今度、永井均と飲み会やるんだけど・・・

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952カオル:2005/10/14(金) 03:34:08

>永井均はその考察の結びで―120ページぐらいですかね―、「本当の独我論は実在論である」とか
>「実在論とは本当の独我論のことではないか」というような言葉で表現します。

これは、ウィトの『論考』における独我論テーゼ「世界は私の世界である」と
主体否定テーゼ「私は私の世界である」からみちびかれる結論のようです。

詳しくは、『論理哲学論考』を読む(野矢 茂樹 著)
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488679078X/249-8863026-0329955
が、断然おススメです!

参考のために結論の部分だけ抜粋しておきます。(同書 214n)

 独我論は主体否定テーゼを伴なって完成される。独我論は、「世界は私の世界である」と言う。
 しかし、主体否定テーゼに従えば、「私の世界」と言われるべき「私」は世界の内にはない。
 それは世界が存在するための前提であり、現れてくるのはただ世界だけである。
 それゆえ、独我論の「世界は私の世界である」という主張は、主体否定テーゼを経て、
 そこにおける「私」さえ消去されることとなり、結果として、たんに「世界はこの世界である」
 と主張するだけのものとなる。この点を捉えてウィトゲンシュタインは次のように主張する。
  
 五・六四 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。
 独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在がのこされる。
953カオル:2005/10/14(金) 03:35:16

> 永井均ははじめから「他者」をてこに「独我論」を進めてきたし、ついにその最終段階では
>「独我論」が「他者」の存在?(=実在論)に通底していると言います。

ウィトの独我論と永井のそれとが示している問題意識の存在論的な同質性は
ニップルさんのご指摘のとおり、他者の他者性にたいする感受性にその起源が
あるのかもしれません。

<ぼく>の独我論を「ぼく」の論理空間の唯一性によって説明しようとしても
「あなた」にそれが理解されてしまった時点で、その唯一性はホモロクエンス
としての人間のもつ普遍的な論理の形式のなかにのみこまれてしまいます。
唯一の、それゆえ閉じていたはずの論理空間は、今や存在論的に同格の
「ぼくら」に共有され、等しい思考可能性の場として開かれることになります。

ふたたび、野矢さんの著書から引用します。(216n)

 論理空間を共有していない他者 ── この、意味の他者という他者性にリアリティを感じない人、
 すべてがひとつの論理空間のもとに生きる<われわれ>であるという楽観を受け入れる人は、
 『論考』の独我論が排除したものを理解できないだろう。そして『論考』が「独我論」と称した
 ものがなぜ「独我論」なのか理解できないに違いない。

 ウィトゲンシュタインは、意味の他者のリアリティを人一倍強く感じていた、
 ── だからこそ、意味の他者を排除しようとしたのである。
954カオル:2005/10/14(金) 03:37:17

> カオルさんの言うように「私」の「生」がより大きなものに通じているならば、
>そして私の理解が永井均の「独我論」を理解するのに一定以上の妥当性を持つならば、いまや課題は
>「部分」=<ぼく>と「全体的部分」=「個々」がどのような形で絡み合っているのか、
>その絡みを解きほぐしながら示すことになるのではないでしょうか。

もうあきあきでしょうけど、ふたたびウィトの独我論から・・・

ウィトの独我論のテーゼ「世界は私の世界である」は
他者の論理空間は思考できない(⇒語れない、示せない)というものです。
ようするに、他者の「存在」を認めないという考えです。
当然、他者から見た「私」と「私(自我)」との対比もありえないので
論理的帰結として、「私」という実体も否定されることになります。

「私」はどこへ?

「世界は私の世界である」の「世界」と「私」は同格ですが
すでに「私」という実体は否定されているので
この命題は、「世界は世界である」というトートロジーに還元されます。
これは、独我論がみずからの手で「私」という実体を否定するなら
そこには、トートロジー(の集合)としての世界そのもの(実在)だけが
残されるということです。
955カオル:2005/10/14(金) 03:39:27

(つづき)

ウィトの世界は、「論理的必然性」によって「現に成立している事態を
すべて集めたもの」のことなので、「世界は世界である」ための前提として
この「論理的必然性」、つまり「論理の形式」を要請することになります。
この「論理の形式」が、実体としての存在を否定された「私」になります。

ウィトは、「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」(TLP 1.13)
と考えました。これは論理の形式を世界そのものの形式と前提したからです。

ですが、世界はそのようにはできていないかもしれないのです。
たとえウィトの独我論が正しいのだとしても、排除されたのはあくまで
ホモロクエンスとして定義された「他者」の一側面でしかないでしょう。
別の生を引き受けている他者−「生の形式」を前提にした「存在者」を
論理によって切り捨てることなどできないと思うからです。
端的に、論理の世界があるのなら、生命の世界もあるのでしょうから。

ですから、ウィトの他者にたいする脅えも、永井の他者にたいする仕切りも
どうしてそうなるのかは、たんに論理空間を介しての意味論的な探究だけでは
足らないのではないかと感じています。
956カオル:2005/10/14(金) 04:28:14
>ニップルさん

次いでにいうと、別スレでわたしは西田につながる書き込み(生命論)も
していたんですよ。述語論理モドキの話もしてましたしね。
だからわたしはあなたが西田と永井の「架け橋」という提案をされたときには
すごーく期待していたんです。西田も永井も「相即の論理」とでもいうような
非論理的論理をもちいていますしね。そこがとても似てるなって思っていたし
955にも書いてあるように「論理の世界」と「生命の世界」の「架け橋」という
構想もあったから。

あとわたしの論にたいする批判にたいしての反論がない、という指摘ですが
そっち(本来の議論の方)まで手が回らないということです。書きたいんです。
でも今わたしたちがやっている議論が収束しないとそっちにいけないでしょ?

わたしが批判したり論破しようとしたり、つまり議論するのは
わたしが「わかっていない」ことを知るため、というのも大きな目的のひとつです。
たとえばテニスを上手になろうとしたら、同じようなレベルの相手と遊んでいても
上手くならないのと同じで、上手くなりたかったら男子で上手な人とかさがすわけです。
わたしがあなたを批判するのはそういうことなんです。
おそらくあなたのいう「わかっている、というところに自らを位置づけたいらしく」というのは、
もちろんわたしには、そういう「位置づけたい」なんていう気持ちはぜんぜんないけれども
わかっていないことがわかっていないとしたら、そのようにみえてしまうんでしょうね。
今していたコピペとか。わたしは、ただどこがまちがっているのかがわからないんです。
わたしは自分がダメダメなことは十分知っています。そしてあなたが人としてわたしより
まともなこともわかっています。わたしはあなたにすべてを任せたいって思っています。
だからどうしたらいいのか教えてください。あなたのレスをみて止まらない自分がいます。
このままだといくらでもあなたのことを傷つけてしまいます。
あなたのわたしへの荒らし認定=去れということがもしも本意ならわたしは去ります。
957ニプレス:2005/10/15(土) 11:28:40
傷つける?哲学をクイズだと思っている人は無関係な情報を大量に
陳列すれば論敵を傷つけられると思うのでしょうか。

デリダが云々なんてのは無しだと言ったのに「差延」とか言い出して…。
確かに差延についてデリダについて私の理解は不十分ですがね。
でもあなたは、現前した〈わたし〉、という文で、
〈わたし〉は現前しない、と言いたいわけですか?
別の部分に書いていることをわざと解りにくく書きなおしたわけ?
私には、〈わたし〉は現前するときとしないときがある、
と言っているようにしか見えませんが。
それにあなたがデリダを用いるなら「脱構築」を無視しては
ならないと暗に言った》908をいまだに無視するのはなぜ?
不思議がいっぱいです。
958ニプレス:2005/10/15(土) 12:57:02
自分に不都合な書きこみがあると無関係な情報を大量に羅列する。
相手が嫌気がさして取り合わなくなるまでこのサイクルは
続くのですか?

ホムンクルス問題からオリジナル問題、教養問題に至るまで
カオルさんはずっと蹴散らされています。その度にあなたは
「これ知ってますか」と情報量自慢を繰り出して
自らの惨敗をなかったことにしてきました。

「知―無知」の関係をを「真―偽」関係にあてはめるという
幼稚な発想を基にして、不精確な情報を振り回し
ほとんど荒唐無稽なやり方で論敵を「無知」に位置付け、
「偽」の烙印を押す。
立場を自由に変えて自らの発言にトコトン無責任。
しかし他者には発言の責任を求める。
…溜め息がでます。
959考える名無しさん:2005/10/15(土) 13:23:45
何だかよくわからんけど、永井スレである以上は永井と関連する話をして
くれんかね。と言っても、このスレ自体もともとネタスレだったんだが(w

次スレタイ案 今度、永井均と飲み会やるんだけど・・・2軒目
960ニプレス:2005/10/15(土) 13:51:07
「ホムンクルス」がどうのと言って永井均を批判できると
思っていた方が、「私は永井均の言っていることが概ねわかる」
と宣言したり、「せん」に意思の意味があることも分からない方が
「あなたは本当に西田を読んだのですか」と詰め寄ったり、
「脱構築」に無関心な方が熱心にデリダを引いてきたり、
聞きもしない野家のウィト解釈が大量に書き込まれたり…。

ここで起こっていることが荒らしでないならばなんでしょう。
…しかし948さんも話題の転換を求めています。
次のカオルさんの反論で終わりにしましょう。
とにかく私はもう嫌です。
961 jun1 :2005/10/16(日) 00:27:01
>>945 ニップルさん

おそらく誤解があると思うんですけど

>根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたかったから。 ・・・A

の意味として「それでない」と「そうでない」では、指し示すものの内容が根本的に違うのではないでしょうか?

「それでない」は、ニップルさんが言及されたとおり
「カオルさんは永井均がオリジナルでないことを明らかにしようとしているのでしょう」を否定するものです。
つまりデリダを出すことによって、「永井の論がオリジナルではない」と証明することになります。

しかし、「そうではない」は、実は、その上記の解釈である「永井の論がオリジナルでない」を
入れ子構造上に、さらに否定するものであり、「永井の論はオリジナルである」と言う趣旨の
文になるのではないでしょうか?


つまり、「それではない」=「永井の論はオリジナルではない」
     「そうではない」=【「永井の論はオリジナルではない」ではない】ということです。


つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
しかしながら「オリジナルである」ということになります。
962 jun1 :2005/10/16(日) 00:27:46
(つづき)

またこの「オリジナルではない」から「オリジナルである」への移行が、カオルさんの本当に
目指すものなのだと私には思われたのです。だからこそ、それが根本的な違いとして
カオルさんはあえて言及したのだろうと。

もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)
それはつまり「オリジナルの問題」、あるいは「魂の問題」に通ずる無条件的な存在の
実在性が、「オリジナル」さの根拠になるからと思ったからなのではないでしょうか? 

ちなみに、「明らか」という言葉が示すのは、その存在の実在性を問うことだと私は思って
おりまして、つまり解釈することによって、「明らかさ」が導き出されるということをカオルさんが
言いたいのではなく、「実在性」を問題にしたとき、それ以前の問題として、
その存在の「オリジナル性」も無条件的に導出されているという結果を示したかったのではないでしょうか?

言い換えるならば意識の信念レベルの問題で、その存在が「オリジナル」であることを認めずに、
それが実在することはできない。つまりこの「オリジナル」という概念は、実は「実在性」よりも、
深く根本的な概念であるということです。(より形而上的な概念であるということ,アプリオリ)

以上のことがあったからこそ「オリジナルである」ことと「オリジナルでない」ことの
矛盾(ダブルスタンダード、二重基準)が、カオルさんの狙いとする議論にとって必要とされており、
そしてこの「オリジナル」という概念の定立の困難さが、つまり「あいまいさ」が、
存在の根源性の証明、つまり標準ともなるのではないかと私、個人的には考えております。
963jun1:2005/10/16(日) 00:28:31
(つづき)

以上の点、少し気になったのでレスをさせていただきました。
いちおう、ほぼ正確に代弁したつもりでいますので、もし違っていたり、また反論が
あるようでしたら、承りますのでよろしくお願いします。

では、いったんさらば。
964 jun1 :2005/10/16(日) 16:13:10
>>961

訂正


>「カオルさんは永井均がオリジナルでないことを明らかにしようとしているのでしょう」を否定するものです。

 「永井均の問題領域はオリジナルである」ことを否定するものです。

まったく意味が違ってますね。
965 jun1 :2005/10/16(日) 16:29:42

追加

まあ、私の論は(参照>>961-964)いちおう自分ではまったくオリジナルのつもりでいますが、実は
探せば同じようなことを考えている人はいたわけです。


ライプニッツ :モナドロジー 35

   定義することのできない単純な観念がある。また証明することができず、その必要もない
   公理や公準、一口で言うと、"原初的な原理"がある。これらは"自同的命題"で、その逆は、
   明白な矛盾をふくんでいる。


よく読めば分かるとおり私とほとんどまったく一緒のことを言っています。
つまりオリジナルと思っていたものが、オリジナルではなかった。
ついさっき「モナドロジー」を読んだばかりなのですが、落胆とともに、驚きがありました。
まあ個人的には、すでにライプニッツを超えているものと思っていますけどね。
とりあえずオリジナルの問題は、そういうことで。
966カオル:2005/10/18(火) 20:34:06
>>961 jun1さん

一応、わたしのことだから。

>>根本的にちがいます。たとえばデリダをもちだしたのは「それでない」ことを示すため、
「それでない」 → 「デリダでない」または「デリダのそれでない」ということ。
まだ何もしゃべってないのでアレですが、先々「それでない」ことが示せたらと。

>>わたしが永井の論はこう解釈できるのでは?と書くのは「そうでない」ことを明らかにしたかったから。
「そうでない」 → 「そう解釈できない」

>つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
>しかしながら「オリジナルである」ということになります。
うん、そんな感じです。なぜか結論が当たっているところがビックリ。(笑)
967カオル:2005/10/18(火) 20:46:34
>>962
>またこの「オリジナルではない」から「オリジナルである」への移行が、カオルさんの本当に
>目指すものなのだと私には思われたのです。だからこそ、それが根本的な違いとして
>カオルさんはあえて言及したのだろうと。
うん、これもその通りです。
本の中の永井は誰の批判も受けることがないわけですからね。
でもちゃんと見抜いてる人がいましたよ。(^.^)
>アンチ過ぎれば信者となり >>933
こうならないように、というのがわたしのスタンスですね。でも振り子は大きく。

>もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
>なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)
>それはつまり「オリジナルの問題」、あるいは「魂の問題」に通ずる無条件的な存在の
>実在性が、「オリジナル」さの根拠になるからと思ったからなのではないでしょうか? 
うん、これもその通りです。

>「実在性」を問題にしたとき、それ以前の問題として、
>その存在の「オリジナル性」も無条件的に導出されているという結果を示したかったのではないでしょうか?
すごいすごい!(^.^)
わたしの場合の「実在性」は「ほんとうさ」や「実感」のレベルなんだけどね。(^_^;)
でも理論以前の問いの始まり−比類なきわたし−って"それ"でしょ?
だからそれ以上も、それ以外もないと思うの。
その虚構性を突き詰めていっても、いつのまにか元に戻ってた、みたいな。
968カオル:2005/10/18(火) 21:07:24

>言い換えるならば意識の信念レベルの問題で、その存在が「オリジナル」であることを認めずに、
>それが実在することはできない。つまりこの「オリジナル」という概念は、実は「実在性」よりも、
>深く根本的な概念であるということです。(より形而上的な概念であるということ,アプリオリ)

ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。経験知としてわかりますよ。
何であっても"それ"が「わたしにとっての」でなくなった経験がないとわからないことかも。

>以上のことがあったからこそ「オリジナルである」ことと「オリジナルでない」ことの
>矛盾(ダブルスタンダード、二重基準)が、カオルさんの狙いとする議論にとって必要とされており、
>そしてこの「オリジナル」という概念の定立の困難さが、つまり「あいまいさ」が、
>存在の根源性の証明、つまり標準ともなるのではないかと私、個人的には考えております。

思惑としては、わたし自身がその素材になってみようとか、ちょっと思ってましたけどね。
たとえば「哲学とは何か」スレで「哲学とは何か」には答えずに「哲学する」姿を見せることで
「哲学とは何か」を示す、みたいな。

転倒や反転、相即の原理やダブルスタンダードの向こう側って? 何? 誰?
ちなみにデリダの脱構築は、常にこの問いを残すことにあったのではないでしょうか?
ほうっておくと、いつのまにか"それ"は「何か」や「誰か」にされてしまうから。(笑)
でもそれが仮に哲学の今の到達点なのだとしたら、まさに"それ"に驚き
"それ"に真っ正面からぶつかり、真剣に取り組むことこそが哲学なのではないか、
といって、永井は<わたし>に孤軍奮闘する。(みんなも一緒だよー!)
だから永井は「哲学はまだ始まっていない!」というわけです。信者ヤバイ。アハハ
969カオル:2005/10/18(火) 21:10:48
>ニップルさん

ごめんなさい。
970考える名無しさん:2005/10/19(水) 00:28:25
流れと関係なくて申し訳ないけど,『私・今・そして神』を読んで疑問に
思ったことを書き込んでみていいですか?別にたいした問題じゃなくて,
個人的に読んでみてよくわからない部分があるだけなんだけど。

例えば,19pで,「朝,目覚めかけたとき,いま見ていた夢が,夢の中の
時間経過どおりに経験されたのではなく,いまこの瞬間に,記憶という
仕方で,いきなりつくられたにすぎない,といった感じがすることがよくある。
ずっと経験してきたという思い自体が,じつはいまつくられた,といった感じ
である。夢の場合は,どちらでも文字通り同じことだといえるだろう。」
とあるけど,これ,何で同じことだといえるんでしょうね。
夢の中とはいえ,実際に(?)それまでずっと経験していたということと,
実際には(?)ずっと経験してはいなかったのだが,ある瞬間に「ずっと
経験していた」という思いこみを持つようになったこととは,明らかに違う
ような気がするんだけど。
夢という,客観的事実と対応することがそもそも予定されていない場面に
おいては,「ずっと経験した」ことと,「『ずっと経験した』と思いこんでいる」
こととが,区別できないという趣旨なんだろうか。それとも別の意味があるん
だろうか。ああよくわからん。
971考える名無しさん:2005/10/19(水) 01:56:18
>>970
>夢という,客観的事実と対応することがそもそも予定されていない場面に
>おいては,「ずっと経験した」ことと,「『ずっと経験した』と思いこんでいる」
>こととが,区別できないという趣旨なんだろうか。
俺はこれだと思って読んでたよ。
この両者が区別できる視点はありえないだろう。

たとえば時間的に見ても、寝てるうちは今が何時か分からないし、
起きてしまえば「ずっと見てた」のか「記憶だけある」のか分からない。
つまり、「本当に夢を見ていた」ということに意味が与えられない。
972 jun1 :2005/10/19(水) 11:15:20
>>966-968 カオルさんへ

レスをどうもです。

まあ、代弁と言う形では正確ではなかったかと思いますが、内容としてはきちんと
沿っていたことがあっていれば、だいたい満足なのでしょう。
べつに云々言うわけではないですが、一つ一つ確認を取っていったほうが
誤解がないかと思いまして、それにこういうやり方もときにはOKなのかもしれ
ないと思いまして、繰り返しになりますがレスしますね。

>「それでない」 → 「デリダでない」または「デリダのそれでない」ということ。
>まだ何もしゃべってないのでアレですが、先々「それでない」ことが示せたらと。

いちおう代弁と言う形をとったものですから、わたし自身は最終的にニップル
さんに語りかけていることになります。ですから、「オリジナルである」「オリジナル
でない」ことをはっきりさせることが、ニップルさんの問いかけていたことであり、
また答えを要求していたこととなります。ですから「オリジナル」という言葉に極力
焦点を当てて代弁させてもらいました。またカオルさんの>>912のレス自体、
ニップルさんの以上のような問いに"充"てられた問いであることから、
つまり偶意として「オリジナルであるかどうか」の文脈を忍び込ませていたのだろうと思います。
だから>なぜか結論が当たっているところがビックリ。(笑)
と言われるのも当然もっともなことなのでした。
こういった前提があるから、私も代弁ができたのであります。
973 jun1 :2005/10/19(水) 11:15:50
(つづき)

そしてデリダを持ち出した理由を考えてみると、やはり、永井とデリダの類比の関係を
とることにより、必然的に同等のものを議論において抽出できるだろうと言う視野が
あったからだと思われ(つまり永井≒デリダの関係)、またカオルさんが永井を解釈する
のは、比類なき永井論を導き出すため(つまり、永井>∞)という趣旨だということです。
ここで当然注意してもらいたいのは、ここでのデリダは、西田、ウィトゲンシュタイン、マクダガ
ードと概念的に交換可能であるということであり、またカオルさんが、永井を解釈することは、
まさに比類なきことで、永井においても、カオルさんにおいても概念的に交換可能では
ありません。なぜならカオルさんにおいて「カオル」は「わたし」であり、永井は、カオルに
とっての永井だからです。このようにカオルさんの例の文の一行目と二行目には、
構造上の超越が忍び込んでいたわけです。私はこの構造をとって、「入れ子状に」と
その正対している様を表現しました。

あいにく、「それではない」「そうではない」の指示するものは違いましたけど、
>つまり、カオルさんの論の要点だけを抜き出せば永井の論は「オリジナルではない」が、
>しかしながら「オリジナルである」ということになります。
として、文脈を捉えることは、どうやらできたようですね。

言い訳になりますけど、私はこういう誤謬って大事だなって思うことがあります。
この文脈を探すのにも結構苦労したわけですが、(1、2時間ぐらいカオルさんの
文とにらめっこしました)、このように解釈した瞬間とたんに、文脈を捉えることが
抵抗なく受け入れることができました。つまり誤謬に立ち入るということは、
違った視点を獲得するということです。落とし穴に落ちたら、落とし穴から見た視線は
今までとは違ったために新しい発見ができたというようなものです。ですから、
わたし自身はミスリードに対しては、あまり臆病になったりはしません。
(まあそれでも注意しないといけないわけですが) とりあえずそういうことです。
974 jun1 :2005/10/19(水) 11:16:46
(つづき)

また、>>962
>もちろん、永井をカオルさんが解釈することそのものによって、そのような移行が可能に
>なるとは、一概には言えないものとは思いますが、(端的に言ってしまえば不可能だと私は思います)

と私が述べた理由ですが、カオルさんが永井を語ることによって、カオルさん自身が
永井を比類なき存在として観て取ることは可能ですが、それを知らしめること、
あるいは論として成立させるのは不可能だということです。もちろん、私がやった
ように、カオルさんの意図(目的)を新たに正確に解釈することから、それをそうだと
定立させる(標準化する)ことは可能ですけどね。そして私の>>961-962の論の目的も
いちおうそこにありました。(最初からそのような目的が前提としてあったわけじゃありませんが、
レスをしたということは、そのような判断がレスした当初にあったということです)

>ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。

まあ、それを発見したのは私ですが、それでもカオルさんの論を追いかけなかったら
分からなかったと思いますよ。最初、私も、どうしてカオルさんが<オリジナル>の
問題にこだわるのか、わかりませんでしたし。それに<オリジナル>という概念に対して
言及していたのは私ではなく、カオルさんたちでしょう?
975 jun1 :2005/10/19(水) 11:17:27
(つづき)

ちなみに「オリジナル」の問題は、それはそれで深いですが、また単純でもあります。
「オリジナル」を「起源(始源)を持つ」と置き換えるといっそう分かりやすいのではないでしょうか?
まあ「起源を持つ」という言葉自体、あいまいで取り留めのないものです。

ゆえにこのような概念に対して哲学的操作をしてはいけないという厳命を強く持つ必要が
あるのですが、私は永井がこれをことあるたびにこの禁を犯すのを見て閉口しながら、
彼の著作を読んでいました。別世界にいる<わたし>というのは、私のオリジナルという
概念を定点にしておけば、すべて論考に際して退けられるはずなんです。
またデカルトの「我思うゆえに我あり」、カントの「コペルニクス的転回」、ウィトの
「独我論的論考(べつにそういう概念があるわけじゃないですが)」は、
哲学は「主観」を基点として考えるべきいうことから導き出された言葉(教条)です。

別世界とか、5分後の世界とか、分裂した私とか、そういう「客観」の操作をまったく
許さないところから、哲学は始まるんです。おそらく彼は観念論を正しく理解できて
いないのでしょう。(ゆえに彼のライプニッツのモナド論なんてはっきり言って的外れなのです。)

もしそういう問題設定を通して哲学をしたければ、SF(サイエンスフィクション)作家に
なるべきだったのではないでしょうか。という意味で、彼の哲学はまだ始まって
いなかったという意味は、そのような意味で、始まっていないのかもしれませんね。
私がこのスレで、書き込みたくないのは、まあそういった批判を含んでしまうからなんですが、
(あまりにあからさまですから)しかし、このスレも終わりに近いのでこの際ありということにしましょう。

976 jun1 :2005/10/19(水) 11:18:05
>>970 (>>971

夢に対する記述も、実は私が永井にたいして杜撰だと思った箇所でしたね。
哲学者である前に科学者であれというのは哲学を試みるにあたって
当然のことだと思うのですが、永井に関しては、まったくそれができていないように思いました。

明晰夢という現象がありますが、とつぜん夢だとわかるという現象以前に、
起きているときから、徐々に夢に移行するというものがあります。このとき、
先の批判>>971さんの、

>たとえば時間的に見ても、寝てるうちは今が何時か分からないし、

というのはまったく的外れと言うことになるんですけどね。
なぜなら<わたし>は起きているときから断絶していないからです。もちろん記憶も引き継ぎます。
またラジオをつけっぱなしにしてラジオを聞きながら、夢に参加するということも可能です。
このときラジオの音源をたよりに時間を知ることも可能だとわかるはずです。

まあ、この手の議論は、どうもオカルトくさくなりがちで
(ただ催眠術の派生物として考えればいいだけなんですが)嫌悪する人が多いので、
あまり多く語りませんが、夢を論ずることは科学ですので、そのような知見を集めることから
970さんはされたほうがよいと思います。まあ興味があればと言うことですが。
ということなので、まちがっているという点においては、論考の価値は十分にあると思いますよ。

私見ですが哲学者や知識人が、『夢』を思考実験や、哲学的操作として用いた場合、
多くの場合、知見不足か間違っているかと言うことを念頭に置いたほうがよいと思います。
「唯脳論」や「マトリックス世界」、「パラレル世界」は思考世界の産物ですが、
「夢」は、それとは独立した意識表象です。つまり観念論の操作に代置できる代物ではなく、
立派な科学、哲学対象だと私は考えています。(まだまだ本当に未開拓ですが)
977 jun1 :2005/10/19(水) 11:19:25
>>968 ふたたびカオルさん

>ここはjun1さんの<わたし>論の核心ですね。経験知としてわかりますよ。
>何であっても"それ"が「わたしにとっての」でなくなった経験がないとわからないことかも。

たとえば私が考えたものだと思っていたものが、そうじゃなかった。
過去にもあったし、なにしろ他の人にも再現可能だった。こういう経験のことでしょうか。
このとき観念論の中の言語法則の中に私の個性もすべて飲み込まれてしまいます。

しかし、態度だけは飲み込むことはできません。なぜなら態度だけはそれに行き着く
方法であり原因でもあるからです。だからカオルさんが態度を大事にするのだと思いますし、
共感可能であるためには、この態度を理解するためなのだと思います。
観念論(形而上学)の次に論ずる箇所と言えば、だいたいが神学しかないのですが、
一連の議論の応答として観取するにはふさわしく、また非常に興味深い箇所ですので
引用させていただきます。

   私には分かります。(神と人との)結合を成立させるものとしての受容能力は類似として
   のみ存在するものであり、非受容性は非類似性から存在するものであるということが。
   したがって、もし私が何らかの可能な方法によってあなたの善性に類似したものになる
   ならば、その類似の段階に応じて私は真理を受容しうる者になるはずです。 
                         ── クザーヌス 著 「神を観ることについて」──

まあ、善性を理解するために哲学をしているのではないと言われる方もいるのかもしれませんが
クザーヌスにとって真理とは善とまったく等しいものでした。(もちろん神の系列が歴然と
あった(哲学の体系の中に)からこそ、このような言明が可能であったことはいうまでも
ありませんが)、このような類似の関係に"まぎれもなく"あてはまるのは、「態度」です。

                       (まぎれもなく≒つまり比類なき存在であること)
978 jun1 :2005/10/19(水) 11:20:04
(つづき)

まあそういうわけですから、「態度」を鑑みることこそ、私は本当の哲学の始まりなのでは
ないかなと思う次第です。それは学問哲学でも、人生哲学でも、マイ哲学でも、
あるいは趣味でも、仕事でも、恋愛でも、なんでもそうなのだと思います。

それから、オリジナルの問題に触れますが、クザーヌスに関してなんですが、彼は
「反対対立の合致」という、西田の「絶対矛盾の自己同一」と、ほぼまったく一緒の
ことを唱えていました。むろん西田のほうが後なんですが、風貌を鑑みると、
西田のほうが先に見えるから不思議ですよね(笑)

なんだか、これまでの議論をまとめるような形になっていますが、当然私のこんなレスなんかで
お二人の議論がまとめられるはずがないと思っています。つまり私が指摘したり配慮したのも
お二人の意見のほんの一部だと言うことをご留意ください。よろしくお願いします。


あと「考える(かんがえる)」という言葉についてなんですが、おそらく「鑑みる」の正式の
意、『鑑(鏡)を見る』から派生した言葉なんじゃないかなあとふと思いました。

かんがえる(考える)→かがみからえる(鑑から得る)

まあどうでもいいことなんですが、ごく一部の人の興味が湧かせることも
可能かと思いましたので、そういうことで。それでは。
979考える名無しさん:2005/10/19(水) 11:50:42
>>976
「明晰夢」と「明晰夢を見ているという夢」はどうやって区別するんだろう。
たとえば、ラジオの音との時間的繋がり自体が起きた瞬間に作られたのではないか、とか。
一方でラジオの音を無意識に聴いており、一方で明晰夢を見たという記憶がある場合、
そのラジオの音を元に夢の記憶が構成されたなら当然ラジオの音が夢に出てくることになる。
こう考えるとラジオの音は、必ずしも現実と夢の時間的繋がりを担保しなくなるのでは。

または明晰夢になった状態というのは起きながら空想している状態で、
明晰夢以前の(完全な)夢が明晰になった時点で作られた記憶であるとしたらどうだろう。
980 jun1 :2005/10/19(水) 12:35:32
>>979
まあ、残念ですがスレ違いなんで応答は控えさせてもらいますね。
質疑の内容が哲学というより科学の部分なんで。
981考える名無しさん:2005/10/19(水) 12:53:00
>>970
俺、永井の本読んでないんだけどここだけ見ると>>971さんの見方で良いんじゃないかと思えます。
「5分前世界創造説」のからみででてきてるんでしょう?

>起きてしまえば「ずっと見てた」のか「記憶だけある」のか分からない。
982ニプレス:2005/10/20(木) 00:21:55
 <わたし>だけが権利を持つ、と憲法に明記するとどうなるだろうか。

 <独在性>の議論は、私秘性と公共性、独在性と単独性が錯綜することによって
複雑さを増し混乱が生じることが多い。だからそこが弱点だろう。
「<わたし>だけが権利を持つ」という独在性条項は結果的に単独性条項に
変質してしまうのだろうか?確かに世界外の視点から見るとそうだろうが…。
こういうのを次スレで時にラフに時に綿密に考えるというのはどうですか?
嫌なら別スレにするけど。
983考える名無しさん:2005/10/20(木) 00:28:58
>>980
そこでスレ違いで逃げるくらいなら最初からちょっかい出さなきゃいいのに。
984ニプレス:2005/10/20(木) 00:41:05
おっと、すみません。
こんなにレスが伸びているとは思わなかったから。
どうぞ埋立を続けてください。
985970:2005/10/20(木) 01:07:43
>>971, >>981
せっかくなんで,もうちょっと詳しく書いてみます。

僕の理解によると,永井は,5分前世界創造説に関して,こんな議論をしている。

1.「5分前に世界がつくられたことなどあり得ない。現在の証拠(記憶など)
と独立の過去そのもののなどというものはないからだ。」という考え方がある。
これによると,世界がずっと続いていたことを示す証拠がある以上,それに
対応した過去があるのであって,実は証拠に対応する過去がなかったこと
などはありえない。
しかし,永井自身は,この考え方をとっていない。理由は,過去の事実がまず
あって,それが現在に記憶などの証拠を残す,という構図は崩せないと思わ
れるから。

2.5分前世界創造説を,「もともと過去の事実はなかったのだが,5分前の
時点で,過去の事実を示す 証 拠 (記 憶 な ど) が作られた。」と捉える。
永井は,これはあり得る自体だとしている。

3.5分前世界創造説を,「もともと過去の事実はなかったのだが,5分前の
時点で, 過 去 の 事 実 そ の も の が作られた。」と捉える。
永井は,これを不可能,もっと強く無意味であり,全能の神でさえそんなことは
できないとしている。理由は,「5分前の時点で,もっと前(例えば5年前)の
事実を作るということが理解できない(その事実は,「5年前の事実」である
以上は5年前にできたのか,それとも,「5分前に作った」以上はやはり5分前に
できたにすぎないのか,わからない)から。
(以上,『私・今・そして神』p24〜29)

そして,永井は,2.について,われわれの能力で識別することはできないが,
知性で理解することはできる,としている。(同p46〜47)
986970:2005/10/20(木) 01:24:44
で,以上の前フリを,>>970の「夢の場合,ずっと経験したことと,そういう思いを
今(便宜上,目覚める直前の時点ということにします)作られたことが,文字通り
同じことだ」という話に当てはめてみると,うまくいかない気がする。

1.まず,この話を,「目覚める時点での『ずっと経験してきた』という記憶と独立の,
夢の中の経験などというものはない。」と捉えると,それはそれであり得るとは
思うけれど,永井はそういう考え方をとっていないはず。

2.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
時点で,ずっと経験していたことを示す 記 憶 が作られた。」と捉えると,
これは,識別はできないが理解はできる違いに当たるはずであって,文字通りに
同じなどということはないはず。

3.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
時点で,それより前の 経 験 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。

・・・というわけで,どうもうまく当てはまらんのですよね。
夢の中の経験については,普通の事実と異なり,過去の事実→現在の証拠
という構図が当てはまらないという趣旨なのかなあ,と思ってみたり。
987970:2005/10/20(木) 01:38:02
訂正
>>985
>永井は,これはあり得る自体だとしている。
「自体」→「事態」

スレの終わり際に勝手な話題を始めてしまって失礼。
実は,次スレ建てようとしたら,ホストが不正とか言われてしまったんで,
誰かお願いします。

あと,僕はあくまで永井の本を読んでいるのであって(別の本だと,永井は,
「夢」を「心の中にあって外界に実在しないもの」をあらわす比喩としたりしている),
夢について科学的に論じているわけではないので,あしからず >>976
988ニプレス:2005/10/20(木) 01:51:07
 理路整然とした書き込み、とても羨ましい。

ところで、理解は出来ても識別は出来ない事柄とは短絡させて「無かった」ことに
出来るのではないでしょうか。
989考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:02:53
始まりが無であるのか
990考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:15:03
勃起した
991考える名無しさん:2005/10/20(木) 02:22:43
始まりがあると、終わりが考えられるようだ。
それは無かった出来事だ。
それだと、始まりが否定されるようだ。
或は、これで終わりにする、と考えられる。
992ニプレス:2005/10/20(木) 02:30:17
間違ってますね、私。
993考える名無しさん:2005/10/20(木) 12:11:52
>>985-986
「いま見ていた夢が、夢の中の時間経過どおりに経験されたのではなく、
いまこの瞬間に、記憶という仕方で、いきなりつくられたにすぎない、〜」(P19)

とあるので、夢と現実の両方に共通の時間軸がないことを言ってるんだと思う。
たとえば、2〜3分のうたた寝で1時間ドラマを夢を見ることはできるので、
少なくとも夢は「夢の中の時間経過どおりに経験された」とはいえない、と。

そして、夢時間と現実時間のあいだに共通する時間軸がないということは、
「ずっと夢を見ていた」のと「夢を見ていたという記憶が作られた」のは同じことになる。
(2〜3分で1時間分の夢を見るのと、2〜3分で1時間分の夢の記憶を作るのは同じ。
高速で夢体験が可能なら、その極限が「一瞬で記憶を作る」となり、両者に質的な差はなくなる)
994考える名無しさん:2005/10/20(木) 14:51:15
ん……ごめん、わけ分からなくなった。↑のナシ。
995考える名無しさん:2005/10/20(木) 17:20:48
>3.次にこの話を,「もともと夢の中の経験はなかったのだが,目覚める直前の
>時点で,それより前の 経 験 自 体 が作られた。」と捉えると,これは無意味な
>想定であって,文字通り同じなどというのは変ではないか。

経験がつくられるって表現が意味不明。
”経験をつくる”ってどういうこと?
経験させるってこと?
996二プレス:2005/10/20(木) 17:24:25
>>986
 言われてみれば確かに「文字通り同じ」という永井均の発言は少し不正確なものかも知れません。
「夢」においても、過去の痕跡が現在に過去の有り様を示す、という構図は変化しないはずです。
つまり過去の痕跡である「夢を見た」に対応する過去そのものがなければ、夢は見れないはずです。

 だからたとえば現実世界で戦中の出来事としての南○大虐殺が、戦後に作られるということが
ありえないのと同じように、「夢を見たという過去そのもの」が目覚めた瞬間に作り出される、という事を
夢を見たという記憶が捏造される、のと同一視していいのかは大いに疑問です。

 でもこの話を『ブラックジャック』のJ(T)=体が次郎で心が太郎と、T(J)=体が太郎で心が次郎の
二人の交換手術と関連させて考えてみるとどうでしょうか。
 永井論者から言わせればもともとはT(T)=体も心も太郎であった <わたし> が交換手術によって
J(J)=次郎になるのですが、それは誰にも気づかれない変化です。
では、この時 <わたし> が抱いている次郎としての過去の記憶その他は「偽」でしょうか「真」でしょうか。
それを判定するレベルは高階の神のレベルでしょうから人間には縁のないレベルです。
ということは太郎から次郎への変化そのものがなかったことになりうる。いや、むしろ無かった事になるしかない。

 これを「夢を見た過去そのものが後から生じること」と「夢を見た過去が後から捏造されること」を同一視する
問題の箇所に当てはめて考えると、夢から現実への変化以後の視点では「過去そのものが後から生じる」のも
「後から捏造される」のも同じことになる。・・・といえるのかなぁ?

 とりあえず永井均は夢と現実を区別して考えていると思います。でも970さんは夢が現実に包含される図式で
問題を捉えているのではないでしょうか。そのズレが結論のズレを招いているではないかと思います。
個人的には永井均の思考に漏れがあったのではないかと思います――夢ではなく別世界といっても問題は解決しないけど
わかりやすくなったとは思う。
 いや待てよ、後々こんなことを言っていたような気もするなぁ。
997考える名無しさん:2005/10/20(木) 18:23:31
いつの間にか次スレが立ってたみたい。俺のスレタイ案はボツか…。

永井均と <独在性>
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1129797991/l50
998考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:18:52
1000取るぞ
999考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:19:30
999
1000考える名無しさん:2005/10/20(木) 19:20:06
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