1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 11:34:10 0
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((|/⌒\ (○)) ((|/⌒\ (○)) ドンドン♪
∩ ^人^ )/ ∩ ^人^ )/
ヽ つ ヽ つ
(_人_) (_人_)
3 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 11:38:09 O
ミラクル
4 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 13:57:11 0
孔子とか孟子とか朱子とか、尊称のままで批判してるような奴らがいるが、
本名は孔丘だったり孟軻だったり朱熹だったり。管子なんかはむしろ管仲と呼ばれることが多い。
賢人を呼び捨てにするのはそれだけで失礼になり、最低限の礼儀を保った上で
教学が育まれてきたのが儒学だったりする。「子曰く」とな。愚童が斎を持つ第一歩。
「論語の孔子先生(山岡荘八「徳川家康」で竹千代が雪斎和尚に言った言葉)」
5 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 14:09:34 0
儒学や朱子学が神社・仏閣板の趣旨に沿わないのでこちらで。
非宗教・無信仰的な哲学から低コスト高パフォーマンスの東洋教学に鞍替えしていく方針で。
7 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 16:03:16 O
少年老いやすく学成りがたし、聖人学んで至るべし!
凡そありとあらゆる学問の中でも最も学問らしい学問、王道中の王道の学問こそは儒学や朱子学。
幾何学だ神学だも、儒学や朱子学に比べればその大部分がただの妄想。
幾何学や神学の中でも特に重大である規矩準縄や鬼神だけは論究の対象とした上で、
現実社会の統治にも有効となる堅実な真理の究明にこそ務め、
以って徳川270年の泰平かつ円満なる治世の原動力ともなり得た。
きっとまたおまえらが、喜悦と感涙に満ち溢れながら
路傍で大名行列に土下座する日が来るであろう。
8 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 16:07:03 O
ワーズワース
9 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 16:51:27 0
幾何学とか数学があるからこうやってパソコンなどが出来るんだぜ?
もちろん道徳が大事なのは分かるがインターネットがあるから世界中の書物が
こうやって簡単に手に入る。
あんたがもってるコーランの高い原書だって、ネットだろ?科学のおかげじゃん
科学や数学をばかにするならパソコン一切するべくじゃないと思うね
10 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 17:00:40 O
コーランは規範。規範はルールがまとまって最後に上下が広がる。上下が広がると下が凶暴になる。アラビアンの顔はもはや人間に非ず。梶井基次郎も言っているは
11 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 17:14:53 O
パソコンも携帯も車も飛行機も使えなくなってもいいから、
代わりに大小二本差させろってんだ。
科学のような無記もまた、悪用せずに善用する確固たる道徳倫理があって初めてよくなる。
善用も悪用もみそくそなんじゃ、朱子学以外の異学が禁じられたりしてた武家社会の足元にも及ばない。
道徳は科学や数学の上にすら立つものであり、それは科学や数学の発展の源にもなってきた規矩準縄を
土器の文様に用いたり、礼儀正しい立ち居振る舞いの参考にしたりしてきたことからも明らか。
エジプトの王家だピタゴラスだよりも遥かの昔から規矩準縄の重要さに気付いた上で、さらに悪用してこなかった。
完全に悪用されなかった科学こそは道徳であり、多少は道徳を悪用してしまったことが科学となった。
科学や数学も道徳や聖徳だけには偉そうな顔をできない所以。
12 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 17:20:42 0
じゃあ今からパソコンや携帯をあなたはやめるべきでは?
なんでやってるの?
13 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 17:29:32 O
大小二本差せないだろうが。捕まるだろうが。
道徳も士道もなにもない犯罪推進社会じゃ刀剣所持なんか確かに無理だ。
だから我慢してやってんじゃねえか。規矩準縄の悪用である科学の産物のほうで。
土下座して感謝しろってんだ。
>>10 その、イスラムよりもさらに下なのが聖書教。
自分たちの本尊が犯罪の化身。人間版の共食いとしてのカニバリズム。
心神喪失の争乱状態で、本来ならとっくの昔に絶滅してたのが
アウグスティヌスが(聖書にはないが仏典にはある)自殺を禁じたり、
ヘレニズムだ啓蒙主義だでなんとか保全させてきた。とはいえ杜撰な
保全なので、外界へと飛び火しては消し、飛び火しては消しの
マッチポンプの繰り返しによって、今では世界中を罪業の火の海と化している。
イスラムはコーランによって聖書の毒性を中和することで何とか
国際権力犯罪加害を外界へと増長させるようなことは避けている。
タリバンだなんだもあくまで一部の過激派であって、大多数のムスリムは
無利子経済などの穏健な自給自足社会を営んでいる。それすらできず、
アフリカの女子供を餓死させつつも自分らは遊び暮らしてるのが聖書圏。
タリバンも聖書圏が自分らの罪業の重大さを隠蔽するためにでっち上げた
スケープゴートでしかないから。人類の真の病巣を見誤らないように。
犯罪者が無辜の市民と引き比べて、蔑まれるのは差別だろうか?
コツコツと農業や無利子経済によって自給自足を続けてきた大人とは違い、
口から出まかせの詐欺だなんだで不当利得を溜めこみ、他者に迷惑をかけることで
自分自身は大した苦労もせずに悠々と遊び暮らしてるようなガキが、適切な断罪も
受けずにそのままでいることが憎み嫌われても当然のことではあるまいか?
天台華厳真言あたりの高級な仏教の就学者ならまだしも、儒学程度の世俗道徳
しか持ち合わせていない人間ならば、餓鬼や畜生を哀れみ蔑んだところで
全く仕方ないことなのではないか? 御用だ御用だ!
16 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 22:50:48 0
源氏物語は1さんは読んでおられますか?
17 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 23:55:24 0
「衆生の自心、其の数無量なり。衆生狂酔して覚せず知せず。大聖彼の機根に随つて其の数を開示したまふ。
唯蘊・抜業の二乗は但六識のみを知る。他縁・覚心の両教は但八心のみを示す。一道・極無は但九識のみを
知る。『釈大衍』には十識を説く。『大日経』王には無量の心識、無量の身等を説く。是くの如きの身心の究竟を
知るは、即ち是れ秘密荘厳の住処を證するなり」(日本思想大系「空海・十住心論」秘密荘厳住心第十より)
専門的過ぎてほとんど分からない真言密教の境地・秘密荘厳心についての記述で、辛うじて分かる部分。
声聞縁覚の二乗(小乗)では眼耳鼻舌身意の六識しか知らなかったのが、大乗である唯識や中観に至ることで
迷妄を司る末那識と万物を司る阿頼耶識とを知る。さらには法華や華厳の境地に至ることで、阿頼耶識の中でも
清浄な部分である阿摩羅識(無垢識)までをも知り、さらには乾栗陀耶識なども通じて、真言密教においては、
悟りもへったくれもない凡人に応じて無限量の心識を知るという。善悪みそくそであるが故に、苦楽もみそくである
世の中において、罪福を自在に操ることにより、迷妄の度合いに応じての無量の救い途を提示するだけの
無量の識見を、真言密教までをも修得すれば得られるようになるという。
18 :
考える名無しさん:2009/04/08(水) 23:56:48 0
自分自身が無我の境地を獲得したり、悪因苦果から抜け出したりは、声聞縁覚の小乗ですでに叶えられている。
大乗と小乗を明確に分けているのは無我でも抜業でもなく、第七識の末那識や第八識の阿頼耶識をも知っていく
識見の拡張であり、それにより利他もまた可能になっていく。中観もまた唯識と同等の識見を得るし、天台や華厳
に至っては第九識を得、密教では第十識も得ることで、識見を無限次元に上昇させていく複雑系が確立される。
識見の増大こそが大乗における利他の要であるなら、確かに真言密教は他の大乗仏教と比べても抜群であり、
別個に「金剛乗」と言い換えるべきであるほどの別格さを持っている。もちろん唯識が仏教の全てだなんてことは
なく、凡人が計り知れない領域はまだいくらでもあるが、分かる部分だけでもすでにとんでもないと分かる。
「秘密曼荼羅十住心論」は読了。未完というか、結びの言葉が(おそらく)意図的に削り取られている。
とてつもなく重大なことを書いていたのかも知れないし、文書なんか読んだだけで分かりきったような気になられる
のを防ぐための演出であるかもしれない。もちろん自分もこの論文の全てが分かっただなんてことは決して言わない。
密教はやっぱり密教でした。あんまりディープな聖道仏教ばかり論じれば、「宗教板行け」と言われても仕方なく
なるんで、今度は四書五経最後の未読部分である「春秋左氏伝」の判読に取り掛かりますんで、お楽しみに。
>>16 「桐壺」だけ瀬戸内訳で読んでそれっきりです。
愛の原典、素晴らしい内容であることは分かりきっているんだけれども、
殺伐とした今の世相の中で読み込むことには躊躇を抱く。
儒書とか仏典とか「徳川家康」とか「鬼平犯科帳」とか、強くてカッコいい男の教科書は
戦いの武器として役に立つけれども、記紀に始まる日本古文はたおやか過ぎて戦いには不向き。
天下泰平の世の中が取り戻された暁には、妻あたりと読み交わしたいもんんです。
「ここでヤってるって」「ううんヤってない」「じゃあ確かめてみるか」→☆☆☆
20 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 03:04:30 0
レスありがとうございます
瀬戸内さんがすきなのは以外ですね
21 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 12:46:37 0
瀬戸内訳はたまたま手元にあった(親族が持ってた)だけで、特に好きというわけでは。
年取っても随分と活動の活発な天台宗の尼さんで。でも別に宗門に沿った活動なわけでもないようで。
江戸時代もそうだが、平安時代ってのも「凄い時代だったんだなー」って今さら思うもの。
天台真言なんて最高級仏教が流行って、「往生要集」も書かれた。まだまだ貴族趣味で一般民衆は
直接の法話には与れなかったにしても、今では考えられないほどの大層な美食家。
その功徳もあってか、嵯峨天皇から後白河天皇までの二十六代、三百四十六年にかけて、
日本では一つの死刑も執行されなかったという(西尾幹二「国民の歴史」より)。鎮護国家もダテじゃない。
そんな筋金入りの平和な世相の中でこそ書かれたのが「源氏物語」であって、紫式部のような
才女が真の活躍の場を得るのもまた、真の平和が獲得された世の中であることが証明されている。
架空の姓なんで直接の関係はないだろうが、現実の世の中でも源氏や其の流れを汲む
足利氏や徳川氏が武家社会でも棟梁として幕府を運営した。平家やその末裔である織田家は
武家の発祥や好戦家であったにも関わらず最終勝利者とはなり得ていない。家康公も源氏物語の
教示を受けたりしていたというし、「源氏」が平和な世の中の大義名分となる原典ともなった所があるよう。
22 :
考える名無しさん:2009/04/09(木) 22:05:06 0
儒書と仏典をほぼ交互に読んだりすると、やっぱり仏典のほうが面白く感じる。
社会的なしがらみから脱した「思考の理想郷」が仏教では展開されるのに対し、
儒教はあくまで社会秩序の安定を念頭に置きつつ展開されているので、公共心に欠けるような
小人であればすぐに仏教のほうに流れていってしまう。それを排撃したのが朱子であって、
社会の側からすればど真ん中の正義の味方。禅ですら朱子学に比べれば悪の手先。
社会的な正義であるが故の楽しさは、勉学の上でも多くの苦労を伴うものの、
大成すらできれば、社会的な悪はおろか、超俗での真理追究である仏教にも勝るほどの
この上ない楽しみとなる。努力するからこそ、人間にとっての最大級の楽しみをも得るお侍さん。
金融ゲームも偽善ボランティアも足元にすら及ばない大江戸エンターテイメントの再開。
23 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 00:43:19 0
性が理であり、故に善であることこそは、人間にとっての愚かなる事実だろう。
故にこそ「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だろう。
善いものだけを選んで悪いものは捨てる、高次元の識見に基づく善さと比べて、
識見の正統なる高次元化も疎かなままに、概念だけをただ拡張していった結果、
善いものも悪いものも適当な評価のままに集めまくってしまった悪食の飽食が、
何万億倍もの物量を投入しようとも、何万億分の一程の価値も持たなくなった。
(「万億」とか「億兆」とかの破綻した単位は、計り知りようもない大きさを
故意に表す言葉として、仏典や「書経」などで正式に用いられている)
東洋教学の段階の楽しさに与るためには、まずは東洋教学を解放することだ。
消費されるどころか生産されるほどに、東洋教学が思考の主人になることだ。
24 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 02:04:35 0
老子や荘子をパラパラめくってたのですが、ほんと良い
あのショーペンハウアーはバガヴァッド・ギーターを読んで生きていて良かったと
言ったらしいのですが、わたしも老荘を読んでいてそう思います
25 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 12:51:40 0
バガヴァッド・ギーターも全訳と抄訳で二度読んだけれども、かなり晦渋だぞ。
仏教においては「無記」である概念論が、マハーバーラタ含むヒンズー教典には
多く描かれていて、それが空海の十住心体系においては第三住心に止められる
原因にもなっているんだが、概念遊びだらけな西洋哲学に馴染んでいる現代人
などにとっては、むしろヒンズー教や道家ほうが取っ付きやすい理由となっても
いるんだろう。そこに留まるか、さらに上を目指すかが真我と無我の分かれ目。
26 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 13:13:38 0
仏典も難しいが、代わりにすごく楽なものだ。
概念ってのは、常に誰か自分以外の人間が恣意的に想起したものだから、
その人間の考えに合わせて自分までもが想起をさせられるのが基本的に辛い。
でも仏典の指し示さんとしていることは、そのような恣意的な概念ではなく、
人間が透徹した識見を抱けば自ずと導き出される普遍的な真理ばかりなので、
誰か(釈尊含む)に想起を合わさせられるような苦労が全く伴わないので楽である。
無駄な考えをことごとく捨て去って、最後には何も考えなくなる。
何も考えないというとバカっぽいが、インド哲学のような最大級に深遠な思惟とも
対峙した上で、完膚なきまでに断滅し尽くした上で何も考えなくなるわけだから、
心神喪失状態でまともな考えが出来なくなるなんてのとは全く逆のものと言える。
以下、他者の足を引っ張り下ろしてそれより上って主張は禁止↓
=相手の教義に従った尺度でなければ教義等の批判も禁止
っていうか、これ日蓮(鎌倉時代)が実現してた水準だよ?
ずいぶん退歩(ry
むしろ、こちらのほうが人の揚げ足を取ろうとする外道のルサンチマンをそのそばから
切り落としているわけだが。正しいものは正しい、間違っているものは間違っているとする
「破邪顕正」の論理も、本来は日蓮ではなく三論宗の教義なわけだし。
他にも色々な比較の尺度が考えられるにしても、
東洋教学と西洋教学の最も大きな違いは、「善悪の取り扱い」の開きにこそある。
儒教なら「勧善懲悪」、仏教なら「断悪修善」、その他の東洋教学も基本はその方向で一致している。
でも西洋教学は「勧悪懲善」や「善悪みそくそ」、厳密な善悪から目を背けたり、善悪を転倒
させたりすることで奇形的な概念構築を展開し、自然破壊や戦乱を伴う劣悪な世界征服を目論む。
その内側にいる人間にとっては、外界から利得を不当に吸い上げる都合のいい論理なんで
勧悪懲善や善悪みそくそが本旨であることなんかからは目を背けようとする。でも勧善懲悪や
断悪修善を本旨とする東洋教学の側からすれば、それ(西洋教学)によって一部の人間が
得をしていることなどよりも、それの教義的な本質である勧悪懲善や善悪みそくそのほうが問題。
西洋教学の内側の立場であれば許されようとも、東洋教学の側の立場からすれば決して
許されることがない、勧悪懲善や善悪みそくそといった西洋教学の本義。東洋教学のペースで
論議を展開しようとするからこそ不可避に行なわれる排撃。さっさと西洋教学が廃れて逮捕や
禁治産認定が済まされれば、もういちいち排撃することもなくなる。でもまだだから、それは。
人類を破滅に導く西洋教学主導での社会運営はまだ続いているから。どうしても無視ができない。
鎌倉時代どころか、平安時代にすでに源信が「往生要集」の中で
近現代のような世の中がやってくることを予言しているわけだが(前スレの55を参照)。
完全に両極に振れ切った善と悪が「交際(きょうさい)」することで、自ずと悪が敗れ善が勝どきをあげる。
善ってのは安楽であり楽しい、悪なんかと対決させられれば完勝して当然だからこそ善である。
悪ってのは辛苦でありつまらない、善なんかと対決したら完敗して当然だからこそ悪である。
一方的に悪から善へと利益が流れ入ってしまうのが分かりきっているから、源信は往生要集で
「善悪が交際すれば悪が棄てられ善が選択される」と、強く主張するまでもなくただ提言している。
漱石あたりは「明暗」と呼ぶ近現代の世相。「明」ってのは善のことであり、「暗」ってのは悪のこと。
善悪みそくそ(容やかに預る)から善悪の交際へ。交際する以上は善が得して悪が損すること確定だが。
自分一人で世の中が替えられるなんてみじんも思っちゃいない。
ただ、世界が破滅に陥る上での、従犯のそしりを免れる上でも
やれるだけのことはやっておくだけ。何もしないことも含めて。
31 :
:2009/04/10(金) 21:24:53 0
もうなに言っても無駄だね
そりゃあそっちのほうだ。
犯罪による精神異常は、刑罰以外のいかなる方法によっても完治し得ないから。
受刑後のお楽しみとして、あくまで密教などもまたあるから。
最高の美食に与かるためにこそ、まずはウ○コを食むのをやめろってんだ。
ほら、次がつっかえてるから、さっさとしろ。
ウ○コを食んでるような相手とは、例え美女だろうともキスすらしたくない。
ウ○コを食んでる者同士でキスしあって、キスの甘みよりもむしろ
ウ○コをお互いに食み合ってることのほうへと陶酔を抱いちまってる卑しさ。
卑しい上に、それは真の愛や友情への名誉毀損ですらある。
善いことをしたり、真の功績を築き上げたりを競い合うためにこそ育まれる愛や友情とは違い、
悪いことをしたり、貶めあったりを競い合うための正当化材料として用いられている愛や友情、
共謀罪の後ろめたさを何とか埋め合わせようとして、愛や友情のほうは随分と粗末に扱われる。
儒家や士道での睦友、仏教での善知識、源氏物語での純愛などとは全く違った、
ただ犯罪の正当化に利用されているだけの愛や友情、ついで扱いの愛や友情。
本当の恋人や友人なんて一人もいない。どこの誰にも、誰一人としていないものだ。
35 :
考える名無しさん:2009/04/10(金) 23:49:03 0
36 :
老子研究:2009/04/10(金) 23:54:42 0
漢文を読むのに中国語ならっておいたほうがいいですか?
漢文直読するときに日本語の音読みをやめようとおもっているのですが
どうでしょうか
いま一番やるべきことは、何もしないことだ。犯罪原理主義者が自滅するのをじっと堪えて待つ。
代わりに自滅した後に即座に活動に入れるだけの素養を蓄えておく。大名士人として振る舞う用意を。
動と不動の緩急メリハリをきっちりつけてこその風林火山。武道もまた東洋では一つの教学たる。
>>36 道家を本気で研究するんなら中国語も勉強しておいたほうがいいでしょうな。
儒家なら日本の文献でこと足りる(というよりも本国より盛んだ)が、道家はかなり疎かなんで。
日本であまり昔から馴染みのない教学は、たとえ東洋古来のものだろうとも
新興宗教団体あたりが自分らの持ちネタとして流用してたりする場合があるんで、
そのせいでかえって正統な教学としての取り入れがしにくくなっている場合がある。
道家やヒンズー教だって、洋学等に比べれば遥かに真剣な研究対象であるべき教学なのに、
即座に金になる見込みがなかったりするせいで、研究態勢がおざなりなものとなっている。
日本人であれば、一番に尊重すべきなのが神道や儒教、仏教らの昔から馴染みのある教学で、
二番目に遠ざけつつも尊ぶべきなのが道家やヒンズー教らの古来からの東洋教学で、三番目の
極めて不可解ではあるものの、もう少し重視すべきなのが犯罪原理主義ではないアブラハム教
としてのイスラムで、最後の四番目、中毒状態を抜け出して何とか危機を脱すべきなのが洋学。
究めにくいからこそ貴び、陥りやすいからこそ卑しむ、対象の事実に即した有益性や毒害性
に応じて適切な差別を行なう。卑しいものを貴んで貴いものを卑しむような倒錯こそが問題
なのであって、適切ですらあれば差別は人間社会を堅実に営む大人の志向となる。
39 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 00:32:30 0
>>37 自滅するわけねえじゃん
その前におまえが消えるよ
40 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 01:10:23 0
家康公も、信長に長男の切腹を命じられたり、秀吉の老耄に付き合わされたりの
苦労に苦労を重ねて、関が原の戦いでやっと覇権を手に入れたのが57歳のとき。
江戸幕府初代征夷大将軍として君臨したのもたった2年間だけで、あとは隠居。
それに比べれば、小生ごときの苦労などまだ露ほどのものでも。
鴨 葱 ♪
42 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 03:48:49 0
518 :考える名無しさん:2009/04/10(金) 19:58:55 0
2ちゃんねるで真偽を見分けられるならもう大学も行く必要ないだろ。
無学者の一員で十分通用する。
無学者というのは「学が無い者」ではなく「学ぶことが無い、全知者」
を意味する。
無学でやっと、倶舎宗に入門できるかできないかってとこ。
犯罪者ならまだ、精神異常を治療するための服役刑を受けないと。
世俗での病ぐらいは世俗で完治させとかなきゃ。
44 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 12:11:56 0
犯罪者は第一住心に凝り固まっちまってんだ。それ以上上にはまだ絶対に上れない。
第二住心なら第一〜第二、第三住心なら第一〜第三、第十住心なら第一〜第十という風に、
特定の住心だけに依存固執する必要がなくなることこそが、住心の高次元化にあたる。
実際の行動上の罪業までもが仏法によって浄化されるのではなく、犯罪者が罹患して
しまっているような精神異常までをも浄化できるというのが、密教のような高級仏教の特質。
受刑という行動によって、犯罪という行動上のカルマが取り払われた上で、犯罪者である
ことに「住めば都」の安住感を抱いてしまっているような、精神異常の後残りを完全に払拭
するのが密教等の役割。実は行動上の犯罪を刑罰によって相殺することよりも、犯罪による
中毒的な安心感の解消こそがより困難な問題なのであって、詐欺集団や共謀集団などの
堂に入った犯罪加害体系を構築してしまっているような連中までをも完全に治療するのは、
現代の精神医学などではまず無理なことであり、五逆や誹謗正法にまでも手を出して
しまったような、罪悪中毒の異生までをも住心から救い出せるのは、密教以外にない。
45 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 12:56:44 0
現実の行動上の罪悪を、密教のような高級仏教によって直接解消しようだなんていうのは、意味がない。
美術刀剣としての鑑定付きの日本刀は、今でも所持が許されている(ただし搬送等に厳重な梱包を要する)。
包丁やナイフ等と比べて、切れ味も鋭く刃体も遥かに長く、総じて高価格であり、維持も大変。
わざわざそんなもので犯罪なんかすれば、金銭的にも自分自身の損害となるし、武士の魂でもあった
日本刀を犯罪なんかのために使ったせいで、余計な後ろめたさを抱かされることにもなる。
日本刀は、今のような法治社会での有用な道具でもなければ、戦国時代のような槍でも鉄砲でも何でもこい
の時代の主力兵器でもない。江戸時代のように、法律でがんじがらめにされるまでもなく人々が
自由で平和な世の中を謳歌していられた時代における、最低限の治安維持のためにこそ有効だった道具。
それと同じように、密教もまた平安時代のような、男女のちちくりあいがそのまま純文学になってしまうような、
死刑皆無の平和な世の中こそを司っていた体系構築。本当に平和な世の中であれば、こんなに楽しい
ことが待っているのだという前例を、密教自身と、密教が司った世の中の世相との両方が指し示している。
わざわざ犯罪推進社会に突入していって、現行犯の犯罪者相手にまで回向を試みたりすることではなく、
実在上の犯罪が実在上の刑罰により解消された先にこそ、無犯無刑の素晴らしい世の中が実在している
から、「罪罰ぐらいはさっさと片付けてしまいなさい」と促すまでが密教らの役割。法務処理は専門機関へ。
46 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/11(土) 15:00:30 0
>>38 はい。老子を繰り替えし読んで日本の注釈書や解説書を一通りよんだら
中国語を学びたいと思います。
儒教はよく研究されているのは知っているのですが、道家ってそんなにおろそかだった
のですか。知りませんでした。
そういえば老子といえば岩波文庫でなぜかずーーと絶版でしたもんね。
47 :
し:2009/04/11(土) 15:04:42 O
話したいこといっぱいある
48 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/11(土) 15:40:41 0
朝鮮での老子の研究ってどうっているかわかりますか?
49 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 18:18:46 0
「君子曰く、信、中よりせずんば、質も益無きなり。明恕にして行ひ、之を要するに禮を以てせば、
質有ること無しと雖も、誰か能く之を間てん。苟くも明信有らば、澗谿沼畤の毛、蘋?薀藻の菜、
筐筥リ釜の器、??行潦の水も、鬼神に薦む可く、王公に羞む可し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」隠公三年より)
心からの信用がないのなら、たとえ人質を交わしたところで約束など守られやしない。
思いを込めた礼儀すら伴えば、たとえ人質を交わさずとも約束は守られる。
本当に信心すらあれば、浮き草や粗末な食器や泥水でも神に捧げたり王侯にも捧げられる。
念仏みたいな(行動上は)些細な行業だろうとも、信心すら伴えば金銀財宝の価値にも勝るわけ。
内心からあそびをなくして規矩準縄のようにきっかりと引き締める癖付けが例の如く謳われている。
50 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 18:26:56 0
>>46 道教の事典などを開くと、見たことも聞いたこともないような未邦訳の文献がわんさかと載っている。
国家規模が大きいだけあって、あまり紹介されることもなく内輪で尊崇されている神々が中国にも
わんさかといるようで。「世俗に迷惑をかけない」という宣言書である「老子」や「荘子」の下で、
中国古来の多種多様な鬼神信仰が保存されているようで。
>>48 朝鮮は知らないが、道家はあくまで中国の土着思想なんであまり期待はできないかと。
中共とのいざこざで華人(外省人)が大量に流入した台湾のほうが活発ではあるようですが。
51 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 18:41:29 0
「夫れ戰ひは、勇氣なり。一たび鼓して氣を作し、再びして衰へ、三たびして竭く。
彼は竭き我は盈つ。故に之に克つ」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」荘公十年より)
儒家の経書にしてはかなり精神主義的な記述。日本人が言うと、戦前の軍人か
右翼みたいな扱いを受けそうだが、これもまた立派な儒家の教学の一環。
道徳を欠いた勇気は卑小なものとなるし、勇気を欠いた道徳はそのまま臆病になる。
道徳主体なんであまり勇気は語らないにしても、語る以上はその効用を十分に鑑み、
善い勇気は称えて悪い勇気は卑しむ(「匹夫の勇」など)。決して勇気全体をただ
全肯定したり全否定したりするのではなく、精緻な考察を働かせた結論を示す。
52 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 18:49:32 0
自作自演は削除屋にバレバレなのに
削除依頼が出てるスレでよくやるな。
53 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 18:55:28 0
「禹湯己を罪して、其の興るや悖焉たり。桀紂人を罪して、其の亡ぶるや忽焉たり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」荘公十一年より)
前スレでも「書経」や「礼記」から引用していた、古の聖王や暴君への簡潔な批評。
土木事業に奔走した禹王や孥戮(妻子まで痛めつけるという意味と、奴隷にするという
意味両方があるらしい)を下品扱いした湯王らが、常に自責の念を以ってことに
当たっていたため国が隆盛したのに対し、桀王や食人を嗜んでいた紂王は、
自分ではなく他者ばかりを責めていたために、すぐに国が亡んだとのこと。
ちゃんと四書五経内での古の王君に対する批評は統一されていて、
善い王は褒められて悪い王は賤しめられる。勧善懲悪がちゃんと利いている。
>>52 自作自演じゃなかったらそれもバレてるわけだな。よかった。
55 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 19:00:39 0
>>54 IDがなくて大丈夫だと思ってる馬鹿が数人いるようだしなw
56 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 19:14:43 0
「寡人之を聞く、哀樂時を失えば、殃咎必ず至ると。今、王子頽、歌舞して倦まざるは、禍を樂しむなり。
夫れ司寇戮を行へば、君之が為に舉せず。而るを況んや敢へて禍を樂しむをや」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」荘公廿年より)
世の中が災いのさ中にあるような時に、平気で歌舞して面白がっているような連中こそは亡国の徒だと。
道楽は時と場合をわきまえよとのこと。「礼楽刑政」も刑罰や政治の煩いを減らした上で、礼儀や音楽に
重点を持って行けという意味であって、決して重罰や悪政がはびこっている内からの道楽への耽溺を
容認しているもんじゃない。その点本当に死刑を根絶させた中で書かれた「源氏物語」は正しい純愛物語
であり、世界中を不幸に巻き込みつつも自分らだけは愛し合うみたいな三文小説は間違っていることを
裏付ける根拠ともなっている。弘法大師も左伝を勉強した上で仏教に移ってるので、考慮はされている。
57 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 20:09:43 0
「神は聰明正直にして壹なる者なり。人に依りて行ふ」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」荘公卅二年より)
この部分、新釈版の注釈者である鎌田氏は「神は耳さとく目は明らか、心は正しくて、
常に心を専一にして二心のないものであり、人の善悪に応じて禍福をくだすものであります」
と語釈している。国訳漢文大成もほぼそのままの注釈で、たぶん新釈がパクってる。
後尾の「依人而行(人に依りて行ふ)」が「人の善悪に従ひて禍福を降す(国訳)」という意味。
善因楽果悪因苦果の罪福の道理とほぼ同じで、ただより能動的な意味を持っている。
罪福が神によって降されるという意味での「依人而行」、真理として罪福を提示する仏教とは
違って、神が降す天罰としてより分かりやすい(ただし方便混じりな)記述を行なっている。
春秋経の注釈書である左伝が2300年前あたりに書かれたことからして、すでに罪福因縁に
あたる記述の見られる法句経などと呼応して、中国インドのいずれもがこの時期にもうすでに
善因楽果悪因苦果への理解を確立していたことが伺える。罪福の道理が存在するからこそ
当然のこととして勧善懲悪や断悪修善に向かうという、善の真理の把捉が完了している。
58 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 20:22:42 0
仏典ほどではないにしても、取り決めだらけの「礼記」などに比べれば「左伝」はまだ面白い。
戦記ものとしての文学性を帯びていて、意訳されたものであれば物語としても十分楽しめそう。
もとより四書五経のような儒書を本元として展開されたのが江戸時代のような武家社会で、
武家社会を描いた時代劇が最高に面白かったりするんだから、内容を現実や物語に
落とし込みさえすればいくらでも面白くなるのが儒家の教学。剣術の上達のために
苦しい訓練が必要なのとも同じなので、楽しみを後へ後へと取っておく気長さが肝要となる。
59 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 20:42:10 O
お前もダメ
ウ○コはもう食べないって約束してから。
人質を取り交わすまでもなく。
61 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 21:56:48 0
儒教も仏教も実践こそが目的であり、経書は手段でしかない教学。
勧善懲悪や断悪修善といった確固たる目的のためにこそ経書も学ばれる。
でも勧悪懲善や善悪みそくそが実践上の行動である類の教学は、
目的が勧悪懲善や善悪みそくそであることよりも、手段である書物のほうを
金科玉条に掲げて、言葉自体が何か最大級の価値を持つように思わせる。
だからそのような教学に随順する人間が、自分らの教学と儒教や仏教を
比較する場合には、やたらと経書の字面ばかりに着目して、それを道具にして
行なおうとしている実践が勧善懲悪や断悪修善であることは無視しようとする。
目的である勧善懲悪や断悪修善よりも、手段である経書自体のほうを
分析し尽くしてそれで終わり。それじゃあちっとも実践第一な東洋教学に
随順したなどとは言えず、手段である書物ばかりに固執した結果、
目的である実践のほうは犯罪正当化でしかなくなってしまった不当教学
の側にしかいない、東洋教学の側にとっての違反者であり続ける。
手段よりも目的、書物よりも実践のほうに重きを置くところから初めて
儒教や仏教といった東洋教学への随順が始まる。
62 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 22:12:06 0
社会的な行動でいえば、むしろ仏教よりも儒教のほうが実践が難しい。
仏教はただ社会からは距離を置いて、お寺や山奥での修行に励めばいいだけ。
大乗仏教の利他志向に基づく回向も、あくまで無辜の市民に対する慈善事業であればいい。
でも儒教はそういうわけにもいかない。家康公や鬼平のように命がけで社会秩序の安定に没入して、
しかも自分自身が賢人でなければならない。悪人をやっつけた結果、また自分自身が悪人に
なってしまうような負の連鎖は完全に断ち切って、悪を懲らしめた後にちゃんと善を推し勧める
超悪全滅の颯爽さが必要となる。善悪の正面衝突の後に、善が完全勝利して善だけが残る。
戦乱の陶酔すらも後に残さない、制動の利いた修羅。悪人を斬り殺した直後に屋台で飲み交わす。
限りなく悪に近い完璧なる善、正義のヒーローの根本理念が儒教や士道の実践にこそある。
63 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 22:16:52 0
馬鹿じゃね↑www
64 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 22:24:01 0
飲み交わせる相手か、それとも斬り殺すべき相手か、それが問題だ。
65 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 00:31:32 0
テレビの見すぎじゃね?
よくこんなんで仏教とか武士道とかいってるわな
売れない妄想脚本家
66 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/12(日) 02:39:31 0
>>50 老子が好きで道教自体はそんなに興味あるわけじゃないのですが
面白そうですね。
朝鮮と老子の関係は自分で調べてみることにします。
レスありがとうございました
楽しかったり、楽だったりするのは、あくまで「自分」だから。
「誰か」に楽しんでもらおう、楽してもらおうだなんて女房趣味ではなく、
自分こそが勧善懲悪であるが故に楽しい、断悪修善であるが故に楽だという
亭主関白、天上天下唯我独尊こそは、東洋教学の効用だから。
それぞれがより人生を楽しみたい、楽したいというのであれば、
ただ「俺になれ」というだけ。儒家や仏教に随順しているだけの俺になれ。
されてあげるさせられてあげるの加害被害の関係を本から絶って、
自分からこそしたりさせたりの能動的実践に特化する、
それでこそ実践第一な東洋教学への模範的な随順姿勢となる。
68 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 08:51:28 0
儒教に随順するが故の楽しさ、仏教に随順するが故の楽さこそは、
ありとあらゆる人間の楽しみや楽の中でも、最大最高最強の楽しさや楽さ。
この世にはびこる悪党、火付け盗賊が斬り殺されひっとらえられて
慎罰を受けることこそは、人間にとってのあらゆる楽しみの中でも最高の楽しみ。
想像するだけでも楽しいが、実現すればもっと楽しい。キリストもヘラクレスも
現実には現れえないが、鬼平ぐらいは本当に現れうる。本当に現れて十手持って
悪党を成敗すれば、どんな架空の作文なんかよりも楽しくなるし、回し車の中の
ハムスター状態なスポーツ選手の活躍なんかよりも遥かに楽しくなる。
江戸時代のお侍さんが本当に悠々としていたのと比べて、近現代の日本人の
顔つき体つき姿勢話し方などが、随分とだらしないものになってしまっている。
大小二本も差せない剣術も実践できない、そして何より勧善懲悪の儒家教学が
打ち棄てられて不当な教学ばかりについて行ってしまっているから。女を抱く
楽さが犯罪の苦しさとのみそくそと化せられているのなどと同じで、いらないもの
にわざわざ手を付けて、昔からあった純粋で最高な楽しさ楽さを切り詰めて
水増しして何とか持たせている。近現代特有の物事なんてのは結局はどれも
ただの辛苦でしかなく、江戸以前の楽しさ楽さとのくそみそ処理で何とか見れた
ものになっているだけ。江戸や平安に戻ればいくらでも楽しく楽になるというのに。
“随順”することで、能動的かつ最大最高最強の楽しみや楽を味わえる、そこがミソだ。
自分から何でもやるやらせる、そのためにこそ儒教や仏教には付き従う。
仏教は誰かの恣意的な概念ではなく、普遍的な真理(第一義諦)こそを指し示したものだし、
儒教もまた世俗に限っての普遍的な法則(俗諦)を指し示したもの。
仏教や儒教に逆らうことは、別に釈尊や孔子の意図に背くのではなく、
天地万物を司る普遍的な真理や法則にこそ逆らうことだから、
それぐらいには付き従っておこうということ。どこに行こうとも常に通用する
真実の道理に従うことで、逆に自分からすることさせることは何でも正しくなり、
故に楽しくて楽なものになる。真実の道理ぐらいには逆らわないでいるからこそ
人間としての最大級の思考や言動の自由が備わる。
真実の道理に逆らってまでなされる思考や言動なんてのは、自由であるように見えて
実は制限でがんじからめ、しかも間違っているが故の苦しみからも逃れられない。
まさに真理とは「諦めるもの」。人として諦めておかねばならない俗諦や第一義諦としての儒教や仏教。
成長が完全に止まって後は老いていくだけの、大人としての自分を受け入れる用意。
70 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 13:16:52 0
最高の楽しさ、最高の楽さに与かれなくなっているからこそ、今の日本人は醜い。
本物の正義の味方が本物の悪をやっつけられもしない。
犯罪とのみそくそなんかでない繊細な純愛もちっとも営めやしない。
せいぜい漫画やテレビやゲームの中のお話だけで我慢ばかりさせられる。
だからいつも不満たらたら、苦渋の念が容貌や姿勢の醜さにまで現れている。
勧悪懲善や善悪みそくそによる邪魔や迷惑の一切介在しない、純粋なる現実の
勧善懲悪や断悪修善による最大最高最強の楽しさや楽さによってこそ、日本人の
本性からの復帰があるし、地球人類全体にとっての究極至極の福徳ともなる。
日本人は昔に戻り、日本人以外の地球人類は未経験の楽しみや楽に突入する。
地球人類社会全体が江戸時代や平安時代になる。鬼平や源氏物語の時代に。
71 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 18:16:55 0
「臣之を聞く。鬼神は人を實れ親しむに非ず。惟だコに是れ依る、と。
故に周書に曰く、皇天親無し、惟だコを是れ輔く、と。又曰く、黍稷馨しきに非ず。明コ惟れ馨し、と。
又曰く、民は物を易えず。惟だコ緊れ物、と。是くの如くんば、則ちコに非ざれば民和せず、神享けず。
神の馮依する所は、將にコに在らんとす。若し晉、虞を取りて、明コ以て馨香を薦めば、神其れ之を吐かんや、と」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」僖公五年より)
鬼神は情で物事の采配を振るったりはせず、各々の人間の徳性の有無に応じて味方したりしなかったりする。
国家や社会の統治者であれば、有徳者であるに応じて平定を補助するし、不徳者であるに応じて破滅を黙認する。
結局ここで言わんとしている「鬼神」ってのは、立ち居振る舞いを正しいものとする道徳性の、価値の公認を仮託
させる方便なのであって、鬼神が事実存在するにしろ存在しないにしろ(儒教の定義でいう鬼神はある程度存在の
認めやすいものだが)、道徳は確かに穏便な人間関係や社会統治を実現するものだ。さらに言えば、ここでより強調
されようとしているのは、「鬼神は道徳による社会の平定を妨げるような悪質なものではない」という消極面での主張であり、
鬼神がたとえ存在しなくとも、道徳が鬼神によって妨げられるようなことはないという、ここでの第一の主張に間違いが
あったことには全くならない。鬼神の実在性に無闇に振り回されるような、依存的な主張は何もしておらず、
あの世で救われるから現世で罪を犯しまくってもかまわないなんていう、神への全責任の押し付けっぱなし
みたいな主張とは明確に異なる。体系的な神学などとは無関係に、人間の自主性を重んじている点こそが違う。
72 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 18:52:23 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=17846&if=gb 「春秋左氏伝」僖公七年の記事。法家の創始者扱いもされる管仲の大立ち回りが描かれる。
管仲だって礼儀や信義や徳を一応は肯定していて、ただその扱いが孔子に始まる儒家に比べれば軽い。
権謀術数とも取れるような事務的な発言が多くを占めていて、道徳や礼楽を法律や政治よりも
厳密に上に置く儒家並みの勧善懲悪姿勢は未だ形成されていない。あくまで善の勝利を確信しつつも
基本は善悪二元論であるゾロアスター教の始祖であるザラスシュトラもまた、断悪修善こそを推進する
釈尊に比べれば過渡的な存在。孔子や釈尊よりも若干(100年程度)早く生まれた東洋教学の準備者たち。
管仲は僖公十七年に死亡したとの記述も見られる。後継者争いがあったりとか、やっぱりどこか不完全さが残る。
春秋左氏伝が孔子作っていうのは本当ですか?
74 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 19:31:43 0
「夏、宋公、朱の文公をして曾子を次推の社に用いしめ、以て東夷を屬せんと欲す。司馬子魚曰く、古者六畜も用を相為さず。
小事に大牲を用いず。而るを況んや敢へて人を用ふるをや。祭祀は以て人の為にするなり。民は、神の主なり。人を用ふれば、
其れ誰か之を饗けん。齊の桓公は三亡國を存し、以て諸侯を屬せしも、義士猶ほ薄コと曰へり。今、一會して二國の君を虐げ、
又諸を淫昏の鬼に用ふ。將に以て霸を求めんとするは、亦難からずや。死することを得ば幸と為さん、と(一部代用文字あり)」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」僖公十九年より)
ついに出ました、福音書完全否定、人間の生け贄禁止。
「礼記」にも、殷の紂王が死刑囚を塩漬けにして饗宴で振る舞ったことが、殷滅亡の引き金になった旨の記述があったが、
あれはただ食っただけで、別に生け贄として神に捧げてたわけじゃない。でもここじゃあ神に捧げられている。人間の肉が
生け贄として捧げられた。それを見た宰相の司馬子魚は、人間を生け贄にして神に捧げるなどとは何という非道であるかと。
祭祀は人間の幸福こそを願って行なわれるものなのであって、人間自身を捧げたりしたんじゃ神は絶対に願いを請けやしない。
捕虜を犠牲にするような国が覇権を求めるのもおかしなことで、ろくな死に方をしなくて当然だとのこと。
事実、捕虜を犠牲にして覇権を誓った宋公は泓水の戦いで楚の成王に完敗して敵軍の配下に落ちた。
有能な大将に恵まれなかった司馬子魚の何と不遇なこと。近現代世界の破滅を予言した重要人物にも関わらず。
>>73 左氏伝は「春秋経」の注釈書だよ。春秋経の作者が孔子。
春秋時代242年の歴史を簡潔にまとめた経書、あまりにも簡潔すぎて理解が困難なんで
注釈によって補足されている。歴史書といっても、礼儀に沿った人間の行動を贔屓目に書いたり、
無礼な人間を冷徹に書いたりの勧善懲悪的な孔子自身の意図が含まれている。
だからあくまで歴史書ではなく儒教の経典として扱われ、主観を省いた中国の歴史書の第一は
司馬遷の「史記」とされている。もちろん春秋も記述が間違っているわけじゃないんで、
歴史書としても読むことができ、その方面からの注釈に特化しているのが「春秋左氏伝」なのに対し、
より道徳性や精神性を重んじた注釈書が「春秋公羊伝」や「春秋穀梁伝」である(らしい)。
もちろん左氏伝も揚げ足を取るような不道徳的な注釈書ではないのでご安心を。
77 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 20:42:14 0
人間は、「ヒト」という自分たちの生物としての特性から離れきった所では決して物事を考えらない生き物。
科学が純粋概念的な理論構造を作り上げたり、実定上の法律が普遍的な倫理体系を作り上げたりしている
ように思えたところで、やはりそれらの体系構築にもまた、ヒトという生物としての恣意が多く介在してしまう。
何より人間は食いつなぐことで生きている。農牧なり狩猟なりによってある程度の食糧確保を行なうことで
初めて生きていられる。その、「食べる」という部分を徹底的に研究し尽くして、食人にまで手を付けつつも
やっぱりそれは基本いけないことだと気付いた上で、中国人や日本人などの極東人は忌避対象としている。
でもその食べるという部分を疎かにして、食人も公認対象としたり、生け贄として人間を捧げたりの、生物として
の「共食い」にあたる行為を推進してしまっているような人間が、純粋概念的な科学や実定上の法律を構築して
いたりもする。その時点ですでになにかがおかしい。人間としての基本的な振る舞いである、食事までをも疎か
にして構築されているような科学や法律は、純粋な概念として見た場合にも、何らかの不当性を帯びたものと
なってしまっている。食事のような人間にとっての不可避なるカルマぐらいは、当然のこととして正当に処理した
上で構築される科学や法律であればまだ「無覆無記」となり得るが、それすらできない内から構築されている
ような科学や法律は「有覆無記」となってしまう。何よりも科学や法律として何かが間違ったままになっている。
別にどこぞやの日蓮カルトみたいに人間○命などを掲げるまでもなく、人間が人間であるが故のカルマぐらいは
ちゃんと処理した上で文化文明の発展に望んでこそ「強固」になる。架空ではない実話である礼記や春秋左氏伝
でこそ、食人や人間の生け贄は、国家や社会を傾ける、脆弱で危険な素行であると指摘されている。いくら夢想
の中だけでは楽しかったり理想的に思えたりしようとも、現実に落とし込めば完敗する弱者の論理となってしまう。
78 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 21:05:57 0
儒教は世俗の道理(俗諦)の追求に特化しているし、
仏教は真俗二諦を超えた所にある中道第一義諦の追求を本分とする。
いずれも「世俗」という人間性にまつわる要素を決して疎かにすることのない教学。
故にこそ儒教や仏教は、天地万物を司る普遍的な真理を(程度の違いこそあれど)把捉できている。
純粋概念化された哲学や科学に比べれば、世俗を考慮に入れる教学はまさに文字通り、人間臭い。
いちいち「民」とか「家」とかが論及の対象に入れられているよりは、「アプリオリ」や「アポステリオリ」
ばかりで文面が埋め尽くされているほうがより哲学らしい。でもそういう、人間性から乖離した哲学を
展開しようとした時にこそ、その哲学は「哲学」として何かが間違っている。人間社会の実情に
その内容を落とし込んだ場合の効用を、随意に記すこともできないような哲学である以上は、
何か人間として間違ったことが書かれていて、故に哲学としても間違っている。人間の立場からみても
間違っていなくて、しかも哲学でもある哲学こそは真の哲学。仏典やヴェーダやウパニシャッド
がそうだし、どちらかといえば政治思想寄りな儒教の経典の中でも、易経などは比較的真の哲学に近い。
俗諦だけに基づいた哲学だから随分と素朴ではあるにしろ、真理を的確に捉えているという意味では
易経は華厳経などにも比肩する要素を持っている。説明の仕方や姿勢が違うだけで、真理に基づいた
正しい哲学はある程度同じような理論構造となっていて、それは結局どの哲学もが真正なる真理を
本当に把捉しているからに他ならない。東洋の叡知は勘働きだけで何千年も前から
宇宙の真理に到達している。実験装置の一つも使わずに。
79 :
考える名無しさん:2009/04/12(日) 21:56:51 0
漢文はもうちょっと、思想哲学としての価値が重んじられるべきだと思う。
訳文で読み、書き下し文で読み、訓点付きで読み、最後には白文で読む。
思想哲学としては前二つだけでも十分なんだが、それだと「漢文が修得できていない」扱いされる。
でも後二つや最後だけでも行ける所まで修得が完了した頃には、修得できたということだけが
至上のものとして掲げられて、漢文の内容を吟味するようなことは二の次扱いされてしまう。
儒家と法家などは本国では真剣に対立し合っていたのが、傍から漢文を修得しただけの日本人
からすれば、ただどちらも「読めて嬉しい」の段階で理解が終わってしまう。それならまだ
読み下しや訳文で内容だけは理解しておいて、どの流派がいいのかを重点的に吟味したほうが
思想哲学としての漢文への思い入れは深まる。漢文は文字体系としても世界最高峰ではあるが、
漢訳仏典も含めたその文章内容こそが世界最高峰でもあるわけだから、言語としての修得ばかり
に囚われて内容を軽視するのではなく、内容理解のついでに言語としても学んだほうがいい。
80 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/13(月) 00:31:25 0
前スレの(まだ残っているようですが)
>>789さんへ
お経はどれも同じではないでしょうか。
サンスクリット語がそのまま音写されていても同じです。
(この場合は原意をそのまま伝えるために敢て訳さないというのが通例のようですが)
大日経でも同じかと。(但し行について、つまりもう一つの品は別格)
81 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/13(月) 00:46:23 0
加地伸行さんは儒教とは何かでしきりに儒教は宗教、宗教といっているのはどう思いますか?
やはり儒教を好まれる方からするとうれしくないですか?
82 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 11:57:45 0
「宋の襄公、諸侯を合せんと欲す。臧文仲之を聞きて曰く、
欲を以て人に從はば、則ち可なり。人を以て欲に從はば、濟ること鮮し、と」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」僖公廿年より)
人間を生け贄に捧げた宋の襄公(
>>74)が、自分らの国家規模の小ささもわきまえずに覇権に臨みだした。
魯の臧文仲はそれを聞き、「覇権を追い求めるのもいいが、誰しもの欲望を叶えるようにして初めて
覇業も可能となるだろう、自分ばっかりの欲望を追い求めていたんじゃ成功できやしないだろう」と忠告した。
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18044&if=gb それを考慮してかせずしてか、宋の襄公は楚の大軍が泓水を渡りきらず、陣形を整えずにいるのを待って
いた。司馬子魚はまた「こんな悠長なことをやってちゃ勝てるわけがありません」と忠告するんだが、
結局襄公は聞き入れず、完全に陣形を整えた楚の大軍に大敗して襄公自身も負傷した(この負傷が原因で
襄公は僖公廿三年に死亡した)。
「古の軍隊は陣形を整えずにもいるような相手を討ったりはしなかったし、負傷した相手を余計に追い詰める
ようなこともしなかった」とかなんとか美談めいたことを敗戦負傷後にもほざいて、司馬子魚に「そんな理想事
がいまの戦法でも通用するわけがないじゃないですか。相手が陣形を整えずとも攻撃し、負傷していたり
白髪混じりの老人だろうとも追い討ちをかけるのが定石であります」と遅ればせながらも忠告する。
結局この襄公という大将は、情けをかける場所を間違えている。この直後の記事で、楚の成王が自分の
討ち取った敵兵の耳を婦人に見せびらかしたことを、孔子が「軍事を婦女子に掛け合わせようとするのが
礼に背いている」と指摘している。これこそが本当の正しい情けのあり方であり、戦いの最中に相手に情け
をかけようだなんてほうがおかしいわけ。旧日本兵を殺そうとして一転捕虜にしたり、一方で殺害した日本兵
の髑髏を本国の妻子にプレゼントしたりの、大戦中の米兵の素行にもかぶるものがある。
83 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 12:07:31 0
>>81 宗教でもあるだろう。狭義には四書よりも五経を重視することが儒学よりも儒教よりだし、
人間性を常に考慮に入れていることが広義の意味でも宗教になる。
「人間性なんか一切考慮に入れなくてこそ純粋な学術だ」なんていう思い込みがなされているが、
それはただ人間にとっての犯罪性に基づいた学術であるだけでしかない。
科学や法律は礼儀や葬式までをも司ることはできず、故に礼儀や葬式を司る何らかの文化
への依存を必要とし続ける。儒教はそのような他文化への依存をも排して、
それだけで人間生活を完全に取り仕切れるだけの素養を持っているが、そうであることが逆に
今の社会の価値観では宗教扱いされてしまう。要は、人間性が軽視され過ぎているということ。
人間性が道徳的だろうが犯罪的だろうが、金さえ稼げればそれでいいとされているから。
84 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 19:56:26 0
日本の家屋などよりもずっとどぎついうねうねした建築様式の建物とか、
極悪非道の虐殺とか、安かろう悪かろうの物品大量生産とか、
現代人が「中国」と聞いて思い浮かべる類のイメージ、それもまた中国ではあるが、
それらはあくまで道家だったり、法家だったり、法家と共産主義の折衷である毛沢東主義だったりの
産物であって、民俗習慣でも殺伐とした事務処理でもなく、理想上の支配道徳こそが本義である儒家の
産物なわけではない。儒家の産物であるのはむしろ、江戸時代の定型化された日本の武家社会の
イメージのほうだったり。もちろん儒教が国教化された漢代の中国のイメージなどもあるが、何しろ
中国は大国だから、一つの思想によって全てが取り仕切られるほど一筋縄ではいかないもので、
数ある中国思想の中から儒教だけを選別して統治理念として活用しきった江戸期の日本のほうが
儒教社会としてはむしろ如実だったりする。平安期は天台真言といった最高級仏教の双璧によって
司られた時代だったし、日本では仏教や儒教が長期の泰平社会を入れ替わり立ち代わり司ってきた。
85 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 19:57:28 0
神道は直接実権を握るよりも、儒教や仏教の権威を承認する女房役にこ徹していたのが、
明治以降に皇国主義のために祭り上げられていきり立ち、案の定玉と砕け散った。
自国の実権統治すら負ってこなかった思想が、急に大東亜共栄圏の長扱いされ始め、
統治体系なんか少しも用意していなかったせいで、何もかもを洋学のイデオロギーから借り切った。
まだ仏教や儒教から思想体系を借りればよかったものを、大政奉還の廃仏毀釈で完全に過去の遺物
扱いしてしまい、悪い奴らばかりとつるんで失敗して、今では皇族もゴシップ誌のネタ扱いにばかり
されている。残念ながらやっぱりこれも自業自得ではある。昔からの一番のパートナーや補佐役を
見捨ててヤクザとの友愛ばかりに耽溺してしまった責任からは、神道もまた逃れられはしない。
ウチの宗教も神道だったりするんで、皇族に限らず自己責任でもあること。神道の教学や伝統が
駄目なのではなく、素晴らしい教学や伝統があるにも関わらず、いかがわしい悪知識のほうへと
なびいてしまったことがいけない(それもまた黒船来航で無理矢理させられたことではあったにしろ)。
朱に交われば赤になるならぬ、悪に交われば悪になる。浄化のための清算が神道から受けられねば。
宮内庁の所蔵本にも鎌倉期の左伝写本などは入っているから、皇室関係のお偉いさんも
人間を生け贄に捧げるような連中とつるめば、破滅に向かうのは分かってたはずなんだよ。
いくら徳川幕府によって禁中並公家諸法度らで権力を大幅に制限されていたとはいえ、
最高権威であることは認められていたんだから(寄付も信長や秀吉より多かった)、
復讐で儒教経典までをも排除してしまったんじゃ、大人気なかったのも否めない。
善いものを捨てて悪いものを採った、その選択の責任だけを取ること。
16000年前の縄文時代から通じる伝統や教義までにも責任が問われるなんてことはない。
今は表向きは存在しないにしろ、戦前の枢密院にあたるような機構が裏で働いているんなら
そのあたりが責任を取らなきゃならなくなる。日本の皇統はそのまま神道の伝統の一部なんで、
皇統を侵害するほどの皇族への直接的な責任の追及はできない。適当な裁量こそが必要。
87 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 21:32:47 0
儒家のような、犯罪(共食い、人間の生け贄)を排除する教学の下で稼がれる金であれば、
そのままそれは人類にとっての利益になり、地球人類全体の繁栄に貢献するものとなる。
ただしなかなか稼げやしない。江戸幕府や火盗改も恒常的に財政が火の車だったそうな。
逆に犯罪を正当化美化して祭り上げるような教学の下では、あっという間に金が稼がれる。
詐欺同様の利殖やインフレによって資本が爆発的な増加を見せ始める。一見最高のよう
に思える資本主義下の流動型経済ではあるものの、決して人類にとっての利益になって
いるわけではなく、ただ稼げている人間と稼げていない人間の身分上の差別に基づく奴隷
同様の強制的な使役が、古代エジプトのピラミッドのような目方の増量を見せているだけ。
被支配層の奴隷的使役があって初めて増大しているものだから、そこには常に常軌を逸した
「有害無益な辛苦」が伴っている。労働者自身が好き好んで没頭していく労働力の研鑽で
あれば、新しい何かを産み出す有益無害な努力となるが、ただ支配者に命令されて無理矢理
やらされているような、奴隷的な使役による労働では、ただ石を積み上げては蹴り崩される
だけの賽の河原同然な無益な辛苦にしかならず、しかも環境破壊などによって有害ともなる。
(人口爆発もまた物量的生産の増大だけを目的とする不当労働に伴って引き起こされている)
有害無益な機械の製造を工業者(百工)に対して認めない儒家の教学下でこそ(「礼記」参照)
そのような有害無益な辛苦もまた駆逐されて、日本刀のような真に価値のある工業製品だけ
を生産労働によって作り出させる有益無害な工業の確立も可能となり、そのような正当な工業
のためだけに、資本を動かす商業もまた有益無害なものとなる。士農工商下で初めて商業や
工業までもが人類にとっての有益無害なもの、地球人類の真の繁栄に貢献するものとなる。
88 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 21:51:42 0
縄文土器は、物量的な規模があまり大きくないことがかえって有効であるわけ。
小学校の工作の授業あたりで体験できる程度に小規模な工芸作品、
にもかかわらずではなくだからこそ価値がある。巨大な石を、縄で線引きして切り出して、
縄で何重にも縛って、縄で引っ張って積み上げていく、女子供には無理な重労働と比べて、
縄をコロコロと土器の表面に転がらせるだけで多種多様な文様を編み出せてしまうお手軽さ、
アメコミが総ページカラーで多額の費用をかけるのに対し、日本の漫画が
スクリーントーンでページあたりの労力を減らしつつ趣向を凝らしているのにも通ずる。
ちょっとした知恵でもって、少ない労力で多大なる効果を得る手堅さ、
しかもエジプトのピラミッドよりも10000年以上昔からある、実在するオーパーツ。
例え悪友になびいてしまった責任を取ろうとも、神道が保全されるべき所以ともなる。
89 :
考える名無しさん:2009/04/13(月) 22:23:59 0
儒家や仏教が、江戸時代以来の権威を再獲得されると困るのは、
東大のような、幕府の洋学研究機関から成り上がった今の高級学府。
本来の出自からして洋学の研究が本分であることは明白な上、
新渡戸稲造の曲解武士道や中村元のオウム仏教らで、儒家や仏教の権威を
貶めにかかってすらいる連中。金銭的にも犯罪推進状態の資本主義に
随順するのみならず、自分らからも破滅まっしぐらな今の世の中を画策してきた重責任者。
法的な責任はあくまで自分ら自身の法務機関で処理してもらうとして、問題はその後の仕置き。
仏教はたぶん優しく迎え入れてくれる。今までの罪業を真に贖い反省した上であれば、
喜んで共に仏道を目指す善知識として迎え入れてくれるに違いない。しかし儒家は違う。
犯罪の祭り上げや推進によって、人類を破滅にまで追い込んだような連中を決して
儒家に対する求道の素養の持ち主だなどとは認めない。儒家や士道からは今一番遠い所にいる連中。
適格な処罰がなされた後でまだ生き残っている連中がいたとして、士農工商の儒家思想の下では
最下層の立場からやり直してもらう。農民や工民よりも下である商民からのやり直し。
儒家や武家に取り入れられることなんて今後数代は無理だと考えてもらわなければならない。
犯罪者なんか取り入れるぐらいなら、まだ失業者やニートを内輪に取り入れたほうがマシ。
思考言及即転倒夢想、行動即犯罪である世の中で、何もしていない人間こそは一番偉い。
「偉い」ということ、権威であることからは一番遠ざかって、二度と与かれなくなるぐらいの覚悟はしてもらう。
たとえこれからも商業に従事できようとも、偉いということには二度と従事できなくなる用意をしてもらう。
90 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 12:16:56 0
あんまり大した話じゃないが、「春秋左氏伝」僖公廿七年には、軍紀を乱した兵士を子玉が鞭打ちの刑に処したほか、
耳を矢で突き通す刑にも処したとの記述がある。軽罪に対する処罰ではあるものの、男が耳に穴を開けられるのは
儒家では「出来損ない」の証になる。今でもある程度不良のアイテム扱いではあるが、女の趣味であるピアスが軍事
においては刑罰にすらなるわけで、家内や婦人の問題と軍事や士人の問題を完全に分けて考えるのが儒家であり、
それは左伝僖公卅三年の以下の記述からもうかがえる。
「秦の師は輕くして禮無し。必ず敗れん。輕ければ則ち謀寡し。禮無ければ則ち脱す。險に入りて脱し、
又謀ること能はずんば、能く敗ること無からんか」(新釈漢文大系「春秋左子伝」僖公卅三年より)
軽率さや無礼は戦場においても深刻なものであり、もしもこれらを招いたならはかりごとや軍紀までもが疎かになる。
何よりも負ける原因になる。軍事に女々しさを挟み込むことが戦場では敗因となってしまう。もちろん逆に、討ち取った
敵兵の耳を婦人に見せるようなことも、家内を殺伐とさせる無礼となるんで、家内と軍事とがちゃんと分けられているだけ。
91 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 15:03:30 0
そんなに西洋がきらいならTシャツとかきてねーだろーな?
92 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 15:55:14 O
犯罪に、好きも嫌いもあるかたわけ!
犯罪であるもの、事実として人類の破滅を率先しているものを
どんなに好き好もうが、駄目なものは駄目だ。
逆に道徳であるもの、事実として人類の繁栄に貢献するものを
どんなに忌み嫌おうとも、正しいものは正しい。
女々しい好き嫌いを超えた、透徹した善悪への理解があるからこそ
正しいものは正しいと断じ、駄目なものは駄目だと断ずる。
善だけでなく、悪への透徹した理解者でもあるから。
悪党を引っ捕えて壇上から汚物でも見下げるような表情の鬼平、
相変わらず減らず口でも叩こうもんなら怒号を浴びせて打ち首獄門を命ずる。
その時確かに鬼平は悪への真の理解者でもある。
罪業に取り込まれてもはや自分では悪が何なのかを客観的に理解できなくなっている
罪人自身などよりも遥かに罪悪を普遍的に理解している。
罪悪の真の理解者、キリストの真の理解者だからこそ怒号を浴びせ、
刑死や懲役といった人間としての間違った有り様の相殺措置を講ずる。
悪の理解者であるにもかかわらずではなくだからこそ悪を懲らしめ、
また善の理解者かつ享楽者であるからこそ善を勧める。
人間として最高の理解や楽しみの中にいる士人の特権だ。
儒家は公共性の哲学だから、誰しもが洋風の風俗に属している内から
武士の格好をしたり髷を結ったりするような、ピエロみたいな真似はしない。
そういった奇を衒うばかりの無神経さこそは、西洋の産物だから。
94 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/14(火) 17:27:31 0
質問ですが、岩波文庫の「真理のことば」は法華経のどの部分なのでしょうか
御指導御願いします。
95 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 18:58:07 0
>94
「真理のことば」は法華経ではなく法句経(ダンマパダ)。
阿含部経典(原始仏典)の中でも特に代表的なもので、「正法眼蔵」などにも引用されている。
阿含経を確信的に高性能化させたのが大乗経典なんで、あまり論及の対象とはならないが
大乗経典が原始仏教とも(断悪修善や罪福の道理などの面で)一貫性を保っていることを
実証付けるような内容に法句経がなっている。大乗仏教が定型化するのは龍樹が活躍した
約1800年前以降なんで、歴史の浅さを指摘された場合に、2200年以上前からある原始仏典
との整合性の確認が必要になる。もちろん仏教は永久不変の真理こそを把捉した教学なので、
歴史の深浅ばかりにこだわる必要はないのだけれども、真理が太古から把捉されていたにも
かかわらず、後から間違った方向へと行ってしまったような人間が、「自分らが間違い始めた
時期にはまだ正しい教えはなかったんだからしょうがないじゃないか」なんて自己弁護に逃げ
込むのを防止するために、真理の教えである仏教のほうも系統の古さの確認が必要になる。
96 :
老子研究 ◆VGII/EEITE :2009/04/14(火) 20:20:24 0
法華経じゃなく法句経でした。恥ずかしい間違いをしてしまいました。
レス感謝です。
もちろん全文読ませていただきました
97 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 21:08:24 0
「小國、命を大國に受く。敢へて儀を慎まざらんや。君之に賜ふに大禮を以てす。
何の樂しみか之に如かん。抑〃小國の樂しきは、大國の惠みなり、と(一部代用文字)」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」文公三年より)
小国が大国にお恵み頂いてありがとうございます、と、おべっかを使う記述。
犬食などと同じで、朝鮮人あたりが五経をそのまま鵜呑みにしてしまった結果
今でもほぼそのままの状態である属国魂。日本は五経よりも四書を重視するほか、
仏教との二股である聖徳太子の十七条憲法らによって属国化は切り抜けた。
とはいえやはり儒家が中国のような、犯罪性を含むあらゆる人間性を網羅する大国
でこそ生まれ得たのも事実であり、食人や人間の生け贄も為された上であえてそれを
為さないという、「存在してしまっている悪の懲らしめ」としての勧善懲悪体系を構築
できたのも確かなので、始めから基本平和である日本だけだと勧善懲悪の楽しみに
あまり与かれなかったのも確か。火付け盗賊がいるからこそ火盗改めも必要になる。
中国が共産主義や法家の看板を下ろして、漢代のような儒教国家にまた戻ったなら
もうちょっと敬うべき相手ともなるだろうし、インドがまた仏教を復権させたりして、今の
カースト制の解消などに真剣に取り組みだしたなら、それもまた尊敬に値するものとなる。
儒家や仏教に関しちゃ本国の中国やインドよりも日本のほうが保存が行き届いてるんで、
うまいこと大国にすら一目置かせられる国家体制を企図してくれた聖徳太子様様でござい。
98 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 21:27:51 0
「人の寵に介るは、勇に非ざるなり。怨みを損し仇を益すは、知に非ざるなり。
私を以て公を害するは、忠に非ざるなり。此の三者を釋てば、何を以て夫子に事へん」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」文公六年より)
人の寵愛に依存するのは勇ましくない。私怨を解消して却って仇を増やすのはアホ。
私事を強調して公共性を蔑ろにするのも忠実さに欠ける。これらがなくてなぜ侍となれるかと。
朝鮮人の属国魂などはこの辺の記述には全く背いているし、新渡戸稲造の「武士道」なども
武士の忠誠を曲解して上記のような内実をちゃんと説明しきれていない。士人は犬ではない。
奴隷のようにただやらされることをやるだけの下人でもなく、内面に超特級の男らしさを湛える
ことによって、行動をも強大な威厳を帯びたものとする。
男らしいということ、女々しくないということは、真に強いということ。
最終的に勝利できたり、女子供を守れたりする真の強さが男らしさとなって現れる。
女や子供までもが男らしい必要がないのも、男らしさが真の強さの現れであるからこそであって、
逆に大人の男までもが男らしくなかったり女々しかったりすることが、箸にも棒にもかからない
恥辱沙汰になってもしまう理由ともなるる。女子供も最終的には守れない出来損ないの男だから。
99 :
考える名無しさん:2009/04/14(火) 21:49:36 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18350&if=gb 「春秋左氏伝」文公七年の内容。
昭公による身内でない公族の追い払いを宰相(司馬)の楽予が止めようとするが、
昭公は聞き入れずに虐殺してしまう。ただし孔子による実作である「春秋経」には
昭公の名も、昭公が殺した公族の名も書いていない(左伝には両者とも書いてある)。
公族の名が書かれていないのは、罪もなく殺された不憫さを鑑みて。
昭公の名が書かれていないのは、権力犯罪の主導者の名など書くべきでないから。
勧善懲悪の視点から鑑みて、端にも棒にもかからないような出来事は、
わざわざ中心人物の実名を挙げるまでもなく、穏健に処理してしまおうという態度。
もちろん罪人が殺されれば見せしめとして名前を挙げるだろうし、適切な裁量を下した
刑務者の名も挙げられるだろう。連続強盗強姦魔だった葵小僧こと大松五郎や、
その罪状の重さを鑑みて、独断で早期極刑を決断した鬼平こと長谷川宣以のように。
100 :
考える名無しさん:2009/04/15(水) 12:56:24 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18447&if=gb 「春秋左氏伝」文公十二年。
秦の使者である西乞術が、魯の公子襄仲に同盟強化を狙って送った礼物を
襄仲は「秦君には日ごろご愛顧の程を頂き大変感謝の限りにございます。その上このような
礼物までをも頂いては恐れ多いため、辞退させていただきます」と丁重に断ろうとするんだが、
粗末な品ですので辞退には及びません、イヤイヤイヤイヤイヤイヤと、三度四度も譲り合いの
応酬を重ねた挙句、襄仲も礼物を頂き、使者にも返礼としての贈答品が手渡された。
年長者に酒盃をさされた時に、三度断った挙句にやっと口元を隠しつつ飲むなんてのは韓国での
慣例として今でもあるようだが、それ以上に進物を「つまらないものですが」「いえいえこちらこそ」と
謙譲し合って贈り合う、お中元お歳暮の慣習が日本でこそ続いている。「つまらないものなんか
なんで贈り合うのか」と、極東社会の儀礼に疎い外人あたりが疑問を呈し、逆に日本人らのほうが
悩み込んだりもするが、ちゃんとこういった儒家教学上の出展があってこそ続いているものだから、
少しも臆面に出さずに続けていればいいこと。外人の側に見習わせるぐらいの勢いで。
101 :
考える名無しさん:2009/04/15(水) 14:18:33 0
良スレだ
102 :
考える名無しさん:2009/04/15(水) 23:52:40 0
礼儀を、外国語なんかで教えられるかってんだ。
日本ですら、和語とは文法構造の全く違う中国語に基づく漢文を、何百年もの試行錯誤の末に
訓点読みで吸収して、自分ら自身の礼儀や精神性として体得してきた。
何よりも自分ら自身で学び取ろうとする努力的な姿勢があってこそ、初めて礼儀は身に付くのに、
わざわざ自国語に訳して教えてもらおうなんてのは、無礼にも程がある。
英語を含むヨーロッパ系言語のほうが、日本語よりもまだ文法構造が中国語に近いんだから、
ちゃんと勉強すれば日本人よりも早期に修得できそうに思えて、そうもいかない。
漢字こそは言語修得以上に、漢文を理解する上での極大なる障壁となる。
ヘラヘラした内心のふら付きを捨て去らない内は、最初級の習字試験にすら合格できやしない。
自分もそんなに字ぃうまかないが、外人よりはまだうまく書ける自信がある。
並みの中国人や日本人並みに漢字も書けるようになって、初めて漢文の価値も汲み取れるようになる。
絶望的なんで諦めようってんなら、もう無知さ加減を嵩にかかって偉ぶるような真似はやめなさい。
103 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 00:28:06 0
漢字は、そのまま古代の有機的な様式風俗を後世に伝えている手がかり。
モンスーン気候で木造住宅や農産が主流であり、石版のような手入れもないままの保全が
困難な文化文明を形作る極東人にとって、文化文明の重層さを後世に伝える
最大最高の手段となっているのが漢字。約2300〜5000年前に書かれた四書五経の内容の内、
そのどれもが漢文で書かれているが故に、ついこの間あったかのような再現性を伴う。
最古級の易経ですらもがそう。それよりも遥か後世に書かれた簡易言語での作文のほうが、
男のあばら骨を一本取って女が生まれたとか、精神異常者の落書きみたいな
不可解な意味しか遺されずにいたりする。漢字によって書かれた文章だけが、数千年後にも
その意味を余すことなく確実に伝えられるだけの素養を持っている、仏典も含めて。
104 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 00:56:41 0
仏典って漢字じゃないような・・
105 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 01:06:09 0
漢訳
106 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 01:57:52 0
漢訳だけじゃないきが・・
107 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 07:55:00 O
仏典は元から永久不変の真理を記述したものなんで、当時の風俗ばかりにこだわる必要はない。
それでも浄土経や法華経のように、漢訳された金銀財宝などの記述で、より臨場感を伴って豪華さが
再現されているものもある。全く知らない通貨単位での大金なんかが示されるよりよっぽど。
108 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 12:15:58 0
なぜ漢字になると臨場感とかがでるのかな?
109 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 12:43:01 0
金・銀・瑠璃・玻王黎・珊瑚・碼碯・石車石渠・・・
文字体系がすでに本当に豪華だからね。
文化文明ってのは全て言葉によって形作られているから、
言葉の直接的な形象化である文字が豪華であることは、
そのままあらゆる文化文明の中でも一番豪華なものになる。
「文字は簡素だろうとも物質で勝負だ」とか言ったって、
物品の設計や製造にだって言葉や文字が使われるから、
文字から豪華な文化文明に属している人間による製品と、
簡素な文化文明に属している人間による製品とでは
やはり物質的な精緻さまでもが格段に変わってくるもの。
物事の根本を疎かにしている人間が、そうでない人間を
いかなる側面においても超えられることなどないんだと。
110 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 12:51:00 0
中国語が漢字を使う理由って単音節の言語だからじゃないんですか?
111 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 12:56:33 0
>>107 >仏典は元から永久不変の真理を記述したものなんで、
むしろ逆だろ。仏典として記録したため、その情報が固定化してしまった。
文字言語は思想を凍結する。ブッダが文字言語を使わなかったのは相手が
文字を読めなかったからだけではない。古事記や日本書紀によって日本の
歴史が固定されたのと同じ現象だ。
112 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 13:18:24 0
思想を歴史の流れによる風化から、しっかりと食い止めることこそが文字の役割だろうて。
仏法が文字だけによって伝えきれないのは、密教や禅などの場合には顕著だけれども
儒家や浄土教のような、社会生活と不可分な関係にある教学は文字での保全が重要だ。
当時からどうしても伝えたかったことを、実相までをもできる限り把捉した上で書き残す、
古事記や万葉集などは漢字だけでなく、当時の日本語文法までをも伝え遺すことで世界
でもずば抜けた物持ちのよさを日本人に慣習付けている。駄目なものは改善されるべき
だが、当時の時点ですでに完成した良さを持つものは、できる限り保存されて然るべき。
113 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 13:59:00 0
孔子も親鸞聖人も自分自身で著述を遺している。
朱子も良質な書物の精読は勧めているし(朱子語類)、
蓮如上人も「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と仰る(蓮如上人御一代記聞書)。
あまり文字だけによる理解などを勧めない教学がある一方で、
文字は文字で重視する教学もまた東洋にはある。
どれか一つだけなんていう独裁主義こそが東洋にはない。
114 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 14:19:57 0
>>112 >当時の日本語文法までをも伝え遺すことで
文字の無い音声言葉のみの社会では文も無いのだから文法はない。
古事記や万葉集は音声言葉をどのように書き表すかの日本語文法を
発明したものだ。
音声言葉と文字言語はまったくことなる情報媒体だ。
メディアはメッセージである。
「日本語文法」で不満なら「日本語話法」でもいいだろう。
「神(かみ)」とか「奥さん」とかの発音意図や語源までもが古事記にあったり。
日本語の場合は言葉と文とが不可分な関係にある場合が多いんで、
語呂合わせのメッセージなどは遊びか雑音の内にしか入らない。
精神性の込められた言行一致ならぬ言書一致の文化文明はそれはそれで別にあるんで、
その価値の重要さを計り知るものからすれば、雑多なメディアのサブリミナル効果
などよりも常に上にある別格の領域となる。
誠意的であること、故に言葉と文字が一致すること。
「南無阿弥陀仏」という言葉と文字とが、完全に阿弥陀仏への帰依を完成させてしまうから、
別の何らかの意図の勘繰りや組み入れなども全くしようがない。
次の想念を派生させるためではなく、そこにこそ想念を引き止めて離さない
金剛の正念を示さんとするとき、言葉と文字とは完全に一致して二度と離れない。
漢字とか日本語ってのはそういった正念の明示のためにこそ使われる言葉。
裏の意図をほのめかすような、不当で寓意的な用法には向かない、
ありのままの正しさこそを強調する、誠意的な用法にこそ向いている文字や言葉。
日本語特殊論ですか・・・
漢字や日本語に基づくような、重畳的な誠意の表白こそを楽しむためには、
簡易言語による寓意的な論理ゲームや情報ゲームを捨て去らねばならない。
誠意的であることと寓意的であること、正当であることと不当であることは
まるで綱引きの勝負相手同士のように相反した関係にある。
天才数学者や天才プログラマーは、そうであればあるほど字が下手になる。
寓意的で不当な思考ばかりに脳が馴らされているから、
すぐに誠意的で正当な方向に思考形式を切り替えることなどできない。
一方で誠意的で正当な思考形式を持つ人間もまた、寓意的な方向への
思考は働かなくなるが、それが真に正当な目的を持つのであれば、
最難関の数学や情報科学などにも従事できる。
努力はいかなる天才をも超える。
犯罪正当化の道具にはならないという程度に誠意的であるという意味でなら
中国語や梵語やアラビア語もその内に入る。いずれも書道のある言語。
最低限言葉と文字と行動とを一致させようとする誠意のある、人類40億以上の使用する言語。
120 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 17:00:25 0
ソニーミュージック
121 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 17:40:17 0
あ
sage
123 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 18:31:23 0
東洋人(アラブ人含む)が書道までをも駆使して文字表現を究めようとするのは、
何よりも東洋教学の核心こそが正当なものだからだ。
禅のような、以心伝心不立文字を第一とする宗派だろうとも、自分らの教義の核心は
あくまで「諸悪莫作衆善奉行」。3歳の幼児にも分かるが80歳の老人にもできない。
できないということは、実践によって感覚的にその価値を把握することもできないということ。
今でこそ権力犯罪垂れ流し状態の、人類総犯罪者状態である世の中で、
悪いことをせずに善いことをするためには、何もしないで権力犯罪者の自首を
ただ待っていればそれだけでいい。社会全体の倫理性の程度があまりにも低くなりすぎているが故に、
簡単に諸悪莫作衆善奉行を実践できて、しかも最高に安楽なのが分かる(何もしないんだから当たり前)。
でも誰しもが権力犯罪ぐらいは許容せず、常に諸悪莫作衆善奉行を競い合っている世の中であれば、
これほどにも実践の難しい教義は他になく、実践ができているが故の楽さ楽しさを感覚的に
把握するなんてことも、極めて難しくなる。そのような人類総道徳者状態である世の中で
諸悪莫作衆善奉行を体得するためには、禅や密教のような、文字ばかりに頼らない実践派教学への
加入が必要となる。でもそこまでいけずとも、例え文字だけだろうともできる限りに核心を
体現したいという時に、能書達筆で「諸悪莫作衆善奉行」などと書き表す。禅や密教の実践に比べれば
程度の低いものだろうとも、文字に限ってだけでも重畳的な誠意の表白を試みる心意気が能書達筆ともなる。
124 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 18:34:03 0
東洋教学であれば「諸悪莫作衆善奉行」に当たる部分、自分たちの教義学術の核心である部分こそが
西洋教学では「犯罪推進道徳唾棄」である。表向きは愛とか平和とかの美辞麗句を宣伝材料に掲げてたり
してたところで、自分たちの心の底からの、完全に余すことなき核心こそは犯罪推進道徳唾棄だから、
もちろんその核心を「犯罪推進道徳唾棄」という漢文によって、能書達筆で明示する気になんかなれない。
ただ犯罪推進道徳唾棄に基づく、外界侵略不当利得による富豪や遊蕩ばかりが目的なんだから、
どこにも能書達筆によって重畳的に表白できるような誠意的な部分などはない。重層的な高級文字に
よって書き表したくなるような、誠意的な教義学術などどこにもないから、ただ十字架に貼り付けられた
髭もじゃ半裸のおっさんの偶像で心的統率を済ますのみ。「犯罪推進道徳唾棄」も全く表に現さないんじゃ
求心洗脳のしようもないんで、寓意的な図像や簡易言語の交わし合いで薄い薄い人間関係を構築する。
核心である「諸悪莫作衆善奉行」こそを共に共有しあう、東洋人同士のような濃密な人間関係などどこにもない。
125 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 19:11:32 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18462&if=gb 「春秋左氏伝」文公十三年。
都を繹に移そうと考えた文公が、可否を卜人に占わせたなら、
「都を移せば民は豊かになるが王には不利となる」との結果が出た。
文公は「民の利益こそはわが利益だから、移すことにしよう」と決断し、
繹に都を移した結果、文公は本年五月に亡くなった。これを孔子は
「君主としての身分をわきまえた立派な決断だ」と誉めそやす。
民ではなく君主こそが人柱。上に立つ人間こそが率先して苦難を受け止める。
しかもこれは大統領暗殺みたいなヒロイズムではなく、民の利益を優先するために
確信的に王君の側が譲渡するという、極めて冷徹な事務性に基づいた政治学。
自分の利益が民の利益か、いずれかを選択しなければならなくなったような
状況において、公共性としての民の利益を優先させる、
>>98における侍の条件にも
通じている。最上位に立つ君子こそは、己を虚しくさせる頂点にも立つもの。
126 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 19:38:34 0
「君子曰く、禮を失ひ命に違う。宜なり其の禽と為るや。戎は、果毅を昭らかにして以て之を聽くを之れ禮と謂ふ。
敵を殺すを果と為し、果を致すを毅と為す。之を易へば、戮なり、と」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」宣公二年より)
軍事(戎)は下の者が上の者の命令を忠実に従うことが「礼」である。
殺すのが命令なら殺すのが正しく、命令に従わなかった結果自分のほうが殺されるのが「無礼」である。
随分と、現代人の認識からはかけ離れた礼儀のあり方。軍紀が正されることが戦闘上必要なのは分かるが、
しかもそれが礼儀であるということ。ただ上官に対しての敬語や敬礼を徹底するだけでなく、戦闘中に上官の
命令をよく聞いて敵を殺すことまでもが礼儀。「天に従う。天の道(文公十五年)」とでも言うほどの奥深さを持つ
本来の意味での礼儀は、戦闘中の殺戮のような極めて殺伐とした領域にまでも及んでいる。
エノラゲイの機長が「原爆投下は間違っていなかった」とかいちいち弁解しようとする。それを聞くと日本人は
余計に腹が立つ。ただ「私は命令に忠実に従っただけだ」と言えば、それで軍事における礼儀は保たれて、この
機長に対して無駄な怨念を抱いたりもしなくなるもの。それがわざわざ私見なんかまでひけらかそうとするから、
軍事における礼儀もわきまえない腑抜けなんかに負けたことが、余計に自分たちの情けなさを増長させる。
天の道としての礼に背き外れているが故に、いつかは破滅の引き金を引く連中にこそ勝てなかったことが、
真に強い相手と戦って負けた場合などにはない、なんとも言えない後味の悪さを引きずり続けてきたわけだ。
×下の者が上の者の命令を忠実に従う
○下の者が上の者の命令に忠実に従う
128 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 21:58:58 0
第二次大戦の敗戦後に、占領下やその後の、アメリカに尻尾を振る子犬状態の日本で、第一線に
立ってきたような日本人、さらには、明治以降の洋風化していく日本社会を、学術面から先導していた
ような国内の文民までもが、全て、儒家教学の天地万物を司る道理に背いてしまった不遇の人々。
坂本龍馬も武士にしては特例的に儒家への素養が皆無だったという。薩長土肥ほか江戸幕府への
反目勢力が主体となって作り上げた明治以降の新政府、明治天皇自身には儒家を重んじる言行が
ある程度見受けられるものの、立憲君主制の国家体制をドイツやイギリスなどの事例を参考に構築して
いた帝国大学出身者などには、洋学に関する血のにじむような試験勉強の痕は見受けられるものの、
江戸幕府の統治理念でこそあった儒学や朱子学に関しては、仏教と並ぶ「過去の遺物」として、甚だ
軽視の対象とし続けてきたことが明らかだ。すごく頭がいいような態度をしていて、本当に頭がいいのなら
文句はないものの、実はそうでない。洋学に関しちゃ天才秀才であったところで、儒家や仏教の修得度
に関しちゃアホも同然。百姓仏教の浄土真宗ですら、論及の対象である罪福の道理すら理解できない。
129 :
考える名無しさん:2009/04/16(木) 21:59:57 0
洋学ばっかりに重きを置きすぎて疎かになってるだなんてだけなら可愛いもんだが、事態はより致命的で、
洋学ばかりを研究し過ぎているから こ そ 理解できなくなっている。罪福因果を存在性としてすら承諾
できない、異生羝羊心の中でだけ展開されている洋学に付きっ切りでいさせられたせいで、罪福を承諾して
最終的には善悪苦楽の操作による衆生の救済も自由自在となる、愚童持斎心から秘密荘厳心までの
高尚な心相の階梯を一段たりとも昇れない状態にまで瀕している。善悪苦楽を承諾すらできない人間に、
善悪苦楽を自由自在に操作するなんてことももちろんできやしないから、下手くそ粗雑な善悪みそくその
操作で世の中を引っ掻き回した挙句、どこもかしこもを悪の苦しみに染め抜くことしかできやしない。
正当性と不当性、誠意と寓意が相反するように、東洋教学と洋学もまた相反する。洋学適合者は東洋
教学不適合者。罪福因縁を客観的に把握する素養を、罪業の積み重ねによってあえてかなぐり捨てて
いる人々。儒家や仏教を捨て去って洋学だけに随順してしまった不遇の時代の先導者であったからこそ、
東洋教学が復権を果たす恵まれた時代においては退場しなければならない人々。おつかれさまでした。
人間は光源ではない。あくまで光を授かる存在。
光を受けた人間ほど黒くなり、受けなかった人間ほど白くなる。
黒い人間ほど光から遠く、白い人間ほど光に近いなんて倒錯
みそくそは完全なるくそであって、寸分たりともみそではない。
善悪みそくそは完全なる悪であって、寸分たりとも善ではない。
くそや悪の側にとっては別に構わなくとも、
みそや善の側にとっては有害無益な、くそや悪との混濁。
いま一度みそや善の側に立ってその意を汲み取らねば。
塀の外では無理だろうが、おまえらの場合。
言葉だけじゃ絶対に理解できない、
実践によって初めて到達できる領域が確かにあるわけさね。
ぜひ、密教や禅を見習っての実践を。まずは自首から。
悪念で病気にかかり、悪業で治療不能となる。
犯罪による精神異常は、罪業という実在上のカルマを清算してからでないと治療のしようがない。
だから犯罪者に対して、塀の中でのお勤めを済ます前からの仏道への入門などは認められない。
お寺は刑務所ではないし、坊主も囚人だからって髪を剃ってるわけじゃないから。
個人的には無罪なのに、さらなる自己の追い込みを目指す仏者の心意気こそを見習え。
134 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 09:04:47 0
犯罪者は「主食」が自分と同じ人間だ。
自分とほぼ同程度の身心機能を持つ人間から金銭などの形で生命エネルギーを吸い取り、
農牧や無利子経済よりも手っ取り早く簡単に食い繋いでいる。
道徳者は、犬までも食ったりはするものの、少なくとも主食が人間ではない。
自分と同じ人間を食物にしたり生け贄にしてた連中が、王朝や国家の破滅を引き起こした事例などを鑑みて、
あえて人間を主食とすることを選択していない。
これは、肉食か草食かでいえば草食寄りの選択。
厳密には人間は雑食な上、極東人は本当に人間までをも食った上であえてやめてるわけだから、
擬似的な食人の祭り上げだけでウブにも陶酔してしまっている西洋人などよりも
究極的には肉食なのだけれども、自分たちの意志であえて究極の肉食である食人は避けて、
農耕などの草食寄りの生活様式を主体としている。故に強い。
恐竜ですら、本当に最大で最強だったのは、ティラノサウルスのような肉食恐竜ではなく、
ブラキオサウルスやブロントサウルスのような草食の首長恐竜。
自分に格の近い相手を捕食する肉食獣(ライオンやトラなど)よりも、
なるべく遠戚の有機物を捕食する草食獣(ゾウやキリンなど)のほうが、
究極的にはより大きく強くなれるというのが自然界の法則。
世界最大のサメであるジンベエザメもプランクトンを主食とする。
無駄な争いを避けて手堅い生活だけに専念するものが、
人間社会においても最終的には最大最強最高になってしまう。
135 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 17:46:53 0
左伝の
>>90の部分を読んでから、街中でピアスした男なんか見ると、思わず噴き出しちまいそうになる。
軍紀を乱して処罰を受けている兵士。そのまんまじゃねえかwww
まさに今の腑抜けた男の有り様そのものだってんだ。しかも自分から好き好んでやってるんだものw
もちろん女は軍事に関係ないんで問題なし。開祖の達磨からして耳輪してる禅も、超俗の仏教なんで
世俗の問題である軍事とは教義的に距離を置いている。剣禅一如とかもあくまで個人技の世界。
多くの人間が一致団結して敵と戦う団体戦は、あくまで儒家のような社会性に基づく教学の得意領域。
その部分で儒家に従わず、禅の猿真似なんかして男のクセして耳輪なんかすれば、まさにそのまま
軍紀を乱して処罰を受けている兵士となる。不特定多数の、軍紀を乱して処罰を受け続けている兵士達。
まさに風俗とは、時と場合によりけりのものであるわけ。
136 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 18:26:29 0
「國を平ぐるには、禮を以てして亂を以てせず。伐ちて治めざるは、亂なり。
亂を以て亂を平げんとす。何の治まることか之れ有らん。治まる無くんば、何を以て禮を行はん」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」宣公四年より)
他国を平定する場合には武力ではなく礼を用いよ。他国への手出しがすでに僭越なんだから、
礼を尽くして当然、いわんや武力行使などもっての外。ここでいう「国」ってのは「日本全国」とかの
意味で使われる、近代国家主義よりは規模の小さい郡県間での用例。とはいえ中国は一つ一つの
県や省がそれなりの近代国家に匹敵するほどの規模を持っているんで、個別の国家にとっても地球
全体にとっても利益にならない、現状の国際主義を刷新する場合の代替にこれらの記述はなり得る。
近代以降の日本も、韓国併合の際に(併合反対派でもあった)伊藤博文首相が朝鮮の民族衣装を
着た写真に映ったりと、できる限りの礼儀を尽くそうとしていた痕跡は見られるものの、帝国主義下での
植民地化したい放題の風潮に抗いきることはできず、儒家教学の厳守を完遂できたなんてことも全くない。
国際法(戦時含む)なんていう有名無実の外交規範が取り決められたりもするものの、そこに他国への
干渉を礼を以て為すなんていう高潔な意味などは少しも無いから、今でもアメリカやイスラエルらに
破られっぱなし。無礼で犯罪目的な外界侵略は今でも続いている。国際主義からの断罪のない限り。
137 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 18:42:54 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18714&if=gb 「春秋左氏伝」宣公九年。
陳の霊公が臣下と共に夫人に密通し、夫人の肌着を面白がって着てるって、元祖変態の史話がある。
今の女性用下着ほどいやらしくはなかっただろうにしろ、「礼記」らにおける「男女は衣装を共有しない」など
の取り決めの起源にもなっているんだと思われる。男は男らしく、女は女らしくの始まりは実は変態の戒め。
孔子実作の春秋経にはこの記述はなく、あくまで左伝の注釈としてある。君子危うきを書き留めもせず。
138 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 19:03:43 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18780&if=gb 「春秋左氏伝」宣公十二年。突出して長いがそのぶん重要な記述も多い。
夏六月に、随武子が楚の徳政を評価する発言の中で、非支配層の民を「商農工賈」と呼んでいる。
「士農工商」だと士は支配層なんでこの中には入らない。じゃあ「農工商」になるのかというと、
やっぱり商は農や工よりも現実的に富裕である場合が多いから、特に行商を「商」として農工の上に置き、
店舗業を「賈」として農工の下に置いている。これは、非常に冷徹な現実社会への直視に基づいている。
荀子も「士商工農」というし、商の中でもプロ向けな行商は上位視し、アマ向けな店舗業は下位視する
ここでの記述も、現実社会での階層構造を冷徹に見定めている。その上での儒家教学上の最も理想的な
社会構造の階層が「士農工商」。士による抑えつけがなければいくらでも強大化していく行商をなんとか
抑えつけ、下位視されやすい農工、中でも農を尊重するために「士農工商」を社会の最もな理想像とする。
たった四文字の順番だけで、完璧に社会の理想像が示せてしまうコストパフォーマンスの良さ。
「礼楽刑政」なども同じで、現実社会を本当に司る道具としてこそその本領を発揮する。
139 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 19:35:31 0
>>138と同じ宣工十二年の丙辰の日(六月十四日)、強国化していく楚の荘王に対して臣下の潘党が
「ここいらで武功をみせしめるための京観でも作り上げてはいかがでしょうか」と進言する。
「京観」というのは、討ち取った敵兵の骸骨などを積み上げて、その多さを見せ付けるための台であり(新釈参照)、
潘党はちょうど戦闘中だった、晋の敵兵の屍で京観を作ることを勧めていたんだが、それを聞いた荘王は
「もっての外よ。今のわが国の晋との戦いは、乱暴狼藉を働くばかりの武功とは到底言い難いものであり、
晋の兵士たちも忠義を尽くして精一杯戦って死んでいったのだから、不敬の輩こそを討ち取って戒めとする
ための京観などをいま作ってたまるものか」と突っぱねた。
さすが敵国(晋)の将兵(随武子)にまで称えられるだけあって、荘王も徳性に満ちた名君であるよう。
>>136での引用にも通じるし、「公卿淫を宣さば、民效ふこと無からんや」という宣公九年での戒めにも則っている。
骸骨髑髏の祭り上げは、一休宗純などの事例でやはり禅にはある。儒家でも「悪いやつの懲らしめ」としては
京観が扱われ得るとしているが、何の罪も無い忠義の持ち主の屍なんかを京観に用いるのは無礼の極みだと。
個人主義的な仏教である禅や、懲悪に限っての処罰的なものとしては、男の耳輪や骸骨の祭り上げなどもあり得るが、
公共性や社会性を重視する儒家の「勧善」方面においては、もはやそれらは捨て去られるべきものとされる。
悪いものが懲らしめられきった、断たれきった先にある純粋な善の勧めや修めにおいては、懲悪断悪の場面で
まだ許されていた際どい風俗が段階を追って許されなくなっていったりする。懲悪断悪が済みきった後での
勧善修善の明確なビジョンが備わっているのが、儒家のような善良さに満ちた東洋教学の特質といえる。
140 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 19:51:34 0
「晉の原?、宋の華椒、衛の孔達、曹人、清丘に同盟す。曰く、病めるを恤へ、貳(ふたごころ)あるを討たん、と」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」宣公十二年より)
「困窮している国を助け、陰謀のあるような国を討とう」という、あまりにも簡潔で正当至極な四者同盟の誓約。
こういった誠意的な約束の場合には「誓約」という。権力犯罪の共謀を取り交わすような約束の場合は「契約」。
お互いが誠心誠意約束を守りあおうとする場合と、約束を破った場合には許さんぞという脅迫が伴う場合。
君子賢人は前者のような約束の場合、つまり誓約なら快く引き受けるが、後者のような約束の場合、寓意的な
契約は始めから断る。寓意による後ろめたさのスパイラル、お互いを本心では敵視し合いつつも表面上だけの
友愛を取り交わすような疑獄のスパイラルには始めから取り合わず、世間一般誰しもに対して堂々と掲げられる
ほどの誠意的な誓約に限って約束を取り交わす。まさにこのようなどこにも裏表のない誓約文に基づいて。
141 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 20:13:01 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=18815&if=gb 「春秋左氏伝」宣公十五年。
魏武子が病気にかかった時、遺言として「愛妾には再婚させてやってくれ」と魏顆に告げたが、
いざ危篤となると「やっぱりわしのために殉死させるように」と訂正してから死んじまった。
魏顆は「危篤時には混乱するものだから」として前の遺言を選び、愛妾を再婚させてやった。
家康公が晩年の老耄状態の秀吉に「ぜひとも息子の秀頼を次代の支配者にしてやってくれ」
と約束させられたが、その時点ではまだ秀頼は年端もいかない稚児であり、天下を担うほどの
素養が本当にあるのかどうか少しも分からなかった。案の定秀吉が亡くなり、家康公が天下を
握って政治の中心が大坂から江戸に移って、秀頼だけの居城となった大坂城は、女だらけの
武将としての教育がほとんど行き届かない遊郭同然と化してしまい、江戸幕府開府のいざこざ
などもあって、結局、家康公の秀吉と交わした約束は大坂夏の陣による秀頼自害で露と消えた。
危篤や老耄のような心神耗弱状態の人間と取り交わした約束などは、たとえ相手が自分の
父親や、天下統一の覇者だろうとも破られうるという、儒家の「契約反故」の思想。もうちょっと
正確にいえば「誓約優先契約劣後」の思想。誠心誠意をもって取り交わす約束などに比べれば、
病人や耄碌老人との気休めの約束などは、全く価値のないものとされる。もちろん犯罪者との
契約なんてのももっての外で、たとえした所で平気で破りますって宣言しているようなもの。
信用がないのではなく、誓約に値するほどの真正なる信用こそを重んじるからの契約反故。
142 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 20:17:26 O
ヒトラー
143 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 20:20:49 O
闇金融
144 :
考える名無しさん:2009/04/18(土) 21:11:39 0
破っちまえ、闇金との契約なんか。みんなで破れば怖くない。
そして困窮している国を助けようじゃないか、○フ○○とか。
陰謀のあるような国は討ち取ろうじゃないか、○メ○○とか。
楽しい楽しい、勧善懲悪同盟の誓約。
破りようがないほどに誠心誠意である約束。だからこそ楽しい。
守るほうが楽しくて破るほうがつまらない正義の誓約。
守るほうがつまらなくて破るほうが楽しい悪の契約。
前者は道徳を導き出し、後者は悪法を山積させる。
正義の誓約を悪の契約よりも優先させることは、
そのまま道徳の悪法よりの優先となる。契約莫作誓約奉行へ。
145 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 21:10:58 0
「春秋の稱は、微にして顯なり、志して晦し。婉にして章を成し、盡くして?げず。
惡を懲らして善を勸む。聖人(孔子)に非ずんば、誰か能く之を脩めん」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」成公十四年より)
春秋経に対する後世での評価が左伝に書かれている。
特筆すらくは、「盡くして?げず」、しかも「惡を懲らして善を勸む」という点。
事実をありのままに示し、意図を曲げないことが、そのまま勧善懲悪になるということ。
私情を挟み込もうとする悪念を絶やしつくして初めて勧善懲悪になり、
故にこそ春秋経もまた、そのままでは理解が困難なほどに記述が簡潔である。
146 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 21:32:22 0
私情を挟みこむことなく、ただ事実をありのままに提示することが勧善懲悪となるし、
また永久不変の罪福の道理に基づいているからこそ、断悪修善が安楽の真理ともなる。
善とは真理のことであり、真理とは善のことである。俗諦真諦いずれであれ真実の道理(真理)を確かに
把握しているからこそ、儒教や仏教は善一元論的であり、別に善に対する執着(法愛)があるからではない。
真理に基づいているが故の善一元論だから、もちろん儒教や仏教の教義中に誰か特定の人物の所感雑感
などが混じっているなんてことはなく、それは孔子や釈尊といった開祖中の開祖からしてそうであること。
孔子が「勧善懲悪こそは世俗の道理だ」なんて主張しているのではなく、始めから勧善懲悪は世俗の道理。
釈尊が「断悪修善こそは絶対の真理だ」なんて主張しているのではなく、始めから断悪修善は絶対の真理。
勧善懲悪や断悪修善に背いたせいで辛く苦しくなったとしても、それは別に孔子や釈尊といった個々人に
逆らったからなのではなく、始めからそうである世俗の道理や絶対の真理に逆らったからでしかない。
だから辛く苦しくなった恨みを孔子や釈尊に転嫁したとて、まるで仏像を叱咤するかのように無しのつぶて。
自らの選択によってこそ享受してしまった辛苦の責任を、性懲りも無く他者になすり付けようとする
悪因の積み重ねによってさらにさらに辛く苦しくなる。悪因悪果×悪因苦果=苦因苦果。
これまた釈尊の意見なわけでもない、始めからある因果応報の真理によって余計に悪苦を重ねる。
147 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 21:47:38 0
話を仏教から儒家に戻せば、儒家の示す道理はあくまで世俗の道理(俗諦)なので、
絶対の真理(真諦)こそを提示する仏教の荘厳さと比べて、質素で重んじにくい所がある。
近現代の倫理学や社会学、政治学などと比べてもその記述が非常に素朴、
「論語」もどこぞやのおっさんの説教ぐらいにしか思えないという批判がかなり多い。
それでも儒家もまた、仏教と並ぶほどにも絶対的である天地万物の道理こそを、
世俗の言葉だけに落とし込んだものであり、「こうすればこうなる」「ああしたらああなる」
というただの因果論の提示が、世俗での活動者である以上は決して逃れられない
絶対的な掟に限って撰述されたものである。あまりにも視点が普遍的すぎて、もはや
小人にはその価値が分からなくなってしまう程の大人の識見。孔子に始まる儒家教学は
そうであることこそが自家である条件となっているから、孔子に限らず孟子や荀子や朱子、
さらには左伝の作者と言われている左丘明もまたそうであることに沿わんと努めている。
148 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 22:56:38 0
だから今から話そうとしていることを、決してその場限りの感情論などとしてではなく、
大局を冷静に見計らった結果、提示される普遍的な道理としてこそ聞いてもらいたい。
道理であると採るか感情論であると採るかで、全くその理解度は変わってしまうから。
日本人が、戦前と比べて堕落したということは、ある程度世情に詳しい誰しもが察知している。
徴兵制による男性への規律の厳守がなくなったことが特に大きな原因の一つ。
男がしっかりしてれば自然と女も貞淑となるもんだから、男の堕落こそは一番の問題。
別に徴兵制などなくとも、武家社会のような士人としての男らしさが一定の階級に要求されていた
社会であれば、男がそんなに堕落するなんてこともないが、もちろん今は武家社会でもない。
武家社会でなく、しかも徴兵制もない、どこにも男への道徳倫理の要求などが働いていない社会で、
近ごろは男でもピアスしたり、西洋の海賊風味のドクロファッションを身に付けたりの事例が見られる。
どうせ一時の流行りではあるにしろ、ピアスやドクロを「平時の在家の男」が嗜好しているという事実、
禅はあくまで出家第一なので例外。在家であるが故に世俗の社会構成員である、別に兵役に就いている
わけでもない男が、ピアスやドクロを面白がっている。これが明らかに儒家の提示する道理に背いている。
>>90で左伝から引用した、軍紀を乱した兵士に対する処罰としての耳への穴開け。世俗の男である以上は
ある程度覚悟もせねばならない軍役において、耳への穴開けが軍紀を乱す者の有り様とされる。
同じく
>>139で左伝から引用した、不忠の輩を討ち殺した場合の見せしめとしての髑髏台、京観の設置。
これまた世俗での戦いにおいて不義であったものこそをみせしめる罰則としての意味を持つ。
149 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 23:03:50 0
戦前の日本兵の軍紀の厳しさや忠義の深さは今でも伝説として扱われている。あまりにも厳しすぎて
可哀相だったとすら言われるほどの軍紀を当時の日本兵は忠実に守り、台湾などでは「犬」扱いすらされた。
たとえ実情は洋学からのイデオロギーの借りっぱなしであったにしろ、自分らなりの理解に基づいて
天皇陛下への忠誠も誓って、特攻や玉砕をも本当に敢行して死んでいき、米兵をノイローゼに追い込んだ。
戦前の日本人男性は、軍紀の厳守や君主への忠誠についてこそ卓越していた。軍紀を乱して耳に穴を
開けられたり、不忠の戦闘を敵に糾弾されて髑髏台を建てられたりが決してあり得ない、あってはいけない
ほどに、儒家教学上の道徳倫理に対して厳格であった。政治機構や学術などは洋学デモクラシー真っ盛り
だった所で、底辺で歩兵銃担いで一心不乱に働いていた、不特定多数の男たちこそは儒家教学を守っていた。
150 :
考える名無しさん:2009/04/19(日) 23:04:48 0
それが敗戦後、アメリカによる占領政策や、占領解除後も陰に陽に続いている隷従型統率措置によって、
儒家教学破りまくり、在家の男のクセしてピアスやドクロ面白がりまくりの醜態を晒すようになった。
難しいことなんかてんで分からない、下層階級の男こそが儒家教学の側面において堕落してしまっている。
頭脳で挑戦している男などではなく、社会の風潮に適当に流されていく足軽歩兵レベルの男こそが
堕落してしまっていることが、アメリカの日本に対する戦後処理政策が失敗していることを明示している。
天地万物の道理を司る掟としての儒家に従って、厳しい軍紀も君主への忠誠も誓っていた日本人男性が、
アメリカの戦後処理によってこそ、ピアスやドクロを面白がって身に付けている状態、軍紀を乱して罰を受けたり、
忠誠を欠いて敵軍にさらし者にされるような状態と化している。「日本人男性が堕落したことが日本人として
情けない」ということは今は一旦置いといて、アメリカによる日本への戦後処理政策が、儒家教学に基づいた
場合にこそ失敗している、天地万物を司る道理である儒家教学、その一部である春秋左氏伝の記述にこそ
違反している、だからアメリカはもう持たない。日本人を辱めたからではなく、現人類十四億でもある中国の
最優等教学であり、一切私情などを挟まない冷徹な道理福徳の教学である、儒家にこそ違反している、
だからもうアメリカは破滅するしかない。天地万物を司る道理に背いたからこそ、もう終わりだってこと。
善も分かっちゃいないが、悪もまた分かっちゃいない。
悪が悪であるがままに、そのまま辛苦であるという事実、
苦しみの種こそは人間が悪と呼ぶものであることが未だに分かっていない。
悪から何か楽しいものが作り出せたように思えた所で、
それは「ウ○コのおいしい食べ方講座」の産物でしかないから、
始めからウ○コではなく、お味噌などの食物を調理している場合に比べれば甚だまずい、苦しいものだ。
うまくなくてまずいもの、楽でなくて苦しいものだから、比較的まずくなかったり苦しくなかったりの
マイナス値の大小が持て囃されているだけ。楽しいものがさらに楽しくなる、重畳的なプラス値の増加
に比べれば、最大級に苦しくないものでも、最低限楽しいものよりまだ楽しくない、つまらない。
最大級に苦しくないもの、絶対値が最小限のマイナス値から、
最低限でも楽しいもの、絶対値が最小限のプラス値に転じるためには、
権力犯罪ぐらいはやめなけりゃいけない、自首して収奪した金も返さなきゃ。
苦しみの種であるマイナス符号、罪悪を相応の処分によって捨て去らない限りは
いつまで経ってもプラスになんない、少しだって楽しくない。悪の苦しみ、今の君らの飯の種だ。
152 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 22:20:40 0
現代社会においても、内政であれば決して許されないような犯罪行為が、
国際主義の名の下に外交処理としては平然と黙認され続けている。
「地球人類社会」という、全体面における公共性が確立されていないがための諸々の問題、
世界の狭さを認められないが故の迷惑な自分勝手は、むしろ大航海時代を通じて
世界中を侵略の渦に巻き込んだ西洋のほうが克服できないでいる。
人口が少数派(約20億)であるのとは裏腹に、地球上の陸地の占有面積では
東洋を遥かに凌ぐ西洋社会こそが、世界の狭さを認められるほどの
広大な視野を備えた思想哲学に乏しく、占有面積ではロシアやカナダにも及ばない
中国やインドでこそ、超国家的な社会構造をも司る道理や、三千大千世界に君臨する真理
を捉えた思想哲学、儒家や仏教が誕生している。距離的にはそんなに動く必要のない
(ただし世界最高峰のチョモランマがある)ユーラシア大陸の東方に、集中して
真実の道理を突き詰めた教学が発生したのは、やはりあらゆる生命力の根源である
太陽に背を向けることなく親しもうとする、日出ずる処の精神がもたらしたものと思われる。
153 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 22:41:31 0
世界の裏側を見聞したり、世界一周を初めて果たしたりしたマルコ・ポーロやマゼランよりも、
ただ日本海を渡っただけの(それでも相当な危険や苦労が伴うが)空海や道元のほうが、
天地万物・三千大千世界を司る道理真理を体得する機会に与かれた。
たまたま恵まれていたのではなく、天照らす太陽こそを恋い求める陽性の思考言動規範が
必然的に、東方に集中して誠意的な教学を派生させたのだから、太陽に背を向ける
陰性の思考言動規範を先祖から受け継いで、後手後手に世界中への大航海を行なった
西洋社会が、面積的には世界の支配者と呼べるほどにも拡大したにもかかわらず、
地球人類社会全体を俯瞰的に眺められる程の、大局的な視野を持てずにいることにも確かな
必然性がある。東洋人は決して自分たちの領地が狭いからといって、自分自身までもが
小さくなっている必要などはなく、人類全体を善良で安楽な方向へと導ける素養の持ち主
であることを自覚して、率先して人類社会の主導権を握る意欲を持つべきなんだ。
過剰な軍事力やスパイ能力なんてのは、人類社会の和合平定を叶える上では百害あって
一利なしの代物なんだから、それらの力量について自分たちが弱小であることを
恥ずかしむ必要なども全くなく、むしろ人類を破滅に導いてしまうほどの犯罪的な暴力の蓄え
に参加しなかったことこそを誇りとして、引き続き平和な世の中を体現する代表者であれ。
154 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 23:01:23 0
気づくこと多々あり。
このまま暴走してください。
ム所内でも本は読めるからね。
君らが逮捕されれば随時出版されるだろうから、
ネットでの閲覧ばかりにあまりこだわらず。
ネットって、近現代の大手出版社の新規著作物よりも有用なことがいくらでも載ってるけど、
江戸時代までの東洋古典よりも有用なことなんて一つも載ってない。
だから最良なのは東洋古典を直接読むこと。もちろん所内でもできる。
長いお勤めによって時代遅れになるどころか、今よりも良い時代にタイムスリップして
次代の最先端となる素養を先取りすらして来られる。
ちょうどいい時期に隔世できると、むしろお得感すら抱いて署に直行できる。
157 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 09:58:24 0
「易」で検索したら易占ばかり出てくるし、「ヴェーダ」で検索したらアーユルヴェーダばかり出てくる。
占い書や医術としてではなく、宇宙の真理を捉えた世界最古級の古典としてこそ価値があり、
原初から真理を把捉するペースで東洋が文化文明を発展継続させてきたことの根拠でもあるのに、
あえて軽視させようとするかのような風潮が蔓延している。宇宙の真理を捉えているオリジナルは
古典力学や相対性理論のほうであると、あえて思わせようとするメディア・コントロールが働いている。
それは間違っていることだから、いつかは破滅する。原初からの正しい知恵ではなく、後世の劣化
コピーのほうを重視させようとする風潮がそんなに長く持つわけがなく、無理な盛者であるに応じての
必滅の理に従う。まさに易やヴェーダの記述内容に背いているからこそ滅ぶ。真理に即しての亡び。
158 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 10:20:45 0
や〜いば〜か。ば〜かば〜か。ば〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜か。
159 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 11:36:10 0
工業技術などへの応用が可能な程に実質的である物理学は、量子力学までで発展が滞っている(ということになっている)。
古典力学と量子論と特殊相対論の合体系としての量子力学、さらにここから一般相対論との合体が画策されていて、
それが素粒子物理学や弦理論、M理論などのいま最新である(とされている)理論物理学であるけれども、
そのどれもが極端に一般的な代数構造によって形作られていて、量子力学と一般相対論の統合が図れた所で
現実の物理現象を説明できるだけの堅実さには欠けた、極めて数学寄りの数理物理学と化している。
160 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 11:37:35 0
(以下、分かる人間だけ分かれ)
結局、現実の現象を記述するに特化した物理理論の統合はすでに済まされていて、高次の代数構造(無限次元)
であることは確かだが、極めて簡素な、高校生レベルの三角関数で記述できるものであり、高等代数学の迷路を
わざわざくぐりぬけるまでもなく、迷路の外側にその構造は存在している。高等代数学に限らず、多くの新規な数理構造が
現実の現象だけを記述する統合理論においては脱落し、中でも古典力学の根幹ともなっている微積分を含む解析学が、
基本的なベクトル成分からの複素指数関数のあてがいによって、完全な無用の長物と化してしまう。幾何学も行列分布への
変換を行なわない限りでの複素平面での記述においては、ユークリッド幾何学以上に簡素な(ただしアフィン幾何学よりは高度な)
直線構造だけの記述だけで済み、原初から幾何学を高度化しようとしていた古代ギリシャ学の方向性が
根本的に間違っていたことを裏付けている。
161 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 11:39:52 0
一方で関孝和に始まる線形代数学などは、統合物理理論においては必須不可分なものとなり、
さらなる研究による高度化が要求されている状態にある。定量的な解釈においても、統合された物理学の数理構造は日本人が最初に
発見しており、定性的な解釈に至っては、易やリグ・ヴェーダの宇宙開闢讃歌の時点ですでに東洋人の現実的な物理への理解が
間違ってはいないもの、定性的である限りにおいては完璧なものであることが分かっている。タイムスリップやワープが本当にできるとか、
ブラックホールとホワイトホールが繋がっているとかの、定性的な推測に限っても間違っていることはやはりあるのであり、
定性面での解釈すらが間違っているものが、いくら定量面での複雑な数理の研究を重ねたところで、その数理構造もまた何かが
間違ったものとなってしまう。理系からすれば低レベル扱いされてもしまうような定性的な文系の解釈についてでも、間違っていなくて
正しいということは極めて特殊例なことなのであり、その面で易やヴェーダは堅実に間違っていなくて正しいことだけを捉え尽くしている。
故に易やヴェーダを取っ掛かりとして継続発展してきた東洋の文化文明は、物理学や数学のような定量的な科学理論をほとんど
伴わないにも関わらず、最大級に天才秀才である理論科学者などよりも現実に即した物理的理解を具え続けている。
162 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 12:05:15 0
物理ってのは、一度完璧に把握してしまえばそれで終わってしまうもんだ。
九九なんかと同じで覚えるのは大変でも、一度覚えれば便利な道具になってそれっきり。
だから東洋人は易やリグ・ヴェーダの一部によって、この宇宙の物理法則を把握し終えてからは
少しも理論的な物理学を発展させようとはしなかった。把握し終わってるから当然のこと。
未だにエントロピー増大則が破れるだとか、反重力が存在するだとかの妄想に囚われてるような
人間こそが、性懲りもなく物理学の換骨奪胎を目論んだりもする。覆水盆に帰らず。杞憂。
定性的でも間違ってなく正しけりゃそれで構わない。定量的でも何かが間違ってりゃ全くダメだ。
精密な金属加工も、最後は電子制御の工作機械などではなく、職人の勘働きの手工によってこそ極まる。
人間こそはこの宇宙の物理構造の中でも最大級に精緻な存在なのだから、人間が人間であるがままに
正しく振る舞うことが、いかなる脳内の概念構築などよりも精緻となるのもまた当然のことだ。
無限次元の離散系によって形作られている宇宙を、単一の数理構造のみによって形作られている宇宙の
内側の計算機械などによって完全に定量的に記述することも不可能。要するにこの宇宙のあらゆる
物理現象をコンピュータ等が理解することも不能だから、「夫唱婦随」とかの定性的な記述だけで
この宇宙への理解を済ませられる人間を、コンピュータが超えられるなんてことも決してない。
全てを定量的に理解できたならそれに越したことはなくとも、事実無理だから、もう終わりだ。
数の論理の拡大による世界の征服の頭打ち、征服の過程であまりにも積み重ねすぎた罪業を
数の手品によって消し去れるだなんてことも決してなく、数で何もかもを欺こうとした誤った選択に
応じての、己自身にこそ課され返される贖罪の十字架を受け入れるべき時が来ている。妄想家達にこそ。
164 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 14:05:09 0
(/ω・\)チラッ
165 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 17:08:34 O
夫の言うことをよく聞く、優しくて可愛い自慢の奥さん。
完全に俯瞰されきった、自己完結した世界の内側で
さらに内側の家庭を守る妻と、どちらかと言えば外側の社会へと飛び出していく夫。
「どこまでも世界が際限なく広がってる」なんていう誤解を捨て去った世界認識の下で、
一見男尊女卑的にも思える易経内の夫婦論も平等性を確立する。
つまり、易が理解できるほどにもこの宇宙の法則への理解が達成できていれば
夫唱婦随が無理のない自然な夫婦の姿であることに気付く。
むしろ家庭あってこその社会、社会の上に常にあり続ける家庭を司る主婦が
さらにカカア天下であることは、夫に対する見下しの行き過ぎなんで、
仕事から家に帰って来た時ぐらいは、亭主関白でいさせてあげようという
余裕の慈しみに基づいて優しい奥さんですらいる。
もちろん男には決して不可能な、出産を経験することで抱く優越感にも基づく。
“優”越感があるからこそ“優”しい奥さん。なければ優しくなんかなれないから。
内にコンプレックスからなる妬みを抱えた人間なんかが、本当に優しくなるのは無理だから。
主婦の優しさの根拠付けは記紀のアマテラス神話にも詳しい。主婦入門書にでも。
166 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 21:47:18 0
易占が「女の子趣味」か何かのように思われていることが、すでにおかしいことなのかもしれない。
為政者の重大な決断のためにこそ使われていた易が、政治の舞台からは引き下ろされて、
官僚や政治顧問の独断ばかりで世の中が動かされている、すでにそこで何かがおかしい。
古の王君も決して卜筮ばかりに頼っていたわけではなく、「天命(占いの結果)も大して当てにならん」と
書経の時点ですでに不満が漏らされていたりもする。それでも最低限、犯罪性を拡大させない程度には
庸徳的な指針であることが確かな易を、あまりにも重大すぎて自己決断に恐れ多さを抱いてしまうような
問題への対処法として用いていた、だから易に従ったことが必ずしも最良の結果を得たという程までの
結論はできないにしても、易の指針にすら従わなかったものが道徳を大幅に踏み外して滅亡するという
「道徳性の最後の砦」としての役割を易が太古の昔から極東社会で果たしてきたのではないか。
167 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 21:48:03 0
この世界の物理現象だけを完全に記述する統合理論は、数理構造が無限次元の離散系であるために
いかなる大規模な計算システムを以てしても完全に定量的な記述は困難であり、ある程度は定性的な
説明にも頼る必要があって、何もかもを定性的に説明しようとすれば、結局それは易になってしまう。
数理構造としての完全な定量化が不可能である物理現象を、定性的にだけでも完全に記述した結果、
何もかもを厳密に予測することは不可能にしても、大間違いにはならない程度の未来の指針を示せる、
不可解だけれども多少は意味のあることがわかる易の活用方法が結局は占いとなっていた。
168 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 21:48:51 0
その易が大まかな指針の決定手段としてですら排除されて、易占が活用されていたことで
道を踏み外さなかったものとそうでないものとの対照が如実であった春秋時代などの教訓にも従わない、
陰陽道も儒家も完全無視の現代において、何が社会支配者たちによって独断されているのかといえば、
易の指針に基づいた場合には大間違いであることや、多少マシなことと大間違いとのみそくそであること。
あくまで易が全てではないにしても、易との照らし合わせすらしないほどに個々の判断が独断的であり、
そのせいで(そんなに大間違いになることもそうそうはない)易の法則にすら大幅に違反してしまって、
戦乱餓死常套の最低最悪社会を作り出している。
169 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 21:50:01 0
易に従うことは決して全てではない。むしろ易に従わない人間が現れることは易の法則の中でも
予言されていること。善悪二元論における善の勝利を確信しつつも、全世界のほとんどが悪に蔽われる
ことすらあり得ると予言するゾロアスター教のアヴェスターとも同じ。ただ、滅びる。易やアヴェスターの
指針にすら従わない人間は、易やアヴェスターの予言に基づいて現れた上で、しかも易やアヴェスターの
法則に基づいて滅ぶ。存在性までは容認されるが、決して法則を破ってまで絶対的な勝利を確立することは
できない、易やアヴェスターの提示する指針への違反者たち。最後には必ず負ける悪役ならではの楽しみも
あるのかもしれないが、純粋に善である楽しみや、善が悪を倒す楽しみには絶対的に劣り続ける。
真の楽しみにこそ与かれない哀れな悪人の発生をも予言する、清濁併せ呑む絶対哲学、究極の冷徹思想。
170 :
考える名無しさん:2009/04/21(火) 22:22:14 0
「清濁併せ呑む」というと結構カッコいいのに、「みそくそ」というと一気にカッコ悪くなる。
前者は人間社会を営む上での最低限の善悪の指針の受け入れ、
後者は善悪の分別もないままに何でもアリとする多動性障害。
悪を退治する側から悪に突入する鬼平と、完全に悪に取り込まれている兇族との違い。
ちなみに仏教は清濁併せ呑みすらしない(密教以外は)。
悪をやっつける善である以上に、悪でない善、純粋なる善であることこそを目指しているから。
浄土真宗も占いを完全否定する。悪人正機の下では二度と悪に染まれやしないから。
純粋に断悪修善という釈迦の教えを守り抜いているのはむしろ顕教のほうなんだが、
断悪修善という結論に至るまでの釈迦の試行錯誤までをも再現して、断悪修善の価値理解を
体得するために、密教だけはあえて清濁併せ呑む。最高級だからこそ密教である所以。
(本物の密教者はここに書いたようなことを表向きは否定する。大人の事情でお察し下さい)
「夫は世間で妻は家」なんていう指針は、男らしい男と女らしい女の
ジェンダー区別以上の、いかなる意味も持ち得ないもんだ。
夫だって部屋に閉じこもって考えを煮詰めたりするし、妻だって遠方に旅行に行ったりする。
ただ大まかに、社会に出ての仕事は夫の、家事は妻のものとなる。
社会の構築を司るのが男だろうとも、人間にとっての最大の生産行為である出産を
司るのは女だから、仕事の重要度での均衡は保たれる。
ジェンダーは無闇に均すものではなく、お互いの長所と短所を補い合うもの。
補い合ってこその清濁併せ呑み、無闇に均そうとすることがみそくそ。
172 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/21(火) 23:34:59 0
>>170さん
清濁併せ呑むという分類では
大乗仏教は全てそれに当てはまるのではないでしょうか。
当然後期大乗も含めてです。
「清濁併せ呑む」の「濁」のレベルが違うからな。
世俗上の犯罪にすらまつわってしまうほどの「濁」、
清濁併せ呑む場合には犯罪にならないように呑み、
みそくその場合には犯罪になろうともお構いなし。
犯罪にすらなってしまう程の「濁」ってのは、仏教では地獄・餓鬼・畜生とかの
露骨に嫌な存在として描かれていて、密教や浄土教でも必ず厭い離れるべきものとされる。
そこからすでに仏教ってのは始まっていて、仏教でいえば地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に
入ってしまうような「濁」が、もっと美化された表現なり偶像によって
厭うまでもない嗜好の対象とされていたりする。
そのような三悪趣礼賛状態の思想宗教というのは、もはや仏教とは一つ一つの
言葉の定義から違っていたりして、その教学を理解してしまった人間にこそ、もはや仏語すら理解できない。
それほどにも「濁」であること、みそくそのくそでもあることには、あえて顕教の仏教は関わらない。
多少は清濁併せ呑んでいるヴェーダやウパニシャッドも正統には継承しない。
その点一応儒教は易を継承しているので、最低限清濁併せ呑んでいる。
比較的善良な教学の中ですら、完全に純良なのは仏教だけであったりする。
174 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 13:08:26 0
密教を本国インドでの発祥順からして「後期大乗仏教」であると強調したいようだけれども、
日本での真言密教の印象は、南都六宗ほどに古めかしくもない代わり、鎌倉新仏教よりは古い
平安仏教の中でも、総合教学の天台宗にすら差を付けられた純密としての印象が強い。
中国での成立時期が最古級であり、四宗兼学の雑食的な風潮でもって、大乗仏教の範囲内では
最も俯瞰的な視点を持っているように思われる天台宗の最澄ですらもが一目置いた。
理趣経の拝借を願った最澄に対して「それなら宗門の看板を下げて真言宗に入門し直して下さい」と
突っぱねた空海の厳しさ。皇室御用達ともなった比叡山よりも都から遠い高野山をあえて本山に選び、
土木工事などの民衆のための事業にも積極的に参画していった「超権威的」な姿勢が、
自ずと弘法大師を超人として捉える伝説のいわれともなっている。
175 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 13:10:12 0
インドにも漢民族系の中国にももはや密教はなく、中共から弾圧受け通しのラマ教などと共に
真言密教が日本でこそ現存している。(結社などではなく)宗門としての体裁を初めて日本で叶えた
浄土教と並んで、仏教の一番際どい部分が日本でこそ隆盛し、逆により仏教らしい仏教である
天台宗や華厳宗のほうが(最澄や明恵もいるにしろ)空海や親鸞ほどのカリスマは生めずに
中堅の宗門として穏健な活動に徹している。中国思想の中でも儒家は取られて道家は捨てられたりと、
優先順位や取捨選択の面で日本人ならではの偏食が働いているのがかなり注目に値すること。
もちろん空海の「十住心論」や親鸞の「教行信証」らの影響が後を引いているのにも基づく。
176 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 18:47:40 0
純粋に善良であり、故に安楽であって、あと一応「最勝」でもある。あくまで一応。
真如の実相(真実)に基づいた道理、真理を追究した仏法の下で
手段は「純善であること」となり、結果は「安楽となること」である。
然らば「勝者であること」とはなんなのかといえば、これは「目的」。
最勝者となる目的のために、手段として純善となり、結果安楽にもなってしまった。
勝利と純善と安楽、目的と手段と結果が全て揃っているのが仏教。
至上神に全てを押し付けるような類の宗教にもまた、一応目的と手段はあって、
悪事を重ねるという手段によって、世界の征服という目的を達成しようとする。
悪事という手段と征服という目的はあるのに、結果だけには全くの無頓着。
それでもやっぱりそのような宗教にも結果はあって、それが即ち辛苦だった。
結果への吟味もないままに、征服という目的と悪事という手段の二つだけを
追い求めた結果、辛く苦しくなった。故に負けた。勝利という目的と純善という手段
だけでなく、善因楽果悪因苦果という結果までをも見越していたことが、結果の
見えていなかった宗教に対する仏教の勝利までをも叶えさせてしまった。
「勝利」という仏教の目的に特にこだわる法華信仰者などと比べて、「安楽」という
結果に安住してしまっている浄土信仰者などは、もはや勝敗などにはこだわらない。
安楽だからそれでいいとなって、冗談抜きで本当に愚鈍にもなる。ただ、やっぱり
一応勝利もしてしまう。いくら征服や悪事といった目的や手段を増長させようとも、
結果が極重の辛苦にしかならなくなってしまった宗教などと対決すれば、結果が
安楽ばかりになってしまう(もちろんそれもちゃんと見越された上で)仏教が勝利もまた
できてしまって当然ではある。浄土教サイドなどからすればあくまで大して興味のない
ことではあるけれども、勝利という目的もまた仏教はついでに叶えてしまっている。
177 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 19:08:58 0
仏教に敗北したことによって、悪事を重ねることが手段であるような宗教の目的もまた、
征服から敗北へと自動的にスライドしてしまった。悪事を重ねるという手段によって、
結果は極重の辛苦となる、だからもはや負けは確実。にもかかわらずまだ悪事を重ねて
辛く苦しくなろうとするのであれば、その目的は一にも二にも敗北でしかなくなる。
敗北者となる目的のために、手段として極悪となり、結果辛苦にもなってしまう。
どこにもいい所がない、目的と手段と結果との全てを動員した悪循環のスパイラルw
ここまでいくともはや、悪を悪なりに認められてしまうから不思議だ。「悪いことをしたから
得をする」なんていう不条理が、真理に基づけば確かに雲散霧消してしまう。だから
もはや悪に対する妬みなんてものが少しも抱きようがなくなって、負けるために悪事を
重ねて、しかも辛く苦しくもなるという救いようのなさを冷静に慈しめるようになるわけ。
完全なる勝利者であるが故に、もはややりたい放題な池田大作なんかよりも、よっぽど
哀れみの心に基づいてで対応できる、悪の苦しみの敗北者たち。法廷でも優しく接しよう。
178 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/23(木) 01:09:40 0
仏教に於ける勝者(主に密教では)
「煩悩を能く調伏する者」とされますね。
但し
>>177さん
世間の功罪を仏法を以って計るべからず、です。
これはかの玄奘三蔵が帰国した際の故事からも分かります。
179 :
考える名無しさん:2009/04/23(木) 03:02:45 0
その理想が朝鮮民主主義共和国
はやく帰りな
日本から出てけ
お前ら爺ちゃんからどんな教育を受けたかは知らんよ
だが大日本帝国海軍をなめんなよ
>>178 超俗の仏法を世俗のカルトなんかに比肩さすのは恐れ多い
ってのは分かってんだ。ただ、儒家や易のような世俗の道理にすら
背いているような連中が、仏教の絶対の真理に照らし合わせた途端に
一転して正しくなるなんてことは決してなく、むしろそのあまりの間違いっぷり、
(煩悩を調伏できないという意味での)敗北っぷりにこそ慈しみの念を
抱いてしまうものであることを痰壷の落書きとして記してるまで。
>>179 大日本カトリック・ローゼン帝国ですか?
もちろん舐めたりするわけありません。
嘗糞は朝鮮民族の風習ですので。
どんなにうまいみそ(帝)でも、くそ(カトリック)なんかと混濁させられりゃくそになる。
みそくそという(ダメな)大人の事情への察知もないままに、ただ天皇陛下万歳を唱える
右翼や一般市民のけなげさには同情するものの、やはり儚い独りよがりでしかない。
くそとの混濁下でみそに何かうまいことができるだなんて希望は捨ててしまったがいい。
純粋にみそとして振る舞えるようになってからの、順当な後方支援にこそ徹せねば。
「こう結論付けざるを得ない」ということだけを書いている。
いかなる立場、いかなる恣意の持ち主だろうとも、
最終的にはそうとしか結論付けられないことだけを書いている。
だから何度同じ思考実験を繰り返した所で、全く同じ結論にしか行き着かない。
仮に今のこれらの結論が、不利益ばかりの苦渋に満ちたものであるなら、
実験を繰り返すことでマシになるどころか、不利益や辛苦を積み重ねるだけになってしまう。
数も言葉もその場限りの善悪をも超えた所にある真理、
不可思議なのは相変わらずだろうとも、決して抗い切れないものであることだけは確か。
東洋教学を、洋学に当てはめてどうだこうだというつもりは毛頭なく、
ただ洋学を東洋教学に当てはめた場合にどうであるかだけを述べている。
例え数学や科学のような純粋理論的な学術だろうとも、洋学である場合には
餓死者多発級の不当利得に基づいた研究体制が前提とされている。
そのような犯罪行為の後ろ楯があって初めて成り立つような学術は、
仏教に基づけば必ず地獄餓鬼畜生の三悪趣(特に研究者自身は餓鬼)となるし、
儒家に基づけば懲らしめるべき悪となる。決して東洋教学にとっての埒外などではなく、
東洋教学以内の東洋教学以下、数学や科学含む全洋学が東洋教学の障害児たる。
犯罪(共食い)を前提とした学術なんて、どんなに文面上は精緻だろうとも
決して人間を幸福にすることがなく、却って不幸にすらしてしまう。
別に人間が学術的な研究対象の全てではなかろうとも、人間こそが研究によって作り上げる学術が
人間自身までをも不幸に追い込んでしまったのでは元も子もない。
人間を不幸な境遇に陥れるようなことがないという意味での、
犯罪による後ろ楯ぐらいは排除した発展こそが、あらゆる学術においてあるべきだ。
正しい学術の守護者ともなる東洋教学。
184 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 18:59:03 0
「小國文コ無くして武功有り。禍焉より大なるは莫し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公八年より)
文武両道の重要さを、特に小国の場合に限って指摘している。
中国やインドのような、世界人口の大部分を占めるような大国であれば、
もはや世界征服などを目指すまでもなく、自国こそが世界の主体だから、
他国を無闇に侵そうだなんて野心はもう持たない(襄公十九年にも諸侯が
「大(国)は小(国)を侵すことなかれ」と盟い合った旨の記述がある)。
しかし、中国やインドなどに比べれば遥かに国家規模が小さいアメリカや
ロシアのような国であれば、文徳も修めないままに力任せの軍事行為で
他国の侵略を目論んだりする。地球人類全体の責任を負うような誠実さは
小国ほど持ちにくく、ただ暴力的な攻撃力ばかりを追い求めた挙句に、
人類を何十回も滅亡さすような有害無益な核備蓄すらをも行なってしまう。
それはもはや意味のないもの。相互確証破壊体制をも超えた過剰な
軍事力の備蓄は、軍事行為として具に捉えた場合にこそ無意味なものだ。
しかもそのような無意味な軍事力の備蓄は、戦乱期における国家の興亡を
左伝のような史書によって学び取ろうともしない、文徳を欠いた野蛮さ
こそが引き起こす。野蛮であることは禍となり、しかも大して強くもない。
無意味なほどに過剰な軍事力は、武力としてこそすでに強くない。
ただ僭越をわきまえなかった小国故の自滅の材料となるのみ。
185 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 19:18:17 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19393&if=gb 「春秋左氏伝」襄公十年。
鄭の子孔が下級の役人たちの政治参加権を制限するような、僭主制的な法令文書を作った。
もちろん役人や大夫は腹を立てて了承しようとしないので、子孔は彼らを殺そうとしたが、
子産が子孔を止めて、しかも法令文書を焼き捨てろと諫言する。「そんなことをしてたら
政治はまとまらない」と子孔は反発するが、「多くの人々の意向に背けばそのほうがダメに
なってしまう」と子産も返す。結局子産の説得に応じて子孔は文書を焼き捨ててしまう。
元祖民主主義の記述。マリー・アントワネットがギロチンで首を落とされる2000年以上前から
中国にはすでに民主主義の枠組みぐらいは存在していた。とはいえ民主主義が全てではなく、
道徳を修めた士人が支配者となって民を治める封建主義もまた重要視されている。むしろ
全体主義的な民主主義と封建主義の釣り合いを取ることこそが儒家思想の真髄であって、
儒家に基づく統治即ち封建主義とする考え方のほうが浅はかで短絡的なもの。民衆の声も
聞いて、しかも民のお手本として振る舞う士人としての自己の大義名分も通す。始めから儒家
はそうだったのであって、今からやっと民主主義との折り合いを取るだなんてものではない。
近現代のイデオロギーなんてのもあくまで儒家以内の儒家以下であることを知ってもらおう。
186 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 19:39:08 0
詩に曰く、樂旨の君子、天子の邦を殿む。樂旨の君子、福祿の同まる攸。便蕃たる左右、亦是れ帥ゐ從ふ、と。
夫れ樂以てコを安んじ、義以て之を處し、禮以て之を行ひ、信以て之を守り、仁以て之を獅ワし、
而る後に以て邦國を殿め福祿を同め、遠人を來たす可し」(新釈漢文大系「春秋左子伝」襄公十一年より)
世の中を修める君子こそが楽しんでこそ、国も栄える。徳性に基づいた真の楽しみ、権力犯罪なんかに
手を染めてりゃもちろんそんな楽しみは得られないし、また仏教者のように安楽ばかりに耽っててもいけない。
襄公十八年にも鄭の子庚が「午を安きを懷」っているかのように思われたことを弁解する旨の話がある。
個人の救済に特化した仏教が理想の境地とする安楽もまた、公共性を重視する儒家においては肯定されない。
社会人であるぐらいなら楽しまなければならない。ただの安楽ばかりに耽るのは定年後でも十分だからと。
同じ「楽」でも積極的か消極的かで決定的に儒家と仏教は異なる。楽しい儒家、楽な仏教。辛苦だけはイヤ。
187 :
考える名無しさん:2009/04/25(土) 20:56:36 0
「仲?言える有り曰く、亡ぶる者は之を侮り、亂るる者は之を取り、亡を推し存を固くするは國の道なり、と」
(新釈漢文大系「春秋左子伝」襄公十四年)
「国の道」です。個々人の関係などではなく、国家の興亡を冷徹に捉えた場合の道理。
滅びるものは侮って打ち倒すんだって。侮ってだぜ? そこまでハッキリいいますか?というあからさまさ。
アーメンアーメン(ハッキリ言うハッキリ言う)言いつつも、結局は自分らの教義の根幹である犯罪正当化は
オブラートに包み包みして、決して如実には示さない奴らもいる。でもそれとは違う。これこそは本当に
ハッキリ言っているあり天、「滅びる国は侮って打ち倒せ!」ってもん。もちろんこれから興る国も立てつつ。
「〜自体」と言っているとき、実は「自体」と指摘している対象をおざなりに扱っている。「〜自体」なんて
言うまでもなく、まさに体得している真理自体の内実を豊潤に示しだす。それが出来ているのが密教だったり
するし、ぜんぜん出来ていないのがカント哲学だったりする。「ハッキリ言う(アーメン)」とか「〜自体」とか
言いつつも、ハッキリ言おうとしている〜自体を結局は一つも指し示せていないのが西洋宗教だったり西洋
哲学だったり。ハッキリ言うべき〜自体が「犯罪推進道徳唾棄」だったりするんなら、そりゃあ示せなくて当然。
ハッキリ言うべき〜自体が「諸悪莫作衆善奉行」だったりすることで、初めて本当にハッキリ言うこともできるし、
〜自体を内実から如実に示し出せもする。「滅びる国は侮れ」もまた、ハッキリ言われた「国の道」自体である。
×ハッキリ言っているあり天
○ハッキリ言っているあり様
189 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/26(日) 00:40:26 0
>>183さん
当てはめるという事は無謀だと思います。
これは前のスレでも書きましたが
それぞれの地域、文化、思想に依るものですから。
言い方は変ですが
「郷に入れば郷に従え」というところでしょうか。
しかし新たな思想を拒む理由もないのでは。
多元主義がすでに洋学ペースであることに気づけよ。
絶対の道理や真理こそを追い求めてきた教学に、適当な概念論とのみそくそを強要したんじゃ
その時点で全く価値がなくなる。くその側にはよくてもみその側には駄目だ。
「尊重される」という前提があって初めて効力を発揮する絶対真理の教学、
尊重に煩わしさを抱くぐらいなら始めから取り合うべきでない。
絶対主義か相対主義か、相対主義を採った時点ですでに洋学ペース。
二つある内の一つなだけで、少しも普遍的な選択ではない。
絶対主義を採ることで東洋教学ペースとする、これもまたあくまで二つある内の一つ、
絶対主義という選択までもが相対主義と共に許されて初めて普遍的となる。
相対主義や多元主義しか認めないことはそれはそれで偏った見方であり、故に危うい。
人類の破滅すらも引き起こしかねない、無謀で危うい見方、その偏った見方こそが。
二つある内の一つでしかない、狭く小さく儚くしょうもない相対主義だけという選択。
東洋教学に厳密に当てはめた途端、洋学は絶滅の危機に晒されることとなる。
それが恐ろしいから「無謀だ」というのなら気持ちは分からんでもない。
ただ、いずれにしろ洋学主体ペースでの運営支配じゃ、これ以上人類社会がもたないから。
人口爆発も環境破壊も戦乱も餓死も、人類滅亡の手前まで来ている。
現実問題への把握がずさんな洋学なんかに社会の手綱を取らせたせいで荒れ放題の破滅寸前。
理由も分からないままに破滅に向かうよりは、社会を安全に運営支配できる健常者の兄たる
東洋教学の存在をちらつかせ、障害児の妹たる洋学からの主導権の返還を促しておく。
決してヨハネ黙示録ばりの破滅ばかりが人類の運命ではなく、
無量寿経ばりの金銀財宝ザックザクの将来までもが選択可能であると保証しておくのだ。
192 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 02:36:24 0
洋学なき後の人類社会の運営支配の構想、今のところ「東洋教学や、
それに基づいた過去の東洋の社会制度を参考にする」というまででしかない。
それ以上の発展的な構想は現時点では無理。思考を読み取られている人間が、被害に遭っている内から
新しい認証パスワードを考えるようなもので、考え付いたとていざ設定となったらまた考え直さなきゃならない。
だから今はまだ考え付きようがない。ただ既存の東洋教学だけでも洋学の完全なる代替が利くことを確認しておくのみ。
平安朝や江戸幕府の社会制度をそのまま移植するだけでも一応は代替が可能。
ただ、平安時代のおたふく美人だとか、江戸時代のちょんまげだとかの現代にあまりそぐわない風俗は
後々考え直したほうがよく、そういう構想こそが現時点では思い付きようがない。
思い付くためにはせめて権力犯罪者が逮捕されるぐらいの措置は済ませられないと。
真に新たな時代の風潮の中でこそ、新たな風俗もまた思い付き得るものだから。
犯罪礼賛時代に思い付かれていた風俗なんてのは、どんなに奇抜だろうとも忌まれるべき過去の遺物となるから。
現時点で構想できることと、新たな時代になって初めて思い付けることと両方あるから、
権力犯罪者たちは後者の構想にまで携われるだなんて希望は一切捨てるように。
君らが檻の中で電子機器一つ使えない生活を送り始めた時に、初めて構想から練り始められるものだから。
193 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/26(日) 02:43:53 0
>>191>>192さん
私に対するレスでしょうか?
そうでしたら誤解されているのでは?
私は西洋の思想を否定するわけでもありませんし
また西洋思想に詳しいわけでもありません。
一点、
>>189で申しましたとおり
それぞれの地域、文化、思想は尊重すべきでしょう。
異文化の尺度に当てはめるのは無謀、無意味です。
もう一点、例えば仏教でも、道教でも或いは西洋宗教でも
その思想を、社会の仕組み、主義に当てはめるのは
さらに無謀、それ以上に危険な排他主義ではないでしょうか?
厳しく言わせていただきますと
それは絶対、相対云々ではなく単なる差別ではないでしょうか。
それらの教え、思想を自分なりに止揚する、否、自分だけでもよろしいのでは?
194 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 02:45:41 O
いいよ全部直感使って切り抜けろよ。
>>193 要は、西洋の事情が分かってないせいでの誤解だ。
西洋宗教ってのは、世俗から一切離れて物事を考えるということが一切ない。
例え離れたとしても、離れた所から社会を傍観して好き勝手いじくり回すとかの、
社会との実利的な関係を断ち切れない甘ちゃん宗教だから、
超俗であることにありのままに価値があるとする仏教や道教、ヒンズー教らとは根本的に違う。
世俗での犯罪を超俗の価値で正当化するようなことは、真に超俗性に価値を見出す
正統宗教には決してなく、カルト宗教だけにあり、聖書教は残念ながらその内に入っている。
ただ創価やオウムに比べれば、規模や歴史が大きかったり古かったりするんで
さも正統であるかのように勘違いされているだけ。
カルトを正統と比べて差別の対象とすることには
少しも後ろめたさを感じない。天台宗と華厳宗の上下関係は断言できなくとも、
正統宗教とカルト宗教の上下関係ぐらいは自分でも断言できる。正統が上でカルトが下だ。
正統は尊重されてカルトは卑しまれるべき。卑しまれる所からカルト信者はやり直すべきだ。
196 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/26(日) 03:43:56 0
>>195さん
それで西洋宗教を批判して何になるのでしょうか?
西洋宗教を排除しよう、ですか?
世界に東洋思想の宗教を広めよう、ですか?
貴方が言わんとするところは
宗教思想を利用した社会統制そのものであって
宗教哲学でもなんでもなくただの為政者の思想ではないですか?
聖と俗についてですが
これはベクトルのようなもの、或いは可逆、不可逆でありまして
仏教でいえば仏は法界そのもの(三世十方天道悪趣に至るまで)でありますが
六道一切凡夫は凡夫のままです。
凡夫は如何に生きるか、成すべきかが菩提の道であり
それは聖俗と共に在ります。
為政者の社会思想で何が悪い。四書五経は世の中を司る士人のためにこそ書かれた大説(⇔小説)だ。
世の中への利益すらろくに考慮しない反社会的教学はそれだけで儒家以内の儒家以下であり、
十住心体系では第二住心となる儒家よりもさらに下の第一住心となる。
超俗性を高貴さではなく低俗さを養うためにこそ用いるカルト、
それは侮るべきものだ、仏教や道教などとはうって変わって。
侮ることで自滅を助けてやるべきもの、仏教や道教の側の順当な興隆のためにも。
みそくそによってみそを駄目にするようなくそは消し去るのが一番。
宗教哲学は社会思想に、社会思想は宗教哲学に補足を受けてこその元来の東洋教学の有り様。
儒家と仏教とが両輪となって発展していって最も理想的となり、
宗教哲学としても社会思想としても虻蜂取らずなカルトの横車こそが有害無益。
儒家の権力道徳こそは洋学の権力犯罪と決定的に相反するから、
どちらかを採るというのならもちろん儒家の権力道徳のほうを採る。
採らないのであれば、それは完全に権力犯罪の味方であり、故に儒家の敵だ。
断悪修善以前の勧善懲悪にすら与かれない罪福理解不適合者だ。
仏門など夢のまた夢だ。
198 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 06:33:22 0
うんこ出し切った状態がベストなんですよ、という松本人志と同じ発想だな。
まぁこういうのはよく居る。行動パターンも見える。
自分にセンシティブ、人に対して圧力的、強引ではいけないよ、宗教人は。
知性で圧倒しようとしてはいけない。
宗教人なんかじゃないもの。
(人間生活を取り仕切った上では)地球上で最も非宗教・無信仰的な教学である儒家に基づく。
それこそはいかなる宗教にも信仰にも思想哲学イデオロギーにも囚われない真の自由人の姿。
うんこ食べながらしか何もできない固執の奴隷とは全く違う、融通無礙の極み。
なればこそうんこ食ってしまうような犯罪正当化の容認は、「清濁併せ呑む」の度を超した
積極的なものである場合には徹底的に忌む。それを認めてしまうと、それしか分からなくなるから。
犯罪を認めてしまった人間には、犯罪しか分からなくなる。
同族の利権を侵害して生き延びる手っ取り早さに慣れると、それ以外の堅実な
人間の有り様がかすんで見えるようになる。だからあえて受け入れないようにする。
大局を見計らった場合にはより多くのものを認めるためにこそ、あえて犯罪は認めない。
天台宗のような高級仏教で初めて手に入るような、善因楽果への法愛の断ち切りなどには
あえて手を付けない、愚童なりの身分をわきまえた選択だ。草を食む異生よりはまだ堅実な。
(
>>192に関連して)
ダヴィンチの「モナリザ」などは、モデルになってる女性が多少美人なだけで
画力は別に大したことない。まだ日本の漫画家あたりのほうがうまく描ける。
それでも「ダヴィンチの遺した暗号が隠されている!」とかの触れ回りで何千億
もの金を絵本体としても宣伝広告としても動かし続けている。そんな詐欺
広告のほうが金銭的にはより持て囃されて、画力では遥かに上な大多数の
売れない画家や漫画家のほうが疲弊している社会だから、新たな風俗なども
また考え付きようがない。詐欺で金が動いてるってことは、犯罪で金が動いてる
ってことであり、犯罪で金が動いてるってことは、人類にとって利益でない金が
動いている、人類にとっての得失でいえば損失(マイナス)である金が動いて
いるってことだから、そんな時代の風潮に合わせて風俗なんか考えても必ず
犯罪的な金の動きに即した不当なものとなる。モデルが多少美人なだけで
真の絵画としての価値は二束三文であるような、詐欺広告の材料になるような
しょうもない風俗を無意識にでも作り出してしまう。そうではなく、尾形光琳や
伊藤若冲のような、真に画力でこそ価値のある画、モデルの美しさばかりに
頼る必要の無い真の文化こそが作り出されなければならない。価値のあるもの
こそが価値あるとされ、ないものは「残念ながらありません」とハッキリ言う
判断のメリハリのよさが勧められる。判断力なんか批判してる場合じゃない。
201 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 12:51:04 0
超俗だから聖人、世俗だからただの愚縛の凡人だなんて単純なものではないのだ。
世俗であるにはあるなりの道理を追求する「賢人」ってのがまた別にいて、超俗において
絶対の真理を追究する聖人と併せて「聖賢」とか「賢聖」とか呼ばれたりする。
賢と聖、この二つこそが東洋教学の両輪であって、賢人の側から聖性を敬うのが
武士となったり、聖人の側から賢人を倣うのが親鸞聖人のような浄土信仰者ともなった。
「季路問はく、鬼神に事へんかと。子曰く、事ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや」
「教行信証」最終部分で親鸞聖人が論語から引用した言。別に儒家を信仰したりしてるのではなく、
世俗において当然守るべき自然の道理としての道徳ってのは古来の仏教者でも認めていた。
ただ、あまりにも当たり前な取り決めばかりで宗教としてはちっとも面白くないことから、
宗教信仰としての面白さは仏教や神道らに丸投げしていた。葬儀などの宗教的な慣習で
日本人が儒家から習っているのなんて位牌ぐらいで、その位牌すら浄土真宗では認めない。
宗教信仰として少しも重視されていないにも関わらず、やはり儒家を重視するのは、
それ程にも儒家の提示する道徳倫理が人として当然のものばかりであるから。儒家の
道徳倫理にすら背いてしまっているような人間はもはや犯罪者でしかないって察知しているから。
202 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 17:25:28 0
儒教に、新しい風俗に、画力ねえ。
生き方自体は勝ち得てるんだよな。
儒教だけが足りないな。儒教って、それはなんか、うまいもんなの?
何からも自由になって、人生をも一度シャッフルしろって?
リセットボタン押しまくりの人生ってどうなのよ。
ゲーオタのガキじゃないんだから。
DSばっかやってる小学生が感情的にマットになりすぎて問題勃発しそうだぞ。
能面かぶった大人だらけの仮面社会をイメージしてみろ。
戦争が起こるし、詐欺が横行するぜ。もう詐欺は流行し始めてる。
ここでだれか、ヒトラーみたいな高IQが出てきたら壮大な祭りが始まるな。
それを風俗でカバーしようとするのは浅はかじゃないのか。
日本人的解決を目指すなら、風俗に代替する文化を創らないと。
掲示板なのかは知らないが、とりあえずネットってのは実験場だから、
当座、ネットに過激なものを吸収させ、ネット内で完結させるように感情を裏返させるツールが必要だ。
人を選ばず、双方向的な肯定的文化の、ネットへの移植だな。
多分、層化が入ってくるだろう。まだ入ってないけど。それを食い止めなきゃならない。
ここを芸能界的ななれ合いの交流や経済発展の場にしてはならない。
203 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 18:06:23 0
アクティブで、重くない、心の闇を吸収してコーディネートまでしてくれるサービス。
それをネットに入れれば、そしてそれを携帯などに配信できれば、
当座の問題はクリアされる。
携帯依存症は、今はヒステリー的に続いているが、安定したサービスがいつもそこにあれば、そのうちおさまる。
ネットの問題に匿名性がある。ネットを匿名にさせてる障害は、やはり否定的文化。
さかのぼると、宗教は、人の感情を先回りして、解決法を教えてくれていた。
二次大戦と、アメリカ文化の移植で、仏教的なものが否定され、
今もう一度戻ろうとしているが、カルト宗教の過激な行動が躊躇させている。
そして、歴史的にずっと日本人を支えてきた仏教や、自然観に対してまで、
人は感覚的にけむたいものを感じ、また漠然とした不安感がわき上がる。
漠然とした不安感は、否定形の言葉となって2ちゃんなど一部ネット社会で解消されているが、
現在のネットは、
自分で見たいページを選択して飛ぶ方式で、画面はだいたい個人が作っているものだから、
より個人的な趣向が反映された価値観しか吸収できないようになっている。
そうかといって企業団体などが入ると、経済優先の価値観を宣伝するに終わる。
いくつかの有志がつくるサイトは、著作権問題で法の下につぶされる。
これらの問題を統括する第三者機関がない。
また、アクティブで軽く、人を選ばす肯定的で双方向的な画面を作る努力を、
まだだれもやってない。
NHKはやろうとしてるが、内容がマイルドすぎて退屈という難点がある。
ネット文化の軌跡をフォローしつつ、個人の慰めという形をこえた、コーディネートサービス、
この具体的な方策を、思案し実現する大勢の人間が必要な時代じゃないのか。
204 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 18:19:22 0
まだ問題がはっきりしない。
2ちゃんが、ストレス解消の場であり問題発生の潮流になっている事を
もっとつめないといけないな。
まあいいやどうでも。勝手にしろ。あんま今調べるのとか嫌だし。
ひろゆきのブログにでも書こうかな。そうすりゃ適当に「ああ」とか思うだろう。
あそこブログ書いてる人じゃないと叩かれるからなあ。
ブログなんて忙しくて書いてられるか。
今他の事やってるんだ。
>>202 >儒教って、それはなんか、うまいもんなの?
そんなに宗教信仰として大したものではなくとも、人としてこれぐらいは守っておかないと
破滅に見舞われたとしても仕方ないというような、最低限の道徳倫理の規範。うまいみそだ。
>リセットボタン押しまくりの人生ってどうなのよ。
もちろんリセットなんかはできない。今まで「勝ち得てきた人生」だと思い込んできた、
罪業の必要以上の積み重ねによってこそ成り立ってきた今までの人生を、ちゃんと刑罰
によって浄化させ、儒家ぐらいは嗜める程度に人でなしでない人間に戻るものだ。
>戦争が起こるし、詐欺が横行するぜ。もう詐欺は流行し始めてる。
詐欺だけでなく戦争も流行してる所では流行してる。ただ今度の世界大戦は殲滅戦に
なるのが確実だという予測が立っているだけ。
>日本人的解決を目指すなら、風俗に代替する文化を創らないと。
風俗は文化に付いてくるものだから、どちらかだけを立てる必要などはない。
おたふくやちょんまげからやり直しにするほどの風俗へのこだわりはないということ。
>ネット内で完結させるように感情を裏返させるツールが必要だ。
そんなものはいらない。ネット上ですら正当なものは正当で不当なものは不当だ。
全てが完全に納得のいくまで議論し尽くされば自ずと正当なものだけが生き残り、
不当なものは死に絶える。ここにいま自分が書いているようなことを全て歪曲化せずに
全人類に対して開示したなら、金銀財宝ザックザクの極楽浄土が現れるだけだ。
>多分、層化が入ってくるだろう。まだ入ってないけど。それを食い止めなきゃならない。
仏教カルトなんかにでかい顔をさせないためには、社会の多数派が正統な仏教に心から
帰依できるだけの善良さを携えなければならない。異生羝羊心ばかりに逃げ込んで
少しも正統な仏法への帰依の階梯を昇っていけない段階にある犯罪前提主義者たち。
まずは儒家の道徳倫理ぐらいは受け入れる。そしたらもちろん権力犯罪者は自首しないと。
創価なんかにでかい顔をさせないためにこそ今の世の中の責任者がお縄をいただけ。
いつまでも国民を極重の罪業の従犯にさせ続けるような愚かな真似をいい加減終わらせろ。
206 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 19:05:56 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19591&if=gb 「春秋左子伝」襄公二十一年。
盗人だらけで魯の風紀が乱れきっていることを季孫が憂慮し、司寇の臧武仲に
「なぜ取り締まらないのか」と文句を言う。武仲は「あなたが他国から犯罪者を呼び招いて
厚遇しているのに、取り締まれるわけなんかないじゃないか」と文句を言い返す。
本国では犯罪者であったような人間を、亡命者として厚遇し、金融操作あたりで
お山の大将と化させてしまうようなどっかの国もある。もちろん日本ではない。
中国人だろうが朝鮮人だろうがイラン人だろうが、外国人犯罪は厳密に取り締まっている上、
移民の受け入れにも極めて消極的(現時点での人口密度の高さからして仕方のないこと)。
少しもボトムアップの犯罪者を容認していない日本が、それでも権力犯罪大国と化して
いるのは、あくまで容認されている犯罪がトップダウンのものだから。あまりにも国家機構の
重要人物であり過ぎておいそれと逮捕できないような人間こそが犯罪に手を染めている。
権力者こそが犯罪を容認し、さらには最大級の主犯ですらあり得る。許されない犯罪と
許される犯罪とが分裂してしまっている社会。全体的に見れば犯罪は許されているもの。
あまりにも重大すぎて現状の国家機構では裁ききれない犯罪こそが認められている。
武仲以上に責任の重大な季孫、まずは罪の意識を持つ所から始めないと。
207 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 19:21:22 0
「亂世に生まれ、貴くして能く貧しければ、民求むること無し。以て後に亡ぶ可し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十二年より)
戦乱状態であるような世の中においては、高い地位に付こうとも貧しい暮らしで済ませろ。
そしたら民から妬まれることもなく、滅びるとしても後になるから(ちょっと嫌な言い方)。
あくまで戦乱状態の世の中だから。本当に平和で問題のない世の中であれば、
源氏物語のような風雅に満ちた宮廷生活も許されうる(それすら武家は認めないが)。
戦時中で、民衆が疲弊しているようなさ中に豪遊するような無神経さこそが妬まれる。
名君であるということは、民衆と真意を共にできるということでもあるから、焼き捨てなければ
ならなくなるような悪法の文書を発布したりはしない名君すらいれば、民主主義なんてのも
いらないわけだ。君主は必ず独裁者と化すという考え方がすでに性悪説に過ぎているんだ。
208 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 19:29:05 0
神道は、教義の重厚さを仏教や儒教に丸投げする。
仏教は、世俗でのいざこざを神道や儒教に丸投げする。
儒教は、宗教信仰としての面白さを神道や仏教に丸投げする。
日本の代表的な教学ってのは、いつも何かを別の教学に丸投げしている。
扱っていない部分を補い、補われる部分をあえて扱わない分業の三つ巴四つ巴。
たった一つの教学による全社会の征服などを抑え込む、うまい調和が働いている。
江戸までの日本に還れば自ずとそれは復元される。創価の独り歩きみたいな
問題も無くなって、日蓮宗全体がも元の町衆専門仏教に戻っていくから。
210 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 21:38:14 0
「小國、大國の敗を間ひて焉を毀たば、必ず其の咎を受く」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十三年より)
たとえ没落のさ中にあろうとも小国が大国を征服するようなことは考えるなと。
日本も国単体としてはアメリカなんかより小さいから、「太平洋戦争での復讐を果たす」
だなんて考えは禁物。ただ、中国やインドに比べれば遥かな小国のクセして
世界の支配者たらんとした、アメリカやその支配層でもあるアングロサクソンらが
上記の記述に基づいて咎を受けるのを見守るだけ。今は日本人が日本人として
突出すべき時ではなく、中国インド両横綱と、幕下十一枚目あたりのアメリカとの対決を
見守る行司に徹すべき時。相撲に例える辺りからして土俵はあくまで日本なんだが。
211 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 21:49:49 0
「禍福は門無し。唯だ人の召く所なり」
(「左伝」襄公二十三年より)
>>57でもすでに出てきた、儒教版での罪福への見解。
ここではより積極的な意見が出され、要は「自業自得」であるということ。
ただし自業自得は悪因苦果だけでなく、善因楽果にもまた適合する。
悪いことをして苦しんだことをバネに、今度は善いことをして楽しもうとする、
自業自得のまさに「禍転じて福となす」の原理ともなる。
もちろん善を行なうことは悪を行なうこととは全く違った素養を必要とし、
しかも悪を行なうよりもずっと難しいことだから、悪苦を善楽に転じるなんて
ことはそうそうには無理なことだけれども、一応「できる」という保証にはなる。
212 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 22:12:36 0
「「臧孫曰く、季孫の我を愛せるは、疾?なり。孟孫の我を惡むは、藥石なり。美?は惡石に如かず。
夫れ石猶ほ我を生かす。?の美なるは、其の毒滋〃多し。孟孫死せり。吾亡びんこと日無からん、と」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十三年より)
凄い話なんだよ。愛されることも時には病となり、憎まれることも時には薬となる。憎まれることでこそ
薬となっていた孟孫が死んだことが、愛されることで病となっていた季孫が死ぬことよりも悲しいとさ。
張り合いがなくなって自分の命もそう長くはなくなるとさ。愛憎すら等分に眺める合理主義の極北。
人間は愛憎を同時に抱くこともよくある。純粋な愛を求めるような人間にとってはそれはみそくそであり、
少しも嬉しい愛なんかじゃない。それだったらまだ愛されずに憎まれてたほうがまだマシ。そのほうが自分の
「敵」として明確に定められて張り合いやすい。憎しみを持ち越しているような人間に愛はむしろ僭越であり、
ただ憎んでりゃそれでいいだけだ。隙を見ては殺そうとするような相手を常に想定に入れつつ、武人としての
自己を律していたのが武士でもあるから。憎しみを完全に厭い離れようとする坊主なんかと一緒にはするな。
書き込み不能文字が多くてげんなりする。
四書五経レベルですら古い漢文は常用外の漢字が結構多い。
江戸時代のまともな武士なら必ず修めてた程度の学習も補完はされていない。
質を下げてこそ初めて文明は量を稼げるのだと、改めて実感するもの。
214 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 22:41:39 0
「大國の人は、與す可からざるなり、と。對へて曰く、?寡有ること無く、其の上は一なり、と。
大叔曰く、然らず。部婁に松柏なし、と」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十四年より)
大国には大国、小国には小国ならではの領分がある。大国は物量を稼げる。いくら百円ショップの
粗悪品やコピーデザインの車ばかり製造しようとも、物量は大国でこそ稼げるものだ。
人間が人間を本当に食ったり、生け贄にしたりの嫌な前例も大国だからこそ用意できた。
確かにその辺は日本のような小国では無理なこと。そういう殺伐さが嫌だからあえて日本列島に
移り住んだ人々なのだから(弥生人)。小国であるにはあるなりに頑張ることで質が極められる、
そのような点は儒家では問題ではない。大局を問題にする場合には大国の事情を真摯に
学び取ることこそが肝要であり、大国優先小国劣後の主張もまたある程度は認めなければならない。
朝鮮などは小国のクセして儒家を国教扱いにしてしまって、そのまま属国根性まっしぐらとなっている。
その点は日本は「量よりも質」である神道の儒家以上の優先によって何とか切り抜けている。
あと仏教との二股にも依っている。「小国ごときが、儒家のような大国の教学を金科玉条に掲げられる
はずがありません」という謙遜の極みを尽くした時に、儒家はまた日本にとっても有効な教学となる。
五経よりも四書、宗教よりも道徳を重視するような控えめの気持ちがあれば、儒家は小国
にとっても有効な教学となる融通無碍さを持っているわけだ。真に自由な教学なので。
215 :
考える名無しさん:2009/04/26(日) 23:12:24 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19648&if=gb 襄公二十四年後篇には、程鄭が「位を下げる方法」を人に聞いて
「頭がおかしい」扱いされる記述がある。
偉くなること、人の上に立つこと、それは儒家においてはあまりにも当たり前過ぎる前提として備わっている。
人の上に立って、しかも誰からも妬まれることがなく、むしろ羨望の目ですら見られ、場合によっちゃ
泣いて喜んで土下座されるほどの士人である――それほどにも完全なる人の中の人、士人であることが
好き好まれなくてなんとする?という前提。犯罪者や奴隷であることはあくまで卑しい、そうならざるを得ない
ことがあるにしようとも、やはり根本的には卑しく、そうであるよりはそうでないほうがいいものだから、
完全なる世俗上の理想の有り様としての士道を好き好むこと、極大なる道徳者であることを愛することが
儒家では当たり前の前提である。一時だろうとも犯罪者や奴隷だったからといって、そこでいじけてもはや
士人への道など追い求められず、ただ犯罪者や奴隷の立場からだけ何かをやろうとする意地汚さに沈み込んで
しまう、「敗北者の思考回路」が出来上がってしまっている人間には、もはや少しもその意味が分からない。
犯罪も奴隷拘束も戦乱も餓死も一切存在しない世界で、しかもその世界こそを運営している責任者としての
士人たる誇り高さへの陶酔が、いかなる重大犯罪行為の正当化に基づく陶酔よりも堅固かつ上位であることを
儒家の模範的な実践者だった徳川幕府などが証明している。ただ三つ葉葵の紋を見せるだけでも人々が
その偉大さに恐れ畏み地面に額を擦りつけてひれ伏す、それほどまでにも犯罪不可の世の中を作り上げられた
この上ない素晴らしさに黄門さまも思わず「カッカッカッ」と高笑いしてしまう。偉いことの楽しさの神髄がそこにある。
216 :
四ノ宮:2009/04/26(日) 23:20:57 O
三角ハート
217 :
二ノ宮:2009/04/26(日) 23:37:48 O
一角流十手術
望月ネビラチェーンやま根螺旋 シティ・ハンター冴場りょうの最後
219 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/04/27(月) 00:06:56 0
>>197さん
なにが悪いと開き直られましても。
まさかご自身が為政者たらんとでも仰りたいのですかな?
己が絶対者なりと驕る己惚れこそ
最大の「敵」であり調伏されるもの。
如何に仏法諸法を説こうとも凡夫は凡夫。
とりあえずその名前での知ったかはやめろ。
大乗の最重要キーワードの一つである唯識が誤解を受ける。
真の仏者であれば、権力道徳を否定したりはしない。釈尊からして王族の出身だし。
ただ、転輪聖王を含む世俗の王者が体得した道理などよりも、さらに永久不変なる
絶対の真理を体得したのが我らが法王(バチカンのほうじゃねえぞ)たる仏陀であると、
自信を持って言えるもんだから、わざわざ為政者程度を敵扱いしたりはしないはず。
権力者ごときを妬んで敵扱いしたりする自信のなさこそは仏法を理解できていない証。
浄土教や儒家レベルの罪福異熟の原理すら把握できない、真の唯識からは遠い存在。
222 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 12:47:22 0
仏者が権力者を批判することだってあり得る。ただ、それも悪政を呈する暴君に対して。
世俗の支配者であるにはあるなりに精進していればそれはそれで評価するし、
社会風紀の乱れや貧富の格差、餓死や戦乱を招くような王君であれば容赦なく批判する。
空海の「三教指帰」でも、理想の社会参画を専ら謳う儒者の亀毛先生と比べて、
社会参画の厭い離れを理想とする虚亡隠士以上に世俗のおどろおどろしい悲惨さを
直視する仮名乞児の誠実さが強調される。基本権力者の支配道徳である儒家では
捉えきれない、被支配者たる民衆の悲惨さまでをも具に見つめ、悪を存在ぐらいは認めた
上でやっつけたりするのではなく、根本的に消し去ってしまう方法こそを模索する。
理想の社会を真理の追究によってこそついでに叶える鎮護国家、大乗仏教の不可避なる理念の一つ。
223 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 13:13:32 0
自分と似たような生態の人間としか話せず、
わずかな違いをみつければ否定し、自分の方が「レベルが」上だと言いながら
傲慢に独り言を述べるのは、いかにも下等動物的で、
人間としてほんとうに哲学の恩恵、宗教の恩恵を受ける事は難しい。
病気の慰めとして利用しているなら、はじめからそう言えばいい。
能力の高い精神病者は哲板に多い。
おすすめに飛蚊症とある。飛蚊症は、統合失調症の幻視のひとつだ。
もやのような点が、いつも視界の隅にうごめく。
前にも、文体の様相から統合失調症だと判断して、ケアについて書き込んだ事があった。
病識がすくなく、仏教をたてに跳ね返された事がある。
幻視と宗教的体験の類似は多い。ただ、飛蚊症では体験として物足りなかろうと思う。
だから知識、なのかもしれない。埋め合わせをしているのかもしれない。
脳を過剰に使う事が統合失調症を発祥させ、悪化させる事、は考慮に入れていないだろう。
それでは悟りから遠ざかる。
考えを止める事は難しい。ただ、感覚さえつかめば簡単にできる。お大事に。
224 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 13:18:10 0
然るに、仏者が仏者であるからこそ社会に対して(あくまでついでに)与える影響が大乗では顕著となる。
平安時代のような安楽に満ちた世の中であれば、天台真言のような技巧の限りを尽くした高級仏教が、
鎌倉時代や戦国時代のような乱れた世の中では、禅や浄土のような簡素でも効果覿面な仏教が流行る。
前者は平和を好む貴族が、後者は戦闘を嗜む武士やその警護対象であった農民が活躍していた時代であり、
それぞれの活躍者にとっての断悪修善の指標として、臨機応変な体裁を仏教のほうも用意してきた。
ところで、いまの時代で流行っているのは、残念ながら、創価学界を含む日蓮宗系の超最低仏教。
北条政権に、他宗派への帰依を排撃した「立正安国論」を上程して棄却され、北条時頼も帰依していた
禅までをも否定した咎を受けて流罪となった日蓮。別に他宗派を否定したわけでもなく、ただ「こんな簡単な
仏教もありますよ」という選択肢を提示しただけであって、それだけで処罰を受けた浄土教のほうはまだ
不当処罰を訴えられるにしろ、仏教版ドグマを仕立て上げた日蓮が罰を受けたことには同情のしようがない。
その日蓮が立ち上げた日蓮宗を、あえて信仰するような「蓼食う虫」もある程度は世の中にいて、
歴史的に見て日蓮信仰者には「町人」の系統の人間が多い。儒家では武家や農家の下に置かれる
商工関係者が昔から信仰してきた宗派。(正宗から破門はされているが)日蓮宗系である創価学会の
得意先である芸能界や小売業が、やたらと馴れ合いじみたものになっているのも、ある意味昔からの伝統。
今も昔も商人はハッタリが大好きで、ただ創価学会員らは商工業が成功する常套手段をわきまえているだけ。
仏者がやっているのと同じことを、非仏者がやったって仏者に勝てるわけがないんだから、日蓮宗系の
得意分野である商工業で挑戦することから見直して、天台真言禅に浄土、いくらでもある上位の正統仏教
こそが補助を得意とする立場(皇族家族士人農民)に移っていかなければ、日蓮カルトの暴走は止まらない。
>>223 精神病はな、別にもう存在を否定するもんではない。
確かにある種の段階において人間は精神病になり得る。
精神病の「核」は犯罪だ。実際に犯罪に手を出せば必ず精神病になるし、フィクションとしてでも
犯罪を正当化しているような小説や映画などの悪質文化を摂取し過ぎると精神病になる。
人間としての正しい生き様を踏み外すことで同一性を保てなくなり、恒常的な辛苦を味わうようになってしまう。
フィクションでも現実でも、人間が正しい生き様を踏み外した先にあるのは必ず犯罪。
犯罪や犯罪性を享受してしまった人間が軽重を問わず必ず精神病と化してしまう一方で、
犯罪や犯罪性すら厭い離れて身心を清く保っていれば、人間は決して精神病になることはない。
犯罪とは人間にとっての共食いである一方で、人間自身が自主的に定義している実在上の悪でもある。
断悪修善や勧善懲悪でもって、悪を断ち切ったり懲らしめたりするほうに身心を向かわせれば
人間の精神は病にかからないだけでなく、より安楽になったり楽しくなったりもする。
躁鬱の躁みたいな根拠のない嬉しがりではなく、実在する善を享受しているが故の真正なる
安楽や楽しみであるから、落ち込んで鬱に振れるなんてことも決してない。
精神病ってのは、断悪修善や勧善懲悪を旨とする東洋教学の下では起こりえない。
ギリシャ悲劇とか福音書とかの、精神病の原理を捉えた作文から始まっている西洋文化こそが
必要もない精神病を無闇に引き起こすし、わざわざ発病させた上で治す精神医療も必要とする。
無罪者として犯罪者ぐらいは見下すし、犯罪や犯罪性に関わりすぎたせいで精神病となった人間にも
「自業自得のご愁傷様」を言い渡す他はない。犯罪も精神病もやめようと思えばやめられるものだから。
226 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 14:53:35 0
オン アボギャ ベイロシャノ
マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ
ハラバリタヤ ウン
227 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 14:59:23 0
>>225 いや、脳の局所的な使い過ぎだよ、精神病は、それしかない。
先天的な要因は、精神病者が子孫を残さない事から排除される。
脳の使い過ぎという主軸の原因に、様々な小さな要因が絡む。
そんなこと言ってるから、いつまで経っても精神病がなくならない。
脳を使い過ぎなきゃならなくもなるような災いの種ともなっている
犯罪加害被害というカルマを直視して、その軽減や解消に努めない内は
精神病もまた増えることこそあれで減ることはない。
(ただしここでいう精神病とは
外的な事象によって引き起こされる後天的な疾患のことであり、
脳の器質的な欠陥に基づく先天的な精神障害は除く)
精神疾患は東洋教学スレでは厳密にスレ違いなので、
かからせて治すマッチポンプの全てを取り仕切っている
洋学関連のスレに移動願いたい。
「非カルト・反犯罪」ですらあればそれだけでいい。
そうですらあれば、老若男女富貴貧賤、いかなる立場の人間だろうとも入って来ていい所。
こんなに寛容で、多種多様な価値観を認める取り決めが他にあるかってんだ?
(だからこそ滞りなく長文も楽々と書ける)
カルト信者や犯罪関係者ですらなければ(犯罪関係者を省くことで自動的に精神病患者も省かれる)、
誰でも参加してきていいところなのに、まだ誰も参加できやしない。
社会の支配者こそが重大な犯罪者であり、故に被支配者である一般大衆も
(不当労働や税金支払いなどの形で)自動的に犯罪関係者(従犯)と化せられているから、
カルトや犯罪ですらなければそれでいい、広大な完全自由領域に誰も立ち入れず、
カルトや犯罪を前提としてしか何もできない、狭い狭い極小箱庭領域だけでの
辛く苦しい精神病まみれの人生を送らされている。かわいそうなことだ。
230 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 15:55:10 0
そのうち後悔するよおまえは。
独りよがりと強情と排他性なんて学問には必要ない。
子供だね。精神的バランスがまるで整ってない。
哲板なんてそんなもんかもなw
学生とニートのたまり場。
小賢しい奴ばっかだな。まともに勉学してる奴なんてほとんど居ない。
オタクばっか。お前もその1人だ。
小学生みたいにカルトカルトと繰り返して闇雲に批判するだけ。
そんなもんがなんになるんだ?カルトが居る、つぶせない、という状況なら、
説得か懐柔だろ常識で考えて。アホなのかこいつ。
独りよがりと強情と排他性、全部おたくらのもんだw
犯罪行為による他者への迷惑も省みない独りよがり、
ただの犯罪正当化を高尚な信仰だと執拗に思い込む強情さ、
犯罪の正当化を前提とした思考以外は認めない排他性、
その全てが本物の学問のためにはいらないもんだ。
学問のフリした泥棒講座を捨て去って、真に人類の福徳に寄与する
真正なる学問を修めるためには、犯罪が正当化されるのもアリだとする
その「思考の重心」を替えていかなければならない。犯罪はナシだし、
犯罪を正当化するのも卑しいことだという正しい思考のほうに重心を置かないと。
犯罪正当化に重心を置く思考によって苦しんでるのは何よりも本人たち自身だから。
別にこっちは何も苦しくない。犯罪もしてないし犯罪の正当化なんかもしていない、
その上犯罪や犯罪の正当化に重心を置くものの考え方を、犯罪も犯罪の正当化も
認めない東洋教学の側に重心を置くことで捨て去っているから、どこも苦しくない。
自らの業によって苦しむようなことが何一つないから、自業自得によってこそ
苦しんでいる人間などと比べて桁外れの安楽さや楽しさの中にいる。その自分が
わざわざ苦しんでいる人間を説得して懐柔しなければならないなんていう義務も
なければ、欲求もない。ただ犯罪主義者たちが自分たちの自ずからの苦しさに
気付いて、自主的に悪因苦果の業を軽減したり解消したりするのを待つのみ。
犯罪者相手になんか、恩人にすらなりたくはない。悪に積極的に関わることは
いかなる場合においても悪に重心を置くことになるから。悔しかったら悪人たち
自身こそが悪行をやめて善根を修習する道を自主的に選択すればいだけだ。
232 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 17:26:50 0
「君昏くして匡すこと能わず、危ふくして救ふこと能はず、死して死すること能はずして、
其のヂツを匿すことを知る。其れ誰か之を納れん」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十五年より)
車で逃走中だった與申鮮が、同乗の閭丘嬰が妻をくるんで同乗させていることを憂い、
上記の言葉を述べて嬰の妻だけを降ろす。別に美談でもなんでもなく、妻への愛情などを
君主への忠信よりも重視するような人間は誰も受け入れてくれないという実情の吐露。
結局春秋時代の中国ってのが全体的に道徳を優先している社会であって、儒家ではない管仲や晏嬰
だって相当に徳性に満ちた言葉を述べている。その上で中でも道徳把握の面で卓越していたのが
儒家の創始者である仲尼こと孔子だった。左伝の襄公二十五年内にも、「志を示すためには言葉を
述べねばならず、言葉を遠くまで行き届かせるためにはある程度は飾らなければならない」との
孔子直々の注釈がある。道徳を把握し、しかも言行によって表現する点でまで最高峰だったのが儒家。
233 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 17:41:02 0
こいつはだめだ。
指摘されれば跳ね返してまた独り言。基地外だな。
相当重傷の統合失調症患者らしい。危険だ。
凶相がでてる。ベテランの医者じゃないと難しいだろうな。
直るまでには相当時間がかかるだろう。
十年、二十年。軽快しないタイプかもな。
上がってるからって安易に見ない方がいいスレだ。と、ぽろっと書いてしまうw
234 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 17:44:10 O
凶相がでてる。ベテランの医者じゃないと難しいだろうな。 ↑ これはダメ
235 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 17:49:07 0
「政は農功の如し。日夜之を思ひ、其の始めを思ひて、其の終りを成し、朝夕にして之を行ひ、
行ひ思ひを越ゆること無し。農の畔有るが如くならば、其の過ち鮮し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十五年より)
管仲や晏嬰と同じく、左伝内では大活躍する子産の言。仁政が農耕のような堅実さを必要と
するという話は「書経」にも出てくる。ここで特に着目すべきは「行ひ思ひを越ゆること無し」という点。
非常な重労働である古来の農耕は、労働者に無駄な考えを持つ隙を与えない。ただ、あくまで
それは「食べる」という人間にとっての最も基本的な要求を満たすための必要不可欠なものであり、
本当はちっとも人間にとって必要のない無駄な商工業のために重労働を課せられるのなどと
比べれば遥かにやりがいのある仕事。だからせっせと働いて思考と行動が分裂しない清清しい
有り様が間違いのない政治の喩えとして用いられている。
日本の武家も、墾田永年私財法による荘園の私有化が始まって、仕事が忙しくて武術までには
携われない農家を守る警備員としてこそ生まれえたもの。もちろん体裁上は支配者として振る舞うが、
食料のような大切な財物を守るという点からも、決して農家を虐げるような本末転倒の振る舞いは
許されない。武士の修学対象であった書経や左伝にも、すでに「支配者こそが農民に倣え」という
権力道徳の真正なるあり方が具に記されていた。孔子までいかずとも子産らの言において。
236 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 18:06:14 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19700&if=gb 「左伝」襄公二十六年冒頭に、臣下が公務について口論しあっている様をみて、
平公は「公共的な問題について争っていて喜ばしい。国も治まる」というが、
師曠は「徳よりも争いばかりを優先しているから、国も衰えるだろう」と言う。
平行の考えも、私事よりは公務を優先していることを評価している点からして大間違いではない。
ただ、公務をさらに論争ではなく忠義の競い合いに基づいてなすべきだとする師曠の考えのほうが
より正しい。管仲や晏嬰や子産らもある程度は正しいことを言っている一方で、さらに孔子が
完成形の完璧なる正しさを道徳倫理に関しては言っているように、正しいものにさらに正しさを
積み重ねようとする重畳的な誠実さが風潮として行き渡っている。多くの人々が正しさを競い合う
物量規模を稼ぐことによって初めて孔子のような大賢人も生まれ得るし、孔子の言行の価値なども
真に理解される。一人二人が正しいことをしようだなんて独走をした所で、せいぜいニーチェ止まり。
物量を稼いでいる正しさこそが東洋教学であり、万人に正しさを行き渡らせる宝庫たりうる所以。
237 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 18:18:48 0
「小人の君子に事ふるや、之に惡まるるも敢へて遠ざからず、
之に好せらるるも敢へて近づかず。敬みて以て命を待つ」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十六年より)
小人は、君子の情念になんか応答すらしちゃいかん。
好まれることも憎まれることも自分などには恐れ多く、「苦しゅうない、表を上げい」と
言われてもあえて平身低頭のままでおり、「無礼な、斬り捨ててくれる!」と
刀を向けられても決して逃げずにそっと首を差し出す。君子の前では小人のあらゆる
自主的な独断が禁止され、そのことによって「ロボットのようにただ言うことを聞く」
だなんてのではなく、慎みの心を持ち合わせているが故の機敏な反応すらもが要求される。
本当に心から恐れ謹んでいるが故の細々とした機微が現れてくること。
偽りの敬いだったりすればすぐ分かるから。
238 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:25:24 0
「歸生之を聞く、善く國を為むる者は、賞僭はずして、刑濫りならず、と。賞僭はば、則ち淫人に及ばんことを懼る。
刑濫りならば、則ち善人に及ばんことを懼る。若し不幸にして過たば、寧ろ僭ふとも濫りなること無かれ。
其の善を失はんよりは、寧ろ其れ淫を利せん。善人無くば、則ち國之に從ふ」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十六年より)
賞罰を誤って善人を罰し悪人を賞するようなことは避けよ。
中でも善人を罰して殺してしまうことは、亡国の直接的な引き金になるから絶対にするなとのこと。
賞罰の配分を間違えきった先にこそ、犯罪者が富裕な支配層と化して、無辜の市民が貧しい被支配層に
貶められるような二極化型の社会がある。悪人ほど得をして善人ほど損をする社会、つまらないものが
祭り上げられて楽しいものが隠蔽されている社会、行くとこまで行ってぶっ壊れるのが関の山なのが、2500年前の
昔から予測はされていた。善人のいない社会なんてのは決して成り立たず、善人が消滅したに応じて滅亡する。
一応まだ社会はもっているから、どこかにまだ善人が居残っているに違いないわけ。それが誰であるかは知らない。
自分じゃあないな。ないことにしておこう。何もしていない人間が最後の善人だなんてのもアホくさいんで。
239 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:26:48 0
「夫れ小人の性は、勇に釁きて禍を嗇り、以て其の性を足して名を求むる者なり。
國家に利非ざるなり。若何ぞ之に從はん」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十六年より)
小人は蛮勇で禍を招いて、それで名声をかち得たからといって嬉しがる。
社会の統治からすれば百害あって一利なし。従うことなんてもちろんお断り。
勇気とか名声とか、いい所も悪い所も両方ある彼岸の理念を、災いや悪事と結び付けてまで
行使したり求めたりする。犯罪をする勇気、犯罪によって得た名声。道徳を嗜む勇気や
道徳によって得られた名声と比べれば、あるかないかぐらいの価値の差がある上、
犯罪が十分に断罪されて、「〜容疑者」「〜被告」という形での情報公開に移行したならば、
もはやそれは汚名となってしまう。むしろそんな形では名を轟かせないほうがいいほどの。
道徳に基づいてこそ行使される勇気やかち得る名声、それこそが確かなる勇気や名声でもある。
隠蔽した犯罪行為での綱渡りに基づく勇気だ名声だなんてのは儚い、偽りの勇気や名声だ。
小人が君子と同じようなことを追い求めるのは逆効果にすらなってしまう所以だ。
240 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 19:28:52 0
「凡そ諸侯の小國は、晉・楚、兵を以て之を威す所にして、畏れて後に上下慈和し、
慈和して後に能く其の國家を安靖して、以て大國に事ふ。存する所以なり。
威すこと無くんば驕る。驕れば則ち亂生ず。亂生ずれば必ず滅ぶ。亡ぶる所以なり。
天、五材を生じ、民並びに之を用ゐる。一を廢するも不可なり。誰か能く兵を去らん。
兵の設けらるるや久し。不軌を威して文コを昭にする所以なり。聖人は以て興り、
亂人は以て廢る。廢興存亡、昏明の術、皆兵に之れ由る」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十七年より)
宋の子罕による冷徹な軍備論。うまく軍を扱えたものは軍で隆盛しているし、
うまく扱えなかったものは軍で滅びている。極端な軍国主義にも平和主義にもぶれず、
適度な軍備の下で文徳すらもが培われるという、武家社会の理念としても通る内容。
過剰な軍備も、軍備の完全放棄もどちらもが現実的ではなく、うまく軍を扱えていない
ということになる。過剰な軍事力の衝突によって陰惨を極めた第一次第二次両大戦の
経験からしても、今は人類社会が全体的に軍備過剰の状態にある。一部の士人だけが
帯刀を許されていた江戸時代から、元百姓や元商人までもが近代兵器を扱っての
殺し合いに参加していったのが明治以降の日本。ことに日本の例だけを鑑みるなら、
明らかに軍備に関しては江戸時代のほうが良かった。大小二本差しまでで、槍も弓矢も
基本は禁止されていた、軽微かつ有効な軍備。人類全体が和合を受け入れれば
軍備は結局この程度で済む。過剰な核備蓄での抑止も、完全なる軍備の放棄だなんて
のもどちらも不安定で危ういものだから、適度な軍備の価値を今一度考え直さないと。
241 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 20:30:05 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19742&if=gb 「左伝」襄公二十八年の九月。子産が大国と小国との外交関係論を述べる。
大国の人間が小国に出かけた時には色々と良いことがあり、記念碑を作ったりもするが
小国の人間が大国に出かけるのはあまり好ましくなく、贈り物を贈っても記念碑は建てない。
日本軍が中国に出征して満州建国の手助けなどもしたが、米ソ両面からの挟み撃ちで
敗走した後はインフラごと丸々中共の財物と化してしまった。結局それで良かったのだろう。
大国には大国なりの面子があって、小国に征服されたなんて恥辱は何としてでも隠し通したい。
今でも本当は日本からの工業技術の供与などがあって初めて発展してはいるんだが、
恩着せがましいことを小国が大国に対して言うのは良くない。ハッキリ言って(本当にハッキリ)、
今の中国はいじけてる。面子こそが国風であった国が、アヘン戦争以降は小国に切り取られたり
サンドバッグ同然の状態と化せられたりの恥辱ばかりに見舞われてきた。それが毛沢東によって
何とか人員規模でだけは世界一の大国にまで持ち直して今に至る。環境汚染やチベット弾圧の
情勢からして、今の中国が世界でのリーダーシップを発揮するなんてのは空恐ろしいのも
確かだけども、中国を今のような不良と化してしまったのも、結局は小国としての礼儀を
わきまえない他国からの侵害だから、大国であるなりの面子を立ててやって、インドとの二股でも
いいから敬えば、漢代や唐代らの栄光の時代の風潮を持ち直しくれるはず。周りの対応によって
偉人とも凡人とも化す、元祖殿様国家を国際社会がどうやって本領発揮させるか見もの。
242 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 20:31:50 0
みてくれだ
243 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 21:24:00 0
「正法眼蔵随聞記」三の五に、儒者の猛勉強っぷりが指摘された記述がある。
子供の頃から大人になるまで勉強し通しだったから、書くことに間違いがない。
一般人は仕事や交際の片手間に勉強するだけなんで、多少うまく書けた所で
色々と間違いを犯してしまう。勉強姿勢からして儒者はすでに次元が違うから、
一般人などが少しも感情移入する余地はないし、儒者もそんなことは望んでない。
正義のヒーローは小人ができないようなことをするからこそ羨望の目で見られる。
小人と同じようなことを見てくれだけ美しい人間が行なって喝采を浴びるのなど
とは違い、言行が根本的に超人的であるからこそ、泣いて喜んで土下座もされる。
女子並みの体格で巨漢をバッタバッタとなぎ倒していった塩田剛三氏のように、
見てくれの卑小さとのギャップで余計に凄さを際立たせたお方もいらっしゃる。
大切なものは目に見えないどころか、目に見える部分で意表を突くことでさらに
偉大さを際立たせることもあるから、不可思議なる真実の道理の奥義を手前勝手
で適当に操作するような策謀は諦めて、捕捉不能な領域での活躍にこそ期待せよ。
244 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 21:39:36 0
ごめんね。がんばってね。
あまてらす-けい【アマテラス刑】 一生優しい奥さんでいさせる刑。主婦終身刑。極刑に同じ。
246 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 10:48:07 O
聖賢の道は楽で楽しく、小人の道は辛く苦しい。
一見逆のようにも思われるが、楽で楽しいからこそ聖賢は道を踏み外さず、
辛く苦しいからこそ小人は道を踏み外し続ける。
踏み外されない正しい道こそは楽で楽しい聖賢の道。
踏み外し通しの獣道こそは辛く苦しい小人の道。
道を歩むことに着実であるか否かが両者の道を分かれさす。
儒家教学の内容が、勉強すればする分だけ実となって身に付くものだからこそ、儒者は
一生懸命勉学に励むのであって、決してどんな勉強内容だろうともそうなれるわけじゃない。
ただ難しいだけの学問、IQテストみたいな解ければそれで終わる試験問題系の学問で、
解けた先にあったのが実でもなんでもなく、ばれないように泥棒をする方法手段だったり、
泥棒仲間と手を組むためのコネの作り方だったりする。そういう学問のフリした泥棒講座は
試験にうかるための勉強も辛く苦しければ、試験にうかって手に入れられるものもまた
辛く苦しい罪業への参加権。勉強をする時点で真の正義の気高さを楽しめる上、
勉学を究めることで自分自身が正義を体得し、もっと楽しくもなれる儒家などと比べたなら、
始めから終わりまで何の楽しみもない、全くつまらないものとなる。そんなつまらない
勉強ばかりをやらされるせいで近現代人の多くが勉強嫌いになり、教師や教授の悪口を
吐きつつも、既得権益のうまみに与かるために嫌々ながらも試験勉強だけはやっとくという、
どこまでも学問の価値を貶め続ける、擬似学問による負のスパイラルが進行していく。
248 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 23:01:15 0
「專らなれば則ち速かに及ばん。侈れば將に其の力を以て斃れんとす。
專らなれば則ち人實に之を斃す。侈れば將に自ら及ばんとす」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公二十九年より)
「専ら」が新釈では「自分勝手」と訳されている。自分勝手だとすぐに災いを招く。
「侈る(驕る)」ことは力任せの様相。制御不能と化した、その力によってこそ自滅してしまう。
自分勝手は他者にやっつけられる口実ともなるし、驕りはそのまま自己への災いともなる。
自分勝手であること、力任せであること、これらは近現代人にとっての当たり前な前提である。
人間は元来自分勝手で力任せな存在なのだから、そうであることを前提としては許してしまえ、
前提が自分勝手や力任せであって、それを後から過剰な法律とか軍備とかで抑えつけて何とかしろ、
それが明治期に福沢諭吉が禅語からパクってfreedomやlibertyの訳語とした「自由」の本意。
前提としてでも自分勝手なほどに専らであること、力任せに驕ることは、その時点で災いの基となる。
自滅の原因になるし、懲らしめられるべき悪であると断定される原因にもなる。自分勝手や力任せは
そうでないことに比べれば「悪寄り」のあり方。いくら「自由」なんて言葉で正当化しようとも、自分勝手
や力任せを始めから戒めている人間に比べれば、そんな自由を謳歌しているような人間は劣悪だ。
前提が劣悪であることを嗜好してしまっている人間が、いかに後付けで取り繕おうとも、前提が優良
であるものには決して敵わない。ウ○コはおいしく食べようとする以前に、食べないに限るってことだ。
249 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 23:24:12 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19795&if=gb 「左伝」襄公三十年。すでに七十三歳であった老人を年齢確認もしないままに
使役させていたことが問題となって、人夫係長が罷免されるなどの話がある。
非常に厳密な暦の計算が展開されていて、東洋古来の暦法が決してずさんなもの
ではないことが分かり、干支に基づく日本の皇紀なども(初期歴代天皇の寿命が
異様に長かったりするにしろ)今から2669年前を神武天皇の即位年とする何らかの
根拠や意図があるんだと思われる。記紀編纂の時点で厳格な暦法はすでに
日本に伝わっていたはずだから。
今さら言い直すまでもないが、四書五経の内容は本当に現実的で、かつ非宗教・無信仰的だ。
「礼記」などには祭礼に関する取り決めなどが多く述べられているが、それらもまたあくまで
完全に事務的で、宗教信仰に陶酔してしまっているが故の感情のふらつきなどは微塵も
垣間見られない。信仰ではなく尊敬、戒律や法律ではなく礼儀、人間が全生活を宗教的な
酩酊から離れた所で営む選択肢が完全に用意されていて、それだけでも済ませられる所を
あえて日本人は神道や仏教との二股三股で調和の余裕を保った。そこまででよかったんだ。
神道と儒教と仏教だけで、すでに日本は満員御礼だから、いらないものはどんどん捨てていこう。
250 :
考える名無しさん:2009/04/28(火) 23:46:27 0
「女は人を待つ者なり。婦は義にて事するなり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」襄公三十年より)
「女」とは未婚の娘のこと。未婚なら何かにかけて命令に従う。
「婦」はもちろん既婚女性のこと。主婦だからこそ臨機応変でもあり得る。
今とはもはや真逆の考え方。未婚の女は何しでかすか知れたもんじゃないから
完全に言うことを聞かせるまで。でも主婦になると拠り所をわきまえるから、
未婚だった頃よりももう少し自分で正しい考えができるようになる。
「夫唱婦随」は強要ではなく前提。主婦は当然夫に付いていく。
正道をわきまえている夫に付いていくことで、何をやっても大間違いだった
未婚の頃とは打って変わって、何をやっても正しい方に向くようになる。
前提としての夫唱婦随を受け入れたなら、女は女であるなりにの
最大級の自由(禅語のほう)を手に入れる。成人男性の完全なる自由に
比べれば制限がかかるにしろ、完全に自由な夫に付いていくことで
女ではあるなりにの自主的な振る舞いが許される。自分勝手、力任せのほうの
意味での自由はもはや男でも許されないから、自由への羨望をいかなる
意味においてでもなるべく控えて、本当はもっと幸福なアマテラス刑に処されよ。
251 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 00:08:24 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19820&if=gb 「左伝」襄公三十一年冒頭に、年端もいかないくせに(ただし四十代)ベラベラと
しゃべりまくる趙孟が批判を受けている。「俺のことか!!」とも始めは思ったが、
別に駄弁りたくて駄弁ってんじゃねえ。行動即犯罪の社会で他にやることがないからだ。
書いてる内容も自分自身の勉学の補助手段であり、誰かに読んでもらうことは二の次。
襄公三十一年後半には子産が「未熟者に政治をさせるな」と説教する場面もある。
働き盛りの三十代や四十代になってもまだ駄弁ってるような奴こそは確かに使えない。
日本で大学院生や大学教授含む学者陣が敬遠されるのも「思考のオーバーラン」に拠る。
働く時にはもう頭なんか使うな。ただ慣れ親しんだ言動規範にだけ基づけ。
大人になるまでに使った頭が聖賢としての条件を満たしていれば、それでいい。
ボーヴォワールという巨人の本を読んでみた方がいいよ。
2ちゃんではいくらでも好きな事が言えるが、
実際の社会で権力構造がどうなっているか、よく見極めた方がいい。
あの、キーキーわめきたてる滓取ーるおばさんのですか?
女なのに女が子を産む真価も見極められない。産んでもないし。
本当に産んだかどうかで女の器量は極端な落差を生む。
近現代の権力支配の構図は「文民統治」の一言で全てが片付けられる。
武士のように直接人間の生死を左右する武術を修めたわけでもない文民が、
直接的な戦闘行為を忌み嫌いつつも、詐欺や誹謗中傷といった緩慢な方法で
他者を殺傷することは平気で好き好む。「悪い頭の使いすぎ」による陰惨な
泥棒仲間関係の構築が、国家支配までをも乗っ取り始めて今に至る。
「軍国主義」もまた文民統治の一種。文民のクセして軍事を重視するからこそ
人類を何十回も滅亡さすような過剰無意味な核備蓄もまた生まれてしまう。
頂点の将軍からして武人である武家社会などでこそ、定寸の日本刀程度の
軽微な武装だけで社会統治も済まされる。武力をアレルギー的に嫌うでも、
その反動でやたらと備蓄してしまうでもなく、適度に抑える道徳的な勇気が
近現代の文民統治を刷新した後に現れる武人統治でこそ嗜まれるようになる。
これから崩れ落ちていく斜陽の権力構造の勉強などは、新規社会へと
移行する上でどうしても事務的に必要な程度だけに止める。
合気道の極意で「相手とは目を合わせない」というのがある。
自分のペースにこそ相手を合わせさせる上での秘訣。
相手が犯罪者だったりしたらなおさら。
無闇に泥棒同士での手くだに探りを入れて、
自分までもが犯罪主義に取り込まれないよう注意を払う。
人間同士での共食いばかりに耽っているせいで、
子を作ることで人類という種族の繁栄に貢献することの威儀も
理解できなくなっている、本末転倒部族などに馴れ合わされないように。
255 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 20:59:09 0
「子木は人を害するの心あり、武は人に仁するの心あり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公元年より)
あまり完成度の高い格言ではないが、宋の盟いの時に楚の子木には人を害する心が
あったのに対して、自分(武)には仁愛の心があったと対比させて述べている。
新釈でも「仁するの心」が「人を愛する心」と訳されている。「仁愛」という言葉でも
分かるとおり、比較的「仁」は「愛」と似通った意味を持つ言葉として使われる。ただし、
「君子の人を愛するや徳を以てし、細人の人を愛するや姑息を以てす(礼記)」との
格言からも分かるとおり、仁愛とは徳性を伴った愛のことであり、仁愛であるからには
愛する対象を害することなど決してなく、むしろ「害する」という言葉とは真逆の意味を
持った何かですらある。強いて言えば仏教の「利他」に近いようなものが仁愛であり、
愛執を否定する仏教と比べればもう少し「好き好む」ような意味合いが強くなっている。
好き好んで行なう利他、それが仁愛。好き好んで行なう加害などはもちろん仁愛でない。
256 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 21:28:10 0
>>255の引用部分の直後に「言以て物を知る(言以知物)」という熟語が出てきて、
日本語だとこれは「言葉で禍福を予知することができる」と訳されるそうだ(新釈)。
「物を知る」というのが、漢文では「禍福を予知する」という意味になり、「大学」の内容など
を基に、朱子が重視した「格物致知」の真意を読み取る上での参考にもなり得る用例。
「物分りがいい」なんて言い方は日本でもされる。これもまた「知物」と似た用例であって、
物が分かったり知れたりするというのは、日本や中国では、対象となる物に内在する禍福が
分かったり知れたりすることを意味している。物を見聞きすることで即座に「善い物」と
「悪い物」の違いを察知し、善い物を肯定して福徳を受け、悪い物を否定して災いを避ける。
そのような能力が発達していることが「物分りがいい」とされたり「知物」とされたりする。
「格物致知」もまたそれと同じ。物の格への知に到る、即ち物分りがよくなるということ。
朱子が「学んで至るべし」と言う時、学ぶことで物分りがよくなれと促している。そのためには
もちろん物分りのよくなる学問を修める必要があり、概念構築ばかりを重視し過ぎて、
結局はかえって物分りが悪くなってしまうような学問もどきはこの条件を満たさない。
罪徳禍福の因果を察知できるようになる学問こそは、格物致知の学問。
儒家はそうだし、仏教も「程度が低い」とはするものの、必ず扱う分野(唯識などで)。
物を知ることで善悪もわきまえる。無記もあるにしろ、禍福を伴う善悪もあるから。
(禍福を諦観もできない内から一切皆空の中観などには逃げ込まないように)
257 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 21:49:38 0
「夫は夫たり婦は婦たるは、所謂順なり」
(新釈漢文大系「左伝」昭公元年より)
美しく着飾った子皙と武装した子南が求婚して来たのを見て、
徐吾犯の妹は上記の言葉を述べた上で子南に嫁いだ。
女からして、男らしい男こそを選ぶ前提が働いている。
見てくれなんかよりも男らしさのほうが大事だと、女でも分かってる。
春秋時代という、戦乱期における風潮によって、男らしい男を
選んでおいたほうが堅実だと、女だろうとも察知している。
物を知ってるんだ。物分かりがいいんだ。たとえ女でも。
危ない橋は渡らない堅実さが婦徳としてまで行き渡ることが
儒家教学における目的の一つとして確かに備わっているんだ。
前提としての夫唱婦随が男尊女卑的だから、女を軽視までしている
だなんてことは決してなく、夫に付いていく婦であるにはあるなりの
道徳の嗜み方もちゃんと考えられている。男は頭が大事、女は腹が大事。
神道の産婦崇拝によって東洋での女性差別は完全に払拭されもする。
258 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 22:15:40 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19844&if=gb 「左伝」昭公元年中盤、晉侯が医者に自らの女狂いを不治の病扱いされる話がある。
冗談抜きで、女狂いが本当に精神病扱いされて、あたかもそれは「蠱」の如くだという。
字に書いての通り、皿に盛った食い物の上に蟲が湧いている有り様。
記紀神話でも、黄泉の国でイザナミに蛆が湧いている姿が露骨に描かれている。
「男女室に居るは、人の大倫なり(孟子)」など、仏教とは違って家庭性が重視される一方で、
決して狂乱状態の溺愛などは儒家も神道も認めていない。そんなものは着実な家庭を
営む上でも百害あって一利なしだから、結婚するにしても捨て去ってしまうに尽きる。
姑息な溺愛ではなく仁愛に基づいてこそ、夫婦の関係もまたあるべきなのであり、
子供を作る所までいって初めて、女もまた崇め立てられるほどの神聖さをも取り戻す。
溺愛に何もかもが振り回されること、あたかも「蠱」であるかのごとく。
皿の上に蛆が湧いているかのごとく。ソクラテスみたいに「愛の全てがダメだ(饗宴)」
なんていうのではなく、姑息な細人の愛執だけが忌み嫌われて然るべきだということ。
259 :
考える名無しさん:2009/04/29(水) 23:15:28 0
質問スレでないのに申し訳ありませんが、
中国の哲学書?で、「まーゆう」みたいな響きの本といわれて、何の事だかわかりますか?
前に講演のようなものの中で話されたのですが、その本のタイトルが思い出せません。
中国におけるコーランのようなもの、とも説明していました。
ぐぐってみましたが、
五経『易経』『書経』『詩経』『礼記』『左氏春秋』 でもないし、
四書(論語、孟子、大学、中庸)でもないし、
十三経:易経,書経,詩経,周礼,儀礼,礼記,春秋左氏伝,春秋公羊伝,春秋穀梁伝,論語,孝経,爾雅,孟子でもないようです。
ひらがな4文字で、どこかに「ま」が付いていた気がします。
わかる方がいれば、よろしくお願いします。
蒙求?
261 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 00:22:50 0
>260
おそらくそれです。読みはおそらくもうぎゅう、ですよね。
どうもありがとうございます!
一応他にもこれじゃないかというのがあれば、お願いします。
「ま―ゆう」なら、後は万葉集しか。
どう考えても中国のコーランではないが。日本の詩経だが。
263 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 21:35:15 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19901&if=gb 「左伝」昭公四年冒頭で、国土の地形的な攻め落としにくさに頼って
徳を修めないような国は滅びるとの記述がある。ドイツ人地政学者も舌を巻いて
羨ましがるほどの日本列島の地形上の有利さも、可住地が狭くて近所喧嘩が起きやすかったり、
山岳だらけで民意の統一が困難だったりの負の要素もあって、そのあたりを何とか
神道の祭礼や、儒家の徳政や(神道があるので祭礼的な要素は控えめな扱い)、
(世間的な価値ばかりに囚われない)仏教の諦観などを駆使してうまく治めてきた。
神仏儒だけであればうまく治められていたのが、仏儒を排して洋学を取り入れる
「ぶんめいかいか」で近代以降はダメな方向へと突き進んでいった。
第二次大戦も日本は国家神道+洋学で戦って負けたのであって、神仏儒の総力で以って
戦ったわけでは決してない。神道も優良な宗教ではあるにしても、家庭とか主婦とかの穏やかな
部分こそを司っていたのが、本来は儒家に任せるべきような社会性の部分でまで飛躍し過ぎた
活躍を行い、突撃一番の特攻玉砕で以ってやたらと近隣諸国を怖がらせただけで終わってしまった。
そうではなく今こそが、日本の本来の徳性が儒仏によって十分に引き出されて、
防衛が真に成功している瞬間。神道に基づく日本の伝統の下で、うまいこと折り合いを保ってきた
中国インド両最大国家の最強最高教学たる儒家と仏教がタッグを組んで、
犯罪主義者たちとの対決に臨み、悪人正機+勧善懲悪=超悪全滅の奥義でもって
相手を再起不能の壊滅状態に陥らせて、古きよき日本が取り戻される機縁を作ったのだ。
あくまで神仏儒の自力によって、ガチコンの勝負での完全勝利。少しもハンデなどなしでのだ。
264 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 21:45:56 0
「十年の侈りならずんば、其の惡遠からず。惡を遠くして而る後に棄てられん。
善も亦之くの如し。コ遠くして而る後に興る」(新釈漢文大系「左伝」昭公四年より)
善根や悪根が芽を生やすのには最低でも十年はかかる。国家や世界全体での
善悪の分別ともなれば、何十年何百年とかかってしまうことすらある。先の大戦からはや64年。
一人の人間にとっては一生にも匹敵する年数だろうとも、国家間での対決に基づく
善悪の完全なる裁決が付く期間としては、長すぎず短すぎない適度な年数ではなかったか。
まだ存命中の戦争経験者もある程度はいるんで、果報を分かる形で教えてやりたいもの。
ネット上の書き込みぐらいじゃ分からないから、NHKあたりで特番が組まれるぐらいの規模で。
265 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 22:04:54 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19917&if=gb 「左伝」昭公五年。キッチリと作法をわきまえた外交を行なう魯の昭公を、
晋候は「礼を立派に心得ている」と評するが、女叔は「儀は心得ているが礼は心得ていない」
と批判する。細々とした作法ばかりに囚われて肝心の国政が疎かになっている、
そんなのは「儀」ではあろうとも、「礼」としての威儀を体得できた姿ではないから。
「礼記」にも「貧乏人までもが無理して祭礼を飾る必要はない」との記述があった。
衣食足りて礼節を知る。各々の身分や実情に基づいて礼節をわきまえようとしたとき、
細部の作法などよりも優先される必要のある要素が場合によっては生まれてきて、
そのあたりをしっかりと見据えてうまく処理すれば、作法の厳守以上に威儀のある礼が嗜まれる。
近ごろの人間が礼儀とか道徳とか聞いて思い浮かべるのは、むしろ「作法の厳守」のほうなんだが、
真の礼儀や道徳の威儀は必ずしもそんな所にはなく、場合によっちゃ「滅びる国を侮る」ことが
礼になってしまう場合すらもあるんで、結構面白いものとして礼儀や道徳も捉えられる
ものであることを今一度見直してもらいたいもの。日本人なら昔は知ってたものだから。
266 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 22:22:59 0
江戸時代までの、本当の意味での武士道(士道)は、厳密に武術と儒家教学の二本差しだった。
武士道の教学としての解説書なんて、調べた所で「葉隠」ぐらいしか見受けられないのも、
武士にとっての文武両道の「文」は、言い直すまでもない当たり前の常識として儒学だったから。
武士であるということは、武術家であると同時に儒者でもあるということであって、儒家を必ずしも
武士の必須科目としていない新渡戸稲造の「武士道」などは完全なデフォルメであり、
真の武士道の側からすれば「偽書」扱いすらされて然るべきもの。禅仏教ですら儒学に比べれば
武士にとっては副次的な教科だった。剣も振れて四書五経も分かる、それこそが武家の真相。
だから例え武家の末裔の人間だったりしようとも、儒家も武術も修めてないんだったら
少しも正式な武士としては認められない。もちろん本当に武家の末裔だったりすれば、家伝の
言動規範が儒家を修めていたことの名残りを保っている場合が多く、そのおかげで武家でも
なんでもなかった家系の人間などに比べれば、四書五経などが学びやすかったりもする。
古来のお侍さんなら必ず勉強していた、当然至極の前提としての取り決め。これぐらいは勉強
しておかなくちゃとの、九九程度の扱いとしての体得を試みる。体得できた所でまだ始まったばかり。
267 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 23:51:15 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19935&if=gb 「左伝」昭公六年。
>>74級に「ついに出ました」な記述が冒頭から展開されている。
「成文法」を中国史上初めて制定した子産への、叔向の大批判が展開される。
「法律を文章に書いて民衆に知れ渡らせたりしたなら、法文ばかりが金科玉条に掲げられて
君子の側の礼儀や信義に基づいた統治が行き渡らなくなる上、民衆各自での脱法の作為
ですらも許されてしまうようになる。君子は気高さを削り落とし、下民は思い上がりを膨らませる。
夏や商や周の時代にも刑法が定められたことはあったけれども、没落時期の対処療法であり
決して勧められたものではない。『国が滅びる時には決まって法文が多くなる』とも聞いている。
あなた(子産)のやっていることは亡国を助長する愚行だ」と歯に衣着せることなく述べる。
(それに対し子産は「その通りです。私は器量なしです」と平謝りしつつも政治は変えない)
六法全書も、明治時代には薄めの文庫本程度の全文分量でしかなかった。
成文法を無闇やたらに構築することこそは、日本含む近現代の人類が選択した全体姿勢。
管仲に始まるとされる法律万能主義は、子産による成文法の制定の時点ですでに中国においては
批判され、当該の「左伝」なども通じて、法律よりも道徳を優先させるべきとの風潮が、中国や
日本などの極東社会では働き、始皇帝のような法家の怪物を生みつつも、全面的には徳治優先の
姿勢を保ってきた。しかし、管仲はおろか、子産よりもさらに後代に遥か西方の社会で制定された
ローマ法が、法律万能主義への適切な批判者(儒家)も持たないままに無闇やたらと増大し、
ゾロアスター教の「世界が悪に蔽われることもある」との予言もよろしく、全人類を法文の下での
右往左往に耽溺させるようになって今に至る。
268 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 23:54:36 0
「成文法なんかが全てではない」という考え方は、法律万能主義への適切な批判者としての
儒家に恵まれた極東人同士での場合は、極力排除する前提が働いている。法文だけで何もかもを済まそう
だなんていう人間関係の緩慢さは、仁義礼智信を必要とする統治者と、そんなものは別にいらない
民衆とを不用意に均した挙句、被支配者が支配者に言うことを聞かせるという、本末転倒の
イデオロギーすらも生み出してしまう、所謂「民主主義」。民主が目的なら、始めから統治なんか
考えなけりゃいい。民衆を統制することこそが統治者の本分なのに、統治者が民主を強調したんじゃ、
ただ「私には政治をする器量がありません」と白状しているだけにしかならない。政治を完遂する能力が
自分にはないからこそ成文法なんかも積み重ねます、破滅へとまっしぐらの六法全書の連続増補改訂です、
責任は全てあなた方民衆の側にあります、なにしろ我々は「民主」なんですから、自分たちが主体になって
民衆を統治するだなんて考えは始めからないんですから、全ての責任をあなた方民衆に押し付けて
当然ですと、本末転倒のイデオロギーを旗印に掲げつつも、性懲りもなく民衆を手玉に取り続けている、
今の日本の化け狸化け狐両政党など、「全責任民衆へと丸投げ民主主義」の暴挙は続いている。
徳も礼も始めからあるわけがないという、儒家を知らない世界の奇形的な法律万能主義に翻弄されて、
本当はそれだけでよかった儒家の徳治思想までもがかなぐり捨てられている。大切なものをかなぐり捨てる
ことで代わりに手に入れたものも色々あったのかもしれないが、それで満足か? 何か面白かったか?
あえて間違えること、必要もなく道を踏み外してみることが。本当に楽しけりゃ別にそれでもいいんだが。
269 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 09:35:38 0
成文法下の社会では、法文で違反とされる行為だけが犯罪であるとされて、法文として書かれて
すらいなければどんなに犯罪的な行為だろうともやっていいという脱法意識が通用してしまう。
しかも文章をうまいこと操れる人間であれば、それだけで法治社会での上位者扱いされて
どんなに犯罪的な言行を謀ろうともお咎めなしになる。犯罪を取り締まる立場である警察のほうは
自分らの文章理解力では埒しきれないような知能犯罪は野放しにしてしまって、自分らでも分かる
程度の端的な暴力犯罪や法文違反(刀剣所持とか飲酒運転とか)だけを取り締まるようになる。
実際に社会に害悪を及ぼしている分量では、ある種の知能犯罪のほうが遥かに甚大であるのに
法文の至上化の下での取り締まりの正当性が確保できず、「十人殺せば大悪人、十万人殺せば
大英雄」を地でいく悪徳社会を黙認助長し続けている。四書五経に照らし合わせればそのこと
如くが道徳違反であり、故に法文違反である以上に重大な犯罪である知能権力犯罪は、確かに
成文法よりも道徳を重視する元来の極東社会の風潮の下では取り締まり得る。成文法などよりも
上位に置かれて(あるいは互換して)初めて道徳もまたその効力を発揮するものであるから、
小学校の道徳教育を法令でほんの少し教化する程度の措置では全くその成果は見込めない。
270 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 12:38:33 0
「大事を作すに信を以てせずんば、未だ嘗て可ならざるなり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公七年より)
多くの人間の運命を決定付けるような重大な側面においてこそ、
仁義礼智信といった道徳的な素養が問われる。些細な人間関係など以上に。
その、人々の運命を左右する重大事こそを作文で紛らわすのが成文法による
法律万能主義。少しだって「可」であったことはない。ローマ法の時代から
法文至上主義だった西洋社会が、徳治に基づいた東洋社会ほどに可であったこと
など一度もなく、戦乱や餓死や奴隷的使役などの、古来から東洋では忌まれ
続けてきた不吉事を、当然のものとして放任しながらの発展のみを続けてきた。
面積上の世界征服も、外界侵略という大局的な犯罪性の放任に基づいてのみ
行なわれてきたものだから、少しも地球人類社会を全面的に「可」とする上での
素養たり得ていない。ただ破滅への下地をシコシコと作りこんでいるだけ。
善政の約束なんか今さらしてくれなくていいから、ただ政権を捨て去ってくれれば。
271 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 13:12:44 0
「人の生、始めて化するを魄と曰ふ。既に魄を生ず。陽を魂と曰ふ。
物を用ゐて精多ければ、則ち魂魄強し。是を以て、精爽にして神明に至る有り」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公七年より)
非常に素朴かつ平明な精神論。人間が生きてことを為そうとする魂魄が強まり、
神明に至るほどの精爽となる、それが精神。すがすがしき精神の本質。
例え死んだフリしようとも、生きて何かを為そうとする時に根源的な原動力と
なっているのは精神であり、精神の最大にして最高の目的は子孫の繁栄、
そのための中出し受精こそは記紀のウケヒ神話にも描かれる精神の絶頂たる。
子孫の繁栄こそが本当の目的であるからして、人類を破滅に導くような
共食いの論理に基づく犯罪は、精神とは相反するものであり、以て精神病の
核ともなる。生きて何かをしようとすることが、犯罪という人間の破滅に加担する
行為であることが、自己矛盾であるが故に辛く苦しくなり、恒常的たれば
精神病とも化してしまう。「精神」という言葉の本質的な意味に基づけば、犯罪こそが
精神病の核であることは明白なのであって、ただ精神という言葉の意味を
曖昧なままにしておいたり、逆に犯罪のほうも「法文違反」とかの不誠実な定義
だけで済ませている場合にこそ、精神病の原因も分からなくなり、効果的な
治療法も見出せないままの右往左往や発症件数の増大に繋がっていく。
精神とか、道徳とか、真理とか、犯罪とか、本当はどれも厳密な意味を持っている
言葉なんだから、言葉の意味を曖昧なままにしておく不誠実をどうするかこそが問題。
漢文はすべて新釈漢文体系をつかっているのですか?
273 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 13:36:46 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=19954&if=gb 「左伝」昭公七年九月に、不世出の傑人としての孔子こと孔丘仲尼の出現が予言される。
(ただし本当に孟僖子によって予言されたのは昭公二十四年)
とにかく身をかがめる礼儀正しさが称えられるのと、「没落貴族の子孫が聖人となる」
とのジンクスが臧孫コツの言などからも引かれる。君主などあまり偉くなり過ぎた人間の
子孫はもはや伸びしろがないから、ただ血統を守る以上の期待は望めないが、
中間管理職程度でコツコツやってきた家系ならばいくらでも昇っていきようがあるという話。
孔子が子産のように実政を握らなかったことが、無能力さの根拠であるかのように
言われることもあるが、そんなことが決してないのは、儒家教学に基づいて治められた
漢代の中国や江戸期の日本の成功ぶりからも伺える。あまりにもいい時代すぎて、
成文法なんかで何もかもを済ませようとする現代の人間には、もはや御伽噺のようにすら
思えてしまう。外人ならば「封建主義」という表向きの統治構造だけを見て過去の遺物扱い
したりもする、本当は法文主義のほうこそが子産の代ですでに終わっている過去の遺物
なのであって、あまりにも次元が低すぎるが故に放逐の機会に恵まれなかっただけ。
孥戮に食人に人間の生け贄に成文法、現代をも蔽い尽くしているある種の劣悪な支配概念
(その全てが「権力犯罪」の一言に集約される)が全て四書五経の段階で把握されて、
「破滅を助長するダメなものだから避けておく」という冷徹な判断によって、極東社会では
徳治主義のほうが優位であり続けてきた。2300年以上前から東洋では始まっている
全人類の青写真。今後2300年は参考資料に事欠くことがないという安心材料にもなっている。
>>272 類本中最新最大の叢書なので、どうしても頼りがちになりますが、
国訳漢文大成や中国古典選、各種文庫本なども参考にしています。
「書経」や「礼記」の訳などには、新釈にもかなり不満の残る部分があった。
だいいち新釈はまだ未完なんで、漢文研究の一級資料だなどとは言い切れない。
中国の白文書籍も専門家ならいいだろうが、社会統治への応用などの実用には
国内での資料研究の熟成もあって然るべき。儒家専門の新規教育機関なども
新設する勢いで、大局面での古典教学の見直しが図られていくべきかと。
275 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 14:01:11 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20044&if=gb 「左伝」昭公十二年。諸侯からの弔問客を招いての簡公の葬儀のために、
道普請で民家を取り壊すかどうかを言い争う記事がある。子産の意見に基づいて
民家は取り壊されず、このことから「礼は他人に迷惑をかけて自分の事を
やりとげることはない(新釈での訳)」という批評が引用されている。
礼儀は悪用されることも、善用悪用のみそくそとされることも決して認められない。
悪用や善用悪用みそくそな時点ですでに無礼。悪が一寸でも交われば無礼だ。
易での占いなども悪用や善用悪用みそくそは認められない(昭公十二年参照)。
誠心誠意を以って善用を目指した時に初めて予言に値する結果も出てくる。
天地万物の道理を指し示した、礼儀や易が善用によってのみその真価を発揮する。
「善」とはすなわち道理や真理に沿うことなのであって、沿わないことが「悪」である。
人間の側が勝手にそう定義しているのであって、故に善に従えば楽々となり、
悪に従えば辛苦となる。禍福に門なし、ただ人間自身のなすところ、自業自得。
善因楽果もまた自業自得だから、自業自得を怨むのはただ苦しんでる悪人だけだ。
「易経」の下巻もついこの前出たばかりだし、「史記」もまだ全巻揃ってないし、
公羊伝も穀梁伝も、孫子呉子以外の兵法七書も刊行の予定はない。
甚だ不満点は多いながらも、中国古典を学ぶ上では頼らざるを得ない新釈漢文大系。
仏教なら大正新脩大蔵経、神道なら国史大系や日本古典文学大系。今の基本図書。
古文漢文は図書館でも事足りるが、仏典はあっても持ち出し禁止になってたりして
本格的な研究の敷居が高い。ここはお坊さんたちにもっと、本物の仏教教学の流布を
頑張ってもらいたいもの。葬式ばかりでなく。創価ばかりにもでかい顔をさせず。
仏教は、あくまで坊さんに語らせなきゃならない。正式な得度を済ませた。
新興宗教団体の会長でも、高名な仏教学者でも駄目だ。
かくいう自分も決して僧侶ではないので、仏教を正しく語っていることはない。
要は「仏説」の内に入らない。たとえ仏典を引用した所で、
自分の意見までが仏説たりえてはいない。
強いて言えば、五逆と誹謗正法すらなければ誰でも帰依できる
浄土信者程度の意見ではあり得ている。
あとは性善と性即理に基づく儒家教学のほうが体得レベルで語れること。
聖道仏教はあくまで坊さんのものであり、参考程度にしか自分には語れない。
公共性を捨て去る仏道に自力で没入するわけにはいかない事情もあるんで、
何もかもを自分一人で済ませようなんざ意気がりは避ける。
278 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 02:33:55 0
>>274 やはり新釈は漢文を読むスタンダードですよね
しかしやはり集めようと思っても値段がアレですよね。
1万ぐらいのも有りますし。
親が弁護士である子供が、六法全書を一度も読まない内から
「俺は弁護士の末裔だ」「弁護家の血が騒ぐぜ」などと言ったところでアホ臭い。
それと同じように、先祖が武家だった人間が、四書五経を読みもしない内から
「俺は武家の末裔だ」「武家の血が騒ぐぜ」などと言ったところで無意味だ。
厳密な文治のための素養があって初めて武家も武家たりうるもの。
東大受験者が、いくら猛勉強をした所で、
合格して入学もしていない内から勉学を自慢した所でアホ臭い。
それと同じように、いくら仏教教学を猛勉強した所で、
仏門に入門もしない内から仏学の素養をひけらかした所でアホ臭い。
正式な得度に基づいて初めて仏者も仏者たりえるものだ。
くれぐれも類似品、粗悪品にはご注意を。
280 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 13:47:09 0
孝経に春秋公羊伝に春秋穀梁伝、荀子に近思録に伝習録、
本格的に修学しようと思えば四書五経以外にも読んでおくべき儒書は多い。
なんといっても「朱子語類」が分量的にもずば抜けていて、始皇帝の焚書坑儒によって
古代の文献の多くが遺失してしまっている儒家の体系構築の埋め合わせをしている。
今の法律家が拠り所としている法律文書(六法全書など)などよりも、遥かに膨大な
基本文献があった上で、しかもその扱い方も千差満別。自分自身の言動規範としたり、
他者の言動の是非を鑑みる判例としたり、さらには実定法並みかそれ以上の強制力を以って
犯罪行為の取り締まりにも当たったり、「法文違反を処理する」なんていうヤクザな仕事だけに
留まることなく、礼楽刑政あらゆる側面における人間のあり方を取り仕切って、破綻を来たさない
庸徳的な社会を全面プロデュースしていたのが、儒者や、儒家と武術の二本差しである武士だった。
法文に何もかもを押し付けて、後は野となれ山となれの現今社会などとは遠くかけ離れた、
隅々まで人間性の機微の管理が行き届いた、「最高級の人間社会」こそを司っていた儒家教学、
いくら科学や工業が発達しようとも、儒家を蔑ろにして成り立っているような社会はそうでない
社会よりも下だ。低級な未発達の土人社会だ。人食い族だらけのウホウホ原始社会。
発達した科学や工業も、キチガイに渡された刃物にしかなってないってんだ。
281 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 18:26:14 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20102&if=gb 「左伝」昭公十五年十二月、服喪期間に酒宴を開いて楽しんでいる周王について、
叔向が「楽しむ所は必ず卒る(人は楽しむ所によって世を終える)」という成語を引き合いに出して
批判している。服喪の憂いをも楽しもうとすることは、「楽しきを哀しみて哀しきを楽しむは、
皆心を失うなり(昭公二十五年)」ともある通り、心神喪失状態に認定されるものであり、
魂魄たる「心の精爽(昭公二十五年)」を捨て去った精神病に値する姿。
憂いを楽しもうとしたが故に、憂いの下で人生を終えざるを得ない。
真の楽しみを楽しもうとした人間こそが、楽しみのさ中に人生を終えられもする。
苦楽の順序をわきまえることが、最後まで楽であり続けられる理由ともなって、
逆に順序をわきまえなかったり倒錯したりすることが、最後の最後には苦しくなる原因となる。
最後まで楽しめることこそを人間は真の楽しみとし、最後には苦しみや悲しみとなることこそを
人間は真の苦しみや悲しみと定義しているから、定義して倒錯するまでの全てが自業自得。
何か形而上の超越神に基づいてそうなっただなんてことではなく、ただ人のなすところのまま。
282 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 18:50:16 0
「吾之を聞く、天子、官を失へば、官學、四夷に在りとは、猶ほ信なり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公十七年より)
昭公が、少r氏が奇異な官制を用いている理由をタン子に聞いたところ、
昔からの風習である旨の詳しい返答を行なった。孔子がタン子に直接面会して(このとき孔子二十七歳)
話も聞いた上で後に語ったのが上の言。毛沢東主導の文革によって儒家教学を徹底排除した現中国とは違い、
一応日本では文献研究などの勉学の余地は保たれている。今でも新釈がどこの図書館でも借りれる。
良質な教学が必ずしも世の中を統治し続けられるとも限らず、より殺伐とした犯罪中心の教学に、とって
変わられることもある。その上で、犯罪中心教学による社会統治が、限界を来たしてにっちもさっちもいかなく
なったときに、また良質な教学が復権していくための資料などの温存は、中国のような多数派を司る社会よりは
日本のような数では少数に甘んじる国のほうでこそ担われる。質より量か、量より質かの違い。
「東方の外国にいって政務を執ろうか」だなんていう「論語」中での孔子の冗談にも、こんな由来があったりする。
283 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 18:51:25 0
封神演義時代に精神病?馬鹿じゃねえの
>>281 ちったあ古代中国史でもかじってから出直せ
いくらでも「左伝」に精神病の記事載ってるぜ? 不謹慎から女狂いから、色々な原因で。
もちろんダメな方向に行ってしまったせいでの気違い沙汰だから、戒められて「こういうことはないように」
との教訓で書かれている。決して某悲喜劇みたいに面白がって精神的不衛生をばら撒くようなことはなく。
占いの話とかも一応は出てくるにしろ、あくまで左伝の記述は現実に即したものとなっている。
鬼神を尊びこれを遠ざく、陶酔的な宗教信仰は儒家では原初からの排除の対象とされていて、
宗教書としての面白味などが皆無である代わりに、現実の社会統治においてこそ絶大な効力を発揮する
ものとなるように四書五経なども編纂されている。同時代の西洋の作文などがフィクション主体の
「小説」であるのとは全く違い、原初からノンフィクションの「大説」だけを論議の対象としてきている。
洋学の手法に基づく古典文献学などでは決して太刀打ちできない、昔から大人である領域の教学。
285 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 19:17:01 0
「害あらずとして學ばざれば、則ち苟にして可とす。是に於いてか、下陵ぎ上替る。
能く亂るること無からんか。夫れ學は殖なり。學ばずんば將に落ちんとす」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公十八年より)
どうせ大丈夫だと思って勉強を怠っていれば、一時は大丈夫でも最後には必ず駄目になる。
下民が己の身分もわきまえずギャアギャアと騒ぎ始め、統治者のほうもそれを聞こうとして
右往左往と民主ピエロごっこを始めだす。必ず乱れきって落ちぶれることは免れない。
もちろんここでいう「學(勉強)」ってのは、四書五経のような本物の学問、大説の学問だ。
本当に人間社会を道徳的に統治する素養を持った本物の学問の、体得レベルでの勉強。
それを怠った時にこそ災いを招く。ここにはそうとは書いてないけれども、例え字面だけは
研究の範疇に入れておいたとしても、全く実用の対象として体得もしなかったり、むしろ社会を
破滅に導くような小説の学問もどきとのみそくそなんかにしてしまったんじゃ、その場合にも
全体性としての破滅は免れ得ない。泥棒講座を正式な学問扱いして、儒学並みやそれ以上に
重要視なんかしてきたような連中が、多少四書五経を読んで見た所でその真価が理解できなく
なっているし、儒学のような本物の学問に重きを置く「思考の重心の移動」もそうそうには叶わない。
何でもかんでも取り入れすぎてかえって学が疎かになるということもあって、その場合にも上記
の格言は当てはまるもの。知っているのに実用できなかった、しなかったことへの報いとして。
286 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 19:20:36 0
>>285 どこを立て読みすりゃそうなるのかソース出してみ?
まだあったのかこのスレw
基地害の妄想に構うなよ。どうせゴミスレなんだから。
本物の学問とか笑っちゃうけど、君は四書五経が分かってるのか?
大学・中庸・論語・孟子・詩経・書経・礼記・易経・春秋
どれがそれにあたるのか、漢文そのものをコピペでいいから晒して説明してくれないか。
>>286 大説は、事実を捏造していはいけない。
死んだ人間が生き返るとか、超越神に仮託して犯罪加害を正当化したりとかの
小説では許される事実の捏造が、大説では決して許されることがない。
その、大説の一つたる「左伝」において「學」と呼ばれているのもまた、もちろん大説の学問。
人肉で饗宴したり人間を生け贄にしたりの愚かしい真似を現実にしてしまったような連中は、
現実のものとして滅びるという大局の説話を現実に基づいて書き留めている。
つまり、大説と小説とは相反するものですらあり、大説こそを扱う儒家のような学問を
本物の学問であるとするなら、小説を扱うような作文遊びは偽者の学問となる。
偽者の学問などは学問の内に入らず、そっちばかりに囚われて本物の学問たる儒家の
大説を疎かにしたりしたなら、>285の説話に基づいて乱れ落ちぶれざるを得ない。
事実に反するような偽説をでっち上げる学問もどきなど、本来はあげつらうまでもないものの、
もしもあげつらうならばそうなるということ。本当は叩き潰すまでもない小虫を叩き潰してみただけ。
>>288 前スレから読み通せばいくらでも書いてること。低レベルすぎる質問は却下。
290 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 20:57:15 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20163&if=gb 「左伝」昭公十九年、楚の沈尹戌が自国の情勢を憂いていると、
王の側近が「五年ものあいだ民の生活を楽にして休ませたのですから、十分に労わっている内に
入るのではありませんか」となだめるけれども、戌は「内政だけでなく、外務もうまく取り仕切れてこそ
真に民を労わっていることにもなる。今の楚は敵国からの侵害を十分に防ぐことが出来ず、
民は恐れ苦しんでいる。どうして民を労わっているなどということができよう」と戒めた。
政治を決して自己満足などではなく、民への真の利益にまで即して慮る度量の大きさが、
年数のような数字の結果だけではなく、実相に即した辛苦までをも見抜き、内政に比べれば
遠因になるはずの、外務の不行き届きによる民の疲弊という、少し分かりにくい問題までをも
持ち上げていく。これもまた大説だからこその要素。架空の物語中でこのような切実な話をわざわざ
取り上げたんじゃ、「意味不明で面白くないから出版してやんない」ってことにすらなる。
切実な問題ってのは、文章となった時に面白がられるよりも、現実にその問題が解決されることのほうが
重要なんだから、一読して面白い面白くないだんて話は二の次で、文章によってその問題が提起
されたことにより解決も試みられ、実際に解決されて、一件落着して、本当に心から演技抜きで楽しくなる、
そこにこそ大説が読み書きされる威儀もあるから、小説などと決して同列扱いしてはいけないものだ。
291 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 21:10:26 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20180&if=gb 「左伝」昭公二十年の冒頭に、「汰侈」という言葉が出てくる。
意味は「身分不相応のおごり(新釈)」。汰侈にして禮無きこと甚だし。
身分不相応なおごりは無礼に入る。社会を破滅に導いている張本人が
国連ボランティアあたりに協力したりもする。自分らこそが飢えさせた相手を
自分らで助けようとするマッチポンプ、それは無礼なことだ。
マッチポンプってのは常に身分不相応のおごりなのであって、
少しだって貧窮している相手を助けた所で礼儀に適いやしない。
犯罪者を公認で培養しているような社会では、決して警察も偉くない。
CIAが存在する以上はFBIもまた汰侈であり、故に禮無きこと甚だしい。
前々からダメなものだと思っていたマッチポンプが、本当にダメである根拠が
ここで示された。身分不相応の助成だからダメなんだ。その時点で無礼だから。
儒家である以上はマッチポンプは認めない。例え四書五経を読んでいようが
マッチポンプを容認してしまっている時点でその人間は決して儒者ではない。
残念ながら、今の漢学者にも儒者はいない、どこにも。
行動即マッチポンプである今の社会では。
292 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 21:18:06 0
>>291 世の中を保つには、敵に勝つだけではない
人は飢えると食える土地を探して移動します、移動先で後で無いので攻撃的になります、
攻撃的になると世の中は荒れるんです、こうすると、政治が悪いって言うんです
政治が倒れたら腹が膨れるかというと、そうとも限らない
だが、腹が減って無いと、攻撃をしようとはならないんです
何というとか、偉くなると食い詰めの輩が標的にしてくるので、そういう人は面倒をみるものなんです
そうじゃないと、どこか駄目だといって喧嘩を仕掛けてきます
ですから、経済援助とか飯をあげているんですよ
高いミサイルや弾薬を買い、何万人の人と、給料と飯代と諸費用を掛けて、
戦争が食い詰めの国を占領するのと飯をあげるのとどっちが得ですかね。
ですから、飯を食わせているんじゃないんですかね
293 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 21:34:16 0
「左伝」二十年後半には、晏嬰による「和」と「同」の違いに関する論及が展開されている。
和はうまい料理の調理みたいなもの。甘すぎれば甘さを控え、辛さが足りなければ辛さを加える、
調和の行き届いた美味を拵えるために、引いたり足したりの創意工夫が必要とされる。
対して同はただ同調するだけ。人と同じよう、同じように右へ倣えをしてそれで終わり。
甘いんならただ甘く甘く、辛いんならただ辛く辛くの一方的な味覚の加算ばかり。
それはもはや調理ではなくただのウレシ。和の美味と交われば和もまた乱されてしまう。
和と同は似るどころかむしろ相反するものですらあり、「和して同ぜず」という格言も
実は物事が和合する上での必須条件。和する以上は同じてはいけない。和するからこそ
同調しっぱなしで終わりにしようだなんてヤクザは許されない。多様性こそは和合の証。
景公に「死ななかったらどんなに楽しかろう」と聞かれ、晏嬰は「古人が死んだからこそ大君も
今こそを楽しめています。誰もが生き続けていたなら後代の人々ほど楽しみがなくなってしまいます」
との答えを返した。人が死ぬことはそれだけを見れば決して良いことではない。ただ、この狭い地球で
誰しもがいつまでも自分だけの楽しみを続けようだなんてのは無理があり、より多くの人々が
楽しむために、老害の衰亡が必要ともなってしまう。全人類の和合のために、自分ばかりに
誰も彼もを同調させようとするドグマの退陣が求められるときが、いつは来るのだということ。
294 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 21:41:16 0
>>292 人間が飢えなきゃならないほどの食糧不足は今の地球上には本当はない。
食い物はある所にはあり、ない所にはない。「食う」ということよりも、
「金を遣う」ということのほうが優先されて、金への意欲が旺盛な人間は
食うことにも困らず、エンゲル係数などはむしろ下がりもする。
金への意欲がなかったら、エンゲル係数が上がって、しかも最悪の場合食えなくなる。
食うことの保障が金銭運用の自由などよりも優先されていれば、決してこんなことは
起こらないんだが、起こっているということは、そうでないということ。
「商工農士」になっているということ。食糧は確かに足りているんだから、
士農工商の徹底すらなされればこんなことは決して起こりえないことだ。
295 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 22:08:21 0
昭公二十年の最後尾に、ついに子産が亡くなった。
孔子にも慕われるほどの名政治家ではあったものの(ただし両者に面識はない)、
成文法を中国史上初めて(ローマよりも早く)制定して批判を受けるなど、
道徳者としては詰めの甘さの残る子産が病に臥し、遺言を残して死んだ。
「民は火のように苛烈な政治よりも、水のように柔弱な政治によってこそ死にやすい。
優しげな言葉に思い上がって、好き勝手やってコロコロと死んでしまう。
穏和な政治を成功させられるのは真の道徳者だけだ」と部下に述べて死んだ。
穏和な政治などによってわがままな民が統治できるわけがない、それは確かに、
無能な統治者の言い分としては通る。穏和な政治を成功させられることこそは
道徳者の本領であって、無能な統治者などにとっては想像を絶する領域のもの。
その想像を超えた領域にこそ儒家教学があり、子産が死んだ時にも孔子はまだ三十歳。
量でも古さでも同時期の別社会とは別格だった中国で(ギリシャ人などはまだ素っ裸で
暮らしてた)、どちらかといえば後輩である孔子によってこそ儒家もまた興されて、
信長や秀吉に圧迫され続けつつも、最後の最後でやっと天下を手に入れた家康公も、
絶対に間違いの無い最後の〆として、儒家教学に基づいた江戸社会を立ち上げた。
儒家はいつも最終勝利者としてこそ完璧なる社会をプロデュースしてきたのであり、
苛政が通用しているような不完全な社会には最期まで立ち入らず、機会を得たからには、
無能な統治者にとっては想像も及ばなかった穏和な徳治社会を育む仕置き人となる。
296 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 22:23:03 0
「事を作すに、威、其の愛に克てば、小なりと雖も必ず濟る」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公二十三年より)
威儀が情愛に勝っていれば、小勢でも必ず勝てる。逆言すれば、
情愛によって威儀をも蔑ろにしてしまったんでは、大勢でも必ず負ける。
愛は女子供のもんだ。女子供にとっては確かに大切な生育上の糧に違いない。
でも大人の男は違う。強弱勝敗の伴う力の激突に参加して、しかも強く、勝たねばならない。
そのためには愛は抑えなければならない。別に捨てなくてもいいから、大局を見計らう
威儀よりも優先されるようなことのないように、十分抑制が利いていなければならない。
あくまでこれは、重大な仕事に携わる大人の男に限って必要な覚悟。女子供ではなく。
より強く、勝つことにより、愛する家族を守るためにこそ、仕事への情愛の差し挟みは慎む。
愛を公務に挟み込んで弱くなって負けないために、威儀の優先や強大化を図るわけだ。
297 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:29:04 0
>>294 100〜200年ほど前は○○飢饉があったでしょ。農村にいると壁の中の藁を食べたり、
栗の皮を食べたりして、何もかも食べ尽くしてしまいます。農村にいると飢え死にしてしまいます。
生きるのを選んだ人は都会に出て行きます。仕事や物が集まっているので何とか生きていける
のです。財産が無く、食べる物が無い人は盗みや犯罪集団に面倒をみてもらいます。そうすると、
治安が悪くなります。食料を面倒みておくと、生きて行けますし、治安が悪くならないんです。
士農工商が徹底したらどうなるのか。都会に浮浪者が行かないかもしれませんが、村が一つ
飢え死にして無くなることになります。そこは、空白地帯になりまして、来年から年貢が無くなり
ますね。
60年ぐらい前ですが、第二次世界大戦後は都会に物が無かった。赤い犬を食べたり、高級な
ゴボウだか朝鮮人参だとか木の根を食べて飢えをしのいだとか。GHQはガムやミルクや牛の骨
を与えました。
どうして戦争した者が施しをするのか。勝利者は統治するからです。飯が無くて治安が悪化し
ても統治が乱れます。民がいなくなると、統治しても従えるものが少しもいなくなってしまうのです。
飯を与えたり、仕事を与えて、奴隷に民にすべきなのです。
だから、何やかんやで納得できないことだと思うかもしれませんが、支配体制に組み込むから
だと考えておくことです。推理力が足らないので、君は統治とその技術の連絡が上手く行ってな
いのですよ。疑問があったら、統治したいから、で考えてください。
298 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:57:17 0
そんな中からでも新しい文化が誕生してます
フレンチ
フランス人って、日本人があまり好まないカエルやザリガニを喜んで食するのですからね
そうなった時代背景は理解できますよね?
日本人って、高級フレンチで出されるカエルやザリガニなら、喜んで食べます
なぜでしょうか?
不思議ですよね
日本文化でもある和食
フランスで刺身や寿司が、パリジェンヌOL達が割り箸を使って食べているように、
日本人もカエルやザリガニ、そしてカタツムリ(エスカルゴ)などを喜んで食べている姿を
パリジェンヌ達に見せることも国際友好となるのですよ
理解できますですかね?
>>289 答えられないんですね。分かります。
つまり読んだだけで何も理解してないとw
漢文晒してからほざくように。
>>297 食い物が本当に足りなくてなった飢饉と、
本当はあるのに自分勝手な奪い合いによって
部分的に呈している飢餓とを同列扱いするなよ。
前者は自然災害、後者は人災、後者の人災の原因になっているのがおまえら。
ABC包囲網やハル・ノートらによって開戦を仕掛けられて、
無闇に戦線を拡大する太平洋戦争などに没入させらたりしなこれなければ
誰一人としてあの時期に日本人が飢えさせられる必要もなかった。
自分らでけしかけた戦いで相手を疲弊させといて、
勝って占領した上でガムチョコレートのプレゼント、
そういうのをマッチポンプという。身分不相応なおごり、故に無礼。
礼儀の重要さという事実関係に対する誤認のあるせいで、
必要もない罪悪の増幅を画策し続けている責任からは、決して逃れられないもの。
何でも食べるのが国際交友なら、
佐川クンも心神喪失扱いの国外退去処分なんかにしなけりゃよかったのにねw
殷の紂王以来の3000年の伝統をせっかく再現してあげたのにね。
真の文化交流なんてまだまだだね♪
外人には、初歩的な漢文すら理解できないんだな。
理解できてたら「何も理解してない」なんて言わないよなあ。
理解の浅深こそが漢文の素養であって、基本的な意味だけなら漢文はごく簡単なものばかり。
「滅びる国は侮れ」の意味なんて誰でも理解できる。
ただ、問題はあくまでその理解が浅いか深いか。
浅けりゃ腹が立つが、深けりゃその真意にも気付く。
浅い理解で腹立たせるのも一つの小人への作用である一方で、
深い理解で納得させるのもまた確信的な君子への届け物である。
理解の有無しか問題にできないような連中は、ただ理解が浅いか、
完全に理解不能であるかの二つに一つ。どうも外人はそうでしかないらしい。
303 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 01:26:44 0
おまえらが主導権を握っているから、戦乱や餓死が起こるんだ。どうしても起こらざるを
得ないのもまた、おまえらみたいな無能力者が統治者たらんとし続けているから。
死刑一つなかった400年の平安時代も、隅々までエコ政策が行き届いていた300年の江戸時代も
知らないから。同時期にも陰惨な拷問刑罰や、他国の侵略植民による奴隷化ばかりに
耽り込んでいた野蛮民族などには、長期の平和統治なんてものが存在性から理解できない。
万年殺し合い通し、奪い合い通しの犯罪推進集団には、その価値を推し量る以前に、
存在性の察知すら覚束ない。自学自習によって払拭しようにも、先祖代々世界を荒廃させ続け、
今でもアフリカや中東に(必要も無い)餓死戦乱の種を撒き散らし続けているその罪業が、
断悪修善や勧善懲悪を理解しようとも決して実行が不可能な所に追いやってしまう。
どうしても実行がしたいというのなら、まずは檻の中での反省を受け入れる所からでないと。
305 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 10:48:03 0
戦乱を世界中に撒き散らしつつ、いつまでも水面下での犯罪行為も続けようとする
場違いで時代遅れな好戦家こそが、かえって「愛」を旗印に掲げたりもしている。
本当に平和を願い、平和のためにこそ最終勝利者たらんとする者のほうがむしろ
愛を前面に押し出すことは避けている。
>>296の通り、愛は戦いの過程においては
百害あって一利なしの代物。平安時代のような真の平和が獲得された社会でこそ
愛もまた育みようがあるもの。万物は時と場合によりけりという、陰陽の法則により。
>>305 陰陽の法則に戦乱を世界中に撒き散らすとかないんですが。
どこの出典か漢文で。
陰陽の法則に違反しているからこそ戦乱餓死まっしぐらなわけだが。
もちろん陰陽の法則に違反することまでも含めて陰陽五行とも言えるが。
308 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 13:42:45 0
中国人になれば、足の付いたものは机以外なんでも食べるといいますので、
飢饉にならないんじゃないんですかね。
腹が減ったら、中国人になりなさいよ。
おまえらが逮捕されるほうが手っ取り早い。
こっちは何もしなくて済むんだから。徹頭徹尾。
310 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 15:25:51 0
あれこれコピペかなんかでスレ浪費してるけど
具体的なとこ突っ込まれると短い単発レスでごまかしてるだけじゃん
どこが具体的なつっこみなのか? ただの揚げ足取りが。
自首を先延ばしにしてまでの現行犯罪者による。
312 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 15:39:25 0
>>311 神官気取りがほざいてんじゃねえよ。おまえも犯罪者。
くやしかったら世界をかえてみろw
>>307 陰陽道のなんたるかも知らずして諸事象を陰陽の法則などと
一括りにしないようにね。知ったか君。
で、具体的漢文例は見つかった?検索じゃ出てきません。
>>311 揚げ足取りにならないように書けばいいだけ
取られるのは君がそれだけの器じゃないってことじゃないか?
正直どーでもいい、もう。
おまえらへの返答なんてどうでも。
犯罪者にやらされることなんて、所詮は犯罪の解決止まり。
犯罪者が逮捕されてからの、純粋に道徳的な活動
並みやそれ以上には決してならないから。
悪くなくて善いものの構築に、善悪みそくそは禁物だから。
316 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 16:32:39 0
>>315 逃走わろたw
まあおまいはアスペルガーみたいだから精神科いけ
そのうち犯罪者になるのはおまいと見た。
317 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 16:39:08 0
逃げたわけじゃなくて目潰しと裏両方取られていのち危ないから出た
わけだが。おまえらはいまだに裏取られているが危険な目にあったのは
おまえらだけじゃない。とうのむかしに経験したわ
318 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 16:46:20 0
どうみても逃走ですw
意味不明。
何もしない。善いこともしない代わりに悪いこともしない。
悪いことをせずに善いことをするのに比べれば下だが、
善いことをせずに悪いことをしたり、
善いことも悪いこともみそくそにしたりよりは
確実に上、つまりおまえらよりは上だ。
地獄の皇帝、悪の天皇、閻魔大王に不動明王、それだけでも今は十分に満足だ。
地獄の竪穴に落ち込んであがき苦しんでいるおまえらを
かわいがってやってもいいが、別にしなくてもいい。
虫けらをいじめて気晴らししなけりゃ気が済まないほど別に不満でもないから、
どうしても教えていただきたかったらもっと礼儀をわきまえろってんだ。
「こんなゴミクソクズカスなどにお目汚しなされて申し訳ありませんが、
何卒ご教示のほどよろしくお願いいたしますぅー!フガフガ」と、
極重の罪人としての分不相応の態度で臨みなさい。
そうでないと例え教えられる内容があっても教えたくなくなるから。
>>319 そんなの誰でも知ってるんでよけいなお説教はいいですよっと
もしかして自分だけが知ってるとでも思ってる?
君より知識人なんてごまんといるわけで。
321 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 16:57:04 0
おまえら偉そうなこと言うまえに河のことわかれw
全国各地まあ特に関西だが
クローズゼロも意味わかるよな?
どうすればいいかもわからずにやるな
322 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 16:57:50 0
ついに本性が出ましたw
煽りがいのあるネットこじきだなあ
>>320 知ってたって誰もできちゃいねえから。
悪いことをせずに善いことをするのはおろか、
善いことも悪いこともしないでいることすらできない多動性傷害。
だから純粋に善良である楽しみも知らなければ、
少しだけでも劣悪であることの苦しみもまた客観的には分からない。
常に劣悪であり続けているが故の苦しさの中だけで、断悪修善のための知識なんか得た所で
全くの絵に描いた餅。餅の味なんか決して分からない。
それが今の仏教学者とかカルト教団とかの有り様。
つまり今の全人類の有り様、カルトに支配された全人類の。
悪くなくて善いことなど、知った所で決して味わえはしない、画餅。
おまえらだからだ、それは。悪の苦しみの内側でしか何も考えられない罪人だから。
>>323 君もここで吠えてるだけでなにもできちゃいないんだが
>>323 人を貶めるようなことばかり書いてさあ
罪を償うのは自分のことじゃないか?
とても禊が済んでるような文章じゃないなあ。
326 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 17:26:24 0
打たれ弱いやつだな
ご高説がいつのまにか逃避になる
恥を知れ。
仏法が所詮は「画餅(わひん)」であると主張できたからには、
道元禅師自身は仏法を味わってるんだ。諸悪莫作衆善奉行のうまみを。
親鸞聖人も罪徳禍福の因果を体感できたからこそ、悪人正機を提示もできたんだ。
「分かる」ということと「できる」ということも違えば、
「知っている」ということと「(味わえるほどに)分かる」ということも違う。
できるかできないかで言えば、仏法はそうそうにはできない。
一方で、分かるか分からないかで言えば、仏法は分かるもんだ。味わえるほどに。
道元禅師はあくまで前者の意味で仏法を画餅だと言った。
でも今は後者の意味ですら仏法が画餅となっている。
善良さの楽しみと劣悪さの苦しみの分別もつかないほどに、善悪がみそくそと化している、
故に仏法が知れた所で実践できず、さらには味わえるほどに分かることすらない。
分かってない、おまえらは。
知った所で少しだって分かってない。断悪修善という仏法の味わいすらが
一度だって体感されたことはない。常にいつも画餅であり続ける仏法。
実践しろとは言わないから、せめて味わえる程度までみそくそを排してみろってんだ。
>>327 それだけのこと言えるんだったら君が排除してみればいい。
できないならその程度の器。てできるわけないかw
同じこと言わせないようにね
君は禅師でも聖人でも仙人でもない。ただの薄汚れた人間だ。
できないが分かるんだ、仏法の味わいが、今の俺にゃあ。
でもおまえらは知ってたって分かりもしねえ。善楽悪苦の連動すら把握できねえ。
だからおまえらは苦しんでんだ。自分らではそうとも分からないままに
極重の辛苦の内側だけで右往左往してんだ。
それに比べれば、善楽悪苦の連動を把握して、善いものに寄り添って楽となり、
悪いものを避けて苦しまずにいる、自分自身の恵まれ加減に大満足ってなもん。
少しだって何かを自分から解決しようだなんて思わず、またその能力がないとも自覚している。
ただ、自分自身が救われているんだからそれでいい。
仏法の味わいによって苦しくなく楽な人生を凡夫ながらに
送らせて頂けて感無量となっている。
いちいち「何とかしろ」「救ってみろ」とか義務を課そうとしているのは
自分ら自身こそが何とかされたい、救われたい存在だからだ。
苦しみの最中にあることを体感できずとも察知しているから。
別にこっちにとっちゃどうでもいいこと。
何とかされたけりゃ、救われたけりゃただ自首すりゃいいだけなんだから。
こんな薄汚れた凡人なんかに頼ろうとせずに。
>>329 別に苦しんでないんでwていうか自己紹介してんの?
救われたいなら素直に祈ることだね。
何を味わってんのか知らないけどたぶん幻だと思うよ。
だからここに書き込んでるとw
君は宗教病だよ。
何かしろ何かしろ、とにかく「何かをしろ」っていう多動性障害の強要、
その時点ですでに、立ち止まって自己を省みる切実さが疎かになってんだ。
よくよく考えてみりゃ、辛く苦しいだけでしかないその人生を、
とにかく動き回ることで省みるまでもないことにする逃亡癖が備わっちまってる。
それこそは宗教病だ。犯罪なんて目を背けてりゃそれでいいという、盲目カルト病の重症患者だ。
普通はそんな状態に人間はねえんだ。善いことして楽しい悪いことして苦しい、
切実には常にそうであることが、悪いことをして何億も稼いだり、
善いことをして一銭にもならなかったりの数の差別によって撹乱されている。
人間の本性に即した場合の善は楽であり、悪は苦である、
統計上の数遊びに没頭している人間であればあるほどその現実が分からなくなり、
分からないままに世の中を振り回して破滅へとも導く。
盲目者が、盲目者であることにより世界を左右する権利を手に入れ、
以って世界を破滅へとも導く。人間の格の上下が転倒した世の中に相応しい末路だ。
332 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 19:06:45 0
いいかげんうぜえぞ、クソが
全部てめえのこと言ってどうすんだ
とりあえず、何もしないために檻に入れ。
善いことをする楽しみ以前に、悪いことをしない無苦を知れ。
それからでないと、純粋に善いことをする純粋な楽しみも想像すら付かない。
善悪みそくその内側でしか何も考えられない前提が払拭できない。
己が罪から逃避し続けてきた犯罪者が行動を停止する、
その未曾有の苦痛を受け止めろ。最期には極楽ともなれる事実に基づいて。
心底罪を受け入れた、ゲロしきった相手であれば、
紺色の服を着たお兄さんたちも、決して辛く当たったりはしないから。
罪深さ故の不可避なるその辛さ苦しさを察して、哀れみの心を持って接してくれるから。
罪福の道理は真実の道理だからこそ、警察による逮捕のような
現実の問題処理までをも司っているものだから。
現実を受け止めて、しかも信じて。
どんなに巧妙な手管を尽くそうが、「悪」な時点で無駄なもんだ。
人間の本性に即して悪であると定義されるものである以上はつまらない。
純粋に善であるものの楽さ楽しさと比べて、圧倒的につまらないんだ。
そいで、悪か善悪みそくその内側でしか何もできなくなっているのがおまえらだ。
どんなに巧妙な手管を尽くせたとしても、結果的にやっていることはいつも
悪か善悪みそくそとしか定義され得ないもの。決して純粋な善であるだなどとは
定義し得ないものになっている。そのせいで、例え自動車も飛行機も携帯もPCも
なくとも、純粋な善の活躍が許されていた江戸時代や平安時代の事物と比べて
何もかもがつまらなくなってんだ。最先端技術も所詮は悪や善悪みそくその産物
でしかない、故につまらない。日本刀や金剛杵の気高さの足元にも及ばない。
純粋な善を捨てて悪や善悪みそくそに逃げ込んでいるからこそ、資本や重工業
の増大が見込めている所もある。玉鋼の日本刀の所持を禁ずることで、くず鉄
を組み合わせて造り上げる自動車が大量生産されているところもあるから、
純粋な善の楽々さに移るためには、悪や善悪みそくそによって積み上げてきた
ゴミの山をいい加減処分しなければならなくもなる。純粋な善と、悪や善悪みそくそ
は相反しているから、悪や善悪みそくそによってのみ尽くしうる巧妙な手管などは
捨て去って禁治産措置も受けねばならない。原則的に常に悪や善悪みそくそ
でしかないから、何をやっても結局は全てつまらないものだったという、
自らの徒労の自覚の受け入れと共に惨めな終焉を迎えるのだ。
おまえらが人の気持ちを踏みにじってどうとも思わないのと同じように、
こっちだっておまえらが惨めがろうが悩み苦しもうがどうでもいいんだ。
他者を蚊や蝿程度の大きさにしか見えない距離からしか慮らないような人間は、
相手からも蚊や蝿程度の大きさにしか見えなくなっている。お互い様の見下しあい。
しかも今になって普遍的に楽なのがこっちで、普遍的に苦なのがそっちだと知れた。
資本の運用規模ではむしろ真逆である彼此の関係が、苦楽に関しての普遍的な判定を受けた。
だから今さら「俺らを哀れめ」とか言われた所で、自業自得すら自首によって払拭しようともしない
うちから哀れんであげようだなんて、阿弥陀様でもお断りってなもん。
>>330も誹謗正法っぽいし。
要は、徹頭徹尾醜悪であればいいだけの話だ。逮捕されて実名と年齢と顔写真を「〜容疑者」
付きで公開されて、醜悪の限りを尽くしてきたシステムも機材から公開されて、憎悪に満ちた
衆目に晒されつつ、檻の中でオロオロ泣き崩れるざまになりゃあ。それが今のおまえらの完成形、
今でも相当な辛苦のさ中ではあるが、犯行が自首と共に公開されることで辛苦の実在も
決定的となる。「いつまで辛苦から目を逸らせ続けられるかゲーム」のゲームオーバーであり、
ゴールでもある。幸福から一転して不幸となるのではなく、今でも不幸なのがさらに極まって、
究極の醜態を晒した挙句、何とか真の幸福への階段を昇り始める機縁をも手に入れる。
少しだっておまえらが本当に幸福だったことはなく、悪因苦果の内側だけで何もかもを
済ましてきたその悪癖を、残りの人生を以ってして払拭し、例え自分自身は極刑などにより
現世での往生の望みが絶たれようとも、おまえらの子供が悪因苦果の世襲から脱け出せる
程度の果報は確かに望めるものだから、何にもならないだなんて虚無は抜きにして、出来る限り
のことをやって、出来る限りの望みを繋いどけ。別にこっちにとっちゃどうでもいいことだが。
世界の果てまで逃亡するよりも楽で楽しい自首だ。
昔からネットには非モテが多かった。顔ぶれは随分変わったが、やっていることは大して変わりない。
俺ももちろん非モテだ。当時流行ってたテキストサイトの影響もあって、クリスマスは徹夜で更新し続けたり、
エロゲー画面にケーキを供えたり、オープンしたばかりのメイド喫茶でオフ会したり、
それなりに楽しい非モテライフだった。
当時の仲間うちの平均年齢は、30歳弱くらい。今思うと、みんな余裕だった。
非モテって言ってもたまたま今彼女がいないだけで、イケメンの人もいたし、高年収の人もいた。
なんだかんだ言ってもそのうち結婚できるんじゃね?って思ってた。
実際、その後結婚して、ネットから疎遠になっていった人もいる。
「○○君って、もっとオシャレすれば絶対モテるのに」なんて言われていい気になりながら、
「いや俺はさくらたんしか興味ないし」とかふざけた答えを返していた。
で、久しぶりにオフ会に行ったら、当たり前だけど当時30代だった奴ら、今は40代だ。
イケメンはハゲデブになり、もともとキモヲタだった人は、末期的キモヲタ中年になっていた。
「非モテ」「ヲタ」「童貞」「一生独身」「孤独死」
昔は、対抗文化を共有するための合言葉だったこれらの言葉が、急に現実味を帯びてきた。
自虐ネタで笑う余裕がなくなっていた。
リアルに一生独身で童貞のまま孤独死するんじゃね?という悲壮感がぷんぷん臭って、
とてもじゃないけど昔みたいに「この非モテが!」とお互いに笑い合える雰囲気じゃなかった。
非モテのお前ら、ハゲデブヲタ童貞で孤独死する覚悟が本当にあるのか?
すぐに結果にはつながらないめんどくさい努力を勧められる煩わしさを避けるために
「俺三次元の女の子に興味ないし」と言ってるんじゃないか?
生ぬるい非モテコミュニティの中で余裕こいていられるのは今だけだぞ。
今はめんどくさいから後回しって思っていても、あと数年すると、本当に取り返しのつかないことになる。
40歳過ぎてから「やっぱり結婚したい」と思っても、その時から努力し始めてももう遅いんだ。
その時になってもまだ「※ただしイケメンに限る」とか言ってますか?
妻子がいようとも犯罪者は犯罪者だ。独立系統の体裁を整え始めた悪性のがん細胞だ。
アフリカの女子供を餓死させることで初めて食わせられている女子供、
自活能力が低かったり無かったりする女子供たち自身にまで責任は問えないものの、
社会に致命的な迷惑をかける職分のままで家庭を立ち上げた亭主への責任は問われる。
甲斐性無しなどころか、「負の甲斐性」持ちだった犯罪者の夫、そんな夫を
配偶者に選んだ妻も「見る目がなかった」のは確かで、夫婦共々の恵まれない家庭に
生まれた子供が、引け目を感じたりいじめられたりの不幸に遭遇するのも
あくまでいけないことではあるにしろ、ある程度は起こってしまうのも仕方のない側面がある。
亭主が犯罪者である家庭なんて、始めから存在するべきでなかったものなのだから。
340 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 21:22:33 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20265&if=gb 「左伝」昭公二十五年夏に、礼について趙簡子に問われた子大叔が、
陰陽五行に深く根ざした説話を述べる。
礼は天地の道に則るものであり、天の普遍性と地の流動性から導出される六気や五行に程よく接するもの。
あまり深く関わりすぎて酩酊状態と化したなら、本性に則した思考や言動ができなくなるので、人間が
自分たち自身の自主性に基づいて自己を整えることが礼となる。君臣父子その他の上下関係を守り、
政治や刑罰も過不足のない適度さを保ち、本性からして「善い」と定義できるものこそが楽しいものであり、
本性に基づけば「悪い」と定義されざるを得ないものはつまらないものであるのだという原則理解を徹底させる。
善いものがつまらなかったり悪いものが楽しかったりの原則の転倒や、善悪を錯綜させるみそくそ処理など
によって楽しいつまらないの分別がなくなってしまうと、海水でのどを潤そうとするような、本当は楽しみ
でない偽造の楽しみを無闇やたらに追い求める徒労をも招きかねない。すると、人間は極端な楽しみと
悲しみの両極端に振れきる双極性障害と化して、天地の道理に反した短命の人生しか送れなくなる。
楽しみも悲しみも程よく治めるための、善楽悪苦の分別の徹底と、それに基づいた適度な苦楽での満足の
希求こそが、個人から社会全体に至るあらゆる段階においての礼の本質的な存在意義たりえている。
341 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 21:52:13 0
「禮の以て國を為む可きや久し。天地と並ぶ。君は令し臣は共し、父は慈に子は孝に、
兄は愛し弟は敬し、夫は和し妻は柔に、姑は慈に婦は聽くは、禮なり。君は令して違はず、
臣は共して貳ならず、父は慈にして教へ、子は孝にして箴め、兄は愛して友に、弟は敬して順ひ、
夫は和して義に、妻は柔にして正しく、姑は慈にして從ひ、婦は聽きて婉なるは、禮の善物なり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」昭公二十六年より)
斉の景公がよい国の治め方を晏嬰に問うたところ、「農民は土地を離れず、工商民は職を替えず、
士もまた職分を守る」などの、士農工商制の起源とも言えるような統治体制のあり方を「礼による
統治」として晏嬰が提示した。天地万物の道理に適度に従う礼に基づけば、上記の引用のような
家族社会における序列と同じようにして士農工商の序列もまた導き出され、他国に侵略の口実も
与えなくて済むような立派な社会が育まれることともなる。
非常に事細かな序列ではあるものの、「兄は弟を愛し弟は兄を敬う」というように、よくよく考えて見れば
確かにそうである、人間関係の不可逆性を提示している。もしもこれが、兄弟の上下関係が把握されて
いなければただの「友愛」にもなってしまう。これはただ人間関係への観察が綿密か粗末かだけの違いで
あって、友愛もちゃんと上下関係が守られれば自ずと兄愛弟敬となる。士農工商も事実としての職分の
上下関係が見定められれば自然とそうなるのであって、四民平等なんてのはただ上下関係への見定め
が曖昧と化してしまっているだけ。事実として人間には年上もいれば年下もいる、常に死を覚悟して
いなければならないような大変な職業もあれば、金を右から左へと動かしてればそれでいい職業もある。
それらを平等視してしまったんじゃ、結局はそのほうが事実に即せば差別となるのであって、年上だから
愛し年下だから敬う、大変な仕事だから敬われ簡単な仕事だから卑しまれる、現実に存在している
事実上の差別に基づいて、適度な関係性を保つことが、天地の道理に基づいた礼となるものだ。
342 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 22:33:41 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20317&if=gb 「左伝」二十八年最後尾、清廉潔白さが評判である魏子が、訴訟事件を自分たちに
有利に進めてもらおうと考える梗陽の人間から賄賂(しかも女)を送られようとしている
という話を聞き、魏戊は魏子の下役二人に「なんとか賄賂を受け取らせないように」と忠告をした。
そこで二人は魏子に食膳に招かれた際に、わざとらしいため息を三度繰り返した。食後に魏子が
その理由を二人に問うと、「一度目は料理が運ばれてくる前に少ないのではないかと気にして、
二度目は大量に運ばれてきてその多さに感嘆して、三度目は食事が済み適度な量が一番だと
結論してため息をついたものです」と説明した。これを聞いて魏子は梗陽からの賄賂を断った。
ほとんど禅問答かとも思えるほどに不可解な史話。自分たちが小人であることを見越した上で、
「私たちも君子のように足りるを知ることを肝に命じました」と非常に遠まわしの忠言を行なった。
天地の道理に沿わんとするあまり、時に礼は狂言じみた、ねじくれた言動までをも要求する。
頭の中だけで考えることがねじくれきると複雑な数式になったりもするが、人間関係に直接
複雑な数式並みのねじくれを当てはめることで、物事を適切に処理する技巧が凝らされる。
規矩準縄を科学などではなく人間自身の振る舞いに直接当てはめることでこそ礼儀は成り立って
きたものだから、思考の迷宮に何もかもを還元する帰納主義とは自ずと相反したものとなる。
科学が分かる人間には礼儀がわきまえられにくくなり、礼儀をわきまえる人間には科学が
分かりにくくなる。規矩準縄を礼儀と科学、どちらに用いるかという選択が問われ、
科学が完成終結した以上は礼儀の選択が要求される。そういうこと。
343 :
考える名無しさん:2009/05/05(火) 22:55:29 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20327&if=gb 「左伝」昭公二十九年秋、龍が晋の都、絳の郊外に現れたとの話がある(春秋経にはない)。
たぶんワニか何か。これまでの左伝の記述の現実性からして、架空の生き物が現れるのは唐突すぎる。
この後にも易などからの龍に関する説話が引用されて、まあ、龍を入れときたかったんだなあという、
作者の戯れが汲み取れてほほ笑ましい。鬼神に関する説話は道教などに丸投げして、もっぱら
現実の社会問題にこだわる儒家も、多少は迷信みたいな話を四書五経中にも入れている。
いかにも空々しい、冗談じみた扱いではあるものの、そのような形であれば迷信も受け入れてやって
構わないという大人の余裕が垣間見られる。本気で迷信を信じ込んだり、それに反発して徹底的な
無信仰と化したりの、お子ちゃまちゃまちゃまな右往左往こそが原初の時点から儒家にはない。
鬼神なんて気の屈伸でいいじゃないか、気の屈伸ごとき信じ込む必要も完全否定する必要もないじゃないか、
余裕を持っておかしな話にも接する、子供をあやす大人としての揺るぎなさこそがそこにあるわけで。
>>343 嘘ハッタリ解釈禁止。
ていうか君は左伝とか注釈しか読まないのな
だから漢文引用できない。なーるほどw
ちなみに四書五経の入門は
平凡社の四書五経入門-中国思想の形成と展開-が最適。
346 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 03:26:12 0
347 :
Hannibal ◆Lwtv9RqBLQ :2009/05/06(水) 07:07:41 0
なあ、おっさん。ブログ始めたら?
このスレの1レス=1記事としたら、もの凄い更新回数になるよねw
おいおい、経伝併載の現春秋の形態も知らない輩がなんか言ってるぜ?
両方読めば春秋の経文がそのまま引用するような代物でないのはすぐ分かるのに。
現代の商人の書いた読書感想文なんか読んでるんだったら、
訳文からでもいいから本文のほうを読めってんだ。
「易経」は文節を自在に組み合わせることを前提としてるし、「詩経」は詩集だし、
「書経」は真古文と偽古文の併載だし、「春秋」も注釈との併載が慣習だし、
五経の中で普通の文章体裁になってるのって「礼記」だけ。まさに業務用。
読み手へのおもねりなど一切排して、とにかく必要な情報だけを簡潔に記している。
「論語」や「孟子」も五経に比べれば体裁が初心者向けになっていて、
四書と五経の間にも厳然たる格の違いが備わっていることが分かる。
本気で儒学を実用するんなら四書だけでなく五経の素養も必要。もちろん朱子学よりも先に。
349 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 12:26:53 0
とりあえず漢文スレにでも晒しとくかw
350 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 12:43:33 0
「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆うし」
等に見られるように
論語はいいことも言ってるけど
処世術臭がするところが嫌いだし
本当に深いところまでいってる思想ではないと思う
湯川博士も論語がきらいだったのを最近知ったけど
そういう風に感じてる人も実は多いんじゃないかな?
351 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 13:54:49 0
処世術臭がするんじゃなくて、儒家は厳密に世俗道徳だけに割り切った教学体系。
車が別に好きじゃなくても、仕事上運転免許を取得したりもする、今で言えばその
運転免許に当たるような資格取得の、超高級版が儒家教学の修得だったわけだから。
始めから好き嫌いで修得を選択したりする人間などおらず、浮世を超えた絶対真理を
追い求める人間ならば、弘法大師のように大学中退でもして仏道に臨んでもいったわけだ。
今では大学だろうとも儒家教育が満足に行き届くことはない。漢文を勉強したところで
所詮は「読めて嬉しい」止まり。言動一致レベルの体得を目指すことなど決してなく、
体得の可能度を保証するためにこそ、あえて清濁併せ呑む世俗倫理だけに教学体系を
限定している儒家の本領が少しも発揮されることはない。世俗道徳ぐらい当然のこととして
実践しておけという、最低限の大人しさのわきまえすらも疎かになっている社会で、絶対真理
など追究された所で、どこまでいっても画餅でしかない。実践どころか理解でも画餅止まり。
犯罪推進≪世俗道徳≦絶対真理という、同一直線上の上下関係をまずはわきまえねば。
犯罪推進≪【世俗道徳≦絶対真理】
〔犯罪推進〕≪世俗道徳≦絶対真理
【 】が東洋教学の重点的捕捉領域。〔 〕が西洋教学の耽溺領域。
世俗道徳と絶対真理が等号付き不等号で結ばれているのは、
浄土真宗の悪人正機と、孟子の性善説・朱子の性即理説が
最低限の絶対真理と最高級の世俗道徳の追求でもって
不可避なる一致を果たしているから。
人間の本性が善であり理である、故に善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
山(真理)の住人と平野(道徳)の住人が裾野で落ち合った最強同盟。
両者に結託されたんでは、穴ぼこ(犯罪)の住人もちょっと敵わない。
353 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 14:22:11 0
現代思想の方が深いよな。難しくて読めないけど。
354 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 14:34:10 0
処世術と文殊の木はK9」に由来する
↑読めなかったら、深さも分からんじゃん
あ、353ね
平野の取り決めに深さを求めてもな。
「高すぎる所にも低すぎる所にも行くな」と礼記にも書いてあるし。
358 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 14:44:39 0
論語なんて孔子の愚痴と屁理屈じゃん。
じゃあ、お前はわかってるのか?
分かってるさ。どれぐらい分かっているかと言やあ、
おまえらと同じぐらいに分かってる。
論語程度の初級道徳への理解に深いも浅いもあったもんじゃない。
ただ、その幼稚園児でも分かる程度の初級道徳を、
「こんなもん親父の愚痴でしかねえ」と破り捨てているのがおまえらで、
「確かに親父の愚痴にも見えなくはないが、人間の正しさってのはやっぱり
ここからしか始まらないから」と見直しているのがワシだ。
5000年の歴史を持つ易経も含むあたり、四書五経は厳密に
人類最古(かつ健在)の古典文献でもあるから、
走り幅跳びが厳密な記録として残されるための踏み切りラインの要領で、
四書五経を人類文化文明の初歩的な標準として認めるもの。
仏典や古代インド教典以上に、しらふの人間の普遍性を示した証拠として、
全人類の正しい行為能力の免許証として論語などを推すものだ。
360 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 15:42:37 0
論語に書いてあることが実践できないのは馬鹿だからではない
何も実践的なことが書かれていないからだ
なぜ書かれていないかと言うと孔丘自身礼など知らなかったから
論語に書かれていることなど孔丘のはったりでしかない
そんな本に何か深遠な価値があると思い込んでいる奴は江原信者と一緒
論語に書いてあることのほとんどは「するべきこと」じゃない。
「最低限しないでおくべきこと」だ。自分が嫌なことは人にはしないとかの。
その上で勧めているのが「勉強しろ」とかだ。自分が嫌なことを人にしないための勉強。特に礼儀。
それもまた初級道徳だから。そこで終わるためではなく、そこから始めるための。
始めから何もかもを教えられるほど人間はできた生き物じゃないから、
そのような初心者向けとしての配慮の行き届いた賢人の言行録さえも
「できること(しないことを含む)が何もない」という。
どれだけ負の行為能力を抱えているかってことの証拠だ。
犯罪の推進を前提にしか何もできなくなっていることの証拠。
人間は幼稚園児から成長することもできれば退化することもできる。
退化する方向に耽溺してしまった以上は、幼稚園児まで成長する程度の服役期間が必要となる。
例え残りの人生の全てを費やす必要があったとしても。
362 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 16:20:01 0
何を熱くなっているですか。
孔子は「俺こそが次の天子」という妄想を実現しようとした危険人物。
孔子の同時代人にとって、孔子の思想は体制を転覆しようとする危険思想じゃん。
江戸時代までの東洋社会においては、仏教は「分かるができないもの」、
儒家は「分かるしできるもの」だった。それが昨今の犯罪推進社会においては、
仏教が「知った所で決して分からないもの」、儒家が「分かってもできないもの」と化している。
知覚→理解→実践という段階分けで、理解止まりと実践向けに住み分けていた仏教と儒家が
犯罪推進主義による足の引っ張りを受けて、仏教は知覚止まり、儒家は理解止まりと化している。
【世俗道徳≦絶対真理】で完結していた社会に、〔犯罪推進〕という不安定要素が混入し、
世俗道徳≪絶対真理≒犯罪推進であるかのような誤解までもがまかり通って、
結局は世俗道徳を司る儒家と絶対真理を司る仏教との、両方ともが被害を受けている。
悪知識との友愛を強要されて自分らまでもが貫目を下げている。
まずは犯罪推進≪世俗道徳≦絶対真理という正しい順位からわきまえること。
踏み切りラインも守らずに好き勝手な場所から走り幅跳びをして「新記録が出た」
とか嬉しがってる奴らは全員反則負けにして、幼稚園児でも分かるからこそ
これぐらいはやっておけという、論語含む四書五経を踏み切りラインとした正当競争を認めること。
>>362 真面目に答えるのも煩わしいけれども、儒家は天子と平民の中間管理職としての
士人の養成に特化した学問だからね。礼記にも左伝にもその旨の記述がある。
自分自身への権力の一極集中を目論んだ秦の始皇帝に忌み嫌われて弾圧を受けたのもそのせい。
天子と民との意思疎通を目指す緩やかな統治論理が独裁者には嫌われる原因となる。
365 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 16:48:27 0
講師がよく言っている「自分の身の程を知れ」=「自分の階級を知れ」てことでしょ?
結局「奴隷は奴隷らしく」ていうようなことじゃん、ダメダメです。
「主人と奴隷」なんていう、頂点と底辺しかないピラミッド型の二極化社会を作り出さないためにこそ
大夫役人士農工商、緩やかかつ誰しもがちゃんと考えれば納得のいく序列をわきまえよということ。
完全なる奴隷化か完全なる平等かなんていう、現実社会に当てはめる上では
あまりにも粗暴に過ぎる極論こそを避けよということだ。
367 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 17:30:48 0
孔子はいまでこそ持てはやされているが
彼自身の生涯はどうだったのであろうか?
後悔と挫折と絶望の繰り返しの末、望み叶わず老衰死だったと言えるでしょう
所詮、孔子は理想論であり奇麗事だけです
漢代以降の中国史の概ねと、徳川300年を司る理想論、綺麗事だ。
権力犯罪者や奴隷ぐらいはいなかった、それなりに良かった、
今よりは確実にマシな時代だ。
369 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 17:53:20 0
論語って何が凄いのか分からない
他に読むべきものが中国には沢山あるじゃん
なんであんなに有りがたがってるのか意味不明
論語すら受け入れられない人間が多いことは、言っちゃ悪いが、
見下せる人間の多さに安心感を抱かせる原因となる。
最低限ウ○コを食わずに人間の食べ物を食べ始める取っ掛かり、
共食いぐらいはやめる取っ掛かりすらが受け入れられない人間の多いこと、
まだまだ地獄餓鬼畜生相手に自分が見下しを続けられる根拠として、
安心できる。こんな低レベルの小競り合いだけで何もかもを済ませられる
人間関係上のお得さ加減に、思わずまた感無量となる。
外道のボケ相手に突っ込みを続けるだけで、暫定世界一であり続けられる程に
正道への追求を蓄えておいてくれた先人がたに感謝。人
371 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 19:00:17 0
へ?
仏教=山
儒家=平野
洋学=穴
平野にすら辿り着けない
穴ぼこの住人の多さへの安心感。
373 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 20:10:44 0
へ?
穴≪平野≦山
犯罪推進≪世俗道徳≦絶対真理
375 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 20:40:48 O
やまねイルミネーション
現実逃避開始
377 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 20:43:49 0
女
378 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 20:49:38 0
本とに論語って面白いか?
つまらない言葉ばっかりじゃん
運転免許取得の教習が面白いか?
面白いのはあくまで免許取ってからのドライブじゃないのか?
免許持ってないから知らんが。
380 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 21:19:20 0
じゃあ論語それ自体はつまらない、と
それ自体に大した意味なんてないってこと。
特にどうというわけでもない、普通の人間第一次試験:論語
礼記や左伝の内容を鑑みれば、孔子が不世出の偉人と称えられるほどの
儀礼や政治思想に関するエキスパートであることはよく分かる。
でも、それ以前に何より孔子が「普通の人間」として揺るぎない風格を備えていた
ことこそが肝心なのであり、何か特別なことをしたから偉いのではなく、
何もしないにも関わらず偉大であるという絶倫さこそを敬う指標に論語がなっている。
特にどうというわけでもない所から、自然に沸き上がってくる生命力だけでも満足してしまう。
何も負債のない所から何もかもを気軽に始められる、軽快さの素地こそがそこで完成する。
徹頭徹尾人間臭い。
あまりにも人間臭すぎて思わず笑ってしまう、そこがミソだ。
のっそりしたおっさんという、どちらかといえば取っ付きにくい人種にも関わらず
笑ってしまうほどに罪も他愛もない朗らかさを備えてもいる。
天地の理気を捉え尽くしているが故の揺るぎなさに満ち溢れていて、
本人の気性即宇宙の真理であるが故に、もはやそこに特徴的な性格は何もない。
悟りを得た仙人というような趣きすらなく、ただあるがままの人間であることにより偉大である。
人間がただの人間であるがままに偉大であると、
初めて明確に提示された記念碑としての意味もある論語。
同時期の方々の古典文献と比較してもその素朴さが突出している。
どっかの誰かが父を殺し、母を犯し、自身の両目を刳り貫いて放蕩の旅に出る妄想を
してたより少し前に、すでに過ぎたるは及ばざることを確信していた人類の大先輩。
結局は普通が一番であることを、釈尊と共に原初から見抜いていた中正の祖といえる。
女だから論語から学ぶことが何もないだなんてことも決してない。
日本の女は、ブスだろうとも性格が良くて外国の男に好かれたりする。
その理由は、今一つは記紀神話や女流古文によって、女の通俗的な偉大さが確立されているからで、
もう一つが、論語含む儒家教学によって、男を立てつつ付き合う術がわきまえられているから。
侵し難い男の威厳を、女ながらに慮って尊重の対象とする用意が論語などでできる。
女の神聖さを卵巣まで遡って証明するアマテラス神話により、
男の側もまた女の不可侵な部分を察する。器質的に事実同じでないものが
何もかもを共有し合おうとする窮屈さを控えるための距離感の指標となり、
家では夫が、世間では妻が助役に回ることでお互いを立てる大人しさも知る。
日本の女がブスでも性格のよさだけで気に入られるぐらいだから、
美しい外国の女が論語や日本の古文によって性格のよさも手に入れれば鬼に金棒だ。
そういう鬼嫁ならどうぞいらっしゃいませってなもんだ。
今年が皇紀2669年、神武天皇即位が紀元なんで、アマテラスがいたとすればもっと前。
うまいこと孔子や釈尊よりも天照大神が年上になるように計算されてんだな。
古典文献上は、記紀は四書五経や原始仏典よりも千年前後も後代のものなのに。
要はアマテラスは産婦信仰の化身なので、人類誕生から今に至るまで
ずっと人類という種族を生身で産み出し続けてきた全ての女がアマテラスに当たる。
アフリカで発生した初めてのヒトだったメスの猿人から、
美智子さま雅子さまに至るまで本当はみんなアマテラス。
その内の誰としてもいい所を、ちょうど人類中で最も偉大な男たちである
釈迦や孔丘よりも少し前の産婦に当てはめている。
もちろんその頃にも産婦はいた。何よりも釈迦や孔丘自身が母親から産まれている。
文化文明はそのほとんどが男によって作り上げられてきた一方で、
ほぼ全ての男もまた女の腹から産まれている。男女の格差をカウンターバランス
の補完によってうまいこと埋め合わす最後の鍵に記紀神話がなっている。
二松馬鹿さん?
初めての人類であるメスの猿人からしてアマテラスなので、
実はアマテラス信仰は究極の人類信仰でもある。
もちろん人類以前の猿や鼠などにもメスはいて、
雌雄が存在する生物は必ずメスが先に産まれ、オスが後に産まれる。
だからアマテラス信仰は究極の生命信仰ともなる。
より原始的な生物まで遡ればもはや性別がなくなりもするが、
それでもほぼ全ての生物は太陽からの熱量補給によって生育する(一部地熱に頼る生物もいる)。
だから、アマテラス信仰は厳密に太陽信仰としても正当なものとなっている。
人類、生命、太陽、あらゆる文化文明の母体の化身としてアマテラスがいる。
誰とは言わず、さらにはどの生物という区別すら必要でない、
とにかく母体としての価値を持つ全ての存在を総括する、あまりにも壮大すぎるアマテラスという理念、
一方で産婦という現実段階にまで確かに落とし込めもする。
受精や出産といった女性性の極みが、人類や生命や太陽といった至上の母体性に
確かに直結しているものであると、知識によっても感覚によっても掴み取れる。
新たな命の息吹に対し、誰しもが感覚的には察していたその神聖さの根拠を、
今一度知識によっても提示しておく。
男としてアマテラスの奥義を語ると、何かこう、ポーッ・・・となるんだよね。
酒にも薬にも刺激的なオーディオビジュアルにも頼らずに、
ただ思考や言葉でその部分を突き詰めるだけで、
ヤバい領域に踏み込んでいるのを感じるんだね。
本当に受精や出産をする女だけが立ち入りを許される、
禁断の神秘領域が立ち現れるのを感じて、
思わずたじろいでしまうわけだね。男としては。
ぜひそこから先を体験してもらいたいもんだね。
それが本当に可能な誰かさんにこそ。
388 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 01:37:05 0
「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆うし」
等に見られるように
論語はいいことも言ってるけど
処世術臭がするところが嫌いだし
本当に深いところまでいってる思想ではないと思う
湯川博士も論語がきらいだったのを最近知ったけど
そういう風に感じてる人も実は多いんじゃないかな?
女は陶酔を糧に生きる動物なので、しらふの教学である儒家を自分自身が体得するのには向かない。
ちょうどしらふを基本とする生物である男が、アマテラス神話に基づいて受精や出産を仮想すると、
まるであてられたようにクラクラとなるのと同じで、己の領分を超えた危険性を察知してたじろぐ。
それでいいんだ、別に。ただ相手を慮れる程度にその特性を察知できれば。
例え抱き合って接合しようとも、侵害できない部分はやっぱりある。
いくら追い求めても届かない相手の核の正体を、文章だけででも把握してできる限り納得しておく。
こちらはアマテラス神話によってそれなりに納得できた所がある。
完全なる体感などは物理的に不可能にしても、神聖不可侵なその部分を
確かに尊重しなければならないとの義務感を抱いている。
体得できないにはできないなりの、できる限りの察知に基づいて、必ず大事にしていくと誓う。
390 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/07(木) 03:10:58 0
かなり進んでいるようですが
>>220>>221さん
私はこの名前で6年近くやってますので変えるつもりはありませんので
あしからず。
また何か誤解されているようですが
権力者を否定してるのではありませんよ。
敵とすべきは
>>219で申したように
「己自身の己惚れ」です。
それがどこから来ているのか、それを観じ、調整する
それが「唯識」です。
貴方は宗派としての唯識はご存知でも
学として唯識を全く理解されて居られない。
貴方は前スレの「お経は読まない」人と同じ方ですよね?
注釈や論ばかり読んでもそれは単なる「マニュアル為のマニュアル」
に過ぎません。
そしてそれを己がものとして消化せず、社会や思想批判を繰り広げているだけ
まったく無意味であり無謀です。
人の話を真面目に聞いていない人間ほど、
自分自身が捏造した相手の意見に基づいて執拗な攻撃をかけるもんだな。
敵は常に自分自身の中にあり。他山の石としては決して疎かにするまい。
392 :
し:2009/05/07(木) 07:47:11 O
おまえ鳶嶋と橘の千駄ヶ谷との決勝で粉川巧が負けたと思ってんのかよ?一本背負一線だったんだぞ
393 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 12:39:52 0
仏教てそこまで深いものかね
仏教は「深い」というよりも「高い」といったほうがいい。
別に単独での比喩なら「深い」といってもいいんだが、
洋学あたりを「深い」と思っているんなら、それに相反して「高い」と言ったほうがいい。
穴に対する山、位相が真逆であって、しかも体系構築が行き届いている高い山。
とにもかくにもそれは「悪くなくて善いもの」だから。
洋学が悪いことや善悪みそくそばかりに依って穴を深く掘り下げていくのに対し、
仏教は悪くなくて善いものだけの積み重ねによって山を高く盛り立てていく。
悪人正機のように底辺部分を司るものから、秘密荘厳心のように頂上付近を司るものまで多々ある。
決して頂点と底辺しかないなんてわけでもなく、在家信者には在家信者なり、
声聞には声聞なり、縁覚には縁覚なり、菩薩には菩薩なりの何十段階という階悌があって、
ちゃんと順序を追って頂点たる仏にまで到達するためには永劫にも粉う精進を要する。
もちろん釈尊からして実在の人物だし、涅槃も「二度と生まれ変わらない」という
確かな現実の奇跡なので、全く実現のしようのないものを追い求めているわけでもない。
道元禅師の「画餅」もまた仏法の実現困難さの比喩なわけだから。
395 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 15:09:06 0
サンスクリットを日本の公用語にしてみてはどうか
396 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 16:09:27 0
北朝鮮 アクション
>>395 サンスクリット由来の日本語っていくらでもあるがな。
仏語から日常語まで。
むしろ英語圏の公用語をサンスクリットにすれば。
イギリス連合がインド連合に改正されるついでに。
シェイクスピアが原文で読める人間よりも
カーリダーサが原文で読める人間が増えたほうが
少なくとも戦争は減る。退屈なほどに大団円続きの恋愛劇。
本物の恋愛はそうであったほうが楽しい。
文章よりも現実を重視するインド文学のならわし、論語とも同じ。
サンスクリットを公用語にしたら良くなりそうだなぁ
このスレとちょっと関係ないんだけどアニメや漫画って面白いよね
どっちが上とか下とかじゃなくて
漫画とか読んでいます?
アニメは見ないけど、漫画はたまに読む。
「鬼平」もほとんど池波小説ではなく劇画で読んでる。
「ゴルゴ」で犯罪者をカッコよく描きすぎたさいとう氏の罪滅ぼし。
時代小説(×歴史小説)は面白さ以外に特に得るものはないんで
勉強中にはまだあまり読まずに済ませている。武蔵や鬼平を観客として
面白がるんなら小説でもいいが、本当に武蔵や鬼平になろうと思うんであれば、
小説ではなく四書五経や武経七書のほうを勉強しないと。
大説は業務用、小説は民生用。
士人だからって別に小説や漫画を読んじゃいけないわけでも。
おー漫画は読みますか
ゴルゴは私も読んだことがあります。漫画はもう学問としても十分通用すると思います。
アニメも面白いものは面白いので良かったら見てみては?
402 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:12:33 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20327&if=gb 「左伝」昭公二十九年冬に、晉の趙鞅と荀寅が刑法の法文を刻んだ鼎を作って民衆に公開した。
昭公六年に子産が犯してしまった過ちを性懲りもなく繰り返している。以前は叔向が批判していたのが、
今度は孔子直々による批判が展開される。「成文法など定めなくとも、晋には上下関係や職分を礼によって
堅持する法度があったのに、文面だけへの依存の原因となる刑法の鼎への刻印を行なってしまった。
これでは上限関係も職分も蔑ろにされてしまう。必ず将来滅びるに違いない」と嘆じている。
礼儀と成文法は相反するものですらある。法律すら守ってるんだから後はどうだって構わないだろうという
自分勝手が思考や言動の隅々まで行き渡り、礼儀を重視する道徳者を侮蔑する一方で、自分たちは
法律の網を潜り抜けての、出来る限りの犯行を試みる潜在的犯罪者でしかなくなってしまう。
所詮文章はそれ自体が人間の全てを取り仕切れるほどに完全であることなど決してないのであって、
人間たち自身が自主的に成文法を超えた反犯罪性としての道徳性の追求を行なっていく必要がある。
端的にはその道徳追求の如実な姿が礼儀となり、他にも色々と巧妙な工夫が図られる(
>>342とか)。
全ては犯罪性の無闇な拡大に基づく破局を食い止めるため、安定性の確保のためのリスク処理のため。
403 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:30:57 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20339&if=gb 「左伝」昭公三十年夏、晋の頃公が亡くなり、葬儀に多くの弔問客が訪れたものの、
鄭からは副使である游吉だけがやってきた。晋の魏献子らはそれを不満に思い、
非礼の理由を游吉に問いただせば、「今のわが国の君は年が若すぎて十分なお勤め
が果たせませんので、私が代行で参りました」と、他にも色々な理由を付けつつ回答した。
葬儀や祭礼は今の日本でも、線香や榊を供える順番などがかなり厳格に取り決められる。
身分が上なのに年が下であるような弔問者は場を乱す原因にもなってしまうし、
やっぱり礼儀は年を重ねるごとに貫禄を増していくものだから、あんまり若いうちから
重大な儀式にばかり引き回されるのは助長の感も否めなくなる。
あんまり若造に末期の儀礼の責任などを負わせるなということ。
所詮は一回りも二回りも世代の違う相手なんだから、死への共感などを強要するなと。
404 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 21:47:59 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20348&if=gb 「左伝」昭公三十一年冬、K肱という身分の低い男が土地の所有権を持ったまま
チュウから魯に亡命してきたことが春秋経にも書かれていることについて、
「悪いことをした奴はたとえ身分が低くても実名を公開した勧善懲悪の見本」だと称える。
犯罪者の実名公表の起源も実は春秋だったりして。まさに真正警察教学の姿。悪徳警察なんかでなく。
義をなすことには一切ためらわず、不義の利欲のために心よこしまにすることも決してない。
だから君子は春秋を尊び、姑息な小人(淫人)は春秋を恐れるのだという手前みそ。
まあ、事実みそなんでしょうがない。自分自身を男前扱いする鬼平も、
確かに言行の面でも男前を目指す努力をしているから、自分自身の美しい顔を
水面に映して陶酔してそれっきりなナルシシズムなどとは決して違うものであるといえる。
405 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 22:10:10 0
「彊を違け弱を陵ぐは、勇に非ざるなり。人の約に乘するは、仁に非ざるなり。
宗を滅し祀を廢するは、孝に非ざるなり。動きて令名無きは、知に非ざるなり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公四年より)
強い者を避け弱い者をいじめるのは、勇気ではない。
人の弱みにつけ込むのは、仁義ではない。
王統を途絶えさせて儀礼も廃するのは、孝行ではない。
やるべきことをして名を上げないのは、上智ではない。
悪徳警察に勇気はないし、詐欺や誹謗中傷も仁義ではないし、
伝統を蔑ろにする踏み切りラインオーバーの先進主義も孝行ではないし、
いつまでも自首をしないままで汚名を隠蔽し続ける石女も上智ではない。
言ってしまえば当然のことではあるんだが、言及によって指摘されないのを
いいことに、モラトリアム状態をいつまでも続けようとするおっさんおばさんたち。
2300年以上前から分かりきっていることを「分かりきっているから」って侮らず、
何度でも重畳的に反芻を繰り返す牛さんとなって、幸福な余生を全うしやがれ。
406 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:01:06 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20508&if=gb 「左伝」定公十年春、ついに孔子自らの政治手腕の発揮の記述が載せられる。
今までにも政治や礼儀に関する孔子の説話は多く載せられていたが、あくまで傍観的な
後世での意見感想であって、別に本人が政治行為に参加していたわけではない。
それがついに、自ら魯の定公の補佐役として活躍する立場となり、尊称ではなく本名の
「孔丘」として扱われ、しかも日本語訳なら(定公に仕えているという体裁から)本人が
敬語を使って話す場面すらもが描写される。その、左伝史上初めての孔子の活躍、
敵国からヘタレ扱いされて威嚇され、しかも侮蔑に従って退いちゃってます。
儒家の祖であり、釈尊とも並ぶ東洋教学の巨星であり、勧善懲悪の原典として
称えられる「春秋経」の著者でもある孔子が、左伝での初めての活躍の場において、
「孔丘は礼儀ばっかりで勇気はないから適当に脅しつけとけばいいだろう」という理由で
武力で威嚇され、挑発に乗って何をするかと思いきや、定公の命が第一としてただ退却を命じた。
法家や毛沢東主義者などが、孔子を貶めるためのヘタレ逸話としてあげつらうならまだしも、
儒家の正典である四書五経の内の、春秋経の最も代表的な注釈書である左伝の中でこそ、孔子が
相手の威嚇に応じて退却した話が載せられている(春秋経には定公の動向が載っているだけ)。
407 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:04:10 0
孟子が言った「匹夫の勇」なども、ヘタレを嘲笑われて反発して沸き立たせるような蛮勇こそを
言うのであって、孔子が少なくとも匹夫の勇の持ち主ではないことを立証する話ではある。ただ、
それにしたって、人類最大級の偉人の初めての活躍にしては地味すぎる。明らかにこれは
「文章信仰」を読者に捨てさせるための作意が込められている。文章を読むことは確かに必要だ、
でも文章を読むことそれ自体が目的と化して、文章読解によって現実を楽しむことは二の次と
化してしまう、そのような優先順位の転倒を防ぐために、論語から左伝に至る四書五経は、
文面理解だけでの陶酔を最低限に止めて、代わりにその内容を理解したことによる現実での
最大級の楽しみこそを保証している。カーリダーサもシェイクスピアに比べれば悲喜劇的な起伏
に乏しい円満劇ではあるが、本物の現実の恋愛に当てはめるんなら、破綻し通しのシェイク
スピアなどよりもずっと適当であると誰にでも分かる。ただ文章だけで楽しみたけりゃシェイク
スピア、現実に応用して現実でこそ楽しみたけりゃカーリダーサ。同じように、文章だけでの陶酔は
聖書のほうが四書五経よりも遥かに上だろうとも、内容を体得したことによって現実を楽しめる
度合いでは、四書五経のほうが聖書などよりも遥かに上だ。文章自体が楽しいことなんかよりも、
現実が楽しいことのほうが遥かに楽しいから、最大級の楽しさを提供してくれるのもあくまで四書五経。
408 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:05:02 0
文章を楽しむ以上に現実を楽しむことで、普遍的に最大級の楽しみを得ることを目的とする東洋教学。
仏教だと「楽しみ」よりも「安楽」のほうが重視されたりもするが、文章よりも現実を重視するのは同じ。
大蔵経や四書五経や朱子語類といった、万巻の東洋教学の文献が、全て現実の楽さ楽しさの実現の
ためにこそ存在している。それ自体のためではなく、それによって提供される理想的な現実のために。
文章のための文章などよりも、遥かに多くの分量の文章が、より善き現実のためにこそ存在している。
あまりにもその価値が大きすぎて、その価値が分かられすらしなかった東洋からのプレゼント。
文章のドグマから逃げ出した所に、実はドグマを否定するドグマ以上の文章群が存在していた。
文章が文章以外のためにこそ存在すべきものであることを逆説的に証明している、止め処ない領域。
409 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 23:46:12 0
馬鹿が左伝みたいな日記でその気になってやがる
410 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 02:26:33 0
左伝よみたいけど高い
論語含む四書が中型車やバイク止まりの普通免許なら、
五経はタクシーからバスからキャタピラ車から何でもこいの特殊免許、
朱子語類までいけば飛行機やヘリの操縦まで許されるってとこだ。
もちろんただ「分かる」ってだけじゃなく、その内容が「できる」とまで行った場合の話。
筆記試験だけで免許は取れない。あくまで儒家は運転に値する実践まで行って初めて意味を持つ。
412 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 13:09:30 0
左伝て小説でしょ?
定義上は厳密に大説。それ自体を楽しむのではなく、現実への応用こそを楽しむ大人の説話。
三国志演義とか水滸伝とか西遊記とか金瓶梅とか、小説は小説でまた別にあるから。
より生産行為、業務用に特化された大説。より消費行為、民生用に特化された小説。
頂点の指導者までもが小説で何もかもを済ませたんじゃ、どこにも真の主人公なんていなくなる。
主人公であるからには、大説によって大立ち回りを演ずる素養を養う。素朴でも得るもののある
実物資料の勉強によって、魅せられる側ではなく魅せる側に回る。真理自体、超人自体だなんて
よそ様風情の考え方を捨てて、本当に真理を体得した超人となる。大説こそがそれを保証する。
414 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 14:09:26 0
>>413 大嘘言ってんじゃねえぞw
左伝っていうのは
>>412が言うように日記であって
感想文みたいなもの。人の感想文読んで勝手に浸ってるおまえ自身に気づけよ。
大説=四書五経、二十四史などの実物の経史書
中説=東洋の歴史文学、時代文学
小説=西洋の全作文、近現代小説
大説はまさに、古からの偉人たちが直接紐解いてきた業務用資料。
中説はその、偉人たちの言行を多少のフィクションも交えつつ記したもので、
大説ほど業務向けに特化されてはいないが、小説よりは偉大なことが書かれている。
小説はまさにずばり、姑息で卑怯な小人たちの落書き。
書いてる本人も小人ならば、書こうとしてる内容も搓末なそぞろごと。
頂点の聖書からしてそうである西洋の全作文がそれに当たるし、
それらの影響を受けて作られた近現代の日本の諸文書もそれに当たる。
いま自分が書いていることはかろうじて中説あたり。
大説を立てて小説を侮る、興るものと滅びるものの均衡を取った中正な説話。
ここで書かれていることが分かるようになったら、
次は本当に小説を捨てて大説を読む実践に移ればいい。
新刊書店にはほとんど置いてなく、図書館や古書店にかろうじて置いてある、
難しそうだし、本当に難しいけれども、本当にためになる古からの経史書こそを手に取って。
>>415 自分勝手な分類はやめてくれないか?
自分でHP立ち上げりゃいいだろ
ここは「自分だけ」の掲示板じゃない。
417 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:02:57 0
厳密に分類しようとすればどう考えたってそうなるから。
「中説」は造語だけども、小説的価値観に侵されず、大説に基づいて書かれて
いるような歴史時代小説は、犯罪推進状態の純粋小説とは区別するために
中説と言い直したほうがいい。吉川英治氏も山岡荘八氏も厳密には中説家。
嗽石や三島は小説家。大衆小説なんて格下扱いは
筒井康隆あたりだけにあてがっときゃいいんだ。時をかけるおっさん。
>>418 だからさあ
ここはみんなが書き込める掲示板なわけね。
そこでひとりだけ俺はこうだっていってもあんま意味ないわけ。
常識からズレてるなら当然。
その分類法って一般常識なの?
別に小説は小説で楽しんでりゃいいんだ。小人の慰み物として。
江戸時代にだって近松の心中物あたりが商民あたりにウケてた。
平和な世の中で、他者に迷惑をかけない程度に制動の効いた楽しみなら別にいいんだ。
聖書も新宿二丁目あたりで細々と面白がられてりゃあ、それで。
421 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:13:58 O
山根いるみ かわいい
422 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 15:47:13 0
下 ガダム マサラ
423 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 16:50:15 0
>>419 ここのスレ主もそうとうずれた物の見方してるし会話不能だけど
2ちゃんって好き勝手書く場所だし、いんじゃね。
そもそも、「掲示板が常識を提示する場所」なんてのは勘違いだ。
別に、個人的な偏見などを述べているのではなく、
あたかも3+3=6であるかのように、当然のことだけを述べている。
別に今の世の中では、3+3=7や8であることも認められていて、
「間違い続けることの自由」が謳歌されることにより、むしろ7や8であることのほうが
多数派とすら化してしまっている。そんな中で改めて3+3=6であることを述べれば、
極端に偏った個人的な私見扱いされて、「3+3=7や8であることもあっていいように、
3+3=6であってもいいじゃないか」というような、間違っている側からの正しい側へのかばいすら試みられる。
別にいらないことだ。自分が個人的に主張しようがするまいが、3+3が6であることは、
人間の側の原則的な定義として存在しているんだから、
原則的な取り決めを逸脱し続ける自分勝手の側のほうこそが
自分らの今後を心配すべきだ。普遍的に安定しているものと不安定なもの、
いくら後者が前者への優越を試みようとも、釈迦に説法ならぬ仏像に説法でしかないから。
別に、3+3が7や8であることも頑なに否定したりはしないが、
(公孫龍子や害為正法外道あたりは認める)、
そういう考えはあくまで「外道」のものとして、基本は3+3=6に止まって、
重畳的な構築を続けてきたのが東洋教学。
対して、始めから3+3=6であることを完全否定して、
7でも8でも2691でも579134802でも、
何でもアリだとし続けてきたのが西洋教学。
今さら3+3=6であることを認めた所で、6であることこそを完全否定して、
それ以外だけを構築してきた連中が、3+3=6こそを構築してきた偉人たちと
友好を望んだ所で、あまりにも格が違い過ぎるわけで、
明らかに敬い敬われる長幼の関係であるほうが適当だ。
存在を完全否定したりはしないから、ただ身分をわきまえた付き合いを試みよとだけ促すもの。
426 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 18:49:38 0
東洋全般言いながらシナばっか
シナ教学総スレって改めたら?
427 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 18:56:15 0
>>425 なんで算数と孫子が関係あんのか
もう基地外としか言えない。
>>426 一冊の本で1スレを消費し尽くしたとしても余りある。
東洋全体を俯瞰するなら本当に9999スレでも足らないぐらいだ。
>>427 春秋時代の詭弁家で、公孫龍子ってのがいたんだよ。
いつの時代にも馬鹿はいて、その馬鹿を戒めて真面目に戻るのと、
面白がりすぎて正道を踏み外し通しになるのとが、
>>424-425での
算数の比ゆにおける、3+3=6とそれ以外との分かれ目だ。
冗談程度の詭弁は東洋でも認められていて、それが現実の犯罪の
正当化までいくとちょっと問題になるだけだ。「ああ、こいつらは
滅びるな」との運命を察知して、侮りの対象になるわけだ。
人類の最終目的ってなんだと思いますか?
完全な平和が確立された場合の話で。
やっぱ宇宙でしょうかね
ショーペンハウアーも天文学程人をひきつけるのはない、とうろ覚えですが言ってました
宇宙の神秘に勝るものはないですよねぇ・・・
不識
431 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 01:01:20 0
中国スレ
432 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 01:47:44 0
漢字には長所と短所がある
433 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 02:53:41 0
左伝は小説
3+3=6の道理を、非常に入り組んだ法則に至るまで詳述した大説。
7でも8でも何でもありな小説とは違う。超越神(に仮託した作者の恣意)
の一存でどうとでもなる妄想劇とは違い、占いのように不安定な現実の運命を
ありのままに描いている。
多くの人間の最大級の願望が錯綜する、
カオスに溢れた現実をつぶさに見つめ、それでも通用している法則だけを
「勧善懲悪」という、極めて大雑把だが絶対に手堅い枠組みで提示している。
人間は勧善懲悪こそを楽しむ生き物であるという、善とか悪とかいった言葉の
原則的な定義に立ち返ってみれば必ずそうである当たり前の取り決めだけに即して
恣意を超えた多元的な人間性の道理を把握し、現実の社会動向にも柔軟に対応できる
大局を見計らった思考や言動の規範を身につける材となる。
自分自身の盲目な意志こそを最大級に増大させて、大局を見計らう所か
ただひたすら外部に迷惑をかけ通す病巣と自らが化してしまうのとは逆に、
あっちも立ててこっちも立てる、多数派の意図を個人でまとめ上げる
賢忍不抜の統括者となって、個人的な活躍は地味なものになろうとも
最後の最後には全てを丸く収める、人類という一家の大黒柱となる。
435 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:00:37 0
論語も創作
436 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:14:24 0
応仁の乱から大坂の役までが148年。明治維新から現在までが142年。
江戸時代や平安時代等、3、400年の泰平の後に150年程度の乱世が続き、
また長期の泰平に戻るの繰り返し。何も変わらない日本の歴史。
一方で終わってしまう世界の歴史。
根幹になっている思想宗教からしてペテンである西洋社会が破綻して
統計上の等比級数的な増長は途絶え、悠久の時空を司るインドや、
日本と同じく循環型の歴史を営む中国の台頭に取って代わられる。
西洋20億だけが実質的な世界扱いされていたのから、
65億超の全地球人類社会がまとまっての歴史をつむぎ始める。
順当な人類レベルでの歴史観も、宇宙の神秘までをも包含した普遍性も、
いずれもが多様性こそを推奨する調和的価値観の下で容認され、破綻を
来たすような不安定な価値観も、十分に制動が利いた中であれば黙認される。
全てが肯定され尽くした先にこそ、実は秩序立てられた将来が待っている。
437 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 13:58:15 0
孔子って胡散臭くね?
3+3=7は創作、3+3=8も創作。
3+3=6も創作。だから何?
3と3を足そうとする時点で、人間の側の原則的な創作(定義)であり、
その答えを6とするのも原則的な創作。
そこからさらに、3+3を7や8とするのは、原則には反しているものの、
二重の創作としては許される。
3+3を6とするのは一重の創作。
3+3を7や8とするのは二重の創作。
一重の創作の原則である3+3=6を、
3+3=7や8と同じ二重の創作であると主張すること、
そりゃあ一段階目の自分自身の創作を反故にしているだけ。
自分自身で勝手に定義した原則的な創作こそを否定する自己欺瞞、
そりゃあ別に許さないことはないが、その自己欺瞞が自己否定に発展し、
さらには自殺へと帰結した所でどこにもおかしい所はない。
自分自身による原則的な定義の否定、自己欺瞞、自己否定、そして自殺。
敢行が許される代わりに破綻も許される、
全てが許された結果そういった悪趣味は自ずと減っていく。
439 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 14:01:17 0
>自分自身で勝手に定義した原則的な創作こそを否定する自己欺瞞、
>そりゃあ別に許さないことはないが、その自己欺瞞が自己否定に発展し、
>さらには自殺へと帰結した所でどこにもおかしい所はない。
>自分自身による原則的な定義の否定、自己欺瞞、自己否定、そして自殺。
>敢行が許される代わりに破綻も許される、
>全てが許された結果そういった悪趣味は自ずと減っていく。
ぜーんぶおまえの自己紹介乙。
まことに、真理とは原則的な定義のことであり、
原則的な定義を見定めることで自己を欺かないことにより、
仏者や儒者はこの上ないほどの楽さ楽しさを味わい続ける。
真実の道理たる原則的な定義を蔑ろにし、
自己を欺く辛苦のただ中に居座り続ける者もいる。
一度だって原則的な定義の厳守に戻ってしまったなら、
自己欺瞞のさ中に創作し続けてきたあらゆる事物のゴミさ加減に気づいてしまう。
概ねゴミであることは知覚してしまっているんだけども、
偽りであろうとも自分であるはずの今の自分が可愛いすぎて、
最終的な納得だけは受け入れられずにいる。
詐欺師廃業一歩手前。苦しんで苦しんで、その一歩を踏み出せ。
441 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:10:53 0
孔子って人物って作り話?小説?
言葉が紡がれたり、文章が書かれたりすることがすでに創作だから。
その創作の中でも、現実に通用するような原則的な定義だけを示す場合と、
本当に好き勝手な妄想を積み重ねていく場合とがあって、
仏教は絶対的な真理について、儒家は世俗の道理ついて
前者の取り決めを守っている。基本は創作を忌避するものの、
やむなく創作する以上は、そのように取り決めるわけだ。
443 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:34:44 0
じゃあこのスレのほぼ全部が創作・妄想ってことがあるわけ?
原則的な定義ぐらいには即している創作文芸。
大説だったり中説だったり。
445 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:52:25 0
このスレが?
>>445 「言を食む(左伝・哀公二十五年)」のを止めるが最善として、
その次ぐらい。良言を食んで悪言を捨てている。
論争の相手がいなくなりゃあ自然と言自体もなくなる。
448 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 17:23:19 0
なぜキリスト教は駄目でイスラム教はいいのか不明
イスラムは出来損ないのアブラハム教だから。
出来損ないであることで、害為が旺盛であればあるほど
偉大扱いされるアブラハム教の毒性を緩和している。
極端な戒律厳守とか女性差別とかの内的な問題はあるものの、
自分らから外界に侵害をけしかけるほどの不埒さはない。
過激派も西洋からの挑発や武器供与でこそ膨らんでいる。
乱痴気騒ぎの種となるからこそ面白がられているのが聖書教
だから、そうでなく、しかもインド以西の東洋教学ほどの積極的な
善良さに満ちているわけでもない、極めて没個性的な文化圏と
イスラムは化している。宗教風俗の頑なさとは裏腹に。
450 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 18:31:44 0
偏見じゃないの〜
偏見は苦しいもんだ。対して正見は楽で楽しい。
大乗仏教の流布などによって、日本人は苦楽への特級の敏感さを供えている。
だからキリスト教発症率も増えない。これだけ洋学が出回っているにも関わらず。
洋学ペースでの文化文明の構築にも、なるべく苦しくない範囲で携わる。
ウォークマンとかCDとかTVゲームとかアシモとか、最先端技術もなるべく無害な
ことのために用い、軍事とか宇宙開発とかの悪用されかねない方面には、たとえ
携わる能力があっても控えめでいる。ステルス技術もロケットの筐体加工も
日本人が担ってるが、民間人の虐殺などにも使われかねず、そのせいで
自分自身が苦しむ原因にもなってしまいかねない、だからなるべく公表もしない。
徹頭徹尾楽が好きで苦が嫌いだから、一時の名声などよりもそっちを優先するんだ。
452 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 18:56:05 0
>>451 なんで大乗仏教がウォークマンなわけ?
こういうの精神病でなんて言ったっけ?
なんでもかんでも結びつけるやつ。強迫神経症?
453 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:26:22 0
仏教においては、数的な概念論もあくまで無記なので、あまり適切な表現にはならないが、
3+3=6であるというのが正見として、7や8であるとするのが偏見であるとまず考える。
6であることだけが正見であり、それ以外は全て偏見だから、「3+3」という算数の答えは
正見よりも偏見のほうが遥かに多い。それでその選択肢の広さに惑わされて、3+3が7や8で
あることのほうにのめり込んでしまい、偏見同士での言い争いの世界にとどまってしまう。
この状態が、唯識思想でいえば「末那識」にあたる。偏見的な迷妄に囚われた状態の識見。
対して3+3=6こそを認め、それ以外を認めないことが「阿頼耶識」にあたる。3+3に関しては
偏見よりも遥かに少ない、たった一つの正見でしかない3+3=6だけが、阿頼耶識に基づく。
454 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:27:35 0
阿頼耶識だけに基づく正見は安楽となり、末那識に基づく偏見は辛苦となる。
唯識だけだと説明できるのはここまでになるが、さらにここに中観を導入することで、
積極的な正見の推し進めと偏見の排除、破邪顕正を試みることができるようになる。
(中観を唯識とは別個の存在と考える人間も多いようだが、
>>17での「十住心論」からの引用
からも分かる通り、本物の中観は唯識と同じく、六識に末那識と阿頼耶識を足した八識〔八心〕を扱う)
例えば、ある所に一つないし二つの「犯罪を正当化することだけを目的としたカルト宗教」があったとする。
この宗教に対する識見として、「犯罪のための宗教ではなく宗教のための犯罪」だとか、
「宗教でも犯罪でもある」とか、「宗教でも犯罪でもない」とかいった多くの意見が挙げられうる。
これらの意見は、上記の元来の当該宗教の原則的な定義に即していない、二重の定義を施した偏見であり、
唯識でいえば末那識に相当する。この宗教に関しての原則的な定義に基づいた正しい識見は
「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」のみであり、この識見だけが「阿頼耶識」に相当する。
455 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 19:28:54 0
阿頼耶識に基づく楽な正見だけを選び、それ以外の末那識に基づく辛い偏見を捨てるために、
あらゆる事物を一切皆空と断ずる中観の下で一旦は全ての識見を平均化させ、それでも不虚なる真実である
「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」という、原則的な定義のみを虚無のざるによって掬い出し、
唯識だけでは末那識からの侵害を受けやすかった阿頼耶識の正見を不退転のものとさせてしまう。
すると阿頼耶識は完全なる純化を果たした阿摩羅識と化し、天台華厳らの最高級顕教へと接続する。
わざわざ善因楽果を好き好むまでもないほどに、「宗教のための犯罪ではなく犯罪のための宗教」
という正見だけが絶対化されることで法愛を断ち、さらには「釈摩訶衍論」らにおける乾栗陀識なども
相まって、一旦は中観で完全なる引き離しの対象とした、末那識の迷妄なる偏見に対しても臨機応変な
対応ができるようになる、ここまでいけば、大乗を超える金剛乗とも言われる密教の境地となり、
空海の「十住心論」に基づく心識の最高段階(秘密荘厳心)にまで到達することとなる。
456 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 20:05:23 0
1さんにいっておきます
ピラミッドと縄文土器を比較されましたが
最近の研究では実はピラミッド製作の奴隷はムチでビシビシしごき倒すような
ものではなかったらしい研究が出ています
休みもちゃんとあり、急な用事とかで休みももらえたそうです。
お間違えなきよう
休みもちゃんとあり、急な用事とかで休みももらえる奴隷か。
しごき過ぎるとかえって労働力の低下を招く、
ムチの適切な加え加減も原初から考慮に入れられていたわけだな。
オーバーワークにならない限りでの辛苦の強要、真綿でできた縄。
無意識(末那識)にでも強要されている時点で
すでに辛苦であると気付いてしまった時点で終わる。
二日酔いで休みとかもかかれていたそうですよ
だから縄文土器と比べるのはおやめください
459 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/10(日) 01:00:51 0
>>453さん
どこの書籍を読まれたらそういうお考えが出てくるのか。
末那識とは自他を区別、差別する根本的自我の心です。
識見は道理を見極めるという意味ですから、内容が通りませんし
3+3=6こそを認め、それ以外を認めないことが「阿頼耶識」にあたる
とありますが、これが末那識であり、全く逆です。
6はそのまま6であり種々の縁に依りて(3+3でも3x2でも)成り立つ。
その縁起を知るのが第一歩です。
阿頼耶識だけが正見というのも誤りです。
(そもそも正見(正しく見るでよろしいでしょうか)という観察の働きは第六意識ですし
それが出来ればそのまま悟りです。もはや意識とは言いません)
末那識によって煩悩が薫習された世界(阿頼耶識)が清浄(貴方の言われる
正見の世界)でしょうか?
>>455についても
もっともらしい事を書かれていますが
唯識では一切皆空(これでは中観ですので)は一旦置いて
まず三性を考えます。
末那識の「引き離し」などどこにもありません。
また人の話をちゃんと聞かない、自分の意見だけのまくしたてか。
>>453の始めの時点で、算数を当てはめるのがあまり適切ではない比喩
であるのは断っている。算数では3+3は6が正解となり、7や8が誤りとなるから、
6という正解を尊重できる識見を阿頼耶識、7や8といった誤りばかりを認める
「誤った識見」が末那識であると“例えて”いる。別に算数が唯識そのものなのではない。
>>454-455はすでに唯識を抜け出して、中観や法華、華厳といった十住心論上の
高階領域に上っている。上ったから唯識がなくなるのではなく、唯識での成果にさらに
一切皆空や会三帰一らを上乗せしている。これはあくまで十住心論の階梯に沿って
いるので、唯識が厳密に中観や法華、華厳などよりも下であると断定することへの
文句は弘法大師にでも言われたい。高野山でまだ生きているそうなので。
ピラミッドみたいな無駄な巨大建築を作らされてる時点で、
否が応にも膨大な辛苦が伴っているのは分かりきってんだ。
重たい石を何重にも何重にも積んでいって、時には崩落事故などによって
多くの人命が失われつつも、最期に出来上がるのは別にそれらの人々を供養するためでもない、
たった一人の王のためだけの墓。死への恐怖を脱落も出来ない煩悩にまみれた小人の王の墓。
これがまだ、書経の禹王伝説のような、洪水を未然に防ぐための治水工事だったりすれば、
誰しもがその恩恵に与かれる、「大変でもやりがいのある仕事」になる。本当に人々のためになる
仕事であるなら、どんなに重労働でもその苦労が報われるが、ピラミッドの場合はそうでもない。
エジプトでも毎年起こっていた洪水のほうはそのまま放りっぱなしにして、たった一人の小王の
ためにやたらと石を重ね続ける徒労感、賽の河原にも似たどうしようもない辛苦がそこにある。
重労働だから辛苦になるのではなく、重労働でしかも徒労だから辛苦になる。
誰も住まない過疎地でのマンション建築は反対を押し切ってでも進められ、
住民が本当に望んでいる都市部への連絡道路の整備は滞っていたりもする。
近現代の土建業を見ても似たようなことはいくらでも起きている。労働行為の制御を司る
統治者が無能だったり小人だったりすればああなるという失敗の先例にピラミッドがなっている。
最近の研究ではピラミッドは景気対策のためだったと主張されている。
つまり、ケインズのいう穴掘り事業だったらしい。
土建業の内の「建築」なわけ、ピラミッドは。
マンハッタンも一枚岩の上にやたらとビルを載せてるだけ。
対して、「土木」のほうはむしろ中国や日本のほうが発達している。
トンネルにダムに埋め立てに道路、成果が見えにくくとも確かに役に立つ。
東京湾の海岸線の入り組み具合も半端じゃない。あれも別に今に
始まったことではなく、家康公が駿遠三甲信から関東に移って以来の伝統。
江戸城(現皇居)のお堀も四十年かけて造り上げられた巨大人工物。
それでも300年の泰平を保証するための礎としては価値があった。
たった一人の王の死などではなく、全ての人々の生のためにこそなされる
土建ならば、どんなに大変でもやりがいがある。金の動きのほうばかりに
囚われて、本当にその事業がやりがいのあるものかどうかが蔑ろにされる
ことこそが厭われなければならない。全ての土建業を否定するのではなく。
万里の長城に、安土桃山城に、ブルジュドバイ・・・
巨大建築ってのは、古今東西に関わらずバカっぽい。
苦労や見てくれの割りに何の役にも立たないのが原因。
江戸城は、お掘りの巨大さの割りには質素だったという。
土壁晒したままの簡単な建て付けで、建物としての豪華さは
名古屋城や大阪城に譲っていた。だから焼失後も特に再建計画は立っていない。
東京が建物に関しちゃ作っちゃ壊しの有機的な風潮が許されているのも
土台となっている整地がすでに普遍的な遺産だから。
ピラミッドや万里の長城みたいに風化を心配する必要もない、
何万年も残り続ける真の人類文明の英知だから。
465 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 11:58:46 0
だからピラミッドは無駄なもんじゃねーの
分かる?
全ての土建が無駄なわけじゃない。
本当に必要なものであればこれからも伸びる。
禹の土木事業も伝説上はピラミッドより古い。
本当に大規模で、有用で、普遍的な人類文明は
ピラミッドなどとはまた別のところにある。
砂上の楼閣を超える縁の下の力持ち。見てくれ
ばかりが頼りな小人はその存在にも気付かず。
間違えた。ピラミッドより古いのは禹王伝説ではなく三皇五帝伝説のほう。
最古級の重要文化文明の順位を挙げると、
1位:縄文土器(文明の起源である縄の正当利用)
2位:楔形文字(世界最古の文字)
3位:易(規矩を用いた実相文明の把握)
4位:ピラミッド(無駄な大工事の起源)
5位:禹の治水事業(有益な大工事の起源)
文明ではなく、純粋文化としてであれば、縄文土器の上に石器や
壁画なども入ってくるが、規矩準縄を用いる体系的な文明の構築は
縄文土器からこそ始まっている。文字でも大工事でもなく縄の活用から。
次いで文字が生まれ、三皇の内の伏羲によって暦法の活用道具
でもある易が生み出され(暦は農作業にとって重要な意味を持つ)、
その次にやっと、バカ建築の起源であるピラミッドが生まれた。
文明の起源という点から見ればピラミッドは最古でもなんでもなく、
大工事としても治水事業のような本当に有用な工事とは別物の無駄建築。
中途半端な存在の割りには、見てくれの奇抜さで小人を引き付ける、
「見せ物」の起源にはなっているといえる。重要でないのに奇を衒う起源に。
468 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 13:32:56 0
469 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 13:38:31 0
世界最古の文明が「文字」ではなく「文様」である点も重要なことだといえる。
文様は文であると共に図像でもある。文と図像とを分裂させない考え方が
東洋に書道などの文字芸術を発達させる余地も与えた。文字が図像としての
意味も持つことで、ただ文字であるだけでは把握のしようのない実相までもが
把握される。文字は文字、図像は図像と完全に分裂しきっている西洋社会では
実相の把握が疎かになって、実相に基づかない文字や図像への迷信に耽溺
してしまった挙句、現実社会を破滅に陥れてしまう。漢字や梵字のような実相から
の理念の把握を目的とした文字に基づけば、現実を蔑ろにしてまでの文章信仰
や図像信仰が起こりえず、例え南無阿弥陀仏や曼荼羅を信仰しようとも、その
信仰がそのまま現実での大人しさに落とし込まれるようにちゃんとなっている。
東洋文化文明が、西洋のそれと比べて決定的な相違を持っている根拠となって
いるのが縄文土器の縄目文様。文化文明が常に実相の把握を怠ることなく発展
していくためのお守りとでもいうべき存在に縄文土器がなっていて、縄文文明の
恩恵に与かることなく、文字と図像が完全分裂した状態の粗雑な文化文明だけ
を構築してきてしまった西洋は、まことに不遇であったといえる。実相を蔑ろにして
しまっているが故に何もかもが辛く苦しい、東洋の文化文明と比べてどこもかしこ
もが楽でも楽しくもない徒労の塊たる。小学校の工作からでもやり直さないと。
471 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 15:28:22 0
472 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 19:42:51 0
面白いな
473 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 22:36:07 0
「富みて能く臣たらば、必ず難を免るるは、上下、之に同じ。(中略)富みて驕らざる者は鮮なし。(中略)
驕りて亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり」(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公十三年より)
臣下としての礼儀を重んじれば、例えどんなに富み栄えようとも問題はないが、
だいたいは富み栄えてしまうと同時に驕り高ぶり、そのせいで必ずといっていいほど滅んでしまう。
「平家物語」の冒頭、「驕れる者は久しからず」の依拠元ともなった可能性のある記述。
朝廷を脅かすほどの隆盛を極めた平家は落ちぶれ、例え弟(義経)だろうとも幕府体制に差し支える
朝廷へのおもねりを目論めば許さなかった頼朝等、私情よりも公共性を重視した源氏こそが
武家の棟梁として鎌倉時代の政権を掌握した。
徳川幕府もそれに倣って、諸国を治める大名が朝廷から高位の官位をもらうことを禁止し、
太閤秀吉の子供であることから例外的に右府まで上り詰めた秀頼も結局は自決させてしまった。
実力社会の支配者として君臨する代わりに、朝廷での最高官位は征夷大将軍までとする、
富み栄え故の驕り高ぶりを抑制させる計らいが日本の武家社会では利いていて(ただし室町幕府は
若干その点で不完全だった部分がある)、権威(朝廷)と権力(幕府)の分離措置に基づく
長期の安定統治が叶えられてきた。これも実は左伝などの儒家教学を参考とした便宜措置。
権力者が権威としての偉さを頂点の君主(天皇)よりはかなり下に置くことで、臣下としての礼儀を保つ、
だからこそ最大級の富み栄えの下でも驕り高ぶることがなく、故に久しからぬこともなくなる。
日本の歴史が奇跡的なほどにも長期の平和政権を維持し続けてきたのも、本国中国以上の儒家教学の
厳格な活用があってこそのもの。道家でも法家でもなく儒家こそを抽出して活用しきったことこそによる。
474 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:03:14 0
「夫れ禮は、死生存亡の體なり。將に左右・周旋・進退・俯仰。
是に於てか之を取り、朝祀・喪戎、是に於てか之を觀んとす」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」定公十五年より)
礼儀は生死存亡の要であり、一つ一つの立ち居振る舞いの
礼儀正しさの如何によって、命までをも左右するものである。
極端な例としては、「左伝」哀公十七年に、宴席で肩脱ぎして帯剣したままで
食事を始めた良夫が「死罪三つ分に値する」として即刻殺処分されている。
無礼が過ぎて殺されるというのも、実は日本の武士ではなく儒家が起源。
人間関係の無難さを司る礼儀を大幅に踏み外しているから殺す、
こんな奴をそのままのさばらしておけばそのほうが秩序を余計に乱す原因に
なってしまうから殺す、穏便さのためにこそこいつだけは殺しておくという、
温厚さ故の巧みな殺伐さのわきまえが斬り捨て御免となったりもしている。
決して個人的に気に食わないとかの話ではなく、公共性のためにこそ
無礼者が死ななければならなくなることがある。法律ではなく礼儀に基づいて。
475 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:20:54 0
「私讎は公に及ばず。好めども過ちを廢てず、惡めども善を去らざるは、義の經なり」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」哀公五年より)
私怨は公共性に匹敵するものではない。好きだろうとも過ちは見逃さず、
嫌おうとも正しい部分から目を背けないことこそは、義の極みである。
「私情を差し挟まない」のではなく、私情は私情で置いておくとして、
事実としての正誤善悪を優先することこそが、公共性を真に尊重する道義性となる。
人間はロボットではないから、感情は普通はある。坊さんのように情念からの解脱を
目指す人間もいるはいるにしろ、普通は人間は感情に左右されるもの。だから「感情を
捨て去る」のではなく、感情と公務は全くの別物と捉え、正しい公務のために私情が劣後
されることを耐え忍ぶ点にこそ、儒家教学の本髄もまたあるといえる。現実の社会で本格的
な仕事をする人間などに、情念を捨て去る余裕などはないから、せめてでも情念と公共性
とを完全に分離して、社会上の行動が外見だけでも正しくなるように努力する。
社会を捨て去った聖でもなく、かといって好き勝手やり放題な俗でもなく、
俗であるにはあるなりの最大級の正しさを見込む、ありそうで他にない特殊な教学。
476 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 23:45:12 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20679&if=gb 「左伝」哀公六年、楚の昭王が発病した際、「黄河の神が祟っている」と占いに出たが、
昭王は決して黄河の神を祭ろうとはしなかった。黄河の神を祭るのは楚の伝統ではないからと。
孔子もこれを褒め称えている。自分たちが昔から祭ってきた長江などの神こそを尊重して、
たとえ呪われていると言われようともそちらの神に乗り換えたりはしない伝統保全の優先。
「信じないと呪われる」の論理で信者拡充を目指すカルト宗教などに対して、
ただ「嫌だ」とか、「何も信じてない」だとか言うよりも、「ウチは○○宗ですから」とかいう風に
昔から檀家であった正統な宗教を出してきたほうが、うまく断れることが多い。
それはただ「席が埋まっているから」なだけではなく、カルト宗教の物理的な侵害などに対しても
十二分な防備を図れる教義を正統な伝統宗教が携えているから。下手に侵害しようものなら
カルト宗教の側が自業自得の被害を受けてしまうほどの、本当に強靭な教学を持っているから。
人間は何も信じないでいられるほど強い生き物ではなく、何も信じていないつもりでいるような人間
ですら、先祖代々の潜在的な信仰心に基づいて健康でいられたりしている。その恩恵を忘れ去って
ダメな方向、ダメな方向へと陥っていき、自滅寸前にまで追い込まれることがあろうとも、
本当に正統な教学の素地が備わっている人間であれば、また立ち直ることも必ずできるもの。
人間の歴史は正統な文化文明からこそ始まっていて、後から少しグレ気味の文化文明が派生した
だけだから、原初まで遡れば誰しもが立ち直れる可能性を宿している。悪いことをしたり言ったり考えたり
しないままに、平穏な生活を営める素地が本当の原初にまで帰れば必ずあるから、心配はいらない。
食事は日本食ですか?
だいたい日本食だな。
日本人が作ればカレーでも洋食でも和風の味付けになるがな。
世界で一番うまいフランス料理が食べれるのは東京ってな。
479 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:00:32 0
「君は器に異なり。以て二ある可からず。器の二は匱しからず。君の二は難多し」
(新釈漢文大系「春秋左氏伝」哀公六年より)
忠君は唯一無二の君主に対してこそ成り立つもの。「象徴」なんていう道具扱いされたり、
面従腹背の権力者との友愛に参加させられたりではなく、尊敬の対象としての立場の
洗練が為されていなければならない。「尊皇攘夷」という幕末の討幕運動は、明治から
昭和20年までの大日本帝国の皇国主義に転化したものの、その内実は儒家教学も
仏教も捨て去った洋学一辺倒の専制君主体制であり、君主たる天皇の意向も大して
尊重されず、枢密院らによる自分勝手な決断ばかりがまかり通っていた。敗戦後にはその
建て前上の皇国主義すらもが拝されて、討幕の名目であった尊皇攘夷は全くの有名無実
と化し、まだ権力の正当性の拠り所としての君主の価値を儒家教学などからわきまえていた
征夷大将軍による幕府制のほうが、忠君を実の伴う威儀とさせていたといえるほどにも、
君主の存在性を形骸化させた、二心三心持ち放題な粗末な社会体制と化してしまっている。
皇国主義の復権のためではなく、儒家教学に基づいた大夫士人の復権のためにこそ、
二心なく尊敬するに値する君主の復権もまた望まれる。いかなる面においても道具扱い
などはせず、権力の上に立つ権威としての唯一無二の貴さが持ち直されること。もちろん
血統上は今でも健在である天皇家こそが、細くて長い昔のあり方を取り戻すこと。日本なら。
480 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:11:30 0
うよさよでも呼んでくるか
481 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:20:43 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20695&if=gb 「左伝」哀公七年、呉の太宰ヒが魯の季康子を招聘したけれども、代理の子貢がやってきた。
太宰ヒはなぜ本人が来ないのかと攻め立てると、「貴国を今治められている仲雍は、
髪を切り、刺青をして裸で居られている。そのような無礼な王の治める国に本人などが
出向けましょうや」と言い返した。
短髪や坊主がいけないというのは、「論語」にも書かれている儒家教学上の取り決め、
他にもこんな風に、刺青をしたり裸でいることも(
>>474の哀公十七年の話からも分かるとおり)
礼法には背いたものとされている。「この桜吹雪がに見覚えがねえとは言わせねえぜ!」で
肩脱ぎして犯罪者に刺青を見せ付ける遠山の金さんなどは、とんでもなく無礼なことをやっている。
実はこれも確信犯なわけ。不埒な犯罪者に対する、儒家教学を逆手に取った物凄い威嚇なわけ。
もちろん金さんこと遠山景元も、幕府のお偉いさん相手ならば慎重な礼儀作法を尽くしていた。
泰平の世の中でまだ奇抜なことをやってたのが逆説的に面白がられたわけで、あれが江戸時代
の全てだなんて考えたんじゃ本末転倒の誤解に陥ってしまうことを留意されたい。
だーかーらー
他人の日記読んでその気になんてんじゃないわよって
483 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 13:56:50 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20754&if=gb 「左伝」哀公十一年、孔子の門人冉求の統率者としての大活躍が見られる。
「軍備には疎い」と自分から白状する孔子とは違い、かなり軍務についての
積極的な発言が行なわれ、自らも兵を率いて多くの成果を挙げている。
もうすでに「左伝」は全て読み通したが、この後にも孔子は無礼な君子の
質問に三度答えなかったりと、ふてくされとも思えるような些細な話だけを残して、
哀公十六年の四月己丑に亡くなっている。まだ上記の冉求の活躍や、
同じく孔子の門人である子路の哀公十五年における和睦の交渉などのほうが
政治的な事件としては突出している。要は、孔子は政治家としてはそんなに
活躍したほうではなく、純粋な思想家や賢人としてこそ大成したものだということ。
思想家としての卓越さが唯一無二であることは、後世における、儒家教学による
統治社会の成功ぶりからも伺える。実際の統治手段としての伸びしろが無限大
であることこそが、管仲や晏嬰や子産ら左伝上の活躍者とは決定的に異なる。
やったことの凄さ以上に内在する凄さを見極める慧眼が他の極東人(孟子など)
にもあったからこそ、後々盛り立てられていった協調的な偉人の系統となっている。
だーかーらー
他人の日記読んでその気になんてんじゃないわよって
おじょうちゃん、なんさい?
【朱熹】中国教学総合スレ0002【無門】
これからはこのスレタイで
左伝の寸評が終わったら、次はスレタイに沿って「無門関」でも読んでみようかね。
あんまり最初から代表的な人物ばかりを挙げすぎると竜頭蛇尾になるんで、
朱熹のライバルとして地味目な禅僧を挙げといたが、短篇だし、軽く読んでみようか。
もちろん仏説としてではなく中説として、専門的過ぎない話に止める。
488 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:12:16 0
寸評?小学生の感想文だろw
ほざくな。
人類総幼稚園児状態な中での小学生の感想文だ。
ありがたい大先輩のお言葉だ。ありがたく頂戴しろ。
490 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:18:30 0
491 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:45:30 0
幼稚園児に指図される覚えはない。
「コを務めて民を安んぜよ」(新釈「左伝」哀公十年より)
「小の大に勝つは、禍なり」(哀公十一年より)
「需ひは事の賊なり」(哀公十四年より)
「險を以て徼幸する者は、其の求め、厭くこと無し」(哀公十六年より)
「寡に及ぼすことなかれ。衆を畏るること無かれ」(哀公二十七年より)
短文の引用集。こんな感じの抜き出しを集めた「中国古典名言集」とかが
よく作られたりしているけども、編者はともかく、読者までもがそれだけで
中国思想を分かった気になるのはかなり危険な所がある。
「孟子」も抄訳されて規矩準縄とかの重要語が省かれたりしている。
四書五経レベルの儒家教学は隅々まで余すことなく重要なものばかりで、
一つや二つの成語を挙げただけでは「群盲象を撫でる」の様相を呈する。
左伝の中だと、特に重要なのは上記の一番上の「務徳安民」であって、
この一言で儒家教学の全ての理念が代弁されいるといっても過言ではないが、
そうであると分かるのはあくまで四書五経を全読してからのこと。
儒家という系統が本気で務徳安民を目指していることがそこまでいって
初めて実感できるようになる。決して片手間などではなく、全文を読むぐらいの
覚悟があって初めて教えを真摯に受け止める姿勢も勉学者の側に備わる。
抄訳は避け、訳文もなるべく補足程度に止める。儒家のような本当に
正しい勉強のためにこそ、それほどにも本格的な勉強姿勢が必要とされる。
492 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:50:35 0
493 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:53:36 0
494 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 18:57:48 0
孔子作とされてるのは偽作だよww
孔子は何も書いてないよww
495 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 19:10:29 0
問題は孔丘という個人、釈迦という個人がどうかではなく
儒家という系統、仏教という系統がどうであるかだから。
儒家や仏教といった会社を立ち上げたのが孔子や釈尊で、
そこに入社した人々の中から多くの偉人が派生してきた。
孟子に朱子に龍樹菩薩に親鸞聖人、正道を敷設する会社として
儒家や仏教が名門中の名門であることこそが重要なのであって、
一人や二人偉人がいてそれっきりなんていう個人プレーとは違う。
やはりそれは、男系を重視する風潮から来ている。日本の皇室から
アラブ社会に至るまで、男らしさを射精から尊重する系統信仰が
あって初めて「正伝の系譜」というものが成り立ちうる。自分勝手な
焼き直しであれば女系社会でも成り立つが、先人の教えを真剣に
継承する真面目さは男系社会でのみ育まれる。男系社会が
成立するためには女性の出産が貴ばれる必要もあるから、
自ずと主婦の神であるアマテラスもまた信仰の対象となる。
筋肉ムキムキなんて以上に本質的な男系信仰がそこにある。
496 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 20:47:51 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20838&if=gb 「左伝」哀公十六年六月、位牌の保守に関する命がけの説話がある。
仏具なら舎利(遺灰)を入れる特殊容器などがあったりもするが、
位牌は儀礼に沿って名前を書いているだけの木板。それでも命がけで
守り通そうとし、日本でも自然災害や空襲の際に真っ先に家から持ち出す
ものとして上位に置かれている。浄土真宗はこれを「迷信」として、位牌は
用いないようにしているが、別に位牌を大事にすることが全くの妄信扱い
などにされることは今の日本でも別にない。先祖を大事にする気持ちを
何かに仮託したいと考えたとき、舎利ほどにも扱いが難しくもなく、
それでいて金銀財宝のように先祖故の尊重とは別に大事がられる
ものとも違う、まさに自分たちの先祖への供養の気持ちの現われとして
適切なものとしての位牌を大事にすることが、外聞上も先祖供養の
大切さを流布させて、男系社会を守り抜く手段の一つともなる。
位牌を認めない真宗が百姓専門であるのもそんな理由がある。
497 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 20:49:50 0
>>486 おれも賛成
まあ、たまにスキムしてるROM専のオレがいうのもなんだがね。
仏教や儒教が中心、専門ぽいし、
>>1とスレタイは大きくくくりすぎの気がする。
ないようが充実してきたらスレタイかえればいい。
背伸びしすぎ。
別に自分ひとりでの単独占有が目的ではないから。
非カルト・反犯罪という東洋教学の理念を承諾した上で
儒家や仏教以外についても書きたい人間は書けばいい。
「左伝」を最後に四書五経は読了するんで、少しは他人
にも自由に書き込む余地を与えようかとも思っている。
9999スレ目指して協力していこうじゃないか。可能ならば。
499 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 21:18:23 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20873&if=gb 「左伝」哀公二十一年、儒書ばかりを拠り所として現実の礼儀をわきまえない
魯の非礼が非難されている。この頃からすでに「論語読みの論語知らず」はいた
(「論語」はまだなかっただろうが)。文章を偏重し過ぎて現実を蔑ろにすることが
左伝という文章の中でこそ戒められている。成文法も孔子本人らによって否定
されていたのだから、一旦自分たち(儒家)が文章を書く側になったからといって
自分たちの文章を金科玉条扱いにしたりすることも認めない。文章信仰ならぬ
不文律信仰とでも言うべきものが儒家にこそあって、禅の不立文字ですら儒家
に比べれば後発。いかに実践のための不文律教学を育むかという点でこそ
儒家と禅とは競合していて、朱熹も一旦は禅門を叩きつつ、公共性を重視する
儒家のほうへと方向転換した。儒家が打ち棄てられて禅は結構持て囃されている
今の世の中は、要するに公共性の欠如した世の中。禅は元来出家第一の、強度
の個人主義なのであって、社会で多くの人々と協力し合う場合になどに応用
するような代物ではない。集団行動の極みとも言える軍事行動までをも具に
鑑みて(ただし孔子ではなく後世の儒家に基づいて)、組織的な社会体制の
構築のために用意されているのはあくまで儒家のほう。社会を自分自身と共に
繁栄へと導く公共性の持ち主は儒者であれ。禅や小乗仏教は敬遠しておけ。
500 :
考える統合失調症さん:2009/05/11(月) 21:28:09 0
全ての事象が感覚によって造られる産物であると拡大解釈すると、
自分が車輪でもし触覚だけしかないとすると、幾何学的に全て感じられる世界は線か点になる。
(味覚があるなら,それらが色づいて見えるかも知れない。)
501 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 21:29:28 0
もうやめてよ
502 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 21:40:35 0
ttp://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=20892&if=gb 「左伝」二十五年六月、哀公に讒言をした郭重を、孟武伯は「肥え太ったもんだ」と謗った。
季康子がなだめたが哀公も「言を食む(無駄口を叩く)から太らないことがあろうか」と相槌を打った。
何も言わずに済みゃあそれが一番いいものを、色々言及を重ねるもんだから太っちまう。
文筆は食い物と一緒で、食いすぎれば太り食わなければ痩せる。食いすぎて太る所を運動で
痩せさせるなんてことも可能だが、一番いいのは食いすぎないこと。文が適度であれば武も適度でいい。
言を食みすぎることが大前提である今の世の中で一切食わないなんてのは無理で、ただ駄目な言を排し、
優良な言だけを選出して吟味する。広学博覧叶うべからざることなり、一向に思い切って留まるべし。
エロ本屋にある全ての本を、普通の人間が読破なんてしようとは思わないのと同じように、
不正な教学を記した書物は思い切って捨て去ってしまうことだ。看取の対象から一切。
503 :
考える名無しさん:2009/05/11(月) 21:59:22 0
「春秋左氏伝」に関する寸評はこれまで。
敬語とタメ語が不自然に入り混じっていたり、「意を寓す」の乱用が見受けられたりと
新釈版の訳文にはかなり不完全な点が見受けられるが、原文読み下しとの対照で
極端な曲解はそんなに多くなかったことが分かる。
「易経」が既読なので、ここには寸評を書いていないが、
自分自身はこれで四書五経の全文を読み下しと訳文とで読了した。
昔の武士であれば当然学んでいた、小学生の九九程度の儒家への素養が付いた。
もちろん実践できるか否かはこれ以降の自分自身の動向にかかっている。
急に権力犯罪者と手を結び始めたりしたなら、今までの勉強も全て水の泡だ。
まだまだ江戸期並みの儒家への素養があったはずの明治期の代表的人物も
悪友との友愛を強要されて、少しも儒家教学の実践はできていなかったようだ。
儒家が実践できる気高さ、あるいは仏教が理解できるあり難さ、前者は理解、
後者は知覚に留まる現代人には、両方共に与かれる機会のなんと少ないこと。
くそと混じればあっというまに食えなくなるみそ。それでいて最高に美味でもあるみそ。
「江戸の味噌蔵はこの鬼平が守ってみせる」ってな、現実で言ってみたいもんだなあ。
いつでもやめられるからね。
社会状況が変わってこんな所に書きまくってもいられなくなれば
すぐにやめるからね。むしろそのほうがいいんだから。
行動即犯罪なんていう、異常な現況に順応し過ぎないように。
505 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 13:13:59 0
「天皇陛下万歳」って、禅語だって知ってた?
506 :
考える名無しさん:2009/05/12(火) 18:50:15 0
【現代版十住心論】
(↓住心) (↓代表的な教学) (↓本家「十住心論」での心識)
犯罪加害住心第一:ユダヤ、プロテスタントの心識(地獄道に相当) ─┐
犯罪被害住心第二:聖書教末端被害教徒の心識(餓鬼道に相当) ├─ 異生羝羊心
犯罪加害被害住心第三:正教、カトリックの心識(畜生道に相当) ──┘
犯罪防止住心第四:イスラム、戦国期の武士の心識(修羅道に相当) -┐
道徳保全住心第五:儒家、泰平期の武士の心識(人道に相当) ───┴─ 愚童持斎心
道徳向上住心第六:神道、道家、インド教の心識(天道に相当) ───── 嬰童無畏心
聖徳入道住心第七:声聞乗 ──────────────────── 唯蘊無我心
聖徳確信住心第八:縁覚乗 ──────────────────── 抜業因種心
聖徳頒布住心第九:菩薩乗 ──────────────────── 他縁大乗心、覚心不生心
聖徳究明住心第十:一仏乗 ──────────────────── 一道無為心、極無自性心、秘密荘厳心
507 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/12(火) 23:47:46 0
>>460さん
誤った識見は末那識ではありません。
7や8と誤るのはどの心でしょうか?
また7や8としてしまう「縁」とは何でしょうか?
例えとして別段不適当ではありません。良い例では?
また法華、華厳、唯識、中観と密教が上だの下だの
その心自体が煩悩による差別心です。仏教ですか?
>>506について
全くの出鱈目ですので皆さん誤解されないように願います。
といいますかさすがに呆れてしまいます。
これではどこかの危ない新興宗教レベルの教義ですよ。
現代も、過去も、未来も大日如来の住したもう識(こころ)
他宗教批判の心ではありませんので。
508 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 01:02:37 0
唯識さんは洋学も読むのですか?
509 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/13(水) 02:09:28 0
>>508さん
ほとんど読みません。ほんの単語程度ですよ。
これは私論ですが、西洋哲学は現象の分析に重きを置いて
後の科学的な考えにも影響していると思います。
東洋哲学は宗教の要素が強いですね。
私は一応仏教と、多少中国の易を知識程度かじっただけですよ。
興味があるのは西洋の錬金術やカバラ思想ですね。
前スレでもこのスレでも書きましたが
洋の東西を問わず、思想文化はその国、地方で連綿と継承されてきたもので
他の(言ってみればよそ者)国の者が自分たちの思想等々で
批判したり、差別することは意味が無い、もっと言えば「失礼」なことです。
510 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 03:23:50 0
あー、ありがちなタイプw
大学のクラスで一人くらいはいるから精神分裂症と同じくらいの発症率
だよね
精神病の病名を侮蔑の道具に使うのはいい加減やめとけよ。
それこそ本物の精神病患者に対して失礼だから。
病院や刑務所に入っての適切な治療を躊躇させる原因にもなる。
512 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 04:52:31 0
春秋左氏伝を読み終える。
あと10回は読もう
後輩が先輩に勉強の指図をすんな
514 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 06:44:48 0
焼き直し読んでるだけなのに先輩もへったくれもあるかバカ
おまえより上はいくらでもいるんだよ
515 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 06:46:23 O
よせよそういうことするの
516 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 06:58:06 0
特に何の衒いもない、ただ事実をありのままに提示しただけの階梯だ。
>>506は。
本家本元である弘法大師の「十住心論」でも、最初期の階梯である異生羝羊心の時点で、すでに
「善悪の分別も付かない無明迷妄のさ中」であるにはあるなりの心識の活動が始まっていることが
つぶさに説明されている。タントラは、ユダヤ教の根幹部分も司っている極めて原初的な宗教信仰なので、
決して闇雲な推測などではなく、「清濁併せ呑む」限りでの汚濁への透徹した理解もあって初めて
弘法大師も異生羝羊心という、仏者の見地からは相当に疎遠な心識までをも説明の対象に入れている。
しかもそれで、第一住心から第十住心までという「階梯」を用い、異生羝羊心から秘密荘厳心までの
人間の心識の上下を「数」によって「差別」している。輪廻思想のような、不可避な差別を解消するために
創唱されてもいたはずの仏教の枠組みの中で、あえて一から十といった階梯によって人間の心を区別している。
これは、弘法大師が「十住心論」において説明しようとしているのが「差別智(しゃべつち)」であるからだ。
差別智とは、人間の側が意図的に自分にとり都合のいいような区分けをする場合ではなく、現実に事物が
種々の異なった形で存在している状態のことをいい、転じて仏教では「現実生活での知識」という意味も持つ。
(岩波文庫「無門関」でも「差別智の明らめ」が「現実生活で活かす」という風に意訳されている)
517 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 06:59:41 0
仏道の見地からすれば、「数」というのは常に善悪とは直接関わりのない「無記」なのであって、
それだけを論うことが人間にとって得になることもなければ損になることもない。だから
>>453での
「3+3は6か7や8か」だなんていう比喩を、本物の阿頼耶識と末那識の区別材料として
扱えることなどはない。本物の阿頼耶識と末那識の違いは、そんな算数上の正誤などでは
計り知れない、微妙で切実な境地にこそある。
「20万と15万をあわせるといくつか?」という問いは、それだけでは何も問題のない数遊びに止まる。
でもこれが「アルバートさんは新型爆弾の実験のために無辜の市民を20万人殺しました。ジョージさんは
石油利権のために外国を侵略して兵士と市民の見境もなく15万人を殺しました。あわせて何人殺しましたか?」
という切実な問題となり、しかもそれを現実社会で実行して確かめようとすれば、致命的な悪因苦果となる。
机上の数遊びなどとはまた別に、殺生や妄語などといった人間の善悪を司る行業があり、数遊びのために現実の
善悪を蔑ろにしてしまった結果、殺生や妄語に手を出し、耐え難い苦しみを抱えることともなる。数霊とか数秘術とかの
数への妄信を促す要素がユダヤ教のカバラなどにはあって、ちゃんと現実の善悪と分離して考えれば
無覆無記に止まる数遊びや概念遊びを、現実の善悪をも引っ掻き回す手段として用いたことで有覆無記
となり、世界中に致命的な迷惑を撒き散らす元凶となっている。
518 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 07:01:59 0
だから弘法大師が差別智(現実の知識)として提示した十住心論に、ユダヤやキリシタンなどのアブラハム教
までをも当てはめ、程度の低い住心の解像度が高まったに応じて、全体のレベルを下げた「当然の結果」が
>>506の「現代版十住心論」となった。仏教もまた決して数学や科学を把握の対象としていないのではなく、
数学や科学を司るような数や概念は、人間の苦楽を司る善悪などとは全くの別物であると見抜いているから
積極的な言及の対象とはしていないだけ(無記)。あれだけ大部な大蔵経典の中に、ほとんど体系的な
数学や科学に関する記述がないのもそのせい。数や概念によってこそ現実世界での差別も生まれている。
だからより純粋な仏心の体得に特化された禅などでは、密教ではある程度説明の対象とされていた差別智や、
卦爻の組み合わせがかなり数的な意味を持つ易の占いなども扱わない。数的な意味を持つとは言っても、
易の活用目的は現実社会をより穏健な方向へと持っていく正当な場合に限るんだが、それでも釈尊が
数論や概念論を無記と断じたに応じて、禅ならば易も含めて数で差別することを徹底的に省く。絶対平等、
絶対自由。老婆を棒でしばき倒して自由を謳歌する(臨済録)、それはそれで結構な覚悟のいる領域だ。
519 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 07:22:04 0
おはよう。
自分よりも遥かに高度な、東洋教学の体得レベルでの
修学を果たせていた人間なんていくらでもいただろうになあ。
江戸時代までの日本には。
沢庵宗彭に林道春に本居宜長、誰しもが仏儒や神道の恩恵を受けて
真の自由や平和や愛を享受できていた時代に、さらにその道のプロとして
活躍していたぐらいだから、今ではあり得ないぐらいの学問的素養だったろう。
知識はあった所でちっとも体得できてない、寺子屋レベルの東洋教学の実践すら
覚束ない天才幼稚園児たちに囲まれて、孤高故の気高さを抱いている小学生がこのワシだ。
そのワシよりもさらに、遥かな上級生だっただろう
古の先人たちの偉大さにこそ、まだまだ上っていける可能性を見出すものだ。
おまえらの知識になんかではなく。
521 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 09:18:56 0
>>506を見て不平を抱いたりしてるような時点で、まだまだ現実の差別を脱落できていない証拠だ。
仏心の体得に基づく絶対平等の境地を、ありとある差別智の明らめに用いられてこそ真の仏者だ。
「夫れ、仏に三身あり、教は、則ち二種なり。応・化の開説を名づけて顕教と曰う。
言、顕略にして機に逗えり。法仏の談話、之を密蔵と謂う。言、秘奥にして実説なり」
(ちくま学芸文庫「弁顕密二教論」冒頭より)
「路に剣客に逢わば、須らく呈すべし、詩人に遇わずんば献ずること莫れ。
人に逢うては且らく三分を説け、未だ全く一片を施すべからず」
(岩波文庫「無門関」三十三則より)
顕教のやっていることは相手の素質に合わせての応身仏、化身仏の顕開でしかない。
真理がありのままの姿を現した法身仏は密教の境地によってこそ体得される。
(浄土教などは顕教ではあるものの、他力本願に徹することで化身土ではなく真仏土に生まれる
ことを信じる。だから浄土教は自力の顕教よりも目指している対象はより高いものとなっている)
禅はこの密教からの見下しに対して完全に開き直って、相手の身分に応じて全く別個の対応を執る。
貴人には貴人に(万歳万歳万万歳)、老婆には老婆に、童子には童子に合わせた問答を試みる。
錬金術から売春から死刑執行まで、ありとあらゆる汚濁も含めて全てを肯定の段階へと導く
華厳思想に裏打ちされた確かな平等主義で以って、あるがままの現実を花で厳かざる粋となる。
現実に差別は存在している、それでも仏心は至るところで絶対平等の花を咲かせる。
宇宙の真理の前では死刑囚も世界帝王もさして変わらない、諸法実相の縁起へと還元される。
522 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 13:05:01 0
禅はもう2年ほど前に、道元禅師の「正法眼蔵」を拠り所にした仮の参究を試みている。
まだまだ洋学とのみそくそ疾患が排しきれていなかった時期の、特効治療として非常に役立ったもんだ。
「学道の人真を識らざるは、只だ従前より識神を認むるが為なり。
無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人と作す」
(岩波文庫「無門関」十二則より)
認識の操作によって何らかの形而上学的な真理が見定められうるというような洋学独特の迷妄を
時には具体的に(諸悪莫作とか)、時には抽象的に(恁麼とか)解きほぐすことで、最初期の洗脳解除の
道具として非常に役立った。名目上は禅は絶対平等ではあるものの、武田信玄や上杉謙信のような
最強戦国武将からも親しまれたあたり、主な活動領域となる心識は
>>506でいえば「犯罪防止住心第四」
あたりになる。数多の戦国武将が同じく参考とした兵家(孫子や呉子など)や、遠い世界ではあるものの、
犯罪主義の東方への拡大を抑える堤防としての役割を果たしてくれたイスラムなどと段階的には似ている。
六道でいえば修羅道であり、概ね悪趣(地獄餓鬼畜生)ではなく善趣(人天など)の一つとして捉えられる
ものの、泰平の世の中がやってきて積極的な戦闘行為が遠慮されるようになれば、
>>506でいうところの
「道徳保全住心第五」に位置する儒家や士道、さらにはそれ以上の高度な心識に属する教学に主導権を
譲る必要が出てくる。夏草や、兵どもが夢の跡。たまには遊びに行く程度のものとして禅寺も考えるわけ。
523 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 13:06:41 0
テメーころすぞマジで
524 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 13:07:34 0
止めねーと殺すぞマジで
525 :
考える名無しさん:2009/05/13(水) 13:13:09 0
いれねーことすんなよマジで
>523-525
通報対象かな?
いま世界中を舞台にして行なわれている、水面下での電子情報戦争の戦後処理を
どこに委託するかを冷静に考えてみた。中国やインドは勝者となり、しかも戦後社会の
主導者として君臨するのが目に見えているが、善悪の衝突という観点からすれば
勧善懲悪や断悪修善の側に偏りすぎていて、戦後処理の主導者としての公平さには欠ける。
もちろん敗戦者となる西洋にあるスイスなどは、いくら永世中立国を謳おうともやはり
西洋側なので、性懲りもなく自分らにとっての我田引水な表決を下しかねない。
結局は当該の戦後処理問題を委託する相手としては、イスラム諸国の運営する
ムスリム世界裁判所あたりが適当となる。1980年のイスラーム会議で採択された
「普遍的イスラーム宣言」の中で提唱された、国際紛争問題の解決を目的とした機関、
特に目立った活動の話は何も聞いていないが、西洋諸国主導の国際連合などよりも
「西洋全滅後」の地球人類社会を中立的な立場から裁定する場所として最も望ましい。
「イスラーム辞典(東京堂出版)」で普遍的イスラーム宣言の全文の訳を読んだが、
現時点における地球人類社会の最低限の理想を示した文書とでもいえる内容。儒家は
世俗主義に過ぎるし、仏教は超俗主義に過ぎる。世俗と超俗を完全に合体させた
出家禁止もしくは信徒全員出家状態のタウヒード(一化)が、差し当たって俗悪過剰の
現西洋社会に対する厚生措置としては適切である。さすが完成終結したアブラハム教なだけ
あって、聖書圏で呈しているような問題は半ば強引であるものの全て解決を済ませてある。
わざわざ儒家や仏教が出て行くまでもなく、アブラハム教同士の落とし前で
致命的な迷惑の責任ぐらいは取ることが可能なようだ。
ちなみに「普遍的イスラーム宣言」の中では、コーラン含むイスラムの教えを
テロリズムのような非合法行為に用いる過激派は敵対勢力であると断定している。
世界中のムスリム学者が集まって採択されたこの宣言文書の内容のほうが、
メディアコントロールによってスケープゴートと化せられている原理主義組織などよりも
遥かにムスリム全体の意見を代弁している点に留意されたい。参照は上記の著書などから。
こんなことをおまえらなんかに言っても無駄だがな。裁かれる張本人なんかに。
ただ、西洋全滅後の地球人類社会が、たった一つの国や小社会だけによって
牛耳られることなどのない、多元性を重視した社会になることを保証しておく。
宗教多元主義を名目に、結局は犯罪を正当化する自分らだけへの我田引水
を策謀してしまう西洋社会が十分な行為能力制限を受けた後に、中国インド
アラブその他、あらゆる国家や社会が真の平等の下での群雄割拠に興じる。
他国に致命的な侵害を行なうような戦乱は、他でもない西洋社会自身こそが
いつでも引き起こしてきたものだから、事後の世界の乱れを西洋人風情が
心配してくれる必要なども皆無。西洋以外はみんな望んでいる多様性の和合、
共産主義やイギリス連合も消滅改変して、中国やインドも元の健康を取り戻す。
西洋なんかを管理下においたところで、破産管財人の側にとっちゃ何の得にもならない。
ユダヤやアングロサクソンあたりが大量の資本を備蓄してはいるものの、
そのほとんどが投機で蓄えた実体を持たないあぶく銭(金融資本)な上、
不正な資本運用に伴う事務手数料の何重もの介在によって無駄な金融ロスを生み、
本来は全く発生する必要のない貧困や飢餓を発展途上国へと多重にしわ寄せしている。
北アメリカと南部アフリカ(北部はイスラムでそれほどの貧困はない)その他、
収奪する側とされる側の利害を相殺すれば、西洋ってのは完全にプラスマイナスゼロ
なのであって、無利子無搾取のイスラム経済と同等かそれ以下程度の価値しか持ってない。
犯罪正当化だけが取り得の、その本質的文化価値の程度も知れたもの。錬金術の
効能が切れた先にあるのは、これまたイスラム並みかそれ以下の没個性的な文化圏のみ。
幸いにも、イスラムは創始者のムハンマドからして商家の出で、金の扱いは心得ている。
実体を持たない金銭の流れを幻惑や無記として軽視したり否定したりすることの多い
儒家や仏教は、確かにそこにもまたある種の気高さを見出せるものの、あまりにもストイック
すぎて怠惰放蕩に耽りきっている現西洋人に対する矯正手段としては現実性が低すぎる。
とりあえず儒家や仏教は高値の花としておいて(値段が高いということではないが)、
自分たちと同じ重商主義者であり、しかも正当な資産の運用に手馴れているムスリムの
言うことを聞いて、大人しく飼い馴らされる道から少しづつ上へ登っていくことを目指せ。
アッ=サラーム・アライクム
532 :
考える名無しさん:2009/05/14(木) 18:44:37 0
アブー・アブドッ=ラーフ・ムハンマド・イブン・イドリース・アッ=シャーフィイー
(イスラム法学者。スンニ派正当四法学派の内のシャーフィイー派の学祖)
こんなわけわかめな名称ばっかり出てくるイスラーム辞典
(ちなみに
>>531の意味は「なんじらの上に平安あれ」)。
西洋の側から東洋の側にだけでなく、東洋の側から西洋の側に対しても
高い高い隔絶の壁であるイスラム。現代人が存命中に超えるのはまず無理。
太平洋を渡って向こう岸に行くズルが、主婦を目指す女性だけには許される。
神道の主婦信仰(アマテラス信仰)に基づいて日本への上陸を許可する。男はいかん。
533 :
考える名無しさん:2009/05/14(木) 21:33:49 0
「奴隷の男性は二人までの妻を娶れる(自由民は四人まで)」とか、
「妻が月経中の夫による離婚宣言は無効」とか、
優しいんだか優しくないんだかよく分かんない取り決めがいっぱいある。
イスラムは、個人的に自分があまり得意でない分野に関して非常に詳しい。
一つは上
>>530にも言った「金」。商業の公平さを保った限りでの発展の画策。
そしてもう一つが「法律」。些細な物事の隅々にまで行き渡った法整備。
それらのいずれもが決して「万能主義」とは化しておらず、
アラーの御名の下での冷静な管理を本分としている。
商業も法律もいくらでも悪用が可能で、悪か、もしくは無記かといった断定から
儒家や仏教ではしょっぱなから忌避の対象となるのが、
「アラーによって許された人間の領分」として限定的に容認され、
十分に制動が行き届いた中での商業や法律の発展整備が促されている。
多神教(神道やヒンズー教など)をシーア派が不浄扱いしたりと、その教義の
何もかもを受け入れる気にはなれないが、お互いがあまり得意でない分野を
補い合う協力相手としては非常に期待のできるところのあるイスラム。
「アブラハム教はアホ宗教」だなんてことも言ったけど、聖書教がアホすぎた
せいでのとばっちりであったことをここで釈明し、お詫びに代えさせてもらう。
534 :
考える名無しさん:2009/05/15(金) 13:25:43 0
信じられないかもしれないが、イスラムの宗教観は仏教に近い。
ヒンズー教よりも道教よりも、仏教に近い。
絶対他力(受動)とか唱名(ズィクル)とか自我の消滅とか、
浄土教とほぼ同じ枠組みがスーフィズム(タサゥウフ)に多く垣間見られる。
浄土教の基本体系の部分的な起源であるゾロアスター教を生み出したイランもまた
今はイスラム国家なだけあって、他者依存型宗教の黄金比を自然と捉えている。
とはいえ浄土教がゾロアスター教に仏教教義を上乗せしているのと同じように、
イスラムもまた唯一神信仰を上乗せしていて、唱名の内容も
「ラー・イラーハ・イッラッ=ラーフ(アッラー以外に神はなし)」といった風に、
阿弥陀仏を自主的に選択して帰依対象とする念仏よりは独一性が強い。
基本は浄土教で、そこに禅の自力と日蓮の独一本門を少しまぶしたものと考えれば、
イスラムの神秘主義に対してもそれほどの疎外感を抱く必要はなくなる。
特に善良さこそを唯一神に仮託しているあたり(善いことをしてもそれはアラーの
加護による。悪いことをしてしまったとしてもそれはアラーのせいではない)、
最低限悪よりは善を優先する東洋教学全体の枠組みに沿っていて、好ましい。
535 :
考える名無しさん:2009/05/15(金) 23:25:02 0
>>526 通報対象はおまえ。宗教団体の圧力は怖いからねえ。
さて聖書教とイスラムの日本支部に通報しとくわ
どーなっても知ーらない
536 :
考える名無しさん:2009/05/15(金) 23:49:58 0
こんにちの団体法人だけを見れば、仏教系やインド教系、神道系などで
相当にひどいカルト教団も多い。一方で聖書教が「それしか存在しない世界」
での最低限の社会保全のために、無謀な自殺の禁止とかの(本来は聖書ではなく
仏典にある)どちらかといえば正しめの教義を受け入れてきた歴史もある。
ただ、根本になっている教義(聖書)が致命的にカルトであることこそが聖書教の問題。
人間が想定し得る限りでの、あらゆる不吉の限りを尽くしているその本義こそが問題。
豪華絢爛の限りを尽くした宝箱の中に保管している宝物こそは、糞尿と嘔吐物とゴミの塊。
宝箱である信仰団体がどうだという以前に、宝物である聖書の無価値さこそを指摘している。
宝物の本質的無価値さに感化されて、団体のほうが致命的な罪を犯してきた歴史的事実も
あるにはあるしろ、元凶であるのはあくまで聖書自体のほう。あんなものを信じれば
どんなに本性が善良な人間だろうとも現実の行動は犯罪と化してしまう。
罪を憎んで人を憎まずならぬ、聖書を憎んで人を憎まず。
キリストなんて聖書の中にしか存在しないことも踏まえた上で。
537 :
考える名無しさん:2009/05/16(土) 01:24:14 0
どんなに本人たちが善良だろうとも、聖書を信じているぐらいだからその分だけ救われない。
逆に、どんなに本人たちが悪辣だろうとも、仏法を信じているぐらいならその分だけ救われる。
3+3が7や8であることを信じるか、6であることを信じるかほどの違い。
誤謬か真理かのいずれかを選択しただけで、全財産を掛けた博打に負けたか勝ったか
ほどの落差を生じさせる。ショックだろう、インパクトだろう。負けた側にとっちゃ。
勝った側は昔から勝って当然の境地にい続けてるんで、別にショックでもインパクトでもなんでもない。
ただ頭北面西で横たわって、相変わらず何もしない。ディヤーナ(禅)の境地で安穏としている。
ショックだインパクトだに何もかもを振り回されるという、そちら側だけでの問題を
そちら側だけで処理して、元々衝撃なんか重要視していない普通の人間社会へと帰って来い。
聖書信者を除く全人類45億が、当然のものとして堅持し続けている平穏無事の世界へ。
539 :
考える名無しさん:2009/05/16(土) 07:49:29 0
540 :
考える名無しさん:2009/05/16(土) 18:23:14 0
「『証明』を意味するアラビア語『イシュラーク』という言葉は、東方、光の世界という意味をも合せもつ。
スフラワルディーの主著『東方神智学』は、このイシュラークの二重性の意味を意識した上で展開される。
まず東方とは純粋な光ないし大天使の世界であり、物質性がなく、肉眼で把えることのできない光の世界である。
そして西方とは闇、物質の世界である。また光と闇とが交わる可視の天の世界として近西ともいうべき世界がある。
宇宙はその現実のあらゆる次元において光と闇の諸階層以外の何ものでもなく、彼が光と呼ぶ純粋な光とは、
その煌々たる輝きがひとの視力を奪う神的本質であり、あらゆる存在の根源なのである。人間の魂が肉体の中に
ありながら、いかにして西方つまり物質的絆から離れ、至福と平安を見いだしうる唯一の場所たる光の東方に
帰りつくか、いかにして至高の光の照明を享受しうるか、これが彼の教説の主題である」
(黒田壽郎編「イスラーム辞典」スフラワルディーの項より)
「イシュラーク」が光の世界と東方という二重の意味を持つのは、おそらく太陽が東から昇ることに由来するのだろう。
単純に位置関係を考えれば、光の東方=東洋、闇の西方=西洋、光と闇の交わる近西=イスラムとなる。
しかもこの当てはめに基づく、スフラワルディーの照明論がずばり的中しているのも興味深い点。
物質的価値観から解き放たれた東洋、拘泥し通しな西洋、両者の価値観の交錯するイスラム。
太陽と面と向かう者と、背を向ける者と、その中間であるもの。人類の全体性の俯瞰は
800年以上前のイスラムの哲学者によってすでに完成させられていたものであるらしい。
541 :
考える名無しさん:2009/05/16(土) 18:50:54 0
いま、地球上で聖書圏ほどにも貧富の格差が開ききっている世界は他にない。
ロックフェーラーやロスチャイルドも聖書教徒(ユダヤ教徒)なら、アフリカ南部で
貧困や餓死に喘いでいる黒人の女子供もまた聖書教徒(キリスト教末端被害教徒)。
最悪の肥満と最悪の飢餓、両方ともが聖書圏にこそあり、旧約聖書による犯罪加害の
正当化と、新約聖書による犯罪被害の正当化や美化が生半可な冗談ではないことを
裏付けている。犯罪加害だけでなく、犯罪被害の正当化や美化もまた聖書圏特有のもの。
奪い奪われの地獄絵図が、聖書圏外を覆い尽くす以前に、聖書圏内でこそ深刻化している。
闇に覆われた西方の社会が、物質的利益を追求したからといって、少しだって全体
としての利益の目分量を増加させられたわけではなく、ただ奪うものと奪われるものとの
極端な格差を生み出すことにより、奪い取った側だけでの名目上の利益が増えているだけ。
物質的な利益にこだわったことにより、本当に利益が増大させられていたなら文句の
付けようもないが、事実、少しも増加させられてはいない。物質はどこまでいっても
物質でしかなく、錬金術もまたどこまでいっても錬金術でしかない。故にこそ物質性に
拘泥することがそのまま「闇」に直結してしまってもいる。
物質的利益だけにこだわることが闇の領域であると断定したスフラワルディーが服して
いたイスラムもまた、ある程度は錬金術などにも関わっていた世界。決して何の根拠もなく
主張しているわけではなく、今となっては確かにその通りだと納得させられる他はない。
最大級の加害者であると同時に、常に最大級の被害者でもある、闇の聖書圏。
加害者のクセして被害妄想も満タン。一概に敵視すればそれでいいなんてものでもない。
>>540訂正:
×『証明』を意味するアラビア語『イシュラーク』という言葉は
○照明を意味するアラビア語『イシュラーク』という言葉は
自分が西洋から学んだこと。
こんなにも弱い人たちがいるということ。
544 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 21:11:14 0
「人は数多い不義者どもを満足さすものとなってはならぬ。
彼らはだ、邪義者どもをみな、義者だというのである」
(ヤスナ第四十三章)
「行為に応じて報応をお授けくださるように」
(ヤスナ第四十三章)
「天則は利益するために〔存す〕」「不義は破壊するために〔存す〕」
(ヤスナ第四十九章)
「悪政者ら、悪行者ら、悪語者ら、
悪ダエーナー者ら、悪思者ら――〔かかる〕不義者らを、
汚悪な食物をたずさえて〔彼らの〕魂が迎えにやってくる。
彼らは『不義』の客人なのである」
(ヤスナ第四十九章)
「悪食が〔設けられて〕あるのは悲嘆の声をあげるやからで、安楽の失われるのは
天則をないがしろにする不義者どもです」
(ヤスナ第五十三章)
以上、世界古典文学大系「アヴェスター」ガーサー(最重要箇所)より。
×世界古典文学大系
○世界古典文学全集
546 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 21:22:31 0
「邪悪なる者、無善のもの、反天則者、邪悪を創造するものどもとの交わりを絶つことを、
わたしは宣します――世にあるものどものうちの不義第一のもの、世にあるものどものうち
悪臭第一のもの、世にあるものどものうち無善第一のものどもとの、です。ダエーワらと
わかれダエーワの仲間とわかれ、呪師とわかれ呪師の仲間とわかれ、世にあるものども
のうちだれにでも禍害をおよぼすものどもとわかれ、〔彼らの〕思想とわかれ、ことばとわかれ、
行為とわかれ、目*とわかれます。不義者にして、いつかは害を加えるであろうものとして、
このものとの交わりを絶つことを、ほんとうにわたしは宣します」
(世界古典文学全集「アヴェスター」ゾロアストラ教徒の信条告白文より)
* 「(不義者の)目」――慈眼の反対。悪い目は
不吉不幸をもたらすと信じられていた。現在も同様。(同全集註釈より)
547 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 21:28:50 0
うぜーから殺すね
548 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 21:35:42 0
「全知のアフラ・マズダーよ。
御身は睡眠を用いず、大麻を用い給わずして、
アフラ・マズダーにおわします」
「かの害意多殺のアンラ・マンユ
魔は、こうほざいた
『不義、害意の魔たる
われらは会合を催そうではないか――
アルズーラのしゃれこうべにおいて。』
奔り来たってほざいたのは
不義・害意の諸魔。
咆えてほざいたのは
不義・害意の諸魔。
邪悪な語をほざいたのは
不義・害意の諸魔。
『ここでわれらは会合を催そう――
アルズーラのしゃれこうべにおいて。
まことに、かの義者ザラスシュトラは生を
ポルシャスパの家に享けた。
どこで、われらは彼を破滅させることができようか。
彼は諸魔の打倒者。
彼は諸魔の対抗者。彼はドゥルジへの反ドゥルジ者。
〔かくては〕敗北するのはダエーワをまつるものども、
魔造のナス、〔それに〕いつわって吐露されるドゥラオガ。』
不義・害意の諸魔は
〔こう〕ほざいて奔った――
忌まわしい悪界たる
暗黒界の底へ」
以上、世界古典文学全集「アヴェスター」ウーディーウダート第十九章より。
549 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 21:48:31 0
「ザラスシュストラはアフラ・マズダーに問うた
『最勝のスプンタ・マンユなるアフラ・マズダーよ、
有像世界の創造主、義者よ。
不義者が死ぬとき、
どこに、その夜、彼の魂はとどまるのですか。』
すると、アフラ・マズダーは仰せられた
『義者ザラスシュトラよ、まことに、かしこで〔すなわち〕
しゃれこうべの近くを奔りまわるのだ
[いずれ]ではじまるガーサーの言葉を唱えながら。
いずれの地を牧すべきか、牧するためにどこへわたくしは行くべきでしょうか。
〔その不義者たる死者の〕魂は、すべて
この生きているものどもの世界にあるのと
同じ不幸を、その夜、願い求めるのである。』」
「屎尿と屎尿の悪臭のあるものを――
それは若者にして悪思者・
悪語者・悪行者・
悪ダエーナー者たるものの死後の食物。
それはジャヒカー女にして〔善思より〕悪思の方が多く・
悪語の方が多く・悪行の方が多く、
邪導し、裁き人の権威に服さぬ
不義者たるもののための死後の食物。」
以上、「アヴェスター」ハーゾークト・ナスク第二章より。
550 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 22:22:54 0
「苦果をうけるか、楽果をうけるかは、各人の自由な『選取、えらび』によって決定される。
『選取』のことはガーサーの随所に見出される。(中略)正しい『選取』による善思善語善行と、
反対の誤れる『選取』による悪思悪語悪行が、果をわかつ決定的契機となる。時によって
善悪動揺して浮動であるがごときは『選取』を誤ったものであるから、それはけっきょく、
誤れる『選取』に属する。従って人間は善か悪かの二者撰一の前に立たされ、善悪等混は
ゾロアストラの教義においては、ありえないのである」
(世界古典文学全集「アヴェスター」解説より)
上記の「アヴェスター」からの引文を見ても分かるとおり、ゾロアスター教は「罪福教」と
言い換えてもいいほどの善悪因果論。「善悪二元論における善の勝利」という言い方はよく
されるものの、勝ち負けの後の善悪に対する応報までもが詳述されている。
「しゃれこうべの周りで右往左往する」とか、「汚物を食わされる」とか、
地獄に落ちて業火に晒されるなんてよりは、遥かに切実な悪因苦果の描写がある。
善悪の采配をアフラ・アマズダーという超越神に仮託する割には、描写の温厚さが残る。
そこが超越神の苛酷さを強調する旧約聖書などと比べて脆弱な側面であり、
ゾロアスター教がユダヤ教のパクリ対象となった先輩格の一神教であったにも関わらず、
それとはまた別のものとして、中東社会がエホバ並みに酷烈な超越神たるアラーを
擁立せねばならなくなった理由でもある。強化されたゾロアスター教=イスラム教ということ。
551 :
考える名無しさん:2009/05/18(月) 22:52:36 0
「ゾロアスター教が罪福教だから、あなたはゾロアスター教を信仰しますか?」
と言われれば、「いいえ」と答える。善因楽果悪因苦果は確かに存在する。
でもそれは別に、アフラ・マズダーの如き超越神の采配に基づいてではなく、
人間の側の勝手な定義にこそ基づいているものだから。
本質的に楽であるものを人間は「善」と定義し、苦であるものを「悪」と定義している。
ただ人間自身が罪福異熟の道理に基づいて、自ずと善悪の采配を振るっているわけで、
そのような「虚無の罪福」こそを司っているのが、仏教の、中でも浄土教であるということ。
「アヴェスター」ではしょっちゅう善悪に関する記述が出てくる。善を信ずるものは救われ
悪を信ずるものは救われない、ほとんどそれだけで重要部分が押し切られているといっても
過言ではないが、じゃあ「善」とは何か、「悪」とは何かということになると、ほとんどその
内実が説明されない。ただアフラ・マズダーが善であると定義したものが善であり、
悪であると定義したものが悪であるとする、善悪を宗教的な価値観に還元してしまう。
それでは現実の善悪が疎かになり、善悪の采配を別の超越神に委ねる場合などには
ゾ教で善と呼ばれていたものが悪となったり、悪と呼ばれていたものが善となったりする。
善悪二元論に陥っているが故にこそ、善悪の内実は疎かにされる。
そうではなく、善一元論となることで善の真理を究めつくしたのが仏教であるし、
悪一元論となることで悪の誤謬を究めつくしたのが聖書教である。
善悪の対決すらも捨て去った一元論者同士の戦いで仏教が勝利し、聖書教が敗北した。
結局は善の勝利を確約したゾロアスター教の予言通りになったけれども、
勝ったのはあくまでゾロアスター教ではなく仏教のほう。
アレクサンドロスのペルシャ侵攻によってゾロアスター教が衰亡した一方で、
同じギリシャ系国王であるメナンドロスはナーガセーナによって仏教に改宗させられた。
善悪の衝突にこだわる教えは悪に破れ、善一元論と化した教えこそは悪に勝ち得た。
善は悪との対決に拘泥するまでもない普遍的な真理である、そこまでいって本当の善の
理解者となる。ザラスシュトラのほうが若干年上にしろ、やはり王法の保持者は釈尊たる。
552 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 00:23:39 O
あと、「アヴェスター」には正信の義者が美女との会合を約束され、
不信の不義者が醜女との会合を強要されるとの話がある。
(ただし両者ともあくまで自己の信念の投影とされる)
サエコって大して美人じゃないよな(苦笑
運動神経抜群の色男のほうがそれなりの女で満足して、
そうでもないブサ男のほうが美女を執拗に欲しがるんだな(笑
分不相応なんじゃなくて、それが分相応なんだな。
色男に美女も、ブサ男にブ女も「貧富の格差」広げ過ぎだから、
夫婦のどちらかが外見上の主人公に徹するぐらいがちょうどいいんだな。
姓は夫の側に変わる代わりにな、妻が美女の場合は。
般 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
提 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
菩 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
提
薩
婆
訶
妙法蓮華經 観世音菩薩普門品 第二十五 偈
爾時 無盡意菩薩以偈問曰
世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無尽意 汝聴観音行 善応諸方所
弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品
自在之業 普門示現 神通力者 当智是人 功徳不少 仏説是普門品時
衆中八万四千衆生 皆發無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
准胝観音経
准胝功徳聚。寂静にして心常に誦すれば一切諸諸の大難能く是の人を侵すことなし。
天上及び人間福を受くること佛の如く等し。比の如意珠に遇はば定んで無等等を得ん。
若し我れ誓願大悲の裡一人として二世の願を成ぜずんば我れ虚妄罪過の裡に堕して
本覚に帰らず大悲を捨てん。
「 のうばさったなん さんみゃくさんぼだ くちなんたにゃあた
おん しゃれい しゅれい、じゅんてい そわか」
不動尊ゐのり経
一心に祈り奉る 香の煙は かすかなれども天に通じて
天より あま下らせ給う 其時 大日大聖不動明王
五色の雲の 中よりも 御みすがたを 顕わせ給う
あら おそろしや くりから不動や まんねん
剣を さかばに かやせば あうんの二字が 火ゑんとなつて
なわめて まんだら そはかの なみをあらくれ
金がら童子が か[う]べに あがって せいたか童子が 受けとり給ひて
悪病諸病を からめとつて 三つ石川原の せいはに たたりて
祈れや祈れや 叶うぞ叶うぞ さんげさんげ 六根清浄。
一より二けん。三界四はらい。五体の巻もの。六根清浄。七難即滅。
八方からめて。九もつをととのへ。十ぶに祈れば。
神は しょじょう なさしめ給う ほんぎゃ[く]ほんじの 大ごま童子
東は日の本 天照大神 鹿しまに香取 生須の明神 神たい日輪。
南は大唐 晴雲 星辰。
西は天竺 三世の諸菩薩 仏たい月輪
北は子のくに 出雲の御神 八百萬神。
天も感應。地神も納受。諸願も成就。
[急々如律令とあらそは 大日大聖不動明王。]
仏説聖不動経
その時に大会にひとりの明王あり。
この大明王は大威力あり。
大悲の徳の故に青黒の形を現じ
大定の徳のゆえに 金剛石に座し
大智慧の故に大火焔を現じ
大智の剣を執って 貧瞋癡(とんじんち)を害し
三昧の縄をもて難伏の者を縛す
無相法身 虚空同体なれば
その住処なし ただ衆生心想の内に住したまう
衆生の意想各々不同なれば 衆生の意に従って
しかも利益を成し もとむる所円満せしたもう
その時に大会 この経を説きたまえることを聞き
皆大いに歓喜し信受して奉行しき
仏説聖不動経
560 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 13:33:24 0
ネーティ ネーティ アートマン
561 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 13:55:46 O
もう会わんとわからんのに情報操作されてるの馬鹿じゃないかと思う
562 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 14:07:20 0
コーカソイド系宗教の系譜:
┌─────→仏教
│ (善一元論)
(浄土教、密教) ↑
│ 古代インド教
│ (究極真理の収集)
│ ↓
└────ゾロアスター教──→イスラム教
(善悪二元論) (反悪一元論)
↓ ↑
聖書教 |
(悪一元論)──────┘
563 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 14:09:00 0
コーカソイド系宗教の系譜:
┌─────→仏教
│ (善一元論)
(浄土教、密教) ↑
│ 古代インド教
│ (究極真理の収集)
│ ↓
└────ゾロアスター教──→イスラム教
(善悪二元論) (反悪一元論)
↓ ↑
聖書教───────┘
(悪一元論)
>>561 墓穴を掘るような情報操作をするほうがよっぽど馬鹿だ。
565 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 14:25:01 0
566 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 14:26:18 0
.
女はどこまでも分からない生き物だ。
女“を”分からないんでなく、女“は”分からない。
女自身こそがどこまでいっても分からないままでいる。
射精が分からない生き物の宿命。
中に出す愉悦を一生味わえないが故の、踏ん切りのないままの生きざま。
早く踏ん切ってあげたいもんだね。代わりに。
568 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 15:10:50 0
.
「男女平等」って、早い話が女と同程度にまで男が格を下げるってことだから、
女への気がねなく男が最大級の力を発揮する男尊女卑に比べれば、弱くなる。
男女平等のほうが聞こえはいいにしても、そのほうが必ず全体としては弱くなる。
夫唱婦随が風潮として容認されている社会と比べて、男が本当の能力が発揮できなくなる。
男が弱くなりすぎて負ける。女にとっては気持ちがよくとも、必ず負ける。
勝ち負けにこだわる限りは必ず負ける。男らしいということは勝利的であり、
女々しいということは敗北的ということだから、本質まで遡った最終決戦でこそ完敗する。
それが男女の運命だから、逆らうこともあくまで過度にとどまるもの。
出るとこ出なきゃならんのは果たしてどっちか?ってこった。
山一証券が破綻した時みたいに、テレビの前で号泣劇でも披露するのが先だろ。
あるいは昭和二十年八月十五日の玉音放送のような。
(生まれる前なんで体験しちゃいないが)
それからやっと会社更正法の適用なり、降伏文書への調印なりが始まるんだろ。
本格的な戦後処理が。事務手続きの前後はそっちのほうが熟知してるはずだろ。
ただ、その手続きを自分たち自身に適用する覚悟ができてないだけ。
他者に強要し続けてきた割りに、自分だけはできてない自決の覚悟。
双方向性の人間関係を拒絶し続けてきたが故に、一番受け入れにくい
双方向性こそを受け入れなければならなくなった。
自己中はひどければひどいほど自業自得もひどくなる。
後世の人々に教訓として遺すためにも、想像を絶する程の醜悪な破綻劇が期待される。
「女々しい」ことが敗北的なのであって、「女らしい」ことが敗北的なのではない。
男でも女でも女々しくはなれるが、女らしくなれるのは本物の女だけ。
本物の(健康な)女は女性ホルモンを分泌する卵巣を持っていて子供も産める、
だからこそ女らしくもなれるんだから、女らしいということは保護対象として適切であるということ。
対して女々しくは男だろうが女だろうがなり得る。
最前線で戦う兵士だろうとも女々しくはなり得て、そういう時に女々しかったら必ず負ける。
保護されることを前提とする弱々しさをそこかしこに振り撒いたせいで士気を低め、
何十万という兵力で数万の敵兵にすら負けてしまう。武王に滅ぼされた殷紂のように。
勝ち負けにこだわるような殺伐とした領域に女々しさを持ち込むことが問題なのであって、
平和な時にデートする相手が女らしいのは少しも悪くないこと。
こんなにも保護しがいのある女を保護していると、却って自慢になること。
足を引っ張るんじゃなくて自慢の種になれ。戦時中ではなく平時における。
それまでは防空壕の中で防空ずきん被っておとなしくしてなさい。
女子供でも兵力に動員する、中国の便衣兵みたいな真似はもうやめなさい。
572 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 22:23:42 0
┌─────→仏教
│ (善一元論)
(浄土教、密教) ↑
│ 古代インド教
│ (究極真理の収集)
│ ↓
└────ゾロアスター教──→イスラム教
(善悪二元論) (反悪一元論)
↓ ↑
聖書教───────┘
(悪一元論)
悪であるものこそが威張り腐ってんだ。
善一元論も反悪一元論も善悪二元論もある中で、
わざわざ悪一元論者こそがしゃしゃり出てリーダー面してやがる。
そりゃあまとまるものもまとまらなくなって当然だ。地球人類社会というまとまり。
別に絶滅しろとは言わないから、「最低最悪」としての身分をわきまえろってんだ。
人類が想定し得る限りでの悪辣の限りを尽くした根本教義の保持者としての身分を。
そこに「人類みな平等」を主張されたんじゃ、誰しもが最低最悪の身分に堕落しなきゃ
ならなくなる迷惑さ加減をわきまえて、元通り人類社会の片隅で小さくなってろってんだ。
>>569訂正:
逆らうこともあくまで過度にとどまるもの。
逆らうこともあくまで過渡期にとどまるもの。
夢を見る浅眠よりも、夢すら見ない熟睡のほうが上なんだよ、ウパニシャッドでは。
豚インフルエンザ、イスラム社会での感染者はまだトルコの数人だけだってさ。
中国やインドもまだ数人程度。あれだけの大所帯にも関わらず。
北米関係者、悪い金の流れに加担してる国ほど大きな被害が出ている。
人間が動きさえしなければ、太平洋と大西洋で断絶させられた社会のウイルス災禍が
そんなに地球全体にまで広がりもしないわけで、ある程度は人災の様相も呈している。
人間が無闇やたらと動き回りすぎていることへの警告。潜在的ADHDへの。
大航海時代に闇雲に動き回ったからこそ広大な領地を獲得した西洋、
どっしりと座り込んで動かなかったから領地は小域に止まる東洋、人口では3分の2強。
世界地図の俯瞰だけでは汲み取りにくい内実も踏まえた上で、もう一度見直してみよう。
577 :
考える名無しさん:2009/05/20(水) 19:37:38 0
どんなに偉大な賢人や聖人だろうとも、
生きてる間はうんこブリブリ、しっこシーシー。
世俗性を重視する儒者なら、賢聖にも関わらずセックスもする。
そういった汚辱的な側面を全く無視したり悲観したりするよりも、
それはそれで一つの珍妙な文化として認めてあげるもの。
あたかもどこの建物にも便所が備え付けられているのと同じように、
人間にとっての不可避なる生理現象の一つとしてわきまえの対象とする。
ホット便座に自動洗浄にウォッシュレット、他にも華美の限りを尽くしたトイレット。
バチカンの大聖堂などもそう考えれば「ああ、すごくいい所だなあ」と見直せる。
高かれど低かれど、人類は全く別々の段階で、諸々の文化文明を営んでいる。
「そんな時代もあったねえ」と、目を細めつつ感慨に耽る時代がいつかはやってくる。
その時に先駆けて言っておこうじゃないか。アーメンアーメン、ゲロゲロブリブリと。
泣いて喜んで感謝するところだよねえ、ここ。
「こんなゴミクソクズカスの、ウジボウフラゲジゲジナメクジにまで
存在価値を見出して下さってまことにありがとうございますぅ〜フシュルル
このご恩は一生忘れませんぬ〜ニョロニョロネチャネチャ」と、骨無しの身体をヌラつかせながら
歓喜の渦に巻き込まれて幸せな幸せな余生を送り始める所だ。
人は罪深ければ罪深いほど苦労をする生き物、苦労によって得るものもまた
次の苦労を繋げるための罪業連鎖リレーのバトンでしかない。
必死で追い求め続けてきた先にあったのも、老婆を棒でしばき倒す自由だけ。
その、徒労の積み重ねというつまらないつまらない人生の先に
さらに未曾有の醜悪な破綻劇が待っている。究極の腐敗損滅という、珍妙な珍妙な一つの人間の有り様。
あたかも醜女が美女を引き立てる役割を担うように、
価値を持たないという価値を持つ、存在性の無限なる重畳さ。
是くの如し是くの如し。真理の果てなき味わい深さにみんなみんな大満足の大団円だ。
580 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 12:18:10 0
「異端の徒といえば、常に戯笑し、常に外出し、常に乞食し、常に巧技によって生活する徒輩、
あるいは市街に乞食し、資格なき者の為に祭祀を行ない、首陀羅を弟子にし、また首陀羅であって
聖典を知っている徒輩、あるいは詐欺師、諂曲者、舞踊家、傭兵、浮浪人、俳優、宮庭に罪を獲て
国を追われた徒輩、あるいは財を得んがために夜叉、羅刹、妖鬼、魑魅、悪鬼、竜蛇、吸血鬼等を
よく調伏すると公言する徒輩、あるいは詐って袈裟を纏い、耳環を着け、頂骨を携える徒輩、
あるいは詐りの推理、比喩、詭弁、幻術等を以てヴェーダ教徒の間においても熱を張らんとする
徒輩、これらの徒輩と共存すべきではありません。彼等は白昼公然の盗賊であって、天に生まれる
資格のない者共であります」(佐保田鶴治訳「ウパニシャッド」マーイトラーヤナ・ウパニシャッド七・八)
後期ウパニシャッドにおける異端排撃文。一部の専門用語を現代語に置き換えるだけで(首陀羅を
奴隷的身分とかに)ほぼ普遍的なカルト宗教排撃文書として通用する内容になっている。ある程度
後代の円熟期の奥義書なので、ヴェーダ系宗教以外の宗教も視野に入れている所があり、無我の
境地を追求する仏教もまた、瑜伽行法の一つとして正統な宗教の内に入っている(六・二十を参照)。
だから正統な大乗仏教の一つである禅宗の達磨や一休が耳輪や髑髏を用いているのは正統なこと。
正しい系統も持たないままにあれの真似なんかしたら、「決して天に生まれることのできない、大木に
対する潅木のような輩(七・八)」ということになる。バラモン教やヒンズー教は六道輪廻でいえば天道
にあたるんで、天道への求道に抵触する輩は徹底的に排撃している。地獄餓鬼畜生ですら救済の
対象に入れてあげる仏教ほど優しくはない。救いようのなさそうな奴らは平気で見捨てる冷酷な教学。
581 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 13:02:56 0
仏教以前の古代インド哲学ってのは、ほとんど整理の行き届いていない
多種多様な考究の羅列といったところ。生気(プラーナ)が眼耳意などに優るとか、
善悪因果の絶対性とか、納得のいく一貫性もある程度はある一方で、
真我(アートマン)への到達によって罪障が霧散するとか、それだけでは誤解を
生みそうな危険な記述もある。文面だけに頼らない奥義の相伝を旨とする所以。
やはり万人に開かれた汎用的な真理学の展開は仏教から。
百姓でも信じられる選択本願念仏の浄土教から、インド教並みに難解な奥義の
正伝過程を必要とする密教や禅まで、正法と縁遠い人々にまで間口を広げた
万能宗教としての体裁を持つ。もちろんこれも正統な仏教に限っての話。
>>580に
著しく抵触しているようなものならば例え仏教でも駄目。それ以前に仏教でない。
つまらない勉強は無価値だ。つまらないだけあって。
それを勉強することによって得られるものもまたつまらない。
これすなわち「つまらない因つまらない果」の法則。
おもしろい勉強にこそ価値がある。おもしろいだけあって。
それを勉強することによって得られるものもまたおもしろい。
これすなわち「おもしろい因おもしろい果」の法則。
おもしろい勉強とつまらない勉強の区別を付けろ。
両方一緒にやったせいでの「勉強なんてつまらない」なんて戯れ言をほざくな。
つまらない勉強は一切捨て去った上での身心学道をこそ突き進め。
異学異見を押し付けるような輩はしばき倒してトイレに流せ。
どこの家にでもあるトイレ、それはそれで必要なものとして。
583 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 14:10:07 0
>>580をもう少し現代的に言い換えて見ると、
・作り笑い、多動性障害、ただ生活目的の乞食、機械的な策謀を弄する徒輩。
・修行にならない歓楽街での乞食、資格を持たない偽者の祭祀、奴隷や捕囚の身分でありつつ教団を捏造する徒輩。
・詐欺師、詭弁家、癲狂なロビー活動、賞金稼ぎ、浮浪者、狂言犯罪、権力犯罪などのせいで非国民とされた徒輩。
・金が欲しいがためにスケープゴートを捏造し、恐怖を煽って人々から退治のためのカラ軍費を徴収する徒輩。
・正統な奥義の正伝もないままに、伝統的な宗教風俗(袈裟、男の耳輪、髑髏など)をもてあそぶ徒輩。
・ヴェーダ等の聖典への好き勝手な曲解や、それに基づいた妄念妄動によって正統な教団への侵害を目論む徒輩。
これらがカルト宗教の基本条件。今でも全くそのまま通用する内容。
何に根本的に違反しているかといえば、「天道」に違反している。インド教や道教や神道、
それからイスラムのスーフィズムなどが該当する、宗教らしい宗教が正統である段階領域。
儒教は人道なので天道よりは低く、善悪が交錯する中での勧善懲悪に止まる。あとは
もはや宗教扱いもされない武士道の入る修羅道や、地獄餓鬼畜生の三悪趣ばかりが下にあり、
宗教らしい正統宗教はみんな天道か、それ以上の声聞縁覚菩薩仏の四界に属する。
天道に入れない以上はそれ以上でもあり得ず、もって地獄や鬼畜に相当するカルト宗教に該当する。
上の条件を満たすためにこそ作り上げられたような宗教もこの世界にはまだあるわけで、
いろんな意味で「この世界は広いんだなあ」と、あくび混じりの感慨に入るばかり。
584 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 14:55:38 0
.
585 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 16:35:26 O
天道に違反しているのももちろんだが、
それ以前にカルト宗教は人道の道徳主義に違反する犯罪主義でもある。
さらには、例え殺し合いのさ中だろうとも、できる限りの道義性を確保する
修羅道の士道精神にも与しない、姑息な謀略主義でもある。
だから、修羅人天三善趣のいずれにも帰属する資格を持たず、
仏教の四界にも適合しない(聖道仏者は三善趣も満たしている必要がある)、
カルト宗教の確かな居場所は地獄餓鬼畜生の三悪趣に尽きる。
宇宙の果てまで逃げ回ろうが、非宗教・無信仰を装おうが、地獄餓鬼畜生の三悪趣。
仏法は宇宙の果てまで隈無く遍在する上に、三悪趣でない非宗教・無信仰は
人道の儒家や修羅道の武家が司る。非宗教・無信仰を装いつつも
犯罪主義を黙認したり推進したりは餓鬼道や地獄道の所業。
宗教性と共に道徳性や道義性までをも貶めてしまっている現代社会もまた
余すことなくこれらの悪趣の内に入る。科学(無記)隆盛の世の中にも関わらず、
少しも過去の遺物と化していない仏法。
586 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 19:38:04 0
「死」とはいったい何なのかを、厳密に考えてみる。
古今東西を問わず宗教家が「死んで極楽に行く」とか「地獄に行く」とか言うとき、
「死」とは「臨終」のことを指している。本当に生命機能が停止して死体と化す直前まで
楽でいられることを極楽往生と呼んだり、一転して苦しむことを地獄と呼んだりしている。
まだ何かができる、次を繋げられるとの望みがある内の「心の張り」が完全に解け切って
死という完全なる絶望と対峙した時に、それでも楽でいられる者と、一転して極重の辛苦と化す者。
一度だって本当に死後の世界などを体験したことのない宗教家が、死後の世界などを語るとき、
結局は臨終における心のやすらぎないし破綻を比ゆ的に表現しているだけでしかない。
それでは本物の完全なる死、生命機能が完全に停止した後の死亡とは一体何なのかといえば、
常識的に考えて、それは「楽でも苦でもない状態」であるということがいえる。喜怒哀楽のような
感情的動揺を来たす心身機能の、全てが完全停止して無の状態と化すわけだから、
「魂が天界に浄化される」だのなんだのという夢想は抜きにして、以前は生きていたその
人間にとっては、死とは苦でも楽でもない状態。苦楽に苛まれる煩いを脱した状態といえる。
587 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 19:39:14 0
苦でも楽でもないということは、死は生きている間の苦しみほどには苦しくなく、
また生きている間の楽しみほどには楽しくもない。無と化した苦や楽、それが死。
故に苦楽を、同一直線上の人間の福徳の増減として表したなら、以下のようになる。
(人間の福徳) − ← 〇 → +
(苦楽) 苦 ← 死 → 楽
(善悪) 悪 ← 無記 → 善
人間の苦しみは死よりも苦しく、また楽しみは死よりも楽しい。
福徳でいえば死は零(〇)にあたり、楽は零以上(+)にあたり、苦は零以下(−)にあたる。
苦しみと同一視される負の福徳は災禍などとも呼ばれ、楽しみと同一視される福徳とは
反対扱いされる。ところで罪福とは「罪徳禍福」の略称であり、罪を犯したものが災禍を被り、
徳を積んだものが福徳に与かることを指している。罪を犯すということは悪いことをするという
ことなので、悪は災禍の原因となり、よって苦しみの原因となるということであるし、逆に
徳を積むということは善いことをするということなので、善は福徳の糧となり、よって楽しみの
糧ともなるということである。だから上記のように悪は苦しみと、善は楽しみと連動し、善でも
悪でもない無記が死に相当する。善は楽であり、悪は苦であり、無記は死であるという方程式。
588 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 19:41:15 0
真の安楽の法則を記した真理の言葉「諸悪莫作修善奉行」、悪いことをしないことで
死よりも苦しい苦しみを断滅し、善いことをすることで死よりも楽しい楽しみを享受する。
それでこそ人間は確実に死よりも楽しい人生を送れ、死後にも安楽な人生を送る秘訣を、
後代の人々にまで遺す善根ともなる。一方、仮に善いことをせずに悪いことをする、
真理の言葉たる諸悪莫作修善奉行と真逆の行為をしたとすれば、善いことをしないことで
死よりも楽しい楽しみを一切放棄し、悪いことをすることで死よりも苦しい苦しみを貪る、
あらゆる面において死よりも苦しい人生を送らされるハメになり、死後にも辛苦に満ちた、
嫌々な人生の送り方を後代の人々にまで触れ回らせる悪根となってしまう。
589 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 19:44:05 0
悪いことをせずに善いことをするのが現実には極めて困難なのと同じように、全く善いことを
せずに悪いことをするだなんて人生もまた珍しい。金融詐欺師でも多少の募金ぐらいはする。
ただ、それが重罪という焼け石にほんの少しふりかけただけの水滴にしかならないように、
悪行の分量が善行のそれよりも上回ってしまうということが極端に多く発生している。
悪行が溜まりに溜まって、いかなる場合においても悪行が善行を上回ってしまうような状態に
なれば、六道輪廻でいうところの地獄餓鬼畜生の三悪趣ばかりに停滞してしまい、
修羅人天の三善趣には一切到達できない人生をすら送ってしまいかねないことになる。
(ただし修羅道は道義性を欠いた戦乱を包含して悪趣の側に入れられてしまう場合もあるので、
ここでは道義性を保った戦闘に特化された、善趣としての修羅道に限定して説明している)
そのような人間、一切修羅人天のような三善趣に到達することができなくなり、
地獄餓鬼畜生の三悪趣だけにしか生息できなくなってしまった人間というのは、
もはやいかなる面でも「死よりも苦しい人生」しか送れなくなってしまっている。
死んだほうがマシな人生。冗談は一切抜きにして、悪因苦果しか恒常的に享受することができず、
故に死よりも苦しい人生しか送れなくなってしまっている人間というのは、苦楽という面からいえば
死んだほうがマシである。死んだほうがそんなに苦しまずに済むということがいえる。
もちろん悪の苦しみを解消して、善の楽しみを追い求めることが一番いいことではあるにしろ、
残りの人生の長さからしても、もう生きてる間に善趣に到達できそうにもないというほどの
極重の罪人であるなら、厳密に責任を取る形での、死を受け入れたほうがあまり苦しくなくて済む。
決して身勝手な自殺などではなく、重罪の責任を取るための事務的な死の受け入れ。
感情的に生命を害することは、それがたとえ自分自身の命に対してだろうとも悪行の内に入る。
死よりも苦しい人生しか送れなくなった自分自身を、なるべく悪因苦果を沈める形で終わらせる。
後世の人々にも悪根を遺さないような、平身低頭の限りを尽くした事務的な受刑にこそ臨むもの。
590 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 20:41:53 0
具体的には、東洋教学を選取したぶんだけ善趣に帰属し、
洋学を選取したぶんだけ悪趣に帰属する。
仏教に限らずともあらゆる東洋教学は、六道十界論でいえば
三善趣と四界(声聞縁覚菩薩仏)であるものこそを尊重する。
三悪趣を把握の対象としないことはないが、あくまで劣後の対象とする。
三悪趣への劣後が利いてないのみならず、体系的な教学によって
それらこそを選取しているのが洋学であって、仏教の六道十界論に
与れなかったが故に、ここまで悪因苦果を進行させてしまった。
「善趣でも悪趣でもみんな仲良く」という友愛の強要は、
異学異見を専ら否定ないし劣後の対象と見る(その割には多種多様な)
東洋教学の各流派の意向に沿わない。ただそれはみそもくそも
一緒くたな洋学の側の意向にのみ沿う。善趣であるぐらいなら尊重されろ、
悪趣であるぐらいなら劣後されろ、それでこそ初めて東洋教学の側の意向に沿う。
昔は異教徒は惨殺対象としていた、イスラム以上のドグマ集団だったのであり、
その反動で今度は何でもありと化してしまった、洋学の極論一辺倒こそが問題。
完全なる差別も平等も認めない、緩やかな序列こそが尊重されるべき時。
591 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 21:29:29 0
道義性を確保した、士道然とした修羅道と、人道と天道をあわせた三善趣が
純善たる仏道には及ばないものの、概ね善であり楽であるもの。
対して道義性を欠いた戦乱状態の修羅道と、地獄餓鬼畜生の三悪趣が
概ね悪であり苦であるもの。多少は楽しいふりもできたところで
普遍的に辛く苦しくあり続けるもの。三善趣と比べればいかなる面においても。
「あなたが楽しく私が苦しいなんてのはあなたの主観で、わたしの主観
からすればわたしが楽しくあなたが苦しい」だなんていう相対論も通じない。
相対主義者たるマハーヴィーラの開いたジャイナ教との競合にも打ち勝って、
絶対的王法の保持者として君臨し続けてきた仏教が仏教たる所以。
しかも人間の楽しみは死よりも楽しく、逆に苦しみは死よりも苦しい。
科学でこの世界が記述できるということは、人間性とは無関係な大部分の
自然界は無記であり、人間が自分たち自身の行業によってこそ善くなったり
悪くなったりしている。ということは、人間が死んで腐敗なり火葬なりによって
自然界に還ったとき、人間を構成していたあらゆる要素もまた無記に還る。
人間は死ねば無記になる、ということは、無記よりも人間にとって
善である善は、死よりも楽な楽しみとなり、逆に人間にとって悪である悪は、
死よりも苦しい苦しみとなる。釈尊は文字通り無記(無回答)とした科学的な問題を
西洋人の側が徹底的に作りこんで、全宇宙を科学法則によって説明してしまった
せいで、善悪は形而上の問題などとは無関係の、人間自身にとっての問題であり、
故に人間にとって善であり楽であるということは、個体の自然界への還元たる
死よりも楽であるということであり、同じように悪であり苦であるということは、
苦しんでいる本人が死ぬことよりも苦しいということが証明されてしまっている。
592 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 21:39:00 O
おい一木インドはやばいの九段下入れたみたいね。日本と反対みたいね(にが
593 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 21:57:08 O
下関(しものせき)カップ
594 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 22:00:27 0
善悪は超越神などがではなく、人間自身こそが定義しているものであると、
ゾロアスター教との比較などから何度も言っているが(
>>551などで)、
それじゃあ人間は何を善と定義し、何を悪と定義しているかといえば、
大雑把に言っ、「人類の繁栄」に貢献する事象こそを善と定義し、
「人類の破滅」に加担する事象こそを悪と定義している。
姦淫の際どさなどから、東洋ですら貶められることの多い生殖行為を
生殖第一姦淫第二の正立論理の強調によって賛美している神道の記紀神話、
これは人類の繁栄を「生殖」という最も根本的な部分にまで遡って賛美している
ものなので、極めて善良である。対して、福音書におけるイエスの磔刑などは
人間を生け贄に捧げて食餌対象とする、「共食い」を強調賛美したものであり、
殺し合い奪い合って何もかもをダメにする、人類の破滅を助長する不吉な
代物なので、極めて劣悪である。
善良な側に関しちゃ、記紀神話に限らず仏典や儒書や
インド教典や中国古典やアラビア文学などで、いくらでも人間の
善良さを強調する事例が見受けられるんだが、一方劣悪な側はといえば、
福音書含む聖書と、ヘレニズム神話が該当する程度で、基本文献の量では
極めて些少。近代に入って、西洋古典を焼き直した小説類が大量に出回る
ようになったが、あと百年もすれば廃れきるような普遍性を欠いたものばかり。
人間は劣悪さよりも善良さを讃美してきた経験や分量のほうが遥かに長大で、
だからこそまだ生き延びられてもいる。人類の破滅を助長するような劣悪な
作文ばかりが氾濫し尽している一方で、あくまで人類の繁栄を堅持しようとする
善良な聖文が破滅の行き過ぎをうまいこと抑えつけている。「今から帰命しろ」
などという以前に、今までの間にも私たち人類を陰に陽に救い続けてきてくれた
諸々の東洋教学に対して感謝の念を捧げなければならない。真理に基づいた
常しえなる安楽や楽しみを提供して下さった、釈尊や孔子を始めとする偉大な
先人たちに感無量の敬礼を捧げ、各々が最善を尽くした人生に向かうように。
×大雑把に言っ、「人類の繁栄」に貢献する事象こそを善と定義し
○大雑把に言って「人類の繁栄」に貢献する事象こそを善と定義し
596 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 23:13:47 0
心の底から「死にたくない」と思っている人間こそは、真に人生を楽しんでいる。
心の底で実は「死にたい」と思っている人間こそは、実は人生を苦しんでいる。
一時的な快楽や苦痛などに依らない、普遍的な苦楽に関して言えば必ずそう。
心の底から湧き上がってくる純粋な楽しみこそは、生きている間にだけ得られるもの。
死んだら一切苦しくもなくなる代わりに、そのような楽しみもまた享受できなくなる。
だから釈尊は臨終の直前に、輪廻を繰り返すような苦しみの罪業を断滅したにも
かかわらず、「死にたくない」という恐怖感を抱いた。生きている間だけ得られる
善楽への執着が、若干ながらも釈尊を苛んだ。人間が悪を超克した純善と共に
入滅へと向かえることを証明する逸話として、「あの釈迦までもが死を恐れた」という
誤解と共に流布がなされている。死ではなく善楽の遺失こそを恐れたにも関わらず。
心の底で本当は「死にたい」と思っている人間もまた、死ぬのを嫌がる。それこそは
本当に死を恐れている。死よりも苦しい悪の苦しみばかりを貪ってきたのが、
死によって無記と化し、ただの物質へと帰する。一度も死を超える楽しみを得られ
なかったままに死んで無苦楽と化す。「一度ぐらいは死を超える楽しみを味わって
みたかったなあ」という未練たらたらのままに死を受け入れようとするが、あまりにも
怖くて何度も何度も引き下がる羽目になる。一度も死に打ち勝てなかった輩の宿命。
「生きているが故に死ぬよりも楽しい」という、死に打ち勝てたものの境地を一度も
味わえないままに死に逝く未練が、後世に禍根を残す呪いの作文となったりもする。
苦でも楽でもない死に打ち勝った、零以上の福徳の持ち主こそは仏陀。
零以下の福徳しか得られなかったが故に、敗北した輩こそはキリスト。
それぞれの立場に基づいて、最善を尽くすように。
597 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 23:14:33 0
.
598 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 23:49:14 0
物質を大量に動かしてきたから自分たちは物質的だと自負したりもする、
でも、物質的なのはあくまで、生きても死んでもいない物質のほうであって、
物質である以上に未だ生命である、あなた自身までもがそうなのではない。
たった一人や数人程度の意思で、大量の命貴い労働者をこき使って
物質を動かし続けてきたあなた自身は物質的ではなく、悪質で罪深い。
善悪を司る人間にも関わらず善を疎かにし、悪に耽ってきたぶん辛く苦しい。
最大級の重罪人であり、苦心者であるあなたが死んで物質と化すことは、
あなたの名目たる物質に還ることではなく、あなたがあなた自身の卑小さを
受け入れることを意味する。膨大な石を積まれたピラミッドの中に、たった
一人の王の遺体が納入される。物質に対するその命の小ささ、それこそは
あなたが突き動かしてきた物質に比しての、あなた自身の小ささである。
大量の物質を運動させてきた割には、あまりにも卑小なその命、
苦でも楽でもないただの物質と比べて、あなたはそれほどにも苦しんでいる。
ただの物質と比してすら、それほどにも小さくなってしまうほどに、痛んだ命。
愉快な命ならそれらの物質の何万億兆倍もの大きさに達する。苦楽によって
人間は物質を超えられることもあれば、物質にすら至らないこともある。
あくまで物質にこだわるというのであれば、物質を超えた自我や無我を興じる
大人を妬む以前に、物質にも至らない己の小人さ加減こそをわきまえよ。
599 :
考える名無しさん:2009/05/21(木) 23:58:02 0
物理も知らない馬鹿発見。
ぶっ‐しつ【物質】
1 もの。品物。生命や精神に対立する存在としての物。「―の世界」 ←←←
2 物理学で、物体を形づくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。
空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。素粒子の集まり。
相対性理論ではエネルギーの一形態、量子論では場とされる。
3 哲学で、感覚によってその存在が認められるもの。人間の意識に反映するが、意識からは独立して存在するもの。 ←←
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
>>600 ウチのカミさんでないことだけは確か。
何もしないで、毎晩十一時には寝てる。
603 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 00:09:53 0
くだらね。
十一時には寝る。子供と一緒に。
仲のいい夫婦は子供を早く寝かす。
子供が寝てる間においしいケーキを食べるため。
よく寝て甘いものも食べ過ぎなかった
子供のほうもスクスク育つ。
607 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 12:30:57 0
(人間の福徳) − ← 〇 → +
(苦楽) 苦 ← 死 → 楽
(善悪) 悪 ← 無記 → 善
死よりも楽しい楽しみに一切与かれない、死よりも苦しい苦しみの中だけで
生き続ける重罪人もまた、セックスや金遣いなどによって「快楽」を感じられたりもする。
そのような快楽というのは、仮に恒常的な苦しみが−100の福徳であるとした場合、
セックスや金遣いによって−80や−70にまでまぎらわせられただけなのであって、
10や20といった正の福徳、死よりも楽しい楽しみに与かれたわけでは一切ない。
悪いことをせずに善いことをする真理の求道者であれば、いついかなる場合だろうとも
福徳は負(−)でない正(+)であり続ける。たとえ1や0.1や0.0001だろうとも、
常に多少は死よりも楽である。悪いことをして苦しんでいないんだから常に死よりも楽。
その上善いことをすることによっていくらでも楽しくなれる。1が100にも1000にもなる。
死よりも苦しい苦しみの只中にある重罪人が、まぎらわしの快楽によって負の福徳を
減らし、より死(〇)に近づいていくのに対し、真理の求道者は善いことをすることで
正の福徳をさらに増やし、死(〇)からはむしろ遠ざかってすらいる。罪人の快楽は
臨死体験にしかならないが、真理の求道者の楽しみはさらなる生の謳歌とすらなる。
真理の求道者の楽しみと、重罪人の快楽とが根本的に違う所以。重罪人の快楽など
が、真理の求道者の楽しみと比べれば、偽りの楽しみとしか呼べないものである所以。
608 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 13:02:55 0
重罪人がその場しのぎの快楽によって追い求めているものは、いつだって死だってこと。
何もしないでいるよりも辛く苦しい罪業の積み重ねを、乱交なり濫費なりによって低減させる。
低減させ尽くして辛苦を消滅させたところにあるのは、結局無記たる死でしかないのであって、
他者に迷惑をかけまくる高コスト低パフォーマンスの快楽などによらず、ただ罪人自身が
贖罪を受け入れて事務的な死滅に向かうことこそが、最も手っ取り早い願望成就の手段となる。
死よりも苦しい悪の苦しみを、自己という個体の穏健な死滅によって解消させる、どこにも
善いところのない陰惨劇ではあるものの、元々が最悪の限りを尽くした誤謬劇なんだから、
それ以上の積極的な純善を追い求めるだなんてのは、まだまだ先の話にしかならない。
悪いことをせずに善いことをすることで、恒常的に死よりも楽しい安楽の只中にい続けること。
不体失の極楽往生、重罪人にとっちゃ夢のまた夢のような話ではあるものの、確かに実在しうる。
乱交だ濫費だなんて粗暴な手段によらずとも(むしろそのような愚行にはよらないことでこそ)、
ただ悪いことをせずに善いことをするだけで、不体失の極楽往生は本当に達成しうるもの。
徒労はどこまでいっても徒労である反面、実益もまた確かな実益である。本物の功徳を積む
ことによって得られる本物の利益、死よりも楽しい生存中の安楽、作り笑いすらいらない。
いかに華美なる虚無よりも不虚なる真実。死を超える純善、死を超える安楽、ある所にはある。
610 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 18:33:48 0
自殺はダメだ。死刑囚も刑執行時までは身柄が保全される。
武士の切腹だって、当時における万全の公正を期した刑死だったのであって、
大体は自らの手による割腹ではなく、介錯人の断首によってこそ絶命していた。
無法な殺生は、たとえ自分自身に対してだろうとも許されない。
なんぴとたりとも人の命を好き勝手に左右する権利を持たないことを、
自分自身が裁かれる立場になることでこそ、つぶさにわきまえろ。
前スレでも言ったが、仏法に実定法違反レベルの犯罪の浄化までをも期待してはいけない。
法律違反の犯罪ぐらいは、当然のこととしてしないぐらいの段階の庸徳者が、
世俗上の道徳堅持だけを旨とする儒家教学などでは満足できなくなって、
より積極的な断悪修善の徳行に向かう時にこそ、聖道仏教もまた助けとなってくれるもの。
そうでもなく、未だ重大な罪業の内側に止まり続けているような人間が、
自首もしない内からお寺に駆け込んだりなんかしたところで、お寺の側にとって迷惑なだけ。
まずは最寄りの法務機関に出頭した上で、衆目に公開された中での適切な
断罪措置を受け、長いお勤めの後にやっと仏門を叩くか、あるいは二度と出てこられない
塀の中で、教誨師としてのお坊さんに念仏への帰依なりなんなりを相談するもの。
仏法に法律違反の処理などを期待してはならない一方で、法律違反すら適切に処理
できていない人間が仏法に帰依出来るだなんて期待もしちゃいけない。現行犯には念仏一つ
すら至心に唱えることなどできやしないから。ゲロゲロゲロブリブリなカルト宗教ならともかく、
正統な仏教には微塵たりとも帰依なんかできない。ほんの少しでも帰依できるように
なるぐらいの、自分たちの側での姿勢や環境の整えが前提として必要となる。
現行犯の重犯罪者に付ける薬は、お寺ではなく小菅や府中の所所にこそあるから。
612 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 21:49:05 0
「(二・九十七)ヴェーダ(の学習)も、布施も、供犠も、(自)制も、或は苦行も、
(享楽によりて)心穢れし者には(果報の)成就をもたらすことなし」
「(二・一一三)たとへ、恐ろしき窮乏の中にありとも、ヴェーダを説く者は、
不毛の地に知識の種を播かんよりは、寧ろ、知識とのみ、共に死すべし」
仏教ならともかく、ヒンズー教だと悪人の救済なんか始めから突っぱねてる。
「(二・一三四)同一市民は(年齢の差)十年(ありとも)友と呼ばれ、同(種)の技芸を
営む者は、(年齢の差)五年、随聞者は(その年齢間に)三年あり(とも)友と呼ばる」
「(二・一三五)十歳のバラモンと百歳のクシャトリヤは、互に父子の関係に立つと
知るべし。但し、これら両者の間に於て、バラモンはその父なり」
卑賤な身分の人間ほど長幼の序が緩やかになり、高貴な身分の人間ほど厳しくなる。
礼儀をわきまえる人間ほど貴く、わきまえない人間ほど卑しい、当たり前の関係。
中国に限らずインドでも礼儀の大切さは重んじられている。
「(二・一八一)睡眠中無意識に、その精液を遺漏したる再生族の学生は、沐浴して
太陽を拝したる後、『我が力再び我に復せよ』にて始まる讃歌を三度唱ふべし」
生殖と関係のない精液の漏出はインドでも卑しまれる。ただ、精液が男性の精力の
結晶であることを慮って、出してしまったことを後悔させる柔軟な対応がなされる。
ただただ精液を汚らわしいものばかりと見なして、「出せば殺す」なんて脅迫はしない。
男の命たる自主性を咎めない限りでの規律が重んじられる。
以上、岩波文庫「マヌの法典」より。旧字体は改新。
613 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 22:32:43 0
インドのカースト制や男尊女卑を規定した法典として悪名高いマヌ法典。
太古の昔からインドで取り決められてきた生活慣習を1800年前ごろに
やっと法文化したものであり、ちょうど大乗仏典あたりと同時期に位置する。
ヴェーダやウパニシャッド、元始仏典等、2、3000年前の古典文献が膨大に
林立しているインドにおいては、比較的後代の編纂物であり、中国の儒家などと
似て、インド人が成文法の作成については極めて消極的であったことが伺える。
それにしたって、よく言われている男尊女卑などの記述も半端なものではなく、
「(二・二一三)この(世)に於て、男を堕落せしむるは女の天性なり。
この故に、賢者は婦人に対しては心を許すことなし」とか、
「(二・二一四)なんとなれば、女は(この)世に於て、愚者のみならず、
更に、賢者をも、欲望と怒りの奴隷となし、邪道に導くものなり」とかいった、
辛辣ながらも、残念ながら本当にそうである、女の性分がズケズケと記されている。
それで第五章の一四七〜一六九などにおいて、婦人のなすべき苛烈な義務が
課されることとなる。「独立しては何もするな」とか、「夫以外の男は名も口にするな」
とかの、ペット扱い同然の取り決めが言葉の分かる人間の女に対して強要される。
614 :
考える名無しさん:2009/05/22(金) 22:35:33 0
とはいえ、これらは決して「刑法」なのではなく、破ったからといって何らかの
人為的な罰則が科せられるのではなく、ただ「死後禽獣に生まれ変わる」とか
「来生で同じ夫と一緒になれない」とかの、宗教的な法則が提示されるのみ。
宗教的な理由に基づく取り決めを破ることで、宗教的な制裁を受ける。
罪も罰も宗教性の内側だけで自己完結しているのだから、思想信条に関わらず
あらゆる人民に対して厳守を強要する実定法などよりも遥かに緩やかな規律。
その、守ろうが守るまいが事務的な賞罰の伴わない宗教法典を、多くのインド人は
未だに厳守している、自分たち自身の自主性によって、普遍的な法則を選取している。
「法律」ではなく「法則」の原典。天地万物を司る法則こそを捕捉した、人類の始祖
マヌに仮託して編纂された法典。守る守らないは随意ながら、あんまり守らなすぎると
儒教道徳を大幅に踏み外した場合と同じように、自らの破滅を招きかねない。
かくいう自分も、これを完全に守りきるだなんてのはまず無理だと感じている。
あまりにも厳格であり過ぎるからこそ、インドでも全てを守れているバラモンだけが
最高の貴人として扱われている。決して伊達なものではないカースト制。
何の根拠もなく「貴人も賤民も平等だ」なんてぶっ壊し論理を叩きつけるのではなく、
ある程度は人間性の法則を如実に捉えている男尊女卑や輪廻思想の内実も
踏まえた上で、それらの適切な解消を目指したのが仏教だったりするから、
そこそこには輪廻や男女差別の記述もあるにしろ、あくまでそれらを低減させる
方へと向かわせることが仏教の本旨であることを了承されたい。
韓国の前大統領が自殺したねえ。
これほど自殺はするなと言ってんのに。責任逃れの崖からの飛び下り。
カトリック教徒、洗礼名ユストゥス。
せっかくの陰陽五行や華厳思想も、悪禍とのみそくそじゃ何の役にも立たないってんだ。
首相がカトリックな今の日本も他人のことを言えた義理じゃないが。
>>615 > せっかくの陰陽五行や華厳思想も、悪禍とのみそくそじゃ何の役にも立たないってんだ。
陰陽五行(李朝の性理説)・華厳思想(新羅の華厳宗)という事か?
>617
儒家は四書よりも五経寄り、大乗仏教は浄土や法華よりも華厳寄り。
小国が大国の教学を欲張りすぎて、結局は何もモノにできなかった悪例。
神道の序列に基づいて、儒家や仏教の受け入れ方から考え抜いているのが日本。
中国やインド以外の中小国が儒家や仏教を受け入れる場合の模範になるのはこっち。
一応日本にも倶舎宗や成実宗、律宗といった形で小乗仏教も入ってきている。
でも世俗性を重視する儒家との折り合いなどで、自利の小乗は流行らなかった。
中国文化の影響の薄い、タイやスリランカなどの東南アジアで小乗は受け入れられた。
それはそれで独自の受け入れ方ではあるが、儒家も重視する個人的な意見としては
仏教は大乗に帰依することを勧める。利他の開放性は大乗にこそあるものだから。
>>615 大統領府「李大統領、ショックで言葉失う」
大統領府(青瓦台)は23日、盧武鉉(ノ・ムヒョン)
前大統領死去の知らせに動揺を隠せない様子だ。
李明博(イ・ミョンバク)大統領は同日午前7時20分ごろ、
盧前大統領死去の知らせを受けたものとみられる。
大統領府の関係者は「李大統領は大きなショックを受けたようだ。
報告を受けた後、ぼう然とした表情だった」と語った。
大統領府は同日午前、緊急秘書官会議を招集し、
状況の把握及び対応準備に奔走(12:09) 記事全文
元秘書室長、盧前大統領の死についてコメント発表
文在寅(ムン・ジェイン)元大統領府秘書室長は23日、
盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領死去に関するコメントを発表した。
以下は発表の全文。
盧武鉉前大統領は本日午前6時45分ごろ、
ポンハ山に登っていた際、岩から飛び降りたものと・・・。
620 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 19:34:40 0
結局、日本は聖書教を受け入れちゃいない。
GHQの戦後政策の影響などから、ザビエルあたりが歴史の授業でも
大きく取り上げられたりするが、鉄砲の伝来などと同じく悪禍として一度は完全に
突っぱねていたもの。日本国民を奴隷として売り渡そうとした前科などから。
あたかも神社やお寺と同等のものであるかのように、国内の至るところに
教会が建てられていたりもするが、全く年季の入り方が違う。数百年以上の
昔からたたずみ続けている寺社仏閣と比べれば、新興宗教団体の活動施設もいいとこ。
少しも地域社会に根付いた伝統と化してはおらず、一部の好き者が
政財界あたりから金をもらって、右翼の街宣活動あたりと同じように捏造してるだけ。
621 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 19:36:14 0
意味がないから。奪い奪われの戦乱状態を
捏造することだけが取り柄のカルト宗教なんかを今さら取り入れても。
収奪する側であることによって栄えている、欧米の文化文明に目を奪われて、
韓国人あたりが欧米の宗教である聖書教にまで手を出したりしているが、
あれらはあくまでアフリカ中南部のような、極貧層からの巧妙な利益の収奪に
よってのみ成り立っているものだから、収奪対象を持たない無辜の社会が
聖書教を取り入れたりしたところで、何の得にもならない。のみならず、
アフリカ社会のように「犯罪被害主義」のほうを押し付けられることによって
さらなる欧米社会からの収奪対象に陥ってしまうことにすらなりかねない。
622 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 19:37:51 0
奪う側(欧米)と奪われる側(アフリカ)に社会を二極化させることが聖書教の本質。
聖書教が西洋以外の社会にまで拡大したところで、二極化した社会が拡大する
だけでしかないから、本能的にではあるものの、日本人はこれほどにも(表向きは
聖書教と無関係である)洋学を受け入れているにも関わらず、聖書教までをも
積極的に取り入れることは拒んでいるし、中国なども確信的につっぱねている。
インドのカースト以上の、最悪の二極化社会を生み出してしまうカルト宗教の本質
を、儒家教学などに基づく非宗教・無信仰のしらふさによって見抜き、それだけは
認めないものとして、信仰者1%以下の牙城を崩さないでいる。聖書教の本義に
気付かないままの本能的な選択だけでもそうなんだから、本義(犯罪の正当化)
を知らされた時には二度と受け入れなくなる可能性も高い。まあ、便所教として
ぐらいは認めてあげるという程度の度量はあるかもしれないが、欺き欺かれ奪い
奪われる、不当性を本質とした宗教を本質から認めることなどは決してないだろう。
623 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 20:11:13 0
貧富の格差の拡大という観点から、人類の生活水準の順位を
アフリカ<インド<アラブ≒中国<日本<欧米
などと見る向きが多い。だから欧米社会が先進的であるとする考え方。
でも、アラブに支配された北部を除くアフリカは、欧米と同じ
聖書圏なので、これらを一まとめに括ったならば
聖書圏≪インド<アラブ≒中国<日本
となる。最も富裕である欧米と、最も貧困である中南部アフリカが
聖書圏としてまとめられることで、地球上で最低最悪の格差社会となる。
あまりにも格差があり過ぎて、それらが同一の宗教圏であると
なかなか気付かれにくい、欧米とアフリカ。インドのカーストを
糾弾する資格など、聖書圏の人間には微塵も存在しないことを知れ。
624 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 20:33:35 0
聖書主義への確信的な依存を極限まで避けた上で、
欧米並みの生活水準を保っている今の日本って、実はとんでもない国なわけだ。
他国からの利益の収奪によらず、自分たち自身の努力によって
世界最高レベルの所得や寿命を獲得している。
欧米社会が、聖書主義に基づくアフリカとの同一化によって全て反則負けになり、
「みんな転んで一等賞」の要領で、これから日本がぶっちぎりの一等国となる。
アメリカやイギリスみたいな目の上のたんこぶも全部最下層社会(聖書圏)となり、
韓国あたりもキリスト教なんかを取り入れていた責任を問われて大きい顔が
できなくなる。日本人にとっては善いことはいくらでもあるのに、悪いことは何一つない
聖書主義の陥落。中国やインドのような、物量で台頭してくる次世代の超大国にも
「最後まで聖書主義と戦い抜いた盟友」として、うまく渡り合っていけるようになる。
――日本の国家元首はあくまで天皇陛下ですので、文明開化後の汚名を
一手に引き受けるために仮設された総理大臣などと誤解されませぬよう。
伊藤博文に犬養毅に東条英機、虐待されてなんぼな哀れな宿命のお人だ。
625 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 21:04:04 0
ひどいことを言ってやろうか。
格差社会のほうが、傍目に見る限りでは面白い。
マヌ法典における最高階位であるバラモンの優美な生活、
シュードラやアウト・カーストらの犠牲があって初めて成り立つもので
あると分かっているにしろ、理想化された人間のあり方として羨まれる。
それはアラブや中国のような、同一宗教イデオロギー内での絶対平等を
強要する社会の風俗と比べて、遥かに羨望に値するものである。
それと全く同じことが、今の欧米社会についても言えるわけだ。
フランス革命なり奴隷解放宣言なりによって、あたかも自由や平等が
確立された上で、さらに豪華な文化文明を構築できているように思える
今の欧米社会が、実は前世紀や前々世紀における植民地侵略や
奴隷売買の名残りによってこそ豪華さを保てているという事実。
マヌ法典における、バラモンやクシャトリヤの生活の優美さだけを見た場合に
想起するような羨望と同じ感覚が、今の欧米社会を見た場合などにも発生する。
シュードラやアウト・カーストに当たるような、アフリカ中南部の困窮などを
無視した場合にこそ想起し得るもの。マヌ法典と同等かそれ以上の
「善いとこだけを見て悪いとこを見ないえこひいき」が聖書圏にも適用されている。
626 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 21:10:40 O
ヤクザ
627 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 21:25:40 0
前述の通り、聖書圏はいま、人類史上最低最悪とも呼べる程の格差社会と化している。
それに比べれば、アラブ社会はイスラム教の下での信徒の平等が確立されている。
ただ、イスラムは世界でも他にないほどの女性蔑視社会。男女差別は残留している。
インドは表向きでのカーストは禁止されているものの、差別は厳然として残っている。
ただこれは、コーカソイド社会の強烈な差別主義を如実な形で示しているだけで、
聖書圏やアラブ社会と比べてインドだけが差別的なわけではないことに留意されたい。
中国は、元より君主にこそ精進を強要する強烈な並列化社会。共産主義なぞが
入ってくる以前から、大衆意志によって国家体制を根こそぎ作り直す歴史を繰り返してきた
「平等過剰社会」。あまりにも平等すぎて、文化的な味わいは低い。中国の風俗を嫌がる時、
実はその過剰な平等さこそを忌避している。万物斉同のおどろおどろしさを恐れている。
中国並みの完全平等社会となることも可能な一方で、文化的な味わいを保つために
任意の階位制を神道や仏教に基づいて嗜み、差別と平等の均衡を保ってきたのが日本。
差別は見る分には面白くとも、実際に体験すると辛く苦しい。一方で平等は自分自身に
とっては都合がよくとも、社会全体の風潮で見れば、味気のないつまらないものと化してしまう。
格差の開き具合に関してですら、中正を保つ絶妙さが、他でもないこの日本にこそある。
628 :
考える名無しさん:2009/05/23(土) 21:39:53 0
欧米社会の華美さをアフリカ社会の陰惨さと合体させて、
最低最悪の格差社会として捉えなおして見れば、人類社会ってのはちゃんと
東に行けば行くほど格差の処理が行き届いていて、西に行けば行くほど
救いようのない格差に見舞われていることが分かる。太陽に面と向かってきたか
背を向けてきたかの違いが、人間社会の優劣に厳密に連動している。
>>540で引用したスフワラルディーの照明論が確かなものだったのだと分かる。
結局は日本の先史に学ぶことが一番だということ。
江戸時代までの、洋学の災禍に見舞われずに済んでいた日本にこそ倣えばいい。
それで人間社会の格差問題は最適に処理される。ほっとかれるのでも解消される
のでもなく、適切に処理される。行き過ぎてどうしようもない辛苦と化す差別と、
行き過ぎて味わいのなくなる平等と、両方に与しないちょうどいい社会を造る。
幕府制をそのまま復活させるのでもいいが、もっとよくもなれる。今は将来だから。
最悪の限りを尽くして来たここ百数十年の反動で、最善の限りを尽くすこともできる。
もちろん最善と最悪の均衡を取ることも。それこそは最善を超える最善だったりもする。
あと八十年ぐらいはこのペースで書き続けられそう。
一万六千年の東洋教学の総決算。
終わるまで待ってたら、いつまで経っても自首できないぜ。
限られた世界や時代の住人が、常しえなる世界や時代の文化文明を
敷衍しきろうだなんて、無理な真似はやめたが得だぜ。
もちろん俺じゃなくておまえらのことだぜ。
限られた世界と常しえな世界との境界線は、
外でもないおまえらと俺との間にあるんだぜ。
限られたおまえら、常しえなる俺。本物の女だけが越境を可能とする。
悪事によって収集された財産は、例え善用が可能だろうとも
収集家が罪を受け入れない内は、十分な善用が不可能となる。
インド教典や仏典を英訳研究しようだなんて以前に、
イギリス人はインド人やアフリカ人に収奪した財産を返還すべきである。
それでこそ仏典やインド教典の善用も可能となるから。
宝の持ち腐れとはまさにこのことを言う。
学識面でのステータスシンボル面をしている連中こそが、
人類史上最悪の重犯罪者でもある。
学識が少しも徳性を養う糧になっていない悪例として、
全人類に知識的な堕落を促す要因と化している。
極めて稀有な事例。
学識者こそは最大級の有徳者でもあった、東洋主導の大部分の人類の歴史
と比べて、ほんの数百年程度だけの恥辱の歴史。
学識者こそは最悪の犯罪者でもあるという、価値の転倒しきった時代。
カントやゲーテやニーチェの時代。
直接は植民地経営に乗り出していないドイツなども、
イギリスやフランスやオランダなどとの交易から
間接的に国際犯罪の一翼を担っている。
日本だって聖書主義を受け入れてしまった程度には
共犯ないし従犯でもある。1%以下ではあるものの。
全く犯罪原理主義の災禍に見舞われずに済んでいる
国家や社会なんて、今の地球上のどこにもないから、
まだ誰にも心から誇れる資格などはない。
ただ罪状の軽重によってマシだったり最悪だったりするだけ。
生きてる内に罪を償えるか、死んでも償いきれないかの違いがあるだけ。
学識にも厳密に善悪と無記とがある。
東洋教学は概ね善であり、ところどころ無記もある。
洋学は善悪を司る部分が完全に悪であり、
科学や音楽といった無記である部分も
悪である部分に悪用されることで有覆無記と化し、
悪の増長を助長する役割を果たしてしまっている。
問題はあくまで無記ではなく善悪である部分。
善悪である部分が殊更に悪だったり善悪みそくそだったりするせいで
何もかもが苦しくなったり、苦楽のくそみそと化したりしてしまっている。
善悪の分別すらちゃんと付けられたなら、
無記である科学や音楽もまた、悪用されずに善用されて無覆無記となる。
徳性に差し障りのある有覆無記から、差し障りのない無覆無記へ。
礼楽刑政の「楽」にあたるような、正しい音楽となる。
633 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/24(日) 23:11:18 0
「(三・一二九)神々及び祖霊への(供犠)に際しては、学識ある人を
各々一人なりとも饗応すべし。(かくして)彼は多くの果を得べし。(されど)
ヴェーダを知らざる多くの者を(饗応すとも)かかる(果を得る)ことなし」
「(三・一三一)たとへ、百万人の讃歌に通ぜざる者が、(祖霊祭に際し)食すとも、ヴェーダに
通じたる者唯一人にても、(その饗応に)満足せば、功徳に於て、(まさに)そのすべてに匹敵す」
四種姓の内、ヴェーダを学習する権利を持つのはシュードラ以外の三姓であり、
さらに教える権利を持つのがバラモンのみ。カースト制の権威の拠り所はやはり
ヴェーダにこそ集約されている。宇宙の真理をも概括しているかの文献にこそ。
「(三・一三八)祖霊祭に際し、友人を饗応する勿れ。彼への交誼は、(他の)財宝を以て
これを為すべし。祖霊祭に際しては、敵とも、友人とも考へざるバラモンを饗応すべし」
「(三・一三九)神々、及び祖霊への供犠を、主として友人を(得んが)ために施行する者は、
死後祖霊祭、及び(神々への)供犠に対する果を得ることなし」
「(三・一四〇)愚かにも、祖霊祭によりて、友情を結ぶ者は、再生族中の最も賤しき者にして、
天界を失ふ。彼は友情のために祖霊祭を行へばなり」
神聖な場所に友愛などを持ち込むことはもってのほか。別に睦友が全くいけないのではなく、
高尚な宗教性に友だち関係ごときを持ち込もうとすることが場違いとなる。仏教徒が友人を
「善知識」とか「悪知識」とか呼ぶのも、真理を説かんとする場面に友好性を介在させる
いじきたなさを憚ってのものと言える。真理は人間関係をも超えた所にこそあるものだから。
634 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/24(日) 23:13:35 0
「(四・一三八)真実を語るべし、愉快なることを語るべし。不愉快なる
真実を語る勿れ。而して愉快なる虚偽の言を発する勿れ。そは永遠の法なり」
簡潔かつ見事な名言。法文扱いなんかにするのがもったいないほどの。
愉快な事実を言葉から選取することでこそ、人間は幸福になれるという法則。
法律である以上に永久不変の法則であるマヌ法典の精髄が垣間見られる。
「(四・一六〇)他人に依存するあらゆることは苦を(与へ、)己れ自らに依存
するあらゆる事は楽を(与ふ。)こは楽及び苦の簡単なる定義なりと知るべし」
他人に生活を依存する最悪の事例が犯罪。無職でもニートでもなく、犯罪による利益の不当収奪こそ。
真の独立は犯罪性を介在させないことによってこそ達成される。自国内では独立者ぶっている
欧米人なども、外国からの利益の巧妙な収奪によってこそ自立ぶった生活を送れているから、
他国からの利益の収奪に頼っていない国の無職やニートなどよりも実はさらに依存的である。
アフリカの女子供を餓死させることで初めて生活できている連中、いつまで独り善がりが持つことやら。
635 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/24(日) 23:17:32 0
「(四・一七〇)不正に生くる者、虚偽(を告ぐる事によりて)富を(獲得せる)者、
或は常に傷害を与ふるを喜ぶものは、決してこの世に於て幸福を得る事なし」
「(四・一七一)正義の故に苦しむ事ありとも、決して心に不正を向かしむる勿れ。
なんとなれば彼は不正なる悪人の速かに転落するを見ん」
「(四・一七二)この世にて行はれたる不正は、牝牛の如くに(牝牛が直ちに乳を出す
如くに)直ちにその果を生ぜず。されど徐々に進みつつ、そを犯したる者の根源を断つ」
「(四・一七三)もし(その罰、犯罪者)自らの上に落ちざる時は、(そは)その子等の
上に(落ち、)もし子等の上に(落ちざる時は)少くとも、その孫の上に(落つ。)
而して(一度)なされたる不正は、そを犯したる者に、決して果を生ぜざる事なし」
「(四・一七四)不正によりて暫時繁栄し、而して大なる幸運を得、
次いで敵を征服すとも、(最後には)彼、(枝)根もろともに破滅す」
これも法律というよりは法則の提示。実定法らしい財産処理の取り決めなども多少は
書かれているが、全体からいってほんの一部分でしかない。事務処理は出来る限り
真理の法則に基づいて自主的に行われることが最善である。儒家教学は「左伝」内で
成文法を真っ向から批判することでそれを主張しているが、マヌ法典の場合は
真理の法則と事務処理の分量比率(真理法則7:事務処理3程度)によってそれを強調している。
ただの法律家にとっては、実定的でない部分のマヌ法典の記述は「余計なもの」と考えられたり
するのかもしれないが、むしろ真理法則を示しているような部分こそが主であり、
財産処理などのほうが副であり、二の次三の次のもの。もちろん事務処理である部分も公正を
期した取り決めがなされているが、それらもあくまで真理法則から不可避に導かれるもの。
元来事務処理だけを目的としている実定法のうち、拠り所となる教学も示せていないような
その場しのぎの法律は、権力犯罪の正当化を内包している以外のいかなる意味もまず持たない。
頭から尻尾まで実定法でしかないような法律群は、そろそろ馬脚を露わす頃。六法全書含め。
「心が折れた」んだな。
ファウストの「時よ止まれ、おまえは美しい」みたいなもんだな。
本人たちも無意識に上げてしまった音。悪魔との破約。
別に悪魔に命を奪われるでもなく、かといって神に召されるでもなく、
ただ「二度と生まれ変わらない」という厳然たる事実があるのみ。
話の流れをぶった切る不可思議さに見舞われて、それで終わり。
そんな異様なものこそを東洋人は崇め立ててきたんだものなあ、
「仏」として。凄いんだか、数寄者なんだかよく分からんな、全く。
知足
ヴェーダもウパニシャッドも仏典も、まだほんの一部分しか学んじゃいないんだぜ。
それでもそれなりの満足は得られている。代表的な洋学文献を読み尽くした
ことによる、不安や不満を埋め尽くす程度には安心満足できている。
人類が未だ滅亡しないで済んでいる厳然たる証拠、
無責任者の総力を指先であしらう程の有力な責任者の実在。
日本に取り入れられているものだけでも十二分な上、未納未訳の
基本文献がまだ、中東部のユーラシア大陸にわんさかと控えている。
泳ぎ出すに値する善知識の大海が、日本の東側ではなく西側にこそ開けていて、
やれることをやり尽くす余地は(最悪の側ではなく)最善の側であるこちらにこそ
あるんだけれども、ただそれを最悪を尽くす連中への対抗手段として為す必要性は
もう見出せない。重犯罪者を逮捕するなんていう不純な目的で学ぶのは、四書五経か
浄土教程度で十分なもの。そういう意味での安心満足が完成しきっている。
犯人を知識によって追い詰めることの必要性をもう感じなくなっている。
善悪の衝突ばかりで物事を考える、ゾロアスター教的な二元論のいらんことしい。
仏教やインド教の大部分がその方面において大した意味を持たない。
大した意味がないというのは、無力という意味ではなく、善悪二元主義を卒業して
善一元主義に進学してこそ、その真価を発揮するという意味。
未だ善悪二元主義を卒業できていない現世に合わせて、あえて仏教を善一元論
と呼んだりもしているが、決して仏教が善一元論に囚われているわけではなく、
古代インド教で提示された究極真理の羅列をより純化させた結果、自然と
善一元論と化しているだけ。真理は自然と断悪修善に向かうものであるから。
聖書教とイスラム教を併せたアブラハム教というよりは、ゾロアスター教と
アブラハム教を併せた「善悪棚上げ教」からの卒業が必要になる。善悪を形而上の
超越神に仮託させようとする幼稚さ、禍福に門を求めようとする迷妄さからの卒業。
アブラハム教が極端に多くの物質を運動させ続けている事情からも、
それらを消滅させることはそうそうには無理であるにしろ、
そこに権威を見出そうとすることはいい加減諦めるべきかと。
大乗仏教と原始仏教が近世の諸学者によって全くの別物扱いされたりするのは、
仏教の根本的な正体である「純善」が、大乗となるともはやいちいち指摘すらされなくなるから。
原始仏教であれば「諸悪莫作衆善奉行(法句経)」のように、非常に素朴な形で
善悪の選択が記されていたのに対し、大乗ともなればそれが「破邪顕正」となったり
「厭離穢土欣求浄土」となったりして、もはや表向きでの善良さが不可解となる。
それは決して大乗仏教が、仏教の本旨たる純善を捨て去ったからなのではなく、もはや
物事を善悪の衝突に基づいて考えることからすら抜け出しきった程の純善の教えであるから。
般若経や法華経や華厳経における、壮大で豪華華麗な思想哲学の展開がすべて、
善悪の衝突を抜けきった先にある、純善に基づいて行われている。それだけでは欧米の
懐疑主義や虚無主義などとも見間違われかねない中観思想などもまた、悪や無記を完全に
捨て去った仏法の境地でこそ展開されていて、それが善悪でいえば純善であることが、
一切の肯定を捨て去った無主張の領域における空観論者の安楽を決定付けたりもする。
善悪で言えば純善である、ただ、それはいちいち善だなどと指摘する以上に真理である。
第一級の学者でも気付かないような大乗仏教の本義が、三歳の幼児でも分かるような所にある。
641 :
岩波文庫「マヌの法典」より:2009/05/25(月) 13:24:36 0
「(四・二四〇)すべて生物は独り生まれ、独り死す。
独りそは(その)善業の(果)を楽しみ、独り(その)悪業の(罰に苦しむ)」
ひじょうに冷酷かつ基本的な独我論。それいでいて罪福因縁の道理も認めている。
罪福は切実な自省の中でこそ見えてくるもの。誰かにちょっかいを出したり
するのは、その時点で悪因苦果の罪障となるから、罪福は余計に分からなくなる。
「(四・二五五)真実に反する態度にて、自らを有徳なる(者)に延ぶる者は、
この世の中にて最も罪深きものなり。彼は自らを盗む者なり」
「(四・二五六)すべての事柄は(その性質上)言語によりて決定せるものなり。
言語はその根元なり。而して言語よりそれらは発展す。されど言語に関して
不誠実なる者は、すべての事柄に於て不誠実なり」
言語は文化文明の根本である。かといって言語すなわち真理なのではなく、
真理に基づく誠実な言語もあれば、誤謬に基づく不誠実な言語もある。
言葉から正当不当を吟味しない限りは、いつまでたってもどこかが不当である。
言語をもてあそぶ不誠実を自由だと勘違いしている人間ほど、不幸なものも他にない。
642 :
岩波文庫「マヌの法典」より:2009/05/25(月) 13:26:12 0
「(七・一〇六)蒼鷺の如く、(忍耐づよく静慮し、)その事業を計画すべし。獅子の如く
武勇を発揮すべし。狼の如く(その獲物を)強奪すべし。野兎の如く速かに危難を避くべし」
インド版「風林火山(孫子)」とでも呼ぶべき形容。マヌ法典第七章はクシャトリヤたる
王族のあり方について述べていて、宗教性の強いバラモンの慣習とは一転して政治的な
取り決めが多くなる。インドが決して宗教性のために何もかもを蔑ろにするような
国ではないことが分かる。ただ、宗教性を優先する側面が多いというだけのこと。
「(八・一七)死後に於てもなほ、人に従ふ唯一の友は正義なり。
なんとなれば、他のあらゆるものは肉体の亡ぶと同時に失はるればなり」
四・二四〇並みに冷酷な人生論、それでいてやはり正義の普遍性を提示する。
冷徹な考究を尽くした先にこそ普遍的な正義や罪福の道理が見つかり、
甘ったるい思い込みばかりに陥ったせいでこそ破綻した先行きとなる。
自主性の強弱と運命の明暗は相反した関係にこそある。他力ではなく
自力であることこそは、人間の本分であったということ。
浄土教もあくまで毒を制した毒でしかないから。
643 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 13:44:23 0
644 :
し:2009/05/25(月) 13:57:20 O
やらせだ
645 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 14:01:08 0
つーかよそ様の文献コピペして改変なんざ2ちゃんはおろか
ルール違反で例のディズニーみたいに訴えられっぞ?
たしかこれだよなあ
マヌの法典 (岩波文庫 青 260-1) (文庫)
田辺 繁子 (翻訳)
ちったあ考えろやw
でもって東洋思想総合とかで中華思想もコピペってるなw
これ突っ込みどころ満載なんで楽しみにしとけ
ソースは?と聞かれてこれだとコピペする。
それはコピペだと批判される。哲板の定石の流れ。
647 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 14:10:56 0
ざっと読んでみたが姑息だよこいつw
>>1 コピペにならなようにところどころオリジナル入れてるが
単語単語で見りゃどこのサイトから調達してんのかよーくわかるわw
>>643 「十住心論」なんかも、異生羝羊心第一から愚童持斎住心第二に移った時点で
すでに罪福を認めている。仏教はおろか、道教やインド教の境地にすら至ってない
第二住心の時点ですでに罪福は認められる。大乗仏教でも罪福異熟の理論的理解が
他縁大乗住心第六で把握され終わって、底から上はもはや表向きで罪福を取り上げたりしない。
程度が低いからって疎かにしがちな基本中の基本、それが罪福。
ゾロアスター教の生まれたインド以東の宗教哲学は決して疎かにしちゃいないんだが、
その三歳の幼児でも分かるような基本すら疎かにしているような闇黒社会の連中が、
中観だ華厳だと大乗仏教の上のほうの思想哲学ばかりを論って、
「自分たちの思想哲学と似ているね」だなんて極端な思い違いを平気でほざく。
罪福信仰のゾロアスター教や、道徳主義の儒家教学などを飛び越えて
仏教やインド教の高級教学に群がるニョロニョロネチャネチャとした多くの蟲たち。
罪福や道徳も承諾できないような低級教学を捨て去ってからでないと
全く高級教学の真髄などを味わえはしない。根本的な基本すら疎かにする砂上の楼閣。
ちゃんと処分してから仏法への帰依も考え始めなさい。
649 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 14:17:47 0
>>648 なーに逃げてんだよ馬鹿。貼ったリンク先読んでから答えろや
答えられなきゃただのコピペ改変馬鹿だ
>>647 引用部分は旧字体の改めや誤植を除いて完全に原文通りとしている。
自分自身の寸評が曲解かどうかはまた別の問題として。
>>649 罪福が提示された家住期以降の林棲期や遊行期にも
善いことをして辛くなったり、悪いことをして楽しくなったりの記述は
全く見受けられないが? むしろ罪福を体得しきっているが故の
余裕こそが見受けられる。わざわざ指摘するまでもなく
善楽の内側だけで言動できる真の自由さ加減に基づいた。
もちろん引用者による洋学との比較は全く別の話。
洋学と比べて「似てるね」だなんてほざいてる時点で、
東洋教学の側への根本的な理解の程度が知れる。
人生の大先輩に対して「馬鹿」だ「姑息」だなどとの無礼極まりない態度。
それによって苦しむのは他でもない自分たち自身なのに、
決して悪因苦果を承諾しようとはしない、異生羝羊心止まりの禽獣ども。
まともに対応するだけしょうもなく、無駄なレス稼ぎにしかならない。
まだ勉強がてらの独り言のほうが自分にとって得になる。
まさに
>>641での四・二四〇からの引用の通り。
>>650-651 ああん?原文通り?どっちにしてもコピペじゃねえか、しかもよそ様
著作権違反でご案内だよなあ?
でもって罪がどうだって?それ俺が言わなきゃ知らなかっただろう>四住記
検索厨がボロ出す馬鹿の見本市。当分暇つぶしに付きやってやるわ
ついでになにが大先輩だ?コピペ厨のくずごみじゃねえかw
>>650 ここは哲板だから完全にスレチでしょ?
削除依頼が出てるスレで独り言なんて規則違反。
誘導されてるんだからそっちでやったら?
今度はアク禁になる。そういう依頼場所は他にあるから。
例えて言うなら、常に逆立ちして生活し続けている奴ら。
長期間逆立ちし続けていりゃ、多少は慣れるにしても、やっぱり辛い。
両手も疲れて頭に血も昇る。何しろ人間は逆立ちしながら生きるようにはできちゃいないから。
そんな人間と付き合わされたんじゃ、当然のこととして反りが合わない。
こっちはただ逆立ちしていないだけ。ただ正立して普通の生活を送っているだけなのに、
自分で勝手に逆立ちして生活することで苦しんでる奴らが
「おまえにこの大変さが分かるか!?」と、カリカリしながら偉人面してきやがる。
分かるわけがない、常に逆立ちして生活し続けている人間の苦しみなんかが。
分かりたくもないし、分かる必要もない。何しろ人間は逆立ちしながら
生活する必要の全くない生き物だから。
わざわざ罪悪に手を出して苦しむ必要など全くない生き物だから。
無駄な悪行の努力をし続けてきたせいで、何もしていない人間にすら
先輩面されなきゃならなくもなった。それもまた一つの自業自得の一環。
今まで通り、悪の徒労に苦しむ。せめてでも先輩の偉大さを敬えるようになれば。
いやーわかりやすいなw楽園に狼が乗り込んできたら
マヌ法典も中華も一気に吹き飛んでらw
ここは「おまえだけの楽園」じゃねえんだぜ?
>>656 楽園じゃねえや。浄土だ浄土。
お花畑みたいな快楽に満ち溢れた方便仮土でなく、
ただ自業自得による根本的な辛苦を省いた真実報土。
本当は犯罪者に対してですら門は開けてるんだが(というか門はないんだが)、
現行犯の逃亡者に対しては、さすがにこちらから追いかけたって届かない。
犯罪者は自分から逆立ちすることで苦しんでいるだけでなく、
犯罪被害者から利益をせしめることで食い繋いでもいる。
現時点でも中国やインドから労働力をこき使ったり、人材を引き抜いたり
することで生計を立ててるんだから、そこからさらに武力侵攻なんてしようものなら
自分たち自身の利得源までをも失うこととなる。
親から強奪した金で武力を蓄えて親を殺す、
武力も維持できなくなる上に、さらなる罪悪の積み重ねによって
さらなる辛苦をも味わわされることとなる。
犯罪者の勝利などに明日はなく、投降したほうがまだマシな人生が歩める。
659 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 15:51:30 0
>>658 まだやる気か?てめえの理想郷のつもりだろうがw
ここには他人ってもんがいるんでな。くだらん御託並べる暇があったら
精進して出直して来いやw
コピペが消えたらくだらんごみくず持論しか出てこねえじゃねえかよw
てめえから哲学だの中華だのよそ様のコピペが消えりゃ馬鹿丸出しの外道よ
別に、一方向性の書き込みならブログでもいいわけだし、
論争を挑んで来るのは一向に構わないけども?
ただ、あまりにも公序良俗に反するような無礼な書き込みには、
本人たち自身こその自業自得な逆立ちの苦しみを慮って、
慈しみの念を送らせていただくばかり。おかわいそうに。
>>660 だったらそっちのほうがいいんじゃない?
ブログ=日記だからね。
コメント無しすれば論争も起きないし。
ただ噂になったらまずいけど。これは誰でも同じ。
662 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:07:24 0
>>660 無礼な書き込み?ほざくなw
コピペ改変改悪他人を犯罪者扱い?これが公序良俗か?
どの面さげて言ってんだ?
663 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:10:10 0
665 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:49:45 0
東洋哲学のスレが立ったからみんなで話したいのに、
1人の主に不特定多数がコメ、論戦する形式が気にくわないつってるのか。
ブログ的だから日記厨だろうと。
ちょっと見ると、この
>>1は今、言ってみれば写経のような事をしてて、
そんなの哲板的にはアリアリな話じゃないの?
>>661がおかしいわ。言いがかりつけてる。
東洋哲学をネタに誰かと会話したい、ここが気に食わないなら
ここの
>>1に絡んでないで別スレ立てればいいじゃん。その方が早いし。
何を妄言並べてるんだ?目障りだぞ。
ここ読んでるんだからウザーな書き込みやめろよ。
>>661
666 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:51:28 0
分かんねーヤローどもだな。
隠そうがバレまいが、存在してしまっている時点で犯罪は辛く苦しい。
(むしろ隠してバラさずにおこうとするからこそ余計に苦しい)
所詮は犯罪者でしかない、その不必要な逆立ちの苦しみが、
おまえらに不必要な悪意までをも催させるんだ。
おまえらのほうだけだ、それは。
こっちはちっとも苦しんじゃいない。
よしんば苦しまされた所で、故意の重犯罪者であるおまえら自身の
潜在的な苦しみに比べれば微塵ほどでもない。
悪いことするのもおまえらだけなら、苦しんでるのもおまえらだけだ。
ただ第六サティアンの隠し部屋で、スポンジ敷いて札束抱いて寝転んで
怯えてるような側だけが、最悪の悪人であると同時に、最悪の苦悩者でもある。
全部そちら側だけの自業自得だから、押すのも引くのも全くの勝手。
これ以上押して苦しむのも、引いて投降して楽になるのも全部おまえらの自由。
何一つとしてこちらに問題を提起してくれる必要などない。
ただよく考えてみれば当たり前なだけの、当然の事実を述べているだけのこちらに対して。
668 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:53:32 0
>>665 なーに自作自演やってんだ?ごみくずさんよお
1人の主に不特定多数がコメ、論戦する形式が気にくわないつってるのかって
それてめえだろが。
いやー楽しいわw
669 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 16:57:26 0
>>665 みんなで話したいなんて内容じゃないでしょ。
誰も来てないし・・・
暴言荒らしじゃないけど自演?だったら最低。
671 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:10:28 0
>>667 だからかまってないでネタ投下しろってw
クオリティ下がってるぞ
672 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:10:50 0
こいつの自演の特徴
投下間隔中に文章作成
短い間隔で投下、これは2ちゃん自演の基本
文章完成時点連続登校
改行、文体が同じ
さらしあげ。
行き場のないようなやるせさ、とにかく何もかもにケチを付けておきたい意地汚さ、
それこそは外でもない洋学からこそ溢れ出てきているものだから、
自分の外側に解決すべき問題なぞを探し出そうとした所で、何も見つかりはしない。
ただ自分たちに比べれば遥かにマシな正当教学を育んできた、大人たちの群雄割拠を知り
余計なコンプレックスを抱いて、さらなる憎悪や意地汚さを溜め込んでしまうだけだ。
それよりはさっさと世界ムスリム裁判所あたりに投降して、
最底辺の徒弟からでもやり直したほうがマシだ。
太陽から一番背を背けてきた、暗黒世界の蟲獣としての現実を直視することだ。
674 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:17:46 0
>>671 ざっと
>>1から読んだがもともと品質なんざねえよ。煽りゃ煽るほど馬鹿が出てくるw
中華のお偉いお話はどこへ消えたんだw
コピペ改変改悪、誹謗中傷は今やばいからなあ
675 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:18:18 0
ねらーの個人としてのリアリティはわかったから
もっと社会全般について俯瞰でいつものように淡々と語ってくれ
676 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:21:05 0
イナゴはドットに相手してもらえ
677 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:22:38 0
すごい勢いになってる件について。
どうせまた1000レス行く前に容量オーバーなりそうな勢いなんで、
しばらくまた虫さんたちに自由に羽ばたかせてあげてりゃいい。
もうかなりわきだしてる季節だし。ネズミやゴキブリもな。
679 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:32:18 0
もうこういう流れ飽きたわ。ツマンネ
>>1だけ面白い
680 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:33:52 0
681 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 17:40:24 0
コテコテのねらーイラネ
682 :
「ねらーなめんな」(笑):2009/05/25(月) 17:54:32 0
/ / \ \ ____ ○
/ l ヽ |
,! ヽ、 !. |
| `> | |
'i / i' / \\ l
ヽ. / / /
\ 丿__ / / /
>>664 別に>641も趣旨を変えたりなんかしちゃいない。
小学二年生で九九を習い終えたからって、三年生になったら忘れていいだなんてこともあるまい。
マヌ法典は法律であるだけでなく思想哲学としても重大な意義を持ったもの。
真理について書かれた部分などは、法務処理として守るか守らないか以上の絶対法則ですらある。
だからこそインド人も表向きはカーストが禁止されているにも関わらず、容易には
以前の慣習から抜け出せずにいる。主人と奴隷だなんてだけではない、極めて高度な差別。
下手にぶち壊そうとすれば余計に二極化の格差を招きかねないから。聖書圏のような。
>>683 だからこそインド人も表向きはカーストが禁止されているにも関わらず、容易には
以前の慣習から抜け出せずにいる。主人と奴隷だなんてだけではない、極めて高度な差別。
下手にぶち壊そうとすれば余計に二極化の格差を招きかねないから。聖書圏のような。
そんなこと書いてないでしょ?
こういうのを改変っていうんじゃないの?
685 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:14:30 0
まだごみくずの虫がほざいてるかw
>>643がすべてなんだよ
よそ様の文章使ってよそ様の内容と全く別のこと書いて批判してるだけじゃねえか
こういうのは出版屋に通報すりゃ大事になんのはここにいる馬鹿本人
>>683だぜ?
著作者の意見をなじ曲げてるからなあ
参考文献って載せりゃいいってもんじゃねえ
馬鹿はわかんねえだろうな
686 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:17:30 0
>>684 人間の意識は時間とともに更新される。
論旨のずれが連関されてダイナミズムをはらみ、読者に葛藤を与える。
そういう文体だからこそ面白いのに何なんだこいつ?野暮だな
>>684 書かれていることだけが全てなら、禅なんてとんでもなくシュールだぜ。
お天道様という真理を指差す指が、東洋教学の基本文献であることを忘れちゃなんねえぜ。
688 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:20:22 0
ゾロアスター教とアブラハム教を併せた「善悪棚上げ宗教」のうち、
ゾロアスター教とイスラム教は善悪の棚上げの仕方を間違えていない。
現実の真理に基づいても善いものは善い、悪いものは悪いという定義こそを
アフラ・マズダーやアラーに仮託している。だからとてつもなく善いだなんてことも
ない代わりに、ひどく悪いだなんてこともない。現時点において無罪である宗教群。
ユダヤ教とキリスト教こと聖書教は、善悪棚上げ宗教である上、
善悪の棚上げの仕方を致命的に誤っている。善いものを悪い、悪いものを善い
とする転倒(逆立ち)した夢想こそをエホバやキリストに仮託してしまっている。
だから根本的な教義からして最低最悪だし、それが善い物であると信じ込んで
いる聖書教徒たちの行業も悪や善悪のみそくそと化してしまっている。
善悪の自主的な分別を付ける教学と、善悪を超越神に棚上げする教学との違い
がある一方で、善悪を正しく超越神に棚上げする宗教(ゾロアスター教とイスラム教)
と、善悪を転倒させた上で超越神に棚上げする宗教(聖書教)とにも分かれる。
善悪転倒棚上げ宗教≪善悪順当棚上げ宗教≦善悪自己分別教学
善悪を自分たちで分別する仏教や儒家などは、宗教であると同時に常に学問でもある。
善悪を棚上げする宗教は、宗教である時に学術性を劣後してしまう場合が多い。
たとえ宗教であろうとも学術的な倫理性は崩さない、信仰の適切な調節が常に
仏教や儒家では利いていて、だからこそ浄土教において悪人正機が提示されもした。
>>686 それは単なるネタでしょ。芸能新聞じゃないんだから。
690 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:22:01 0
さてと馬鹿がほざいてるうちに宗教板の連中呼んでくるか
691 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:29:01 0
アホへのレスから10分ちょっとでネタ投下の華麗な手さばきw
>>688 だからね
ゾロアスター教とアブラハム教を併せた「善悪棚上げ宗教」のうち
って元ネタはどこなの?ってこと。そんなこと書いてる本ってないでしょ?
それをおかしな風に改変するからおかしなことになるわけで
さっきも言ったようにネタを膨らませるってことは自分の中だけで、ブログでいいんじゃない?ってこと。
芸能新聞読んでどう感じるかなんて人の自由、嘘だってあるしそれ騙されるのも自己責任。
だけど実際の歴史や思想を改変するなんて嘘じゃない?
693 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:36:54 0
>>692 事実それ自体なんてものはなく、ただ解釈の差が存在するだけだ。
解釈が面白いつってんのになんでこいつはこんなにうんこなの?
>>692 「善悪棚上げ(宗)教」という命名は、
>>639で行ったばかりですが?
超越神だ唯一神だといったところで、要は善悪の分別が自立できていないだけで、
善悪禍福の法則を自主的に見抜いている仏教や儒家に比べれば幼稚と言わざるを得ない。
もちろん超越神に仮託してたって、善悪の分別が事実として間違ってなけりゃそれでもいい。
ゾロアスター教やイスラム教はその点が(大幅には)間違ってないから、
自ずと善良信仰やスーフィズムなどの点で、仏教にも近似するような教義を打ち立てている。
善悪の分別すら間違っていなければ、真理は一つだから自然と近似した部分が出てくるもん。
ただ唯一、善悪の分別が決定的に間違っている聖書教だけが、本来は真っ白なご飯を
腐らせて、青カビや赤カビや黒カビらの七色変化に見舞わせてしまっているだけだ。
>>693 そうそう。それが哲学ってもんでしょ?そこから考えないとね。
宗教とかってネタにすぎないんだよ。あなたまともな人ね。
それじゃまた。
696 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 18:43:43 0
東洋教学には多種多様な流派があるものの、極端に間違いきっているようなものだけはない。
真理面や道徳面における大間違いこそを重畳させて、腐敗を拡散させることを
本旨とするほどの究極邪教だけは東洋にはなく、聖書教だけがそれである。
そう考えてみれば聖書教も凄いもんだ。東洋人が絶対に考えもしない、考えたって絶対に
行動に移さないような道化を敢行する、暗黒世界ならではの悪癖収集主義。
自分らが便器教徒であることを自覚した上でなおその信仰を続けるってんなら、
それはそれで拍手喝采に値することだ。今までに一度もできたことがないようではあるが。
ネットの、しかも匿名掲示板のような、啓蒙度の低い領域に甘んじるのは、
それが「金にならない」からだ。金を稼ぐことが権力犯罪への共犯に直結する
現社会の実情に応じて、わざとなるべく実利を伴わない活動を続ける。
もちろん金を稼ぐことが真に人類の福祉に貢献する社会になれば、
出来る限り実利の伴う実働に移っていくもんだ。少しも躊躇することなく。
林のように徐かなることも、火のように侵すことも兵法の内だ。
なにか一つの態勢だけにこだわり続けることこそは致命的な弱点となる。
700 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 19:22:08 0
わざとなるべく、言い訳で自分を慰める方法も東洋教学とやらから学んだのかい?
慰めるまでもない不動者の高潔さこそを学びました。
犯罪者の救いようのない苦しみと共に。
聖書教やそれに基づく洋学群の七色変化に比べれば、
東洋教学は色彩に関しちゃ概ねセピア色のようなシックな色合いに落ち着いている。
それこそは東洋教学が誤謬でない真理に集まっている証拠だ。
http://blog.livedoor.jp/safe_food_of_asia/archives/50010839.html >>658 化学や光学などは、まさに色彩の魔術のための学術と言っていい。
見た目のカビさとか、音象のどぎつさとかを徹底的に研究し尽くす、
それこそは本質の部分での満足が得られていないから。
本質で安心や満足ができたからこそ、東洋人の外見や振る舞いは
そのほとんどが慎み深いものとなっていて、ただ西洋の側から挑発を仕掛けられた
時にだけ、たまに国家神道とか文化大革命とかでぶち切れたりもしただけだ。
ちゃんと年序の功や男らしさが敬われたなら、基本はいつも温厚であるものだ。
慎ましさを重視する、西洋ではない東洋の側のペースに従うならば。
703 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/25(月) 21:54:32 0
「(八・一一八)貪欲、迷妄、恐怖、友情、色情、瞋恚、
無知及び稚気より為されたる証言は、無効なりと言わる」
裁判上の証言が公正であるためには、あらゆる感情的な意図が控えられて然るべき。
中でも特筆すべきは「友情」、ある種の宗教では免責条項扱いされたりもする友愛が
迷妄や色情と並んで禁止条項扱いとなる。これもまた真理に基づいた公正さだから。
真理を追求した宗教性に基づいた法規は、そうでない実定法以上に強力かつ公正とも
なり得る。宗教性が甘えを許すどころかさらなる厳しさを提示する、宗教を迷妄の
ネタとしか考えていないような世界では想像も付かないような事態が起きている。
「(八・一六五)詐欺の抵当或は売却、詐欺の贈与或は受領、及び詐欺
なりと看破せらるる(如何なる取引も)裁判官は無効なりと宣言すべし」
イスラムと違って、ヒンズー教は利子の介在を完全否定しているわけではなく、
バラモンが貧窮した場合などのごく限られた場合には一応容認している。ただ、
それにしたって詐欺は許さない。相手が気付いていないような所でコソコソと
金利を巻き上げるような、基本中の基本である不当行為を根本的に取り締まる。
当たり前のことなんだが、厳密に禁止しておかないと、締め付けの緩さにつけこんで
悪さをしでかすアホがどこの世界でも現れるから、法規であれ礼儀であれ宣言はしておく。
704 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/25(月) 21:56:14 0
「(八・三三七)偸盗の場合に於て、シュードラの罪は(これより更に低き階級
の者の)八倍、ヴァイシャのそれは十六倍、クシャトリヤのそれは三十二倍なるべし」
「(八・三三八)バラモンのそれは六十四倍、或は正に百倍、
或は(バラモンはかかる)犯罪の性質を知れるものなれば、六十四倍の二倍なり」
窃盗においてももちろんだが、マヌ法典は決してバラモンのような上位種姓に対して
何もかもの免責特権を与えているわけではなく、厳密な取り決めを守れているに応じて
(ヴェーダを人に教えるとかの)正しい行動の選択肢が広げられているだけ。
悪いことをすればすぐに堕姓者となり、殺されはしないものの追放などの罰則も受ける。
他者がバラモンを殺してしまった場合にも、過失である場合にはそれなりの贖罪行為によって
清められ、ただ故意であった場合にだけ死刑が免れない。どこまでも気違いじみたような
厳罰主義は避けているのがインド人。だからこそ罪の軽重に応じての、極端に重層的な段階差別を
生み出してしまっていて、同じく仏法のような重層段階型の精進治療をも生み出しえたのだといえる。
「(八・三四七)王はすべての者に恐怖を与ふる暴行者を、
友情のため、或は大なる利益のために、釈放すべからず」
これまた友愛を原因とした公共性欠如への戒め。どこの世界にだって友情ぐらいはあるもんだが、
どうもコーカソイドは友情によって公共性をも蔑ろにしてしまうような悪癖があるようで、
白人はその悪癖を全く制御できておらず、アラブ人はアラーへの絶対帰依によって
友情の行き過ぎを制御し、インド人はこの通り宗教性に基づいた法規によって
友情による公共性への侵害を禁止している。友情のような横の繋がりよりも、
家族や君臣といった縦の繋がりのほうをより重んずる、モンゴロイドにはなかなか縁の薄い話。
705 :
岩波文庫「マヌの法典」より。:2009/05/25(月) 21:57:33 0
「(十一・一九〇)彼は清められざる罪人と如何なる交渉をもなすこと勿れ。
又罪を浄めたる者を如何なる場合にも忌避する勿れ」
犯罪者を決して許さない一方で、贖罪者は誠心誠意を以って社会復帰に協力する。
犯罪は辛苦以外の何ものでもない、どんなに一時的な荒稼ぎができたところで結局は苦しくなる、
少しも羨みようのないゴミクソクズカスなんだから、未だに罪を清めようとしない糞喰らいを
徹底的に忌避する一方で、罪の苦しさを自覚して浄化を受け入れた人間には優しく接する。
たとえそれがいかなる大罪人だろうとも、罪禍から抜け出せたなら同じく平等な人となる。
何十年後になるか知らないが、そんなことも決してないことはないのだと保証しておく。
「(十二・一〇三)書を精読する者は無知なる者にまさり、そを記憶する者は
精読する者にまされり。(意味を)理解する者は(単に)記憶する者よりまされり。
(学びたる事を)行ふものは、(単に)理解する者にまされり」
非常に健全な学問論。読んで覚えて理解して行う、それぞれにそれなりの価値がある。
もちろん正しい書物に関しての話。殺されて生き返るだなんて書物内容を実行できるはずもない。
そういう書物は元から正しくない書物だから、健全な学問論も少しだって適応し得ない。
適応したところでちっとも楽しくない。ウンコを食べることは犬にとっちゃ楽しいかもしれないが
人間には全く楽しくない。なんでも嬉しがるような感官の焼け付きを十分に冷ました上で
それでも勉強することが楽しい学問、それこそは真に正しい学問。
学問すらも吟味対象とする、肥えた舌を脳内に持て。
706 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 22:11:34 0
「マヌ法典」に関する寸評はこれまで。
「真理法則である部分こそは主だ」なんてことを
>>635で書いたりもしたが、
法律である部分は厳密に法律として記述されている。
岩波文庫では青帯に入れられているが、むしろ白帯に入れたほうがいいほど。
これとイスラム法学あたりを白帯に入れ直して、ホッブズ・ロック・モンテスキュー
あたりを全部赤帯に入れ、ヴェーダ類を青帯に入れ直す訂正が必要だ。
(岩波の帯色区分はかなり適当なんで突っ込み所は他にいくらでもあるが)
迷妄や友愛に囚われない厳密な法律群が、本当は西洋なんかじゃなく
インドやイスラムにこそあるんだ。別に法律が全てだとは思わない。
成文法から否定する儒家教学のほうがさらに格上だと自分では考える。
ただ、それにしたって法律であるなりの最善を尽くした法律はこっちのほう。
非宗教・無信仰を装って実はカルト宗教の暗躍を許してしまっている
西洋法学なんかより、人間の社会生活全体を取り仕切る必要悪としては
最善の限りを尽くしてるんだ。裏側で好き勝手やるような気の弛みはないんだ。
707 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 23:12:27 0
.
708 :
考える名無しさん:2009/05/25(月) 23:24:43 0
勧善懲悪、断悪修善、善悪二元論、悪一元論、善悪みそくそ・・・
同じ善悪論でも、これほどにも善悪に対する見解の分裂が生ずる。
今はどんな時代かと言えば、「善悪みそくそ」が優勢である時代。
数多くある善悪論の内で、善悪みそくそこそが突出している時代。
善いか悪いかでいえば、悪い時代。
みそくそによって悪が得をし善が損をする。
勧善懲悪や断悪修善が主導する時代と比べれば、明らかに悪い。
悪いから、辛く苦しい。善いから楽で楽しい場合と比べれば、
人間自身の「悪」という定義の異熟に基づいて、甚だ辛く苦しくなる。
その辛さ苦しさを色彩や音象の妙技によって紛らわしたりもするが、
やっぱり根本的には辛く苦しい。辛く苦しい前提にこそ基づいている。
善悪みそくそや悪一元論でなく、また善悪二元論でもなく、
勧善懲悪や断悪修善であることによってこそ、人間は楽で楽しくなる。
人間自身の「善」という定義の異熟に基づいて、頗る楽で楽しくなる。
前提から全て楽で楽しくなる、高コスト低パフォーマンスな人間のあり方。
善悪に振り回されることからやめてしまう、大人の純善世界へとご案内〜
低コスト高パフォーマンスだ馬鹿野郎。
意味が逆転する誤植が二極化論法では生まれやすい。
危険な論証から安全な論証に転ずるためにも、
二元論からの脱却が必要とされる。
アヴェスターではなく弥蘭王問経こそが愛の証となるから。
>>342 私もその部分に疑問を持ちました。
疑問というより「こういう捉え方でいいのかな。ほかの人はどう捉えてきたのだろうか」といった思いが
離れませんでした。
一つの意見として参考になりました。
ここに書かれていることを大学の研究論文なんかに使うのはやめとけよ。
金になるような研究(&捏造)成果によってこそ今の教授たちも食ってんだから、
例え正しい論及のために参考にしたとしても単位くれなくなるぞ。
真理ではなく犯罪によって今の金の流れは制御されてんだから。
今の世の中での金の動きに携わらないってことは、
多数派の利益を尊重しているってことだから。
声を荒げて主導権を強奪しようとなんかもしない、
四十億超の人類の多数派に回っているということだから。
金の動きこそは多数派の意見であると思い込んでいる
近視眼者には、まだその本意も計り知れまいが。
折れるような凝り固まりを持っている人間の心こそは折れる。
凝り固まりを捨て切っている人間の心が折れるようなことはない。
ここに下位住心者と上位住心者との絶対的な格差がある。
物質の豊かさで塗り固めようとも本質の脆さは補えず、その逆もまた然り。
罪福を承諾しない知識人なんてのは、
九九を覚えてなかった数学者みたいなもんだ。
今から急に承諾したり覚えたりした所で、
誤った善悪の分別や計算ばかりをしでかして来た
これまでの責任を問われて、権威を剥奪されざるを得なくなる。
そういった前提的な基本を疎かにしてしまっている連中が
揃いも揃って今の世の中を形作ってるから、
断罪後には一般市民よりも小さな顔しかできなくなる。
いま有名な人間の名はその全てが悪名となり、
まだ轟かせなかったほうがよかった名として恥辱の対象となる。
第一線の活躍者が全交代しなければならない時期が来ている。
遠藤周作の「沈黙」で、穴吊りの刑ってのがあったな。
罪人を汚物を入れた穴に逆さ吊りにして、頭に血が上って
死なないように耳に穴を開けて血抜きにするってな。
キリシタンに対する強制棄教措置としてな。
刑を受けてる本人たちはすでに棄教してるんだが、
神父のロドリゴが棄教しない代わりに受けさせられてるってな。
当のロドリゴは受刑者のうめきを鼾と勘違いしたりな。
近代の作家にしてはいい仕事してんな、遠藤氏も。
九九を覚えてない数学者もたまには計算を当てているもんだ。
おそらく自分でも知らず知らずの内に。
717 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 13:11:42 0
よし、自作自演の誤解を受けるような錯綜もたまに
起こってしまうんで、これからはハンドル付けような。
徳川幕府大目付、立派な役職の大名でござい。
昔は洋学に没頭していた時期があって、
やっぱりダメだと改心した自分自身の経験からもな、
筑後守の元キリシタンという肩書きも問題ない。
だからこそ穴吊りの刑なんかも思いついたんだろうしな。
キリシタンの心理状態をうまく表現した拷問刑として。
718 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 13:20:32 0
馬鹿。
719 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 13:21:31 0
よう!
720 :
考える名無しさん:2009/05/26(火) 13:28:47 0
意味ねえじゃん。馬鹿だろまじで。
みんななりゃあいいさ、井上筑後守に。
元キリシタンの徳川家家臣に。
それで世の中は安泰だ。
722 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 13:35:02 0
そういう時は山崎渉っていれるんだよ。
自演されなくなる。仕組みくらい知っておけ。
723 :
井上筑後守 :2009/05/26(火) 13:46:16 0
メール欄にfusianasanって入れると完璧だよ
724 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 13:47:59 0
まあ、自演はまず無理だろうな。理論上。
725 :
井上筑後守 :2009/05/26(火) 13:57:35 0
精神分析と演劇が大好きなんだが・・・
つーか、ここに書く人間は全員井上筑後守を名乗れ。
世にも奇妙な井上筑後守だらけのスレw
キリシタンたちも真っ青なって近づけないw
仏者や儒者の心理状態と、穴吊りの刑なんかはちっとも連動しやしねえんだ。
汚物を溜め込んだ穴に逆さ吊りにされて血抜きの穴を耳に開けられる、
そんな心理状態をいつもどこかに内包している人間なんてのは、聖書教徒か犯罪者だけだ。
そうではなく、ただゆったりと座るなり寝転ぶなりして、美味しい味噌汁をすすったり
沢庵漬けをかじったりするのこそが、儒者や仏者の心理状態にピタリと一致するものだ。
穴吊りとリラックスと、両方の心理状態を経験したればこそ、
井上筑後守もキリシタンの心理状態を「穴吊り」であると見抜けたわけだ。
自分たちの追い込まれている心理状態を、身体でも体験させられる苦痛を強要されたからこそ
キリシタンたちも棄教を決意できたわけだ。
夢想から現実へと引き降ろされる真相暴露の妙技によって。
ageろよ
728 :
考える名無しさん:2009/05/26(火) 16:33:25 0
こういうのを、ガスライティング犯罪ネットワークという。
ノリによる集団でのなりすましは軽犯罪だが、
これを承認させ、共犯者であることを受け入れさせる。
>つーか、ここに書く人間は全員井上筑後守を名乗れ。
↑これな。
これ以降、なりすまし者達が井上筑後守に煽りを続け、
井上筑後守がなりすましをスルーしたまま煽りを喝破した場合、
井上筑後守の心的ストレスはなりすましなしと比べて2倍かそれ以上になる。
これらの名無し達のちょっとした行為によって、
井上筑後守のアイデンティティにどんどんと他者が侵入し、
その違和感をはじく事を無効化し、感覚を崩壊させる。
そして、徐々に自律的な判断力を奪い、怒りを煽り、
狙われているという被害妄想を植え付け、報復としての犯罪を誘導する。
もし犯罪をおこさなくとも、書き込みペースを崩せば、それで彼への評価を意図的に落とす。
評価を落としたついでに、精神疾患の疑いをかける。
これらは、社会構造の転覆をねらうキリスト教系カルトの手口だ。
二倍でもなんでもねえよ。故意の犯罪加害によって
一方的に苦しんでるのは犯人たち自身だけだ。
犯罪を正当化するカルト教義の有効性を全滅させれば
全く被害者への苦しみのなすりつけは届かなくなり、
なすりつけに失敗した加害者の側だけで苦しみを蓄積させていく。
罪悪に伴う辛苦は加害者の故意からこそ発生しているから、
他者への辛苦の拡散が不能となってからはただ自業自得で苦しむばかり。
天に向かって吐いた唾が自分たちの顔に降りかかってくる。
悪いことをすることによって得られる善いことなんて何もない因果律の証明。
730 :
井上筑後守:2009/05/26(火) 18:07:12 0
.
加害者からの罪のなすりつけによって苦しんでしまっている内は、被害者のほうも
ある程度は犯罪を正当化するカルト教義のペースに乗っちまってんだ。
糞尿の溜め込まれた穴に逆さ吊りにされて血抜きの穴を耳に開けられる、
そのどうしようもないような醜悪心理を、ただの「悪の苦しみ」であると見抜けず、
不必要な恐怖感を抱いてマゾヒスティックに恍惚してしまってる時点で、
被害者もある程度はそのカルト性にあてられてしまってる。
糞喰らいを嬉しがろうとする乱痴気騒ぎに根本的な心識から取り合わず、
汚れ芸人の漫才程度の扱いに付したなら、実はそれはどうということもない。
醜悪さの嬉しがりに同調してしまってた分だけ、自分にも責任はあっただろうという
自省の念すら発せられるもの。今の世の中が権力犯罪に間接支配されているのも、
犯罪を正当化するカルト教義を被害者の側までもが面白がってるせいもあるんで、
何も加害者ばかりに責任を押し付けるものでもない。人類総従犯社会と化している
今の社会の構成員が等しく、少なからぬ迷妄の罪を抱えていることを認めなければ。
732 :
考える名無しさん:2009/05/26(火) 18:22:16 0
朝鮮での嘗糞の実際
朝鮮では、6年以上父母の糞を嘗めつづけ看病し病気を治した
孝行息子の話などの記録があり、
指を切って血を飲ませる「指詰め供養」(断指)や
内股の肉を切って捧げる「割股供養」などと共に、
親に対する最高の孝行の一つとされた。
こうした風習は朝鮮時代まで続き、日韓併合後に禁止された。
朝鮮世宗が編纂を命じた儒教的な教訓を纏めた書『三綱行実図』には
孝行の一例として挙げられている。
『朝鮮医籍考』によると、後に娯楽化し、人の糞を舐めて
その味で誰の糞であるか当てる遊びが流行した。(상분유기)
また、朝鮮王の中宗は、解熱剤として人糞を水で溶いたものを飲んでいたという
(東亜日報 2005年8月22日)。
20世紀に入っても人間の大便を民間医術に使用する例があり、
『最近朝鮮事情』には重病人に大便を食わせる例が載せられている。
また『朝鮮風俗集』には人中黄(冬期に竹筒に人糞と甘草を交ぜ地中に埋め、
夏期に取り出し乾燥させて粉末にしたもの)と言う民間薬が載っている。
指詰め供養・股割供養・日韓併合後に禁止にされた。
>>733 「女は子を産む道具でしかない」朝鮮では、道具(女)が不良品(不妊症等)で
あってはならない。
故に、『これこの通り、妊娠できる体でございます』ということを証明するために、
「種男」という男に娘を犯させ、妊娠した状態で輿入れさせる。これを
「試し腹」と言います。
産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同じ奴隷的な身分しか
なく、結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われています。
自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、
妊娠できる女と証明させて嫁がせる儒教思想が暴走した悪しき習慣だそうです。
日帝が禁止した朝鮮時代の悪しき風習だそうです。
朝鮮半島で行われていたもので、父親が結婚前の自分の娘に対し、
妊娠の可・否を調べる為に性行為をする事を云う。
大韓帝国の時代まであった風習だが、日韓併合後に直ちに禁止にされた。
ポシンタン(補身湯、犬肉のチョンゴル[鍋物])
ケッセキ(犬の子、侮辱語)
トンケ(糞犬、人糞を食べて育った犬の肉)
トンスル(糞酒、大便を入れた酒)
ホンタク(洪濁、藁を敷き人糞を塗って発酵させたエイ[洪魚(ホンオ)]の切り身)
・トンチミ(漬物)・濁酒(タクチュ・マッコリ←→ポプチュ[法酒])で三合
嘗糞健康法
飲尿健康法
ニンニクと倭芥子(ウェケジャ=唐辛子[コチュ])は、
最初は毒草と思われ使用されなかった。
塩の使用を清朝から禁止されていた。
生姜・高麗人参・糞・尿などが調味料にされていた。
コチュは日本人が朝鮮出兵によって李朝にもたらされ、
胡椒などは日本の対馬から制限貿易で輸入された。
糞でも平気で喰らうぐらいだから、カトリックに入信したり、
崖から飛び降りて自殺したり、核実験を強行したりすらあな。
別段珍しくもなんともない、聖書主義者の普段的な姿だ。
日本の西側にいるのは数千万程度だが、東側には20億人もいる。
どちらのほうが真に深刻かを、犯罪主義者の宣伝ばかりに
囚われず(スケープゴートを捏造することで自分たちの
罪状を撹乱隠蔽していたりする)、現実に即して慮るよう。
>>733-735の朝鮮人の風習の内で(全てが事実かどうかも知らんが)、
四書五経で認められているのは犬肉食だけで、しかも祭礼用の供犠としてだ(礼記)。
親子が同じ女(雌)と交わるのは「獣の所業」として、礼記冒頭で無礼の極例として
挙げられているし、人肉食も殷紂の例などから亡国の所業として忌まれている。
あくまで悪例や特例として挙げられているのに、「四書五経には犬食や近親姦や人肉の話がある!」
という部分だけが尾ひれを付けられて広められ、逆に「儒教で推奨されている慣習」扱いにすら
されてしまっている。人間の伝言がいかに不誠実なものであり、原典まで遡らねば
真相も明らかにされないかということの如実例であるといえる。
738 :
考える名無しさん:2009/05/27(水) 08:24:10 O
世間虚仮
唯仏是真
739 :
考える名無しさん:2009/05/27(水) 10:34:51 0
人肉食がいけないのはヒトの免疫体系を壊すからだと言われる。
食われたその人が持っていた病原菌をそっくり受け継ぐことになる。
だから病気になりやすく長生きできない。
740 :
井上筑後守:2009/05/27(水) 13:03:20 0
人間に限らず、共食いが病理的な危険性を孕むのは
肉骨粉による牛のBSE感染などからもうかがえる。
同質性の高すぎる存在同士での保全行動は、エントロピー増大則に抗いきれない。
人間自身よりも炭水化物のより多い食物、たんぱく質のより多い食物、
ビタミンのより多い食物などの摂取によってこそ余裕のある栄養補給が賄われる。
人間が人間の肉を直接捕食する場合だけでなく、
不当利得などを通じて間接的に他者の生命力を奪う場合にも、
共食いの危険性は確実に付与される。
石高制のように、人間の生命力の根元である「食」を金銭の流れからは隔離した
世の中であれば、金によって他者を飲食レベルの生命力から侵害することなどは
抑制されるものの、今のように食糧も何もかもが金融によって支配されている
世の中であれば、飲食による熱量の確保という最も根源的な部分から
他者の生命力を強奪することが可能となってしまう。
今はまさに、その他者からの根こそぎの生命力の強奪が平然とまかり通っている
時代であり、わざわざ直接的に他者を凶器などで殺害して、その肉を捕食する
場合などよりも、広く薄い間接的な生命力の強奪によって、より簡便化された共食いが
大量稼動させられている。「食用の人畜」が大量生産大量消費されている時代だ。
>>737 「儒教で推奨されている慣習」は間違ってるよね。
そのような風習は存在した。
そしてその実情を諌めようとしていた。
しかし世俗はかけ離れていた、ということかな?
742 :
井上筑後守:2009/05/27(水) 13:43:19 0
「人類奴隷化計画」とか「世界牧場計画」とかいった陰謀論の本が出版されていたりもする。
推測だらけなものからそれなりに事実に基づいたものまで多くあるが、
奴隷化や家畜化されて飼い馴らされてるなんてのは、今の下層の社会人誰しもが
何となくではあるにしろ感じていること。ひどいお上にこき使われるしがない下民であると。
ただ、その飼い馴らされ方がどうかというと、本物の牧畜などよりはずっと人間的である、
「基本的人権」ぐらいは確保されているから仕方ないとされたりする。
実際に自分自身の肉を食われているわけではないから、食用だなんてのもあくまで
比喩でしかないと考え直させられる。そこが非常に巧妙である部分だ。
「自分自身の肉」を食われるか食われないかというのは、あくまで個人の問題であって、
不特定多数の人間の命を左右する支配者にとっては大した問題ではない。
一人一人の個人の人権を保障してやる一方で、国家とか社会とかいった規模の
全体的な種族としての人類に対しては、食肉扱いにも値するような仕打ちを繰り返す。
自分一人の命だけにこだわる一方で、全体の成り行きには甚だ無頓着な視野の狭い人間を
教育や社会的風潮の堕落などを通じて大量生産し、種族としての人類に対する食肉同然の
扱いからは目を逸らさせ続ける巧妙な手管。犯人たちもまた自分たちの利益だけを
考えて、全体の利益などに目もくれない小人だからこそ、種族としての人類からの生命力の
強奪などを目論んだりもする。支配層と被支配層、いずれもが君子道徳などには
値しない小人同士であるからこそ起こっている人類の二極化、食うものと食われるものへの。
病的であることは今さら指摘するまでもない。ただ殷紂の例などからして
破滅までもが危ぶまれる。頂点の君主までもが食人を面白がる末世特有の風潮。
743 :
井上筑後守:2009/05/27(水) 17:48:52 0
「生命には二種類ある。第一は内的な生命であり、第二は外的な生命である。
もしも〔他人の〕財物を奪うならば、これは外的な生命を奪うのである。
何となれば、〔人間の〕命は、飲食物、衣類などによって生きつづけていくことが
できるからである。「劫」(かすめとる)であろうとも、「奪」(うばうこと)
であろうとも、これは〔人間の〕外的な生命を奪うことであると名づける」
(中村元「龍樹」大智度論抄訳より)
ここでいう「内的な生命」とは、今まさに自分自身を形作る身体に基づく生命のことであり、
これを故意に奪えばもちろん「殺生」となる。上記の「盗み」などと合わせて、罪の内に入れられる。
直接的な殺傷行為に拠らずとも、外的な財物を奪い取ることによっても人間は生命を奪われる。
奪った側が豪華な生活を育めて、本当に寿命が長くなったり体格が大きくなったりもする一方で、
奪われた側は貧困した生活しか送れず、寿命も短くなったり、体格も小さくなってしまったりする。
「命は命であり財物は財物である」、あるいは「個人は個人であり公共は公共である」なんていう
お互いの関係性を無視した、凝り固まった考え方が却って不当性の根源ともなってしまう。
あらゆる事物を因縁に基づいて捉える中観は、そのような凝り固まりこそを否定していたはず。
744 :
井上筑後守:2009/05/27(水) 19:15:56 0
龍樹菩薩のような最大級の仏教者でも、大智度論などに
>>743で挙げたような
社会的な道徳倫理に落とし込める論及をしていて、しかも真俗二諦の追及者
ならではの極限級の精緻さに満ちた考察が行われている。
元から世俗の道徳倫理こそを重視する儒家ならば、さらなる公共性への論及が
付随し、社会の内側で活躍する人間が「私」を捨てて「公」を取る威儀が述べられる。
ただ、私よりも公を優先するにも関わらず、自分自身の手先に一つの傷もないことを
誇るような説話も見られる(→論語)。これは決して、公よりも私を優先したが故の己が
身の可愛さなどに基づいているのではなく、私こそは公である、私こそは全身を投じた
公共性の移し身であるという、公私混同ならぬ公私一致の姿勢からこそきている。
社会の実質的支配者たる君子が、指を詰めたり入れ墨を入れたり、身体に穴を
開けたりの自傷行為に奔れば、被支配者である民もまた自分たちを大事にしなくなる。
さらには君子が人間を生け贄にして食したりしたならば、それに倣って民たちもまた
殺し合い奪い合う、犯罪推進の神経を活発化させてしまう。君子の有り様こそは
社会情勢の移し身であり、善行は善行として、悪行は悪行として民にまで及ぼされる。
あくまで世俗社会の支配者であるのだから、仏教者のような禁欲の限りを尽くす
必要なんてのはない。家康公も二十人以上の妻を娶ったり、恰幅がよかったり、
説教臭かったりケチだったりと、「聖者」と呼ぶにはあまりにも人間臭すぎる面を持つ。
でも、それらは仮に「そのまま社会に落とし込まれた場合」には善い影響を及ぼすもの。
よく愛し合い、よく食べて、勉強して、節約する、誰しもがそうであれば素晴らしいこと。
一部の人間だけがそうであって、下層民は愛にも食にも知識にも金にも与れない
なんてことがあれば逆に最低最悪になる。全人類全社会を代表するほどの公共性
があって、しかも愛や食や知識や金に恵まれていることが、この上ない幸福となる。
自分も幸福であり、民たちも幸福である、そこにこそ君子道徳の真髄が備わっている。
745 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 01:25:50 0
もっともらしく(仏教の用語)を遣っているので
そう見えますが、至るところに誤りがありますので
一応貴私が校訂させていただきます。
多いので複数で投稿させていただきます。
まず
>>516について
本家本元である弘法大師の「十住心論」でも、
最初期の階梯である異生羝羊心の時点で、
すでに 「善悪の分別も付かない無明迷妄のさ中」で
あるにはあるなりの心識の活動が始まっていることが
つぶさに説明されている。
これには異論ありません。
第一住心から第十住心までという「階梯」を用い、
異生羝羊心から秘密荘厳心までの
人間の心識の上下を「数」によって「差別」している。
下一行が余計。上下、差別はありません。
(ついでながら仏教には「法数」というものもありますので。)
746 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 01:29:25 0
>>517については
まず
>>507の質問に答えていただきたいですね。
6なる(果)はいかなる(因)に依るものか、ということです。
無論数字、算数に拘る必要は全くありません。と同時に例えとしては
面白い。これは貴方に礼すべきですね。
(余談ですが某他の哲学スレで「無限通り」を主張されて居られる方が
いらっしゃいますので何らかのヒントになるかもしれません)
それ以下の段は全く意味不明です。
無覆無記に止まる数遊びや概念遊び
煩悩に覆われた遊びが無覆無記ですか?
これも逆です。
>>518は先に述べた通り「差別智」の解釈違いです。
但し、差別智(現実の知識)は正しいです。
以下の段は意味不明です。
747 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 01:32:29 0
>>521について
仏心の体得に基づく絶対平等の境地を、
ありとある差別智の明らめに用いられてこそ真の仏者だ。
絶対平等などという言葉は仏教では適当ではありません。
絶対なるものなど存在しないのは仏教の根本大前提です。
言い換えて「普遍」の一語に尽きます。
よって、差別智を昇華し(離れるとはここでは敢て言いません)
「無分別智」を起こし菩提に至る。
これは唯識の階梯でもあります。
「差別智の明らめ」とはそういうことであって
(
>>516の「転じて」の意味がお分かりですか?)
>>506>>516は単に差別智の現実社会の知識です。
顕教のやっていることは相手の素質に合わせての
応身仏、化身仏の顕開でしかない。
真理がありのままの姿を現した法身仏は
密教の境地によってこそ体得される。
これに異論はありません。
当に秘密荘厳心そのものであり、九顕一密です。
但し、法身には自性身・受用身・変化身(加えて等流)
という考えもありますので
十分考えるべきです。
それ以下の段は意味不明です。
748 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 01:42:04 0
引用部分はそのままですから何ら問題はありませんが
行が下るにつれ、段々と意味不明な解釈ですし
特に最後の段?に至っては???です。
単に仏教やその他の思想を「批判、差別」の為に引用から
そのようになるのでしょうが、仏教は深い意味で「平等」「普遍」の教えですので
この手の差別主義のような議論は無意味です。
己を見つめ、他と共に成道す。
これに小乗、大乗の区別無し。
折角の興味深いスレッドのタイトルなのに
差別主義は私自身の、そして仏教の本分にも反しますので
これにて失礼します。
749 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 02:21:45 0
まあ、自分でも「意味不明」と言ってる通り、こちらの言うことを何も理解してないわな。
現実に存在してしまっている差別や輪廻を解消することこそが仏教の目的で、
そのせいで部分的に反面教師としての差別や輪廻を提示していると言っているのに
(ちょうど儒家が戒めのためにこそ四書五経で食人や近親姦を例示しているのと一緒)、
その辺も全く承諾されず、「仏教は差別主義」だなんて意見を捏造してしまってるわけだな。
「儒教は食人や近親姦を推奨している」なんて伝言ゲームと一緒だわな。さようなら。
容量オーバー寸前なので次スレへ。
【天照大神】東洋教学総合スレ0003【鬼子母神】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1243444356/
750 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 03:23:14 0
>>749さん
うーん。質問にはお答え無しですか。
以前他スレで数年間お相手した方はもう少し骨のあるお方で
「自我」というものに絶対のお考えをお持ちで哲学的でしたが。
現実に存在してしまっている差別や輪廻を解消することこそが仏教の目的
これは半分正解半分疑問符ですね。
貴方は「差別」というものを現状社会に於ける差別と仏教での差別の違いは
既にご存知でしょう。(後者は内心の根本的自我)
これを「解消」とは状況?で趣きが変わってくるのでは?
そしてそれは「目的」ではなく「手段」でしょう。
それは仏教的に「自力」「他力」で種々の考察が出来るでしょう。
そういう議論でしたらどんどんやっていきたいですね。
(あくまで哲学の範疇で)
しかし次の段以降、例えとしてでしょうが
なぜ現実社会、批判に直結させるのでしょうか?
貴方は以前「為政者で何が悪い」と豪語された方ですよね?
反面教師と仰って居られますが
それは宗教思想(東洋に限った)を利用した貴方の「野心・野望」です。
批判であって哲学ではありません。
先にも書きましたが
他宗教、思想(貴方の言われる西洋)批判だけでしたら
ここまでということで。
751 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2009/05/28(木) 03:48:30 0
連投ですみません。
もう一つ
>>516に関して抜けていましたので補足を。
これは、弘法大師が「十住心論」において説明しようとしているのが
「差別智(しゃべつち)」であるからだ。
これは大間違いです。大師様が法界大日如来の密眼を以って
「無分別智」より記されたもの。全く逆であります。
差別智は凡夫の世界より見たもの。ですから
>>506のような
差別、区別の出鱈目解釈が生じるわけです。
差別智とは、人間の側が意図的に
自分にとり都合のいいような区分けをする場合ではなく、
現実に事物が 種々の異なった形で存在している状態のことをいい、
転じて仏教では「現実生活での知識」という意味も持つ。
>>506こそ自分にとり都合のいいような区分けではないですか?
転じてますか?転じるとはどういうことでしょうか。
それでは。
752 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 09:38:05 0
大政奉還・廃仏毀釈以降の、東洋教学の現実社会からの隔離政策の犠牲者がここに今いらっしゃる。
武士も現実社会の支配者であれば、坊さんもまた正統な学者や教師であった、
江戸時代までの「東洋教学が現実社会に密着していた時代」の価値を少しも認めようとはしない。
凝り固まった想念(イデア)と現実を完全に分裂させる考え方こそは洋学の手法。
想念の側の理想を杓子定規に現実に当てはめて何もかもをダメにする、それもまた洋学の実践であって、
始めから現実こそを見定めて、現実の知足を促すためにこそ育まれた東洋教学の実用性に沿わない。
「釈尊の教えは実在論である」と前スレで引用したけども、もっと正確にいえば「現実論」である。
もっとも、そんなことは仏典のどこにも書いちゃいない。想念などよりも現実のほうを重視することが
プラトンよりも以前からの釈迦の意向であり、わざわざ後輩と比較されて現実論だなんて指摘されるのが
兄としての沽券を傷つけるものであったから、いちいち主張などしなかっただけだ(本当は西洋哲学を
概念遊びと呼んで、仏説はただ真理の教学と呼んだほうが適当である。真理であるが故に現実でもあるから)。
753 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 09:40:05 0
六道輪廻に儒教やインド教のような異教学を包含する意図も、本当は昔の仏教徒にもあっただろう。
ただ、武士やバラモン僧らとの関係を憚って直言はしなかっただけ。当てはめるんなら修羅人天の三善趣。
同じように洋学であれば地獄餓鬼畜生の三悪趣。仏教の平等主義はあくまで仏教の中でこそ展開される
ものであって、異教異学を無条件に「同じ真理である」だなんて認めるような友愛腐った代物ではない。
随順もしない内から救ってあげるだなんておせっかいもまた仏教にはなく、それもまた聖書教にこそ
あるものであり、しかも救われない。社会にまで自分らから宗教上の平等を拡散させようだなんて
ドグマこそは、二極化の最悪格差を生み出すものだから。今の欧米とアフリカ中南部のような。
自分から活動を積極化させて「国際競争」の枠組みに踏み込ませられることが大前提である今の社会は
随順者の側こそが自主的に教えを学びに来ることが大前提である、仏教や儒家の実用性にそぐわない。
要は、仏教も儒家も本領が発揮できていない時代。断悪修善も勧善懲悪も画餅でしかない時代。
悪一元論や善悪みそくその優先性が排されて、善悪二元論の役目も終わって、社会全体が勧善懲悪や
断悪修善のみを優先するようになってこそ、儒家や仏教が江戸時代や平安時代並みの活気を取り戻す。
754 :
井上筑後守:2009/05/28(木) 10:19:56 O
「仏教は他信教との平等を認めていない」というと聞こえが悪いが、
もうちょっと正確に言えば「他信教による救済を保証していない」。
なぜ仏説によっては救われ、他信教によっては救われないのかの根拠が
外道を相手にした比較などで多く説かれている。
漢字文化圏に入ってきてからは極東宗教との接触も始まり、
神道は国政の延長、儒家は宗教ですらない世俗道徳であるなどとして
対等な衝突はあえて避けてきた。だからこそ他信教との共存を可能としてきたのであって、
決して他信教の(仏説と比べての)教義的な対等さを認めて来たからではない。
今だって、聖書教を「権力犯罪の牙城」であると見なすことによってこそ、共存を図っている。
無駄な教義上のみそくそ処理を被ることで、自分たちの側が本領を発揮できなくなることを
避けるために、洋学を三悪趣と断定することによる現実での共存の可能性を模索している。
真理の教えは善悪棚上げの迷妄などとは別物である。
3+3が6であることと7や8であることの間には致命的な断絶がある。
真理の側が迷妄の側を救ってやるのに吝かではなくとも、
それは決して友としてではなく、師や兄としての話に限るもの。
愛も勇気も知識も才能も金も力も、
頗る有益か有害かの両極端だね♪
有害でなく有益であるためには、
それら全てを有効に扱うための正しさが欠かせないんだね♪
欠かせば全てがゴミになるほどの。