永井均は語りえないものと語ろうとする。
彼にとってウィトゲンシュタインとは限界であり、ニーチェとは限界突破の希望である。
これからこのスレで問題になるであろう <わたし> とは言語ゲームの外部にある。
しかし一方で、言語ゲームに外部はない。
なぜなら、言語ゲームの外部という言葉もまた言語ゲームの内部に今こうして位置づけられているからである。
このスレに参加するための条件がもしあるとすれば、このように錯綜した論理展開に
粘り強くついていく根気と、自らの誤りを率直に認める勇気と、
不毛なことに全力を尽くす情熱、これらを持ち合わせていることだけである。
高校時代、次郎と体が入れ替わった太郎はブラック・ジャックの手術によって太郎の体と記憶を持つ
いわゆる太郎に戻った。(手術内容をウィリアム・永井・榑林説と見なしてもいいと思う)
その後成長した太郎は、なんの因果か憲法を起草することになった。
太郎はこの機に一手に権利を握ろうと考えていた。しかしいざ憲法の条文を考えてみると高校時代の思い出が
影を落とした。あの手術以降自分は太郎であるというアイデンティティーが揺らいでいたのだ。
本人にとって深刻なこのアイデンティティークライシスは他人に理解されることはあまりなかったが
太郎はしばしば「私は『私』という語で太郎を意味していない。でも、私が今事実として太郎である以上、
他人たちが『私』という語は太郎を意味すると理解してもそれで不都合はない。」などと言って
周りの人々を当惑させた。
太郎が、いや他人から見ても本人から見ても太郎に見えるこの人物が憲法の条文に「<わたし>だけが権利を持つ」
と書いたのは宿命だったのかも知れない。
彼の野望は隠密裏に達成されねばならず誰かに条文のことで相談するわけにはいかなかった。
こうして条文は決定された。
新憲法の発布後想定外のことが起きる。憲法を読んだ人々がなぜか権利を主張しているのだ。
何人かとっつかまえて粛正してみたが事態はさらに悪化して、日本語の読める外国人たち
――多くは永井均研究者――までもが図々しくも権利を主張してきた。
太郎と考えて差し支えないこの人物は丁寧に条文を考えたはずだった。彼のアイデンティティークライシスは
自分は本当に太郎なのか、という点に端を発していたが、太郎という属性を越えた脱人格的自我が
権利を持つと考えても自分が権利を一手に握れないと考えていた。無個性的な脱人格的自我では
「この私」だけが権利を持つということを表現できないからだ。脱人格的自我はあの次郎にもある。
でも<わたし>は今の次郎には決してない。…はずだった。
憲法発布から5日後次郎も憲法を読んで権利を主張したというのでとうとう新憲法は停止された。
5 :
考える名無しさん:2006/02/12(日) 01:34:58
アインジヒト× ainnjihito
インサイト○ innsaito
Nagai hitoshi
アナグラム乙
/ ̄ ̄ ̄ ̄\,, / \
/_____ ヽ / ______ \
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| (_人__) 6 l | (_人__) | |
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| | | | l━━(t)━━━━┥
6 :
B:2006/02/12(日) 01:48:29
>>3-4 この思考実験を最初の考察のテーマにしたいなと思っています。
別にこれはみなに強要するつもりはないですから、異存がある方は言ってください。
とりあえず、慶応小学校にカンニングで入った
という伝説について詳しく
都市伝説
9 :
B:2006/02/12(日) 02:42:33
>>7 幼稚園から慶応幼稚舎では?
私は詳しくないから誰か知っている人がきたらいいですね。
***
まず最初の問題は憲法に書かれた <わたし> という言葉が何を指すかということです。
この問題はわれわれ?の問題のアルファにしてオメガなのですが、それゆえに最初に取り組まなくてはなりません。
ご存知のように、ここでは世界でただ一人ほかの人とまったく別様のあり方をしているこの私のことを
永井均に習って <わたし> や <独在性> と呼びます。
一方、 <単独性> という概念もあります。これは唯一性のようなものに通じます。
自分の愛しているかけがえのない人物など、私自身を含めた人物全体(好みに応じてペットも含まれるかもしれない)
が <単独性> に当てはまります。
この <独在性> と <単独性> の差異がこの話の味噌になります。
両者の間に差異を認めるか認めないかなどの論点は、めくるめく論理展開を伴い
私秘性と公共性の対比、私的言語と言語ゲームの対比等々をへて
「 <わたし> は唯一のものではない」という主張と「 <わたし> とはこの私だけのことである」という主張の
両立をもたらすはずです。
当然この経過は永井均の手のひらの上を走り回ることに相当します。
またこの見立てが外れていることも十分にありえます。(それは喜びですが)
であったとしても、永井均に接近すること――本人の言い方を借りればそれは永井均を殺すことに
等しいのだが――は、めぐりめぐってこの私に接近することに等しい。
この私自身に接近する必要も実はないのですが、まぁ面白そうだと思うのです。
10 :
B:2006/02/12(日) 03:58:16
>>3−4に沿って考えてみよう。(カッコ内は飛ばして読んだほうがわかりやすい)
まず、太郎の発想は自分に権利を認め他人に権利を認めないという虫のいいものである。
これはこれで永井均の倫理学の問題領域に属する話だが、倫理学のほうは私には途方もなく
難解なので誰か精通した人の書き込みを待つことにしよう。
太郎の発想で、ある種の倫理学的な側面以外の重要な発想は、人物= <わたし> と
考えていない点である。
それは正しい。(なぜ太郎でない私がこんなことをいえるのか?…ひとまず置いておこう)
なぜなら、太郎は現に次郎と体(あるいは記憶)が入れ替わっていたのであり、
このギャップを正す際に、「太郎の体と記憶を持った次郎」というややこしい存在に
なったかもしれないと不安に思っているからだ。
そして、この発想がもたらすものは <わたし> の連続性の否定
というすぐには受け入れがたい結論だろう。
仮に今、太郎の記憶と体を持つ <わたし> がかつて次郎であったとしよう。
そのとき <わたし> は次郎的な考えと記憶と身体的特徴から把握されていた。
しかしその <わたし> が太郎の体と記憶を持てば、かつて太郎がもっていた <わたし> と
同じ <わたし> として把握されざるを得ない。
つまり <わたし> が従来どおりの太郎の <わたし> なのか、
次郎から太郎に変化した <わたし> なのかが識別不可能なのだ。
これは『私・今・そして神』において <今> がペリー来航時に変化しても識別不可能と
論じられる部分と通じている。
つまり <今> も <わたし> も過去や未来に対しての連続性が問題にならないのだ。
(ここにおいてわれわれ?は『存在と時間』とはまったく別の仕方で、「絶対現在観」とでも言うべき
考えにたどり着いた。当然、二つは大変似ているがやはりまったくの別物である。)
11 :
B:2006/02/12(日) 04:34:33
>>10
もし、 <わたし> が変化しても変化しなくてもわからないとしたら、
太郎(のように見える人物)はなぜ <わたし> は太郎なのか次郎なのかと問いうるのだろう。
それはブラックジャックによる手術の記憶があるからだ。
その一言に尽きる。(結局、記憶に強く規定されていることになるなぁ)
猛烈に眠たいし、今日はこの辺にしておこう。
私だけのオナニースレになるのは心苦しいので、批判反論があればなんなりと。
ロールズという人は,自分がどういう人間なのか全然知らないとすると,
各人を平等とするような原理が採用されるはずだ,とかいうようなことを
言ったんだっけ(詳しいことは全然知らないけど)。
<私>がこれから憲法を作るが,しかし,未来において<私>が誰で
あるのか全くわからないとしたら,「全ての人が平等に権利を持つ」と
定めておくのが一番無難かもしれないと思って,そうすると,ロールズの
言っていることとちょっと似ているような気がした。
…と思ったら,『倫理とは何か』の191頁に,すでにそんなことが書いて
あるみたいだ(w
13 :
B:2006/02/13(月) 01:00:48
>>12 『倫理とは何か』の参照箇所をチラッと読んだけど相変わらず難解だし、永井均は辛辣だし。
ちなみにあの本は所々に誤字があるんだけど校正の人も難解すぎて読む気がしなかったのかな?
ま、それはさておき、本題の方ですがこれはとても複雑だし、感覚的になりそうだから
ちょっと悩んでるんだけど…えー、やるだけやってみます。
もし味気なく結論だけをいっちゃうと <わたし> や <今> に
過去も未来も関係ないからロールズの想定もやっぱり関係ないんだと思います。
でも、もう少し踏み込んでみたら
>>12の指摘は可能世界と現実世界の対比で <わたし> を
理解するきっかけになるかもしれない。
まず神の視点からこの世界を見渡すと、たくさんの人々がいる。この人々がもし私と同じような人々なら
現実にBである <わたし> は他の人物であることも可能だったわけである。
だとしたら、今現実にBであるこの私を現実世界とし他の人物を可能世界とする、こともできるだろう。
では、仮に現実世界であるB(を中心に開かれた世界)から <わたし> がなくなればどうなるか。
誰がそれを認識するかという問題は残るが、基本的には現実世界Bが可能世界Bにかわることを意味するだろう。
特に注意すべきなのは現実世界が可能世界に転落してもBには何の変化もないということだ。
明日からも同じように利己的な生活をするだろう。(もちろん決定的な意味でBは死んでいる)
だから <わたし> が移動したかもしれないからと言って、ロールズ的な意味での平等を
太郎が意識するとは私には思えない。今度は太郎として自らの利益を考えるでしょう。
(ただし彼は自らを太郎と呼ぶのにためらいがあるのだが)
14 :
B:2006/02/13(月) 01:26:46
あれなんか結論あたりがおかしいな。
太郎は諸可能世界の中でどれが現実世界であってもよいように
「 <わたし> が権利を持つ」と書いたのだとしたら
>>12の指摘とは逆の発想ということになるのかな?
15 :
考える名無しさん:2006/02/13(月) 03:08:40
なにこのバカスレw
16 :
12:2006/02/13(月) 03:35:36
変なことを言いっぱなしで済ますのもまずいので,もう少し書いてみる。
>>3-4をみて単純に思ったのは,太郎は余計なことを考えずに,たんに
「太郎が権利を持つ」と定めておけばよかったのに,ということ。そうすれば,
通常は,問題なく自分だけが権利を持つようになるはずだ。
もちろん,そう定めた後に,ブラック・ジャックが現れて次郎にされてしまった
のでは,困る。そこで,まずは「ブラック・ジャック抹殺特別法」を制定する(w
(ついでに,次郎とまたぶつかって入れ替わったりしないよう,次郎も抹殺かw)
抹殺が終了したら,安心して「太郎が権利を持つ」という憲法を制定すれば
よいわけだ。
しかし,<私>は究極的には今にしか存在せず,未来への持続が考えられない
とすれば,<私>が今は太郎であるとしても,明日になってみたら<私>は
なぜか次郎かもしれない(『転校生』のN先生に怒られそうな言い方だけど)。
そうすると,いわば,ブラック・ジャックの抹殺は原理的に不可能だとでも
いうことになるだろう。
(
>>3の太郎は,ブラック・ジャックの抹殺が不可能だという問題点を考えて,
「<私>が権利を持つ」というふうに定めたのだろうか。なんか違う気もするな。)
ともあれ,未来において<私>が誰なのかわからないとしたら,誰かのみを
優遇するような憲法を作ってしまっては,まずいことになるかもしれない。
すると無難な方法としては,憲法上はみんな平等にしておくのがよさそうだと
いうことで,
>>12に至る。
しかし,<私>の倫理というか行動方針としては,「ひたすら<私>の利益に
なるように行動する」というのは,(通常の道徳,世間体,将来的不利益などを
別にすれば)別におかしなことではないのに,同じようなことを憲法で定めると
急におかしなことになるのはなぜだろう,というのは一つの問題かなあ,と
勝手に思った。勝手に思っただけなので,気にしないでください。
17 :
B:2006/02/13(月) 21:07:26
>>16 …うーん、そうですね。
ひょっとすると太郎が <わたし> という言葉を用いるのには二つの理由があるのではないでしょうか。
一つはもちろん、自分が本当に太郎なのかという不安から。
二つ目は
>>14でもあげたように特定の現実世界から離れた(特定の人物から離れた) <わたし> を想定し
それに権利を付与しなければならないという強迫観念です。(一つ目の理由から演繹される?)
一つ目の理由は
>>3-4で明確に表現できているはずですが、二つ目の理由は言外に潜む形になってしまっています。
仮に二つ目の理由が太郎に意識されていれば
>>16で触れられていたようなブラックジャック抹殺の不可能性こそが
本当の問題だったのかもしれません。
そうなると彼は脳天気に「太郎が権利を持つ」と書けなくなる…のかなあ。
ちなみにこの問題が実は永井均の倫理学の問題領域に、より近いというのは秘密にしておいてください。
18 :
B:2006/02/16(木) 00:05:57
>12さん
>>17の中途半端なレスは無視してくれて結構です。
ところで、
>>12でいうような原初状態と <わたし> について考えているうちに、
<わたし> とはすべてのもの種であるが、その <わたし> を把握するのは私の記憶や身体的能力だ、
という『ブラックジャック』や『私・今・そして神』での永井均の立場を強く意識するようになりました。
『ブラックジャック』にもはっきりと書いていることではありますがこの立場は「ウィリアム・永井・榑林説」を
批判するような立場ではないでしょうか。
「ウィリアム・永井・榑林説」は記憶と肉体を入れ替えても <わたし> の拷問に対する恐怖は
なくならないというようなものでした。いわば、Bである私が体と記憶をAのものに入れ替えられても、
恐怖し、まさにこれから拷問を行われんとするのはこの <わたし> だという主張だったはずです。
(主張という言葉を永井均は嫌いますがそれ以外に適当な言葉が思い浮かばないので)
仮にそういう主張が行われていたとすれば、 <わたし> の連続性という問題がここでは抜け落ちていないでしょうか。
拷問に恐怖するのは確かに <わたし> です。が、その <わたし> は元々Bに付随していたものなのか
Aにくっ付いていたものなのかが判別不可能になるのではないでしょうか。
19 :
B:
つまり「ウィリアム・永井・榑林説」でいくとAの記憶と体を持って <わたし> は来たるべき拷問におののくのですが、
そのときの自己把握はAの記憶と身体的能力をもっておこなわれるので、以前からあったAの <わたし> と区別が
つかなくなってしまう。(Aの <わたし> などという言い方はもちろん厳密に言って間違っている)
としたら、記憶説や肉体説を取る人たちが <わたし> は記憶や肉体にくっ付いていると主張する隙を
「ウィリアム・永井・榑林説」は持っているんじゃないでしょうか。
拷問を恐れている <わたし> はBではなくAのそれだと強弁することがどこまでもできそうです。
もちろん私はそういう強弁に誠実さを認めるものではありませんが、『ブラックジャック』における永井均の仕事が
「ウィリアム・永井・榑林説」の単調な焼き直しに過ぎないような気がずっとしていましたし、
以前の明快さが薄れて無駄に不明確になっているような、無駄に後退しているような気がしていましたから
その理由がわかったような気がして、のどのつかえが取れた気分です。
(単純にしっかりと『ブラックジャック』を読めていなかっただけと言えばそれまでですが)