1 :
考える名無しさん:
教ーーれ
ぜんぜんちがう。
3 :
考える名無しさん:05/03/05 00:18:30
それは本人達にもわからない
ハイデガーには構造がある。サルトルには無い。
ハイデガーはドイツ人。サルトルはフランス人。
ゆえに、
ハイデガーの哲学はドイツ語、サルトルの哲学はフランス語で書かれている。
この
>>1で疑問なのは、こういうことだ。
通常、「AとBの違いを知りたい」という時には、
AとBとの間に共通点がある反面、相違点が明確でない、という場合だ。
しかしサルトルとハイデガーは、共通点はそれが「哲学」と呼ばれている、
ということの他に何もない。ましてや彼らの思想は当人たちにとっては
「哲学」ではないかも知れないということを考えるとき、彼らの思想の間には
尚更共通するものが見出されないことになる。
では、なぜ
>>1は
>>1のような主張をするのか?
ここで可能となる答えとしては、
・1はハイデガーとサルトル以外の哲学者を読んだことがない
・1には通常の日本語の論理感覚が欠けているために、上記のような
推論が通用しない
・1は熱烈なハイデガー主義者で、自分の心酔する思想のために
わざとこのようなスレを立てている
まず可能性が高いのは第三の「宣伝」説だ。しかしよく考えてみると
「熱烈なハイデガー主義者」って何だ?そんなものは未だ嘗て見たことがない。
次に考えられる第一の「
>>1はハイデガーとサルトルしか知らない」説もあり難いことが
わかる。サルトルを知っているならば当然ボーヴォワールも知っているだろうからだ。
そこで残る答えは第二の「
>>1は日本語感覚がヘン」説になる。
ここで俺はハタと思いついた。
>>1は日本語感覚がヘンなのではない、
>>1は俺らの日本語感覚を撹乱させようとしている
のだ。
>>1は扇動家なのだ。
>>1は革命に燃えた理想主義者なのだ。
このような
>>1を俺は決して許すことができない。
よってこのスレの廃止を俺は提議する。
10 :
考える名無しさん:05/03/10 09:03:48
>>7 どうすればそれだけがんばって書き込みできるのかが、疑問だ。
11 :
考える名無しさん:05/03/10 13:58:20
ハイデガーは同調者、サルトルは抵抗者。
簡単な話だろうが。
12 :
考える名無しさん:05/03/10 19:26:07
対ナチズムってことね。
ハイデガー=有神論者
サルトル=無神論者
ハイデガーは権力に媚び、サルトルは女に媚び。
15 :
考える名無しさん:05/03/12 11:58:01
ハイデガーは国家社会主義の同伴者
サルトルはスターリン主義の同伴者
を読むのが一番手っ取り早い。ジャン・ボーフレというフランス人から、「サルトルの哲学についてどう思いますか?」と書簡できかれて書簡で答えようとしたのを一般向けの作品にしたらしい。創文社版全集9巻『道標』に収録されている。これを読むべし。
サルトルは実存主義の根本命題を次のように言い表している、すなわち、実存は本質に先行すると、その際、彼は存在と本質とを形而上学の意味に於いて受け取っており、形而上学はプラトン以来、本質は存在に先行すると、言っている。
形而上学的命題を転倒しても、その転倒は依然として或る一つの形而上学的命題に留まっている。このような命題として、サルトルの立てた命題は形而上学とともに有の真性の忘却の内に依然として留まっている。(同書P.415〜416)
19 :
考える名無しさん:05/03/12 20:36:47
サルトルは、実存主義者であることを公言し、ハイデガーのことを仲間だと言ったが
ハイデガーは、それを鼻で嗤って否定した。
そういう関係です。
20 :
考える名無しさん:05/03/12 22:58:58
そこだな、メル・ポンとサルトルの分岐点は。
ハイデガーは、ソクラテス以前のギリシャに憧憬を抱き、
サルトルは、マルクスの夢が実現した未来に憧憬を抱いていた。
事柄を意識に上らせることに偏執的なこだわりを持っているように見え、そこが非常に窮屈であり、また〈乗り越え〉の哲学は脅迫観念的だった。ハイデガーの『有と時』からはその種の窮屈さは感ずることはなかった。ハイデガーは私から余計な力を抜いて楽にした。
23 :
考える名無しさん:05/03/13 10:17:40
どちらも顔が不細工
24 :
考える名無しさん:05/03/13 11:10:42
サルトルは斜視?
サルトルが60〜70年代の学生運動華やかなりし頃によく読まれたというのは理解出来ます。彼にイカれたらやらない訳にはゆかなくなる。でも深さでいったらハイデガーの比ではないという気がする。
26 :
考える名無しさん:05/03/13 12:23:07
おまえら、存在の深さを知ってますか?
サルトルは個体の生について、特に出発点に於いて、個体の資質や歴史性などについて、軽く考えていたのではないかと思える。彼の哲学にリアリティが欠けていたとしても当然だろう。彼の唱えていた自由の観念などにも同じような欠陥を感じる。
人間も出て来たという。別にサルトルなどのアジテーターに責任をとれなぞと言う気はない。しかし、たとえ同じデモ隊や運動に属していても、抱えているものは実は皆違ってたりする。サルトルは人間観に於いて大いなる勘違いをしていたと私は思う。
29 :
考える名無しさん:05/03/13 18:33:33
と言うもの大いなる勘違いだったりして。
この感じの合いの手が入ると「これぞ2チャンネル」て実感がひしひしと。でもー勘違いじゃないよ、多分。
31 :
考える名無しさん:05/03/13 20:27:13
存在の深さなんて、ニーチェ的にいえば背面思想だろ。
そんな糞くさい発想はやめた方がいい。
神秘主義とか言われてるけども、俺はそう思わない。吉本隆明の心的現象論で掴まれたことを念頭に置けば、具体的過ぎるくらい具体的。先に吉本の論を読んだせいか、何の神秘もないと思って読んだ。僕は幻想論は存在論だと見ている。
33 :
考える名無しさん:05/03/14 11:36:30
34 :
考える名無しさん:05/03/14 13:34:18
おい、人力飛行機さんよ、オメさん、いい線いってるぞ。
そのまま続行ってことでヨロシク。
オメさんの全部読んでっからな。
35 :
考える名無しさん:05/03/14 13:36:54
ここには頭悪いヂヂイが大量にいるんだな
36 :
考える名無しさん:05/03/14 16:38:19
ハイデガーはナチスとの関係でイメージダウン。サルトルの方がまし。
極私的読み方としては、ナチスに加担したことを彼の思索と関連させて読んだことはない。どう関連させるか、しかも関連させたその関係から何が導き出せるのか。僕には判然としない。色んな人達がやろうとしているらしいから、その人達はやればいいと思う。
でかつて掲載された岸田秀と吉本隆明の対談であって、そこで問題となったのは、岸田と吉本の共同幻想の違いであった。岸田の言う共同幻想は個的幻想の集合体である。だが、吉本の場合は単に個的幻想の集合ではなく、元々の個体が居なくなっても
論の方が簡潔で分かりやすいと受け取った。だが、吉本は岸田より厳密に考えていた。そこでハイデガーに戻ると、彼は個体と共同性の位相の違いに無自覚だったのではと思える。個体と共同性を単なる〈個体×n〉と考えること。彼の誤る素地はそこにあったのでは。
40 :
考える名無しさん:05/03/14 19:26:15
単純な物理現象は、構成要素が支配、コントロールできる関係にある。
完全な予測可能性がそれを可能にする。
一方、複雑現象(人間・社会・地球環境)は、ネゴシエーション、弁証法的葛藤の関係にある。
こちらは完全に予測することは不可能だ。
見方もありますよね。“弁証法的葛藤”。差異の止揚。概念の発展。ハイデガーにはその辺の思考はないんじゃないかな。彼は終生同じ歌を歌い続けた、ないし変奏した。彼の残した仕事はそうだった、という印象を僕は持ってるんですが。
酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文なんです。そこに「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」という文言があったことはよく知られています。僕は咄嗟にハイデガーの有名な概念〈存在忘却〉を連想しました。
そして、ハイデガーによれば存在忘却に対抗し、現有は存在を暴力的に奪取し、想起する…そんなくだりがあった。宮台真司の指摘する同調圧力もやはり忘却を強いると言えるでしょう。まだハイデガーの問いが生きている。そんな気がします。
古いベットの上で やさしさを持ち寄り
45 :
考える名無しさん:05/03/15 23:39:04
ノーベル賞を辞退しながらも、尻すぼみのサルトルより
ナチに加担しながらも、今なお議論されているハイデガーの方が上だな。
46 :
考える名無しさん:05/03/15 23:48:24
どっちが上とか下とか・・・・・・w
47 :
考える名無しさん:05/03/15 23:56:37
じゃあ、ハイデガーもサルトルも「ちっともえらくない」でいい?
柄谷行人が『存在と無』の頃のサルトルはいいと指摘している。これは僕と反対で、サルトルは『弁証法的理性批判』以降の方が面白いと思っています。理由は、人間を拘束する条件の強固さを描き始めた。そこがまだ救える気がします。
49 :
考える名無しさん:05/03/16 00:38:40
柄谷は前期サルトルの妙なカント主義に同類としての親近感を感じただけでしょ。
柄谷の指摘する「前期サルトルに於ける妙なカント主義」とはどういうことかを、でき得れば教示して頂けたらとても有り難い。
因果性を追求するのは認識的態度。にも拘わらず自由や責任を追求可能であるのは因果性を括弧入れ出来るからで、その場合は実践的態度である。そんなカント解釈をしている箇所がたしかありますよね。その辺の記述のことかな?どうでしょう。
52 :
考える名無しさん:05/03/16 14:04:09
>>49 柄谷が指摘しているなんて、書いていませんよ。
私が「妙なカント主義」と読んだのは、一方で普遍的な道徳の存在を否定
しながら、他方である道徳的立場を選んだならその普遍的な妥当性を主張
せざるを得ない、というサルトルの奇妙な考え方です。
のを読んだことがあります。大学で平井啓之に「サルトルはいかなる立場を選ぶのも自由だと書いているのに、何故片方では政治的発言をするんでしょう?」と聴いた所「それはサルトルの人間観だろう」と煙に巻かれた、とか。
あの時代のフランスで「投企」を考えたら、政治的行動しか無かったんでしょ。
サルトルの中の分裂が見えたと同時に、彼の中では分裂はしていなかったのだろうな、とも思いました。つまりそこは彼にとって、自由の相剋が底辺に置かれていて、よって彼が倫理を主張することは可能だったんじゃないか。という気がしました。
投企とアンガージュマン(自己拘束)ということですね。前期サルトルの絶対的自由からは
どのような政治的立場も導くことはできませんが、当時の状況においてマルキシズムだけが包括
的な哲学思想であり、その問題提起は乗り越えられていず、実存主義が、これを補完すると考え
たことからの選択、また使命感であったということかと思われます。
>>52 NAMに行った後は、むしろハイデガーにシンパシーを感じてたみたいだけど。
hosyu
59 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 20:14:51
ハイデガー=有神論の実存哲学
サルトル=無神論の実存哲学
ところで『存在と時間』及び『存在と無』を読了した椰子ここにいるの?
60 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 20:20:01
え、サルトルって読まなきゃダメですか!?
61 :
考える名無しさん:2005/05/31(火) 15:57:51
サルトルはサルの哲学。
サル取りがサルトルになるのです
62 :
考える名無しさん:2005/06/01(水) 23:54:27
自分は無学の者で今「嘔吐」を読んでいるのですが、理解できない箇所があるので質問していいですか?
63 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 00:18:59
いいよ
64 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 00:19:41
ハイデガー=ナチ党員
サルトル=ノーベル賞を拒否
65 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 03:23:08
有難うございます。
「嘔吐」の中で主人公が、存在とは必然では無く偶然性云々、と言っていますが、
ここでいう偶然性とは確率とか人智が及ばないとかいう意味でしょうか?
また主人公はあらゆるものにひとつの「存在」を感じていたんですよね?
そして僕は馬鹿なのでしょうか?
御教授おねがいします。
66 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 03:34:49
@存在はあるところのものである。主体の自由に応じて存在は己を示すが
それは自由と同じく必然でない。
A確率の意味ではない。人知は必然を求めるが自由はこれを逸脱し従って
「存在」も知ー必然を逸脱する。
B「存在」は実存的主体にとっては「迫ってくる」ものである。
Cそんなことはわからない。
67 :
考える名無しさん:2005/06/02(木) 11:16:18
なるほどよく解りました。どうも有難うございます。
続き読みます。
68 :
考える名無しさん:2005/06/03(金) 01:22:17
「嘔吐」読了。
なんか最後がちょっと強引かなと思いました。
69 :
考える名無しさん:2005/06/03(金) 20:50:13
実存とは、それが在るところのものであり、在らぬところのものである。
70 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/03(金) 21:04:47
両者とも、カントのアプリオリな感性としての時間、空間という幸せな座標軸から、
時間を経験的な認識に追い出した。
サルトルの「弁証法的理性批判」における、
対自、対他存在等としての認識の規定は、
ハイデガーの「存在と時間」から大きな影響を受けている。
いずれも、現象学が基底にある。
時間をアプリオリな認識から追い出すということは、
x,y,z軸の空間の認識は無条件に与えられるが、
時間は各自固有の認識である、という点で、
人間一般が共有できる認識の軸を両者とも失っている。
それが、実存の基底。
と、理解しております。
71 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/03(金) 21:09:21
即ち、空間の3次元的認識と、+時間の4次元が所与のものとすれば、
人間の認識は、ほぼ∞に、科学的思考一般、人間の認識一般、
即ち、帰納/演繹的思考は可能と措定できる。
それに対するアンチテーゼから、ふたりとも出発している。
と、理解しております。
72 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/03(金) 21:12:07
因みに、吉本隆明の「心的現象論序説」も、記憶の範囲では、
空間の認識が、個々の人間の時間の認識により、
微妙に歪められる、という前提に立っていたと、記憶しております。
73 :
考える名無しさん:2005/06/03(金) 21:27:35
74 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/06/03(金) 21:31:13
>73
誉め殺しはやめてくれ。
75 :
考える名無しさん:2005/06/03(金) 21:41:04
いやいや、けっこうすげぇよ
76 :
考える名無しさん:2005/06/10(金) 06:41:29
サルトルは実存を解明したのか、
実存主義にとどまったのか、
そこを超えだして展開したのか、しなかったのか。
77 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 10:29:48
ハイデガーは自分の思考を実存主義ではないと明言している。つまり自分のは存在への思索だと。また、サルトルの哲学は実存と本質を転倒しているが、相変わらず形而上学に留まっており、それへの批判を欠いている、とも言っている。
78 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 10:45:27
マルクス主義への距離も差がある。サルトルは自らの実存主義とマルクス主義の融合を試みる。ハイデガーにとってマルクス主義は近代的技術主義の一形態と最終的には評価される。具体的には平凡社版『形而上学入門』付録の「シュピーゲル対談」に詳しい。
79 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 10:51:17
以下のような箇所である
シュピーゲル:きっとあなたは共産主義的運動をもその中(「価値」と「全体性」との濁流の中で当てずっぽうに網打漁をしている哲学)に数え入れるのでしょうね。
ハイデガー:ええ、全くそのとおりです。
80 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 10:59:22
惑星的な技術によって規定されたものとして。
シュピーゲル:アメリカニズムもですか?
ハイデガー:これまたしかり、と言いたいところですね。ここ30年の間にだんだんはっきりしてきたと言って良いと思うのですが、
81 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 11:04:30
近代的技術の惑星的運動は一つの威力であり、歴史を規定するそれの偉大さ(人力による註:人間が自力で制御出来ない或るもの、との意味)はどんなに大きく評価されてもされすぎることがないほどです。(平凡社版『形而上学入門』P.383-384)
82 :
人力飛行機:2005/06/10(金) 11:26:53
失礼。79における“共産主義運動をもその中に”の“その中”とは先の意味でなく、《地球全体の惑星的本質から規定されている技術と近代的人間との出会い》の意味に訂正します。よろしく。
83 :
考える名無しさん :2005/06/12(日) 15:10:11
実存ブーム!!!!!!!キター!!!!
サルトル批判ブーム
85 :
考える名無しさん:2005/06/13(月) 18:53:40
サルトルは偽者。
ハイデガーは本物。サルにも実存はある。
構造主義は意味なし。
87 :
考える名無しさん:2005/06/14(火) 21:55:40
4×1=4
88 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 02:10:52
>>77 その通りやね。ハイデガーがやりたかったのは存在の解明。まぁそこに至ってるかどうかは疑問だが。
とりあえず、言葉の用法が魔術的に難しくて他人に理解されることを求めてないのがハイデガー。小説とか書いちゃったりしてるのがサルトル。
ハイデガーの原著はドイツ人でもわからないドイツ語やし。
89 :
考える名無しさん:2005/06/15(水) 17:13:03
サルトルは偽者だけど
楽天的でいいよ。
90 :
考える名無しさん:2005/06/16(木) 02:32:05
神はサルの創造に失敗しサルトルを創った
サルトルが偽物呼ばわりされているが……
バタイユはサルトルを評価していたし、ドゥルーズは「サルトルは私にとって全てであった」と言っている。
だからといって俺もサルトルは偽物のような気がするが。
92 :
考える名無しさん:2005/06/17(金) 12:43:00
完璧な哲学者って誰?
誰か知ってたら教えてください。
哲学に完璧なんてない。
先人の築いたモノはツールに過ぎない。ツールを使って新たに作業を行うのが哲学。
94 :
考える名無しさん:2005/06/17(金) 13:41:40
>93
同意
読売新聞6月20日夕刊4面に「サルトル生誕100年 上」っていう記事が
載ってますね。
>>91 ドゥルーズが評価したのは哲学ではない部分。
主に知識人としての振るまい。
「サルトルに夢中になってた頃は、彼とハイデガー(当時うんざりするぐらいに
詰め込んでた)との関わりさえ、全く知らなかった」
みたいなことを言ってたぐらいだから。
97 :
91:2005/06/25(土) 17:10:20
>>96 ほう! バタイユはともかくドゥルーズがサルトルに入れ込む理由がわからんかった。
(バタイユも十分謎だが)
詰め込んでたっていうのがよくわからんが、情報サンクス。
現代思想の特集号に出てた、最後のインタビューに出てたよ。
イポリットのところでヘーゲルやハイデガーを詰め込まされて息が詰まりそうなところに
サルトルが出てきた、みたいな感じ。
そっちよりも、否定的ではあるけどハイデガーに言及していたのが、
やっぱりね、と感じた。
ガタリに惹かれるような所をサルトルに感じていたんでは(ガタリはサルトルに否定的だと思ったけど)。
あれ、批評空間だったかな。
最後にマルクスを書くとか言うやつ。
今調べたらインタビューはなかった。
批評空間に出てたインタビューにはそれについての記述はなかった。
間違いかな。
「ドゥルーズの思想」にあった。
102 :
91:2005/06/25(土) 18:53:52
確か意味の論理学ではハイデガーに関する記述があった。
ハイデゲリアンではないだろうがサルトルよりもハイデガーなんだろうな。本人の興味は。
サルトルの知識人としての振るまいというのから
狂人の二つの体制収録のヤーセル・アラファトの偉大なんかが出てくるのか。
……話戻そうか。俺が振っておいてなんだが。
私は、私の愛し尊敬していた二人の師、アルキエとイッポリットによる教育を受けた。
状況は悪化していた。一人は長い白い手をし、そして生まれつきか、あるいは反対に生来のアクセントを
隠すためにそうなったのかは知らないが、どもりで、デカルト哲学の二元論に献身していた。
もう一人は、力強い、四角張った顔立ちをし、ヘーゲルの三段論法をこぶしで拍子をとりつつ、
一語一語を強調していた。終戦の時も、われわれは奇妙にも哲学史に釘づけになったままだった。
ただひたすらヘーゲル、フッサール、ハイデッガーに入り浸っていた。中世よりももっとひどいスコラ派の中に、
小犬みたいに盲滅法突入したのだった。
幸いなことにサルトルがいた。サルトルはわれわれの<戸外>、まさに裏庭の涼風
だった(来るべき歴史の観点から、サルトルがハイデガーとまさにどのような関係にあるかを
知ることは、大して重要ではなかった)。ソルボンヌのすべての確率の中で、彼こそが
われわれに再び零からやり直す力を与えてくれる唯一の組み合わせだった。そして、
まさにサルトルは絶えずそうあり続けたのだ。模範でも、方法でも、手本でもない、
ほんの少しの澄んだ空気、、<植物相>をわたってくる涼風、知性の状況を
不思議なほどに変えた一知性だった。サルトルが何かの始まりか終わりかを問うのはばかげている。
すべてのもの、そして創造者らがそうであるように、サルトルは中間に位置し、中間を突破する。それでも、
まったく理由はわからないが、私は当時は実存主義にも現象学にも魅力を感じていなかった。
しかし、人々がそれらに到達したときには、すでに歴史の一部になっていて、
サルトルによるもの以外は、あまりにも多くの方法、模倣、注釈、解釈がありすぎた。
現代人は植物化しているということなんですか?
ハイデカーの肺デカー
106 :
考える名無しさん:2005/07/16(土) 15:22:39
今日の日経新聞朝刊の文化面、サルトル特集ですね。
>>77 『ハイデガーが存在の解明に取り組んだということ』と、
『彼に対する実存主義者との評価』は矛盾しないと思うけど、
そこんとこ、どう?
うろおぼえだけど、確か今でも、
ハイデガーへの実存主義者の評価については
「本人は否定しているが・・・」みたいに
語られることなかったっけ?
それ言ったらフーコーは構造主義者だし。
高校の倫理教科書持ち出してきたらニーチェまで実存主義者にされそうな肝ス
別にハイデガーが実存主義者でもかまわないが、重要なのは分類じゃないよな。
>>108 まぁね。
ただ、まさに分類の話になってたから言ってみただけのこと。
110 :
考える名無しさん:2005/07/16(土) 21:50:06
>109
敢えて旧式の分類論でいくなら、ハイデガーもサルトルも「存在論」者だよ。
111 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/16(土) 22:16:10
ハイデガーは、イデア、超越的ななにものかを、まだ追掛けた。
サルトルは、そういうものは無い、という前提から、「存在と無」において、
存在論を展開した。
「そういうものは無い」、ということを前提にすること、それが、いわゆる「実存」。
>>111 実存主義とは何か?存在論とは何か?
って問いに対してそう決めてしまえば確かにそれははっきりするけど
本当にそうか?って気もする。
っていうのは、まずハイデガーは『立てる』っていう独特な言葉でもって
近代理性を批判してるし、
一方サルトルにしたって、レヴィストロースとの論争においてサルトルは自身の持っている
「理性へのナイーブな志向」を問われたのではないかと思う。
それにあなたの言うとおりだとすると、
>>77が挙げたハイデガーの指摘
>サルトルの哲学は実存と本質を転倒しているが、相変わらず形而上学に留まっており、
>それへの批判を欠いている
は当たらないということになるが・・。
うーん、わからない。
そこんとこ、どーでしょう。
113 :
106:2005/07/17(日) 04:38:04
誰も日経読んでないんだな・・・。
114 :
考える名無しさん:2005/07/19(火) 09:02:02
ハイデガーはフッサールに同意して最も根源的であると思われる存在について問うのだが、
サルトルは存在を置いといて人間存在(実存)を問うている。
ハイデガーのは存在哲学、サルトルのは実存哲学。
っでいいと思うが、果たしてどうなのかな?
>>114 しかし、ハイデガーは形而上学を批判してなかったっけ?
そして、フッサールは「現前の形而上学」として後々批判されるわけだが。
存在と実存の違いは?
116 :
考える名無しさん:2005/07/20(水) 04:33:16
ハイデガーはフッサールの事象そのものへという方法には同意したんじゃ?
存在は女みたいなもので現象的なものの源であり本質のないもの。物自体。
(存在は現象に先立つ)
実存は男みたいなもので本質の源であり現象的なもののないもの。客観的認識者。
(実存は本質に先立つ)
存在は実存たりえず、実存は存在たり得ない。
横たわる深淵にも関わらず存在と実存は世界の両輪として共に働く。
世界は存在と実存の包括者ではなかろうか?
つ ヤスパース
117 :
考える名無しさん:2005/07/20(水) 05:23:58
ハイデガーの「存在と時間」が未完に終わったのは彼が実存だから。
時間には始まりも終わりもない。
存在には始まりも終わりもない。
サルトルの「存在と無」は彼が実存であるために、存在は本質的に無と思われるというわけだ。
ハイデガーがナチスに加担したのは、存在にひどく恐怖を感じたからだろう。存在は実存の無存在性を悟らせるから。でも実存は存在していなくても、空虚ではあってもそれは意味と本質、価値の源として存在に溶けこむ。そこで水を得て生きる。
存在は実存を内に溶かし込むことで生き甲斐を得る。
まぁどっちもちょっぴりしか読んでないけどね。
今読む意味と動機を得たから読むかなw。
>>116 >ハイデガーはフッサールの事象そのものへという方法には同意したんじゃ?
>存在は女みたいなもので現象的なものの源であり本質のないもの。物自体。
>(存在は現象に先立つ)
なるほど、これは同意。
(女、男っていうのはよくわからないが。)
>実存は男みたいなもので本質の源であり現象的なもののないもの。客観的認識者。
>(実存は本質に先立つ)
これはよくわからない。
客観的認識者?
ってことは超越論的主体ってこと?
それが実存?
違うだろ?
119 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/20(水) 22:33:52
>>117 サルトルの「存在と無」は彼が実存であるために、存在は本質的に無と思われるというわけだ。>
サルトルは、存在が「無」であるなどとは書いていない。
なにかにコミットする、参加する、という、そのときどきの選択を自分で行っていく、
そのプロセス自体が実存である、と書いていた、と記憶している。
存在に予め与えられている所与のもの(自分を自分以外のものが規定するところのなにものか)などは無い、
と書いているだけ。
120 :
日経新聞16日文化:2005/07/20(水) 22:51:03
適当に脳内で要約
---------------
今年はサルトル生誕100周年であるらしい。
フランスでいろいろ催し物があるらしい。
日本におけるサルトル
66年のサルトル来日に日本の学生は熱狂したらしい。
68年にサルトルの「嘔吐」が三万部売れた。
大江健三郎や江藤淳や大島渚や唐十郎に多大な影響
を与えたらしい。
しかし80年代には完全に忘れ去られた。
今「嘔吐」は二千部しか売れない。
講談社「現代思想の冒険者たち」には
デリダ・フーコー・ハイデガーはあるが
サルトルは抜け落ちている。
121 :
日経新聞16日文化:2005/07/20(水) 22:58:02
「サルトルの世紀」 ベルナール=アンリ・レヴィ
という本が出て
浅田彰は絶賛したらしい。
海老坂という人は「褒め殺しだ!!
実存主義はヒューマニズムなのだ
後期サルトルを消去するのは許さん!!」
とか言って怒ったらしい。
以下の本が紹介されていた。
------------
実存と暴力
後期サルトル思想の復権・清 眞人 著
-----------------------
水野浩二『サルトルの倫理思想』
123 :
117:2005/07/21(木) 12:33:00
>>118 知識はないが、実存は自己関係だと思われるよ。
自己内部での関係。超越的視点を獲得した自己(主)と見られる自己(客)の関係。
その超越的な自己は見られる自己の存在に到達できない。これが実存の存在忘却ではないかな。実存になることによって人は存在を忘れてしまう。
でもそれによって他者の存在に近付けるようになる。自分との決別によって他者と出会うことになる。(自分にも他者にもなれはしないだろうが…)存在と会話するようになる。存在の言葉を理解するようになっていく。
124 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 14:47:52
>123
<知識はないが、実存は自己関係だと思われるよ。 >
対自存在であり、対他存在であるのだから、自己関係ではないよ。
また、<超越的視点を獲得した自己(主)と見られる自己(客)の関係。>
なんて、サルトルは書いていない。
126 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 17:16:50
>125
女は、女に生まれるのではなく女になるのだ。
127 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 17:21:40
即ち、人間存在は、tabula rasaとして生まれ、自分のそのつどの選択により、
engageすることにより、自分の存在を自分で規定していくプロセスを実存という。
128 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 17:23:13
誤)engageすることにより
正)世界にengageすることにより
女には男はわからんな。
自分と世界に対峙する超越的視点、客観的視点の関係が実存だろ。
見る方は存在なんだろうが、見られる方の存在には到達できないから、見る方も自分の存在を疑ってしまう。
131 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 18:58:47
実存を語るのに、どうして、超越的視点、客観的視点等をもってくるのかがわからない。
そういうものは、もう無いよ、っていうところから出発したのが「実存主義」だと思う。
いや哲学史的にはキルケゴールから始まったんだよ。彼は自己をどう定義した?
てか対自存在というのは、自に対する存在ということだろ。
対他存在は他に対する存在。
無いというのはその存在に対峙するもののことだろう。ならば自分は自由ということで、いかに自分を規定していくかが問われる。
どうもサルトルは我思う故に我ありというのを信じたようだ。
だから自分は存在であり、到達できない対象は無としたんだろう。それで自分は自由だと。
どうもサルトルは我思う故に我ありというのを信じたようだ。
だから自分は存在であり、到達できない対象は無としたんだろう。それで自分は自由だと。
135 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 20:04:30
>132
別スレでさんざん書いたよ。
キルケゴール絶望に絶望する絶望。
無っていうのは、存在の対極概念だけど、
対自、対他等の存在規定をしない、
即ち、何もengage/規定しない、無としての自分。
>133
我思う故に我あり、っていうデカルト的存在論なんか、
サルトルは一言も書いていない。
>>123 >実存は自己関係だと思われるよ。
>自己内部での関係。超越的視点を獲得した自己(主)と見られる自己(客)の関係。
主体と客体ってわけか。
>その超越的な自己は見られる自己の存在に到達できない。これが実存の存在忘却ではないかな。
これはちょっとわからない。
「その主体的な自己は主観的自己の存在に到達できない。
(というか、その存在を不問にふす。)これが実存の存在忘却ー。」
ならば理解できるんだが。
実存主義にしても存在論にしても、神に裏打ちされるような超越論的主体へのアンチテーゼとしては
同時代的な背景を共有していると思う。
ただ、実存主義では存在そのものを問わなかったために、
まさに主体と客体との間の関係性しか問題にせず、
「俺たちは自由な選択、参加、行動によって、なりたい自分になれるんだ!」
みたいな感じでナイーブな理性信仰が出てくるんじゃない?
その点を構造主義や精神分析の視点から批判されることになる・・・と。
137 :
wisteria-1 ◆ITBZ6GuBCc :2005/07/21(木) 23:23:12
>136
<「俺たちは自由な選択、参加、行動によって、なりたい自分になれるんだ!」>
本当の自由、即ち、何にも規定されない自分というものは、
想像することもできないほどに、恐ろしいものだと思いますよ。
日常生活レベルで考えても、本当になにものにも規定されない自分って、
想像できます?
138 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 00:21:42
想像はできないが、
体験してみないとわからない
ってな体験主義は哲学では禁止かw
139 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 06:04:49
キルケゴールの死に至る病の冒頭に自己の定義があったと思うが。
いきなりわからなかったっしょ?
>>135
140 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 07:19:08
>>136 存在を不問にふすんではなくて進行形の存在感がなくなり、次第に存在感の記憶も失われることじゃないかな? 存在忘却は。
逆に存在が未知になったから存在を問うことになる。
俺自身存在感ってどんなものだったか忘れてきてるが、今も稀に存在感が蘇ることがある。後で反省してみれば、それは不安に他ならなかった。ならば存在は不安の概念ということだろう。
存在というのは不安という存在感を意味する概念である。
世界の根源が存在つまり不安にあるというのはあながち不当でもあるまいて。
141 :
名無し:2005/07/22(金) 07:44:50
>>135 >133
我思う故に我あり、っていうデカルト的存在論なんか、
サルトルは一言も書いていない。
うんにゃ、「デカルトの我思う、故に我あり」は絶対的真理
だと言っている。『実存主義とは何か』だったか『存在と無』
のどちらの中でだったかは忘れたが。
自分の存在、つまり不安から抜け出しても、そこには自分より根本的な存在、不安が待ち構えている。
でもその不安に身を委ねるという犠牲と引き替えに、真相に近付ける。
今まで存在感のなかった対象がその存在を訴えだす。
対象を自分に帰属させ、我ものとする。
世界は我なりというのは、神か然らずんばチャイルド。
女やフランス人は自分に甘いよ。
男やドイツ人の方が自分に厳しい。
144 :
名無し:2005/07/22(金) 08:33:08
存在忘却というのはハイデガーが持ち出してきたわけなんだが、
存在一般を問うといってもなかなか難しい。で、最も身近なとこ
ろから始めましょということで人間の主観とか自我の存在を問う
ことになる。もっとも、ハイデガーは主観(主体)という語は、
例えば『存在と時間』のなかでは全くといってよいほど使用せず、
「現存在」という語を使用しているが・・・
ま、語弊はあるかもしれないが、いわば存在のモデルケースとし
てそれらが存在論的に問われたと言ってもいい。
だから、例えば主客の関係にしても、それは存在の問いと無関係
というわけではない。むしろ超越論的なものの存在意味を問うという
大きな存在論的な課題を背負っている。
ちなみにハイデガーは師匠のフッサールに対し、超越論的主観とか
超越論的自我とか意識とか、そういったものの存在を問うていない、
つまり「存在忘却」をしていると批判する。デカルトに対しても同
様で、「我思う、故に我あり」の「思う我」の存在をデカルトは問
いに付していない、つまり「存在忘却」していると批判している。
ついでに言っておくと、自己が自己に到達できないということは、
メルロ=ポンティなら「私は遅れている」という表現になり、
レヴィナスならはっきりと「隔時性」というタームを使う。
>>144 ちゃんと読め、存在忘却というのは存在の不問ではなく経験だ。それは故郷喪失とも言い換えられている。そしてニーチェがそれを経験した最後の人とされている。
146 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 09:08:25
しまった確かめたら
>>144の読みの方が正しかった。
実存の存在忘却ではなくて故郷喪失だったな。sage
>>140 >次第に存在感の記憶も失われることじゃないかな? 存在忘却は。
逆に存在が未知になったから存在を問うことになる。
まぁ、そなんだろうけど。
でもなんで、存在感の記憶が失われてしまうかといえば、
近代哲学が存在を問わずに存在者ばかりを問題にしたからだろ?
それがよくハイデガーが言う『形而上学』批判だと・・。
>存在は不安の概念ということだろう。
存在というのは不安という存在感を意味する概念である。
世界の根源が存在つまり不安にあるというのはあながち不当でもあるまいて。
『概念』ってところがひっかかるけど、言わんとすることには同感。
>>144 >ハイデガーは主観(主体)という語は、
『主観』と『主体』は同じ意味なの?
この前、サルトル学会に参加したよ。
レヴィの著作(今読んでる)も話題になっていたけど、俺はレヴィのサルトル論は大まかなところは賛同する。
レヴィによるとサルトル(特に初期)はバルト、フーコー、ラカン、デリダ、ドゥルーズの哲学に連なるものである(特に反ヒューマニズム)と言ってるけど、その点に関してはどうかと思う。
確かに全体的人間に対する反ヒューマニズムは『嘔吐』の中で語られているけど、一方でデカルトのコギトは『存在と無』の中では大きな主題であるわけだし。
特に『自我の超越』からの意識(直線的でものそのものへと向かう意識)から『存在と無』で展開される意識(直接的な意識を非反省的な意識で捉えようとする意識)に関する問題をレヴィは見逃していると思うよ。
なんか今サルトルを研究しようとする人たちって、構造・ポスト構造からのみ見ようとしているから、サルトルが意外とマルブランシュとかから影響を受けていることを見逃していると思う。
特に『存在と無』の中ではアルノー=ライプニッツ論争における「充足理由率」の問題が出てくるけど、この文章まんまライプニッツからパクっているww
103で書かれているドゥルーズの言葉の<中間>って、まさにサルトルだよね。
共同体(レヴィは善の共同体とも言ってるけど)の拒否、融即への拒否はレヴィナスにももろ適応する。
ハイデガーとサルトルの関係に関しては澤田先生がいう「誤読による積極的な流用」がもっとも適切なのではないかと思う。
149 :
名無し:2005/07/22(金) 22:28:45
>>145 存在忘却というのは存在の不問ではなく経験だ。
それは分かるけど、存在忘却には三つの説明がある。
君の言っているのはその一つだが、僕が書いたのは『時間概念の歴史』
とテーマ的に連なる枠内であり、ラントグレーべが『現象学の道』のなか
で、ハイデガーの問いが「主観性の深遠へと向かっている」と述べたのを
念頭に入れてのことです。
>>147 ハイデガーは主観(主体)という語は、
『主観』と『主体』は同じ意味なの?
誤解させて申し訳ない。Subjektという語を使えば良かった。
150 :
ハル:2005/07/22(金) 22:43:51
臣民か。
151 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 22:53:16
このスレの皆様は大変お勉強家ですね。
かんしんです。
152 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 23:23:50
>>148 ふむ、なるほどな。面白い見解だと思う。
153 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 23:27:35
存在と存在者の区別はあまり本質的ではないと思う。
存在は存在感のある存在者ではないかな。どんな存在者も存在になりうるかもしれない。
存在忘却、存在の存在者化と共に存在者の存在化が起きる。
155 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 02:38:03
存在というのは世界における自分の位置でしかない。根本的な存在を問うのは、根本に自分を移行させようという動機だろう。
156 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 02:41:24
(♯ ̄З ̄)ブツブツ・・覚ちゃん・・ブツブツ・・・
157 :
考える名無しさん:2005/07/23(土) 23:53:05
存在は世界における自分の場所である。
存在は本質的には自由で無規定であるが、それは住所の変更可能性としてである。
つまり引越しする自由を属性として持つ。
その意味で自由ではあるが、存在はいかなる時にも常にある場所にいる。
存在は存在者を通してのみ知られる。
知ることによって存在は変わる。
158 :
考える名無しさん:2005/07/24(日) 00:04:49
スレの流れとは関係ないのですが、ハイデガースレよりも
こちらの方が活発なようなので、質問させていただきます。
ハイデガーの 「Was ist das ― die Philosophie ?」は、
全集版では第何巻に収録されているのでしょうか?
ご存知の方、お答えいただけるとありがたいです。
私とは何か? それはその存在感とイコールではない。存在感は変化するから。
でも意識は相変わらずな気がするから、
とりあえず私とは意識と言っておこう。
ならば存在とは意識の世界における場であると再定義される。
160 :
考える名無しさん:2005/07/24(日) 22:36:48
サルトルの有名な人間主義宣言である「実存は本質に先立つ」ですが、
この命題をハイデガーは「実存と本質をひっくり返しただけでは形而上
の克服にはならない」と批判しましたが、その意味がよく分かりません。。。
どなたか教えていただけませんでしょうか? お願いします。
161 :
考える名無しさん:2005/07/25(月) 00:22:33
ハイデガー − ドイツ観念論
サルトル − フランス啓蒙哲学
162 :
考える名無しさん:2005/07/25(月) 08:53:24
昨日の赤い紅いアサヒの読書ページ
にもサルトル本の紹介文があったな。
163 :
考える名無しさん:2005/07/25(月) 08:58:57
サルトル=ヤムチャ
ハイデガー=天津飯
レヴィのサルトル本は柄谷がやるのかと思った。
165 :
考える名無しさん:2005/09/14(水) 22:35:16
age
166 :
考える名無しさん:2005/09/26(月) 17:32:31
age
167 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 04:06:20
サルトルがカフェで席につくと、ウェイトレスが来た。
「なんにいたしましょう、ムッシュ・サルトル」
「コーヒー、砂糖入れて、クリームなしで」
しばらくするとウィトレスがもどって来て言った。
「すみません、ただいまクリームを切らしておりまして、 クリームなしはできません。
かわりにミルクなしでもよろしいですか?」
-----------------------------------------------------------
このジョークの意味がまったくわかりません。どういう意味ですか?
クリームが無いからには選択の余地はない。
無いものは在るようには出来なく、無いこともない。
ミルクは在るので、無くすることも出来る。
第一次大戦は私の実存の中にだけ在るのである。
無いことはない。
それでクリーム無しはできないけど、ミルク無しはできます。
169 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 10:37:58
160さん。単純な話で、実存も本質も、形而上学的なカテゴリーから編み出された概念に過ぎないと言いたい訳。形而上学に留まる限り、ハイデガーの根本問題意識である〈有‐有るもの〉という差異には辿り着けない。それがサルトルの限界だと言った訳です。
170 :
考える名無しさん:2005/10/01(土) 18:00:15
サルトル=テリー伊藤
ハイデッガー=追従者、サルトル=対独抵抗派という固定観念は未だに蔓延ってい
るようだが、これには注意して対応せねばならない。
サルトルに関しては、レジスタンス活動が極めて消極的で短期間であったことが確
認されている。共産党にいたってはサルトルを「コラボ」と見なした時期もあった
そうだ。事実、彼はフランス知識人としては極めて政治意識が低かった。彼がベル
リンに留学したのは1933年秋(!)、戯曲『ハエ』がパリで上演されたのは1943年
しかもドイツ人親衛隊将校の取成しで上演できたとも言われる。
逆にハイデッガーのNSDAPへの世界観的アンガージュマンは、SA粛正をもって終わっ
たと指摘されている(つまり、政権獲得直後)。
今思い出したが、サルトルがフランス哲学に与えた最大の「恩恵」は何だったか、
ということがフランスのテレビで論議された。ある哲学ファンの女性の発言は、
フランス人の最も正直な感想だろう : サルトルがフランスの思想に遺したも
のは、言語の混乱と思考の錯乱。かつては、フランスは人文主義の伝統を持って
いた。ところが、サルトル以降は、ドイツ人のように無味乾燥な抽象観念を並べ、
ドイツ流の不明解な構文で、壮大な思想を語ることが哲学者のスタイルとなって
しまった。サルトルによってフランスの哲学は死んだ…
「〜である」とは「〜として」(存在者)「ある」(存在)ということだと
解釈しています。
>ハイデッガー=追従者、サルトル=対独抵抗派という固定観念は未だに蔓延ってい
>るようだが
最初から無いって
175 :
苺一絵:2005/11/15(火) 20:44:22
人より思想をみるからね
176 :
考える名無しさん:2005/11/16(水) 00:20:34
さぁ、プラトンからやり直そ
イデアとエイドスの違いとアリストテレスとの関係から・・・・・
実存は難しいね
178 :
考える名無しさん:2005/11/17(木) 13:59:41
107 :吾輩は名無しである :2005/11/17(木) 00:13:45
サルトルの存在論なんてガキの我侭そのものwww
強大な哲学者?オメエ哲学学んだことねえだろ?
ハイデガーとサルトルはともにフッサール現象学の継承者として出発し
たが、サルトルがフッサールの中期思想、つまり一切の存在を対象的に
構成する、それ自体は世界に属さない超越論的主観性を認める構成現象学
に基づいていたのに対し、ハイデガーは「前もって構成」されてある生
活世界への還帰を主題とする後期思想をフッサール自身から学んだ。
しかしハイデガーは、フッサールが存在を専ら対象的に定立されてある
ことと考えていたことに異議を唱え、対象性を持たない存在をも認め、
これを実存と呼んだ。
サルトルをフッサールの後継者と呼ぶのはどうもひっかかる。
181 :
考える名無しさん:2005/11/21(月) 21:38:39
>>160 その命題めいたものがサルトルの限界。
実存は本質とともにあるとしたら、サルトルの思想は全て否定される。
実際論拠に乏しい。
サルトル=ブサヨ
ハイデガー=糞ウヨ
183 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/11/21(月) 21:48:09
>>181 「実存は本質に先立つ」は、
サルトルが本質と実存とを「ともにある」と述べたものではなく、
単に、実存が、本質を規定するものである、ということを述べているだけのこと。
所与の本質なんて無い、というのがサルトル哲学。
184 :
考える名無しさん:2005/12/04(日) 21:01:45
サルトルが実存主義とはヒューマニズムであるとか言ってるのに対してハイデガーはヒューマニズム批判みたいな論文を書いてたよね
>>181 サルトル
人間はまずもって可能性、自由、つまり自己を未来へと投企する実存である。
あらかじめ決定された「本質」などありはしない。
むしろ本質は自由な主体の投企・意味付与との相関において現れ、主体に
よって意味付けられるものである。
ハイデガー
人間の根源的な本質は、存在了解を持つ現存在として世界に投げ込まれている事態そのもの
であるが、それを忘れ去って「世人」というありかたに頽落していることが常態となっている。
どのような投企も投げ込まれているという事実性・被投性に根ざしたもので根源的な現存在
としての本質に立脚しない実存も投企もないのである。
186 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 15:38:02
サルトルが、実存が本質に先行する、
と言ったのを、
そりゃ、問題提起そのものが無効だ、と答えたのがハイデッガーでしょ?
文句なしにハイデッガーが正しい。
187 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 15:41:59
おっと、ハイデッガーじゃなくて、ハイデガーか。
訂正。
188 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 16:05:06
デカルト、カント、ヘーゲルなどの存在論が世界定立の問題だということを、
ハイデガーはフッサールをとおして受け継いでいるのだけれど、
サルトルは問題そのものがどうやらわかっていないみたいだ。
189 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 19:10:26
従来の哲学では「本質は実存に先立つ」だったんだよね。
サルトルはそれをひっくり返して「実存は本質に先立つ」と言った。
「実存」と「本質」をひっくり返しても形而上学を越えられないと言ったのがハイデガー。
190 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 19:40:01
問われているのは、あくまで世界定立の問題なんだよね。
世界定立にあたって、本質が先行するのか、実存が先行するのか。
極端に単純化して言えば、
木を定立するのに、個別のこの木が先行するのか
木という概念が先行するのか、ということ。
本質が先行する、という考え方は
近代哲学では典型的なのがヘーゲル。
古典哲学ではプラトンが有名だ。
しかし、これ、すなわち、世界定立が問題なのだということが
そもそもわかっていないのがサルトル。
問題がわかっていながら、
いいところまでいって挫折したのがハイデガー。
もちろん、ハイデガーがサルトルを圧倒している。
191 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 22:56:39
事実(実存)/本質の二項対立を
無化する無による実存的遂行が本質であるとすることで解体した点では
ここの大勢とは逆にサルトルに軍配が上がるように思う
確かに、サルトルの言葉遣いやその手法において
ヘーゲル及び弁証法を思わせることもある
けれども、サルトルは、ヘーゲルのいうところの「絶対知」
つまり事実と本質を統合する最終目的地を措定していない
措定しているのは、遂行されている実存
意識(対自)とモノ(即自)の「炸裂」だけであり
ヘーゲルのように本質と事実を外在化して統合することを拒んでいる
こうした点において、サルトルは優れているように思われる
(それよりなにより、『存在と時間』のハイデガーが嫌いなんだ)
192 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 23:22:13
サルトルとハイデガーのその問題点ではハイデガーが圧倒しているとかサルトルが圧倒しているとか
そういう問題ではないと思う。そもそもベクトルが違うし。
日本哲学界にハイデガー研究の大御所木田元さんがいるからって何かと日本人は……
いや、西洋でもハイデガーかサルトルかといえば皆ハイデガーをとるわけだけどねw
なんと言うか、サルトルは人間を「生まれもった-本質」から開放して、
「投企による-本質」を説いたわけだけど、
つまり人間を本質という虚偽から解放したわけだよね。
まあ、これをハイデガーは
>>189のいうように、
その命題をひっくりかえしてもそれは形而上学的命題に過ぎないから
サルトルは存在の真理を忘却している、って批判しているんだよね。
これが違いかな。
でも、「実存は本質に先行する」って言葉は通俗講演のなかの言葉だしね。
それだけでサルトルを見るのは危険だと思うかな。
サルトルを理解するにはやっぱり「存在と無」が不可欠。
(この中に読んでいるやつ少なそうだけど……w)
193 :
考える名無しさん:2005/12/05(月) 23:52:01
>>192 最後のパラグラフに同意
確か彼自身が誤解を招くものだったって言っている訳だし
やっぱ『存在と無』なしにはサルトルは語れないと思うよ
それに、『倫理学ノート』など日本語に訳されていないもの(だよね)もあるし
サルトルは日本で少なくとももう一度くらいは
脚光を浴びることがあってもいいんじゃないかなー
「ハイデッガーは現存在一般について《そこにおいては、
実存が本質に先き立ち、本質よりも優位を占める》と言っているが、
そう言わなければならないのは、むしろ、自由についてである。」
「存在と無」邦訳三分冊目のP.25
「・・・、対自においては、実存が本質に先行し、本質を条件付ける
という言い方、あるいは逆にヘーゲルの定義にならって
《本質とはあったところのものである》という言い方、それらは、みな、
要するに「人間が自由である」というただ一つの同じことをいいあらわして
いるのである。」同 P.29
195 :
考える名無しさん:2005/12/06(火) 21:15:01
196 :
考える名無しさん:2005/12/07(水) 16:51:32
サルトルは実存主義を自称したというより、
周りがサルトルを実存主義者と呼ぶから実存主義者と言っているのでは?
彼の哲学によれば対他存在は素直に受け入れて
これを超越しなければならなかったからね。
197 :
考える名無しさん:2005/12/08(木) 18:23:32
哲学の問いが存在の本質の問いだとすれば、
実存と本質を入れ替えただけでは乗り越えにはなりませんよね当然。
198 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2005/12/08(木) 18:40:34
「世界内存在」というハイデガーの存在規定に触発され、
サルトルが、対自、対他、即自などの意識の有り様の解きほぐしと敷衍を行ったのは確か。
だから、サルトルの「まなざし」の概念も、「存在と無」ではかなり重要。
「本質論」に関しては、ことサルトルの哲学にとっては、重要な意味は持っていないと思う。
単純化し、そのつどのアンガジュマンを実存とすれば、「本質」などは二の次。
サルトル = 流行哲学(風)
ハイデガー = 現代思想の源泉
これは定説でしょう。
>>194の前段について、追加、
ハイデガー「存在と時間」の当該箇所の記述には、
(少なくともフランス語訳には、)説明(条件)があって、
「本質と存在から伝統的な意味を剥奪することによってのみ、
そしてとりわけ、存在に〈現存在〉の存在形態を取って
おくことによってのみ、理解されうる」のだそうな。
現存在の投企(Entwurf,pro-ject)について、ニュアンスとして、
ハイデガーは、世界−内との受動的な関わりとし、
サルトルは、それを能動的な行為として批判的に誤読している。
詳しくは、ハイデガー「ヒューマニズム書簡」を読みませう。
201 :
考える名無しさん:2005/12/09(金) 17:25:25
>>199 定説を疑うのが哲学のはじめではないのかね?
定説を信じるというのはDas-Man(世人)の中に自分を見失うことだよ。
202 :
考える名無しさん:2005/12/09(金) 17:57:42
二人はほぼ同時代を生きていますね。死はハイデガー1976年、サルトル1980年。しかしハイデガーの思索が例えば酒鬼薔薇の事件等に応用可能であるのに比してサルトルの仕事を今にどう生かすか。〈有の忘却からの奪取〉というタームは今も有効性を失くしていないと思えます。
203 :
考える名無しさん:2006/01/10(火) 17:56:50
超初歩的な質問してスミマセン。
「絶望のうちにあって死ぬ。諸君は今でも、この言葉の意味を理解することができるであろうか。
それは決して単に死ぬことではない、それは生まれ出たことを後悔しつつ恥辱と憎悪と恐怖のうちに
死ぬことである、というべきではなかろうか。」
というサルトルの言葉の、出典を教えていただけませんでしょうか。
書名、版元、何ページの何行目、など、出来るだけ詳しく。
マルチキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
205 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 19:24:03
>>199 「サルトル=流行哲学(風)」「ハイデガー=現代思想の源泉」は、定説ではなく、
ある時期以降の“流行”にすぎない。
サルトルは、わかりやすい(そうみえる)ために軽く評価されがち。ハイデガーは、
難解で渋く、いかにも玄人すじが喜びそう。しかし、どちらが“有効”か、まだ
決着がついたわけではない。
>>205 どうなんだろうね。ドゥルーズがすべていいとは思わんけど、
ドゥルーズが昔の哲学者について書いたやつ(カント・スピノザ・ベルクソン等)は
かなりドゥルーズ自身の哲学に引き寄せて書かれている。
だからサルトルが考えつかなかったサルトルが今後出てくることは大いに考えられる。
逆に、ハイデガーの良いところははだんだん織り込み済みになってきてる気がする。
それをサルトルの偉業、とは言わないかもしれないが、
じゃあ哲学者の偉業って? という話にもなる。
207 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:14:38
《世界は全体性として、如何なる有るもので「有る」のでもなく、現有がそれ自身を如何なる有るものへ関わり合せ得るか、そして如何なる仕方でその有るものへ関わり合せ得るかということに関して、そこから現有がそれ自身に指示を与えるところのものである。》
208 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:23:43
(『根拠の本質について』より)だが『存在と無』中に、《世界はいかなる有るものでもない》とする世界概念はない。『存在と無』にこう書かれてある。《周知のように、ハイデッガーにあっては、人間存在の在りかたは《世界-内-存在》として定義づけられる。
209 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:38:32
しかもその世界は、道具存在の綜合的複合である。》(『存在と無』T92頁)サルトルに於いて世界とは、有るものの全体、に留まっている。世界は、単に乗り越えられるべき有るものである。一方、ハイデガーに於いて事情はまるで異なっている。《世界は如何なる
210 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:43:16
有るものでもなくして、現有に属する筈であるから、この関連が、或る一つの有るものとしての現有とそれとは別の有るものとしての世界との間の関係として、思惟され得ないことは明白である。》(『根拠の本質について』より)
211 :
考える名無しさん:2006/02/09(木) 04:51:01
サルトルがハイデガーから継承したつもりで書いていたことが実は遥かに隔たっていた事がここに伺われる。サルトルの哲学は自分とは関係ない、と後にハイデガーに言われてゆくその差異が既にあからさまに出ている。
213 :
考える名無しさん:2006/02/10(金) 20:34:31
馬鹿だなあ。お前↑よりはずっと「Mr.改行しらず」の方が面白いよ。死ぬまで改行を気にしてろW
215 :
考える名無しさん:2006/02/10(金) 21:36:05
ハイデガーはナチスに肩入れでいいじゃねーか
216 :
考える名無しさん:2006/04/17(月) 01:58:41
道元の正法眼蔵を読んだ人いますか?
感想聞かせて
217 :
考える名無しさん:2006/06/21(水) 22:15:03
ハイデガーとサルトルの違いを印象的にいうなら、
ハイデガーの立論には、現存在に張り付いてはなれない死に至っているというあり方がベースにある。だから、ハイデガーの物事へのまなざしは観想的なところがある。(死者の視点)
サルトルはもちろん死が絶望をもたらすものだとの論点はあるが、行動(アンガージュマン)でまぎらわせろ、といった雰囲気がある。
218 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/06/24(土) 13:50:25
>217
サルトルは死を即自存在(物自体)として、対自/対他存在である実存とは無縁のものと規定しているよ。
死が絶望をもたらすなどというヘタレの思考など無いよ。
219 :
考える名無しさん:2006/06/25(日) 14:09:01
サルトルの実存主義は現存在の存在的哲学で、
ハイデガーのは――『存在と時間』が現存在を中心に書かれているから
誤解されるのは仕方ないかもしれないけれど――実存一般の存在論。。。
俺、何言ってんだろう・・・正直分からないんだ、ごめんなさい。
220 :
考える名無しさん:2006/07/01(土) 17:03:15
サルトルのエロス論について知っている方いませんか?お願いです!!教えてください
未だこのスレ残っていて良かった。昨日はアニメ版の涼宮ハルヒスレで書いていたんで来れなかったんだ。
ハイデッカーの思想は唯一の存在が全ての存在者の裏にはあるよというプラトンみたいな考え。
それに対してサルトルはその存在を無化して対自へと流出してゆくという思想。
問題はサルトルの「対自」とはなんなのかだな。それは意図的に行われるものなのか、人の意図を超えたドゥルーズの「欲動」みたいなものなのか
それは選択なのか、多様性への拡散なのか。デリダの「脱構築」との関係も気になるところ
自分は「対自」は一つの立場の選択だけど個人の意思を超える側面もあると思っている。「脱構築」との関係で見ると
晩年のデリダ(「有限責任会社ABC]の頃)はサルトルの対自に近いことを言ってると思っている。
223 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:48:14
>>221 ハイデガーの存在(作用)の概念はそのようなものではない。
>>222 まてまて。
「有限責任会社abc・・・」は全くもって晩年のものではないぞ。
224 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 02:50:29
>>222 デリダはあくまで主体性を事物性に解体するから、サルトルの対自とは
相容れないだろう。
>>サルトルは形式から実在性を切り離し、実存とした。
>>実存において即自と対自は存在であり、存在は無を含む。
>>即自の無化が対自であり、無が存在を生む。
>>
>>存在は形式であると同時に形式化されるものであり、形式化するものである。
>>絶対知は、絶対的なものにおいて、形式化されるものと形式と形式化するもの
>>とが一致する。絶対的なものが実在を生み、実在が絶対的なものとなる。
>>
>>実存は形式が形式化し、形式化が形式となる。形式が存在、形式化が無、
>>形式化される形式が即事、形式化する形式が対自である。
>>
三宅先生乙w
で、ハイデガーとサルトルの違いを教えれ、20字以内でな
じゃあ質問も20字以内にしろや、ぼけw
231 :
考える名無しさん:2006/10/12(木) 04:35:12
保守あげ
232 :
考える名無しさん:2006/10/14(土) 03:09:12
>>221 ハルヒってなんか現代思想してんの?
あと「灼眼のシャナ」の「存在の力」とその抜け殻にすぎない「トーチ」って
やっぱりハイデガーからきてんのかな。
233 :
考える名無しさん:2006/10/14(土) 03:15:23
>>232 何でもかんでも哲学者に結びつけるのはどうかと思うが。
哲学なんて学んでない中学生の妄想でも、偉人の大した概念に関係付けることは出来なくもないし。
234 :
考える名無しさん:2006/10/15(日) 00:47:00
ハイデガーは解釈学、サルトルは現象学。
この両者の本、「存在と無」と「存在と時間」が家にたまたまあったのですが、
どちらから読んだほうがいいのでしょうか?
馬鹿な大学一年生からの質問ですません。
236 :
考える名無しさん:2006/10/28(土) 02:07:35
237 :
考える名無しさん:2006/10/28(土) 15:34:22
>>235 その二つの本がどっちもあるって凄いな。存在と時間はともかく、サルトルの方は高いし分厚いし。
哲学の知識ないならどっちよんでもわけわからんだと思うけど。
存在と無読んでます。最初から難解です。
緒論は難解でフッサール、ハイデガーなどもある程度読む必要があると
思いますが、飛ばしてもいいのではないでしょうか。
240 :
考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:12:50
ハイデガーをサルトルがまともに読まないまま『存在と無』でハイデガーの名前や概念の名称を頻繁に援用しているのは『存在と時間』を読めば明らかな話で、例えば〈世界〉、〈存在〉と〈存在者〉の違い、などですね。〈超越〉も違う。全部違うんです。笑→
241 :
考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:18:47
→で、どちらから読めばよいかといえば、『存在と時間』を読まないとサルトルの誤解が訂正されないままになるから『存在と時間』が先、と言いたいところです。あと、『存在と無』を真に受けると、先の、誤読がそのままになるという→
242 :
考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:26:22
→問題の他に、まだ問題が生じる。『存在と無』で描かれる人間像ですが、僕はあれは超人に近いと思います。到る所にその記述はあり、どこでもいいですが例えば《一つの存在は、たしかに、たえず自らを無化することができる》(旧版T114頁)だとか、→
243 :
考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:31:35
→《それゆえ、意識的存在は、自分の過去に対して、この過去から無によって切り離されたものとして、みずから自己を構成するのでなければならない。》(同116頁)とか。読んでいて、人間の業とは違うのではないか、と言いたくなることが書いてある。→
244 :
考える名無しさん:2006/10/30(月) 00:45:18
→否定についてのこのような考えはサルトルの独創であり、ハイデガーとは違う。否定や超越は、より現有であるための条件、というのがハイデガーだと思います。つまりサルトル的な無は問題にしてない。
→さんは、
ヘーゲルの「否定」について、両者の解釈の差異をどうのように捉えているんだろう
と疑問に思ったよ。
そういうのは病気なんだから医者に行って適切な治療を受けてください。
貴方の調子の悪い精神をどこまで掘り下げても、宗教的哲学的文学的真理なんて見えてきません。
どんなに深刻に哲学思想をこねくって観念遊びをしたところで、
それだけでは「嘔吐」のようにはおかしくならない。
あれは嘘なんです。
サルトルはメスカリンでトリップ体験をしたときに「自明性の喪失」を味わい、
それを何か哲学的な真理に通じるものだと勘違いしちゃったんでしょう。
宗教的神秘体験と似たようなもんですな。
砂漠で遭難して半死半生意識朦朧になって悪魔や天使と問答しちゃったイエスや、
合法ドラッグで宇宙の真理を悟っちゃった「NHKにようこそ」と同じようなもんです。
人は哲学や思想では狂わない。
一方でちょっと薬物を入れれば割と簡単に調子悪くなるもんです。
麻薬である必要さえない。
俺なんかカフェイン錠剤飲みすぎて一時的な不安神経症っぽくなったことあるよ。
いや、その時は確かにすごい怖かったんだけどね。
貴方の心の中、貴方の実存のあり方に、世界の秘密なんて隠れてません。
それは全部貴方サイズの出来事、貴方の都合に収まる小さなこと、世界の広さを前にすれば、
吹けば飛ぶような砂粒に過ぎません。