1 :
考える名無しさん :
2007/05/05(土) 21:24:19
糞スレ2
3 :
考える名無しさん :2007/05/05(土) 22:22:36
「哲学は対話」なんていうのは、 もともとソクラテスの権威を背景に言われたことなんじゃないの。 じゃあ、まず、ソクラテスにおける「対話」とはなんだったのか、といいうことを検証しないとね。 広い意味での対話は、誰でも日常的にやってることなんだから。 それが即「哲学」なのかな。
同 逆 ┌──┐ │ │ │ │ └──┘ 逆 反 左上から発信されたとして右下で返すのが対話。
5 :
風曜日 :2007/05/06(日) 00:02:47
同 反 ┌──┐ │ │ │ │ └──┘ 逆 異 それでは、こう配置しようかな
ソクラテスの対話は、相手がいるようでいない。 相手と己の立場を考慮に入れていない。 相手と理解の共有ができなければ、ただの自己満足に終わる。 無知の知などただの言葉遊び。 こうですか?分かりません><
いつの間にかパート2が! スレを立てられた方、ありがとうです。 前スレはアンチも含めて思いがけずに盛況で1000までいきましたね。 「対話」はあくまでも主題があることが前提です。 反して「おしゃべり」に主題は必要としません。
8 :
考える名無しさん :2007/05/07(月) 02:04:19
反論なしの対話でもイイじゃない
作用┌→←┐反作用 └→←┘ 作用─→←─反作用 作用┌──→同作用─→ └──→逆作用─→
10 :
考える名無しさん :2007/05/07(月) 06:57:42
頭痛がする
作用┌─→←─反作用 雑音└─→←─頭痛 こういうこと?
放置されてるくさいので一言。 これ超弦理論ね。
13 :
短パン :2007/05/07(月) 23:29:42
こうもどうもあるか1bakaw
14 :
考える名無しさん :2007/05/08(火) 21:56:02
行い正しき人の中でももっとも正しいTarが、 はるか下に値する軽薄な短パンのあんな嘲笑的な、悪意に満ちた愚弄に晒された事を 私は侮辱と、内心の憤りなしには堪えられなかった。 奇跡的な事が何一つ起こらなくても、たとえ奇跡が全然なくてもかまわない、 期待していた事が直ちに実現されなくてもかまわない、だが、 何故あんな不名誉な事が現れ、何であんな恥辱が放置されたのか! 神は、神の御手はどこにあるのか? 何のために神は最も必要な瞬間に御手を隠し、どうして盲目で物言わぬ無慈悲な法則に 自らを従わせる気になったのか?
15 :
考える名無しさん :2007/05/08(火) 22:17:08
俺たちは、みんなキモスです、みんなキモヲタばかりだ、、 しかし、その中でも、中でも俺が一番卑劣な童貞キモヲタニートなんだ! 今となってはそう決めつけられても仕方がない、やむを得ません・・・。 俺はこれまでの一生を通じて毎日、この胸を打っては、真人間になる事を誓いながら、 毎日変わらず卑劣な行いをやってきました。 俺のような人間には打撃が、運命の一撃が必要なんだ! 縄で引っ括って、外的な力で締め上げなければいけない。 俺一人では決して、絶対に立ち直れなかったに違いない!しかしついに鉄槌が下されたのだ。
16 :
考える名無しさん :2007/05/08(火) 22:22:11
俺は世間全体に対する恥辱との苦しみを甘んじて受け、苦しみたいと思う。 苦悩によって汚れを落とします。 事によっては汚れを落とせるかも知れないんだから。 そうじゃないですか・・・? 俺は最後までおまいらと戦う。そう宣言しておく。 その先は神様が決めて下さるに違いない。
【壁】;・ω・))。o ○(コワイヨォォ・・・)
作用┌→←┐反作用 └→←┘ (ノンレム睡眠) 作用─→←─反作用 (レム睡眠) 作用┌──→同作用─→ └──→逆作用─→
→ノンレム睡眠⇔レム睡眠→ 完璧。
20 :
前541 :2007/05/10(木) 15:34:22 0
sageでいこうねww
個人的に前スレのここら辺から続けたいので、エートルのレスを貼らせてもらうよ。
718 名前:エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ メェル:sage 投稿日:2007/04/24(火) 01:04:12
哲学板のことはほとんど知らなかったのだけれど
いくつか非常に示唆的で刺激的で共感できる書き込みがあった。
時間的な都合でそのすべてを掬い上げられないけれど、
541氏の
>>679-680 の書き込みを面白く読みながら考えたことを。
>真理を求める、探求する、と言った時点ですでに矛盾が現れる。
>仮定も無く、未発見の何かを「真理」と呼んでしまっているからだ。
我々は本来名づけることのできないものにも名前を与えている。
「真理」という言葉もそうだし、「神」という言葉もそうだろう。
バタイユは言っていた、神という言葉は、言葉の中で最も倒錯的なものだと。
本来は《語りえぬもの》《名づけられぬもの》であるところの「真理」。
しかし、人は名づけずにはいられないし、語らずにはいられない。
「真理」という名前を与えることによって、それを指し示そうとしながら、
逆にヴェールをかけてしまっているのかもしれない。
前に書いた「隠れることによって現われる」という真理の構造は、
この言葉の構造それ自体の反映なのかもしれない。
21 :
前541 :2007/05/10(木) 15:35:52 0
720 名前:エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ メェル:sage 投稿日:2007/04/24(火) 01:20:50 >隠蔽されたメカニズムと発現される作用との間に「覆い」があるという考え方、 >その覆いを剥がすというロマンティシズム。 あるいはむしろ、エロティシズム。 「真理とは女である」というニーチェのアフォリズムは 「真理とは恥部である」とも換言されていたような気もする。 「覆い(仮面)」をとってしまえば、そこには空虚しかない(素顔はない)。 >自分の奥深く、個性よりも「内側」なら他者と共有できるものが見つかることは >あるだろう。クラブのフロアで踊りながら、「ユニティ」を感じるのと同じく。 踊り、祭り、酩酊、陶酔という祝祭的な野性のコミュニケーションは原始からあった。 それに匹敵できる理性によるコミュニケーション・コミュニティは可能だろうか。 おそらく対話に求めてるのはソレだ。 ――それを「明かしえぬ共同体」(ブランショ)と呼べるだろうか。 対話の中で、他者とのあいだに自己を投げ出しながら、 一般的な自己意識やチンケな自我などというものを脇に追いやりながら、 逆に個を深くえぐり、非人称的な場の思考に身をゆだねること。 匿名掲示板における対話にもし何らかの可能性を求めるとすれば、 それしかないのではないだろうか―― 〆
22 :
前541 :2007/05/10(木) 15:46:16 0
不思議なのは「真理」とよばれる隠蔽されたメカニズムの覆いを取る行為が 一様に直観的なものと「すでに」想定されている点、そして取得されたはずの「真理」を 記述することが、取得した本人にさえほぼ不可能である点だ。 それは伝統的に「悟り」と呼ばれてきたが、 昨今のニューエイジ・スピリチュアルブームの中、アセンション、覚醒など、 カテゴリーの境界をあいまいにしつつ、その領域は膨らんできているように感じる。 この、明晰性とはほど遠いと思われる「悟り」と呼ばれる直観は何だろう。 そして「悟り」によって取得されるものとは。 といった方向の話を個人的には進めたいのだが、できれば「悟り」の自覚を 持たない者だけで話したいww悟っている人は一様に「話せない」からだww
23 :
考える名無しさん :2007/05/10(木) 19:24:14 0
だれか読むとでも思ってるんだろか、、、
ちゃんと読んでいますよ 主題をふってくださっています 対話とは主題があることが前提ですね
25 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 06:11:20 0
まあ自分が権力握れば、 自分と異質の人間との対話なんか煩わしいだけですな。 自分が権力握るまでの戦略だったかな、対話ってのは。
26 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 06:24:27 0
>>23 読んでいる人間がいるからつづいているんだよ。
よまない人間はいらない。
27 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 07:22:21 0
とうとう、対話禁止、だそうです。
>>22 >不思議なのは「真理」とよばれる隠蔽されたメカニズムの覆いを取る行為が
>一様に直観的なものと「すでに」想定されている点、そして取得されたはずの「真理」を
>記述することが、取得した本人にさえほぼ不可能である点だ。
>それは伝統的に「悟り」と呼ばれてきたが、
>昨今のニューエイジ・スピリチュアルブームの中、アセンション、覚醒など、
>カテゴリーの境界をあいまいにしつつ、その領域は膨らんできているように感じる。
あなたは「真理」を「悟り」と言い換えているけれども、そのこと自体が、
あなたが考えている「真理」が、或る特定の「真理」だということを表していると思う。
(たとえば哲学的真理を悟りとは普通呼ばない)
>この、明晰性とはほど遠いと思われる「悟り」と呼ばれる直観は何だろう。
>そして「悟り」によって取得されるものとは。
たとえば大乗仏教なら、その中心となる「空」や「縁起」というのが
どういうことであるのかを本当の意味でわかることが「悟り」なのだろうと思う。
しかし、本当に分かるというのは、どの程度分かることなのか?
と考えれば、それは程度問題であることがわかる。
『ここからは悟り区域です』という標識はないでしょう。
ドットさんですか?
>>29 私とは真逆な御意見ですので私では有りませんね。
哲学とは道理にあかるいことを希求し人の潜在知能を呼び覚まし育て産みだされる智恵を人生に活用することを目的とする。
道理にあかるいこと、とは物事の理を悟ることで叶えられ理と智恵の関わりは古くから人に知られていることで有る。
そして人は物事の理を悟らずば絶対、本物の智恵を産みだせない、と言うことも辞書に明記されています。
広辞苑より引用【智恵=物事の理を悟り、適切に処理する能力】
そして物事の理を悟ることは智を望む純粋いで謙虚な心の持ち主で有れば容易く叶うことです。
以上が私の探求から見つけだしたことですから
>>28 は私では有りませんね。
>>20 > 我々は本来名づけることのできないものにも名前を与えている。
「名づけることのできないもの」っていうのはエートル氏の独自の考え?
語ることができなくても、何らかの区別をして「それ」と呼ぶことができるなら、
名づけられるのではないか。
名付ける=区別する
名状しがたいモノに名称を与える事で それが無制限であることを否定し、よって有意義な議論や研究の対象であるのだと前スレで言った。 悟りや啓示についても、それは統合失調やてんかんの症状に酷似しているのでは?と ドットさんに振ったらそういう事についてはよく知らないと答えをもらった。 医学的見地からすると、 シャーマン達や僧たちが神の言葉として所属する共同体につたえる啓示は、 統合失調による走馬灯のようなイメージ連鎖がてんかんの高揚した気分をともなって本人の身に起こる。 だからといって単にくだらない戯れであるわけではない。 病理自体が解明されていないから(医学者は人間の身に起きた異変に片っ端から病名を付ける)。 だから「悟り」は医学では統合失調もしくはてんかん、躁鬱などの精神疾患という所に位置づけする。 だが、精神医学の方面から「悟り」について見識を述べた所で、それは もう少しで悟りのメカニズムに迫れるだけのもので、全てを解明出来た事にはならない。 ただの病気です、ではあまりにも殺伐とした答えではないか? もう少しアクロバティックな哲学的論理展開による「悟り」の解明の余地が残されている。
この板では真理をやたらと崇高な、手の届かない所に浮かんだヒュージマテリアルだ とか言ってるけど、 飲み屋で真っ赤になって愚痴ってるオッサンの割り箸の先にだって真理はある。 学校で自分のチューリップに水をやる小学生の目の中にだって真理はある。 夕方になってやっと散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽにも真理はある。 それでいいんじゃないの?
34 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 19:10:51 0
>>30 >私とは真逆な御意見ですので私では有りません
同じ意見だと=ドットなわけだ
あい変らずオマエの「理」は妙チクリンだなw
35 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 19:13:59 0
>>30 ドットさん、道理と理はどう違うんですか?
どいうのが理なんでしょうか?
わかりやすく教えてください
同じ意見だと=ドットとかいうのはナシですよ!
36 :
考える名無しさん :2007/05/11(金) 19:34:08 0
ドットぐらいノー天気だと幸せな人生がおくれるだろうな・・いいな、いいな♪ ドットみたいなのを病院で大勢見て来た私が言ってるんだから間違いない。
このスレも宗教に汚染するつもりですか?
グラウコンよ、共同で真理を探究しようではないか
>>35 >ドットさん、道理と理はどう違うんですか?
>どいうのが理なんでしょうか?
>わかりやすく教えてください
物事の理を悟ることで理の真偽が明確に弁別でき、その心を真理に通じると言い、単に本物の理と言ういみです。
つまり物事の理を悟ると真理に通じ、道理や理論、倫理などの全ての理を自分のものに成り次は知能や知恵、
知性などに自動的進む道筋の物事の理を悟ると同時に得れるのが真理です。
>同じ意見だと=ドットとかいうのはナシですよ!
これの意味が分かりません。御免なさい。
>>39 >ドットさん、道理と理はどう違うんですか?
>どいうのが理なんでしょうか?
>わかりやすく教えてください
御免なさい、道理と真理を間違えて説明して仕舞いました。
道理は物事の理を悟ると真理に通じ、次に道理や倫理、論理の全ての理に通ずる心の一つです。
ですから哲学は道理にあかるいこと、の哲を希求すると言う学を目指すことですので物事の理を悟れば
道理にあかるく成り哲学の目的とする二段階が終了して次は社会で理が産みだす智恵を活用する哲学の
最終段階に進むと言うことです。
41 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 02:21:33 0
ほんとにドットって説明ができないね 「知らないことは説明もまたできない」・・という「理」を 身をもって見せてくれてるw
>>41 >ほんとにドットって説明ができないね
それは貴方の思い込みですよ。
私の話すことが理解できないだけです。
理解とは物事を理を以て解することですので、理解一つも物事の理を悟らずばできないことですよ。
理解もできず智恵も産みだせない貴方が進む道は、謙虚な心で智を望むか諦める以外に道はは無いのです。
>>1 新しいスレッドを立ててもらって乙彼でした。
お邪魔じゃなければ、また時々書かせてもらおうかな。
前のスレッドで当方が書き込み始める前は、
10日間以上書き込みがなかったりしてたんだけど
予想以上に賑やかになりすぎちゃったね。
記憶が正しければ、確か前のスレッドは、ある人が立てて欲しいと頼み
その依頼を引き受けて代理で立ててくれた人がいたみたいだね。
その意味で、スレッド自体が「対話」によって出来たものだった。
>>20-22 前541氏へ
引用してもらってどうも。うれしいな。
「真理を悟る」という言葉に対するイメージとして、
そこには確かに既に想定されたところの暗黙の前提があるね。
たとえば、「真理を悟る方法」で例を挙げてみれば、
「直観的」「啓示的」「インスピレーション」「瞑想」「座禅」
などなどがあって、これらは「精神世界」としてジャンル分けされる
スピリチュアル、ヒーリング、アセンションなどのキーワードになる。
チャクラとか天使なんかの言葉を含め。
この「精神世界」というジャンルは非常に曖昧なもので、
哲学でも心理学でもなく、つまり、学問ではなく、
サブカル的な中間性を漂わせながら成立しているようだけど、
それでも、大きな書店に行けば専用のコーナーがあって
江原の本が中心を占めるとはいえ、シュタイナーの本もあって、
占い、オカルトをも包摂していることを考えると、
前541氏が書いているように
>カテゴリーの境界をあいまいにしつつ、
>その領域は膨らんできているように感じる。
のはよくわかるね。
>>28 おそらく、「真理」を「悟り」と言い換えているわけじゃなく、
「悟り」とセットになっているところの「真理」に焦点をあててるんだろう。
ただ、或る集合の「真理」を表現しているとはいえるだろうね
「哲学的真理」といった場合にはもちろんニュアンスが変わってくる。
「直観的」という言葉を使う哲学者は東西にいるけれども。
「諸々の」真理がある。
前のスレッドでも少し書いたけれども、
「真理」という言葉を複数形で考えなきゃいけないんだけれど、
我々はいつの間にか「真理」という言葉を単数形で扱ってしまい、
あたかも定冠詞をつけたように扱ってしまっているところに
言葉に潜む罠があるように思える、と同時に、
その罠を言葉にしかけているのが概念かもしれない。
この「真理」という概念は特に。
>>31 >「名づけることのできないもの」っていうのはエートル氏の独自の考え?
>語ることができなくても、何らかの区別をして「それ」と呼ぶことができるなら、
>名づけられるのではないか。
ソシュールを持ち出すまでもなく、言語は差異の体系だから、
確かに、区別によって「それ」と呼び、名づけることはできるね。
ただ、「神」といった言葉を考えてみてほしい。
人智を超えた絶対的なもの、本来人間の尺度では測れないものを、
ほかの諸々の事物や存在から「区別」し、
人間は「神」という言葉で「名づけ」たわけだけれど、
そこでは「神」という言葉は充分に定義できないわけだね。
というのも、定義上人智を超えているのだから。
しかし、名づけることによって、そしてその言葉が広く流通することで、、
「充分に知らないもの」「未知なもの」にとりあえず付けた名前が、
勝手に、自然に、一人歩きしてしまい、
あたかも「既知なもの」であるかのように扱われてしまうことになる。
「UFO」という言葉を例にするとわかりやすいかもしれない。
本来は「未確認飛行物体」、つまり確認できないものだったのが、
いつしか「円盤状の宇宙人の乗り物」というイメージが、
人々の間で定着してしまうことになる。
真理とは人の心を司る1±1の基本的なもので、そこから人の心が産みだす事象の全てを弾きだすものです。 但し、この事を知るには物事の理を悟り真理に通ずる心を得た者のみで有って、他の者達は己の持つ真理に気づかず真理探しの旅をするのです。 誰もが持っている共通した一種類の真理を持ちながら、誰もが探し回る、滑稽な話ですよね。 すると次には、これだけ捜したのに見つからない真理とは始めから存在しないとか、真理は一つに一つずつ有るものだ、色々と考えるのです。 ところが、自分で持っている理に気付かなければ(理を悟る)知能が育たず真理を知る智恵も産みだせないのです。 智恵とは物事の理を悟る、とか道理に通ずることで得られるものだと、どの辞書にも記して有るのにそれすら否定する、人類の知性の低下は否めません。
>>32-33 佃煮マニアへ
>名状しがたいモノに名称を与える事で
>それが無制限であることを否定し、
>よって有意義な議論や研究の対象であるのだと前スレで言った。
なるほど、そういう見方もできるかもしれない。
本来は名づがたいものに名前を与えることによって
議論や研究の対象にできるというポジティブな面もある、
ということだね。
「議論や研究の対象」に矮小化してるというネガティブな面に
比重をかけすぎたきらいはあるかもしれない。
>医学的見地からすると、
>シャーマン達や僧たちが神の言葉として所属する共同体につたえる啓示は、
>統合失調による走馬灯のようなイメージ連鎖がてんかんの高揚した気分をともなって本人の身に起こる。
>だからといって単にくだらない戯れであるわけではない。
たとえば、ニーチェが《永遠回帰》の思想を胚胎したときのことがいい例だと思う。
1881年夏、スイスのシルス・マリーア近郊の聳え立つ巨大な岩塊のそばで、
永遠回帰の思想の霊感が突然の雷鳴のようにニーチェを襲った。
そのときのことはメモにも『ツァラトゥストラ』にも書かれていて、
「海抜六千フィート、すべての人間的な物事を超えてはるか高く」とある。
(つづく)
>>45 >「諸々の」真理がある。
>前のスレッドでも少し書いたけれども、
>「真理」という言葉を複数形で考えなきゃいけないんだけれど、
>我々はいつの間にか「真理」という言葉を単数形で扱ってしまい、
>あたかも定冠詞をつけたように扱ってしまっているところに
>言葉に潜む罠があるように思える
真理が複数形であるという考えが一般的になってきたのは
たぶんニーチェからだろうと思う。
真理の複数化はドグマティズムに対する武器となった。
しかしそれは、自らの主張をも相対化してしまうから、
相対化という循環の中に入り込むことになる。
>>46 >しかし、名づけることによって、そしてその言葉が広く流通することで、、
>「充分に知らないもの」「未知なもの」にとりあえず付けた名前が、
>勝手に、自然に、一人歩きしてしまい、
>あたかも「既知なもの」であるかのように扱われてしまうことになる。
仏教の経典は「月をさす指」であると言われることがあるけれど、
言葉というものが、いつも「月をさす指」であるのだろうと思う。
神や仏という絶対的なものを言葉によって概念把握することはできないし、
言葉には一般化し普遍化する作用があるから、真に個的なものを
言葉によって示すことはできない。
>>32-33 佃煮マニアへ、のつづき
その後1889年だったかにニーチェが狂気・病気で逝去するにおよび、
精神医学的見地からの、病気と啓示(悟り)との関連についての言説は、
ニーチェについてもなされたわけだけれど、60年代以降少し変わる。
フーコーによる「狂気」という概念についての考古学的解明もそうだし、
また、
>もう少しアクロバティックな哲学的論理展開による「悟り」の解明の余地が残されている。
という点ならば、
たとえばドゥルーズ=ガタリによる『アンチ・オイディプス』という著作はどうだろう。
「悟り」を解明しているわけじゃないけれど、アクロバティックな哲学の試みではあるね。
まだ途中までしか読んではいないけど、すごくユニークな本だね、これは。
アルトーの「器官なき身体」を独自にアレンジしながら、
統合失調症(精神分裂病)に対する新しい視点を与えてくれている。
>夕方になってやっと散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽにも真理はある。
ああ、これほど強い真理を感じることはないかもしれないね!
ただ、我々人間は、残念ながらというか、
「散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽ」と「真理」を、
なぜか結びつけようとはしない。 〆
51 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 13:54:38 0
>>50 犬は散歩に行くのを喜んでしっぽを振るだけなのに、
いちいち真理と結び付けいたら犬が散歩に行く前に疲れるよ
このうちハエが飛ぶのも真理が有るって言いそうだな
>>51 禅では、竹の音を聴いて悟ったというような話があるけれど、
犬のしっぽを見て悟るということでも、たぶん同じことだと思う。
そこには、犬のしっぽとの本当の意味での「出会い」がある。
そのとき、犬のしっぽには、世界全体が含まれている。
そういう意味で言っているのなら、分からないことはないが・・
53 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 14:06:45 0
>>52 >禅では、竹の音を聴いて悟ったというような話があるけれど、
こんなに、いかがわしい話を本気で信じるの?
何かを知ろうと覚えすぎた者の最後はチョウチョが飛んでるのに真理を感じるんだよ、
そろそろあんたも気を付けたほうがいいよ、
54 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 14:09:17 0
>>42 ドットさん
>私の話すことが理解できないだけです
わはは、オマエの「理」は傑作だなw
誰かが「私の話すことが理解できないだけです」・・と言った途端、言われた相手は
魔法にでも掛かって「私の話すことが理解できないアホ」になるのが「理」というわけだw
「おもしろいじゃんw」
じゃおれもやってみるね
「ドットさんは私の話すことが理解できないアホ馬鹿です。」
わはは、これでたった今からオマエはアホ馬鹿だw
オマエの「理」はホント傑作つ〜か限りなく微笑ましいw
拘束服を着せられ山本五十六を名乗る重症患者が医者に向かって言う・・
「おまえの頭はおかしい、狂ってる」
その途端、どんな医師も狂人となる・・北朝鮮ならあるだろな、がははっはw
しかしそんな「理」を平然とパブリックスペースでカキコできる者を産み出す北とは・・
あ、日本人拉致は「解決済み」なんですよねドットさん!
だって北朝鮮人が「済んだ」といえば、途端にすんでしまうんだったねw、あははは !!
>>53 犬のしっぽに世界全体が含まれているというのは、色即是空ということで、
要するに世界は空間的にも時間的にも全てつながっているということですね。
それを理論的に説明しているのが華厳哲学の事事無碍で、
これはいかがわしい話ではない。
世界全体がつながっているというのは、たとえばタイムマシンの話で、
過去における何かちょっとしたことを変化させただけで、未来の出来事が
大きく変化してしまうという話があるから、特に奇抜な考えではないでしょう。
ニーチェもそんなことを書いている。
ニーチェは、今のこの瞬間を肯定できれば一切を肯定したことになる
というようなことも書いている。
56 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 14:22:18 0
あははは !! 禅だのチョウチョだの犬のしっぽだの、、 どうしてオマイラそんなに目出度いのw?
57 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 14:44:11 0
ドットさんは私の話すことが理解できないアホ馬鹿です。
58 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 14:51:30 0
言われた方のドットはアホ馬鹿ってことでおk!
ドットさん、おれ摂理に入ろうと思うんですが 統一教会とどっちがいいですかね? 結婚相手見つけるなら断然、統一教会ですよね?
60 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 15:46:43 0
>>55 >世界全体がつながっているというのは、たとえばタイムマシンの話で、
>過去における何かちょっとしたことを変化させただけで、未来の出来事が
>大きく変化してしまうという話があるから、特に奇抜な考えではないでしょう。
過去は無理だから今に置き換えて考えたらどうよ
現代で何かちょっとしたことを変化させただけで、予測される未来の出来事が大きく変化する、とね
>>57 >>58 >>59 三バカトリオ、おまえらの書き込みじゃドットでなくてもバカにされるよ
親に甘やかされて育った、2ちゃんねる愛好者がいっぱいいるみたいだね。 親に叱ってもらえなかったんだね。 だから、 「ドットさんにダダをこねて、オシリをペンペンして貰いたい」 というカキコミが続出だね。 みっともないね。
62 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 16:30:14 0
>>61 ドットの哲学より、
君の社会心理学の方が上だね。
63 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 16:36:42 0
結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。 結局ドットは自作自演で自分を正当化させる行動を取っているだけだろ。
64 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 16:53:28 0
>>54 医者に向かって患者が言ったことが正しいかどうかはわからない。
65 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 17:00:48 0
>>64 普通の国ではそのとおりだと思うんだけど
ドットさんの出身国、北朝鮮では患者が言ったことが正しいんだと
>>42 でドットさんは言ってます
↓
ドットさんによれば、話し相手が自分を理解しない場合北朝鮮では
「私の話すことが理解できないだけです」で済んでしまうそうです
論証とか論理あるいは具体的現実などによる反証は「いらない」んです
ドットさん流の言い方をしましょうか、、、
あなたは、私の話すことが理解できないだけですw !!
わははははは !!
66 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 17:04:26 0
>>65 あなたは、状況を設定しただけで、患者の脳の中身が正常であるかどうかは、
あなたの設定であるか、権威的に医者を意味づけているかだけで、決して判断できない。
67 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 18:35:51 0
>>66 言ってることがよくわかりませんが
これはドットさんの世界のお話・・ドットごっこw、、 、、つまり北朝鮮の論理であり
統一教会のタワゴトですから、文句あったらドットさんか金正日または文鮮明にどうぞw
69 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 18:45:14 0
70 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 20:00:47 0
71 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 20:04:57 0
しかしドットがまとものような発言をする時点でドットの自作自演 と勘違いされてもそれはドットの信者なんだから問題ないだろ。 宗教板から追い出されたのか?なんで哲学板にいるんだ? 信じるのは哲学じゃない、疑うのが哲学だよ。 論破されるようじゃ哲学じゃない。 納得する時点で哲学じゃない。 ドットがやっている正義とか正しさ道理。ことわり、定義 全部哲学じゃない、悟り??ありえねー、悟りこそ宗教の概念じゃないか
72 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 20:32:44 0
>>71 ドットが気に入らないなら、自分の能力内で批判なり反論するなりすればいいんじゃないの。
宗教と哲学の区分は、近代に入って(ニーチェとか)、現代にいたってますます難しくなってきてるんじゃない?
あと、僕の言うことがわからないみたいだけど、分かり易く箇条書きにしてやるよ。
以下、
>>54 に対する反論
@医者と「重症」患者(狂人)を設定
A患者、「おまえの頭は狂っとる」と発言
Bよって医者に狂人の認定が下されたことになる
以上の論理方法により、正常人物の代表であるべき医者が狂人になってしまったので、
正常な患者(ドット)と理解の出来ない医者(54)というおかしな事が起こってしまった。
以上のことは、医者という記号が正しく、患者という記号(符丁)がおかしいと言うことしか
いってない。
つまり、医者と患者は交換可能で、54は自分は医者という権威だから正しい、と言っているにすぎない。
73 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 20:40:33 0
>>72 なに当たり前のこと言ってんのよw
でも「小房でも分かるその当たり前」がドットには理解できない・・
やはり北の初等教育をなんとかしてやらねば・・な !?
>>72 よw
74 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 20:47:50 0
>>73 72ですが、北朝鮮の初等教育の結果そうなると言われていることを反駁した
つもりなんですけど。あなたは54ではないの?
>>47 心の仕組みドットコムへ
なるほど、真理についてのそういう考え方もあるんだね。
>>49 >真理の複数化はドグマティズムに対する武器となった。
>しかしそれは、自らの主張をも相対化してしまうから、
>相対化という循環の中に入り込むことになる。
真理の複数化したとき、人は「相対化」されたという。
でもそこでいわれる「相対性」は、
元の「絶対性」が残像として生きている視点だね。
「絶対性」を完全に払拭してしまえば
あえて「相対性」を持ち出す必要もないのだし、
ただ単に「複数性」「多様性」といえばいい話だと思う。
「相対化という循環の中」にあえて入り込む必要もないんじゃないかな。
>言葉というものが、いつも「月をさす指」であるのだろうと思う。
>言葉には一般化し普遍化する作用があるから、真に個的なものを
>言葉によって示すことはできない。
これはその通りだろうね。
言葉による一般化・平均化・抽象化によって
事物の個体性・特殊性・具体性はスポイルされてしまうから
言葉というものは「月をさす指」、つまり、
対象を指し示す「→(矢印)」であることを、
忘れないようにしなきゃいけない。
エーテルさんだっo(^-^)o
>>76 >「絶対性」を完全に払拭してしまえば
>あえて「相対性」を持ち出す必要もないのだし、
>ただ単に「複数性」「多様性」といえばいい話だと思う。
それだけだと、何かを積極的に主張する根拠がなくなってしまうのです。
ニーチェの場合は、真理を複数化すると同時に、「強さ」と「弱さ」
という尺度を持ち込む。
それによって複数性の中に「優・劣」が生じます。
だからニーチェは一方では、自分の解釈も、多くの解釈のうちの ひとつの解釈に過ぎないのだと、いわば開き直り、 他方では、それが強者の解釈であるから優れた解釈であると考える。 そこにニーチェの危うさがある。
80 :
考える名無しさん :2007/05/12(土) 22:36:06 0
>>ドットさん! どうして統一教会の質問にはなにも答えてくれないの?
81 :
31 :2007/05/12(土) 22:43:32 0
>>78 ある言葉を、「誰か特定の人の解釈が正しい」とすることを求めていてはキリがない。
だから、その最大公約数的な解釈が辞書に著されている。
言葉の使用方法が共通である場合にのみ対話が成り立つ。
というのが言語ゲームの考え方ですよね。
「月をさす指」は、ある人にとっては「太陽をさす指」かもしれない。
同じ言語ゲームに参加しているかどうかの違いであって、優劣ではない。と
>>81 >>78 で言いたかったことは、
>>76 の「絶対性」の払拭の後〈あなたの言い方を借りれば
「正しさ」の追求を放棄した後〉に、自らの思想を積極的に主張することは
如何にして可能なのかということです。
絶対性を払拭して正しさを放棄した時、多様な思想的立場が等価になってしまえば、
自らの思想を積極的に主張する根拠がなくなってしまう。
価値の優劣が決まる尺度が、ニーチェの場合は「強さ」と「弱さ」であり、それによって
「強者」の解釈は優れており、キリスト教に代表される弱者の解釈は劣悪であるということになる。
「強さ」と「弱さ」という尺度がなければ、ニーチェがキリスト教的思想を批判する根拠はなくなる。
>>82 >>81 は、最後の「。と」までで、なるほど納得の意味です^^;
> 「絶対性」の払拭の後〈あなたの言い方を借りれば
> 「正しさ」の追求を放棄した後〉に、自らの思想を積極的に主張することは
> 如何にして可能なのか
まさにそこが分からないところですね。
前スレ414の応えにヒントがあるのではないか、と思うのです。
前スレ319
> 聾唖者でなければ、言葉の重きを語れない。
> 言葉について考えなければ、その不正を語れない。
前スレ414
> 言語による情報交換では、正確に意思を伝える事は出来ない。
> ある答えを教えても、相手が納得する姿勢にならなければ、永遠に相手が答えを知る事は無い。
> って事か?
> 相手が納得する姿勢にならない限り。
> それこそ、一足す一ですら理解する事は出来ない。
> 納得する姿勢にならないで、相手に対し、自分の意見を貫こうとする時に、言葉の持つ不正要素が生まれる。
> つまり、口の上手い者の意見が通ると言う事で、必ずしも真理を知っているものではないと言う事だ。
つまり、「相手が納得する姿勢」というのは、 自分が相手の言語ゲームに参加するということではないか、と。
85 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 00:04:03 0
日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、 単に哲学知識を持つだけの学者を哲学者と定義する傾向にあるのが事実である。
86 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 00:54:51 0
おまえらレスして欲しければ三行でまとめろよ。長いよ。
>>51 まず最初に注意を喚起しておきたいのは、
>>50 で書いたレスが
>>33 佃煮マニア氏に宛てたものだということ
ひとつのレスだけを読んで理解しようとしても意味を十全に捉えられない。
当方の書き込みのほとんどは、誰かの書き込みへのレスポンスだし、
その誰かの書いた言葉に触発され刺激されて書かれているから。
言葉がどういう土俵で、どういうコンテクストで使われているか、
そこに注意を向けることは大事だね。
で、
>>33 ではどういうことが書かれていたかをもう一度見てみよう。
>飲み屋で真っ赤になって愚痴ってるオッサンの割り箸の先にだって真理はある。
>学校で自分のチューリップに水をやる小学生の目の中にだって真理はある。
>夕方になってやっと散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽにも真理はある。
ここでは真理を感じる3つのシーンがサンプルに挙げられていて、
日常的ないろんな場面で真理を感じとれるんだよ、というメッセージがある。
ここでの真理は、大文字の定冠詞つきの「ザ・真理」ではなく、
小文字の複数形の真理だろうね。諸々の小さな真理。
ただその諸々の小さな真理に、世界全体との、あるいは宇宙との、
つながりを見出すことは可能かもしれない。
>>52 や
>>55 で仏教的思想を例に書かれているのは、
きっとそういうことなんだろうね。
>>78-79 および
>>82 言わんとすることはわからないわけじゃないし
おそらくニーチェの《力への意志》を念頭に置いているんだろうけど、
コンテクスト、土俵をもう少し具体的にしておきたい。
そうじゃないと、共同幻想論(吉本)や唯幻論(岸田)に対して
「その理論も幻想ですね」と言うような単純化に陥ってしまうから。
まず複数性ということでいうと
ニーチェは、唯一絶対とされてきたもの、たとえば、
善悪という判断をくだす道徳的基準という土俵を一枚めくって
優劣の判断をする《力への意志》を見出したわけだね。
それによって露呈させたのは、
既存の道徳的な判断基準の相対性だった。
絶対的基準によってあらかじめ定められたような、
そんな道徳的な基準はないんだよ、と。
そして、こうした観点が導かれたのは系譜学によってだった。
90 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 01:30:41 0
こしつすげーバカw
(
>>78-79 および
>>82 へのつづき)
そのことを踏まえて、ニーチェにおける「解釈」「評価」を考えてみると、
ニーチェが主張したのは、こういうことになる。
絶対的な基準によってあらかじめ定められた意味や価値などない、
意味や価値が最初にあって、それを解釈し、評価してるわけじゃない、
ことはまったく逆なのだ、
《力への意志》に基づく解釈や評価によって、意味が生まれ、価値が決まる、
だから意味や価値に唯一絶対のものなどはなく、
さまざまな意味や価値がつくられるのである、
というふうに。
そうしたことを踏まえて考えてみると、
ニーチェの思想の中に
>多様な思想的立場が等価になってしまえば
という観点があるとはいえないだろうし、
>自分の解釈も、多くの解釈のうちの
>ひとつの解釈に過ぎないのだと、いわば開き直り
をしたとはいえないんじゃないかな。
ニーチェが対象にしたコンテクストを考えれば。
コンテクストを見失って思考したとき、言葉の網目に絡まってしまい、 言葉によって思考が操られてしまった、という経験はないだろうか。 当方はかつてそういう経験をしたことがあったなあ。
93 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 01:47:12 0
>>85 > 日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、
たとえば?
>>81 、
>>83 31=前スレ413へ
>言葉の使用方法が共通である場合にのみ対話が成り立つ。
>というのが言語ゲームの考え方ですよね。
ウィトゲンシュタインを念頭においてるんだろうけど、
言語ゲームにおいては(ここではさしづめ対話ゲームかな)、
コンテクストの共有というルールも必要になるだろうね。
前スレ414の
>納得する姿勢にならないで、相手に対し、自分の意見を貫こうとする時に、
>言葉の持つ不正要素が生まれる。
対話者同士がそれぞれのコンテクストを、時間的な制約を受けながらも、
具体化し、明確化していくという姿勢があれば、
おそらくは「言葉の持つ不正要素」を回避できるんじゃないかな、と。
>>94 及びエーテルオートルさん全般、、
貴方の飲み屋のオッサンと小学生の目と散歩の時に見る犬の尻尾の話、大きな真理や小さな真理の話は面白い話ですが、
それは主に真理に通じぬ者達が好んで使う話法で真理を混乱させるだけです。
人の心は全てに通じていますので、それを感じる者には庭先の石にも自分の心の中に有る、真理に通ずるものを感じるの
で有って石の一つに小さな真理が有るのでは有りません。
つまり、庭の石に真理が有るのでは無く、その石を見る者が石を通じて己が真理を感じるのだ、と言うことです。
これでお気付きと思いますが真理とは人の心の中に一人に一つ有り、それ以外の所に転がっていると言う訳では無いのです。
そして、人は違えど真理に別種はなく、皆が同じ真理を心の中に持っているのですよ。
真理とは如何なるものか?は細部に渡り説明しますと長く成りますので次の機会に致しましょうね。
>>93 たとえば?
>>85 は日本哲学の現実を如実に現したWiKiの哲学に関する言葉ですね。
>日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、
>単に哲学知識を持つだけの学者を哲学者と定義する傾向にあるのが事実である。
日本の哲学、哲学板2chを含む哲学界全般に於いては本物の哲学者は無視されるか軽く傾向が強いと言うことですね。
つまり日本では読み覚え集めた哲学に関する事柄を巧みに吹聴するする者達を哲学者とし真の哲学を排除する傾向が有る、と言うことです。
これは哲学界が偽の哲学を崇拝する傾向に有るだけでは無く、欧米よりも更に強い力を崇拝する蒙昧を
日本人の素直さが受け入れ創り上げた結果と言えるでしょう。
間違った方向を目指す哲学界と同じ傾向が政府が最重要課題とする、記憶力を重視する教育改革にも顕著に表れているのですね。
日本全体が哲学界を含め、下降線を辿り下に向かって落ちて行くのに自分達は上を目指して進んでいるのだ、
と勘違いしているバカみたいな事実です。
ですが、その先には心の相対性と言う非常に面白い現象が待っているのですね。
97 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 10:16:06 0
>>93 >
>>85 > > 日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、
> たとえば?
ドットさんが真に独創的な哲学者なのに、軽視されていることはこのスレの訪問者なら周知の事実。
ドット哲学以外で、マジに訊いていたのだが。
もう一度、
「たとえば?」
なんというアイロニーw
>>97 >もう一度、
>「たとえば?」
日本社会の現状も踏まえて一通り
>>85 WiKiの内容は説明しましたがダブルで聞かれることは何かを把握しかねます。
昨日も直ぐに8回の書き込みが終わり、制限を受けて書き込みができなく成りましたので成るべく質問の意図を明確
にして戴ければ、と思います。
100 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 12:20:23 0
>>99 >>ドットさん!
どうして統一教会の質問にはなにも答えてくれないの?
入会して何年かぐらい教えてくれてもいいでしょ
101 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 12:23:48 0
>>99 御丁寧なお返事感謝。
もう一度質問します。
今は、情報過多の時代です。このような時代に
「優れた哲学なのに、一般にはなかなか評価されない」
というようなことがあり得るのでしょうか?
というのが、私のもともとの質問です。
ドット哲学がそのような例外かもしれませんが、
ドット哲学以外にもあるのでしょうか?
というのが、私の今の質問です。
>>101 >今は、情報過多の時代です。このような時代に
>「優れた哲学なのに、一般にはなかなか評価されない」
>というようなことがあり得るのでしょうか?
山ほど有ります、と言うか優れて正しい情報は現社会を支配する者達に取っては大衆を蒙昧から目覚めさせる要因に繋がりますので
非常に危険な存在なのです。
この真実は蒙昧社会の人々には全く及びもしないことですので余り、私もこの事実に触れることは有りませんが敢えてお話をします。
つまり蒙昧に捕らえられている人類社会を支配する者達は蒙昧主義者と呼びますが全てを理と言う正義に反する意識を備えています。
その者達の支配を維持する為に大衆を常に蒙昧を崇拝させる必要が有ります。
すると大衆が蒙昧を崇拝し蒙昧主義者達が創り上げた幻覚の正義や幻想の幸せを追い求めて経済や戦争や教育から犯罪まで幅広く走りだすのです。
それに反する態度を取る者達はメディアに於いても厳格な厳しい審査と調査が有るのです。
つまり私のお伝えしたいのは、哲学界全体が蒙昧に捕らえられ読み覚えた資料を吹聴する世界でも真の哲学は哲学の敵と見なされる、と言うことです。
本物の哲学は智を望む純粋で謙虚な心の持ち主で有れば哲学書で無駄な資料を集める必要も学歴や年齢・人種など一切に関係なく
強い蒙昧に捕らわれぬ一般大衆で有れば哲学の目的は卒業できるのですから従来の目的も明確に定められぬ哲学界は一挙に消滅して仕舞います。
このような時代だから、それが優れていればいる程、それを押さ込み、必用に狩るシステムが作動するのです。
この話は、少し難しかったですか?
103 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 14:53:22 0
>>ドットさん! 統一教会に入会して何年ぐらいなんですか? この話は、少し難しかったですか?
>>101 続きです。
>ドット哲学がそのような例外かもしれませんが、
>ドット哲学以外にもあるのでしょうか?
教育問題も防衛に関する問題も国際関係も全て正しい情報は蒙昧主義者達の巧みな操作で
殆どの大衆の心が受け入れない形に操作されています。
そこを如何に潜り抜けるのかが問題ですね。
最近の2ちゃんはカオスになってしまった。と言っても、 ここだけは、と微かに期待を寄せていた哲学板も、 ここだって、卓抜した哲学が正しかった(!)事なんて一度も無かった。まあ私はただのお客さんですが。 そもそも、見る所、哲学板住民全体が、漠然としてるんです。 ただ漠然、抽象、曖昧その他もろもろ。哲学になんて興味すら無いんです。 そして、言葉というおもちゃをこねくり回しながら、幻想的なモノ、漠然としたモノに酔っているんです。 前スレでも、真理だとか同じようなテーマで話し合ったじゃないですか。 それだって、誰かが本を読んで適当にデッチ上げるか、引っ張り出すくらいの物でしょう? そんなものは気が利かない連中だからこそ出来る事で、 このスレ的には失礼に当たりますよ。馬鹿にしてるのかと。 しかしこの、我を隠し曖昧さに傾く傾向は、日本人の良心であるかも知れないと、ふと思うんです。
106 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 15:25:40 0
人間は、 材料と、特殊な人間に分けられるそうです。 つまり、特殊な人間というのは、空気嫁と指摘されないばかりか、かえって他の人々(ごみ)のために 空気を作ってやってるのだと、そういう訳です。 つまり、多くの論客は粘着煽りに見向きもしないで、平気で踏み越えているという事実があるのです 逃げた、論破されたと煽られつつも。 あなたはためらっている。煽りにもにも丁寧に糞レスで返している。 要するに、自負心は強いものの、自分は天才ではない、という考えにひどく苦しめられているのです。 そうではないですか?
>>95 その通りだと思います。
我思う故に石を通じて真理を得る我がある、という事ですよね?
そして、私という物体あるいは現象の中には、種々雑多な網があります。
この網は何でしょう?〜論ですか。〜語ですか。それとも・・・何のフィルターなのでしょうか?
せっかく認識しかけた真理も、網にからめとられ、その輪郭をぼやけさせてしまうのが常のようです。
ぼやけた「何か」がごちゃごちゃとつまり、ノイズだらけの不協和音を轟かせている私たちの考え
(考えという事すらおこがましいかもしれませんが)それ自体が、蒙昧なのでしょう。おしい所です。
多分こんなカラクリになっているのだと思います。
では反対に、明達であるには?
110 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 16:21:43 0
>>107-109 ドット、自演みっともないからやめろ
ところで今月のノルマ大丈夫か?
ここんとこ壷売れてないだろw
>>109 話に硬軟を混ぜないで下さいね。
この話は真面目に答えたく成りますよ。
>そして、私という物体あるいは現象の中には、種々雑多な網があります。
>この網は何でしょう?〜論ですか。〜語ですか。それとも・・・何のフィルターなのでしょうか?
蒙昧は幼少の頃から育てる者達と社会から自我を植え込まれ成長した心です。
それが人の成長過程で自己愛と言う自己陶酔に変わり心の核を支配し欲望を産みだし、
その欲望が様々な自我に枝葉を伸ばし成長を続けます。
つまり蒙昧の強弱は有りますが総体的に人の心は蒙昧にに支配されています。
その蒙昧に風穴を開けるべく試みるのが世の在り方に矛盾を感じる人の良心です。
しかし、それをさせじと頑張るのが己の自我ですので面白いですよね。
自分の心の中で自我と良心が互いにどけどけ、と譲らないのですが元々、
居座っている蒙昧に後押しされている自我がその範囲を譲ることは滅多にありません。
良心が諦めて眠って仕舞うのです。
112 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 16:41:17 0
>>111 ドットコムさん、突然ですが、来世や魂が無いというのが、あなたの理の前提なのですか?
そういやブラックジャックも言ってました。 「自我(自分勝手)なのだ!」て。 ところで、他スレで持ち切りになってたようですが 理とは、、、、、、、、、悟性という言葉に置き換える事ができます。 要するに、 難解な論文や赤ちゃんの言葉や基地外のわめきもざっと感覚的にとらえ内容を整理して概念化する能力 そして、その概念をまとめて分かりやすく回答をはじき出すのが「理」 上で挙げたカラクリを逆さまにすれば明達であることが可能、 または自我(自分勝手)と良心がうまく折り合いをつければ明達である事が可能、なんですが、 カラクリの途中部分がひどく曖昧で、「多分こんなとこだろう」と決めてかかっているので 正確に明達の士となるすべを探すにはおとなしく図書館にでも入り浸ればいいだろうというのが本音です。 また、人の心はいくら良心が頑張ってみても腹一杯になれば、眠たくなれば、欲望を満たして後悔して終わりです。 そして今までの自堕落な自分に良心のメスを入れようじゃないか、という試みさえ、 時にはテロ行為と見なされ、追跡と抑圧の中で良心はついには処刑されてしまうかもしれません。 結局、 結局明達への道は暗くてよく見えない。 とりあえず日常的に「ヴィトゲンシュタイン」「フロイト」「バタイユ」などの単語をちりばめておくのが、 使ってしまった事への焦りが努力を生み出してくれるので うずくまっていた良心も目を覚ますのではないかとw自分的には思います!
うわ〜なにこの連投 自分キモ
「抗いきれないさまざまな思想が入り乱れて荒れ狂っていたために、俺は人を刺した。 おおっぴらに気違い沙汰をやらかす事で、自己内部の思想を沈静化させようとした。」 ここにおける自我と良心とはどういうものか。
>>112 蒙昧と言う欲望が育てる万人が持つ自我が同一性を持っているのと同じに理も万人の心の中に有りますので私の理と言う
特定なものでは有りません。
私の思うところが有りまして魂や来世とかには言及を避けさせて戴きたく思っています。
何故なら、その件に私が関わることで相手を頑なにさせ物事の理を悟る機会を失わせる可能性も有るからです。
>>113 私の探求で探しだした方法は、とんでも無く奇抜な方法です。
心を蒙昧に支配され育てられた自己愛が産みだす欲望と、それから枝葉を伸ばし成長を続ける自我などには一切、
関わらず放って置けば良いのです。
そんなものは過去、多くの人々が欲望や自我を消し去り、物事の理を悟ることを試みましたが一度すら成功例は無いのです。
ましてや欲望や自我を消し去っても肝心な蒙昧まで消滅する訳が有りませんので、精神の異常をきたすことも考えられますね。
そこで如何にするのか申しますと誰にも有る良心を自分で磨き上げてしまえば蒙昧に埋もれていた良心が輝き始め、そこに
人間愛に導かれた理が姿を現し、蒙昧が啓蒙に変わり自己愛が人間愛と交代して欲望が智恵に変わり自我が希望や生き甲斐、
そして本物の夢に向かって枝葉を広げるのです。
これなら簡単ですから智を望む純粋で謙虚な心の持ち主なら、費用も係らず少しの時間を使えば物事の理を悟れるし個人も
幸せに成り世界も平和に成り、と言う隠れた面白い法則です。
この前に誰かとの話でカオスの理論を見ましたら私の言ってることが書いて有りましたが昔から智恵の廻る者がいたんだな、
と感心しました。その場所を下記に抜粋しておきますね。
【この不規則で非常に複雑に見える現象が、簡単な方程式で書き表せるとするのが「カオス理論」である】
>>115 世の矛盾に己の思考が及ばなく成り良心が耐えられず、それの連鎖で自我が爆発した、と考えます。
早くに己の良心を磨き智恵を産みだして、本当の御自分を取り戻すことをお薦めします。
118 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 19:44:24 0
119 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 20:01:55 0
120 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 20:11:08 O
スレが荒れるし流れが速くなるのでドットコムさんはここにもう書き込みしないでください。自分でスレを立ててそこに書き込んでください。お願いします。
121 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 20:12:55 0
>>118 賢者は「おのれが無知だという事を知っている」のでよく質問をし
愚者は「何も知らないのに何かを知っている」と信じて聞くことをしない
時間のたつ毎に両者の知性は天と地、黄金と糞ほどに開いてゆく
ドットはどっちか・・だと? あれ以上の糞はこの世にいないw
>>121 糞は可哀そうだろ。
せめて糞にたかる銀蝿ぐらいにしといてやれ。
123 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 20:20:22 0
銀蝿が気の毒だ
124 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 21:38:58 0
日本語を正しく書けるのはドットさんだけとは。 日本は大丈夫か。
心の仕組みドットコム、という専用スレが立てられてますので、 ドットコムさん、および関心がある人は、そちらに移動をお願いします。
>>91 :エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ
>そうしたことを踏まえて考えてみると、
>ニーチェの思想の中に
>>多様な思想的立場が等価になってしまえば
>という観点があるとはいえないだろうし、
>>自分の解釈も、多くの解釈のうちの
>>ひとつの解釈に過ぎないのだと、いわば開き直り
>をしたとはいえないんじゃないかな。
私が〈開き直り〉と書いたのは、たとえばニーチェ自身の次のような言葉のことです。
「それも一つの解釈に過ぎないのではないか、と君たちは大騒ぎするだろうか?
それならますます結構なことだ。」
一切が力への意志の解釈作用であり、真理は無数にあるとすれば、
そのように真理を相対化することは、当然ニーチェの力への意志説そのものへも跳ね返ってきます。
そこでニーチェは上のように〈開き直る〉。
「ますます結構」だとニーチェが言うのは、それによって、真理は無数にあるという
力への意志の解釈理論がそれによってますます有力な説であることになるからでしょう。
こうしてニーチェは「真」と「偽」の対立は本質的なものではないとして、
「真理ではなく嘘こそが神的なのではないのか」と言う。
そして前に書いたように、「真」「偽」に替えて、「強」「弱」という基準を持ち込む。
>>89 :エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ
>善悪という判断をくだす道徳的基準という土俵を一枚めくって
>優劣の判断をする《力への意志》を見出したわけだね。
私が書いていることのポイントは、「優劣の判断をする《力への意志》」そのものの中に、
優劣(強弱)の差異があるというところにあります。
力への意志そのものに強弱があると言って語弊があるとすれば、力への意志は
様々な現れ方をするということです。
そして力への意志が本来的な現れ方をせずに、屈折した現れ方(ルサンチマンなど)をする者を
ニーチェは「弱者」「病者」「退廃的な者」などと呼ぶ。
従来のキリスト教的な価値をニーチェが批判できる根拠は、それらの価値がこのような
「弱さ」によって求められた価値であるというところにあります。
弱者は自らの支えとなる確固たるもの(「真理」)を必要とするということです。
ですからニーチェにおいては、真理の複数化に際して、「真偽」に替えて、
「強弱」(優劣)という新たな基準があるから、ニーチェは自らの思想を、
「真」なる思想としてではないけれども、「強さ」に基づく優れた思想として
積極的に主張することができるのだと思います。
>>125 >賢者は「おのれが無知だという事を知っている」のでよく質問をし
>愚者は「何も知らないのに何かを知っている」と信じて聞くことをしない
賢者は愚者に問いかけるのは愚者が己の無知に気付かせる為に行うことです。
愚者が賢者に問いかけるのは己に賢者の智を与えて貰う為の行為です。
賢者が無知で愚者に物事を尋ねるならば、その賢者は本物では有りません。
>時間のたつ毎に両者の知性は天と地、黄金と糞ほどに開いてゆく
>ドットはどっちか・・だと? あれ以上の糞はこの世にいないw
智恵を敵視するのは昔から無知蒙昧者達の因習で今に始まったことでは有りません。
智恵を糞だと思うなら貴方達の訪ねることは全て智恵が解き明かしますので皆さんは糞を求めて生きているのです。
そして糞と言う智恵を否定しながら糞に群がる無知蒙昧な銀バエに己の姿を変えてね。
これはWiKiが日本哲学の瀕死の現状を指し示しているものです。貴方達のことです。
日本の哲学への批判
自然科学以外の日本の学問は、単なる翻訳ものと揶揄されることもいささかあるが、
そのもっとも顕著な分野が哲学であるといえる。
日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、
単に哲学知識を持つだけの学者を哲学者と定義する傾向にあるのが事実である。
貴方達は哲学板で日本哲学を卑しめているに過ぎません。
ドットコムさんは現代のソクラテスだ。
>>125 >心の仕組みドットコム、という専用スレが立てられてますので、
>ドットコムさん、および関心がある人は、そちらに移動をお願いします。
私に心遣いは無用ですので【哲学板に群がる無知蒙昧者】のスレを立て反哲学徒の銀バエを、そちらのハエ取り紙に集めて下さい。
こっちはもう少し静かに進行したいですね。 誰かが上のほうで書いてましたが、メール欄にsageと入力して まったりといきましょう。
>>131 静かに進行できれば、それが一番ですがメール欄の回数が進行するだけで精神の後退と停滞で宜しいのですか?
正しく物事を考えられない頭で対話を繰り返しても何も産みだせません。
その頭を正しく物事を考えられる頭に切り換えることが哲学の道理にあかるいこと、の意味です。
過去の哲学者の唱えた思想を取り上げて対話を繰り返しても何も産まれませんし人生に不必要なゴミとして頭に蓄積されるだけです。
そのうち、そのゴミの山が腐敗し人の脳を狂わせて仕舞うのです。
尤も哲学を必用とする我々大衆から哲学を奪い取り神棚に祭って仕舞ったのは、この様な哲学書を崇拝する輩です。
貴方は哲学を如何に考えますか?
あははなんでこんな進んでるんだ?週末他にすることないのか?ww
恐るべき遅レスになるが、
>>28 〈「真理」とよばれる隠蔽されたメカニズム〉〈の覆いを取る行為が 「悟り」〉な。わかりにくてすまそ。
おれ自身は
457 名前:考える名無しさん メェル:sage 投稿日:2007/04/18(水) 21:36:27
真理とは検証済みの原理・範例的言表一般を指すのであって
仮定ないし未検証、未発見のものを真理と呼ぶのは間違い。
と考えているがここでは前スレで通例的に使われてきた表現に準じたつもりだ。だから
>『ここからは悟り区域です』という標識はないでしょう。
これには現時点で全面同意。なのだがそれでも「悟り」という不思議な直観体験が存在するのは
体験者の実在を見てもわかる。それではそれは何なのか?が気になるわけだ。
>>32 おお、話はやいですね。お医者さんですか?
統合失調の遺伝因子が存在し、発病率1%が減少しないというのは、
なにかそこに「必要性」が存在しているような気がしてるんですけど、
どう思われますか?ここはやわらかい「対話」スレだから、思いっきり私見を聞きたいんですがww
おれはざっくばらんに言うと統合失調因子は太古から変わらず存在し続けてきたが
人間の「暮らし方」、群れの作り方が変化してきたせいで、
それが社会的には「病い」と認定される場合が出てきた、みたいに考えているんですが。
つまり昔は当たり前にそういう役割(シャーマンとかですね)があったのにそれが無くなったせいで、
それは「病い」になった。実は現代でも必要なはずの因子が、コミュニティの形の変化によって
有用性を失ってしまった、というか、それによってコミュニティ自体もゆがみを被っているはず、
というか。
私はドットコムさんの考え方が良くわかりますし、大筋同意できます。 というより、このような考え方の人がいた事にうれしさを表現します。 しかし、他の人にそれを理解させるのは、言葉を使って説明しても無理だと思います。 何かを伝えようと文字を書いたとしても、相手の脳は期待通りに処理してくれません。 とすると、ドットコムさんの活動の動機に疑問が生まれるのです。
134さんは別にスレを立ててドットさんと会話してください。
要は「悟り」というのは「非日常的意識の体験」であり、
或る特定の「脳内の化学環境」が存在するはずだ。
果たして何かが獲得されているのか、獲得されているとすれば
何故、言表できないのか?
それはそれが何かの「明晰な理解」のような落ち着いたものではなく、
もっと激烈な、「衝撃的な体験」であり、論理的理解ではなく「感覚」であるからでは
ないだろうか?
精神医学が何かを、誰かを「統合失調」と「診断」したとしても
それでは別の誰かが安心するだけであり、当面の問題には何ひとつ寄与してはいない。
人が忘却の歴史の果てに「病い」と診断した「或る因子」。
>>50 『アンチ・オイディプス』はおれも気になる章題の部分しか読んでいないがww
資本主義と分裂症という副題には「時代の問題」を感じるねww
137 :
134 :2007/05/14(月) 13:43:16 0
>>135 私の中にはスレを立てる動機も、ドットコムさんと会話をする理由も見つけられませんでした。
ドットコムさんの考えを見て、衝動的に私の存在表明をしてしまったのだと思います。
結果として、スレの流れを中断する要因になってしまい面目ない。
これにて私はここからは去りますので、スルーでお願いします。
>>134 >何かを伝えようと文字を書いたとしても、相手の脳は期待通りに処理してくれません。
>とすると、ドットコムさんの活動の動機に疑問が生まれるのです。
貴方は貴方自身の思考範囲で決定論を述べています。
人の脳が自分の探しだした理に対して期待通りに動かなければ諦めて哲学を止めろと言っているのですよ。
期待通りに動くか、どうかを決定するのは私が諦めた時か、私の期待通りに人の脳が活動を始めた時に決めることです。
それでも貴方は>ドットコムさんの活動の動機に疑問が生まれるのです。
それでも、この疑問を持ち続けられますか?
もう一度、下記に記したWiKiに付いて考えて下さい。
何事も諦めたら何もできません。
日本の哲学への批判
自然科学以外の日本の学問は、単なる翻訳ものと揶揄されることもいささかあるが、
そのもっとも顕著な分野が哲学であるといえる。
日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、
単に哲学知識を持つだけの学者を哲学者と定義する傾向にあるのが事実である。
139 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 14:06:31 0
長文うざい
140 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 14:12:52 0
ドットは程度の低い、そして心根の腐った引用の仕方がやめられないようだな そのWikiの記述とお前の救世主気取りはまったく関係ない! 別のスレッドがあなたのために作られているようだ。 そこでしっかりと笑われて来い! じゃあ、おみやげだ: Wiki <誇大妄想> 誇大妄想は、現実的な状況から逸脱し、 自己を過剰評価したり、実際には存在しない地位・財産・能力があるように思い込んでいる状態である。
138さんはご自身でご自身が望むテーマでスレを立ててください。
統合失調症例で典型的な傾向のひとつは「全て」を内的論理によって 一部の隙もなく結びつけようとする思考である。 病者には「全て」が明らかな理由のある「必然」であり、 時に病者本人以外には理解不可能な、もの・人の意志・影響・作用・因果が 細かな網の目のようなものを形成し、それぞれの関係を保っている。 これは「悟り」によって「真理」(隠蔽されたメカニズム)が獲得されるという 構造と、あきらかに、関係が、ある。 狂気に対する「全ての」先入観、差別意識、偏見を捨てなければ先には進めないだろう。
>これは「悟り」によって「真理」(隠蔽されたメカニズム)が獲得されるという >構造と、あきらかに、関係が、ある。 病者には「全て」が明らかな理由のある「必然」であり、
なんでドットの専用スレがあるのに、そこに行かないの? 荒しの常習犯?
>>143 そこでもっと深く突っ込まないとなww
やりなおし。
146 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 15:45:01 0
我々が我々の内に秘める狂気に対する「全ての」先入観、差別意識、偏見を捨てなければ先には進めないだろう。 我々と言う病者には「全て」が明らかな理由のある「必然」であり、 とすれば文章が正しく成ります。
おまいは先に進めんなwww
148 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 16:05:27 0
君のバックギアを前進ギアに入れ替えて差し上げただけです。 前に進みたいんじゃないの?
いや、エートルがレスつけてからだなw あと佃煮も何か打つかも知れんwwwwww あとはいつもの通り、わけのわからん奴(ら)とわけのわからん奴(ら)の自演agewww そんなもんさwww
150 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 16:21:20 0
151 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 18:35:43 0
おまえ必死だなw
152 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 18:38:55 0
>>138 で、ドット、何を教えて欲しいんだ?
質問も思い付かんのかw
153 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 19:47:51 0
ドットさんは「バカの壁」を読みましたか? ドットさんの理は、オレにはわかるけど、バカには無理と思う。 そう思いませんか?
ここでドットの話題は禁止だ。ウンコにたかるハエども。
155 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 20:32:53 0
>>128 口惜しさ丸出しだなドットw
おまえの「理」とは、
口惜しさを臆面もなくそこら中に撒き散らす事のようだなw
156 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 20:43:39 0
肯定を重んじるA型は窮屈になると否定する。 否定を重んじるB型は寂しくなると肯定する。
158 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 21:37:26 0
>>156 アホか、こらドットw
ホントのこと言ってるだけやん、悪口ちゃうでw
ホントのこと言われたからって、悪口といっしょにしたらあかん!
きっちり区別せんかい、この北朝鮮のできそこないw
>>153 私はバカの壁は読んでいませんが、人が互いに互いを理解できないときに私は相手をバカと思うのではなくて相手を理解できない
明確な理由が有ることを私は知っているのです。
文字では相手の心を推し量ることができませんが、相手が面と向かい対話を交わす場合は相手の心の奥底を見通して話を致します
ので九分九厘の人からは私の言うことに賛同を得られます。
例え、自我に溺れて世間ではとんでもない奴だと言われる人でも産まれた時からとんでもない人では有りませんね。
つまり、とんでもない奴だと言われる人も育つ段階で育てる者達や世間から、とんでもない要素を受けて仕舞ったのです。
そのことを踏まえて話をすれば必ず相手の心に通じますので、とんでもない良い人に幸転する可能性も有るのです。
人は誰でも無限の可能性を秘めているのですが、その可能性を引きだす機会に巡り会えるのかが、その人の人生を大きく作用します。
160 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 21:58:09 0
>>159 >私は相手をバカと思うのではなくて相手を理解できない
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
わはは、ドットw いつもポイントがずれてんだよオマイは
あのな、他人というのはな、理解しようとつとめなければ分かるもんじゃないのよ
そしてオマイが理解できないのは「相手」じゃなくて「自分」なのよ
でも、オマイって「自分が何を知らないか」すら分からないボケ馬鹿じゃん・・、だろ?
普通、中学生ぐらいになると「自分が何を知ってて何を知らぬか位分かる」モンだぞw
ドット、自分がどんだけドンクサイかそろそろ分かれやw
オマイ以外は全員分かってるんだからさ
161 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 22:03:03 0
>>158 悪意のある意見は、ありのままでも悪口だよ
わたしもドットさんにはいろいろ教えてあげたいのですが、残念ながらドットさんという人は聞く耳を持ってなくて、馬の耳に念仏と言うんでしょうか? 男子は一晩あれば大脱皮して見違えるほどの成長を遂げると言いますが、それもこれも謙虚に自らの非力を認めおのれの知らぬことに耳を傾けるところから始まるわけで この人のような精神病を患ったような態度では、いくら寛容寛大なわたしでも、もう教えてあげようとは思いません。成長の機会を失ったこの人は朽ちてゆくだけですがそれもしょうがないのだと思います。
163 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 22:17:13 0
>>161 悪口の「悪」とはどういう意味でしょうか賢者さんw
ほんとは善悪が何かすら分からずに振り回してるでしょその「悪」という言葉?
違うというなら説明してごらんw
アール・ブリュットという人らがいるらしい。 教養という教養に唾を吐き、忘我、自分の名前さえ知らない者、低脳を英雄と讃える。 現在まで賢人達がハゲて毛穴から血が噴き出す思いで築き上げてきた文明という基盤、 その基盤にどっかり座り「いい天気だね」などと口笛を吹いているような我々の頭上に暗雲をもたらし あっという間に基盤を、上辺の直径5センチ程の切り立った、殺伐とした崖になるまで吹き苛んでしまう、いやしまおう、 というのがポリシー。
そんな所に立たされると俺は恐怖と猜疑心でヌルヌルになってしまう。 気がつくとロマンスグレーの小粋な悪魔が耳元で小話を次から次と囁き、 笑わなければ俺自身の恥ずかしい想い出を引き出しては自分だけ大笑いする。 いつ止むとも知れない怒号と嵐の中、驚異的な孤独の中、ぴったりと悪魔に寄り添われる恐怖 ふと深淵を覗けば科学と呼ばれていたはずの何がしかがバケモノとなり、 待機中とばかりにグロテスクな大口を開けている。下はどこもバケモノだらけだ。 立っているのも体力の限界だが、このくすぐり悪魔の小話がキモい。キモいのに何だか笑えてくる そして笑う。不覚にも笑ってしまう。 くけけけけ すると突然光明に照らし出される。 この光明は狂気の光なのかも知れないが、とにかくありがたい。 なぜなら
舞い狂う光、その狂気のるつぼから、 知的産物の影響を全く受けない高邁な精神が生まれる事もあるからだ それは悟りの境地と呼ばれるものかも知れない 狂気は本来、絆を断ち記憶をシャッフルし、他の何者からの影響も支配もはねのけるために巧みに想定された 様々な策を授けてくれる。しかし 狂気の定義づけが非常に曖昧である。一体何処からが狂気なのか。
167 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 22:45:09 0
>>164-166 オマイも北朝鮮かw
低脳のオマイのカキコに内容が無いのは仕方がないとして
せめて何を言いたいのか分かるように書けやコラ
で、もう1回日本語学校に通え!
沈黙を知らぬ者は言葉を知らず。
心の仕組みドットコムがここから出て行かないなら 別のスレッドを立てるしかないかな。。。
名無しが糞レスすればする程 2ちゃん的に「いい雰囲気になる」。 ねらーは我知らずとも、この掲示板全体がアール・ブリュットに属する。 健全で剛気な暗雲である!
ああそうだ! 俺はガンでエイズでライ病で糖質で血栓だらけでチョンで部落で194でドットコムなんだ! なんてゴージャスなてんこ盛りじゃなんだぜ!
172 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 23:14:28 0
>>160 そのような人を、「とんでもない、まぬけ」と言います。
触らないように。
173 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 23:15:02 0
>>159 知ったつもりになってしまっているが故に
それ以上のことを知ることができないでいるのがバカの壁なんですよ。
あなたの言うことを理屈で理解してしまってる人達は、
あなたの言いたいことまで到達しませんよ。
174 :
考える名無しさん :2007/05/14(月) 23:28:55 0
トンマドットコムはスレ違いです。 彼が言う「狸」を悟っても、哲学とは無関係なのは明らかでしょう。
>>142 >狂気に対する「全ての」先入観、差別意識、偏見を捨てなければ先には進めないだろう。
宛てに
>>164-166 をして
前進へのきっかけをとって付けてみました
176 :
112 :2007/05/15(火) 00:29:08 0
>>116 これはいわゆるスタンスですよ。
理を語るならば、一番先にはっきりさせる物です。
どこの政治家や思想家だってそうです。
一番最初に、これをはっきりさせる。
要するに、神を信じるかどうかって事です。
米国なんかでは、無神論者は相手にもされないそうですけど。
でもそんなプラットフォーム的な事はどうでもいいですね。
ここが日本であれ、アメリカであれ、理を語る上で最初にはっきりさせる事なのですから。
対話する上で大変重要な事です。
これを言えないなら、対話になりませんね。
主張する上で、その主張に対して疑問が湧くのは当然ですから。
その疑問に答えるのが筋って物でしょう。
その返答内容によって、あなたの主張を聞くか聞かないかを選ぶ権利が、こちらにはあるのです。
だから、どちらなのですか?
お答え下さい。
ちょっと立ち寄ったんだけれど、
おやおや、なんでこんなに賑やかになってるのだろう???
前541氏が書き始めたのは5/10(木)の
>>20 で、
スレが立った5/05(土) から5/09(水)までは、
5日間でレス数はわずか19だったのにね(微笑
ではまた。
「神を信じるかどうか」が重要情報かどうかは 時と場合によるよ。
179 :
112 :2007/05/15(火) 00:50:40 0
>>178 今が必要な時ですね。
わたしが質問しているんですから。
そもそも、日本人は神の存在証明や不在証明に対して、考えると言う事をしませんから。
だからガキなんです。
本当は一番必要な事なのに、考えようとしない。
基本的な事を考えられないから、自分のスタンスでさえあやふやなんです。日本人は。
基本がはっきりしていない人間の言う事なんか聞けません。
同じ事の繰り返しになりますから。
バカな日本人のままですから。
179はアホな外国人のようですね?
181 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 01:28:09 0
>>180 アホな外人でもいいんだけど、日本人です。
日本人の大半はガキだと認識している日本人です。
え、利口なの?
そう思う?
アメリカのいいなりになって、主張性の無い国のどこがお利口さんなんですか。
国際的な外交の場で、国民性は一番良く出ますから。
孤立を恐れて他の国のいいなりになってるのが日本ですよ。
そこにはなんの主張もない。
上手く会わせようとするだけ。
主体性がないって事です。
つまり、スタンスですよ。
そんな国民性は、個人にも広まってますよね。
国民は、無意識に国政と同じ動きをしますから。
そして、変動を嫌う。
バカでガキな事をしてるんだから、変えなきゃならないのに、それを指摘すると逆上する。あなたみたいに。
そーいうのが良くない。
日本人はヒキコモリでガキでバカなんです。
変化を嫌って周りに媚びへつらうんです。
だんだん誇りが無くなってるのに気付かないで。
>>181 は日本語が下手で、ヒキコモリでガキでバカなんですか?
183 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 01:52:40 0
>>182 だから神を信じると発言している181=112を相手にしてはいけない。
神を疑うのが哲学の基本だろw
神など112の妄想にしかすぎない。そんなものは無いw
184 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 02:04:44 0
>>182 わたしもそうかもしれないですね。
でも、直そうとしてる分だけあなたよりマシです。
>>183 神を疑うですか。
それが基本?
論理性の無いところにいきなり基本ですか。
なんで疑うのが基本なの?
て言うか、あなたよく哲学板で「w」付けて、あんまり内容の無い煽りばっかりしてる人ですよね。
たまに見る他の人にかぶった。
最終的には言い返せなくなって、静かになる。
なんかそんな感じ。
185 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 05:40:01 0
もう100年も前に、神は死んだのでは。 貴方は昔の本を読んで、感化されたのだと思います。 「神の存在」などパズルとしては面白いですから。 この病気にかかると半年ぐらいは直りませんよ。
186 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 05:51:05 O
>>185 そう、本を読んだ。
そんなに昔の本じゃないけど。
あなたに意見をぶつけてもいいけど、それはわたしのしたい事じゃない。
ドットコムさんの意見を聞きたいから。
でもね、病気と決めつけるのは早いですよ。
なぜなら、あなたたちの認識による社会構成の方が病的だから。
>>136 :前541
>要は「悟り」というのは「非日常的意識の体験」であり、
>或る特定の「脳内の化学環境」が存在するはずだ。
>果たして何かが獲得されているのか、獲得されているとすれば
>何故、言表できないのか?
>それはそれが何かの「明晰な理解」のような落ち着いたものではなく、
>もっと激烈な、「衝撃的な体験」であり、論理的理解ではなく「感覚」であるからでは
>ないだろうか?
きっかけとして「衝撃的な体験」があるのかもしれないけれど、
どちらかといえば、私は悟りは「明晰な理解」の方に近いと思う。
そう思う理由は、仏教の悟りについて書かれた本を読んでいると、
悟りとは程遠い浅い理解で書かれているように思われるものもあるけれど、
中には「明晰な理解」によって書かれたものもあり(私は西谷啓治が
すばらしいと思う)、その「理解」の差をとても感じるからです。
とはいっても、他人の悟りについての「明晰な理解」がそのまま自分の「悟り」
であるわけではないと思います。
悟りは〈行為〉であるとあなたが書いているように、それが行為である限り、
それは個々の実存と密接に結びついているはずです。
つまり釈尊の悟りがあり、竜樹の悟りがあり、道元の悟りがあり・・
それらに共通する普遍的側面もあるだろうけれど(その側面はある程度伝達可能)、
伝達不可能な実存的側面もあり、たとえば道元の悟りには、道元においてしか
現れ得ない部分があると思います。
これを真理の単数・複数ということに絡めて言えば、普遍的側面の方に視線を向ければ
唯一の真理が、実存的側面に目を向ければ複数の真理が見えてくるのではないかと思う。
そして矛盾するように見えるその両面を同時に見る行為が仏教の悟りなのではないかと思います。
しかし伝達可能な部分であっても、悟りの内容を理解するのは難しい。 難しい理由の一つには、上に書いたような二つの側面を「同時に」見るということの 難しさがあるのではないかと思う。 ある視点から見ればこうであり、別の視点から見ればこうである・・という風に、 視点を変えて見ることはできるけれども、その二つの視点から「同時に」見るという 頭の働かせ方を、我々は普段はしていないのだと思う。 だから「色即是空」「一即多」といった仏教的真理を理解するのは難しい。
189 :
名無しの権兵衛 :2007/05/15(火) 11:12:13 0
悟りと悟るとは根源的に共通しますが、その捉え方に大きな差が有ります。 仏教の悟りを開いた、との悟りとは 悟り=理解すること・知ること・気付くこと・感づくこと・察知・ を指しますが悟るとは 悟る=つまびらかに知る・物事の道理を明らかに知る・ と言うことで悟ると言う言葉に曖昧さが含まれていません。 哲学と言う呼び名は啓蒙家の西周(にしあまね)氏が誤訳した言葉で命名親の本人が哲学の哲は道理にあかるいこと、を指すとしたのです。 ですから西周氏が本人が関わって作製した広辞苑では西周氏本人の言葉を使えますが他の辞書では言い回しを変えないと使えません。 つまり、哲学は道理にあかるいことを希求する「悟る」と言う物事の道理を明らかに知る、と同じで仏教の「悟り」とは全く同一とは言えません。 しかし「悟る」とは如何に、と尋ねられると「人として正しい心の在り方を会得すること」です、とお答えするのが今は精一杯で悟ること で得られる感覚ですので、覚えることを知ることを勘違い為さっている方には理解する術ベが無いのです。 以上が悟ると悟りの見解です。
>>186 >ドットコムさんの意見を聞きたいから。
貴方の僅かな書き込みで、その内容がしっかりしてることが伺い知れます。
貴方が
>>112 の方でしたら良ければ、私としては貴方の意見を先にお伺いしたいと思います。
何故かと申しますと先に申し上げた通りに貴方を傷つけるようなことに成ると大変だからです。
貴方の話の内容を見てから、それに合わせた適切な方法を取りますが私は理に反する譲歩と言う
言葉は持ち合わせが有りませんので御安心ください。
この場では宜しくないとお考えでしたら私のHPに質問箱が有りますので、それでも結構です。
190さんは別のスレッドをご自身でおたてくださいね。
>>164 なんだ医者じゃないのかww
まずアール・ブリュットという言葉に対する誤解を解こう。
これはフランス語で、通常「生の芸術」と訳される。
厳密なところは各自調べて欲しいがおれが知る限り音楽分野でまず使われた。
正統な音楽教育を受けていない人々による「一風変わった音楽」のジャンルを意味し、
音楽家は路上、あるいは暮らしている地域で限定的な注目を集めた人々である。
フランスではアール・ブリュットの音楽祭、コンピのCDなどがある。
アール・ブリュットの音楽家の多くが「偏屈なお変わり者」で逝っちゃってる場合が多く、
暗に知的障害、あるいは心の病を持った人々と理解される場合もあったようだ。
後にこの語は絵画領域を含み、「知的障害者の絵画」という面を前面に打ち出して、
「市場」に乗り出すことになる。この背景にはニューヨークを拠点としていた
現代美術市場の極端な冷え込みがあげられる。
これ以降「アール・ブリュット」は養護施設で暮らす人々の描く絵とそれを
過剰評価することに何の疑問も持たない人々によって支えられ、独自のシステムを
形成することとなった。
というわけだwwwおれの言いたいことはまったく違う。
それにしても
>>165 ,166はおもしろいwww
たとえそれが「狂気」に対する根深い偏見=不安をどうしてもぬぐえない自己を
自分が思うよりも深く、あからさまに露呈しているとしても。ww
>狂気の定義づけが非常に曖昧である。一体何処からが狂気なのか。
「狂気」と呼ぶだけで、そこに純粋な社会的境界線が引かれ、
「自分の側」を安全地帯として示すだろう。すでに間違っている。
まず単純に「ドーパミン量」として考えてみてはどうだろう?
それは量であるからには個体ごとに漸進的な差が認められるはずだ。
つまり境界線を想定する必要からは回避できるだろう。
その体質、血統を守るために人類がしてきたことを確認するのには
さほど手間はかからないだろう。シャーマン、巫女の家系、
素質、体質を受け継ぐ者に対する厳格な規律、修行。
我々は知っていた。都市が巨大化する過程で、忘れてしまっただけなのだ。
>>191 このスレで私に問いかけられていられるのに何故、私が別のスレを立てるのですか?
私が書き込んだら何か貴方に不味い訳が有るのでしたらハッキリとお聞かせください。
例えば哲学板は無知蒙昧者の結論をだせない同士が永遠と対話をする為に集う場所だから
真実を此処で語って貰うのは困る、と言うのは皆さんの精神の向上を妨げることを意と
するものですから駄目ですよ。
それや、自分の意見の荒が暴露して仕舞うから私がいては都合が悪い、何て話も駄目ですよ。
理に叶う正統な理由を指し占め示せ、と言ってもできませんでしょうから、とにかく私が
納得の行く言葉で御自分の気持ちを私に伝えて下さい。
陰湿な支配社会を維持する為に本物の正義を唱える者が現れた時には、
それを排除するシステムも勿論、哲学板2chも例外は無いことも知っていますので安心して
話して戴いても結構ですよ。
195 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 12:47:37 0
ドット先生は、バカに優しすぎる。 バカは相手にせずに無視がいいよ。
196 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 13:18:04 O
>>190 ここで結構です。
傷つけられても構いませんわ。
あなたの理はとてもすばらしい物だと思いますが、一つひっかかる物があります。
それは、神の存在の否定です。
それが合理に叶う物でしたら受け入れます。
神はいるのですか?
魂は?
来世は?
どうなのですか?
197 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 13:28:54 0
循環論法に陥っているだけのモウロク爺さんの相手をしてるんだから、 みんなのほうが優しすぎる 我こそは愚妹な民に光を指し示す知者である、という幼稚な誇大妄想・・・ ドットコムよ、俺はお前を現実に知っているが、家族が泣いてるぞ
194さん、ですから貴方ご自身がスレをたてれは、 貴方に光が集まり、貴方の説を中心にして 素晴らしいスレが実現するだろうと考えらるからですよ そうすれば貴方に関心をもつ人も、何の邪魔もされずに 心おきなく貴方とお話出来るからですよ
196さんはサイトの質問箱で書かれたほうがいいですよ
>>196 私の先にお伺いしたいと思う気持ちを、どうぞ察して下さい。
貴方は傷ついても構わない、と仰いますが私のミスで他人を傷つければ私は一生後悔をします。
>>197 私が半月かけても庭の草刈りが全部できないで昨日、汗をかいて道路側の草をやっと済ましたことも知っているの?
知っていいるのなら寄ってお茶でも飲んで草刈りを手伝って下されば良かったのにね。
いつもは人を二、三人頼んで三日くらいで綺麗に成るんですが自分でやると大変ですね。
今度、そばに来たら必ず寄って下さいね。
>>198 心の仕組みドットコムで誰かが作られたスレは有りますよ。
ですが範囲が広い方が先を見込める有能な人もいて楽しいですね。
悪口を言われる方も、それなりの過去をお持ちですので、それを思いますと私の対処如何で人類社会に有用な
素晴らしい人材に変わるかも知れないのです。
昔から良く言いますでしよ。
憎まれっ子、世に憚ると。
私は本当の意味で世に憚る人に成って戴きたいのです。
201 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 14:42:46 O
>>200 神はいる。
魂はある。
来世もある。
そう考えてます。
202 :
前541 :2007/05/15(火) 15:08:26 0
さすがにうんざりだなwww
203 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 15:57:08 0
ドットさんは、「(人間の持つ)優れた者に対する妬み」の怖さを少々甘く見ているのでは。 ソクラススもそれで死に追いやられたのですよ。
204 :
前541 :2007/05/15(火) 16:16:41 0
おっとレスくれてたか、最近このスレ読みにくくてなw
見落としてた。すまん。ありがと。
>>187 おれは仏教詳しくなくて、その方面で突っ込んでくれると勉強になるよ。
>どちらかといえば、私は悟りは「明晰な理解」の方に近いと思う。
おれもそれでなくちゃ困ると思ってはいる。しかしならば言表可能なはずじゃないか?
>悟りとは程遠い浅い理解で書かれているように思われるものもあるけれど、
>中には「明晰な理解」によって書かれたものもあり(私は西谷啓治が
>すばらしいと思う)、その「理解」の差をとても感じるからです。
ここらへん、おまいの言葉でもう少し詳しく書いてくれないか?
その「浅い」と「明晰」の差は具体的にどんなポイントで感じるんだ?
それから西谷啓治を1冊勧めてくれないか、読んでみようとおもうんだが。
>>201 私は哲学を探究する過程に於いて宗教に関することも原始の時代まで遡り、思索を念入りに繰り返しました。
世界のあらゆる宗教を対象に研究をするT大の宗教学科を卒業し、その後、教授と成られ引退して海外で文化活動をしている方に合い、
自分の思索が正しいのかを、とことん調べました。
貴方の質問で
>>196 の
それが合理に叶う物でしたら受け入れます。
は、ハイと答ますが、次の質問では貴方の信じる理に叶う言葉が何も含まれていません。
できましたら、何故かを書き込んで戴ければ私もお答えしやすく成ります。
私も当然、理に叶う答を致しますので、後の互いの誤解を防ぐ手立てと成ります。
>>203 通人が持つ嫉妬心は恐るるに足りませんが、一番の問題は欲望の奥底に潜み姿を隠しているつもりの者達です。
ソクラテス以上に物事の理を悟り、どんな事でも力を使わず智恵で解決する者達が千人、万人と増殖を始め支配意識の全くない、
その者達に大衆の意識が流れ始めたら誰に食い止めることができるでしょうか?
一昔前に今の携帯電話の話をしたら誇大妄想と笑われたでしょう。
それから世界はグローバル化の波に洗われ、情報関係も一昔前では1年のスピードが今は一日で世界中を駆け巡ります。
それも時代的に起こる人の心の自然の現象と言う法則の内の一つです。
続き
>悟りは〈行為〉であるとあなたが書いているように、それが行為である限り、
>それは個々の実存と密接に結びついているはずです。
>つまり釈尊の悟りがあり、竜樹の悟りがあり、道元の悟りがあり・・
それは「唯一の真理」隠蔽されたメカニズムの「解釈のバリエーション」なのか?
おれは実存と密接に結びついている個々の言表しか存在しえないと思っている。
「唯一の真理」というのは神と同じく、真に超越的な概念で
外見は立派に見えるが、中にはなにも入ってないんじゃないか?
>>188 ちょっと抽象的すぎるが、おもしろい。しかし「同時」である必要性はあるのかい?
それは絶対ムリな気がする。
色即是空と一即多は「真理」だよな。おれの理解は「浅い」かも知れないがww
207 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 16:57:06 O
ドットは自分でスレを立てる気はないようだし、 なぜかこのスレに居座りたいみたいだから 前541や佃煮やエーテルとかみんなで引越しようか。 スレタイは何がいいかな
208 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 17:06:33 0
>>207 考えられぬ頭でも考えられるスレタイにしたら一番、合うよ。
じゃあね。バイビー
209 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 17:51:31 O
ドット矛盾しすぎww
210 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 18:36:40 0
>なぜかこのスレに居座りたいみたいだから 対話の姿勢があまり感じられないのに、不思議だね。
211 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 18:51:09 O
しかも前541とかエーテルとかが書き込みを始めた途端 ドット(たち)もこのスレに居座りだしてるからなあw ルサンチマンだな まあたいていの人はもう正体とカラクリをみやぶってるっぽいし
212 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 18:53:20 0
知らないくせに教えたがりのドット 笑われてるのに教えてるつもりが微笑ましいドット
キャッチボールで、 投げられたボールに文句をつけて投げ返さない。 ボールではなくグローブを返す。 そんな言葉がぴったりですね。
たぶん「客観的視点の病的欠如」のなせるわざ、それがドットワールド♪ 日本人拉致は「解決済み」と宣言するのが「理」であると信じて疑わないドット 統一協会の入信暦を明かさぬのが「理」の基本と考える・・華麗なるドットワールドw そいつが何を血迷ったか・・・「理とは何か」・・・をのたまい出した、わはは! にっくき日帝の野郎ドモを手当たり次第卒倒させちまおうって深謀遠慮か・・がはは !!
215 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:14:27 0
遠謀深慮だろ
216 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:20:13 0
217 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:26:24 0
ちゃうよ、どっちでもよかったのか。
218 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:27:18 0
ソクラテスに対しても、雑魚のようなのが「ああだ。こうだ。」と言っていたに違いない。 と思って、「ソクラテスの弁明」をもう一度読んでみよう。
219 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:29:48 0
>>218 ソクラテスなんて馬鹿じゃん
ま、馬鹿で人気の坂田とかいるにはいるがw
220 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:42:51 0
221 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:48:40 0
深謀遠慮=遠謀深慮ね。
222 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 19:56:16 O
で、引越先のスレタイどうするかな
223 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 20:00:20 0
>>214 おまえの「流れ」と同じようなもんじゃん。
224 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 21:32:31 0
>>223 なんだおまえんちの近所じゃ客観を極めることを「流れ」と呼ぶのかw
225 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 21:37:06 0
226 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 21:52:48 0
>>214 遠謀深慮と深謀遠慮の意味合いは変わらないけど、言葉のゴロでも遠謀深慮の方が一般的でお奨めですね。
深謀遠慮だと、辛抱して遠慮している見たいですよね。
228 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 22:06:04 0
>>224 おまえの使う「流れ」と同じようなもんだよ
229 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 22:09:46 0
>>227 同でもいいような事に突っ込んで来るぐらいしかないのかオマイはw
つくづく使えねヤローだな、、ったく♪
230 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 22:26:59 0
>>229 おまえの非道さと自己愛はヒットラーにも負けてねーよ。すげぇすげぇ。
>>229 君子、危うきに近寄らず、で突っ込んだら危ないでしよ。
普通に使いやすい方をお奨めしたのですよ。
オマイはw とかヤローだな、、ったく♪ 何て汚い言葉使いは哲学板なんですから止めましょうよ。
貴方は御自分の言葉に恥ずかしさを感じませんか?
232 :
考える名無しさん :2007/05/15(火) 23:10:00 0
>>231 カタチに囚われているうちは
いつまで経っても
蒙昧からは抜け出せんぞタコw
顔洗って出直せこら
233 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 00:03:32 O
ドットさん、質問。それらがなぜ汚い言葉なんですか?なぜやめないといけないんですか?なぜ哲学板であるのだからとなるのですか?そしてなぜこれらに恥じを感じるのですか?教えてドットさん
234 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 00:07:15 0
>>233 何故わからない?自分の頭で考えて。常識と言うことを知っているかな?
235 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 04:36:22 0
>>233 もっと素直になりなさい。
「ドットさんにダダをこねて、オシリをペンペンして貰いたい」
でしょ。
236 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 06:11:57 0
「理」=「神」 なんだよ。 「理」と言えば哲学。「神」と言えば宗教。
237 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 08:18:26 O
じゃあ常識にかなってることを貴方はその通りの行動と発言を無意識のなかで毎日の生活習慣を行っているのですか?常識つまり一般。貴方が一般的な人間であるのならここにはいない
>>192 残念だったなw
おれの164あたりでの書き込みはほとんどジャン・デュビュッフェの文からの抜粋だ!
抜粋にドストエフスキーの文を適当にまぶしただけ
とって付けたっつったのはそういう意味
おほほほほほ
でもこうやって人が残したのものを一旦バラバラにして再構成すると、
すばやく還元されて自分の血肉となってくれる。
人間が神の席を奪ってしまった今、
俺たちは後悔に涙涎脂汗しながらも、矮小な個としての限界を破る試みを繰り返す義務があるのだ
>>233 貴方に大切な心の仕組みを伝えますのでしっかり聞いて絶対に覚えて下さい。
一人の人の心の中には二つの心が有ります。その心の名称をとと付けておきます。
の心は人の潜在知能を育て素晴らしい智恵を産みだし、その智恵が人や人類の抱え問題まで全て適切に決し望むもの全てを与えます。
の心はの心の全く反対の作用が有り、人の知能の発育を妨げ知能を潜在させる為に人が一切、知能を使えなく成ります。
の心は誰もが産まれ付き持ち備えている知能を育られるシステムに封印をして仕舞う、と言うことです。
の心はの心の持つ知能が無いので智恵を産みだせず生きる為に欲望に頼り欲望が枝葉を伸ばし数々の自我に成長し生涯、自我を抱えて生き終わります。
哲学は道理にあかるいことの哲を希求すると言う学を合わせの心を会得し活用するためのものです。
の心では知能が育た何も知らず、何を伝えても理解は一切できない何も知ることのできない無知蒙昧ですから私の言葉はとの狭間にいるの人にしか届きません。
の心はをだと思い込み人生で常にへへと潜り込みつつも自分ではにに向かっている気に成っているのです。
誰もががだと思い込んでいますので、まさかがなのにに有るなんてバカを休み休み言えと人類社会は、まさに落語の世界に成っているのです。
人は一度、に心を移すとの心が全て見下ろせますので、無知蒙昧な滑稽でアホ臭いには戻りませんがからに心を移すことは簡単にできるのです。
の心からの心に移す唯一の方法は誰もが持っている良心を自分で引きだして磨きを掛けることです。
つまり汚い言葉を使うと自分で自分の良心を遠ざけ先程、申した哲学が希求する反対の道に行きますので哲学板では皆さんの足を引っ張ることに成るのです。
社会で汚い言葉を使えば自分で自分の足を引っ張ると言う妙ちくりん、なことに成りますね。
人が恥を感じるにも良心が必用ですが、常に己の良心を磨きそれに従い世間の常識に拘らず己が磨いた良心が産みだす良識に従いなさい、と言うことです。
そして、世界の全ては隅々までもの心に支配され、人はその中で生涯を終わりますが望むので有れば何時でも自分での心に切り換えられる、と言うことです。
哲学は本当に簡単なのですよ。
240 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 10:36:51 0
>>237 俺の読解力がないのか、意味不明。飛んじゃってない?
>>238 別に「佃煮マニア」でつっぱらなくてもいいじゃんww
せっかくおれと話できてんだからww
デュビュッフェとドストエフスキーとは小賢しいインテリだなwwwww
>でもこうやって人が残したのものを一旦バラバラにして再構成すると、
>すばやく還元されて自分の血肉となってくれる。
まったくだw隅々まで意味が通じている。サンプル&ミックスの妙技だなww
>人間が神の席を奪ってしまった今、
>俺たちは後悔に涙涎脂汗しながらも、矮小な個としての限界を破る試みを繰り返す義務があるのだ
古臭い「劇場」の虜じゃねえかww
汗じみたドーランを落として顔洗ってこいやwww
>>236 >「理」=「神」
>なんだよ。
>「理」と言えば哲学。「神」と言えば宗教。
理は蒙昧者に取っては絶対に逆らえぬ為に、とかく敵対されるものですが敢えて伝えますね。
特に触らぬ神に祟りなし、と言う諺の通りに神の真実を明かすと益々、理に敵対する者達を増やして仕舞います。
ですから、やっぱり話すのは止めますがヒントだけにします。
理はことわりで宗教の裏打ちはことわけです。あとは考えて下さい。
243 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 11:59:15 0
244 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 12:37:47 O
ドットコムのほうが理解できないと思うのは俺だけか
245 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 12:44:04 0
246 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 12:51:26 O
ドットコム、これは素直な質問です。今までは攻撃的だったが、今回は決して攻撃してるわけではない。毎回貴方を見ると思うのだが、なぜ自分が正しいと言えるのですか?貴方は断言するし、押し付ける、なぜです?
エサはあげないほうがいいよ。荒らしはスルーが鉄則だよ。
248 :
244 :2007/05/16(水) 13:00:52 O
何を?
249 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 13:04:41 0
250 :
244 :2007/05/16(水) 13:21:53 O
一般的な生活を一般的に過ごしているか?って事なんじゃね。一般的なやつは哲学をしない。ってことか?たぶん
>>204 :前541
>>どちらかといえば、私は悟りは「明晰な理解」の方に近いと思う。
>おれもそれでなくちゃ困ると思ってはいる。しかしならば言表可能なはずじゃないか?
言表可能でもあり、言表不可能でもある。
自分が明晰に理解しているとしても、その内容をそのまま他人に伝達できるわけではないので。
これは悟りに限らずなんでもそうだと思う。
伝達しようとしている特定の心の状態や思想内容が、相手にとって未知のものである場合には
伝達することはなおさら難しくなる。
>その「浅い」と「明晰」の差は具体的にどんなポイントで感じるんだ?
それは説明するのが難しいが、たとえば難解な宗教書や哲学書を読む場合に、
大雑把に分けると、自分に分かるところを中心に読む人と、自分にとって
分かりにくいところを中心に読む人がいると思う。
後者のような読み方をすることが、理解を深めて明晰にするための条件だと思う。
西谷啓治を読んでいると、そのような読み方をしている人だと感じる。
>それから西谷啓治を1冊勧めてくれないか、読んでみようとおもうんだが。
『正法眼蔵講話』を今読んでいますが、これは道元に興味がないと
つまらないと思うので、名著といわれる『宗教とは何か』。
>>246 貴方の質問は貴方の心と深い関係が有ります。
下記に記した方法で貴方達の心は作られます。
その性質が元で自分の理解を超えるものには敵対心を持ち否定に走るのですので私が伝える真実を敵と見なして
攻撃し押し付けていると考えるのです。
勿論、物事の理を悟らなければ何事の真実も理解できませんので真実の全てを敵と見なす訳です。
理に叶う真実は断言できる唯一の事柄ですが理は押しつけて与えるものでは有りませんので私は理に叶う方法で
説明するのですが持ち前の敵対心が悪意の含まぬ言葉をも押し付けと感じて仕舞うのでです。
【1】 幼子を育てる者たちが、子供たちが大人社会で生き残るために必要だと思い込み、競争心からはじまる
自我を植え付けてしまう。
【2】 大人社会の自我によって育てられた子供たちは、やがて蒙昧(もうまい)に取り込まれ、その蒙昧
(もうまい)が自己愛に育ち、「心の核」を支配するという連鎖です。
【3】 蒙昧(もうまい)が自己愛に育ち、「心の核」を支配すると産みだされる「心」は、自己保身を
最優先に考える欲望と、その欲望が枝葉をのばし、無数の自我に成長していきます。
【4】 その結果、「人は欲が無ければ生きられない」とか、「信じることは大切だ」などの、
根拠のない思い込みに捕らわれ、自分の自我を次世代に受け渡し、【4】【1】【2】【3】【4】→【4】【1】【2】【3】【4】
→【4】【1】【2】というように、人類は力を崇拝し、理(り/ことわり)に反する蒙昧(もうまい)の受け渡し
を永遠と繰り返してきたのです。
>>206 :前541
>それは「唯一の真理」隠蔽されたメカニズムの「解釈のバリエーション」なのか?
>おれは実存と密接に結びついている個々の言表しか存在しえないと思っている。
>「唯一の真理」というのは神と同じく、真に超越的な概念で
>外見は立派に見えるが、中にはなにも入ってないんじゃないか?
個体としてのそれぞれの自分という存在者を中心に考えればそうなると思うが、
その自分の存在を可能にしている、もっと根源的な力の方に重点をおいてみると、
また違った風にも考えられる。
宗教的なものには、個体としての自分と、より根源的なものとが一体となって
個体としての自分が消え失せてしまうような側面があり、そういうことを考えると、
真理は「一」とも「多」ともいえない感じがする。
そういう場合は、「唯一の真理」と言っても、それは自分の外にあるのではなく、
自分はそれと一体化しているわけなので、「唯一の真理」がこの個体としての
自分を通して現れることによって個性化し複数化するという感じだろうか。
>ちょっと抽象的すぎるが、おもしろい。しかし「同時」である必要性はあるのかい?
>それは絶対ムリな気がする。
色即是空とか多即一とかの「即」は、二つのものが分離できない状態にあることを
表しているから、「同時」であることが必要だと思う。
仏教の修行というのは、我々にとって同時に見ることが難しいことを
同時に見る訓練をしているようなものではないかと思う。
>>246 、、の続きです。
学業やその他のことで勝ち残った者たちは強い虚栄心に捕らわれ、こちらも自己保身に走り、自己愛に己の心を捕らわれてしまいます。
勝ち組もいつ何時、負け組になることやら分からず、双方とも自我を頼りに、真の生き甲斐を得ぬまま生きることになります。
自我が育てる心を、一通り列記しておきますが、この中を巡り巡って、人は生涯を閉じるのです。
競争心、闘争心、虚栄心、思い込み、偽善、憎しみ、恨み、妬み、嫉妬、不安感、恐れ、悔やみ、猜疑心、虚言、信仰、復讐心、運・不運、
悲哀感、支配欲、暴力、依存心、閉心、暴飲・暴食、嫌悪感、責任転化、嫌世感、虚無感、生存放棄・・・。もっと細部に渡れば、
まだまだたくさんありますが、これらのすべては、欲望が産みだす自我が成長して育ってしまう心です。そして、身勝手な自我はストレスを
産みだし、人に犯罪をも犯させ、病気の原因にもなり、世の強い自我には服従し、自分の自我よりも弱い自我の持ち主には、服従を求めます。
自分の自我ですべての正当性を図り、思い込みの自由を主張して、気が付けば、自分の自我で自分を縛り付け、本当の自由を知らずに、
人生の終焉を迎えることになります。自我はいずれも、何らかの欲望を源として育ちますので、その素の自己愛を人間愛に正せば、自然に自我
が姿を現し、自我の仕組みが明確に察知できるようになります
255 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 15:19:54 O
ドットコム、貴方の発言を断言・押し付けと解釈する私に問題があると言うことですか?
255さん、荒らしに反応する人も荒らしですよw。
257 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 15:31:44 0
>>254 自己愛を人間愛に、というお題目はわかったのですが、二人の人間がいれば
いろんな面について、勝つこと、負けることが出てくるわけです。それは、社会的
身分や、収入に直結し、死ぬのも先の話であり、人生経験も少ない若者に利害を無視しろ
と言っても、そうゆう誘惑にはなかなか勝てないのではないでしょうか。
また、別の面から見ますと、わがまま言い放題の人間と対峙して、愛してやれ、と言われても
なかなか難しいのではないでしょうか。
257さん、心の仕組みスレというところがありますのでそちらでお願いしますねw
ドット先生の文章には誠意が溢れている。 皆さんもドット先生を見習いなさい。
260 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 16:22:16 0
は〜い!
261 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 16:48:54 0
スピノザ往復書簡集」を読んでいる。 スピノザはどんな質問にも丁寧に誠実に答え、その姿を敬愛した友人たちが集また。 ドットさんを思い出した。
262 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 16:51:20 O
専用スレでお願いしますねw
>>255 理非で全てが賄われる人類社会で理を望む行為を明確に現しているものは哲学のみです。
しかし人は誰でも自分の心が全て理非で賄われていることを智恵を産みだせぬ理非の性質上、知る由も有りません。
その社会に理を以て物事の事象を判断し真実を唱える者が関わると理非の心の持ち主達は自分達が求め捜す一番大切なことを
伝えられていることに気付けず理に敵対して仕舞うのです。
つまり自分達が哲学を通して求める、そのものを否定すると言う何とも言い難い状況が発生するのです。
哲学の道を歩き、哲学そのものを唱えるとそれを反哲学と捕らえ否定する、と言う理非に叶った現象です。
そして理を唱える真実を疎ましく思い、押し付けと勘違いして自分の理非を守のです。
物事の理を悟らなければ人は他人の心も全て何一つとして理解できないのだ、と言う当然のことも理非の心が強いと受け入れる
ことができないのですね。
それが皆さんが押し付けと思い込む原因です。
私の伝えることは比較的に理非の心が薄い方達ですので、理を真面目に自分のものにするのだ、と考えない人は別にそれで私は
一向に差し支えが有りません。
また、その者達の書き込みを正すことで他の者達の気付きにも繋がると言う効果をもたらすのです。
理は理非に敵対心は有りませんが理非は理に憎悪すら感じ敵意を燃やしますが所詮、100匹たたらずの蟻が象に戦いを挑んでも
象に毛ほどの痛みを感じさせることはできないのだ、と言うことですね。
無知蒙昧な理非の心を持つ者達だけの1000人が1000年間、専門に考えても簡単に開けられる哲学の門を開くこともできません。
>>257 物事の理を悟るのに費用もいらず、ただ知を望む純粋で謙虚な心の持ち主で有れば暇な時の時間を使って物事の理を悟れぬ心を
物事の理を悟れる心に切り換えれば誰でもできることで少し厚い一冊の本を読むより簡単な作業です。
それで理を会得し育てられた知能が、その後、その者が抱える一切の問題とその者が望む一切を得れる智恵を産みだせるのです。
危ない崖の中腹に有る一つの果実を奪い合わず、後ろを振り向けば取りきれない自然の果実がたわわに実っていることに誰でも
気付くのだ、と言うことですね。
264 :
考える名無しさん :2007/05/16(水) 17:52:43 O
ドットコムはそこまでいくのに何年かかったンだぃ?
265 :
バトー :2007/05/16(水) 18:33:06 0
(文体変化も適当になってきたな、あんまROM者をバカにすんじゃねえぞw)
266 :
少佐 :2007/05/16(水) 18:42:10 0
(道化ね(冷笑)
267 :
トグサ :2007/05/16(水) 18:43:13 0
(お年寄りは大事にしなくちゃダメじゃないかっ)
268 :
荒巻 :2007/05/16(水) 18:46:24 0
(落ち着けトグサ、一体彼がどのような長い道筋を経て、いまここ、 この有様に至ったのか。それには学ぶところ大きいかも知れん(感慨無量)
愛で塗りつぶされた世界で人は、人は愛を客観的に認識するか? その世界以外の人間しか愛を認識出来ない。 世界のそこかしこにひんやりとした客観の境地を、悪魔がせっせと泥にまみれて用意してたのになあ 全てが平均化された平板な世界には、コントラストの高い生のダイナミズムがなくなってしまうじゃないか 一人の義人が見いだされ、そして守られるために死んでいく何万人の犠牲がすべてなくなり 事件という事件が消え失せる。何のドラマもないなんて!そりゃ困る退屈じゃないか 退屈に弱い人間は夢想をするしかやる事がなくなる 俺は夢想をすることは好きだが、死ぬまで夢想だけして過ごせと言われたら断る
特製オイルはドット製じゃないと、悟りは開けないよ。
智恵が無ければ問題山積で希望も夢も生き甲斐すら人が持つことは許されません。 希望と夢と生き甲斐は、智恵が人類に与える最後のプレゼント(パンドラの箱)です。 では皆さん、お休みなさい、、
漆黒の闇を一〇〇〇年、サドルが盗まれたチャリをマッハの速度で立ちこぎし続けて二千兆キロ、 しかしその先に扉は必ずある 無い訳があるか だがしかし 予め用意されていた扉が一つも見つからなくとも嘆くに当たらない、 自分で作ればいいじゃないか
>>126-127 78-79氏へ
丁寧なレスをどうもありがとう。
フランクな文体のほうが書きやすいので乞ご容赦。
>私が〈開き直り〉と書いたのは、たとえばニーチェ自身の次のような言葉のことです。
>「それも一つの解釈に過ぎないのではないか、と君たちは大騒ぎするだろうか?
>それならますます結構なことだ。」
なるほど、そういうニーチェの具体的な文脈があったんだね。
>「ますます結構」だとニーチェが言うのは、それによって、真理は無数にあるという
>力への意志の解釈理論がそれによってますます有力な説であることになるからでしょう。
これは当方の「解釈」になるけれども、ニーチェはここで、
想定される批判に対して、前もってアイロニカルにクギを刺してる訳だね。
だから、これを〈開き直り〉と「解釈する」ことには、
ちょっと違和感を感じたのだけれども。
>>126-127 78-79氏へ (つづき)
>私が書いていることのポイントは、「優劣の判断をする《力への意志》」そのものの中に、
>優劣(強弱)の差異があるというところにあります。
>そして力への意志が本来的な現れ方をせずに、屈折した現れ方(ルサンチマンなど)をする者を
>ニーチェは「弱者」「病者」「退廃的な者」などと呼ぶ。
>従来のキリスト教的な価値をニーチェが批判できる根拠は、それらの価値がこのような
>「弱さ」によって求められた価値であるというところにあります。
>弱者は自らの支えとなる確固たるもの(「真理」)を必要とするということです。
>>127 での、こなれたわかりやすい文章で書かれていることには、
ほとんど異論がないし、その通りだと思うね。
>ですからニーチェにおいては、真理の複数化に際して、「真偽」に替えて、
>「強弱」(優劣)という新たな基準があるから、ニーチェは自らの思想を、
>「真」なる思想としてではないけれども、「強さ」に基づく優れた思想として
>積極的に主張することができるのだと思います。
《力への意志》という概念をもってくることによって、
ニーチェは真理を複数化させる地平を開いたわけだね。
真理を複数化することに我慢できない人たちがいたし、
もちろん今でもいるんだろうね。
真理は唯一絶対的なものでなくちゃいけない、という人たちが。
これは「神」という概念についてもいえるんだと思う。
ニーチェの場合、複数化されていたキリスト教以前の神々に対しては、
敵視していなかったし、神々と神とを区別していた。
「神の死」の前に「神々の死」があったとどこかで書いてたね。
「私が唯一絶対だ」という神の登場で、神々は「笑い死んだ」と。
>>133 前541氏へ
>『アンチ・オイディプス』はおれも気になる章題の部分しか読んでいないがww
>資本主義と分裂症という副題には「時代の問題」を感じるねww
まだ途中までしか読んでないけれども、
まあ「これは哲学書じゃない」という意見が出てきて当然の本だね。
もし、ベルクソンやカントについての本や『差異と反復』を出す前に、
『アンチ・オイディプス』を出していたら、もっと叩かれただろうね。
「これは哲学じゃない」という一元化したがる思考に対して
「これも哲学でいいじゃん」という多元化の視点を打ち出したのが、
ニーチェから影響を受けたドゥルーズの思考(ノマド的思考)だね。
ツリー=樹木状の一元化に対する、リゾーム=根茎状の多様化。
>>142 前541氏へ
>統合失調症例で典型的な傾向のひとつは「全て」を内的論理によって
>一部の隙もなく結びつけようとする思考である。
>病者には「全て」が明らかな理由のある「必然」であり、
>時に病者本人以外には理解不可能な もの・人の意志・影響・作用・因果が
>細かな網の目のようなものを形成し、それぞれの関係を保っている。
>これは「悟り」によって「真理」(隠蔽されたメカニズム)が獲得されるという
>構造と、あきらかに、関係が、ある。
これはちょっと改めて考えてみたいところだね。
そのほか、
>>187-188 の78-79氏のレス
>>204 >>206 の前541氏のレス
>>251 >>253 の78-79氏のレス
も面白そうなので、後日このへんは考えてみたいね。
>>273 理の扉を背中に背負い、
漆黒の闇を一〇〇〇年、サドルが盗まれたチャリをマッハの速度で立ちこぎし続けて二千兆キロ、
しかしその先に扉は必ずある
無い訳があるか
だがしかし
予め用意されていた扉が一つも見つからなくとも嘆くに当たらない、
自分で作ればいいじゃないか
と言うけれど、探し求めた扉は何時も貴方が背負っています。
>>278 自分で背負ってるなら素晴らしいじゃないですか。 しかし自演だらけだな 一週間で1000レス目指すスレッドじゃないんだよここはW 動員されてる奴帰れよおおおお あっというまに過去スレになってしまう そうすっとスレまたいでの会話になってしまいそうだが 専ブラなんて買わないよ?俺
統合失調の脳は、外界の刺激に非常に過敏である上に、 右脳と左脳のバイパスにぬかるみが出来てる様な状態なんだそうだ。 ぬかるみに躓いてシナプスが行き着くべきところを間違ってしまい 不的確な部位に働きかけて妄想、幻視や幻聴を生み出すと。 社会常識的にはそれらの妄想、幻覚は邪魔な情報なので一切捨て去ってしまいましょうとなるんだが、 医者的には、その状態であれ不都合が無く、つまり本人の能力が高くうまく処理しているなら 治療の必要すらないという。 妄想が必要な場面もある。 感性や個性的な思考を生業としている人の間では、 よく自己分析がなされ的確に表現された妄想は思想、芸術、宗教とイコールにされ、珍重される。
人が道ばたでタンポポをちぎっては喰い、公園で蛇口に話しかけていれば 説明なしには病気であろう しかしそこに理論的な説明がなされ、時流へのアプローチがデオドラントとして一滴加われば この行為は伝播され、その人は一つの文化の発祥を担える 智は力なのだ 弱者の症状を強者の個性に変えてくれる
知力を武器として競い合わせる必要はない ここで繰り返される批判に次ぐ批判はもと、知を競うためのものなのだろう ただ単に、「ここまで考えました」「そうなんだ!」「僕もそう思う!」というやりとりで済ませる方が 楽なんじゃねえかと思う 「しかし批判は、ひっくりかえして考えれば 発言者の意見に一定の理解を示し、そこに新たなニュアンスを加えようという努力なんである」 ここの隣人達はそういう認識を持っているのか知らないが、競うこと一辺倒では飽きると思うので、 飽きたときにでもこの認識にシフトしてみてほしい 彼のコテのレスも違って見えるかも知れない
>ただ単に、「ここまで考えました」「そうなんだ!」「僕もそう思う!」というやりとりで済ませる方が >楽なんじゃねえかと思う 飲み屋の会話なら無難で、それが一番よいと思いますよ。 しかし昨今の世界情勢を見ても哲学を何時までも蒙昧者同士の話し合いの場とすればこれから先に予測される事象に対処できなく成りますよ。 つまり長い人類史に於いて、その役目を果たせなかった哲学に最後の役目を果たさなければ成らぬ時代が目と鼻の先に迫っています。 近未来に起こりうる蒙昧者達が産みだした地球環境の破壊に伴う未曾有の災害を哲学が食い止めずどうするのですか? それを放置して哲学を酒の摘みに気の合う友と話し合う場にして宜しいのでしょうかね?
>>251 >伝達しようとしている特定の心の状態や思想内容が、相手にとって未知のものである場合には
>伝達することはなおさら難しくなる。
それじゃ原理性や範例性の検証もできないじゃないかww
だけど「色即是空」という4文字の言表に対する膨大な「解釈」の連なりを眺めるだけで、
おまいのいわんとすることも理解は、できる。「解釈」の問題だな。
>それは説明するのが難しいが、たとえば難解な宗教書や哲学書を読む場合に、
>大雑把に分けると、自分に分かるところを中心に読む人と、自分にとって
>分かりにくいところを中心に読む人がいると思う。
>後者のような読み方をすることが、理解を深めて明晰にするための条件だと思う。
それだけ綿密な解釈作業が必要とされる、オリジナルのエクリチュールというのは
いったい何なんだろうなwww「難解」と感じる時点でそこに何か「すごいもの」が
潜んでいることを直観しているのか、あるいは「世間で言う偉い先生が書いている」
からなのか。
>名著といわれる『宗教とは何か』
お、さんきゅ!読んでみるよ。
少なくとも前段階としてそれくらいのフランクさは必要 論文、レポート調にと一定の書式を求められながら自由に意見を述べるには、 ボキャブラリーの豊富な人間には容易だろうが、 例え内部に真理を秘めながらでも語彙の貧困な人間は躊躇せざるを得ない 結局沈黙するしか手段がないだろ 数ある手段の中から沈黙を選ぶのはいい 沈黙は力なりという言葉もある だけど、たどたどしいながらも意見を述べあって、レベルが低いと嘲笑されない雰囲気は 哲学者が探し求める隠された秘密を引き出すのを促してくれると思わない? >283
>>253 「根源」へと向かうベクトルがあり、その途中では「真理」はその範例性を
段階的に「拡げていく」という考え方だな。
それは表意文字による言表に対する解釈の「深化」とも符合しているように感じるな。
>色即是空とか多即一とかの「即」は、二つのものが分離できない状態にあることを
>表しているから、「同時」であることが必要だと思う。
>仏教の修行というのは、我々にとって同時に見ることが難しいことを
>同時に見る訓練をしているようなものではないかと思う。
なるほどそういう意味か。ならわかる。
それにしても後に膨大な解釈が必要となる「エクリチュール」を
一気に獲得せしめる「悟り」という「行為」「直観」は
何によって得られると思う?
あはは「全面」なwwwww
>>287 ごめんよ もうミックスしないよ だますつもりじゃなかったんだけど二つ同時に読んでて、掲示板見たら ちょうど似たような悟りの話をドットと愉快な仲間達がしてたから 復習がてら書いてみたんだよ まあしかしこれを以て一事を万事とできうる真理や悟りは どこにでもあるようでないようで「俺持ってるよ」っつうと 「そんなモンちげーよ」と言われるのでおれはその周辺だけ言ってたいな その前にあいうえおの読み書きお勉強しないといけないんだけど あいうえお♪かきくけこ♪さしすせたちつてなにぬねの♪
291 :
考える名無しさん :2007/05/17(木) 18:48:44 0
292 :
考える名無しさん :2007/05/17(木) 19:36:48 0
割り込み許してくださいな。 哲学的な思索って、いったんはどんどん日常生活から離れて行って、 いわば最遠点まで行くけれど、結局はまた日常生活に戻ってくる。 もちろん出発時とは多少異なった心境になって。 日常生活でふつうにやっていること、何の気なしにやっていること、 ふつうに抱く感情やふつうに選ぶ行動・・・ それらをあらためてやり続けていくことに収束するように思います。 うまく伝わっているかどうか、とにかくそういう感想になった私でした。 なんとなくこのスレに書いてみた。
>>292 日常の生活がもつリアリティは、やっぱり重いよね。
でもよくわかんないや。。。
>>292 日常にフィードバックできない哲学的思考は当方も興味はないね。
かなり迂回するとしても、日常に回帰する思考にしか興味がないなあ。
まずA >それはそれが何かの「明晰な理解」のような落ち着いたものではなく、 >もっと激烈な、「衝撃的な体験」であり、論理的理解ではなく「感覚」であるからでは >ないだろうか? (前541氏) この話を図式化していえば、悟りは、 ロゴス(理性)による「明晰な理解」ではなく、 パトス(感性)による「衝撃的な体験」といえる。 前スレで371氏が書いていた「理」と「野」といってもいいかもしれない。 ニーチェを持ち出せば、「アポロン」と「ディオニュソス」になる。 >どちらかといえば、私は悟りは「明晰な理解」の方に近いと思う。(78-79氏) 哲学的な悟りはロゴス(理性)に基づく「理解」なのだろう。 これは、「1)理性的悟り」。 スピリチュアルの悟りはパトス(感性)に基づく「体験」なのだろう。 これは、「2)感性的悟り」。 では、仏教的な悟りは? 確かにどちらともいえないかもしれない。 とはいえ、 >つまり釈尊の悟りがあり、竜樹の悟りがあり、道元の悟りがあり・・(78-79氏) と書かれていたように「複数の」仏教的な悟りがある。 ひたすら座禅を組むという禅宗の悟りは、「2)感性的悟り」に近いか。 マンダラを唱える密教的な悟りもそうかもしれない。 「色即是空」はロゴス(理性)でもパトス(感性)でもないのかどうか。
次にB >その二つの視点から「同時に」見るという >頭の働かせ方を、我々は普段はしていないのだと思う。 >だから「色即是空」「一即多」といった仏教的真理を理解するのは難しい。(78-79氏) 自問に近い言葉をいくつか。 理解が難しく、言葉にすることも難しい「真理」を どうやったら悟ることができるのだろうか。 修行と呼ばれる「体験」なのか。 悟りの「境地」、とよく言うけれど、 悟りとは、真理という対象を掴むことではなくて、 ある状態に立つこと、ある視点に立つこと、だろうか。 >真理は「一」とも「多」ともいえない感じがする。 >「唯一の真理」がこの個体としての >自分を通して現れることによって個性化し複数化するという感じだろうか。(78-79氏) ここで 「一」と「多」を切断面での見え方としてしまうと、 結局ツリー=樹木状の一元化に向かう危険性が出てくるかもしれない。 あくまで「唯一の真理」が幹で、複数化された現象が枝葉になってしまう。 リゾーム=根茎状の多様化とは異なってしまうわけだね。
ついでに
>「唯一の真理」というのは神と同じく、真に超越的な概念で
>外見は立派に見えるが、中にはなにも入ってないんじゃないか? (前541氏)
ここで、ひとつの邪推。
そこには何もないから、人間はヴェールをかけることによって、
あたかも何か神聖で絶対的なものがそこにあるかのように見せかけた!
悟りと結びついたところの「真理」、
これを前541氏は《隠蔽されたメカニズム》と呼んでいる。
たしかに、この「真理」にはメカニズムと呼べるものがあり、
それは「隠蔽」や「秘密」に関係しているように思えるけれども、
今はこれ以上進むのはやめて口を閉ざしておくことにしよう。
(この謎めいた身振り! まるで真理のメカニズムに倣ったかのような)
>>33 で、佃煮マニア氏が
>真理をやたらと崇高な、手の届かない所に浮かんだヒュージマテリアルだとか言ってるけど、
といい、
>夕方になってやっと散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽにも真理はある。
と書いていた。
犬のしっぽに真理を感じること。これに対して誰かが言った。
犬のしっぽに真理を感じてたら疲れて散歩にも行けない、と。
あたかも、真理を手に入れるには疲れる必要があるかのように。
あたかも、真理はそんなに間単に手に出来るものじゃないかのように。
真理についての暗黙のイメージ、前提、先入見。 〆
>>298 >夕方になってやっと散歩に連れて行ってもらえる犬のしっぽにも真理はある。
私は犬のしっぽ、に真理が有るのではなく犬のしっぽを通じて自分が真理を感ずるのだ、と当たり前なことを言っただけです。
>あたかも、真理はそんなに間単に手に出来るものじゃないかのように。
誤解されると困りますね。
真理は人が物事の理を悟ることで本物の理と言う真理を知ることができますが、私は常々、物事の理を悟るには物事の理を悟れ
ぬ自分の心を物事の理を悟れる心に切り換えれば誰でも簡単にできますよ、とお伝えしていますので難しいと一度も言ったことは有りませんよ。
>>290 なんだよつまんねえなwもっとあばれろよwww
そういう役目じゃなかったのかよwww
>>280 を書き直してやったぞww
芸術分野における天才・超常能力者・シャーマンなどに共通する特定の脳内化学環境においては
幻視、幻聴をともなう飛躍的直観によって「現代におけるいわゆる社会的な常識なるもの」とは
かけ離れた「何か」を獲得する体験が認められる。
>>292-294 迂回して戻ってみれば、無意識的に受け入れられた
「記号化するグリッドを通して見られた単純化され消尽した世界」
とはちょっと違った「ふつうの日常生活」が待ってる、かもなwww
それは現象学だな。
さすがエートル、きれいにまとまたなあw乙。
>>296 >「色即是空」はロゴス(理性)でもパトス(感性)でもないのかどうか。
般若心経は観自在菩薩が舎利子に語るという構造を持ったエクリチュールだ。
つまり超越的存在が人間に語りかけたわけだから、それはパトスに基づく、
と読まれることを作者は望んだわけだろう。普段目にする玄奘訳「小本」には
釈迦は登場しないので何故この超越的存在、観自在菩薩が釈迦の長老弟子、舎利子に
語りかけたのかが分からないが、少し長い「大本」によるとこのエクリチュールの
舞台は王舎城霊鷲山、大勢の弟子達がいる中、釈迦が深い瞑想に入っていた
間のできごとであったらしい、観自在菩薩が舎利子に真言を伝え終わると釈迦は
瞑想を終え、「その通りです」と言ったという。
これは釈迦が「メディア(霊媒・預言者)」として観自在菩薩の言葉を伝えた、
とも読めないだろうか?そうだとすれば、「色即是空」は釈迦のパトスに基づく。
>>297 >ここで 「一」と「多」を切断面での見え方としてしまうと、
>結局ツリー=樹木状の一元化に向かう危険性が出てくるかもしれない。
>あくまで「唯一の真理」が幹で、複数化された現象が枝葉になってしまう。
>リゾーム=根茎状の多様化とは異なってしまうわけだね。
フラクタル図的な、任意の部分の形状が範囲を変えてもその形態が一致する、
という考え方もできるな。
>>298 >そこには何もないから、人間はヴェールをかけることによって、
>あたかも何か神聖で絶対的なものがそこにあるかのように見せかけた!
wwwゆえに或る種の宗教・スピリチュアル系には「詐欺」の臭いが離れないwww
>今はこれ以上進むのはやめて口を閉ざしておくことにしよう。
>(この謎めいた身振り! まるで真理のメカニズムに倣ったかのような)
そこで「沈黙」かよwwwwwww
犬の尻尾に真理は存在しないだろう。
犬の尻尾に導かれて、人の中に真理は生まれるが。
それは犬の尻尾に「真実」が存在するからだ。
人に絶えて久しい「真実」を目にする時、
我々のパトスは真理に気づくのだ。
近くの神より遠くの神って言葉も耳にタコでさあね それよりエートルさんが前スレの事まで引き出してるのでざんげ。 エートルさんに成り済まして自演したのはこの俺です エートルさん呼びをして怒られたのもこの俺です 名前は伏せます 許してくんちょ
>>304 てめえかっ! 勝手に名前を呼んだり騙ったりしたのはっ!
――なんちゃって。ぜんぜん怒ってないよ(笑
被った被害といえば、トリップを付ける手間が増えたぐらいだし。
正直に謝ってくれる人は嫌いじゃないよ。また何か話そう。
(今は時間がないのでワンレスだけ)
>>296 :エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ
>この話を図式化していえば、悟りは、
>ロゴス(理性)による「明晰な理解」ではなく、
>パトス(感性)による「衝撃的な体験」といえる。
>前スレで371氏が書いていた「理」と「野」といってもいいかもしれない。
>ニーチェを持ち出せば、「アポロン」と「ディオニュソス」になる。
理性と感性との対立という観点から見れば、悟りは、理性と感性との統合、
あるいは理性と感性とが対立する以前のところにあるのではないだろうか。
ニーチェの場合は「大いなる理性」としての「身体」において、理性と感性は統合されていると考えられる。
「小さな理性」である自我は、「大いなる理性」である身体に基礎づけられる。
そして精神の三つの変化の最終段階である「子供」の自己は、そのような「身体」である。
そのように理性と感性とが統合されたところに〈真の自己〉があるとすれば、
悟りは、そのような〈真の自己〉となることと同時に成立すると思われる。
三木清という人はロゴスとパトスとを統合しようとした人らしいですが、
三木自身によればその思想は西田幾多郎の「行為的直観」の立場に立つらしい。
その西田幾多郎も、「矛盾的自己同一的に形成的なる所、行為的直観的なる所に、
我々の個人的生命があるのである、真の自己があるのである。」と、〈真の自己〉に言及している。
そして西田幾多郎はその自己を、ニーチェと同じく身体的なものと考えたようだ。
「我々の身体というものは歴史的に作られたものである、何処までも決定せられたものである。
しかしまた作るものである。作られたものと作るものとの矛盾的自己同一である。そこに我々の
自己というものがあるのである」(西田幾多郎『行為的直観』)。
(「形成」「行為」「作る」という身体的自己の創造的働きに注目しているところもニーチェに似ている。)
「我は、我ならずして、我なり」という西田幾多郎のこの「矛盾的自己同一」は、たぶん道元の「身心脱落」の 影響を受けている。 「仏道をならふといふは自己をならふなり、自己をならふといふは自己をわするるなり、自己をわするるといふ は万法に 証せらるるなり、万法に証せらるるといふは自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(道元)。 ここでは、「我ならずして」とか「自己をわするる」という否定的要素を媒介にして、〈真の自己〉が現れる。 (これはニーチェでいえば、「小さな理性」である自我が「大いなる理性」である身体に包摂される過程にあた る。) 〈真の自己〉となること(悟り)を、否定的契機から見れば「自己をわするる」とか「無心」などの表現になり 、 それを肯定的にいえば、「随所に主となれば立所皆真なり」(臨済録)のような表現になるのでしょう。
∧_∧。゚ ÷ ‥ ・ . ÷ ゚ (゚ ´Д`゚ )っ゚+ .。… 。 ● ・. ーーー(つ /ーーーーーーーーー-------------ーーー + | ω(⌒) + ? ?????? ?? ? し⌒ ???? ?? ...ウワァァァァン許してくれたぁぁぁぁ!
どこかで読んだイギリスの少女の霊的体験というのを自分もやってみるかと思い立った。 その少女は、家具のきしみ音「ギッ」、家電などが時折鳴らす「パシッ」が 自分の家ではやけに多い事にある日気づいた。 オカルト用語でいうラップ現象というやつで、おどろおどろしい伝説や逸話によく出てくる、恐怖のイメージがつきまとう現象だ。 しかし少女はその伝説を知らず、「家がお話ししている」と感じたそうだ そして、少女は会話を試みた まずyesならランプに、noなら引き出しに音を鳴らしてくれように頼んだ。 家は了解してくれた。バリエーションはどんどん増え、アルファベット全てを覚えてもらった。 こうして、この家は音楽でも奏でるようにリズミカルに喋り、彼女を楽しませ、少女の信頼を勝ち取るに至った!
この話を読んで、「ジョニーは戦場へ行った」のジョーをふと思い出した。 この家はまるでジョーのようだ。 ただの肉塊で、意識はなかろうと思われていたジョーが必死にモールス信号を送り続けるくだり… ただの木材で、意識はなかろうと思われていた「家」が少女に語りかけていたとすると? なぜ家が文法に沿って音を出すんだ? ま、いいか取り合えずやってみるか という次第で俺も、 自分の右足裏がピクッとなったら「はい」左なら「いいえ」 また警告音は部屋の柱のクリック、ゴーサインはテレビのクリック、と設定してお話をしてみた。 デマだとむかつくので会議用のレコーダーで録音しながら。 それから一年半経った。 テレビは俺がいい調子で勉強したり制作してるとタンタタタンタン タンタン と鳴るようになった。 おいたをすると木の家具が一斉にバシバシバシッと鳴る。 俺はもともと優柔不断だったので足の裏に物事の決定権をお譲りする事にした。 非常に便利である…しかし何なのか。
この体験をを友人に話すと、びっくりして江原たかゆきさんだかの本を貸してくれた。 スピリチュアル的には大アリな話のようで、ご本人もよく話をするのだとか。読んで理解が深まった。 でもポスト丹波?うさんくさうさんくさと思ったが、経歴を見ると霊研究のため渡英とある。少女のいた国だ。 霊験あらたかな江原さんの説をそのまま信じてみてもいいんだけど、余りにも独特な考え方だ。 学者にケチをつけられたらおしまいじゃないかとも思う。迷ってしまい、足に相談して 不安が残るようなら学者風の説明を自分にして納得しようと思うに至った。 テレビも賛同してくれた。
ヴァカかw ,, -──- 、._ .-"´ \. :/ _ノ ヽ、_ ヽ.: :/ o゚((●)) ((●))゚oヽ: :| (__人__) |: ぷ・・・ :l ) ( l: :` 、 `ー' /: :, -‐ (_). / :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´ :ヽ :i |: :/ :⊂ノ|:
313 :
考える名無しさん :2007/05/20(日) 18:53:59 O
佃煮マニアの言葉は分からん
きっと佃煮マニア氏は詩人的なんだろう。 前541氏のように佃煮語を翻訳できる人は貴重だ(笑 78-79氏のように東洋思想に詳しい人がいると幅が出ていいね。 「犬のしっぽにも真理はある」 ――この言葉を引用するのはなんと3回目だ! これを引用した上で、「犬のしっぽに真理を感じる」と翻訳した。、 (この翻訳を読めてない横レスはスルーさせてもらうとして) 前541氏は適切にもさらにこう翻案してくれた。 >犬の尻尾に真理は存在しないだろう。 >犬の尻尾に導かれて、人の中に真理は生まれるが。 >それは犬の尻尾に「真実」が存在するからだ。
さらにここで言葉を足してみたい。 1)ある人が犬の尻尾を見て「真実」を感じた。 2)振られたしっぽに犬の喜びを感じ、「それは真実だ」と感じたのだ。 3)その喜びが真実だと感じたのは、そこに偽りが入り込む余地がなかったからだ。 4)偽りのなさ、としての真実。そして犬の尻尾は言葉ではなかったから。 5)犬の喜びが言葉を介さずに人に伝わったから。 6)犬の喜びが伝わったとき、人も喜びを覚えたから。 7)犬の喜びが偽りなく純粋で無邪気なものだったためばかりではない。 8)その喜びの伝達が言語を介在しないものだったからでもあった。 9)人は犬と言葉なしで「つながった」と「直観」したのだった。 10)この「直観」はパトスであり、そこには思考も言葉も必要じゃなかった。 11)それは言葉によるノイズの混じらない「直観」だった。 12)ゆえに、振られた犬のしっぽに感じたのだ。世界全体に通じる「真実」を。 13)だから、その「真実」から「真理」を感じることもできたのだった。
>>306-307 78-79氏
>そのように理性と感性とが統合されたところに〈真の自己〉があるとすれば、
>悟りは、そのような〈真の自己〉となることと同時に成立すると思われる。
あまり詳しくないので、イメージとしての話になるけどご容赦。
多くの仏教的な悟りや教説から与えられるイメージは、生から遠い気がする。
涅槃、浄土、極楽、空、無、などなどといった用語は勿論、
日本で仏教が葬祭を、神道が冠婚を、それぞれ分担してきたことを考えても。
たとえばベルクソンのいうエラン・ヴィタルのような概念、
あるいはニーチェのディオニュソスのような概念からは遠い感じ。
理性と感性とを統合するというよりも、
理性も感性もそれぞれに「脱する」ようなイメージ。
道元の「身心脱落」もそうかもしれない。
夏目漱石の「則天去私」もそこに加えてもいいかもしれない。
「忘れる」「脱する」「無心」という無へ向かう動き。
否定的要素を媒介にして〈真の自己〉が現われるとしても、
どうも《生》を抑制している感じがしてならない。
それは理解が浅いためなのかもしれないけれども。
西田幾多郎の「矛盾的自己同一」が
身体的自己の創造的働きに重点を置いたものだとすれば、
少し変わってくるのかもしれないけれど。
>>301-303 前541氏
>「記号化するグリッドを通して見られた単純化され消尽した世界」
ここをもう少し翻訳してほしいなあ。
>これは釈迦が「メディア(霊媒・預言者)」として観自在菩薩の言葉を伝えた、
>とも読めないだろうか?そうだとすれば、「色即是空」は釈迦のパトスに基づく。
なるほど。パトスによる悟りは、自我を滅却し純粋なメディアになる必要があるかもしれない。
>wwwゆえに或る種の宗教・スピリチュアル系には「詐欺」の臭いが離れないwww
そうなんだ。ロゴスではなくパトスでしか悟れないものには、
そのすべてではないにしても、ある種の臭いがあるね。
>>309-311 でもスピリチュアルや霊視なんかの話が出てるけど、
明確に境界線を引けない以上、どこに判断するポイントを置くか、だね。 〆
俺は恋愛なんて幻想だと思う。 だって射精すると虚しくなるもん。 射精すると欲が無くなる。 従って射精後は欲の無い心で世界をありのままの状態で見る事が出来る。 射精後の世界がこの世の本質であり真理だ。 女は射精しない。 つまりいつまで経っても欲が無くならない。 男よりも女の方が欲深い。 女は強欲で醜い生き物だ。 男は射精によって悟りを開く事が出来る。 男はピュア(純粋)な生き物である。 虚しいが恋愛は幻想なんだ。 いや何も恋愛だけに限った事では無い。 そもそもこの世の全てが幻想なのだから。 全ては無である。
>>310-312 www少し前にオカ板で幽霊は存在するかをしばらく話し合ったことがあるんだがww
こぴぺしようww
現代の「幽霊」を含む心霊概念一般は、「念」という言葉に代表されるような
人間の感情、思考が物理的なエネルギーに置き換え可能である、という
素朴なアニミズム的思考がその基礎になっていると思われる。
しかし思考・感情は極言すれば脳内の化学反応であり、
肉体的、言論的「行為」をもってしか、外界に物理的影響を与えることは不可能である。
加えて心霊体験は恒常的あるいは一時的な脳内の化学的環境の特殊性が
関与しているように思われるのは前スレ、前々スレからの体験者への聴取により
明らかと思われるが、これを詳細に記述することは現否定派メンバーには
不可能であることは認めざるを得ない。
これに加え、人間の感覚情報処理におけるゲシュタルト的構成の働きも関与していると思われる。
(ゲシュタルト心理学における認知に関する部分参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6 以上の点を鑑みると、「幽霊」は現実世界には存在せず、特殊な偶然に対する
民間伝承的な解釈の形として現代にまで存続をしていると断定してよいものと思われる。
結局オカ板の「幽霊存在否定派」たちは霊能者の霊能を否定したいばかりで、 それ以上論は進まなかったなwwおれ的にはそういう「心霊的なもの」が どうしてバラバラな妄想の集積ではなく、心霊概念の体系として固まっていったか、 に興味があったのだが。
>>315 犬のしっぽはおもしろいなww
犬の尻尾によって獲得される「真理」、それは「言語」によって覆いを掛けられた
コミュニケーションの根源的メカニズム、ダイナミズムである。
生存競争「ではない」生物同志のつながり。それがたとえペットと飼い主という
一方的に形成された「社会的関係」の枠内であったとしても、尻尾を振る犬を見つめる時、
そこには「その時その場に共に存在することの喜び」つまり「仕合わせ」が
人と犬両方に生まれていることは確かだ。
wwwww
>>317 >「記号化するグリッドを通して見られた単純化され消尽した世界」
自然に受け入れられている我々の「普通の日常」はすでに様々な記号化によって
単純化されている。赤で止まれ、青でGO、箸で茶碗の飯を食う。
現実に存在する大量の情報を「記号化、単純化するグリッド」を通して受け取っているために
我々の「世界」は消尽していると思うのさ。実際にはもっと豊かな感覚情報に満ちあふれた世界のはずが、
「あたりまえのこと」としてスルーされる部分が大きいからね。
>なるほど。パトスによる悟りは、自我を滅却し純粋なメディアになる必要があるかもしれない。
それでは「メディア」が伝える「声」はどこからきたのか。
「上から降りてきた」のか、脳内伝達物質の「繋がりすぎ」によるものか。
>そうなんだ。ロゴスではなくパトスでしか悟れないものには、 >そのすべてではないにしても、ある種の臭いがあるね。 その臭いは「言葉になってから」臭うんだと思う。どうだろ? 或る単語に底が抜けてるような「深い」意味を持たせること。 「深い」は時に明晰性の反語となる。スピリチュアル系でよく見るのは 明晰では無い「深い」言葉を使って、あたかもコミュニケーションがとれているかのように 「振る舞う」人々だ。癒し、気づき、覚醒。 彼らは尻尾を振っている犬と飼い主ほどにも理解しあっていない、というかまず、 自分が使っている言葉を理解していない。
325 :
考える名無しさん :2007/05/22(火) 03:25:30 0
お前がな
君[
>>318 ]はドットさんより悟ってるみたいだね。
327 :
考える名無しさん :2007/05/22(火) 19:20:47 0
ドットと較べたら誰だって・・
>>318 煩悩を捨てて無私無欲の境地へ、ってことかな。
仏教的な悟りはそういう方向性にある気がする。
これは老年の悟りとは成り得ても、
若さにとっては抑圧にしかならないだろう。
生(リピドー、力への意志、エラン・ヴィタル)の抑制。
かといって「すべて開放せよ」という意見に
留保なく与するわけじゃないけど。
>>321-322 >それがたとえペットと飼い主という
>一方的に形成された「社会的関係」の枠内であったとしても、
この点はあえて触れなかったけれど、
確かに考慮しなきゃいけない点だろうね。
野性と見えるものが、「飼い慣らされた」産物じゃないかどうか。
>「あたりまえのこと」としてスルーされる部分が大きいからね。
記号化された日常に「飼い慣らされている」ということかな。
>それでは「メディア」が伝える「声」はどこからきたのか。
コンセントという「メディア」は電気を伝える。
すぐれたメディアほど、不純物=ノイズが少ないとされるのだろう。
言語化によってノイズが増大する、ということはあるかもしれない。
「どこから来たのか」という問いは言語化を促すけれども、
パトス(感性)にとってロゴス(理性、言語)が邪魔になることもある。
純粋なメディアは媒介することしかできないとすれば、メディアにとって、
それが伝達する「声」が、どこから来たのか、はわからないだろう。
「どこ」という場所が特定できない非ー場所としか。
そればかりか、その「声」がどんなものなのかも知らないかもしれない。
しかし、純粋なメディアは可能なのかどうか?
>>323 >その臭いは「言葉になってから」臭うんだと思う。どうだろ?
精神世界系、スピリチュアル系にとって重要なのは、
おそらく真実性ではなくて現実的な「効能」なんだと思う。
「あなたの前世は○○です」という言説を誰も証明できない。
しかし、その言葉を受け入れることで、その人の気持ちが変われば、
それは「効能」があったことになる。
スピリチュアル的な情報の発信者と受信者がお互いに
その「効能」において了解していればいいのだけれど、
その「効能」に裏づけを持たせるために真実性が捏造される。
「明晰では無い「深い」言葉を使って」ってことだね。
そこらへんが臭う、というか臭い。
しかし胡散って何だろう? 〆
幽霊を見た という体験は、そのほとんどが、むしろ全部と言っていい程 個人的体験だ。複数の人が同時に同じ幽霊を見たなんて事は未だない。 結局、「幽霊」は、 人が自分の内的世界や感覚的世界を言語化する時に生じる「漏れ」のメタファー 自分の中の「よくわからない面」のイメージを無理矢理外在化させたもの 現実にそれが普遍のものとして実在するかどうかは、 まあナンセンスで それは俺の内的世界ははお前にとってリアルなのかと問うのと等しい
クオリアスレでも思考実験と称して 「モザイク脳」、一人の頭蓋に複数人の脳漿を移植したら、その人は他人のクオリアを体感記憶として認識出来るか なんてことを言ってみたり マトリックス世界では俺の体験はお前の体験と通じ合うなんてこじつけをしてたみたいだけど、 それを実現するのは今現在では技術的に不可能でしょ?
潜在イメージを表現する時にレトリックとして用いられる幽霊なんだけど、 科学の力を借りずに、また小難しい哲学用語を使わずに具体化して「理解」しようとしてるのがスピリチュアル系 それはとても素晴らしい しかし 科学では一つの仮定にとどまる具体化を、反証が現段階では技術的に難しいからといって すでに万人にとっての真理とみなして納得してしまっているのが頂けない点 「俺の内的世界はお前の内的世界とつながってるのはまったくもって現実なんだけど、それでさー」 という所から話が始まっている。 それがただのシャレなら手放しで聞いてられるんだけど、大真面目で語られると違和感なくしては聞けない。 実証につむ実証によって個別に語られるべき感覚世界なのに 「つか全世界の人間の脳って全部一つの脳なんだぜ?」という所まで話が進んでしまっている この考えを現実に応用するのには危険がともなう 元を突き止めるべき危険な臭いが漂っている、でも難しい、これがうさん臭いという事かもね
334 :
考える名無しさん :2007/05/23(水) 13:28:42 O
なるほど
>>329 調度読了した島尾ミホ「海辺の生と死」の解説で吉本隆明が、
「万葉集」巻十六「乞食者の詠二首」を取り上げて、興味深いことを書いていた。
この「乞食者(ほがひびと)」は、たぶん、宮廷に直属してこういう即興の祝い言を並べたてて
座興に供する曲部であった。もっとさかのぼれば〈神〉と〈人〉を仲介する言葉を吐き出しうる
呪言師だっただろうし、さらにさかのぼれば呪言によって村落共同体を傾聴せしめる神人だった
ともかんがえられる。しかし時代が下れば下るほど、直属の主家を放たれて諸国を放浪し、
村々ででは〈聖〉なるもののように崇められ、その芸やきいたこともない他国の耳語りを
喜ばれながら、また、物を乞うて去ってゆく放浪芸人や放浪工人になっていった、と
かんがえることができる。私有財産の多寡が位取りをきめるという形が、人々のあいだに
顕在化してくれば、放浪芸人や工人たちの心には〈俗〉である観念が萌し、それとともに
村落の人々の心にも、かれらが自分たちよりも〈卑種〉な「乞食者(こつじきびと)」
だという観念が萌してくる。神人として〈神〉の代理をし、おのずから憑依状態で
吐かれる呪言が、村落を支配した、とはとてもかんがえられないような時代がやってくる。
たぶんこの状態は、わが国では平安期の初期には、はじまっているとかんがえられる。
「声」は右脳に訪れる。記号化され、単純化された日常から漏れてしまった 微細な情報、かすかな関係性を直観的に統合し、憑依状態のメディアは 属する共同体に「声」を伝える。 だから「純粋な」メディアというのは存在しないだろうし、 必要ではなかっただろう。この「託宣システム」の劣化版が最近の スピリチュアル系周辺なんだろうなww 確かに「効能」さえあればいいとは思うが、最近の都市生活に組み込むには お粗末すぎるし、さまざまな副作用が多すぎるといった印象。 しかしちゃんとメディアを維持する村落共同体では母親の首を切り落とすとか、 拉致監禁強姦常習犯とかは、存在しえなかっただろうなwww
胡散の語源には諸説あるようだなwww
http://gogen-allguide.com/u/usankusai.html >>331-332 オカ板で話し合ってた時には複数での目撃・体験例もいくつかあったが
検証にはいたらなかった。しかし複数でも体験しうる、と思うよ、
それだけおれたちの頭の作りなんて似たり寄ったりだってことだろうww
それに複数体験の場合、「気の合う友だちと心霊スポット」とかが大半だからなww
おまいの言う通り、自分の内側が「見せて」いるものを自分の「外側」に実在すると
思いこむ誤解が「幽霊」のすべてだろう。
問題はそれがランダムな妄想として拡散せず、心霊概念の体系として集束してきたという点だ。
幽霊が「実在しない物」のレトリックとして使われてきた反面、
いまだに「虫の知らせ」「夢枕」「死亡した親戚、知人のコンタクト」などは
日常的な話題の一部として黙認されている。
全ての人間に、体質的に程度の差を持ちながら備わっている「霊能」因子wwの働き方を考えると
その仕組みはだいたい察しがつく。
http://syarecowa.moo.jp/ 以前ここで読んだ地味な話で、学生が引っ越しのために母親とアパートを
見て回ってて、安くて良い物件を見つけたのだが、母親がいやな感じがすると
言い出した。風呂場の微かなシミと台所が気になるというので細かく調べると
台所の下の戸の裏にお札が何枚か貼ってあり、不動産屋を問いただすと
風呂場で自殺があったという。
(確かこんな感じだったwおれこれほとんど全部読んでるから何処にあるか探しても
見つからなかったんだwww)
この話なんか、まあほんとなんだろうし、「霊能」因子の直観的な働き方が
わかりやすい例だと思う。
この因子は視覚にも働きかけ、ゲシュタルト構成を促進させると思われる。
心霊写真の解釈とかね。ふと視界に入った何かを「霊」として認識しちゃったりね。
>>333 最近のスピリチュアルブームには都市生活の複雑化に対する反動、という外的要因と
「切れやすい若者」やADHDの増加という人間の「体質的変化」という内的要因が考えられる。
何にしても不可逆的変化と思われるので批判よりも考察が必要だろう。
スピリチュアル的カテゴリーで「インディゴチルドレン」というのがある。
オーラが青いそうだwwwちょっと検索して「インディゴチルドレン」の特徴というのを
調べてみてくれ、次にADHDの特徴。この2つの言葉は「おなじやつ」のことを言っているのが
わかるだろう。
スピリチュアル系の人達がしきりに「レベル」「霊的階級」を気にするのも
その「霊能」因子が現実として体質的「程度の差」を含むものであるからに他ならない。
340 :
31 :2007/05/23(水) 19:19:05 0
>>337 「霊能」因子を外部に求めても、他人には見つけられないというのは同意。(そういう意味ですよね?)
正に、記憶の中で、どこにあるか探しても意識的に見つからない状態で、
デジャヴが起こっているんじゃないかと思う。
実際に見たことがあっても、その覚えが無い状態。
本人はデジャヴだとは思っていないから、その要因を外部に求めてしまう。
心霊写真を知らない人が、心霊写真という解釈を教えられてその様式を覚えると、
「これは心霊写真である」という記憶から、
「写真は現実を映している」、
「心霊を現実に見ることができる」、
という、これまた前に教えられたであろう論理で説明しようとする。
いまのところは、仮に心霊が現実のものであったとしても、それを区別する方法がないだけ。
デジャヴを証明できれば区別できるかもしれない。
>>340 ちょと違うな。おれの言ってる「因子」というのはものの感じ方、
考え方にまで影響する体質的な因子、ある特定の脳内の化学環境と言ってもいい。
霊能、狂気、宗教的非日常体験等に共通して関係があると思われるもののことだ。
だけど君の言ってることはわかる。しかし既視感というのは「実際体験自体が無いのに」
感じるものを言うようだ。記憶が無いのか、体験自体無いのか、記憶が何らかの理由によって
積極的に隠蔽された状態なのかはわからないけどね。
ここでの問題は、すでに心霊概念体系が存在しているにしても、
なぜ様々な不思議な体験が心霊的な解釈に集束してしまうか、ということだな。
既存の理論に引っ張られた、というのはあるだろうが、
むしろ「因子」の働き方が、ある「形式」を持っているからだろうと思う。
まだわかりにくいかもな。すまそ。
>>337 同一霊の複数人での体験とは、それこそ「デジャビュ」体験
A「見た?」B「見た見た!」A「何か○○なのが居た!」からB「あ〜私も同じだった!」の間に
Bさんの脳内でデジャビュが起こっているんだね。
つまり、時間の意識が混乱して、今初めて聞いた記憶の内容を、「見た?」と言われる前の時間列に貼付けている。
過去の事は変えられないが、未来の事は容易に変えられる。
だが、未来がなかなか変えられそうにない事態に遭遇した場合、
「Aさんが必ずこんな霊を見たと言うだろう」と予め推測され、自分も見たいと思って見れなかった場合でも霊の話が続くだろう際、
Bさんは見なかった体験の記憶を蓄積するよりも、Aさんの話を聞いて能動的に記憶を作り替えた、変化させたと言える。
Aさんの話を聞いたと言う過去を、現在のものとすり替える作業を脳が無意識にしたんだな。
これがデジャビュ
脳の時間列への認識は、かなりいい加減なものなんだそうだ。
そしてデジャビュは、慣れない事をする時によく起こるらしい。初めて来た場所、初めてした事、初めてあった人
それに対応するのに不安が生じた時に、過去の記憶を呼び戻して、慣れたものとして扱おうとする。
呼び戻すだけならいいが、脳がいい加減なので、初めて体験する現在進行形の現実を過去のものと誤認してしまう
でも、まだまだ解明に必要な材料も少ない。
それまでに自分でいろいろ分析してみてそれが納得出来る内容なら、貴重な説になると思う
>>340 突っ込みどころ満載な内容でも、それはそれとして怪談ネタとして楽しいんじゃない?
>>337 >問題はそれがランダムな妄想として拡散せず、心霊概念の体系として集束してきたという点だ。
体系化されてるね
霊で体系化される場合もあれば宇宙人でも、組織でも集団ストーカーでも色々あるね
霊は宗教の人らが頭ツルッパゲになる程がんばってカテゴリ化した、無意識の中の「外在化された深層イメージ」で、
伝統がある。とにかく体系が構築さえされてしまえば、神秘体験への客観的認識も対応もスムーズになる
そして神秘体験を有意義なものとし、体験した事による衝撃を取り除き、
神秘体験によって好機をつかみ日常生活を潤いをもたらそうとし、その実績もある。
神秘体験を霊的体験としてポジティブなものと位置づけているのは宗教や芸術ならでは。
仏教は教え諭す者の基本に、四摂があって、
その中のひとつ愛語は、救いを求める人にかぎりなく親身で優しく、その人を尊重して話しかけるというもの
ここらへんは、多少の苦痛は我慢して下さい、神秘体験は病気です、病気は直さなくてはなりませんというように、
こういう体験をネガティブなものと突き放す精神医学や脳科学より頼もしい面があるだろうね
>>331-333 佃煮マニアへ
「内的世界=潜在意識はつながってる」みたいな、
スピリチュアル系でよく見られる言説ってのは、
擬似科学的、擬似ユング的、擬似SF的でもあるところの、
マトリックス的レトリックってとこかな。
>>335-336 前541へ
吉本隆明の言葉はいつもながらすんなり消化しにくい(笑
島尾ミホに巫女的存在を見るのは正しいだろうけど。
神人の変化を民俗学的に考えてみると、
狂気についてのフーコーの言葉が頭をよぎる。
狂気を受容できていた時代(社会)がかつてあり、
狂気を隔離するシステムが機能した時代(社会)がきて、
そして来るべき時代には、
「もはや狂気というものが何だったのかよくわからなくなるだろう」
みたいなことを語っていたっけ。
(記憶に頼ったので不正確かも)
巫女というのは本当は「純粋なメディア」じゃなきゃいけない。
神の言葉、天の声をノイズなく伝えるために。
だから巫女は穢れなき処女しかなることができない。本来は。
神社に初詣にいくと、どうもその本来性は感じられないけど(笑
>>337-343 の、前541、31、佃煮マニアの書き込みを読むと、
(特に「デジャビュ」を含む神秘体験、霊的体験に絡めると)
霊能と狂気はどうも関係がありそうだね。
>>342 なるほどー。オカ板で話してた時に霊感兄弟の複数同時体験が報告されてて、
少し前に死んだ近くの商店のおじいさんを見たというんだが、
「あれ、いまの人この前死んだあのおじいさんじゃね?」
「うん、いつもの服だったよね」
という風に絶妙に話が合ったそうだ。これなんか記憶の時間列の入れ替えとしての
「デジャビュ」の典型的な例だろうな。
>>343 現代日本人が「幽霊」のせいにするようなことは、
アメリカ人なら必ずUFOのせいにするだろうねwwこれは歴史の違いかw
こと「幽霊」に関しては宗教的な背景があいまいでも一人歩きできる部分もある。
日本では江戸時代に庶民の中で浮世絵、芝居を中心としたオカルトブームみたいなものが
あって、以降直接特定の宗教と結びついていない状況で現代に至り、
今やそれを土台にした民間信仰=ニューエイジ系が盲目的な暴走を始めているようだww
>仏教は教え諭す者の基本に、四摂があって、
>その中のひとつ愛語は、救いを求める人にかぎりなく親身で優しく、その人を尊重して話しかけるというもの
>ここらへんは、多少の苦痛は我慢して下さい、神秘体験は病気です、病気は直さなくてはなりませんというように、
>こういう体験をネガティブなものと突き放す精神医学や脳科学より頼もしい面があるだろうね
www精神医学や脳科学は、忘れてしまったことを違う迂路を通って思い出そうとしている
ウィッチドクターのなれの果てだからなww
モロッコにジュジュカという村があって、音楽家と彼らを世話する人々が住んでいる。
その音楽家たちの音楽も「ジュジュカ」と呼ばれ、病を治すと言われている。
(多分悪魔憑きとか精神的な病だろうね)身内が病に取り憑かれると、その村の音楽家たちを
呼ぶわけさww呼んだ家は朝早くから大量の料理を用意する。楽団が来ると近隣一帯集まってくるからだね。
楽団は家に到着すると山羊の血でその家の入り口に手形をつけ、少しずつ演奏を始める。
演奏は夜を徹して行われる。ハシシ(大麻樹脂)をガンガン焚きながらねwww
こういう話を聞くと、なんだか自分で飲んだこともない化学合成の向精神薬を処方して、
習ったとおりに患者の相手をしているのであろう西洋医学の精神科医とか、
逆に幼稚に感じてしまう部分もあるww
>>345 >そして来るべき時代には、
>「もはや狂気というものが何だったのかよくわからなくなるだろう」
>みたいなことを語っていたっけ。
もうだいぶ「よくわからなくなっている」んだと思うww
しかしフーコーはその後「メンヘル的体質」自体がが急増していくとは考えていなかっただろうなw
この部分は非常にやう゛ぁいポイントだww
>巫女というのは本当は「純粋なメディア」じゃなきゃいけない。 >神の言葉、天の声をノイズなく伝えるために。 きっとノイズが少ないほど根源的な真理に達することが出来るんじゃないかな。 それが「偉大な聖人」と呼ばれるんだろう。釈迦と「色即是空」みたいに。 しかし根源的な真理、メカニズムであればあるほど、 日常的な煩瑣な問題への適用が「遠く」なる。宗教的な「偉大な聖人」とは別に、 やはりローカルなメディアも必要なんだろう。 「100人に1人くらい」ねwww >だから巫女は穢れなき処女しかなることができない。本来は。 >神社に初詣にいくと、どうもその本来性は感じられないけど(笑 wwwひょっとして二次オタ的な話か?wwww 恋愛も「脳の化学的環境」のひとつだ。価値観に影響する。 すべての恋愛する男女にとってその出会いは「運命的シンクロニシティ」だ。 それじゃメディアはできんわなwwwそれに巫女的体質、 「因子」を強く持っている女性が恋愛すると、暴走気味になる。 普通に巫女的脳内環境なのに、それにオーバードライブがかかるんだろうなww これは全ての宗教に「修行」や「禁欲」が存在する単純な理由とも言える。
>日本では江戸時代に庶民の中で浮世絵、芝居を中心とした >オカルトブームみたいなものがあって、 井上円了という人は哲学館大学(現東洋大)の創設者だけど 妖怪学というのをやってたらしいね。 民俗学以外で「幽霊」を学問的に追求するのはどうなのかな(笑 と書いたけれども、今、デリダのことが頭をよぎった。 まだ未訳だけど「マルクスの亡霊」という本を書いてるし、 亡霊性みたいなことは他のテクストでも言及してたっけ。 >きっとノイズが少ないほど根源的な真理に達することが出来るんじゃないかな。 そうなると哲学的思考よりも芸術的創造のほうが近いのかな。
>そうなると哲学的思考よりも芸術的創造のほうが近いのかな。 起源的にはシャーマンと音楽、踊り、宗教的ビジュアル要素などは 一体だったろうね。そしてシャーマンの言葉「神言・言霊」は直観的真理を伝える。 「ロゴス」はおそらく「遅れて」やってきたんじゃないかな。 「声の分割」でナンシーが指摘した「イオン」でのソクラテスの姿勢、 朗読者の神憑り的な能力は知(ソフィー)で、そのような「知」に興味を持ち、 愛し、考えることが哲学(フィロソフィー)という解釈が、おれの頭に根付いているねwww
353 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/05/30(水) 20:19:16 0
真理とはいつでもどこにでも(ユビキタス)に付随するものです。 医者の哲学は一般学です(そんな学問はないとしても)一般性を 重要視します。 真理の門の入り口出てすぐにある真理をを発見しました。 1.「私は私」 2.「自慢は自己満足の略」 3.「どうでもいいことはいいこと」 4.「哲学は何の学問か?と問われたらすべての学問であるということ」 5.「天才は自由な遊動点を持ち秀才は優秀なコピーを持つ」 6.「万物万象は条件と可能性に立脚する」 7.「いろいろあるけれど普通が一番いい」 8.「全知全能とはあらゆることに対処できることを示す」 9.「生物の肝要なことは『雄(男)は成すこと、雌(女)は気持ち』(雌雄がなきものはこの場合においては雌とする)」 10.「ありとあらゆることは棄却するか、包括するかの2つである」 11.「準備はなくとも準備はできる。また、立場がどうあれ結果は皆同じく受けとめたほうがよい」 12.「天才あらずして凡才なし、馬鹿阿呆なくして塵に同じああなんと すばらしいこの世界。」 13.「類は論をもってこれを生ずるなり」 14.「人の平等の一つに誰しも常に問題は山積みというのがある」(この場合人とは人間を内包する) この14個の組み合わせで実際の世界は構成されていると私は形而上学的に 捉えています。
354 :
佃煮マニア :2007/05/31(木) 01:17:52 0
アミニズム的世界観の中の霊っていうのは結局、 人間の内的環境に偏在する自己愛と、外的環境そのものである自然現象をミックスして擬人化させた姿なんじゃないか? ある時は豊穣をもたらしたり、またある時は暴力的にその生を奪い取ったりする自然は 人間にとって多いに脅威で畏怖すべき存在だろう。その前には全くなす術もない。 しかし自然と自分たちの間に霊の存在をおくと、急に自然は霊を介在して「ものを言う存在」になる。 話のわかる相手なら脅威ではなくなるだろう。 これが単なる宗教的行為であるかどうかは別にして、 自然へのとっかかりを見いだした人間は、自己愛を成就させるべく、 意識的に自然とのコミュニケーションを図ろうとし、 あわよくば自然を意図的に律しようとも、その力を我がものにしようとさえした。
>>353 14項目で事足りるのなら、過去の膨大な数のエクリチュールたちの立場ありませんねwww
メカニズム、ダイナミズムの「遍在」は人間が考え続ける限り、拡大していくはずですね。
それが気になるのは我々だけですから。
項目それぞれには突っ込みたくありません。とても面白いしww
ローカルな発明家の作った、得体の知れない機械のような魅力があると思いますww
9とか11とか好きですねw13とか「へえ!」ですよww
>>354 >ある時は豊穣をもたらしたり、またある時は暴力的にその生を奪い取ったりする自然は
>人間にとって多いに脅威で畏怖すべき存在だろう。その前には全くなす術もない。
人間はそれを自分に対するなんらかの「意志」として受け取ったんだね。
それで「神」が生まれたのかな?
>しかし自然と自分たちの間に霊の存在をおくと、急に自然は霊を介在して「ものを言う存在」になる。
>話のわかる相手なら脅威ではなくなるだろう。
原始の神々は受け持ちというかキャラクターによって数が多く、限定があるよな。
後に「全知全能で1人(ひとじゃないけど)」になる。
この「神」という概念の先鋭化の過程で「哲学的思考」やロゴスが確立していったんだろうね。
だとすれば「ロゴス」として宗教的「超越」から分離した哲学がやがて神の死を宣告してしまうのは
オイディプス神話へとループを描くようだねwwww
現代の「霊」概念を見ると、もっとローカルな領域で育ってきたような気もする。
>>338 の話で言えば、その部屋で暮らし、自殺に至った生活の痕跡を敏感に読みとる
母親の「中に」霊が生まれるというか。この例だと「霊」というのは
エクリチュールのような「働き」だな。読み手が現れるまで眠っている。
「地縛霊」はすべて「エクリチュール」だなwwww
357 :
考える名無しさん :2007/06/01(金) 20:56:46 0
わかったから、みんなの病歴教えてよ 通院は除外、入院歴だけでいい
右上腕部の化膿性骨髄炎で幼稚園とか小学校低学年の頃何回か入院してたな。
ほとんど憶えてないがそれで本読むの好きになったようだ。
これでいいか?
>>357
359 :
考える名無しさん :2007/06/02(土) 09:21:39 0
>>352 >起源的にはシャーマンと音楽、踊り、宗教的ビジュアル要素などは
>一体だったろうね。
音楽や舞踏の起源というものを考えてみると、
やはり「リズム」というのが重要だと思う。
打楽器がきっと最初の楽器だったろうしね。
で、リズムは鼓動や呼吸と切り離せない。
心臓のリズムがあったから太鼓が生まれたんだろうから、
「心臓の鼓動」という表現はきっと逆輸入みたいなものじゃないかと。
で、たとえば音楽や舞踏における「揺れ」っていうのも、
そうしたプリミティヴなリズムから出てきたとするなら、
ジャズでのスウィングも(レゲエもロックも)そこに根があるんだろうし、
椅子に座った子供が足をぶらぶらさせるのもそうかもしれない。
もちろん、「散歩に連れていってもらえる犬のしっぽ」も。
>>352 へのつづき)
>「ロゴス」はおそらく「遅れて」やってきたんじゃないかな。
パトスをリズムに、ロゴスをメロディになぞらえて考えられるなら
リズムの前にメロディがあったとは思えないしね。
原初の状態においてはパトスとロゴスが分かれていなかったのかもしれない。
>そのような「知」に興味を持ち、愛し、考えることが哲学(フィロソフィー)
>という解釈が、おれの頭に根付いているねwww
愛知県は哲学県と改名したほうが世界的な観光地になるかも(笑
話はさらにちょっと逸れるけれど、日本語で「哲学」という名詞の流通量に対し
「哲学する」という動詞の流通量は少なすぎる気がしていた。
もちろん「哲学的」という形容詞に比べても。
言葉を複数化し、動詞化して考えることはマイテーマのひとつ。
だから、諸々の哲学がある、というより、諸々の哲学することがある。
>>354 >しかし自然と自分たちの間に霊の存在をおくと、
>急に自然は霊を介在して「ものを言う存在」になる。
おそらくそういえるだろうね。
あるいはこう言い換えてもいいのかな。
自然を「ものを言う存在」にするために必要とされた霊というメディア。
霊媒師という表現がある。霊のメッセージを媒介するメディア。
霊という存在自体が、自然からのメッセージのメディアというわけだね。
沈黙のメッセージを言語化してくれる翻訳者の必要性。
そこにあるのは自然をコード化して飼いならそうという人間の欲望。
善悪の判断は抜きにして。
363 :
考える名無しさん :2007/06/02(土) 12:24:27 0
【悪霊に支配された街:秋田】
〜秋田県民の多くは悪霊が輪廻転生を繰り返した産物である疑い〜
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=sci&vi=1179719741 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8621/1180437306/ ここまで酷い事が行われているならば
「怨念をもった心霊」が輪廻転生したケースは当然、存在するだろう。
その場合、その心霊が生前に酷い犯罪被害を受けただけで
根は素晴らしい人であるケースや、生前に殺しを繰り返し
根自体も悪霊そのもののケースとが当然ありうる。
後者の場合、輪廻転生を受けた現世の人物自体が
やはり悪鬼(悪魔)になりうる。その負のサイクルを秋田は繰り返しているのでは
ないか。よって秋田の現実の人間達は、代々トランスポゾン汚染されたゲノムだけでなく
輪廻転生した心霊面でも大きなハンディキャップを背負い、
益々、悪鬼化しているのではないか。そういった意味で、心霊面でも
底知れぬ程、病んだ地域というのは実在しうる。また、悪鬼(悪魔)の血族・地域集団
というのは当然、保存されうる。自然淘汰の過程でそういった行動様式・思想様式は
保存され進化しうる。それが秋田でありユダヤではないのか?
そういった意味では秋田にはやはり一般人は近づくべきではない。
悪霊が支配しているのは比喩ではなく事実であろう。
日本国民はこの秋田県地域には絶対に近づかない方がよい。
一つ間違えれば殺害される。彼らの殺しは容赦がない。
9月の秋田国体や8月の竿灯祭にも行かないほうがよい。
一つ間違えれば消される。秋田はそういった特殊非人地域である。
日本ユダヤ問題はこういった事にもつながっている。
秋田は悪霊に支配された怨念地域だ。
悪霊に取り付かれたくなかったら秋田に来るのは止めたほうがよい
ここは黄泉の国だ。人間が住める場所ではない。
>>359 前スレを立てた者です
…頭部の病気って…
随分悪意のある書き込みですね
哲学板にはこのような人がいるのですね…
上げます
366 :
考える名無しさん :2007/06/03(日) 23:03:40 0
「人は、それを言語化するためにあらゆる思考を試みる 名状しがたい感覚とか、情動も、言語に置き換えられて 初めて、思考としての自己統一性を持つ事が出来る」 とバタイユが言う。 一方寺山修司は「なかったことも歴史のうちだろうか」と言う。 この事を考えると、 俺の乗ったブランコを、後ろから寺山修二が押して前からバタイユが押して、 俺はずっとブランコから地に足をつけられないような気分になる。
367 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 01:20:11 0
なぜブランコに乗ってるんだ?
>打楽器がきっと最初の楽器だったろうしね。 それと「声」だね。打楽器と声という組合せはリズムマシンと古いソウルの女性ボーカルを ミックスするという最初期ハウス、ガラージュと同じ音構造と言えるかも知れない。 クラブカルチャー、ダンスミュージックの歴史っていうのは原始的な舞踏によるトランスを (大幅に迂回しながら)再び探求する旅だったかも知れないなww リズムも「揺れ」も「繰り返し」なんだよな。だからはまる。そういう「繰り返し」が 人をトランスに導くんじゃないかな? ちなみにロックは縦揺れ、ロールは横揺れ、もともと船で使われる言葉だったようだな。 ロック&ロールがロックと略されるとともに縦揺れ(ヘッドバンギング)系が主流になっていったw 揺れる犬のしっぽは「幸せ」のトランスを発動している。 (どんどんすごい表現になっていくww)
>原初の状態においてはパトスとロゴスが分かれていなかったのかもしれない。 そうなんだろうな。具体的には想像しにくいが。 メロディっていうのはなかなか難しい存在だ。音階の協和、不協和というのも 考え始めるとわからなくなっていく。古い雅楽なんか聴くと 不協和音階の音響・ノイズとも言えなくはないだろwww 愛知県恐るべしwww >言葉を複数化し、動詞化して考えることはマイテーマのひとつ。 >だから、諸々の哲学がある、というより、諸々の哲学することがある。 名詞のままだともやもやした境界を持った「カテゴリー」なのに 動詞にした途端ひとつのベクトルを持ちはじめる。おもしろいね。
安価忘れた368
>>360 、369
>>361 だ。
>>364 wwいるんだよねwwむかしからww約1名ww
だけどここはいい方だよ、住民は基本理性的だしねww
>>366 そのブランコおれも乗りたい!www
バタイユファンとしてその引用の出所教えてほしいんだが。
>>357 よし、じゃ入院歴書く。
ある日起きると身の回りが妙にキラキラ輝いて見えた。
妙だと思いつつニュースでも見ようとテレビを付けると、アナウンサーがこう言う。
「突然ではあるが、重大な報告がある。実は、君はわが組織で秘密裏に育てきたスパイなのだ。
この度君はあるテストにパスし、ナンバリングされる運びとなった。
おめでとう。これは大変に名誉な事である。『力』を持ったものだけに与えられる称号なのだからねナンバー3、
今日から君の名前はナンバー3だ。
それでは暗号で任務を知らせる。テレビをすぐに消し仕事に取りかかってくれたまえ」
何だかよく分からないままに俺は外に出て「暗号探し」をしなければならなくなった。
他のナンバーの連中とテレパシーで連絡をとりながら、町中に散乱しているヒントを集めまくっては部屋に持ち帰り、
答えを導き出そうとした。必死だった。
必死すぎて警察のご厄介になり、気がつけば精神病棟の監視カメラ付き保護室にいた。
3日程そこにいると、自分がせん妄状態だった事に気がついた。
これは糖質の症状だ。どこかで読んだ事がある。その事を医師に話すと、保護室から出してくれた。
だが病棟からはすぐに出してくれなかった。少なくとも後一ヶ月はいてもらうと言われた。
冗談じゃない。こっちにだって事情がある。出してくれと懇願したが、無駄だった。
腹が立って、他の患者が吸っていた煙草の火で紙くずを燃やし、看護士にぶつけた。
そのとたん、看護士と医者に取り囲まれ、力ずくで連れて行かれ拘束ベッドに寝かしつけられた。
おむつをし、手、足、胴体に固定ベルトをつけられたままその部屋で2ヶ月過ごした。
看護士のうちの一人が、俺に毎日ひどい嫌がらせをしていたようだったが、
薬でもうろうとしていた為か、意識も曖昧で、何をされていたのか具体的に思い出せない。
その後半年をその閉鎖病棟で過ごし、
ゆっくりと時間をかけて石のように不言不動になった俺は、やっと退院した。
しかし現在でも俺はこっそり組織の任務を全うしようとあがいている。
嘘でよければこんなもんか?
>>366 寺山とバタイユに押されるブランコって比喩表現はユニークだね。
ライプニッツとムージルが揺らすブランコに揺られるのも一興。
>一方寺山修司は「なかったことも歴史のうちだろうか」と言う。
ありえたかもしれない可能的世界をライブニッツは考えていた。
複数の可能的な世界のなかで、この現実が最上の世界であるのだろうか?
そういう問いかけを持つ視点。
そこにはきっと「幽霊」をめぐる思考との接点もあるだろうし、
SFやユートピア思想もそこから派生しているんだろう。
あるいはむしろ、もっと広くとらえて言うなら、
可能性に対する想像力こそが人類の進化を促してきた。
ムージルが『特性のない男』で描く主人公ウルリッヒは、
「可能性感覚」を持ち、固定化された「特性」をあえて持たない。
現実に対する異議申し立て、革命志向が可能性感覚を生むのか?
現実感覚の希薄さ、現実に対する違和感が可能性感覚を生むのか?
>俺はずっとブランコから地に足をつけられないような気分になる。
このブランコの「揺れ」というのは、おそらくは、
可能性と現実性の間の振幅であるとともに、
言葉と沈黙との間の振幅ともいえるかもしれない。
>>368-369 >ロックは縦揺れ、ロールは横揺れ、もともと船で使われる言葉だったようだな。
へぇー、そうだったのか!
垂直的な揺れと水平的な揺れということかな。
しかし、たしかに、寄せては引く海の波の反復的リズムこそ、
生物のプリミティヴなリズムを構成する母胎かもしれない。
羊水というブランコの中で揺れる「器官なき身体」。。。
>リズムも「揺れ」も「繰り返し」なんだよな。だからはまる。
>そういう「繰り返し」が人をトランスに導くんじゃないかな?
揺れ(リズム)と酔い(トランス)といえば、やっぱ船かな(笑
哲学的「トランス」というとカントの超越論的批判哲学を想起するけど、
もっと原初的で身体的なパトスによる陶酔ということだろうから、
そこで精神がどうかかわるかが興味ある点だね。
たとえば詩人におけるポエジーとトランス、とか。
374 :
考える名無しさん :2007/06/06(水) 19:42:19 0
375 :
考える名無しさん :2007/06/07(木) 19:00:14 0
てらざんだった?
376 :
考える名無しさん :2007/06/08(金) 01:14:46 0
てらやま
>>373 言葉によって読む者に対してトランスを発動することはできるが
(ベケット、吉増剛造と、名前はすぐあがるねw)
その「トランス自体」はなかなか言葉で描写するのは難しいね。
おそらくトランスというのは言語秩序がはずれた状態というか、
言語秩序「以前」の状態なのかな?
しかしまったくのカオスでもない。何かの制御・コントロールは働き続ける。
「本能」?
クラブで延々踊って気持ちよかった体験があれば、
舞踏的トランスは実感として持っているだろう。
近年ではダンスミュージックのリズム形態のひとつを表すカテゴリとして広く流通した 「トランス」だが、何故130〜150bpmくらいの「速めのハウスのようなもの」に 「トランス」という名が付いたのかは最早想像するしかない。 80年代ドイツで生まれ、90年代ヨーロッパ人のインド観光の拠点、ゴアで発展した 「トランス」というリズムの時代的地域的な背景を考えるにあたり、 当時のヨーロッパにおけるダンスミュージックの流行が、各種ドラッグの流行と足並みを揃え、 それぞれのドラッグが人体に及ぼす「効果」とダンスミュージックの「音域」「リズム形態」が 密接に関係していた点を忘れてはいけないだろう。 アシッドハウスからトランスへの移行、それはとりもなおさず、 LSDからエクスタシーへとドラッグの流行が変遷したことを表している。 若干サイケデリクス的な要素をそなえた、覚醒剤の変異体であるエクスタシーは、 その多幸感と、対人関係における極端な「好意性」、他者との「共有感」という 「クラブ遊び向け」の特性を持ち、心悸を上昇させるため、 心臓の鼓動より少し速めの130〜150bpmのリズムによってダンスに促される、 というわけである。初期的トランスの名曲underworld「ボーンスリッピー」の リズムをよく聴くと、キックの微妙な「前ノリ」のクォンタイズとディレイのかかり方によって あたかも「心音」を模したような構成になっているのがわかるだろう。 つまり「トランス」というリズムカテゴリの名称は「トランス(非日常的意識・酩酊状態)に 入りやすい」というリズム形態が人体に及ぼす効果を表していると思われる。
379 :
ニート ◆j.C15ypcBY :2007/06/09(土) 16:52:31 O
>>371 ビューティフル・マインドって映画を見たことがある?
しかしなんでさ〜
ドラッグ使用者も宗教系の人もオカルト愛好家も、
トランス状態の時のエネルギー大量発散で無敵っつうかな状態と、
瞑想中に粛々と精神の内部にのめり込んでいくような状態とを組み合わせて、
なんとかかんとかして
自分の意識を身体の外に飛び立たせていこうとするんだろうね?
彼らはいつも自分の意識を肉体から解放させて世界とシンクロさせたがっている
精神は肉体に包まれ支配されているが、
精神の深部に達すればその底には必ず外界とつながる穴があいていて
訓練次第でその穴から自由に出て行って、世界どこにでも遍在できる自分になれる=神に近い存在になれる
という構図が頭の中で出来上がっているんだろうか?
肉体の呪縛を逃れる、無我の境地に立つとか言い回しは色々あるけど
頭の中にあるこの構図は一緒だよね
>>379 あらすじ読むと面白そうだね。エドハリス出演か!見なきゃ
この世が暗号に満ちているって発想は人間が根源的に持ってるものかもね
>>380 その構図はあるねww問題は「精神」が最終的に外界に繋がっている、という部分だろう。
これは思考が物理的エネルギーに置き換え可能であるという、アニミズム的考え方と
精神の深部、ヒトが共通に供えてるosやアプリケーションに触れると、
それが外界に「遍在」しているように感じる、という誤解に根ざしていると思われる。
しかしこの構図自体、太古から存続してきたものであり、
おそらくすべての宗教成立に関わっているんじゃないか?
現代におけるその構図の「再編」は「ヒッピー」と50〜60年代にヨーロッパの知識人層に流行した
LSDの影響が考えられる。ユングは昔1冊くらいしか読んだことないが「集合的無意識」という語は
何か「外部における遍在」を匂わせるようなところがあって微妙なんだが、影響力は絶大だったな。
まあ非主観的な「外界」もバーチャルと言えなくもないけどなw
所詮ヒトの感覚器官が取り込める限定的な情報を基に、再構成された世界であり、
その知識の個体差により、「外界」自体も実は個体ごとにバラバラな認識しか持ってはいない。
「ビューティフル・マインド」は見てないな。おれもエド・ハリスは好きだからw
見てみるかwwロン・ハワード監督だから油断すると感動させられるぞwwww
日本では、戦後、学者・知識人が圧倒的な数で、「科学的社会主義」などという、ソビエト帝国型の考えに 集団で脳を犯されたので、「科学的」といえば「社会主義(共産主義)のことだと信じ込んで、この 「科学的社会主義」という宗教を日本国民に、各種高級学問の振りをして押し付けた。それを商売として やったのが、岩波書店である。だから日本国民の方が、すっかりイヤ気がして、「科学」というコトバを 使わなくなった。なぜなら使ってみても、ちっとも「科学的」ではないからだ。「君の考えは科学的だね」 と友人に言ってみると、まるで、馬鹿丸出しで、「一体、オマエは何が言いたいんだ」と、相手から嘲笑 されるからである。ソビエト教の信者以外の世界では通用しない。だから、日本人の「科学」不振は物凄く 深い。そこで、私が、「哲学は科学じゃないんだよ」というと、日本人はケゲンな顔をする。何を言って いるのか分からない。哲学というのは、日本では「文学部哲学科」だから「文学」のお友達で、これは、 絶対に「文科系」だよ、となる。そうではない。哲学は、科学の一種とは違う。神学の一族なのだ。 アメリカ人やイギリス人の大卒の人に尋ねてみるとよい。彼らは、必ずこう言う。例外はない。 こんなことも知らないで日本人は、「自分達も欧米人に負けない高等学問をやっている国民なのだ」と 思いこんでいる。日本の大学生が、学制(カリキュラム)として大学で受けている講義は学問などでは ない。あれは「土人のコトバ遊び」だ。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P171〜177
383 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 10:06:40 0
さてどうかな
384 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 14:56:17 0
ほしゅ
>その「トランス自体」はなかなか言葉で描写するのは難しいね。 >おそらくトランスというのは言語秩序がはずれた状態というか、 トランスという接頭語のつく言葉をいろいろ思い浮かべると 「移行」というニュアンスが結構濃い感じがする。 俗にいう「いっちゃってる」というトランス状態だけじゃなく 身体的なものを言葉の次元に移行させる(transition)とか、 ある言語から違う言語へ翻訳する(translation)とかという、 そういうトランスについても考え合わせてみたいところだね。
学問の世界で、学者が対話形式で書いても相手にされてるのって哲学業界くらいじゃないのか?
387 :
実存主義者 :2007/06/18(月) 00:35:16 0
お勉強もしないで思いつきを発言できるとはなんという民主主義のすばらしさ! 382は現代のバカの見本。 「唯物弁証法」(=スターリン主義)のほうがまだ知能程度は高かろう。
388 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 01:49:37 0
ただのコピペ厨だろうに
>>382 貼った意図は全然わからないがwwおもしろい文章だな。
この文章の範囲内では決定的な価値審級が「アメリカ人やイギリス人の大卒の人」に
懸かっているwwそれはまるで亡霊のようにこの文章の中に出現しているww
幽霊っていうのはこういうものかも知れないなww
直観的に獲得された何かを、ロゴスに置き換えていく
(身体的なものを言葉の次元に移行させる)ときに不意に現れる、
その場には絶対的に不在の何か。或る飛躍、超越、絶対的他者。
それは非主観的な外界には絶対に存在し得ないという意味で
純粋な「他者」と言えないかな?
wwww
>>385 音楽を聴いてて「持っていかれる」という表現あるよね。あれなんか移行でもあり、
移行する先は「非日常的意識」でもあり、だよね。
>身体的なものを言葉の次元に移行させる(transition)とか、
>ある言語から違う言語へ翻訳する(translation)とかという、
>そういうトランスについても考え合わせてみたいところだね。
どちらも「ヘルメーネウェイン」という語でくくれそうだなw
最近、アセンションを中核としたニューエイジ・スピリチュアル「ブーム」にどのような意味が 「あったのか」(もはや過去形w)をちょっと考えていて、オカ板でぶつぶつ喋っていたら、 アセンション関連スレでおもしろい「対話」ができた。ちょっと長いがこぴぺしておこう。 読みやすくするため、おれのレスの名前欄を「おれ」にし、idを削除した。 35 名前:おれ メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 17:34:44 「外的」な現象が起きるかどうかは問題では無く、 集まった人間達の内的変化が社会・文化にどう影響を与えうるか、 という点が問題だ。 39 名前:おれ メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 17:44:02 アセンションというスクリーニングで集まった人間達に 共通する資質、体質が鍵になる。
46 名前:本当にあった怖い名無し メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 20:12:04
>>35 >>39 そうだねえ。現実社会ではまだ表面化していないもんな。
でも内的変化はいずれ外的な現象ももたらすと思う。
実際自分も今は外で語ろうとは思わんもんね。まだそんな時期じゃないんでしょう。
体質はわからんけど(以前水を良く飲むとか、整髪剤が嫌いとかいうのはあった)、
資質については思い当たる節がある。
・独立した個であろうとしながら、全体の調和を重んじる
・物事を客観視する
・宗教やイデオロギーに染まりたくない
・エゴ、欲求が希薄
・現実社会では否定されがちな存在
・指導者にはなろうとしない、みなそれぞれ互いに補い合う仲だから
・何かつるんで事を起こそうという気概はまったくない 各自実践
・事の真偽、善悪は重要ではなく、その中から意義あるものを見つけようとする
・自分を知ろうとする、自分に答えを求める、自分で価値を見出す
・定義や分類にこだわらない、逆に言えばあやふやすぎてつかみ所がない
・なにかしら気づきを得てここに至る人がいる (自分がそう)
・悟り、覚醒、変性意識状態、インディゴとの関係性
・特殊な超常的感覚を持つ人もいる
あくまで個人的に思うところです。
みんながどう思うかも知りたい。
現在ここらでは期待や依存ばかりの夢想的アセンションをフルイにかけて余分なものをそぎ落とし、
現実指向型にシフトしようとしている段階かな。自分はそういう人たちの存在に共感を覚える。
この先どうなるかって?しらないよw
自分はわけのわからないものを抱えたまま確信に至れないでいる状況。
47 名前:おれ メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 20:35:53 体質的には、穏当に言えば「天然が深い」人が集められた。 揚げてくれた項目を検討すると >・独立した個であろうとしながら、全体の調和を重んじる 思いこみが激しいので自分を中心とした非常に狭い範囲を「全体」と認識しがち。 >・物事を客観視する これはまったく反対だと思う。 >・宗教やイデオロギーに染まりたくない アテンションスパンが短いのでイデオロギーには染まれない。 既存大手宗教には染まりにくいかも知れないが、基本的に宗教的。 >・エゴ、欲求が希薄 エゴイストではなくエゴティスト。 >・現実社会では否定されがちな存在 この一点で結束を持つことも可能。 >・指導者にはなろうとしない、みなそれぞれ互いに補い合う仲だから 集団における「責任感」に対し強度の不安がある。
48 名前:おれ メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 20:40:34
>・何かつるんで事を起こそうという気概はまったくない 各自実践
基本的に協調性に乏しい。
>・事の真偽、善悪は重要ではなく、その中から意義あるものを見つけようとする
>・自分を知ろうとする、自分に答えを求める、自分で価値を見出す
>・定義や分類にこだわらない、逆に言えばあやふやすぎてつかみ所がない
自意識が強く、思いこみが激しく、視野が狭いので、自分が「すでに」獲得している
価値観でしかものごとをはかることができない。
>・なにかしら気づきを得てここに至る人がいる (自分がそう)
直観的。
>・悟り、覚醒、変性意識状態、インディゴとの関係性
ADHD的傾向。
>・特殊な超常的感覚を持つ人もいる
感覚変容の可能性。
人間の思考は行為、発言を通してしか外界に働きかけることはできない。
精神的エネルギーというものは個人の内的モチベーションとしてしか存在しない。
問題はこういった体質・資質を持った人間が「アセンション」という話題で集まったことに
どのような意味があったか?という点だ。
50 名前:本当にあった怖い名無し メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 21:01:00
>>47 >>48 なるほど。
そう言われればそうなんだろうな。
どのような意味があったと思うの?
51 名前:おれ メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 21:16:21
>>50 君の揚げてくれた資質の項目自体は非常に的を射たものだと思う。
しかしその全てが諸刃の剣であったり、二面性を持つものであることを示したかったので
少し表現が極端になったきらいがある。気分を害されたら申し訳ない。
どのような意味があったか、は未だうまく言葉で表現できない。
未だこれから変化する可能性もある。2012年に向けてね。何も起きなくても。
君はどう思うんだい?
53 名前:本当にあった怖い名無し メェル:sage 投稿日:2007/06/19(火) 22:13:36
>>51 おーなんか感動しちゃったよw
あなたすごいね。そこまで自ら対極に向かい合えるとは。
自分もこういう場所だから裏面を誘い込むだろうとも覚悟していた。
しかしあのレスを受けて少し揺らいだ自分はまだまだやね。
すばらしい経験になったよ。ありがとう。
今まででわかったのは自分はひとりじゃないってことかな。
他のアセスレでも書いたけど、やがては個々の動きが総体となって形を見せ始めると思う。
自分はこのレスが気になるところ
> 185 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/06/18(月) 22:32:00
>龍の扉が開くまで、虹人は虚無感に支配されていた。
こういったケーススタディが行われたということは、耐え忍ぶときがきてるのかもな。
その流れで反動的スイッチが入って、先の具体性が明確になるかもしれない。
395 :
考える名無しさん :2007/06/22(金) 00:33:02 0
ん?不勉強で申し訳ないんだが2012年ってなんの年? 解散したバンドの再結成でもするのか
396 :
佃煮マニア :2007/06/22(金) 02:06:25 0
人間の認知出来る範囲がすべてだという世界観で考えれば、 トランスレーション、変容というのはいともカンタンに起こってくるね 身の回りの事物を端的に簡略化して把握する為に、 また把握した内容を他人との間で共約しやすい形に組み替え出来るように、 人間の頭は概念化、記号化という作業をする この概念や記号だけを日常から切り離して抽出すると、 生活レベルではまったく次元の違うものや現象同士に意外な共通点を見つけられたりする 共通項が見つけられたものには同じラベルを貼って、おなじ引き出しにしまう そうするとだんだん、その引き出しの中にあるものは全て、頭の中で「同じもの」という感覚ができてくる ふとんが、ふっとんだ ていうダジャレも、 同じ引き出しにしまわれていた別次元のモノと現象がふたつ一緒にされて表出された形だね
>>395 wwwもっと言うと2012年12月22日らしいww
この日付でマヤ歴が終わっているそうだ。この日付、「アセンション」「フォトンベルト」
などでぐぐるといろいろ出てくるからちょっと見てみて欲しい。
終末観と、その契機で「霊的次元の上昇・昇華」が起きるという考え方、
それが「アセンション」の中心概念だ。ニューエイジ系の極右と言えるんじゃないかなw
これに関して調べたことすべてを「信じ」関連性を見出していくという流れで
広まっていったが、おれ的にはこれ系のサイトをひとつとして全部読めた試しがないww
UFOとか天使の名前とか出てくると、もうかんべんw
しかしこのスレで少し話した霊能者的・巫女的体質の若者ではまる者も多いらしい。
それで現象として興味を持った。或る体質・資質を持った人々が、
或る話題を中心に集まる、というか実際にはネットで情報交換したり、「霊的レベル」を
問題にして生活信条を語り合う、といった程度の「集まり方」だと思うが、
ここ数年「アースデイ」や類似のイベント、山系のレイブなどスピリチュアル系の空気感
を持ったリアルの「集まり」も多くあるようだ。
こぴぺしたオカ板アセンション系スレでは最近否定派が暴れてて肯定派はあまり出てこなかったのだが、
おれのかきこの中立性に反応して現れたのかな。えらい敏感なやつらだからな。
>>394 の
>自分はこのレスが気になるところ
>> 185 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2007/06/18(月) 22:32:00
>>龍の扉が開くまで、虹人は虚無感に支配されていた。
この部分とかさっぱりわからんがww彼らの知識がかなり得体の知れないところまで
行っているのかは伝わる。
>>396 だじゃれかw「意外な共通点」(音韻)がロゴスを掻き回すと、笑いに繋がる。
右脳と左脳の錯綜だね。なぜ「可笑しい」のか考えるとわからなくなるww
次元を超えた関連性の発見という構造は、だじゃれからオカルト信者を経由して
狂気と呼ばれる状態まで、その飛躍の度合いに比例して流通する範囲が狭まって行く。
これには個体ごとの因子の強さが影響すると思われるが
全ての感覚情報を関連づけていこうとする脳の化学変化を
無理矢理言語の次元に押さえ込もうとするものがロゴスとも言えそうだ。
また別の系列ではフロイトが「言い間違い」に隠された意味の連なりを発見してから、
構造主義、ポスト構造主義によく見られる語源、接頭・接尾辞に着目した分析へと、
「意外な共通点」に潜む、「サブロゴス」みたいなものを追求する流れもあるな、と
ぼんやり考えた。その点、「それ」を当たり前のように使用し続けてきた詩人たちに、
現代の一部の哲学者たちが近づく(ナンシーしか念頭にないんだけどねw)のも頷ける。
399 :
考える名無しさん :2007/06/25(月) 19:18:48 0
バカを教育するには対話が基本かもしれないけどね。 なんで「哲学の基本は対話」なんだか、さっぱりわからん。
>>397 うわうわwその日俺の誕生日だ・・・
ウィキより抜粋
太陽系はプレアデス星団のアルシオーネを中心として約26,000年周期で回っている。地球は公転軌道の関係でフォトンベルトに一時的に入ったり出たりしているが、2012年12月22日には完全に突入し、通過するのに2000年間を要する。
フォトンベルトはアルシオーネを中心に垂直に分布しており、NASAが観測に成功している。
フォトンベルトに突入すると強力な電磁波により太陽や地球の活動に大きな影響が出る。
20世紀末から異常気象や火山活動・地震が頻発しているのは地球がフォトンベルトに入り始めたからである。
電子機器が使用できなくなる。
地球人類は肉体を維持できなくなり、気体状の生命体に進化する。
地球人類は意識の変革が起こる(アセンション)
前回突入時にはアトランティス文明が滅亡し、人類の大半が消滅した。
う〜んすさまじいバースデイパーティになりそうだな
もう思考停止した
401 :
エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ :2007/06/27(水) 01:46:56 0
アセンション関連スレの引用、なかなか面白いね。 これだけでもなんとなく空気がわかった感じがする(笑 アセンションも繰り返される歴史現象の一コマなんだろう。 新世紀もやや時が経つと、地下水脈に潜伏してた動きが表面化してくる。 見えないものに対する、ちょっとした興味から、傾倒、帰依、妄信まで。 世紀末思想、終末思想、ハルマゲドンなどなどのニヒリズムに、 ニーチェの超人、ガンダムのニュータイプ、東海岸のニューエイジなどなどの メシアニズムがセットされ、transcend【超越】へと向かう。
「太陽系はプレアデス星団のアルシオーネを中心として」 まで読んだところで思考停止しちゃうなあ(笑 「ふとんが、ふっとんだ」というダジャレは、 言葉が別の言葉に変容したものと合体化したものだけど、 ルイス・キャロルの世界にはこういうのが盛りだくさんで、 ダジャレ、風刺、造語なんかによってセンス(意味=感覚)を 脱臼させることで、別回路のtransmission【伝達】に導く。
>>400 誕生日ってのは笑えるなww
まあ「フォトンベルト」の存在自体否定している学者もいるし、
アセンション信仰に付随した疑似科学のひとつと見るのが妥当だろうなww
最近はこれに「NESRA」という謎の法案の存在も結びついてきてて、
終末観における不安の所在が明らかになりつつあるような気がしているww
おれが最近これ系に興味を持っているのは、
この現象全般の流れにオカルティックではない意味を見ることができるような気がするからだ。
>>401 お、やっと来たなwww乙。
>これだけでもなんとなく空気がわかった感じがする(笑
だろ?すごいんだよこいつらwwぶっとびだよwww
>見えないものに対する、ちょっとした興味から、傾倒、帰依、妄信まで。
人類の文化も加速度的に複雑化してきてるから、疑似科学や政府の陰謀まで
ありとあらゆるものが組み合わせられている。
おれがアセンション信仰、ニューエイジブームで気になるのは
>>391-393 の引用に見られる或る体質・素質、
このスレで「遺伝形質として存在すると思われる或る因子」を強く持った人間が
「増えている」という点だ。
何故増えているのか。ちょっと心当たりがある。
おれの知識の範囲内でこの件を語ろうとすると、
まず「絶対に検証不可能な或る因果関係」を話さなくてはならない。
まあ居酒屋の雑談程度と思ってくれwww
手元に資料が無いので細かな部分はうろ覚えだww
1960年代アメリカ5大湖周辺で鳥類の観察をしていた研究家はハクトウワシの数が 激減しているのに気づいた。孵らない卵が多く、子育て行為を忘れてしまったような母鳥も多い。 これは環境ホルモン関連のクラシック、シーア・コルボーン、ジョン・マイヤーズ共著 「奪われし未来」の冒頭だ。この鳥の異常の原因は五大湖に流れ込む化学物質で、 動物の体内に入ると排出されず、脂肪細胞に蓄積し、食物連鎖を上ることによって濃縮されていく。 湖から大西洋に回遊して繁殖するウナギを媒介に、各種化学物質(殺虫剤・洗剤・化学樹脂)は 瞬く間に世界中に広まっていく。 発ガン性があるとマスコミが騒ぎ、行政も動くが、ほとんどの化学物質は 発ガン性よりもただ体内にはいると身体がそれをホルモンと間違うという点(分子の大きさ?)が問題で これが「環境ホルモン」「内分泌攪乱物質」「ホルモン様物質」と呼ばれる所以だが、 何故一時ブームとなりそれが治まってしまったかというと、おそらくホルモンを撹乱する物質 というのは法的にその因果関係を立証することが難しいためと思われる。 世には未だ数万種類の化学物質が溢れ、それは人間の内分泌系を撹乱し続けているのだが、 その全般的であいまいな「メス化」は責任の持って行きようが無い、というわけだ。
性的な過激傾向、キレやすい若年層、男性のストーカー犯罪の増加、赤ちゃんポストに至る
女性の子育て行為離れ、ADHDを含むメンヘル的体質の増加、これらはすべて
ホルモン様化学物質と「絶対に検証不可能な因果関係」がある、というわけだww
特に精神面への影響は不気味だ。
化学物質過敏症など、まだ詳しく知られていない80年代には心の病と思われていた例も
あるようだ。ここら辺の資料としてトッド・ヘインズ監督と主演女優ジュリアン・ムーアの
出世作「SAFE」1995をあげておこう。邦題は「ケミカルシンドローム」wwホラーの棚に
あるはずだ。確かに「怖い」映画である。
その他、本ではレイチェル・カーソン「沈黙の春」
有吉佐和子「複合汚染」などがこの方面でのクラシック。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/480671173X.html これは論調が少し偏っている感はあるが、学校校舎の建築様式と校内暴力発生件数の対比など
端的にデータがまとめられている。
例えば何年か前に17歳の少年の凶行が続いた年があっただろ? すると、その年あるいはその17年前(つまり胎内暴露)に新発売された洗剤か殺虫剤が原因ではないか? とか考えられるわけだwww このぜんぜん「霊的」ではないが「目に見えない」原因によって、強化・増加した体質・資質が ニューエイジ系流行の基盤をかたちづくったと考えると、 アセンション信仰の言う、終末観や霊的進化というものが、まったく違う様相で、おれには見えるのだが。 wwwww
408 :
佃煮マニア :2007/07/01(日) 05:36:20 0
意識がある程度覚醒している状態の時しか人間は言葉を発しないけど、 人間はいつもいつも覚醒している訳ではなく、 ぼんやりと雲のように流れるイメージを景色に重ね見ているだけの時もあるし 半醒半睡で冷蔵庫を開けて思わずミルクをこぼしてしまい、そんな時でも「ああ、」位しか言わないだろう 言葉というものは覚醒時専用のツールなんだよね 一方ルイス・キャロルが散りばめたレトリックに耽溺していると、 意識の下部を風に晒し、表層は引き出しにでもしまい忘れてしまったような錯覚に陥る 覚醒時専用であるはずの言葉が、人を深層意識に誘引していく現象を体験出来る。 センスの脱臼脱臼で脳がシャッフルされているのかな
409 :
考える名無しさん :2007/07/01(日) 05:49:08 0
オカルト神話の内容も、時代の影響を受けまくりなんだよね 爬虫類図鑑がまだない時期に、見た事のない爬虫類が発見されれば、ドラゴンが人を食うと騒ぎ、 宇宙の構造を望遠鏡でやっと少しだけ解明されかけの時期には、フォトンベルトをNASAが確認したと言っては騒ぐ。 巧みに時代の空気を取り込みながら、時空を揺るがす神話を作っては恐怖を提示する。 ウィキで「フォトンベルト」を検索したら類義語に「トンデモ」があったのにはw多少ウケたが、 しかし、、、疑似化学と呼ばれるこれらの分野も、蓋然性の化学という言葉に置き換えれば、 否定も肯定もされない学説を「おそらくこの事実は真理へ布石になる、に違いない」の繰り返しで積み上げていって、 学者達がいかに粉骨砕身してきたか、を考えると 蓋然性の化学もこれと同じで、予め結果を想定しながら研究をしている所だけしか相違点は見つからない。 昔で言うと連続律だとか目的因を、今考えると微笑ましくも取れるけれども こういうものを一言で「統失ですね」と片付けられない部分があるある。
410 :
佃煮マニア :2007/07/01(日) 06:09:11 0
終末論というのは昔っからあって、 それが何故あるのかといえば、 終わりの時がある、もうすぐだと煽って人々を頑張らせる為だと思う。 ファイナルファンタジーのプロデューサーも言ってたけど、 「なんで毎回ファイナルなんですか?」と聞かれて 「これで最後だと思うと、色んな要素詰め込まなきゃって思うでしょw」みたいな事言ってた。 ちょっとした世間話でも、「寿命があと三日なら何をする?」ってお題目がある。 実際あと三日だと、あと八○年て言われるより充実して過ごさねばと刺し迫った表情になる 重病で余命幾ばくもない会社の社長が、壮大な新規プランを次々立ち上げるとか 突然ボランティア活動を盛大に始めるとか、世間を見てもあるんじゃないかと思う ニュースが深刻な話題ばかり流すのもその辺に理由があるという人もいる 確かに「この人、人生終わってますね、あなたも終わってないですか?やばいですよ」 的なニュアンスを汲む事も出来る
411 :
佃煮マニア :2007/07/01(日) 06:15:44 0
>終末観や霊的進化というものが、まったく違う様相で、おれには見えるのだが。
>>405-407 カルト的宗教やオカルト的心理学がのさばってくると、
化学的かつ科学的なメスによって解剖したくなるってのはあるね。
レイチェル・カーソン「沈黙の春」 はかなり長期にわたって積読(苦笑
>人を深層意識に誘引していく現象を体験出来る。
>>408 そうそう。半醒半睡において夢のロジックが顕在化してくる。
半醒半睡においてこそ現われ、感じられるリアリティ。
ルイス・キャロルの言葉は(カフカなんかも)まさに。
ドゥルーズは『意味の論理学』でそのキャロル的世界を
深層ではなく、あくまで表層として捉えたのがユニークだった。
413 :
考える名無しさん :2007/07/07(土) 05:45:28 0
悪とは道をそらせるものである。 悪の手段のひとつは、対話である。
414 :
考える名無しさん :2007/07/07(土) 18:49:58 O
善の手段のひとつもまた対話である
対話は手段のひとつである
416 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 14:32:30 0
善も悪も対話の手段のひとつであるw
きんたまがうごくのも右きんちゃんと左きんちゃんが対話してるからなんだ
419 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 23:17:41 0
マッキ カンジャノ ビョートーハ ココデシタカ?
いいえ ここは哲学や対話を愛するひとたちのためのスレです
対話してくださいって言うから ソクラテスごっこでもするネタスレかと思った・・・ 不毛でもそういうスレ立てたいんだけどどうかな?
>>408 >言葉というものは覚醒時専用のツールなんだよね
そうだね。あるいは言葉(ロゴス)によって覚醒することができている、とも
言えるだろうか。もっと言えばロゴスによる意識の支配自体、人間特有の
「特殊な」意識状態と言えるかも知れない。そうではない自動的というか
本能的なというかそういう状態はトランスに近い。
ルイス・キャロルは子供好きで有名だから子供たちと話す内にその
「まだロゴスに支配され尽くしていない」意識の状態でのレトリックを「再発見」
したのかも知れないな。
>>409 ,410
今回のアセンションムーブメントで面白いと思うのは、まず体質・資質的なものが
問われ、それに「程度の差」を見ている点。それが「メス化」と方向性が同じと思われる点。
環境に即した生物の器質的変化を「進化」と呼ぶのなら、自ら生み出したホルモン攪乱的環境に
即している体質の変化もまた「進化」と呼んでもいいのかも知れないww
ならば彼らの言う「霊的進化」というのも単に変化の傾向として存在するものかも知れないww
ぶっちゃけその体質の傾向は現在すでにある社会的なシステムに照らし合わせると
「生活しにくい」「仕事しにくい」体質と言える。だからフリーターが増えているんだろう。
社会サイドがその問題をすべてシステムの構造上の問題として還元しきれてないのは
それを不可逆的な体質変化と認識していないためではないかな?
「仕事がしにくい」人間たちがシンプルなポジティビティを信じることに
「霊的進化」という不思議な疑似権威を見出し、決定的な災厄を待ち望む。
社会はそのシステム内にその「責任」を探し続ける。
おれはそこら辺全体に静かでゆるやかな終末を見てるねwww
>>412 レイチェル・カーソンは確かガンだったせいで、論調が「発ガン性」に
少し偏っているようだね。
夢の「ロジック」、そこでもまだ存在する規則性、自動性、
それに、単なるカオスではないトランスの特徴もあるような気がした。
425 :
佃煮マニア :2007/07/09(月) 18:12:34 0
>>423 「地球にやさしく」とか何とか、国際レベルで温暖化だとか二酸化炭素削減目標なんかが叫ばれていて、
氷を溶かさないようにしなきゃ、車減らさなきゃ、て頑張っているけど、
同時に少子化や環境ホルモンの影響も解決しなきゃって流れになっている。
まあ少子化は環境問題と密接に結びついている訳ではないけど、
でも地球にとって氷が溶けたり二酸化炭素の配分量が増えるのは些末な事なのかも知れない。
問題は増えすぎた動物の頭数じゃないだろうか?
食料問題、環境ホルモンの影響によるメス化うんぬんは、自然という神のみ技によって、巧妙に人減らしが始まっている事の証ではないかな
人間がコントロールしようとしなくても、地球は精緻なな自浄パワーを持っているから頑張らなくていい。
飛行機から見下ろすと、地上にビッシリ埋め尽くすように増え広がった人間は、
培養されたばい菌のように見える。この様子は薄ら寒く、病的ですらある。
ある時期を境にまったく別次元の生物に進化するとしたら、
ホルモン攪乱的環境が飽和点に達した時に、チッ素を取り込む生物にでも進化するかも知れないね。
具体的に遺伝子がどういう化学変化を起こしてそう進化するのかは科学に疎いのでよくわかんないけど。
人間は気体生物になって、、、霊体でもあるから、生態系の外側に位置し、かつ支配的な存在となる、のかな?
こりゃ〜死後の世界と同様に、人間の希望的観測が多分に盛り込まれた世界観だなあ(´ー`)
社会サイドは、浮き草稼業はどの時代でもいるもんだという見方をしているんだろうね
でもそいつらの幾人かはニュータイプだったと。ガ、ガンダムだ・・・
進化の過程がよく樹形で表されたりするけど、よく伸びた徒長枝が葉落ちしてポキンといってしまう事はよくある。
それと同じように、身体の一部分だけ進化しすぎて適応できず絶えてしまう種もいる。
でもうまくすると、進化と一緒に奇跡的な適応能力も併せ持って、ガンダムが始まるかもしれない
何かワクワクするわ
コールドスリープしたくなってきた
>>425 >人間は気体生物になって、、、霊体でもあるから、生態系の外側に位置し、かつ支配的な存在となる、のかな?
>こりゃ〜死後の世界と同様に、人間の希望的観測が多分に盛り込まれた世界観だなあ(´ー`)
wwそこら辺がアセンション系の人たちがイメージしてることだろうな。素朴で、前宗教的というか、
アニミズム的というかww
>社会サイドは、浮き草稼業はどの時代でもいるもんだという見方をしているんだろうね
>でもそいつらの幾人かはニュータイプだったと。ガ、ガンダムだ・・・
おれはエヴァおただから、フォトンベルトみたいなセカンドインパクトみたいな
天変地異がやっぱ一発欲しいところだなwww
こう考えてみるとやっぱアセンションていうのは現代のある程度の幅をもった世代層の
集合的無意識に訴えかけるドラマがあるねww
>進化の過程がよく樹形で表されたりするけど、よく伸びた徒長枝が葉落ちしてポキンといってしまう事はよくある。 >それと同じように、身体の一部分だけ進化しすぎて適応できず絶えてしまう種もいる。 >でもうまくすると、進化と一緒に奇跡的な適応能力も併せ持って、ガンダムが始まるかもしれない そうそう。最悪の破滅の萌芽と、突破口の共存、それがカオス的可能性を持った「未来」の ありのままの姿だと思うな。だからアセンションみたいな動きも頭から否定する気にはならない。 社会のシステムに合わない人間が増えつつあるのなら、それは同時に、最早社会のシステムが ニュータイプに合わなくなって来ているとも言える。おれ達がじじいになって、実際社会を動かすのが、 いまおれ達の眼には適応障害を起こしてるようにしか見えない奴ら、になったとき、 いったい世界はどんな有様になっていることだろうwww おれもある意味、楽しみなんだwwwwwwww
現代日本社会について 人間って普通の状態では 嫌なことはやりたくないんだよね。 「弱い自分に負けない・負けるななんて」言葉をよく聞くけど とても不自然だ。この世の中は不自然が賞賛されるのか? この社会はどうして人に 嫌なことばかりやらせるのだろう。 なぜ嫌なことを一生懸命やると 賞賛されるのだろう? 変な世の中だ。変な世界だ。 今僕は、星の王子さまの気持ちだよw
昨日はレンタルで「不都合な真実」を見た。
アル・ゴアのコテコテのアメリカ政治家口調は、もはや演芸の域に達しているww
「Co2の削減は我々ひとりひとりががんばればできる!WE CAN DO IT !」とか
息巻かれるとさすがに引いてしまうが、温暖化についてはとても勉強になった。
>>425 南極・北極・グリーンランドの氷はすでにかなりのスピードで溶け始め、
シベリアの永久凍土も溶け、それに含まれているメタンの放出によって温室効果は加速される。
海水に吸収されたCo2は海水を酸化させ、珊瑚・プランクトン・甲殻類を減少させ、
生態系を一変させる。海水温度の上昇によって年を追うごとに台風の規模は大きくなっていく。
果たして人類は素直に反省し、「自分らにやさしい」ww環境を維持できるのか?
これはヘタするとなかなか来ない天変地異より早く「やってくる」だろうな。
>>428 お、いらっしゃい。調度↑書いてたから気が付かなかった。
よく考えて、あとでレスするよwゆっくりしてってww
>>428 「弱い自分に負けない・負けるな」とか類似の「語調」はよく聞くね。
最近流行りの薄っぺらな「ポジティビティ」だ。その脆弱な論理構造もさることながら、
徹底的に自意識過剰で劇場的というか演技的な「語調」自体が流行するには
それらの語調使用の「快感」があるんだろうな。自分自分自分自分wwwww
人間は「科学・文化的な発展・進歩」として非原始的方向性を盲目的に目指してきたが、
それが今漠然と感じる「不自然さ」をゆっくりと形成してきたんだろうな。
資本主義体制、自由競争、最初は素朴な「いいアイディア」だったんだろうが、
突き詰めると「戦争が一番儲かる」とかねwww
そういう「今までの歴史のどこかで、何か間違いを犯したのかも知れないのだが
それが何かわからない」という気分がまた、不安に裏打ちされた脆弱なポジティビティを
復興させる。
まあ世の中、ブッシュもいればゴアもいるwww変なことに素直に驚く心は大切にしたいねww
中学になってから読んだ岩波少年文庫「星の王子様」はもうボロボロだが、
いまだおれの本棚にも、ある。
432 :
佃煮マニア :2007/07/16(月) 21:44:28 0
>>428 漫画家の蛭子さんがチリ紙交換してた時の事を思い出して言ってたけど、
仕事は嫌な事をすること らしい。
本当にそうなんだよね、単純作業(これもストレスっちゃすとれすだけどね)より、
その場その場で自分自身の機転の利いた判断力を問われる、つまりストレスの多い仕事程給料が高い。
その中では、自分の弱ささえも力として利用してるのかも知れない。
人間個人の特性なんて本当に限られてるから。
これもまた、中島らもさんが営業時代のことだけど、
すらすらと社の方針や仕事内容なんかをプレゼンできなかったらしい。
どうしても、喋ろうとすると吃ったり変な脂汗をかいたり、という有様。。。
でも、それが逆に説得力を持った。
「お前の喋り方を聞いていると、何か知らんが、ものを伝えようとしているんだと感じる」と先方から言われたそうだ。
それで商談が成立した事も多かったと言う。
本人が持っている弱さとは、人間くささと言い換える事も出来る。
それは親近感をともなって人の心を引き付ける時もある。
弱さを大事にしてやってね。
433 :
佃煮マニア :2007/07/16(月) 21:55:09 0
ストレス面と食を見ると、 毎日とっかえひっかえ違うエサを与えられた犬よりも、 毎食同じエサを与えられた犬の方が長生きする、という調査結果がある。 人間もこれと同じで、毎日エサ代わりに「そば」を食していた内田百間は、 仙人とも言える程の長寿を獲得した。 健康ブームでアレを食えコレを食えだのマスゴミが煽り立てているけども 結局エサみたいな粗食に甘んじているのが一番いいという事だね
「嫌なこと」か、確かになあ。
おれはけっこう割り切ってるな。仕事に使うのは自分のほんの一部。
専門的な技術と、理論的な「しきり」と判断。感情はどっか別の所にあるような感じかなww
仕事で付き合う相手にもそれを要求するなw
金の流れを「上下」ととらえたり、職種に優劣を見たり、
個人的なプライドを仕事に持ち込む奴とはうまくいかないなww
リーマンだから徹底的な官僚主義的文法みたいなものを使えば、
あまり人間的な部分に踏み込まずに仕事を進められるような気がする。
やな奴かもなwww
だけど同じようなスタンスの奴に仕事で出会うことも最近は結構ある。
「仕事なんだからクールにさっさとやっちゃいましょうw」みたいなww
誰だってこうゆう世の中で一生懸命やってるんだから、
その人間的な部分には触らず尊重していきましょう、つうかなww
たかだか金のためにやってることでしょ?くらいの意識かな。
やっぱ「嫌なこと」だからかなwwwwww
それよりおれは
>>432 の、ド天然の蛭子能収と、ドラッグユーザーの中島らもという
ふたりが、なにか共通項を持っているような気がしたなwww
>>433 おれは粗食好きだなあwwうまい飯と一汁二菜、三菜くらいが一番はまって喰えるww
蕎麦も好きだなあww濃い辛汁の店がいいなあwww
そーいう話じゃないか?wwww
435 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 21:25:30 0
うまい飯、、粗食じゃないだろ
そっかwwww コシヒカリを男がといで、釜で堅めに炊いて、みたいな世界を想像してたww すまんすまん。
コシヒカリは美味しいですよね♪ 基本的にお米が美味しければお惣菜は納豆やお漬け物、野菜の煮物に焼き魚で充分ですね。 ふるる♪
最高のソースは空腹である by エートル・オートル 貧乏サヴァランの森茉莉より内田百閧持ち出してくる佃煮マニア、 おそるべし。
荒らしの張本人が消えたら、進行が遅くなったね。 やっぱりただの隔離スレだったのねん。 それに失敗したということは糞スレなのねん。 に〜〜ん。
このスレは対話のスレです きちんと対話してくださる方であれば、どなたでも歓迎いたします
>>473 wwwなんだよその登場の仕方はwww
だが同意ww
>>438 おまいまでなんだよそれはwww
だが同意ww
ちょっと話を戻してまとめると、顕神体験等に代表される宗教的「非日常的意識の体験」
あるいはパトス的真理直観「悟り・覚醒」と、心霊・超自然現象体験は、「いわゆる天然」から
「いわゆる狂気」までの程度の差を持つ、脳内の化学的環境の「或る要素」と関係があると
おれには思われる。この要素は、民族的に継承されてきた「いわゆる霊能」の血統的保存を見ると
遺伝形質であるようだ。また、伝統的にアヤワスカ、メスカリンを含有するサボテン、イエージ、
キノコ、大麻などを使用するシャーマンの存在を考えるとサイケデリクスを中心とした、
ドラッグによる「非日常的意識の体験」さえもこの要素の理解の糸口となるのかも知れない。
1950年代以降、化学物質の影響により、この「或る要素」は次第に強く、広く
見られるようになってきたのは、現在のニューエイジ・スピリチュアルブームが
それを示していると思われる。同じ原因により増加の一途をたどる「心の病」は
その数量的増加によって経済的に繁栄する構造上に存在する「医療」には
根本的な解決を望むべくも無い、それを「病い」と見ている限りでは。www
この要素による、ロゴスの支配を逃れた非日常的意識「トランス」における「自動性」を
考察することにより、宗教・民間信仰・心霊現象・狂気などを一括して、違う視点から
見ることができるようになるだろう。「トランス」はカオスではない。今のところあいまいにも
「本能」と呼ばれる、ロゴスよりも根源的なシステムの支配下に作動する「或るモード」とまでは
言えるだろう。
ゆとり教育によって大量算出されたネカフェ難民、彼らは殆どがおたくで、 一球入魂型の生真面目な、職人タイプな優秀人材であるにも関わらず、 そこに少しでもコミュニケーションスキルについての教育さえ施されていれば この度のような悲劇は防げたと思う。 同じように、病人とも、預言者とも印象をかえられる巫女的な属性をもつ、 いわゆるてんかん持ちの人らも、 そこに何らかの手が加えられれば流通の中に組み入れる事は可能かと思う。 しかし、社会の流れを巧みに読み、各地に散財する彼らを統合して一括に管理してしまえるシステム自体を つくってどうこうできる、流れを修正出来る人間が存在しないのね。 ワーキングプアの問題も、中小企業や工場(こうば)の職人達を優遇して管理、技術の継承を怠りなく続けられる 独立した機関があれば、 また技術力は日本人だけに徹底して教育しといて、単純労働は海外の労働力頼みにすれば、 今よりアグレッシブな人材確保につながったんだろう。 今圧力をかけてきている中国に対抗出来る策はぶっちゃけそれが主だろう。 「もし〜たら」では屁理屈にもならないのは分かってるけれども。。。 てんかん持ちの人間についても、福祉面で自立支援したり年金で保証したり、と 最低限な生活面でのマイナス保証をするに留まらず、彼らが持つ属性についてよく理解され、 適正を生かしてプラスに振り向ける能力開発をしてもらえれば!
神懸かりと狂気、または健常者と統合失調患者の境界線をどこに置くかは、難しい問題だよね
例えば
ttp://www2.bpe.es.osaka-u.ac.jp/bip/museum/triangles.htmlに見られる カニッツァの図形を我々が見たとき、必ずそこに三角形を見つける。
だがそこには三角形は描かれていない。
そこにないものを我々の脳が勝手に作り上げて「そこに存在するもの」として見ている。
これは一般に錯視と名がついているが、統合失調の人が見る幻覚とほぼ同質の錯覚と捉える事ができる
ただ、健常者の場合、はじめから錯視される事をみこして用意された図形のみにこういった反応をするに留まる
それに対して、
統合失調の当事者は、用意されていない所ににも脳内のイメージを投影させて錯覚している。
この差はどうあれ、後者の方が認知機能のフレキシビリティは強いと言える。つまり感受性が高い。
が、この志向の度合いが進むに従って取捨選択すべき情報量が増し、
判断力の正確さが失われていく。
しかし後者の場合でも、「これが錯覚だと分かっている錯覚」のうちにいるのであれば、
それをただのノイズだと瞬時に判断して切り捨てて生活する術くらいは獲得できる。
これを繰り返せば、意識的に「切り捨てよう」と思わなくても自動的に下意識が切り捨ててくれるようになる。
さらに本人がこの事をさして問題だと感じていなければ病人とも言えなくなる。
境界線は、この辺りにあるね
446 :
考える名無しさん :2007/07/27(金) 15:36:50 0
さげ
447 :
考える名無しさん :2007/07/27(金) 23:43:15 0
哲学の基本は、「教授との対話」なのかな。
448 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 06:20:38 0
>>447 アホかw
哲学をモノにしたかったら
(他人の)哲学を学んでる(真似てる)ひとじゃなく
(自分で)哲学してる(独創)ひとと対話しなきゃ駄目だろ
自分で独創するには先ず先達の思想ありきであり、 彼らの思想をさらに深く思考することで独自の思想が確立できるのでは? なぜなら哲学の第一義は懐疑だから
450 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 01:20:11 0
>>449 先達の思想は先入観の仕入れでしかないだろ?
それのどこが「独自の思想の確立」になるよw
451 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 07:17:22 O
哲学の第一義が懐疑ならば、オリジナルな独創もこれは本当に独創なのか疑ったほうがいい そこに至るまで他者の思想の影響があるやもしれない
452 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 07:42:26 0
>>451 「他者の思想が入ってなければ独創じゃない」って無茶苦茶いうとるなコイツ
453 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 12:56:16 O
先ずは独創とはどこまでを示すのかを定義する必要がありそうですね
454 :
考える名無しさん :2007/07/30(月) 13:34:13 0
勉強したことない奴は、独創だと勘違いして、 とっくの昔に言い古され、批判されてもはや省みられないような思想を ネット掲示板に書いて得意になる、2ちゃんねる哲学板住民のように なるであろう。そして、「こんなに独創的な思想を提示している俺を 評価してくれないと言うことは、やはり日本の学界はダメだ」とか 妄想しながら死んでいくであろう。
アカデミズムはどの辺まで吸収してどの辺で壊すべきなのか、みたいな話ですか? 対話形式で簡単に人に伝えられる思想、なんてものはそれだけでオリジナリティに欠けるし、 逆に、 いくら他人の受け売り思想であれ、一度本人のなかに入ってしまえば、 その人の個人的な経験とか遺伝子的特徴にプラスされた知識は唯一無二のものになるとも言える 個性について○○論で考えるか、それとも△△論で考えるか、いろいろあるみたいだけど、 この問題はとても難しい。この話は語り得ぬ問題なのかもしれない。 だからこそ語るべきなのかも知れないけど、上に挙げたうちでは後者をとりたい 何はともあれ、哲学徒は(そうでなくとも)、 一つの個として見たとき自分がいかに矮小であるかを心に留めて、必死になって故知を吸収するべきだ。 そうやって個と個の間で受け渡しが行われて、その間で、時に哲学の精神はビビッドな変化をとげながら、永遠に復活し続ける。 自分がその哲学的精神の単なる受け渡し役でしかなくとも、 それはそれでいいと思う
>>454 ま、気楽にいこうよ、2chなんだからwww
学問としての哲学はともかく、マイ哲学や人生哲学は独創といえるかもしれない
458 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 07:40:24 0
独創に嫉妬してるヤツがいるな
459 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 09:19:05 O
自身の独創哲学をここに披露できる勇気のある御仁はおらぬか? 我こそはと思う人はぜひ披瀝してくだされ 皆で語り合おうではないか
460 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 19:15:23 0
461 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 19:53:39 0
>>458 独創に嫉妬しているのではない。
ステレオタイプを独創と勘違いして自己満足できる
愚かさゆえの幸福に嫉妬しているのだ。
462 :
考える名無しさん :2007/07/31(火) 22:00:12 0
>>461 自分がステレオタイプなのがそんなに自慢かw
463 :
エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ :2007/08/01(水) 00:17:03 0
ステレオタイプな意見をあえて書き込んでみよう。
>>449 あたりで出た「独創には先ず先達の思想ありき」というのは、
デリダやドゥルーズを読んだ人間なら当然と考えるはず。
デリダは起源は常に既に痕跡でしかないといい、
ドゥルーズは反復でないような差異などないと語る。
彼らの思想を踏まえると、「独創」と「ステレオタイプ」の差は、
程度問題(量的差異)ということになる。
とはいえ、「独創的だな」や「個性的だね」という表現を使う以上、
オリジナリティを求める志向、独創性を評価する傾向は確実にあって、
「ステレオタイプを独創と勘違いして自己満足できる愚かさ」に対する非難、
が出てくるのも理解は出来るし、
そして、その非難自体がステレオタイプ化されたものであるというメタ非難、
が出てくるのも理解は出来る。
また、そのメタ非難自体がステレオタイプだというメタメタ非難、
が出てきてもおかしくないだろう。
464 :
エートル・オートル ◆0WsIEmknHQ :2007/08/01(水) 00:28:53 0
経済的かつ法的には、著作権、特許、意匠登録などなどで ある程度公に認められ、保護されてもいるけれども、 完全に独創的なものなどなく、完全にステレオタイプなものもない。 ボルヘスに「ドン・キホーテの作者ピエール・メナール」という短篇があって、 こうしたテーマの作品では最高に笑わせてくれるし考えさせてくれる。
465 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 01:08:31 0
ところでこれのどこが対話なんですか
基本的に煽りはスルーなのですが、1行煽りの輩もまた対話を求めているということです
468 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 05:12:05 O
煽っている人の独創的な哲学とやらをぜひ披瀝していただきたい
469 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 07:12:04 0
>>468 独創など無いと信じたがってるオマイラに
どんな独創が存在しうるw
例えば文学作品ならばほとんどの作品が換骨奪胎であり、古いものを工夫して新しいものに再生するという 手法がとられています 哲学も然りだと思いますね 先ずは先人の思想を学び、それを土台にして各人が各々の思想を深め展開していきます 無からは何も生まれません 必ず何らかの基礎がはたらいています 学問に限らずあらゆる分野で基礎や基本が必要なのはいうまでもありません
471 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 20:37:32 0
>>470 ついに哲学を糞文学と一緒にし始めたかw
なにが無からは何も生まれませんだよ
文学とか言ったってそもそも話し言葉も文字も無かったんだぞ
でもそこからちゃんと言葉やら文章やら文学やら哲学やら
いっぱい生まれてんじゃんよ
文学がきらいなのですか?
哲学という言葉の学問を扱うなかでも最高位の板においてさえ、 煽ることによってでしか対話できない人がいるのですね・・・
>>465 >まるで独創性の無いやつだなオマイw
オマイってオーマイゴッドの略かな?
もちろん私はきみの神ではない(笑
ところで、「独創性」というものを定義してみてくれ。
話は、それからだね。
君の話、それがカラでないならば。
>>469 >>468 のレスに対する応答としてはちぐはぐだね。
きみの「独創的な哲学とやらをぜひ披瀝していただきたい」と
書かれてあるのが読めないわけはないと思うんだけど。
>>471 >葉やら文章やら文学やら哲学やらいっぱい生まれてんじゃんよ
それらが「無から生まれた」という証明はできるかい?
そして、いつ、どこで、だれが、と答えられるのかい?
つまり、誕生の起源を特定できるのかい?
>>467 >1行煽りの輩もまた対話を求めているということです
よく親や人に相手になってもらいために
すねてみたり、ちょっかいを出したりする子供がいるね。
>>473 >煽ることによってでしか対話できない人がいるのですね・・・
ただ、読んでて哀しいのは、書き込みが煽りにすらなっていないことで。
476 :
佃煮マニア :2007/08/02(木) 23:12:03 0
無から言語獲得までの科学的推論のネタがいろいろありやんす
ttp://am.tea-nifty.com/ep/2004/07/prelang.html 人類が何故言葉を話すようになったかってとこからはそれるけど、
赤ちゃんは胎児の頃にジェスチャーで意志を伝える事を覚える。
生まれてからしばらくも、声を出すよりも遥かに多くジェスチャーにて母親に意志を伝えようとしている。
しかし、数百人の大人にテストした結果、「手足を動かしている赤ちゃん」よりも「バブバブ言っている赤ちゃん」に、より大人たちは注意を向ける。
可愛いからだ。可愛いと感じるので、赤ちゃんが声を出した時に返事をし、やさしく接してあげる。
手足を動かしてい赤ちゃんの動きには鈍感で、しばしば無視をする。
大人のこうした反応から察して、赤ちゃんは身振り手振りよりも言葉を優先して覚えるようになる。
動物をみると色々なコミュニケーション手段がある
人間は文字や言葉とは違った言語を進化させる事も出来たけど、
たぶん身体の特性から、それを選ばなかったんだね
477 :
佃煮マニア :2007/08/02(木) 23:37:25 0
聖書から題材をとった文学作品は多いですね ギリシャ神話をもとにした作品も定番と言えます 哲学の開祖ソクラテスはご神託、ダイモニオンの声を聞き問答式哲学を編み出しました 近代哲学の父デカルトはすべての人には良識すなわち理性が与えられており それらは神からのものであるとしました 理性によって思索する行為は独力ではなく、そこには何らかのかたちで神が働きかけている、と 二大哲学者でさえも思索の大元には無ではなく神が介在しています
477のレスの、読まれないように書く、という点は、 聖書を読むには、なかなか面白いテーマかもしれないなあ。 黙示録(アポカリプス)という言葉も大いに関係がありそうだし、 「絵画で読む聖書」――今度ページをめくってみよう。
480 :
考える名無しさん :2007/08/08(水) 22:20:31 0
ソクラテスがやったように、哲学とは縁遠い人間と対話をやってみな。 仲間うちのなれ合いではダメ。
481 :
考える名無しさん :2007/08/09(木) 00:56:25 0
>>480 哲学からほど遠い人間がこういう板に来るはずがねえじゃん。
そうですね 興味があるからこそ皆さんこの板にきているのです
んなこたーない。菜食スレを見るべし。
484 :
佃煮マニア :2007/08/11(土) 00:52:36 0
菜食スレはあ〜、、、確かに 「この事実はどうだ!」みたいにリンク先でポケモンカードみたいな事やってるよねw もう偏食で肉嫌いとかでいいじゃんみたいな気もするんだけど しかし哲板眺めてつくづく思うんだけど なんでここの人の多く?一部?は「操られる」「神の予定で生きている」みたいなこと好きなんだろ 統合失調賞の人はよくそんな感じをリアルに体験するらしいけど 哲学やる人っていうのは気質的にそういうタイプの潜在意識を持ち合わせているのかもな そんなこともないか? または、 何か信念のようなものを固く持つに従って、その意識が頭をもたげてくるのは 形而上の事を考えて想像の翼を広げようとすればする程 物理的制約の鎖を邪魔に感じるようになるからか ああそうだ多分そうだな だからこだわる
哲学的思索をする際に必要なのは思考の構築の訓練だと思うのですが その構築していく課程のなかで、今まで積み上げてきたものとは まったく異なる思念が突如降って沸いたように降りてくる瞬間があります それは一種の「啓示」といえるでしょう 神がかり的な瞬間といえましょうか
486 :
考える名無しさん :2007/08/11(土) 18:07:27 0
↑ナニ イッテ ンデショカ コイツハ?
啓示板神も降りますキラキラと 友蔵こころの俳句
>>486 半角文字、むきゃっっっっーーーー!!!
>形而上の事を考えて想像の翼を広げようとすればする程 >物理的制約の鎖を邪魔に感じるようになるからか そういう面はありそうだ。 リアルな世界よりもイマジネールな世界を中心にしてる人は、 摩擦を感じやすいということなんだろうね。
>>441 ちょっと遅レスになっちゃったけど、
括弧が多すぎて読みにくい(微笑
>ロゴスの支配を逃れた非日常的意識「トランス」における「自動性」を
>考察することにより、宗教・民間信仰・心霊現象・狂気などを一括して、
>違う視点から見ることができるようになるだろう。
その視点というのは人類学的な視点に近いのかもしれない。
山口昌男は日本のレヴィ=ストロースみたいな存在だけれど、
トリックスターとか道化といった概念を中心に論じてて
そういう「周縁」の存在と「中心」との構造関係を扱ってる。
パトスとロゴスの関係と換言できる面があるようだね。
>「トランス」はカオスではない。
>今のところあいまいにも 「本能」と呼ばれる、ロゴスよりも根源的な
>システムの支配下に作動する「或るモード」とまでは言えるだろう。
確かにカオスじゃないね。
カオスに見えてしまうのはノモスの側からでしかない。
ロゴス(理性)やノモス(秩序)が時に対立視する、
パトス(感性)やカオス(混沌)というものは
むしろ前者の母胎となっているものでもあって、
構造的に対立させるのは間違った図式なんだろう。
暑いし仕事はバタバタだし煽り対処考えるのめんどくさいし、で
ごぶさたしてた。
>>484 菜食スレは最初はなんか変な「ねらい」があるような気がして
攻撃していたが、どうもよくわからない状況になってww離脱したなww
おれ的には「全国うまいものスレ」みたいなものに誘導したかったんだがww
全ての情報を内的論理によって結びつけ、完閉された独自の世界を創り出そうとする、
統合失調における妄想形成の強迫性と
常に第一義的、或いは領域外からの俯瞰としてその立ち位置の厳密化を目指す哲学に
求められる思考の強迫性とは、確かに類似した思考傾向、つまり類似した脳内の化学環境が
存在するかも知れない。いやするだろうww。
その強迫的な思考の過程で、神のような超越的なものについ転んでしまうのも理解できる。
それは超越的なものに「触れる行為」だ。連綿と続くロゴスを中断させ「信じる」という行為。
ところで「気が触れる」という言い方があるが、いったい「何に」触れるのかな?
>>485 それは何かに「触れた」んだなww化学的には必然だったんだろう。
>>490 そうだな、人類学とか民族学っぽい。
個人的に「非日常的意識(トランス)」の構造を理解したいだけなんだが
脳科学はちょっと違う(つかわからないww)。
日常の生活の範囲内で記述できないかなあ、と思ってる。
それができれば吉増剛造とか現代詩の感想文すいすい書けるんじゃないか、とww
オカルト・スピリチュアリズムに存在するあいまいなブラックボックスを
解体することもできるんじゃないか、とww
>ロゴス(理性)やノモス(秩序)が時に対立視する、
>パトス(感性)やカオス(混沌)というものは
>むしろ前者の母胎となっているものでもあって、
母胎ねえ、なるほど。言葉ひとつで様々な構造が見えてくる気がする。
おれは本能が基本OSでロゴスは個体ごとにインストールされていく
アプリケーションみたいな考え方してたからな。
493 :
佃煮マニア :2007/08/15(水) 00:13:57 0
以前友達とインスピレーションの話をしていたらやっぱり ロゴスとパトスの対立みたいな事が話題に出た。 ある見方をすれば人間の内面というように一括りにする事はできなくもないが、 それはまた次元の違う話で、全くベクトルの違う物を還元し合う事は出来ないだろう、 やはり手つかずの状態のパトスは何ものにも代え難く崇高な物で、 それを表出させてなにかの形に残す過程には、秩序だった物の考え方は必要ない、 むしろ邪魔だみたいな事をその人は言っていた。 それほど多くのツールをもたない人間が、その邪魔をとっぱらって表出させるには 方法としてパフォーマンスやセックスぐらいしかなくならないか?と言おうとしたが その人は眼力が強いものだから気圧されて「ああ、そうかもね」と流してしまったw でも確かに >ロゴス(理性)やノモス(秩序)が時に対立視する、 >パトス(感性)やカオス(混沌)というものは >むしろ前者の母胎となっているものでもあって、 これは言い得てるな〜 今度言ってやろう(゚∀゚) 有り難うエートルさん!
494 :
佃煮マニア :2007/08/15(水) 00:49:02 0
>>492 住人をうまいものスレに誘導したら菜食スレ終了になるからw
>「気が触れる」という言い方があるが、いったい「何に」触れるのかな?
癲癇(てんかん)の癲の字は、気がふれた人の事を差し、
瘋は、やまいだれに風で、「風(つまり気)に冒された病」ということらしい
英語では癲癇のことを、epilepsy とか seizure とか言って、Seizure は「捕らえられること」という意味
Epilepsy もギリシャ語で癲癇のことだけど、
「神の手のような目に見えないものに捕まえられ動かされてしまう」という表現らしいよ
だから、「気が神の手に触れる」というニュアンスを持ってるかも知れない
A「対話スルと言うなら、ソクラテスはんみたいに、 哲学と縁遠い人間と話さなきゃ。馴れ合いはいかんよ」 B「哲学なんかに興味ありません、という人が この板に来るはずがねえです」 C「そうです。少なくとも興味があるからこそ 皆さんこの板にきているはずです」 D「んなこたーねえです。菜食スレを見るがいいです」 E「確かに食い物板でやれば良い話題ように見えます。 しかし哲学の守備範囲はイチロウより広いのです。 哲学板に板違いはなしですよ。あっははは」 F「いいから、菜食スレ削除してくれよ」
>>491-492 吉増剛造読解のためにトランス構造を理解しようとしつつ、
スピリチュアリズムのブラックボックス解体をも狙う、
という野心を持つのは、前541氏ぐらいかもしれないなあ(微笑
OSとアプリケの比喩は「らしい」ね。
>「気が触れる」という言い方があるが、いったい「何に」触れるのかな?
坂部恵という哲学者が、日本語の「ふれる」をモチーフに書いてるけれど、
九鬼周造の流れを汲んで、日本語でしっかり哲学できる人だね。
『仮面の解釈学』は以前に読んでかなり面白かったナ。
(ナンシー「私に触れるな」、デリダのナンシー論「触れる、」は未読)
「気が触れる」は「逸れる」にも通じるかな、と思うね。
日常としてカスタマイズされたロゴスにシステムエラーが起きる、
シェイクスピア風にいうなら、時間の間接が外れてしまう、
あるいはコード化の流れから逸れて脱コード化してしまう、みたいな。
あるいはまた、バタイユ的に言うなら、過剰なる生の逸脱、かな。
>>493 哲学者の中にも、ロゴス批判派もロゴス擁護派もどっちもいる。
ただし、ロゴス敵対派までいくと、それは違うだろ、と思うね。
ロゴス擁護派としては、
プラトンからデカルト、ヘーゲルを経由してハーバーマスまで。
ロゴス批判派としては、
ニーチェからフーコー、ドゥルーズ、デリダまで。
497 :
考える名無しさん :2007/08/18(土) 15:15:40 0
デリダって映画館の入れ替え制は許せないって話から飛躍して 人間のほんせいや国際問題についてまで言及してた人か
498 :
考える名無しさん :2007/08/18(土) 22:06:59 O
そういえば創価学会の名誉会長も世界的哲学者として各国の大学から賞を受賞しまくってるらしいけど、やはり名誉会長も仏法と哲学は対話だと言ってるらしいね。 こんなに世界的仏法平和哲学者として知られてるのに、日本人は評価が下手だよな… 世界ではガンジー・キング・イケダと言われるらしい。 創価学会って凄い宗教なんだな。日本にこんな立派な宗教団体があるってだけでも誇りに思わなければ。俺は宗教嫌いだけど、創価学会に関しては肯定したいな
499 :
考える名無しさん :2007/08/18(土) 22:57:58 0
へぇ。 仏さんとは対話してなんぼなのかも知れない 美大だったころ創価高校が近くて、冷やかしついでに教科書借りにいった事あるな とりたてて生徒が特殊、教室が特殊ってんじゃないけど しょっちゅうドラの音が聞こえてた。あれは何なんだろう 体育館の名前が「池田体育館」てのもニヤっとさせるもんがあったわ 創価の方はわりと普通にいい学校な印象だったよ
500 :
考える名無しさん :2007/08/18(土) 22:59:03 0
朝鮮大学校も近くにあって、この近くの自販機は釣り銭によく朝鮮の硬貨が出てきたw 昔はうちとこの大学に火炎瓶投げつけてきたとかでインパクト高かった 2世3世のひとらに醜悪なイメージ持ってる訳じゃないけどね なんつうか、今は穏やかだけど戦争の頃は白ブタ黒ブタいってたであろうおじいちゃんを 目の当たりにしてちょっと戸惑うみたいなのと似た感情を彼らに持ってた
501 :
考える名無しさん :2007/08/20(月) 00:54:53 0
ところで、デリダっていえば新刊の絵葉書どうよ?
絵はがき感想キボン
弁証学ってやつ?
>>494 詳しくさんきゅ。
>>443 の論文「聖なる狂気−沖縄シャマニズムにおける憑依現象−」の
沖縄では、気が狂うことをフリユンといい、狂人をフラーやフリムン(何かに触れた者)、
あるいはターリングヮー、ターリムン(何かが垂れた者)とよぶ。このような言葉は精神異常者として気が触れた者や、
その派生として、いわゆる馬鹿や不良という、より広範囲な否定的意味で用いられることが多い。
しかし、その触れるものや垂れる(憑依する)ものが人々によりいったん<神>と認識されると、
それはカミブリ(神触れ)やカミダーリ(神垂れ)といわれ、カミンチュ(神人、祭司)やユタ(シャマン)など、
宗教的職能者になるときに起こる神聖な憑依現象とみなされる。
ていうのともリンクするな。
「触れる」は主体から外部へむけての行為、「垂れる」は外部から主体への作用。
どちらにしても外部に超越的な存在を想定した表現だな。
443でもちょっと言ったが、現代のユタが精神世界を表現する際にニューエイジ用語やUFOさえ持ち出すという件、
上記論文内ではクライアントの指示確保のためのブリコラージュ戦術という分析もなされているが、
実際にはさほど戦略的に考えられているとも思えない。
精神世界のマッピングにおいて、それらのアイコンは別に何でもいいのではないかな。
問題はマップの構造・位置関係・傾向であり、そこに導入されている様々の超越的な存在は、
その志向性を示すことができれば、キジムナーでも宇宙人でもかまわないのではないだろうか?
それは外部では無く、共同主観的内部とでも言うべき世界の現前を目指していると思われる。
それでは「触れる」「捕らえられる」という表現に付きまとう、無言で指し示される「外部」とは
やはり同じ内部の「本能・基本OS・母胎・手つかずの状態のパトス」であり、
未だ境界がはっきりしないそのサンクチュアリに、神は存在するとさえ言えないだろうか。
>>496 >吉増剛造読解のためにトランス構造を理解しようとしつつ、
>スピリチュアリズムのブラックボックス解体をも狙う、
>という野心を持つのは、前541氏ぐらいかもしれないなあ(微笑
ふふふ、すごい野望だろ?www
ナンシー「私に触れるな」、デリダのナンシー論はおれも未読。読みたいな。
>日常としてカスタマイズされたロゴスにシステムエラーが起きる、
>シェイクスピア風にいうなら、時間の間接が外れてしまう、
時空という言葉が示すような、素朴な時間概念(全てに共通な時間が「流れている」というような)
には、ロゴスの要求を感じるね。すべてがコード化される時間をロゴスは要求する。
主語は述語が発語・書記される時間を要求する。
ロゴスからの逸脱は時間からの逸脱とも言えるかな?
楽しいことにはまっていると「あっという間」に感じ、音楽を聴いているときは
その曲特有の時間に支配される。これら「弱いトランス」でさえ、ロゴスによる時間からの
ささやかな逸脱であるようだ。
佃煮氏が上のほうで書いてた中丸明『絵画で読む聖書』をぱらぱら。 500頁以上もある結構なボリュームだね。 デリダ『絵葉書T』も最近購入してぱらぱら。 9月いっぱいで読み終わる感じ。 デリダのナンシー論『触れる、』も買ったけど、 こっちは当分読めそうもないナ。
共同主観的内部の所在が限定的であるからこそ、趣味趣向が後天的に確立されてる人間だから ぶっちゃけムーとかが特集する範囲を飲み込んで闇に隠すまでもなく影響を受けやすいんじゃない? その範囲の中から用語を選んで表現する事で、 彼女らはお告げを伝達する相手として、大ざっぱにくくるとオカルト支持層あたりに自分は訴えたい というようなターゲット設定もするし、そうすることで共感を得やすい表現を練る事が出来る オカルト支持層は、巫女の属性とある程度親和性があるジャンルの言葉なら、新旧問わず受け入れるだろう そうしてくと、可能性として考えられるアイコンは無限数あるね 極端な話、 「こんな巫女はいやだ」として挙げられるような要素を全て選り合わせたような姿もあり得る?
聖女として司祭を執り行う女性の多くが処女である、またはその必要があるのは、 前から何でだろうと思っていたんだけど、 少女の頃に姓の芽生えが起きると同時に、彼女らは自らのセクシュアリティの行き着く所、 受動的な獲物にならざるを得ない運命を知る。 この運命への抗議行動として、生臭い俗世から超越した世界への安住を望むようになるのではないか。 子供の頃、空想の中で遊んでいた世界の延長ともいえる、精神世界への探索をすることで、 初潮を迎えたとたんに閉じ込められた鳥かごからの脱出に乗り出せると考える。 (こういう肉体的な自己の克服方法は思春期の頃にはよく見られた気もする。 いわゆる、転化とか昇華という行動はこれにあたる。) しかし、拒否しても運命の重圧は彼女らを傷つける。 崇高な世界を主張し、性を不安から身を隔てようとしても、時として暴力やレイプの対象でしかない自分に気づかされる。 このひずみの繰り返しで彼女らは次第に強迫的になり、血まみれの幻惑の中で「犠牲にされた偶像としてのアイデンティティ」が確立する。 この辺りが精神疾患への入り口なんだろう。 肉体的な運命を完全に否定し、自己欺瞞の闇の中にじっと身を浸して、 ある日ふとした事に光明を見いだした女性が聖女となる。 この過程が必要なのかな
>>507 なるほど、そんな感じだろうな。
>共同主観的内部の所在が限定的であるからこそ、趣味趣向が後天的に確立されてる人間だから
その限定性は、裏を返せば先天的な共通性みたいなものだろう。「集合的無意識」と
言われるものよりも、もっとフレームだけというか、精神世界マップの構成要素というか。
原型というか。そんな感じの「共有できるフィールド」みたいなものが想定できるかも知れない。
>極端な話、
>「こんな巫女はいやだ」として挙げられるような要素を全て選り合わせたような姿もあり得る?
ピザ喰いながら「キミの守護霊はコリン星人だお!」とか言っちゃうカミンチュ、とかか?
wwwwいや、これは、アリだなwwww
むしろ「悪魔」の可能性もあるな。黒魔術やるようなやつ。アイコンが黒いやつ、つか、呪い師つか。
そうすると同じ原型から悪を引き出すか、善を引き出すか、みたいなことになってくるかな?
それじゃ善とか悪とかは、あらかじめ直観的に志向されているもの、なのかな。
>>508 これも同意。鋭いなww
女性ならではの特性と、諸刃の剣で存在する弱点。その克服というか通過儀礼として
カミダーリみたいなのが必要なのかも知れないな。だとしたら過酷な通過儀礼だなww
そういう伝統の無い土地だと逝っちまったっきり戻ってこれなくて当たり前みたいな
感じじゃないかw都市部のメンヘルの若者たちはみんな沖縄移住させるべきかな?w
巫女ばっかり大量発生されても、ちょっと変な話か?www
510 :
考える名無しさん :2007/08/30(木) 15:39:38 0
今トルネコやってて必死なんでネタないけど上げときますよ!
www 共同主観的内部世界のマッピングみたいなことを考えていて、タロットカードを思い出した。 おれはメジャーアルカナしか勉強したことないが、これなんかマップの構成要素を 22枚のカードのキャラクターとして整理したものだな。 それを意味を持った配置に置くことによって、様々な人間的物語が現れるように作られている。 たとえば「塔」というカードは失敗、事故、災害、失脚などを示す22枚の中で最悪のカードだが、 これは常に起こりうるアクシデントに対する警告。を意味している、という具合だ。 そしてカードを切るという行為によってその配置は偶然性に支配されるわけだから おれ的にはこれには神秘的な占いとはちょっと違うような気がしている。 よく知る友だちの具体的な相談に対しては、驚くほど的確な判断が 「現れているように見える」場合がある。ww 「相談者」という固有の生活史を持った存在の相談内容という範囲の中で カードが示す原型的なキャラクターの関係・構造が具体性を持った物語として機能しはじめるわけだ。 霊感体質のような「素質・体質・因子」を持たなくてもカミンチュ的な 精神世界マップを組み立てられるツール、のようなものかな。
512 :
考える名無しさん :2007/09/10(月) 00:13:26 0
共同主観的内部世界っつうと まるでフッサールみたいやけれど、 カードにもいろりろあるね。 天使のオラクルカードとか。 なんか風水的なニュアンスを感じる。
513 :
佃煮マニア :2007/09/12(水) 20:37:51 0
世界没落感は、ストレスを感じた人間は誰でも持つと思う。 なにかについて、今後の動向を凶と予言する人はそういうの強いんだろうな。占いとか。 身に圧迫を感じて、それは天災か大恐慌か、なにか大きな力が自分を陥れようとしていると感じる。 自分がどうあがいても抗いきれない大きな流れの中にいると おぼろげに想像するのではなく、体感してしまう、これは錯覚なんだけど・・・ 本人の中からそれを払拭するのは至難の業なんだよね できれば自分のそういう世界観は現実にからめようとしないでほしい。 哲学でも○○論と銘打って発表するのでもなく、芸術の中に閉じ込めて欲しい感じはある。 その方が気が利いてる。 没落感という性悪女には、世間をふらついて誰彼かまわず寝床に引っ張り込むようなマネはさせたくない。 伝記の中に幽玄と佇んでいる方が高貴で魅惑的なんだ。 芥川とか三島、太宰は見事に彼女を描き切った。その作品は読者を巧みに幻惑と恐怖感に落とし込む。 ゲド戦記は最低だけど
>>513 ゲド戦記は見る気もせんわww
「千と千尋」でなんか深いレベルのやう゛ぁい炉利を見ちまったような気がして
以降ジブリは見ていない。巨神兵は今でも好きで、巨神兵見るためにナウシカレンタル
してきたりするがwww
錯覚というか、限定された視野、あるいは旧価値的視点からの側面的な捉え方と
言えるだろうな。俯瞰的に見ればそれは「変化」だ。
その負の側面ばかり見つめて不安に怯えるのも、そこに眼をつぶり、
ポジティブな面のみ見続けるのも、大差あるまいwww
ヒトの反応における、根元的なポジティブとネガティブはどこから始まってるのかな?
おれは実はすごく直観的な部分で決定されてしまってるような気がするんだが。
それに後付けの理屈をつけるのが理性の仕事というかww
終末論的な話題で思い出したのは、ウイリアム・バロウズ1980年の講演
「黙示録の四騎士」(未訳?)だな。英語版で読んだ。
飢饉・疫病・戦争・死という四騎士が今やすべて人間によってコントロール可能な
状態であることを指摘している。もっと具体的に言うと「政府・権力によって」だな。
それからデリダの「哲学における最近の黙示録的語調について」というのもあったな
(絶版?)詳しい内容は思い出せないが、アポカリプスという言葉が決して終末を意味する
ものではなく、「黙示」何かのベールを取り、中のものを明らかにすること、を意味するという
くだりは覚えてるな。以前話した真理の話とリンクする。
そう考えると哲学が終末を見ようとする傾向には、それなりの、なんというか、
モチベーションに関係するものがあると思わないか?www
ここどこが対話スレなんですか
あなたが対話に加われば対話になります
518 :
考える名無しさん :2007/09/30(日) 10:45:13 0
哲学が終末を見ようとする傾向、というか、 人類が終末を見ようとする傾向については、 きっとメシアを待望する傾向とパラレルなんじゃね?
基本ねぇ・・・? 基本って何だ? 欠けてはいけない要素のことかな。 ん〜 なら。 事実、じゃないの?他に? 無価値、かな。他は? 無意味? 他は・・・ 無為。 他には・・? ないんじゃね?
520 :
考える名無しさん :2007/09/30(日) 21:40:30 0
日本の「哲学」の基本は「教授との対話」だよん。 哲学とは何の関係もないよ。
521 :
佃煮マニア :2007/10/01(月) 20:54:02 0
>>515 科学礼賛で神がこの世を追われてしまった上に、
全てがこの数式で明示出来るとかこの論でくくる事ができるとかいろいろやってくれて便利にはなった
そういう功績残す人もでてきたけど、
それにもたれかかる事に警鐘を鳴らそうとして、哲学者は終末論を持ち出すんじゃない?
人生がいかに予兆と誤算に満ち、だからこそ真理も多様性があってしかるべきだ、というような事を
もう一度思い出してもらう為に、哲学者が一言はさんで
「ここら辺でいったん区切りましょう、ターミネーターとか火の鳥の未来編みたいな事、
まぁ今となっちゃ余裕だけどしないでおこうね」
と言う、ようなの
大学のときの先生は「あれは周期的におこるもん。人間の生理現象」て言ってた
人間は不可逆的な進化を嫌う傾向があるのかもね
522 :
佃煮マニア :2007/10/01(月) 20:55:14 0
>>518 メシアが出てくるときっていうのは、
社会がぎちぎちに目一杯ルール化されてるときなんだよね
人々は「これが善、これは悪」ってはっきり決め込んでる。
そこに一人か二人、「いやこれが善でこれが悪だ、そして私はこの悪をつぶす」って
奇矯な事をはじめるとみんなメシアだと騒いでガス抜きついでに崇め始める
9.11の後に戦争があって、日本人もつられてヒステリックになってる時に
「バカの壁」で二元論は危険だ!て言い切ったから
あれはドカーンと売れて養老先生は気難しい教授先生から一気に人気者になった
523 :
佃煮マニア :2007/10/01(月) 20:57:16 0
デリダについての本読もうとしてさ〜 松本浩治の「デリダ・感染する哲学」 読みかけて気が狂いそうになってるんだけど、なにコレ? だれかこの暗号文解読出来る人いますか↓ フッサールにとって、語りうる物が無時間的で経験不可能なものであるということは背理であった。 なぜなら、原的印象は必ず何か時間的強度をもつということが、時間の知覚、そして時間の近くのアプリオリな必然性であるからだった。 原的印象は時間の内在的意識のうちにあるが、未来把持と過去把持の両者はフッサールにとって志向的様態であることから、 原的印象があると言えるからには、それは同様に何かの実在的対象を告げている事を意味していた。 その時デリダが突いていたのは、現象学にとってアプリオリな綜合が可能なのは、ノエマ的体験よりももっと深い、 アプリオリな基礎的存在論によってであるということであった。
524 :
考える名無しさん :2007/10/05(金) 01:06:18 0
松本浩治のはひどい文章だな(笑 悪しき哲学的エクリチュールの模範的サンプル。 「時間の近くのアプリオリな必然性」って何だよ??? せめてこれがなきゃ、まだ何とかどうにかなるかもしれんけど。
525 :
佃煮マニア :2007/10/07(日) 23:46:45 0
根源的なネガティプポジティブは、 生物として獲得してきた生存の為の知恵と直結してるんじゃない? 色彩論とかいうので習った記憶ある。 12色くらいの色についてどんなイメージかアンケート取ったんだけど、 赤と黒いいろが白と青いいろよりもなんとなくネガティブに感じる人が多かった。 絵を勉強して、色については独自のイメージを持っていて良さそうな人の集まりだったのに、 やっぱり黒は闇や夜の色、赤は血の色。ベタだなあ、と先生は笑っていた。 個人的に経験を積み重ねても、危険色のイメージを忘れない事は、人間の優れた特性だとも言ってたな。 そんな中で、白が恐怖の色だと言ってた人がいた。その理由をきいたら、 子供の頃に何度も見た夢が、白い何もない空間に閉じ込められて何度も光がおそってくるという内容だった。 まさしく白い恐怖で、本人はトラウマになっているらしい。 多分産まれた瞬間の衝撃が間接的に夢となって蘇ってるんだろう、ということだった。 この場合、人間が遺伝的にもってる記憶ではなくて、本人の記憶から危険色と判断するようになったんだね
526 :
佃煮マニア :2007/10/07(日) 23:55:32 0
大事なのは、 多くの人が赤や黒は嫌な色だと思っているから悪の色と決めようという発想は視野狭窄的で、 木を見て森を見れない人の絵は人を打たない。 白を危険だと思う人がいるなら、その意見も加味して色作りをするべし、という所だった。 絵以外にも色んな事例に応用出来そうないい話だったよ
527 :
考える名無しさん :2007/10/09(火) 00:53:45 0
色彩論ってゲーテとか
528 :
佃煮マニア :2007/10/13(土) 00:40:11 0
ウィトも色彩論に興味があったらしいね 記号学としての色彩表現にもパラドックスは存在するんだろうか 「緑っぽい赤」が想像しにくいというのはその一つかも知れないけど、 緑赤色盲の人に緑と赤の見え方を具体的にきいたら、 「ハレーションをおこしてチカチカ見える茶色」に見えるだそうだ 緑も 「ハレーションを起こしてチカチカ見える茶色」という事らしいが、 緑の場合はなんとなく黄色に見え、赤はそう見えない。それを知りさえすればこのパラドックスは解消される 透明を表すのによく用いるのは白や黒だけど、 「どこまでも透明な白」を想像してみると、白は色なんだとわかる 数学でいう0とは無ではなく数値であるってところと似たことだよね 無とはなんだろうか 紙の上に無を表現する時には、それを表現する記号がシンボルとして用をなさなければならない ある条件かでしか無は発生しない事になる カンバスの上でもやはり、デッサンにかなうように光の透過を表現しなければならない クリアガラスを描いてみた所で、表現されたガラスの透き通った部分を2_四方くらい切り取って 「これは透明だ」とは言えない それは布についた絵の具でしかない まあ絵についてはいいけど、言語や文字が「無」を掴みきれないのは問題だよね この辺が言語の限界なのかも知れない 誰か何とかした人いるんだろうか?
529 :
考える名無しさん :2007/10/14(日) 15:25:23 0
>ヒトの反応における、根元的なポジティブとネガティブはどこから始まってるのかな? >おれは実はすごく直観的な部分で決定されてしまってるような気がするんだが。 >それに後付けの理屈をつけるのが理性の仕事というかww 論証していく理性にもとめられる明晰性というものも、人間の直感に左右されてるよね 絵にたとえて言うと、デッサンでも「うまい、実にリアルだ」といえるものは よーく近づいてみると写真のように実像を忠実に写像している訳ではなくて、 光学とか目の錯覚を応用して、直感的な人間のものの見え方から先回りした「創作」をやってのけている。 実像をパッと見た時に目にとまるような部分は、実像よりもコントラストを強く、ハイパースで、 目にとまらない所はできるだけ省略してグレーにまとめる 主観的で不正確に描写な筈なのに、それをやると実像に近いような図になる。 これと同じで、 論証も人間の直感的な価値判断を先回りして誇張や省略を繰り返し、 ほとほとに不正確な、同時に明晰な記述をでっちあげた後に命題をクリアする。 理性の仕事とは、自らの直感に気づいた後で、それを利用しいかに他人の直感を騙し仰せるか。 なんだかいいかげんな仕事のようにも思えるw
530 :
佃煮マニア :2007/10/14(日) 15:38:58 0
>哲学が終末を見ようとする傾向には、それなりの、なんというか、 >モチベーションに関係するものがあると思わないか?www 事実は卑猥な程に開帳されているのに、 それを何度となく見るごとに人間の目はそれをベールで覆い隠してしまう。 それを熟知性というらしい。 熟知性が備わっているからこそ人間は安らぎを感じるわけだ。 路傍の石ころをみてむやみに顔をあからめる辱めも受けなて済む。 統合失調賞の脳ではアスペクトがめまぐるしく変化するために消耗し、疑心暗鬼に陥ってしまう人もいる。 ベールは程よくかけられていた方がいいはずなんだけど、 でも哲学屋は変態だから、かけられたベールをドンドンはがし、最後の一枚にワッショイする。 それをもっともらしく「終末」だの「アスペクト変化」だの「恒常性からの脱却」だのかっこよく言い回す。 最後の一枚に固執しつつ威厳は保持したい、いかにもオッサン的モチベーションと言えるね
531 :
佃煮マニア :2007/10/14(日) 17:15:49 0
パトスをロゴスによって解き明かし立証していく際にエートス、品性人格というものが必要になる とアリストテレスは言ったけど、 オッサン的であるというエートスは信頼を勝ち得るか。 ここ哲学板の年齢層は比較的他と高くはあるものの、書き手が50代だと珍しがられたりする辺り、 その二回りは下辺りなんだろうと思われる。 そしてここがオタの巣窟である事も周知である事から、 読み手、書き手共に「かわいい若いおにゃのこ」の性格を蓋然的によしとしている事が伺われる。 それにしたがって論証を進める事が果たして効果を生むのだろうか。 「哲学とは道理にあかるいことを希求し人の潜在知能を呼び覚まし育て産みだされる智恵を人生に活用することを目的とする。 」 これを 「哲学トカ?って、わかんないけど道理にあかるいミ☆)ってかくわしいになったりするし (=^--^=) (-(工)-)なひとを(‘ロ‘)ノ☆して育て産みだされる智恵‘∀‘を人生に活用すること(≧∇≦)/ギャー照れる〜! がしたいんだよねv(ー_ー)」 こうすると、読み手に信頼を与えるか。 なにがしかの感情は呼び覚ますかも知れないが、その感情はひどく論理を阻害する。 オッサン的であることは議論を停止させないが、おにゃのこ的であることは・・・
532 :
佃煮マニア :2007/10/14(日) 17:25:03 0
やはりまずい。だからといって ここがそうななのだから2ちゃん的に語ればよいだろうと ________ /:.'`:::: :::::\ /:: \ /::. ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' ::: ヽ |:: ン -==-∴-==- < | 原的印象必然時間的強度時間知覚時間アプリオリ必然性 |:: ン -==-∴-==- < | |:: ン -==-∴-==- < | ,;';;;;;_-=・=-;;;;; -=・=-彡;;;;;ヽ、 .. -=ニ=- 思いあまってこう表現してしまうと、やはり別な感情を呼び覚ましてしまい論理は停止する 上で哲学家が総じてオッサン的であると揶揄したけれども、 やはり、そこがどんな場であろうと、論証を行う際に必要な品性として選ぶべき性格は 一つしかないのかも知れない。 哲学が発祥したときにも漂っていたであろうムンムンな場の空気は守るべきなのだ。
533 :
佃煮マニア :2007/10/14(日) 21:43:28 0
色彩についてのパラドックスにもう一つ、 グルーのパラドックスなんてものがあるらしい。 エメラルドは普通エメラルドグリーンと言って緑であるように思われるが、 青っぽくもあるからエメラルドブルーでもいいだろうと。 またはGREENとBLUEの間をとってエメラルドグルーとでもしようか・・・ グルーは青なのか緑なのか。わからないじゃないか。どうするんだ。という事だそうだ。 色は数値で表せるんだから、境界値をもうけて新名称でもつければいいだけの話だが、 問題は、そうして新名称をつけてみても、 人間はどうしても投影可能な、指定する意味の幅を多く持たせた語を使ってしまう。グルーなんて言わない。 日常語にはこういった、意味の幅のひろい曖昧な語句が多い。 でも人間はあいまいさの中から直感で意味を読み取る。その直感が正確なのか。 日常はそれでほぼとどこおりなく運ぶからいい。しかし哲学の論考をする際にはやっかいだ。 意味のあいまいな語句をそこかしこに散りばめて論証をしようとしても、 今度はその語句を正確に定義するためにまたしてもあいまいな語句をつかい説明をはじめ・・きりがない。 直感で感じた意味が正確である事をお互いに確認するためにと始めた事が、 時として深刻な問題を引き起こす。
やっぱり哲学は男性の学問なんですね 女は論理的思考にはあまり向いてない… 思考より想像のほうが得意…
535 :
佃煮マニア :2007/10/15(月) 23:56:22 0
ねむい 論理的思考ねぇ。 まぁそう思うなら思っていいけど。想像だとなんか変なのかな べつにいいじゃん思った事書けば。 言葉遣いがユルいのはかまわないけど、それよりレトリックにはまって意図を見失うのは怖いな。 こうあるべき哲学の姿って、534にとってはどんなんなの?
536 :
534 :2007/10/16(火) 21:43:58 O
>>535 思考を論理立てて構築することですかね
それは緻密に組み立てられた数式に似ています
デカルトが数学者だったことを鑑みればなるほどと
頷けます
…想像は自在であるのはいいとして、広げ放しでは収拾がつきません
文学ならばゆるされますが哲学には論証が必要です
537 :
考える名無しさん :2007/10/17(水) 16:18:21 0
さあね
ところでこれのどこが対話なんですか
あなたが対話に加われば対話になりますよ
540 :
sage :2007/10/23(火) 17:48:15 0
>>536 デカルトが好きだからデカルトみたいに書いてくれ、
と言いたいのかな?
装飾を一切含まない説明的な表現だけが哲学かというと疑わしいけど
ここは「エートルさんにレスをするスレ」だと思っていたんだけど、 最近来なくなったな
542 :
536 :2007/11/01(木) 12:48:01 0
>>540 >装飾を一切含まない説明的な表現だけが哲学かというと疑わしいけど
そうですね
ただ、やはり哲学は傾向として装飾を含まない言語表現が主流ですよね
余剰なものをそぎ落としていく作業というのかな
韻文の詩歌が哲学だとすれば、散文の小説が文学であるように
デカルトは「我思うゆえに我あり」を導き出すまでの過程を
簡潔な装飾のない文章で書いていますね
>>541 お忙しい方ですので、不在のときはほかの方たちで
どうか盛り上げてくださいな・・・
エートルさん忙しいのか。。。 過去レスにあったオススメ本読んでみようかな〜
わたしもエートルさんのお薦めの哲学書、読めるといいのですが 残念ながら哲学書は完読できないのですよ・・・ ここは哲学板ですから、みなさんは哲学書を読める方たちばかりですよね 哲学、好きなんだけどな。。。
文学の方は、説明を芸がないとか野暮ったいとか言って嫌うんだよね 哲学は虚飾のない説明こそが洗練された表現だとか言うんだけど。 ワイルド、バタイユ、ドストエフスキーあたりは 華麗な様式美に満ちながら哲学を語っていたりする。 端的な説明のみが世界を語り尽くせる手段だと限定するのはどうなのか? 言語の不完全性を嘆くのが落ち、になるんじゃ?
>>546 >文学の方は、説明を芸がないとか野暮ったいとか言って嫌うんだよね
芥川賞作家の小島信夫氏は「なぜ説明を排除するのですか?」という問いに
「きらいだからです」とひとことで答えました
説明は情報の一環であってそれ以上でもそれ以下でもないのですね
文学は表現がすべてです
比喩(直喩、隠喩)、心理描写、文体、リズム感
何十万語を尽くして言いたいのは、最後のたった一行の真実
哲学ははじめに命題ありき
命題をふってから論理的に思考し、解いていきます
ドストエフスキーは饒舌ながらも学哲ではないマイ哲学を語っていますね
ワイルドは人生哲学
バタイユは学哲と宗教の間という感じかな。。。
>端的な説明のみが世界を語り尽くせる手段だと限定するのはどうなのか?
そうですね
真理を語るには膨大な前提が必要だと思います
文学は冗長な物語=前提に匹敵するのではないでしょうか?
それともうひとつ
優れた文学作品は答えを断定、もしくは限定しません
読者のこころに疑問を投げかけるだけでいいのですね
548 :
エートル・オートル :2007/11/21(水) 23:18:20 0
ちょっとご無沙汰しちゃったな。ちょっとじゃなく随分か。。。 安月給をカバーするために副業バイトを始めたもんだから貧乏暇なし。 最近のレスをざっと読んで何か感じるものがあって、 「芸術的な哲学は可能か?」ということを少し書いてみたいと思った。 考えさせられたんじゃなくて、感じさせられた、から。 おそらく佃煮氏の色彩論にもつながってくテーマになりそうだし、 論理的と感性的という問題系にも深くかかわりそうだし、 またそこから、哲学と文学の関係にパラフレーズできそうに思った。 結構多くの哲学者は芸術についても語ってるしね。 ハイデガーとかメルロ=ポンティとかドゥルーズやデリダなんかも。 レスをもうちょっと読んで消化してから何か書いてみるよ。
549 :
エートル・オートル :2007/11/21(水) 23:56:49 0
>>541 そんな怪しいスレッドを空に架けないでくれよ(微笑
>>543 お気遣い感謝!(嬉涙〇о。...)
>>544 >>545 オススメなんてしたっけ?
哲学を専門に学んだことがないんで
人に勧められるほどの知識はないんだ(苦笑
550 :
エートル・オートル :2007/11/22(木) 00:10:58 0
絵画(視覚芸術)、音楽(聴覚芸術)、そして文学(言語芸術)も含め、
芸術は感性に訴えるものだとされているし、おそらくはほとんど正しい。
ほとんど、だけど。
>>546 >文学の方は、説明を芸がないとか野暮ったいとか言って嫌うんだよね
>哲学は虚飾のない説明こそが洗練された表現だとか言うんだけど。
一般的にはそうなんだけど、この「一般的」イメージが曲者。
ほとんど正しい、この一般的なイメージの間接を外してみる。
芸術を享受するときの感覚(感性)のうちに、
論理(理性)の働きが意外にも大きいかもしれないということ。
こうした視点から何か見えてくるかどうか。
(どこかのレスに続く)
551 :
エートル・オートル :2007/11/22(木) 00:25:38 0
>>546 >端的な説明のみが世界を語り尽くせる手段だと限定するのはどうなのか?
>言語の不完全性を嘆くのが落ち、になるんじゃ?
至る所で「言語の不完全性」の底なし穴が待ち構えているね。
そして文学(言語芸術)であれ哲学であれ、
世界を表現しようとするとき、その表現者にとっての、
「言語への依存度」もしくは「沈黙への信頼度」によって、
饒舌さ(装飾)を選ぶか、簡潔さ(論理)を選ぶか、になる。
感性は「沈黙への信頼度」が高く
理性は「言語への依存度」が高い、といったふうに。
(どこかのレスに続く)
552 :
エートル・オートル :2007/11/22(木) 00:34:08 0
>>547 >優れた文学作品は答えを断定、もしくは限定しません
>読者のこころに疑問を投げかけるだけでいいのですね
すべてを語りつくそうとせず、あとは余白に、沈黙に委ねるわけだね。
こうした「沈黙への信頼度」という点においては、
文学以上に絵画や音楽についてあてはまるだろうし、
哲学以上に「断定」「限定」があるのは宗教だろうね。
ある種の哲学においてはこの「断定」「限定」を解除しようとする。
>哲学は命題をふってから論理的に思考し、解いていきます
これも一般的イメージとしては正しいんだけど、
現代のある種の哲学(デリダなんか)では、
命題や仮説をなぞりながら、その命題を崩すようにして思考する、
あるいはその命題が自らほこらびていくようにして命題を進ませる、
そんな哲学もあったりする。
(どこかのレスに続く)
553 :
エートル・オートル :2007/11/22(木) 00:41:09 0
ここで色彩論につなげようと思ったけれどタイムアップ! それに一人で長々と書きすぎってしまった。。。(sorry
ここは頭がいい人が多いね
555 :
佃煮マニア :2007/11/23(金) 00:19:15 0
文学がやろうとしてる事は感性の異化 哲学がやろうとしてる事は感性の統合 こうしてみると全く逆の事をしているようなんだけど、実は言葉自体がこの両局面を持ってる。
556 :
佃煮マニア :2007/11/23(金) 00:31:40 0
言葉を使う事で人間はその動物的な行動プログラムから逃れて、 生存のための可能性に幅を増やしていった。 一見危険な物を見てもでもすぐ逃げず、近づいて研究し記録し相談するなどして新しい食べ物を獲得出来る。 でも言葉にはのぞましい側面ばかりある訳ではなかった。 外界からの刺激の全てに言葉のフィルターをかけてしまうことで、 その反応が各人各様でまちまちになり、それで集団としての安定が崩れてしまった。 集団の結束は生存に関わる人間の動物的本能だから、何とかしようとする。 生存のために勝ち得た言葉を捨ててもう一度プログラムに従うか?それはできなかった。 だから集団の再構築も、強力な武器である言葉でやろうとしたんだね。
557 :
佃煮マニア :2007/11/23(金) 00:32:19 0
文学は言葉を異化して突発的な例外行動を誇示する事で、人間の群集心理をあおり、 新たな集団を形成してその統率を図る。 哲学は、人間の行動原理についてかたっぱしから具体的に詰め、集団に再確認させ統率を図る。 方法の違いはあれど、目的は集団の結束と、言葉による新たな反射行動の強化に違いはない。 しかし言葉に頼る事がいつ集団の安定をもたらせただろうかと考えると・・・?
558 :
エートル・オートル :2007/11/23(金) 00:52:08 0
今サイトを開いたら、20分ほど前に佃煮マニア氏の書き込み!
>>555 >実は言葉自体がこの両局面を持ってる。
言葉の両面性みたいなものは、いろんな場面で感じるね。
言葉はイデオロギーとして、社会や集団の統率へと向かうと同時に
言葉はアナーキーとして、既存の体系を逸脱していく運動も導く。
559 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 01:10:52 0
エートルさんお久しぶりです♪
560 :
エートル・オートル :2007/11/23(金) 01:12:02 0
「芸術的な哲学は可能か?」というテーマの手前で、 これまで哲学者は芸術をどう語ってきたかという点に 少しばかり足をとどめてみたいな。 たとえば「眼と精神」「見えるものと見えないもの」を書いた メルロ=ポンティの視点のところで。色彩論に目配せしつつ。 ――「質・光・色彩・奥行といったものは、我々の前に、そこにあるもの ではあるが、しかし、我々の身体のうちに反響を呼び起こし、我々の身体 がそれを迎え入れるからこそ、そこにあるのだ。」―― 赤い薔薇を見て、人は「赤」を感じるけれども、その色彩は、 人から薔薇に向かう視線が獲得するものという一方通行ではなくて、 むしろ薔薇のほうから人に与えられる双方向的なものともいえる。 薔薇が私達に与える刺激によって、私達の色彩感覚は作られる、 そういう視点をメルロ=ポンティの言葉から窺える。 人間が持っている色彩感覚は自然によって与えられたものだともいえる。
561 :
エートル・オートル :2007/11/23(金) 01:21:03 0
>>559 お久しぶり〜
自然によって与えられるのは人間の色彩感覚だけじゃなく、
人間の身体は世界によって作られているということを、
メルロ=ポンティは「私の身体と物との交差配列」や「二重化」と表現し、
つづいてこんな言葉を紡いでいる。
――「世界が私の身体の二枚の花弁の間に挿入され、私の身体が
それぞれの物や世界の二枚の花弁の間に挿入されるということが
可能なのも、こうした二重化が行われるからである。」――
まるで詩のような、なんて芸術的な言葉!
562 :
エートル・オートル :2007/11/23(金) 01:35:18 0
メルロ=ポンティのいう、身体と世界の双方向性や二重化みたいな表現は、
>>525-533 あたりで出てた色彩論の話題にもつながっていくと思うけれど、
それじゃ、セザンヌやゴッホなんかの芸術家の色彩表現はどうなのか、
という点について、それから佃煮氏の「言葉の両面性」については、また今度。
563 :
佃煮マニア :2007/11/23(金) 03:18:30 0
>――「世界が私の身体の二枚の花弁の間に挿入され、私の身体が >それぞれの物や世界の二枚の花弁の間に挿入されるということが >可能なのも、こうした二重化が行われるからである。」―― > >まるで詩のような、なんて芸術的な言葉! イメージすると不思議な絵になりますが、 私にとって世界が対象である訳でもなくて、かといって 世界ありきで私が副次的な存在である訳でもなく、 間身体性はありながら、相互作用をもって全体がなりたっている ということを説明するに足る表現ですね。 メルロ=ポンティが世界と私について思い描いていた時にパッと心によぎったイメージなのかもしれませんが。 一瞬妙な図でも、それがキャッチになってスムーズかつ明快なな説明につなげられる場合が多いものです。
564 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 03:21:01 0
メルロ=パンティーをくんくんしたいのかね?
565 :
佃煮マニア :2007/11/23(金) 03:24:43 0
こういった言語表現も、芸術家の色彩表現も、世界を転写して翻訳したひとつの図の一部なんですが、 それが世界への応答として身体の外に出るまで、 単純な知覚でさえ不随意的であるし意識の流れがパターンとして掴みづらいだけに、 その回路が具体的にどうなっているのか、謎に包まれていますね。 世界をどのように認識するか、どう語るかについて考える時には これは大変気になる所ではありますが。
566 :
考える名無しさん :2007/11/23(金) 23:23:38 0
age
567 :
エートル・オートル :2007/11/28(水) 00:23:19 0
>>563 >>565 >イメージすると不思議な絵になりますが
メルロ=ポンティはイメージを言葉で表現し、
佃煮氏はその言語表現によって与えられたイメージを
さらに佃煮氏言葉にする。
イメージは確かに「世界を転写して翻訳したひとつの図の一部」だし
言葉は「世界への応答として身体の外に出」たものではあるけれど、
イメージが浮かんだときには既に言葉が作用していたかもしれないし
まだ表に現われない水面下で言葉がイメージをつくったのかもしれない。
568 :
エートル・オートル :2007/11/28(水) 00:30:57 0
イメージはパトス(感性)で、言葉はロゴス(知性)だとはいえなくて、 パトス(感性)は受動的で、ロゴス(知性)は能動的だともいえない。 「私」と「世界」との関係においては、受動と能動がごっちゃになってて、 そういう相互作用的な関係をメルロ=ポンティは身体と世界の二重化と呼んだんだろうね。
569 :
エートル・オートル :2007/11/28(水) 00:43:05 0
570 :
エートル・オートル :2007/11/28(水) 01:03:17 0
プラトンやデカルトを持ち出すまでもなく、多くの哲学で、
パトス(イメージ・感覚)は誤謬をもたらすものとして虐げられ、
ロゴス(理性・知性・言葉)が主人公だったわけだけれど
セザンヌ、そしてセザンヌを見る/読むメルロ=ポンティは、
「セザンヌの疑惑」(『意味と無意味』所収)なんかを読むと
2つを融合させようとする姿勢が濃厚。そしてその姿勢は、
「感覚の論理」をテーマにしたドゥルーズや
ロゴス中心主義を脱構築するデリダともリンクすると思うし、
このへんは、
>>529 で語られていたデッサンについての話題や
>>515 で前541氏が語っていた「直観的な部分」にも通じるかな。
メルロ=ポンティがいう身体と世界の相互作用性みたいなものは
おそらくパトスとロゴスの関係にもいえるだろうし。
571 :
エートル・オートル :2007/11/28(水) 01:09:12 0
ただパトスとロゴスを短絡的にくっつけてしまうのが宗教だったり 神前に話が出てたスピリチュアリズムだったりするように感じる。 中身はパトスなのにロゴスの仮面をつけようとするような短絡さを。
572 :
エートル・オートル :2007/11/29(木) 23:56:06 0
573 :
佃煮マニア :2007/12/03(月) 20:40:26 0
ロゴス=知性かみたいな所で、 先に出てた「哲学者から見た文学者」もからめて、 ウィトゲンシュタインがゲーテのこんな言葉を引用してるみたい。 「はじめに行為ありき」 ファウストが聖書の冒頭句をどう訳そうか悩み、人間の本来もっている理性とは何か?とあれこれ考えて、 結局たどり着いたのが、一般約である「はじめに言葉ありき」ではなくこの一文だったと。
574 :
佃煮マニア :2007/12/03(月) 20:42:01 0
要するにどういう事かと言うと、 理性の賜物である言葉も、単なる言語ゲームでしかないし、複雑な様式をもったそのゲームも、 その基底となる原初的な人間の知覚や反応、行為の積み重なりなしにはありえないだろう、 そもそもこれらの原初的行為自体が理性なんじゃないか。 もっというと、身体性そのものが世界を映す鏡になると。 このことを「実践的理性の優位性」と呼んで、えらく気に入ったらしい。
575 :
佃煮マニア :2007/12/03(月) 20:43:40 0
ロゴスを行為と訳したゲーテにならって、 ウィトはロゴス中心主義になりがちな西洋哲学に、やや距離をおいた見方をしてみせた。 実践的理性という事で進めると、パトスこそが理性という事になるw いろんな考え方があるもんですね〜
576 :
佃煮マニア :2007/12/03(月) 22:22:15 0
>>569 確かに視点が定まっていないですね。
セザンヌが静物の周りをグルグル歩いて眺め回しながら、後ろにまわりこんだ視点まで描いてくれているので、
絵を見る方としては、ただ立ち尽くして一点を見るだけで多角的に対象物を捉えられた気分がしてお得ですw
ただ物を見るだけなら、オレンジはただ一個の塊でしかないんですが、
人間の身体は常に情動を働かせて、オレンジに意味を付け加えていきます。
無意識であるようでありながら、オレンジをどう見るべきか能動的に意図していて、
さらに多様な意味の重ねづけによってどんな効果が生まれるか熟練してもいきます。
その熟練を、「恒常的な見え方とは何か」という方向に持っていき、
対象物を誰の目にもそれと見えるように克明に描いていたのが印象派以前の画家達だったんですが、
セザンヌは、それとは別のところでアプローチをかけています。
山と積んでもすぐに散らばってコロコロ転がっていきそうな果実の不安定感を
多元なパースで表現しつつ、抽象ではなく静物画としてまとめあげる事に成功し、
ベージュの布に一瞬見いだした光を水色に塗り込め、絵の中に様式化する事に成功しています。
セザンヌは、対象物を画面におさめつつ、こうした情動の絡んだ流動的な視覚的「体験」を描いていたのではないでしょうか。
非哲学的な質問というか スレ違いですみません。 昔あることでトラブッてトラウマを受けた人(今は無縁です)の下の名と同名の人と知り合い、 親しくなりました。不思議な縁のような偶然性を感じているのですが、 哲学的に考えると こういうのはどうなのでしょう?全くの偶然なのでしょうか。 ありふれた名前でもなく、珍しい名でもないのですが、 何千と言う中の「それ」に一致したことに驚いています。複雑な気持ちです。
579 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 00:06:04 0
>>578 了解(^^)
>>577 不思議な出来事が「縁」を感じさせるのか、それとも
ありふれた奇遇を「縁」と感じてしまうのか、だね。
580 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 00:16:46 0
それはまた ¥リンゴとオレンジをあのような静物画として見たのはセザンヌか、 あるいは、 リンゴとオレンジがあのような静物画をセザンヌに見させたのか、 というようなことにも言えるけれど。 メルロ=ポンティ経由でセザンヌの視点に立つならば、 物が見させる、ということになるんだろうね。 そこに「身体性」とか「間主観性」という言葉もかかわってきて 身体と世界が相互にそれぞれの間にはさまってるという、 例の花弁の比喩も出てくる。
581 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 00:19:35 0
>>574 で佃煮氏が書いてる「身体性そのものが世界を映す鏡になる」というのも
また、「原初的行為」が「実践的理性」として成り立っていくのも
世界が、行為や言葉を誘発してるってことにもなるんじゃないかと。
世界は身体を包んでるというだけじゃなく、作ってもいるわけで、
行為はもちろんのこと、言葉も身体から紡がれるものだろうから。
582 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 00:26:43 0
>>576 でも佃煮氏が書いてるけれど、
セザンヌが見たリンゴとオレンジは、
おいおいこっちからも見てくれ
いやいやそっちの右のほうから見たほうがいいぞ
それよりもうちょっと上からも見てくれよ
という感じでいろんなパースペクティヴを画家に要求する。
見たのは画家じゃなく、あたかも静物がそのように見せたかのように。
画家は物=世界に促されて見させられたその重層的なフォルムを
1枚のタブローに描きこんだ。
583 :
577 :2007/12/06(木) 08:28:19 0
レスありがとうございます。ここでの対話の流れを全然読まずに書き込んでしまったもので すみません。縁を感じたのは 名前という言葉ですが、名前から何かを 感じさせてしまったのはその人。人であるのですね。また何かを強く感じてしまったのも 今まで体験してきた生きてきた自分、なのですね。 ちょっとだけわかった気がします。
偶有性から単独性への転倒ですね それはどれでもよかった名前がある人と親密になる ことで特別な名前になる その人の名前は過去のトラウマとは無関係にあなたにとって 特別な固有の名前になる
585 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 23:39:45 0
>>583 いえいえどうも。
でも人名というのは確かに影響が強い言葉だよね。
固有名詞には魔術性があるというか。
バラとかイヌとかヒトといったような
普通の名前(一般名詞)は抽象化=一般化されるけれど
人名という固有名詞の場合は具体性=特異性をまとったまま
名前がただの言葉であるにもかかわらず、
その人そのものと化す魔術性をおびてしまうような。
>>584 で書かれてる(おそらくキルケゴールを意識してかな?)
「偶有性から単独性へ」ということも違うことじゃないだろうナ。
586 :
エートル・オートル :2007/12/06(木) 23:56:39 0
>>573 でウィトゲンシュタインが出たついでに少し。
「論哲」は典型的なロゴスの哲学だけれど、
《語りえぬものについては沈黙しなければならない》という
あの最後の有名なフレーズからはパトスを感じるナ。
謙虚にも語りえぬものを沈黙へと委ねたわけではなくて、
語りうることはすべてここに語りつくしてみせた、という自負と、
語りえぬものを語ろうとする愚挙が哲学のアポリア(陥穽)なんだという戒め。
最後の〆の言葉としては古今東西最高のフレーズかもしれない。
587 :
エートル・オートル :2007/12/07(金) 00:13:37 0
>>576 に対してもう少し応答すると
印象派以前の画家達の「恒常的な見え方とは何か」という追求は
プラトンにまでさかのぼるロゴス中心主義かもしれないね。
我々の感覚(パトス)によって知覚される現象は仮象でしかなく
本当の世界(イデア)は捉えられないとするプラトニズム。
カントは、本当の世界というのを「物自体」として括弧にくくったけれど
慎み深くそれは「語りえぬもの」だし知覚しえぬものだとしてた。
(その姿勢はフッサールの現象学的還元に受け継がれてるとも思うけれど)
セザンヌにとっては(またメルロ=ポンティにとっても)
「恒常的な見え方」を求めることは「本当の世界」や「物自体」につながるわけじゃなく、
むしろ物(世界)を人間的な視線で飼いならすことのように思えたのかも。
「恒常的な見え方」じゃなく「多様な見え方」こそが物の豊かさなんだという視点。
物は身体をあちこちのアングルに動かし、目だけじゃなく身体で見させる。
それが「流動的な視覚的体験」ということなんだろうね。
ネ申なスレ
ありがとうございます いいコテさんたちが質の高いレスをつけてくださってる おかげです 素朴な疑問も大歓迎ですよ♪
590 :
エートル・オートル :2007/12/12(水) 00:46:31 0
今度余裕ができたらゴッホの古靴をめぐって何か書いてみたいけど 考えてみたら哲学者や思想家は結構芸術について語ってるんだよね。 バタイユもマネについて書いてるし、フーコーはベラスケスについて、 ドゥルーズはベーコンについて、デリダはゴッホについて書いてる。 バルトには「美術論集」(みすず)というのがあるし。
音楽を語ってる哲学者もいるよね
592 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:15:58 0
世界と私たちが相互作用しながら一定の方向に向かおうとするとき、 世界との一体感を感じますが、自我がある限り、前人称的な視点には決して立ち得ないと知る事ができます。 そこから神が発生し、それへの憧憬が生まれたんでしょうね。
593 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:16:47 0
これまで芸術の中に神の姿が織り込まれ続けてきたんですが、 人間が物理的な不随意性を克服して、徐々に自立性を獲得していく度に、 ガンヴァスにあった神の姿は人間に取って代わっていきましたよね。 芸術はそうやって変わっていったけど、だからといって人間が神の視点を勝ち得た事にはならない。
594 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:21:51 0
これまで芸術に神の姿が織り込まれ続けてきたけれども、 人間が物理的な不随意性を克服し自立性を少しづつ獲得してくるに連れて、 カンヴァスにあった神の姿は人間の姿に取って代わっていきました。 だからといって人間が神の視点を勝ち得た事にはならないですよね。 究極の客観とはどんなものか気になってくるけど、 捕食者に追われたときのコウモリとかイワシの大群が見せる、 個の損滅をいとわないあの不定形の巨大な生き物のようなうねりは、 そのヒントになるかも知れないと思ってます。 案外ロゴスがカギでもなかったり・・・
595 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:22:41 0
あ、まちがえた すんません
596 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:26:46 0
っああ〜! 593まちがえたすんません
597 :
佃煮マニア :2007/12/17(月) 23:27:30 0
何度もすいません
598 :
エートル・オートル :2007/12/21(金) 00:48:34 0
絵画の流れを俯瞰すると、神の座に人がついたのが判るよね。 究極の客観、あるいは究極の真理でもいいんだけれど、 それはたぶん「人間にとって」のものとしてしか求めようがなく ミツバチにはミツバチの、イルカにはイルカのそれがあるんだろうし、 それぞれの種にとって多種多様な「究極」があるとするならば、 「究極」という言葉は矛盾になってしまう。 ただ生物全体を包み込むような究極がもしあるとしたなら、 それはダーウィンのような進化論的視点なのか、あるいは、 ヘーゲルのような弁証法的視点なのかはわからないけど、 >捕食者に追われたときのコウモリとかイワシの大群が見せる、 >個の損滅をいとわないあの不定形の巨大な生き物のようなうねり というイメージにもつながってゆくかもしれないね。 それでもなお、そのヴィジョンは神の視点、究極の客観とはいえなくて 人間が人間を超えようとして想像したところの神のパースペクティヴ、 「人間的な神の視点」なんじゃないかというふうに思う。
599 :
佃煮マニア :2007/12/21(金) 18:28:49 0
これこそ究極の客観だろうというものはないように思えますね。 一であり多である、みたいな主観を持てればそれは客観と言えるんでしょうけど。 一であるしかない。 そういえば何論だか忘れましたけど、こんな説があったような。 例えば、自分は世界の外にいて、常に世界を観測している、 だから自分にとって世界は他であり、自分は常に客観的な存在だ、というものなんですが、 なるほど一でありながら、客観的視点を持ち得る。これならいいように思えますが、 それぞれがそういう事を言っていたら、仮にこの自分をAさんとしたら、 Aさんが私の事を考えていないときは、Aさんの世界に私がいない事になってしまう。 そしてAさんがふと私を思い出す時、突如として私と私の世界が再出現するのか? 何かおかしくなります。 やっぱり私は世界に包まれていないといけない。 そして自分は常に一点から世界の中を眺めなければならない。 そのなかで、セザンヌが描き上げたあのリンゴとオレンジの絵は、 カンバスの中の世界を覗こうとすれば、その場に立ったまま、一瞬であらゆる視点から静物を眺めさせてくれます。 散在した自分が同時に一つの静物を眺めているような錯覚をおぼえます。 それが今言った一であり多であること、だから神の視点だとはすぐには言えないんでしょうが、 論理の枠から大きく飛躍した特殊な視点を、絵画は与えてくれますよね。
600 :
エートル・オートル :2007/12/26(水) 01:08:09 0
>一であるしかない。 多の中の一としてね。 宗教団体にしろ何にしろ世の中には多を見ない一があふれてて、 あえて多に気づかないふりをしてるのかもしれないね。 >Aさんが私の事を考えていないときは、Aさんの世界に私がいない事になってしまう。 唯心論になってしまう考え方だね。 主観を客観に強引につなごうとするとこんな考え方がでてくるんだろうな。 >やっぱり私は世界に包まれていないといけない。 ハイデガーは「世界内存在」ということを言ってたね。 そして人間(現存在)にとって世界は道具として現われてるみたいなことも。 その道具というのが、たとえばゴッホが描いたような 農夫の古靴だったりするんだけど、この話はまた。
601 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 21:52:45 0
ゴッホの古靴についての論争も面白いですね〜。 リアルタイムで三人の意見が飛び交っている所を聞きたかった気がします。 この時代はパリ万国博が盛んに行われていて、飛躍的にテクノロジーが進展した時代だったみたいですね。 そもそも道具は、基本的に身体の器官の延長にあるものとして、私という存在の境界内に入るものです。 道具は、帰属するべき主体を持った身体の器官である訳ですが、 用途の分からないもの、身体に合わないものは主体を失って形而上に浮かび上がってしまいます。 万国博に陳列された目新しい機械の数々には、主体があるのか。 それらは果たして私たちの皮膚境界内にあるものとして、有用性を認められるのか。 使われない器官、麻痺してしまった腕や、見えない目と同じようなものを皆な愛でてるんじゃないのか? 環状に伸びながら絵の端に切れている靴ひもに象徴性を込めて、靴がそう語っているようにも見えます。 分裂病の認知世界にいながら、ゴッホが絵の中にそういった象徴性を込めたかどうかは分かりませんが、 近代化に批判を込めてゴッホが靴を書き続けた事は確かなようです。 思惟を進めてみても日常に回帰していかない空論も、これと同様ですね。 両方とも左足用の靴、止まらないファスナー、サドルのない自転車、横にされた振り子時計・・・ そんなものと一緒なのかもしれません。
602 :
エートル・オートル :2007/12/29(土) 00:44:46 0
>リアルタイムで三人の意見が飛び交っている所 これはかなり凄い絵になりそうだね ゴッホの1886年の作品「古靴」。ハイデガーはこの絵を取り上げながら、 『芸術作品の根源』の中でこんなふうに語ってるね。 「この靴のはきふるされた内部の暗い穴から労働の歩みの厳しさがじっと覗いている。」 イメージは、「荒涼と風の吹きすさぶ畑」「単調なあぜ道」へとつながり、 さらに、「足取りの粘り強さ」「野道を行く寂しさ」へとふくらむだけじゃなく、 「大地の無言の呼び声」にまで到達する(マルティンそこまで言うか)。 「この靴は大地に帰属し、農婦の世界のうちに保護されているのである。」 こう述べるハイデガーは、ゴッホの靴の絵に、農婦の世界を見るだけじゃなく、 靴という道具存在を通して、大地と人間(現存在)の関わりを読んでる。
603 :
エートル・オートル :2007/12/29(土) 01:13:32 0
ハイデガーが靴は畑からやってきたとしているのに対して 靴は町からやってきたとするメイヤー・シャピロ。 そして、『絵画における真理』所収の「返却」の中で、 これは本当に対になった一足の靴なのかと問いながら、 両者を左右に分けながら後ろ手にひとまとめにするデリダの 推理小説仕立て風プロットで謎を深めてゆく手際はさすが。 (とはいえ、ちょっとやりすぎじゃないの?) 農婦のものであれ、町人のものであれ、ゴッホ自身のものであれ、 対の一足の靴であれ、両方とも左足用の二つの靴であれ、 この絵が素晴らしいのは、新品じゃなく古靴だから。 靴ひもの解け具合といい、はきつぶした皺といい、 またその靴の古さに馴染む周囲の空間の暗さといい、 確かに近代化という「新しさ」に抗する黄昏感が表現されてる気もする。 ゴッホは古靴を自身を投影した自画像として描いた、あるいは、 自らの放浪の人生の象徴として描いた、といわれれば、 それもそうかもしれないとも思うけれども、 この「古さ」は朽ち果てたガラクタの無用さというよりは、 (そういう匂いももちろんあるけれども) 人間が歩き、生きた時間が染み込んだ人間臭い「古さ」なんだと感じた。
ところでこれのどこが対話なんですか
605 :
エートル・オートル :2007/12/29(土) 01:17:15 0
>どこが対話なんですか その問いかけが既に対話の始まりになり得るんだと思うよ。
606 :
佃煮マニア :2007/12/29(土) 03:24:34 0
ハイデガーも適当にこの絵の感想を述べながら解説者然としていたからってのもあるでしょうけど、 わざわざ手紙で「それ違うんじゃないの」と書き送って公開してしまうシャピロも、 なんだか(笑 見かねたデリダがまぁまぁと間に入って、同時に訳の分からない事を述べてケムに巻き、 何とな〜くみんなの目を靴の所在のことからそらして、 やっぱいい絵だよねこれ、みたいな感じに落ち着けたと。面白いですね! この小品から痛烈なコンセプトを見いだしたのは、実は彼ら鑑賞者達だったんじゃないでしょうか? ゴッホ自身は、「気がついたら描けていた」と言いそうな気がします。
607 :
佃煮マニア :2007/12/29(土) 03:29:06 0
分裂病であったゴッホの病理として、人間の体に似た形の道具に強く惹かれて固執するのは当然かと思います。 そこに文学的なイメージを次々に見つけ出し、半ば衝動的に描きたくなったのかと・・・ ゴッホがモチーフを選んだのではなく、靴が彼に描かせたとも言えます。 興味の対象以外を完全に省略して、靴のみをねっちりと描いている所からも衝動性は伺えます。 イメージの内容は、支離滅裂だったでしょう。 当時災厄続きだった当時のゴッホの事を思うと、暗いイメージだったはずです。(それは色彩にも表れています) 自分や周辺に対するやるせなさが社会批判に発展していく事もあります。
608 :
佃煮マニア :2007/12/29(土) 03:35:47 0
過剰なまでに厚塗りにしてキャンバスを埋め、装飾し尽くしたのも、性癖からだと思います。 規則的な線描写も病気特有のものですが、幼少の頃から卓抜なデッサン力を持っていたゴッホの、 端正な造形とその描写がからまっていい感じに表れたんでしょう。 天才の為せるわざです。 絵についてどう解釈してもいいんでしょうが、 それにしてもこの、すり切れて風合いのにじみ出た靴にこれだけ愛着を持って描かれてもみると、 やはり道具に対する思いを新たにしようという気になります。
609 :
佃煮マニア :2007/12/29(土) 04:06:12 0
年末ぐらいと畳をたたき、包丁を研ぎ、OSを入れ替え、服を整理し、 ま〜何と私の小世界にはこれだけ道具が並んでいることですよ。 世界は私にとっての道具なのである、といいつつ 私の世界はどうも機能し切れていない・・・とほほ
610 :
考える名無しさん :2007/12/29(土) 05:25:27 O
デリダはエクリチュールだとか言って 文字、視覚、芸術を連関させて色々哲学してるよね。 盲目の芸術みたいな本書いてた。 音楽に関係ある思想家はニーチェ(ワーグナー)とか ウィトゲンシュタイン(兄貴が片腕ピアニスト)とかか。 東北大の博士論文に音楽と言語ゲームって本があったな確か。 価値相対主義の横溢に対抗するには美学しかないと思う。
611 :
佃煮マニア :2007/12/29(土) 06:14:58 0
>価値相対主義の横溢に対抗するには美学しかないと思う。 芸術という沈黙の言語によって表面化されたロゴスが一つの顔として、 まとまった形を見せた時、その表現内容がなんであるが以前に、 政治や社会の論争に否応なく巻き込まれていく、 だから作者はそれを認識しなければならない、とサルトルも言っていたようですね、 ゴッホの残したものが呼んだ近代化批判の論争についてもこれは言い得ています。 ただのすりきれた靴単体は何の意志も発していないんですが、 それを作者が見て、筆を通して画面に起こしたとたん、メッセージを持ち始める。 本人が制作の意図として何を考えていたのかは別で、 まとまらない論争のなかでの対抗手段として使われ始める。 サルトルの言葉をうけて、デリダを始めフランスの哲学者の間で、 エクリチュールとは一体なんなのか盛んに研究されるようになったんですよね。
612 :
エートル・オートル :2007/12/30(日) 17:51:54 0
>>606-608 >ゴッホ自身は、「気がついたら描けていた」と言いそうな気がします。
コンセプトというのは作品を生み出す種子であるにもかかわらず
えてして作品の後に発見されたり解釈されたりするよね。
まあ批評家の役割は画家の無意識の領野に入り込むことなんだろうけど。
>ゴッホがモチーフを選んだのではなく、靴が彼に描かせたとも言えます。
パウル・クレーもまた、似たような言葉を日記に書いていて
「私が色彩を探し求める必要はなかった。色彩が私をとらえたのだ。」
というようなことを語ってるんだけど(引用は記憶だより)、
そう、確かに、靴こそがゴッホをとらえたといえるのかもしれないね。
靴という道具には、人間を移動させ、全身を支えるイマージュがあり、
ハイデガーのいうように大地との関わりが最も深い道具だけど
それだけに最も汚れやすく古びやすい道具ともいえるかもしれないし、
人間が身に付ける道具の中で、時間が最も刻まれやすいものかもしれない。
613 :
エートル・オートル :2007/12/30(日) 18:09:13 0
>>609 年末の大掃除の時期には、道具存在の多さに改めて気づくね。
>>610 >盲目の芸術みたいな本書いてた。
盲人をモティーフとしたドゥローイングを取り上げた、
『盲者の記憶〜自画像およびその他の廃墟〜』だね。
デリダの美術論としてはほかに、アルトーのデッザンについて書いた
『基底材を猛り狂わせる』という難解なやつもある。
>音楽に関係ある思想家
アドルノやジャンケレヴィッチなんかも書いてるみたいだね。
>価値相対主義の横溢に対抗するには美学しかないと思う。
確かにそういうふうに言える面もありながら、
《美学のイデオロギー》批判が必要になる面もあるかもしれない。
ド・マンやイーグルトンの美学関係の本は未読だけれども。
614 :
エートル・オートル :2007/12/30(日) 18:21:25 0
来年はフランシス・ベーコンについてドゥルーズが書いた 『感覚の論理学』を読んでみたいと思ってるけど、 何か読書予定の本があればぜひ教えて欲しいな。
615 :
考える名無しさん :2007/12/30(日) 20:31:48 0
>>614 ラカンまだ読んでないんで、読んでみようかな〜と思ってます。
そう言えば、絵葉書I読みました?
興味あるんで、良ければ、博学なエートルさんの感想をさらっと聞かせて下さいな
ラカンの入門書を読んだのですが用語がかなり難解でした… 対象aって具体的には何を指すの? 人間の欲望は他者の欲望である 私とは失われている存在である ううむ…
お喋りするのが哲学だと勘違いしてるバカはソクラテスの産婆術に 立ち返れよ。
618 :
エートル・オートル :2007/12/31(月) 00:47:41 0
>>617 それよりも重要なのは、ソクラテスがよく口にしていたという
デルフォイの神殿に刻まれた「汝自身を知れ」という言葉じゃないかな。
それはともかく、どこかで見たことのある名前だ。
E・ウィルソンについて何か書いてた人かな?
619 :
エートル・オートル :2007/12/31(月) 00:49:41 0
>>615 『絵葉書I』読んだけれど、これは感想が難しい書物。
博学からはほど遠いので、簡単な印象だけでいうと、
デリダが妻(?)に対して綴った私的な数々の手紙の中で、
日々の出来事や予定、雑感、恋愛感情などが織り込まれながら、
ソクラテスとプラトンが描かれたポストカードをめぐる話題が中心軸となりつつ、
フロイトの快感原則理論への言及もしばしばあるという構成で、
なんとも形容の難しい書物。
フロイトの背後にはラカンも想定されてるんじゃないかと思う。
デリダにおける郵便的なものというのは遅延し迷子になる可能性のあるもので、
決して確実に相手に届くものじゃないという含意が述べられていた。
おそらく郵便的なものは亡霊的なもの(マルクス論)にも結びつくと思うけれど
今はまだよく消化出来ていないから反芻が必要。。。
620 :
エートル・オートル :2007/12/31(月) 00:50:44 0
>>616 ラカンはいくつかの論文にさっと目を通したことしかないんで
615さんも読書予定に挙げているようだから
来年この機会に何か読んでみようかな。
>>618 メクラやツンボに俺が誰なのか教えて貰えって?
こんなローカルエリアにまで来なくても… ライダーなら公道を飛ばすのが王道 ここは小川が流れる田んぼの畦道ゆえ ゆったりとした住民の憩いの場
623 :
7 :2007/12/31(月) 12:40:52 O
「対話」はあくまでも主題があることが前提です。 反して「おしゃべり」に主題は必要としません。 これは前スレで既出ですね
主題のあるのは議論だろ。言語空間に溺れてるなよ。
625 :
考える名無しさん :2007/12/31(月) 14:01:15 O
ライダーはおしゃべりでも対話でもない、ただの嵐 悲しいね…
「お喋り空間」に巻き込まれるのが鬱陶しいからよ。
627 :
考える名無しさん :2007/12/31(月) 14:06:39 O
ならばここも読まなきゃいいのに 以後、2ちゃんねるのルールに則って荒らしはスルーで
630 :
考える名無しさん :2008/01/01(火) 00:57:56 O
エートルさん、佃煮マニアさん、前スレ541さん、 名無しで真面目に書き込みされてる皆さま あけましておめでとうございます 今年もよろしくお願いします
631 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 12:59:58 0
他の哲学者の言葉を知るのは知識としてプラスになるが、他人の書いた哲学書を教科書としなきゃならない事は無い。
632 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 13:57:46 0
∧_∧ パッ /\ ( ・∀・)/ヽ ( ●⊂ ,⊃● ) アケマシテ! ヽ/ | | \ノ し' `J ∧,∧ ∧.∧ ∧.∧ (´∀` ) (´∀` )( ´∀`) オメオメオメオメ♪♪ ゚○-J゚ ゚○-J゚ ゚○-J゚ ∧.∧ ∧.∧ ∧,∧ ( ) ( )( ) ゚し-o゚ ゚し-o゚ ゚し-o゚ デトデトデトデト♪♪
633 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 14:06:50 0
>>619 へええ〜。
哲学的なエッセンスの強めなエッセイって感じですかね?
読んでみたいなぁ。
634 :
佃煮マニア :2008/01/03(木) 14:57:08 0
ゴッホもセザンヌも、筆致や色彩が人の心をつかみ、
隠されたコンセプトが内省へと誘いますね。
ここらへんで、
話の流れ的に>>546-
>>551 辺りの事に戻っていくと思いますが、、、
>世界を表現しようとするとき、その表現者にとっての、
>「言語への依存度」もしくは「沈黙への信頼度」によって、
>饒舌さ(装飾)を選ぶか、簡潔さ(論理)を選ぶか、になる。
>感性は「沈黙への信頼度」が高く
>理性は「言語への依存度」が高い、といったふうに。
「なんで芸術は沈黙で語るのか?哲学に比べて明晰さにかけるんじゃないか?」
635 :
佃煮マニア :2008/01/03(木) 15:00:04 0
世界がこうなっていると断定しながら一つの論を練り上げていく過程には、 必ず「世界はこうであってほしい」という欲求がからんできます。 ○○論で世界をくくる事は、そういった、 充足へと回帰していかない欲求を形而上的なパースペクティブに置いて実現しようとする試みなのであって、 これはフロイトの言う「喪の作業」とも関係します。 親しい人が亡くなった時、その人に注がれていたエネルギーを自己に回収する事によって その不在を克服し、自我の統合を維持します。 これと同じように、 充足を待たずに次々消えていく自我の欲求への代償行為は、むしろ、 自我の維持のために欲求を視野外に押し出す事にあるのではないでしょうか?
636 :
佃煮マニア :2008/01/03(木) 15:03:14 0
裏返せば、 ○○論を主張する事は、○○論の基底となる一切を亡霊として払いのけている事になります。 主張しながら同時に否定している。 こんな矛盾もあるから、言語は不完全で、 むしろ沈黙によって焦点をぼかしつつ語る事の方が潔かったり って言う具合になるんじゃないかな〜と思います。
637 :
エートル・オートル :2008/01/04(金) 21:29:34 O
638 :
考える名無しさん :2008/01/05(土) 22:22:44 O
>>エートルさん 自由意志とか意識とか主観とかいうものが 一体何なのか知りたいんですけど何かお薦めの本ありますか? 自分の中では哲学じゃなくて 脳科学の分野じゃないかと最近思ってしまっているのですが。 処刑ライダーさんもお薦めや 何か御自身の所見があればお願いします。
俺はキリストに始まってキリストに終わる方だ。 オーム社の量子力学原論とか。
640 :
エートル・オートル :2008/01/06(日) 17:46:17 O
>>638 残念ながら人に薦められるほど本を読んではいないので。。。
自由意志、意識、主観へのアプローチとして脳科学は有効だろうね。
ただし個体における物理的な説明だけではなく、
世界との関係、他者との関係の中で見る必要がありそう。
641 :
エートル・オートル :2008/01/06(日) 17:49:55 O
>>634-636 フロイトの「喪の作業」と絡めるのはすごく面白いなあ。
とても刺激的な視点をどうもありがとう。
○○論という主張には、自我の欲求が働いていると同時に
論の基底となっているものの悪魔祓いでもある――と考えると、
確かに「喪の作業」の両義性にも通じる気がする。
フロイトは自らの「喪の作業」の中で「喪の作業」を見出したわけだね。
父親に対する「喪の作業」によって精神分析の道を歩み、
その自己省察の過程の中で「喪の作業」を見出したのだから。
642 :
エートル・オートル :2008/01/06(日) 18:00:58 O
「喪の作業」に関連して思いつくままを断章形式で。 (文章としてまとまりを与えるのは難しそうなので) ◆書くという行為、言葉で表現するという行為は 大切な人(物)の思い出を記憶するために行われると同時に、 その不在を穴埋めするための代償行為や昇華として、 あるいは、その不在を忘却するために、行われるのかもしれない。 ◆「喪の作業」にはそうした記憶と忘却の両義性がある。 思い出は、対象となる事物が目の前にある間は結晶化しない。 事物が消失し、今ここに不在となってはじめて思い出となる。 思い出の目的は、事物を記憶にとどめるためだけではなくて、 むしろ思い出として変形させることで事物を忘却するため。 思い出とは喪失の別名だろう。 ◆そして、言葉そのものにそうした両義的な働きがある。 人は事物に命名するが、そのとき言葉は現実的な事物を抹殺してしまう。 事物は言葉によって観念となりイメージとなって残されるけれども、 事物そのものは現実性や具体性を奪われ、死んでしまい不在となる。 これに似たようなことをヘーゲルがどこかで述べていたかもしれない。 ◆言葉と物。曖昧さ。言葉における死。
643 :
エートル・オートル :2008/01/07(月) 00:34:14 O
>こんな矛盾もあるから、言語は不完全で、 >むしろ沈黙によって焦点をぼかしつつ語る事の方が潔かったり >って言う具合になるんじゃないかな〜と思います。 ――言葉と沈黙。矛盾。曖昧さ。―― ◆言葉を明確にすることで確かに誤解は少なくなる。 けれどもまた相互理解もまた浅くなってしまう。 言葉を曖昧にすることで誤解の可能性は大きくなる。 けれども深い相互理解の可能性が高まる。 とすれば、それはなぜか? ◆言葉そのものにもともと沈黙が孕まれているとすれば。 というのも、事物のイメージである言葉は事物そのものを殺し、 事物の不在を孕んでいるために、その不在が沈黙となっているから。 ◆言葉と物(これはフーコーの主著のタイトルでもあるね)。 言葉が事物にぴったりとくっついていた時代があった。 だけれど、言葉は事物の観念やイメージであることから逸れていった。 シニフィアンとシニフィエとの分離。浮遊するシニフィアンの時代。 しかしながら、言葉と事物との分離はもともとあったのだ。 言葉は事物の現実性を殺して生まれたのだから。
644 :
エートル・オートル :2008/01/07(月) 00:37:40 O
◆言葉における「死」。ブランショの視点。 「言葉に生命を与えるものは、言葉のなかで死ぬ。 言葉とはこの死者の生命なのだ。」(「文学と死ぬ権利」) 「文学は曖昧さを作る言語である。」(同上) 「曖昧さとは世界自身の返答なのだ。」(同上)
645 :
考える名無しさん :2008/01/07(月) 00:45:48 0
西洋哲学は結局何の解決にもならない。
646 :
考える名無しさん :2008/01/09(水) 00:55:00 0
(^.^)
647 :
考える名無しさん :2008/01/09(水) 02:50:10 0
ドグマを習い覚え、無自覚に語っているだけの連中に 「対話」なんぞできますかいな。
648 :
エートル・オートル :2008/01/10(木) 00:05:04 0
曖昧さについてもう少し厳密に書こうと思ったけれど どうも曖昧なままにとどまってしまったなあ。 エンプソンの『曖昧の七つの型』でも読んでみようか――
649 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 00:39:55 0
そうやって思索の漫遊・・・ エートル・オートルさんはもう切実に出口(答え)を求める時期は過ぎたの? また〜りと進行しているところ、ちょっと気になって割り込みました。
650 :
エートル・オートル :2008/01/12(土) 01:43:46 0
割り込み歓迎だよ。 切実に出口を求める旅か。 そういう時は過ぎたのかもしれないな。 切実さという青さと、出口を期待する先入見に嫌気がさして。 でもたぶん航海は続いているわけだし、 日によって波の荒れ方は異なるよ。 一見漫遊にみえるのは水面上(健在意識)のことで 水面下(潜在意識)ではみっともなくもがいてることもある。 白鳥だって優雅に見えるのは水面上だけ。
651 :
エートル・オートル :2008/01/12(土) 01:51:42 0
タイプミス(健在意識→顕在意識)ソーリー。 もちろん、もがきかたは昔とは変わっただろうな。 もはや答えを期待してなどいない問いを 未だに抱えざるをえない漠然とした不条理の中で その問いを見失ってしまうんじゃないかという不安と、 その不安さえも消えてしまうんじゃないかという不安に、 潜在意識が怯えているのを感じているような、そんなもがき方。
652 :
エートル・オートル :2008/01/12(土) 02:04:39 0
「自分は一体誰だ?」 「俺はどこから来てどこへ行くのか?」 「世界はいつ始まったのか?」 「宇宙が存在する理由は何だ?」 そんな「誰?」「どこ?」「いつ?」「何?」という問いを 何度も繰り返しおしゃぶりしてた頃もあったし、 どこかの書物にその答えが見つかるかもしれないと期待して 手当たり次第さまざまな本を手にとってみたこともあった。 そんな問いの罠にも気づかずに。
653 :
エートル・オートル :2008/01/12(土) 02:09:51 0
ところで、きみは一体、誰、なんだ?
654 :
考える名無しさん :2008/01/12(土) 12:26:58 0
青さを失うと青春じゃなくなるんでわ
655 :
649 :2008/01/12(土) 22:09:46 0
エートル・オートルさん、返信をありがとうございました。 様々な事柄について思索を続けることで何かを保っている、ということかもしれないなあ と想像しました。 対象から対象へと移るときのスピード感にこそ、きわどく何かが感じ取られたりして、 というような勝手なイメージです。 対話できてよかったです。
656 :
エートル・オートル :2008/01/18(金) 00:32:01 O
人間は「何か」というある対象を思考するだけじゃなく、 矢継ぎ早にいろんな対象を横滑りして思考するね。 そしてまた、思考の対象は自らにも向けられて、 その思考が有意義かどうかも思考するし、 つまり、自らの思考についても思考するし、 そうしたメタ思考についてさえも思考するし、 以下合わせ鏡のように無限にこの回路を反復できるけれど、 思考の裏側、つまり「思考しないこと」さえも思考する。
657 :
考える名無しさん :2008/01/19(土) 19:57:28 0
>>632 かわいい(*´∀`*)v
☆☆お知らせ☆☆
前スレ541さんの「KEMANAI2」がタコシェにて絶賛発売中!
↓
http://www.tacoche.com/ イラスト風なSFマンガ、善悪を極める哲学の真理
復讐に燃え日本刀一本で殺戮を繰り返し、食人鬼に立ち向かうKEMANAIの
運命は如何に?
光の化身である彼の恋人はKEMANAIを止めることはできるのか?
659 :
考える名無しさん :2008/01/23(水) 22:16:50 0
前541さんは漫画家だったの? そう言えば昔ガロの漫画家の人たちとパーティーした事あるよ なつかしいなあ 「KEMANAI2」検索しても出てこないけどどこで探せばいいんだろう?
660 :
考える名無しさん :2008/01/23(水) 23:34:29 O
この作品は読む人の想像力と思考力が問われる作品です 思考するのが大好きな哲学板の方たちにぜひ読んでいただきたいなあ ちなみにわたしは作者の方とは別板で対話してますが 読んだ人がこのスレで呼びかければ作者さんと対話できると思いますよ インターネットはすごいな…
663 :
考える名無しさん :2008/01/24(木) 21:43:54 0
∧_∧ ( ・∀・)ワクワク♪
664 :
考える名無しさん :2008/01/24(木) 21:54:49 0
呼んだら怒られる・・・呼んだら怒られる 運営ともしかしたら本人に・・・しかし呼ばずにはいられない・・・!!! 「おーい前541さ〜・・・」
665 :
エートル・オートル :2008/01/24(木) 22:35:15 O
最近PCから書き込みできないな。やれやれ。 前541氏はどうも最近仕事が忙しい様子。 メルロポンティの話題の時に混ざれなくて残念だったと別の場所で書いていたから。 彼の到来を気長に待とうか。
前541さんに語りかけるにはまず「KEMANAI2」を読んでいることが 大前提ですね〜 でないと「対話」になりませんよ〜 みなさん、よろしくデス
667 :
考える名無しさん :2008/01/28(月) 22:30:01 0
お勉強として哲学的思索を続けるオタクたち・・・まるで世間から乖離した裁判官みたいだ。 当事者が抱いている生々しい情感こそが、生きられている真実だ。
668 :
考える名無しさん :2008/01/28(月) 22:40:00 O
ぜひぜひその生々しい感情を披露して下さい
ドットさん、通りがかりの者ですが、興味をもったので質問させてください。
>>40 前後±10スレくらいで 『物事の理を悟る』 という表現をしようしていますね。
ここでいう『物事』とはどういう意味で使用している言葉なのですか?(1)
たとえば、とある会社で出世するにはゴネや持ち上げや賄賂が実際必要だとか、また、ある組織で働いている場合で、組織の外の人に迷惑をかけるような悪いことでも皆がやってれば問題ないし、
程度が飛びぬけてなければマスコミに騒がれても結局許されている、というような事柄。
そういう人間活動上というか社会上の事実も含まれるのでしょうか?
それだとドットさんがその後つながると言っている 『倫理』,『智恵』 にはそういう、一見きれいでない事柄からも生まれるということになりますね。
ま、智恵は悪智恵という言葉もありますし、悪い意味も含有しているのでしょうが。
哲学が学問であるのなら、一般に通じる理論であるはずですよね。『物事』に上に上げた事例のような『物事』も含まれるのなら、哲学の授業とかではそういう負の(負というのは私見ですが)物事から理を悟る事例も勉強しているのでしょうか?(2)
哲学の授業とか研究とかしたことないのでこのあたりにも興味あります。
すいません。とりとめなくなりましたが、(1)(2)に回答頂けませんか?ドットさん。
673 :
エートル・オートル :2008/01/30(水) 00:25:47 0
「KEMANAI2」の前に「KEMANAI1」もあるけどね。 1だけタクシェで買って読んだ。2はまだ。 中野に行こうと思いながら果たせず。。。
674 :
エートル・オートル :2008/01/30(水) 00:56:54 0
>>667 巷にはよくいるんだよな。
実践も自己批評もできない口だけのディレッタントって輩が。
そう思わない?
675 :
考える名無しさん :2008/01/30(水) 01:07:04 0
>>670 とりあえず、哲学板で「真理」とか「悟る」とか言ってるのを見たら、
スルーしておいたほうが得策。
その手のものは言ったもん勝ちになってるから
676 :
考える名無しさん :2008/01/30(水) 23:16:59 0
2ちゃんねるの黄金の掟 煽りは華麗にスルー
678 :
佃煮マニア :2008/01/31(木) 00:45:20 0
KEMANAI気になる・・・
>>667 確かに哲学にかぎらず、言葉を上手く操ろうとし始めた人たちは
こなれる事=生臭みを消し去った文章を書けるようになる事としてるよね
心の中でよじれてしまってほどけない糸くずのような部分も、
こなれた文章で、もとからそういう風に編み込まれたレースなんだと解釈させようとする。
これは、
手つかずの問題の答えをあえて探さず、「考えてみましょうか」と言うにとどめて、
問題のまわりをやたらに装飾してみせることで、思考停止を強要しているようにも思える。
生々しい情感や経験を経て編み出されるのはその人の「人生哲学」 「学問」としての哲学は思考によって真理に導かれます 真理に到達するためにはいろいろなアプローチがあってもいいと思います 「学問」としての哲学を究めたい人たちは、お勉強として哲学的思索を続けるでしょう 生々しい情感や剥き出しの言葉はそのままでは思考にならないですよね なぜなら思考とは理性によってなされるものだから そして、思考は感情とは相反するものだから
680 :
考える名無しさん :2008/02/02(土) 12:00:28 0
>>679 「人生哲学」と「学問としての哲学」という分け方については、そうかもしれないなと思います。
でも、私からすると、そのように分けてでも哲学的思索を続けたい、というのが、
まさにその人の「生々しい情感」であるように思えます。
その人の切実な希望はその思索の続行であって、いわばそうやって思索された内容が仮に「学問」というべき内容を持つのだとしても、
その内容は実は同じような希望を持って哲学の思考を求めている人たちの間で共有されるだけの、
閉塞した世界の構成にしか結びつかないように思うのです。
感情のほうが思考に先立つし、思考という行為には自覚的でいたい、ということを言いたいのかもしれません、私は。
681 :
679 :2008/02/03(日) 20:47:36 0
>>680 >でも、私からすると、そのように分けてでも哲学的思索を続けたい、というのが、
>まさにその人の「生々しい情感」であるように思えます。
う〜ん、これは「生々しい情感」というよりも「欲求」、もっといえば「欲望」に近いのでは
ないでしょうか?
>その内容は実は同じような希望を持って哲学の思考を求めている人たちの間で共有される
>だけの、閉塞した世界の構成にしか結びつかないように思うのです。
これは哲学だけにいえることではなく、おそらくどの分野の学問においても同じでしょうね。
ことに真理を究める哲学は特定の個を超えて万人に普遍的に行き渡らなければならないとは
思いますが、ひとりの人間にとっての真理が万人にとっての真理であることを論証するには
やはり膨大な書物を読む必要がありますし、その書物を読んだ人たちのみによって交される
対話は、端から見たら閉塞した狭い世界に映るのでしょう。。。
けれども、そうした対話は決して無駄ではないのですね。
それぞれが書物から得た知識をこうした場で対話することによって、新しい視野が得られる
からです。まさに個の閉じた世界から飛び立つためには「対話」が必要なのです。
>感情のほうが思考に先立つし、思考という行為には自覚的でいたい、ということを言いたい
>のかもしれません、私は。
そうですね。初めに動機あり、です。その動機とは感情よりもっと強いもの、「欲望」でしょうね。
思考する行為につねに自覚的であるのは、すべての哲学徒にとっては大前提であるのは
いうまでもありません。
682 :
680 :2008/02/04(月) 13:33:36 0
しみじみ・・・ そうですね、なるほどそうですね・・・ とても平らな気分というか穏やかな気分になりました。 ありがとうございます。
>>682 そのように言っていただけて、わたしも大変嬉しいです
こちらこそありがとうございました
この対話スレは素朴な疑問も受け入れますし
特定の哲学書についての感想文もオーケーです
対話とは自分の世界と他者の世界を繋ぐ架け橋です
特に哲学は閉鎖的で孤独な学問と思われがちですが
実は最も対話を重視する学問なのですね
哲学的なアニメももちろん大歓迎です♪ KEMANAIとかね♪ ちなみに読み方はケマナイと読みます
685 :
エートル・オートル :2008/02/05(火) 01:28:07 0
>>676 そうかもしれないね。
実践も自己批評もできない口だけのディレッタント、
それは自分のことを語ったのだろう。
しかしそう語ってしまえば自己批評したことになり、
パラドックスに陥ってしまう――。
しかし、そんな詭弁的なロジックは実はどうでもいいし、
クレタ島人のパラドックスにも興味はないからやめよう。
以下は、特定のレスについてのものじゃない前提で書くけれど、 発せられる言葉の中にその内容が表現されてなければ その言葉は剥製のようなものだと思う。 たとえば、ほとばしる情熱、あふれる感情を求める言葉から、 もしも情熱や感情がほとんど感じられないとしたら、 その言葉は実践をしていないことになる。 言葉が自らを裏切ってしまっているとすれば、 その言葉には現実に対して何らかの変化をもたらす力を持つことはないだろう。 多くの哲学者は解釈をしてきただけだが、重要なのは世界を変えることだ、 と語ったマルクスの言葉は、語ることだけで満足しがちな我々に対して、 常に自己批判と実践を突きつけてくる。
KEMANAIの作者とネットで言葉を交わしたのはいつだっただろう。 彼はバタイユやブランショやデュラスやナンシーを読んでいた。 よく美術展にも足を運んでいるようだった。 彼は音楽にもかなり詳しくていろいろ教えてもらった。 あるとき、KEMANAIというマンガを描いて本にした、と聞いて その本を手にしたとき、そこで最初に印象付けられたのは、 ある種のグロテスクさとクールさだった。 そして少しだけユーモラスさと優しさがあった。 KEMANAI2のほうはまだ読んでないけれど、 他の人は一体どんな印象を受けるのか興味があるなあ。
>>679 名前:考える名無しさん
>そして、思考は感情とは相反するものだから
私は違うと思います。
思考と感情は分かちがたく結びついています。
二つを別て考える事も出来ないし、対立する概念であるとも思えませんが。
689 :
679 :2008/02/07(木) 12:11:21 0
>>688 しこう ―かう 0 【思考】
(名)スル
(1)考えること。また、その考え。
(2)〔哲〕〔thinking〕意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。
物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。
狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。思惟。
〔明治期につくられた語〕
↓
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=0&lp=0&sm=1&sc=1&gr=ml&qt=%BB%D7%B9%CD&sv=KO&se=on >思考と感情は分かちがたく結びついています。
一応、辞書では「感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。」
となっております
>二つを別て考える事も出来ないし、対立する概念であるとも思えませんが。
思考と感情は相反する概念というよりも、性質を異にした概念というほうが適切かも
しれませんね。
ただ、思考=【理性】によってなされる行為である以上、その理性(=思考)とは感情の
対極にある概念であるというのがわたしの見解です。
690 :
679 :2008/02/07(木) 12:11:57 0
691 :
679 :2008/02/07(木) 12:23:50 0
>>687 エートル・オートルさん
>KEMANAI2のほうはまだ読んでないけれど、
>他の人は一体どんな印象を受けるのか興味があるなあ。
さてここで「KEMANAI2」の登場人物をネコのAAにて紹介しま〜す♪
実際の絵柄はもっと精巧ときにユーモラスかつ迫力がありますよん
692 :
679 :2008/02/07(木) 12:24:24 0
。:彡 ノ ∧,,∧ ドドーン ミ `・ω・ミ ケマナイ参上 〃⌒ yヽ ノ ヽ_ノ===lノ .゚彡 サワ / l | サワサワ """~""""""~""" 「KEMANAI」→主人公、日本刀1本で敵に向かう武士道のヒーロー 腕にコブラの刺青あり
693 :
679 :2008/02/07(木) 12:28:38 0
2 ゚。☆゚゚ (\ (\(\ /) ゚゚。・゚。☆゚ (\(\ /) (☆) (\\\ /) / ゚゚。・゚。☆゚ ( ( ヾ /ヾ) ./ :(/ し/∧ ∧ / :(/ し//(,*゚ー゚)つ :(/:(/ と ノ ゚゚。・゚。☆゚ (/:(/ ( / (// 「KEMANAI」の恋人(表紙にはこのような翼有り) ∧_∧ (ill ´Д`) ノ つ!;:i;l 。゚・ と__)i:;l|;:;::;:::⊃ ⊂;::;.,.';;;;'::.:.;::.⊃ よだれ男(食人鬼) →「KEMANAI」の復讐相手
>>689 :679:
>意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。
これって文章が矛盾してないですか?
これによると「意志・感覚・感情・直観」が知的作用ではないと言う事になってしまいます。
正しくは「知的作用の一種」ではないでしょうか?
>性質を異にした概念というほうが適切かもしれませんね。
成る程、おっしゃるとおりですね。
私も「分かちがたく」の所が表現できなかったのですが、概念の質が違うと言うわけですね。
判りやすいですね。
695 :
679 :2008/02/07(木) 17:27:30 0
>>694 >正しくは「知的作用の一種」ではないでしょうか?
う〜ん、、、
どちらかといえば「意志・感覚・感情・直観」は「知覚作用」と呼んだほうが
わかりやすいのではないでしょうかね。
>概念の質が違うと言うわけですね。判りやすいですね。
ありがとうございます。
自身の言葉には限界があり、こうした場で互いに意見を出し合うことで
核心に近づいていけるといいですよね。
まさに、哲学は対話です。
>>690 :679:
>りせい 1 【理性】
>(1)感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力。
「―をはたらかせる」「―を失う」
これは現実問題として明らかに間違いです。
「判断」はむしろ感情の領域です。
判断は価値判断ですから感情が絡むのは当たり前の事です。
>(2)〔哲〕〔英 reason; (ドイツ) Vernunft〕(ア)感覚的能力に対して、概念的に思考する能力。
確かにこう分類したい気持ちはわかりますが、実際の人の「感覚」には「概念的思考」が入っています。
人が事物を認識(知覚、感覚)しようとする時、極めて優秀な抽象的概念化の偏向があります。
それが雑多な情報の中から、必要な情報だけを感覚器官から取り入れる働きをします。
追記 >(イ)カントの用語。広義には、先天的能力の総称。 是も明らかに現実と矛盾しています。 もし人が生まれてきて全く教育を受けない「狼少年」だったら。 理性は殆どありません。 ですから理性は先天的なものではありません。
698 :
エートル・オートル :2008/02/13(水) 01:27:21 0
判断や理性という概念をめぐっては、 辞書的定義をどう扱うか、 カントの概念をどこまで受け入れるか、 フロイト(あるいはユング、ラカン)の視点を導入するかどうか、 でかなり意見がわかれてくるだろうね。 まず、思考というものを理性と等号で結べるかどうか。 679にもじいさんにも部分的に同意できる。 理性はアプリオリ(先天的)なものではない、ということ。 理性(ロゴス)と感性(パトス)は必ずしも対立し合わないということ。 でも、概念だけで話を進めるより具体的ケースを例に肉付けしたほうがいいかな。 その点は後日また。
遅ればせながら、KEMANAI2を入手。 KEMANAI1が84頁あったのに比べてやや薄く、 2のほうは64頁のボリューム。 装丁は1と同じくB5判で非常にシンプル。 紙のやさしい質感が感じられる造本設計。 ん? 表紙の落款が1と違うナ。 登場人物が描かれた表紙のみがカラーだけれど、 左手に持っているこの天秤が意味するところは何だろ? そして、このSFイラストレーションコミックに哲学性はあるのか? さっと目を通しただけなので、また後日考えてみよう。 KEMANAIは3部作だと作者は確か語っていた。 1と2は共に3章立てで、3もおそらくそうだろうから、 3(章)×3(部)の全体構成になるんだろう。 1に比べると2はシリアス度が増している感じを受けた。 とはいえ、51頁に何とベケットが登場している! フランケンシュタインのようなベケットだけど(笑
KEMANAIは時間軸の読み方がすんなりといかないナ。
>>698 :エートル・オートル:
>概念だけで話を進めるより具体的ケースを例に肉付けしたほうがいいかな。
おっしゃるとおりだと思います、概念だけで話を進めると、先天的理性、感性、と言った概念が強調されます。
やはり具体的事実、事例の検討が何よりです。
ちなみに先ほどのテレビで最新のリハビリ治療の話がありました。
高年齢で脳梗塞になり機能を失った脳の話です。
リハビリを通して感覚(皮膚、運動)が脳を刺激して、脳のほかの部分が機能を肩代わりして行くと言うものです。
その経過は最新の技術で視覚的に見ることが出来ます。
それを患者が見て理解する事でやる気が出てきてそれが又良い刺激になる。
以上、理性や感性は少なくとも後天的に脳内で一体となって働く事があると言う示唆に富む話だと思います。
なんでもかんでも考えてしまおうとすることについて。 「考える」という行いは、例えば「歯を磨く」とか「絵を描く」ということと同類の、 それ自体が独特の癖を持っているというか、その手段はオールマイティではないというか、 とにかく人間の生理からくる行動の一つに過ぎないのだと私は思います。 その意味で、なんでも「考える」という取り扱いでまず処理してしまう習慣のある人は、 ほどほどにしておかないといけないな、という余裕を持っているといいのに、とも思います。 なんでも「考える」対象となりうるから、その行動パターンを一歩引いて外側から捉え直すのは難しいけれど。 それでも考えに耽っていたい人は、いわば一日中歯を磨いていないと不安になる潔癖症の人と似ていると思います。 とても心理学的といえばいいのか、精神病理の問題というのか・・・
703 :
visible :2008/02/15(金) 12:58:40 0
マイノリティの確立とは? ここが現実と理解するためには? 己を確立しているものとは? 脳と言うものがはたして本当に自分の中に存在するのか。 解らないんだ。
リアリティかアイデンティティか?
705 :
エートル・オートル :2008/02/17(日) 17:04:58 0
>>702 のことをまず考えてみると、
確かに「思考」というものをどこのラインでくくるか、
この境界線を探るのはなかなか難しい。
というのも、概念(言葉)というものは
人間の便利さや必要性のために切り取ったものだから。
同じように、前にグルーという色の話題が出てたけれど、
ブルーやグリーンの中間色の領域が定まらないのは、
人間にとってそれがさほど必要でも便利なのでもなくて
むしろ混乱させてしまうからなんだろうと思う。
そこに個人差というものを考慮すると余計にややこしい。
702で焦点をあてられていたのは、
「何でも考えてしまうという性癖」を持つ人という点だけれども
個人差のほかに時期差というものもあるだろうね。
思春期などの一時期に「何でも考えてしまうという性癖」を患った経験は、
結構多くの人にあるんじゃないかと思う。
確かにこれは「精神病理の問題」の範疇かもしれないし、
人生の一時期に患う「哲学病」とでも名づけるべきかもしれない。
(あるいはデカルトシンドロームとでも)
でも、観点を変えると、思考はいつでもどこにでもありそうに思う。
「思考」というものは哲学的思考だけじゃなく、
多種多様な「○○的思考」として日常生活に浸透している
>>701 を受けて、少し具体的な文脈で考えてみると、
朝、目覚めてから家を出るまでに思考なしで済ませることできない。
まず、ベッドの中で時計を見やると、急いで跳ね起きるべきかどうか、
ぼんやりとした意識の中でも瞬時に判断が要求される。
トイレに行き、顔を洗い、コーヒーを飲み、身支度をする。
このへんのルーティンワークにはあまり思考は働いていないように思うけど、
今日はどのシャツを着ていくか、どんな色のネクタイを選ぶかなど、
その日一日のシミュレーション(出会う人、行く場所)をしていることに気付く。
テレビでニュースを見ながら、まだゆっくりしてられるな、とか、
今日は新聞に目を通す時間なんてないな、なんて考えながら、
テレビで流される今日の運勢の順位(○○座は12位)を何気に気にして、
ラッキーカラーのネクタイに急遽つけかえたりする(笑
というように、簡単ながら思考(理性)は充分に働いている。
701に戻ると、「理性や感性は一体となって働く事がある」ということだったね。 今度はスポーツ時の思考ということを考えてみる。 フットサルをやっているのでその時のシミュレーションをしてみると、 ミニゲームをやっている最中はほとんど止まることなく走り回っている。 使っているのは足だけかというとそういうわけじゃなくて、 常にピッチを見渡して、味方と敵の位置を把握している。 そして敵のマークを外してボールを受けるにはどこに走ればいいか、 相手の攻撃の芽を摘むにはどこでプレスをかければいいか、 いろいろな思考が要求される。しかも瞬時の判断が。 自分がボールを持ったとき、相手の足のスピードによって、 フェイントでかわして抜くか、味方にパスを出すかを考え、 パスを出すにしてもボールを転がすか浮かすかも考える。 2つ以上の選択肢が各瞬間ごとに判断を要求してくる。 スポーツで要求されるのは「感性」というイメージがあるけれど、 体と同じくらい頭=理性を使っていることに気づかされる。 というより、この場面では理性と感性が一体化しているといえそうだ。
一方、理性と感性が分離している状態も考えてみると、 そういう場面では理性は抑制するという働きをもつことが多い気がする。 たとえば、フットサルのあと、ビールが飲みたくなる。 でも、もうかなり遅い時間だし、終電までそんなに時間がない。 それに最近飲み会も多いから今日は控えたほうがいいかな。 とりあえず居酒屋に行くのはやめにして電車に乗る。 結構混んでて、目の前にいるタイプの女の子が体を押し付けてくる。 感性は「美」を感じ、ある種の欲求につなげようとするけれど、 そこで理性がコントロールする役割を果たす、というように。(長文ゴメン)
710 :
679 :2008/02/18(月) 12:34:36 0
横レス失礼・・・ 「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように 気をつけなくてはならない。 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」 ――ニーチェ「善悪の彼岸」より抜粋 わたしは「善悪の彼岸」は未読なのですが、この格言を読むと 悪と戦い正義を行う者はその過程で自身が悪にならないように自戒しなければ ならないということですね。 ケマナイは敵に立ち向かう際にすでに怪物になりかけています。。。 ミイラ取りがミイラになってしまう危険性を秘めているのです。 ケマナイは当初は正義の代理人であったはずが、2においては正義を行使する よりもただ憎い敵を倒すためだけに殺戮を繰り返しているようにみえるのです。
>>709 :エートル・オートル:
>理性は抑制するという働きをもつことが多い気がする。
そうですね。
脳の話で言うと扁桃体と言う所が恐怖とか理性、抑制の働きを持っているらしいです。要は本能を抑制する作用です。サルから扁桃体を切除してしまうと犬を怖がらなくなる、どころか交尾しようとさえする。
貴方の場合もビールの作用で扁桃体にアルコールが回ったのかも・・・。
たぶん細かく分析してかかると解けない問題がある。 大づかみに扱うしかない問題が。
713 :
エートル・オートル :2008/02/29(金) 01:23:37 0
>>712 確かに思考のために必要な抽象化はあるだろうなあ
>>711 理性がいつ作られるのか(先験的かどうか)という点では
動物との差異、幼児との差異、無意識との差異、という観点が出てくるね
>>710 復讐の行為をするケマナイには理性があるのかないのか、どうだろう?
714 :
考える名無しさん :2008/02/29(金) 20:54:09 0
道を歩いてて知らない人に警察ざたにはできそうにない程度の悪いこと(例えば唾を故意にかけられる、はげ頭を故意にぶたれる等)されたら、どうしますか? 相手が聖人男性の場合、婦人の場合、子供の場合、でそれぞれお願いします。 私なら、文句を言いつつ、 手加減なく蹴飛ばす→成人男性 普通に蹴飛ばす→婦人 ひっつかまえて叩く→子供 です。(実際つまらない良心に後ろ髪ひっぱられて尻込みするかもしれませんが、理想は↑です。) 特に子供は、後で児童虐待とかいわれそうですが、口で言ってもへらへらしたり反抗したり逃げたりするようなら、悪人です。 手加減しません。子供は罪を問われにくいというだけで、基本は社会人として扱うべきだと思います。 しかも口で言っても聞かないなら大人も子供も一度は痛みを与えるべきだと思います。 みなさんならどうしますか?
>>713 :エートル・オートル:
>無意識との差異
はい・・・。
理性と無意識とか睡眠時の理性などと言う事になると、全く見当もつかない、科学でも哲学でも全く手の付けられない問題なのではないでしょうか。
>>714 :考える名無しさん:
はっきり言える事はそんな対応をしていると、貴方が長生きは出来ないと言うことです。
じいさんの多くの人生経験から言うと、マナーの悪い通りすがりの他人に手(足)を出したとたん、恐ろしい返り打ちにあってひどい目にあった人を沢山見ています。
マナーの悪い人と言うのは、その通り常識の通じない人なので、なるべく係わり合いのないようにするのが被害が少ない。
717 :
710 :2008/03/02(日) 19:20:44 0
>復讐の行為をするケマナイには理性があるのかないのか、どうだろう? かろうじてわずかながらの理性を保っているのではないでしょうか? そして、その理性を保たせているのは恋人への愛ですね。 恋人のために復讐しつつも、恋人はケマナイの復讐を好まないのです。 彼は最終的には恋人を悲しませたくない、、、 愛ゆえの復讐心が勝つか、愛ゆえに復讐を断念するか、 まさに理性と本能の葛藤が今後繰り広げられるでしょう。
718 :
考える名無しさん :2008/03/05(水) 21:47:41 0
どうしてそうやってフィクションについてあれこれ仮説を立てて耽溺するんだい? こう考えることができる、こういう考え方はできないだろうか、 こういう問いを突きつけてくる、こういう示唆に富んでいる・・・ 仮説オタクが囲碁か将棋の大盤解説、そんなふうではだめだってば!
719 :
エートル・オートル :2008/03/05(水) 23:05:30 0
>>718 フィクションについてだからこそ
仮説による想像が許されるんでは?
フィクションにフィクションを掛け合わせるわけだから。
それがたとえ妄想に近づこうとも。
720 :
エートル・オートル :2008/03/05(水) 23:08:13 0
>>717 >恋人はケマナイの復讐を好まないのです。
とすれば、ケマナイの愛はどこにあるのだろう?
愛する恋人のためにあるのか、それとも、
恋人を愛する自分のためにあるのか?
721 :
エートル・オートル :2008/03/05(水) 23:13:27 0
>>715 >理性と無意識とか睡眠時の理性などと言う事になると、全く見当もつかない
記憶というものは基本的に深層のほうから表層へとどんどんあふれ出ようとする。
覚醒時の理性はそのうねりから必要な記憶だけを取り出して
余分な記憶が表に出てこないように抑えている。
でも、理性が眠りにつく睡眠時にはそのタガが外れて記憶があふれ出る。
だから、夢の中では短時間のうちにさまざまな記憶が無造作に出てくる。
あるいは、生命が危険に冒されて理性が働かなくなるような場合、
さまざまな記憶が走馬灯のように脳内をかけめぐる。
そんなことをベルクソンが言ってたね。
722 :
考える名無しさん :2008/03/05(水) 23:15:46 0
そこに答えなんかないわけでしょう? フィクションだから。 作者からも離れてフィクションが独り歩きするわけでしょう? でもそんな思索って・・・
723 :
エートル・オートル :2008/03/06(木) 00:19:42 0
>>722 確かに、哲学的な思考あるいは学問的な思考としては、
いただけないかもしれないね。
文学的な思考あるいは芸術的な思考の範疇になるかな。
724 :
考える名無しさん :2008/03/06(木) 00:31:22 0
そう思うのです、私も。 文芸批評、美術評論、そんな類だなあ、と。
ぜひ現物を読んでから語って欲しいなあ…
愛は文学の世界ではテーマになるけれど 哲学の分野では語れないのでしょうか?
727 :
考える名無しさん :2008/03/06(木) 20:35:35 0
語れるでしょうけれど、フィクションの解釈に終始するようでは・・・ね
728 :
考える名無しさん :2008/03/06(木) 20:37:34 0
>>725 いや、そもそも語るなよ、信仰告白みたいな自己満足をw
愛は自己満足なのでしょうか?
>>721 :エートル・オートル:
最近脳科学の進歩によって脳の構造の解析が進んでいます。
今までの深層とか潜在とかの観念は恐らく全て間違っていると私は思います。
覚醒時も睡眠時も脳は各所で活発に活動している事が判って来ています。
脳は満遍なく盛んに活動しているのです。
すかし脳の構造的活動の様子と機能としての意識との関連は全く判らないと言うのが現状です。
記憶、理性の事など全く判らないので「ベルグソン」なる人の話は眉唾です。
731 :
エートル・オートル :2008/03/07(金) 00:34:54 0
>>724 KEMANAIという作品はコミックだから、
それを読み、何かを語ろうとするなら、
文芸批評や美術評論に近づくのは自然な流れだろうけど。
前に取り上げたセザンヌについて語るメルロ=ポンティにも
ところどころ美術評論のようなニュアンスを含む言葉があったし。
>>725 KEMANAIという作品を実際に読んで語るのと
人が語っているKEMANAIについて語るのとは
当然ながら重みが違ってくるね。
多くの絵とわずかな言葉から与えられたイメージは
人によって異なるのかもしれないけれど。
732 :
エートル・オートル :2008/03/07(金) 00:38:19 0
>>726 キルケゴールの宗教的な愛、フーリエのユートピックな愛、ニーチェの運命愛。。。
>>728 「信仰告白みたいな自己満足」を人が感じたとして、
人はどうしてそれを否定的に見てしまうのだろう。
>>729 KEMANAIの愛は自己犠牲なのか自己満足なのか、あるいは。。。
733 :
エートル・オートル :2008/03/07(金) 00:47:06 0
>>730 ベルクソンの視点が面白いと思ったのは、
記憶についてコペルニクス的転換を与えたところだね。
例えば、一般的なイメージとして、記憶の引き出しを探し求めて
その引き出しの鍵をあけて引っ張り出すという感じがあるけど、
逆に、記憶は常に引き出しの中におとなしく隠れてるんじゃなくて
常に意識のほうへ飛び出ようとしている、というんだね。
だから意識は不必要な意識を抑えておかなくちゃいけない。
だから、
>脳は満遍なく盛んに活動しているのです
ということにつながるんじゃないかな。
まあこの視点がどこまで正しいかどうかは不明だけれど、
瀬死の体験をしたときに思い出が走馬灯のようにかけめぐることの説明としては
かなり説得力があるように思うな。
プルーストが語った紅茶にひたしたプチマドレーヌから広がる記憶についても
ベルクソンの視点は有効なんじゃないだろうか。
734 :
エートル・オートル :2008/03/07(金) 01:01:52 0
KEMANAIでも記憶は重要なモチーフになっている感じ。 パート1で出てきた曖昧な「幻影」が、 パート2でその意味を少し明らかにしていく。 プロットの流れは未来に向かいつつ過去に遡る。
だめだと思うんだよ、そういうことでは! 「こう考えることはできないだろうか」とか「こういう意味だとするとまた新たな問題が現れてくる」とか、 とにかくそういう論考遊びはほんとうにほどほどにしておかないと・・・ 何か考える対象がほしくて、物事に対して「考える」という斬り込みを仕掛けているときに安寧を感じるからといって、 切実でもなんでもないただの思いつきや連想によって、自分がその後を引き受けていこうというつもりなんかサラサラない仮説を空中に撒き散らして行く。 自分はこういうことまで気がついている、さらなるこういう予想もしておこう、という衒学趣味的な行為。 あまりに無責任でお気楽だと思います。 (だからこそ、多くの人びとは「哲学」っぽいオタ話に嫌悪感を抱くのだと思います) ↓
考察している、分析している、探求している、思索している、という思いで本人は優越感すら持っているかもしれないけれど、 博識で関連付けのマニアになったところで、人間としては狭隘なままだと思います。 それなのに、「思索」していることで自分は広大な世界を遙かな時空を縦横に大冒険していると錯覚していて気がつかない。 まるでただ布団の中で眠っている間にジャングル探検の夢を見ているだけなのに、そうとは気がついていない、そんなふうな無自覚というか逃避。 何をどう解釈しようが、解釈された側から刃向かって来られる恐れもない安全な世界。 哲学が対話によって研鑽されて行くというのには同感ですが、 ただの思索マニアたちの読書・引用・関連付け自慢大会からは自己撞着しか生まれないと思います。 ↓
自身の体験から反省を込めて書きました。 エートル・オートルさん、佃煮マニアさん、私のこういう文章のことすらいつもの手法で思考しに取り掛かって、 「うむ、そういう自覚は常に持っていなければなるまい」とか 「ああ、これはいわゆる○○が言うところの△△ということと相通ずると思うが、この問題が必然的に示すもうひとつの問題は・・・」とかのような、 たちまち額縁をはめて思考対象にしてしまわないでほしいと願います。 額縁をはめる限り、なにもかもが思考対象になり得ます。 でも、それは「額縁をはめる」という行為が発端であると自覚できなければただの囚われの状態だと思います。 私が見るところ、例えばお二人は上で言う「布団の中で眠っている」状態です。 そしてそうだと言われても、 「それをどうやって証明できるのか」とか 「そうだとして、ところでここでいう眠りとは何であろうか」とかの思索を「夢」の中で繰り広げているうちに拡散させていって、問題を解消させて終わり。 そうでないことを願いつつ。
夢を見ることはいけないのでしょうか? なぜ非難されなければならないのでしょう 想像力とはこころの翼であり、それは人間に与えられた 唯一の自由な領域です たとえ一人よがりと言われても、その人にとっては聖域なのです
739 :
佃煮マニア :2008/03/07(金) 21:03:04 0
その辺を歩き回りながら布団の中で寝ているような感覚、たしかにあるなあ。 ちょっと話がずれるかも知れないけど 実際の話、前に脳波測定してもらったら、 私の脳はベータ波が弱くてアルファ波が強いんだそうだ。 平常時でも常に半睡眠状態なんだって。器質としては何も問題ないらしいんだけど 普段景色を眺めながらでも、それに脳内のイメージがダブって見えてしまう事がある。 そこで視覚競争が始まって、いつも脳内イメージがパッと消えて終わり。 外界の景色がパッと消えちゃったら別な意味でオワリになっちゃうから、 けっこうシビアなんだよね。 「理性勝って理性勝って」って言葉にならないまでも念じている。 理性とは、自我とは、みたいな事に関心があるのもそこからなんだよ だからここでしたいのは言葉遊びじゃなくて 自分の体質と生活をどう適合させていくか、そのための応用力づくり。 会話があっちに飛んだように思えても意外に参考にする所があったりするよ。 自分の求めている考えが宙に浮いたまま糸の切れた凧のようになるのではないか、 みたいな気配は今の所ないかな。
>>738 「夢」「想像力」「こころの翼」「自由」「聖域」
ということで問題を感じないのならば、誰があなたを止められましょう!
741 :
考える名無しさん :2008/03/08(土) 15:38:41 0
夢や想像力、または酔いや睡眠、狂気の部分に触れるのは、 一般に言われる悟性と相対する(そうとも言えないかも知れないけど)エレメントの 具体例として話の材料にしてるんであって、 ここで誰かが自分のそういう部分をさらけた所で、問題どころか大歓迎だよ どうしても理詰めで話していると、話が抽象的で散漫になりがちだから リアルな自分の体験なんかはとても参考になる
>>735 >だめだと思うんだよ、そういうことでは!
なぜ断言できるのだろう
735にとってはだめかもしれないけど
他の人にとってはそうではないかもしれないのに
自分が犯した失敗を他者もするとは限らないのに
743 :
エートル・オートル :2008/03/08(土) 21:13:11 0
>>735-737 何となく書かれていることの文意はつかめるんだけど
当方のどのレスに対しての言葉なのかが漠然としているため
いまひとつフォーカスを合わせることができないので
735-737さんにとっての問題意識、目指す思考スタイル、
つまり、「額縁をはめない思考」というものについて
もう少し具体的に聞いてみたいな。
744 :
佃煮マニア :2008/03/08(土) 22:38:44 0
一つの理念のために探求するのか個人的な信条のために探求するのか? 実践がともなわない理論は空虚じゃないのか? その人の持つ知識は肉体的精神のほんの表面のお化粧に過ぎないから、 既存の理論に合わせてうわっつらだけ語っているのでは 誰と誰が語ろうと同じ事になってしまうんじゃないか? ということなのかな。
745 :
考える名無しさん :2008/03/08(土) 22:55:15 0
実践の有効性は時代によって変わっていくもので、 理論もそれに伴って深い意味は忘れられていく。 というのも、言語化・マニュアル化では到達できない 実践知が根底にあるからである。
746 :
735 :2008/03/08(土) 23:51:23 0
>>743 エートル・オートルさん
私のレスの直接の対象は、その直前の「
>>734 」ですが、さらにその伏線は「
>>720 」です。
でも、もっと言うならば、
「
>>372 」
「
>>548 」
あるいは「
>>590 」も。
>そこにはきっと「幽霊」をめぐる思考との接点もあるだろうし、
>SFやユートピア思想もそこから派生しているんだろう。
>あるいはむしろ、もっと広くとらえて言うなら、
>可能性に対する想像力こそが人類の進化を促してきた。(372)
・・・なぜそんな取り扱い方をするのでしょうか?
ここは対話スレだし、印象や感想を軽快にやりとりし合うという場であるとしても、なんというか、
このような気楽に見当を付けて言ってみている、という態度はやっぱり変だと思うのです。
>ムージルが『特性のない男』で描く主人公ウルリッヒは、
>「可能性感覚」を持ち、固定化された「特性」をあえて持たない。
>現実に対する異議申し立て、革命志向が可能性感覚を生むのか?
>現実感覚の希薄さ、現実に対する違和感が可能性感覚を生むのか?(372)
・・・このような問いを立てたけれど、それを引き続き解答まで探究して行こうという気は、
サラサラないのでしょう?
↓
747 :
735 :2008/03/08(土) 23:52:58 0
>このブランコの「揺れ」というのは、おそらくは、
>可能性と現実性の間の振幅であるとともに、
>言葉と沈黙との間の振幅ともいえるかもしれない。(372)
・・・この「かもしれない」という仮説(というと大げさ過ぎますが)は、
ただ思いついてみただけのことでしょう?
>最近のレスをざっと読んで何か感じるものがあって、
>「芸術的な哲学は可能か?」ということを少し書いてみたいと思った。
>考えさせられたんじゃなくて、感じさせられた、から。
>おそらく佃煮氏の色彩論にもつながってくテーマになりそうだし、
>論理的と感性的という問題系にも深くかかわりそうだし、
>またそこから、哲学と文学の関係にパラフレーズできそうに思った。(548)
・・・今のあなたにとって『芸術的な哲学は可能か?』という問題が切実なこととは思えないのです。
むしろ、絶えず何かを論考していないといられない、ということこそが切実な欲求であって、
その論考のトピックはその時々の興味や成り行きで選ばれている、と思えるのです。
つまり切実なトピックがあるのではなく、論考していないといられないという欲求が切実、と。
>今度余裕ができたらゴッホの古靴をめぐって何か書いてみたいけど(590)
・・・実際にその後の
>>602-603 で書かれてもいますが、
ここでも引用や知識を駆使して総合して、とにかくこのトピックについての自分なりの分析や感想を、
しっかりと自分の中で明確にしておきたい、ということのように察するのですが・・・
(もちろん、このトピックが切実なのではなくて、なんらかの理由で気になったトピックについては、
それに自分を照射せずにおれない、という切実な欲求が働くのだろうと思うのです)
↓
748 :
735 :2008/03/08(土) 23:53:37 0
もうひとつの、私が持ち出した言い方、「額縁をはめる」のほうですが、 思考は「額縁をはめる」ことそのものだと思うので、 「額縁をはめない思考」というものはちょっと想像がつかないですし、 目指す思考スタイルというものも取り立ててないのです(と自分では思っています)。 そのかわり、思考については極力、『ああ、これは「額縁をはめる」手口を今自分は繰り広げているなあ』と 思い直す習慣がつきました。 思考や思考の産物が無駄だと言いたいのではないのです。豊かな世界だと思います。 でも、「額縁をはめる」という行為を反復によって強化してきたり、 もともと何らかの事情で強い必要度や効能を感じてきた人は、 どうしてもこの世界に耽ってしまって、自分の動機というか欲求というか要請というか、 自分をそう駆り立てている切実さ、を不問にしてしまう。 それでいいのか?、ってことが言いたいのです(切実に)。
749 :
たくあん(裏声) :2008/03/09(日) 01:23:53 0
>>746 >>747 >>748 ロゴスとパトスのテーマは人間にとって密接な問題でしょ?
で、
ロゴスとパトスの話をしてて、人間もパトスが優位かもね的な話になって、
ちょっとパトスな行為をして具体例を示していたら、
誰かが「文学的なことやって哲学したような顔すんなよボケ文学は哲学じゃない」って言った。
それで芸術的な哲学はアリか?ってなって
ゴッホの近代化批判、セザンヌの超越論など、
沈黙の言語によって雄弁に哲学を語る事ができる、言語に訳す事も場合によってはある
という解決がでた。
750 :
たくあん(裏声) :2008/03/09(日) 01:24:38 0
>このブランコの「揺れ」というのは、おそらくは、 >可能性と現実性の間の振幅であるとともに、 >言葉と沈黙との間の振幅ともいえるかもしれない。 疑問形で止めたり可能性を示唆したり、文学的なレトリックを使って 言外に解答を導き出すのはエートルさんの特徴。 これがダメだと言われるとまた文学は哲学じゃないのかという話にループしていくんだよ
751 :
たくあん(裏声) :2008/03/09(日) 01:26:00 0
で、解決した所で話を戻して、 再び理性と無意識、脳の働きの話に発展していってる。 あなたが参加した事で、 知恵と実践知、共同体での慣習の事にも話が及ぶかも知れない。
>>735 >思考とは額縁をはめること
哲学の第一義は懐疑です
つまり額縁を取り外すことでしょう
無論定義付けは必要ですが、次の瞬間にはまた新たな懐疑が始まります
この連綿と続く懐疑に耐えられる人だけが
哲学者たりうるのです
753 :
エートル・オートル :2008/03/09(日) 16:33:14 0
まずお礼を。
>>746-748 735さん、非常に具体的なレスをどうもありがとう。
これでメッセージの理解がかなり深まった。
それから、当方の書き込みをいろいろ読んでもらい、
その上で「切実さ」と「気楽さ」の対比を通じての
問いと批判をもらったことにも感謝を。
>>749-751 たくあん(裏声)さん、書き込みをありがとう。
これまでの文脈をわかりやすくコンパクトに提示してもらっただけでなく、
行間や余白まで読んでもらったことに敬意を。
それで、まず735さんの下の問いと批判について応えてみたい。 充分なものになるかどうかはわからないけれど――。 そして、もうひとつだけ質問を。 735さんにとっての「切実さ」とはどういうものなんだろう? >A気楽に見当を付けて言ってみている、という態度はやっぱり変だと思うのです。 >Bそれを引き続き解答まで探究して行こうという気は、サラサラないのでしょう? >C『芸術的な哲学は可能か?』という問題が切実なこととは思えないのです。 >D絶えず何かを論考していないといられない、ということこそが切実な欲求であって、 >Eその論考のトピックはその時々の興味や成り行きで選ばれている、と思えるのです。 まずAについては735さんが書いていることは充分にわかるし、そういう面は否めないな、と反省。 少なくともそういう印象を与えてしまったのは、当方の落ち度だね。 ただ、これらの批判については、たくあんさんが書いてくれているように 個々のレスが書かれた背景や流れを抜きにしては語れないので、 その前後の文脈を参照しながら掘り起こしてみる必要が出てくる。 というのも、当方は常に誰かの書き込みに触発されてレスしているので。 だから、 D「絶えず何かを論考していないといられない」わけではなく、 E「論考のトピックはその時々の興味や成り行きで選ばれている」わけでもなく、 誰かしらの書き込みを受け、そのトピックの流れの中で書いている、わけです。
たとえば、
>>746 で引用のある
>>372 の当方の書き込みについていえば、
その前の
>>366 にある
>寺山修司は「なかったことも歴史のうちだろうか」と言う
という言葉に触発されて書いた。
ライプニッツのいう可能的世界を引き合いに出したのは、
事実上なかったこと=権利上ありえたかもしれないこと、との関連からで、
可能性の世界を常に考えるウルリッヒという主人公が出てくるところの、
ムージル『特性のない男』に言及したのもそのため。
(ムージルは作家だけれど哲学的小説家と呼ばれている人。)
で、もしライプニッツやムージルを読んでる人がいれば、話が広がっていくかな、と、
そういう「可能性」を念頭においていた。
また、なぜ「幽霊」と「SFやユートピア思想」と「可能性に対する想像力」をつなげたか、
これはまず前541氏がその前の
>>356 あたりで 「幽霊」の話題を出してたことがあり、
事実上なかったこと=権利上ありえたかもしれないこと、との関連から、
非存在だけれども想像上の存在ともいえる「幽霊」、をここでつなげた。
余白には、幽霊=ゴーストが精神=ガイスト(独)と語源を同じくするということもあるし、
もしヘーゲルやハイデガーに詳しい人がいれば、精神(ガイスト)の話題につながり、
そっちのほうに発展するかもしれない、という「可能性」があったのと、
最近邦訳の出たデリダ『マルクスの亡霊たち』という本のことも頭にあった。
ありうるかもしれない世界を描く「SFやユートピア思想」への言及も同じような意図からで、
そこから、「可能性に対する想像力」が人類の進化を促してきたという視点も出した。
鳥になってみたいと、空を飛ぶことを夢見る精神があったからこそ、飛行機が発明されたように、
携帯電話やインターネットなんかの、今では普通になったドラえもん的な夢の道具も、
「可能性に対する想像力」「夢見る力」こそが、発明のモチーフになっている、という視点。
典型的なロゴスとされる科学研究にも、その動機にはパトスとしての夢がある、というのも、
これまでのロゴスとパトスをめぐる文脈を背景においての視点だった。
SF(サイエンス・フィクション)という言葉自体、科学+夢、だしね。
ういう匿名掲示板に書き込むときには、いろいろな「可能性」を広げたいという思いがあり、 できるだけトピックをつなげよう、また広げようとする両方向のヴェクトルで考えていた。 「可能性」を考えることこそが暗黙の前提となっている枠組みを気付かせてくれるから。 ただ、集約のヴェクトルと拡散のヴェクトルがうまく噛み合わなかったかもしれない。 時間的な都合からも、名前やテーマを未消化なまま投げ出すだけだったり、説明が不足したりで、 A「気楽に見当を付けて言ってみている、という態度」を印象として与えたかもしれない。 B「それを引き続き解答まで探究して行こうという気は、サラサラないのでしょう?」 という問いに対しては、そんなことはなくて、常に探究心を持ってはいるのだけれど、 集約的かつ求心的なヴェクトルだけでなく、拡散的かつ遠心的なヴェクトルでも、 というスタイルを持っているだけだと思う。 ロゴスとパトスをめぐる文脈は通底音として常にあったわけだから。
>>このブランコの「揺れ」というのは、おそらくは、
>>可能性と現実性の間の振幅であるとともに、
>>言葉と沈黙との間の振幅ともいえるかもしれない。(372)
>・・・この「かもしれない」という仮説(というと大げさ過ぎますが)は、
>ただ思いついてみただけのことでしょう?
思いついてみただけ、といわれればそれまでかもしれないけれど、
バタイユと寺山修司がブランコを前後で揺らしてた、という書き込みが
>>366 にあったね。
具体的にいうと、
>「人は、それを言語化するためにあらゆる思考を試みる
>名状しがたい感覚とか、情動も、言語に置き換えられて
>初めて、思考としての自己統一性を持つ事が出来る」 とバタイユが言う。
という言葉が引用されていた。
可能性と現実性というのは上に書いたSFをめぐる文脈があったし、
言葉と沈黙というのは上の引用に絡めてバタイユを念頭においての言葉だった。
バタイユは沈黙についてよく語っていただけでなく、
沈黙を言葉で語ることの倒錯性についても語っていたから。
ずいぶん長くなってしまったので、最後に
C「『芸術的な哲学は可能か?』という問題が切実なこととは思えないのです。」
については、たくあんさんが書いていたように、ロゴスとパトスをめぐる文脈があったわけで、
パトス=芸術、ロゴス=哲学を融合させるような思考は可能か、という問いに換言できる。
ただ、まず735さんにとっての「切実さ」というものがどういうものなのか、
それを聞いた上で、「切実さ」をめぐる自分なりの視点と、
《芸術的な哲学は可能か?》という問題設定が、言葉と沈黙をめぐるものにつながることも含め
もう少し語ってみたいと考えているので。
そして、おそらくは
>>744 >>745 >>751 に書かれている「実践」にも関係してくると思う。
759 :
735 :2008/03/09(日) 21:05:37 0
>>752 「額縁をはめる」ということを「懐疑」と置き換えてもよいのだと思うのです。
思考であれ懐疑であれ、
とにかくそういう処理をしようと取り掛かること、を広く「額縁をはめる」と言いたいです。
「額縁を取り外す」ことも含めて、その類のアクションを「額縁をはめる」と言い表している積もりです。
(何かを因習的に扱おうというだけでなく、そういうものを取り払ってみようという発想も含めて、というか)
(最初っから額縁が付いているものばかりでもないだろうし、というぐらいの漠然としたイメージも、そういう言葉使いの元にあるかもしれません)
紛らわしくてすみません。
「額縁をはめる」のでなければ、何を求めるの?
761 :
735 :2008/03/09(日) 23:38:53 0
いろんな切実さや気楽さから行われている「額縁をはめる」作業の、 その成り行きやまたは作業の切実さ自体に触れて感じ入る。 その楽しさを求めているのかな。
762 :
735 :2008/03/09(日) 23:40:26 0
>>753-758 エートル・オートルさん
こちらこそ、ご丁寧なレスをありがとうございます。
簡潔に『「切実さ」と「気楽さ」の対比を通じての問いと批判』と言ってくださったことで一つの水路が開かれたようにも感じます。感謝。
先にご質問に対する返信から。
私にとっての「切実さ」とは、そのことが生活して行く上で絶えず気懸かりでしかたない、そういう重い感じのことです。
その答え次第で自分の言動が大きく影響を受けるw、という直結した問題。
それは青臭い時期に顕著な状況かもしれませんが、その発端はけっこう幼い時期であったり、またその継続はもしかしたら一生モノだったりするようにも思います。
763 :
735 :2008/03/09(日) 23:43:26 0
例えば、20代の頃の私にとって、『多様性』ということが強烈な気懸かりでした。 でも、私が不安を感じたり重大性を感じたりしているその『多様性』という見方について、 周りには私と同じような「切実さ」をもって共感してくれる人はいませんでした。 (それならば、と図書館で本を探したりもしましたが) そんな中でも思考力は他の物事にも十分に働いて、それなりの論考はするわけです。 でも自分ではよく分かりました、 切実じゃあない問題についてはただ「うわっつらだけ語っている」(744 佃煮マニアさんのいうところの)なあ、と。 そしてそれは『多様性』について周りの人たちが語っているときに私が苦々しく感じていたことそのものでした。 (つまりお互い様なわけです …)
764 :
735 :2008/03/09(日) 23:44:36 0
以上、相変わらずわかりにくいかもしれませんが、まずはそこまでをお答えしておきたいです。
それってマイ哲学もしくは人生哲学を求めているのでは? エートルさんや他のコテさんたちが語っているのは 学問としての哲学の見地から 言葉を弄していると735は言われましたが学問哲学では当然のことです 独自の切実な哲学を求めるのなら言葉ではなく経験から学ぶほうがいいかもしれないです 余談ですが額縁をはめるも外すも言葉を弄しているように見えます 両者は決して同じ行為ではありません あえて言うなら、懐疑することが額縁を外すことで 定義付けることが額縁をはめることではないでしょうか
735にとって生きる上での切実なことは何? 哲学することなの? 他者の意見を「それではだめなんだ」と一刀両断するような人が果たして 哲学できるのかな…
767 :
760 :2008/03/10(月) 00:27:54 0
なるほど、「額縁の大きさが合わない」んですね。 だから、大きさの合うもの、もしくはちょうど良い大きさの合わせ方を探していらっしゃる。
768 :
735 :2008/03/10(月) 00:32:12 0
>>735 少なくとも私にとって「哲学すること」は切実じゃないですよ。
なんか一刀両断ってことにこだわっていますね・・・
『だめだと思うんだよ、そういうことでは!』と書いたけれど、
それが『「それではだめなんだ」と一刀両断する』ことですか?
ちょっとなあ・・・
つ 詭弁
770 :
大人の品格 :2008/03/10(月) 01:15:34 O
横レス 「だめ」という言葉は他者を否定する言葉ですよね よく知りもしない人に対して使うなんて 品格を疑います
771 :
佃煮マニア :2008/03/10(月) 01:38:35 0
額縁というのは、ウルリッヒの固定した特性の事かも知れないね つまり知性や経験則をあえて破棄したいと。 でも革命すらも経験則に従っ起こしてるんじゃないのか。 たとえばウルリッヒが歩いていたら棒に当たった。嫌な思いをした。 そこで革命が起こし現世界が異世界になったとする。 それまではまだ切り開いていなかったのだから異世界は前段階では無の空間だったはずで、 革命が起きた時点で初めて、現世界と異世界が時間や記憶によって連続した地平でむすばれた様な印象をうける。 だけど、ウルリッヒはなぜ、可能性感覚でもってどこともわからない異世界の地平にねらいを定めて そこのある地点に自分が降り立つ決定を下せたのか。 異世界が現世界と同じように慣習の集約、再構成、決定といった一連の反復運動を 繰り返せると想定出来る場所だったから。 つまり最初から二つの世界は地続きの安定した一つの世界だった。 そのなかでウルリッヒは経験則に従って反復運動をしたに過ぎない。 頼みの綱の可能性感覚も、捨て去りたかった固定した特性のうちに組み入れられるんじゃないのかな? 革命のための懐疑も、反復のための安定した思考に内包されるという事にもなってくるし
772 :
佃煮マニア :2008/03/10(月) 01:41:05 0
現実の世界を知性や経験則だけで割る事は出来ないけど、 人間はそこから見たくないものは無視して法則ばかりを見つけ出そうとし、割り切ろうとする。 そうやって現実感覚を適度に希薄にして、安定した心的状況を作っとかないと、 世界がカオスに見えて、状況に対してどうリアクションしたらいいのか判別不能になるんだよね。 めんどくさい状況をどうにかしてめんどくさくない方向にもってく特性を知性と言う。 要するに怠惰に生きるための特性。 こう書くと欠点にも見えてくるけど、生きるのになくてはならないものだし、 それを捨て去る事は、 自分の存在自体を破棄してカオスに投じてしまう事になるんじゃないの?
>770 それはちょっと狭量だな 735はその直下で思うところを詳述しているじゃないか 反感を持たれる冒頭の言葉だったかもしれないけれど ニュアンスとしてはそんなに決め付けの否定ではないじゃないか 「〜ような人が果たして哲学できるのかな・・・」と疑問文にしてぼかしたり、 品格を「疑います」という留保表現と本質的に何が違うというのでしょう
みんなマタ〜リいこうぜ
人間お腹が空くと怒りっぽくなりますね オニギリ、ドゾ〜 ノ´`⌒´ヾ ハ-∞ハ し'*・-・) ミ・ 。.・*ミ ( つ つ )) ,.-、 (つ/⌒/⌒0 .,,(⌒)(⌒) )っ,,.,,.(..■),,..,,..,,...⊂( (⌒)(⌒),,.,,,.. """" """""" "" """" """"" """"" " """ "
まあまあ、みんなお茶でも飲んでひと息入れてくださいな ,:;''`.:.;;:.":.;;.. .:.;;:.":.;;.''`.:.;;:." :.;;:":.;;.''`.:.;;:."//.:.;;:":.;;.''` ⊂⊃ ,:,"'`',:'':'`:::;..,."'`',:'':'`:::;..," ⊂⊃ :;ヾ、;..,",,ノ''"ヾ:;..,"'`',:'':'` ⊂⊃ /:/''ヾ,:;`//"'`',:'':'':' ;:;/:/:;;:;:i",:;゙,:;`,,ノ''" '':;,:;;:;:'|//''" .,;.. .;,:;;:;:'':i/_ ,.,,.,_ ___,_ __ ,.,_ _ .,_ ___,_ __ ,.,_ .,_ ___,_ __ ,.,_ :((.,,);:'':;:| ,:;:'':;:;,i ノ´`⌒´ヾ ハ-∞ハ .;:'':;:;,:;;| [ ̄ し'*・-・) ̄ ミ・ 。.・*ミ ̄ ̄] .,;.、 :'':;:;,:;;:;:'':i _|:|l (つ(;゚;;)と ̄0(;゚;;)と ) ̄ l|;|_ ;;:;:'':;ヾ:;,:`ヽ、. /_ ̄(^).-(^) ̄(^).-(^)ノ ̄ ̄ ̄ \ ''´''"`''´゙''"`''  ̄| l| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| l| ̄ .,;.、 .^~' ^~
777 :
考える名無しさん :2008/03/10(月) 17:49:23 0
【一服中】 ∧,,∧ ∧,,∧ ∧,,(´-ω-)(-ω-`)∧,,∧ ( ´-ω)旦o) (o旦o(ω-` ) (_ o[( ´-) (-` )]o _) └'ー-(_ )][( _)ー'┘ 'ー'^ー' 'ー'^ー'
778 :
考える名無しさん :2008/03/10(月) 17:49:57 0
【ニヤニヤ中】 ニヤニヤ ∧,,∧ ∧,,∧ ニヤニヤ ∧ ( ・∀・) (・∀・ ) ∧∧ ニヤニヤ ( ・∀) U) ( つと ノ(∀・ ) | U ( ・∀) (∀・ ) と ノニヤニヤ u-u (l ) ( ノu-u ニヤニヤ `u-u'. `u-u' ニヤニヤ
AAはいらない
780 :
735 :2008/03/10(月) 21:52:47 0
登場しにくい雰囲気だけどw 「額縁」の例えはどうもよくないみたいなので、ちょっと脇に置かせてもらって、せめてもう少し上手に全体を言い直したいです。 みなさんは論考型だと思う、ということです。 何かについて論考したい、していたい、という切実さを持っている、ということ。 また、誰かによって論考されたその内容に触れていることが楽しい(というか安心というか望みに叶っているというか)と感じられる、というタイプだと思う、ということ。 (この際、懐疑でも懐疑型でもいいです) ↓
781 :
735 :2008/03/10(月) 21:54:21 0
佃煮マニアさんが、
>>739 で
『・・・けっこうシビアなんだよね。
「理性勝って理性勝って」って言葉にならないまでも念じている。
理性とは、自我とは、みたいな事に関心があるのもそこからなんだよ
だからここでしたいのは言葉遊びじゃなくて
自分の体質と生活をどう適合させていくか、そのための応用力づくり。
会話があっちに飛んだように思えても意外に参考にする所があったりするよ。』
と書かれているのを読んで、佃煮マニアさんの切実さを感じ入りました。
理性について狭く集中的に考えを突き詰めて行くというのではなく、対話を通してもっと総合的に(というか自由闊達にというか)思索を走らせ続けている様子は、確かにこのスレを読み返してみてもおっしゃる通りに思えました。
言葉遊びなんかしていない。
(739を読むまでは、何かの切実さがあって論考という方法でバランスを取っているのだろうけれど、そのことに対しての自覚はないのだろうなと思っていました。間違っていました。申し訳ありません。)
↓
782 :
735 :2008/03/10(月) 21:57:43 0
最初に名前を出してしまったもうおひとかた、エートル・オートルさんについても、何かの切実さで論考型となっているのだろう、という想像はもちろん共通しています。 ただ、ご自分ではその切実さについてどのように自覚されているのだろう?と、今でもとてもそのことを聞いてみたいのです。 なぜ熱心に論考をするのか、なぜ自分は論考型のタイプなのか(世の中にはそうでないタイプもいろいろある中で)、 きっと切実ななんらかの思いがあると思うのです。 そんなこと(切実さ)と「学問としての哲学」(これは他の方のレスの中の言葉ではありますが)との間には直接の関係はない、 と言われてしまうかもしれませんが(私もそれには同感です)、 私にはエートル・オートルさんが「学問としての哲学」を展開なさっているようには思えないのです。 そして、だから切実さとの関係を問題にしたいのです。 ↓
783 :
735 :2008/03/10(月) 22:00:38 0
じゃあもう一方の「マイ哲学」をされているのかというと、その言い方も適当ではないように思えます。 むしろ、「技芸としての評論」に近いと思うのですが、これは変に誤解されたくない部分です。 まじめに言っています。 いろいろと評論・論考を展開し、何かのバランスが保たれていくのだろうと想像します。 でも、ことが「学問としての哲学」であるのならばこんなことは関係ないでしょうけれど、 そうでなく評論や論考をしてゆくのであれば、 それぞれのトピックの背後には切実に「マイ哲学」をしている人がいるのだ、ということに対しての礼儀が必要だと思うのです。 エートル・オートルさんご自身もある切実さによっておこなっている、という自覚があれば、 論考対象のトピックについてあまり気楽に思い付きや仮説を言いっ放しにはできない、と思うからこそ、 翻って、きっと自覚がないのだろうと推察しています。 そういう察しのもと、正直なところ気に障る感じがあって、お気楽過ぎる!という批判を書き込みました。 ↓
784 :
735 :2008/03/10(月) 22:02:09 0
私自身は「マイ哲学」しかやっていないのだと思いますが、 他人の「マイ哲学」に知らず知らずのうちに関係してしまう可能性は辺り一面に遍在しているわけだから、 自分にとっては何の気なしの問題について切実に取り組んでいる(学問として、ではないにしても)であろう人を思って、 気楽な感じにはなれないのです。 『〜ということがいえるかもしれない』と言ったあとには、心の中だけでという時もあるけれども、 『・・・でも、それが実際のところどうなのかが切実な問題であるような人がいるだろうなあ』と言うことで包みたい、 そんな感覚です。 なんだかドツボにはまってしまっています、ひどい通俗レベルのバカが乱入してきた、と怒りや不快感を大いに買っていそうです。 せめて言い出したことについてしっかりと補足説明の努力をします。
735は自分が切実であるという理由で 他の気楽なレスが気にさわるの? 735と同じ切実さを他の人に求めるの? それは強要できないのでは? だって他の人は735ではないのだから
一見お気楽に書いているようでもその奥には その人にしかわからない切実な問題を抱えていることもあります それゆえ一概に気楽であると判断するのはいかがなものかと
787 :
735 :2008/03/11(火) 09:31:38 0
だからこそです。 切実さゆえにやっているに違いないと思うからこそ、 その中で取り扱われている一つ一つのトピックの背後にある切実さに対しての、 配慮というか思いの馳せ方というか、マナーがあってほしい、という思いです。 もっとも、ちゃんと隅々まで気楽にやり通さないと、 せっかくの切実なその行為の意味や効果がなくなってしまう、 ということもあるかもしれないから、 その場合はわたしは考えを改めなければならないなとも思います。
>トピックの背後にある切実さに対しての、 >配慮というか思いの馳せ方というか、マナーがあってほしい、という思いです。 ・・・マナーですか わたしが拝読する限り、ここにコメントされておいでのコテさんたちは皆さん充分マナーを 守り配慮されているとお見受けしますが、、、 735さんのマナー基準はいかなるものなのか存じませんが、ご自身の基準を他の方たちに 押し付け強要されるのはどうかと思いますが ご自身のマナー基準=他の人のマナー基準ではないですよね 一見気楽に書かれていても実はそうではないこと、行間を読むことは大切なことだと思います 「本当に大切なものは目に見えない」――「星の王子様」・サンテグジュペリ
789 :
735 :2008/03/11(火) 14:40:16 0
>>788 「押し付け」とか「強要」とか・・・
佃煮マニアさんやエートル・オートルさんにもそう受け取られているのならば、
残念だ・・・
いいえ、あくまでも私見です 佃煮マニアさんやエートル・オートルさんはそうは取られていないと 思います。。。 きちんと誠意をもって対応されています わたしの言葉が過ぎたのなら、謝ります 735さんが切実なのは拝読していてわかります 同じように、佃煮マニアさんやエートル・オートルさんも切実なものを 抱えておいでだからこそ、この哲学板に書かれるのだと わたしには思えるのです 何が切実かは十人十色で個人差があり、他から見たらお気楽なことに 思えても当人にとってはそうではないことが多々あるのが現実では ないでしょうか? 生意気なことを書きましたが735さんがこのスレに参加してくださり スレが活発になったことに感謝しています
>>748 :735:
貴方は・・・・・
>「額縁をはめない思考」というものはちょっと想像がつかないですし・・・
と言っておきながら・・・・
>思考については極力、『ああ、これは「額縁をはめる」手口を今自分は繰り広げているなあ』と思い直す習慣がつきました。
思い直してどうするんですか?
貴方の論法だと考えれば額縁なんだから、他にどうしようもないはず。
>もともと何らかの事情で強い必要度や効能を感じてきた人は、
>どうしてもこの世界に耽ってしまって、自分の動機というか欲求というか要請というか、自分をそう駆り立てている切実さ、を不問にしてしまう。
論理が逆立ちしているみたいです。
「不問にしようと」したり「浸ってしまうの」のか問題なのであって、それは額縁のせいではないでしょう。
額縁をはめながらも浸ったり、不問にしようとしない考え方は出来るのだから。
>>752 :考える名無しさん:
>つまり額縁を取り外すことでしょう
そうですね、それでも
>>759 :735:さん風に「他の額縁をはめようとする」と言えば言えなくも無い。
額縁の例えはなかなか有力ですね。
写真で言えば「アングルを決める」でしょうか?あと「ラベルを貼る」とか・・・
やはり「額縁をはめる」のほうが感じが出ますね。
792 :
735 :2008/03/11(火) 18:30:33 0
>>791 はい、私は物事に対して「額縁」をはめてかかるしか方法を持たないので、
それを日々繰り返しつつ、ああこれが今の自分の現実だなあと思い直します。
思い直す、別の言い方をすれば、自覚を新たにするだけです。
「思い直してどうするんですか?」に対しては、
思い直して浸らないようにしている、という答えとしたいです。
別にそれを超える何かの思考(?)方法とか直接的な感得(?)とかを模索しているわけでもないですし、
何より、「額縁をはめる」こと自体に辟易しているわけでもないです。
(要するに私は「額縁をはめる」ことについて切実な不安や疑いは持っていない、といえそうです)
そして、まさに、「他にどうしようもないはず」だと漠然と(切実にではなく)思っています。
793 :
735 :2008/03/11(火) 18:38:52 0
「額縁をはめる」ことが即ち耽溺して行くことであったり麻痺して行くことであるとは、 もちろん思っていないです。 額縁のせいだとは思っていないです。 (私自身がその証拠の一人だ、と思っているぐらいだしw) 「額縁」の例えは厄介だとも思ったのです。(780の冒頭) 物事に対して思考というアクションを仕掛けることを、イメージとして「額縁をはめる」と言い表したつもりなのが最初でした。 でも、752さんの言うように、 懐疑というアクションは、イメージとしたら既にあるものを取り外すというのがしっくりくるようでもあります。 でも、懐疑という腑分けをするために解剖台に乗せる、という、 やっぱり枠組みを付け足すイメージでもよさそうです。 そんなこんなで、思考を足し算、懐疑を引き算、とも単純に表し得ないなあ、と思いました。 これは765さんに 『余談ですが額縁をはめるも外すも言葉を弄しているように見えます ・・・』 と指摘されたことに対する返答でもあります。 ひどくこの例えに耽溺しないほうがいいし、あまり象徴性を持たせないほうがいい、 と思ったのでした。
そういうちょっとした例えはいろいろなものを含んでいるんだよ。 解体してみるのもひとつの手だ。 英語で言えばフレーミング、になるのかな? これはカメラや映画用語で撮影範囲を決定するという意味になる。 どこまでの範囲を撮すのか、範囲内の構図をどうするか、等の意味だね。 それはフォーカス(ピントを合わせる)とは別の作業でもある。 そんなに切実切実言ってて疲れないか?ww ここは表面的には気楽だが、その実、繊細に作り上げられた気楽な空気の上を 薄氷を踏むごとくゆっくりと歩くスレだ。エートルや佃煮のそこら辺を読まないと。 激論したいんだったらこのスレじゃないぞ、ここは対話だ。 誰かが持ってきた話題をやわらかく受け、あるいはやわらかく受け流すww だから「論破」とかは存在しない。 なんか特に気になるトピックがあって飛び込んできたんじゃないのか?
735が切実切実と連呼する割にはなかなか切実さが 伝わってこないんだが
797 :
エートル・オートル :2008/03/12(水) 00:07:02 0
735さん、
>>762-764 および
>>782-784 あたりのレスをありがとう。
それから、みなさんもいろいろな書き込みをありがとう。
2つの主なテーマが2つ出てるね。「切実さ」と「フレーミング」。
前541氏の言葉を受けて「フレーミング」という言葉を選んでおこう。
◆まず「フレーミング」
735さんは額縁=フレーミングという言葉に少し特殊な意味を与えていて、
「物事に対して思考というアクションを仕掛けること」のイメージだという。
額縁というのがいい喩えじゃなく、具体的なことは漠然としててよくわからないけど、
何かを思考対象にしてしまうことに対するデリカシーを問題にしているようだ。
デカルトを持ち出すまでもなく、思考することには懐疑も含まれる。哲学では特に。
だからフレーミングなしに思考はできないけれど、
フレーミングの存在に気付かせてくれるのも思考だ。
これは、すでに
>>765 さんが書いている通りだね。
◆次に「切実さ」
>生活して行く上で絶えず気懸かりでしかたない、そういう重い感じのことです。
>その答え次第で自分の言動が大きく影響を受けるw、という直結した問題。
と「切実さ」について735さんは書いているけれど、まあいろいろな人がいると思う。
自分とは何か、生きる目的は何か、真理は何か、を「切実に」求めてる人。
「繊細に作り上げられた気楽な空気の上を薄氷を踏むごとくゆっくりと歩く」前541氏。
ちょっとした息抜きにロムったり書き込んだりしている人、
情報やヒントを求めて覗いてみる人、などなど。
いろいろな人がいろいろなスタイルで書き込めるのがBBSじゃないかな。
ルールとマナーからはみ出さなければ、自由に書き込みできる。
でも735さんにとってはさらに倫理的なラインがあるようで、
「一つ一つのトピックの背後にある切実さに対しての配慮」を問題にしている。
具体的な「切実さ」はまだ見えてこないけれど。
799 :
佃煮マニア :2008/03/12(水) 00:11:23 0
>>794 おっおっ久しぶりだね〜
知覚世界という閉じられた弱小な空間の中で右往左往し
さらにその空間を支配する言語のもつ暗黙のルールにしめつけられている圧迫感や
しめつけられるあまり酔ったようになってしまう人間の脆さは
たしかに哲学に触れるとまま感じる事ではあるね
そしてその世界の外側への憧憬も。
その世界の枠を額縁のようだと言うのは、一つの真実だろう!
>>799 世界の枠=額縁というものを「暗黙の前提」として考えると、
哲学者たちはいろいろそれを問題にしてきたわけだね。
デカルトは方法的懐疑によってコギトを見出し、
フッサールは真実らしいものもすべてエポケーして括弧に入れた。
798に書いたことを踏まえてみると、
私はこうして、735さんの、じいさん氏の、佃煮氏の、前541氏の、名無しさんのレスを読み、
それらのレスに、連想し、共感し、批判し、戸惑い、理解し、思考対象にする。
735さんもまた、当方のレスや佃煮氏のレスやそのほかのレスを読んで思考対象にする。
意識的にしろ無意識的にしろそこにはフレーミングが働いている。
735さんはそれらの思考対象に対してどんな配慮をしてるのだろう。
そして、私は、みんなはどうなのだろう。
佃煮マニアさんは
>>771-772 で、ムージルが描いたウルリッヒの可能性感覚も
>捨て去りたかった固定した特性のうちに組み入れられるんじゃないのかな?
という視点を出し、「経験則に従って反復運動をしたに過ぎない」と書いていたけれど、
特性というフレーミングを嫌ったウルリッヒも別のフレーミングに囚われてた、という主張。
この主張もまた佃煮マニアさんのウルリッヒに対するフレーミングになる。
ムージルが描いた別の歴史については、『特性のない男』が未完だったこともあって、
小説という形での特異な思考を提示したということ以外、うまく把握できないけれど。
>>794 >どこまでの範囲を撮すのか、範囲内の構図をどうするか、等の意味だね。
コミックを描く場合にも、そのことはいえるだろうね。
フレーミングの範囲や構図はもちろんだけれど、
フレーミングするかしないか(つまり描くか描かないか)も含めて。
前に話題を出したセザンヌもフレーミングを問題にした画家といえるね。 ひとつのタブローの中にいろんな角度から同時に見たような静物を描いたから。 画家は沈黙の中でフレーミングの問題を問うことができるんだなあ。 今日はこのへんで。
804 :
735 :2008/03/12(水) 00:51:26 0
>激論したいんだったらこのスレじゃないぞ、ここは対話だ。 >誰かが持ってきた話題をやわらかく受け、あるいはやわらかく受け流す なるほど、そういうことですね。 私が無作法でした。 出て行かなきゃ。
郷に入れば郷に従えということです ここではやたら攻撃的な人や批判的な人は敬遠したいな さようなら
805みたいにやたら決め付けたり排除したがる人は敬遠したいな
806みたいにやたら決め付けたり排除したがる人も敬遠したいな
つ 旦
「額縁をはめる」という言い方を、 なんの変哲もない物でも、文字通り額縁に入れることによって鑑賞の対象となる、 という不思議な働きに重点を置いたものと思いました。 コンビニのレシートでも電車の切符でも、 雑誌の切り抜きでも落ち葉でも。 意味の広がりがもたらされる瞬間、の象徴として。
いい受け取り方だね。
>>804 激論に疲れたらいつでも寄ればいい。お茶出してくれる人もいるww
>>799 うぃっす!いろいろ忙しくてちゃんと書けなくなった。
ちらちら見てはいるんだが。今週は切実君に引っ張り出されたなww
フレームがあってはじめて空間の奥行き、パースペクティブが見えてくる、
と言うと、これは「構造」にも繋がっていくかな。
>>800 括弧に入れる、か、そうだね。フッサールは「地平」という言葉もよく使うよね。
ここら辺を「気楽に」並べると現象学から構造主義への視覚的概念モデルの受け渡しがかいま見える。
切実君が持ってきた額縁で、だいぶ遊べるじゃないかww
彼はこういう、てきとーなジャンプが気になるみたいだけどw
薄いレスで失礼するよ。
「額縁」の中に入れて外界から切り取ると、 異化作用とでもいうのか、見る者との間に一気に電流が通り出すような効果、 そういう体験ってありますね。
偶有性から単独性への転倒ですね どこにであるありふれたものが額縁をはめることで 特別な唯一なものになる
813 :
考える名無しさん :2008/03/12(水) 22:06:00 0
偶有性から単独性へ おお、そういうワーディングがすでにあるのですね! なんでもないと思っていたものが、 なんだか意味ありげな誘惑の光線を発し出す瞬間だなあ
>>804 今日はひと言だけ。前541氏は本来はぜんぜん排他的な人じゃない。
>>794 の意見もひとつの批判として受けとめればいいんじゃないかな。
735さんが批判的な意見を書き込んだのと同じようなものとして。
批判的な意見を好まない人もいるというのは承知してるけれど、
個人的にはぜんぜん構わないと思ってる。
ただ、批判する人は自分が批判されることも受け入れるべきだとは思う。
それが嫌なら他者を批判するのはやめたほうがいいだろうね。
>なんか特に気になるトピックがあって飛び込んできたんじゃないのか?
と前541氏がなぜ書き込んだかを汲まなくちゃいけないと思う。
これまで「どう語っているか」という語り口ばかりに焦点があてられ、
「何を語っているか」というところがスポイルされていることに対して
上の問いが出てきたと思うから。
そして、735さんに何か訴えたいメッセージがあるのなら、
他者をネガティヴに批判する以上に有効なのは、
自分のレスでポジティヴに表現する=実践することだと思うよ。
(
>>744 >>745 >>751 ですでに「実践」という言葉が出てきてたね)
816 :
佃煮マニア :2008/03/15(土) 21:40:55 0
735さんの衝動性とか、けがれのない大胆さ、実直さは資質であって、美しいと思う。 ただ、話題をどうもってきたいかによって、人を驚かすポイントを いらんとこ→感情の露出 から いるとこ→思考の本質をクリアに考えたい の部分に設定して工夫しながら語ればいいんじゃないかな?
817 :
佃煮マニア :2008/03/15(土) 21:43:12 0
額縁をはめない思考と出たのは、心情としては 考えたいけど考えたくないって所なのかな? 考え始めるとすぐに、手あかのついた思考パターンに浸食されるから というような・・・ 両面感情はどこからくるのか。 日常の諸問題に直面して、これは哲学の範疇だと感じた時、 ・まず哲学の巨匠達のフレームをまるごと自分に移植、 問題の固有性に応じてフレームを組み直して考える ・他人のフレームで自分を切り取るのは痛みを伴うので 自分でフレームを用意し考える という方法で考える事が出来る どちらの方法で対処してもいいと思うんだけど、この二つが分化されてないと、 問題直面による混乱にあわせてダブルの混乱を招くので、思考が滞る この二つの方法の長所短所について、 前者はおおよその解決は早い、でも個別の問題の細部までは入り込みづらい 後者は独自性が後々自信につながるが、指標を持たずに進もうとすると苦労する てとこが挙げられると思う。 思考がフリーズすると思うなら、また問題を語りたいなら、前者を選んだ方がいい
818 :
佃煮マニア :2008/03/15(土) 21:45:57 0
ブランショのいい言葉がある。 「空を奪われた、白い夜は災厄である だが大した事はない。思考は目覚めているのだ、 あたかも穏やかに受動的に目覚めている事によって われわれが果てしない階段を下りていくように」
819 :
エートル・オートル :2008/03/17(月) 00:18:14 0
フレーミングという言葉に暗黙のうちに
「制限」というニュアンスを与えていたけれど、
フレームを与えることによって、
>>809 「意味の広がりがもたらされる瞬間」
>>811 「見る者との間に一気に電流が通り出すような効果」
が現われるという視点には気付かなかったなあ。
フレーミングという言葉自体をフレーミングしてたわけだね。
いつもは何気なく目にしてるだけの「ぬ」という字に対して、
額縁に飾って眺めるように眼を凝らしてみると、
その字面の異様な曲線のうねりに改めて驚くことがあったけど、
こうしたフレーミングによる「異化」って確かにあるね。
デュシャンが便器を「泉」と題してギャラリーに飾ったのもそうだし、
台所では見慣れた牛肉ブロックを寝室に持ち込むだけで「異化」効果が出たり。
820 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 00:29:11 0
だからなに?
821 :
エートル・オートル :2008/03/17(月) 00:32:03 0
>偶有性から単独性へ 「単独者」という表現をしたのはキルケゴールだけれど、 「この私」「この家」という「この」性というか「ユニークさ」のことだね。 ユニークさは一般性に回収されず、実存へと向かわせてくれるという視点。 偶然を必然に変える運命愛を謳ったニーチェにも キルケゴールの影響があったのかもしれないなあ。
哲学は対話でなくて産婆術。
823 :
エートル・オートル :2008/03/17(月) 00:39:14 0
>>818 佃煮氏はブランショも読んでるんだ!
そのフレーズはどこかで読んだ記憶があるんだけど失念。
>「あたかも穏やかに受動的に目覚めている事によって
> われわれが果てしない階段を下りていくように」
というのは
>「繊細に作り上げられた気楽な空気の上を薄氷を踏むごとくゆっくりと歩く」
という前541氏の言葉と響きあうなあ。
824 :
佃煮マニア :2008/03/17(月) 21:14:46 0
>>810 >ここら辺を「気楽に」並べると現象学から構造主義への視覚的概念モデルの受け渡しがかいま見える。
何とな〜く、概念モデルに肉付けして絵に起こすのかな?とか想像するんだけど、
そこら辺のとこ、どういう行程で進めるてるのかな〜
825 :
佃煮マニア :2008/03/17(月) 21:16:54 0
>>822 哲学初心者だから
そんなエロ秘技テクニシャンな事できねーおw
826 :
佃煮マニア :2008/03/17(月) 21:21:22 0
>>819 牛肉ブロックを寝室にっていうのが気になりすぎます
>>823 確かに対応してる!指摘されるまで気がつかなかった
そしてたびたび、階段を踏み外したり、氷を踏み破ったりする訳で・・・w
「ジャックタチ」の中の「ぼくのおじさんの授業」で、
階段のこけ方を学術的に教えてる場面がありました。
これまた共鳴のコンボになりそう
ところで、、、、
「特性のない男」について語ってもいいかな
827 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 21:38:52 O
いいとも〜
828 :
佃煮マニア :2008/03/17(月) 21:49:35 0
連投恥ずかしいので後日にします
829 :
佃煮マニア :2008/03/18(火) 21:39:38 0
現実への批判、本質の解体、そしてそれらを統合、反転した異世界像は、 そのままウルリッヒが現実をどう捉え、どういう志向をもっているかを表していて、 この思考形態が彼の特性と言える。 ウルリッヒが熟考のあげく思い描いた異世界は、 「彼の」「合一によって」「あらゆる法則が方向性を失い」「真っ白で」「全てが一体となった」 世界とあるけど、これをつきつめると、それは無になる。 また、彼はそのアイデンティティまでを解体しようとはしなかったから、 「無の中に自己意識が漂っている世界がいいな〜」と思っている事になる。
830 :
佃煮マニア :2008/03/18(火) 21:41:41 0
これは比喩の中に閉じ込められた世界であって、物理的には、目の前に出現させる事は出来ない。 出現させられなくてウルリッヒは苦しんでいたんだけど、 彼には数学の才能があったから、 これを世界認識の一形態として、理論の中に結晶させればリアリティを持たせる事が出来る。 その理論さえウルリッヒは、彼一流の懐疑精神で 「たんなるチラ裏に過ぎない」と決め込むかも知れないけど、 さらに「チラ裏をあえて学会に放り込む」と決断しようもあった訳で、 それで認められれば、世界所有の夢があったウルリッヒ的にも、そこそこ納得いったかも知れない。
831 :
エートル・オートル :2008/03/20(木) 21:56:48 0
>>826 >牛肉ブロックを寝室にっていうのが気になりすぎます
でしょ!
白いシーツの上に投げ出された血の滴るような真っ赤な牛肉ブロック
このイメージをかなり昔に思い描いてから、頭を去らないんですよ(笑
>そしてたびたび、階段を踏み外したり、氷を踏み破ったりする訳で・・・
ブランショは「踏みはずし」の人だしね。
832 :
エートル・オートル :2008/03/20(木) 21:58:45 0
>>829-830 ムージル描くウルリッヒとアガーテの兄妹の会話は
この対話スレで取り上げるのはふさわしいかもしれないね。
一般的な小説のように予定調和的にまとまることなく、
かといって弁証法的に「正→反→合」の流れにも乗らず
「あなたはこういうふうに語ってなかったかしら?」
「そう。だけどこんなふうな別の言い方もしたよ」
みたいな感じで、観念的な言葉がやりとりされるんだけど、
彼らが夢想する「千年王国」はプラトン的なイデアの世界だね。
だから、
>これをつきつめると、それは無になる。
>物理的には、目の前に出現させる事は出来ない。
わけだけど、彼らは、
意味のない現実より意味のある観念を選ぼうとしてるのかもしれない。
それを「現実よりも意味のあるリアリティ」と考えれば、
>理論の中に結晶させればリアリティを持たせる事が出来る。
ということにもなるんでしょう。
833 :
エートル・オートル :2008/03/20(木) 22:53:23 0
(つづき) >「チラ裏をあえて学会に放り込む」と決断しようもあった訳で、それで認められれば、 >世界所有の夢があったウルリッヒ的にも、そこそこ納得いったかも知れない。 学会で認められることで納得に至ったかどうか、それはどうだろう。 ゲラ刷りまでいった『特性のない男』の最後のほうの清書用草稿で ウルリッヒは特性のある男と特性のない男を対比してみせる。 特性のある男・・・食欲的、西方的、世俗的、など 特性のない男・・・瞑想的、東方的、神秘的、など これは陳腐な二元論といえなくもないけど、 前者は現実主義者、後者はニヒリストな活動主義者だという。 ムージルは具体的な歴史をデフォルメして背景にしたけれど、 彼の観念的革命は時にニヒリストで時に活動主義者、 そして同時に両者であるような立場を求めるんだね。 ちょっと、無とアンガージュマンを語ったサルトルっぽいのかな。
(終わり)
835 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 00:48:08 0
____ /_ノ ヽ、_\ ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ だっておーっwww /⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒) | / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // | :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/ | ノ | | | \ / ) / ヽ / `ー'´ ヽ / / バ | | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バ ン ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
836 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 00:55:01 0
837 :
考える名無しさん :2008/03/21(金) 19:44:49 O
ルサンチマンはみっともないです
838 :
考える名無しさん :2008/03/22(土) 22:55:08 0
対話に参加できないときは、じっとがまん
839 :
佃煮マニア :2008/03/23(日) 16:53:31 0
>>832 そうですね〜。
そして、先に上がってた「フレーミング」について考える時、この本を読むと、
特性のない男が、あらゆる場面につけては外したフレームの、いかに多いかに驚かされます。
観察対象に迫る際の、足がかりを提供してくれていますね。
840 :
佃煮マニア :2008/03/23(日) 16:55:16 0
>>833 >彼の観念的革命は時にニヒリストで時に活動主義者、
>そして同時に両者であるような立場を求めるんだね。
「理念のまわりにある、矛盾を実践する」ってとこですかね
音楽は、拍動と拍動の間の時間に含まれる多様体こそに風景があり、
それを拍動によって感知可能にしますが、
イデアのみで構成された世界は、彼の実践によって露出されていく訳ですね
革命のために数学では手段として弱いかも知れないけど、
複数人数が参加する社会運動の一環として提示すれば、力を持ってくるかもしれません。
841 :
佃煮マニア :2008/03/23(日) 16:57:07 0
>>831 ついて離れないイメージってありますよね!私も、小さい頃からたびたび見るんですが↓
「口から体の奥まで金属管が差し込まれ、一瞬苦しいけど違和感はすぐに消えて、
金属と一体になった体の重みが心地よく、
管によって確保された気道を冷たい空気が通って清々しく、
思わず叫びたくなる」
こうして書くと、何のSMかという印象を与えかねないんですけどw
自分では、誕生のときの記憶かも、な〜 と思っています。
生まれて初めて吸った空気の違和感とか清涼感、大気の中での重力について、
こんな印象を持ったと。
これが誕生の記憶だとすると、生まれた赤ちゃんは嬉しくて泣くのか?と
また別の疑問が出てきますが
原体験は、潜在的な記憶でも、その人の感性を特徴づけるものだから
記憶を掘り起こして吟味するのは、
自分の個別性を深く探る事につながっていきますね。
842 :
考える名無しさん :2008/03/25(火) 21:12:54 0
こんなんじゃあお二人以外は対話に加われないよ〜(泣)
843 :
エートル・オートル :2008/03/25(火) 23:28:13 0
>>841 すごく強烈なイメージだねえ!
「金属と一体になった体の重みが心地よく」というのは
ちょっと想像がつかないです。
原光景的なものかどうかも何ともいえないけど。。。
>>842 ごめんよ。どんどん割り込んで。
佃煮マニアさんが
>>841 で書いてるような鮮烈なイメージ、
あるいはオブセッションみたいなものって他の人もあるのかな?
844 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 01:07:37 0
何度も繰り返し見る夢ってあるよね
845 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 02:51:41 0
(; ・`ω・´) ないよ
848 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 10:48:20 O
私がよく見る夢は、高いところから飛び降りる夢。 落ちた瞬間に(@_@)が覚めます。
自我(自己と他者の認識?)が芽生えた瞬間は今でも鮮明に覚えてるな。
それは特別な体験だと思う。なかなかそんな体験ができた人はいないのでは? ぜひどんなふうだったのか雰囲気だけでも教えてください(ワクワク)
851 :
心の仕組みドットコム :2008/03/26(水) 19:00:28 0
自我(ego、エゴ・egoism・利己主義・主我主義・自己中心主義)は外界から必然的に影響を受け育つものです。 この自我を感性が潜り抜けると、人は悟性に捕らわれ知能が育たないのです。
852 :
考える名無しさん :2008/03/26(水) 19:01:00 0
854 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 13:32:03 0
よっこらしょ、っと。良い雑談スレあるじゃん。
855 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 14:12:53 0
ちゃん、ちゃ、ちゃ、ちゃっ、ちゃっ、 ちゃん、ちゃ、ちゃ、ちゃっ、ちゃっ、 ちゃ、ちゃ、ちゃー ウッ 「哲学の見本」って本を読んでいる途中なんですけど退屈なんですー。 著者の態度には共感するし、地味ちにゆっくり歩くような、 論の運び文体にも、好感を抱くんですけど、でも退屈なんですー。 ちゃ、ちゃ、 ちゃ、ちゃ、♪
856 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 19:45:26 0
剛田武。逃げるな、 クソが。おまえは雑談コテなんだよ。雑談コテの分際で、 他人に意見しよう、という性根が間違っている。論理的に間違っている。 倫理的に間違っている。ローカルルールに逸脱してる、という理由で間違っている。 剛田武ぅー。自覚しろよ。哲学を標榜するな、とも言わん。 せめて、場所を選ぶ程度の聡明さを見せろ。なっ。
857 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 22:08:15 0
まさかプラトンが対話形式で書いてるから、 その権威に寄りかかって、 「哲学の根本は対話」とか言ってんじゃないんでしょうね。 あれは対話形式で書かれたモノローグなんですから。
858 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 22:16:42 0
ドウモ〜〜ッ!!お〜o(⌒0⌒)o〜♪「対話」という単語を見て〜(@@;) 速攻C= C= C= C=┌(^ .^)┘プラトンを持ち出すあたりに〜〜ッ なん(◎_◎)とっ☆☆、好感をもちましたあ(* ̄・ ̄)すごすぎ (@_@;)やられた〜 (*⌒ヮ⌒*)エヘ・*.・:☆
859 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 22:18:13 0
ソクラテスはあからさまに言って「バカ」を教育しようとした。 そこに必然「教育の対象」としてのバカが関わり、 その教説は対話という形を取った。 しかしそれに教育された「バカ」としてのプラトンは、 それを「対話による上昇の道」と受け取り、 それが後世に継承された。 こういう話でしょう。 そこに自分がバカと認めたくないの「上昇の完結」なんかが加わってきて、 後代議論が紛糾した、という話。
860 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 22:20:02 0
サンバ術の話かなぁ、☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡 むつかちー(+_+) 気絶中。。。。
861 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 22:52:32 0
「自分が無知だという事実以外、わたしは何も知らない」 ───名言に「性的な意味で」をつけて台無しにするスレより
862 :
考える名無しさん :2008/03/29(土) 23:11:13 0
ソクラテスが「わたしは無知だ」と言ったとき、 そこにはリセットボタンを押すような感覚があったと思うな。 「真理」や「美」という概念について、一度、リセットボタンを押してみようよ、 という誘いみたいなもの。権威か、反権威か、と言われれば、 反権威的な身振りだったと思うよ。そのときは。
863 :
佃煮マニア :2008/03/30(日) 16:00:12 0
>>862 これまで組み上げてきた累積的な知と、その先の可能性を考慮に入れて、
もっと想像の枠を広げて対象を捉え直そうと、
リセットボタンを押す意味で言ったのは確かにあるね。
昔からそれを繰り返して人類は英知を高めてきたんだし。
864 :
佃煮マニア :2008/03/30(日) 16:11:06 0
例えば、愛についてだったら 対自で語る場合、歓喜の叫び声だけで済むんだけど、 対他で語るには、どうしても実在から遠ざかって、 包括的に捉えた概念としての愛を語るしかないじゃない? でもその場合の愛は、共同体が作り上げた幻想であって、 本質を抜き取った、愛の形骸でしかない。 形骸しか材料がない中で、どう語るかってのは哲学の課題だよね? ソクラテスは、 「これ以上踏み込めない対象について全く無知な自分なんです」 と言う事によって、本質をうすぼんやりと匂わせた。
(ーω-)。oO( バカにしてればいいべ
(; ・`ω・´) ・・・
_, ,_ パーン
( ‘д‘)
⊂彡☆))Д´)
>>865 パパパパパーン
☆))Д´)
_, ,_ ∩☆))Д´)
( ‘д‘)彡☆))Д´)
⊂彡☆))Д´)
☆))Д´)
(ーω-)。oO( ???。よく分からないけど、反省する用意はある。たとえ言葉だけにせよ。だけど、
(; ・`ω・´) ←この人はいったい、
>>865 の「バカにしてればいいべ 」という言葉をどう理解して、
( ‘д‘)彡☆))Д´) ←というような図形?が示すような蛮行に出たいと思い至ったのだろう。
A、ソクラテスなんか、しらね……(ーω-)はソクラテスを、バカにしてればいいべ
B、ソクラテスの話題をすることで、……話についていけない(ーω-)を……バカにしてればいいべ
解釈の可能性はいろいろに考えられるわけだが、(; ・`ω・´) ←彼は「バカにしてればいいべ」
という文には省略されていた主語や目的語を、(; ・`ω・´) なりに補完して、
( ‘д‘)彡☆))Д´) という方向に動いたに違いないのだ。そこで、
(ーω-)が、その言明を反省してするとしても、どう、ごめんなさい、を述べるのが正しいのか。
そもそも( ‘д‘)彡☆))Д´) は、(ーω-)に反省を促すものだったのだろうか。
(ーω-)に理解しろ、という方が無理じゃないのかなあ。
864を含む真摯な前レスをバカにしたのかと思ったんだよ 誤解だったらごめんよ
(ーω-)。oO( うっ。
>>868 の解釈で誤解はないです。めんご。
こちらこそ早とちりしてすまない 対話を続けてくだされ
871 :
エートル・オートル :2008/04/02(水) 00:46:23 0
>>849 >自我(自己と他者の認識?)が芽生えた瞬間は今でも鮮明に覚えてるな。
それはスゴイ! 「かつての経験」として後で作られる記憶もあると思うけど、
「ある瞬間」として記憶されるものには何か特別なものがあるかもね。
この間テレビで「忘れることの出来ない男」というのをちらっと見た。
不必要な細部まで自動的に記憶してしまうその能力は、超人的でも悲劇的でもあって、
「忘れる能力」が欠如してるような面もあるようだった。
872 :
エートル・オートル :2008/04/02(水) 00:53:42 0
>>864 >例えば、愛についてだったら
>対自で語る場合、歓喜の叫び声だけで済むんだけど、
>対他で語るには、どうしても実在から遠ざかって、
>包括的に捉えた概念としての愛を語るしかないじゃない?
対自、対他とは別に、「脱自」という道もあるんじゃないかなあ。
といってもサルトル的な実存主義的な意味はおいといて
もっと身体的な、「忘我」に近い意味で。
だから語るというよりも体験になってしまうけれど。
バタイユでいえば「恍惚」や「歓喜」。
つまり、エクスタシーとしての愛。
エクスタシーはエク=スターズ(脱-自)から来てるとか。
873 :
エートル・オートル :2008/04/02(水) 00:57:09 0
>>867 なかなか面白い文章だね〜
記号や絵文字混じりということだけじゃなくて。
874 :
佃煮マニア :2008/04/02(水) 20:16:05 0
>>849 さんの体験はほんと貴重ですね〜
普通、自我と他我が区別されるのは、
他の人を、視覚として捉えることによって始まると言われているけど、
そうなるとこの体験はかなり幼少、赤ちゃんの頃のものって事になりますね。
赤ちゃんの頃の記憶あるってうらやましいなあ。
もし、他我と区別がつく以前も視覚があったとすると、
そこにどんな「見え」があったのか?
想像しきれないので、よければ教えて下さいな。
875 :
佃煮マニア :2008/04/02(水) 20:19:54 0
>>872 >エクスタシーはエク=スターズ(脱-自)から来てるとか。
神秘的な合一体験という意味でしたっけ。
合一と言えば、
「特性のない男」のウルリッヒは、愛の合一は肉体的な快楽の中にはないとして、
恋人と離れて住むんでしたよね。
それで、二人をへだてる世界の全てと合一する事によって、
距離感がちぢまり、関係が強化され、愛が成就すると。
この世界との合一は、シャーマンが意識的に引き起こす忘我、憑依と
似たものを感じますけど、これもやはり、
脱自によって得られる、究極的な愛の体験ですよね。
876 :
佃煮マニア :2008/04/02(水) 20:22:36 0
それで、 >だから語るというよりも体験になってしまうけれど。 こういった体験はする事が出来るけど、 体験は語られても形ばかりで、結局個人的なものにしかなりえないのか? と考えてみると、そうでもないようですね。
877 :
佃煮マニア :2008/04/02(水) 20:27:49 0
歓喜のの叫びに韻律を与えれば、それは音楽になります。 音楽に限らす、リズミカルな振動が体に届くと、 人間は自然と恍惚状態に向かっていく生理を持っているし、 その音楽に情感が盛り込まれていれば、リズムで緩んだ人間の心は、 すんなりと奏者のリアルな気分を受け入れ同調します。 そうやって、奏者と聴衆で体験の共有って出来てますよね。
それはたとえばコンサートホールような場所を想定した話でしょうか?
CDで音楽鑑賞している場合も、同じ体験の共有を考えることは出来ますか?
もっと身近な例をあげれば、大昔に死んでいる人の本を読んでいる場合も?
もっともっと近い例をあげると、
>>877 のレスには2008/04/02(水) 20:27:49 0
という日付がついており、そのレスを書いた佃煮マニアさんはいない訳で、
佃煮マニアの生死はここでは問題にならないですね?
と考えると、ちょっと不思議。あははは。
「自我」って日本人にはわからない概念だね。 「旨み」は西洋人にはわからないみたいだし。
880 :
佃煮マニア :2008/04/04(金) 20:00:23 0
ちょw 私、死んでないっすよw 想定してたのは、祭事とか部族の祈祷なんかで太鼓打ち鳴らして 集団で意識的に恍惚状態をつくっている場面です。 それとか、昔、沖縄駐留の米軍兵士が、盆踊りの太鼓のリズムで興奮して 神懸かり的になり、暴行事件を起こした事があったのを思い出して、 リズムの催眠効果ってすごいな〜と感じたので。 だからコンサートホールに近いかな。
881 :
佃煮マニア :2008/04/04(金) 20:03:04 0
あ、アンカー忘れた
>>880 >>881 >>882 は
>>878 さんに。
でも生音が空間に反響してるかどうかではなくて、
音のゆらぎによって体に刻まれるリズムが体験の共有を促してるんで、
CD聴いてても、音の波動が体を刺激してるから、精神的にユルい状態にはなってますよね。
そこに作者の体験が入り込んでくると、例えそのその人が死んでいようが、
聴者の中で体験が復活する、という言い方も出来ると思います。
音楽による魂の受け渡しと言うと大げさなんだけど、
少なくとも体験は共有される形にはなるでしょう。
882 :
佃煮マニア :2008/04/04(金) 20:05:12 0
文面で催眠効果によって共有できるかというと、また別の話になってくるけど、 韻律だけで見てくと、俳句とか詩は同じ効果を使ってます。 他にも、象徴によって語句の指示性を拡散させて、酩酊感をあおったりね。 読者に感受性があれば、大昔の人の本を読んで、 自分の中に体験を復活させる事もできます。 漠然と「感受性」と書いたけど、これの正体はまたいつか。
883 :
% :2008/04/05(土) 02:01:11 0
音楽、リズム、トランス――このあたりのテーマについては
前541氏が詳しいからひと言聞きたいところだけど、忙しいかな?
>>875 ウルリッヒの場合は恋人というより、不意に出現した妹との、
近親相姦的な香りを秘めた精神的合一を求めたわけだけどね。
精神的でありつつも、身体的な香りがほのかに漂うという微妙さが、
ムージルの狙いかもしれない。
>>876 語ることと体験を秤にかけることで、またもや、
ロゴスとパトスの関係というテーマに回帰もするんだけど、
ここで音楽の例をもってきたのはさすが佃煮氏だね。
もうちょっと進むと、芸術的哲学の可能性の核心が
かなり見えてくるような気がしてる。
ごめん、883で名前を間違えてしまった。
ところで、これのどこが対話なんですか
886 :
佃煮マニア :2008/04/06(日) 11:16:15 0
>>883 あれ?妹だったっけ?きゃ〜ん恥ずかしいよう。
エートルさんが読んでいるので面白そうだと思って、手を付けてはみたんだけど、
長い状況描写と抽象表現が多くて、あちこちつまずきながら読んでました。。。
ワルターも、肉体的な合一は限定的なもので、
概念で満たされた世界の構築にとっては意味がない的な事を言ってたような気がしますが、
ウルリッヒが精神的でありつつも、身体的な香りがほのかに漂う合一を認めてた
というのには、何かほっとさせられるものがありますよ。
887 :
佃煮マニア :2008/04/06(日) 11:20:52 0
882のつづき、感受性の事 文字はインクの染みでしかないし、 音声言語と違って、文字言語は知覚と密接に結びついた媒体ではないから、 死んだ人の詩歌などを読んで作者の意識に迫るには、 いろいろと手続きが必要ではあります。 どういう手続きかと言うと、、、 詩歌は、体験を韻律によって圧縮する事で美を抽出する、芸術の一形態で、 文字数が抑制されるから、作者の体験は、そのまま叙述されるわけではないけれども、 そのかわり、 抑制される中で場面の客観的な指示表現と、 それに対峙する作者の外在的意識の表現とをそれぞれ、 フィルムに焼き付けて透過するような試みである比喩によって、 体験が強調されてもいます。
888 :
佃煮マニア :2008/04/06(日) 11:25:02 0
だから、比喩の持つ二重性を道しるべとして、 客観的な指示表現を認識する所からさかのぼって、 実在から像を写し取って文字に固定化した作者の外在的意識、 指示表現と外在的意識の表現の間のズレ、その輪郭から垣間見える作者の内在と 帰納的にたどっていけば、作者の体験に同伴する事が可能になりますよね。 この作業を、やるやらないが詩歌に対する感受性ということになるでしょう。
889 :
考える名無しさん :2008/04/06(日) 18:49:59 0
外在的意識というのはどういう意味ですか? 「内在的」意識というものもあるのですか?
>>878 で
「大昔に死んでいる人の本を読んで」
「同じ体験の共有を考えることは出来ますか?」
という問いがあり、それを受けて佃煮氏が
>>882 で
>読者に感受性があれば、大昔の人の本を読んで、
>自分の中に体験を復活させる事もできます。
と応え、さらに
>>887-888 で「詩歌に対する感受性」を例に
補足したわけですね。
たとえ時間と空間を作者と共有してなくても
「作者の体験に同伴する」ことができるということ。
これはもちろん同意で、私見を付け加えるなら、
詩歌なり絵画なり音楽なりの芸術作品の中で
最も強く「作者の体験に同伴」できるのは
音楽だと思うんです。
(つづき) というのも、こう考えているから。 体験とは流れの中に身を置くこと。 詩歌や絵画は空間に固定されるのに比べて 音楽は常に時間的な流れの中で表現される。 だから、音楽は作り手の体験の中に 鑑賞者を容易に同伴させる、と。 もちろん優れた詩歌を深く味わうときには、 おそらくは、作者がその作品を作った時空に (読者の感受性の助けも借りながら) 同伴させるような力があるのだろうし、 音楽について言えることは映画にも言えるけれども。
>>886 確かに「長い状況描写と抽象表現が多くて」
すんなりとは読めない作品なんだよね。。。
日本では古井由吉が影響を受けたみたいだけど。
ムージルが「合一」に描こうとしたのは
>>875 に佃煮氏が書いていたように
>脱自によって得られる、究極的な愛の体験
なのはその通りで、ハイデガーやサルトルあたりの
実存 (エグジステンツ)と脱自(エクスタシス)をかけた
実存主義的思想を持ってたんじゃないかと。
893 :
佃煮マニア :2008/04/07(月) 23:34:35 0
外在的(または内在的)意識は吉本隆明の造語でしたね。 便利な言葉なので、ちょっと引用させてもらいました。 外在的意識ってのは、人のまわりを取り囲む世界、つまり外在に関わっていくために、 自分の思考を何らかの形で言語化しようとする、 または、外在から情報を受け取ろうとする意識のことです。 内在的意識は、言語化されないままの情動、下意識の働き、 いわゆる「こころ」のことです。
894 :
佃煮マニア :2008/04/07(月) 23:39:19 0
あと、CDの音はスピーカーから出るもので、 生の楽器と比べると、決定的に聴こえ方が違うという話がでたけど、 音を数値化して倍音まで再現して、サラウンドで聴かせても やはり聴こえ方に差が出るのがなぜかについては、 人間の脳と五感に関わってくる事で、 まだ科学的な説明がないようです。 ただ、スピーカーで聴かせても、ある一定の波動を与える事によって 動植物の細胞分裂が活発になったり抑制されたり、 人間の免疫システムに作用したりすることは確実で、 再現された音からでも、少なくとも人間の情動が突き動かされ、 さらに、流れる音楽を意識した場合、 人間の脳は、すぐさま分析したり、景色を思い描いたりし始めるわけだから、 再現された音だからといって、 ある情感を述べたり、ある場面を説明したりする力が損なわれる事は ないんじゃないかな〜と思ってます。 文化や地理的な素地の中で、音楽からうける感情も様々なんじゃないか、 という疑問が残ってたんですが、これについては次にすることにします。
895 :
佃煮マニア :2008/04/07(月) 23:44:05 0
>>892 古井由吉って初めて見た名前です。今度読んでみようかな。
しかし、、エートルさんの読書量ってハンパじゃないですね〜。
理解力もすごいし。
本が人格を作るってこともあるけど、ほんと敬服しますよ。
前から聞きたかったんですけど、どうやって読んでるんですか?
守備範囲はだいたいどの辺りなんでしょう?
896 :
佃煮マニア :2008/04/07(月) 23:46:22 0
>実存 (エグジステンツ)と脱自(エクスタシス)をかけた >実存主義的思想を持ってたんじゃないかと。 実存から脱自という異世界にむかうのは、宗教的な香りがしますね。 外界から得られる全ての感情を、ひとつひとつ打ち消していって無へ向かうウルリッヒは まるで、荒行をする僧のようです。 宗教では、異世界に向かう際には、現世界とそこを結びつけるためのお供として 呪術的な行為をしていたようですけど、 呪術行為って、だいたい快楽を伴うものなんですよね。 快楽で幸福な気分になったまま、異世界に地平をつないで、幸福を送り込む的な意味合いで。 いろんな異世界の入り口まで差しかかりながら押し戻された彼ですが、 どれも幸福を送り込むにはちょっと間口が狭すぎたわけですよね。 それで、結局見つけた、ウルリッヒにとってとっておきの呪術はなんだったかという所で見ると、 それは恋の幻惑を世界に編み込んでいく喜びだったように思います。 恋って真理なんですかね〜。
897 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 02:08:21 0
愛とは他の言葉で言い表せないのでは? 上記されている『エクスタシー』や『合一』は感覚でしかないのでは? 文学や哲学というものに頼りすぎて感情が置き去りにされている気がする。
898 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 14:56:59 0
ここでの「対話」は常にそうです。 ここはそういうスレです・・・ きっと、「他の言葉で表せない」あたりに食い付いてきて、 それは在るものによって非在を示唆するナントカとかカントカ・・・ 誰々がナニナニという本で述べていたアレに通ずる・・・ ってな「対話」に発展してゆくのです、ここでは。 ねっ?スレ主さん!
o(><)o スレ主さん、がんばってー 「アレがアレしてナニナニ」になんかに負けちゃダメー o(><)o ところでスレ主さん、ってだれー
900 :
考える名無しさん :2008/04/08(火) 17:07:36 0
>>897 愛とは他の言葉でうんぬんというのは
突発的な質問なのか、それとも今までの話についての疑問なのか・・?
エクスタシーや合一は、セックスして得るオルガスムとはニュアンスが違って、
もっと多元的な「目的の達成」というニュアンスが強い。
文学や哲学で感情が置き去りにされるのは、やや本末転倒な印象なので、
これも「頼りすぎると、どういう経緯をふむから、置き去りにされる」
の追加的な説明が必要。
>>898-899 スレ主さんのことについて。
スレ主と呼んでいいのかどうかはわからないけれど、
このスレの発案者と呼べる人がいて、時折書き込んでくれているはず。
実は哲学板ではこのスレ以外のことはほとんど知らない。
というのもこのスレのことを知ったのはその人がいたからで
2人(その人ともう一人)がいたからこうして今書き込んでる。
もともとその2人とは他の板で言葉を交していたんだけどね。
本当はこの場所はもっとささやかな対話空間になるはずだったけど
哲学板の人たちにこのスレを開放してくれているようだよ。
>>898 スレの流れについて。
ここは匿名掲示板だから、このスレに興味を持ち、
もし「こういうスレにしたい」という希望を持ったのなら、
自由に積極的に参加して、実践すればいいんじゃないのかな。
サルトルのアンガージュマン(現実参加)を持ち出すまでもなく、
自分が希望する流れを自分のレスで作ればいいと思いますよ。
ここで困難を感じるのなら、自分で理想のスレを立てることもできる。
>>897 『エクスタシス』や『合一』を語ってきたのは
ムージルから実存主義という文脈だったわけだけど、
ムージルにおいては感覚というよりも観念だったし、
サルトルにおいては脱自という存在の仕方だったわけだね。
巾を広げるため、その文脈をとりあえず脇において
897さんの言葉を考えてみたい。
>愛とは他の言葉で言い表せないのでは?
そもそも「愛は語れるのか」と問い返してみたいな。
>文学や哲学に頼りすぎて感情が置き去りにされている気がする。
これを、ロゴスに頼りすぎてパトスが置き去りにされている、とすれば、
以前にこのスレで話題になり、何度か回帰もしているところの、
「ロゴスとパトスの関係」というテーマそのもの。
>>891 で少し書いたことは、まさにそのテーマに向けてでした。
>>895-896 >守備範囲はだいたいどの辺りなんでしょう?
非常に偏った読書をしてて、守備範囲というのも特にないし
野うさぎみたいに適当に本を手に取ってる感じなんですよ。
例えば、ブランショを読んでムージルに興味を持ったり、
ドゥルーズを読んでベルクソンをかじってみようと思ったり、
そういう広がり方はあるけど脈絡はないですね。
このスレでラカンの名前を挙げてた人がいたので
この間「精神分析の四基本概念」を買ってきたり。
>恋って真理なんですかね〜。
ちょっと文脈は変わってしまうんですが、
「真理とは女である」とニーチェは語っていて、
恋愛下手のニーチェにしては意外な言葉だけれど
そこから非常に興味深い考察を繰り広げていくのが面白かった。
個人的に最も刺激を受けた哲学作品のひとつ。
905 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 00:02:05 0
>>900 僕の中で愛とは自分で体験しか表現できないものだと思います。
>>903 の問いにもありますが、僕は愛は語れないと思います。
それを昔の人がどう感じ、どういう行動をとったということのみでは表現できないものと思います。
つまり、自分がどう感じたかを表現しなければとても薄く感じます。
あまり書物を読んだことがないので知らないが、ウルニッヒさんは自分で考え行動し感じたことを書物に起こしたのでは?
他者の書物は自分の考えを確立させるための材料でしかなく、引用はできないのでは?
よって自分の感情は置き去りにされていると感じました。
>>903 芸術により体験が共有されるかは置いておいて、調べてみたらパトスとは感情の事でしょう?
なら
>>891 に記している体験とはまた別の物になるのでは?
仮に体験を共有できたとしてもその時に起こる感情の共有はできないのではないでしょうか。
あまり哲学を知らない素人が口を挟んで申し訳ありません。
>>905 レスを早速どうもありがとう。
1)まずパトス(感情)について。
まず体験にしろ感情にしろ、「共有」という言葉じゃなく、
佃煮さんが選んだ「同伴」という適切かつ美しい言葉を使いたいな。
で、
>>891 で重点を置いたのは「流れ」ということだったのだけど、
もう少し肉付けするとこんな感じ。
パトス(喜怒哀楽などの感情状態)は時間の流れの中にあるのに対して
ロゴス(理性、言葉)というのは反対に流れを止めようとする。
ロゴスの意味は理性でもあり言葉でもあるんだね。
パトスは川の流れのようなもので、激流だったりせせらぎだったりするけれど
そうしたパトスをロゴスではうまく表現できない。
ロゴスの働きというのは川の流れを描こうとするようなものだから。
――描かれた川はもう流れてはいない。
(つづき) 2)愛について >僕の中で愛とは自分で体験しか表現できないものだと思います。 >自分がどう感じたかを表現しなければとても薄く感じます。 905さんは自分が体験した愛でなければ語れないという。 自分の体験や感情だけが語れるものだという視点だね。 でも、「愛」はそれで本当に語れるのだろうか? 愛というのは非常に抽象的な言葉だけれど、 もし自分の体験や感情を語るとしたら もっと具体的なものになるんじゃないだろうか。 つまり、「今私があの人を愛しているこの愛」というふうに。 パトス(感情)を置き去りにしないためには できるだけ具体的な愛を語る必要が出てくると思う。 それを「愛」という抽象化された言葉にしてしまえば、 パトス(感情)は置き去りにされてしまうのでは? 905さんが何かを(誰かを)愛しているときのパトス。 そういう具体的な愛はパトスの中にあるんじゃないだろうか。 そして、そのパトスを語ってみようとするとき、 あたかも描かれた川がもはや流れてはいないように そのパトスはロゴス化されることで死んでしまうのでは? 自分の体験や感情としての愛、パトスとしての愛は語れるだろうか?
長くなりすぎたから最後に。
3)音楽について
>>891 で音楽を特権視したのは、
音楽が時間の流れにある芸術だから。
音楽はあたかもパトスの流れを生み出すように
時間の中で流れる芸術だから。
と、ここまで書いて前言撤回、というか逆説的になるけれど、
一枚のタブローに描かれた川は流れていないけれども
佃煮氏が書いていたように、見る人の「感受性」によって
描かれた川を流れさせることができる。
909 :
佃煮マニア :2008/04/09(水) 21:22:49 0
>>905 >仮に体験を共有できたとしてもその時に起こる感情の共有はできないのではないでしょうか。
これは
>>894 のつづきでもあるんですが、
作者の感情が受け手にどれだけつたわっているかという所で、
こんな話があります。
心理学の研究者達が、音楽文化を一切持たない少数民族の部族村にいって、
曲の内容については一切説明なしで
いわゆる『第九』交響曲第九番と、『英雄』第二楽章の葬送行進曲を
聴かせて反応をみる実験をしたんだそうです。そうしたら、
『第九』を聴かせると、村人は最初不思議な顔をしましたが、次第に笑い出し、
フレーズに合わせて大声をあげ、くにゃくにゃ踊り出したそうです。
『葬送行進曲』では、神妙な顔をし、しだいに体をこわばらせ、
うずくまって「死の神の声だ」と言って一人、また一人と泣き出したそうです。
この端的な事実から言えるように、
作曲者の体験や感情は、いかに風土や文化が違う人々にでも、正確に伝わっているんです。
私たちが美しい曲を聴いて流す涙は、作曲者の涙であるとも言えます。
910 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 21:33:06 0
>>906 私にとってとても興味深く、面白い話し合いであり、疑問を感じたので、無知ながら発言させて頂きました。
丁寧に説明していただきありがとうございます。
確かに、『同伴』と表現すれば、美しく納得もできます。
>>907 >具体的な愛はパトスの中にあるんじゃないだろうか
これについては、異論はありません。
というのも
>>864 に共感し、感動すら覚えたからです。
しかし、それは具体的かつ理論的な哲学の中では表現できなくても、
抽象的かつ芸術的な詩によって表現できるものだと考えています。
愛とは抽象的が故に具体性を帯びているのではないか。
それにより具体性を持たせるためにはエートル・オートルさんがおっしゃるように、
パトスのなかにある愛を実感していなければ生み出せないとも考えています。
911 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 21:33:51 0
>>908 芸術も表現者(音楽なら奏者)により変わるもの。
それゆえに日々移り変わるパトスを表現しているとも言えるかもしれませんね。
話は少し変わるのですが、
>>872 の
>バタイユでいえば「恍惚」や「歓喜」。 つまり、エクスタシーとしての愛。
これは恍惚・歓喜=エクスタシーだと述べているのでしょうか?
912 :
佃煮マニア :2008/04/09(水) 21:40:06 0
>>907 >自分の体験や感情としての愛、パトスとしての愛は語れるだろうか?
脳を調べると、体験としての愛を感じている時、
活動しているのは性欲をつかさどる部位なんだそうです。
だから、愛=性とは言わないまでも、
たがいに密接な関係を持っていることは確かですよね。
だから、具体的な愛について語ると、どうしても性がからんできますよね?
愛のパトスとはつまり性衝動なわけだから。
何かその、、、スレがエロチック探訪のようになりそうで(*´Д`)
パトスを叙述するための可能性や意義、
愛と言語というテーマなら、
切り口がたくさんあると思います。
913 :
佃煮マニア :2008/04/09(水) 21:40:53 0
>>904 なるほどなるほど。
野うさぎのようにっていうのが可愛いですねw
脈絡ないつもりで選んだ本の言ってることが
自分の考えと一致してる時ってありますよね。
必然なのか偶然なのか不思議ですけど。
ニーチェとドゥルーズ、面白そうなので私も読んでみます。
914 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 21:43:43 0
>>909 それも同伴と表現すれば納得がいきます。
その旋律により、ある種の感情に触れみんながそれぞれの体験を思い描く。
それにより、ある共通点もつがそれぞれ違った感情を抱くなら、それは同伴と呼べるかもしれない。
915 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 21:56:56 0
>ニーチェとドゥルーズ、面白そうなので私も読んでみます。 『ニーチェと哲学』ドゥルーズ著 これは「ニーチェの哲学」ではなく「ニーチェ VS 哲学」となっている。 訳者は若くして亡くなっている。 『ニーチェ』ドゥルーズ著 単行本でも出ているが、上の解説みたいな感じ。
>哲学の基本は対話 久しぶりにワロタ
917 :
短パン :2008/04/09(水) 22:08:17 0
>>916 此処でやり取りされている事の内容がただの「茶飲みの寄り合い所」だってんなら、
その意見に同意しよう。
>哲学の「基本」は対話
だなどとは片腹痛い。
よくこんな糞スレが残るものだと感心した次第だ。
918 :
短パン :2008/04/09(水) 23:09:18 0
魔王「さて、とてちてチーン♪」
閻魔「珍しくご機嫌な魔王さんw」
魔王「柳に腕押しな本体が、こういうツッパリも滅多にないんでね。♪」
阿修羅「本体は、(理)では、負けますよ?ほぼ全開でw」
短「・・・今、ガソリン入れてるけぇ、ちぃと待っとき。」
魔王「やる気だ。wktk」
>哲学の基本は対話
ないな、コレは。
っつか、(こんなアホタイトルに触手が伸びるようなバカ等居るかw)と、軽くあしらおうとして、
>>1 から見てみたら、
誰か打ってるね。。。w
久々のつまみに、舌なめずりでもしようとガソリン入れたはいいけれど。 ・・・・なんか、萌えるものがない。。。 なんだろね。この凹凸のない絶望感は。。。 んーやっぱ、ツマンネわ
920 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 23:17:53 0
私もこのスレは気持ち悪い ときどき名無しで出てきては躍起になってスレを守ろうとするスレ主も気持ち悪い どんなところなのかとざっと読んでみたが、 もちろんここにとどまるつもりはないので安心してください、お三人さん
>>920 おうwww
お、俺も連れて池w
こんなとこ、やだちゅーの。
『・・・それが例え地獄でも?』
ん?
『それが例え地獄でも?』
んん?
『アンタ、つんぼ?』
むしろユンボ。タハータハーwwwwww
さて、帰るか。。。
922 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 23:44:57 0
哀れだな、酔っぱらい。
923 :
考える名無しさん :2008/04/09(水) 23:57:37 0
そもそも自分から、いわば自分の意思で哲学板を訪れたというか、開いたんだろ? もっとも興味のない対象だから、哲学板を選んだ、という事だってもちろん可能だけど。 その上で、わざわざ「哲学の「基本」は対話」などという、 なるほどギャグにしか見えないスレタイに目をつけ、 案の定、気持ち悪いという感想を抱き、それを確認したと。 その気持ち良く分かないでもないけど。有り体にいって、 予想が当たって良かったじゃん、ですむことでは? あえて、アホだな、気持ち悪いね、と言明するばかりじゃなく、 やっぱ気持ち悪いよね、と頷きあう根性ってどうよ。どうかしてるのは、 あんたらの方だと思うよ。自分の抱いた興味、その関心の在り方、 そういうのを自分から否定してるじゃん。 哀れ、と言ったのはそういう意味。哲学なんか関係なくね。 ところで、(酔)短パン っていうのは、ぼくセクシーなホモです、 ってカミングアウト?
つーか、単に構って欲しいだけの2ちゃんねらーだからスルーで
925 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 00:44:53 0
>>922 そうかよ。
(なんか、恥ずかしいな。w)
ま。酔っ払いの戯れ事でも聞いて池。
「高尚」という概念は、まず。比較論の域からは出られない。所詮その程度の楼閣ならば、本当に痛手を喰らう前に、でていけ。
・・・左団扇をかましたいなら、他所へいきな。と、俺は明言している。
ただ、だけど、それだけの事だ。
主張が、もし、「自由だ。」というのならば、俺の書いている事柄に、一点の曇りも無い。
どぅ?まだ、哀れか?
それとも『むしろ、哀れの上塗り。』か?
・・・・ふ。
うんこすんぞ!!!!!!!!
926 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 00:45:30 0
魔王「もぅ、や・め・て・・・」
閻魔「魔王が降参って・・・・・」
短「俺、今、はじけてる?♪」
閻魔「帰ろうよ。。。。」
短「はは・・・それは、詭弁だって、、、、だって、一体何処へ帰るというのだ、閻魔。」
>>923 今。酔っ払いが、三つ目で読んでるから。。。少しマテ。
>>924 おでは、2ch如きでのたまっている自分は、殺したい程好きくない。ぜ?
>つーか、単に構って欲しいだけの2ちゃんねらーだからスルーで
これも、いわば、2ch流の社交辞令、、、というのも、解っていて反応していると思って欲しい。。。
ちんこ
927 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 00:49:03 0
820と821は気が合う者同士、どこかで仲良くやればいいんでないの(w
928 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 01:14:50 0
>>923 一応、レスしたのを落としたのだが。
何処かへ消えてしまったらしい・・・・・
『もう一度。』と言われても、なまものだし、二度同じ事を打てない・・・
・・・俺を恨むなら恨め。
(はぁ。。。うまく伝えたいのね・・・・・・)
929 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 01:38:07 0
もっかい、いく? 『やれ!』 ・・・・では、何処かで、誤爆したかもしれん文章は、全てを破棄します。いいかな? では、、、、 >そもそも自分から、いわば自分の意思で哲学板を訪れたというか、開いたんだろ? 自己回帰。。。投影というやつか・・・ >もっとも興味のない対象だから、哲学板を選んだ、という事だってもちろん可能だけど。 >その上で、わざわざ「哲学の「基本」は対話」などという、 >なるほどギャグにしか見えないスレタイに目をつけ、 >案の定、気持ち悪いという感想を抱き、それを確認したと。 >その気持ち良く分かないでもないけど。有り体にいって、 >予想が当たって良かったじゃん、ですむことでは? イマイチ、読みきれなかったので、ゴメン。。。 でも、意味は汲めた。。。特記するけど。 >予想が当たって良かったじゃん、ですむことでは? これは、書き手には、多分解らない。 予期は不可能だし、名無しさんだって、捻るさ。当然のように。ということ。。。 >あえて、アホだな、気持ち悪いね、と言明するばかりじゃなく、 >やっぱ気持ち悪いよね、と頷きあう根性ってどうよ。どうかしてるのは、 >あんたらの方だと思うよ。自分の抱いた興味、その関心の在り方、 >そういうのを自分から否定してるじゃん。 >哀れ、と言ったのはそういう意味。哲学なんか関係なくね。 ・・・。君理論が今。羽ばたく! >ところで、(酔)短パン っていうのは、ぼくセクシーなホモです、 >ってカミングアウト? それで、いいんじゃねw イメージ突破は、少し前は難関不落だったらしいけど、今は、驚くほど楽らしいからね。
930 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 01:43:58 0
>もし、だよ?『もし、君を師と仰ぐ者在ったならば、君は彼羅に何を、何と言う?』 ・・・・・。ばかですかw以上www
931 :
(酔)魔王短パン :2008/04/10(木) 01:48:05 0
俺が求めているのは、貴様らの血。 飢えているのだよ!!!! ウゴゴゴゴゴゴゴッゴゴ
932 :
(酔)魔王短パン :2008/04/10(木) 01:51:03 0
ふん。 それが、どんなスレであれ。 それを作り上げるのは、スレ主ではない! ・・・。ははは、誰を相手にやってるつもりだね?君・・・
933 :
(酔)魔王短パン :2008/04/10(木) 01:52:20 0
巣にカエレ
934 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 11:15:04 0
>あえて、アホだな、気持ち悪いね、と言明するばかりじゃなく、 >やっぱ気持ち悪いよね、と頷きあう根性ってどうよ。 はあ?
>短パン 書き込みの内容とか文章の稚拙さからして中学生かな? 前にぴかぁさんのスレでも荒らしてたよね? でも、まったく相手にされてなかったようだけど ゲイであることをカミングアウトしたということは 哲学を語れる男コテが好きなの?
>>920 >私もこのスレは気持ち悪い
なのにわざわざ出てきてのこのこカキコとは、律儀というか暇人なのか
>もちろんここにとどまるつもりはないので安心してください、お三人さん
さようなら〜
二度と来ないでね
前に2ちゃんねるでこんな短歌(おそらくオリジナル)を見つけました 「白河の清き流れに耐へかねてもとの田沼の水ぞ恋しき」 2ちゃんねるは、まさに水清ければ魚棲まずの空間ですね。。。
938 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 12:44:37 0
941 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 14:46:50 0
>>938 「書き続けたい」という意志の方が強いんだろ?
攻撃にもならん言葉吐かれても、むしろムズムズするだけで、(ばかにしてんか?)
という、下らない意識を発生させるだけなんだよ・・・
だから、イヤなんだ。半端者は。
942 :
(酔)短パン :2008/04/10(木) 14:49:18 0
だいたいこんなクソみたいなスレッドに連投している俺がくだらない。 更に、上げるとは。なんて親切www っつか、哲学じゃねぇし、こんなのwwwwww
943 :
(酔)魔王短パン :2008/04/10(木) 14:52:27 0
>>939 ひとつだけ言いたい。
俺は、あの板の流れは吐き気がするほど、嫌いだ!
それだけは伝えておきたい。。。
あの板の流れ?
荒らしの心理は完璧に犯罪者のものだな 相手にされなかった腹いせか、対話が続いていることへの妬みか ドット込むあたりかもな、
哲学関係の本に魅力を感じることもある。。。
時々、魂をごっそり持っていかれる・・・
(やられた。)って、思うよ。そういう時は。
>>944 うむ・・・。っつか、こんなんただの愚痴じゃん?
「そこをツッコむんかいっうぇw」だぬ。
オーディオを、「他力本願の象徴」と、思う人もいるのかもしれない。 ・・・思えば確かに、オーディオセットの自慢話にしか、いきつかないのも、多少は仕方が無い事だとも思っている。 でもなぁ。別にそんな事どぅでもいいんじゃねぇの? (あそこが嫌いなら、此処は好きなのかw)と、問われれば、此処だって、いわば。(より多くの本を読んだ方が勝ちw)みたいなw そんな流れもあるから、別段、どっちがどっちでドッチの料理ショー☆ ・・・アカン 悪酔いしとる。。。 (いつもの事だがw)
もぅね。処世術なんて何処にも無いのに、いつまでもそんな事を信奉して自己啓発本とかセミナーにほいほい寄りすがるバカと一緒よ。 「そんなものは、無い」んだ。ホントウは・・・ 『気付きたくない。気付きたくない。僕は今それだから・・・・』 ん。だったら、見てない事にするんだ。こっちも、さ。。。 『間違っているのかw』 さぁてねw 『間違いで、何が悪い!』 開き直られてもねw 『これが、今の俺だ!文句あっか!!!!』 ない。 っつか、むしろ、見事だ。 ・・・相手がヒトなら、突破口は必ず見つかる。 相手が、心有るヒトであれば。の、話だけど。。。
>>945 同意です
荒らす人はその対象に強い関心を抱いているんです
はなから無関心な対象には興味も持たないし、関心がないので荒らしたりは
しないものです
荒らす理由としては嫉妬、疎外感あたりからくるのでしょうね
前に某学問板の某スレが荒らされたとき、こんなコメントがつけられました
いつの時代にも真面目にやっている人に対して茶々を入れる馬鹿がいる
馬鹿は当然誰にも相手してもらえない
馬鹿は馬鹿なりに馬鹿な頭で周囲の関心を惹こうと必死に考える
躍起になったその結果が程度の低い「荒らし」である
馬鹿は自分のレスが住人の失笑を買っていることにも気づかない
失礼、馬鹿は差別用語でしたね
950 :
佃煮マニア :2008/04/10(木) 18:07:59 0
おお〜 これはまた見事なちゃぶ台返しですねw ちょうど話題が盛り上がった所に来て、しかも 短パンさんに至っては放屁までかますとは。鮮やか鮮やか。 いいんじゃないでしょうか。
951 :
佃煮マニア :2008/04/10(木) 18:14:09 0
まず、
>>920 に マジレスすると、
スレ主さんがスレの管理をするのは当たり前ですよね?
キモいキモいと騒ぐ必要もありません。
しかもここのスレ主さんは気が利いていて、
住民がなんやかやと話をしているときは空気のように振る舞い、
話の節目になるとさりげなく合いの手を入れ、まとめ的なレスもしてくれます。
ノリを押し付けることがないので、住民はゆるやかに話をすることが出来ます。
また、スレタイにインパクトを持つ人が多いようですが、
私もその一人です。
不思議と惹き寄せられるタイトルですよね。
スレ主さんのセンスが光っているという事でしょう。
952 :
佃煮マニア :2008/04/10(木) 18:18:09 0
まぁ一つ話を戻して。
>>907 >自分の体験や感情としての愛、パトスとしての愛は語れるだろうか?
愛のパトスについて、体験から具体的に語りましょうか。
短パンさんの体験について。
やわらかいスレにやって来てはわざわざ暴言を吐いて小暴れする、
こういった、住民から叩かれることをやすやすと予想出来る事態に
あえて自らを直面させる行為を、一つの性的昇華と見ることが出来ます。
953 :
佃煮マニア :2008/04/10(木) 18:20:19 0
コテ付きで荒らしをし、暴力によってスレ内に主体として踊りでる意図があったようですが、 これは非常にリスキーで、運営の目に余れば、吊るし上げを喰らう危険があります。 だからこそ背徳の陶酔があり、官能的な魅力がある訳です。 これは、セクシャリティをはらんだ、禁じられた遊びと言えるでしょう。 また、これには、マゾヒスト的な側面もあります。 住民の冷遇によって傷ついた心に、生き生きとした情動を見つけ、 それで彼はやっと自分自身を肉体として認めるのです。 認めることで、コミュニティ内、もっと広く言えば世界に、 確固として存在する短パンを証明するに至ります。
954 :
佃煮マニア :2008/04/10(木) 18:24:15 0
こうした存在証明は、安定した生存の欲求であり、 その裏には愛のパトスがごうごうと流れています。 反抗、自虐、という二つの側面をもった短パンさんの倒錯行為も、 愛の体験の一形態なのです。
955 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 20:10:40 0
なんでも理詰めで疲れませんか? 失笑を買っていることには気づいていますか? さようなら〜〜〜
956 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 20:16:15 O
さようならといいながら書き込み続ける粘着さんのほうが失笑ものだとは気付かないのかねw
957 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 21:07:10 O
理詰めで対応できない人が荒らしに走るんですよ 荒らしはつまり自分の知識のなさのコンプレックス丸出し行為なんです 荒らせば荒らすほど、粘着すればするほど 本人のコンプレックスを露呈しているんです 荒らしが嫌われるのは知識の欠乏ゆえではなく歪んだ自己愛と コンプレックスゆえのルサンチマンの固まりだからです 自身の醜さはすべてを歪めるという見本です
958 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 21:21:26 O
>>955 理詰めな対話もできなくて恥ずかしくないですか?
冷笑されていることには気づいていますか?
永遠にさようなら〜〜〜
てか、あなた中学生でしょ?
一生懸命背伸びしてるの見え見えよ
うふふふ♪
ぼくちゃんてば か・わ・ゆ・い♪
ママのところにお戻りなさいな
959 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 21:22:23 0
その粘着くんについての説明は哲学的というよりは心理学的だと思う。
心理学的か… そうかも まあね、酸っぱい葡萄の心理なんですね
961 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 21:29:27 0
実際のところ淡白な人に哲学的な思索というのは期待できないのかもしれないね。 ふつの人が通り過ぎるところにとどまって、イヤらしい程しつこく問かける 粘着気質のひとって本当にいるじゃん。嫌われて当然だとは思うけど。 蓮見風にいえば言葉だけは手放すまいという根性に恐れ入るということは、 まああるわな。(笑) 私は良い粘着と悪い粘着を区別できるかなーと考えると 正直心もとない。
962 :
縦(蓼)社会 :2008/04/10(木) 21:30:14 O
問題は根深い。答えをいうんだ
963 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 21:42:17 O
俺、哲学専攻してたけど、みんなで議論とかスゲー嫌だったわ。いつも黙っていた。
>>961 良い粘着と悪い粘着の判別か…
そうですね、良い粘着は何かを極めるための努力を
惜しまない
周囲が高いレベルの人ばかりだったら自身も向上しようと望み発奮する
反して悪い粘着は、努力を放棄して周囲に噛みつくことにのみ腐心する
膨大なエネルギーの損失です
良い粘着は結実に向かうけれど悪い粘着は損失しか残さない
965 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 22:07:34 0
否定的な内容を含むレスがあるとすぐに荒らしだ粘着だと断じるのはどうかな しかも妬みやコンプレックスがその正体だとするのは 自分たちを高みに置きすぎていないか? そんな理由でなくとも人は批判をするものだし あなたがた皆もそれは同じでしょうに いろんな人から共通して気持ち悪いと指摘されているこのスレ そうやって自分たちを正当化するばかりでなく 何がそういう指摘の元となっているのだろう? と少しは内省しないのかな
だ〜か〜ら〜気持ち悪いなら読まないこと ひろゆき氏も言ってるでしょ 2ちゃんを利用するのは本人の自己責任だって
967 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 22:15:09 0
>>965 おいおいw
妬みやコンプレックスを感じさせないまともな批判レスはどこにあるんだ?w
>>965 は人に内省を促していながら自身の不遜さには無頓着なんですね
「みんなが」「共通」こうした言葉が965の傲慢さを言い表しています
匿名のネットにおいては一人が複数を演じて「みんな」になることが
可能でしょうに
「みんな」とはあなたのことでしょう?
969 :
965 :2008/04/10(木) 22:47:02 0
>>968 おいおい、そんなに攻撃的になるなよ〜
否定的な部分のあるレス、特に、気持ち悪いという「共通」項でくくれるタイプのものがあること
それは事実だと思うぞ
また、それらを単独ではない複数の「いろんな」人が書き込んできているとみてそんなに無理があるかい?
さらに、人が何かを批判するとき、その動機は妬みやコンプレックスばかりではないでしょう?
それは「みんな」同じじゃないの?って言うのが不遜で傲慢かい?
『「みんな」とはあなたのことでしょう?』なあんていう決め付けは不遜・傲慢ではないのかね
まじめに書いてるんだけれど、これも荒らしとみなされるわけですか?
970 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 22:56:57 O
気持ち悪いというだけのレスはただの非難でしかなく批判じゃねえんだよ。
デカルトの解説者、斎藤慶典氏は主題があるのが対話、ないものがおしゃべりだと提唱しています
そして両者に共通するのは「私とあなたが互いに他方を
受容し他方に受容されることが肝要なのだ」と
述べています
なるほど
>>965 のように最初から「気持ち悪い」と切り捨てるのは
対話以前です
このような人とは対話できないですね
ちなみにわたしはこのスレを「気持ち悪い」と書いた965の書き込みの方がよほど気持ち悪いです
972 :
ロム者 :2008/04/10(木) 23:01:52 O
対話スレの続きは新規スレで。
965は祭りの輪に入れないのがよほど悔しいんだね なんか、この人ってむさ苦しい…
何か変に盛り上がってるねえ(笑 何日間も書き込みのないこともあるスレなんだけどね。 まあ気持ち悪いと思う人がいるなら、 その咎のほとんどは継続的に書き込んでいる俺にあるわけで、 まともな批判なら喜んで受けたいと思うね。 どういうところが気持ち悪いと感じたのか、 そう感じた自分なりの理由は何か こういうふうなレスは気持ち悪くないというサンプル、 そういう具体的なものを私に宛ててぜひ提示して欲しい。 今日は時間がなく別の板に用もあるのでまた。
ごめんあそばせ ちょっと965を煽ってみましたの♪ だって965って典型的な○○○○なんですものぉ くすっ♪ お若いの、気をつけておゆきなさい
976 :
考える名無しさん :2008/04/10(木) 23:56:50 0
冷笑
977 :
(酔)短パン :2008/04/11(金) 02:02:36 0
むしろ、失意のづんどこw 失笑とでも言うか。。。
965が異性に相手にされないのがこれで明白になった ○○○○なのも仕方あるまい
>>974 自分がどう気持ち悪く思われているか、
得意の評論の力をもってしてもわかり辛いかと思います。
文芸や美術、音楽のことでは発揮できるその力も、こういうときには勝手が違う。
一方は表現として真摯であり技法も優れている、言葉遣いも厳密である、
などの点で、ただ気持ち悪いなどという非難よりもずっと分析しやすい、
という理由立てはもちろんありだと思います。
でも、大きく、自分自身のことは本人ゆえにわかりにくい、という
一般的な問題として、そのことと評論とがいかに両立するのかを興味深く思いました。
平たく言えば、
「自分のこと(や、自分の思われ方)は十分に捉えられない」けれど
「他人のことを(その表現を通して、だったりで)よくわかる」感じはする。
それを私自身まったく否定するものではないのですが、
この現実をどう整理したらいいのかなあ、と。
980 :
蓼科社会 :2008/04/11(金) 11:55:14 O
いらいらされるなあ
つ 旦
1 エートル・オートルさん、佃煮マニアさん 名無しで真面目なレスをつけてくれた方たち、あたたかくロムしてくださった皆さま このスレを盛り立ててくださってありがとうございました。 特にエートル・オートルさん、佃煮マニアさんのおふたかた このスレを真摯な対話で盛り立て、内容の濃い豊かなスレに育ててくださり ありがとうございました。 おかげで、時には熱く時にはユーモアに富んだ読み応えのあるスレに育ちました。 最後におかしな荒らしが入ったことが残念ですが、それはある意味、 彼らなりこのスレに何からかの関心を抱いたからでしょう。 以前、哲学板の荒らしスレでくらひとさんという方が「荒らしとは実は熱狂的なファンの 裏返しの心理によるものだ」ということを書いておいででした。 強い関心ゆえの捩れた行為が荒らしである、と。 以前わたしはこの哲学板で当時問題児扱いされていたじゆんさんというコテと一回だけ 絡んだことがあります。 じゆんさんは典型的な粘着質で長文が特徴のコテさんでした。 不思議なことに彼からわたしはさほど攻撃は受けませんでしたが。 彼は誰彼に噛み付いてましたが、それでも対話のできるコテでした。 対話相手を自身の生理的な感情ではなから退け否定するという稚拙な行為は 決してしませんでした。 最後に彼は職業作家を目指すと明言して哲学板を去っていきました。。。
2 さまざまな人がこの板にアクセスし、ふと目に止まったスレを開き、読み、書き込みます。 穏やかな人もいれば攻撃的な人もいます。 ネットにおいては「言葉」を使った「対話」がすべてです。 コミュニケーションは書かれた文章のみによるのです。 言葉とは諸刃の剣なのです。 人を鼓舞し時に微笑ませるのも言葉であるなら、人のこころを傷つけ暴力と化すのも 言葉なのです。 前に「哲学vs文学」というスレが哲学板にありました。 そのスレではこんなやりとりをされてました。 「言葉の精緻さや限定さにおいては文学板よりも哲学板のほうが郡を抜いている。 しかし、言葉に対する畏れのようなものは哲学板には感じられない。 文学板は言葉に対して畏怖を抱き、言葉の持つ深遠さ、破壊力をよく知っている」 以下は文学板で見つけた書き込みです。 荒らす人たちはこの文章を読んでどのように思うのでしょう?
3 117 :吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 00:11:57 たとえ、掲示板のあなたの書き込みが削除できたとしても、 「あなたがそれを書き込んだという事実」は未来永劫消えることはない。 「あなたの書き込みを見て苦しむ人間がいたという事実」も , 決して消えることはない。 あなたのすべての行為は、雲散霧消することなどなく、 この世にとどまり、漂い続けて、何らかの形であなた自身に 必ず返ってくるのです。 人の尊厳を平気で踏みにじる、あなたの心ない書き込み。 「ネタだから。」というのは言い訳にならないのです。 「あなたが書いたことは、その言葉どおりの意味を持ち、 一生あなたに付いて回る。」ということを肝に銘じなさい。
おつかれさまでした。 ここでのこんなのは荒らしとすら言えないものだと私は思います。(2ちゃんねる基準では) ノイズ、ぐらいに受け止めないと。 穏やかに終わっていきましょう.............
そうですね わたしは今までも何回か荒らされました 同時に荒らしを上回る素晴らしい書き手の方にも恵まれました わたしにとって大切な出逢いを2ちゃんねるは提供してくれました 2ちゃんねるはわたしにとって新しい世界をもたらしてくれたことに感謝しています 前スレはわたしがほんの軽い気持ちで立てました にも拘わらず哲学板の方たちはスレを哲学を語り哲学の対話の場所として 受け止め熱心なレスをたくさんの方がつけてくださったのです わたしが哲学板を誇らしく思ったのは言うまでもありません その上さらに驚いたのは前スレが1000で終えてからどなたかが対話2のスレを 立てられたのです そう、このスレの1さんです 前スレのみで終わるのではない、終わりなき対話を求めている人が 哲学板には確かにいるのだ! その事実はわたしにとって涙が出るくらい嬉しいことでした 皆さまありがとうございました わたしはやはり哲学板が大好きです哲学する人たちが大好きです 言葉を用いて思考することは人間に与えられた特権ですから
987 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 19:47:28 0
スレ主という言葉は変だと思う。 主と呼ばれる条件、主としての役割、ちょっと考えてみたけど。 「私が主です」と言い出すことが、どのていど意味あることなのか、すごく懐疑的。 いっそ、とっても感傷的にぼく主です、言った方がぼく的にはしっくりする。 そして、それは誰でも、言えること。
988 :
ぼく現在の感傷的、スレ主です :2008/04/11(金) 19:48:26 0
こんにちは、どうぞ、よろしく。
989 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 19:56:07 0
変かもしれないけどw でもやっぱり、前回のスレ主さん、契機を作ってくださってありがとう!
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
991 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 21:57:06 0
自分でノイズと居直ったり笑うしか能がなかったり してるのはあなたですか?
992 :
前回1 :2008/04/11(金) 22:12:28 O
986と990は違う人ではないでしょうか…
993 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 22:27:47 0
かん違いしてました。自ら妙な居直りのかきこみをする人がいるので。
994 :
前回1 :2008/04/11(金) 22:33:10 O
>>993 気を遣ってくださってありがとうございます
このスレもまもなく終わりですね
またどこかでお目にかかりましょう
995 :
985 :2008/04/11(金) 22:35:39 0
>>993 どうして私を「自分で」「居直っ」ていると断罪するのですか?
992に謝るだけでなく、私にも謝るべきなのでは?
996 :
前回1 :2008/04/11(金) 22:38:19 O
>>989 いえいえどういたしまして
哲学専攻の方ですか?
哲学は魅力的な学問ですね
997 :
993 :2008/04/11(金) 23:01:45 0
>>995 さん。申し訳ありません。あなたを断罪したわけではありません。
「おれはノイズだ」というような口調スタンスで中傷をかきこみする人も
いるのでその手合いかと思ったのです。
来たばかりなのでざっとみているとやはり嘲笑的なかきこみは気になりました。
かん違いとことわったのでご理解いただけたかと思いました。すみませんでした。
携帯からだけど、ここに書き込みできたのも、前スレ1さんや今回スレ1さんをはじめ、守護天使のように見守ってくれた人たちのおかげなんだなあ、と改めて感謝。
1000 :
考える名無しさん :2008/04/11(金) 23:52:37 O
みなさんまたどこかで会いましょう
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。