506 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/09/06(木) 21:39:31 0
今度、岩波が始めた〈哲学塾〉シリーズに永井均も
「意識は実在しない」というテーマで書くみたい。
507 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2007/09/08(土) 22:15:00 0
>>506 関連しそうなものとして,こんなのがあった。
「意識の神秘は存在するか」(大阪大学?で講義したのを録音したものらしい)
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/handaimetaphysica.html きちんとメモ取りながら聞いたわけじゃないけど,おおむね,(1)心身問題という
のが取り上げられている(チャルマーズ『意識する心』)けど,それは本当の
問題ではない。(2)本当は,物理的な物と,心とが問題なのではなくて,他人には
知ることのできない私秘的なものがあること,publicとprivateとが問題なのだ。
(3)しかし,publicとprivateも,実は本当の問題ではなくて,本当は私という
ものが問題なのだ。という流れだったと思う。
あまり関係ないけど,質疑応答の部分で(質問部分が全体的によく聞こえないけど)
「でも,レヴィナスのいう他者は,それとは違うと思うんですが…!」
「………」「………」「………」「………」「………」
「…まあ,レヴィナスの他者とは,違うかもしれませんけど…。それはちょっと
置いておきましょうか。」
というやり取りがあって,全然噛み合ってなさそうなのが,なんか笑える。
ということで、
『なぜ意識は実在しないのか』は、すでに絶賛発売中みたいです。
5 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 18:17:16 0
6 :
考える名無しさん:2007/12/10(月) 22:00:44 O
入不二基義『哲学の誤読』で「解釈学・系譜学・考古学」が取り上げられてる記念age
それを言うと、中島義道『観念的生活』にも「永井の独我論」を取り上げてる部分があるか。
7 :
考える名無しさん:2007/12/10(月) 22:21:30 0
永井の独我論って言っても言葉にできないだけで、
わかる人にはあああれねってわかっている話で、
ただ、わかっているかわかっていないかがわからないってのがやっかいなんだよな。
8 :
考える名無しさん:2007/12/10(月) 23:54:20 0
東大文学部の俺に言わせれば
お前もどうせ分かってない
というか2ちゃんの哲学板のやつらなんて誰もわかってない
何にもな
9 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:00:45 0
>>8 おまえが東大文学部でないことだけはわかるw
10 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:01:20 0
>>8 おまえが東大文学部でないことだけはわかるw
11 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:09:49 0
東大文学部だよ
西洋哲学専攻
まあ信用しなくてもいい
哲学にも2ちゃんねるがあると聞いてどうせ大して思想も理解していない輩が偉そうにしてるんだろうと思ってきたんだよ
結果予想通りだったがな
哲学ちょっと知ってるだけで必要以上にプライドが高くなる人間がたくさんいるからな
哲学ってのはそういう分野なんだよ
それが実証されてるよここはね
ちなみに俺は大手マスコミへの就職が決まってる
もう見ないんでね
さよなら
12 :
考える名無しさん:2007/12/11(火) 00:18:53 0
>>11 哲学コンプレックスが相当大きいんだな
卒業したら哲学とは無縁な生活を送ったほうがよさそうだ
>>11 ありがとう。
君のお陰で哲学にも2ちゃんねるがあることがわかったよ。
14 :
勝手批評:2007/12/14(金) 03:34:41 0
<私>のメタフィジックス14p
「他人達が実はみな自動機械である可能性を、本気で考慮に入れて生きるならば、
それはすなわち狂気“である”(原文は“”が傍点)」
とあるがこれはおかしくないだろうか。もちろんここでの「狂気とは精神疾患の
意味ではな」く、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」である
と説明されているのだが、たとえ本気で他人達が自動機械であると信じて生きている
人がいても、その自動機械達の社会に溶け込んで生きることは実は簡単なことではないか?
恐らくこの人は他の自動機械達のことを心の中では蔑んで(「こいつらは自分と違って心が無いのだ」)
生きていくだろうけど(そしてその事を外見上おくびにも出さないだろうけど)そんなのは現実世界でも
自分以外の他人はすべて見下す、よく居そうな人間ではなかろうか。
つまりこの意味で自動機械達と上手くやっていけるのであれば、その人は狂気ではなく
正常だと言わざるを得ないのではないか。この人は人々(ここでは自動機械達)の採用している
共通の生きかたに合致しているのだから。
15 :
考える名無しさん:2007/12/14(金) 22:57:20 O
新刊の話。
例えばデカルトのコギトの省察は実は他人に語りえない、と言うのも実は語りえない、というのが累進的に続くという事?
16 :
考える名無しさん:2007/12/14(金) 23:11:35 0
もう一度言っておこう
ちなみに俺は大手マスコミへの就職が決まってる
もう見ないんでね
さよなら
どうぞご随意に。
>>15 だいたいそういうことが書いてあると思うけど。どういう疑問?
19 :
考える名無しさん:2007/12/16(日) 18:45:32 0
>>18 ちょっと確認したかっただけです。
ごめんなさい。
21 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 01:46:59 0
永井もついには大澤とおなじ地点にいってしまった。
大澤の著作が何をかたっていても最後に第三者の審級が登場して終わるのと
同様に
永井も何をかたっていても最後に累進構造が登場して終わる。
言い方をかえれば、永井も大澤も森羅万象を語れる究極のアイテムを手に入れた
とも言える。
逆にいえば、なにをかたっていてもおんなじことについて語っているとも
いえるわけだ。
ちんぽびんびん
22 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 09:27:04 0
そんな一般化の仕方をしたら、
すべての哲学者・思想家がそうだよ。
>>20 いや、何か続きがあるんだろうかと思っただけなので…
24 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 17:41:16 0
25 :
考える名無しさん:2007/12/17(月) 20:58:07 0
47 名前: ◆mgNCaLKg6. 投稿日: 2007/12/17(月) 18:50:06 0
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1197640265/l50 >>
>我々の手で新しい思想の創造を行いましょう
>嫌だよ 功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
>私は京都大学の文学部で博士課程まで哲学に関する研究を行いました。現在は金融に就職しているので研究室での研究とは疎遠な状態ですが、私も独自の体系を日々完成に近づける努力を続けています。
>この思想は私が学部の卒業論文で最初に提起し、修士、博士課程において主に研究、精錬を重ねたものです。
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
>最後に、これから哲学(ないしは哲学的思索)が社会において有効性を発揮する分野としては環境倫理学、生命倫理学があると思います
特に生命倫理に関しては京都大学の研究室では万能細胞を皮膚から作ることに世界で初めて成功しましたが、
このことによって生命倫理的なより精錬された議論が必要となると思われます
<<
あー、おまえは「永井均」ほんにんだろうwもしくは、せいぜいかんけいしゃとかしそうにかんかされたやつにしといてやるかwww
で、そういうせこいことで「じせつ」をせんでんするのやめないか?
おなにーなら「ぶろぐ」ですきなだけやればよろしい。
そこならすきなだけでんぱ「ゆんゆん」していいから。
ちょっとしらべてみたけど、ひでーな。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1140442849/l50 「永井均関係者=純一 ◆Fn0dptrDJw=精神病一歩手前」
「嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。」
ところで、なぜ累進なんかするんでしょうね。
言語で語られる以上は累進せざるを得ないということかと思われるけど、
例えば、いくら累進しないような工夫をしても、こういう理由でどうしても
累進してしまう、とまでは書いていないと思われるので。
もちろん、「最上段」「〈これ〉」などという言い方を当然のごとく自分の
こととして理解してしまっている(つもりの)ことからして、累進させないように
するのは無理なんだろうとは思うけど。
27 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 00:14:29 0
>21
>永井も何をかたっていても最後に累進構造が登場して終わる
え〜と、最後はいつも、デビルマンが登場して終わるんだっけ?
28 :
考える名無しさん:2007/12/19(水) 09:38:30 0
「累進構造」って今度の本が始めてではないの? 前から言っていた?
永井はどちらかと言うとむしろ概念を使い捨てにするタイプではないか?
例えば、一時期キータームとして使われていた「中心化された世界」という話はどこに行ってしまったんだ?
嫌だよ。功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない。
累進構造という用語が出てくるのは初めて。
何度も出てくるといえば、むしろ、カブトムシじゃないか。
たびたび姿を現すけど、その都度レベルアップに応じた方法で退けられてるみたいで、
なんか、漫画やゲームでいうと、ラスボスと称してるけど実は違うやつみたいだw
結局は手を組んで、一緒に真のラスボスと闘ったりするんだろうか。つまんない冗談失礼
31 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 06:04:44 0
>>24 てか、よく堀江豚の後輩ってのを自慢できるよな。
学歴コンプもここまで来ると…
堀江豚は子供の頃に猫虐殺してその猫食べてたんだろ?
やっぱ神経おかしくなってるのを気づいてないw
32 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 13:13:21 0
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
他人もそれぞれ「私」であり、「心」を持っていて…ということを認めた上で、
〈私〉の特別さを問題にするのが初期(?)で、「私」「心」なんてものを全て
取っ払って、〈これ〉としか言えないものを問題にするのが最近だと言えるとすると、
「中心化された世界」というのは、何というか、中間的なものだったといえるんだろうか。
個人的には、「中心化された世界」が出てきた『翔太』や『転校生』で、何となく
何か掴めた気がしたので、それが中間的なものにすぎないとすると、自分の理解力の
中途半端さが示されたようでイヤだけどw
34 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 23:34:06 0
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
35 :
考える名無しさん:2007/12/20(木) 23:44:44 0
>「累進構造」って今度の本が始めてではないの? 前から言っていた?
>永井はどちらかと言うとむしろ概念を使い捨てにするタイプではないか?
様々な用語を用いながら,考察をすすめていきついに究極の概念に到達した
ということである。
だから
”永井もついには大澤とおなじ地点にいってしまった。 ”
と”ついに”という用語をつかったのである。
まえから累進構造という用語をつかっていたら、”ついに”などと
かかないのである。
永井が究極のアイテムを手に入れたことは、
永井自身が、ウィトゲンの言葉をパロッって
”本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的である”
と書いていることからも察することができるのである。
さらに付け加えれば,”哲学と思想は違う””自分は思考しているだけであって
主張しているわけではない”といったこだわりをもっていた永井が、
ここでは”思想”という言葉をつかっていることにも注目しておくべきであろう。
さらに言えば、永井の初期の本には申し訳程度であっても付属していた
”自分はもしかしたらある特殊な錯覚にとらわれているだけかもしれない。しかし・・・”
といった自分の思考にたいする懐疑の念が近著からは完全に消滅したことも
気にとめておくべきであろう。
36 :
考える名無しさん:2007/12/21(金) 19:27:10 0
永井の新刊って岩波書店の哲学塾シリーズの一冊なんだな。
いかにも啓蒙的な本の中でまさか永井の<わたし>が消滅していたとは。
さっそく買って読んでみることにするよ。
37 :
考える名無しさん:2007/12/22(土) 04:12:24 0
564 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 01:11:20 0
>また、高名な教授と議論をすることができますし、永井均先生等、第一線で活躍しておられる哲学者の方に直接触れる機会も多いです。
ってどこかに書いてあったんですけど
永井均先生は第一線で活躍している高名な哲学者なのでしょうか?
評判は「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」らしいんですけど…
565 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 05:19:55 0
>>564 この板によく出没してますよ。
自身のスレ2つも立ててるし、きっと2chで限界突破してるんじゃないですか?
まあ、あの真理はまだ知らないんでしょうけど…
568 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 12:41:59 0
>>564 ああ、その人の思想は感動したとかいうキモオタと話したことあります。
そいつの脳を読んでみると、寄生獣に出てくるような幻獣がいっぱいいました。
どうも夢にたくさんの目玉が出てくるようです。
いつも何かの視線を感じるていてうなされてるといってました。
お気の毒なことです…
38 :
考える名無しさん:2007/12/22(土) 04:13:34 0
576 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 18:57:04 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
「主張が独断かつ眠すぎて最悪」「電波の発生源」
そのものなんじゃないか?
その辺のブログとかで電波出してる奴らと変わらんよw
少し哲学っぽい専門用語使ってるだけじゃないかな?
といっても大切な肩書きも「日大」だしw
577 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/20(木) 19:11:53 0
永井均は
日本大学文理学部哲学科倫理学教授永井均w
の肩書きを取れば
永井均w
あっ
ぷっwww
582 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 06:20:57 0
>>564 たしかに強力な電波の発生源であるよw
思うんだけどあの人のトリックに引っかかるのは頭が弱い証拠だろうなw
584 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/21(金) 13:49:46 0
トリック?
ああ、そりゃトリック明かしたら奴がかわいそうだなw
だって、
嫌だよ
功名心と自負が強いから造り上げてる体系の原理をまだ明かしたくない
だしww
てか、奴はキモすぎるwww
>>14 勝手批評さん
前-思春期にいる多くの子供たちが、永井の<私>体験に似たような、
と推測される体験をするらしいです。
<私>(という心)だけが存在するという絶対の孤独感、
事物や「自分」のような存在者と<私>との圧倒的な隔絶感、別物感を。
この体験について多くの子供たちが、それの狂気を、
つまり、同じ(正常な)仲間としては受け容れられないことを察知するようです。
そして、多くの子供たちが、それを隠し、否認し、いずれ忘却していくのですが、
共通の生き方に合致するとは、この忘却の上に成り立つことなのかもしれません。
だから、そうはならなかった永井が、今やかくあるべき「自分」の共通の生き方と、
<私>のかくあるべし生き方(=哲学すること)との存在論的葛藤をかえりみて、
それを「倫理的に狂気である」と考えてしまうのは当然のことのように思うのです。
もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないならば、
勝手批評さんが言われるように、そのような狂気は狂気ではないと思います。
40 :
勝手批評:2007/12/24(月) 16:15:48 0
>>39 「前-思春期」なる心理学的考察にはあまり興味が無いな。人生論と誤解しているよう
にも見える。
>もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないならば
>勝手批評さんが言われるように、そのような狂気は狂気ではないと思います。
の意味が分からない。永井氏は著書の中で自分以外の人間が全てロボットだと信じて生きる
事は論理的には可能だが「倫理的に狂気である」と言っていて、それに対して僕がそうは思わない
と言っているのだから。(そしてその理由が14に書かれてある)
カオル ◆BBBRv/ousU が何に賛成しているのか、そもそも何を理解している
のか僕にはさっぱり分からない。筋の通っていない賛成なら哲学的には無意味だ。
>>40 勝手批評さん
わたしは、あなたが問題にした箇所については、すっかり忘れています。
だから、きっと永井ならこのような意味で、つまり「倫理的に狂気」という意味で
「狂気」という言葉を使用しているはずだ、という意見をそのまま書いてしまいました。
つまり、「<私>以外の人間が全て自動機械だと信じて生きる事は論理的には可能」なので、
もしも永井が「倫理的に狂気である」と考えているのでないなら、その狂気は狂気ではない、
というわたしの考えが、あたかもあなたに賛成しているかのように見えてしまったというわけです。
多くの子供たちにとって、独在性は打ち消さ“なければならない”ことのように感じられるようです。
独在性は「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」だと直観されるからです。
自動機械を蔑み優越感に浸るというような心理とは程遠く、仲間外れになってしまう
というような恐怖を感じたり、自分だけが<違う>ということに罪深さ感じたりしてしまうようです。
おそらく人間の生の形式における根源的な真っ当さにおいて外れていると感じているのでしょう。
永井が「論理的には可能だが倫理的に狂気である」と言っているのなら、言葉上は、
そのままわたしの考えと同じなので賛同できそうですが、『<私>のメタフィジックス』は、
だいぶ以前に処分してしまって手元にないので確かめられません。すみません。
>>40 勝手批評さん
すみません、ついでに。
現実社会においては、彼の生き方が狂気なのかそうでないのかは、
彼がその社会に溶け込んで生きられるのかどうかによって判断されるのかもしれませんが、
ここで言う<狂気>とは「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
を指しているのであって、彼が社会に溶け込んで生きられるのかどうかを判断の基準に
しているのではないと思います。
「論理的に可能」とは、彼が他人たちが自動機械であると信じながらも、
自動機械たちの社会に溶け込んで生きられるという事態の可能性をも含んでいるのであり、
もしも彼が実際にそのような生き方をしているのであれば、あなたが指摘するように、
彼は「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」をしているのでしょう。
けれども、たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても、彼が「人々が採用している
共通の生きかたに合致しない生きかた」をしているのであれば、それを指して「倫理的に
狂気である」とは言えないでしょうか。
つまり、<私>が、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
(=<私>という心だけが存在する)をしているのであれば、ということです。
たとえば、それは「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」
しかできない哲学的ゾンビには、けっして真似のできない生き方と言えるかもしれません。
哲学的ゾンビにも「私」にも「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」
などそもそも出来ない相談です。それは「私的言語の不可能性」とパラレルと思われます。
43 :
勝手批評:2007/12/25(火) 03:25:01 0
>>40 >多くの子供たちにとって、独在性は打ち消さ“なければならない”ことのように感じられるようです。
そもそも普通の子供達は永井氏の言うような独在性なんてことはまるで視界に入っていない
と思う。既に指摘したがカオル ◆BBBRv/ousU が問題にしているのは心理学的なことで僕は
全く興味が無い。独在性は打ち消し様が無いものなのだから、『打ち消さ“なければならない”』
なんていうのはまるでお門違い。(これが当てはまるのはいわゆる普通の独我論)
>けれども、たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても、彼が「人々が採用している
>共通の生きかたに合致しない生きかた」をしているのであれば、それを指して「倫理的に
>狂気である」とは言えないでしょうか。
全く意味不明。「たとえ彼が社会に溶け込んで生きられたとしても」と言って仮定の中でその人は
既に「人々(この場合自動機械達)が採用している共通の生きかた」を文字通り実践しているのに
どうしてそれが「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」になるのか。
心の中でどんなに奇妙な想念に駆られていようと、それが行動に現れないのならそれは単なる想念
に過ぎないというのは認めるだろう?永井氏の言う「倫理的に狂人」というのも実際に異常な行動を
取り始めて初めて狂人と言える筈なんだから。
>>43 勝手批評さん
(まるでお門違いなら無視して頂いて結構です)
永井は、9才頃に独在性の<私>体験をしていて、
永井哲学は、その「驚き」から出発しています。
わたしは、永井の体験は特別なものと感じていました。
しかし、永井のそれに似た体験は、意外に多くの子供たちに
体験されているらしいことを、ある心理学者たちの研究報告を見て知りました。
わたしが問題に感じたのは、そのような体験をした子供たちの多くが、
その体験への「驚き」を封印してしまうのはどうしてなのか、ということです。
わたしは、永井が『<子ども>のための哲学』で、子供たちに「驚きを持ち続けること」
を奨めていたのがどうしてなのか理解できませんでした。
<私>体験のないわたしは、永井の言葉を素直に理解したとき、
それは「狂気への励まし」ではないのか、そんなことを奨めてもいいのだろうか、
と感じていました。
なぜなら、その「驚きを持ち続けること」は、世界内の存在者である「私」が、
みずからもその世界を構成する歯車として、他の歯車と不可避的(同じ生の形式)に
連動しながら(生きながら)も、その一方で世界の一切の歯車と連動しない歯車<私>
でもあることを自覚し続けることだからです。
その自覚は「倫理的に狂気」ではとどまらずに、実際に子供たちを異常な行動へと導き、
世界内的に、現実に、狂人にしてしまうかもしれない危険がある、と感じていたからです。
独在性の<私>体験(それが言語化され頽落してしまう前の超越的独我気分?)が、
ちょっと変わった想念や心理的気分に読み替えられてしまうようなものならば、
超越的独我気分を持ち続けて生きることは、この世界内的な生き方として、
つまり「人々が採用している共通の生きかたに合致している生きかた」としては
論理的に可能かもしれませんが、それを「倫理的に狂気である」とは思いません。
なぜなら、たとえば永井のように超越的独我気分を持ち続けて生きるとき、
その超越的独我気分が、ちょっと変わった想念や心理的気分に読み替えられるならば、
――<私>は、なぜこの「私」なのか――と言うときの世界内の存在者「私」=「永井」
の生としては、「人々が採用している共通の生きかたに合致している」のかもしれませんが、
それでも永井があくまで独在性の<私>への「驚きを持ち続けて生きる」のならば、
やはり、その生き方は「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」であり、
世界内の機構からは「外れている」し、その意味では「狂気を生きている」と言える、
と思うからです。
<私>は、「人々が採用している共通の生きかた」、たとえばホモロクエンスとしての
「私」の生を可能にする条件にはなりえても、みずからが「人々が採用している共通の
生きかたに合致」するようなことはあり得ないのではないでしょうか。
<私>体験を持つ子供たちは、なぜかこの「私」であるところの独在性の<私>が、
「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」存在であることに気づき、
それを忘却しなければなりませんでした。
なぜなら、独在性の<私>をはじめから無かったものとして打ち消してしまうことが、
子供たちが「人々が採用している共通の生きかたに合致する生きかた」をすること
に他ならないからです。つまり、それが「倫理的に正気である」ということだからです。
「倫理的に狂気である」とは、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかた
に合致しない」存在であることに気づき、たとえば――<私>という心だけが存在する。
だから、他人はみんな<私>のようには心を持たない自動機械である――というような
奇妙な想念にとらわれて、彼が異常な行動を取りはじめたときの「狂気」を指している
のではなくて、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」
存在であることに気づき、その「驚きを持ち続けて生きること」の「狂気」を指している
のだと思います。
なぜなら、「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」ということこそが、
もっとも根源的な意味で「倫理に反する」ということだろうからです。
47 :
考える名無しさん:2007/12/26(水) 19:26:37 0
78 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2007/12/26(水) 07:30:18 0
>永井均先生等、第一線で活躍
このいたにあるかくかくのすれたいは、おまえのほんのたいとるそのまんまじゃんw
くだらん「ちょしょ」かいて「とんでも」「でんぱ」を「ゆんゆん」しなくてよろしい。
おまえの「〈私〉」しそうなどにきょうみねーよ。
サルがw
ウィキ:「永井均w=〈私〉=倫理=日大教授(文理)=トンデモらしいw」
* 『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房、1986年)
* 『〈魂〉に対する態度』(勁草書房, 1991年)
* 『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房[ちくま新書]、1995年)
* 『翔太と猫のインサイトの夏休み――哲学的諸問題へのいざない』(ナカニシヤ出版、1995年)
* 『<子ども>のための哲学』(講談社[講談社現代新書]、1996年)
* 『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社、1997年)
* 『子どものための哲学対話――人間は遊ぶために生きている!』(講談社、1997年)
* 『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房、1998年)
* 『これがニーチェだ』(講談社[講談社現代新書]、1998年)
* 『マンガは哲学する』(講談社、2000年)
* 『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』(岩波書店、2001年)
* 『倫理とは何か――猫のアインジヒトの挑戦』(産業図書、2003年)
* 『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社[講談社現代新書]、2004年)
48 :
勝手批評:2007/12/26(水) 23:18:00 0
>>44 >わたしが問題に感じたのは、そのような体験をした子供たちの多くが、
>その体験への「驚き」を封印してしまうのはどうしてなのか
大抵の子供は「封印」なんて大袈裟な事したりして無いと思うんだが。そもそもそんな体験をしない
子供もいるだろうし(実際自分も永井氏が語る<私>なんて子供の頃考えつきもしなかった)、
もし似たような体験をしたとしても大人になるにつれ、大抵は忘れ去っていくだけだ。
>独在性の<私>への「驚きを持ち続けて生きる」のならばやはり、その生き方は
>「人々が採用している共通の生きかたに合致しない生きかた」であり
それは単に多数派の「人々が採用している共通の生きかた」に合致してないだけで
少数派の、つまり哲学者のコミュニティーには十分合致すると思うけど。しかもその哲学者
だって哲学をしていない時は普通の人々の採用している共通の生きかたに合致した生活を
してる事は明らかだろう。(そうでないのならその人は哲学者として大学に居る事はできず
精神病者として病院に入れられているはずだ)
まあ、20年以上前の著作の揚げ足取りなので何ら発展的なことは無いし、しかも一時期を
除いてまともなレスがつけられていないで、まともな人はここには来ないのだろう。
カオル ◆BBBRv/ousU は(永井)哲学に酔い痴れているように見える。僕は到底好きになれない
態度だな。哲学に妙な感傷はいらないと思う。哲学者ならそこで「感傷とは何か」と問わなければ
ならないだろう。
49 :
考える名無しさん:2007/12/27(木) 02:50:19 0
スピリチュアルで飯食ってるやつがつべこべ言うなw
>>48 勝手批評さん
他人はみんな自動機械であるという主張は、
それが頽落した独我論によるものでないならば、
<私>という心の比類なさから導かれるはずです。
ですから、他人がみんな自動機械である可能性を本気で考慮に入れるためには、
<私>という心の比類なさへの確信ということがなければなりません。
それは人々が採用している共通の生き方に合致しないと思います。
他人がみんな自動機械である可能性を本気で考慮に入れて生きることは
論理的には可能ですから、「倫理的に狂気」とは、人々と上手くやっていけないことを
指しているのではなく、人々が採用している共通の生き方に合致しないことを指します。
51 :
考える名無しさん:2007/12/28(金) 00:43:25 0
永井氏に対しては個人的に「Rule following」について語ってもらいたいなぁ
もし知らなかったら参考までに。
『事典哲学の木』で、そのものずばり、「規則に従う rule following」の項目を
担当してる。他の本でもある程度書いている部分があるけど、これが一番詳しいと思う。
53 :
勝手批評:2007/12/30(日) 03:42:40 0
>「倫理的に狂気」とは、人々と上手くやっていけないことを指しているのではなく、
>人々が採用している共通の生き方に合致しないことを指します。
の意味が分からない。実際に人々(この仮定では自動機械達)と上手くやっていけているのに
(心の中でどう思っているかはさて置いて)「人々が採用している共通の生き方に合致しない」
ということにどうやったらなるのか。それならどんな人だって同じ意味で「人々が採用している
共通の生き方に合致し」ていないと言えるのではないか。しかしそれを認めたら最初から「共通の生き方」
などという概念に意味を与える事は不可能になるだろう。
>>53 勝手批評さん
あなたの指摘する当該箇所での永井の議論は、プラスクワス懐疑論などにみられるように、
ある人が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」別の公理系にしたがうならば、
その人は、その社会の伝統や慣習や常識に実践的に反していると言える、という意味では、
たとえ現実的には「人々が採用している共通の生きかたに合致しつづける」のだとしても、
その人は「倫理的には狂気である」と言えないか、というようなものだったのかもしれません。
プラスをクワスと解釈することの自由は、規則や法則や意味を言語によって
私的に理解したり誤解したりする可能性であり、しかしその私的さは引き継ぎ与えられたもの
としての言語の公共性をその基準にして成り立つのであり、そのようにして生きていくという
その生き方は言語存在者としての生き方に他なりませんから、
それは「人々が採用している共通の生きかたに合致している」と言えるでしょう。
わたしが思うのは、独在性の<私>が「人々が採用している共通の生きかたに合致しない」
<存在>であることに気づきつづけることは、「私」もその世界の一人である世界内からみれば、
「人々が採用している共通の生きかた」からの離反行為であり(つまり、倫理的には狂気であり)、
独在性の<私>にしてみれば、端的に<私>の存在が「人々が採用している共通の生きかた」
には何の関係も持たない(合致したりしなかったりができない)ことに他ならないということです。
たまたま『これがニーチェだ』を読み返していたら、207頁にこんな一節があった。
「永遠回帰は、目的なき日々の無意味な繰り返しのうちで、世界と一体になって
無邪気に遊ぶ子供の、現在の肯定感そのもののうちに自ずと示されるほかはない。そこ
には、他である可能性との対比という様相の厚みがない。こうであったなら、とか、
こうでありえたかも、という可能性の視点そのものがそもそもない。」
このあたり、例えば新刊の140頁前後のような言語や様相についての議論が、暗に
前提になっているのかな。最初に読んだ時は気付かなかったけど。
永井は結局
神様の存在
や魂の実在を信じてるんだな。
これじゃ
ニーチェ批判どころか
ニーチェ以前への
哲学の先祖がえりじゃないか。
具体的に何が先祖がえりなの?あるいは、仮に先祖がえりだとして、その何が問題なの?
先祖がえり
だとか揶揄されるのは
永井さんがその論考において中途半端だからだ。
徹底性に欠けるからだろうな。
ニーチェが神を信じてるという発想はそれなりにおもしろい。
それならそのことについて分厚い本一冊ぐらい書けばいいのだ。
そしたら説得力もでてくる。
『これがニーチェだ』みたいな薄っぺらい本でごまかすから相手にされないのと違う?
霊魂でも同じことですよ。
59 :
考える名無しさん:2008/01/12(土) 00:45:35 0
「神」や「魂」が「実在しない」のは自明のことだが、
『子どものための哲学対話』の第2章の7にも、
「不図(ふと)生きる」という話があって、
様相に関するこの「思想」はずっと一貫しているようだ。
「rule following」の問題も、「ウィトゲンシュタイン入門」では、それによって解いている。
他の可能性がなくなる(=「様相の厚み」が消える)地点がある、
ことによって規則が他の従い方が可能な「規則」でなくなって、
((規則の適用の仕方の規則(の適用の仕方の規則(…)))と辿っていくと)
結局、どこかで、行為を決定するものとなる、というふうに。
60 :
考える名無しさん:2008/01/12(土) 01:33:29 0
>>7に同意
知り合いに永井の独在性の話をしたところ(もしくは本を紹介)、反応がキレイに2つに分かれた。
「めっちゃ分かる!!自分も昔考えてた!」って全面的に理解(納得)する奴と
「は?永井ってバカ??意味わかんね」って全く理解出来ない奴。(理解出来ないから、反論もできない)
永井が何度も言ってる通り、「<私>の感覚」は事前に自分で疑問を持ったことがあるやつとしか共有出来ない感覚なんだろうな。
幸か不幸か、おれは永井とこの感覚を共有できたけど。
永井が論じる〈私〉自体は、ある人が感じて別の人は感じないとか、ある時に
感じて別の時には感じないとかいうような、個別的あるいは特殊な体験のようなもの
ではないと思うけどね。
ただ、それを、他の人にも当然当てはまることであって私の特別さなど何もないと
簡単に片付けてしまうか、そうは片付けられないと思うかについては、感覚の違いが
あるのかもしれない。
問題を「感じない」人は入ってこないでほしいとはっきりと
書いてるもんね
63 :
勝手批評:2008/01/12(土) 19:26:54 0
>>71 >永井が論じる〈私〉自体は、ある人が感じて別の人は感じないとか、ある時に
>感じて別の時には感じないとかいうような、個別的あるいは特殊な体験のようなもの
>ではないと思うけどね。
でも問題は こ の <私>なわけだから他の人の言う『<私>』などは結局
「個別的あるいは特殊な体験のようなもの 」でしかないんじゃなかろうか。つまり
他人の言う<私>は決してそれ自体として受け入れられないのだから。
(もちろん「 こ の <私>」と今表現したように「この」を強調したところで
事態が変わるわけじゃなくて、この「この<私>」とか、この『この「この<<私>>」』
とか、・・・以下同様でも同じことなわけで)
この問題を語ろうとした瞬間に意味が他の人々にも理解出来る形にならざるを得ない以上は
60さんのようにこの話をすると必然的に誤解(賛成ではない)と無理解(反対ではない)
という形になるというわけだ。
他人が言ったからといって、個別的あるいは特殊な体験と考えられたりはしないと思うけど。
〈今〉のほうで考えれば多分より明らかで、例えば3日前の日記に「〈今〉こそが問題」
と書いてあり、10日前の日記にも「〈今〉こそが問題」と書いてあったとする。
このとき、本当に問題なのはこの〈今〉なのだと言いたいのだが、そのことはある意味
では3日前にも10日前にも(そして他のどの時点にも)同じように言えてしまうのが問題。
だから、当たり前だが、この問題が、3日前には当てはまるが10日前には当てはまら
ないような個別的なものだとは考えられない。
これは〈私〉でも同じだろう。例えば永井均が「〈私〉が問題」と言い、入不二基義も
「〈私〉が問題」と言ったとして(名前借用失礼)、そうではなくこの〈私〉こそが
問題と言えるかどうかと考えるときに、永井には当てはまるが入不二には当てはまらない
ような個別的なことがあるとは考えられないと思うけど。
65 :
勝手批評:2008/01/13(日) 21:37:41 0
アンカー間違えていた。当然
>>61です。
>>64 何か根本的な誤解があるように思える。他人の言う「<私>」が<私>であるはずはない。
何故なら世界はその様な他人から見られたものではないのだから。他人達も世界を見ること
は出来るだろうけど、そんな事は<私>にはまるで関係のない事だ。64さんは最初から問題を
“普遍的な”<独在性>(だからレベル的には普遍的な独我論と同じレベル)で言及している。
<独在性>の真の意味からすれば永井氏や入不二氏は単なる他人達に過ぎないので彼らが如何に
<私>について語ろうと、こ の <私>(それはたまたま今、勝手批評から見られているのだが)
からすれば「個別的あるいは特殊な体験のようなもの」に過ぎない。
(しかし既に63に書いたが「 こ の <私>」といった表記はさらなる無限後退に陥るだけで空回り
でしかない。そして理解する為にはその無限後退を止めなければならず、それ故63さんがこの話を
どうしても普遍的なものと解さざるを得ないこともまた必然だ。)
>そうではなくこの〈私〉こそが 問題と言えるかどうかと考えるときに、
>永井には当てはまるが入不二には当てはまらないような個別的なことが
>あるとは考えられないと思うけど。
のくだりも、精確に言うと<私>が真に問題なのなら、永井にも入不二にも当てはまり
はしないのだ。そして本当に当てはまるのは こ の <私>なのだが、いい加減繰り返し
だがそれは無限後退に陥るだけというわけだ。(この<私>が誰なのかという問いの答えは
もちろん勝手批評などという一個人ではない。 こ の 「この<私>」、いや、こ の 「この
『この<私>』」、いや、・・・・・以下同様。)
そんなところを誤解しているつもりはない。
当然、真に問題なのは、永井でも入不二でも他の誰でもなく、この〈私〉だ。しかし、
そのようにいくら言ってみても、それもやはり普遍化されてしまい、他の誰もが
同じことを主張することになってしまう。(とりわけ永井が(!)主張するだろう。)
永井もその趣旨を書いていると理解しているし、そもそも、もしも普遍化される部分が
全然ないとしたら、誰も永井の本を理解できず、それについて議論することも
できないことになるでしょうが。
ともかく、言いたかったことを少し補足すると、〈私〉や〈今〉について普遍化されて
しまう部分に注目するなら、それがある人やある時点にのみ当てはまるなんてことは
ないだろう、というだけのこと。そこに異論がありうるとは思いにくいけど。
もちろん、普遍化されない部分のほうにこだわるのは構わないけど、それなら、他人の
言う〈私〉などは、端的に間違いか、または無意味・理解不能とでもいうべきであって、
個別的な体験もなにもないんじゃないの?
こんな所で携帯からグジャグジャ言ってると余計な混乱や誤解を招くだけ。
少なくとも『転校生とブラックジャック』『なぜ意識は実在しないのか』をちゃんと読み直してみてよ。
68 :
勝手批評:2008/01/14(月) 01:47:50 0
>>66 >他人の言う〈私〉などは、端的に間違いか、または無意味・理解不能とでもいうべきであって、
>個別的な体験もなにもないんじゃないの?
いや、もちろんこれも普遍化の為に理解(もちろん真の意味では誤解)されざるを得ない、というのが
本質的なことで、だとすれば他人の語る「<私>」は「個別的な体験」という風に位置付けざるを得ない
こともまた必然だろう。
>普遍化されない部分のほうにこだわるのは構わないけど
というのは<私>の議論上、こだわるのは仕方ないのでは?といってこれにこだわった所で
<私>について他人に語ろうとすると(その都度最初から)普遍化されてしまうのだから
「こだわる」やり方を変えるしかないのだろう。つまりそもそも<私>について語るのを止める
方向しかないと思う。
>>67 別にこの議論をする為に『転校生とブラックジャック』『なぜ意識は実在しないのか』を読み直す
必要は無いと思う。それからこれはどうでもいいけど僕は携帯電話を持っていない。
>>60さん
<私>の独我論は、「めっちゃ分かる!!」という同意を拒否します。
言語ゲームの世界においては、その同意は「私」の独我論にたいしての理解としてしか存在しえません。
なぜなら、<私>の独我論は言語によって理解されることがありえないからです。
私的言語の不可能性とは、言語ゲームの世界における<私>的言語の不可能性ではないでしょうか。
ですから、「は?意味わかんね」と言って理解も反論も示さない彼こそが、
じつは<……>ということも十分に考えられることですが、他人が<……>を想像することは不可能です。
もしかしたら<……>には、<めっちゃ分かる!!>という<私>的言語が当てはまるのかもしれませんが、
この想像がつねに想像できないものへの想像になってしまうしかないことが、すなわち言語の限界でしょうか。
つまり、<めっちゃ分かる!!>という同意は、いくら同意しようとしてもけっして同意することのできない、
他の<私>とか、他の<魂>とか、「他のもの」としては、けっして差異化(言語化)されえないものへの、
すなわち、<私>にたいする<私>の、<魂>の<魂>にたいする態度なのではないでしょうか。
けれども、他の<私>の存在を許さない<私>の独我論は、「私」の独我論の単なる否定ではなく、
否定するものとしての<私>の独我論が、「私」の独我論を通してしか自覚されえないことも示しています。
なぜなら、<私>の独我論は、そこから世界が開ける原点としての<私>が、
<私>から開かれた世界内の存在者「私」として位置づけられないかぎりは気づかれることがないからです。
<私>の独我論の可能性の条件は、自分を多くの人間の中の一人として了解する「私」の成立であり、
しかしそれを待っての独我論は、すでに頽落した独我論になるしかありません。
言いかえるなら、<私>の独我論の可能性の条件は、それが(頽落した独我論として)理解されて
(言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。
ゆえに、<私>の独我論は、つねに頽落した独我論を否定する運動のうちにしか示されえないのです。
>>69 >言いかえるなら、<私>の独我論の可能性の条件は、それが(頽落した独我論として)理解されて
>(言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。
訂正 言いかえるなら、<私>の独我論は、それが(頽落した独我論として)理解されて
(言語ゲームに回収されて)しまうことを、その成立可能性の条件にしているのです。
(あくまで「可能性」の条件です)
>>67 確かにきちんと書けないので、これ以上はやめておきます。
(自分も携帯はよくないと思うけど、PCのほうが最近ずっと書き込み規制で…)
カオルさんは宗教板のほうがむいてると思うよ。。。
というか、本当はどこにも向いていないんだけどw
カオルさんは、自分で書いていることを、自分でも理解していないから。。。
わたしが素朴に疑問なのは、「めっちゃ分かる!」って、
そんなの「あり」なの?ってことです。
わたしは<私>についての議論は理解できても、
だから、その意味では「めっちゃ分かる!」んですけど、
わたしに理解されたのは、つねに<それ>じゃないんだから、
けっきょくは、「は?意味わかんね!」なんですよね。
<私>には他の<私>なんて存在しないんだから、
「めっちゃ分かる!」なんて絶対にありえないと思うし、
だから「永井とこの感覚を共有できた」とか、おかしいと思うんです。
だって「この感覚」って超越的に私秘的な<感覚>のことですよね?
だれとも共有されることの決してないものですよね?
今はわたしは永井と同じような(と思われる)感覚を共有する人は
たくさんいると思っています。だから子供たちの話とかするんです。
だけど、そういう他の<私>の存在を許さないのが独在性だから。
75 :
考える名無しさん:2008/01/16(水) 03:42:16 0
>>74 >だって「この感覚」って超越的に私秘的な<感覚>のことですよね?
>だれとも共有されることの決してないものですよね?
他人と感覚を共有するっていうのは、程度問題。
それが大前提。
つまり他者を「完全に」理解するとか、「全く」理解できないということはないのであって、
我々の理解はいつも、完全な理解と完全な理解不能との間にあるということ。
「めっちゃ分かる!」とか「意味わかんね!」も、そういう前提での発言だろ?
76 :
60:2008/01/16(水) 06:14:49 O
書き方が悪かった。すまない
>わたしは<私>についての議論は理解できても、
「めっちゃ分かる」「意味わかんね」は<私>についての議論にかかる。
まぁどっちにしても何らかの形で言語化されている限りは、
全くわからんということはない。
これは、〈個と普遍〉問題のバリエーションみたいなもの。
〈個〉そのものは名指し得ない、言語化できないはずのものだが、
名指し得ないということの理解は共有できる。
〈個〉をつきつめていけば、『単独者』みたいなものに行き着き、
〈普遍〉をつきつめていけば、『イデア』みたいなものに行き着く。
どっちにしても、両極端に突き詰めていっちゃうと、宗教じみてくるのだ。
>>75さん
>他人と感覚を共有するっていうのは、程度問題。
わたしは、程度問題であるところの「感覚」の共有について疑義を差し挟んでいるのではなくて、
また「私は他人の感覚を感覚することはできない」というようなことが言いたいのでもありません。
わたしが言いたいのは、だれかの「この感覚」――<私>の存在の比類なさ――についての
驚きの表明や様々な議論などについて、ここでは永井の<それ>について、別のだれかが
<それ>に同意したり賛成したりすることが、たとえそうしたいと願っても、どうしても“できない”
ということです。
なぜなら、それを認めるということは、他人の独在性――<私>の存在の比類なさ――の承認に
他ならず、それでは複数個の比類なさが並び立ってしまい、独在性が普遍化されてしまうからです。
独在性は、“つねにすでに”、このような「普遍化」から逸脱するものとしてのみ<ある>のですから、
他人の<それ>を承認することは背理であり、原理的に不可能だからです。
>>78 >>77で説明したけど、意味わからないかな。
「この感覚」の「この」が、絶対の「個」に他ならないわけだが?
>>80 75さん
>
>>77で説明したけど、意味わからないかな。
>>75にたいして返したレスとしては、
>>78の内容は間違っていないと思います。
(できれば名無しじゃなく、レス番号[75]とか入れてもらえると分かり易いです)
>「この感覚」の「この」が、絶対の「個」に他ならないわけだが?
75さんの「この」は、
>>77から推測すれば『単独者』におけるそれだと思います。
単独者は、たしかに「名指し得ない存在者という概念」に相当するのでしょうが、
まさにその単独者の単独性こそが、独在性が必然的に読み替えられてしまう
ところの当のものではないのでしょうか。
たとえば、ウィトゲンシュタインが消し去ろうとした「私」、文法的位置を持たず、
実在論と一致するとされた「私」など、まさにそのようにして示されたものでさえ、
だからもちろん当の永井の議論でさえ、“すでにつねに”読み替えられたもので
しかないことを、さらに示すことによって、つまりその読み替えを否定する運動
のうちに示そうとするしかないものが、独在性ではなかったのでしょうか。
>>77 75さん
>何らかの形で言語化されている限りは、全くわからんということはない。
ということはない、と思います。
言いかえるなら「少しならわかる」などということすら、ありえない、ということです。
たとえ独在性の議論について「完全に理解する」ということが、ありえても、です。
当の<それ>――<私>の存在の比類なさ――について議論しているつもりでも、
<それ>が、本当に<それ>についての議論であるならば、<それ>については、
まったく、言いたいことが言えていない、はずだからです。
なぜなら、独在性についての言明は、じつは<私>的言語によって為されているからです。
にもかかわらず、<私>的言語の使用は、この世界(言語ゲームの世界)では不可能です。
つまり、どのように永井の議論を理解するのであっても、それが“理解される”のならば、
つねにすでに公的言語によって仲立ちされてしまっているので、理解される<それ>は、
普遍化されてしまった「それ」でしかありえず、ゆえに永井の<それ>ではありえません。
厳密には、永井の<それ>では「ありえない」ということすら言えてはならないはずです。
なぜなら、<それ>は、「概念化されえないものという概念」でさえないはずだからです。
83 :
考える名無しさん:2008/01/18(金) 04:21:13 0
>>81-82 だからそれは
>>77の「個」とどう違うの?
その説明なら、「個と普遍」問題の「個」と同じことなんですけど。
84 :
考える名無しさん:2008/01/18(金) 15:47:17 O
77さんの言う通り、永井の独在論ってのは結局は個と普遍問題のことだと思うよ。
んでなぜ77さんとカオルさんが論争してるかというと、60さんの話と同じように
独在論については議論できるが肝心な<私>については議論できないことに由来してると思う。
論争にはなってない。
たぶんカオルさんが個と普遍問題を知らないから>77を理解してないだけ。
86 :
考える名無しさん:2008/01/18(金) 19:09:05 0
個は、普遍名に指示詞をつければ名指しうる。ゆえに言語化可能。
われわれは日々それをしている。「この花瓶」などなどとして。
独在者は、普遍者の一例であることができない、
そもそもその複数の事例ということが(たまたまないのではなく)
ありえない、という点で「個」とは全く異なる。
<私>は「この人」ではありえない。
87 :
考える名無しさん:2008/01/18(金) 19:51:17 0
>>86 君も、名指し得ないっていうことの意味がわかっていない。
「この花瓶」や「この人」は、どこにでもある「普遍」「一般者」であり、
それによって、絶対の「個」を名指したことには全くならない。
言語そのものが普遍化作用を持っているのだから、これはあたりまえのこと。
「個と普遍」の問題では、「普遍」の対極に「個」があるのだから、
「独在性」を「普遍」との関係で、普遍化されないものと説明していながら、
それが「個」に重なることに気づかないほうが、どうかしている。
個と普遍がわからん人は
普遍論争から勉強しなおしたほうがいいね
89 :
考える名無しさん:2008/01/19(土) 12:03:01 0
>「この花瓶」や「この人」は、どこにでもある「普遍」「一般者」であり、
きみ、大丈夫??? 88の言うとおり、初歩から勉強しなおさないと。
>「独在性」を「普遍」との関係で、普遍化されないものと説明していながら、
>それが「個」に重なることに気づかないほうが、どうかしている。
独在性は、普遍とだけではなく個とも対立している。世界内の個物とは全く違うもの。
「私」「今」「世界」(そして特殊な意味での「神」)においてしか成立しない,
と永井も言っている。当然のことだ。だから、人称、時制、様相だけが問題になり、
それら3つが実は「同じ一つの問題」だというのが永井の主張です。
きみに言ってもわかるはずもないけどね。
>>89 だから・・・、「個」の理解が違っている。
君は「個」を、「個と普遍」問題の「個」として理解していない。
普遍論争は、そのもとをたどれば、プラトンがイデアを真の実在と考えて、
「個」を、イデア(普遍)の影として軽く扱ったことに遡る。
それに対してアリストテレスは、「個物」こそが真の実在であると考えた。
しかしアリストテレスのいう「個物」というのは、普遍が内在している
限りでの個物だった。たとえば「この花瓶」と言っても、それは「花瓶」
という普遍的本質の相で考えられている。つまりそれは、花瓶の中の
一つの花瓶であり、それは真の意味で代理不可能なものではなかった。
それに対して中世のキリスト教徒は、神の前に一人立つ者としての
《この私》を代理不可能なものとして考えた。つまり《この私》は、
私が「人間」であるというような普遍的本質よりも先に、絶対の「個」
として、神の前に一人立つ。
このような、代理不可能な絶対の「個」を言い表す言葉など存在しない。
「これ」と言ったとしても、「これ」は実は最も普遍的な語であって、
ありとあらゆるものが「これ」なのだから。だからドゥンス・スコトゥスは、
「このもの性」などという奇妙な言葉を作り出したが、それが言葉である限り
は、代理不可能な絶対の「個」を言い表すことはできない。
言葉の本質には「伝達」ということが含まれている限り、そこには当然
「普遍」が含まれているのだから。
普遍論争における「個」と「普遍」の関係は、その後もいろんな
バリエーションで繰り返されている。
たとえば、サルトルの有名な言葉、「実存は本質に先立つ」。
91 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 01:00:12 O
ずっとロムってた、哲学とかの知識皆無の学生です。
今話されている普遍論争などでわかりやすい本とかってありますか?
永井さんの『<子供>のための哲学』と『私・今・そして神』を読んでかなり興味深かったので、その背景知識をもっと知りたいと思い書き込みさせてもらいました。
>>83 75さん
「個」をつきつめていけば行き着くだろう単独者の「単独性」は、
<独在性>と同じようなもので、<独在性>は<それ>が、
何らかの形で言語化されているかぎりは、「全くわからんということはない」
と、75さんは言っているのですよね?
わたしは、それにたいして「全くわからない」と言っているのですが。
「言語化されない」っていう形で言語化(「伝達」)されているってことだろ。。。
94 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 07:58:44 0
独在性は、〈私〉についてしか言えない。
実存もそうだろ。
>>91 普遍論争はむずかしい。スコラ哲学むずかしい。キリスト教だからな〜。
97 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 12:51:27 0
>それに対して中世のキリスト教徒は、神の前に一人立つ者としての
>《この私》を代理不可能なものとして考えた。つまり《この私》は、
>私が「人間」であるというような普遍的本質よりも先に、絶対の「個」
>として、神の前に一人立つ。
テキスト的根拠を示してもらいたい。
>「このもの性」などという奇妙な言葉を作り出したが、それが言葉である限り
>は、代理不可能な絶対の「個」を言い表すことはできない。
「代理不可能な絶対の「個」」と言い表しているではないか?
>言葉の本質には「伝達」ということが含まれている限り、そこには当然
>「普遍」が含まれているのだから。
なぜ?
>普遍論争における「個」と「普遍」の関係は、その後もいろんな
>バリエーションで繰り返されている。
>たとえば、サルトルの有名な言葉、「実存は本質に先立つ」。
「個」と「普遍」の関係と「実存」と「本質」の関係は独立だろう。
だからこそ、普遍論争が起きたのではないか?
98 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 12:58:13 0
普遍論争が何なのかはよく知らないけど、
永井の<私>とはちがうだろ。
同じなら永井がわざわざ哲学する意味がない。
99 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 13:34:16 0
>>97 >「個」と「普遍」の関係と「実存」と「本質」の関係は独立だろう。
>だからこそ、普遍論争が起きたのではないか?
逆だろw
>>98 「バリエーション」は「同じ」という意味ではなくて、「変奏曲」だよ。
哲学のほとんどは古代ギリシャ哲学に含まれていたものの変奏曲だと思う。
「個と普遍」「存在と生成」「自由と必然」、これらの対立はすでに
ギリシャ哲学の中にあった。「唯物論と観念論」の対立もあった。
>75さん(
>>92の詳しい説明)
独在性の<私>が「名指し得ない存在者という概念(単独者)」として理解され、
<それ>ではない「それ」として共有されるということならば十分に可能でしょう。
なぜなら、まさにそのようにして「名指し得ない存在者という概念(単独者)」に
読み替えられてしまった<それ>ではない「それ」が、『 独在性の<私> 』に
他ならないからです。
つまり、<それ>ではない「それ」として、言語ゲームという箱『 』の中に
回収されてしまった『 独在性の<私> 』が「名指し得ない存在者という概念」、
すなわち、単独性の「私」なのです。
75さんが「名指し得ない存在者(単独者)」と『 独在性の<私> 』とを
重ねあわせているならば、「全くわからんということはない」でもかまいませんが、
そうでないならば、「全くわからない」ので“なければならない”のです。
なぜなら、独在性は、いかなる形であっても言語化されることがありえないのですから、
言語ゲームの中には介入することができず、ゆえに「言語化されている限りでの理解
の共有」(
>>75)ということすら、ありえないからです。
永井でさえ、独在性については、何一つ語れていないので“なければならない”のです。
同じことを何回も書いても意味ないよw >カオル
目下の話題は「個と普遍」の「個」ですので
書くなら、>90の「個」との違いについて書いて。
>>100からのつづき、
それから肝心なことですが、独在性――<私>の存在の比類なさ――は、
「名指し得ない存在者(単独者)であることからは導かれないと思います。
なぜなら、われわれはそれぞれがそれぞれに「名指し得ない存在者(単独者)として、
この等質空間であれ、あの神の前であれ、等しい資格で立ち並んでいるのだからです。
独在性――<私>の存在の比類なさ――が読み替えられたところの「単独性」は、
この世界(等質空間)における、あるいはあの神の前における「私」の存在の唯一さ、
すなわち、かけがえのなさ、です。
それに気づくことができるなら、二項対立する「個」と「普遍」の一方である「個」を
つきつめていけば行き着くらしい単独者みたいなものが、独在性の〈私〉ではない、
ことがわかると思います。
単独者は、たしかに名指し得ない存在者であり、到達不可能な他者ですが、
それでも言語ゲームの世界『 』の中で、生活形式の一致を前提にした、
「私」という語の表現の文法に関連づけて――たとえば、文法的位置を持たない
“この”私(ウィトゲンシュタイン)のように――語りうる問題なのです。
単独者は、「私」という語の使用についての議論において、
必然的に現われてしまう問題であり、しかしその問題の成立が、それによって、
独在性の<私>を隠蔽してしまう当のものであるからこそ、それにたいしては、
「それ」ではない、と言い続けなければならない、というのがわたしの意見です。
なんか、自分勝手に読み替えちゃってない?
いまいち、かみ合ってない。
>>102の「単独者」って、キルケゴールの「単独者」?
なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、
さっぱりわからん。
それが「等しい資格」であるのになんで「かけがえのなさ」
をもつのかもわからん。
カオルは一応永井の議論と用語に即して論じてるんじゃないの?
俺も「バリエーション」だとは思うが、
どこがどう変奏されてるか、そこが問題だね。
俺が思うには、「実存」では「個」の『主体性』
つまり行為的側面に焦点が当てられているけど、
「独在性」は、それよりは、もっと認識論的な
アプローチがされてるんじゃないかと思うんだが。
106 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:12:41 0
個は指し示されないものとして指し示される。
私もその個の一つにすぎないと言うわけか。
でも永井の<私>はそのように指し示される/されない私とはちがうんだろ。
主体として指し示される/されない、世界の外にいて世界を構成する場所として<私>
を永井は言ってる/ないんじゃないか?
>>106 >世界の外にいて世界を構成する場所として<私>
>を永井は言ってる/ないんじゃないか?
なるほどね。
だが、その説明だとハイデッガーの「バリエーション」だなw
比較思想はこれぐらいにして、寝る!
109 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:27:33 0
>>107 でハイデッガーは何のバリエーションなんだ?w
「バリエーション」かどうかは話題としてはありと思うけど
永井やカオルが論じてる問題を「自分勝手に読み替えちゃ」うと「かみ合ってない」ことになるんだと思う。
とりあえずはスレの流れ上の本題に帰ってみると、
>>75に対して
>>81-82で説明され
>>92で確認されてるんだからそれに対しての回答が求められるという状況では?
111 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:36:13 0
バリエーションの問題は案外重要だと思った。なぜかというと、
今のところを見たら、西田幾多郎の無の場所のようにも思われた。
つまり、バリエーションの問題は、永井の独自性はどこにあるのか?
そもそも独自性があるのか?という問題に他ならないわけだ。
112 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:38:56 0
って、あたりまえのことだったかな。。。
113 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:41:24 0
>>111 ウィトゲンシュタインのバリエーションとも言えるしな。
114 :
考える名無しさん:2008/01/20(日) 19:42:15 0
で、永井って、西洋では認められてるの?
>>103さん
>なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、
>さっぱりわからん。
単独者が「名指し得ない」というだけなら、それでもかまいませんが、
その「名指し得なさ」のいったい「何が」独在性に通じるのでしょうか?
単独者の「名指し得なさ」に「到達不可能な絶対他者の他者性」が
含意されているのでなければ、「名指し得なさ」についての議論は、
独在性の議論とは、まるで関係のないものになってしまいますが。
>それが「等しい資格」であるのになんで「かけがえのなさ」
>をもつのかもわからん。
わたしもあなたもだれでもが、この世界にたった一人しかいない、
ということ自体のかけがえのなさ、あるいはわれわれが神を目指して
独り立つ者であるならば、そのこと自体のかけがえのなさは、
だれもが等しい資格で、そうなのではありませんか?
>>104さん
>カオルは一応永井の議論と用語に即して論じてるんじゃないの?
はい、そのつもりでいます。ご理解ありがとうございます。
>>110さん
>永井やカオルが論じてる問題を「自分勝手に読み替えちゃ」うと「かみ合ってない」ことになるんだと思う。
>とりあえずはスレの流れ上の本題に帰ってみると、
>
>>75に対して
>>81-82で説明され
>>92で確認されてるんだからそれに対しての回答が求められるという状況では?
はい、そう願っています。フォローありがとうございます。
>>115 >単独者が「名指し得ない」というだけなら、それでもかまいませんが、
>その「名指し得なさ」のいったい「何が」独在性に通じるのでしょうか?
逆でしょう。
カオル氏が「わからなさ」ということを強調して繰り返しているから、
その「わからなさ」というのは、「個」や「実存」の理解不能性と
どこがどう違うのか?と聞かれているんでしょう、カオル氏が。
それらはすべて、「わからなさ」「到達不可能」という点で、
共通しているから。
我々は常に既に言語化された世界に生きているけれども、その
根源には言語化され得ない「わからない」「到達不可能」な
世界がある「はずだ」という点では、どれも同じです。
個人的には、そのような「わからなさ」という点を強調しすぎるのは、
哲学からの逸脱だと思います。
「到達不可能性」という場所を出発点にしてしまうと、「わからなさ」を
強調してしまうことになってしまうのではないだろうか。
たとえば西田幾多郎の場合でも、もし、「無の場所」というものを
出発点にしてしまっていたら、そこからはおそらく何もでてこないと思う。
現実的な具体的存在者の根底のところを考えていくと、そこには
「無の場所」というものがある「はずだ」という思考の順序だと思う。
カントにしても同じことで、経験的現実から出発して、経験的現実を
可能にするものとしての超越論的自我というものがある「はずだ」と
いうのがカントの思考順序であって、先に超越論的自我を「事実」として
措定してそこから出発しているのではない。もしそのようなことを
してしまえば、それは哲学とはなり難い、恣意的な空想になってしまう。
「個」については、西田幾多郎が「真の個物」を「場所の自己限定」
としていることについて、永井均は西田について書いた本で言及していた。
手元にないので、あとで見てみます。
たしかに「わからなさ」を強調するのは生産的ではない。
過去の哲学でも「わからなさ」を強調したのは、破壊的な懐疑論者ぐらいなものだろ。
某スレのなんとかの味方さんみたいに、反論する時は強いが自分の考えを生産的に組み立てることはできないw
>>115 >わたしもあなたもだれでもが、この世界にたった一人しかいない、
>ということ自体のかけがえのなさ、あるいはわれわれが神を目指して
>独り立つ者であるならば、そのこと自体のかけがえのなさは、
>だれもが等しい資格で、そうなのではありませんか?
唯一無二なのになんで「等しい資格」になるのか・・
「等しい資格」であるためには、神の前の平等
とか、民主的平等とか、なんらかの平等思想
みたいなのが付け加わってるんじゃないのかな・・
それに「等しい資格」で並び立つなら、それは
>>90に
あるような「個」とは違うものだろうし。
言語化を拒む「個」は「等しい資格」で並び立つこと
も拒むはず。
「等しい資格」で並び立つのは「言語化された世界」
での話だろうから。
>>120 過去の哲学者は、客観世界の実在性については
実質的には不可知論者が多いだろうな。
哲学板には素朴実在論者が多いかな・・
カオルのお相手してる人はsewとの醜い争いなんか知らない人だろな。カオルは自演だけはやめたほうがいいよ。
ところで、『西田』では、別の無の場所が認められることがすなわち言語の存在
そのものだと、新刊では、人称的・時制的な捉え方をすることが言語だと書いてあったと思う。
すると、それを文字通りに取ると、物事に同じ記号を当てはめるとか、物事を共通の
性質に従ってまとめたり分類するとか、概念によって整理するとか、そういう類のことを
仮に全く行わなかったとしても、別の無の場所を認めるという類のことのほうが
起こっていれば、言語は成り立っていることになると思われる。それは、そういう理解で
いいんだろうか。
そうだとすると、永井のいう言語で語れないということは、少なくとも、素朴にイメージ
するような現実と記号のずれとかいうものとは、やはりだいぶ違うことではないかと。
そんなことは当然ですか?
>>117 103さん
>逆でしょう。
あなたの質問は、わたしの
単独者は、たしかに名指し得ない存在者であり、到達不可能な他者ですが、
>>102 の発言にたいして、
なんで「単独者」を「他者」に読み替えてしまうのか、さっぱりわからん。
>>103 ということでしたので、
>>115のように答えました。ところで、あなたは、75さんですか?
>>121 >唯一無二なのになんで「等しい資格」になるのか・・
わたしは自分のことを唯一無二の存在者と思っています。
事実、わたしと同じ存在者は一人も存在しませんからね。
あなたも“同様”ではないですか?
>>118さん(103さんですか?)
>「到達不可能性」という場所を出発点にしてしまうと、「わからなさ」を
>強調してしまうことになってしまうのではないだろうか。
<私>の存在の比類なさは、わかる人には「めっちゃわかる!」らしいけど、
じっくり考えていくと「めっちゃわかる!」なんてことがありえないということが理解され、
次に「めっちゃわかる!」なんてことがありえないものという概念でさえないことが理解され、
そのようにして理解されるということさえありえないということが理解され……というように
どこまでも「それではない」と言い続けることによってでしか示されえないものなのですが、
とは言うものの、ほんとうはそのようにして示されたことなんてただの一度もないもので、
なんてことも言えないもので……は「わからなさ」の強調でしかなく、哲学ではないですか?
>カントにしても同じことで、
独在性の<私>についての議論では、つねに「それではない」と言い続けなければならない
永井ですから、カントにしても同じことで……たとえば、個を主観、普遍を客観として捉えれば、
カント原理なるもののお話ができそうですが、これも個と普遍問題のバリエーションでしょうか?
ともかく、永井的には、あくまで「それではない」と言うしかなく、一部抜き出せば、こんなお話し。
デカルトの超越的<われ思う>が読み替えられ、独在性のすっかり抜けてしまった残滓が、
超越論的自我(統覚)で、主観と客観が、じつは主観にすぎなかった、という超越論的な
お話の成立によって、デカルトの超越的<われ思う>が、いつのまにか超越論的「われ思う」
に頽落してしまっている、と。……このような議論は、哲学ではなく、空想ですか?
128 :
119:2008/01/22(火) 15:24:44 0
永井均の『西田幾多郎』を見ると、永井均の〈私〉には、やはり「個」の言語化不可能性
と同質の問題意識があることがわかる。
「真の個物は、有限の一般概念をもってしては規定され尽くされない。そんなものが
どこにあるのか、と問われたなら、それはここにある、としか答えようがない。たしかに
ある意味では、そんなものはどこにもない。・・・唯一の真の個物は、絶対無の場所に
於いて、《ただある》のだ」(『西田幾多郎』)。
そして永井均は、〈私〉という表記の由来が、このような問題意識からきていることを、
そこで書いている。
>>125 >別の無の場所を認めるという類のことのほうが
>起こっていれば、言語は成り立っていることになると思われる。それは、そういう理解で
>いいんだろうか。
>そうだとすると、永井のいう言語で語れないということは、少なくとも、素朴にイメージ
>するような現実と記号のずれとかいうものとは、やはりだいぶ違うことではないかと。
>そんなことは当然ですか?
別の無の場所を認めるということによって、本来名づけられない〈無の場所〉が一般化されて、
「無の場所」として言語化(=記号化)されるようになるわけだから、「現実と記号のずれ」は、
そこにも生じると思う。
129 :
119:2008/01/22(火) 18:15:25 0
>>127 >カント原理なるもののお話ができそうですが、これも個と普遍問題のバリエーションでしょうか?
カントは、経験的現実世界において学問が「普遍妥当性」をもつことを理論的に示そうとして
『純粋理性批判』を書いたのだから、カントの関心は「個」よりは「普遍」のほうにあります。
「個と普遍」の問題の流れの中にカントを位置づけるとすれば、カントは、感性(直観)と
悟性(概念)との協同によってのみ経験世界が成立すると考えた点で、「個」と「普遍」 を
総合しようとした、と考えられます。
しかし感性と悟性との協同においてのみ認識が成り立つとすれば、認識された時点ですでに
概念化されているわけなので、あるがままの「個」を認識することはできないことになります。
130 :
125:2008/01/23(水) 22:34:29 O
>>128に関して
>>125は表現が的確でなかったので、もう少し書いてみる。
よく簡単な啓蒙書などで「目の前に茶色い机があるというのは、実は本当にあるのは
このような質感の連なりであるのを、「茶色」「机」といった言葉・概念で理解して
いるのだ」とか「立方体の図は、実は12本の線分であるのを、立方体として理解して
いるのだ」という考え方が紹介されていて、それによって本当の現実(?)から失われる
ものがある、とも言われている(と思う)。
これを(この呼び方でいいかどうか)とりあえず「分節化の問題」と呼んでみる。
で、永井の論じる〈私〉は、「分節化の問題」とは異なる問題ではないかと。分節化の
問題が起ころうが、それで失われるものがあろうが、それとは別に、〈私〉の存在が
問題なのではないかと。
だとすると、〈私〉が語りうるかどうかというのも、「分節化の問題」によって本当の
現実(?)が失われる(?)とかいうのとでは違う形で、言語が問題にされ、語り得ない
とされているのでは。という趣旨です。全体が的外れだったら失礼。
131 :
125:2008/01/23(水) 23:40:26 O
>>130は我ながら変なので撤回します。失礼。
「分節化の問題」というのは、『西田』の特に第2章を参照したつもりだったけど、
今読み返したらだいぶ誤解だったみたいだ。
132 :
119:2008/01/24(木) 00:23:40 0
>>130 問題の根本はつながっていると思うけれども、「本当の現実(?)から失われるものがある」
という場合の「本当の現実」をどう見るかによって、違いが出てくると思う。
永井均は『西田幾多郎』では、「無の場所」を「生の事実」として、
「無の場所そのものは、端的な生の事実であるから、非概念的な実存である。」と書いており、
言語において「無が有化され」、「指示対象を持ってしまう」という事態を〈 〉の記号
で表示していると書いているので、ここでは、「生の事実」は『対象化できない』から語りえない
という、『実存』的側面が強く出ていると思う。
133 :
考える名無しさん:2008/01/27(日) 03:47:59 O
このスレの住民の身元が気になる。
みんな学部生や院生?
専攻とかあったら教えてほしいな
自分は学部2年生。法学部だけど趣味程度に哲学書読んでる。
111 :灯持ち童 ◆ixst/7hh6s :2008/01/27(日) 20:08:37 0
隣の子が泣いたら僕も泣いた。
我々は赤ん坊の頃他者の感覚をも感覚していたのです。
これこそが他我の起源であるのです。
112 :灯持ち童 ◆ixst/7hh6s :2008/01/27(日) 20:12:20 0
発達心理学によって証明済みの事実であるのです。
>>133 過疎スレだから住人はいませんが。
このスレをたてたカオルっていう人は
たしか、中卒の似非哲学徒。
136 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 20:58:32 0
私、去年永井先生の講演(公開講義?)みたいなものに参加する
機会があり、二次会にも出ました。そこに川上さんも来ていました。
以前から永井先生のファン(ミーハー的なものでなく、かなりまじめな)
のようで、先生の方もよく知っている感じでした。「彼女は作家で
歌手で、ブログも書いているよ」とか言っていました。
そのブログ(確か「純粋悲性批判」)にも永井先生のことが
以前から書いてあったので、「師匠」と呼ぶのもあながち
不自然でもないと思います。
ちなみに川上さんはなかなかはきはきして頭の良さそうな女性で
ありました。無論、芥川賞を取るなどそのときは夢にも思いませんでしたw
うーむ。
まったく関心なかったが>川上女史
読んでみるか・・・
尼のレビュー見ると永井の影響も少なくないみたいだな。
ラジオで紹介されてた時「ひょっとして哲学に興味あるのかな?」と思ってたが
こんなところで永井さんと繋がってたとは。
やっぱり本物の言葉は、社会の根底で静かに力を持ち続けてるもんなんだなあ。
142 :
137:2008/02/07(木) 21:54:06 0
>>140 あ、誤解されたかもしれませんが「先生」というのは単なる敬称で、
私は純然たる素人です。永井氏とも一面識もありませんでした。
去年「人間学アカデミー」というところが主催した一般向けの
セミナーのようなものがあり、何人かの講師の方が講演されるのですが、
その講師陣の一人に永井氏の名前があり、以前から氏の本は何冊か読んで
わからないながらに興味があったので、ものは試しと申し込んでみたわけです。
(ちなみにその種のものに参加するのも初めてでした。)
3週連続の講義で、最終日の最後に事務局の方が「二次会(打ち上げといったか)
をやりますが、参加希望の方は手を上げてください」と言われたので、永井氏と
直接話せる機会などこれが最初で最後だと思い、思い切って手を上げた次第です。
講義を聴講した100人ばかりのうち20か30人くらいが近くの飲み屋に
集まったのですが、そこに川上さんもおられました。といっても、私はその女性が
川上さんだとはまったく気がつきませんでした。そこでも積極的に発言されて
非常に好感を持ったのですが、「次の日に海外に行く」とかで途中退席されました。
どうも物腰や話し方が何というか素人っぽくないので、永井氏に尋ねてみて
初めて「あのブログの人か」と気づいた次第です。
143 :
137:2008/02/07(木) 21:57:18 0
(続き)
ちなみに、私は酒の勢いもあって恐れ気もなく素人っぽい質問を永井氏に
ぶつけたりしましたが、氏は怒るでもなく答えてくださいました。
氏は何というか想像以上に明るいというかエネルギッシュな方でした。
また、「上からものを教える」という感じではなく、「いっしょに考える」
という感じで、本にある通り本物の哲学者だなと感じ入りました。
主催者側に小浜逸郎氏もおられ(さすがに頭脳明晰という感じ)、
永井氏といろいろ議論していましたが、どうも今ひとつ噛み合っていないような
気がしました。帰りの電車で人間学アカデミーの事務局の若い方に「永井先生の
お話わかりましたか?」と聞いてみたところ「まったくちんぷんかんぷんです」
答えられたので、「やっぱりそうですよね」とうなずいてしまいましたw
思えば、あの夜は3人の有名人と同席したわけで、良い記念となりました。
永井氏はこういう自由参加の講演のようなものもたまにやられるようなので、
興味のある方は参加してみられるとよいと思い、そのきっかけにでもなれば、と
長々と書かせていただきました。長文多謝。
その講義には出たんだけど、懇親会には別の用事があって出られなかったんだよなあ…
そう言えば、入不二基義氏との対談がもうすぐですな。これの参加者は多いんだろうか。
川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』を読んでみた。
意識を持った人たちがたくさんいる中で、なぜ私はこの人なのか、とか、トンネルを
抜けるとそこは雪国だったという文には主語がないとか、なんか、部分的には本当に
永井の本そのまんまだw
これで小説として成立して、しかも芥川賞候補になったって、なんかやたら面白いw
(いや変な意味で言うつもりは全然ないんだけど)
147 :
考える名無しさん:2008/02/13(水) 16:19:38 0
>>136 対談読んだけど、師弟って感じじゃないな。
「言葉」と「言葉にできないもの」を考える川上に対して、
「言葉にできないものなんてない」という永井という感じで、
二人の考え方に齟齬がありすぎ。
永井ってこんな考え方してたっけ?
入不二氏との対談、面白かった。と思うんだけど、面白いと思う部分を保存できないんだよなあ…
話が盛り上がってくると、メモなんか取れず聞くのに必死で、しかし難しい内容な
もんだから、話が終わった先から忘れていって、結局、残っているのは、
メモを取る余裕がある程度の時の話のメモばっかりだw
裏山シス
よければ行かれた方レポしてくだされー
大雑把には、入不二氏の『哲学の誤読』を題材に、そもそも誤読とはどういう
ものか、誤読と正しい読みはどういう根拠で区別されるのか、というような全体的な
話と、あとは各章の内容について個別に話すという感じだった。
印象に残った(メモにも残せた)のは、入不二氏が、永井の文章「解釈学・系譜学・考古学」
について、ニーチェやフーコーの予備知識が必要だという誤読(知識による予断)や、
変に人生論を持ち込むという誤読(人生論的誤読)を取り上げている。ところが、
永井自身が、この文章の用語はもともとはニーチェやフーコーの考え方がもとになって
いるから、それを持ち込むのは間違いとは言い切れないし、むしろ思想的な意味を
無くしてしまっている(しかし抜け殻みたいなものは残っている)として、著者を
批判することもできるんじゃないか、という趣旨の発言をしていたこと。
実は、もとの執筆依頼の内容は、本当にそれぞれの用語の解説で、しかし永井がそれでは
つまらないと言ってああいう内容にしたら、編集者にも、そのほうがいいと言われたんだとか。
(続き)
しかし、著者自身がそんなことを言ってしまうのなら、ほんと、誤読とは、誰がどう
やって決めるんでしょうね?
あと、個別の面白エピソードなどはいろいろあった。
何でも、永井の文章を入試問題に採用したのは、左翼系の人らしく、この文章は思想的に
自分の味方だと思って採用したんだとか。(確定情報ではないと念を押されていた)
聞いた時は???と思ったし、入不二氏も何のことだかわからないと言っていたけど、
なぜか、永井は「多分こういう意味で左翼的ということだろう」とすらすらと解説w
あと、個別には中島義道氏の文章の話が一番長かったけど、やたらボロクソだったw
単にボロクソなわけではなく、「褒め言葉で言うんだけど、中島氏は哲学者という
より思想家なんだ」などの発言もあったけど。
しかし、せっかくの機会だったのに、議論内容より面白エピソードみたいなもの
ばっかりメモに残っているのは、我ながら遺憾ですなー…
>>150-151 横からだけど、レポサンクス!携帯から打つの大変だったんじゃないか。ありがとう。
153 :
150:2008/02/17(日) 22:30:44 O
まあ本当は、誤読・文章理解に関する議論そのものを紹介できたらよかったと思うんですけどね…
例えば、永井は「著者が何かの意図を持っていたが、他人が「いや、この文章はこのように
読めるはずだ」と主張したとして、著者は自分のほうが正しいという根拠を出せるだろうか」
と、面白い問題提起をして、入不二氏が「やはり何らかの正しい読み方がある、という
のが出発点だと思う。自分は全くの相対主義は取れない」と答えて、そこでさらにいろんな
議論が展開していったところで、まさにメモにも記憶にもとれなくなってしまうんですなw
あと印象に残ったところとして、「中島氏は、議論よりも、どうしても自分の言いたい
ことがあって、それが出てしまうタイプ。入不二氏は、本来言いたいことと反対の考え方まで、
いろいろ議論するタイプ。自分はその中間(会場笑)」とか、「他の三人の文は思想的な
意味はないが、それに比べると、自分の文には変な色気みたいなものがある」という
発言があったこと。(特に後者は、ちょっと嫌そうに話しているように見えた)
(続き)
個人的には、あの文の内容だけでなく、雰囲気が好きだったもので。
むしろ入不二氏のほうが、「あの文は思想的な意味を抜いているからこそ、哲学の文章に
なっていると思う」と発言していて(さらに全体的に、永井の文なのに、入不二氏のほうが
熱心だったようでw)、それも印象が強かった。
…というか、こんな裏話暴露みたいなことばかり書いてたら、ものすごい悪事を働いてる
気がしてきたので、誰かまともな議論内容のレポをしてくださいw
156 :
考える名無しさん:2008/02/17(日) 23:35:01 0
157 :
考える名無しさん:2008/02/19(火) 09:37:02 0
きのうのTBSラジオの荒川さんの番組に芥川賞作家の川上さんが出ていて、
クローンペットについての話題で「クローンは死んだペットと同じ魂を持っているのか」と永井風のコメントをしていた。
荒川さんはまったく理解できていなかったし、コメンテーターの宮台真司は誤解しているようだった。
永井性は理解されないはずだからそれでいいよ
理解されないのに理解を求める態度は見苦しいね
永井の喚いている程度のことは隠者なら普通に達観している。
では隠者が黙して語らないのは何故か。そこが永井の幼児性との違いであろう。
頬杖姿の永井の写真を見るだけで人物の程度が知れる。
無知と幼児性が彼の行動を支えているのであろう。
達観だかなんだかの内容をネタに金稼いでるんだから充分大人だろ。
まあ道化師は幼児よばわりされたとしても、それもネタにできるし。
//,:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.`:.:.:\
/:.,イi:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ハ
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|!:.l:.:|:.:.ト、:.:.:.`:.:.:.:.:.:.:.:.:/-:.:.:.:ハ:.:.:.!
永井某 . lヽ|:.l:.:.:l ヽ、:.:.:.:.:.:.:.://:/ |:.:.:|
__ |:l:.:.:l:l`′`ーァ--' "l< !:.:.:!
, z ≠´ー-ミ: 、 |:.:.:.:l:ヘ.__, { _|__ ` .l:.:.:',
.//: : : : :ムヘ: : : : ヽ ,':.:.:.:.|ヽ}_.. '- ''  ̄ ヽ、 !:.:.:ヘ
/ィ:/: 、: ∧:| l: !:l: :l ヘ /:.:.:.:.:z≦、 ヽ ',:.:.:.ヘ
,(O' i : : N‐廾' ⊂ニ ̄ア¨7ー- .._/:.:.:..l/ V ハ ヽ:.:.:.ヘ
./: :ト、| : : | -― 〈ゝ _! i /イ:.:.:.:| V ウィト先生 | ヽ:.ヽ:ヽ
i: : :|:{ヘ: : :ヽ ' `¨リ`!ー- 、 ll l:.:.:.:.|l V ! ヽ:.:ヽヽ
|: : :|l:`ヾ、: l` /´j ,イ/ハ `l|、!:.:.:.l| !| i `ー―――┬―1 ヽ:.ヘ:ヘ
|: : :!|: : |: :>ト - 二.イl: 'i : ヘ l! |:.:.:.|l、ll | / | | ',:.ヘ:.ヘ
!: : l:|: : l,イ l` ><}ヽ、:l: : :ヘ ! |:.:.:.|l ! !' | | i:.:.:',:.:',
. /: : :l:|/ ! ∨ , 介、! | ヽ、: ', l:.:.:.! l | | | |:.:.:.|:.:.!
// z< フ ∨イ トイ< `i: l ヽ:.:| .l ! ! ! |:ハ:.|!:.|
/ / ヽ} \ ヽl l. | / l| |: ! ヽ|| / | | リ リレ'
<私>が言わんとすること… うっさいなあ、黙ってられんのか
163 :
勝手批評:2008/03/06(木) 16:20:45 0
入不二基義著「哲学の誤読」で取上げられている永井均の「解釈学・系譜学・考古学」を
読んでいて、これを最初に読んだ時には気付かなかった点を発見した。
「……鳥は青くも青くなくも無かった。そんな観点はもともとはなかったのだ。そういうことを
問題にする観点そのものが無かった。……(中略)……鳥はいたが色が意識されたことは一度も
なく、したがって当時は色はなかったというべきである。」
について、この最後のセンテンス、「したがって当時は色はなかったというべきである。」に哲学的
突っ込みを入れさせてもらえば、これは永井均の勇み足である。
その前の段階までの議論で、当時は鳥を色の観点から見るというその観点そのものがなかった、と
されているのは正しい。ところが、「したがって当時は色はなかったというべきである。」とまで言って
しまった時、図らずも永井均はこの鳥を色の観点から見てしまっているのである。(少なくともそう
読まれざるを得ない)
「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う。
永井均は<私>の議論同様、ここでも語りえないことを語ってしまう事で議論を変質させてしまって
いるのではないだろうか。(<私>議論の際には表向きその変質に自覚的だけれど)もっともこれは
永井均の問題ではなく、「本来共存不可能な時間系列」を「強引に共存させ」ている系譜学的観点と、
完全に現在と切り離された‘純粋’過去を扱おうとする考古学的観点のそもそもの設定の不可能さ
に問題があるのだろうけど。
164 :
考える名無しさん:2008/03/06(木) 17:00:40 0
このあいだ東浩紀スレに本人が降臨したさいのやりとりの中にこんなのがあった。
>永井先生をご存知ですか?
知ってます。読んでます。
>永井均の独在性をめぐる議論に一言お願いします。
パス。難しいよこの質問。
165 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 00:29:19 0
独在論て何?
分かりやすく解説して。
166 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:20:21 0
>「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う。
どこが違うのか分からない。
167 :
考える名無しさん:2008/03/07(金) 21:23:12 0
>>163 「主観―客観」という構図を疑わなければそういうことになるね。
>>166 色が無かったと言える観点自体が無かった。
そのような見方をしていなかった
色が無かったと言える観点自体がなかったら色が無かったのではないかと思うが。
色が無かったと言える観点自体がなかったって今から振り返っての記述でしょ
まあ「考古学視線は……不可能な視線」って永井自身も書いてるしここでの言い方は
どちらにしろ無理が有ることは承知の上でしょう
>>166 色が有る・色が無いという議論は既にして「色」という観点からしか為しえないから。
だから「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違う
ということになるわけ。 「観点そのものが無い」という事は土台そのものが無いという事だから。
それに対して「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で
成り立っている。
>>169 「だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の
別名なのである」
しかしこれは「丸い四角」に似てないかなあ。そもそも考える事すら不可能な事柄なのに
言語上のトリックとしてあたかも存在しているかのように見えてしまっている。そもそも
これは<私>議論同様、「語ってはいけない(語り得ない⇒語るとその本質が変化してしまう)」
事柄なのだから。(こうした「語り得ない事柄」がどうして語り得ないかを示す永井均のような
議論は、それ自体もまた「語り得ない事柄」の範疇を抜け出る事が出来るわけではないので、
どうしたってこの人の議論はどこか「自分だけはこのカラクリを外から見ている」という“外観”
を呈してしまう。本人はそのつもりじゃないとしても。本当は最初から何も語らないのが最も
「節度ある態度」(ウィトゲンシュタイン)だろうけど、それじゃあ職業哲学者は皆失業しちゃうしね。)
>「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で
>成り立っている。
これも今から振り返ってみた上での言い方ではないでしょうか。つまり、今と意味上のつながりを持った上での
言い方になっている。「色というものは存在したが、色を問題とする視点がなかった。ある時点から色が問題に
されるようになった」という系譜学的視線と混同されてしまうのを恐れて、「色がなかった」としたのでしょう。
「色がなかった」が勇み足なのではなくて、語り得ないはずの考古学的視線について語っている事自体が勇み足、
語りえない事柄を語っているのだと思います。つまり第六段落以降がすべて「勇み足」ではないかと。
>>171 >これも今から振り返ってみた上での言い方ではないでしょうか。つまり、今と意味上のつながりを
>持った上での 言い方になっている。
もちろん。永井均的に疑問を呈するとその<今>とは何時のことなのか?という事になるんだろう
けど、これまた語り得ない、語る事によってその本質が変化せざるを得ない事柄なので、このような
問いそのものが黙されなければならないことなのだろう。
勇み足という事なら、そもそも解釈学的な観点の導入から始まっていると思う。そもそも
この考え方によって、この見方は過去を現在の観点から偽造している、という系譜学的批判を
招いてしまうから。考古学的観点などというものはこの最初の「勇み足」を前提にしたお話だから、
土俵から足が出て負けてるのに、その後の反則で二度負ける事が出来ないのと同じで
実は意味が無い、と言える。
もっとも僕が最初に指摘したかったのはこういう根本的なことではなくて、「したがって当時は色は
なかったというべきなのである」はどうしても「色」の観点を元にしてしか「語り得ない」という
ことだったんだけども。(という事は永井均は彼の言いたいことを言えていない、言いたかった事が
変質してしまっている、と)
173 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 23:57:46 0
しかし勝手批評はつまらんことしか言わんな。
174 :
考える名無しさん:2008/03/09(日) 01:16:27 0
永井氏の「哲学」のくだらなさ
・不必要な概念を創り出している無意味さ
たとえば、「私」と「今」に対する〈私〉〈今〉という概念
『私・今・そして神 開闢の哲学』,p.40,講談社現代新書(2004)を参照
・意味不明の概念をもちこむナンセンス
たとえば、「しかし、その神さまでさえ、だれも覚えていない過去をそのとき同時に作り出すことできない。全能の神でさえ、それは不可能なのである。」
(前掲書,p.27-8)における「神」という概念。
「もし神にこの能力があるのだとしたら、それはロボットに心を与えたりする通常の神より高階の神でなければならない。すなわち、開闢の神である。」
(前掲書,p.66)における「高階の神」という概念。
このことは、「全能なる者」としてはただ一つの概念さえあれば十分という一言で片付く。
・剽窃という愚劣
前掲書,p.42での「開闢の奇跡」と呼ばれるものには、明らかにWittgensteinの「存在の神秘」(『論考』6・44)思想の盗作がうかがえる。
・冗長
『私・今・そして神』が全体的に何がいいたいのか不明瞭。くどくどしい。
むしろ、何がやりたいのかわからなくない?(多分、何でもいいから、あら探しをしたいんだろう)
今回のも、ただ「色はなかったというべきとまで言うのはおかしくないか」ぐらいの指摘をするだけ
なら、それ自体は正当だと思うけど、それ以外には何を書いているのかわからん。
そこの箇所のすぐ後ろに「色がなかったというのは、無色透明ではなく、色概念の外にあるということだ」
という説明があるんだから、本当に実のある指摘をするつもりなら、そことの関係にも目を配って
書くべきだろう。そういうことをせずに、何かよくわからんことを書いているだけなので、文章全体を
真面目に読まずに、あら探しできそうなところだけを取り出しているんじゃないか、としか感じられない。
176 :
175:2008/03/09(日) 01:49:20 O
177 :
Wittgenstein教:2008/03/09(日) 02:29:50 0
>>170 >だから「色という観点で見ていなかった」という事と、「色がなかった」という事ではまるで意味が違うということになるわけ。
違います。
第一に、「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
第二に、事実我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、政治的観点でものを物理的にみるというのはナンセンスです。
>「色が無い」という評価は「色が有る」という事の反対として、「色」という土台の上で成り立っている。
色を識別することは「評価」することではありません。たとえば色の識別を、思考における概念の弁別のようにして議論することはできません。
そもそも、視覚があって色がない、というのは無理なんでは。
>>177 >第一に、「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
>第二に、事実我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
>政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、政治的観点でものを物理的にみるというのはナンセンスです。
何かを主張する時は、その根拠を書いてくださいね。
ところで「ものを物理的にみる」って、どういうことなのだろう・・・
180 :
勝手批評:2008/03/09(日) 14:03:29 0
>>175 申し訳ない。自分は「哲学の誤読」での出題範囲までしか読まずに163以降のレスを書いて
いた。これはひどい。175さんの指摘通り、ちゃんと「色がない」という意味の説明が原文に
書かれている事はちゃんと目を通していれば一目瞭然だった。随分昔に読んだきりだったので。
(言い訳)そもそも永井均ともあろう人がこんな杜撰なことを書くわけもなかった。
そういうわけで、163の批判は全く的外れ。無かったものとして下さい。
170については前半で「色がなかった」・「色という観点そのものがなかった」について
永井均が既に書いてる事を偉そうに講釈垂れてるのでこれまた無視して頂きたい。
でも170の後半と172については変更点は無し。語ってしまった瞬間に語ろうとした事を
当初の意味で語れなくなるという点について、永井均は(少なくとも僕から見て)楽観的だし、
(恐らくは職業哲学者として)楽観的であらざるを得ないのだろう。でも僕ははっきりと
悲観的だ。どうして悲観的にならざるを得ないかは永井均の議論そのものが示していると
思うのだが、
「だから、考古学的視線とは、視線を向けることができないものに対する、不可能な視線の
別名なのである」
といった言葉に言語的詐欺性を感じるかロマンティシズムを感じるかで反応が
分かれるんだろう。
ああ、まさかと思っていたら、本当にそうだったのか…
しかし、それならますます、そこの箇所の何がおかしいのか理解できない。
例えば
>>177氏、
>>178氏のように、見ている(ことを記憶している)というのに色がないのはそもそも
おかしいのでは、とか、より細かく検討していった上で、本当におかしいところを指摘できるのならともかく。
ちなみに、この点については、一つには、ここでいう鳥の色は、幸福とか価値の比喩であって、普通の
色の話は当てはまらないのでは。価値から離れた観点というのは、色とは違って、考える余地があるの
では。というような反論が考えられるだろう。
182 :
Wittgenstein教:2008/03/09(日) 21:14:39 0
>>179 「根拠を示せ」とのことで、申し訳ありません。ただ、私は根拠を文脈の内に示そうとしていたのです。
書き直しますと
「色という観点でものをみない」などという言明は端的にナンセンスです。
なぜなら、我々がものを視るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
反例として、政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、
政治的観点でものを視るというのはナンセンスです。
>ところで「ものを物理的にみる」って、どういうことなのだろう・・・
私は「物理的にみる」というのを「視る」(五感の一つ、視覚の意)で用いました。
「見る」というと色々な意味がありますから。語彙が貧弱で申し訳ございません。
>>182 >反例として、政治的観点でものごとを思考することは可能ですが、
>政治的観点でものを視るというのはナンセンスです。
やっぱり意味不明ですね・・・
思考と視覚は無関係ということ?
無関係ではないと思いますよ。
人は自分の見たいものしか見えない、と言った哲学者もいましたね。
184 :
Wittgenstein教:2008/03/10(月) 14:49:56 0
>>183 >思考と視覚は無関係ということ?
そのようなことは主張していません。
>無関係ではないと思いますよ。
根拠を示して下さい。
185 :
考える名無しさん:2008/03/10(月) 17:57:22 0
186 :
Wittgenstein教:2008/03/10(月) 20:41:48 0
>例えば
>>177氏、
>>178氏のように、見ている(ことを記憶している)というのに色がないのはそもそもおかしいのでは
失礼ですが、私はそのようなことを主張したわけではありません。
>ちなみに、この点については、一つには、ここでいう鳥の色は、幸福とか価値の比喩であって、普通の色の話は当てはまらないのでは。
「幸せの青い鳥」といった言葉については勿論、仰る通りですね。
>>184 >>思考と視覚は無関係ということ?
>そのようなことは主張していません。
じゃあ、あなたが主張している
>我々がものを見るときに、何らかの観点に立って見ているわけではありません。
の意味をちゃんと説明してください。
>>無関係ではないと思いますよ。
>根拠を示して下さい。
>>185さんが指摘したように、カントのコペルニクス的転回以降は、
完全な模写説を主張するのは難しいでしょう。
例えば、見る視点を定めること、どちらの方向を見るか、等々について、
主体の思考が無関係であるとは考え難いですからね。
188 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 02:40:49 0
>>187 @私の主張は…
「Aの観点に立って見る」というのは「Aの立場で判断する」という風な
意味であり、視覚の意での「視る」という言葉について、
「Aの観点に立って視る」は意味を成さないでしょうということです。
「思考と視覚は無関係である」という意味ではないといったのは、
そのような一般的な主張は私にはできないと考えたからにすぎません。
189 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 02:57:58 0
>>187 Aあなたの主張の粗探しをするようになってしまいますが…
あなたの「カントの」から「考え難いですからね」までの主張はよく意味がわかりません。
1.「完全な模写説を主張するのは難しい」とのことですが、これをWittgensteinの模写説の意味で仰っているのでしたら、
私は模写説を主張していません。そして、そもそも模写説が完全であるとも考えていません。
2.「見る視点を定めることについて、主体の思考が無関係であるとは考え難い。」ということが事実であったとして
それがどのように模写説と関係しうるのでしょうか?
3.これは私からのお願いですが、「模写説」とか「カントのコペルニクス的転回」とかいった「いわゆる」が頭につくような言葉で議論のやりとりをするのは
やめませんか?せめて、その言葉をあなたがどのような意味で用いているのかを示してからにして下さい。
これはただ単に誤解を避けるためです。
190 :
考える名無しさん:2008/03/12(水) 09:22:18 0
カントみたいに「認識」と「直観」を分けるべきでは?
だいたいウィトちゃんはカントから影響受けてるし。
>>189 >あなたの「カントの」から「考え難いですからね」までの主張はよく意味がわかりません。
模写説(反映論)と構成説は、認識論の基本なので自分で調べてください。
192 :
Wittgenstein教:2008/03/12(水) 16:23:27 0
>>191 どうでもいいですが…あなたはきっと下のようにも発言されるのでしょうか。
「そもそも「哲学」という語は哲学の基本なので自分で調べてください。」
くだらないですね
>どうでもいいですが…あなたはきっと下のようにも発言されるのでしょうか。
すると思いますか?
194 :
Wittgenstein教:2008/03/13(木) 23:14:46 0
>>180 >そもそも永井均ともあろう人がこんな杜撰なことを書くわけもなかった。
とのことで、他の多くの皆さんも永井氏にご執心のようですね。
純粋に聞きたいのですが氏の、若しくは氏の哲学の「どこに」
魅力を感じられるのでしょうか?前々から不思議でした。
196 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 00:25:25 0
>>194 ウィトゲンシュタイン哲学を分かりやすく解説している。
197 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 01:53:17 0
>>196 なるほど。永井均氏の『ウィトゲンシュタイン入門』(筑摩書房)など読んでみましたが、
うーん。そうですか。まあ、そういえないこともないですよね。
ただ個人的には、野矢茂樹氏の解説の方がはるかに深みのある解説をしていると思います…
しかし、私がお聞きしているのは、永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうかということなのですが。
、
>>197 >しかし、私がお聞きしているのは、永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうかということなのですが。
野暮だね。
There is no accounting for tastes.
「永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうか?」だけでは余りに漠然としているから。
もう少し具体的に聞いてみれば、答えてくれる人がいるかもしれないが。
200 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 14:36:54 0
>>197 永井しか読んでなくて(しかも我流に)それを「哲学」だと思い込んでいる連中に
そんなこと聞いても無駄w
比較対象が無いんだもん。「野暮だね」ぐらいが精一杯。
>野矢茂樹氏の解説の方がはるかに深みのある解説をしていると思います…
そうかなあ?「『論理哲学論考』を読む」を指してのことかな。個人的には納得のいかない
説明が山ほど出てきて気に入らなかったけど。「哲学航海日誌」も良くなかった。
一応「『論考』を読む」から一例。文庫版同書31p、論理空間とは何かについて、「猫は可能性の了解を
持っているか」とか「私の偏見が正しければミミズは可能性の了解を持っていない」などといって認識論的な
話を始めるが、ウィトゲンシュタインが考えていた論理空間は、この世界がそもそもどうあらねばならないか
という存在論的な思考から始まっている概念なのだから、全く不適当な例だ。
のっけからこんな調子でほぼ全編に亘って違和感を感じた。これを「深い」というのは分からない。
少なくとも永井均の場合はこういう不適当な(また簡単に間違いを指摘できる)例は見当たらない。
202 :
考える名無しさん:2008/03/14(金) 16:16:31 0
>>197 2chでは時々こういう質問をするやつがいるが、「その人のスレまでわざわざのこのこ
やってきて、いったい何がしたいの?」と言いたい。
「なぜ意識は実在しないのか」は私がこれまでに読んだ哲学書の中で一番面白かった本だ。
204 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:39:35 0
>>199 >「永井氏本人の哲学の魅力とは何でしょうか?」だけでは余りに漠然としているから。
確かにそうかも知れませんが、この抽象的な質問に対して具体例を一つ挙げていただければ結構なのです。
たとえば、「永井氏自身が誠実な人だ」と答えがあったとすれば、「へえ」と納得します。
私の発言が大変反感をかっていますが、私は永井氏の哲学を愚弄したいためにあのようなことをいったわけでは
ありませんよ。純粋に「なぜ人気があるのだろうか」と疑問に思っただけです。
205 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:44:14 0
>>203 >>197は信者の怒りを買った
なるほど、そうですか(笑)皆さん、そこまで永井氏にぞっこんだったわけですね。
知りませんでした。
じゃあ失礼なことをいってしまったんだろうなと思います。すみません。
>>202 >「なぜ意識は実在しないのか」は私がこれまでに読んだ哲学書の中で一番面白かった本だ。
じゃあ暇があったら読んでみます。
206 :
Wittgenstein教:2008/03/14(金) 16:45:23 0
永井しか読んでなくて(しかも我流に)それを「哲学」だと思い込んでいる連中に
そんなこと聞いても無駄w
比較対象が無いんだもん。「野暮だね」ぐらいが精一杯。
>永井氏にご執心
>私の発言が大変反感をかって
? つまり自分に反応している人、自分以外のスレ住人は永井信者だと?
それはいわゆる2ch病というやつではないでしょうか
症状が進むと次は自分に反応している人が全員同一人物に見えてきますよ
>>207 2ch病じゃなくて、Wittgenstein教さんはネット初心者みたいな感じがする…
言葉遣いがウブだw
ネット初心者なんて今ごろいるのか
>>210 いるんだよ。世の中にはいろんな人がいる。
近くの図書館のネットを使ってると、年寄りでもないのに、
「インターネットしたことないんですけど・・・」
と係りの人に教えてもらっている人が、今でも結構いるんだよ。
ちなみにうちはそんなに田舎ではないよ。
>>210 「ネット初心者」ということにして
心の平静を保ちたいだけだろう。
痛いところを突かれたからな。
>>207 まあWittgenstein教も一人とは限らんけどな。
少なくとも煽ってる奴は複数いるw
どうでもいいことだけど、「なぜ意識は実在しないのか」の21頁の杉良太郎とマッチが似てる、がどういう事か解ります?
215 :
考える名無しさん:2008/03/30(日) 21:25:39 0
オレもその類比に何か深い意味があるかなぁって気になっていた。
さすがにあれは、ただのギャグなんじゃないの?w
ギャグというか、たんに、意外な類似を発見したと言いたいだけだったのでは。
217 :
考える名無しさん:2008/03/30(日) 22:26:42 0
最先端ギャグ?
永井氏本人に聞けば、一応の応答は用意しているだろうけど。
いや、最先端というか、たんに笑えたんだけどw
どちらも有名人だけど、ジャンルなどが違うから比べてみたことがなくて、でも言われてみると、
おお、なぜか顔だけそっくりじゃないかw
…って、なんか違いますかね…
219 :
考える名無しさん:2008/04/04(金) 21:04:09 0
新シリーズ『岩波講座・哲学』全15巻に永井先生も書くみたいだよ。
第2巻 形而上学の現在
T 形而上学の核心
1 なぜ世界は存在するのか 永井均(日本大学)
220 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 00:23:52 0
>>220 「本講座は予約出版です.全巻お申し込みの方にお頒ちいたします.
(申込締切 7月31日)」とのこと。
永井的には、「なぜ世界は存在するのか」は、「なぜ私は存在するのか」と、なんか違うのかな?
同じのような気が。
223 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 13:22:32 0
>>222 私が存在するから、世界が存在していることがわかる。
224 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 14:08:04 0
はじめてきたんだけど、、結局、真理はだれにもわからなくって(或いは誰にでも都合のいいものがあって)、
でも実際の世界で哲学的なこといえば途端にきもち悪がられて、哲学的思念を
自分の存在の根拠・裏づけみたいなものにして(武器にして)生きていくのは無理なの?
何も考えない人に、「そんなこと考えても、まともに生きられないならあんたはおかしい」
と一蹴されて、それで終り?あー・・・人生を半分おりたいなあ・・・
225 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 21:04:07 0
>>224 あなたは哲学塾カントに行きなさい。
永井先生も哲学塾ニーチェとかやってくれないですかね。
誤爆?人生降りたいなら、中島義道スレへどうぞ。
あのスレも機能してないかもしれないけど。
227 :
考える名無しさん:2008/04/05(土) 22:31:41 0
なんだかみんながみんな便宜的に生きてるよねえ。自分自身の根拠みたいなものも知らず知ろうとせず、
事物の原理も知らず、とりあえずとりあえずで生きている。理由はわからないけど、とにかく(とりあえず)
こうなっているんだ、と。そういう社会がいわゆる「まとも」なら、どっちがまともかわからんなーっていう。
>>227 素朴な疑問は、どうして生きる理由がなければ“ならない”のか?ということ。
227さんが言うように人々が『自分自身の根拠みたいなものも知らず知ろうとせず、 事物の原理も知らず、
とりあえずとりあえずで生きている。』というのが正しいのなら、生きる理由が無くても(明白でなくても)
人は生きていけるという事を示しているのではないか。
だとすればこの時、「生きる理由」とは何の役に立つのか。或いは何の役にも立たなくてもそれはカントの言う
ように、ある“べき”ものなのか。(しかしこの場合の“べき”とは何なのか。)
(原理や根拠を問わない)社会のあり方を非難するのはむしろ哲学的ではなく、政治的だろう。
227さんがこの社会のあり方に不満があり、かつそれを(自分の理想的方向に)変えたいのなら
哲学ではなく政治をお勧めする。
229 :
考える名無しさん:2008/04/06(日) 22:41:04 0
“みんな”って誰?
230 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 03:42:48 0
"勝手批評"って馬鹿?
231 :
考える名無しさん:2008/04/07(月) 04:10:43 0
いや、ウ○コ
永井氏の著書(確か新書)で、「夢を見ながら死ぬと、その夢が現実となる…」
みたいな記述があったと思うんですけど、なんの書籍だかご存知の方いますかね?
>>232 直接そのように書いている箇所は、あまり思い当たらないのだけど…。
ひょっとして、野矢茂樹『哲学の謎』32頁では?
「例えば君と部屋で雑談している夢を見ている。ところがそれは死ぬまぎわの夢で、夢を見つつ、
死んでしまう。そのとき、それはその人にとってもはや夢ではない。」
>>233 あなたが神か。
今哲学の謎引っ張り出してきたらそうでした。今思えば「哲学の謎」と「私・今・そして神」を同時期に読んでたんだ。
ありがとうございました。
235 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 23:10:31 0
死刑も「越権」か?
236 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:31:31 0
ちょっと訊きたいことがあるんだけど、「私をわたしたらしめている何か」って何だと思う?
脱人格的自我でもなければ、いったいなんなんだ?永井さんの本読んでて、結局結論が難しい。
自分と同じコピー人間が目の前に居るとき、それはまったく同じ僕であるけど、明確に僕ではありえない。
僕を僕たらしめてる何かを教えて下さい。社会的にではなく、存在として。
237 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:39:27 0
「私」の第0次内包
238 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:46:00 0
>>236 >自分と同じコピー人間が目の前に居るとき、それはまったく同じ僕であるけど、明確に僕ではありえない。
>僕を僕たらしめてる何かを教えて下さい。社会的にではなく、存在として。
自己意識じゃないの?
目の前にいる自分のコピー人間を、「それは自分だ」と思ったら病気だろ。
「そのコピー人間を見ているのが自分だ」と思うのが健康な自己意識。
239 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:51:54 0
>>238 永井的には、そのコピー人間も自己意識を持っているのに、なぜ私が
こちら側の人間なのか、ということが疑問なんじゃないの?
240 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:57:46 0
>>239 コピー人間の自己意識がどんなものかは、知りえないよ。
241 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 13:59:38 0
>>240 コピー人間も同じことを言うわけですね。
242 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 14:04:49 0
>>241 同じことを言っても、事の本質は変わらないんだよ。
永井の問題意識なんて考えてるから混乱するんだよw
「私をわたしたらしめている何か」なんて簡単なことだろ。
今ここでこれを考えつつあるのが「私」だ、で明快だと思うが。
243 :
241:2008/05/04(日) 14:09:16 0
>>242 まあ、正直言えば、私もそれでよいと思っているが。
と言うより、永井は、「なぜ私は他の人間ではなく、こいつ(永井均)なのか」という問いには、
「偶然」とか「わからない」と言っているので、
>>236氏が永井の本を読んで、なおその理由を
質問するのは、このスレ的には困るとしか言いようがないのではw
あるいは、もう少し質問の趣旨を説明してもらったら、何か永井的な答えようが出てくるかも。
永井は結局語り得ないものの語り得なさを語ってるねぇ。
246 :
考える名無しさん:2008/05/05(月) 23:28:30 0
語りえないものってなんですか?
247 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 00:28:16 0
「たぶん、きみをきみとして存在させているものなんて、ないのさ。だから、きみの存在には、
どんな必然的な理由も原因もないんだよ。でも、それは悲しむべきことじゃなくて、驚くべきこと、
歓喜すべきことじゃないのかな。だって、きみの存在は一個の奇跡だってことだからね。」
(翔太と猫のインサイトの夏休み 95頁)
248 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 16:54:33 0
>>236です。
>>239氏が言ってる事を訊きたかった。相手(考え方も容姿もしぐさもみな同じコピー人間)も、
明確に「目の前のは俺じゃない」って思ってるって事は、肉体的なもの・精神的なものが自己を決定してるのではない、
ってことでしょ?ヴィトゲンシュタインは語るな、って言ったのかも知れないけど、
その何か、こそが一番重要だと思うけどなあ・・・。そこで「まあ、それはいいでしょ」って放り出してたら、
もうみんなどうでもよくなってくる・・・。思想になってしまう。「哲学」をするとき、「自分は何か、何が自分たらしめているのか」
という特異性(idiosyncrasy)に着目したいので、訊いてみました。ここにいる方々でも難しいとなると、、難しいな。
249 :
のぶお:2008/05/06(火) 18:11:15 0
なぜXが自分なのか?
なにがXを自分として存在させたのか(存在させているのか)
という問いは、問い自体が実は回答を拒絶しているのでは?
「なにが自分を自分たらしめているのか」という問いに
一般的性質Xを回答としてもってくることはできないですよね。
なぜならば、一般的性質Xを回答としてもちだした瞬間に、
その性質Xが自分なのはなぜなのか?という問いが
かならず提出されるから。
そもそも問いはそのようなさらなる問いをもちだすことができないような
回答をこそきたいして問われていたはず。
しかし説明というものが、一般的な性質を持ち出すことでなりたっている
のなら、その種の問いに答えることははじめからありえないという
ことにはなりはしませんか。
もしそうなら、その問いに対する回答は
”一般的性質に還元不可能なもの”でありかつ、”それがなぜ私なのかという
さらなる問いを問われないような究極な水準にあるようななにか”
という条件をみたすものでなければならないわけですが、
そのようなものをそれとして提示できるのでしょうか。
あるいは、そもそも問い自体が間違っているということなのかもしれません。
250 :
とおる:2008/05/06(火) 18:33:14 0
人間は弱い生き物です。
口実を作り
逃げ道を探す。例え心で葛藤があったとしても
逃げ道には
なかなか勝てないもの。2ちゃんねるは楽だし
現実のプレッシャーから逃れられる、考える必要もない
こんな魅力的なことは他にない。これ等と比較し、現実に立ち向かう理由は
極めて困難であり、面倒、堅苦しい、辛い現実プレッシャーそのもの
そんな態度からでしか何事も始めることができないから
あなた方は何時も挫折してしまう。嫌々は嫌々
251 :
ひろし:2008/05/06(火) 19:06:31 0
否定ばかりしてちゃ駄目、じゃ、どうするか
ヤル気の出る条件を逆に辿れば自ずと答えは見つかる筈
君達は何故2ちゃんねるをやるの?
楽しい?
必要性だとか何等かの理由、動機付けの条件があるからこそ辞められない。
簡単だよね。環境を意図的に作りだして操作してしまえばいい
自発的な行動環境を整えることから始めようじゃないか。
楽しむ条件を作り、予測し、結果を確認する。
環境さえ整えば人間は必然と足が動くもの
順応性は本能だ
252 :
考える名無しさん:2008/05/06(火) 22:28:44 0
あなたがあなたであるという事実は、あなたにおいてしかない。
これを納得できれば、他人に「自分が自分である根拠」などと質問する
ことはなくなる。
253 :
244:2008/05/06(火) 23:24:56 O
>>248 一つ言うと、(少なくとも私は)別に「まあいい」と放っておいているわけではないのだけど、
現時点では永井の本を読んでもわからない、という趣旨。
>>247氏の引用のような一節もあるし、
『私・今・そして神』の150頁では、「他の人間たちが私でないのはなぜか」という問いが
手付かずで残っている、哲学はまだ始まっていないのではないか、とされている。
だから、その問いに永井的な答を求めようとしたら、永井がそのような新刊を出す日を待つwか、または、
自分で議論を展開させる必要があるんじゃないですかね。
254 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 01:15:40 0
だから、「私」の第0次内包というのが答え。
宇宙が、宇宙でないものでないのは何故か、
という問いと同じですね。
個人的には、自分にこだわる独我論哲学には感心しません。
>>236 コピー人間が僕ならば、それはコピー人間ではなく僕だし、
明確なコピー人間なら、それは僕ではない、
というだけですよね。
時空間内のある一定領域に「僕」と「僕のコピー」という
二つの記号を割り振っているだけです。
257 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 02:26:00 0
「コピー人間に意識があると思っている」ということと
「コピー人間に意識がある」ということは別のことなのか?
258 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 02:32:37 0
>>256 時空間内のある一定領域にAとBというふたつの記号を割り振っているのと同じことなのか?
259 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 03:45:34 0
自己と他を分けるのは皮膚感覚だよね。
僕を僕たらしめてる何かとは、連続的な記憶だよね。
と言った人が永井さんでしたっけか?。
>>254 私の第0次内包というだけでは、答にならないように思われる。
私の第0次内包は、〈これ〉としかいいようのないもので、現実にはたまたま永井均であるが、
アサファ・パウエルであることも可能とされている。そうだとすれば、当然、コピー人間のほう
であることも可能と思われる。
だから、さらに「なぜコピー人間ではなく、こいつのほうが私なのか」という問いがあるなら、
その答にはならないんじゃないかと。
261 :
考える名無しさん:2008/05/07(水) 16:45:42 0
>>236の問いは、「私をわたしたらしめている何か」ってことでしょ。
「永井均」は第2次内包。
第0次内包は<これ>であり続ける。
>>261 そのへんになると、「私をわたしたらしめる」ということの意味あいが問題になるのかと思われる。
261氏のような言い方を徹底するのなら、私はただ〈これ〉であり、一人の人間だとするのは
本当は不適切だ、だから「私はなぜコピー人間ではなく、この人間なのか」と問うのも、一人の
人間であることを前提としている以上、本当は不適切だ、というようなことになるんでしょうかね。
しかし、そう考えてみても、今度は、「そうだ、私はただ〈これ〉であり(ry」という同じことを、
他人も他の時点の私も言い出すことになる。そこで、結局は同じような問題になるような気が。
「私をわたしたらしめる」という問いは、
因-果の説明からわたしを外した設定ということなのだから、
その設定で因-果的な説明を書けというのは、
最初からナンセンスな問いではないか。
264 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 01:13:47 0
因果を越えた本質を問うても因果を越えているのだから問い自体が成立しない。
いや、何らかの問いは成立しているのであろうが、所詮は因果からの類比に過ぎず本質への問いではありえない。
265 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 01:34:45 0
>>262 >今度は、「そうだ、私はただ〈これ〉であり(ry」という同じことを、
>他人も他の時点の私も言い出すことになる。
同じことを言っていると認める必要があるのでしょうか?
266 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 01:48:15 0
私は私。
<これ>は<これ>。
私は<これ>ではない。
>>265 もちろん、〈これ〉は本当は一つしかない。(「一つ」という表現も本当はまずいんだろうか?)
だから、他人や他の時点の私が何と言おうと、同じことではない、と、言おうと思えば言えるんでしょう。
しかし、そうすると、まさに↑こう書いたような考え方を、私ではなく永井均という他人が
書いた本から学んだということは、どう説明されるんでしょうね?w
そういうところで、やはり、同じことではないと言い切ることは、できないのでは。
あと、素朴な疑問としては、他人はともかく、過去の私が書いた〈これ〉(例えば私にとっては
>>262)
が、今の私が書く〈これ〉と同じものでは全くない、と言い切るのも、どうかと。
268 :
考える名無しさん:2008/05/08(木) 20:44:53 0
沈黙するしかないのでは?w
269 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 21:45:13 0
>>248 です。ありがとうございます。でも、僕の勉強不足もあり理解が難しいです。
基本的に言語的表現的にむずかしいことが判らないとき、
「その世界ではそれが常識だけど一般的じゃないから知らないし、それは受けての勉強不足が悪い。」
と思っている僕ですが、ちょっとさすがにここでの議論は、意味が判りません。
「難しい事をやさしく、やさしいことを深く」「本当に理解してる人は赤ちゃんにもわかるよう簡単に説明できる」
などと俗っぽいことを言うのも気がひけますが、せめてメタファーを巧みに使ったりしてウィットに富んだ議論でないと、
違う言語を使って話していることになると思います。みんなが同じ土台ではないので、できる限り分かり易く議論していただければ、
理解も深まります。自分の不甲斐無さを転化したようで申し訳ございませんが、何卒宜しくお願いいたします。
270 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 22:09:10 0
>>236 時系列的記憶と皮膚感覚です。
とは、永井のおっさんの言葉だったかなぁ。
271 :
ラプラスの悪魔:2008/05/09(金) 22:11:08 0
ま、皮膚感覚こそが、内的世界と外的世界を分ける境界なんですお。
たまにはセミコテ(トリップなしのコテ)を入れとくかw。
272 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 22:30:46 0
麻酔や幻肢となると、皮膚感覚より視覚の方が強くなる気がするが
273 :
ラプラスの悪魔:2008/05/09(金) 22:38:09 0
幻覚や幻肢は理解しようがない五体満足・実生活満足なので、
共感不能でつ。
274 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 22:42:36 0
麻酔は
275 :
ラプラスの悪魔:2008/05/09(金) 22:48:19 0
>>274 たまに変な格好して寝てて、まったく腕の皮膚感覚がないいままに
腕を動かすときは、ぞっとするよな。w
皮膚感覚がなけりゃ、全く夢と同じだ。
276 :
考える名無しさん:2008/05/09(金) 23:06:13 0
>>275 直前に寝てれば夢と思うだろうけど、同じ麻酔効果では長い間の正座があるな
足の感覚がなくなったまま歩き出すとき、夢と同じ状態とは思わない
むしろ特異な現実感に釘付けにならないか?人によるかな
で、こういう状態で歩こうとする時、ない足の感覚を補填してるのは何なの?
「皮膚感覚」なんて考え方を、永井がどこで使ってる?
永井の議論と関連させる気がないなら、よそでやれ。
>>269 用語がわからないという疑問なら、永井の本を読むしかないと思うけどねえ…。例えば
「私の第0次内包」や「〈これ〉」は、最新刊にしか出てこないので、読んだことがなければ、
わからないのは当然だし。(既読ならすみません)
逆に、必ずしも永井の議論自体をたどるのでないのなら、269氏は、具体的にどういう疑問を持っていて、
それに永井の議論がどう関係しそうだと思うの?
>>236、
>>248のような疑問に、永井を勝手にちょっと利用して簡単に(?)答えてみると、例えばこんな感じだろう。
私はA(仮名)という人間だけど、他人に「あなたがAである根拠は何か」と聞かれたら、「何を聞いて
いるのかわからんけど、とりあえず、ここ、つまりAの目から見てるし、Aの体を動かすし…」とでも
答えてみる。「あなたの隣にいるBでないといえる根拠は?」と聞かれたら、「そんなこと言われたって、
Bの目から見えないし、Bの体を動かせないんだから、当たり前だろう」と答える。
279 :
278:2008/05/10(土) 08:35:11 O
(続き)
さらに、「実はBはあなたのコピー人間なのだが、それでもあなたはBではないのか」と聞かれても、
「そんなこと言われたって、Bの目から見えない等々のことは、変わらないだろう」と答える。
これは、もちろん永井的な議論とは全く離れるけど、逆に、永井的に議論したり、その他
あれこれ考えるのでないのなら、普通はこれくらいの答で十分なのでは?
このような答(もちろんこれは私が勝手に適当に作った答なので、他に普通に考えられる答があれば
よりいいんですが)では足りないとすれば、何がどのように不足していると考えるの?
(ちなみに、これは勝手に適当に作った答だけに、ちょっと考えただけで、不十分な点が
見つかると思われるw
例えば、私の体は本当はBの位置にあるのだが、知らないうちに特殊な鏡のような装置などを
取り付けられているため、私は「Aの目から見ている」と思い込んでいる、とか。)
割り込みゴメン。
永井が今日の朝日新聞の朝刊でお悩み相談やってるねw
「こころ」欄の「悩みのレッスン」wってコーナーで作家になりたいという夢はあるが
勉強が手につかず空しい毎日を過ごしてる中学3年生の相談に答えてる。
永井がレギュラーなのかはわからないけれども、「あなたの悩みを一緒に考えます」ということらしいから
おまえら悩んでるなら投稿してみw
な、なにぃ!?
「最近、どうしてもわからないことがあって、夜も眠れません。
本当に、われわれはゾンビだと考えなければならないのでしょうか。」
とか質問してもいいのか!?w
282 :
のぶお:2008/05/10(土) 20:07:11 0
>あなたがAである根拠は何か
この問いは少なくとも2つの意味に解釈できる。
@あなたが自分はAであると判断している根拠はなにか?(認識論的問い)
(あなたは本当にAなのか?BやCやDではなくAであるといえる根拠は?)
AあなたがAであるのはなぜか?(存在論的問い)
(あなたはなぜBやCやDではなくほかならなぬAとして存在しているのか?)
これらの問いは、あなた(自分)とA(個体)との結びつきの根拠を問題としている。
と同時に、あなた(自分)とはなんなのかという問いを不問にしている。
そこで、そもそもわたしとは何か?
という問いがでてくる。
わたしがAであるにせよ、実はBであったにせよ、またわたしがAとして
存在していることに理由があるにせよないにせよ、そのわたしとは
そもそもなんなのか?
この問いは、わたしが存在する理由を不問にしている。
そこでさらなる問いとしてそもそも、なぜわたしは存在するのか?
という問いがでてくる。
283 :
考える名無しさん:2008/05/10(土) 21:28:47 0
>あなた(自分)とはなんなのかという問いを不問にしている。
不問にしてみると、ということであろう。
285 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 21:01:23 0
>永井がレギュラーなのかはわからないけれども…
レギュラーだよ。
一ヶ月前にも、高校生の相談に答えている。
235は、それへの突っ込みと思われ。
ひょっとして、地域面(30、31面)?
いや、うち(千葉)の朝日新聞5月10日朝刊を探したけど、見当たらないので…
287 :
考える名無しさん:2008/05/11(日) 22:00:59 0
208はおそらく田舎(=夕刊のない地域)者だろう。
都会(=夕刊のある地域)では前日(金曜)の夕刊だよ。
288 :
286:2008/05/11(日) 23:07:33 O
どうもです。おかげで見つかった。
…しかし改めて思ったけど、普通の中高生の悩み相談に永井が答えるって、思い切った企画だなあw
何となくヤフーで検索したら、永井の前回の相談を引用してる人がいて、内容がわかった
(引用が間違ってなければ)
>>235氏の指摘がどういう趣旨なのかは、よくわからないけど。
290 :
考える名無しさん:2008/05/21(水) 10:20:21 0
この夏は、朝日カルチャーセンターに出ずっぱり…
8/9 が横浜で「存在について」。
8/20,27,9/3 は新宿で「なぜ意識は実在しないのか」。
>>290 新宿のほうは、けっこう本格的ぽいですな。
しかし平日じゃなあ…
292 :
考える名無しさん:2008/05/24(土) 00:46:35 0
でも、夜だよ。
293 :
考える名無しさん:2008/05/24(土) 16:58:56 0
夜って何時?
安藤馨(←この人の生年月日を見て衝撃を受けた)が『統治と功利』の
なかで言ってる「時点主義」とか「人格なきあとのリベラリズム」って話は、
永井均が言ってることに近いのかな。全然違うかな。
例えばこのあたり。
>この世界には瞬間瞬間の「私」が存在するだけであり、時空を超えた
>「個人」の「アイデンティティ」や「主体性」などというものは――「集団
>的アイデンティティ」や「集団的主体性」と同様に――荒唐無稽な
>フィクションである。「昨日の私」は「今日の私」とは異なる。さっきの私
>は今の私ではない。だから約束を守る必要もない。「過去の私」が
>したことに「現在の私」が責任を負う必要はないし、そうすべきいわれも
>ない。
その記述に限って言えば、
単一だと考えられている人物を時点について断片化して複数の人物もどきにしてるんだと思うけど、
その時点についての人物もどき同士は対等に語られているようにみえる。
だけど永井は時間については現在の特権性みたいなのを執拗にまた明確に語ろうとしているんだと思う。
でもどっちもパーフィットの影響は受けてる多分。
296 :
考える名無しさん:2008/05/25(日) 10:47:46 0
>>293 朝カルは、水曜3回で、いずれも 18:30〜20:00 ですな。
>>294 本全体を読まないと何ともいえないのだけど、そこで引用された限りでは、字面や主張内容が
ある程度似ているけど、全体的には結構違うことになりそうな気が。
まず、単純に気付いたのは、その引用部分には、私と他人の対比が出てこない。約束や責任といった
話なら、永井的には、一般的に他人が約束やルールを守ったり、責任を負っているからといって、
私がそうしなければならない理由はないのではないか、という論じかたになるのでは。
この論じかたには、別に時点主義といったものは関係ないと思われる。
逆に、そこで言われているような時点主義を採用したとすると、永井的な議論とは関係なく、
時点主義以外の点で普通に道徳的に考えても、責任を負わないことになるのでは。つまり、
「私の特別さなどは主張しません。私も他の人たちと同じように、私がした約束は、守らなければ
なりません。しかし、昨日の私と今日の私が同一などということはないので、昨日の私の約束は
今日の私の約束ではなく、よって守る理由はありません。」という主張が成り立つのでは。
298 :
297:2008/05/25(日) 16:27:45 O
(続き)
また別の面からいうと、永井の議論に出てくる利今主義は、過去・未来の私と今の私を対比して、
今の私が過去・未来(未来だけ?)の私の利益を考慮する理由があるだろうか、という議論で、
他人との約束などとは場面が違うのでは。
いや、これはあくまで単純な感想なので、背景となる考え方などまでみると、共通なのかもしれないけど。
「なぜ悪い事をしてはいけないか」って本読んだけど
意外と永井さんって口悪いというか容赦なく批判するんだねー
ちょっと怖かったよ
>>299 大庭健にやたらとからまれてむかついてたんじゃないか。
「もう俺にからむな、ほっといてくれ」みたいなこと書いてなかったっけ。
まあでも他の本でも、他人の意見に触れている時は、ボロクソなことも結構多い気がw
最近出た岩波講座の『心/脳の哲学』に、『なぜ意識は実在しないのか』に何か関係することが
ないだろうかと勝手に期待していたら、見事に何も関係なさそうなので、勝手にがっかりした。
もちろん、そんな期待を勝手にするほうが悪いんだろうけど。
『形而上学の現在』は、いつごろ出るんでしょうね。
ふんふん。
岩波も今時は新カント主義に逆戻りか?
カッシーラーとハイデッガーのダヴォス討論、出版されてんだな。
再販しねえかな。
306 :
考える名無しさん:2008/06/12(木) 20:14:10 0
>>306 朗報ですな。てっきり、1年くらい先になるもんかとw
そういえば、『感情とクオリアの謎』の中で、三浦俊彦氏の「人間原理的クオリア論」が、
『なぜ意識は実在しないのか』にちょっと触れているけど、あれはそもそも議論・批判として
噛み合っているんだろうか。
三浦の十八番
たんに自分の十八番に引っ掛けただけなんですかねえ?
それなら、別にわざわざ言及しなくてもいいような…
310 :
考える名無しさん:2008/06/28(土) 22:17:34 0
「現実性について」が出た。
>そういえば、『感情とクオリアの謎』の中で、三浦俊彦氏の「人間原理的クオリア論」が、
>『なぜ意識は実在しないのか』にちょっと触れているけど、あれはそもそも議論・批判として
>噛み合っているんだろうか。
ちょっと触れているだけならここにその部分を引用しなさい。
312 :
考える名無しさん:2008/06/28(土) 22:38:39 0
「現実性について」?
313 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/06/28(土) 22:50:48 0
永井のおっさんも面白いよな。
今日も愉快じゃ。
>>310 でたの?。解体な、読みたいな。
314 :
考える名無しさん:2008/06/28(土) 23:50:35 0
>>311 触れているというか、もう一人の誰かといっしょにバッサリと・・・
315 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 11:36:04 0
永井均「現実性について」は、『精神科学』第46号、所収(51頁〜65頁)。
これは、非売品でしょう。
つまり、ただですが、本屋では売っていません。
大学図書館なら置いてあるでしょう。
これは、面白いです。
170頁の注(11)で、別の人の論文についていろいろ指摘されていて、その中でちょっと出てくる。
まず「世界五分前誕生仮説[Russell、1921、p159]同様、非ゾンビパートが完全であるかぎり
ゾンビパートは察知されない(これを捉えそこねた例として[永井、2007、107頁])。ゾンビ状態を、
無クオリアの経験(闇と無音の経験)のように想像してはならない。」とされている。
続けて、2章全体が、「ゾンビの無内面性に対する誤解によってつまずいた例である。」とされている。
これだけでは、ちょっと何のことだか…
317 :
316:2008/06/29(日) 12:00:44 O
319 :
考える名無しさん:2008/06/29(日) 15:49:52 0
320 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 09:16:48 0
で『精神科学』ってなに?
そんな雑誌がある?
聞いたことないけど…。
日本大学哲学研究室の紀要みたいのらしい。
一瞬ディルタイの学会とかが出してる雑誌かと思った。
日大(笑)
そんなローカルな話されてもな。
323 :
322:2008/06/30(月) 10:56:44 0
ならそのうち(重要なら)再録されるからいいや
と思っただけで馬鹿にしたわけじゃないから。
日大の人気にしないでね。
324 :
考える名無しさん:2008/07/01(火) 19:44:03 0
>そんなローカルな話されてもな。
日本では、欧米のような哲学の専門雑誌がないので、
殆どすべての学術論文はどこかの大学の紀要に載ることになってる。
だから「ローカルな話」をしないと話にならないのでは?
326 :
考える名無しさん:2008/07/03(木) 17:52:27 0
327 :
考える名無しさん:2008/07/03(木) 18:23:48 0
のぞき屋の議論はいまいち噛み合ってないな。
開闢は例えば歩いていて突然夢遊病になり、その後に目覚めた時意識無かったことに気付くでしょ?って話だろ?
のぞき屋はラッセルの仮説持ち出して(開闢の議論はラッセルの仮説否定が既に前提されているんだが無視)、現在に過去が補完されてればゾンビは察知されないよ〜。
ゾンビは無クオリアの経験(誰もこんな風に言ってないが勝手にそう解釈)じゃなくて経験から外れるものだよ〜と都合良く勝手に定義。
用語とか他人の議論がこうも自分に都合良く勝手に正にファインチューニングされてたんじゃ噛み合うわけない。
三浦氏の指摘はよくわからないと思うけど、それはそれとして、「他人と違って、過去の自分が
ゾンビだったら、そうだとわかる」という話は、本当だろうか。
例えば「過去の自分はトマトが青く見えていた」だったら、素朴に考えてもありそうなことだけど、
「過去の自分はゾンビだった」というのは、どういうことだろう。
例えば、ゾンビではなかったが記憶が全くない状態と、区別できるんだろうか。
331 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 00:33:28 0
過去の自分がゾンビだったらそうだとわかる、ということではなくて、
過去の自分がゾンビだった、という現在の経験がありうる、ということだろう。
他人の場合には、ある他人がゾンビであるという私の経験というものはない、のに対して。
実際にゾンビだったかどうかこの論点と関係ない、というところが面白いところでは?
332 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 00:49:21 0
例えば、1年前の今日の記憶が全然なかったとしても、ゾンビだったとは考えないでしょ。
333 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 00:56:26 0
「私・今・そして神」の58-59頁に出てくる「昨夜私創造説」では、かつての私がゾンビで
あったことは知りえないと論じている。
334 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 01:17:02 0
それは何語?。
335 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 01:18:28 0
>かつての私がゾンビであったことは知りえないと論じている。
意味ワカメ。もうちょと正確な国語力で頼むwwwwwww。
詩的学問は哲学の範疇外だよwwwwwwwwwwwww。
336 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 01:21:03 0
>>335 もうちょっと、しっかりした読解力で頼む。
337 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/07/05(土) 01:24:07 0
>>336 そうなのか?。w
いささか乱暴すぎる表現には付いて行けないな。
とりあえず私・今・ほにゃららはそこから後悔の神やらなんやら議論が続いていくでしょ?
昨夜私創造説は議論の過程で試論として持ち出されただけで結論じゃないっしょ。
339 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 10:23:49 0
>>332 記憶の欠如とクオリアの欠如の記憶とは違うだろう。
ゾンビはクオリアの欠如に過ぎないから、
非クオリア的(概念的)なものの記憶は普通にあるのではないか?
だからといって、かつての自分がゾンビであったことを
「知り」うるわけではないだろう。(
>>333)
340 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 10:43:52 0
自分がゾンビであるなど何時になっても知りえないだろ。
存在しないものごとに気がついたり知覚することは無い。
たとえば、「昨日一日の記憶が全くないが、他人に聞いても
客観的な状況を見ても意識があったとしか思えない(他人と会話して
いたとか仕事がちゃんとやってあるとか)」場合は
1.昨日一日自分はゾンビだった。
2.昨日一日分の記憶が後から欠落した。
のどちらであるかの判別は不可能であるとしても、1.である可能性も
否定できない、ということではないのですか?
>>331のように、新刊107頁の話の中心は、意識に私秘性はあるが今秘性はない、今の自己は
過去の自己と現象的につながっているのでなければならない、というところだと思われるので、
過去の自分がゾンビであるとは実際どういうことかは、あまり問題にされていないのかもしれない。
少なくとも該当箇所では。
他の本とかを合わせると、例えば、昨日の私は本当はゾンビだったのに、昨日の記憶を持たされてしまって
いるのでそれとわからない、なんてことがあり得るだろうか、とか、いろいろ妄想が膨らむけど。
(何が「妄想」なのかというと、このように言おうと思ったら、本当は、ここでいう「ゾンビ」とは
どういう意味か(新刊に出てくる「ゾンビ」には何種類も意味があるらしいので)などを含めて、
新刊と他の本の細かい違いなど、話を詰めなければならないと思われるので。)
とはいえ、該当箇所に
「他者がゾンビでも決してわからないけど、自分が過去のある時点でゾンビだったら、
現在の自分がそのことを知ることが可能なのです。」
とあるので、この箇所自体はどう読めばいいんだろうか、とは思うけど。
ちょっと読むと、過去のある時点で何もない状態(?)であったことがわかる、というように読めるので。
344 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 18:48:15 0
>>331 >過去の自分がゾンビだった、という現在の経験がありうる
具体的に説明してもらえる?
345 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 18:49:40 0
>>339 >非クオリア的(概念的)なものの記憶
それはどのようなものですか?
なんかのびてんね。
非クオリア的なものの記憶じゃなくてクオリアの欠落に気付くってことでしょ?
例えば自分が眠ってたことを知るのは目覚めたときであってかつ眠る前の記憶がある。
その記憶と現在の自分との自己同一性を確認できる場合でしょ?
でもその記憶がラッセルの議論のように五分前とかあるいは今作られてたらどうなの?ってことが問題であって
永さんは私的言語とか時間論とか可能世界とかいろんな議論を経由してそれを退けてるんじゃないの?
347 :
考える名無しさん:2008/07/05(土) 20:35:49 0
>>342 >昨日の私は本当はゾンビだったのに、昨日の記憶を持たされてしまって
>いるのでそれとわからない、なんてことがあり得るだろうか
新刊84頁の「私の・意識」という二段構成を認めてしまった次元では
あり得ると言わざるをえないのでは?
毎週水曜日には意識がないと考えることもできる。
348 :
考える名無しさん:2008/07/22(火) 17:08:25 0
ラジオ・メタフュシカ の『意識の神秘は存在するか』
だれか文字おこししてくれてないのかなあ?
自著のなかで、「新聞やテレビや、学者や評論家を、絶対に信用しちゃ
だめだよ。」って書いてるのに、新聞上で人生相談みたいなことをしている
のはなぜ?永井流の倫理からすれば、どのような形式であれ新聞上で
公に語られているようなことは決して信じてはいけないんじゃないのか。
>>349 永井はそれを書いた時点で学者じゃなかったいの?
351 :
考える名無しさん:2008/08/06(水) 07:00:09 0
>>349 自分の言ってることも信じるな、と言っているのではないか。
適当に考えてみた。
1.宗旨変え(?)をした
2.351氏のとおり(実際、349氏の指摘は『翔太と(略』文庫版255頁だと思われるけど、
10頁には「インサイトが語ることに説得力を感じなければ、それを信じ込んではいけません」とある)
3.新聞等を信じてはいけない理由としては、「世の中で通用するようなものは、大事なことを全部
はしょってあるから」「本当に学ぶことができるのは、自分に固有の体験を通じてであるから」というようにされている。
だから、永井の人生相談は大事なことをはしょっておらず、自分の体験を通じて学ぶのと同様の価値が
あるのだとすれば(永井の相談に限らず、そういうものがあるとすれば)、信じてもよいことになる。
(これは無理があるか)
4.とにかく永井だけは例外である(冗談ですw)
>>352 そういや、大体「自分の体験を大事にしなさい。体験することで新たな境地が拓かれる」みたいなこと書いてるな。
もう一つ思い付いた。永井的には、むしろこれを第一に思い付くべきだったか?
5.永井は、自分がしたいこと・自分にとって良いことを、その時点の今ごとに、言っているだけである。
新聞・学者等を信じてはいけないということも、最近の新聞の人生相談も、表面的には他人に対する
アドバイスかつ時点を通じて成り立つ内容であるかのように見えるが、実は、永井にとっての自分・今に
ついて、言いたいことを言っているだけである。
よって、それを聞いた他人が矛盾しているなどと言っても仕方ない。
(これならある意味一貫性はあるはずw)
355 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 00:43:25 0
>>534 誰でも自分のしたいことをしているということはトートロジーなのでないか。
356 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 01:03:50 0
「人は利己的である」ということはトートロジーである。
どのように利己的であるかがその人の人格に現われる。
この前の人生相談では、他人の立場に立つことは、自分を成長させると書いていた。
357 :
考える名無しさん:2008/08/08(金) 21:21:30 O
「なぜ世界は存在するのか」が収録された『岩波講座 哲学 2 形而上学の現在』発売記念age
>>354 批判ありきで、取って付けたような書き込みは見苦しいのだが。
「第一に思い付くべきだった」のに第一に思い付かなかったなら、単なる愚か者ですよ。
>>358 ? 「批判ありき」というのは…
今までの著作で新聞・学者等を信じてはいけないとしていることと、最近新聞で字数の限られた悩み相談を
していることは、一見矛盾していることは確かでしょう。しかも、内容も、「大学受験のために
勉強する意義」「働くことの意義」など、普通の道徳的説教に見えかねないものもある。
そこで、むしろ、今までの著作にある利己主義・利今主義から一貫していると言えないだろうかと
考えてみたのだけど。
もちろん、こんな単純なことをすぐに思い付かなかったので、「愚か者」なのは間違いないですが。
>>357 そのシリーズは予約していなくても大きな書店に行けばバラ売りされてるんですか?
363 :
351:2008/08/09(土) 20:40:35 0
>>359 あなたは永井が人生相談するまで、氏のことを「信じて」いたの?
普通の道徳的説教をすることが気に入らないの?
364 :
351:2008/08/09(土) 20:48:42 0
人生相談は、相談者に向かって、個人と個人との関係で書かれているのですよ。
それを「新聞・学者」とひとくくりにするのはどうかと。
>>363 いや、気に入るとか何とかではなく、矛盾してていいんですかね?
もちろん、(議論の重要な点ならともかく)このようなところが一見矛盾しているように見えたから
といって、問題ないだろう、という意見はあると思うけど。
>>364 それだけならそうなのだけど、同じ箇所には、自分固有の体験から学ぶのが本当の知識だ、という趣旨が
書いてあって、これは強い限定だと思われるので、どうなんでしょうね。
366 :
考える名無しさん:2008/08/10(日) 10:53:54 0
>>365 あなたのその考えでは、本を書くという時点で矛盾なのでは?
367 :
考える名無しさん:2008/08/13(水) 20:07:19 0
で、「なぜ世界は存在するのか」は?
368 :
考える名無しさん:2008/08/16(土) 11:18:41 0
個々の出来事ではなく外界全体が(あるいは過去全体が、他人の心一般が)
実在するかどうか「分からない」という懐疑論は、
神が創造において何をしたのかは、内容的規定における(レアールな)差異ではないから、
「言えない」ということの、認識論的反映なのだろう。
369 :
考える名無しさん:2008/08/16(土) 22:45:55 0
「なぜ世界は存在するのか」は読んでないけど、なぜ世界は存在するのかなんてことを
他人から教わりたくない。
370 :
考える名無しさん:2008/08/16(土) 22:47:46 0
むしろ教えられる奴がいるなら教えてほしい
文藝春秋の9月号で川上未映子が永井均について
熱く(?)語ってるよ。
まあ題名のことだけ言っても意味ないけど、「なぜ世界は存在するのか」には、
「なぜわれわれはこの問いを問うことができないのか」という副題がついていてですな。
答えがほいほいと書いてあるわけではないようなので。
374 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 10:24:42 0
むしろ、神が創造において何をしたのかは、内容的規定における
(レアールな)差異ではないから「言えない」ということの方が、
個々の出来事ではなく外界全体が(あるいは過去全体が、他人の心一般が)
実在するかどうか「分からない」という懐疑論の、
形而上学的反映なのではないだろうか?
375 :
考える名無しさん:2008/08/23(土) 20:48:30 0
同時二重人格ってナンセンスだと思う。
単なる妄想じゃないの?
376 :
考える名無しさん:2008/08/23(土) 21:03:30 0
自我とは一つの観念である。我々は、身体の振る舞いに基づいてその観念を作りあげる。
「自我」というものが実体的に存在しているのではない。
新聞で人生相談やってることについてだけど、永井均にとって「他者」とは
>決して到達することのできない、根本的に異質な、もうひとつの世界(の原点)
>であり、理解しあうことも、助けあうことも、ついには不可能な、無限の距離を
>へだてた、あまりにも遠い隣人なのである。
わけだから、その「他者」の人生の問題に新聞上で答えるってことにはやっぱり
ちょっと無理があるというか、むなしい行為でしかないんじゃないかな。
この定義からしてその答えが「他者」に届くことはありえないわけだから。
378 :
考える名無しさん:2008/08/24(日) 00:18:29 0
あなたは永井にとって「他者」ではないわけですか?
379 :
考える名無しさん:2008/08/24(日) 00:30:27 0
人生相談は、相談者に向かって、個人と個人との関係で書かれているのですよ。
それを「新聞・学者」とひとくくりにするのはどうかと。
>>379 そうだな。空しいかどうかは、それを読んだ相談者に訊けばわかる。
訊かなきゃわからない。
381 :
考える名無しさん:2008/09/01(月) 00:07:33 0
同時二重人格は十分可能だ。
ただ、発言を含む行為のために、ほぼつねに他人格と闘わねばならない。
非常に疲れると思われる。
相互の何らかの契約が必要になるだろう。
同時二重人格は、もし私にそういうことが起こったら…という想定は素朴にイメージできる気がするけど、
私から見た他人にもしそういうことが起こったら…という想定はできるだろうか。
たんに人格が時々交代しているだけに見えてしまわないだろうか。
と思ったけど、もし私に想定できれば、一般的にも想定できることになるか?
「現象的」が私にしかないはずのところを、誰にでも理解されるのと同じようなことで。
383 :
考える名無しさん:2008/09/01(月) 23:34:09 0
>>381 >相互の何らかの契約が必要になるだろう。
身体が同一なのにどのように契約するのですか?
普通は、自分の自由意志に反する行為は、自分の「無意識」として解釈するだろう。
384 :
考える名無しさん:2008/09/01(月) 23:45:55 0
>>382 同時二重人格の場合は、他人格の場合の記憶もある。
これは他者からみても検証可能。
385 :
384:2008/09/01(月) 23:57:08 0
結局のところ、私は同時多重人格であって、実はそれは普通の一個の自我と変わりない
ということになるのではないか?
386 :
考える名無しさん:2008/09/04(木) 10:55:10 0
ひとつの人格とか一個の自我なんてどのようにして数えられるんだ?
性格や意識内容は数量で測定できるような対象ではないだろ。
いろいろな性質があるだけ。性質は数では表現できない。
387 :
384:2008/09/04(木) 21:31:29 0
>>386 自我とは一つの観念である。我々は、身体の振る舞いに基づいてその観念を作りあげる。
「自我」というものが実体的に存在しているのではない。
388 :
らぷ魔:2008/09/04(木) 23:16:53 O
ぶっぷくぶーっ。私の一部が自我なのでし。
389 :
考える名無しさん:2008/09/06(土) 15:40:16 0
なんでわかったんだ?
わかる
自己意識について言及している哲学者はいないの?
今回の朝日新聞の悩み相談には、つい笑ってしまったw
ちょっと場違いな感じもするのだが、最近出た『アキハバラ発』(大澤真幸編)に
コラムを書いてるよ。
一人の人間がある人間と親密になりある時は友好的に振る舞い
ある時は傷つけるやられた側は壊れていく
395 :
考える名無しさん:2008/11/16(日) 03:24:41 0
保守
396 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 18:18:41 0
レスを読んでいてすごく思うのですが、
ここにカキコされてるみなさんは本当に永井均さんと同じ<私>についての
問題を人生の中で生でリアルに感じたことがあるのでしょうか?
そしてその上で議論されているのでしょうか?
私自身、永井均さんの問いを実人生上で感じたことは全くないので。
397 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 18:42:11 O
ある
子供の頃はよく考えてて気持ち悪くなってたな。
小学校入るぐらいの頃にはあんま考えなくなってたけど。
398 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 19:29:29 0
>>397 ありがとうございます。
今現在も、子供のころ持っていたその問題を生で感じることはできますか?
399 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/22(土) 20:59:59 0
>>396 きまってるじゃん。
それをリアルに想像できるからこそ、
永井なり哲学なりの人の名前と
概念を覚えているのだし、目に
した瞬間に記憶回路に
しまいこんだのだ。
っていうか、哲学全般の話だけど。
400 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 23:50:45 0
>>396 そんなこと訊いてどうすんの?
あなたはどんな観点から、永井の思想に興味を持ったの?
401 :
考える名無しさん:2008/11/23(日) 00:49:53 0
俺は永井の本を読んで、無自覚的独我論から抜け出すことができた。
402 :
考える名無しさん:2008/11/23(日) 00:55:05 0
>>396 ある。でも別になくておかしいとは思わない。
知人で、「この問いを実人生上で感じたことがない人がいるなんて信じられない」てのもいたけど。
それもまた極端だよね。永井本人が分かりにくいですよって言ってるのにさ
普通に独我論的な?(というのも曖昧だけど)疑問なら子供のころから持ってるけど。
しかし永井的な疑問とイコールかと言われると、ちょっと違うのかもしれない。
しかし何にしても、人生で感じたことがあるかどうかということが、何か関係あるのかねえ。
404 :
考える名無しさん:2008/11/26(水) 21:12:05 0
森田童子論は本になるの?
405 :
考える名無しさん:2008/11/27(木) 13:14:44 0
ミクシィの日記でちょと前に展開してたね
407 :
考える名無しさん:2008/11/27(木) 21:35:54 O
そだね
永井さんは出版する前にmixi上でよく原稿を上げてるよな
永井先生の森田童子論ってちょっと興味あるな。
読んでみたい。
409 :
考える名無しさん:2008/11/27(木) 23:28:47 0
ミクシィってなんだ???
410 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/27(木) 23:55:48 0
>>401 俺は永井の無自覚的独我論を知らないが、
意識的な独我論は人を成長させるし、
非常に役に立つ。
これだけは、確かだ。
411 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/27(木) 23:57:53 0
>>409 2chを知ってて、ミクシィを知らんのかw。
まぁ、ヒキコネラーならそれもありえる。w
結局哲板ネラーは、ミクシーとは無縁だろう、
俺も含めw。
【このスレッドは ル・サンチマン™ の提供でお送りしております】
413 :
考える名無しさん:2008/11/28(金) 00:13:23 0
>>411 すみません、「意識的な独我論」とはどういう意味ですか?
もう少し詳しく知りたいです。
「人を成長させるし、非常に役に立つ」とは、
つまり永井さんの<哲学>を「思想」として享受するということ?
414 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/28(金) 00:28:44 0
>>413 僕も勝手気ままに書くけど、気に食わなかったら
無視してくれ。
つまりだね、人と人の間には、絶対に辿り着けない
無限の距離間があり、自分以外の他人を理解する
には、自分の投影(自分の理解や思い込み=感情)を
使わない限り理解できないということ。
投影(自分だけの理解)とは、自分の思い込みであること。
そんな思い込みから、自分は他人から良く思われてないだの、
よく思われてるだの妄想してみたり、あいつはいい気になってる
だの、あいつは沈んでるだの、と理解する。
人間というのは、他人に対して色んな感情を持つが、
その感情って言うのは自分が想像しただけのものであっ
て、他人そのものの感情ではないということだ。自分の思い
込みが他人の上に投影されるということだが、投影がなければ
他人を理解できない。
だから、感情的になる必要もない訳だし、
そういうことを積極的に鍛え、意識できるようになると、
他人が意図していることが目に見え、人生経験上役に
立つというお話である。
それを僕はあえて、意識的な独我論と言ったまでのことだ。
哲学とはチョト違う。心理学的なお話なのである。
415 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/11/28(金) 00:34:19 0
今自分が見ている世界は、他人が見ているそれとは、
違うということだよ。
自分は世界を楽しく有意義で意味があり凄いと思って
いても、他人にはそう見えてない。
自分と他人の間(理解の隔たり、理解の差)には、
無限の乖離、無限の距離があるということさ。
まぁたぶん、僕のレスは、キミの期待に答えられたとは
思っていない。
煽っているのかね。それともどんな答えを欲し、どんな
期待を待ち構えているのかね?。
416 :
西東 ◆D8r4gJTFUk :2008/11/28(金) 08:30:45 O
フロイト信者うぜーよ。
投影とか言ってるの痛いw
心理学w実験も解析もしねー発達心理だろw
417 :
考える名無しさん:2008/12/01(月) 22:22:39 0
森田童子ってなんだ???
418 :
考える名無しさん:2008/12/01(月) 22:24:29 0
419 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 03:34:38 O
他人は自動機械であるなら、他人を理解出来るはずだし行動の予測がつく。そして他人を見下しやすい性格になる。
しかしそもそも他人とは自動機械であるという仮定の上で理解を積み上げていくわけだから、
その仮定が間違っていた場合、積み上げられた理解が高ければ高いほど崩壊は激しくなり惨劇になる。
かたや他人は理解出来ないという仮定なら理解は積み上げられることもなく
人間関係に何の建築も出来ない。
しかし「お前は俺の理解の中に収められている」と思われるより
「お前は神秘だ」と思われる方が心地良い人もいるかも知れない。
俺は理解されたいけどされたくない。そのギリギリ境界線上に有意義な人生がある。
420 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 04:17:07 O
白人的な考えの人は、どこまでも理解を積み上げていって、いずれ激しく崩れ落ちるパターンが多い。
日本人的な人間関係というのは、そもそも理解出来ないという前提があるように思う。
他人は神秘だからどうでもいいが敬う心が自然にうまれ白人みたいに喧嘩になることもない。
421 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 20:44:15 0
永井とも独我論ともまったく関係ない。
422 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 21:00:57 0
結局、永井すらも分からない馬鹿が多すぎる。
423 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 21:02:27 0
永井の私とか自分とか自我に関する記述は面白かったが、
おまえ等が理解できる代物でないのは、確かだ。
今日もおかぁちゃんに童話を読んで貰いながら寝てくださいね。
www
424 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 21:06:59 0
>>419 俺が言う意識手的独我論では、
他人は他人のまま変異せずその
まま脳内に侵入してくる。
期待も無ければ嫌悪もない。
あるがままだ。
理解もしないが、理解したいという衝動が
常に付きまとうのが、俺が言う意識的独我論だ。
425 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 22:31:35 0
426 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 22:37:15 0
>>425 無知www。
お前が消えろ、このウンコお馬鹿www。
427 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 22:38:40 0
>>425 この、
スーーーーーーぱーーーーーーーーーーーウンコ、
おぶぁーーーーーーーーーーーーーくぁ。
お前が消えろw。
428 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 22:43:03 0
必死だな
429 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 22:46:47 0
>>428 ごめん。馬鹿を叩くのも結構楽しくってwwww。
てか、俺は、他人を叩いてあぞぶ最高位とは違うぞ。
もっと真面目にやろうね、哲学を。w
↓ 基、以下真面目に。 でも、きょうわぁ、アルコール入ってるのでぇ、無理でつおw。
430 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 22:50:04 0
431 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 22:51:41 0
でもなぁ、国語力怪しい奴も一杯居るしな。
w
432 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/02(火) 23:05:28 0
>>430 哲学書の一冊も読んだことのないようなウンコがよくいうぜw。
永井ほどに良く噛み砕かれた文体なら、
おまえ等のミジンコ並みの知性でも読み取れるはずだw。
天才的な俺を叩く前に永井のHPでも読んでみろよ。
ドンだけ脳味噌蟹味噌なんだよ、おまえ等の脳みそってさw。
読みやすい記事が一杯あるので読んでからレスするようにね。
ああ、そのまえに、君等の知性じゃ犬が星を見ているようかね。
ごめんよ。ww
あれれ、永井タンのHP何処だっけ、・・・・
母さん、僕のあの永井のページ、何処に行きましたっけね。
どうしたんでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
ネットの谷底へ落としたあの哲学輩の文章ですよ。
母さん、あれは好きな哲学でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、 だけど、いきなり
アフォウネラーが突っ込むものだから。
ほんと、永井のHPどこいったよ。
433 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 23:16:57 O
>>421 とりあえず永井と独我論を分かるように説明してください。
434 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 23:35:48 0
435 :
考える名無しさん:2008/12/02(火) 23:59:13 O
自演工作でない証明が出来ないと同様、
他我が存在する証明も出来ない。
証明出来るのは自我の存在だけだから
それ以外は存在しない。
というのが独我論だよね?
436 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2008/12/03(水) 00:06:33 0
>>435 同意100%。
ちなみにラプ魔、もしくはラプ天コテは、
100%自演はありませんw。
なんか、漏れのコテ間違ってるじゃん、
正しくは、ラプラスの天使なwwww。
437 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/03(水) 00:14:34 0
>>434 文学的知性も、ググリ知性もゼロか。
おじちゃんは悲しいぜ。
438 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 00:15:23 O
つまり存在が証明出来ないなら存在しないとしてもいいというのが独我論の論法だな?
439 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/03(水) 00:17:32 0
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。
ちなみに俺は小説が嫌いなんでこれ以上突っ込まないようにね。
突っ込むための漏れの尻の穴も貸さないからねwwwwwwww。
それにしても、この件(くだり)は、最高だよね。これぞ正しく文学だ。
440 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/03(水) 00:23:33 0
>>438 そうぢゃないだろう。
存在(性)というものを証明しようがないから独我論が成立するんだろ。
目の前のコップや、血の赤い色を見て、果たしてそれが存在しているのか。
議論が発散しちゃいましたねw。
までも、このニュアンスは難しいくて、俺もめんどいから適当に数行で済ますw。
わかってる奴等に、わざわざ説明するほど、おれもお馬鹿じゃないw。
441 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 00:23:49 O
自演工作でない証明が出来ないなら自演工作であるとしていい、というのが独我論だよな。
442 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 00:35:48 O
バナナがあることを認識する自分は間違いなくいて、
バナナ自体は存在しないとすると
バナナを確認してる自分は無から有を生み出したことになる。
443 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 01:10:18 0
>>438 >>441 自作自演であることは証明できる。他我が存在することは証明できないのではなくて、
「証明する」ということが意味をなさない。
444 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 01:14:06 O
なぜ意味をなさない
445 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 01:19:00 0
>>444 では、「他我が存在することが証明される」ということの意味を説明してください。
446 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 01:26:01 O
いやそのまま
447 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 02:27:42 O
そもそも自我が存在するっていうのが思い込みだろ。フロイトかぶれめ。
独我論は、現象学の網羅できない欠点が、形而上学と交差することで生まれてきたもの。
現象学に則ってはどうやっても他我を証明することはできないよ。
現象学的でない新しい方法が必要。どんなのだかは知らんが。
448 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 07:44:23 0
自があれば他と共と無は論理として必然敵に存在する。
なぜなら、自の否定すなわち非自が他であり、自でありかつ他であることが共であり
非自かつ非他が無だからだ。
自我・他我・共我・無我はいずれも存在する。
449 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 14:42:13 O
だからそれは
自我が他我と差異化された客体として存在するってことを前提にしてるんだって。
でも人間は外から取り入れて自にして、外から取り入れたことで自を捨てて、そうして「変化」してってるだろ。あるのは客体じゃなくて構造だよ。
大体自我って何?アイデンティティとか言うなよ。
論理的に合ってようが経験とか感覚とかに則さないなら、中世以前の形而上学の二の舞
現象学否定はしない。現時点では最良の方法だと思う
ただ現象学使うなら他我の証明できないのは当たり前。
ちなみに、だからといってニーチェ以前の形而上学に完全に戻るのだって不自然。
時間論とかならまだしも。
それとも「星が地球の周りを回っている」とか言いたいわけ?
450 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 15:33:18 0
就職するぞ
451 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 16:01:13 0
他我が存在することは証明できないと言っている奴は、目の前のコップを見ながら、
「コップが存在することは証明できない」と言っているのと同じ。
452 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 18:37:07 0
存在の証明なんか論理的に矛盾がないことを
示すだけだろ。
他我が存在することに矛盾があるのか?
453 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 20:24:12 0
>存在の証明なんか論理的に矛盾がないことを
>示すだけだろ。
は? 意味不明
他我が存在するのと、他我が存在することを証明することとは違うけど?
そもそも他我があるかどうかなんて永遠に知り得ないと永井は言ってるわけだし
455 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 21:47:06 0
>そもそも他我があるかどうかなんて永遠に知り得ないと永井は言ってるわけだし
「永遠に知り得ない」ということと別に「他我があるかどうか」という事実が
あるわけですか。
456 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 21:58:18 0
他我が知りえないなら自我も知りえないだろ。
単に我があるだけにならないか?
それは自我ではないだろ。
自我は「この私」であると規定してるからな永井は。
それ以外についての存在性については、それが「この私」ではないのだから
知り得ないという事だよ。
他我を認識するかどうかと、証明云々とはまた次元の違う問題だ。
前者は主観的であるしかない超越論的「この私」の認識する他者の存在性
後者は形而上学的超越論である他者の存在性
他我を知ることはできないが、他我を「この私」が主観的に認識することはできうるが
それはつまり自我の一部であるのだよ。
その意味においても真の他我と言うものは知り得ない。なぜならばそれを
「この私」が知ろうとしている行為自体、他我との決定的な差があるからだ。
458 :
考える名無しさん:2008/12/03(水) 22:32:06 0
>前者は主観的であるしかない超越論的「この私」の認識する他者の存在性
>後者は形而上学的超越論である他者の存在性
それは「我」の問題ではなくて「主観―客観」一般に成り立つのではないですか。
つまり「物自体は知ることはできない」というのと同じことではないですか?
「コップ」の場合では事情は異なるのでしょうか。
他我がわかるとかわからないということを、永井が詳しく書いていた記憶はあまりないのだが、
(ぱっと見たところで例えば『私・今・そして神』の37頁の程度か)
永井がそのように書いていたというのであれば、どのへんを指して言ってるの?
むしろ、普通の意味では他人に心や意識があるのは自明と書いていたりすると思うけど。
(ただ「普通の意味」とは何かが問題だし、最近の本ではこのへんは変わってきてるだろうか)
あのう、ピタッと止まられても困るんですがw
永井の文章とそれなりに関連があるという前提で議論してたわけじゃないの?
461 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 19:50:16 0
>>454 >そもそも他我があるかどうかなんて永遠に知り得ないと永井は言ってるわけだし
>>457 >自我は「この私」であると規定してるからな永井は。
確かに、私も永井がこんなことを書いてるのを見た記憶はない。
他我が存在しうるかどうかが問題なんじゃない。
他我が存在しうるということがどういう事態なのかが問題なんだよ。
463 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:03:54 0
>そもそも他我があるかどうかなんて永遠に知り得ないと永井は言ってるわけだし
そりゃそうだw。この今見ている個人個人の世界は、誰とも繋がっていないことを
理解できなければ、独我論は成立しない。
この程度のレベルのものを理解できないようでは、哲学には向かないよ。
喩えれば、心理学の象徴を理解できないような連中かwwww。
象徴に対しても「なんだそりゃ」と理解できない奴がたまに居るが、
感情機能を殺すような家庭環境で過ごしたんだなってことは、
俺でも理解できるw。俺もそうだったからw。
ちょっと立ち止まって考えてみてくれ、というか、
内なる心の声に耳を傾けてくれ。君らの感情
器官がまだ正常なら、正しい信号を前頭野に
送ることだろう。
落ち着いて感じれば、
そんなに難しい
ものじゃないのだよ。
>>462 >他我が存在しうるということがどういう事態なのかが問題なんだよ。
そんなことは無理だし、意味がないことに気付いてくれ。
そんなに繋がりを求めたいなら、心理学を学べばよいだろう。
464 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:08:21 0
考えるというのは理屈だ。
感じるというのは感情の機能だ。
465 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 21:09:57 0
>>463 >そりゃそうだw。この今見ている個人個人の世界は、誰とも繋がっていないことを
>理解できなければ、独我論は成立しない。
「個人個人」を認めている時点であなたの言っているのは独我論ではない。
あなたの言っているのは、認識論的独我論。それはアプリオリに正しい。
466 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:17:32 0
>>465 何処までも僕を否定したいのだね。
結局は、己の期待を他人に投影し、
君(ラプ天)は理解できていないというw。
それは独我論の教えなのかw。
この程度なら、俺の知性でも100%理解し共感できる。
そんなに難しい話ではないのに、君にとっては重要なようだね。
467 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:18:45 0
メンドクサイけど誤解があるようなので言っておく。
世界も他人も、己(の投影)だ。
>>465 これでいいかw。
468 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 21:30:03 0
469 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:32:18 0
いちいち構うな。
知らんw。
470 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 21:35:26 0
独我論というのは、要するに「すべては俺の自作自演」という意味か?
471 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 21:35:39 0
かまってきたのはあなたでは?
さようなら。
472 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 21:50:02 0
473 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 22:12:21 0
>>459 >最近の本ではこのへんは変わってきてるだろうか
「<私>のメタフィジックス」や「<子ども>のための哲学」では、他人に心があることは
とりあえず、自明としてたね。
「なぜ意識は実在しないのか」では「そういうふうに「意識」というものをふつうに
実在したりしなかったりする「もの」のように見立てて、手玉に取れると思うような
考え方は、おしなべて素朴すぎます」と書いていた。
474 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 22:19:29 0
独我論とか毒財政ってのは、消防の下級生依頼だw。
他人はロボットとだろうと妄想を始めるのは、消防低学年w。
その後は社会の毒悪に染まりそんな純粋な思考は奪われる。
w
永井とかウィトゲンシュタインの哲学観ってのは、
小学校下級生時代におぼろげならが体感しちゃうんだよね。w
幼き頃の感性は重要だろう。
てか、俺はそれで死にそうになってるけどな。wwwwwww
475 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 22:22:18 0
476 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/05(金) 22:25:26 0
>>475 同類がいたかw。これでこのレスは完了だwww。
>>476 ああ、わかるなあ。確かに、小学校や中学の頃の方が、
他人と自分との存在論的な差異みたいなのを肌で感じていた気がする。
他人を自分と同じ何かを持つものとしてみなすと言う思考が、
一体どういうことなのか、良くわかっていなかったこともあるでしょうが。
478 :
考える名無しさん:2008/12/05(金) 23:06:31 0
479 :
考える名無しさん:2008/12/08(月) 09:15:45 0
>>473 なら、変わってないじゃん。
だって、
「意識」を実在したりしなかったりする「もの」のように見立てるのが素朴すぎるとは、
つまり、
「他人」に「意識」があることはすでにして自明ということでしょ?
「意識」は「他人」という箱の中に在ったり無かったりできるような「もの」じゃないということだから。
480 :
考える名無しさん:2008/12/08(月) 20:28:12 0
あるでもなく、ないでもなく…
「ある―ない」の対立を超えているということでは。
多義的だということをはっきり出したという点では、やはり以前とは違うだろうか。
「現象的」「最上段」といわれているものは、本当は一つしか(つまり私にしか)ない。
しかし、それが、「心理的の中での現象的」になってしまう。
逆に、誰にとっても、そういう意味での「現象的」はあるということになる。
といったあたりが、従来の「普通の意味では他人に意識があることは自明」と、きちんと対応してるかどうか。
従来の、自明とされている「他人の意識」の中には、変化した意味も含めて、「現象的」は入っていないのでは。
つまり、従来の自明とされている意識は、「心理的」のみなのでは。
…と思ったけど、そんなことはないですかね。
んー確かに。
現象的っていう名前がついてるだけの、本当は心理的(当人的)なものがあるということは、
いままでは前面に出されてなかった気がする(まあでも、結局はそういう意図のことを話してたんだろうけど)。
累進構造の図式が示されて、その辺はかなり分かりよくなったね。
もっとも、誤解する人は図式まで含めてどこまでも誤解するんだろうなあ……
483 :
考える名無しさん:2008/12/09(火) 15:10:41 0
>>481 そんなことはないと思う。
つまり、<私>は現象的で<私>ではない「私」は心理的ということですか?
>>483 <私>あるいは「私」という話は、従来の言い方だと、直接には意識の話ではないと思うので、
<私>が現象的かといわれると、イコールではないのでは。
イコールというのではなく、他人とか「私」とか言われるのが持っているのが心理的ということか、
と聞かれると、
>>481はそういうつもりで書きました。
ただ、そう言えるはっきりした根拠があるかというと、別にない。
最初の出発点はやはり私の特別さに求められるはずだから、「現象的」といえるようなものが
他人にあるのが自明というのはおかしい(自明といえるのはせいぜい「心理的」といえるものだろう)
というくらいですね。
この解釈に反する永井の議論としては、意識とか感覚について、外面的振る舞いが全てであると
するかのような考え方に対しては、そうではない、という話は何度も出てくる。
ここでいう外面的振る舞いと「心理的」は多分対応してるので、やっぱり、他人であっても、
自明なのが「心理的」だけだとは考えられていなかったということだろうか。
485 :
考える名無しさん:2008/12/10(水) 00:04:34 0
「私は確かに個々の自我だと思いこんでいる、だが、私がいまの場合、ここの場合に
思いこんでいるものを言い表すことができないように、私は自我の場合にも、思いこんで
いることを、言い表すことができない。私は、このもの、ここ、いまもしくは個別的なもの
と言っているとき、すべてのこのもの、すべてのここ、いま、個別的なものを言っている。
同じように、自我、この個別の自我というとき、私はそもそもすべての自我を言っている。
各人は、私が自我とかこの個別の自我とか言っているものである。学に対し、いわゆる
この物またはこの人を演繹し、構成し、ア・プリオリに見つけ出すなど、そのほかどういう
表現を使うにせよ、そういう要求を出して、学の試金石としようとしても、学は絶対に
それに堪えられないであろう。そういう要求をするならば、この要求の方でも、一体いずれの
この物、またはいずれのこの自我のことを言うつもりなのかを、言うのが当然である。
けれどもこれを言うことはできない」(精神現象学)
これは200年前に書かれた文章ですが、永井の「<私>は語りえない」というのと同じことを
言っていると思います。どうですか?
486 :
考える名無しさん:2008/12/10(水) 19:03:44 0
そんなことを言うなら
「同じこと」を言っている人は もっと大昔からいくらでもいるさ
哲学のどんな問題でもそうですけど
問題はその「同じこと」を どう 言うか だ
487 :
考える名無しさん:2008/12/10(水) 20:31:04 0
言い表せないものは、もっともつまらないもの、真実ではないものとしているところが
ヘーゲルのおもしろいところ。
永井のヘーゲル評を聞いてみたい。
488 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 20:22:40 0
永井ってそんな説明うまくないが
鋭いな、野矢より全然キレる
中級者向けの先生ってとこ
489 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 20:51:14 0
上級者向けは誰?
490 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 20:53:23 0
>>485 自我に対しては皆同じことをいっている。
バリエーションの違いはあっても大差はなく、
所詮同じことの繰り返し。
491 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 23:19:23 0
492 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 23:19:34 0
だから哲学の問題は、
問題はその「同じこと」を「どう」言うかなんだってさ。
というか、何についての「説明」「中級」なの?
そのように言うからには、永井と野矢が同種の問題について説明したことがあるという
前提だろうけど(そういう趣旨ではないかもしれないけど)、そのへんはどうですかね。
494 :
考える名無しさん:2008/12/11(木) 23:45:45 0
>>490 「皆」って誰ですか?
永井、ヘーゲルのほかに挙げてみてください。
495 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 08:38:19 0
>>493 論考の解説が永井の方がよかった
野矢は考えれば考えるほどおかしくなる
文体は読みやすいけれど。
野矢は社会科学系のB級学者と同レベル
>>487 文学に嵌るような人や安易にヒューマニズムに走っちゃうような人は
それに反論したくなるだろうけど、でも世間一般の人の感覚なんて
ヘーゲルと同じようなもんじゃない?多くの人は自分の人生なんて語らずに
ろくに振り返りもせずに死んでいくし。自分語りなんていうそんな野暮なことはしない。
永井先生の本は読んだけど、哲学にどっぷり漬かってるわけでもない
ただの素人にとっては、ちょっとひねった自分語りぐらいにしか思えなかった。
あ、もちろんヘーゲルだって哲学を通して自分のこと語ってると言われれば
たしかにそうかもしれない。
497 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 22:43:28 0
>>496 全然わかってないよ。
多分「<子ども>のための哲学」しか読んでなくて、しかもそれを誤読しているのだろう。
498 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 22:46:37 0
499 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 22:49:51 0
500 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 22:51:07 0
>>496 永井の哲学は工学的で理系的なんだ。
ただそれだけだよ。
工学とか理系を学んだ奴にとっては極めて
明瞭で明快だ。
501 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 22:52:02 0
502 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 22:52:18 0
503 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 22:53:02 0
504 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 22:57:14 0
>>498 デカルトがどこでそのようなことを書いているのか、書いてもらえますか?
505 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2008/12/12(金) 23:03:21 0
>>497 お、お、横からすまんが、
俺、「こどものための哲学」しか読んでないんだが、
・・・いや、「私・今・そして神」も薦められて少し読んだか・・
それじゃー駄目ってことか〜!
>>500 まじか?俺、工学系だが全然ピンとこねえぞ。
506 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 23:19:26 0
>>505 ラプラスの悪魔は全くわかってないから、スルーしろ。
507 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 23:20:56 0
>>505 永井の言う私とか自我って奴は、
明らかにフィードバック回路の自ら
尻尾を食らう蛇だったが。
私が私と確信して思ったとき、
そこには私は既にいないのだよ。
数式をもっともっとイメージに、
工学も文学化しないとなw。
508 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 23:26:11 0
>>506 俺は数式や工学を文学とか心理学に昇華させてるからw。
つまりある意味トンでもだが、数字に色を覚える極度共感者と
思ってくれたらwww。
数字の2は何色に見えますかwwwwwwwwwwwwwww。
まぁ、おまえ等の知性ぢゃ俺様に
付いてこれないのは理解してるからw。
だははははははははははっ。
509 :
考える名無しさん:2008/12/12(金) 23:28:30 0
510 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 23:30:28 0
あらら、また悪魔になってるじゃん。
ラプ天ちゃんに改名したんだからねw。
511 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/12(金) 23:31:29 0
>>509 文学は証明されないからねw。
お風呂タイムだw。覗いちゃやよwww。
512 :
抄録 ◆xOLbFG9QNU :2008/12/12(金) 23:45:48 0
>>507 フィードバック回路かな〜?もちっと複雑な気がするけどよー。
フィードバックのどこに「私」が発生すんだ?伝達関数みたいなもんにか?
俺、その思考ベクトルの先には解決は無いと思うぞ。
>>508 数字の2は何色だとしっくりするんだ?そいつは量子色力学と似たような発想か?
・・・ちょっと荒らしちゃったみたいで、ほんとごめんなさい。
「これぞ永井均」てな書籍でもあれば教えてください。
もう消えます。さようなら。
514 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/13(土) 00:01:10 0
>>512 そんな複雑じゃない気がするんだがw。
と言い合ってみても意味がないな。
515 :
考える名無しさん:2008/12/13(土) 00:11:30 0
>>513 >「これぞ永井均」てな書籍でもあれば教えてください
「<私>のメタフィジックス」がおすすめ。
思想を頂きしようという態度では読む価値ないかもしれないけど、思考を鍛えよう
とするのなら読む価値ある。
永井の原点がわかる。
>>515 ありがと〜
ちょいと調べたが、2300円ぐらいしますね。・・・ちと高い。俺、すっごい貧乏なんよ。
でも余裕あったら買ってみます。
あと、俺、科学と「俺哲学」しか信用してないから永井の思想なんぞ頂かねえから、その点心配無用だー。
お騒がせしました。
>>495 野矢『論理哲学論考を読む』はそれほど読み込んでないので何ともいえないけど、
永井の解説(『ウィトゲンシュタイン入門』の該当箇所のことだと思うけど)は、いい解説なの?w
正直、個人的には、わかりにくい部分が多いと思ったけど。
特に独我論のところは、他の永井の本も合わせると何となくわかる気がするけど、
あそこだけ読んでも意味がわからないんじゃ。
俺はウィト入門は文法理論のところで詰まった
519 :
考える名無しさん:2008/12/13(土) 20:42:44 0
>>513 >「これぞ永井均」てな書籍でもあれば教えてください
もう消えているのかもしれないが…
「<私>のメタフィジックス」では古すぎる。
「翔太と猫のインサイトの夏休み」がよい。文庫で安いし。
面倒なら前半だけでもいい。それも面倒なら第2章だけでもいい。
520 :
515:2008/12/13(土) 21:45:47 0
永井哲学を知りたいなら、「<私>のメタフィジックス」。
「翔太と猫のインサイトの夏休み」は教科書。
521 :
考える名無しさん:2008/12/13(土) 21:53:25 0
永井の独我論は異質
ああいう解釈はめずらしいよ
それが永井の魂というものですかね。
523 :
考える名無しさん:2008/12/13(土) 23:38:22 0
「ああいう解釈」を自分の言葉で述べることができない。
無視しろ。
524 :
考える名無しさん:2008/12/13(土) 23:42:08 0
526 :
ラプ天ちゃん:2008/12/14(日) 19:08:34 0
>>521 理系にとっては分かりやすい。
というか理学的な尺度こそまさに
理解したという実感が定量的に
明確になる。
俺が目指しているのもそれなんだが、
笑っていただいても結構だよw。
527 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2008/12/14(日) 19:09:16 0
なんだ、トリップブロック食らってるのかw。
テスト
528 :
ラプラスの天使 ◆daemontaDA :2008/12/14(日) 19:10:01 0
もういっちょ、テスト。
ごりゃ。
529 :
ラプラス ◆daemontaDA :2008/12/14(日) 19:11:29 0
名前欄ブロックか、うーんどんなブロック?。
530 :
ラプ天使ちゃん:2008/12/14(日) 19:14:44 0
なんかブロック食らってる。
アク禁食らったのか?。
531 :
ラプ天ちゃん:2008/12/14(日) 19:15:35 0
どんなブロック?。
アク禁なのか?。
532 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/14(日) 19:17:15 0
鯖が忙しいらしい。w
533 :
考える名無しさん:2008/12/15(月) 00:44:26 0
>>519-520 俺も『翔太と猫のインサイトの夏休み』の第2章がいいと思う。
自分でも言っているように、あれこそが永井哲学そのものだから。
『<私>のメタフィジックス』はまだ永井哲学の前段階にすぎない。
あれを読むくらいなら『<子ども>のための哲学』の前半の方がまだ永井哲学を知れる。
現段階を知りたいなら『私・今・そして神』を第2章を熟読するしかないが、これは難しい。
なるほど、それじゃ、「子供」を読み終えたので次は「私今」を読んでみよう。
535 :
515:2008/12/15(月) 20:43:21 0
「翔太と猫のインサイトの夏休み」は親切すぎる。
やっぱり「<私>のメタフィジックス」がおすすめ。
536 :
515:2008/12/15(月) 20:52:50 0
>永井哲学の前段階にすぎない
思想と哲学を一緒にしてないか?
結論よりも問題提起や主張の根拠を重視するのが哲学だ、という趣旨の話がよく出てくるけど、
文中に「この本がそうなっているといい」というコメントがあるのが
『転校生とブラック・ジャック』
『倫理とは何か』
なので、この2冊はどうですかね。
まあ別にそんなことにこだわらず、『私・今・そして神』でいいのかな。
538 :
考える名無しさん:2008/12/16(火) 21:41:41 O
大庭の集中講義つまらなかった。
539 :
考える名無しさん:2008/12/16(火) 21:50:58 0
>>538 詳しく。
なぜこのスレに書き込むかも含めて。
「私・今・そして神」は全然わからなかった。
「子ども」や「これがニーチェだ」はよくわかって面白かったのに。
この2冊にはリアリティを感じたけど「私・今」は全然感じなかった。
なんか自分にはピンと来ない問いの想定とそれに対する考えが
延々とつづられてて読むのがきつかった。あれが永井の私的言語と言うものなのか。
つまり自分は、思想を解体するための哲学的スタンスは面白く感じるけど、
哲学そのものはあまり必要のない人間なのかもしれない、と思ってしまった。
541 :
考える名無しさん:2008/12/19(金) 01:31:17 0
542 :
考える名無しさん:2008/12/19(金) 15:47:08 0
わかりやすいっちゃわかりやすいが
文章表現に癖があるよな
リアリティという表現が適切かわからないけど、ラッセルの想定、マトリックスの想定、
ロボットの疑惑、あるいはそれこそ私的言語の想定(というか言葉の逆転?の想定)などに
全然興味が持てないと、そりゃ面白くないだろうね。
まあ、みんなが興味を持つようなことでもないだろうしw
544 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 18:45:58 0
要するに、初心者向きの本は分かるが、高度なものは分からない、というだけのことでは?
「〈子ども〉のための哲学」や「これがニーチェだ」は、
少し哲学をやっている者には、もう一歩の突っ込みが足りなくて、物足りない。
本当に面白いのは、「私・今・そして神」や「なぜ意識は実在しないのか」だ。
545 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 18:59:44 0
「マジで恋する五秒前」かw。
引用先は脳科学な悪寒。
明日、永井本を探してこよう、結構面白そうとみた。
「転校生とブラックジャック」はどんな位置付けなんだろうか。
547 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 21:16:41 0
永井信者ってイヤな奴が多い。
548 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 21:25:24 0
>>544 >「〈子ども〉のための哲学」や「これがニーチェだ」は、
>少し哲学をやっている者には、もう一歩の突っ込みが足りなくて、物足りない。
オリジナルなものはないということでしょうか?
549 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 21:28:35 0
550 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 21:33:20 0
つまらない奴が多いに訂正します。
551 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/20(土) 21:50:14 0
>>550 そこまで褒めるなよ、照れちゃうじゃんw。
552 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 21:58:13 0
553 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/20(土) 22:00:01 0
554 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 22:02:40 0
永井信者の典型 ラプラスの悪魔
555 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/20(土) 22:55:07 0
556 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 23:29:40 0
永井信者の典型 ラプラスの悪魔
557 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 23:40:15 0
永井信者の典型 ラプラスの悪魔
558 :
考える名無しさん:2008/12/20(土) 23:58:41 0
永井信者ってイヤな奴が多い。
よっぱのバカをまともに相手にするから・・・(自爆w
560 :
考える名無しさん:2008/12/21(日) 00:51:46 0
>>543 >>544は哲学することが特別なことという自意識が感じられて異様にクサイ。
それがどのように面白いのかということを説明できんのか?
561 :
考える名無しさん:2008/12/23(火) 12:01:58 0
>>560 どんな分野でも入門者・初心者と、その世界に長く親しんでいる人と、また専門家とでは、
とうぜん関心や評価も違ってくる、というあたりまえのことを言っているだけとしか思えないが。
また、どんな分野でも、「どのように面白いのか」を「説明する」というのは、
さらにメタレベルの仕事になるので、高度な面白さを堪能できる専門家にとってさえ、
かなり難しい仕事になると思う。
562 :
考える名無しさん:2008/12/23(火) 20:13:54 0
>>561 >〜というあたりまえのことを言っているだけとしか思えないが。
それは当たり前かもしれないけれど、初心者同士、専門家同士では関心や評価は一致するの?
そもそも、永井なんて糞だと言う専門家も多分いるだろうし。「面白い」ということは個人的
なことにすぎないんじゃないの? 面白い、面白いと言うだけならサルにもできる。
>「どのように面白いのか」を「説明する」というのは〜
例えば、世の中には「書評」というものがあるだろう。あれは「どのように面白いかを説明」
しているんじゃないの?
563 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/23(火) 20:42:49 0
後頭部視覚野に図示化し、そのリアル感を
像として体感できないと面白さは分からない。
これは事実だな。
564 :
561:2008/12/23(火) 21:11:28 0
>>562 >初心者同士、専門家同士では関心や評価は一致するの?
いいえ、しません。
しかしそれは、初心者と専門家の間の一致のしなさとは違う種類の一致のしなさでしょう。
>あれは「どのように面白いかを説明」しているんじゃないの?
そうです。
だから書評は「専門家にとってさえかなり難しい仕事」で、
多少「その世界に長く親しんでいる人」ではあるかもしれないにしても、
2chに来ている程度の人に、そんなことを期待しても無駄だということです。
あたりまえのことですが、以上のことは、もちろん、
「面白くない」「評価しない」という方向の場合にもいえることです。
>>562 書評だって、どんな人にどれだけ面白さを伝えられるかは、限度があるだろう。
例えば漫画『寄生獣』について、「話に全くリアリティを感じなかった。謎の生物に寄生されて
残酷な殺しあいをするなどという描写が延々と続いて、読むのがきつかった」なんて言われたら、
どんなに詳しい『寄生獣』ファンでも、どう面白さを説明するか途方に暮れるだろうw
(知らない人すみません)
もともと、『子ども〜』がわかるが『私・今〜』は全然わからないというのは、ちょっと
意味がわからないからね。(後者のほうが難しい、というくらいならともかく)
基本的には同じようなことが書かれているはずだから。
566 :
ラプラスの悪魔 ◆daemontaDA :2008/12/23(火) 21:23:58 0
永井スレらしい。(Wはなしだ)
永井は言葉という厄介を回避している。
569 :
考える名無しさん:2009/01/09(金) 23:43:00 0
<私>の問題が片付いたら取り組むよ
570 :
考える名無しさん:2009/01/12(月) 09:59:15 0
今まで中島義道ばかり読んでましたが、つい先日、古本屋で見つけた
「〈子ども〉のための哲学」を読んでみました。
普通から外れた人が哲学することによって、やっと普通になれるだけのことだ
というようなことが書いてありましたが、やっぱそういうことなのかなあ、と思いました。
自分は子供のころから、自閉症でもなく友達が全くゼロというわけでもなかったけど、
集団行動が苦手で、周りとの違和感というのはなんとなく感じてました。
会社員になった今でも、表面上はうまくやる術は身に付けたけど、本当は
何でみんなこんなに「同じようなんだろう」とか、自分が何のために生きてるのか
ますます分からなくなってきています。
永井さんはそういう自分の内面を、言葉で表現する技術に長けていたということですかね。
上で、哲学することで、やっと普通になれるだけと書きましたが、そういう周りから外れている人
というのが、一般的には人格障害とか精神病とかいうレッテルで片付けられてるのかなあ、
などとも思ったりもしました。
この本の中で、彼の教え子の学生が、彼も驚嘆するほどの素晴らしい考えを述べたことについて、
自分のように哲学を専門としていない、普通の学生(ポテトチップスの会社に就職予定)が
こんな考えを持っていることに感動したようなことが書かれてありましたが、うがった見方をすれば
これって、哲学的思考をしてる自分への自惚れが少しあるようにも思いました。
もし興味があったら、他の本もどうぞ。
例えば、中島義道の解説が載ってる、文庫版『翔太と猫のインサイトの夏休み』とか。
572 :
考える名無しさん:2009/01/14(水) 00:06:21 0
>>571 やっぱり繋がってるんですね。
哲学「業界」の友達ってところでしょうか。
573 :
し:2009/01/14(水) 00:32:18 O
きも
574 :
考える名無しさん:2009/01/15(木) 00:46:51 0
永井の本で好きな本ランキング
1.「なぜ意識は実在しないのか」
2.「西田幾多郎」
3.「翔太と猫のインサイトの夏休み」
4.「<子ども>のための哲学」
5.「倫理とはなにか」
6.「転校生とブラック・ジャック」
7.「これがニーチェだ」
8.「<私>のメタフィジックス」
9.「私・今・そして神」
以下略
"倫理とは何か"は俺には難しすぎた。
話があっちこっち飛んで途中からはぐれてしまい
最終的に何が言いたかったのかがフニャフニャにぼやけっちまった。
自分もたまたま最近読み直してみたけど、確かに、難しい本ですな。
一応、中心になるのは、こんなところだろうか。
1.本当によいのは、自分にとってよいものだ。
2.道徳的価値は、他人にとってよい、自分にとっては悪いものだ。
道徳は、本当は、自分にとってのよいものを実現するための手段にすぎない。
3.ところが、道徳が成立した段階では、2.が忘れられて、道徳はそのまま従うべきものになる。
さらに、道徳は、自分にとってよいものにまで転化する。
4.道徳の根本には、私を他の人と同じに扱う、今を他の時点と同じに扱う、という考え方がある。
(これは、本当は開闢の奇跡とか〈これ〉としか言い様のないものだったはずのものが、
他人と並ぶものとしての私とか、他の時点と並ぶものとしての今とかと扱われるのに、対応している)
1.2.までは、感覚的にもとらえやすいし、道徳に関する以前の本にも比較的わかりやすく書かれてるけど、
3.4.は、改めて、かなり難しいと思った。
あと、個人的にたまたま読み返したきっかけは、別の倫理学の本(伊勢田哲治
『動物からの倫理学入門』)を読んだことだったんだけど、こういう別の本と
照らし合わせると、いろいろな倫理学説を紹介している部分も、勉強になって
面白かったですな。
きちんと勉強してる人には当たり前だったかもしれないけど。
私今神は最初はよく分からなかったけど、なんかくやしいので、しばらく置いてから
今度はじっくり読みかえしてみたら、なんか分かってきたので、ちょと面白かった。
最初の時は、じっくり読む気分じゃなかったのがいけなかったのかも。
あれは一文一文ゆっくり読んでいかないとわからなくなるね。
難解な思弁的SFを読んだような気分だ。
倫理はもっと簡単に言えるようなことだと思うのに
わざと難しく書いているような気がする。
そうすることに何か意味があるのだろうか?
倫理とは何かは教科書としては使えないな。
「わざと難しく」とは、どのへんが?
個人的には、私や今についての議論が、道徳に本当につながるんだろうか、という点は
確かによく分からなかったけど。
素朴に考えると、「私」「他人」「今」「過去・未来」などの捉え方は普通にしている人が、
生き方としては、他人なんぞ知ったことか今が楽しければいいんだという態度をとっていても、
別におかしくはないような気がする。
どういうつながりがあると理解したらいいんだろうか。
一つには、もし「過去・未来」という捉え方を全くしなかったら、道徳を破ると後で
制裁を受けるとかいうことも成り立たなくなるので、道徳に従う理由がなくなるかもしれないけど。
581 :
考える名無しさん:2009/01/24(土) 12:29:14 0
いや、倫理は、簡単に言えるようなことでは全然ない。
あれでも、言えるぎりぎりのところまでは、
できる限り分かりやすく書いていると思う。
本当はもっと難しい(というかむしろ微妙な)問題が絡んでくるのだが、
そういうところは飛ばして、論理的にいえる骨格だけを示しそうとしている。
もしあれで分からないのだなら、そもそも倫理の「本質」を探究するのは無理だ。
それでも日常の倫理的問題に対処するのに不自由はしないから。
要するに、あらゆる哲学的な問題と同様、この場合も、
すべての人に、倫理について哲学する必要があるわけではないということにすぎない。
おやおや、ル・サンチマン™ さん (笑)、この過剰な反応どうしたんですか(笑)
俺は7章あたりから分からなくなった。
>>576のいう1〜4はぶっちゃけ誰が読んでも分かる部分だとオモ。
終わりの章なんかが特にむつかしかった
584 :
考える名無しさん:2009/01/25(日) 21:44:11 0
それは結局、544が言っていた、
初心者向きの本は分かるが高度なものは分からない、というだけの話では?
「<子ども>のための哲学」や「これがニーチェだ」や「ルサンチマンの哲学」では、
道徳哲学の問題を少し深く考えている人には、もう一歩の突っ込みが足りなくて、物足りないだろう。
本当に面白いのは、「倫理とは何か」、それもとくに6章、7章、終章の議論だろう。
個人的にはむしろ、このあたりの議論を独立させて、ちゃんとした道徳哲学の著作を書くべきだと思う。
>>583 うーむ、
>>576にまとめたようなことを踏まえた上でなら、むしろ7章や終章は、それに沿って
筋道だてて書かれていて、むしろ分かりやすいほうじゃないですかねえ?
他の部分のほうが、いろいろな倫理学説の検討も混じっているので、難しいというか勉強が必要な気がする。
何か誤読してるだろうか。
586 :
583:2009/01/26(月) 23:02:24 0
>>584 >初心者向きの本は分かるが高度なものは分からない
まぁそうなんだろうね。
そこで教えて欲しいのだけど、永井センセの初心者向きの本と比べて
倫理とは何かの6,7章あたりはどの辺がどう深くてどう高度なんだろうか?
まぁこういうものは自分で弄くって遊ぶのが正しいのだろうけど
参考までにご意見をご拝聴したい。
587 :
考える名無しさん:2009/01/27(火) 14:13:23 0
585に賛成。むしろ分かりやすい。
必要なのは、記述をしっかり追って、論理的に強靭に考える頭だけで、
とくに何も予備知識を必要としないから。
>586
584ではないが、私見を。
要するに、独在性の理論を倫理にも当てはめて、利己性もまた独在的で、
累進構造を持つがゆえに言語では語りえない、と考える視点が強力に導入されるからだろう。
しかし、実際にそうではないか? だから、
悪を擁護する言説というものを、言語共同体の中で、他者に向けて一般的に語ることは、
無意味なことではないか?
ここで、言葉的無意味性と倫理的無意味性が形式において重なるのは、非常に興味深いことでは?
588 :
考える名無しさん:2009/01/27(火) 14:19:08 0
貨幣交換は基本的にウィンーウィンである。そして利子が投資をウィンーウィンの関係にする。
貨幣交換は基本的にウィンーウィンである。そして利子が投資をウィンーウィンの関係にする。
貨幣交換は基本的にウィンーウィンである。そして利子が投資をウィンーウィンの関係にする。
貨幣交換は基本的にウィンーウィンである。そして利子が投資をウィンーウィンの関係にする。
貨幣交換は基本的にウィンーウィンである。そして利子が投資をウィンーウィンの関係にする。
589 :
考える名無しさん:2009/01/27(火) 19:58:48 0
>>587 586ではないが
>導入されるから
とは、なんに対する「から」なのですか?
590 :
589:2009/01/27(火) 20:12:10 0
すまん、自分で解決しました。
591 :
583:2009/01/28(水) 01:20:42 0
>>587 おおっわざわざレスありがとう。
>必要なのは、記述をしっかり追って、論理的に強靭に考える頭
なるほど、「倫理とは〜」が俺の手に余ったのは、
論理を順に追っていくスタミナのような物がなかったからなのかも。
もう一度じっくり挑戦してみようかな。なんだかワクワクしてきた。
今私そして神を読む前は、最初、私的言語ってあるの?って感じだったけど、
「痛み」という言葉でなんかわかった気がした。
私の「痛み」と他人の「痛み」は違う。よって私の「痛み」という私的言語はある。
ということでいいんだよね。言われてみると当たり前だなと思った。
私的言語は不可能、というのが永井の一貫した言語観だろ
誤読にも程がある
は?
595 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 18:41:45 0
それはそれとして、『私今神』の第三章は、個人的には、正直、何度読んでもなかなか意味が理解できないなあ…
597 :
考える名無しさん:2009/01/30(金) 06:14:43 0
>>578 興味深いが、倫理的無意味性のほうは形式をもつのか、問題になるのでは。
つまり、他人が自分の利己性に賛成することは本当に無意味か、というようなことが。
598 :
597:2009/01/30(金) 06:17:05 0
というか、独我論が正しい可能性があるのなら、
必然的にあらゆる言語は私的言語である可能性があるんじゃないの?
600 :
考える名無しさん:2009/01/30(金) 15:27:20 0
独我論が正しいとはどういうことですか。
他人と呼んでいたものがゾンビであるということですか。
わたしもまたゾンビである
602 :
考える名無しさん:2009/01/30(金) 20:48:51 0
ゾンビであると発言するのは心理的ゾンビ。
私が「本当に存在するのは〈私〉だけだ」と言って、他人が「そうだ、本当に存在するのは〈私〉だけだ」
と返事をしたとする。実は、他人が私の言ったことそのものに賛成していることはあり得ない。
これに対して、私が「本当によいことは私にとってよいことだ」と言ったとして、他人が
「そうだ、本当によいことは、あなたにとってよいことだ」と賛成して、私にとってよいこと
ばかりを実行してくれたとする。これは別にあり得る?
(マゾヒズムの快楽のようなものもあり得るから、という話が『私今神』に出てくる)
しかし、この時の他人は、実は、「本当によいことは(あなたではなく)私にとってよいことだ」
と考えて実行したのであり、ただ、この他人にとってよいことが私にとってよいことと重なっていただけ、
というようなことであったとすると、やはり、私の言ったことそのものに賛成したわけではないことになる?
と思い付いたことを書いてみたけど、あまり意味なかったですね。
604 :
考える名無しさん:2009/01/31(土) 08:53:11 O
永井倫理学の面白いところは、心理的利己主義に加えて、そこに言語ゲーム等の伝達可能性についても言及してるところだと思う。
流れ無視してすまない。
別スレに書いたが、こっちにも書く。
永井均の一読者だが、彼はよく、現存の教育者や教育制度を叩く。
鋭い指摘もあるし、それはそれで頷かせられることもある。
しかし、一読者からすると他ならぬその永井(の言説)から「教育者的情熱」を感じることがある。
それは彼の欲ではなかろうか。
「教育欲」と言ってもよいと思う。
この点に、本人は気づいているのだろうか。
欲望のもとに言説を振りまくことが倫理的に(!)どうのとか、現存の教育者や教育制度を叩くのなら代案を示せ、等ということを言いたいのではない。念のため。
もひとつ。
永井にしてみたい、およそ哲学的でない質問がある。
「全能の独裁者(ないし独裁政権)が出現し『あなた(=永井)の説を全世界の学校教育の根本に据えます』と言われた場合、どのように答えますか?」
ポイント1 あくまで独裁者=人であって、永井が論ずるような「神」の話ではない。
ポイント2 「永井均」の読者として当たり前だが?答を倫理的に評価する気は毛頭ない。
ポイント3 永井が「学校」および「学校教育」という制度(現存のものに限らない)それ自体をどう思っているか。ここを見極めたい。
607 :
考える名無しさん:2009/02/04(水) 18:58:07 0
>彼はよく、現存の教育者や教育制度を叩く。
そうか?
覚えがないが、いくつか例を挙げてくれ。
608 :
考える名無しさん:2009/02/04(水) 20:38:23 0
「西田幾多郎」のあとがきで、「別の形態の仏教ニヒリズムが大きな問題を
引き起こしたことは周知の通りである」とあるんだけど、これ何のこと?
>606
学校教育の根本に据えるような何某かの教説を永井が唱えていると言えるの?
永井氏が現存の教育者や教育制度を叩いていたというのは思い当たりません。
およそそういう「社会的発言」とは無縁の方だと思いますが。
永井哲学の中でよく理解できない点として「他人への愛」があります。
ご自分で、世界を客観的に眺めて普通に善悪を信じている人に対しては、どうしても
「いや世界はあなたを中心に広がっているでしょう」と言いたくなってしまう
ことがある、これは「他人への愛」としてしか説明がつかない、という
ような意味のことを書いておられたと思います。
永井哲学でこれをどう位置づけるのか、それがもうひとつよくわかりません。
(これも言語の力がもたらす奇跡うんぬんということになるのか?)
永井哲学と「社会思想」に何らかのつながりが有り得るとしたら、
そこからなのかという気がします(素人考え)。
>>608 それはオウム事件のことではないですか。
611 :
608:2009/02/05(木) 21:33:08 0
>>610 やっぱりそうなのか。俺もそれしか思い浮かばなかったんだけど。
しかし、オウムって「仏教ニヒリズム」なの?
>608
どういう文脈か分からないけど、戦争のことを言ってるのではないの?
613 :
考える名無しさん:2009/02/05(木) 23:52:49 0
違うよ。「西田幾多郎」読め。
>>607 とりあえず。
「ルサンチマンの哲学」P.57 2〜4行目
『今日なお、倫理学も既成宗教も、そして教育イデオロギーも世の良識も、倫理概念のこの二義性を隠蔽するように働いている。サンジョウやセンシュウの説教者の言説はそれをよく示している。』
サンジョウの説教者とはイエス・キリスト(まあこれは置いておいて)、センシュウの説教者とは専修大学教授大庭健氏のことだそうな。
“現代の教育界では、教師には(さまざまな形態をとった)ニヒリストしか残らない”という旨の文言を永井のどこかの著書で読んだが、残念なことに出てこない。
おわかりの方がいましたら、お願いしますm(__)m
自分が鋭い指摘だと思ったのは、これです。
しかしよく考えてみると“さまざまな形態をとったニヒリスト”とは、便利な言い草。
およそ職業で“さまざまな形態をとったニヒリスト”が皆無の業種というのは、逆に想像しがたい。
“しか残らない”(=全員がそうである)というのも、凄い言い切りだ。
哲学者って言い切り(独断)が好きだから
間を置いてみたが、本は見つからないし“さまざまな形態をとったニヒリスト”が皆無の業種もなかなか思い当たらない。
皆無ではなく、比較的少なそうな業種は‥‥?
思想家や哲学者‥‥と言いたいところだが、業種とは言いがたい(汗)
これも業種というくくり方が適当かわからないが、政治家というのは「ニヒリスト」が少なそうな気はする。悪い意味で(笑)
「ニヒリスト」になるには「むなしさ」を捉える感度が必要だと思うが、やつらにはそれが無さそうだ(笑)
ただ、政党、政治団体、つまりうんと広義の「政界」には“さまざまな形態をとったニヒリスト”は多いだろうと思う(笑)
(宗教家、宗教界も同様の構造かと)
他は、これも業種というくくり方が適当かわからないが、落語家というのは「ニヒリスト」は少ない気がする。
これは政治家の場合と違って、元々の目指すところと辿りつくところ、また自分が求める像と社会的に求められる像が、そうかけ離れていないからではないだろうか。
業界の事情はわからないから、あくまで素人の印象論として。
逆に教育者で該当しない例として、有名どころで夜回り先生こと水谷修さんはどうだろうか。
あの人については様々な評価があるとは思うが、少なくとも「ニヒリスト」ではなかろう。
ただ、永井が言いたいのは、こんなことではあるまい。
教育イデオロギーによって制度化されている教育界で働く教育者に、そういった淘汰圧が実はかかっている、ということだと思う。
永井の「西田幾多郎」を読む前に「善の研究」を読み始めたのだが、
ダメだ、あの古い文体にはついていけない。数ページで脱落した。
読んでで全然、頭に入ってこない。なんとも要領を得ない。
でもあれを読める人もいるんだよな。永井をはじめとして。
ともかく、あきらめて永井の本を読むことにしよう。
「西田幾多郎」はすごく面白かった。デカルトやウィトゲンシュタインと比べるところとか。
>>618 俺もあの「史上初の確信犯」と言っているところがすごくおもしろかった。
620 :
論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 04:05:08 0
この人って本の解説とかで中島義道とつながりがあるみたいだね。
所詮は中島レベル?w
4月16日(予定)に『マンガは哲学する』が岩波現代文庫からでる。
再文庫化にあたり加筆があるのかな。
>>620 永井ごときを論駁して喜ぶなよカッコ悪い・・・・
624 :
考える名無しさん:2009/03/06(金) 11:38:27 0
シンポジウム「〈私〉とは何か―永井均に聞く」
コメンテーター:
永井 均 (日本大学)
発表者・質問者:
上野 修 (大阪大学)
入不二 基義 (青山学院大学)
青山 拓央 (山口大学)
司会: 古荘 真敬 (山口大学)
日時:3月7日(土)午後1:30〜5:30
場所:大阪大学21世紀懐徳堂スタジオ
(参加申し込み不要)
ついにシンポジウムまで開かれるか…
〈私〉って、一種の錯覚でしかないかもしれないのに…
永井さんはすごい好きだが、弁論のほうは大丈夫かな
このオッサンは未だに〈私〉かよw
シンポジウムどうだった?
えがったー
630 :
考える名無しさん:2009/03/08(日) 22:19:13 0
>〈私〉って、一種の錯覚でしかないかもしれないのに…
だからこそシンポジウムにまで開かれたのでは?
>このオッサンは未だに〈私〉かよ
もうこの用語は使われなくなっているそうですよ。
入不二さんがそうなった理由を外から解明していた。
631 :
考える名無しさん:2009/03/09(月) 13:37:38 0
永井さんの動画インタビュー見たけど
すごい少年っぽい人だった。
『<子供>のための哲学』とか『哲学対話』の
イメージそのまんまだった(笑)
632 :
考える名無しさん:2009/03/09(月) 20:29:21 0
シンポの内容はどんな感じだったの?
入不二氏のをざっと読んでみたけど、難しく感じた。
微妙なところで噛み合っているのか、いないのか。
全体がどこかで出版されたりしないんですかね。
こんなに微妙な戦いをやって、噛み合うし面白いのは
永井と入不二だからだろ
>永井は、第0次内包=クオリアと考えている。
>しかし、(クオリアという名称をどの範囲にまで使用するのかという問題はあるとしても)
>クオリアには、「マイナス内包」の水準、
>すなわち「概念自体からの自立・逸脱」の水準を加えた方がいいのではないか。
そうなの? クオリアって概念なの? 「マイナス内包」ってつらなくね?
訂正。
×「マイナス内包」ってつらなくね?
○「マイナス内包」っていらなくね?
永井的にもクオリアは概念ではないが、永井の場合は、
「赤い」とか、概念に依拠する形で把握されてるということでしょう。
概念に依拠してしまうと、当然「赤い」という表現を他人も使用することができるので、
そこに累進が発生してしまう(概念に依拠していた〈これ〉が、概念そのものになってしまう)。
入不二的には、そういう意味以前の段階(マイナス内包)でも、
クオリアというものを考えてみたいんでしょう。
640 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 22:52:16 0
>入不二的には、そういう意味以前の段階(マイナス内包)でも、
>クオリアというものを考えてみたいんでしょう。
そうなのかなぁ?
これはちょっと違う気がするんだけど…
641 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 00:57:49 O
動画はどこで見られます?
(4)
私のまとめのことば「<私>にはクオリアはない」に対して、永井は「<私>こそが唯一のクオリアだとも言える」と応答した。
これは、お互い違うことを言おうとしているのではない。むしろ同じことを別の方向から言っているように思う。
そして、永井は「そもそも「クオリア」は何を表しているか意味不明」とも付け加えた。まったく、その通りだと思う。
いわば、「クオリア」という用語は、意味が通じ了解可能なときには、その用語は特に必要のないもので、
その用語が必要になるときには意味不明になるというような言葉であると思う。
【2009年3月8日記】
ttp://wiki.livedoor.jp/irifuji/
643 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 07:49:33 0
>永井は「そもそも「クオリア」は何を表しているか意味不明」とも付け加えた。
意味不明なものをこねくり回す自己満足哲学者たち乙
644 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 12:15:13 0
> 私のまとめのことば「<私>にはクオリアはない」に対して、
> 永井は「<私>こそが唯一のクオリアだとも言える」と応答した
ヒューム:「観念の束」
デカルト:「すべての観念がコギト」
みたいなやりとりで、新しい装いをまといながら内容は旧態依然って感じ。
645 :
考える名無しさん:2009/03/12(木) 12:22:34 0
意味不明にならざるえない理由を明らかにするのが哲学の仕事
646 :
639:2009/03/12(木) 19:18:09 0
>>640 どう違うと思います?
マイナス内包=意味以前の段階、という点なのか、
それともクオリアという言葉の使い方が不用意だった?
個人的感想
現象的・心理的の話、累進構造の話など(第2日以降)と、第〇次内包・第一次内包・第二次内包の話
(第1日)は、つながっているのか、つながっているとすればどうつながるのかは、疑問な気がする。
その点で、入不二氏が概念化される・されないの問題がさらにあるのではないかとしているのは、
永井の議論を掘り下げていると思った。
ただ、第1日で第〜次内包の話をしている部分に限っては、誰にでも当てはまる、概念化
されてしまってる(されても問題ない)話しかしていないのでは。
概念化されて困るとすれば弟〇次内包だろうけど、それも、突き詰めていけばともかく、
第1日の限度では、例えばゾンビが持っていてもおかしくないようなものにすぎないのでは。
その部分にまで概念化される・されないの話を持ち込んでいることに限っては、入不二氏の
議論は、永井の議論自体からは外れている気がした。
どんなもんでしょうね?
うーむ、面白いけど永井の議論を掘り下げすぎのような気がしないでもない。
あと、〈私〉「これ」を無内包としてゾンビ論を補完してたのは面白かったけど、
これからの哲学者は「無を使ったら負けかな」と思ってほしいな。
いや掘り下げすぎではなくて変なところを掘ってるというべきか。
650 :
考える名無しさん:2009/03/19(木) 20:18:57 0
しかし、永井自身は非常に高く評価してたぞ。
とくに2番目。
651 :
考える名無しさん:2009/03/20(金) 23:07:24 0
入不二ってつまらない。
永井ワールドで遊んでるだけに思える。
はたしてそうかな。
楽しく遊んでいて、むしろ羨ましいぞ。
653 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 22:37:05 0
全然羨ましくない。
屁理屈に淫してるように見える。
屁理屈っていうのは間違いってことか?
655 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 22:42:58 0
ああとも言え、こうとも言えということについて、
「ああ」と言っているということ。
おまえに能力がないから屁理屈にみえるだけだろ
657 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 22:53:14 0
そうかもしれませんね。
では、屁理屈ではないことをあなたが証明してみてください。
能力がないなら、そんなやつに説明しても無意味
能力があるなら、自分で入不二批判論文でも書け
いずれにしても、おれが説明する必要なし
659 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 23:26:23 0
入不二ってつまらない。
永井ワールドで遊んでるだけに思える。
はたしてそうかな。
楽しく遊んでいて、むしろ羨ましいぞ。
661 :
考える名無しさん:2009/03/30(月) 23:33:48 0
全然楽しそうに見えない。
社会システムにはまってると思う。
ad infinitum
反復する 反復する 反復する
664 :
考える名無しさん:2009/03/31(火) 00:15:25 0
>楽しく遊んでいて、むしろ羨ましいぞ。
キモイ。
永井ワールドで遊んでいる人たちにはそうなんでしょうね。
足裏影のエッセイ集は入不二ワールド
オーメン
萩尾望都が岩波現代文庫『マンガは哲学する』の文庫版解説を書いてた。
それと著者による不親切な(?)文庫版あとがきが付いてた。
読んでみた。つい立ち読みで済ませてしまったw
『マンガは哲学する』以降の著作について、「本質的には〈私〉という表現を必要としなくなった。
その理由は、〈〉を概念化することに成功したからだ」などと書かれていたけど、なるほどそんな
ふうにまとめられるのか、と思った。
669 :
考える名無しさん:2009/04/27(月) 22:02:45 0
>>668 それはおもしろい。
俺も立ち読みしてみよう。
文庫化したのか。
それより新作が読みたい。
土浦の連続殺傷犯人が「子どものための哲学対話」を読んでたらしく、
それに従って人を殺したみたいなこと言ってたな。
馬鹿が哲学やると手に負えないな。自分の論理が正しいかどうか判断出来てない
>>671 さっきそのことに関してテレビ(TBS)に出てたけど、インタービューが短すぎて
何が言いたいのかよくわからんかった。
674 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 19:19:11 0
675 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 19:28:03 0
>>673 それ見た。永井先生をテレビで拝めるとはw
676 :
たかし:2009/04/30(木) 19:31:51 O
永井先生いわく
推論(論理)は正しい
願望が間違っていた
677 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 19:48:58 P
こいつの本読んで触発され、殺人犯した奴がいるなw
言葉が幼すぎるww
678 :
アラコキ:2009/04/30(木) 20:08:00 0
「言葉で人を殺せるか」を思い出した。
679 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 20:14:09 0
話題出すタイミングが良すぎると思うじゃろ?
680 :
アラコキ:2009/04/30(木) 20:38:06 0
んだ。何かあったのか?
681 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 20:52:15 0
しかしネットが安定しないな。
馬鹿がインフルとか騒ぎ過ぎだ。
生物学者とか医者、エタ非人、売春婦、ペット飼ってるのは安全圏内だと報道しやがれ
アメリカ人は馬鹿だそれに釣られる日本人のお人好しぶりもなんとかしろ。
と2ちゃんで叫ぶ風の書き込みをする。叫ぶ風。
>人は普通生きていたい、できれば楽しく生きたいと願っているので、
>それを実現するためにいろいろな『生き方』を説得できるが、
>この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない
「哲学」で他人に優越感を覚えること(願望)が金川被告の『楽しい』生き方になっちゃったんだろうな。
哲板でも金川被告の予備軍のようなのがたむろってるスレって昔からあるし。
684 :
考える名無しさん:2009/04/30(木) 23:32:03 0
やじ馬としてはこれで永井が話題になって欲しい。
685 :
¥:2009/04/30(木) 23:40:43 0
コード。情報 → 伝達 文化 価値
こりゃ何とも言えないなーw
仮にこんなことで話題になると、多分、ろくな取り上げられ方をしないんじゃないか。
あえて言うと、例えば、もしこの本に影響されるんなら、ネアカ人間になるように影響されるのが
正しい影響のされ方だ、なんて言ってみるのはどうか。
687 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 00:34:49 0
ネアカで人を殺すということもありうる。
688 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 01:02:28 0
子どものための哲学対話
>また、死刑以上の重罰はないということは、世の中死ぬつもりならなにを
>してもいいって暗に認めていることなんだよ、なんて書かれていて‥‥
>いや、これは過激なお子様が大量生産されそうな凄い本です。(守屋淳)
689 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 04:11:14 P
だからくだらん本を出すなってのw
>>682 レスが増えてると思ったら。でもこの記事3月28日だな。
「…世の中『は』死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。『認めざるをえない』のさ。」
「世の中死ぬつもりならなにをしてもいいって暗に認めていること」
ちょっと端折っちゃっただけで大違いwwww
692 :
アホ哲:2009/05/01(金) 08:06:38 0
同じ哲学に影響受けても昔の人は「人生不可解」で
日光華厳の滝で自殺した。
金川被告のように自分で死ぬのが怖いからと見ず知らずの
他人を殺すようなことはなかった。
死刑や哲学書の問題ではないだろ。
何かが壊れている現代社会だ。
>>691 平均的な中学生の国語力だと厳しい気がする…。
694 :
アホ哲:2009/05/01(金) 09:07:00 0
>「…世の中『は』死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。『認めざるをえない』のさ。」
死刑が規定されてることから論理的にこんな結論は出ない。
死刑はあくまでも殺人罪などの罪に対する罰に過ぎない。
殺人罪とは人を殺したら罪であるということで人殺しはいけないという
ことだろ。その他の法律も何をしていいかを決めるものであって何をしても
いいなどと解釈できない。
695 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 09:31:18 0
>>682 この金川という人は永井の本を曲解しているわけでも何でもない。
永井の理屈を理解した上で、この人のように「人を殺す」と決意することは
あり得るのであって、そういう人に対しては永井の理屈で「殺してはいけない」
と説得することはできないのである。永井本人もそのことはわかっているはずだ。
(マスコミで公言するかどうかはともかく。)
永井の本はどう考えても簡単に「良書」として学校で推薦できるような
ものではないのに、なぜそういう前提で記事を書くのか、理解できない。
696 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 09:38:21 O
みち 道
697 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 13:32:25 0
>>695 同感。
私も曲解しているわけではないと思います。
永井の著書がこういう類の人間の「行動」を後押しする
「思想」となり得るのは当然。
698 :
アホ哲:2009/05/01(金) 14:29:52 0
>「…世の中『は』死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。『認めざるをえない』のさ。」
これ、自爆テロの正当化そのものだね。
>>695>>697のように勘違いするバカがいるぐらいだから、
学校で推薦しないほうがいいというのはその通りなんだろうな
>>699 勘違いではないよ。
永井自身が「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と本気で聞かれたら、
自分にできる唯一の答えは「それについて哲学しよう」だ、と言っていた。
そして「それについて徹底的に哲学すれば、その人は実際には
殺さないのではないか、という淡い期待がある。しかしそれはあくまでも
淡い期待に過ぎない」とも。
永井の理屈を理解しているなら「ありうる」と「ある(やる)」を短絡しないだろ
>>694>>698 永井は「世の中『は』死ぬつもりなら、なにをしてもいいって、
暗に認めているってこと」を「認めざるをえない」と書いているんだよ
あくまで「世の中」が主語だ
>>695>>697やアホ哲は哲学者ヅラしながら「世の中が認めるなら
(認めざるを得ないなら)俺は何をしてもいい」という隠れた前提を
安直に正当化してしまってるんだよ
なんで世の中が認めているなら、私も認めるという話になるのかね?w
永井の話は、死刑を極刑として設定することが、「してはいけない」と
考えることに沿わない『認めざるをえない』グロテスクな前提を孕んでいる
という分析だろう?
永井の分析からは刑法があろうがなかろうが刑法犯にあたるようなことはしない
主体性が出てくる傾向性を持つとは言えても、わざわざ自分の選択肢を記事で
紹介された一節に影響されて狭めるような考え方が出てくるとは言えないんだよ
もちろんきちんと読めばの話だし、永井が誤解を招かないように特に配慮している
とは俺も思わないけどな
それに記事が嘘じゃないなら永井は「哲学はいったんスイッチを切って世の中の
仕組みを考え直そうとするもの」だと発言したんだろう?
これはスイッチを切りっぱなしにするのは哲学じゃないってことだろう
(永井が指摘するまでもなく当たり前すぎる話ではあるが)
>>700 それは哲学的に考えきることが難しいってことで、
哲学すれば危険が実現しやすくなるって話じゃないでしょ。
「死ぬつもりなら、なにしてもいい」って言い方あるけど
これの「いい」って言葉は何か「密輸入」されているとも言えるんじゃない
そもそも、いわゆる「いい・わるい」の成り立たないレベルの話だろ!
善悪の彼岸ってやつ
>>702 反対に「哲学すれば危険が実現しにくくなるという淡い期待を
自分は(哲学者として)持っているけれども、それは自分が勝手に
抱いている淡い期待に過ぎないから逆の場合だってあって不思議はない」
ということよ。
逆の場合があって不思議ではないのは「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と
本気で聞く人間にすでに強い傾向性があるからで、哲学の問題じゃないでしょ。
さすがに永井スレはまともかと思ったけどやっぱ皆が皆というわけにはいかないんだね。
>>701さんの意見は正しいと思うけど、「世の中が認めるなら(認めざるを得ないなら)俺は何をしてもいい」
という隠れた前提を持たずに永井の文章が読まれることを期待するのは、正直要求が高すぎないですか。
永井さんの本って中学生対象なんですよね。
>>701のように読めれば結構なことだけど、哲学板で殺人の話を好んでするやつ見てると、
>>704みたいに殺人がすごく起こりやすい例を所与の前提として、そこにいたらない可能性を
あらかじめ封じて話を進めたがる傾向が異常に強い。
そういう種類の人には「思想」として読まれる危うさが永井の本にあるのは事実だと思う。
>>706 哲学書を読むのにそれを言っちゃおしまいじゃないかい
709 :
アホ哲:2009/05/01(金) 16:22:34 0
>>701 >あくまで「世の中」が主語だ
世の中「は」、の「は」は「世の中」を話の主題にしているということで
「世の中ではどうかというと」くらいの気持ちだろ。
「死ぬつもり」なのは世の中で「死にたいと思ってるやつ」でこれが
主語(主体)だろ。その主体は何をしてもいい、ということ。
だから、永井自身もテレビのインタビューで論理は正しく理解されてる
といっていた。
>>705 そんなの当たり前だろ。本人にすでに強い傾向性がなければ、
永井の本を(というか誰の本でも)読んだからって人殺しなんか
するわけない。
永井の言っているのは、仮にそういう強い傾向性を持ったやつが
自分の本を読んで「なぜ人を殺してはいけないのか」について考えれば、
その傾向性に多少はブレーキとして働くという淡い期待を持っているけれども、
実際にはアクセルとして働いてしまう場合があっても不思議ではない、
ということよ。実際今回はそう働いてしまった可能性もある。
(犯人の単なる言い訳という可能性も強いが)
永井自身は「自分は言説の市場効果のようなことについては考えないと
決めている」といっていたから、別にこたえないだろうが。
「認める」って言葉には、「ただ事実をそうであると受け入れる」って意味と
「よいことであると受け入れる」って意味があるから、ややこしいね
712 :
アホ哲:2009/05/01(金) 16:45:27 0
>「死ぬつもりなら、なにしてもいい」って言い方あるけど
普通はそんな言い方しないよ。
「死ぬつもりなら何でもできる」と励ます言い方だろ。
いわゆる「必死でやってみろ」くらいの鉢巻の気持ちだ。
>>709 主体としての「世の中」が死ぬつもりである主体についてどう考えているかと理解しないなら
「世の中ではどうか」を問題にしたことにならないだろ?
どうかというとと言われてる世の中は判断主体としての人と関連してないとでも言うのか?w
それこそ「世の中ではどうかというと」くらいの「気持ち」で考えてるだけだわな
もし、永井がそういう解釈で書いてたのだとしたら当の永井も間違ってるよ
>>712 ちょっと違うんじゃない
永井は事実を述べただけでしょ
励ましたりしないでしょ
715 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 17:56:32 P
>>701 そもそも、哲学徒は基本、法律を無視して論を展開しなければならんのじゃないか?
>>715 スイッチを切るのと切りっぱなしにすることの区別ぐらいつけような、自称哲学徒の中二病患者君。
>>710 期待が裏切られても不思議ではないことが、「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と
本気で聞く人間にすでに強い傾向性があるためだと認めるなら、
・学校で推薦できるようなものではない(
>>695)
・「行動」を後押しする「思想」となり得るのは「当然」(
>>697)
のように、裏切られる結果と永井の哲学自体の性質を結びつける考えに根拠が無いと認めた
ことになるだけでしょ。
君は口先ではブレーキとして働く期待を言うけど、その「淡さ」を好んで強調し、
アクセルとして働くことを「不思議でない」とやたら強調しているでしょ。
それが不思議でないのは、ある種の人について話しているからで、永井の本が受け取られる
場所一般について話していないからなのに、そこがすっかり抜けている。
それは君の金川被告的な「願望」そのものじゃないですか。
「願望」を抱く人間が、「願望」を現実化させないことが特権的に哲学的であるかのようだよね、
君のような人間の話しぶりを見ていると。
>>707 その通りですね。
そこがすっかり抜けている。
→そこがすっかり考慮から抜けている。
>>715 哲学的に考えるなら法律を「度外視」した論を展開することになる(ことが多い)とは言えるでしょうが
法律を「無視」……しなければならんなどと規範化してしまったら完全な間違いでしょ。
そんな態度のどこが哲学的なんですか?
719 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 19:45:09 P
>>716 馬鹿はレスすなw
>>718 この本は、子供向けの『子どものための哲学対話――人間は遊ぶために生きている!』である。
法律を持ち出すことにより、思想的に未熟な哲学史も知らない子供は、法律と照らしあわし
確乎たる意見、思惟を持つに至る。回答としては、あやふやさを残したままの回答に終始すべきである。
子供に確たる思想に至らせるべきでない(現に至ってしまった)。
720 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 19:49:39 0
金川被告的シュミで哲学徒ぶってる奴は法律無視の規範化が哲学だと勘違いしてるよな。
>>711が指摘してる「認める」も、事実認識のはずがいつのまにか「既成事実」化した物言いになってくし。
>>707が言うように事実認識の対象を恣意的に限定して恥じるところがないし。
>>719 バカはお前だろ。
「哲学徒は基本、法律を無視して論を展開しなければならん」は現に至ってしまった「確たる思想」の典型例だろうが。
お前自分が書いた文章の意味ぐらい理解しろよ。
722 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 19:56:57 P
>>720 >金川被告的シュミで哲学徒ぶってる奴は法律無視の規範化が哲学
法律無視の規範化が哲学ではないよ、勿論w
哲学的規範を論じれば、否応もなく現代社会規範に言及せざるを得ないが、
それを前面に出すべきではない、ということ。
書名が「子どものための哲学対話」なら、対象読者に配慮した物の言い方があるはずである。
わざわざ
>>718が「度外視」と「無視」を使い分けても
>>719みたいなお子ちゃまは理解できないのです
>>722 だめだこいつ・・・
自分の書いた文章の意味すら理解できない馬鹿は最悪だな。
725 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 19:59:49 P
>>721 おまえは何だ?人にわかるようにレスしろw
哲学的規範ってなんだよ
727 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:04:06 P
>>723 無視して論じて初めて、法律論に至る。言ってることもわからんのかw
728 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:06:11 O
やさしいほうの人間を生かして残酷なことしてきた人間は生かさないのは必定。そいつらは荒野生きるべきはべつだ
729 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:09:11 P
そもそも、「子どものための哲学対話」なら、刑法など持ち出すべきではない。
730 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:09:55 0
>>710 すみません、「永井の哲学自体の性質」ってどういうことですか?
もう少し詳しく展開してもらえませんか。
なんか信者全員涙目www
クソワロタ
732 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:14:00 0
>>717 すみません、「永井の哲学自体の性質」ってどういうことですか?
もう少し詳しく展開してもらえませんか。
733 :
アホ哲:2009/05/01(金) 20:20:21 0
>「なぜ人を殺してはいけないのかわからない」と
こんな質問にも答えられない哲学なら哲学なんていらないジャン。
法律があればそれでよい。
「眼には眼を、歯には歯を・・・」の法を執行すればよいだけ。
悪法も法なりのソクラテスに習えばよい。
もう一度言う。
「死刑があることから死ぬつもりなら何してもいい」なんてことは
論理的に帰結されない。
734 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 20:54:10 0
死ぬつもりの奴には、死刑はまったく抑止力にならないっていう意味だろ。
735 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:13:54 O
いや今回はキチガイには哲学書も死刑も抑止力にならないっていうこと。
736 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:20:15 O
ゲームやホラーが殺人の原因だというアホな議論があったが、
哲学書が原因だという議論ならさすがに大衆もこうした書き物原因論の
無意味さに気付くかとおもったが
そうでも無いのかな。
わざわざ
>>718が「度外視」と「無視」を使い分けてもと
>>723が書いてくれても間違いをチェックしない
>>727ww
>>736 このスレ見てるとそうでもないみたいだな。
しかも書き物原因論が哲学だとおっしゃるのだから恐れ入るww
738 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:40:29 O
書き物原因論の無意味さは同じ書き物を少なくとも何万もの人間が受け取っているのに、
ある一人以外は何もしないという唖然とするような客観的事実だ。
これが何かの事象の原因であるとする人は、
雨粒が殺人の原因だとする論にも是とする人なのかもしれないが。
739 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:41:49 P
740 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:42:57 P
>>738 その基地外一人が根拠としてんだから、逃げることはできんよw
741 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:47:10 O
あるキチガイに雨が当たったので殺人を犯したと、
雨粒を責める人には同じ香ばしい匂いがするね。
742 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:48:14 P
そう思いたいんだねw
743 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:50:54 O
そうおもいたいんだね
>哲学はいったんスイッチを切って世の中の仕組みを考え直そうとするもので、毒にも薬にも作用する。
>金川被告は問題意識が途中で止まってしまい、毒の方向に作用したのだろう
>この根本前提がない金川被告に対しては、『生き方』の説得に効力がない
永井本人がこう認めているのに、曲解していると擁護する奴はおかしい。
毒に働くことも折り込み済みで書いた本。
745 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 22:59:09 0
すみません、「永井の哲学的自体の性質」ってどういうことですか?
もう少し詳しく展開してもらえませんか?
746 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:03:51 O
キチガイには死刑は科されない。キチガイは死刑の抑止力になる。だから必死でキチガイを演じようとする。罰を逃れるため。
747 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:14:35 O
>>744 引用文は「雨は害にも徳にもなる。キチガイにたまたま雨が当たってしまったので
トンでもないことを引き起こした。」 とよめるのだが
雨粒を責める人には、キチガイに当たる雨をまきちらすとはけしからん!
となるのだろう。
テレビ、アニメ、ホラー、ゲームを責める人と
同じどこかで見た香ばしい論法だ。
>>747 さらに言えば、常識的な人間から批判されるのも、想定外の話ではないだろうな。
「永井の著作をできるだけ適切に理解した場合、その内容から、殺人が正当化されるのか」
「仮にされるとして、だから何なのか」
「適切に理解したかどうかはともかく、永井の著作に、殺人の正当化に結び付くような内容があるのか」
「仮にあるとして、だから何なのか」
もし真面目に議論するのなら、せめてこの程度には問題を明確にして議論したらどうですかね。
(もっと適切な明確化があったらよいけど)
まあ、どうせ、煽りたいだけなんだろうけどねw
750 :
749:2009/05/01(金) 23:26:18 O
749は、「信者涙目」とか言ってる人向けです、念のため。
751 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:30:56 O
キチガイは自分の身を正当化するためには雨粒をも掴む。
そんな雨粒を責め立てる事に懸命になる人は
相当香ばしい。
<永井風>
私はこのように考えるが、私は殺人を犯しはしないだろう。
私の考えに影響され、殺人を犯す者がいたとしても、それはその者に所以するところが大きい。
仮に私の考えに盲従して行動する者がいたとしたら、それは私にとっても悲しむべきことである。
なぜなら、私は宗教ではなく哲学を説いているのだから。
753 :
考える名無しさん:2009/05/01(金) 23:36:15 O
倫理は哲学の問題だよね。
だから、哲学している永井は犯罪を犯さない。
子どものための哲学対話は正直読んでなかったよ。
この犯人は確信犯かな。そーとーやな奴だなw
756 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 00:32:37 0
著者の意図や読者の理解度云々に関わらず、
この人の言説がこういう犯罪者の自己正当化に
使わるのはあり得る話だよね。現実問題として。
まぁ、みなさんワイドショー的な好奇心でコメント
されてると思うのですが。。。
757 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 00:41:59 O
永井は犯罪者が自己の言説を引用するという状況に
取材拒否でもなく、自己の言説をまげるでもなく、
しかも問題点を言っている。かっこよかった。
つまり、「金川は、哲学する意識が低い」と言っているんだな。
哲学する人間は、冷徹なものよ。
759 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 01:35:22 0
2ちゃんねらども必死だなw
760 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 07:03:08 0
死ぬつもりなら自殺すればいいだけで他殺して死刑ならなきゃ
死ねないというやつはやはり社会に対するルサンチマンだろ。
権力を殺人者にしたてあげてほくそ笑みたいだけだろ。
おまえら狼狽えすぎwww
762 :
ちんこ:2009/05/02(土) 13:21:10 O
人を殺すやつの方が冷徹だろw
あと、どうしても曲解にしたいやつって、永井自身がインタビューで「推論は正しい」と評価してるのをどう解釈するの?
・番組見てないのでどういう推論が正しいかがはっきりしない
・このスレの一部の人間が正当化する「(金川被告のような)推論」は間違い
(もし永井が死刑→殺人してもよいと「推論」したのだとすれば永井は間違っている)
>>744 「金川被告は問題意識が途中で止まってしま」ったから毒の方向に作用したと読めるんだが。
永井の本には問題意識を途中で止めろと書いてあるのか?
スイッチ切って考え直そうとすることの危険性と、その危険が現実化する頻度を区別しないのは
君に金川に近い種類のそういう判断を妨げる偏りがあるからだろ。
「薬にも毒にもなる」=薬の用法を間違えれば毒になるなのに、薬でなければ毒であり、毒になる場合は毒でしかないと考えるのはどう考えても曲解だよな
>>765 それもそうだし、用法を間違うケースの一般化に固執するのもおかしい。
上で書き物原因論が無意味だと書いている人がいるが、まったくその通りだよ。
767 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 20:44:52 0
薬に副作用があるのはある程度やむをえないが、
角を矯めるつもりが牛を殺してしまうような副作用が
有る薬はやはり許可すべきではない。
永井には「薬として使って下さい」という意図があるのか?
769 :
考える名無しさん:2009/05/02(土) 23:23:25 O
永井は毒だと思ってあの本をばらまいてるのか?まさか
永井さんの本も、道徳に対する反発を強調しすぎたきらいがないのか?
本人はもちろん「道徳を最終的な根拠としてどこまでも前提を疑わない」人に対する
反発だろうけど、「善とは究極的には反道徳的なことだ」とか、言い方がまずかったんじゃないのか。
道徳だと書いてあるのを殺人禁止だと思い込む馬鹿の責任まで永井に負わすのは酷だろ
真面目に定義から考えれば善=反道徳的ではおかしいのだから
そういう言い方になる理由を考えないとだめということ、それ自体が善に向かう方向だということだろう
それに、道徳的に悪いことをした人を理解しようとすることも善だろう?
善とは究極的に反道徳的なことだというのは、冷静に考えれば常識的な考え方でもあるんだよ
確かに丁寧に考えていくとそうなるね。
問題はそこまで読者が考えることが期待できるかだけど。
かといって本だけ渡すのはまずいと言ったところで、
渡す大人が毒だと思ってるおかしな奴でないとも言い切れないし。
なんとも難しいところだけども。
道徳を盾に犯罪者叩きする「道徳家」は2ちゃんねるに沢山いるよなw
775 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 00:55:18 0
死刑=道徳な人たちですね、わかります
わざわざageて煽るなよ。
777 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 01:51:20 P
実は俺はこの本をまだ読んでない。今日、図書館で読んでくる。
擁護してる奴は首を洗っとけw
アホな書き込み、楽しみにしてるよ。
780 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 06:24:42 O
「子供のための」というタイトルの本出しといて曲解したヤツが悪いとか笑えるなw
781 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 07:50:42 P
だよなw
782 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 08:01:56 0
んだ、んだ。w
784 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 09:08:18 0
♪丸い卵も切り様で四角
♪ものも言いようで角が立つ
ことわざを哲学問題にしよう。
まずは「言葉で人を殺せるか?」だね。
♪糸屋の娘は目で殺す
まぁ、2chってこういうものだよな、ということをしみじみと感じるスレ。
786 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 11:05:32 0
Government Web Images News Maps More >> [x]
USA.gov Site Autos Per Diem Busque en español
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Busque en español
Result List1 result for Goverment of the people by the people for the people site:www.myflorida.gov ( Details )
These sources have been queried:
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Federal Forms - No result retrieved in 0.133s, 50 requested. (1 page requested - 1 OK)
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USA.gov Nature & Science Images - No result retrieved in 0.149s, 6 requested. (1 page requested - 1 OK)
USA.gov News Images - No result retrieved in 0.145s, 10 requested. (1 page requested - 1 OK)
USA.gov Spotlights (english) - No result retrieved in 0.023s, 1 requested. (1 page requested - 1 OK)
Web Results - Top 1 results retrieved out of 1 in 0.502s, 100 requested. (4 pages requested - 2 OK)
MyFlorida.com - Home [new window][preview][close preview]
People First: Governor's Florida Home Ownership Promotes The Economy ( Hope) Task Force Holds First Meeting ( external link) Florida Communities Trust P
787 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 12:13:10 0
ラック
何をしてもいいとは言えないことを学ぶには
経験が必要だ
789 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 13:08:18 0
nannniseyo,nanikawomanabutameniha,keikenngahituyouda.
キチガイなら電話帳だって読んでから「人を殺そう」と
思うかも知れないのにご苦労なことだ。
791 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 18:06:24 P
この本の中で、何が一番問題かと端的に言えば、「まえがき」において、
ペネトレ(永井)を子供達の教祖的存在にさせない為に、「この本は、単なる
ペネトレという猫のある考え方を披瀝したに過ぎない」という断りを入れてない
ことにある。また、それを何度も強調すべきであった。
突っ込みどころ満載だが、おいおい書いていくことにしようw
792 :
名無し募集中:2009/05/03(日) 18:40:10 0
永井は金山の問題ではこう言うべきだった
彼の推論は正しい
哲学ではそれ以上は語り得ないと
第一章の6、p.25において、「すべての人が自分が殺されないように、苦しめられない
ようにと、必死になっているから、すべての人にとって、ほかのすべての人が敵なんだよ。
大むかしの人間はそういう状態に生きていたんだ。」
これは、明らかに事実誤認。日本の戦国時代の武士ならば、そう言えるかもしれないが、
「大むかし」と漠然と言われても読者は困ってしまう。そういう時代もあったし、
人間を敵と見做すのでなく、愛和合しあった時代もあった。
また、問題のp.28、第一章7、善と悪を決めるもの(2)において、「上品な人は道徳的な善悪
なんてたいして重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができるからね。逆に、
下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。」
これは、教唆的物言い。全然説得力がない。上品な人は、道徳的善悪を大して重視しない、と
何故言い切れるのか?下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちと言えるのか?
低レベル犯罪者は、主に下品な人達が主役ではないのか?
ニーチェ思想に賛同しないと書けない文面だが、批判的に摂取することもできていない。
これはこどもの為に書いた本であるが、呆れて開いた口が塞がらない。
因みに、分類番号104で書棚を探したがなかったので、司書に聞いたら、児童書の棚にあった。
こんな危険な書物を児童書棚に置いてはいけない。
あのような基地外馬鹿が続々と生まれてくる。
p.74 の第二章11、左翼と右翼ってなに?これも、単純化、雑すぎる。
ペネトレは、どっちもおなじようなものだと言う。前提を共有化された対立物は、同じようなものと
言い切る。例として、ベートーベンの交響曲を挙げている。
これも、例として相応しくない。左翼(思想)と右翼(思想)の対立によって、歴史は塗り替えられたし、
今後も塗り替えられる。資本主義国家(体制)が存続する限り、この戦いは永遠に続くし、同じような
ものでは決してない。利己的民族主義的国家主義思想がヒューマニズムに基づいた社会主義思想と同じような
ものであろうはずはない。冗談は休み休み言い給えw
察するに、こういう本が出たことで、餓鬼どもは、「何だ?右翼も左翼も同じようなものなんだ」と思い込み、
現在のネットウヨ若年者が増えた可能性も充分ある。猛省を促したい。
また、問題の箇所。
p.116-117、第三章13.死について
ベネトレ「だから、きみが考えることができるきみの死後の世界というのは、すべて錯覚なんだ。そういう意味で、
死後の世界というものはありえないんだよ。死ぬっていうのは、すべてが終わることなんだ。それなのに、生きている
うちは、そういうすべての終わりであるような死については考えられないから、だから、そういう錯覚が起こるんだよ。」
これは正に唯物論の立場であり、唯心論学者の紹介はなされていない。片手落ちである。
哲学が関知できない未知の自然科学領域なのに、こう言い切れる自信はどこから来るのか?(w
で、重大な箇所へと続く。
「世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね?死刑以上の重罰はないだろ?ということはつまり、
世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。」(→第一章-10)
と、教唆している。
終末戦争みたいなので悪魔が勝つ可能性があり、
その場合には神の側についた人間の魂は永遠に拷問に曝されると信じていても、
勇気のある神の使徒みたいなのは正義の虐殺を止めたりはしないだろうたぶん。
あと引用文を見る限りでは、
生物としての死をいわばすべての終わりとみているのではなくて、
いわゆる「死後の世界」も、一種の生って類いのはなしだと思われる。
なので唯心論とかでも受けいれざるを得ない議論じゃないかね。
798 :
名無し募集中:2009/05/03(日) 20:50:14 0
死後の世界はないってのはちょっと強引だな
あるのかないのかわからないってのが本当のところだろ
ただ人間の考える死後の世界は錯誤であるというのは本当
死後の世界があってもそれは単なる移動であって(自分にとっては)死じゃないってことじゃないの?
800 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 21:36:57 0
自分にとって自分の死後の世界は「ありえない」じゃなく
「わからない」ということが本当だろ。
語りえないことについては黙ることが哲学だろ。
語りえないことをさもあるかのようにべらべらしゃべるのは
哲学から最も遠い態度だろう。
『子どものための哲学対話』を、何も考えずに児童書扱いで子供に読ませるような奴は馬鹿だ、
という点だけは同意。
ただ、他にも、『はだしのゲン』や『吾が輩は猫である』を何も考えずに子供向けコーナーに
置いてる馬鹿はよく見かけるので、この本だけ言っても仕方ないか、と。
あと、この本だけ取り上げてツッコミいれるより、他の著作も合わせて検討したほうが、
生産的じゃないですかね?
一つの本はそれ自体で評価されるべきだ、というなら、それもまあ正論ではあると思うので、
それに重ねて反論する気はないけど、でも、この本は単独で取り上げて議論できるような
体裁は備えていないと言わざるを得ないでしょう。
802 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:11:34 O
児童書とか関係ねーよ
入門書や啓蒙書が曲解されて、そこに作者責任がないなんてことはお笑い草だっつってるんだよ
まあ哲学書の一番最初には必ず
「この本の内容は冗談です。実際の事件、団体うんぬんには関係ありません。」
とかって必ず書くことしたっていいと思うけど。
そういうたぐいのことをしたって楽しい漫画やドラマはあいかわらず楽しいままだし。
超越論的還元ならぬ超越論的冗談化ってか。
804 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:34:39 0
>>801 『子どものための哲学対話』『はだしのゲン』『吾が輩は猫である』は児童書ではないということですか。
>この本は単独で取り上げて議論できるような
>体裁は備えていないと言わざるを得ないでしょう。
そんなことはないと思う。あなたはなぜそう思ったのですか。
805 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:37:10 0
>>803 あなたが本を書くときにはそうしてください。
いや俺の文章だけに書いても狙った効果は出ないから。
特定の分野全体のお約束みたいにならないと。
それでも虚構作品の影響で犯罪が起きると色々問題になることもあるけど。
807 :
考える名無しさん:2009/05/03(日) 23:47:40 0
とりあえず、2chに書き込むときに実践してください。
わざわざ書き込みごとにうるさく書かなくとも、
2ちゃんのすべての文言に対して、「ネタをネタとうんぬん」
って注意書きみたいなのがあったはずだが、俺の気のせいだったか?
つまりそうだとすれば、俺だけでなく君も、上のようなたぐいの
注意書きに一定の範囲でコミットしていることになるな。
810 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 00:08:36 0
おまえらが熱く語れるのって児童書だけなのな・・
811 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 00:10:01 0
812 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 00:11:59 P
いや、今回の事件のように、ほぼ白紙の子供が読む書物には細心の注意を払わなければ
ならないという話。特に哲学関係の書物には危険が伴う。
でも、この糞ガキは他の哲学書を読もうという気が起きなかったんだろうか?
これが不思議なのだ。
>>811 お前もなw
どんなに注意したっていろいろな読者がいるわけで。
プラトンみたいに成人のエリートのみに哲学を限る(秘教化)という手もないわけではないけど。
814 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 00:17:51 0
>>812 注意を払っても、子どもは危険な本を読むもの。
>でも、この糞ガキは他の哲学書を読もうという気が起きなかったんだろうか?
自分の考えの正当化を見つけて、それ以上進もうとしなかったのだろう。
永井に影響をうけたとは言いがたい。
>>804 その3冊は、子供にショックを与えたり変な影響を及ぼす可能性が相当あると思われるのに、
そのような可能性を考えていないのではないか、ということ。
(『はだしのゲン』については、確信犯的に、核兵器に対する嫌悪感を植え付けるなどの目的で
グロい絵を小さい子供にわざと見せつけるという狙いかもしれない。わざとやってるんなら、
ある意味まあいいけど。)
それと、『子どものための哲学対話』が単独では取り上げて議論できないのではないか、というのは、
問題と結論を簡単にしか書いてなくて、なぜそう考えられるのか、ほかに考え方はないのか、
という部分が、他の著作と比べるとほとんどないから。
816 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 00:23:17 0
>>815 お前は子どもにおせっかい焼きすぎだよ。
まともな子どもなら、離乳食みたいな本だけでは満足できない。
>>816 だから、「何も考えずに読ませるのは馬鹿」と言ってるでしょ。
内容をよくわかって、対処も考えてあるいは覚悟のうえで、読ませてるのなら、別にいい。
覚悟のうえで子供に読ませていたら、こんな馬鹿な騒ぎ方は起こらないと思うけどね。
ニーチェなんかも、中高生に勧める気にはなれんな。
819 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 06:59:26 0
>>812 >でも、この糞ガキは他の哲学書を読もうという気が起きなかったんだろうか?
>これが不思議なのだ。
マスコミでは父親が買って与えたと言っていた。父親もたぶん題名によって
判断したんだろうね。もともと本好きの子供ならいろいろ読むから本に免疫
ができていてひとつの思想にかぶれることは少ないと思われる。
820 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 07:07:05 O
そうそう!
すべてはいろいろ読んでなかったガキの責任w
821 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 07:17:53 0
>永井に影響をうけたとは言いがたい。
いや、本人が影響を受けたといってるのだから確かでしょう。
自己正当化のための言い訳かもしれないけど。
それより自殺したいのに自殺はこわいから殺人して死刑に
なりたいという人たちが増えてきているほうが問題ではないか?
まるで死刑があることが殺人を誘発している。
だから死刑を廃止しろという運動がでたり、そういうやつは
徴兵で兵隊にして戦争の最前線へ送り出せばいい、なんて
アナクロ思想が勢いを得たりすることのほうが心配だ。
信教の自由や表現の自由はこれからも護り続けなければいけない。
現状では治安は警察力に頼るしかない。
江戸時代の五人組のような相互監視社会になるのもある程度は
必要なことではないか?
822 :
名無し募集中:2009/05/04(月) 07:39:41 0
>>821 刑を死刑程度で押さえているのは人権に配慮しているからなのにね
市中引き回しの上打ち首獄門を復活した方がいいのかな
それとも生きたまま皮剥ぎの刑で死ぬまで野原に晒しとくか?
823 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 08:28:12 0
たしかにそういう制度なら死刑を受けたいから殺人する
というバカの抑止にはなるだろうね。
江戸時代は殺人罪なんて無かったしね。
もちろん死刑はあった。
824 :
名無し募集中:2009/05/04(月) 09:18:25 0
自殺が嫌で死刑を望む者には
自殺させるのが最大の罰だろう
これは切腹を復活する必要があるな
825 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 09:30:27 0
現在でも「リストラ」という名の切腹はあるだろ。
切腹は刑罰の一種だね。
自殺は罪かもしれないがそれに対する刑罰は無い。
まさに死者に鞭打つことは許されないということだろ。
死者は祭り上げるしかない。
アマゾンで売り切れ中
「死にたいけど自殺する勇気がないから人を殺して死刑になりたがる」
やつよりも
「働きたくないけど飢え死にする勇気がないから人を殺して終身刑になりたがる」
やつの方が絶対多いという気がするが。
828 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 13:07:56 O
した みた きた やっあた
829 :
考える名無しさん:2009/05/04(月) 13:08:48 O
ランデブウ みじんもない
>>821 死刑になるのが目的で殺人を犯す人間がいる(死刑は殺人を誘発する動機になる)から
死刑を廃止しようという考えのどこがアナクロ思想なんだよ。
お前がはなから死刑存置というアナクロ思想に凝り固まってるからそう見えるだけだろ。
>>821-825は殺人がらみのスレで定期的にキチガイカキコしてる馬鹿だろ
>>827といいサイコパスな馬鹿が永井読むとろくなことにならなそうなのは確かだな
殺人犯が自ら語る動機を信じれる人って何なの?(カウンセラーを除く)
バカなの
全く善良な人々との会話でも相手の言葉を
額面通りにとらないことも普通にあるだろうに
無差別殺人犯達の語ったことは彼等の動機ではない
彼等の語ったことは彼等の惨めなプライドを守る為の哀れな言い訳にすぎない!
>>831 新しい棲家が見つかってよかったですね(^^
837 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 13:15:00 O
じゃあお前らの永井擁護が自分たちの惨めなプライドを守る為の哀れな言い訳じゃないという保証はどこにあるんだ?
今後も永井の手加減なしの文章が読みたいって動機があるだけじゃダメ?
840 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 15:13:43 0
>>832 信じるのではない。そういったという事実があるだけだ。
841 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 19:07:15 O
>>837 おまえの論法がゲームやアニメ、ホラーを
攻撃するマスゴミと変わらんから。
>>837 もし、このスレで、永井の著作の内容も踏まえた上で、意味のある批判をしたいんだったら、
いったい永井の著作のどこにどんな問題があるのか、詳しく説明してよ。
妙に回りくどい言い方してないでさ。
正直、最近の過去レスやリンク先の記事を見ても、何が問題なのか全然わからんので。
まあ、多分、そんな問題なんて何も見つけてないんだろうけどさw
843 :
考える名無しさん:2009/05/06(水) 23:26:34 0
問題なんてあるわけないじゃん。
結局みんなワイドショー的な興味だけだよ(苦笑)
「自棄になってやりたい放題の人間に、社会が下せる最大の罰は、死刑しか無いんだよ。」
って書いた本の通りになっただけって話だろ。
死刑になったら、本に書いてある内容が正しかっただけじゃんw
845 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 01:23:40 O
ながいきん
つうかっ哲学が反社会的だとか言われたらどうしようもない
社会常識の内側で考えなきゃいけないんだったら「倫理とは何か」なんて問い必要ないじゃん
837はただのかまってちゃん。
848 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 02:28:57 0
永井最大の誤算は、哲学書ではなくノウハウ本として読まれてしまった事w
849 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 07:00:39 P
>>846 >つうかっ哲学が反社会的だとか言われたらどうしようもない
何でだよww
哲学は反社会的にもなり得なければ哲学じゃない。
850 :
考える名無しさん:2009/05/07(木) 07:40:50 0
>>844 >「自棄になってやりたい放題の人間に、社会が下せる最大の罰は、死刑しか無いんだよ。」
永井の猫はその反対に解釈してるんじゃないか?
死刑になるつもりなら何をしてもいいと。だからこれは間違いだろ。
>>849 だから当然なんだから、それを批判に使われたら思考停止するしかないってことでしょ
キチガイに哲学が読まれると
キチガイが湧いて来るということ。
853 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 12:26:40 O
晒しアゲ
854 :
考える名無しさん:2009/05/08(金) 12:46:12 O
永井先生には全く責任ない
批判してる哲学アンチは児童書でも読んでればw
ても本は売れてるようだ
856 :
名無し募集中:2009/05/08(金) 18:59:31 0
いい宣伝になったな
857 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 09:41:37 0
これを機に第0次内包のことをもっと考えてくれる人が増えるといいね
858 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 09:49:40 O
ランク付 ガダムマサラ
1.事件に永井の責任はあるのかないのか。
2.犯人は永井の本を誤読したのかそうではないのか。
3.永井の本に誤読でない正読というのがあるのかないのか。
1.は、そもそも哲学の問題ではないような気もするが、本来独我論的な
永井哲学がその社会的影響を問われることがあると非常に矛盾した
事態になる、という気もする。
860 :
考える名無しさん:2009/05/09(土) 15:13:44 0
なぜ永井は他人の文章をまんまパクルのか?
>>794 >利己的民族主義的国家主義思想がヒューマニズムに基づいた社会主義思想と同じような
>ものであろうはずはない。冗談は休み休み言い給えw
自民族(?)を優先し他民族を排外する国家主義思想。
自分達のヒューマニズムに賛同しない人間を排外する社会主義思想。
排外的な面では共通してる。
あ〜いいなぁ永井先生のスレは盛況で。
>>861 お前の安直なレッテル貼り思考の排外的性質もそれらと共通してるなw
>>862 いやキチガイをネタにキチガイが暴れただけなんで
中身はうすいです。
867 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 16:06:39 0
なぜ永井は他人の文章をまんまぱくるのか?
わたしはこの問いをといつづけます。
けっして逃がしません。
868 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 18:18:27 0
>>865 そもそも永井の哲学に興味を持つ時点で
一般人以下なわけだからな
869 :
考える名無しさん:2009/05/10(日) 21:22:53 P
>>861 排外でなく、それらの基地外が目覚めるのを延々と待っているのだよw
この世に利己的な893や資本家が目覚めることはないと思うがなw
>>867 クジラの皮膚に吸い付いたフジツボみたいですね
がんばってください。
>>866 こういうこと必死にやってる人間って、「自分は大丈夫」って思ってるんだよな。
やっぱって、そうじゃないかもって少しでも思ってたのかよ…。
そんなわけないだろ
金川と似たり寄ったりなアフォがたむろってるスレの見すぎなんじゃねーの
877 :
考える名無しさん:2009/05/19(火) 11:56:52 O
永井儲哀れwwwww
私に第0次内包と第1次内包があるなら、第2次内包もあるんだろうか。
なさそうな気もするけど、そこまで感覚と私が対応してるわけでもないんだろうか。
と適当に思い付いたことを書いてみる。
>>878 おいおい「なぜ意識は実在しないのか」をちゃんと読めよ!
第2次内包っていわゆる物理的世界だよね?
ということきは
>>878は絶対精神の人?
こいつが言ってるのはしょせん
「他人が考えていることは俺にはわからない」
ということだけ
他者の考え方などせいぜい自分のフィルターを通して理解した気になるぐらいが限界
ってところだろ。
まぁ、永井均の考え方も読者が各々のフィルターを通じて理解するのがせいぜい…
883 :
考える名無しさん:2009/06/02(火) 13:08:57 O
やっぱただのキチガイじゃん。やっぱただのキチガイじゃん。やっぱただのキチガイじゃん。やっぱただのキチガイじゃん。やっぱただのキチガイじゃん。
なんだなんだ
どうしたどうした
そいやそいや
885 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 08:02:51 O
↑やっぱただのキチガイじゃん↓
886 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 08:10:17 0
全部ださ
887 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 08:49:05 0
金川の殺人動機の正当化には、
父親から与えられた永井の本の影響が強いようだな。
永井もまさか自分の本で実行するやつが出てくるとは思わず、
とまどっていることだろう。
888 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 08:56:10 O
下
889 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 09:58:42 0
http://yuuki-ran.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-7c97-1.html ところで、高校二年の時、子供のための哲学対話を読み、人生観が変わったという問題の本ですが、
これは父親が息子の金川被告に与えたものだそうです。著者は永井均教授(日大教授・哲学者)
ぼく(主人公)と猫のベネトレが会話しながら、人間は何のために生きているのか、
善と悪を決めるものなどについて考える本だと紹介されました。
本の中で「世の中が君に与えることが出来る一番重い罰は死刑。死刑以上の重罰はない。
つまり世の中は死ぬつもりなら何をしてもいいってあんに認めている事なんだよ。認めざるを得ないのさ」
という部分があります。金川は、これを「高校2年の11月に読み、死刑になる覚悟があれば、人を殺しても構わない
と受け取った。この世界で生きるのはイヤになったが、自殺は痛くて苦しいから死刑になるしかない」と思ったと述懐。
それから8年後、犯行に及びました。ところで、この本の作者の永井教授は「もし死刑になりたいとか殺されたい
と思っている人ならば、殺されるしかたとしては人を殺すことによって殺されたいという推論自体は間違っていない。
間違っているのは元々の願望・傾向・欲求」と答えました。金川の父親は、きっと大学の先生が書いた本であるから安心、
多感なときに、人生を考える事は重要だと思ってプレゼントした本が、結果として仇となってしまった訳です。
890 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 10:27:34 0
永井哲学って屁理屈と区別がつかん。
891 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 16:43:02 0
哲学なんてみんなそんなものだろ。
892 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 19:26:55 0
現象として一部にああいう人物が現われるのは仕方ないかもしれないね。
永井の言説が受け入れられていくことは、社会全体としてはよいことかもしれない。
(悪いことかもしれない)
893 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 21:12:15 0
>「全ては運命だ。運命は変えられない。私が正義だ。私が法律だ。私の言葉が正しい。
>私の行動が正しい」
うーん、重い言葉だ。永井は「願望・傾向・欲求が間違っている」となぜ言えるのだろう。
どこがだよ。
全てが運命だとなんで私が正しいが導けるんだよ。
ただのバカだろ。
お前みたいなバカに限って「人の命は地球よりも重い」みたいな言葉は
せせら笑うんだろうなw
895 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 21:45:17 0
せせら笑いますよ。
ありそうな背景的前提としては、運命と正義が同一の神的存在に基づくもので、
その人のそのような在り方が
そのような神的存在によって肯定されているとその人が信じているとか。
897 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 21:55:19 0
>>894 あなたはこの世の不平等に思いをいたしたことはないのでしょうね。
あなたのような人が「人の命は地球より重い」と言う言葉を重んじているのでしょうね。
「人の命」とは自分なのでしょうね。
世界で何が起こっているかと言うことには興味がないのでしょうね。
898 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 21:59:10 O
899 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 22:14:47 0
900 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 22:58:34 0
欲求に間違っているもヘチマもあるのか。「これがニーチェだ」と矛盾してるぞ。
永井、妥協したんじゃねえのか。「私の思想が社会にどう影響するかは興味がない」
と取材拒否したほうが、誠実だったんじゃないのか。
なんか意味がわからんな。
勝手な推測だけど、何か文脈がおかしいんじゃないの?
例えば「死刑によって殺されたいなどというのは論理的に間違っているのではないか」
とか変な言葉遣いの質問を受けて、その質問に対する答えだけ取り上げられたとか。
902 :
考える名無しさん:2009/06/04(木) 23:05:25 0
そうかもしれないな
903 :
考える名無しさん:2009/06/05(金) 00:35:10 0
901 :考える名無しさん:2009/06/04(木) 23:00:56 O
なんか意味がわからんな。
勝手な推測だけど、何か文脈がおかしいんじゃないの?
例えば「死刑によって殺されたいなどというのは論理的に間違っているのではないか」
とか変な言葉遣いの質問を受けて、その質問に対する答えだけ取り上げられたとか。
902 :考える名無しさん:2009/06/04(木) 23:05:25 0
そうかもしれないな
死刑制度が逆に人殺しを助長する場合もあるとはな。
終身刑を導入すればこんなバカはいなくなりそうだが。
905 :
考える名無しさん:2009/06/05(金) 17:13:15 P
「死刑を望んで人殺した場合に限り、拷問、残虐刑、斬首刑を認める」とか刑法を改正すべきだな。
でないと、こういう馬鹿が増える。
>>904 無期懲役=終身刑だが?
ネット検索してかじれば分かる程度のことすら調べないのか?
>>905 馬鹿はお前だろ。誰がそういう刑を執行すんだよ。そういう刑を正当化する
近代国家があるか。アブグレイブとか大好きな馬鹿が偉そうな口叩くな
まあでも「私が法律だ」なんて台詞には、永井の本をきちんと読んでないことが
明らかに表れてるなあ。
本当に読んで理解していれば、殺人を他人に向けて正当化するような
台詞を言ったりしないだろう。
>>893のあまりにもアタマ悪すぎる反応
>>895>>897にフイタ
>>894は「重い言葉だ。」などと言ってるから皮肉ってるんだろww
せせら笑いますよって得意げに返答とか・・・w
どんだけ低脳なんだよ!ありえねーー
909 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 01:31:41 0
>>907 他人に向けて正当化しているんですか?
なぜあなたはそう思ったんですか。
910 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 01:35:29 0
>>905 刑罰を恐れて犯罪を抑えているような人間がたくさんいるような社会がよい社会なのですかね。
あなたはそういう人間なのかもしれないね。
911 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 01:41:41 0
>>908 >
>>894は「重い言葉だ。」などと言ってるから皮肉ってるんだろww
そうだったんですか。今やっとわかりました。
>>909 いや本人が内心でどういうつもりだったのかまでは知らないし、確実に断言できることでは
ないかもしれないけど、普通に考えたら「法律」なんて言葉は、たんに自分がそう思うという
場面ではなく、他人にも正当と認めてもらいたい場面で使うんじゃないの?
独り言として言っていたならまだしも、マスコミに向けた手記に書いていたという話だし。
というかただ考える力がないだけだろ
915 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 19:25:16 0
>>912 というか、俺の予想では、犯人の心には「他人」という確固とした観念が存在してないと思うのだが。
916 :
考える名無しさん:2009/06/06(土) 19:33:54 O
ラクーナガマ郡
917 :
915:2009/06/06(土) 20:11:15 0
「なんか、映像のようなものが存在する。なんか、うっとうしい。むかつく」
ぐらいに思っているんだろうな。
918 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 22:21:49 P
>>906 >馬鹿はお前だろ。誰がそういう刑を執行すんだよ。
俺だ、馬鹿w
少なくとも、こういう基地外を生み出さない為には刑法改正が必要になる。
こいつだけじゃなかったよなw
919 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 22:28:01 0
じゃあ、刑法改正するように、あなたは運動してくださいね。
私は、賛成しませんが。
920 :
905:2009/06/07(日) 22:28:44 P
>>910 そうすることにより、自立的に物事を考える契機となるはずだ。
日本人は自らの手で民主主義を勝ち取った民族でないことを理解しておくべき。
事なかれ主義、利己主義が蔓延っている現在では、刺激的な法律で罰せられる
ことにより、犯罪抑止効果があるのかどうかを確かめることもできるし、
日本人も自らの問題として考える契機になるはずだ。
921 :
考える名無しさん:2009/06/07(日) 23:51:52 0
「ゾンビ過去」というものはあるのだろうか。
永井は、およそ過去とはゾンビ過去だと思っているのだろうか。
>>918は何を得意がってるんだ?
最近哲板この手の頭おかしい奴多すぎ
923 :
考える名無しさん:2009/06/08(月) 18:19:39 P
924 :
考える名無しさん:2009/06/08(月) 20:43:06 0
>>919 >私は、賛成しませんが。
お前は国会議員なのか?
法律の立法権を握ってるのは国会議員しかないだろ。
お前が賛成でも反対でも大勢に影響は無い。
925 :
考える名無しさん:2009/06/08(月) 21:50:14 0
926 :
考える名無しさん:2009/06/08(月) 21:51:24 0
「ゾンビ過去」とは何ですか?
過去と現象的につながっていなければならないので今秘性はない、という話は出てくるけど。
929 :
考える名無しさん:2009/06/09(火) 17:53:49 P
「法律をも疑え」それは正しいが、自分をも疑うことは何故しないんだろう?
不思議な奴だw
で、自分の存在証明はできているのか?(w
930 :
考える名無しさん:2009/06/09(火) 20:19:53 0
>>927 「かつての今」という意味での過去ではなくて、今、過去と思われているという意味での
過去でしかないということ。
都合の悪いページは見なかったことにしたとしか思えないねえ、
>>928って。
>>930 それは「世界何分前創造仮説」という話とは違うのですか。
世界はすべての過去の記憶や記録とともにたった今作られたのかもしれない、
というやつですが。
935 :
考える名無しさん:2009/06/10(水) 15:59:50 0
>>934 「作られた」という事実が「ある」と主張しているわけですね。
ゾンビ過去だったら、「作られた/前からあった」の区別がない。
「連続的創造説」とは似ているかもしれない。
正確には無期懲役と終身刑はイコールじゃないな。でももうその話題はいいよ。
それなら、「ゾンビ過去」というのは、「現在の記憶・証拠などは存在するが、それと別に
過去の事実そのものなどというものは存在しない」というような考え方のこと?
そうだとすれば、ある過去はゾンビ過去だが別の過去は本物(?)だ、などということはなく、
過去は全てゾンビ過去ということになるか。
そうでないとすれば、ゾンビ過去とはどんなもので、本物(?)の過去として想定されるのは
どんなものかなど、もうちょっと説明がないとよくわからんですな。
939 :
考える名無しさん:2009/06/10(水) 22:11:22 0
>というような考え方のこと?
そういうことです。
永井は、およそ過去とはゾンビ過去だと思っているのではないか。
「今秘性」がないという発言も、そのことが背景になっているのではないか。
だとすると、「過去」という言葉自体の意味づけができなくなりませんか。
通常は「かつては確かに存在したが今は存在しない」事実を過去と呼ぶのでは。
また、「正しい記憶(記録)」と「誤った記憶(記録)」の区別もできなくなると
思います。区別ができないというより、意味の違いを与えられないというか。
「歴史を捻じ曲げるのをやめて正しい歴史を学ばなければならない」という
ような、よくある言い方も無意味になります。
別にそれでいけないというわけではないのですが。
>>935 >「作られた」という事実が「ある」と主張しているわけですね。
これは違うのではないですか。世界何分前創造仮説だと、作られたのは
現在の記憶や記録であって、過去はあくまでも存在しないという考え方ですから。
ただ、世界が作られた瞬間から時間が流れて過去が存在することになるのだと思いますが。
「過去自体が、たった今作られた(確かに存在するようになった)」という
仮説については、永井氏が書いていたと思いますが、正直言ってよく
わかりませんでした。
お説のような「過去自体が(常に?)存在しない」というような
考え方は、どちらかというと「そもそも時間が存在しない。過去現在未来の区別は
意味がない」という感じに受け取れるのですが。「ゾンビ過去」という
より「ゾンビ時間」ではないでしょうか。
ゼノンだかパルメニデスだかの「運動否定論」や「あるものはあり、あらぬ
ものはあらぬ。」というような考え方ともつながるのかもしれません。
私は正直問題自体を理解していないので、見当違いでしたら申し訳ありません。
942 :
考える名無しさん:2009/06/11(木) 18:22:23 0
>>940 >だとすると、「過去」という言葉自体の意味づけができなくなりませんか。
>通常は「かつては確かに存在したが今は存在しない」事実を過去と呼ぶのでは。
そうだろうか。「過去」という言葉が有効に使われている限り「過去」という言葉の意味
はあるのではないだろうか。他人が全て現象的ゾンビであっても「心理的な現象的なもの」
がある限り、「現象的なもの」は「ある」とされざるをえないのと同じことではないだろうか。
そのような話だとすれば、やっぱり
>>938は不適切だったようだ。
(そもそも「私今神」では明示的に否定してるし)
「本当に現象的なものを持っているのは私だけ」のはずが、同じことを誰でも言えていまう、
という話の時間バージョン(?)、というか、つまり累進構造の話ですな。
なら逆に、そういう話の中で「本当の過去」というものが考えられるの?
「本当の今はこの今だけだ」とあえて言うという話ならわかるけど、今ではなく
「本当の過去」というのは、どんなものが想定されてるんですかね。
「過去にとっては、その過去の今こそが本当の今であって、そこから見れば今など未来にすぎない」
というようなことだろうか、と、とりあえず表現してみたけど、我ながらいまいち何のことかわからない。
>>943自己レス
これが本当に適切かどうか微妙かもしれないけど、ついでに、さらにその他人バージョン(?)を考えてみた。
「他人(具体的には永井均)こそ本当に現象的なものを持っていて、私など実はゾンビにすぎない」
というようなことが考えられるだろうか?
考えられるとしたら、どういうことだろうか。
945 :
考える名無しさん:2009/06/11(木) 20:39:20 0
>>943 >「本当に現象的なものを持っているのは私だけ」のはずが、同じことを誰でも言えていまう、
>という話の時間バージョン(?)、というか、つまり累進構造の話ですな。
よくわからない。永井は「本当に現象的なものを持っているのは私だけ」だと(本当は)思っている
ということですか。
>「本当の過去」というのは、どんなものが想定されてるんですかね。
「本当の過去」とは「かつての今」。「非概念的なもの」という概念。ゾンビと非ゾンビの区別を
我々は知っているように、その区別も我々は知っている。
>>945 > 「本当の過去」とは「かつての今」。「非概念的なもの」という概念。
あれ、それでいいんですか?
しかしそうであれば、永井がそのような「本当の過去」を否定しているとは考えられないけど…
(少なくとも私には)
何かいろいろと理解の仕方にギャップがあるような。
947 :
考える名無しさん:2009/06/11(木) 22:08:32 0
>永井がそのような「本当の過去」を否定しているとは考えられないけど
じゃあ、「今秘性」はあるんじゃないですか?
その点のあなたの私見をお願いします。
>>942 >「過去」という言葉が有効に使われている限り「過去」という言葉の意味
>はあるのではないだろうか。
確かに「ドラゴン」とか「幽霊」という言葉は有効に使われていて
意味もわかり、なおかつそれが存在するとは通常は思われていません。
ただ、それらは仮に存在するとしても、意味が変わるわけではありません。
「身長4メートルの人間」と同じで、存在するかどうかは、経験によるわけです。
思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
「存在する」ことができないことです。「かつては存在したが、今は
存在しない」ものを「過去」と呼ぶわけですから、それが現に存在するのなら
それはすでに現在であって過去ではないことになります。
「定義上存在することができない」というのは、考えるとおかしな話です。
さらに「かつては存在した」については、そもそも「かつて」とは「過去には」という
意味なので、「過去」という概念は、それ自身をもってしないと定義できない、
という、さらにおかしな性質を持つことになります。直観的にわかる以外に
言葉で説明のしようがない、という意味で「意識」とか「心」と同じなのでしょうか。
もうひとつ、「過去が存在しない」という場合、「時間はあったが、何億年もの間
ずっと世界が真空だった」という意味ではないと思います。文字通り「時間そのものが
なかった」という意味だと思いますので、やはり「過去=時間」と考える
べきなのでしょうか。
何か関係があるかと、思いつくままに書いてみました。スレ違いでしたら
申し訳ありません。この問題は興味があるので、皆さんの書き込み楽しみに
しております。
949 :
考える名無しさん:2009/06/12(金) 10:52:00 0
>>948 >思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
>「存在する」ことができないことです。
「過去」っていう言葉が「過去の存在者」を指しているとすれば、
それは、今は現実には現実には存在せず、観念(思い出)として存在するもの。
かな?
「過去」という言葉が、「過去」という時間そのものを指しているとすれば、
それもやはり、現実には存在せず、観念として存在するもの。
かな?
(年表のような数直線的時間観念の中に、過去は存在するだろ?)
さて、私はここで「現実」と「観念」を区別したわけだが、
この辺にも問題の核心があるような気がするんだが。。。
950 :
考える名無しさん:2009/06/12(金) 21:27:20 0
>>948 >思うに「過去(未来も同じか)」が不可思議なのは、その定義上
>「存在する」ことができないことです。
それは「知覚される」ということを「存在する」こととと定義しているからだろ。
「神」とか「数」とか「法律」とか、知覚されなくても存在するものはたくさんある。
>それが現に存在するのならそれはすでに現在であって過去ではないことになります。
なぜでしょうか。あなたは「現に存在する」ということを「現在に存在する」と定義
しているだけなのではないでしょうか。
>>947 趣旨を私なりに解釈してみると、
過去の痛みを今思い出すことができる(他人の痛みを感じられないのとは違って)とすると、
逆にいえば、今思い出した痛みはそのまま過去の痛みにもなってしまい、実は過去の痛みは
違っていた(今なら痒みと呼ぶものだった)という可能性がなくなってしまい、今が全てになってしまう
というようなことだろうか。(違ってたらすいません)
それはそれで問題がありそうな気がするけど、ただ、累進構造や「非概念的なもの」という概念の話とは
また別の問題なんじゃないですかね?
例えば、「この今こそが特別だ」という言い方が全ての今に当てはまってしまう、という話は、
過去(かつての今)にも未来(これからの今)にも当てはまると思われるけど、それなのに、
過去については記憶というものがあるから当てはまらなくなってしまう、というのは変では?
さらには、仮に私が何らかのテレパシー能力を身に着けて私秘性がなくなったら、それによって
他人はゾンビになるということになるのか?(どちらかといえば逆では)
「今秘性」とは何のことですか。
「過去は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないが、
今の時点からそれを判断することはできない。」という意味ですか。
「他人の心は存在するかもしれないし、存在しないかもしれないが、
私からそれを判断することはできない。」のと同じように。
それなら、それはその通りで、「今秘性」はある、というべきでは。
「他人の心と違って、過去は記憶という紐帯で私と直接つながっている」
と永井氏は言っていたと思いますが、記憶というのは間違えているかも
しれないし、妄想かもしれないし、それこそたった今作られたものかも
しれないので、「直接の紐帯」とはいえないのでは。
まして、私が物心がつく以前の過去(歴史的過去)などは、記憶という
紐帯がそもそもありません。
「他人の心」は「他人のふるまいとか言動という現在の事実」から
その存在が推定され、「過去」も「私の記憶とか周囲の状況や記録という
現在の事実」からその存在が推定されるので、格別違いはないと
いってはいけないのでしょうか。
「われ思うゆえにわれあり」は確実かもしれませんが、
「われ思ったゆえにわれあった」は、確実とはいえないのでは。
953 :
考える名無しさん:2009/06/13(土) 10:30:21 0
みんな混同しているようが、この主題は確実性の問題とは全く関係ない。
ヒュームでいう印象が観念化されるプロセスが介在するかどうかが問題だろう。
過去の自分の場合と違って他我認識にはこのプロセスが介在していない。
そういう細部の違いを細かく見るべき論点で、大雑把な懐疑論的論点ではないはずだ。
>>952 > 「今秘性」とは何のことですか。
他人の痛み(心)を直接感じることはできない、というのが「私秘性」で、それに対応して
他の時点の痛み(心)を私が直接感じることはできない、とでもいうようなことが「今秘性」で、
永井はそれを否定している、ということでしょう。『なぜ意識』の該当箇所による限り。
たんに「存在するかしないかわからない」というだけでまとめられるようなところではないと思う。
> 「他人の心」は「他人のふるまいとか言動という現在の事実」から
> その存在が推定され、「過去」も「私の記憶とか周囲の状況や記録という
> 現在の事実」からその存在が推定されるので、格別違いはないと
> いってはいけないのでしょうか。
そのように表現されると趣旨はよく理解できたけど、それは違うのでは。
そのように対応させるのなら、問題なのは他人の心ではなく、「他人の身体、言動、それも含めた
外界の物事全般についての私の知覚や知識は、実際の事実と対応しているだろうか」となるのでは。
(「推定」という表現も気になる)
>>954自己補足
もう少し補足すると、過去についての記憶、証拠などが仮に全て正しかったら、それ以上に
本当に過去の事実が存在するのか?なんて考えてみても意味がわからないだろう。
(本当に正しいかどうやって確かめるのかは別論として)
しかし、他人の身体、言動などについての私の知覚が仮に全て正しかったとしても、やはり、
他人の心が存在するかわからないという問題は残る(のかどうか?)と考えられるのでは。
こんなふうに区別してみるのはどうですかね。
(しかし永井の本ではそんな区別にはなっていないようだけど)
956 :
考える名無しさん:2009/06/13(土) 20:01:53 0
>>951 >仮に私が何らかのテレパシー能力を身に着けて私秘性がなくなったら、それによって
>他人はゾンビになるということになるのか?
私秘性があるということは、我々がテレパシーを使えないという経験的偶然的事情によらない。
「他者」という概念から出てくる論理的なこと。通常の五感に加えてテレパシーがあったと
しても「五感による表象」に加えて「テレパシーによる表象」があたえられるだけで他者の
心を直接知ったとは言えない。
>累進構造や「非概念的なもの」という概念の話とは
>また別の問題なんじゃないですかね?
「私秘性」という概念が「他者」という概念から必然的に出てくるのと同じように、「今秘性」
という概念が「過去自体」という概念から必然的に出てくるということです。逆に、「過去自体」
がないのなら、そこには表象と実在の分離がないので「今秘性」は存在しない。
957 :
956:2009/06/13(土) 22:41:05 0
>>955 >過去についての記憶、証拠などが仮に全て正しかったら、それ以上に
>本当に過去の事実が存在するのか?なんて考えてみても意味がわからないだろう。
それはあなたが「過去の事実」という言葉で物理的事実だけを考えているからだろう。
わたしは「過去」という言葉で、心的であろうと物的であろうとありとあらゆる事実を
考えている。〈今のこれ〉が未来においてそのまま表象されるということが考えられない
限り、「今秘性」があるということは私には自明に思える。
>>957 うーん何だかなあ?
私の書いてきたこともいろいろまずかったのかもしれないけど、もう一度『なぜ意識』107〜108頁の
意識の今秘性の話に絞ったほうがいいだろうか。
ここの箇所では、過去の痛みなどを今思い出すこと自体は可能だということが前提になっていると
思われるけど、あなたの考えだと、それがそもそも不可能だということになるんですかね?
そうだとすれば、永井の議論自体とはだいぶ離れてくるような気がするけど(それが間違いと
いうのではないけど)
それとも、思い出すことはできるが、それでも今秘性はある、ということですかね?
それならまた別の点で永井の議論自体とは離れることになる。
959 :
考える名無しさん:2009/06/14(日) 18:53:59 0
>>958 >ここの箇所では、過去の痛みなどを今思い出すこと自体は可能だということが前提になっていると
>思われるけど、あなたの考えだと、それがそもそも不可能だということになるんですかね?
過去の痛みを今思い出すということは、私秘性との対比でいえば、他人の痛みを想像する
ことにあたるということです。
960 :
959:2009/06/14(日) 19:13:27 0
やっぱり、永井の議論とずれちゃいますかね。
もともとは、なぜ永井は「今秘性」がないなどと言うのだろう、と思って
考えたことを書いただけなのですが。
無理してレスして頂かなくてもいいです。
961 :
たべぞう:2009/06/15(月) 21:46:45 0
他人の痛みを私が経験する→私が経験している以上その痛みがなんであれそれは
私の痛みだ→他者の痛みは経験できない。
過去の痛みを私が今経験する→わたしが今経験している以上その痛みがいつの
いたみであろうと今の痛みだ→過去の痛みは経験できない。
というふうに考えれば類比関係はなりたつようにおもえるけど、
問題は、過去の痛みを今思い出すや想像するという場合。
例えば、痛みの感覚について類似性をたかることが可能だとするならば、
つまり過去感じた痛みと、現在感じている痛みとの比較することが
可能かどうか。
今感じているこの痛みは、昨日感じた痛みと似ているといういいかたに
意味があたえられるなら、過去の痛みを今思い出すといういいかたにも
意味が与えられるように思う。
962 :
たべぞう:2009/06/15(月) 21:55:42 0
話がぜんぜんあってないかもしれないけど。
他人の痛みと私が感じる痛みとを類比する視点がありえないのに対して
過去の痛みと今感じている痛みは、その痛みを感じている(感じた)のが
共通の私であるという点で、他者の痛みとはちがって類比関係をかたることが
可能なのでは。
963 :
959:2009/06/15(月) 21:57:00 0
>今感じているこの痛みは、昨日感じた痛みと似ているといういいかたに
>意味があたえられるなら
意味は与えられる。これは自明。
「私のこの痛みは、彼のあの痛みと似ている」という言い方にも意味が
与えられるというのがわたしの主張。
964 :
たべぞう:2009/06/15(月) 22:26:51 0
>>963 >「私のこの痛みは、彼のあの痛みと似ている」という言い方にも意味が
>与えられるというのがわたしの主張。
でも、類似関係について語ることが意味があるのは、それらが比較可能な
場合だけなのでは。
もしこれが正しいとすれば、
他人の感覚を、わたしが感じることが可能でないかぎり、
他者の感覚とわたしの感覚を比較することができないので、
それらの類似性について語ることに意味はあたえられないのでは。
965 :
959:2009/06/15(月) 22:41:41 0
>他人の感覚を、わたしが感じることが可能でないかぎり、
過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
966 :
959:2009/06/15(月) 22:45:59 0
>でも、類似関係について語ることが意味があるのは、それらが比較可能な
>場合だけなのでは。
他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています。
967 :
たべぞう:2009/06/15(月) 23:02:06 0
>>965 >過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
いやそれはそうなのだが、なんというか。
つまり、他人の痛みと私の痛みの関係と過去の痛みと今の痛みの関係の
違いがあるとすれば、
私は他人の痛みを過去においても感じることができないのに対して、
過去の痛みについては、私が感じたことがあるという点。
つまり、私の記憶において、過去の痛みと現在の痛みを比較可能である
ように思える点で、他者の痛みの問題とは違うのではということなのだが。
他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています。
名前: E-mail:
>>965 >過去の感覚を、今の私が感じることはできません。
いやそれはそうなのだが、なんというか。
つまり、他人の痛みと私の痛みの関係と過去の痛みと今の痛みの関係の
違いがあるとすれば、
私は他人の痛みを過去においても感じることができないのに対して、
過去の痛みについては、私が感じたことがあるという点。
つまり、私の記憶において、過去の痛みと現在の痛みを比較可能である
ように思える点で、他者の痛みの問題とは本質的に違うのではということなのだが。
>>966 >他人の言葉を聞いて、それをわたしの感覚と比べることは、我々は日常的に行っています
そのとき比べられているのは、あくまで、感覚そのものではなくて感覚を感じる状況の類似性
なのでは。
968 :
959:2009/06/16(火) 01:51:42 0
>>967 >そのとき比べられているのは、あくまで、感覚そのものではなくて感覚を感じる状況の類似性
>なのでは。
過去の痛みと比較する時も、感覚そのものと比較しているのではないというのが私の
考えです。過去の私の痛みを一番よく知っているのは今では私ひとりですから、感覚
そのものを比較できるというような錯覚が生まれるのだと思います。
他人の言葉を聞いて、私がかつて今まで持ったことのないような感覚を持つということは
ありうることです。
1 名前:カオル ◆BBBRv/ousU
びろーん
970 :
959:2009/06/16(火) 19:34:38 0
「西田幾多郎」の16ページを見ると、永井は過去のことをゾンビ過去だと単純に
思っているわけではないということは明らかなようだ。
「「今秘性」がない」という発言の背後には、近い過去と現在の私では、従っている
私的言語規則が同じだという確信があるだろうか。
971 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:41:29 O
この板にふさわしくないかもしれませんが、もしよろしければご教示ください
中学生の頃、いわゆる独在論に対する考えが浮かび(当時は独在論について知りませんでした)、他の人に等しく、いつのまにか忘れさりましたが、28歳にして、同じ考えを抱くようになりました。
それは他者に意識は宿るのか、そしてそれは自分には証明できないという考えです。
次第にそれは観念化し、私を恐怖に陥れています。
具体的には、いわれようのない孤独感と、狂気化しないのではないかという恐怖です。
そこで質問ですが、皆さんは、独在論の考えと日常感覚のバランスをどのように保っておられますか?
972 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:48:27 0
>>971 >それは他者に意識は宿るのか、そしてそれは自分には証明できないという考えです。
>次第にそれは観念化し、私を恐怖に陥れています。
他者に意識が宿るということは証明できない。それはアプリオリなこと。それがなぜ恐怖
なのですか。
あなたは独在論を理解しているようには思えない。
大森荘蔵でも読みなさい。
973 :
考える名無しさん:2009/06/16(火) 22:56:15 0
ポール乙
個人的には、バランスを取るもへったくれもありません。
だって現にそのようになっている(と私は理解している)のだから、否定しようがない。
でもその前に、他人に意識がない(かもしれない)とはどういうことか、『なぜ意識』を
熟読して考えてみるのはどうですかね。(他の本でもいいけど)
このような本を書いている永井について、本当に意識がない(かもしれない)と言えるのか、とかw
>他人に意識がない(かもしれない)
このように考える人には、愛する人はいないんだろうか。。。
少なくとも、愛する我が子があれば、このような考えは出てくるはずがないと思うんだが。。。
976 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:05:11 0
>>975 いないんだろう。あるいは愛する人が死んでしまったとか。
自分には愛する人がいるからといって、なんだ、えらそうに。
友達も いないんだろうか。。。
(いないんだろう。)
(友達がいるからといって、なんだ、えらそうに。)
978 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:29:04 0
そういう周囲の状況によって思想が生まれると考えてる時点で、哲学的センスなさすぎ。
さようなら。
979 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:33:15 0
愛する人や友達にしか意識がないと考えてる人がいるということがわかった。
>>978 いや そうじゃないですよ。。。
もし愛する人や友達がいて、「他人に意識がない(かもしれない) 」
と考えるなら、自分が愛する人や自分の友達に意識がない(かもしれない)
と考えているはずでしょう?
そうでないと、机上の空論になるから。
で、自分が愛する人や自分の友達に意識がないと思うことって、
あり得るの?と思ったわけですよ。。。
981 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:43:43 0
>>980 ありうるよ。
大森荘蔵の「流れとよどみ」を読んでください。
>>981 貴方が説明できないなら、
あり得ないという結論で。。。
983 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 00:52:41 0
あなたのような想像力の足りない人に、説明しろと強要されてもかないませんな。
984 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 08:21:11 O
愛する人に意識がない可能性を否定しきれないのが、日常的苦悩なのです
>>984 そうなんですか。。。
私なら自分が、その相手の人に意識がない可能性を否定し切れなければ、
その人を「愛する人」とは呼べないでしょうね。
意識のないモノへの愛着と、人と人との愛は本質的に別だと思っているので。
986 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 09:00:14 O
なるほど。
ちなみに、論を以てして否定できますか?
論を持つならば、それは愛ではないといったところですよね…おそらく
987 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 09:06:28 O
バーバリズムやガリバニズムですね
>>986 >ちなみに、論を以てして否定できますか?
それはできません。
あくまでも私にとって「愛」の話ですから。
人形への愛と我が子への愛には、本質的な違いがない
と思っている人にとっての「愛」と、
私にとっての「愛」の意味が違うんでしょう。。。
ということになると思います。
989 :
考える名無しさん:2009/06/17(水) 14:24:29 0
ちょっと来ないうちに、なんだかいいスレに戻ってる、と思ったらもうスレ終わりかw
「意識」と言う一般的なものはなくても、
「これ」という固有のものに対する愛はあるような気がするが…。
なんというか魂というべきか
ガリバニズムって何?
とりあえず、どなたか次スレをお願いします。私は無理だった。
スレ立て依頼代行スレというのがあったので、そちらにでも頼んだほうがいいんだろうか。
明日、立ってなかったら俺立ててみますよ。
タイトルは現行の続きということでいいですね?
あと、テンプレ出しといてください。