1 :
考える名無しさん:
71 :考える名無しさん :2005/03/29(火) 23:16:05
文系の場合応用(法学・経済学)崩れが哲学に流れる。
理系と真逆。
72 :考える名無しさん :2005/03/29(火) 23:21:00
文系も同様、哲学崩れが法学、経済学に流れる
数学>>>>物理学>>>>哲学、工学>>>>>>>>>>>経済学、法学>>>>>文学
73 :考える名無しさん :2005/05/01(日) 18:44:57
ででっでっででdっででででええででええででえっでで
3 :
カオル:2005/10/20(木) 22:43:28
>前スレ972 jun1さん
代弁ありがとうございます。(ニップルさんへという意味でなくて)
代弁が可能であるということは、また反論も可能であるということでしょう。
目的地までの道が渋滞しているときには、そのことにイライラするよりも
その時間を思索や読書やわたしへの批判に利用してみたらイイと思います。
どうでしょうか?(^.^)
4 :
カオル:2005/10/20(木) 22:55:05
>前スレ973 jun1さん
いちいちまったくその通りです。
ちなみにわたしがデリダを持ち出して示したかったのは、あなたが言うように
まさに「入れ子の構造」からの「脱構築」を永井が目指していると思ったからで
それはつまり原理や法則の異なる世界と世界との差異(断絶)のシステムからの
主体の解放ということです。デリダが問いを残すことで棚上げした"それ"に
永井は果敢に挑んでいると思います。もちろんそれは、
>カオルさんが永井を語ることによって、カオルさん自身が
>永井を比類なき存在として観て取ることは可能ですが、それを知らしめること、
>あるいは論として成立させるのは不可能だということです。(前スレ974)
ということなのはわかりますが、
けれどそれはカントやウィトゲンシュタインやデリダがそうであったような哲学、
限界の哲学の、"それ"にたいする正しい「態度」だけを指し示すことについて、
永井の、むしろ"そこから"哲学が始まるという「態度」を示すことは可能では
ないでしょうか。しかしわたしはそれをするならカントやウィトゲンシュタインや
デリダや、あるいは哲学の伝統をキチンと継承するという「態度」もまた必要
なのではないか、と思うのです。永井の論の内実はそれを示しているけれども
なぜだかそこに批判的継承であってはならない、という頑なな姿勢が見られる
のは、それが永井の理論の内容に影響を与えるから、としか考えられません。
だからわたしはそこを「あきらかに」するためにデリダは最適だと思いましたし、
また逆に限界を突破してしまった哲学者として西田幾多郎を想定してました。
両者と永井との接点、あるいは接点の「なさ」を炙り出すという仕方で
永井の「独在性」の議論の核心に迫れたらと考えていたのです。
新スレも荒らすつもりなのか…
6 :
カオル:2005/10/20(木) 23:20:19
>前スレ975 jun1さん
>ちなみに「オリジナル」の問題は、それはそれで深いですが、また単純でもあります。
>「オリジナル」を「起源(始源)を持つ」と置き換えるといっそう分かりやすいのではないでしょうか?
>まあ「起源を持つ」という言葉自体、あいまいで取り留めのないものです。
>ゆえにこのような概念に対して哲学的操作をしてはいけないという厳命を強く持つ必要が
>あるのですが、私は永井がこれをことあるたびにこの禁を犯すのを見て閉口しながら、
>彼の著作を読んでいました。
あはは。まさに卓見ですね。
裏永井信者としては胸が痛いですぅ!(^_^;)
今度はわたしが、jun1さんの意見が単なる永井批判と受け取られないように
デリダ経由で少し説明しておきますね。
7 :
カオル:2005/10/20(木) 23:29:07
>6のつづき
デリダの脱構築は、たとえば形而上学が「存在者を存在者たらしめている超越的な原理」(goo国語辞典)
だとするなら、それはさまざまな現象を超えた、つまりそれらの性質や様相の背後にある本質についての
−純粋な思弁や直観による−探究になってしまうから、傾きとしては「現象そのものへ」をなおざりにして
しまったり隠蔽してしまうようなところがある。だからフッサール現象学の「現象そのものへ」という態度は、
はじめから形而上学批判という面をもっているのですが、この形而上学批判をさらに批判すること、また
師フッサールの形而上学批判を批判的に継承したハイデガーの形而上学批判をさらにまた批判すること、
このようなたえまない批判の批判的な継承作業のことをいうのだと思います。(単なる批判や否定ではない)
8 :
カオル:2005/10/20(木) 23:30:28
(つづき)
では、たとえばデリダのフッサール批判とはどういうものだったのか、について簡単に触れておきましょう。
それは、フッサールの「超越論的主観性」−意識の現前(性)−にたいして、その「起源を探る」という思考
パターンには、すでにそのことへの自明性−はじめに現前(性)ありき−が隠されていて、この自明性こそ、
まさに形而上学的な直観主義と通底しているのではないかという批判です。
そしてこの意識の「純粋な現前(性)」にたいして、それはいつもつねに「汚染」されていることを現象学的に
解明していくこと──たとえば起源(性)と現前(性)の要請するものが、同時には満たされることはないこと、
つまり起源(性)とは起源によって開かれた世界の「外」にあるのだから、それ自身は開かれた世界の理
(空間的な場所や時間的な流れ)の「内」にはないということです。
そして現前(性)が「生」(有限性)にかかわるものだとするなら、起源(性)は「死」(永遠性)の様相をもつもの
といえ、だから現前(性)が起源(性)とのつながり(同一性)を保とうとすると、どうしても双方の「あいだ」での
差異の反復が必要になってきます。なぜなら現前(性)とは、起源(性)の「けっして現前しない、しなかった」
痕跡との差異の反復そのもののことであり、またそれによって生み出されるものだからです。
そしてこの反復が可能なためには、双方の「あいだ」が必要ですが、ここに不可避的に介在してくるのが
「記号」の物質性や媒介性であることから、意識を成立させる構造そのものに、すでに「汚染」が内包され
ていることが示されるわけです。──によってフッサールの現象学を脱構築していきました。
9 :
カオル:2005/10/20(木) 23:53:40
>7,8のつづき
永井の<わたし>論に重ね描きしてみるなら
起源とは、開闢(あるいは開闢としての<わたし>)に
現前とは、開闢された世界(あるいは開闢された世界の「わたし」)に相当します。
デリダや永井の示したこのような構造は、前スレから議論されている夢の話しにも
つながるように思います。ポイントは「過去そのもの」の実在性の否定です。
つまり永井は、
つまり、過去というものがまずあって、それが現在に、記憶をはじめとする
痕跡を残す、という構図は、崩せないのではないか。(『私・今・そして神』 26n)
と、言いつつも、デリダ同様、この「現前の形而上学」といわれるものを否定しようと
しているのではないでしょうか?
10 :
カオル:2005/10/21(金) 00:11:29
ある日の夜明け前ごろ、わたしのまだいない世界はもう動き始めていた。
どんよりと沈んだ雲、世界は灰色の壁で仕切られている。
あきらめたい気分、そんな思いに光を射してくれるように
この街一番の"別世界"と呼ばれているビルが、一気に空をつきぬけるようにして立っている。
"別世界"に行こう!、わたしはそう思い立って
今"別世界"への通路のようにして造成された公園に佇んでいる。なんだか怖い。
この街一番のビルなのに最上階の展望台まで登った人にまだ会ったことがないからだ。
でもわたしはそこに行かないといけない。どうしてかわからないけどそうしないといけないのだ。
わたしは大好きな格闘技のそれも一番のお気に入りの選手に自分を重ね合せて真似をする。
がんばれ!って軽く頬を叩くと、なんだか笑えてきて勇気がわいてきた。わたしは歩き出した。
だんだん"別世界"を見上げる姿勢が空を見上げるのと変らないようになってくると
あたりが急にシーンとなってきた。一人ぼっちにされたようで不安になってくる。
わたしの歩いている"別世界"の入口にむかって真っ直ぐにのびる石畳も蔦や苔に蔽われて
まるで人の歩いた様子がない。なにを隠そうとしているのだろう?って、ふと思う。
一回立ち止まってしまうと、なかなか足がいうことをきかない。ふるえてるの?
と、そのとき、一匹の小さな青ガエルがわたしの前にぴょんぴょんとやってきた。
大きな目でギョロギョロとわたしのことを観察してる。今にも泣き出しそうな表情をみて
カッコわるぅー!ってバカにしてる。さっきまで八の字だったわたしの眉がバンザイすると
今度は、オレに怒ったってなにも解決しないさ!って、左に右にぴょんぴょん跳ねてからかう。
そうね…わたしはかがみこんで彼を手のひらに乗せた。あなたも連れて行くわ…バカ!ヤメロ!タスケテー!
さあ、しゅっぱーつ! ウフフ
ぶるぶるぶるるーん……もうっ!なによ!これからだったのにー!
遠ざかって行くバイクのエンジン音。新聞屋さん毎日ありがとうございます。
カーテンを開けると雲一つない青い空が広がっていた。
>>1 乙です。
前スレ995
>>3.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
>>時点で,それより前の 経 験 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
>>想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。
>
>経験がつくられるって表現が意味不明。
>”経験をつくる”ってどういうこと?
>経験させるってこと?
僕が前スレ986を書いた時点では,「事実」と「経験」とをきちんと区別せずに書いて
いたのは確かです。ただ,そのように書いた理由は,「事実」と「経験」を特に区別
しなくても議論のポイントは変わらないように思ったからなので。
というわけで,前スレの議論を,夢の内容を「1時間かけて,飼い猫とカントに関する
議論をした。」として,以下のように書き換えてみる。
1.まず,この話を,「目覚める時点での『1時間かけて飼い猫と議論した』という
記憶と独立の,夢の中で1時間かけて飼い猫と議論したという事実などという
ものはない。」と捉えると,それはそれであり得るとは思うけれど,永井はそういう
考え方をとっていないはず。
2.次にこの話を,「もともとは,夢の中での『1時間かけて飼い猫と議論した』という
事実はなかったのだが,目覚める直前の時点で,『1時間かけて飼い猫と議論した』
ことを示す 記 憶 が作られた。」と捉えると,これは,識別はできないが理解は
できる違いに当たるはずであって,文字通りに同じなどということはないはず。
3.次にこの話を,「もともとは,夢の中での『1時間かけて飼い猫と議論した』という
事実はなかったのだが,目覚める直前の時点で,『1時間かけて飼い猫と議論した』
という 夢 の 中 の 事 実 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。
12 :
カオル:2005/10/21(金) 00:54:59
主人公のわたしも泣きそうなわたしや怒ったわたしの顔をみているカエルもわたしです。
もっというならわたしは石畳の蔦や苔にもなれるしビルにも灰色の空にもなれてしまう。
それを言葉にして表現することはできないけれど、それはむずかしいことではないです。
そしてすべてのそのような出来事や事態には「ほんとうさ」や「実感」がともなっていて
文章にしてしまうと変なことがいっぱいだけれども、夢の中ではみんなリアルなのです。
永井は入不二の時間論を批判して時間が実在するかどうかなんてどうでもよいみたいに
いうけれど、わたしは入不二の実在の定義は、すべて<わたし>論にかかわってくるもの
だと思っています。
(1) みかけ(仮象)ではない「ほんとうの姿」。
(2) 心の働きに依存しない、それから独立した「それ自体であるもの」。
(3) ありとあらゆるものごとを含む全体、その全体が一挙に成り立っていること。
(4) 矛盾を含まない整合的なものであるという側面。
(5) ありありとした(いきいきとした)現実感。・・・・・ 入不二基義『時間は実在するか』から
とくに(5)の「ありあり感」というのは、重要なファクターだと思います。
ここを起点にして、西田の生命論とつなげられないか、と考えています。
13 :
カオル:2005/10/21(金) 00:55:41
──夢の中での<わたし>──は、主人公の「わたし」でも「カエル」でもかまわないのだけど
どうしてかまわないのかというと、「わたし」でも「カエル」でも、<わたし>が<わたし>であること
にはちがいがないからです。どうしてちがわないのかというと、たとえば<わたし>が「カエル」に
なったとしても、<わたし>が<わたし>であることの「ほんとうさ」や「実感」はうしなわれてしまう
ことがないからです。つまり「わたし」や「カエル」を見ている<わたし>は「わたし」や「カエル」に
なること「によって」<わたし>でなくなってしまうことがないのです。
夢の中の──世界は<わたし>の世界──なのです。けれども<わたし>は、けっして世界に
登場(現前)することはなくて(前スレ952〜954参照)、また<わたし>が夢の世界の開闢としての
<わたし>である限り、夢の世界に<わたし>以外の<わたし>が登場することもできないのです。
だから夢の中での主人公が誰であろうと、そんなことにはおかまいなしに、いつもつねに<わたし>は
唯一の比類なき<わたし>としてしか存在しない、というかそのようにしか存在できないのです。
そしてこの「いつもつねに」というあり方が<今>ということなのではないでしょうか。
また<今>が「いつもつねに」そうなら、それは「永遠の今」と言い替えることもできそうです。
ですから実在の世界とは、開闢としての<わたし>のことであり、<わたし>の「いつもつねに」
そうであるというあり方は「始まったり開かれたりすることがない」ものとして構成されているのです。
(『私・今・そして神』154n、前スレ913参照)
だから──夢の中の<わたし>──というのは存在しないけど、まさに存在しないというあり方で
夢の中に──現前した<わたし>=「わたし」──として存在しうる(「わたし」を構成する)のです。
そしてここで使われている等記号「=」が、わたしのいう「相即の原理」(前スレ894参照)であって
この原理によって、西田でいうところの自己の「絶対矛盾的自己同一」が、永井でいうところの
<わたし>と「わたし」、あるいは<開闢>と「開闢された世界」との矛盾的なあり方が可能になる
のではないでしょうか。
>>11 そもそも「夢を見てないのに、記憶だけ作られる」という構図自体がおかしいように思う。
目覚める前の一瞬に夢の記憶が作られたのだとしても、それは夢とどう違うのか。
仮にもとの夢を「夢A」とし、目覚める直前に作られた記憶を「夢B」とすると、
「元の夢がなく記憶だけ作られた」というのは、単に夢Bだけがあったということになる。
そして「元の夢があり記憶もある」というのは、単に夢Aだけがあったということになる。
夢Aと夢Bの内容はまったく同じなので、文字通り同じ夢を見たことになる。
と俺は考えた。
(前スレ993ではなんかグダグダになったけど、要するにこれを言ってるつもりだった)
15 :
ニプレス:2005/10/21(金) 21:22:28
問題は永井均の言う「文字通り同じ」が、何と何を同一視しているかということに集約されるかも知れません。
朝、目覚めた後に考えたら「夢を見ていた過去そのもの」がある。「夢を見ていた過去そのもの」がなければ
夢は見れないはずだ。にもかかわらず永井均は過去そのものが存在する場合としない場合を同一視する。
我々少なくとも私には永井均が、誤った同一視をしているように見えた。しかし永井均が問題にしているのは
夢の中の出来事に対応する過去そのものがないということではないか?
目覚めた後、つまり夢の外から考えると過去そのものは「夢を見た過去そのもの」としてある。
でも夢の中から考えると、夢の中で起こる出来事に対応するべき過去そのものはない。
夢の中でラーメンを食べても、太らないしお金も減らない。それは夢の中の出来事に対応する
過去そのものがないからだろう。となれば、過去そのものが存在する場合としない場合を同一視するのは
あながち間違いと言えない気もしてくる。だって夢の中から考えると過去そのものは存在しえないはずだから。
あっ、でも永井均が実感するのは目覚めた後だったなぁ。その場合どうなるんだろう。
ところで永井を知ろうとするニプレスは何者?ニプレスって由来はなんですか?
17 :
考える名無しさん:2005/10/22(土) 00:34:53
三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)が出ましたで旦那。
相変わらず永井に対する嫌味が散りばめられているご様子wwww
相変わらずって、仲悪いの?
三浦センセの永井に対する批判は妥当だとは思うけど、
なんか妙に感情的だよね。
永井の方は「言語哲学に脳をやられてなければ云々」
とか書いてる程度だけどw
20 :
カオル:2005/10/23(日) 00:56:00
>前スレ977〜978 jun1さん
>たとえば私が考えたものだと思っていたものが、そうじゃなかった。
>過去にもあったし、なにしろ他の人にも再現可能だった。こういう経験のことでしょうか。
>このとき観念論の中の言語法則の中に私の個性もすべて飲み込まれてしまいます。
>しかし、態度だけは飲み込むことはできません。
わたしの時間、わたしの考え、わたしの行為、わたしの世界・・・が
わたしでない誰かのものとしてしか存在しなくなってしまうことです。
わたしの中から「わたしにとっての」がすべて抜け落ちてしまうから
わたしがカラッポになってわたしが誰なのかわからなくなってしまう。
けれどそれでも態度だけは、たとえその対象がなくてもとっている。
そうみえないかもしれないし、もう自分のことを自分と呼べないけど
そういうわたしがいる。前スレ893の逆バージョンのようなものです。
たぶん裏表のことでしかないような気がします。
それから、jun1さんのくれたクザーヌスの言葉は至言だと思います。
けれどもたとえば、祈り。たとえそれが、どこにもいない神さまへ…であっても
そこに、わたしが、かかわる(態度がとれる)のなら、祈りは穢れてしまうと思う。
だからきっと神さまに祈るということはできないのです。
神さまはいつもわたしの傍にいて、自分と見分けがつかないくらいに傍にいて
それなのに神さまとわたしのあいだは永遠なのです。
おなじような感じは、jun1さんやたくさんの人たちにたいしても、とくに近くて
親しい人には感じてしまいます。そんなとき、そのことがどうしようもなくて、
ほんとうにどうしようもないことに感じられて、まるでとつぜん虚空にたった
一人見捨てられたような気がして、ゾットするような孤独感につつまれます。
比類なき<わたし>、わたしと永井のそれとはどこがどうちがうのかしら?
>>14 >>15 結局,現実の出来事は(もちろん)私の記憶等によって構成される
わけではないけれど,夢の中の出来事は,目覚めた後の私の
記憶によって構成される,ということになるんですかね。つまり,
夢の中の出来事は,現実とは違って
>>11の1.の考え方があてはまる
ので,記憶があればそれに対応する事実がある,ということになると。
>15
>目覚めた後、つまり夢の外から考えると過去そのものは「夢を見た過去そのもの」としてある。
>でも夢の中から考えると、夢の中で起こる出来事に対応するべき過去そのものはない。
僕のイメージからすると,むしろ逆の感じですかね。
「私が夢を見ているとき,私は私の存在を客観的時間の中に位置づけていない。
しかし,それがわかるのはつねに後からだ。私は,夢の中でも,その世界の他者
と客観的世界を共有し,共通の客観的認識に達している−というように自分の
諸表象をまとめあげている。」(同117p)
ここからすると,夢の中の出来事を,その夢の中で知覚・記憶する限りでは,
現実の出来事の知覚・記憶と変わらないんではないか。むしろ,目覚めた後の
観点からすると,夢の中の出来事は,実は後から私の記憶によって構成された
ものにすぎない,ということになるのかなあ,と。
22 :
21:2005/10/23(日) 13:30:07
ただそうすると,個人的には,別の疑問が出てきて。
現実と夢で,なぜそういう違いが生じるんだろう。そりゃ違うに決まって
いるんだけど,しかし,永井は,カントに関する議論のところで,夢と
現実は区別されない,私が心の中の諸表象をまとめあげれば,それ
だけで客観的世界が構成される,などとしているので(同117〜118p)
まあ,あんまりこの箇所だけにこだわっても仕方ないと思われるので,
改めて読み進んでみます。つきあってくれた方どうもです。
ところで、三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』を買ってみたんだけど、どの辺に永井に対する嫌みがあるの?
飯田隆に対する批判ならあったけど。
「問うことこそが重要なのだと開き直る哲学者も多い」
プギャー(顔文字略
25 :
jun1 :2005/10/23(日) 21:23:15
>カオルさん
今、書き込みの内容を書き進めているところなんですが、出来上がりがもう少しかかりそうな
感じなので、そのご報告です。だからといって、とんでもないことを考え中というわけでも
ないのですが、(じつは今回時間があまり取れなかったのです)、ということなので、
どうかひとつよろしくお願いします。m(_ _)m
>24
それ、永井に言ってるの?
また、そうだとして、何がプギャーなの?
>>26 三浦と永井と両者の読者に対してプギャーなのであろう。
28 :
ニプレス:2005/10/24(月) 14:34:57
>>21 いやいや、ご明察。確かに「夢の中の出来事は幻」と断じる観点は、すでに夢から覚めた状態=夢の外にしかありません。
「夢の中」と「夢の外」という対比で同一視問題を考えていたつもりでしたが、実際は「夢の外2」
(つまり現実)から「夢の中1」(夢そのもの)と、「夢の外1」(夢を見ていた過去そのもの)を
捉えていたに過ぎなかったようです。だから前回の書き込みは不精確でした。
「永井均は夢の外2から夢の中1の胡散臭さを指摘した」と書くべきだったかも知れません。
ちなみに私は夢の外2から「夢の中でラーメンを食べても体重は増えない」と断じていますが
「夢の外2」が「夢の中2」でないとは、つまりこの現実が夢でないとは、言い切れません。
この現実が夢の外2ならばこれ以上の階層化はなされませんが、もしこの現実が夢の中2であれば
夢の中2と夢の外2を相対化する夢の外3が要請される。しかしそうであってもこの現実のリアルさは
揺るがない、というのが永井均の洞察であり、この三部作で言わんとしたことではないでしょうか。
29 :
ニプレス:2005/10/24(月) 23:23:41
インサイトの言う「吹き出し」の話になるのかなぁ。
30 :
カオル:2005/10/25(火) 01:58:41
>>25 jun1さん
ゆっくりで結構です。(一ヶ月後だってかまいません)
そのかわりジックリ考えさえてくれるのを待ってます。(^.^)
わたしの記憶が消えてしまったら、わたしの魂も消えてしまうでしょうか。
わたしがあなたを忘れてしまっても、あなたはわたしを愛してくれるでしょうか。
それは記憶でしょうか、心でしょうか、それとも朽ちていくこの身体でしょうか。
思い出した夢に愛はあるでしょうか。想い出のなかにわたしはいるでしょうか。
わたしはいつかあなたに愛されたこともなにもかも忘れてしまうでしょう。
でも、だから、わたしの前に現れることのなかったあなたをいつまでも愛します。
夢でそうしたように、うつつでそうしたように、魂がそうしたように。
↑は『私の頭の中の消しゴム』という(痴呆の)映画をみての感想です。
永井の<わたし>論についても、こういう−感じ−からも考えたりしてます。
夢という舞台設定を与えると、すっきり説明できてしまう<わたし>論なのに
どういうわけか、夢には他者がいない?、というような当り前?をもってきて
議論をさけているようにみえてしまうのは、わたしだけでしょうか。
さめない夢のなかでは、すべてが現実なのではないでしょうか。
たしかに目覚めた後で思い出される夢は、想い出(記憶)なのでしょう。
だからそれは夢そのものではないから、それを夢そのものとして感じてはいても
その感じは記憶の想起にともなうものでしかないから、夢そのものの経験(の感じ)も
想い出としての夢に回収されてしまう。つまり夢はけっして現前しない夢そのものの
痕跡というカタチでしか現前しないものともいえます。たしかにそうかもしれないけど
それなら、もしかしたら現実もさめない夢のさなかかもしれない。仮にそうだとしたら
舞台設定が夢の<わたし>論(
>>13)は、そのまま現実にもあてはまってしまいます。
夢の<わたし>と現実の<わたし>が別ものであるなんてどうしていえるでしょうか?
31 :
jun1:2005/10/25(火) 06:13:58
【1】 カオルさんへ
>>3 >思索や読書やわたしへの批判に利用してみたらイイと思います。
>どうでしょうか?(^.^)
了解しました。
>>4 >接点の「なさ」を炙り出すという仕方で
>永井の「独在性」の議論の核心に迫れたらと考えていたのです。
了解です。私は、永井の論にあるある種の難解さは、まったく違うレベルのもので
あるというように考えています。極端な形で言うならば、彼の論、文章に対する姿勢、
論理的確実性、もしくは日本語に対する認識の甘さがあるのではないかというよう
に考えていました。
永井は、哲学史における普遍的な問題、あるいはパラドックスを扱っています。ただ
彼の文章が、そのときなにを言わんとしているのか、私には分からなくなってしまい、
私は読み進めることができなくなってしまいます。だから、彼の意見がいったいどういう
ものなのかそれを理解するのに力を注がれてしまい、なんとも議論の核心に迫ったと
いう実感が得られないのでした。
32 :
jun1:2005/10/25(火) 06:14:45
【2】(つづき)
(五分前世界創造説と五十センチ先世界創造説のこの違いは、《今》のほうも独我
論化して《私の今》にしてしまうことで、解消できるので、後にやってみよう。もちろん、
こんな解消の仕方で納得できる人は、私以外にはあまりいないのだろうが、それは
もう仕方がないことだ。私の意味での哲学は、最終的には公共的な仕事ではないから。(p35)
正直なところ、ため息がでます。本来ならばこんな箇所、引用すべきではないのか
もしれません。そのままにスルーしておいた方が良いのかもしれないほど、これは、
いい加減な台詞です。職業哲学者でありながら、最終的なスタンスが公共的な仕事
ではないというのは。
彼は仕事として、哲学で食っているんじゃないのでしたっけ? 学生に哲学を教えて、
ある程度の学に対する啓蒙を与えて、それが彼の仕事なのではないのでしょうか?
哲学は、仕事ではないかもしれないが。しかしながら、哲学は公共のものではないという
事態を否定するものではない。哲学が公共のものか、私的なものなのか論議することも、
哲学であるのに(自己を自己において考察すること≒哲学)、彼の場合、彼の哲学というものは、
これ以上考えることをしなくなった、つまり思想そのものになっているように思えるのでした。
それから、気になったのが『解消』という言葉。彼はねじれた問題(パラドックス)を、"解消"す
ることが哲学と思っているようですね。うーん、それって哲学ですか? 問題が有耶無耶に
なって、あいまいなものにしてしまうことを、哲学だと言っている様なものですがいかがでしょう。
33 :
jun1:2005/10/25(火) 06:15:20
【3】(つづき)
もちろん、彼が私のこの言葉を聞くならば、「いや違う! 〜はこういう意味だった。」と否定
してしまうでしょう。あるいはそういうレスがここに来るのだと思います(永井以外の人間からも)。
まあ、別にそういうレスが来るのは良いですが、むしろあえて私はそうしているわけですが、
どうやら彼自身は、私的な哲学を、そういう(公共ではない哲学)ものに、処理してしまっています。
もちろん彼が、ここに降りてくることはありませんし、彼自身、さまざまな批判を受けて、感情的に
相手を罵倒することしかしませんでした(『子どものための哲学』参照)。批判の仕方としては
ある意味それは、正当なやり方だったのかもしれませんが、少々露骨だったように私は思います。
少なくともエッセイのようなもので一方的に批判するような性質のものではないと、私なら思います。
文庫の中でつまり相手に批判する場所が与えない場所で批判を行うという行為は、まったくの
アジテートに匹敵するものだったのではないでしょうか?
実は、私は、竹田青嗣氏の著作(現象学入門)を読みましたが(今も通読中です)、西洋の
近代思想にふれながら、丁寧に論考を解体していく様に、とても感動を覚えておりますし、
またそこに通底としてある、彼の私的哲学の潮流も感じることができました。私は竹田氏の
文章を読んで彼は心構えや態度を強く大事にする方なのだなと思いました。問題点を、
それがどういう種類の問題点であるかをはっきりと示します。まず読者に基礎的な理解を
補い、そこにあるさまざまな意見を抽出します、それから、テーマにある問題点を竹田氏自身
の解釈によって論及を重ねていきます。またさまざまな哲学者の意見を提出しながら、哲学
史におけるそれらの論の位置づけをも同時に行っています。
34 :
jun1:2005/10/25(火) 06:15:53
【4】(つづき)
彼は、職業哲学者として、それだけのことをやっているのです。永井氏は、基本的な前提とし
て、竹田氏の著作をいくつかあたり、それらを読み解く努力をしたのか? まったく彼はそう
いった作業を今もなお放棄したままではないでしょうか? 私のもっとも強く懐疑するところは
つまりここです。竹田氏は、永井と同じ職業哲学者です。もし竹田氏の著作を読まずに批判した
のが読者や、この2ちゃんねるという匿名掲示板という場所ならば、ある程度許されると思います。
また永井の論を読んで共感したのであれば、そういった感情もなんとなく分かります。(しかし
それでも自己責任というものが付きまとうはずですが) もし永井が職業哲学者であるならば、
彼はそれだけのことを踏まえて、相手が同じ哲学者であるという認識を踏まえて反論すべき
だったのではないでしょうか?
私は、ニップルさんとカオルさんの議論で永井と竹田氏の論争の事実を見て、まっさきに
確認したのは、竹田氏はどういう哲学者なのか、彼がどういった問題意識をもって、どうい
った論を出しているのかということでした。それが、つまり『現象学入門』を読む理由で
あったのですが、そこにあるものは永井とほぼまったく同じ問題領域であるという事実と、
それがまったく素晴らしい著書なのではないかという感想と、もしかしたら間違っていて、
誤解しているのは永井氏なのではないかという新たなる懐疑でした。この疑念は今も変わる
ことはありません。そして、竹田氏を日本人の哲学者(在日という問題もありますけど)として
もっとも人に薦めたい人の一人になりつつあります。とりあえず私のこのスレにおける立場は、
つまりそんな感じなのです。私はこういう立場ですよ、そういう意味での意見が覆ることは
ありませんよと、とりあえずいちおう言っておこうと思いまして。長くなりましたが前置きは以上です。
35 :
jun1:2005/10/25(火) 06:16:47
【5】
>>4 >また逆に限界を突破してしまった哲学者として西田幾多郎を想定してました。
簡単に言うと、『矛盾』を肯定してしまったところにでしょうか?
むろん、自己における矛盾という限定が入ります。
そしてこの『自己における矛盾』が、《今》という様態の根本的な部分なのではないかと
考えたりします。(その部分を書こう書こうと思うのですが、今は、まだ考えがまとまりません)
たとえば、私の目の前には、矛盾のある今しか存在せず、そこから記憶や過去という存在
が作られるとしか思えないからです。永井はなぜか、過去に過去そのものという、カントの
物自体のタームの戯れとしか思えない概念を作り出して、それが実在するかのような、
議論の誘導を行っていますが、カントが物自体という概念を作成したのは、そもそも
実在と、本質の視点から一歩間をおいたところで俯瞰するために『物自体』という概念を
用意したのではないでしょうか? 物自体は、客観ではあるが、主観のまったく入りきらない
という限定が入った客観のことです。当然、主観のない客観は存在しませんから、『物自体』
は概念として存在しないんです。本来ならば論理用語として覚えておくべき言葉なんです。
36 :
jun1:2005/10/25(火) 06:17:27
【6】(つづき)
ちなみに物自体は、決して対象でも、本質でも、実在でも、個物でもありません、また実体でも
ありませんから当然、"一つ(存在)"でもありません。物自体が、概念のような実体ではなく、
論理用語として存在していることを、意識しての発言だったのでしょうか?
そもそも永井の言う『過去そのもの』って何のことなんでしょうか? これで『過去そのもの』が
分かる人がいるのでしょうか? どうやら永井は『過去そのもの』を、"実際にあった過去"
と位置づけています。カントならば、その『過去そのもの』をとって、「なんだいそれは?」
呼びかけるのではないでしょうか? 「過去そのもの、なんて、いったいどこにあるんだ?
なぜ『過去』と『過去そのもの』を呼び分けたりするんだ? そんなの分かりにくいだけで、
無意味じゃないのかね?」 とね。カントの『物自体』という概念は、こういった議論の一切合財
から解放するためにあったことを永井は今一度確認すべきではないでしょうか?
(カントの純理はこういった議論との決別であったはずです)
>>7 >今度はわたしが、jun1さんの意見が単なる永井批判と受け取られないように
どうやら、私の論は単なる永井批判としてあるのかもしれませんね。書いていて実際そう思いました。
でも補足してくれて少し感謝です。カオルさんの意見には、私はけっこう期待しているんです。
もちろん忙しいなか、書き込んでいる部分があると思うので、思うように自分の意見を提出でき
ないジレンマもあると思いますが、まあお互い思うように議論ができたらなと思っています。
37 :
jun1:2005/10/25(火) 06:22:03
【7】
>>8 >そしてこの反復が可能なためには、双方の「あいだ」が必要ですが、ここに不可避的に介在してくるのが
>「記号」の物質性や媒介性であることから、意識を成立させる構造そのものに、すでに「汚染」が内包され
>ていることが示されるわけです。
私はデリダ論についてはさほど詳しくないので、カオルさんのデリダ論を批判するだけになるの
ですが、デリダのある種のこの「記号」に対するの懐疑は、より抽象化され、分析哲学、そして論理学へ
と回収されるような事態へ進行するのではないかと思いました。なぜならその問題性が「記号」の記号性と
いう事態から、まったく逃れられていないように思うからです。
そこには言語は、言語の本質は、コミュニケーションの道具であるという前提がやはり深く眠っている
ように私は思います。私は、これは違うのではないかというふうに、考えている最中なのです。
最近の私の哲学はこれを考えることでした。というのは、言葉というものは、"伝える"ではなく、
"応じる"という部分に、強くその本質があると思うからです。"応じる"というのは、<伝わった>という
相手への行為の了解を、内意として含んでおり、つまり構造的に、『伝達』という本質を凌駕(内包)
しているからです。まず『伝達』そのものは、言語なしでも十分可能だと考えています。『伝達』は、
禁止(NO)と誘導(YES)という内意を相手に対して限定することの行為なのだと思うのです。
ですから身振り手振りや、すでに取り決めがされた記号を使用しての伝達は、本質的に可能です。
38 :
jun1:2005/10/25(火) 06:23:54
【8】(つづき)
この違いは、人が驚いたときに、「わ!」と言うときと、言語としての「驚いた!」と言葉を発するときの
違いを見れば、明らかです。「驚いた!」と発した方が、相手への了解の態度が多分に含んでいますよね。
このように言語とは、本質的に、応じること、つまり『応答』として定義するのが本質的な定義なのでは
ないでしょうか? (伝達ではなく)
私の立場から申し上げると、そのカオルさんによるそのデリダ論を見ると、それは「汚染」ではないのでは
というのが私の主張です。そして、その『応答』の部分に"態度"という存在が現れ、そこに人間の存在者と
しての本質があるのではないだろうか? この痕跡を残すことが言語の努めなのだと思いました。
言ってみれば客観的実在も、そのものがあるわけではなく、人間が言葉によって規定し作り上げたものです。
39 :
jun1:2005/10/25(火) 06:25:39
【9】
>>12 時間論に重ね合わせて
>永井は入不二の時間論を批判して時間が実在するかどうかなんてどうでもよいみたいに
>いうけれど、
時間は、実在するための定義ですよね。実在の基本定義は時間と空間、それ自体に時間が存在し、
それ自体が空間が位置しているのなら、それは(その世界において)実在すると言えると思いました。
>(1) みかけ(仮象)ではない「ほんとうの姿」。
存在論では、仮象(非実在)も、実在も、存在論の中に回収されます。(存在⊃実在)
カオルさんの言う、「ほんとうの姿」というのは、私が 『存在』 としても 『実在』 としても一致した
形態 を言うのだと思います( 『私という存在』 = 『実在』 )。つまりそれは仮象の部分がない
状態です。( 『仮象』=0 )
40 :
jun1:2005/10/25(火) 06:26:37
【10】(つづき)
ここですこし気になるのは、夢は実在なのか、仮象なのかということだと思います。
結論から言ってしまえば夢の中の世界では、それは実在です。そこに時間も流れ、空間も
展開されているからです。しかし 『客観的世界』 においては、それは 『非実在』 です。
そして、夢は私の肉体の作り上げる世界であるために、 『私の肉体における実在』 です。
つまり 『私の肉体』 は、空間的にも、時間的にも、『客観的実在』 の 『存在』 ですが、
その実在(今)は、夢の中(仮象)にあります。つまり、『私という存在』 は 『仮象』 そのもの
だということです。ですから夢を見ている人、つまり眠っている人は、その人の『ほんとうの姿』
ではないということになります。つまり、( 『私という存在』 = 『仮象』 = 『私の肉体における実在』 )となり、
図式としては、『私という存在』は、『私の肉体における実在』 と一致していて、これはさきほどの
「ほんとうの姿」における図式、( 『私という存在』 = 『実在』 )に酷似していることがお分かりに
なるのではないでしょうか? この 『私という存在』 と 『実在』 の関係が、夢における、ありありとした
現実感を生み出すのだと思います。
41 :
jun1:2005/10/25(火) 06:27:12
【11】
>(2) 心の働きに依存しない、それから独立した「それ自体であるもの」。
この、独立した 『それ自体であるもの』 とは、存在のことをさしているように思いました。
そのような、存在のことを指しているように思いました。存在論とは先ほども少し触れましたが
態度であり、それ自身がそれ自身であるような存在、つまり私たちの間にある存在、 『言語』 という
ことになります。つまり言語を通して、私たちは、態度を規定していくのです。そしてこのような
態度を規定することが、形而上学なのだと、私は考えています。アリストテレスを紐解いたハイデガー
によると彼の第一哲学とは存在論だということになっていますが、ちなみにそれを規定するのは
形而上学でありその態度決定が彼の哲学を確実なものとして、公共的にも敷衍されるにいたった
のではなかったでしょうか?
そしてこのような 『態度決定』 は、どのような哲学者においても共通して見られる事象だと、
私は認識しております。
42 :
jun1:2005/10/25(火) 06:28:00
【12】
>(3) ありとあらゆるものごとを含む全体、その全体が一挙に成り立っていること。
(3)はすでにカオルさんが、
>>10や
>>12の
>主人公のわたしも泣きそうなわたしや怒ったわたしの顔をみているカエルもわたしです。
>もっというならわたしは石畳の蔦や苔にもなれるしビルにも灰色の空にもなれてしまう。
で表現されていますし、それで十分なのかなと考えていますので今回はスルーさせてもらいますね。
>4) 矛盾を含まない整合的なものであるという側面。
これは、先ほど言った( 『私という存在』 = 『実在』 )でしょうか?
しかし、私という存在は、先ほども申し上げたとおり、言語(態度)ですから、実は 『実在』 よりも、
後に存在します。存在論的には、アプリオリに定義されるという困難が付きまといます。
もちろん、態度そのもの(それ自体としてあるもの)は、実在しているはずなのですが、これは<今>その
ものであり、それ(態度)を示した瞬間、<過去>となり失われてしまいます。ようはこれを失わないために
言語によって、痕跡化したのです。
43 :
jun1:2005/10/25(火) 06:28:35
【13】
>(5) ありありとした(いきいきとした)現実感。・・・・・ 入不二基義『時間は実在するか』から
>
>とくに(5)の「ありあり感」というのは、重要なファクターだと思います。
>ここを起点にして、西田の生命論とつなげられないか、と考えています。
結局は、 『態度』 と、 『現実』 の関係になるのでしょうか?
現実の世界に、 『態度』 が上手くおさまったとき、人は、"いきいき"とした存在感を得ることができます。
このいきいきは、私の挑戦に対する、私のご褒美(糧)なのだと思います。目標に対する達成感と
考えるとより分かりやすいかもしれません。(いま、生命論とはかけ離れていますので念のため)
このような、挑戦と糧は、まさに、<私>と<神>の関係なのだと思います。そしてこのときの私の状態を
おそらく<実存>状態と言うのだと思います。
このような<実存>状態における自らを通しての理解が、それ自身の"新たな経験"として、つまり、
過去と現在の純粋な融合が絶対矛盾的自己同一の場面をまったく可能にしているのではない
だろうかと思えてきました。
つまり西田は『絶対矛盾的自己同一』によって、実存の立場を表明しているわけです。
この自己投入する私(≒永遠の今の私)は、される私(過去≒現前する私)よりも制限が多い。
自己投入する私(制限あり≒有限)、される私(≒無制限)このような関係に対して、
私は運動し続ける。決してこの際の運動自体は、何かに対する目的を持ったものではなく
生命における本能的なものである。(個体化の原理)
これがデリダによって、それがエクリチュールの差異として明らかにされたのかなと、
ふとぼんやりと思いました。ちなみに、
>>8のデリダ論は面白かったですよ。
44 :
jun1:2005/10/25(火) 06:29:21
【14】
>(5) ありありとした(いきいきとした)現実感。・・・・・ 入不二基義『時間は実在するか』から (再掲)
この"ありあり"としたというのは(いきいきではなく)、言語のコミュニケーションの中にしか存在しない
事象なのではないでしょうか? (自然との関係ではなく、他者との関係)
世界に対する、発見と獲得という経験という実存状態から生じるのではなく、他者との共感の作用が
ありありとした現実感を、するのではないでしょうか?
そもそも動物は、"ありあり"とした現実感に、疑いをかけたりするでしょうか?
そのありありとした現実感の現場には、問いかける者の存在(実存者)のあとに、応答する者の存在が
はっきりと現れていて、これが"ありあり"とした現実感を描き出すのです。そしてここに(芸術、文学、人)の
本質的な機能があると思うのです。
そこがただの私の世界で、無だと思っていたもの(物)が、実は他であり、人(者)であり、かつそこには
その人の世界があった。その世界は私と同じ存在のかたちをしていた。このような発見が、一体感となって、
(存在=他=人=世界)の構図をつくりだし、まったくの、ありありとした現実を生み出すのだと。
そしてこれこそが、いわゆる倫理の世界だと思ったのですがいかがでしょうか?
長くなりましたがこれで以上です。
いちおう『架け橋』してみたりしてみたのですがいかがでしょう。 m(_ _)m
別に重大な問題ではないけど・・・
>>33 >彼自身、さまざまな批判を受けて、感情的に
>相手を罵倒することしかしませんでした(『子どものための哲学』参照)。
>文庫の中でつまり相手に批判する場所が与えない場所で批判を行うという行為は、まったくの
>アジテートに匹敵するものだったのではないでしょうか?
「相手に批判する場所が与えない場所で批判を行う」とは,どういう意味?
永井は,竹田青嗣を批判したときに,竹田の議論がでたらめでないというのなら
きちんと説明してほしいと書いて,本人に送付したが,1年以上経過しても
応答がなかった,と書いてるんだけど(『<子ども>のための哲学』p213)。
実際には送付していないという意味なの?
まあ,この箇所の竹田批判の文章が,竹田の議論におかしな点があるという
印象を強く持たせるような表現になっているのは確かだけど,しかし,自己言及の
パラドクスと永井の言っている<私>が(よほどひねった考えをしない限り)
関係ないのは,間違いないと思うけど。
46 :
ニプレス:2005/10/26(水) 01:19:03
多勢を頼みにするわけではないんだけど…。
以前、竹田の立場をギリギリ擁護することが可能かもしれないと考えてみたけど、竹田の立場から
永井均を批判できるとは全く思わないなあ。ギリギリ擁護しても永井均を肯定することになると思うから。
それに普通に考えると「よく読んでない」のは竹田の方で、しかも竹田の方から<わたし>論に
ふっかけてきたのに逆に永井均に向かって「竹田をよく読んでない」と言うのは如何なものかなあ。
47 :
ニプレス:2005/10/26(水) 01:58:07
ところで前野隆司という人の永井批判をちらっと立ち読みして、やっぱり
「<わたし>が権利を持つ」と憲法に書いてあったら、という思考実験を考えてみたいと思いました。
また今度になりますが。
>>47 >ところで前野隆司という人の永井批判をちらっと立ち読みして、
それはどの本で読めるんだろう。俺もちらっと立ち読みしてみたい。
49 :
jun1:2005/10/26(水) 13:23:11
【15】
>>45 >別に重大な問題ではないけど・・・
うーん重大かどうかは、それぞれの考え方だからなあ。
そんなことに私は優劣をつける気はしないんだけど、いちおうレスがあったので
答えておきますか。
竹田さんは、永井は「人間の『独在性』(<"この"私>)は言語の構造上これを
明示することができない、という"パラドックス"を発見した」と言う。そしてこれは
自己を解体する試みだが、そんなやり方では自己は解体できないのだ、と。 ……@(永井)
と永井の竹田氏批判は始まってるんだけど。
竹田さんには永井が壊しているように見えるもの、"それが何であるか"、という
一点に尽きる。そこさえはっきりつかめれば、それが解体されようがされまいが、
そんなことはどうでもいい。 ……A(永井)
この壊しているものって"自己"のことだよね? これの何か、問題があるのかと私は思
いましたけどね。で、彼のさらにすごいところは"そんなことはどうでもいい"と言い放っ
ている点です。こんな哲学者をいったい誰が相手にするんだろう? 私にはまったく
想像つきませんでした。
50 :
jun1:2005/10/26(水) 13:23:51
【16】(つづき)
レッテル的に言えば、(中略)、竹田さんは永井は「自己解体論者」だと思
い込んでいる。 ……B(永井)
どうやら、永井は、「自己解体論者」と思われるのを嫌がっているようです。
でさらに永井はこう言っている。
ぼくは、力の及ぶかぎり、ぼくの独我論を構築するために努力するだろうし、
また同時に、力のおよぶ限り、それを「解体」するために努力するだろう。
どうしてそうしないことができようか。 ……C(永井)
と、ここでなぜか、自身が「自己解体論者」であることを肯定している。
この永井の言っている意味が分かりますか? 自分を「自己解体論者」と思われるのは、
イヤだけど私は、自己は解体する、そうせざるを得ないからするのだと。
そもそも、こう言い放った永井を、「自己解体論者」とするのは、どうしていけないことなん
だろうか? しかも、自身がそうであることを認めていながら、どこがレッテルなんだろうか?
しかも自分が、自分につけたレッテルなのにね。いったい、どうして竹田氏が言い放った
ような言い方をここで永井はしてしまったのだろう。 こういうの世間一般では被害妄想って
言うと思ったんだけど、そしてこういう卑怯なやり口を、詭弁術って言うと思ったのだけどね。
まあ、彼の言動は、まったくもって意味が不明です。
51 :
jun1:2005/10/26(水) 13:24:23
【17】(つづき)
つまりこれは、"すこし前に"流行った 『自己言及的パラドックス』 の象徴的事例
なのである(まさしくそれが 『自己』 の言及に関して指摘されているから) ……D(竹田)
この文に対して永井は過剰な反応を示しました。
これがほんとうなら、ぼくも、それを指摘した竹田さんも、大発見をしたことになる。 ……E(永井)
これはとんでもない誤解だと思う。あるいはかなりの嫌味じゃないだろうか。この文章の
言いたいことは、永井のやっていることは、別に"発見ではない"ということ。それが"象徴
的事例"という言葉で、ことさらに示したというのがこの文の正常な視点での読み方なん
だけど。この人、読み方がずれているように思います。しかもこの文章、かなりおかしい
んです。まあいまさら言うまでもないことですが。
52 :
jun1:2005/10/26(水) 13:25:05
【18】(つづき)
でさらに具合の悪いことに、永井は自分の首を絞めることを言っていること。
ポスト・モダン的議論の泥沼を多少なりとも踏み渡ったものなら、この問題の背後
には、 『主体の形而上学』 をいかに解体するかという……フランス思想における
反ヘーゲル的格闘が存在することを知っているだろう。 ……F(竹田)
まあ、「反ヘーゲル的格闘」とは、フランス思想、デリダから始まる「脱構築」、「解体」の
ことを示しているのは明らかで、その概念そのものが、Cの自身の文章そのままをを示
していることを永井はご存じなかったのかな。この「構築しつつ解体する」というのは
「脱構築」の一般的説明として一番ふさわしい内容なんですけど。哲学者でありながら
勉強不足が露呈した部分ではないですかね?
でこのFの文は明らかに永井に対して語られていなんですけど、これに永井は過剰に
反応しました。くりかえしますが、これは永井に対して語ったものではないです。
「ポスト・モダン的議論の泥沼を多少なりとも踏み渡ったもの」に対して書かれているわ
けです。永井がそれに当て嵌まるのかどうかは知らないが、おそらく永井はそうではな
いと見るべきです。で、これを理解するのには、少なからず竹田氏の著書を読み、それ
を理解しなければ、まったくお話にならなかった部分なのではないでしょうか。
53 :
jun1:2005/10/26(水) 13:26:12
【19】(つづき)
率直に言って、どうしてこんなにもでたらめなことを次々と書けるのか、ぼくには理解
できない。 ……G(永井)
あたりまえでしょう。これは永井に対して書かれた文章ではないのだから。なのに、
永井は竹田氏の著作などをまったく読まずに、これに対し反論するというまったく
横柄な態度でいる。理解できないのは当然です。いうまでもなく竹田氏の文章は
まったくでたらめではない。きちんと読めば理に適った批判していると私は考えて
いるわけです。
54 :
jun1:2005/10/26(水) 13:26:55
【20】(つづき)
で、最後に彼はこうしめます。
抹消だって? 自己や主体が重要な問題であることに、もともと「背景」なんかありは
しない。「現代思想の動向」なんか糞くらえ! だ。哲学というのは、ぜんぜんそんな
ものじゃないのだ。「主体の形而上学」やら「ヘーゲル的自己」やらが「解体」できるか
できないかなんて、大仰で空疎な問題が、哲学の問題じゃないんだ。 ……H(永井)
とここで悪意をもって、竹田氏を踏みにじるような言葉を発しましている。まるで「現代思
想」の全てがダメだったと言わんばかりの口調なんだけど。竹田氏は、"ポストモダン的議
論の泥沼"と適切な言葉でそれを批評してさえいるのにも関わらずです。決して「現代思想」
そのものを批判しているわけじゃない。で「糞くらえ!」 だそうだ。「大仰」で「空疎」だそうだ。
うーんバカなんじゃないのかと私なら思いますけどね。もし私なら、こういわれたら反論文が
来たって、送り返したりしないでしょう。ため息が出るばかりですから。なぜって、ここに永井氏
による竹田氏への痛烈な侮辱と悪態、勉強不足という横柄な態度がつまっているからですよ。
竹田氏からすれば、いや哲学者であれば、これは重大な問題だと思うんだけどな。
55 :
jun1:2005/10/26(水) 13:27:30
【21】
で前置きが終わったところでお答えしますね。
>「相手に批判する場所が与えない場所で批判を行う」とは,どういう意味?
>永井は,竹田青嗣を批判したときに,竹田の議論がでたらめでないというのなら
>きちんと説明してほしいと書いて,本人に送付したが,1年以上経過しても
>応答がなかった,と書いてるんだけど(『<子ども>のための哲学』p213)。
>実際には送付していないという意味なの?
いや、そうではなく。(どうして、そういう意味になるかな?)
文庫にするにあたり、その竹田氏への批判の部分を削ることができたんじゃないのか
ということ。少なくともあの反論が、永井氏の最初のものだったとしたら、竹田が反論し
ないだろうということは述べた。もともとそういう作りになっている。まず誌面にて不意打
ちのように人格を誹謗するような反論を書いて、その後に説明を求める文面を送った。
この順序はおそらく変わらないでしょう。竹田氏は、このように言うべきだったのでしょう
か? あなたは私の言うことを、まったく理解していませんし、反論にもなっていません
よと。やはり議論以前の問題だと思うのですがいかがでしょう。そして永井はのうのうと
一人議論を続ける。この辺を通して、私はアジテートと表現したつもりなんだけどね。
「相手に批判する場所が与えない場所で批判を行う」はそのアジテートに対する比喩
表現です。文面を送ろうとも送らずとも、当然、竹田氏に反論は可能だったと思うんで
すが、あなたならこの流れを見てどう思いますか。
56 :
jun1:2005/10/26(水) 13:28:17
【22】(つづき)
>しかし,自己言及のパラドクスと永井の言っている<私>が(よほどひねった
>考えをしない限り)関係ないのは,間違いないと思うけど。
正直、どうしてそうなるのかよくわからない。永井の論が、対象化した<私>に対して
考察する自己言及形式になっていると思ったのですが、これって的外れかつ、関係な
いですか?
ぼくの本当の問題はこれであった。ぼくは、他人たちとぜんぜん似ていない「ぼく」とい
うものの存在に驚嘆したのだ。しかしその「ぼく」とはいったい何だろうか。「ぼく」と「他人」
の根本的なちがいはいったいどこにあるのか、と考えているうちに ……(p44 子ども)
これ"自己言及"ですよね。で、これがパラドックスを含むか含まないかなんて、哲学に
興味を覚えた者なら、当たり前の認識だと思ったのですがね(当然含みます)、
あら、違ったのかな? まあ、そんな感じですかね。
どの辺が自己言及のパラドクスなんだ?
58 :
ニプレス:2005/10/26(水) 23:04:50
>>48 たしか『脳はなぜ「私」を作ったか』とかいう題名だと思います。
59 :
45:2005/10/26(水) 23:40:23
>>49,
>>50 この辺の永井の文章がわかりにくいということ自体は,僕は否定しない。
(ついでに言うと,永井は,ここだけでなく他の場面でも,自分に対する批判に
応答する場面では,自分の問題が理解されているかだけを考慮していて,
それ以上に相手の主張の趣旨を忖度したり善意に解釈したりすることは
全くやってないように見えることが多い。個人的には,その態度はどうかと
思うことはある。まあそれはそれとして。)
>この永井の言っている意味が分かりますか? 自分を「自己解体論者」と思われるのは、
>イヤだけど私は、自己は解体する、そうせざるを得ないからするのだと。
このまとめ方は,正当ではないと思うけど。
>>50の引用箇所の間には,
「ぼくはただ,独我論というものについて,これまでとはちがった考え方を
せざるをえなかっただけだ。ちがった考え方をすれば,ちがった論駁の
仕方も提起されるのは当然のことだ。」
などとある。合わせて読めば,この箇所の趣旨は,「竹田には,永井が一つの
立場を提唱していると見えているようだが,自分は,一つの立場をとるべきだと
提唱しているのではなく,ただ問題を提起して,それについての一つの考え方,
それに反論する考え方を同時に検討していっているだけだ。」ということに
なるだろう。
こういうことは,永井は他の本でもちょくちょく書いている。まあ,そんなことは
知らんと言われれば,それまでだけど。
60 :
45:2005/10/27(木) 00:19:26
>>51-54 僕個人は,竹田の本もフランス現代思想とかもよく知らないので,
この辺はパス。
>>55 竹田は,反論すること自体は可能だったけれど,永井の批判内容が
反論するに値しなかったから反論しなかったのだろう,と,あなたは
思うわけね。上に書いたように,僕は竹田の本は知らないし,永井の
応答の仕方にはあまり感心しないので,それはそれでいいです。
>>56 ここは,僕にはよくわからんですな。少なくとも僕が関連しそうな本を
いくつか読んだ限り,「自己言及のパラドクス」の典型例は,「この文は
間違っている」という文が真か偽か,というやつで,ある文がその文
自体に言及していて,その文を真と考えても偽と考えてもおかしなこと
になる,という問題なんだけど。
永井の議論に出てくる「<私>」という単語,あるいはそれを含む文が,
その単語あるいは文自体を指している,なんてことはないのは,明らか
だろう。
私というものについて考えた場合に,いろいろ問題が生じてくること
自体はそのとおりだと思うけど,それを「自己言及のパラドクス」と
言うものなの?
61 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 01:41:12
>私というものについて考えた場合に,いろいろ問題が生じてくること
>自体はそのとおりだと思うけど,それを「自己言及のパラドクス」と
>言うものなの?
私という自己について言及することに関する問題なのだから
それを自己言及のパラドクスと呼んでなにが悪いのでしょうか。
ぞっとします。
63 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 02:56:03
yahooの大辞林で
パラドックスを引いてみました。
「逆説」とでました。
このわたしについて語っていることが実は一般的自己についての語りに
なってしまい肝心のこのわたしについて語ることができない
という事態は「逆説」の名にふさわしいのではないでしょうか。
なぜこの問題を、自己言及のパラドクスと呼んで悪いのかわかりません。
ちゃんと説明してください
ぞっとします。
64 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 03:01:20
65 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 03:26:47
>>63 個別性と一般性が明瞭に区別されないためでしょう。
「私一般」と「この私」ともいえますが、「私」という言葉が
すでに一般化、抽象されているので厄介なのかもしれません。
おまいらヒマだなあ
「きちっと」調べなさい。
パラドクスが哲学的に他にどんな使われ方をしているかも。
おのずと「自己言及」がついたときのパラドクスの一般的な意味も分るだろう。
(もしかしてあの「クレタ人のパラドクス」を知らない?)
さもなくば一生ぞっとしていなさいね。
68 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 03:51:08
個別性は「ゆうくんは〜、とか、愛ちゃんは〜」と自称する段階が最も強く
俺ーお前、僕ー君、私ーあなた となるに従って薄まりますが、
ワシーおまえ となると多少回復されます。
69 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 04:04:06
>「きちっと」調べなさい。
>パラドクスが哲学的に他にどんな使われ方をしているかも。
>おのずと「自己言及」がついたときのパラドクスの一般的な意味も分るだろう。
>(もしかしてあの「クレタ人のパラドクス」を知らない?)
はあ?
「自己言及」がついたときのパラドクスの一般的な意味?
あのね、
クレタ人のパラドクスも、うそつきのパラドクスも
しってますよ。
それがどうしたんですか?
”このわたしについて語っていることが実は一般的自己についての語りに
なってしまい肝心のこのわたしについて語ることができない
という事態”
を自己言及のパラドクスと呼んではいけない理由を聞いてるんですよ。
結局答えられないんですね。
ぞっとします。
70 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 04:09:30
それは論理的主体と実存的主体の違いだろうね。
>>61 自己言及のパラドクスとは、「ある命題の言及対象がその命題そのものであり、
それゆえに真偽を定めることができないような命題」をいう。
典型例としては「この文は間違っている」というような命題。
(ちなみに「この文は正しい」という場合は自己言及だがパラドクスではない)
一方、
>”このわたしについて語っていることが実は一般的自己についての語りに
>なってしまい肝心のこのわたしについて語ることができない
>という事態”
は、「ある命題の言及対象がその命題そのものであり、
それゆえに真偽を定めることができないような命題」
ではないので自己言及のパラドクスとは全然ちがう。以上。
※
構造を示すと、すべての文は「この文は真である」という暗黙の内容を持つため、
文自体の真性を否定するような命題内容を持たせると矛盾する、というだけのこと。
72 :
二プレス:2005/10/27(木) 15:21:26
みなさん、あんまりぞっとしすぎて風邪を引かないようにしてくださいね。
訂正
>>58 前野隆司 『脳はなぜ「心」を作ったか』でした。
73 :
二プレス:2005/10/27(木) 16:43:37
さて、「<わたし>が権利を持つ」と日本国憲法に書いてあったら、という問題を考えてみたいと思います。
独在性の議論は「公共性」と「私秘性」が入り組んで絡まりあう様な議論ですからこういう方向から考えても
いいのではないでしょうか。
まず、場合分けができます。ひとつは、自分が憲法案を起草した場合。つまり自分で「<わたし>が権利を持つ」
と憲法に書き込んだ場合。二つ目は、「<わたし>が権利を持つ」という条文を誰かが書いたものとして読んだ場合。
とりあえず、一つ目の場合を考えて見ます。
「<わたし>が権利を持つ」と憲法に書いた人は太郎という名前で、高校生のころ次郎という同級生と
特殊な脳の手術を受けた人物です。
彼は日本国憲法で保障された権利はすべて自分ひとりだけに帰すると考えてこの条文をこしらえました。
ですが、おかしなことにあちらにもこちらにも権利を主張する人間がいるではありませんか。
しかももっとおかしなことにアフリカで日本語を学ぶ黒人青年までも権利を主張しています。
結果的に日本国国民なんかよりももっと広い範囲の人が権利を主張しています。さて太郎は彼らの権利を認められるでしょうか?
ポイントは日本国憲法に書かれている<わたし>は「独在性の私」である、ということにあると思います。
裏返すと<<わたし>>、つまり「単独性の私」ではないはずだったということです。
(参照までに、森岡正博という人の永井批判(
ttp://www.lifestudies.org/jp/kono01.htm)はまさにこの
独在性が語られると単独性に変質する、という憲法問題に見られるような事態を見逃していると思います。
森岡が「明晰に語られうる」とする「独在性」は「単独性」でしかありえない。
<わたし>を「独在性」と「独在的存在者」に分解することが可能だとしてもそれを語ろうとすると
「独在性」は「単独性」に転落する。なぜならみんなに理解され把握されてしまう「独在性」とはそもそも
「独在性」の定義に反しており、むしろ「単独性」の定義にすっぽりと収まっているからだ。)
(同じことは前野隆司という人にも当てはまって、<わたし>とは「無個性的なクオリア」である、という
彼の主張も結局<わたし>を「単独性のわたし」に転落させてから料理しているに過ぎない。)
74 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 16:55:32
どれだけぞっとさせれば気がすむのでしょうか。
心底ぞっとします。
>自己言及のパラドクスとは、「ある命題の言及対象がその命題そのものであり、
>それゆえに真偽を定めることができないような命題」をいう。
確かに、「命題の自己言及的性格がその命題の真偽決定を不能にするような命題」
をさして自己言及のパラドクスと呼ばれることがあります。
しかし、そのことから、
それ以外の性質をもった命題を自己言及のパラドクスと呼んではいけないという
ことがどうして導かれるのでしょうか。
まったくわかりません。
ぞっとします。
たとえば、
独我論とは、一般的には自分一人しか存在しないといった主張として提示されるが、
それに対して永井は、そうではなく他人とは違ってこの自分にしか存在しない特別な
なにかが存在するという主張を独我論と呼んでいます。
あなたのロジックによると、
独我論は、自分一人しか存在しないという主張を指すのだから、
永井の主張は独我論ではない。
よって永井は自分の問題を独我論と呼んではいけないと
なり、ぞっとします。
75 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 16:56:29
私はちゃんと61と63で,
このわたしについて語っていることが実は一般的自己についての語りに
なってしまい肝心のこのわたしについて語ることができない
という事態は
>>61 このわたしという自己についての言及に関する問題であり
その意味で自己言及であり
>>63、
また”この私語りがこの私について語ることができない”
という意味でパラドクス=「逆説」であり、
よって、
この問題を
自己言及のパラドクスと呼ぶことができると主張しております。
なぜ、この問題を、
自己言及のパラドクスと呼んではいけないのでしょうか?
「ある命題の言及対象がその命題そのものであり、
それゆえに真偽を定めることができないような命題」
以外の命題や事態を自己言及のパラドクスと呼んではいけないという
決まりでもあるのでしょうか。
本当にぞっとします。
>>74-75 そういう意味であれば、あなたが呼びたいように呼べばいい。
しかし説明なしに永井的なものを「自己言及のパラドクス」と呼ぶと馬鹿だと思われるよ。
私があなたを馬鹿だと思ったように(そしていま現にそう思っているように)。
77 :
考える名無しさん:2005/10/27(木) 17:23:48
>しかし説明なしに永井的なものを「自己言及のパラドクス」と呼ぶと馬鹿だと思われるよ。
>私があなたを馬鹿だと思ったように(そしていま現にそう思っているように)。
はあ?
ちゃんと
>>61と
>>63で説明しており、その上でなぜ自己言及のパラドクスと
呼んではいけないのかと聞いていたのですが?
ようはあなたが理解できなかっただけでしょう?
馬鹿に馬鹿と呼ばれるとは心底ぞっとします。
>>77 2行目3行目は単なる忠告。
何であれあなたが好きなように呼ぶことはまったく自由だけど、
説明なしにそう呼ぶと馬鹿だと思われるから気をつけろよ、と。
>馬鹿に馬鹿と呼ばれるとは心底ぞっとします。
同感。
79 :
二プレス:2005/10/27(木) 18:57:36
みんながぞっとしている間にわたしのレスが流れていくかと思うとぞっとします。
>>73 「あちらにもこちらにも権利を主張する人間がいる」とか「黒人青年までも権利を主張している」と言うのは
早計だったかなぁ。「<わたし>が権利を持つ」という条文が結果的にみんなに当てはまるという事態を確認しながら
進めるべきだったかなぁ。(憲法にかかれたはずの「独在性のわたし」が「単独性のわたし」に転落していることを
確認しながら進めないと論点先取になりかねないのかなぁ。)
80 :
jun1:2005/10/27(木) 19:03:36
【23】
分かりました。あなた方は"一般的な意味"での『自己言及のパラドックス』について
触れていたのですね。私は、"当来の意味"での『自己言及のパラドックス』について
触れています。一言最初に断っておきますが、あなたのいうそれは、『自己言及"的"パ
ラドックス(あるいは自己言及形式のパラドックス)』で、『"自己"言及のパラドックス』では
ありませんから。これは竹田氏の文章をよく読めば分かると思います。ですので、あなたは
二重で誤解していると思います。しかも竹田氏はなんと言ったか分かりますか?
まさしくそれが 『自己』 の言及に関して指摘されているから
とはっきり言っているんです。そこで、あなたの以下の自己言及のパラドックスの説明
>いくつか読んだ限り,「自己言及のパラドクス」の典型例は,「この文は
>間違っている」という文が真か偽か,というやつで,ある文がその文
>自体に言及していて,その文を真と考えても偽と考えてもおかしなこと
>になる,という問題なんだけど。
この説明のなかには、まったく"自己"を含んでいないのですから、すでにこれはもう
的外れというしかないことはお分かりになると思うんですよね。まあ当たり前ですが
"典型的事例"と"象徴的事例"では指示するものはまるで違うと思いますんで、
それくらいの区別はつけていただければと思います。
81 :
jun1:2005/10/27(木) 19:05:50
【24】(つづき)
>>60 (【23】も
>>60の人への応答です)
それで、あなたが典型的事例である『自己言及的パラドックス』の説明をするときに、
本当は一番よく分かると思うんですが、自己言及の『自己』は、ここでは『文』や
『単語』に置き換えられますよ、とまず最初に言うんじゃないでしょうか。
間違って本当に『自己言及』されても困りますから。
>私というものについて考えた場合に,いろいろ問題が生じてくること
>自体はそのとおりだと思うけど,それを「自己言及のパラドクス」と
>言うものなの?
はい、象徴的事例なんです。しかも竹田氏は、きちんとそれを断っていますので
まったく問題はないんです。で、あなたは、"当来の意味"での『自己言及のパラド
ックス』についてまったくご存知でないと、そうおっしゃるわけでしょうか?
82 :
二プレス:2005/10/27(木) 19:11:47
この思考実験にある程度の見通しはつけていますけど、「これが答えだ」というものを
持っているわけではないですから疑問やら批判やら、別解やらを思いついたら教えてもらいたいです。
(ちなみに森岡正博という人の永井均理解は90年代前半という時代も考慮に入れると卓越していると思います。
独在性の議論の重要な一里塚だとも思う。)
83 :
二プレス:2005/10/27(木) 20:39:23
よく説明しないで「わからないの?」とか「知らないの?」と切り返すのはハチャメチャじゃないかぁ。
それに「当来の意味」の「自己言及のパラドクス」だったらどういう風に永井均を批判できるのか知りたいなぁ。
<わたし>はいわゆる「自己」とは直接関わらないのだけど・・・。
(でもできればこういうのは終わりにしてもらいたい)
>>73の思考実験にどういう意義があるのかよく分からないなぁ。
面白そうな話ではあるけど、どこがその思考実験のポイントなんだろう。
>>80-81 一般的な意味での「自己言及のパラドクス」が,
>>60のような内容で
あること自体は,いいのね。
そして,あなたが指摘する竹田の文章が,一般的な意味での「自己
言及のパラドクス」とは異なる言葉づかいになっていること自体は確か
なので,そういう言葉づかいをすることには特に意味があるとか,永井の
問題を検討する際に有益であるとかいうのであれば,僕からこれ以上
言うことはとくにないです。別に僕自身は,竹田やあなたの全体的な
考え方を批判したり非難したいわけではないので。
ただ,あんまりよくわからん用語や言葉づかいをすると,ただでさえ
わかりやすくない永井の議論が,ますます理解しにくくなるだけじゃ
ないかとは思うけどね。
>あなたは、"当来の意味"での『自己言及のパラド
>ックス』についてまったくご存知でないと、そうおっしゃるわけでしょうか?
繰り返しになるけど,僕が知っている「自己言及のパラドクス」というのは,
>>60のような問題であって,「私」とか「自己(考えている人,話している人
という意味での)」についての問題が「自己言及のパラドクス」と呼ばれて
いるのを見たことはない。しかし,竹田あるいはあなたが,そういう言葉
づかいを有益にかつ混乱せずに行えるというのであれば,それをあえて
否定するつもりはない。
86 :
ニプレス:2005/10/27(木) 22:41:58
いやあ、私も同感です。太郎が他者の権利を認めようが認めまいがあまり関係ないと個人的に思います。
だから問いに対する答えはあまり重要ではないといえるでしょう。
重要なのはどのような答えを出すにしても独在性が単独性に転落せざるをえないことを
確認する事だと思っています。
87 :
ニプレス:2005/10/27(木) 22:50:46
>>86は
>>84に対してのレスです。
ちなみに、もちろん
>>73の思考実験が私の想定範囲内におさまる必要はなく、むしろ驚きがあるといいんだけど。
>>73 太郎が刑法を作って,「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは
5年以上の懲役に処する。ただし,<私>が人を殺した場合には,
罰しない。」と定めたらどうだろう,と,意味のない便乗をしてみる。
(ほんとは全く意味がないつもりはなくて,『倫理とは何か』に
つながらないかと思ったけど,やっぱり意味ないか。)
マジレスすると,太郎は,「<私>」なんて書かないで,たんに
「太郎が権利を持つ」と書けば,他人が権利を主張することは
防げたはずですな(その代わりクーデターとかが起こるけど。)
森岡の批判がどの程度成り立つのかは,よくはわからないけど,
<私>という表現を使うことで,暗に他人にもあてはまることを
前提にしてしまっているといえる面は,あるのかなあ。
これもあんまりマジレスじゃないか。
89 :
ニプレス:2005/10/27(木) 23:46:04
>>88 やっぱり論点先取みたいになってるのかなあ。
一応食い下がってみると、太郎は高校時代にブラック・ジャックの手で次郎と一緒に特殊な脳の手術を
受けて以来、ある種のアイデンティティー・クライシスの中にあって自らを示す言葉は<わたし>だけを
信頼している。なんていうサブストーリーを加えるとどうだろう。
(割り込みだけど)
>>89 もしそうなら、太郎は憲法案を自分が起草したといえるのかな。
時間的な自己同一性がかなり危うい人のように思えるんだけど。
91 :
ニプレス:2005/10/28(金) 00:47:56
ややこしい話になるけど、太郎本人は自分が太郎でない可能性を感じているんだから太郎が憲法を作った
というよりも、<わたし>が憲法を作ったと考えていて、それをそのまま憲法の条文に反映した
と考えたらだめかな。
92 :
ニプレス:2005/10/28(金) 00:55:37
もし誤解があるといけないので念の為に言っておくと、『転校生とブラック・ジャック』の登場人物
太郎が後に憲法を起草したという設定です。
93 :
カオル:2005/10/28(金) 01:40:57
>>31 jun1さん
>彼の文章が、そのときなにを言わんとしているのか、私には分からなくなってしまい、
>私は読み進めることができなくなってしまいます。
永井の本は!マークや?マークや( )を追うのがいいと思います。
その他のところはそれが言いたいがための…と、とらえるとわかりやすいかも。
>>32 >それから、気になったのが『解消』という言葉。彼はねじれた問題(パラドックス)を、
>"解消"することが哲学と思っているようですね。うーん、それって哲学ですか?
永井の哲学は人生の問題にたいするもの(人生哲学)ではないですし?
そういう思い悩むとかいう青春の手前の<子ども>相談室ですからね。
でもその<子ども>の質問に永井自身も答えられていないんですよね。
だからって50年も同じ問題にこだわってるところがどうしようもないです。
でも50年も同じ問題にこだわれるような環境を自分にあたえている所は
ある意味立派です。それは群を抜いた才能による僥倖だと思いますが
永井はときどきその僥倖を忘れてしまって、<子ども>のための哲学とか
言ってしまうところが…ほとんど道をふみはずすと思うんだけどな。(笑)
五分前世界創造説と五十センチ先世界創造説についてですが、五十センチ先世界創造説に
「今の独我論化」が必要だったのは、たんに五分前世界創造説では時間の空間化が
不問にふされている(−わたし−だけは、なぜかはじめから存在しているw)のにたいして
五十センチ先世界創造説では空間の時間化が要請されてしまうからではないでしょうか。
なぜなら世界が創造されるためには時間が必要ですもの、少なくとも−今−という時間が。
94 :
カオル:2005/10/28(金) 01:47:31
>>33 jun1さん
>もちろん、彼が私のこの言葉を聞くならば、「いや違う! 〜はこういう意味だった。」と否定
>してしまうでしょう。あるいはそういうレスがここに来るのだと思います(永井以外の人間からも)。
永井は、哲学の論文を書いたり、生徒に哲学を教えたり、哲学の本を書いたりすることで
生計を立てているのですから、それがホントかどうかはともかく、自分の取り組む課題が
固有名としての哲学にとって「も」中心的な課題であったことを『私・今・そして神』(180,181n)で
「今、気づいたかのように」みとめています。でもそれがホントのことなら、永井の竹田批判に
ついての是非はともかく、あのような反論を躊躇なく端的にさせてしまうような状況のなかで
永井は哲学に取り組んでいたということなのであって、そのような哲学への取り組み方は、その問いが
その人のものであるかぎりにおいては、もっとも基本的なものとなるべき姿勢なのではないでしょうか。
もしもそのような哲学への態度をみとめるのなら、そのように哲学に取り組んでいる者にたいして、
その取り組みが哲学史における普遍的な問題やさまざまなパラドクスにかかわるものであったとしても
それはたんに結果であって、そのことを指摘されること自体は、まさに的外れであって批判にならない、
と、その人には思われるのではないでしょうか。
95 :
カオル:2005/10/28(金) 01:56:54
(つづき)
しかし永井は、自分とちがう仕方で哲学に取り組んでいる者の批判にたいして、自分の哲学にたいする
態度で反論することもまた、相手にとっては同じように的外れであることに気づいたのではないでしょうか。
だから永井は同書の冒頭(6〜8n)でも、哲学観の変化(さまざまな哲学への取り組み方を許容すること)を
述べていますし、今まで否定的だった哲学への取り組み方をする竹田やそれ的な哲学徒たちへの応答も
かねてだろうと思われますが、ラッセルやカントやライプニッツなどの議論も積極的に持論の説明のために
用いています。もちろん永井は「ついて」論文派の専門研究者のような哲学学者になることをすすめている
のではなくて、同書で自分がやっているように「彼らの仕事を勝手に使って、そこから直接問題そのものを
考えたらどうか」(同書8n)と提案しています。これは永井の問題が竹田にとっては「主体の形而上学批判」
や「言語のアポリア」にかんすることなら、竹田には竹田なりの議論の仕方があってもいいのではないかと
いうことでしょう。たとえそれが永井にとっては無関係な問題にみえるのだとしても、竹田は永井になって
それを判断することはできないのだし、かりに竹田が永井になれたとしても、その瞬間その問題は竹田の
問題になってしまうのですから、あくまで判断するのは竹田なのです。そしてその自由は否定できるような
ものじゃないと思うんです。それはそれでいいじゃないか、というのが永井の哲学観の変化だと、わたしは
思っています。
あなたの永井批判にたいして全面的に賛成する振り子はもっていますが
たんに同意しても、それでは議論する意味がないと思うので反対に振り子を振ってみました。
jun1さんには説明する必要ないと思うけど、ROMの人とか色んな人のことも考えて、
ここが自由に議論できる場であることを願って。(^.^)
96 :
カオル:2005/10/28(金) 02:43:29
>jun1さん
「自己言及のパラドクス」については、前スレでも書いたけど逆だと思います。
「自己言及のパラドクス」と言ってしまうことで、たとえば「わたしは嘘つきである」
のような「自己言及のパラドクス」に短絡されると困るので、あえて「自己言及"的"」
と表現したのだと思います。竹田がこの"的"に含めたパラドクスの適用範囲は
とても広いと思います。つまり言語論的なものだけではなくて、たとえばハイデガーの
自己の「存在論的差異」とか、数年前に哲板でもよく議論されていた「クラインの壷」とか、
あるいは、西田の自覚の概念「自己が自己に於いて自己をみる」とかも射程に入ってる
はずです(と、決め付けてみるw)。わたし的にはそのような感じで受け止めていました。
ちょっと次のレスが、読み返すとなんとなく自分で納得できないので
今日はこれで終わりにします。なかなかレスできないかもしれないです。
付き合わせておいてごめんなさい。m(__)m それでは、また。
97 :
jun1:2005/10/28(金) 11:37:06
【25】
>>85 まあ、なんとか意味合いは理解していただいたようだ。
とりあえず、まだ私はあなたに対して確認したいことがありますんで
もうすこしお付き合いください。
>一般的な意味での「自己言及のパラドクス」が,
>>60のような内容で
>あること自体は,いいのね。
いちおう、誤解のないように言っておきますが、『一般的意味の自己言及のパラドッ
クス』 について、あなたが言わんとしていたことは、私もも最初から気づいています
のでね。
私はあえてこの問題に関して議論をしてるんですよ。
その理由は、ただ物事の主従をはっきりつけたかったからです。
"当来的意味"、"一般的意味"、この場合どちらが『主』で、どちらが『従』なんでしょうか?
まあそういうようなことについてです。
ちなみに、永井はこの件に関して、"論理学"、"数学"、そして"ラッセル"などの用語、
特定概念などを使っての説明を、一切していなかったと思うのですが、それでも
あなたは、『一般的な意味』が、あなたの当の主張
>>60だと言われるのでしょうか?
とりあえず今回の要件は以上です。
98 :
考える名無しさん:2005/10/28(金) 12:29:59
千葉マリーンズ優勝記念あげ。
なぜ今更……
>ニプレスさん
「不思議がいっぱいです。…溜め息がでます」等のかわいい発言をするあなたは何者でしょうか?
そうとう、良識ある女性の方?ニプレスって名前下着か何かでしょう?
wwwwwwwwwwwwwwwww
102 :
57:2005/10/28(金) 21:19:02
>>97 どっちが主従とか竹田はこう言っている永井はこう言っているとかはいいから、
>>56のどの辺が自己言及のパラドクスなのか早く教えてくれないか?
ずっと待ってるのに。。。
>>100 すみません、男です。
まぎらわしいなら名前変えようか?
<大庭健>とかに。
73改
高校時代、次郎と体が入れ替わった太郎はブラック・ジャックの手術によって太郎の体と記憶を持つ
いわゆる太郎に戻った。(手術内容をウィリアム・永井・榑林説と見なしてもいいと思う)
その後成長した太郎は、なんの因果か憲法を起草することになった。
太郎はこの機に一手に権利を握ろうと考えていた。しかしいざ憲法の条文を考えてみると高校時代の思い出が
影を落とした。あの手術以降自分は太郎であるというアイデンティティーが揺らいでいたのだ。
本人にとって深刻なこのアイデンティティークライシスは他人に理解されることはあまりなかったが
太郎はしばしば「私は『私』という語で太郎を意味していない。でも、私が今事実として太郎である以上、
他人たちが『私』という語は太郎を意味すると理解してもそれで不都合はない。」などと言って
周りの人々を当惑させた。
太郎が、いや他人から見ても本人から見ても太郎に見えるこの人物が憲法の条文に「<わたし>が権利を持つ」
と書いたのは宿命だったのかも知れない。
彼の野望は隠密裏に達成されねばならず誰かに条文のことで相談するわけにはいかなかった。
こうして条文は決定された。
新憲法の発布後想定外のことが起きる。憲法を読んだ人々がなぜか権利を主張しているのだ。
何人かとっつかまえて粛正してみたが事態はさらに悪化して、日本語の読める外国人たち
――多くは永井均研究者――までもが図々しくも権利を主張してきた。
太郎と考えて差し支えないこの人物は丁寧に条文を考えたはずだった。彼のアイデンティティークライシスは
自分は太郎なのか、という点に端を発していたが、太郎という属性を越えた脱人格的自我が
権利を持つと考えても自分が権利を一手に握れないと考えていた。無個性的な脱人格的自我では
「この私」だけが権利を持つということを表現できないからだ。脱人格的自我はあの次郎にもある。
でも<わたし>は次郎にはない。…はずだった。
憲法発布から5日後次郎も憲法を読んで権利を主張したというのでとうとう新憲法は停止された。
106 :
45:2005/10/29(土) 12:07:23
>>97 僕はもともと,@永井は,竹田が気づかないような形で竹田批判をしたわけ
ではないだろう。A「自己言及のパラドクス」の一般的な意味によれば,それと
永井の問題が関係ないのは明らかだ,だから,それを指摘する永井の竹田
批判には,一定の根拠があるだろう。ということを確認しようと思っただけ。
だから,繰り返しになるけど,竹田あるいはあなたが,「自己言及のパラドクス」
という用語を使いながら永井の問題について正当な議論ができるというので
あれば,やってもらえればいいと思う。ただ,僕が自分自身で竹田の本を買って
読んだりして理解しようとまでする気はないし,永井の竹田批判に関するあなた
との応答も,申し訳ないですが,(永井の問題の理解に有益だと思えない限り)
これ以上あまり続ける気がしない。永井の問題の理解に結びつかないような
議論を長々と続けるのはスレ違いだと思うし,興味も湧かないので。
と言っても,始めたのは僕のほうなので,できる範囲での応答はします。
>永井はこの件に関して、"論理学"、"数学"、そして"ラッセル"などの用語、
>特定概念などを使っての説明を、一切していなかったと思うのですが、それでも
>あなたは、『一般的な意味』が、あなたの当の主張
>>60だと言われるのでしょうか?
自己言及のパラドクスが
>>60に書いたような問題であると思っていることは,別に
変更しない。
(なお,もし,「自己言及のパラドクス」について,あなたの言う「当来的意味の・・・」
を含めた形で論じている人が多くいて,僕がそれを知らないのは単なる知識不足だと
いうのであれば,そのような文献等を示してもらえれば確認は可能だと思うけど。)
なお,この質問の趣旨がつかみかねるんですけどね。
まず,@永井は,『<子ども>』(略p213で,「ある言語表現がその表現自体を
指示することによって成立するパラドクス」などという説明をしているから,必要な
説明はしていると思う。それに,A「自己言及のパラドクス」の一般的な意味が
>>60のようなものであることは,永井が説明するしないとは関係ないと思う。
気持ちは分かるが、追及しても得るものはないと思うので
そろそろやめたほうがいいと思われ。
>>107 同感。誠実な106さんにプラスになることは何もない気がする。
Jun1さんの目的はある方を助けることだし、基本的に彼らの戦術は
まず珍妙な批判をする。珍妙な批判なのでこちらは当然、疑問や誤り(としか見えない点)を指摘する。
するとあれはこういう意味だったとか、永井均のオリジナル性を認めないのに自分の解釈はオリジナルだとか、
どこまでも言い逃れをする。しかも無関係な哲学“的”知識をまき散らしながら。…こういう戦術なんです。
極めつけはそれがスレの自由を守ることに通じると言い張ることです。
確かにそれはある種の自由を守るだろうけど、その自由が守られるべきものかどうかは大変疑問なんです。
またアンチとして反独在性の立場を貫ける場を用意したにも関わらず、乗ってこない。
奇妙な連想ゲーム、印象批評が繰り広げられるばかりです。
109 :
考える名無しさん:2005/10/29(土) 16:23:40
>またアンチとして反独在性の立場を貫ける場を用意したにも関わらず、乗ってこない。
なんですか?
このアンチとしての反独在性の立場を貫ける場を用意したって。
112 :
考える名無しさん:2005/10/29(土) 16:50:49
この思考実験のどこが反独在性の立場を貫ける場なんですか?
それと、
そもそもあなたの言うアンチって何?
113 :
考える名無しさん:2005/10/29(土) 17:14:13
”重要なのはどのような答えを出すにしても独在性が単独性に転落せざるをえないことを
確認する事だと思っています。”
って書いてあるけど、
よくわかんないけど、
この
どう答えても
”独在性が単独性に転落せざるをえない”
ということが、あなたのいう反独在性の立場ってことなの?
まず私に聞くんじゃなくて、この思考実験では反独在性の立場をこういう理由で貫けないと
反論を書いて欲しい。私は(どちらかと言えば)独在性を擁護する立場なので私が反独在性の立場を代弁しても
結果的にそれを否定することになるし、それをもって反独在性の立場を貫けないといわれてもこまるので。
でも強いて言えば、<独在性>を憲法に書き込んだら<<単独性>>に変換されたのだから
独在性とは単独性なのだ、という主張はありうるんじゃないかなぁ。
他にも独在性が単独性に転落すると断じるその観点はどういう観点か、とか反独在性論者が噛みつく場所は
たくさんあると思うけど。
もし噛みつく場所がないとしたら私とそれを最初に指摘したあなたは大発見をしたことになる。
(自分は批判されない所から一方的に断罪しようとする姿勢は誰かに似ているなあ)
>>113 無用な詮索申し訳ない。
独在性を単独性と捉えるのは前野とか茂木とかの脳科学系からの永井批判に顕著だと思います。
116 :
カオル:2005/10/30(日) 02:30:05
>>35 jun1さん
>簡単に言うと、『矛盾』を肯定してしまったところにでしょうか?
限界の突破というのは、議論が超越論的ではなくて超越的だということです。
「絶対無」とか言い出されてしまうと、そういうことだから。
117 :
カオル:2005/10/30(日) 02:51:43
>>36 >そもそも永井の言う『過去そのもの』って何のことなんでしょうか?
さぁ?(笑)
「過去そのもの」については「夢そのもの」とのちがいが知りたいです。
で、そういった議論で語られる「そのもの」っていったい何でしょうか?
ということになると、それは「そのもの」の実在性の問題になってきて
「そのもの」が存在すると素朴に考えるのか、そういうものには言及できないとして
カントのように、そういうものを「物自体」として想定し、認識論的な限界を設けるのか、
あるいは、ウィトゲンシュタインのように独我論を徹底させることで実在論を導くのか…
で、わたしが疑問なのは、永井のように実在論(「そのもの」が存在すること)は、
比類なき<わたし>、つまり<わたし>という独我論を要請するという議論において、
なぜ「過去そのもの」と「夢そのもの」を区別する必要があるのかがわからない、
ということです。
(だから、つまり、現在における証拠だけがすべてだということ、だよなあ?) 25n
私の今が存在しなくなることはない。すべてはやはり、私の今に登場してくるしか
ないだろう。 39n
前言で夢の実在性を否定できても、後言では否定できないですよね。
それに夢の中なら夢の中での夢には前言はあてはまるけども
夢そのものは現実として、現在における証拠もあったりするから
目覚めた後の現実と変らないと思う。わたしたち夢中人かもしれないし。(^.^)
118 :
カオル:2005/10/30(日) 03:17:50
>もちろん忙しいなか、書き込んでいる部分があると思うので、思うように自分の意見を提出でき
>ないジレンマもあると思いますが、まあお互い思うように議論ができたらなと思っています。
誘っておいて無責任だけど、ホント不定期になっちゃうと思う。
議論って、その時のタイミングを逃すと興味なくなったりするから
ホントに申し訳なく思っています。
わたしは独在性の問題については、年単位で議論したいと思っています。
そういうことだから、そういう感じでかまえてもらえたらありがたいです。
とりあえず『<子ども>のための哲学』と『私・今・そして神』にしぼっても
わたしにとっては、そういうスパンで取り組む議論になってしまったようです。
なにせ魂についての議論ですからね。どうやらわたしは、この問題から
離れられないのかもしれません。魂の問題は、悟りスレからの縁ですもの。
だからjun1さんがお仕事の方に集中できるようになったら、迷わずそっちを
優先してくださいね。
【26】
>>85 >なお,この質問の趣旨がつかみかねるんですけどね。
あなたのいう『自己言及のパラドックス』は、まさに"論理学"、"数学体系"、"ラッセル"などの
系統においてのみ採用される事例だということです。ですから、あなたのそれは一般的な意味では
ありません。もちろんヘーゲルの時代は、今ほどに論理学は発展しておりませんでしたから、あなた
のラッセルを経由する
>>60の説明が、機微(本質)をついているのはたしかなのですが、おおよそ
一般的とは言えないと私は思います。そして、『自己言及のパラドックス』を私が考える一般的意味
で語りえるものを、語りえぬものとするあなたの態度に対して、私は疑義を示しています。
ちなみにヘーゲル経由で、『自己言及のパラドックス』を理解するときに、あなたの言うような"自己
言及文"を特定して対象にするのではなく、それ自体が、それ自体である、"個物(対象)"を、つまり
語り手が、語られている<私>の存在を"自己"とし、それを検討する形式の論考自体を、"自己言及
的"といいます、かつそれが個別的にパラドックス(逆説)を含むことは、古今東西のあらゆる哲学者、
にとって共通の定説の一つだったと思われるのですが、よろしいですか? 以下の文章がそれを
示すたしかな"事例"および資料ですので、ぜひご確認ください。(google検索で集めました。)
そして、あなた自身のご判断で、この議論を終えてください。質問があれば、受け付けますが、
私のあなたに対する主張は、これをもって以上となります。
【28】(つづき)
ちなみに英文サイトも念のため調べておりますが、あなたの言うそれのほとんどが
ラッセルRasselが同時に明記されており、やはり、とても一般的な事例とは言いが
たい、と思いました。むろん、Self-reference がラッセル(Russel)lの代表的な固有
名詞、あるいは基本的理念であることは譬えようもない事実でしたけどね。
(ちなみに
>>119は、間違えてageてしまいました。当方のミスです)
流れと全然関係なくてすまんけど,永井の議論に矛盾があることを論証してみますた。
いや,別に永井批判とか叩きとかではなくて,「<私>に関する議論が他の者に理解
されるとは,どういうことなのか」を考えてるうちに,何だかよくわからなくなって
きたので,どのへんがどうわからないのか浮き彫りにしようといろいろ考えている
うちに,こんなんを思いついてしまった。
多分,どこかに理解不足があるんだろうと思うので,より詳しい人からツッコミを
もらえればありがたいです。永井にとってはもう論じ尽くしてしまった問題らしい
ので,あまり実りはないかもしれないけど。
(<私>が誰を指すのかを厳密に詰めるとめんどくさいので,便宜上,永井を
<私>として書きます。)
まず,前提となるところを書き出してみる。
1.<私>=そこから世界が開けている人間(永井)は,この世界に一人しか
存在しない。(というか,この意味で言う<私>と世界とは,一体である。)
2.他の<私>(≪私≫)の存在を考えることはできるが,≪私≫が存在すると
しても,それは他の世界にであって,<私>と同じ世界には存在しない。
(ここで言う他の<私>と他の世界も,一体である。)
3.<私>に関する議論を,<私>以外の者が理解する(あるいは,理解とは
言えなくても何かが伝わる)ことは可能である。
4.<私>に関する議論を理解できるのは,この世界にいる単なる他人ではなく,
他の<私>(≪私≫)である。
5.ある人の言葉が別の人に理解される(あるいは,理解ではなくても何かが
伝わる)場合,ある人と別の人とは同じ世界にいる。
6.<私>に関する議論を,<私>以外の者が理解する(あるいは,理解とは
言えなくても何かが伝わる)ことも,ある人の言葉が別の人に理解される(ある
いは,理解ではなくても何かが伝わる)ことの一種である。
以上の前提をもとにすると,以下のように矛盾が生じる。
(1)3.より,<私>(永井)の議論を理解する者は存在する(E君とする)。
(2)4.と(1)より,E君は≪私≫である。
(3)2.と(2)より,E君は<私>と同じ世界には存在せず,他の世界に存在する。
(4)5.6.より,<私>に関する議論を<私>以外の者が理解する場合,
その者は<私>と同じ世界にいる。
(5)(4)と(1)より,<私>(永井)とE君は同じ世界にいる。
(6)(3)と(5)より,E君は<私>と同じ世界に存在し,かつ,同じ世界
には存在しないことになる。→矛盾
…あれ?1.を使ってないな。最も大事なはずの1.を使えてないところ
からして,結局つまらんことしか論じられていない予感が。
まあ,2から4は,多分,永井はそういうことを言っているはずだし,5と6は
私が勝手に作ったものだけど,あからさまにおかしなことを言ってるわけ
ではないと思うので,全く成り立たない論証ではないと思うんだけど,
いかがなもんでしょう。
おかしいところがあるとすれば,私が勝手に作ったところにある確率は
高いだろうと思われるので,まず,5と6を検討してみます。
とは言っても,5は,普通に考えると動かせない気がする。口頭で議論
しようと,本を出版して読んでもらおうと,またはテレパシー(?)だって,
同じ世界にいない人に,自分の言葉を理解してもらうなどというのは,
なんのことだかよくわからない。
6のほうは,否定できるかもしれない。つまり,<私>に関する議論が
理解されるというのは,普通に言葉が理解されるのとは全く違うことなの
かもしれない。
例えば,<私>の存在,<私>のいる世界だけが唯一特別であるという
ことを貫けば,同じ世界にいるE君が「その議論を理解しました」というのは
実は全くの誤解,または嘘,さらには神様のいたずらで,実は全然理解
していないと考えてもよさそうな気がする。そして,その時たまたま,E君から
開けている別の世界で,E君がその世界の永井から<私>に関する議論
を学ぶということが同時に(?)起こっているだけかもしれない。つまり,
<私>(永井)の議論がE君に理解されるというのは,実は別の世界の間で
たまたま同時に(?)そのように見えることが起こったということなのかも…。
って,これはあまりに無茶苦茶すぎますか。
>>124 最後に書いてあることは、永井が本で書いてたんじゃないのか?
自分の背中って直接見ることはできないよね。
でも背中を構成してるのはその人自身な訳で
鏡とかライブビデオで確認することとは別問題にして
確認するまでもなく背中の見えは自明に存在している。
<私>を他者が理解するというのは背中を鏡とかで確認する
ようなもので、開ける世界なんか見えてはいない。
ただ己の見えを考えるにあたり、確認されるべき輪郭として
他者の<私>を見ることは己の世界と他者の世界を
区別する手段として妥当なんじゃないの?
俺は自分の背中を見た
と永井は誇張して言ってるようなもんだ。
そりゃ誰でも見れるわな。
>>122-124 特別詳しいものではないけど、ちょっとだけ言わせてください。
あなたの言うような永井批判は十分ありうると思います。ただし反論も十分にありうると思うのです。
ポイントは(4)じゃないでしょうか。
例えば私とE君はともに<わたし>という言葉を同じように用います。
しかしこの私はちっともE君ではありません。同じ言葉を用いてもこの私の<わたし>は彼のそれとは
全く違うと言えるのではないでしょうか。
そして言語ゲームの次元からの反論以外に実在論からの反論もあるでしょう。
私の世界とは端的に言って私の見ている世界です。私の見ている世界は明らかに他の人が見ている世界とは
違うのではないでしょうか。私の見ている世界の奥に潜む実在世界では何らかの共通があるかも知れません。
ですが、<わたし>や<今>からの開闢を重視する永井均は、特殊な留保を付ける実在論者だと思うので
ここは慎重に考えるべき所だと思います。平たく言って荷が重いという感じですかねぇ。
>言語ゲームからの反論
これはおかしいですね。私的言語からの反論というべきだったのかな。
【29】
>カオルさんへ
永井に関して面白い接点となる文章を見つけたので、書き込みます。
私には次のようなことはとうてい不可能であるように思われるのです。
すなわちあなたがあのときに、アダムが存在することを欲したゆえに、
彼があの時に存在したのであり、あなたが今、ある人が存在すること
を欲したゆえに、彼が今日生まれたのであり、かつ、あなたが今日生
まれた人よりも先にアダムが存在することを欲しなかったのであると
いうことは。(中略)なぜならば、「今」と「その時」ということは、
あなたの<言葉>の後に存在しているものなのだからです。
< クザーヌス 神を観ることについて >
【30】(つづき)
ごらんのとおり、素晴らしい記述です。これ以上言うことがないくらい
ほどなんですが、まあ若干説明しますよ。"あなた"とは、通常の読みでは
"神"で、問題ないのですが、クザーヌスにおいて神の定義は、外在的な
あり方の神ではなく、内在的な超越に神が潜むとしてあるので、主客を超
えたところの存在者、つまり"あなた"、"私"でも"永井"でも、誰にでも当
てはまります。クザーヌス自身は、神の位格に対して権威的な態度をとって
おりません。
ですから、永井の反論として考えても、まことに的を得ていると考えていい
と私は思っています。神学的な進化を遂げた言葉は、一般的に考えても、
哲学や人生、あらゆる場所で普遍的に使用されうる体力を持つものだと
私は考えています。で、クザーヌスは私と違って、あきらかに永井の論考を
認める立場にいます。おそらく、神学か哲学かという違いなんだと思いますが、
永井の論は、哲学の範疇を超え、神学の系統に接近しているのではないか?
そんな風にいまや私は考えているわけです。
【31】(つづき)
それから、この文章を読んでわかったことは、神(あなた)は、<言葉>の向
こう側にいるのであって、決して独断の沈黙の向こう側にいるのではない。
そして言葉の"後"にいるのではなく、言葉の"前"にいるのだということ。
ちなみに
>>125の方が、まことに面白いことを言っていますが、
>俺は自分の背中を見た
>と永井は誇張して言ってるようなもんだ。
とあるように、永井の視点は、神の視点を手に入れること。そして神の視線
から見た、より"後"に生起するもの、つまり<言葉>、<態度>、の存在者のあり
方を時間の背後から、<私>を通して観取しようとしたのではないでしょうか?
なお、この<言葉>は、存在論的(オントローギシュ)であり、<態度>は、存在的(オンティッシュ)
なあり方です。そして<態度>だけが<現実>と対応できるのですが今は関係ないので
簡単にだけ記しました。
【32】(つづき)
しかし、永井はそれを手に入れることができなかった。むろん永井でなくても
誰でもそうなるのです。そのことについて若干補足しておきます。
この<言葉>より"前"に、言葉によって戻ることはできません。なぜならばこれは
竹田の示したとおりこれは 『自己言及"的"なパラドックス』 の象徴的事例だから
です。
言葉は <ロゴス(理性)> であり、その言葉が <神の楽園> の <城壁> となって取り
囲んでいます。( 一見、胡散臭いですがクザーヌスの用語ですんで、念のため)
この理性からなる城壁の円環は、時間そのものを示していて、"より前に"や、
"より後に"の分別が、それらが一体となって調和したところの"今"しかないのだ
そうです。そしてその城壁の向こう側には物事の"始原"となる <原理> があると。
人は思考するとき、<今>という城壁の門を開ける。そこから原理としての <時間>
が"門"から光のごとく飛び出して、"より後に"、"より前に"なる意識を<私自身>と
して統合する。<私>はそれに沿った考え方しかできないし、それに沿わなければ、
答え(事実)を得ることもできない。
この"より前"に"より後に"を操作する無分別的な永井の一般的な話法を一挙に反論
するものとしてクザーヌスのこの言葉は、至言だと私は思いました。
【33】
>>93-96 >>116-118 ちなみに西田は、『絶対矛盾の自己同一』なる観想を得たとき、どうやらクザーヌ
スの理念(態度)が接近していたのも、疑いようのない事実のようです。
なんで私の話も関係ないようでいて、結構、接点が深まった議論になったのではな
いでしょうか?
私のここでの議論は、これで終わりになります。
カオルさんの後半の部分にレスを返しておりませんけど、いちおう考えるための
素材の補強とか、そういう目的のレスですよね。なんで役に立っておりますし感謝
のレスです。そして報告ですがまたしばらく、哲学板に書き込むのをやめようと思
います。今のところ、別件のこと(小説のこと、仕事のこと、プライベートのこと)
が途中(継続中)になっているし、やるとなるとひとつに絞らないとできない性質
なんで。それに、
>わたしは独在性の問題については、年単位で議論したいと思っています。
>そういうことだから、そういう感じでかまえてもらえたらありがたいです。
の好意に甘えてみようかなと。
いや違うな、その意見に同意ということです。
【34】(つづき)
まあ今ひとつ集中できなかったですけど、まあそれはそれでいいのかなと思ってい
ます。もともと私は、半日で終わるような議論に興味はないですし、それはそれで
なんだか空恐ろしいものを感じますしね。
いちおう、"思考の旅人"という言葉を考えたんですが、"思考の旅人"という点では
、私も永井も竹田もカオルさんも、もちろん哲学のことをまったく知らない人でも、
同じなのかなと思います。どこかで誰かと出会うし、そして城壁の門の前に立ちます。
"門"や"他者"と対峙するときが<今>で、それが<現実への出口>なのだと思いました。
という意味では永井の妄想的思考も許されるのかなと思いました。
それが議論だということ。議論とは旅の道連れを探すことです。他者との原点です。
ちなみにサルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉の人で、私も、ようやくこの
言葉の意味をわかりかけてきたのですが、もう一言、これに付け加えようかなと今の
私なら思いますね。
他者は、実存に先立つ
【35】
私は、よく迷子になります。それから、結構な確率で人とはぐれたりします。
ぼーっとしているのがいけないみたいなのですが、今回もどうやらはぐれて
しまいそうなのかな。まことにすみません。
それではそれでは、ごきげんよー
>>Jun1さんあるいはその背後にいる方へ
確かに永井均は近刊の三章でも言語ゲームの内部で言語ゲーム以前の私的言語へ切り込む、
という背理を敢行しています。
元々、独在性の議論は他の人に伝わってはならない性格のものです。それを哲学的課題として公共の場に
晒しだそうという永井均の企みは一歩目から背理であり、自らも倒錯的努力と認めています。
ただし彼の哲学が自分自身、少なくとも自分に似たものに対して書かれているのは間違いありません。
彼の無謀な企てを受け取るには共に、いや別個に<わたし>の存在に撃ち抜かれる必要があるのです。
撃ち抜かれたから偉いとか、選ばれたとか、理解力があるとか、そういう問題ではありません。
私がたまたま日本人として生まれたが故に日本語が読めるのと同じくらいにどうでもいい、
しかし決定的偶然なのです。
もし既に<わたし>の存在驚愕に撃ち抜かれたのであればデリダや西田、クザーヌスなどを無理矢理
引用したりせずに存在驚愕に帰還しつつ<わたし>を考えればいいじゃないですか。
そうすれば、私の思考実験が半日で終わったなどと思わないでしょう。
もし永井均の軍門に降るのがいやなら、永井スレに来るのは慎みを欠いていると言わざるを得ません。
私は竹田スレで竹田批判をしてスレの自由を守ろうとは思わない。その手の自由より慎みを大切だと思うから。
136 :
カオル:2005/11/03(木) 02:49:52
>>37-38 jun1さん
わたしのデリダ論については、永井がデリダの議論をつかって書いた論文
── 醒めることを禁じられた夢 ──などにもふれながら、夢と現実の原理的な
虚構性をあきらにしつつ、独在性の議論が構造的には、
>>13のように独我論的に
ならなければならないことの必然性を示していけたらと思っています。
また差延の超越論的な議論(イデア的同一性)とともに、それを世界内存在である
個体としての生命の現存在にも援用したら、つまり
>>9にあるような原理のもとでは
どのような基本要素が現存在を成立させているのかもあきらかにしていけたらと
考えています。書く時間がないので予定だけお伝えしておきます。あくまで予定!(^_^;)
もし先を急がれるなら、永井の『<魂>にたいする態度』(勁草書房)を読んでください。
わたしがこれからする予定の「重ね描き」議論を聞かなくてもすみます。(笑)
永井が本気で<わたし>=<魂>の議論をしていることがハッキリとわかります。
またわたしがどうして西田哲学を持ち出そうとするのかも理解されると思います。
永井はわたしが逃げ出してしまった<魂>の存在論に、ふたたびわたしを
連れ戻してくれました。jun1さんには堕落だと思われてしまうのかもしれませんが。
とりあえず今日は"態度"について、完成してないのだけど書いたところまで。
137 :
カオル:2005/11/03(木) 03:01:11
──ある魂への態度──
−アレ−は、天真爛漫というのか、自由奔放というのか、とにかく困ったものだ。
と、嘆かれる少女がいました。
少女はいつも教師や大人たちをイライラさせてしまい、早くからその世界の一員と
なってしまった子供たちにも迷惑がられていたようです。彼らにいわせると少女は
ルールやモラルやそういった共同体の慣習に無自覚で無頓着らしいのです。
少女はただ自由に空を飛び、雲のベッドで眠り、花やカナブンや猫や人間に
笑顔で応えているだけなのに、なぜだかそういったことが気に入らないらしいのです。
先生はやさしい笑顔で少女にカンジ方やカンガエ方やシアワセについてリカイ
するようにおだやかに口を動かしていました。別のときには、こうなの?ああなの?
とただひたすらに問いかけ、少女がだまって目を丸くしていたら、突然、なるほど!
とか、そっかぁ!とか、クシャクシャの笑顔になってとても嬉しそうにしていました。
そういうときにはどうしてだか少女も嬉しくなってクシャクシャの笑顔になりました。
その後、少女は自分のことをカオルと呼ぶようになって彼らの仲間になれたようです。
138 :
カオル:2005/11/03(木) 03:07:44
彼らはわたしが、どうしてそんなことをするのか、そんなことをいうのか、について
彼らが理解できるような仕方で、わたしがそれを理解するように迫ってくるのですが
ようするに、共同体の共通感覚としての論理(コトバ)や規範(ドウトク)などの内側で
わたしが"それ"を自覚できてしまうように、さまざまな方法を駆使して、うながしたり
みちびいたりするのです。しかもなぜだかそのことに、何かしらの権威的な妥当性と
正当性があるかのような信念さえ抱いているんです。けれどわたしはわたしのことを
わたしとは思えていないから、"だれ"がそんなことをするのかとか、そんなことをいう
のかとかいうことには無自覚で無頓着なのです。だから彼らがわたしの自由な感覚や
行為について、そのものを−わかる−ことは、たぶん一度もなかったのだと思います。
少女が自分のことをカオルと呼ぶようになったとき、はじめて「少女は自分のことを
カオルと呼ぶ」のような自己の構造がうまれたのであって、それまでのわたしは
わたしであってわたしでないような<わたし>として生きていたのでしょう。
139 :
カオル:2005/11/03(木) 04:04:08
ホントに彼らがわたしのことを−アレ−と呼んでいたかどうかはわからないけども
もしもそう呼んでいたとするなら、"それ"は、言語表現としては、わたしに付帯する
あらゆる属性をできうるかぎり剥ぎ取ったものなのかもしれません。
なぜなら−アレ−と呼ぶことは、その少女がその少女であることの身体的や
人格的や来歴などの個別性の特徴をすべて捨て去るかのような行為だからです。
だとすると、もしかしたら単なる差別にしかみえない"それ"は、そうでないのかも。
どういうことかというと、もしもそれが少女を分析しようとか、理解しようとかいう
理性の暴力性から脱した結果の−そうである少女−への−アレ−だとしたなら
それは少女への態度としては、もっともダイレクトなような気がするからです。
もちろん言語を介さない"それ"の方が、より本質的なんでしょうけれど
でも−アレ−とも呼べない「少女そのもの」に態度をとることは可能なのでしょうか。
少女に近づけば近づくほど少女は消えていきます。
少女が存在するための−あいだ−が消えてしまうのです。
それは近づく者も、もはや近づく者としては存在しなくなることです。
わたしはわたしがわたしでなくなってしまうことまでして
絶対にふれることのできない<魂>をもとめて彷徨するのです。
"それ"が<他者>、そして<魂>への態度なのだと、わたしは思います。
ふむふむ、確かに私は『魂に対する態度』を読んでませんがね。しかし、あんたって本当に腐ってますね。
永井スレの自由を守るとか、批判が第一義だとか、現前した<わたし>とか、ホムンクルスとか、
自分が主張したものは都合が悪くなるとなかったことにして、人のあげ足を取ることばかりに専念ですか。
(この態度こそ「批判が第一義」の正体だろうけど)
それで絶対あんたの味方をするのが確実な人に呼びかけて自分を守る。
他のスレでは色々な人と話をしたいとか言って彼を邪魔もの扱いしてませんでしたか?
それと、デリダと永井均を見事に裁くという壮大な計画をお持ちでだそうですが、
まずあなたの手で永井均をきっちり裁いた後になされた方がよろしいかと思います。
豪華絢爛な建物を立てるにはしっかりした基礎工事が重要ですから。
奇妙キテレツな建物が立ったあとに基礎工事がでたらめだと指摘しても、取り合ってもらえないんですし。
でももし、2ちゃんねるはそういうちゃんとした事をする場所ではない、と言われるなら
あなたのしてきた事と全面的に整合性がとれるので、私の敗けですが。
まあそう言うのはLRに予め書いてもらえているとうれしいけどなあ。
>>137-139 あなたの自由を認めない無理解が暴力をふるっているのか。ルールや規範を無視する自由が暴力をふるって
いるのか。どうするべきなのか。考え抜く必要があることは確かでしょう。
>>136 >また差延の超越論的議論…(以下略)
こういうのを永井均が論じているなら、ぜひ読んでみたいなあ。
でも現存在とか生命とかを論じるのは永井均らしくない迂濶さだなあ。
独在性の議論を単独性のレベルで受け取ってくれ、と言ってるようなものじゃないか。
まあ、読めばはっきりするだろうけど。
まず落ち着き、次に然るべき名前をNGワードに登録する。
これは哲学板に限らず2chで一番大事なことだ。
スレ汚し申し訳ありません。もう相手をしないと言ったのについ口を出してしまいました。
アンチ永井から永井論者へと手続きなしで態度を変える自由、以前の自分の主張からの自由、等々
強力な武器をもつ相手に私なんぞ貧弱なものでは相手になりません。
それは重々理解していたつもりだったのですが…。
145 :
カオル:2005/11/04(金) 19:52:43
>>140 ニップルさん
>ホムンクルスとか
わたしは、茂木健一郎さんの本を別スレで紹介したことはあります。
また彼の議論に感銘を受けてもいますが、前スレで、永井の議論は
認知問題なのではないかと言っていた方やホムンクルスという用語を
使っていた方と、わたしは別人です。
ちなみに、わたしが哲板で「ホムンクルス」という用語を使ったのは
今がはじめてです。
前スレで、あなたにジエン疑惑をかけられても、人格批判をされても
言い訳をしないで謝ったのは、あなたをそのような気持ちにさせてしまったのは
まぎれもなく、わたしのせいだと思ったからです。
わたしはジエンなんてしていないし、今までだってしたことがないけれども
あなたにそのように思い込ませてしまったのは、わたしなのですし
そのように思い込んでしまっている状況のあなたに、いくら言い訳をしても
それは聞き入れてはもらえないと思いました。
146 :
カオル:2005/11/04(金) 20:01:14
>人のあげ足を取ることばかりに専念ですか。
わたしのjun1さんへのレスは、あなたへのメッセージではないです。
かりにその内容があなたの何かにたいしての批判にあたるのだとしても
わたしはそのようなことを意図してレスを書いているのではありません。
ただわたしはあなたとの軋轢をさけて、あなたの意に添うような特定の立場に
立ったり、あるいは議論する内容や方法に枠をはめたりすることをしないだけです。
これは議論の相手が、あなたでもjun1さんでも誰でも基本的には変わらないです。
だからこれからもあなたが快くは思わないレスをいっぱい書くと思います。
でもそれはあなたへのメッセージではないです。
今わたしの頭の中にいるのは、あなたではなくて議論相手のjun1さんです。
今わたしの頭の中にあるのは、あなたの議論ではなくてjun1さんの議論です。
今わたしは、あなたの気持ちやあなたの議論を考慮した議論はしてないです。
わたしがあなたに謝ったのは、わたしがあなたの気に入る内容のレスを書くとか、
あなたが認める議論の仕方をするとかいうことの表明ではありません。
だから、わたしは変ってないから、あなたはわたしのレスを見るたびに
気分が悪くなるのだと思います。
わたしが何も言わないでただ謝ったことが、さらにあなたを不快にさせてしまい、
また誤解を与える結果になってしまったことについては謝ります。ごめんなさい。
147 :
カオル:2005/11/04(金) 20:08:41
>それで絶対あんたの味方をするのが確実な人に呼びかけて自分を守る。
>他のスレでは色々な人と話をしたいとか言って彼を邪魔もの扱いしてませんでしたか?
わたしがどんなにjun1さんを傷つけても、いつでもjun1さんはわたしの味方です。
それは本当だけれども、だからといってわたしには、jun1さんと議論することで
わたしへの非難から自分を守るとか正当化しようとか、そういう気持ちはありません。
わたしはjun1さんが哲板に来るずっと前から一人でマイ哲学やマイ解釈を
批判しかされることがないような状況や環境でも書きこんでいました。
なぜなら哲学に味方は必要ないからです。もちろんわかってもらえることは嬉しいけど
わかってもらうことよりも論の問題点を批判されることの方をわたしは望んでいるから
だから書きこみつづけてきたんです。
また、わたしがデリダや西田やカントや誰彼の議論を持ち出したとしても
その目的は、たとえば永井が夢や現実の虚構性についての議論をするのに
デリダの議論を援用したからといって、それは永井が現代思想の巨人!デリダ!
の威を借る狐だからではなく、より議論を充実したものにしたり敷延したりするため
であるのと同じです。これと同じことは、誰彼の哲学者を批判するときにも言えます。
批判は焦点となる問題へ接近するためであって、また自分の論をより的確に説明
するための手段です。
148 :
カオル:2005/11/04(金) 20:14:03
>>142 ニップルさん
>>また差延の超越論的議論…(以下略)
>こういうのを永井均が論じているなら、ぜひ読んでみたいなあ。
「また」から先は、わたしの問題意識です。
永井の<魂>の議論をより明確にするためにも、その周縁に属すると−思われて−しまう
さまざまな−わたし−について、それらが<魂>のそれと、存在論的に次元のちがうことを
あるいは、もしかしたら「そうでもないかもしれない」ことを議論していけたらと思っています。
ですから、永井がそれを論じているわけではありません。
また永井が『<魂>に対する態度』でデリダの議論を利用して論文を書いているのは
永井が『私・今・そして神』でラッセルやカントやライプニッツやウィトゲンシュタインを
利用して議論をしているのと何ら変わるところはありません。そしてそれはわたしが
デリダや西田を持ち出してきてやりたいと思っていることと目的は同じです。
わたしはデリダや西田についての知識を披露したいのではなくて、彼らの議論を利用して
<独在性>についての議論をしたいだけです。
そういえばホムンクルスの人来ないね。
150 :
カオル:2005/11/04(金) 20:27:48
>独在性の議論を単独性のレベルで受け取ってくれ、と言ってるようなものじゃないか。
>まあ、読めばはっきりするだろうけど。
あなたのいうよなことを永井がするはずはなく、もちろん彼は超越的な<わたし>に
ついて議論しているのであって、超越的な<わたし>が、それぞれがそれぞれである
ところの「単独性」としての「わたし」に誤解されてしまうような議論はしていないです。
むしろ『<子ども>のための哲学』や『私・今・そして神』に比べ、より明確に理解される
ように、とてもわかり易い図式なども使って説明していますし、<わたし>が<魂>の
ことであることも明言していますから、その議論を理解するのは、他の著書に比べて
とても易しいです。けれどこの易しさは、逆に<独在性>の議論を平板(認識論的)な
ものにしてしまい、それを"理解する"ことは、この問題の核心から遠ざかってしまうこと
のようにも感じられました。だからもしかしたら永井はこのような事態を敏感に察知して
それ以降そのような易しさを警戒しているのかもしれません。たんなる推測だけれども
それほどわかり易く<独在性>について書かれています。
151 :
カオル:2005/11/04(金) 20:35:03
>>144 ニップルさん
>アンチ永井から永井論者へと手続きなしで態度を変える自由、以前の自分の主張からの自由、等々
わたしは、はじめからアンチでも信者でもないです。
またあなたの指摘するわたしの無責任さについては、
別スレ(「哲学とは何か」)での発言(あなたにではないけど)などを
みていたらわかると思う。わたしはあなたがわたしのそういうところを
了解していてくれたと思っていました。でも今あなたはわたしを荒らしと思い、
あんたと呼び、腐ってるという。あなたがまともで、わたしがそうでないからでしょう?
うん、そう思うよ。わたしは自分がデムパなこともあなたに正直に告白したし
わたしは許されて哲板にいられるって思っていることも話したと思う。
だからわたしはまともな人に来るなと言われたら、もうそこには行かない。
今までずっとそうしてきたんです。だからわたしはあなたに聞いたんです。
あなたが去れというなら、わたしはいなくなります。
あなたにそれを言わせることは卑怯なことなのでしょうか?
誰に言われてもそうするわけではないのです。あなただからそうするのですよ。
もし自分で自覚しろということなら、わたしははじめから哲板には存在しないです。
そのスレの住人が許してくれるから、そこにいられるという居方なんです。
わたしのためにスレが台無しとか言われたら、わたしはちゃんと新スレには
参加しない宣言をしてきたし、ジエンとかしてその約束を破ったこともないです。
だからハッキリといってくれてかまいません。わたしはあなたの判断を信じるし
それに従がいます。
152 :
カオル:2005/11/04(金) 20:40:00
403 名前:カオル 投稿日:05/02/22 03:40:02
>リマールさん
わたしが日々一貫していない虚言をばらまくのは仕方ないことです
過去と現在と未来の整合性を保つなんていう離れ業はできないです
そんなことができるくらいなら、とっくにふつうの人になってますって
リマールさんの意見に反論したって
べつに反論してるだけですから、たいした意味なんてないです
リマールさんの意見に同意できたり同意できなかったりが
わたしのなかではふつうに両立していますから
でも意見Aが意見Aであるためには
とりあえずどちらかに決めて意見Aとして提出します
今日は反論、明日は激しく同意でもいいわけです
同意しながら反論するってむずかしいんですよ。
できるんでしょうけど性に合わないというか
わたし的にはそういうやり方は相手のかたを
馬鹿にしてるような調子のいいやり方なんです
うまくやって、もらえるものだけもらっておこう、みたいな
なんとなく嫌われたくなくて言訳しましたけど
べつに嫌われてもいいんだけど、こういうのも卑怯なやり方ですね
もう寝ないと
153 :
カオル:2005/11/04(金) 21:11:34
>>152 >たいした意味なんてないです
たぶん反論することの意味が感情的なものと受け取られてしまって
誤解されてしまうんだと思う。それはそうなんだけど
たしかにわたしは気持ちを書きこんでいる。それしかしてない。
でもわたしが何かを書きこむ動因になるのはそれしかないから
それ以外の方法がわからないから、そうするしかないのです。
だからといって、わたしがどのような議論をしたって、その内容に
かかわらず、わたしはその相手のことも、哲板のみんなのことも
哲学者のことも、そして哲板のことも大好きなのです。
気持ちの存在論的差異というのでしょうか?
わかってもらえないだろうけど、そういうことです。
>>149 >そういえばホムンクルスの人来ないね。
そのうちどこかで茂木さんの脳の認知システム論(ホムンクルス論)に
ついても話していけたらと思っています。彼は永井に匹敵するような
そういった魂の思考をするひとです。
だから永井の<魂>の存在論が哲学の世界でそうであるように
彼もまた脳科学の世界では、既存の科学的思考から批判を受ける
そういった異端児です。わたしは茂木さんの議論は<独在性>の
議論にとても有益なものだと思っているから、きっとそのうち。(^.^)
143さんには申し訳ありませんが、もう一度書かせてもらいます。
多分、こんなに頻繁に書き込むのは精神的に不健康な証拠だろうから、以後少し休みます。
>カオルさん
言いたいことは3つだけです。
まず、一つは甘ったれるな、ということです。
自分は無責任な発言をするけど、相手は違うテーマで話した別スレの発言にまで責任を持て、という
あまりに身びいきな発想です。あなたの論法は。
その論法を用いる限り、あなたの自己正当化にこれ以上付き合うつもりはありません。
2つ目はあなたの前提があまりにも破壊的だという点です。
永井均の独在性の議論は唯一性や一回性、クオリアとは全く違うものです。こう言ってしまうのはいかにも
早計なんですが。しかし独在性を理解するためにはそう考えた方がよいのです。
唯一性や一回性、クオリアなどは、最初から他のものにもあることが前提されています。
このレベルでの問いはその前提の中で、独自性が問われているにすぎません。
独在性のレベルはこれとはきれいな対称を描きます。なぜなら他にはないものとして前提されるからです。
しかしそれが言語ゲーム内では誰にでも当てはまってしまうがゆえに、結局否定され、
先の前提が生まれるのです。
だから茂木やデリダ(西田やクザーヌスやハイデガー)などを永井均と同志とみなし重ねながら論じる
なんてことはあまりにも破壊的なのです。
彼らが前提としているもの、つまりすでに解決してしまったものを永井均は問うているのです。
また永井均と彼らの違いを明らかにして独在性の議論に迫る、という試みにはまずしっかり永井均を
押さえる必要があります。いずれにせよ永井均の懐に飛込まずに独在性という虎の子を手にすることは
できません。
三つ目は不用意にデリダやハイデガー、クザーヌス、西田(これは私も反省せねばならない)等々を
引き合いに出して論じることの危うさです。
例えば近松門左衛門と永井均の近接性について誰かが論じても私を含め多くの人は、
真偽を判断しかねるでしょう。しかし近松門左衛門が独在性に深く関わる理由を懇切丁寧に論じてもらえれば、
なんの問題もありません。ようは近松門左衛門を知らないヤツより知っているヤツの方が正しいと
思わない/思わせないことが大事だと思います。
最終局面では情報量は決定的な働きを果たせないはずですから。
>>147の後半に書いてあることには全く賛成だけどそれなら「ホムンクルス」
(最初に言ったのはあなたではないが確実に尻馬に乗ったはずだ)、永井スレの自由を守る、
現前した<わたし>、批判が第一義、等々の発言との整合性はどう取るの?
というか諸発言間の整合性を気にしないという姿勢とは
>>147の後半は相いれないはずだけど…。
この整合性も気にしないのかなぁ?
そこが一貫してると議論なんぞ夢のまた夢だなぁ。ていうか目的が違うんだろうな。
言いたいことは山ほどあるけど、この状態で相手が聞く耳を持つとは思えないのでもうやめます。
(でも敢えて言うなら、同情をひこうとしたり個人的信頼関係を頼りにするのはやめて欲しい)
以後しばらく2ちゃんをひかえます。
せっかくの良スレを荒らしてしまい申し訳ありません。
159 :
カオル:2005/11/06(日) 01:38:36
>>154 ニップルさん
>まず、一つは甘ったれるな、ということです。
>自分は無責任な発言をするけど、相手は違うテーマで話した別スレの発言にまで責任を持て、という
>あまりに身びいきな発想です。あなたの論法は。
まず、あなたの指摘するわたしの「無責任さ」について
わたし自身は、それをそのようには思ってはいないです。
むしろ、アンチ/信者、この立場/あの立場、魂にYes/魂にNo・・・等々、
わたしにとってこのようなものにこだわることは、すなわち哲学的思考の死です。
それは、わたしの精神活動の停止を意味します。哲学から思想や主義への堕落です。
ですから、もしもあなたがあなたの望まれるような態度を取ることをわたしに強制しても
わたしはそれに絶対に服従しません。それがわたしの自分に架した哲学への責任です。
それからこれは上述とは別の次元での責任の話しですが、わたし自身は
「違うテーマで話した別スレの発言にまで責任を持て」を実践しています。
一般的な意味においては、これこそが公的な場での、また相手にたいする
責任だと思います。自分の発言に責任を持つとは本来このことのはずです。
もちろん、わたしは意見や立場を変えることを禁止しているのではないです。
変えるなら、変えたなら、その転向を宣言するべきだと、わたしは思います。
たとえばjun1さんの「わたしへの味方宣言」は、わたしの哲学への姿勢が
変わらないかぎりそうであるということなんです。わたしの議論の内容が
jun1さんの気に入る気に入らないの問題ではないのです。
わたしがデリダや西田を持ち出さず、詩的な書きこみや日常会話的な
自然言語のみでのやり取りをするなら、それがたとえデムパでもYes、
ジャーゴンを使ったらNo、あるいは<独在性>の議論はこうである"べき"に
Yesなら受容、Noなら攻撃・・・等々、自分の恣意的な気分や判断で変わって
しまうような承認、肯定、受容、了解なら、わたしははじめからいらないです。
以上、身びいきな発想で反論しましたが、わたしのあなたへの気持ちは
今も変わることはないです。わたしはあなたが好きですし信頼しています。
いや、詩はNGだ。見苦しい。
161 :
カオル:2005/11/06(日) 01:42:11
>2つ目はあなたの前提があまりにも破壊的だという点です。
>永井均の独在性の議論は唯一性や一回性、クオリアとは全く違うものです。
>こう言ってしまうのはいかにも早計なんですが。
>しかし独在性を理解するためにはそう考えた方がよいのです。
違うものです・・・たぶんそうでしょうね。
けれどもどうしてそれについて論じてはイケナイのでしょうか。
少なくともわたしには、唯一性や一回性やクオリアの問題は
<独在性>を考えるにあたって、最初に頭に思い浮かんだことです。
たしかに理解のそれとしては、双方を混同したわけではないけれど
その混同しなかった、別物として感じられた、ということ自体に
また、そこから考えはじめる"べき"だ、という前提に、わたしは疑念を
抱いてしまう。だから「違う」をハッキリさせたいと思うのです。
永井やあなたが「違う」と言うから、それを信じる、という風には
素直な子じゃないんですよね、これが。(笑)
162 :
カオル:2005/11/06(日) 01:44:46
161のつづき
あなたのいう<独在性>を理解するための思惟の前提や方法や道筋は
おそらく正しいでしょう。けれどわたしはそのような前提から始めたくないし
そのような方法を取りたくないし、そのような道筋をたどりたくないんです。
永井やあなたにではなくて、自分で確かめて、自分で納得して進みたいんです。
わたしにとって<魂>の問題は原初の問いなんです。永井に考えてもらっても
それをよく理解しているあなたに「そう考えた方がよいのです」といわれても
わたしにはぜんぜんピンとこない。永井の本を読んでそれを理解することや
あなたに考えてもらうことが、わたしにとってはまったくの的外れなんです。
あなたや永井を理解する他の人たちにとって、どれほどわたしの<魂>に
ついての議論が、わかってなくて、無駄に底辺からはじめていて、的外れでも
そういうところからわたしははじめたいのです。それがわたしにとっては
デリダや西田やウィトゲンシュタインでもあるのです。彼らの思考の痕跡は
そのほんの一部だけれども、わたしの血となり肉となっているのですから、
わたしはそれらを手段に使いたい。もちろんそれらに嫌悪感を感じたり、
吐き気をもよおしたりするようなこともあるかもしれない。だからそれらを
捨てるかもしれないし、気持ち悪くてもそれが真実であるために捨てられず
苦しむかもしれない。どうなるかわからないけれどそうやっていくしかない、
と思っています。
163 :
カオル:2005/11/06(日) 01:46:27
>だから茂木やデリダ(西田やクザーヌスやハイデガー)などを
>永井均と同志とみなし重ねながら論じるなんてことはあまりにも破壊的なのです。
「真理を探究する(した)者」として、哲板のみんなと同じように同志です。
わたしが的外れな議論をしたからって、それは破壊的ではないと思います。
それが的外れでないときに破壊的になるのであって、それは望ましいことだと思います。
>彼らが前提としているもの、つまりすでに解決してしまったもの
そんなものがあるのでしょうか。もしもそんなものがあるのだとしたら
それは彼らの思考の痕跡を遺物として思想化した解説書のそれでしょ。
>まずしっかり永井均を押さえる必要があります。
>いずれにせよ永井均の懐に飛込まずに独在性という虎の子を手にすることはできません。
「永井均を押える」「虎の子を手にする」・・・うーん、なんですか、これ?
「必要があります」「できません」・・・うーん、わたしはこの種の信念には無縁でいたい。
推測すると、あなたは永井の<独在性>について、すでに何かしら、あるいはすべてが
わかっていて、もう何も語る必要さえないような状況にいらっしゃるみたいですが。
164 :
カオル:2005/11/06(日) 01:49:57
>しかし近松門左衛門が独在性に深く関わる理由を懇切丁寧に論じてもらえれば、
>なんの問題もありません。ようは近松門左衛門を知らないヤツより知っているヤツの方が正しいと
>思わない/思わせないことが大事だと思います。
わたしは<独在性>に深く関わるのかそうでないのかを考えていきたいです。
相手が望むなら、できる範囲でわかりやすく説明していきたいと思いますが
そもそも近松門左衛門を知らないのに批判したり否定したりということなら
そのようなバカげた意見にたいしては、本来ならスルーしたいところです。
でもそれらのうちにも見逃せない意見もあるから、知らないからといって
だまっている必要はないと思います。またそのような意見にたいしては
対応していきたいし、わたし自身も哲板の先輩にはそうしてもらってきました。
ちなみに、わたしがたとえばデリダや西田の議論について何か言ったとしても
それは専門家にとっては、浅学な者の戯言でしかないのは今でも変わらないです。
だからあなたが「思わない/思わせない」などと言うこと自体に戸惑ってしまいます。
わたしはあなたの言う意味では、まだまだ素人だし初心者なのです。わかりますか?
あなたがわたしに要求するようなテクニックは、それでなくても長文しか書かない
わたしにはとっても負担です。以前は、ジャーゴンをほとんど単発的に使用していたため、
わかってもいないのに「勝手に使うな!」とよく叱られたものです。(^_^;)
そういう経緯もあって、これでも今ではそれなりの説明をしているつもりなんです。
最近やっと以前にされたようなお叱りを受けることが少なくなってきたところです。
165 :
カオル:2005/11/06(日) 01:51:49
164のつづき
という風に、そもそもそのように自覚しているわたしに、相手にたいして、あなたの
言う意味での「知っているヤツの方が正しい」とか、そういう感覚は、はじめから
まったくありません、というか生まれてさえこないです。もちろん近松門左衛門の
生年月日について「知らないヤツより知っているヤツの方が正しい」答えが出せる
という当り前さにおいて、わたしはそれを指摘するでしょう。
けれど、哲学は学んだり暗記するだけのものではないし、碩学の人だけに
許されたものではないです。なぜなら、たとえば「わたしの比類なさ」への問いが
博覧とは何のかかわりもないことをみても、それは明らかなことだからです。
166 :
カオル:2005/11/06(日) 01:54:04
>>157 ニップルさん
>「ホムンクルス」(最初に言ったのはあなたではないが確実に尻馬に乗ったはずだ)
わたしは"カオル"でしか書きこんでいないです。尻馬に乗ったつもりもありません。
そもそもわたしは、未だに脳の認知システム論にたいしては何も言っていないです。
わたしのどんな議論もそれに結び付けようという的外れな類推のためにそのように
見えてしまうのではないですか。
>現前した<わたし>
これについては、前スレでも説明しているし、
>>13でもふれています。
>>158 >以後しばらく2ちゃんをひかえます。
>せっかくの良スレを荒らしてしまい申し訳ありません。
荒らしている自覚があるなら、荒らしてしまう自覚のあるうちは
来ない方がいいと思います。というか来ないでほしいです。
来ないあいだに永井を読みまくり、そのような知識を背景に
「荒らし」に来られてはたまりませんから。ちょっとキツイか。アハハ
どうかあなたのなかのルサンチマンの構造をみつめてください。
わたしもあなたとともに反省します。そしてその反省はこのスレへの
書きこみで示していきたいと思います。では、またいつか。
>>166 落ち着け。むしろ自覚なしに嵐てるならお前の方がタチ悪いぞ。
そしてその反省をこのスレに書き込む必要もない。むしろやめれ。
というか率直に言って理解が足りない奴に占拠されるとウザい。
168 :
カオル:2005/11/06(日) 02:02:02
>>160 >いや、詩はNGだ。見苦しい。
一応、わたしもLRの議論でみとめたところだから
今は、あるスレでしか書いていないです。
そのスレで書くことは、議論のときに許してもらっています。
とはいっても、書くかもしれない。(笑)
でもこれからはちゃんとした説明付きでやるつもりです。
超越論的→超越的、となるにつれてとりあえず詩の方が
的確に表現できるようなところがあるように感じています。
まぁでも、これからはあんまり書かないから安心して。(^.^)
169 :
カオル:2005/11/06(日) 02:16:40
>>167 反省と言うのは、書き込みの内容で示すと言う意味です。
荒らしだとかなんだとか、哲学とはこういうものだとか、
<独在性>については、こういう取り組み方でないといけないとか・・・
そういうことについて書き込むわけではないです。
jun1へのレスもたまっているし、そういうレスをしっかり書いていきたい、
ということです。
それと理解してないから、参加できないという排除の仕方には
ほとんど賛成できないです。そもそも<独在性>って理解するものなの?
まぁそういうところも議論していけたらいいと思ってはいますが。
今日はこれでお終い。おやすみなさい。
170 :
カオル:2005/11/06(日) 02:21:03
>>169 >jun1 → jun1さん
jun1さん、ごめんなさい。
レスは、まだ時間がかかりそうです。
今日書いたようなのは、いくらでも書けるんですけどね。(笑)
哲学はそうはいかないですもの。
171 :
二プレス:2005/11/06(日) 23:48:01
つい覗いたら無茶苦茶書いているから・・・、ごめん。今年いっぱいもう覗かないしNGワードにいれます。
>カオル
ルサンチマン構造?教養問題はカオルの泣き所だろう?・・・はぁ。
今頃「ホムンクルス」について言及してないとか言い出して・・・。
「せん」のときも他人に煙幕張らせて「そうそうそういう意味だった」とか言ってたよなぁ・・・。
特にこれ
>>164「わかりますか」なんて書いてるけど、お前の言ってることはデタラメだと何度も指摘しただろうが!
以下カオルの生態(現状)
1、矛盾を指摘する→問うことこそが哲学(
>>159は
>>168で言っていること早速矛盾している)
2、独在性を理解していない→理解するものなのか
3、独在性を説明→わかってた
5、茂木やデリダなどと問題領域が違う→いや同じだ(
>>153)
6、永井均の独自性を説明(
>>154-155)→わかってた、「違い」を説明するために論じてはいけないのか
>>161 一つ一つの発言の内部にもしばしば矛盾が見られるけど1から6までの諸発言間の
デタラメぶりを見ればなぜ自分の立場を明らかにできないのかがわかる。
矛盾、誤りを指摘して改善を促すと、「強要」「暴力」とみなして被害者化する。
永井均の「哲学=問いの提出」を持ち出して、責任ある発言をすることを頑なに拒んでいるが
永井均の言っている「問いの提出」とは『<子ども>』で言うところの大森正蔵の態度に近いもので、
相手の批判に意識的に耳を傾ける態度の事を指しているのであって、
>>161-162で見られるような
自分の誤りを棚に上げて開き直ることを指しているのではない!
このくらいのこともわからないのにデリダと永井均の二方面作戦とかできるか
172 :
二プレス:2005/11/06(日) 23:49:37
>>156の近松門左衛門のたとえで言わんとしていたのは論証をきちっとしろということ!
「差延」とか、「絶対矛盾的自己同一」とか、(「早稲田のデータベース」とか、)
突っ込んでも「マイ解釈」の一言で逃げられるところで虚言を吐いて、何かを言った気になるななと言ったんだよ!
そしたら「ルサンチマン構造」とか言い出しやがって・・・。
それお前だろ、永井均を理解できなくて悔しくてここ荒らしてんじゃん。
>永井の本を読んでそれを理解することやあなたに考えてもらうことが、わたしにとってはまったくの的外れなんです。
>>162で書いてあることが本当なら(特にこれ↑)
何を批判されても聞く耳を持たないし、永井均に沿って考えることもない、ということでしょ。
(実際そうしているから
>>147の後半とは両立できないけど、かっこいいことは言いたいんだよね)
後さぁ、単刀直入に言ってスレ違い宣言でしょ、これ。
なんでこんなやつに「荒らすつもりなら来るな」(
>>166)なんていわれなきゃならんの?
ほんと、怒髪天をつくだよ。
私が結果的にスレを荒らしてしまった責任を取って、このスレに書き込まないと言ったら
少しは連帯責任を感じてくれんのかねぇ。
(刺し違えるつもりだったのに無傷で、その上勝ち誇ってるんだよぉ)
173 :
二プレス:2005/11/06(日) 23:50:11
それにどうも私が『<魂>』を読んでないとか、「少し休む」というニュアンスのことを言ったから
私の旗色が悪いと勘違いしているみたいだけど、『 醒めることを禁じられた夢』には
>>136に書いている予定と
重なり合う部分はないわけでしょ?(
>>146)
だったらさぁ、むしろあんたの旗色が悪いんだよ。
136では『醒めることを禁じられた夢』を引用して現存在やら生命やら、現存在の成立やらという問題を
論じたいといってたけど、
>>142を受けた146ではそれを撤回せざるをえなくなったんでしょ?
つまり『醒めることを禁じられた夢』をぜんぜん読めてないんでしょ?
永井均をぜんぜん読めてないやつがさぁ、「永井の本を理解するのは的外れ」(
>>162)とか言ってるんでしょ?
しかもそいつが「ルサンチマン構造」云々言ってるわけよ。誰がルサンチマンを抱えているか推して知るべしでしょ?
それと
>>168。他人に厳しく自分に甘いクランケの実態を赤裸々に物語ってますよ。
(こういう自分に甘い姿勢と正反対のことを永井均は「哲学=問いの提出」といっているのだが
「矛盾してもいい」とか「自由」とかって我田引水に解釈して「批判=抑圧」の図式で被害者化するんだよなぁ)
もちろんあんまり相手にすると「逆転移」しそうで怖いからもう二度と相手にしません。
(やたら頻繁に書き込んでしまうのは、この板での体裁を気にして自分の無理解を隠蔽しようとする
カオルの病的性質が逆転移したからだと思う)
(
>>164で「わかりますか」なんて聞いているけど、あれは自分の方が知識で上回っていることを印象付けるための
戦術でこのことが体裁を気にしているカオルの内面をよく示しているでしょ)
(前スレで「早稲田のデータベース」で調べろとか何とか言ってたけど、お前みたいな無反省な態度で生半可な知識をひけらかしたら
ゼミで吊るし上げ食らって泣いても許してもらえないよ、「わかりますか」はこっちが言いたくて我慢してた台詞じゃボケ)
スレ汚し勘弁してください。
174 :
二プレス:2005/11/07(月) 00:19:23
それにしても、ある新しい問題提起が人々に理解してもらえるためには、
どれほどの根気と労力と時間が必要であるか、この間の私は痛感せざるを得なかった。
人々は頑ななまでに新しい問題提起というものに鈍感で、かつ拒絶的である。
そして、どういうわけか、問題が少しでも注目されるようになると、今度は精確に
理解しようともせずに、さまざまな角度からその問題の悪口を言って、何とかそれを旧来の
枠組みに押し込めて抹殺してしまおうとする人が次々と現れるのである。
(『<私>という比類なき奇跡』より)
>カオル
「精確に理解しようともせずに」「旧来の枠組みに押し込めて抹殺してしまおうとする人」
身につまされるものがありませんか?
君の場合、旧来の枠組みも押さえてないから当てはまらないのかな?
175 :
ニプレス:2005/11/07(月) 02:10:29
けんかはよそでやってね〜
どんな議論がどの程度永井の問題に関係あるかは,検討の余地があるだろうけど,
けんかとか,ただの態度表明とかが,永井の問題に関係ないのは,明らかだ。
あとは,何か議論したければ,永井の問題との関係をできるだけ明らかにしつつ
議論する。関係なさそうな話題については,限度を考える。それだけだろう。
まあ,あえて一言言うと,
>>162は,永井の問題を理解することとは全く違うことを
問題にしていきたい,と言っているように見える。そんなことは別スレでやってくれ,
とだけ言っておく。
【36】
なんだか、自力で回復が難しいところにまで発展したようですね。
まあ、両者とも真剣にやろうとしたのだからある意味仕方がないの
だろうけど。
>二プレスさん
あなたには、前スレから、またあるスレにて問題提起してくださった
永井の独在性に対する議論を与えてくださったことには大変感謝して
おります。
あいにく私たちのそれに対して解釈する言葉が違ったのかなと思います。
カオルさんは、それについて"魂"という言葉で解釈しているし、私は"実存"
という言葉でそれを解釈しています。その違いは、これまでの流れを汲んで
いただければ、充分理解に及ぶものと思ってましたが、このスレでは
どうもふさわしくない領域に踏み込んでいたのかもしれません。反省します。
【37】
>カオルさん
ひとつだけ訂正させてください。
>>147 >わたしがどんなにjun1さんを傷つけても、いつでもjun1さんはわたしの味方です。
私は、カオルさんの味方じゃありません。味方じゃなくて、ともだちです。
>それは本当だけれども、だからといってわたしには、jun1さんと議論することで
>わたしへの非難から自分を守るとか正当化しようとか、そういう気持ちはありません。
本当じゃありませんから、その前提は偽になります。
でも、カオルさんが私を利用しようとしたとか、正当化の道具に使用した
ことはないと思いますよ。
それから最近、カオルさんに批判とかしているのだけど、カオルさんには
レベルが高すぎたかなあと思ってますけどね。まあ当初(2、3年前)は、
レベルが高すぎて私がぼんやりうなずくだけだったので、まあこれもようやく
進歩なのかなあとほくそえんでますけどね。というわけでカオルさんの批判を
気長に待っています。
【38】
これはまったくの私見ですが、私はカオルさんと二プレスさんのやりとりを見
てちょっと考えてしまいました。率直に言って私自身このスレでは議論できない
ということなんです。カオルさんの永井の論を使用して議論はできるかもしれない
けど、もはやこのスレッドでやる意味が私にはまったくないということなんです。
スレッドの構造的に、2ちゃんねるの一番悪い部分が前面に出てきたのではな
いかと思っています。たとえば
>>143や
>>160、
>>167のレスはよく読めば煽り
だと判断できたはずです。それにレスを返してしまったのはおそらく双方の
過失ではないでしょうか。これによって両者の煽りあいという敵味方という
構造を両者が認めたことになっているのですから。
もし両者、反省しているのであれば、お二人とも永井関連のスレには書き込ま
ず、そして新たに、永井の専用スレッドを立て直すぐらいがちょうどよいので
はないかと私なら考えます。このあとじゃあ、いくらほかの人が議論をしたく
てもすぐにはできないでしょ。
【39】
カオルさん
これはお願いにあたると思うんですが、この議論の続きを私の作った
掲示板で行うことはできないでしょうか?
哲学魂(入口)
http://bbs8.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=5775#1 私は、もう2ちゃんねるでスレッドを立てることをしたくはありません。
それ以前に、2ちゃんねるに限らずネットに深く関わることをやめようと
思っています。
カオルさんとの議論は、今でも私の楽しみの一つですが、もっと落ち着い
た場所でやりたいのは、私個人としてのはっきりとした考えなのです。
実はこのスレッドを覗くのは3日ぶりで(そのためこのスレッドの進行
具合に驚きを隠せませんでした)そして私のこのスパンは今後もっと開く
と思うので(1週間とか、2週間とか)満足した議論ができなくなるだろ
うということが考えられるのです。(現在も、このスレがどういう雰囲気
なのかつかみかねています)
まあ、それでもカオルさんが哲学板に残るというのなら構いませんけどね。
そのときはカオルさんのいるスレにまたひょっこり現れるつもりなので。
なぜそうするのかというと、あなたとの議論を終わらせたくないからです
けどね。
【40】
(それ以外の方へ)
あと哲学魂という掲示板にはカオルさんに限らず哲学魂をもった方なら誰でも
参加できますので、興味がある方ならぜひ一度立ち寄ってみてください。
ここからの呼びかけで申し訳なく思いますが、もし"あなた"が今の場所に不満を
覚えていらっしゃるなら、どうぞ私の掲示板にお越しください。いちおう
ほとんど面識はないのですがチンポ太郎さんという方にも、個人的に申し上げて
おります。どうぞよろしくお願い致します。
あと【37】の >カオルさんの反論を気長に待っています。
の続きではありますが、その間に永井の『魂に対する態度』と、
デリダの『声と現象』は読んでおきます。
それでは。
基礎的な質問で申し訳ないんだけど。
独在性=取替えできないもの
単独性=取替え可能なもの
大まかな理解としてはこれでいい?
>>182 個人的には、永井の議論を理解する観点からは、独在性と単独性という用語を182のように対立
させること自体、適当でない気がする。
そういう用語ではなく、
「現にそこから世界が開けている(目が見え、痛みを感じ、体を動かせる)人は、私一人しかいない」ことと、
「誰にとっても、そこから世界が開けている人は、その人一人しかいない」ことの区別が重要。
重ねて言うと、182を文字通りにとると、例えば「世界に一つしかないこのボールペン」は、
取り替えがきかないから独在性があることになりそうだけど、それは永井の議論とは関係ないと思う。
184 :
カオル:2005/11/07(月) 20:47:52
>ニップルさん
今回はじめて、わたしへの発言に悪意を感じませんでしたよ。
しっかりケンカするって自分も相手も気持ちのいいものなんです。
きっとわたしへの蟠りもとけたのではないでしょうか。
わたしはとっても清々しい気分になれました。(^.^)
だから今年いっぱい覗かないとか、カオルをNGワードにするとか
そういうのやめませんか。これからやっとちゃんと議論できるような
そんな気がしています。いかがですか?
>>183 丁寧に教えていただいてありがとう。
俺、永井は『子ども』を立ち読みしただけなんだけどなんか思った以上におもしろそうだね。
>>183を念頭において(かつ鵜呑みにすることなくw)スレを読みなおしてみることにする。
そいで更に興味を持ったら永井もちゃんと読んでみるよ。
186 :
カオル:2005/11/07(月) 22:28:45
>>39-40 jun1さん
>>(1) みかけ(仮象)ではない「ほんとうの姿」。
>夢は実在なのか、仮象なのかということだと思います。
基本的に(1)〜(5)は、
>>13の議論にたいして使いたかったのです。
あまり来られないみたいなので、結論ありきで途中の議論を飛ばして
書かせてもらいます。(とりあえず、入不二の解釈はおいておきます)
醒める夢でも醒めない夢(現実)でも、夢(世界)は
<わたし>=<魂>が開闢するもの、なのではないかということ。
夢が実在であるか仮象であるかを問題にしたいのではなくて、
けっして「ほんとうの姿」は見れない( <わたし>=<世界>は
<わたし>=<世界>を見れない → <わたし>は現れない )けれど、
ほんとうはそうである、というあり方で、唯一「ほんとうの姿(そうである)」を
持つものとして「実在」しているのが、<わたし>=<魂>、なのではないか、
ということです。
ですから「世界は実在するか」と問うとき、もし世界が実在するのなら
その世界は、<わたし>=<魂>の世界 → 独我論、でなければならない、
ということです。(構造的にはウィトゲンシュタインの独我論と同じです)
実在論は本来独我論的なのだ ── 『<子ども>のための哲学』 125n
187 :
カオル:2005/11/09(水) 00:41:05
>>41 jun1さん
>>(2) 心の働きに依存しない、それから独立した「それ自体であるもの」。
>この、独立した 『それ自体であるもの』 とは、存在のことをさしているように思いました。
>〜存在論とは先ほども少し触れましたが態度であり、それ自身がそれ自身であるような存在、
>つまり私たちの間にある存在、『言語』ということになります。
「心の働きに依存しない」というのは、
>>13でいう「わたし」や「カエル」に依存しない
ということです。<わたし>は、それらから独立した「それ自体であるもの」として、
つまり、わたし自身であるという以外のあり方ができないものとして存在している。
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。- TLP 6.44
わたしとは、どうしてこのわたしなのだろう。
(ウィトの方は、世界を<わたし>に言いかえてみてください)
だれでも一度はこのような感覚に襲われたのではないでしょうか。
このようなことを呟くとき、それは言葉ですし、このような驚きを可能にするのも
言葉なのでしょうけれど、でもこのような驚きを感じたことさえも言語のみる夢の中での
束の間の出来事なのでしょうか。
たしかに、それに驚くこと、それを感覚すること、それを感じること、それを呟くこと…
それらはすべて心の働きに依存しています。でも当の"それ"はどこからやってきたのでしょう。
いえ、"それ"が存在するとかしないとか(こちらは、魂の永遠、輪廻転生の話しになると思う)
ではなくて、"それ"が「それ自体であるもの」として、どこからもやってくることができないこと、
「今ここにある」ということが、「比類なき<わたし>」として、それ自身で存在してしまっている、
という端的な事実にたいして、その原因を、つまりさらにそこからどこかへ溯ることはできない
ように思うのです。
188 :
カオル:2005/11/09(水) 01:10:52
>>187 【補足】
わたしが、
>>137-139で問題にしてるのは、 言語が事実上その役目を
果たさないような状況において、「カオル」という固有名を超えて<カオル>へ
近づきうるふるまい(態度)とは、どういうものになるのか、ということでした。
たとえば、永井が『<子ども>のための哲学』という本を書いて
そこで何か言ったとしても、それは<子ども>→<魂>への語りなのだから
永井の<わたし>論は、けっして<子ども>=<魂>へ届くことはないのです。
そこには、ただどうしてだか永井である<わたし>=<魂>の「態度」だけが
"それ"を伝えようとした痕跡として、宙に浮き漂っているのでしょう。
いいか
永井の言葉は低次元の思考領域をうろうろしている徘徊者だ。
君達はその後をついて回っているだけです。
それはまったく無意味は歩みだ。
190 :
考える名無しさん:2005/11/10(木) 22:45:13
>>189 >無意味は歩みだ。
マーボχはまったく無意味は歩みだ w
マーボxよ、何を荒らしているのですか?
これは警告です
193 :
カオル:2005/11/11(金) 03:39:23
>>42 jun1さん
>>(4) 矛盾を含まない整合的なものであるという側面。
>これは、先ほど言った( 『私という存在』 = 『実在』 )でしょうか?
(4)は、そのままの意味ですが、矛盾を含まないためには
<わたし>だけ(
>>186参照)が、実在している、にならないとなりません。
しかもその「実在している」という事態は「つねにいつも」そうなのだから
それを「実在するのかしないのか」という問いの中には放り込めないです。
なぜなら世界のどこをさがしても、つねにいつも「A=A」であるようなものは
存在しないからです。わたしたちは「あるものがあるものである」ということを
信じることによって世界を成立させているけれど、実態はそうでないからです。
わたしたちは「生成しつつ消滅しつつ」のたえまない運動として"ある"のであって
「生きていること」や「存在していること」は、つねにいつも「現在進行形」なのです。
"それ"を、あなたがいうように痕跡として完了形で認識しているわけです。(差延)
このような「わたし」における矛盾した事態は、世界内の人間である「わたし」には
当てはまっても、<わたし>には当てはまらないでしょう。ですから世界内において
<わたし>は「存在しない」とも、また「人間でない」とも言えます。
ウィトゲンシュタインの言葉をかりるなら、"それ"は
自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入りこむ。
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の
心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の──部分ではなく
──限界なのである。( TLP 5.641 )
ということと構造的には同じでしょう。
194 :
カオル:2005/11/11(金) 04:20:28
ですから、あなたのいうように「私という存在=言語(態度)」は
「実在」ではないけれども、「態度そのもの」としての"それ"は
「実在しているはずだ」ということになります。
たしかにこのちがいは、ハイデガーでいう「存在者」と「存在」の
ちがいに相当しますが、「存在すること」は、そこからさらに溯る
ことのできない、それ自体が奇蹟であり神秘なのですから
"それ"は、「実在しているかそうでないか」−のような−議論の
−対象−にすることはできないでしょう。つまり、
人間がけっして知ることはできないけどほんとうはそうであることが
確固として存在する。── 『<子ども>のための哲学』 125n
けれど、"それ"( 永井の<わたし>論、および <魂> )は
"それ"が存在しなくても通用するようなものであった。
ぼくが言わんとすることは、そこには語られていなかったのだ。
── 同書 101n
この<魂>の<わたし>の言葉が、けっして<魂>の<他者>には届かないこと、
これが、
ウィトゲンシュタインがめざした「独我論の対極にある哲学」とは、
実在論の哲学ではなく、言語ゲームの哲学だったのである。
後期ウィトゲンシュタインを読む者は、「言語ゲーム」の哲学において
何が断念されているかを読まねばならない。この断念がどんなに驚くべきものかは、
最初の<子ども>の驚きを共有した者にしか感じとれないかもしれないけれど。
── 同書 100,101n
なのではないでしょうか。
195 :
カオル:2005/11/11(金) 05:00:03
>>42 jun1さん
了解されていると思いますが、あなたが
>>42で言っていることと
わたしが
>>187で言っていることとはおそらく同じことでしょう。
また<今>そのもの → <永遠の今>については、前スレでふれましたが
これについての認識もそれほどちがわないのだと推測します。
ですから全体としては反論にはなってはいないのですが
不思議なのは、どうしてそれが理解できているのに、わからない
というのか、です。
もしそれが、"それ"は、理解するものではない、というハイデガーの、
あるいは、カントでいう認識の限界を正しく意識してのことであるなら
その態度には敬服しますけど、それは永井も同じで、だからこそ、
<魂>の、語りえなさ、応答不可能性、をひたすら書くことになるのだと
思います。その行為を否定することは、哲学徒にはできないはずです。
それをせずにはいられない切実さから哲学は、はじまるはずですから。
(永井は、この「切実さ」を青年の哲学として拒否するでしょうけどねw)
196 :
カオル:2005/11/15(火) 01:20:17
>>43 jun1さん
>>(5)ありありとした(いきいきとした)現実感。
>結局は、 『態度』 と、 『現実』 の関係になるのでしょうか?
>現実の世界に、 『態度』 が上手くおさまったとき、
>人は、"いきいき"とした存在感を得ることができます。
>このいきいきは、私の挑戦に対する、私のご褒美(糧)なのだと思います。
>〜このような、挑戦と糧は、まさに、<私>と<神>の関係なのだと思います。
>そしてこのときの私の状態をおそらく<実存>状態と言うのだと思います。
全体としては、とくに反論したいような気分になるところはないですが、(笑)
jun1さんのいう“態度”は、「今ここにある」ことを自覚する実存者のそれと、
「今ここにある」ことそのものとしての<魂>のそれとが相互依存したままに
なっているのでコメントがむずかしいです。そういうものとして自己がある、
ということから逸脱しないためにそうしているのでしょうか。
たしかに自己のいないところには、<魂>の態度も存在しようがないでしょう。
でも自己が、存在そのものの、生命そのものの、そして言語そのものの記号化
によるそれの反復によって支えられているのだとしても、だからそれら痕跡の
認識によっては、超越的な理念それ自体を捉えることができないのだとしても
仮にもしもそれらと自己との関係が言語によって何かしら言えるのだとしたら
そのことのうちに、
>>41の「それ自身がそれ自身であるような」存在としての
<言葉>と<魂>の超越性と実在性とが等しく示されるのではないでしょうか。
そしてきっとそれは−はじめに言葉ありき−と言った神さまへの応答なのです。
197 :
カオル:2005/11/15(火) 01:23:15
>現実の世界に、 『態度』 が上手くおさまったとき、
>人は、"いきいき"とした存在感を得ることができます。
>このいきいきは、私の挑戦に対する、私のご褒美(糧)なのだと思います。
jun1さんがいうのは、挑戦ではなくて適応ではないでしょうか。
適応というのは、存在感を褒美として受け取ってしまうことです。
それは<魂>が<魂>であることを忘れてしまうことのように感じられます。
たとえば、夢と現実とをわけるのは、それがさめるものなのかそうでないのか、
だとしても、夢を確実にさますのは「痛み」です。夢は痛みに耐えられないのです。
痛みは、この肉体が生きていること、からやってきます。
わたしたちは、夢という独我的世界のリアルさよりも痛みのリアルさを信じます。
この痛みのリアルさとしっかりと繋がれることが“いきいき”感の条件であって
わたしたちは、この“いきいき”感によって夢と現実をわけているのでしょう。
198 :
カオル:2005/11/15(火) 01:31:28
197のつづき
わたしの心が、宇宙が、あるいはこの肉体を構成する細胞の一つひとつが
“ある”という事態においては、それぞれがまったく遜色なく同格であるために
かえって、その個別性を保つことができないように、“生きていること”も
−わたし−という鋭利な兇器(言葉)によって「生きていること=わたし」として
切り出されてしまうまでは、“ある”とおなじように、外延(対象)を持たない
唯一の“それ”として「そうであることのすべて」だったのではないでしょうか。
世界とは、そうであることのすべてである。( TLP 1 ) ← 永井の訳です。
わたしになったわたしに「そうであることのすべて」を対象化することは不可能です。
けれどもわたしには「そうであることのすべて」を感じてしまうことができるのです。
このような事態は−わたし−という言葉が「そうであることのすべて」から
「そうであることのすべて=わたし」を切り出した瞬間への回帰ではないでしょうか。
それならわたしの「わたしはそうであること以外のあり方ができない」という感覚も
当然のことのように思うのです。
でもどうして「わたしになったわたし」に“それ”が感じられるのでしょう。
まるで退行催眠によって生まれる瞬間にもどるようなこの体験は一体“だれ”が
しているのでしょう。本来、わたしは“それ”のなかにいるのだから“それ”自体を
感じられないはずではないのでしょうか。
褒美を褒美とも思わない、現実のその世界にぴったりとおさまらない
不適切な“だれか”が、今ここに居そうな感じがしてこないでしょうか。(^.^)
199 :
考える名無しさん:2005/11/16(水) 00:09:38
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は?
:|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ?
:i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの?
i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。
i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう?
i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。
::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ?
:::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。
ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何?
-".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを?
::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。
::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞!
::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
【41】
>>187 カオルさんの言説と比較すると興味深い文章があったので掲載します。
出典はフッサールの『イデーン T』の第一節の冒頭です。
どんな学問にもそれに応じて、それに応じて、研究領分として、ある対象区域がある。
そして、その学問のすべての認識、つまりここでは正しい言表と言い換えてもよいが、
そうしたものには、これまたそれに応じて、それの正当性を証示する基礎づけの根本
源泉として、何らかの直観があるのである。この直観のうちでこそ、当の区域の諸対象
が、それ自身そのものとして与えられつまり自己所与性となって現れるのであり、少な
くとも部分的には、原的所与性となって現れてくるのである。
それからカオルさんの言説の一部
>>187 >それに驚くこと、それを感覚すること、それを感じること、それを呟くこと
あるいは
>"それ"が「それ自体であるもの」として、どこからもやってくることができないこと、
これらの言葉について、フッサールは、『自己所与性』という言葉を与えています。
そしてこの『自己所与性』を与える存在に対して、『直観』という動名詞を付しています。
この名詞化された動詞(直観)は、―永遠なる今―という存在形式の<私>自身です。
つまり、フッサールの言説を正しく解釈するならばその『直観』こそがその対象に対する
正当性という証明自体を持ち、そしてそれが言明化された本質論へと回帰する、
つまり<私>は、言語一般者としても、ついには回収されてしまう様を見てとることも可能でしょう。
どうやら、『直観』という名のその<私>も、言語を必要とするようなのです。
【42】(つづき)
『直観』とは、本部として活動でありながら、<私>という言語存在者としての活動を一切含ま
ないゆえに、静態化されたものとして、つまり名詞としてしか存在しえないものです。これは、
胃の消化の"消化"という語に対して使われるときとほぼ同じような言語構造です。存在して
いることははっきりと分かっているのに、その存在を言語存在者としての活動という観点から
決してつかむことのできない存在、これを<比類なき私>、『直観』としてカオルさんは、証示
しているのだと思っています。私たちがそれを把握したとき、それはすでに<完了しているもの>、
それが『直観』の基本的性質なんです。そしてこの基本的性質の中に、『自己所与性』という、
その対象が、それ自身としてあるものとして、対象化がなされるのですが、その中にはっきりと
"学問"の構造が不可分にも接していることが、見て取れると思います。
いちおう"学問"とは大げさですから、"学びの体系"という風に読み換えてください。"学び"とは、
教えることと教わるということの相互関係の内でのみ行われる活動の一種です。教えようと
思わなければ教えることはできないし、教わろうと思わなければ教わることができない。
そういう双方の意志が密着した場合にのみ起こりうる現象です。ただ単に、"学び"を"まね
る"と語源的に解釈したのでは、学びの構造は浮かび上がりません。
このような、学びの構造は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの構造とほぼ近似の関係を
持つことはお分かりになると思います。
【43】(つづき)
またフッサールの現象学は、その根拠を認識論(カント流の)や心理学を根底においており、
自我構造を正確に捉えることからはじまります。またこの自我とは、対象化された<私>です。
ちなみにデリダが『声と現象』で批判したと思われるのは(まだ全然読み進んでいませんが)、
このような自我の基本構造ではなく、直観する<私>から、言表する<私>までの差異をついた
ものと思われ、全体としてはフッサール現象学の、細部のみを批判したといえるのですが、
たとえばこの存在の本質が、言語を離れることが可能かというとそうでもないのです。
もともと本質は、言語を離れることはありません。言語を通した循環から本質が立ち現れる
からです。
そもそも言語が本質を作るのでしょうか? いやそうではなく、本質が、言語をそれ以外あり
えないものとして構成するのです。そしてこのそれ以外ありえないものとは、"事実"です。この
"事実"のみが、その事実という価値を持って世界を、流動し、言語をそれ以外ありえない
ものとして、生み出し続けるのです。
【44】(つづき)
では、事実であることは、どのようにしてそれを保証するのでしょうか?
ひとつには、信じることです。見てみぬものを、それを真実だと信じることにより、それは意味
それ自体を持ったものとして保証されます。
あるいは、確かめることです。実際にそれに対して疑いをかけ、確証をえる手がかりを探し出し、
その手がかりによって、事実かどうか検分をかけることによって、それが事実であった場合に
のみそれが事実であると保証されます。
この信じること、確証を得ること、疑うこと、手がかりを探すことは私の活動です。
私自身の活動という他のないものです。そしてまったく言語存在者としての活動にあたります。
言語存在者としての存在は、つまりそれ自体が、思考から始まり、確証にいたるまでの
つまりそのものが哲学という活動そのものといっても差し支えないものです。
事実と言語は、事実を主とし、言語を従とする、不可分な関係にあると言えるでしょう。
この問題は、ちょっとややこしいので、とりあえずここまでとします。
【45】
>>188 >わたしが、
>>137-139で問題にしてるのは、 言語が事実上その役目を
>果たさないような状況において、「カオル」という固有名を超えて<カオル>へ
>近づきうるふるまい(態度)とは、どういうものになるのか、ということでした。
ちなみに上の【41】〜【44】までの論は、竹田氏の論を大きくふまえたもので、
彼の支持するフッサールの一部の言説に直接当たり、私が再解釈したものです。
しかし、竹田氏は実存主義者ではなく現実主義者ですから、私が述べるよ
うな"態度"を問題にしたりはしません。そういう種類での批判(攻撃)を加える
ような人格の持ち主でもありません。おそらく哲学ではこの問題は埒外だと感
じている人のようです。しかしこの態度を問題にしたとき、やはりそれは実存主
義の問題領域にうつると私は思うのです。
『では、私はどうしたらばいいのか?』
この実存的問いともいえる命題における"私"は、永井の<私>論で指摘された
とおり、永井自身でも、"この<私>"(jun1 その人)でも、これを読んでいるカオル
さんでもありません。"この問題における今の私"の背後から迫ってくる存在に
対して、『私』が名付けられます。そして、この問題に直面したとき、この背後の
『私』に対して真正なる意味でプラトンは、それを"イデア"と名付けたのです。
つまり、イデアは実在するかという批判は的外れでしかないということです。
実在するかどうかではなく、イデアは、実存の対象として私そのものを指す"究極"でした。
それは根源ではない、目的(未来)でも、過去(記憶)でもないものとして、
永遠なる今、それがそのまま、"イデア"であることは、実存の本来的自己と
するところでした。
【46】(つづき)
ですから、少し飛びますがカオルさんが
>>194で
>ですから、あなたのいうように「私という存在=言語(態度)」は
>「実在」ではないけれども、「態度そのもの」としての"それ"は
>「実在しているはずだ」ということになります。
と言われるような"態度"がそのものとして実在するかどうかと問うことは、
プラトンのイデア批判と同じであり、つまり同じ階段を再度昇るようなことと思います。
もともと、私がそうすべき、あるいは、そうあるべき、と言う命題には、私はたしかに
存在しているのだという"独我論的な確信"が前提とされなければなりません。実在論を
のぼりきり、そしてその階段をすてなければ、実存論の態度をめぐる議論は不可能と
思います。
>>195 >不思議なのは、どうしてそれが理解できているのに、わからない
>というのか、です。
これは他でもない私にたいして言っているのだと思いますので、お答えします。
私はこの永井という人物を哲学者だと、あまり認めてはいません。
少なくとも日本が誇る哲学者だとは、言えないと思います。
また、私は逆の意味で彼に同情する気もありませんし、そのような行為こそ、
永井に対する侮辱だと思われるのです。同情しない、そのような行為であるから
こそ哲学的議論を遂行できる唯一の道があると思われるのは、私だけでしょうか?
【47】
>>197 >jun1さんがいうのは、挑戦ではなくて適応ではないでしょうか。
>適応というのは、存在感を褒美として受け取ってしまうことです。
まず、ご褒美は、時間の必然という場にある偶然性によって開示します。
そして実存とは、まず被投的な存在です。実存状態とは、そのものにおいて限界状況
の中にあり、アポリアとして、領域(Termini)として、つまり存在の終末的(テロス)な場で
あり、それはつまり、すべての存在が言語に転換される場でもあります。
つまりこの実存状態とは、夢の中より、いっそう夢の中の存在なのではないでしょうか?
実存状態は、肉体をも超越します。それでいて、世界に適応したりはしないのです。
適応しないままで、私の存在を固持しつづける、そうキルケゴールが世間に対して
そうしたようにです。
【48】
(いきなりですが"夢"について)
>>186 夢については、私にもいろいろな思惑があって、簡単に反論することはできないの
ですが、とりあえず今思うことだけ言わせてもらいます。
夢は"世界"として解釈するとまずいと私は思います。まず夢は連続性を持ちません。
非連続的です。ですからその点でまず世界の世界たる確証が得られなくなると思います。
夢に連続という意識を与えるのは、夢から醒めた後の私の自我です。
夢が世界観を持つのは醒めた後です。ですから、本来ならば夢が世界を持つという
構造そのものに批判が加えられるべきではないでしょうか?
では夢とは何かという答えには、私ならばこう答えようと思います。夢とは思考そのも
のである。外部意識の遮断された思考が夢であるということです。夢は思考そのもの
ということ。
【49】
(いきなりですが、"そのもの"について)
(
>>117 >>118)
ちなみに前の議論にも戻りますがこのときの私が使う"思考そのもの"と永井が使う
"過去そのもの"にははっきりとした隔たりがあることが認められると思います。私が使う
"そのもの"は、そのものが指示する"言語"の、本質を示していますが、永井の場合の
"そのもの"は、その過去という"言語"に対してではなく、その過去という事例に対する
"実在"に対して言っているという、なんとも奇妙な日本語の文章になっているのです。
これを解決する方法はひとつです。"これ"とか"あの"とか"この"とか、"唯一の"とか、
冠詞をつけてあげることです。そうすれば"過去そのもの" と "この過去そのもの"は
まるで意味が違ってくるでしょう。
ちなみにこの"言語"自体は、実在論ではなく、存在論の範疇ですから、この置き換えを
上手くするのが、読みやすくするコツかなと思います。そして、経験科学の実在論を審議
する事実学を捨て、この言語の存在論による本質学(現象学)を、フッサールより先に
切り開いたのが、カントその人だと私は思っていたりするのですよね。
【50】
で、【47】のつづきに戻りますが、思考そのものである夢を超えて、思考そのものと
して究極的な言語存在者として現在を生きることが、それこそが実存状態なのであり、
つまり夢中人たる人間の資格なのです。この夢中人は、身体の痛みなんていともしま
せん。なぜならばそこは言語の生まれる場所でもあり同時に死する場所である、
人間にとってもっとも活動的な《哲学空間》でもあるからです。
孤独でありながら、本来的に孤独ではない場所、《哲学空間》、そこに永井がいたことは
認めます。しかし、永井は、その孤独から逃げてしまったのではないかと私は思います。
私の意見が認められるか認められないか分からない状態に投げ込まれて、
認められなくてもいいと言う言葉を吐露してしまったことにより、他者の理解しようという意識
そのものを、その言葉によって存在を否定してしまったこと。それは孤独でも孤立でもありません。
私は彼の主たる主張<子どものための哲学>から、そのような感触を得ました。
ですから"分からない"のです。そのような子どもである永井にとって永井の教えたいものは、
最初から存在しないのですから。受けとるべきものが存在しないのに、受けとったというのは、
おおよそ信者のすることと私は思います。
【51】
>>197 >わたしたちは、夢という独我的世界のリアルさよりも痛みのリアルさを信じます。
痛みはリアルでしょうか?
痛みがリアルであることを問うたり、前提にしたりすることは、かえってリアルと
いう存在の仕方についての理解の極を離れる行為であるように思えてなりません。
肉体は、本来痛みなどで心に対して応答するものではありません。純粋な私の
受動器官です。痛みとは、認識の外部からやってくるものではなく、痛みは、
それがそのときそれ以外考えられないものとしてあるように、痛みも、私自身
ではないでしょうか? つまり痛みのありかは、実在論ではなく、存在論を住処に
しているのだということ。
肉体である受動器官は、受けとるすべての存在は、本来、苦痛であると私は感じます。
しかし、そこに<挑戦>という実存状態の目覚めが備わったとき、それらの光や音や
味や力は、ご褒美として認識されるのではないでしょうか? それを言語は、
光や音や味や力に分類しました。それがそうであるものとして、それは言語(神)の
力によって、あらかじめそうであるような存在の仕方で"料理されて"存在しているの
ですから。それを、ご褒美と感じるためにも、その存在感に触れるという言語による
存在論的な言説に触れなければできないようなしくみになっていると思うのです。
言語をはなれて私たちは、"いつくしみ"という充実された一時を感じることができる
でしょうか?
ちなみに、このあたりの解釈は、レヴィナスの『時間と他者』をモチーフにしています。
もし時間がお手すきなときがあったら読んでみてください。<糧>の項は彼の文章の
うちで私の最も好きな文章のうちのひとつなのでした。
【52】 (まとめ)
おお、気づいてみるとなんだか、どんどんおおざっぱな議論になりつつありますね。
でも思ったより議論ができたことに自分でも驚いてもいます。いちおう今までの私には、
今から載せる以下の文章がずっと働いていていました。いちおうこの文章に触れてから
議論において、それそのものを心がけようと思っていたのですけど、なんとかそれが
そのとおりに機能していることに気づかせてくれたと思います。いちおう、以下の文章を
そのまま永井の議論態度に対する反論とし、そして今回の私の論のまとめとします。
《 ヤスパース著 『哲学』 より 》
真の哲学的討論は、それによって事物に関する内容を媒介にして
各々の実存が相互に触れ合い開示し合うところの共に哲学すること
である。しかしわれわれは人間として現在の愛や思慮深い理性によ
るよりもむしろ熱情や空虚な悟性によって、多く動かされるから、哲
学者たちは古来から正当にも哲学的了解を個々人の根源的に倫理
的なる本質に(例えば特殊な天賦の才能や個別的な技能ではなく)
依存させた。彼ら哲学者は、哲学的形態をとった真理は各人に単純
に接近し得ないものであることを確信した。彼らにとって哲学的討論
は種種の逸脱から出て"開示性に至るための自己獲得"である。
【53】(つづき)
哲学的真理は私自身と他者の交わりの機能である。哲学的真理は
私がそれでもって生きるところの真理であって、単に思惟するのみの
ものではない。それは私が確信して実現する真理であって、単に知
るのみのものではない。私はその真理について思想の可能性のみ
によってではなく、さらにその実現によっても確信するのである。哲
学的真理は、この真理を提示して展開する交わりにおける連帯性の
意識である。それ故真の哲学は"共同"体においてのみ現存しうるこ
とになる。哲学者が交わりを喪失していることは彼の思惟が不真実で
在ることの標識となる。偉大なる哲学者の畏敬の念を起こさせる孤独
は彼らが自ら欲した孤独ではないのであり、彼らの思想は交わりに対
する一つの異常なる努力であり、彼らは交わりを当てにならない予想
や代用物におけるものではなく本来的な交わりとして意欲している。
哲学的真理が交わりのうちに根源と現実をもつかぎり、独断的な論述
に反対して"対話"を哲学することの適当な伝達形式と見なすことは明
白である。哲学が客観的形像としては永続せず、哲学が再び交わりに
おける根源となる場合にのみ真実であるならば、哲学の伝達は単にそ
の内容の事実に即した了解を必要とするのみならず、出迎えることと
答えること、それと同時に獲得することと転換することとを必要とする。
それでは (^^)/
213 :
考える名無しさん:2005/11/16(水) 07:52:57
age
214 :
カオル:2005/11/18(金) 00:46:30
>jun1さん
つまるところ<魂>の問題は、フッサールなり竹田現象学とは
重ならないし、言語論的な議論にも回収されないし、また青年の
哲学としての実存哲学にも距離をおくものであるということですね。
たしかにそういうことの一端は、わたしとあなたのレスを比較する
ことでわかりますが、そういう作業を、わたしはもう少しジックリと
やって行きたいと思っています。
お忙しいところレスしてくれているので、そうなってしまうのは
仕方ないけど、議論が数ヶ月分一気に飛んでしまっています。(笑)
わたしも自分の書いたことは、もっとずっと後で書きたかった。
もちろんわたしの言っていることは、はじめの一歩なのだけど
さんざん考えたあげく、そのはじめの一歩にもどってくるという
そういう議論をしてみたいのです。
ということで、今回はとくに返すべきレスもないと思うのですが
とりあえず、ありあり感、についてもまだレスしてないので
そこからゆっくりゆっくりやって行きたいと思っています。
今回のjun1さんのレスも適当に利用させてもらうと思いますが
とくにわたしへのレスは必要ないですよ。無理しないでください。
それよりお仕事、そして夢に向ってそっちをがんばってください。(^.^)
215 :
カオル:2005/11/18(金) 02:12:37
>jun1さんへ
デリダ的な議論にたいしての考察については
東浩紀の『存在論的、郵便的』と竹田の『言語的思考へ』を
合わせて読むと面白いかもしれないです。
また、jun1さんの気に入りそうなものとして、ラクー=ラバルトの
『近代人の模倣』もおススメします。基本的には、ハイデガーの
言語論的な存在論の解明を基軸にした内容ですが、デリダへの
語りかけもあり、東や竹田の論考と比べるのも良いでしょう。
また、コミュニケーション(応答)について、ハイデガーとレヴィナスの
ちがいを考える上でも参考になると思います。
ちょっとロムってたんだけど、なんか哲板まじめ化してません?
いえ、いいんですけどね・・・(^_^;)
216 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:42:10
あげる?
217 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:43:06
jun1と純一の違いがわからないんだがね。
218 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:43:48
今日こそぜひ純一に答えて欲しいんだだがね。
219 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:44:37
純一はこっちにはこれないんだかね
はいはい、別人ですがねっと
221 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:45:19
なんで同じ名前なのだがね
222 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:46:03
今日からここは雑談スレになったのだがね
223 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:46:55
jun1と純一の雑談がみたいのだがね
そんなことは知らないのだがね
225 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:47:32
純一もこっちにくるだがね
226 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:50:44
どうやって純一は連続レス規制を回避しているかいうだがね。
227 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:51:20
今日は1000までいくだがね。
228 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:52:29
うそにきまってるだがね。
229 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:52:57
こういうのはかなりつかれるだがね。
230 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:53:18
231 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:53:55
jun1と純一はほんとうに別人なのかおしえるだね。
232 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:54:30
全日本のカオル姫ってそんなにかわいくないだがね。
233 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:55:13
もう飽きたがね。
234 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:56:43
みなさんおやすみだがね。
235 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:57:27
エリック亀造ってへんな名前だがね。
236 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:58:11
エリック亀造って頭悪そうだがね。
237 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:58:35
エリック亀造ってだれだがね。
238 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:59:05
こんなことしてなにが楽しいんだがね。
239 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 02:59:36
実は僕は純一だがね。
240 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:00:31
純一ってほんとうに病気なのかね。
241 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:01:19
純一がほんとうのことを言うまでつづくだがね。
242 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:03:06
やっぱり飽きたのだがね。
243 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:03:37
やっぱり飽きたのだがね。
244 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:04:08
なにか質問はないのかね?
245 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:04:39
純一もこっちにくるがね。
246 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:04:59
やっぱりねるがね。
247 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:06:34
お腹へったがね。
248 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:07:09
こっちにはだれもこないのはおもしろいだがね。
249 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:07:53
おやすみだがね。
250 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:11:06
>925 名前:純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/11/19(土) 03:08:13
>昔の映画が面白いのだがね、
>今の映画はエンターテイメントを追求しているのだがね
刺激ばかりで、中身が空っぽだがね。
251 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:11:52
>絵里、「マルホランドドライブ」は泣けたなあ。
泣ける映画ではないだがね。
252 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:12:48
>927 名前:純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/11/19(土) 03:10:50
>マルホランドドライブ知らないのですがね?
それはよくないのだがね。
253 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:15:24
>928 名前:エリック亀造 :2005/11/19(土) 03:14:30
>自分で映画の話題をふったくせに純ちゃんたら無知なのね、ぷんぷん。
エリック亀造って典型的な2ちゃねらーなのだがね。
254 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:15:56
エリック亀造は100%引きこもりなのだがね。
255 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:17:37
ほんとにねるだがね。
256 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:18:15
>929 名前:純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/11/19(土) 03:17:14
>エンターテイメント的な映画が好きなのでね
たとえば、どういうのだがね。
257 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:19:24
>930 名前:純一 ◆Fn0dptrDJw :2005/11/19(土) 03:18:28
>私は未だにブレア・ウィッチ・プロジェクトの謎が解けないのだがね
ブレア・ウィッチは怖いよりも、酔って気持ち悪いだがね。
258 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:21:33
最近は、ソーがおもしろかっただがね。
純一は見てないのだかね?
259 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:22:59
睡魔が最高だがね。
これからここで雑談するので、いつでも呼んでだがね。
おやすみだがね。
260 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:23:44
純一がこっちにこないので、すべてがわかっただがね。
261 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:24:18
眠くてなにをいってるのかわからないだがね。
262 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:27:12
>写真集も買ったしアニメもみたしリンチ全部みてるしウィッチが何かもしってるしSawも見たじぇい><
彼も気持ち悪いだがね。
263 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:28:05
おやすみだがね。
264 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:29:02
純一とjun1は別人なことをそろそろわかるだがね。
やっとわかったのかね?
266 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:32:54
やっとわかってよかっただがね。
これで、心おきなく今日からここは雑談スレだがね。
267 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:35:04
幻のjun1を見つける旅にでるだがね。
268 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:35:58
純一=ミスターX=ぴかぁ=jun1
なのは間違いないだがね。
269 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:38:50
やってみると結構楽しいのだがね。
くせになりそうなのだがね。
270 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:39:25
でも睡魔には勝てないのだがね
もうやめたらどうかね?
272 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:39:54
なにもなければ寝るだがね。
273 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:40:41
>>271 楽しみ覚えたので、もう止められないのだがね。
274 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:41:31
>まさに純一さんの、もちいる得意の手法で 解説は野暮でしょうに><;
それにしてもマジに気持ち悪いヤツだがね。
275 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 03:43:24
質問だなければ、寝るがね。
276 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 04:01:01
永井均って誰だがね?
277 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 04:03:57
>さぁて、さいなら ε=ε=(( ´∨`)ヒュウゥ
最後まで気持ち悪いがね。
278 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 04:04:54
2ちゃんねるはほどほどが一番だがね。
279 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 04:18:40
携帯乙
こんな隔離スレがあったのかw
281 :
考える名無しさん:2005/11/19(土) 04:38:43
282 :
考える名無しさん:2005/11/28(月) 19:31:34
永井均の一番お薦めの本って何ですか?
いきなり「<私>の存在の比類なさ」はお勧めしない。
(論文及び書評集なので)
他はなんでも可。
適当に新書から読むのが金銭的にもいいと思われ。
283におおむね同意。
ただ,個人的には,『<子ども>のための哲学』は,感覚をつかむのにはいいけど,
議論の流れをきちんと追いかけようとすると,意外とわかりにくい気がする。
興味が持てそうであれば,『ウィトゲンシュタイン入門』や『これがニーチェだ』の方が
面白いんじゃないかと。
『私・今・そして神』は,議論そのものが難しいという印象。他の本の予備知識がないと,
多分,読みづらいと思う。
実は,さっと読んで感覚をつかむという点だけでいうと,『子どものための哲学対話』が
いいんじゃないかと思ったりする。
私は『<子ども>のための哲学』です。
わたしは実際これを最初に読んだのですが、非常にわかりやすく、これで永井均にはまりました。
『子どものための哲学対話』は、なんだか断片的な感じでもやもやした感じが残りました。
286 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 17:02:35
age
287 :
考える名無しさん:2005/12/10(土) 18:35:18
今月でたちくま文庫大澤真幸の解説を永井が書いてるよ
288 :
考える名無しさん:2005/12/10(土) 19:36:05
あっぷして!
永井って解説本とか多いけど
永井のオリジナルで一番良いのって何?
童貞がw
妻子持ちだろ、確か
293 :
カオル:2005/12/18(日) 01:34:19
>>44 jun1さん
飛んだり跳ねたり歌ったり泣いたり考えたり想ったり信じたり…そういうことができてしまう。
そういうことのできることと<わたし>がちっともつながらない。
だってそういうことは、ほっといたってカラダやコトバの「わたし」がしてくれるから。
もちろんそういう「わたし」のできることそのものと、"ありあり"がつながらないのは
"ありあり"が、まさにそういうことができることの「まさに」の「ほんとうさ」のことだからだと思う。
きっとそれは"いきいき"の源泉にもつながっているでしょう。
おかしいのはそういうことのできる子たちがいっぱいいて、その子たちのことを<わたし>が
「わたし」と呼んだりすることを、その子たちがとっても迷惑に思っていることなんです。
たぶんそれはその子たちの生きる道を<わたし>が一緒に歩かないからです。
たとえば『私の頭の中の消しゴム』という映画をみて、その子たちはみんな泣いていたけど
<わたし>は、いったい誰がそんなに泣いているのかが、わからないでいるんです。
こういう風にいってしまうと、その<わたし>も、泣かない「わたし」になってしまうけど。
294 :
カオル:2005/12/18(日) 01:42:34
飛んだり跳ねたり歌ったり泣いたり考えたり想ったり信じたり…
そういうことができることと「意味があること」とは一緒なのでしょうか。
もしもそうなら、"ありあり"というのは言語のコミュニケーションのなかにしか存在しない
事態なのかもしれません。でもそれならコミュニケーションは、存在者すべてへのまなざし、
つまり意味の生成を、もちろん自然との関係もふくめて可能にする道具ではないでしょうか。
またもしもそうなら、動物に"ありあり"とした現実感がないというのは、動物には
飛んだり跳ねたり歌ったり泣いたり考えたり想ったり信じたり…「する」子がいないからでは?
もちろんわたしは、いわゆる自我の反省的な意識のことをいいたいんじゃなくて
身体と心と魂の、それぞれに非対称的な行為の主体と想定されるものが、お互いの
関係性の関係性としてでしかその存在をゆるされないこと、もしもそれが実在するのなら
それぞれが「存在の仕方」という関係性をとることなしには存在できないということです。
これがわたしが以前からいっている存在するための原理、相対原理です。
295 :
カオル:2005/12/18(日) 01:47:57
「する」子は、それ自身であることもそれ自身でないこともできないままでいます。
たとえば<魂>が比類なき存在として実在するのだとしても、<魂>=<魂>としては
存在することはできず、かならず「=」と「≠」との「あいだ」に場を得ないとならないです。
つまり、かりに<魂>が、底を割らない唯一の実在としての「ある=ある」なのだとしても
存在するときには、かならず「ある」と「ない」との「あいだ」の「仮想の実在」としてでしか
存在できないのではないでしょうか。それが開闢された「世界」であり「わたし」の存在の
必然性なのではないかと思っています。
296 :
カオル:2005/12/18(日) 03:57:57
<存在>や<生きていること>や<魂>への問いは、どこか似ていると思う。
たとえば、"ありあり"が「存在すること」や「生きていること」を自覚する「わたし」の
経験からではなく(世界や他者の発見や獲得という生成された意味を根拠にしないで)
世界や他者との共感作用が、"ありあり"とした現実感を可能にしているのだとしても
そのような共感作用や世界や他者の「ほんとうさ」は、一体どこからやってくるのでしょう。
たしかに飛んだり跳ねたり歌ったり泣いたり考えたり想ったり信じたりする子たちが
発見したり獲得したりした世界や他者から、つまりその子たちの経験そのものからは
"ありあり"は生まれてこないと思います。どうしてかというと、ときどきその子たちが
その「ほんとうさ」から離れてしまうというか、感じられないでいるというか、
そういう子たちが、どこにもいなくなってしまうというか、現実がなくなってしまうというか、
うまく表現できないのだけど、そのようなことが起こることがあるからです。
たとえば泣いたり笑ったり怒ったりするときには、きっとその子たちも
そうさせてしまうそれに意味を感じていると思うんです。だからそのようなときには
たしかに意味は生まれてきているんだと思うけど、そうでないこともあるということは
意味が生まれてくるには、それに先立ってそれを可能にしている「なにか」がないと
おかしいように思う。
297 :
カオル:2005/12/18(日) 04:45:45
なぜなら、もしも泣いたり笑ったり怒ったりする子が一人もいなかったとしたら
意味は生まれてくる場をもてないし、意味の存在者もどこにもいなくなってしまう。
そうなってしまうと、そもそもの"ありあり"と感じるための「そういうところ」(現実)も
なくなってしまうと思う。つまり「そういうところがあること」と「意味があること」と
「泣いたり笑ったり怒ったりする子がいること」とは、一挙に同時に成り立っている。
だとしたら、それぞれが非対称的にちがうことのように思われるのに
なぜかそれぞれのことが、そのちがいを超えて通底している共通のなにかを、
あるいは、そのちがいを喪失してしまうようなそのような地点がどこかにあるように
形而上学的に直観してしまうからです。
たとえば、もしも動物が、"ありあり"とした現実感を感覚していないとしたなら
それは動物が、現実感を可能にする「そういうところ」に先立ってそれを可能にしている
「なにか」と一体になって、"ありあり"の真っ只中で「そのように」存在しているからでは
ないでしょうか。
だから、泣いたり笑ったり怒ったりする子が、"ありあり"を感覚しているということは
その子たちが存在者(意味)に先立ってそれを可能にする「なにか」とつながれるから
ということなのかもしれません。そしてそれが動物が「まさにそうである」のと同じように
その子たちが「そのように」存在することができているときには「まさにそうである」という、
意味の「意味がある」という「ほんとうさ」の感覚を可能にしているのではないでしょうか。
これは、"いきいき"と"ありあり"の矛盾の相補性として、あるいは矛盾そのものとして、
生命と論理の矛盾の「あいだ」に存在するものとしての人間の「存在の仕方」によって
はじめて可能になる感覚なのかもしれません。
>カオルさんへ
お久しぶりです。
いま私は、応募用の小説のラストスパートにさしかかっている最中です。
書いているのがすごく楽しい状態ですね。哲学のことなんてもうすっかり忘れ…、
いやいや冗談です。ゼンゼンそんなことありませんよ。
いまは小説の合間に竹田青嗣氏の「言語的思考……脱構築と現象学」を
読んで感銘を受けています。これを元に議論できたらなあと考えてしまいました。
それで議論するんだったらやはりスレを移動したいなあと思ってます。
といっても私の掲示板ですけどね。中途半端になるといやなので
哲学板に立てようという気はありません。(あおりや匿名の人と議論しようと
いう気にはもうなれないから)
で、ほいさっ
http://bbs8.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=5775#36 独在性とコトバ
in テツガクタマシイ (デザインが少しリニューアルしてます)
ためしにつくりました。とりあえずなにか書き込んで欲しいです。
カオルさんが参加してくれるとなると私けっこうがんばれると思うんですよね。
よろしくお願いします。
保守
301 :
デューク東郷:2006/01/02(月) 15:41:56
「私たちの学校」は英語で言うとour schoolでしょ。 school は不可算名詞だったかもしれないけど、
日本語を基準に生きる私たちにとって見れば単数であることは明らかなわけで。
でも our は複数なわけで。ということは学校が共通のものなんだって理解できるわけで。
けどここで問題が終わらない人もいるわけで。少なくとも私はそうなわけで。
たとえば学校は私にとっては行きたいところだけど、B君にとってはいやな場所だったりする。
「だって学校とか共有のものは必然的に多面体だからね」としたり顔で答えが聞こえそうだけど
そうじゃない気がする。
簡単に言うのがかえって難しいけど、私にとっての学校とB君にとっての学校が違うんじゃないかという疑惑。
これが全面展開されたものが『私・今・そして神』の「開闢」論じゃないかな。
なんていうか、「私たちはみんなひとつだ」とか「ひとつにはなれないけどよく理解しあいましょう」とか、
「ひとりひとり違ったっていいんだよ」とか、なんかそういうのの一番向こうにあるのが <独在性> なんじゃないかなあ。
触れられなくて、理解できなくて、認めたり受け入れたりすらできないもの。
たとえば世界で最も美しい宝石なんだけど誰かの視線を浴びるとただの石ころになってしまうみたいな。
なぜその宝石の存在を知ることができるのか?
それはきっと自分自身がその宝石だからなんだろう。
そして自分がその奇妙な宝石であること、それはきっと奇跡なんだろうなあ。
302 :
カオル:2006/01/04(水) 02:57:39
>ALL
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。(^.^)
今年は、このスレに集中したいと思います。
というか、たぶん他スレに手を出す余裕がないです。
独り言のようにして書いていくような予感。ユルシテネ
>jun1さん
カオルは、2ちゃんねる哲板のカオルなので
ココにしか書き込まないです。m(__)mゴメンナサイ
いずれ消えてしまうところ、ココがいいのです。
居るあいだはかまってほしいけど
居なくなったらキレイさっぱり忘れてほしいから。
風邪などひかないようにお身体を大切に
お仕事に、小説に、かんばってください!(^.^)
303 :
カオル:2006/01/07(土) 01:22:21
>>301 デュークさん
>学校は私にとっては行きたいところだけど、B君にとってはいやな場所だったりする。
>〜私にとっての学校とB君にとっての学校が違うんじゃないかという疑惑。
ちがうと思うけど、ちがうのに「それについて」語り合えたり共感し合えたりします。
でも、ほんとうは何ひとつ語り合えていなかったり共感し合えていなかったりするの
かもしれないということが、わたしはあなたになれないということが、にもかかわらず、
わたしはあなたがいなかったら生まれてこなかったということが、あなたとわたしとの
「それ」への了解と「〜について」の説明を可能にしてくれているように思います。
もちろん、あなたのいうB君の<イヤさ>は、この了解と説明の世界に参加している
あなたやわたしの「イヤさ」のちがいではなく、たとえあなたとわたしの心や脳が
入れ代わったとしても変わることのない、魂の<あなた>や、魂の<わたし>の
不可知性からくる応答不可能性による<イヤさ>のちがいなのでしょう。
けれども、それは<わたし>を持ち出さなくても、「わたし」にとっての「イヤさ」が
わかりえないことは、たとえばあなたとわたしが同じ空を見上げても、感じる空の
「青さ」がおたがいに知りえないことと同じで、この他者の不可知性は「わたし」の
次元ですでに必然なのではないでしょうか。
304 :
カオル:2006/01/07(土) 02:06:22
>303のつづき
たとえ了解と説明によって、おたがいに「わかったつもり」になることができても
それは、相手の「青さ」についての「体験→言語化」を「言語→体験化」しただけ
ですから、これでほんとうの「青さ」がわかっているのかわかっていないのかを
知ることは原理的に不可能です。
もちろん、ちがう原理が働いているために、たとえ「わかったつもり」のすべて
ではないにしても、ほんとうに「わかり合える」ことの可能性はあると思います。
たとえば「個体としての生命の原理」や「論理の法則」にはしたがわないような
そういうわたしたちの個的な生の形式をはみだした、あなたとわたしに通底して
いるような「何か」があるのかもしれませんから。
とは言っても、この「何か」は、<わたし>とはまた別の「超越」であって
あなたの議論には適さないのかもしれません。はたして、あなたのいうB君の
「わたし」の「イヤさ」と<わたし>の<イヤさ>は、いったいどこがどのように
ちがうのでしょうか。そしてほんとうにわたしたちはわかり合えないのでしょうか。
もしも<わたし>の<イヤさ>が、開闢された世界に位置づけられた「わたし」の
人格システム(心)における「イヤさ」に還元しうるものなら、少なくとも関連させる
ことが可能なために「イヤさ」と記述できているのなら、そのことが意味するのは
<わたし>と「わたし」との断絶がどれほど深淵なものであったとしても、そこには
「あいだ」があるということではないでしょうか。また、もし「あいだ」があるとしたなら
そこには何かしら双方を架橋する「きずな」のようなものがあるようにも思われます。
もしかしたら−わたし−とは、<わたし>と「わたし」の「あいだ」という「関係性」
としての「きずな」そのものとして存在しうるという「存在の仕方」で存在するときに
はじめて−わたし−になることができるようなものなのかもしれません。
まったりとしたスレだな
306 :
デューク東郷:2006/01/21(土) 05:37:02
もしよければ
>>104-105の思考実験を再考してほしいんだけど。
トリッキーな言い方になるんだけど、<わたし>が唯一のものではない事が
確認できるんじゃないかと思うから。
2月の中頃にまた来ます。
307 :
カオル:2006/02/07(火) 02:48:41
>>306 デューク東郷さん
──<わたし>が権利を持つ──という主張を、<わたし>にすることはできないと思う。
なぜなら──<わたし>が権利を持つ──という主張は、<わたし>には比肩するものが
「いない」という主張のはずだからです。
太郎にとっての次郎でもなく、次郎にとっての太郎でもなく、つまりあなたやわたしを
可能にする属性をもたないことで、すなわち世界を創造しないことで唯一無二である
<絶対>の原理を、<わたし>と呼ぶのだろうからです。
主張は、少なくとも主観において他者の存在への信念を前提にしてされることです。
すなわち、心や身体→「わたし」を通じてされるのですから、それは開闢された世界、
すでに創造されてしまった世界において為されうるものなのではないでしょうか。
本来、<わたし>のような「絶対」概念というのは、創造された世界の形式には
従がわないのだと思います。ですから、かりに心や身体から超越した<魂>が
<わたし>なのだとしても、"それ"の表現は──わたしはわたしではない──
のようなものになってしまいます。
言語は、自身の原理──わたしはわたしである──(同一律)を否定することで
かろうじて、創造された世界から、<わたし>を引き剥がすことができるのでしょう。
けれども、この<わたし>という<超越>の創造もまた創造された世界の「わたし」の
創造なのですから、創造された世界にいない<わたし>については、じつはなにも
語られていないことになるのではないでしょうか。
308 :
デューク東郷:2006/02/08(水) 18:28:52
>>301はわれながら痛々しい書き込みだなぁ。
去年の下半期あたりから今年の二月上旬までは精神的にかなり追い詰められてたからなあ。
ま、言い訳はこの辺で、とりあえずひとつだけレスを返しておきます。
>──<わたし>が権利を持つ──という主張を、<わたし>にすることはできないと思う。
>なぜなら──<わたし>が権利を持つ──という主張は、<わたし>には比肩するものが
>「いない」という主張のはずだからです。
私自身も時折こんがらがってしまうのですが、 <わたし> という言葉は排他的独我論とは
一線を画す付加的独我論についての言葉です。だから、他者に向けて「私は <わたし> です。」ということも
有意味ですし、ほかの場合にも <わたし> という言葉を他者との会話で有意味に用いることはできます。
ゆえに <わたし> が権利を持つ、という条文は太郎当人(本当は太郎なのか疑問があるが今は太郎と呼んでおく)
にとっては十分に有意味なものだったはずです。
(他人が「私も <わたし> です」などという時や、「私こそ本当の <わたし>だ」などと言うときに問題が起こる)
二段落目以降に言っていることはよくわかりません。
<わたし> と他者との関係よりも、 <わたし> と世界の関係は複雑ですから
<わたし> 他者、世界というものをいっぺんに語るのは混乱の元ではないでしょうか。
(そういう誘惑に抗いがたいときは自分にもあるが)
それと三段落目以降の <わたし> と言語の関係についての考察は、異物が混入している感じがします。
私的言語と言語ゲーム、プライベートとパブリック等々の対比は、基本的に「私と他」の対比構造です。
世界の内とか外とかをこの対比と同時に論じるのは不可能に近いと思います。
「語りえない」という結論自体は特別奇抜なものではないですが。
309 :
デューク東郷:2006/02/08(水) 18:35:41
ほかに誰も来ないなら別スレでやったほうがいいのかな?
いろいろあった後だし。
カオルさんへ
ちょっと、盛り上がりかけているところ申し訳ないんですが、
お邪魔させてください。カオルさんへ伝言があります。
いちおういままで私は、ずっと小説を書いていたのですが、
ようやく今ほぼ書き上がった状態になりました。
そこで、お世話になったカオルさんにぜひ見ていただけたらと思い、
こちらにレスした次第です。応募用原稿なので、ここ2ちゃんねるで
お見せることはできませんが、哲学系の小説なので、やはりカオルさんには
一目見て頂きたく思いました。いちおう他にふさわしい場所がなかったので
こちらで報告させて頂く格好となります。もし見ていいよと言うことであれば、
お手数ですが、カオルさんのトリップが付いた状態でメールアドレスを教えて
いただければ後日原稿を添付して送付します。
あとちょっと遅いんですが、明けましておめでとうございます。
ことしもよろしくお願いします。^^
それでは。
311 :
デューク東郷:2006/02/09(木) 00:44:22
別に二人の邪魔をするつもりはありませんよ。
やっぱ、新しくスレを立てようかなあ。
312 :
カオル:2006/02/10(金) 01:05:09
>>308 デューク東郷
>私自身も時折こんがらがってしまうのですが、<わたし> という言葉は排他的独我論とは
>一線を画す付加的独我論についての言葉です。だから、他者に向けて「私は <わたし> です。」
わたしは、単独者の主張する排他的独我論( = 認識論的独我論)の主体、いわゆる永井の
存在論的独我論でいう創造されたものとしての「わたし」が、他者にたいして主張することの
背理をいいたいのではなくて、<わたし>の主張はどこまでいっても、<わたし>という<虚空>に
こだまする独り言でしかなく、<わたし>に聴かれることしかできないもので、いわゆる「他者」、
それぞれの「わたし」には、「語られてもいないし、理解されることもない」ということです。
(わたしが永井の<わたし>論を「理解されるものなの?」といっていたのはそういう意味です)
つまり、<わたし>が、
人間がけっして知ることはできないけどほんとうはそうであることが
確固として存在する。── 『<子ども>のための哲学』 125n
ようなものとしての"それ"であるなら、創造された世界での独我論( = 排他的独我論)は、
"それ"が存在しなくても通用するようなものであった。── 同書 101n
だから、──<わたし>が権利を持つ──という<魂>の<わたし>の主張は、
ぼくが言わんとすることは、そこには語られていなかったのだ。── 同書 101n
という結末を迎えます。けれどもこの結末は、他者a1,a2,a3,a4・・・の権利の主張を
<わたし>が、それぞれの「わたし」の主張としてしか、とらえることができないために
つまりこの結末は、太郎という「わたし」の解釈にすぎないのではないかということです。
また、このような解釈が可能であるということは、そこに「すでに世界が創造されている」
ということですから、その舞台に、太郎と次郎、あなたとわたし、のような「対を絶する」
ことによってしか唯一無二でいられない<わたし>が、役者として登場することはないです。
313 :
カオル:2006/02/10(金) 01:13:28
(つづき) 前スレからのくりかえしで申し訳ないのだけど・・・
小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
といことが実感できた、ということである。
それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。
──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。
『<子ども>のための哲学』(30〜32n)
世界を創造する「原点」としての<わたし>という「無自覚的独我論」は
──<わたし>が<ある>ことへの驚き──によって主体を生成(現前)させます。
これが──創造された世界に「わたし」を位置づける──ということなのでしょう。
言いかえるなら──<わたし>が<ある>ことへの驚き──が「実存」を可能にしている。
つまり──<ある>ことを自覚する「わたし」──を成立させているのではないでしょうか。
「存在すること」や「生きていること」を、<わたし>という言葉に還元(包摂)し規定すること、
そして"それ"を了解することが、そもそもの意味のはじまり → 論理空間、存在者の成立
なのではないでしょうか。
314 :
カオル:2006/02/10(金) 01:16:04
(つづき)
端的な今がなかったら、そもそも世界がなくなってしまうんじゃないか。この問いは、
開闢がなければ世界は開かれない(始まらない)じゃないか、という問いだ。たしかに
そうなのである。しかし、開かれたり始まったりなんかしない世界が、それ自体として
もともとただある、と考えることはつねに可能なのだ。世界は、そのようなものとして
構成されたとき、はじめて「実在する」ものとなるのだから。(『私・今・そして神』154n)
かりにもしも<わたし>が舞台そのものだとしたなら、太郎も次郎もあなたもわたしも
その舞台に立つ役者( = 「わたし」)なのかもしれない。だから端的な<わたし>が
いなかったら、舞台が「開かれたり、始まったり」しないけど、舞台そのものとしての
<わたし>は、けっして「開かれたり、始まったり」しないそれ自体としてもともと"ある"。
315 :
カオル:2006/02/10(金) 01:55:13
>>312 >デューク東郷
→ デューク東郷さん、でした。m(__)m
>>309 だれもココに来ないのはわたしのせいかもしれないから
新スレに反対はしないです。新スレが立ったら教えてくださいね。
いえ、おじゃまするってことではないですから安心してください。(笑)
以前からわたしの書き込みに反応する人は少ないので
わたしはこんなもんだろうなって思っています。
わたしは誰かがきっと読んでくれてるって思えるだけで十分。
そんなわたしにつきあっても2chは楽しめないかもしれません。
だからあなたの思うようにしてください。(^.^)
316 :
カオル:2006/02/10(金) 01:56:28
>>310 jun1さん
おめでとうございます。\(^.^)/ヤッター!!
・・・・・
メールのやり取りは、やらないことにしています。
ふかく真剣に実存の問題にとりくむ者同士にとって
それに誠実であろうとすればするほど命のやり取りになってしまう。
わたしの存在が誰かの生きることや死ぬことにかかわってしまうことは
さけたいのです。事情はご存知だと思います。ごめんなさい。m(__)m
317 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 02:55:31
相手にするのはしんどいな。
新スレ立てさせてもらうよ。
318 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 04:49:09
おふざけではありません。
■ふかく真剣に実存の問題にとりくむ者同士にとって
■それに誠実であろうとすればするほど命のやり取りになってしまう。
■わたしの存在が誰かの生きることや死ぬことにかかわってしまうことは
■さけがたいのです。事情はご存知だと思います。ごめんなさい。m(__)m
319 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 05:00:08
さけたいとか、そういう問題ではないはず。
jun1さん。あなたが「応募」するのは何のためですか。名誉?金?
自分の思いを伝えたいのであれば、媒体は問わないはず。
ここでカオルさんにお見せすればいい。
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::|. ノ ★ ヽ|
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│|=|`ー゚-'__`ー゚-' |=ヽ | < 見てんじゃねーよ
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327 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 06:28:17
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328 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 06:52:09
∧_∧
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329 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 08:31:12
おまんかね?
330 :
考える名無しさん:2006/02/11(土) 08:39:29
sineyokusotakodomoga
331 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 01:48:57
wakarimashita
>>312-314 <わたし>は超越論的主観ではありません。
世界を構成するとか贈与されるとか云々は「この私はなぜ永井均なのだろうか?」
という問題の解決後に来るものです。
何が何でも既存の哲学概念に当てはめて考えようとするのは・・・
もうこれ以上はやめとく。
334 :
カオル:2006/02/14(火) 00:56:32
>>332 真理の探究は、不揃いの<わたし>たちが
それぞれのものとしてやっていけば、それでいいと思います。
また、そのようにしかかかわれないのが、哲学だとも思っています。
かげながら新スレ応援しています。ガンバ!!(^.^)
335 :
カオル:2006/02/14(火) 01:13:06
>>200 jun1さん(論考のためにレスをお借りします)
>この名詞化された動詞(直観)は、―永遠なる今―という存在形式の<私>自身です。
フッサール現象学では、たとえば目の前にあるリンゴの「つややかさ、みずみずしさ」が
「意識に与えられること」を直観としていますが、この「つややかさ、みずみずしさ」は
"いきいき"とした生命的な隠喩性にささえられた意味の実感("ありあり")としてのそれと、
いわゆる一般概念の意味(字義性)としてのそれとに還元できると思います。
この直観、あるいは意味の両義性を発生論的に分析すると、まず意味の実感を可能にする
原的な所与──意識にとっては主客未分な事態そのものに相当する「知覚直観」としての
事実(そうであること)──があって、この事態はいまだ「私」という意識(主体)なき
一つの世界「存在していること、生きていること」そのものとしての"それ"なのでしょう。
だから無名の存在者(事実)にとって、そもそも「〜にとって」という事態は存在せず、
「この」も「いま」も「ここ」も「ない」(無)ものとして、ただ「ある」だけのことなのでしょう。
西田的にいうなら、この「ない」の「ある」にたいする絶対否定としての『はたらき』が
<絶対無>=<私>ということになるでしょう。けれども、絶対否定は自己をも否定すること
になるから、すなわち「絶対有」=「私」ともいえます。わたしは、これを「相即の原理」
と呼んでいて(
>>13)、だからこれは無と有の二元論ではなくて、西田の言葉をかりると、
──<絶対無>=<私>の「自己限定」=「わたし」──という『意識の存在原理』なのです。
336 :
カオル:2006/02/14(火) 01:24:15
(つづき)
この『意識の存在原理』を、わたしなりにフッサール現象学にあてはめると
西田のいう純粋経験としての「知覚直観 = 事実そのもの = 絶対有」を可能にする
『はたらき』が、<絶対無>としての<私>、つまり「純粋自我」ということになります。
だから、純粋自我の、存在者を可能にする『はたらき』と、知覚直観という純粋自我の
『はたらきの存在』との存在論的差異(あいだ)そのものとしての相即の原理をふまえて
直観を「名詞化された(存在として刻印された)動詞(はたらき)」としてとらえているなら
そしてまた「永遠の今」という表現に示されている論理矛盾における矛盾そのものこそが
人間の「意識−私」の存在形式(無)=<私>と、その現前(有)=「私」である、ということ
( → 超越論的主観)なら、jun1さんの<私>の定義に納得できます。
337 :
カオル:2006/02/14(火) 01:55:13
>>200 jun1さん
>どうやら、『直観』という名のその<私>も、言語を必要とするようなのです。
リンゴの「みずみずしさ」の"ありあり"とした、"このリンゴの"意味の実感は
辞書に書いてある字義性の意味を理解するだけでは可能にならないです。
なぜなら「このリンゴ」といえるような「このもの性」が感じられなかったり
することがあるからです。その状況でも辞書に書いてある説明はできます。
わたしが思うのは、フッサールのいう知覚直観による内在としての感覚には
「リンゴの"みずみずしさ"が感じられる」ことが前提されているようだけれど
実体験として、かならずしもそうでないという状況があって、そんなときには
リンゴのみずみずしさやリンゴがほんとうに実在していそうな感じはないです。
それでも「それはリンゴです」と言うことができるのは「本質直観」のおかげ
かもしれないけど、そうだとしても「<私>も言語を必要とする」としたときの
「本質直観」を成立させる二つの位相、論理の形式としての<私>と、論理の
形式が可能にした事態としての「私」には、明らかな欠如があると思います。
それは、論理の形式が可能にした事態としての「私」には、"ありあり"が
ふくまれていなということです。もしもこの"ありあり"を原理的に基礎付け
ようとするなら、どうしても西田のような生命哲学的な理論が要請されて
しまうのだと思います。
たとえば、カントのいう感性を知覚直観として、悟性を本質直観としてとらえ、
そのままでは非対称的な二つの原理を統一する原理として超越論的構想力、
あるいは、超越論的統覚を考えたときには「"ありあり"がふくまれない」という
問題はおこってこないです。なぜなら、カントの認識システムには"ありあり"
のような、その起源において生命的なものとつながるようなものははじめから
想定されていないからです。
338 :
カオル:2006/02/14(火) 02:18:55
(つづき)
じつは、上記のような状況にあるとき、「<私>は「私」であるということ」が
どういうことなのかが、さっぱりわからなくなっています。こんなときには
──<私>は、どうしてこの「私」なんだろう──という問いは成立しません。
それは、おそらくこの問いが「私が私であること」の確立を前提にしている
からだと思うのです。
カントではなくて、ウィトゲンシュタインで考えても結果は同じことです。
仮に「限界としての論理の形式」というものが、形而上学的主体としての
<私>だとして、
独我論の自我は、延長を持たない一点にまで収縮し、残るのは
それと対置していた実在だけとなる。5.64 ── 永井 均『ウィトゲンシュタイン入門』
と考えても、この独我論の「私」と、形而上学的主体の<私>の統一原理は、
「a.はたらきの存在(「私」)」と「b.はたらき(<私>)」の存在論的差異が、
「a'.独我論の「私」の消失」=「b'.形而上学的主体の<私>−実在だけとなる」
のようなものであって、これは論理の形式というア・プリオリな「はたらき」としての
<私>が、ア・ポステオリな「はたらきの存在」としての「私」の「現前」によってでしか
その「実在」を示せないこと、つまりそれは「私」が「仮想の実在」であることを
示しているのだと思います。でも、やっぱりここにも"ありあり"は出てこない。
339 :
カオル:2006/02/14(火) 02:35:37
(つづき)
けれど、もしも論理の形式が、ア・プリオリでありながらア・ポステオリにしか示される
ことがないということが、もし「経験を必要とする」ということなら、これは論理の
形式が経験の基体としての身体的なものへ依存していることの示唆ではない
でしょうか。だとしたら、ウィトゲンシュタインが「限界」として指し示したものを
フッサールが懐疑の限界としてとらえた「知覚」とすることも可能なのではない
かと思いました。もちろんフッサール現象学において「身体ありき」のドグマで
「身体の知覚」=「知覚直観」としてしまっては、「還元」することの意味がない
ので「厳禁!」なのはわかっているんですが。(^_^;)
わたしは神さまじゃないから、ふたつの限界もその先もみることはできないけど
ふと論理と生命が螺旋状にからみあって上昇していくイメージが浮かびました。
DNAのようなそのイメージが、あたかも人間の限界であるかのように感じます。
あらためてフッサールの考察は、深いなーと思いました。
安易な結論の
>>214は撤回させてください。ごめんなさい。m(__)m
340 :
カオル:2006/02/14(火) 02:50:58
>>337 訂正
>それは、論理の形式が可能にした事態としての「私」には、"ありあり"が
>ふくまれていなということです。
それは、論理の形式としての<私>にも、論理の形式が可能にした事態としての「私」にも
"ありあり"は、ふくまれていなということです。
>ふくまれていなということです。
ふくまれていないということです。
読み返して見ると、説明不足なところがいっぱいですが
これからも、似たようなところをウロウロすると思うので
それで補っていくということで許してください。(^_^;)
341 :
カオル:2006/02/19(日) 04:18:40
>>201 jun1さん(また、レスお借りします)
>『直観』とは、本部として活動でありながら、<私>という言語存在者としての活動を
>一切含まないゆえに、静態化されたものとして、つまり名詞としてしか存在しえないものです。
>〜存在していることははっきりと分かっているのに、その存在を言語存在者としての活動
>という観点から決してつかむことのできない存在、これを<比類なき私>、『直観』として
>カオルさんは、証示しているのだと思っています。
<私>は、言語存在者としての活動を一切含まない( =「私」でない)
ゆえに、<私>として名付けられる(存在する)、ということですね。
わたしは、デカルトの cogito,ergo sum にも、この論理の否定による、
(論理によっては)けっしてつかむことのできない存在(無)への反照を感じます。
── <私> 思う ゆえに <私> あり ──の「<私>−思う」は
「<私>−が−思う」ではなくて、「<私>」と「思う」との「あいだ」の
存在論的差異というものが、その位相の断絶にもかかわらず、
相即の原理(
>>335-336)によって、お互いが互いの原理として作用しているため、
それぞれが独立に構成されたりしないこと、すなわち「矛盾の存在原理」としての
「あいだ」→『私』の、「<私> = 思う」という「あり方」のことではないかと思うのです。
342 :
カオル:2006/02/19(日) 04:19:55
(つづき)
たとえば、量子論でいう観測問題でトレースしてみるとわかりやすいかもしれません。
量子には、観測可能な状態と観測不可能な状態とがあって、観測可能な状態が「粒子」
の状態で、観測不可能な状態が「波」の状態なのだけど、この粒子の状態が「思う」の
ことで、波の状態が「<私>」のことみたいな感じです。
だから、反照とはいっても照り返された当のもの(対象)が存在するわけではなくて
"それ"は、永井のいう<私> → 「人間には識別できないけれど理解はできる」という
ものなのですが、実際に理解されるときには「<私> = あり」も、現前した<私> →「私」
として開示されてしまうのでしょう。なぜなら、意味の存在者を可能にする条件としての
論理の絶対否定が無の「はたらき」→<私>なのだとしたら、それが理解されることはなく、
理解されるのは、つねに論理の形式にしたがった「あり」の方の「私」だと思うからです。
<私>は《神さま》に観測されるまでは無で、観測された途端に存在して、
だけど、存在したときには、すでに、<私>ではなくて「私」になっていて、
<私>は誰にでもなれたはずなのに、《神さま》の気まぐれと、<私>の可能性の臨界で
「カオル」という必然として誕生したのでした。永遠の今に、この瞬間に。
カオルさんへ
遅くなってしまって済みません。
といってもその問題について充分思案したわけじゃないのですが、とりあえず
今までに思ったことを述べてみたいと思います。
カオルさんと僕の意見の違いはつまり知覚直観と本質直観の違いだということが
分かりました。これはカオルさんの意見のおかげでようやく分かったことです。
また知覚直観は、身体、<この身体>を<私>の出発とするのに対して、
本質直観は、<この言葉>を「私」の出発点にすることもなんとなく分かりました。
また知覚直観はその性質ながら血や肉をイメージしました。それは今生きている
ことをまさに表現しているのだと思われます。本質直観は、骨をイメージしました。
それは形式が存在していることを示すのだと思います。
そして二つを合わせて、骨を無視して血肉は活動できないし、血肉なくして骨が動く
ことはできないという風にイメージしました。単純に分け隔てることは出来ないと考え
ました。とすると知覚直観は「可能性の直観」で、本質直観は「意味の直観」である
のではと思えました。
また<私>と「私」については、知覚直観をはじまりとする私の差異を表現しているの
だと思いました。知覚直観の主体がアプリオリの<私>で、本質直観の主体がアポス
テリオリの「私」ではないかなと考えました。もしかして見当違いですか?
あまり自信がないのでよろしければ、ご師事頂けるとありがたいです。
長く意見して頂いたのにこれだけしかコメントできずすみません。ただカオルさんの
意見は以上の通り大変参考にさせて頂いております。他にもいろいろなお話を聞か
せてもらえると大変嬉しいです。
では。
344 :
カオル:2006/02/28(火) 00:29:20
>>343 jun1さん
わたしの議論は、フッサール現象学を恣意的(好意的)に解釈したものです。
なぜなら、いつもそうですがそうしないと興味のあるものにならないからです。
とくにjun1さんが参考にされている竹田のフッサール解釈(竹田現象学という土俵)では
竹田の永井批判以上に「的外れで無意味な議論」とされてしまうことになるでしょう。(笑)
どういうことかというと、わたしは、
1.意識とはなにか、どこまで還元できるのか。(純粋自我とは何か)
2.今の特権的な現前は、はたして可能なのか。(永遠の今とは何か)
などの問題意識によってフッサール現象学をとらえていますが
竹田的には、これは「的外れで無意味な議論」ということになります。
なぜなら「現象学的還元とは、確信成立の条件を解明する方法であり
これによって認識問題の本質的な解決、たとえば思想と事物の一致(真理)
についての問いそのものが無効になる」ということらしいからです。
けれどもこれは、フッサールの示した「純粋自我」や「今の特権的な現前」が
みずからの認識論を可能にする前提となってしまっているために、"それ"を
みずからが否定することはできないということ、つまり「諸原理の原理」である
「直観」を可能にする条件(前提)として「純粋自我」や「今の特権的な現前」が
アブダクションされているために、あるいはそういう実感を否定できないために
"それ"への問いかけができないということなのではないでしょうか。
わたしは、フッサールがこの前提を疑いえないものとして、"それ"なしでは
何も始まらないと考えたことに、永井の独在/独今論との接点を見出します。
だから、それらを前提にして成立する議論(認識論的独我論)と、その前提
そのものを問う議論(存在論的独我論)とは相容れないものなのだと思うのです。
345 :
カオル:2006/02/28(火) 01:11:24
>>344 >だから、それらを前提にして成立する議論(認識論的独我論)と、その前提
>そのものを問う議論(存在論的独我論)とは相容れないものなのだと思うのです。
けれど、わたしはこのふたつの立場?の断絶にこだわって
どちらかの立場に立つことよりも、この断絶そのものについて考察したいです。
わたしには、「私とは何か」と「私はどうしてこの私なのだろう」は切り離せない
一つの問いだからです。
>jun1さん
いつもレスありがとうございます。
低レベルだけれども、そんなことにはおかまいなしに
生きていることは考えること、だから生きているかぎり考えます。
わたしの考え事がだれかに見てもらえていると想えることそのものが
まるで奇蹟のようにやって来てくれることの幸せを、jun1さんに
そして神さまに感謝します。(^.^)
346 :
カオル:2006/03/02(木) 02:45:59
>>202 jun1さん
>フッサールの現象学は、〜自我構造を正確に捉えることからはじまります。
>またこの自我とは、対象化された<私>です。
>ちなみにデリダが『声と現象』で批判したと思われるのは
>〜このような自我の基本構造ではなく、直観する<私>から、
>言表する<私>までの差異をついたものと思われ、
わたしの考え方については、すでに
>>335-336で述べましたが、再び
>>201で説明してみます。
<私>が「存在していることははっきりと分かっているのに、その存在を言語存在者としての
活動という観点から決してつかむことのできない存在」であり、「私たちがそれを把握したとき
それはすでに<完了しているもの>」となるのは、<私>にそのような「性質」があるからでは
ないと思います。
「絶対無」(絶対否定)の『はたらき』としての<私>は、「そのもの」として把握されることは
ないけれど、なぜなら論理が可能な世界、すなわち存在するものと存在するものとの比較
考量が可能な世界、つまりそれによって存在者が存在することの絶対否定の『はたらき』が
<私>だと思うからです。だから<私>が「把握される」とは「絶対無」の自己否定によって
<私>でないものが、『はたらきの存在』→「世界そのもの」の「絶対有」として肯定されると
いうことです。それが現存在としての(認識論的)独我論の自我「私」(
>>338)であり、「私」は
「『自己所与性』という、その対象がそれ自身としてあるものとして対象化がなされる」という
「性質」を持つことになるのでしょう。
ここでいう「性質」とは、「対象化された<私>」=「過去把持された<私>」→「私」が
持つものであって、それは直線的な時間形式のなかに「私」が連続的なものとして現前する
ということなのだけれど、だからこの連続性は「私」の同一性を保証することにはなるのかも
しれない。でも、その連続する「それ」は、<私>の現前でも変容した<今>の現前でもない
のです。なぜなら、<私>と「私」、<今>と「今」は、同一の位相ではないからです。
347 :
カオル:2006/03/02(木) 03:00:40
(つづき)
どういうことかというと、フッサールは意識の形式について、この過去把持をみとめているにも
かかわらず、つまり「今」が点的なものではなく、第一次記憶をふくんだものとしているのに
まるで知覚直観されるもののように、それに「純粋な現前性」をみとめてしまっているのです。
「過去把持された<私>」→「私」、あるいは「過去把持された<今>」→「今」は、知覚のように
直接的なものではないし、それ自身はけっして現前しないけど、いちいちくりかえして過去把持
されてしまうという、その「再現/反復可能性」が、まさに「記号的」なのであって
その意味において「記号の汚染」はさけられないと思うし、「私」にも「今」にも純粋で特権的な
現前性はみとめられないと思うのです。
フッサールが、現実(客観)の世界(存在者)についての判断を停止(エポケー)することで
世界を意識の相関者として還元したのは、すなわち認識論的独我論の立場に立ったということ
なのであって、その独我論(意識の志向性についての探究−ノエシス/ノエマ構造の解明)を
可能にするためには、そこにはどうしても純粋で根源的な「主体」の現前が前提されてしまう。
たとえば、フッサールは諸原理の原理とされる直観にしても、それは「意識に与えられる」と
表現してしまう。これでは直観を受け取る「主体」が、あらかじめ「意識」として前提されている
ようなものです。フッサール的には「直観が可能である」とは、超越的対象である「ノエマ」が
「意識において純粋に根源的にもたらされる」(現前する)ということになるのかもしれないけど
デリダの批判は、それを可能にするそもそもの「私」や「今」が、すでに「ノエマ化」されている、
というものです。→ デリダの批判(
>>8参照)
348 :
カオル:2006/03/02(木) 03:10:24
(つづき)
たしかにフッサールは、感覚ではなくて知覚直観と言っているから、それは西田でいうような
純粋経験とは、実はまったくちがうのでしょう。(笑) たとえばリンゴを見ることでもたらされる
感性的な要素は、原的には平面的な形状や色のはずなのに、なぜだかそれは立体として
知覚されてしまう。もしフッサールがここに「志向性」をみいだしたとしたなら、知覚されたもの、
すなわち「志向性の対象」とは、すでに「知」によって汚染されているということになると思う。
どういうことかというと、志向性の対象について、いちいちそれの感性的な諸要素を意識的に
統合したりすることなく「それがあること」(知覚直観)と「それが何であるか」(本質直観)が
一目見ただけで共に「直観」されているということ──知覚直観された志向性の対象(事実)が
本質直観に置き換えられるという構造──は、"すでに"そこに論理空間が成立しているという
ことを示しているし、だから当り前だけど志向性の対象は、"すでに"「意味の存在者」として
理性、あるいは言語によって加工(汚染)されているのです。
だから、その意味で、
>この存在の本質が、言語を離れることが可能かというとそうでもないのです。
というのは、フッサール現象学の理論上では正しいと思います。
349 :
カオル:2006/03/02(木) 03:17:29
(つづき)
経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、
事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者も
その実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、
真に経験そのままの状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、
未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような
考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前を
いうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に
経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している。
これが経験の最醇なる者である。── 西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)
デリダにおける「主体/現前の形而上学」批判をかわせるのは、西田のような哲学でしょう。
けっきょくフッサールのいう諸原理の原理である直観は、凡そ開闢された世界の原理であって
たとえ独我論の立場に立っても、その理論から主客の関係性は排除できないように思います。
それは言語存在者としての「私」が経験する世界であり、意味でみたされた存在者の世界です。
ウィトゲンシュタインのいう世界──「世界とは、そうであることのすべてである」の事実と
西田の「(純粋)経験するというのは事実そのままに知るの意である」の事実に共通するのは
ともにそこに「私」がいないことです。もし言語存在者としての「私」が消えてしまうことによって
ほんとうの世界が現れるのなら、そのように、ただ"ある"世界に「私」はかかわれないでしょう。
次回は、「存在の本質が、言語を離れることが可能かというとそうでもないのです」について
もう少し考えてみたいと思っています。
カオルさんへ
またまた単純な批評になってしまうのですが、やはり面白かったです。
>ウィトゲンシュタインのいう世界──「世界とは、そうであることのすべてである」の事実と
>西田の「(純粋)経験するというのは事実そのままに知るの意である」の事実に共通するのは
>ともにそこに「私」がいないことです。
というまとめ方はすごく良いと思いました。どう良いのか説明しにくいんですが、
あるものが、事実になると、私が喪失してしまう現象というのがありありと浮か
んできました。
ちなみに僕は
>経験するというのは事実そのままに知るの意である。
>存在の本質が、言語を離れることが可能か
の二つの言及は繋がるんだろうなと考えています。的はずれだったら
スルーしてください。事実というのは存在の本質のプロセスであるとい
う接点があると思っただけなのです。(まあ私見なので気にしないで下さい)
(つづき)
少し思ったことを述べます。
>1.意識とはなにか、どこまで還元できるのか。(純粋自我とは何か)
これは、難しいですね。『何か』と問うている限り、それは言語によって示され
てしまう性質になってしまいそうです。存在論のアプローチになるという危険が
つきまとうのではないかと思います。しかし言語の方向性というのはやはりあ
ると思います。それについて少し述べてみます。
もう一つのアプローチは脳との関連になるんでしょうか? 脳は物質かという
類の議論ではなく認識論をきちんと精査するための『脳科学』が必要になってく
ると思われました。ただこういうアプローチは哲学者はきっと否定するんでしょ
うね。ちなみに科学とは言語を数字や量など様々にカテゴライズすることなの
だと考えています。(よってアリストテレスのカテゴリー概念もここに収まります)
また最後のアプローチは、『物語化』みたいなものなのでしょうか。登場人物の意
識をなぞることによって、どこまで私を登場人物に委譲出来るか。そんな感じの
追体験によって、言語によって構築された意識体験が意識解析によって明らか
になるのではないかと、まあそんな気がしています。
(つづき)
区分としては
・脳科学→アプリオリの領域
・物語化→アポステリオリの領域
の二者に分類出来たりするかなあと思いました。
脳科学の範疇では、言語が剥離すればするほど、純粋自我(<私> テオリア)が
確認出来るだろうし、物語化の範疇では、意識は言語が累積していくごとに、
世界を構築し、また「私」(言語存在者)を定着させるだろうということ。
(んーなんだか雑ですが、とりあえず載せますね)
いちおう今回もあまり足しにならない意見なのですが、カオルさんの意見を面白く、
また興味深く読ませて頂いたことをただ申し上げたいだけなので、僕の意見は
あまり気にしないで頂けたらと思います。(それほど思考を重ねたわけじゃないし、
きっと用語の解釈のずれや間違いも多くあるはずですから)
取り合えす思ったことはこんな感じなのでした。
それでは。
353 :
カオル:2006/03/12(日) 02:48:04
>>202 jun1さん
>この存在の本質が、言語を離れることが可能かというとそうでもないのです。
この存在とは存在者のことだと思いますが、その存在者がほんとうに実在するのかはともかく
その本質なるものが直観されるのは、表象というものが世界を構成する必要不可欠な要素として
現象しているからで、それは疑いえないこととしてある、それをわたしたちは現実と呼ぶのでしょう。
ヘラクレイトスは「同じ川には二度入れない」といいましたが、「私」が「同じ川」に入れないのは
「万物」が千変万化するからなのか、それとも「私」がそのたびごとにちがう「私」だからなのか、
でも「私」も「万物」に数えられるなら、ほんの束の間「万物」になれた、つねに「一」の「私」に
やはり「はじめ」しか存在しない「同じ川」の千変万化を、どうして知ることができるでしょうか。
たしかに、記憶という能力がなかったら、または言葉を知らなかったら、世界は一瞬の映像として
しか表象されないでしょう。一瞬しか存在しないのだから、時間が未来からやってくることもないし
言葉による「私」という観念も持ちえないから、身体や物事にたいする感覚を「私」(意識)に還元
することもできないでしょう。また、それらの感覚(思考によらない直覚的な表象としての観念)を
統合したり組織すること(概念化)もかなわないでしょうから、身体や物事にたいしての反応はでき
ても、その反応に反応すること(認識)は不可能でしょう。
このような状況においては「同じ川には二度入れない」どころか、「同じ川」は、はじめから“ない”
わけですから、ヘラクレイトスのいう「万物流転の法則」とは、弟子のクラテュロスがいうように
「同じ川には一度も入れない」というほうが、より的を射ているのだと思います。けれども、万物が
たえまなく生成消滅をくりかえし流動変化しているのだとしても、そのこと自体がわかるためには
変化する以前の変化しないもの、変化を知るための「同じ川」という「A=A」が成立している必要
があります。なぜなら、そうでないと表象「それがあること」自体の現象がありえなくなるからです。
354 :
カオル:2006/03/12(日) 03:06:05
小さい頃、わたしは男の子と一緒になってカブトムシをつかまえに行ったことがあります。
おズボンにハイソックス、襟を立てた長袖のシャツ、麦わら帽子に虫除けスプレー、そして虫篭。
青い空、白い雲。男の子が「あそこ!」って指差す。ブロッコリーみたいなモコモコした深緑の森。
すこし怖い。森に着くとザワーザワーって樹木の葉をゆらす風の音。わたしをこばんでいるの?
不安なわたしを置き去りにするかのように男の子は森のなかにズンズン入っていく。
一度だけふりむいて「クヌギの木にいるんだ」と言ったきり、わたしのことわすれてる。
きっとわたしがここから動かなくても気づかない。だからわたしは必死になってついていった。
だけどもうついていけない。麦わら帽子もポシェットもジャマ、虫除けスプレーしてきたのに
襟も立てたのに首筋も手の甲も足首までボコボコにかまれてる。自分の手じゃない。もうヤダ!
わたしが立ち止まって泣き出しそうになったとき、男の子が「いたぞー!」ってさけんだ。
たぶんクヌギの木、樹液のたっぷり出たそこにカブトムシやカナブンたちが集まっていた。
デパートじゃないところで、こうやってほんとうにいるんだってことがとても信じられないでいた。
いつのまにか日が暮れかかっていた。オレンジ色の夕陽に虫篭のカブトムシをかざしてみた。
(彼は一匹しか採れなかった虫キングをわたしにくれたのでした。うれしかった、ありがとう)
355 :
カオル:2006/03/12(日) 03:43:20
もしも、そのカブトムシがそのカブトムシとして表象していたのでなかったら、たとえそれが
夢であっても、幻であっても、そうでなかったとしたら、わたしのこのような経験は成り立た
ないでしょう。“それ”が表象していながら表象していないなどということはないのですから。
表象「それがあること」→「A=A」は“すでに”「存在の本質」として成立していたのです。
どういうことかというと、クラテュロスのように、たとえそれが刹那であっても、一切の「A=A」
──あるものがあること──を否定してしまったのでは、表象の生成消滅という変化(現象)も
起こりえないことになってしまうからです。いえ、起こっているのだとしても、起こっていることと
起こっていないこととのちがいがわからなくなってしまうのです。表象Aとは、「A=A」によって
はじめて可能になるのですから、その条件の否定は、クラテュロスの言明そのものの否定にも
なってしまいます。たとえば、表象Aが存在できないことを「表象Aは表象Aではない」といったと
しても、存在しないはずの言明はそこにあり、存在しないはずの表象Aも指示されてしまうのです。
これは論理の法則である「A=A」をその成立条件にしている言語によって、万物流転をそのまま
表現してみせることは原理的に不可能だということです。
この論理の法則「A=A」が、「表象」と「言語」が成立するための「原理」であるという意味では
「存在(表象)の本質が、言語(意味)を離れることはない」といえるかもしれません。
永井から離れすぎてもう何が何やら
離れてというか,もともと関係なさそうだけどな
面白いよ。文章が上手いし。
さっぱりわからん。
カオルさんへ
読ませて頂きました。今回の論考も面白かったです。
カオルさんの思い出のお話も楽しく読ませて頂きました。
とくに僕の方から意見するところはありませんでした。
で、一つカオルさんにお伝えしたいことがあります。
たぶん僕がこの哲学板に来ることはもうないと言うことです。
カオルさんとの対話はいままでとても楽しかったのですが、
このレスで哲学板へ関わりは全て終わりにしたいと思います。
いちおう理由は言わないことにします。
ただ、カオルさんとの対話は本当に楽しいことばかりだった
のだとお伝えします。今までほんとうにありがとう。
さようなら。
361 :
カオル:2006/03/19(日) 01:55:00
>>360 jun1さんへ
やっと地中から芽を出したばかり、はじめて浴びる太陽の光、
魂の夜明け、あなたに開けた世界はどのように映るでしょうか。
存在すること、生きていること、世界があることへの驚き、畏れ、愛、
わたしたち哲学する心は、いつもあなたとともに永遠の今ここにある
ことを忘れないでください。
あなたが哲学を現実からの逃避のために利用したりしなかったこと、
いつも哲学する心を現実に立ち向かう力にしようともがいていたこと、
そのことを、わたしはあなたの友人として人間として誇りに思います。
よき旅立ちになることを心からお祈りします。
今まで哲板やわたしたちを愛してくれてありがとう。
さようなら。・・・・ P.S いつでももどっておいでよ。(^.^)
362 :
カオル:2006/03/24(金) 02:10:34
>>202 (jun1さん、論考のためレスをお借りします)
>そもそも言語が本質を作るのでしょうか?
>いやそうではなく、本質が、言語をそれ以外ありえないものとして構成するのです。
>そしてこのそれ以外ありえないものとは、"事実"です。
言語の体系を統一している原理が「A=A」という論理の法則であること、
またこの論理の法則が「表象」をも可能にしていることはすでに述べました。
もちろん、表象は生物学的にいうなら「神経系を通して記号化された情報」
のことですから、その成立に際して言語は必要ないでしょう。カブトムシや
ライオンやコウモリにもそれぞれの仕方で表象は現象しているでしょうから。
ようするに、言語は表象が成立するための原理「A=A」を、「論理の法則」
(同一律)として、自らの成立条件にしているにすぎないのだと思われます。
たとえば、フッサールのいう知覚の表象「それがあること」(質料)が
本質の規定「それが何であるか」(形相)に置き換えられるというのも
本来なら、純粋経験としての表象「それがあること」の生起については
「そうである」としかいえない──そこには言語存在者としての「私」は
前提できないので、「私」と「それ」との主客の関係は成り立たないから
「それ」は、あくまで「それ」でしかない──はずなのに、なぜかすでに
「それ」は「何か」に置き換えられていて「何かが何かとして何かである」
ように「思考させて」しまうような「はたらき」が言語によって作用している
からではないでしょうか。
363 :
カオル:2006/03/24(金) 02:25:29
(つづき)
「それ」を「何か」として問いうるのは、その表象がすでに「私」の思考の
対象になっているからで、
>>349でいう純粋経験とはいえない事態です。
「私」に到来するあらゆる表象は、「私」の置かれている状況に依存して
変化してしまいますし、たとえ表象が「私」と「私の外部」との相互作用に
よるものだとしても、そこにははじめから生物としての感性の特質による
限界(特殊性)があるし、その表象についての「本質」も、あくまで「私」を
基体とした主観による都合の良い認識の方法や解釈の仕方でなされた
結果としてのそれなのだから、それを普遍的な真実とはいえないと思う。
本質とは、人間と言語にとっての本質なのだから、その意味での本質が
言語をそれ以外ありえないものとして「そうである」事実を構成するという
ことなら、それについてはその通りだと思います。
たとえば、ウィトゲンシュタインがいうように、
世界とは、そうであることのすべてである。( TLP 1 )
そうであること、つまり事実とは、諸事態の成立である。( TLP 2 )
ということなのだとして、
この諸事態(もろもろのそうである)の成立が、事実としての世界を可能に
しているのだとしても、そのもろもろの「そうである」(A=A)が可能になる
ためには、脳の記憶能力を媒体にした時間と空間の形式が成立すること、
またこの形式にしたがい表象が保存されること、さらに保存された断片的
な表象が連続化/統合化されること──統覚のはたらき──が必要です。
なぜなら、この条件が満たされることで、はじめて「あるものがあること」が、
すなわち他との区別(差異と同一)が可能になり表象が成立するからです。
これによって「そうであることのすべて」(世界のあらわれ)が可能になると
思うからです。
364 :
カオル:2006/03/24(金) 02:50:17
(つづき)
けれども、このような「統覚のはたらき」によって、言語の分節/結合機能が
可能になっているのだとしても、それによって可能になった言語のはたらきが
為していることは、たとえばライオンが一匹のシマウマを獲物として草原から
分節するというようなことではなく、知覚の表象「それ」が、理解される「何か」、
あるいは、理解される可能性のある「何か」として、「それ」から「何か」へ、
「それ」としての表象から「意味の存在者」になること、すなわち「意味がある」
という事態の生起なのではないでしょうか。
つまり、「存在(表象)の本質(A=A)が、言語(意味)を離れることはない」
というのは、「意味の存在者」が可能になる条件が「言語」であるということを
示しているのでしょう。フッサールは、この次元においての表象を分析したので
そこ(直観)に「意味」が内包されてしまうのは、必然的なことなのだと思います。
この意味において、フッサールのいう知覚直観の表象は純粋とはいえないけど
だからこそ(言語によって汚染されているからこそ)、言語によって本質直観に
置き換えられるともいえるのでしょう。
ですから、その意味(言語存在者としての人間の位相)において
>この信じること、確証を得ること、疑うこと、手がかりを探すことは私の活動です。
>私自身の活動という他のないものです。
>そしてまったく言語存在者としての活動にあたります。
>>203 という意見には賛成です。なぜなら「私自身の活動という他のないものです」とは
「それは何か」と問いうる、「思考する」という「はたらき」の「現前」(存在)が
すなわち、「私」なのだと思うからです。
365 :
カオル:2006/03/24(金) 03:02:50
存在の本質が、「A=A」という同一律だとして、またそれによって
「私」という表象の同一性も保証されて、それが「変わらないもの」
としてあるからこそ、現象の千変万化も認知することができるのだ
として、どうして「私」だけが、いつもつねに「変わらないもの」として
存在しつづけることができるのでしょうか。あるいは、「私 = 私」が
成立するための、そもそもの「私」は、一体どこにいるのでしょうか。
次回からは、上記の問題について考えていきたいと思っています。
366 :
カオル:2006/03/24(金) 03:15:00
>>364 >すなわち、「私」なのだと思うからです。
訂正 すなわち、「私」ということだと思うからです。
367 :
考える名無しさん:2006/03/27(月) 23:57:05
※04年5月
279 :GRIZZLY ★ :04/05/01 18:14
ipad*okayamaima.okayama.ocn.ne.jp を全サーバで規制。
無意味な文字列を連続投稿(連続コピペ)
による2ちゃんねるに対する迷惑行為。
※04年12月
33 :ロック鳥 ★ :04/12/28 22:51:42 ID:???
○規制
ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp 規制
○荒らしの内容と特徴
無意味な文字列のコピペ・連続投稿
26 :田吾作 ★ :04/12/28 22:12:54 ID:???
じゆん ◇bYRNL78mlE<>sage<>04/12/26 18:08:33 F0hXBiZo<> ;;;;;;;:::::::::<><>
t507086.ipgw.phs.yoyogi.mopera.ne.jp<>220.159.7.86<>
※05年12月
203 :軍艦焼 ★ :2005/12/19(月) 02:32:19
ipad\d+okayamaima.okayama.ocn.ne.jp を全サーバで規制。
無意味な文字列を連続投稿(連続コピペ)による2ちゃんねるに対する迷惑行為。
★051216 哲学板 通称「純一」報告スレ
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1134698608/159 (まとめ)
純一 ◆Fn0dptrDJw <>age<>2005/12/17(土) 00:16:33 M9txXAUV<><a href="../test/read.cgi/phil<><>
p3191-ipad12okayamaima.okayama.ocn.ne.jp<>220.105.76.191<><>Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0;
Windows NT 5.1; SV1)
368 :
考える名無しさん:2006/03/27(月) 23:58:58
369 :
考える名無しさん:2006/03/28(火) 00:03:47
360 :jun1:2006/03/18(土) 04:35:35
カオルさんへ
読ませて頂きました。今回の論考も面白かったです。
カオルさんの思い出のお話も楽しく読ませて頂きました。
とくに僕の方から意見するところはありませんでした。
で、一つカオルさんにお伝えしたいことがあります。
たぶん僕がこの哲学板に来ることはもうないと言うことです。
カオルさんとの対話はいままでとても楽しかったのですが、
このレスで哲学板へ関わりは全て終わりにしたいと思います。
いちおう理由は言わないことにします。
ただ、カオルさんとの対話は本当に楽しいことばかりだった
のだとお伝えします。今までほんとうにありがとう。
さようなら。
370 :
考える名無しさん:2006/04/08(土) 08:45:28
永井さんが死について積極的に語っている著作ってありますか?
ネーゲルの訳をしたなかに「死」「人生の無意味さ」があるのは知っていますが。
積極的というのが,どの程度の意味かわからないけど,
『マンガは哲学する』には死についての議論が何か所か
出てくるし,『転校生とブラック・ジャック』にも,関連しそうな
議論は出ていると思う。
永井は新作書いてないの?
最近出てないな
374 :
カオル:2006/04/17(月) 02:42:48
ツバサの傷ついた小鳥が通学路に横たわっている。
さわがしい声の波がそこだけ左や右によけていく。
走ってきた男の子が、アッ!といって飛び越えた。
後から来た子たちは、技を競うように真似をしていく。
一度か二度ふりむく顔たちも、やがて向う側の笑い声になる。
セーターをぬぎ、そっとくるむ。胸にかかえて小走りにかけだす。
今日はもう学校に行かないと決める。ずっとそばにいてあげるからね。
息を切らせながら玄関をかけあがった。
お母さんに相談すると、すぐに動物病院に連れていってくれた。
でも、先生は「これじゃどうにもならない」っていう。
いくらたのんでも、お母さんの方ばかりみて笑ってる。
わたしは近くにあった何かを先生に投げつけて出ていった。
両腕のぬくもり、わたしの鼓動にこだまする小さな命のさけび。
お母さんにぶたれた。抱きしめてくれた。いっしょに泣いた。
昼も夜も何も食べなかった。必死で神さまにお祈りしながら見守った。
ハッ!と目を覚ます。いつのまにか寝てしまっていた。午前2時…
小さな命はもう動いてなかった。ふれるとまだあたたかかった。
自分が許せなかった。ごめんね、ごめんね・・・・涙がとまらなかった。
375 :
カオル:2006/04/17(月) 02:45:15
ふりむいた言葉のどこかに「わたし」はいるでしょうか。
ちいさな命たちのふるえは「わたし」の命のふるえでした。
でも、消えてしまった命も、今もふるえてるこの命も
一度だって<わたし>に抱きしめられたことはないのです。
だから「わたし」も一緒にいなくなってしまいたかった。
泣いてしまう「わたし」でいること、泣かない「わたし」であること
そういうことのすべてからサヨウナラしたかった。
376 :
カオル:2006/04/17(月) 02:51:40
泣かないわたしと泣いてしまうわたしは、ときどきケンカする。
そういうときには、わたしはわたしでいられなくなってしまう。
わたしということ、今ここにいるということが
いったいどういうことなのか、わからなくなってしまうからです。
たとえば、小さい頃に時計の針の読み方をはじめて教えてもらったときの
「わからなさ」とは反対に、時計の針を読むことは簡単にできてしまうのに
教えてもらう前からわかっていた、それについての何かがわからなくなって
まるで針がきざむそのとおりに時間がバラバラになってしまって
針の読み方を教わったときの「わからなさ」だけがわかるようになっている。
シュレッダーされたごみ箱の時間たちを拾い上げてみても
一切れの見える今はデジタル表示の読み上げたソレでしかないのです。
青い空も白い雲も目に映る何もかもが、何だったのかわからないものだから
よく確かめてみようとするのだけど、みんなラベルに書かれた名前のソレ、
おなじソレですんでしまう。のっぺらぼうのオバケの顔たちのなかで
わたしでないわたしだけが、ただちがうこととしてあらわれているようです。
わたしがわからなくなったのは、"生き生き"とか"ありあり"ということでした。
いつもは気づかない生きているということを生きられなくなってしまったのです。
泣いてしまうわたしと泣かないわたしがケンカして、泣かないわたしと泣いてしまう
わたしがいっしょにいられなくなってしまうと、泣かないわたしは生きていることと
噛み合えないひとりぼっちの歯車のように、わたしということがどういうことなのか
わからなくなってしまう。それはそういうわたしでないわたし「A」が存在している
こととわたしが存在していること「A=A」が、ちがうことだからなのだと思うのです。
377 :
カオル:2006/04/17(月) 04:00:27
>>375 >泣いてしまう「わたし」でいること、泣かない「わたし」であること
ほんとうなら、泣かない<わたし>、と書いたらわかりやすいのだけど
永井を読んでいると、泣かないわたしも、けっきょく「わたし」のような気がします。
もちろん、今回は泣かないわたしを<わたし>と仮定して書いています。
たとえば、泣かないわたしを論理の形式と仮定することが可能です。
つまり、論理の形式そのものは、存在するものではなくて、何かが存在するときに
何かを存在させる「はたらき」としてのソレなのだ、というようにです。
けれども、泣いてしまう生命のわたしの現象が、泣かない論理のわたしに観察されて
存在しているのだとしても、泣かない論理のわたしが、泣いてしまう生命のわたしの
現象そのものを可能にしているわけではないように思います。可能にしているのは
表象としての現象だけなのではないでしょうか。だからこそ、泣いてしまうわたしと
泣かないわたしのケンカが可能なのだと思うのです。観察するという行為そのものが
すでに論理空間における事態の可能性の現前なのだとしたら
泣かない論理のわたしは、やはり泣かない<わたし>ではなくて「わたし」なのです。
378 :
カオル:2006/05/02(火) 01:30:19
心の中に広がる表象の世界が、この歪に巨大化した頭蓋骨の中の
物理現象に依存していて、わたしが振り向いたときに垣間見る人生が
現れては消えていったさまざまなわたしの生の残り香なのだとしたら
そこには泣いてしまうわたしはいないでしょう。泣いてしまうわたしは
「今ここ」にしか居られない、そのたびごとの星のかけらだからです。
眠らない街の空を見上げてみても、何も思い出すことはできないから
泣かないわたしは高原に出かけていって、星屑の一つひとつに名前を
付けるのです。そうして織姫が彦星に逢うことができるようにします。
泣かないわたしの心の中に広がる天の川を挟んで愛が溢れ出します。
泣かないわたしはそうやって物語を紡いではそれを眺めているのです。
そうすることで、あたかもそれらが「わたしの世界」の物語であるか
のようにして支配しようとします。けれど、けっして泣かないわたしは
織姫と彦星の出会いの奇蹟や愛し合うことの歓喜にはふれられません。
なぜなら、泣かないわたしにとっての奇蹟や歓喜は「そうであること」
そのものではなく、それらの残り香に付けた名前にすぎないからです。
だから、泣かないわたしがそのような世界に出会うことはないのです。
「そうであること」そのものを生きることができないのです。
到来しつづける神秘、未知なる生成が「生きていること」とするなら
泣いてしまうわたしがしていることはそういうこと。そうやって生に
ぴったりと寄り添って離れないことで、泣かないわたしに"生き生き"
とした表象が"ありあり"と現象することを可能にしているのでしょう。
379 :
カオル:2006/05/02(火) 01:38:48
頭蓋骨の中の脳という臓器の物理的な現象が、わたしの心の中の表象の
世界と切り離せないのだとしても、そもそも"それ"と指し示せるような"何か"
として、どうして表象が分節されるのか、表象はいったいどこからやってくる
のでしょうか。
たとえば「真紅の薔薇の花」は、泣かないわたしの「もの」だけれども
「純粋経験」は、泣いてしまうわたしが、色そのものに、香りそのものに
形そのものに寄り添っている事態「こと」そのものなのだから、この事態に
おいての色や香りや形が客体化されることはないでしょう。
かりに「純粋経験」という事態が、「わたし」という主体の不在によって
もたらされるのだとしたら、「わたし」になる以前の──「わたし」という
言葉を獲得(了解)する以前の──赤ちゃんの体験は、もしかしたら
すべてが「純粋経験」なのかもしれません。
赤ちゃんが「わたし」という言葉を獲得するということはどういうことなのか、
また、そのプロセスにおいて「泣いてしまうわたし」と「泣かないわたし」が
どうやって構成されるのか、あるいはその度ごとの星のかけら「わたし」が
どうして「わたしの世界」に「変わらないわたし」のようにしておさまるのか、
……等々について、ひきつづき考えていきたいと思っています。
380 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 11:50:02
永井の「西田幾多郎」はいつ出るの?
381 :
カオル:2006/05/15(月) 00:12:47
赤ちゃんの脳は未成熟で、神経系も寸断されていて、手足も何もかもが自由になりません。
バラバラなものにまとまりを与える「私」というものがいないので、自他の区別もつきません。
赤ちゃんは、そのようなまとまりを与えるものを外部(他者)に求めざるを得ない状況にいます。
だからもしそこにいるお母さんがオオカミなら、赤ちゃんはオオカミ少女になってしまうでしょう。
このような状況が普遍的にあることから、【鏡像段階論】」(ラカン)は考え出されたのでしょう。
六か月から一八か月の幼児が鏡に映る自分の像を自分のものとして
確認する段階。人が人になる決定的な成長期をさし、これによって
自我の形成と自己愛を語ることができる。……(goo国語辞典から)
注意しないといけないのは、赤ちゃんが鏡に映ったコピーの自分を見て、見ているオリジナルの
自分に気づくためには、コピーの自分(鏡像)が、オリジナルの自分よりも先行していないとなら
ないということです。なぜなら、まずコピーの知覚が先にあって、あらためて「それを見る」という
順序のはずだからです。おそらく、"この"── あらためて「それを見る」という「志向性」 ──が
"この"── 私 ──の原点でしょう。もちろん、この「志向性」が、直ちに 「私がそれを見ている」
になるわけではありません。なぜなら、赤ちゃんは、いまだ「言語」を手に入れていないからです。
「それを見る」という志向性に「私という概念」が組み合わさることによって、はじめて「私がそれを
見ている」になるのだと考えられます。少なくとも「言語の獲得」が、「私」という意識を立ち上げる
ための絶対条件であることはまちがいないでしょう。〈私〉という存在の比類なさの自覚も、それが
自覚されるのなら、そこにはかならず、「私」がいることでしょう。
382 :
カオル:2006/05/15(月) 00:29:45
── チンパンジーの自己認知について ──
自己を客観的に認知できるかどうかを確かめる「ミラーテスト」というのがあって、たとえば、
眠っているチンパンジーの視覚的に確認できないような身体部位(目の上、鼻の頭など)に
あらかじめ色をぬっておいて、目がさめたときに鏡を見せたらどうするのか、というものなの
ですが、チンパンジーは、ちゃんと色をぬられた部位に触れるらしいのです。
でも、この鏡像認知は「それは私である」という意味での自己の認知ではないと考えられます。
もちろん、自己の身体イメージにないものが付いていることを認知したからこそ、そこに触れた
のだろうけど、それは身体的な自己の認知であり、心的な自己のそれではないのだと思います。
なぜかというと、チンパンジーの身体的な自己の認知は、顔を識別できるような防犯システムに
あらかじめ自分の顔を登録しておいて、次いでに洗浄用の腕もつけて、もし汚い自分が映ったら
自分で自分の体(カメラとか)を拭かせてみせる程度のからくりで十分に可能なことだからです。
383 :
カオル:2006/05/15(月) 00:35:01
── 私という概念について ──
立花隆ゼミ「言葉という概念」── エマニュエル・ラボリ『かもめの叫び』から
ttp://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/~ctakasi/third/0613.html 先天性聾唖者でもあるエマニュエル=ラボリによる「かもめの叫び」は、
言葉というコンセプトの全く存在しない世界とそれが存在する世界とを
体験した人の文章としておそらく世界初のものであろう。
先天的聾唖者である彼女は「言葉」というものが存在するということを
一切知らずに成長した。
彼女はまず、現在、過去、未来という概念を全く認識することができなかった。
つまり、時間の感覚というものが無いのである。さらに「言葉」という形で
「記憶」することのできない彼女には、即ち物事を整理しカテゴライズする
能力を持つ術が無かった。従って彼女にとって、記憶とは目の前にある「映像」
という形でしか存在し得ないものだった。
384 :
カオル:2006/05/15(月) 00:47:17
「かもめの叫び」中で彼女は次のように述べている。
昨日、明日、今日。過去? 未来? それって、何のことなの?
世の中の最も簡単な概念さえ謎だった。私の頭はいつも現在で機能していた。
7才で手話に出会ったおかげでようやく、昨日とは自分の後ろにあるもの、
明日は前にあるもの、ということがわかるようになった。夢のような進歩。
個人を指す言葉というものがあることも知った。
パパとは彼のこと。ママとは彼女のこと。マリは私の妹。
誰かであるということは、生きているということ、それがわかってから、
私は自分のことを「私は」「私が」と言えるようになった。
それまではいつも「彼女」だった。自分自身のことを「彼女」と呼びながら、
自分がこの世界のどこにいるのか? 誰なのか? 何故いるのか?
ずーっと探していた。そして、ようやくその答えを見つけたのだ。
私、というものが存在している「定義」がある。つまり、生きている。
たった一件の事例。でも、これほど貴重で重要な証言はないと思っています。
わたしは、これを殆ど信じているためなのか、〈私〉の比類なさを思うときには、
かならず、この「私」の奇蹟をこそ感じてしまいます。
── 生命、外界と個体の発生について ──
太古の地球、生命の母なる海に溶け出したさまざまな物質の化学反応によって核酸という
高分子が誕生します。この分子は、それぞれがそれぞれに独自の塩基配列を持っていて
自己の手で自己のコピーを合成する能力を持っていました。(この能力が、どこからやって
来たのかは、いまだ完全には解明されていません)
けれども、長い年月とともに、それまで豊富にあったコピーを合成するために必要な環境
(素材、エネルギー)が失われていったため、核酸分子はみずからを合成するための環境を
みずからの内部に作ることになりました。(この生命への跳躍、ウルクラフト「根源力」が
どこからやって来たのかは、いまだに解明されていません)
そのために必要とされたのが、細胞膜であり、この仕切りによって、膜の内側「内界」と
外側「外界」が生まれました。核酸のコピーの合成は、細胞膜の内部で行われるように
なり、またこの仕組みを内包するシステムの独立が、細胞の誕生、すなわち「生命」の
あらわれた瞬間です。
核酸分子それぞれの、みずからの個性をコピーするという性質は、細胞の中の核酸分子、
すなわち、「遺伝子」にひきつがれることになりましたが、そもそもの細胞膜の形成による
細胞の誕生は、遺伝子のコピーが目的ですから、細胞の構造やシステムの機能なども
根源的には、その実現のために備わったものと考えられます。
このようにして生まれた細胞(単細胞)それぞれのあいだで、やがて機能を分化させる
仕組みができ、これが多細胞の「個体」に進化していくのですが、このとき外界(情報)
にたいして自律的な処理反応を示すことのできた「神経系」の、統合(中枢化)の進化
の先(神経系の系統樹の末端)に「脳」が出現することになります。
どうして個体(多細胞生物)が生まれたのかには、二つの理由が考えられると思います。
生きるための適応として必要だったか、遺伝子のコピー装置として必要だったか、です。
どちらにしろ、核酸分子(遺伝子)の個性のコピーが、生命活動の根源的な属性である
ことにはかわりないでしょう。すなわち、自己のコピー(増殖)の能力は、生物にとっての
基本原理なのです。
この個性の存続が、生存競争の始まりであり、個性には自然淘汰の圧力がかかること
になりますが、これは基本原理から展開された法則ですし、また基本原理そのものに
しても、それは生命活動における原理であって、すでに「存在することになった」生命に
ついてのものなのです。その原理そのものは、生命を生命として規定している根拠では
ないのです。
「生命」(生きていること)そのものは、それとしてとらえられるものではないのであって、
それとしてとらえられるのは、── 生きていることそのもの の 生きていること ──、
すなわち、── 個体としての生命 の 生きていること ──なのです。言いかえるなら、
おかしな言い回しになるけれど、── 存在者としての存在 の 存在していること ──、
さらに、── 私、というものが存在している定義がある。つまり、生きている ──
>>384 ということになるでしょうか。
── 個体としての生命、その世界の限界について ──
個体が個体でありうるのは、感性に受容された感覚内容としての外界が情報として生起する
からですが、この情報は、けっして「それ」(物自体)ではなくて、個体にとっての記号化された
「それ」(物自体)なのです。
たとえば、Enya の音楽を聞いて気分がやすらぐのなら、その「気分」は、Enya の音楽が、
神経伝達物質(セロトニン)の分泌(化学的信号としての記号化)によって、すなわち音楽が
情報となって、その個体の世界に現象したということです。
たとえば「バラの花がある」という事態は、感性に受容された感覚内容(バラの花の諸要素)が
悟性によって、対象──志向性にともなった指示代名詞「それ」「何か」──として構成される
までは、バラの花と情報(身体)とは、一つの相互作用として、主客未分の関係にあるわけです。
つまり、感覚情報が言語の介在によって、「それ」として指示(志向性)されるまでは、視覚的に
表現すると、バラの花の感覚情報そのものの「見え」は、それ自体としては「純粋経験」(
>>349)
に他ならないということです。
たしかに、純粋経験のような事態における人間の状態性としてのバラの花は、自然科学のいう
客観的な事物ではないでしょう。けれども、それが人間の感覚によって構成されたものであり、
また、それによって人間の経験も構成されるのなら、それはいつでも現実に起こっていること
なのではないでしょうか。
ただ、「それ」として意識化される際には、「それ」が「私」の個体性や形式性を超越してしまって
いることに気づかされてしまうために── 不必要な情報の切り捨てが行われていないために
抽象によって概念化することができない ──心の状態としてはとらえきれないにもかかわらず、
鮮烈なリアリティをもった不思議な出来事として体験されるのでしょう。
おそらく人間は、このような「超越」(そうであることそのもの)において、はじめて(その度ごとに)
そうであるところの自己の自己性を構成しているのではないでしょうか。
── 死に向って生きる、ということについて ──
たとえば、単細胞生物の世界には個性がないから、個体の死というものはないけれど
個体としての生命の、そのようにそうであること(生きていること)が可能になるためには
やはり、死のない世界が前提にあるわけです。また、死のない世界の前提は死(物質)
の世界であり、その死の世界の前提は、もうそれ(ビックバン)以前には溯れないから
「無」とでもいうしかなく、ここに至って「存在者の世界」は、完全に否定されるわけです。
そしてこの否定は、けっきょくは運動(差異)の否定なのではないでしょうか。なぜなら、
差異は「変わらないもの」の、すなわち「存在者」の成立のことだからです。そしてこの
存在者の存在を可能にしているのが「瞬間」(非連続)であり、この「非連続の連続」が
流れる「時間」です。もちろん、すべての瞬間を集めたものが、連続になるわけはなく、
たとえば、もし連続ということが、存在者のたえまない流動変化にたとえられるとしても、
その流動変化が可能になるためには、変わらないもの(瞬間)が成立していないとなら
ないわけですから、そうするとそれは、たえまない流動変化ではないことになってしまう。
ようするに、連続とは流動変化そのもののことなのです。別の言い方で表現するなら、
切れ目のない瞬間、すなわち「永遠の今」ともいえるでしょう。また、現象としての流動
変化を個体としての生命の「生きていること」になぞらえるなら、流動変化そのものは
生きていることそのもの、すなわち「生命そのもの」のことになるでしょう。そして、また
生命そのものは、「瞬間」(存在者の成立)を否定しているのですから、自身は存在者
ではないことになります。つまり、生命そのものとは、わたしたちの側から表現すると
「死」あるいは「無」、すなわち「超越」のことに他ならないことになります。
わたしは、死に向って生きています。死のない世界、たんなる核酸分子、たんなる物質へ。
いえ、物質を構成する素粒子さえも、やはり運動から逃れられないのなら、もうあることを
やめて無に帰すこと、でもそれはできないこと、だってやり方を変えて存在することだから。
わたしにできることはなに? わたしとして生まれないこと? ほんとうにわたしにできる?
もし魂なんかあったらどうするの? 永遠に死ねないの? 死ねないのは一体だれなの?
有機体はそれぞれの流儀にしたがって死ぬことを望み、これら生を守る番兵も、
もとをただせば死に使える衛兵であったという可能性である。このようにして、
生命ある有機体は、生の目標にもっとも短い道筋を経て(いわゆる短絡によって)
到達することを助けるかも知れぬ作用(危険)に、きわめて激しく逆らうという
パラドックスが起こる。しかし、このような態度こそ、知的な努力とは反対に、
純粋に本能的な努カの特色を示しているのである。──フロイト「快感原則の彼岸」
フロイトのいう「死の欲動」を秩序づけることはできません。それはまさに快感原則の彼岸
からやって来るのであって、快/不快による外界からの刺激によっても護れないでしょう。
たとえ愛する人に抱きしめてもらったとしても、そういう生の形式にはしたがわないのです。
「死の欲動〈A〉」は、記号「A=A」を措定する(Aが存在する)条件として「はたらく」から
記号の反復(情報化)を可能にし、外界(表象の世界)を確立し、 判断(意思)の成立も
可能にするけれど、同時に、そういうこと(秩序)以前への回帰をも、要求してくるのです。
生まれさせられ、生の奴隷にされ、苦悩の海を泳がされ、やがて溺死させられるのです。
こういうのを神の戯れといったりするけど、わたしには悪魔のしわざにしか思えません。
絶対矛盾的自己同一の世界においては、
主と客とは単に対立するのでもない、
また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。
絶対矛盾的自己同一の世界において、
直観的に与えられるものは、
単に我々の存在を否定するのではない、
我々の魂をも否定するのでなければならない。
単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、
なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。
それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、
我々の魂を殺すのである。
環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、
自己自身をメフィスト化することである。
直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。
作用が我々に逆に向い来る所に、
真の直観というものがあるのである。
故に真の直観の世界は、我々が個物的であればあるほど、
苦悩の世界であるのである。
本能的動物は悪魔に囚われるということはない。
直観とは、我々の行為を惹起するもの、
我々の魂の底までも唆かすものである。
然るに人は唯心像とか夢想の如くにしか考えていない。
──「絶対矛盾的自己同一」── 西田幾多郎
── 生成〈私〉の存在への刻印「私」と、絶対矛盾的自己同一について ──
独在性の〈私〉の比類なさと、単独性の「私」のかけがえのなさとのあいだの隔絶とは
「あいだ」がないことについてのものなのでしょう。だから、独在性の〈私〉は、いつでも
つねに単独性の「私」の個体性や形式性によって「現象することからのたえまない否定」
としてしか示されえないのです。
独在性の〈私〉は、個体性・形式性としての「私」の中に擦り込まれてしまうことの
否定としてのみ、在る。独在性を指示する「ずれの運動」は、変質という動きの中に
常に既に読み込まれてしまう他はないものからの絶えざる離反・逸脱の方向性こそを、
指示している。〈私〉とは「私」の用法をめぐる議論において生起するあらゆる問題から
の違背を示す記法なのである。── 永井均 『〈私〉の存在の比類なさ』(196〜7n)
「ずれの運動」とは、〈私〉の、自身をも含めた存在への否定性ですから、その運動を逆向き
にしてみると、それは混沌(流動変化)の自己否定であり、可能世界の否定 → 事態の成立
であり、生成の存在への刻印であり、変わらないもの刹那(一つの意識の生滅) → 現象の
誕生なのです。変わらないもの(同一性)の成立は、存在者(差異性)の成立なのですから、
刹那の誕生は、けっしてとらえられない流動変化そのものの現象化のことであり、論理空間
を可能にする条件でもあります。
論理空間には、形式世界におけるすべての事態の可能性が宿っているので、それは世界の
限界をも示していますが、論理空間における事態の可能性は、けっして事態の成立ではあり
ません。なぜなら、可能性はいまだ現実ではないからです。事態の成立は生きている現実の
「私」にしか生起しません。しかし、論理空間は生きている「私」によって開かれるのですから、
論理空間に満ちている事態の可能性が「私」によって体験(実現)される、という順序ではなく、
その逆なのです。つまり、「私」の論理空間は、論理空間のなかの「見られた私」(他人)の生
ではなくて、論理空間を構成する条件であるところの「見る私」の生によって開かれるのです。
この論理空間の構成にかかわる超越論的な独自性が、「私」の単独性なのだと思います。
けれども、この単独性は容易に他の生、他の論理空間に翻訳(理解)されてしまいます。
たとえば、「私」が論理空間の単独性について語れてしまうということは、それが前もって
「私」に理解されているということなのであって、すでに人間にとっての普遍的な生の形式
のなかに「私」の単独性が呑み込まれているということです。唯一の、それゆえ閉じていた
はずの論理空間は、今や存在論的に同格の生を引き受けている「他人」によって共有され、
等しき思考可能性の場として開かれているわけです。
この生の形式とは、ホモロクエンスとして生きている人間たちにとっては論理の形式のこと
でもあり、それそのものは人間のものではないのだけれど、言語が成立するための条件が、
この論理の形式なのです。この論理の形式は、存在者の存在を可能にしている原理なので、
けっして「みずから」という属性を持つことはないのですが、存在者は「おのずから」その形式
にしたがうことになるわけです。
ですから、このような文脈においては、〈私〉も同様に、存在者の原理である「論理の形式」に
読み替えられてしまいます。それでも、そのように読み替えられてしまうことのうちに〈私〉の
秘密があるのではないでしょうか。なぜなら、論理の形式が実体ではないことによって、その
超越において、「私」の論理空間は生まれてくるわけですから。(これは、生そのものが実体
ではないことによって、その超越において、「私」の生が現われてくるのと同じからくりでしょう)
独在論は、このような論理の形式(A=A)を可能にしている非在〈A〉についての議論なのです。
「ずれの運動」とは、たとえば、〈私〉=「私」、〈生成〉=「存在」、〈無〉=「有」における = の
『はたらき』(相即の原理[
>>335])の概念化にともなう左辺(非在)の対象化(現前化)による、
その対象の「不在」のことであり、だから〈私〉=「私」という事態において存在しうるのは「私」
という事態(の成立)だけなのです。このように事態の可能性における存在、すなわち事態の
成立を可能にしてるのは、端的に「無」ですから、その対象化は不可能なのです。
たとえば、ヘラクレイトスのいう「同じ川には二度入れない」という流動変化「無」は、
>>353 もしそれがほんとうなら、クラテュロスのいうように「同じ川には一度も入れない」というべき
なのです。なぜなら、生成も消滅もしない「流動変化そのもの」は、「それ」として現象(存在)
することはないからです。〈私〉──存在の絶対否定としての無──の現前化(明示化)が
『相即の原理』にしたがって、現象世界の「私」に読み替えられてしまうのは、必然なのです。
だから、〈私〉/Aを、「私」/A=Aのように、本体〈A〉なき二重構造の指示対象としてとらえ
ようとしたり、または〈私〉=「私」のように、= の『はたらき』(相即の原理)の概念化によって
あたかも〈私〉と「私」とのあいだに境界線が引けるかのように、まるで神の視線を得たかの
如くに〈私〉をとらえるとき、〈私〉はどこにもいなくなってしまうのです。
比類なき〈私〉とは、ただただ〈私〉ということ、照らしだされるもの、比肩しうるものの一切ない
こと、たったひとつの太陽だけが輝いているようなもの、それだからそれは漆黒の闇とかわら
ない。すべての差異を呑み込み、すべての可能性を孕む、けっして生まれることのない生命、
けっして開闢することのない宇宙、けっして知られることのない存在、絶対孤独の魂なのです。
〈私〉とは、「それ自身でない」という存在否定(反論理的論理)においてのみ存在する『0』の
ようなもの。〈私〉と発話する人物の心身に立ちあらわれる一切の現象の否定として、〈ある〉。
人物に付帯するすべての述語や属性を取り除いても残存する、それ(単独性)でさえないこと
によってのみ示される。けれども、示されうるのは、つねに今ここにある『0』、『私』なのです。
また、〈私〉の存在否定──「それ自身でない」(A≠A)という『0』の否定性──は、〈私〉自身
にも及ぶことから、〈私〉の、〈私〉が存在することへの絶対否定は、「それ自身である」(A=A)
存在への、すなわち「私」の存在への絶対肯定でもあるのです。このような『0』における矛盾、
〈私〉と「私」との存在論的差異における矛盾の自己同一が「絶対矛盾的自己同一」なのです。
参考に、永井が『〈私〉の存在の比類なさ』で、ウィトゲンシュタインの独我論についての論考で
取り上げていた『草稿 1914−1916』(『論考』の草稿にあたる)からの引用部分を転載します。
──1916年9月2日──
独我論は厳格に貫徹されると純粋な実在論と一致することがここで分かる。
独我論の自我は延長のない一点に収縮し、対応する実在だけが残る。
歴史が私にどんな関係があろうか。私の世界こそが最初にして唯一の世界なのだ。
私が報告したいのは、世界が私にどう現われたかである。
世界の中で他者が私に世界について語ったことは、私の世界経験の取るに足らない
付随的な一部にすぎない。
──1916年10月15日──
私が歩んだ道はこうだ。観念論は人間を比類なきものとして世界から排除する。
独我論は私だけを排除する。そして結局、次のことが分かる。私もまた残りの世界に属し、
それゆえ、一方の側には何も残らず、他方の側には、比類なきものとしての世界が残る。
かくして、独我論は厳格に考え抜かれると実在論にいたる。
以上のウィトゲンシュタインの言葉についての感想を、永井の言葉で言うと、
ふつう、独我論というものは反実在論の極端な形態であると考えられている。
認識論的独我論は、自分と自分に現われるもの以外の存在を否定するのだから、
たしかに反実在論的だ。でも、ぼくが問題にしてきたような存在論的独我論は、
むしろ実在論的なのではあるまいか。そして、ひょっとすると独我論とは
本来きわめて実在論的な考え方(実在論を前提にしないと成り立たない考え方)
なのではあるまいか。ぼくとしてはもっと極端に、その逆のところまで、
つまり、実在論は本来独我論的なのだ、というところまで、突き進んでみたいな
と思っているのだけど。── 永井均『〈子ども〉のための哲学』
のようになります。(^.^)
両者を比較する必要は、もはやないと思いますが、一ヶ所だけふれておきます。
ひょっとすると独我論とは、本来きわめて実在論的な考え方なのではあるまいか。
ぼくとしてはもっと極端に、その逆のところまで、つまり実在論は本来独我論的なのだ、
というところまで、突き進んでみたいなと思っているのだけど。
どうして永井が、わざわざこういうことをいうのかというと、
永井の哲学は、〈実在〉 = 〈私〉 = 〈ある〉 ことへの、まさにそのことへの、
不思議さ、驚き、からはじまっているので、認識論的(現象主義的/観念論的)独我論の先に、
(本来の)存在論的独我論( = 〈わたし〉論)を見出す、といった順序にはならないからです。
「私」や「あなた」や「世界」が「ある」ことへの、まさにそのことへの、
すなわち、〈私〉や〈あなた〉や〈世界〉が〈ある〉ことへの、驚きそのもの〈実在論〉の
比類なさこそが、本来独我論的なのだ、ということです。
『論考』の独我論テーゼ「世界は私の世界である」と主体否定テーゼ「私は私の世界である」
によってみちびかれる実在論についての精確な読解(もちろん、野矢論!w)の手引きとして、
── 野矢茂樹 『論理哲学論考』を読む ──を、おススメします。
最近「ちくま学芸文庫」からもでました! たったの \1200 です! 書店へ走ろう!
参考のために結論の部分だけ載せておきます。
独我論は主体否定テーゼを伴なって完成される。独我論は、「世界は私の世界である」と言う。
しかし、主体否定テーゼに従えば、「私の世界」と言われるべき「私」は世界の内にはない。
それは世界が存在するための前提であり、現れてくるのはただ世界だけである。
それゆえ、独我論の「世界は私の世界である」という主張は、主体否定テーゼを経て、
そこにおける「私」さえ消去されることとなり、結果として、たんに「世界はこの世界である」
と主張するだけのものとなる。この点を捉えてウィトゲンシュタインは次のように主張する。
五・六四 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。
独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在がのこされる。
でも、この「広がりを欠いた点」っていったい何でしょうか。そもそも点は延長を欠いているはず
なので、あるともないともいえないし、ないというとあるし、あるというとないし、みたいなものです。
ウィトは、わざわざそういうことにしているように思えるのです。だから、野矢さんのように「消去」
してしまうのは、なにかマズイような気がします。ウィトは、念を押すように「自我(点)に対応する
実在」という対応関係において実在を残しているのです。まさに「そこから世界が開ける原点」の
ようにして残してあるのです。もしウィトが、相対的(関係的)ではない絶対の実在のみを示した
かったのなら、実在は「対を絶して」いないとおかしいのです。対応関係があったら比類なきもの
ではなくなってしまいます。縮退してしまっても、あらゆる「私」の付帯事項や属性や性質が消え
てしまってもなお、世界に消え入ってしまうことなく、呑み込まれてしまうことなく、むしろそこから
世界が開ける原点として〈ある〉ということをいいたかったのではないでしょうか。それは、まるで
太陽にむかって戦いを挑む一匹の蜉蝣のように我を知らないものの泡沫の夢なのかもしれない。
けれど、その儚さも〈ある〉ことにおいては、けっして負けはしないということをいいたかったのでは
ないでしょうか。どこか西田のいう魂の戦いに似てはいないでしょうか。
>>390
397 :
考える名無しさん :2006/05/28(日) 16:55:32
>>396 野矢茂樹 「『論理哲学論考』を読む」は薦められない。野矢茂樹スレを参照のこと。
余計な事かも知れないがカオル ◆BBBRv/ousU がこのスレを独占するのはよくない。
自制するべきだ。こんな日記のようなスレに書き込む人がいなくなるのは当然だろう。
また改行を全然しない長文は自己満足としか思えない。
>>397さん
>野矢茂樹 「『論理哲学論考』を読む」は薦められない。
わたしは、哲学書は批判的に読むものだと思っています。これ基本!
永井は、『ウィトゲンシュタイン入門』の草稿を野矢に校閲してもらっています。
そういう何程かの信頼があったからでしょう。もちろん、
誤りなきを期して、草稿の一部を野矢茂樹氏に校閲していただいたが、
筆者の力と本書の志を過信した氏の過大な要求に恐れをなして、全部
校閲してもらうことは断念した。──永井均 『ウィトゲンシュタイン入門』(11n)
とうことなので、野矢の解釈のある部分については、最初から批判的だったのかも
しれないですね。でも、野矢もまた永井の著作を読みつつ自著を出しているのです
から、そういう内容の是非については、読者が自分で考えることではないでしょうか。
それに──(もちろん、野矢論!w)──と書いていますし、そもそも推薦しておいて
すぐさま批判とかしているわけだし、わたしを見ればわかることのように思います。
>余計な事かも知れないがカオル ◆BBBRv/ousU がこのスレを独占するのはよくない。
独占しているつもりはないです。最新のレスはともかく、レスとレスの間隔を見て下さい。
スレ保守のために書き込んでいるようなものです。(笑)
カオルは気にしないで、みなさん好きに書き込んでくださいね!
って思うけどな。もし、わたしがジャマで書き込めないようなら居なくなりますけど…
野矢茂樹スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1101629448/
399 :
397:2006/05/29(月) 16:52:13
自分が
>野矢茂樹 「『論理哲学論考』を読む」は薦められない。
と書いたのは「論理哲学論考」の解釈として問題がある、という意味であって
もちろん「野矢論」としてなら問題は無い。(僕個人としてはそれでも気に入らないが。
この人はもう少し哲学的に粘らなければならない所で「常識」を持ち出して問題を解決
してしまうが、その「常識」を<哲学的に>擁護してくれなきゃ説得力が無いのだ。)
カオル ◆BBBRv/ousU の文章が改行で読み易くなったことは良いことだ。
でも自分の見解をだらだら書くより、具体的な哲学的疑問を発して議論を促した方が
生産的だと思う。では僕から。
永井均氏は「私・今・そして神」や他の著書でいわゆる『ウィトゲンシュタインのカブトムシ』
についてウィトゲンシュタインは間違っている、或いはこれは奇妙だと述べている。
でもここでウィトゲンシュタインは「皆がある箱を持っていてその箱に入っているものを
カブトムシと呼ぶ」と言っているのだから、箱の中身が絶えず変化しようと何も入っていなくても
「その箱に入っている」ということだけでそれは<カブトムシ>と呼ばれるのだから
箱の中身を短絡させることが出来るのは明らかだと思う。
これは永井均氏の誤解だと思う。彼の場合中身の方が問題になっているけどウィトゲンシュタインの
最初の仮定では中身を規定するのはその<箱>の方だからだ。
さようなら。360 :jun1:2006/03/18(土) 04:35:35
カオルさんへさようなら。 さようなら。
さようなら。
読ませて頂きさようなら。ました。今回の論考も面白かったです。さようなら。
カオルさんの思い出のお話も楽しく読ませて頂きました。さようなら。
とくに僕の方から意見するところはありませんでした。さようなら。
さようなら。
で、一つカオルさんにお伝えしたいことがあります。
たぶん僕がこの哲学板に来ることはもうないと言うことです。
カオルさんとの対話はいままでとても楽しかったのですが、
このレスで哲学板へ関わりは全て終わりにしたいと思います。
いちおう理由は言わないことにします。
ただ、カオルさんとの対話は本当に楽しいことばかりだった
のだとお伝えします。今までほんとうにありがとう。 さようなら。
さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。
さようなら。 さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。
>>399 >野矢茂樹 「『論理哲学論考』を読む」は薦められない。
>と書いたのは「論理哲学論考」の解釈として問題がある、という意味であって
野矢は、事実「そうである‘こと’」の構成要素を「そうである‘もの’」として仮定し、
個体の「このもの性」を不変なものとしているようです。対象については諸説あり、
唯名論的、観念論的、現象主義的、還元主義的、操作主義的とさまざまですが、
わたしは、いったいどれが「正しい」ということについては、正直わかりません。
野矢の場合は、関係主義的実在論(野矢論!)とでもいうのでしょうか?
2.0233 同じ論理形式をもつ二つの対象は、それらの外的性質を除けば、
ただ、それらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。
2.025 実体は形式と内容からなる。
すなわち、「このトマト」で指示される対象は、「トマト」で示唆される論理形式
(探究の可能性)と、「この」で指示される内容からなる。このトマトもあのトマトも
論理形式はまったく同じなのだが、その論理形式が結びつけられている実質
(このもの)において異なっているのである。──『論理哲学論考』を読む(60n)
目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。そのことはすなわち、
──さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後に
もっていなければ成り立たないことである。すなわち、眼前の事実から対象を
切り出すには、その対象がどのような可能な事態の内に現われるかを了解して
いなければならない。他方、可能性は言語によってのみ開かれる。「ミケ」という
対象の可能性は、「ミケ」という名がどのような命題に現われるかという可能性、
すなわち「ミケ」という名の論理形式としてのみ、捉えられるのである。しかも、
ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、
言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、
言語の全体が要求されるのである。── 同書(74n)
ミケは、「ミケは走り回る」「ミケは白、黒、褐色の毛色である」「ミケは生きている」
……といった、さまざまな事態の可能性をもった個体であるという了解のされ方を
するのですが、ひとたびそれが了解されてしまうと、ミケはミケの「このもの性」に
おけるそれ自体として意味をもつことになります。すなわち「対象」になるわけです。
というのが、対象についての野矢のロジックだと思います。
対象が世界の実体を形づくる。
それゆえ対象は合成されたものではありえない。(2.021)
この不変の形式はまさに対象によって作られる。(2.023)
世界の実体が規定しうるのは、ただ形式のみであり、実質的な世界のあり方ではない。
なぜなら、世界のあり方は命題によってはじめて描写されるのであり、
すなわち、諸対象の配置によってはじめて構成されるからである。(2.0231)
実体とは、何が事実として成立しているかとは独立に存在するものである。(2.024)
対象が存在する場合にのみ、世界の不変な形式は存在しうる。(2.026 )
対象は、世界の実体を形づくり(bilden)、対象の存在は形式の存在条件であるけれども
世界の実体である(sind)わけではなく、実体はそれが何であるかはわからないけれども、
事態の成立を可能にする形式を規定するものである。これを恣意的に図式化すると、
実体 → 形式 ←→ 対象(内容) → 論理空間(事態の可能性)
→ 事態の成立(事実) = 形づくられた実体(現実、実体の幻影)
実体って何?……(ひそかに、実体〈私〉、実体の幻影「私」とかいう妄想をしていました)
野矢の場合、↑のようなバカなことは考えてなくて、たんに実体=対象ととらえています。
(それでいいのか!)というところが、ポイントなのかも?
>>399 >永井均氏は「私・今・そして神」や他の著書でいわゆる『ウィトゲンシュタインのカブトムシ』
>についてウィトゲンシュタインは間違っている、或いはこれは奇妙だと述べている。
>でもここでウィトゲンシュタインは「皆がある箱を持っていてその箱に入っているものを
>カブトムシと呼ぶ」と言っているのだから、箱の中身が絶えず変化しようと何も入っていなくても
>「その箱に入っている」ということだけでそれは<カブトムシ>と呼ばれるのだから
>箱の中身を短絡させることが出来るのは明らかだと思う。
>これは永井均氏の誤解だと思う。彼の場合中身の方が問題になっているけどウィトゲンシュタインの
>最初の仮定では中身を規定するのはその<箱>の方だからだ。
何の話しだか分からない人のために、とりあえずカブトムシの節の全文を載せておきます。
293. 私が私自身について、私は私自身の場合からのみ「痛み」という語が何を意味するかを
知るのだ、と言うとすれば、──私は他人についても、彼は彼自身の場合からのみ「痛み」
という語が何を意味するかを知るのだ、と言わねばならないのか? そして、そうであるとすれば、
如何にして私は‘一つの’場合をそんなに無責任に一般化出来るのか。
さて、人は皆自分自身についてこう語る:「私は、私自身の痛みからのみ、痛みの何たるかを
知るのである!」 ──そこで、人は皆或る箱を持っている、としよう。その中には、我々が
「かぶと虫」と呼ぶ或るものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗くことは
出来ない。そして、皆、‘自分自身の’かぶと虫を見る事によってのみ、かぶと虫の何たるかを
知るのだ、と言うのである。──ここに於いて、人は皆夫々の箱の中に異なった物を持っている、
という事も可能であろう。否、それどころか、箱の中の物は絶え間なく変化している、という事
すら想像可能であろう。──さてしかし、このような人々に於ける「かぶと虫」という語が、
それでも彼らに於いて、有効に使用されるとすれば、どうであろう? ──そうであるとすれば、
「かぶと虫」という語のその使用は、或る物の名前としての使用ではない。箱の中の物は、
そもそも──‘或るもの’としてすら──その言語ゲームには属さないのである:何故なら、
その箱は空っぽですらあり得るのであるから。──その言語ゲームは、箱の中の物を素通り
する事によって、「短絡させられる」事が可能なのである;箱の中の物は、たとえそれが何であれ、
無くされ得るのである。
即ち、こうである:もし人が、感覚の表現の文法を「対象とその名前」というモデルに従がって
構成するならば、その対象は、無関係(irrelevant)なものとして言語ゲームの考察から抜け
落ちる(herausfallen)のである。
──『哲学的探求』読解( L.ウィトゲンシュタイン 著 黒崎 宏訳 産業図書刊 )
ウィトゲンシュタインが定義する私的言語(カブトムシ)とは、
243. …………しかし、次のような言語
──これが「私的言語」と言われるものである──も考えられるであろうか?
それは、或る人が自分の内的経験──彼の感覚、感情、気分、等々──を、
自分一人で使用するために記録し、或いは、言語表現をする事が出来る言語、である。
…………
私が考えている言語(私的言語)の語は、話者のみが知り得るものを
──具体的に言えば、話者の直接的で私的な感覚、感情、気分、等々を──
指示すべきものなのである。それゆえ他人は、この言語を理解できないのである。
というものですから、これをふまえて293節を読むと、たしかに397さんのおっしゃる通り
なのですが、永井がその解釈を知らないはずはなく、二十代の頃に書いた論文を見ても
それは伺えるので載せておきます。二十年一日のごとく、同じことを言い続けてきた永井が、
いまだに訂正の必要をまったく感じなかったというものです。
…………
──あらゆる体験内容に関して、およそ公共的に伝達可能なのは差異だけである──
──私の実質は私にのみ立ち現われ、他人の実質はその他人にのみ立ち現われている。
すなわち、実質は私的(private)である。これに反して差異は公共的(public)である。
…………
──差異化される当の実質そのものが公共化され、伝達可能なものなるわけではない。
意思疎通において重要なのは、各個人の差異体系間のいわば位相同型(同相)であって
実質の一致ではない。実質が言語的交通に内的に関与することはない。
…………
──差異を表記する語と実質を表記する語とを別々に想定する可能性──
──差異を表記する語が同時に実質をも表記しうる可能性──
──前者は理想言語における──後者は日常言語における私的言語主義である。
ヴィトゲンシュタインがこの両者に対してともに否定的な態度をとったことは
いうまでもない。何故なら、実質は、言語ゲームの機構にまったくつながっていない
(内的に関与しない)単なる装飾品のようなものであって、表意体とその表意内容は
実質を通り越して短絡させることができるからである。
──『〈私〉の存在の比類なさ』/論文「差異と実質」より(221〜224n)
カブトムシと呼ばれるものは、箱の中に入っているものとして、すでに規定されているの
ですから、ここではカブトムシを規定している規定されていない箱とは、いったい何なのか、
ということが問題なのでしょう。という意味では、397さんのおっしゃる通りだと思います。
272. 私的体験に於いて本質的な事は、実は、各人がそれぞれ私的体験の固有な
事例を持っている、という事ではなく、他人もまた‘これ’を、或いは、何か別
のものを、持っているのかどうかを、誰も知らない、という事である。──
383. 我々は、現象(例えば、思考)を分析するのではなく、概念(例えば、思考
という概念)を──それ故、語(例えば、「思考」という語)の使用を──分析
するのである。
ウィトゲンシュタインは、私的体験(内的現象)の存在を否定しているわけではなくて、
もしそれがあるとしても、私的で内的であるがゆえに「その対象は、無関係(irrelevant)
なものとして言語ゲームの考察から抜け落ちる(herausfallen)」(293節)といっている
のです。すなわち、言葉の使用は、私的/内的基準によって決められるものではなくて、
歴史、文化、伝統、慣習、社会システムなど引き継がれたものの「外的規準を必要とする」
(580節)ということです。そのような舞台(文法)があってはじめて、私的体験や内的現象の
概念そのものが可能になり、そのようなものが扱いうるようになる、ということです。
永井がいいたいのは、カブトムシが、その語の公的な使われ方に反するようになったときに、
たとえば、カブトムシが心だとして、他人には心がないのではないか、この心は私のものでは
ないのではないか……などの状況において、私は個人の資格において、その変化を認知し
言語報告できる能力を慣用の一部として公的に与えられている──カブトムシという語は箱の
中の私的カブトムシを表示する用法でもある──のであり、そもそもある語の公的な使用が
可能になるのは、私がそれを端的に同じだと思う、という内的体験/内的現象における内的
同定能力が必要なのであるから、カブトムシの比喩は、そのまま
>>407のような理解の仕方を
するのなら、哲学的に幼稚であるということなのでしょう。──『私・今・そして神』(207〜208n)
デカルトでさえ、自分が現に使用している言語の意味を疑いはしなかった。
しかし、正確にそれは何故なのか。ここには、明らかに確実性の一つの岩盤がある。
しかし、疑うことのできないそれは、間違っていることがありうるのだ。
だか、間違っていることがありうるとしても、その間違いが私にわかるためには、
もはや間違っていることが想定されない私の言語が必要だ。
──それもまた間違っていることがありうる。
では、その間違いを認定する言語の側が間違っている可能性はないのか。
──私は人々の言葉の理解が急におかしくなったと確信することができる。
だれが何と言おうと。
私的言語と言語ゲームのあいだに優先順位をつけることは、ついにはできない。
ようするに、言葉の使用に関してどちらがその構成の主体なのか、についての優先順位は
つけられないということでしょう。そしてもし293節について幼稚でない解釈があるとするなら、
カブトムシは、箱からの、すなわち言語ゲームを可能にしている生(活)の形式からの超越
においてはじめて、そうであるところのカブトムシとして、それらが「ちがっている」ことの本来
の意味を開示するのではないか、そしてそれは言語ゲーム上のカブトムシのちがい方とは
ちがうちがい方なのではないか、というところがポイントなのだ、と言いたいのでしょう。
jun1:2006/03/18(土) 04:35:35
カオルさんへさようなら。 さようなら。
さようなら。
読ませて頂きさようなら。ました。今回の論考も面白かったです。さようなら。
カオルさんの思い出のお話も楽しく読ませて頂きました。さようなら。
とくに僕の方から意見するところはありませんでした。さようなら。
さようなら。
で、一つカオルさんにお伝えしたいことがあります。
たぶん僕がこの哲学板に来ることはもうないと言うことです。
カオルさんとの対話はいままでとても楽しかったのですが、
このレスで哲学板へ関わりは全て終わりにしたいと思います。
いちおう理由は言わないことにします。
ただ、カオルさんとの対話は本当に楽しいことばかりだった
のだとお伝えします。今までほんとうにありがとう。 さようなら。
さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。
さようなら。 さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。
410 :
397:2006/06/04(日) 18:52:24
野矢氏は「論考」をアド・ホックな仕方で救おうとしている。でも中期から後期にかけて
のウィトゲンシュタインの問いは「論考」で自身が陥った誤りの批判の展開なんだから
どう考えても野矢氏の「論考の主張は大部分残る」という評価は間違いだろう。
>>408 永井氏はそもそも確実性について誤解していると思う。彼は確実性を確信と混同している。
「デカルトでさえ、自分が現に使用している言語の意味を疑いはしなかった。
しかし、正確にそれは何故なのか。ここには、明らかに確実性の一つの岩盤がある。
しかし、疑うことのできないそれは、間違っていることがありうるのだ。」(「私・今・そして神」p206)
正しかったり間違っていたりするのは確実性じゃない。それは確信だ。
確実性に正しいも間違いも無い。ただ単にそうしているということ。生活形式とはこのことだろう。
永井氏は他の著書ではそういう理解を示しているのに、何でまたここでぶり返してしまうのか。
僕ら(日本人)は挨拶する際に頭を下げるが、この習慣は別に正しいわけでも誤っているわけでもない。
もちろんこの習慣は或る共同体の中では「正しい」習慣と言われるけど、この習慣<そのもの>
が正しいわけではもちろんないから。別の共同体では別の挨拶が「正しい」習慣だろう。
こういう文化相対主義的「正しさ」や「間違い」なんてどうでもいい。当然個人相対主義的な
「正しさ」も「間違い」もどうでもいい、というのがウィトゲンシュタインの究極的な見解だろう。
だから永井氏が言う
「私的言語と言語ゲームのあいだに優先順位をつける」なんていうことはどうでもいいことだ。
>>408 >たとえば、カブトムシが心だとして、他人には心がないのではないか、この心は私のものでは
>ないのではないか……などの状況において、私は個人の資格において、その変化を認知し
>言語報告できる能力を慣用の一部として公的に与えられている
他人に心があるかないかを,どうやって認知するのか?また,「この心は私のもの
ではないのではないか」とは,どういう状態を想定しているのか?
ここで永井が言っているのは,『私・今・そして神』208頁にあるとおり,「砂糖をなめ
ると酸っぱく感じるようになってしまった」と認知し言語報告できるということだろう。
つまり,公的な文脈としては,砂糖をなめると甘く感じるはずなのに,内面的な感覚
としては酸っぱく感じてしまった,という言葉づかいをすることができるということ。
(該当箇所にちゃんと書いてあるのに,何で,全く別の,意味のわからない表現が
出てくるのか)
カブトムシの比喩を幼稚に解釈すると,そういう言葉づかいを認めないことになる,
つまり「砂糖をなめたのだから,その時感じているのは必ず甘さなのだ。内面的に
どのようなものがあろうと(さらに,内面には何もないとしても)関係ない」ということ
になるけれど,それは間違っている,というのが永井の主張だろう。
ウィトゲンシュタイン自身が幼稚な解釈みたいな主張をしているかというと微妙だと
思われるけれど,そう読める面はあるんじゃないか。だから,永井の書いている
ことがそれほどおかしいとは思わないが。幼稚でない解釈についても,その後に
論じているんだし。
>>399
412 :
411:2006/06/05(月) 00:47:06
>>410 >こういう文化相対主義的「正しさ」や「間違い」なんてどうでもいい。当然個人相対主義的な
>「正しさ」も「間違い」もどうでもいい、というのがウィトゲンシュタインの究極的な見解だろう。
>だから永井氏が言う
>「私的言語と言語ゲームのあいだに優先順位をつける」なんていうことはどうでもいいことだ。
何でどうでもいいのか?
永井は『私・今・そして神』のこの辺では,私的言語がある意味では可能
であることを積極的に論じていて,そうすると多分ウィトゲンシュタインの
見解とは離れるだろうけれど,この本は『ウィトゲンシュタイン入門』じゃ
なくて永井の見解を書いている本なんだから,ウィトゲンシュタインから
離れることを理由に非難されるいわれはないと思うが。内容自体がどこか
間違っているというならともかく。
>僕ら(日本人)は挨拶する際に頭を下げるが、この習慣は別に正しいわけでも誤っているわけでもない。
>もちろんこの習慣は或る共同体の中では「正しい」習慣と言われるけど、この習慣<そのもの>
>が正しいわけではもちろんないから。別の共同体では別の挨拶が「正しい」習慣だろう。
挨拶についてはそうだろうが,この辺で永井が論じているのは感覚で,「砂糖をなめると
酸っぱく感じる」とか「空や海やThe Beatles1967-1970が赤く見える」とかが
問題になっている(他人たちは,「砂糖は甘い」とか「空は青い」と言っている)
んだから,同じようにはいえないだろう。
まず,砂糖が甘いのか酸っぱいのかは,当然,同じ共同体の中での話のはず
(まさか,世界のどこかの民族は実際に砂糖を酸っぱく感じる,なんて議論を
しているわけじゃないだろう)だし,それに砂糖が甘いのか酸っぱいのかは,
自分が感じている感覚というものがある以上,「共同体では砂糖は甘いと
決まっているから」といって済まされる問題ではないんじゃないか。
413 :
397:2006/06/05(月) 11:06:57
>>411 しかしよくよく考えてみてくれ。「甘い」とか「酸っぱい」とか「赤い」とか「青い」という語を
僕らは大人から習ったはずだ。ここでどうして自分の私的感覚について何故最初の段階では
大人から教えられなくてはならないかという当然の疑問が浮かばないか。
どうして子供の頃それを拒否しなかったのか。(これは馬鹿げて聞こえる)
僕らは自分の感覚についてだってもう既に大人達の言語上の権威に服しているってことを忘れてる。
永井氏の例ではまるで、「甘い」とか「酸っぱい」とか「赤い」とか「青い」という語だけは教えらていて
それらの語を自由に使ってよい、と言われた人が言葉を喋っているみたいだ。
つまり永井氏の場合「砂糖は( )と感じられる」、「塩は( )と感じられる」という文に
感覚語が入ることだけは分っている人が「この文には感覚語なら何を入れても意味は通る」
と言いたがっているように見える。
「自分は<本当に>酸っぱいと感じている」(例えば砂糖について)と言う人は
その「感覚」は言語ではないということを忘れている。永井氏は言語化される前の「感覚」
を先取りして言語化してる。
またこれは哲学的な見解ではないけど(だから恐らくこちらの方が重要だと思うが)
砂糖について酸っぱいという人は当然お酢について酸っぱいと言うかどうかが問題だ。
またその人が舐めたのは本当に砂糖なのかというのも疑われる。或いはその人が嘘や冗談を
言っているのではないかということも。
これらの疑問をクリアしてなお「私には砂糖が酸っぱく感じる」と言う人がいるかということ。
この人が味覚異常でない、と言えるのはどんな場合か。
「その人が酸っぱいと言っているんだからそれは酸っぱいのだ」というなら、それ故
皆が皆、味について一家言持っていて誰も味について一致した見解が無いということが
あるとすれば自分の味について他人に語る事は意味が無いだろう。
414 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 20:11:25
ある人が「私には砂糖が酸っぱく感じる」という設定だから話がわかりにくい。
自分自身が「私には砂糖が酸っぱく感じる」という設定であるべき。
415 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 23:15:42
新刊の予定はないの?
>>413-414 >砂糖について酸っぱいという人は当然お酢について酸っぱいと言うかどうかが問題だ。
>またその人が舐めたのは本当に砂糖なのかというのも疑われる。或いはその人が嘘や冗談を
>言っているのではないかということも。
>これらの疑問をクリアしてなお「私には砂糖が酸っぱく感じる」と言う人がいるかということ。
>この人が味覚異常でない、と言えるのはどんな場合か。
自分自身にとっての甘さはどこにいったんだろうね。
そう考えるとクワス算じゃないけど、感覚もどのようにでも
対応づけが可能であり、真の感覚というものは語れそうにない。
むしろ一致する言語こそが感覚の輪郭を際立たせているのかもね。
>>415 西田幾太郎 絶対無とは何か
NHK出版 シリーズ・哲学のエッセンス
秋頃には出るんじゃない?
418 :
417:2006/06/05(月) 23:30:20
×太
○多
orz
419 :
考える名無しさん:2006/06/06(火) 00:20:22
ほう 永井が西田を・・それは愉しみだ
420 :
411:2006/06/06(火) 01:23:16
>>413 >「甘い」とか「酸っぱい」とか「赤い」とか「青い」という語を
>僕らは大人から習ったはずだ。ここでどうして自分の私的感覚について何故最初の段階では
>大人から教えられなくてはならないかという当然の疑問が浮かばないか。
>どうして子供の頃それを拒否しなかったのか。(これは馬鹿げて聞こえる)
>僕らは自分の感覚についてだってもう既に大人達の言語上の権威に服しているってことを忘れてる。
永井の議論だと,子どもと大人で異なるはずで,こういう段階を踏むはず。
1 子どもに対しては,周りの大人が,公的な文脈に応じて言葉を教える。
砂糖をなめた時に「甘い」と教え,海を見せた時に「青い」と教える。
2 しかし,「甘さ」や「青さ」は,あくまでその時に感じている感覚の
名前として教えるのであって,言葉と感覚が対応していなければならない。
公的な文脈のみに応じて「甘い」とか「青い」と発声していればよい,と
いうわけではない。
3 大人になると,周りの大人に教えられるというのではなく,その人
自身がその時感じている感覚に従って言葉を使うことになる。その人が
「甘い」と言えば甘く感じており,「青い」と言えば青く見えているの
だろうと理解される。(嘘をついているとでもいうのでない限り)
4 そして,その人が「砂糖が酸っぱく感じる」と言ったなら,(必要なら,
本当に砂糖だったのか,あるいは嘘をついていないかなどを確認し,確認
ができたら)その人が実際に酸っぱく感じているのだろうと理解される。
(なお,そう感じるようになった原因は,知覚異常と考えても別に問題ない
んじゃないか。むしろ,知覚以上のような可能性もあるんだから,ますます,
まともに言葉を使えている大人に対しては「砂糖をなめたんだから甘く感じる
はずだ」とは言えないんじゃないか)
(『ウィトゲンシュタイン入門』173〜174頁,『翔太と猫のインサイトの夏休み』
60〜62頁あたり。『私・今・そして神』だと206頁あたりが関係すると思われ
るが,あまりはっきり書いていない。)
421 :
411:2006/06/06(火) 01:35:06
(続き)
このように考えられる根拠について,永井が詳細に論証しているわけでは
ないけど,それほどおかしくないんじゃないか?
確かに,砂糖をなめたのに酸っぱく感じるというのは通常ないけれど,しかし,
実際にそう感じたのであれば,「酸っぱいというのは間違いだ,公的な文脈
からすれば甘いと感じるはずだ」とはならないのではないか。(と言っても,
永井自身,『私・今・そして神』の末尾のほうでは,それを掘り崩すような
議論をしているようにも読めるけど。)
>「その人が酸っぱいと言っているんだからそれは酸っぱいのだ」というなら、それ故
>皆が皆、味について一家言持っていて誰も味について一致した見解が無いということが
>あるとすれば自分の味について他人に語る事は意味が無いだろう。
一般的には確かに無意味,というか生産的な会話にはならないだろう
けれど,永井はここでは私的言語の可能性等を論じているんだから,
他人に理解されないというだけで無意味とは言えないんじゃないか。
>>410 397さん
>中期から後期にかけてのウィトゲンシュタインの問いは
>「論考」で自身が陥った誤りの批判の展開なんだから
>どう考えても野矢氏の「論考の主張は大部分残る」という評価は間違いだろう。
たしかに、明晰な思考や解釈を可能にするためには、厳密さや精確さを求めるという姿勢
や努力がもとめられるでしょう。だから、そういう積み重ねの結晶としての『探究』における
ウィトゲンシュタインの『論考』にたいする自己批判は、野矢のような恣意的解釈がまかり
とおったのでは、その真意が伝わらないことになってしまう、ということなのかもしれません。
でも、それを批判的にしか読めない人種が哲学徒ですから心配はしてないのですが。(^.^)
もし野矢が外しているとしたら、ウィトゲンシュタインは自然言語を、そして現実を相手にして
いたのだから、机やミケが対象でいいんだよ、みたいな発想をしていた場合ですが、さすが
にそれはないと。私が世界を開く原点にまで縮退したとき、そこに残される実在には対象が
あるのかどうか、それは机でありミケである、と言ってしまったのなら問題だとは思いますが。
実体や対象や要素命題は、言語が何において成り立っているのかの分析から超越論的に
要請されたものなのだから、すでに言語によって構成されてしまっているものから演繹して
いるようにみえる野矢の作業それ自体が、根本的にそもそもおかしいということですかね?
でも、野矢が「論考の主張は大部分残る」といったから、そのままそのように受け取るような
人がいるのでしょうか? わたしはワクワクしながら、つまり批判しながら読みましたけどね。
だから、そのまま受け取るような(哲学徒でない)人におススメしているつもりはないのです。
>>410 397さん
>正しかったり間違っていたりするのは確実性じゃない。それは確信だ。
>確実性に正しいも間違いも無い。ただ単にそうしているということ。生活形式とはこのことだろう。
うーん、たしかに。
「疑うことのできないそれは、間違っていることがありうるのだ。」……ここが問題か?
疑うことのできないものを、たとえば歴史、文化、伝統、慣習のように引き継がれた‘もの’
として明示化してしまうことからくる錯覚なのかもしれないですね。
いえ、ウィトゲンシュタインも永井もそれはしていないのですが、だからむしろ明示化して
考察してみないこと、それを言わないことで、逆説的にそれへの指示が強調されてしまう。
あたかもそういうものが、そういう力が、表層的な何かとして存在するかのように錯覚して
しまうわけです。そうやって疑うことのできない‘それ’を言語ゲーム上の対象に引き摺り
下ろして差異化の対象にしてしまうから、正しかったり間違ったりできるものとしてとらえ
られてしまう、ということになるでしょうか。
>だから永井氏が言う
>「私的言語と言語ゲームのあいだに優先順位をつける」なんていうことはどうでもいいことだ。
永井の場合、私的言語の可能性とは、〈私〉の存在の可能性のことだから、私的言語の可能性を、
あるいは、その必然をいうのなら、そして言語ゲームの可能性の条件が私的言語だというのなら、
さらに私的言語と言語ゲームの優先順位が決められないというのなら、公的言語の可能性もまた、
〈私〉と同様の次元にあるのかもしれないということへの考察と配慮(幼稚とか言わないで)が必要
でしょうね。ウィトゲンシュタインは、言語ゲームを成立させているその「形式」における「あらわれ」
(どのように用いられているか)を分析することによって、それを示そうとしているわけですからね。
>>411 >(該当箇所にちゃんと書いてあるのに,何で,全く別の,意味のわからない表現が
>出てくるのか)
言い訳:前回は8レスオーバーで書き込み規制になるので、引用を省いてしまいました。
397さんは読まれているので通じると思って……それと、カブトムシの話しがわかりにくい
ときには、カブトムシを心におきかえて読んだほうがわかりやすいのかな、とも思ったし。
まあとにかく、心だって公的な文脈においては、すなわち文法的、論理的には同じです。
>カブトムシの比喩を幼稚に解釈すると
ちなみに、わたしは幼稚だなんて思ったことありません。
>>408(省いてしまった引用部分を載せておきます)
人々は、心ある振舞いをする私の内面を覗いて心の存在を確認したうえで、
私に心があると認めたわけではない。だが、「心」とは定義によって内なる
ものである。したがって、私の諸々の心ある振舞いの背後に何があろうとも、
‘そこに’あるものがすなわち「心」なのである。それゆえ、私がたとえロボット
であったとしても、私に心がないことはありえないことになる。なぜならば、
存在する‘これ’(と言って私は自分の内面を見つめる)こそが定義によって
「心」なのだから。
…………
『哲学探究』二九三節においてヴィトゲンシュタインが用いた有名な「甲虫」の
比喩をかりて、以上の点を簡明に映像化しておこう。
…………
各人が自分の箱の中に違うものをもっていることは当然ありうることである。
ただし、言語ゲームを超越することなしには、それらが違っていることに意味を
あたえることはできない。
…………
自分の箱の中に目玉焼きが入っていたため、それによって「甲虫」を‘定義’した
人にとって、箱の中のものが消しゴムに変化したならば、甲虫はいなくなった、
と言わざるをえない。
…………
それは事実に反している。「甲虫」という語に一定の用法があるとしても、それは
あるものを表示する用法でもありうるのだ。そのような形で言語ゲームに属して
いるある何かが存在し、箱は空っぽではありえないのである。
──『〈私〉のメタフィジックス』/「他我問題」(21〜22n)
426 :
397:2006/06/06(火) 17:37:14
>>420 411さんの間違いはあなたの段階でいうところの3で起こっている。
>大人になると,周りの大人に教えられるというのではなく,その人
>自身がその時感じている感覚に従って言葉を使うことになる。
と言ったって大人は子供の頃に教わった言葉の使い方を元にして喋るのだから
(そしてそれ以外に何があり得ようか)ここでも「私的言語」を全くのゼロから
行うことはできないことを示している。
永井氏の挙げる「あむい」とか「こじむい」といった<私的言語>だって明らかに僕らが普段使う
「さむい」、「あつい」、「からい」といった感覚言語をその雛型として作られてるんだから。
>>421 >他人に理解されないというだけで無意味とは言えないんじゃないか。
しかし<自分にだけ>理解されるとはどういうことか。もちろん自分<だけ>が感覚を感じる。
でもそれは「言語」では無いはずだ。だから「私的言語」というのは不可能なのだ。それは言語以前だから。
>>423 カオル ◆BBBRv/ousU の423での見解に全面的に賛同する。
永井氏は歴史、文化、伝統、慣習ということを(哲学)議論の中で我々が扱える“もの”
として捉えてしまっていることにあまり自覚的ではないような態度を取っている。
わざと間違えて見せているのかも知れないが、それは好意的過ぎる見方のように思える。
427 :
397:2006/06/06(火) 18:37:07
410で「正しかったり間違っていたりするのは確実性じゃない。それは確信だ。」
と書いたが永井氏は『私・今・そして神』p202で
>私はその確実性(確信)をけっしてゆずらないだろう
と書いてはっきり確実性と確信を同一と見なしていた。でもこれは完全な間違いだ。
だから永井氏の『確実性の問題』についての評論は全く的を外していると言わざるを得ない。
(これはウィトゲンシュタイン自身の『確実性の問題』での議論の妥当性とはまた別の問題だが。)
429 :
397:2006/06/07(水) 17:52:26
>>428 斎藤 環ホームページ内 福本 修 論文集
『「心の理論」仮説と『哲学探究』──アスペルガー症候群[から/を]見たウィトゲンシュタイン 』を読む。
一言で言って全く気に入らない。精神医学を否定するつもりは無い。自閉症といった精神の<病態>を観察し
細かく分類する事はそれなりに興味深い試みではある。
でもこの論文の著者はそもそも哲学議論としての「私的言語」や「意味盲」といった語を全く理解せず
それを単に自閉症者に見られる病態の表現と見做している。それならウィトゲンシュタインの議論は
精神病者の心の告白として珍重されるに過ぎなくなってしまう。
ウィトゲンシュタインの(独特な)パーソナリティに関して言えば確かにアスペルガー症候群
といった表現を与える事も不自然なわけではない。でもそれは彼の哲学の真価とはまるで
関係無い。(特に私的言語についての解釈は誤解もいいところだ)
どんな哲学者でも自分の哲学に関してそれを精神的な病態の表現と見なされたとしたら
間違いなく激怒するだろう。
個人的な評価をさせてもらえばこんな<哲学解釈>は下の下だね。(この人が哲学者ではない
という事実を踏まえた上でなお、不快と言うしかない。)
>>429 397さん
いえ、そういうことではなくて、
永井の議論を理解する人──正しいものとして肯定する人──と
397さんのように理解しない人──間違っていることは理解できている人──との
ちがいはどこにあるのだろうというのが、わたしの疑問。
福本の論文に、私的言語の可能性を見るか、不可能性を見るかは、たぶん見る人
によってちがうわけだけど、それはもしかしたら、正しいとか間違っているとかいう
規準によって解釈された結果ではないのではないか、という疑問。
永井やクリプキを理解する人は、私的言語を理解するのだろうし、わたしのように
理解できない人は、どこまでも理解しないかもしれない。なぜって、端的にまちがって
いることを指摘できるからですが、それでいいのか?、という疑問。
397さんにとっては、どうでもいい疑問(かもしれない)。
ところで、福本は哲学議論をしているわけではないので「哲学議論/哲学解釈として」
というのはどうでもいいことです。それから、自閉症は精神病ではないので激怒する人が
たくさんいると思います。わたしは、それで激怒する方の差別意識がよけいに嫌いですが。
やっぱり↑のレスは‘あぼーん’でよろしくです。
哲学で解決する問題じゃないということだけはなんとなくわかる。
〈わたし〉論ってけっきょくそういう〈もの〉のように思う。
理解するとかいうテーマじゃない。
だって〈私〉は〈実在〉するという確信が前提なんだから。
432 :
397:2006/06/08(木) 15:15:51
>>430 ちょっと見過ごせないな。
「永井の議論を理解する人」と「397(僕)のように理解しない人」と言ってるが
ここで言う議論ってどんな議論のこと?僕が何を理解していないと言われているのか分らない。
(例えば私的言語のことなのか。しかし「理解していない」だって?)
福本論文についてそれが哲学的に考えられていない以上、「私的言語」「意味盲」等といった
タームについて何を語ろうとも、表面上哲学用語を並べただけ、と評価せざるを得ない。
ウィトゲンシュタインが何を抉り出そうと苦闘したのかをまるっきり無視して彼の<病態>
について語るというのはベートーヴェンの音楽ではなく、作曲に苦しむベートーヴェンの様子
(或いは<病態>)に興味を持つ人のようだ。
自閉症に対する差別意識がどうのという話は、僕がウィトゲンシュタインを精神病者扱いされて
怒っているのだ、という誤解だろうけどそんな低次元の話じゃない。
ウィトゲンシュタインがアスペルガー症候群だろうがなんだろうがそんな事はどうでもいい。
そもそも最初から哲学をする気のない奴の<診断>が哲学とは全く関係無いこと位
カオル ◆BBBRv/ousU だって分ってるはずだろう。
フロイトに始まるこの種の<診断>はもし、患者自身がそれを求めているのでない限り
百害あって一利無しの代物だということは肝に銘じた方がいい。
そこの「理解しない」は「賛同しない」の意味でしょ
>>432 397さん
>ちょっと見過ごせないな。
>「永井の議論を理解する人」と「397(僕)のように理解しない人」と言ってるが
>ここで言う議論ってどんな議論のこと?僕が何を理解していないと言われているのか分らない。
>(例えば私的言語のことなのか。しかし「理解していない」だって?)
まず、生活様式の確実性の問題については、正誤や真偽、あるいはそれを言い張る
ことができるとかできないとか、そういう次元の問題ではないということ。
次に、私的言語の可能性については、それを一切の外的規準を必要としないような
感覚語の存在にもとめても、それはあり得ないということ。
なぜなら、そのようなユニークな感覚の私的体験(内的現象)については、むしろ
当然のこととして認めるものの、それはたんに「自分だけがその感覚を感じられる」
という、言語以前の‘こと’なのであって、すなわちそれは言語ではないということ。
要するに、そのユニークさの識別(存在)を可能にしているものこそが、生活様式
であるがゆえに、私的言語は不可能であるということ。
以上は、397さんがおっしゃっていることを言い直しただけのつもりなのですが
これって、そのまま永井の私的言語論批判なんですよ。端的にその否定です。
だから、「間違っていることは理解できている人」としたのですが、永井に言わ
せたら、「理解できていない人」になるんじゃないでしょうか?
>福本論文についてそれが哲学的に考えられていない以上、「私的言語」「意味盲」等といった
>タームについて何を語ろうとも、表面上哲学用語を並べただけ、と評価せざるを得ない。
いえ、だから福本の論文の内容について議論したいのではなく、わたしが言いたいのは、
自閉症児の言語使用のうち、まったく公的でない(親にさえ理解されない)ものがあり、
だから周囲の言語使用者にとってのそれは、単なる音声や叫びでしかないのだけれど、
もしかしたら、本人にとってだけは意味があり、しかもそれが公的な言語使用における
それでないとしたら、つまりたとえば「痛い」という語を、本人は「イタイ」という音声でしか
把握できていなくて、あるいはその語の用法がわからなかったり、その使用においての
恒常性が欠けていたりするためにそうなってしまっていて、だからその使用においては
周囲との応答が前提されていないような、そんな自分のためだけにしか意味をもたない、
そういう言語の使用が可能だったとしたなら、それを私的言語とは呼べないだろうか。
というふうに、永井の私的言語論の肯定論者は考えるのではないか、ということです。
ここで問題なのは、コミュニケーションを前提としないような言語を言語と呼べるだろうか、
ということ、そして意味があるということが成り立ちうる原点として、どうしても「この私」の
「私的言語」の想定が必要なのではないかということの2点です。
わたしとしては、まだうまくは言えないのだけれど、私的言語と生活形式の相即的な
あり方として、以下のようなイメージでとらえてみたらどうかな、と思っています。
あらゆる感覚の、その乱用が私的なのではなく、未知のものがやってきたとき、
たとえば、それを見て言葉にしなければならないときに、いったい何を見たのか、
このとき疑いようのないそれは、いったいだれが見たというのか、ということが、
私的ということの本質ではないでしょうか。
それを見たということが、見ることによって、それを知った、ということであるなら、
それを知りうるということは、すなわち知りうるだれかが‘いる’ということなので
あって、この知りうるだれかが存在するということそのものが、すでに、そういう
生活の形式にとらえられている様(あらわれ)なのではないか、ということです。
けれども、もしそうだとしても、そこには、それを知りうるのは他のだれでもない
この私だけが知りうる、ということがなければならないのであって、そのように
しか知られえないということの必然が、もし私的言語の可能性の根拠なのだと
したら、権利上、その可能性を否定することはできないのではないでしょうか。
(つづき)
もちろん、この私的言語の可能性は、あくまで可能性にとどまることによって〈ある〉
のであって、もし可能性が実現されてしまったなら、たとえば私的体験(内的現象)
の言語化(私だけの感覚語)は、すでに言語ゲームの文法のうちに想定されている
──感覚という用法がある──のですから、それは私的言語ではあり得ないことに
なります。
だからといって、言語ゲームの外に出るために、あらゆる語とその用法を否定した
としても、行きつくところ「ある」の否定にしかならないでしょうから、けっきょくそれは、
知りうることや知りうる可能性のすべてを否定すること、すなわち、無意味でしかなく
なるでしょう。
けれども、このような私的言語の可能性の追求が、無意味に行くつくことは必然
なのです。なぜなら、そこにこそ意味の世界を開く原点としての「この私」がいる
からです。
私的言語の可能性の根拠である「この私」は、はじめから言語ゲームのうちには
いなかったのです。だから、ウィトゲンシュタインは、「私」のそのような主体として
の用法を一切みとめなかったのでしょう。
>ウィトゲンシュタインが何を抉り出そうと苦闘したのかをまるっきり無視して彼の<病態>
>について語るというのはベートーヴェンの音楽ではなく、作曲に苦しむベートーヴェンの様子
>(或いは<病態>)に興味を持つ人のようだ。
永井が、『〈私〉のメタフィジックス』において、その中心部分だというU部-1章での発言。
さしあたって確認しておかなければならないことは、このような分析はすべて
独我論──それも他我問題の帰結としての通常の認識論的独我論ではなく、
T−四で問題にした〈私〉の独我論──の病源の探究という目的のために
なされているという点である。
「私」の用法の分類ももっぱら治療目的のためになされたものであることを
忘れてはならない。
というのも、解釈者や批判者の多くは、〈私〉の独我論という問題意識を
ヴィトゲンシュタインと共有せぬまま、彼がその病を‘自己治癒’する過程で
病原ではないかと考えた「私」という語の特異な文法に、言語哲学的な関心を
示しているように思われるからである。* (101n)
* そのような観点からのみヴィトゲンシュタインの分析を読んでいながら、
しかもそれに賛成するひとが数多くみられることは、私にとって驚くべきことである。
[補足] T−四は、ふたつの中心部のひとつです。
永井は他でも似たようなことを言っていたし、そうとは明言しないけど、おそらくそういう
一種の哲学病者の自己治癒の過程として、ウィトゲンシュタインの哲学をなぞっている
(自分と重ね合わせている)ようにみえます。つまり、同じ病気でないと同じ土俵に立て
ないよ、という一種の選民意識みたいなものです。(以上、反論ではなく情報提示です)
福本については、397さんがおっしゃるようなところがあるのはたしかなことでしょう。
>フロイトに始まるこの種の<診断>はもし、患者自身がそれを求めているのでない限り
>百害あって一利無しの代物だということは肝に銘じた方がいい。
わたしも、つい最近までそう思ってました。というか、気分としてはいまでも嫌いです。
ユングとか完全にオカルトだと思っているし、だからわたしは勉強してないんですよね。
でも、フロイトの「死の欲動」については納得できるところがあります。実感レベルで。
永井は『〈私〉のメタフィジックス』では、積極的に生物学や精神分析学の知をつかって
論を展開しています。永井自身、そのような議論は、いわゆる知られた〈わたし〉論とは
「区別されるべき議論の型を例示してみたものにすぎない」ので「哲学的な議論にあまり
馴染みのない方」(同書のはしがき)向けのものみたいに言ってるけど、わたしが思うに
一番おススメの唯一素直に納得できる議論でした。わたしの議論に似ているからかな?
どのようなものなのか、何のことだか分からない方のためにその一部を転載しておきます。
デカルトの思索においては、──省察一と省察二の前半は
「死の欲動」の支配下にあったと言えると思う。
──彼が到達した(と私がみなした)「外部の存在しない自己意識」
「ひとつしか適用事例のない自我(Ego)」「もはや『私』とも言えない‘何か’」
「‘これ’(としか言えないもの」は、──融解し、拡散して、世界それ自体と
合致していた時代の私≠意味していると言える。
絶対的な確実性を求めるデカルト的な探究が、人間の原初的な状態として想定
されたそのようなありかたにきわめて近いところに達したのは、偶然ではない。**
それは、人間的な確実性の一方の原型が確かにそこにある、という
いわば生物学的事実にもとづく必然性だと考えることができるからである。
──〈私〉と表記されたものの実在的な根拠が明らかになった。
〈私〉とは‘実は’私≠フ拡散・融解状態のことだったのである。
私の語りえなさの根拠も、‘実は’そこにあった。(同書 216〜217n)
フロイトの言うように、以前の段階へもどろうとすること、
──死の衝動はどこへもどろうとするのだろうか。〈私〉へ、であると考えてみたい。
そして、そのとき〈私〉の形而上学と〈死の衝動〉の形而上学は重なることになる。
その重なりを一応次のように表現しておこう。
──〈私〉とは、存在を語りうる場所にはいないあるものであった。
そして、存在を語りうる場所と意味および価値のはたらく場所とは重なっている。
このとき、〈死の衝動〉は存在を語りうる(‘ある’と‘言える’)すべてのものに対する
絶対的な否定の衝動として〈存在〉しているのだ。(同書 180n)
永井が、〈私〉について明瞭に言明できているのは、
生物学的、精神分析学的見地からのみのようです。
ところで、上で引用していて思ったのですが、永井は注記[**]で
** デカルト以後、──マッハ、ジェームス、ベルクソン、西田ら各地の哲学者たちが、
(少なくとも一時期)類似の地点により明瞭な形で到達したことはよく知られている。
と書いているのですが、もしこの認識が本当なら、彼のいう「哲学はまだ始まっていない」
(『私・今・そして神』)という言いぐさは、いったい何なのか!、と思ってしまいます。
現在、西田について何か書いてるそうですが、敬意をもって対してもらいたいものですね。
そういうわたしは永井に敬意は払っていませんけどね。(^_^;)
442 :
397:2006/06/10(土) 15:28:06
>>434 >これって、そのまま永井の私的言語論批判なんですよ。端的にその否定です。
の意味が分からなかった。その「端的な否定」の議論を展開してくれなきゃ納得しようが無い。
永井氏の『私・今・そして神』がその議論の試みとなっているのだろうか。あの本に、はっとするような議論は無かった。
自分には永井氏は「私的言語」ということで単純に「感覚語」のことを言っているのではないかという疑問がある。
それならそれを(哲学的に)「私的」と呼ぶのは個人の自由だろうけど、これは余計な「哲学専門用語」じゃないのか。
>>435 >周囲の言語使用者にとってのそれは、単なる音声や叫びでしかないのだけれど、
>もしかしたら、本人にとってだけは意味があり
の「もしかしたら」ってどういうこと?その「もしかしたら」が成り立つということは
もう既にそれは言語ゲームの中で成り立っているということじゃないか。これは鳥の
さえずりが彼らの「言語」か?という問いと同じだ。それはもう既に我々の言語と比較される
ようなものである、という事は(実際はどうあれ)前提されているんだから。
>>436 >未知のものがやってきたとき、
>たとえば、それを見て言葉にしなければならないときに
この時、その「言葉」は未知ではないはずではないか、というのが素朴な疑問。
それが「私的言語」と呼ばれるのであれば「私にだけ理解される」という想定は間違っているんじゃないか。
(永井氏が、そしてそもそもウィトゲンシュタインがこの意味で「私的言語」と言っているわけではない
のは明らかではないか)
>>442 397さん
>永井氏の『私・今・そして神』がその議論の試みとなっているのだろうか。
いいえ、そのようにはなっていないと思います。
397さんの批判をかわすような議論はされていませんから。
というか、『〈私〉のメタフィジックス』の当時から同様の理解の仕方で
私的言語は可能である、と言いつづけているんです。
だから、わたしにはいったい何をどのように理解したらそのように思えるのか、
さっぱりわからないんです。
>自分には永井氏は「私的言語」ということで単純に「感覚語」のことを言っている
はい、そう思います。永井のその点についての議論は素朴すぎますね。
いっさいの外的基準が用いられない状況での「感覚語」の定義(基準)は、
どのようにして設けられるのか、どうしてそれがその感覚だとわかるのか、
について、あのときのアレとおなじだから/ちがうから、というときに、
その言明を可能にするための条件は、この私の「確信」でしかないでしょう。
けれども、このとき共同体から孤立したこの私の「感覚語」が位置づけられる
ような領野(意味の世界)が開かれることはないのですから、その「感覚語」が
意味をもつこともあり得ないのです。すなわち、それは言語ではないのです。
ちがいに気づきうるのがこの私であることから、ちがいに気づきうるこの私の
それについての言語表明が「私的言語」であるとは、けっして言えないのです。
>>周囲の言語使用者にとってのそれは、単なる音声や叫びでしかないのだけれど、
>>もしかしたら、本人にとってだけは意味があり
>の「もしかしたら」ってどういうこと?その「もしかしたら」が成り立つということは
>もう既にそれは言語ゲームの中で成り立っているということじゃないか。
はい、その通りです。だから「もしかしたら」としか言えないのです。
この私という本人がいることによる権利上の可能性において〈ある〉としか
言えないようなことなのですから。
そもそも「もしかしたら、本人にとってだけは意味があり」という言明が
成り立ちうるには、孤立無援の状況にあるこの私の考察が可能であることと、
コミュニケーションを前提としないような言語も言語である──本人のみの
意味の世界がある──という前提が必要なのです。
しかも、この仮説は言語ゲームに属してはならない仮説なのですから、
なぜなら、それが理解されてしまうなら、それは言語ゲームに回収されて
しまうからです。だから、わたしの書いていること(あるいは永井の言明)は
非意味的なもの(nonsensical)といえます。
〈わたし〉論とおなじく、「わたしたちの言語」からの逸脱を、その言語を
用いて試みているのですから、当然なんですけどね。
>>未知のものがやってきたとき、
>>たとえば、それを見て言葉にしなければならないときに
>この時、その「言葉」は未知ではないはずではないか、というのが素朴な疑問。
あはは、ホントだ。削除、削除。(^_^;)
わたしとしては、言語ゲームがはじまる原初の状況を表現したかったんです。
[436にどうでもいい付け足し]
鷹が兎を狙っているときに、そこに見ているこの私はいないでしょう。
私たちは、かつての自然とともにあった頃の「見る」には戻れないのです。
この私が、「見る」ことを「知る」ことにしてしまっているから、
もうその断絶を知ることもできないし、自然の只中にいることさえ知らない。
それは知らされることがないし、知りうることではないから。
私たちは、海(形式)の中で泳ぐ(言語ゲームする)魚のようなものです。
海水はどこまでも行き渡っていて、そこから私たちは逃れられないのです。
言語の獲得による自然から逸脱は、形式という牢獄への収監だったのです。
その根源におけるこの私において、自由は永遠に奪われてしまったのです。
>それが「私的言語」と呼ばれるのであれば「私にだけ理解される」という想定は
>間違っているんじゃないか。
(435辺りからは、ほとんどわたしの個人的見解です)
私的言語についてではなく、私的言語の‘可能性’の根拠としての「この私」に
ついて話しています。
それを知りうるのは他のだれでもない、この私だけが知りうる、ということが
なければならないのであって、そのようにしか知られえないということの必然
が、だれにとってもそうであることに読み替えられることによって言語ゲームが
可能になるのではないでしょうか。
だから「未知のもの」というのがよくなかったのですが、‘それ’をだれもが知り
うるのでもいいのです。
言語ゲームがはじまるにあたって、それを知りうるこの私がいる、という原初の
場面を表現したかったのです。それが、私的ということの本質ではないかと。
それから、435〜437は全体で一つなので、そのようにながめてもらえたらな、と。
>>445 とりあえずここでは、「たとえば、それを見て言葉にしなければならないときに」
を削除して読んでみてください。
(とはいっても、自己満足理解のうちに書いているので、意味不明だったらごめんなさい)
>言語の獲得による自然から逸脱は、
訂正 自然から[の]逸脱は、
(他にもあるかもしれないけど、見つけられないので、それなりに、よろしくです)
では、おやすみなさい。
448 :
397:2006/06/11(日) 19:15:15
永井氏やカオル ◆BBBRv/ousU の言いたいことは(何故か)よくわかる。
即ち言語ゲームに回収される前にある、この<私>について言おうとしているということは。
特に永井氏の「<子ども>のための哲学」の最初の方の<独在性>についての虚心坦懐な表現は
「本当にその通りだなあ」とただただ頷くしかない。
僕は一度もそんな風に考えた事は無かったけれど、全く回心させられたと言ってもいい。
多分この本を読まなかったら<独在性>なんて決して思いついたりしなかったろう。
(せいぜい独我論が関の山だ)
でも永井氏の<独在性>についての“哲学議論”にはあまり感心させられなかった。
何故か僕にはそれは哲学的だと思えなかった。
恐らく<独在性>といったことは「議論を深める」ということがそもそも不可能なんだろう。
(結局ウィトゲンシュタインはこれが不可能だということを様々な、また突拍子も無い
例でもって示そうとしていたんじゃないだろうか)
でも永井氏は「議論を深める」ことが出来ると見做しているか、或いはそれが可能であるかのように
装っているように僕には見える。(それは彼が職業哲学者だからなのか)
前者なら素朴過ぎるし、後者なら不誠実だ。
特に永井氏が「私的言語」について語ろうとしている事は根本的にアプローチを変えなければ
ならないと思う。
>>448 397さん
──私は、なぜこの私なのだろう──
わたしは、397さんとの議論では、できるだけ意識して〈私〉ではなくて「この私」
について話したつもりでした。どうしてかというと、ウィトゲンシュタインの哲学に
傷をつけたくなかったからです。かれは、最後まで〈私〉への一歩をふみはずす
ことのなかった哲学者だからです。
わたしの永井との出会いは、以前わたしが「哲学とは何か」について何かを
言ったときに、カオルは永井の論を用いている、と指摘されたことがあって、
それまで一冊もかれの著書を読んだことのなかったわたしは不機嫌になり、
それがキッカケで『〈子ども〉のための哲学』から永井を知ることになりました。
(もちろん、かれとわたしでは「哲学とは何か」についての考え方はちがいます)
『〈子ども〉のための哲学』は、わたしにはむずかしくてよくわかりませんでした。
なぜだか、それを言ってもだれも賛同してくれないのが不思議に感じられました。
わたしは、端的に魂について哲学できるとは思っていなかったので、拒否反応を
示したようです。哲学は、オカルトや宗教ではないと考えていたからです。
やはり、いまでも、永井の〈 〉についての議論が哲学なのかどうかについては
疑問です。とくにウィトゲンシュタインの議論について「この主張は間違っている」
とか「端的に誤診であることは疑う余地がない」などの「私的言語の不可能性」に
たいする永井の批判には辟易してしまいます。もちろん、ウィトゲンシュタインが
ふみとどまったその地点を聖域化しようとは思っていませんが、だからといって
容易にふみこえることができるとは到底思えないからです。
ですから、「前者なら素朴過ぎるし、後者なら不誠実だ」はその通りだし、前者の
正当化のためのフリが後者なのでしょう。で、「それは彼が職業哲学者だから」
でしょう。わたしが、永井に敬意を払えないのは、そういうところも原因なのです。
だから、持論の正当化のためにウィトゲンシュタインを持ち出すな!という意味
では、「根本的にアプローチを変えなければならないと思う」にも同意できます。
>>449 >かれは、最後まで〈私〉への一歩をふみはずすことのなかった哲学者だからです。
永井は、ふみはずすことが哲学だと思っているようです。
だから「哲学はまだ始まっていない」などと言うわけです。
それは、人間的な確実性の一方の原型が確かにそこにある
>>440 で、‘もう一方の’確実性の原型へのアプローチが自分の哲学だと主張します。
永井は、生物学的、精神分析学的知見にもとづく到達を一方の確実性ととらえ、
それは哲学による到達ではないから「哲学はまだ始まっていない」というのです。
ゆえに、人類史上自分の哲学だけが哲学なのだ、という傲慢に達するわけです。
呆れてしまうのはそれだけではなくて、確実性について一方を確定しておいて、
残りの一つを自分の哲学が達しうるだろう‘それ’とみなしているわけですから、
当然、ウィトゲンシュタインの示した生活の形式という岩盤(確実性)は、‘それ’
に相当しないことになります。だから、まちがっているとかいないとかの議論が
できるのでしょう。
だから、397さんの批判は永井哲学の根本的な欠陥の指摘でもあったのです。
永井は、人間が一切の形式から逸脱しようと試みるとき、いったいそこにどの
ような力がはたらくのかについて真剣に考えたことがないのではないでしょうか。
端的に、かれは現代の知識人によくみかける歴史否定論者ではないでしょうか。
次はわたしから、何か問いを提示しないといけないのだけど、私的な都合で
時間がもてるかどうかがわからないので……ごめんなさい。でも、397さんが
何か提供してくれたら、できるだけ一緒に考えたいと思っています。
今日まで有意義な議論をさせてくれて、ありがとうございました。m(__)m
451 :
397:2006/06/12(月) 18:19:55
ウィトゲンシュタインが
>〈私〉への一歩をふみはずすことのなかった哲学者
だったかどうかは何とも言えないと思う。何故なら「踏み外そう」としたことが無かったなら
およそ彼が書き残したような思索はあり得なかっただろうから。(例えば『草稿』とか『論考』
の独我論や倫理について語った部分とか)でも彼は結局「踏み外そう」と思ってもどうしても出来ない
という結論に達したのだけど。
『〈子ども〉のための哲学』が<むずかしい>というのはよく分らなかった。
僕は最初この本の内容について「全くその通りだ」と思った。でもよくよく考えてみると
「これは上手くいかない」と思うようになった。言いたい事は分る。でも上手くいかない、と。
永井氏の<言いたいこと>は別に宗教でもオカルトでもないと思う。でもそう思わせてしまう
(例えば『私・今・そして神』なんていう誤解を招き易い表現を平気で使うとか)ということ
はアプローチの仕方が上手くいっていないことの一例かもしれない。
永井氏の場合、ウィトゲンシュタインが細心の注意を払ってゆっくりゆっくり大回りで進む
ところを、いきなり一直線に進もうとしている印象がある。だからしばしば永井氏の議論は
(永井氏自身はそう思っていなくても)素朴に見えてしまうのだろう。彼の議論のやり方が
「傲慢」と見えるのはその性急さだと思う。
さて長々と書いてきたが、僕も個人的理由からこの板から離れなければならない。
カオル ◆BBBRv/ousU がどんな顔をして一体何歳位の人間なのかも分らないわけだが
議論していて面白かった。他の人も僕と議論してくれてありがとう。
僕もちゃんと社会復帰しなきゃならない。それは多分哲学よりはるかに骨の折れること
だろう。では、今度はネットの中ではなく、地球上のどこかで会いましょう。さようなら。
452 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 00:05:07
私的言語はもちろん不可能である、
しかし、その不可能な私的言語に論及して(例示して)それが不可能だと言おうとすると、
そのことによって、それは可能な限りでの私的言語(感覚に関する個人的言語)に変質し
てしまう、という見解だったと思います。
それゆえ、不可能な方の私的言語にはそもそも論及不可能。という意味では、
知られている限りでのあらゆる私的言語(たとえば「E」)は言語として可能であらざるをえない。
だって、現にもう可能だったじゃないか、というような・・・
453 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 00:31:56
ところで、
Gewissheit には「確実性」と「確信」の二義性があって、
邦訳タイトルは「確実性」をとっていますが、
「確信について」と訳すことも可能です。
ウィトゲンシュタインも、両義的に使っていたと思います。
454 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 09:38:36
>>452 だから、
ここの主題である<独在性>と私的言語の可能性は、実は、むしろ対立している。
「独我論は語りえない」のは、想定可能な限りのどんな私的言語もどこまでも可能
(次々と語りえてしまう)からなのだ。
こうして独我論は独在性に転化する。
すると、
『探究』の(反)私的言語論は『論考』の(反)独我論よりも後退しているということになる、
というわけだ。
『私・今・そして神』では、私的言語が可能だという方向で論じられて
いるので、問題は、どんな私的言語がどういう理由で可能なのか、それが
可能であることによって独在性その他永井の今までの議論はどうなるのか、
という点じゃないだろうか。
「しくい」が可能であるところまでは、他の私的言語との関連という、
ある程度明確な議論が読みとれるけど、そこから先が難解な気がする。
>>452 言いたいことはわかるのだけど、
>私的言語はもちろん不可能である、
>しかし、その不可能な私的言語に論及して(例示して)それが不可能だと言おうとすると、
という議論の前提がそもそもちがいます。
永井の議論は、
「言語が可能である以上、私的言語も必然的に可能でなければならない」
というものです。
>>453 確実性と確信の二義性をみとめるのなら、なぜ確信ではなくて確実性と
翻訳されているのか、について考えてみてはどうでしょうか。
457 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/15(木) 23:23:48
>>455 >「しくい」が可能であるところまでは、他の私的言語との関連という、
>ある程度明確な議論が読みとれるけど、そこから先が難解な気がする。
たしかに、わたしたちは永井の言う‘しくい’について、それがどういうものなのかを
感覚することはできません。ですから、そのようなユニークな感覚を同定しうるのは
この私でしかありえないという意味での私的な感覚の存在を否定したりはしません。
そうではなくて、そのようなユニークな感覚の承認ということも、わたしたちの言語の
「感覚」という語の文法の用法の一つなのです。‘しくい’は、そのような規定によって、
すなわち、わたしたちの言語であることによって、はじめて私的な感覚であることが
担保されるわけです。ゆえに、‘しくい’は私的言語ではありえないことになるのです。
ですから、
複数の私的言語が組み合わさっている場合は、──これがそれであるという
正しさのこの確信の外部に、それとは独立の根拠が存在することになる。
だから当然、それらが食い違う可能性も生まれる。『私・今・そして神』 194n
という議論は、その前提(‘しくい’は私的言語である)において破綻しているのです。
458 :
考える名無しさん:2006/06/15(木) 23:38:41
だから、それは「E」でも同じだ、ということ。
459 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 00:03:28
>>458 >だから、それは「E」でも同じだ、ということ。
もちろん、だから「E」も私的言語ではない。
460 :
453:2006/06/16(金) 00:07:09
>確実性と確信の二義性をみとめるのなら、なぜ確信ではなくて確実性と
>翻訳されているのか、について考えてみてはどうでしょうか。
いや、たしか黒田氏も、Ich bin G gewiss などでは「私は〜確信している」も併用していたと思いましたが。
記憶違いだたかもしれませんが、いずれにせよ、主語が人である場合のgewissは「確信している」と訳さざる
をえないのではないでしょうか。
ついでに
>永井の議論は、
>「言語が可能である以上、私的言語も必然的に可能でなければならない」
>というものです。
これは実はそうではなく、そう言っていながら、最後に不可能な私的言語の方が登場して終わるわけです。
いつも必ずそうで、『私・今・そして神』でも、最後の最後にやはり不可能な私的言語が出てきます。
それは「感覚」などという公共言語では語りえないものだから、というわけでしょう。
461 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 00:18:37
>>460 >いや、たしか黒田氏も、Ich bin G gewiss などでは「私は〜確信している」も併用していたと思いましたが。
いえ、だからすでに議論してきた「確実性」についての文脈で、それを「確信」できる何ものか、
として用いる(だから、正しかったり間違っていたりすることができる)ことへの疑問なのですが?
(もしかして、今までの議論を読まれてないのかもしれないから、それでしたら、ごめんなさい)
>これは実はそうではなく、そう言っていながら、最後に不可能な私的言語の方が登場して終わるわけです。
ですから、それならきちっとその度ごとに不可能である(=私的言語ではない)と明記するべきではないですか?
それをしないということはそうではない、ということだと思うのですが。
462 :
考える名無しさん:2006/06/16(金) 00:22:43
>もちろん、だから「E」も私的言語ではない。
「E」を私的言語の範例として出しているのはウィトゲンシュタインなので、
すべての研究者、解釈者、批判者も、それを前提にして議論しています。
だって、初めて「私的言語」ということを言い出した人が私的言語の範例
として「E」を出したのだから、それを受け入れて、そこから出発するほか
はないでしょう。そうでなければ話が始まらない。それを批判するなら、
まずウィトゲンシュタイン自身を批判しないと。
463 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 00:30:27
>>462 いえ、だから270.節だけを取り出して、「E」は私的言語である、と書いてあるからといって
私的言語は可能である、という結論になってしまうのでしょうか?
わたしにはウィトゲンシュタインは、私的言語は不可能である、という議論をしているように
思えるのですが?
464 :
453:2006/06/16(金) 00:37:59
>>461 >いえ、だからすでに議論してきた「確実性」についての文脈で、それを「確信」できる何ものか、
>として用いる(だから、正しかったり間違っていたりすることができる)ことへの疑問なのですが?
そうではなく、
>確実性と確信の二義性をみとめるのなら、なぜ確信ではなくて確実性と
>翻訳されているのか、について考えてみてはどうでしょうか
に対する限定的応答のつもりでした。
>不可能である(=私的言語ではない)???
おっしゃっていることがわからなくなりました。
>>462 だから、永井氏はそれをやっているんじゃないですか?
465 :
462:2006/06/16(金) 00:51:29
>いえ、だから270.節だけを取り出して、「E」は私的言語である、と書いてあるからといって
>私的言語は可能である、という結論になってしまうのでしょうか?
可能か不可能の問題ではなく、それ以前の、私的言語かどうか、というより基礎的な問題です。
ウィトゲンシュタインは私的言語だと言っています。カオルさんは
>もちろん、だから「E」も私的言語ではない。
と言っておられます。
それならより根本的な次元でウィトゲンシュタインに反対せざるをえない。
ウィトゲンシュタイン自身と、すべての解釈者、研究者、そして批判者をも敵に回して。
(453さんによれば、味方は「永井氏」だけのようです)。
466 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 00:53:40
>>464 >限定的応答のつもりでした。
ごめんなさい。了解しました。
>おっしゃっていることがわからなくなりました。
>>463に書いてあるような意味での議論の進め方という意味では了解してますが、
永井は自分が可能であるとした感覚語(私的言語)について、それをどこかで否定
しているようには思えないのです。
ですから、わたしはそれについては、
>>436-437のような仕方で理解しています。
私的言語は現実に存在することはないけれども、可能性としては、この私の権利上、
否定できないものなのではないか、というものです。
467 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 01:07:11
>>465 >それならより根本的な次元でウィトゲンシュタインに反対せざるをえない。
>ウィトゲンシュタイン自身と、すべての解釈者、研究者、そして批判者をも敵に回して。
そうかなー?(敵にまわすのは全然かまいませんけど)
根源的な次元でウィトゲンシュタインのいう「私的言語は不可能である」に賛成するからこそ、
「E」は無意味であるとなって、意味の無い言語はそもそも言語ではないから、私的‘言語’は
不可能である、というような流れになるのだけど、わたしの中では。
468 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 01:12:28
>>467 >「E」は無意味であるとなって、
ああそうか!
この無意味である‘それ’(何であるとは理解できないもの)が
すなわち、私的言語である、ということ?
それなら、〈私〉とおなじような仕方で理解できないものとして理解はできますね。
469 :
453:2006/06/16(金) 01:18:20
どうも、議論の次元が違うようなので、これでやめにしますが、
>永井は自分が可能であるとした感覚語(私的言語)について、それをどこかで否定
>しているようには思えないのです
これはあたりまえです。
『私・今・そして神』の」222頁の後ろから3行目に
「私的言語(および今的言語)の不可能性とは、じつはそういうことだろう。」
という文があります。
この文の前後を読んで、彼の理解する「私的言語の不可能性」の内容が理解できたら、
それから、その内容に対する批判を始めるほうが生産的だと思いました。
470 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 01:33:02
>>469 >この文の前後を読んで、彼の理解する「私的言語の不可能性」の内容が理解できたら、
>それから、その内容に対する批判を始めるほうが生産的だと思いました。
そうですね。さっき転載しようと思ったところです。
だから、3章に関しては入口の前提と出口の結論は間違ってないと思います。
でも、だからこそそのあいだの議論(内容)は多々間違っている(のも必然)と思います。
だから、間違っていることを、ことさらに議論しても意味はないかと思います。
(ただし、確実性については有意義な議論ができたと思っています)
たしかに議論の次元がちがうようですね。
>>470 >間違っていること
「確実性=確信」および「私的言語は可能である」(現実に存在しうるかのような)
議論のこと。
永井が、今まで感覚語(私的言語)について、どのような見解を示してきたのかを
一部例示してみます。私的言語は可能である、と言っているように誤解?されても
仕方ない、と思うようなところです。もし意見がありましたら、ぜひ聞かせてください。
『人』の内包、すなわちその定義とは何か。
それは、‘第一に’自己知(self-knowledge)の主体であり、
……
では、自己知とは何か。
それは、まず‘第一’に自分を多数の『私』の一事例として把握しつつ、
その一事例を他から分かつ特殊性(独自性)の内容を知っているということである。*
……
* その内容は、氏名、性別、国籍などから体験や経歴の細部にまでおよぶ。
……
ウィトゲンシュタインは、『青い本』のT-四で問題にした諸説のすぐ後で、
「真の私は私の身体の中に住んでいるという考えは、『私』という語の特異な文法と、
この文法が引き起こしがちな誤解に結びついている」と前置きして、次のような主張を
展開している。
……
「私」という語の使いかたには異なるふたつの場合があり、私はそれを「客体としての用法」
と「主体としての用法」と呼んでみたい。第一の種類の用法の例は「私の腕は折れている」
「私は六インチ背がのびた」「私は額にこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」といった
ものである。第二の種類の例は「私はこれこれのものを見る」「私はしかじかのものを聞く」
「私は腕を上げようとする」「私は雨が降ると思う」「私は歯が痛い」といったものである。
……
第一種の場合は特定の人の認知をふくんでおり、そこには誤りの可能性がある、
あるいはむしろ、誤りの可能性が与えられていると言うべきである。
……
これに対して、私は歯が痛いと私が言う場合には、人の認知という問題は存在しない。
「痛みを感じているのは君だというのは確かなのか」と聞くのは無意味であろう。
……
「私は歯が痛い」という言明をする際に他人を自分と誤解するのが不可能なのは、
他人を自分と誤解して、誤って痛みをうめくのが不可能なのと同じである、ということである。
「私は歯が痛い」ということが特定の人に‘ついて’の言明でないのは、うめきがそうでない
のと同じことである。──『〈私〉のメタフィジックス』(98〜104n)
人は完璧にしっかりと同定できるにもかかわらず「自然な」外的表示をともなわないような感覚
あるいは感覚実質をもちうるのであり、それゆえ当人の正直な表明以外には「外的基準」が
存在しないような感覚語を所有することさえできるのである。*
対応する自然な表出が存在しない表明文が表出の代替物であるえないことは言うまでもない。
現にわれわれは感覚の現象記述に使用可能で、しかも対応する自然表出がないような多くの
語彙をもっているのである。
さらにまた、「私は歯が痛い」の否定文である「私は歯が痛くない」を、痛くなさの自然表出を
言語表現に置き換えたものとみなすのは不可能であろう。それは内省的な‘記述’としての真理
状態の表明とみなされるほかはあるまい。概して言えば、心理状態の表明はその表出とは異なり、
主語と述語の結合によって構成された文であり、主語としての「私」を「私」という語を使用しうる
他の無数の主体の一例としていわば客観的に把握し、かつ述語としての心理現象を語る言葉の
意味を客観的に(どの「私」にも適用できるものとして)理解しうる者のみが、そのような文を使用
する能力をもちうるのである。しかし、この論断はむしろ自己知に関する考察の結論として述べら
れるべきかもしれない。
* ──彼はそこで次のようにも言っている。「しかし、もしある個人が感覚言語一般をマスターした
と認められる諸基準ををすでに満たしているならば、われわれは、たとえその感覚が公共的に観察
可能な何ものとも関連していなくとも、新しいタイプの感覚を同定したという彼の主張を尊重する、
ということは感覚に関するわれわれの言語ゲームの原初的な部分をなしている」(彼=クリプキ)
──── 『〈私〉のメタフィジックス』(98〜104n)
475 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/16(金) 02:21:36
全体的にいくつも批判可能なのですが、今回はとりあえず、
474の上段と注記[*]についての肯定的な永井の見解について、
そのまま読むなら、感覚語は現実に存在しうる、と言っているように
思われるのですが、いかがでしょうか?
おやすみ age!
476 :
考える名無しさん:2006/06/16(金) 03:12:22
悲惨だなw
悲惨=飛散? まったく!(^.^)
>>474 >人は完璧にしっかりと同定できるにもかかわらず「自然な」外的表示をともなわないような感覚
>あるいは感覚実質をもちうるのであり、それゆえ当人の正直な表明以外には「外的基準」が
>存在しないような感覚語を所有することさえできるのである。*
その感覚は現実に存在するけれども、私的言語としての感覚語は現実には存在できないのです。
ウィトゲンシュタインは、どのような感覚(語)も、本質的には私秘的なものでしかないことを言って
いるのです。この私秘性を可能にする‘この私’の存在こそが、すなわち言語ゲームを可能にする
条件(原初の事実)でもあることから、言語ゲームの内に‘この私’は存在しないと言っているのです。
>>436-437,
>>457参照
以下に、私的言語「E」について語られている節を──『哲学的探求』読解
( L.ウィトゲンシュタイン 著 黒崎 宏訳 産業図書刊 )──から一部転載しておきます。
260. [対話者は言う。]「とはいえ、私はこれはまたしても感覚Eである、と‘信じている’。」
──[ウィトゲンシュタインは言う。]君は、それを確かに信じている、という事を信じているのだ!
[対話者は言う。]それでは、記号「E」をカレンダーに書き込んだ人は、‘全く何も’書き留めて
いなかったのか? ──[ウィトゲンシュタインは言う。]そのとおりである。或る人が記号を
──例えばカレンダーに──書き込むとき、彼は何かを書き留めているのだ、という事を、
自明な事と見てはいけない。書き留めるという事には、或る機能があるが、しかし記号「E」を
書き込んだだけでは、未だ何の機能もないのである。
(人は自分自身に語る事が可能である。──しからば、他人が誰も居合わせないときに語る人は、
みんな自分自身に語っているのか? [「語る」という事が自己表出である、という事もあり得るの
ではないか。しかし、そのときの言語は私的言語ではない。])
261. 「E」を、或る‘感覚’についての記号である、と呼ぶ事に、我々は如何なる根拠を有するのか?
というのは、「感覚」という語は、私だけ理解可能な言語(私的言語)の語ではなく、我々の共通
言語の語なのであるから。したがって「感覚」という語の使用には、万人が理解する正当化が
必要なのである。──そして、「E」が結合しているものは感覚である必要もない;もし彼が[E]と
書けば、彼は‘何か’を持っているのである、──そして、我々はそれ以上の事を言う事は出来
ない、と言っても、何の助けにもならないであろう。何故なら、かく言うとき、しかし「持っている」
とか「何か」とかいう語もまた、共通言語に属するのであるから。──そういうわけで人は、哲学
してゆくと、具体的には、「E」を、或る感覚についての記号である、と呼ぶ事の根拠を求めてゆくと、
結局は、そこに於いては人はただ分節化されない音を発するであろうような事態に、至るのである。
──しかしそのような音は、或る一定の言語ゲームに於いてのみ、何かの表現なのである。
かくして、今や、その一定の言語ゲームが記述されねばならないのである。
>>477 >>人は完璧にしっかりと同定できるにもかかわらず「自然な」外的表示をともなわないような感覚
>>あるいは感覚実質をもちうるのであり、それゆえ当人の正直な表明以外には「外的基準」が
>>存在しないような感覚語を所有することさえできるのである。*
>その感覚は現実に存在するけれども、私的言語としての感覚語は現実には存在できないのです。
問1.‘それ’が外的基準が存在しないような感覚であることを、どうやって知るのか?
問2.‘それ’が感覚であることを、どうやって知るのか?(なぜ感覚語として用いるのか)
あまりにも自明なことなので説明するのを忘れてました。(^_^;)
ここでは「外的基準が存在しないような語」という定義から、感覚語を私的言語と考えます。
答1.……当然、既存の感覚語(外的基準)と照らし合わせることによって、です。
そうでないなら「外的基準が存在しない」ということさえわからないからです。
答2.……すでに、そのユニークなものが「感覚」であることを知っているからです。
すなわち、そのユニークなものは感覚という語の用法にしたがっているのです。
ゆえに、そのユニークな感覚語は私的言語ではあり得ないことになります。
>>475 >474の上段と注記[*]についての肯定的な永井の見解について、
>そのまま読むなら、感覚語は現実に存在しうる、と言っているように
>思われるのですが、いかがでしょうか?
これはそのとおりだと思う。ただ,確認だが,永井がこの箇所で論じて
いるのは,「E」でも「しくい」でもない,普通の感覚語のはずだ。
ウィトゲンシュタインが,「私は痛い」などの感覚を表明する文を,
感覚の表出(痛みでうめくことなど)と同じものだ,としたこと(表出説)
について,そのような文を表出と同じと考えることは間違っている,
としている文脈だ。
それで,ここの永井の議論は,どこが間違っているのか?
先取りして言っておくと,ここでの議論に,
>>478で引用されている
ウィトゲンシュタインの議論(特に261節のほう)を持ってくるのは,
不適切だと思う。
理由は,(改めて書くまでもないかもしれないが)
>>474で永井が
論じているのは「E」ではなく普通の感覚に関する文章であって,
感覚に関する文章として理解されることになんの支障もないはずだから。
481 :
455:2006/06/17(土) 13:37:40
(名前入れ忘れた。480も私のレス)
もう一つ。
>>455にも書きかけたけど,永井の論じている「私的言語」という
のが何なのか,それが可能あるいは不可能だという理由は何か(さらに,
普通の感覚に関する文章と「私的言語」とは違うのか,共通点があるのか)
など,区別して論じていかないと,議論がかみ合わないと思う。
ウィトゲンシュタインが議論している「私的言語」について引用しておくと,
以下のとおり。(解釈はいろいろあるらしいけど)
私が考えている言語[(私的言語)]の語は,話者のみが知りうるもの
を−具体的に言えば,話者の直接的で私的な感覚,感情,気分,等々を−
指示すべきものなのである。それゆえ他人は,この言語を理解出来ないの
である。(『「哲学的探求」読解』175頁(243節))
これに対して,永井の「私的言語」については,以下のとおり。(問題
提起や議論の展開がいろいろあってわかりにくいが)
この問題に迫る方法は2つあるだろう。一つは,成立した客観的世界に
存在している言語の側から,言語というものが持たねばならない条件を
私的言語が満たしているか否かを問う方法である。もう一つは,私の
この言語がじつは私的言語であることはありえないことなのかを問う
方法である。第一は,世界の中に客観的に存在する持続的人間が自分
専用の言語を持ちうるかという問題で,第二は,客観的世界を含む
世界そのものをはじめて成立させる私の言語というものがあるのでは
ないか,という問題である。(『私・今・そして神』187頁)
482 :
455:2006/06/17(土) 13:40:03
別にわざわざ引用して並べなくてもよかったもしれないが,並べてみると
明らかなとおり,両者の「私的言語」はイコールではない。確かに永井は
ウィトゲンシュタインの議論にあれこれと触れながら議論を展開している
けれど,全く同じ問題を立てているわけではない。
特に言っておきたいのは,ウィトゲンシュタインの「私的言語」について,
上に引用した,「話者の直接的で私的な感覚等を指示すべきもの」「それ
ゆえ他人は,この言語を理解出来ない」というところ。
問題をこういうふうに立てれば,確かに,261節の議論(
>>478)によって,
私的言語は否定されることになるだろう。他人が理解出来ない言語を作り
出そうとしても,どうしても他人に理解されてしまう,というのだから。
(この点は永井も反対していないと思われる。『私・今・そして神』222頁
の「私的言語(および今的言語)の不可能性とは,じつはそういうことだろ
う。」あたりは,この点のことを言っていると思われる。)
しかし,永井の「私的言語」は,ウィトゲンシュタインのようには問題を
限定していなくて,「痛い」「酸っぱい」「椅子」などの通常であれば
他人に理解されて問題のない言葉を使って議論を進めているのだから,
261節の議論によって永井の「私的言語」が否定されることにはならない
んじゃないか。どうも,カオル氏と397氏のレスを見ると,261節の議論と
それに基づくと思われる議論を中心に,私的言語を否定しているようだけ
ど,それによって永井の「私的言語」が全て否定される理由がわからない。
483 :
考える名無しさん :2006/06/17(土) 16:56:30
>>482 しかしだとすると永井の言う「私的言語」は普通の言語ではないか、という疑いは避けられないな。
また455氏は「痛い」「酸っぱい」と「椅子」をごっちゃにしているが、椅子の場合には
他人と使い方が間違っていればすぐに分ると永井自身が書いている。
永井の私的言語はあくまで特別なのだろうか。だとしたら永井の議論をどうやって我々は
理解するのか。一体何を455氏は理解した事になるのか。
>永井の「私的言語」が全て否定される理由がわからない。
とあるが言語になる時には「私的に」表現する事は出来ないということであって、もちろん痛みは
自分だけが感じられるものであるということが否定されたわけじゃない。これは単なる被害妄想だろう。
>>480 455さん
>ただ,確認だが,永井がこの箇所で論じて
>いるのは,「E」でも「しくい」でもない,普通の感覚語のはずだ。
たしかにそうです。だから、わたしがはっきりとそれをみとめて、
それでこの議論を終えてもかまいませんが、わたしの議論の目的は
永井がほんとうに言いたいことを議論によって明確にすることです。
わたしは、注記[*]にあるようなクリプキの私的言語にたいする見解と
ともに判断しています。もちろん、永井は自分の論をクリプキの言で
強化しておきながら、自分がそうではないと言えばそれで済むような
紹介の仕方をしていますから、そう言われてしまえばそれまでですが。
>ウィトゲンシュタインが,「私は痛い」などの感覚を表明する文を,
>感覚の表出(痛みでうめくことなど)と同じものだ,としたこと(表出説)
>について,そのような文を表出と同じと考えることは間違っている,
>としている文脈だ。
たしかにそのように読めます。でもそれならこの議論は無意味としか
言いようがないです。そんな当り前なまちがい(表出説)をウィトが
していると思うほうがどうかしてます。ですから、永井は、
永井が論じているのは「E」ではなく普通の感覚に関する文章であって,
感覚に関する文章として理解されることになんの支障もないはずだから。
と、理解されるような議論をしているはずがない、と考えます。
>>481 455さん
>ウィトゲンシュタインが議論している「私的言語」について
>〜これに対して,永井の「私的言語」について
わたしなりに、すでに
>>405-406にて引用しています。
もしかしたら、永井の考え方が変わったのかもしれないけれど、
そうではなくて、私的言語について、
──差異を表記する語が同時に実質をも表記しうる可能性──
を追求しようとしたのが『私・今・そして神』での議論なのではないか、
と考えています。
わたしは、だから議論の焦点は「現実に存在しうる」かどうかについて、
どうして永井がそれを否定しないのか、の意味をとらえることこそが、
永井の私的言語について理解することなのではないか、と思っています。
だから、永井の議論のまちがい、あるいはその不可能性を指摘することこそが、
あるいはさらに、どのような議論であったらまちがいではないのかについて
考えることこそが、逆説的に、
だから、3章に関しては入口の前提と出口の結論は間違ってないと思います。
でも、だからこそそのあいだの議論(内容)は多々間違っている(のも必然)
と思います。だから、間違っていることを、ことさらに議論しても意味はない
かと思います。
>>470 のような発言をも否定することになるのだと考えています。
>>482 455さん
>特に言っておきたいのは,ウィトゲンシュタインの「私的言語」について,
>上に引用した,「話者の直接的で私的な感覚等を指示すべきもの」「それ
>ゆえ他人は,この言語を理解出来ない」というところ。
>問題をこういうふうに立てれば,確かに,261節の議論(
>>478)によって,
>私的言語は否定されることになるだろう。他人が理解出来ない言語を作り
>出そうとしても,どうしても他人に理解されてしまう,というのだから。
他人に理解されない言語は、‘もしかしたら’「ありうる」(
>>435)ものです。
しかしそのような音は、或る一定の言語ゲームに於いてのみ、何かの表現なのである。
かくして、今や、その一定の言語ゲームが記述されねばならないのである。(
>>478)
ということであっても、‘この私’の権利上、その可能性を否定することはできない、
というのが、わたしの論です。(
>>436-437)
そしてウィトゲンシュタインもまた、生(活)の形式によって斥けられるしかない
私的言語の不可能性こそが、むしろ私的言語の可能性を示している、そしてそれこそが
ほんとうの問題なのではないか、と考えていたのではないでしょうか。
少なくとも永井の議論は、このレベルにあると(わたしは)思っています。
>どうも,カオル氏と397氏のレスを見ると,261節の議論と
>それに基づくと思われる議論を中心に,私的言語を否定しているようだけど,
もちろん、そうです。(正確には『論考』『探究』におけるすべての議論)
永井の議論は、ウィトゲンシュタインの一連の議論と連関しているからこそ、
的を射た批判が可能なのです。その点では、永井は勇気があるとも思います。
永井の言葉や表現のその多くはウィトゲンシュタインのそれの言い換えです。
あるときは、それは持論を強化することもあるけど、批判もまた覚悟しない
となりません。
また、たんに3章の入口と出口の議論から、あるいは今までの永井の議論の
先入的な理解のもとに、たとえば一連の〈私〉論における「ずれの運動」(
>>391-392)
などと重ね合わせて理解してしまうのはたやすいことだけれども、それでは
「言語が可能なら私的言語もまた可能なのだ」(本気でこう言っているはずです)
の真意を理解することはできないのではないでしょうか。
>それによって永井の「私的言語」が全て否定される理由がわからない。
わたしは、正しい批判によって、正しくそれを肯定したいと思っています。
もちろん、肯定ありき、ではないけれど。
488 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/18(日) 02:20:59
>>483 的を射た意見ですね。まったく同意です。
でも、問題の多くはわたしの議論の進め方にあるみたいです。(^_^;)
>だとしたら永井の議論をどうやって我々は理解するのか。
それゆえ、「現実世界」という語でさえ、それがこの‘世界’を指すのであれば、
われわれの私的言語であろう。──それは本性上のカブトムシなのではないのか?
世界の内部で対称性の要請が満たされないとき、対称性は世界を超えて
想定されるほかはない。だから、私は、本書において、この同じ世界に
私と内属している読者の方々に語りかけているのではないことになる。
「私」の語りかけは、「そんなものは存在するとつねに言える」(公的言語)、
けれど、〈私〉の語りかけは、「そんなものは存在しないとつねに言える」(私的言語)、
ということなのでしょう。(ということを、おっしゃりたいのですよね?)
でも、永井が‘あえて’そのように明言しないのは、どうしてなのか?
それは、永井が「哲学はまだ始まっていない」というとき、ほんとうの哲学は
けっして始めることができないものと考えられているからではないでしょうか。
それは、永井の生によって、言語行為そのものによって、示される他はなく、
言語行為によって理解されたり、解釈されたりするものではないのであって、
なぜなら、
5.621 世界と生とはひとつである。
から、ということなのではないでしょうか。
>>488 引用部は、『私・今・そして神』の最後の223nからです。
では、おやすみなさい。
>>484 >>ただ,確認だが,永井がこの箇所で論じて
>>いるのは,「E」でも「しくい」でもない,普通の感覚語のはずだ。
>たしかにそうです。
まちがえました。書き替えます。m(__)m
「E」や「しくい」でも普通の感覚語であっても、本質的にその感覚の
‘ほんとうさ’や‘この私だけの’という「感じ」は、私秘的なものでしか
ありえません。
「外的基準が(生活の形式にではなく)本人にしかもとめられない」という
感覚語の定義は、『私・今・そして神』での私的言語のそれとまったく同じです。
外的に表示されるものもあればそうでないものもある、というまったく当り前の
普通の感覚語についての議論のために、どうしてこのような定義が必要だった
のでしょうか。
それは外的に表出されることで、表意体とその表意内容が実質(私秘的なもの)
を通り越して短絡させられるという解釈への抵抗だったのではないかと考えます。
表出説への批判は、やはり私的言語の擁護だと考えるのが妥当だと思います。
>>484 >たしかにそのように読めます。でもそれならこの議論は無意味としか
>言いようがないです。そんな当り前なまちがい(表出説)をウィトが
>していると思うほうがどうかしてます。
「表出説」というのは、「私」という語の‘さまざまな’表現の形式のひとつであり、
>>473では、主体としての用法と客体としての用法が例示されているだけです。
「異なるふたつの場合があり」=「ふたつの場合しかない」ではないと思います。
たとえば、自閉症児が「私」という語について、一般的な用法にしたがっている、
音声として発しているだけ、自分だけの特別な用い方をしている……など、
状況によってちがう使い方をしている場合とか、あるいは多重人格者の主人格
だけが自分のことを「私」と呼んでいて、他の人格は自分のことをカオル、ハルカ
ヒカルのように呼んでいるとき、主人格以外が「私」と呼ぶとき、それは主人格の
固有名を指している場合とか、あるいはまた、私、〈私〉、「私」、『私』……のように
それぞれに特別な使用方法を与える場合とかw……で、そのひとつに「私」という
表現を省いても構わないような内的感覚の自然な表出という用法もあるわけです。
473についてわたしが思うのは、「私は歯が痛い」という「私」の主体としての用法
にもとづく言明によって表そうとしていることが、「ほんとうに痛みを感じているのは
この私だけ」ということなのであっても、‘ほんとうさ’や‘この私だけの’については、
他人が‘それ’を何かしらの外的基準に照らして理解することはできないということ。
また本人にとっても、感じることとそれを知ることの「あいだ」がないので、‘それ’は
「確信」以外の何かしらの外的基準に照らしてもたらされたものではないということ。
すなわち、「私」の主体としての用法によって表そうとしている‘それ’は、「外的基準
が存在しない語」→「私的言語」の‘それ’でもあるのです。だから、「私は歯が痛い」
における「私」の‘それ’は、言語ゲームには属さないのではないか、というのがこの
議論でウィトゲンシュタインが言いたかったことなのではないでしょうか。
492 :
455:2006/06/18(日) 23:21:29
>>483 >
>>482 >しかしだとすると永井の言う「私的言語」は普通の言語ではないか、という疑いは避けられないな。
ここで言っている「普通の言語」とは,どういう意味?あるいは,483氏は,永井が
目指している「私的言語」はどういうものであると理解していて,それが「痛い」
などの普通の言語で行われるとどういう支障があると考えているのか?
>>永井の「私的言語」が全て否定される理由がわからない。
>とあるが言語になる時には「私的に」表現する事は出来ないということであって、もちろん痛みは
>自分だけが感じられるものであるということが否定されたわけじゃない。これは単なる被害妄想だろう。
この点については,
>>457に,
>そうではなくて、そのようなユニークな感覚の承認ということも、わたしたちの言語の
>「感覚」という語の文法の用法の一つなのです。‘しくい’は、そのような規定によって、
>すなわち、わたしたちの言語であることによって、はじめて私的な感覚であることが
>担保されるわけです。ゆえに、‘しくい’は私的言語ではありえないことになるのです。
などとあったから。繰り返し的に書くと,ウィトゲンシュタインの「私的言語」は,他人に
理解出来ないものと想定されていて,そして『哲学探求』261節では,感覚として理解
されること,「何かを持つ」として理解されること,さらにおよそ言語ゲームの中で
記述されること全てまでを否定しなければならないように書かれている。なぜ,永井の
「私的言語」にそこまで要求されるのか,永井がウィトゲンシュタインと同じ「私的
言語」を目指しているわけではないとすれば,永井の「私的言語」にそこまで要求さ
れる理由はないのではないか,ということ。
実際に,永井は「しくい」を感覚語として議論をしていて,「E」みたいな
ものとして扱っている様子はない。(では,永井の「私的言語」はどういう
もので,どういう意義があるのか,という点は,私自身まだよくわからないが。)
493 :
455:2006/06/19(月) 01:43:22
もしカオル氏が,永井が明示的に論じていることにはこだわらずに(あるいは,
それに反してでも),永井の「真意」とか「問題にすべきこと」とかについて
論じようとしているのなら,私が「永井はそんなことを明示的に論じてはいない
のではないか」と言っても,意味はないかもしれない。
一応,永井が明示的に論じている(と私が理解している)ところに従って,
いくつか書いてみる。
まずは,
>>485 >──差異を表記する語が同時に実質をも表記しうる可能性──
>を追求しようとしたのが『私・今・そして神』での議論なのではないか、
>と考えています。
私には,どこにそういう議論があるのか全然わからない。
まず,ここで言っている「実質」は,「見える赤色,聞こえる「ア」音,
これらは,他人のものであれ自分のものであれ,実質とよばれてよい。
私の実質は私にのみ立ち現れ,他人の実質はその他人にのみ立ち現れる。」
(『<私>の存在の比類なさ』221〜222頁)というときの「実質」という
ことでよいのか?また,「表記しうる」というのは,どういう意味か?
『私・今・そして神』でそのような「実質」を「表記」(?)すること自体が
問題とされていることはないと思われるが。むしろ,「私に青く見える」などと
いうことは確実であるとした上で,他人との食い違いや過去の絵日記との
食い違いについて論じられている。
それとも,ここで言っている「実質」は,「そもそもの初めから存在する
(=それがそもそもの初めである)ある名付けえぬものに,あとから他の
ものとの対比が持ち込まれて,<私>とか<今>とか,いろいろな名づけ
がなされていく」(『私・今・そして神40〜41頁』)の「名づけえぬもの」
にあたるのか?そうだとすると,永井がそれを議論しているのはもちろんだが,
それとウィトゲンシュタインの私的言語批判とがどう関係するのか。
494 :
483:2006/06/19(月) 17:28:40
>「痛い」 などの普通の言語で行われるとどういう支障があると考えているのか?
もちろん支障なんて無い。支障が無いから「普通の言語」と呼んだんだけど。
455氏もあの本が普通の言語で書かれていたから読むことが出来たんじゃないかなあ。
永井の「私的言語」は「ある、ある」と言って仄めかしているけど一向に実物を見せてくれない
人のような議論なんだよなあ。(そしてもちろん<実物>を見せる事など出来ないのだ。
ウィトゲンシュタインはその事に対して誠実で正直だが、永井はどうもうやむやに誤魔化している
風情がある。それで「哲学はまだ始まっていない」なんて吹聴して見せたりする。まあその方が
読者の目を引くからだろうけど。本気で言ってんのかなあ。)
>>493 455さん
>>──差異を表記する語が同時に実質をも表記しうる可能性──
>>を追求しようとしたのが『私・今・そして神』での議論なのではないか、
>>と考えています。
>「見える赤色,聞こえる「ア」音,これらは,他人のものであれ自分のものであれ,
>実質とよばれてよい。私の実質は私にのみ立ち現れ,他人の実質はその他人にのみ立ち現れる。」
>(『<私>の存在の比類なさ』221〜222頁)というときの「実質」ということでよいのか?
はい。
>また,「表記しうる」というのは,どういう意味か?
差異の実質が「表記しうるか」どうかということが、私的言語は「存在しうるかどうか」ということです。
永井は、私的言語の不可能性とは「こういうことではないか」とは言いますが、私的言語は不可能
であるとも、それが存在しえないとも、けっして言いません。それはどうしてなのか、ということです。
496 :
455:2006/06/19(月) 21:53:44
>>493 >それとウィトゲンシュタインの私的言語批判とがどう関係するのか。
ちょっと舌足らずだった。ウィトゲンシュタインの私的批判言語は(これも明示的には)
感覚語に関するものだから,永井の言う「<私>」「<今>」あたりにそのまま当て
はめるのは難しいのではないか,当てはめるとすればどうやるのか,ということ。
(もっとも,永井が何度か出している「その<私>とは誰のことか」「その
<今>とはいつのことか」という議論は,ウィトゲンシュタインを参考にしていると
思われるので,永井自身はそういう当てはめをやっているようだが。)
>>490 >「E」や「しくい」でも普通の感覚語であっても、本質的にその感覚の
>‘ほんとうさ’や‘この私だけの’という「感じ」は、私秘的なものでしか
>ありえません。
「ほんとうさ」や「この私だけの」について「感じ」とか「私秘的」とかいう
言葉が使われているのがわからない。永井があちこちでしている議論の道筋は,
(1)各人がそれぞれ私秘的な感覚を持っていて,各人自身がそれについて判断する,
そのことに問題はない→(2)問題は,ほんとうに感じるのは<私>だけで,ただ一人
そのような特別な者が存在することだ,(3)ところが,「ほんとうに感じるのは
<私>だけだ」と言ったら,なぜかその発言が他人に理解されてしまう,これは
どういうことか,ということだろう。
繰り返しになるが,永井は,感覚が私秘的であること自体は問題にしていない。また,
<私>についての言葉が他人に理解されることは問題にしているが,感覚に関する
言葉が他人に理解されることは,特に問題にしていないのではないか。「しくい」に
しても,「私に空や海が赤く見える」にしても,少なくとも,それらが感覚に関する
言葉だとして他人に理解されるという限度では,問題視されていないのではないか。
497 :
455:2006/06/19(月) 21:55:31
(続き)
これに対して,カオル氏が
>>435などで挙げている問題は,言語以前の感覚といった
ものを問題としていて,しかも,それが感覚として理解されることまでを否定しなけ
ればならないように論じているように見える。そのような問題は,はっきり言って,
永井の問題とは(少なくとも中心的に取り上げているものとは)関係がないのでは
ないか。
(もっとも,もしカオル氏が問題としているのが,
>>493で引用した「ある名づけえぬ
もの」に関連するようなものなのであれば,永井の問題とも関連することになる。
しかし,私には今のところ,そのような関連があるようには見えない。)
>>493 455さん
>他人との食い違いや過去の絵日記との食い違いについて論じられている。
その「ちがい」は、「この私にしかわからない」という事実があり、その事実はたしかに存在する。
ゆえに、その事実は表記しうるはずである、あるいは絵日記の存在が、その事実を示している。
その事実は「外的基準」による同定ではないので、私的言語の‘それ’である、という論理です。
たしかに‘それ’は「存在する」でしょう。しかし「言語ゲームには属さない」し、私的言語としても
「存在しえない」というのが、一連のわたしの議論です。
なぜなら、見える色、聞こえる音……は、それが、「色」、「音」……であると認識されるのなら、
また、それが「感覚」として用いられるのなら、それはすでに言語ゲームに属しているからです。
そのように認識してしまうこと、そのように用いてしまうこと、そのことが、すでに生(活)の形式
にしたがっている、という「こと」なのです。
ですから、もし「私的言語が存在しうる」ということを主張したいなら、その無自覚的な信念(確信)
における無自覚的な意図(「ちがい」における‘ほんとうさ’や‘この私だけの’)が、言語ゲームに
回収されることなく、また無意味に至ることもなく、「存在しうる」と言えるためのギリギリの議論は、
「473についてわたしが思うのは──」(
>>491)のようなものでなければならない、と思いますが。
>(『私・今・そして神40〜41頁』)の「名づけえぬもの」にあたるのか?
一足飛びに短絡させてしまうこと、先入的な‘それ’への了解で事足りてしまうのなら、それは哲学
ではないと思います。いえ、あなたへの批判ではなくて、永井の議論には、そのようにさせてしまう
安易さ(読者にたいする期待、甘え)があるのです。‘それ’への了解の前提は、議論への批判を
抑制し思考停止を招くことになりかねません。哲学徒ならそういうことにはならないでしょうけどね。
>>493 455さん
>そうだとすると,永井がそれを議論しているのはもちろんだが,
>それとウィトゲンシュタインの私的言語批判とがどう関係するのか。
T.箱の中に‘いる’と思われていたカブトムシは、はじめから‘いない’かもしれない。
もし人が、感覚の表現の文法を「対象とその名前」というモデルに従がって
構成するならば、その対象は、無関係(irrelevant)なものとして
言語ゲームの考察から抜け落ちる(herausfallen)のである。
>>404 U.「私」の主体としての用法において(無自覚的に)意図しようとした‘ほんとうさ’や
‘この私だけの’への確信は、表現されえない(言語ゲームには属さない)のではないか。
私は歯が痛いと私が言う場合には、人の認知という問題は存在しない。
「痛みを感じているのは君だというのは確かなのか」と聞くのは無意味であろう。
……
「私は歯が痛い」ということが特定の人に‘ついて’の言明でないのは、
うめきがそうでないのと同じことである。
>>473 言語ゲームから抜け落ちる‘カブトムシ’、人の認知という問題には存在しない‘私’。
言語ゲームによって、‘それ’は、素通りされ短絡させられ、無くされてしまうのです。
このウィトゲンシュタインが示した言語の限界を超えようとする試みが永井の議論
でないのなら、いったい永井は何をしているのか、ということになってしまうでしょう。
わたしには、永井とウィトゲンシュタインの議論の密接な関係は明らかに見えます。
500 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/19(月) 22:10:08
>455さん
ごめんなさい。これから読みます。
501 :
455:2006/06/19(月) 22:49:37
>>494 >「痛い」 などの普通の言語で行われるとどういう支障があると考えているのか?
もちろん支障なんて無い。支障が無いから「普通の言語」と呼んだんだけど。
? 支障がないのなら,私は別によいのだが。
>>483に,
>しかしだとすると永井の言う「私的言語」は普通の言語ではないか、という疑いは避けられないな。
とあるから,普通の言語では永井の言う「私的言語」は成り立たないという疑いがあると
指摘する趣旨なのか,と思ったので。
>永井の「私的言語」は「ある、ある」と言って仄めかしているけど一向に実物を見せてくれない
>人のような議論なんだよなあ。(そしてもちろん<実物>を見せる事など出来ないのだ。
少なくとも,「しくい」については,私的言語相互の連関という根拠を示して,明示的に
実例を挙げて議論しているんだが。なぜ,「もちろん<実物>を見せることなど出来ない」
と言えるのか?
502 :
考える名無しさん:2006/06/19(月) 22:49:48
カブトムシがいるのは俺の箱の中だけ。
他の箱の中にいるのはゴキブリ。w
503 :
455:2006/06/19(月) 22:54:42
失礼。
>>501の上から3行分,引用符(>)を忘れた。
504 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/20(火) 00:01:07
>>496-497 455さん
今までの議論で説明できるところは、殆ど説明しているように思います。
もし以下を読んで「それでも」というところがあればおっしゃってください。
で、問題はつまりこういうことではないでしょうか。
わたしは、ウィトゲンシュタインの議論を引用した上での「私的言語の存在」は
認めないけれど、455さんはウィトゲンシュタインの議論とは関係なく、永井が
‘それ’を私的言語というのなら、永井にとっては「存在する私的言語」と認めて
永井の著書を読んだほうがいい、ということですよね。
もしそうなら、ウィトゲンシュタインを持ち出すな!、というのが正直なところです。
そして本当にそうだとしたら、永井の議論はわたしにとってはまったく魅力のない
ものになってしまいます。そしてわたしのしている議論はすべて無意味ということ
になりますね。
確認ですけど、455さんはウィトゲンシュタインの議論におけるコンテクストでは、
永井のいう私的言語も「存在できない」、ということについては同意なのですよね?
で、永井の議論はウィトゲンシュタインのそれとは区別されるべきものである、と。
505 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/20(火) 00:40:35
わたしへのレスではないのだけれど、
>>501 >普通の言語では永井の言う「私的言語」は成り立たないという疑いがあると
>指摘する趣旨なのか,と思ったので。
>少なくとも,「しくい」については,私的言語相互の連関という根拠を示して,明示的に
>実例を挙げて議論しているんだが。なぜ,「もちろん<実物>を見せることなど出来ない」
>と言えるのか?
もし455さんの言葉が本気なら、やはりこれは永井のいう私的言語は、永井がそう言うから
そうなのだ!、というものですね。それはそれとして理解したうえで、議論に耳を傾けないと
永井の著書は読めない?、というようにも聞こえてしまいます。
455さんの意見を認めるということは、自分の議論を全否定しないと成り立たないのです。
わたしは、普通の言語によって理解(差異化)される‘それ’を私的言語とは認められないし、
なぜなら、普通の言語によって理解されるという、そのことが、すでに言語ゲームに属する、
という「こと」だからです。
たとえば、「しくい」は、‘気分として’理解されている、だからこそ他の既存の気分との差異を
知ることができるのです。‘気分として’理解されてしまう時点で、もう私的言語ではないです。
だから、〈実物〉を見せることなど出来ないのです。だってそれは私的言語ではないのだから。
まずとにかく承認!、ということがないかぎり、おなじ議論のくりかえしですね。(笑)
506 :
483:2006/06/20(火) 14:23:32
>>501 505と同趣旨になるけど、他の人が理解できる「普通の言語」ならそれは「私的言語」ではない
という意味で言ったんだけどなあ。ちょっと理解が素朴過ぎやしないか。
「普通の言語」が「私的言語」であり得るというのは、自分だけが<本当の>日本語を喋っている
と思い込んでいるが、他の人と普通に会話をする人みたいだなあ。他人に通じることが言語の
役割なのに。一体ここで何が<本当>だと見なされているのかなあ。
「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
何を理解した事になるのかなあ。)
「私的言語」相互の連関という永井の議論は全部空中に浮かび上がってしまってるから
役に立たないと思うんだけど。ああいうのに誤魔化されちゃいけないなあ。
ギリシャ語はギリシャ人にとっての私的言語。
役に立たないと思うなら気にしなきゃいいじゃん♪
たとえば、世界で一人だけ生き残っている南米の原住民の部族がいて、
その部族の言葉はその人にしか理解できないとする。
(実際「滅び行く言語」とかいうTVのドキュメンタリーでそんな例があった。)
その部族の言葉はその人にとっての私的言語か。
仮に私を残して日本人が死に絶え、日本語の本等もすべて廃棄され、
日本語を理解できるのは世界で私一人になったとする。
この場合の日本語は私にとっての私的言語か。
この例で、実は私は頭のおかしなドイツ人で、「日本・日本人・日本語」
などというものは実在せず、私が過去に見聞きしたと思っている「日本語」
はすべて私の個人的妄想だったとする。
(永井の好きな思考実験。)
この場合の「日本語」は、私にとっての私的言語か。
510 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/20(火) 22:01:51
>>509 >その部族の言葉はその人にとっての私的言語か。
>〜この場合の日本語は私にとっての私的言語か。
その言葉が教えられたものであり、その意味が確立(定義)されていて、
それを基準にした使用が可能であるなら、私的言語ではないと思います。
>この場合の「日本語」は、私にとっての私的言語か。
頭のおかしな人が、金星人の言葉を理解するのと同じで、その日本語が、
ドイツ語(母語)によって、理解(翻訳)されているのなら、私的言語では
ないでしょう。また、たんに「言語」であると妄想されただけなのだとしたら、
そもそもそれが言語であるかどうかさえ知りようがないでしょう。
>>506 483さん
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>何を理解した事になるのかなあ。)
まさにソコです。毎回、短い文章で的確な指摘、羨ましいです。
永井は、「私はなぜこの私なのか」の、〈私〉と「この私」の境界に私的言語があると
考えているような気がします。議論は失敗しているけど、言いたいことはわかります。
世界を開く原点としての〈私〉の言語と開かれた世界の「私」の言語との共在の解明。
このような発想はどこからくるのか?
この世界とあの世界、生と死には「あいだ」がないから、世界にも生にも境界線は引けない。
けれど、生については生物学的、精神分析学的な解明によるひとつの到達(個体としての
生命と生命そのものとしての死の発見によって境界線が引かれた)がありました。(
>>440)
では、永井の目指すもうひとつの到達は如何に為されうるのかと考えたとき、『論考』の序で
ウィトゲンシュタインが言っているように「限界は言語によってのみ引かれうる」という言葉に
永井が誘惑されたとしても不思議ではないように思えます。
たんなる妄想による独り言ですので、あまり気にしないでください。(^_^;)
512 :
509:2006/06/21(水) 16:30:23
>>510 >頭のおかしな人が、金星人の言葉を理解するのと同じで、その日本語が、
>ドイツ語(母語)によって、理解(翻訳)されているのなら、私的言語では
>ないでしょう。また、たんに「言語」であると妄想されただけなのだとしたら、
>そもそもそれが言語であるかどうかさえ知りようがないでしょう。
そうではなくて、私が現在持っているこの意識と記憶を持ったまま、ある朝目覚めると
ドイツの病院に寝ている。現実には、私はドイツ人の両親の間に生まれて
から今までずっと昏睡状態。睡眠学習のようなものも一切受けていない。
ドイツ語は全く理解できず、記憶の中の世界の通り、日本語でしか考えることもできない。
しかし、現実にはこの世に日本という国も日本語という言語も、現在にも過去にも
全く存在しないということがわかる。
つまり、私にとって日本語は日本語として理解され、他の言語は全く理解できない。
私にとっては日本語だけが「使用可能な言語」である。そして、私以外には
日本語を理解できる人間は現在も過去も一人も存在しない。
しかし、記憶(妄想?)の中の世界と同様、私が今後ドイツ語を勉強して
(あるいは他人が私の言動から日本語を勉強して)理解できるようになれば、
翻訳の可能性もある。
さて、この場合の「日本語」は、私にとっての私的言語なのかどうか。
513 :
483:2006/06/21(水) 20:00:33
>>512 >翻訳の可能性もある
とされた時点で自分自身でそれが「私的言語」ではないと認めたようなもんだ。
ここで重要になるのは翻訳ということで人は何をするのか。どうしたら翻訳ということが
可能になるのかが問題だろう。(そしてこの段階まで進めば「私的言語」ということが
問題にならなくなるのは明らかだろう)
そしてウィトゲンシュタインによればこのような翻訳が可能なのは人々が生活形式を共有しているから
である。食事をしたり、挨拶をしたり、政治の話をしたり、ということは人間ならどんな文化
で生まれ育った人でも大体のところ共有している生活の仕方だから理解できる、ということになる。
だからライオンが言葉を喋ったとしても我々は理解できない、と言われるわけだ。
514 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/21(水) 22:31:11
>>512 509さん
わたしの答えも483さんと同じです。
翻訳の可能性がないということ、つまり生活形式を共有しないということは、
極論するなら、「彼は人間ではない」ということです。オオカミに育てられた
生物ヒトが人間とはいえないのと同じです。とはいっても、生物学的形態が
人間であるなら、私たちは彼を人間として受け入れようとはするでしょう。
でも、永井が私的言語論において問題にしているのは、そのような意味で
理解される断絶「この私以外には誰もそれを理解できない」ということでは
なく、それは誰かに教えられたものなのか/誰かから学ばれたものなのか、
ということ、すなわち開かれた世界(現実)、具体的には他人が関与したか
どうかということが議論の本質ではないでしょうか。
永井も認めているように、共同体、具体的には他人から教えられることなく、
はじめから独力で自分の私的体験(内的現象)を表現する言葉を創り出す
ことは想定不可能でしょう。しかし、いったん言語をマスターした後であれば
それは可能である、というのが永井の論です。
それはいくらなんでも無理でしょう、というのがわたしの主張です。
>>514 >それはいくらなんでも無理でしょう、というのがわたしの主張です。
言いすぎでした。
いわゆる言語の成立条件としての‘それ’を私的言語と呼ぶのなら、
今はまだ、それを否定するつもりはないです。
疑問なのは、なぜ私的言語でなければならないのか(言語である
ことにおいてのみ特別に私的でありうるということ?)についてです。
516 :
455:2006/06/22(木) 01:41:14
カオル氏と483氏の最近のレス全体に対して
>>504 >わたしは、ウィトゲンシュタインの議論を引用した上での「私的言語の存在」は
>認めないけれど、455さんはウィトゲンシュタインの議論とは関係なく、永井が
>‘それ’を私的言語というのなら、永井にとっては「存在する私的言語」と認めて
>永井の著書を読んだほうがいい、ということですよね。
基本的にはそのとおり(ただ,「’それ’を私的言語という」という表現の趣旨が
わかりかねるが。カオル氏の今までの文脈だと,「’それ’」というのは,私だけが
感じる感覚とか言語以前の感覚といったもののことを指しているのではないのか?
だとすると,文意がつながらないのだが。この点はただの私の誤解かもしれないので
そうだったら申し訳ない。)
>確認ですけど、455さんはウィトゲンシュタインの議論におけるコンテクストでは、
>永井のいう私的言語も「存在できない」、ということについては同意なのですよね?
ここもそのとおり(ただ,ここも,「存在できない」という表現の趣旨がよくわからない
し,「ウィトゲンシュタインの議論におけるコンテクスト」という表現も,『哲学探求』
261節のことを指しているのか,それとも他の箇所も含むのかわからないが。)
永井の論じている「私的言語」は,既存の感覚に関する言語をもとにしていて,他人にも
何らかの感覚を指す言葉として理解されるもの(だろう)から,少なくとも261節で
議論されているような条件を満たさないのは明らかだろう。その点は両氏の指摘どおり。
私が言いたいのは,前にも書いたとおり(
>>482,
>>492),永井の「私的言語」とウィト
ゲンシュタインの「私的言語」はイコールではないのではないか,そうだとすると,なぜ,
永井の「私的言語」がウィトゲンシュタインの議論したような条件を満たさないからと
いって,直ちに否定されることになるのか,ということだ。
517 :
455:2006/06/22(木) 01:59:08
(続き)
逆に両氏に確認したいのだが,両氏は,(1)永井は,独自の「私的言語」を論じようとして
いるのではなく,もっぱらウィトゲンシュタインの「私的言語」について論じようとして
いると考えているのか,または(2)永井が何を論じようとしているのかはともかく,両氏と
しては,もっぱらウィトゲンシュタインの「私的言語」についての議論を前提にして,
その前提によって永井の議論を判断している,のどちらかの態度をとっているということで
よいのか?永井が何か独自の議論をしようとしているのではないか,ということは全く考慮
するつもりがないのか?
私は,永井のいう「私的言語」とはどういうもので,それが可能とか不可能とかいわれる
根拠は何なのかについて,まずは永井の議論自体を検討してみよう(少なくとも私にとっては
明らかではないので),その後で,仮に永井の「私的言語」が実はウィトゲンシュタインの
「私的言語」と変わらないなどという事情が明らかになったら,その時点でウィトゲンシュタ
インの議論を当てはめることなどを考えればよいだろう,と思っているのだが。(それを
「まずとにかく承認」などと言われるのなら(
>>505)それのどこが悪いのかわからない。)
両氏が上のような前提で永井の議論を読んでいるのなら,私とは態度が違うとしか言いようがない。
別に両氏の態度を否定するようなつもりはない(ひょっとしたら,結果的には私のような態度
よりも新しい発見があるのかもしれない)が,これだけ態度が違うと,両氏と私が今のような
応答を続けても,あまり生産的な議論にならないと思われるので,今のような応答は続けない
ことにする。永井の議論自体を検討していくことを目指したほうが,生産的な議論になりうると
思われるので(私にできるかどうかは別として)。
518 :
455:2006/06/22(木) 02:37:30
やっぱり一箇所だけ,気になったので。
>>506 ここの全体の論調は,他人に理解されるようなものは私的言語ではないという,ウィトゲン
シュタインの議論を前提にした指摘と思われるが,以下の部分の趣旨がわからない。
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>何を理解した事になるのかなあ。)
まず質問自体に答える。永井が「しくい気分だ」「ろましいなあ」などと言った時に,私が何を
理解するのかと聞かれたら,「しくい」「ろましい」というのがどういう気分や感情かはわから
ないが,永井は何らかの気分や感情のようなものを味わったんだろう,と理解する。(本当は
「理解」とは何かを詰める必要があるのかもしれないが,「何らかの気分や感情のようなものを
味わったんだろう,と理解する」ということには,特に問題はないのでは。)
逆に聞きたいのは,もし,私が永井の言う「しくい」「えもい」「ろましい」などから全く
何も理解できないのだとすれば,それはつまり,「しくい」「えもい」「ろましい」などは
他人に理解されないという条件を満たしていて,ウィトゲンシュタインの議論によっても
私的言語として認められる,ということになるのではないか?483氏は,どういう趣旨で,上の
引用部分を書いたのか?(私(455)に理解不足や理解の混乱があると判断して,それを指摘
するなどの目的で,483氏の全体の論旨とは反することをあえて書いた,というようなこと
であれば,別によいが。)
519 :
509:2006/06/22(木) 16:57:34
まず、私は「私的言語」という単語や、「私的言語は不可能である」という命題の
意味がよくわからないから書いているのであって、誰かを批判したり自分の考えを
披瀝しているわけでないことをお断りする。
「私的言語」の意味については、大きく次の3種類があると思う。
1.その発生・成立が純粋に私的な(他人・社会が関わっていない)言語。
2.現在において、自分以外にそれを理解できる存在がいない言語。
3.将来においても、自分以外にそれを理解できる存在が有り得ない言語。
>>512で私が挙げた例における「日本語」について、
>>513では、それが1.2.には当てはまっても3.に当てはまらない
(将来において他者にも理解可能である)からそれは私的言語ではない、とされた。
それなら、私が現在の意識と記憶を持ったまま、ある日目覚めると、世界に
人間は自分一人しか存在しないことを発見する、という思考実験はどうだろうか。
無論、過去にも現在にも人間は自分一人である。あるいはライオンその他動物すら
存在しない、でもいい。永井流の思考実験としては、ごくおとなしい部類だ。
実は、この例をもっと極端にわかりやすくすると、端的に「独我論が正しいなら」
ということになる。もしも世界に存在するのが私だけで、しかも私は日本語を
使って考えているなら、その場合の日本語は私的言語である、という以外
ないと思うのだが、どうなのだろうか。
520 :
509:2006/06/22(木) 17:02:44
(続き)
そこで、「私的言語は不可能である」の意味だが、最も常識的な理解は、
現実に1.のような意味の私的言語は存在せず、また現実世界の経験的因果関係を
前提にする限り存在することもできない、要するに言語というものは社会的に
発生するしかないものだ、という意味だろう。
>>514は、このことを述べていると思う。
しかし、生物学的言語学的にはともかく、哲学的にみる限り、特に不可能と考える
理由はないのではなかろうか。哲学的には、独我論が正しい可能性は否定できないし、
独我論が正しいとするなら、1.2.3.のいずれの意味においても、
日本語が私的言語であることは否定できないと思う。
すると、「私的言語は不可能である」という命題は、
A.端的に「独我論が言語によって思考されている限り、独我論は誤りである」
という意味なのだろうか。
あるいは、
B.「独我論が正しいとしても、言語は自分の内部の他者(他者の観念、あるいは
過去や未来の自分という観念)との対話においてしか成立し得ない」という
意味なのだろうか。
他者、または過去や未来の自分という観念をあくまでも「他者」と考えるなら、
独我論はやはり不可能であり、誤りだ、ということになるのか。
あるいは、
C.「独我論が正しいとしても、自分以外の他者の存在は論理的に不可能ではない。
全知全能の神なら、自分以外の他者を作り出すことはできる。あるいは、
この私は、自分と同等の他者を想像することは容易にできる。その場合は、
自分の言葉は3.の意味の私的言語ではなくなる。だから、独我論が正しいと
しても、私的言語は不可能なのだ。」
という意味なのだろうか。
全く見当違いのことを書いている可能性も高いので、ご批判をお願いします。
既出・スレ違い・議論進行の邪魔なら、無視していただいても構いません。
521 :
483:2006/06/22(木) 17:32:08
>>517>>518 永井の言う「私的言語」はウィトゲンシュタインの言う「私的言語」とは違う、というのなら
その違いを、永井独特の論点を455氏自ら明らかにしてくれないと。
もちろん永井は<私>だけが理解出来る、という意味で「私的言語」のことを言っているはず
だ。そうでなければ永井がわざわざ哲学の本を書く理由がわからない。
重要なのはそこからで、それを言葉にしようとした時、それは我々の知っている感覚、感情の表現
をその雛型として持って来ざるを得ない、という点だ。
>「しくい」「ろましい」というのがどういう気分や感情かはわからないが,
>永井は何らかの気分や感情のようなものを味わったんだろう,と理解する。
とあるが、どうしてそれが気分や感情である、と455氏は分かったのか。
虚心坦懐に考えてみよう。哲学的に考える前に非哲学的に考えてみる事が肝要だ。
誰かが「痛い」と言ってうめいていたり、「悲しい」と言って涙を流していたとすれば
その人が痛みを感じている、悲しみを感じているということは(特別の場合を除いて)明瞭だろう。
でも誰かが「しくい」とか、「ろましい」、と言っているとしたら彼が何を感じているかが
明瞭だとは誰も言わないだろう。「君は何を言っているんだ」と言うだろう。
455氏は簡単に「しくい」とか「えもい」という言葉を受け入れてしまっているが、本当に
それらを理解出来るのだろうか。本気で考えてみて欲しい。当然455氏は「しくい」や「こじむい」を
「痛い」、「悲しい」といった普通の感覚語、感情語との連関によって理解せざるを得ないのだ。
ところが、「しくい」、「えもい」、「ろましい」といったこれらの言葉には「痛い」や「悲しい」のようには
用いる為の基盤がない。だから僕は455氏は一体何を理解したのか、と問うたわけだ。
理解したような気になった、ということでしかない、と思う。
>本当は 「理解」とは何かを詰める必要があるのかもしれないが,「何らかの気分や感情のようなものを
>味わったんだろう,と理解する」ということには,特に問題はないのでは。
という部分に大きな誤解を感じる。まさしくそこをはっきりしなきゃならないところで
うやむやにするのなら哲学なんて何の役にも立たない。
522 :
483:2006/06/22(木) 17:56:51
>>519 まず、2と3はそもそも「私的言語」とは関係無い。
朝目覚めたら自分以外に人間が居なかった、という場合も「私的言語」の議論と関係無い。
喋る相手が居なくなってしまうから、言葉の多くは役割を失ってしまう事は確かだけど。
そしてこの場合なら、わざわざ「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった特別な語を
発明する理由がないことからもこのような議論が「私的言語」とは関係無いことを示唆している。
>>516 455さん
>基本的にはそのとおり(ただ,「’それ’を私的言語という」という表現の趣旨が
>わかりかねるが。
私的言語としてみとめるにしても、わたしとしては‘それ’としてでないと
まるで実感がないのです。もしかしたら〈私〉にたいする実感がないのと
関係があるのかもしれませんね。
>ここもそのとおり(ただ,ここも,「存在できない」という表現の趣旨がよくわからない
言語ゲームには「属さない」ということです。
>永井の「私的言語」とウィトゲンシュタインの「私的言語」はイコールではないのではないか
>そうだとすると,なぜ,永井の「私的言語」がウィトゲンシュタインの議論したような
>条件を満たさないからといって,直ちに否定されることになるのか,ということだ。
永井はかなり強引に持論と重ね合わせているように感じられます。
イコールではないのにそのような解釈の仕方をこころみています。
もちろん、それはいいけど、まちがいはまちがいとして指摘します。
わたしの批判は基本的に論理的帰結としてそれですから、疑うのはむずかしいです。
永井の私的言語は論理とは何のかかわりもない、と言われるのならそれまでですが。
でも、わたしの一連の物言いのなかには、わたしなりのフォローもあるんですけどね。
455さんには、きっと瑣末なことに思われるそれが、わたしには根本的なことなのです。
永井の私的言語論が、わたしの想定に反してまっとうに成り立つのだとしたら、おそらく
それは人類史上はじめての哲学の快挙のはずです。
>>523 >わたしの批判は基本的に論理的帰結として
訂正 わたしの批判は基本的に論理的帰結としての
525 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/23(金) 01:20:40
>>517 455さん
>(1)永井は,独自の「私的言語」を論じようとしているのではなく,もっぱら
>ウィトゲンシュタインの「私的言語」について論じようとしていると考えているのか
ウィトゲンシュタインが本当に言いたかったことは「こうではないか」
という推測にもとづく解釈によって持論への重ね合わせをしています。
>(2)永井が何を論じようとしているのかはともかく,両氏としては,もっぱら
>ウィトゲンシュタインの「私的言語」についての議論を前提にして,
>その前提によって永井の議論を判断している
もちろん、永井の議論が正しいと思えるならフムフムと読みます。
たとえば、永井は『〈魂〉に対する態度』(86〜87n)で
「ある感覚(eine gewisse Empfindung)」を「超越的に私秘的な〈感覚〉」
だと位置づけています。
この「ウィトゲンシュタインの〈感覚〉とクリプキの〈事実〉」と題された
論考では「ある感覚(eine gewisse Empfindung)」を「超越的に私秘的な〈感覚〉」
とは言っても、けっして「E」が「私的言語である」とは言わなかった。
もともと永井の私的言語についての議論はまちがってはいません。
『私・今・そして神』でも、それが私的感覚についてのものなら、それほど問題はありません。
わたしの批判は、
>>483さんがいうように、たんにその私的感覚が──言語になる時には
「私的に」表現する事は出来ないということ──についてのものです。
感覚から言語への跳躍は、生命から心へのそれでもあるでしょう。
物質から生命へのそれに匹敵する、それ自体ひとつの奇蹟ではないでしょうか。
そのような奇蹟については、もっと慎重な議論が為されるべきだと考えます。
>>519-520 509さん
ごめんなさい。
509さんの思考実験が、まったく理解できませんでした。
がんばってみたけど、想像することができませんでした。
はじめに言葉ありき
その日本語は、神さまの言葉のように思われます。
527 :
455:2006/06/23(金) 01:52:50
>>521 議論の趣旨を全く理解しかねる。まずは,
>>518 >逆に聞きたいのは,もし,私が永井の言う「しくい」「えもい」「ろましい」などから全く
>何も理解できないのだとすれば,それはつまり,「しくい」「えもい」「ろましい」などは
>他人に理解されないという条件を満たしていて,ウィトゲンシュタインの議論によっても
>私的言語として認められる,ということになるのではないか?
に,答えてもらえないか。
あとは細かい指摘をする。(こういう非生産的な細かい議論が適切な議論の仕方だと思っている
わけではないので(実際は行ってしまったが),上の質問にきちんと答えてもらえるなら,
以下は無視してもらって構わない。)
今までの議論では,「しくい」「えもい」「ろましい」などは,感覚や感情などに関する
既存の言葉に基づいたものであるという理由で,私的言語ではないと指摘されていたのでは
ないのか。
>>521にも,
>重要なのはそこからで、それを言葉にしようとした時、それは我々の知っている感覚、感情の表現
>をその雛型として持って来ざるを得ない、という点だ。
とある。
それなのに,今度は「しくい」「えもい」「ろましい」などから何かを理解できると考えるのは
おかしい,という指摘が出てきている。
>>521の,
>ところが、「しくい」、「えもい」、「ろましい」といったこれらの言葉には「痛い」や「悲しい」のようには
>用いる為の基盤がない。だから僕は455氏は一体何を理解したのか、と問うたわけだ。
>理解したような気になった、ということでしかない、と思う。
というあたりだ。
この2つの指摘は,全く反対の指摘ではないのか?一方は,「「しくい」などは既存の言葉に基づ
いているので,理解しうる」とし,他方は,「「しくい」などは既存の言葉に基づいていないので,
理解できない」としているのではないか?この2つの指摘の関係はどうなっているのか?
この点を説明してもらわないと,現状の私では,483氏の議論は矛盾しているとしか思えないのだが。
528 :
455:2006/06/23(金) 02:09:57
(続き)
>>「しくい」「ろましい」というのがどういう気分や感情かはわからないが,
>>永井は何らかの気分や感情のようなものを味わったんだろう,と理解する。
>とあるが、どうしてそれが気分や感情である、と455氏は分かったのか。
この点についても,言いたいことは同様だ。「しくい」などは,気分や感情として(そうで
なくても,少なくとも既存の気分や感情に関する言葉に基づくものとして)理解されてしまう,
というのが,今までの483氏らの議論ではなかったのか。なぜ今になって,「どうしてそれが
気分や感情である、と455氏は分かったのか」と指摘するのか。そう指摘するのなら,今までの
議論との関係はどうなるのか。
なお,「どうしてそれが気分や感情であると分かったのか」という質問に対しては,つまらない
答え(それこそ非哲学的な考えによる答え)をするなら,「しくい」は「気分」とされ,
「ろましい」は「感情」とされているからだ。「しくい」については,多少具体的な描写もある。
(『私・今・そして神』188,194頁)
ここで,もし,「なぜ永井が「気分」と言っただけで本当に気分といえるのか,気分という根拠は
ないのではないか」という指摘があるなら,繰り返し的になるが,逆に気分という根拠がないの
であれば,今までの483氏らの指摘との関係はどうなるのか,と答える。
>>本当は 「理解」とは何かを詰める必要があるのかもしれないが,「何らかの気分や感情のようなものを
>>味わったんだろう,と理解する」ということには,特に問題はないのでは。
>という部分に大きな誤解を感じる。まさしくそこをはっきりしなきゃならないところで
>うやむやにするのなら哲学なんて何の役にも立たない。
私に理解不足や誤解があるのなら,検討するが,それはそれとして,ここでも言いたいことは
同様だ。私の理解はともかく,「しくい」について理解することが全く成り立たないという
のなら,今までの議論はどうなるのか。
455さんへ
横レスさせてください。
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
だから食い違っているようにみえるんです。
そしてまさしくそれこそが永井の議論の真価なのではないでしょうか。
永井の私的言語は、483さんやわたしによって(生活形式という歴史の力によって)
完全にその存在を否定されてこそ、言語ゲームを成立させうる背景(不在)として
パラドキシカルに存在しうるのではないでしょうか。
永井は「否定されなければならない議論をしなければならなかった」のではないでしょうか。
生意気でゴメンナサイ m(__)m
>>519 509さん
>その発生・成立が純粋に私的な(他人・社会が関わっていない)言語。
質問させてください。
なにをもって「私」なのですか?
私的さを可能にする「私」はだれですか?
あなたのいない「私」はどのような「私」ですか?
「私」は言語がなくてもいるのですか?
「世界」は言語がなくてもあるのですか?
ひとりの世界で、思うとはどういうことですか?
言語は思うための手段なのですか?
言語は目的を持っているのですか?
>>520 509さん
>生物学的言語学的にはともかく、哲学的にみる限り、特に不可能と考える
>理由はないのではなかろうか。
つまり、魂の言語と言い替えられますか?
>独我論が正しいとするなら、1.2.3.のいずれの意味においても、
>日本語が私的言語であることは否定できないと思う。
〈私〉の言語ということですか?
〈私〉の言語は、どういう言語なのですか?
なぜ、言語なのですか?
>「私的言語は不可能である」
私的言語というものが想像できないし理解できるものとして存在しないから
自分も含めてだれかに理解されるということがどういうことなのかわからない。
あるものとしてないから、くらべられないから、存在しないけど、可能性は
否定できないと思う。この私の感じるものすべてが私的なものだから。
質問ばかりでごめんなさい。
今のところ何かこちら側から提供するもの(論)はありそうにありません。
だからわたしの聴き得なんですけど、もしよかったらよろしくお願いします。
532 :
483:2006/06/23(金) 17:12:26
>>527 455氏の質問に答えて。(“”で囲まれた部分は強調)529と同趣旨になるがもっとちゃんと整理して。
もちろん「私的言語」は(そもそもの定義としてその人にだけ理解されるもの
であるから455氏には、そして僕483にも)“理解できない”のである。しかし、
“もし理解出来るとすれば”
それはそれら「私的言語」が通常の言語と使い方を同じくしているからである、と書いたのだ。
521で書いたのは
>それを言葉にしようとした時、それは我々の知っている感覚、感情の表現
>をその雛型として持って来ざるを得ない、という点だ。
は「私的言語」を“理解できる”としたらそれは何故なのか、という議論。
>ところが、「しくい」、「えもい」、「ろましい」といったこれらの言葉には「痛い」や「悲しい」のようには
>用いる為の基盤がない。
は「私的言語」を“理解できない”としたらそれは何故なのか、という議論。
ここに矛盾があるというのは455氏の誤解だ。
また「私的言語」は<私>にだけ理解されるがゆえに、例えば「しくい」といった言葉を
適切に用いているかどうかは他人の場合を参照することが出来ないので、そもそも正当化
することが出来ない。(これはウィトゲンシュタイン最晩年の「確実性の問題」で「私は知っている」
というのが無意味である場合の考察に関係している。)
「私的言語」が単純に可能か不可能かということはどうでもいい。むしろ問題は「私的言語」の
<正当化>が可能か不可能か、なのだ。(私の)痛みは確かに<私>にしか感じられない。でもこれは
まだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題なんだ。そしてそれは
「言語」によっては正当化されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから、
というのが永井や僕や『カオル』の立脚点で、それを肯定的に評価するか否定的に評価するか
で分かれているということ。455氏はそこまで到達していないように見える。
533 :
509:2006/06/23(金) 19:13:43
>>522 >まず、2と3はそもそも「私的言語」とは関係無い。
私の書き方が悪いのだろうが、それはあなたの
>>513と矛盾するのでは?
>>512の思考実験においては、日本語はまさに1.の意味の(その発生・成立が
純粋に私的で他人や社会が関わっていない言語)に当ると思うのだが。
>>519では3.の意味も含めてさらに徹底したが、この思考実験は要するに
「現在の私と精神的・肉体的に全く同じ状態の人間(日本語で思考する)が、
偶然に(私と何の因果関係もなく)、人間その他の知的生命が一切存在しない
(消滅したのではなく、過去も現在も存在しない)惑星に突然出現した場合は、
その存在の使う日本語は1.2.3.のいずれの意味でも私的言語に当るのでは
ないか」、という意味。
それに対して、「それは確かに私的言語だが、そういう思考実験はまさに空想で
あって、現実の経験的因果法則の中ではそういう事態は有り得ない」と答えるなら、
よくわかるのだが。
たとえば何の力も加わらないのに太陽が突然八の字を描いて動き出すことは、
哲学的な思考実験として思い描くことはいともたやすいが、現実の物理法則の
下では有り得ない、というのと、同じ意味で。
「私的言語は不可能だ」というのが、単にそういう経験則を語っている言葉なら、
別に何も問題はないのだが、ただ、なぜそれが哲学的な問題なのかがよくわからない。
534 :
509:2006/06/23(金) 19:19:54
(続き)
「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった単語については、それが1.の意味の
私的言語に当るかどうかは、よくわからない。所詮社会的に習得した既存の日本語の
文法上で作られている、という意味ならそうではないだろうし、純粋に永井氏個人が
発案し現時点でその意味がわかる他人がいない、という意味なら、そうであるような
気もする。
ただ、極論すればどんな単語も最初は誰かが考え出したもので、その点では
例えば「エントロピー」とか、卑近な例なら「萌え」とかいう単語と
「しくい」「えもい」「ろましい」といった単語と、本質的な違いはないと思う。
エントロピーや萌えは社会的に使用され、しくいえもいろましいは現時点でされて
いない、というだけではないか。
私的言語というのが3.の「将来においても、自分以外にそれを理解できる存在が
有り得ない言語」という意味なら、理解する、というのがどういうことかが
問題になる。たとえば古語の「をかし」とか「あはれ」とかいう言葉は、
正直言って私はよく意味がわからない。何となく「こんな気分のことか」と見当を
付けているだけだ。(余談だが外国人にはさらにわからないのではなかろうか)
その点では、永井氏から「しくい」「えもい」「ろましい」の意味を説明されても、
同じような状態にしかならないと思う。しかし、無理に使用しようと思えば
使用できるし、複数人が使用していれば、それによって意味が「確立される」だろう。
その内容は永井氏のもともとの「理解」とはずれてしまうかもしれないが、
それは他のどんな言葉でも同じではないか。
535 :
509:2006/06/23(金) 19:28:40
>>526、
>>530-531 私の思考実験は難しいものでも何でもなく、上に書いたような意味です。
「私と肉体的精神的に全く同じ存在が、偶然に、知的生命体が存在しない仮想世界に
出現する」という想定は、永井風の思考実験としては特にどうということもない
ありふれたものだと思います。あるいは「私がある朝目覚めるとそこは知的生命の
いない世界で、しかも私の記憶はすべて間違いで世界に知的生命は最初から私しか
存在しなかったことがわかる」でも、同じです。
その場合は、その存在(私)は明らかに日本語で思考し、「ああここはどこだ何が
起こった助けてくれ!」と日記に書くかもしれないし、地形や植物や動物に日本語で
名前をつけるかもしれないし、地図を作って書き込みするかもしれないし、
気象の変化を記録するかもしれません。この場合の日本語は1.2.3.の
どの意味でも私的言語に当ると思うのですが、違うでしょうか。
もっと簡単に言ってしまうと、
「もしも現実に独我論が正しいなら、私の使う言語は私的言語ではないのか」と
いうことです。
永井氏は執拗に独我論について考えている人だと思うのですが、独我論と私的言語が
どういう関係にあるのか、よくわかりません。
聖書の「はじめに言葉ありき」は、まさに頭にありました。最初に神が発した言葉は、
どう転んでも私的言語でしかないと思うのですが、違うのでしょうか。
あるいはヴィトゲンシュタインは聖書のあの文句を念頭において
「私的言語は不可能だ」と言ったのでしょうか。
私は皆さんと違って問題の基本がわかっていないので、たまたま見付けたこのスレで
前から疑問だったことを書いてみただけです。483さん場所ふさいで申し訳ありません。
536 :
483:2006/06/23(金) 20:13:46
色々考えてみたがはっきり言うと509さんは僕らとは「私的言語」を考え始める出発点が
そもそも異なっている。
509さんは自分以外に言葉を喋る人が居なくなれば普通の日本語も「私的言語」になるではないか、
と言っているように見えるが、僕らの議論は当然他の人が存在している事を前提にしているのだ。
だってこの世にはもう永井や509さん以外の人がいることは明白だから。(これは509さんと意見が合わない
僕のような存在からも明白だ)
その上で「私的言語」は可能か、不可能か、可能ならどういう意味で可能なのか、
不可能ならどういう意味で不可能なのかを論じているんだ。
独我論が正しい、というけれど、どういう意味で正しいのか(どういう意味で正しくないのか)
が哲学の議論だからそこを粘って議論して欲しいな。(そして私的言語との絡みで言えば、独我論の
<正しさ>を言語で語ることは出来ない、ということをここまでくどくどと語ってきたわけだ。)
509の思考実験は私的言語を構成的に成立させる条件であって
私的言語の現実における成立・不成立を正当化しない。
言語使用者がただ一人であることを条件としているため
言語の成立に関する経験事実を一切捨て去った上で
使用者が一人=理解者が一人の言語、すなわち私的言語は
存在するのだという飛躍した結論になる。
言語は一人で可能かという問題と私的言語は可能かという問題は別問題
>>534 509さん
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった単語については、それが1.の意味の
>私的言語に当るかどうかは、よくわからない。
もちろん、1.の意味での──というのもおかしな言い方で、なぜなら言語ゲーム上には
存在しない‘それ’なのですから。‘それ’を言語ゲームを成立させうる超越論的なものと
するなら‘それ’は無意味(不在)であるしかなく、またその存在そのものは超越的(非在)
であらざるをえないでしょう。──「私的言語」ではありえないです。
けれども、1.の意味での‘それ’としてとらえることでしか、永井の私的言語論は意味を
なしません。また、意味をなしたときには、理解される「それ」として読み替えられてしまう、
という論法はいいのだけれど、「しくい」があたかも「現実に存在しうるかのような」議論は、
(永井の仕方でのそれとしては)まちがっていると言いたいです。
永井は、いわゆる言語使用の背後に隠されてしまう「私の意味で」とはいったい何なのか、
についての議論をするべきなのに、それを「しくい」「えもい」「ろましい」など、私的感覚の
複数化の議論に還元してしまっています。
これは、いわゆる言語というものが持たなければればならない条件、すなわち公的言語の
それを、私的言語にそのまま当てはめて、公的言語における岩盤(生活形式の確実性)を
「私の意味で」に読み替えたものなのです。
けれども、「私の意味で」は私的感覚の「確信」ではなく、それとは別の私的言語の複数化
による外的基準のそれでもなく、「言語全体に付加されるもの」としての言語全体を成り立
たせている「確実性」としてのそれなのですから、そうであるなら私的感覚の私的言語化や
それの複数化による外的基準の設定は、むしろ「私の意味で」の〈私〉的さの否定になって
しまうでしょう。だから、「ああ、しくいなぁ」議論は完全に失敗だと言わざるをえないのです。
539 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/24(土) 01:45:12
>>535 509さん
>永井氏は執拗に独我論について考えている人だと思うのですが、独我論と私的言語が
>どういう関係にあるのか、よくわかりません。
──私は、なぜこの私なのだろう──における、最初の私が独我論の〈私〉で、
次にあるこの私が私的言語の「この私」ではないでしょうか。
たとえ成立したわれわれの言語からは跡形もなく消される運命にあるとしても、
私的言語こそが開闢を開闢の否定としての公共言語につなぐ唯一の通路なのだから、
それは可能であるどころか必然である。言語が可能である以上、私的言語もまた
実は可能であったのでなければならない。──『私・今・そして神』(187n)
一部、当てはめてみると、
私的言語の「この私」こそが、独我論の〈私〉を独我論の〈私〉の否定としての
公共言語の「私」につなぐ唯一の通路なのだから
というような感じになります。
>聖書の「はじめに言葉ありき」は、まさに頭にありました。最初に神が発した言葉は、
>どう転んでも私的言語でしかないと思うのですが、違うのでしょうか。
いえ、ちがわない、と思います。
でも、永井は言語共同体(他人の存在)を、言語の習得には欠かせない
ものとして「前提」しています。(
>>514)その上で、言語が可能であるなら、
この私の私的言語も可能でなければならない、という議論なんですよね。
で、たぶん「この私」と〈私〉がごっちゃになっているんです。(
>>538)
540 :
455:2006/06/25(日) 12:01:48
今回の483氏のレス(
>>532)を読んで,さらに以前のレスを見直すと,私のほうに
誤解や思いこみがあったようだ。
私は,483氏が「しくい」などについて,感覚などを表す言葉として理解されうる
(そして,理解されうるようなものは私的言語とはいえない)という点を中心に
指摘していたのかと思っていたが,
>>532を読むと,むしろ,普通に理解される言葉と
違って正当化されないという点を中心に指摘する趣旨だったようだ。
その点は申し訳ない。
541 :
455:2006/06/25(日) 12:04:08
独り相撲をしてしまった言い訳に,私が思っていた疑問点を書いておく(ウィトゲン
シュタインに詳しい人なら当然知っているのかもしれなくて,もしそうなら申し訳ない。
手元にある本ではよくわからなかった。)
そもそも,なぜ,ウィトゲンシュタインの「私的言語」は,261節で議論されているような厳しい
条件を満たさなければならないのか?単にその感覚がどういうものか他人に理解されないという
だけでなく,既存の言葉や概念に一切よらずに言葉を使わなければならない,というのは,
どうやってもあり得ないのではないかという気がするのだが(分節されない音声でさえ言語
ゲームで記述されてしまう,というのなら,言語ゲームで記述されないような言語というのは,
本当に全く不可能と思われる),なぜそこまで厳しい条件が必要なのか?
別の角度から言うと,私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉でなければ
ならない,という条件を立ててしまうと,初めから無理な条件を立てた上で,それは無理だと
言っているだけになってしまわないか?
私的言語は,他人には理解されないとしても,少なくとも本人にはきちんと使えることが前提
なのだから,まったくでたらめな音声や文字というわけにはいかず,ある程度は既存の言葉など
に似た性質が必要だろう(というか,繰り返し的になるが,分節されない音声でさえ言語ゲーム
で記述されてしまう,というのなら,どんな言葉でも,言語ゲームで何らかの記述がなされる
程度には,既存の言葉に似た性質を持っていることになるのではないか)。
そのことをもって,直ちに「既存の言葉に似た性質がある以上は,他人に理解されうるので,
私的言語ではあり得ない」と言われてしまったのでは,そもそも,私的言語は全く不可能で
あって,私的言語の可能性を議論することは全く無駄ということになる。「しくい」にしても,
「気分」などの既存の言葉に似たものであるという理由だけで,議論の出だしから私的言語では
あり得ないとされてしまうことになる。
それはおかしいのではないかと思って,いろいろ書いていたのだが,誰もそんなことは主張
していない,ということでよいのだろうか。それなら安心(?)して,「しくい」の議論の
他の部分を検討してみる。
542 :
455:2006/06/25(日) 14:05:50
ただ,それにしても,
>>532 >(私の)痛みは確かに<私>にしか感じられない。でもこれは
>まだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題なんだ。そしてそれは
>「言語」によっては正当化されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから、
>というのが永井や僕や『カオル』の立脚点で、それを肯定的に評価するか否定的に評価するか
>で分かれているということ。455氏はそこまで到達していないように見える。
の部分はよくわからないので,一応また指摘させてもらう。これも非生産的なので,無視して
もらっても構わない。(ただ「永井の立脚点」という点の疑問(2)は,永井の議論を検討する
上では気になるところなので,答えてもらえないか。)
(1)まず,「でもこれはまだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題」という
ときの「“これ”」とは,何を指しているのか?「私の痛みは私にしか感じられない」という
文章のことでよいのか?しかしそうすると,その後の文脈とつながらない。
すると,「“これ”」とは,「私だけの痛みやその他の感覚などを指す言葉(そういう言葉が
可能であったとして)」を,例えば「しくい」を指しているということでよいのか?(「しくい」
がそういう言葉として成り立つと仮定して)
(私(この場合は483氏)が感じている痛みの感覚を指しているのかとも思ったが,感覚自体が
「言語ではない」とか「正当化できる(できない)」といわれるのはおかしいので,言葉または
文章を指していると思われる。)
543 :
455:2006/06/25(日) 14:07:50
(続き)
それを前提として,その言葉(成り立つと仮定しての「しくい」)が「「言語」によっては正当化
されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから」という趣旨を,
念のため確認したい。
まず,483氏は,“永井が『私・今・そして神』で論じている限度での”「しくい」については,
皆が理解できる言語にはなって“いない”と考えている,ということでよいのか?(“ ”は強調)
そうであるとして,「どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから」と
いうのは,どういう意味か?“永井が論じている限度での”「しくい」は理解できないが,さらに
いろいろな条件が付け加わって正当化“されれば”理解できる(他人も同様の感覚を感じるらしい
ことが明らかになる,など),ただし,その時点では「しくい」は公共的な言葉になってしまって
いるので,私的言語ではない,という意味に理解してよいか?
(2)さらにそれを前提とすると,それが永井の立脚点で,それを肯定的に評価するか否定的に
評価するかで分かれている,というのは,どういう意味か?
まず,永井は,「しくい」について私的感覚相互の連関による正当化という議論をしていて,
(その議論が本当に成り立っているかどうかはともかく)永井としては,必要な正当化ができて
いると考えているのではないのか?永井が483氏と同じ立脚点(他人による正当化が必要という
立脚点)に立っているとすれば,私的感覚相互の連関で正当化できると考えるはずがないの
ではないか?
それと,細かいことだが,永井と483氏は,それぞれ,肯定的に評価しているのか,それとも
否定的なのか。仮に永井が肯定的だとすると,やはり,私的感覚相互の連関などという独自の
議論を出すはずはないと思われるので,永井は否定的ということでよいのか?
544 :
455:2006/06/25(日) 14:10:29
(3)そして議論の中身について。永井は,私的感覚相互の連関による正当化という議論をして
いるが(『私・今・そして神』194頁以下),なぜ,それは正当化にならないのか?
>>506 >「私的言語」相互の連関という永井の議論は全部空中に浮かび上がってしまってるから
>役に立たないと思うんだけど。ああいうのに誤魔化されちゃいけないなあ。
>>532 >また「私的言語」は<私>にだけ理解されるがゆえに、例えば「しくい」といった言葉を
>適切に用いているかどうかは他人の場合を参照することが出来ないので、そもそも正当化
>することが出来ない。
などとあるが,感覚に関する言葉を正当化するには,必ず他人との一致とか客観的事実との
連関が必要ということになるのか?
そうすると,永井は,言語が公的であることを前提として私的言語の不可能性をいうのは
論点先取の循環論法だ,などとしているが(同190頁前後),この点についてどうなるのか
気になる。また,「しくい」そのものの議論とは離れるが,仮に感覚に関する言葉一般に
他人との一致などの正当化が必要だとすれば,例えば,「殴られたのに痛く感じなくなった,
くすぐったく感じる」とか「海が赤く見えるようになった」とかの言葉は,どう扱われるのか。
他人たちは殴られたら痛く感じ,海は青く見えているのだから,このような言葉は正当化
されないということになってしまうのか?
ただ,この点は,個別に応答してもらうよりは,私が議論をまとめてから書いていった方が
よいかもしれないので(実際にできるかはともかく),この点は本当に無視してもらって
構わない。
545 :
455:2006/06/25(日) 14:50:25
>>529 >>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>>何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 >483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
>永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
>という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
>>542,
>>543で確認したところが正しいとすれば,483氏は私の議論に踏み出したわけでは
なく,永井が論じている限度での「しくい」はそもそも成り立っていないという方向で
議論していたと思われる。
それはそれとして,私が今までずっと気にしていたのは,
>>541の疑問点だったので,
カオル氏もそのような主張(私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉で
なければならない,という条件を立てるとの主張)をしていないのであれば,単に私の
独り相撲だったことになるし,逆にカオル氏がそのような主張をするのであれば,今の
ところ,
>>541に書いたようなわけで,同意できないというしかない。
どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
もらおうと思う。
546 :
455:2006/06/25(日) 15:54:06
>>509,
>>512の思考実験について,思いついたことがあったので,書いてみる。
すでに483氏やカオル氏との関係で議論がある程度進んでいるようなので,邪魔だったら
無視してもらって構わない。
>>512 >私が現在持っているこの意識と記憶を持ったまま、ある朝目覚めると
>ドイツの病院に寝ている。現実には、私はドイツ人の両親の間に生まれて
>から今までずっと昏睡状態。睡眠学習のようなものも一切受けていない。
>ドイツ語は全く理解できず、記憶の中の世界の通り、日本語でしか考えることもできない。
>しかし、現実にはこの世に日本という国も日本語という言語も、現在にも過去にも
>全く存在しないということがわかる。
気になる点を先に書いておくと,509氏は,この想定を「永井流の思考実験としてはおとなしい」
としているが,私はそうでもないと思う。問題になるのは,この想定では,509氏が日本語
を教えられた事実がないことになる点だと思われる。多分,永井は,永井が日本語を教え
られたという事実を全く否定してしまうような思考実験は,やっていないのではないか。
細かく書くと以下のとおり。
一つ目には,永井は,この想定は不可能だというのではないか(あまり自信はないが)。
理由は,この想定だと,509氏が子どものころに言葉を教えられたという事実がないこと
になるから。
つまり,永井は,(感覚質の逆転などの問題に関してではあるが)子どものころには,
転んだ時に感じるものが「痛み」である,消防車の色が「赤」である,という形で言葉を
教えられ,そして基本的な言葉を習得した大人になってから,学んだ言葉の意味をもとに,
痛いはずなのにかゆく感じる,赤いはずのものが青く見える,などと言うことができるよう
になる,などと論じている。すると,永井は,それほど明示的に書いてはいないが,言葉を
使えるようになるためには,子どものころに言葉の意味を教えられる過程が必要であること
を前提にしているのではないかと思われる。
ところが,この想定の509氏は,“日本語”の言葉の意味を教えられたことが全くない
(ドイツ語だけでなく)ことになるのだから,日本語を使えるはずがない,ということに
なるのではないか。(“ ”は強調)
547 :
455:2006/06/25(日) 16:01:34
(続き)
二つ目には,もしもこの想定が可能だとすると,事実の方(というか他人たちの証言や証拠
の方)が疑われなければならないのではないか。
つまり,子どものころに言葉の意味を教えられる過程が必要であることを前提として,かつ,
509氏が日本語を使えると想定すると,本当は509氏は日本語を教えられたことがあったと
考えなければならないと思われる。そうすると,509氏としては,本当は日本語はちゃんと
存在し,509氏が教えられたという事実があったのに,周りの他人たちが「私はドイツ人の
両親の間に生まれてから今までずっと昏睡状態」「現実にはこの世に日本という国も日本語
という言語も、現在にも過去にも全く存在しないということがわかる。」などという嘘を
つき,証拠隠し・証拠捏造をしている,と考えざるを得ないのではないか。
そうすると,私(この場合は509氏)の記憶と他人の証言・証拠が決定的に食い違う場合に
どうなるか,という,私的言語そのものとは別の議論が必要になってくると思われる。
それとも,永井が「欺く神が私の言語を今つくったのではないか」などと論じている部分は,
これに関係してくるだろうか?509氏が日本語を使えることを前提にし,かつ,509氏が日本語を
教えられたという事実・証拠が全くないとすると,509氏は「私のこの日本語は,本当に
言語として成り立っているのだろうか」と疑問を持ったりすることになるのだろうか。しかし,
その疑問を,まさにその日本語を使って考えることになるのだろうか。すると,その日本語を
全面的に疑うなどということは,あり得ないということになるか。そのように考えてみると,
この想定と永井の私的言語とは,何か関係があるかもしれない。
あまりまとまっていなくて申し訳ないが,繰り返し的に書くと,
>>512の想定は,生物学的
言語学的にだけでなく,(私の感じでではあるが)哲学的にも問題があるのではないかと
思われる。そう簡単には,可能な想定と言えないのではないか。
548 :
455:2006/06/25(日) 19:31:29
>>546 >多分,永井は,永井が日本語を教え
>られたという事実を全く否定してしまうような思考実験は,やっていないのではないか。
自分で気付いたが,この点はおかしい。明示的にはやっていないのではないかと思うが,
それを含むような想定はしている。
例えば,5分前世界創造説(現在において過去の存在を証拠だてているもの(たとえば記憶)
がじつはすべて5分前にできた,という想定)は,可能だとされている(『私・今・そして神』26頁)。
その場合は,当然,永井が子どものころに日本語を教えられたという事実もなかった
ことになる。ただし,そういう記憶や証拠はある(5分前に作られた)ことになる
点では,やはり
>>512の想定とは異なる。
私が
>>546,
>>547で書いたことが全面的に間違いかどうかはまだよくわからないが,
とりあえず上の点だけ書いておく。
549 :
483:2006/06/25(日) 21:05:02
一体どこから応答すればよいのやら混乱するが、まずは一つ。
>何故、(私的言語は)厳しい 条件を満たさなければならないのか?
ここに既に誤解の種がある。そもそも「私的言語」は素朴な独我論の「言語哲学版」の議論と言っていい。
だから「他人には理解できず<私>にしか理解できない」は<厳しい>のではなく、<素朴>な
表現なのだ。だからこれは<条件>なんかじゃない。
ウィトゲンシュタインは「こんな考え方も出来る」という哲学的提案をしているんじゃない。
そうじゃなくて「こんな風に考えたら上手くいかない」という事を示す為に突飛な考え(私的言語、規則のパラドックス等)
を述べているんだと思う。だから455氏とはそもそも哲学に対する入り方が違うんだな。
31 名前:B[] 投稿日:2006/06/11(日) 12:33:22
別スレで永井均批判ぽいことがされているけど・・・。
33 名前:B[sage] 投稿日:2006/06/16(金) 21:43:31
>>32 ふーん、そうなんですか。へー、正統派ウィトゲンシュタイン研究者か、読んでみたいなぁ。
そういえばこちらは正統な永井スレではありませんよ。
しかし、あちらの正統なほうで、「意味のない言語は言語ではない」(>>467)という「言語ゲーム」概念を
無視した言語理解が提示されていて――もちろん「私の中で」という逃げを打ってありますが――あれでどうやって
後期ウィトゲンシュタインの思索や、永井均の問題領域に立ち入ろうというのか、私は興味津々です。
39 名前:B[sage] 投稿日:2006/06/23(金) 05:59:06
隣のスレで私的言語が不可能だといっている変なコテがいるが
不可能だとはいえないのは確かだ。(だから永井均の議論は否定されるべきものではない)
不可能だとしたら何が不可能なのかを明らかにしなければならない。
>>545 455さん、その他の人たちへ
「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
>>529 >483氏は私の議論に踏み出したわけではなく,永井が論じている限度での「しくい」は
>そもそも成り立っていないという方向で議論していたと思われる。
483さんは、〈私〉だけに理解される言語 = 私的言語、という想定を「仮に」受け入れています。
わたしは、私的言語について、私的言語の〈私〉と公的言語の「私」の「あいだ」としての「この私」
の「超越的かつ経験的」な位相から議論していて、だからただちに「しくい」「えもい」「ろましい」など
を〈私〉の超越性と結び付けて、それらを私的言語として認めるような理解の仕方はしていません。
この意味で、わたしは455さんの議論には「踏み出してはいない」のです。
>>545 455さん、その他の人たちへ
>カオル氏もそのような主張(私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉で
>なければならない,という条件を立てるとの主張)をしていないのであれば,単に私の
>独り相撲だったことになるし,逆にカオル氏がそのような主張をするのであれば,今の
>ところ,
>>541に書いたようなわけで,同意できないというしかない。
わたしは、私的言語の可能性は否定できないと思っています。
なぜなら、その可能性においてはじめて言語ゲームが可能になると考えるからです。
だから、永井が言うように「言語が可能であるなら私的言語もまた‘可能’でなければ
ならない」とは思います。(
>>436-437参照)
でも、それは私的言語が「しくい」「えもい」「ろましい」のように言語ゲームには属さない
言語として「現実に存在しうる」ということであってはならない、という意味においてです。
なぜなら、言語ゲームを可能にする超越論的な条件としての私的言語の‘可能性’は、
けっして実体的なものとしての私的言語にはなりえないことをこそ示しているからです。
>どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
>カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
>もらおうと思う。
自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入りこむ。
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の
心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の──部分ではなく
──限界なのである。( TLP 5.641 )
「この私」は、その超越性においては私的言語の〈私〉として、その経験性においては
公的言語の「私」として、二重化されているのだと考えています。だからこそ「この私」の
権利上、私的言語の可能性は排除できないのであり、それゆえに事実上、私的言語は
不可能なのです。
少しわたしの論を述べておきます。
「私が『私は痛みを感じている』と言うとき、その痛みを感じている人を指したりしないのは、
私は‘ある意味で’誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’からである」── 404節
…………
実際に痛みを感じていても、もし自分が「痛み」を感じていることを知ることができないならば、
「私は痛みを感じている」ということさえできない。それが言えるということにうちに、すでに
知の成立は‘おのずと示されている’のである。それゆえ、知の言表は不要であり、誤診ですらある。
なぜならば、あえて知を言表すれば、言表可能な水準での無知もまた可能であるかのような誤った
印象を与えることになるからである。いかなる存在者も「私はいま実際に痛みを感じているのだが、
‘自分’が『痛み』を感じていることを知っていない」と‘言う’ことはできない。それゆえに、
人は「私はいま実際に痛みを感じており、‘自分’が『痛み』を感じていることを知ってもいる」と
‘言っては’ならないのである(哲学でもする場合は別にして)。
────『〈私〉のメタフィジックス』(108〜110n)
なにかしらの刺激を受容する身体があり、‘それ’を知りうるのは、この私でしかありえません。
「‘それ’を感じていること」と「‘それ’を感じていることを知ること」とは、この私によって不可分に
なっています。この私は、なにかしらの外的基準によって‘それ’を知りうるのではないからです。
「誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’」というのは、‘それ’を知りうるのが、
この私でしかありえないということ、すなわちなにかしらの外的基準に照らして‘それ’を知るうる
のではないということです。
この外的基準が存在しない「この私」の「知」という特異点から、言語ゲームは展開されるわけです。
この特異点(原理)は、それ以上溯ることのできない「この私の世界」という系が構成されるための
前提命題なのです。
けれども、特異点は世界を開く原点としてのそれなのであり、ただ一度きりのビックバンのような
ものなのです。それそのものは宇宙のどこを探しても、ビックバンが見当たらないのと同じように
言語ゲームのどこを探してみても見つけることはできないでしょう。
もちろん、永井はこのビックバンがいつもつねに起こっているという連続創造説をとっていますから、
言語が可能であるかぎりは、私的言語の「この私の知」もまたいつもつねに可能でなければならない、
すなわち、「私の意味で」(「この私の知」)は、「言語全体に付加されるもの」ということになります。
しかし、なにかしらの外的刺激が内的に記号化され情報となって表象するということが、その表象が
この私の世界を構成する基本要素として生起するということであるなら、すでにそれは特異点(原理)
から展開された──特異点を基本原理にはしていても──別の法則にしたがっているということに
なります。
たとえば、宇宙はビックバンを特異点としてはいても、つまりそれがなければ宇宙はないのだけれども、
ビックバンによって開かれた宇宙は、ビックバンから展開された別の法則、たとえば熱力学の第一法則
(エネルギー不滅の法則)や第二法則(エントロピー増大の法則)にしたがうことになってしまうのと同じ
ことです。
この私の超越性−私的言語の〈私〉−によって開かれた世界は、この私の経験性−公的言語の「私」が
生活形式にしたがうということによって「存在しうる」ようになるのです。だから、「この私」が言語ゲームに
参加しうる、つまり個体としての生における存在者「私」であるかぎりにおいて、それにしたがわないことは
できないのです。なぜなら、そのような存在者「私」を存在させうる条件がそれなのですから。
「我思うゆえに我あり」が抱える驚異も同じだ。もしそれが正しいなら、
それは現に存在している‘この’私を、それだけが現に存在している‘この’私を
指せないのではないか。デカルト自身が、それは誰にでも妥当する一般的言明だと
言っているのだから。指せるためには、私自身が私自身の思いの中で「ゆえに、存在する」
とされたその「私」を、現に存在する私自身と現に結合させている必要がある。
そんなことが可能だろうか。それが「私の言語」という問題である。
……
開闢の私を言語でとらえ、言語であらわすことは可能か。ウィトゲンシュタインが
『論理哲学論考』では「独我論は語りうるか」という形で、『哲学探究』では
「私的言語は可能か」という形で提示した問題はこれだろう。
……
(そうでなければいったい何なのか、私にはわからない)。
────『私・今・そして神』(184〜185n)
まったくその通りですが、ウィトゲンシュタインが「この私」の二重性について厳密に区別
していたのにたいして、永井は混同してしまっているように思います。
バカは一つのキーワードが脳内の絶対的地位を占めるんだよ。原理だとかw
他人には理解できないし役に立たないw
もちろん、ある意味では、開闢はけっして連続しない。それでも、つねにあたかも
持続しているようなあり方をとって現われる必要があるだろう。そしてこのことは、
現実存在はけっして概念によって把握されないが、しかしあたかも概念的に把握される
ようなあり方を取らざるをえない、ということと関係しているだろう。この二つの
問題をつなぐところに位置するのが、私が理解するところの私的言語の問題である。
私がこう疑い、こう考えるとき、「私が理解する意味で」はつねに背後に退いて前提され、
この思考の中にあらわれることができない。
────『私・今・そして神』(185〜186n)
「ある意味では、開闢はけっして連続しない」というのは、ウィトゲンシュタインの言う
「‘ある意味で’誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’」ということに相当します。
「ある意味で」とは、「言語全体に付加されるもの」としての「私の意味で」のことでしょう。
永井は、先に引用した『〈私〉のメタフィジックス』の108〜109nでこう言っています。
──「ある意味で……知らない」という‘言いかた’が認められるならば……「私は自分が
痛みを感じていることを知っている」と‘言えない’理由はない──のだと。
たしかに‘言えない’理由はないです。でも、それは「私は自分が痛みを感じている」と
「私は自分が痛みを感じていることを知っている」との「あいだ」(「この私」)に論理的な差異を
認めることで「私は自分が痛みを感じていることを知らない」と言うこともまた有意味である、
ということではなく、なぜならそれは「この私」が「痛みを感じていない」ということなのであって、
たんに無意味でしかないからです。すなわち、「感じていること」と「感じていることを知ること」は、
「この私」において切り離せないことなのです。
559 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/26(月) 00:43:10
>>558 >すなわち、「感じていること」と「感じていることを知ること」は、
>「この私」において切り離せないことなのです。
>>436-437も参照してみてください。
おやすみ age
560 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 01:12:18
■なぜ「純一」はむなしくならずに「気狂いポジティブ」を続けることができるのか。
<実生活>
・性格はくそ真面目。実生活で小さいころから空気を読めずに浮いていた。
・まわりと上手くやれず、仕事がつづかない。最近もやめた。
・30後半で、女性とつきあったこともなく、童貞だ。
・不安な毎日を過ごしている。
<哲学板>
・ネットでもくそ真面目で同じように浮いてしまった。
・どうせ回りから浮くなら、開き直って荒らしになった。
・電車で独り言をいうように「気狂いポジティブ」にふるまって、真面目だから浮いているのを
荒らしだから浮いているようにごまかしている。
・自分への劣等感から自己言及がない。
・オマエモナーをぴかぁ〜モナーしてぴかぁ叩きで自己言及から逃げている。
・3回アク禁になったが、もはや「気狂いポジティブ」な荒し以外に人生の逃げ場がない。
■純一本人によるエゴグラムの性格分類結果
お手あげタイプ(V型)
http://www.egogram-f.jp/seikaku/aisyou/v.htm いつも実力以上のことをやろうとしては失敗し、自分の実際以上に良く思われよう、気に
入られようとしては思うようにいかず、自己不信や劣等感におちいっていくタイプです。他者に
対する批判精神は非常に厳しいものがありますので、他人と自分の双方を同時にうらむような
ことが、しばしば起こってくるタイプです。要は、自分の性格のなかの厳しさを減らすか、イイ子に
なろうとする欲をへらすかです。そして、人生を八分目で満足するようにし、気ばかりを先行
させないことが大切でしょう。
>>545 455さん
>どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
>カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
>もらおうと思う。
やっぱりがまんできない!
わたしの議論が生産的でないような言い方はやめてください。
あなたにわたしの議論を評価できるだけの力があるとは思わない。
あなたはわたしほど考えていないし勉強もしていないです。
あなたへの551,552のレスは無効にします。
非生産的な思い込みや信念からの意見ではなく、まっとうな思考による反論にのみ対応します。
反論できないなら、陰口でもしていてください。
562 :
455:2006/06/27(火) 00:10:31
>>561 いや,カオル氏の議論自体が非生産的だと言ったつもりはない。
>>545は,“私が”いちいち応答をすることが,非生産的だ(なぜなら,私が独り相撲を
していただけか,またはカオル氏とは基本的な考え方が違うことが明らかであるか,どち
らかだと思われるから),という趣旨で書いたつもりだ。
>>545の表現が不適切だったとしたら,その点は申し訳ない。
563 :
455:2006/06/27(火) 00:39:10
>>549 どうも,483氏とも,何か大きく食い違っているらしい。
>ここに既に誤解の種がある。そもそも「私的言語」は素朴な独我論の「言語哲学版」の議論と言っていい。
>だから「他人には理解できず<私>にしか理解できない」は<厳しい>のではなく、<素朴>な
>表現なのだ。だからこれは<条件>なんかじゃない。
また,今までと同様のことを聞かざるを得ない。ここでいう「私的言語」とは,誰が論じている
私的言語のことか?
もし,永井が論じている「私的言語」のことだとしたら,何か違うのではないか。永井は,
認識論的独我論を,本当の問題を隠してしまうニセの独我論であるとして,それとは別の
独在性の議論をしているのだから,今さら「素朴な独我論の「言語哲学版」」などという
ものを論じているとは思えないのだが。
(もっとも,483氏がここで言っている「素朴な独我論」の内容は明らかではなく,それが
永井の言う認識論的独我論とイコールであるという保証もないので,私の早とちりかもしれ
ないが。)
また,ウィトゲンシュタイン(あるいはその他の人)が論じている「私的言語」のことだと
したら,これも今までと同様に,なぜ永井の議論がウィトゲンシュタイン(その他の人)の
議論によって判断されるのか,両者の議論がイコールだと言えるのか,と聞かざるを得ない。
現状だと,どこがどう食い違っているのかもよくわからないので,生産的な議論ができそう
にないと思われる(483氏の議論自体が生産的でないというのではなく,私が応答するこ
とが生産的でないという趣旨。念のため)
だから,483氏との関係でも,一旦打ち切ることにさせてもらおうと思う。
564 :
455:2006/06/27(火) 00:41:10
私のレスは,カオル氏との関係・483氏との関係ともに,よい結果を生まなかったようだし,
他に積極的に生産的な議論ができそうな見込みも,今のところないので,当分の間,この
スレに書き込むのは止めようと思う。両氏と,その他にも迷惑をかけた方には,申し訳なかった。
(ただ,もし,両氏が(他の方でも),私の今までのレスについて指摘することがあるので
あれば,書いてしまったことには責任を取るという意味で,できるだけ答える。)
565 :
483:2006/06/27(火) 15:15:54
>>563 455氏が主張し続けている「永井の私的言語」議論とウィトゲンシュタインの「私的言語」
の違いを一向に論じてくれないのは不満だ。永井の議論にウィトゲンシュタインの議論に回収されない
ような論点があるのだろうか。僕にはあるとは思えないが、もしあるのなら455氏がその点を
455氏なりの解釈で語ってくれないだろうか。
「可能であったのでなければならない」(永井)と言われる<私的言語>をどうやって示すのか。
これが問題だ。(『私・今・そして神』187pではそのすぐ後で「まさにそのことが私的言語を
不可能にするのだ」とされている以上、これ以上の議論が可能であるとは思えないのだが。
あくまで「可能であったのでなければならない」という“仄めかし”に終わるのは明らかだろう。)
>>496 455さん……(シツコイかな、と思ってレスしなかったものです)
>ウィトゲンシュタインの私的批判言語は(これも明示的には)感覚語に関するものだから,
>永井の言う「<私>」「<今>」あたりにそのまま当てはめるのは難しいのではないか,
永井は、ずーっと当てはめつづけているんです。
『哲学探究』の私的言語に関する議論においては、「感覚日記」という話しが中心的な
役割を演じている。…………ウィトゲンシュタインは次のように書いている。
「私はある感覚(eine gewisse Empfindung)が繰り返し起こることを日記につけたいと
思っている。そのために、私はその感覚を『E』という記号と結びつけ、私にその感覚が
起こった日には必ず日記にその記号を書き込むことにする。」(『探求』 258節)
もちろん、ここでの「感覚」は状況や反応行動などの外的規準からまったく切り離された
ものとして想定されている。それにもかかわらず、われわれはこの状況設定を問題なく
理解することができるし、またそうであることを前提としてウィトゲンシュタインの議論は
開始されている。
ところが、この「感覚日記」の断章は実に意外な展開を見せて終わるのである。
(どうして永井はそう思ったのか?) それはウィトゲンシュタインが、
外的諸規準を除去するだけで、超越的に私秘的なものに達することができると
考えたところにある。
ウィトゲンシュタインの「感覚」には、最初から二義性が込められていた
……一方でそれは‘個人的’に私秘的な「感覚」を意味しており……
……他方でそれは‘超越的’に私秘的な〈感覚〉を意味しており…………
彼は自分の思い描く状況を「感覚」という公共言語を使って描き出すことはできない。
──── 引用部は『〈魂〉に対する態度』( 85〜87n)
(つづき)
その通りと納得してもいい。‘それ’が「超越的に私秘的な〈感覚〉」ということなら。
でもだからこそ「E」と同様、「気分」「感覚」「感情」などの公共言語を使用した上、
「しくい」「えもい」「ろましい」などの「普通の感覚語」を、あたかも「私的言語」で
あるかのように(永井の思い描くような状況を)描き出すことはできないわけです。
ウィトゲンシュタインは、「E」が私的言語ではありえないことを示すことによって、
言語ゲームには属さない〈E〉の私的言語としての存在可能性を、むしろ否定され
ないように、語りえない〈超越〉として残したのです。だからこそ「E」は厳格に徹底
して否定されなければならなかったのです。私的言語が、公的言語の否定として
あるのなら、それは教えることも学ばれることもなく、だからけっして理解されたり
知られたりすることもないのではないでしょうか。『論考』の独我論の〈私〉のように。
>問題は,ほんとうに感じるのは<私>だけで,ただ一人そのような特別な者が
>存在することだ
への通路は、感じる「この私」の私秘性、すなわち「この私」の超越性においてのみ
開かれうるのではないでしょうか。「この私」もまた、その超越においては言語ゲーム
には属せないのですから。
>>562 455さん
ほんとうに考え方のちがいなのでしょうか。わたしの考えがあなたに届かないのは、
いえ、わたしにあなたの考えがわからないということの原因が、もし〈私〉を感じられ
ないというそのことなら、わたしは知りうることのできないそれをこそ知りたかった。
──私は、なぜこの私なのか──
という命題は、〈私〉と「この私」との「絆」を示しているのではないか、
双方がどこかで通底しているから、公的言語が可能なら私的言語
もまた可能と言えるのではないか。
世界が「この世界」であるなら、それも私的言語である、と言えるなら、
私が「この私」であるなら、それも私的言語である、と言えるのではないか。
では、私的言語の私的さとは、いったい何のことなのか?
草花を見ている、その「見え」は草花そのものです。
それが美しいと感じられるとき、草花はそのようなものです。
草花の観照(Theoria:テオリア)において、主体は不在です。
草花や草花の美しさが、対象としては存在しないからです。
そうであることでそのようにあるというのが事実の世界です。
そうであるとはどういうことか? そのようにあるとはどのようにか?
問いの対象にしてしまうと、存在論や認識論という理論(theory)になる。
この私の超越/独在性の〈私〉も、名指されると、それ自身であることを
やめてしまう。なぜなら、〈私〉は何ものでもなく、そうであることだから。
草花が美しいというのは、美しいモノと美しいコトが一つになるという「絆」。
モノとコトの世界の共在。美しさは、草花とこの私に同時に立ち現われる。
「私の目は二重です」は、二重である「私というモノ」についての記述。
「私は目が痛いです」は、痛いのは「私であるコト」についての記述。
「私というモノ」は、対象だから「誤りうる」。
「私であるコト」は、事実だから「誤りえない」。
「私というモノ」には、身体という根拠がある。
「私であるコト」には、「 」という根拠がある?
いえ、「 」(心)は、モノではないから検証の対象にはならない。
「私は歯が痛い」という命題において、「歯が痛い私」はモノとしての対象だから、
通り越して短絡させられる公的言語の「私」として言語ゲームに属していると思う。
でも、そのことから「私は歯が痛い」が、「歯が痛い私」の様相の言表にすぎない、
ということにはならない。
なぜなら、「歯が痛い私」は、だれにとっても「歯が痛い私」なのであって、
そこには、「この私」という主体の関与の必然性はまったくないけれど、
「私は歯が痛い」には、その言明が成立しうる条件として、経験の主体「この私」
の関与が必然として求められるからです。
けれども、言語ゲームにおいては、「この私」の経験の記述命題は検証できない。
なぜなら、それが「痛い」と「思われ、感じられ、信じられ」という直接経験は、
そのようなモノ(対象)ではなく、そのようなコト(事実)だからです。
「私は歯が痛い」は、言語ゲームによって、そのようなモノ「歯が痛い私」として
通り越して短絡させられる(読み替えられる)ことで、はじめて理解されるのです。
言いかえると、そのようなコトとしての直接経験そのものが、言語全体に貼り付いて
いるからこそ、そのようなモノとしての言語ゲームが可能になるのだと考えられます。
つまり、そのようなコトを可能にしているのは、「この私」が「そうであることによって
そのようにある」という原初の事実なのであって、これが言語ゲームの世界が開か
れるにあたっての特異点なのです。でも、この事実は記述されえないコトなのです。
記述されうるのは、「この私」が「そのようなモノであり、如何にあるか」ということに
ついてだけなのです。「この私」が、対象(モノ)でも事実(コト)でもある、ということ
のうち、言語ゲームに登場するのは、「この私」の対象としての面だけなのでしょう。
「ライオンが草原を駈けている」というコトそのものは、言語ゲームには属さない。
わたしたちは、「草原を駈けているライオン」または「ライオンが駈けている草原」
というモノの様相としてコトを理解するからです。
言葉(コトノハ)は、事(コト)の一端を分節したにすぎない「モノ」なのです。
その背景に「私の意味で」というコト、〈私〉的さが、言語全体/世界全体の
すみずみにまで行き渡っているコトで、はじめて言語ゲームは可能なのです。
世界とは、そうであるコトのすべてである。(TLP 1)
世界は、コトの全部であって、モノの全部ではない。(TLP 1.1)
だから、そうであるコトのすべて(世界)である〈私〉は、世界には存在しないのです。
思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても
報告がされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られね
ばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある
重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で
論じることのでき‘ない’唯一のもの、それが主体なのである。(TLP 5.631)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(TLP 5.632)
存在する人間としての「私」のことや「私が見出した世界」の、そのようなモノとしての事柄
についてはすべて書き込めるでしょう。でも、そうであるコトとしての〈私〉についての「事実」、
「そうである〈私〉によって、そのようにある事実」については、いっさい書き込めないでしょう。
なぜなら、「思考し表象するというコト」そのもの、すなわちそのような行為(コト)そのものが、
「思考し表象される世界」 → 「私が見出した世界という本(モノ)」を成立させているのだから。
つまり、その不在の実体とその現前との根拠関係が、──〈私〉が、「この私」であること──
なのではないでしょうか。だからこそ、──〈私〉は「この私」でなければならない──のです。
571 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/29(木) 04:24:56
まだまだ、相当に荒い議論です。ツッコミどころ満載ですよー!
>>436-437や、
>>391-393とは、またちがう角度から考えてみました。
自分のなかでは、それなりに繋がっていたりもする議論なのですが、
ここで論文を書くわけにもいかないので、とりあえず別の議論として
とらえてもらって結構です。
また、永井の私的言論についての批判は、相当に端折っていますが、
基本的には、
>>538のようなものになります。(ウィトゲンシュタインの
私的言語批判に基づいていますが、かなり独自な意見だと思います)
今までもそうですが、これからも永井を批判していきたいと思っています。
わたしの論は批判から生まれたものですが、ある意味では〈わたし〉論を
フォローするだけのものにすぎないことが、いまは一番不満なところです。
それから改めて言うまでもないですが、もちろんわたしの書き込みなんて
無視してもらって結構です。改めて言うまでもなく、いつもそうされるので
心配はしてませんが、一応コテの独占スレとか言われるとイヤなので。
おやすみ age
>>571 >永井の私的言論
訂正 永井の私的言語論、でした。m(__)m
573 :
考える名無しさん:2006/06/29(木) 04:29:40
うるせー
別に永井を批判してもすごくも何ともないよな。永井を擁護する人でもいなければ
議論にもならない。
575 :
483:2006/07/01(土) 17:05:25
455氏からレスが無いので自分から議論を起こすことにするが、もっと問題を明確にする為に
「私的言語」というよりも「私的」ということにフォーカスを当てたい。「私的」とはどういうことか。
それは端的に言えば「感覚」について言われる事があるが、しかしウィトゲンシュタインも言うように
痛みでのたうちまわっている人を見れば、その人の「痛み」は明白でありこれを「私的」とは呼べない。
また痛みについて誰にも言わない為にそれが「私的」と呼ばれるわけでもない。
当然その人が「痛み」を感じている事が外部の人間に分ってもよいのだ。その上でなお、
「この痛みは私にしか分らない!」と言われるのだがこれはどういうことか。
我々は「この痛みは私にしか分らない!」をどう理解するべきか。これは実は或ることを伝えるように見えて
実は単なる痛みの叫びではないか。
この場合の「分らない」というのは実は「分る」の反対語では“ない”のではないか。
当然個人の痛みは「分らない」ことが前提されている以上、ここでは普通我々が使う「分る」、「分らない」
の用法とは全く違う現れ方をしているのではないか。
>>574 この人は批判を『非難』とごっちゃにしていると思う。ここで為されるべきは批判、しかも哲学的批判
でなければならない。擁護、と言ったってそれはあくまで<哲学的>に擁護されなきゃならない。
僕の議論が単なる永井の悪口に見えたのか。当然そんなものは意味が無いし、その逆に単に永井という
人が好き、という表明も意味が無い。
576 :
455:2006/07/03(月) 03:57:12
>>565 それほど意味のある作業ではないと思われるが,一応現時点でできそうなこととして,
永井が今まで,ウィトゲンシュタインの「私的言語」につきどういうことを言っていたか,
そして,『私・今・そして神』(新刊)で論じられている永井の「私的言語」は,ウィト
ゲンシュタインのものと同じなのか違うのか,というような点を,いくつか書いてみる。
他にカオル氏と483氏の個別のレスもあったが,とりあえず,それらに対する応答では
なく,私が今まとめた範囲のことを書いてみる。
577 :
455:2006/07/03(月) 03:58:27
まず,新刊で出てくる「私的言語」について,「「しくい」型私的言語」と,「「くすぐら
れたのになぜか痛い」型私的言語」(略して「「痛い」型私的言語」)を区別してみる。
区別するのは,この2つで内容や根拠等が異なると思われるため(言葉の意味の逆転とか
絵日記の話が出てくると,さらに別の段階のようだが(214頁以下),そこまで頭が回らない)。
「しくい」型私的言語は,公共的な言葉では表せない,私だけが感じる感覚等を指す言葉で,
言語として成り立つ根拠として,私が「しくい」と思う確信以外に,私的感覚相互の連関が
あれば,それによる正当化ができるなどとされている。
「痛い」型私的言語は,(1)誰が何と言おうと,また私的連関に反してでも,私が「痛い」
と思うなら痛いのである,という点と,(2)「しくい」のように公共的でない言葉ではなく,
普通の言葉が使われているのが特徴と思われる。このような「痛い」という言葉が言語と
して成り立つのかどうかという点については,新刊205〜206頁あたりの議論が関係して
いると思われるが,現時点でよくわからない。
ついでに疑問点を書くと,「しくい」型私的言語では,私的連関が根拠として挙げられて
いるが,一方で「痛い」型私的言語は,私的連関に反しても痛いということは正しいと
されている。すると,この2つの「私的言語」に関する議論は矛盾しているのではないか
(あるいは,「痛い」型私的言語は,言語として成り立たないのではないか),という
疑問があり得ると思われる。しかし,それはとりあえず置いておく。
578 :
455:
次に,永井は,以前の本では,ウィトゲンシュタインの私的言語について,すでに共同体の
一員として認められている主体の内的体験に関する私的性格(個人的私秘性)と,まだ
共同体の一員として認められていない,あるいは決して認められることのない主体の内的
体験に関する私的性格(超越的私秘性)との区別が曖昧であるとしている。そして,個人的
私秘性についての私的言語は,「ある特定の感覚が繰り返し起こることについて日記をつける」
という状況描写が有意味である限り,可能であるようなことを書いている。一方で,超越的
私秘性については,(1)ウィトゲンシュタインが問題にしようとしていたのは,普通の痛みで
はなく,公共的な脈絡で痛みを感じることはないため,自分の感じるもの(<痛み>)を語る
ために「痛み」という言葉を使うことができないような子どもの<痛み>である,よって,
実は,ウィトゲンシュタインの状況描写は公共言語でなされておらず,有意味ではない,
(2)ウィトゲンシュタインが,すでに共同体の一員として認められた人格主体の持つ感覚から
外的諸基準を除去するだけで超越的私秘性に達することができると考えたのは,間違いである,
などとしている(『<私>のメタフィジックス』44〜47頁,『<魂>に対する態度』85〜88頁)。
新刊197頁にも,だいたい同旨のことが書いてある。(微妙に違うのは,超越的私秘性に関する
私的言語を使う主体が「初めてしかも独力で意味付与を行う独我論的な主体」であるか(『<私>
のメタフィジックス』45頁),「私的言語の力によってはじめておのれを持続的主体として
客観的世界の内部に位置づけようとする主体」であるか(新刊197頁)という点か。特に,
「独力」という言葉があるかどうかが,意味があるのではないかという気がする。)