに多い比丘尼戒三百四十八戒を守る生活を送る、
もちろん決して性交などもせず、女性ならではの魅力なども全て捨て去って覚りの道に入る、
そこまでいけば確かに、女性の身でありながらの成仏も可能であるのかもしれない。
覚りとはまた別の話だが、女性の中には、男性並みに過酷なスポーツなどを試みる
者もいるが、あんまり過酷な運動をし過ぎると、女性は閉経してしまったりもする。
身体的に女性である人間が、女性としての特性を逸脱した上で、
男性並みの存在になるということはあり得るが、それは女性であることから離れるということ。
悩乱や気狂い、淫乱や月経をも運命付けられている、女性としての立場から離れるということ。
663 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 13:23:19 0
>>656 体格面で優位・・?? はあ?って感じなんですけど、先生、ご乱心では?
体格面では、ヒトより、ライオン、トラ、ピューマ、ヒョウ、サイ、キリン、
カバ、クジラ、ウシ、ウマ、等々のほうが、はるかに優位であるように
私には、思われるのですが、私の気のせいですか?
664 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 13:39:56 0
>>656 ・・ほほう。
性交中に我を見失うから、男性のほうが女性より、観察能力が高度である、と。
それは、きわめてユニークなご見解で、驚きます。
だいたい、女性の性交中の忘我と呼ばれるものは、90パーセント以上が
演技、もしくは迎合である・・というのが、常識だと思っておりましたが、
先生の見解によると、100パーセント近く本気である・・とみなされて
いるわけですね。しかし、具体的なデータ(脳波検出など)に基づいたご
発言と信じますので、ぜひ、
いつ、どのような形で、何ケースほどの被験者を対象とした実験だったか、
を教えていただかないと、先生の発言の科学性を疑う。。
という本意に反した判断をくださざるを得ません。
とにかく、先生は、性交中の男女の反応の相違点を主として、男女の
観察能力の優劣の判断根拠とみなされている。。という訳ですね?
じつに、ユニークな着眼点を指摘された思いです。
よく、考えてみます。
665 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 13:47:57 0
ちゃんとイケないのは男の側の責任だ。
666 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 13:56:24 0
>>656 ・・残念なお知らせですが、有性生物においては、低級、高級の区別を
問わず、基本的には、オスはメスにとって、精子製造マシンであり、
たいていの場合、被雇用者である、というのが現実です。
667 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 14:17:14 0
「子、南子に見ゆ。子路、説ばず。夫子、之れに矢いて曰く、
予の否とする所の者あらば、天之れを厭てん、天之れを厭てん」
「孔子が美貌と淫乱で知られる衛の貴婦人南子を訪問することになった。
弟子の子路はこれを快く思わなかった。そこで孔子は誓って言った。
『私に非があるようならば、天が私を見捨てるだろう。天が私を見捨てるだろう』」
(「論語」雍也第六・二八)
このころ、すでに孔子にも妻子がいたはずなんだが。ほんと、
儒家ってのは「男塾」だ。男尊女卑とかいう以前に、男のことしか考えてない。
世の中を形作っているのは大部分が男性で、
構築と破壊の両面を司る中に、なるべく勧善懲悪でもあるべきだとする。
まず、社会に参画できるかどうかからが問題とされる女性に、
さらに世における勧善懲悪までをも推し進める余裕などが、あるはずもない。
中国史上でも名高いのはみんな悪女ばかりで、虞美人のような清女も、
項羽を自滅へと導くサゲマンとなってしまった。女は別に悪女でもいいのであり、
その悪女すらも制することのできる劉邦や家康公のような男こそは、天下をも握る。
668 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 14:26:47 0
・・その天下を握った男を操って、影で実利を吸収している女がいる、と
思いますけどね。天下や、名声などというものをこころのなかで嘲笑して
いる女がね。。
669 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 14:37:37 0
仏教は男女平等を説く。「修行するのに女も男もない」と。
儒教は男女対等を説く。「男女かくあるべし」と。
イスラム教はめちゃくちゃすべてに寛容な宗教で、
ペルシア人の風習を倣って女性優位である。いま
盛んに世界中にイスラムの極端な者たちを映して流言・情報操作を
しているのは彼ら白人の中にそういった影があるからでしょう。
西洋人はキリスト教の男尊女卑の時代が長く、イスラムの影響を受けて
女性の保護を考え出したがそれは「感情」で決めてるだけで
論理的なものではなく、未だ混乱している。
670 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 14:40:25 0
「男尊女卑」って、儒家の言葉だと思われがちだが、
本当は道家の「列子」に出てくる言葉だ。
儒家は、「唯だ女子と小人とは扱い難しと為す(陽貨第十七・二二)」というのみ。
一夫多妻級の大所帯を得ようとも、童貞並みの女知らずの気持ちを忘れない。
それでこそ、治世に女々しさを持ち込んで、世を乱したりすることもなくて済むのだろう。
旗本四百石の鬼平でも、側室を囲うほどもの余裕はなかったようだが。
671 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 14:41:47 0
>>667ところであなたはなんでこんな「結論国家」を助長させ、延命させようと
するのですか?かたや「来る者拒まず、常に内部の意見で国家の体制を変える」
超大国の生ける国、アメリカがあるのに。なにか世界を変えたいというのなら、
アメリカでロビイストになればいいのに。日本では最初から得体のしれない
一族とその眷属だけが繁栄することになっており、しかも敗戦国で戦勝国の
支配という二重支配に陥ってる。こんな中で仁義王道もないと思うが。
いうなればアメリカは株主の意見を聞く国際的な大企業だ。日本は一部の
世襲社長と外資に操られている中小企業にすぎない。このようなところで
何かを説いたところでどうにもなるまい。
672 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 15:58:27 0
>>671 ・・二重支配。一理、ありますな。そうかも知れない。真の支配者は、
歴史の表には、現れないよね。。その点を、スレ主は、誤解していると
思う。。歴史を勉強しすぎたのかも知れない。
673 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 16:17:33 0
・・しかし、政治家のなかには、例外も多いかな?
鳩山家とか。。。
674 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 16:22:19 0
もののけ姫
サン・・サンスクリットで「すべて」という意味
アシタカ・・サンスクリットで・・・・失念。なんだったっけ?
エボシ御前・・エボシ・・だからクシャトリヤの意だろう
ジコ坊・・「じこ」は他を頼みにするという漢語
モロの君・・わからない。なんだろう?
乙事主・・人工・人為の象徴
シシ神・・釈尊かアミタユス
シシ神の首・・執着
最後の黒いドロドロ・・煩悩の洪水
最後の岩・・ニルヴァーナ
最後の岩に載って助かる聚集・・救われた民
675 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 16:24:32 0
タタリ神・・アスラ
癩者、戦争・・三悪趣に陥った人々
エボシの砦・製鉄所・・娑婆世界?
サムライ・・ヤッカ?
676 :
入門志願者猫:2011/01/16(日) 16:32:51 0
・・ところで、煩悩の数は、なぜ108個なの?
677 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:38:10 0
儒者は女のことなんか知らない。
でも、女の知らないことを儒者は知っている。
678 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:43:48 0
>>671 というか、アメリカが生ける国だなんて全く思わない。
重権力犯罪者同士が引っ切り無しの共食いを続ける、この世の地獄としか。
あそこにいるということ自体が、現時点では世界最悪の苦しみとなる。
ただそこにいるというだけで、世界中の罪悪を背負う極重の辛苦を味わわされる。
そんなところに死んでも行きたくないから、
10億人の東洋人の中出しによって浄化された後に、
初めて行ってあげられるようになるかどうかってとこだ。
679 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 17:56:54 0
アメリゴ・ベスプッチが語源の、「アメリカ」って国名も気に入らないな。
コロンブスよりも70年以上前にアメリカ大陸を発見していたという
探検家鄭和にちなんで、「鄭和国」とでも改称しようか。
「大和国」とも語呂が似ていて、好ましいな。
でも、鄭和がアメリカ大陸を発見していた確証はまだないんだよな。
やっぱり、アパッチ族の英雄の名、「ジェロニモ」あたりにしたほうがいいか。
680 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:08:21 0
>671がアメリカを「生ける国」、日本を「死せる国」だなどとほざいているのは、たぶん、
泰平社会を「墓場」に見立てた、カントの永遠平和論あたりに毒されているからなんだろうな。
泰平社会においてこそ、数々の優等文化が大量に生み出されることが、万年泰平状態である
インド文化の隆盛、周代や漢代や唐代などにおける中国文化の隆盛、平安時代や江戸時代に
おける日本文化の隆盛などからも分かるから、東洋人からすれば、泰平社会を「墓場」に見立てる
カントの物言いがいかに迷妄な、西方の部落民の戯わ言であるのかが、あまりにも見え透いている。
これも、QXGA相当の東洋文化と、VGA相当の西洋文化とを切り離して、QXGAたる
東洋文化の単独表示を試みればこそ分かること。本当は、東洋史よりも遥かに矮小な
歴史でしかない、「未決の陰謀」まみれな西洋史などと、陰謀は陰謀で後々に正史編纂で
ちゃんと暴かれる東洋史を対等に扱ったり、さらには西洋史を東洋史の上に置いたりする、
くそみそなマルチディスプレイ状態を未だ続けているから、そうであることも分からない。
681 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:19:13 0
682 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:25:05 0
中国正史の第一に当たる「史記」にも、
西洋でいえばフリーメイソンに当たるようなフラタニティ組織が
孟嘗君や平原君や春申君、始皇帝の実の父親で商売人上がりだった
呂不韋などによって結成されて、主人に囲われた食客たちが、
命を捨ててまでの鶏鳴狗盗の暗躍をしている姿までもが如実に描かれている。
それは、西洋においては、歴史の表舞台に現れない陰の存在に違いないが、
中国などだとちゃんとそれも正史編纂などを通じて明るみに出され、
「君子は群してしかも党せず(衛霊公第十五・二二)」などの反党派主義を頑なに貫く
儒者である、孔子や孟子の活躍地だった魯や鄒が、勤勉で清廉な人々の多い土地であるに対し、
孟嘗君の活躍地だった薛が、数千人もの食客を囲い込んでいた影響などから、
当人の死後100年以上の後にも、未だ得体の知れないならず者の溜まり場に
なっていることを、司馬遷も自らの実地検分によっても確かめた上で「史記」に記録している。
日本でも、陰謀組織の組員は早くから「忍者」として公然に認知され、
目的のために選ばれない手段を遂行する汚れ役としてのその姿が、
半ば儚げに取り上げられたり、逆にギャグ同然のものとして面白がられたりしている。
683 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:35:38 0
ギリシャ語の響き聞いた?
684 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:53:20 0
正史や準正史をちゃんと編纂している、
中国や日本の歴史は、今でもすでに「本物の歴史」だ。
でも、陰謀組織などの暗躍などを表に出さず、
表向きに用意した虚構の歴史ばかりをひけらかしている
西洋の歴史は、現時点ではまだ「偽物の歴史」でしかない。
目に見えるものばかりが全てだと思い込み、視覚の
外側にある四方八方への空間の広がりを見落としているから、
さも劇場で演劇を見るようにして、舞台上だけで繰り広げられる
虚構の歴史をさも、本物の歴史だなどと思い込んでいる。
プラトンの洞窟哲学やユークリッド幾何学にも根ざした、視野狭量症。
易によって四方八方への超視野的な空間の広がりを、最原初から
わきまえていた東洋人からすれば、そのような狭隘な空間把握にのみ
基づいて数千年もの歴史を紡いで来た西洋という社会が、
「可愛くも莫迦な妹うさぎだな」と感じ入らせる。
685 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 18:58:16 0
686 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 19:02:43 0
中国や日本などの東洋社会がちゃんと本物の歴史を公開していても、
欧米社会はまだ本物の歴史を公開していない。ということは、
全世界地球人類の歴史はまだ、公開されていないということでもあり、
「地球人類の正史」というものがまだ確立されていないということでもある。
片や正史を作り、片や正史をひた隠しにする、そのせいで全体としては
正史が確立されていないことになり、正史を作っている側の
正史の価値までもが無効化されることになってしまっている。
これこそは、VGA画質でしか表示されない、
QXGAとVGAのマルチディスプレイってもんだ。
687 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 19:30:04 0
女が、自分自身ではなく、創作文化で
男に対抗しようなどとするのは、やめたほうがいい。
聖書やギリシャ学を作り上げたのも、所詮は男でしかない。
ただでさえ、男なんぞよりも遥かに美しい身体を持つというのに、
なぜ自身以外の二次創作物などによって対抗する必要があろうか?
それが自分たちでも分かっているからこそ、
女性が文化的主導者になったことも数少ないんじゃないか。
688 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 19:57:52 0
女があまりにも美しすぎたから、さも虞美人に惚れ込んで
仁義を忘れ、致命的な落ち度ともなる暴虐を働いてしまった項羽のような、
「女を追従する男」どもによって拵えられたのが、古代ギリシャ文化ってもんだ。
ギリシャ文化は、「美人の鏡映」なのではなく、美人な女に惚れ込み、
その姿を酩酊気味に観察していた、バカな男ども自身の姿でしかない。
何を見て何を作ろうが、作られたものの性質は作者自身の投影にしかならない。
モナリザもモデルは絶世の美女だったろうが、作品として成立した「モナリザ」は
ダヴィンチの薄汚さばかりが投影された代物となっていて、モナリザ自身が
より美しかっただろうことはもちろんのこと、今の日本のアニメーターあたりが
本人をモデルに二次元キャラを描いたほうが、まだマシでありそうなもの。
女に頼る男自身は劣悪なものでしかなく、男なら女を付いてこさせるぐらいでないと。
それが高度な観察能力をも宿した、万物の霊長たる人間にとっての本分ってもの。
689 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:03:10 0
日本由来のヴィジュアル系は
「形」を重視する日本文化、特に男性が化粧をする歌舞伎文化との関連性が指摘されている
690 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:05:16 0
孔子が好きなら当然食生活も郷党篇を参考にしてるよね
691 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:09:01 0
女は脳みそを使うことが一番の仕事じゃない。
692 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:13:05 0
東洋の古典は、概して視野が狭く、
表現は暗示的で、物事を明確に語ってくれない。
それに対して西洋の古典は叙述が精細で、論理も明晰であるから、幸いなことに日本語などへも正確に翻訳することが出来る
693 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:16:33 0
東洋教学は、女の脳みそで理解できる代物じゃないってことか。
お腹、お腹、
694 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:21:06 0
暗示的っての事実だろ
695 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:21:49 0
>>678「アジアから世界を浄土に」と考えて行動した軍人たち
がいましたっけ。アメリカが「生ける国」というのはその
抱擁する民族や民草の意見によってどうとでも変わるから、
ということですよ。黒人は人として認められ、ユダヤ人は
アイルランド人からいじめられなくなり、支那人は華僑を
使って確固たる権力を築きあげ、カトリックは差別されなくなった。
これはすべて彼らの努力の賜物である。血を流しもしたし
涙も流しただろう。一方江戸時代からの
日本列島みたいに天皇・徳川一族に代表される
権力や権威の世襲によってその下にいる民がどんなに努力しても
財は築けても権力を握れず、何時まで経っても惰眠をむさぼり
民を生かさず飼い殺しにする。このような「死んだ」国など
滅んで当然。そんな一握りの者のためにある囲いなど、そこに
生まれた者が不幸だからだ。
696 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:23:31 0
西洋の古典もまたいいところもあって、東洋の古典もまたいいところもある。
それでいいじゃない。どうして二極化しようとするのか。そういうのは
釈迦が戒めたところだよ。
簡易言語で、本格言語による暗示の模倣はできない。
無理にやろうとしても、破綻を来たすのみ。
東洋人が西洋人に直接暗示文化を施してやったわけでも。
698 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:28:04 0
今現在の列島はいうなれば「アメリカ幕府」の時代になっている。
江戸時代の徳川がホワイトハウスに、幕府軍がアメリカ軍になっただけである。
その下に二重に支配される不幸な一億の民草。こいつらにはなんの可能性もない。
アメリカに生まれれば、才能があればなんでもできる。大統領にだってなれる。
だがこの国では「敗戦国」の縛りと「得体のしれない権威のある一族」によって
何もなれない。みろ、この国の代理支配を任された政治家みたいなやつらを。
ほぼ全員世襲だ。世襲じゃないものだって結局アメリカの支配に乗って勘違いを
して粛清される(田中角栄が典型的)のがそのオチである。バカ貴族とアメリカと、
彼らに食われるためにある肉でしかない。こんな可能性のない国の薄ら馬鹿に
なにか言うより、これからの世界で人々を生かしもし、殺しもするアメリカに
意見と希望を持つべきだ。そうして、アメリカの内部にあって、この日本を
救えばいいじゃないか。仁義王道は日本では芽を出さない。
699 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:30:19 0
>>696シャカやアッラーが言わんとすることは同じである、とした
古代の宗教家たちが起こした一派の運動に、最後まで反対したのが
キリスト教なのだが。だからこそ「人種が違えば人じゃない」とか
「異教徒は絶滅させろ!」なんてのが今もキリスト教に限って
深く根づいている。
700 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:33:33 0
>>692エジプト・メソポタミアに端を発した西洋の諸思想は
多分に「方法」的であり、教科書的である。これは
欧州が「文明開化」する大翻訳時代(10世紀からルネサンスに
いたるまで)に彼らの思想を翻訳したからだと言われている。
今までなかった概念を他人に知らせるには
分り易くないといけないからね。
701 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:38:15 0
キリスト教だけが西洋じゃないよ
702 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 20:44:27 0
>>695 民はどんなに自由でいられても、為政者だけは自由に振る舞うことができない。
まるで、首から上を失った人間に自由を提供するようなものだね。
そういや、バタイユが断頭人をシンボルにした秘密結社を作ってたっけ。
アセファルとかいう。やはり欧州人は、米英人よりはまだシラフなほうだ。
シラフであろうとしながらも、西方の住人故の惨劇に巻き込まれた内に入る。
>>698 だから、アメリカを、日本に住まうよりもよりよい国にしてみてくれ。
ジェロニモ国ないし鄭和国として。今はまだ、最低限の君臣の義を保っているこの日本にすら、
民間の重権力犯罪者の巣窟となっているアメリカが、及んでいるなどという事実すらない。
>>699 マニ教だね。
>>701 男が女に頼りきるのが、西洋文化の全様相。
703 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 22:02:47 0
ついに自演か・・・
704 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 22:11:34 0
妊娠時の女性の腹部の中心に該当する下丹田が安定していないことには、
脳の中心に該当する上丹田や、心臓に該当する中丹田が安定することもない。
そのため、上丹田や中丹田以上にも、下丹田がより重要なものとされる。
705 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 22:16:33 0
自演バレたww
706 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 22:23:17 0
脳みそや心臓よりも、まずはお腹から。
707 :
考える名無しさん:2011/01/16(日) 23:04:22 0
アメリカさん(旧姓)のお腹に、十億人を中出し。
未だ想像もつかない、夢のような現実。
708 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 00:02:51 0
狂気染みてるスレ
709 :
エロ・キャット:2011/01/17(月) 01:29:00 0
>>687 認識が甘い。・・と言うよりも、物知らずなのね。
710 :
エロ・キャット:2011/01/17(月) 01:33:07 0
・・て言うか、「考える名無しさん」制度もわりかし、粋よね?
ちょっとだけ、感心しちゃった。。。
711 :
エロ・キャット:2011/01/17(月) 01:37:47 0
>>693 ・・東洋教学は、女がわざわざ脳みそを使ってまで
理解する必要がない代物って。。こよかな??
712 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 07:46:04 0
子宮で理解しませう。
713 :
エロ・キャット:2011/01/17(月) 08:12:44 0
・・そういえば男のかたは、◎◎で理解しますのよね。
なんか、大脳で考えているように、偽装することが
とてもお上手ですけど。テクノロジーって言うの?
・・ていうか女は、
偽装の必要すら、ほとんど感じてはいないのね。
まあ、なんて不公平なんでしょう。。
男の立場からすれば当然、そう感じてしまうでしょうね?
自前の剣一振りで天下を平らげる、これ男の夢。
寝て見るのではなく、現実に叶える。
715 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 08:23:46 0
無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂のなかに残りはしない by孔子
716 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 08:24:52 0
あたかも金に繁殖能力のあるかのごとく、金に金を生ませるは最も不自然なり by孔子
717 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 10:06:14 0
よくよく反省しないと、長生きできないよってさ。
春秋後期という文化的不遇の時代に、
孔子は特定の師などに与ることはできなかったが、
善いところも悪いところもある万人の、
善いところは見習って、悪いところは反面教師にしたというしな。
718 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 10:34:45 0
アメリカの総人口は約3億人だから、四方を包囲しての
全員の確保のためには、12億人が必要ということになる。
でも、アメリカ国内にも、競争から脱落した貧困層がいて、
これが5000万人程度。不当競争の勝者こそは有罪でもあるため、
これらの敗者を差し引いた2億5000万人を四方から包囲するとして、
やはり10億人の投入が最低条件。
被後見人と同居する場合にも、管財人四人が被後見人を
四方から囲うような間取りにして、管財人たち自身が
天然の格子となるように、なるべく努めたほうがいい。
四面楚歌なら、比較的弱小な兵員だけでも、
項羽のような荒くれ者すらをも制することができる。
719 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 11:06:45 0
インディアンにしろ黒人奴隷にしろ、所詮は白系アメリカ人と
比べての少数派ではあったわけで、質だけでなく、量の上でも
制御対象を上回ることが重要であるのは、やはり確か。
自分たちが、中国人などと比べて少数派であるため、どうしても
日本人の場合には、量よりも質ばかりを優先してしまいがちになるが、
それこそ、数十億人規模の地球社会では通用しないものの考え方。
「孫子」などにも、鍛錬の足りていない兵士にまでも、
有効な心理操作によって最大限の力を発揮させる方法などが載っていて、
質だけでなく量においても優勢となることが、大前提として踏まえられている。
少数精鋭、あるいは孤軍奮闘が、日本人にとっての得意領域であるのは
確かにしろ、それを全世界の地球人類に対してまで期待するべきではない。
720 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 11:32:13 0
10億人の後見人員が投入された結果、
アメリカのほうの人口は13億人となる一方で、3億人の
人員を投入した中国などは、総人口が10億人に減損する。
アメリカが人口面でも中国を抜いて、世界最大の国となるが、
東洋諸国から満遍なく人材を駆り立てて投入したために、
少なくともしばらくの間は、まとまりを欠いた国情が続く。
中国人とインド人の利害、インド人と中東人の利害なども
必ずしも一致するわけではなく、インドとパキタスタンなどは
カシミール問題を通じてお互いに核武装すらしてしまっている。
ただ、引っ切り無しの戦乱状態が歴史の全てではないことを
東洋人は経験的にわきまえているため、なるべく天下国家全体
の平穏を目指していくヴィジョンも自主的に描くことができる。
主に中国系、インド系、中東系の三つの人種が覇権を争う、
現代版の「天下三分の計」がアメリカ国内に適用されるわけだが、
それによってかえってアメリカ全体の国力は一時的にでも弱体化して、
旧世界からの制御が利く程度に従順な存在とも化すことができる。
諸葛孔明の兵法が、有益無害な形で現代に復活することとなる。
721 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 11:46:10 0
10億人もの人員投入を、いくら人口大国や大社会であるとはいえ、
中国一国やインド一国、中東一区域のみに頼るわけにもいかないので、
アメリカ国内における三派閥の鼎立状態も、どうしたって不可避なものとなる。
ただ、それもアメリカという国の無害化に貢献することができる、有益な措置なのであり、
難病治療の副作用などとして後ろ向きに捉える必要などもないから、大っぴらに公言もできる。
あたかも副作用が起こるのなら始めから服用を禁じる漢方薬のように、
少なからず有益である一方で、少なからずの害すら無い措置となる。
多大なる害を同時に伴う益よりも、
少しでもいいから、少しの害も伴わない益を。
小さな気概に、大きな決断を託してはならない。
虞美人の前でカッコつけるためばかりに蛮勇を奮い立たせた項羽も、
だからこそ韓信に「婦人の仁」だなどと中傷されたんだ。
真に全世界、地球人類の福徳を慮っての決断、それに相応の気概が、
例のアリゾナの害吉ごときへの憎悪と同等だったりするものか。
あるいは、「あれも結局は現世界の支配者である自分の責任だ」として、
自責の念によって禅譲を決意するというのなら、まだありそうなもの。
前者ではない後者が気概になるというのなら、まだあり得るわけだが、
しかし、アメリカ国内で6人が殺されたことと、数億人もの犠牲者を
はじき出している地球規模での惨状の間にも、まだ大きな開きがある。
十億人もの大移動が行われれば、極力いざこざが起こらないように
努めたとて、それでもいくらかの死傷事件が起こる可能性が否めない。
それでも、総合的には人を殺す以上にも生かす措置になるのだと
確信できて、その気概が生まれたときに、初めて決断も下すべきだ。
723 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 19:15:34 0
「アメリカ国内でアメリカ人がアメリカ人を6人殺害しました、
もう面倒みきれないので一回崩壊させます」とする。
アメリカの無害化措置のために10億人を送り込む過程で、
6人以上の死者が出た時点ですでに「崩壊しないほうがよかった」ということになる。
本当はアフリカや中東などで何万何億という人々を犠牲に追いやってきた
ことのほうが本当の崩壊理由なのに、自分たちのことしか考えられない人格障害に
陥っている現アメリカ人を、たった6人の国内殺人で抱き込もうとする。
どうあっても、考えのない下策であるとしか思えない。
ただ「崩壊した」というだけで、ショック死や自殺を
してしまう現アメリカ人ですら、6人を下らないかもしれない。
崩壊後にも、必ず現国民の命は保障するという、誓約の用意こそは必要なこと。
不安に駆られての妄動すらしなければ、全てを無事に取り計らうと。
その誓約ができる段になってからでないと、最善の決断も下せない。
シラフで面倒をみきることを保障するのと、
「もう面倒をみきれない」とブチ切れるのとも相反する。
724 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 19:23:47 0
中東人などの中には、確かにアメリカ人への憎悪を募らせている人間も多いのであり、
今のままアメリカへと連れて行ったなら、被後見人となった現アメリカ人への虐待にも及びかねない。
もちろんそんなことができる限り起こらないようにしなけりゃならないわけだが、如何せん10億人規模。
全ての人間に後見人としての十分な覚悟を持たせるのも、相当に難しいことだ。
――聖書信者は、本物の重度精神障害者であったということ。
中でもプロテスタントやユダヤは、サイコパスも併発した最重度の精神障害であったと、
アメリカに赴く10億人の東洋人の側にも、徹底的に伝え抜いておくことが必要になる。
相手が未だ健常者であると思っているから、中東人などもアメリカ人への憎悪を募らせているが、
本物の障害者であるのだと懇切丁寧に説明して理解させたなら、人並みもの憎悪を抱いては
ならない相手であることを知り、かえって憐れみなどと共に「患者」へとも接するようになる。
それは確かに、禅譲した後のことであり、もはや現世界支配者が行うことではなく、次代の統治者に
実行が託されることではあるけれども、アメリカ崩壊や禅譲を決断するまではやはり「今上」なのだから、
今上からでも自信を持って未来を保障できる段になってから、相応の用意と共に決断を下すことで、
崩壊時のショックによる現国民の妄動や自傷も最小限に食い止めるように努めなければならない。
725 :
考える名無しさん:2011/01/17(月) 20:03:52 0
ttp://www2.himitsukichi.info/up/discussion/1285632897/1288881706.gif 結局、この図の英語版なり何なりに、「This is our error」なりの注釈を付けて
全アメリカ人に布令し、結局それは、頂点の支配者からしてのカルト信仰への陥りによる
精神障害への罹患が原因であったことをも同時に釈明し、洗脳支配の餌食となってしまった
あなた方アメリカ国民にも、治療の必要性があるのだということを提示して、そのための
措置として、10億人の東洋人による平和的後見があてがわれることをも宣告するしかない。
もちろんそれがヤケクソの決断ではなく、これから先の現アメリカ国民や、
全地球人類の未来を約束するための、周到に周到を重ねた決断であることをも保証する。
もちろん、それほどにも周到であるということが本当であればこそ、その決断もできる。
空手形のブラフではその決断もできないし、また絶対にしてもいけない。1+1=2ほどにも
用意の周到さが完全かつ自明である場合に限って、実際にその決断を下す気概も生まれる。
726 :
エロ・キャット:2011/01/18(火) 00:19:48 0
・・最近、日本語がよく理解できなくなったわ。。。
日本語か、どうかも疑問だけど。
727 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 00:42:16 0
アメリカは崩壊しない。他人を無分別にやしない育んでいる限り。
かの国には生まれによる差別は徹底してこれを退ける。有名大学などでは
有色人種の入学を援助している。まるで古代支那の科挙のように。
みな才ある限り権力を持て、ブッシュ一族などといった白人至上主義団体は
もはや下火である。みなをその広大な背に負いその夢を叶える。ユダヤ人が
迫害されないように。黒人がいじめられないように。
支那の戦略家が日本帝国軍をアメリカを使って退けたように。
728 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 00:48:42 0
かたやある一族だけが「何の功やある」とも問われず権威があり、
戦略的な大戦争に民を導き敗北させ、他国に占領・征服され植民地になっても
なんら救いの活動をせず、日本の神と民と政との融和を行わず、
アメリカの意のままに振る舞い、その下に醜い走狗たる買い弁たちが分け前を
あさり貪り、国土を汚し文化を破壊し神をなくし言葉を失わせ、子は子を
産まなくなり目先の物品と虚飾を得ようと躍起になり、まともな民は
アメリカと、その狗の二重支配に遭って物も言えず力も出せず、彼らが苦しむまま、
死ぬままにまかせ傍観するしかない。この様相はまさにこの世の地獄道であろう。
このような国に可能性はない。
729 :
ぬるぬる7:2011/01/18(火) 00:58:45 0
なにかなぁ。。。
730 :
ぬるぬる7:2011/01/18(火) 01:10:07 0
あまりにも、自己確信的な文章で、共鳴できないね、とても。
731 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 04:25:08 0
誰も分かっちゃいないし、誰にも明確なヴィジョンが見えてすらいない。
希望の光が、他力本願の形としてでも差し込まないうちから、
これほどもの決断をくだしていいものかよ。
まだ崩壊したくたってしちゃいけねえよ。
732 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 04:43:14 0
目の前に、いまにも崩落しそうな砂上の楼閣があるとして、
「これはもうじきに倒壊せざるを得ない」という冷静な判断を下すのは重要なことだ。
でも、まだ高層階にまで多くの人々が取り残されている状態のままでの
取り壊しを試みたりするのでは、自然倒壊並みかそれ以上もの災難を招くのみ。
ちゃんと安全な形での取り壊しと再建の目処が立ってから、
初めて今の楼閣の部屋が気に入っている人々にまでも、
冷静かつ納得づくの一時退去を促すこともできる。
それでこそ、「この楼閣は絶対に倒壊しない」だなどと、実情に反した
空手形の保証をし続けた挙句に、多くの人々が安穏と暮らしている状態の
ままでの、砂上の楼閣の自然倒壊によって多くの犠牲者をはじき出す
場合以上もの、最善策ともなるのだといえる。
733 :
入門志願者猫:2011/01/18(火) 06:27:37 0
私は、単に虚構として物語られたに過ぎない歴史というものを、
実体であるかのように錯覚させ、あまつさえその歴史の舵取りを
俺がやってみせる・・と豪語している時点で、すでに問題外の
妄想狂だということが明白よね。まさか、あなたの駄法螺を信じる
ひとなんか、残念ながらひとりもいず、あなたの苦心惨憺の「演説」
も「馬耳東風」と聞き流されるだけですけど、何か?
あなたが、つまらない妄想的歴史哲学を構築したりせず、まっとうな
東洋教学の研究書でも出版していれば、たぶん今頃、一目置かれる学者
になっていたでしょうに。。ひどくざんねんな結果ね?
734 :
入門志願者猫:2011/01/18(火) 06:41:05 0
私は、じゃなくて、あなたはというべきだったね。
735 :
入門志願者猫:2011/01/18(火) 07:36:45 0
いまだに単純な2項対立で、世界を解釈できると信じて疑わないその頑迷さ。
あまりに画一的な、つまらなさすぎる、その物語。。。
19世紀のひとか?
736 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 10:00:29 0
反論するだけならいくらでもできる。
でも、代替案がなにも提示されていない。
現状維持や改悪よりも、少しばかりでも
世の中をマシにできる、もう少しマシな具体案が。
妻である虞美人の前でカッコいい振る舞いをしようと躍起になったから、
項羽も大量虐殺や専制や害君といった多数の暴虐を働いて、人々からの
支持をも失ってしまい、垓下の戦いで虞美人と共に自決せざるを得なくなった。
他にも、后の褒姒がめったに笑わないにも関わらず、
諸侯を招集する非常用の狼煙を上げた時にだけは笑ったために、
妄りに狼煙を上げては褒姒を笑わせようとして、諸侯からの信用をも失い、
実際に犬戎が攻め入って来たときに狼煙を上げても、もはや諸侯が集まらず、
犬戎に西周を亡ぼされて、自らも殺された幽王のような例もある。
いくら女の側が美人だったり、貞順だったりしようとも、
男の側が女に付いていく、夫唱婦随の逆の状態に男女関係が
陥ってしまえば、男の側は仁義をも欠いた妄動に走るようになる。
胸のうちに抱く我が子への注意こそは第一でいる必要のある女性に、
万人を利して我が利ともする仁義の価値を理解しろってほうが、無理がある。
その女性に主導権を握られた男性のほうもまた、どんなに腕力や英知に
長けていたところで、仁義に適った考えや言動を心がけることすらできなくなる。
「弥陀の本願」こと法蔵発願四十八願のうちの、第十八願の内容を要約すれば、
「父母を殺さず阿羅漢を殺傷せず、僧団の和合の侵害や正法への誹謗中傷を
行うことなく、十度以上の念仏を続けていれば、お浄土への往生がかなえられる」
といったもの。
これは本当に、人として最低限の節操に当たるわけだが、だからこそ、
何らの節操も持たない現アメリカ人などへのあてがいの参考にもしやすい。
・親族を害することなく、なるべく仲良くしている。
・後見人を殺傷したり、後見人同士の仲たがいを煽ったりしない。
・道理であると見据えられた以上は、その道理への性懲りもない不平を言わない。
この三つすら守り通せたなら、被後見人となった現アメリカ国民への生活を保証する。
本当に最低限の節操でしかないが、精神障害者でも守れなくはない程度の条項だ。
739 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 11:37:07 0
何度もいうが、未だ「虚構として物語られた歴史」に過ぎないのは西洋史だけであって、
東洋においては、目に見える範囲に限らない、裏の裏の裏までをも暴きぬいた
正史編纂というものが伝統的に行われてきている。
だからこそ、「書経」や「春秋」や「史記」などを参考にして、
「あの時こうだったから、こうすればうまくいく」というような歴史考証によって、
実際の政治行為を推し進めることにも有効性が伴う。
実際に家康公なども、大坂の陣における豊臣放伐の実行の際に、
御用学者の林羅山にことの是非を問い、林羅山は武王による紂王への
放伐革命の例などを挙げて、「皇帝ではなく国王程度の位階に基づけば、
放伐もまた認められ得る」といったようなことを説いて、家康公を納得させている。
実際に豊臣放伐が成功し、徳川将軍も対内的には「征夷大将軍」の体裁を取りながらも、
対外的には「日本国王」の体裁を取る、身の程のわきまえや謙譲を尽くした統治を
試みたことで、日本史上では平安時代にも次ぐ長期泰平の時代、
江戸時代260年を築き上げることに成功したのだった。
740 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 12:03:22 0
歴史的事件を参考にしての政治行為の推し進めだけでなく、
古来の政治制度などを参考にしての制度改革を議案する、
「有職故実(ゆうそくこじつ。一発変換可)」も東洋では伝統的に行われてきており、
(
>>575の「警察を法務省から防衛省の直属に」などの案も、有職故実の一例になっている)
「歴史考証すなわち政治」というほどにも、温故知新が確かな実行性を伴っている。
「判例主義」といえばそれまでだが、模倣対象としてにしろ、反面教師としてにしろ、
模範例にもできる判例が、正史編纂などを通じて十二分に整理充実されているから、
歴史考証が単なる物語志向に留まらず、生半可な概念哲学を適用したりするよりも
遥かに高度な実践哲学ともなって、世を吉方へと導く堅実な指針ともなるのだ。
741 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 12:23:19 0
数百年規模の泰平社会を、東洋社会が実現してきたのも、
ひとえに良質な資料を参考にした歴史考証こそを要としている。
「述べて作らず、信じて古えを好む」
(「論語」述而第七・一)
何の責任も負うていない小説家の机上の空論などよりも、
命を呈しての政治行為や軍事行為に携わっていた人々の
実際上の言動のほうが、模範としても反面教師としても実地性に
即しており、良い例を見習い、悪い例の逆をいくことが確実な
結果を期待できる。事実は小説よりも事実上の頼りがいがある。
742 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 12:24:51 0
堅実な歴史考証である「書」と、典雅さを養う「詩」とを
礼楽と共に重んじる「詩書礼楽」を中心とした政治こそは、
周代や漢代や唐代の中国、平安時代や江戸時代の日本などの、
数多の長期泰平社会を司る根本的な統治原理ともなっていた。
中でも、「書」や「礼」が特に実地的なものであり、この二つがあまりにも
実地性ばかりに特化していて有機性を欠くために、「詩」や「楽」による荘厳
までもがあてがわれていた。「詩」や「楽」を以てしての荘厳には乏しかった
武家政権の江戸時代においても、武術や演劇などの文化興隆によって、
完全に世を治め尽くして余りある「書」や「礼」での統治を飾り立てていた。
「書」や「礼」によって、世が丸く治められることへの信用は、
し尽くして余りあるほどのものであり、完全に治められた後の世の中を
どうやって面白くしていくかのほうが、文化面での主題にすらなる。
743 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 13:00:50 0
経書のうちだと、政治や礼儀に関する記録の宝庫となっている
「書経」や「礼記」などよりも、世界最古級の詩文芸の宝庫となっている
「詩経」などのほうが、女性にもお奨めしやすい内容になっている。
本当に、性別からの女性が、多数の詩歌を唄っている。
ホメロスもダンテもゲーテも真っ青の、
見事な漢詩文芸が、3000年前の女性たちによって唄われている。
周武王による放伐革命の後、周朝でも理想的な詩書礼楽による統治体制が敷かれ、
主に周公のような男性によって史書編纂や儀礼の確立が推進された一方で、
そこに女性や庶民の作る詩歌がさらに華を加えた。五経のうちの「詩経」や「書経」は、
その当時の名文集を、周公の直接統治下であった魯の出身の孔子が編集したもので、
「礼記」にも、周代の儀礼と春秋後期の儀礼の違いなどが多数述べられている。
744 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:33:04 0
君子と偕に老いん 君子と共に老いましょう
副し笄し六珈す 髪を結んでかんざしを挿し、六つの玉の首飾りを首にかけ
委委佗佗として 歩行や容儀はゆったりとして
山の如く河の如く 山の如く河の如く
象服是れ宜しく 立派に飾り立てられた服装もして
子の淑からざる それでもまだ淑女としての道に反しはしないかと心配しています
云に之れを如何せん ああ、これを一体どうしましょう
(「詩経」国風・鄘風・君子偕老より)
夫に付き従う妻としての気持ちを唄ったりしていて、
やはり夫唱婦随の序は守られているわけだが、そうであることが
ありのままに唄われることで、見事な詩文芸にも昇華されている。
「経史子集」のうちの、経書や史書が為政者でもある男などに重用される一方で、
詩文集だけは、女子や小人にも広く門扉が開かれている。それどころか、
平安時代の宮廷文学のように、女流であることこそは持てはやされることすらある。
745 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:34:42 0
東洋哲学は具体的な指標を示してはくれない。
暗示的で宗教に近い
746 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:36:26 0
えーと漢詩を読むの結構だけどちゃんと中国語読みで韻踏みながらよんだのかな?
そうじゃないと「詩」は理解できないよ。
747 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:39:05 0
もう政治哲学を語らずに詩の翻訳でもしといたら?
そっちの方がよっぽど向いてるよ
748 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:46:32 0
本当に哲学を伴侶とするだけの資格ある人々のうち、残るのは、ごくわずかな者
だけとういうことになる。 プラトン 国家 496b
749 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:50:15 0
ものわかりがよいか悪いか、という点だ。そもそも、ある仕事をするのに、
四苦八苦しながらやっとのことで、ほんのわずかの結果しかあげられないようでは、
そんな仕事を、人が心から愛することができると期待できるだろうか? 486c
750 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 18:53:01 0
では、自分が学んだことを何ひとつ保持することができずに、頭のなかを占めているのは
忘却ばかりだとしたら、どうだろう?知識のほうはまるで空っぽ、ということにならざるを
えないのではないか? 486c
751 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:00:30 0
亡びてしまったすべての死人の王となるよりは
暮しの糧もあまりない貧しい人のもとで
農奴となって働いても、生きているほうがのぞましい 「イリアス」
752 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:06:32 0
さらにまた、思うに、劣悪な男たち、すなわち、臆病な男たちや、さっきわれわれが
言ったのと反対のことをしている男たちを、けっして真似てはならないだろう 396A
753 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:13:10 0
有職故実に関連していえば、平安時代の律令制度下においては、
今の警視庁にあたる隼人司が、防衛省にあたる兵部省の下にあった一方、
諸国の司法警察を司る検非違使庁がまた別にあったようだ。
それだけ、皇宮の警備にだけは超法規的な措置が敷かれていたということ。
また、今の国土交通省にあたる国司や郡司とはまた別に、
今の海上保安庁にあたる大宰府が、独立した権限を持っていたらしい。
これから10億人の東洋人が、アメリカ大陸に移住するに当たって、
特に日本海の対岸でもある中国や朝鮮から、アメリカに渡航する連中が
間違って日本に侵入して来たりしないようにするために、
今は国交省の管轄下にある海上保安庁を、かつての大宰府並みの扱い、
「海上保安省」にでも格上げしたほうがよさそうだ。
754 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:29:24 0
かなりおかしな改悪も加えられているにはしろ、
今の政府体制も基本は、律令制下の日本を参考にしている。
これは、日本全土に1億2000万人もの大衆が群がっている
現代の日本社会には元来から、手ぜまに過ぎる体制なのであり、
本当は幕府体制のような、地域に密着するためにあえて位階も低位に抑えた、
より実地的な体制を官公庁とはまた別に拵えたほうがいい。
かといって、次の地域密着型実地主義体制が、武家によって
構成されたかつての「幕府」そのものであっていいわけでもない。
仮に幕府を立ち上げたとすれば、次の幕府は「日本史上四番目の幕府」ということになってしまう。
葬式の遺影にも「四」の字の垂れ幕がかけられ、病院やホテルやマンションの
部屋番号からも「〜4」があえて省かれるほどにも、日本では「四」が不吉な数字とされている。
もちろん迷信にも違いないわけだが、たとえ迷信といえども、多くの人々が「四」を不吉な
数字だと考えている中で、史上四番目の幕府などを立ち上げたなら、人々の不安を煽ってそう長く
安定が続きそうもないので、幕府そのものを次代に復活させるということもやはり避けたほうがいい。
755 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 19:49:05 0
これからすぐにでも実行することを奨められるのは、
上記のうちのアメリカの件と、今の日本政府や大学、企業などに関する改定案。
「幕府に順ずる統治体制を新たに日本に立ち上げ直す」という案は、まだ保留にしておくべきだ。
東洋からアメリカへの10億人の大移動も、そうそうすぐには完成させられるものじゃない。
東洋人の側へも、「聖書信者はモノホンの害吉だった」という認識を徹底させた上で、
東洋側の危険人物や後見不適合人物なども落選させつつ、徐々にアメリカへと移住させていく。
まだ東洋の本土にいる内にも、アメリカに移住する上での最低限のマナー教育なども施す。
そうやってねんごろな手順を踏まえつつの、移動措置を講ずるなら、東洋からアメリカへの
移住措置が完成するまでに、最低でも三十年ぐらいの期間はかかるだろうと見込まれる。
その間はまだ、日本の側も無理な自国の体制変革を試みたりはするべきでなく、
警視庁を防衛省の管轄下に置いたり、海上保安庁を海上保安省に格上げしたりの「応急処置」
によって、地球社会の大変革から不用意な影響を受けないでいるように努めたほうがいい。
そして、ついには移動措置が完結して、国際情勢が一定の安定を獲得した後になって初めて、
今の官公庁が帰属する政府体制を、東京から撤収させて京都あたりに移設し、統治機構がもぬけの殻
となった後の東京でもう一度、幕府に順ずるような地域密着型の副次的な統治体制を築き上げていく。
756 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 20:01:25 0
今はまだほんの若造にすぎない俺も、
始めのうちはそんなに重役でもない下働きなどから仕事を初める。
東洋から、アメリカへの民族大移動が完結するまでは、
今の日本政府はそんなに大きな体制変革などをすることもなく、ほぼ今のまま運営される。
その日本政府に勤めるか、あるいはいま幕府に一番近い立場にある東京都に勤めるか、
さらには両者の関係を取り持ちするような第三者的機関に勤めるか、
その勤め先がまだ決定してるわけじゃないが、まだそんなに体制が
大々的な変革を伴わないうちの日本において、俺はそんなに重役でもないような、
下働き同然の仕事になるべく勤めるようにする。
民族大移動がほぼ完結して、もう日本も変革していいだろうという頃になって初めて、
30年以上をかけて練り上げてきた、幕府に順ずる統治体制を、自らの主導の下に旗上げする。
その頃には俺ももういい年になっていて、天下に長たるに相応しい貫禄も湛えている、かも知れない。
・・もう、誰でもしってることだけど、鎖国の日本は比較的平和な国だった
かも知れないけど、結局は、西洋の軍備の前に頭を下げざるを得なかった訳
でしょう? 小学生でも、賢い子なら知ってることよ?精神的に上?
笑わせるわよねぇ。。。日本人は、あの時、さんざん考えた上で、西洋を
学び、西洋に追いつくべきだ・・と決心したでしょう?
こんな事は、基礎中の基礎よね?
何が上だって? 精神的に上なの? はるかに先を行った軍事力で圧倒され
ても、まだ、こっちの方が高尚な精神だ。。とつぶやきながら、死んでいく
わけ? 。。。寝言も、いいかげんにする事ね。
758 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 20:26:49 0
今後30年間は、世の大局に直接は関係しない
賤業に従事していこうというわけだよ。
そんな俺を、家内から生温かく見守ってくれよん?
759 :
考える名無しさん:2011/01/18(火) 22:17:27 0
卵かけご飯を、安心して食べられる国で。
760 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 01:17:47 0
あほ
761 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 09:29:54 0
「ハチミツみたいなチュウしてえ〜♪」・・・妲杞に溺れて国を亡ぼした殷紂
「あほとは何事だ!」・・・はしたない妻を一旦は離縁したものの、夫婦関係の大切さを思い直して復縁した孟子
あほとは何事だ! あほとは!
762 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 11:11:29 0
殷紂のような男と、孟子のような男を分ける違いは一体なんだろうか。
ただ、男だてらに本能の赴くままでいたか、これまた
男だてらに、その本能を十分矯正していたかだけの違いじゃないか。
善にも悪にも、男だてらに振れきることのある男の性分を、
どちらかといえばより困難な、勧善懲悪の方面に向けて矯正する精神力の有無。
それでいて、勧善懲悪の方面への矯正に長けていた孟子こそは、
餓え渇きをも自制させた「浩然の気」と呼ばれる、心の平穏をも得ていた。
男とは、そういう生き物なのだ。
勧善懲悪でいてこそ平穏でいられ、
悪逆非道に走ることで、かえって餓え乾く生き物。
だから、道徳的な研鑽を積んだ先に、
「心の欲する所に従って矩をこえず(為政第二・四)」ともなれる。
強けりゃいい、勝てばいいの論理で、
挙句には何もしないでいるよりも劣悪な犯罪行為にまで及んだ無様。
まだ勝ち誇っていたとしても、そりゃあ全く無根拠な思い上がりで、
罪状に即した刑罰か、さもなくば精神障害も見越しての禁治産かに
浴すしかもはや選択肢はないわけだが、まあ、実際に本物の精神障害者でも
あるわけだから、刑事罰ではなく禁治産のほうをいただくとして、
「無根拠な思い上がり」も、本人たちの精神障害のうちであるのは確かだから、
東洋からアメリカへと後見人を送り込むことも、現アメリカ国民に対しては
「あなた方に補佐人をお贈りします」とかいった風に言葉を濁して、
禁治産という措置の実質性を隠し隠しにすることで、思い上がりを含めた
患者たちの精神障害を、これ以上煽ったりしないようにしてもいいだろう。
補佐者、あるいは従者といった名目での後見人を現アメリカ国民に付けて、
少しずつ治療していく過程において思い上がりなどの精神障害も治癒し、
現実をありのままに受け入れられる精神的な健全さをも取り戻した段に
なってから初めて、「あなたたちは禁治産を受けていたのだ」という
現実までをも、ありのままに宣告してやるようにすればいいのではないか。
764 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 12:58:43 0
精神性の高低云々以前に、
悪いことする<何もしない<善いことをする
という実践からの普遍性があって、
実践面から何もしていないことが確実に、
悪いことばっかしてる奴らの上にある。
もちろん精神性においてもより高尚だったから、
致命的な悪業に及んでまでの虚栄を誇る下劣さをも
未然にわきまえて、それだけには手を出さないようにも
努められたわけだが、その精神性の部分を抜きにした、
ただ無為自然でい続けてるという実践の部分だけでも、
重権力犯罪者などよりはよっぽど高尚であることが確か。
描いたようなヘタレ系女子。
766 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 17:57:51 0
まあ、日没する西方の暗闇へと逃げ込んでいった性向からも、
アメリカ人が、主君への忠義や夫への節操、そして戒律の厳守などを
守り通す精神力には乏しい「ヘタレ」なのも、前々から分かっていることだから、
五逆や誹謗正法にすら及ばなければ、お浄土への往生も約束される
念仏帰依の条件ぐらいすら守れたなら、それ以上の無理を求めたりはしない。
より高等な、東洋教学の実践にも基づく自力作善は、
本場東洋、主にイラン以東の東洋人にこそ、これからも託されていく。
767 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 18:25:50 0
「チュッチュチュッチュ♪」・・・妲己と共に群盗や佞臣をも近づけて、我れと国とを亡ぼした殷紂
「お主に離縁を申し付ける!」・・・ふしだらな妻を一旦は離縁したものの、元妻の実母の叱咤なども受けて復縁を決意した孟子。
お主に離縁を申し付ける!
小菅一丁目の駆け込み寺にでも参るがいい!
768 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 19:39:47 0
そういや、祖父の読書記録には、シラーの「群盗」も含まれてたな。
男だてらに、悪逆非道の方面に関して疾風怒濤の如くある姿が
できる限りカッコよく描かれていて、ドストの愛読書だったことでも有名だが、
あのカッコよさと、孟子のカッコよさとの違いが当時の祖父に
分かっていたかといえば、当然分かってはいなかっただろうな。
現時点においても、未だ誰も分かっちゃいないわけだが。
婦女子を殺して主人公が自首するあたりのヤケクソ加減が、あれもダメだ。
悪逆非道の男だてらは、ヤケクソによってこそ虚飾される。
実父殺害の嫌疑を受けたミーチャとその恋人が、ロシアからアメリカへと
逃亡する姿を描いた、ドストの「カラマーゾフの兄弟」なんかももう、感情移入の
対象なんかにしてちゃいけねえぞ。殺父を嬉しがったりしてんじゃねえや。
769 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 22:20:03 0
虚飾どころか、本質ですらある。
「悪逆非道の男伊達」ってのは、本質的にヤケクソなわけだ。
道理もわきまえられない中で、野獣のように猛り狂う男ってのは、早い話がヤケクソ状態にある。
アキレスにしろハムレットにしろカールにしろミーチャにしろ坊っちゃんにしろ、
単なるヤケクソ野郎だってことが、道理をわきまえた上での
勇猛さに長ける孟子などとの比較によってこそ、明らかになる。
動物なら道理をわきまえられないから、人間でいうヤケクソ状態での
猛り狂いしかできないわけだが、人間の場合は道理もわきまえられるから、
道理と共に勇猛である真の壮士と、単なるヤケクソ坊やとの違いもまた厳然としてある。
770 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 22:42:06 0
西洋文学だと、激情型の英雄であるアキレスだけでなく、
知謀型の英雄であるオデュッセウスまでもが、危難の旅路から帰り着いた先の
我が家で、妻のペネロペや息子のテレマコスにちょっかいを加えていた
ならず者どもの大量虐殺に及ぶなどのヤケクソに、やはり手を染めている。
善悪の分別もないままに持て囃されている西洋史上の英雄、その全てがヤケクソ野郎。
日本にも近代以降には、「純文学」として西洋文学の手法が大々的に取り入れられ、
見境のない猛り狂いが空回りする青年の姿が、漱石の「坊っちゃん」や太宰の「人間失格」、
三島の「奔馬」などで描かれていて、今はもうそんなやるせない文学は下火になった一方で、
一応今でも村上春樹あたりが、多動の中坊などに「西洋文学の常套手段」としての
ヤケクソを託した作品を書いていたりする。やれやれ。
それはまあ、孟子のような、東洋における高名な猛者とは、全く別物の存在だ。
孔子からして「道義的制御を受けない勇猛さは単なる乱暴にしかならない」とし、
果断さに過ぎた弟子の子路を低い評価に置いていたりする。ただ、それでも男にとっての
不可避なる性向としての勇猛さがあるとして、その勇猛さが孟子のように十分な制動を
保って、理詰めの思考や言動のみを派生することもできるわけで、勇猛さがすなわち
ヤケクソに直結するとして、勇気の価値全般を「ラケス」で退けた、プラトンの説も誤っている。
771 :
考える名無しさん:2011/01/19(水) 22:59:50 0
戦前の日本がどんな精神原理によって激戦に突入したかって質問に、
「漱石の『坊っちゃん』あたりのヤケクソを参考にした」と答えたが、
「坊っちゃん」に限らず、西洋文学や日本の純文学などに共通する
「ヤケクソさ」を参考にしたってのが、最終的な結論だ。
戦前の祖父も、孟子とシラーの区別も付かないままの、無軌道な猛りに陥っていた。
道理をわきまえた上での勇猛さという、勇猛さ自体の選別が行き届いていなかったから、
無差別な交戦状態に陥って、原爆投下という無差別大量虐殺の報復すらをも被ってしまった。
「勇猛さ」という点で、西洋文化は決定的に劣悪であり、その全てがヤケクソでしかない。
臆病な範囲内における知謀などにかけては、相当にやり込めたりもしているもんだが、
個々の西洋人が勇猛さを抱くときに、それはすなわちヤケクソとなって、孟子のような
道理からの制御が利いた適切な勇猛さであるというようなことが、決してない。
孟子が、一介の学者の身分でありながら、戦車千乗をも擁するような大諸侯を向こうに
理詰めかつ圧倒的な大演説を振る舞ったりの、未曾有の勇猛さを発揮できたのも、
孔子に始まる儒学が、本物の道理をこそ把捉できていたからで、本物の道理であればこそ
大諸侯をも圧倒するような勇猛さすらをも制御することができた。概念遊びで取り繕った
偽物の道理などでは、最大級の勇猛さにまでそこまでの制御を行き届かせることはできず、
勇猛である者にはただただ、ヤケクソの乱暴状態をあてがう以外のことはできない。
ふん。
めんどくさいので、君の長文を読んではいないが、
百万言、理屈をこねくり廻そうと、一発の水爆で
すべては、終わりだからな。。。。
それに、10億、10億って、結局、中国さまの太鼓もちかい?
773 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 07:03:24 0
だから日本では「一子相伝」といった形で、このような「祖父が一角の人物」
といった人々しか活かされない。
だがアメリカでは誰でも大きくなれる。才があれば。この差は大きいよ。
考えてみなよ。10年国家戦略を行わなかった国はどうなる?それだけ
敵国が強くなりいずれ侵略されて滅ぶ。それがある特定の一族のため「だけ」に
250年以上になんなんとする年月をすべて頬被りして過ごしてきたのが
江戸時代の日本である。一方、サイコパスじみた白人士業主義、プロテスタント
独裁に似た状況を、その被支配者の人々の努力により一新させ、誰にでも機会を与える
超大国。勝負になんてなるわけないさ。
君の言う話が、ほんとうかどうかしらないけど、要するに
君は、アメリカを礼賛している訳なのね?
アメリカン・ドリームって、やつ。
だけど、それはあうまでも、ドリームなんであって、もちろん
他民族国家、実験的他民族国家としての、アメリカは
ある意味、なあなあ的、わかるだろ?的、以心伝心的。。。
(山本七平が指摘した)空気が支配する日本にくらべれば、
風通しのよい国家かも知れない。けど、いまだに、解決の方向
さえ見出せない人種差別問題、テロリスト警戒のあまりの人権
軽視傾向、あらゆる国家に憎まれていること(アメリカの友人
と言えるのは、台湾、オーストラリア、イスラエル、ぐらい?
イギリスとの関係は微妙、もしかして中国こそ、最大の友人
候補か?)を考えると、別に、それほどすばらしい国とは、
思えないんですけどねぇ??
やはり、世界一、幸運な国、とはほかならぬわが国でしょ?
・・それに、あなたは社会的に「ひとかどの人物」になること、
社会的に成功者とみなされる人、だけが、幸福である・・と定義
しているように、みえるんだけど、無名の庶民だって十分にしあわせ
なんだけどな。・・少なくともこの国ではね。
韓国とも、けっこう友人かな? ロシアも、どちらかと言うと友人か?
(つまり、ライバル的友人)日本は。。。。友人じゃなないね。
不信感をもって観られていると思う。まっ、当然ですけどね。
776 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 08:10:12 0
人を殺すだけなら、麻原や宅間や少年Aにだってできる。
でも、より多くの人々を生かすことや、より多くの人々を生かすために人を殺すことは、できない。
今のアメリカには、より多くの人々を生かすことはおろか、
より多くの人々を生かすために、一人の人間を殺すことだってできない。
あの国が何かをすれば、そのぶんだけより多くの人々の命が失われ、
それと引き換えに一人でも多くの命が生かされるということすらない。
一切皆悪、一切皆罪だから。
少しだって人を生かすための仁徳を積みはせず、ただより多くの人々を不幸や死に追いやる
罪障ばかりを積み立ててきたから、その原因に相応の結果として、
悪いこと以上の善いことをする選択肢もまた、閉ざされてしまっている。
どんなに早急の処置を施したところで、最低でも今後300年程度は、
現欧米人が有害以上にも有益な存在であり得る可能性は閉ざされている。
それこそ先祖代々からの、大いなる罪障の積み重ねがわざわいとなって。
>>771 勇猛さ・・・??
日本人だって、勇猛さには欠けるでしょ? 商魂は、勇猛さじゃないし。。。
もちろん、昔のインディアンたちとか、昔のひと、原始部族のひと、
戦争状態が日常の一部だった人たちにとっては、
勇猛さこそは、最高の価値であり、英雄の証だったわけだけどさ。。。
ようするに、あなた、戦国時代に行きたいわけ?
・・充分な資金を提供してくれる用意が、もしあるのであれば、
委員会で検討してみてもいいけどさ?
778 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 09:06:47 0
必ず、生かす以上に殺すことしかできない。
一部の気に入った人間を生かしてやることはできても、
必ずそれと共にそれ以上もの犠牲者を生む。
罪悪の分量が、善徳の分量を
いつも必ずもれなく上回り続けている、
勧善懲悪ではない悪逆非道。
勇猛さを孟子のように道理のために活かすこともできず、
必ず禽獣も同然のヤケクソとしてしか用いることもできない。
779 :
考える名無しさん:2011/01/20(木) 13:07:51 0
孟子は大乗仏教興隆以前の人物だが、孟子の発言には、
中観派の般若思想にも共通する部分がいくらか見られる。
(「孟子」尽心章句上・二六などを参照)
般若経典の集大成である「大般若経」の中にも、
「善勇猛般若経」っていう名の経典があって、
儒学の道理だけでなく、仏教の絶対真理にも、
人間にとっての最も原始的な性情のうちの一つである
勇猛さを制御するだけの度量が備わっていることがうかがえる。
東洋教学とて、勇気を最高の理念としているわけではなく、
道徳学にしろ真理学にしろ、深い知識による思慮深さこそを重んじている。
一方で、その思慮深さが勇気にすら投影されることすらもがあり得て、
勇気と思慮深さを対極関係に置くような大雑把さは排されている。
勇気と真の対蹠関係にあるのは、もちろん「臆病さ」だが、
臆病であることが思慮深い上での条件であるわけでは決してない。
山のように動かず林のように潜むこともある一方で、
風のように動いて火のように侵すこともあってこそ。
そのような臨機応変な人間であるために、根本的に必要なのが、
どちらかといえば臆病さよりも勇気であるということはいえる。
たとえこれから世を治めるような仕事に就くのだとしても、
今すぐに世の中のトップに立ったりするには、自分もまだ若すぎる。
もう少し事務処理面からの場数を踏んでからでないと、長い長い
下働きの後にやっと天下を握った、家康公のような貫禄も決して備わりはしない。
相手が自分より偉いからとかいう以前に、自分自身の徳性を養うためにこそ
もう少し謙譲に努めるようにもしなければならない。2chなんかで謙った所で
図に乗ってよりからかわれるだけだから、今ここでは偉そうな口調でもいるが、
実際に下働きからでも働き始めるのなら、相応の礼節にも努めるようにする。
もちろん、少なからず働く価値のある世の中になってからの話。
大諸侯をも口だけで言い負かす孟子のような道徳的勇猛さの持ち主を、
ウサギ並みの臆病さばかりで塗り固められた犯罪集団のほうが、
到底雇う気にだってなれないだろうしな。
ただの一人たりとも、より多くの人々を生かすことに
貢献できなくなっているのが、今のアメリカ。
より多くの人々を殺すことならいくらでもできるが、そのせいもあって、
より多くの人々を生かすことにかけては、全くの不能状態と化してしまっている。
せいぜい、これ以上死人の数を増やさないように自重するぐらいからしか、
アメリカがプラスの方面で地球社会に貢献していくことはできない。
それは確かに下等なことで、日没する西方が暗黒の物質文化であり、
日出ずる東方こそは光の精神文化であるとした、スフラワルディーの
照明論哲学が、ありのままに適用されることとなる。
別に今に始まったことではないが、
西方に致命的な劣悪さが隠されていたことが、
誰しもに明確に認識されるという点では、初めてのことだといえる。
783 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 10:03:01 0
家長が最低限「お殿様」と敬称されるレベル、
だいたい中級旗本以上の家格であれば、
正妻が家事全般までをもこなす必要はない。
側室がいれば側室が家事を引き受けてくれるし、
いなくても武家奉公人の小間使いがある程度はやってくれる。
小間使いが家事全般を引き受けてくれて、
なおかつ側室までは囲わなくてもいい、
微妙な階級に落とし所を持っていけるかどうか。
結局、俺の母方の家系が、「戦前の失策」を東条英機に次ぐぐらいの階級から請け負っていたのも確かで、
仮に俺が莫大な功績を挙げたとしても、それは「先祖の恥をすすぐ」という意味をも持つわけで、
そのせいで、功績の価値が相当に差し引きされることにもなるわけだ。
その結果、「側室すらをも承けるべきだ」とされるのなら、
それだけ俺の功績が先祖の失敗を埋め合わせて余りあるものだったということになるし、
「側室までは承けるべきではない」とされるのなら、俺の功績もそこまでのものだったということになる。
いずれにしろ、あなたを正妻とすることには、差し障りはないということだ。
786 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 18:22:19 0
世襲制の封建社会が復活するというのなら、
天皇家や将軍家級の名家は、当然側室すらをも囲うようになるわけで、
自分自身がそこまでの格になれるかどうかは別としても、
未だ「取らぬ狸の皮算用」でもあるにしろ、妻妾制度の復活をも
大真面目に想定しておかなければならない。
正直、本当に妾を囲うとなると、イヤだよな。
夫婦の仲睦まじさすら、侵害されかねないから。
「妾なんか囲いません」と言い切るだけなら簡単だけども、
それはそれで、身勝手な私情の押し通しになっちまうしな。
>>782 ・・まあ、そういう紋切り型発言は、軽蔑されるだけですね。
そういう、単純化した二極的思考ってのは、どうですかねぇ。。
もはや、時代おくれもいいとこだと思いますけど?
>>785 先祖、先祖、先祖ねぇ。。。
ご先祖コンプレックス、というのも大変なんですねぇ。
>>786 はあ???
788 :
考える名無しさん:2011/01/21(金) 23:54:52 0
むしろ、ご先祖様の失敗との差し引き零ぐらいでいいい
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
月も満ちれば、後は欠けるまでのことでしかなく
とりあえず、俺んちが「日本最高級の家柄」なわけじゃ、決してないから。
天皇家や旧将軍家はもちろんのこと、
旧華族にも当たる旧公家や旧大名家も、
上位の士族格だったうちよりもさらに家格が上なわけだから。
俺ですらもが、指示を仰ぐべき方々が、この日本にもまだ多くいらっしゃる。
所詮は俺も案件を提出する臣下止まりの存在なわけで、
何もかもを独断で取り決めていいいようなはずもなく。
・・俺ですらもが、ねぇ。。。
ものすごい、自己確信的うねぼれの塊ね。。。
冷静に考えて、大名に次ぐ上士格であるものが、
何もしないでいる以上の功績を挙げたなら、即大名級の家格になるわけだよ。
天皇や将軍までいかずとも、大名格の時点ですでにもう、
イヤでも側室を囲わなければならないぐらいの立場になる。
仮に、差し引き零の上士止まりであったとしても、大身旗本級や、
昔のうちぐらいの家格なら、側室を囲ったり囲わなかったりするわけだ。
それこそ、もう一つ家格を下げて、鬼平のような中堅旗本ぐらいになるか、
さらに下の御家人や足軽程度であって初めて、側室までは囲わなくてもよくなる。
小間使いを雇うぐらいの余裕は欲しいというのなら、
やっぱり鬼平ぐらいの家格であるのが一番ということになるね♪
誰でも、鬼平を読まなきゃいかんのか?
誰もが火付盗賊であるよりは、
よっぽどそのほうがマシだと思うぞ?
久栄さん「ましとは、これまたひどい言い方ではございませんか」
794 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 09:28:59 0
>>789そのような「偉い人達」が大失敗をしたのだから、その尊き位も含めて
一族皆殺しにされるのが当然じゃないのか?なぜ貴族がいるのか、権威があるのか、
あなたは全くわかってないか頬かむりをしている。同じように階級社会である
英国は戦勝国だし常時世界の支配層にいる。だから彼らの国は階級固定でも
何ら問題ない。有能なものが有意な位にあるように、その地位にふさわしい責任を
果たしているからだ。だが普段人々に優先され、権力を揮う者たちが自国を失い
滅ばせ、米英の植民地となるような大失敗をして「後に汚名をすすぐ」なんて
ありえないね。その地位にふさわしく一族郎党皆殺しにされるべきだろう。
795 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 09:35:57 0
実際、あの時天皇を始め皇族が滅10族、軍事官僚・軍事利権とその保守に
走り祖国を壊滅させ、300万人もの日本人を無駄に殺した彼らも同様に
滅10族、合わせて最低一万人は「日本人自身の手で」処断すべきだった。
そしてその後に本土で長く苦しい日本人による日本人のための独立戦争を
起し、最後まで英米と戦い独立を得るべきだった(日本より不利だった
支那・越南はこれを成し遂げた)。これをせずに敗戦後天皇や皇族らは
自らの責を負わずに米国の傀儡になり、戦争での軍事利権で潤ったものは
日本国民を売る代わりに戦犯追求から免れ復権し、残った列島は世界最低の
植民地となった(英国領のインドと比較せよ)。そして「先祖の恥を
すすぐ」などと何を勘違いしてるのか(本当にそう思うのなら進んで
自害すべきだ)家柄だけは高い薄ら馬鹿たち。こんな終わってる地域と
世界のありとあらゆる者を殺し、また活かしもする超大国のアメリカと、
善悪・優劣の比較になるわけがない。まったくこんな馬鹿馬鹿しい話も
ないではないか。
796 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:04:31 0
刑事罰に相当するような誅戮を被るべきなのは、
何もしない以上にもより多くの人々を殺してしまったような、
重大犯罪行為に及んでしまった連中に限っての話だ。
ちょうど、今の米英の支配層のような連中の場合だ。
戦前の俺の祖先なども、失策を請け負った役柄だったのは確かだが、
それはあくまで「より多くの人々を生かす」という目的で画策された
大東亜共栄圏の創立を試みて、自分たちの手落ちにもよって
失敗してしまったからで、それにより、より多くの人々が
殺されたというわけではない。
石油利権が欲しいあまりに大量破壊兵器保有という難癖を付け、
イラクへと侵攻して数十万人の犠牲者を出した近頃のアメリカなどこそは、
自分たちの利益ばかりを優先するあまり、より多くの地球人類を
不幸な死へと追いやった典型例であり、これこそは政策者が
刑事罰級の懲罰を受けることに何らの不平を唱える余地もない好例。
より多くの人々を生かすというプラスの方面への政策に失敗した
戦前の日本の支配層は、責任を取って「重役からの撤退」という
措置を飲んだ。こちらはこれで十分なのであり、本当は東条英機などの
東京裁判で虐殺されたトップ中のトップたちも、引責辞任程度の
処分を受けるだけでもかまいやしなかった。
より多くの人々を生かすために行われる戦いこそは義に基づく一方で、
より多くの人々を生かすために行われる戦いこそは不義にしか基づかない。
前者の戦いに及んだことが、昔も今もこれからもあり得ず、ただより多くの
人々を殺しつくす、刑事罰級の不義の戦いばかりを積み重ねてきたのが
かりそめの戦勝者としての虚栄ばかりを謳歌している、米英などでもある。
797 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:06:23 0
×より多くの人々を生かすために行われる戦いこそは不義にしか基づかない。
○より多くの人々を殺すために行われる戦いこそは不義にしか基づかない。
798 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:24:59 0
地球社会の存亡にも関わるような大局面において、
未だ「罪か否か」という判断基準が本格的にあてがわれたことがないから、
重権力犯罪まみれの不義の戦いばかりで戦勝を積み重ねてきた
米英なんぞが、一等級の国家ぶったりの横暴を未だ続けている。
本当に連中が一等級なのは、純粋な「戦いでの勝利」ではなく、
重権力犯罪による罪障の積み重ねの度合いでこそあるのであり、
二度と行為能力の活用に手を出してはいけないぐらいの
超一等級の罪障こそを、確かに奴らは積み重ねてきている。
日本も近代以降には同じような戦略を試みていたように見えるが、
そこは東洋人なだけあって、修羅道と地獄道の潜在的な分別も付いていたせいか、
最悪の激戦状態に及んだとて、後々致命的な罪状を問われるような
重大犯罪行為にだけは、なるべく手を出さないようにしていたことがうかがえる。
ある意味、だからこそ日本は米英などに敗北したとすらいえ、
地球社会の自己完結性が確立されて、今までは大きすぎて議題に
挙げられることすらなかった、大局を司るような側面における重権力犯罪の
清算までもが必要となったときに(ちなみにそれは今でもある)、
米英のような超一等級の有罪国家が、再起不能級の懲罰を受ける段になって、
やっと最大級かつ無辜の勝利を得るための布石であったとすらいえる。
799 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:54:55 0
その奪った石油でブッシュ一族だけが金持ちになったのならたしかに問題だが、
そこで略奪した物資はアメリカ国民の衣食住と名誉に与えられているではないか。
800 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 10:55:08 0
地球社会の大局から見た場合における、各国や各社会の権力犯罪行為の本格的な
裁決こそは、地球社会の平穏な存続を約束する上での、決定的な鍵ともなっている。
すでに何度も言っていることだが、近代以降の地球社会における人口爆発も、
資本主義先進国などによる「人の殺しすぎ」への、地球人類の側の対抗反応であり、
致命的な環境破壊をも伴う人口爆発の進行を食い止めるための唯一かつ決定的な
手段であるのも、「人を殺しすぎている国家や社会への十分な抑制処分」でこそある。
人をより多く殺すことばかりに貢献している、米英やイスラエルのような重権力犯罪国家が
虚栄の謳歌をどこまでも押し通そうとすれば、本人たち自身を含む全地球社会が破滅に
陥る一方で(すでに片足以上破滅に踏み入ってもいるが)、自分たちの罪状の告発や
処分を受け入れて「過去の国」となれば、いま米英人やイスラエル人である人々までもが
十全な保護待遇を受けつつ、地球社会の誰しもが半永久的な繁栄を享受することができる。
信じようが信じまいが、支持しようが支持するまいが、実際そうだから。
個々人が自覚的に確信していたわけではないにしても、自分たちが「害悪の元凶」と化して
人類の存亡を負の側面から司るような派閥とはならないように、日本人を含む東洋人は
努めていた一方で、西洋人は必ずしもそうではなく、中でも白系のプロテスタントやユダヤ
の支配する米英やイスラエルといった国が、「おまえらすら社会的に死ねば、おまえらを含む
誰しもがより幸せになれる」というほどもの、人類の不幸の元凶中の元凶となってしまってもいる。
そこまでも、民族の運命を決定的に分かつ原因中の原因となったのは、個々の瑣末な戦闘における
勝敗などではなく、東洋教学のような正学を専修していたか、洋学や聖書教のようなカルト教学を
服毒していたかの違いでこそある。人類文明は必ず、「武」の前にそれを司る「文」を持つものであり、
より根本的な「文」の側面から、正しいものに与れていたかどうかが、民族の運命すらをも分けたのだ。
801 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 11:15:37 0
たかだか3億人やそこらの部落民のために、60億人以上もの人々の利益が損なわれる。
どうあがいたって、大局的にはより多くの利益が損なわれることにしかならない。
ノアの洪水で多くの人々や動物が押し流されて死亡する中で、
箱舟に乗った自分たちだけが難を免れるという、あの論理。
本当は洪水を捏造して、多くの人々を殺害しているのも、自分たち自身でこそあるのに。
802 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 11:19:07 0
英国や米国は留学生を多く受け入れている。
古代支那もそうであった。誰でも科挙を受けることができる。
だが我が国はそうであったろうか?
「一子相伝」という言葉があるように、ある特定の一族だけが
栄え、国など蔑ろにし、国力を不当に落としめ、それで
滅びたのではなかったのか?このような「正当な地位に
正当な者がいない国」など民を生かさずいたずらに抑えてるだけで、
人を育み活かすのが国家だというのなら、滅んで当然なのではないのか?
君が言うような仁義王道も、国そのものが民族そのものが根こそぎ
亡失してしまえば一体誰に語ろうというのか?その責任の負わずに
のうのうと生きている者がいる時点で、そんな地域にそのような言葉を
理解できる者などおるはずがなかろうよ。
803 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 11:26:30 0
闘弁を積み重ねたところで、もう無駄なんだよ。
間違っているものが、根本的に間違っていることを
表層の虚飾ばかりで正当化したところで、根本的な
間違いが埋め合わされるわけでは決してない。
そして、根本的に間違い続けているから、
自分たちこそは消えれば誰しもが今以上に生かされ、
自分たちが存続するだけより多くの人々が死ぬ、
害悪の元凶中の元凶ちもなっているんだ。
スズメの涙ほどの数の留学生などを受け入れたところで、
それはやはり同じこと。自国の総人口の3倍以上の
後見人の流入を認めるぐらいからでないと、「総体犯罪」
である国家規模の権力犯罪の清算も覚束ない。
804 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 11:44:39 0
必要なのは、
過ちの正当化や美化や開き直りではなく、
過ちの改めや反省や未然の防止。
昔もそうだったし、今もそうだし、これからもそうであり続ける。
未だ過ちが過ちであることをわきまえられず、
過ちの改め方や正しさの保ち方も分からない限りにおいて、
過ちが積み重ねられていくことだってあるだろう。
しかし、そのような悪運が尽きたなら、
後はもう、できる限りでの最善を尽くすしかない。
未だ悪運が尽きなかった限りにおいて、
さも最善を尽くようにして、最悪を尽くしていたのと同じように。
805 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 12:18:06 0
>>803雀の涙ほどってそんなわけないよ。
科挙と同じで誰でも受けられる。
黒人は優遇される。
ところで君のご先祖さまが活躍した国はどうだったかな?
学閥、血統閥、なんでもござれで最終的には今の
政治家モドキみたいな薄ら馬鹿しか遺せなかったのだろう。
違うか?
806 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 13:35:09 0
世界古典文学全集版の「論語」で、
訳者の吉川幸次郎が、なぜかあとがきをニューヨークで書いてたりする。
別に留学先ではなく、客員教授としての旅行先だったわけだが、
「なんで論語のあとがきをニューヨークで書かなきゃなんねえんだよ」とは思った。
他にも、井筒俊彦がユダヤ財閥の奨学金でイスラム学を専攻していたりするが、
まったく学問内容との関連がありゃしない。単なるニューヨークやユダヤ財閥の側の「マーキング」
にしか見えず、実際、アメリカ人やユダヤ人が、論語やイスラムの価値を認めているわけでもない。
まあ、日本の東洋学者までもが、西洋への形式的な擦り寄りを強要されているのも、
そこまででもしなければ、自分たちが学者としてやっていく余地すらも奪われるからなんだろう。
ちょうど、今の俺のように。効果的な発言権を徹底的に奪われて、坑埋めにされた儒者も同然となる。
807 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 14:15:44 0
五経に四書を付随した朱子学は、科挙制で官僚を登用していた明代の中国などではなく、
世襲制の武家社会であった江戸時代の日本などにおいてこそ、うまく活かされることとなった。
五経を正学とする本来の儒学から、四書を標榜する新儒学たる朱子学に進化するにあたって、
五経を棄てて四書に移るようなことにもなってしまったせいで、孔子や孟子などに対する
個人崇拝の付随した「儒教」信仰とも陥ったことが、近世の中国や朝鮮における失敗の原因となった
一方、儒学それ自体は林派のような学問方に徹底研究させることで、四書五経やそれ以外の
経史子集への網羅も行き届かせた上で、一般的な武家には純粋な教養としての朱子学が
あてがわれたために、四書の付随などによって浩瀚化してしまった新儒学の受容にも日本は成功した。
誰も彼もが専門的な勉強ばかりをすればいいわけでもなく、それぞれの素養や立場に応じての
適正な教学の受容ができたほうが、全体としての教学への理解度もより高まることになる。
「留学」という行為自体もまた、一部の知識人を選別するような意味が必ず込められていて、
一部の知識人と、その他大勢の無知に世界が両極化するような学究体制では、
結局全体としての教学への理解度はきわめて低く、カタワ同然のものとなってしまう。
皆さん、コテっていうか、名前を持ったらどうなんでしょうねぇ?
ぱっと見、わかりにくいことおびただしいよ。最近のカキコミは、
東学さんのじゃない発言が、多いでしょ。
・・名前、つけましょうよ。わかりにくいよ。
809 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 16:34:06 0
その考え方は古いから考え直すことも考えたらどうか。
810 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 18:08:26 0
「署名主義」も、洋学や聖書教の産物だものね。
三平方の定理みたいな、発見しようがするまいがかしこに偏在している定理に、
自分自身の名前を付けて我が物顔したりするようなおこがましさ自体が、もういらないね。
線形代数の「サラスの方法」を、第一発見者である関孝和にちなんで「関の方法」と
呼び替えたりするのではなく、そもそも固有名詞抜きの「たすきがけ算法」と呼べばいいだけのこと。
そういうのが結局、現行の洋学などに対する「異端再利用」の手立てともなっていく。
811 :
考える名無しさん:2011/01/22(土) 18:15:39 0
いま俺がここでやっている篭絡兵法も、
固有名詞抜きの、「採らぬ狸の皮算用の計」とでも呼んでもらえればいい。
この兵法は、実践面が単なる戯れ言に終始するのと引き換えに、
皮算用の内容自体が、虚構ではない全くの実物であることにより、
篭絡後の詳しいヴィジョンの提示にもよって、相手を腰砕けにする効果がある。
普遍的に有効な兵法ってのは、別に種や仕掛けを披露したからといって急に
破綻するわけでもなく、種や仕掛け自体にもさらに誠意が込められていたりする。
そこまでいって初めて、詭道としての兵法の扱いまでもが、上手であるといえ、
種や仕掛けに無様な犯罪寓意が隠されていたりするのでは、下手だといえる。
813 :
考える名無しさん:
仏教の、優秀な修行仲間を「善智識」と呼ぶ慣習も、面白いね。
一介の人間としての相手ではなく、その知識だけを特定して仲間とする。
人と人とが、知識によって仲間となることなんて、始めから否定されている。
特に、俗人としての領分を捨て去った出家行に没入する仏門においてこそ。
皮肉骨髄によって構成された、人と人のつながりは、結局概念的な知識などによって
ではなく、普段からの何気ない触れ合いによってのみ構築されていくものではないか。