1 :
しろうと ◆AUSirOutoE :
04/12/08 18:12:48
2 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/08 18:13:13
2
3 :
考える名無しさん :04/12/08 18:16:04
>>1 ,/:::::::::::::::::::;::/" ,|,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,i,|
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構造主義(こうぞうしゅぎ)とは、数学、言語学、精神分析学、 文芸批評、生物学などにおいて何らかの形で構造を重視する立場である。 一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を 整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。 例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば 日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語、etc.など 他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、 さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。
ポスト構造主義 構造主義の成果と反省を踏まえて、登場したフランスの思想運動。 代表的な思想家はジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、 フランソワ・リオタールなど。ただし、「構造主義の後に」という括りがあるだけで これら思想家の間には思想的な共通性や関連性は必ずしもない。
「連続量とは多を媒介としながらもそれを契機として止揚し定立された一である。 非連続量とは一を媒介としながらもそれを契機として止揚し定立された多である」 この弁証法的テーゼに絡めて、最小単位の問題について述べよ。 では、しろうとさん、これへの回答よろしくお願いします。
8 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/08 22:29:10
とうとう、1000カウント突破でしたか。 凄いなぁ〜。 しかも、結構密度の濃いスレッドでしたから。 今回はどのように進めるのか。 前回の反省から、テーマを絞ってやった方が良いかも知れませんね。 でないと、バラバラになってしまう感じで、最後には、論議ではなく 言いぱなしや煽りになってしまううのですね。 ですから、皆さんが興味のある本を読んで、理解を進めるのはどうでしょうか? 例えば、田原さん推薦の例の本なんか、皆さん興味のあるところでしょう? 私も熟読していませんので、良かったら進めてください。 と言っても、投げ出して、どうぞでもまずいですね。 どうしますか?それとも、分野を絞り、今まで通りフリー・トーキングで 進めて行くってのも良いですね。自由な発想で多様に読むのです。 ご意見を書いてください。
9 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/08 22:36:02
「存在論的、郵便的」 ポーの盗まれた手紙について 本来郵便物はあて先の人間に届くのか? この質問についてどうでしょうか?
10 :
考える名無しさん :04/12/08 22:53:42
782 名前:考える名無しさん[] 投稿日:04/09/12 23:57:42 じゃあ、パレルゴンさんに群論を語ってマライショ。 786 名前:考える名無しさん[] 投稿日:04/09/20 06:36:34 パレルゴンさんに群論を語ってもらいましょう。 913 名前:考える名無しさん[] 投稿日:04/10/09 17:49:28 パレルゴンさん。早く群論を語ってください。
しろうとは逃げたし、パレルゴンは恥知らずだし、もうダメだこりゃ。
12 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:28:49
皆どうしたの? 止めますか? スレッド立てただけですか? 読書した方が良いかもしれないな。 それでは、私もアガンベンでも読みますか? ぴかぁ〜君元気かい? 近頃静かですなぁ〜。何してるの? デリダ批判ですか。デリダはダメダって。 いい線行ってるかもしれないけどね。批判を続けてみては? どう言う批判か具体的に書いたら面白いかも。 最主体化と歴史肯定。現前の肯定という線でどうでしょうか?
14 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:35:16
皆は力むから書けないんだよね。 分からない事は質問すればいいのだ。 それを、調べてから書こうとするから、書けなくなる。 お互いに素直に書くと言う姿勢で良いのではないだろうか。 知らない事は分からないと言おう。そして、交流しながら 高める。知らない事は恥ずかしい事ではない。 知らない事を知っていると言うからおかしくなるんだと思うけどね。
>>14 お前は
>>7 に答えてからそういう偉そうなこと書けよw
わからないならわかりませんと言ってごらん。ほれほれ。
16 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:38:38
13さん。 君は、「構造主義・ポスト構造主義を超えて」@ を読みましたか。 あのスレッドを立てたのは私ですよ。 その続きがこのAです。このスレッドを立てたのはしろうとさん ですが、その辺の背景を知っていましたら、申し訳ない。
17 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:40:59
15さん 煽らないでね。 私は全ての質問に答える義務はありません。 それともあると言うなら、その事を証明してくれないかな。
バレがぼけ老人みたくなってきていると思うのは私だけ?
19 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:43:00
同時に、君の哲学的な背景は? 誰に傾注しているのかな?
スレ立て者にスレの議論内容を拘束する権利も義務もないぞ。 構造主義・ポスト構造主義のあとに来るものについての書きこみならなんでも いいんだよ、匿名掲示板なんだから。 君や他の数名のコテの問題意識、読書歴を勝手に大前提にしないでくれよ。
21 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:45:23
ぴかぁ〜もきつくなったな。 昔はその様な誹謗・中傷はなかったけどね。 そこが君の良い所だったのに・・・・ 残念・・・・
23 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:46:58
20 その通りだ。
24 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/09 22:48:25
それでは、おやすみなさい。
なんで、この板のポモ系コテの言うことはインチキ臭く見えるのか? たまたま?それともポモ自体がそうだからか?
>>26 近代思想の捉え方が甘いから。ほとんど竹田をざっと読んだ程度の理解しかない。
>>26 ポモ自体がインチキ臭いからだね。
インチキ臭くない言説を解体するのが、ポモなわけ。
29 :
考える名無しさん :04/12/09 23:05:07
パレルゴンさん早く群論を語ってください。
インチキなやつがはまるものだから。 最初からポモで哲学に入るのが、 そもそもの間違いなんだよねえ。。。
31 :
考える名無しさん :04/12/10 02:12:15
>パレルゴン じゃあ話題を広げるために。 前スレでパレルゴン自身が言っていたことに突っ込んでいってほしいんだが、 メルロ=ポンティの身体と、ドゥルーズの器官なき身体とに、 どのような共通点が見られるか。 動物性ということで結びつけているようだが、動物性とメルロ=ポンティ、 動物性とドゥルーズがどのように関連するのか、解説ヨロ。 読むのって、アガンベンの何? 『ホモ・サケル』?
32 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/16 23:19:36
ではない。「開かれ」であると言ってたではないか。
>動物性ということで結びつけているようだが、動物性とメルロ=ポンティ、 >動物性とドゥルーズがどのように関連するのか、解説ヨロ。 こっちが本題だろ?
パレルゴン マタニゲタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━━( ゚)━━( )━━(゚ )━━(∀゚ )━━━(゚∀゚)━━!!!!!
35 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/16 23:40:22
くどいな。 前回の1で書いているだろう。 身体とは理性による認識と言う捉え方を剥奪したんだ。 つまり、理性とは真理の発見能力ではなく、理屈をつけて リビドーを切断した、ぎこちなさを人間に齎したと言う事だ。 だから、メルロ=ポンティは身体を探求した。つまり、 流れる連続性であること、つまり、動物性であることだ。
36 :
パレルゴン ◆mL2ZRk1cK. :04/12/16 23:42:40
理性による信頼を剥奪し、身体の反応に、ある真理を見出そうとした。 ドゥルーズは人体を分裂の方に持っていき、その分裂する身体を生きたんだ。 内在哲学とはそう言うことだ。
パレルゴン マタニゲタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━━( ゚)━━( )━━(゚ )━━(∀゚ )━━━(゚∀゚)━━!!!!!
38 :
考える名無しさん :04/12/16 23:54:05
ほんじゃま・・・・・ グーグー
パレルゴン マタニゲタ━━(゚∀゚)━━( ゚∀)━━━( ゚)━━( )━━(゚ )━━(∀゚ )━━━(゚∀゚)━━!!!!!
「知ったかでもなんでも、風呂敷広げるだけ広げといてあとは逃げりゃいいんですよ(笑)」 これが俺流ならぬパレ流
すごいな まだこんなゲンセツが交わされる場があるなんて ゲンゴゲームが全く違いますね
まさに「『構造と力』はボクちゃん的ミーイズムの正当化のために使われた」(浅田彰) を地でいくスレですねw
>>32 いや、パレルゴンはもう『開かれ』は読んだみたいなので、
次に他の何かを読むのかと思ってたもので。
『開かれ』良いね。
生政治についてたくさん読む込んでいる人には物足りないみたいだが。
>>35-36 端的にまとめてくれてどうも。
>メルロ=ポンティ
たしかに前人称的な実存的身体を考えたけど、それを強調することもしなかったと思う。
彼の社会理論も、人間が、社会への投げ入れられていることと同時に、
自律性も持っていることも主張しているので、「動物性」というのは、しっくり来ない……。
メルロ=ポンティを動物に引きつけて考えることはできても、
メルロ=ポンティが(いま取り沙汰されている意味での)動物性について論じていた、
と判断するのは難しいと思う。
>ドゥルーズ
についてはよく知らないので、たぶん間違ってるから指摘キボーンщ(゚Д゚щ)なんだが、
器官なき身体は、社会を欲望の観点で捉えたときに、死の欲動に対応するものでそ?
そう考えると、動物性は器官なき身体ではないにしても、それに近いものということ?
44 :
考える名無しさん :04/12/17 23:12:01
詳細な説明有難う。 確かに、動物性を考える時、これはもう、アガンベンですよね。 つまり、アガンベンの動物性な訳です。 それは、東の言うポストモダン的な表現とは違う気がするんです。 つまり、前者は、ヘーゲルの絶対知に到達した後=今 は 否定性がなくなる。この事は弁証法を理解していれば分かるでしょう。 つまり、否定に於いて、奴婢は王を凌駕するように、成長のですね。
45 :
考える名無しさん :04/12/17 23:17:09
ゴメン。44は私です。 と言う事は、否定性を超越した点は、否定性のない点=動物性の開放 だと言うのです。(この説はコジェーヴだと言っている。)一方バタイユは その絶対知の地点でも「用途なき否定性」があるのだと言っているのですが これは、つまり、「差異・差延」と言うデリダの概念を先取りしている という気がするのです。
46 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/17 23:26:40
いや、パレルゴンの名前が消えてしまいます。 つまり、バタイユのように考える時、それは、かなり東に近くなる。 ポストモダンとイクオールの概念になってしまうのです。 勿論、アガンベンの「動物性」と言う概念は、宗教的な意味もありますし 一概に上述した二点に絞り込む事は出来ません。 例えば、「開かれ」と言う意味からは、ハイデガー的な 開かれている=情態に投げ込まれてある という人間存在の特徴 があり、その中で、意識しない雰囲気にいる場合を見るとき まさに動物的だと見ているわけです。 これもまさに、認識=意識以前の 虚脱状態は投げ込まれてある と言う、動物状態な訳だと考えているようです。
47 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/17 23:32:23
否定性のない=情態 こそ アガンベンは動物的と言っているのです。 それは、弁証法の完結後であり、ハイデガーの被投性の中の ボーットした「気分」であり、理性的な認識を遠く離れた時に 我を忘れて「ただある事」の雰囲気に浸っている状態 こそ、動物性であると言っている気がします。
48 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/17 23:40:52
メルロ=ポンティについては、歴史的に俯瞰した時に 認識論から現象学、そこから身体へと言う大雑把な流れがあるわけです。 その意味で、簡潔に、身体とは理性中心から見ると、 所与の身体=超越を表すのであり、 身体と言う動物的な器官 を否定できない事を前提にしているわけです。 ここから、認識論から身体へと言う流れが、理性から動物へと言う 流れであるのではないかと考えたわけです。
なんか、コジェーヴ的ヘーゲルというのがヘーゲル主義、弁証法、ひいては近代 を駆動してきた根本原理という妙な前提で話しているけど、それがフランス 現代思想の限界になってるように見えるね。ヘーゲリアンもハイデゲリアンも コジェーヴなんて思想家は多分相手にしてないと思うw。精神現象学偏重、 主奴の弁証法偏重のヘーゲル理解というのは現代の思潮ともいえるけどあまり いいこととは思えない。しかも、否定性のない点=動物性の開放、なんていう コジェーヴどころかFフクヤマレベルの卑近な話に繋げられるとちょっと呆れて しまうなあ。
50 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/17 23:43:25
ですから、アガンベンの動物性を基準とすると 君の言う方が正しいと思います。
51 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/17 23:49:23
ドゥルーズについては、どう言えばいいか、単純ではありません。 彼の数ある概念の中で、動物性を言い表わしたものは 「成る事」でしょうか?あるいは器官と言うシステムを超えた「身体性」 身体は原理や因果を越えたものとして、多様性=創造性に開かれている 無限=多様であり、創造なのです。そこには身体は出来事として 回収不可能のものなのでしょう。この点を動物性と言って良いかどうか 不明ですが、少なくとも、認識論ではないと言う事です。
アガンペンは読んでいないのでなんとも言えないけれど、指摘したかったものの一つ は、フランス哲学のドイツ哲学受容にはかなりのバイアスがかかっているのではないか ということです。精神現象学はもちろん偉大な業績だと思いますが、あれはあくまで ヘーゲルにとって学への導入としての準備考察であることも忘れるべきではないと思う。
53 :
考える名無しさん :04/12/17 23:57:55
>>52 ヘーゲル→コジェーヴ→ラカンその他フランス系思想という伝達ゲームの中で
ヘーゲルが勝手に換骨奪胎されていってるというのは確かだね。
現象学と構造主義の関係はどうなんだろう。形相的還元後に見い出された構造が 構造主義のいう構造だと俺は聞いたことがあるんだが。
やれやれ
56 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:06:19
そうですね。 確かにドイツ哲学からフランスが持ち込んだものは多かったわけでしょうね。 ソシュールなんかも、フランスではかなり遅かったわけで。 ドイツには大きく分けて二つの流れがある気がします。 1)ハバーマス、アドルノの流れですね。 2)フッサール、ハイデガー、ベンヤミン 後者はフランスに大きな影響を与えています。 前者はむしろ英米系に流れている気がしますが、 この辺のフランクフルト系の全体が見えてこないのがフランス哲学 のような気がします。所謂コミュニケーション論とか 論理実証主義とか・・
57 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:11:38
俺もよく分からんが、現象学と構造主義とは大きく異なる気がする。 現象学はあくまで全ての外的な存在者は、個の現象としてしか現れない と見ているわけで、構造と言えば、物は、その人の超越論的領野に意味として しか現れないと言う事になるのだろう? だとすると、その意味(志向性)の前提に、超越論的構造があるのかも?
>>56 その分類はちょっと恣意的だなあ。良くも悪くも現代的というか。
1)ドイツ観念論の流れ
2)現象学の流れ
というより上記の二つの流れでしょう。ドイツ観念論のフランス的受容はあまり
面白くないと思う。あまりに矮小化してしまっていてね。
>>57 よくわからないな。それだと主観的観念論にならないか?もしくはマッハ主義。
60 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:23:59
ハイデガーの存在論はどうするのですかね? あるいはニーチェは? いずれにしても、バウハウスとフランクフルト系に類似性を感じるのだよね。 抽象絵画とコミュニケーション論・言語学的合理性と言うか? ウィトゲンシュタイン的言語無矛盾性の探求ってのか?
61 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:29:09
マッハ主義は知らないけど、構造主義と現象学で見ると、 独我論には相反するのが構造主義な訳で、 社会組織構造に影響され、言語構造に影響されて、主体化されるのが人間 と考えるのが構造主義ならば、自分の現象から組み立てるのが現象学 な訳で、180度反対ですね。
62 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:32:07
それでも、無理に類似性を見出そうとするならば 共に、客観を否定した事だろうね。 一方は、超越論的主観性において、他方は構造によってしか世界は見えて こないって事でしょう。
>>61 いや180度反対ではないと思うけど。現象学的還元(セマンティクスの判断留保)に
よって見い出されたものがいわゆる「構造」だとずっと思ってたが・・・
違うのかいな。
64 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:38:51
たとえ、仮に、それが構造だとしても、所謂構造とは全く異なるでしょう。 構造主義とは、社会的な構造ですからね。現象学では、個人の超越論的な 領野にある構造であるわけで、社会の構造が先にあるわけではないのですから。
65 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 00:41:37
つまり、構造主義とは人類学(レヴ=ストロース)、言語学(ソシュール) 精神分析学(ラカン)と言う風に、全て、社会性を帯びている。 一方現象学とは個人の現象からですから。
キミのいう構造主義的構造を知覚するには神の視点が必要になんないか? 社会は「閉じない」から社会なのであって、絶対知でも持ち出さない限り、 「先験的に社会の構造がある」などとは言えないような・・・
そうだよ。
68 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/18 21:17:05
現象学と構造主義の関係というのは良いテーマですね 最近哲学に関係ないトピックが多かったので自分も少し述べます 例えばかつての柄谷行人なら「内省」という言葉で 現象学と構造主義をくくったと思いますが、自分的には異なると思います メルクマールは精神分析だと思います。 (ラカン的)精神分析は現象学じゃなくて構造主義じゃないかな つまり個人の意識を超えた「集合」という単位を想定している点で 違いが現れると思います
69 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/18 21:21:33
>>66 構造は事後的に見出したもので
構造主義者は「先験的に社会の構造がある」などとは言いません
体系内で矛盾しなければ構造は複数あって構わない
ここら辺は公理系の話と重なってきますけど
>>68 柄谷は「現象学が構造主義によって乗り越えられたというのは救いがたい誤解である」
とかなんとか言ってたね。その後彼は、フッサールの超越論性とカントの超越論性との
差異を強調するわけだけれども、そのへんのまとめをしろうとさんに聞きたいな。
>>69 >構造は事後的に見出したもので
>構造主義者は「先験的に社会の構造がある」などとは言いません
その通り。パレルゴンは単に間違っている。
71 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:31:18
66 仮に、事後的に構造を発見したとしても、構造は私の存在の以前にある と言う事にならないかな?つまり、レヴィ=ストロースが 未開地で発見する構造は、その中で生きる者にとって、アプリオリな ものであり、その存在すら意識し得ないものであるのではないだろか。
72 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:37:34
つまり、事前・事後の捕らえ方は、フーコーを見れば歴然だと思うけどね。 つまり、歴史的な布置によって、物の捉え方が変わってくるト言う事は 逆に言えば、私個人が言語構造を変化させえないことでもあるわけだ。 だから、生れ落ちた言語構造・思考構造に否応なく従属させられる 事になえる。つまり、事後的に見出すのは研究者であり、 アプリオリに従属しているのは、我々人間存在なのではないかと言う事です。
73 :
考える名無しさん :04/12/18 23:39:01
>>69 構造主義者は、アプリオリとかアポステリオリだかというような議論はするの?
>>71 >仮に、事後的に構造を発見したとしても、構造は私の存在の以前にある
>と言う事にならないかな?
いや、意味がわからない。そうすると
>>66 の言うように絶対知でも持ち出さないと・・・
75 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:41:42
そこのところを如何にすり抜けるかが、サイード、スピヴァクらが やってきたことです。ドゥルーズにしても還元論を超えようとしたのですよ。 ポスト・構造主義とはその既存の構造=無意識を超えようとしたのです。 個々の所を明確に認識しないと、無意識を我々に人間個人が観察し 勝手に変えられる(コントロールできる)と言う、サルトル的誤解に なっちゃう気がしますよ。
>>71 カントの言うアプリオリとフッサールの言うアプリオリは違うんじゃない?
現象学が言っているアプリオリは、絶対不変なものっていう意味じゃん?
77 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/12/18 23:44:19
事前に構造があるのは当たり前 事後的ってに構造があるって、単なる認識論
78 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:48:59
構造主義とは科学主義といわれているけど、つまり、人間不在な訳ですよ。 その中で、合理的な組織を見出そうとした。 そうすると、構造は動き様がなくなる。つまり、静態的なのですね。 すると、その構造が絶対的な真であるかどうかを問う視点が証明できなくなる のです。と言うのも、ある分析をする視点は客観的な視点足りえないからです。 だから、構造主義の見方は、神の不在を隠し持っているのは事実でしょう。 サイードは明らかに未開地のデスクールは西洋からの差別に於いてしか 語ってはいないとしているわけです。
>>78 また湾曲ポスモダ、人間不在なわけがない。
科学主義に、神の不在などいらないだろう。
80 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:52:12
77 ぴかぁ〜ちゃん その通りです。ここを勘違いすると、認知論・脳科学の優位性に なっちゃうのですよ。人間は科学的に全てを知りうるって事に。 つまり、郵便はあて先に必ず届くと言う事になってしまうのですよ。
>>80 はぁ?意味がわかりません・・・
手紙は必ず届くの意味がわかってる?
82 :
考える名無しさん :04/12/18 23:56:28
人の話をよく聞け、おまいら。 構造がアプリオリなものであるはずないじゃんよ。
>>72 別に人間存在が時代時代のエピステーメーに従属するわけではないでしょう。
表象形式、思考形式が従属するだけであって。
>>78 構造主義はその構造が絶対的な真であるかどうかを問うことは放棄しているといった
ほうがいいでしょう。というより放棄することによってしか構造は見い出せない。
そこに(流行の言葉で言えばw)否定神学やオリエンタリズムを指摘しても仕方ないような。
84 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/18 23:59:53
まとめ。 1)構造はすべて恣意的な慣習によって、あるいは力関係によって 構成されてある。 2)その構造は個人的に意識的に変えうるものではない。 3 我々は生まれながらにその生れ落ちた時代と場所の構造に 捉えられている。 4 我々はその生れ落ちた構造が正しいかどうかを証明できない。 なぜならば、その証明をしようとする思考パターンが既に 我々の構造に依存しているからである。 (クレタ人のパラドックス参照)
>>83 結局、認識論=毒蛾論的いきずまりをどのように扱うかってことだね。
それを絶対的な真を放棄しているといってしまうと、
すべてがフリーズしてしまう。
いわば、それまでの認識論の放棄ですね。
フロイト、ラカン、フッサールも 結局デカルトへ回帰しているが、認識論は放棄しているところが おもしろい。
87 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:06:28
とうい事になる訳と思いますよ。 人間存在とエピステーメーを繋げたのは言い過ぎかもしれないけど、 つまり、存在論的なあり方も含めてすべて、エピステーメーに従属している のです。そして、そのエピステーメーの真偽探求はクレタ人のパラドックス に陥るのみののです。ですから、真理は力によるという事だと思います。 「構造と力」とはそう言う意味ののではないかと思います。
>>87 フーコー自体は、途中でエピステーメー自体は放棄しているけどね。
>>84 1.2.3.はともかく4が極めて曖昧。その場合の真とは形式論理的真をいうのか?そうなると
ゲーデル濫用の「知の欺瞞」になる。悪い癖ですね。
>>85 あっ、ごめん、君は放置ね。
>>89 ここで、ゲーデル濫用の「知の欺瞞」かよ、一気に低レベルへ(爆
いや、こっちから放置お願いする。
91 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:11:35
ぴかぁ〜さん。 それはないでしょう。 デカルトへの回帰なんてないでしょう。 ないと思いますよ。デカルトを認識論ではないといえるか疑問です。 私はむしろ認識論に位置付けていますけど・・・ 外界そのままの姿は神のお創りになった人間に見出しえないはずはない。 よって、世界は真理として人間に捉えられると考えているのでは
>>91 フッサール、フロイト、ラカンが
コトギの再解釈の構造をもっていることは、誰もが認めることだよ。
認識論の放棄というか、正確には毒蛾論の放棄かな。
例えば、ニーチェは真善美の統一の崩壊は認めるとしても、安直な相対主義者では なかったと思う。「真理は醜い」と言っているだけであってさ。 ポスト構造主義はニーチェを援用しながらニーチェとは程遠いとこに行ってる気がするなあ。
>>93 「真理は醜い」=安直な相対主義者だね。
ある意味、安直であるからインパクトがあった、ということだね。
そりゃ、ニーチェとほど遠いでしょ。
いつまでも、「真理は醜い」では、話が持たない。
95 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:17:31
89 では、4)を論破できるでしょうか? 多分出来ないでしょう。 この問題点を巡りながら、構造主義はポスト・構造主義にシフトしていった わけです。ラカンの対象A、クリステヴァの間テクスト性、 デリダの署名、オリジナリティの消失、ドゥルーズの器官亡き身体 どれをとっても、メタレヴェルの後退によって、絶対点の消失 を意識しているのですよ。
>>93 ドゥルーズ「ニーチェと哲学」を読んでみれば?まあ、ドゥルーズ的ニーチェだが。
>>94 無理に会話に入らなくてもよろしいw
>>95 また変だ。
(クレタ人のパラドックス参照)という時点でおかしいわけだが。
ようはポスト構造主義はバレが言うほど、 ポスト構造主義ではないということだね。 なんせ、たかだがポストなんだから。 構造主義にすでに含まれていた動性を強調しただけ。 流れ的には、構造主義(含むポスト)→システム論 ととらえるのが正しい。
99 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:22:43
真理とは弱さの現れかもしれない。 その画一化された価値基準にすがる事で、善悪に境を設ける このようにして世界は差別・被差別を内包する形で、二項対立的な 認識・構造を齎したって事だよ。 そこにメスを入れたのが、ポスト・構造主義特に、フーコーの 監獄の歴史でしょう。 認識論と存在論の境目は、フッサール・ハイデガー・ニーチェ なのでしょうかね。
ラカン、バルトがいなけりゃ、デリダはいないが、 ラカン、バルトがいなくても、ルーマンはいた。 ということだね。
103 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:27:15
ぴかぁ〜くんは、システム論に向かっているようだけど どう言う事を考えているの。 なぜシステム論なの・・・ ハバーマス的コミュニケーション論のように全て上手く 行くのかい。コミュニケーションは誤解のない交流になるのか?
>>95 間違っているというより、曖昧だと言いたい。ちなみにソーカル厨じゃないですよw
悟性的、科学的思考形式では「真」には至らないというのはカント以来常識です。
超越的態度から超越論的態度への態度の変更ですね。
「我々はその生れ落ちた構造が正しいかどうかを証明できない」の証明の意味が
変わったわけです。無理にラカン、クリステヴァ、デリダ、ドゥルーズを持ち出さなく
ともよろしい。
105 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:28:52
ルーマンは知らないが、どう言う事かいな。
106 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:30:28
104 持ち出しても良いでしょう。 私の理論展開のあり方ですから。
>>103 ハバーマス的コミュニケーション論のなにが全て上手くいくのか
わからない。ハーバーマス自身も上手くいかないことは認めて、
それでもあえて、実践をもとめてが、ハーバマスの良さなわけだね。
ハーバーマスの論争好きはそれをそのまま表しているよね。
>>98 そうじゃなくて、パレルゴンさんの問題設定
>>84 は別にポスト構造主義を持ち出す
ほどのものじゃないということね。
>>104 同意。
109 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:33:39
カントの場合には悟性の形式(範疇)は物自体を映し出してはいないとしても 人間の側の間主観的認識は同一化されるのですかね? そこが、真理と言う事になりませんか?
110 :
考える名無しさん :04/12/19 00:35:30
>>107 そして、君はハーバーマスのように論争好きかい?
さっきから全て俺の発言は無視されているんだが。
111 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:36:33
いわゆる、全ての人間には悟性形式がアプリオリに備わっている とするならば、外界に対し同じ認識になると言う事ですかね?
>>109 カントは「間主観的認識が同一化される」なんて言ってたか?どこからの引用?
システム論は細かく語るといろいろあるが、 大局的には、ニーチェ以降はシステム論と言える。 神に変わる者が、システムなんだよ。 すなわち偶然から意図が生まれるシステムについて 考えるってこと。 たとえばニーチェは、神の構造を暴露してた。 そしてそれを力への意志(生の欲動)という 生命的なもの=有機構成=システムに求めたわけだね。 それ以後は、そのシステムをより詳細に描くことで きているわけ。 マルクスもラカンも、デリダも、ドゥルースも
>さっきから全て俺の発言は無視されているんだが。 誰が誰がわからん???
カントに言わせればポモ系の言説は「構想力と悟性の自由な戯れ」でしかないだろう。
>>115 ヴィトに言わせれば、「おまえら、語りすぎなんだよ」ってことね(w
>>113 ニーチェはキリスト的な神もその後に神に変わるものも含めて「死んだ」と言った
んだよ。だからそれは間違い。別にニーチェを絡めなくともシステム論は成り立つ
だろう。あと、マルクスはニーチェよりも年上だし、マルクス-ニーチェの思想
影響関係は全くないよ。これ厨房レベルの常識ねw
>>116 まあまあおもろい。放置は取り消したる。
118 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:45:56
113 ニーチェの「力への意志」をシステム論に持っていくのは 違う気がするよ。むしろよく分からんが、システムが何かの目的の為の 構造とするならば、やはり、二項対立的であって、善悪の基準がある きがする。そうすると、ニーチェは善悪と言う構造的思考の批判であり、 善悪の彼岸でしょう。力への意志とは虚勢されない、欲望の崇高なる肯定 であり、システム論とは全く逆でしょう。
119 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:48:42
悟性には自由に戯れる能力を与えてはいないでしょう。 むしろ、理性では・・。 「・・・・でしかない。」のではなく、そう言う戯れこそが 抑圧・単一的な価値からの逃避・多様性だと言う事でしょう。
120 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:50:39
一時までにしようね。 皆さん。楽しいですね。 今、皆さんは何を読んでるすか?
>>117 そりゃ厳密なシステム論はニーチェなど関係ないよ。
システム論は科学だからね。
そうではなくて、時代の思想的な流れを説明しているわけ。
マルクス-ニーチェの前には、ダーウィンがいて、その前に
ヘーゲルの弁証法があるわけだけど、
ここに神から、システム(偶然)へのシフトがあるわけだね。
(すぐつっこむから、ヘーゲルはまだ神であるわけだが)
パレルゴンの動物概念の理解を見てると、ほんとにわかってるのかなあと思う。 あくまでニーチェにとって「人間は動物と超人の間に張られた一本の綱である」 なのであって・・・
123 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:52:33
システムは偶然だと言う事は、構造主義の言語の恣意性と同じな訳ね。
そのシステムの複雑化の中で、 構造主義があり、ほんとの意味でのシステム論があるわけ。 個人的にはいま一番おもしろいのは、 構造主義(含むポスト)とシステム論の融合=科学化だね。 とかく意味不明と言われるポスモダが、科学化されていこうと されている。「まなざしの快楽」のその一翼(お遊びだが)を 担っているわけだね。
>>123 恣意性もそうだが、一番は差異の体系が
まさにシステム論的にも重要。
>>119 カントはちゃんと読みましたか?「悟性と構想力の自由な戯れ」はカント思想の
最重要キーワードの一つですよ。それでポスト構造主義を超えると言われても・・・
そういえばドゥルーズにカント論あったけど、あれも読んでない?
127 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 00:59:16
122 俺もその通りだと思うよ。 ただ、人間の世界観と言う物も、「認識できる」から「現象に映る物」 になり、「存在論的」から「身体」そこから、「動物性」になっちゃう のは、寂しいな。地に落ちたのよ人間は。神に見放されて 動物な訳よね。だから、認知科学・脳学のように 一方で人間の能力を再度見直そうとしているのかもね。 今後はフランスを吸収発展させて英米系の哲学が発展する番かもしれんな。 認識する脳の構造を分析する事で人間を再度科学的に掌握するね・・・・?
>>118 システムが何かの目的の為の構造?
システム論は、因果律がないんだけど。
力への意志は簡単には生命力ですよ。
生命は、徹底的に生きることに利己的であるということでしょう。
まあ、ほんとの生命は利己的ではないのだが・・・
その意味で、神の代わりに、生命力を持ってきているわけ。
>>124 その融合の理論的骨子は複雑系数学になるのかな?ぴかぁ〜が数学に強ければ
化ける可能性はゼロではないが・・・。現段階ではやっぱハッタリの域を
出ないよ。数式でもバーッと並べ立ててみれば?
>>127 今度はだれも受け売り?
今読んでる本に左右されすぎ(w
>>129 システム論の数学表記、複雑系って・・・
なことしたら、単なる認知科学で、デカルトに逆戻りだよ。
132 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:05:19
126 読んだ読まないはよしましょう。 君の考えを聞きたいだけですよ。 構想力と悟性と言った場合には、どうなの、構想力が悟性を引き出すのか 悟性が構想力を使うのかと言えばどちらでしょう? 私は、古典を専門にしていないので、説明宜しく。 私の感じでは、構想力が悟性のカテゴリーを利用するって事ですか? 利用すると言う表現がまずいかな?(笑) それよりも、理性に自由を与えているのがカントではないの?
>>127 このレスはいいね。確かに、認知科学・脳科学、英米系の哲学が逆に大陸系の
哲学(俺はフランスよりもドイツが重要だと思うが)の思想圏に食い込んできてる
のは彼らの自意識とは関係なく明らかだと思う。対して大陸系の思想が膠着化してる
というねじれも感じる。
>>133 単に心の問題に科学ががんばってるだけ。
英米/大陸の対立以前に、哲学/科学の対立でしょう。
>>132 いつも読んだ読まないを言うのは君のほうじゃないかw。自分で読めw。
ぜんぜん専門的じゃないことだからさ。そこまで説明してたら哲学板じゃなくなる。
136 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:10:07
だから、自由な構想をテーマにする場合には、実践理性から解釈したら と思うわけよ。その「構想力と悟性」の関係と 理性の関係はどうなんだろう? 前者はあくまで認識論であり 後者は実践・道徳論?
>>127 にいえば、バレはなに日和見ってるわけ?
構造主義好きなら、人は動物ではない、
どこまでも、欲望するものといえよ(w
138 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:12:19
135分かったよ。了解。 所で、このスレッド今何人いるの?
139 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:14:03
137 俺にとっては、構造主義と動物化は全く別物なんだよ。 もっと本を読むよ。 アガンベンが好きだ。
>>134 頑張ってるのは認めるけど、哲学畑の人間が読んで満足、納得できる科学系の
心論、意識論てないよね、実際。河本もシェリング、ヘーゲルなんかも扱ってる
けど読めたもんじゃないし。別に哲学的専門性を科学者に求めるつもりはないが、
浅薄すぎて読めないというのが実情ジャン。よく「逆・知の欺瞞」が出てこない
もんだなあと思うよ。
141 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:17:55
ぴかぁ〜のシステムと言う概念が今一わからんよ。 システムとは何かの目的を達成する為の構造でしょう? 違う?
_____________ |__/⌒i__________/| | '`-イ::: -・=- , (-・=- | 俺がいるからじゃないですか? |ヽ ノ (6 ⌒ ) ・ ・)( ^ヽ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>>141 ぴかぁ〜は目的論的思考、因果論的思考、構造論的因果性、などをごっちゃにしていて
自分でも整理がついてないと思うね。
144 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 01:20:34
ジジェクもいいね。 今日は楽しい一日でした。 そろそろお開きにしない。 眠いよ・・・ ほんじゃま・・・ 今日は有難うです。 また、宜しく。
>>140 どこ部分をどのように言ってるのかというのがあるが、
それはそれで良いのでは、
「知の欺瞞」もそういうことだと思うんだよ。
結局、解釈の仕方でしかない。やっぱり違う思想からみると、
そういう批判はでてくる。
でも違うんだよ。まあ、これはわしもよく言われるんだけど
批判なんだけどね。
コジェーブのヘーゲル解読とかね。そういう正当はでない
色々あって良いんだとおもうんだよね。
>>144 おやすみー。もし失礼な言動があったとしたら許してねー。
>ぴかぁ〜のシステムと言う概念が今一わからんよ。 >システムとは何かの目的を達成する為の構造でしょう? >違う? まったく逆。システムとは、悲還元論性、有機体性なんだけど。 根元は、神がいないとして、偶然からいかに秩序は生まれるのか ということだよ。
>ぴかぁ〜は目的論的思考、因果論的思考、構造論的因果性、などをごっちゃにしていて >自分でも整理がついてないと思うね。 まだ、自転車操業だからね。そこまで体系化し整理するところまで 確かに来てないかもね。
ぴかぁ〜さん、プリゴジンの思想をコンパクトに纏めてくれませんか?
だれか「クラインの群」について詳説できるかたいませんか?構造主義の 入門書を買ったのですが、「だから何?」という感想しか出てきません(笑) よろしくお願いします。
152 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:19:25
>>66 から
>>84 に限定してレスします(ぴかぁーは放置)
自分はスレ主でもないし、グダグダにならないよう論点を絞ります
「構造はアプリオリ」かどうかという話ですね
自分の主張は
>>69 です
構造主義的構造はアプリオリな真理とかでは無いんです
153 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:20:06
構造主義は数学における構造とか公理系とか また論理実証主義とかそういうある種の形式主義を継承しています つまり構造主義者は実体論を放棄しています パレルゴンさんが私の意識に構造が先行する、と強調するのは解ります しかし構造が主体に先行するかと、構造が認識に先行するか というのは全然別の話です
154 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:20:36
主体が意識しないところで、つねにすでに構造が機能している事と 構造は認識に先行する実体ではない事は両立します ここを混同すると構造が実体じゃないならインチキだとか または下部構造がすべてを決定して主体は操り人形みたいな 不毛な二択になると思います
155 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:23:30
ここら辺の論点を端的に示すのは「神の見えざる手」ですね 神の見えざる手を構造と捉えても構わないでしょう この比喩は神に操られているというような事は言っていない それは何か認識を超越したり先行したものではないですが 主体が意識的に好きなように操作できるものでもありません
156 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:36:53
>>70 一言で言うと「超越的主体なきカント主義」あたりの話でしょうか
柄谷は目的論的なフッサールと構造主義の違いを認めつつも
結局は内省による哲学(現象学的-構造論的還元)と総括します
ならば当然、柄谷とカントはどこが違うんだ? という話になりますが
たぶん否定神学を抜け出せるかという(東的な)話になりそうで厄介ですね
157 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/19 18:46:24
>>84 4)はもう少し細部を詰めてみると面白い論になりそうですね
自分的にはここで構造の複数性が効いて来ると思います
>>109 >>111 カントでのアプリオリな形式というのは各人のものでしょう
間主観的な共通性云々を言うのはむしろ構造主義です
>>151 クラインの四元群ですか。ヴェイユ(とレヴィ・ストロース)が参照しました
未開人の婚姻の規則と抽象的な数学の操作が一致するという点が斬新だったんです
正直、精神不安定のしろうとと絡みたくないんだが、 あんまりにトンデモなので、一言だけ。 >ここら辺の論点を端的に示すのは「神の見えざる手」ですね >神の見えざる手を構造と捉えても構わないでしょう >この比喩は神に操られているというような事は言っていない >それは何か認識を超越したり先行したものではないですが >主体が意識的に好きなように操作できるものでもありません 神の見えざる手は、システムそのもの 認識の超越性、超越論性議論は不毛。 いわば、位相性というべき。
159 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 22:18:34
今晩はこの一回の書き込みで終わりますが、 しろうとさんの参加で、今後より高度な議論ができる のではないかと楽しみにしています。 レスごとの批判・意見は今日は避けます。 いや、十分な理解が、短い文章からは出来ているとは 言いがたく、この状態で、再度意見を反論として加えると 誤解の元での、一方的な満足に終わるのがオチだと言う 気がします。いずれにしても、しろうとさんと同時の 書き込みによって、双方の哲学の違いを明確にし 相互理解を深めたいと思っています。 その内に宜しく・・・。
160 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/19 22:26:14
ただ、一言いえば、構造を古典主義的な「Invisible Hand」と言う 予定調和に見立てるのは、僕は、賛成できない気がします。 構造主義=科学主義的に見る見方と、恣意性を強調する 偶然性に見立てる場合がある気がしますが、僕は後者的に 見ています。あくまで古典主義的ではなく。 「神の手」を失った後に、構造主義は現われたのではないか と言う説です。この所は、大変面白いですね。 レヴィ=ストロースが前者ならば、後者はソシュールってのはいかがでしょう?
161 :
考える名無しさん :04/12/19 23:15:59
ぴか、竹田読んだ成果が出てないぞ。
>「神の手」を失った後に、構造主義は現われたのではないか >と言う説です。この所は、大変面白いですね。 なことだから知の欺瞞とか言われる。 認識論以後、構造主義などが哲学に閉じることができなくなっている ことが、理解できていない。 メタ哲学はいいが、構造主義に閉じたメタ哲学の陳腐さが、 しろうとと、バレに共通しているものだね。 ボクが哲学板を引っ張るという過剰な自意識と、 まったく同じところをぐるぐる回っていることが、 登場以来、同じことしか言っていないつまらなさだな。 というマジつっこみは野暮だね。ではでは。
しろうとさん、書き込みありがとう。でもこんなことを言うのは失礼かも しれんが、それくらいのことは解ってるというかなんというか(失礼!)、 辞書的定義やまとめではなく具体的に構造主義の思想内容を聞きたかった んですね。みなさん、柄谷的というかなんというかw迂回がお上手でいらっしゃる けれど、正直あまり見えてくるものがない。 しろうとさんやパレルゴンさんの理解での構造主義であれば、理性批判、物自体不可知 主義を貫徹したカントですら「なら構造主義は俺の思想とは全く関係ないな」とでも 言うでしょう。カント哲学は主体がどうこうできないアプリオリな認識形式だけでなく、 主体がどうこうできない物の存在も認めているからこそ成り立つわけですから。 (カントを全く捨ててしまうのなら話は別ですがね) ちなみに構造主義は揶揄的な意味も含め「超越論的主体なきカント主義」と呼ばれたの であって「超越的主体なきカント主義」ではありません。よろしく。
>>153 >構造主義は数学における構造とか公理系とか
>また論理実証主義とかそういうある種の形式主義を継承しています
>つまり構造主義者は実体論を放棄しています
ここが曖昧。構造主義者は実体論を「放棄している」のではなく、単に「問わない」。
この差異は重要で、しろうともパレルゴンもそのスタート地点が曖昧だから、つい筆が
すべると構造主義を過大評価し過ぎることになり、(抽象的な)未開人の婚姻の規則と
抽象的な数学の操作が一致するということが「いつのまにか」人間存在一般が構造に
捉われていることに拡大解釈される。柄谷の「現象学が構造主義によって乗り越えられ
たというのは救いがたい誤解である」というのは、つまり現象学者が成否は別にして、
実体論を含めた古典的哲学的問題全て(全てというのが大げさなら構造主義よりも広い
領域を扱っていると言ってもよい)を問うているのに対し、構造主義者は放棄したものを
別の場所(宗教、芸術、倫理etc.)で問うているだけのことであり、現象学に対する構造
主義の優位を説くのはもともとナンセンスだという意味だ(カントを絡めると説明しやすいが、
この頃の柄谷氏のカント理解は極めて曖昧なのでカントについてはあえて省く)。
どっちにしろ「いつのまにか」拡大解釈をするのはよくない。その「いつのまにか」を
排除していく過程が哲学であると思うから。
165 :
考える名無しさん :04/12/20 02:26:33
お兄ちゃん、本質主義は「主義」と名付けられたときに、 すでに脱構築されているんだよね? まずポスト構造主義は、構造主義が 「差異の体系」とみなした空虚な構造を 実体視するに至った事に反発してね… ∩─-∩ ∩-─∩ ( ´・(ェ)・) (・(ェ)・` ) 人間の勉強はむずかしいクマー Φ___ )_ Φ___) /旦/三/./| ./旦/三/ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | |愛媛みかん|_/ |愛媛みかん|_/
166 :
考える名無しさん :04/12/20 03:43:40
`~ ̄ ̄ ̄~\ ̄ ̄ ̄~\  ̄ ̄ ̄~\ ̄ ̄ ̄~\ 人____)____) ____)____). ー◎-◎-)ー◎-◎-) ー◎-◎-) ー◎-◎-) (_ _) ) (_ _) ) (_ _) ) ∴ ノ 3 ノ .ノ 3 ノ .ノ 3 ノ .ノ ノ .ノ .ノ \_ \_ \_ ノ\_) ノ\_) ノ\_) ノ\_) ⌒ヽ´ .( ⌒ヽ´ ( ⌒ヽ´ .( ⌒ヽ´ ヘ )===ヽ ヘ )===ヽ ヘ )===ヽ ヘ )===ヽ ノ=`J====.ノノ=`J⌒`)ノノ=`J====ノノ=`J====ノノ=` ================⌒`);⌒`)=====⌒`);⌒`)==⌒` ドドドドドドドドドドォォォーーーーーーーー!
;;ヽ____ ___/;;;;ノ<シィー ____(〒)____] :::::/ \:::::::.\ ::/ ヽ:::ヽ::ヽ ::|. ∩_∩ .|:::::|::::| ::| ( -(エ)-) .|:::::|::::| ::| | ̄.○ ̄ ○ ̄| .|:::::|:::::| ::|. \_____/ |:::::| ̄ヽ :::\ / ::::|__丿 :::::::::\_____/ _:::::::|
169 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/20 20:57:47
>>163 まあ確かにレスが雑だったり凡庸だったりします
けど迂回という事で言えば、単に
>>163 さんが
カントと構造主義の関係はこうだ、と書けばいいんじゃないですか
つまり、後だしっぽい
自分が興味あるのは一言で言うと(これも柄谷と関係あるけど)
構造主義の後で自由な主体をどう立てるかみたいな話です
正確かつ独創な文章を書くのは難しく、どうしても自分の言葉になるから
間違いを発見する欲望には答えられないし、我田引水なんで自分のスレに書きます
一見今の話題と関係ない文学の話でもしようかと思います
170 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/20 21:06:57
>>164 問わないと言ってもいいですよ別に。曖昧というならはっきりさておけば
ある記号システムの外部の実在は構造に関係ないということですね
(しかしポスト構造主義では構造の生成という形で再提起される)
>(抽象的な)未開人の婚姻の規則と抽象的な数学の操作が一致するということが
>「いつのまにか」人間存在一般が構造に捉われていることに拡大解釈される。
ええ、深層構造が表層の痕跡の原因になっている訳ではありません
構造は経験を抽象化したものだということを押さえないと
例えば「人間は無意識に操られている」式の通俗的な解釈になってくるでしょう
>構造主義者は放棄したものを
>別の場所(宗教、芸術、倫理etc.)で問うているだけのこと
「語りえぬものには沈黙」式の区分ですから、全くナンセンスという訳でもないと思う
171 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/12/20 21:52:50
>>160 >構造を古典主義的な「Invisible Hand」と言う予定調和に見立てる
まあたとえに出しただけで一例ですから
構造自体は中立で幅広く使える概念という事ですね
>構造主義=科学主義的に見る見方と
>恣意性を強調する偶然性に見立てる場合
しかし、その二つは両立しますね
科学主義というより公理主義・形式主義から見ると分かりやすいと思う
じっさい数学の公理系も矛盾を起こさなければ公理はなんでもいい
172 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/20 23:21:28
今日も時間がなくて。 一言だけのレスですが。 しろうとさんのスレッドあるんでしたか?知りませんでした。 今日感じた点ですが、形式主義とは、公理形は何でもいい と言う事が事実であるならば、構造主義的だと言う事に同意できますね。 但し予定調和を例えとして述べたに過ぎないとしても、 やはりまずい気がします。「予定調和=神の存在」を批判したのが、 構造主義にはあるのではないかと思うからです。 もし予定調和が正しいとするならば、それは、世界=現前は見えるもののように あらねばなりません。しかし、ポスト・構造主義が言う様に、世界は多様です。 多様である事は非予定調和です。予定でも調和でもない、恣意的構造の現れであり 時代の開かれた価値体系によって開かれてあるのだと思います。 予定調和には「万物はすべからく神によって創られており、よって、世界は 合理的に現れており、数式によって発見されるものは 美しい結晶であり、神の姿に他ならない。」と言う 古典主義的世界が現れてきそうです。 それも、良い事ですですけど。時代遅れかな(笑)
だめだこりゃ。次スレのタイトルは「なんとなくフィロソフィカル」にけってーい!
174 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/20 23:33:48
形式主義が、中味のない形式が矛盾なくあれば、それで十分 とするならば、どの公理系が優れているのか証明することは出来ない のでしょうね。公理系間の関係はどのようなものなのか? 構造主義の言う様に内部と外・・・その外に向かってポス構造主義者 は脱領土と領土を繰り返したわけで・・その外を見出した時、それは 内部になると言う事を繰り返し・・・脱構築・・差延と言う概念を編み出した のでしょう。 それと、カントによる構造主義の説明について それはそれで良いんでしょうが、何故カントで説明するのが良いのか 不明ですね。構造主義とカント(ドイツ観念論)は大きく違う 訳で、カントから見た構造主義はあくまでも構造主義者の見る 構造主義とは異なるでしょう。どうしてもカントからと言うのならば 何故かと言う点を述べる必要もあるでしょう。
175 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/20 23:42:41
カントは大陸合理論とイギリス経験論の問題点を解決する為に 現れた哲学だと言われています。つまり、外の世界はあるがままに捉えうる とする前者に対して、全ては分からない、観念連合に過ぎないとした後者 この両者の相違を一気に解決するために、悟性のアプリオリな形式を 持ち込んだわけです。つまり、外は分からないが内部の悟性形式にはっきりと 現れるものが全てだとした。この事がカントの功績です。 しかし、カントで全てを測るのはどうでしょうか? 構造主義が現れる背景が見えてこないでしょう。
すべてはボクのしゃべりすぎが原因なんだよね。後世のみんな、すまん。 ボクが未開民族の婚姻規則つまりはインセストタブーによる共同体間の女性(財)の交換 規則ををソシュールちゃんの構造言語学の業績を応用して解釈して、それがたまたま うまくいっちゃったもんだから、勢いでデカルト的コギトまで無効宣言しちゃったわけ。 まさかみんながここまでボクの半トンデモを信じきるとは思わなかったんだ。 ごめんね。
>>175 添削
>つまり、外は分からないが内部の悟性形式にはっきりと
>現れるものが全てだとした。この事がカントの功績です。
↓
つまり、外は分からないが内部の悟性形式にはっきりと
現れるものが「現象の」全てだとした。この事がカントの功績です。
ここで「いつのまにか」カント思想が歪曲されている。
178 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/20 23:52:14
つまり、間違いを恐れずに言えば、構造=形式の証明が出来ない と言う中心点に開いた「無」、これを存在論的と言おうが、器官亡き身体 と言おうが、原エクリチュールと言おうが、動物的と言おうが あるいは「アブジェクシオン」「永劫回帰」「タナトス」と言おうが 全て、カントにはなかったことです。理性に開いた風穴こそ しろうとさんの言う、公理系は何でもいいと言う事です。無矛盾であれば 良いと言う事でしょう。存在に開いた穴、これこそメタレヴェルの無限後退 なのでしょう。証明は無限後退的にメタを必要としているのでしょう。
179 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/20 23:57:30
公理系の証明が出来ない事、それは、人間が人間を証明できないこと の現れでしょう。自己言及性とは、そう言うことです。だから、一刻も早く 王を殺したのです。口を封じる事で、無限遠点に頂点を封印したのです。
カントは理性の構成的使用を戒めたのであって、統制的使用は認める。それが超越的な メタならぬ超越論的なメタです。全て、カントにはなかった、のではなく、すでにカント にあったのです。
181 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/21 00:00:28
そこから、多様に流れ出る規則を封印した。これこそ、古典主義だった。
ちがうよ、自己言及性のパラドクスに出会って超越的形而上学から超越論的形而上学 に転回したのが古典主義だよ。
183 :
パレルゴン ◆jUC237y.B6 :04/12/21 00:17:16
182 君の言う古典主義を正確に定義してみてくれない。 古典主義が自己言及性と言う概念より後・・・?(笑) 180 カント中心に構造主義を捉えるのは限界があると思うよ。 前述の私の意見を読んでみてください。背景が異なるでしょう。 同時に夫々君達もコテハンをつけてくれませんか。 部分的な発言ではなく、構造主義全体について君らの意見を書いてみてください。 明日早いので、今日はこれで・・・
自己言及性問題は古代ギリシャ哲学からすでに扱われてたっつーの(笑返し)
185 :
考える名無しさん :04/12/21 01:31:59
パレルゴンさんは当然数学基礎論や数理論理学をマスターして発言されていますよね?
186 :
山本舞衣子 ◆d2gmSQdEY6 :04/12/21 15:55:19
肯定すれば形而上学 否定すれば否定神学 どっちに転んでも駄目じゃないか 脱構築っていっても結局は肯定するから駄目だし
問題は否定神学がなぜいけないか?というのに「デリダ、柄谷、東、が言ったから」 という理由しかないとこだね。「存在論的、郵便的」の東の説明もよく読むと、 突き詰めれば、ハイデガーはナチだからダメ、という遠景を漠然と前提としていな ければ実は成り立たないことだから。 彼らに転移している連中はまったくそのことが見えていない。
189 :
山本舞衣子 ◆d2gmSQdEY6 :04/12/22 04:56:34
否定神学は禁止を前提にしてるところが駄目 絶対に真理に到達できない だからこそ到達できるのだという理屈ですね 絶対他者=神ということですね
ポスト構造主義者ってさあ、ボクを過大評価しすぎなんだよね。 ボクだって本当は平凡な人生を送りたかっただけなんだ。 だから、狂人の苦しみも知らないくせに、ボクにいろいろ理屈をつけて飯のタネに するのはもうやめてよ。いいかげん頭にくるんだ。
192 :
考える名無しさん :04/12/23 10:12:01
アルトーが「器官亡き身体」と初めて言ったんだって。 スキゾを実践した。分裂症的身体アーティスト。 でも、ポスト・構造主義(ドゥルーズ)は色んなタームを「と」で繋いだ訳だ。 だから、アルトーもその内の一つなのよ。
193 :
考える名無しさん :04/12/23 10:16:02
否定の連続は肯定でもあるんだな。 「否定は肯定である。」スピノザ 聞いた事ある?否定は概念の否定を通じて ある反対概念を構築している事を隠し持っているって事だな。 「肯定は否定である」と同じである。 肯定はある否定性を隠し持っている。
194 :
考える名無しさん :04/12/23 18:17:00
そういう単純な理屈だから否定神学は嫌われるんだね
スピノザは「全ての規定は否定である」じゃなかったか?
「あらゆる規定は否定である」(Omnis determinatio est negatio) From スピノザの書簡。
この際、ドゥルーズによるカント、スピノザ、ライプニッツの珍解釈は忘れましょう。
198 :
考える名無しさん :04/12/24 09:02:01
器官なき身体=脱中心化=ゼロ記号=シニフィアンの戯れ
199 :
考える名無しさん :04/12/24 09:09:50
アルトー 「身体は身体だ。ひとりだし、器官(オルガン)なんか欲しがらない。 身体は有機体(オルガニスム)なんかではない。有機体は身体の敵だ。」 自分の耳を切ったゴッホ。器官の自明性が解体した瞬間だ みんな、器官のなき身体を持ちましょう
200 :
考える名無しさん :04/12/24 21:56:08
部分的に述べるのではなく、構造主義、ポスト・構造主義について、 纏まった意見をレスしよう。 197:それでは君はドゥルーズのカント、スピノザ、ライプニッツの 解釈を少なくとも知っていて、そう言っているのでしょうね? そうであるならば、君の理解している所をレスしてくれ。 そしてドゥルーズの解釈を否定して、君自身はどの様に、3人の 哲学を解しているのか?書いて欲しい。
201 :
考える名無しさん :04/12/24 22:01:24
「パレルゴンさんは当然数学基礎論や数理論理学をマスターして発言されていますよね?」 なぜマスターしないといけないのか述べていませんね。 それでは君はポスト構造主義を理解して上記の発言をしていますか? と言う質問でお返ししましょう。 いや、感情的にならずにいえば、数理論全般に全く興味がありません。 それは、疎外された人間の、超自我による、暴力だからだと言う気がします。
俺は、むしろ、新たな器官が欲しい。 サイボーグ・フェティシズムだ。 物理的実体には拘らない。 仮想であっても、携帯性を考慮すれば、 むしろ、より役にたつ。
203 :
考える名無しさん :04/12/24 22:56:21
数理論は、ある単位「1」や記号「+」など規則を恣意的にルール化して それを高度に組み合わせているに過ぎないのに、 まさに真理を証明するかのような錯覚を無自覚に信じているのだと言う事 に全く気付いていないのです。 問題点はここにあります。つまり、数理論は前段を隠蔽している。 つまり、「1」とは何かと言う事です。 それは、自明のものでしょうか? 数理論はそれを疑い得ない前提としているのです。 このことから、如何なる高度な数理論も同じ点を隠しているのです。 以上から、私は、フレーゲも好きに離れません。
数学の場合、それが特定の条件下においてのみ成立するのだと、 自覚している場合には、何も問題無いと思うが。 普遍性を求めるのは、無茶だ。
205 :
考える名無しさん :04/12/24 23:02:59
身体は器官に還元される事を拒む・・・・ 現勢化されたものである器官に対し潜勢化する内在の謀反であり 永遠に回収されぬ過剰が器官を超え出ることであり、それは内在性 「強度・力」なのだと言う事です。ここに何ものにも還元不可能な ドゥルーズの器官亡き身体が開かれるのです。
206 :
考える名無しさん :04/12/24 23:03:56
204:数学が普遍性を求めないのならば、数学とは何なのか?
207 :
考える名無しさん :04/12/24 23:04:41
しろうとさん。 答えてくれ。
208 :
考える名無しさん :04/12/24 23:11:39
数学とは理性の「おままごと」です。 真理の証明から離脱・・・、それは量子力学と不完全性定理と ノイズ理論、大数の法則によって、あらわになった数学の恣意性です・・ それでも数学の意義を求めるならば、道具としか言い様がありません。 経験的な事は繰り返すと言う仮説によって、明日も日は昇ると言う 前提を疑わずに、数理論を組み立てているのです。 つまり、帰納法的であるしかないのです。
209 :
考える名無しさん :04/12/24 23:14:14
ほんじゃま・・・ 上記のような会話をスムーズにできる相手は哲版にはいないな。 さらばじゃ・・・
211 :
考える名無しさん :04/12/24 23:15:39
普遍性を求めるのは、哲学じゃないのか?
212 :
考える名無しさん :04/12/24 23:18:14
しろうと・ポール・ぴかぁ〜 頑張れよ。 もっと、勉強をだね。読みがたりない。 思った通りに言う事。 調べて言おうとしない事。 今の知識をぶつける事。 後で調べる事。 間違ってもいいこと。 以上が私=パレルゴンからの言葉である。
213 :
考える名無しさん :04/12/24 23:22:16
パレルゴン=額縁の外=外の思考=永遠に外部へ逃走する者 外部を求めるもの=内部は「それ」としかいえない これが、パレルゴンの意味である。(デリダ) ぴかぁ〜はもっと緻密に本を読む必要がある。 実力以上のものを見せようとしすぎているので 逆に未熟さが見えるのですよ。
>>213 バレ〜・・・
おまえにいうことは一つだけ。
「その中のどこに君があるのか?」
この意味がわかるまで、おまえは変われない。
というか、正直、おまえと関わる意味がもうない。
215 :
考える名無しさん :04/12/24 23:29:27
それでは、がんばってけろ。 君らは素晴らしい素質がある。 本の名前だけを羅列することなく、その哲学者の論理を展開する様に書く事です。 そのためには、決して負けない意志と哲学を人一倍愛する事。 それと人を論理によって打ちのめそうとするのではなく 自分の無知を知る事です。そうすれば、相手との交流も スムーズに進む気がします。 生意気な事言って申し訳ありません。 それでは頑張って下さい。
パレは少し頭おかしいんじゃないか(笑)。柄谷が言った「ポストモダンというのは 単にヒュームへの回帰である」というのは当たってるな。
217 :
考える名無しさん :04/12/24 23:32:42
ぴかぁ〜さんへ 言っている意味君自身分かっているとは思えないな。 君の論理は一貫性がないよ。 創作としては面白いと何度も言ったはずだ。 しかし、哲学的な分析力に於いては、目立たないと思うよ。 みんなもそう思っているのでは・・・
>>217 そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。
なことどうでもよいんだよ。
いい加減わかれよ。おまえがいかにしがみつこうが、
今のおまえには、もう絡む意味もないんだよ。
219 :
考える名無しさん :04/12/24 23:36:45
216 だから、私が言ったように、単純な語彙でもって、哲学を知ったか するなと言ったんだよ。分かってないから比喩のような短い文章で 相手を打ちのめそうとするんだよ。 本当に分かったらそんな単純な文章で結論付ける事は出来ない。
バレ、ほんとごめん。おまえもういらなんだわ。 もうわしに近づかないでくれ・・・キモい。
221 :
考える名無しさん :04/12/24 23:39:37
218 ぴかぁ〜君。 冷静に君の求めるルーマンでも完璧に理解して、レスしてくれ その時には俺も拝聴するよ。 感心させてくれ。俺は、人に感心させられたいだけなんだ。 今のところ誰も俺を感心させてはいない。
>>219 何言ってるんだ。
>数理論は、ある単位「1」や記号「+」など規則を恣意的にルール化して
>それを高度に組み合わせているに過ぎないのに、
>まさに真理を証明するかのような錯覚を無自覚に信じているのだと言う事
>に全く気付いていないのです。
このような、数学は真理の言葉である、みたいなこと主張してる数学者、哲学者
が今どこにいる?具体的に名前とその人の思想をあげてみてくれ。
たぶんあげられないだろうね。そんな数学者、哲学者は君の脳内にしかいないからだ。
>>221 おまえは、だだっこか?(w
そこまで落ちぶれることもないと思うが、
その前にこの場から去れよ。
224 :
考える名無しさん :04/12/24 23:43:18
と言う傲慢な言葉を残して去る辛さを俺はしみじみ感じている。 ぴかぁ〜君は偉いよ。 まあ皆さんがっばってください。 俺はもっと磨く。もっと素早く、鋭く。凡才になる事。 それでは・・・もっと秀才を与えたまえ
>>224 それがキャラでできれば、良いんだから。
おまえは天然だから。
ほんと頭悪いよな。もうちょっとさ、空気読んだり、メタレベルの読みが
できないもんかね。
まあ、私生活でも苦労しているんだろうが・・・
226 :
考える名無しさん :04/12/24 23:45:50
「このような、数学は真理の言葉である、みたいなこと主張してる数学者、哲学者 が今どこにいる?具体的に名前とその人の思想をあげてみてくれ。 たぶんあげられないだろうね。そんな数学者、哲学者は君の脳内にしかいないからだ。」 それでは、数学とは何だろう? 外の世界の事実=真理の表現出ないとしたら何だろう? アンサー・プリーズ
>>224 さよならー。あと十年くらいたったらまた来てね。
どうせ来週末また来るんだろう(w
229 :
考える名無しさん :04/12/24 23:49:07
特定の状況下において成り立つ一般原則を示してるだけで、 ほとんどの自覚的な数学者は、普遍的な真理なんぞ志向しとらんでしょ。 何らかの原理原則を打ち立てる場合は、 まず、それが成立する条件を把握するのが科学者であって、 それができない(受け入れたくない)から、哲学は哲学なんだよ。
230 :
考える名無しさん :04/12/24 23:53:07
そうかもね。(笑) ぴかぁ〜 ほんとにルーマンでも何でも良いので、一つだけでも論理的に 書いて欲しい。頼むから・・・
231 :
考える名無しさん :04/12/24 23:55:20
成立する条件を把握する数学者はどう言う状況(視点)にいるのか を証明できないのが数学者・科学者ってのはどう?
232 :
考える名無しさん :04/12/24 23:56:10
恐ろしくレベルの低い議論が展開中。
233 :
考える名無しさん :04/12/24 23:56:53
つまり、条件を掌握するその立場は証明されていないことを無視する と言う事ですが?
234 :
考える名無しさん :04/12/24 23:57:29
恐ろしくレベルの低い議論が展開中。
235 :
考える名無しさん :04/12/24 23:57:58
>>231 それは「できない」というよりも、する必要がないってことじゃないの?
そこまで突っ込むなら、数学の哲学とか、科学哲学になるんだろう。
236 :
考える名無しさん :04/12/24 23:58:33
プ
>>230 どこまでわしに頼る気?
そこそろ独り立ちするか、去るかしなさい。
迷惑なのぐらいわかろうよ。大人なんだろう。
>>226 質問を質問で返すなよ。数学が真理を証明するかのような錯覚を無自覚に信じている
思想家は具体的に誰だ?どういう思想だ?と聞いているんだよ。つまり君が批判してい
るのは誰だ?どういう思想だ?という質問。端的に「・・・の考えだ」と答えれば
いいんだよ。そこで逃げちゃダメだ。
239 :
考える名無しさん :04/12/24 23:59:31
プ
240 :
考える名無しさん :04/12/25 00:00:12
232 感情的で煽りのような発言です。 何処がレヴェルが低いと言えるのですか? 貴方にとってレヴェルが低いのならば、君の高さを証明するために 建設的な意見を書いてください。 そして皆が読んでみて、本当に高いのであれば、君に多くの質問が 浴びせられるでしょう。
241 :
考える名無しさん :04/12/25 00:00:45
ばーか
結局、バレに絡むと損するからやなんだよな・・・
243 :
考える名無しさん :04/12/25 00:01:40
建設的だってよ アハハ
244 :
考える名無しさん :04/12/25 00:02:09
つーより、前提を認めなきゃ、 先に勧めないのが他の学問だよ。 そこんとこが曖昧だから、哲学は、 素人に口を出されても、対応できない。
245 :
考える名無しさん :04/12/25 00:02:51
恐ろしくレベルの低い議論が展開中。
246 :
考える名無しさん :04/12/25 00:02:58
数学者は全て真理を明らかにする事が使命でしょう。 数学が真理を示さないならば、それは何ですかと聞いているのです。 1+1=2が真理ではないならそれは何でしょう?
247 :
考える名無しさん :04/12/25 00:03:43
アハハ〜
いまどき希少価値の高い真理主義者が混ざってるな・・・
249 :
考える名無しさん :04/12/25 00:05:04
真理主義者なんて聞いたことねーよ 精神心理学部くらいありえねー
250 :
考える名無しさん :04/12/25 00:05:23
前提とは何ですか? 先に進むとは何? そこのところとは? 曖昧な点とは? 全て不明につき討論不可能です・・・・・・・・?
251 :
考える名無しさん :04/12/25 00:05:54
ありえねーくらいヴァカ
252 :
考える名無しさん :04/12/25 00:06:01
アンカーくらいつけてくれ。
253 :
考える名無しさん :04/12/25 00:06:08
1=1であることを認め、 1+1=2であることを前提にして、 その中での法則を考えるのが数学なんだよ。 だから、1=1ではない条件下では、 前述の法則は、成り立たない。 それだけ。 異なる条件下では、 異なる法則が成り立つ。 誰も、普遍性なんか求めちゃいない。
>>164 で答えは出てるだろ。数学も構造主義もギリシャ以来伝統的に言われてきた
形而上学的な「真理」は問わない、ということ。はじめから問わないと宣言してる
学問に「問うてる」とイチャモン付けて勝手に暴れてるのがパレルゴン。
255 :
考える名無しさん :04/12/25 00:07:26
氏ねヴァカ でも死ぬ前に『算術の基礎』くらいは四度こうな
256 :
考える名無しさん :04/12/25 00:07:43
真理主義とはなんでしょう? いきなり名付け親でしょうか? 概念を定義せずに名付けるもう もっと本を読まないと言っている事が分かりません? ほんじゃま・・・ 後はヨロ・・・
257 :
考える名無しさん :04/12/25 00:09:08
アハハハハ〜 おまいらバカ
258 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/12/25 00:09:45
259 :
考える名無しさん :04/12/25 00:10:18
最早、構造主義とは無関係なスレと化したな。 で、構造主義って何よ。
260 :
考える名無しさん :04/12/25 00:10:31
おれも真理主義で逝こう プ
261 :
考える名無しさん :04/12/25 00:11:21
恐ろしくレベルの低い議論が展開中。
262 :
考える名無しさん :04/12/25 00:11:36
256 ソックリお返ししましょう。 ドゥルーズでも読んでからいらっしゃいね。 254 数学は神の姿を捉える=真理探究の手段だったと思いますよ。 今は君が言う事は理解できますが、デカルトでも読めば分かりますよ。
263 :
考える名無しさん :04/12/25 00:12:22
おまいら日大出身者かよ プ
264 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/12/25 00:13:07
バレが寝たな。 結局、バレの週末の暇つぶし、かまってくんに付き合わされる だけなんだよな。・・・わかっていても、可哀想でかまってしまう・・・ なんか切れない、捨て猫みたいなヤツなんだよな。
265 :
考える名無しさん :04/12/25 00:14:20
平面と球体の表面では、 条件が異なるんだよ。 古典物理学も、 厳密さが不要なら、 今でも実用できるんだよ。
266 :
考える名無しさん :04/12/25 00:15:12
だから、もっとしっかり本を読んだら、「ばか・くそ」と言う 感情的な発言は出てきません。 かじった知識だから、すごむのですよ。 哲学以前の問題ですね。
267 :
考える名無しさん :04/12/25 00:15:15
中学生だったよ プ
268 :
考える名無しさん :04/12/25 00:17:06
265 分かってますよ。リーマン曲線(幾何学)ですね。 君の理解は正しいと思います。 それでは・・ぴかぁ〜 オヤスミ
269 :
考える名無しさん :04/12/25 00:18:44
>>262 デカルトの時代とは、数学をめぐる状況が違うでしょう。
>>262 あのね、だからね、なんと言えばわかるのかなあ・・・。いいかげん疲れてきた。
君が「数学は神の姿を捉える=真理探究の手段」という考えを批判するのはいい
ですよ。なんの異議もない。でもそんなことは別にポスト構造主義が初めて批判した
わけではない。カント以降はそのような数学神秘主義は潰えたのであって、そこで
強引にポスト構造主義のタームを使って説明すべきではない。明らかに衒学趣味です。
271 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/12/25 00:21:39
>それでは・・ぴかぁ〜 オヤスミ ったく、名前呼ぶなって(w ほんと雨にぬれた捨て猫だな・・・ いい加減、独り立ちほしいよ。
272 :
考える名無しさん :04/12/25 00:21:40
数学は人間が生きて行く為に利用するツールである。 決して、真理ではない。この事を君から聞いて 本当に良かったと思います。 君の才能に乾杯です。 その能力を生かして、世界を救ってください。 今日は君に会えた事が最高に嬉しかった。 それでは、おやすみなさい。 今日はありがとう。 失礼の数々お許しください。 貧しきものより
バレの捨て猫劇場の次回公演は、30日の晩を予定しています。
でもパレルゴンみたいな香ばしいコテがいてくれるからこそ哲学板は盛り上がるわけでw
>>273 パレのアホさに乗じてお前がしゃしゃり出てくるのはもっと醜いぞw
でもしろうとといい、最近の天然キャラの台頭は、なにかの傾向なのかね。
>>275 ぴかぁ〜、ぴかぁ〜と捨て猫が泣くのよ・・・
正直、バレはぼけたオヤジよろしく、ここ数年、同じことしか いってなんだから。 くり返し同じ話される身にもなってくれよ。
>>276 お前も含めて、知識人ゴッコしたいだけだろ?パレやしろうとがキレる瞬間て、
知識人ごっこの暗黙のルールが破られたときだけだよ。思想内容なんてまったく
関係ない。批評空間の共同討議ごっこだよ、こんなの。
>>279 知識人ゴッコ?まだまだだな。その奥を見ろよ。
パレやしろうと見て見ろよ。単にかまって欲しいだけだよ。
やつらもまずわしのように自給自足率を上げないから、
インフレを起こして、パニクる。
そんざけ。
単に知識の開示では、インフレを起こすのは当たり前のこと。 バレはドゥルーズネタ、しろうとはアスペクトネタを リピートして1年以上。 ここの知識系コテがしばらくしていなくなるのは、そのため。 (それが悪いことではないが。) わしがバレに「そこにおまえはどこにいるのか?」と問いつづけているのは、 そこに自分の考え、未完成でも、稚拙でも含めないと インフレは解消されないということ。 ならおまえは、いつまでこの板にしがみついてるの? 今日みたいにほんとに唯のかまってくんに成り下がるだろう、 ってことだね。
283 :
考える名無しさん :04/12/25 01:53:57
パレルゴンよ、いちいちageるから祭りになっちゃうんだよ。sage進行にしろ。
構造って伝統的支配と大差ないな。
インフレを起こしたコテがいうことは、いつも同じ。 「より正確に」・・・ これは、社会的にもパターンだね。 閉塞した、固定化した、様式化した、すなわち変わる力を失ったものは いつも「ルールの正確さ」規律にこだわる。 すなわち象徴界の、シニフィアンの連鎖に流されるのみ、 生の欲動を失ったものはいつも・・・ 汚物を溢れさせる力を失った者は・・・
ただ今下げのテストだす。
哲学にインフレという経済用語を使うってどう言うことでしょうね。 概念不明。
こんばんは、田原総一郎です。提案ですが、もうこの際、ドゥルーズについての話題一本 に絞ってみたらいかがでしょうか、このスレッド。構造主義・ポスト構造主義を超えて、 ではテーマが大きすぎて細部に話が行く前に概論(というか個々の立場表明?)で会話が 終わってしまいます。それどころか無益な党派的煽りだけの場合も少なくない。 個人的には、ミル・プラトーの中の「いかにして器官なき身体を獲得するか」あたりが ドゥルーズ思想の中心になっていると感じているのですが、どうでしょうか。そしてあ の章は私は文学としてはイメージが掴めすぎるほど掴めるのですが、「なるほど!」とま では正直いきません。 有機体的思想の王ヘーゲル?にゲリラ戦を挑む機械の思想家ドゥルーズ。「エチカ」をCsO についての偉大な書物と呼び、ヘーゲル的スピノザ理解を嘲笑するドゥルーズ。 そのあたりに細かく突っ込んでみません?パレルゴンちゃん。
「それは油断のならないものだ。捉えそこなうことが大いにありうるからだ。 ときにはまた恐るべきものであり、きみたちを死に導くこともある。それは 欲望であり、しかも非欲望である。それは観念や概念ではなく、むしろ実践 であり、実践の総体なのだ。CsOに人は到達する事がない・・・・・ いつまでも接近しつづけるだけ、それは一つの極限なのだ。」Mill Plateaux by Gilles Deleuze
まさに、フロイトの「タナトス」破壊の欲望であり、欲望する機械なのだ。 だからそれは手がつけられないものであり、論理的思考に敵対するものである。 それは決して認識など出来ない。ただ、触れるだけであり、感じるだけだ。 いやもっと近くにいようとすると、全く遠いものであり、 唯一それに近付く方法があるとすれば、「成る事」においてである。 「成る事」それは認識する事ではなく、取り付かれることによって、 私は生成する。主体としての私は喪失し・私とは呼べない何かになる。 狼の様な「叫び」に身を任せ、獣に成る事だ。
あるいはリビドーにのって歩く事である。走る事・行為全てが 実践全てが、欲望に張り付いているのだ。その根底にあるものは、つまり、 反理性・反虚勢であり、普遍・論理であるのは間違いない。
去勢によって、我々は人格を持つ。この人格を喪失する時、Csoになる。 喪失とは肯定である。すべてのものが「然り」と成る時、全ては失われる。 そしてそこに欲望する機械が復活するのだ。
>こんばんは、田原総一郎です。提案ですが、もうこの際、ドゥルーズについての話題一本 >に絞ってみたらいかがでしょうか、このスレッド。構造主義・ポスト構造主義を超えて、 >ではテーマが大きすぎて細部に話が行く前に概論(というか個々の立場表明?)で会話が >終わってしまいます。それどころか無益な党派的煽りだけの場合も少なくない。 汚物性を排除したスレに生きる道はない。
なぜ、マゾッホとサドだったのか?いたって簡潔に言えば ドゥルーズが求めていたものが器官を窒息させて、インテグレート させるものを拒否したからだ。器官とは因果であり、 因果以上のもの、余剰を回収してしまうからだ。 だから、器官の活動を阻止し、表層の感官に多様性=創造性を求めたと言う事。 この皮膚表層は内在平面でもあるのだと思う。内在する平面に 欲望機械・抽象機械などリヴィドーの連続とその切断機械が乱立する フールドこそ表層であり、内在でもあるのだろう。
機械とは欲望であり、欲望の流れる組織でもあるのだろ。 この組織によって欲望は流れる。資本主義機械は金の流れによって 統括される。「もっと遠くへ行こう。我々はまだCsOを見つけてはいない。 我々の自我を解体していない、と。」ドゥルーズ 千のフラトーP174参照。 「回想よりは忘却を、解釈よりも実験を」つまり、回想は回収されるからだ。 解釈は論理に還元されるからだ。だから、実験は結果不明の状態で回収されな いからだろう。今日はここまで・・・・・。FROM パレルゴン
今後は田原さんも書き込んでください。 但し、煽られないように、sageで行きましょう。 実験はわくわくしながら眼差しを送るからだろう。
>>288 インフレーションて物理学でも使われてるが
「CsOとはあらゆるものを取り払ってしまった後に、まだ残っているもののことだ。 われわれが取り払ってしまうのは、まさにこの幻想、つまり、意味性と主体化 の集合なのだ。」ミル・プラトー と言うように、ドゥルーズは精神分析学を批判する。つまり、精神分析とは 一つの物語であり、ある一つの意味を精神の状態を還元するからである。 つまり、この「私」をこれが「私」であると言う客観に証明することが 私と言う流れを切断する事になるからある。 私と呼べないものに「私」をあてがう暴力に反旗を翻したものこそ ポスト・構造主義なのである。
だから、主体化させられた事への批判は前主体化への運動となる。 主体化されない前とは「アンチ・オデイプス」なのだと言う事である。 エデイプス・コンプレックスにおいて、私は「私」になったのであり その批判こそ、スキゾフレニーであり、ドゥルーズの思想の根底に横たわっている ものである。「CsOは強度にしか占有されない。」 強度とは意味ではない。意味は目的性を帯びているのだ。 強度とは、反省ではなく、リビドーのヴェクトルなのだ、風の中を走る ノマドのように、感性の流れの強弱なのだ。意味とはその事後的な解釈 結果としてしか現れぬものであり、それは、燃えカスに過ぎない。
ジジェクならば間違いなく「前ー存在論的」と言うに違いない。 とすれば、「存在論的」とはエデイプス後を指している事であり、 実存的な状態にある事は間違いないだろう。 分かりやすく解説すると、 1)「私」とは原抑圧によって主体化される事によって生まれる。 2)この「私」と「私以前」とは、ぎこちない関係にある。 3)ポスト・構造主義はこの「私以前」の開放を求めた。 4)「私」とは国家権力に抑圧されたものである。
きょうはここまで・・・・。 静かだね。だれもいないかな? 難しすぎるか? 田原さん意見を求む。
303 :
パレルゴン :04/12/29 23:48:51
年末年始にこの章を全ぶ再読して、纏めたいと思いますが、 貴方が提案したのですから、田原総一郎さんの意見を貰いたいものです。 一方的にレスするのは勘弁願います。 面白くありませんので。
下げます。
こんばんは、田原総一郎です。今ミル・プラトーを読み返しています。それでちょっと パレルゴン氏、しろうと氏がこのスレッドで展開していた「動物」という概念の理解に 疑問を持ちました。端的に言えば「動物」とは逆に器官だけの身体のことではないでしょ うか。ヘーゲルが非有機的、機械的知を止揚し、彼の哲学史の中で言う「思惟する悟性の 時期」の哲学者たち(デカルトから始まりカントで頂点を迎える)によって分裂・対立させ られた知を有機的に再統一したとするならば、対してドゥルーズは非有機的、機械的知を さらに機械的に捉え直すことによって(そしてドゥルーズはその徹底した機械論の先駆を スピノザ、ライプニッツに見る?)超克しようとしたといえるでしょう。私はそう感じて います。なので、コジェーブ的ヘーゲルに端を発し、東−しろうと氏が問題とする「動物化」 とは有機的思考の究極、歴史の終焉であり、ドゥルーズ−パレルゴン氏が問題とする「動物に なること」は徹底された機械論的思考(欲望する諸機械)の究極であり、全く対極的なのです。 私は、強引に図式化すれば以下のような図式で考えています。 動物=有機体的思考=器官なき身体の消滅 動物になること=機械的思考=器官なき身体を獲得すること
>>305 はまだぜんぜん詩的、抽象的、直感的な書き方でありまして、今後、私は
「エチカ」と「スピノザと表現の問題」、ライプニッツの諸論文と「襞」の精読を
予定しています。なのでもうあまりこのスレには書けませんが、続けておいていた
だけると嬉しいです。おそらくは、パレルゴン氏が基底としている浅田的な、そして
しろうと氏が基底としている東的なポスト構造主義のまとめにはどうも納得がいかない
部分が多いので(年のせいもあるでしょう。私は意外とじじいなのですw)、なるべく
ドゥルーズの思想に直で触れなおしたいという気がしています。それではまたいつか。
そう言う捉え方もあるかも知れませんね。 しかし、「動物化」を絶対知の地点と考えると、それは否定性のない位置な訳で それは、明らかに「原抑圧」の弛んだ世界であり、つまり、器官亡き身体 と言われる、感覚の・抑圧以前の世界になるわけで、 田原総一郎さんの見方ではない気がします。 ドゥルーズを読めば分かりますが、動物になることが「器官亡き身体性」にはある のですから。動物とは思考しない事ではないかと思うんです。 ラカンの言う様に、原シニフィアンによって、象徴界(言語世界)には入り 思考が始まるのだと思います。 また、田原さんの意見では、ドゥルーズの言う「機械」と言う概念の捉え方 が不明な気もします。機械とは欲望する無意識と言った方が分かりやすい のです。だから機械とはマシンという無機的なものと言うよりも、ニューロン 的な有機体の自己組織化に近いイメージのほうがいいのではないかと思うのです。 自己組織化だから、常に組織は動いていて、静態的なシステム=メカニック では全くない気がします。「戦争機械」と言う表現を見ても分かる気がします。
表現が抽象的でしたので、再度纏めると、 田原さんの仰る「動物」は器官亡き身体性を持っていない、つまり 身体性に過ぎないという発言は、正しいと思います。 ただ、それは、器官亡き身体の消滅の結果なのではなく、動物には原抑圧による ズレがないから、一度も経験されなかった事なのです。 だから、動物に有機体的思考があるとは思えません。しかし、自動的に反応する そのあり方が有機的であると言う事は認められます。 だから、ヘーゲルにいたる思考を動物と言うのは問題なのではないでしょうか。 むしろ、西洋形而上学と言うべきです。 一方。ドゥルーズは形而上学批判をやったわけで、だから「動物化」された 否定性のない差異=逃走だった。機械とは無意識であり、メカニカルな意味では ないのだと思います。過剰な増殖ですから。
>>306 だと当分書かないと取られるかな?ドゥルーズ−スピノザ−ライプニッツの
交互読み計画の途中経過的なことなら書きますよ。
>>301 そのまとめは難しすぎるからダメなのではなく、簡単すぎて俗っぽすぎるからダメです。
君の言葉をもじって言えば、エデイプス以前−主体以前、を求めるならば、ハリウッド
とメジャーリーグとMTVとマックでよい。それが新たな(超コード化された)帝国的
ヘゲモニーと親和的であるのはアメリカを見れば明らかです。ポスト・構造主義は
「私」でもなく「私以前」でもなく、私以後の超人を求めるのです。
非人称的な動物化と非人称的な超人化、それがごちゃごちゃにされ、それぞれの安直な
部分だけ選択されてしまう・・・そのへんが日本のポストモダンの弱点であり、つまら
ないところだと思います。
年齢の事は別にして、田原総一郎さんのような書き手は必要です。 是非、レスを続けて下さい。 また、しろうとさんも続けて下さい。 私も、襞は読みましたが、ドゥルーズの概念は把握したと思えばこぼれ落ちる 気がします。あれは創作であり、古典的な無矛盾の論理的構築ではない気がします。 適当にレス願います。
ドゥルーズの言う「機械」と言う概念の捉え方はいわゆる機械論的思考よりもさらに 徹底した機械論的思考ですから、自己組織化だと思います。その通りです。しかし、 そこから意見が違うのは、有機体と自己組織化は対立するということです。 勉強不足のためどうしても詩的な表現になってしまうのですが、いわゆる機械論的思考 の不徹底さによってこぼれ落ちるものの肯定(反形而上学)をヘーゲルが有機体的思考に よってなしたとするならば、ドゥルーズは不徹底な機械論的思考を徹底することにより、 こぼれ落ちるものの肯定をしたともいえる。
>非人称的な動物化と非人称的な超人化、それがごちゃごちゃにされ、それぞれの安直な >部分だけ選択されてしまう・・・そのへんが日本のポストモダンの弱点であり、つまら >ないところだと思います。 なかなか鋭いというか、東の「動物化」に対する反論として 言われ続けたものですね。 ボクのまったくこの考えに同意します。 そして動物化と超人(間)化の短絡が起こるのは、 もう一つの東の視点、環境管理型権力だと思います。 すなわち、社会の生理化がこの短絡を起こしている。 もっと具体的にいえば、高度情報化社会によって、欲望が加速する (満たされる速度が上昇する)と、対象aは欲望の対象であり、また原因なのですから、 さらに欲望が増幅するわけです。 このときに、逆に欲望が欲求化しているように見えるということだと思います。 まあ、もともとコジェーブの動物化はかなりいい加減な概念ですからね。 そのはじめから、この短絡が起こっているとすれば、 東の動物化概念そのものに、この短絡が織り込み済みと見れれますが。 それでも東は、動物=欲求にこだわっていますね。
欲望が加速する=対象aが有形物から無形物(知識、情報)に移るときに、 必然的に象徴界は活性化され、いままでの静的な秩序を維持できなくなります。 そこときに、共有される次元が、現実界に近づく。 これが東のアーキテクチャーによる管理、環境管理型権力ということで、 筋書きです。これは動物化よりも、説得力があると思います。
少しずつでも、田原さんの意見拝聴したいですね。 「非人称的な超人化」とは面白いですね。また、「非人称的な動物化」 との差異を教えてください。 私も田原さんと同じくスピノザの「エチカ」に興味があります。 途中まで読んで止めましたが、いつか又読もうと思っています。 ライプニッツ「モナドロジー」については読みましたが、予定調和ですか 布置と言う概念が構造主義に影響を与えているのかなと言うくらいの理解度ですね。 今 ジジェクを読んでいます。「身体亡き器官」と言うドゥルーズの「器官亡き身体」 をパロディ化したものでしょうか?その後はどうするか未定ですが もっと古典を熟読しようかなとも思っています。 あるいは、ガタリの本を読んで、ドゥルーズの概念の発想を学ぼうかとも思っています。 地政学的なところも面白いですから。 それでは、今日はこの辺で失礼致します。
>>312 >まあ、もともとコジェーブの動物化はかなりいい加減な概念ですからね。
はじめてあなたに同意。
加えて、東は非人称的な動物化と非人称的な超人化、どっちが楽しいのか正直わから
ないんでしょう。そのわからなさを表明しているところは人間的には素直でいいと
思うところもあるのですが、それをそのまま、現代の批評家は非人称的な動物化と
非人称的な超人化、どちらも解らなくてはいかん、そして俺は両方解っているんだ、
偉いだろう、というwのに流用しているふしがあり、私はあまり好きにはなれません。
>田原総一郎 ひさしぶりに、まともなコテですね。 知識に偏りが少ないし、文章がわかりやすい。 >そこから意見が違うのは、有機体と自己組織化は対立するということです。 >勉強不足のためどうしても詩的な表現になってしまうのですが、いわゆる機械論的思考 >の不徹底さによってこぼれ落ちるものの肯定(反形而上学)をヘーゲルが有機体的思考に >よってなしたとするならば、ドゥルーズは不徹底な機械論的思考を徹底することにより、 >こぼれ落ちるものの肯定をしたともいえる。 言いたいことはわかりますが、 ここで有機体と自己組織化は、同じ流れにあります。 英語でいえば、オーガナイゼーションですね。 ヘーゲルとドゥルーズの差はシステム論=有機体論の高度化と見る方がよいと思います。
そうですね。表現=タームの違いによって、同じ事を言っている 可能性もありそうですが、ヘーゲルは反形而上学と捉えると ドゥルーズのヘーゲル嫌いが消えうせそうですけど。 今日はもう寝ますので今後とも宜しくお願いします。 ぴかぁ〜はもっと正確に書くように・・
>>314 ドゥルーズによる最大の哲学史のディコンストラクトはスピノザとライプニッツ
の読み直し、気取って言えば「変奏」ですからね。でも私もドゥルーズによる
スピノザとライプニッツの最大の読み直しはこれだ!とすぱっと書くほど勉強
してないので、ピエール・マシュレなども参考にしながらまったり勉強するつもり
です。またよろしく。
>>317 きみの文は、知識に偏りがありすぎて、よくわからん、
というか、自分の立ち位置がないから、軽いんだろう(w
320 :
考える名無しさん :04/12/30 12:43:20
(ぶっちゃけ)稚拙ではあるのでしょうが、 CsOを私は、王の身体だと思っています。 神々の名(壺)の基へと臓器を預けて折り、 それ自身としては帯のようなコードに身体を 取巻かれる図(ミイラですが)を思い描きます。
322 :
考える名無しさん :05/01/08 10:41:04
ほう。 てことは、それは「超コードの身体」ですから 「器官亡き身体」ではない気がするのう。
323 :
考える名無しさん :05/01/08 14:08:43
野家さんは知らんが、ジャーゴンなき哲学は如何にその論理を証明したといえるのか が不明である。つまり、正しいと考える「概念」がどうして正しいと言い得るか の証明がなされていないのではないか。
324 :
考える名無しさん :05/01/08 14:20:14
彼らは一体何を持ってジャーゴン・ジャーゴンと騒ぐのであろうか。 つまり、複雑な概念を理解できないので、ソーカルの背中に乗って騒いでおるに 過ぎないのだ。
325 :
考える名無しさん :05/01/22 20:05:39
2チャンの哲版では、ソーカルは一種の宗教的様相を呈して ポスト・モダンを理解できない者を集めた巣窟と化した。 ソーカルは独自で、出鱈目の文章を作成し、ポスト・モダンに係る 賞を得た。同時に彼は、自分の専門分野である、物理学で 功績がある。勿論前者が彼の創作(偽りの作り話)である事を 事後的に告白し、ポストモダンを罵倒した。 そこでだ、果たして彼は本当にポストモダンを罵倒しえたのか。 あるいは、彼が罵倒したポストモダンの論文を書くときに 彼は創作(自分では出鱈目に書いたと言う)したのであり これこそモダンを超え出る行為ではなかったかと言う点が疑問として残るのだ。
326 :
考える名無しさん :05/01/22 20:13:18
物理学にあっては、決して創作が自由にできる事は無い。 例えば、一つの論理=数式 は現実世界に適応されて 矛盾なく適応されねば、その論理は認知されないだろう。 一方、ポストモダンにあっては、認知=適応性の証明が 物理学ほどに明確になされるわけではない。 とは言っても、出鱈目である事は無い。一方が物質世界の 根ざした対象を持っているのに対して、片方は人文を対象とする つまり、人間世界のありようを分析するのを本業としている。 この差の中に、ソーカル乱入したのである。しかも、ルアーと言う 造作文書を人文側に投げ入れ、まんまとトロフィーを釣り上げたのだ。
327 :
考える名無しさん :05/01/22 20:25:25
このような理工対人文の摩擦は他にもある。 それは、先日来 当哲版を騒がせていた、「認知科学(脳内物質)決定論(クオリア) 対自由」の対決でもある。果たして物理学=科学の言う様に、我々は 全てを、分析でき、ラプラスの言う「ある一瞬において人体を構成する 分子ないしは原子の位置と、人体に影響を及ぼしうる宇宙の全原子の 位置と運動がわかれば、我々はこの身体が属している人の過去・現在・ 未来の行動を間違いなく的確に計算する事が出来るだろう。」(市川浩・ベルグソン参照) と言えるのか?
328 :
考える名無しさん :05/01/22 20:36:26
このラプラスの問題は、質感と言われるクオリア説によって 本当に証明されるのであろうか? 脳内物質は我々人間の感情を確定し、脳の構造は人間の認識能力の 限界を示し、その事を科学的に実験・分析する事で、我々人間は、人間在り様と 人間の認識の予測がある程度可能になるのかもしれない。 そこで、認識と対象と言う二項対立的な無事に解消され、認識はそのまま 脳内物質の実態となりうるのだ。つまり、今まで不可能であった、物自体 と認識と言うカント的な構造が一変する事になる。
329 :
考える名無しさん :05/01/22 20:38:31
クオリアに関する議論って、そういう脳内物理状態への還元論に対する 疑問として出されてるんじゃないの?
330 :
考える名無しさん :05/01/22 20:45:52
それは、旧来より分析され、哲学上の大問題となっていた 主体と客体の問題が、無反応な物体を対象とした事で、解釈が解釈を生み 数式が数式に取って代わられたためである。無反応な物体が何であるか その反応を調べるには、無限の宇宙空間に存在する物質全てを熟知せねば ならないからだろう。そう言うことは不可能である。 ところが、認知科学には人間の脳内物質やその反応から生まれる、クオリア (質感)をモチーフとしている。よって、人の反応と脳内物質の相対的関係 が明確になれば、それは、ある程度の確立で予測可能となる。 つまり、主(実験者)と客(実験対象)とが一つの物質(身体)である事 において、主客の分離の不安は取り除かれるのである。
331 :
考える名無しさん :05/01/22 20:47:26
329 自説記入ねがいます。 俺は、自然哲学ではないので、書いてくれ。
あんたも自説を記入したら?入門書並みの知識を並べないで。
333 :
考える名無しさん :05/01/22 20:57:03
ところで、このクオリアがどのようにしてニューロンと言う物資から 発生するのかと言う問題について、これは、デカルトの「松果腺」や 「動物精気」説と同じ問題だと言えよう。 そこには、メカニカルな人的構造は判明したとしても、その動きが 何によるのかが、判然としないのである。ニューロンという物質から 精神的なもの感情がいかに生まれるのか?この、物質から精神への 橋渡しは上手く説明されていないのが実態ではないだろうか。
334 :
考える名無しさん :05/01/22 20:58:57
332入門的レヴェルならば、君の上級的な意見を書いてくれ。 俺は君の言う入門的レヴェルの意見しか書けない。 お手並み拝見です。煽りではないよな。
335 :
考える名無しさん :05/01/22 21:03:22
自説を書きたいのだが、俺には「クオリア」って言うのが何のことだか、 よく分からないんだよ。
入門書に書かれていることをまとめればそれが自説なのかい?w
君の自説はお気楽でいいね
338 :
考える名無しさん :05/01/22 21:08:44
例えば、質感と言う定義は、赤い光が目に刺激を与え、赤いものと言う 質感が脳に発生するとしても、それは、実際に赤い光が外の世界に あり、そのあったものが身体に認識されるとしても、それが外にあった「赤」 と言いうるかどうかと言う、依然としてカント的な「物自体」と言う 問題の解決には至っていないのではないか。 あくまでこの物体(身体)がこの外的物質(赤)をどのようにキャッチしたか と言う問題である事に変わりは無いのである。 身体の器官から取り入れた外的情報(刺激)を脳内がいかに反応するかを 臨床実験的に分析したに過ぎないのではないかと言う事である。
339 :
考える名無しさん :05/01/22 21:10:29
本の丸写しと思う。僕のレヴェルを知らん脳・・ 335ネットで検索すれば分かる。
>ネットで検索 藁w
341 :
考える名無しさん :05/01/22 21:20:24
例えば、ここでは、フサールの志向性を竹田先生的に説明すると、 ある鉄格子のオリがあるとしよう。そこに2人の人間が閉じ込められている としよう。この時に、このオリが意味するものは、鉄格子の幅とこの2人の 人間の身体の幅の相対的な関係である。 このことこそ、このオリの意味であり、物理的なこの幅が何センチかと言う 問題ではないのだ。つまり、外的な刺激はその器(器官)には意味意味としてしか 表せないのである。この器は長い人間の歴史で、齎されたものであり、 この生物が生きていくために必要であった器官であり、これをかいして 人間と言う生物は生命を営むと言う事だろう。
342 :
考える名無しさん :05/01/22 21:24:34
つまり、外的な客観的な赤い光存在すると言う証明は永遠に出来ないと言う事だ。 この生物が身に付けた器官に依存して世界は開かれると言う、ユキュスル 的・ハイデガー的モチーフを超えられないのではないかと言うのが 私の意見である。
>フサールの志向性を竹田先生的に説明すると 違う。竹田著「現象学入門」から引いて説明しよう。 ────────────────── 1 <知覚>は知覚事物(机)をけっして一挙に全体として与えることはない。 <知覚>はつねに知覚事物のある一面を、つぎつぎに異なった相で与える だけだ(これは「射映」と呼ばれる)。 2 意識には、事象の知覚は必ず「射映」というかたちでのみ与えられるが、 それにもかかわらず意識はこれを、同一の事物(机)の知覚として受けとっている。 論理上わたしたちは、<知覚>は微妙な違いをもった射映の連続として 与えられるのに、なぜ同一の机を見ているという確信が生じるのか、と 問うことができるわけだ。 ───────引用終わり────── 現実に机を見るといつもそれは机の一部分でしかないが、 認識する上でその「机全体」「ひとつの机」を見ているという 確信を抱く。このさまざまな<知覚>を瞬時に統一して 「ここにひとつ机がある」というドクサを作るはたらきが志向性(統一)。 幅の相対的な関係とかではない。
多読はいいけど、一冊一冊ちゃんと読んだほうがいいよ、ぴか。
こんばんは、田原です(なんかこのキャラ飽きてきたなw)。名無しで書いてるのは パレルゴンさんですね。ドゥルーズによるスピノザ−ライプニッツ解釈についての 理解はなかなか進みません。やっぱ難解ですわw。なのでこの数レスにレスします。 「客観的な−赤い光」が存在するか否かという問題設定が間違っているのではないか。 カント的にいえば「赤い光」というのはすでに総合判断ですから、その妥当性は、感性、 悟性、構想力の総合において成立するものである。同時にそれは主客分裂を前提にし、 物自体を不可知のものとして残すカント的思考のもとでのみ成立する妥当性である。 よって、物自体=客観物=科学によって捉えられる「物」、と考える無思想な科学主義者 を批判するにはそれでよいのだが、哲学的にはそこには依然として問題が残りつづける。 パレルゴンさんの好きな浅田彰の整理で言えば、1 物自体を彼岸に残す(つまりは無視する) 観念論の現代的形態である構造主義。2 向他有をすべて捨象した自体有という単なる思惟の 抽象物は絶対知の中で解消されるという観念論的弁証法。3 物自体を「加工する手に確かな 抵抗感を伝えてくるような真の意味でのマテリアル」と捉える唯物論。この三つがちょっと ごっちゃになっている議論に思えます。昨今の科学、特に脳科学などはこのうちの3の視点で 捉え直すことが最も生産的だと思います。パレルゴンさんの場合、思考を産出する脳の科学的 「定義」はマテリアルそのものの定義ではなくつねにすでにアプリオリな構造に媒介されている のだから・・・という理由で1に戻ってしまうきらいがあると感じます。そうではなく、 終わらない唯物弁証法を哲学から脳科学に導入することと、現在、最も活発である脳科学という 分野の知見を哲学に導入すること(真の意味でのマテリアルとしての脳、神経系の研究)。この両者 に私は新しい思考の可能性を感じています。
346 :
考える名無しさん :05/01/23 00:51:48
構造主義って新しい形の運命論なの?
>>346 構造主義は決して運命論や決定論ではなく、ただ、アプリオリな認識形式(構造)を
絶対不変なものとして見る、もしくはアプリオリな存在形式(構造)を絶対不変なもの
として見るもの。粗く言えば、前者はカントと基本的に変わらない。当為、実践の
領域は構造によって捕らわれず、その彼岸として残す。後者はハイデガーかな?
ハイデガーには詳しくないのでパス。
カントの道徳律、もしくは構造主義の道徳律?への批判はそれが非歴史的、非現実的
な抽象的個人にしか通用しない抽象的道徳律であるという批判あり。例えば、男と女、
金持ちと貧乏人、先進国の市民と後進国の住人、などに同じ抽象的道徳律は成立しない
と考えるのが普通だと思う。抽象的で普遍な万人の道徳律が具体的な単独者を抑圧する
という側面が残る。そこでヘーゲルは家族−市民社会−国家という歴史、現実を内包
した有機的トリアーデにより、具体的で普遍な道徳律が顕現するとした。続いてマルクス
はその有機的トリアーデもさらに弁証法的発展により崩壊し共産主義に移行、人間社会の
前史は終わると主張。さらにドゥルーズはボルシェビズムによるモル的階級闘争ではなく、
階級闘争=分子的戦争機械と捉え直す。しかしながら、どの思想にも運命論、決定論という
ものは忍び込む可能性があり、ドゥルージアンを気取りつつ、いざ事が起これば単にアトム
的個人の抽象的道徳律に逃げ込むという先進国知識人のダブルスタンダードについては
サイード、スピヴァクらの痛烈な批判がある。
>>347 >非歴史的、非現実的
>な抽象的個人にしか通用しない抽象的道徳律であるという批判
要するに、欲望を理性で完全にコントロール出来ているような人にしか
通じないような道徳律なんだよね。カントの奴は。
「よく考えた上で、良いと思ったことを成せ」だもの。
349 :
考える名無しさん :05/01/23 09:37:15
そうですね。相変わらず鮮明な分析感服いたします。 哲学とは個々のアプローチのあり方に大きく影響されると言う事ですね。 私にとっては、物自体を超え出る方法は見当たりません。 例えば、外の世界のある物体(石)にしても、それが何であるのか 科学的な分析によって、答えられるような気がします。 ところが、既に何度も述べているのですが、我々は外的な情報を偶然に取得した 器官に全面的に依存しています。同時に第二の関門ですが、こうして入手した情報は カントの言うような、アプリオリな悟性範疇と言う共通の認識格子が存在し、それを 通して、共通の認識が出来上がると言う事も証明できないのではないかとの考えです。
350 :
考える名無しさん :05/01/23 09:44:54
それは、多様な民族の社会構造が証明してくれました。(レヴィ=ストロース) つまり、私のスタンスから見るとき、構造主義とは、この悟性の範疇が民族の思考 の中で、恣意的なルールとして置き換えられ、現れたと解する事になります。 ルールは悟性の範疇ではなく、恣意的な体系によって決まると言う事です。 このような視点から見るとき、果たして脳内物質=クオリアの決定論が 恣意体系=構造主義的な呪縛からいかに逃れえたのかと言う事ができるのか 私には不明なのです。
351 :
考える名無しさん :05/01/23 09:54:26
例えば、脳内物質論が正しいとして、それでは、脳内物質の研究は、 実は脳内物質が行っていると言う「自己言及」をいかに超え出るのか と言う問題にどのように答えたのか、よく分からないのです。 この問題は構造主義・ポスト・構造主義のテーマでした。 (クリプキのクワス論・ラカンの大文字のAなど) この点をいかに超え出るのかが、このスレッドのタイトルです。 つまり、DNA配列の研究によって、人間の物体としての青写真は 入手できるでしょう。以前から考えていた事ですが、しかし、 こう言う研究は実は我々の恣意的器官によって、入手されたデータに 依存しています。この恣意性と研究によって見出される客観的な DNAとはどの様な関係にあるのか、疑問です。
352 :
考える名無しさん :05/01/23 10:04:23
つまり、こう言う点を延長・拡大して行くと、経験論的になっていかざるを えません。つまり、外界の連続するデータを恣意的な人間器官が観念連合し 辻褄を合わせると言う事で、「恣意的論理が生まれる。」つまり、作り話だと言う事です。 仮に、科学がそれ自体の論理によって、外界をそれ自体として(物自体) 認識出来ないとするならば、脳内物質=クオリアとは客観的なものではなく 経験論的に脳内のある物質が人間の質感に影響を与えていると考えると辻褄が合う と言うくらいの事しか言えないと言う事です。
353 :
考える名無しさん :05/01/23 10:14:33
このような人間存在の恣意性は、我々がこの様な 器官をもち、このような社会にいると言う、全てを自作すると言う 可能性に見捨てられ、偶然性に縛られていると言う事です。 恣意的・偶然性に(神の悪戯)によって この五感を与えられて、この肉体に投げ込まれていると言う、遅れてあること に起因する気がします。つまり、意図する事の彼岸と言う事です。 この彼岸こそ、逆に多様性の可能性としてあるのです。つまり、無限遠点の 頂点としての神の視座にいつもヅラされてある人間存在は実存的にあるしかない。 こう言うテーマに私は今いると思います。
354 :
考える名無しさん :05/01/23 10:24:23
少し、私のテーマから見たタームで繋ぎましたが、 私は、今、ジジェクを中心にして、スレッドのテーマに沿って ポスト・構造主義をいかに超え出るかの研究を進めています。 おそらくジジェクの「否定的なもののもとへの滞留」にヒントを 見出すでしょう。それでも、全面的な賛同にはなりえません。(笑) 哲学とは人の数だけあると言う事でしょうから。 彼はポスト・構造主義に見られる相対主義をカントの経験論の乗り越え やプラトンのソフィストの乗り越えに類似して、活路を見出そうとしている 気がします。 私は、今、ドゥルーズは一時中断にしていますけどね。
パレやん、メタメタやがな
>>355 大丈夫か茂木ちゃん
先走りすぎじゃないか?
無関係な俺が心配することじゃないけどさ
358 :
考える名無しさん :05/01/24 02:59:26
>>352 つまり、外界の連続するデータを恣意的な人間器官が観念連合し
辻褄を合わせると言う事で、「恣意的論理が生まれる。」つまり、作り話だと言う事です。
煽るつもりはないが、ちゃんと科学哲学を少しでもかじったうえで言っているんだよね?
入門書とか概説を読んで得た単語を、意味も分からず並べてるだけ。 パレルゴンはいつもそうでしょ
なんでポモ系コテは覚えたての哲学用語を無理に使いたがるわけ? ぴかぁ〜とかパレとか見てたらポモの評判を落としたがってるとしか思えない。
361 :
考える名無しさん :05/01/24 23:06:27
(「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台君や、そのたの、マーダ、ポストモダンを,言っている人たちがいるようですが、残念ながら、もう、世界規模では、捨てられた思想です。 37歳ぐらいからうえが、感染している病気ですね。 東なんとか君の本など、どうせ、何を、いいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは、「読者に、わけが分かるようには、」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの、(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの、「新カント学派」の、影響で、 とにかく、訳が分からないように書く。読者より、自分が、頭がよいように思わせるように書く。これが、この手の人たちの、本性です。 愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。室町・鎌倉期の五山の、僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、坊主(僧)だったのに、密かに、朱子学(南宋学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今の、おフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも、一番頭のいい、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の、衒学趣味ではなく、本気で、どうやったら、 アメリカの支配から、脱出できるのか、を、国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、考えていたのです。 フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
「ソーカル問題」より日本にとって切実なのは「黒木玄問題」かもしれない。 「黒木玄問題」とは: 日本の大学教師の人事では実力による評価が行われず、公正な競争も無い。 (理系より、評価の難しい文系の方が顕著) 大学人がやる気を無くして、ボスの機嫌取りだけを気にするように成り易い風土である。 そのため、国立大学の設備コンピュータHPなどを、本来の研究成果の発表などに使わず、趣味に使っている例がかなりある。 「黒木玄」の場合はネット上なので公になったが、「小人閑居して」 趣味にばかり走るだけでなく、セクハラなどに走る大学教師もいるだろう。 このような問題を「黒木玄」が象徴している。
365 :
考える名無しさん :05/01/26 18:45:00
黒木が問題になるのなら、論文はおろか講義もやっているかどうかよくわからん 浅田さんはどうなるのかと
366 :
考える名無しさん :05/01/26 20:27:36
授業はうまいらしいよ。
368 :
考える名無しさん :05/02/03 00:22:52
構造主義の構造、っていう言葉は具体的にどういう概念なのかいまだにわからん・・・ 具体例とかで誰か教えてくれませんか・・・
だから、フレームとか文法が「構造」なんでしょ? 日本語、2ch、哲板 は、それぞれ「構造」でしょう?
>>368 大ざっぱにいうと、ピープル2号さんのご指摘にもあるように
>>369 例えば文法のように、話者が意識しないでその規則にしたがっているものが構造だね。
日本語を母語とする日本人は日本語の文法知識がなくても日本語を喋れる、というように。
レヴェ=ストロースの「構造」概念にはブルバキの影響があるといわれるので、
数学的な概念から演繹してつくられた観察モデルとかいわれるんだけど。
>>368 変換規則といわれたりするね。
歴史は変化するものだけど、その歴史的変化を無意識に規定しているような
比較的変化しない規則というのを背後に想定して、それが構造概念になる。
>>368 レヴェ=ストロース自身が書いた構造人類学の著書を読むといいよ。
生物でいうと遺伝子?
春から放送大学で現代思想の授業が始まるね。
>>374 遺伝子も確かに構造概念で説明できないこともないね。DNAは構造だから。
>>371 「文法」と言ってしまうとやや語弊があるようにも思うんだけどね。
文法は「体系(システム)」であって「構造」ではない、というふうに主張する
構造論者もいるからね。その場合、機能構造学派は、システム論者であって
構造論者ではないと言われたりもする。
378 :
考える名無しさん :05/02/18 23:24:26
私も、ジジェクの罠に嵌ったまま身動きが取れません。 もう少し彼に付き合って、構造主義批判を進めてみようかと思っています。 つまり、主体化すると言う「原抑圧」=父親のノン 以前に 既に彼は明らかに 主体を見出そうとしているのではないでしょうか。 つまり、主体化以前に何かわからないものを見出すと、何かわからないもの に遅れをとってしまうからです。このことは、全ては、何かに前提されてあると言う事で 人間を把握できない物にしてしまうからです。 「私はあったのだ」私以前はないこと。このことで、類似の問題であるビッグバン についても、それより以前を消滅させる事が出来ると言うことでしょう。 無限は掌握された、このことで、定立不能と言う、ズラシは消え去ると言う事。 そう言う風に考えうるのだろうか。そのようにして、ジジェクは超えようとしたと。 ジジェクはポストモダンのタームを紡ぎながら、明らかに脱出する カントからヘーゲルへ向かって・・・
379 :
考える名無しさん :05/02/18 23:36:50
身体亡き器官=部分欲動 器官亡き身体がエコノミー(器官のインテグレート)を否定したのとは反対に 身体亡き器官は器官が先行する。つまり、器官はすでにあるのだ。 機能するものがツルー状態としてある。これは、局所的な組織かなのだろうか。 未組織な組織が、我々の身体以前にある事。意識の前に組織=器官が 既にある。この事でかれは、身体性の偶然性の未組織を組織化することに シフトする。てか?
380 :
考える名無しさん :05/02/18 23:45:43
彼は、まさに、ドウルーズに忠実に論点を進めていく。映画=ヒッチコック への傾注。あるいは小説をテーマに据える。 哲学的なテーマは常に文学的なテーマに変化する。 全ては、芸術の中での検証が必要であるかのようだ。 全ては引用と痕跡とを実際の経験の中で見出すしかないかの様に。 すでては、論理的な未経験な世界を論理的に形式的に言い表わすのではない。 全ては、参照である。全ては、経験される中に参照されるのだ。 こう言う点はまさに、ポスト・モダンの残滓である。 そう言う類似のスタイルを持ちながらも、決して同じ所にあるのではない。 彼は脱皮しているのだ。ヘーゲルに向かって。 賛成できんがな・・・
381 :
考える名無しさん :05/02/18 23:55:30
私にとって、ヒッチコックはどうでもいいことだ。 それよりも、映画は我々に、論理的な分析にない見方を垣間見させるのだ。 つまり、素振り・眼差しと言う、フレーム・背景・コンテクスト を探りながら、見えるものに接近する。それは、見る者毎に異なる 視点を与えるのだ。
382 :
考える名無しさん :05/02/19 08:02:44
そしてジジェクは、カメラの視点が、主人公でもないあるいは映画に出ている者でもない Xの視点を露にする。それは、こぼれ落ちたものものである。 つまり、丹生谷の言ったように、俳優が持っている癖を、意図しない中に 映し出す事。クリントイーストウッドの走り方は、明らかにダーティ・ハリー のそれではない。ハリーがむしろ意図されないクリントイースト・ウッド の性癖に蝕まれているのだ。こぼれ落ちるもの、それは、意図からの離脱であり 無意識からの小文字のaのかけらと言えないだろうか。
383 :
考える名無しさん :05/02/19 08:21:39
彼はラカン主義者である。ラカンの言う(バッテン)SとS1 によって、彼は象徴界に重きを置いているのだ。 その事によって、ラカンをポスト・モダンから救い出す。 彼は、バッテンS以降を重視する。 このバッテン以前に事を起こすと、ポスト・モダンの泥沼に入る のを、知り尽くしているからだろう。 或意味では、無視するかのように、避けて通っているのだ。 そして、主体の開いた亀裂(ばってんS空間とでも言う)が トートロジーに陥ると、そこには主体としての可能性 を持ち込むかのようである。トートロジーとは、自己言及 であり、我の可能性として開かれる空なのである。 つまり、デカルト的に我を定立するかのように、いや、 それを隠すかのようにヘーゲルの差異を持ち込み、主体化と 今だ主体化しない物の吸収をもって、拡大する定立を行っているのだろう。 あくまで、差異は回収されるそう言うスタイルなのだ。
なんだこりゃ?高橋悠冶の詩かw
人間自分に必要な情報かどうかは眠くなるかどうかで区別できる。 便利なもんだ
構造とかシステムなどといわれるのは、起源を忘れられた社会構造のことだ。 深層とか暗黙などといっても、ことの始まりにおいては極めて意識的なもので あったに違いあるまい。
>>386 そういう発生論的な考え方を否定したところに構造主義の神髄があったんだよ。
「つねにすでに」という言葉はもはや紋切り型だけどもw、いまさら「最初の一撃」
的なものを持ってくるのはナイーブすぎる。原抑圧にしろ本源的蓄積にしろ、
あくまで「つねにすでに」から遡行することによって「発見」されるものと考えられる
べきでしょう。
>>387 > そういう発生論的な考え方を否定したところに構造主義の神髄があったんだよ。
その言い方は微妙だな。発生論的というよりは進化論的史観だよね。
389 :
考える名無しさん :05/03/18 23:49:07
構造主義はやはり「既にあった。」のですよ。 私の意識が如何なる構造を選択する、あるいは、設定する 事なく、その以前から、私の意識せざるまえに、私に 取り付いていたと言う事。これが、構造主義の前提であり 尚且つ、この構造と言われる(言語・社会規範)に私は 抑圧によって参加させられたのであろうね。
でも構造主義には構造が「既にあった」ことの証明が足りないということもこれまた 確かですよね。構造主義は構造自体の説明は数学を使ってものすごく緻密にやるのだが、 カントのアプリオリズムのようにポンッと「構造ありき」ということを出してくるだけで、 >その以前から、私の意識せざるまえに、私に取り付いていた この部分の説明がない。意識の成立と構造の成立は同時不可分であるというのならまだ 話はわかるのだが。
つづき >この構造と言われる(言語・社会規範)に私は抑圧によって参加させられたのであろうね。 だから、〜であろう、という仮説的な言葉しか出てこないのではないか。現抑圧という 仮説、本源的蓄積という仮説・・・
392 :
考える名無しさん :05/03/19 00:13:22
構造主義のつまらなさはそこだね。 構造は絶えず改変される。まさに朝令暮改である。言語も勿論そうだ。 最初の一撃というよりも細かい変化の集積であり、また、ある時期には ドラスティックな変化も生ずるわけで、それが革命とか維新だったりする。
でも現在のポスト構造主義、ポトコロニアル思想系の思想家はそういう細かい変化 をいかに見逃さないかの合戦になっていて、それもまた瑣末でつまらないような気もする けどね。サブカルに媚びたりさ。そういうのにもあんまり未来はない気がする。
394 :
考える名無しさん :05/03/19 00:28:20
>>393 細かい変化から大きな潮流を見ないなら余り意味はないね。
>>389 構造主義において、構造が「既にあった」というのは
>>386 とはなんら矛盾しないように思うんだけど。
構造ったって、ある時期のtypicalなモデルってだけだろう。
広義の意、狭義の意、ジャンル、学派により構造主義という言葉は非常に広い領域を指し 示す言葉であるが、例えばレヴィ=ストロースの思考法を例に取ってみると、彼はまず、 「人間社会には近代・未開を問わずになんらかのインセストタブーが存在する」という 経験的事実から出発する。そして、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプ・・・という個別的 インセストタブーから普遍的なnタイプの構造を見い出す。ここで重要なのは、不変構 造nが見い出されるのは、あくまで「経験的事実」と共同体間の財(女性)の交換という 「目的」が前提されている場合のみということである。
仮にも学術的に何かを論じる際には、使用される用語は厳密に定義され、 正当性/客観性の立場から吟味されなければならないのは当然の話。 「そういう些末なことをつついてくるばかりで」云々という「逃げ」は通用しない。 それとも人文系の人間にはそういう配慮が欠けているのが普通なのだろうか? これは学問に限らずメディアで何かを述べる人間は身に付けておくべきデリカシーなわけで
399 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 22:06:10
329 そう、だから、ポスト・モダンは構造主義批判だったのですよ。
400 :
ローカルルール審議中 :皇紀2665/04/01(金) 22:11:58
静態的な構造は動態的な構造運動に置き換えられる。 ただし、簡単ではない。なぜならば、構造内にいる者にとって 全ての基準が、構造の思考形態に影響されているからだ。 だから、いかに脱構築するかがデリダの中心的な課題だったのである。
構造主義者にいわせれば、多くの構造主義批判は構造を体系(システム)と誤解 しているのだと。静態的構造とは体系であるに過ぎず、「見える体系」内の記号分析 に終始し、「見えない構造」のダイナミズムを捉えていないのだとか。
ソシュールの有名な波のイメージ図。ラカンが波動に似たイメージだとエクリで言っているもの。 それが(言語)構造のイメージだね。
日本でのブームから20年、結局何の進歩もないのか。
知的ブームとして消費されるだけの風潮には当時から批判があった。 当時最もニューアカ批判をしていたのが現代思想系の人たち。
405 :
あいうえお :2005/04/02(土) 14:44:16
構造とは体系ではなく、見えない構造である。 と言う事は、言語構造は構造でしょう。 それと、思考パターン、習慣、作法、優劣のつけ方、これら全て 差異化された体系は全て構造と言う事でええんでないかい?
406 :
ローカルルール審議中 :2005/04/07(木) 22:04:26
>>407 何故か最近文字化けして読めない。
ブラウザの文字エンコードの解釈変えても無駄だから
データが壊れてる予感。
何かゴミが付いてるっぽい。
409 :
406 :2005/04/09(土) 01:33:26
>>407 ありがとうございます。
こういうのがあるとは知りませんでした。
>>408 うちは標準のIEですが、1〜1001まで読めましたよ。
すごく時間がかかったり、途中までしか読み込めなかったり
することはありましたが、最終的には問題ありませんでした。
>>409 経由してるサーバの問題なのかもしれないけど、
元データが壊れてるとしたら
Win IEだと読めちゃう状態なのかも。
だとしたら誰も壊れてると思わないよね。
にくちゃんねるってあるんだ
412 :
考える名無しさん :2005/05/17(火) 18:15:51
ポスモダどもへ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1116175495/ 1 名前:人文男 2005/05/16(月) 01:44:55
>ポスモダどもへ
もうおまいらには愛想がつきた。
ただでさえ大学改革の時期で人文系は予算もポストも学術誌の誌面も削られそうで頭痛いのに
さらに他分野からの信頼失うような恥さらしやがって。
世間様はポスモダでない人文系も一括して「これだから人文系は・・・」としか見てくれないんだぞ。
この責任どうしてくれる?
これで人文系全体のパイが減って俺がアカポスつけなかったらおまえらのせいだからな。
科学哲学の連中も、科学哲学ってだけでポスモダ相対主義者って思われるって怒ってたぞ。
実際の科学哲学系の連中はポスモダ嫌いが多いのにさ。
哲板の科学哲学スレ行って謝ってこいよ。
>自然科学系/社会科学系/教育行政担当者さんへ
頼むからポスモダと人文系全体を一緒にしないでください。
少なくとも私は非ポスモダの人文系です。
ポスモダ連中の処理は、そうですねえ、首都大学東京にでも一括して送り込んで、
「都市ポストモダン学部」でも開設したらどうでしょう?
413 :
質問です :2005/05/18(水) 02:25:29
ポストモダン系の人たちは80年代の日本を「高度資本主義」などと買いかぶりし過ぎていたのではありませんか?つまり基本的なデータが間違っていたんじゃありませんか?
414 :
考える名無しさん :2005/05/18(水) 02:34:55
日本人てのはいつも大げさな自己定義をする民族だってこと。 戦前の「近代の超克」と同じよ。 高度資本主義なんて西武デパートや大手広告業界の社員の自意識の中にしか なかったのさ。 あとの99.9パーセントは法人資本主義一直線だったよ。
「高度資本主義」ってなに?
416 :
質問です :2005/05/19(木) 00:38:27
スタティックじゃない哲学的記述方法などあるのですか?またあるならばどんなスタイルになりますか?
417 :
考える名無しさん :2005/05/19(木) 01:16:13
記録され得るものが全てスタティックというならどんな記述も駄目だね。
だから「高度資本主義」ってなにさ それをはっきりさせなきゃ、その有無を判断しようがない。
419 :
考える名無しさん :2005/05/19(木) 03:24:50
80年代の書物や雑誌にはポストモダンという言葉と共に高度資本主義という言葉がセットのように出てきていました。今思えば単に消費レベルが上がっただけのような感じがします。言いたい事は記号消費による抵抗という戦略は余りに無力だったという事です
420 :
考える名無しさん :2005/06/27(月) 06:18:32
はたしてそうかな?
421 :
考える名無しさん :2005/07/30(土) 21:23:13
『マトリックスの哲学』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4893678728/250-7157747-4979408 ポストモダンちっくな映画批評というのは、もうホントにワンパターンな
ことしかできないのを如実に示しているトホホな本。映画「マトリックス」
をネタに空論学者が議論をしているのだけれど、それがもう泣きたいくらい
ありきたり。
フェミニズム学者は、後頭部にプラグを差し込む行為に性的な深読みを
してみせるし、文化相対主義者は、すべてはシミュレーションかもしれない、
というのを嬉しそうに言うだけ。その他、予想がつく議論がまるっきり予想
のつく形で展開されるだけの無力な本。映画そのもののおもしろさや可能性
を踏み越える論文(というよりただのエッセイ)は一本もない。
422 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 22:00:42
日本の現代思想の紹介本の中にはやたらとヘーゲルを悪者に 仕立て上げる本が多かったのですが、あれはなんでなんでしょ? マルクス主義の影響でしょうなの?もっともらしい理由が書いてあったのを 見たことはないし、未だに謎です。
423 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 22:07:10
全体主義に思想的基盤を与えたとして非難される 代表的な人物は、ルソー、ヘーゲル、マルクスなどでしょうか。
424 :
考える名無しさん :2005/08/10(水) 22:29:57
戦後インテリはそもそも全体主義のどこが悪いのかを徹底的に論じていない。(私は全体主義者ではないが)
425 :
考える名無しさん :2005/08/11(木) 00:04:16
>>424 そもそも負けた戦争にもちゃんとした意義があったって本音を
言えないような世論が形成されてたからねえ。本音をしばらく口にしないと、
何が本音なのか分らなくなるし。
それはさておき、ポモの人たちが好きそうなスピノザだって全体主義的と取られかねない
ことは言ってた。4部のどこかの、徳に関するところで。詳しくは忘れたけど。
○○が全体主義的だからとか言って、そこで切り捨てることの意味が分らんとです。
426 :
考える名無しさん :2005/08/11(木) 00:18:26
私たちは、民主党の ∩∩ 『国家主権の移譲』 政策を支持します! ∩ (7ヌ) (/ / / / ∧_∧ || / / ∧_∧ ∧_∧ _<ヽ`∀´> ∧_∧ || \ \( `ハ´)―- < `∀´ > ̄ ⌒ヽ(@∀@ ) // \ /⌒ ⌒ ̄ヽ北朝鮮 /~⌒ ⌒ / | |ー、 / ̄| //`i 朝日 / | 中国 | | 韓国 / (ミ ミ) | | | | | | / \ | | | | ) / /\ \| ヽ / ノ | / ヽ ヽ、_/) (\ ) ゝ | | | | /
政体における全体主義と哲学における全体性とはそもそもぜんぜん違うもので あって、前者は、外部に征服されるべきものとしての他の集団や国家を悪無限的に 必要とする、実態は相対主義である全体主義。 スピノザやヘーゲルの思考はそういうものには全く縁がなかった。 彼らは、彼岸を認めない絶対的な「この世界」を肯定する全体主義(=絶対主義)。
428 :
考える名無しさん :2005/10/01(土) 19:00:47
レヴィストロースの「野生の思考」って何で文庫にならないの?
429 :
考える名無しさん :2005/10/01(土) 20:31:53
みすず書房の本は、あまり文庫にならないよ。
430 :
考える名無しさん :2005/11/21(月) 22:37:31
構造主義を使った法学者っているの?
431 :
考える名無しさん :2005/12/06(火) 21:15:54
私も期待されているようだね?
だが、哲学板には期待はできないと思うがね?
434 :
考える名無しさん :2005/12/07(水) 04:36:55
あるなしあるなしあるなしあるなし
親族や神話の構造を分析する方法ではなく、ある個人に属する芸である。
436 :
考える名無しさん :2006/02/14(火) 23:36:45
age
ポスト?wwwwwwwwwwww ただのデッドエンドだろうw
仲間内でだけ通じる隠語を使うことで 外部から隔離された自分たちの趣味の世界を 維持しなければならない。 対話など望んではいない。 自らの思想が相対化されてはならないのだ。 対話を成立させたときが夢の終わりだ。
それはむしろ日本のソーカル支持者(黒木、山形)の方だと思われ
ウンコな議論 なのかね?
ウンコな議論だよ。 死ぬまで遊んでればいい
自分の主張を、それを主張する文章自体で実践してしまい 対話不能にしてしまう遊びこそがポストモダンなのだよ?
気の毒
何も言ってないに等しいのだよ?
445 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 15:30:07
残飯もむさぼり切ったことだし、 食べかすを掃除しておけよ。
446 :
考える名無しさん :2006/02/28(火) 15:30:39
のだよ?
おけよ。
448 :
考える名無しさん :2006/03/01(水) 01:06:12
うん そうだね。 掃除
フランスをね そおっと 地中海に 沈めるの 掃除
おい 片付けておけよ そのボロクズを! 掃除
451 :
考える名無しさん :2006/03/11(土) 23:05:51
一向にポスト・構造主義を超えていないよな。 早く超えてくれ。
452 :
考える名無しさん :2006/03/17(金) 19:08:55
ポスコロも行き止まりか。 旧植民地側から影響力のある哲学者・思想家が出て来ないとなぁ
453 :
考える名無しさん :2006/05/16(火) 16:19:40
近 代 超 え ち ゃ っ た と こ ろ で 一 体 何 を ど う す ん だ ろ っ て い つ も 思 い ま す ね 〜www
454 :
考える名無しさん :2006/05/17(水) 00:35:10
また、何らかの形態にコード化されるに決まっているのよん。
455 :
考える名無しさん :2006/05/17(水) 01:37:52
超えるとか超えないとかいう話は構造主義で終しまい。
456 :
考える名無しさん :2006/05/17(水) 04:05:24
独創性の欠如を言語によって補おうとするむなしい試み
457 :
考える名無しさん :2006/05/17(水) 05:35:47
コードという語の意味を知りません
この部屋には河馬しかいません
459 :
考える名無しさん :2006/06/29(木) 22:29:33
↑大きなお世話(笑)
460 :
考える名無しさん :2006/07/01(土) 12:25:14
いんにゃ、頓馬も馬鹿もいまっせ。
コピペ→うぜぇ→転移ですね、ボクへの思い入れが強すぎる→うぜぇ→コピペ ↑ いまここ
462 :
考える名無しさん :2006/08/05(土) 14:09:34
静かだねぇ〜。 ポスト構造主義も。 フーコーもドゥルーズもデリダもレビナスも逝ってしまった。 これで、終わりなのだろうか? これで良いのか。
463 :
考える名無しさん :2006/08/05(土) 16:49:03
まだだ!まだ終らんよ! 思想は流行りすたりではかるものでもあるまいに!
464 :
考える名無しさん :2006/08/05(土) 21:32:14
ルノー&フェリーの「68年の思想」読んだけど、批判されてるポスト構造主義者に魅力を感じてしまったよ。 反−人間主義という響きがまたカッコイイ!! でも日本における「人間」と、フーコーとかが解体しようとしている「人間」ってほとんど逆の意味だね。 だから日本における反−人間主義ってむしろ「近代主義」のことだな。
465 :
考える名無しさん :2006/08/09(水) 00:10:47
ageageago
ポストモダンの問題点は、この渡邊二郎先生のこの言葉に現れているんじゃないか? ちなみに渡邊二郎先生は、実存主義者。 渡辺二郎訳 『イデーン』 訳者あとがき 「昔からもあったことだが、真の哲学的探求を阻む退廃的諸現象も、相変わらずその根を絶っていないのは残念である。 奇矯な言辞を弄し何やら才気走った論評をものにすれば、それでもう一廉の哲学者なりと自他ともに許しうるかに錯覚する軽佻浮薄は、いぜんとして存続しているように思われるし、 また一方、おのが偏狭固陋に固執して、他説を曲解しまたこれに的外れな駁撃を加えてその裏でおのが皮相な立場については都合のいい文献引証に拠ってこれを糊塗する衒学趣味も、やはり依然として幅を利かせているようでもあり、さらに困ったことには、 現今の学問諸領域の流動化と慌ただしい変貌にも眩惑されて、基本的な研究思索や文献精査を等閑に付し、境界的学際的な場面や諸潮流間の迫間に身を置いて、 四分五裂の討議応酬に明け暮れすれば、何やら最先端の哲学に与り得たかに思い込む躁病的狂気が、真の哲学と混同されるという風潮も、時折見受けられる。」
ポストモダン「現象」の問題点についてだろう。 まったくもって表面的。 ポストモダン思想そのものについては何にも言及してない。
468 :
考える名無しさん :2006/08/22(火) 16:01:41
白熱してますね〜、でも話題自体が社会学っぽいけど。
469 :
考える名無しさん :2006/08/23(水) 05:06:16
超える、ポストだって。ポスト主義したら。
民営化されますた
471 :
考える名無しさん :2006/10/18(水) 22:54:14
ぶっちゃけ、ラカンなんて学んでも雑談以外にメリットはない。 若いんなら、そんなもんに貴重な時間を使わないでほしい。 認知科学分野からみたら、ただの与太話にすぎないんだから。 ラカンには制御モデルが無いので、言いっ放しのこじつけ理論モドキ。 それは、つねに事後解釈でしかなく、都合よく辻褄合わせをしているに他ならない。 過去しか語れないものは、理論では無い。ただの茶飲み話。 もちろん、暇潰しのネタとしての価値は十分あるがな。血液型性格占いとか。 理論として語りたいならば、未来を語れないとダメ。 疑似科学理論の多くは一回性というタイプ論に逃げ込むが、現代科学はそのような フェノタイプに逃げることなく、ゲノタイプに挑み続けた結果、 現在の成果を挙げている。 要素還元主義などという昔ばなしを持ち出してお茶を濁しても無駄。 現にラカンは患者をろくに治療できなかった。 理論が機能していなかった何よりの証拠だ。
472 :
考える名無しさん :2006/10/19(木) 00:39:42
∩___∩ (ヽ | ノ ヽ /) (((i ) / (゜) (゜) | ( i))) オランウータンビーツ /∠彡 ( _●_) |_ゝ \ ( ___、 |∪| ,__ ) | ヽノ /´ | /
473 :
考える名無しさん :2006/11/18(土) 03:43:45
>>453 知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を鵜呑みにして
哲学板でバカにされ発狂した人間が必死の思いで立てた「批判者ウォッチスレ」が
こともなげに削除されてるね。
474 :
考える名無しさん :2006/12/10(日) 21:47:46
ポストモダンは何かを間違えたのか? そう言えるか? 大体、ポストモダンはなぜ発生したのか? モダンとは何か? ポストモダンを批判するには、 これらの質問に答えるだけの知識は必要だろうな。
>>474 ポストモダンとは音楽における十二音音楽、美術におけるDADA、などなど
いろいろあるけど、哲学的には結局は反ヘーゲル主義につきるね。
哲学でモダンとはヘーゲル主義のことだ。
476 :
考える名無しさん :2006/12/11(月) 22:47:24
民主化がすすむにつれて、あらゆる領域において自己言及性が露呈していく わけだけども、構造ありきでやっていたときと、バラバラの個々によって 再構成された構造とは質的に異なるものであるということ。
477 :
考える名無しさん :2006/12/22(金) 22:27:58
ヘーゲル批判だけでポストモダン批判が十分ではないだろうな。 まず、西洋形而上学批判であり、主体批判がある。 ルネサンス以来確固とした人間賛美の批判でもあるだろうな。
478 :
考える名無しさん :2006/12/22(金) 22:29:01
476 民主化と自己言及性の関連を述べてくれ。
階層的分化社会から機能的分化社会への以降によって 自己準拠化・自己言及化が生じるっていうことでは 例えば資本主義とか、与党でいることが第一目的になる政治とか てか社会学の受け売りだけど
480 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/22(金) 22:45:54
封建社会では場への強い帰属によって、自己そのものが浮上しない。 民主化は、場の離脱から始まり、自己が浮上するが、 そもそも自己なんって存在しないわけで、コギト状態になり、、 自己を自己で定義するようなパラドクスが生じるわけでしょう。
481 :
考える名無しさん :2006/12/22(金) 22:49:51
480 そうだね。確かに、自己=主体なんて無いと言うのが ポスト構造主義の狙いて言うか、批判のポイントなのだな。 それと、自己言及について、それど、「自分が自分をのたまう。」 事がどうして問題なのかな。
482 :
考える名無しさん :2006/12/22(金) 22:55:58
自己言及こそが、パラドックスであったのだ。 語れる事が不可能である事を証明したのが「自己言及性」だ。 つまり、アンチ・デカルトによって、ポスト構造主義は 生まれたのだ。西洋形而上学批判として、組織化される個の 開放としてだ。
483 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/22(金) 22:57:23
主体批判は構造主義でしょう。サルトル批判から始まるわけで。 構造主義は主体の空虚に構造(無意識)を見たわけだけど、 ポスト構造主義は、その構造さえも解体するわけですが、 その差は言われているほどないと思います。 自己言及そのものになにか問題があるのでしょうか。
アンチ・デカルトっておかしくないか わり
485 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/22(金) 23:03:23
デカルトはコギトの正しさを神によって保証します。 まだそこに逃げ道があったわけです。 しかしその後、神は死ぬわけで、そこに宙づりだけが残る。 それを何で埋めるかが問題ですが、お金か、趣味か、仕事か、自由か、平等か、 どちらにしてもつかの間のものでしかないわけですが。
主体を実体と見るのを否定して超越論的統覚としてのコギトとして提示した デカルト-カントはほとんど構造主義の祖といえるのじゃないかな。
それヒュームじゃなくて?笑
488 :
考える名無しさん :2006/12/23(土) 09:32:43
主体=実体と考えるのは、デカルトの精神と延長が実体と考えると言う事 から来ているのではないかい。 しかし、コギトを超越論的統覚とは言わないだろう。 また、カントの場合にも、先験的悟性範疇と言う。 超越論的統覚はフッサールでないかい。 また、自己言及については、デカルトのように、人間が外の世界を そのままの姿で言い表わせないと言う事、つまり、言い表わしている自分 がどのようなものなのかを証明できないと言う事で、 分かりやすく言えば「クレタ人はうそをつかない」と言うパラドックス なのだよ。
489 :
アンチ・ドゥルーズ :2006/12/23(土) 19:10:11
ポスト構造主義は誰でも超えるだろうが構造主義は超えるというより継承すべきもんだな。つまりドゥルーズやデリダはダメだがフーコーはいいという事
490 :
考える名無しさん :2007/01/08(月) 18:54:55
m9(^Д^)プギャー
「ポジティヴ・ロー positive law というのは、次のような思想だ。法(法律)は人間が決めるものであって、神や自然のような、 目に見えない「幻想」が決めるのではない。「法」とはこの地上の人間が定めるものであって「天」や「自然」や「神」が決める のではないという法思想である。ナチュラル・ローに対する痛烈な批判として始まった考えである。「神」やら「自然の摂理」 やらを言う人々全員を敵に回す思想である。 したがってこの「ポジティヴ・ロー」は「人定法」と訳すべきである。それがどういうわけか日本では、何十年もの間これを 「実定法」と訳してきたので、法学者たち自身が頭が混乱してわけがわからないのである。 ポジティヴを「実定」などと訳したので意味が不明なのだ。法学者たちがわからないのだから、その他の社会科学者や文科系 知識人たちがわかるはずがない。」 (副島隆彦著『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』講談社プラスアルファ文庫、2001年刊 より)
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
左翼思想家が好むフーコー 最近の流行は工作されたものだな
494 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 08:04:35
>デカルトはコギトの正しさを神によって保証します。 いつそんなことをした?
495 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 08:28:23
「探求」は越えてますね。
496 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 12:02:18
ルーマン準拠のミヤダイがポストモダンてw 「一番頭のいい」とかって表現にも妙な観察図式を感じるわけだが… これどこのDQN?
497 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 12:17:02
ものすごく地味な研究なんだな… 文献研究の域を出てないんじゃないか
>>497 ものすごく派手だよ…
>副島隆彦(1953-)
>福岡市生まれ。早稲田大学法学部卒。銀行員、代々木ゼミナール講師を経て、常葉学園大学教授。
>主な研究分野・著書 現代政治思想の研究 Political Thoughts Study
>『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』、『政治を哲学する本』、『リバータリアニズム入門』(訳者)、
>『アメリカの秘密』、『ハリウッドで政治思想を読む』、『現代の予言者・小室直樹の学問と思想』、
>『悪の経済学』、『逆襲する日本経済』、『墮ちよ!日本経済』、『日本の危機の本質』、『アメリカの大嘘』、
>『悪賢いアメリカ、騙し返せ日本』、『属国・日本論』(五月書房)など多数。
ちなみに『人類の月面着陸は無かったろう論』の作者
499 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 16:43:21
>人類の月面着陸は無かったろう論 ここだけキチガイだw
500 :
考える名無しさん :2007/01/09(火) 21:55:54
もっと本を読んでみれば、ポスト構造主義の凄さが 分かるよ。なぜ、西洋形而上学は批判されねばならなかったか。 考える必要がある。それを踏まえての批判ならば良いと思う。
501 :
考える名無しさん :2007/01/10(水) 04:27:08
ケン・ウィルバーやピーター・ラッセルはやはり間違っていたという事。「アートマンプロジェクト」は特定の人間を犠牲にして行われるべきではないのは常識的に分かっていたはず。これから全ての人間に分担してもらう
502 :
考える名無しさん :2007/01/12(金) 22:28:27
つまり、ポスト・構造主義は政治的に超えるのか、又は、コンピューター・ネット ワーク的に超えるのかだな。前者が「帝国」であり、後者がポスト・モダン的 サブカル系へ流れる。
503 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:07:28
「ポストモダンは何を間違えたのか」は1000カウントになったので、続きは こちらで進めよう。 ところで、再度主体論にフォーカスすると、ジャン=リュック・ナンシーは 『主体の後に誰が来るのか?』と言う本でフランスの思想家達の回答を集め、 また、最初にナンシー自身の意図・意見を書いていたとの事だ。 内容は西洋主体批判であり、現前に対する支配と、普遍的規範(真理と考える) に対する偏差を差別としている点にあった。そこから、普遍と呼ばれる 現前=再現前の主体論の流れを断ち切る必要があった。 そこで、西洋の思想は主体を絶対的に固定化したものと考える。そしてその絶対的な 主体をもって、外在するものを我有(認識)するのであると考える。
504 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:13:00
次スレたてろ
505 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:20:23
そこから、彼の主体論は絶対的に固定したコギトのようなものではなく その場その時で対面し、関係するもので、本質をもたない流動的なもの と考える。つまり、自己一貫性のないものとなる。つまり、ポストモダンの 哲学者とほぼ同じスタイルである。ドゥルーズならスキゾフレニー (分裂症的)と言うだろうな。 自己を形成するのは他者であり、他者との関係性によって自己は作られ 固定される事なく、流動化する。 最終的には、ネットワーク型主体として、自己完結しない開かれた脱自存在 としている。接続し切断する運動として関係性として主体を考えてる。 最終的には「触れよ」「口づけせよ」と言うエロチックな表現に進む。 この辺は最近翻訳版が出ており、デリダがナンシーを論じているので 読むといい。
506 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:21:46
【脱ぎ~脱ぎ~☆】第五弾 パンツだけはこの手で脱がしたい~~~・・・♪ お尻が揺れるほどバックから突きまくって♪ 今日のエロ画像 長澤まさみ 3年前のグラビアで見せた超可愛いロリロリ水着映像+バレー合宿.. 超変態SMプレー M女を苛めるぞぉ 【17分動画】これはw顔が歪んでるww 【安藤美姫】 生放送中に乳首を晒してしまった伝説の事故映像他全6本動画.. 佐藤和沙 & 仲間由紀恵 のエロ動画 & 援助女子高生のSEX動画 街撮り盗撮!おっぱいチラッと見えたちゃったぉ♪ アニメ4種ローゼン+はにはになど◆同人誌5冊ハルヒ+ローゼン+すももなど グラビア画像【原史奈】 【おもちゃ】ぐしょぐしょに濡れちゃう〜 休止 ■今日の盗撮動画伊藤●咲似!?個室BOXで大開脚オナニー ?■今日のアイドル動画[後.. 秒刊FLASH動画とぴっくす ★ おっぱい ★ すげぇ! 爆乳〜 いやらしすぎ! 揉みたいパイ♪ 10連発!! 固いチンポを正常位で楽しむお姉さん♪ Powered By DrecomRSS
507 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:32:16
波平へ。 意見として理解するが、その様に語る主体をどの様に考えるのか と言う問題点を如何に超えたのかが述べられていない以上 ポスト・構造主義が指摘した西洋形而上学の問題点である、主体論 を超えていないと思うが。つまり、ナンシーも言っているように 何が正しいかを語ることによる支配と言う問題点を超えない限り 君の言う事は、やはり何が正しいかと言う事になるだろう。 だから、君の理論を読んでいくと、構造主義はこれで、ポスト構造主義は これで、次に、科学技術的な管理型社会がはじまり、一方享楽に基づく 流行が(ポピュラリティ)流れを社会決定すると言っているに過ぎない。
508 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:40:20
つまり、ポスト構造主義者と言われる者達が苦闘した事 つまり、主体の崩壊と哲学者として述べる事の狭間で、 西洋形而上学と言われる何が真理で何が間違いかと言う事の 選別が被抑圧する者を作る事を恐れ、自己を消滅させ、多様な視点 脱構築・差延など多くの概念を紡いだことをすべて忘れている。 そして、次々に繰り出す概念がコギトを是認しているような素振りに 見えるのだね。
509 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 13:47:13
西洋主体論を超える事がポスト構造主義を超える事だと 思う。これは僕の哲学のモチーフだからだね。 色んな哲学があって、お互いに接触・切断せよであって、 東浩紀さんのように「切断し転送せよ」ではないよな。 でないと、一つ考えが増幅し支配する事になる。
510 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 20:19:08
もう終わったのこの主体論は。それで良いのか?
511 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 20:20:44
波平はぴかぁ〜ではない。波平はしろうとである。 どう思う?
ぴかぁ〜のしろうと化 しろうとのぴかぁ〜化
513 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/27(土) 21:39:25
>西洋形而上学と言われる何が真理で何が間違いかと言う事の選別が >被抑圧する者を作る事を恐れ、自己を消滅させ、多様な視点脱構築・差延など >多くの概念を紡いだことをすべて忘れている。 >そして、次々に繰り出す概念がコギトを是認しているような素振りに見えるのだね。 >西洋主体論を超える事がポスト構造主義を超える事だと思う。 >これは僕の哲学のモチーフだからだね。 たとえばこのように問うとどうでしょうか。 「そもそも主体は存在したのか」 仮に主体なるものがなければ、構造主義も、 ポスト構造主義も、いない敵への遠吠えになる。 ボクが言っているポイントは「ポピュラリティ」です。 主体でも、スキゾフレニーでも、ネットワーク型主体でも、 ポピュラリティがチョイスしたブームであるということです。 人はいつも主体であり、スキゾフレニーであい、ネットワーク型主体でも 多面的な存在です。 では、「ポピュラリティ」はどこから来るのか? 主体論→構造主義→ポスト構造主義 この流れに漠然とした、進歩史観が見え隠れする。 すなわち近代以降の技術進歩に同期しているようだ。 ということです。 どなたか、「ポストモダンは何を間違えたのか」次スレ立てていただければと・・・
514 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/27(土) 21:42:49
これはデカルト、ドゥルーズ、デリダを批判しているというよりも、 これらの関係性を紡いで、物語を語るとき、 まさに技術史観にもとづく、ポピュラリティが作動している、ということですね。
515 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 22:41:13
つまり ポピュラリテイとはデカルト的なコギトとしての主体に基礎付けられている のではないのかと言う気がするんですね。つまり、理性的な、或は、本能的な 享楽の個人が気に入る物を選択する結果として、人気=流行が全てと言う事 になるのではないでしょうか?だとすると、この流行は多数派によって社会が 流れる、いや、価値観が流されると言う事になりますよね。 つまり、ポスト構造主義が暴いた、マイノリティへの差別をこの多数決は 隠し持っていることになると言うことです。
516 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 22:47:39
僕は全面的にデカルトを否定しようとは思っていないが、 ポストモダンを終了させるには、主体論再考と言う問題を明確に クリアーしないと、問題があやふやになると思うんね。 だから、波平に確認しているんだけどね。 僕の絡みからは、ナンシー・ジジェク・バトラー辺りの、主体・差別・政治 の問題が重要になるんだ。だから、少絡んだだけ。
517 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 22:57:58
それと、この三人の考は、専制的な管理社会とは正反対だと思うね。 確かにPCの発達によって、色々な裏道・悪行・犯罪が生まれている事 は分かるし、多様な匿名行為によって個人識別が不確実になりつつある のは理解出来るが、かといって、国民背番号制見たいな管理や個人行動を 過度に監視するライブカメラをいたるところに設置する事は問題だと思う。 管理ではなく、個人の自由な行動に対し、事後的に 必要なときに個人の情報を参照する技術は必要だろうと思う。 これは、管理ではなく、把握能力の向上と言う事だろうと考える。
518 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 23:04:10
つまり、波平には主体があったのかなかったのかそんな事は 選択=ポピュラリティには関係のないことと言う意味に取れるんですが。 もしそうならば、構造主義・ポスト構造主義を再確認する必要があるな。 主体とは何か?ジャン=リュック・ナンシーを読む必要があると思う。
519 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 23:13:07
波平は主体があるかないかに係らず、選択=ポピュラリティには全く 関係がないと考えているような気がする。選択する者はなにかと言う ところが明確になっていないようだね。選択する私とは何か? あるいは選択させられている者かもしれないものとは? 与えられた中から選択させられていると言う洗脳の可能性だってある。 こう言う点が見えないんだ。
520 :
考える名無しさん :2007/01/27(土) 23:18:22
つまり、自由な意志をもって判断する人間個人と言う デカルト的な主体が前提になっていると言う事が、 波平の論理にはあると言う事ですね。
延々と続く、ということですね、ということですね、ということですね、ということですね、ということですね、 ということですね、ということですね、ということですね、ということですね、ということですね、ということですね。
522 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 00:08:17
「科学技術の見えざる手」 ポピュラリテイとはデカルト的なコギトとしての主体に基礎付けられているのではないのか と言う気がするんですね。つまり、理性的な、或は、本能的な享楽の個人が気に入る物を 選択する結果として、人気=流行が全てと言う事になるのではないでしょうか? ポピュラリティは創発性ということに近い。すなわちシステム論的であり、むしろポスト構造主義的です。 システム論への一般的な批判は、結局、現状維持でしかないということです。 たとえばアダムスミスの「「神の見えざる手」ですね。 しかし「神の見えざる手」ならば世界には恣意性がなく、偶然性が支配しているはずが、 近代以降は科学技術という強烈な一次元性が発生している。 そして「神の見えざる手」に大きく影響せざる終えないだろう、ということです。 これを「科学技術の見えざる手」とてもいいましょう。 これがボクの世界観です。 これは正確にいえば、哲学ではない。哲学とは、特に近代以降において、倫理と同じだからです。 これが、複雑系ということで近いことを言いながら、現状を記述する科学としてのシステム論と、 ポスト構造主義の大きく違うところです。 この世界観を倫理につなげれば、この「科学技術の見えざる手」を脱構築することです。 強烈な一次元性=進歩史観には必ず、「科学技術の見えざる手」が働いている。 近代主体→構造主義→ポスト構造主義という流れて語るときもそうです。 脱主体のような言説もそうですね。
523 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 00:12:44
「科学技術の見えざる手」の一番の言説が、ネオリベラル、グローバリズムです。 そこに進歩史観=「科学技術の見えざる手」が当然のように、前提とされています。
延々と続く、ということです、ということです、ということです、ということです、ということです、ということです、 ということです、ということです、ということです、ということです、ということです、ということです。
525 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 00:26:33
環境管理社会に対するボクの批判は、「環境管理社会は存在しない」というものです。 そこには「科学技術の見えざる手」が働いている。そしてそれはいつも機械論的な姿をして現れます。 人間を離れたところで、先行して機械的に世界を管理するというような。 環境管理社会はそのようなものではなく、人の欲望が蠢く、泥臭いものです。 ネオリベラル、グローバリズムも同様です。
526 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 00:32:15
経済競争と脱落の恐怖が脅迫的にグローバリゼーションを 加速的している。これは燃え盛る車輪である。 見えざる手は今や吹き荒れる市場商品開発技術競争的大量生産 大量消費環境破壊的暴風となった。 もはや山に庵を結んでつつましく暮らすことも許されないのか?
527 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 00:37:18
自由な自立した市民などはどこへ行ったのか?
528 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 10:00:50
「帝国」、フラット化、ポストヒューマン、グローバリズム、ネオリベラル・・・
延々と続く単語の羅列、言い換え、ひとりよがりな「ということです」断定、自作自演じみた「ということですね」同調。
530 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 11:03:12
動物化・・・
531 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 12:57:37
すなわち主体を否定する言説の根底にあるのは、この「科学技術の見えざる手」です。 人は主体的であり、ポスト構造主義的でもある。 だから人は多くにおいて非主体的ですが、 だからといって主体は安易に否定されるようなものでもない。 主体を否定するそのときにこそ、主体的である、ということ。
すなわち、すなわち、すなわち、だから、だから、だから、ということです。
波平ってヤツ全スルーでお願いします。 コイツ変なコピペばっかりやってる荒しなんだよ。
534 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 23:52:52
「主体は世界の内には存在しない。」 主体において世界が「ある」のだから。 これは、主体と世界を追求した哲学者の共通意見でもある。
主観概念は意味的に構成される同一性として常に既に意味概念を前提としており…
536 :
考える名無しさん :2007/01/29(月) 00:30:36
概念と「それ」は普通違っている。 概念が精錬されるほど「標準化」され、安っぽい国語辞典の記述に近づく。 が、そうなるほど実際の「それ」は「概念」とズレが大きくなるのだ。
537 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/29(月) 10:32:04
近代のイデオロギーは科学技術という「人間の手を介さない」ふりをして現れる。マルクスの唯物史観、 ナチの優生学、アメリカのネオリベラリズム、グーグルの検索装置。この機械に潜む欲望の次元を見いだす。 創発的なポピュラリティと科学技術という数量化の外部技術による正確な伝達、反復による1次元的性 という知識の生成構造において、それらを動かす動力としての欲望。
「欲望の次元」ってなに?
539 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 22:42:16
ぴかぁ〜ってよく分かっていってる。 「近代のイデオロギーは科学技術という「人間の手を介さない」ふりをして現れる。マルクスの唯物史観、 ナチの優生学、アメリカのネオリベラリズム、グーグルの検索装置。この機械に潜む欲望の次元を見いだす。」 科学技術とイデオロギーの関係を説明せずに言うので、意味不明。 この機械の欲望?マルクスの唯物史観が機械でそして欲望? 説明不足でしょうね。分かっているのならもう少し丁寧な説明が必要では?
540 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 22:51:57
ぴかぁ〜の言う「イデオロギー」てどう言う概念。 「反復による一次元的性」って何? よく分からんね? 説明不足だよな。
会話する気が全く無く 自分のポエムを書き込んでる連中は何時まで経ってもここから居なくならないのな
542 :
考える名無しさん :2007/03/03(土) 22:36:12
まったく、意味を理解せずコピーしているか、 雰囲気的に流行の「ポスモダ風ターム」を繋いでいるか。 ポストモダン風に創作しているだけではないかのう。
ソーカルktkr
「歴史学者たちは、大部分が朝鮮半島と中国出身の 少なくとも20万人の女性が第二次世界大戦中に日本軍の売春宿で 強制的に奉仕をさせられたと考えている」 (BBC) 「すべてのいわゆる従軍慰安婦と呼ばれる女性たちが奴隷化されていたわけではない。 売春婦だった者もいたし、家族によって売られた者もいた。 しかし大多数は、誘拐され、奴隷化されレイプされたのだと主張している。」 「安倍首相は、『強制性があったことは歴史的に証明されてない』と主張している。 これは言い換えれば、『彼女たちは嘘つきだ』ということを主張しているのと同義だ」 (エコノミスト誌) 「歴史学者たちは、大多数の中国や朝鮮半島からの 20万人の女性が2000箇所の慰安所で強制的に働かされたことを信じている」 (ガーディアン) 「われわれフィリピン人は米国の議員らと同じく日本帝国軍隊がフィリピンなど アジア諸国の女性を慰安婦にしたという残虐行為に対し真の謝罪を求める。 (フィリピン マニラ・タイムズ) 「日本が第二次世界大戦中にアジアの女性に慰安婦になるよう強要したのは歴史的事実だ」 (マレーシア) 「安倍氏は、日本が戦争中に性の奴隷の問題に関与したことを認めて 謝罪するよう求める米下院での決議案にいらだっている。 第二次世界大戦後六十二年にもなるのに、日本がなぜ戦争中の歴史的事実を 正直に受け入れずこうした子どもじみた態度を維持し続けるのか、世界中の人々にとっては理解し難い」 (インドネシア ジャカルタ・ポスト)
545 :
考える名無しさん :2007/05/09(水) 17:22:20
いまいち構造主義とポスト構造主義の違いがわかりませんね。
546 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 10:12:22 0
構造主義は構造内の要因(言語・組織・慣習etc)によって、全ての事が 決定されていると考えている。 一方ポスト・構造主義は、このアプリオリ(先験的)な構造から 逃走する事や構造の破壊に主眼を置いているんだよ。 つまり、既成の価値観を壊す(デリダ)あるいは逃走する(ドゥルーズ) と言う哲学スタイルとなって現れるのだろうな。
547 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 14:32:00 0
でも、この先験的と言う表現は少しマズイ気もする。 勿論、カント的な意味での表現ではない。 むしろ、構造主義であるならば、本質主義批判であり、アポステリオリ(生れ落ちた 世界の構造)な構造に影響されて世界を認識していると言う事になろう。 初めに認識する基準に染められて、世界は現れると言うことだろう。
548 :
考える名無しさん :2007/05/13(日) 14:39:48 0
ところで、最近ぴかぁ〜を見ないが、彼の言う管理強化論について、 ジジェク辺りにその根源が見出せるのではないかと言う気がする。 確かに、構造主義やポスト・構造主義にあっては、資本のグローバリゼッション (多国籍化)への対応は望めない。多文化主義・ネオリベのもたらしたもの は過激な民族闘争=テロリストの発現となって現れている。 このような現実が、政治に日和見的なポスト・モダンの責任だとすれば、 我々は一定の管理社会(男性原理)の導入を認めなければならないだろう。
549 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 09:56:52 0
それにしても、ジジェクの「厄介なる主体1」において展開する 左翼革命の肯定は有効なのだろうか。資本の不確実な動きは共産主義による 安定した生活、安定した確実な人生を犠牲にし資本のグローバルな展開によって、 不安定化する国家や国民が犠牲になっていると言う考えは正しいのだろうか。 そして、この資本のボーダーレスな動きが、ポストモダン的な規範のなさ と同類であり、多文化主義的に、夫々を認める=容認する事だとするならば 資本の動きとポストモダン的な寛容さとは、民族主義闘争を醸成した事にもなる。 この点がジジェクの言いたかったことなのだろう。
550 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 10:05:52 0
そして、ジジェクが大胆に肯定する、スターリン革命によって、抹殺された 反革命者をヒットラーのナチホロコーストと比較し、前者に肯定的に、後者に 否定的な判断をくだす事が、本当に許されるのか。 この点がジジェクにとっての最大の問題点では無いだろうか。 あえて、ここで、管理強化を求める事は、つまり、全てのセクション(国家・ 民族・宗教)が平等であるという社会は成立不可能であり、逆に圧迫され 抑圧され、優劣順位がある程度確立された社会である限りに於いて、 社会の安定化(国家間・国民の間)がはかられると言うのがジジェクの 考えにあるのであろう。
551 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 10:15:17 0
再帰的な不安。確実なものが無い事への苛立ち。おたく、凶暴性、虐殺 テロリストによる無差別破壊。これらの行為全てが、資本のグローバリゼーション と非決定のポストモダン思想が原因であるとして、求められる管理 とは、それではどういったものなのだろうか? 共産主義社会体制を参考求められる管理体制なのか、言論統制なのか。 或はマクドナルドの開発体制や商品の品揃えなのか。国民年金の支払いを 強制するのか。美しい国日本のために、愛国心を植え付けるのか。 たしかに、世界は右傾化している。ヨーロッパにあっても一時のような 左翼福祉政策路線に陰りが見えてきているのである。
552 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 10:25:48 0
ジジェクは左翼革命に肯定的に見える。一方ヨーロッパの現実は、 左翼的福祉国家羨望から右翼的競争社会の到来を求めている。 たしかに、この両者とも、ポストモダン的な多文化主義的平等主義からの 脱却である。ある意味では、グローバリゼーションの否定でもあるのだろう。 日本でのこのような意見の発信地は「批評空間」からだったのかもしれない。 つまり、柄谷・浅田・東を経由して、大澤へと広がっていった。 2チャンでは、ぴかぁ〜・しろうとがこの系列に位置し、おたく分析から 動物性の管理論を進めているようだ。
553 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 10:31:11 0
しかし、あえて彼等に質問するが、その管理とはどのようなものなのか。 その管理は、正義なのか。(正しいのかとは質問しない。) 当面、ぴかぁ〜としろうとに聞く事にするが。
554 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 17:28:26 0
このように、論理的に書くと反応しなくなる。 ぴかぁ〜は特に、自分だけ分かるような文章を書くが、 質問には答えないな。確かに、ジジェクを読まないと答えられないかもしれないが ぴかぁ〜自身、管理の必要性を言っていたのであるから、答えられるだろうと思った までだが。まあ、200冊位の哲学書を読まんとよく分からんのだろう。 精神分析学・実存主義・専制政治・構造主義・ポストモダン・ジジェク的管理主義 と言うところをサラット押さえておいて、まあ、消費社会(ボードリヤール)なのだろうね。 消費社会と管理社会は共存できるのだろうかね。相反するように見えるが。
555 :
考える名無しさん :2007/05/27(日) 17:41:29 0
でも、ジジェクは直接読んではいないな。柄谷辺りから影響されたってところかな。 柄谷はアソシエイションについてどう思っているのだろうか。 NAMはその活動の一環であったのだろうか。そして、やはり、資本の運動に挫折して 解散したのだろうか。いずれにしても、日本では、翻訳されなていない西洋の 有名な哲学者の最新の本を原語で読み、それを、雑誌に紹介する事で、最前線の動向を 紹介する事が一般的である。そして、この管理社会再来を求めるジジェクの 思想が柄谷辺りから紹介されたのだろう。 管理は本当に正当化されるのか。資本は国を超えてその触手を伸ばし、 隅々まで商業主義を広め、あらゆる民族・宗教・考えを容認しつつ 資本の運動に取り込むと言う事なのだろうか。 そうであるならば、どのように反旗を翻せというのだろう。 今更、資本の運動を否定できるのか。
流れ読まずにカキコ 〈ポストモダン〉とは何だったのか―1983-2007 (新書) 本上 まもる (著) 新書: 213ページ 出版社: PHP研究所 (2007/05) 一気に読みきりました。著者本人の思想・読書偏歴と見切る事も 可能ですが、その領域に限定した80年代以降思想変遷のダイジェスト 版と読む事も可能です。 紹介のみ。
ジジェクの「たまごっち」への批評って読んだ?
558 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 00:12:55 0
>>556 「〈ポストモダン〉とは何だったのか」の柄谷行人への分析が秀逸。
柄谷のちょっと病的に感じる面がクローズアップされた感じがする。
お疲れ様でーす
560 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 00:26:09 0
豊かさの 発展の果てに開放があるはずだった 無いことにうすうす気がつき始めた頃 人々は酒宴を始めた バブルははじけ負債は残った 人々は思う いずれ開放が待っているだろう
561 :
考える名無しさん :2007/06/04(月) 00:29:28 0
要するにポエム
50円くらいで売ってるんだろ Iえんやるからあっち逝けよ乞食
563 :
考える名無しさん :2007/06/05(火) 14:54:57 0
今ってポスト構造主義なんですか?ポスト構造主義について無知なので簡単に教えてください。 構造主義についてはある程度理解しています。
学問(サイエンス)というのは、世界性の別名であって、世界基準での思考の体系のことである。冷酷な事実からなる組み立てである。 その点、日本の理科系は世界基準で数学ができるから、少なくともテクノロジー(技術)やアプライド・サイエンス(生産技術)の場面 では、世界レベルに到達しているからたいしたものである。数学は、もう一つの世界言語である。彼ら日本の秀才達のことを、英語では エンジニアとかテクニシャンというのである。彼らはけっしてサイエンティストとは呼ばれない。エンジニアやテクニシャンは理科系の 学者集団の中でも、下層の方に位置づけられている技術職人たちのことである。たとえば、ハーヴァード大学では、「サイエンティスト」 と呼ばれる一流学者達の層以外に、この上に、たった十二人だけ「フィロソファー(哲学者)」と呼ばれる人々がいる。私はこの事実を 以前ハーヴァード大学公衆衛生学準教授であった柳沢幸雄氏(現在、東京大学工学部教授)から、直接聞いた。柳沢氏は、「自分は テクニシャンのレベルであった」そうだ。日本には「哲学者(フィロソファー)」をどと名乗る文学部哲学科の馬鹿教授が何百人かいる だろうが、日本には、フィロソファーなど誰一人として、存在しないのである。馬鹿も休み休み言え。そもそもフィロソフィー (知への愛)は、神学の下女(はしため)の位置にある。そして、大きくは、サイエンス(学問)=「自然界の事実を冷酷に、法則性 として記述すること」の体系と一千年にわたって戦い続けてきたのである。数学も、実はサイエンスの仲間ではなく、フィロソフィー と出自がよく似ていて、神学の下女の方である。それにたいしてサイエンティストは、ガリレオ・ガリレイやアイザック・ニュートン や、チャールズ・ダーウィンの例に見られるごとく「冷酷な諸事実からなる体系」としてしか世界を理解しない。だから今でも神の体系 (神学)と争い続けているのである。未だに、神学と近代学問(サイエンス)の戦いには、決着がついていない。この神学なるものの 大きさは東アジアの一種族である日本人にはとうてい分からない。別に自ら卑下して言っているのではい。学問の巨大な対立概念は、 実は神学なのだ、とはっきり言っているだけだ。サイエンティスト(科学者という言葉は私は嫌いである)からすれば「確実に事実証明
されないことは分からない。世界が予め神によって造られたという考えを自分は認めない。自分は、はっきりと分かったことだけを、 分かったこととして認めるだけだ」という態度をとる。もとよりサイエンスは、物理学、化学、生物学、などの自然学である。これ以外に 、ソシアル・サイエンス(社会科学?)として経済学、社会学、政治学、サイコロジー(心理学?)がある。しかし、これらが果たして、 サイエンスとして自立したか否か、今でも分からないのである。経済学だけが、かろうじて60%ほど、冷酷なサイエンスとして成功 している。あとは、全て大失敗らしい。だから今でも政治学者と政治評論家の区別や優劣がつかないのだ。これ以外に下等学問としての 人文がある。この人文というのはヒューマニティーズの日本語訳である。ヒューマニティーズとは、「人間、および記録された文学に 関わる事。という意味である。だから人文は、簡単に言えば現在で言う文学(部)の事である。他には歴史学があり、その内容である 古文書解説や石碑の文の解説などを行うことだ。これらは、学問としては下等学問である。これと、サイエンス(学問)の区別を つけなければならない。これが、日本人にはできていない。すべてごちゃまぜなのが日本の大学制度である。これは国家的学問犯罪と 呼んでもいい。大欠陥学問観と呼んでもよい。このヒューマニティーズとサイエンスの区別がついてる日本知識人自体が、ほとんど いない。すべてごちゃまぜである。さらには「文学部哲学科」や「文学部心理学科」などという恐るべき学問分類を行って恥だと 思っていない。あるいは「人文科学」などという奇怪な言葉を、すべての教育機関が使っている。人文が科学(サイエンス)のわけが ないではないか。こういう大きな事実と凍りつくような事実について、もっと明確な本を書いて警報をならしたいのだが、私自身が きちんとした世界基準の学問を学べなかったせいもあって、もう何年も作業に取りかかれなくて困っている(最近、私のしつこい 主張の影響だろう「人文科学が使われなくなった)。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)」P321〜325
カルヴァンは「キリスト教要」という本を書いた。この書物の中に、のちにローマン・カソリックと5百年間戦い続けても 負けないだけの、キリスト教の本質を洞察した優れたプロテスタントの思想が書かれた。それは、一言で言えば「神の予定 調和」という思想である。「神の予定調和」とは、怒った神が、「神が救済されるかされないかは、予め神が決めるのである。 全ては神が決める。神を条件づけるな。神に命令するな。神を試すな」という、旧約聖書の中の言葉によって説明される。 実は、この「予定調和」思想は、スコットランドのカルヴァン派である長老派の神学者であったアダム・スミスによって 説かれた「神の見えざる手」という思想と全く同じものなのである。「神の予定調和」思想は、そのまま「市場」という偉大な 経済思想に成長した。「市場」とは、「ここの人間の主観や願望によっては絶対に変えられないルール・掟・法則」のこと である。たとえ国王や独裁者たちによっても動かし得ない、人類社会を貫く鉄の原理のことなのである。このアダム・スミスの 「市場」と同じものを、さらにカール・マルクスは、若い頃から「エントフレムドゥング」=疎外と呼んだのである。 すなわち「疎外」とは「個々の人間の主観や意志などによっては動かしえないもの」という意味で、「人間社会には社会を 「貫く法則性がある」ということなのである。つまり神の予定調和=市場=疎外なのだ。
これをなにを勘違いしたのか、日本の馬鹿知識人たち、とりわけ左翼知識人たちは、「主体性マルクス主義」などという 後進国特有の勝手な理論を作り、この「疎外」のことを、「産業社会と資本主義の発達に伴う人間の非人間化」と考え、 「そこからの本来の人間への主体的な回復」を「主体的マルクス主義」などと呼んだ。これは、梅本克己から吉本隆明に 至る日本の左翼知識人たちすべてに、共通の理解である。左翼でない知識人も同様である。マルクスの考えた「疎外」とは そのようなものではない。「社会を貫く冷酷な法則性」のことなのだ。だから、後年、その延長線上に彼は「資本論」を 書いたのである。さらに言うが、あのフランスの現代思想である構造主義の「構造」というのも、この「神の予定調和」と 同じものである。だから、「構造」は人間たちの意志では変えれない。変わらないから「構造」というのである。分かったか。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」
569 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 09:28:29 0
565〜568の書き込み有難う。 でも、構造主義的視点でない事は予定調和論やマルクス論からの展開(敷衍)を 見ても明らかです。 確かに構造は個々人が自由に変えられるものではありません。 それでもアートやライトノベルでは刻々と脱構築運動が進んでいると言える かも知れません。いや、その様運動こそが脱構築であり、現前からの「散種」 だと言えるのでしょう。しかし、構造主義と言う静態的視点に立てば、 構造に捕まってしか世界は現れないと言うことです。幼いころに家で両親から 言葉と物(対象)とのつながりを教わり、その様にして言語のネットを身につける。
570 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 09:34:03 0
このようにして、言語の網の目に現れる物をそのシンタックス(言語認識方法 のようなもの)を介して理解される意味としてしか、世界は現れない。 この世界は各々の言語とそのシンタックスによって異なったものとして現れる。 よって、世界は言語の恣意的体系として現れると言う事になります。 よって、君の言う様に、予定調和として=神の手 として構造=世界が 唯一無二としては現れないことになります。
571 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 09:41:50 0
この恣意的体系は、もっと詳細に調べると、言語1つずつの体系がどのように出来上がってるか と言う考察に導かれます。例えば、私の読んだ本で言えば「恐怖の権力」J.クリステヴァ著 で言うと、綺麗は綺麗なものをそのまま指示してはいないと言う事になります。 多分多くの人は、綺麗は綺麗と言う価値観によって、正しく指摘できるだろうと 考えているのではないかと思います。しかし、よく考えると、綺麗とは個人差もありますが、 ここでは構造主義的に考えてみると、実は「汚い」と言う言葉の反対概念として 作られた概念である事が判明します。
572 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 09:51:49 0
つまり、571の指摘も理解しがたいかも知れませんが、もっと例を加えてみると 「犬」は尻尾を持って、知らない人を寄せ付けず、耳を立てて物音を聞き 臭覚は人間の数千倍?(よく分からないがここでは正確なデータは不要) と言う風に犬の特徴を羅列しても、はたして、それは犬を指示せるのでしょうか? 例えば、今は知られていない新たな特徴が判明した場合には、それは以前の犬 ではない要素が加味されるだけでしょうか?(確定記述論と言う) 話を変えましょう。そこで、先ほどの構造主義的言語学に戻りますと、このような 「犬」と言う対象物の言語表現(シニフィアン)は実は、犬以外のものに対して その差異(例えば猫・ニャーオと鳴く・つめがある等)の表現と「犬」と呼ばれている と考えるのです。
573 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 09:58:52 0
この例としては、例えば、生物として人間以外に、犬しかいない世界があるとします。 その時、我々人間は、この動物を「犬」と命名する必要性はあるでしょうか? おそらく、「あれ」くらいで十分でしょう。次に猫・鹿・豚・猪etcが発見されるにつれて 丁度、電話加入者がふえて、番号桁数が増えていったように、「あ」は「あい」に 変化します。このようにして、犬は他動物との再表現として異なる記号を持った と言う考えが構造主義言語学にはあるのです。
574 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 10:10:09 0
そして、この差異体系としての言語構造(構造主義)が実は隠し持ってい たのは、このような、表面上の言語の差異的特性ではなく、この差異体系が、 実は、差別体系であると言うことだったのです。 汚い物・貧しい者・性・生理・気違いといった対象を隠蔽・抑圧・管理・ 隔離する為のツールとして、差異体系が用いられていたと言う事が問題 なのです。この辺の研究はもうご存知のM.フーコーのアルケオロジー ですね。そして、このような差異体系を脱構築するのがデリダであり 差異の固定を排除する為に概念の創作(脱領土化)を進めたのが、 ドゥルーズですね。
575 :
考える名無しさん :2007/06/09(土) 10:21:52 0
547から見ても、言語構造が実は、管理体系である事は十分に分かるでしょう。 つまり、この言語差異体系の良い方の概念が悪い方の概念を下方に従えて行く この繰り返しによって、最後は東大−官僚−大臣-総理と言う差別体系は 生まれるし、ユニクロ−GAP−ディオール の流れも生まれる気がします。 ところで、私は、ポスト・構造主義の質問に対し答えさせられたのでしょうが 忙しいので、いつもレスできないのですが、気が向いたら又来ます。 それよりも、ぴかぁ〜・しろうとは答えろよな! 東一辺倒のぴかぁ〜とアスペクトの多視点主義(造語)のしろうとへ
576 :
考える名無しさん :2007/06/11(月) 17:05:35 0
素人で申し訳ないのですが、本当に今はポスト構造主義なのでしょうか? 構造主義が終わったということはレヴィ=ストロースやロラン=バルトの思想も 役に立たなくなったということでしょうか?実存主義は構造主義によって 終わりを告げたらしいですが。
577 :
考える名無しさん :2007/06/11(月) 21:32:36 O
科学的研究=構造主義的方法論なのですから、 構造主義が終わることは人類が滅びるまでありえません
578 :
194 ◆JMEUe1jdXc :2007/06/11(月) 22:53:34 0
終わることはないが人前でやるには恥をかくのは承知するように 哲学も自己責任なのだ
579 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 05:34:13 O
前にチンポ太郎にぼこぼこにされたひと?
宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、 残念ながら、もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している 病気です。東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけが わかりませんから、ご心配なく。はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」 の影響で、とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (副島隆彦「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用)
[569] 以下の一連の投稿文に、私の考えを書きます。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2007/05/31(Thu) 05:30:06 大事なことは、日々、読書して、そして、それが楽しくて、発見があって、「ああ、そうだったのか」 「なるほどなあ」と、驚く喜びに満ちていることです。それ以外の学問は邪道だ。自分たちだけ 偉いお坊様だと気取って、哀れなことに信じ込んだ、天台密教のクソ坊主たち、新カント学を 名乗って、アホダラ経の、自分たちにも意味不明のことを書き続けた、東大のクソ学者たちの やったことだ。 私たちは、あの悲惨な轍(てつ)は、絶対に踏まない。
582 :
576 :2007/06/15(金) 07:20:04 0
>>577 科学的研究=構造主義的方法論って本当ですか?
構造主義が終わることはないって実存主義もそんなこと言ってたのでは
ないのですか?
583 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:01:37 0
やっと、カムバックです。 576: 構造主義は終わったかと言う質問ですが。 簡単に科学哲学のパラダイム論のように、はい終わりました、そして、 今はポスト・構造主義ですと言えるかと言う事ですよね。 哲学は(何でもそうかも知れませんが)今の思想の前の考えに影響されて現れます。 あるいは、私は弁証法は嫌いですが、あえて、分かりやすく説明する為に 利用しますと、AからBへ、BからCへの移行には、夫々の前段の思想に影響されている のだと言う事です。 具体的に言うと、構造主義と言う相対的な言語ネットワークによって意味は現れると言う考え があります。この言語が絶対的ではないと言う事は、この私も絶対的なコギトとしての「私」ではない 事も表しています。だとすれば、言語の中に唯一無二の「私」はいなくなります。
584 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:14:22 0
そして、構造主義では、この唯一無二ではない「私」とは何かと言う問いが重要になるのです。 それは、ラカンの分析する無のシニフィアン(S1であり、(源抑圧の事) 構造に開いた空無なのだと言う事なのです。 分かりやすく言えば、記号構造などの構造に捉えられている者として「私」は 自分で考えて行動し、決定すると言うヒューマニズム的な「私」ではない事になります。 つまり、私とは空・無でりあり、構造の中を構造の位置によってその欲望を備給しながら シニフィアン連鎖によって動き回るようなものなのです。
585 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:27:09 0
ちょっと、説明が不十分ですね。一般的にはラカンは構造主義精神分析家 で通っていますので、精神の構造を明らかにし、その構造にそって、人間分析 を行なっているわけですが、フロイトの原抑圧からの分析の方が良いかも知れません。 そこで、構造主義を踏まえてその発展を考えると、それでは、その言語構造に捉えられている 「私」ではない「私」は、なぜその様な構造にいるのか 或は、そう考える「私」すら何なのか分かりません。 つまり、このような抑圧によって構造と言う象徴界(言語世界)に強制的に 参加させられ、考え方や正否・間違いや正しいと言う基準が一方的に刷り 込まれる事の正当性はなくなります。
586 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:36:11 0
そこで、だれでも、ちょっと考えるとわかる事ですが、構造主義は構造を、 無意識の人間をある意識の世界へ強制的に導くものであると考える。 それでは、正しいといえない構造へ導かれた者はそれに従う理由が無い 事になります。つまり、窮屈な服を着せられたら脱ぎたくなる。 この行為が、ポスト・構造主義なのですね。分けもわからず、恵まれない状況 に投げ込まれた「私」と言えないものは、その状況=構造から逃避するか さもなくば、破壊するか、滑るか、ズラスかでしょう。 前者はドゥルーズ、後者はデリダでしょうか。
587 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:43:41 0
貴方の言う、レヴィ=ストロースは、このような恣意的な構造は 西洋の構造が全てではない事を訴えます。つまり、未開社会にもそれなりの 構造があり、それは発展段階的に最終的には西洋の構造になると言う事 を認めていません。これが構造主義の相対主義的視点です。 そして、サイードにいたっては、西洋の未開社会(東洋も含む)の観察は 西洋の見方(構造)を通してしか現れないとしています。つまり、 客観的視点の不在を示しているのですね。これが、構造には絶対的な ものはなく、相対的な視点しかないと言う事の意味です。
588 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 15:56:11 0
サイードは、つまり、観察する者の構造(文字の分節)は対象を支配しつつ 認識すると言う事でしょうか。また、バルトでは(私は余り詳しくはありませんが) この構造にいて、何かを書く作者は一体何なのかを考えます。 つまり、構造にいて、何かを書くと言う行為は、実は「私」ではないものが書いた エクルチュールに過ぎない。或は、この構造にいる読者が、この構造では 図れない、逃走線によって、つまり、「私」ではない何物かとして、 言語行為的に、自在に理解し、触発されたら、この「私」ではない私の書いた エクリチュールは何なのか?ここに彼の言う作者の消滅と読者の存在感の強調 があるのです。作者とは本と言う物自体の提供者だと言う事でしょうね。
589 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 16:04:30 0
つまり、分かりやすく言うと、構造主義は判断不可能な考え方に染められて 「私」は作られている。それは、原抑圧と、ファロス中心主義に由来する。 また、よって、この抑圧を逃れるには、分裂症的分析によって、欲望の次元 の開放を進める必要がある。また、西洋の現前=再現前と言われる哲学も この分裂的今性を拒否するファロス中心主義に由来すると言う考えがあるのですね。 形而上学批判も同じです。そこで、貴方の質問の答えになったでしょうか。 そうなる事を期待しますが、なるべく自分で紐解いては如何でしょうか。 ぴかぁ〜は「他者性」を理解できていませんね。それでは・・・・また。
590 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/15(金) 17:33:30 0
■「他者性」を理解する 柄谷には外部がない ボクは柄谷には外部がないと以前にいった。アソシエーションは外部を隠蔽すると。外部とはなにかと いうと自然なんだよね。人間界の外で人間にはコントロールできない自然。ベタには地震などが上げら れるけど、簡単にいえば、この世界の偶然性。 人間はこの外部と戦い生存するために、文明を発達させてきたわけ。助け合いとしてのネーション、全 体を統括する国家、物質的な生産・流通を管理する資本。これらは外部(偶然性)をコントロールし、内 部に回収するためにあるわけ。 柄谷はアソシエーションを人類がまだ達成していないシステムであるが、あえていえば世界宗教のよう なものと言っている。助け合いのの世界的なネットワーク。
591 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/15(金) 17:34:26 0
宗教ってなにかといえば、外部を隠蔽する運動なんだよね。宗教では、自然を含めた偶然性が神とされ るわけ。どういうことかというと、大地震がおこる。これは人間とは関係がない外部から起こって、人間を 恐怖におとしいれる。これって怖いよね。だから人間はこの偶然性を神として擬人化して、仲間に引き入 れて、天罰として人間の論理の延長線上でおこったこととするわけ。その人が悪いから天罰が下った、 だから良いことをしましょう。これで安心することができる。なにをしても、ただ偶然的天災が起こるとした ら、もう恐怖だよね。 柄谷はアソシエーションでこれと同じ方法を使うわけ。そのポイントがカントの「物そのもの」とは他者で あると、と言うわけ。「物そのもの」=外部=他者。柄谷は、この他者が超越的他者=神とは言わない。 それだと宗教になるから。デリタ的な他者=偶然性の他者、どこかにいるだろう異国の他者、またはい つか存在するだろう未来の他者など。超越論的な他者。 この論理が微妙なんだ。結局、外部を擬人化、内部に引き込んで、偶然的な自然を消失させている。み んなが助け合うアソシエーション的な秩序世界が破綻するのは、人は絶えず外部(自然)にさらされて、 助け合いだけでは生きていけるほど甘くはないという、とても当たり前の事実じゃないのかな。
592 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/15(金) 17:36:08 0
資本の力を享受することへの補完としてネーション ボクは、外部(自然)//内部(資本/国家/ネーション)の構造の中で、近代以降の科学技術の発達のい う一次元的方向性によって、内部がどのように変化するかを考えたい。外部は、宇宙論、進化論の領域 で、短時間では変化しないから。ただ最近の遺伝子工学など、外部への影響を強めていることは別の 問題としてあるけど。 科学技術の発展は、産業革命によって資本が力を持ち、またネーションが市民(平等)という力をもち、 国家の力は帝国主義などで一次的に強まったが、長期的に弱った。すなわち資本主義、リベラリズム へ向かう。これが物質的な豊かさという外部へと対抗策として有効であったから。 これはネーションの力を弱めることにもなる。助け合わなくても物質的豊かさによって、外部を防御でき るから。すると資本の活性化を進める方向で進む。そしてネーションは外部への対抗手段ではなく、内 部で資本の力が増殖するときに生まれる内部歪みを緩和効果するために必要とされるようになる。これ がネットが「繋がりの社会性」などの自分探しの手段として用いられる理由。
593 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/15(金) 17:37:01 0
一見、外部の問題と思われる「環境問題」だけど、「環境問題」はさまざまな駆け引きの場と化している、 駆け引きとしてしか存在しない、という「内部」の問題。「環境問題」は、資本主導の内部に対する、ネー ション側の反動の面が強いように思う。だからどこか信仰的で、ヒステリック。ただこれは、いまのグロー バリズムの流れを否定するものではない。あくまで、資本の力が強くなりすぎることへの注意でしかない。 資本の力が強くなることへの反動、資本の力を了承することへの補完として、国家の「小さな国家」化と ともに、今後ますますネット上のネーションの運動は重要であり続けるように思う。外部への有効な対抗 手段、様々な問題解決集団は資本によるもの(アーキテクチャー化、マクドナルド化、コンビニエンス化) しかないように思う。そこに生まれる歪み、過剰を緩和、補完するためにネーションとしてのネットが重要 になる。
このように考えると、ボクはヘーゲル−コジェーブ−フクヤマという歴史終焉主義な、 リベラリストなんだろう。そもそも歴史とは、科学技術の発展の一次性によって生まれたわけだから、 資本主義において、科学技術が成功していることは終焉しているということで良いと思う。 最近の、環境問題のような科学技術への批判も意味を持たない。 結局、省エネなどの科学技術によってしか乗りこえられないわけだから。 文明の衝突も、資本主義の批判になりえない。資本主義ってイデオロギーではなく、 科学技術主義なんだから。 精神分析は科学である。そして構造主義は数学である。 たとえばフロイト、ラカンの構造主義への批判として、近代に生まれた家庭という エディプスの3角形を人間の基本と見ていると言う、フーコーや、ドゥルーズなどの批判がある。 しかしエディプスの3角形は、家庭である必要はない。 原始社会では父とは、おじさんのことだったんだから。 すなわち構造主義とは、人間、社会を数学化したといえる。 科学技術の一次元性とは異なる方向性は見いだされるのだろうか。
595 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 22:18:39 0
長文の返事感謝。全体的に見てこれは全く、ポストモダンのスタンスではなく 科学技術信奉と外部の支配を夢見ている、自然支配者的な時代遅れの論理 のようにもみえるし、本来の意味でのアソシエイションの目的とも違う ぴかぁ〜独自の意見なのかな?俺には良く分からない。 ぴかぁ〜の外部とは自然の猛威であり、科学で予測できない物を恐怖の対象 にしている。これを科学技術の力で将来克服し手なずける事で内部にする事で 人間社会の広がりをもたらす事を君は説いている様である。 そうであるならば君の論理は古典主義的=形而上学者の片割れになって しまわないかい。また誤読と思える点もある。
596 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 22:33:57 0
594のフロイト・ラカンが言うエディプスコンプレックスを批判する ドゥルーズとフーコーの所謂ポスト構造主義者の批判は、家庭にのみ批判を浴びせたわけではない。 原始社会でも然りで、ルール・規範に従属させようとするする行為に対して 行なっているものである点であり、君の批判は当たらない。 特に、彼らのエディプス批判は家庭からその批判を社会に移しているのであり、 家庭批判よりも社会規範に対して批判をする為に、家庭と言う最低構成単位を 批判したのである。
597 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 22:45:07 0
つまり、原始社会にあっても、原抑圧はあったはずである。 しかし、それが問題にならないのは、社会の構造=規範が少ないからだと言える のではないだろうか。例えば、捕まえた獲物を分けあるルールや異性の略奪 ルールは支配者が全権を掌握していたと言う事で、残りや、分け前を待って 自分の欲望を充足させる。これくらいのルールしかないだろう。あとは、自由に出来たわけだ。 しかし、高度に文明が発展すると、生まれた時から、死ぬまでルールがある 高度な?社会が生まれる。また、君の言う様に情報の多様化が進み 東=リオタール の言う「大きな物語」の喪失を経験する。 こう言う事から、既に、原抑圧的なエディプスコンプレックス批判は事後的に 行なわれたと言える。
598 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 22:59:17 0
つまり、実態にそぐわない状況が情報化時代に現れる。 多様化する視点は個々人をバラバラにする。全体を俯瞰する視点は失われる。 バラバラを繋ぎとめていた、エディプスは批判され、社会の一律的規範は批判=消滅する運命になる。 そこで、東はその多様さを掌握する必要性(犯罪防止=セキュリティ)を説く。 ところで、君の視点は、余りにも技術重視になっている。技術の発展は使用する人間 社会の倫理の問題も含んでいるのだよ。だから、技術の通りには進まないし、現に 遺伝子のレヴェルの問題については多くの倫理的な問題もある。 同時に、例えば、情報機器にしても、新たな機械が生まれたからそれを使うのではなく 開発時点ですでに、今の市場で売れるかどうかを検討して、開発に着手するんだ。 だから、君の文章からは、何でも技術第1であり、その技術が社会を構成する と言う視点が強すぎるきらいがある。
599 :
考える名無しさん :2007/06/15(金) 23:11:52 0
つまり、技術の受容側の論理が抜けていると言う事だろう。 また、工業重視時代(産業革命以来)から生態学が生まれるまでに、 西洋の工業=科学的な思想には、結果が齎す弊害について余りにも無頓着 であったことを付け加えておきたい。つまり、エントロピー理論が無かった と言う事だ。 それと、全体として、私の踏まえてきた哲学とは余りにも違うので、コメントしよう もないが、特に、気になるのは、君のスタイルが見えない事だろうね。 全体的に、言いたい事を言っているが、焦点がボケているので、バラバラに聞こえる んだね。これは、ポストモダン的な差延ではなく、見えてこない。 だから、前から言っているように、創作でタームをデタラメに繋いでいる感がするんだね。 自分で言いたい事をもっと丁寧に説明するようにすればよいのかも。 また、最後になったが、「他者性」についてはポスト構造主義的には理解されてはいない。
自由にも2種類がある。貧しい人民大衆の、よりまともな暮らしを求める叫びのことを、だから、「フリーダム」という。 フリーダムは、だから、貧乏人=国民大衆が求める「肌を寄せ合うに、みんなで分かち合う、貧乏くさい自由」です。 リベラリズムと同根のリバティとは違う自由です。リバティの方は金持ち、貴族の、勝手放題の自由のことです。 フリーダムとは貧乏大衆の自由で、リバティは貴族や大金持ちたちの自由です。この区別は物凄く重要です。この区別を 日本人で知っている人は私以外にはいないようだ。実に不思議な感じがする。だから、リベラルとデモクラシーは、 本当は、水と油で混ざるはずが無い。そのように、今でも知識層のイギリス人は考えている。リベラルはそもそもは トーリー貴族のもので、デモクラシーは貧乏大衆のものだからだ。だから、アメリカ人をあざ笑う。 しかし、イギリスも今はアメリカの属国だから、鬱屈した表情になる。グローバリストに庇護してもらっている、 日系人の現役の思想家であるフランシス・フクヤマが、だから苦し紛れに、「ソビエトが滅んでリベラル・デモクラシー (自由民主主義)の世界的拡大で、それで、人類の歴史は(前史?)はひとまず終わる」という宣言を行ったのだ。 そういうモデル理論を提起した。それに対して、イギリス知識人たちは、リベラリズム(貴族の自由)と デモクラシー(民衆権力制)は、お互いに相い容れないものなのだ、と知っている。それで嘲笑している。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P214〜215
この数十年間で日本の政治思想・評論業界は孤絶し、かなり立ち遅れてしまった。ドイツとフランスの 古色蒼然たる百年前、二百年前の政治思想の本を。訳も分からないまま読み続けてるのが現状だ。 全くヒドいものだの一語につきる。 日本の八十年代の言論を圧倒したフランスの構造主義の大家 ミシェル・フーコのような、現代ものでも、かなり癖のある思想・哲学なのであって、本当はフーコや、 ジル・ドゥールズらの思想は 「人文」である。文学あるいは文化研究なのだ。政治権力なるものを 生まで扱う学問ではない。現在のフランスやドイツの本当の最高の知識人たちとは「どうやったら、 自分たちが、アメリカの支配から脱却できる」を本気で考えている人々だ。日本知識人は文化研究 しかできない人々だ。 副島隆彦「日本の秘密」
602 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 00:15:21 0
>ぴかぁ〜の外部とは自然の猛威であり、科学で予測できない物を恐怖の対象 >にしている。これを科学技術の力で将来克服し手なずける事で内部にする事で >人間社会の広がりをもたらす事を君は説いている様である。 再度言おう。環境問題は内部の問題だ。仮にCO2濃度が上がって気温が上がっても、明日、地球が爆 破しても、自然にはまったく関係がないことだ。地球ごときがどうなろうと、自然には痛くもかゆくもない。 環境問題はなんとしても人間生き残りたいという哀れなエゴでしかない。そしていつものごとく、自然を 擬人化して、自然が鳴いている、やさしく、など言っている。この擬人化は、自然が怖すぎて、仲間のよ うにふるまっている悲しい独り相撲でしかない。 科学技術とは、この虫けら人類が数十万年程度の一瞬の生をまだほんのちょっとでものばそうという健 気な努力なのだ。だから外部を将来手なずけるなどということは、その辺の環境問題主義者どうように、 まったくもって滑稽な勘違い野郎なんだよ。まずこれをわからないと話が進まない。
603 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 00:17:43 0
ではこのようなわかってない人を「外部無き思想家」と呼ぼう。「外部無き思想家」は簡単に科学技術批 判をする。特にポストモダンなもはや自然の脅威がなくなり、問題は内部の閉塞にしかないという輩は だいたいそうだ。いまでもボクたちは日々、外部の脅威の中で生きているのだ。だからもはや科学技術 は空気のようであっても、それがなくては生きていけないのだ。そのような意味で技術を重視するのであ り、技術を軽視する者を胡散臭い思うのだ。 だから技術に対する倫理が重要でないというのではない。技術無くては生きていけないことを知りなが ら、技術を「内部」の問題としていかに活用するか、を考えなければならないのだ。そもそも科学に全て を求めることが間違いなのだ。単なる一つの道具でしかないのだから。 次に構造主義だが、その始めの人類学のレヴィも精神分析のラカンも「科学者」だ。これは科学なの だ。機械論者デカルトは身体=機械、心=精神の二元論を唱えた。構造主義はこの心=精神を科学化 する試みの一つなのだよ。だからそもそも構造主義に全てを求めることが間違いなのだ。単なる一つの 道具でしかないのだから。
604 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 00:18:50 0
>だから、前から言っているように、創作でタームをデタラメに繋いでいる感がするんだね。 >自分で言いたい事をもっと丁寧に説明するようにすればよいのかも。 なにも難しいことは言っていない。キミが勉強するはよいだけだ。その前に自らの知識のなさを認める謙 虚さを身につけることだな。それが上達のための一番だ。 >また、最後になったが、「他者性」についてはポスト構造主義的には理解されてはいない。 最後になったが、キミがボクを理解できないのは、どの教科書にものっていないからだ。キミは単なる読 書家なのさ。
605 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 00:26:53 0
>>600 >フリーダムとは貧乏大衆の自由で、リバティは貴族や大金持ちたちの自由です。この区別は物凄く重要です。
大変おもしろいが、根本的に間違っているのは、イデオロギーはいつも後付けだということだ。
簡単にいえば、リベラリズムは存在しない。あとからこれはリベラリズムだ、と名付けるだけだ。
大先生はいつも思想ありきで話してします。いわば、学者が自己満足で名分類し、付けるようなものでしかない。
フーコー・ドゥールズ・デリダ・・・。ポスト構造主義とかそんなはなし。 80年代には確かにそんな事で一部、盛り上がってたけど そういった理論は別に日本には関係がないよって言ってたのも80年代。 それが正しかったのは今別に仏の理論家について特に誰も何とも言ってない。 それは関係がないから。あー何かまだ一部いるかも(笑) 日本においてポスト構造主義という時代はそれを外国産の思想として紹介して 話題に上がってその理論的な洗練さに驚いた人達が騒いだけどそれは別にうちらには本質的に 関係が無いと理論的に斥けた。それがどう洗練されているか、西欧的に或いはその理論家当人 にとってどう問題なのかを理解していた人は余りいなかったし、それがどう日本に関係ないかを理論的に 知っていた人も余りいなかった。それは一部で始まって一部でおわた。 そういったものが席巻したように見えるのは多分商業誌の中でそういった事が語られたから。
まず「自由主義者」の訳であるが、「リベラリスト」と言う言葉は、ドイツ語にはあるが、英語ではリベラルズ liberalsというのだ。「リベラリスト」と言う英語は無い。日本の知識人層は、この初歩の事実から学ばなくては ならない。リベラル派の反対がコンサヴァティヴズ(Conservatives・保守主義者)である。日本やアメリカで、 自分の事を「リベラル」だと思っている人々は、そもそもの、本物の歴史上の「古典的自由主義者」とは似ても 似つかぬものだ、と言う事に気づいてほしい。今の日本やアメリカのリベラル達は、本物の自由主義者達とは 反対の立場の人だのだ。言葉だけは「リベラル」だから、きわめて紛らわしい事になったのだ。 それは、イギリス人の18世紀の初期リベラル思想が、海を渡ったアメリカで共和党系の思想になったからだ。 このねじれを理解しなければいけない。 日本やアメリカの現代リベラル達は、本当は、今でも隠れ(あるいは無自覚な)社会主義者(ソーシャリスト Socialists)たちである。だから、「本物の本来の自由思想を貫く生き方をしたい」と言う人々は、アメリカでは、 仕方なく、自分達の事を リバータリアン(Libertarians)と呼ぶようになった。 アメリカでは、民主党支持であるリベラル派は、その実態は福祉優先の弱者救済主義者である。このことに 気づいて、最近は自らを「現代リベラル派(モダン・リベラル)」と呼んで保守思想である 古典自由主義者 (クラシカル・リベラルClassicalLiberals)と区別をつけるようになった。本物の自由主義とは「この、私の 私自身の自由を、他の何よりも大切にする思想」の事だ。だから、根本的に、個人主義者なのであって、 共同体優先主義(社会主義)ではない。 以下の引用は、副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184から
18世紀のイギリスの本物の古典的自由主義者たちは・「国王や教会が、私たちの生活に余計な干渉 をしないでくれ」という思想態度から興ったものである。だから本物のリベラルというのは、本当は、 徹底的に新興企業経営者層(ジェントルマン)たちの思想なのである。これが、イギリスのウィッグ党・ ホイッグ党(Whig 自由党)の支持勢力を作った。そして、トーリー党(Tory 保守党)である、貴族 たちの勢力と争ったのだ。 一般庶民(貧乏大衆)の政党などまだまだ現れない。このウィッグ(イギリス自由党)の思想が海を 渡ってアメリカに到着した時に、これがアメリカの保守勢力であるアメリカ共和党になってゆくのだ。 だから「もともとのイギリスの自由主義者が、現在ではアメリカの保守主義者」と言う事である。 いつの間にかねじくれて意味が逆転してしまった。即ち、本来の「リベラル」という言葉が、民衆 統合主義者や、左翼・社会主義者たちによって奪い取られてしまったと言う事である。この世界の 政治思想上の言語使用上の重大な逆転現象に、私たちはそろそろ気づかなければならない。 この事が分らないものだから、日本では政治学者たちですら、現代リベラル派と、本来の古典派 自由主義者の区別がつかないのだ。 副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184
609 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 08:51:03 0
色々な書き込みに感謝します。 まず、ぴかぁ〜について。602と603の論理の齟齬について君はどう考えているのだろう? つまり、602では科学技術はたいしたものではないと言い、それでもそれにすがり 多少なりとも延命する行為を支持する、つまり、君の言いたい事は、 科学崇拝なのか、それとも、つまらない微力ではあるが、それに頼るしかない、 つまり、少しの延命の為に、利用すると言うのか? あるいは、もっと大きな意味を人類は持っているので、微力な科学で延命すると言うのか? 訳がわからない文章のスタイルで、混乱しているように見える。
610 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 08:59:42 0
602に「再度言おう。環境問題は内部の問題だ。」と言い、603では 「ではこのようなわかってない人を「外部無き思想家」と呼ぼう。「外部無き思想家」は簡単に科学技術批 判をする。特にポストモダンなもはや自然の脅威がなくなり、問題は内部の閉塞にしかないという輩は だいたいそうだ。」と言う君の論点は矛盾している。 この様に君の文章には、相矛盾する事の羅列が多く、それは、私がいつも言っている 様に、君が、よく分からない言葉を単に繋いで、創作しているからなのか と言っているのだよ。だから、君へのレスんは必然的に質問のスタイルに変えたのだ。
611 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 09:07:23 0
一体全体、環境問題は君にとって、内部なのか外部なのか? 内部ならば、外部の自然環境は問題にならないのか?Co2の増減も 関係ない。そんな事は擬人化した人間の妄想であり、人間にはわからん事 であり、一方では、科学技術が全てで、構造主義は科学であり、この科学 を信奉しながら「次に構造主義だが、その始めの人類学のレヴィも精神分析 のラカンも「科学者」だ。これは科学なのだ。機械論者デカルトは身体=機械、 心=精神の二元論を唱えた。構造主義はこの心=精神を科学化する試みの一つなのだよ。 だからそもそも構造主義に全てを求めることが間違いなのだ。 単なる一つの 道具でしかないのだから。」 と矛盾する展開を平気で言っている。
612 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 09:17:29 0
構造主義が科学ならば、君は科学を信奉するのだから、肯定的に構造主義を認める のが、正常の論理だろう。いずれにしても、論旨がおかしい点がある。 それから、内部と外部についても、君は外部が無いとしながら 外部と言う言葉を使っている。これは、ポスト・構造主義的な疑問点だ。 つまり、内部と外部の二項的な分節を葬ろうとするならば、内部も外部もない 概念を作り、消滅させる必要があるだろう。 あるいは、君の言う内部とは何かが、もっと明確に語らなければならない。 つまり、ドゥルーズの言う内在哲学のように、全てが内部の感覚=表皮 だと言う事を示す必要があるだろう。その場合には、恐らく、内部に外部の問題が 全て内部に包含されると言う気がする。この様な説明が不十分なので良く分からない ものになる気がするけどね。
613 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 09:30:25 0
607さん。書き込み感謝。 確かに東なんかもリベラルと言うのは福祉的な富の再配分に肯定的で 一方リバタリアンは自分の物は自分の物であり、それをどう使おうと かってだと言う考えと言っていますね。彼によると、ある意味で、 この後者の思想がサイバースペース時代には主流になりそうな状況ですね。
614 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 09:39:36 0
615 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 09:44:47 0
キミには理解ができないのはないかな。馬鹿ではなさそうだが、軽い老化が始まっているっぽい。あまり に考えが頭の中ができあがっているために、異質なものを生理的にシャットダウンしてしまっているようだな。 もう一度だけ、初老でもわかるように説明してみよう。 仮に、人間の素の生命力を1パワーとしよう。科学はこれを100倍にする驚異的に道具だ。エセエコロ ジスト、「外部無き者」の理屈は、力を100倍にする科学はコントロールが難しい。この巨大な力は自然 を破壊している。人間はこの力を抑制し、自然に優しくなければならない。 ここで欠落しているは、自然のパワーは1兆1千臆パワーであるという事実だ。「自然にやさいく」など人 間ごときが何をいっているのか、なにを調子にのっているのか。科学の力が100パワーだろうが、自然 にとっては屁のようなものだ。それにそもそも自然とは外部であり、人間との間にコミュニケーションは存 在しない。人間が自然を破壊しようが、自然が人間を絶命させようが、そこにあるのはただ偶然性だけだ。
616 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 09:46:13 0
では、ボクのような「外部を知る者」、真のエコロジストは、どのように考えるか。この巨大な自然のパ ワー(外部)を知ることで、人間の無力さをしり、 そして無力さを補完してくれる科学技術を尊ぶ。それに よって、人間は生きることができるのだ。これが外部をしると言うことだ。 それと並行して、内部の問題を考えなければならない。すなわち科学技術の倫理だ。人間の素の1パ ワーを100倍にする科学はうまく使わなければ、人間に負の力として働く可能性がある。これは決して 自然に対してでなく、人間に対してであることが重要だ。自然が破壊されるのは、あくまで人間に必要が 自然であり、いわば内部自然だ。すなわち環境問題とは、人間と科学技術の間の内部の問題なのだ。 自然の偉大さをしり、科学技術の必要性、すばらしさを知り、それでいて、人間が生きるためにいかに科 学技術をコントロールするベキかを考えるのだ。 これでわからなければ、哲学を語ることからリタイアして、日向でお茶でもすすっていた方がよいだろう。
617 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 11:45:26 O
環境問題とは、生態系の問題です。 人間の視点からみた環境問題はエゴロジーといいます。 人間の生存だけを考えればいいなら、人体を細胞具化してしまえばいいのです ですから、環境科学技術は、エゴからエコへとシフトするための道具なのです。
618 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 11:53:51 O
ぴかあもパレルゴンもいつまで知識人ごっこを続けるつもりなの 知ったかぶりを止めてもっと謙虚な態度になりなよ このままだとほんとに性根が腐っちゃうよ
619 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 12:36:36 O
私がかつて延べたように、いくらネットで蘊蓄をタレようが 現実世界を動かさない限り、ただの茶飲み話にすぎないわけです。
620 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 15:41:41 O
>619 ポスト構造主義は非正規雇用者を大量創出して現実社会を変えたよW
日本人は「科学」というと、「物理学」より「工学」のことを思い浮かべる。「工学部」というのは テクノロジー・デパートメントのことで、「科学技術」のことだ。あるいは、限定すれば「機械工学」 エンジニアリングのことだ。そしてこれらは、実は、サイエンスが発見した自然法則(ナチュラル・ ローズ)を、産業に応用して、人間の生活に役立つ工業製品を作り出す。それが技術(テクノロジー) なのだ。だから「工学」「機械工学」は、厳しく言えば学問(サイエンス)ではない。 テクノロジーとは「応用科学(アプライド・サイエンス)のことなのである。だから発見することが学問 (科学)なのであり、科学技術は発明であるに過ぎない。そして西欧の知識伝統では、発見がすばら しいことであり、発明は「実用新案」に すぎないと考えられている。 副島隆彦「決然たる政治学への道」P167〜169
622 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/06/16(土) 16:36:50 O
アカデミーはいつもあとづけ。時代は工学が作ってきた、は常識。
623 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 18:04:32 0
618の言う通りだな。 ぴかぁ〜の論旨の展開は彼自身しか分からんだろうな。 それを自覚できないようでは、仕方あるまい。 自論を展開する前に、内部とはなにか?外部とは何かを定義しないで言いまくる 彼の展開は、一方的に述べると言う、宗教家的な発言に見える。 また、自分の哲学を自分で語ると言うことは、多くの偉大な哲学者にも見られない 異常な行為なのだと言う事を知る必要があるだろうな。 偉大な哲学者の大半は多くの論理=考えを過去の偉大な者から学んだのだよ。 誰一人自論で一方的に述べた者はいない。関連する諸説を学びそれを自己解釈して 作り上げた体系が、ヘーゲルであり、マルクスであり、ドゥルーズなのだよ。 突然発作的に持論を吐き、一方的に言い放ち、分からないとやめろと言うのは 異常でしかないと思うが?
624 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 18:17:35 0
再度言うが、説明がへたである。彼自身としては分かっているようであるが それを、表現する文章力がない。この事で、不当に理解されていないのかも知れない。 「人間の素の生命力を1とし、科学はこれを100倍にする力」と言っているが 100倍であると言う真理の証明はされていませんね。それで言い切っている。 哲学のエクリチュール(論理)では何故100倍なのかを証明するように論旨を展開させないと 思いつきだと言われても仕方のないことだよ。 今のはたった一つの例に過ぎない。君の書き方は多くのところでこの様な 言い切ると言う宗教的な欠点を持っていると言うことだ。
>>623-624 こりゃひどい。これだけいってダメだと終わってる。
もう哲学止めた方がよい。というか、昔読んだ本を繰り返し繰り返し若者に唱える
ぼけ老人の楽しみを邪魔する気はない。
まあ、隅っこでボソボソやってくれ。
626 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 18:25:48 0
とはいっても、ぴかぁ〜は努力しているし、彼のブログも見たことはある。 彼の生きがいなのだと言う熱心さも評価できると思う。 だから、もう少し、他人を罵倒せずに、「そう言う意見もあるね。」 とか「そうだね。」と言う同意を述べながら、レスをすれば良いのではないか。 また、質問に答え、相手に理解してもらえる様にコメントすると言う 姿勢でやればもっと良い雰囲気になるだろう。 「俺の方が知っている」と言う姿勢では、哲学的な討議は終わり、一方的に言い放 つレスになってしまわないか。 618の意見に沿って、以上で今回の論争は終了しような。
627 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 18:36:04 0
>>626 オマエモナー
回りのみんがに同じこといってるぞ。
それって、自己言及だろ。
がんばれw
628 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/16(土) 18:46:55 0
たとえば構造主義を考えるならば、マルクス(経済学)、フロイト(精神分析)、ソシュール(言語学)、 レヴィ(文化人類学)、ラカン(精神分析)のような系譜を考えるとわかるが、彼らは哲学者ではなく、 まず科学者なのである。彼らは、社会の下部構造を分析する枠組みを試行し、見いだしたのだ。 たとえば科学とはそもそもにおいて、仮説である。ある枠組みを提案する。それが絶対的な 真理であるなどとは言わない。しかしこれら「科学」を構造主義という思想化したとき、 これはイデオロギーとしての力を持つ。一つの真理として扱われる。 このときにポスト構造主義が現れる。真理としての力を破るような、カウンターとして。 構造主義という内部に閉じない外部へ開くことが説かれるのだ。
629 :
考える名無しさん :2007/06/16(土) 19:05:02 0
>>623-624 同意。
でも、ぴかぁ〜ってこの板に何年も居続けてるし、なんだかよくわからないんだよね。組織的な集団のようだし。
哲学板の存在そのものみたいになっている。わざとやってるんだと思うよ。
他人を嘲笑うのが2ちゃんらしい姿勢であり、ぴかぁ〜はその代名詞にすぎないと思うんだ。
ぴかぁ〜は人間じゃないんだよ。
いきさつは知らんが623の言ってる事はまあ正しいんじゃない。 そこらしか見てないけど。 そもそも哲学として議論するなら科学的(誰にでも分かる形で)に言わないといけないし 哲学自体は抽象的で無意味だし、ちゃんとした所でそういうのやるとほぼ失笑、アウト。 結局哲学とかじゃなくて、よくある日本でやってる批評的な語り口でしょ、それって。 だから失笑されるし、でそれに付き合ってる623はエロイよっ! でも波平とかいう奴を責める気にはならないよね。 だって批評家とか言ってる東もそうだしw 言ってる事が一緒とかじゃなくて在り方みたいなのが典型的だよね。批評とも違うくね。(うんそう。 理論的に正しいとかそれ以前だお^^みたいな。 多分ここらへんは共通の認識じゃないから何を言われてるのか分からなくて ケチをつけられてるって感じるかもしれないけど。 それはそれでいい。 だってあずまんもry
631 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 00:14:07 O
東も、「存在論的郵便的」は凄いよ。 今はただの趣味男だけどね シニフィアンの物質性をあそこまでえぐった論考は他にないんじゃないかな
まあ、あずまんを馬鹿にできる程えらい訳じゃないからね。 でも「オタク文化には何かある」みたいな発言は好きじゃないなあ。 出自的に何もないから或る意味、無理矢理だなーみたいなw それでも抜群にできる子なんでしょ、あずまんは。
633 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 01:44:54 O
あと、気になったのが、このスレッドでも構造主義の形而上学批判の成果を踏まえた上でポスト構造主義へ というスタンスで書かれたレスが多いけど、それはあくまでレヴィストロース がサルトルと論争的に使った意味での構造主義じゃないかな。 つまりかなりイデオロギッシュ。 所謂ポスト構造主義と呼ばれる思想家の本はことさら構造主義を踏まえなくとも読めると思います。
マルクス(経済学)、フロイト(精神分析)、ソシュール(言語学)、 レヴィ(文化人類学)、ラカン(精神分析)は科学者ではない。 疑似科学をやってるだけだ。 とっととポパーを読め。
635 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 07:38:58 0
まあ、色々な見方があって、良い訳で、構造主義にしても 1)ソシュール ・バルト・クリステバ・ソレルス のような記号論から読む場合 2)レヴィ=ストロース・スピバク・サイードのような文化人類学的構造からトレース する場合。 3)フロイトを経由したラカン・フーコーのような精神分析学と構造から読み込む 方法もある。 4)また消費社会のボードリヤール・リオタール・情報系の著者の線もある。 この分類がはっきり区分けできるとは言いがたいが、東は4)のルートから デリダを経由してオタク・アニメ・ライトノベル・スーパーフラットの分析 に入っている様だ。
636 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 07:49:07 0
時代は、同時に開かれるが、それは、フーコーの言う様に、あらゆる局面から 同じ考えが生まれてくるわけで、まあ、余り好きではないが科学哲学の言う「パラダイム」シフト が、同時多発的に、同じ考え方を導くと言う事が、635でわかってくる。 しかし、逆に、その発展ルートの差(1〜4)によって、多少の意見の 相違が生まれるのは当たり前なのである。例えば、ぴかぁ〜は4)に近い。 よって、情報技術や科学に大いに重点を置いた構造主義的な視点になっている。 一方パレルゴンは1)〜3)の方から構造を見つめている。よって、より 文系的な視点(文化的)に重きを置いている。 よって、どちらがどうだと言うのではなく、その視点の差異によって、構造主義 ポスト・構造主義も多様にその進路を分散すると言う事だろうな。
637 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 07:57:31 0
ぴかぁ〜は資本の運動について否定はしない。外部とは自然であり、 人間の存在には全く関与しない、自然の物理的原理によって、変化するが その変化は人間存在への脅威であるかどうかは、人間内部の問題であり 全く自然には意味が無いと考えている様である。 最終的には、人間の頼れるものは「科学」しかなく、全てが科学的なもの のみが重要視される。つまり、構造主義も科学者が作ったと考えている ようである。635で言うと4)のみに信奉している事が分かる。
638 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 08:05:25 0
いずれにしても、構造主義もポスト構造主義も終焉に向かっている。 多様化するセリーはどこかの段階で管理される必要性のほうが強まってきている。 この点をどうするのか?或は、アソシエイション(NPO活動)によって 一定の目的にそって、組織化し、資本の逃走・グローバル化による不確実性 を飼いならす必要があるのだと言うのがジジェクあたりの考えにもあるのではないだ ろうか。欲望の多様化の肯定は東の「動物化」と言う概念に見られるが、 この動物を監視するツールがサイバースペースに求められている。
639 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 11:20:13 0
>>635-638 まあ、勉強を良くしている方でしょうね。ボクがいうことをある程度、
理解いただいているようで。
このスレでボクが言いたいのは、構造主義とか、ポスト構造主義とかいう
小さな内部でチマチマと必死で語るのはなんか格好悪いというか、
恥ずかしいなってこと。
だから人類史、そして近代以降の科学の一次元性(どちらかというと、
ヘーゲル的?)の流れでとらえたいということ。
構造主義はマルクス、ソシュール、フロイトから始まっているわけで、
かれらの時代って、科学技術が世界を征服すると考えられていた
最盛期でしょ。その時代的な高揚の中にあったわけね。
ポスト〜はその反動と見ることだができるよね。
>最終的には、人間の頼れるものは「科学」しかなく、全てが科学的なもの
>のみが重要視される。つまり、構造主義も科学者が作ったと考えている
>ようである。635で言うと4)のみに信奉している事が分かる。
人間とは言語をつかう動物か、道具を使う動物か、というぐらい、
(科学)技術は根本的なものだからね。
技術を利便性だけでとらえてはだめだよ。どのように使うかの倫理が
そこに生まれるわけ。
ボクがいう科学技術とはこのようなラディカルにとらえているわけね。
640 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 11:21:32 0
>いずれにしても、構造主義もポスト構造主義も終焉に向かっている。 >この点をどうするのか? いろいろ考えてもらっていいけど、東が唯一すばらしいのは、 この手の試行をオタクの趣味を同じようなものととらえているところだね。 語らうなら、歴史的な大きな流れはとらえてもらいたい。 そうしないと、バレルゴン?みたいなポストモダオヤジになっちゃうよ。 ボクが言う「外部なき者」ね。
641 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 11:24:36 0
>>634 だからホパーのような小さく科学をとらえない訳ね。
642 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 12:00:26 O
おいおい、そこでヘーゲル的視野ってW 完全に退化してるじゃん
643 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 15:52:50 0
ぴかぁ〜: 東・柄谷・ボードリヤール・ルーマンで終り。 後は創作・造語。 パレルゴン:雑学・浅田・中沢・ドゥルーズ・ラカン・ジジェク・ソシュール 東・一部デリダ・スピヴァク・カフカ・ベンヤミン等多数。 後は自論少々。 後は建設的な討議を願う。この文章はパレルゴンの自作自演です。 本人が申しております。 「ラディカル」に考えているってどう言う意味でせう? マルクスって構造主義?科学の一次元性てどう言う事?特に一次元とは? ヘーゲル的?流れって何? 以上疑問点です。
644 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 15:57:35 0
それにしても、暇だ!夏になってきている。例年より二週間くらいは 早く季節が回っている。パレルゴンは本年12月〜来年の1月位から この哲版に頻繁にアクセスしますので、意見交換や質問を出し合いましょう。 中傷誹謗は極力避ける様にしましょうね。 宜しく。今、東が熱い。
645 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 16:01:58 0
それにしても、しろうとが懐かしい。 何処にいるんだよ。君が立てたスレッドだろう。 とっとと、出てくるように。何でも良いから、書いてくれ。 ぴかぁ〜だけでは物足りない。不十分。適当になって、俺の脳が 活動しなくなる。夏になって、ダラッとしてしまう。あの手の論理では、 聴いてやらないと、言ってる事がよく分からないからね。
646 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 16:05:58 0
645の発言でまた中傷誹謗合戦が再会されますので、止めてくださいませ。 建設的な論議を期待する。From 気体科学より
647 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 16:53:04 O
しろうと先生とこのスレッド住人じゃレベルが違いすぎW まずは郵便本を理解してからしゃべってくれ 郵便本の東とオタッキー東は完全に断絶している このスレッドのテーマにふさわしいのは郵便本の東のほうだけなんだ にもかかわらずオタッキー東にしか触れないここのスレ住人は郵便本を 読む能力がないだけではなく、東という売れっ子の名前をイメージだけで権威づけに 利用しているきわめてレベルの低い人たちといわざるをえない こんなところにしろうとが来るわけがない
ホパーとかヘーゲルとか、理解浅いな。哲学板レベル下がった? バレルゴンは初老、しろうとはオタク、それぞれの道を進んでいる ようでなによりです。
649 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 17:27:52 0
>「ラディカル」に考えているってどう言う意味でせう? 「根本的。根源的。」辞書くらい調べろ! >マルクスって構造主義? 話にならん、勉強しろ。 >科学の一次元性てどう言う事?特に一次元とは? >ヘーゲル的?流れって何? 進歩史観、歴史の終わり論など ここは勉強会スレだったのねw
650 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 19:39:32 O
ホパーって思想家はしらなかったなあW さすがぴかぁ、誰も知らない名前も知ってらっしゃる
651 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 19:49:42 0
何故だかわからんが、今日は哲学板全体の空気が張り詰めているよね。。
652 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 21:16:33 0
「存在論的郵便的」ポパーは「反証可能性」であるのよね。 ぴかぁ〜のように、名前だけ出してもしょうがない。中身が無いでせう。 まあ、今年の12月は熱いだろうな。あのパレルゴンが帰ってくる。 哲版最高です。
653 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 21:19:10 0
勉強会ではなく、ぴかぁ〜の理解度の確認化会なのよね。
654 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 21:32:13 0
それにしても、マルクスを構造主義とは。 それも言うならば、アルチュセールがマルクスを構造主義的に読み直した と言うべきでしょうね。
655 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 21:58:19 O
パレルゴンって、12月まで、住み込み期間工やってんの?
656 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 22:19:15 0
>>652 >「存在論的郵便的」ポパーは「反証可能性」であるのよね。
>それにしても、マルクスを構造主義とは。
>それも言うならば、アルチュセールがマルクスを構造主義的に読み直した
>と言うべきでしょうね。
なるほど。いまの哲学板ではこういうことを自慢げにいっても
恥ずかしくないレベルなんだよな。
こんな当たり前のことを堂々と言われて、ケツの穴がきゅんとしちゃったよw
657 :
考える名無しさん :2007/06/17(日) 22:25:49 0
哲学板のレベルなんていう尺度があったのか。 あれか?コテハンネットワークの質みたいなものか。
658 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/17(日) 23:12:50 0
レベルというか羞恥心かな。 「反証可能性」、アルチュセール知っていることをマジに 自慢するような羞恥心はなかったような気がするw
659 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 00:28:53 O
ぴかぁ、お前なあW
ぴかぁは自分の巣が荒らされてるから こっち来てるんだよ
661 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 10:22:09 0
巣
662 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 10:37:33 0
>>660 で、キミはそれを追いかけてこっちにきたと。
散れ、ヘナゴw
663 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 10:51:58 0
「反証可能性」は科学の一定義、それも学術的なものの一案であって、 ボクがいう「科学技術」に関しては意味を持たない。 しかしボクが「反証可能性」を一つの科学技術の力を考えている。 科学技術が一方向性を持ち得たのは、「反証可能性」によるものだからだ。 一方向性とは、一般的に「進歩」と呼ばれるものである。 歴史上において、進歩史観は新しいものである。 一般的には進歩という考えそのものがなく、変わらないと考えられるか、 あるいは宗教的に、キリスト教のように終末思想が普通である。 現代、ボクたちが持つ進歩史観(人間は進歩していく)は、 近代以降の科学技術によって、技術が積み上げられていくように なってから一般化した考えだ。
664 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 10:53:03 0
なぜ科学は進歩するのか。これは、伝達性と反証性による。 どこかで考えられてものが、早く、的確に伝達され、他の場所で 再現され検証され、そして有用性によって淘汰させるという 積み上げによって、科学は進歩する。 科学がなぜ伝達性と反証性を持つのかは、論理性による 特に数字を中心に表記されることで、秘技的な曖昧さが排除され、 高速で的確に伝達されるのだ。 これを定義として洗練させると「反証可能性」が現れる。 しかしそれは定義の一例であって、科学技術の一つの運動として 考えることができるだろう。 すなわち科学技術の発展によって、「歴史」も生まれたのだ。 ヘーゲルの歴史観も同様なものが根底にあることを考える必要があるし、 さらに先の構造主義の祖たちのマルクスの経済学、フロイトの精神分析などは、 まさにこの「科学技術」の時代の人たちであり、 科学技術的なアプローチの人たちなのである。 その高揚の頂点が「論理実証主義」運動であり、現代ではポストモダンなど、 その限界が知られているが、科学技術が進歩し続けていること、 積み上げがいまも進行していることを疑う人はいないだろう。
665 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 11:05:56 0
ヘーゲル−コジェーブ−フクヤマと続く、歴史の終焉論は、イデオロギーにおいて 様々に変形されるが、その根底にあるのは、人間の歴史とは「科学技術の発展」に 行き着くということだろう。これは、ある意味で、人間は道具を使う動物である、 ということに近い。 さらにこの考えはトトロジーの面がある。歴史(進歩史観)そのものが 「科学技術の発展」によって生まれるなら、進歩史観は進歩史観で終わるとしか、 言っていないということだ。 環境問題も結局、いまの科学技術の乗りこえ、さらなる科学技術の高度化によってしか 乗りこえられないだろう。 仮にこれに失敗して、科学文明が崩壊しても、人間が存在する限り、再び科学文明への道を 歩むだろう。人間は道具を使う動物なのであり、それが歴史の始まりであり、終焉だからだ。
666 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 11:07:41 0
■なぜ歴史は終焉したのか
667 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/06/18(月) 11:54:17 O
ポスモダ的に科学が進歩しているという価値は存在しないとなる。たとえば原爆は進歩か。 しかし蓄積が増加するということが言える。これが進歩の意味である。それが人間に有用である、さらには幸福にするなどわからない。 伝達量、再現数、蓄積量が増えるという事実にしかない。
668 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 12:51:36 0
■なぜ「歴史」は終焉したのか なぜ科学は進歩するのか 「反証可能性」は「科学とはなにか」の学術的な一定義であるが、ボクがいう「科学技術」の定義にはな りえない。しかしボクは「反証可能性」を一つの「科学技術」の力であると考えている。科学技術が一方 向性を持ち得たのは、「反証可能性」によるものだからだ。 一方向性とは、一般的に「進歩」と呼ばれるものである。歴史上において、進歩史観は新しいものであ る。「進歩」という考えそのものがなく、世界は変わらないと考えられるか、あるいはキリスト教のように 終末思想が一般的であった。現代、ボクたちが持つ進歩史観(人間は進歩していく)は、近代以降の科 学技術によって、技術が積み上げられていくイメージによって一般化した。 なぜ科学は進歩するのか。これは、伝達性と反証性による。どこかで発明されたものが、早く、的確に 伝達され、他の場所で再現され検証される。ここに蓄積の淘汰が生まれ、科学は進歩する。科学がな ぜ伝達性と反証性を持つのかは、特に数字を中心に論理的に表記されることで、秘技的な曖昧さが排 除され、高速で的確に伝達され、再現される。すなわち「科学技術」とは一つの運動として考えることが できるだろう。
669 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 12:53:19 0
進歩史観を前提に「歴史」は語られる たとえば原爆は進歩か。進歩とは、必ずしも人間に有用である、さらには幸福にするなどとはいえない。 そこにあるのは、伝達量、再現数、蓄積量が増えるという事実であり、それが進歩の意味である。そして そこに人は進歩史観を見る。 ボクたちが「歴史」というとき、そこにはすでに進歩史観が前提とされている。昔の人は大変だった。これ が失敗をしながらもここまで進歩してきた。そのように「歴史」は語られ、「歴史」とはそのような意味をも つ。すなわち科学技術の進歩史観によって、「歴史」は生まれたのだ。 ヘーゲルの歴史観も同様なものが根底にあることを考える必要があるし、さらに先の構造主義の祖た ちのマルクスの経済学、フロイトの精神分析などは、まさにこの「科学技術」の時代の人たちであり、科 学技術的なアプローチの人たちなのである。その高揚の頂点が「論理実証主義」運動であり、現代では ポストモダンなど、その限界が知られているが、科学技術が進歩し続けていること、積み上げがいまも 進行していることを疑う人はいないだろう。
670 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 12:54:11 0
「歴史」は始まるときに終焉する ヘーゲル−コジェーブ−フクヤマと続く、歴史の終焉論は、イデオロギーにおいて様々に変形されるが、 その根底にあるのは、人間の歴史とは「科学技術の発展」に行き着くということだろう。これは、ある意 味で、人間は道具を使う動物である、ということに近い。さらにこの考えはトトロジーの面がある。歴史 (進歩史観)そのものが「科学技術の発展」によって生まれるなら、進歩史観は進歩史観で終わるとし か、言っていないということだ。すなわち「歴史」は始まるときに終焉するのだ。 環境問題も結局、いまの科学技術の乗りこえ、さらなる科学技術の高度化によってしか乗りこえられな いだろう。仮にこれに失敗して、科学文明が崩壊しても、人間が存在する限り、再び科学文明への道を 歩むだろう。人間は道具を使う動物なのであり、「歴史」は始まるときに終焉するからだ。
671 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 12:55:00 0
■「外部を知る者」とは 「外部無き者」 仮に人間の素の生命力を「1パワー」としよう。人間は道具を使う動物であると言われるように、人間に とって「技術」は根源的なものであり、特に近代以降の「科学技術」はこれを「100倍」にする驚異的な道 具だ。エセエコロジスト、「外部無き者」の理屈は、力を100倍にする科学はコントロールが難しい。この 巨大な力は自然を破壊している。人間はこの力を抑制し、自然に優しくなければならない。 この考えの間違いは、形而上学的な人間中心主義であるということだ。この根底には人間>>>自然 という「驕り」がある。弱い自然を人間様は助けてあげなければならない、というとんだ勘違いである。な ぜなら、自然のパワーは「1兆1千臆パワー」なのだ。「自然にやさいく」など人間ごときが何をいってい るのか、なにを調子にのっているのか。科学の力が「100パワー」だろうが、自然にとっては屁のような ものだ。 仮にCO2濃度が上がって気温が上がっても、明日、地球が爆破しても、自然にはまったく関係がないこ とだ。これは、「自然にとって」宇宙の隅っこのゴミのような地球ごときがどうなろうと自然には痛くもかゆ くもないということ以上に、自然とは完全なる外部であり、人間との間にコミュニケーションは存在しな い。人間が自然を破壊しようが、自然が人間を絶命させようが、そこにあるのはただ偶然性だけだ。
672 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/18(月) 12:56:04 0
「外部を知る者」 では「外部を知る者」、真のエコロジストは、どのように考えるか。この巨大な自然のパワー(外部)を知 ることで、人間の無力さをしり、自然におののき、謙虚さを知る。そして自らの無力さを補完してくれる科 学技術を尊ぶ。それによって、人間は生きることができるのだ。これが外部をしると言うことだ。 それと並行して、内部の問題を考えなければならない。すなわち科学技術の倫理だ。人間の素の1パ ワーを100倍にする科学はうまく使わなければ、人間に負の力として働く可能性がある。これは決して 自然に対してでなく、人間に対してであることが重要だ。自然が破壊されるのは、あくまで人間に必要な 自然であり、いわば内部自然だ。すなわち環境問題とは、人間と科学技術の間の内部の問題なのだ。 自然の偉大さをしり、科学技術の必要性、すばらしさを知り、それでいて、人間が生きるためにいかに科 学技術をコントロールするベキかを考えるのだ。
673 :
考える名無しさん :2007/06/18(月) 13:12:31 O
ぴかぁが自分で自分に酔っていく過程がよくわかるW
最先端未来科学技術電子頭脳能力を遥かに超越するイデオロギーの無限能力が超絶自然世界にやさしくエコロジストで地球文明人間社会化環境問題偶然哲学必然偉大科学技術なのでは総ては透けませんので! 系統上顎使用な人間中心主義完璧に反対ですので!反証可能性は必要ありません! 歴史肩癖消滅特別世界征服論理的必然性と暗黒面裏長極秘密特殊作戦人類滅亡計画を完璧に実行に移す時が来たのであります!人間は道具を使う動物なので!地球意識霊的存在に撮ってはガン細胞でありますので! ポスト・モダンやポスト構造主義は全世界中から一挙に完璧になくなるべきだと思います! 超高思想世界中が望んでいるのですから!亜空間解明調査操作科学技術によるタイムトラベルとワープ航法と自然法則理論の野性動物の世界超空間を自由自在にこなす事! が出来る世に為ったのなら!野性の世界は本当に厳しいので有ります! 本当にやわい人なら目を覆いたくなるほど残酷なのですが! 僕達は結局は矢張りで超唯物論物質主義と超唯心論精神分析と政治権力者連中が総て割る印のですが束縛支配活動的超強力形式超絶精神世界ネオハイパーダイナミックグレートスピリチュアリズムニューエイジチャネリングスピリチュアルヒーリング! アドベンチャーポスト構造主義者で何だぞ! 超高天下緯度級レベルクラス科学技術機械能力によって人間社会は弱体化してしまったが!ポストモダンを超える深遠暗黒暗闇に満ちた超無限以上に奥深き完全潮位世界の超現実世界でシュールリアリズムの絵画の様な! 弱肉強食の情け無用で問答無用な生存本能に忠実な野生動物はタフすぎて損は無いので有ります!他の歩いている獲物へ容赦なく飛び掛って襲い掛かるのであります! 超高エネルギー超幻想主義者達が思い描いたジャングルの掟を探求し様ではないのですから!ニーチェ虚無主義ニヒリズム超人主義ニヒリストは本当に最高で最大で最強であります! 対ショック大戦工防御し様か医師で超高エネルギー充填120%であります!皿バーに行くよー百円の回転寿司や地球よー旅立つ船は宇宙戦艦ゴモラ!見送る人や皆に必ずここ得! 帰って来ないと告げて地球人類を滅ぼして宇宙へと帰っていった!イスカンラーメン屋へ遙遙望む宇宙戦艦ゴモラ!
ごちゃごちゃしててよくわからんのだが、結局、構造主義は科学なのか? 例えば精神分析はラカンでもフロイトでも科学ではないと思うのだが?
676 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/20(水) 16:36:38 0
>>675 精神分析の目的の一つは、科学とはなにか、を問うことにある。
とりあえずこのレベルの話なら続ける。
反証可能性あるなしの低レベルな議論なら、去れ。
677 :
考える名無しさん :2007/06/20(水) 17:10:16 0
話が大雑把すぎる>波平 構造主義以降の誰か一人でも真面目に精読したことがあるのか? あるいは、例えば誰が「外部」について、お前ほどいい加減に言及しているのか? まるで「猿でもわかる〜」とやらのボツ原稿みたいだ。
679 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/20(水) 22:12:21 0
>>679 あほかw
精読したことも無いんだろうw
自称「外部を知る者」クンw
681 :
考える名無しさん :2007/06/20(水) 23:11:09 0
反論要求は甘え。
すまん、取り消すよ、忘れてくれ…… 誰も相手にしてないかったんだねwww つい口はさんじゃったwww 精読したものを一個でもあげたら、続けてあげてもいいよwww
683 :
考える名無しさん :2007/06/20(水) 23:12:33 0
684 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/06/20(水) 23:21:22 0
685 :
考える名無しさん :2007/06/21(木) 00:07:25 0
>>684 マジで精読したものを一冊も挙げられないんだw
686 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/06/21(木) 09:39:57 O
精読といわれるときついよね。 読んだだけなら、ラカン、ドゥルーズ、ボードリヤール、デリダなどあるけど 解説本並記じゃないときついよね。 だから読み物としてはマルクス、フロイト、ハイデガーの方がだんぜんおもしろい。原本だけで意味がわかるからw キミはどう?
◆V8RGN/F1uY が聞かれてるんじゃないのか?
自然保護の思想と女性性か苦心談!癌層構造主義やポスト構造主義仁精神世界やモンロー研究所に幸福の科学の大川隆法やスピリチュアリズム研究所の江原博之遥かにニューエイジやチャネリングを超え手を利増す! ニヒリズムやエゴイズムにサタニズムを遥かに超えた代物である超高次元到達幻想粉砕超越世界に亜空間超空間特殊能力秘密特別空間への完璧極限特殊使用への接続が本当の可能になる超難易度危険技術を登載中だ! 近代とは、西洋が中心になって必死御引越しで突然変異弔慰状元璋で必殺技連続発射長威力超高威力超高破壊力超絶高度エネルギー超高度必殺全的艦隊完全抹殺刷るほどのみなが恐れ戦くほど歴史を動かした時代だ! マア唐突だけれども「未開地帯」と言う視点に立ち、西洋を相対変化した最初初期構造主義者連中が近代とは人間が自分に自信を持ち、自分達の手で歴史を創って行くと考えられています他時代背景なのであります! 大冒険戦闘活劇な精神分析移送変異超絶異空間世界がそこで人間の理性や主体特性、そして目標に向かって直線的に伸びて行く歴史の理念が彼方此方に感じられて最新作品現代思想として条件調査作戦を図りますよ! 殊更に輝かしい物賭して褒めた足られる事に為ったのであります!しかし効した建前とは別に近代とは西洋が世界中心を完璧支配した時代の事でもある増した!現代の歴史が度の様に動いて行くのかそれは私達の問題で! 全く持って他人事では容赦無くありません!理性馬鹿の有る主体的な「お化け怪物人間」とは要するに西洋人種の事柄で世界中長高度歴史は西洋を中心に進んでいくし動いてゆく物だと思われておりましたので有りますよ!
689 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:05:00 0
何か、純一とか言う者が、誤解があるような事を間接的に仄めかしている様なので 説明すると、私は全く、創価系の朝鮮論理主義?ではないし、とんでもない言いがかり ですね。恐らく、君もぴかぁ〜も俺とは世代が違うので、48年の5月革命については 全く情報が無いのでそう言う風に考えたのだろうな。つまり、君らはポストモダン と言われる、PC(サイバーネット)時代のオタク的な申し子だったんだね。 だから、生まれた時から大きな物語の無い中にいた。
690 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:13:12 0
68年だ、訂正する。 つまり、ポストモダンとはメカニカルな情報機器によって、個々が夫々自分の 価値観を見出し、共通の基準が崩壊した状況を指すのであり、君らはその時代に 生を受けた。俺はその大きな物語から個々の小さな物語への移行の時期を学習している のだ。そこでは、革命とは少し大げさだが、フランスの69年5月に反政府運動が起こった。 それは、最初、マルクス=労働運動ではと分析されていた。俺の記憶が正しければ サルトルもフーコーも恐らくドゥルーズも参加していたと思う。 しかし、この運動は労働運動ではなかった。それは、何か?つまり、ポスト構造主義 への運動だったのだよ。
691 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:22:33 0
68年だ。再訂正。 つまり、大きな物への(この様に言った方が東信奉者の諸君には分かり易いだろう。) 反動であったと言うことだ。すまり、大きな物語への反発は崩壊を求める差延の運動 を孕んでいたし、逃走と言うルゾームへの萌芽でもあるのだな。 ここまでは分かるかね。そこでだ、もう1つ重要な点を教えよう。 つまり、この運動には大きな歴史的な背景があると言うことだ。 それは、もう諸君も気付いておるかもしれないが、ユダヤ人の迫害が関与していた と言うことだ。つまり、ユダヤ人たちは、古代にシナイ半島付近に住んでいたが、 追放されてヨーロッパ諸国に離散する。その各地でその地域の慣習に馴染んでいった。
692 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:32:23 0
ところが、彼らは彼らの信奉するユダヤ教を忘れなかった。つまり、表面上は 住まう異国の慣習を尊ぶ様に振舞うが、その内面=深層はユダヤのままであった。 もう分かるだろう、つまり、ここの点がポスト構造主義的に、多様なる価値の容認 と、自身の変身(カフカ的)を示しているのだよ。 つまり、簡潔に言おう。ユダヤは虐げられただから、自分を守る為にその環境に 合わせて自身の表面を変身させる。多様に変化する柔軟性を持った。 この生き様がマイナーとしての被差別者の知恵であり、この知恵こそが、68年の 運動パラレルである事は分かるだろう。
693 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:42:30 0
つまり、中心的な基準を無くしたダイアスポラ(離散民族)は離散の地域地域で 変身すると言う(これはドゥルーズも変身と言う本を書いているのでは?) 多様な分裂型人間の原型でもある。 それと、もう1つ教えよう。それが証拠に、ポスト構造主義やそれに多大な影響を 与えた哲学者・精神分析学者にユダヤ人が多いと言う事があるだろう。 つまり、マルクス・フロイト・フッサール・デリダ・レヴィナス・クリステバ・ ベンヤミン・カフカ・プルースト等ポスト、構造主義に連なる多くの学者が ユダヤ系の人間である事は偶然ではない。
694 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 22:52:56 0
そして、ポスト構造主義哲学を受け継いで、ポストコロニアル系のスピバク サイードCS系のスチュアート・ホールなどが、すべからく、母国ではマイナー である事も偶然ではない。ここまで言えばもう私が、単純な民族主義者や 君の言う創価的朝鮮論理主義ではないことが分かってもらえたと思うが、 少なくとも純一君はハイデガーのように哲学の究極から、民族主義へ道を 謝らないで欲しいね。ポスト構造主義は一時期の思春期の迷走だったかもしれない。 しかし、近代の誤った差別を暴いたポスト・構造主義の功績を忘れてはならない。
695 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 23:05:45 0
だから、単純に浮かれて、「萌え」だのと言って浮かれてれば、それがポスト モダンと言って喜んで入られないのだよ。これが私のポスト構造主義の認識の ほんの一部だな。 それから、ぴかぁ〜も「俺が一番頭がいい」と言うようなことを言ったら それは逆に、「俺は一番では無いかもしれない」と言う事を表現している様な ものだよ。何故かって?それは評価は他者がするものだからだ。 つまり、ラカンの大文字のAだ。 それと純一は社会学をやっている。哲学が衰退しようとしている今、評価しうる。 と、東も言うだろう。それに、純一の方がぴかぁ〜を正確に分析できている。 ぴかぁ〜はコピベが多すぎる。理解不十分なのに強引に自分で書いているので よく分かってない部分がある。ここを純一に突かれている。
696 :
考える名無しさん :2007/06/29(金) 23:12:17 0
まあ、覇権争いのような、レスはやめたらどうだ。 ぴかぁ〜はあの無意味な訳のわからない長文章を書いて、皆が反応しなくなると 勝ちだと思っている。そうではなく、読むに値しないから反応していないと考える 余裕がない。客観的な判断力の欠如がある。これは全くオタクの性格だね。 純一は文章力があり、理解もしているので、ピカァ〜と同じレベルの反応は やめて、自身のスレッドを立ち上げろ。それだけの力はあるよ。
私は、フランシス・フクヤマの本を読んでいて、これだけは、書き留めておきたくなったなあ、 ということがある。それはネイティビズム対ビヘイビアリズムの巨大な対決ということだ。 ネイティビズム「固有主義あるいは生来主義」とビヘイビアリズム「(アメリカ)行動(科学)主義」 の対決ということだ。 このネイティビズムとビヘイビアリズムの対決は近代(現代)学問500年の、成否を決するぐらいの大きな 大決だ。このことを日本の知識人のほとんどが知らない。 このネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立というのが西洋学問で、一番大きな対立図式だ、ということを、 日本の知識人でしっているのは、私の他に、この国に何人いるだろうか。 (中略) 私は日本の知識人で、世界基準だと考える優れた学者には、すでに弟子入りしている。 だからそれ以外は、みんな、アホ扱いすることになる。本当にそう思っている。 私は好き嫌いの感情で動かされる人間ではない。世界水準に達して優れている学者と、 そうでないもの、は、はっきりと点数がつくぐらいに区別がつく人間だ。 (中略) ネイティビズム対ビヘイビアリズムの対立、というきわめて簡単な図式が分かると、 もしかしたら私の読者でも、一気に、ひらめくように、この世界がどのようになっていて、 どのように人間(人類)は考えてきたのか、とか、この近代500年の西洋学問(サイエンス)の 全体像が、ハッと分かるかもしれない。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P51〜52
自由にも2種類がある。貧しい人民大衆の、よりまともな暮らしを求める叫びのことを、だから、「フリーダム」という。 フリーダムは、だから、貧乏人=国民大衆が求める「肌を寄せ合うに、みんなで分かち合う、貧乏くさい自由」です。 リベラリズムと同根のリバティとは違う自由です。リバティの方は金持ち、貴族の、勝手放題の自由のことです。 フリーダムとは貧乏大衆の自由で、リバティは貴族や大金持ちたちの自由です。この区別は物凄く重要です。この区別を 日本人で知っている人は私以外にはいないようだ。実に不思議な感じがする。だから、リベラルとデモクラシーは、 本当は、水と油で混ざるはずが無い。そのように、今でも知識層のイギリス人は考えている。リベラルはそもそもは トーリー貴族のもので、デモクラシーは貧乏大衆のものだからだ。だから、アメリカ人をあざ笑う。 しかし、イギリスも今はアメリカの属国だから、鬱屈した表情になる。グローバリストに庇護してもらっている、 日系人の現役の思想家であるフランシス・フクヤマが、だから苦し紛れに、「ソビエトが滅んでリベラル・デモクラシー (自由民主主義)の世界的拡大で、それで、人類の歴史は(前史?)はひとまず終わる」という宣言を行ったのだ。 そういうモデル理論を提起した。それに対して、イギリス知識人たちは、リベラリズム(貴族の自由)と デモクラシー(民衆権力制)は、お互いに相い容れないものなのだ、と知っている。それで嘲笑している。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P214〜215
699 :
考える名無しさん :2007/07/01(日) 10:02:20 0
確かに自由の問題は大事だし言葉の概念についても、外国由来である事で、 翻訳に無い微妙ニュアンスの差があり、これは母国語で無い限り理解できない 面があるだろうね。この様な誤解をむしろ喜んでいたのがベンヤミンやポスト構造主義者 にはある訳で、つまり、言語の認識は分散しない(一定)と言う古典主義的視点や 論理実証主義的な科学主義的=数理論的言語学にある信頼を転覆させるんだけどね。 それはそれとして、確かに、自由は安全性との関係によって決まると言うことだろうね。 近代では「規律訓練」によって、各人が超自我的に社会ルールを守るように教育されていたが ポスとモダン時代になると、この様な共通基盤が崩壊する。そしてこの教育による安全 性の確保が無くなると、環境管理と言う方法で、自由を侵す者を監視管理するようになる、 つまり、個人の自由な行動と他者の自由を守る事を各人でやらせるのか、或は、外から 監視するのかの差が、近代とポスとモダンの差となって現れていると言うのが東氏の 意見であるね。
700 :
考える名無しさん :2007/07/01(日) 10:17:02 0
リバタリアンが重視される時代では、社会的なインフラの利用が有料になってくる。 例えば、図書館の利用費や公園、地下街などへの移動が身分証明書によって個人確認され テロリストや不法者への取締りが強化される。こう言う時代がポストモダンの未来に 起こるらしい。つまり、全ての人間の社会道徳的教育が不可能になった今、監視の時代 へと向かう。同時に今までは所得の大小によって累進課税が徴収されて、社会的なインフラ 保全に利用されていたが、今後は受益者(利用者)が負担すると言う時代になる と東氏は予測している様である。つまり、全ての公共施設は利用者が支払う事になるとするのが リバタリアン思想にはあるのだろうな。「俺は俺、お前はお前、俺は知らん」これが ポストモダン時代の多様性の肯定の結果であるのだろうね。
701 :
考える名無しさん :2007/07/01(日) 10:24:02 0
こう言う社会が来る事は賛成ではないね。余りにも、PC(サイバースペース) =ヴァーチャルリアリティ に未来を託しすぎて、管理=監視型になり、 貧富の差によって、社会のインフラへの利用が出来なくなる。 東氏の予想する社会は問題を残している事は明確だよ。
702 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/07/01(日) 12:27:03 0
東はなんでもわかりやすい構図にするから。 そのわかりやすさが人気の秘密なわけだけど。 フーコーから規律訓練/環境管理 アガンベから人間/動物 元ネタはこんなに二項対立でわかりやすい構図ではない。
703 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/07/01(日) 12:33:25 0
リバタリアンほどの根性はだれも持ってない。だからネオリベラル。 ここで大切なのは、リバタリアン傾向を人々が望んでいるのは、 個人の尊重ではなく、自らの小さなコミュニティを守るため。 そのコミュニティが物理的でなく、漠然と情報で繋がれているから、 社会的にみれば、個人であるように見えるだけ。 だけでだれも、リバタリアンほど、個人で責任をもつというような 覚悟などもっちゃーいない。 年金問題でも、なんでも、どこかで最後は誰かがなんとかするだろうと 思っている。年金に困る人々というコミュニティがあるんだからと。 そしてそれをネットの祭りで、やっぱりコミュニティがあった!と確認して 安心するわけさ。
704 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/07/01(日) 12:42:07 0
近代/ポスモダ=規律訓練/環境管理=人間/動物ではなく、 ポスモダ=環境管理(小さな、ゆるい規律訓練)=動物(小さな、ゆるい人間)って感じ。 実はこれが最近の東の構図ではあるのだけど。
http://txpolisci.sakura.ne.jp/aynrand15.html 客観主義とリバータリアニズムの違い
(拙訳:問 あなたの著作の熱心な読者である多くのリバータリアンたちを、どうして認めないのですか?
AR それはリバータリアンたちが得体の知れない不快な人びとの群れだからです。彼らは自分たちの目的に
よってあるときには、私のアイデアを盗用し、またあるときには共産主義者の出版物よりもひどいやり方で
私を非難します。彼らはいかなる実際主義者よりも程度が低く、彼らが主張することで客観主義に反するの
は道徳性です。彼らは道徳を無視した政治的なプログラムを持ちたいと考えているのです。)
(拙訳:問 リバータリアンたちはあなたの目標に向かっての過渡的な段階を提供しようとしています。
なのになぜ彼らを支持しないのですか?
AR どうか彼らが私の目標を追っているなどと言わないで下さい。私は知的変態の助けを求めたことは
無いし、受け入れようとも思わない。私は、理念を理解し、理念を丁重に扱い、正しい理念を広げる
ような哲学的に教育された人々を必要とします。歴史上の哲学がそうであったように、理解しそれを
他人に教える人々によって、私の哲学は広がるでしょう。さらに私が、「目的は手段を正当化する」
という堕落したスローガンを認めないということは明らかです。これはイエズス会士によって作られ、
共産主義者とナチスによって熱狂的に受け入れられました。目的は手段を正当化しません。
善いことは邪悪な手段によっては達成できないのです。
最後に、リバータリアンたちはいかなる目的に対する手段にも値しません。
客観主義を広める目標を彼らに委ねないでおきましょう。)
http://libertarian.seesaa.net/article/37254721.html (Libertarianism@Japan)
ホップは、これから日本でももっと注目されていい存在ではないかと思う。とはいえ、リバタリアニズムの
コンテキストを理解している日本人などまずいないから、まだそんな段階ではない。
日本の研究者?のリバタリアニズム理解はあまりに低レベルで話しにならない。
日本では、ポパーもハイエクも、ノージックもそのコンテキストを理解できている人間は私の知る限りでは
いない。(というか、その筋の第一人者といわれてるらしい連中のレベルが低すぎるし、でたらめな理解を
している。)
これでは研究者というよりは、タダ飯食っているだけの教師というところか。文系の研究は、まっとうな
競争らしい競争がない事務員みたいな公務員社会なのだろう。(足のひっぱりあいだけは凄そうだが。)
中身(思考)が0でも、スノビズムだけで通用してしまうのは日本の文系の伝統のようだ。
しかしホップとかは、いい教師だと思う。こういう人の話からリバタリアニズムのコンテキストを解読して
いくしかないだろう。ホップも、始めは若者らしく左翼がかっていたが、その後、リバタリアニズムの存在
に目覚めたらしい。彼に言わせると、重要な思想家は次の順だ。
フリードマン<ハイエク<<ミーゼス、ロスバード
ミーゼス、ロスバード(ミーゼスの後継者として)が、いわゆるAustrian(オーストリア学派)の
最右翼だ。フリードマンはPositivist!だが、ハイエクは、フリードマンのPositivist的なスタンスを批判
していた。しかし、その反Positivismの姿勢が一番ラディカルなのは、ハイエクよりもミーゼスだ。そして
その正統的継承者としてマレー・ロスバードがいる。
そして、ミーゼスの反Positivism思想を、Praxeology(プラクセオロジー)という。
>>706 しかし自由という概念は、曖昧に、そして恣意的に用いられてきたものだ
勿論、ハイエクに至るまでの法哲学が、この「自由」を語る前提として機能し続けてきただろう
ところが法哲学においても、グレイのように公正に基づいた自由自体を疑問視し始めている
法哲学に依拠して自由を運用してきたのは誰か?啓蒙者であり、マルキストであり、革命家であった
今では自由を語るのは、政治家であり、有権者たる市民である
自由や開放は、それを求める前提において語られ、既にフーコー的な自己のテクノロジーの域にまで達しているだろう
しかし近代以前、はたして公正に立脚したような自由は存在したかというと、人々は選択可能な自由など持ち合わせていなかった
外に開かれた土地に居て、選択余地のない家業の労働をしながら、彼らは自由で開放的な国家など求めてはいなかった
ハンナ・アレントが論じたように、二重統治の権威は消滅したが、それは自由を約束などしていなかった
自由とは結局、近代が生み出した、知を語りうる前提でしかない
「外部」なんていう愚かしい論を展開するバカがいるけど
構造主義を理解するなら、こんなアホな考えは浮かばないだろう
全ては差異の体系であって、語りうるから、外部など存在しない
命題と命題の間を座標が絶えず移動し、一定の型の中で変換しているだけ
708 :
新人 :2007/07/27(金) 11:07:40 0
ぴかぁ〜って誰? 波平のハゲにもじってぴかぁ〜?
図解雑学ポスト構造主義というラッキーな本を読んで来ました。 21世紀に普通に生きてる日本人ならポスト構造主義はもう自然と踏まえてますね。 改めて再確認したという感じです。 ポスト構造主義は現在は生かす権力により支配されており現実を変革 (日常を打破)するには形而上学的な思考を変革しなくてはならないていう とこまでは行ったが、実際に変革することはできず批評に留まった。 てことであってる?
710 :
新人 :2007/07/28(土) 21:40:29 0
>>709 あってない。
政治経済を絡めた議論は構造主義から逸脱した、ただの亜流。
変革とか何の話?ってくらい関係ないしw
>>710 現実への参加に冷ややかだった構造主義
変革への意志を取り戻そうとしたポスト構造主義
とあったけど (図解雑学ポスト構造主義より)
自由にも2種類がある。貧しい人民大衆の、よりまともな暮らしを求める叫びのことを、だから、「フリーダム」という。 フリーダムは、だから、貧乏人=国民大衆が求める「肌を寄せ合うに、みんなで分かち合う、貧乏くさい自由」です。 リベラリズムと同根のリバティとは違う自由です。リバティの方は金持ち、貴族の、勝手放題の自由のことです。 フリーダムとは貧乏大衆の自由で、リバティは貴族や大金持ちたちの自由です。この区別は物凄く重要です。この区別を 日本人で知っている人は私以外にはいないようだ。実に不思議な感じがする。だから、リベラルとデモクラシーは、 本当は、水と油で混ざるはずが無い。そのように、今でも知識層のイギリス人は考えている。リベラルはそもそもは トーリー貴族のもので、デモクラシーは貧乏大衆のものだからだ。だから、アメリカ人をあざ笑う。 しかし、イギリスも今はアメリカの属国だから、鬱屈した表情になる。グローバリストに庇護してもらっている、 日系人の現役の思想家であるフランシス・フクヤマが、だから苦し紛れに、「ソビエトが滅んでリベラル・デモクラシー (自由民主主義)の世界的拡大で、それで、人類の歴史は(前史?)はひとまず終わる」という宣言を行ったのだ。 そういうモデル理論を提起した。それに対して、イギリス知識人たちは、リベラリズム(貴族の自由)と デモクラシー(民衆権力制)は、お互いに相い容れないものなのだ、と知っている。それで嘲笑している。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P214〜215
713 :
新人 :2007/07/30(月) 00:57:10 0
だから〜 構造主義の核心はその理論自体が多様な理論体系を刷新するということであって、 現実=表層的副次的現象とは一線を隔したものなの。 ポストとかほざいてるアホは、 構造主義を拝借して立身出世したいがためにごちゃごちゃほざいてるだけ。 一番痛いのが構造主義を批判してポスト構造主義を自認するフェミニストとかだな。 純学問的理論体系をフェミ=政治運動に連関させるという、 お粗末な即物的議論なのがポストに代表される構造主義。
ポストのおじさん
>>713 数学や将棋の世界じゃないんだから
純学問的理論体なんて何の意味があるの?
数学は今の理論を内包して発展していくけど
哲学は今を批判して壊して発展してくもんでしょ。
そしてその価値は現実=表層的副次的現象にどんだけ影響
与えられたかで決まるんじゃない。世界に対してどんだけ
深い認識があったって行動として現れなければ何も知らない
のと同じ
>>715 >哲学は今を批判して壊して発展してくもんでしょ。
↑これって、構造主義がというかレヴィ=ストロースが批判した考え方じゃないか?
そうじゃない考え方も有る、ということを「構造主義」は提示したんだと思ってたけど。
あと、あなたのように
>深い認識があったって行動として現れなければ何も知らない
というような主張を元に構造主義批判をする人たちを見ていると「アンガージュマン」を叫ぶ
サルトルの亡霊が復讐の為に墓から起き上がってきた様で、見ていて痛々しい。
現状を「何とか」しようとするのは、学問ではなく政治だ。
政治に学問を利用するのは構わないし、政治運動を否定するものではない。
政治運動であることを隠して、「真理」を目指す学問であるかのように振舞うのは
滑稽であるとともに、社会の害悪だ。
ましてや、「何とか」が無いからといって学問的に無意味であるというような言説は、
自らの思想に不利益だからといって弾圧を行うに等しい最悪の政治活動だと理解すべきだ。
だから哲学自体は何の意味も無いと言っているだろうに。 ほぼ数学を意識している。 構造主義も数学からキテルだろ。 ポジションそれ自体よりもその働き、関係を優先させるのが構造主義である、みたいな〜。 別に何も痛々しくない。無知なだけでしょ。 >政治に学問を利用するのは構わないし、政治運動を否定するものではない。 >政治運動であることを隠して、「真理」を目指す学問であるかのように振舞うのは >滑稽であるとともに、社会の害悪だ。 一体いつ誰が、君が言うような真理を目指したのかこっちが聞きたい。 本当は知らないだけでしょ。知らないのに首を突っ込む方がよっぽど害悪だよな? ほとんど政治的なものとは無縁でしょ。政治的なものなんて今は完全にインタレストの 事だしね。私は共産主義ですとか言わんだろ、普通?w 哲学がインタレストについて関係がある と思いますか?今の日本の政党は国民が政治資金を寄付してくれないから民間の企業から 寄付金を貰ってもいいんだと、それが現実なんだからしょうが無いじゃんだって。それでその企業 を優遇すると。実に利害が一致してますね。この程度の論理について哲学が数学が関与するとでも 思うか?答えは否だ。現状と君が言うからにはこの現状以外に政治的なものは無いから。残念でしたね〜♪ つか副島のファンですか?w
こりゃ痛いわw
719 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 12:46:39 0
もう少し待ってくださいね。 12月中旬以降にカムバック予定です。 現在はネグリ「講演集」と梅森氏の「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」 辺りを調査しています。 当面は、政治的な問題点に集中する必要があるでしょうね。 単独者と国家と国民と共同=多様な集合体と言ったモチイーフに如何に寄添えるのか? これが、ネグリのテーマだ。 まあ、もう少し待ってください。その間はゲリラ的に、変幻自在に、リゾーム的に 出現したり消滅したりするでしょう。これこそドゥルーズの変体なのですから。
720 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 12:52:26 0
でも、マルクスを再読する気にはなれない。 強引に再度共産主義革命もないだろうし、あえて、マルクスを読む理由 もない。今更共同体もないだろう。単独者であると言う事がリアリティ をもっている以上、再度領土化されると言う事は、自由主義にあっても 共産主義にあっても否定されるだろう。 単独性とはこう言う事なのである。交流の不可能性としてあるのだ。
721 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 15:38:50 0
現在が恐ろしく使用価値に満たされている中で、労働価値もあったものではないだろう。 つまり、ある商品を生産するのに掛かる労働時間によってその商品の価値が見出される のであるならば、商品に対する欲しいと思う者(需要)相対的な量は何を意味するのだろうか? よく考えよう。つまり、ある商品に10人の人間が欲しいと思えば、その商品を生産する 労働量に関係なく価格は上がるだろう。この点がつまり、需要供給で価格は決定される と言う点が、労働価値学説には欠如しているんだ。
722 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 16:42:09 0
若者層から世代別を超えて、サイレントテロさらなる拡大問題
嗜好品、車、高価なものはいくら金に余裕あっても購入しない。
派遣・請負を多用してる大企業の製品は買わない。ライフラインを維持する最低限にしか金を使わない。
※買わない 使わない 消費しない 提供しない 貢献しない
大企業に煽られる消費活動、ブランド志向を 否定する層が拡大。
兆候として、TV(CM)を見ない・商品(新車)が売れない・旅行者の激減・結婚しない層の増加、他、テロを意識しないまでも内需減少へ。
この国の労働者は時間と労働力、税金等を企業や政府に搾取されすぎ
政治不信、所得分配率低下、あらゆる格差、派遣会社の搾取、小子化
サービス残業、激ノルマ、鬱、ワーキングプア、等の多数の社会問題が世代間を越えた国民の不満として根底にあり、拡大している様子。
2ch- 氷河期世代はサイレント・テロリストになれ-4(他、類似多数)
http://school7.2ch.net/test/read.cgi/job/1189049359/l50
ダイナミック構造主義&スペシャル構造主義&ファースト構造主義&ポスト構造主義&オリジナル構造主義を超えて
724 :
考える名無しさん :2007/10/17(水) 23:45:50 0
>>721 >現在が恐ろしく使用価値に満たされている中で、
という表現は適切ではない。
「市場経済・万物の商品化が全面化しつつある現状において」
とすべきである。
725 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 08:29:57 0
ここで表現しているのは、使用価値と交換価値の問題である。 使用価値が本来物の価値であるのに対して、交換価値はその物を生産するのに 必要な平均的労働量を指している。つまり、労働価値学説はこの点に依拠している。 ところが、現実の世界では、価値は価格として現れる。つまり、労働投入量として の価値(交換価値)は需要供給曲線で表される均衡点によって価格として表現され、 かつ、その価格は労働量を表さない。つまり、この点を表現して、現在の市場経済 は使用価値によって席巻されていると表現したのである。
726 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 08:36:50 0
つまり、平たく言えば、労働量の投入の量によって交換価値が決まるのではなく 需要と供給によって決まると考えた方がより現状に合っていると言うことだ。 その例として、現在原油市場価格が高騰しているが、これは1原油生産量の 生産のための労働量が増加したからではなく、中国を初めとした新興国の 需要が増えたからである事は明白である。よって、労働価値説による説明よりも 近代経済学と言われるケインズ系の理論の方が現状を適切に説明しうる と考える。また、この理論の背景には限界効用学説の関連も見逃せない。
727 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 08:47:56 0
よって、「使用価値に満たされている現状」と言う表現は、労働価値ではなく 使用する物を欲する欲望の量とその効用によって、需要量=価格が供給量の 関係で決定されると言う点を表現したのである。 一方、現在当哲版で展開されているぴかぁ〜氏の贈与と交換については、 全く柄谷氏の論点を展開しているのかは知らないが、まさに構造主義としての レヴィ=ストロースの展開であると言いうる。 ただし贈与がすべて円環し、回収され、貨幣による交換と同じであると 考えるならば、それはデリダ・ドゥルーズのようなシニフィエにたいする シニフィアンの過剰を認めないし、ポスト・構造主義的複合的視点を 抹殺した事になる。この点に対して理解しての上で論理を展開している のであるならば、それはそれで良いが、その場合ポスト構造主義的な 「ズラシ」は如何に批判し乗り越えられたのか不明である。
728 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 08:52:39 0
参考までに述べるが、モースの贈与の一撃は交換システムを破壊する為に のみ意味を持つものであったことは、かの浅田氏が述べているところである。 この点を読み違うとただの構造主義的円回収論と言う象徴秩序に舞い戻って しまうのでは?
729 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 10:27:46 0
つまり、ぴかぁ〜の読みは、余りにも東・柄谷的である。 一方的に彼らのテキストを引用し参照する事で、時代の全体的な 布置が見えてこないところである。それに、それが正しいと言う事 を自分の創造から巡らす事で、かえって、全体の流れが見えてこないのである。 確かに、柄谷は日本を代表する哲学者である事は自他ともに認める所である。 しかし、ぴかぁ〜は彼らの一部の本をそのまま鵜呑みにし、彼らの思想の変遷 から、思想の時代の流れを捉えていないのである。 つまり、時代とは、多くの思想や運動や行動によって重層的に織りなしている のであり、ひとりのそれも一時期の思想によって開かれるのではないと言う事である。
730 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 10:35:09 0
特に、その推論?の展開が、余りにも短絡的で、読むにたえない、物が多い。 これは、自分だけが了解できる言葉を使い、読者を煙に巻いているように見えるのである。 だから、問い詰めていけば、最終的には、単純な科学主義であったり、贈与の交換社会への回収であった り、マルクス的であったり、一貫性の無いバラバラになるのである。 これは、未だ複数の視点の学習が出来ていないのか、或は、知識吸収が彼の スタイルで、思想全体の関連には意識的に無頓着なのかであるだろう。 いずれにしても、彼はこの哲版にあって、欠く事の出来ない存在であるのだろう。
731 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 10:44:57 0
それは、多くの読者が、彼のスレッドにレスし、時には感銘し、意見を述べ、 時には批判する(チャカス)と言う、2チャンエルの存在を十分に活用できる 局面を彼ほど開いた者がいないからである。この点は皆も十分に認める 必要があるだろう。誰もが哲学に対してどのレヴェルであろうとも、 レスできる存在として、ぴかぁ〜の功績は大きい。 ところで、以前にも述べたが、私の哲版への投稿は10月で一旦終了する。 再開は12月中旬以降である。再開後はもっと時間とって、本格的な スレッドにしたいと考えている。本気で勉強する気のある者の多数の 参画を望む。それではまたね。
732 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 10:48:21 0
質問・意見があれば今月中にね。 ぴかぁ〜はまだ睡眠か?
733 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 10:55:59 0
???
734 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 11:39:47 0
>需要供給で価格は決定されると言う点が、労働価値学説には欠如しているんだ。 マルクスは交換価値(需要と交換)説を否定してるわけではなく、認めているのです。 その上で、本来はそこに抽象的労働をもとにするべき、すなわちアソシエーションを 人間社会の正しいあり方を考えるわけです。 >> 人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの 社会的労働力として支配する。ロビンソンの労働の一切の規定がここで繰り返される。た だ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物 は、もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた、直接に彼のために使用対象 であった。この協力体の総生産は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は、再 び生産手段として用いられる。それは依然として社会的である。 しかしならが、他の部分は生活手段として、協力体の成員によって費消される。したがっ て、この部分は彼らの間に分配されなければ成らぬ。この分配の様式は、社会的生産有 機体自身の特別な様式とともに、またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さととも に、変化するであろう。ただ商品生産と比較するために、各生産者の生活手段に対する分 け前は、その労働時間によって規定されると前提する。・・・このばあい生産においても分配 においても簡単明瞭であることには変わりがない。 (マルクス 「資本論」) <<
735 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 11:42:40 0
>参考までに述べるが、モースの贈与の一撃は交換システムを破壊する為にのみ意味を持 >つものであったことは、かの浅田氏が述べているところである。 「贈与の一撃」はモースでなく、デリダですね。それがボクの贈与論の重要な点、「純粋贈与(略奪)」 です。 >これは、未だ複数の視点の学習が出来ていないのか、或は、知識吸収が彼のスタイルで、 >思想全体の関連には意識的に無頓着なのかであるだろう。 キミにしてもしろうとにしても、まったく知識が追いついてこなくて、理解できないことを認めたくない故に、 ボクの言っていることがいい加減というのです。 基本的に彼らの言っていることは「まだまだ若い者には負けん」というロートルの戯言です。 苦笑しかでない。まあ、どーてもよいですが
736 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 12:28:02 0
「構造と力」 「5-4 <<贈与の一撃>> 以上により我々は完結した交換体系の根源に一方的な一撃を見出した。 この中心に一方的に自己を委ねることが「あらゆる可能的交換の アプリオリな条件」を構成する。そこにはデリダの言う「贈与の一撃 (un coup de don)」が聞こえる。」 ハゲの種本のひとつは、浅田彰の「構造と力」のようだな。
737 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 13:09:42 0
デリダの「贈与の一撃」は、ラカンにつなげた
中沢新一「愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈3〉」がおすすめですね。
>>
内容が難しいというだけでなく、哲学用語や、引用が解説なく、使われている。
引用している本が前提としてあり、その批判として書かれているところが多々
あるので、関連書を読んでいないとわかりにくいだろう。
柄谷行人の「探求T」(ISBN:4061590154)
「マルクスの可能性の中心」(ISBN:4061589318)
「世界共和国へ」(ISBN:4004310016)
中野昌宏「貨幣と精神」(ISBN:4888489785)
中沢新一「愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈3〉」(ISBN:4062582600)
あたりはぜひおすすめ。
[コメント]「なぜお金はすべてなのか」Q&A
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071006 <<
浅田彰の「構造と力」とボクの内容がどのように近くて、どのように違うかは、
今後検討すべき課題でしょうね。
>書いているご本人が、内容を理解できてないというだけでなく、 >哲学用語や、引用が正確でなく、不適切かつアドホックに使われている。 >引用している本の表層だけが前提としてあり、その結果、誤った結論に >陥っているところが多々あるので、関連書を読んでも意味不明だろう。 なるほど。
739 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 14:14:11 0
基本的な権威主義の構造にある。 権威主義とは、権威を盲進することではなく、権威によって自らの位置を見いだすことにある。 権威>「私」>波平 というとことに自らを位置づけるには、波平に対して、徹底的な権威への忠誠を 誓わせることにある。 それを明確にする問いが、「そう思うならば、ボクのことはほっておいてくれ」ということに 対する彼らの問いである。 彼らのことは「正すことが私の「使命」である」ということです。 「使命」とは権威から授けられるものである。 彼らとボクとは本質的に異なる位相にいると得るだろう。 ボクは世界について問う。そして権威はその道具でしかない。 それに対して、彼らは世界に対して興味がない。 彼らがと言うのは権威の言葉であり、その言葉を如何に正しく理解するか、ということだ。 そもそもにおいて議論そのものが成立していない。 どーでもよいことだが。
740 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 14:19:08 0
それは2ちゃんねる(というアーキテクチャ)がそもそも創造的な場ではなく、 批判的場であることによるのかもしれない。 ブログは少しはクリエイティブであるが。
741 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 17:27:18 0
・例外状態と権力 生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。アガンベンはシュミットを引用 し、「主権者とは例外状態について決定する者である。」と言ったが、その時代に選 ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停したのか、が問題と なるだろう。 ・贈与社会 原始社会では、人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)=自然のめぐみ、脅 威に晒されてきた。この例外状態を神との贈与交換として解消する、すなわちいつ かは、「負債感」の相殺できるだろうと想定することで、解消しようとする。そこに自 然宗教が生まれる。
742 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 17:28:14 0
・貨幣交換の神性 異なる対象を等価に交換する商品交換は、「命がけの飛躍」であり、不確実である。 なににおいて等価とするのだろう。絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに絶 対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なもので あり、従うしかないと考えられる。交換関係が成立しているように振るまうことで、人 は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感をもつ。 ・贈与関係の強さ、貨幣交換の弱さ 贈与における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共 同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘争)を排 除するような繋がりの「強度」があるだろう。それに対して、貨幣交換は、負債感を 生じにくく、貸し借りの感情が相殺されるやすく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で 弱いシステムである。だから科学技術、国家権力を必要とする。
743 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 17:28:49 0
・科学技術−国家(法)−貨幣 科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システム」を形成した。 科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市 場へ流入する。これらの運用を国家権力が補強する。科学技術−国家(法)−貨幣 は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。 正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けて いるのだ。 ・回帰する純粋贈与(略奪) 現代の外部(例外状態)は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する 純粋贈与(略奪)」とは、人間とは関係がない純粋は自然災害などではなく、環境資 源問題、テロリズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出して いる例外状態で生まれる。テロリズムの「神」もネットの「神」も、現代の「神」=科学 技術−国家(法)−貨幣にかわり、人々の生存を保証する可能性は低く、新たな時 代の神とはなりえないだろう。
744 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 17:29:21 0
・環境問題 科学技術−国家(法)−貨幣は、環境問題という例外状態においても利潤を生み出 さなければ、現代のの「神」としての存在意義を問われる。環境問題は、1国だけで 解決できず、国家間の利害が絡んでうまくいっていないのは、それぞれの国家がそ の存在意義として、環境対策をしながら、利益を確保するという矛盾に陥っているか らだ。環境問題が深刻化しても、国家はただみずからの存在意義をかけ、神々(国 家間)の闘争を激化させしかない。「世界共和国」が可能であるとすれば、このよう な神々(国家間)の闘争が徹底的に混沌とした先にしかないだろう。
745 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:02:11 0
やっと8回連続禁止が解けたかな。
746 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:13:17 0
贈与の一撃は確かにデリダが述べてはいるが、これは、バタイユ・とモース の影響を受けてのことである。つまり、交換経済に対する、アンチェ・テーゼ として、絶対に回収されないものの一撃である。しかし、ピカァ〜の論旨にも あるように、歯切れが悪くなる。つまり、贈与が贈与として現れ、負債として 他者が認識すると、その負債は返済への要求となる。このときには既に 交換へと変わるのである。よって、システムに回収される。この点で、 ぴかぁ〜は立ち止まってしまう。実際、デリダにもこの様な局面があり ここで、大半の者は立ち止まるしかない。つまり、回収されるのか否か? それでも、回収されるのであれば、デリダはただの構造主義者である。 ところが、次の点を読み過ごしているのだろう。
747 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:19:03 0
つまり、贈与は回収も非回収も否定されているのだ。つまり、この二項は ともに肯定されるか(ニーへチェてきな「然り」)あるいはともに否定されるか しかないのだ。いや、恐らくは、前者である。でないと、否定神学に陥る事に なるからである。すべてを否定すると言う結果肯定とイクオールになるからだ。 願わくば、デリダはあの薬にもなり、毒にもなると言う「プラトンのパルマケアー」 を意識してる。つまり、贈与は両義的であると言う事で、一撃を出来事と考えている。
748 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:30:25 0
736さんへ その通りです。確かに、今僕が書いたように、浅田は単純に結論付けているのですが、 明確な回答です。まず、哲学を学習するには、理解すると言う姿勢が必要です。 それには、部分的な詳細な読みと同時に全体を理解すると言う必要がありますね。 浅田は確かに柄谷の影で今は薄れています。出版物も少ないようです。 しかし、私が見る限り、「構造と力」が日本で最初に構造主義からポスト・構造主義 の流れを一貫して説明した本です。その後、柄谷は浅田のテーマであるポスト構造主義 を自分の文章で探求するのですが、浅田を引き込んだ出版物で行なったのです。 ですから、私は浅田の方を買っているのです。
749 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:37:40 0
ちょっと、書き方が雑ですね。ごめんね。 出来事とは物自体です。回収されない何かです。ですから、両義的な パルマコンです。そこで、次にぴかぁ〜の言う、マルクスが価値から価格への 展開を自覚していると言う点ですが、確かにダス・キャピタルに展開されています。 だからと言って、現在の資本主義経済を労働価値によって説明する意味はありません。 むしろ、需給と言う表層によって、現象を分析するべきでしょう。 ある生産物を生産する労働の量によって、交換価値を決めそこから需要供給のバランス を考えて調整するとするのは、労働者への搾取と言う彼の基本的な立場の 何物でもないわけです。
750 :
第三の波平 ◆q5y3ccmqnw :2007/10/20(土) 19:41:24 0
>>746-747 いっていることが適当すぎてあきれます。
ボクの文章をいっさい読んでないですね。
まずボクを批判するなら、ボクの文章をどこを
批判しているのか、明確にしてください。
「贈与の一撃」についてなにもしらないし。
これはしろうとよりもひどい。
以上が改善されない限り、今後一切このスレへの書き込みや
やめます。では、さようなら。
751 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 19:52:04 0
むしろ、フーコーの言う様に、マルクス主義(マルクス)は19世紀の思考 形式によって成り立っているのであり、下部構造が上部構造を支配すると言う 真理・将来の予想(労働者階級の支配)と言う国家感が我々の思考を決定付けている と言う捉え方を批判するべきなのです。つまり、フーコーはマルクスを予言的性格 を帯びた権力関係を表現していると考えています。 とはいっても、確かにフーコー亡き後のネグリやジジェクにはマルクスの 可能性に賭けているようです。おそらく、柄谷からぴかぁ〜も影響を 受けているのでしょう。その可能性とはなにかと言う点が書かれてはいませんが? そう言う点を探求するのが哲学であり、本を写しながら、哲版で理解を深める 事が意味がある事ではないのです。ぴかぁ〜さん12月から大いに討議しましょう。
752 :
考える名無しさん :2007/10/20(土) 20:03:35 0
750のぴかぁ〜へ。 またお山の大将の位置が不安になると、すねると言う態度はまだ若いですね。 誰が一番かを決定するのが哲版ではないのですよ。お互いに協力して 哲学を深める事が重要です。「なぜそうなのか?」を探求するのであり、 知りたいと言う欲望がそれを支えます。 それと、私の興味のあるところと貴方の興味のあるところが異なっているので 他人の意見を全て同じ度合いで読むのは誰でも無理です。 貴方はいつも俺の文書を読めと言っているようですが、興味がない点は 無理でしょう。それよりも、興味のある点について質問すると言うスタイル の方が良いと思います。
>またお山の大将の位置が不安になると、すねると言う態度はまだ若いですね。 不安というか、ただ悲しいだけ。 ここまでダメなやつだったかなと。 マルクスもしらないんだ。 >貴方はいつも俺の文書を読めと言っているようですが、興味がない点は >無理でしょう。それよりも、興味のある点について質問すると言うスタイル >の方が良いと思います。 キミが、読んでもないのに批判するから、読んでから批判しろといっている。 批判しないなら、読む必要も、絡む必要もなし。 というか、こういうレスするのも、脱力。 ほんと、もういいだろう。日々、仕事で忙しいんだろう。がんばれよ。 いまさら哲学でもないだろう。 さいなら。
アンノウン構造主義哲学紹介スペシャル
755 :
考える名無しさん :2007/10/29(月) 15:03:53 0
どうして日本の言論人は、自分の過去の政治思想遍歴を一行も書かずに、客観的な報道レポートのような評論文を 書くのだろうか。私が彼らに違和感を持つのは、そういう意味からである。日本の学者、知識人の文章の大半は、 いつもそうである。自分の過去を正直に書かない。自分はいつも正しい側、優劣な側にいるのである。 今は、保守派が優劣だから、転向左翼は、みんな頬被りをして、自分は生来の保守派だという顔をしている。 日本は、文明の周辺属国だから、とくに知識人と呼ばれる輸入業者たちは、世界を流れる優劣思想のほうに簡単に 押し流される。それも巧みな生き方であり、商売だ。 日本の戦後の知識人や学者たちの実に95%は、左翼あるいは反体制リベラル派だった。学生時代からほんの わずかでも左翼に流されなかった知識人などほとんどいないと思う。 クリスチャン(カトリックあるいはイエズス会)だった連中だけが、その信念(信仰)ゆえに 日本でははじめから保守派としてがんばっていた。渡辺昇一氏や曽野綾子氏や遠藤周作氏のような。 副島隆彦「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」P172
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ ギャラクシーエクスプレス銀河鉄道ポスト構造主義者スターツアーズ%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%\ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%/ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%/ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%/ %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%/
757 :
考える名無しさん :2007/11/01(木) 20:14:43 0
BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB
759 :
考える名無しさん :2007/12/12(水) 20:55:55 0
760 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 13:33:44 0
ぼちぼち復活です。 お久しぶり。パレルゴンさんいらっしゃい。 うるさいなぁ・・・・ ぼちぼち行こうかな。 今度は時間もある。 高度な論議を待っている。 それではよろしくね
761 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 15:15:34 0
「贈与に一撃」とは交換できないものを示しているのであり、 それが重要な概念になっているのは、つまり、「それ」としか言えぬ モノを暴いているからであり、カントの言う「モノ自体」に酷似するからである。 この回収されぬものを見出すことこそポスト構造主義の基本的姿勢なのである。
762 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 15:27:33 0
つまり、西洋哲学の長い歴史は、対象の認識を求めるものであった。 現象学にしても、客観的なものそのままの掌握が放棄されても 自分のコンテクストに依存して現れるもの(現象を)肯定した。 つまり、ものは決まった姿で捉えられる事を否定してはいなかった。 この「もの」に対する認識の基盤をそっくり否定したのがポスト構造主義 だった。長い西洋哲学史の中で初めてである。たとえばイギリス経験論 にしても、ヒュームなどは認識が観念連合によるとしているが、 それでも、連合する観念を対象にしようとしている。 ポスト・構造主義は観念を対象にしたりはしない。観念は創造という 創作に席を譲る。
763 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 15:33:02 0
対象化とは、回収である。掌握とは、略奪である。 だから、デリダは呼称される「私」の暴力を暴いたのである。 「私」は名付けられ「A」になった。それは権力という社会組織 の構造的暴力であること。このことの解明が重要なのは、 構造の抑圧とそこからの脱出を必要とするからである。
764 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 15:37:45 0
68年5月はマルクス主義の共産主義革命ではない。 それは、労働者も含めた構造の拘束力に反動したのである。 この拘束力はラングのパロールに対する優位に反対もした。 ソシュールの革命は、シニフィアンとシニフィエという切り口の 斬新さだけによるのではなく、ラングとパロールという切り口 にも斬新さがあったのだ。
765 :
パレルゴン二世 :2007/12/26(水) 15:50:11 0
ポストモダンによってズタズタにされた共通基盤を修復しようとする 学者も多いが、単純に共産主義に回帰する事はないだろう。 管理する側と管理される側の二分化が鮮明になって来ているが このことの正否が問われないままに、監視カメラが増設される。 テロリストの活動が、監視を強化させ、同時に国家権力が増強される。 東の壁の崩壊は西側(資本主義=民主主義)の勝利ではなかったのか? 拘束に対する反対こそが東側の崩壊ではなかったか? 答えが出ないまま、管理=監視社会化が進んでいる気がする。
766 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 08:27:26 0
否応なしに、管理・監視社会が到来している。 銀行による身元チェックの強化。引出ではなく、振り込む者にあっても 免許証などによる確認がなされる。これは、まさに、画一的な教育が なされていない為に、共通基盤を失くし、他者がどのような者であるか 不明でると言う前提に立っているのだ。これは、ある意味で多民族国家 の様である。アメリカ社会はずっと以前から、この様な多様な人間の 共存を経験している。そして、その多様な者たちの共存の在り方を 肯定しているのである。日本型の監視・管理とは、多くの場合性悪説 に基礎を据えているよようでもある。
767 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 08:42:02 0
自由とは憧れである。自由によって、私は「私」になる。 私の自由な意思と行為の決定は自由主義の根幹であり、その前提として 道徳的に行為する「実践理性」がある。つまり、古典では、自由とは 道徳的に行為する事の自由を示していた。今考えると少し違和感があるが デカルトにしても人間本来の真理は神との関係において成り立つ事を 踏まえている。だから、人間は本来善もしくは善であろうと望み、実践する 事だと考えられていた。ところが、最初にほのめかした様に、私の自由とは 私が自由に振舞うことである。ここには、善行と言う足枷はない。 悪意であろうと・善意であろうと関係なく、すべての行為が可能であること が自由であると言う認識がポスト・モダンに強く意識されている。
768 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 11:09:56 O
結果的にポスト構造主義が生みだしたものが、「強迫的な自由」である。 ジジェクはデリダ的な姿勢を強迫神経症と読んだが、脱構築に見られる 人が本来持つ形而上学的な思考に対する強い解体への欲望は、 病的なものでしかない。たとえば「私はデリダであるが、デリダではない」 というような発言に見られる。 しかし「強迫的な自由」は、ポスト構造主義とは関係がない。資本主義社会が 重視する効率化が生みだされた一つのイデオロギーである。 宮台もいうように、このような社会の自由度、流動性が向上する中で、 形而上学的な信頼は解体され、人々は安心をシステムに求めるしかなくなっている。 それが、近年の管理・監視社会である。 確かに、「強迫的な自由」によるネオリベラリズムは物質的な豊かさを達成している。 格差があり、下流であって、全体の物質的な豊かさのレベルはあがっている というのが、ネオリベラリストの説明である。
769 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 11:12:39 O
「贈与の一撃」とは、本来の贈与ではなく、デリダ的な贈与、純粋贈与と 言われるものだ。 一般的な贈与とは想像的な関係からくる。相手に対する 親しみ、思い入れ、嫉妬などの転移という他者との関係の強化としてある。 それに対して、デリダ的な贈与=純粋贈与は、太陽からの恵みのように、 他者からの見返りをもとめないようなものである。 形而上学的なものとは、もともと「(純粋)贈与の一撃」への防衛としてあった。 社会をあたかも秩序あり、隣人は信頼にたる者であるという漠然とした信頼。 もはや「贈与」は解体されるのみなのだろうか。 最近で、ネットでみられる 気持ちの悪いようななれ合い、善意は、もはやこのような穴蔵でしか なれあえないという悲しい現代人の姿を表していると言えるだろう。
770 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 11:43:55 0
ポスト構造主義的解体は病的と言うのはどうかと思うなぁ。 むしろ構造の構築こそがパラノイア的病理とも言える。 いずれにせよ、一度はこの構造の基盤が何であったか? どのように出来上がっていたのかを知る必要があったと思う。 この構造を知ることこそ、構造主義であり、その解体を求めたのが ポスト・構造主義と言う事だろう。 しかし、君の言う様に、喪失した基盤から、システム(これは構造を指しているのだろうか?) に依存し安心を得る事が本当に正しいのかと言うことをもう少し 考える必要がある気がする。 管理・監視される「私」は広大な原野にいても監視される猛獣に似ていることを 忘れてはならないだろう。それでも私と言いうるのかと。 ちょっと出かけるのでまた後で。今後とも宜しく。
まだこんなトンでもやって奴いるのかよ。 ダセー奴らだ。
772 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 13:44:31 O
たとえば、贈与を考えてみると、レヴィ=ストロールが示したのは、未開社会と 言われるものにも贈与関係という秩序ある下部構造が存在するということだ。 これに対してデリダは純粋贈与という構造を秩序を静的なものから動的なものへ 作り替えるような動きを指摘した。すなわちポスト・構造主義とは、構造主義の 解体を求めたのではなく、構造主義を補完するものとして考える必要がある。 このような動的な構造というのは、自然界の循環から、社会の経済構造から、 この世界の成り立ちとしてある。しかしその動性が重視されるのは、なんと行っても 近代以降の資本主義社会になってからである。経済的な活発さを下部構造に、 物理的、精神的な人の流動性を向上させた。 だから全体整理するには、マルクスを導入しなければならない。マルクスがいうように 貨幣の構造がいかに資本主義社会を形成しているか。構造主義は、レヴィ=ストロールに よって、未開社会にも贈与関係によって、経済的な下部構造があることを指摘したことに はじまる。それが現代において、マルクスが考えるような貨幣だけでなく、言語などの下 部構造をもつことへの構造主義分析に発展する。
773 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 13:47:44 O
しかし本当の問いは再度マルクスにもどり、これだけな動的な社会において、秩序が 保たれ得るのはなぜか、と問わなければならない。この流動性を混沌へといたらせずに 可能にしているのが、テクノロジーである。人は社会に効率的な流動性を可能にする ためにテクノロジーによってシステムを構築した。わかりやすい例を挙げれば、鉄道網や 道路網である。鉄道網によって人々の迅速に自由に移動することが可能になった。 しかしこの自由は駅がないところでは降りられないという拘束がある。 交通網は目に見えるが、情報化社会においては、このようなシステムは様々に 張り巡らされ、人々は気がつかない内に誘導されている。これがマルクス的な疎外で あるが、それはまた資本主義社会の効率化を支えているのだ。それが、マクドナルド化 する社会である。
774 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 14:52:12 0
意見有り難う。 確かにレヴィ=ストロースは構造主義的な人類学者で 構造主義の発展に大きく貢献した。特に未開地の婚姻制度が贈与の 構造になっていると言う事。 つまり、君の言うように、円環する貨幣のようなものと想定される。 これに対して、ポスト構造主義はこの円環をずらす作戦に出た。 それが、贈与の一撃である。この辺は君の考えに同意する。 しかし、そこでなぜマルクスなのか? ポスト構造主義者には1)資本主義肯定者(ドゥルーズ・シェレールなど)と 2)共産主義肯定者(ある意味でガタリ)がいる。 もっとも、ジジェクはバリバリの共産主義者だし、ネグリ、ハート にしても、資本主義派とは言えないよな。 つまり、ドゥルーズあたりを境にして、共産主義的脱構築を吸収した流れが あるようである。
775 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 15:04:35 0
つまり、脱構築とはあるいはドゥルーズ的に逃走とは、資本主義的な 生産・社会体制の肯定なのか?或いは、否定なのかと言う点の判定が 重要性を持っている。つまり、この点でネグリとハートは資本主義的 なグローバル化が帝国として、新たな搾取の火種と考えているようだ。 もちろんドゥルーズは肯定派で、多様化し差延するもの、変身するもの を資本主義的と考えている。君の言う様に、共通項や共通基盤のない 多様人間の発生は、PCに代表される情報機器=ネットワークの発展によって よって促進され、古典的な教育・監視・管理される者から隠れた者へ人々 は変遷していった。
776 :
パレルゴン二世 :2007/12/27(木) 15:10:29 0
問題の中心点は、ポスト・構造主義運動は共産主義的な運動なのか? あるいは、資本主義的なのか?この点をどう見ますか? また、フーコーの刑務所の監視の問題について、前資本主義的 と見ているのか、それとも資本主義的として資本の運動を批判して いるのか? どうでしょう。
私は学生時代から二十年間ずっと、吉本思想に入れ上げた。しかし、この四、五年間前から、彼の思想に 興醒めするようになった。果たして、思想が変わらずに一貫しているということは、そんなにも意義深い ことだろうか。私自身は、昔も今も、自分は時代に合わせて変わってゆく存在でしかないと考えてきた。 むしろ。時代の感覚の最も研ぎ澄まされた部分で誰よりも潔く変化し、思考転換していこうと思う。 その際に大切なことは、自分の考えや思想的な態度がどのように変化していったのかを、克明に正確に 記述し記録していくことである。私にとって思想とは、どこからか新しい知識を仕入れて来て、偉そうに 人々に売りさばくことではない。思想とは、自分の思考がどのように変わっていったかを、まず自分自身 に対して偽らず正直に記録していくことである。思想とはこれ以上のものではない。私はこの結論に 四十歳頃に到達した。 ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)P79~80
778 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 15:58:18 O
動的な社会において、秩序が保たれ得るのはなぜか。システム、最近の流行の 言葉で言えば、アーキテクチャーは、人々が気がつかないところで多様に構築 されている。しかしそれは静的に構築されているとしても、このアーキテクチャーこそが 社会の動性を促進している。それが、マクドナルド化する社会である。 ネグリとハートが「帝国」と呼ぶのは、このようなアーキテクチャー化のことだ。 最近のアーキテクチャーについての特徴的な話が、グーグルのG-mailに関するもので ある。G-mailは無料のメールサービスであるが、メールには内容と連動した広告が 挿入される。これはプライバシーの侵害か。グーグルの言い分は、メールを読んでいる のは人間ではなく、機械である。だからプライバシーの侵害ではない、という。 そしてこのような世界中に張り巡らされたアーキテクチャーによって、情報の伝達は 飛躍的に活性化される。 中国などにおけるグーグルの情報操作を考えると、このようなことがあてにならない ことはようにわかるだろう。主権者とは例外状態を決定する者、すなわち新たに ルールを制定するものだからだ。当然、ここにはフーコーのパノプティコンはない。
779 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/27(木) 15:59:31 O
動的な社会において、秩序が保たれ得るのはなぜか、という問いは、動的な社会を 実現するためにいかにアーキテクチャは設計されるべきか、と変形されるだろう。 このようなアーキテクチャー化する社会においては、もはや構造主義/ポスト構造主義、 あるいは共産主義/資本主義のような対立は意味をもたないだろう。 意味を持たないだけではなく、そのはじめからあったのは、近代化とはテクノロジーの 向上によって、アーキテクチャーが張り巡らされていく過程であった。 マルクスはその断面をいち早く切り取り、(ポスト)構造主義などのポストモダン論は、 社会の流動化の中で翻弄される(哀愁的な)人間描写でしかなかったとも言える。 それをもっとも劇的に描写したのがボードリヤールの消費論だろう。
780 :
考える名無しさん :2007/12/27(木) 16:30:11 0
★★小泉純一郎と安倍晋三は朝鮮人★★
コピペして各板に貼り付けよう 知人にも話そう
小泉純一郎
・戦前大臣を務めた祖父小泉又次郎は純粋な日本人とされる。だが、純一郎の帰化朝鮮人である父が鮫島姓を買い取り
又次郎の娘をたぶらかして婿として小泉家に入る そこで小泉家は帰化朝鮮人である純一郎の父に乗っ取られた
参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F% 上下くっけて
E6%B3%89%E7%B4%94%E4%B9%9F
・父親の純也は、鹿児島東加世田の朝鮮部落の出身者といわれる 日大卒業名簿には、純也の日本名はなく、
見知らぬ朝鮮名が書かれているという
純也は朝鮮人の帰国事業、地上の楽園計画の初代会長であった
・結婚後、子供をもうけ即離婚した宮本佳代子は在日企業エスエス製薬創業者の孫
・小泉の元秘書官の名前は飯島勲←注目 帰化朝鮮人
・派閥のドン森喜朗も生粋の朝鮮人 ←森も帰化人がよく使う通名
・小泉は、横須賀のヤクザ、稲川会と関係が深い
安倍晋三
・岸家 毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦い大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の
調達人が「ガン」と称する帰化人であったという 毛利はその功績によって「ガン」を
田布施周辺の代官に召したてた このガンを岸家の先祖とする説がある
・祖父岸信介が文鮮明と共に 反共団体 国際勝共連合(統一教会)を設立
・官房長官時代統一教会「合同結婚式」に祝電を送り、話題に
・安倍のスポンサーは、下関の朝鮮人パチンコ業者である
・グリコ森永事件時、明らかになった帰化朝鮮人企業森永のご令嬢と結婚
・そのわが国のファーストレディーは電通(会長成田豊、半島生まれの帰化人)勤務という分かりやすい
経歴の持ち主の朝鮮の血筋
・韓国、中国の留学生に日本の企業に入ってもらうために住居費分、学費免除分、生活費など月計20万〜30万円相当の支給
日本人のワーキングプア層を全く省みない また帰化系在日系朝鮮人が日本の企業で技術を盗み、半島の現代などの企業に
伝授していることが深刻な問題になっている
・多くの朝鮮人が差別を主張し、警察、原発、自衛隊で職を得ている
781 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 09:04:26 0
つまり、資本主義も社会主義=共産主義もなく、ただシステムが マルクスの言う下部構造として機能すると言う事だろうか? アーキテクチャとは東氏によると、都市・交通・市場・情報=コード など、人間の基盤となるシステムを指していると言う事だね。 つまり、アーキテクチャとは、ある意味では、管理型権力が幅を利かせている層と言う事になる。 あるいは、文学環境論集289Pにあるように、このアーキテクチャを 誰もが利用して、市民がそれぞれ自分の好みを選択し、それぞれの コミュニティ・サービスが選択できると言っているね。 しかし、それでは、このアーキテクチャーはどの様に作られたのだろうか? どういう権力がどの様に作ったのか?そしてこの誰が、どの様にして作り そして、その結果、どう言う状況がもたらされたか? その結果誰が得をしているのか? この様な問題が見えないようだね。
782 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 09:22:46 0
君の「下部構造」とは元来マルクスの言う、生産関係を指しているのではなく つまり、下部構造がそれ以外の構造上部構造に影響を与えると言う 意味ではなく、このシステム(アーキテクチャ)を指示していると考えても良いでしょうか? ボードリヤールについては、つまり、オリジナルの喪失する消費社会は ハイパーリアルであり、それを敷衍すれば、デノテーションからコノテーション への時代の変遷を示している。 簡単に言い換えると、前者が使用価値に根ざしたし消費社会であり 未だ価値は多様化されていない状況であり、後者は消費が多様化し 価値とは使用価値ではなく、使用する事の(社会的)意味に依存して 消費される社会を示している。 たとえばルイビトンを買うのは、その使いやすさや耐久力(強度)に よるのではなく、人の目=羨ましい に優越感を求めて購入する等 である。 そういう意味から見ると、ボードリヤールもポストモダン的である と言ってもいいのではないだろうか?
783 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 09:34:39 0
マルクスの重要性について、今一良くわからないけど、どうでしょう? アルチュセールの様に読むのだろうか? 適当に書いてくれない。 777さんへ 確かにその様に時代に逆らわず、その流れの最先端に研ぎ澄まされた 自分がいる事、そしてその事を熟慮しながら、書き留める事は 意味のあることでしょう。 しかし、その時代がどの様に開かれているのかを問う事は もっと重要だと思います。なぜなら、時代に敏感であっても、 その時代に流されている事に変わりはないのですから。 だから、時代を暴くのです。そこにこそ時代を変える力が宿っている のではないでしょうか。浅田的にはスノッブと言うのでしょうか。 いわゆる、批判的な見方こそ、次の時代を開くことになります。
784 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 09:40:41 0
780 このような右翼的なレスにはコメントできませんね。 私は、むしろ社会の真理なるものへの探究に興味がありますね。 もっとも、愛国心(ナショナリズム)の問題ならば、時代はその方向へ多少シフトしている 気もします。ベネディクト・アンダーソンの「グローバリゼーションを語る」 梅森直之著を推薦します。
785 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 13:09:03 0
だれも作ってはいない、ただ社会組織が自体、自己組織化をすると言う事 だろうか? 自己組織化する組織に誰も変更を加えられずに、その上で 踊っているか踊らされていることにもなるのではないだろうか? 歴史的に変遷してきた現構造に左右されて、たまたま多様な価値が共存しうる 現在の組織の中にいる「私」を肯定的に捉えて、納得すると言う事 にならないだろうか? 時間が十分にあるので、その内に、浅田先生の「構造と力」の解説 を分かりやすくやって見たいね。 分かり難い点は、自由にフォロー(書き込み)してくれ。 このスレッドはあくまで、構造主義からポスト・構造主義の時代を 照らすものです。リオタール・ボードリヤールはOKですが、 古典哲学であるカント・現象学のフッサール・存在論のハイデガー については、構造主義やポスト・構造主義に関連のある場合にのみ 参照します。
786 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/28(金) 13:18:58 O
レッシングはサイバー空間ではコードが法であるという。 実社会の法は何らかのイデオロギーにおける正義をもとに形成される。 しかしコードはそこに正義があるのか、あるいはないのか、わからない。 ただプログラミングされた結果かもしれない。 アーキテクチャーという言葉は様々な使われるが、最近多く使われる意味は、 情報化を元にした構築されたもの、すなわちそこに正義があるか、 どうかわからない、ただ設計されたものというニュアンスが大きいだろう。 もはや構造主義/ポスト構造主義、あるいは共産主義/資本主義のような 対立は意味をもたないとは、アーキテクチャーには言葉やイデオロギーでは 捉えられないものであるからだ。 マルクスの重要性は、資本主義経済というアーキテクチャーを分析した点にある。 マルクスがアソシエーションが目指したのは、むしろそこに正義をもちこもうと したと言える。 動的な社会において、秩序が保たれ得るのはなぜか、という問いは、 2つの問いを生む。 ・アーキテクチャーをどのように語ることができるだろうか/語ることができるのだろうか ・いかにアーキテクチャは設計されるべきか(マルクス的)
787 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/28(金) 13:20:18 O
ネグリが帝国(アーキテクチャ)への対応としてマルチチュードを強調するにも関わらず、 結局マルチチュードとは誰なのか、と問われ続けることは、同じことを表している。 もはや共産主義的な言説では捉えられない以上、そこから生まれたマルチチュードが なにものかは語れないのだ。 これは先のグーグルのG-mailの例につながるだろう。機械がメールを読むことは プライバシーの侵害か。これは従来の正義で語ることがむずかしいのだ。 ではこれは新たな世界だろうか。確かにそのような面はあるだろうが、このような アーキテクチャーの領域は一つの例外状態であるといえる。ここで、シュミットの 言葉が回帰する。「主権者とは例外状態を決定するものである」まさに中国での グーグルへの圧力が可能になったを表す。そこが無法地帯であるほどに、暴力が 意味を持つのだ。
788 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/28(金) 13:31:26 O
そこが無法地帯であるほどに、イデオロギー(的な暴力)が意味を持つのだ。 マルクスが、資本主義経済というアーキテクチャーを分析したあとに、 強烈な正義(イデオロギー)を持つ込もうとしたことはまさに先取りしている。 逆説的であるが、アーキテクチャー化した社会はまたイデオロギー言説が 乱舞し、暴力が行使される可能性が高まるのだ。 ネットにおいて、ダウンロード違法化などの規制が語られているが、 最終的には政府の介入をみるだろうという危機感がある。
789 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 13:58:42 0
確かに、正義があれば、不正に対するバインド(拘束)力が働く訳で、 善悪の基準が薄れているサイバー時代の説明にはならないね。 だから正義はない事になるね。 そうすると、サイバー時代では、コードがすべてを判別する法と言う事 になると言う事ですかね。そのコードはどの様に決定されるのか と言う事は問題にならないのだろうか?どうあるべきか? つまり、フーコー的に権力の抗争の結果による出来合いの構造 と言うものが隠されていて、誰かが、優位にコードを作るとか? そこで、簡単にコードとは「A」と言う記号は「B」の意味だと 決定することだと言う事ですね。だからコード化とは規範の作成 と言う意味に構造主義者達は使っている。 ドゥルーズではコード・超コード(王制など)・脱コード(資本主義) としている。
790 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 14:18:51 0
そうすると、イデオギー的に正・不正が明確化されているのは 問題で、正・不正の境のないのがサイバー時代で、イデオロギー的 な場合には、暴力が乱舞すると言う事ですね。 だから、サイバー時代には、暴力がなくなる。 ある意味では、むしろより強力な暴力がサイバー上では起こっている様にも 見えませんか。つまり、コードが複雑化した結果、何が正しいのか鮮明にならない ので、ディス・コミュニケーション(交流不可能)化し、 苛立ち、感情的になる。この2chにもこの様な状況が多発していますよね。 あるいは、最近殺人が増える、強盗が増える‥、コード化の弱体が つまり、君の言葉では「イデオロギー」の弱体と言ってもいいですが 逆にそういう事もありますよね。
791 :
パレルゴン二世 :2007/12/28(金) 14:30:46 0
そう言う意味では、監視型社会は、共通の価値観化を齎す 規律訓練型の弱体化が齎した事になるのですね。 誰が何を考えているかわからない。不審者の集合と化する。 いずれにしても、多様化を肯定する意味で監視が強化される。 そしてその監視のもとで、ネット接続が自由に振舞われる。
792 :
第三の波平 ◆v97jOX.oqY :2007/12/28(金) 14:39:28 O
アーキテクチャー化した社会こそ、イデオロギー(暴力)が行使される ではこれは新たな世界だろうか。1+1=2には正義はない。論理は心情的なものを排除する 特徴をもつ。たとえば古典主義経済学における、神の見えざる手には、貨幣という等価交換の 論理を元にして語られている。ここに、先のグーグルのG-mailの機械がメールを読むことは、 プライバシーの侵害ではない、ということとつながっている。 資本主義にはそのはじめに、アーキテクチャーを意味するのだ。現代の情報化社会は新たな 時代というというよりも、資本主義の徹底であるといえる。最近、ネオリベラリズムとして市場主 義が回帰していることも象徴的である。 このようなアーキテクチャーの領域は一つの例外状態であるといえる。ここで、シュミットの言 葉が回帰する。「主権者とは例外状態を決定するものである」。まさに中国政府がグーグルへ の圧力をかけ、検閲をおこなったように、そこが無法地帯であるほどに、(権力者の)暴力が行 使されるのだ。 このように考えると、資本主義を分析、批判したマルクスの姿勢は、現在において見直される べきもがあるといえる。 マルクスが、資本主義経済というアーキテクチャーを分析したあとに、 強烈な正義(イデオロギー)を持つ込もうとしたことはまさに先取りしている。逆説的であるが、 アーキテクチャー化した社会はまた権力者によるイデオロギー言説が乱舞し、暴力が行使され る可能性が高まるのだ。 グローバル化における権力者とは、国家である。ネットにおいて、ダウンロード違法化などの規 制が語られているが、最終的には政府の介入をみるだろうという危機感がある。
(副島隆彦の学問道場「今日のぼやき」[2000.3.6]より引用) 宮台真司(みやだいしんじ)君や、その他のまだ、ポストモダンを 言っている人たちがいるようですが、残念ながら、 もう世界規模では捨てられた思想です。今の 37歳ぐらいから上の人間が、感染している病気です。 東なんとか君の本など、どうせ何をいいたいのか、なにを、かいているのか、わけがわかりませんから、ご心配なく。 はじめから、この人たちは「読者にわけが分かるようには」書きません。 「 大正デモクラシー」のころの(ロシア・ボルシェビキ革命の世界的、影響です)からの「新カント学派」の影響で、 とにかく訳(わけ)が分からないように書く。読者より自分の方が頭がよいように思わせるように書く。 これが、この手の人たちの本性です。愚劣きわまりない伝統であり、日本知識人の劣勢遺伝子のかたまりです。 室町・鎌倉期の五山(ござん)の僧侶たちも、こうだったのでしょう。 かれらは、仏教の坊主(僧)だったのに、 何と朱子学(南宋学、儒学)の本をよんで、分かった振りをしていた、おもしろい人たちでした。 これと、今のおフランス思想かぶれの残党たちは、よく似ています。 じつは、フランスでも一番頭のいいのは、ドゴール主義者(ゴーリスト)の政治知識人たちです。ゴーリストたちは、 フーコーらのような、人文(じんぶん)主義の衒学(げんがく)趣味ではなく、本気で「どうやったら自分たちは アメリカの支配から脱出できるのか」を国家戦略研究所に集まって、研究しつづけているのです。 日本人のような、東アジアのモンゴリアン・インディアンには、フーコーぐらいが、文化輸出するのに、丁度いい、と、 考えていたのです。フーコー自身が、来日したとき、「ク、ク、ク」とわらいながら、そういうことを、吐いています。 (引用おわり)
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
795 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 08:40:37 0
浅田彰先生の「構造と力」は1983年9月10日に第1版第1刷が出版される。 当時は構造主義もポスト・構造主義も日本にはほとんど紹介されていなかったと聞く。 それほどまでに斬新で、大学のキャンパスでこの本を持ち歩くのがファッション になるほどであった様だ。高度で何が書いてあるか一般人には全くわからないのに 注目度は高まっていったとの事を聞いたことがある。 「構造と力」を出版時点での彼の主な論文は、アルチセールや公理主義的経済学 と本の末尾の著者履歴に記してある。この本は多くが既に「現代思想」に発表 されたものである。
796 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 08:58:52 0
「序に代えて」と言う最初の章に、彼はこう記している。 「・・・僕は十分に速くあったろうか。確かにぼくは動いた、けれども、 とぎれとぎれに続いているその軌跡が、実は大きな円を描いているのだとしたら? ・・・・堂々巡りをしていたとしたら?この様な自問こそが、人を重力の罠にはめ、 速度を減殺するのではなかったか。・・・外に出よう・・・」 この序文全体がどういう意図で構成されたかは知らないが、 この引用文に既にこの本で言い表される全ての意味、この本の意味 が凝縮している。 つまり、こうだ、私は立ち止って、机に向って、哲学書を熟読し、理解し 世界が何であるか。どのように出来ているのか。などを問うたのであろうか。 そんなことをしていたなんて思えないが、こういう風に自問する事こそ、 世界は何なのかと自問を繰り返す姿勢に他ならないと。
797 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 09:06:05 0
この自問が、脳の中で幾度となく繰り返され、廻るとしたら、 重力の様に、自分の足にずっしりと、論理=形而上学の呪いが足かせとなって しまう。だから、この様な真理探究の着実な歩みから離れ、軽やかな 外の世界に出よう。そこには重荷はない、軽やかで、スピードのある 反思考な感覚の世界が待っている。 この点にこそ、彼が信奉した、いや、こういう表現ではまずい、 彼が速度を感じたドゥルーズの思考なのである。
798 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 09:23:31 0
ドゥルーズの著書は多岐に亘っている。ここのスレッドでも多く見かけられる 様に、未だ死に絶えてはいない。しかし、恐ろしく難解でる。それは、 彼が、あらゆる分野の専門知識を断りもなく、語彙の説明もなく展開する からでもある。古典哲学・現象学・存在論・精神分析学・映画・小説・芸術(絵画) 数学・物理・生物学・文化人類学・記号論etc、彼の興味の広がりは止まることを知らない。 それは、彼が高速力で駆け抜ける為には、横断的に多くの知識が必要であったからだろう。 あるいは、知識そのものを解体するためには、多くの立派に構築された分野が必要であった のであろう。
799 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 09:35:47 0
前置きはこの位にして、「構造と力」を一緒に読もう。 ただ、その前に一言だけ断わっておきたいが、今私の前に、いや、横に 「構造と力」の本がる。実際に、この本を読みながら書き込むと言う スタイルを採るので、一つのレスと次のレスの間に可也時間がかかる 場合がある事を了解願いたい。内容は極力易しく、かつ、纏められた 状態にしたいと考えている。また、いろんな方の書き込みもお願いしたい。 暇だとは言っても、私も用事があったりするので、断りもなく、途中で抜け出す 場合がある事を了解願います。また、理解でいない点については、是非 アドバイス願いたい。私の知識も十分ではないので、協力を願います。 また、あまり関係のないレスは控えて下さい。
800 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 10:03:52 0
ビニールのカバーがきつく巻かれた本の表紙にはクラインの壺の絵が沢山描かれている。 その絵が時折、逆に配置されている。 クラインの壺はこの本の236Pにモダンの形象として、採用されている。 不換紙幣の流通、差異を作り出し回収する表現なのだろう。 そして、ニーチェのツアラトストラにある、道化師もこのモダンの象徴に加えている。 再度、表紙に戻ると、表紙の帯に異様な文字が見られる。 「構造主義/ポスト構造主義の思想を一貫したパースペクティヴのもとに 再構成。<知>のフロンティアを明晰に位置づける。」とある。 この文章は明らかに彼浅田さんのものではない。 まず、パースペクティヴと言う文章には、一つの視点が強調されすぎて いるし、全く浅田さんの展開とは異なる。また、「再構成」と言う文 は再度構築された知識と言う意味合いが強過ぎる。 私の推測では、この帯が出版編集者によって、消費者に強力にアピール する為に、作者とは関係のないところで、作られ表紙に巻かれたものだと 思われる。
801 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 10:24:02 0
それでは、序文をとばして、自信はないが、第Tの構造主義/ポスト構造主義のパースペクティヴ 第一章 楮構造とその外部 あるいはEXCESの行方 1ピュシス あるいは 生命の世界からはじめよう。 ここで、人間存在の在り方に焦点が当てられる。つまり、人間存在には有機的な秩序から 常にずれていると言うのだ。この辺はすでにお分かりの人も多いはずであるが、 ハイデガーの言う「現存在」と言う意味合いも含むのだろうと思われる。 存在者の意味合いを決定する存在が現存在と言われる。 つまり、トりは焼いて食えるもの・二足歩行するもの・石は槍の先に使えるもの 虎は怖いものなど、そんざいするものを認定する事の出来る存在者が現存在なのだ。 つまり、世界にあるもの全てを意味づける存在こそ、人間の存在(現存在) であるとする。
802 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 10:37:03 0
しかし、人間は一度認定したものの意味を幾度となく変更する。 そうする事によって、ニュートン力学は、アインシュタインの相対性理論 に置き換えられていく。そして、最終目標である、絶対的な意味=理論(真理)に 到達できないとしたら、それは幾度となく問いかけむやみに変更を加える 異常な動物と言う事になる。 この点こそが、自然の本能的な、迷う事のない生物=自然の秩序からの ズレと言っているのである。
803 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 16:16:29 0
そして、すでに気づいている方もいるかも知れないが、この幾度となく 繰り返す問いかけの結果の差異こそが、ぽポストモダンの差異化と反復 差延と言う概念につながる物である事は明確である。 つまり、真理があるならばこの再考すると言う行為は正解への運動と言いうる あるいは、ヘーゲル的な弁証法のスパイラル(らせん階段)と言える。 絶対地点への紆余曲折の工程である。 しかし、それが、正解に到達する工程ではないただの差異としたならば、それは、 過剰・自然の秩序からのズレと言う事になる。
804 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 16:27:29 0
そして、ポストモダンの多様性・多言語主義なども、この過剰なる 自然からのズレを肯定的に唱えたものである。 だから、ストモダンとはズレの文化だと言えるのではないだろうか。 ところで、先に進もう。 28P。生命とは、外部の無秩序に対抗した秩序だとする。 そして、「遺伝情報によって有機体の構造が形成され、有機体は環境を ゲシュタルト的に構造化する。」とは肉体が遺伝情報で機能的に作られる 様に、意識は構造として出来ていると言う意味である。 ゲシュタルトとは背景に浮かぶシミの様に、外的なものはそれが存在する 客観的な意味合いとして存在しているのではなく、他のものとの関係性 として、現れると言う事だ。
805 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 16:38:35 0
例えば、ハイデガーの存在論的な哲学は、ユキュスクル的と言われるが これは、動物がそれぞれが持つ器官や欲望に応じて、世界が現れると言う事を 示している。たとえば、ヒルは動物の吐く二酸化炭素や体温に反応するように して、世界を開く。そして、また、その器官と本能によって、世界は 水辺(生息域)・温度・光・など、他の器官が拾う外的情報を関係性として その動物の世界を開くと言う事だろう。 あくまで、情報は個別にではなく、スクリーンのようなものに広げられ その関係性として世界は同時に開かれていると言う事だ。
806 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 16:48:30 0
そして、浅田は(敬称は省略します。すみません。尊敬は十分にしております。) 生きるとは、無秩序化する世界を形づけていく事と言っている。 世界は「もの」としてあると言う、カントの「もの自体」と言う概念に 一致する。無機的世界を「地」とし、その上に各動物の世界が意味として 広がっている。しかも、それは同時に関係性として世界は広がっている。 このような、世界と動物の相互適応関係を円環的統一と見る。 つまり、この調和を「ピュシス」という。
807 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 19:03:39 0
細部を端折ると、このピュシス(自然の調和)からズレて存在するのが 人間である。人間には自然に備わった本能がきっちりと完全に出来上がっていない 迷う・過剰な意味付けとその方向性とをもった、動物なのだと言う事になる。 つまり、簡単に言うと、動物は遺伝に沿って、自分を取り巻く環境・状況に対して、 迷わず反応・判断するが、人間は迷い変更し、多様に反応・判断すると言う、 自然の固定化された秩序であるピュシスから追放された存在であると考えているのだ。 もちろん、この事は、アダムとイヴとの楽園からの追放を意味してもいる。
808 :
パレルゴン二世 :2007/12/29(土) 19:12:19 0
そこで、浅田はこの「1ピュシス あるいは 生命の世界」の最後のフレーズで 「はじめにEXCESがあったから、人間の出現とともに、生の絵画に 亀裂が走り、生のポリフォニーに耐えがたい不協和音が突き刺さる 事になる。」つまり、ピュシスからズレた存在である人間の出現によって 生の協調された世界がズタズタになったと言うのである。
こりゃ面白い。横槍スマソ
810 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 17:25:50 0
2 カオス あるいは 錯乱せる自然 このように、サンス(意味と方向性)の過剰を身に受けた人間は 動物のような調和のとれた存在ではなく、錯乱する自然=不自然を 身にまとった、呪われた存在として現れるのである。 この点に関しては、ハイデガーの言う現存在としての人間とは大きく異なる 捉え方と言いうるだろう。特に前期のハイデガーが死を見つめつつも 可能性として、この現実の再認識・再定義する行為を捉えていると言える。 つまり、私は如何にするべきかと考え、新たなる展開を計り、改善する と言う方向を持ち得ると言う可能性を強調したのが前期ハイデガーと 私は考えている。
811 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 17:39:33 0
この点をもっと簡潔にしよう。 つまり、対象に対する認識や行為が一定化されていない人間とは 他の動物と異なり、自然からはぐれているとする見方と だからこそ、決定されていないゆえに、新な展開・・新たな可能性に開かれて 存在していると言う二つの見方があり、後者が前期ハイデガーの言う 実存としての人間存在の考え方ではないかと言う事だ。 一方後期には、ハイデガーのスタンスは大きく変わり、存在に投げ込まれた 存在者(存在するもの)として、人間存在を捉える事に重心が変わる のである。つまり可能性と言う不透明ななかに、何が正しいのか 何をして良いのかわからない存在者として、人間を捉えるようになる と言う事だ。 この後期ハイデガーこそが、浅田の言う自然からの「ズレ」に相当する と考えられる。
812 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 18:01:16 0
時々、横道にそれるが、ただ「構造と力」の本の通りに書きまくるのは面白くない と言う事で了解頂きます。 そこで、32Pの「相矛盾するサンス(意味)の無限の多様性の中で、ノンサンス(無意味) が勝ち誇っている」と言うラカンの引用に出会う。 その後で、彼は「カオス」と言う意味をこの人間の過剰存在に宛がう。 カオスとは混沌・無秩序の意味である。 また、33Pでは、ルソーの言う、「自然状態の素朴さ、正直さが生気に満ちた 人間を示している。」としている。 つまり、自然こそが素朴に人間を生き生きとさせると言っているのだ。
813 :
考える名無しさん :2007/12/30(日) 19:34:25 O
ぴかあさんお久し振りです 相変わらず進歩がないですね
814 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 19:54:45 0
33P 本能と言う言葉が出てくる。 つまり、本能とは有機体を生のサンスにかなった行動に導くものとし、 一方人間的な過剰なサンスを欲動と呼ぶ。 そこで、フロイトを援用し、動物的な性が種の保存を目的とするのに対し 人間的な欲動は時と場所を選ばず、ありとあらゆる対象に向かって炸裂する と見るのだ。人間は多形倒錯であり、攻撃本能が抑制されず、無用の殺し合い が繰り返されるのだ。 このようなズレは幼児の成熟や早産説があり、発達の遅れの結果や視覚・知覚 の早すぎる成熟問題とされる。また、脳の異常な爆発的進化が外的状況の把握を 複雑にしている事も原因であるとみている。 つまり、未熟にして生まれ、脳が異常に発達しているので、遺伝子に刷り込まれる ものが簡潔で整然としていないので、ズレが生じるのだと言う事だ。
815 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 20:07:30 0
「脳内の過剰な情報が本来の目的を離れ空回りし始める。」 そして、この自然な動物の反応は樹状構造と言われ、ドゥルーズの言う ツリー状を示しており、命令系統がトップダウンにピラミッド化され 混乱が起こらない状態になっているが、人間の高度化された脳は シナプスの横断的な網目状連結(リゾーム)状無頭状態になっている としている。つまり、リゾームこそ地下茎を表したドゥルーズの ポスト構造主義の有名な概念であることは余りにも有名である。 と言う事は、過剰なサンスを持ち合わせた人間は、すでに、ポストモダン的な 差異を実践するように出来ていた事になる。
816 :
パレルゴン二世 :2007/12/30(日) 20:19:24 0
ここで、気付かねばならない事は、「無頭」と言う言葉である。 「無頭」には、浅田の傾注するバタイユの「無頭の共同体」と言う概念が ある。興味のある人はぜひ参照下さい。 恐らくは、統括されない個々の人間が勝手気ままに活動するが、それが ある意味で共同しているとでも言うのか?あるいは、今はやりの多文化主義的に いろんな考えが併存する基盤を共同と言っているのか? 貴君の調査をお願いする。
817 :
パレルゴン二世 :2008/01/01(火) 09:57:32 0
3 象徴秩序 恣意性・差異性・共時性 37P このタイトルだけでも、少しでも構造主義やポスト・構造主義に興味の ある者ならば、感動的えあるだろう。この四つのタイトルで全てが 表現されていると言っても過言ではない。 これは、私が幾度となくこの哲版で使用したものだ それでは、要約しよう。 ここで、浅田は、この四つの表現が構造主義による最大の功績であるとしている。 つまり、有機体(動物・植物)は自分に固有の世界があり、人間にはそれがない、 そこで、そのズレを他の物で代用しようとする。それが、文化の秩序だとしている。 そして、それが自然ではなく、自然の模造品であるが故に、恣意的でしか ありえない。この文化により作られた秩序をノモスと呼ぶ。 恣意性は言葉の通り絶対のものではないので、差異化されたものとしてしか 現れない。つまり、自然は不動で絶対的に出来上がっているので、差異化ではなく 差異化とはAと非Aのように、相対する要素が構造を決定する事になる。
818 :
パレルゴン二世 :2008/01/01(火) 10:09:05 0
だから、その文節は流動的にならざるを得なくなり、常に不安定であり 差異の連続的なものとして構成されざるを得ない事になる。 つまり、文化・価値観・ファッションなどは差異の時間的な流れであり、 安定した自然のピュシスではありえない。 この辺のあたりの説明を浅田は「各要素は他の要素と異なる何ものかで あるにすぎず、・・・・・」と39Pで述べている。 そして、この差異は高次元の網目によって、象徴的な体系になるとしている。 またドゥルーズを援用して「構造主義は、トポロジック(場所)であり、 関係的なものである。」と表現している。 このように考えると、構造は共時的であり、一挙に与えられると言う事になる。
819 :
パレルゴン二世 :2008/01/01(火) 10:17:24 0
つまり、AがB、C,D,E・・・・・・・・・と言う要素(名前)と同時に 同じ平面に示され、その事で、Aはその他の要素に対してしか現れない と言う事である。 恐らく、普通の人間ならば、「私はある対象を見出し、観察し、何であるかを 思考し、それが何かを認識=決定する。」と言う風に考えるであろう。 このように考えるのがデカルト的と言えるだろう。 常識的にはそうだね。ところが、構造主義では、差異の体系が既に 出来上がっており、その体系が一挙に与えられているのでなければ ノモスの世界は成り立たないと考える。
820 :
パレルゴン二世 :2008/01/01(火) 10:29:07 0
40P,このような恣意的・差異的・共時的構造の概念は構造言語学によって 明確にされ、意味の世界を分析する事が可能になったとしている。 ピュシスでは、環境世界の要素は、生のサンスに即するかどうかによって 分けられるが、人間の象徴秩序では、いろんな意味が加えられる。 前者を機能的な意味の担い手として、シグナルと呼び、象徴的な意味 の担い手をシンボルとする。前者は因果的・相関的であり、必然性とし、 後者は、既存の構造を経ると言う迂回によっているので、必然ではありえない 事になる。
821 :
パレルゴン二世 :2008/01/01(火) 10:50:12 0
こので、ソシュールによる記号論=構造主義言語学の説明に入る。 つまり、「シニイアンとシニフィエ」の結合=シーシュがこのシンボリックな構造 を形作るのである。また、言語こそが象徴秩序を構成するものであり、 レヴィ=ストロースによって、この象徴体系が文化の秩序の説明にも 拡大されたとする。 つまり、世界は三つに分けられる@ピュシス=自然=動植物 Aノモス=作られた秩序 Bコスモス=人間の知覚する自然の秩序 このAとBは人間の秩序であるが、特にBについて、レヴィ=ストロース から援用している。ノモスと言う不安定な差異化構造をより安定した コスモスが支える構造こそが、人間の在り方なのだ。 にもかかわらず、コスモスでさえ、ピュシスの様に絶対ではなく、 恣意的なものにすぎない。 ピュシスとは連続する世界であり、ノモスには「死の不連続」しかない とする。
822 :
考える名無しさん :2008/01/03(木) 01:32:04 0
ハイデッガーの素晴しさが最高でありますよねー!?
823 :
パレルゴン二世 :2008/01/03(木) 07:49:21 0
882さんへ 確かに、ハイデガーを無視して、構造主義は語れない気がしますね。 彼の主体が森の中に開いた空間と言う時、それは自然からの構造のズレが 否決定で無意味な空間を兼ね備えている事と一致しますね。 そこで、44Pの間奏曲に移ります。 そこで、浅田はあのEXCES(ズレ)がすべて象徴秩序に収まるのかと問いかけます。 すでに、ここまで読んできた者ならば、自ずと解る質問ですが、大変丁寧に 浅田は説明を加えます。 もちろん、自然ではない構造であるので、未だ象徴秩序に包摂されない部分 が残っている。しかし、それでは拙いわけです。象徴秩序を利用する人間が これは、恣意的であり、不完全で、すべてが出来上がっていない、不完全の物だと 知っては拙い訳です。それがばれてしまえば、「俺はそんなものに従わない。」と言う事 になってしまい、混乱・錯乱するカオスへ逆戻りするしかない状況になります。 そこで、この恣意性・人為性を隠し、まるでピュシスの様に装うと浅田は説明します。
824 :
パレルゴン二世 :2008/01/03(木) 08:10:07 0
そして、絶対に綻びのないものと認識させる為に、このカオスではないかとの疑いを 「抑圧」させる必要があると言う事です。 そしてこの抑圧によって真理=自然とねつ造されたされたものこそ、 イデオロギーの原型ではないかと、浅田は自問します。 そして、ここで、この様に作られた構造の分析に終始する構造主義的分析は、 それが無視する構造の外部に残されたズレの領域を、構造から追放すやる事こそ、 象徴秩序イデオロギーの構成に加担していたと言う事を暴く。 共時的とする構造主義分析が、時には静態的で不変な構造と捉えられる 点を批判するのだ。 そして、バルトを援用し「構造主義は、発見手続きとしてどれほど価値が あったにせよ、ついにズレを体系に組み入れることができなかった。」 とし、構造主義を超える必要性が説かれる。 つまり、序文に述べられた「外」「スピード」とは構造からの外であり スピードとは、構造からの逃走のスピードなのだ。
825 :
パレルゴン二世 :2008/01/03(木) 08:22:29 0
そして、構造主義の完結した共時構造の存在を強調するのに対し それが外部を持ち、その外部との相互関係に構造があることを強調する。 つまり、このことこそが、デリダやドゥルーズの言う、「脱構築・差延」や 「脱領土化」と言うタームに結びつくのだ。 そして、構造主義が「常にすでに」と考える構造に対し、あるの生成過程の 過程にこそ構想はある事を強調せねばならない。この姿勢は「未だ−ない」 と言う言葉の中に言い表されるのだ。未だ現れぬ差異化されたものへの 到来の予感なのだろうか? このように浅田は間奏曲を締め括る。
826 :
パレルゴン二世 :2008/01/03(木) 08:30:53 0
852の文章の訂正 1)構造主義が完結した構造を強調するのに対し、 外部の存在を強調するのがデリダやドゥルーズであること。 2)構造主義が構造を「常にすでに」と見るのに、デリダ・ドゥルーズ は「未だ−ない」と見ること。 文章が不鮮明につき追加説明。
827 :
パレルゴン二世 :2008/01/04(金) 17:54:45 0
5交換と≪贈与の一撃≫ いよいよ贈与論ですかね。かなり複雑になって来ましたが、皆さん宜しいでしょうか? なるべく簡潔に行きたいですね。でも、あまり簡潔だと、こぼれおちるもの も多いと言う事でしょうね。しかし、私の能力の足りない点について、微妙な 判断になりますが、ご了解願って、先を進めることにします。 5−1 交換体系 自然ではない象徴秩序はそのままでは確定されず、常に確認=再確認を必要と します。つまり、交換やコミュニケーションを手段として、確認が行われるのだ。 具体的には、象徴秩序は@言語A物B人の交換体系として分析する事こそ 構造主義のプログラム?としてる。Bはレヴィ=ストロースの言う、 近親相姦の禁止=女の交換を指している。
828 :
馬鹿 :2008/01/04(金) 18:02:39 0
今までの議論は、読んでいません。すいません。 私は構造への提言として、 主観的理由と客観的理由と言う風に分けて欲しいです。 主観的理由とは、一般的に言われる目的、目標みたいな、それを目標にしてのこれからの道しるべ。 客観的理由とは、2000年以前まで一般的だった理由。
829 :
パレルゴン二世 :2008/01/04(金) 18:09:06 0
そして、浅田はこの三者の並列に重大な疑問があるとしつつも、 この三者並列に沿って当面分析すると言う。 そこで、ピュシスにおける意味付与=価値評価は、一個の有機体と 一個の対象の間で確定しうるとする。 つまり、簡単に言うと、ヒルはヒルの器官と食物補足=欲望にそって 確定的に対象を捉えるので、対象と有機体の間にズレが生じない。 それ以外の意味に対象を捉える事は皆無であるのだ。 ところが、人間存在のパターンである作られた模造の秩序である 象徴秩序には、対象間の関係の総体が織りなす構造に中で初めて 決定されるのだね。つまり、わかりやすく言うと、ルイヴィトンの カバンが意味=価値を持つのは、皆が欲しがるからであり、それ自身が 直接的にそれ自身の価値を示しえないのだ。
830 :
パレルゴン二世 :2008/01/04(金) 18:17:18 0
もっと別の説明をしよう。 例えば、アインシュタインの相対性理論はどうだろうか? その理論自体で対象=宇宙の物質対象を全て理論自身が示し 確定しており、関係の総体を必要としない様に思われるだろう。 (この場合宇宙にある物質の形相・質量などの位置関係を 示しているのではない事は分かっているよね。あくまで、この 理論=認識=意味が、それ自体で正しいと言いうるかと言う問題 です。)
831 :
パレルゴン二世 :2008/01/04(金) 18:32:14 0
ちょっと( )内の説明が不十分であったので、再度詳細に言おう。 つまり:この場合の「関係」とは 宇宙にある物質の質量及びその位置関係によって、世界の状態を理論が それ自体、参照する事なく証明した事を言っているのではないと言う事です。 了解ですか? アインシュタインの理論はその理論自体で、証明されうるか? 答えは「ノン」でしょうね。 つまり、理論物理学が人間社会において、一定の権威=認められている状態 が前提としてあります。また、彼が著名であったことも考えられます。 また、数式=数学が絶対的な信頼すべき手段であることが既に認められている 必要があります。そして、もっとも重要なことは、この彼の理論を正しいと 認める学者達(彼らも既に素晴らしい学者であると認められている人)が必要 なのです。また、この様な理論の発見を新聞に載せる新聞社も関係します。
832 :
パレルゴン二世 :2008/01/04(金) 18:37:17 0
この様な関係性のネット(既存の構造)によって、その意味が確認(交換)されなければ ならないと言う事。この事がピュシスにいる動植物とは異なると言う事ですね。
833 :
考える名無しさん :2008/01/05(土) 05:19:03 0
真面目よんだけれど、なんか備忘録かなにかの為にこのスレッドをお使いか??
もしも、論を講じていらっしゃるのなら。極めて汎用だと想いますよ。
その先の「関係性のネット
>>832 」をつくる事は非線形力学と神経現象学がこころみていますよ?
834 :
パレルゴン二世 :2008/01/05(土) 08:39:02 0
備忘録の為ではありません。最初のところで書きましたが、構造主義 とポスト・構造主義について、浅田先生の「構造と力」を読んでいるのですね。 私の理解するところを簡単に述べようとしているのですが、貴方が興味がなければ、 無視してくださいね。 ところで、もし貴方が非線形力学や神経現象学に関する知識をお持ちならば 詳細なレスをして下さい。その領域と浅田さんの言う構造主義における 関係性のネットとはどのような繋がり・類似性があるのでしょうか? コメント願います。
835 :
パレルゴン二世 :2008/01/05(土) 08:59:16 0
先に進みましょう。 48P そこで、浅田は「象徴的な意味や価値が対象間の関係の総体が織りなす 構造の中ではじめて決定され、その事は対象が社会的な仕方で相互に 関係付けられる事によって、絶えず再確認されなければならない。」 とする。 つまり、アインシュタインの理論で言えば、一度だけの 承認(素晴らしい!間違っていない!)と言うだけではなく、この構造 の中で、何回も参照され認められることがなければ意味はなくなるのだ と言う事だ。そして、この象徴的な意味・価値が恣意的なものであるが故に 一個人(主体)が独自の意味付与・価値評価を行っても意味をなさない のである。つまり、構造内での参照なくば、一個人の独断は全く妄想に すぎないのである。そして、この交換関係を事後的に対象の同一性 (意味・価値・性質の固定化)として定立させる。こんな感じでしょうか。 つまり、関係性として現れるにすぎない対象(意味・価値)が、それ自身として 最初から意味・価値を持っていた様に、事後的客観的対象の様に現れるのでしょう。
836 :
パレルゴン二世 :2008/01/05(土) 09:09:50 0
ここで、浅田は、ピュシスとの比較で動物の行為は何ものとも関係しないとする マルクス・エンゲルスを参照する。 そして、自己同一性そのものこそが、交換関係に参与する事を通じて 形成されるのだと説く。 この辺は、明らかにラカンの大文字のAの概念に酷似していますね。 つまり、自分=主体とは自分を認識する他者の総体としてある事。 そしてその他者の認識する「私」は自分自身で「私」を認識することが 不可能かもしれないと言う不安・・・・。 この辺はカフカの文学にも見られます。
837 :
パレルゴン二世 :2008/01/05(土) 09:20:25 0
836の自己同一性とは人間主体の事です。 ここでデカルトやチョムスキー(一般的に言語学者とされている人?) について、コミュニケーションの結果として生じる定型的な主体論を 説く人達と浅田は言う。私は前者がコミュニケーション(交換・交流) によって主体論を展開したとは到底思えないが、周知の通り、「われ思う ゆえに我あり」と言う事は、取りも直さず、私の存在は考える私の存在を 否定できない事を根拠としているのであり、この中に関係性の重要性 は持ち込まれてはいないと思うが。
838 :
考える名無しさん :2008/01/05(土) 15:51:07 0
>>836 >自分=主体とは自分を認識する他者の総体としてある事。
自分=主体とは「自分を認識する他者の総体」と「我は我である」の
矛盾的統一といったほうが正しい。
839 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 07:59:39 0
838さんへ なかなか良い指摘だね。 確かに、構造主義的に静態的に・共時的に見ると、主体としての自分 はその参照行為として、他者へ映し出された自分に注目する行為の中 に既にある、不十分ではあるが、主体があるとも言えるね。 また、ポスト・構造主義的に見ると、主体とは永遠に完結しないとも 考えられる。永遠に脱構築するとは、意味・価値だけではなくこの 主体と言われるものも脱構築されねばならない。このように考えると A=A(私は私)はA=A1=A2=A3・・・・・と無限にスライド変身せざるを得ない 事になるよね。この点を先に見越していたので、私の表現には、君の言う 「我は我である」を書かなかったと言う事になる。 でもやはりここで浅田は構造主義の説明を加えているのであり、A=Aを 表現した方が良かっただろね。 ポスト構造主義を経て、この主体論(主体とは何か)はさらに大きな注目を 浴びる事になるね。つまり、主体とは、強制的に抑圧されたものの現れ であるとかね。
840 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 08:15:38 0
先に行く。48P そこで、デカルトやチョムスキーの言う≪良識≫や≪コンピテンス≫(環境の情報を集め 効果的に環境との相互作用する能力の事?)は人間の生得的な能力と言う 解釈ではなく、(これを先験的実体とする)内面に実体化された社会的諸関係なのだとする。 この点については、講談社選書メチエの「カルチラル・スタディーズ」 237Pに本質主義と反本質主義の説明が詳細になされているので参照すると良いでしょう。 もちろん 構造主義は反本質主義で、たとえば、女性は「やさしさ」「貞淑さ」「感性的(非理性的)」 と言う特徴があるのは生まれながらであるとするのが、本質主義で、 いや、後天的に社会で身につけらされた(つけた)とするのが、反本質主義と言う事になるね。
841 :
考える名無しさん :2008/01/06(日) 08:24:23 0
前スレのミラーってないのですか?
842 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 08:26:26 0
先に行く。 そこで浅田も気づく事になるが、この様な構造内での参照行為によって 主体は定型的な関係の束、構造の担い手へと還元しつくせるのか?と 自問する。つまり、先ほど述べた例でいくと、構造内で、A=Aを確定でき るのか?と問うてる事になる。 答えは「ノン」だ。ズレを隠し持っている人間には構造内での安定・確定する 地位などないのだ。そこで、象徴秩序の外へ主体を否認しつつ進む以外にない 事になる。だから、循環するこの交換の輪から抜け出す必要があると言う事だ。
843 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 08:31:22 0
841さんへ ありますよ多分。1000カウントを超えたらファイルされているはずです。 費用がかかるけど見れると思います。
844 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 08:58:30 0
5−2 交換の閉域 交換の閉域とは象徴秩序を絶対化するイデオロギーの現れだする。 このイデオロギーは、交換は「つねに−すでに」始まっていたと言う答えで 対応する。そして、外部への逃走を取締り、禁止する。 この様に交換関係の総体は裂け目のない織物となり、すべてを包み込み、外部の 忘却へと誘う。 そして、浅田は現象学に言及し、これが、象徴秩序は自然に発生し た事を強調したものであると批判する。つまり、象徴秩序の外部は 隠ぺいされたままだと言うのである。この辺の詳細については 「構造と力」を自分で精読ください。全てを引用する事は著作権違反に なる恐れがありますから、説明は極力まとめる形としています。
いや誰も読んでないからw 他人の著作引用して講釈たれて悦に入ってる悪趣味自慰野郎に興味沸くほうが変。
846 :
パレルゴン二世 :2008/01/06(日) 09:23:55 0
ここで、ラカンの精神分析による、人間の想像界が援用され、人間存在の 不安定さが説かれ、象徴秩序に入りきれない部分(想像界的存在としての人) の説明がなされる。 そしてサルトルとメルロ=ポンティを比較し、前者に脱象徴秩序への可能性を また、後者に予定調和的象徴秩序安住を見出す。 バシュラール、ユングも幸せな象徴秩序安住派であるとするのだ。 そして、この様な外部なき象徴秩序の夢物語からはなれ、現実のズレの世界 を知りつくす必要があると言う。
847 :
考える名無しさん :2008/01/06(日) 10:52:00 0
パレルゴン二世=ぴかぁ?
>パレルゴン二世さん 『構造と力』を持ってナンパするのが流行ったというのはどの程度まで冗談なんでしょうか? 『構造と力』の現代日本社会への影響は今どの程度あると感じますか? この著作が読み込まれ理解された場合、その影響は冗談では済まないでしょう。
樹が陣営33号(08年2月刊行予定) 予価 1000円
*以下のラインナップは変更がある場合もあります。予めご了承ください。
【特集 精神科医・中井久夫の仕事】
(参加予定者)滝川一廣/熊木哲夫/伊藤研一/内海新祐/栗田篤志/佐藤幹夫
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・西尾幹二・・・三島由紀夫の死と私(第2回)
【シリーズ・人間学アカデミー】
・池田清彦・・・人間という生物の自由と不自由(1)
・佐伯啓思・・・人間と貨幣(1)− 貨幣・ユダヤ人・神経症
・菅野覚明・・・日本人にとって宗教心とは何か(1)
【本を読む】
・水島英己(神山睦美著『夏目漱石は思想家である』・思潮社・)
・山内修(佐藤通雅著『賢治短歌へ』・洋々社・)
・宗近真一郎(河津聖恵著『ルリアンス 他者と共にある詩』・思潮社・)
・佐藤幹夫(小澤勲著『自閉症とは何か』・洋泉社・)
・由紀草一(佐藤幹夫・山本譲司共編著『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』洋泉社新書y)
・添田馨(北川透詩集『溶ける、目覚まし時計』・思潮社・)
・栗田篤志(村瀬学『初期心的現象の世界』・洋泉社MC・)
【連載】
・勢古浩爾・・・石原吉郎(10)
・浦上真二・・・古書会読(15)
・添田馨・・・クロニクル吉本隆明(最終回)
・近藤洋太・ ・ ・戦後思想私記(4)
・倉田良成・ ・ ・日本近世の絵師たち(新連載)
・中村武光(文)/くろいわひさお(写真)・・・ふらふら東京散歩(2)
【匿名コラム】
LinkURL:
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/33sippitusha.htm
851 :
パレルゴン二世 :2008/01/13(日) 23:51:24 0
忙しくて復帰できませんね。 もっとレベルの高い反応を待っていますが、そういう方は ぜひ一緒に意見交換しましょう。 ポスト構造主義に興味のある方はいませんか? お待ちしています。
852 :
パレルゴン二世 :2008/01/13(日) 23:58:32 0
最近は、ガタリあたりを読んでいます。 アガンベンやアレントあたりの本も読もうかなと思っています。 大澤さんの大著「ナショナリズムの由来」なんかも面白そうだね。 真面目に興味のある人はこの辺からの切り口でもレスしてもらえれば やる気が出るでしょうね。真摯に高めあえる人募集ってとこです。 フィールドの異なる人は、ちょっと遠慮したいですね。
853 :
パレルゴン二世 :2008/01/14(月) 00:01:44 0
それとも「構造と力」を続けて欲しい人はいますか? でも、一方的な説明は疲れるしね? まあ、どの様な反応でも良いが、煽り、中傷に乗るのは避けたいね?
854 :
考える名無しさん :2008/01/14(月) 00:28:26 O
かつてそうゆうナンパが流行ったんですか?
私は自分自身に対してあまり深い関心を抱いていない。私は喜んで他人を頼りにする。
今日のぼやき「722」
http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html#1101 副島隆彦の言うことは信じられない、などど逃げ回ることができなくしてやろうと思います。すくなくとも
私たちのまわり(周囲)にまとわりついて、私たちから知識、情報の泥棒をしに来ている薄汚い連中の脳に、
大きな真実のばい菌(ウイルス、virus ヴァイラス)を注入してやろうと思います。発病まで何年かかかる
でしょうが、それでも、私たちが見舞う真実爆弾は、「現実はこのままであり、受け入れるしか仕方がない
ものだ論者」どもの脳を侵蝕してゆくでしょう。ざまあみろ、ということです。
(中略)
過去150年間の、日本の政治知識人たちの、能力の低劣と、思わせぶりの嘘八百理解と、意味不明文をあり
がたがって、それで、「自分は、これでも、日本では政治知識人だ」と思いこめた、土人のまじない師たちの
哀れな姿の問題を、何とか、継承して、表に出して、そして、「少しでも克服する」ではなくて、本当に、
大幅前進させなければならない。これは、私の決意だ。私の人生に遺された重要な、コトバ研究の分野の仕事だ。
(中略)
急いで、弟子たちに、『政治思想の本の真実読み破りと、なめらか訳の技術の伝授』をやってしまいたい。
そうすれば、以後は、私の弟子たちが、すぐれた翻訳をやって、むずかしいがしかし定評のある外国書を
日本人知識層が、嘘つきではなく、知ったかぶりではなく、いいかっこしいではない、西欧の最先端思想
を自分だけ知っている、分かっている風の、だましの思想の嘘輸入がなくなる。これを、なんとしても、
はやく実現しなければ、いけない。
857 :
考える名無しさん :2008/02/18(月) 12:55:19 O
構造主義・ポスト構造主義は後悔と未練のカタマリ。
858 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 10:55:59 0
久しぶりに2ちゃんに来ましたが、閑散としている状況ですね。 もっとも、レヴェルの高い討論はほとんどありませんでしたが。 分らなくなった時のP氏引きも早いね。きっと、「構造と力」を 買ってきて読んでいたりして。それでも分からない?。 P信奉者は自作自演?でしょう。それほどの論客でもないし・・・ タームをネットで集めて、カキコでしょう。ぼろが出るよ。 質問攻めでアウトでしょうね。しっかりした本を読んでいないからでしょうね。 熟読派には、そこまで見える事がきっと分かっていないのでしょうね。
859 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 11:30:45 0
Pってぴかぁ〜のことですか? Pは哲学ではなく、論駁すること、よく知っているだろうと 尊敬されることを求めているだけですよね。 ベルグソンが出るともう逃げるし、「構造と力」が出ると、静かに 読んでる。で、パレルゴンさんが下がると用心深く見て、出てくる。 こんな感じですかね?
860 :
考える名無しさん :2008/02/24(日) 15:35:46 0
今日は絵でも描きましょう。 絵の歴史もかなり深いものがあります。 特に印象派からポプアートへの流れの中には、コラージュっていうのは コンステラシオン(星座)を表していますね。ベンヤミンなどの 概念パサージュって事でしょうか。アウラだけではないのでしょう、ベンヤミンは。
861 :
考える名無しさん :2008/02/27(水) 23:56:05 0
真面目に、哲学をする人はいないのかな。 解らないところを補い合い高める。そういう人を待っている。 大学院で専門分野の、全体から見れば些細なことを深く研究する ことも大切だが、哲学全体の視点に立っての討論はどうだろうか。 そういう人を募集中。分野は何でもよい。 ただし、でたらめをつないでいる人は避けたいね。
862 :
考える名無しさん :2008/02/27(水) 23:59:59 0
出鱈目をつなぐ人とはPさんのことでせうか。 Pさんも最近はすっかり、同じことを言うか、わけのわからん事 を勝手に作っていますです。まともに読めないどすね。 「ワシも解りまへんどす。」舞妓A
863 :
考える名無しさん :2008/02/28(木) 00:01:41 0
「後悔と未練の塊」に乾杯です。
865 :
パレルゴン二世 :2008/03/02(日) 22:00:40 0
東浩紀スレッドは先生ご自身の参加(降臨)で盛り上がったようですね。 嬉しい限りです。これほどまでにもてはやされているのですから、 関連のあるスレッドには是非、各先生方の参画を希望します。 もっとも、多少の誹謗・中傷・煽りには眼を瞑っていただくと言う、 忍耐が必要ですね。 また、質問の内容的には物足りないでしょうが、これほどまでに 哲学が好きな連中は他には見当たらないと思います。 先生方にとっても、先生の哲学を広めると言うチャンスの場でもありますよ。
866 :
パレルゴン二世 :2008/03/02(日) 22:10:54 0
最近の2チャンネル哲版では、しろうと・純一・ぴかぁ〜が 引っ張っている感じかな。東派のしろうとのスレッドにはあまり 行かないけど、純一の指摘した、ぴかぁ〜の認識するバタイユ については正しいと思いますね。ぴかぁ〜は消尽と言う意味が 分かっていませんね。だからコミュニテートできると考えるんだよね。 つまり、君たちの好きな東さんの「郵便的」の意味が分かっていない のだ。郵便は届くのか?大文字のAは把握可能か? この辺がよく分かっていないのよ。ぴかぁ〜さん、旅に出るとは 自分の弱点部分の読書中って事でしょう。 戻ってきな。
867 :
パレルゴン二世 :2008/03/02(日) 22:18:50 0
尤も、あくまでフランス系の哲学と言う視点だけどね。 いまさら、古典べったりもないし、かといって英米系では 根本的な存在論が無視されていて、実用主義的・言語学になってしまう 気がして、さみしい。また、ネグリのように政治に入りすぎるのも 再度マルクス革命に行きそうで、くだらないし、 かといって、フランス哲学の弊害として多様性を絞め殺す監視社会へ直行 ってのも、哲学を捨て、体制側に澄まして座っている感じでいやだね。
868 :
パレルゴン二世 :2008/03/02(日) 22:24:14 0
哲版にいる者達の何人かはきっと論壇・文壇に出るだろうと 思うよ。私も頑張る。お互いに頑張って目指そうな。 そのためには読書を欠かさないで、この社会を厳しく見つめる 目を育てねばならないな。
だいたい、日本知識人は、私の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」と、佐々木毅(現東大総長)の 「アメリカの保守とリベラル」(講談社学術文庫)が現れるまでは、現在のあるいは、この100年ぐらいの、現代 アメリカ政治知識人たちが、一体どういう人たちであり、どういう思想を持っていて、それはヨーロッパの知識人の 伝統から、どのように分岐していったのかまったく分からなかったのだ。 政治思想系の日本の知識人たちというのは右(保守派)だろうが、左(リベラル派)だろうが本当にひどいものなのだ。 昔、大繁栄したドイツ思想や、ドイツ哲学の研究者や、フランス思想の紹介・解説専門の知識人たちも今から考えれば 相当にひどかった。しかし、日本の文科系で一番頭のいい者たちは、70年代までは、ドイツ語かフランス語に熱中した 人々だ。英語系は馬鹿だけが行った。真面目に、一生懸命、ドイツ語やフランス語を勉強して、なんとかこの独仏思想系 の秀才たちがヨーロッパの知識と伝統に接近しようとした、涙ぐましい努力は、私も同情するし馬鹿にしない。誰が やってもあんなものだっただろうから。きっと生来秀才だった日本人たちが、真剣に「文化移植」使用としてもこの程度 だったのだ、と憐れみの気持ちで同じ東アジアの原住民知識人として共感できる。
ところがアメリカ理解となるとこれが桁違いにひどくなる。今もひどい。 「一体、アメリカ合衆国なんかに政治思想 なんかあるのか?」という態度で、岩波・朝日文化の連中が、ずっとそういう感じで何十年もやってきた。彼らが、 ソビエト思想の精神的な奴隷だったから、ではなくて、そもそも、英語でアメリカ知識人から、しっかりとした 「世界基準での政治思想」を学んだ人間がいないのだ。また日本でアメリカ研究をやる連中が、政治思想も思想センス もないうえに輪をかけて頭が悪くて、「政治思想」というのは、そもそもこういうものなのだ、という理解の基本枠が ない人々だ。このような生まれたときから政治思想理解の適正を欠いた人間たち(即ち、日本の大学の文学部出の アメリカ研究のような連中)が、アメリカ思想を自分たちの縄張りとしてやってきた。自分は左翼ではない、という 信念だけに支えられて。本間長世(成城学園園長)に、最大の責任がある。 この人が、公然と、アメリカのロックフェラー系に見込まれて育てられた、「日本人アメリカ研究学の一番偉い先生」 だものだから、日本のアメリカ研究(アメリカン・スタディーズ)は世界最低にならざるを得なかったのだ。 副島隆彦「属国日本論を超えて」P226~227
871 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 08:16:39 0
と言うことは、今後アメリカの研究はどのように進められるべきなのでしょうかね。 私は政治分野には疎いが、確かにアメリカの思想には軽薄さが感じられ、 実用主義的な経済中心主義がはびこっている気がするよね。 確かに経済力は世界一だが、人間存在全体を見る視点に欠けるよね。 たとえば哲学を除いても、芸術・伝統にはヨーロッパに見劣り する。また、この辺の卑近な例としては、自動車レースの規格の差にある 気がするな。アメリカインデーィでは楕円形のコースを走るわけで、 全く一つの要素だけに抜きんでればそれで良い、つまり、同じ傾斜角を 持ったコースを決まった回数より早くまわる競争なのだね。
872 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 08:27:26 0
つまり、ドライバーも、同じ感覚を持続する中で、車のスピード性能だけが 特出した勝敗を左右する要因となっている。 一方、知っての通り、ヨーロッパ企画のF1レースでは、コースが決まった 形ではない。急カーブ、ヘアピンカーブ、直線など色んな変化がある。 この様なコースでは、メカニカルな視点が複雑化する。 スピードだけを求めると、コーナリングやコーナリングからの立ち上がり がなおざりにされることで、不利を招くこともある。 だから、ある一点だけの改善を求めていては、だめなのである。 この複雑さこそが、ヨーロッパ哲学にも見られるんだね。 だから、ヨーロッパ万歳ってことになる。
意味不明な独り言いって、コピペにレスして壊れたなこいつ。
874 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 11:53:51 0
また、京都議定書に代表されるCO2の削減についても、 アメリカの様に承認できないのは、速さ=生産性のみを重視する と言う態度が明確に見えてくる。複眼的には見れない、単純な基準 が優先されるのがアメリカ=実用主義でしょうね。 一方、ヨーロッパ諸国では、経済と環境のバランスが重視される訳で つまり、諸要素の関係性として、世界を見る視点がある。 この差は。デカルトとライプニッツの差に見えるね。
↑バイト行かなくていいのか?〇一
876 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 11:58:23 0
行かないね。ぴかぁ〜と同じ。
じゃあ、時間ありそうだから、ちょっとレスしてくれないかね?パレルゴン二世殿。 それというのはこういうことなんだ。 テレビの映像は現実とは違うわけだが、時に現実のこととして感覚、受容してしまうことがある。 テレビ映像の認識と、現実世界で出来事を肉眼で認識するのとは、認識的にどういう違いがあるのだろうか? その辺を哲学的に考察した本を知っていたら教えて欲しいのだがね。
878 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 13:01:23 0
「時間と録画映像」とか「現実と記録」と言うようなテーマになるよね。 たとえば、アンリベルグソンの逆三角形な現在と言うとらえ方にも類似性はあると 思うね。つまり、現在の経験する時点が三角の頂点で、裾野すべてが過去に経験したこと になるわけで、いろいろな経験(勿論個人の)が現在の経験(意味)を作っている。 この場合は、時系列的な視点があるので、答えになっていないかも知れないけど、 時間は個々人の経験によって動くと言うことで、映像も過去の事実を示している に過ぎないのではなく、見る時点が現在と考えると、(ベルグソンの様に 三角形の今が録画を見る時点)録画を見る時が、出来事=現実の時間となる と考えてもいいのではないだろうか?
879 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 13:13:07 0
ドゥルーズの「シネマ論」はまだ読んでいないので、何とも言えないけど 必要ならばその辺とやはりベルグソンかな? 私見では、構造主義・ポスト構造主義な私なので、通時的(時間的な前後関係に 因果を見る)よりも共時的(すべてを現在のあり方として見る)な視点を 強調するので、前後関係に物事を見る見方には疎いな。 映像を記録として読み替えると、読書だって過去の経験をいま経験している 事にもなるよね。時間の流れの前後は現実世界の経験=出来事によるとするのは 物理学的な時間が強調されすぎている気がする。つまり、ある物体が t時にsにあり、その後t1時にはs1の位置に移動するので、速度がわかると 考える。この時前後関係と位置の関係を正確把握にするには、時間の前後関係 が重要と言うことだろうね。
ポール・ヴィリリオ
>>880 を読めということですか?まあやってみます。
これで××ビデオに興奮して対象が目の前にいないのに×精をしてしまうという、生物学的矛盾行為を解明できたらいいのですが・・・。
しばらく取材研究してみます。
882 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 13:57:52 0
ベルグソンに影響されたか、ドダールに影響されて、ドゥルーズも 逆三角形の現在と言う認識を持っているようだね。 過去の経験が蓄積して私=自我を作り、それを総括する私ができるように 考えているようだね。つまり、経験による物事の考え方=捉え方が今現在 である以上、録画であれ本であれ読む今が現在と言うことで十分ではないか と考えるのが現在のフランス哲学の見方だろうかな? ベルグソンの「物質と記憶」はどうかな?
883 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 14:01:14 0
ドダールではなく、ゴダール(映画監督)に訂正。
885 :
考える名無しさん :2008/03/03(月) 14:22:39 0
ところで、デジャビュについてはどう考えますか?
886 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 14:39:34 0
デジャブって既に経験したものとして、初めての経験にであう。 あるいは既視性(初めて見たのに、以前見た風景のような気がする)の事。 そんな事ってあるのだろうかと言うのが、第一印象ね。 学術的には、そういう言葉がある以上多くの人が経験する心理的なものなの だろうね。たとえば、先ほどのベルグソンの例で言えば、過去にある視覚的経験 をしたら、精神が一つの差異(ある経験として持続する経験内容から分離し た記憶)として無意識に刷り込んでいて、それが、新たな経験の時に 既に経験したこととして思い出されると言う気がするね。 これはドゥルーズの反復と時間の総合にある「差異を抜き取る精神・・」 (現代思想の冒険者たち:ドゥルーズ篠原資明著100P〜)を援用したのだ けどね。どう。
887 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 15:03:49 0
解りやすく言えば、私たち人間は、何も意識しないで、差異化して世界を 切り取っていて、それで世界を見ているわけです。それだからこそ 世界は意味を持って現れる。例えば犬見ている時、猫ではない特徴によって 猫から犬を無意識に差異化してるわけです。 ところがキツネと言うものを見たことがないのに、瞬間に走り去るキツネ を見ると、既に見ていた犬と思う。こういうのがデジャブではないかと言うこと ですね。
>>884 似たようなものを獲得することでそのものを手に入れるという欲求を満たすという類似性が答えだと言いたいのでしょうか?
>>
デジャビュは、経験があるのですが、あれは旅行に行ったときのことで、ある町並みに既視感を覚えて、その先を曲がったとこの風景まで予知できたのです。
その時は、親や祖先の記憶が関係してるとかしか解釈できなかったのですが、随分後になって、あれは幼い頃にテレビで見たのを記憶していて、それを実体験(肉眼で見た)したことのように思い出したのではないかと思うようになったのです。
ということは、そのヅゥルーズさんの解釈は私の解釈と同じですねw。
889 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 16:13:37 0
すごいね。 本当に予測できた通りの風景が広がっていたとは。 そのこととデジャブは違う気がするけどね。 デジャブは見てもいないのに既に見ていた気がする風景でしょう。 君のは、見てもいない曲がり角の先を予知する事が出来たと言うこと ですので、どうかな?この辺はドゥルーズを拡大解釈した私の分析とは 大きく違うね。それでも、君の言うようにテレビで見ていた風景が 無意識に思い出されたと言うことならば、それで解決がつくでしょうね。
890 :
パレルゴン二世 :2008/03/03(月) 16:23:44 0
ドゥルーズを拡大して解釈した私の考えは、あくまで過去経験した事を すっかり忘れていて、それに類似した経験をした時に、以前の経験が それとは分からずに蘇ってくると言う事ね。君のは以前テレビであろうと 実際に見ていた事を意識的にはわすれていて、ふと実際に同じものに遭遇する 経験をした時に、意識には上らずに思い出した事で、デジャブした。 つまり、以前に類似経験(同じものではない)をしたとするのが私の意見で、 以前にテレビなどで経験していたことをすっかり忘れていた事でデジャブした と言うのが君の意見ですね。私には良くわかりませんね。 それでも、神秘的な経験でいいと思うな。
いや、私の場合も類似経験(同じものではない)ですよ。テレビで見たという情報が完全に抜け落ちて、ただ"見たことがある"という記憶だけが残っているわけで。 テレビ映像自体は映像であり、デジャビュの時の風景は実経験ですから。ちなみに、そこは小京都といわれるとこで華やかな造りの街風景でした。 日本にいくつもある小京都自体類似した街作りなのかもしれませんし、そのどれかがドラマとかで使われたのかもしれませんし、何かの偶然(例えばそのドラマが殺人物で恐怖を覚えるようなものだったとか)と一緒に子供の記憶に残りそうな、そんな人目を引く町並みでしたので。
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893 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 09:06:29 0
時間は色々な見方があるけれども、やはり現在=現前とその再来として 再現前と言うとらえ方が、長い西洋史の中で重要視されてきた事で、 885さんのような質問も重要だと思う。 例えば、この辺の現前、再現前を批判したのもデリダで、彼は現前(今前にいる) する他者との会話が抑圧的な意味(たった一つの意味)に拘束するものであること を批判していたし、そのことでエクリチュール(書き言葉)を重視する。 書き言葉は時間に拘ることなく、何時でも出会えると言う事だね。 この点は逆にプラトンなんかは、書き言葉の多様な解釈を批判的にとらえている。 そして、ハイデガー・ベルグソン・ドゥルーズなんかは、時間が現在・過去・未来 と言う風に切断されて認識することを批判し、現在は過去の縮減(濃縮)されて しか現れない(開かれない)し、また、未来のあり方を投影してしか、 現れないと考えている様である。
894 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 09:21:42 0
だから、映像に映されたものは過去のものとする物理学的な時間 (一秒ごとに等間隔で現在は過去になると見る事)にこだわる必要 はないと思う。 それぞれ異なる時間概念が、併存すると言う事だと思う。 例えば、物理学にしても、アインシュタインの相対性理論によって、 この時間の概念は大きく変化しているし、今後も多くの時間の見方も 現れるだろね。 参考までに言うと、このベルグソンの時間概念はプルースト(失われた時を求めて の作者だよね)の著書とかなりの類似性があると思われる。 興味のある方は「失われた時を求めて」を参考にして下さい。 ちなみに、ベルグソンとプルーストには血縁関係があると聞いたことが ありますね。
君は物書き志望の引きこもり現代思想厨ということでオッケー?
896 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 10:22:58 0
そうとも言えるね。
物書き目指すなら一点だけ誰にも負けない分野を作らないときついよ。 はやく厨から卒業しよう。プラスヒッキーからも。 がんばってねー。
ぴかぁーより高慢だから社会復帰はつらいだろうね。
899 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 22:20:16 0
社会復帰はしないね。 読書と思考と試行を繰り返す事。 何かを創造する事。 このために時間を使う。 これだね。そのうち日本の哲学の先生本の書評なんか書いてみたいね。 バスキアは良いね。最高だ! キース・へリングもいいのかもしれないけど、決まった形(フィギュール) が出来上がっているいので、同一形の繰り返しにしか見えないね。 その点はバスキアにはきまった形の繰り返しではない、色彩も多様で 具象から離れた線がポップアートで良いな。 モナリザなんか最高!!!と思わないかい。
900 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 22:33:03 0
ポップアートと言えば、アンディ・ワォーフォルだけど、 大量生産されたスープ缶の複写がアートになると言う事自体 不思議だね。マリリンモンンローの複写、これはまさにデリダの オリジナリティの喪失点な訳で、ポップってのは浅いのか深いのか わからんね。NY地下鉄の落書き・タトー(肉体への落書き) キャンバスへの落書き(ポップアート)これらが示しているものは 大量生産されたもの(商品・ビル・町並み・SUBWAY・車両etc)への 動物としてのテリトリーの印ではないだろうか? 未開社会と言われる人間がボディペインティングしたり、トテムポール やモアイ像などを作るのは、動物として種族としての意味を地上に 表すためではないだろうか?
901 :
パレルゴン二世 :2008/03/05(水) 22:45:52 0
特に極端に無機化された生産物(地下鉄)はこの刺青(落書きによって) 息を吹きかけられる。生命体としての意味。そしてこの地下鉄の列車は息を 吐きながらホームに入ってくる。無機的なステンレスの車両では、 機能的なものはうかがえるが、それはどこに帰属しているのか不明である。 なにか、神様がくれたもののように、機能性の結晶として現れるが、 それが、何なのか、匂いがしない。朝に夕に歩く俺たちの在り方にとって それは、域を破壊している。だから、俺たちの色を・香りをつける。 これが、地下鉄への落書きの深層なのか? 域とはテリトリーだね。 簡単に言えば、鳥やクマなどいろいろな動物はテリトリーにマーキング するよね。これが、落書きだろうと言う事。
903 :
パレルゴン二世 :2008/03/06(木) 21:49:15 0
おい!邪魔しないでくれ! 豊かな坊ちゃまの私を妬まないでくれ。 ぴかぁ〜パクリはやめてくれ〜!!!!! パクッタものを自分の創作にしないでくれ〜! まあ、がんばれよ。否定神学的主体・・・・・・?とは?
904 :
パレルゴン二世 :2008/03/06(木) 21:56:07 0
働くことなく食える事は罪である。 しかし、働きながら哲学する事は、尊敬できる。 しかし、働く時間に探究することは罪ではない。 働かず、ぶらぶらする、好きなことをする事は犯罪である。 自由に使える与えられた時間は人類のために使われてこそ尊敬される のだ。だから、ぴかぁ〜もオタクを卒業して、人のためにお勉強 しましょうね。(母より)
905 :
考える名無しさん :2008/03/06(木) 22:05:45 0
パレルゴン2はすっかり凡俗倫理に取り込まれておるな。 三年寝太郎の話でも読みなさい。
906 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 22:54:48 0
凡俗の倫理か、それも良いね。あまりにも常識をかけ離れた者にとって 凡俗であることが救いになる事もある。元来哲学や精神科医は常識的 な人間がするものではないだろか。あまりにも天才肌で、象徴の世界に 浸からず、元抑圧の薄れたやつがその様な際どい作業にかかわると 不幸にしかならないだろうからだ。それでも、やはり、この際どい淵に 居合わせる事が、新たな局面を開くには必要なのだろう。 冷静なロジックがその背景に煮えたぎるような情熱=生物的な生(ジョルジョ・ アガンベンの言葉)に支えられている時にしか、天才は生まれない。 天才とは異常なことである。多くの人間に見えるようには見えない。 なぜならば、彼自身が幾度となく象徴=言語から逃れ・逃亡することによって しか、生きられないからだ。
907 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 23:04:49 0
そして、彼は彼自身の言語を見つけ、新たな世界を露わにするが、 その世界は、誰にも見たことのない世界なのだ。この新たに開かれた 世界に、多くの者たちが驚き感銘を受ける時、彼は天才になる。 しかし、彼は、その彼の発明に浸ってはいない。彼はまた、この 象徴世界に異議を唱え、生の世界の闇に戻っていく。 そして幾度となくこの2つの世界を往復することこそ、差異の反復 と言えるのだ。分裂した人間を精神分析的に探究する事こそが、 ポスト・構造主義に共通した視点だと言う事を忘れてはならないだろう。 あまりにも難解な彼らの概念は、この様に常に否定される事を根底に 抱えているからこそなのだ。概念はウイズドローされ、また、新たな 概念を語る。
908 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 23:12:55 0
語ることから異なることへ、つまり、どこかぎこちない象徴世界から 引き下がり、新たなる言葉で語り、語ったそこから逃れる事が 彼らには当たり前であったのだ。だから、筋道がないか、筋道が 多様化するしかないのだ。分裂症とはこういう事だったのだ。 バタイユの「内的体験」は余りにも暗い。見えない深層に下ることは この肉体的な欲動の闇にせまり、浸ることで、もう一つの人間と言えないもの の世界を知らせるのだ。ロゴスの世界に危機が迫っている事を伝えるために。 この世界を開いて見せたのもポスト構造主義なのだよ。
909 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 23:23:44 0
構造主義とポスト構造主義とは象徴世界が分節したある言語世界が 多様に異なる世界を開く可能性がある事を暴いたのだ。 それはそうと、ゼロアカに応募したやつはいるのかい? 15〜16才の高校生が背伸びして読むような評論て、手加減しないと 書けないな。東さんの書いたような文学評論ってことだろうな。 私には関係ないし興味ないね。分野が違う。 東さんならやはり「存在論的・郵便的」がすべてだね。
910 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 23:27:29 0
このような分野はしろうと・純一・ぴかぁ〜あたりかな? ぴかぁ〜はやんないだろう?あとは誰だ? おそらく東スレッドから参画したやつがいるな。
911 :
考える名無しさん :2008/03/07(金) 23:33:26 0
:.:.:ノ:.i:.:l:.:.:l::.:.:.:ノ:.:.:.:/:.:./:.:.:..:../:.:./:ノヾ ヽ:.l: |:.:lヾ|:i .:..::丿:.:i.:.:.:.l:.:/:.:.:.:.:./:/:.:.:.:/:.:.:./:.l:/./ ヽ !:|: /:ノ :.l:.ハ:.:l:.:,−-、i/.:/.l:.:.:/:.:.:.i:.:ノ゛:. ヽ, :l:.i:.|:.:.l´/ゝ-//:.:.i:.:.i:.:./:.. ,,;:;;:;,,.. ,.,.:; :i:.:.:i:.:.:| ( ⌒1 ヽ:.|:.i:." __、.:"' _ニィ ヽ:|:.:i:l.ヽ、ヾ〈: .:l:|:.:l:.  ̄`‐""ノ.:' ( "´ノ .:ヾ:i:.:.l:. ヽ_ " :. '"´´,' ヽ"l <働け働けうるさいんだよ ゝヾヾ ::.. :.. , ' 〉ノ 簡単に言いやがって・・・! /:l:." :. /` - 、_ノ ::::ヽ、 :.. /:,_=--"-/ ::::::::\ ::.. /:.(エl┼┼"´ ::::::::::::::ヽ " ヽニ二) :::::::::::::::::::\:... ´":j ::::::::::::::::::::::::::\ ..::::.....:.. ` .:..、_:ノ:.ヽ ::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、""´/ー'"::::::::::::::::::::::\
912 :
パレルゴン二世 :2008/03/07(金) 23:59:08 0
あと少しで1000カウント!! もっと深い論議を進める。熱意のあるやつはいないのか????? いないな????それでも進める強引さ。 読書・理解・コピーパクリなしで行く。 哲学書400冊読破に向けて企投する。
913 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 00:02:31 0
ぴかぁ〜と純一はこのままだと共倒れする。 お互いに相手を認めて切磋琢磨することが大事だね。 分野が少し違うのでできるのではないでしょうか。
914 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 00:12:00 0
ジャンリュックゴダールはモンタージュと言う技法を映画制作に ふんだんに使用したことで有名だが、このモンタージュ技法とは 時間的に異なって撮影された映像部分的を人為的につないで、 一つの流れを作ると言うものなのだが、これは、明らかに、物理的な 過去・現在・未来と言う流れが人為的に切断され、新たに繋ぎ逢されて、 新たな過去も未来も現在もごちゃごちゃにした時間が作られると言う事である。 そのほか、ゴダールはいたるところにストーリのメタ(裏側)を フィルムに写しだし、ストーリー性の解体をも策しているようだ。
パレルゴン二世さんのプロフィールが聞きたいんですけど。 年齢、性別、身長、体重、趣味、学歴、職歴、恋愛歴などなど。 よろしくお願いします。
917 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 08:48:49 0
このようなネットでそのような質問に答える事の意味はないだろうな。 しいて言えば、現在無職、会社で働いていた時は、東京にいた。 転勤で地方都市では名古屋・大阪にいたことがある。 仕事をしながら哲学書を離さなかった。 趣味は哲学のほかには絵を描くこと位かな。 大学時代は経済学を専攻していた。 この時代にマルクスは完全に理解した。 あとは想像に任せるって事かな。
918 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 08:54:32 0
961 それはねえな〜。 純一は哲学べったりではないよね。 ぴかぁ〜は東・柄谷・リオタール・時々大沢だよね。 あと、よく知らないルーマン、科学至上主義でしょう。 パレルゴンニ世は浅田・ドゥルーズ・ハイデガー・デリダですので この三人は全くの別人です。
919 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 09:02:36 0
つまり、何時も哲学書を離さなかったのは、この会社組織が何か不明な ものを隠し持っている気がしたからだ。何か不可解で、不満があった。 理解しようとする者を拒んでいる慣習に慣れなかった。 和を保つ事を常とする社会で、個の意味が見えなかったので、哲学に 寄り添っていたと言うのが事実だろう。
社会や組織への違和感は持っているけど、生活やなんやらでスキゾ的・ノマド的な 生活を送れない人はどうすればいいんですか。 ポストモダニズムで解放されるのはけっきょく 金持ち、才能のある人、しがらみのない人たちだけじゃないでしょうか。
921 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 10:36:48 0
生きるという事は、非常に面倒なことで、淡々と生きることのできる人は 稀でしょうね。確かに、一部の富裕層が、アウトロー化して自分の世界に 浸れるとも言えるでしょうが、ここはある意味、割り切ることで解決 可能とも言えるのではないでしょうか。 つまり、仕事は食べる=生きる為で、仕事で偉く立派になろうと言う 願望をなくせば、アルバイトやパートによる道がありますよ。 この哲版にも多くの人がパートなどで生計を立てていますし、また、 哲学もやっていますよね。 スキゾ的・ノマド的なドゥルーズの思想も決して捨てなくても 労働時間以外の世界を築くことで十分に可能ではないかと思います。 私もそのようにして、仕事と個を両立させましたけどね。 時間がれば、新たなる脱構築へ脳を働かせました。この労働が 幻想であり、思考こそが私を生きているのだと思いました。 逃走は可能です。ただし、逃走するための生活資金は、幻想の労働として 捨て去る事です。
922 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 10:44:43 0
つまり、最後のフレーズが意味不明ですね。(笑) 逃走・ノマド的な生活を最低限保証するのが、パート・バイトによる 資金稼ぎです。パート・バイトでは残業も拒否可能でしょうし、 責任もないわけで、労働時間ちゅうだけ、言われた仕事をこなすようにすれば 良いわけです。就業時間が終われば、この世の強制から自由ですので、 この時間を自分の好きなことに充当すると言う事ですね。 まあ、ありふれた回答でしょうかね。私はその時間に哲学書を読んで この重力のお化け(ニーチェ・アレントならこう呼ぶでしょうね。) からノマディズム(遊牧的な世界)へ逃走しましたね。(笑)
923 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 10:53:03 0
哲学書を読む事が、今と言う重力から、軽やかになる、赤子のようになる こと(ニーチェのツアラトストラ)面への道だったと言う事かな。 人間は生まれた以上、世界=組織にかすめ取られているのですが、 この世界にかすめ取られているだけでは、生まれた意味がないだろうと 思いますね。だから、スキゾ・ノマドと言う君の意見に賛成ですね。 アドバイスが参考になったかどうか不明ですが、がんばって下さい。
労働時間以外の世界を築きたくても築けない人はどうすればいいんでしょうか。 ものすごく俗っぽい例でもうしわけないんですが、正社員の収入でないと 病気の家族の面倒が見れない人など。 こういう素朴な疑問に答えられなかったからポストモダニズムは 衰退したのだと思います。 ちなみにその反動としての保守主義や疑似近代主義もっと嫌いです。
925 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 11:01:19 0
正社員でもできると思いますよ。私も正社員でしたから。 昼休み、休暇の日など時間を使う事で、自分の世界は開かれますよ。 もし君が、今の世界や社会に違和感を感じているのならば、 それは、正に、真実なのですよ。君は君が感じるものが全てですよ。 そしてその感じは私も感じてるし、多くの引きこもり・ニートの人たちも 感じています。そのためには決して仕事に浸かりきらない自分を 見つけることです。仕事は幻想です。事実ではない気がします。 事実は脱構築にあると思います。この脳で見出すものの方が現実なの ではないかと思います。
926 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 11:08:30 0
仕事はトップダウンの世界です。どのように考えようとも、その答えは ありませんよ。上司の考えや、組織の力で個の思考は窒息します。 正否の基準は明らかに不動のものです。このような社会組織からは 全く創造的なものは生まれないでしょうね。構造の脱構築は、社会運動では 不可能です。社会・会社のルールに対して反対意見を一人で述べても 意味ありませんね。だから、脱構築は、この哲版にる連中の様に、社会の決まり を無視する・すり抜けることが第一でしょうね。 もちろん犯罪をしろと言う意味ではなく、あくまで個人の解放と言う意味です。
>君は君が感じるものが全てですよ。 それだと言葉は悪いけどオナニーじゃないでしょうか。 やはりわたしは社会関係の束としてのわたしでいたいし、 他者を他者のままで歓待したい。 人をばかばかしい共同体規範などに縛りつけるのは厭ですが、自分の規範を 押し付けるのはさらに???です。
>>926 いつの話だw
武富士とかビックカメラとか極端な場合を除けば、今の企業はかなり
自主性を重んじるぞ。
929 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 17:44:34 0
8回連続書き込みのため、返事が遅れました。 927:上記の説明はあくまで私の私の考えです。他人の考えにどうこうしろ と言う意味で言ったわけではありません。誤解があればお詫びいたします。 いろんな人間がいろんな考えにあり、そのことで社会は豊かになる気がします。 また、そういう事こそ、ポスト・構造主義の行為なのですね。 920さんの質問に答えると言う事で、私の意見を述べたと言う事ですね。 あくまで参考です。哲学ではなく人生論ですので、成否はありませんよ。 自由に個人で選択してくださいね。 以後哲学の論議に絞りますね。よろしく。
930 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 17:57:19 0
928さんへ。 問題はそう言う事ではありません。この社会にあって極端に強制的に 働かされているかどうかと言う問題ではありません。 社会で働くことや考えることや、正しいと言われることや、 教育されることや監視されることなど、社会で決まっていることに縛られること が問題なのだと言う事です。この様な社会規範の中にいることが 問題なのではないかと考えるのです。ですから、私は信奉者ではありませんが柄谷は NAMを組織したんでしょう。失敗か成功かはわかりませんが、中枢の人間をくじで決めた のでしょう。つまり、ポスト構造主義とは、社会体制・言語・など含むすべての無意識構造を 脱構築しようとしたのです。ですから、ビッグカメラの労働条件が厳しいと言う 問題とは違います。あくまで、組織の強制力からの逃走・すり抜け・宙吊りを 求めて行動したのです。
931 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 19:51:27 0
ちなみに、ある会社の仕事がどうだこうだと言う事はこう言う公共の場での 批判になりますので、注意して発言しましょう。 あくまで一般論です。A社がどうだB社・C社がどうだと言う事での 批判では決してありません。
932 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 20:13:10 0
確かにポストモダンには、救済の概念が足りませんね。 ただ自由でありたい、この社会組織から離脱する、破壊欲望もあります。 このホスト・モダン的欲望が一定の効果を示した後は、再度何が必要かと言う事で、新たな 構造を模索する事にもなります。確かに、救済と言う制度は必要でしょう。 社会の貧しい人達に標準の生活を保証することが特に求められています。 この様な制度に対しても、逃走・脱構築すると言う行為は許されませんね。 俺は知らない勝手にやれと言うのは確かにポストモダンの弊害でしょう。 多様さは苦しむ人を無視することではあり得ません。 みんながあまりにも豊かになり過ぎて、勤勉に働くことへの興味が薄れ 困っている人(他人)に関心がなくなって、引きこもり・ニートが増えた と言う事でしょうね。
933 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 20:24:52 0
ところがここ数年特に非正規社員が増え、会社の人事制度も 昇格が困難になってきています。つまり、競争原理が導入され、 今までのような、年功序列賃金が崩壊してきています。 このことで、多くの人が以前のように賃金が保障されなくなってきています。 他人よりも上に行かないと、賃金格差が大きくなります。 このことについてはもっと真剣に議論するべきでしょうね。 このような賃金の状況をもたらした最大の要因の一つが、経済の 拡大の鈍化が挙げられるでしょうね。最近では中国やインドロシア ブラジルなどが高度成長期に入っています。そして、安価な労働を求めて 日本企業が工場進出しています。この事が、成長率の純化と労働賃金の抑圧 の要因になっています。
934 :
パレルゴン二世 :2008/03/08(土) 20:31:04 0
つまり、資本の流出で、国内の労働市場がだぶつき、その事で社員への 競争原理の導入が簡単になったがあり、また、海外の安価な労働力による商品が輸入され、 国内商品の価格を低く抑え、この事で賃金を安く抑えようとする狙いで、社員への競争原理が 導入されたと言う事でしょうかね。
935 :
考える名無しさん :2008/03/08(土) 22:16:21 0
戦後の日本は「世界の工場」という一種のプランテーション国家だったのだろ。 それで一見うまく行った時代が過ぎつつあるわけだ。 今後も経済の長期低落は目に見えている。 で、ポスモダとかがどうなんだって?
大企業はグローバリゼーションや多様化社会に対応するといって、多様な人材を確保するはいいが、 肝心の社内人事で多様さを活かしていないから、燻ることになった。 原因は高齢層社員の存在との整合性の必要性にある。これはいかんともしがたい。 近い将来、しがらみの少ない一部の中小やベンチャーから日本の労働市場活性化がなされるとオレは思う。
937 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 09:59:30 0
村上龍だったか、空白の10年論を述べていたが、この空白の10年とは 高度経済成長によるアメリカへの安価な商品を猛烈に輸出したことに 欧米の批判を受けたことから始まっていると聞いた事がある。 日本人はウサギ小屋の様な狭くて汚い家に住んでいて、馬車馬みたいに 朝早くから夜遅くまで安価な賃金で働き詰めに働き、その安いコストで 商品を海外へ輸出すると言う批判であったようだ。 このとき政府がとった対応策がゆとり教育と呼ばれるものだったようだ。 このゆとり教育と言われるものは、それまでの学校カリキュラムの 授業時間を減少させ、個々人の自由選択肢を拡大し、学校での授業時間の 減少した部分を個々人の自由な自己啓発に回せると踏んでいたようだ。 しかし、このゆとりが、逆に多くの「おたく」と呼ばれる、引きこもりを また、就労めんでは、ニート、バイトを増やす結果となったと思われる。
938 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 10:08:59 0
日本人は特に海外の目を過剰に意識する民族である。 特に白人国家である、欧米の意見には過剰に反応する。 この事で、日本国が得をしたのか損をしたのかは別として、 本当にこの様なニート・おたく国家を目指してのか自問する 必要があるのではないだろうか? 当時アメリカは瞬間ではあるが、年間個人所得で日本に抜かれた と聞く。このときアメリカは知的所有権を持ち出した様だ。 知的所有権ならば日本に勝てると言う事の様だ。 そして、その象徴的な出来事として、シリコンバレー(当時最先端の コンピューター産業の集中地)で日本の大手電機メーカーの社員を 産業スパイとして逮捕した様である。後ろ手には手錠がかけられた 社員は大きく新聞に報じられているとの事。
939 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 10:20:06 0
この事で、当時の政府が過剰に反応し、欧米より先に進む事を選択しなかった 事は察しがつくが、ゆとり教育と言う選択が良かったのかどうか 村上龍を除いて誰も考察していない様である。 しかも、村上にしても、ゆとり教育を決定した当時の政府関係者への 批判はどこにも書かれていない。この様な国家は世界の他国に存在する のであろうか疑問である。この様な批判力のない国民は、選挙によって 選ばれた議員天国を容認するに等しいのではないだろうか このように考察する時、ぬるま湯に浸かったニートの姿と、安易に欧米 批判を交わした政府と、政治に疎い国民に乗じて、不正に私腹を肥やす 政治家と道路財源で旅行をし、米軍の住宅に何億もの金を安易に使う 政治が見えてくる気がしてならない。
940 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 10:37:40 0
ちょうどこの高度経済期から輸出中心の経済状況にあるのが現在の 中国である。中国は外貨準備高で日本を抜いて世界第一位となっているようである。 そして、日本が経験したのと同じようにアメリカで批判にさらされている。 しかし、現在までのところ中国は日本がとった様な、欧米批判をかわし ソフトに協調的に解決しようとは微塵もしていない様である。 その第一に挙げられるのが、安価な労働により生産された国内商品のアメリカへの輸出 によって齎された外貨をアフリカへ諸国の資源政策に使っていることである。 アフリカは過去フランスなどの影響力が大きく、そこにアメリカで稼いだ 資金を使って、自国の影響力を高め、資源の確保に狙いを定めているのである。 当時、今でもそうだが、日本政府の外交力は恐ろしくプアーだ。 どうして、欧米の批判を受けた当時、国家にとっての利益を優先できなかったのか。 どうして、ぬるま湯に浸かるような人間を作ったのか、甚だ疑問である。 中国は、このアメリカ貿易による外貨を使って、国防費を大幅に増やしている。 石油価格に高騰はBRICSと呼ばれる新興国の需要によって高騰している。 高度成長期に政府は、このような原料高を予期できなかったのだろうか?
941 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 10:47:26 0
あまりにも、場当たり的で、過去の政策の批評がなされず、 イージス艦の問題にも見られるように、事なかれ主義で、 失敗・不備・手抜かりに対して、もみ消すとする、非論理・わがまま がまかり通っている日本の最重要な組織機関は今や世界の笑われもの ではないだろうか。 君たちはどう見ているのか? このままでいいのか?ニート・おたくは日本の衰退に関係していないと 言えるのだろうか?また、日本全体がまったりした環境で良いのだろうか? さすがのまったり政府も、このような現状ではまずいと多少考えた様で 学校でのカリキュラムを増やす方向へカジを切ったようである。
パレルゴン二世みたいな、天才妄想と疎外感を持った奴は必ず ファシズムに取り込まれる。間違いなく。
943 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 23:51:38 0
942:そうだね。妄想・鬱病的な自分は否定しないな。 だからこそ、非現実の現実と言えるかな?そのような世界に入り込めた と言う事だろうね。現実の世界になじめない事で、私は私ではないものに なったと言う事でしょうか。また、現実のディスクールを垣間見たり、 痕跡=原エクリチュールを見いだせた事は、この鬱的な性格が幸いしている 様でもある。一言で言えばポスト構造主義は非日常的なもの探究であり、 日常的に意識する事の背景・地盤(コーラ)を意識することであり 常識的な反応からは理解されるものではないのだね。 だから、私の場合には、一般の哲学者が理解するように哲学をしてはいな。 あくまで、感性的に掴むことを通して、語るような気がしてならない。
944 :
パレルゴン二世 :2008/03/09(日) 23:59:06 0
ファシズムについては、現段階では知識を持ち合わせてはいないし、 ポスト・構造主義からは全く類似性がないが、大澤の「ナショナリズム の由来」を近々に読もうと思っている。ナショナリズムとファシズムに 類似性があるのだろうかと言う疑問もあるね。 だからといって、ファシストには陥らないだろうね。
945 :
オストラシズム :2008/03/10(月) 00:16:04 0
>>944 942はファシズムに陥ると言ってるのではなく、「取り込まれる」と
言ってるのだが?
「陥る」=自分がファシストとなること。
「取り込まれる」=ファシストに支配されるということ。
この二つはまるきり違うだろ。
946 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 17:10:31 0
東さんの「動物的」と言う概念を再度確認してみたが、「欲動」と言われる人間の 欲望、つまり、他者の欲するものを欲すると言う人間の在り方の事 ではなく(この様な他者の欲望への欲望を私は逆にポストモダンに見ていたが) 自分の自分自身の為の純粋なる欲望にポスト・モダンの特徴を見ているようである。 彼はそのことを要求と言い、動物の様に他者の欲望を介在させることなく満たされると考えている。 その特徴的な対象としてオタクのライフスタイルを上げている。 オタクは言葉の通り、自宅の自室にこもって、まんが・アニメ・ゲーム・を あるいはデータベースを介して、自分だけの世界を幾通りにも開く様である。 つまり、東によれば、このように他者の欲望するものを欲することのない ものを欲する事を、間主観性の欠落とも考えているのである。 つまり、自分勝手に生き、自分の好きなものを、入手する生活をする事を 「動物化」する人間と定義付けている。
947 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 17:23:55 0
しかし、本当にそうなのだろうか。はたして、オタクは他者に全く 関係なく自分自身の欲求だけに基づいて行動しているのだろうか? 例えば、Aと言うソフト(マンガ・本なども良いが)が発売されたと言う情報 はどの様にして得られるのかを考えてみると、やはりそこには 多少なりの、共有される欲望と呼べるものの存在が必要だろう。 Aは巷で人気を博していること、あるいは、友達の口コミ、情報誌 など、この様な反応を受けること自体他者の欲望に当たらないのだろうか。 むしろ、モダン時代のような、使用価値に根ざして需要される時代こそが 他者の欲望を欲することのなかった、東の言葉では、要求の時代では なかったのか?そして、要求が使用価値から他者の羨望が重要な消費の ファクターになったのが、モダンの後ではないかと考えるのが一般的 ではないか。こんな疑問をあげてみたい。
ぴかに遅れること5年か
949 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 21:10:54 0
948は明らかにぴかぁ〜だな。くだらんことを言う前にもっと正確に 本を読もうねぴか。(母より)
950 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 21:34:53 0
確かに、東の言うように、間主体(つまり、他者の欲望を欲望する主体 の事だろう?)と言う人間のあり方は大きく変貌している。 自分だけの趣味に拘泥するオタクは明らかに彼のいう様に間主体的な 人間には程遠いように見える。しかし、一方でボードリヤールのポストモダン的な 消費論を読めばそこにはオリジナルとコピーとがいつの間にかシミュラークル( 模造品)に変わってしまい、実体的価値から関係的な価値へと変わったとしている。 この事が正しいとするならば、やはり消費する側にも、差異の関係性として商品を 認識していることを否定できないだろう。つまり、東がポストモダン的消費が要求 だけに根ざしているのならば、つまり、ボードリヤールの現代消費社会論で言う 実体価値の消費を指すのだ。つまり、全く逆の事を東は言った事になる。
951 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 21:48:11 0
この点は非常に重要である。おそらく、東は消費側からアプローチをして、 アガンベンの「開かれ」(コジェーウ・ヘーゲル)の展開を参照している のだろう。大きな物語の喪失と個々の個別の小さな物語が、開かれるベース として、データベースを基礎に据えている。大きな物語と言う男根中心主義 が薄れ、多様化がオタク世界を開くのだろう。この共通性のない世界 が、ヘーゲル=コジェーブ的な歴史の終焉(弁証法的スパイラルの終焉)によって 差異化の終焉と見たのだろう。差異化の終焉は間主体の終焉と言う解釈である。 つまり、この終焉の地点で、彼はバタイユの言う「用途なき否定性」の 可能性を見ていないのである。
952 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 22:02:51 0
もう一度ポストモダンの消費が東の言うように、動物的に要求になっているか どうかを見よう。簡単に言えば、要求は自分個人の好みだけに還元されるのか と言う点だ。商品は確かに機能と言う使用価値のみで需要されてはいない。 ブランド・メーカー名・色など、有用性(使い勝手・機能的な度合)によって のみによって需要されてはいない。商品はボードリヤールの言う実体価値にはない。 そこには差異化=差別化が商品の開発コンセプトになっている。 つまり、既存の商品に対しての差別化である。例えば、自動車であるが ベンツは国産軽自動車と使用価値がどう違うのか考えてみよう。 人間が運転し、ガソリンで走る。ブレーキ・ハンドルと言う操縦機能に 差はない。つまり、バイタイ湯の言う「用途なき否定性」=差異化 がここに見られる。ボードリヤールの差異の関係性と言うのもこの点 を指していると考えられないだろうか?
ぴかあの劣化コピー?
ぴかぁが一番ひどい劣化コピーだろうが
955 :
パレルゴン二世 :2008/03/10(月) 22:20:04 0
ぴかあにはこのような書き方はできません。 また、ぴかあは東信奉ですので、このようにクリティックに費批評は できません。ただし、コピベを除く(母より)
956 :
メタP ◆p1AdJ397o. :2008/03/10(月) 23:40:24 0
ぴかさんの東分析、批判に比べたらあまりに稚拙すぎますね。
東を誤読しているのはまだしも、ベタな(ポスト)構造主義で、
創造性がほとんどないですね。
ボードリヤールの消費論をいまさらまじめに語るのは、
何時代の人という感じでしょ。
きつい言い方ですが、もう少し勉強して、
ぴかさん
http://pikarrr.web.fc2.com/を 理解できる程度になったから出直した方がよいと思います。
957 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 00:19:53 0
ぴかぁ〜さんへ。レスするならば君の参照先を示すのではなく、 ここに私の意見に対する君の反論を書いてはくれませんか。 コピベの疑いと、君自身の論旨展開能力に疑問がありますので。 つまり、反論するならば、私の意見に対する君の意見を具体的に 私の論点に沿って書いてください。 以前にも言ったように、ぴかがタームを適当に繋いでいる事ぐらい わかるのですよ。だからぴかの理解力を調べる意味でスレッドで時々質問するのですが、 よく分かっていない事がたびたび判明するのです。 とにかくぴかぁ〜は参照はやめて、じかに自分の意見を書いてごらんなさい。 実力を見てあげましょう。
958 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 00:27:40 0
ぴかぁ〜は、コピベと創作をうまくかみ合わせて、自分の実力以上のもの を見せようとしているだけです。本当に哲学をするならば、レスは 貼り付けるのではなく、自分自身で私の論旨にそって書きましょうね。 確かに、ぴかぁ〜も勉強はしているでしょうが、前にも言ったように その目的が、他者を見下す事にあるように見受けら、本当に自分が 哲学が好きで、知りたいと言う動機になっていない気がしますね。 まじめにやるなら、人を見下すような態度はやめましょうね。 ちなみに、私は哲学が好きで探究を楽しんでいます。 上げ足を取ることを目的とはしていませんよ。 その点純一の方が君より上ではないかと思いますね。
959 :
考える名無しさん :2008/03/11(火) 00:29:37 0
おれもぴかぁ〜については前からバカにしていると思う。
960 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 00:35:26 0
と言う事で、まあ君も頑張ってくれ。 ただし、まじめにな。 ぴかぁ〜と私はフィールドで言うとかなり近いが、勉強の方法 が全く違う気がする。私は熟読する。ぴかはおそらく知り急いでいる ので、熟読していないようだな。いずれ君とは激論しよう。 それにしても、外部の力って神様かい(笑) それって形而上学?と言っても君は事前形而上学すら分からなかったな。 それを教えたのは私でした?
961 :
メタピ ◆p1AdJ397o. :2008/03/11(火) 00:57:12 0
なにをいっても感情的に反応されるので、ぴかさんの「動物化」についてを張りましょう。 おそらくいまの実力では理解できないところもあると思いますが、これを励みにがんばってくさいね。 東浩紀の「動物化」論もフーコーと同じようなにラカン批判の一翼を担っている。ラカンの主 体論はフロイトを基本にしているが、もう一つの流れとして、ヘーゲルの動物/人間論を解 読したコジェーブの人間論の影響が大きいと言われる。そこから「人間」を取り出してたの がラカンであるとすれば、残された残余として「動物化」がある。 たとえばマーク・ポスターは、「情報様式論」の中で、デリダをふまえつつ、情報化社会で は、主体の自己同一性は「錯乱」していると、間接的にラカン批判を行っているが、東の「動 物化」論がおもしろのが、「オタク」という限定的な人々へ議論のポイントを絞り込んでいる ことである。 オタクとは一面ではあまりに人間くさい(ラカン的)でありすぎることがあり、そもそも形而上 学的な存在であるために、オタクは動物化しているというのは、やや神秘主義くさい。しか し東が動物化論を、フーコーの生権力と同様な意味での「環境管理型権力」論と併走して 語るとき、説得力が増すように思う。樫村愛子は、このような状況を、「マクドナルド的主体」 という表現でより、現状=市場原理主義と結びて語っている。
962 :
メタピ ◆p1AdJ397o. :2008/03/11(火) 00:57:50 0
アガンベンは、人間/動物と、「人類学機械」と呼んだ。これは哲学そのものが持つ構造で ある。ここでは人間が救出されなければならない。それは、動物を排除することで行われる のである。かつては人間/動物 主人/奴隷として成立していたが、近代以降、精神/身 体へと向かった。 東/樫村/スティグレールは、結局、人間/動物にとらわれているのかもしれない。動物 化が否定神学として、作動しているのかもしれない。動物化は「人間ではない」ということを 意味する。「オタクは〜だから人間ではない。」その否定において、「動物(家畜)」という決 して到達しない充実されイメージ、家畜のようにもはや何事にも悩まされないという充実し たイメージが指示されている。そしてオタクは「動物」を欲望する。 (脱構築を脱構築する(全体) pikarrr)
963 :
メタピ ◆p1AdJ397o. :2008/03/11(火) 01:03:57 0
>> 20世紀の百年間をかけて、新しいタイプの「知恵」というか、秩序維持の方法が台頭してき た。それがセキュリティの発想であり、情報管理の発想だと思うんです。僕はこれを、ミシェ ル・フーコーやジル・ドゥルーズの仕事を参照して「環境管理権力」と呼んでいます。・・・環 境管理型権力は人の行動を物理的に制御する権力ですが、規律訓練型権力はひとりひと りの内面に規範=規律を植えつける権力です。 「動物化」は、こういう秩序形成(環境管理型権力)の変化と密接に関わっています。・・・こ の「動物的な限界」をいかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それが今の社会の 大きな方向だと思うんです。 「自由を考える」 東浩紀・大澤真幸 (ISBN:4140019670) >> >> なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マ クドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性において は、質より量を重視する。 マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここか ら形式合理性の内部で反射的に振る舞う「マクドナルド的主体」という概念が導き出され る。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化」と「動物化」という概念で記述してい る。「動物化」とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動する 「マクドナルド的主体」を指すものと考えられる。 「ネオリベラリズムの精神分析」 樫村愛子 (ISBN:4334034152) <<
964 :
メタピ ◆p1AdJ397o. :2008/03/11(火) 01:05:35 0
ぴかさんめざしてがんばれ!
>>958 確かに。。。
そういう意味で純一には投資しがいがある。 当の本人はいなくなっちゃったみたいだけど。^^
966 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 09:36:44 0
メタビさんの参加で一層高度な論議ができそうですね。 もっとも、これがぴかぁ〜君でないことに期待しますが? ところで多少の質問をさせていただきますが、 第一点はあなたが言う「フーコーと東のラカン批判」ですが具体的に どのように、どの点に批判を加えたのでしょうか。 ラカン自身も主体の自己同一性にはかなり懐疑的とも言えるでしょう。 第二点オタクがどうして、どういう意味で、形而上学的な存在と言えるのでしょうか。 第三点どうして「環境管理型権力」=マクドナルド的主体が市場経済と結び付くのか? 一方では管理する側の力が(マクドナルド的主体と言う表現にも違和感がありますが) つまり、市場原理は自由な商品の売り買いによって均衡する原理ですね。 むしろ自由放任主義な訳です。それとそれを管理すると言う意味ならそれほど違和感は ないでしょうが、二つの原理がマッチングしているとは言えないでしょうね。 それと、「マクドナルド的主体」ってなんでしょうね。自己同一化が錯乱 しているのであれば、主体とは言えないのではないでしょうか? 主体には統一された自己と言う意味があると思いますが?
967 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 10:03:10 0
動物化がどうして否定神学なのでしょうか? つまり、すべての事を否定した後に、どうしても否定できないもの が人間の根底にある「動物性」と言う意味ですかね? 「動物化」はこういう秩序形成(環境管理型権力)の変化と密接に かかわっていると言う場合、動物化が環境管理の在り方で出現した と言う意味にも取れますね。そうであれば生政権の管理が変われば 動物化は消滅することにもなるのでしょうか。 「動物的な限界」とはどのような事を示しているのでしょうか。 またそれを有効活用するとはどのような事なのでしょう。 形式的合理性と実質的合理性の違いについてもう少しコメント願います。
968 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 10:09:17 0
メタビさん。ぴかぁ〜を目指したりはしていません。 悪しからず。上下ではなく、知りたいと言う信念でて哲学をしている のですよ。また、哲学の分野が異なれば、視点も変わりますからね。
噂に違わぬ天然ですね。
これだと議論の時は、ぴかさんもさぞ苦労されたと思います。
>なにをいっても感情的に反応されるので、ぴかさんの「動物化」についてを張りましょう。
>おそらくいまの実力では理解できないところもあると思いますが、これを励みにがんばってくさいね。
再度いえば、これはぴかさんの「脱構築を脱構築する(全体)」pikarrr」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080227 からのコピペです。「動物化」はぴかさんの主テーマの一つですし、論壇上でも最前線だと思います。
読んで、関係するものを調べて(ネットで調べられるものも多いと思いますよ)まず勉強することです。
いまどき構造主義分析だけで語るのでは誰にも相手にされませんよ。5年は遅れていると思います。
がんばってくださいね。
970 :
メタピ ◆p1AdJ397o. :2008/03/11(火) 10:24:07 0
ぴかさん批判をされているので、弁護としてレスをしましたが、 ケンカを売っているように勘違いされて、ぴかさんに迷惑が かかると悪いので、これでこのスレからは退避させていただきます。 ほんとうにがんばってください。
971 :
考える名無しさん :2008/03/11(火) 10:29:09 0
972 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 10:37:39 0
もう一度整理して見よう。 東は動物化した人間は欲望から欲求へと変化する。 そして、言葉の通り社会関係をなくし引きこもる時、間主体性を焼喪失する。 動物的な欲求は人の欲するものを欲するのではなく、自分の欲するもを求める。 つまり、あれを持ていれば、人が注目するから手に入れるのではなく、ある意味 快感原則で消費するのだと言う事。 しかし、本当にそうと言えるのか? 動物的な欲求が対象そのものがあたえる効用(欲望充足)にあるのならば、 豊かな社会では、むしろ差異化される商品の差別化にあることは明白である。
>>970 ほんとに君はハニカム、ハニカム言ってた頃と変わらないね
974 :
パレルゴン二世 :2008/03/11(火) 11:23:44 0
ちょっと外出しますので、後でまたよろしくお願いいたします。 メタビさんも逃げないね。 もっともぴかぁ〜に肩入れしてはあなたの実力に陰りが見えますよ。 あなたの方が勉強なさっていることくらい明白です。 だから、「噂にたがわぬ天然」と言う発言が感情的でむなしく 感じられるのですね。哲学に常識と言う前提はありませんよ。 天然であろうとなかろうと知ろうとする行為にはむしろ異常さ が必要でしょうね。あなたもぴかぁ〜の意見を鵜呑みせず、 自分の足で立って下さいよ。哲学は思考のゲームの様なものです。 偉い先生が言った事を鵜呑みにしないでくださいね。 あなたも頑張ってね。
975 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 09:20:18 0
差別化される商品とは、二重の意味があるようである。 第一には消費の側から見た場合で、他者への所有に対する差別化(優越性) がそれである。 つまり、他者が欲するものを欲すると言う、東の言う人間の欲望であり、 その代表的な例がブランド商品である。ブランド商品は使用価値として 優れる点を強調したものではなく、ただベンツ・ルイヴィトン・シャネル ロレックスと言う製造メーカー名や商品名によって、需要されるのであり、 使用価値=有効性=効用=東の言う動物的な欲求とは異なる。 この様な他者の欲望の欲望とは、他者への優越性・他者の羨望への欲望である。
976 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 09:28:47 0
一方、動物的な欲求とは、単純に動物の様にお腹がすいたら獲物を 獲得するように、他者の欲望の欲望ではなく、自分の欲求の充足 の為に、ものを手にいれ消費する事で、単純な快感原則にそって、 行動する事を指す。つまり、それの代表が東の擁護する「オタク」 達である。 そこで、まず、このブランド志向の消費者の存在を否定することはできない だろうと思われる。銀座にはたくさんの一流ブランド直営店が、近年特に 多数店舗を開店している。この事から、他者の羨望を欲望する、金持ち オフィス・ワーカーの存在が明確わかるだろう。
977 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 09:41:38 0
つまり、この事から、少なくとも、東の動物的欲望消費形態の完全な 消滅は今のところなかった事になる。 次にいわゆる引きこもりの生活習慣のある人達(差別用語ではありません) の消費行動は、確かに、自室にこもって、パソコンソフトや漫画アニメ・ こだわりの趣味の物をコレクションする事で東の言う「欲求」的な 消費のようにも見える。ただし、本当にそうなのか? 彼らはどのようにして、その欲するものを探し出し、求めるのか? もう少し彼らの欲求行動パターンを調べる必要はないだろうか。 例えば、口コミによる場合や、パソコンからの情報入手 「新作品が出たよ!」と言う言葉が友達から伝えられた場合、 これは純粋な欲求だろうか?他者の価値観(良いものだよ)と言う 促しは、他者の欲望への欲望ではないと言いうるか疑問である気もする。 テレビやPCから流れるコマーシャルは、はたして、使用価値への訴えだけなのか? あるいは、他者に対して差別化したいと言う人間的欲望への訴えなのか 限定不可能であろう。
978 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 10:00:40 0
と言う事で、第一の消費の側からのとらえ方としては、 1)ブランド消費は依然と衰えてはいない。 2)オタク達の消費は要求的と一概に言えない面も含んでいる。 と言う事になる。 次に生産=供給面から見た見解であるが、いつの時代までかと言う時代 の線引きは避けるとして、ポストモダン以前には、主に使用価値によって 商品が需要されていた。つまり、貧しい時代には、寒さを避ける(防寒)として、 あるいは人目(露出)を避ける意味でつまり、有効性=効用に根ざして 消費されていたし、生産側も、温かい・着心地がいいと言う使用価値に根ざして 商品を生産していた。食べるものも、働き生きるためのエネルギー 補給をする為であり、そのために生産されていた。 つまり、東の言う「動物化」は貧しい社会=時代に近い生産・消費形態であるのではないか。 他者の欲望ではない「欲求」とは、豊穣な時代の「オタク的な」消費動向と言うよりも なんでも食えればいい時代の使用価値=効用に根ざしたものではないのだろうか? この点が私の東さんに対する疑問点なわけです。
979 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 10:17:21 0
この認識の違いの根底にあるのは、おそらく「開かれ」の中にある バタイユの言う歴史終焉後にも差異はあるのかと言う設問でしょう。 差異をあるものと見た場合、ヘーゲルの言うような、テーゼ・アンチテーゼ ジンテーゼと言う内部の発展的差異とその統合と言う運動ではありません。 それは歴史の運動です。その運動が終焉したのち、つまり、ぴかぁ〜の 好きなフクヤマの歴史の終焉後の差異の事です。ですからこの差異は 有意味ではありえず「用途なき否定性」と言われます。 この差異化こそが「ブランド商品」であり、ボードリヤールの言う 関係的価値の時代を指すのではないかと言う事ですね。
980 :
パレルゴン二世 :2008/03/12(水) 10:24:09 0
977の一行目の「動物的欲望消費形態・・」は「人間的欲望消費形態・・」 に訂正ですね。
981 :
考える名無しさん :2008/03/16(日) 21:44:55 0
980からカウントされていませんが、次のスレッドでは、東浩紀の 「存在論的、郵便的」を中心にすすめください。 現在ぴかぁ〜スレで討議中ですので。
982 :
パレルゴン二世 :2008/03/16(日) 21:52:01 0
僕も、メタPさんには期待していますね。丁寧に説明しているので 好感が持てますね。一緒にがんばりましょう。 この際、ぴかぁ〜=メタPさんと言う事でも良いでしょうね。 自作自演は当たり前でしょうここでは 1)オブジェクトレヴェル=コンスタティヴ 2)メタレヴェル=パフォマティヴ この二つの読み方の差で、共時的脱構築=ゲーデル的脱構築が生まれる。 それではメタPさんもよろしく。
983 :
パレルゴン二世 :2008/03/16(日) 21:57:37 0
つまり、1)では文章をそのまま読み理解すること。 2)では、その背景によって、読み込むこと。 実際は1)の読み方は不可能です。 常に何らかの文脈によってしか読まれない。 しかし、何かたった一つの意味にとれることを模索する そこに、この二つの間に差異が生まれることが ゲーデル的な脱構築のヒントえある。
984 :
パレルゴン二世 :2008/03/16(日) 22:12:03 0
ゲーデルの不完全性定理とは確か、無限数の組み合わせは可能か? と言う問題でしたね? つまり、その事を数学的に証明できるかと言う事ですね。 それは、可能とも不可能とも言えると言う矛盾に行き着いたと言う事 でしたかね? そこに無限と言う時に、無限はいくつまでの整数なのかと言うと 指示したある数字以上なわけです。無限ですから有限ではない。 ところが組み合わせをどんどん作っていくと、無限にあって、 結局終わらない。つまり、この事は、無限は無限と言う文字=概念では 捕えられないと言う事です。これが、コンスタティヴ=無限と言う文字概念 であり、捕えられない余剰がパフォーマティヴ=無限と言う概念では捕えられないもの と言う事ですね。この差異=脱構築をゲーデル的な共時的脱構築としている。 柄谷もこの共時的な脱構築しか捉えていないと東は言っているのですが。
985 :
考える名無しさん :2008/03/16(日) 23:35:45 0
だめだむつかしいすね。 メタPもネタっぺですか。(スヤスヤ) ホんじゃまた明日た・・・・(スヤスヤ)
986 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 09:29:11 0
ぴかぁ〜が一人で吉永・優香と持ち出して脱構築を説明して いるようですが、哲学的な考察には全く関係ない気がするなぁ。 あくまで哲学ならばまず、哲学のタームの意味を説明してから 展開しないといけないのではありませんか。 つまり、同じ言葉でもいろいろな意味にとられる訳で、 説明しない事で、相手に考えさせると言う優越感と 概念の定義をするには、正確な読み込みが必要なので、 間違いが判明しやすくなり、指摘されるのが怖いと言う 心理があるのではないでしょうかね?
このスレもつまらんばい スレタイの超えてが霞んでみえますじゃあ ポスト構造主義自分なりに説明してるだけじゃん!だめじゃん! ポスト構造主義が終ってないのに超えれるの!だめじゃん! ポスト構造主義の延長でしか物考えないの!だめじゃん! A+B+C+・・・が日本的応用?だめじゃん!
988 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 09:43:25 0
つまり、東を中心にタームの部分のみコピベ→自分のドキュメントに貼り付け→ →2ちゃん哲板に貼り付けるか抜き取ったタームにくだらん脚色を加え 煙に巻き、相手を威圧する。こういう流れでしょうね。
989 :
パレルゴン二世 :2008/03/17(月) 09:49:06 0
ケンカはよしましょうね。 それよりも充実した東さんの哲学を勉強しましょう。 次回のスレッドタイトルは「存在論的、郵便的」にしましょう。 そうすると「間スレッド的」な豊饒性が生まれるでしょう。
( ノ⌒〜⌒〜⌒ヽ、 ) ) ヽ/ \, ,/ i ノ | <・>, <・> | I | 、 ,,,,(、_,),,, ノ| 誰だそれ?おん? ヽ ト=ニ=ァ / \ `ニニ´ /- | ̄ ̄ ̄〉,ァ''".ヽ___ /゙ア´ ̄`/ ̄ ̄ ̄ ̄| | 動物 `r´、、__ l ! ィ彡,ャァ'" ,,..,,、\ | ,-┴-、 〈.,, ``''ヽ,,, ''"´ ゙''ヾミ,r/.く |__ / .-┬⊃ < ,;,, ;;; ,,;; ,fr::<, rニ-─`、 ! ;;ニ| / ';;;;;;;;;;;' ,!;V:.:ノ `┬─‐ j \_| < ':;;;;;:' ,;;/;;:.:/:〈 とう! |二ニ ノ | < 人__,,,;;;;;ノ/N/:/:.< |`ー" |__/:ト-―テ" ⌒ `ヾj ::;;;;}/:.:.:∠____| l ' -:十:‐' ゙l, 〃:.:.:/:.リ
991 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 13:30:06 0
992 :
991 :2008/03/17(月) 13:36:01 0
「存在論的、郵便的」をスレタイに含めるにあたり、 「」、【】、◆、-などをつけて見やすくしようと試みたのですが、 スレタイには文字制限があることにより、上記のような結果となりました。 お許しください。 スレタイ+スレ番号+全角8文字 が目安なようです。
993 :
パレルゴン二世 :2008/03/17(月) 15:15:23 0
早いね。このスレッドに並行して、再読中ですが、 よかったら一緒にレスしてくれませんか。 専門的な人を求むです。 ただしぴかぁ〜君はコピベですので、そちらでやって下さい。 いや、「しろうと」君にスレッド作成されてここまで 来ましたが、自分としては、結構頑張った気がします。 大半は真面目に進めましたので内容的にもかなり充実していた と自画自賛ですね。 次回のスレッドでは、より充実したものにしたいと考えていますので、 間違い・意見の相違はどしどし指摘し、書き込んで下さい。 こちらのスレッドが1000ヒットしたら、新しい方へ行きます。 よろしく。
994 :
パレルゴン二世 :2008/03/17(月) 15:20:47 0
ただし、実力よりも良いものを作ろうとすると嫌になりますので 背伸びしないようにしますので、逆に質問をする場合もありますので 悪しからず。
995 :
考える名無しさん :2008/03/17(月) 22:21:05 O
相変わらずつまらんスレだなぁ
996 :
パレルゴン二世 :2008/03/18(火) 15:42:18 0
あとカウント5・・・・・・・・・ふぅ 確かに、ラカンスレッドに専門家の方が参加されていますね。 哲板のレベルが上がっているね。 私は一日に5〜8カウントのレスしかできないね。 慎重に書いてゆきますので、ヨロ。 先にこちらを片づけて郵便的の本格的なカキコに入る予定・・・・ そちらをご覧下さいね。
うめ
うめw
うめww
うめwww
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。