455さんへ
横レスさせてください。
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
だから食い違っているようにみえるんです。
そしてまさしくそれこそが永井の議論の真価なのではないでしょうか。
永井の私的言語は、483さんやわたしによって(生活形式という歴史の力によって)
完全にその存在を否定されてこそ、言語ゲームを成立させうる背景(不在)として
パラドキシカルに存在しうるのではないでしょうか。
永井は「否定されなければならない議論をしなければならなかった」のではないでしょうか。
生意気でゴメンナサイ m(__)m
>>519 509さん
>その発生・成立が純粋に私的な(他人・社会が関わっていない)言語。
質問させてください。
なにをもって「私」なのですか?
私的さを可能にする「私」はだれですか?
あなたのいない「私」はどのような「私」ですか?
「私」は言語がなくてもいるのですか?
「世界」は言語がなくてもあるのですか?
ひとりの世界で、思うとはどういうことですか?
言語は思うための手段なのですか?
言語は目的を持っているのですか?
>>520 509さん
>生物学的言語学的にはともかく、哲学的にみる限り、特に不可能と考える
>理由はないのではなかろうか。
つまり、魂の言語と言い替えられますか?
>独我論が正しいとするなら、1.2.3.のいずれの意味においても、
>日本語が私的言語であることは否定できないと思う。
〈私〉の言語ということですか?
〈私〉の言語は、どういう言語なのですか?
なぜ、言語なのですか?
>「私的言語は不可能である」
私的言語というものが想像できないし理解できるものとして存在しないから
自分も含めてだれかに理解されるということがどういうことなのかわからない。
あるものとしてないから、くらべられないから、存在しないけど、可能性は
否定できないと思う。この私の感じるものすべてが私的なものだから。
質問ばかりでごめんなさい。
今のところ何かこちら側から提供するもの(論)はありそうにありません。
だからわたしの聴き得なんですけど、もしよかったらよろしくお願いします。
532 :
483:2006/06/23(金) 17:12:26
>>527 455氏の質問に答えて。(“”で囲まれた部分は強調)529と同趣旨になるがもっとちゃんと整理して。
もちろん「私的言語」は(そもそもの定義としてその人にだけ理解されるもの
であるから455氏には、そして僕483にも)“理解できない”のである。しかし、
“もし理解出来るとすれば”
それはそれら「私的言語」が通常の言語と使い方を同じくしているからである、と書いたのだ。
521で書いたのは
>それを言葉にしようとした時、それは我々の知っている感覚、感情の表現
>をその雛型として持って来ざるを得ない、という点だ。
は「私的言語」を“理解できる”としたらそれは何故なのか、という議論。
>ところが、「しくい」、「えもい」、「ろましい」といったこれらの言葉には「痛い」や「悲しい」のようには
>用いる為の基盤がない。
は「私的言語」を“理解できない”としたらそれは何故なのか、という議論。
ここに矛盾があるというのは455氏の誤解だ。
また「私的言語」は<私>にだけ理解されるがゆえに、例えば「しくい」といった言葉を
適切に用いているかどうかは他人の場合を参照することが出来ないので、そもそも正当化
することが出来ない。(これはウィトゲンシュタイン最晩年の「確実性の問題」で「私は知っている」
というのが無意味である場合の考察に関係している。)
「私的言語」が単純に可能か不可能かということはどうでもいい。むしろ問題は「私的言語」の
<正当化>が可能か不可能か、なのだ。(私の)痛みは確かに<私>にしか感じられない。でもこれは
まだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題なんだ。そしてそれは
「言語」によっては正当化されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから、
というのが永井や僕や『カオル』の立脚点で、それを肯定的に評価するか否定的に評価するか
で分かれているということ。455氏はそこまで到達していないように見える。
533 :
509:2006/06/23(金) 19:13:43
>>522 >まず、2と3はそもそも「私的言語」とは関係無い。
私の書き方が悪いのだろうが、それはあなたの
>>513と矛盾するのでは?
>>512の思考実験においては、日本語はまさに1.の意味の(その発生・成立が
純粋に私的で他人や社会が関わっていない言語)に当ると思うのだが。
>>519では3.の意味も含めてさらに徹底したが、この思考実験は要するに
「現在の私と精神的・肉体的に全く同じ状態の人間(日本語で思考する)が、
偶然に(私と何の因果関係もなく)、人間その他の知的生命が一切存在しない
(消滅したのではなく、過去も現在も存在しない)惑星に突然出現した場合は、
その存在の使う日本語は1.2.3.のいずれの意味でも私的言語に当るのでは
ないか」、という意味。
それに対して、「それは確かに私的言語だが、そういう思考実験はまさに空想で
あって、現実の経験的因果法則の中ではそういう事態は有り得ない」と答えるなら、
よくわかるのだが。
たとえば何の力も加わらないのに太陽が突然八の字を描いて動き出すことは、
哲学的な思考実験として思い描くことはいともたやすいが、現実の物理法則の
下では有り得ない、というのと、同じ意味で。
「私的言語は不可能だ」というのが、単にそういう経験則を語っている言葉なら、
別に何も問題はないのだが、ただ、なぜそれが哲学的な問題なのかがよくわからない。
534 :
509:2006/06/23(金) 19:19:54
(続き)
「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった単語については、それが1.の意味の
私的言語に当るかどうかは、よくわからない。所詮社会的に習得した既存の日本語の
文法上で作られている、という意味ならそうではないだろうし、純粋に永井氏個人が
発案し現時点でその意味がわかる他人がいない、という意味なら、そうであるような
気もする。
ただ、極論すればどんな単語も最初は誰かが考え出したもので、その点では
例えば「エントロピー」とか、卑近な例なら「萌え」とかいう単語と
「しくい」「えもい」「ろましい」といった単語と、本質的な違いはないと思う。
エントロピーや萌えは社会的に使用され、しくいえもいろましいは現時点でされて
いない、というだけではないか。
私的言語というのが3.の「将来においても、自分以外にそれを理解できる存在が
有り得ない言語」という意味なら、理解する、というのがどういうことかが
問題になる。たとえば古語の「をかし」とか「あはれ」とかいう言葉は、
正直言って私はよく意味がわからない。何となく「こんな気分のことか」と見当を
付けているだけだ。(余談だが外国人にはさらにわからないのではなかろうか)
その点では、永井氏から「しくい」「えもい」「ろましい」の意味を説明されても、
同じような状態にしかならないと思う。しかし、無理に使用しようと思えば
使用できるし、複数人が使用していれば、それによって意味が「確立される」だろう。
その内容は永井氏のもともとの「理解」とはずれてしまうかもしれないが、
それは他のどんな言葉でも同じではないか。
535 :
509:2006/06/23(金) 19:28:40
>>526、
>>530-531 私の思考実験は難しいものでも何でもなく、上に書いたような意味です。
「私と肉体的精神的に全く同じ存在が、偶然に、知的生命体が存在しない仮想世界に
出現する」という想定は、永井風の思考実験としては特にどうということもない
ありふれたものだと思います。あるいは「私がある朝目覚めるとそこは知的生命の
いない世界で、しかも私の記憶はすべて間違いで世界に知的生命は最初から私しか
存在しなかったことがわかる」でも、同じです。
その場合は、その存在(私)は明らかに日本語で思考し、「ああここはどこだ何が
起こった助けてくれ!」と日記に書くかもしれないし、地形や植物や動物に日本語で
名前をつけるかもしれないし、地図を作って書き込みするかもしれないし、
気象の変化を記録するかもしれません。この場合の日本語は1.2.3.の
どの意味でも私的言語に当ると思うのですが、違うでしょうか。
もっと簡単に言ってしまうと、
「もしも現実に独我論が正しいなら、私の使う言語は私的言語ではないのか」と
いうことです。
永井氏は執拗に独我論について考えている人だと思うのですが、独我論と私的言語が
どういう関係にあるのか、よくわかりません。
聖書の「はじめに言葉ありき」は、まさに頭にありました。最初に神が発した言葉は、
どう転んでも私的言語でしかないと思うのですが、違うのでしょうか。
あるいはヴィトゲンシュタインは聖書のあの文句を念頭において
「私的言語は不可能だ」と言ったのでしょうか。
私は皆さんと違って問題の基本がわかっていないので、たまたま見付けたこのスレで
前から疑問だったことを書いてみただけです。483さん場所ふさいで申し訳ありません。
536 :
483:2006/06/23(金) 20:13:46
色々考えてみたがはっきり言うと509さんは僕らとは「私的言語」を考え始める出発点が
そもそも異なっている。
509さんは自分以外に言葉を喋る人が居なくなれば普通の日本語も「私的言語」になるではないか、
と言っているように見えるが、僕らの議論は当然他の人が存在している事を前提にしているのだ。
だってこの世にはもう永井や509さん以外の人がいることは明白だから。(これは509さんと意見が合わない
僕のような存在からも明白だ)
その上で「私的言語」は可能か、不可能か、可能ならどういう意味で可能なのか、
不可能ならどういう意味で不可能なのかを論じているんだ。
独我論が正しい、というけれど、どういう意味で正しいのか(どういう意味で正しくないのか)
が哲学の議論だからそこを粘って議論して欲しいな。(そして私的言語との絡みで言えば、独我論の
<正しさ>を言語で語ることは出来ない、ということをここまでくどくどと語ってきたわけだ。)
509の思考実験は私的言語を構成的に成立させる条件であって
私的言語の現実における成立・不成立を正当化しない。
言語使用者がただ一人であることを条件としているため
言語の成立に関する経験事実を一切捨て去った上で
使用者が一人=理解者が一人の言語、すなわち私的言語は
存在するのだという飛躍した結論になる。
言語は一人で可能かという問題と私的言語は可能かという問題は別問題
>>534 509さん
>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった単語については、それが1.の意味の
>私的言語に当るかどうかは、よくわからない。
もちろん、1.の意味での──というのもおかしな言い方で、なぜなら言語ゲーム上には
存在しない‘それ’なのですから。‘それ’を言語ゲームを成立させうる超越論的なものと
するなら‘それ’は無意味(不在)であるしかなく、またその存在そのものは超越的(非在)
であらざるをえないでしょう。──「私的言語」ではありえないです。
けれども、1.の意味での‘それ’としてとらえることでしか、永井の私的言語論は意味を
なしません。また、意味をなしたときには、理解される「それ」として読み替えられてしまう、
という論法はいいのだけれど、「しくい」があたかも「現実に存在しうるかのような」議論は、
(永井の仕方でのそれとしては)まちがっていると言いたいです。
永井は、いわゆる言語使用の背後に隠されてしまう「私の意味で」とはいったい何なのか、
についての議論をするべきなのに、それを「しくい」「えもい」「ろましい」など、私的感覚の
複数化の議論に還元してしまっています。
これは、いわゆる言語というものが持たなければればならない条件、すなわち公的言語の
それを、私的言語にそのまま当てはめて、公的言語における岩盤(生活形式の確実性)を
「私の意味で」に読み替えたものなのです。
けれども、「私の意味で」は私的感覚の「確信」ではなく、それとは別の私的言語の複数化
による外的基準のそれでもなく、「言語全体に付加されるもの」としての言語全体を成り立
たせている「確実性」としてのそれなのですから、そうであるなら私的感覚の私的言語化や
それの複数化による外的基準の設定は、むしろ「私の意味で」の〈私〉的さの否定になって
しまうでしょう。だから、「ああ、しくいなぁ」議論は完全に失敗だと言わざるをえないのです。
539 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/24(土) 01:45:12
>>535 509さん
>永井氏は執拗に独我論について考えている人だと思うのですが、独我論と私的言語が
>どういう関係にあるのか、よくわかりません。
──私は、なぜこの私なのだろう──における、最初の私が独我論の〈私〉で、
次にあるこの私が私的言語の「この私」ではないでしょうか。
たとえ成立したわれわれの言語からは跡形もなく消される運命にあるとしても、
私的言語こそが開闢を開闢の否定としての公共言語につなぐ唯一の通路なのだから、
それは可能であるどころか必然である。言語が可能である以上、私的言語もまた
実は可能であったのでなければならない。──『私・今・そして神』(187n)
一部、当てはめてみると、
私的言語の「この私」こそが、独我論の〈私〉を独我論の〈私〉の否定としての
公共言語の「私」につなぐ唯一の通路なのだから
というような感じになります。
>聖書の「はじめに言葉ありき」は、まさに頭にありました。最初に神が発した言葉は、
>どう転んでも私的言語でしかないと思うのですが、違うのでしょうか。
いえ、ちがわない、と思います。
でも、永井は言語共同体(他人の存在)を、言語の習得には欠かせない
ものとして「前提」しています。(
>>514)その上で、言語が可能であるなら、
この私の私的言語も可能でなければならない、という議論なんですよね。
で、たぶん「この私」と〈私〉がごっちゃになっているんです。(
>>538)
540 :
455:2006/06/25(日) 12:01:48
今回の483氏のレス(
>>532)を読んで,さらに以前のレスを見直すと,私のほうに
誤解や思いこみがあったようだ。
私は,483氏が「しくい」などについて,感覚などを表す言葉として理解されうる
(そして,理解されうるようなものは私的言語とはいえない)という点を中心に
指摘していたのかと思っていたが,
>>532を読むと,むしろ,普通に理解される言葉と
違って正当化されないという点を中心に指摘する趣旨だったようだ。
その点は申し訳ない。
541 :
455:2006/06/25(日) 12:04:08
独り相撲をしてしまった言い訳に,私が思っていた疑問点を書いておく(ウィトゲン
シュタインに詳しい人なら当然知っているのかもしれなくて,もしそうなら申し訳ない。
手元にある本ではよくわからなかった。)
そもそも,なぜ,ウィトゲンシュタインの「私的言語」は,261節で議論されているような厳しい
条件を満たさなければならないのか?単にその感覚がどういうものか他人に理解されないという
だけでなく,既存の言葉や概念に一切よらずに言葉を使わなければならない,というのは,
どうやってもあり得ないのではないかという気がするのだが(分節されない音声でさえ言語
ゲームで記述されてしまう,というのなら,言語ゲームで記述されないような言語というのは,
本当に全く不可能と思われる),なぜそこまで厳しい条件が必要なのか?
別の角度から言うと,私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉でなければ
ならない,という条件を立ててしまうと,初めから無理な条件を立てた上で,それは無理だと
言っているだけになってしまわないか?
私的言語は,他人には理解されないとしても,少なくとも本人にはきちんと使えることが前提
なのだから,まったくでたらめな音声や文字というわけにはいかず,ある程度は既存の言葉など
に似た性質が必要だろう(というか,繰り返し的になるが,分節されない音声でさえ言語ゲーム
で記述されてしまう,というのなら,どんな言葉でも,言語ゲームで何らかの記述がなされる
程度には,既存の言葉に似た性質を持っていることになるのではないか)。
そのことをもって,直ちに「既存の言葉に似た性質がある以上は,他人に理解されうるので,
私的言語ではあり得ない」と言われてしまったのでは,そもそも,私的言語は全く不可能で
あって,私的言語の可能性を議論することは全く無駄ということになる。「しくい」にしても,
「気分」などの既存の言葉に似たものであるという理由だけで,議論の出だしから私的言語では
あり得ないとされてしまうことになる。
それはおかしいのではないかと思って,いろいろ書いていたのだが,誰もそんなことは主張
していない,ということでよいのだろうか。それなら安心(?)して,「しくい」の議論の
他の部分を検討してみる。
542 :
455:2006/06/25(日) 14:05:50
ただ,それにしても,
>>532 >(私の)痛みは確かに<私>にしか感じられない。でもこれは
>まだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題なんだ。そしてそれは
>「言語」によっては正当化されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから、
>というのが永井や僕や『カオル』の立脚点で、それを肯定的に評価するか否定的に評価するか
>で分かれているということ。455氏はそこまで到達していないように見える。
の部分はよくわからないので,一応また指摘させてもらう。これも非生産的なので,無視して
もらっても構わない。(ただ「永井の立脚点」という点の疑問(2)は,永井の議論を検討する
上では気になるところなので,答えてもらえないか。)
(1)まず,「でもこれはまだ言語ではない。“これ”を正当化できるかどうか、ここが問題」という
ときの「“これ”」とは,何を指しているのか?「私の痛みは私にしか感じられない」という
文章のことでよいのか?しかしそうすると,その後の文脈とつながらない。
すると,「“これ”」とは,「私だけの痛みやその他の感覚などを指す言葉(そういう言葉が
可能であったとして)」を,例えば「しくい」を指しているということでよいのか?(「しくい」
がそういう言葉として成り立つと仮定して)
(私(この場合は483氏)が感じている痛みの感覚を指しているのかとも思ったが,感覚自体が
「言語ではない」とか「正当化できる(できない)」といわれるのはおかしいので,言葉または
文章を指していると思われる。)
543 :
455:2006/06/25(日) 14:07:50
(続き)
それを前提として,その言葉(成り立つと仮定しての「しくい」)が「「言語」によっては正当化
されない、どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから」という趣旨を,
念のため確認したい。
まず,483氏は,“永井が『私・今・そして神』で論じている限度での”「しくい」については,
皆が理解できる言語にはなって“いない”と考えている,ということでよいのか?(“ ”は強調)
そうであるとして,「どうしてもそれは「普通の、皆が理解できる言語」になってしまうから」と
いうのは,どういう意味か?“永井が論じている限度での”「しくい」は理解できないが,さらに
いろいろな条件が付け加わって正当化“されれば”理解できる(他人も同様の感覚を感じるらしい
ことが明らかになる,など),ただし,その時点では「しくい」は公共的な言葉になってしまって
いるので,私的言語ではない,という意味に理解してよいか?
(2)さらにそれを前提とすると,それが永井の立脚点で,それを肯定的に評価するか否定的に
評価するかで分かれている,というのは,どういう意味か?
まず,永井は,「しくい」について私的感覚相互の連関による正当化という議論をしていて,
(その議論が本当に成り立っているかどうかはともかく)永井としては,必要な正当化ができて
いると考えているのではないのか?永井が483氏と同じ立脚点(他人による正当化が必要という
立脚点)に立っているとすれば,私的感覚相互の連関で正当化できると考えるはずがないの
ではないか?
それと,細かいことだが,永井と483氏は,それぞれ,肯定的に評価しているのか,それとも
否定的なのか。仮に永井が肯定的だとすると,やはり,私的感覚相互の連関などという独自の
議論を出すはずはないと思われるので,永井は否定的ということでよいのか?
544 :
455:2006/06/25(日) 14:10:29
(3)そして議論の中身について。永井は,私的感覚相互の連関による正当化という議論をして
いるが(『私・今・そして神』194頁以下),なぜ,それは正当化にならないのか?
>>506 >「私的言語」相互の連関という永井の議論は全部空中に浮かび上がってしまってるから
>役に立たないと思うんだけど。ああいうのに誤魔化されちゃいけないなあ。
>>532 >また「私的言語」は<私>にだけ理解されるがゆえに、例えば「しくい」といった言葉を
>適切に用いているかどうかは他人の場合を参照することが出来ないので、そもそも正当化
>することが出来ない。
などとあるが,感覚に関する言葉を正当化するには,必ず他人との一致とか客観的事実との
連関が必要ということになるのか?
そうすると,永井は,言語が公的であることを前提として私的言語の不可能性をいうのは
論点先取の循環論法だ,などとしているが(同190頁前後),この点についてどうなるのか
気になる。また,「しくい」そのものの議論とは離れるが,仮に感覚に関する言葉一般に
他人との一致などの正当化が必要だとすれば,例えば,「殴られたのに痛く感じなくなった,
くすぐったく感じる」とか「海が赤く見えるようになった」とかの言葉は,どう扱われるのか。
他人たちは殴られたら痛く感じ,海は青く見えているのだから,このような言葉は正当化
されないということになってしまうのか?
ただ,この点は,個別に応答してもらうよりは,私が議論をまとめてから書いていった方が
よいかもしれないので(実際にできるかはともかく),この点は本当に無視してもらって
構わない。
545 :
455:2006/06/25(日) 14:50:25
>>529 >>「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
>>理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
>>他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
>>何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 >483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
>永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
>という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
>>542,
>>543で確認したところが正しいとすれば,483氏は私の議論に踏み出したわけでは
なく,永井が論じている限度での「しくい」はそもそも成り立っていないという方向で
議論していたと思われる。
それはそれとして,私が今までずっと気にしていたのは,
>>541の疑問点だったので,
カオル氏もそのような主張(私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉で
なければならない,という条件を立てるとの主張)をしていないのであれば,単に私の
独り相撲だったことになるし,逆にカオル氏がそのような主張をするのであれば,今の
ところ,
>>541に書いたようなわけで,同意できないというしかない。
どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
もらおうと思う。
546 :
455:2006/06/25(日) 15:54:06
>>509,
>>512の思考実験について,思いついたことがあったので,書いてみる。
すでに483氏やカオル氏との関係で議論がある程度進んでいるようなので,邪魔だったら
無視してもらって構わない。
>>512 >私が現在持っているこの意識と記憶を持ったまま、ある朝目覚めると
>ドイツの病院に寝ている。現実には、私はドイツ人の両親の間に生まれて
>から今までずっと昏睡状態。睡眠学習のようなものも一切受けていない。
>ドイツ語は全く理解できず、記憶の中の世界の通り、日本語でしか考えることもできない。
>しかし、現実にはこの世に日本という国も日本語という言語も、現在にも過去にも
>全く存在しないということがわかる。
気になる点を先に書いておくと,509氏は,この想定を「永井流の思考実験としてはおとなしい」
としているが,私はそうでもないと思う。問題になるのは,この想定では,509氏が日本語
を教えられた事実がないことになる点だと思われる。多分,永井は,永井が日本語を教え
られたという事実を全く否定してしまうような思考実験は,やっていないのではないか。
細かく書くと以下のとおり。
一つ目には,永井は,この想定は不可能だというのではないか(あまり自信はないが)。
理由は,この想定だと,509氏が子どものころに言葉を教えられたという事実がないこと
になるから。
つまり,永井は,(感覚質の逆転などの問題に関してではあるが)子どものころには,
転んだ時に感じるものが「痛み」である,消防車の色が「赤」である,という形で言葉を
教えられ,そして基本的な言葉を習得した大人になってから,学んだ言葉の意味をもとに,
痛いはずなのにかゆく感じる,赤いはずのものが青く見える,などと言うことができるよう
になる,などと論じている。すると,永井は,それほど明示的に書いてはいないが,言葉を
使えるようになるためには,子どものころに言葉の意味を教えられる過程が必要であること
を前提にしているのではないかと思われる。
ところが,この想定の509氏は,“日本語”の言葉の意味を教えられたことが全くない
(ドイツ語だけでなく)ことになるのだから,日本語を使えるはずがない,ということに
なるのではないか。(“ ”は強調)
547 :
455:2006/06/25(日) 16:01:34
(続き)
二つ目には,もしもこの想定が可能だとすると,事実の方(というか他人たちの証言や証拠
の方)が疑われなければならないのではないか。
つまり,子どものころに言葉の意味を教えられる過程が必要であることを前提として,かつ,
509氏が日本語を使えると想定すると,本当は509氏は日本語を教えられたことがあったと
考えなければならないと思われる。そうすると,509氏としては,本当は日本語はちゃんと
存在し,509氏が教えられたという事実があったのに,周りの他人たちが「私はドイツ人の
両親の間に生まれてから今までずっと昏睡状態」「現実にはこの世に日本という国も日本語
という言語も、現在にも過去にも全く存在しないということがわかる。」などという嘘を
つき,証拠隠し・証拠捏造をしている,と考えざるを得ないのではないか。
そうすると,私(この場合は509氏)の記憶と他人の証言・証拠が決定的に食い違う場合に
どうなるか,という,私的言語そのものとは別の議論が必要になってくると思われる。
それとも,永井が「欺く神が私の言語を今つくったのではないか」などと論じている部分は,
これに関係してくるだろうか?509氏が日本語を使えることを前提にし,かつ,509氏が日本語を
教えられたという事実・証拠が全くないとすると,509氏は「私のこの日本語は,本当に
言語として成り立っているのだろうか」と疑問を持ったりすることになるのだろうか。しかし,
その疑問を,まさにその日本語を使って考えることになるのだろうか。すると,その日本語を
全面的に疑うなどということは,あり得ないということになるか。そのように考えてみると,
この想定と永井の私的言語とは,何か関係があるかもしれない。
あまりまとまっていなくて申し訳ないが,繰り返し的に書くと,
>>512の想定は,生物学的
言語学的にだけでなく,(私の感じでではあるが)哲学的にも問題があるのではないかと
思われる。そう簡単には,可能な想定と言えないのではないか。
548 :
455:2006/06/25(日) 19:31:29
>>546 >多分,永井は,永井が日本語を教え
>られたという事実を全く否定してしまうような思考実験は,やっていないのではないか。
自分で気付いたが,この点はおかしい。明示的にはやっていないのではないかと思うが,
それを含むような想定はしている。
例えば,5分前世界創造説(現在において過去の存在を証拠だてているもの(たとえば記憶)
がじつはすべて5分前にできた,という想定)は,可能だとされている(『私・今・そして神』26頁)。
その場合は,当然,永井が子どものころに日本語を教えられたという事実もなかった
ことになる。ただし,そういう記憶や証拠はある(5分前に作られた)ことになる
点では,やはり
>>512の想定とは異なる。
私が
>>546,
>>547で書いたことが全面的に間違いかどうかはまだよくわからないが,
とりあえず上の点だけ書いておく。
549 :
483:2006/06/25(日) 21:05:02
一体どこから応答すればよいのやら混乱するが、まずは一つ。
>何故、(私的言語は)厳しい 条件を満たさなければならないのか?
ここに既に誤解の種がある。そもそも「私的言語」は素朴な独我論の「言語哲学版」の議論と言っていい。
だから「他人には理解できず<私>にしか理解できない」は<厳しい>のではなく、<素朴>な
表現なのだ。だからこれは<条件>なんかじゃない。
ウィトゲンシュタインは「こんな考え方も出来る」という哲学的提案をしているんじゃない。
そうじゃなくて「こんな風に考えたら上手くいかない」という事を示す為に突飛な考え(私的言語、規則のパラドックス等)
を述べているんだと思う。だから455氏とはそもそも哲学に対する入り方が違うんだな。
31 名前:B[] 投稿日:2006/06/11(日) 12:33:22
別スレで永井均批判ぽいことがされているけど・・・。
33 名前:B[sage] 投稿日:2006/06/16(金) 21:43:31
>>32 ふーん、そうなんですか。へー、正統派ウィトゲンシュタイン研究者か、読んでみたいなぁ。
そういえばこちらは正統な永井スレではありませんよ。
しかし、あちらの正統なほうで、「意味のない言語は言語ではない」(>>467)という「言語ゲーム」概念を
無視した言語理解が提示されていて――もちろん「私の中で」という逃げを打ってありますが――あれでどうやって
後期ウィトゲンシュタインの思索や、永井均の問題領域に立ち入ろうというのか、私は興味津々です。
39 名前:B[sage] 投稿日:2006/06/23(金) 05:59:06
隣のスレで私的言語が不可能だといっている変なコテがいるが
不可能だとはいえないのは確かだ。(だから永井均の議論は否定されるべきものではない)
不可能だとしたら何が不可能なのかを明らかにしなければならない。
>>545 455さん、その他の人たちへ
「しくい」、「えもい」、「ろましい」といった「私的言語」はそれ自体(定義として)自分(<私>)にだけ
理解される、というものだからそれらの連関もまた自分(<私>)にだけ理解される連関なんだから
他の人が、そして当然455氏が理解する事はあり得ないんじゃないかなあ。(だとすると455氏は
何を理解した事になるのかなあ。)
>>506 483さんは、ここで455さんの議論のほうに踏み出しています。わたしとちがって!
永井の想定をそれとして受け入れるとしても、そこで理解されることとは何なのか?
という、永井の私的言語論の核心に入りこんで行こうとしています。
>>529 >483氏は私の議論に踏み出したわけではなく,永井が論じている限度での「しくい」は
>そもそも成り立っていないという方向で議論していたと思われる。
483さんは、〈私〉だけに理解される言語 = 私的言語、という想定を「仮に」受け入れています。
わたしは、私的言語について、私的言語の〈私〉と公的言語の「私」の「あいだ」としての「この私」
の「超越的かつ経験的」な位相から議論していて、だからただちに「しくい」「えもい」「ろましい」など
を〈私〉の超越性と結び付けて、それらを私的言語として認めるような理解の仕方はしていません。
この意味で、わたしは455さんの議論には「踏み出してはいない」のです。
>>545 455さん、その他の人たちへ
>カオル氏もそのような主張(私的言語について,既存の言葉や概念に一切よらない言葉で
>なければならない,という条件を立てるとの主張)をしていないのであれば,単に私の
>独り相撲だったことになるし,逆にカオル氏がそのような主張をするのであれば,今の
>ところ,
>>541に書いたようなわけで,同意できないというしかない。
わたしは、私的言語の可能性は否定できないと思っています。
なぜなら、その可能性においてはじめて言語ゲームが可能になると考えるからです。
だから、永井が言うように「言語が可能であるなら私的言語もまた‘可能’でなければ
ならない」とは思います。(
>>436-437参照)
でも、それは私的言語が「しくい」「えもい」「ろましい」のように言語ゲームには属さない
言語として「現実に存在しうる」ということであってはならない、という意味においてです。
なぜなら、言語ゲームを可能にする超越論的な条件としての私的言語の‘可能性’は、
けっして実体的なものとしての私的言語にはなりえないことをこそ示しているからです。
>どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
>カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
>もらおうと思う。
自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入りこむ。
哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の
心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の──部分ではなく
──限界なのである。( TLP 5.641 )
「この私」は、その超越性においては私的言語の〈私〉として、その経験性においては
公的言語の「私」として、二重化されているのだと考えています。だからこそ「この私」の
権利上、私的言語の可能性は排除できないのであり、それゆえに事実上、私的言語は
不可能なのです。
少しわたしの論を述べておきます。
「私が『私は痛みを感じている』と言うとき、その痛みを感じている人を指したりしないのは、
私は‘ある意味で’誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’からである」── 404節
…………
実際に痛みを感じていても、もし自分が「痛み」を感じていることを知ることができないならば、
「私は痛みを感じている」ということさえできない。それが言えるということにうちに、すでに
知の成立は‘おのずと示されている’のである。それゆえ、知の言表は不要であり、誤診ですらある。
なぜならば、あえて知を言表すれば、言表可能な水準での無知もまた可能であるかのような誤った
印象を与えることになるからである。いかなる存在者も「私はいま実際に痛みを感じているのだが、
‘自分’が『痛み』を感じていることを知っていない」と‘言う’ことはできない。それゆえに、
人は「私はいま実際に痛みを感じており、‘自分’が『痛み』を感じていることを知ってもいる」と
‘言っては’ならないのである(哲学でもする場合は別にして)。
────『〈私〉のメタフィジックス』(108〜110n)
なにかしらの刺激を受容する身体があり、‘それ’を知りうるのは、この私でしかありえません。
「‘それ’を感じていること」と「‘それ’を感じていることを知ること」とは、この私によって不可分に
なっています。この私は、なにかしらの外的基準によって‘それ’を知りうるのではないからです。
「誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’」というのは、‘それ’を知りうるのが、
この私でしかありえないということ、すなわちなにかしらの外的基準に照らして‘それ’を知るうる
のではないということです。
この外的基準が存在しない「この私」の「知」という特異点から、言語ゲームは展開されるわけです。
この特異点(原理)は、それ以上溯ることのできない「この私の世界」という系が構成されるための
前提命題なのです。
けれども、特異点は世界を開く原点としてのそれなのであり、ただ一度きりのビックバンのような
ものなのです。それそのものは宇宙のどこを探しても、ビックバンが見当たらないのと同じように
言語ゲームのどこを探してみても見つけることはできないでしょう。
もちろん、永井はこのビックバンがいつもつねに起こっているという連続創造説をとっていますから、
言語が可能であるかぎりは、私的言語の「この私の知」もまたいつもつねに可能でなければならない、
すなわち、「私の意味で」(「この私の知」)は、「言語全体に付加されるもの」ということになります。
しかし、なにかしらの外的刺激が内的に記号化され情報となって表象するということが、その表象が
この私の世界を構成する基本要素として生起するということであるなら、すでにそれは特異点(原理)
から展開された──特異点を基本原理にはしていても──別の法則にしたがっているということに
なります。
たとえば、宇宙はビックバンを特異点としてはいても、つまりそれがなければ宇宙はないのだけれども、
ビックバンによって開かれた宇宙は、ビックバンから展開された別の法則、たとえば熱力学の第一法則
(エネルギー不滅の法則)や第二法則(エントロピー増大の法則)にしたがうことになってしまうのと同じ
ことです。
この私の超越性−私的言語の〈私〉−によって開かれた世界は、この私の経験性−公的言語の「私」が
生活形式にしたがうということによって「存在しうる」ようになるのです。だから、「この私」が言語ゲームに
参加しうる、つまり個体としての生における存在者「私」であるかぎりにおいて、それにしたがわないことは
できないのです。なぜなら、そのような存在者「私」を存在させうる条件がそれなのですから。
「我思うゆえに我あり」が抱える驚異も同じだ。もしそれが正しいなら、
それは現に存在している‘この’私を、それだけが現に存在している‘この’私を
指せないのではないか。デカルト自身が、それは誰にでも妥当する一般的言明だと
言っているのだから。指せるためには、私自身が私自身の思いの中で「ゆえに、存在する」
とされたその「私」を、現に存在する私自身と現に結合させている必要がある。
そんなことが可能だろうか。それが「私の言語」という問題である。
……
開闢の私を言語でとらえ、言語であらわすことは可能か。ウィトゲンシュタインが
『論理哲学論考』では「独我論は語りうるか」という形で、『哲学探究』では
「私的言語は可能か」という形で提示した問題はこれだろう。
……
(そうでなければいったい何なのか、私にはわからない)。
────『私・今・そして神』(184〜185n)
まったくその通りですが、ウィトゲンシュタインが「この私」の二重性について厳密に区別
していたのにたいして、永井は混同してしまっているように思います。
バカは一つのキーワードが脳内の絶対的地位を占めるんだよ。原理だとかw
他人には理解できないし役に立たないw
もちろん、ある意味では、開闢はけっして連続しない。それでも、つねにあたかも
持続しているようなあり方をとって現われる必要があるだろう。そしてこのことは、
現実存在はけっして概念によって把握されないが、しかしあたかも概念的に把握される
ようなあり方を取らざるをえない、ということと関係しているだろう。この二つの
問題をつなぐところに位置するのが、私が理解するところの私的言語の問題である。
私がこう疑い、こう考えるとき、「私が理解する意味で」はつねに背後に退いて前提され、
この思考の中にあらわれることができない。
────『私・今・そして神』(185〜186n)
「ある意味では、開闢はけっして連続しない」というのは、ウィトゲンシュタインの言う
「‘ある意味で’誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’」ということに相当します。
「ある意味で」とは、「言語全体に付加されるもの」としての「私の意味で」のことでしょう。
永井は、先に引用した『〈私〉のメタフィジックス』の108〜109nでこう言っています。
──「ある意味で……知らない」という‘言いかた’が認められるならば……「私は自分が
痛みを感じていることを知っている」と‘言えない’理由はない──のだと。
たしかに‘言えない’理由はないです。でも、それは「私は自分が痛みを感じている」と
「私は自分が痛みを感じていることを知っている」との「あいだ」(「この私」)に論理的な差異を
認めることで「私は自分が痛みを感じていることを知らない」と言うこともまた有意味である、
ということではなく、なぜならそれは「この私」が「痛みを感じていない」ということなのであって、
たんに無意味でしかないからです。すなわち、「感じていること」と「感じていることを知ること」は、
「この私」において切り離せないことなのです。
559 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/26(月) 00:43:10
>>558 >すなわち、「感じていること」と「感じていることを知ること」は、
>「この私」において切り離せないことなのです。
>>436-437も参照してみてください。
おやすみ age
560 :
考える名無しさん:2006/06/26(月) 01:12:18
■なぜ「純一」はむなしくならずに「気狂いポジティブ」を続けることができるのか。
<実生活>
・性格はくそ真面目。実生活で小さいころから空気を読めずに浮いていた。
・まわりと上手くやれず、仕事がつづかない。最近もやめた。
・30後半で、女性とつきあったこともなく、童貞だ。
・不安な毎日を過ごしている。
<哲学板>
・ネットでもくそ真面目で同じように浮いてしまった。
・どうせ回りから浮くなら、開き直って荒らしになった。
・電車で独り言をいうように「気狂いポジティブ」にふるまって、真面目だから浮いているのを
荒らしだから浮いているようにごまかしている。
・自分への劣等感から自己言及がない。
・オマエモナーをぴかぁ〜モナーしてぴかぁ叩きで自己言及から逃げている。
・3回アク禁になったが、もはや「気狂いポジティブ」な荒し以外に人生の逃げ場がない。
■純一本人によるエゴグラムの性格分類結果
お手あげタイプ(V型)
http://www.egogram-f.jp/seikaku/aisyou/v.htm いつも実力以上のことをやろうとしては失敗し、自分の実際以上に良く思われよう、気に
入られようとしては思うようにいかず、自己不信や劣等感におちいっていくタイプです。他者に
対する批判精神は非常に厳しいものがありますので、他人と自分の双方を同時にうらむような
ことが、しばしば起こってくるタイプです。要は、自分の性格のなかの厳しさを減らすか、イイ子に
なろうとする欲をへらすかです。そして、人生を八分目で満足するようにし、気ばかりを先行
させないことが大切でしょう。
>>545 455さん
>どちらにしても,私がこれ以上いちいち応答をしても生産的な議論にならなさそうなので,
>カオル氏との関係では(特に思いつくことがない限り)一旦応答をやめることにさせて
>もらおうと思う。
やっぱりがまんできない!
わたしの議論が生産的でないような言い方はやめてください。
あなたにわたしの議論を評価できるだけの力があるとは思わない。
あなたはわたしほど考えていないし勉強もしていないです。
あなたへの551,552のレスは無効にします。
非生産的な思い込みや信念からの意見ではなく、まっとうな思考による反論にのみ対応します。
反論できないなら、陰口でもしていてください。
562 :
455:2006/06/27(火) 00:10:31
>>561 いや,カオル氏の議論自体が非生産的だと言ったつもりはない。
>>545は,“私が”いちいち応答をすることが,非生産的だ(なぜなら,私が独り相撲を
していただけか,またはカオル氏とは基本的な考え方が違うことが明らかであるか,どち
らかだと思われるから),という趣旨で書いたつもりだ。
>>545の表現が不適切だったとしたら,その点は申し訳ない。
563 :
455:2006/06/27(火) 00:39:10
>>549 どうも,483氏とも,何か大きく食い違っているらしい。
>ここに既に誤解の種がある。そもそも「私的言語」は素朴な独我論の「言語哲学版」の議論と言っていい。
>だから「他人には理解できず<私>にしか理解できない」は<厳しい>のではなく、<素朴>な
>表現なのだ。だからこれは<条件>なんかじゃない。
また,今までと同様のことを聞かざるを得ない。ここでいう「私的言語」とは,誰が論じている
私的言語のことか?
もし,永井が論じている「私的言語」のことだとしたら,何か違うのではないか。永井は,
認識論的独我論を,本当の問題を隠してしまうニセの独我論であるとして,それとは別の
独在性の議論をしているのだから,今さら「素朴な独我論の「言語哲学版」」などという
ものを論じているとは思えないのだが。
(もっとも,483氏がここで言っている「素朴な独我論」の内容は明らかではなく,それが
永井の言う認識論的独我論とイコールであるという保証もないので,私の早とちりかもしれ
ないが。)
また,ウィトゲンシュタイン(あるいはその他の人)が論じている「私的言語」のことだと
したら,これも今までと同様に,なぜ永井の議論がウィトゲンシュタイン(その他の人)の
議論によって判断されるのか,両者の議論がイコールだと言えるのか,と聞かざるを得ない。
現状だと,どこがどう食い違っているのかもよくわからないので,生産的な議論ができそう
にないと思われる(483氏の議論自体が生産的でないというのではなく,私が応答するこ
とが生産的でないという趣旨。念のため)
だから,483氏との関係でも,一旦打ち切ることにさせてもらおうと思う。
564 :
455:2006/06/27(火) 00:41:10
私のレスは,カオル氏との関係・483氏との関係ともに,よい結果を生まなかったようだし,
他に積極的に生産的な議論ができそうな見込みも,今のところないので,当分の間,この
スレに書き込むのは止めようと思う。両氏と,その他にも迷惑をかけた方には,申し訳なかった。
(ただ,もし,両氏が(他の方でも),私の今までのレスについて指摘することがあるので
あれば,書いてしまったことには責任を取るという意味で,できるだけ答える。)
565 :
483:2006/06/27(火) 15:15:54
>>563 455氏が主張し続けている「永井の私的言語」議論とウィトゲンシュタインの「私的言語」
の違いを一向に論じてくれないのは不満だ。永井の議論にウィトゲンシュタインの議論に回収されない
ような論点があるのだろうか。僕にはあるとは思えないが、もしあるのなら455氏がその点を
455氏なりの解釈で語ってくれないだろうか。
「可能であったのでなければならない」(永井)と言われる<私的言語>をどうやって示すのか。
これが問題だ。(『私・今・そして神』187pではそのすぐ後で「まさにそのことが私的言語を
不可能にするのだ」とされている以上、これ以上の議論が可能であるとは思えないのだが。
あくまで「可能であったのでなければならない」という“仄めかし”に終わるのは明らかだろう。)
>>496 455さん……(シツコイかな、と思ってレスしなかったものです)
>ウィトゲンシュタインの私的批判言語は(これも明示的には)感覚語に関するものだから,
>永井の言う「<私>」「<今>」あたりにそのまま当てはめるのは難しいのではないか,
永井は、ずーっと当てはめつづけているんです。
『哲学探究』の私的言語に関する議論においては、「感覚日記」という話しが中心的な
役割を演じている。…………ウィトゲンシュタインは次のように書いている。
「私はある感覚(eine gewisse Empfindung)が繰り返し起こることを日記につけたいと
思っている。そのために、私はその感覚を『E』という記号と結びつけ、私にその感覚が
起こった日には必ず日記にその記号を書き込むことにする。」(『探求』 258節)
もちろん、ここでの「感覚」は状況や反応行動などの外的規準からまったく切り離された
ものとして想定されている。それにもかかわらず、われわれはこの状況設定を問題なく
理解することができるし、またそうであることを前提としてウィトゲンシュタインの議論は
開始されている。
ところが、この「感覚日記」の断章は実に意外な展開を見せて終わるのである。
(どうして永井はそう思ったのか?) それはウィトゲンシュタインが、
外的諸規準を除去するだけで、超越的に私秘的なものに達することができると
考えたところにある。
ウィトゲンシュタインの「感覚」には、最初から二義性が込められていた
……一方でそれは‘個人的’に私秘的な「感覚」を意味しており……
……他方でそれは‘超越的’に私秘的な〈感覚〉を意味しており…………
彼は自分の思い描く状況を「感覚」という公共言語を使って描き出すことはできない。
──── 引用部は『〈魂〉に対する態度』( 85〜87n)
(つづき)
その通りと納得してもいい。‘それ’が「超越的に私秘的な〈感覚〉」ということなら。
でもだからこそ「E」と同様、「気分」「感覚」「感情」などの公共言語を使用した上、
「しくい」「えもい」「ろましい」などの「普通の感覚語」を、あたかも「私的言語」で
あるかのように(永井の思い描くような状況を)描き出すことはできないわけです。
ウィトゲンシュタインは、「E」が私的言語ではありえないことを示すことによって、
言語ゲームには属さない〈E〉の私的言語としての存在可能性を、むしろ否定され
ないように、語りえない〈超越〉として残したのです。だからこそ「E」は厳格に徹底
して否定されなければならなかったのです。私的言語が、公的言語の否定として
あるのなら、それは教えることも学ばれることもなく、だからけっして理解されたり
知られたりすることもないのではないでしょうか。『論考』の独我論の〈私〉のように。
>問題は,ほんとうに感じるのは<私>だけで,ただ一人そのような特別な者が
>存在することだ
への通路は、感じる「この私」の私秘性、すなわち「この私」の超越性においてのみ
開かれうるのではないでしょうか。「この私」もまた、その超越においては言語ゲーム
には属せないのですから。
>>562 455さん
ほんとうに考え方のちがいなのでしょうか。わたしの考えがあなたに届かないのは、
いえ、わたしにあなたの考えがわからないということの原因が、もし〈私〉を感じられ
ないというそのことなら、わたしは知りうることのできないそれをこそ知りたかった。
──私は、なぜこの私なのか──
という命題は、〈私〉と「この私」との「絆」を示しているのではないか、
双方がどこかで通底しているから、公的言語が可能なら私的言語
もまた可能と言えるのではないか。
世界が「この世界」であるなら、それも私的言語である、と言えるなら、
私が「この私」であるなら、それも私的言語である、と言えるのではないか。
では、私的言語の私的さとは、いったい何のことなのか?
草花を見ている、その「見え」は草花そのものです。
それが美しいと感じられるとき、草花はそのようなものです。
草花の観照(Theoria:テオリア)において、主体は不在です。
草花や草花の美しさが、対象としては存在しないからです。
そうであることでそのようにあるというのが事実の世界です。
そうであるとはどういうことか? そのようにあるとはどのようにか?
問いの対象にしてしまうと、存在論や認識論という理論(theory)になる。
この私の超越/独在性の〈私〉も、名指されると、それ自身であることを
やめてしまう。なぜなら、〈私〉は何ものでもなく、そうであることだから。
草花が美しいというのは、美しいモノと美しいコトが一つになるという「絆」。
モノとコトの世界の共在。美しさは、草花とこの私に同時に立ち現われる。
「私の目は二重です」は、二重である「私というモノ」についての記述。
「私は目が痛いです」は、痛いのは「私であるコト」についての記述。
「私というモノ」は、対象だから「誤りうる」。
「私であるコト」は、事実だから「誤りえない」。
「私というモノ」には、身体という根拠がある。
「私であるコト」には、「 」という根拠がある?
いえ、「 」(心)は、モノではないから検証の対象にはならない。
「私は歯が痛い」という命題において、「歯が痛い私」はモノとしての対象だから、
通り越して短絡させられる公的言語の「私」として言語ゲームに属していると思う。
でも、そのことから「私は歯が痛い」が、「歯が痛い私」の様相の言表にすぎない、
ということにはならない。
なぜなら、「歯が痛い私」は、だれにとっても「歯が痛い私」なのであって、
そこには、「この私」という主体の関与の必然性はまったくないけれど、
「私は歯が痛い」には、その言明が成立しうる条件として、経験の主体「この私」
の関与が必然として求められるからです。
けれども、言語ゲームにおいては、「この私」の経験の記述命題は検証できない。
なぜなら、それが「痛い」と「思われ、感じられ、信じられ」という直接経験は、
そのようなモノ(対象)ではなく、そのようなコト(事実)だからです。
「私は歯が痛い」は、言語ゲームによって、そのようなモノ「歯が痛い私」として
通り越して短絡させられる(読み替えられる)ことで、はじめて理解されるのです。
言いかえると、そのようなコトとしての直接経験そのものが、言語全体に貼り付いて
いるからこそ、そのようなモノとしての言語ゲームが可能になるのだと考えられます。
つまり、そのようなコトを可能にしているのは、「この私」が「そうであることによって
そのようにある」という原初の事実なのであって、これが言語ゲームの世界が開か
れるにあたっての特異点なのです。でも、この事実は記述されえないコトなのです。
記述されうるのは、「この私」が「そのようなモノであり、如何にあるか」ということに
ついてだけなのです。「この私」が、対象(モノ)でも事実(コト)でもある、ということ
のうち、言語ゲームに登場するのは、「この私」の対象としての面だけなのでしょう。
「ライオンが草原を駈けている」というコトそのものは、言語ゲームには属さない。
わたしたちは、「草原を駈けているライオン」または「ライオンが駈けている草原」
というモノの様相としてコトを理解するからです。
言葉(コトノハ)は、事(コト)の一端を分節したにすぎない「モノ」なのです。
その背景に「私の意味で」というコト、〈私〉的さが、言語全体/世界全体の
すみずみにまで行き渡っているコトで、はじめて言語ゲームは可能なのです。
世界とは、そうであるコトのすべてである。(TLP 1)
世界は、コトの全部であって、モノの全部ではない。(TLP 1.1)
だから、そうであるコトのすべて(世界)である〈私〉は、世界には存在しないのです。
思考し表象する主体は存在しない。
「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても
報告がされ、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られね
ばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある
重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で
論じることのでき‘ない’唯一のもの、それが主体なのである。(TLP 5.631)
主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(TLP 5.632)
存在する人間としての「私」のことや「私が見出した世界」の、そのようなモノとしての事柄
についてはすべて書き込めるでしょう。でも、そうであるコトとしての〈私〉についての「事実」、
「そうである〈私〉によって、そのようにある事実」については、いっさい書き込めないでしょう。
なぜなら、「思考し表象するというコト」そのもの、すなわちそのような行為(コト)そのものが、
「思考し表象される世界」 → 「私が見出した世界という本(モノ)」を成立させているのだから。
つまり、その不在の実体とその現前との根拠関係が、──〈私〉が、「この私」であること──
なのではないでしょうか。だからこそ、──〈私〉は「この私」でなければならない──のです。
571 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/06/29(木) 04:24:56
まだまだ、相当に荒い議論です。ツッコミどころ満載ですよー!
>>436-437や、
>>391-393とは、またちがう角度から考えてみました。
自分のなかでは、それなりに繋がっていたりもする議論なのですが、
ここで論文を書くわけにもいかないので、とりあえず別の議論として
とらえてもらって結構です。
また、永井の私的言論についての批判は、相当に端折っていますが、
基本的には、
>>538のようなものになります。(ウィトゲンシュタインの
私的言語批判に基づいていますが、かなり独自な意見だと思います)
今までもそうですが、これからも永井を批判していきたいと思っています。
わたしの論は批判から生まれたものですが、ある意味では〈わたし〉論を
フォローするだけのものにすぎないことが、いまは一番不満なところです。
それから改めて言うまでもないですが、もちろんわたしの書き込みなんて
無視してもらって結構です。改めて言うまでもなく、いつもそうされるので
心配はしてませんが、一応コテの独占スレとか言われるとイヤなので。
おやすみ age
>>571 >永井の私的言論
訂正 永井の私的言語論、でした。m(__)m
573 :
考える名無しさん:2006/06/29(木) 04:29:40
うるせー
別に永井を批判してもすごくも何ともないよな。永井を擁護する人でもいなければ
議論にもならない。
575 :
483:2006/07/01(土) 17:05:25
455氏からレスが無いので自分から議論を起こすことにするが、もっと問題を明確にする為に
「私的言語」というよりも「私的」ということにフォーカスを当てたい。「私的」とはどういうことか。
それは端的に言えば「感覚」について言われる事があるが、しかしウィトゲンシュタインも言うように
痛みでのたうちまわっている人を見れば、その人の「痛み」は明白でありこれを「私的」とは呼べない。
また痛みについて誰にも言わない為にそれが「私的」と呼ばれるわけでもない。
当然その人が「痛み」を感じている事が外部の人間に分ってもよいのだ。その上でなお、
「この痛みは私にしか分らない!」と言われるのだがこれはどういうことか。
我々は「この痛みは私にしか分らない!」をどう理解するべきか。これは実は或ることを伝えるように見えて
実は単なる痛みの叫びではないか。
この場合の「分らない」というのは実は「分る」の反対語では“ない”のではないか。
当然個人の痛みは「分らない」ことが前提されている以上、ここでは普通我々が使う「分る」、「分らない」
の用法とは全く違う現れ方をしているのではないか。
>>574 この人は批判を『非難』とごっちゃにしていると思う。ここで為されるべきは批判、しかも哲学的批判
でなければならない。擁護、と言ったってそれはあくまで<哲学的>に擁護されなきゃならない。
僕の議論が単なる永井の悪口に見えたのか。当然そんなものは意味が無いし、その逆に単に永井という
人が好き、という表明も意味が無い。
576 :
455:2006/07/03(月) 03:57:12
>>565 それほど意味のある作業ではないと思われるが,一応現時点でできそうなこととして,
永井が今まで,ウィトゲンシュタインの「私的言語」につきどういうことを言っていたか,
そして,『私・今・そして神』(新刊)で論じられている永井の「私的言語」は,ウィト
ゲンシュタインのものと同じなのか違うのか,というような点を,いくつか書いてみる。
他にカオル氏と483氏の個別のレスもあったが,とりあえず,それらに対する応答では
なく,私が今まとめた範囲のことを書いてみる。
577 :
455:2006/07/03(月) 03:58:27
まず,新刊で出てくる「私的言語」について,「「しくい」型私的言語」と,「「くすぐら
れたのになぜか痛い」型私的言語」(略して「「痛い」型私的言語」)を区別してみる。
区別するのは,この2つで内容や根拠等が異なると思われるため(言葉の意味の逆転とか
絵日記の話が出てくると,さらに別の段階のようだが(214頁以下),そこまで頭が回らない)。
「しくい」型私的言語は,公共的な言葉では表せない,私だけが感じる感覚等を指す言葉で,
言語として成り立つ根拠として,私が「しくい」と思う確信以外に,私的感覚相互の連関が
あれば,それによる正当化ができるなどとされている。
「痛い」型私的言語は,(1)誰が何と言おうと,また私的連関に反してでも,私が「痛い」
と思うなら痛いのである,という点と,(2)「しくい」のように公共的でない言葉ではなく,
普通の言葉が使われているのが特徴と思われる。このような「痛い」という言葉が言語と
して成り立つのかどうかという点については,新刊205〜206頁あたりの議論が関係して
いると思われるが,現時点でよくわからない。
ついでに疑問点を書くと,「しくい」型私的言語では,私的連関が根拠として挙げられて
いるが,一方で「痛い」型私的言語は,私的連関に反しても痛いということは正しいと
されている。すると,この2つの「私的言語」に関する議論は矛盾しているのではないか
(あるいは,「痛い」型私的言語は,言語として成り立たないのではないか),という
疑問があり得ると思われる。しかし,それはとりあえず置いておく。
578 :
455:
次に,永井は,以前の本では,ウィトゲンシュタインの私的言語について,すでに共同体の
一員として認められている主体の内的体験に関する私的性格(個人的私秘性)と,まだ
共同体の一員として認められていない,あるいは決して認められることのない主体の内的
体験に関する私的性格(超越的私秘性)との区別が曖昧であるとしている。そして,個人的
私秘性についての私的言語は,「ある特定の感覚が繰り返し起こることについて日記をつける」
という状況描写が有意味である限り,可能であるようなことを書いている。一方で,超越的
私秘性については,(1)ウィトゲンシュタインが問題にしようとしていたのは,普通の痛みで
はなく,公共的な脈絡で痛みを感じることはないため,自分の感じるもの(<痛み>)を語る
ために「痛み」という言葉を使うことができないような子どもの<痛み>である,よって,
実は,ウィトゲンシュタインの状況描写は公共言語でなされておらず,有意味ではない,
(2)ウィトゲンシュタインが,すでに共同体の一員として認められた人格主体の持つ感覚から
外的諸基準を除去するだけで超越的私秘性に達することができると考えたのは,間違いである,
などとしている(『<私>のメタフィジックス』44〜47頁,『<魂>に対する態度』85〜88頁)。
新刊197頁にも,だいたい同旨のことが書いてある。(微妙に違うのは,超越的私秘性に関する
私的言語を使う主体が「初めてしかも独力で意味付与を行う独我論的な主体」であるか(『<私>
のメタフィジックス』45頁),「私的言語の力によってはじめておのれを持続的主体として
客観的世界の内部に位置づけようとする主体」であるか(新刊197頁)という点か。特に,
「独力」という言葉があるかどうかが,意味があるのではないかという気がする。)