2 :
考える名無しさん :2007/02/21(水) 20:41:00
^^;
4 :
考える名無しさん :2007/02/22(木) 15:46:52
>>3 途中で落ちたったぽい。
つか「セ」って…。
5 :
考える名無しさん :2007/02/22(木) 19:59:37
七をセとしたのか? どうでもいいが これでいこう
ユダヤ・キリスト教「世界支配」のカラクリ―ニーチェは見抜いていた (単行本) 感想キボンヌ
9 :
癲癇発作 :2007/03/05(月) 11:42:53
ニーチェが2-cheだとしても、こんなところでニーチェかたるな キリスト教は邪教です、とか基地外吐かす腑抜けた訳者も、おまえらも、 この世からとっとと消えろ。宗教、て言葉、侮蔑的に使うな 宗教が命にかかわる致命的なもの、ってことにいい加減気付け、 ニーチェは世界一正直で誠実で、魅力的な詩人で音楽家だってこと 気付け 音楽わからん滑稽な脳味噌に、ボードレールわからん無様な学者に ニーチェわかるはずなどない ましてやNEETなどニーチェの言葉に触れる権利すらない 2ちゃんなど、この世から消えろ。キリスト教の方が、はるかに美しい。 イエスの愛を知らない奴に、どうしてニーチェの怒りが知れようか 己の心臓を、虚偽と真実を映す合わせ鏡の真ん中に 置いて血で己を確かめたことないやつに、ニーチェの良さなど分からない ニーチェ知るのに、聖書とツァラトゥストラだけで十分、他は不要 俺はニーチェ読むとき、一々、逆説がメタファーで具現化されたあの文体に 心臓を突き刺される、ニーチェの、お前の、心の血を知れ 毒突け、人間、芸術、生殖器、愛に、毒舌を自分の心臓に突き刺し その血で証明しろ、せめて美しい血見てから死ね 貴様らはインターネットが消滅すれば、呼吸すらできないだろう 窒息してみやがれ、不潔な俗物ども。目障り消えろ 女の痴態が陳列された腐肉処理場より、俺の神経に触れやがる 透けて見えても透けて通れない、この神経の苦痛を知りやがれ 誤解を誤解で糞なすりつけながら、鼠算式に増殖させる蛆ども 悪臭、吐き気、噴飯すら気持ち悪い、自分らの毒に溺死してみやがれ 汚い活字に葬られてみろ、死んでも骨に糞が付きまとう それがいやなら、とっとと潔く首釣ってみやがれ 木っ端微塵に散ってみやがれ
10 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 12:19:20
書き込みしときながら2ちゃん消えろってゆーなボケ
11 :
癲癇発作 :2007/03/05(月) 12:26:25
毒を舐め尽くした俺に その程度の 言葉が 一体 どんな意味もってるだろう おまえらの言葉には、意味、がない 少なくとも、俺の心には、何一つ、響かない。 詩を、たくさん読め 自己認識できてないやつの言葉なんかに、 意味など宿らない。 俺は言語感覚が完全に狂って既知外になった経験がある さっきの書き込みは、いや、この書き込みも、 癲癇 の、 無邪気な、ちょっとした悪戯。意識障害性の癲癇。 痙攣と激昂、空間が歪む。エクスタシー。 毒舌鍛えたかったら 小林秀雄、ボードレール、あたりがオススメ。
12 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 12:45:24
じゃあ読んでみる いずれまた
13 :
癲癇発作 :2007/03/05(月) 12:47:12
なんか いけない書き込みしたかもしれない 新しい、刺戟くらいに 使ってくださいませ。 きっと もう、来ません。 でも ニーチェの、強く美しい心 分かってあげてください
14 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 15:37:05
まるで自分だけが真の理解者のようにいうのはよしなよー、 私は私の遠近法で勝手に解釈するズラ。あなたのようにね。 ちなみに当方も発狂経験あり。救急車で運ばれて100針以上縫ったよー
15 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 15:51:39
でも 自分だけの遠近法以外に 「確か」なものなんて この世に存在し得ない。 僕は、虚無の海、妄想の海に飲まれギリギリの時は 自分以外何も 信じない 信じれない 愛せない イエスでさえ、離れていく 持病で 周期的にたまに意識が朦朧としたり恍惚としたりで それで、上のように書き込んだわけです。 自己認識が深まれば、人を理解する器も深まる でも、それは深さだけ 広さが必要みたい 広さは、人間関係や知識 ニーチェの場合は、他の知識など不必要なくらい 詩読や聖書の経験あれば 深さだけでも大部分理解できるような気がしてみた 哲学と文学 両方あれば、ニーチェに近づけるような気がする 僕は、まだ読書初めて2年の 青春真っ盛りな十代で、哲学は無知。 板違い場違い、勝手な、青春的思いつき、 申し訳ありません
16 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 16:08:24
>>15 そうかー、取りあえず久しぶり、とだけ言っておくよ。
また来生、このスレで合おうねー
17 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 16:14:35
僕は、ふざける人を嫌う。 その文字一つ一つに毒をもってしまう 有刺鉄線に高圧電流が血走ってるヴィジョンを想像してください・・・
18 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 16:44:10
見事な釣りだな。
19 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 16:50:37
つられることで 神経を反応させ 色々な言葉つくってみる 僕の、妙な言語観から、色々な遠近法つくって下さい ニーチェは言葉遣いや文体が特徴的 ふざける心理 ってのは 自己欺瞞がともなっている 2ちゃん、欺瞞的な書き込みが多すぎて だから誤解が増えてしまう 反応せざるを得ない。 ニーチェは、きっと今の僕みたいに 釣られて反応されること、自分から望んでたような神経もっていそう
20 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 17:22:45
お願いです、やはり反応しないで下さい 一度、哲学版ではないけれど 基地外のようになって、ミュージシャンについて論争してしまい 荒らしたことありました、荒しになりたくありません 既知外は未知のものを手に入れるかもしれない でも機知を欠いた機知外になってしまうと 惨めに汚すだけになってしまう でも釣られたい、毒や皮肉大好きな人とかいたら、メールお願いします 僕にメル下さった方、返信します 文章と詩upしてるサイトのurl教えます・・・ 例えば14さんの書き込み見ただけで 私、発狂、針で 女性のリスカをなぜか想像してしまって こう、ヴィジョンが意識の制御を 決壊して錯乱して、妄想の渦が襲ってきて しまう神経してるんです 溺死しそうなとき、漁師さんに釣ってくださると 嬉しいくらい・・・ 魚には強い象徴性があります もう釣られません反応しませんごめんなさい くるくる回りたいくらい狂ってくるんです・・・ 場違い失礼しました。
21 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 17:24:18
では
22 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 17:45:33
ええっと、
>>17 での書き込みは
>>16 の書き込みに対してですかー?
別にふざけてないし永劫回帰くらい知ってるでしょー?
23 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 17:49:13
永遠回帰なんて 知りえるはずない 一般相対性理論を厳密な意味で 知りえる人がいないのと同じ理由で ニーチェの言葉の上だけとるのって 聖書の言葉の上とって偽善ぶってる信者と同じ 僕に、そんな脆弱な文体で 攻撃しようとしたって なにも 響かない 痒くもない 畜生 でも つられた。。。 でも ニーチェほどいい漁師はいないです
24 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 17:52:51
ニーチェは神でも何でもありませんよ。 やっぱり、ただの人です。 ニーチェは一歩間違えれば宗教です。 用法用量をお確かめになってご利用ください。
25 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 17:56:03
ニーチェの言葉を遠近法で解釈しちゃいけないのー? 言葉を解釈されることは言葉を扱う者の宿命であってそれはニーチェも私もあなたも同じではないかと思うよー。 知りえることないだって?じゃあ、それは私の書き込みを解釈するあなたも 聖書の言葉の上とって偽善ぶってる信者と同じ? 無知でごめんねー
26 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 17:58:37
その 宗教、神 というときの言葉遣い 侮蔑含めた言葉遣い 神経に触る 神経は、神が経る道 僕は、幼少の頃から 幻視みたり 死の恐怖に悶えたりしてました 神に対する認識の甘さ暴露して ニーチェの名を出して、一体何になるのだろう ユングでも、少し読んでみてください そのふざけた 贋預言者以下の 言葉の使いかた 何もニーチェの言葉の裏を 見ていない。 言葉の裏、が大事。 言葉の意味なんて 自分しか知りえない。 言葉は嘘でできている 僕は、霊能者の文章でも、小林秀雄の文章でも ここでも、いちいち、神経に触るんです どうしようのないんです・・・ ニーチェは、物凄く正直です。そういう文体してます
27 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 17:58:45
いや正直言ってさっきまでいたやつはただの信者だろ。 それかニーチェを盾にとるメンヘラ。 相手にすることはない。
28 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 17:59:25
そうそう、あと別に攻撃してるっていう認識は私にはないよー。 攻撃されてるように感じたんだね、ごめんね
29 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:00:20
彼自身、自分が矛盾していることに気づかない。
30 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:02:31
同じ時間に書き込みが集中してますなー
31 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:03:42
じ、自作自演なんかじゃないんだからね////////
32 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:05:44
33 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 18:06:42
相手にされても無視されてもそんなことで一々動揺しない 僕を釣る人の心の欺瞞や動揺を見て 反応せざるを得ない 僕は、病むところまで病んで、底を見た メンヘラに同情もしたことないような人が 病人に寛大でない人が、哲学よんでも 新聞よむのと変わらない 新聞に載ってるのよんで、その事件を理解したのと 神を真心から感じて、具体的にいい刺戟を受けてる敬虔な信者 どちらが妄想でしょう 事件を見てもいない感じてもいない、頭の弱い記者が、ただ、記しただけ。 新聞の文字は、黒 ニーチェの文字は こっちが問いかけて、答えて、釣って、釣られて それを繰り返す分だけ、赤くなる 死んだらどうなるか、それを考えないと 哲学の言葉の意味は、半減してしまいます ニーチェの言葉も矛盾だらけです でもその裏にあるニーチェの声を聞けば、彼の素直さがわかります
34 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:09:22
そして
>>27 は誰に対して言ってるんだろう?
>>16 に対して?癲癇もちに対して?
35 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 18:20:41
ボードレールの日本語訳みたいな文章だな〜 10代だって?若い、うらやましい とりあえずSEXしろ!行動しろ! もってる本、全部焼き捨てろ!
36 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 21:01:37
ほんとうに失礼しました
不快な、神経をざらざら逆撫でるような
いやらしい言葉、吐いてしまいました
完全に落ち着いてる状態の書き込みで、終わります
2ちゃん来るとどの板でもこんなんばっかなので、いい加減最後にします。
僕は極端に内向的ですが、哲学書読むよりは、詩をよんだり歌ったりギター弾いたり絵描いたり
する時間の方が、ずっとずっと長いです。尾崎歌って気失います。
言語障害意識朦朧の兆候があって活字苦手です
だから、言葉の裏の神経ばかり発達して、独創的な言葉が生まれてるだけです
頭が興奮すると
宗教や宇宙、余りに精密的な道徳ばかりに関心いって、自分を制御できなくなって
暴言はいて、後で後悔ばかりです、情けないです。
僕の詩、見たい方、是非メール下さい、見せたい!
(毒は一切なくピュアな叙情詩です。自分の脳を考慮して、詩人を目指してます・・)
ここに張るのは、さすがに場違いも過ぎてしまう。色々な独創的散文随想、心理学についてもかいてます
詩を見せたくなるのは、お母さんが息子を自慢したくなる心理と
きっと同じような気がします
専門用語ばかりに頼らず、日常言語で少し詩語を混ぜながら連想的に観念と実際現象を混ぜ、巧みに自分の本心を説明すること。
それが、大事だとおもいます。概念化されすぎた観念は、ニーチェの嫌ったものです。
。未知の観念を自分が創造すること、それが創造であり芸術的表現です。メタファーが必要です。
僕は、もともと言語表現が苦手で言語を甚だ憎悪し、観念のうそ臭さを警察犬みたいな嗅覚的直観で見抜いてたから
ニーチェにすぐ入っていけたんです。
小学校のころから、社会を地殻変動的に粉砕したくらいの反抗心
舌を噛み千切りたいくらいの脳内毒舌もってたんです
脳の部分障害です
>>35 さん
自分の中に、深みをつくっておけば、哲学的欲求が、SEXしたい欲求みたいに生理的になります。
37 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 21:21:01
君の文章に、特に独創的と感じるところは、実はあまりない 古い外国語訳をよんでるみたいに、ゴツゴツとしている 所詮、原文でよまないとボードレールの凄さは半分ぐらいしか判らないのかもね ていうか、ニーチェもボードレールも尾崎もSEXしてから語るべきかと まず外にいって4キロぐらい走って来い!
38 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 21:33:45
僕はマザコンで エディプスコンプレックスで 極端な女性恐怖なんです この生殖器と地獄耳が直結したような 肉を切り裂く有刺鉄線みたいな神経 骨を溶かす電熱線みたいな神経で 教室中の女の人間関係知り尽くして たまに生息してる ビアンの感情をかぎ分けては 興奮してたくらいです 想像してみてください I'm a gay. ストーンズあたりならSEX必要かもしれない ボードレールならさらに官能地獄が必要かもしれない でもジョンや尾崎あたりは、未経験の方がいいんじゃないでしょうか でも僕は、宮沢賢治の童話の方が、ずっと好きです 彼の道徳心を見習って、性欲を昇華させるためなら 4キロくらい、当たり前に走ってます。 僕に何をいっても無駄です 毒舌くらい自分の心に 刺してください・・・・ 疲れました
39 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 21:58:08
癲癇もちってひかるにそっくりですね、っていうかひかるじゃないの? ひかるじゃないにしてもひかるみたいになるでしょうな。 国際貴族主義連合についてはどうだい?
40 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 22:14:30
ひかる って人知りません 僕はただ、体質的に病気はもってるけど精神的にはかなり克服した ただの詩人かギタリスト志望な自己主張的人物です。 こう、サイト上とか2ちゃんで 絡むの苦手で、〜連合とかには興味ないです・・・・ ニーチェは僕にとって(みんながいうnuanceでの)宗教でもなく 今の人格障害を基礎とする低劣な理論なんかより 家畜小屋みたいなくさい教育環境で痛くもない鞭振り回す教師より ずっとずっと頼れる、白衣を着た、どこまでも信頼できる先生です 自分の体質気質に合うように治療して、表現者になりたいだけです インターネットを憎悪し、パソコン破壊した経験あるくらい 情報化社会、不純すぎる前提にそびえる言語体系 ちょっと魂を揺さぶるだけで、言葉の楼閣が倒れそうな言語観 嫌ってます 情報を基盤にするのではなく、大地に根ざした言語体系からは きっといい葉が出来る、いい実が出来る。 象徴や隠喩が大好きで、最高の治療薬になってます ひかる、って人、知りたい気もしてきますが、 インターネットに関わることには、興味ないです 案外、真面目で、 意識はっきりしてれば努力家です・・・ 最近親友の多くが受験で、長い間独りで内向してたので、人を求めたい欲求が溢れて、こんなに反応してしまうんです 内向から急に外へ向かう時はよく発作の傾向が現れ、神経が点火して、言葉が噴火します。 僕を釣ってくださった方、感謝します、なんだか、人とつながりあえて、嬉しいです
41 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 22:27:06
ヤフーで国際貴族主義連合を検索してみてください。 そして感想をきかせてください。君がアレを見てどんな感想を抱くのかとても興味があります。 とにかく私から見たらそっくりなんです。君とひかるは。
42 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 22:39:33
>>40 おれだってエロ本に嫌気が刺して、夜中の川に投げ捨てに行ったことぐらいあるぞ
それと君はまだ人とつながりあってなんかいないぞ
やったような気になって、なんもやってはいないのさ
三島とか読んだら?
43 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 22:40:48
>>40 それと君はニーチェのいう運命愛というものをどういう風にとらえているのか?
44 :
癲癇もち :2007/03/05(月) 22:41:04
今日は、とても疲れました、眠たいです もう、勘弁してください 明日くらいに、調べてみて、ここ来ます 言葉出しすぎると、言葉あたりしてしまいます。 変な噂、悪口してたら、来ても書き込みません とても悲しみます、僕の胸の中には、きっと泣き虫がいて、心臓に噛み付きます でも塞ぎの虫なら、喜んでこっちから噛み付いて、出血させてやります 泣き虫に噛まれ、塞ぎの虫噛んで その血を言葉にすれば、文体に特徴出たり詩が書けたりするもんです 一つ言わせてください ユーモア、大事です 僕はきっとユーモアなければ 小賢しい猪口才か 嘘っぽい霊能者か そんな感じになってた ニーチェは、聖人よりは道化を自称してました 明日、また、来ます。 調べてみるの、楽しみです きっといい夢みれます、なんだかすっきりした いい夢 見てください
45 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 22:41:45
>>41 同一人物じゃね?
>>42 何も言うなよ。何言っても無駄だと書いてあるだろ?
そうです
47 :
考える名無しさん :2007/03/05(月) 23:02:28
>>44 ああ、わかった。
最近質問スレに質問してきた方ですね。
48 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 06:35:45
仏教マンセー>ニーチェ
3月5日の夜はこの板はひさしぶりにもりあがったのですね。 ニーチェの思想は精神不安定の若者にはこの上なく毒だけど まだ毒に感染していないことを祈る。 感染者よりの忠告です。
50 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 11:01:25
だーかーらー、ニーチェは宗教なんだってw そして癲癇もちってやつのいうように、宗教って言葉を否定的に捉えるのをいい加減やめろよな
51 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 15:42:08
僕は、ひかる君には似ていない。はっきりいって、相手じゃない ひかる君は、彼自身の内では物凄く純粋で正直だと思う でも、僕の方が深さがある、だから、言葉になんの魅力も感じない 僕は、地獄を見た、9歳くらいですでに「はい」を毎日クリックしたいた 麻薬、服用したこと一度もないけど、その年で名前と効果覚えてシュミレートしてた 今ではアダルトサイトの変わりにリスカ見て、泣いて慈しんでその血を愛することで詩を書く ひかる君とは、内向や毒のレベルが全然違う。僕は、ニーチェならツァラとストラ以外には、あまり魅力を感じない はっきり言うけど、骨まで痛くなるくらいの精神的苦痛は当たり前だった。比喩じゃない 自律神経交感神経イカれて、全身全霊錯乱した。僕は嘘をつかない。 交感神経を意識化言語化すること。「血で書く」こと 怒りと悲しみの全て憎しみと愛の全て。それを言語化しないと、意味はない 今は、詩と音以外に、興味はない。狂人から脱することができたら もしかしたら物理学者目指すかもしれない 高校は睡眠という防臭対策で凌ぎ、寝てても点取れる天才を「演じて」きた vocalやってる頭のいい娼婦と、音と言葉だけの関係持ってる 本物の狂女、元ジャンキー、NIRVANAマニアで 音のセンスもいい、唯一、僕の心の琴線に、言葉を、共鳴させた女 まだ共演するまでには認められてないが、その人とタッグ組んでオルタナやるのが生来の夢 俺に人格など、存在しない、幼少から恐怖の余り、解離してた 今の一秒が次の一秒と違うこと、そんなことに一々恐怖抱いてた。だから「永遠回帰」の思想、直感的絵画的現実的に納得する 自己顕示、申し訳ないです
52 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 16:04:09
でも ひかる君の詩、とても好き 勝負するとしたら まだまだ 僕の方が負けている 僕は、今、全く、心は病んでいない ただ、たまに興奮して自分をおさえられない ごめんなさい、勢いで、自己主張が過ぎてしまった 苦しくはない ただ痛い 一度全部壊れたことあるから
53 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 16:14:44
唄う娼婦 あなたは何時も 下らない獣か子供の、世話が焼ける相手をして 気高く強い心を、優しく綺麗な身体を 貶めて我慢して、自分独りの心の中で 痛みを憎しみを絞め殺す あなたは何時も 見え透いた孤独な嘘で、優しさを買い求め 浮いた世の光を、軽い手つきで強盗する 呼吸すら出来ない、闇の中、崩れた声で 夜の歌を熱唱する あなたは何時も 男という現実にもがき、残酷な血を流して 泣き出しそうな瞳で、音となった僕を求めてる その悲鳴で僕を飲んで、僕はただ旋律になって その歌声に絡んであげる 僕は何時も 満たされない空想の中、音に溺れて音符に埋もれ その罪を真実に変えたくて、その歌声に色をつける 空虚なギターをかき鳴らし、架空のオペラで演奏し 唄う女神に捧げる音色 これが 僕の 人生です 板違い申し訳ない ひかる君によろしく.....☆
54 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 16:28:33
>>53 ほう、歌詞ですな。
知性や真性に対立したものを娼婦と考えていらっしゃる。
55 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 16:36:46
>>54 いいえ
僕が、
自分の命を音にして捧げてもいい
と思った
二人目の人への、ラブレターです
一度目の失恋で、狂恋妄想、発狂し、gayな本能が暴れたんです
その本能に直結する交換神経の電気刺激の暴動を言語化してくださったのが
とても素敵で強くて魅力的で優しい娼婦さんの
サイトにあった言葉なんです
その人は、まるで、自分の手首の中に、
人類全ての憎しみ恨みを断頭する死刑場
をもっているかのように、偉大な人かもしれません
あるいは、恋が見せた僕の妄想かもしれません
ゴッホは自分の命を色にした
ニーチェは自分の命を言葉にした
56 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 16:41:12
寺山修司の紹介した 女子高生の私が娼婦だったらていう詩は凄いよ アンドロメダを腕輪にしてとか 風俗嬢こそ世界で最も尊い職業だろう
57 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 17:13:18
>>55 それに相違ない、
では、知性や真性に対立する娼婦の詞を読もう
物憂い娼婦
車庫入れはいつまでたっても上手くならない
壁に擦れて傷がつくでしょ
道路に止めているだけじゃ安心できない
気をつかうけど、私の駐車場
私の車を入れるのはここ
* こいつのよさを知っているのは私くらい
最後まで通う奴は私だけ
私がいるから守っている
気に入るものなんてありゃしない
品揃えの悪い店だ
あれでもないこれでもない
私の心は高級なの
他に店が無いから使ってやる
* 繰り返し
近所には娼婦が沢山いる
他の奴等は相手にならない
あいつもこいつも誰もかも
私には誰も敵わない
私が町一番の娼婦
* 繰り返し
58 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 17:16:45
なんだか、僕の心は、いい刺戟でも悪い刺激でも着火してしまうと
すぐ爆発するんです。大切な人のサイトでも、此処でも、言葉の洪水で溢れます
てんかん気質の典型です。
>>51 の書き込み、ひかる君に申し訳ない
>>41 ひかる君のかなり感性気に入った。彼の形而上とか数学とかに関する言葉、
芸術的表現、象徴的隠喩を、もっと使えたら。かなり映えると思います
是非、言葉遣い鍛えて欲しい。
興味だけ行き過ぎているような気もする
もっともっと、偉人達の言葉の養分をじっくり吸血できたら
もっと彼には、ニーチェ的な言葉創れるような気がする
IQなんて若ければまだまだ大丈夫。脳には後天的可塑性がある
元々あたま良かったなら、十分再生する
僕は白痴と狂人を行き来し数学の問題解けなくなって
ニーチェの鋭利な言葉
ユングの薬味の言葉
素敵な女性の赤い言葉で
手術された
僕は、ピンポイントで一ヶ月以上あるいはもっと長期間、一人にはまる
自分の心を弾丸に込め、相手の感性を圧倒するくらいの勢いで発砲します
こっちがやられるのは気に喰わない。僕が愛撫した感性は、まだ15人くらいです
取り合えず彼の詩をたくさんよんで。彼のサイトに書き込もうと思ってます
彼に何か、
大きな影響を与えるくらいの、
ミュージシャンか詩人になるのも
将来の夢
かもしれません
あのー、哲板のニーチェスレってここですよね……
60 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 18:45:54
ここは誰からも理解されない悲しき十代がストレスを発散する為のスレですが?
あえてスレチなレスするけど…。 癲癇もちくん。けして煽りじゃなく真面目に心配で聞くんだけど、医者には診てもらってるの?
62 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 19:18:30
>>61 一度、正気を取り戻してから眠剤を貰いにいったことならあります
既知外になったときは、精神科心理学哲学人類友人全て憎悪してました。
母を血なまこ剥いて脅し、家から出さないよう、命令しました
>>43 にメタファーで独断的に答えて去ります。
この書き込み自体が、僕にとって一つの自己創造です。
ここに言葉を吐く前と吐く後で、自分のあり方が急変する。なぜかわるのか?
それは、忘我、で記憶の噴火に身を焦がしてるから
僕はこのスレでかなり回想をした、思い出した
「思い出す」こと小林秀雄「無常といふこと」10回読めば、
ニーチェ「運命愛」「永遠回帰」の直覚的理解につながるかもしれない
詩的に表現されてることを、何度も読むのは、哲学以上の創造性です。
僕は今だけを生きていない。過去も生きている。時間という縦糸、それを僕は信用しない
時間なんて、かってに純粋現象を抽象化するための虚構、憎悪したい。横糸で今を作らなければならない。
過去の糸を愛する時、子宮の母胎から生えてる糸を愛するとき、現在の生命の力で、水水しい蔓が成長する。
それを現在の時間の糸に縫い込む。縦糸は抽象。横糸は生命。その綾が現実。
過去の糸を全て現在に使わなければならない。そうすると、糸は永遠に続く。
無駄にすると、糸は死ぬ。過去の時間全てを愛し、母胎の力を信じる。永遠。
虚偽の糸からは咲く花は、現在の時間を道連れに枯れる。虚偽と真実を裁く鋏。
それは、記憶する段階での物を感じ自分に取り込む力、現在において思い出す力、
自分を信じる力、愛する力。真実愛し信じた芽からは花が咲く。
その花が、言葉になり、絵になり、音になる。
僕は、言葉を創るのではない。言葉に創られる。
僕は過去の糸を愛し、信じ、真実の糸を編んで現在に織り込んで、
此処に吐いた言葉で僕は創られた。
あくまで美的ヴェールに包まれた表現です。
ここに書いた言葉に、何か文句ある方、質問したい方
僕の文章や詩、ご覧になりたい方、どうぞメールお願いします。
僕は怖くないです。さようなら
63 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 19:26:36
君には大川隆法あたりが合ってるのかもねww
>>62 眠剤もらいに行っただけかぁ…。でも今もかなり苦しそうだよね。
君自身の為にも、君を産んで育ててくれたお母さんの為にも、一度専門医に診てもらった方がいいと思うよ。
とりあえず、Good Luck!
65 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 19:57:01
これが信仰の強さなのね…。
66 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 20:02:25
ニーチェとユングと女性ね。 とりあえず、モンテーニュ読もうか。
67 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 20:23:09
苦しくはないんです、ユングを自分で読んで、心因性の病の構造はユング的に把握してます。 苦悩の原因の心的葛藤や絡み合ったコンプレックスというのは 激情発作を起こすたび、ほぐれて燃え尽きるものです ただ、集中力があるときと無いときの差が激しく無いときは、恍惚と朦朧を繰り返して、時に、激昂状態になるだけです そして言葉に、どこの言葉でも、とにかく、噛み付いて反応せざるを得ない気質です ひかる君の精神分裂病、僕の癲癇、きっと、過去では、二大悪霊か二大精霊だったでしょう 現代では、ただの迷惑な病気です だから表現者になって不純な情報網に血を塗りつぶし本物を見せたいだけです この世には数学以外に確かなものなんて無い。 数学以外に公式や因果律など存在するはずが無い 僕は子供の頃、僕は生きているのだろうか!と疑問をもっていた 自分が生きてることを信じることが、一番難しい 信じた分だけ、死を知れる。死んだらどうなるかを厳密に知れないように 永遠回帰が何であるかなんて、知れないものです 文章読んで想像を膨らませることで自分の生を創造し、力を求めていく以外に意味は無い 因果の糸を無視して、詩をかいていけるか、音を創っていけるか、絵を描けるか それは、力、の強さです。力が燃やす炎で因果の糸を焼き尽くすこと 創造の前提条件です 僕は、哲学より宗教より、はるかに何倍も芸術を愛してる。宗教よりは数学を信じる 数学以外に因果の糸とか邪魔なもん持ち込むから 自分の生を愛せない 時間の糸を自分の生命で織るのを邪魔するのが 因果律や言語です 此処では詩語で表現してるだけで、普通に哲学的思索も安定してれば余裕です 是非メールくださった方、サイト教えます、哲学用語も使用してます 僕は、精神科いっても先生と真面目に難しいことでも話せるくらい 頭が良くて、安定してれば冷静な 狂人です
>>67 少なくても自分で精神状態の浮き沈みをコントロール出来てない以上、君がまだ若いからこそ早めに診てもらった方がいいよ。
69 :
癲癇もち :2007/03/06(火) 20:51:38
ごめんなさい もうやめます 消えますここから去ります 無視してください 粘着、爆発、それが僕の気質です ボードレールにもニーチェにも ぺたっと粘着してみて、一緒に爆死したいくらい熱く熱く愛してみる それが僕の芸術鑑賞です 僕は、vocal様に認めてもらうため きっと100通以上はメール送りました 半分近くは言語に病態あったくらいです そういう気質です。 バンドもしやることなったら名はHAYAでやります 覚えておいてください、音で戦ってやる、あんたたちの 骨を、ゆすぶり、肉を、裂いて、血を滾らせてやる もう言葉の御託なんか不純なもの羅列するより、音に溺死したい 忌まわしい病的自己主張(症状なんです・・・)これ以上やると、迷惑です、 それだけでなく当方の神経も、連鎖的に発火してしまって、連想的に言葉生まれて もう止まりません 誓いますもう書き込みません 誓わないと、激昂衝動、堤防決壊、本能暴走、吐き散らしてしまう 惨めな痴態晒して 申し訳ありませんでした
70 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 21:00:56
さて、じゃあ癲癇もちをニーチェ的に考察してみるか。
71 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 21:16:02
胆汁があふれかえってるんだよ
悲しみと怒りに 潜む真の心 を知るは 森の精 もののけたちだけ ぼくは、 もののけ です 音と言葉を賭博台にのせ 神にサイコロ振ってもらいたいくらいの 生命力、根性、度胸 あります 僕は芸術家でいうなら アリスの著者ルイス・キャロルと vo様が大好きなアルチュル・ランボー 足して二で割ったような性質感性です ボードレール、マラルメになくて ランボーにあるもの それが ロック GOOD BYE...★
>>72 またまたGOOD BYEなんて言っちゃってw
どうせ自分の書き込みに対する反応が気になって覗きに来て、そのレス読んでまた書き込み衝動を抑えられなくなるんでしょ?w
でもまじめな話、君には表現の才能があると思うよ。その才能をうまく伸ばして成功するといいね。いつかメディアでHAYAの名前に出会えることを祈ってるよ。
74 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 04:02:56
私もHAYAには表現の才能があると思うよー。 言ってることの意味は全然支離滅裂の意味不明だけどー、 これだけ自己愛の強いナルシストはそうはいないと思う。立派な才能だと思うよー。 メディアに出たいのかどうかは知らないけど、自分の才能を他者に認めさせたいのはよくわかった。 認められるといいねー、おせっかいかもしれないけど、応援してるよー
75 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 04:55:30
>>74 >言ってることの意味は全然支離滅裂の意味不明だけどー
俺は言いたいことはわかるよ。
>>69 から思うに、たぶん頭に湧き出てくるままを凄い早さで書き出して、推敲もしてないんだと思う。俺にはとても無理だw
少しは時間をかけて書いただろう
>>53 の文よりも、このスレの即興書き込みの方がずっと力を感じるから、
将来は即興ジャズならぬ“即興ロック”なんて面白いかもね。同じような思いを抱えてる人達にはかなり受けるんじゃないか?
77 :
HAYA :2007/03/07(水) 12:06:19
みんなのおっしゃる通りです。父が母を捨て聖母のような母と母子家庭。 キリスト妄想、憑かれるくらいのナルシストです 全人類が僕の鏡です、という体言壮語を自分で体現する努力、それも一種の自己超服 自意識の太陽重力は、あらゆる文章のあらゆる行間や言葉の綾から、毒や愛情を、吸い取ります 自意識の太陽熱は、抽象的観念を溶かし、不純な言語観を焼き尽くします 今は、虚栄も自己嫌悪も、すっきり吐くだけ吐き捨て、他者の批評も恐れず利用して 表現、読書、芸術観賞だけに没頭し、音と言葉で生命感情を高めております 側頭葉性の癲癇、幼少から性、宇宙、死、にわくわくどきどきして、 後天的にこういう脳になったのかもしれない でも、どんな脳でも心臓でも生殖器でも、愛して、自分を貫く それが僕のやり方です 僕の滅茶苦茶な言語から繰り出される 極彩色の言葉の綾、血色の言葉の養分から 色々な、パースペクティブ創って下さったら本望です 芸術家の魂を、自分を見る「目」にすることが、新しい遠近法 目の数だけ、自己認識は深まる。僕は、ゴッホの自画像に睨まれる 今はとりあえず、今回ひどかったので安定剤のんで、胆汁は恐らく冷えた状態で書き込んでおります 即興は命。ツァラトゥストラは、トランス状態で執筆されました 僕の妙な言葉に出会った経験を生かして、それでみなさんの発想を豊かにしてください どのような経験も、ニーチェに習い、自分が欲したと思えるくらい、僕は愛します 勝手ですぎる忠告させてください・・・ ニーチェの毒が、全身回って苦しい方で、哲学的欲求強く何でも読んでみたい方は ゲーテ(詩、格言、ファウスト)、ユング(タイプ論後半、元型論前半) この二人も、是非同時に読んでみると、毒が浄化され、ニーチェの毒が活かされ、色々強くなります。 霊的直覚力、知的明晰さ、膨大な博学。人類の3教師。 安定しました、もう来ません見ません書き込みません GOOD BYE★が、痛すぎて、朝から胃もたれして、この書き込みお許し下さい・・エゴイスティックで痛々しい、執拗な自分晒し 失礼しました。好奇心は、神聖な、宇宙に対する、自己拡大欲求です。
78 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 12:36:11
>>77 安定剤のんで表現した方が全然いいよー、この書き込みには正直かんどうしたよー
マジで応援してます、そして私もHAYAを愛します
>>77 過去に一度だけ医者に行って、眠剤を貰ってきたことがあるだけみたいに言ってたから、今はどうなんだろうって気になってたけど、
今現在いつでも飲める安定剤があって、また読むタイミングも自分でわきまえてるみたいだから安心したよ。
HAYAの「GOOD BYE」や「これで終わりにします」は、そのレスの締め言葉だと理解しとくから。
80 :
HAYA :2007/03/07(水) 14:59:09
ありがとうございます 認めてくださって嬉しいです がんばります 自己拡大 宇宙への ビッグバンアタック べジータの闘志と肉体を愛すべし もしかしたら来るかもしれませんが おそらく、来ません・・ 以下、ニーチェ的に、鋭く、僕を、解剖してください 湧き出づる、血の噴水こそ語るなれ 我、生粋の裸体を献上せん
81 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 16:48:06
ここっていつから自演スレになったの?
82 :
考える名無しさん :2007/03/07(水) 17:03:40
>>81 の書き込みが自演かもしれないという可能性も否定出来ないよねーww
>>81 ははっwこんな自演ができたら天才的な多重人格だよw
とはいえ、このスレの人達の優しさに甘えて一番スレチな書き込みしてたのは俺でしたw
スレの住民の皆さん、スレ汚し失礼しました。m(_ _)m
詩を創造してるつもりだろうが 詩になっていない。。 ちなみに詩を縦書きにしたとき 欠点があらわになる。 行分けする理由もない。 詩がわかってないよ。 ネット上で書き込みすると詩のくだらなさに本人も気がつかないのです。 またいいこといっているようなつもりだろうが 観念の羅列というか。 すべてことばの遊びに思えるのです。 詩のおそろしさは 本人が仮装のことばで隠れ蓑にしてるつもりでも その人の心のあいまいな惰性感や精神の緊張感の希薄さを露呈してしまう。 内面の言葉が高揚してるだけではどうにもならない。 そのように感じました。 君あるいは君達の時間をもてあました自演かもね。
>>84 詩をよくわかってるようだが、少なくとも掲示板の書き込みに対する理解はまだみたいだな。
彼はここで精神の自家中毒の嘔吐をしてたんだろ。その事を自覚してたから何度も謝ってた。
もちろんああいう書き込みに対して嫌悪感を感じて、ここで吐き出すのもまた自由。
まぁ、スレチの問題はあるけど、こんな過疎スレではたいした迷惑にならないしな。
もうほんと自演ばっかりだな…
87 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 16:58:50
ニーチェについての書き込みを見るのが好きでここに時々くるが 過疎スレでいいのだ。たまににぎわったとおもったら 自演の暇人か。入試が終わってひまな若者か。 もういいからほかでやってくれ。 永劫回帰について誰かカキコ希望。
88 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 18:25:23
ある種の創造と破壊を繰り返す快楽といおうか 逆上せ上がった自己撞着なんです 神だ仏だなんです それがわかり切った自作自演 臭いほどのエネルギー浪費なんです
89 :
HAYA :2007/03/08(木) 22:27:11
興奮すると人を心から愛して、汚い言葉で呪ってしまう。でも、僕は心から愛してた。本当に罪悪感があるんです。忌まわしい言葉で人を汚してしまって せめて、遠近法を作ってほしかったんです。若い未熟な青春的人物が、超人に憑かれてしまうと、上のようになります・・・ ここで僕の言葉をどう愚痴ったって、言葉の「恐怖」というのは、詩を読み込んで、詩を書いてる人にしか知りえない。 綾取りして、最初の方をミスると、後で大きなミスのあったことに気付く。 詩や聖書を読破してしまった、というのは、ある意味、野蛮な恐怖なんです。狂人、というのは、結局、上にある状態としかいいようがないんです。 エドガー・ポーの評論か何かに、狂人の自己超克について書いてありました。同一化能、他人と芸術家と、一つになる陶酔。 少しバッドなエクスタシー後に続いた創作衝動にあふれてる即興状態(決して演技ではないです・・誇張はあっても捏造はないです・・)で、 神経の興奮から繰り出される言葉が、何人かの感じやすい人を圧倒し、僕を認めてくれてる人、信じて愛してくれてる優しい女性もいた。 それが即興の力、時間感覚や他人の存在、己のを忘れた忘我、デジャヴの暴発つまり「霊感」。激昂興奮が醒めると、滑稽に滑りはじめ、誰にも響かない、圧倒できない。 激昂状態というのは、誘発されるものです。ツァラトゥストラの恐ろしさは、そこにあるんです 僕は、アリスを読んだりしてデジャヴや軽い恍惚感がうつるような神経構造なんです・・どうしようもないんです。 本物の芸術作品は、激昂状態の勢いで作られた荒削りな未知の観念や言語の奔放な戯れを どれだけ、上手く削って、彫琢していけるか。僕のは、まだまだ惨めに毒が混じっていて、芸術には程遠い。 みんな、僕のことを、認めて下さったり、愚痴ったり、詩について批評してくれたりするのを、 利用して正気を取り戻し、自己批評し、自己を見つめ、自己拡大しながらも、はっきり現実を認識していくこと。 そういうのエゴイスティックなことを僕は「本能的に」行う。過去にも、これがあって、本当に本当に罪悪感を抱いてるんです。 言葉の暴力による呪い。止めたかった、でも愛したいと本能が叫んでた。詩人の本能、というのはこういうものです。
90 :
HAYA :2007/03/08(木) 22:32:52
僕はまだ詩作経験短い方で技術不足ですが、神経壊れて詩人本能の方だけがやたらと大きいんです。だから感動的扇情的な詩に音に、いつか昇華させたいと祈ってる 聖書とツァラトゥストラというのは、本当に恐ろしい本です。でも、神に対する認識深めたかったらどんな恐怖でも痛みでもやってみるのが僕の気質です。 まだまだ舞台には遠いけど、いつか、本物の娼婦の歌声を、世界に響かせてやりたい。 すでに一度完全に壊れてしまた僕は、そのためだけに、生きてるようなものです。自家撞着、というのは生まれからそれまで自分が不純な前提に立ってたこと気付くことです・・ デジャヴがおきるとき、意味を照合するところを通過せずに、意識上に「印象」が浮かぶ。 後で意味が追いつく。その誤差が大きいとき、デジャヴ、小さいときなんとなくの予感。個人的にはそんな感じです。 「前提」と僕が言うのは意味照合の脳の機能、それは生活経験による構築物つまり常識。デジャヴ頻発状態は、対社会毒舌や欺瞞的レトリック、良ければ未知の発想や綺麗な詩語。 僕は、こんな壊れた神経でも生きていけるように、安定時はかなり勤勉です。 もう惨めな道化でもなんにでもなります。もう遅いかもしれませんが、視野を広げたい方は、上を見てください、「詩」という恐怖を感じてください。 美しい即興は命。忌まわしい即興は毒。これだけは、本当に芸術作品においては言えることです。ぎりぎり ロックな即興を一緒に感じてくださった方が、きっと、幸せになりますように、祈りってます。愛には誑かされないようにね! 僕には人格がありません、真面目な基地外です。愛してるといってくれたとても優しい方、ほんとにごめんね・・
>>87 あれだろ?一人歩きしてる言葉だろ?
永劫回帰も運命愛も所詮ニーチェ教の道具に過ぎんよ。
ニーチェと言えばやっぱり、滑稽的な美とルサンチマンだろうて
お前が書け
93 :
HAYA :2007/03/09(金) 13:25:29
>>91 さん、センスある直観力してます。滑稽と美は僕の予感では対極です。醜は、滑稽よりはマシ。
でもニーチェには、ルサンチマンは一切ありません。ルサンチマンというのは、心理学少し知れば内向しても消える程度の毒。
ニーチェは毒などではすまされない、死を中心とした自己解体のエクスタシーという、絶頂の「恐怖」です。ツァラトゥストラは「永遠」という女と絶頂心中願望
死の恐怖、愛という嘘を知っている人の文章しか僕は、興味ない。
生死がどうこう言う哲学も霊能者も、言葉にすがって死の恐怖から逃れてるだけ
欺瞞、とは死の恐怖や生きてる虚無を誤魔化すこと、だと僕は独断的に定義する。それ以外に誠実な意味づけは感じない
ニーチェは滑稽と美のギリギリのところで、基地外のようになって教祖を演じて破滅した素晴らしき超人でしょう
ユングは、超人を、神が司る善と悪を自分ひとりのうちで戦わせてしまったために破滅した人といいます。
側頭葉癲癇と精神分裂病の違いを独断的に(もっとも、どちらの病も救世主妄想に憑かれるような独断的自己主張的狂人という共通点があるが)
教えてやる・・・前者は極端な収縮と爆発。後者はじっくりと死の極点までの永遠の内向。
僕は、生前死後なんてどうでもいい。永遠回帰なんて知りえないから知ってもしかたない
そんな疑わしい哲学よりは、自分にではなく社会的に機能する哲学の方が、真実性ある。
生死に関わる内向的哲学が真に求めるのは、ただ、生きてる間にどれだけ、人の生命力を煽情できる表現を創れるか
もし「悟り」と「思い込み」に差があるとすれば、人を感動させ納得させる「表現」ができるかどうか
芸術的感動に満ち溢れたツァラトゥストラは、死ぬまで、僕の人生の伴呂でしょう
どうせなら、とことん晒して消えます・・
94 :
HAYA :2007/03/09(金) 13:29:19
http://69.xmbs.jp/vincent/ もしこのサイト見て此処で笑っていただけると、僕は自己批評に「利用」する。
あんたたちの言葉「全て」が栄養。どの活字も栄養にする。僕はまだ文学哲学と2年しか付き合ってない
意識朦朧言語障害的傾向もってたから、全部自分のやり方で独力で、読解力、言語表現力鍛えてきた
ロックこそ、現代の、悟り。現代の哲学など、言葉遊びに終始してる。
悟ってんのはニーチェマッハバタイユヴァレリーユングデリダあたり
情報化が進んで言語が不純な前提に犯された現代、言葉遊びなど空虚、時代遅れ。
学者と対極にある言葉遊びしたら、上のとおり、独り歩きするだけ
哲学者詩人、どちらにしろ言葉遊びでしかない。アルチュール・ランボーは、詩を滑稽な糞として愚痴って19歳現役引退。
自然破壊、子供のときに神話を覚え込んだら、どれだけ減ったでしょう。機械的な対策では防げない
いじめ、子供のときキリストの話きかされたら、どれだけ減ったでしょう。誰も気付かない。僕はイジメを見ただけで、何もできないことに腹をたて自虐していた
世界に響かせるとか滑稽な大言壮語、また言ってしまったけど、とにかく拙くても音で勝負して本物見せてやる。覚えとけよ
95 :
HAYA :2007/03/09(金) 14:13:26
スレ違い板違い場違い気違い、失礼しました。すっきり消えます 僕は、ひねくれをわざわざ此処で暴露する欺瞞的な人 毒に負けてる人(僕も、負けてしまってた) よりずっと ひかる君を愛してる。 もしご覧になってたら、ひかる君、がんばって。
96 :
考える名無しさん :2007/03/09(金) 17:03:28
>>90 >僕には人格がありません、真面目な基地外です。愛してるといってくれたとても優しい方、ほんとにごめんね・・
HAYAくんこんにちわ、ここは一応ニーチェのすれだからー、
意味が伝わるだろうと信じてあなたを愛しますって言ったんだけどー、
私はあなたを愛することでより高い自分を手に入れようとしてるだけだよー。
より高い、より愛すべき自分を手に入れる為に、
私にとってのあなたの下らないところも、素晴らしいと思えるようなところも、
勝手に観ることで学ぼうとしてるだけなんだけどー、
一体何を謝ってるのー?
97 :
考える名無しさん :2007/03/09(金) 19:19:39
>>93 長くて全部読んでないが・・
ニーチェにはルサンチマンは一切ない?
彼があの女に求婚して拒絶されたことと、彼の発狂は無関係ではないと思うが
それと、ニーチェ自身を超人とみなすのはおかしくない?
人間は超人への架け橋だが、けっしてそこには到達はできないんだよ
>>97 相手にするなって。典型的な信者だから。本当にただ信じている人にすぎないよ。
ニーチェもここまできたら終わりだろう。
>>98 別にいーじゃん。そんな心配するより、ただ信じているわけじゃないお前の、ニーチェの対する考察のひとつくらい書いてけよ。
このスレキチガイ沸き杉
101 :
考える名無しさん :2007/03/11(日) 21:55:02
ニーチェがキチガイだからかなー?
2ちゃんだから
103 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 00:52:53
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 序章 ツァラトゥストラの次説 序曲ツァラトゥストラと 《蝶人》と『終わりの人間たち』 あれから、どの位の月日と言う月日が、私の中から流れ出ていったのであろう? 又しても私はこの洞窟の暗がりの闇の中に私、自らの故郷を又見つけ出し。 ツァラトゥストラはこの洞窟の前にしばらくもの間ただ立ち尽くしたままの姿でたたずみ。 この洞窟に大きく穴の開いた、ただその穴の奥行から覗く視線を気にしながら。 その静寂の真昼を突然に分けては久方ぶりの友人達や知人達との再開に並々ならぬ、決意にも似た前触れを連れ添う様に ツァラトゥストラは真昼に昇った黒い太陽の黒点を思い重ね。 何やら懸命に覗き込み。 彼にしては珍しいくらいの割合で彼、自身が「良き趣味」である事を密やか公言する。 演劇的俳優精神と自己俳優的構造精神により予め定められ 独断的な判断により与えられた役割を この定調和的な精神分裂性の明らかなる症例の一事例となり。 更にその何事も無かった様に振る舞うツァラトゥストラは極めて低い聲を出して。 「垢抜けた現代流の表現方法を真似事を遣り遂げ」 「それこそ実、旨く演技し自身の事すら催眠術を自らに暗示をかける如く欺き」 「観客すらも私と俳優の精神は区別がつかなくなるでしょう!!」
104 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 00:56:38
やがてツァラトゥストラは少し間を僅かながら長く取り やがてゆっくりとした口調で再び口を開け語り掛け およそ次なる言葉をその内なる言葉の中へと手を伸ばし。 ようやくその手に掴み握り締めツァラトゥストラは その体内からこの言葉達を捻り出し再び目を見開き、語り出した!! 「仮に私が現代精神科へ通う事へと事が運び。」 「その一部始終内に想定され考えらうる限りの映像を思い浮べ良く見るが良い!!」 「恐らく、此処の精神科の阿呆どもは通院や入院を頑なに拒否する。」 「この私に対して決して憎んだりはしないであろし。」 「更に長く外来にあしげもなく 通ったならば恐らくは今よりもう、少しだけ」 「彼らの私に対するこの感性に刺さる小さな刺が抜けて幾らか気が楽になりそうなものだか?」 「彼らは私を本気で心の病を患った、か弱い初老の 老人であり」 「更に言えば見知らぬ国に知らぬ間に流れ着いた。」 「道徳的な道筋で考えて 言えば!!否!!この国の最も普遍なる言葉でこの今私が置かれている状況を一言で言い切れば!!!」 「否!!私は多分こう捉えられている事であろう・・・」 「そして、やはりこのように言われているに違いは無いであろうし略間違いないのだ!!」
105 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 00:59:52
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ!』 第一章 『e≠mc2』 『俺はおまえ達にこう言う気お付けろ!おまえ達の繰り返す毎日は確実に少しずづだ』 『確実に少しずつ短くか又短絡化又は『e≠mc2』この式を見ればは直ぐに解るよなぁ?直ぐにピンとくるよなぁ?ワカナイナラなぁ!』 『少しつづ我々のm質量をこの世界にばらまいていたら?光速度の二乗に伴う瞬間の中でさえ我々は質量を保存する!!』 俺たちは毎日の様に精神が朽ち果てる様に付き合わされる・・・・ この病棟に彼が居たなんてもちろん知らなかったさ!!もちろん君が居た事もね・・・・・。 そんな毎日の繰り返しだ、繰り返しを毎日を繰り返しを今一度、なおこの一度・ ・・・これが、生きるということであったか?よし!ならばもう一度!! 多分俺だけじゃ無いはずだ同じ事を考えてる奴は まだ他にもまぁ数れえる位の人達だと思うがね・・・・。 繰り返しを繰り返しを毎日を繰り返し!! そこでとうとう頭のヒューズが弾け飛んだんだ!! 『嗚呼ぁ!!どうか、私に今もこう、言わせてください!!』 『この繰り返される毎日が永遠に繰り返されると言うのか!!!』 『まっぴらだ!!まっぴらだ!そんな事には二度と、おまえらなんか何か自由にさせて何かやらない!!』 『なぁ先生?教えておくれ?何も知らずに生きていた自分の方が、やっぱり何も知らなかった頃の自分よりやっぱり、ちょぴり頼もしい・・・・・』
106 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 01:04:21
『なぁ?先生?やっぱり教えておくれよ!俺はここ最近こう思えて来てならない!!』 『嗚呼ぁ毎日が少しづづ短くなってやって来る・・・嗚呼ぁ毎日が少しづづ少しづづ単調になって遣ってくる!!』 『嗚呼ぁなんだぁそういう事か?嗚呼ぁなんだそれならそうと早めに知らせてくれよ・・・・・なぁ?先生?教えてあげるよ?』 『きっと俺の繰り返す毎日はちょっとづづ短くなったりきっと俺の繰り返す毎日はちょっとづづ短絡化の』 『一途をたどり・・・あっ!!・・なぁ!先生?最後に飛びっきりを教えてあげる・・』 『なぁ!おまえ達聴いてくれようか?嗚呼ぁ私たちはこの瞬間に瞬間やはり生まれて来るですね?嗚呼ぁ!やっぱり、私の人生の全ての瞬間は永遠回帰までのモラトリアムなのですね!!』 『嗚呼もう嫌だ!!寝ても覚めても私は練習台でしかないのでしょう!!』 『俺はおまえ達の松葉杖なんかじゃ終わらねぇ!!』 腕に覚えのある者は潔く私を捕まえるが『善い』
107 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 01:06:59
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 第二章 ツァラトゥストラの説得 『おお、今だ人類の上には依然に私が予め架けておいたあの綱がまだ見えるではなかろうか?』 『だが?・・・どうであろう!鳥かごが用意されているにも関わらず!鳥が!鳥が!肝心要の鳥が一匹も居ないいではないか!?』 『又しても私は私の愚に気付く自ら気付く!!これでは私が最初に行なった失敗から何も変化して居ないでわないか?』 ツァラトゥストラは其処まで言葉を吐きおえると小さく呼吸を整え足早に民衆の中へ自ら消えていった。 まだ秋は深い、夜更けまで十分に時は流れる 一瞬の反転を身に纏い ただその事だけに心奪われてさえいれば 北風は何時でも踊れる。 やがて、この道を斜め向かいから眺め続けた人影が ゆっくりこちらに迫る。 橋に備え付けられ椅子に腰を預けていたツァラトゥストラはその人影が残す 暗い影を彼は僅かばかりの懐かしさととも駆け上がって来た この男が何処から来たのか直ぐに察しは既に確信へと何らかの交渉を持ちかけていたのだそしてその人影はふらりとツァラトゥストラの前に立ち止まると頑なに其処を離れようとはせず。 又、その人影を纏う男も 口を突くんだままだった
108 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 01:19:37
たが、やがてツァラトゥストラの方から口を開いた。 『ようこそ我が友よ!! 僅かばかりの驚きと伴に 貴方と対面しなけれならないかと思うと胸が苦しい・』 『と言うのもこの再開とも出会いと呼べそうな全ての愚劣ごとに時折の祈りを捧げようじゃないか諸君!!』 『その祈りとはこうだ!!嗚呼ぁ我が主キリストを 私がなぜ今更貴方を恨む事が出来よう!!』 『おお!母成る神よ! 父成る神!! 私は今日と言う日を待ち望んではいなかった!』 『だが今日だけは望もう!だが今日だけは楽しもう!』 『主よ!!私は感謝します貴方は偉大な方だ何故なら愚劣なる者達をお造りになった事だ!!』 影を纏う男がついにツァラトゥストラに視線を向けた。 『おお何故なのだ!! 教えてくれ! 何故、彼は‘来ない’おおヴォルテーユよ!!』 『おお!人間性よ!! 私を何時も楽しませてくれるのは寧ろ貴方型だ!?』 この男もようやく地に足を付けその口をゆっくりと開いた。 【俺には貴方が透き通る 程に善く笑う・・・】 『だが、我が友よ!! どうか教えてくれ!! 何故に今更ながら彼らは 此処へは来ない!!
109 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 01:23:06
ワタシハ貴方ガタ二 《蝶人》ヲ教エヨウ!! 人間ノ理性スラ我々ハ 克服スベキアルモノダ 私には貴方が沸き上がる 様に直ぐ解る。 ツァラトゥストラが 稲妻が貴方を襲ったのだ。 人間のへ同情による同情だ!! そうでなくていかようなる 解釈がまだその後に 残されているのだ?? やはりツァラトゥストラ 貴方もやはり高貴を真に識るものであったか! 見て見よこの時代この民衆 私は既にこのその他大勢 なる者を克服したかたど? 私が私の言葉をこの空間へ 吐き捨てると数多の感性が直ぐに馴染もうと体を 磨り寄せる 貴方がたに私はまことに こう言う、 誰か道化師の知恵を此処の 者達に教える事が可能な 知性は私以外の何処に 存在しよう あなたがたへの私の教えは こうだあなたがたよ まずは自分自身を愛する 事を学べきだ 『こう言ったツァラトゥストラこう言ったんだ!!』 私は悟った人間が自分、 自身もっても良く “愛”する時は“妊娠”していると言う状態なのだ。 真に私はあなたがにこう言う 『まず何よりも最も良く自分自身を愛すると言う事まず自らによって学んでくれ!!』 私はあなたがに《蝶人》を教えよう・・・・・・・。 人間の理性すら自己能力で克服すべきある者なのだ!
110 :
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 :2007/03/12(月) 01:31:23
『こう言ったんだツァラトゥストラこう言ったんだ』第四章 ツァラトゥストラと 蝶人を目指す男の対話。 『あなたが私を追い掛け 今此処に留まる事には私は口を挟まない・・・・・』 《我々はやはり全くをもってしてどうであろう? ツァラトゥストラよ!!》 《やはり高貴とは何か彼に教えなければならないのであろうか?!》 『あらゆるやり方てもってして『人間』と言う種類を高める事が貴族社会のあらゆる仕事であった。』 この事に思いを霞めやや 考察に老け込むが良い。 さらに深い観念に迄、 洞察した事が在る知性は 直ぐに此処に着眼する。 キリスト教の教えはどの ようなやり方でもって 方ずけられるか? キリスト教の発展を増長 させたのは『民主主義』と『奴隷本能』この二点に 縛り『力への意志』として その自己増大を彼らは 遣り遂げたか? この辺の解釈は各各々に より好きにするが良い。 尚追記するが『民主主義』と『キリスト教』この二点に限り彼らは手を取り合う。 『鬼畜本能』あの奴隷道徳のあの観念は何処に その尻尾それが突いていると言い切って噛まない。 取り分けあの道徳主義者達の恥知らずな行動を包み 賜え。 彼らの道徳への欲求 これは略間違い。 そしてこの『鬼畜本能』に支配されたまだ解脱出来てない者を少しからかう。 その『鬼畜本能』=『奴隷道徳』これもよっぽどの 事が無ければ成立の条件は整っている さらにこの『奴隷道徳』 の更に有毒な部分が在る。 それはこの『道徳の科学』なんて確固付けているが ギリシャやローマにわたって比べてみると以外と解りやすい。 でこの『道徳の科学』を しんこうするのは自分で 探します。 この『鬼畜道徳』自らが 道徳その者だだと言うが?! となるとどうなるか? やがてこの結び突いて と言うよりも 此処で一番ピンチ。 つまり奴隷道徳主義だと 良いかい? 取り分け高次な道徳への移行これこそギリシャ的貴族社会なのだ!!
111 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 16:01:02
ニーチェは永遠回帰なんて思想を真っ向から否定していたとしか 読めないんだけど、ニーチェをちゃんと読んでるひと居ます?
113 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 20:59:02
まず、ツァラトゥストラには永遠回帰の否定しか書いてない。 永遠回帰は破壊される土台であるという定義で登場しているのであって この人を見よで述べてあるように、取り違えることなかれ、である。 ツァラトゥストラは誰にでも読めるが誰にも読めないとある。 ネット上で的確に読めた人間を見たことはない。 全て評論家や学者の受け売り、学者の協調性を見破る知識人には終ぞ 会った試しなし、と。
114 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 21:09:55
それに、ニーチェは狂人ではない。 それは真実を見抜ける者には容易に分かるものだ。 自らをナポレオンと言い、狂人めいた言葉を述べた、かのように見える。 しかし、事実は全く異なることに気付く者は皆無ではなかろう。 それは彼の著作を注意深く読み、本筋を直視出来得る者には 容易ではある。 彼は芸術品を故意に壊した。 ある芸術家の作品を見て模倣したくてたまらなかったのである。 彼の破壊されたような芸術品は単なる壷になってしまったような 後でも、真の芸術作品のように眩い光を放っていた。 壊れたように見えたそれは彼の命がけの創作だったのである。 まあこんな簡単なコト見抜けないわけないから、 わざと、一般論しか言ってないんだと思う。
115 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 21:15:04
第一、彼は神は死んだ!と言ったが、それは 神は死んだ!ということであって、神は死んだ!という意味ではない。 言い換えれば(笑)、神は死んだ!ということは神は死んだ!という意味 であって、神は死んだ!という意味ではないのである。(笑) 言葉は同じでも意味を取り違えると全く問題外である。
>>111 否定しているという根拠はどこから引っ張ってきたんだろうね?
もしも否定しているならばツァラトゥストラ自体がいったい何なのか
判らなくなると思うんだけども?
ニーチェの遺稿集を読み進むと機械論的な宇宙観の件が出てきて、
少し理解が進むと思うんだけど…
俺の理解では、ニーチェってのは牧師の息子でキリスト教的世界観の
産湯の中に浸かって育ったんだけど、ある時感じた『生の高揚感』という
拾い物とキリスト教的厭世観のギャップに違和感を抱くようになったんだと
思うんだ。例えばギリシャ神話の英雄のように、生の充実感を得るために
あえて試練に立ち向かい勝利するような力強さとか…
(そこには戦争で死地へ赴く兵士の行軍を観て感化された勇猛さとかの
歴史的要素が多分に含まれるわけだけれど…大抵のニーチェ解説書は
こういう人格形成と不可分の要素を欠落させたまま文面だけに執着して
わけが分からなくなってる…)
この「あえて…立ち向かい!」っていうスタンスこそが重要なわけで、
そこには不幸すら自分を克己するための機会と捉えられる柔軟性と
覚悟が必要になる。この挑戦意欲めいたものが『運命愛』であって、
それは受動的な諦観などではなく、もっと能動的なものだという理解で
ないとニーチェの論調がすべて支離滅裂なものになってしまう。
じゃあなんで永劫回帰が必要になるのかというと、それは彼が病弱と みなしたキリスト教的厭世観を打破するために別の世界観が必要であった からだと思うんだ。 生死の彼岸は誰にも証明出来ない。だからこそ別の価値観が必要だった。 今の宇宙の生い立ちの科学的説明については皆が聞いているように ビッグバンから始まり、宇宙がしぼんで終わるという仮説が有力なわけだ けれども、ニーチェは言い伝えの御伽噺(死後の世界)よりも、人間の 知的誠実としての「科学的論説」を信じた。 質量保存の法則的におそらく宇宙は無限に生成を繰り返してきただろうし これからもするだろう。そしておそらく無限の連鎖の果てにはサイコロの 目が合うようにいつか今の自分とまったく同じ私が生まれ立つだろう。 これは何を求めるものか? 「生まれ変わって裕福に暮らしたい」とか「幸せな来世を送りたい」などという 世迷い言を断絶するためだ。つまりは『逃げを打たない』ということ、 自分の全生涯を否定しないこと、そのためには重荷をも超克して自らを 肯定することなのだ。背水の陣を引き、あがき、抵抗し、何時ぞやか 勝ち誇り哄笑することなのだ。悔いを残さずに生き抜き、また同じく この私に生まれ変わりたいと願うほど生を肯定して死ぬこと、これなのだ。 ニーチェ=ルサンチマンなのではなく、ニーチェ=生の肯定なのだ。 肯定せんがためにネガティヴな僻目に攻撃するのだ。 もちろん永劫に回帰するということの中には無限の徒労というネガティヴな 要素も含まれる。だがそれに対してすら「然り」と言えずしてなんとする。 最大の重石を背負ってなおも歩き続けること… ま、ここらへんはシーシュポスの神話へと語り継がれるわけだが…
>>116-117 まるで中学生に語りかけるようなやさしい説明だね。すごく分かりやすい。
でも彼は中2じゃなくて電波だから無駄かもw
書く気失くすなァ…
120 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 23:33:55
やはりニーチェの哲学は仏教に似てるな 仏教の「道」という概念 それはどこに通じているわけでもないし、終わりもない でも人はそれを歩き続けなければならない
121 :
考える名無しさん :2007/03/12(月) 23:52:24
ま、結局は直接的な言葉に出来ないからああなったんだと。 読めば分かるけど、言葉に出来ない。だから、芸術家は 作品にしたためた。バカボンだって調べれば奥深いんだぞ。 特にニーチェと同じような芸術品の模倣が見られる。 ニーチェのように人生かけてないけど。 わざとだサダさの山田一郎なんていうペンネームにしたりね。 まあバカボン調べてみなよ。 それ以外にもあるわあるわ。そこらじゅうこの話題で持ちきりだよ。 ニーチェがいう名付けずに放置した存在についての話題でね。
122 :
118 :2007/03/12(月) 23:55:56
>>119 まぁそう言わないでw俺は分かりやすい説明をもっと聞きたい。
もともと“世界の説明”と“弱者の現世の苦しみからの逃げ場の提供”をキリスト教が担ってきたわけだよね?
で、世界の説明の方を科学が奪って神の役目が終わってしまった時に、残った“弱者の現世の苦しみからの逃げ場の提供の問題”の方を、
死んだ神に代わってニーチェが提示したのが“永劫回帰の思想”って考えていいんだよね?
でもさ、もともと依存的な弱者に「超人たれ!」って言っても、それは母親を殺しといて、赤ん坊に「これからは自分で生きろ!」って
言ってるようなものじゃないの?って前から思ってたんだけど、そこのところニーチェはどう考えてたのかな?
123 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 00:06:15
まあ要するに、依存的な弱者は自ら進んで弱者になったということで、 それは自己を超克するために敢えて行ったことだと 言ってるんだよ。
>>122 それこそ読んでない証明じゃないの?
ツァラトゥストラが全員を救おうとしたことがあったのは最初だけで、
結局は芽が育ってくるのを待つのが使命となったのは、応えるだけの
素因として非『群衆』的な資質を持った人間が必要だからじゃないの?
自発性を持ち得ない人間をどうせっついても無理なものは無理なんで、
同情を絶とうとした経緯も、破滅的な状況からでも這い上がれる人間
たちの『可能性』を信じるからこそ(凄い無理難題だけれども)手助けを
しないと決めたんじゃないのかな。
逆境から這い上がれるような人間とか…
で、何度も言うけど、こういう話を永劫回帰繰り返すのかい? 前スレでも、前々スレでも、同じような話を。
127 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 00:19:54
赤ん坊にとっては、殺害者がどのような意図を持って殺しをしたかとは関係なく、 一人で生きていかなければならないわけだ。つまり、もしもう殺された後なら、 殺害者が子供に何を言ったって現実問題同じことだということ。 そこの事実は赤ん坊の主観に基けば、「母親が殺された」という現実に変わりないのであって、 殺人者がゆがんだスパルタのようなことをしなければ、という反実仮想はない。 その与えられた状況=真実=主観の認識という等式が成り立つところから出発して、いかにルサンチマンにならず生き抜くかが、 ニーチェ的問題だろう。だから、どのような不可能に思われる状況においても、この思考の道筋自体は有効。 不可能なら、その不可能という道の中で生きるのが、まさに超人なのだから。可能性を追い求める超人において、 ない可能性を追うということはない。
>>123 >>127 それはわかるんだけど、ニーチェは、赤ん坊は全て超人たりえるって考えていたんだろうか?
>>128 この赤ん坊っていうのは、まさか三様の変化の話じゃないよね?
130 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 00:45:18
どんな赤ん坊でも超人にはなれません
なんか寒くてもう寝るから、最後の書き込み。 ちなみに三様の変化(ラクダ⇒ライオン⇒幼児)っていうのは、 人間的成長の比喩だよ。 ラクダは試練を耐えて生きていこうとする姿、そのうちコツを掴み体力も上がる。 ライオンは培ったノウハウを活かしてより難しい課題に取り組もうとする姿勢。 でもライオンのままでは何かが足りないという。それは何か? それは忘却だという。なぜ忘却が必要なのか? それは『意義の創造』のために必要だからだ。自分の価値観、世界観を 再構築するため、生きることの意味を発見するためには自らが生に切り込んで 意義を創造しなければならないのだ。 生まれてきたことには"由来”はあっても"意味”は無い。 それは自分が創り出さなければならないものなのだ。 そこに、『新世界』に降り立った新しい自分がいるのだ。
132 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 01:23:15
>>131 まともなニーチェのひとがいて助かる。
だが、忘却はルサンチマンから逃れるための唯一の方法だから忘却を〜
>>129-130 すみません。レス遅れてしまった為に、詳しい説明をいただいてしまって…orz
無垢なる幼児って意味じゃなく、ただの“生きるために依存せざるをえない弱者”って意味です。
ニーチェは、これからは誰もが救われるわけじゃないから覚悟せよって言ってたのか?それとも、全ての弱者を信じて叱咤していたのか?
はたして彼は“永劫回帰の思想”がキリスト教の代わりたりえるって考えていたのか?ってことです。
自分はニーチェの思想に疑問を呈しているわけじゃなくて、ただ自分の拙い理解を補完して欲しいのですw
レス感謝です。また暇な時にでもお願いしますw
>>132 よき戦いが理由を神聖化することもありますがな。
喧嘩して仲良くなれるほど相手に骨が無いと無理だけど…
おやすみ。
136 :
133 :2007/03/13(火) 02:15:18
137 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 10:56:10
ココも一緒かい。
138 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 10:59:42
>>131 人間的成長の比喩?だって???
幼児ん時には、もう壮年以上だろ?で、忘却?無理無理、理想論だよ。
解釈が無理無理。んなコトニーチェは言ってねえよ。
場〜か。
139 :
考える名無しさん :2007/03/13(火) 17:08:31
>>115 「神は死んだ!」に関してぼくが言えることはもうとっくにぼくらの中で神は死ん
でいるということです。では、なぜニーチェが今神を殺した哲学者として認識され
ているのか、と、申しますと神の死を告げた哲学者が「神は死んだ!」と叫んだか
らであって、そこでいう神とはキリスト教やイスラム教でいうところの一神教もし
くはローマやギリシャでいうところの多神教、はたまたニーチェにとっては未知の
世界でしかなかったアジアの宗教観に出てくる「神」であって今ぼくらが認識して
いる「神」ではない。では、彼にとって「神」とは一体何だったのか?と申します
と、すでに人間にとって中世以前にとっくの昔に死んでいた「神」であった。ちな
みに「意味(sense)」なる物はアルベール・カミュ「シーシュポスの神話」に従
えば「嫌でも目に付く物」であって例えばドアノブ何かはこれに当たらない。ドア
ノブに意味はない訳ね。「神が死んだ」ということであって「神が死んだ」ってい
う意味でないっていうことは神の死はドアノブが右に回転するか左に回転するかと
いう程度だったってことね。
141 :
138じゃないけど :2007/03/13(火) 22:53:53
>>140 ニーチェの言う忘却の意味は分かりにくいけど、ようするに新しい価値を創造するには、
幼児の持つ先入観に縛られない無垢な心による「!」が必要って意味だよね?
142 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/14(水) 01:18:26
>幼児の持つ先入観に縛られない無垢な心 自家撞着、あるいは矛盾 「無垢」とは基本的に幼児性 それと、認識とは残忍な行為だ(善悪の彼岸)とニーチェは言ってる。 だから平凡な仮面をつけるんだ(人間的・・)と。 (ツゥラでは)臆病者に語っている。自分の超克、すなわち人間という古いタイプ ではなく超人へ跳躍すること。無垢とは勇気であって、無謀。無謀さこそ彼岸への道。 幼児や無垢のメタフォーとは、まるっきりその反対であるということだろう。 ピカソが生涯をかけて子どもの絵を描くことを目指したように。 飛ぶ燃料が「苦悩」であるということの意味に注視したい。
144 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 08:59:22
145 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 11:13:02
>>144 がピンと来たとして話を進めるんだが、142の言ってることを要約しよう。
認識すること=善悪の彼岸がまず挙げられる。
即ち、頭の中で考えることはすでに善悪の判断が付きにくいと。
次に、メタファはどうか?
即ち、「ツァラトゥストラはこのように語らなかった」
ツァラトゥストラは自分の話を聞く者(たち)が自分の言うことを聞かなかった
から語るのをやめてしまったって感じ。
最後に、飛ぶ燃料=苦悩の意味はどうか?
どうでもいいや。ツァラトゥストラはこのように語った。はいはい。
146 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 14:11:11
そろそろ自分のニーチェ探したいんだけど、まずどのあたりから読めばいいかな?
147 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 14:58:27
ツァラトゥストラはこのように語った
148 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 16:02:35
今頃ニーちェにはまるのはお勧めできないな ウィトゲンシュタインのほうが新しい刊行があるから楽しいよ
149 :
考える名無しさん :2007/03/14(水) 17:31:36
>148 いろんな年齢の人がいます。出会いのタイミングもいろいろです。 新しい刊行うんぬんは本質的なことではないですよ。
>>146 >そろそろ自分のニーチェ探したいんだけど、
の意味がよく分からないけど、もしまったくの初心者ならいきなりニーチェの著作読むより、
竹田青嗣の「ニーチェ入門」(ちくま新書)あたりから入った方がいいかも?
151 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 09:04:15
152 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 09:09:18
古い神が死んで、新しい神、弱者としての神にチェーン児!! まあ、そおいうコトで。。。 まあ、重荷に耐えうる力強い弱者であるというところが チャームポイントで〜す。
153 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 09:22:04
まあ要するにニーチェは新しい神のことメインで喋っているわけですよ。 もちろん、皆さんそういう主張なんでしょう。。。 古い神は死んだ!!というより法王(教皇ですよ!!)の職を退職した、と。 新しい神が教皇職に就くわけです。(身内か?君らは) 精神の三態は新しき神の説明。その進化過程の説明ですね。 まあ同時に人間の成長でもあるわけですが。。。 神は霊ですが、人間でもあるわけですから、両方、ということですね。。。 駱駝が担うのが弱者の教え、キリスト教(?)。 弱者はハンマーで打ち砕かれる、って聖書にも書いてある通り。(聖書には 書かれてませんよ!聖書には、ダニエル書に書かれてます。) つまり、ニーチェは神は死んだ!! と聖書の記述を再確認したわけです。。。
154 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 09:24:47
>>140 おまえもかわいいよ。。。ばぐ太。。。かわいいよ。。。ばぐ太。。。
155 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 10:35:07
>>153 つまり、キリスト教の神こそ弱者そのものである、ということですかね。
「人間に同情した」がために。
ゆえに新しい人間は自らが神=超人を目指すべきだ、と。
156 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:04:29
まず人間はどんなに頑張っても超人にはなれない どんなに努力しても到達点はないし、報われない しかしその諦観ともとれる観念に至ることこそ ルサンチマンを振り払う唯一の方法なのかもしれない しかし人の歩みを進めるうえで、内向的復讐心というものは その原動力とも成りうるはずで、それにより惹起されたエネルギーは それ自身を相殺させるために使われるという構図 ・・・堂々巡りの永劫回帰?
157 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:29:50
158 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:33:48
>>156 能動的ニヒリズムってやつっすね。
ルサンチマンから逃れる方法って本当ないと思う。
それこそ、忘却しかないんじゃないか。
最後の一文がいまいちわからん。
その内向的復讐心という出てきては消えていくというような感じを堂々巡りの永劫回帰と?
159 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:40:33
まあ156の言ってることは、今は既に過去という概念 からすれば、前2行は桶。 まあ、後半の?6行は、螺旋の昇華というコトですよ。実態は。 つまり、永劫回帰は存在しない、というこってす。 デミタス、マミタス。。。ルルルルル。。。 同じところを通ることはまずない。だから、永劫回帰はあり得ない。 循環してるが、螺旋の昇華であって、堂々巡りではない。 まあヒンドゥ教で示されている通りですね。。。
160 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:43:37
まあ156の内向的復讐心=自分の至らなさに対する改善心のようなもの と捉えていますよ。。。
161 :
考える名無しさん :2007/03/15(木) 13:45:24
だから、ニーチェは言ってますね、 真夜中だと思っていたら、正午だった!!と。 最初から永劫回帰を否定してたんです。。。
162 :
156 :2007/03/15(木) 13:55:37
ルサンチマンからはむしろ逃れちゃいけないんじゃないのか?と 逃れる必要はなくて、常にそれに追いたてられていなくてはならないのではないのか? 「忘却」によりそれに脅かされる心配はなくとも、それは根本的な解決にはなっていない 現実でついた傷の復讐は、現実でしかできないから 最後の一文に深い意味はありません ニーチェ的に正確な意味での永劫回帰という意味ではないです ただあるルサンチマンから逃れえたとしても、別のルサンチマンが発生したりするだろうし とにかくゴールというものはありえないんですね しかし「ニーチェ的に正確な意味での永劫回帰」ってなんだろ?
>>162 “いつか”なんて永遠に来ないってことでしょ
>>162 まぁ確かにルサンチマンは必要といっちゃ必要だ。
ある人にとっちゃアイデンティティにも成りえるわけだしね。
でもさそれってルサンチマンの正当化でしょ。
ルサンチマンはルサンチマンでそれ以外の何者でもないわけだ。
あって当然のものとして捉えなくちゃならんのでは…。
165 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 02:25:14
陽に翔け昇るって読む価値ある?
166 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/16(金) 02:51:11
>>150 竹田はアカンでしょうw
永井はまだいいけど。竹田って現象学プロパーだけど、その現象学でも
「竹田現象学」って揶揄されている。俺は竹田けっこう読んだけどw
167 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 02:51:32
>>162 また意味を取り違えてますね。。。
忘却とは、ルサンチマンを忘却するという意味で使われているの
ではありませんよ。。。
言葉の本質を捉えないと、意味ありません。。。
168 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 02:57:10
>>162 続、ゾクゾク。。。
ニーチェの永劫回帰は誤った観念打破のための偶像という設定ですね。。。
ですから、現実には存在し得ない、観念上のものです。。。
力への意志がこれを常に打破し続けるわけです。。。
169 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/16(金) 03:01:06
「神の死」って、単に価値の再転倒でしょ。 要は我々人間の問題だって言ってるんだよ。 ニーチェはキリストや旧約聖書は称揚しているよね。 でも教会や僧侶階級は徹底して叩いている。 キリストははりつけられた。でも、それを利用して僧侶や教会は 権力を手にしたんだ。キリストは反逆したんでしょ、当時のユダヤ教とかに。 僧侶は人々のルサンチマンを餌にしてぶくぶく太り妄言を吐く。 お前らはあの世で救われる。(でも、俺たちはお前らを餌にこの世で太る) この欺瞞を撃ったんだ。 ニヒリズム、ルサンチマン、神の死、幼児無垢・・・ ぜーんぶ価値体系の変更にすぎない。我々の直面している苦悩は変らない。 ならば、それを計る物差しを変えよう。物差しを変えると、あら不思議 長さも変るよって。囚われてるから抜け出せないんだよなー
>>166 ニーチェ本としての優劣は別にして、永井の「これがニーチェだ」はニーチェの批評本で、入門者向けの解説本じゃないだろ。
ただ「竹田はアカンでしょうw」って言いたかっただけか?だったら仕方ないw
171 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 09:25:39
市子「せんせーいっ、先生がのっぽで黒板の字がよく読めませーん」 ニーチェ「何だと?それはチビである私への嫌味か?全員身体検査してやる!」 ずらりと一列に並ぶ女生徒。ニーチェはそのスカートを一枚一枚めくり上げていく ニーチェ「ふむ。今日も皆白いパンツだ。な、何いいいいいいいいいいいいいいい いいいいっ! 何でお前だけシマシマのパンツをはいてるんだ!」 女生徒「先生、すいません、今日はこれしかなくて」 ニーチェ「男子生徒諸君! 今日からこの娘はお前たちのものだ。女子生徒諸君も この娘を無視するように」 ・・・ニーチェもこのような妄想を抱いていたのかも知れない。
172 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 14:44:26
>>170 確かに永井のは入門書じゃないね。
入門書として購入していまだ理解できず。いやよくわからない。
リー何とかって人の本の方がわかりやすくてえがったよ
>>174 そうそれ。だよね。高いよね。
給料はいったら買うよ
176 :
考える名無しさん :2007/03/16(金) 22:51:23
何か ファミリーぽい 判別不能だけど。
>>176 それって、自演ぽいって意味?
ここでは貶し合いこそ正しいやり取りなんだから仲良くするなよって意味?
あちこちで自演扱いされたことあるけど、ヘタに人のフォローって出来ないな。 トリップ付けたとしても疑うやつは疑うし…。
179 :
考える名無しさん :2007/03/17(土) 15:20:14
人の存在なんてそんなもん
180 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/17(土) 23:22:41
>>173 竹田は現象学を解説しながら、勝手に自分の現象学をやったという評価あんだよな。
しかし、永井は講談社現代新書ながら哲学しているという評価だ。哲学者の紹介ではなく
哲学しているっていう評価。それが入門書解説本でありながら、それを超えているという
傍証になるんでしょう。
先日無くなった池田と永井くらいだという話しもあるし。
>入門書として購入していまだ理解できず。いやよくわからない。
永井はニーチェ「的」にニーチェを読み解いた。系譜学的というべきかな。
フーコー的でもいい。ニーチェほど弱さに敏感な人間はいない、とか。
そういうことを抉り出す徹底性が彼永井にはある。
>>180 なんかよく分からないけど、おまえは永井の本はニーチェの入門書として適書だと思っているわけだな?
でも、永井は池田と同レベルっていうことは分かったw
182 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/22(木) 00:09:04
>>181 うーん、入門書ということを強調する意味がよく分からないよ。
竹田本以外にも新書で何冊か出てるから合わせて読むのがいいでしょうね。
もちろん、竹田本は駄本とは言ってないですよ。少なくとも、竹田は我々のレベルで書いて
くれる。それは、彼の他の本にも共通することですが。
講談社学術文庫からも出てますが、あまり味のない本ですが、資料集みたいな感じで使えます。
「現代思想の冒険者たち(全31巻)」の「00」にマルクス、フロイト、フッサールらと一緒に
概観した巻があります。これは、意外とオススメです。限られた記述量ですが、他の人も勉強
できます。著者は一流です。
話題が変わるんですが、私は主に「ちくま」で読んだんですが、翻訳はどこがいいですか?
比較された方はいますか?永井はたしか白水社の西尾幹二訳をすすめていたと思いますが。
(面倒なので確認してません。違いましたっけ)
他の人と
高校生ですが ひとつ聞きたいことがあるので 哲学的なことを考えている皆さんは、それをどうやってか外に伝えるコネクションを持っているんですか? 哲学に興味があるので。 うちの学校の生徒は、勉強はできても、本当に頭の悪い人でいっぱいです。 少数の頭のいい人も、自分たちは物事を考えているという自尊心のせいで、甘えを持っているところがあります。 僕の言いたいコネクションとは、いわゆる教育への応用というか、そういうことです。 一億総超人を目指して。end
>>182 >うーん、入門書ということを強調する意味がよく分からないよ。
アンカー辿ればわかるんじゃない?
>>183 君の質問の答えになってるか自信ないけど……
ここにいる大多数の人は学者や教育者とかじゃなくて、少しでも自分が生きやすくなれるように、自分の為に哲学的なことを考えてる人達だと思うよ。
確かに今の若い子達には、もっと哲学的教育は必要だと思うけど、とりあえず君は君自信の為にこれからも哲学的思索を続けていっておくれ。
>>184 ありがとうございます。
いわゆる「よくある若いころの将来への不安」というやつも重なっているのでしょうが、
教育といっても、自分の子の教育や、社員教育だったり、部活の後輩だったり、いろいろありますよね。
三つ下の妹がいて、それがダメ人間になろうとしているのに親が何も考えていないので、だいぶ不安なんですね。
ここはこんな個人相談の場ではありませんでしたね。
スレ違い申し訳ありませんでした。ではスピードワゴンはクールに去るぜ!!end
欺瞞について 「神は死んだ!」と狂気の人は叫んで回った。 これはいったい何を意味するものか? もともと神というものはアミニズム的な発祥から生まれてきたものだ。 自然災害などによって理不尽にも多くの仲間が命の灯火を吹き消されるとき、 人はその不条理さに耐え切れず慟哭した。 悲しみと怒りの矛先をどこに向かわせればよいのか判らぬままの古人は事象の 擬人化によって『理由』を創出し、それを必要としたのだ。 「この大いなる災いはきっと神々がお怒りになり、私たちに下した罰なのだ!」と… 分けのわからぬ理由で愛する人々を失うより、脈絡のある『理由付け』のほうが まだしも受け入れ易いからだ。 これは古人たちの涙ぐましい努力の痕跡なのである。悲しみを受け入れてなお 生きていこうとする必死の抵抗の証なのである。 日本にも八百万の神々がいる。それはきっとその数だけの幸と不幸の理由が あったのだ。河の神には河川の氾濫で家族を亡くした者の悲しみが、かまどの 神には火事で全てを失った者の悲しみがきっとそこにあるのだ。 信仰とはおしなべてその延長線上にあるものなのだ。断じて神の『命令』などは無いのだ。 旧約聖書の神々もその理由から大概出鱈目な行動を取る。神の怒りの記述があるだけ 悲しみの『理由』を必要とした庶民があったのだ。 ツァラトゥストラに出てくる「神々はあるが唯一絶対の神などというものは いない。それこそが"神”らしいことなのだ」というくだりはここにかかるものだ。
時間が経過するにつれ宗教は支配者が大衆を扇動するための小道具となり形骸化する。 戒律という鎖が多くのおとなしい『家畜』を生み出す。 飼い慣らされた人間はやがて近代文明の恩恵を受け、物質的な豊かさに満たされた。 そこでは「神を信ずる」ということは『善良なる市民』を証明する一つの免罪符であり、 信仰について語ることはコミュニケーションの道具、世間話の延長上の共通の話題 でしかなくなってしまった。 血の通わない信仰にあぐらをかいているこの『善良なる市民』の薄っぺらい人間性に 吐き気を感ずる狂人は、あえてこう叫ばずにはいられなかった。 「神は死んだ!」と… それは生の飽和、懈怠と弛緩した生に対する糾弾であった。 「─神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。 世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々の ナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか? こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」 その先にあるのは、脱・群衆化を目指すものではないのか? それこそが『超人』の定義ではないのか? 生物学的に種の特徴を定義するとき、学者は最も汎用的な特徴を抽出してその属性を決定する。 ならば、人間の属性を決定するときには、最も数の多い"凡庸さ”こそが種の代表となるだろう。 そして大衆的なものの弊害すらもその中に内包させるだろう。 つまり『善良な市民』に安寧を見いだす薄っぺらい人間性、この『末人』こそが 超えられるべき踏み台なのだ。
永井の「これがニーチェだ!」は友人に薦められて読んだがすぐにゴミの日に出した。 人っていうのは結局心の琴線に触れるものしか気に留めないものだが、ニーチェぐらい 多岐に渡るジャンルを考察した人はいないのに、すっぱいブドウ程度にしか琴線に 触れないなんて何て人生経験に乏しい輩だろうかと愕然とした覚えがある。 「打てど響かず」という典型だと思う。
189 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/22(木) 22:32:31
>>184 教育への応用ということの意味がよく分からない。
授業で扱えっていうこと?
個人的には、学校や授業と関係ないから意味があるとも思う。
一体なんのために読むのか、考えるのか。
それから、学校の勉強ができる人を馬鹿にするのには反対だ。
学校の勉強がすべてではないが、それができないからといって「すっぱいブドウ」に
するのはどうかと思う。
最後に超人とは他の人間のことなんか眼中に入らなくなることだよ。
もっとも、ニーチェは最初から最後までそういう境地には至らなかったんだけどね。
「最低の軽蔑について話そう。おしまいの人、末人のことを…… 『愛って何?創造って何?あこがれって何?』 ――こう末人は問い、目をまばたかせる。 そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。 末人は全てのものを小さくする。 この種族はのみのように根絶できない。 末人は一番長く生きる。 『われわれは幸福を作りだした』 ――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。 彼らは生き難い土地を去る。温かさが必要だから。 彼らは隣人を愛しており、隣人に身体を擦りつける。温かさが必要だから。 病になること、不信を抱くことは、彼らにとっては悪となる。 彼らはいつも警戒し、ゆっくりと歩く。 なぜなら石にけつまずくもの、人間関係で摩擦を起こすものは 彼らにとって馬鹿者だから! 彼らはほんの少しの毒をときどき飲む。それで気持ちの良い夢を見る為に。 そして最後には多くの毒を。そして気持ち良くなって死んでゆく。 彼らもやはり働く。なぜかといえば労働は慰みだから。 しかし慰みが身体に障ることのないよう彼らは気を付ける。
彼らは貧しくもなく、富んでもいない。 どちらにしても煩わしいのだから。 誰がいまさら人々を統治しようと思うだろう? 誰がいまさら他人に服従しようと思うだろう? どちらにしても煩わしいだけだ。 既に牧人さえなく、畜群だけ! 飼い主のいない、ひとつの蓄群! 誰もが平等を欲し、誰もが平等であることを望んでいる。 みなと考え方が違う者は、自ら精神病院へ向かってゆく。 『昔の世の中は狂っていた』 ――と、この洗練されたおしまいの人たちは言い、目をまばたかせる。 彼らは賢く、世の中に起きる物事をなんでも知っている。 そして、何もかもが彼らの嘲笑の種となる。 彼らもやはり喧嘩はするものの、じきに和解する ――さもないと胃腸を壊す恐れがあるのだから。 彼らも小さな昼の喜び、小さな夜の喜びを持っている。 しかし、彼らは常に健康を尊重する。 『われわれは幸福を作りだした』 ――こう末人たちは言い、目をまばたかせる。
>>188 あれはニーチェ論だからな。永井の。
結局最後は永井の思想観に哲学観につながるわけだからね。
193 :
考える名無しさん :2007/03/23(金) 02:06:52
>>189 >最後に超人とは他の人間のことなんか眼中に入らなくなることだよ。
何となく違和感があるな。おれとしては「ルサンチマンを感じない」ことが超人の条件って気がする。
意味するところは同じなんだろうけどね。
194 :
183 :2007/03/23(金) 23:52:29
またきてしまいました。
>>189 さん。
もちろん、成績での妬みなどはありません。成績中の上なので・・・
『愛って何?創造って何?あこがれって何?』
でも↑こんな人ばっかりなのです。以下はは高校生活の中での言葉遣いですが、まだ見ぬ社会でも、同じような問題は絶対あるという確信、世の中への不信感があります。
なんで先輩をやってるのか?
・・・お前たちには部そのものや後輩に対する愛着はないのか?
なぜ馴れ合い以上の高貴な意義ある集団にならない?
慣習だけですべてが決まって、
なんとなく言葉遣いだけ敬語にして、
実際に人を尊敬することがどういうことかも知らないで、
さらに先輩は先輩で尊敬された気になって、
結局何も考えずにのこのこ社会に出て行って、
そのせいで息子の教育もまともにできず、人を育てるということの意味を考えずにいるせいでくだらないニートに仕立て上げ・・・ いや、最後のこれは偏見だらけですね。
自分のいた部活はそういうところではありませんでした。それこそ、こういう考えに至ったのも部のおかげです。もうOBですが、一貫校なので4年いました。
哲学板に来てみたのは、実際に気持ちの悪い、そのくせ勉強はできるオタばっかりの生徒、自己中心的で狭い世界しか見えない人、そういう人たちの様子を、
「そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。
末人は全てのものを小さくする。
この種族はのみのように根絶できない。
末人は一番長く生きる。」
などのような「たとえ」が的確に当ててるんだ、すげえ!でも実際にニーチェの本を読んだことさえない俺が勝手に解釈するのは正しいのか?
この答えを、もしくはそのヒントを出してくれる(やさしい)人たちがいるんじゃないか? そう思ったからです。
>>194 >そういう人たちの様子を、
>
>「そのとき大地は小さくなっている。その上を末人が飛び跳ねる。
>末人は全てのものを小さくする。
>この種族はのみのように根絶できない。
>末人は一番長く生きる。」
>
>などのような「たとえ」が的確に当ててるんだ、すげえ!でも実際にニーチェの本を読んだことさえない俺が勝手に解釈するのは正しいのか?
『ツァラトゥストラ』は「だれでも読めるが、だれにも読めない書物」。
つまり表面的な意味を理解するのは容易だが、ニーチェの真意を理解するのは困難な書物。
上の引用の「末人」だって、その対立物である「超人」を理解できなければ理解したとは言えず、
「超人」を理解するには、永劫回帰を欲するということがどういうことであるのか
を理解しなければならないから、それは簡単ではないです。
西尾幹二も書いているが、ニーチェの思想全体を理解しようとせずに、
自分に都合のいい部分だけを見て勝手なニーチェ像を作ってしまう若い人が多いと言われます。
そういう人には、西尾幹二の『ニーチェとの対話』をおすすめします。
やはり、そうですか。
>>195 さん、ありがとうございます。
自分に疑いを持っていてよかったです。危なかった。では精進します。
お勧めするのならニーチェ自身の本をお勧めすればいいんじゃないのか? 翻訳時に解釈の相違があるから訳者の違う本を読み比べて。 それともどこぞの大学教授の有難いお言葉が無くては議論に深みが出ないのだろうか? なるほど他者の意見を比較検討することによって、より偏りの無い結論を目指すことが 出来るかもしれないし、自分が気づかなかった盲点を改めて発見することもあるかもしれない。 自分の結論に賛同者を見つけて主張の正しさを再認識できるかもしれない。 しかしこれらは全てまず第一に、自分がその著書を読んでからの話ではないのか? どうして最初から第三者の主観と偏見のフィルタを通して本旨や要点を理解しようとするのか? どうして君たちはそんなにも迂回をするのか?あるいは、 どうして君たちはそんなにも『手軽さ』ばかりを求めるのか? 「誰々の本をお勧めします」、「あの解説書を参考になさるといいですよ」 こういう人間にかぎって、根掘り葉掘り問い詰めていくと自分の意見がまるで無いことを発見する。 あるのは「本を読んだ」という記憶ばかりだ。 それはうどんや支那そばのどんぶりのふちに浮いてる油のように、君の中に溶け合わず浮いた 状態のままなのではないのか? それは君にとって本当に価値の有ることなのか? 読書とは暇つぶしの手段なのか? それが『教養』と呼べるものならば、いったい教養に何の価値があるか? ニーチェのツァラトゥストラはまるっきり難解だ。 あえてわざと比喩を散りばめて判りにくくしている。 何故なら「読み解くことの歓び」を教えようとしているからだ。 彼はいう、「本当の書き手は、そらんじられることを欲する」と。 それは読み手に、自分にとって何が正しいのかを吟味し、血肉化させようという 意志がなければできないことだ。血の通わない読書に意味はない。 記憶の羅列だけではどうしようもないのだ。 と、いう意見をツァラトゥストラで読んだ気がするよ多分…
>>197 じゃあ、お前は何の為にこのスレに来てるんだ?ずっと一人でニーチェ読んでろよ。
>>198 そりゃあそうだが他人の解釈と手合わせしてみたい欲求もあるだろ?
>>199 ニーチェの解釈で読む価値があるのは、自分の書き込みだけってことか。すごい教養人だな。
201 :
195 :2007/03/25(日) 10:40:31
>>197 >お勧めするのならニーチェ自身の本をお勧めすればいいんじゃないのか?
ニーチェが書いたものだけを読んでニーチェを理解できればそれに越したことはないけれど、
それは無謀な理想でしょう。
>>199 >そりゃあそうだが他人の解釈と手合わせしてみたい欲求もあるだろ?
ではあなたの解釈を見てみましょう。
202 :
195 :2007/03/25(日) 10:42:01
>>117 >じゃあなんで永劫回帰が必要になるのかというと、それは彼が病弱と
>みなしたキリスト教的厭世観を打破するために別の世界観が必要であった
>からだと思うんだ。
>生死の彼岸は誰にも証明出来ない。だからこそ別の価値観が必要だった。
>今の宇宙の生い立ちの科学的説明については皆が聞いているように
>ビッグバンから始まり、宇宙がしぼんで終わるという仮説が有力なわけだ
>けれども、ニーチェは言い伝えの御伽噺(死後の世界)よりも、人間の
>知的誠実としての「科学的論説」を信じた。
>質量保存の法則的におそらく宇宙は無限に生成を繰り返してきただろうし
>これからもするだろう。
永劫回帰は科学的に考えられたものではなく、ニーチェによれば、突然彼に「到来した」思想。
遺稿に残っている、エネルギー保存則による永劫回帰の科学的証明らしきものについては、
ニーチェが証明できると本気で考えていたのか疑問だけれども、私の考えでは、あれは、
彼に到来した永劫回帰思想と、その直後に生まれた力への意志の思想、この二つの思想の関連について
のニーチェの思索の痕跡でしょう。
実際その頃ニーチェは、力への意志についても、マイヤーやフォークトなどの自然科学者の
「力」概念と関連づけて考えていた。
永劫回帰が、キリスト教的時間概念に対立するものであるのはその通り。
しかしそれは「科学的」という意味で対立するのではないでしょう。
科学における知的誠実はキリスト教が育てたものですが、科学にはまだ「真理への意志」がある。
そしてこの「真理への意志」は、プラトン以来の形而上学的信仰の名残(つまり「神の影」)
とニーチェは考えている。
永劫回帰についてニーチェが「仏教のヨーロッパ的形態」と書き、また「無が永遠に!」と書いているように、
それは無始無終の円環的な時間として、キリスト教的の有限で直線的な時間に対立するのです。
その点でそれは、キリスト教の終末論的で目的論的な思考に対立します。
203 :
195 :2007/03/25(日) 10:44:59
>つまりは『逃げを打たない』ということ、 >自分の全生涯を否定しないこと、そのためには重荷をも超克して自らを >肯定することなのだ。 『逃げを打たない』というのはその通り。 永劫回帰によってキリスト教の目的論を排除することは、「生成の無垢」を再興することです。 しかし、生成の無垢の再興がそのまま「生の肯定」にはつながるのではありません。 生成の無垢を再興することと、それ(生成の無垢=永劫回帰)を「肯定」できるかどうかは、 全く別問題です。
204 :
195 :2007/03/25(日) 10:46:50
>>186 >「神は死んだ!」と狂気の人は叫んで回った。
>これはいったい何を意味するものか?
>もともと神というものはアミニズム的な発祥から生まれてきたものだ。
>自然災害などによって理不尽にも多くの仲間が命の灯火を吹き消されるとき、
>人はその不条理さに耐え切れず慟哭した。
>悲しみと怒りの矛先をどこに向かわせればよいのか判らぬままの古人は事象の
>擬人化によって『理由』を創出し、それを必要としたのだ。
>信仰とはおしなべてその延長線上にあるものなのだ。断じて神の『命令』などは無いのだ。
「神の死」は19世紀のヨーロッパにおける歴史的出来事なので、その「神」というのは
多神教の神々ではなくキリスト教の神のことであって、「神の死」というのは、
キリスト教道徳の没落、そしてそれによってヨーロッパに生じたニヒリズムを意味します。
「神の死」の「神」がキリスト教以外の神をも指していると考えたら、
ニーチェがギリシャの神々を称えたり、ゾロアスター教の教祖の名前を借用して
『ツァラトゥストラ』を書いた理由なども説明できなくなるでしょう。
205 :
考える名無しさん :2007/03/25(日) 17:16:11
「神は死んだ」って原文ではどういう感じ? 直訳すると何と言ってるんですか? 「神は死んだ」というより、「神を殺せ」ってほうが相応しいような気もするのだが、 でもそれじゃあスローガン(自ら神になること)になっちまうか。 当時のニーチェにしてみれば個人の内発性が重要で、 実存のめざめを促してるわけだからな。 それは同時に病める近代のはじまりでもあるわけだが
>永劫回帰が、キリスト教的時間概念に対立するものであるのはその通り。 >しかしそれは「科学的」という意味で対立するのではないでしょう。 其の通り、「到来した」概念であるわけだけれども彼はこれを重要視しているのは事実であり、 それに論理的肉付けを施したいとするのも人並みの感情としてあるだろう。 他の人に言っておくが「思い付きだからくだらないんだ」とは早急に考えないで欲しい。 もしそうなら発明家や芸術家のインスピレーションも全て価値が無いものになってしまう。 我々は21世紀を迎えても未だ死後の世界はおろか宇宙の外に何が広がっているのかを 知ることすら出来ていない。未だに宙ぶらりんの状態だ。 もちろんニーチェだって科学的に証明出来るかどうかは微妙だっただろうが、少なくとも 七日で創造主がお造りになったという御伽噺よりはよっぽど真実だと思っただろう。 私としてはそれよりも、永劫回帰と力への意志がどう連結するのかというのを貴方の解釈で 詳しく聞いてみたい。
ツァラトゥストラが教会に立ち寄ったとき、教会の建物を支える梁や柱を眺めながら その堅牢な力強さと凛とした佇まいを褒めたシーンがある。 互いが互いを押し合い支えあうことによって見上げるべき高さへと昇るさまを見て、 彼は力への意志を語る。 例えば密林の奥の木々たちも、それぞれが生命力のほとばしるままに枝を伸ばして高みを目指す。 生命全てがエネルギーの奔流なのではないのか? 自分自身をより高めるべく、より自己を 拡大すべく、そうやって格闘するのが生の、自然の在り方ではないのか? この世界の在り方も、またそうなのではないのか? それぞれがめいめいに自分の生と力を 拡張しようと切磋琢磨する…。そこに善も悪も無い。すべてが『活きる』べく格闘する世界。 それが『生成の無垢』ではないだろうか。ニーチェはドグマや戒律などという手垢のついた 疚しさを感じさせない『純粋なる世界観』を新鮮に感じたのではないだろうか。 力への意志といえばルサンチマンもまたその一形態である。『力への意志』は人間においては 『自己肯定感への欲求』となる。 格闘技でスゴイ奴と戦いたい、勉強で一番になりたい、綺麗な娘にモテたい、というのも 還元すれば『自己肯定感への欲求』なのである。 怨恨も僻み(ルサンチマン)も結局は「マイナスを取り返して自分を肯定したい」という 欲求なのである。ただその方向性が歪んでいるだけなのだ。 さて、生成の無垢は『世界』を肯定するのに加味してよい要素であり、力への意志は 『活きること』あるいは『生』を肯定することに加味してよい要素であり、永劫回帰は "死後”を棄却して『今この瞬間』を全力で活きることを肯定することに加味してよい 要素である。これを統合するには「今を全力で活きる」ことを個人に収斂する以外には無い。 実にシンプルな答えだ。だからこそなまくらな末人を糾弾し、厭世的な宗教を非難するのだ。
>「神の死」の「神」がキリスト教以外の神をも指していると考えたら、 >ニーチェがギリシャの神々を称えたり、ゾロアスター教の教祖の名前を借用して >『ツァラトゥストラ』を書いた理由なども説明できなくなるでしょう。 これが判らない。ニーチェが問題にしているのは『神』そのものではなくて それを信奉する不敬虔な大衆の態度(+厭世的な教会関係者)だろう? 問題は「人間」にあるのであって神に主眼が置かれているのではない。 ニヒリズムの克服を新しい神に代替することで克服出来ると考えているわけでもないだろう。 それにニーチェは「神とは大雑把な"答え”である」とさえ書いている。 他の宗教の名前を出したからといって彼が「他の神は生きている」と考えている わけではないだろ?
209 :
考える名無しさん :2007/03/25(日) 23:20:07
>>208 あんたの文章は分かりやすくて面白いな
ダーウィンの進化論も神を殺した要因の一つかい?
>ニーチェの解釈で読む価値があるのは、自分の書き込みだけってことか。すごい教養人だな。
>>194 の彼の書き込みを見て、ツァラトゥストラの話を思い出したからだ。
丘の上に青年がうずくまっていて、それを励ますシーンだ。
青年は高みを目指すが、周りの人間はそれを冷たく蔑視してシカトする。
彼は高みを目指すのに、いつの間にか低みにいるように感じるとこぼす。
自分は何を目指して駆け上ったのだろう?…と
ツァラトゥストラはそこでこう言う。
「どうか高みへと目指す憧れを捨てないでくれ!」と…
こういう名シーンは本書で読むから醍醐味があるのであって、解説書なんかには
全然載ってないんだ。
大事なのは読んだときに感じる自分の感受性であって、それを大事にしないで
解説書の粗筋を記憶したところで何が残るっていうんだ。
それこそ読んだ『記憶』だけじゃないか。
だからこそ最初にニーチェの本を読めっていうんだ。
>ダーウィンの進化論も神を殺した要因の一つかい?
貴方はどう思う?
211 :
考える名無しさん :2007/03/26(月) 01:39:11
俺は逆だったけどな。 最初に解説本読んで最近原本読んでる。 だが、忘れちゃいけないのは、本を読むことからはじめるんじゃなくて、考えることからじゃ…
212 :
195 :2007/03/26(月) 11:52:44
>>206 >私としてはそれよりも、永劫回帰と力への意志がどう連結するのかというのを貴方の解釈で
>詳しく聞いてみたい。
この二つの思想の関連については、いろんな観点から考察できるけれど、
ニヒリズムという観点から見ると最も明瞭なつながりが明らかになると思う。
ニーチェは永劫回帰を「ニヒリズムの最も極端な形」と呼んでいる。
それが最も極端なニヒリズムであるのは、キリスト教的な目的もなく、
それ自体としては無意味な生存が、永遠に回帰してくるからである。
昨日書いたようにこれがニーチェにとっては、生成の無垢にほかならず、
またそれは、ニーチェの一切肯定の思想に直接つながるものではない。
なぜなら、常人にとってはこの生成の無垢が耐え難いものであるからこそ、
彼岸世界への信仰が生じたのであり、キリスト教が力を失った後も、
人々はそれと気づかずに、様々な「神の代用品」をつくり続けているのだから。
力への意志は、この永劫回帰という最も極端なニヒリズムから、
一切肯定へと向かう転換点となる「新しい世界構想」です。
「『力への意志。一切の諸価値の価値転換の試み。』この定式で表現されているのは、
原理と課題とに関する一つの反対運動である。すなわちそれは、いつか或る未来において、
あの完全なニヒリズムに取って代わるであろう運動であり、しかも論理的にも心理的にも
その完全なニヒリズムを前提としており、まさにそのニヒリズムを目指すことによってのみ、
そしてそのニヒリズムからのみ到来することができる運動である」(遺稿)
力への意志がどのような意味で価値を転換するのかについては省略しますが、
ニーチェはこのように、神の死によって生じたニヒリズムを、その極限まで
押し進めることによって、ニヒリズムの自己超克をもたらす。
そしてそこにはキリスト教によって育てられたニーチェ自身の力への意志が働いている。
というふうに、ニヒリズムの自己超克という観点から見れば、ニーチェの思想の
論理的つながりは理解しやすくなる。
213 :
195 :2007/03/26(月) 11:53:24
>>208 >これが判らない。ニーチェが問題にしているのは『神』そのものではなくて
>それを信奉する不敬虔な大衆の態度(+厭世的な教会関係者)だろう?
>問題は「人間」にあるのであって神に主眼が置かれているのではない。
キリスト教の神そのものに問題があるとニーチェは考えています。
ニーチェの批判がキリスト教に集中しているのは、キリスト教の神が
彼岸から現実世界を拘束し、支配することにおいて、
人間にとって最も有害であると考えたからです。
ニーチェはプラトニズムを批判するけれども、その創始者である
プラトン自身には尊敬を示している。
それと同様にニーチェはキリスト教を激しく攻撃しながらも、
イエスに対しては一定の評価を与える。
理想(あるいは神)を自ら産出する行為に対しては、そこに
創造的な力が働いていることをニーチェは見ているからです。
しかしイエスの死後、キリスト教の神はそのような創造的な力とは
無縁のものとなり、逆に人間の創造的な力を抑圧するものとなったのです。
「根本においては、ただ一人だけのキリスト者が存在した。そしてその人は
十字架で死んだ。『福音』は十字架で死んだのである。この瞬間以来『福音』と
呼ばれているものは、すでに、彼が生き抜いたものとは反対のものであった」
(アンチクリスト)
例えば誰かを背後から殴ってやりたいと思う人がいたとする。 その人は実際にそれをやって、上手く逃亡できたと仮定する。 こういう人に対して道徳を批判し力への意志を肯定したニーチェはなんていうべきだ?
産業革命と科学的発展によって段々と自然のメカニズムが解明されてゆく中、 神秘そのものであった『世界』の認識が変わり、医療の高度化と物質的豊かさの 恩恵を受けて、人間は「神にすがる」ほどに困窮する機会が薄れていった。 今更言い伝えの神話の世界に取りすがるほどには純朴でなくなってしまった 人間は、「誰にも道を指し示してもらってはいないのだ」という投げ出された 状態の自分を発見する… 永劫回帰が「ニヒリズムの最も極端な形」だというのは、機械論的宇宙観を さらに認識(知的誠実)を深めていくことによっても想像できるだろう。 『神の真理』を追求する姿勢の継続が、いつしか事象を究明しようとする 学者的な知的誠実を発展させたというわけだ。この点においては宗教の 貢献度は非常に高いといえるだろう。 問題はツァラトゥストラ(ニーチェ)がその概念をいかに使用したかであるが、 ツァラトゥストラ自身も吐き気にあてられて七日間も寝込んでしまうほどだ。 無限に繰り返すことの徒労感は我々の日頃のルーティンワークの比ではない。 そりゃ寝込みもするわなと思うところだが、実は逃げ道は2つある。 一つは生を恋すべき女性に見立ててツァラトゥストラがそれを追いかけるシーンだ。 我々も大小様々あれども『生の高揚感』や充実感を味わったことがあるはずだ。 だがそれは自分の人生を振り返ってみても情けないほどに僅かな機会であり、 心の昂ぶりを求めて過去を反芻したりもする。それが人間というものだろう。 「あの一瞬の魂の煌き、そのチャンスがもう一度この私に訪れたならば!…」 生きることそのものが"生”との追いかけっこなのではないだろうか? しどろもどろもいいとこに、かっこ悪く足をもつれさせながら、それでも懸命に 生の充実感を求めてあがく姿は、我々を見ているようではないか?
その追いかけっこにも疲れたのか、彼女はふと泉のほとり(あるいは草原、 いま手元に本が無い)にしゃがみこんでうつむいている。 彼女は"死”という別れの予感に脅えるとともに、ツァラトゥストラと同じく 無限の徒労を認識し哀愁に暮れている。 しかし彼は次の項で永劫回帰がエンゲージリングだと言い放つ! 何故か? それは無骨な恋人が彼女に「俺はお前と一生添い遂げる!」と誓うように、 彼女(生)を愛しているからだ。 「俺は何度生まれ変わろうとも必ずお前を探し出し、お前を抱きしめて 守ってやる!」と言い放つように、永遠の愛を誓う。 そのとき永劫回帰は対比としての意味を持つ。永劫回帰という『極限』はまた、 再び彼女と巡り合うことを約束する道標でもあるからだ。 恋人と幾度も巡り逢える確信が、徒労を凌駕する瞬間である。 このときに二人を結ぶ絆こそが、永劫回帰(という婚約指輪)なのだ。 どんなにぶざまであろうとも、どんなに苦労をしようとも、再びお前を この腕で抱きしめてやる!という決意… 彼の山での最後の晩餐で、ツァラトゥストラは厭世主義者を見てこう洩らす。 「彼は食卓に何も提供しない。よき食欲をさえ提供しない、だがよく食べること (生を味わうこと)は価値のあることなのだ」と… 「生きることは虚しい、すべては徒労だ…」厭世主義者は常々こう洩らした。 だが味わおう(生を深めよう)と努力しない者が、端からどうやって 味を噛み締めることが出来ようか? 「これが"生”か、よし、もう一度!」と最も醜い者が語るとき、疲れた 皆がそれに賛同する。それはもう一度生を深めて味わおうとする決意なのだ。 もう一つは黄金の牧人が黒い蛇(ウロボロス)を噛み千切るシーンである。 けど長くなるからいいや。
>昨日書いたようにこれがニーチェにとっては、生成の無垢にほかならず、 >またそれは、ニーチェの一切肯定の思想に直接つながるものではない。 これはどういうわけだろう? ニーチェの中で別個の物として乖離しているならば、彼の話も支離滅裂な ものになってしまうのではないのか? また、論拠に大衆の消化不良を持ってくるところもニーチェ自身の思想に どう連結するのかという関連性を説明し切れていない。大衆が駄目だから ニーチェも駄目だという理由がなされていない。 >そしてそこにはキリスト教によって育てられたニーチェ自身の力への意志が働いている。 >というふうに、ニヒリズムの自己超克という観点から見れば、ニーチェの思想の >論理的つながりは理解しやすくなる。 ニヒリズムには受動的なものと能動的なものとがある。 一つは打ちひしがれたペシミスティックなもの。 もう一つは征服(克服)しきった障害(苦難)を足元に蔑視する勝ち誇ったもの。 これはさらに上を目指すがゆえに以前の苦難を鼻にもかけない状態のことである。 ニーチェの目指すものは当然後者であり、それは価値転換をなぜ成さねばならないのか という起因につながる。彼は「その次」を目指したのである。 極限まで突き詰めていってさらにそれを自分に有効活用出来るよう仕立て上げる 『統合』が成されなければそりゃあ宙ぶらりんになるわな。つまり永劫回帰や 生成の無垢がどう利用されているか、ということ… >ニーチェの一切肯定の思想に直接つながるものではない というのをもう一度説明してほしい。
>>213 ニーチェは本当に敬虔な信仰者に対しては敬意を払って接した。
キリストそのものに問題があるのではなくて、その教えを歪曲してそそのかす
厭世的宗教観にこそ問題があるんだよ。つまりは『神』がどうのこうのじゃ
なくてそれに手垢をつけてこねくり回す人間たちの心理に、だ。
219 :
195 :2007/03/27(火) 11:17:13
>>217 >ニヒリズムには受動的なものと能動的なものとがある。
>一つは打ちひしがれたペシミスティックなもの。
>もう一つは征服(克服)しきった障害(苦難)を足元に蔑視する勝ち誇ったもの。
>これはさらに上を目指すがゆえに以前の苦難を鼻にもかけない状態のことである。
>ニーチェの目指すものは当然後者であり、それは価値転換をなぜ成さねばならないのか
>という起因につながる。彼は「その次」を目指したのである。
かつてはあなたのように、能動的ニヒリズムがニーチェ自身の立場だと考えた人が
多かったのですが、能動的ニヒリズムは「強さの一つの徴候」ではあるけれども、
それはニーチェ自身の積極的な主張ではないと思われます。
ニーチェが「強者」と「弱者」という単純な二分法で語る場合、
「強者」がそのままニーチェ自身の立場を表しているわけではないのと同じです。
ニーチェは「ニヒリズム」という語を大きく分けて3つの意味で使っています。
(1)彼岸世界への信仰(つまりプラトニズム)そのものが「ニヒリズム」であるという用法。
用例はたとえば「キリスト教は最も深い意味においてニヒリズム的である」(この人を見よ)。
(2)プラトニズムの帰結として「ニヒリズム」が生じるという用法。
これは「神の死」というヨーロッパの歴史的出来事として生じたニヒリズム。
(3)プラトニズムの否認としての「ニヒリズム」。
そしてこれがニーチェが自己自身の立場として認めたニヒリズム。
220 :
195 :2007/03/27(火) 11:17:57
これら3つの用法では、ニヒリズムが生じる前提はそれぞれ異なっているけれども、 これらの用法に共通する意味がある。それは、ニヒリズムという語が、 現実世界の無意味・無価値を意味しているということ。 (1)彼岸世界が善き世界とみなされ、あらゆる価値が彼岸世界に移されることによって、 現実世界が無意味化・無価値化される(これはニーチェの視点から見て)。 (2)しかし彼岸世界への信仰によって、人々は生きる意味を与えられていたのだから、 彼岸世界から現実世界に意味と価値が付与されていたわけであり、その意味と価値が 「神の死」とともに抜き去られることで、現実世界が無意味で無価値に見えてくる。 (3)(2)の意味でのニヒリズムを、その極限まで 押し進めることによって、 ニーチェはニヒリズムの自己超克をもたらす。 「この『無駄だ!』というのが現代のニヒリズムの性格である。・・・ 目標も目的もない『無駄』の持続というのは、もっともげんなりさせる思想である。・・・ この思想をその最も恐ろしい形で考えてみよう。あるがままの生存、無意味で無目標、 だが不可避的に回帰し、無への終末もない。すなわち『永劫回帰』。 これがニヒリズムの最も極端な形である」(遺稿)。 ニーチェが「ヨーロッパの最初の完全なニヒリスト」として自認したニヒリズムは、 この(3)の意味でのニヒリズムです。 「あるがままの生存」は、彼岸という究極目的を持たない。それゆえ彼岸から 付与されていた意味も持たない。「無意味なものが永遠に回帰する」『永劫回帰』、 この「ニヒリズムの最も極端な形」は、プラトニズムの否認としてのニヒリズムです。 「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」は、上の3つの分類とは異なり、 精神の力の強さと弱さという観点から分類されたものですが、両者は共に、 (2)の意味でのニヒリズムに含まれます。
221 :
195 :2007/03/27(火) 11:20:45
>>ニーチェの一切肯定の思想に直接つながるものではない
>というのをもう一度説明してほしい。
シンプルなことだと思うのですが。
「無意味なものが永遠に回帰する」ということを洞察することと、
「永遠に回帰する無意味な世界を、そのまま《欲する》」ということは違うでしょう。
仏教は、輪廻からの解脱を欲した。
仏教は「善悪の彼岸」(つまり生成の無垢)に立っているとニーチェは書いている。
しかし、仏教が一切肯定の思想であるとはニーチェは考えていない。
>>218 >キリストそのものに問題があるのではなくて、その教えを歪曲してそそのかす
>厭世的宗教観にこそ問題があるんだよ。つまりは『神』がどうのこうのじゃ
>なくてそれに手垢をつけてこねくり回す人間たちの心理に、だ。
>>204 をもう一度読んで欲しいのですが。
問題は「神の死」です。
「神の死」の「神」はキリスト教の神を指しているということ、
そして「神の死」は、キリスト教道徳の没落という、
ヨーロッパの歴史的出来事を示しているということです。
「神の死」の「神」を人間の心理に還元してしまえば、、
「神の死」の意味が分からなくなりませんか。
それは人間の心理に還元できるものではなく、
人間を外側から拘束してきたものでしょう。
キリスト教の神が力を失うことによるキリスト教道徳の没落。
キリスト教道徳が人間を外側から支配し、外側から現実世界に意味と価値を
与えてきたから、「神の死」によってニヒリズムが生じたのです。
222 :
195 :2007/03/27(火) 11:40:59
>>ニーチェの一切肯定の思想に直接つながるものではない >というのをもう一度説明してほしい。 への補足。 生成の無垢は、「精神の3つの変化」でいえば、第二段階「獅子」の 否定的精神によって到達されるものでしょう。 しかし第二段階から第三段階の「子供」の「聖なる肯定」には 直接的にはつながらないのです。 そこには何らかの飛躍、あるいは決定的転換がある。 あなたが言及した蛇を噛み切る場面は、その決定的転換を 象徴的に表しています。
223 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 01:51:06
>>193 超人て他人の上に立つっていうことじゃーないですよね。ま、そんな風に取れる
テクストはたくさある。「(権)力への意志」って、何か支配・被支配の関係を
感じさせる。でも、永劫回帰から超人。その超人が現実を徹底して肯定するっていう
あたりからあわせて考えると、やはり他人を「ある意味」消し去ることなんだと
思う。ルサンチマンって他者との関係を認識することから起こるんだし。
不幸や悩みを他人に起源を求める、これがルサンチマンだ。
これはなかなか乗り越えは難しいな。ルサンチマンの乗り越えっていうのは目的というか
結果だから、そこに至るプロセスという観点からは他人を出した方が分かりやすいと思う。
そういう感じですが。
224 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 02:02:51
>>194 195さんが書いている通りなんですが、繰り返し一つ注文を付けます。
学校の勉強も馬鹿にしないで下さいね。それからの逃避、そしてその逃げを哲学
で代償するような人間もたくさんいます。しかし、それは違います。どの教科も
大事です。そのことは将来分かると思いますが、そもそもニーチェは文献学が
専門で古今東西のいろんな書物を読んで考えた結果、いろいろと言ってるわけです。
なぜ、ニーチェはニーチェになったのか、そのあたりを知るのもいいと思いますよ。
彼は小さい頃に聖書をそらんじて「小さな牧師」と言われたんですね。だから、彼の
思想は徹底して自己否定なんですよ。思想は自己否定ですが、彼は死ぬまで弱さに生きた
人でした。彼の日常や人生は変わらなかった。少なくとも外からはそうとしか思えない
んです。それでも、やはり思想を欲するかどうか、そういう問題です。
ニーチェに限らず、哲学や思想、広く人文科学はマターリとしか利きません。
それがどんなに衝撃的に思えたとしても。水を差すような話しですいません。
参考になることだけ耳を傾けてください。
225 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 02:23:17
195氏へ 質問があります。 「神の死」はやはり「人間の死」ではなないですか。 それを心理や認識、内面いろいろ言い方はあるでしょうが、やはり人間の問題だと 思います。「神の死」が人間とは無関係にあるものだとして、それを主張することが 無意味です。なぜなら、「神の死」は人間存在とは無関係だからです。 神の死が人間とは無関係にあるとして、それが人間にとってどのような意味をなすか、 そういうレベルにおいても、やはり「人間の死」です。 「子どもの発見」(モンテッソーリ)や「言語の発見」(ソシュール)などと同じ ような意味において。子どもはそれ以前にもいたんですが、やはり見出されていなかった。 その反対に、「神の死」が発見あるいは発明とまでいっていいと思いますが、そういうことです。 カントの「物自体」を問うことが不可能であるという意味において ニーチェは「神自体」を問うてはいないと思います。 ニーチェはカントの馬鹿にしています。だから、よけいにそう思います。 そんなレベルで言ってはいないと。
226 :
195 :2007/03/28(水) 08:15:10
>>225 >質問があります。
>「神の死」はやはり「人間の死」ではなないですか。
>それを心理や認識、内面いろいろ言い方はあるでしょうが、やはり人間の問題だと
>思います。
キリスト教の神ももともとは、人間の思考による産物であるかも知れず、
禁欲的僧侶たちが自らの力のためにその神を利用したことも確かであるのですが、
「神の死」において重要なのは、その神がこれまで実際に「絶対的な権威」として
ヨーロッパ世界を支配してきたということです。
そしてその絶対的権威が崩壊してしまった時に、ニヒリズムが生じたということです。
人間が産出したものが人間の手を離れ、逆に人間を支配してしまったということ。
それがキリスト教の神であり、キリスト教道徳です。
ニーチェは、理想を樹立することあるいは神を信じることそのものに対しては、
そこには創造的な働きが含まれていると見ているので肯定的に理解している。
しかし理想や信仰は、時とともに人間から離れて客観化し、普遍妥当性をもつようになる。
そうなると理想は、外から人間を支配する権威となってしまうのです。
「美徳というものは、それを外からの権威あるいは掟として支配させてしまい、
自己自身の中から初めて産出することをしない限り、悪徳と同じぐらい危険なものである」(遺稿)。
>カントの「物自体」を問うことが不可能であるという意味において
>ニーチェは「神自体」を問うてはいないと思います。
物自体としての神ということではありません。
というよりも、人々が物自体だと思っていたものが崩壊してしまったということ。
つまりそれが物自体ではなかったのだということが明らかになったこと、
それが「神の死」です。
227 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 10:20:56
>>226 大筋で私の理解とは異なっていないように感じるのですが、気になるので再度確認させて
ください。
>キリスト教の神ももともとは、人間の思考による産物であるかも知れず
思考の産物か否かが重大なのではなく、あるいはそうか否かは問えない、問う意味が
ないという前提で、神が人間にとってどう認識しうるか、そこがポイントだと思います。
神とは信仰です。だから、信仰しない人間にとって神は無意味です。存在するか否かの
問い自体が成立しません。
私もあなたもアフリカのある土俗宗教の神、そんなものがあるとして、そういう神の意味は
ないですよね。
>禁欲的僧侶たちが自らの力のためにその神を利用したことも確かであるのですが、
>「神の死」において重要なのは、その神がこれまで実際に「絶対的な権威」として
>ヨーロッパ世界を支配してきたということです。
神が支配はしません。ここは重要です。神の「名」において人間が支配するのです。
ニーチェは神自体ではなく、僧侶階級や教会を徹底して罵倒し否定します。
神自体を否定するかのように思える部分も、神の否定によって僧侶階級や教会の権威や
支配を否定しているのです。
信仰ということをもっと精密にとらえないといけないんではないでしょうか。
>そしてその絶対的権威が崩壊してしまった時に、ニヒリズムが生じたということです。
その権威の崩壊自体ではなく、その崩壊をメタレベルで認識できないことにニヒリズムの
深さがあります。上述したように信仰という点を見逃して神を論じることは無意味です。
ヨーロッパのイスラム信者はキリスト教の神には支配されません。間接的な影響は当然
あるでしょう。間接的なら、もはや人間の介在が浮き彫りになりますね。
228 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 10:35:09
>しかし理想や信仰は、時とともに人間から離れて客観化し、普遍妥当性をもつようになる。 >そうなると理想は、外から人間を支配する権威となってしまうのです。 理想や信仰が主体である人間を離れて自己目的化するということは論理として成立しそうですが、 やはり弱いです。自然とはなりません。ある種の恣意的なもの、ある勢力の思惑があるのです。 神は支配はしません。神の「名」のおいて支配は存在するのです。 「神の死」は方便です。なぜなら、「神の死」自体も神となりうるからです。『「神の死」の死』 というものを設定しないといけないことになりますからね。 「神」も「神の死」もメタフォーです。キリスト教の神以外なら盲信していいとは言っていません。 隷属する心性の告発です。同じ告発はフロムが「自由からの逃走」で形を変えて行っています。 >しかし理想や信仰は、時とともに人間から離れて客観化し、普遍妥当性をもつようになる。 >そうなると理想は、外から人間を支配する権威となってしまうのです。 理想や信仰、あるいは神の自己目的化というのはかなり精密に論じるべきだと思います。 それらが自己目的化したとしても、それはあくまで人間の中においてです。 ニーチェはむしろ、神のそのような外部性を撃ったのだと思います。しかし、それでは 伝わらない。だから、方便として「神の死」です。 仏教における教えと同じです。 なぜ小乗だったのか。(今は小乗という言葉を使わない らしいですが) >「美徳というものは、それを外からの権威あるいは掟として支配させてしまい、 >自己自身の中から初めて産出することをしない限り、悪徳と同じぐらい危険なものである」(遺稿)。 『・・・しまい、・・・しない限り』は条件です。すなわち、人間がどう認識するか、人間の 問題だと言っているのです。主体の存在や認識と無関係に成立するなら、そんな条件は不要です。 美徳を自分のものとしないといけない。単にそうだというだけで従うのはいけない。そういう意味です。
229 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 10:43:00
>つまりそれが物自体ではなかったのだということが明らかになったこと、 ならば、やはり内面の問題ということになりますね。 神の死とは人間の死です。 新しく誕生するのは超人です。 そして、それもまた別の「神」ですが。 永井あたりも触れていたように、そしてそれはちょっと考えれば分かることなんですが、 ニーチェもまた神や真理を「外」から問いていることに他ならないんです。ある種の 無限循環です。従って、そこからニーチェを救おうと思えばどこかで断ち切る必要があります。 そういう意味においても、やはり外部性に還元して閉じる結論はダメです。 そのためには、あなた自身や私自身の神を「内から」創造する必要があるのですね。 この創造にはキリスト教のGodの再認もあるでしょう。 そういった意味で、我々に必要なのは「ニーチェの死」です。 ただ、ニーチェは幼い頃「小さな牧師」と呼ばれた。我々も一度はそう呼ばれてから 死の宣告を告げないといけないでしょう。 これが私の理解です。 ☆「さて、神は死んだ。しかし、人間の知識がそうであるように、ひょっとしたら、なお 何千年間も、神の影が見られるもろもろの洞穴が存在するかもしれないのである。 ・・・そして、われわれはと言えば・・・われわれはその神の影をも征服しなければならない!」 (『知識』)
230 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/28(水) 10:51:40
訂正 × 人間の知識がそうであるように ○ 人間の本性がそうであるように
231 :
195 :2007/03/28(水) 12:45:50
>>227-229 >神が支配はしません。ここは重要です。神の「名」において人間が支配するのです。
>ニーチェは神自体ではなく、僧侶階級や教会を徹底して罵倒し否定します。
あなたが言っているのは『道徳の系譜』に書かれているような、禁欲的僧侶が
キリスト教の価値体系をつくり上げる過程のことについてでしょう。
禁欲的僧侶は現実世界を、彼岸世界への単なる通路と見なす価値体系を
つくり上げることによって、弱者を保護し、強者を打ち砕くシステムを完成させた。
しかし、ひとたびこうしてつくり上げられた価値体系は、システムとして、
それをつくり上げた人間が意図した以上の力を持つようになり、
その後二千年近くにわたって世界を支配してきた。
そしてニーチェの目から見れば、「神の死」の後も支配し続けているのです。
キリスト教の神を信じない人間でも、そういう価値体系と無関係ではない。
ニーチェはそれほど、このキリスト教価値体系(つまり「神」)の支配を大きく考えているのです。
あなたも引用している次の言葉は、たぶんあなたが考えるような、神の支配を脱却することの必要性
を示しているというよりも、そのことが不可能に近いほど困難であることを示しています。
「神は死んだ。だがおそらく・・・さらになお数千年にわたり、神の影を示す諸々の
洞窟が存在するだろう。・・・そして我々はさらに、神の影をも克服しなければならないのだ」
「このようなすべての神の影が、もはや我々を暗くしないようになるのはいつのことだろうか?
我々が全く神性剥奪した自然を持つようになるのはいつのことだろうか!」(悦ばしき知識)。
「全く神性剥奪した自然を持つ」ことは、「生成の無垢」を再興することであり、
「善悪の彼岸」に立つということです。
そう考えれば、そのことの困難さがわかるでしょう。
232 :
195 :2007/03/28(水) 12:48:10
キリスト教の神を全く信じない者でも、自分ではそれと知らずに(ここが重要なのですが)、 この「神の影」の中にいるとニーチェは考えています。 ニーチェの目から見れば、無神論でさえも「あの理想の最後の発展段階の一つ」なのであり、 また、自由精神であるかのように見える実証主義者たちも、実はこの価値体系の中にいる。 「彼らはとてもまだ自由精神とは言えない。なぜなら彼らはまだ真理を信じているから。 真理への無条件的意志は、禁欲的理想そのものへの信仰なのだ」(道徳の系譜)。 >やはり内面の問題ということになりますね。 「神の影」から脱却すること、そして神の死によって生じたニヒリズムを克服することは、 もちろん人間の内面の問題です。 それは「一切の価値の価値転換」(つまりニーチェ自身の力への意志の思想)によって 可能となるとニーチェは考えます。 力への意志という価値転換の思想によってニーチェは、無神論者や実証主義者に残っている 「真理への意志」という神の影をも克服しようとする。 「いやしくも何か崇拝すべきものがあるとすれば、崇拝されねばならないのは仮象なのではないのか。 そして、真理ではなく、嘘こそが神的であるのではないのか?」(遺稿)。
意味が判らない。 >ニーチェは「ニヒリズム」という語を大きく分けて3つの意味で使っています。… …(3)プラトニズムの否認としての「ニヒリズム」。 そしてこれがニーチェが自己自身の立場として認めたニヒリズム。 神の実在云々を模索すること自体が形而上の問題であり、それは我々の手に余る問題だろう? 「さあ見てください!この自然の豊かさ!この広がる世界!この世界が存在するということが "神”がいるという証明なのです!」と瞳をキラキラ輝かして問いかけられてもピンと来ない 人が大半じゃあないか。何故、神を人間の心理に還元することが問題なのだろう? 「私達がこれこれであるということなどに対して責任ある誰か(神、自然)を私達が 【空想】するやいなや、それゆえ、意図としての私達の生存を、私達の幸福や悲惨を その誰かに押し付けるやいなや、私達は『生成の無垢』を台無しにする。 そのときには私達は、私達を通じて、私達でもって、何物かを達成しようとする誰か (神の意志)を持つことになる。」 〜権力への意志 第三書 新しい価値定立の原理 」 君の言う『生成の無垢』の定義がまず判らない。前レスを辿っても何故ペシミスティックな 方向性を持ち出すのか理解できないよ。 君がいう(3)のニーチェの立場は、形而上の問題よりも現実世界のほうが大事なんだという 方向へは至らないんだろうかね? 「私達は『生成の無垢』を台無しにする。」 つまり台無しにされない生成の無垢があるということなんじゃないの? つまりは前に書いた「切磋琢磨の力の世界」が…
彼岸への憧憬の内容が余りにも美しいのでこの世界がみずほらしく思える。しかしそれは 現実世界(リアル)が耐え難いと背を縮こませる者の愚痴なんだ、というのがニーチェの 論調なんじゃないのかね? 「このように、わたしもかつて、全ての背後世界論者達のように、私の妄想を人間の 彼岸に投げかけた。実際にそれは人間の彼岸であったか?(人間の心理以上に?…) 嗚呼、君ら兄弟達よ。私が創造(思索)したこの神は、全ての神々のように、人間の 成せる業であり、その狂気の沙汰であったのだ!」 〜ツァラトゥストラより 君はこの文章をどう読むのか?
君の文章は「ニヒリズム」というネガティヴな語感に囚われておかしくなってるんじゃないの? ニヒリズムの超克をいきなりポ〜ンと書き捨てていくけれども、そのプロセスをはしょった まんまでどうやって理解できるというんだい? @神の加護に包まれていると思っていた世界が実は何にもなかった。 (この時点で+から-になった。あるいはゼロに…) Aまやかしは全部暴くべきだと片っ端から精密検査を実施する。(-をさらに推し進める) しかし、Bにいくまでにはプラスの要素が生まれる。一貫して継続されるもの、それは 何者にも立ち向かっていこうという"闘争姿勢”だ。このスタンスは継続される。 強さのニヒリズムを極限まで推し進めると、それを超克するには何があるか? 創造だ。「なにもなければ創り出せばいい!」 ツァラトゥストラが自分の弟子(賛同者)を自分で生み出し、育てなければと自覚するように… 新しい価値規範への試み。彼の遺稿集の内容、ジャンルが多岐に渡っているのはその名残 ではないのか? 君の立場は「一切は徒労だ、全ては虚しい…」とぼやく背面世界論者と同じスタンスの ままなのではないのか? それでどうやってニヒリズムの超克を果たすんだ? 一切否定の天邪鬼が何かを超克するとでも?
>>221 ニーチェは仏教を「精神的な衛生学」だと考えていたよ。
ルサンチマンの克服を含めてね。
もしもニーチェが大乗仏教を、いやさらに禅仏教を知っていたならば「これこそが東洋的な
実存主義の"実践”だ!」と歓喜したのではないかと私には思えるのだが
それは別の話として置いておこう。
人間が物事を受け入れるにはどうしても好悪の感情が介在するよね。
無意味を無意味なまま受け入れるのは無理がある。つまり何らかの『意義付け』が、
その転換が必要になる。それでやっと脈絡が付くわけだ。
で、その意義付けが『婚約指輪』なわけだが…
だから、どうして人間の心理の問題じゃ駄目なんだろうか? >「それは人間の心理に還元できるものではなく、 >人間を外側から拘束してきたものでしょう。」 そう思い込んでるのは人間の心理以外に何処にあるんだい? ニーチェの価値転換の試みは、君のように『神の絶対性』を第一に推しだす 一般の普遍的な価値観を人間の心理という俎上に引き摺り下ろしたところに あるんじゃないのかい?
238 :
195 :2007/03/29(木) 09:45:54
>>233 >意味が判らない。
>
> >ニーチェは「ニヒリズム」という語を大きく分けて3つの意味で使っています。…
> …(3)プラトニズムの否認としての「ニヒリズム」。
> そしてこれがニーチェが自己自身の立場として認めたニヒリズム。
私が
>>219-220 でニヒリズムの意味についてくどくどと説明したのは、
「能動的ニヒリズム」がニーチェの立場であるというあなたの解釈が
誤解であることを説明するためのもの。
「能動的ニヒリズム」がニーチェ自身の立場でないということは、
1987年の遺稿5[71]でそれを「かのニヒリストたち」という書き方をしている
ことから分かります。
「能動的ニヒリズム」は、当時のロシアの暴力的アナーキズムを
念頭において書かれていると思われる。
>君がいう(3)のニーチェの立場は、形而上の問題よりも現実世界のほうが大事なんだという
>方向へは至らないんだろうかね?
至る場合もあるし、至らない場合もある。
至らない場合の例は
>>221 に書いたように、仏教。
仏教はプラトニズム的な彼岸世界への信仰をすでに克服しているけれども、
それにもかかわらず、仏教は現実世界を肯定しないとニーチェは考える。
仏教には「涅槃」がある。この「涅槃」をニーチェは彼岸ではなく「無」と解釈しています。
239 :
195 :2007/03/29(木) 09:48:00
>「私達は『生成の無垢』を台無しにする。」
>つまり台無しにされない生成の無垢があるということなんじゃないの?
>つまりは前に書いた「切磋琢磨の力の世界」が…
彼岸世界を否定して残された唯一の現実世界を「切磋琢磨の力の世界」と見るのは、
あくまでもニーチェによる世界解釈(力への意志)です。
仏教はこの唯一の現実世界を、また別な風に解釈する。別な風に解釈したからこそ
それを肯定できなかったということでしょう。
それに対してニーチェは唯一の現実世界を「力への意志」として見ることで運命愛に到達できた。
>>234 >彼岸への憧憬の内容が余りにも美しいのでこの世界がみずほらしく思える。しかしそれは
>現実世界(リアル)が耐え難いと背を縮こませる者の愚痴なんだ、というのがニーチェの
>論調なんじゃないのかね?
そうです。
ただ、「愚痴」といっても、当時の弱者が自己を保存するためにはそうせざるを得なかった
という必然性があったことも重要です。
弱者が彼岸世界への信仰によって自ら没落することを防ぎ、そして彼らが次第に力を蓄える
ことによって、やがて「神」が不要なものになるという歴史的必然性のようなものがそこにはある。
240 :
195 :2007/03/29(木) 09:48:44
>>235 >君の立場は「一切は徒労だ、全ては虚しい…」とぼやく背面世界論者と同じスタンスの
>ままなのではないのか? それでどうやってニヒリズムの超克を果たすんだ?
永劫回帰の「ニヒリズムの最も極端な形」においては、すでに、
「一切は徒労だ、全ては虚しい…」の立場は乗り越えられている。
「一切は徒労だ、全ては虚しい…」と思ってしまうのは、彼岸世界への信仰を放棄した後も、
まだ二世界論図式から脱却できていないからです。
>>231-232 の言い方でいえば、まだ「神の影」の中にいるから。
従来の「真理」に代表されるような彼岸的なものを、
まだ価値尺度として持っているということです。
この点において、「神の死」と「神の殺害」には大きな違いがある。
自分が神の殺害者であることを自覚する精神は、尺度としての彼岸をも
徹底的に排除しようとする精神であって、「真理は存在しない」という
ところまで行く。
このように、(3)のニヒリズムにおいては(2)のニヒリズムはすでに
乗り超えられている。
241 :
195 :2007/03/29(木) 09:49:25
しかしまだそれは一切肯定の立場ではない。
>>212 で私は
「力への意志は、この永劫回帰という最も極端なニヒリズムから、
一切肯定へと向かう転換点となる「新しい世界構想」です。・・・
力への意志がどのような意味で価値を転換するのかについては省略しますが」
と書きました。
彼岸世界の否定がそのまま「運命愛」になってしまうのなら、ニーチェの思想は
「哲学」とは言えないほど非論理的なものとなってしまいます。
世界を力への意志と見ることで運命愛が可能になる。そこのところを
もっと論理的に考えていかないとだめだと思う。
>>237 >だから、どうして人間の心理の問題じゃ駄目なんだろうか?
どういう意味で「人間の心理」と言っているのかよく分からないけれども、
キリスト教価値体系として確立されて二千年近く世界を支配してきたものを
「人間の心理」に還元するのは無理なんじゃないですか?
たとえば法的な文書などもそれによって長く支配されていて、
それはかなり客観化されて普遍化されたものになっているわけだから、
そこには「人間の心理」「思い込み」に還元できないものがあると思います。
力への意志がどのような意味で価値を転換するのかについては省略しますが」 と書きました。 省略しないで書いてくれよ。
243 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/29(木) 12:37:05
195氏へ >キリスト教の神を信じない人間でも、そういう価値体系と無関係ではない。 >ニーチェはそれほど、このキリスト教価値体系(つまり「神」)の支配を大きく考えているのです。 Godが存在しない人間にとっても、「キリスト教価値体系(つまり「神」)」が大きな意味を 有しているというのは、それこそ人間の問題だからです。かつて、未開の地は探検家によって 「発見!」され、牧師によって「福音!!啓蒙!!」され、結果必ず侵略征服支配されました。 ニーチェは真理や美徳に対しても常に懐疑します。そのあたりとかね合わせて考えることも 重要です。やはり、人間の問題であって、キリスト『教』「自体」の問題、神「自体」の問題 ではないということです。 >キリスト教価値体系として確立されて二千年近く世界を支配してきたものを >「人間の心理」に還元するのは無理なんじゃないですか? >たとえば法的な文書などもそれによって長く支配されていて、 >それはかなり客観化されて普遍化されたものになっているわけだから、 >そこには「人間の心理」「思い込み」に還元できないものがあると思います。 それは大きな誤りです。 我々人間にとって、最大の問題は我々自身です。我々の信憑がいかに強固であるかと いうことが明白になるだけの話です。それが強固であるからといって、我々人間とは 無関係に存在するかのように「捏造する」ことの愚かさをニーチェは告発しています。 そして、それを我々人間の問題にすることを要請しているのです。「力への意志」とは そういうことです。なぜ、「意志」なのか、そのあたりを考えれば分かることです。
244 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/29(木) 12:41:09
>還元できないものがある こういう結論なら、ニーチェは最後のニヒリズムに堕し滅び去ることを勧めたという ことになります。たとえ「還元できないものがある」ということであっても、そうは 思わず生きろということが「意志」です。 195氏はニーチェに詳しい方で細部に関しては整理された形で話しされ、大変参考に なると同時に敬服しています。これからも御教示いただきたいと心から思っています。 でも、人間の外部に超越する視点をニーチェに見出すことには反対です。彼はそれを否定 したのです。彼はそれだけを言っていると理解しています。 >それはかなり客観化されて普遍化されたものになっているわけだから ニーチェはこれこそ撃ったのです。 氏がなぜ最後に絶対や真理、プラトニズムによって核心を解消しようとするのか、 そこが理解できません。それが最終なら、途中は全く無意味になるのですから。
245 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/29(木) 12:46:52
>それはかなり客観化されて普遍化されたものになっているわけだから ニヒリズムとは、こういう超越を前提にすることで生じるものです。 徒労感とは力が及ばないということです。「及ばない」ということが超越です。 ニーチェは超越論的な視座に逃げることを回避しているわけです。 神、真理、絶対とは超越の問題です。
246 :
考える名無しさん :2007/03/29(木) 13:52:35
それで、お前らはいつまで本の知識をひけらかすのよ。
つまりこういうことだろ?
君は『神の死』とその影響下を"社会現象”として語りたい。
そのためには絶対的な影響を誇る神の脅威を(ニーチェの遺稿集でもそれを人間の
心理に還元する書き込みが多いにも関わらずそれをわざわざ意図的にシカトして)
第一義に持ってきて論旨を発展させたい、と…
それはそれでいいんじゃないの。内容が興味深くて面白ければ…
プロローグとfinばかりで本編がダイジェスト版なのが不満だけれども…
「一つの新しい誇りを私の自我は私に教えた。その誇りを私は人間たちに教える。
もはや頭を天界的な諸事物の砂の中(形而上)のなかに突っ込まないで、頭を
自由にもたげることを、大地に意味を賦与する一つの地上的な頭(思考)を!」
「神は一個の仮想されたものである。だが、私は望む、君達の仮想が思考可能な事柄の
範囲内に制限されることを。君たちは神なるものを思考することが出来るだろうか?
――むしろ逆に、一切を、人間の思考し得るもの、人間の観うるもの、人間の感じうる
ものに変化させること、それが君たちにとっての『真理への意志』を意味することを!
君達自身の感覚する事柄をこそ、君達は究極まで思考すべきだ!」
で、ここで永劫回帰は形而上ではないのか?、という疑問が入るわけだ…
さてさて。
>>246 >それで、お前らはいつまで本の知識をひけらかすのよ。
君が自分で本を読むことに興味を覚えるか、どうでもいい書き込み以上の事を
するようになるまでだろ?
248 :
考える名無しさん :2007/03/29(木) 15:15:12
本の知識とか言ってるのはひがんでいるだけだろ。 いましいのはイヤだぬ
>>222 >あなたが言及した蛇を噛み切る場面は、その決定的転換を
>象徴的に表しています。
あの、今ごろで申し訳ないんだけど、この解釈の内容は君にとって
どういうものなんだろう?
つまり決定的転換とは?
250 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:02:41
『図解雑学 哲学』と『哲学マップ』を読む限りでは、ルサンチマンという語は、キリスト教的な道徳を振りかざして他者に対して精神的優位性を得ようとすることを批判するものであるが、 これがニーチェが用いたとされるルサンチマンの正しい理解の仕方である場合、インターネット上でアホみたいに使われているルサンチマンという語の使い方は誤っていないか? もっと言うと、ニーチェの言うルサンチマンが妬みという日本語に翻訳することができるなら正しい場合もあるだろうが、実際にはそうではないのではないかということだ。 たしか『図解雑学 哲学』では、屈強な部族が弱小部族を侵略した例で説明されていたが、この説明の仕方が正しいなら、弱小部族が道徳を持ち出したのはいきなり襲い掛かってきてむかついたからだと思う。 つまり、自分たちも他の部族を襲いたいという欲求があるがそれをする能力がないから道徳を唱えるのではなく、平穏に生活していたかったのに何もしていない相手に強引に邪魔されたからむかついただけなのではないのか?
251 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:07:26
たとえば、道路を歩いていていきなり殴りかかられたら、より多くの人は「何なんだこいつは?」と驚きとともに怒りないし恐怖がこみ上げてくると思う。 「わたしもこいつと同じように人に殴りかかりたい……しかしその勇気がないから……」などと考える人はほとんどいないと思うが? ほとんどいないなら、やっぱり妬みではなく、怒りないし恐怖だろう。
252 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:10:38
多数派が、暴力団の殺人事件では騒がないのに、表社会の人間による殺人事件で騒ぎ立てることについても、妬みだとは思えないけどあな。 だからと言って、道徳というのは建前で、やっぱり怒りやら、嫌悪感やらだと解釈している。 しかし、インターネット上でアホみたいに使われているルサンチマンという語の使い方に従うなら、この例でも妬みから殺人者を攻撃していることになるのか?
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%B5%A5%F3%A5%C1%A5%DE%A5%F3 ニーチェは「強者」の貴族的道徳は「わたしはこんなことができる」だから「わたしはよい」ゆえに
「わたしのようにある、できることはよい」という自己肯定から善をモデル化し、その欠如、不足として
悪をイメージするのに対し、「弱者」の奴隷道徳は、「あいつは敵、迫害者だ」だから「あいつはわるい」
ゆえに「あいつと対立するわれわれは正しい」という憎悪、他者の否定から悪をモデル化し、その否定、
反対者として善をモデル化するとして、後者の善の基礎にある怨恨感情をルサンチマンと呼ぶ。
そこから奴隷道徳の善は、否定の意志、憎悪を常に隠し持っているため、抑圧的、欺瞞的、病的だとして
批判するのである。
254 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:37:28
>>253 ■ルサンチマンは妬みではない。
■貴族的道徳の下では、(そのような者がいるとすれば)全知全能の存在者のみが絶対的な善で、それ以外の善は相対的である。したがって悪も相対的である。
■強者と弱者の善悪の使用法に違いがある。
■結局はどちらも個人的な、あるいは自らの帰属集団/準拠集団に共有されている感覚や感情を論証なしに(その必要すら自覚せずに)正当化ないし絶対化しているという点で同質である。
■要するに殺したもん勝ち。(わたしは誰よりも多くの人を殺すことができる。→わたしは優れている。→わたしは善である。)
ということか。
3つめと4つめについて探究が必要なようである。
3つめ:どのような善悪概念を正当化し得るか、あるいはそのような唯一の善悪概念はないか。
4つめ⊃3つめ:正当化の根拠〔何がわれわれの信念や行為を正当化し得るか、あるいはそのような何かは存在しないか〕についての探究
255 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:46:21
いささか俗流心理学〔他者の心理を過剰に読み込み、論証なしに正当化する似非学問〕に傾倒しているとは言え、分からなくもない。
しかし、あくまでも分からなくもないという程度で、やはり俗流心理学を正当化しているようでは……。
ただし、
>>253 の引用文が本当にニーチェが考えていたことなのかという疑問は残る。
256 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 22:52:52
しかし、強者と弱者という概念がよく分からなくなってきた。 大企業や派遣企業の経営者は一般に強者とされており、彼らは自由競争と規制緩和を言い立てている。 そこでわたしが提唱しているのは次のようなことだ。 自由競争を言い立てるならば、すべての規約を廃止せよ。殺人の発生も自由な競争に含まれ得る。 最初に自由という語を安易なし方で使用し始めたのはそっちであるにもかかわらず、わたしが安易な仕方で使用した途端に自由という語に敏感になるのであれば、いったん経済活動を停止して自由という概念について各自で徹底的に考え、その後に議論することにしよう。 規制緩和を言い立てるならば、あらゆる規制を緩和せよ。 殺人の規制を緩和し、経済活動に殺人を組み込むのである。 しかし、強者と目されている人びとはこれを拒絶するよなあ? それはなぜだ? 殺されないこともできるはずでは……? そもそも殺人や暴行や強姦を悪として禁じることはニーチェによってまさにルサンチマンとされた行為ではないのか?
目の前の不当な暴力に対して A:)間違ったことは正すべきである。私には戦う用意がある。私は正義である。 B:)私は臆病であるが暴力は振るわない。他人に危害を与えない私は善良である。 善人であることのベクトルが違う。
253はちょっと違和感があるな。 ニーチェは主人道徳と奴隷道徳とを区別したのはその通り。 主人道徳(強者)とは人間自身のこと。「私が善い人間である」 奴隷道徳(弱者)とは人間間に存在するもの。「私たちは主人道徳(強者)を選ばなかった者たちです」 奴隷道徳に属している人達は、弱者を選んだという負目の代償を強者そのものに求める。 「強者であって良心の疚しさはないんですか?」と。これがルサンチマンである。
259 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 23:01:56
>>257 うん。
だからこそ、
>>254 で言ったように、正当化し得る善悪概念の探究が必要だと思う。
AもBも論証なしにそれを正当化しているから、自己中心性を発露している点で同質だ。(これも
>>254 で言った。)
本当は、論証できないなら、AもBも「わたしとしては〜を間違っていると感じる」とか「わたしとしては〜は嫌いだ」としなければならない。
これは多数派であっても、少数派であっても同じことだ。(多数派あるいは少数派のいずれからの感覚や感情が常に正しいということが論証されるならば、話はまた別であるが。)
そこで、認識論の話題になっていく。
ちなみに、わたしは「不当な暴力」ということも疑う。
それが不当であるという信念は正当化することができるのか。
正当な暴力とは何か。なぜそれが正当であるという信念を正当化することができるのか。
集団的いじめの現場とか?
261 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/29(木) 23:08:25
>>258 やっぱり強者と弱者についてよく分からない。
両者は相対的な関係ではないのか?
全人類が一律に強者であること、あるいは反対に弱者であることなどできるのか。
あと、絶対的に規定できるものであったとして、弱者を選んだことがなぜ負い目になるんだ?
>>261 相対的じゃないね。弱者が勝手に強者に対して負目を感じているだけ。
弱者は「強者になるという選択肢もあったけど、それをせずに弱者を選んだ」、
という前提があるから、強者に対して負目を感じる。
それがなぜ?と思うのなら、あなたは弱者じゃないんじゃないのw
ニーチェは刑罰そのものも負債を負った者の復讐(債権者=債務者の関係)が前提とされているといっている。
実際この世は弱者が勝利を収めた世界で、ニーチェが憂いでいるのは未来の強者が生まれないってことだからね。
良心の呵責がないか、自分に誠実か、勇気があるかでいいんじゃね
264 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/30(金) 00:34:41
>>247 >プロローグとfinばかりで本編がダイジェスト版なのが不満だけれども…
いえいえ、本編は195氏が十分述べられています。私は、195氏の結論が
腰砕けというか、物足りないと思ったので意見を述べたまでです。
それと、私はニーチェ「を」語る、あるいは考えるという立場ではありません。
ニーチェ「で」考え語っているということです。本編、すなわち細部はそのために
必要なら言及します。例えば、
>君は『神の死』とその影響下を"社会現象”として語りたい。
神が死んだとしても、やはり神の影は依然としてある。あるいは、神が死んだことで
キリスト教道徳に拠りかかっていた人々に拠りかかるものがなくなったということ。
そういう二義性を味噌糞に表現しているようですね。
引用の部分に関して、ニーチェは「影」と言っているんでしょう。少なくとも「影」には
後者の意味はないと思います。
それから、「影」は社会現象ではありません。「影」の結果、何か社会現象のような
ことがあるでしょうが、それは結果です。原因と結果の取り違えに関してニーチェは注意してますね。
現象なんて、どうでもいいことです。要は、「意志」の問題です。それを現象や社会のせいに
するのは別のGodの誕生だということです。
ニーチェは「一人立て」と言っているのです。
社会や現象と対峙せよと言っているのです。
最後に、195氏は核心において矛盾しているという指摘をしています。
そこをよく御理解お願いします。
265 :
考える名無しさん :2007/03/30(金) 00:38:09
「お前は悪い。だから私は良い」 この私は、相手を否定することで自分を肯定することしかできない者。 それを弱者と呼ぶ。つまり自分の中身がない。 または必要としない。
266 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/30(金) 00:38:45
ニーチェが暴いたことは、例えば、遠藤周作が「沈黙」で問うたことにも見出せる ように思うのはどうでしょうか。
267 :
考える名無しさん :2007/03/30(金) 00:59:17
神との照応関係によって自己同定しうる人間 また原罪―救済(至福千年)のユートピアイズムよって ある一定の時間軸の中で 人格的統一性を留保(としかいえない)できる 人間本性が ニーチェによって粉砕された(というか指摘された)ことが 20世紀的問題でしょう これがドストエフステキーやハイデガーのような 実存主義に流れるか 構造主義的マルクス主義に流れるかが 21世紀的分岐点でしょう ただ、何らかの意味で主体性を確保しないと こういった立論自体が無効になる という難題があるんですけどね 定点がないというのは 議論を無効にしますからね そこがニーチェの強みであり 弱点でもあるわけです。 生々流転、諸行無常ですね、はい。
268 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/30(金) 01:02:11
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc さん 以前どこかでお手合わせした者ですw 覚えておられるでしょうか。 >『図解雑学 哲学』と『哲学マップ』を読む限りでは、ルサンチマンという語は、 >キリスト教的な道徳を振りかざして他者に対して精神的優位性を得ようとすることを >批判するものであるが、これがニーチェが用いたとされるルサンチマンの正しい理解の >仕方である場合、インターネット上でアホみたいに使われているルサンチマンという語 >の使い方は誤っていないか? そういう理解の仕方で閉じるなら、キリスト教徒以外はニーチェを読む意味はなくなりますね。 それと、ルサンチマン解消のためにキリスト教道徳に拠りかかり逆転を目指したんです。 貧しい者、弱き者こそが幸せ者だという教えによって現実の貧困や苦悩の乗り越えを目論んだ。 現実に逆転することを意志するんではなくて、価値(体系)の転倒によって勝者(強者)になろうと する機制を暴いたのです。 >たしか『図解雑学 哲学』では、屈強な部族が弱小部族を侵略した例で説明されていた もうちょっとマシなもので理解した方がいいでしょうね。 あなたのような理解はナチズムの理解です。 例えば、ニーチェはヨーロッパより東洋を称揚します。ドイツよりフランスがいいと言います。 (自分、自民族)中心主義ではないんですよね。
269 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/30(金) 01:03:41
ルサンチマンって「すっぱいブドウ」ということです。 強者弱者も方便です。でなければ、永劫回帰との整合性はない。 強者がいいとか、そんなレベルではない。 価値体系を転倒させず、なおかつ「今」を肯定するような「ツワモノ」w ニーチェが言ってることはスゴイ理想的wwwwww そんな人間(超人)に誰がなれるかってw 主人道徳に生き、なおかつ敗れ、それをも肯定できる、何度でも肯定できる そういう人間にならないとアカンらしい。これはスゴイことなんだ。
270 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/30(金) 09:26:53
>>262 >あなたは弱者じゃないんじゃないのw
わたしの立場は、むかつくなら、それを正当化せずに復讐すればいい(したがって法も道徳も無用。人間は存在しなければならないという考えに正当性がなければそれが確定される。
ただし、わたしは加害者と被害者のどちらにも与しない)というものなので、強者にも、弱者にも当たらないと思う。
つまり、感覚や感情(に限らず他のほとんどの何か)の正当化は論証を行ってからでないとできないだろうが? ということだ。
しかし、正当化を行わなくても感覚や感情を持つこと自体は可能なので、冒頭の考え方に向かうことになる。
復讐するのがいやならしなくてもいい。
論証なしの正当化さえ行わなければとりあえずは不問に処す。
もちろん、その信念や行為を正当化できず、その信念や行為と反対のものが正当化されるということが論証されたときには、過去の時点で持った信念や、過去の時点で行った行為は問題になるが。
>ニーチェは刑罰そのものも負債を負った者の復讐(債権者=債務者の関係)が前提とされているといっている。
感覚的にはわたしも復讐〔国家による個人的復讐の回収〕の意味合いも含まれていると思う。
ただ、わたしは法学や政治学や社会学や歴史学などをまったく知らないのでそれを結論とするには性急だ。
>実際この世は弱者が勝利を収めた世界で、ニーチェが憂いでいるのは未来の強者が生まれないってことだからね。
多数派もまた弱者だったということか。
弱者のなかで権力闘争が起こり、その覇者が多数派で、しかし、多数派も、少数派も内部で新たな権力闘争を行うということを繰り返すことにより階級が生じている。
>>265 >「お前は悪い。だから私は良い」
「お前は悪い。」から「だから私は良い」への流れは必然的か?
(「お前は悪い。」という考えや言明は「だから私は良い」という内容を含み持つのかということ。)
271 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/30(金) 09:29:40
@◆yk/JpL/Z9U >そういう人間にならないとアカンらしい。 この部分は論証されているのか? 論証に成功していないのに正当化しているなら、それは感覚や感情を即座に正当化しているということだ。 そんなもんほとんどの人間に今すぐにでもできて、実際にしているだろう。 そういうことなら主人道徳も、奴隷道徳も同質だと言ったんだけど。 >そういう理解の仕方で閉じるなら、キリスト教徒以外はニーチェを読む意味はなくなりますね。 キリスト教道徳を持ち出したのは手段ということか? >貧しい者、弱き者こそが幸せ者だという教えによって現実の貧困や苦悩の乗り越えを目論んだ。 最近で言えば「労働を通じた夢を見いださなければならない」みたいな風潮に似ている可能性がある。 >現実に逆転することを意志するんではなくて、価値(体系)の転倒によって勝者(強者)になろうとする機制を暴いたのです。 これは(1つ前の引用文と同様に)ニーチェがいうところの弱者の方法だと思うが、 じゃあニーチェは価値というものをどう見ていたんだ? たとえば、人間の言語とはまったく独立に存在することができるとか、 まったく個人的なもので、人によって違うとか、 人間の言語がすべて=人間社会がすべてだから人間社会の各時代の(さらには各場所の)多数派によって決定されるとか……。 ちなみに、多くの人間は多数派に共有されている価値を普遍的正当性があるかのごとく振りかざしているので、1つめと3つめの混同(混合ではない)バージョンになっている。 それで、たまに追い詰められたり、めんどうになったりすると、2つめの考え方を持ち出し、にわか相対主義/似非相対主義になる。
272 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/30(金) 09:31:07
@◆yk/JpL/Z9U >価値体系を転倒させず、なおかつ「今」を肯定するような「ツワモノ」w いつの段階で強者と弱者が決定するんだ? というのは、その文章を読む限りでは一度決定したらそのままいけということだと思うんだが。 すると、これは弱者の場合には「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という聖書にある教えの1つを抽象化したものにならないか? しかしニーチェは、 >価値(体系)の転倒によって勝者(強者)になろうとする機制 があってはならないと考えたということだ。 >現実に逆転することを意志する ことについては賞賛したか、そこまでいかなくとも何も批判しなかったということになる。 つまり、キリスト教的な道徳を持ち出さずに、その「現実の逆転」を遂行すれば、それについては別にいいということにはならないか? >強者弱者も方便です。でなければ、永劫回帰との整合性はない。 >価値体系を転倒させず、なおかつ「今」を肯定するような「ツワモノ」w >主人道徳に生き、なおかつ敗れ、それをも肯定できる、何度でも肯定できる ニーチェがいうところの弱者がこのようになるというのは真性のマゾヒストになるということか。 攻撃されることが嬉しい、気持ちいいという感覚あるいは感情を自然に持つことができるようにならなければ、弱者にとしては肯定するに至らないだろうから。
273 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/30(金) 11:19:38
>>272 において、なぜ弱者が超人になることが真性マゾヒストになることであると考えたかと言うと、
それはニーチェが肯定や否定といった語について一般的な理解の仕方をしていたというところから始まる。
たとえば、好き、嬉しい、楽しい、気持ち良いというのは肯定的感情で、嫌い、辛い、苦しい、気持ち悪いというのは否定的感情と捉えているということだ。
次に、超人は無感覚かつ無感情の状態に至ることではない(だろう?)。
ということは、弱者から超人になるには暴行、強姦、盗作、虐待、拷問などの状況を好き、嬉しい、楽しい、気持ち良いと思わなければ超人ではないのだから、
これは紛うことなきマゾヒストということになる。
274 :
考える名無しさん :2007/03/30(金) 13:02:05
「お前は悪い。だから私は良い。」が弱者の否定 による肯定でしか存在でき無いため、自立も出来ない。 「私は良い。だからお前は悪い。」は強者であり 肯定による否定である。 この特徴は否定してもしなくても自立できる存在である。 よってダンスを楽しむ。自分の足で。
人間性やその人格性を無視して是か非かを考えるからおかしくなるんじゃないのか? ニーチェのいう階位的な喩えは現状において多数少数の勢力分布として見えはするものの、 結局は個人の心理的なものが原点であって、弱者の立場にいた人間からでも考えを改めて 高貴たろうとする人間は生まれてくるかもしれない。それは決定的なものではなく「どう 自分たるか」という現在進行形の問題だ。(何故なら弱者的社会通念の中に生まれた人は それを空気のように感じて違和感を感じずに、他の可能性を思い浮かべないのだから…) ツァラトゥストラでは永劫回帰の件で「末人が永遠に立ち返ってくる!」と嘔吐感を口に した。無限に立ち返ってくるということはいかなる改善教育も徒労であるということを 意味するが、彼にとってはもはや結果は問題ではない。 「人間たちは、その敵対関係の中で、諸々の化身や幽霊(理想や目標・イデオロギー等)の 考案者となるべきであり、かくて、自分が考案した化身や幽霊を用いて、なお相互に、 最高の戦いを戦うべきだ! 善悪、貧富、高低など、諸価値の一切の名称、それらは武器であるべきだ。そして、生が 繰り返し自分自身を超克しなくてはならないということの標識として、武器の音を 立てるべきだ。」 ここにおいては『切磋琢磨の力の世界』、その力のぶつかり合いこそを是としているのであって、 それはとりもなおさず『生の高揚感』がその中で充実しうるからだ。つまり"結果”ではなく "過程”にこそ価値があるのだ。(彼が勧める『没落』とは何かを考える) 無限の円環を舞台として大活劇を繰り広げようというお誘いだ。 それにニーチェは弱者の利点も同時に考えている。彼は弱者の心理的繊細さを褒めている。 病的な繊細さは芸術においてもその深さを増すのに多大な貢献をしているし、弱者の 同胞以外を決して受け入れない排他的攻撃性はその異端の烙印を押された人間に『個の自覚』 を促すからだ。
>暴行、強姦、盗作、虐待、拷問などの状況を好き、嬉しい、楽しい、気持ち良いと >思わなければ超人ではないのだから、 目的が抜けている。つまり何の為にそれをするのか?
277 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/30(金) 13:15:23
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc さん あなたへのレスをこれ以上すると泥沼になりそうだ。 ただ、もうちょっと自分でニーチェを読んで、他の人物も知って考えた方がいいと 思うよ。まるでナチズムのニーチェ理解だ。 (>超人になるには暴行、強姦、盗作、虐待、拷問などの状況を好き) でも、これ以上の説明は195氏や他の方が適切だと思います。すいません。
278 :
考える名無しさん :2007/03/30(金) 14:11:00
>>272 >強者弱者も方便です。でなければ、永劫回帰との整合性はない。
>価値体系を転倒させず、なおかつ「今」を肯定するような「ツワモノ」w
>主人道徳に生き、なおかつ敗れ、それをも肯定できる、何度でも肯定できる
ニーチェがいうところの弱者がこのようになるというのは真性のマゾヒストになるということか。
ここで勘違いしている。これは弱者でなく強者のことだろ。
279 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/03/30(金) 17:45:48
>>276 強者がそうした行為を肯定するのではなく、弱者がそうした行為をされることを肯定するという意味。
そうした行為をされても否定してはならないというなら、そうした行為をされた場合には、そうした状況を好き、嬉しい、楽しい、気持ち良いと感じるといったように肯定しないといけないということだから。
ただ、こうした受け取り方は◆yk/JpL/Z9Uのいうナチズムによるニーチェ解釈(誤った解釈?)ということか?
>>278 >ここで勘違いしている。これは弱者でなく強者のことだろ。
その3つの文章は超人という状態にある人のことだと思っていた。
強者=超人ということか?
それから、
>ニーチェがいうところの弱者がこのようになるというのは真性のマゾヒストになるということか。
という部分は、
弱者が超人になるためには……ということを言いたかった。
あと1つ。
否定することを否定するというのは自己論駁的ではないか?
「他者を変えようとせずに自らを変えよ」と述べる者が、その時点で対象に変容を迫っているのと同様に。
相対主義の場合、この種の反論では崩壊しないらしいが、上の場合は厳しいと思う。
まぁ、先に否定した者のほうがアレだとしても、それを否定するなら五十歩百歩というやつになってしまうのでは。
>>277 >もうちょっと自分でニーチェを読んで、他の人物も知って考えた方がいいと思うよ。
たしかに、こんなに取り沙汰されている学者の考え方を『図解雑学 哲学』と『哲学マップ』の2冊(しかも同じ著者によるもの)で理解しようというほうが無理というものだった。
280 :
|´_`)つミキ ◆amuOBZI1yA :2007/03/30(金) 22:51:33
ニーチェの思想をヒントにしたり、関連させつつ、
男性論、男性差別反対論を展開しています。
|´_`)つみスレ【1】 〜哲学的な男性差別論〜
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1174799518/l50 56 名前: |´_`)つミキ ◆amuOBZI1yA 投稿日: 2007/03/30(金) 21:07:44
特に、ルサンチマンと「力への意志」は、
わたしの「バカマッチョ」という概念と関連させて論じることができます。
59 名前: |´_`)つミキ ◆amuOBZI1yA 投稿日: 2007/03/30(金) 21:20:25
■バカマから言うと、
●メンリバというのは、「フェミゾニズム社会」で、「男らしく成功し(ようとし)ない<負け組>」が、
力への意志(あるしゅここでは、現実社会で勝ち組になる力)を放棄し、
「バカマは、女の奴隷になっているので馬鹿だ。」といい、あるしゅルサンチマンを駆使しているように見えます。
ところが、これを逆に、
■メンリバから見ると、
●バカマというのは、「フェミゾニズム社会」で、「奴隷であることをやめる知恵を持たない男」が、
「おれは強い、能力がある、カッコイイ」といいつつ、
時には過労死し、ホームレスや自殺も多いという、「男性的な生き方」している。
これは、あるしゅ「男性的な生き方から解放されることができない、石頭男の負け惜しみ」ではないか。
というわけですね。
そして、これもあるしゅの負け惜しみ的ルサンチマンなのではないか?とも言えないでしょうか?
つまり、わたしが興味を持ったのは、
ルサンチマンを駆使して、あるしゅ「負け惜しみをいって見栄をはっている」のは、
バカマなのか?メンリバなのか?ということなのです。
そしてまた、それらを止揚する考え方は、ないだろうか?ということなのです。
281 :
考える名無しさん :2007/03/30(金) 23:11:27
ニーチェは不可能や無為にこそ、挑戦せよっていってるのか たとえばそれはスポーツや宗教、芸術のもってる美的な部分 それらは現実的な帰結をもたない こんなことを考えてると三島由紀夫とかは強くニーチェの影響を受けてたんだな とか思える
俺はむしろ、『人間 太宰治』という本の中で太宰治がニーチェのツァラトゥストラを 愛読していた、ということに興味を覚えたけどなァ…
283 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/31(土) 11:51:24
>>281 >不可能や無為にこそ、挑戦
ここからニヒリズムが生まれる。ニーチェとは無関係。
そのような不可能、無為だという思いはルサンチマンとなる。
それを救ってやろうと僧侶階級は畜群を教会に集め、価値(体系)の転倒をすすめる。
あの世の幸せを約束してやろうと。
不可能を可能と「意志」せよ、これがニーチェだ。
>たとえばそれはスポーツや宗教、芸術のもってる美的な部分
>それらは現実的な帰結をもたない
これもニーチェとは無関係。あなたの個人的独白なら分かる。
少なくともニーチェにとって、芸術はすぐれて現実的だった。それはメタフォーとしの
意味であると同時に文字通りそうだ。ヴァーグナーとの関係は恋愛のもつれのような
リアルでアンビバレンスな現実性を持っていた。
ニーチェが芸術を現実「的」に転倒させることで自らの弱さから逃げたとする理解なら
分かる。ニーチェも別のあの世で自分を救おうとしたとも思えます。皮肉にも。
284 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/31(土) 12:16:04
再掲
>>強者弱者も方便です。でなければ、永劫回帰との整合性はない。
>価値体系を転倒させず、なおかつ「今」を肯定するような「ツワモノ」w
>主人道徳に生き、なおかつ敗れ、それをも肯定できる、何度でも肯定できる
>>279 >強者がそうした行為を肯定するのではなく、弱者がそうした行為をされることを
>肯定するという意味。そうした行為をされても否定してはならないというなら、
>そうした行為をされた場合には、そうした状況を好き、嬉しい、楽しい、
>気持ち良いと感じるといったように肯定しないといけないということだから。
負け続けることを前提にするのはもはや奴隷道徳です。
次は勝つかもしれない、勝とうと「意志」することを歓び、肯定するのだと考えます。
勝ち負けはあるでしょう。でも、「強者 ー 弱者」という構造の無効を言っていると
私は理解します。そういう構造の超越が超人です。
285 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/03/31(土) 12:17:45
ニーチェは当時ヨーロッパにも影響力を持ちつつあった社会主義に対しては批判的 でしたが、私はニーチェ「で」マルクスを創造したいと思っています。 マルクスは価値体系の変更で誤魔化さない。だから、強者弱者の構造の必然を社会的に 撃った。社会構造を転倒させることで解消しようと目論んだ。 ニーチェは我々の内面において撃った。内面の構造を転倒させることで強者弱者構造の 乗り越えを目論んだ。 みんなが貴族っていうのが社会主義かもしれない。 それは新しいマルクスという意味であって、現左翼党派とは「直接」には関係ありません。 弱者の消滅は強者の消滅でしか規定されえない。それが論理的です。 なぜなら、強弱は相対的にしか成立し得ない構造だからです。 強弱構造の本質は、対立項によって遡行的に規定されるということです。 強弱の消滅を超人という方便で語った。そう理解します。 (ニーチェの信仰は無意味です。彼の可能性の中心をえぐればいいと思います)
286 :
考える名無しさん :2007/03/31(土) 15:10:37
弱者は強いものにつぶされて終わりよー、285だって弱者になりうる。 今は論理的なロンリーウルフよりも 深く思考することに斥力が働く浅はかな“集団”の方がよっぽど強いんだから。 まずは畜群に深く考えることの楽しさを覚えさせることからかな? そして考え詰めた(つまりあらゆる可能性を否定しないことを意志した)人々が 根本的な絶望を背負った時に、信仰によってしかその克服は図れないということを、 285という超人が説いたらおもしろいなー。 科学による信仰の否定から逆説的に、 私たちが“実は信仰している”ってことに気が付く日はそう遠くないかもねー いやー、ただの妄想だから無視してねーw
287 :
考える名無しさん :2007/03/31(土) 16:06:46
____ . / \ /─ ─ \ . / (●) (●) \ . | (__人__) | \ ` ⌒´ _/ | \ | | | | | | | | | | | | | | | |
288 :
考える名無しさん :2007/03/31(土) 19:13:28
>>283 不可能や無為に対する挑戦って、ルサンチマンに対する挑戦と同義じゃないの?
ニーチェとは無関係とは思えないが
で、三島のニーチェによる影響についてあなたの意見は?
>>286 の話なんだけれども、信仰という言葉を『希望・願望』という言葉に置き換えてみれば
面白くなるかなあ。
誰でも将来のビジョンっていうか、何らかの展望や期待・見返りっていうものがあるから
努力を惜しまない、っていうのがあるわけだけれども、超克っていうのが苦しみや困難・不幸に
対して「それすらもよし!」という『シーシュポスの神話』的な覚悟がある場合、そこには
信仰は必要ないわけ。
かといってそれは運命論者の諦観でもなければ刹那主義の高揚感嗜好でもない。
己自身を克明に"計測”しながら『腕試し』を興じるように自分を生きていける人。ここでは
もはや幸・不幸は問題じゃない。
シーシュポスに悲壮感は無い。だからこそ我々は敬意を感ずる。
(なんでいきなりカミュを出すかというとその本にニーチェの名前を彼が出すからだ)
まあ作家つながりの脱線なわけだが…
"メメント・モリ”じゃないけれども、我々には万人平等に『死』という"限定”がある。
どんな個人的努力も(仮に自分の功績が後世に伝えられるという希望を持ったとしても)
この『私』自身においては終幕を迎える。
カミュは本の中で「人生の質を上げることは出来ない。なぜならばそれは最後を振り返った
ときにしか実感できないものなのだから。そうではなく、より多く生きること」と書いている。
より多く生きるということは、より多くの"カオス”の中に自分を投入し、泳ぎ渡る自己を
実感することだと私は感じている。
悲観も楽観もなく、なおかつ諦観すら引きずらずに生に没入できる怪物、これが『超人』の
一端なのではないのか、というのが私の想像だ。
『死』つながりで、もう少し書こう。 ニーチェの永劫回帰を考える前に、ツァラトゥストラの言う"深淵”の意味を考察すべきだと 私は思う。「見るということ、それ自体が"深淵”を見ることではないのか!」と彼は言う。 死の予感を実体験するとき、人はこの『世界』と自分との断絶を感じる。何の接点もなく 自分が点在しているという恐怖は、一切の心の絆を情け容赦無く引き千切る。 『2001年宇宙の旅』で、宇宙飛行士が船外修理の最中、何らかの拍子に宇宙空間に投げ出される というスローシーンがあった。二度と自分の故郷に戻れないという確信とともに、永劫の暗闇に ひとり投げ出されるというのは、『死』を形容するに最も秀逸な表現だと思ったものだ。 そしてニーチェも嘔吐感と偏頭痛と眼病の苦しみの中で病床を幾夜も過ごした人間である。 我々が頭痛と発熱で寝込んだ夜、ふと暗闇の中で目覚めるよりもなおのこと深い孤独の中で 死の予感に切迫したであろうことは想像に難くないだろう。 そういうことを考えながら彼の永劫回帰を再び考えるとき、彼にとってそれは『宗教的』と 我々が形容するよりもなおのことリアルな存在だったのではないか、と夢想したりする。 生と死、という対比の中でこそ、我々の現存在もその照度を上げるのではないか。
291 :
考える名無しさん :2007/03/31(土) 22:10:13
うまいこというねえ。
. ∩____∩: :.+ ワク. | ノ ヽ+.: :.ワク/ ● ● | クマ ミ '' ( _●_)''ミ クマ . / ._ |_/__ノヽ -(___.)─(__)─
293 :
考える名無しさん :2007/04/01(日) 01:32:53
>>289 希望や願望も、価値への信仰でもあり得るんじゃないかとも思えなくもないんだよねー。
ただ“価値への信仰”なんて可能性は価値を疑った人しか意識しないだろうけど。
そして、それすらもよし!価値に価値があると信じよう!みたいなw
ただ信じる絶対的な根拠はなくて、
信じたいっていう衝動とか意志がそうさせるように思えなくもないから、
あえて“信仰”っていう言葉を使ったんだけど、
しかしそれが信仰によるものであったとして、それがなんであろう、
それすらもよし!みたいなw
ところで永劫回帰って、
仮にこの世界と全く同じ世界の無限ループだと解釈した場合、
論理的にはそれを背負うことを意志した人に
運命論者の諦観まで背負わすこと(背負う背負わないは別として)になるかなー?
価値を信じたいという衝動とか意思までもあらかじめ決定付けられているものだと。
そこでも、しかし、それすらもよし!と信じよう、みたいなw
ニーチェは生の高揚感嗜好から、
希望に向かって歩き出すためにあえて絶望を得ることを
意志したんじゃないかとも思えなくもないような気がするなー。
294 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 02:24:11
>>286 あなたの主張は面白い。もっと語って下さい。
なお、私は弱者であってルサンチマンを一杯かかえた人間です。
その上、価値体系の変更なしに本当の意味で強者に自信や可能性はないと思っています。
だから、強弱を無効にする視線でニーチェを読みます。
すっごい単純にたとえるとさ、すっごい長い道を歩いてるわけ。 で、それを横から眺めると実はすっげー大きなわっかのうえを歩いているわけ。 そいで実はおんなじ位置で足踏みしてる状態なんだけど、 それはそれでいいじゃん、たのしもうよ、とかいってんの。 また同じ地点を結局またぐことになるし、おんなじことの繰り返しなんだけど、 他に行くとこもないわけジャン。んでやっぱ歩いていくわけ。ムダじゃね? でもそいつムダじゃねーよっつってんの、笑って。わけわかんなくね?
俺自身はニーチェに対して、この人は「生を肯定する哲学」を志向した人だと思ってる。 それをもはや『哲学』と呼びうるのかどうかという問題もあるわけだが… 例えばユングという心理学畑の人間が、その領域を超えてオカルト方面にまで研究対象を拡げたように、 ニーチェもまたジャンル分けが簡単に出来ない種類の人間であると思っている。 ツァラトゥストラの中で他の哲学者たちを「青白い幽霊」と表現したように、彼の興味は 生を肯定するための思想へと伸びた。 異端のままで没後100年たってもなお人々の興味をそそるというのはその中に 人の心の琴線にふれるテーゼがあるからである。 で、俺はその方向で・・・
297 :
195 :2007/04/01(日) 12:25:33
>>285 >勝ち負けはあるでしょう。でも、「強者 ー 弱者」という構造の無効を言っていると
>私は理解します。そういう構造の超越が超人です。
あるがままの世界には「強者 ー 弱者」の差異があるとニーチェは考えていたと思います。
その強弱の差異は、今まではキリスト教によって隠蔽されていた。その隠蔽されていた差異を
露呈しようとしたのがニーチェのデカダンス批判であり「位階秩序」の思想だと思う。
キリスト教は、唯一の世界であるはずのこの現実世界を、彼岸へと渡るための単なる橋
と見なす価値体系をつくり上げて、強者にも良心の疚しさを感じさせることによって、
強者を弱者と同じレベルにまで引きずりおろそうと目論んだ。
キリスト教がこのようにして強者と弱者との差異を隠蔽しようとしたことは、
「神の前での平等」という思想に端的に現れている。
「ここでとてつもなく有害であるのは『神の前での人間の等価』という概念である。・・・
この思い違いが極めて甚だしくなったので、まさしく生の偉大な巨匠たちが最も侮辱的な
呼称の烙印を押された。今なおチェーザレ・ボルジアのような人物は否認されねばならない
と信じられているが、これは全く笑うべきことである」(遺稿)。
ニーチェの考えでは自然は決して平等を説かない。
「『等しき者には等しきものを、等しからざる者には等しからざるものを』
これが偽りのない正義の言葉であろう」(偶像の黄昏)。
したがって神の前での平等の思想は、自然の位階秩序に反する。
ニーチェの「位階秩序」という思想は、キリスト教によって隠蔽されていた
あるがままの世界、つまり、自然のもつ創造的な強さが強さとして現れ、
力の弱さが弱さとして現れることによって形成される自然の秩序のことだと思う。
「位階秩序とは、生そのものの最高の法則を定式化しただけのものである」(アンチクリスト)。
298 :
195 :2007/04/01(日) 12:26:22
それから、
>>243 の『我々人間とは無関係に存在するかのように「捏造する」ことの
愚かさをニーチェは告発しています。 』については、その通りだと思う。
ニーチェはすでに中期の頃から、「宗教は人間の不安と欲求から生まれた」(『人間的なもの』)
という風に、神の起源が人間的なものにあることを曝露するという心理学的宗教批判をしていました。
しかし後期になると、起源への問いは起源そのものへの問いに変化し、それはデカダンス論となります。
「いかなる種類の人間がこのような考え方をするのか?」とニーチェは自問し、そしてこう答える。
「非生産的な、病んでいる種類、すなわち生に疲れている種類の人間である」(遺稿)。
中期の批判における宗教の起源への問いは、神を生み出した「生そのもの」への問いに深化しています。
そしてニーチェにとって、あるがままの生とは、強弱の差異のある無数の力への意志の
作用連関によって生起しているものなのであり、そこには強者と弱者の差異つまり位階秩序があります。
299 :
195 :2007/04/01(日) 12:27:02
>>293 >ところで永劫回帰って、
>仮にこの世界と全く同じ世界の無限ループだと解釈した場合、
>論理的にはそれを背負うことを意志した人に
>運命論者の諦観まで背負わすこと(背負う背負わないは別として)になるかなー?
>価値を信じたいという衝動とか意思までもあらかじめ決定付けられているものだと。
>そこでも、しかし、それすらもよし!と信じよう、みたいなw
ニーチェは若い頃に『運命と歴史』『意志の自由と運命』などの論文を書いているから、
ニーチェもそのように、必然性と意志の自由については長く考え抜いた人だろうと思います。
そしてそれが後期の「運命愛」の思想として結実する。
普通の言語感覚をもって見れば、「運命愛」という言い方そのものに矛盾が感じられる。
すべてが「運命」だとすれば、「愛」は余計なのではないのかという感じがする。
しかしニーチェはそもそも因果的必然性というものを認めていない。
その点ですでに、決定論と意志の自由という対立は、ある意味で超えられている。
したがって「運命」とは、因果的必然性によって支配された決定論的世界ではない。
ニーチェは運命愛について、「別様であって欲しいなどとは決して思わないこと」(この人を見よ)
と書き、遺稿では「あるがままの世界に対するディオニュソス的な肯定」と書いている。
つまり「運命」とは、『別様ではありえないあるがままの世界』ということになる。
そしてニーチェにとっての「あるがままの世界」とは、無数の力への意志の相互作用の連関
として生起しつつあるものである。「『世界』とはこのような諸作用の遊戯全体を表す言葉」(遺稿)
なのである。そしてそのあるがままの世界が「別様でありえない」のは、力への意志が常にその
「最終的帰結を引きだしている」(遺稿)からである。
300 :
195 :2007/04/01(日) 12:28:28
ニーチェは「『人間と世界』が『と』という小さい語の高尚な不遜さをはさんで並置されて いるのを見る時、すでに笑う」(悦ばしき知識)と言う。 「運命愛」は、『人間』と『世界』との一体性を示す。 そのような一体性が可能であるのは、『人間』と『世界』が同質だからである。 「世界は力への意志である。それ以外は何もない。そして君たち自身も力への意志である」(遺稿)。 無数の力への意志の作用連関である「あるがままの世界」に、自らも力への意志として、 あるがままに関わるところに、この一体性が生じる。 この点において通常の「運命論」は、ニーチェの「運命愛」とは異なります。 「哲学的感受性の現代的形態としての宿命論でさえも、神の摂理への、あの極めて長期にわたる 信仰の帰結、意識されざる帰結である。すなわち、一切がどのように成り行くかは我々次第では ないかのようだ、我々はものごとをあるがままの成り行きに任せてよいかのようだ」(遺稿)。 運命論者は、世界と人間との同質性を認識しない。 そして、世界の作用連関の外に立っている。 それとは対照的にニーチェはこう言います。 「人間が過去を見やって運命全体に捧げるのと同じ畏敬の念を、 人間は自己自身にも捧げねばならない。 自己すなわち運命」(遺稿)。
301 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 13:02:43
>>288 >不可能や無為に対する挑戦って、ルサンチマンに対する挑戦と同義じゃないの?
私の言い方がまずかったようです。すいません。「挑戦」を結論にするのは何か
ニーチェのイメージではないように思うので。
超人でも幼児でも、そんな「挑戦」という感じではないでしょ。永劫回帰もそう。
いつまでも挑戦する意識なら、それこそルサンチマン。「挑戦」は今の肯定にも
ならないと思う。だから、ニーチェ的だとは思えないんですが、どうでしょうか。
>三島
三島のすべてを読んでいるわけではないですが、今手元にある「現代思想の源流」の
ニーチェ論はすごいですね。基本的には永井や竹田より、これがいいと思います。
入門としてレベルが高すぎますかね。本格的だからいいと思うけど。
ニーチェの超人と幼児は根本的に矛盾するとか、そういう指摘はその通りだと思います。
批判しながらも、カントの認識論をパクって「力への意志」を正当化しているとか。
302 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 13:03:25
三島の「ニーチェの影響」に関して 『ニーチェの文章や論理展開には哲学的な意味での堅牢さが欠けている』(三島) 『反論理性』『両義的』『根拠のなさ』『カント以前』『力んだ内容空疎な誇示』 『今日から見たらキッチュで、我慢ならないその文体』『相互矛盾』『過剰解釈』 ぱらぱら拾っただけでもこれだけあります。三島がニーチェに向けた言葉。 だからこそ、近代を撃つ妙な(エロティックなw)エネルギーを多くの人が感じる んでしょうね。左右を問わず。 近代の堅牢な構築を撃つには、ニーチェ的な”両義性”が都合よく利用されたという 三島の指摘は全くその通りだと思いますよ。 だから、私は私のニーチェであっていいと思っています。そもそもニーチェって そういうものだということが三島の分析からも分かります。従って、永井のニーチェも 正しいニーチェなんですね。それを批判する人間は分かってないんです。 「読者」によって創造されるニーチェしかいない、それがニーチェの本質です。 でなければ、矛盾だらけのご都合主義しか見えないのがニーチェです。 ただ、私のニーチェは整合性のあるように「創造」しようとします。 その意味では構築であり、別の近代かもしれません。その点は自覚的です。 あなたが、私に「三島」を問われたことに正直驚きました。 私は三島によってニーチェを読める、あるいは分かるようになった部分があるからです。 こんなレスでよかったでしょうか。あなたの御意見もぜひお聞きしたく思います。
303 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 13:34:54
195氏へ
>>297 キリスト教道徳(価値体系)の欺瞞を撃つだけでなく、それを利用して支配する
教会や僧侶階級の嘘も暴いています。
強弱構造が自然(当然)ならば、僧侶階級や教会の作為(反自然)も擁護されるべきです。
なにゆえ、教会や僧侶階級という強者だけが告発されないといけないのか。
ニーチェの「ススメル」強弱構造だけが正当であるという根拠をニーチェは示しません。
我々の自然さとは、ニーチェが指弾した「作為」そのものなんですね、ニーチェ的には。
だから、彼は根本矛盾しているんです。
すべての強弱関係を肯定しないといけない。
一方的な基準となる別の価値体系を出し、ある一つの強弱構造を強要するのは既に反人間的です、
ニーチェ的には。
私はニーチェの可能性の中心を見たいですね。
誰かから本編が「ショボイ」というコメントをもらいました。彼のテクストの細部は矛盾だらけです。
論理破綻も実は多い。それを「客観的に!」整合性があるように読むことは不可能です。
304 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 13:36:09
続き 細部を論じるなら、もっと徹底して詰めないといけない。甘い、そう思います。 195氏のことを言ってるんじゃーないんです。ニーチェのテクストとはそういうものだからです。 ここでは、ニーチェは矛盾している、トンチンカン、ご都合主義だ、そういうあまり指摘はない。 ニーチェが正しいという前提でやってる。そんな馬鹿なことはない。 私は私のニーチェの可能性を読みたい、そう思っています。 彼のデタラメにこそ可能性を見出せることもあるのです。 強弱構造を前提にするなら、畜群に覚醒を求める道徳的ポーズは要らない。 いつまでも教会で騙されていればいいんです。強弱とはそういうことなんですから。 自然な強弱構造と不自然な強弱関係なんて、ニーチェの勝手な思い上がりでしょ? 論証なんて全くない。そもそも論理的じゃーない。 「急がば回れ」「先手必勝」 そういうのがニーチェのテクストの細部です。 「幼児」と「超人」 これを矛盾としない読みとは既に創造なんですよ。
305 :
考える名無しさん :2007/04/01(日) 13:42:53
平日の晩に2ちゃんやるのは いい気分転換だが 日曜の2ちゃんは虚しい
306 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 13:45:04
>>298 >そしてニーチェにとって、あるがままの生とは、強弱の差異のある無数の力への意志の
>作用連関によって生起しているものなのであり、そこには強者と弱者の差異つまり
>位階秩序があります。
「>無数の」中から、キリスト教的位階=強弱構造だけを指弾するのは論理的に
おかしいんです。根拠はない。
キリスト教的強者や支配こそが人間的であり自然なんです。それを暴くのは
不自然であり、人間的ではないんです。ニーチェがニーチェ自身のテクストを読めば
そういうでしょう。
昔はよかった。東洋はいい。
こういうことは今でもちょっと知った人間なら共通して吐く人間的な性向ですよね。
でも、そんな風にだけニーチェを見ると可能性を見出せない。
それだけのことだと思います。
307 :
195 :2007/04/01(日) 14:09:44
>>303 >強弱構造が自然(当然)ならば、僧侶階級や教会の作為(反自然)も擁護されるべきです。
この点は、
>>300 で書いた「宿命論」と「運命愛」の違いが分かれば分かるのではないかと思います。
>ニーチェの「ススメル」強弱構造だけが正当であるという根拠をニーチェは示しません。
「正当」ではありません。
ニーチェはそのような疑問に対して先回りしてこう言っています。
「君たちは、これも一つの解釈ではないのかと大騒ぎするのか?
それなら、ますます結構なことだ」。
なにが「結構」なのかと言えば、そのことによって、世界というものが
それぞれの力への意志の中心からの遠近法的解釈作用の相互連関だ
というニーチェの力への意志説が、ますます裏付けられるからだろうと思う。
>自然な強弱構造と不自然な強弱関係なんて、ニーチェの勝手な思い上がりでしょ?
言うまでもありませんが、「自然」とか「あるがまま」は、ニーチェにとっての
「自然」「あるがまま」です。
「存在するのは解釈だけなのだ。我々は事実『自体』を確認することはできない。
そんなことを望むのはナンセンスだろう」(遺稿)。
ニーチェがキリスト教的位階=強弱構造を糾弾したのは、最初はそれに対する非難で あったものであれ、結局はそれによって、対比として「女々しくない価値規範」を浮き彫りに するためだろ? ツァラトゥストラも最初は改悛を促そうとしたが、結局は末人を改悛させるより生を肯定する "賛同者”を増やそうという方向へシフトチェンジする。そのうえ自分たちに『同情』を戒める。 彼は『格闘』するに値す【好敵】として巨大な支配勢力たるキリスト教的位階の女々しさを選んだ。 『切磋琢磨の力の世界』で戦い合える敵として… だからその攻撃は対比によって自分側の主張を明確化させるための手段だった。
309 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 18:06:00
>>307 私の論の核心について触れられていないように思います。
既に存在する既成の「強弱構造」を評価するには別の神、別の真理、別の道徳が
必要になります。
>存在するのは解釈だけなのだ。
この相対化の魅力は自家撞着を生みます。
運命論と運命愛の違いは解釈以前の言葉遊びになるだろうし、キリスト教価値体系も
一つの解釈なわけです。その解釈に評価(序列、位階)を与えるのには、やはり何か
超越論的なもの・・真理や道徳などが必要です。
>そんなことを望むのはナンセンスだろう
このニーチェの言葉をニーチェ自身に捧げよう。
ならば、お前が一番ナンセンスなんだよ。解釈??おっせかいなだけです。
核心になると相対化で逃げるようではダメです。ニーチェに整合性を持たせようと
すると余計に滑稽になる。ますます、使えない。
>存在するのは解釈だけなのだ。我々は事実『自体』を確認することはできない。
腹が減った、何か食わせろ。こういうリアリティには 力んだ内容空疎な誇示 は
滑稽になるのです。
私が問題視しているのは、解釈の強要です。都合よく言い訳する一方、解釈の位階を
示すことです。
ウィトゲンシュタインは、分からんなら(勝手な解釈なら)黙れと言いました。
まだ、そっちの方がいい。ただし、ウィトも最後はゲームになるんだけど。
ニーチェはゲームほど肩の力が抜けない。ならば、やはり本質主義になる。
310 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 18:08:22
なぜ、その 解釈 なのか、そこを逃げてはいけない。>ニーチェ このあたりは三島も詳しく指摘していることです。 永井も違った形で言ってますね。
311 :
考える名無しさん :2007/04/01(日) 19:06:04
我々が何かを見分けるというのは、境があるからである。 境は、力と力の間にできてしまう。 坂の上に玉を置けば下り降りる必然。それを力への意志と云い発生論的境位と呼ぶ。 我々が見ることができるのはその境だけであり、力ではないであろう。 (科学は単位を使わざる負えない。) しかし、それを見ろとニーチェはいう。
312 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 20:00:24
>>311 >坂の上
そういう外部なら人間の「意志」によって変えられるわけです。
もっと正確には、何が本来的なのかが既に決まっていると見なすこと自体が間違いでは
ないでしょうか。
「坂」を自明視し、その上下を絶対視するのも愚かです。
誰が坂の上と下に行くか、それを無限に循環させることの肯定は人間の「力」や「意志」を
矮小化するものだと思います。
解釈の変更による解放ではなく、外部の変更による解放を意志する力を人間は持ちえるし、
持たないといけない。また、持ってきた。そして、その力を行使してきた。これは
解釈の結果ではない。
「過剰解釈のテーゼは、すべてが、解放の息吹よりは抑圧と退行の原理に、二十世紀において
変質していった」(三島)
僧侶の言葉に騙された畜群より、気付きなおかつ強者の解釈において負けることが果たして
意味あるのか。
「社会変革の言語では語られない」(三島)
我々は解釈の外部にこそ生きている、そういう側面もある。それを解釈で
抑圧することをニーチェにさせてはならない。
あ、腹が減った。と思ったらこんな時間だ。今日は「たこ焼き」だぞーw
ニーチェは解釈すると食べなくてもいいらしいw
マルクスにはニーチェが必要だが、ニーチェにはマルクスが必要だ。
もちろん坂の上にいるのはマルクスだ。
313 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/01(日) 20:01:33
>何かを見分ける 見分けなくていい。少なくともそうしなくてもいいものがある。 なぜ、そういう前提を安易にするのか。そういう陥穽をニーチェも次々おかしている。 これも三島が指摘している。認識や解釈の絶対性の論証はレトリックで誤魔化すだけだ。 境がなくなれば、見分けなくていいということになるだけだ。 いや、実は境なんてない。どこから「上」なのか。どこまで行ってもまだ 上を目指す人間もいる。ここが上だと「解釈」する人間もいる。 玉が転がるのは坂が原因ではない。坂を転がるのは結果だ。もちろん、原因は 引力に他ならない。人間はそういう「力」を見ようとしてきた。そして、かなり 見えてきた。坂や境界というのは結果である。それで何かが分かったというのは 「倒錯」に他ならない。原因と結果の取り違え。こういうことをニーチェはするなと 言ったと思う。 おなかぺこぺこw
314 :
288 :2007/04/01(日) 20:12:22
>>301-302 なるほど、浅学な自分にとってはとても勉強になります
人間は超克されなければならない何者かだ、といいますが
はたして人間は「超人」になれるのでしょうか?発狂しても何をしても、
人間が動物としての肉体を持つ以上、そこに到達するのは絶対に不可能なのでは?
と、思うのです。そういう意味で、到達できない目標=不可能への挑戦
という言葉をつかったのです。
そして、三島の「行動学入門」なんかで語られていることが妙にシンクロするなと思ったのです
ただ自分も、六百六拾六さんが言うようにニーチェは「生を肯定する哲学」だと思います
なんというか、失意に沈んだ人を行動に駆り立てるような
それと、到達できることと、到達できないこと、どっちがニヒリズムを産みだすのだろうか?
315 :
331 :2007/04/01(日) 21:22:44
>解釈の変更による解放ではなく、外部の変更による解放を意志する力を人間は持ちえるし、 持たないといけない。 上の意味をもう少し教えて欲しい。 なぜ上記の方法を持たないといけないのか?
ニーチェの超人、超人といろいろ耳にするし本にも出てくる。 だが、そもそも超人ってなんだよ? 変身するわけでも超能力を使うわけでもないんだよ。 それは一つの目標だ。限りなく高い目標。 なぜなら"指針”でなくてはならないのだから・・・ ニーチェの本を読んでも超人の総体を示す記述は少ない。 じゃあ対比として、彼が"嫌う対象”をまず明確にすれば、それの逆として 何を目指すべきかという輪郭が見えてくるだろう。 私はニーチェ解説書の中で『末人』を本気で考察した本を見たことが無い。 これは異常なことである。あまたの書籍が大型店舗に陳列されているにも 関わらず、しかも腐るほどニーチェ関連本が出版されているにも関わらず、 まるっきりそういう本が見当たらないというのは何故なのだろうか。 私が唯一それに類する本を読んだのは、オルテガの『大衆の反逆』だけである。 (誰か知っているならば教えてほしい。いや真剣に…) で、末人とは何か?、これから探っていこうと思う…
317 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:11:33
『こう言たっんだツァラトゥストラはこう言ったんだ適当掲載』 第五章 『アイティアー・ヘルメヌゥ。テオス・アナイティオス』 わたしはあなた方にこの言葉を投げ与え。 更に、自らがこの事柄に 『然り』と言えるか否かを尋る!! もし、そう、自らが言える程に十分な成熟と意志を飼い馴らす人が現われたなら その十分に熟れ成熟した “意志”が尚、猛禽で殊更に獰猛なる意欲となる自我を否!! 自己自らの中に一個の独裁的固体を見いだす事が可能であるか?否か、三度聴き回りたい。 又、これらの事柄によって自らが『然り』と言う事をあなたに認めたならば、 かのもっとも古い“債権者と債務者”との間に掲げられた契約関係を、尚更に“責任の系譜”から引き出すが良い。 (全ての損害にはかならずそれぞれ、その等価値があり――従って実際に加害者に苦痛をあたえるという手段によってであれ――その報復が可能である。とする) だが、これらの事柄の波形における一切の共通する要点には悪事の首謀者にその“責任”を負わせるという意図から刑罰が実行された試しは無く。 むしろ、それらの事柄の一切は加害者に対する被害による“怒り”からして、 歴史的なあらゆる刑罰は執り行われて 来た事を前提とし仮定とした限りにだが!! あまりに小さき者、あまりに不必要な者、彼らはしきりに一切の苦痛やそれらにまつわる罰を“神”から、受け取り。 更にその“生”によって与えられた“苦痛”を“罰”であり。 我々に与えられた“刑罰”の報酬であり。 この“苦痛”自体が我々が被害をこうむった“責任”により支払うべき“債務”であり苦難と苦痛の人生を耐えぬき生きた。
318 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:17:53
その“報酬”によりやがて、永遠の安堵を“約束”すると言う。 “生”それ自体を“罪”だと戒め、その戒めを説く教えとその教えによる“規律”に“従事”なさい。 さもなくばその教えに添い讃えられた言葉により記された誓約により“秩序”を保ち。 その罪深き我々にもまことに寛大で慈悲深き神々により。 もたらされた“報酬”を、この小さき者達は我々が、作り出したのだ。 と声高に叫びしきりにのたうち回る。 わたしはその彼らが“幸福”と称し馴れ合い呼び付ける。 あらゆる特殊な確立に働き掛け成立する。 この残酷な幸運を私は好きにはなれない。 わたしはこう尚、教える。 [やはり、神は死んだのだ人間への執着により神は死んだのだ]と・・・・・。 更にこの言葉も携えよう。 『あの、当時においても 神々はやはり死すべき事に相応なる“価値”があり。又、実な偉大さを知る者であったのだ。』と。 その“神”が死に神々から与えられ“約束”されるであろう“報酬”である。 “永遠の安息”や我々の祖先が犯した“原罪”に対して執行された。 “罰”を受け償い我々が“罪”により。 我々が神々に与えた被害と“等価値”と認めれる程の“報復”を“支払う”事を続ける“約束”は“神”の死により失われた。
319 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:32:59
あなたがたの多くの解釈は科学の台頭により次第に 信仰は薄れ、やがて神は、滅したであるだとか。 神は死んだのではなく隠されたのだ。 だとか、更に質の悪い尋ね方を何の侮蔑も無く説く者も居る。 『なぜ!?神は死んだのか?又、なぜ?それ故に善悪の彼岸が“思考可能性”な概念と精神的な考察が必要なのか?』と。 殊更わたしが煩わしい解釈家と呼ぶのは取り分け。 その事柄が社会的な更に 悪い認識者の場合には そこから“善悪”を見つめ更に“善悪”の本質やら、 彼らは“善悪”についてあれこれさぐり“善悪”の所用を見極めようと覗き込む。 善悪とは何か?比喩である。 “善悪”いくらそれ自体を覗き込んだとしてもそれらはなにも語らない。 “善悪”を見極めようと覗き込む程、愚かな行為は無い。 この事は前に既に私は語った。 しかし、善悪とは如何なるやり方でもって計りにかけるのか? おお!!善悪とは比喩に過ぎない!! しかし、なければ人も又、生きてはいられない。 太古、我々の祖先は千の民族を数えた。 それぞれの民族がその民族の言葉によって“善と悪”についての言葉を各自により持ち混み。 その福音と操り、その価値について物語る。 事の始め“善悪”を創造したのは神でもなければ、 神羅でもなく。 それは一人の創造者であった。 服従しようとする愛情と支配しようとする愛情によってこれらの価値はその石の板に新しい価値を掘られ刻まれ。 人々の頭上に掲げられ そして創られた。 まことにわたしはあなたがたに言う。 どうか、創造者としての 意志をあながたが自らの 手によって取り戻してもらいたい!! 新しく価値を創造するもの彼はまさしく“高貴”な人間でなくてはならない!!
320 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:40:44
わたしの教えはこうだ。 “あらゆる価値の転倒の試み”。 それは価値基準の相対化と取り違えて貰っても何ら間違いは無い。 「もろもろの価値の変化それは創造者が変化するからである。」 更に、この問い掛けをあなたがたに私は投げ与える。 「なぜ?神は死んだのだ?」と言う姿勢から尋ねる事よりも寧ろ。 「なぜ?“彼”は“神”を殺さなければならなかったのか?」と尋ねる事を自らに認めるが良い。 神への人類の関心を辿り。 その先に有る人類が神を 憶測しその生なる意義の 報酬系や支払い係の役をただ与えていた訳ではなく。 結局の所、神を我々が捜し出し、その任に賭けていた事柄は、我々が神を探す時 程にそれが、まこと、大がかりな先祖返りをである事の言葉を聞くが良い!! 「こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ」
321 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:47:04
『こう言たっんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 第六章「反感の征服者」 いまなお、あなたがたは あなたがた自身に似ても 似通わない!! 《反感》の感情を抱かずに生きる事が許されるのは、高貴な魂の持ち主のみである。 やはり、あなたがたは私の目から通すと皆、程よく小さい。 《反感》を打ち消す事が、精神における思考可能性への、意志により滑らかな 歪曲なるその姿をその自らの精神に屈伏し服従する姿を見つけられ効用の成果が見受けられるのは。 《忘却》であるここまで、迄は事実だ!! だが、あなたがたの多くは此処でとんでもない、手違いをやらかすか、又は誤認を誘発する催眠術とでも、呼べる術にかかってしまうのである。 あなたがたに問う、あなたがたは自らにより新たなる価値基準を創造し。 更にその価値が物語る一切の“力への意志”にあなたがたはまず命令し更にその命令に自ら服従しなければならない。 その命令により自らの意志を越えて創造すること、 これが“生”の内に鳴り響く意志の純粋な言葉である。
322 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 16:50:23
2 高貴な類の人種に《反感》なる感情が現われたとしても、その直後に続く反動の中で晴らされ消されてしまうから、従って害毒を及ばさない。 例えば、好例を引用するとミラポー[フランスの革命政治家]の場合、自身の上に加えられた、侮辱や卑劣な言動に対してなんらの記憶をもたなかった。 それで彼が恕しえなかったのも、ただ――――忘却したからに過ぎない。 彼らがまこと憎み憎悪する自ら望み要求する敵とは、何かしら軽蔑すべき点も取り分け見当たらず。 更に極めて多数に渡り見渡す事が可能な多くの尊敬に値する点を有する、ごとき敵に限るのだ!! 彼に到っては既にこれこそ 「真の敵へ対する“愛”である。」
323 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 17:04:51
『こう言たっんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 第七章《忘却》と精神の幼子。 ここまでの流れの中で最も激しい疇りと苦痛の徒労の中でわたしは次ぎなる言葉をわたしの精神から聴かされた。 それはおもむろにこう尋ねて来た。 「自身に経験に身に覚えの無い出来事や自身が、まだ知る事の無い事柄を我々は忘却する事が出来るか?」 そんな事は、断じて出来ない!! 如何にして“忘却”は可能か?! わたしは先の記述の思考に横たわる幾つかの憶測に 尻餅を付き、その場にまつわる解釈の筋道を辿る事が 此処から辿り来た道を無事戻れるか否か?と その事に、ついて、わたしは深々と沈み込み。 更にわたしの奥深くまで足を運び其処から、色々と精神に尋ね回った。 やがて、わたしの精神はやがて、こう答えた。 「あなたがたは経験に無い事やまだ知らない事柄については忘れえない、と又、自らに認めるならば。」 「仮に例えるとこう言う、筋道を見いだせるであろう?」
324 :
こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ。 :2007/04/02(月) 17:09:59
我々が知らぬ事や経験に無き事が、忘却不可能だとするならば?どうであろう? およそ次ぎなる憶測も可能ではなかろうか? 我々は良く、忘却を恐れる 更にもし仮に我々の記憶は一切の苦痛を記録ていたとしても、何ら不思議は無いであろう? たが!!私においては自身に起こった苦痛となる不幸や苦悩と思える程の出来事に見まわれたとしても、 私自身、良く、その事自体から遠ざかり当時の意識的な方法で干渉してきた。 あの辛く落ち込む様な陰りの心持ちからは、しばらしすると堅くなり周りに散らばり。 少なくても《忘却》する事は可能であるように思われた。(完全に消し去る事は無理だとしても) わたしは三度、自らの精神を訪ね。 そこで言葉を幾らか交わしおよそ、次ぎなる返答を受け取る事が出来た。 「記憶する事が可能ならば逆説的な手法により。 《忘却》する事は可能では無かろうか?」
325 :
考える名無しさん :2007/04/02(月) 20:35:30
予知能力開発方法ですか?
326 :
考える名無しさん :2007/04/02(月) 20:51:11
ッツmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmmmmm ツmmmmmmmmmmmmmmmmmm mmmmmmmmmmmmmmmmmmm mmm"゙ ゙"mmmmmmミ ミm:::" ・ ゙ミmmmmmツ m::: 丶/|::/!!! ミ;= mmmmm おもしろくするんダァ |::::: r",,ゞィ ヨ ●ヾ ゙ミmmmツ |::::::イ●ノ / 、 "'ーヘヽ ゙mmツ |::::::: :"" ,.゙ ・ ・ '' ヽ、"" | ヽ::::: :" )ッm)( ノ ゙゙''''‐ッツmm,,,,,,,,,,,,,,,,,,,....-‐-‐''''~ ッツmmmミ" ッツmmmmmmmmミ
327 :
考える名無しさん :2007/04/02(月) 20:52:02
ッツmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmmmミッ ッツmmmmmmmmmmmmmmmmm ツmmmmmmmmmmmmmmmmmm mmmmmmmmmmmmmmmmmmm mmm"゙ ゙"mmmmmmミ ミm:::" ・ ゙ミmmmmmツ m::: 丶/|::/!!! ミ;= mmmmm おもしろくするんダァ |::::: r",,ゞィ ヨ ●ヾ ゙ミmmmツ |::::::イ●ノ / 、 "'ーヘヽ ゙mmツ |::::::: :"" ,.゙ ・ ・ '' ヽ、"" | ヽ::::: :" )ッm)( ノ ゙゙''''‐ッツmm,,,,,,,,,,,,,,,,,,,....-‐-‐''''~ ッツmmmミ" ッツmmmmmmmmミ
328 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:24:36
2 わたしが最初に訪ねたのは「ハーバードー・スペンサー」[イギリスの哲学者]である。 彼の言わんとする事はこうだ。 まず、彼が説明したのはこのことだ。 『忘れる為に必要な事柄は“忘れる”と言う功利と 引き替えにその“忘れたい”とする事柄は益々意識にはっきりと刻み込まなければならない。』 手短に話を済ませるなら、『灯台下暗し』この一言に尽きるであろう!! 更に彼に聴いた話はこうだ。 『我々は“良い”とされる概念と“悪い”とされる、概念とに経験を通し。 自らにより振り分ける』と言うものであり。 若干の補足を付け加える事にするが、この“良い”と“悪い”と分けられる概念感の意識的に特色を与える事ができ。 この[場合]に共通する記号として与えられた予備情報。 “良い”と見なされる概念について。 これは我々が取り分け普段からの行動を逐一思い出しながら考えると解りやすいかも。 “良い”とは『功利的』である、更に『合目的的』でる、となり。 つまりは“良い”と自らにより判断する限りにおいては過去の実証に基付いた。 症例を出し尚、自らに置いて“良い”とされる概念は前に一度、同じ試みに取り組み。 過去に一度でも成功しているならば意志により引き起された作用による作用の結果を期待しても“良い”と判断し。 又は、それに大分偏った行動を選択しそうである。
329 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:28:59
更に注意深く掘り下げた 解釈を照らし合わせると あの、能動的に働く記憶の取り決めや約束をなしうる場合により取り外される。 建却における効用を少しでも思い起こすが良い。 結局の所《忘却》の極めて強い作用を識るものに とってはそれは一つの極めて強い健康の印しだと言えよう。 『こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ』 第八章 『“良く”ても“悪い”』 身の周りから回答を得ようとするならば、 例えば、バーゲン会場で剛碗を振り回しバーゲン品を 他者から略奪し摂取する事に自らが持てる力をフルに発揮し(又は解放とも。) 奪い漁り戦う姿はしばしば我々の予測をかなり大きく上回り。 まるで修羅による煉獄における。 それこそ修羅場のリアルタイム・イン・ライブ中継現場に我々は少なからずの 驚きと共に失笑を携え 更にしばし呆れ顔で、事の行く末を見守る場面に度々出くわすでわないか!!
330 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:31:20
だが、どうであろう!? この、普段は一善良市民の端くれの仮面を被り。 か弱い一小市民を気取る 奴らがことバーゲン会場になると有り余る。 “力への意志”を十分に漲らせ。 満開にスロットルをブン回しこの戦いの勝利のおよそ六割をしめる初動さ時に全てを賭け。 動きをあわせ加速するタイミングを取る。 その姿には既に家でテレビと共に横たわり、常に何か 貪りついているあの無気力的な意欲の無い姿はもう何処にも見当たらない!! あの、うっかりするとセイウチかアザラシに見間違いかねない。 限りなく人間と 動物の中間地点に立って居ないとも言いきれない。 すこぶる見る者を不快に させ更にあらゆるネガティブに引きずり込む。 ここまで来たら既に人体兵器としての完成も近いのでは?との疑い知れる!!。 だが、彼女等は既にそこには居ない。
331 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:34:17
おお!!どなたか理解出来ただろうか? さぁ、見てごらん!! バーゲンが始まったよ!! さぁ、見てごらん!! あっちのオバちゃん取り 合いというより強奪だよ!普通は逮捕だよ!! さぁ、見てごらん!! あちらのエセ貴婦人系の オバちゃんローリング・サンダー・ピン・ヒール・ジャンピング・スタッピング 間違いないよ、あんなの 滅多に見れない立派な現行犯の傷害罪だよ!! 本当に皆やり過ぎだよ?! わたしが此処で聴いた言葉はこうだ。 善良な市民を気取り。 この戦いに参加して来た。 彼女等は紛れもなく“好奇”な人間達であった。 やはり、彼女等の作用に よる結果にも“力への意志”は確認が取れた。 すなわち彼女等の声はこうだ。 「わたしはなんとしてでも私の箙を安価で仕入れて 今月の食費を少しでも浮かせたい!!」 「なぜ?ですって?無論来月もバーゲンで戦う為ですが?」 「その為ならば、わたしは何でも“犠牲”にするのよ!!」 「でも、確かに強引な遣り口や明らかな故意による。」 「手足を駆使した接近戦やカバンやバッグを巧みに」 「利用した兵白戦なんかでは稀に良い当りがヒットした時は“悪い”気がしないでも無いけど、でも良いの!!」 「なぜ?って誰もあたしが悪いとは咎めないのだから!!」
332 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:37:49
もう、十分お分り頂けたであろうか? 「ハーバードー・スペンサー」の倫理的な縮図をこの意欲的に破滅的な彼女等の倫理と解釈に当てはめて見たい。 つまり、此処で重要な位置をしめる。 この議論の争点は 「なぜ?彼女らは常に線引していた“良い”と“悪い”の境界線を逸脱したのか?」 であり、だからと言ってわたしはそれを現行の法律に照らし合わせて云々かんぬん言う事こそまこと愚かな行為だと思うし。 第一、それじゃつまらない。 つまり、事の全容の解釈ははこうだ。 バーゲン・セール安い。 安く商品が購入出来る機会であり。 つまり、お買い得であり“功利的”な“良い”事であり。 それより、問題なのは如何にして自分の目的に反った 商品をあの魑魅魍魎渦巻く。 間の巣窟パンデモニュウムへ侵入し。 更にわたしより遥かに重量をもつ。 どう見てもヘビー級か もしくは無差別級の体格を此処ぞとばかりに惜し気もなく披露する。 その類い稀なサービス精神の割にはデリカシーの欠如が著しい。 この真の強者達からわたしは如何なる手段をも模索し実行せねば勝機は無い。 多少の犠牲は覚悟の上、足元固めたピン・ヒールと右腕に仕込んだ。 通販仕込みの本革・シールド持参して、多少乱れたって今日は良いの!! だって今日はわたしは自ら勝ちに行く日!!
333 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:40:00
『こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ』 第九章『善悪の悲願。』 もう、良いだろうか? 思ったよりも長引いた説明に終始してしまったが。 わたしは時折見かける この様な理性と本能が伴に責めぎあう様子が好きだ。 幾らかの回り道を余儀なくされ辿り着いた。 その憶測とは《立法》も また墜ちるべき没落する場所が確かに存在すると言う意見と確信の同意に達した。 長い目と深い洞察を照らし合わせる事が可能な感覚的に優れた知性を有する。 人物なら供に同じ沈む夕日を見る事があるかも知れない。 確かに現行の法整備は一見機能としては一様の完成度を保持する様に思われるが。 わたしには、これが我々の“最善”たる処置だとは決して今の所は思われない。 成立する法案の数と同じ、だけの犯罪者を造り上げ。 その傍らには“殆ど”現行には適応の応用が不向きな立案やある“特定”の組織 又は個人にしか殆ど機能していない成立した原案が存在する事もわたしの不信の目を一段と開かせる要因の一つかも知れない。
334 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:45:11
今一つどうか訪ねたい。 とても、長く視界は広く 見渡しの利く交差点に あなたは止まっているとして、一向に信号は変わる気配は無く。 ただ、赤い目を見開いてあなたを睨み付けるだけ。 さて、あなたは車を走らせる? それとも青くなるの待つ? まぁ、何とも馬鹿馬鹿しい問題だが、少し考えて欲しい。 さて、信号気の表示を守るのは大事な事だ何せ。 あなたを“危険”な車やら悲惨は交通事故から。 あなたを守ってくれる!! でも、こうも考えられないか? 広く見渡しの利く長い直線の交差点から。 信号無視して車を走らせます!! しっかりとその目で“右左”を確認して“危険”を しっかり回避して。 もし、この場合における。 限りの内容で成立する話だが、信号気によるルール義務の徹底により。 “危険”を回避すると言う項目が一つの目的であり 最優先事項に挙がるならば。 信号を確認して発車する? それとも自分で“右左”を確認して発車する? “危険回避”を最優先事項に掲げた場合との中で関係し成立する限りに置いて。 返答を返すなら。 多分、自分で“左右”確認して渡る事が正解だと思われるのだが?果たして、どうであろう? これも又、勝手な推測だけど恐らく我々が保つべき 立法や取り決めは少なければ少ないほど良い。 ルールは守るものですか? それとも破壊するものですか? いいえ違います。 『ルールとは自らで“克服”するものだと思います』
335 :
こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ :2007/04/02(月) 21:49:43
『こう言ったんだツァラトゥストラはこう言ったんだ』 短篇詩集作。第十章 《大地の謡・新世界交響楽》 嗚呼、見てごらん・・・・ ほらぁ!オリオンの星が あそこから墜ちていくよ・・・・・・。 嗚呼 調度、真昼の十二時の鐘がなる頃、あの悲劇的な末路を辿った。 夜鷹の星はここからも、見えるのですね?・・・・・・・・・。 嗚呼、どうか、この何重にも繋ぎ合わされ。 このふしだらな円周率の数え詩が止む頃その時までにはどうか、わたしが全てに渡って擦り付けた。 黄色い悲しみを拾い集め。いっそ、そのままの想いのままに暗闇に浮かび。 大昔を現代に甦らせる地質調査の為にこじ開けられた 地層に眠る鈍い黄金色を した。 甘い琥珀に閉じ込めてしまいたい!!。 依然濃霧は辺りを鈍く照らす曇りガラスの薄い色素を交ぜ込んだ。 うっすらと切れ目と裂け目が睨み突けた。 その、透けた月の光が突如として明るさを増し。 いきなり正面から捕らえられる全ての映像からは 静止したまま 静寂な世界のその曲線の略中心からその「球体」となった。 「彼方」と「遥か」は重心を右に傾けながらゆっくりと動き始めた。 今「ここ」から遥か彼方に見渡せる。 「其処」までいっぱい、いっぱいに散らばった。
336 :
考える名無しさん :2007/04/02(月) 21:55:57
カフカの掟の門を思い出したよ。 なつかしいなぁ。
337 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/02(月) 23:33:28
>>314 >生を肯定する哲学
そういう方向で読むというか、ニーチェの可能性を探るのがいいと思います。
例えば、まじめに「超人」にとらわれると逆に生きるのが難しくなる。
自分は弱いから神に頼るときもあっていい、そんな風に考えるのは間違っていない。
ニーチェの超人っていうのは、ある意味「神」なんです。
人間を超えてるわけですから。
それから、「解釈」。人生下り坂もあるから、いいように見ようとするのでも
いいと思うんですね。
私がニーチェから学んだことは、自然さ・自明性を疑うということです。
だから、ニーチェをも懐疑しつつ、その可能性の中心を見出せばいい。
>それと、到達できることと、到達できないこと、どっちがニヒリズムを産みだすのだろうか?
そういうことにこだわると抑圧されますよ。
上が見ればきりがない、下を見ても同様です。
超人を清貧にいきること、そう『解釈』してもいいんではないですか。
338 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/02(月) 23:46:50
>>315 あなたはお腹がすいたとき、それを解釈の問題として片付けますか?
そうすることが可能でしょうか。あるいは、空腹を満腹だと思うことがいいことでしょうか。
別の解釈のありようを否定するようなリアリティがあるはずです。
何でも解釈というのは、ニーチェの強弁です。
食えないということは当人の努力のなさと同時に社会の構造や体制に問題が
あるのです。北朝鮮の現状を解釈の問題だとするのは馬鹿です。単に馬鹿。
マルクスの言うように我々の意識はその社会的実存、社会的諸関係によって
規定されている部分もあるわけです。
我々は社会を解釈の対象とするだけでなく、我々は社会(構造や体制、諸関係)によって
解釈が限定される部分もあるわけです。
腹がすけば、解釈してないで食べないと仕方ないんです。
で、その空腹を満たした喜びは人間として下劣でしょうか。
ニーチェなんて、星の数ほどある道具の一つです。ニーチェにいいように振り回されては
それこそ倒錯です。我々がニーチェを振り回しもてあそび使えばいいんです。
我々の「生」のために。
ニーチェを自らの生に奉仕させないといけません。
まあそれも解釈だし、困った時の神頼みも解釈なわけだが。
340 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:12:41
「今、ここから」と「今、これから」を忙しく往復し。 回り続けるかなたの球体が滑らかな艶を光が弾きやがてそれらが括り付けにした。 光速を一瞬飛び越え。 はばたいた刹那の瞬間に 今までの全てだった瞬間がこれまでの全ての瞬間に 弾け飛ぶように突撃し破壊される様に繰り返される。 「出会い」と「別れ」の 双方が引き合わせた。 この悲痛の急斜面に咲いた睡蓮の花と供にわたしは 人の死を心底労る屈辱と 生の死を心底嫉む憧れを わたしは彼方に自力で回転する、球体に力いっぱい、 力いっぱい何度も何度も 生物として我が保つに値する。 “力としての生命の名と根源”を一つの雄として 又は一人の男として、又は独りの熟れた成熟した子供を見いだした。 その先に続く道とこの先が交差する。 あの雨の為の交差点は虹の麓に飾られた蓮の華に埋もれ。 ただ、流れ落ちたまことの涙は土に降る。 修羅の言葉を力の限り投げ付けました。 嗚呼、なぜ?おまえはもう頷く事も止めてしまっただろう?! 嗚呼、なぜ?おまえはもうここから去ってしまったんだろう? 二人の詩人は供に大地の 意義たる詩を供に新しい 太陽の朱色に良く馴染み。 もうじき、訪れる夕闇と夕暮れを謹む様に包み込む。
341 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:18:19
水平線の向こう側からやってくる。 真昼と微睡みとのお戯れ様御一行様の節度の欠けた 訪れと和らぎにいつかの 面影と思い出は柔の凪を 雲の流れの中に受けとめて。 微睡む午後の日光はようやく、差し込む日の光のその中で最後の日射病なる夢を見た。 木漏れ日の芳香は静寂に染まる春に散り往き。 世に粋狂の華咲くころ。 散り往く一切の悲願の華を 再び一切の明日と夕日を捕まえて。 その後の世に万葉の華咲く頃に。 伴に袂を分けた、農家とこの先の農業の在り方を悲観視し救済の土壌の詩を奏でその、奥底まで続く 深く暗い井戸の奥底の最果てに眠る寝付きの極めて浅い。 癇癪持ちの北風と互いに罵り合い。 荒れ狂う季節外れの低気圧に明日に流れる風を訊ねる気には今宵の水無月を 見上げては、肌寒く聞こえる夜の凪を薄いボレロで身に纏い。 出生の嘆きと歓喜の聲が 入り交じり。 無き浮き世と映し世に生まれ落ち。 望まれぬ発芽にみなごの嘆きは我とは無縁にある。 歓喜の来訪に待ち焦がれ 嫉みと憧れが互いの無様な姿を哀れみ啜り泣く。 炎獄に切り立つ。 あの曲線なる糸杉の袂に 埋める為切り取った朝日を握り締め。
リアリティを口にするのなら、生を肯定するのに如何なる解釈的逃避も退けて、生に付随する カオス(不幸や苦難)をも格闘しようとする『超人』の姿勢のほうがリアリティがあるのではないのか? ただそれがあまりにも困難だという理由で超人を理想・目標だと我々は言いたくなる…
343 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:23:51
この独りの修羅を哀れみの包容に包み込むべく 彼の地で目覚めの息吹ふくよう願い舞い降りる。 二度目の白昼夢に可憐に咲く華の名を死に往く人々にどうか、教えてあげてよ? 銀河に散りゆき星となり 闇夜を明るく灯した夜鷹の詩人と 神を笑い殺した。 悪性の道化師は新世界の 訪れをかの交響曲の訪れと伴に、今一度、生きる喜びに三度この場で出会うべく。 その後にいずれ撒かれた種から芽生え 地上に大地の意義たる謡を響かせ。 その後を辿り見渡せば、 其処一面なる世に満場の華が咲くなり。 もうじきよはあけるのに、 すべてあるがごとくにありかがやくごとにかがやくもの おまへの武器やあらゆるものはまことにくらくおそろしく、まことはたのしくあかるいのだ※1。 全ての楽しみの根源や万象同期にやがては訪れる。 いみじくなる暁を走らせる道は互いを引き付け合い。 悲しくも上出来に仕立て上がった。 覚束ない指先が見えそうな位。 不器用に不揃を見本に見立てた綾取りの糸は、抱き合うよう絡まり合い。 とぐろを巻いてゆるりと。 遥かになびく「ここ」と 「彼方」で回る。 この「球体」は互いを求め巡り合う。 今来た道と今来る道は固く紡がれ来るべき刻に備え 閉ざされている。 この「中心」は至る箇所と重なり合い。 如何なる偶然とも、この 「中心」は結び付く。 永遠が歩む道は螺旋である。 ※1宮沢憲治著、青森挽歌より引用。
344 :
331 :2007/04/03(火) 00:26:17
>>331 返信ありがとう。
私的なドルーズ風解釈でいくと、強者は身体を表
し、弱者は意識を表すと考えます。
身体は意識なくしても自立しえるが、意識は身体
なくしては存在しえないような考えです。
僧侶(意識)が身体を忌むのは、先の「お前(身体)
は悪い、だから私は良い」による命令者(身体)へ
の復讐もしくは、意識の命令者昇格への闘争と考
え、近代化が進められたかと。
そういう意味では腹がへったことを満腹だとすることは下の下で、同意です。
345 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:31:12
『こう言ったんだツァラトウストラはこう言ったんだ』 第11章『超人と蝶人』 いましがた、夜は来た。 突き抜ける暗雲の底無しの海の底に私は立ちすくみ やがて、しばしの沈黙の後に数々の己にまつわるあらゆる言語が一斉に慌てて飛び出た。 それらの言葉は息継ぎ一つ挟まず。 あれやこれと自らについて語り始めた・・・・・・・。 夜は来た!!傾きかけた 月の満ち欠けが今は何と私には優しく又、懐かしい事か!! おお!!一切の孤独よ!!やはり、おまえは私の故郷なのだ!! 孤独にある・・・・・・・ そう或る者は今し方も、まだその他大勢に置いては今だに“罪”と見なされる!! 私のこの体はその当初にはこの言葉が、此処まで運んでくれたのである。 『この移し世に生きる者で孤独を抱えず生きるものははまだ誰一人居ない』 わたしも又、孤独に忍び寄り又、その奥へ逃げ込んだのだ。 私が孤独の闇の中でもう 独りのたった独りぼっちに出会う事は直ぐに適った。 その者は幼子であった。 わたしはまず、自らにより言葉を教え、又それらを分け与えた。 孤独な幼子はやがて、 立ち上がり、歩き始め。 走り始め、自ら学んだ言葉であらゆる道を訪ね周り。 やがて山を登り、其処から飛翔した!!
346 :
331 :2007/04/03(火) 00:36:18
347 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:37:38
私には、飛翔こそがわたしにかせられた克服すべき或るものに移り込んだ。。 我々はあらゆる知恵と勇気を自らに与える事によって地上の動物達の覇者となった。 だが、依然、鳥だけが人間の上を行く。 ああ!!だが、一体なぜに?私はこんな、とんだ思い違いをしでかしてしまったのだ?。 そうだ、鳥だけが今だ我々の上にいる、だが、あなたがたよ、あなたがたは飛翔すべき自由を獲る程に十分に強いか? わたしの“危険”それは、“飛翔”するもの又は試みるものにある“危険”である。 わたしには辛く憂欝な時期であった・・・。 あなたがたよ、あなたがたは“超人”を創造出来るか!? より、遠くの遥か彼方の眺めの中には見受けられそうだが!! だが、依然、あなたがたは 超人にまつわるあれやこれこれにはめっぽう群がるがどうであろう!? 肝心な超人の創造に関して言えば誰も彼もが口を紡ぎ。 吐息すら洩らそうとしない
348 :
『こう言ったんだツァラトウゥトラはこう言ったんだ』 :2007/04/03(火) 00:39:36
わたしはあなたがたに 《蝶人》を教えよう。 理性とは克服されるべき 或るものである。 あなたがたは《超人》を創造出来るか?! 今はまだ出来ない。 あなたがたの身を軽くし、全ての重いものを自己から切り離し。 愛すべきシャボン玉や 蝶の様に、この空を舞う もの。 その《精神》が獅子を求め幼子が舞い戻る所。 私はそれを“繭”と呼ぶ。 あなたがたはいよいよを 持ってして自らの孤独を 探さねばならないし。 もっと言えば、あなたがたは今よりも、もっと固くならなければならない。 あなたがたが自らの孤独を連れ帰り。 更にその孤独に向かい自ら降りていく事が出来なければればどうしてあなたは 一体何を創造出来ると言うのだろう!! あなたがたが孤独に迎う時孤独もあなたに向うのだ。 やがて、孤独は高みを望み“繭”をはり。 やがて、その“繭”は自らの知識によりより。 強固に固くなり青銅よりも固くなる頃、あなたがたは 自ら“繭”を引き裂き、 此処へと降りていくを望むでしょう!! ああ、昼が来た大いなる 真昼あの豊な天体がその頭上の真上に自らを掲げる時 おお、その時は来る。 やがて迫る真昼の日食よ! おお!!その時こそまさしく無地蔵の富を振り巻く、 偉大な天体が頭上の真上にその身を掲げた“大いなる証拠”よ!!。 ああ、やがて、わたしは 今一度 人間の所へ戻りたい!!
詩・ポエム板ではムリだったんか? ここが避難所になっているというのは・・・・
350 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/03(火) 00:45:59
>>342 それでは、別の意味で禁欲主義を徹底するようで結局ニーチェから遠ざかるような
感じがしますけど。
>>344 >強者は身体を表し、弱者は意識を表すと考えます。
身体は嘘をつかないですからね。強がらないし。
ちなみに、ニーチェ以外はどんな人・事に関心ありますか。
DGですか?
う〜ん、禁欲主義とは違うな。ストイックさはあるけれども、生を肯定するには 歓びが前提でなくちゃならないし、それがゆえに不幸とかにも背中を向けてはいけないというか… 禍福はあざなえる縄の如しで、困難さも人生の一部であることは間違いない。 だけど、幸福だけをより分けて不幸な時期を自分の人生から切り離してたら、自分の人生が きれっぱしの継ぎはぎでしかなくなっちゃうわけでしょう? +も-も自分の人生なんだ、っていう"受け入れ”があって、生きようと努力するのがリアリティなんじゃ ないのかなあ…
352 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 01:00:05
>>350 ベルグソンですかね。
ドルーズと言えば上と、ニーチェはお決まりか......
おやすみなさい。
353 :
195 :2007/04/03(火) 01:30:24
>>309 >既に存在する既成の「強弱構造」を評価するには別の神、別の真理、別の道徳が
>必要になります。
>核心になると相対化で逃げるようではダメです。
「真理は存在しない」と言うニーチェに対して、そのような「別の真理」を求めることはできません。
「存在するのは解釈だけだ」ということで、ニーチェは相対化に逃げているわけではなく、
まさにそのような「真理への意志」から脱却しようとしているのだから。
一切は解釈であるという主張はニーチェ自身にもはね返ってくる。
つまりニーチェ自身の解釈も、一つの遠近法的解釈にすぎないことになる。
そういう循環へと自ら入り込むことでニーチェは、神の影の一つである
「真理への意志」から脱却しようとする。
「世界は背後に一つの意味を携えているのではない。無数の意味を携えているのだ」(遺稿)。
「無数の意味を携えている」といっても、我々はすでにある「世界」から、意味や価値を
発見するのではない。解釈とは、「意味を置き入れること」である。
この力への意志の解釈作用の相互連関において、はじめて「世界」が形成される。
354 :
195 :2007/04/03(火) 01:31:04
しかし全てが遠近法的な解釈であるからといって、全ての解釈が等価にはなりません。 そこには、それぞれの遠近法的解釈をなす力の中心における、力の差異があるから。 「われわれは力への意志が存在しないような、いかなる変化も想像することができない。 力が他の力に対して圧倒するということがなければ、われわれはおよそ変化というものを 導き出すことはできない」(遺稿)。 それぞれの力には、なぜ差異があるのか? それは知りえないことでしょう。 しかし力の差異を測定することはできる、とニーチェは考える。 「どこまで事物のうちに意味なしでいられるか、どこまで無意味な世界のうちで生き耐えられるか、 それが意志力の測定器である」(遺稿)。 そして、生成する現実世界の彼岸に理想世界を立てて世界を二重化し、それに道徳的価値判断を 加えて「真の世界」が善き世界であるとする二世界論を造りあげたのは、生成する現実世界に おける『苦しみの無意味さ』に耐えられない者であり、その「弱さ」である、とニーチェは見る。
355 :
195 :2007/04/03(火) 01:31:43
「真理への意志」が「禁欲的理想そのものへの信仰」であるとニーチェが言うのも、それが、 生成する現実世界の外に、生成変化しない確実なものを求める「弱さ」に基づくとニーチェが考えるから。 「こんにち広範囲の大衆層を科学的、実証主義的に席巻しているあの激烈な確実性への渇望、 是非とも確固たる何ものかを所有したいという渇望・・・これもまた相変わらず支えや足掛かりを 求める渇望であり、要するに宗教や形而上学やあらゆる種類の確信を創り出しこそしないにしろ、 しかしこれを保存するところの、あの弱さの本能である」(悦ばしき知識)。 このようにキリスト教的なものをニーチェが批判するのは、それが弱さに基づくからであり、 それが「生に対して敵対的」であるからですが、しかし現代の日本に生きる者にとっては、 あなたのように「なにゆえ、教会や僧侶階級という強者だけが告発されないといけないのか」 という疑問が生じてくるのは当然です。 「あらゆる力の中心は、残りのもの全体に対してその遠近法を、つまりその極めて特定の 価値づけを持っている」(遺稿)から。 ニーチェの遠近法も「極めて特定の」遠近法です。 「我々はキリスト教から一人立ちした。それは我々がキリスト教からあまりに離れて住んでいたからではなく、 あまりに近くに住んでいたからである。いやそれ以上に我々がキリスト教の中から育ってきたからである」。
356 :
195 :2007/04/03(火) 01:32:43
>>338 >何でも解釈というのは、ニーチェの強弁です。
>北朝鮮の現状を解釈の問題だとするのは馬鹿です。単に馬鹿。
「力への意志」を、普通の意味での、人間の「意志」のレベルで見ているようですが
(したがって「解釈」についても、普通の意味での、人間がなす「解釈」と考えているようですが)、
そこにあなたの誤解の元があるのではないかと思います。
ニーチェは基本的には力への意志を存在論として(つまり「生成」として)「量子」のレベルで考えています。
「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。この力意志がないとすれば、
アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を『力への意志』なる量子と呼ぶのである」(遺稿)。
そしてこのような「量子」としての「力への意志」それ自体をニーチェは「解釈」作用と考えるのです。
そして「すべての統一体は、ただ有機的組織化および戯れ合いとしてのみ統一体である。
これは人間の共同体が一つの統一体であるのと異ならない」(遺稿)といわれるように、
人間(ニーチェが「身体」「大いなる理性」と呼ぶもの)も「量子」としての力への意志の「統一体」です。
357 :
195 :2007/04/03(火) 01:33:16
>>344 >私的なドルーズ風解釈でいくと、強者は身体を表
>し、弱者は意識を表すと考えます。
>身体は意識なくしても自立しえるが、意識は身体
>なくしては存在しえないような考えです。
これはその通り。
「自我」への信仰と結びついた人間の意識的な「意志」や「精神」(「小さな理性」)を
ニーチェは、より根源的なものである「身体」の「道具」として位置づけます。
そして、身体の道具であるべき「精神」(意識)が自らを過大評価してしまえば、
デカダンス(「意志の分散」)が生じます。
358 :
195 :2007/04/03(火) 01:33:51
>>351 >だけど、幸福だけをより分けて不幸な時期を自分の人生から切り離してたら、自分の人生が
>きれっぱしの継ぎはぎでしかなくなっちゃうわけでしょう?
その通り。
キリスト教が(仏教も)「苦」のない世界を望んだのに対して、
ニーチェは「快」も「苦」も、生に必然的に伴う「随伴現象」と見る。
「人が何かを達成しようとするとき、人はその両方を欲しなければならない」。
したがって「苦」を、創造のために不可欠なものとして位置づける。
「人が未来を決定する力を多く持っていればいるほど、苦しみが生じる。これが苦しみついての
もっとも深い解釈である。すなわち、形成する諸力がぶつかり合うのである」(遺稿)。
「『産婦の陣痛』は、苦痛一般を神聖化する」(偶像の黄昏)。
よく読んでるな。関心させられる。
仏教の話をするなら、ニーチェの読みは浅かった。 まあ情報の伝達が遅い時代だったのだから、それは仕方の無い話だけれど。 ニーチェが大乗の活仏的方向性において現世肯定の可能性を読み解いていたならば 彼の宗教観もまた違ったものになったかも知れない。スタンスは変わらないだろうけど…
361 :
195 :2007/04/03(火) 02:44:42
>>360 ニーチェは永劫回帰を「仏教のヨーロッパ的形態」とし、「仏教は善悪の彼岸に立っている」
とまで言っているのに、なぜ仏陀ではなくゾロアスターを主人公として使ったのか。
それはニーチェが、涅槃を「逃避」(遺稿)と考え、仏教を「デカダンス宗教」(アンチクリスト)
と考えていたことがその大きな理由ではないかと思われる。
仏教には自己超克の情熱、そしてその前提となる「大いなる健康」が欠けているとニーチェは考えたのだろう。
ニーチェの仏教理解が浅かった点は、彼がハイデガーほどには東洋的な「無」について深く考えなかった点だろう。
この点においてハイデガーは無をポジティヴにとらえることでニーチェよりずっと東洋に近づいた。
しかしこれは、ハイデガーにとって「存在」は「無」であるのに対して、ニーチェにとって「存在」は
「力への意志」なのだから仕方がない。
空海における「煩悩即菩提」、道元における「全機現」などには、ニーチェの「運命愛」に近いものを感じられる。
しかし今の「苦」の問題に関してのニーチェの仏教観はそれほど見当違いなのだろうか。
「創造力のある人間は、快と苦を決して究極の価値問題とは見なさない。快と苦は随伴現象である」
とニーチェは言うわけだが、仏教の四つの真理である四諦は、「苦」を中心問題としているのだから。
仏教は「苦」からの「逃避」ではなく、それをあるがままに正しく見、正しく思惟しているのだと言うかもしれない。
しかしそのように苦を苦としてあるがままに受けとめる態度は、苦を積極的に欲するニーチェの態度とはやはり異なる。
いや、だからスタンスは変わらないだろうけどって書いたんだけど、 まあいいや。 "苦”が出るのもそれが目覚めるための『機縁』だからこそ項目に挙げるのであって、 それを殊更重要視しているのではないことは経典の翻訳本を読めば判ること。 重要なのは理趣経の肯定感や禅者の「日々是好日」や妙好人の生活態度であって、 それは教えを体現するその人たちの"生き様”こそが重要なんだ、と俺は思う。 もちろんそれはニーチェの思想とは関係が無い。知らなかったんだから。
ツァラトゥストラの冒頭で森の隠者が登場人物として出てくるが、ツァラトゥストラは彼に対して 不遜な態度はとってはいない。 この森の隠者はうなったりして祈祷を捧げるが、これはキリスト教の祈祷としては明らかに奇妙だ。 もちろんそれを神秘宗教の派閥の形式と見ることも可能だろうが、より単純に原始宗教の様式と見る ほうがすんなりと理解できるように思える。 彼は『生き様』として宗教に生きるひとそのものは、否定しなかっただろう。
364 :
195 :2007/04/03(火) 03:26:39
>彼は『生き様』として宗教に生きるひとそのものは、否定しなかっただろう。 『生き様』というのがどういうことなのか、よく分からないが、 それなりの仕方で、自分自身に立脚し、自分自身の道を歩んでいる というような意味なら、その通りでしょう。
つまり
>>186 で書いたように、心折れず生き抜いていくために神を信仰するっていうのも、
「生きる力」としての潜在的な力の発現としてはアリだし、敬虔な精神性の善さっていうのも
評価するってことだよ。彼はそれ以上の積極性を意欲するわけだけれども。
おやすみ。
366 :
195 :2007/04/03(火) 08:02:27
>>365 たぶんそれは違うだろう。
>>186 と
>>365 を読むと〈生きるための必要性〉〈自己保存〉ということが感じられる。
ニーチェは「自己保存」については、それを必然的なものとして見るとしても、
積極的、肯定的に評価しはしないだろう。
「禁欲的理想は、退廃しつつある生の防衛本能と治癒本能とから生じる。
退廃しつつある生は、あらゆる手段をもって自己を保持することを試みる」(道徳の系譜)。
>「生きる力」としての潜在的な力の発現としてはアリだし
一切が力への意志である限り、すべては力の発現である。
しかし、力への意志は様々な発現の仕方をする。
そしてニーチェはその力への意志が、いかなる現れ方をしているのかを問題にする。
「退廃しつつある生」(つまり弱者)においては、上の引用のように、力への意志は
「自己超克」としてではなく、「自己保存」として現れてくる。
あなたが調査中の「末人」においても、「自己超克」ではなく「自己保存」が
前面に現れているのではないのか。
>敬虔な精神性の善さっていうのも評価するってことだよ。
その敬虔さが、「駱駝」の精神のように、単に他者としての神に対する敬虔さであるならば、
それをニーチェは肯定的には評価しないでしょう。
なるほど、そこまで徹底するのなら教えて欲しい。 もしもという仮定で、超人たちが段々現出してきて人口比率的に台頭してきた場合、 彼らは現実世界で何を目指すと思う? 映画のシナリオみたいな感じで結構なので、君の予想を聞かせて欲しい。 ^^^^^
368 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 12:19:51
いんじゃない。 誰にでも読めわするが、誰にでも読めるわけでは ないんだから。 うまい事言ったな。俺。
369 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 12:35:35
変化だろな。 真理など固定化はつまらん。 俺なら。
370 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 12:41:09
真理=非創造。 捏造=創造。 のことね。
371 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 12:44:48
ウソもつけない奴は創造性もないだろ。
372 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 13:44:12
たとえば科学が凄く発達して、世界の起源から生命の誕生まであらゆることが 解明されたとする。 そんな時代に神を信仰しようという意志は人間には現れないだろうか?
373 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 16:35:15
そんな心配はいらない。 自我による思惟を逃れられない限り、死を識ることはない。 「歴史の終了」の後もなお、夜は不可知として残る。
374 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 17:22:59
375 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 18:53:40
拶えーいきなり何ですが
>>365 >さん>366さん、
真に失礼かと存じますが それでも言わせて貰っていいですが?
「オメェらどうやったらこをなスゲエ、天才的な理解出来るのよ!!その辺一度良く説明して下さい?」
あっ!!ちなみに最初に 言った凄いとか天才的とか
完璧なレアのまま出してやった皮肉ですから気にしないで仲良く分け合って食べて下さい。
多少ちょっと説明が長くなりますが其処私の優しさと寛大さのなせる業ですが 皆様の何かの理解の助けと迄は言いませんが
きっと何かの切っ掛けになろう物ならこれ幸いなんで良く。
ちゃん聞いて理解出来る位にしたから
こんな長くなったんだから最後まで見れやな、徳に名指しにお二方さんよー?。
376 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:00:41
一枚目、じゃ始めます。 『※1「禁欲的理想は、退廃しつつある生の防衛本能と治癒本能とから生じる。退廃しつつある生は、あらゆる手段をもって自己を保持することを試みる」(道徳の系譜)。』 私が文句が或るのは『』の中でだけである。 尚、その解釈に与えるものは批判では無く此処では訂正に留めたい。 この説明にこの解釈これでおよそ 筋道は整っている。 だが不味いのはその後だ これで終わりなら 彼ら、「弱者」達はその説明自体が終わった段階では その後には構わなくても勝手に腐り絶滅しますよ! とでも言い放ちその後には見事に一掃された絶滅品種とでもなりそうだがその内容を引き合いに持ち込んだ ならばその後の彼等の経緯まで記述すれべきであり そこまでに認識追い付かないのであれば無闇やたらに 著書の引用は控える事を 私は密やかに忠告しよう。 更にどうせなら何故如何なる作用により 彼等「禁欲者達」達を敗退にした作用に軽くでも いいから道筋を自分で見つける位にまで触れて挙げる方が尚良かろう!と おいどおせならキチンと 教えた方がいいのでは?と一度思いその決意を伝え。 更に説明出来なねぇなら 余計な事すんなよ!? 解んねえ奴には解んねぇ 様に旨くなってるからともお伝えしたしく思いまして次第でございます。
>>375 ツァラトゥストラをザーっと流し読みしてもこの手の記述はいくつも見つかるし、
むしろこうじゃない根拠を出してもらったほうが手っ取り早いんじゃないの?
読んでるんでしょ?
ああごめん、今から読むよ。
379 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:09:41
三枚目、つまり、
>>366 あなたが『』内の事柄により否定するならば、
その後にどうなったか?であったり何故、彼らは内から腐敗したかを教えて上げないと
勝手に「禁欲者」達は腐り果て弱り切りしまいに絶滅するんじゃねぇの?
位に留まり余計に困るのはまぁ、私では無く余り良く彼を理解出来ない多くの
中々どうして、どうして稀にその解釈により切り取った理解の真、斬新にして
腹が攀じれる程に笑わせる価値転倒を繰り広げる
人達であり、恐らく結構 一杯、居る事の確認は今更不要だと思われるのだが?――――――――――― では此処から私が解釈と呼ぶものを与えるものを書き記そう。
問題は何が彼等“禁欲主義理想主義者達”に感染し内部から腐敗(腐敗とは元来、組織の内側から無政府化する様をその言語間における概念に見て取れる。)
と言う事から推測され等の著書にも記された事だか、一通り解りやすく理解出来る彼等を襲った“病”それは「良心の疾しさ」であり
つまり後にこれらから発展す我々に降り掛かる
《反感》の所用により・
彼等の意志は内側に向い続け。
まぁやられたらやり返してお互いに足のひっぱり合いしてその内なんか腐りそうだが。
え〜っと、文章がわかりにくいんですけど… つまりデカダンの兆候と分析、彼らの行く末ってことですか?
381 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:16:21
四枚目。又、何故「良心の疾しさ」が病となりうるかと言うと 彼等の精神が良く自らを欺くのだ。(是が理性が持んだ我々の奥深くに持ち込んだ最初の嘘である。) それはこう欺く、我々、禁欲主義は自らに加えられた被害やに対する一切の復讐や仕返しをお断わりします。 と言った所でやはり人生色々やっぱりやたらと不幸な某圧が当り散らかし彼等に加わります。 するとやはり彼等はやはり精神的にも結構キツイです (精神とは自己同一を供にして成長します。) つまり此処で彼等の精神常態を見てみると 恐らく何故こんな無意味な苦痛を受け私は一切何も悪く無く 否!!寧ろ神に愛されている予定のこの私にばかり目がけ一直線に遣って来るのだ!!コンチクショーと 一回位は多分叫んでます。 そして、この住み着いた 「良心の疾しさ」はいよいよを持ってテンパって来ます。
382 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:20:42
五枚目。ちなみにこの「疾しさ」はこう嘘つきます。 「あっいたぁー!!何すんじゃボケぇ!!ワシなんかおまえにしたか!!ってっえ?ハイ?仕返し?」 「まさかーいえいえとんでもございません、そんな、滅想も無いですし私ら神に使える心清い善人ですから復讐なんてとんでも無い!!どんどん苦痛引き受けますよー。」 そう、彼の精神に住み着いた“病”はこう嘘を憑く。 「オメェ馬鹿か?苦痛を受け取り、耐えその苦痛ポイントが金の天使なら一枚、」 「銀なら三枚で死んだら無期限パラダイス旅行確定なんだよ!解ったらオラ!! そこどけぇ殴られんのに邪魔だぁ!!」 「オラ、次はドイツよ!!俺は殴られても何されても仕返ししねぇぞ!!」 「解ったらもっと来いや!!そしたらおまえら地獄行きそして最後に笑う僕チャン天国行き!ー!」 さて、問題です。彼「疾しさ」さんは何時嘘を憑いたでしようか? 正解は突破じめの「私は仕返ししませよ。」でした!!。 それでは正解どうぞ。 「わたしはもう耐えれそうもないので別な方法でお返ししますから苦痛を与えて良いですよ。」でしたぁ!!
383 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:29:29
六枚目、そして、是がいよいよ精神と体に順応し始めた時にいよいよあの一切の復讐欲を我々に広めた。
あの「反感」となり意識と精神の棚底の下に潜り込むようにもはや人間感情の一部と化し我々と同一化染ました。
つまり、こう筋道立てて 一つ一つ消化して行くと ニーチェ位直ぐにある程度までは著書に頼る事無く理解する事が出来ると思う。
簡単なまとめとポイント
「禁欲主義理想主義者」編
ポイント1。
彼らがその内面から衰退した要因は「良心の疾しさ」から来る自己矛盾による悪循環であり。
ポイント2。
その意志は高貴な精神の持ち主は外に向うの対し
彼ら鬼畜本能の奴隷の
その意志は内側へ向かいやがて外に向わない様に仕向ける。 以上
これにより意志を外側へ向ける事無く、更に此処でも
>>365 あなたは尚此処でも尚、誤った 解釈を与えているのだが
そこをピンポイントで指摘させて貰うとあなたは
彼ら禁欲者達はもはやその意志は自己保存する事しか意欲せずと言い。
彼らからはすでに“力への意志”は見当たらないと私には理解出来るが。
それこそとんだ見込み違いであり。
全く何を理解して そう言えるのか私には
その解釈が何故にその道筋から可能なのかの方が実に興味深い。
まぁ私の解釈から全て正しい事が逢ったならそれこそ悲劇的な事だが、私はこう解釈する。
あの彼らの自己保存こそが彼らに見いだされる。
意志であり正しく“力への意志”と呼んで構わないであろう。
384 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:33:36
七枚目。恐らく
>>366 あなたが見誤り此処を穴埋めとなる要因が“道徳の系譜”にはきちっと私には記され。
その道筋を理解するには何の疑問も抱かなかった。落ちている箇所は、禁欲主義理想主義者のその概念感の理解と解釈の不足であろう。
あなたが見落とした点は “禁欲主義理想主義とは何か”であり第三論文全体を通して見受けられる解釈だ。
それは即ち禁欲主義理想主義とは病であり自己矛盾に他ならないと言う事であり恐らく是だけ噛み砕いて
説明しているが恐らくまだその事と彼らの“自己保存”はまだ繋がらず理解に 苦しむだろうが
更に続けると彼らは何対し意志を向け戦っていたかもう一度調べるが良い。
敢えて私があなたに此処の理解に必要な解釈を引きずる言葉はこうだ。
“我々は何も欲しないよりも寧ろ良く無を欲する”と
更にもう一つだけ言わせて頂くとかこの禁欲主義理想主義者と類縁にある民族は後に、
その自らが保つ反感によりある一つの歴史的、勝利を治めるにまでいたる高貴な力強い民族となったことを教えよう。
ユダヤの民と伴に道徳上の奴隷一揆は始まる・・・・。
ユダヤの民、彼らこそこの禁欲理想主義者が残した
その意志と“力への意志”であると私は理解するが?
私はあなたを試す、どうかこの記述を見たなら。
何故、禁欲主義者達のあの自己保存への意志が
“力への意志”だと言える解釈を持ち運ぶのか今一度自己と向き合い探すが良い。
385 :
あぁいてぅいまてぇーん!! :2007/04/03(火) 19:48:12
八枚目。こう言う終わり方をしたら
>>365 あなたの方を持った様に見えるが?どうであろう?で? 《生への意志》だと?
馬鹿も休み休み言うと以外と自身から遠ざかるかもよ? 《生への意志》の発生起源などありえないし、またそんなものがあったとしてもそこに高貴な意志が育つ は無かろう!!
もっと考えてからものを話そうこの大馬鹿者が!!
私はこういった干渉は殆ど皆無だが今回は稀だ、 ニーチェを襲った時のツァラトゥストラと同じ心境だと我独り思う。
更に良く自身の解釈の正当性の裁判官として
ニーチェの著書の一部を 取り立て囲う事がその主張があなたに対し正しい事だとかわ解るはずはない。
見苦しいので改めよ。 それよりも何故其処に記された記述が尚自身に 信じられるならどう行っだ倫理を辿り。
其処にある理であるか説明可能な道筋を身を屈めながら捜し回るが良い。
事物の一切の後には解釈しか残らない。
これは真、正しい洞察で或ると私は信じる。
どうして、解釈が可能であるか?それは、解釈を返してくれるからである。
あなたがたがまず解釈に取り掛かる時にどうして解釈が先に歩き始める事に気付かない?
最も、この解釈による理解は容易い。
最も手を焼くのが箴言と呼ばれる諺の偉そうな奴だ。
386 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 20:03:29
当たり前だ、裁判官は立法者じゃない。 従法者だ!つまらん賢者だな。 ちなみにすべての賢者に価値はないな。
387 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 20:26:56
法はつかうな。自分で作れ。
>> 《生への意志》だと? 馬鹿も休み休み言うと以外と自身から遠ざかるかもよ? 《生への意志》の発生起源などありえないし、またそんなものが あったとしてもそこに高貴な意志が育つ は無かろう!! この根拠は何処から来るのか? 我々が持つ「もっと充実したい」とか興味を持ったものへの集中力とか 自己肯定感への欲求とか、これらの衝動が明確に意欲するものは 『生命感の拡大』でなくてなんだろう? それがより“困難さ”を求めたときに、高貴さを口にして何が悪い? (もちろんこれは宗教者の立場とは別に、我々の話だ。) それに解釈とは対象を自分自身のうちに消化吸収するための摂取じゃないか。 個人解釈による『意義付け』が無くては我々に『意味』など生まれない。 その後に正誤の判断をして検証するのは当然だが。
それにニーチェ自身は >>何故、禁欲主義者達のあの自己保存への意志が >>“力への意志”だと言える解釈を持ち運ぶのか今一度自己と向き合い探すが良い。 それを「歪んだもの」とは見なしたが、それを『力への意志』ではない、と否定したわけではないだろ。 あと、文章がすごい読み辛いです。
390 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 21:47:39
というか。 文が終わってないのに何故。 。をつけるのか。 わからないのは。 正しいことだと思います。
391 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 21:52:44
実際芸術家かもわからないが、ピカソ気取りの日本語はいい加減に直しなさい。 というわけですので、日本語の文法の名著を教えてあげてください。
もしかしてメンヘル詩人の彼?
393 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 21:58:56
たぶん彼女じゃないですかね?
394 :
まぁまぁまぁ欲来たな。 :2007/04/03(火) 22:03:04
>>386 まぁ君よそんなに怒りなさんな。
裁判官とはたんなる比喩だあまりその事に固執する。事はとても賢明な事にはならないと思われるし、
お怒りの所、挑発するようで済まないが
当たり前の事を当たり前だと叫ぶ辺りもやはり賢明では無い気がしてならないだけだし。
もっと言うなら君が気に する事でもないと言う事だ。
まぁ私の告げ方にも問題は在るだろう
何せ私が君と同じ事をされたと思ったら。
きっと私は恥ずかしさの余り逃げ出すであろうから。
まぁ良く尋ねてくれたと言うべきか否、良く私に対し復讐しに来たとこの場合は言うべきか?
何にせよ、あなたは小さな人間よりは些か人間らしいと言う事か!?と私には思われる。
先程の著書の引用は多少と言うか大分と言うか、
まぁぶっちっけあれを提示した所で何の問題の解決にもなってねぇんだよ?
あぁ?解るかいと言う事に話は終始し。
まぁ所謂、適切な処置では無かったと言う事をいい 加減気付いてるのか?
と逆に心配するがまぁそういう事だ。解ったか!!
え〜、っと・・・・・・
396 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 22:10:29
397 :
331 :2007/04/03(火) 22:14:21
俺はあんたは嫌いではない。
398 :
まぁまぁまぁ欲来たな。 :2007/04/03(火) 22:21:59
>>386 君、最後に君に一つ聞きたいがある自身が当たり前であると思っている事を当たり前だと自らで
繰り返すときはどんな心境なのか詳しくなくて良いから何か巧いこと返して寄越せ!
後半はその時感じた差異を女子校生風にアレンジして正直ネタにしましした。
ゆっくり何がその時ずれていたねか考ええて見て下さいでは又・・・・ ――――――――――――ねぇねぇ見た見た? あの人当たり前の事を当たり前だって言い返してたんだってー?
マジーチョ〜受ける!! だって良く考えたら自分が当たり前だって思ってる
事って相手も同じ事を当たり前だと思ってる事も在るわけじゃん?
そう、そう、だったら先に此処がこうでこうだから
これが当たり前だてくるんなら話少しは解るのに意気なり返しの一言目で“当たり前だ”て言う事は
あんたが一番何が当たり前か解んないけど取り敢えず勢いで突っ走った系?
まぁそれもありえなくは 無いけどでもその後何か言ってたじゃん!!
あーああれね多分、返した言葉に何か意味を与え無いとマジ単なる馬鹿になるじゃん!!
あの場合とくにさぁー!!あっそれ、ワカッール!!
だってその後に続いた言葉の意味が既に成立してなかったじゃん? それこそー当たり前じゃん!!だって反応した言葉って比喩だもん!
マジーありえない、 じぁ何勝手に深読みかまして勢いつけて意気なり当たり前だーって感じ?!
良く周り見ろって感じだよね?
つーか空気読めって!!
ああ、でも結構難しいよね会話じゃないから・・・・
でもーそういう所から足元って見られるんだよねー?
それー超テラヒット・スタジオ!!
うぁわ!!マジ寒ッ!! 良いよ空気読んでるよ!
すいません又お怒りですか?レレレのえっ?
>>385 たぶんこれを言いたかったんだろうな。
真理に向かって『生存への意志』という言葉の矢を射掛けた者は、もちろん真理を
射当てなかった。そういう意志は――存在しないのだ。
その理由はこうだ。まだ存在しないものは、意欲するはずがない。またすでに
存在しているものが、さらに存在を意欲することなど有り得ないことだからだ。
およそ生があるところにだけ、意志もある。しかし、それは『生への意志』では
なくて、――私は君に教える――『力への意志』である。
生きている者にとっては、多くのことが“生”そのものより高く評価される。
しかもそういう(目標への)評価の仕方そのものの中に、明らかに見て取れるのが――
『力への意志』である。
なんかまたスレ最初の頃の雰囲気に戻りそうだな…
400 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 22:29:52
>>394 ムダな修辞が多いぞ。漱石から読み直せ。
401 :
331 :2007/04/03(火) 22:31:00
すまんな。謝罪する。
402 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 22:37:20
じゃあ俺も謝罪する。
403 :
まぁまぁまぁ欲来たな。 :2007/04/03(火) 22:40:31
なら私もとに謝罪しよう。
すまん結局
>>394 君も何も私には教えてはくれないのだね?!夏目かじって治るもんならとっくに腹んなかじゃい!!
すまんなら私も共に謝罪しよう。
404 :
考える名無しさん :2007/04/03(火) 22:47:54
文の中の。は許せん。
欲来たな。くん、
>>400 を他の誰かと勘違いしてないか?
俺か? 俺はただの通りすがりの低学歴だ。
このスレのやり取り見て学ばせてもらってるのだよ。
あんたも結構面白いけど、無意味に煽るな。
俺クラスの低学歴ともなると、ニーチェは固くて歯が痛い。
その点、フルトヴェングラー指揮の『第九』はいいぞ。
脳足りんでもニーチャンが永劫回帰の思想が下った瞬間が見えるようだ。
その中身までは理解できないが。
406 :
400 :2007/04/03(火) 23:00:45
名前欄とメール欄を間違えたじゃないか! それに、「ニーチャンが」→「ニーチャンに」だ。 これが低学歴の実力だ。参ったか。
407 :
◆yk/JpL/Z9U :2007/04/04(水) 00:39:40
>>353 >我々はすでにある「世界」から、意味や価値を
>発見するのではない。解釈とは、「意味を置き入れること」である。
カントをパクっているわけです。
>>356 そもそも「遺稿」が信用できるかどうかという問題がありますね。そこからの
引用が多いのが気になります。
自然科学的な装いをすることで思弁的かつ「無」体系な考えを支えようとするの
でしょうが、だからどうだというのでしょう。
「意志」や「解釈」は基本的に文字通りそういう意味です。そもそも「量子」とは
何ですか?物理学と関係あるのですか。
>この力意志がないとすれば、アトムもないことになる
そもそもこういう馬鹿な論理は参考にならない。デカルトの苦し紛れと一緒。
クオークがあります。物理学における「力」は解釈を拒否するでしょうし。
空腹も「力量子」によって生成されるとして、空腹の意味や満腹への過程は
なんら明らかになりません。意味なし。
「力んだ内容空疎な誇示」(三島)では、何も我々の生には貢献しない。
ニーチェをかしずかせよ。
408 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/04(水) 00:55:13
409 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 01:01:18
こんな知ったかの教師がいました。
http://school6.2ch.net/test/read.cgi/edu/1174100485/l50 708 : ◆yk/JpL/Z9U :2007/04/03(火) 23:52:05 ID:SYspbRUN
>ニーチェ
お前に何が分かるw 哲板の「ニーチェ」本スレで待ってるから来いw
でもね、本当はニーチェなんて今のプライオリティからはかなり低いんだ。
「所有と国家のゆくえ」とか、「世界共和国」(柄谷)とか、そういう方向が
1つ。「社会構成主義、構築主義」という方法論の検討。ま、他にもけっこうある。
でもこれからの自分の課題だから、お前には関係ないだろうよ。忘れてくれ。
とにかく、ニーチェなんて道具の一つ。最近は安酒の方が使えると思うけどな。
410 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 01:17:05
>知ったか教師君 今のプライオリティなんて言葉を使っている点ですでにアウト。 それに、空谷だとか。「社会構成主義、構築主義」だとかの用語を用いているのも終わり。 単なる知識と屁理屈。 ニーチェの理解に用語や屁理屈は不要。
411 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/04(水) 01:36:31
そのスレッドに書き込もうとしたけど書き込めなかったので、こっちに書きます。 <!--開始--> これは感覚報告レベルなんですが(つまりまだ正当化するには至っていないのですが)、 ■言語学(一般、日本語学)→論理学→数学→哲学(哲学史、哲学概論、哲学各論)→英語(語彙、文法、解釈、読解) という順番で小学生から高校卒業までやっていけばいいと思うんですよ。 まず言語学をやるのは、これで文法については現行の制度よりも理解度が大きくなると思うからです。 次にやるのは、わたしが特に重視している論理学で、なかでも命題論理と一階述語論理は必須だと思います。 それは、これらの論理形式はそれ自体で完全らしいからです。(それ自体で完全でない場合には、数学と同程度になります。) つまり絶対確実なものは、それ自体で完全なものだけなので、早めに習得しておいたほうがいいんじゃないかということです。 その次にその他の論理形式と数学理論をやります。 完全でないまでも他の学問よりもそれに近いからです。 それらが終われば、次に哲学と英語を並行してやります。 哲学は量が多そうなら、言語分析哲学を優先します。 英語について、語彙、文法、解釈、読解に絞ったのは、英文献を読むために必要なだけだからです。 研究、あるいは学界に身を置かなくても探究するには、英文献は必須みたいじゃないですか。 日本語が今の英語のように世界共通語みたいな位置づけなら、英語圏の人が日本人に合わせてくれることになるはずなので、他国語なんてやる必要はないんですが、残念ながらそうはなっていないので……。 <!--続く-->
412 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/04(水) 01:38:18
<!--続き--> ちなみに、わたしは小学校4年間と中学校4年間と大学校4年間の12年制を考えています。 大学までが義務教育。 現在の大学はその後の段階に位置しています。 それで、そこは義務教育ではなく、今よりも卒業に必要な単位数を減少させて、より研究的性格を強めます。(ということは、卒業するのは今の平均よりもかなり困難になります。) つまり、自発的にやる人だけが進むのではなく、底上げを図るわけです。 そこで落ちこぼれても、言語学、論理学、数学、(分析)哲学、英語と最強クラスの科目群を修得しているので、あまり問題はありません。 少なくとも、ここ何十年かの大学生の平均よりは、上で提案する新体制下で12年間の義務教育を修了した人のほうが上をいくことになると予想しています。 あとは、実践段階が問題ですね。教える側の負担が大きい気もしますが……。 <!--終了--> # 検索したら、次のスレッドが作成されていた。
413 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2007/04/04(水) 01:48:04
414 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 02:12:25
415 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 02:19:24
>>411 すでに、御存知でしたね。
コピペは必要ないようですね。
416 :
『拝啓フリュードッヒ・ヴァルヘルム・ニーチェ男爵殿』 :2007/04/04(水) 02:47:59
『詩集作・拝啓フリュードッヒ・“ヴァルヘルム”・ニーチェ男爵殿。』 もう、あなたと出会い何年が過ぎたのでしょうね。 初めてあなたの著書を、 まぁそれはツァラトゥストラなんですが、初めて拝見した時なんですが 正直は私はあなたの言葉に偉く傷つきましてね? まぁそれは簡単に説明すると何故あなたあぁも意固地な押し付ける様な口調で 何故あれ程の当時あなたがいたであろう時代の事も 少しだけ私なりに考えましてね? その事に思いを重ねただけでさまざまな痛みを 私は直ぐ様想像し勝手に それらの中からしばらく見上げてたのですが直ぐに私は耐え切れず逃げ出したのですが・・・・・・・・。 まぁ私達はあれなんですかねですかね? 恐らく一般的を模範にした 人格別なカテゴリーに分けられるとしましたら多分同じ変り者の札が掛かった。 檻に入れられて手書きの札で赤字で危険の2文字を 書かれそれはそれは丁寧に余り関わらない程度の距離で飼われる野でしょうね? 正直その時でしたね私が初めてあなたに憧れを抱いたのは・・・・・・・。 恐らく私があなたにひかれた理由と共通の話が出来る人は余り居ないと勝手に思いますが?如何でしょうか? まぁ私の場合はその多くは単なる好奇な形容や まぁ悪い意味でマイノリティー場所に必然的に 椅子は予め用意され何か 既に定置であるかの様に周りは振る舞ってましたけどね。
417 :
『拝啓フリュードッヒ・ヴァルヘルム・ニーチェ男爵殿』 :2007/04/04(水) 02:52:04
やっぱり慣れると強がりも手慣れた様子で様になるんですが、あなたを見た時は私は震えましてね? だって意気なり口を開いたかと思えば“神”は死んだでしょう?! 正直震えましたよね?・・・ってと言っても感激しただとか稲妻の様な衝撃が私を貫いた!!とかならまだ打ち明けやすいんですがね・・・・・・・。 何をその時、私は思ったか当時のあなたと私を重ねましてね? その時に背筋の凍る様な、なんて言うですかね?鈍い痛み・・鈍痛!! そう鈍痛の様なしっかりとありもしない痛み何ですがね神経にしっかり繋がってる様に感じたんですよ・・・・・。 もうこの際だから正直に喋りますけどね。 まぁお恥ずかし話何で恐縮何ですが物凄い物凄い恐怖を感じんですよ。 まぁ私は慣れているつもりでしたがダメでしたね。 あの幾千から睨まれる視線は、ちょっとさすがに今も嫌ですね・・・・・・。 それからですかねあなたに急に親近感が湧いてきて 一気のめり込んだのは やっぱり難しいですよね人を理解するのって?! 良く私にも投げ込まれましたからねー? 異端者に浴びせる罵声や飛至る所から飛んでくる気違いの吹き矢。 今だから告白染ますけどね私があなたに興味を誘い出しのはあなたは悪いでしょうが紛れもなく独りの人間によせた同情でしたよ・・・・・。 ああ、気が付けばもう時間です時間が合えばいずれまた・・・・・それでは失礼します。 フリュードッヒ・ヴァルヘルム・ニーチェ男爵殿・・・・・・・。 私があなたと出会ったときその時調度、私も 「もう、ボロボロの靴底であるくのは嫌でした。」 真、自ら攻める勇気に優る殺しやは居ない。 何故なら自ら進んで攻める勇気は自らに言うからだ! 「これが生きると言う事で会ったか!!良しならば!今一度!!」と・・・・・・。 ありがとう、何故なら 私は生きたい、少し踊りたい・・・・・私は生きたい少し踊りたい・・・・・。
人生を数字にして表してみた。 0+(×)1+(×)x=0
419 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 06:43:59
だが0は無では無く有である
420 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 07:23:05
文明社会における人生は一般的には虚しいだろうが、 それは文明は滅び去る運命にあるからだろうと、当てずっぽうにも言ってみると、 文明社会における人間が原始的にも敢えて苦労を買い込むのも無理はないと思えないだろうか? むしろ人は、いや、知能というのは、虚しさをもたらすものなのだとこういえやしまいか。 知能によって因果をしり、予定を知るならば、狩りにおける発見と獲得の喜びは契約、義務、権利となり、味わいがなくなってしまうのである。 知能をより高くもてばもつほど、感情的に落ち込みがちになるというわけである。 いわんや知的遺産があまりにも積み重ねられた現代においては言わずもがなであろう。 それ故に、文明の発展につれ、人は これまで以上に不測の事態と無法行為を自ら招致し、苦悩し、生きんがために人為的問題の解決に奔走せざるをえないことに相成るのである。
421 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 07:26:05
文明の興亡の軌跡はまるで株価だな。
422 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 08:07:08
文明社会は生活に飽き飽きした古今東西の天才達の成果を設計図としているが、 それを受け入れることによって彼らの憂鬱まで大衆は受け入れることになった。 知の遺産によって自ら成果をあげる機会と喜びは大いに失われ、苦痛は苦悩となり、生活は機械化する。 したがって退屈な生活には耐えかねない知能は、知的財産が積み重ねられる度に、 生活、世界の不安定化を企図せざるをえず、原始的生活の問題を維持し、 苦悩を苦痛化してしまうのである。 問題の解決と同時に問題を復活させねばならないのだ。 そうしないことには―外的な問題がなければ―自己が対象化され問題となり、自己は克服されねばならなくなり、人生は自己の抹消作業となり苦そのものといわねばならなくなるのが多勢となるからだ。
諸々の『価値』の根源は人間である。人間が、己を維持するために、それらの価値を 諸事物に賦与したのである。――人間が元で、それが諸事物に、『意義』、『人間的意義』を 創り与えたのだ。それゆえ、彼は自らを「人間」、即ち「評価する者」と呼ぶのである。 『評価(価値の是認・意義付け)』は創造である。君たち、創造する者よ、聞くがよい。 評価そのものが、評価を受ける一切の事物の要であり、精髄である。 評価することによって、初めて"価値”が生まれる。評価されることがなければ、生存の胡桃は 虚ろであろう。このことを耳に留めよ、君たち、創造する者よ。
「知恵も人を倦怠させる。それは――何にもならない。お前はおよそ欲念を持ってはならない」 ――この新しい表が公衆の場に掲げられているのを私は見た。 おお、私の兄弟たちよ、この新しい表をも打ち砕け。それを掲げたのは世界に倦み疲れた者、 死の説教者、そしてまた牢獄の番人だ。つまりそれは牢獄入りを勧める説教でもあるのだ。 彼らの学び方が粗野(皮相的)であり、彼らが最善のもの(自らの生のため如何に利用するか)を 学ばなかったということ、そして彼らが余りに早期に、余りにも急いで(詰め込み式に)学んだと いうこと、彼らの食べ方(意義付け)が不味かったいうこと、それが、彼らの胃をこわしたのである。 ――こわれた胃というのは、つまり彼らの精神である。それが、死を思えと勧めるのだ。 まことに、私の兄弟たちよ、精神は胃の一種なのだ。 生は悦楽の泉である。しかし憂悶の父である壊れた胃の臓腑から声を出して語る者、そういう者たち には、すべての泉は有害である。 認識すること。それは獅子の意志を持った者には悦楽である。しかし、倦み疲れた者は、ただ他者から 「意欲される」だけであり、全ての波に弄ばれるのだ。 弱い人間たちの特性は、彼らが道中で"自分”を見失うことである。そして最後には彼らは疲れ果てて こう尋ねるようになる。 「いったい何の為に我々はおよそ道を歩き出したのか!一切は同じことではないか」と。 こういう者達の耳には、「人間のすることは何にもならない。お前たちは意欲してはならない」という 説教が快く響く。だがこれは「奴隷になれ」と勧める説教である。
425 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 19:47:10
↑ 結局ニーチェは何が言いたかったか端的に言えた奴が賢いな。 長くするのは誰にでも出来る。
ニーチェ主義者の皆さん、アフォリズムに徹しましょう。
文明社会が人を機械化し、奴隷化するのは、 自然が規則的、機械的であるからで、これを拒否する者は死なされます。
>>425 ニーチェは要約とかされる事を嫌わなかったっけ?
うろ覚えで申し訳ないが…
不規則的な行動、言動、形象、色彩を見てみれば、不器用で不器量、無力で汚らわしく醜く映り、人を不愉快にし貧しくする。 全体を構成する部分が個性的であるほど哀れな姿を晒す。 つまり人の肉体、感性もまた自然なのであるといえる。 不自然なのは自己だけである。 自己は少なくともこの世では無力で不器量な無法者である。 それ故に虚栄で過酷な運命を紛らわすことも残念ながらままならない。
430 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 22:42:38
自然ならよいのか。 自然をこえろ。
431 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 22:50:26
自然だからいいのだー。自然真理信仰か?
432 :
考える名無しさん :2007/04/04(水) 23:27:13
異端者としての自己を抑え、潰していくことで、人はこの世によりよく適応していくことができる。 幸福は無私な人にだけ可能な状態であることだろう。 だがしかし、そんな自己排他的なこの世で敢えて、自己を尊重することを頑なに選びつづけ、尚且つ、 降りかかる甚だしい暴力の雨にもめげることなく耐えに耐え、 肉体が滅び去るまで自己が倒れなかったとすれば、一体自己はどうなることであろう? 自己の尊重と保存の意思の是非はよくわからないが、死を考慮しなければ、 自己の尊重は他者による例えば池田某への蔑視と暴力を必然的に招き入れ、この世は地獄と化すために、基本的に無謀なことなのである。 普通に自己を省みないのが楽で尊重される役に立つ何かくだらない生き方である。
理性的にも感性的にも自己は排他されるべきものであると見られ、 不自然であるために必然的にこの世では居場所がない自己である。 それにもかかわらず意味と価値は自己に属するが故に、自己はこの世に価値と意味を見いだすことができない。 だが人が生きるためには自己は要さないのである。意味も価値も無用である。 しかし自己は意味と価値を本質にしている。 困り者の自己である。
笑わせんな
楽しいじゃないですか。
手段はともかく自己とこの世は別れなければならないのだ。 とはいえ例外のない規則は存在しないためか、自己はこの世の例外としてわざわざ現れるのである。 そして排他されては、また現れるのである。 ならば自己にとっての人生、あるいは人生にとっての自己は棚に優しく置いておくとして、 自己は自己そのものにどんな価値と意味を付与すべきものなのであろうか?
創れ。
この人生で自己を死ぬまで保持するならば気がつけばまたこの人生が自己つきで始まってるかもしれない。 とすれば自己を尊重し、それに価値を置くならば、自己を死ぬ前に葬らねばならないということになる。
去れ。
うそごめん。
441 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 01:44:35
存在するものは無くならない、 としても。 自己も他者も一致団結して、自己を消しにかかるのがあるべき姿であり。 歩むべき道なのであり。 超人を心ざす者が道標にすべき指針なのではあるまいか?
末人に関してピックアップしてる途中なんだが散見していて ひとつに特徴を纏めるのが難しいな。 特徴を抽出するにも個人レベルと群集レベルでパターンが違うし いっそ社会心理学かと思って本屋行ったらメタレベルでの解釈しか見当たらなかったし、 オルテガだとニーチェより先に行っちゃってるし・・・
>>426 これは読み直すのが面倒なのか?
それとも本を買うのも憚るほどの吝嗇なのか?
ぶっちゃけニーチェの『末人』にはまだ"やましさ”を感じるほどの良心と羞恥がある。 それは個人レベルにおいて集団生活における自己同一性の確立が明確に成し得ない 事情とジレンマゆえの事だという見方も出来るのだが、オルテガの時代においては 『無邪気な無知と排他性』が問題になる。これは砕けて言うと末人の完成形である。 そしてそれは現代の病理でもある。今こそが末人の時代だ。
445 :
早=HAYA :2007/04/05(木) 17:26:28
以前、このスレの1〜100あたりで、暴れた者です。 なんだか、多感な人に害毒を与えかねない言葉が、不特定多数の人の目に晒されるのは 嫌でスレ落ちさせたいし、哲学とかについて話せる知人なくて、哲学的刺戟剤に胃に穴が開きそうなくらい飢えていて、此処来ました 六百六拾六さんの言うとおり、精神は胃みたい・・食べただけだといけない。 栄養にするためには消化(熟考、意味付け)や運動(執筆)が必要 今は忘我錯乱狂躁乱舞の気配ありません 嫌だ、変人御免、という人がいれば去ります・・・ 表現欲求。かまってほしい・・・僕の意見を批評して欲しい・・誰かの意見を批評したい・ 食べただけだと、太る、運動したい
446 :
早 :2007/04/05(木) 17:27:59
>>412 さんの意見に関して、僕の個人的意見
僕は、音楽と数学を徹底的にやってから、言語の構造や哲学をやったほうがいいと思う
ニーチェは、近代的文法自体をかなり疑っている。原始人の言語は、リズムや感覚的印象がまず先行している
原始人的言語の方が、心理学で言う無意識、を含めた心の領域全てを含んでいて、正直。
情報的言語は、表面だけに偏り、本質から離れて表面的に因果関係を無造作に作ってしまう。
論理学的言語は完全すぎて、慣れ過ぎたら、パラドックスや逆説(批評には不可欠)を発見創造できる能力が下がりそう
感覚的メタファーは、純粋な現象的世界において感覚印象→言語ができる過程、みたいな感覚を読む人の意識上に想起させ、現象の純粋な在り方を見せる
現代の新聞記者やジャーナリストの論法は、明らかに虚構的な因果を、無自覚的につくっている
だからといって日本語で言えば小林秀雄の文章のように、感覚や運動性やメタファーにまかせすぎると、言語は、社会的不能者の泣き言。
ニーチェや小林秀雄みたいな芸術的表現力や高い知能があればいいけれど、無ければ、言語障害者
数学的思考が、それを補えば良い。数学は言語学と違って、言葉になる、以前、の次元で、純粋で完全。
だから、言語上の逆説やパラドックスを創造する上では、支障なし
たしか善悪の彼岸で見かけたようなこと
ニーチェは「我思う」の、「我」を、思う主体だとは考えない。
「我思う」というのが主体の行為でなく、「我」が、一種の解釈に過ぎない、
とかいって文法や、主体の自己同一性を疑う
ニーチェは、人にも物にも、自己同一性があること自体、全く信じていない
人格、自己、意識、自我という類のものが、心全体のあらゆる要素のほんの僅か一部でしかない
ということを鋭く見抜き、フロイトなどに影響を与えた
現時点で抱いている自己という観念の存在が疑わしいことを見抜いた上で、自己の中心点を探すことを
訴えているような気がする。個人的心理や哲学的世界観の中心を見つけては、その中心は不純である
として解体し、あらたな中心を求める、というのを繰り返し、世界の心臓部に近づく批評精神
体系が構築される以前に、中心が解体されている。つねにニーチェの気分や情熱で中心が動く
447 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 18:00:55
胃のように消化(解釈)しよう。 消化不良に気をつけろ。毒を食ったらちゃんと吐こう。
448 :
早 :2007/04/05(木) 20:09:15
末人、おしまいの人たち は、道に乗せられている。死という終点があることを感じずに、ただ道を歩いている 道を自分で創れない。だから、歩いているということを、そのうち自覚しない。 流されている。いつのまにか、死ぬ。 超人は道を創る。歩いている、生きている、ということを強く自覚する。 自分の道に、記念碑を残すことが出来る。流されないように、周りに抵抗する。 その戦い、が価値を創造していく。末人の家畜郡との摩擦は色々な言葉になる。 自分で創ったその価値や意味を、記念碑に刻み込み、それが思想文や芸術作品になる。 それが受け入れられると、後の時代にその道を多くの人が通ることになる。 現代は、古代ギリシャと違って、心(意識、無意識、精神とかそういうの全部含めて)のそれぞれの機能が、 個人に役割として割り当てられているから、一人の人がいろいろな機能を持ち合わせることが難しい 専門化されている。ギリシャは、もともと奴隷と賢人が別れていて、賢人は、哲学、詩、数学、音楽、などばかりやっていた だから全体的に末人になる心配は無い。 現代の学者は音楽や文学を深く味わえない。ロックな人は、学問に興味を示さない。そういう傾向が強い 専門化の奴隷となると、全体的な流れを認識できない。認識できると、その流れ、強制的線路から、 離脱できる可能性を得る。ロックな人がいくら感動的な表現物をのこしても、それはロックな人にしか 影響しないようになってる。学者は、解釈に価値や意味を創れずに解釈を付加して、幾何級数的に空虚な解釈が増えていくばかり 作家は、大衆受け、末人好みの文章を考えるようになって、根源的超人的ディオニュソス的なものから離れる。 道、流路、が増えた分、たくさん選択がありすぎて、自分で道をつくろうとしない。超人は減る。 毒を食ったら、吐くのもいいけど、自分の心理的免疫力で浄化してみると、ワクチンにでもなるような気がする
消化不良を引き起こす不味い文体の人が2人ほどいますね。
450 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 20:31:17
基本的には専門家てのは管理される対象だよね。 あまりに狭くて自立できないもの。常に一部か。 試しに食って見なければ分からないってのもあるか?
内容より形式が物を云うのだ。 というのも内容は伝わらないからである。 ところで力は伝わるものなので、力は形式である、形式は力なりとこう云えるだろう。 力を意思するならば、形式によくよく配慮するのが肝要である。 内容は、いわば形式を輪郭として塗り絵をするようなもので、各自が己のみに対して表現するところのものなのである。
形式しか伝わらないならば、 また内容を伝えたいと無理なことを願うならば、 それこそ注意深く形式を設計せねばならない。 文という形式は思想内容の設計図と言えないこともないのであるから。
453 :
早 :2007/04/05(木) 21:10:10
>>451 ニーチェはそういうことを誰より強く認識していたとおもう。
というより、たしか、
内容と形式、
現象の背後の実在と現象、
あるいは主体と客体
などの区別自体を否定していたと思う
純粋な世界、ほんとうの世界、では、生理的感覚的な知覚の動きしか存在しない。概念は無い。
しかし、区別や名付けなどがなければ、ディオニュソス的混沌になって危険だから、
便宜上区別する必要があった、とニーチェは言っているように、僕は思う。
その便宜のために、言語には主語と述語、などが分かれ、言葉の上の認識で形式と内容が分離してきた
といえるような気がする。
「悲劇の誕生」によれば、無意識の深層、ディオニュソス的状態では、全てが根源的一者に合一する。
そういういことを、論理的にではなく感覚的に直覚すれば、内容と形式を自由に自分の心の中で行き来できる
内容と形式は一致し、形式に、強い力、ディオニュソス的なものを、付加できる。
言葉の葉々の中に、なにか内容的な宝が埋もれてるのではなく、言葉の葉一つ一つが宝であると認識できたら、
アポロ的表現力が格段に上昇する。自分が表現した形式に自分が刺戟され、自分の言葉に、自分の心が創られる。
>>451 専門的過ぎる専門家は、いわば、
開拓せずに狭い土地ばかりに固着して、同じ畑で同じ作物をどれだけ効率よく生産できるか
みたいなことばかり考えている、ような感じかもしれない
広い視野、広い開拓で生産力もあがる。種類を増やせば、組み合わせも増える。
ジャガイモばかりのカレーはおいしくない・・・・
ジャガイモ的味覚だけ洗練させて、それが感覚的前提となることで、感じうる印象が限定される
色々な種類を取り込んだほうが、感じれる可能性は増える
赤ちゃんの頭の中は常に混沌としている。
454 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 21:10:15
超人=超人になろうとしてる者 矛盾してますが何か?
455 :
早 :2007/04/05(木) 21:12:48
456 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 21:15:22
( ´,_ゝ`)プッ
457 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 21:45:53
ツバ吐くな!
>>453 参った。
ニーチェについて話されては私は困ってしまうからである。
何故か? などと問うのは私に対して失礼なことであるとだけ言っておこう。
459 :
早 :2007/04/05(木) 22:26:26
ニーチェのおおきな特徴は「何故」「?」が極端に多い。 ニーチェは文法、主語ー述語をまず疑って、そこから演繹される原因ー結果の因果性を 疑っている。原因ー結果、がもう少し文学的宗教的領域に達すると、罪と罰、になるかもしれない あらゆるところで、哲学からはみ出した文学的詩的領域までいっている・・罪深い・・・神を殺した・・(失言 何が問われる原因なのか、 問われる対象は何か、 ニーチェはどういう結果を出したか、 よりも、ニーチェがそれをどのように問うたのか、ニーチェがそれをどういう動機で問うたのか 全てニーチェの中にある要素が重要だと思う。言葉のそれぞれが、限りなくニーチェ自身に近寄りすぎて、 対象そのものから離れている、というより、対象そのものが存在する外界を設定すること自体を、 不純な仮定や、自分の生存を脅かす恐怖を誤魔化すための虚構、だとしか捉えていない。 むしろニーチェの哲学的な仕事の全てが、ニーチェの身体(神経刺激、血流や心拍数、五感など)のメタファーでしかない、といえるような気もする。 常に「何故?」という病的な好奇心に憑かれ、論証的明確さをもつ答えを得れないまま、新しい「何故?」が生まれる だから、読む人が、ニーチェの哲学に結論を見出すことはできない 迷路のゴールを目指すのではなく、 ニーチェと一緒に「何故」の迷路を作っていくことで「可能性」「遠近法」を創造できることがニーチェ読解の大きな恩恵
460 :
早 :2007/04/05(木) 22:33:47
>>458 僕は、ニーチェについて問われるのは、自分自身について、あるいは自分自身の中にある醜くて目をそらしたくなる
ようなものについて問われているような錯覚(あるいは錯覚でないかもしれい)に陥ってしまう時が、あった・・
だから困っていた・・・
461 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 22:50:51
子羊「おぉ神よ。私はなぜ苦しむのでしょうか?」 神「罪があるからさ。」 子羊「おぉ神よ。どうすれば、許してもらえるのでしょう?」 神「罰を受けよ!それは苦しみ続けることだ。」 子羊「おぉ神よ。有難うございます。」 神「........」 罪と罰の永遠回帰。 苦しむと云う価値の発明。 苦しま無けりゃ人間じぁね〜。 現実ってきびしいよね?ね?
陣痛の苦しみを乗り越えて産みの歓びがあるのさ。
463 :
考える名無しさん :2007/04/05(木) 23:29:56
苦しみの大きさ=よろこびの大きさ。 マジで?
464 :
ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマン :2007/04/06(金) 00:02:05
『ルサンチマン・ブルース・バンド』 全てのレベル・ミュージックを愛する反逆者達へ 少年は月を見上げその紅い色に顔を歪め。 蠍の願いははパルドラ野原に開いた穴に今も小さくうずくまる。 なぁ?一つ秘密を漏らそうか? 禁欲主義的理性の基に生きた奴って皆《ルサンチマン》なんだってよ・・・・・。 音源は歪む、マイナスの原子を音階の臨海にまで《快速調》で運び上げ。 そこでもう一度、自由を求めるんだ!! コヒーレント化の施されたされた原子の水面は 今夜、月の辺りをゆるりと周り。 あの天の懐、一面紅く広がる蠍の歌を一番近くで聞いてやるんだ!! なぁ?ついでにもう一つ秘密を盛らそうか?! 量子化された猫を一匹ガスボンベと一緒に放り込んだとその馬鹿が言ったさ!! 「この次に君が覗いてみた時その猫はどうなっているでしょう?」 君いいかい?粒子波は見ようとすると決して観測出来ないのだよ・・・・・。 今し方、遠くを流れる銀河の海に夜の汽笛は鳴り響き 私が混ぜられました有機的アトームともうしましょうか、我にして単一にて複数なるものなり。 私という現象は実在性を灯らせた青い有機蛍光灯で その身を電気質に胡桃その輝きで弾ける意志の一つです・・・・・・・。
465 :
ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマン :2007/04/06(金) 00:03:56
ジャズ、ブールス、ファンク、リズム・ブールス、ヒップ・ホップ、ダブ・ミュージック、スカ、南カルフォルニアに咲いたパンク・レゲエ!! みんなむかしからのきょうだいなのだから・・・・・決して独りをいのってはいけない・・・・。 嗚呼、私も今し方解りましたようやく解りました。 どうやら、私も既に“病”なのだと、これは歴史的推測で見て取れる完全なる。 独断であり、どうやらこの“病”の広がりはとどまる事無く暗雲を私に広く見渡します。 嗚呼、何故あなたまでが?その“病”に苦しんでたと自ら告白するのですか!? みなのほんとうのしあわせのためなら、ぼくのからだどひっぺんやかれてもかまない・・・・・・・・。 さぁ、時は来た私が最後の命令をその自らの魂に下したのは自ら歌ってくれと 言ったことだった さぁ歌うがいい今私の心は感謝の念に震えてる!! 今この時、もはや、どちかが歌えと言ったかなんて、関係ない。 さぁ歌うが良い・・・・。 嗚呼、大地の詩を響かせた私に詩を教えてくた あなたは春に散り行く修羅を真に心底、又、憎みその深みの分愛していたのですね? 私が心から愛した詩は全てはあなた方がお造りになったんですってね? 俺は白い暴動が欲しい。 俺は暴動が起こしたい。 俺は暴動が欲しい。俺は暴動を起こしたいんだ自分自身の暴動を!! 苦痛を感じるものは《怒り》によって、それらを麻痺させる。
466 :
ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマン :2007/04/06(金) 00:10:42
全ての禁欲主義的理性の系譜を辿るものは紛れもなく《ルサンチマン》である。 ニーチェあなたが何故哲学者として否、全ての哲学があなたにとって“生”に対する“意志”の発起でなければあなたが知った意味はないですからね。 あなたに最後の秘密を打ち明ける!! 耳を臆す者は陰で震えよ聞く事の叶わぬ輩は陰で好きに群れよ。 更にこれまでの一切の過去も今こうして悲劇と今再びあいなった!! 誰か希望だ!!希望を持って来い!! 従ってこのものはまず、 自らの信じえぬ事を疑う。 つまり彼はどうして反対物が自らに無い事から解釈の証明から取り掛かる。 つまり彼ら《反感》を抱く者は自らの反対となる価値へ自らの真を置く。 全ての禁欲主義的理性が、これにあたり、哲学者に至ってはおよそ此処にしか その存在は認められなかった。 朝日が小さく咲いてその花を春に笑うよダンデ・ライオン。 暁の紅に南が染まるころ。失意の門番ヘイム・ダルは その終末が遣ってきた事を天たからと笛の根を大地と空の水面に投げ掛け。 ユグドラシルの木の上を大きく回る。 フレスベルグはいち早く聞き付け其処から二度とは動こうとはしません。 睡蓮の花びら舞う小さき水面の岸辺に己しか愛せぬことしかしようとせず 他人からの愛を貰いながらもどの他人を愛せない。 独りの青年はついに復讐の女神ナメシスの怒りにより その美しい姿のまま睡蓮の花の精となりました。
467 :
ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマン :2007/04/06(金) 00:24:08
そして彼は一生に渡り 自分自身しか愛せせぬ魔法をかけられました。 復讐の女神はこういいます。 「己しか愛せない人間に何の価値があるという? 人から報酬を与えてもらい尚自らは何も与えぬと申すのか!!」 「それはならん!!何故なら世にはあらゆる事物には全てに価値はあり」 「お前はまさしく差し出された報酬を受け取っておいて、自らはなんら報酬をあたえねば、差し出した報酬の分は損害となり」 「それは万物にはそれぞれの価値が何かしらすでなありその価値と同じと思われる等価の分を変換しそして補償し?!」 「何できない!!なら話は早いは!!いいかい覚えておき!!」 「一切には価値があり一切の価値には等価があるの?」 「そして損害を与え苦痛をあたえたあなたに復讐こそなさなければ何が正義というのだ!?」 ナルキッソッスはこう言いました 「私は人間を愛しています。あなたがたは自らへの愛を拒みますが私はこう教えたいまず」 「自分自身を愛する事を学びなさい、そしてこのこともわたしはあなた方に教える。わたしは悟る所が人間にはあった。」 「それは人間がもっとも良く自分を愛するのは“妊娠”している状態であるということだ。」 「それからこの言葉も教える、結局、人間が心底から愛するのは自分と自身の子と仕事しかない。」 「自らの子供を残す時それはあなたを残したい!!と思う時だ、あなたが創造の息吹にまみれ尚この苦痛渦巻く地上に自らを残したい!!と願うときなんだ。」
>>367 この書き込みに対して追記しておきたい。
まず195氏に対して前レスでの私の誤りを謝罪したい。
あれは私の見解であってニーチェの主張ではないのは確かである。
その点は反省している。
で、これからが本題なのだが、
>>367 で問うたのは私の杞憂から来るものである。
私はかつてニーチェの遺稿集を読みながら、
「よし解った!ならば超人とは何を現実世界で目指すべきか?」と疑問に思った。
めんどくさがりな他の"非読者”にとってはわからないだろうが、遺稿集の論調は
ツァラトゥストラとは若干違うのである。
で、遺稿集が妹エリザベートの改竄無しのものだとして考えるならば、
超人らしく生きようと目指したとして、彼は果たして知的隠者のようにひっそりと
暮らすことに満足し得るだろうか?、と感じたのである。
つまり、「あの場」の雰囲気を感じ取るとき、そこに拳の影をまったく感じずに
いられるのか、という問題である。
ナチは悪である。だからそういう方向に受け取るのは馬鹿である、と思考停止に
陥るような単純明快な奴等は脇に置いといて、超人を目指す人間たちが
平和なコミューンを作ることだけで果たして満足するのだろうかという疑問が残る。
現実世界で何をなすべきか?を問うときに、善きにせよ悪しきにせよ既存の社会と
軋轢を生まない運動が果たしてあるだろうか?
そして「善良な市民」とは既存の価値観に依存して遵奉するという性質上、変化を
嫌うという性向がある。
ツァラトゥストラに、
「嵐をもたらすものは、最も静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を
左右するのだ」
と書いてあっても、それを結論と出来ない勢いが遺稿集にはある。
だから、これを(少なくとも読んだことのある)他の人間がどう解釈したのか
一度聞いてみたかった。
469 :
ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマン :2007/04/06(金) 00:27:11
「あなたが自身を一番愛する時その時は自らを越えて生きる創造への愛としなさい。そしてその創造こそを愛しなさい。」 「わたしはあなたがたが私をしらないて言ったとき 又ここへあなたの知らない言葉とあなたへの大きな愛を携え戻ってくるでしょう。」 「わたしはわたしの偉大を成し遂げる道を行く。あなたはあなたの偉大を成し遂げる道を行く」 「一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの「ここ」を「中心」として「かなた」の球は回ってる。中心は至る所にある。永遠の歩む道は“曲線”である」 ナルキッソッスはこう言って自らを睡蓮の中へ復讐の女神ナメシスの罰を受け取り再び自らを閉じ込めた 神は死んだ・・・・。 間違いない私たちが殺したんだ・・・・。 熱心な宗教家だとしても 彼らはやはり神を信じてはなく、 如何にして神というものは存在する事が許されるか、彼らは演技してただけなんだ。 神は死んだ・・・人間としての独りへの同情によって 神はまた没落するところをもつ。 追伸、原題にあるレベル・ミュージックっていうは 簡単に言うと全ての《反逆・音楽》って事、ロックしかりルーツ・レゲエしかりパンク・ロックしかり。 全部に共通するのは全部、制圧への抵抗手段としてその起源があるんだ。 つまり皆は《ルサンチマン》って事と俺の大好きな宮沢憲治も生涯貞操を宣言してたのを知っていたからこれも驚いた。 あらゆる価値転倒の試みの最初はユダヤの民だとしても、多分俺が最初に出会った価値創造的なルサンチマンは彼らだったと思うし。 つまり俺たちが言える事はは《万歳!!反逆者!!》てことじゃねぇ? 超人はあなたにあげる そのかわりわたしを永遠の春に舞う おしまいの蝶人にしておくれ!! おお!!ツァラトゥストラ!! 「音楽の力によって激情そのものは享楽させられる」 フリュード・リッヒ・ヴァルヘルム・ニーチェ。
そ、そのコテ気に入って使ってるんですか? ゴッド・セイヴァ・ザ・ルサンチマンって・・・うわ
471 :
君ぃマジで扇子ねぇの? :2007/04/06(金) 03:50:37
>>470 君?何を言っているだ!!めちゃくちゃ皮肉っていて偉いクール!!ウール!!おやつはカール!! って言っても解らねぇか?本当はね《ルサンチマン》に向けられて冠された題名なの?!
反感者+音楽って言って そん次ぎニーチェって言ったら一つしか無いじゃん? ロックは死んだ・・・・・
そんなものが今何処に或る?
これしかねぇじゃんよ?!
セックス・ピストルズじゃねぇかよ!! あと、神よ反感者を救いたまえ!!ってなってっけどー?
その記述良く良く見なよ?ちゃんと何故?神が死んだかすげぇ倫理的に記されてるからーー!! だから俺の計算だとちゃんと解釈できたら多分こんな感じに印象になる予定なのーー!!
なんだ?コイツら自分で 神を殺しておいて次ぎは 助けろだって?
アヒー!!マジ?コイツら馬鹿なんじねぇ?!
見たいなすんげぇ皮肉になったのにー!!
472 :
君ぃマジで扇子ねぇの? :2007/04/06(金) 03:55:40
まぁ良いソチは悪くは無い まぁでも神が死ぬ所は ちっょと焦った。 多分あれでばっちり一殺 確定系だわ!! まぁ其処までに至る道程、スゲェ大変だけど 興味ある人はこの記述探してみ?! 却って、そこで初めて“解釈”に取りかからなくてはならないからであるが、 そこには解釈の技術が必要である。 『――――本編の第3論文では、私がそういう場合に解釈と呼ぶものの一つの見本を提示した――――』 一つの事が必要だ。――そのためには諸君は殆ど牛にならなければならない。 そしていずれにしても「近代人」であってはなら“ない”。その一つのこととは―――“反芻”することだ・・・・。 オーバーエンガディーンの“シルス”=アリーアにて 『道徳の系譜序説末尾』
473 :
君ぃマジで扇子ねぇの? :2007/04/06(金) 04:04:13
『』の解釈と呼ばれるものを探しにいこういざ行こう!! でその時忘れてはならない大事な言葉 人はなにも欲しないよりは寧ろ良く“無”を欲する あとはこの“無”を下手に取り違えないこと、例えば 生のアントニュウムが直ぐに死であるとか関連付けないで。 “良く欲する“無”とは 何かめいいっぱい引き伸ばして あと必要なのは“相対化”これも概念感で成長してないとちょっと辛いと言うか殆ど目腐れと一緒なんで アィンシュタインさんまでは行き過ぎですからせめてこれぐらいで。 相対・他との中で関係を成立する事・どれも正しい又はどれも等しく価値がある これが溶ければ何故、市場を神は俺が殺したんだと走り回った人や更にニーチェとして否、哲学者として否哲学の全体が彼にとって 何故全て“生”への否、 鬼畜道徳への抵抗でならなけばならなかったか?も物凄く滑らかに解ります。
474 :
君ぃマジで扇子ねぇの? :2007/04/06(金) 04:14:30
あとその際ちっよっとしたテスト見たいのありますからまぁ簡単なあんた哲学向きあれ?不向き?だって!! ちなみ私は血統も苦痛からの精神分離精は間違いなく隠居者としての資格ばっちりな結構しんどい系な 禁欲主義的理性だってさ!!所謂憎しみの感情をもりもり抱いて橋橋自分に充たる“疾しい”人らしよ!! ちなみに市場を叫びながら走り回ってた人の声は 多分、ニーチェ耳では聞いてないよ? “無い”はずの精神の声を彼は又良く“欲した” ニーチェはルサンチマンかって?馬鹿野郎!!哲学者全部がルサンチマンだ!! 皆、苦痛へ自ら出向き それが何故に苦痛の意味なのか又解釈によって自分に少しでも その痛みが何のための痛みなのか皆悩んだ見たい。
475 :
君ぃマジで扇子ねぇの? :2007/04/06(金) 04:18:34
ルサンチマンは憎しみの 感情を抱く人? いいえ私が見てきた人達は殆ど憎しみを自らに与えてと言うか理解する事に 更にもう一つの多くの事を理解する真に賢い者でしたよ!! 愛を知るには憎しみを知ることで或る。 なんでディオニッソスに 学んだか? 精神の深い者は仮面を愛し葡萄酒はアポロンへの憧れと健康に忘れる為。 つまりは演劇を良く学び、葡萄酒により忘却を良く学んだ。 彼は“演劇”と“葡萄酒”の神であとかってな推測だけど多分ディオニッソスはインドに自らの足で向った時もう独りの神にきっと 出会ってたと思う。 シヴァ・・・破壊と想像と“踊り”の神でにして破壊神として祭られヒンドゥー教における最も信仰集め事インド神話における三柱神の独り。 ちなみに息子が確か百人位居たような気がするが、 有名所ではいきなり父上の風呂上がりに首切られた かなりしゃれにならん不幸体験なガネーシャ神とあとはカルティ・ケーヤ日本で言う韋駄天あとなんかもういいや!! 君が尚今真理を求むなら まず一切の“解釈”を 自らの真理として君が 今尚持てないと言うのなら何故に又“無”もありえよう?! わたしはこの事をあなた方に教える。
476 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 06:00:31
何言ってるかわかんないよ
477 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 06:40:46
>>476 それは言葉による表現の技術が低学歴のように低いからだ。
私は低学歴が高学歴に比べて馬鹿だとは思わないが、低学歴は身勝手な言葉使いをするがために、他人に理解されがたい。
それでは管理職失格というものだろう。
478 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 07:05:33
お前がな
479 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 08:03:29
感覚はそのままでは保ち続けられない。だから記憶するのだが、なにせ偽物。だから忘れろ。 その場所を空けわたせ!刻々の変化を感じろ!
480 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 08:08:56
天国へ通じる道を知りたければ、地獄へ行く道を知れ。 マキャベリ。
481 :
早 :2007/04/06(金) 19:53:28
>>477 たぶん、哲学は、天才でない教授から受けるよりは、一人でやったほうが絶対いい
思想文の書き方、論文入門、とか見ると著者に何の思想性も無い。ただ外的事実を列挙して提示しているだけで、
本人の心を通過した形跡がないような文体。本人は深く考えているつもりでも、深くない、というのが多い。
「なぜ、善良な人が不幸にみまわれるのか」とか、一番ニーチェが嘔吐しそうな問いを、ニーチェについて含む本で平気で掲げてる・・
むしろ自分から既成の言語観を破壊しないかぎり、創造的な文章は書けない。
出回っている言語は通貨になる。諭吉ばかりで同じような紙切れ。
自分の心を通過させ文体に特徴が出るとき、はじめて、未知の絵が描かれる
ショーペンハウアーのたとえとニーチェの言葉遣いを借りると、奴隷的文献学者は、水を容器に移し替えてるだけで、水の量は変化しない
天才や自己主張的思想家でない解釈家や専門家は、一切信用しない方が良い。ただの安全策。
学界を信用すれば認められても、自分の生にとっての思想の価値は低くなる
バタイユが描くニーチェ
小林秀雄が描くランボー
そういう特殊な自己主張的解釈の方が、実際役にたつ
注釈や専門家的解釈は、表面的過ぎて、原典を損なう
>>461 ニーチェの危険なところは、神を否定するとき、形而上的あるいは論理的に否定しているというよりも
官能を直接、歴史的に神とよばれていたものにぶつけている。
しかも「罪悪感」そのものを殺そうとしている。
旧約聖書の神話のイヴのような受動的な罪の観念を抹殺しているけれど、
結局、プロメテウス神話のような能動的な罪を自分が犯している。ラスコリーニコフもプロメテウス・・・
バタイユがニーチェを、犯罪者、と呼んだことに僕は共感する
マザコンで太宰治loveな僕の個人的な意見では、
罪悪感は愛の源泉だと思う・・
482 :
早 :2007/04/06(金) 19:59:17
ニーチェ自身はルサンチマンというより、病的な認識欲のとりこになっている
その認識せずにはいられない結果として、大衆や信者のルサンチマンを強く感知し、
それに自ら感情移入して自分もルサンチマンになりながら、アフォリズムにすることによって、
ルサンチマンを自己克服している、という感じを僕は受けた。
ニーチェは、奴隷的な学者と違って、どのような観念でもルサンチマンでも、一切の抽象化を排して自ら接触して直接認識している。
そういう認識をせざるをえないほどの認識欲なんだと思う
その認識欲は「恐怖」に由来しているような気がする。
言葉の裏にあるもの、言葉によって隠されているもの、その恐怖感をつねに感じていそう
恐怖の世界から逃げたくない、その恐怖に打ち勝たなければ成らない、という意気込み
たとえ一人ででも、その恐怖の世界へ掘り進まなければ気がすまなく、最下層で独り、宗教的文体で宗教を否定している
ニーチェは自分が自己献身的偉業を成していると思い込んでいるとき、
結局、自分自身の内で宗教的情熱を爆発させている、
というのをたしかルー・サロメが書いていた
>>480 誰かの言葉で似たようなのがあった
地獄へ根ざさない木は、天国まで届かない
483 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 20:52:11
創造性というのは表現力がなければ成り立たない。 表現力は表現の媒体、形式によく習熟していなければもちうるものではない。 思うに創造性というのは無いものを創り出す能力というよりはむしろ、 形式に可能性として内在している未知なるものを抽出し、表に現す能力なのである。 創造的でありたいならば、まずは形式をよく身につけることが大切であると思う。 というよりはむしろこういうべきだろう、形式に汝自らを合わせるべきであると。 形式と自己を同一視できるような状態になって初めて、 自己の内なる運動が形式として世界に表現されうるようになるのである。 またある形式に誰もが彼ら自身を合わせることで、彼らの間で了解が可能になることからして、 教育が形式訓練に偏ることは当然であり、そうあるべきなのである。 ともかく意味内容を理解しているということよりも、 形式的に正しくあるということが肝要である。 なぜなら、そうあらねば社会も世界も存在できないからである。 下手に普遍的な形式を逸脱したがる類の自己主張は、 形式知らずの無力な自己に目立つ破壊的な意思によるものである。 だがその意思はその意思に半ば反し、形式に熟達して初めて大いに実現されうるものなのである。 無形式な自己が力をもつのはただ自己に対してだけであろう。
484 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 21:00:54
誰かが云った。 ニーチェの最後をみろって。 でもそれは俺らにまだ、閉ざされている何かがあるってことだろ。 楽しそうだ。
485 :
早 :2007/04/06(金) 21:07:08
独り連続ごめんなさい。暴れてるわけでも、荒らしたいわけでもなく、とにかく表現したい、早くこのスレ埋まってほしい、という気持ちです・・
>>367 と
>>468 に関して
あくまでツァラトゥストラ以外は熟読していない者の意見ですが、超人、には欠けた要素がある。
イエス・キリストに欠点があるとすれば、現世を無視しすぎていて、肉欲や悪の創造的価値を直視していない
ツァラトゥストラに欠点があるとすれば、女性的要素を排斥しすぎていること。
イエスの周りには、マグダラのマリアとか感動的な女性の重要人物がいる。ツァラトゥストラは、男性主義的過ぎる。
ツァラトゥストラは、ニーチェ以外の視点で厳密にみれば、完全な理想的人物というより、
危険を犯してまで女性を伴わずに独り完全を目指そうとして、傷つきながら破滅した人だとおもう
ただ、その破滅によってはじめて、露骨に「血で」言葉を書けた、人物。どんな血よりも、凄い血
厳密な意味での超人、は破綻する運命にあるような気がする。でもその破滅でしか語れないことがたくさんある
超人と知的隠者には大きな違いがある。ツァラトゥストラは隠遁したが、山から下りてくる
隠遁と超人的創造の大きな違いは、自己主張。
自己主張することによって、個性的でありながら、社会の中に影響をもたらす存在になれる
>>464 禁欲主義=ルサンチマンではないと思う
反逆者=ルサンチマンでは絶対無い
禁欲にも二種類ある
抑圧され歪められたのが、ルサンチマンや変態性欲になるのと
昇華することで感性や表現力に変えることができる禁欲
宮沢賢治は明らかに後者
身体と直結した思想は、神話的なシンボルになって、生き生きとした表現になる
僕は、神秘主義関係の本を呼んだりギリシャ神話の女神を絵に描いたりしてよく、満たされる・・・
人間の神経も、哲学読み込んだり絵や音楽をやったりして上手く自分の制御下に置くと、ルサンチマンは克服される
超人的反逆者というのは、ルサンチマンを克服した人
ルサンチマンを体験したことの無い人でないと、反逆者にはなれない
体験を克服する分だけ、力は強くなる、ような気がする
486 :
早 :2007/04/06(金) 21:14:26
>>483 僕は、内容より形式を重視すべきである、というのは物凄く同感です
でも社会的な形式があまり好きではない
形式的に正しくある→社会が存在できる、というのは確かですが
社会が安全に存在しようとすることで、安全な形式に頼りすぎることによって
その安全な形式が社会の普遍性を超えたさらに普遍的な神話の領域では不純である場合が多い
社会的形式からはみ出して自己破壊に繋がろうとも、それが神話的には正しければ、
強力な創造性を得る。その創造性は、自分を救うだけでなく社会にも価値を与える
でも神話的確かさを得られなかった場合、ただの破壊に終わり、ジャンキーと変わらない、というのも現実
>>486 もう茶番はやめるべきだ。ニーチェは常人には理解できない。「永劫回帰説」も知ったかぶりをして(ハイデガーのように)鹿つめらしく常識的な理解をする者もいるが、至極簡単に「奇怪な思想」(西尾幹二「ニーチェ」)であるとして切り捨てるべきだ。
これまでの奇怪で無意味な饒舌は読んでいて腹が立つ。
それよりも一番大事なことがあるじゃないか。ニーチェの作品はどうなのか。教えてほしいが、それは死についてだ。
死は人生が絶対的不幸である根拠である。その人の人生がどれほど幸福であったとしても、死はその幸福を奪うものであるがゆえに、
死は人間の人生を絶対的に不幸にする。死はすべての人間に訪れるがゆえに、人間は死の下において平等であるといえる。
さあニーチェと死について語ってくれ。
488 :
早 :2007/04/06(金) 22:07:59
僕は、誰よりも、死に対して恐怖を抱いている 常に、全ての一時間に、僕の存在を揺るがす それ以外に表現すると怖い、できない とにかく、ニーチェは、死を極点とするエクスタシーを感じていそう・・・という茶番で答えてみたい・・
創造的であることは破壊的であることだとありふれたことを言ってスレ潰しに協力してみる。 だがここで繰り返し、強調しておこう、 つまり破壊的であるためには、まずもって協調的協力的であらねばならないのだと。 これはいわゆる、憎しむためにはまずもって愛しておかねばならないのだ、ということに通じる話だろう。 十分な逸脱及び破壊、あるいは創造には対象の形式によくよく通じておくことが必要条件なのである。 ついでながら、愛は創造的であり。 愛を抱く者は創造的でありといわせて頂き。 ロマンチックにレスを閉じることにしたい。
490 :
早 :2007/04/06(金) 22:24:20
ニーチェは常人に理解できなくても、血気盛んな人には理解というより感じることは出来る
ハイデカーよりはバタイユの方が、数倍もニーチェを感じている。
でもハイデカーは、自分のやり方で、宿敵ニーチェを読破したんだと思う
ニーチェは、読者の恣意で誤読されることをむしろ自ら望んでいるくらい挑発的です。
切り捨てない唯一の方法は「血を流す」ことかもしれません(こんなこと書き込みすぎると〜
>>100 のようになってしまうから恐れてる)
「ニーチェは「自分の血でもって」執筆した。だから、彼を批評するもの、
あるいはもとよくて、彼を体験する者は、今度は自分自身、血を流してみるのでない限り、
当の行為をまっとうすることはできない」
バタイユより
僕は、読む前から、血だらけでした・・だから、奇怪な読解をしているのかもしれません
今も、危険な女と関係を持っていて壊れないだけの精神力、忍耐力欲しくて、ニーチェ呼んでるんですけどね・・救いたいんですよ!
>>489 愛、というのは抽象語ではない
世界一恐ろしい言葉かもしれません
使わない方がいいかもしれません
僕はこの言葉を、心臓を解体するドラッグである、と形容してみたい・・
結局破壊です・・
死ぬことでのみ自己は救われる。 (救う必要性はないとは思うが。) 生の肯定は自己の否定になる。 生は自己否定である。 ニーチェが自己を肯定しながら同時に生を肯定しようとしたならば、 それは無理なこと、と言わざるを得ない。
>>490 愛さないから危険な女になるのだ。
いかにその危険な女と創造的な関係になりうるものか驚くがよい!
と他人事に喜ぶ邪悪なレスをして、スレ埋め立てに貢献する優しさに満ちたレスをしてみる。
>>485 ごめん、俺はそう思わないなァ。
ツァラトゥストラだけに限定して話をしようと思うんだけど、
>>イエスの周りには、マグダラのマリアとか感動的な女性の重要人物がいる。ツァラトゥストラは、男性主義的過ぎる。
これは『やさしさ・柔和さ』の問題かい?
君はツァラトゥストラは熟読したんだろ? だったら、
「読むことと書くこと」にこうある。
生は担うに重い(生きることは辛い)。しかし、そのようにか弱い様を示すことは辞めてくれ。
我々はおしなべて、荷を担う力のある、愛すべき雌雄の驢馬なのだ。
一滴の露を載せているために震える薔薇の蕾と我々との間に、何の共通点があろうか?
真に、我々が『生きること』を愛するのは、生きることに慣れているからではない。
『愛すること』に慣れているからだ。
――だから私にも、蝶やシャボン玉や、また人間の中でそれに似通っているものたちが、
ひらひら舞っているのを見ると、ツァラトゥストラは涙に誘われ、歌に誘われるのだ。
私が神を信ずるならば、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。
これは何を意味するのか? それが『生の肯定』でなくて何だろうか。
か弱きものが生を謳歌せんと羽を広げてはばたこうとするけなげさにも、彼は涙する。
それは「活きよう」と決意する者だからこその共感なのだ。
だからこそ『弛緩した生』に倦怠する人々に激を飛ばすのだ。
また、彼は『同情』を戒める。それはつまずいた者の内にある『誇り』を尊重するからだ。 簡単に同情するということは、その相手の「自力で立ち上がる根性」を否定するのと おんなじだからだ。相手の『可能性』を否定するからこそ、簡単に同情できるのだ。 ツァラトゥストラの『友情』に対する認識もこの延長である。 こういう心の機微、奥に秘めた優しさを見逃して彼を語ることは大変失礼なことだと俺は思う。 例えば『騎士道精神』なるものに"女性的優しさ”が欠けているからといって、それが 非情かといえばそうではないだろう。彼が尊ぶものが勇気や高潔さであるからといって、 花を愛す心が無いとはいえないのと同じことである。 「雑草という名の花は無い!!」、みたいなノリなら話も早いんだが、彼の場合は「だめなものはだめ」って いう割り切りがあるから全てを性善説でまとめることは出来ないけれど、まるっきり非情な マシンでないことだけは確かなんじゃないかな。 それに、彼がはなっから、「傷つきながら破滅した」と主張する根拠はなんだろう? 君にとっての『没落』って意味はどんなだ?
>>超人と知的隠者には大きな違いがある。ツァラトゥストラは隠遁したが、山から下りてくる 隠遁と超人的創造の大きな違いは、自己主張。 自己主張することによって、個性的でありながら、社会の中に影響をもたらす存在になれる 問題は現実世界において彼は何をするだろうか? っていう『仮定』の話。 君の言うところはすでにツァラトゥストラの冒頭で出てくるし、それは止めてるでしょ? いまさら大衆の牧人になるか?
496 :
早 :2007/04/06(金) 23:07:00
少々オカルティックな考え方&表現かもしれませんが、
実際、ニーチェは処女作で「ディオニュソス的なもの」を学界から完全離脱するような文体で掘り出した時点で、生と死という最大の二律背反の根源近くで、常に、
色々と獲物を見つけては、それを単に食い物にして、自己の大問題である生と死の対立に、引き裂かれながら喚いていただけなのかもしれません
生死の問題は誰にでも意識的にせよ無意識的にせよある問題で、
そこへ自分の認識の中心が近づいているかどうか、は気質や趣味に左右される個人差なのでしょう
ただ、ニーチェのようなタイプは、限りなく近くを認識していたのでしょう
ディオニュソスVSキリストより、ヘルダーリンが思い描いたように
ディオニュソスとキリストが一体化した宗教が、理想のような気が何となくします・・
あまり飛躍的な狂言はいけない。ニーチェもヘルダーリンも、結局破滅してしまった
いつかこういうことを、ある程度の正確さや表現力で表現したい、という理想的願望を持っています・・
私事ばかりごめんなさい。
僕は、反宗教ではなく、世の中には弱者や病人や宗教的神経を先天的に持った人もいるのだから、
そういう世界が成り立つためには宗教は必要不可欠であると考えています。
ただ、宗教が、神話的な「象徴」の力を失って、単なる教義に堕っした時、無価値な道徳、生を妨げるもの、戦犯的イデオロギーなどになる、と思う。
宗教というのは、常に、衰退と再生を、人間の心の力で行った時、救済力を持つ。
ニーチェの哲学は、神話的観点からみると宗教性を帯びて(とくにツァラトゥストラ)いるが、教義性は一切無く完全に反宗教であると思う。
神話の力があるからこそ、ニーチェ没後でも賛成反対色々あれ、強い影響力を持っている
ニーチェの文体の歌声は、何百年を貫いて、人の琴線を共振させる。僕は「神話」というとき、ユングが言う「元型」という意味合いで使っている
>>492 協力ありがとうございます。
世の中には、ニーチェみたいな男がいるかと思えば、
愛すべき女だけれでも愛するには恐ろしい女というのもいるものです・・
そういうタイプの女が、詩人に霊感を与えるミューズになる
>>生は自己否定である。 ニーチェが自己を肯定しながら同時に生を肯定しようとしたならば、 それは無理なこと、と言わざるを得ない。 これは最初っから間違っている。 生が超克すべきものはいうなれば『昨日の自分』であり、その能動体である自分は 現に"活きる自分”として躍動し続ける。 このアグレッシヴな現存在こそが肯定されるべき"自己”である。 もういっかい読み直せ。
498 :
早 :2007/04/06(金) 23:31:58
>>495 ツァラトゥストラが一番最初に山に10年篭っていた、
というのがいわば隠遁者の状態で、降りてきて大衆に説こうするところは牧人と超人の
間の創造的自己主張的人物あたり。
ツァラトゥストラは、そこで大いなる吐き気を催し、大衆から完全に離脱し、
あちこち歩きまわったりしながら寓話や詩を展開する
けど、そのことをニーチェ自身は自己主張してる
本当に生粋の超人になったなら、ニーチェみたいに破滅して、
死んでから大きな影響を与えるタイプになると思う。あくまで推測だけれども
じゃあ、ツァラトゥストラに出てくる 「新しい偶像」と「千の目標と一つの目標」の項については?
500 :
考える名無しさん :2007/04/06(金) 23:54:11
>497 要するに、努力しようぜ! ということですか?
501 :
早 :2007/04/07(土) 00:12:33
>>494 ツァラトゥストラの男性的精神は強すぎて孤立し、その高貴さ、優しさ、機微、表に見せない深い同情、
などを向ける相手が最終的にいなくなってしまう。
その激情的な魂が、自分を蝕んでしまっている。
イエスは、自分自身、弱さを晒して、人を愛している。
でもニーチェ的に言えば、それがパウロに勝手に誇張されすぎて、愛の宗教か妬みの宗教かわからないような
欺瞞的宗教になったんだと、いえるかもしれない。
女性に関しては、サロメに失恋したことが大きな影響を及ぼしている。
女性に対する誰よりも大きな愛を持ちながらも、実現できなかった自殺的動揺が大きい
殆ど個人的な由来で、理想の女性像を超人的男性のために奉仕する存在、とせざるを得なかったんだと思う
失恋しなかったら、ツァラトゥストラは無かったと、個人的には思う。
神来の忘我、というのは、あらゆる「自分の記憶」や外界の現象が、すべて一つになる
ニーチェという男がこの世に一回限り残した大いなる悲しみの傷が、ツァラトゥストラを生んだ、と感情的に僕は見る
超人が個人的観念に終わらなかったのは、ニーチェが神話的規模の愛する心を有していたからだと思う。
それが、ツァラトゥストラの愛すべき恐ろしさ。
イエスの場合は、いたるところで、女性対して強がらず、共感の絆を創っている
キリスト教会には、なんとなく母性的エロスが、感じられる。数十年前、マリアの被昇天が教義になったりもした
502 :
早 :2007/04/07(土) 00:13:52
千一 は、互いに闘争的に評価することによってはじめて価値が与えられ、善悪が決定される、という ニーチェの典型的な考えを、ドラマティックに表現している。新しい偶像も同じようなこと。 神、という偶像が虚像になって消えても、結局、国家が偶像となって、同じような陳腐な偶像崇拝をしている というありきたりなことを、言っている。ただ、それをどう「表現」するかがニーチェの白熱的腕力 異常な熱狂でこき下ろしているところ、国家から連想されるあらゆる事象を激しい連想で表現するのが感動的 千一の最後の方が曖昧でとらえにくい。 人類という民族や国家を超えた大きな規模で、人類を見れる視点が いままでいなかった、あるいは存在しえない、だから「人類そのもの」が捉えられない 人類そのものという一なる目標が怪物的で、それに対する、民族間の相対性を越えた次元での絶対的評価は、存在し得ない、 といっていると思う
努力して強くなって、恨みつらみをはね飛ばせという話ならば、 ニーチェの思想の影響の強さはすごいものがあったと言えそうですね。
>>501 サロメの回顧録のなかに、ニーチェが本気で「永劫回帰」に震撼しているという記述があったはず。
つまり彼女に振られようがうまくいってようが永劫回帰の思想は本になっただろう。
結婚の意義の再構築まで考えたニーチェが共感できる相手と結ばれなかったことは彼に
打撃を与えたであろうことは十分考えられるが、それでツァラトゥストラが生まれなかったというのは
早計ではないのか?
>>イエスの場合は、いたるところで、女性対して強がらず、共感の絆を創っている
キリスト教会には、なんとなく母性的エロスが、感じられる。
人類愛的に平等でなく?聖母マリアとごっちゃにせずに?
>>502 >>人類そのものという一なる目標が怪物的で、それに対する、民族間の相対性を越えた次元での絶対的評価は、
>>存在し得ない、といっていると思う
俺に関心があるのは
言え、私の兄弟たちよ。この怪物を克服しうるのは誰か? この怪物の千の首に頚木をかける者は誰か?
千の目標が今までに存在した。千の民族があったからである。ただその千の首を一体とする頚木が、
今もなお欠けているのである。一つの目標が欠けているのだ。
人類はまだ目標を持っていない。
この部分だ。
何か進化論や民族主義、優性学とかと関係してて、 次世紀の種を蒔いた一人として注目すべき思想家であるといえるだろう。
ニーチェは国家というものを「ごったまぜの化け物」として描いている。 国家が『機構』として巨大化しすぎて、社会的参加と義務の受容という民主的社会での 個人のあり方を忘れたものたち、つまり何ら義務や責任を果たさない権利や保身 ばかりを気にする「浮き草」のような人間を、ただ国家が巨大化せんがための手段として 取り込んでいる「無意義さ」を非難している。 それに対して民族というのは己の集団を守り、豊かに暮らさせようという主導者のもとで、 それを是認しついていこうとする使命感によって戦い繁栄してきたのだとする。 この『使命感の連帯』こそが社会を構成するための雛形であるべきだ、と私は読んだ。 だからこそ各民族にそれぞれの善悪の規範・掟があったのだと… で、これが千の目標なわけ。 で、それをさらに超国家的に使命感を持ってまとめあげるべき目標が必要だと言っている。 これは『脱群集社会的"国家”』の形成を意図するものではないのか、という問いなのだ。
508 :
早 :2007/04/07(土) 01:06:04
僕はあまり詳しくなくて早計的に何となく言っているかもしれない あるいは自分の神経構造に頼りすぎて判断してるのかもしれない どちらにしても、「ツァラトゥストラ」では、男女の亀裂が以上に激しすぎて、 その裂け目から絶叫的な女性蔑視と女性に対する愛が同時に聞こえてくるような気がする・・ 詩的曖昧すぎてごめんなさい 僕はキリスト教に、隣人愛だけでなく、聖母で象徴されイエスの言葉で表現されるような 個人的な趣味で申し訳ないが現代で言えば、ジョン・レノンや尾崎豊の愛、 を人類的に大きくしたような、言いようも無い遥かな慈愛、男が描く永遠の母なる女性像が世界を包むような愛 もちろんツァラトゥストラはそれを感じていただろうが、それに甘えてはいけない ということを強く説きすぎている、というか表に出そうとしない。 「ファウスト」のヘレナは、一人格として、その女性像、愛を「体現」している。 ツァラトゥストラには、女が出てきても、それは愛を体現する女ではなく、単なる登場人物にとどまる たぶん、失恋などによって女性に対する捉え方が錯乱し、女性を上手く表現できていない 「永遠」「神秘」という概念を、詩人的な男なら普通、女性に投影する あくまで独断だが、ツァラトゥストラは、それを投影できていない、というよりしようとしない。 「永遠」がやたらと出てくる章では、女は完全に捨てられている。 「永遠回帰」っていうのが結局なんなのか、僕は分からないが、それは神秘体験的な境地であると思う
509 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 01:10:23
恨みつらみから自己を変化させる努力というのは自己否定に他ならない。 確かにそうすることで力を得て、昨日の自己を克服していくことができそうではある。 ただ一見克服しているようではあっても昨日の自己は記憶に残っているがために、克服しきれてないのである。 したがって、昨日の自己を克服する努力を払いつつも、昨日の自己を受け入れ認めねばならないはずである。 そもそも昨日の自己をよく見定めて受け入れておかない限り、 それを克服する方途も当てずっぽうとなり、問題の解決の見込みはあまりないのである。 また自己を直視し、認め、受け入れることができ、その克服の道も見えた時には、 克服する必要性はすでになくなっているのである。 つまり、ルサンチマンとやらは克服されているのである。 自己を変えることによってはルサンチマンが克服できることはないのである。 終わりだニーチェ・・・
510 :
早 :2007/04/07(土) 01:19:33
昨日の自己を昨日の時点で受け入れていなくても、今日になって受け入れることによって 克服されると思う。不幸にもそうであった昨日の自己を、今日になってそう欲したと 解釈できるくらいの強さがあれば、一種のルサンチマン克服かもしれない。
>>508 >>「永遠回帰」っていうのが結局なんなのか、僕は分からないが、それは神秘体験的な境地であると思う
まあその点は同意。
ツァラトゥストラの「正午」の項は、オカルト研究家に見せれば「ああ、これは神秘体験のパターンですね」というだろうし、
永劫回帰への恐怖が『至高体験』の逆のバッドトリップであるとも考えられはする。
もっとも、それ以上に大事なことがくさるほど書いてあるわけだが。
試しに「肉体の侮蔑者」を禅者に見せるとほんの少しだけ興味を見せるだろう。これも一つの戸口だ。
513 :
509 :2007/04/07(土) 01:37:43
私は、自己を変えていき、昨日の自己を否定していくことによっては、ルサンチマンから逃れることはできないのだといいたかったのだ。 今の自己も昨日の自己になるのだし、 明日の自己によって超克、否定されるべきものなわけだ。 ならば一体どこをどう肯定しているんだろうか?
514 :
早 :2007/04/07(土) 01:38:35
(とりあえず今日は寝ます・・と、わざわざ囁いて、スレが早く埋まってくれることに加担してみる (ニヒリズムの徹底をすることによって、生をディオニュソス的に肯定できる (その瞬間の境地が「永遠回帰」というのは寝言だろうか・・・ニヒリズムの徹底には恐怖を伴う。生死の恐怖には時間の恐怖も伴う・・
>>513 こどもに諭すように言わなきゃなんないのか?
君が今まで生きてきた中で、「苦手なものの克服」を一度たりともしたことが無いとは言わせない。
失敗して悔やんだ出来事を、そこから学び取って次に生かした事が一度もないとも言わせない。
>>また自己を直視し、認め、受け入れることができ、その克服の道も見えた時には、
>>克服する必要性はすでになくなっているのである。
なんで跳び箱の手前で立ち止まるんだ?
ルサンチマンの『克服』は向上心的克服を前提とせざるをえない。
それ以外は"逃げ”を打つしかない。それは君自身の問題であって、ニーチェに責任や義務が
あるわけではない。
517 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 01:56:03
ルサンチマンを克服させるものは愛である。 自己に向けられた愛である。 自己が否定され超克されることなく暮らすためには、 我々は世界の中心で愛と叫ばねばならないのである。 さもなければ生は自己否定である。 さあ、プラットフォームで叫ぶがよい。 愛して! 愛して! とな。
>>516 忘れられない悔しい体験はお持ちではありませんか?
それは今後こそ体験しないことなのでしょうが、だからといって克服されたとは言いきれないと私は思うのです。
忘れられないのですから。
ちなみに私はルサンチマンを抱くのはどちらかというと好きなんですよね。
ですから怠惰なんです。
>>518 一切の「かつてそうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然であるに過ぎない。
――だが、創造する意志は、ついにそれに対して、「しかし私はそれがそうであったことを欲したのだ」というのだ。
これは将来において自分を肯定するための努力をした者がいう言葉である。
過去の苦しみを救済するには、それを昇華させるための将来に対する努力が必要なのだ。
そこに初めて(失敗しようが成功しようが)、自分自身に対する『納得』が生まれるのだ。
「あのころは辛くて苦しかったけど、でも頑張ったからここまで来れたんだ」
それは君の長い「生き様」の中でしか積み上げることの出来ないものである。
勝とうが負けようが、君自身の自己評価は誰にも汚すことの出来ない人生の『結晶』である。
忘れられない傷なんて誰にでもある。過去にはもう戻れない。
だからこそ、それを克服するための未来(時間)があるんじゃないのか。
ま、君がダレようがどうしようが関係ないんだけどね。君自身の問題だし。
階級闘争の歴史だとかルサンチマンってほんと嫌い 団塊乙としか言いようがない
521 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 09:19:45
ある目標への過程として苦い過去を受け入れるというのは、 一つの価値観の創造と云える。 だが「私はそう欲したのだ、そう願っていた」とまで言ってしまうのは、 自己を肯定しようとする意思と情熱による倒錯、自己欺瞞であり、捏造なのである。 肯定なのではあるが、それは絶えざる否定に根ざしてしまっているのである。 それはルサンチマンに基づく否定的肯定であり、破壊的創造である。 それは20世紀を貫き、指導していた強烈な意思であった。 ルサンチマンに比肩するのは愛である。 話の流れからして、ここで愛は創造的破壊であると山をかけるしかなかろう。 愛は盲目、それは肯定的否定であると云える。したがって創造的破壊なのである。 ちなみに私はルサンチマンも愛も割と好きである。
単に悲痛な価値のなかった事態に、創造した価値を後付けるべきというのは、哲学ではないと思う。 ニーチェって板違いじゃないかと
努力することのうちには一定の目標(=理想)を前提とする。 理想とは解釈であり、偏りであり、現在の不足を充足せんと欲することだ。 しかし努力の過程において当初の解釈、偏りは変質を余儀なくされ、 あるいは拡張し、誠実さを旨とするなら常に不足は不足のままである。 つまり、理想はいつも自己より足が速く、決して達成されないものとなる。 だが、それでいいじゃないか。人間とはそれ自体が目的ではなく、 あくまで道行きに過ぎないのだから。
524 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:06:06
『解釈の系譜。』 「ニーチェ思想学的新解釈技術論文。」 序章兼ご挨拶。 人間は目的か又は手段を必要とするそれは意志が本来保つ記憶の限りにおいて――――――――――― やや控えめな言葉に細心の用心を払い。 低く曇った空を覗き込み。私は私の見た事に何一つ寄り添う事無く。 その時の評価としてこの書物に一切の事を記した。 ―――――――――― 私はこの次ぎなる主張を繋いだ散文調にまとまった記述に、この思想の真の意味を真面目に理解する事を目的にする者達へ 私がほんの少しだけ此処で得たちょっとした気遣いに塗れた幾つかの細やか助言としその細やかの言葉の 裏に潜む悪意は身勝手の範疇を越え。 それでも余り過ぎる極度に行き過ぎた感を全面に押し出した素晴らしい悪意ある善意の賜物として。 どうか稀に見受ける無知な人々の少ながらも皮肉くる気持ちも多少含み。 そしてこれを手筆するに 充たるに至った正当な理由をその者達の無知に負けない懸命な努力する姿への同情であり。 その死ぬ程魂の抜けている言葉に対し。
525 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:14:31
思いつく限りのあらゆる方法で神が今何処かにいるのならば、本気で懲らしめて遣りたいと思える。 そんな、その意味を刷き違え気味に引き合いに出された。 善悪の彼岸から贈られた本当の本当に社交辞令通り粗品と宣言された事に もはや確認の余地の皆無な素敵な有り難迷惑満載の 内容をこの季節外れも 初々しい春分の木漏れ日に送り付けれられる 最悪の悲観になるよう。 この心に咲き乱れたその春に舞う純粋な悪意を込め。 稀に見る無知なる笑いを届けけてくれる人々に日頃有り余った時間を埋めるその気持ちの感謝として この一級品な余計なお世話を私の身勝手と我儘 いっぱいに詰まった 悪意ある善意を極めて 不幸を呼び込むよう願いを込め。 それを乗り越え生きていく事に喜びを感じる人達の為だけに こんな長くかけ過ぎた説明にかけた想いと又、裏腹に反比例する気持ちを有りったけの想いを込めて!! 何故に私はこんなにいい事が書けるのか?!!と 思わず叫び。 その後の本当に今、適当な限りに一刻も早く皆に配りたい!! オバァーアクションの記す・マニーアにて、 1885年皆月日曜日―――――――。
526 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:18:24
「第一論文、批評・良いと悪いを言う奴について。」 前にも増して懸命に意識を削り、その代償としてついに我々は深い認識の都に十分身を置くにも既に慣れ。 その気になればあらゆる、言葉を持ってしてこの道を彼らは理解すると言う だが、そういう者に こそ我々は又、より用心しお望みとあらばその用心に 対する別の“疑惑”を持つ事を我々はその時にこそ目配りを配りその一言、一言に備え。 今日迄にすっかり逆を向き歩く事にすっかり何の疑心も持たずに慣れきった。 最後の禁欲的な認識を常とし。 この広大な思想の土壌を独り力強く、耕し、其処に実を播きそしてその思想に実った。 その、うらなりに熟した果実を無作為に口元に放り込み、その実についての様々な食感を彼らが語る時に 如何にもそれらしく流暢に喋る時も決してその口に 舌がついているとは微塵にも思わない事だ。 彼らの言葉だと語らせた 大半は入れ歯かその構えるよう揃えられ研かれた金歯でしか味わう事がままならず。 勘の良い者は直ぐに見分けるが彼らのその不具合にして声帯から声の通りが 悪い事を教える時には同じ声質にする事だ。 もし少しでも自分より良い声だと忽ち見抜かれたら。 その時、掛けられた言葉と同じ程、怨まれたと思え。 更にその過剰に強調する金歯の瞬きを一瞬でも無視し 呼び止められてもなるべくは誉めるな。 寧ろ逆にその事には触れずに静かに通り過ぎる事を勧める。 彼らはその金歯が輝やき 見える事が当たり前だと 思ってる周りがその輝きに疑いを持つ所まで気は利かない。 奴らが真に耐え切れ無いのは誰も見てくれない事。 もし、すれ違う時には虚栄心を満たす事を進める。 そうすれば、口を限り無く大きく開きにっこり気分良く通り過ぎる。
527 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 12:20:50
思い出が一つ増えたとき、自分もその時変わったことを感じるかい。 それを聞いたとき泣けた。
528 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:26:15
「第二論文、疑いと良心の疾しさ負い目について。」 我々は出来る限り“疑い”を持つ事につとめ。 またその疑いにだけギリギリまで本音を決して洩らすな。 せっかくの本音を聞き出す為なのに慣れない奴はその 負い目から疾しさに嘘を吹き込まれ暫らく使い物にならない。 内密な話だが、全ての哲学者に、この細く幾重にも枝分かれした細道は続き。 もし、おまえが信じると言うのなら、精神にまでその道は続いてる。 信じられないのなら真っ先に自らを“疑え”。 此処で言う“疑う”とは良く聞く“コギト”による 理性的なやり方ではなく。 どちらかと言うと感覚的な働き掛けるにより認識出来るよう仕向けれ。 全ての何らかの信憑性やら疾しからぬ良心、全ての真理と呼ばれるものは感覚から初めて生まれでると言う話を少しは思い出せ。 稀に著書を多く読み解く事の報酬として多くの理解する知識を持ち得ると信じて 止まない者が居るが決してそういう風に語る口の知識を直ぐに鵜呑みにするな。 報酬と引き替えにそれらの理解は何時も決してそいつの解釈に渡る試しは無い。 多くを読む事はそれだけ多くの“嘘”を読まされているか場合によっては “嘘”しかその者が身に付けない輩が少なからず混じっている事にも良く“疑え” “嘘”の中にも無邪気に “嘘”をつく者が居るが 出会ったなら手放しに喜べ それらの“嘘”は何かを 本当に見ている者か又はそれらの事を本当に成し遂げる様とする所にしか湧かない その語る者が称賛するにも値する固い意志を貫く覚悟を持つに至る証だと思え。 著書が語る言葉をあれこれ探り、挙げ句一部を取り上げ。 そこの解釈の正当性に終始する輩の多くは其処までに 至るまでに語られた著書の言葉を聞き取る為の耳が 備わっていない事とまず“疑え”。
529 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:35:18
著者が記した言葉としての解読に取り掛かるとき 解釈としての理解よりも 意味付けとしての理解が 先行したならば まず解釈とは自らが先に 提示しなければ何も始まらい事にいい加減気付け その後に良くもう一度振り向く事を怠るな、 その後には自らの解釈の姿しか無い事をその目で確認しろ、 それが一切の解釈だと言う事を良く見て“疑え” 聞く耳を立てよ、その著書を理性のみでの解読する事に固執する愚かな輩よ 良く聞くがいい又、共に福音を踏むが良い その著書の言葉も又、精神で聞く事も読む事も可能だと、良く“疑う”が良い 何故?著書を読み自国語の文字を追う時あなたは何故に又、自国語で読み上げ もう一度自らに向い“反芻”したのかを何故もう一度繰り返したかのかを!! その言葉を“疑う”がよいその精神に聞く耳を持つ者はその内から語る。 「だって、その響きと刺激が私にはたまらないから!!」 ちなみにニーチェが生まれたドイツ語圏内にそういう音読方法は無いと書かれた記述が見当たらないか自らの記憶に無いと言う事を“疑え” 「第3論文、禁欲主義的理想解釈家とは誰か?」 更に寛大な私はあなたに教える。 この思想の一番、深い所に通じる道を尚、頑なに閉じている扉の合い言葉は 何よりも自己に「誠実」であると言う事を更に良く “疑え” そして、私が知り得たあの著書を通し学んだ最大の 秘密の在処をあなたが尚も良く“疑う”なら記そう。 あなたが遣って来た道筋が尚、正しい道筋なのか知りたいならば尚、一切と同じ道を通り抜けもと来た道へ通じるか“疑い”なさい 逆説的と理性で説き伏せるのは余りに愚かな呼び名。 独りを二人と知る賢人はこの事に長け語る。 理性は暫し心に“嘘”を語る。 あなたの意志を信じなさいあなたの意志は其処に何か意味があったり何か自らに必要な物と感じ取れると それが自らが多少信じられと嗅ぎつければその意志は何でも持ってくる。 たとえ、それが“無”であっても。
530 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:43:50
あなた方よ!!私は問う。 ここにあなたの“疑い”が自らに持ち込めるか? あなた方の意志は自らが 必要だとするものを勝手気儘に自らが満足するまで ありとあらゆる解釈と意味を与えてあなたの意志を満たそうとする。 満たされない意志のあなた方は。 何も欲しないよりは寧ろ 良く“無”を欲する。 そして、あなた方は“無”を掴もうとする。。 良く此処を聞きなさい、 聞く事の耳を持つ許された僅かな者よ!! その意志は“無”を掴め無い又、掴んだところで何の意味もない。 その意志はその“無”に 意味を与えようとする。 更にその虚無に自ら与えた意味と価値により意志自らを満たす!! こうして、あるはずの “無”いものに手を延ばす “無”を欲するとは決して理性の潜入見に絡みとられる“無”への意志による 自己破滅衝動や絶望的悲観視による自己消去への呼び掛けだけではない、と。 “疑う”事が出来るだろうか? 聞く耳をかすものにのみ、共有の秘密を許そう!! こうして神は死んだのだ、そう、こうして神は死んだのだ。 全てを理解する者が この出来事を語る時があるならその意識から一瞬にして“神”がフワッと消え去る音が聞こえるであろう。 そして何よりもあなたが、“疑う”事により求める物は何よりもあなたの感覚であり又、その事が尚、正しいと言えるか良く疑うがいい。 極めて相対的な捕らえ方による話だが、尚、此処でも“疑う”事をお薦めする。 相対性が真にその意義と性質の正当性を証明する。 確証を得るには絶対的な 要素を一つの価値基準に据え置き。 其処から行なわれる観測結果を前提とする場合のみである。 それは、あなたが本当に 知る事なのか持つ事なのか 真なる物なのか、嘘か真か有か無なのか生か死なのか己の感覚を頼りにまずは良く“疑って”良く創れ。
531 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 12:47:09
いつまでニーチェの言葉を借りた自己解放をするのか。 いつまでニーチェに成ろうとするのか。 いつまでニーチェを追うのか。 あなたのニーチェとはいったい?
532 :
「解釈の系譜」 :2007/04/07(土) 12:51:40
この記述の内容にある真偽は殆ど“疑って”かかって良い。 今回この“疑う”事に取り分け拘ったのはどうやら 哲学者向いてる資質がこの疑う事であり ニーチェ曰くこれが我々 哲学者が馬鹿にされ続けて来た時に身に付いた 習慣であり癖であるとの発言と私の疑り深い性格とは余り関係無いことはどうも疑う余地の在る極めて どうでもいい事だとはひとまず君に教えよう そして、この論文擬きに そのまま取り敢えず幕を急いで下ろそう。――――― 付録《ツァラトゥストラの説教。》 禁欲主義的理想は哲学者にあっては何を意味するか?哲学者があの理想を一掃する時、最も高く最も大胆な精神性の《最善》の諸条件を認めて微笑する。―――――――――。 何とも不味いやり方しか 出来ない。 あなた方は恐らく此処に記された数多の内容をそれぞれ着飾る。 この意図的に混ぜられた 真理への否、真なる道への道筋さえ見て取れまい。 この真、自らの賢さすら大分煩わしいと言うよりも此処まで来たら既に白々しい!! よし、私が尚あなた方に 敢えて教えてしんぜよう!私が何故こんな数多に散らばる事が意味する“真理”とは心して聞くがいい!!低能ども!! これが真なる姿の言葉だ!! 《下手な無鉄砲でも数打ちゃあ当たる!!》 どうだ!!この位の真理ならその遣り方の糞不味い、オツムでも解ったか!! 何だ、その嘲りの目は この務知なる者よ!! つーか!オメェ!!マジで底から飛び込んで落ちて 今、直ぐ紙ね!! こうして、ツァラトゥストラの最初の没落が始まった・・・・・。 あっ!何か一応綺麗に落ちたぽい。―――――――――― 私は道化にすぎない私は詩人にすぎない。 でも、これは明らかにやりすぎたかもしれない。
533 :
狂人日記 :2007/04/07(土) 16:38:50
戦場で歩兵として戦うのは安倍晋三(文字あってる?)を含めた四十台の男性だよ。 白兵戦になったら中国十二億の人民軍に勝てる訳がない。大袈裟に見積もっても。 だから白兵戦に重きを置く必要はないと思うし、十台の女性が従軍慰安をする必要 もないと俺は思う。もしそういうのが必要になったら、それこそ四十台の女性をた らい回しにして、飽きたら殺せばいい。だから俺は上遠野が徴兵されるかどうかが すごく気になる。死にたいヤツは情報戦をすればいい。冷静に考えれば、アメリカ の核は日本に届かん。中国と北のは届くけど。中国はともかく北は(以下略)
534 :
早 :2007/04/07(土) 18:28:07
ルサンチマンや愛を認めて、怠惰になってしまう感傷的な人は、 ニーチェから一度はなれて、哲学用語や論理的な思考は全部すっきり忘れて、 文学や聖書の世界へいってみると、いろいろ得るものが大きいと思う 太宰治。
535 :
早 :2007/04/07(土) 18:53:03
534に追加。純文学は、近代現代の神話。大衆文学は娯楽。
ニーチェ読んだなら、絶対、ドストエフスキーを深く味わえる
ニーチェと違い、神話のように心理などがキャラクターとして「人格化」
されているから、言葉の上だけでなく、立体感や具体性を伴って、高級な哲学的観念
を心に生きたように住ませることができる。
ドストエフスキーとニーチェの共通点は、キリスト像を、あらゆる史実や学者的解釈を拒絶して
時空を越えて接近し、まるで先生、兄弟、友達のように直接生々しく求めた所にあると思う。
>>521 >>だが「私はそう欲したのだ、そう願っていた」とまで言ってしまうのは、
>>自己を肯定しようとする意思と情熱による倒錯、自己欺瞞であり、捏造なのである。
>>肯定なのではあるが、それは絶えざる否定に根ざしてしまっているのである。
>>それはルサンチマンに基づく否定的肯定であり、破壊的創造である。
ルサンチマンに基づかない欺瞞なき否定的肯定&破壊的創造があるとすれば、
(あくまでルサンチマンや欺瞞は程度の問題であるからどのような事柄にも
心理にもコントラスト的に付きまとう)どれだけ、自分を「信じれる」か、
くらいかもしれない。
信じることが出来るのは、猜疑の煉獄を耐え忍んだ人。
でも、肯定、信じる、どのような言葉を並べても、結局、少量は欺瞞が必然的に言葉に
含まれざるを得ない、というのが、言葉の恐怖かもしれない・・
536 :
早 :2007/04/07(土) 19:21:17
連続ごめんなさい
>>「解釈の系譜」さん
そこまで疑えるのは、何か神経的な才能があるような気がする・・
繊細すぎる神経生かして、歌とか楽器とか絵とか、神経を酷使するほかの事へ、
手を出してみた方がいいかもしれない・・
言葉を読んだり考えたりすることによって神経のニューロンは繋がっていく
猜疑の煉獄、は何に対してもニューロンが真偽を判断するような繋がり方になって
しまっているのかもしれない・・別の、もっと身体を使うような分野の神経を鍛えることで
新しい可能性、ものの感じ方考え方に繋がっていく。
>>520 その「嫌い」という感情で、ルサンチマンを「拒絶」するのではなく、ルサンチマンとは何か
自分にルサンチマンは無いか、というのを「疑う」ことで、哲学的視野が広がっていく。
僕が
>>531 に答えるなら
病気を持っている僕としてのニーチェは、創造的に、病気を踏み台にして病人でない人には届かない
ほどのプラスを手に入れるための、厳しい医者。
哲学が大好きな僕としてのニーチェは、彼から言葉を借りるのではなく、ニーチェの言葉によって
僕の言葉を創っていき、その言葉を原料にして、自分の自意識を深め生を築いていく、ということを
可能にしてくれる、言葉の知的錬金術師。
ニーチェは、憂鬱でどうしようもない、というときに読むと(嫌なページを開くと自殺したくならないこともないが・・)
ぱっと新しい展望を見せてくれる。思想、というより、思想の着火装置。その炎が、闇を照らしてくれる
そうだ絵でも書いてなさい君は。 ちなみに気にいったら5000円で買っていつか50万で売りたいと思ってる。
538 :
早 :2007/04/07(土) 20:34:20
>>537 心を落ち着かせるには、なによりも絵を描くのが一番いい。僕は、良く絵を描く。
因みにゴッホの絵は、生前売れたのは露天販売的安値。今は、数億円・・
宗教的素質を持って生まれてしまった情熱的な人で、知的な明晰さと誠実な努力を持ち合わせた人は、
このような人生になる確率が高い。
ageたくてスレ板違いごめんなさい。
因みに
よくゲーテは「眼の人」
ニーチェは「耳の人」といわれる。
ゲーテの言葉は絵画的
ニーチェの言葉は音楽的
539 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 20:41:05
失礼ですが、貴方は「ニーチェの言葉は音楽的」と申してますけれど、 音楽的な言葉とは何でしょうか?無理矢理文脈に合わせてません?
540 :
早 :2007/04/07(土) 20:48:13
541 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 20:52:56
>>540 はい? ここで語っている限り、ここで答えるのが筋じゃありませんか?
宣伝なら別の場所でやってください.
542 :
早 :2007/04/07(土) 20:55:19
加えることがあるとすれば、以下。 僕は「悲劇の誕生」の前半に物凄く共感した。 僕にとってディオニュソス的な生の躍動、というのは、まず言葉にならないしかも絵でもない 音楽のようなものとして心の中に発生する。心の中で渦巻く暴風雨のような情熱的な精神的律動。 僕はシュールレアリズムの詩とフランス象徴派の詩の大きな違いは、音楽があるかないかだと感じる 言葉、というのは、どうがんばっても心の中心には届かない。 だから虚偽性がある、ということを良心の深奥にある人は気付く。ニーチェは7歳で気付いた、と言っている・・ それを利用して贋預言者は嘘をつく。 でも、言葉の背後の音楽は、本人の心拍数や交感神経の電気刺激などに直結している 怒りや悲しみの感情というのは、なによりもそれらの身体の中枢的なところで発生する 音楽は、決して嘘をつかない。 音楽的文体は、著者の心がこの世で一回限りそのように律動した、という強い証明 言葉の運動性や音楽性は、「即興」の力によってのみ表現される。
心を和やかにするには、25キロぐらい朝から歩くのがいい。 この前1日断食+徹夜したあと、耐久性実験も兼ねて、そのくらい歩いたら気分爽快になった。
544 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 21:05:23
音楽的な言葉というのは、TVショッピングの微妙な年齢のお姉さんだかおばさんのトークみたいなもののことをいうのである。 ちなみに私はその数多な言葉を音楽として鑑賞することに価値を付し、趣味にしている。
545 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 21:10:19
>>542 え、それだけですか?
それだけで「音楽的」って...
別にバッシングする気はないんですが、
「ディオニュソス的な生の躍動」って音楽というより、むしろ動画じゃありません?
サンプル少なすぎ.あとは???
546 :
早 :2007/04/07(土) 21:10:42
>>544 ジャパネットたかた
の社長は、音楽的な言葉だと思う・・・
本人の商売魂、というようなものが上手く伝わってくる。
日本文学では、なんども言及してしつこいが小林秀雄が典型
あと、坂口安吾の評論系(小説は微妙)は、かなりストーンズ的なロックになってる
ように僕は感じる・・
絵画的な言葉、というのは、美的。
音楽的な言葉よりも、多少欺瞞的美的ヴェールで彩られているが、綺麗で感動的。
でも学者的な言葉は、何も描けていないから、創造性が無い。
別に、創造性がある言葉だけが価値がある、といいたいのではなく、
僕は個人的に、芸術的な文体を好んでいる、というだけです。
547 :
早 :2007/04/07(土) 21:17:19
>>545 まず音があってこそ、イメージや言葉があると思う
音→絵は、多くの人がイメージできる
絵→音は、あまりイメージできる人が少ないように思う
音、というのは、たぶん、一番、脳ではなく人の心臓に訴えかける度合いの大きな
表現ではないでしょうか
スレ違いごめんなさい
548 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 21:23:36
>>547 貴方、左脳よりでしょ?
吾の場合は動画+音が一斉に入ってくる.
貴方のこれまでの「ニーチェの言葉は音楽的である」主張に対する理由付けは
全く説諭ではないと思います.
549 :
おい!おまえらもう少し考えれ!! :2007/04/07(土) 21:26:32
『ニーチェ的“自我”思想論・精神・復讐編。』 「アポロンとアルテミス」 此処までに私が見てきた、彼フリュードリッヒ・ニーチェ。 彼が書いた著書のあらかたの自己処理を行ないたい。 出来るだけ自己中心的に 出来るだけ自己独裁的に。 血を持って書け!!と彼は言ったが、それは《夜》と言う事を自らに目覚めさせ尚、書き続けろと言う事なんだ。 彼の著書があれだけ膨大な背景と限りなく豊な備蓄品をあのようなスタイルに取りまとめ、尚意識の上に押し上げたのは紛れもない 《夜》の闇でしたね。 《夜》とは闇、多くの人達は此処へ語りかける言葉を保たない。 恐らくディオニッソッスが舞う夜に満月を見た者は こう語る。 血、夜これら全ては深い!真に昼が考えたよりも深い!! 私の言葉を疑う事なく信じれば良い。 この《夜》とは精神、深層心理さらには無意識の樹海にまでその洞察の根は降りる。 誰にも読める訳にはいかない、誰でも読める訳には見えない。 彼の著書を独断でどう読めば一番理解が出来るか?! 少なくても彼は読まれる事は望んでは今尚、著書を通して私の意識にこう教える。 これは彼のメッセージだ。 「私は暗誦される事を望む」 ファアリズムをご存じだと思うが、取り分け彼の文体の至る箇所にこう言った 一つの古い精神への彼なりの賛美の花束が飾られている。 『善悪の彼岸』の至る箇所には取り分けこの夜に花開く花束が一面に咲き乱れていた。
550 :
早 :2007/04/07(土) 21:27:04
>>548 僕は右脳よりです
高校のとき数学は平均くらいで、物理は全国レベルでした
音楽の元となる躍動感というのは、右脳左脳より、もっと皮質下の中枢にあると思います
551 :
おい!おまえらもう少し考えれ!! :2007/04/07(土) 21:29:47
『愛から為される事は常に善悪の彼岸に起こる。』 解るかい?神への又は神からの愛とは無関係な所でしかその波はあなたを包み込んだり何か・・・しない。 良く考えて? 良く潜入見を取り除いて? 良く思い出して? 良くこの言葉を繰り返して? 一番共感されうる事であろう例えとしては 『母親の子への愛は善悪の彼岸に或る。』 母親はきっと自らの子が例え『悪』であろうと『善』であろうと『神』であろうとその与える愛に変わりは不要であるだろうし。 ましてや、全ての宗教家達のようにその与えた(犠牲)にした愛と等価の報酬は求めない。 でも、これは『善悪の彼岸』その概念感の意識的に映像的な(思考可能性)投影による比喩された一面に過ぎない。 言いたい事はこれが『善悪の彼岸』の全てでは決してないと言う事。 お馬鹿さん見たいに『善悪の彼岸』とはニーチェの その皮膚になった通説的な潜入見で持って超人と すぐに連想を繋げて自然動物的行動原理に乗っ取って振る舞って言い。 場所だと決め付け『無法』の限りを許される。 極めて乱暴な解釈は本気で馬鹿だからもう、そういうあなたの好きにして下さい。 この『善悪の彼岸』は決して『良いと悪いの彼岸』 では無いと言っているでしょうが? 『良いと悪い』については『道徳の系譜・第一論文』を片っ端から読み漁れ。
話や文章というものは何より芸術的、殊に音楽的であることが肝要なのである。 それが実用的な語りというものなのである。 そのことに異議を挟む者は真っ当な社会人ではなかろう。 音声的に好感を買うことは当然大切なのである。 他方、視覚的に好感を買うというのは容姿や相手の想像力にも依存してしまうことなので、普遍的ではないから、それも同程度に重要であるということは云うべきことなのか甚だ疑問である。
553 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 21:32:13
デュオニュソスとアリアドネについて教えて頂け ればありがたい。
554 :
退屈なのでヨコヤリ :2007/04/07(土) 21:34:53
ニーチェの言葉は音楽的だよ 最も切断数の多いドイツ語の書き手じゃない? ほかにあんなにぶった切る人いる?
555 :
おい!おまえらもう少し考えれ!! :2007/04/07(土) 21:35:36
既に半泣き気味なのは 《ルサンチマン》彼等であり。 もっと、良く彼等を彼等全体を深く深く見つめて上げてほしい。 彼等が全く理解されてない場合の大半は《復讐》に 置ける原理行動であり その辺の深い洞察眼が彼等には全く向けられてない。 やられた後直ぐに《復讐》を果たすのが《ルサンチマン》か?又はその痛みに耐える事が《非ルサンチマン》か? と例題に挙がるならば、 殆ど事実は正反対となり。 多くの無理解者は否定するがこの場合はっきり言っていい事があるなら 《復讐》しないよりは 《復讐》した方がよっぽど人間的であると書かれた箇所を何で誰も読んでないのか? と声を大にして言いたい。 その関係性の解釈の倫理にすっぽり抜け落ちた重要点はまさに何故この《反感》の発生起源を求めずに 彼等の行動原理を単に《復讐》を蝮のようにしつこく噛み付く恨みやすい陰険な奴ら。 だと、どうしてそう短絡的に理解出来る? 言える事実は今尚、 こう、あなた方のどの人達にも《ルサンチマン》は既に潜伏している。 『反感』を持つ事に発生起源を持つ事が出来るのは、 「良心の疾しさ・負い目」を発生起源に持つ人のみであると解らないなら 『道徳の系譜・第二論文』を死ぬ程勝手に読みふけやがれ。 つまり、この「良心の疾しさ」から来る作用は僧職者達に多く見られ。 その所用の大まかな筋道は本来有する“力への意志”としての発現するはずの 彼等の向きが逆向きに 働いた事が大きな要因で彼等の無力さ善人さと等と 言った所謂『善』とされる彼等は実はそんなにも 『善人』ではなくニーチェ的な観点から推測から算定し(けっこう遠い未来) 算出された人類の事を考えたら彼等の行く末は決して最善とはならず。 最悪の真逆に位置する事が解り彼の全人類に対する大いなる悩みとなり。(彼は本当に人間を愛していたんですね!!私なら絶対知ってても無視です!無視! 言っても解らない奴らならシカトです!当たり前です私はその前にどうせ死にます後はどうなろうと知ったこっちゃありません!!)
> 切断数
557 :
おい!おまえらもう少し考えれ!! :2007/04/07(土) 21:39:52
まぁ彼が悩んだ、大いなる悩みとは人間意志としての全体的な後退と言えるでしょう。 ヒント 『私の悩みに悩んだ者は誰も居ない。』 正直、彼と共通の悩みの共有を迫られたら きっぱり、私はノーと言える日本人よ!!と固い意志を突き付け その時代には恐ろしく ローカルに響くであろう 割りとグローバルな皮肉で笑いを取りに行きます。 話を戻すと“力への意志”は何処へ言ったかと探しますとするとしっかり グレ様子が変わって“生きて”ました。 禁欲主義者達の《反感》の中に。 それは禁欲主義者達の上にいったん“苦痛”が加わるとそれは消化不良を起こしたり。 強い恨みになったり人間憎悪の強い憎しみに変わり。 それが彼等を腐敗させる 要因へとなります。 更に悪い事はこの《復讐》は賢く振る舞い《罰》の 執行のそれまでには見られなかった心理要求から実行されました。 その辺の詳しい資料は 等価と価値、債務者と債権者、この辺りの記述を参照に考察して下さい。 とどのつまりに彼、禁欲主義者達はとんでもない暴挙に一斉に走り出します。 自ら招いた《良心の疾しさ》からなる消化不良の苦しみを何とか“意味ある苦痛”(我々は意味のある苦痛なら自ら欲する事さえある)に致しましょうと苦肉の錯を引き起こします。 これはきっと誰かの仕組んだ罠に違いない。 自ら自分勝手に苦しんだ挙げ句に人のせい・・・・。 倫理ポイント。 人は何も欲しないより寧ろ“無”を欲する。 つまり、何処にも意味の 見当たらない(意味の無いものは意志しません) 痛みよりは無いものに意味を与えて仕立てあげ、 そいつを標的にすれば良い。 《苦痛》には《等価》を《等価》をはらすには《復讐》を・・・・・。 大分末期の深い“病”です皆さん、こうにはなりたくはありませんね?!。
558 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 21:47:47
芸術はなぜ可能なのか? 形式と内容の混沌たる芸術が何故に。 私が形式的たることの重要性を語るのは 形式と内容はセットだからである。 ばら売りはできないからである。 何故にというか本来、全ては芸術的、つまり形式的内容なのである。 それにもかかわらず。 このような輩がいるのは。それこそ何故なんであろうか。
559 :
早 :2007/04/07(土) 21:47:54
テーセウスが生まれたとき、彼の父は(詳しく覚えていないが)別の国にいた 父は母に、子が岩を持ち上げれるくらいの力持ちになるまで成長したら、 岩の下にある剣を取り父の国へ赴くように指示するよう、伝言をのこしている やがて成長したテーセウスは、剣を持ち、色々な苦難が待っていそうな道を自ら選択し 、盗賊や怪物を退治しながら、父の国へ行く 父の国で色々な事情あって、テーセウスは、飢えたミノタウルスが人間の生贄を待っている地下迷宮へ 行くことになる。その迷宮がある国の王妃(たぶん)アリアドネに恋をする。 テーセウスが迷宮で迷わないように、アリアドネは赤い毛糸の端をテーセウスに渡す テーセウスは無事、ミノタウルスを退治し、毛糸を辿り、地上で待つアリアドネのところへたどり着く。 その後色々(色々)あってテーセウスとアリアドネは、船で、ナクソス島にたどり着く。 しかしテーセウスは眠ったアリアドネを置いて、何処かへ行ってしまう 悲嘆に暮れ、独り暮らしているアリアドネに、たまたま通りかかった船旅の好きなディオニュソスは、 ナクソス島でアリアドネとであう。ディオニュソスは慰め、自分の妻にする。贈り物として宝冠を妻にプレゼント アリアドネの死後、ディオニュソスは宝冠を天へ投げ、高く舞い、宝冠は正座になる
560 :
おい!おまえらもう少し考えれ!! :2007/04/07(土) 21:51:56
つまり《復讐》しない人よりは《復讐》した人の方が極めて健康的であり寧ろ 勝手に恨み《復讐》する人の方が害悪のある 《純正ルサンチマン》と 呼べる本物のキング・オブ・ルサンチマンです。 愛無・チャンピオン!! 馬鹿でも解り過ぎる例え話 A「オリャ!!」 B「バキっ!いって!!」 A「おめぇ復讐したらルサンチマンなぁー!」 B「うるせェよバキッ!」 A「おめぇはルサンチマンか!!」 まともに考えて下さい。 やられた事に対してやり返したなら、極めて当たり前です。 直ぐにルサンチマンと言う人は純正培養で育てられた真のアホです。 私見ててマジ受けます 作用、作用、これ忘れないで下さい。 これは作用・反作用です 物理の原理で説明可能ですアイザック・ニュートンの第3物理原理です。 このケースで疑われる症状となるのは 「私くしルサンチマンじゃないので復讐しません!!」 こう言った人がいたら ほぼ間違いなくアンポンタンかナポリタンかアンパンパンマンの類では無く 《ルサンチマン》です。 だって同じですよ?! 「私はやり返せないのでは無くやり返さない。」 誰ですか? 正解は禁欲主義者でした。 まとめ・《ルサンチマン》を見抜くのは容易ではありません。 我々は《復讐》に最も頭脳を使っていたとツァラさんが言ってましたよね? 深い深い夜の闇・・・・・深層心理と深い精神において彼は今尚潜んでいます。 それでは、お気おつけ下さい。 マジモウスコシホネノアルヤツイナイカー!トチャンペッ!!←皆さん是がルサンチマンの子供です割りと可愛いです。 P.S強者来たれ
早は頭が良いようだ。 ちなみに私はどの教科もクラスで平均レベルであった。
562 :
考える名無しさん :2007/04/07(土) 22:09:19
早さん有難うございます。 少し思い出しました。 前夫がいたのを。 デュオニュソスがなぜ彼女を愛したのか、彼女のみを愛したのか興味があります。 重ね重ね申し訳ないですが書籍を紹介ねがえないでしょうか?
563 :
早 :2007/04/07(土) 22:21:57
僕が読んだのは、小説のように一貫した感じの、ブルフィンチのThe age of fable(たぶん)の
日本語訳岩波版でした。今手元に探してみた文献では、ディオニュソスの視点から何故愛したのかはわかりません
アフロディテが、独りのアリアドネを、神様の夫を与えてやると慰めた、というのが書いてありました
あらゆる女性を愛させて信じさせて信者として連れ乱痴気騒ぎすることはよくあっても
ディオニュソスは特定の女性を愛することは滅多にないみたいですね
ただ、ギリシャ神話というのは、語り継がれたものや、詩人の作品だったりするので
文献によって差異が大きいです
>>561 僕は、精神状態で成績が激しく上下し、教科によってもでこぼこで、
国語は、神経を限界まで病んでそれを強引な哲学や辞書の乱読で今くらいまで克服するまで
あまりできませんでした。ただ、陽気な割りに物凄く 神 経 質 です。障害者ではないか、と思い込んでいました
父がいなくて後天的にも病因があります
このスレの書き込みはそういう神経の産物です。それを前提にお読み下さい・・
>>548 上手く説明できなくてごめんなさい
哲学好きな人とWalking in the streetな人のものの感じ方の差くらい
音楽をどう感じるかは個人差があると思います
ニーチェは、音楽を激しく体験していた思想家の典型だと思います。
言語と音楽の関係を、論理学的明証性を以って説明するには、
大脳生理学系の知識がいるかもしれません
ことさら下手に価値を創造しなくても 世界には、価値が備わっている。 あるいは人には理想という生得的価値観があると云える。 理想は形式的内容であり、芸術の源泉である。
ちなみに私は陰気なわりに、鈍感であると自己主張しておこう。
誰か「私は自己主張が好きだ!」と品川駅のラッシュ時のプラットフォームで叫んでくれる超人はいないものだろうか。
567 :
早 :2007/04/07(土) 23:35:48
>>おい!おまえらもう少し考えれ!!さん
とても苦しそうです・・・
罪、疚しさ、ルサンチマン、復讐、疑い、余りに人間的
神経を管に喩えてみると、そういう類の言葉は、痒そうな感触を管の表面に視覚的に浮き彫りにさせるくらいの
物理的抵抗をもった通過物、と喩えれるかもしれません
痒いような苦しいような感触。苦しくてもその感触を求めずにはいられないバッドな快感、というのが人間の本能にはあるかもしれない
痒いところを掻き毟っていたい・・・というどうしようもない感覚。でも、行き過ぎると神経は壊滅する。
僕は助かった。助かることを祈ってます。勝手なおせっかいな助言かもしれませんが、
言葉から一度完全に離れて、自然愛好をしてみるといいかもしれません・・・
ゲーテとニーチェの神経的な根本的な大きな違いは、(ニーチェは視力が極端に悪かったのも関係するかもしれないが)
外の外交的世界や自然界の動植物に、深い興味があったかそうでもなかったか、といえるかもしれない
ゲーテは見ることを好んだ人で、ウェルテルも画家志望の設定になっている。
見て感じて興味を増やし、そこから神経を動き回る語彙の種類を増やしてみると、集中的内向からは解放されると思う
>>564 世界に備わった価値と、人の生得的価値、というのが、(ニーチェの頭の中では)一致しないと思う
理想や生得的価値、というのが、結局、生に内在する潜在的な力、のことであって、
その力を外へ発言することが、世界に価値を与えることである(だから世界はもともと無価値だ)、と(ニーチェ的には)いえるかもしれない
理想が形式内容で芸術の源泉、というのには共感します
その理想は、何よりもまず悲劇として現実に求められる。
たとえば最近の女性がリストカットをするのは(理由は様々だが)、ただかまって欲しくて悲劇を演じるのではなく
現実が本来そうべきある姿から離れているとき、悲劇の本能が働いて、理想的現実に近づこうとするための作用であると思う
少なくとも、血については本能的に女の方が知り尽くしている。
悲劇の本能、というのは、理想的な生をめざすための、美しい力であり、
その力の発現を、血を流すことや自殺願望ではなく、芸術的表現としたとき、現実は理想に近づく。
568 :
私はあなた方に超人を教えよう!! :2007/04/07(土) 23:44:13
>>566 オマエ良いィ!!その腐敗して行く理知として燃え上がるように灯った。 超ミニマムな頭脳から今尚力の意志として舞い上がるユーモラスな知能に舞散る灰が素粒子と
混じ歪見せるマクロのサイズじゃ既に確認不可能な程の微かなオローラ!! ちっ!しゃあねぇんな? もん見せられたらおしえちゃるよ?!俺が見た超人をよ・・・・・・
ソイツは頭にカレーをのっけてたんだ・・・・・・。で、いざ決戦のリングへ・・・・・・・。 で結果は・・・・あっさり負けちまったよ・・・。 頭に乗っけてたカレーをあっさり食われちまってね・・・・。
馬鹿だよなぁ・・・・・・アイツ負けるの解っててリングに上がったようなもんだよなぁ・・・・・。
相手は何せ正義超人の筋肉マンだぜぇ・・・・。
牛丼一筋三百年だぜぇ・・・・・でもアイツのカレーは・・・・3分保たなかったぜ・・・・。
勝てるわけねぇよな・・・・あっ!ワリィな妙に心悸クセェ話しちまってよう・
でもあん時俺は思ったね・・・超人も結構辛いんだなぁ・・・なんてよ!!
今の話全部忘れても良いけどアイツの名前だけは覚えいておいてくれ!!
ソイツの名はカレークック最高に勇気のある最高にイカス本当に馬鹿なカレー超人さぁ・・・・クッ・・ウッ・ウッ・・・ 何で!何で!オ・オマエ あの時カレーなんな頭に乗っけてたんだよー!!・
A・カレークックだからです。
へぇー超人もなったらなったで大変なんだな。
569 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 01:11:12
重複失礼しました。
572 :
早 :2007/04/08(日) 01:31:43
>>私はあなた方に超人を教えよう!さん
僕も、あなたみたいに言葉を「抑制」するのが苦手です。
学校でイジメなどを目撃して逆上すると、帰りの電車数十分で(仮に一貫した内容を通せたとしたら)一冊かけるくらい
怒りやルサンチマンの言葉がどうしようもなく溢れ、夜は不眠に悩まされたものです
以前此処へきたときなどその症状の典型でした
イエスは言います
「はっきり言っておく。人は自分の話したつまらない言葉についても、すべて、
裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、
また自分の言葉によって罪とされるからである」
やめてほしいです。
小林秀雄は、たしか何かの評論文で
ニーチェが全人格を暴露した地点に立ち、フロイトはつとめて人格を「抑制」した。
(ものすごく曖昧な記憶で、あってないかもしれませんが)このようなことをかいてました
詩や青春的散文を、インターネットに晒してみるのは、一種の自己懲罰的自己超克かもしれません
ただ、いつかは「抑制」するだけの生きる者としての良心がなければ、良心そのものが解体してしまいます
でも僕は、実際に具体的に心理的な「経験」をせずに先人の言葉を操作するタイプの人よりは
抑制できずに晒して壊れていく人を愛してます。
僕のこのスレの最初の方→400以降が一回の脱皮だとしてみます。
もし僕が、病まずに音楽をやりたい、という夢を諦めて、「言葉」を本職とする批評家を目指すとすれば
今の哲学界心理学界に暴虐な怒りを爆発させる言葉を羅列して
あと10回は脱皮して小林秀雄を目指していたでしょう。
>>97 に何となく答えてみます
失恋とルサンチマンは別次元です・・・
失恋の涙は永遠の涙、宇宙の一部になる聖水、です・・・
怒りもルサンチマンに比べたら純粋です
怒りが燃え上がる炎だとしたら、妬みはタバコの煙みたいなものです・・
573 :
早 :2007/04/08(日) 02:03:12
>>579 岩波文庫
ギリシャ・ローマ神話
ブルフィンチ、作
野上弥生子、訳
が正確な日本語版の題でした
572の引用の正確な記述、小林秀雄「歴史」
「フロイトは、彼ら(ニーチェとショーペンハウアー)が敢行したように心という怪物の全体的な直観から
発言する事を抑制した。彼の科学者としての良心は、怪物の哲学的意味付けを、出来るだけ避けようとした。
一と口で言えば、ショーペンハウアーやニーチェが、その全人格を現したその丁度同じ場所で、人格を隠そうと
努めた人である」
先人の言葉を操作するタイプの人を嫌っている、というわけではありません・・・
毒舌っぽいの&偉そうなスレ占領、ごめんなさい
574 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 03:47:06
私は教える、超人とは理想的男性像に他ならないのだと。 そしてまたルサンチマンとはその理想的男性像との差異の認識によるものであると。 それは純粋には何よりもまず怒りである。 その炎を回避する者に対し、ルサンチマンは怨みへと姿を変容させ熱中症に追い込んでいく。 「心頭滅却すれば火もまた涼し」とは至言であろう。
575 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 04:17:02
理想的男性像としての超人に恋するのはやむを得ないので言うことはないが、 反理想的文体で私を侮辱するのはやめてもらいたいものだ。 とはいえ私は心頭が鈍いことは認めよう。 だから君にもこれだけは認めて欲しい。 すなわち、私の頭は大きいのだというこのことだけは。 自己主張が過ぎたようだ。 だが脳が小さいなどと侮辱されるのはのは遺憾の極みであるから、脳の大きさには自信があると断じて言っておかねばならないのだ。
阿呆が
超人きた。
日曜の朝からニーチェですか
579 :
早 :2007/04/08(日) 13:07:59
>>542 のシュールとサンボリズム
サンボリズムの方が音楽的
>>573 ×579→○569
ニーチェは実存主義の預言者だとしても実存主義者ではない
ドストエフスキーは決して実存主義者だとは僕は思わない
ほんとうにニーチェを味わった人は、ニーチェ主義にはならない
主義者、というのは、大物の他人の言葉や観念を利用して、そこに便乗する人
観念や言葉というのは、刀みたいなもので、研いだり作り変えないと、切れ味がわるくなる
観念は、人の創る力から離れると、いつのまにか、効力が薄れ、ただの虚像的妄想になる
ユンギアンもだんだんとドラッグ研究などに目を向け集団妄想オカルティストに成り下がりつつある。
フロイティズムや人格障害を基礎とする理論も、現代では工場で脳という製品を検閲する機械のようなものに成りつつある
ニーチェの言葉を理解した、というより聴いた人なら、言葉を自分で創るだろう
自分の言葉は、刀のように熱して冷やして磨いで切って、はじめて力を得る。
熱する力は、自分の無意識の深層にある力。あらゆる切れ味のなくなってしまった既成の観念郡を破壊したとき、力を呼べる。
力を発現するとき、無意識を意識化するとき、自由を手に入れる。
人間は、既成概念に閉じ込められ、精神の及ぶ範囲は限定される。
それはガラスのようなものであって、従っていれば透明で見えない。
それを見抜く鋭い慧眼、幾重ものガラスを貫通させてまで外の広大な精神領域を照らす太陽のような自意識
それらを備えた人は、ガラスを破壊したくなるだろう
しかし、破壊するには、胸に破片が突き刺さるような苦痛に耐えなければならない
そうやって精神的な自由を手に入れ、未知の熱、未知の光、で自分の刀を鍛え
刀を既成の観念に振り回し、新たな観念や言葉を創っていく人をニーチェは讃えるだろう
580 :
フィクションです :2007/04/08(日) 15:11:01
商品企画会議において次期主力商品の選定が行われていた。 議論は白熱の様相を呈していたが、時間がそれを 許さず、多数決による採用が決定となった。 しかし、翌日その企画は破棄された。そして同日 、戦略商品企画部室長の田岡は、会長室へ呼ばれ 恫喝されたのである。 「お前は!独創的商品を造る気があるのか!俺にはとてもそうは思えん!」 その時は真意を図りかねたが、この経験を生かし その後次期社長候補に田岡の名が挙がるまでとなる。
581 :
早 :2007/04/08(日) 15:39:46
お借りしてフィクション。 京都大学文学部哲学科の論講において生徒がそれぞれ提出したニーチェについての論文の優劣の選定が、生徒・教授を含む論争形式で行われていた 論争は白熱の様相を呈していたが、永遠に同じようなことが回帰され、 多数決による判定が予定された しかし、翌日その予定は破棄された。生徒の一員である早が教授を脅して監禁し、 得意の特殊メイクによる変身とあらゆる人格を模倣する仮面で、教授になりきり、 そういう風に事を運んだのである。 そして同日、早が目をつけた感じやすそうな生徒:田岡は、会議室へ呼ばれ、教授に偽装した早と二人きりで、 少々同性愛的な妖しい熱弁で話し合った。 早は言った。 「お前は!お前のやり方を信じて論文を書け! 他の教授も生徒も、自身が、ニーチェの攻撃対象になっていることを 気付いていない、いや、無意識的に気付こうとしない・・ お前だけが、ニーチェの鋭い言葉に正直に動揺した。一度ニーチェにやられてみろ!」 など、数時間に渡り、極秘の対話が続いた その時、田岡は、意外な言葉(と、なんだか歌うような熱弁に)度肝を抜かれ、混乱し 数週間後には病んでしまいアルコールに手を出してしまったが、中毒を克服した後、早との怪しい(いや、妖しい)対話から得た言葉を生かし、 田岡はその後、教育制度、情報化社会、学界などを、根底から覆すような批評家として名声を得るまでとなる。 くだらない(苦笑
582 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 15:49:13
さんきゅ。
愚:独創的商品を多数決で決定する。 ユダヤ人はその逆で決定するらしい。
584 :
早 :2007/04/08(日) 17:20:14
ニーチェに関する言葉をageたい欲求 僕の言葉や考え方に、質問や疑問を投げかけてくださったら 皮肉や同情あるいはルサンチマンや猜疑は一切なしに(出来るだけ感情的人格的干渉は控えて)、 自分の奔放な表現欲求に優しい「仮面」(背理かもしれませんが、欺瞞をなくすには誠実な仮面や悲喜劇が必要不可欠だと、僕は思う・・人生なんてドラマさ! とか、自分を創れないやつに芸術は創れない!とか断言できる人ほど、小説か何かみたいな行動を実現できたり、悲劇的な出会いがあったり、 聖人じみた癲癇発作や道化じみた神経発作を起こしたり、芸術家になったりする・・僕は、仮面を徹底的に利用した挙句、悲劇に堕ちたのかもしれない・・・ あるいはアリスのようなcolorfulでwonderfulな神経刺戟が、色々な仮面を描いたのかもしれない)仮面を被せて、答えます・・・ とても身勝手で申し訳ありませんが、このスレを埋めてくれる(子供っぽい赤面逆上は別に構わないのですが 毒舌を晒しておくのは苦手です、毒舌、というのは第一に、自分の良心に突き刺されるものなのかもしれない) ことに協力してくれたらとても喜びます・・・このスレ消えたら、たぶん一生2ちゃんに来ないし、 本を書きたくもないし、寂しがりなので、(あと何ヶ月かでハタチ、ああ、今の内)とてもかまってほしかったりします・・、 言葉の錬金遊び、しませんか?とかぼやいてみる 哲学的な知識領域は狭い方ですが、感情移入やメタ思考は得意な方です。 自分のドキドキした見方、バタイユ的な鮮血淋漓たる見方、病人の信仰的見方、だけが全てだとはもちろん思いません ・・・「傘を忘れた日、雨が降ったのに、学校の規則通り、静かに慌てず帰宅した」真面目な、そして若き日に過剰な教養を積んだ勤勉な、ニーチェ 学者的観念が嫌い、というわけではありません。ただ内心でいやらしく批判し、自分の考えを創る作業をしているだけです。 そして、ふざけながらも、十代現代日本人至上稀に見ぬ感動的serious・・ ランボー「地獄の季節」はふざけながらも人類詩人至上稀に見ぬ激痛的hellish・・青春の1ページ スレ板違いな自己主張、甚だしくなってしまいかねないので、真面目な意見を載せると誓います
585 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 17:25:48
理想を作り、理想から現実を判断する。 ありもしないことから、あることを評価する。したい。 →理性。
586 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 17:59:56
運命は力量のないものから襲っていく。 マキャベリ
587 :
早 :2007/04/08(日) 20:55:24
★ニーチェの運命愛の運命とは無関係かもしれない、運命についての考え(思いつき 運命、というのは、ユング心理学的な意味での意識ー無意識の軸を観点に入れると、 無意識的欲求(ディオニュソスが地上へ沸きあがりたいようなはちきれんばかりの潜在力)がものすごく 飽和したとき、本人の無自覚無意識のうちに、本人の行動が運命的なことを起こしている。 この運命的行動を、後になって自覚意識化したとき、あれは運命だった(アポロと協力したギリシャ的ディオニュソスの贈り物)、 というような感慨を受け、感動する。 その運命的行動が感動的なものになるには、本人が無意識的欲求に対して心を開いているような心的な構えが必要である。 その構えとは、意識的な人格が現実に対し絶対的に適正なわけではなく、自分には何か別のそうあるべき姿があり、 それがそうなるような可能性を心の中で「期待」しておくことかもしれない。 期待もせず、ただ現時点での自分の人格やその他色々な状態が絶対である、あるいは、どうしようもない、 現実には屈服しておかなければならない、というような「現実への逃避」や「無意識的欲求の抑圧」状態にあると 無意識的欲求は歪められ(ディオニュソスは愛想を尽かし・・)災難をもたらし、打撃的運命になってしまう たとえば集団規模で、その無意識的欲求が飽和し、それが良く表へ表出されればよいが、 悪く表出されてしまえば、集団ヒステリーとして、運命的な災難が社会を襲う(非ギリシャ的な野蛮なディオニュソスの暴走)こととなる 社会集団の運命的災難を回避するためには、表面上の集団的観念郡に洗脳されず、集団の深層に眠っていて今目覚めようとしている 無意識的欲求(ディオニュソスの欲求不満)に気付き、それを創造的(アポロ的、芸術的)に地上へ送るための「表現」を考え出し、 その表現によって、集団に警鐘を伝えなければならない
588 :
早 :2007/04/08(日) 21:23:44
>>585 僕は、理想の全てがありもしないことだとは、決して思いません
理想ー現実の二丁頂対立のようなものは、たとえば患者にたいするカウンセラーとか家族でもない限り、
もちろんメタレベルでしか説明できないので(普遍→自分、自分→普遍、という認識の訓練は、社会と自分の関係の認識と同じくらい、人生に展望を与える)、
あくまで以下はそういう説明ですが、
虚栄心に基づく理想は、単なる無意味な虚像かもしれない
でも、運命とか生死だとか深刻なもの、あるいは自分の今までの記憶や人生を直視した時に、
日常的現実ばかりを直視して奴隷的になっていた時よりも、核心的なことを見抜くことをできる。
その自分の生命に基づいた理想は、虚像的理想とは違い、現実離れした姿を見せるのではなく、現実のあるがままの姿、
だけれども今まで気付いていなかった現実の姿、そういうものを、ガラス同士を重ねるように、
展望的に現実に綺麗に被さり、自分の認識の光で、理想的現実を描いてくれる。
589 :
考える名無しさん :2007/04/08(日) 21:51:52
>>585 は自身が自身のことを病と云うのが気になりまして。
余計なことでした。
なんですか、このポエムなスレは
591 :
早 :2007/04/08(日) 23:03:53
>>583 あまり関係ない余談ですが
20世紀大活躍の二大知的ユダヤ人フロイトとアインシュタインは、最初、学界から完全に孤立してましたね
性衝動などからほとんどの心理を演繹したフロイトは、講演でも講義でも一度も口に出されず、
反対もされず、黙殺されていて、しかし学者達は、廊下ではひそひそ嬉しそうにフロイトに対する話に
絢爛たる花を咲かせていたそうです
もっと関係ない余談ですが
今日は、お釈迦様のお誕生日だったような気がします。
さらに哲学に関係なく
>>590 に
このスレの最初で罪を犯してしまったので、償っている人が、懺悔しているスレです
と、わざとポエムに答えてみる
スレ違いならないようニーチェ関係あること話したい・・
田岡さん(
>>580 >>581 )、いらっしゃい(ぼそっとage僕はきっと害物だ、過疎スレにしたのは僕だ
よしニーチェに関係ある考えをひねり出そう
形式というのは関係であり、 形式軽視は関係軽視であり、 関係をよく結ぶところに芸術は花開き、 関係なきところに深淵がある。 おまえは深淵に一度落ちるべきなのかもしれない。 されば夜でさえ明るく感じるかもしれない。 力への意思、これは深淵に足を踏み入れたことがなくかつ愛情に飢えている者の意思である。
形式というのは関係であり、 形式軽視は関係軽視であり、 関係をよく結ぶところに芸術は花開き、 関係なきところに深淵あり。 おまえは深淵に一度落ちるべきなのかもしれない。 されば夜でさえ明るく感じるかもしれない。 力への意思、これは深淵に足を踏み入れたことがなくかつ愛情に飢えている者の意思である。
594 :
早 :2007/04/09(月) 00:29:02
ニーチェとベルクソン、どちらの方が、「直観」を使う度合いが大きいのだろう?
一見ニーチェは一目で分かるくらい度外れに感覚的だからベルクソンより直観の人だ、と思ってみても、ベルクソンも(僕はまだ1冊通読もしていないが・・)
かなり表現が美しく、破綻していない整った哲学的文体で、身体の内部にあるような領域を表現している。
興味ある方、「個人的な見解」を色々混ぜて、書き込んでくださると、とても嬉しいです。
こういう曖昧な質問ほど、答える人の文体から、色々な、こう、精神的エキスのような栄養みたいなものが
とれたりする。言語表現できるかできないかのギリギリのところを試行錯誤的に認識把握する時、
本人は、言葉を自分の内側に引き込もうとする働きを起こす。しかし、明確な事実や、観念を示すことは出来ない。
ただし「ツァラトゥストラ」は考慮から除外します。あれはどのような詩人にも宗教家にも負けない霊感だったりしそう・・・
ニーチェに関する余談的豆知識
ツァラトゥストラは、古代ペルシャか何処かの教祖ゾロアスター(フリーメイソン、モーツァルト「魔笛」の、ザラストロでもある)
から名前を貰ったらしいが、それは、ゾロアスターがもっとも歴史的に早く善ー悪の分離を強力に説く道徳を築いた
だから、ゾロアスター自身が自己超克して善悪の彼岸に立たなければならない、という由来らしいです
>>593 深淵に下りてみると、ニーチェだけでなくきっとお釈迦様やイエス・キリストのように在り難い人と関係を結べるかもしれません
関係を面積、深淵度を深さとすれば、降りれば降りるほど、表面的形式の面積も増えます。
例えばじょうご型の器を、水中に沈めたとき、水面の位置にある面積は、深ければ深いほど広いように。
ただ、その器を満たすのには、深く沈め体積が増えた場合、時間がかかってしまいます。
僕は今、その時間がかかっている段階にあるのかもしれない。
女、という生き物は、どこまでも、沈めてくれます
>>女、という生き物は、どこまでも、沈めてくれます 錯覚です。あなたの視野が女性の粗雑さを看過するほどに視野狭窄で 自己憐憫に浸っていたいほどにナルシスなだけです。
596 :
早 :2007/04/09(月) 09:13:36
>>595 本当に女性を強く強く愛する人は、たぶん中学くらいで現実の女性にはとっくに幻滅して
自分の中にいる女性的なものに気付くものです。
感情的人格的干渉はしないと約束したのであまりいいたくありませんが、僕は、魔女の子宮の中の
黒い何でも吸い込むような渦の中心で溺死寸前でした。精神状態が悪くなると「ような」は消滅します
ルサンチマンを経験しそれを克服したぶんだけ人の痛みを理解する器が広がるように、
幻想的女神像への愛と現実的女性蔑視を同時に経験し、それを「克服」した分だけ、現実的に
女性を深く愛せるようになると思います。僕はまだ克服しきれてませんが、克服したくて、救いたい人がいて、
ニーチェだとか聖書だとか神秘主義だとか恐ろしい本をよんでいる。
ニーチェはどの哲学者よりも真理=女、という視点で地下を掘り進んでいるにもかかわらず、
詩人のようにそれを大げさに表現せず、一言も口にもだそうとせず、男を貫いているような気がします
597 :
早 :2007/04/09(月) 10:10:21
何となく関連的なお話ですが 昨日二千数百歳くらいのお誕生日をお迎えした癲癇もちのお釈迦様は 妻に「悪魔め!」といって 妻子を捨て、 独りで六年間も、森の中で、コケとかキノコとか食べながら修行をしていらしたそうです ニーチェはつねに矛盾している 何もかもが二律背反 赤ちゃんとスーパーマン 愛と嘔吐 言語の成立が、世界の心臓部に宿る矛盾を誤魔化すための虚構に過ぎない、といっているよう。 だからといって自称預言者の類みたいに言語の矛盾性を利用して、自分の都合のいように解釈して 狂言を並べるのではなく、自分の矛盾の言い訳をするのではなく、世界の心臓部の矛盾を暴こうと捨て身で、 言語を軽く越えたところを、言語で掘り下げている。文明の都合のいいように解釈すべきだ、と喚いているみたい。 学者と詩人、理論と象徴、抽象と具体、思考と感覚 世の中には二つに分かれようとする働きと、二つが結合しようとする働きがある。 分かれようとする働きの成すがままになると、あらゆる次元において諸現象が対立してしまう それを結合しようとするなら、分かれてしまった次元の価値観や言語観では矛盾になってしまおうがおかまいなしに、 二つのもととなる方向へ向かわなければ成らない。 一般的哲学者がニーチェを矛盾していると見るのは、その二つがわかれてしまった次元における観点から見ているからであり、 ニーチェの良心の動きから見れば、何一つ矛盾していないのかもしれない。 一般的価値観からみたら矛盾になるような事を許しながらも、狂言にならないように最新の注意を払って思考を展開することほど、 困難な思考作業、肉体的な苦痛、命がけの哲学はないだろう。 実際的行動家のように具体的現実だけを進むのでもなく、 詩人のように、幻想的なものを具体的にするのでもなく、 学者のように抽象の次元で観念的に理論を展開もしないで、 抽象や幻想を具体化するはたらき、つまり対立する二つを一つにしようとする働きを 自分の肉体で体現している。そういう種の思想家の、最も典型的な例。
598 :
早 :2007/04/09(月) 10:22:59
訂正 文明の都合のいいように解釈すべきだ →今まではキリスト教的文明だけの都合にあわせて解釈してきた (キリスト教の世界観がおそらくニーチェが嫌った内界と外界、原因と結果、罪と罰の 奴隷的関係性を築いていったのかもしれない) これからは、キリスト文明に限られた狭い視野だけでなく、古代ギリシャや仏教のような世界観 を包み込んだ、さらにおおきな人類的世界観を視野にいれた遠近法から、文明が良くなっていくような 解釈をするべきだ
詩人は嘘をつきすぎる。自分の欲念と空漠にすらメッキする。
600 :
早 :2007/04/09(月) 12:19:43
六百六拾六さん、もし、御覧になってたら、色々と意見の交換できたら嬉しいです
善意も悪意も含まない程度に、お互い批評しあいませんか?
あなたと言葉を交わしていると生産的な議論になりそうな気が、なんとなくしてみました。
僕は、深入りはしたけれど、範囲的には詳しくない方です。詳しい人の意見きけると、とてもうれしいです。
些細なことでも、どうか・・。
僕はきっと、楽器や色鉛筆や携帯電話を手にして、本や詩集を適当に読んだり、考えたり、絵でも見たりしながら、
このスレが彼方へ消えてしまうまで、このスレに粘着すると宣告します。
ニーチェの哲学は「生の呪うべき極悪非道な側面」を見据えた上で、「生をディオニュソス的に肯定」するためにある。
ニーチェが「余りに人間的な」哲学者という「仮面」を被って、自分の精神世界を「実験」室にして、
むしろ自分の仕事を「演技」と自覚した上で、賭博者的な大胆さで、言葉で、生の虚無や死の恐怖と勝負する。
ニーチェが唯一デカタンスの心理学を知り尽くしているものとして認めた「半気違いの詩人」ボードレールの悪魔的認識のあたりまで
地下探求している。女、という生き物が、どこまでも沈めてくれるという「恐怖」を、詩のなかで知りたい方、
あるいは、そういう恐怖状態にある中、その恐怖から逃れるために偉大な天才の認識や表現を得たい、という方、
「悪の華」を、どうぞ・・
>>599 ボードレールの詩という嘘ほど、恐ろしいものはないと思います・・・
芸術は、真理を認識させるための嘘である、とピカソがいっていたような気がする。
ピカソは言語障害者。
>>407 に少し関連して
ニーチェは、(僕は熟読はしていない→)カントが緻密に論理的に証明して見せた、認識の相対性、
価値の解釈性、などを考慮に入れた上で、絶望もせずカントの真似をして「機械」のように
同じ事を観念的に議論している哲学者に嘔吐している。中途半端に世界に絶望している振りをしている
陰鬱な哲学者や思想家をも蔑視している。初期のニーチェは、逆に、カントの緻密な批評からの絶望を
知り尽くした上で、そこから怪物的な哲学を創ったショーペンハウアーを讃えている。
君は風俗に行け。 貨幣で背徳を買え。 それが単に貨幣と交換されるサービスの享受であったとしても 虚しさを断固として拒絶して「どうあればたのしくなれるか」を敢行せよ。 世界が薄ぼんやりと曇って見えるのなら、君は泥中の蓮華であるべきだ。 燻り続けるよりは実際の行動で道化になったほうがマシだ。 ニヒリズムに抵抗するニヒリズムは生を肯定する。 もはや聖汚は些細な事に過ぎない。 小さき中にも真理はある。
602 :
早 :2007/04/09(月) 13:10:20
>>601 僕は、もう虚しさなんか感じてませんよ。
ただ、青春、十代、今のうちに、ギリギリの認識までいきたいとう忌まわしい欲望が本能的に強くて、
メンタルサイトや神秘主義、ニーチェなどを片っ端から読み漁り、
scandalousな人に壊されないような精神力鍛えるためにこういう罰当たりなことをしているだけです。
実際の行動でも、十分道化です・・・何時も何時も笑顔です・・
ラスコリーニコフになりたくて、卒業式の日、こっそりガラス割り、途中退出しました
僕は典型的な仮面道化師ですが、嘘吐きでも偽善者でもないです。
僕は、楽しさよりも、貨幣よりも、道徳よりも、「陶酔」を求めている。それ以外には何もいらない。
尾崎豊のようなロッカーになりたい。とずっと憧れ思い続けてきた。
不平不満を叫び続けてるだけなら楽だろうよ。
604 :
早 :2007/04/09(月) 13:17:34
三島由紀夫の「ニーチェの影響」という論文が、全集の第何巻に収録されているか、 ご存知の方いれば、教えて欲しいです。 図書館で長いあいだ探してみたけど、一部貸し出しされ全集歯抜け、しらべるのめんどくさくなってしまって。
605 :
早 :2007/04/09(月) 13:20:01
>>603 僕は、すくなくとも400以降で不平不満を叫んではいません。
不満ではないのですが、学者達の論文をどう読んでも、正しいことが書かれているようには思えないので、
自分の考えを表現しているんです・・
>>実際の行動でも、十分道化です・・・何時も何時も笑顔です・・ >>ラスコリーニコフになりたくて、卒業式の日、こっそりガラス割り、途中退出しました >>僕は典型的な仮面道化師ですが、嘘吐きでも偽善者でもないです。 しょっぺえなあ。僕は小心者ですって言ってるだけジャン
607 :
早 :2007/04/09(月) 13:24:31
教室に自分の血とガラスの赤い破片を残しました。それだけでラスコリーニコフになった気分なくらい、小心者なのかもしれない・・
>>ニヒリズムに抵抗するニヒリズムは生を肯定する。 これはニーチェの立場なのか?
609 :
早 :2007/04/09(月) 13:32:52
ニーチェは、むしろ、ニヒリズムを徹底するニヒリズムは、最終的に生を肯定する、 と叫び続けている
610 :
早 :2007/04/09(月) 17:39:27
誰か、次のスレッド作って下さったら、嬉しいです。 発作を起こす前に・・昨日と数日前、いけない夢みた たぶん、大丈夫だけれども、過疎スレのままだと、一部の感じやすい人の心を動揺させてしまうような言葉が 晒される期間が長くなってしまう。だれもこのスレ、書き込みにくそうです たぶん、世界のディオニュソス&アポロを担うような芸術家や宗教家に 躁鬱や癲癇が多いのは、 この種の人のセニトロン(セロトニンだったけ)不足や側頭葉の過剰活動、 甚だしいから、「実際に」情動が爆発したり、恍惚感を「体現」したりして、 その狂躁状態や予言状態が表現されたもの(ディオニュソスがアポロの衣装をまとってこの世に見せた姿)が、 多くのひとにとって悲劇や悟り(日常では手に入らないけど内心強く希求しているもの)の 引き金となって、それに精神的にやられたとき悲劇的感動を味わうんでしょう。 芸術作品やロックのライブというのが、人の苦痛を、悲劇的情動の爆発という形で「消費」してくれるんだと思う 本人達は、社会人や知的インテリとは、また別次元の激痛を耐え忍んでいる。 病理学に歪曲されて安全に回りくどく解釈されているような、一部の病人からはルサンチマンやコンプレックスと安易に誤解されているような、 宇宙的な恐怖や、大地的な激情、地下泉を流れる悲しみ。それは天才達の孤独な歌声。 僕は、はじめてジョン(たぶん戦後最大のキリストの理解者ではないだろうか、と僕は感じる)のCDを買った日、 正直ジョンレノンみたいに生まれてこなくてよかったとため息をついた。 ニーチェも同じ。 小林秀雄の批評やユング心理学のような、天才達と知的インテリや大衆を架橋するような言葉 をたくさん記してみたい。この忌まわしい神経を活かして! そういう言葉を自身をもって記せるくらいの精神力あれば、きっと、とても苦しんでいる人を救える と独りで呟いてageてみる・・
そんな小難しいことじゃないと思うよ。 失礼だけど、少し言葉を惜しんでみたら? ニ、ニ、ニーチェもソクラテス〜も結構だけど、 も一度自分のチン毛の色を改めてみるのをお勧めするぞ。 過敏と情熱は若さの特権とは思うが、通俗を識らずして人間を語るなかれ。 特異であることなんか大したもんでもないから。 重要なのは作品であって、 ニーチェやレノン自身なんかわれわれにとってはどうでもいい存在。
612 :
早 :2007/04/09(月) 18:19:14
僕は、ジョンレノンのことレノンというひとよりジョンという人が好き・・くだらないことごめんなさい; 僕は、神聖な領域を知りたい、という強烈な欲求から、わざと通俗を避けてきた
613 :
早 :2007/04/09(月) 18:24:25
僕は電車の中でよく叫びたくなることがあります。 ただ純粋に叫びたくなるのです。 でも僕は具体的には叫べないんです。 といいますのも僕は観念的概念的に叫びを欲しているだけだからです。 だから叫びたくても叫べないんです。 でも僕は哲学者の卵として考え続けました。どうしたら抽象的な叫びを表現できるんだろうかと。 でも答えはまだ得られていません。 もう諦めかけていますよ。 だからそんな哀れな僕の心を代わりに叫ぶように表現したいと思っています。 この場をお借りして下書きを考えることにしました。では失礼して、 「ああ! 叫びたい! 叫びたいよ!! でも無理なんだ。僕には・・ この胸を圧迫する溢れる思い、溢れる思いなのに溢れない! なんで!なんでなんだよ!!・・・。 罰だ。これは神様の罰だ。そうだそうに違いない。 僕には秘密があるんだ、決して人には言えない秘密が・・。 でも神様は全てをお見通しのスケベ、きっと覗いていたんだ、僕の罪を・・。 ああ、 叫んでしまいたい、皆さんに僕の叫びを届けたい、僕のハートを愛を込めて届けたい! そして掴んでもらいたい、僕のハートを鷲掴みにしてもらいたい!! 悲しいかな、皆さん、僕は叫べない男なんです。小心者なんです。 でも、小さい心だっていいじゃないですか。 皆さんもお好きでしょう? 小さいものって。 ほら、皆さんが持っていらっしゃる宝石だって凄く小さいでしょう? 小は大を兼ねるというものです。 おっと、着きましたね、どうやら旅立ちの時は満ちたようです。 ではいつか皆さんがある輝きの木漏れ日を浴びることができる日まで!」 なんか違うような。
614 :
早 :2007/04/09(月) 18:24:44
天才の感情、というのは、通俗に染まってしまった人には感じ得ない 僕は感じたい。作品から感じてますよ。 通俗やインテリに染まると、目で見て耳で聞くよりも、脳内の言葉や既成の観念で判断してしまう だから、感じるとき、不純になってしまっている。ドスト論などは典型。僕はキャラクターを心に住ませる。 言葉を惜しむべきなのは、鑑賞する時。 鑑賞する時は、言葉も観念も無くした「白痴」の状態で、ただ身体で感じないといけない 感じることを、考えるところまで近づけないといけない。
615 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 18:26:42
トリップつけれるかな
616 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 18:27:14
>>616 書いてしまったあとで後悔したって遅いよ。
618 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 19:05:22
書いてません・・・ 僕は、哲学者にはなりたくないし、叫びたいわけでもありません・・ 叫ぶとしたら、抽象的にではなく、具体的に叫びたいです。 僕は、カラオケで失神したことあります。
君は十分プラットフォームで叫んでると思われる。いわばね。そうだろう? 違うというのか!! そうか自己否定か。
620 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 19:18:05
家で、隣近所に迷惑かけるくらい激昂し続けたことならあります・・・ 電話がかかってきた。隣の隣の奥さんから・・・
「少年よ、プラットフォームで叫べ!!」 素晴らしい言葉だ。私は長年鬱々として生きてきたが、 この言葉ほどに私の心に響き渡り、共鳴させ、奮い立たせた言葉をしらない。 この言葉は何とも不思議なものである。 不動の精神を持つ私をさえ、かくも突き動かすことができるとは。 その底知れぬ力はどこから来て、どこへ行くのであろうか。一体何を求めているのか。 何故に数多の人間の中から、この私を選びとったのだろうか。 確かな事実はこの言葉が、この箴言がこの私を選び取ったということ、 私が選ばれし者だということだけである。 この世に謎が途絶えることはない。 私の使命は謎に挑み続けること、片時も目を逸らすことなく。 それが謎に指名されるべく生まれた私の運命なのである。
622 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 19:42:10
>>621 少年が爽快に駅で叫ぶ姿、感動的。
きっと、そういう感動的で誰もが胸の内ではやりたい事を
音楽的に表現したり端的にぱっと表現している言葉というのは、
どのような常識的想念や道徳的既成をつきやぶって、自分自身の心に進入し、高らかに響きます。
だから、みんな、その言葉は自分にむけられたものだと思って感動する。
そういう言葉から感じた自分の運命を、本当に実行してみよう、という無邪気な意思というのは、
人生を切り開いていくと思います。
早よ、君はなかなか筋がいいようだ。 だが残念ながら私は弟子は取らない主義である。私もつらい。 だがこれは決して君を思ってのことなのだ。 早よ、君はまだ若い、いまはまだわからないかもしれないが、君にもきっとわかる日が訪れるだろう。 私は待っている、大きくなった早の姿を見るその日を。
624 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 20:43:10
結局マッチポンプか
625 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 20:45:43
僕は、わかりたくないことは、事前に直観し避けて、わかりたいことだけ強引に分かろうとする という、我侭なことを常に行っている。 でも、人の気持ちは、最大限わかりたい、と思う優しさもあります。 もし、僕の言葉に傷つけられた人いたら、本当にごめんなさい。 僕は誰かの弟子になりたい。 神経イカれて死にそうで、強く師を求めていたとき、ツァラトゥストラが、 大いなる嘔吐、大いなる哄笑を歌うような良心をそのまま露出するような表情をして、 本の中から立ち現れてきて、混乱してさらに壊れた記憶がある・・ 僕もつらいときはとてもつらい。つらかった・・・
私がなによりつらいのは、どうも私の冗談が非効果的であったようで、受けなかったことである。 冗談でもいい。笑ってほしかった。 笑顔が見たかった。 スマイルは無料と聞いたが。そんなの嘘っぱちだった。 一つの微笑み、それは何よりも貴重なもの。それが現実なのだろう。 なんたることか、今私は芸人の厳しさを知ったのである。人生の厳しさを。 人生は芸に支えられている。 芸ができなければ飯は食えぬ。 出世したければ芸達者にならなければならぬ。 私はこの恥を踏み台にし、いつの日か飛翔することを願って止まない。
627 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 21:32:38
>>624 マッチポンプ=自作自演ですか?
僕はこのスレで、考える名無しさん、で投稿したことは一度もないです。
癲癇発作、癲癇もち、HAYA、早、早♯トリップ、それらを=で繋いだもの
以外のコテハン、使ってません。早の偽装で、熱い詩を頂いたのは一度。
ただ、「木っ端微塵に散って見やがれ」とか汚い言葉吐いたこと後悔して、自分で勝手に苦しんでいる・・・
だから早くスレ埋まって欲しい。それに、嫌味な印象を残して去りたくない・・
それに、いいとこ見せて去りたい、というのも本心かもしれません。
自演にみえるほどシナリオ的なのは、僕は何時も何時も、シナリオを何通りもワクワク期待して描き続けているからかもしれない・・
それに、15、16才のときなど、あまりの女性恐怖と女性を求める気持ちから、
国語できない会話も苦手なくせに、なぜかチャットだけ、ものすごく得意だった。仮面的人格で、病んだ人ばかり相手にしていた・・
病んだ女というのは、嘘吐きなのに、とても純粋だということに気づいた・・・
ニーチェとチャットしたら、どんなんだろう・・・
ニーチェは一目ぼれした女性(サロメではない)に、
「貴女は私の妻になっていただけますでしょうか。わたしは貴女を愛しておりますし、
貴女がもうすでにわたしのものになっているような気持ちです。私の愛情があまりに唐突なんておっしゃらないで下さい」
とかいう言葉を含んだ求婚状を、出会って数日後に贈りつけている。
因みに僕が今まで、狂気の中送ったメールで一番すごいのが
「僕は貴女のサイトを訪問して5秒で恋をして、10分後くらいには「殺意」になりました」
だったと思う・・
ニーチェの「哲学」について議論してくださる方いたら、是非相手してください・・
僕はプラトンの著作で「饗宴」だけ読んだけど、対話哲学というのは、いい形式だと思った。
628 :
早 :2007/04/09(月) 21:35:52
ぼくのポエムスレにようこそ 今宵もぼくのポエムで堪能してくれ カントもベルグソンも読んでないけど それなりに病気を装う芸は身につけたさ ぼくの病気につきあってくれよ
629 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 21:36:07
>>626 僕は、お笑いタレントは、かけがいのない職業だと思う
笑点は、毎週見る・・・
連続投稿ですか?が出てくるので、レスおくれます
亡き池田晶子なら微笑してくれたろうに。 私は君に笑いを届けたい。 笑いとは何か? それは悲しみの一面である。 私はしばし目に涙を浮かべつつ笑い続けるだろう。
631 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 22:00:43
>>630 同感です・・・
(たぶん)トムソーヤの冒険の著者は
ユーモアは悲しみに由来する、といっていたようなきがする
僕は、太宰治が、ものさびしそうな微笑をしながら、こちらを見て
透明人間になって浴衣だけになったり、実像になったりしながら、
瞬間移動して追いかけてくる夢をみた・・
632 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:02:18
プ
633 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 22:05:02
>>632 その書き込み、とても笑えます・・・
飾り気が無い、ひらがなよりは品が良い
哲学について議論したい・・
プ、だけから哲学できるような技量は僕にはない・・・
人生は悲しみの苦しみであるが故に同時にお笑いであり喜びなのである。 暗闇における光、月の光輝くところ、そこが人生の終着駅なんだろう。
635 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:09:31
よく来たな系のものを熟読すべきかと....... 結構サービス精神満点で教えたくないものも......あるような。 よく纏まってる。
プの意味はこうだ。 ―おまい早よ、遅れるわりには早いよ。 早い者勝ちだとでも思ってるのか。―
637 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 22:10:35
月、というのは、夜を裁いてくれる神秘的な光。 太陽は、強引に、心の中心まで見透かすような熱で、鬱陶しいと思うことがよくある 闇の中の月、というのは、なんとなく、光と影をいい塩梅に作ってくれて、 太陽熱的なニーチェのように対立する二つを無茶に同時に、両義的表現で一度に表現するのではなく、 加減良く、裁いてくれる。
638 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:13:26
ニーチェはドストを読んでいたのだろうか? 悪霊って凄すぎる
639 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/09(月) 22:14:55
>>635 >>よく来たな系
というのが何か、分かりません、知りたいような気がする、なんとなく。
>>636 なかなか頭を悩ますような表現で、難しいです・・
とにかく、プ、には、色々な意味が無数にありそう。
640 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:19:53
おまえらニート? 中学生?
641 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:33:20
月は太陽の光でかがやく。
642 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:36:09
ニートです。 バイト面接落ちました。 トイレ清掃員するつもり。 体持つかな。 みなさんもニートでしょ?
643 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:38:49
おれはシャア専用の赤いニートだ
644 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:40:25
ププ
645 :
O :2007/04/09(月) 22:47:15
H
646 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 22:52:02
ボクはスーパーニートだぞ! 38歳のニートだ! どうだ!スゴイだろ! ガンダム大好き!
647 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:08:12
初恋だったんだ。
648 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:09:41
そう言えば貧乏人になるのは簡単らしい。 何せ金を使うのに才能はいらんが、稼ぐには....だからな。 よって貧乏人は珍しくない。安心せい。
649 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:10:28
死んでもよかったんだ。
650 :
早 :2007/04/09(月) 23:16:45
野球しようぜ
651 :
O :2007/04/09(月) 23:18:50
挙式はいつだ・・・
652 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:20:28
死ぬ時に、「もっと仕事をしていれば......」 というの余りいないらしい。 安心せい。
653 :
早 :2007/04/09(月) 23:20:46
僕は太宰治になりたかった 太宰は鬱病と思われているけど、本当は境界性人格障害だそうだ 死ぬ気はないのに何回も自殺して、周りの人たちに迷惑をかける ニーチェは梅毒で死んだ 新しいお茶を考えた ニー茶
654 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:23:24
その内ニートも死語になるだろ。もう飽きた。 安心せい。
655 :
早 :2007/04/09(月) 23:23:42
裏哲学史 ルクレティウス−スコトゥス−スピノザ−ニーチェ−ドゥルーズ これが可能性のラインさ
656 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:29:14
死んだ時は、とっくに意識は吹っ飛んでるから。 安心せい。
657 :
渚 :2007/04/09(月) 23:41:58
渚は二人の夢を混ぜ合わせる
658 :
考える名無しさん :2007/04/09(月) 23:49:44
温暖化で通年常夏だ。 安心せい。
659 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 07:08:56
ハヤみたいなネット10代ハヤってんの?
660 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 07:56:17
貧乏になる夢は必ずかなう。 安心せい。
661 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 08:08:22
美女と貧乏生活の夢は叶いますか?
662 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 08:18:00
美女に聞け。 すぐに答えは出る。 安心せい。
663 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 08:27:42
そんなこと怖くてできません。 僕にできるのはただ道化を演じ、通例無表情の美女からモナリザの微笑を奪い取ることだけです。 すみません罪を犯しました。 僕は演じなくても道化でした。 罰はなんですか?
664 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 08:30:01
それが罰だ。 安心せい。
モナリザは美女ではないだろう。 それはクレオパトラがいまや美女には見えないのと同じことなのであろう。 でもレオナルドが描いたのは、美女の微笑であったのだ。 男は美女の微笑に何を見るのであろうか? 美? 否、微笑は人の内面の全てを融和し統合した一つの結晶、箴言なのである。
無論、崩れた文体は表現力に乏しいように、崩れた姿もまた表現力に乏しい。 それゆえに、彼は美女を媒体として、微笑を、人間を描き出したのである。
667 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 09:57:48
モナリザが無表情だったら美女に見えるはずではないか? それが微笑を浮かべると、どうもそうは見えないような感慨が現れてくるのではないのか。
668 :
611 :2007/04/10(火) 10:01:12
>>612 >ジョンレノンのことレノンというひとよりジョンという人が好き・・
それ、言われると思ったw ま、ジョンのほうがカッコイイんだけど、
ジョンだけだとレノンかクーガーかボン・ジョビか区別つかないから、
ってだけなんだけど。挙げた例が古いな。
>>614 うん、うん。あーそれでいいとは思うんだけどもさ、「言葉を惜しむ」
と言ったのは、換言すると「体験をムダに浪費するな」というか。
表現したいのだったら喉元から込み上げて口から吐出しそうな思いを
「勿体ない、勿体ない」と周章てて手で塞ぐのさ。まあ、今のうちは
その生きのいいゲロを所構わず吐き散らすのも一興とは思うがね。
しかし、ニーチェとは全く関係ないな……。その後荒れてるし。
ピカソのゲルニカなどは崩れた姿の表現力のなさを逆手にとって、 退廃を大いに表現したと言えるだろう。
ピカソは人間の退廃を表現した芸術家だったと、こう言えるのか?
早が自分語りしてるせいでまた馬鹿が集まってるじゃねーかよ。 自分語りしてるってことは、そこでは他に何書いてもいいんだって馬鹿が解釈するんだよ。 お前の衰弱した神経がこのスレにいったい何の関係があるんだ。 ニーチェを読んだ僕、感動した僕、神秘的なものに打ち震える僕、僕、僕・・・ 僕語りもいい加減にしてくれよ。 それに早くスレを潰したいって、お前のものかよ。 誰もお前の詩なんかマトモに読まないし、感化もされないよ。 そもそも他人に影響を及ぼすほどの文章か? どんだけナルシストなんだよ。 芸術に携わろうっていうんなら作品で語るべきだろう? お前は思春期が蒙古斑つけてグズってるだけの存在だよ。 才能が無い事を直視出来ずとりあえず走ってわめいてデカい事を やりたいって願望で窒息しそうな哀れな中二病患者だ。 自己紹介板でやってろよ。
672 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 15:45:49
>>668 だから、僕は、哲学について語りたい、と何度も言っている
けど、ノらずにはいられない・・
ノってくれる人がすきだから・・
>>671 毒舌になら、さらっと毒舌について答えても良心の呵責感じないので、毒舌に対する毒舌をさらっと言います・・
その程度の、毒舌なら、中学生の頭の中で、さらっと出てくる程度のものだと、思います・・
673 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 15:56:06
>>638 罪と罰、白痴、地下生活者には、言及があったような気がする(あまり鮮明な記憶ではない
悪霊を読んだかについてはしりません。
674 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 16:19:48
早さんの詩が読みたいのであります。
675 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 16:24:22
夜へ流した涙 僕の心は泣き止まない、恋は永遠に叶わぬ夢 悲しみが心を突き刺して、君への想いが溢れてる 壊れた心が流す涙、空を流れる天の河 夜空を飾る星のように、たくさんの人が眠ってる でもこの広い世界で、君だけしか見てたくない この想いが届かなくても、空を潤し泣いてたい 愛しい君の幻影 涙で歪む星空 他には何も要らないんだ 空に刻んだ君の名前、星を繋いで描いた星座 ずっと切なく眺めてる、居場所も無い僕の願いは 涙の魔法で星を降らし、眠る君に綺麗な夢を 僕の塞がらない傷口を、残酷な三日月が逆撫でる 逃げ場を失った恋心、血となり滴る悲愴の愛 正気を売って壊れた僕、破片は宇宙を翔ぶでしょう 壊れて逝く心 溢れる君への涙 流れ星になりますように...☆
676 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 16:28:26
ありがとうございます。 この詩はわかりやすくて意外でした。 頑張って下さい。
677 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 16:30:26
ありがとうございます。
678 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 16:30:43
和気あいあいとしてきたな。
679 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 16:32:41
哲学に関する文章、メモから探してこよう・・・誰か批評して欲しいです
680 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 17:10:24
認識と表現における、現象と物自体(あるいは表象と意志) (カントを直接読んだことは無い(でもニーチェもユングも、どの哲学者も強力な影響を受けてそうだからだいたいどんな仕事をしたか、というのが分かる)ので定義が曖昧かもしれない 何か対象を認識するというのは、対象自体の本質を把握しているのではなく、 その対象が認識主体と、認識裡で接触する行為の際に、認識主体の意識の中に 現れる「表象」つまり、認識の産物である認識裡での「現象」でしかない。 認識する行為の際に、認識主体の意識の中に表象として現存しているということが 認識の本質的条件であるから、物自体を完全に直接的に認識することはできない。 しかし、直接か現象的な表象による間接か、という視点ではなく、程度の視点で考える ことはできる。認識主体の意識内で表象された現象が、どれほど物自体に近づいているか、 そして、その現象をどれだけ正確に表現できるか、という程度の問題。 (1/2)
681 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 17:12:02
一般的な認識方法というのは、表象の表面を捉えているにすぎない。その認識方法による 表現が、多数の人の会話や文筆の内を巡るのであるから、それらの表現が多数決的に抽象化されたのが、 一般的言語観である。そのような言語観は、時間が経過するにつれ、物自体の真髄から離れていってしまう。 よって、物自体を正確に表現するには、一般的言語観から少しはずれたような表現 になってしまうかもしれない。 物自体を、どのような表現であれ、多数決的言語観から見ると 曖昧な表現であれ、正確に表現できた時、その表現を行った認識主体である人の言語が語った というよりも、物自体がその属性を自称している、というような強い説得力を得る。 物自体を認識する程度を大きくするには、認識裡で、認識主体と対象の物が限りなく近づかなければならない。 接触度が少なければ、それは表象されたもの それを上手く正確に表現するには、その接触状態を含んだ表現が必要である。 つまり、表現されたものには、必然的に、認識主体の心理的要素が含まれる。 (2/2)
682 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 17:18:52
>>653 僕は、境界性人格障害、という病名はただの虚構にすぎない、と思っている。
俗物心理学者の連中は、病名を幾何級数的に増殖させ、心理学自体が神経症になっていることに気づかない。
いや、人間の恐ろしい部分を直視できず、目をそらすために「無意識的に」病名という虚構で苦痛を誤魔化している。
太宰は、その苦痛を自ら体現した。
>>655 ルクレティウスは、アインシュタイン以降の物理学預言者だと言われてますね。
ピューッと吹くジャガーに出てくる3人組のビジュアル系バンド、アレなんだっけ?・・・エ〜っとホラ、あの、ス、スペ・・・
物自体を認識するためには、その物自体にならなければならない。 没個性的な道を歩むことで、むしろ、より個性的創造的であるように見られるのは、この世界自体が個性的存在だからである。なるほど、ザ・ワールドだからである。 自我が小河であれば世界は大河であり海だからである。 だがその音楽を鑑賞するのは難しい。 身も凍る静寂の中に居座っていなければならないだろうから。 生きている限り重力故に、小河は大河に流れていかねばならないが。
685 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 19:08:37
>>669 >>670 僕の場合、ピカソの絵(どちらかというとあまり好きではない)を見るときは、
どちらかというと、何が何を表している、何が何を象徴している
とか、そういう解釈をするのではなく、
絵を、頭のスクリーンに焼き付けるくらい、無言でじっくり眺めて、
その感覚や感動を保存し、いつでも印象を思い出せるようにしておく。
そしてたとえば、何か他のものを見たときに、ハッとピカソの絵を思い出したりしたとき、
ああ、ピカソは、こんなことを表現したかったんだ、というデジャヴのような印象が想起される。
そのとき、またその絵をみたくなって見てみたら、とても感動する。
ピカソの脳には、僕らが見るものとはまったく違うものが映っているのかもしれない。
たとえば、幼い頃に失明して、大人になってから手術して視力を取り戻す人がいたとする。
彼には、ものの概念、とくに視覚印象を概念化する概念そのものがないから、距離感すらわからない。
だから、僕らが見ているのとは全く違う世界を見ている。
ピカソも違う世界をみている
ものすごくいろんなことを考えて才能がそれに至らないというのは悲劇だな。
687 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 19:25:44
>>684 全面的に共感します。
僕の言葉遣いがとても独断的自己主張的なのは、世界そのものに近づいているからなのかもしれない。
と言い訳をしてみる・・・
(もちろん、抽象の次元でなく即物的実際的なことで個人的なことを、必要以上に語って
スレ荒らしすぎていることは白状します・・
世界が海だとしてみる。
今、一般的大衆や知的インテリたちが見ている世界は、海ではなく、
海の上に立てられた機械製の人工の島。
神話の力、というのは、幾千もの人間の心を通過してきた普遍的な力。
その神話の力は、機械性の島であれ、土でできた島であれ、地下の海への溝をつくっている。
数百億数千億の人々の汗と血と涙の力が通過した後が、溝になっている。
その溝、つまり神話の力の形跡に接触すると、その人は、海と直結する。
その海は、つまり世界の純粋な姿、女神の羊水。
その海の力は、人工島の汚れた産業廃棄物的な水の力などとは、比べ物にならない。
>>686 僕は本を読めるようになってまだ2年くらいです。
読んでるより書いてる時間の方が、圧倒的に長いです。
書いてる時間、考えている時間があるからこそ、自分の考えをつくれるんです。
なにせ考えてるだけだからな。
689 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 20:33:25
ちなみに早は平成生まれですか?
690 :
689 :2007/04/10(火) 20:40:06
待て! 言わないでいい。聞きたくないんだ。 聞いたら、聞いてしまったら私は時間の重みに押しつぶされてしまうだろうから。 それは女がオバサンといわれるあの重みに匹敵するだろうから。
691 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 20:51:13
>>688 僕は、情動がとても不安定なので、安定するためには、殆ど身体からの強制として、強引に考えているんです。
歌っているほうが、考える方が好きだけど、歌うとすぐ意識が朦朧として、その日の現実感覚が狂って病むんです・・
>>690 いいません・・・
時間なんか、もともとないさ!
あるのは永遠だけさ!
といえる度胸があれば、時間は軽くなるかもしれない。
考えている方が好きだけど →考えている方より、好きだけど こういう無意識的な間違い自体、身体の強制だったりするかもしれない・・
君もいずれおくさん若く見えますねと言われて喜ぶ歳になってしまうわけだ。 それってどうよ?
>>693 僕は歳はどうでもいいけれど、幼少のころから、
永遠に生きたい、という恐ろしい欲望が途絶えたことがない。
自殺ぎりぎりの絶望的苦境でも、なぜか永遠に永遠に永遠に、と脳が連呼している。
僕は男だから、何歳になっても永遠に、おくさん若くみえますね、と言われることはない・・
仮にもし言われるたら、男としてのプライドが傷つく・・
695 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 21:12:25
おじさん若く見えますね
696 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 21:13:50
マックのフライドポテトを常食にすれば 不老不死の身体を手に入れられるらしいぜ
697 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 21:20:15
ニーチェっておじさんなのに超人とか情熱的に語ってたんでしょ。 超人だよね。
ちなみに私はインスタント麺類を常食にしている。 しかしタレは3割しか使わないようにして、健康に配慮している。
699 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 21:32:53
結局不健康な上に不味いだろ。
700 :
平下流 :2007/04/10(火) 21:33:21
>697 情熱的というより、気が狂いそうになったんでしょう。 頭で考えるが故に。 それが、唯一のキチガイにならない方法だったのでは。
701 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 21:39:22
>>697 >>700 まさにそうだと思います。
ニーチェは、絶え間ない不安や恐怖を味わっていたように思います。
考えて認識しないと、生きていけない、というくらい、不安定な人だったと思います。
彼は、自分が考えることに目的はない、と断言している。ただ、考えている。
たぶん、人間というのは、生まれた瞬間と死ぬ瞬間が、一番純粋なのかもしれない。赤ちゃんと超人。
詩的に言うと、ニーチェの認識は常に、世界の母の子宮近くだったのかもしれない・・
702 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 21:41:35
平下流は何を言ってるか、サッパリ分からん。 分かる人、解説してよ。
703 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 21:51:36
>>700 >>702 よくよく見ると、僕もわからない。
でも僕は、平下流さんが言おうとしていたことは分かっていたかもしれない。
(アリス風の内省
704 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 21:56:28
>>695 僕は、おじさんに見えるほどふけてみえるんだ・・
外見、で思い出しました。
ニーチェの発狂後の写真の顔、すごいです。
あれこそ、白痴、赤ちゃん、の顔です・・・
あの写真(wikipediaにのっていたと思う)を長く眺めていると、
なんだか感動します。
705 :
早 :2007/04/10(火) 22:00:18
さぁ今宵も僕のポエムの世界を堪能してくれたまえ
706 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:03:15
ミミ ヽヽヽヽリリノノノノ / ̄ ̄ ̄`⌒\ミ ,,、,、,、,、,、,、,、、 彡 / ヽ i''" i彡 | _,___人_ | 」 /' '\ | ヽ|´ ┏━ ━┓`i // -・=-, 、-・=- | | 《・》 《・》 | !| ノ( 、_, )ヽ | (6| ,(、_,)、 |6) ノ、__!!_,.、 | 、 ,- 、| ヽ トェェェイ /.∧ ヽニニソ l \ / ノ / | ヽ ヽニソ //\ヽ ┌、ヽ ヽ, / L_ \___/ ヽ. `ー--一' l__( { r-、 .ト _,,二) / 〔― ‐} Ll | l) ) >_,フ / }二 コ\ Li‐' 早、それより、野球やろうぜ
707 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 22:04:49
>>705 ぼくはポエムの世界に生きているわけでもないし、
ここでポエムを表現しているわけでもない。
詩的なものを現実化するのは妄想だけれど、
詩の世界から、色々な栄養を貰ってきて、
現実の世界の諸現象、諸事物に、うまく注いだとき、硬くなりすぎた現実の世界を、
やわらかく表現できる。
現実の諸現象に、普遍的なものを見出して、ばらばらになった現象同士を、
詩語と日常語で上手く繋ぐのが、優れた象徴表現。
708 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:06:29
>>699 いや、不味くはないし、健康にも悪くないと思う。というのは、若く見えますねといわれて複雑な気分でいるから。
>>700 いや、恐らく病気の苦しみを意識から遠ざけるために本能的にとった手段だったんだと思う。
きっとその辺にいる逞しい農奴を見て、
己の不甲斐なさを呪っただろうし。
709 :
早 :2007/04/10(火) 22:14:14
さぁポエムが始まったよ みんなおいで
基地外にならないために考えるというよりは、 基地外になるために考えるという方が、真相に近いと思われる。
711 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 22:20:28
>>709 そういわれると、じゃあ、ポエム始めます、というより本能的に始めたくなってしまいます・・
ボードレールの表面上だけの模倣
真相というのは考えている時には意識から遠ざかる。 真相が迫ってきた時、考えるわけだが、 それは一種の逃避である。 真理は女であるとかいうのは、そういうことである。
713 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 22:25:04
>>709 傷口の中
ただ悲しげに倦怠へ沈む 俺の無残な枯れた心臓
死んだ黒い太陽の下 全ての音は凍てついて
幽かな声は誰にも届かず 忌々しい病虫が群がって 俺の贓物を蝕むだけ
今夜も来てくれ詩の女神 病んだ貴女の唇が
月光に射抜かれ美しい 口から滴る残酷な狂想
虚無の海に浸る俺に 赤い戦慄と陶酔を与える 黒い太陽を飲み干す波
貴女の嘘が絶命を唄い 恐怖を奏でる三本の釘が
俺の心臓を突き刺して 蘇える悲しい血液
俺の生命が泳ぐ宴 酒は美しく流れ出て 時間を夢想で傀儡する
酒が満たす空、烏の貌を象った 貴女の悲愴の傷口が
釘が刺さる俺の心臓を 果ての地平へ拐ってく
底を知らない恐怖の谷 あらゆる罪業を唄う風
断頭台に消えた聖人 墓から這い出る自殺者が
貴女の悲痛を代弁して 俺の血液を吸血する 白い月へ捧ぐ地獄絵
聖なる毒杯を仰ごうか 肉欲と葡萄酒を深く深く
地の底まで掘り下げた 黒く沈んだ快楽の味
愛を殺す底なしの夢 血の噴水は止まらない 剣が愛を突き刺すから
血祭る刃物が逆撫でて 病弱な花々が咲き乱れる
貴女の黒い傷口を 俺は今夜も夢見てる
714 :
早 :2007/04/10(火) 22:29:00
いいぞ、いいぞ!もっとポエムを!
715 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:32:31
私は季節の死んだ鉛色の街を一人で歩きながら 黒人の後姿を眺めていた
716 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 22:37:00
できるだけ、過度の自己主張でスレ汚してしまうの、抑制したいと思っている
でも、できていない、く。ごめんなさい。おさえられなかった
あと5人以上、ポエムを!という人が、5分以内に、現れれば、
あと1回だけポエムします(ポエムしたいのが詩人的本能ですよ・・・)
>>710 バタイユは自分の執筆動機を
「狂ってしまうことへの恐怖から文章を書く」と示している。
ニーチェは、狂ってしまうから考える、書いてしまったから狂う、といえてしまいそうな、文体かもしれない。
717 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:39:21
早のポエムはみんな見たがってるよ ポエム!頼むよ!
718 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:47:39
プ
719 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 22:51:18
プ
720 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 22:51:41
>>718 プ、より、プ、の方が、素敵。
プ、は何となく圧迫感がある。
>>716 真相に接しておかしくなるのと、
考えておかしくなるのとでは違うと思うよ。
722 :
考える名無しさん :2007/04/10(火) 23:04:34
確かに一般人が彼を狂ってるって言ってもしかたないな。
723 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/10(火) 23:14:02
>>721 体質上、本能的におかしくなりそうだから、
おかしくならないために(本人がそれを目的としているわけでなく体質的に)とにかく考える
そして考えが正確すぎて、真相に接してしまってそれを表現してしまっておかしくなる、
というのは、どうですか?勝手な詭弁かもしれない
こういう領域を日常言語で説明することほど、困難なことはありませんね・・
真相を考えるというのは真相を包み込むことで当たり障りのないようにしようとする行為であって、 逆に真相を明らしめるものではない。 言葉は闇であるが、そうすることで人は闇雲に進み続けることができる。 人は夜行性なんだろう。 満月でさえ明るすぎ、三日月を好むと。
真理を何より厭いつつも憧れている。 それが哲学者ではないか。
真理を愛し、何より厭いつつも憧れ続け、その光を遮る言葉の影と戯れ続けることで妥協している。 それが哲学者ではないのか?
↑0点
728 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 00:59:13
↑お前もな。ここはスレ落ち確定のポエムスレじゃ。
730 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 01:14:37
早がニーチェを好きなのはもう十分わかった
おれたちはニーチェを好きな早を見かけただけにすぎないんだぜ!
そうだな。
『愛って何?創造って何?あこがれって何?』 ――こう末人は問い、目をまばたかせる。 外山恒一のHPのほうがまだ読めるな。
外山wwwww
735 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 06:42:11
>>730 僕は、ニーチェよりも自分自身を信じている。
ニーチェよりは、ルイスキャロルの方が好き・・
ニーチェスレだから、出来るだけニーチェに関することをかこうと、しているだけです・・
次の発作では、たぶんランボースレあたりで暴れるかもしれない。
僕は、哲学版や哲学書などよりも、メンタルサイトの毒や血の方が、はるかに思想的栄養素は大きいと思う
もう、このスレ最後に、哲学とはお別れしたい、と思っているから、積極的に自分の考えを表現したいんです
哲学界なんて、デリダが脱構築したところで、脱構築派が脱構築理論を構築している、という無意味なことしかしていない・・
自分の心そのものを脱構築しない限り、創造性ない、てあたりまえのこときづかづに、
哲学的文芸批評家は、人類の血液の結晶である芸術を冒涜している。哲学なんてきらい。ただ僕は自分の生存のために身体から強制されている・・
メンタルサイトの血だらけの悲しい女達は、自分の心も身体も脱構築している・・・
736 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 06:50:58
道理で.... 自虐的は流行らんよ。
737 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 07:22:46
>>728 たぶん7割くらいの人は、ゴミか無意味なスレだとす通りして(逆に僕は、世の中の哲学書7割以上に全く意味を見出せない・・)、
感じやすい1割5分の人は、心が震えて、
病んでいる1割の人は、さらに病に堕とされて、
0,5割のここに書き込んだり僕のレス受けたりした人は、大きな影響を受けていると思う(予想
後から見たらゴミに見えるけれど、一緒に書き込んだり見たりしている時点では、薬か毒薬になるような言葉を、
僕は書いていると思う。
738 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 07:32:31
ここが何処かしってんのか?
739 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 07:42:53
>>738 僕が読んで感じたニーチェ、ニーチェの言葉から感じた事
僕は、そいういうのを、あるがままに表現しようとすると、どうしても自己主張的、反逆的にならざるを得ない。
740 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 07:57:36
美辞麗句で陳腐なんたよな。
741 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 08:03:26
>>740 僕は、後半ではそれほど美辞麗句をつかっていない。日常言語でできるだけ説明していることに気づきませんか?
哲学の専門用語の方が遥かに陳腐だと思う。
カントやショーペンハウアーが、物自体、意志、を説明したところで、
どの哲学者も、物自体、意志からはなれていくような言語使用をして空疎な議論をしているように見える。
物自体、意志、に近づくには、自分の言葉、生活経験や芸術鑑賞から感じて得た言葉
を使用しなければならない。
742 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 08:06:54
>カントやショーペンハウアーが、物自体、意志、を説明したところで、 この文も美辞麗句。
743 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 08:08:34
>ニーチェよりは、ルイスキャロルの方が好き・・ この文も美辞麗句。
744 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 08:09:16
>感じやすい1割5分の人は、心が震えて、 この文も美辞麗句。
745 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 08:09:32
>>740 その理由を、美辞麗句や専門用語を出来るだけ使用せずに、うまく説明してくれたら、
僕も嬉しい。しっかり説明しないと、哲学的な対話にはならない。僕は、出来るだけ自分の考えを詳しく説明している
746 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 08:12:20
>哲学的な対話にはならない 哲学意味なしって自分でいっといて。 ってこと。全てがこうだ。
747 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 08:27:17
>>746 哲学好きになりたい、自分の安定のために読みたいのに、哲学者の使う言葉が大嫌い、というこの葛藤わかってもらえませんか・・?
哲学者的な考えに、アンチを唱えるにしても、できるだけ哲学用語つかわなければならない、という苦しさ。
なぜ僕や、たとえば批評家で言えば小林秀雄が、人名を良く使うのか?ということについて答えるために
人は、物自体とか意志とか、あるいはディオニュソス的なもの(以下とりあえず纏めて、根源的なもの、とする)、とか言われるものを「直接」認識するときの心理作用を考えてみる。
>>681 〜
>>687 の文章も前提に考えて以下を読んでください
人はそういう根源的なものから、日常経験社会生活から、無意識的に離れていってしまう。
直接認識した時、自分の自我と根源的なものが精神的に接触する。精神的に、とは、換言すれば、
日常意識では忘れ去られた、心理学でいう「無意識」の範囲で触れることである。
無意識、の中では、どのような心理要素も、日常意識のようには分化や抽象化されている度合いが小さく、
混沌として具体的であり、そしてなにより、「人格的」である
偉大な先人、あるいは天才詩人達は、根源的なものを直接認識する。
彼らが直接、物自体、根源的なものを認識するときは、よって、具体的人格的に認識している。
しかし、彼らは知的にもの明晰なので、人格的なものを、上手く哲学的明証さをもって説明できる。
僕にはもちろん、そんなことできる頭の良さも知識もない。
僕が、彼ら(偉人、天才)の表現した根源的なものを、できるだけ直接認識するとき、
やはり具体的人格的に認識している。それを、僕の浅い哲学経験から説明するとまだ、
どうしても具体的人格的なままである。
認識する時、人格化された心理内容を、自分の心理と重ね合わせる働きがおこることで、
自分と、対象の根源的なものの距離が、ゼロに近づき、さらに無意識的だった新鮮な未知の要素が、
具現化され、その具現性から認識主体はその無意識的だったものを意識化することができる。
ゼロ距離共感を味わうと共に、叡智を得る。
748 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 08:30:32
哲学用語使わず説明して。
749 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 08:36:14
僕は、本質的なものを、強く感じようとするとき、それを表現しようとした人の心、その人がこの世に生きて考え抜いた証を 強く感じる。その心が、日常生活や義務感の中で忘れてしまっていた大切なものを 直接僕に教えてくれる。僕は、それをうまく哲学的にせつめいできないから、あるがまま感じたままに説明する。
750 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 10:07:33
ニーチェのテキストに本質が書かれていたか?
751 :
早 :2007/04/11(水) 10:57:30
ここは僕のポエムの広場なんだから ツッコミはやめて。よそでやってよ
嘘くさい言葉の羅列ばかりで対話になりようがない。
753 :
早 :2007/04/11(水) 11:26:26
対話じゃないよ ポエムさ みんなも自由にポエムを書き込もう
自演すれ
755 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 12:20:46
全てのテキストに本質は書かれない。 本質は書きようがない。
756 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 12:46:58
最も簡単と想われる自分の本質さえまともに書けん。
757 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 12:49:09
ではなぜ本質と云うことばがあるのか?
758 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 13:50:06
物自体が本物で、人間の想像、夢想は本物ではないとはいえない。 物自体を反映してないから嘘であり虚偽であるというのは違う。 世界は人間より優れているという価値観がそう思わせてるだけである。 哲学的にいえば人間の夢想だって、物自体であり、それ自体真実なのである。
759 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 14:17:50
全ては嘘も夢想も一切合切がそれ自体真実なんだ! 現実なんだ! みるがいいこの僕を! このように勇ましく叫ぶ僕を! この僕もまた、真実なんだ!! と、プラットフォームで叫ぶのも哲学的には間違っているとはいえないだろう。
760 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 16:39:43
だが、その場合の言語は多数者によって流通されない。
761 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 17:19:52
>>753 僕の言葉がポエムに見えるのは、神経が一度全部壊れたからです・・今も反狂人みたいなものだから、こういう罰あたりなことしている
ランボースレで暴れるとか馬鹿な宣言したけれど、もう自分の言語感覚も理性も信じれてないので、
このスレ最期に、哲学心理学とは一生関わりたくない(この脳味噌ではどう読んでも無駄だと諦めている・・雑多な記憶や連想ヴィジョンが混じって一文読んで数通り一々解釈している・・)つもりで、
どうでもよく、egoisticにも此処を最後の青春のメモ帳にしてみたいだけです・・青春に恥なんていらない。
みんなプラットホームで叫べばいい
もうこのスレ埋まるまで、馬鹿なことはしないと今度こそ誓います。真面目に書き込みます。
ニーチェは上手く形象化されていない野卑たディオニュソスを認めていない。
ギリシャ的ディオニュソス→野卑たディオニュソス→ディオニュソスの出来損ない
→ディオニュソスの出来損ないの中の出来損ない→酒を買うために家を売りとばした二日酔い・・・
最後の段階までおちるときっと、そこらへんのダンボールで自分の寝床つくって、
そのぼろぼろさ加減をシュールレアリスティックに芸術的だと称し、天才的自己満足に浸って凍え死ぬようなもの。
それを僕は言葉でしてしまっているかもしれない。精神病院の患者が、数行で100年後の人類の宿命を予言したりするみたいに・・
762 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 17:20:45
>>761 反狂人→半狂人
>>758 ニーチェは晩年に近づくにつれ「物自体」「意志」を認めまてませんね。
ショーペンハウアーは人間は形而上的「意志」の奴隷になっていて、それから解放されるだけ、
意志自体を認識している、といいますが、ニーチェの場合、ディオニュソス的な力というのは、
完全に形而下で、全ての人の肉体に潜む力である、と言っている。「意志」を自分の奴隷にしたときに、
それはニーチェによって定義される「力」になる、とかいう第三者的解釈による勝手な定義付けも可能ですね。
>>757 ニーチェ的に言えば、全ての言葉はメタファーでしかなく(だから僕はニーチェの思想自体がメタファーだと解釈する)、
ディオニュソス的陶酔に浸ってしまわないための安全な足場を
築くために言葉がある、といっている。意味があって言葉があるのではなく、言葉が意味を作っている、と言っている。
言葉というメタファーをつくることで、その意味を作ることによって、人間に意味が与えられるのかもしれない。
>>755 同感です、厳密には人間は、言葉の表面と言葉に反応した自分の心しか、認識していない、と思う。
でも僕は、物自体とか意志というのがあるはずだと、想定して、思索を進めることにしている。
表面でしかない、遠近法でしかない、解釈でしかない、というのがいき過ぎてしまうと、おそらく、そういう認識方法に相応するような
ニーチェのような卓越した知性がなければ、安全な読書もできない。
開放的に思索を爆発させたいときは、そういう認識方法でもいいとおもう。
思索というには思考にあまり繋がりがないんだよね。無理やり考えてるんだ。 我が青春の最後の一ページをいかに締めくくるべきなのか! というのが早の主題歌だからだろう。 でも面白かったよ。
764 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 19:27:45
僕は感じ安す「すぎる」(10なる前から絶望して虚しくて自殺かんがえてましたよ・・)から、哲学とくにニーチェに救いを求めてたんですけど、 結局、言葉では自分の神経を救えないなぁ、余計壊れていくかもしれない、て思って、音楽に救いを求めたくて、でも、哲学で考え抜いたこと、 この世に「痕跡」として残してもおきたい、っておもって、とにかく表現欲求があふれてるんです・・ 青春です。世の中、哲学界に反抗したいんです。救われなくても自分の考えを少しでも残して、 音楽と神秘主義とか詩とかだけの世界にいってもいい、て思ってるんです。 ランボー地獄の季節みたいに、燃え尽きてみたい・・ だれか、ニーチェについて話せるひといれば嬉しいです・・
765 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 19:41:34
考えるのと悩むのは違う。
766 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 19:45:50
>>764 スポーツとかしたことあるのか?
金なくて必死にバイトとかしたことあるのか?
食うのに困ったことはあるのか?
767 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 19:57:08
>>766 金には価値を感じない。ただ楽器とCDと服1セットくらいあれば不要。
食べていければいい。誰もが考えない「恐ろしいこと」ばかり直観して、現実感覚が狂うんです
時間、死、生、女性、に対する病的な恐怖
スポーツは野球が大好き。それでも、満たされることはない。
創ること、自分から病んでそれを克服すること、それ以外に価値を感じない。
768 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 20:10:03
何時も何時も、病んだ女としか、話せない関係も結べないメールもできない。そういう裏の世界からしか、意味のあるものを見出せない 無理やり毒を自分から食って、こういうとこで吐いてわざわざ罪悪感つくって、自分で浄化する、その作業にしか、今は快感を生きてる実感を見出せない・・ A lonely life,where no one understands you But don't give up,because the music do Music do KORN「TWISTED TRANSISTOR」 ・・・・・・ 既成の遠近法で解釈するだけでは、その解釈法から帰結される理解や、その理解から生まれる遠近法すなわち 既成の遠近法を原点とし、そこから構築され得る派生的な遠近法しか生まれない。 ある原典から遠近法ができる時点で、原典が可能性として秘めている解釈の数は、その遠近法という範囲で限定されている。 多数決的に遠近法が一般化され、既成の遠近法となる。 その原典を、限定されて成立した既成の遠近法の束縛を逃れて、可能性を秘めた原典として未読すること、つまり 詩を読むように新鮮に読むのが、創造的な読み方である。そのためには、原典を読むとき、今意識の内にある遠近法からは矛盾を許そうがおかまいなしに、 一度自分の知識を白紙にしてみて原典から得られる直接的印象のみを体感するのが重要である。 そうした未読を行うことによってはじめて、未知の遠近法が生産され、今までの規制の遠近法の奴隷にならない主体的発想の創造に繋がる。 既成の遠近法にのみとらわれた解釈からは、そこから派生した考えしかつくれないが、 原典を頭を白紙にして感じてみると、全ての可能性を引き出すことが出来る ちなみに、恐怖、は知性を無理やり鍛える感情らしいです 怖くて安定したくて悩むから、無理やり考えさせられている
>>681 「物自体」とは、「単に私の認識能力と関係なくそれ自体としてあると想定される場合の物」のことである。
(中島義道「カントの自我論」p314)われわれはある体験(けがをするとか)を過去に遡って
想起するとき、その体験の表象を構成する。しかし、その体験自体はもはや過ぎ去ってどこにもない。
体験自体はかつて現実にあったものだが、もはやない。追体験(過去の想起)してもそれはわれわれが
構成した表象にすぎない。
770 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 20:33:40
>>681 たぶん、カントでいう「物自体」を想定するなら、それにギリギリまで認識を近づけるには、
認識を「体験」するときの鋭さ、その体験を生々しく表象してそれを保存しておく力の強さ、がかなり関係あるのかもしれない。
追体験、の正確さが高まれば、「物自体」の表現力も強くなるかもしれない。
少し飛躍的な考えであるが、(僕は過去現在未来の区別が人工概念でしかないと感じることがある・・)
過去を現在と同時に体験すれば、「物自体」に近いものを表現できるかもしれない・・
カント未読の勝手な解釈&意見です・・・かなり妄想はいっていると思う
早さん狂ったフリしても騙されない。 このスレに自分の自意識を垂れ流しできるくらいの絶望自慢ばかり。 ニーチェについては興味深い書き込みでしたが、個人的な内容は控えて頂きたい。
772 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 20:45:15
↑もの凄く矛盾してる。 似てる.....
773 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 20:51:35
絶望も矛盾も狂った振りもしていない。狂っているか狂っていないか、の差なんて最初から無い ただ、頭にあることを書き出している。 世の中の哲学者は、もっとどろどろした絶望的なものを知った方が、 ニーチェ理解に繋がる、と思っている。少しは、自分の恐ろしい女性観が、ニーチェ理解に繋がるかもしれない、 と思って書いている。自己憐憫だとか自意識の垂れ流しとか、そういう心理は知り尽くしているから、 もう、垂れ流しても自分にとっては毒にならない・・でも、毒を哲学界にぶつけたいという本能が自分にはある・・・ 恐ろしいほど自意識過剰なのは認めます。できるだけ「抑制」します・・・
774 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 21:02:11
>早 プラットフォームで叫べ
775 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 21:11:52
早 おまえホントは自分大好きだろ?
776 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 21:15:31
>>775 自分を信じれる主体は自分しかいない
自分が信じれる客体も自分しかいない
それが悲しい現実
自己嫌悪など、要らない。どうせなら、信じていたい・・
777 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 21:22:40
素直にプラットフォームで叫べ
778 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 21:42:18
体験を思い出して一人称で上手く書き出すことで、自己超克にもし、誰かの記憶の中で自分を保存する痕跡を残す、悪戯。 一生本は書きたくないから「攻撃力」と「説得力」のある表現がしたい・・・難しいけど霊能者めいた欺瞞を含まずに! だからといって害毒のある言葉長い間のこしたくない、スレ埋まって欲しい・・アンヴィヴァレント。 哲学が機械化すると、社会機構も機械化する。人間の心も機械化する。 心理学が機械化すると、精神科医も機械化し、機械化に対する病である 神話を幼いころから学ばないと自然破壊を防げない。宗教が機能しなければ、絶対に精神的調和は来ない。 激しいロックや美しい芸術、宗教や神話がなければ、人の頭の中は、記号的観念と恋愛感情の二つしか存在しなくなってしまう。 記号的観念で全てを判断し、記号的観念だけが増えていく。自分の生きた心で判断できない。生きた部分は恋愛以外では、使用されることがなくなってしまう。 道徳が退廃する。ドラッグが流行る。ドラッグで壊れた人を、機械みたいな心理学がすくえるはずが無い こういうことを、もし仮に大人になってまともになれたりしていたら、 上手く表現して本にしたい・・でも言語感覚が変だから、忌まわしく解釈するか憤慨して何読んでも、社会には這い上がれない(でも今のような状態でも心理的耐性あるから苦しくはない・・ 大衆文学には、父性とか母性とか聖なるもの美しいものが全然足りない。芸術は娯楽では絶対いけない。 ロックで、不要なものを破壊しなければならない、扇情しなければ、人間の心は死ぬ。 今のままの僕の思考力知識表現力では絶対説得できないし、ただの飛躍的背伸びな不平になってしまう、 だから自分を印象付けるだけ付けとくという無責任で迷惑なやりかたでも誰かに代弁してもらえるかもしれない、と勝手な期待をしていたい・・ もう音楽か宗教へ行くか詩人になりたい。 プラットホームで叫ぶとハイになって勢いで線路飛び込んでしまいそう・・
779 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 21:45:36
×機械化に対する病である → ○機械化に対する病である、機械化のせいで病んでしまったやわらかい人たちの数が増えるという集団的な病 それを機械化された精神科が直せるはずがない
780 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 22:17:12
僕が思うに、影響を与えたいなんて言ってる人って、影響されやすい人なんですが。
781 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 22:22:07
>>780 そうです、非影響性の強い人は、必然的に影響を及ぼしたい気持ちにならざるを得ない
なぜなら、影響を受けるとき、鈍感な人より遥かに大きな影響を受けているから、他の人が感じていないことを、
たくさん感じている。感じていない周りをみて、感じさせたくなってしまう
782 :
考える名無しさん :2007/04/11(水) 22:27:24
何かペロペロしてない?
壊れた女ってハイリスクハイリターンなの?
784 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/11(水) 22:35:44
非影響性→被影響性 ショーペンハウアーの「意志」の概念を借りる。 結局現代は、その意志の奴隷になって、自然破壊と情報化だけ進んでいる。 「意志」を自覚しなければならない。「意志」という概念を知れば、多くは意志を自覚したと誤解する。 意志は、自分を動かしている力。 自分が普段きづかづに、その意志に動かされていることにきづかなければならい。 見えない指揮者の手先に、自分達は勝手に操られて、みんな同じようなことをしている。 意志を認識することは、「自分の深層」を認識すること。それは自分の一番恐ろしい部分 ショーペンハウアーを読んで「意志」を把握できるのではない、「意志」を自分の中に見つけ認識しないといけない。 僕は、昔から、自分が自分の制御で動いて呼吸して感じて話している、ということを信じれなかった。 子供の頃は、なにもかも疑って、自分が存在していること動いていることを不思議に思って疑って、最終的に恐怖のどん底へ落とされ、生きた心地がしなかった。 僕は、「意志」とか「力」とかについて読んだ瞬間、何であるか強く「感じた」 心拍数が上昇した。 全ては解釈である、というニーチェ的思考は横において、真理が存在するとする。 なんかの随想か小論で読んだ考えを思い出して、それに自分の考えを混ぜて以下に表現してみる 自分の「身体で感じたことない真理」を他の先人の中に見出し、その真理を納得したとき、 その納得する過程で、生活経験や読書経験からの(内部「感覚」とは直結していない)知識的構築物が 前提となって、その先人といいたいこととは別の角度から認識している可能性がある。 逆に、その真理を先人達の本を読む前に自分自身のうちで見出したことがあって後に、 先人の本を読んで、その真理が書かれていれば、自分と先人の二人がそれぞれの認識で、 不要な構築物を通過せず感覚から得られたものとして、同じ真理に辿りついたことになる それは、前提による感覚を通過しない認識方法よりも確実な把握であることが多い。 ペロペロ、というの、なんだか、ホッとして好きです・・・・
哲学やっても救われないし、言葉で物事の仕組みをいくら細かく表現できたところで何もない。 僕が無気力なだけだろうか。早さんの言うことの意味はいくらかはわかるのですが、それが 何かの役に立つ訳でもなく、むしろ今までのように考えずに生きた方がずっと楽でした。 哲学とは大抵の人にとっては苦しいだけなような気がします。 それよりも友達と遊んだり、彼女とデートしたりする方がずっと気が晴れる気がします。 確かに誰かと一緒にいても解決されない、名前のついていない感情は処理できませんが。 僕はニーチェから学んだことは基礎的な道徳の崩壊でした。それには共感できました。 しかし、同時に騙されていたままの方が幸せだとも思いました。 早さんはニーチェから何を得ましたか?
786 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 12:51:26
哲学は人を不幸にする。周りの全てが紛い物に見えてしまう。認識することがどれだけ苦痛を伴うか身に染みてわかる
787 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 12:58:52
>>785 僕がニーチェの言葉に感動したのは、彼が言いたいことというより、言葉の裏の音楽です。
僕は、何時も何時も、言葉が自分の考えや感情の勢いに追いつかない。追いついたことは無い。
ニーチェも、まず勢いがあって、そのあとで言葉が追いついている。ハイになって書いている。
ハイになることで、色々な観念的束縛や既成の道徳を修辞的に破壊している。
(最初から観念や言葉、それから演繹される道徳の全てを全く信じていなかった)ぼくはニーチェの精神の高揚を
起爆剤にして、自分の思索を始めている。明確な考えや生きる目的よりも、元気、勇気、高揚、表現力、情熱を貰ってた。
僕も、哲学は自分が安定する目的と今知り合っている人を少しは慰めれるような言葉を考えられるようになる目的、以外には何の目的も感じていないかもしれない・・
哲学不信になって、しかも大衆的価値観も信じれないなら、哲学一切忘れて、絵や小説や詩を愛好するのがいいと思います。
信頼できる友達がいるのが一番いいですよね。僕は性的に問題があるので、友達や家族がいなかったらきっと、とっくに死んでました
>>783 それは、壊れた女と知り合うと男にとって危険だけれど利益も大きい?ということですか?
それなら、リターンできたとしたら、ハイリターンかもしれない。
でも壊れた女ほど言葉に対して繊細だから、僕は本能的な暴言をメール吐いてしまった時などは、
良心の呵責から死にたいくらいだった・・・壊れた女性にはお優しく。
788 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 14:41:53
>>786 認識してしまうことは辛いことですよね。
しかし僕は、つらい中にも、たまには認識したときに喜びとか快感に近いものを味わう時があります。
つらい苦痛を伴う認識で得たものは幾らかの間は自分の関心圏から除外し、
生き生きした認識、なんとなく生命に繋がったような根源的認識、というようなものだけを自分の中心的関心にしておいて、
その認識から自分の考えや表現を色々つくっているうちに、その思索過程において、
不要だと思っていた不幸な認識がいつのまにか役にたっていることもあります。
認識したものに対する自分の関心、認識物から今の自分にとってどれが必要かの選択、
を自由に操作できるようになれば、認識の苦痛も減るかもしれません。
例えば僕は、
インターネットが人間の心を破壊している、2ちゃんねるが人間の心を汚染している、
という認識をした時(そのときは何故そういう認識をしたのか、その認識をどう表現していいのか、については駄目だったが、その痛々しい認識が真実だと痛烈に直感した)、
苦痛に悶え自分が孤立したような疎外感を味わいましたが、とりあえず関心からそらしておいて、
その後、最近になってユング心理学などを読むようになって、ユングを読む際に、
自分のしたアンチインターネット認識が勝手に想起され、ユングの理論(認識すると快感を味わう・・)と結びつけながら、
ユングの理解を深めた、
という経験があります。
なるほど。苦痛とは快楽であるとドストエフスキー先生が言ってましたよね。 インターネットが汚染しているとは思いません。むしろ清めるために汚れていくというか。 何も知らないでいることは心底、楽なのですが。 自分と他人の価値観を比べることで初めて自分というものが少しずつ見えてくるような。 しかし、いくら誰かの意見を求めても自分が思考しないことには血肉にもならず、ただの 受け売りだけで意見を述べる道化のような気がして、自分に対して気持悪くなります。 そうなると、全ての価値観が偽物のように感じて、吐き気がするのです。 いくら御託を並べたところで、結局は今ある暇を持て余した現実から逃れるためであり、 そのことにもまた絶望がやってきます。 死ねば全て終わるのに、ニーチェの本なんか読んで、意味の半分も理解できずにのたうち回る。 早さんの思考は毒があって好きです。
790 :
狂人日記 :2007/04/12(木) 15:44:40
だから俺にとってルーシュンの狂人日記は極左だって言ってんだろう。 これ以上どう左に偏れと言うんだ?初恋ってのはウソじゃないです。
791 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 15:59:03
>>789 僕は哲学よりも、文学や芸術や神秘主義のほうが精神力きたえれたり、生の絶望の「味」を知ることによって
生の創造性を発見できたり、すると思う。価値観が贋物かどうか、僕は「意味」「定義」ではなく身体に伝わってくる「味」で判断する。
ただ神秘主義などで知った内容や感じたことを、普通の言葉に換言せず、自分以外の人に吹聴するのは、ただの二流オカルトティストです。
僕が哲学を嫌うのは、人間とか芸術とかの味を、分析して分析結果を一般化された意味とか定義に変えてしまっていることなんです。
半喩え表現を使ってみる。
哲学の本の多くに書かれているのは、目の前のおいしい食べ物を、ピンセットで試験管にいれて実験し、それの成分を分析して、
分析表に示しているだけに思え、こう、自分でそれを手にとって食べ、噛んで味を確かめ、身体で消化でき、運動して消費できるような、
認識の仕方が好きなんです。こういう認識や思考でないと血肉にはならないような気がしてしまう
ただ排泄物を此処に垂れ流してしまっている・・(失言
自分と他人の価値観を比べるというのは大事なことですよね。
僕は、その価値観の差に孤独を感じ、時には不安や恐怖、ディオニュソス的混沌に落される
でも孤独を回避しようと、自分自身に深く問いただし、自分の考えを創る
受け売りの意見でも、それを述べた相手がもしかしたら大きなものを得ているかもしれない、というのが慰めかもしれません
今ある現実というのをどう扱うか、扱っているつもりでただ無意味な逃避になっていないか、というのは大きな難問ですよね
僕の場合はバタイユに習い、義務的時間以外の一瞬一瞬を「賭け」「遊び」として把握するよう心がけている
刻一刻と動いていく意識を、遊びや賭けで無作為に創られる一つの「芸術作品」のようなものとして、一つ一つ自分の意識に感動や失望できるように、してる
792 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 16:01:01
僕はもう、ニーチェも他の哲学も、できることなら今を境に完全に縁を切りたい、と思って、 ほとんど毒のある思考というより、哲学界やインターネットを「呪詛」したいという罪な感情(本気になればもっともっとハイに暴走しますけどね!)で 思索の負け犬の泣き言として、大衆やインテリを嫌う気持ちは何一つないのですが、自分の価値観と一致するものを全く見出せず、 こんな愚かで毒々しい書き込みことをしているのかもしれない。もう自分の神経には意味理解などできない、しても無駄だ、と諦めている。 僕のてんかん気質の性向は、時間概念言語などの抽象的なものを、感情や本能で具体的に理解する度合いが大きいので 全てのものを自分自身と照らしあわさないと認識できない(しかし全てのものが自分と関連しているので簡単に記憶できる)。 だから哲学しても、哲学者と考えが離れていく。 でも音や神秘的なものに居場所を見出せなかったら、また安定を求めて哲学を読み、情熱を求めてニーチェを読むかもしれない。 また荒しにくる可能性もあるかもしれない・・・・・・・・・
早さんがそんなに思索しても苦痛でしかない人生とは不毛ですよね。 もうダメだ。もうダメだ。何したって全部、シャボン玉のような泡なんだ。 ニーチェがどんなに永劫回帰なんて言っても信じれない。 もう一度同じ人生なんて嫌すぎる。
僕も縁を切りたいと思います。もはや信じる言葉がなくなりました。 信じないことだけ信じる。
795 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 16:27:26
>>793 >>794 僕は、脳の機能が偏りすぎているから、こういう完全不信になっているだけかもしれない。結局疑いつくすと、信じる対象は自分しかいなくなる。
僕の言葉のせいで、もしかしたら何人か哲学不信者、言語不信者をつくってしまったかもしれない。
でも、ニーチェが最も言いたいのは、結局のところ、限界まで人生を疑って、極悪非道な呪うべき側面まで堕ちるか完全な空虚を味わうかして、
そこから、逆転し肯定することだと思う。
僕の意見では、底まで行って、完全な虚無に浸って、それでもなお肯定するには、やはり芸術、とくに音楽しかないと思う。
音楽が一番、全神経を扇情し、陶酔と恍惚を味わせてくれる。
楽器を演奏する、ということをしなくても、音楽を毎日深く愛好したくさん聞き感じようとするのは、かなり人生に実感をもたらすと思う
しかし、最近の僕は音楽ですら昔のように感動できなくなっております。 これはパッケージされた音楽で、『所詮は娯楽品なのだ』と考えてしまうのです。 お金を出さなきゃ聴けない音楽に自由なんて感じれないし、その裏にあるお金の匂いが とても嫌で嫌で感じ取れると、音楽が濁って聴こえてきます。 素直に感じれなくなりました。これが汚染というものなのでしょうか? 僕のダメなところかもしれません。 人生が無意味だと認識してしまうと全てに色がなくなり、世界は灰色から無色になる。 そこから全てを肯定するには音楽よりも、生を実感できるような瀕死の体験や 存在の軽さから苦痛を伴った後の自己肯定するためのアイテム(恋人や地位や名誉など人それぞれ) が必要になると思うのです。 確かに音楽には何かしらの魔法があると思います。 気持のいい旋律を感じると心が高揚して、今まで出会えなかった、隠れていた感情が顔を出す。 昔、聴いた音が、当時の景色を思い出させてくれる。 でも、音楽で救われることは絶対にないです。かなり人生に実感をもたらしてくれるのは わかります。
797 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 16:56:26
いやはや、憧れてるんだねえ。 早 ◆yxoSe0qFeAくん、君の欠点は少しばかり賢いところだな。 芸術、神話なぞを持ち出して、感覚と情念の犠牲者を気取っているが、 実際はむしろ知性が先行してしまっていることに悩んでいるんじゃないかね? 君の「暴走」は作為的で、自己欺瞞で、虚飾的でさえある。 君は確かゴッホが好きと言っていたね。 なら訊くが、ゴッホの「じゃがいもを食べる人達」を観てどう感じる? 才気煥発な天才の鋭さか、それとも神的な直観のきらめきか? いいや、ありゃあ世に言う天才なんかじゃない、むしろ百姓が飽きもせず 地を這う泥だらけの手による賜物じゃないか。 彼が弟に送り続けた書簡集は読んだ? 彼の絵画に対する努力には、飛躍なぞ一切見当たらない。それこそ人間的な、 「可能」の積み重ねを倦むことなく、逃げることなく続けた跡が窺える。 君はまだ了見が狭いよ。君のその「純粋な認識の目」は、あるいは誠実さは、 多少の紆余曲折や俗にまみれることなんかで無くなりゃしないから安心しなよ。
798 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 17:22:04
>>796 僕は、音楽を商品めいたものだとおもって絶望してしまったとしても、
その時は、全て「世界」のことは忘れ、音とアーティストと自分しかいないような「別世界」へ行こうと、
できるだけ集中力を高める。アーティストが人気者であれ、そうでなくても、とにかく、
アーティストのファンとか売り上げとかそのようなものは全部無視して、歌詞と旋律と歌声だけに神経を使うよう、
精神を統一する。そのために、恋愛で別世界へいけるのと同じように、まずアーティストに惚れ込んでみる。
音楽家の中には、
もはやこの世に住んでいない、妄想と空想にしか住んでいない、
生計をたてるのにも、もはや現実を必要としていない、という人も中にはいると思う。
言葉に脳を突き刺され苦しむ詩人より、
教義を色々解釈して悩む宗教家より、
自説を説得させるために骨折る神秘家より、
はるかに軽くて見えないような、あるいは混沌とした陶酔で危険な、向こう側の世界へいる人もいると思う。
ただ、生活に実際的束縛性が強い(忙しい学者さん、ビジネスマン)人は、向こう側へ行くと、いけない。
生活の害になる。
神秘主義であれ音楽であれ、彼岸へ行き過ぎて行ってしまうだけになるのは良くないが(ニーチェが一番嫌ったこと)、
その世界からたくさん「感じて」価値を見出して、現実に価値を与えるのは一つの人生の意味づけだと思う。
瀕死体験、臨死体験、悲劇、とかいうのは、大きいですよね。
僕は「人間失格」などを何度も読んだ。深く深く感情移入すると、苦しいけれど、そこで悲劇や瀕死を仮想体験できる。
この問題作は、純文学的才能と、恐ろしいまでの堕落の、産物で、それが、物語的内容にだけでなく麻薬的文体にもどろどろ表れている・・
でも、やはり、ものの感じ方や神経構造などは人それぞれだから、実際的アイテムが必要不可欠な人が多いと思う。
生まれつきの極端な内向の性質があるから僕は文学芸術音楽などにしか価値を見出せていないだけなのかもしれない・・
799 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 17:37:24
>>797 僕は、知性、感情、認識、行動
よりも「直観」だけが何より先行しているんです・・・自分の認識が誠実か欺瞞か、真理か虚偽かも、わからない。
周期的に「暴走」するのは真実です。ここ一年で2回、痙攣と知覚異常に陥りました。デジャヴとありえない偶然が連発するんです。
でも、そういう忘我状態でも、ある程度知性的認識を保っている。一瞬本当にエクスタシーを感じ、その瞬間、自分の記憶全てと外界の現象や物事が完全に溶け合い、自分は天才ではないのか?と思うくらい冴える。
直観で、そうとしか言いようのない何か(かなりの恐怖を伴うんですよ・・)を、勝手に認識していて、
でも、その飛躍的認識を切り捨てることができず、とにかく考える、考えさせられている。図書館を調べあさる。考えないと気がすまない。
俗に汚れたい汚れたくない、というより、避けずにはいられない、もっともっと深みを探求したい、
そして何より陶酔や恍惚を味わっていたい、というのが強いんです・・
もし僕の性質から子供っぽさを取り除いてを、天才レベルまで上げるとたぶんショーペンハウアーになります。
僕は、ゴッホは、天才とか神秘的人物とかではなく、馬鹿正直で純粋な「獣」に近い存在だと思ってます・・・
そこまで純粋に別世界に入れたり、感情移入できるのはある種の才能だと思います。 僕はそこまでいけなくなりました。邪念があるのでしょう。 その価値というのは僕にとって快楽です。悲しい曲を聴いて泣く、楽しい曲を聴いて心が潤う。 結局は人間の行動原理って気持よさだと思います。 この世に快楽がなかったら人類はとっくに滅んでいるだろうし。 もし誰かがそばにいて自分のことを肯定してくれるなんてあれば、存在に価値を見いだせるわけで 素晴らしく、楽に生きれるような気がします。 音楽も誰かに必要とされて初めて意味を持つ気がします。
はやさんサイトあるんですか?
802 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 17:56:39
創ろうとしたけれど、やはりサイトつくるとサイトに入り込んで空虚な言葉ばかりに埋まってしまいそうなので、 やっぱやめた、みたいにしてます・・
突き刺さる言葉が何一つないのは知識教養がないせいだろうか。 感情が一切見えない。 論理的に説明すればするほど、本質が消えていく。 言葉なんて一言でいいのかもしれない。 疲れた。眠い。怠い。 とか
804 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 18:02:56
>>799 子供っぽさを取り除いてを
→子供っぽさを取り除いて性倒錯(このせいで癲癇めいた症状や激情状態がたまに起こる)や父親不在(こういうの書き込もうとすると動揺するから消したり加えたりしたくなる!)
たのを
ショーペンハウアー「知性について」が、今まで読んだどの哲学よりも、(情動や感覚を除外した場合の)自分の認識と似ているような気がした。
難解でいくらか読めず、飛ばしたけれど。
個人的なことばかりごめんなさい。
誰か、哲学的なこと、あったら、お願いします。
感情移入で価値基準は決まると思うのです。正義だの悪だの判断するときに、 どこまで対象に自分を照らし合わせるのか。僕たちにフラットな判断なんてできません。 自分と似たような部分に傾くと思うのです。 早さんのバックグラウンドとニーチェのバックグラウンドが少し似ていたりするからこそ 理解ができるんだと思います。同じ、境遇に立ったものでなければ感情移入できません。 相手の感情がわからない故に人は対立すると思うのです。 だから僕は早さんの言うことが頭ではわかっても心ではわからない。 似た痛みがなければ人はわかりあえない。
806 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 19:07:56
誤字脱字だらけでごめんなさい
飛躍多くてごめんなさい
ゴッホが「獣」というのは、彼の人格的にも知性的にも超人的に卓越した性質をふまえた上で、
それでも常人と一番違うところ彼の「発作的情動性」「画家自身が自然に没入したあるいは自然を自分の内側へ吸収したような絵から感じる印象」がとにかく僕の個人的な心理分析では、一番すごいような気がして、
それを浮き彫りにさせた表現です。偉大な献身的人物に対して、すこし大げさで野卑た表現をしてしまいました。
>>805 感情移入は、かなり大きいですね・・
僕は、子供の頃の恐怖体験や、病的な反抗、思春期の病、などを経験してから
生存のために哲学を始め、とにかく乱読したようなものです。
ニーチェや小林秀雄やショーペンハウアーの文章が、
頭で全然分かってないのに、感情移入と直観が先行して、心でわかっていたような気がした。
でも心だけが先行するのも、単なる妄想である可能性も割とあるし、一般的認識とはかけ離れている可能性は大いにあるし、
良くないかもしれない。哲学や評論よりも、詩的随想に近くなる。
ドイツの特異な文体がニーチェだとしたら、日本では小林秀雄が、どの日本人批評家からもかけ離れた認識&表現をしていると思う。
ただ、小林秀雄(この人も若くして相当病んだみたいです)は、毒と皮肉と虚栄と誇張(もちろん大切なことを誰よりも鋭く認識したうえでの)が、必要以上に強すぎる・・・
>>803 同感です。
「プラットホームで叫べ」がこのスレで一番感動的かもしれない・・・
もうダメだ。。死のう
生きてる理由がわからない
死がすべてを満たしてくれる。こんな悩みも万事解決だ! 楽園に行くぞ!それで何もかも叶うじゃないか! やったぜ!ありがたいぜ!
810 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 19:48:06
>>807 死なないで下さい。
僕は、哲学界に対してはとにかく反抗したい気でいっぱいでしたが、
絶対人を傷つけたくは無い。もうこのスレ落したい・・・迷惑かもしれない。
贋預言者、呪術家になっているかもしれない・・・・
今から、絶対にニーチェに関することや、薬になる言葉、哲学的なこと
しか書かない、と今度こそ誓いたいです。
僕は、尾崎豊や太宰治の作品、ある人のサイトに出会ったとき、本気で死にたくなったけれど、諦めなかった。
死にたい、という感情は、必ず、今の生よりもっといい生を行きたい、という感情に、繋がっていると思う。
ひゃひゃひゃ
812 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 19:52:00
く
813 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 19:56:47
>>810 だけ読んでカキコ。
>>810 って、ええ奴やん。
哲学的には観念論の罠にはまっているけど。
814 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 20:06:58
此処で叫ばれているのは、僕の傷だけではありません。
病んだ女、壊れた女の絶叫です。
>>813 ニーチェの文章は、観念論を「利用」して、自分の情熱を文体化し、
また自分の情熱の勢いに任せて観念を「破壊」し、未知の発想を創る、というようなこと繰り返していると思う。
何もかもが、行ったりきたりしている。
言葉と物が一致しないことを鋭く見抜き、
言葉を虚偽と知りつつ利用し、不要なところでは言葉を放棄して情熱だけを信じて、考えを進めていたと思う。
そういう文体
815 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 20:11:11
おそろしく内面的なことや、言葉を軽くこえたメタな領域ではなく、 こう、外にあるような即物的なことについてたくさん書き込んでください
816 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 20:23:00
青春を象徴するかのような二人、尾崎豊とアルチュール・ランボーの、 ニーチェ的な言葉をピックupしてみる。早く埋めよう 尾崎豊「LOVE WAY」 「Love way 言葉も感じるままにやがて意味をかえる Love way 真実なんてそれは共同条理の原理の嘘 Love way 生きるために与えられてきたもの全ては 戦い 争い 奪って 愛し合う Love way」 アルチュール・ランボー「地獄の季節」小林訳 「あの科学の宣言以来、基督教が、人間が、わかりきった事をお互いに証明しては、 ふざけ合い(←傍点付)、証明を繰り返しては悦に入り、凡そ他に生きる術がなかった という処にこそ、まこのと罰があるじゃないか。抜け目の無い、又馬鹿馬鹿しくもある責苦だ、 俺の心があれこれと彷徨いあるいた所以だ。これでは自然も愛想をつかすことだろう。 「お利巧な方々」は基督教と一緒に生まれなすった。・・略・・何も彼もが、原始の国、 頭葉の思想と叡智とからは結構遠くにあるではないか。こんなに毒物ばかりが製造されて何が近代だ」
817 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 20:24:10
頭葉→東洋
818 :
平下流 :2007/04/12(木) 20:27:01
ニーチェの著作(特に「ツァラトゥストラはかく語りき」)は小説の理解と似たところがあります。 同じような体験をしていないと、単なるあらすじや論理で終わってしまう。 その体験とは何か。言い知れぬ不安、恐怖です。 彼が、その思考を停止し、書くという作業を止めていたら、自殺をしていたのではないでしょうか。 少なくとも、気は狂っていた。 同じような体験のない人が読んでも、単なる理屈にしか過ぎないのでは・・・。 その点、ソクラテス以来の哲学とは趣きを異にしています。
819 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 20:32:28
>>818 同感です。あの作品だけは、一緒に旅をする弟子になったつもりで読むのがいいと思う。
ツァラトゥストラは、ちょうど失恋の後でもあったし、かなり自殺寸前の状態で書かれたみたいですね。
>>814 ナルシストだね
飾った言葉で知性アピール?
プライド高いでそ?
どうでもいいけど回りくどいよね
詩人って嫌いやわ 飾った言葉で嘘しかいわねぇ
比喩に頼ってるやつは信用できまへん
いつまで被害者ぶってる?
詩や音楽がやりたいならもう来んな
時間の無駄でつ
頑張れよ!
821 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 21:02:00
さ
822 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 21:08:52
>>820 1から100と450〜
読めば、僕の言葉に矛盾はあっても、嘘ではない、いや、今世の中にでまわっている言葉が嘘である、と分かるでしょう
僕は、嘘ついて自己満足するような、無意味なことしない、ただ、虚偽をエサにして真実を手に入れる・・・:
ぷ
>>822 嘘ばっかじゃん
あなたにとって真実ってなに?
言ってることに真実味がない
日常会話で使わない語彙が嘘くさい
いちいち回りくどい
狂言ばっか
哲学ははみごでアホの集まり
>>824 相手にすんなって。
どうせ、逃げるだろ。
827 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 22:07:44
何度も言うけど、僕は女々しく被害者ぶっているよりは、攻撃する犯罪者になるつもりで、故意的に攻撃的に書き込んでいた。 罪悪感はあっても、苦しくもないし、自分が間違ったこと書いているとは思っていない 硬い哲学用語なんかで説明するよりは、日常言語に少し詩語を混ぜた書き手自身の言葉の方が遥かに真実味ある ニーチェの哲学は、体験した人にしか、意味も価値も汲み取れない 今は論証できなくても、僕には何言われても動揺しない確信がある 僕は、それなりに、幼い頃から恐怖と絶望を克服しつつ、全ての価値観に対して男らしく負けずに抵抗してきた 本読みだしてからも、色々な著作に読みながら、著者の無神経さ加減に冷笑して毒づいてきた 今は誰に反対されても、多数を相手にしても、その反対する人が、ただ「言葉の端くれ」だけに反応して苛立っているだけ、としか感じない もう自分は神経過敏が行き過ぎているから、批評家や宗教家になれたとしても、学界の哲学には入っていけない、て思っている これで哲学さいごにしたいと思っている たぶん僕の最後の書き込みより後に書き込んだ人は僕を疑っている。 うまく対話できた時は、相手の人は、何か僕の言葉から得ている、と思う。
奇形文の女=早い僕 じゃねえの?
829 :
考える名無しさん :2007/04/12(木) 22:13:18
ぷ
糸冬 了 早は負け犬のように泣きじゃくって去った
831 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 22:54:03
>>825 >>830 みんな、僕の言葉を信じたくないんです。僕は信じて欲しいとは思っていない。
でも、だれも僕が自身を疑ったよりも鋭く僕を疑える人は絶対いない。
ニーチェの言葉読んだとき、こんな思想信じたくないて拒絶した人多いと思う。
僕は言語とか認識の仕方が特殊で、いつも飛躍だけ先走ってしまうから、だからはみごにならざるを得ないんです。
出来るだけ独創的な表現からのがれようと、色々文体を試行錯誤して、詩語や日常語や哲学用語をうまく使おうと、
がんばってきましたけれど、やはり感情が先走って、綺語を使ってしまっていたこと反省しています。
青春最後だから、できるだけ反抗攻撃をしておきたい、
硬くなりすぎた現代思想や情報化に伴う空疎な言語観は改変されるべきだという主張を無駄になってもいいから示しておきたい、
神話や芸術の重要性を叫びたい、でもできるだけ対話してみたい、という願望から、神経を酷使して何とか書き込んできました。
日常生活で、対話するときなども自分の心の「背後」で色々思索していないひとは哲学してないとおもう、
普通哲学するひとは日常は優しい仮面で温厚にしていると思う。
僕は本心なんて歌うとき以外に友達に一度も見せたことなんてあるはず無いから、すこしでも此処で本心を表現したい・・・青春のやりきれなさですよ
ニーチェについて、話したいです・・・・
表面的なことのほうがいいみたいです
似てる。。すげぇ似てる。。俺の前の仕事場の上司で今はホームレスなった おっさんに考え方がそっくりだ!!
哲学と芸術は人間に一時的な逃避をもたらすだけで資本主義において なにも役に立たない、もはや、古代の汚物である
834 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/12(木) 23:10:57
>>832 これから、神経質な書き込み、あてこすりあいしません
僕は、悪意から嫌味になろうと自己扇情すれば、どんな暴言でも痛々しいメタファーでも思いつくくらい、神経質です
秘めた鬱憤くらい召還すれば幾らでも怪物になります。もしその気になれば次はランボー板で本当にインターネットを呪いたいくらいです。元々が詩人のスレなら今の10倍くらい詩語を発散できる!
口喧嘩でも誰にも負けません。
ニーチェについて、哲学について以外の書き込みにはもう、無視したいです・・・でも反応してしまう。
早くんは ヤンキーにもなれない 凡人にもなれない 変態にもなれない どの世界からも疎外されている 孤高の10代 等身大の10代
>>831 >ニーチェについて、話したいです・・・・
あんたが書き込んでるから、ニーチェに詳しい人が去って行ったことに気づけ・・
早は自己完結しすぎ
傷つくのが怖いならネットくんな
839 :
797 :2007/04/13(金) 10:00:36
>>806 早くん、
ゴッホで大事なことを言い忘れていた。
ゴッホがあれらの作品を成し得たのは、一人彼自身の研鑽にのみよるのではない。
テオの生涯に亘る援助を含め、近親者や愛人らの理解と協力があったからだ。
これら名も無い(ゴッホに因み今に伝わるが)人々の単純な感情と行為、
それこそ美そのものであり、神話的と言えるのじゃないかね。
君は考え方がまるで転倒しているよ。
ゴッホの生涯で君が注目すべきはゴーギャンを呼び寄せて以降のそれではなくて、
画商を辞め、田舎教師として、また神父を目指しては挫折した前半生だ。
君はまだ、発した言葉が離れていく恐ろしさを感じていない。
それがどうして十分に繊細であるなどと言えるのか。
修業が足りない。解ったつもりになるな。忍耐を知れ。
840 :
考える名無しさん :2007/04/13(金) 10:32:08
「存在」が元々あり、そこに「無」が付加価値としてあるのか、 元々「無」であるはずの に「存在」と言う矛盾の夢があるのか、 実はその2極化に、その上の世界があるのか?
841 :
考える名無しさん :2007/04/13(金) 10:34:52
「無意味」である事に、 「不安」を覚える事も、実は間違いではなかろうか? ささやかな「愛」に包まれる事は間違いなのだろうか? ――恐らく、間違いなのだ。だから人生は悲しいし、楽しい。
正しいことなんてありませんよ
843 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 15:19:15
>>842 ニーチェは「数」までも、言葉や観念と同じように生存のための不可欠だった足場と言いますが、
僕は、数学、だけは、何よりも絶対的に正しいと思っています。ただ、数学は人間の「道具」でしかない。
しかしもしかしたら、神が与えた最も正確の道具だともいえると思う。
>>839 個人的には、ゴッホの一番凄いのは、絵だと思っています。
あんな絵は、努力と才能が直結した「本能」以外のなにものも描き得ません。
もちろん伝記を読んで感動します。伝記を読んだりした感動をここで書くと、
僕はまた忌まわしいこと恐ろしいことしか書いてしまう。愛情とか美とかに対する心理を僕が書いては
絶対いけない。
僕はどう言葉を扱っても自分と神話以外かけません。
連想過剰神経過敏な自分の表現の無力さを自覚し、思想本を出版しても奇人扱いされることを自認している。
どんな思想でも最低限の秩序や知識がなければならない。
哲学は多くの人にとっては無意味だとは思っていません。
ただ現代の哲学や心理学が、偉大な哲学原典、芸術、神話を
機械的にしか解析できていないのには反対している。偉大な人の原典を読むのはとても価値のあること。
とにかく、神話や芸術と直結した「象徴」の力がなければ、
根底から人が救われ、自然破壊が防がれることは、絶対無い、というのが確信です。
次の書き込みから「(必要以上の)僕」「陶酔」「死」「呪」「神」「罪」「天」とかいう類の言葉使わないで、
今までの毒を浄化できるくらい、ゆるりとまったり書き込みます。今度こそ誓います。
844 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 15:33:34
ニーチェが言うように、言葉が、恐怖や混沌から逃げるためのフィクションでしかなかったとしても、 やはり、言葉が存在している、というのは、人間が「生存したいという欲求」に由来する。 ニーチェは言葉自体を全面的に疑っていたけれど、「言葉の力」を強く信じている。 言葉が人間に「生命力」を与えてくれることを「歌うように」熱弁している。
読んだ人間に、 「自分が彼の真の理解者であり、自分を本当に理解してくれるのがニーチェだ」 と錯覚させる魔力があるのがニーチェの本。 同じことは優れた絵画にもいえる。 まあ、芸術に対してはそれでいいと思うけど哲学としてはどうかな。
846 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 15:55:20
>>845 ニーチェって、哲学から離れて芸術の領域に行ってしまっていますね。
魔力としか言いようのないものがたくさんある。
芸術や神話の魔力に近いような生への力というのは、鑑賞者と、著者や登場人物や神々を、
同一化させてくれるところに、大きな意義がある。
主客同一の認識があらゆる認識の中で一番価値のある認識だと思う。
ただ、知性が追いつかない直観や感情は、飛躍的な気まぐれに過ぎないのが難点。
ニーチェの思想は、こちらの関心や不安などにあわせて、自由に動いてくれる。
可能性だらけの多面体。
いや、はっきり言って同じことは宗教でもいえるよ 芸術も宗教も哲学も、目的的には似たようなものだと思っているが あまりニーチェを持ち上げるなよ
848 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 16:13:45
>>847 でも、今の資本主義的な価値観では黙殺されている色々な問題点、だれも見えていない問題点を、
真剣に直視するなら、哲学の枠からはみ出たニーチェとか芸術とか神話とかじゃないと、絶対に解決し得ない。
解決することはニーチェでも芸術でも神話でもない。 解決は死をもってでしかありえない。生の段階では何者も透明にはなれないはず。 ニーチェが少なくとも我々に問いただしたのは救いだったんだと思う。 道徳観念や生への価値などへの答えを見つけ出すために。 でも、ニーチェは敗北した。全ての哲学者や芸術家の最終地点は死だと思う。
キミの言っているのに虚無からの救済? だれも見えてないと軽々しく言うが、あまり人間を舐めてやるなよ。 誰だって考えるさ、そんなこと。 ただキミより自己欺瞞が上手いだけだろう。 それは哲学者としては不幸なことかもしれないが、普通の人間にとっては幸運なことかもしれないよ? ニーチェがあろうと芸術があろうと、“絶対”には解決しえない。 その点においては同じだ。
もう哲学に生への価値を見いだしても何もない。 早くんは自分の心を抑制するために哲学を学んだんだよね? それで救われた?何か変わった? きっと、早くんは悩むのが好きで好きで仕方がない少しだけ自意識過剰な裸の王様だよ。
醜いな、お前は
853 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 16:44:54
僕は自己欺瞞を徹底的に取り払おうとすることで、誰もが考えないようなことを考えようとしている。 その考えが、たぶん多くの人には無意味なゴミか、恐ろしい毒かもししれない、でも少しでも一人でも新しい未知の観点を与えれるかもしれない 問題が解決し得なくても、解決に向かおうとしなければならない。今の哲学が解決に向かっているとは思えない 虚無から恐怖からの救済はなくとも、そのぎりぎりまで行ってから這い上がるというのが、 少なくとも現実の生に新しい価値や未知の発想をもたらし、死のような絶対的なものの解決はもちろんのぞめないが、 色々な個々の問題に対する新奇な解決策をもたらすと思う。そういうギリギリの虚無や恐怖の認識が、欠けすぎている 何故、現代では都会では、あれほど殺人事件が多いのか? 戦争は起きてもしかたないものかもしれない。いや、起こることで、一つの悲劇を具現している。 でも友達、兄弟、家族、ホームレスの殺人。いじめの多発。これは、明らかにおかしい。明らかに恐ろしい。 神話は恐ろしい。エディプス王・・・。神話を知ることで、神話の中で恐ろしいものに気づくことが出来る。 その恐ろしいものが「自分の中に」あることに気づくことが出来る。殺人、いじめなどが起こるのは、 自分のなかに恐ろしいもの残酷なものがあるということに気づかないという自己欺瞞のせいで、 自分が恐ろしいことをしていても恐ろしいと感じていないからかもしれない。 いじめ、がどれほど恐ろしいものかになぜ気づかないのか?テレビは同じようなこと言っていじめられっこを傷つけてしかいない。 何故相手の気持ちがわからないのか?殺人の報道なども、殺人があたりまえのようにしか報道できていない。 殺意、というのが全ての人間に必然的に備わっている、ということを伝えなければ殺人は減らない。 悲劇的な神話は、神々と読者が完全に一体になることで、読者自身の恐ろしい深層心理を知ることが出来る。 深層心理を認識できていないから、恐ろしいことがあたりまえに扱われている。
それは...綺麗事に聞こえる。殺意は法律によって妨害されているけれど、 失うものが何もない人間が殺意を抱いたらやっちゃうでしょう。 どれだけ、報道が変わっても根本的解決にはならないだろうし、そんなことよりも 殺意よりも大事なことを知り得ていない、持たざる人たちへの救済が欲しいわけで。 それが一時的な解決でも、踏みとどまるのが哲学や芸術ってことでしょうか?
綺麗事というか、論点がずれてる。
そもそも、ニーチェと関係ない別の話を持ち出されても... メタファーでもないだろうに
857 :
考える名無しさん :2007/04/13(金) 17:12:56
(・ω・)/
858 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 17:17:04
>>851 >>854 僕は神経過敏で恐怖を感じやすく、本能的に悩んで、生存のために哲学をせずにはいられなかった。
どれだけ罪悪になろうとも赤裸の心を馬鹿正直に暴露して、道化染みた裸の王様を此処で演じることでしか、社会との繋がりを見つけられない。
だから、此処に恥でも本心でもとにかく何でも書いてインパクトだけ与えておいて、何処かへ行く。
根本的な救いへの視点を自分が提供できるとは夢にも思っていないけれど、一般的価値観からでは救えない個々の問題への解決の糸口、多くの哲学者が「感じて」いない生の深層の恐怖に満ちた部分などを、示しておきたいんです。
救済とか幸福を求めるのは、終点に何かあるのではなく、救済や幸福を求める過程の苦しい状態に意味があるのだと思う。
どうせ死ぬんだから、その過程に苦しみを伴ってでも、ぎりぎりの認識や感動をして生に価値を与える、というのが意味のある哲学だと思う。
>>855 >>856 とにかく表現したいことを表現しておきたいんです。
ニーチェとずれていても、少しは哲学に関係するかなとおもって・・
綺麗事なのは、世の中の多くの人が信じ込んでいるものだと思う。少なくとも
>>853 は自己欺瞞を底の底まで解体した僕にとっては綺麗事ではない。
僕は昔から法律の殆どを一笑に帰すべき綺麗事だと思っていた・・・もちろん不可欠でもあるけれど。
何故8時に学校へいかなければならないのか?心理的には隷属せずに、これを深く問うのも、かなり哲学だと思う。
859 :
考える名無しさん :2007/04/13(金) 17:20:33
解説はいいから、本文どうぞ。
ではなぜ親が勝手に子供の名前をつけるんでしょう? 自分の好きな名前がつけれないって不服です。
861 :
797 :2007/04/13(金) 17:29:41
>>843 伝記なんか読むなよ。あんなもん嘘の塊じゃないか。
それよりフィンセント自身が書いた手紙のほうがためになるよ。
彼の絵に対する情熱が、いかに日々の小さな積み重ねによって為されているかが克明に綴られている。
「本能」とか、つまらん抽象表現など吹き飛ばすほどにね。
君の使う言語は、自己の怠惰な精神を覆い隠すためのバリアに過ぎない。
事態や軋轢から身を避けてばかりいるためにあるだけだ。
しかも、「そうあるしかない」などと平気な顔して言うに至っては実に偽悪的だ。
バタイユの言う「賭け」も「夜」も、君は頭で解ったつもりになっているに過ぎないな。絶望の、夜の果て、自己の無化の究極に至った者がどうなるか、君の言を聞いている限り「知っている」とは思えない。
今の君にこんなことをいくら言っても受け入れないだろう。ましてやどこの馬の骨とも判らぬ他人に。若いようだから、それはそれでいいんだけどね。
スレ汚し、ごめんなさい。もう黙ります。
ニートだかニーチェだか知らないが、こんなキチガイを真剣に研究してる バカが大勢いることに驚き(笑)
863 :
早 ◆yxoSe0qFeA :2007/04/13(金) 17:32:46
>>860 そういうことを問う姿勢は重要だけれど、結局その重要性はどの哲学でも同じように、問いに答えはないけれどそれを問うているうちに、
色々な事柄が「連想」され、派生的に新しい関心や問いに繋げていくこと、というところにあると思う。
例えば、自分の名前を不服だと思うのは何故か?親が子供に名前をつけるのは何故か?
名前、というのを自分がもっていることにどういう価値があるのか?とにかく、「何故?」をたくさん連想させていくのが重要だと思う。
864 :
早 ◆yxoSe0qFeA :
2007/04/13(金) 17:36:55 >>861 >>862 できるだけ無視しておきます・・・
少し小言
詩作をする、という過程で頭の中でどんなことがおきているかお分かりですか?
恐怖を感じたり詩作を進めたりしていると頭でわかるはずがないことが、全て、飛躍的に身体で分かるです。
ランボー「分からせようにも外道の言葉しかしらなんだ!」
小林「ランボーほど己を語ってどもらなかった詩人もあるまい。」