「KEMANAI2」、読了しました。
ページを開くとかつて目にしたKEMANAIがさっそく登場する。
わたしたちはここで彼と一年ぶりの再会を果たすのだ。
見張り番をひとり殺害、つづいてふたり殺害。。。
(6ページ目のアヒルとカンガルーのような着ぐるみのふたり、絵柄がユーモラスで
なかなか好きです♪)
そして、KEMANAIはいよいよ頭脳ともいえる船の操縦士、――彼はかつてKEMANAI
の仲間でもあったのだが――、彼から復讐相手の食人鬼のデータを奪うやいなや、
殺害する。彼は家族と生活のためにやむを得ず任務を遂行しているのだとKEMANAI
に命乞いをするのだが、KEMANAIは問答無用で斬り捨てる。
ここで前作のKEMANAIと今回のKEMANAIとではかなり隔たりがあることに気づく
だろう。
前作のKEMANAIは殺戮はしても必要最低限に留められていた。
ところが、今回の前作のKEMANAIは食人鬼の下ではたらくものはすべて皆殺しに
しかねない破壊力なのだ。
KEMANAIによれば、悪い奴と奴の仲間はすべて殺してもいい。
それが今のKEMANAIの正義だ。
正義とは独善にすぎないということを今のKEMANAIは気づかない。
いや、気づこうとしないというべきか、、、
「たとい正しくとも、わたしは頭を上げることはできない」(ヨブ記10-15)
正義というものはつねに絶対者に対する謙虚さに裏打ちされていなければならない。
なぜなら、自分が正しいと判断したことは絶対者から見たら違うかもしれないからだ。
それゆえ、傲慢な正義の主張は間違っている可能性が高い。
正義というものは、絶対者すなわち神の冷厳なまなざしのなかでしか行っては
ならないのだ。
そして、その正義の行為にはつねにこころの痛みが伴っていなければ本物ではない。
誰の言葉だったろう?
「正しいことをするときは、いつもこころのなかで謝りながら、涙のうちにするのです」
自分が善行をするとき、誰かがその結果、不幸になることを忘れてはならない。
正義とは自戒心のない人が行ってはならない。
要塞のひとつを破壊したKEMANAIは今はロボットとなった恋人を起動する。
恋人は身体はロボットとなっていても、かつての射るような凛とした美しい
まなざしはそのままだ。
彼女は感情に支配されない。
殺戮を繰り返すKEMANAIに「あなたは正義の味方?」と詰問する。
自分に同意してくれない彼女に苛立ったKEMANAIは怒っていきなり彼女の電源を
切ってしまう。
KEMANAIの相棒ことゴースト・ドッグが無断で再び電源をオンにすると、KEMANAIは
相棒にまで怒鳴り散らす。。。
(ヘルメット越しに冷や汗をかいているゴースト・ドッグの絵柄がなんか愛らしい)
さて、舞台はいよいよ食人鬼のいる本拠地へ。
ここでKEMANAIは食人鬼の身体の一部であるという驚愕の事実を知らされる。
そして、回想シーンへ。
かつて食人鬼の身体からつくられたKEMANAIは奴から離脱して単体となる。
奴とKEMANAIとは同じ身体でつくられているのに、ふたりのゴースト(魂)はまるで
異なっていた。
奴が闇ならKEMANAIは光であったのだ。
光の化身ともいうべき彼女と初めて逢ったとき、瞬時に惹かれたのは同じ光を有して
いたからに他ならない。
言葉は交わさなくても、互いに求め合うものがあったのだ。
愛しあうふたりを見て奴は歯噛みする。
身体はふたつに分かれても同じ脳細胞を持ちながら、奴は彼女に「邪悪」と非難
され、KEMANAIは愛を勝ち得ているではないか!
実は奴はかつて彼女に求愛したことがあるのだが、ものの見事に拒絶された。
自身の容姿の醜さにコンプレックスを抱いている奴は、美しいものが好きなのだ。
美しい彼女を手元に置き始終眺めていたい、権力を使って力づくでものにしようと
するも彼女は最後まで拒絶し、とうとう殺されてしまう。
奴に殺された彼女の最後の言葉。
「あなたは邪悪よ、彼は違う」
この言葉で奴はより一層KEMANAIを敵視することとなる。
彼女はKEMANAIの出自を知ってもKEMANAIを愛しつづけた。
KEMANAIの脳細胞が奴と同一だと知らされても、彼女のKEMANAIに対する愛は
決して揺らぐことはなかった。
彼女のゴーストは全き善なのだから。
彼女の瞳はつねに光を宿している。光は闇に呑まれることはない。
クライマックスは、KEMANAIと奴の一騎打ち。
強さを誇示する奴と復讐心にのみ駆られて、今や正義と独善とをはき違えている
KEMANAI。
……奴が殺されたら脳細胞を同じくするKEMANAIも滅んでしまうのではないのか?
また、あるいは逆にKEMANAIが殺されたら奴も同時に滅ぶのか?
「悪」を滅ぼすためにはKEMANAI自身が死をもって消えていかなければならない
としたら、、、
光の化身である彼女はKEMANAIを止めることができるのだろうか?
奴の有している闇に完全に呑まれつつある今のKEMANAIは、以前のような光を
ふたたび取り戻すことはできるのだろうか?
[追 記]
前作1よりも、絵柄はよりシャープになり、全体的に躍動感が増した感じです。
KEMANAIの1が「静」ならば、2はまぎれもなく「動」でしょうね。
KEMANAIの復讐に燃えた感情のままの殺戮の数々。。。
そんな彼を見て、身体を失い頭脳のみとなった彼女は「あなたは正義なの?」と
詰問するも、KEMANAIは聞く耳を持たない。
今の彼を支配しているのは正義というよりも、感情まかせの怒りだ。
彼はもはや公正な判断力を失っている。
家族のためにやむを得ず食人鬼に従っているかつての仲間に対しても容赦ない。
必要なデータを奪うだけ奪って、平然と殺す。
理由はただひとつ、食人鬼に従っているあいつも悪い奴だから。
食人鬼や食人鬼に従っている奴らが「悪」であるならば、果たしてKEMANAIは
「善」もしくは「正義」といえるのだろうか?
相手が「悪」であるならば、問答無用で殺してもいいのだろうか?
人が人を裁く。
本来はしてはならないことなのだ。
神に代わって裁く権利は誰にもないのだから。
裁くということは、自身を神の座に据えることなのである。
人は神ではない。神にはなれない。
それゆえ、神に代わって裁くことは、たとえどのような理由があろうとも、
傲慢な行為であり、神に対する反逆でもあるのだ。
……けれども、わたしたちは容易に人を裁く。
復讐に燃えるKEMANAIだけが例外なのではない。
愛するものを殺された怒りと悲しみは、当然殺した相手へと向かう。
相手を殺したとしても愛するものがふたたびこの世に帰ってくるわけでは
ないと知りながらも、怒りの矛先は相手に向けられる。
わたしはここで「許し」を簡単に提唱したいとは思わない。
許すことがいかに困難であるかを知っているからだ。
あらゆる宗教は敵を愛せ、許しなさい、という。
そうすることで救われるのはあなた自身だから、という。
確かに敵を憎悪しつづけることは膨大なエネルギーを必要とする。
こころや身体を蝕む行為ではある。
しかし、だからといって「許す」ことが困難な行為であることに変わりはない。
カトリックでは信者が自分の罪を司祭に告白する。
これを告解という。
司祭は神の代理人として信者の罪を許す権限が与えられている。
これを秘蹟という。
「あなたの罪は許された。安心して行きなさい」
司祭はこう唱えて十字を切る。
けれども、そんなに簡単に罪が許されていいものだろうか?
善良な人はより一層良心の呵責を覚えるだろうし、
また、そうでない人は「こんなに簡単に罪が許されるのならばこの先もどんな罪を
犯しても構わないのだな。告解さえすれば罪はいとも容易く許されるのだから」
そう嘯くに違いない。
罪と許しについて、人がこんなにも懊悩するのはおそらくは「原罪」のせいだろう。
今のKEMANAIは自身の罪深さに無頓着だ。
自身の罪深さに無関心な人間は傲慢であり、憐れむべき人間である……。