522 :
PRODUCTION ◆w7U7zNEXTk :
輪廻概念図(第一章)
「精神と情緒や捌け口として←みおろす⇔ループ状態ひきこもり→ループ状態←自尊心⇔ひきこもり→みおろす」
「すなわち依存←自意識過剰⇔逃げパターンが確立されている→他(者を否定して安心する)に原因を探し放題」
何も得られない 執念
┗━━━┳━━━┛
┏依存心┳━時間━━━ 宿命━━┳━比較的餓鬼が不服になる
┣自尊心┫ ┗━成長しなくなる━┛ ┗┓
┃ ┃ ┗┓ ┏甘え 無理やりつりあう
┣自意識 依存している事を認めない━粘着┛ 問題
┣意識的 無意識で┛┗逃げパターンが確立されている┳他者を否定して安心する
┣見下ろす┓ ┏道楽━━━┓他に原因を探す━すなわち依存 精神┛┗━情緒
┣ループ粘着状態┓贅沢━捌け口┓ ┗━━不安定┛
┣ひきこもり┛ドロドロ┛ お茶持って来い┳価値が下がる お茶持って来る┛
┣┛┗牡丹餅┛┗━━━嬲━━揶揄┓実力はある┳価値が上がる┛
┣安定を求める━普通になる━━╋嘲弄 無理があるエクスタシー━━━━━┓
┣最初から普通━━まだ甘えられる ━━やばくなる━安定を求める━普通に授付┃
┠学生が雪崩れ込み介入する┐┗┯現実逃避┯┛ ┌付き添い ふられる━━┛
├埋め合わせ┬―行き場を失ったエネルギー └花より団子┐ │
└面食らう妙な静けさ 甘え続けられる └面食らう妙な間誤付き 脊髄反射の期待
│ 適当にじりつさせる┼親がはやくじりつさせようとしている
└www ┌全体パワー不足┴矛盾
肝 自律神経失調症┘
。oΟo〇
┌━┛
(◔ิд◔ิ)
∧_∧
此処迄酷暑続きだと自律神経が不安定になる
自然現象とは思わないが空調設備が必要とか
自律神経が乱れている香具師は矢鱈怒り狂う
矢張り下手に刺激しないに越した事はないが
我慢する忍耐力と自律神経の不安定は不自然
悟りを開いたおかげで大儲けしてウハウハなんてやつは見た事ないから、悟りってものは
やはり、欲を減退させるものだと思う。
悟りを開いて、みんなに「簡単に悟りを開く方法」を伝授できるようになるやつが
いないというのも、「悟り」が万能のものではない事を示していると思う。
悟りってのは、欲を減退させることによって心に落ち着きが生まれる、というものではないだろうか
>>525 悟りを開いたおかげで大儲けしてウハウハなんてやつは見た事ない、悟りってものはやはり、欲を減退させるものだと思う
歳月を掛けて麻痺した感覚は価値観の違いであり其れは成功ではなく大きな失敗への邁進に他ならない徴候が小さな成功を大きな
人付き合いなどに対して反応するかの様に抵抗力は下がり致命的な勘違いを跳び越した状態では多分へまし続けることがあるかと思われる
即ち遅すぎる反抗期
気に入る通りの建造物が必ずできあがるとは限らなく思わぬ出来映えを否定するしかなくなる思わしくない竣成を遂げている手遅れな状態
器量についてだが器と中身が伴っていない場合
会社は残業などしたくない一方とあるアルバイターは何故かしら仕事を調整している模様
其れに気付いた上司が今日は残業ないからと明確に伝えたところでアルバイターの脳内計画はズタズタに打ち砕かれる
純利益というか水揚げ量に対してステレオや番組のボリュームを上げて何時しか感化され勝手な目論見やら謀り事に企てる事など
無茶なプランでしかなく妙計ではないレベルの問題が併発する要因であるプログラムを無理な状態で素早く演算するにはエネルギーが行き成り必要になる
もう冷気が近づいてきたのか。
とりあえず意味もなく言っておく。物事は欠けた所は補完される。と思う。
欠けているところが微塵もなく欠けたと思えばすかさず入り込んでくる。
これは欲とやらにも当てはまるのだろう。それを除こうと思ったり欠落
させようとしたりしても無駄だ。それがなければ生物ではないだろう。
まあ、適当といえばいい加減な事を言った。まあ割り切ってそれを排除しようと
努めるのは不毛なことだと思うのもよいのかもしれない。
私は熱中するものを求めている。熱気を求めている所もあるのかもしれない。
覇気というか。そういったものはどうして感じるのだろうか。どこに
感じるのだろうか。集中であろう。集まっている所に熱気を感じ
活性が生じる。排除されている、つまり希薄な部分はそれがない。
そして好みもあるだろうが、希薄な部分にいこうとしても実は何かが
充満して何もかも希薄な所なんてどこにもない。
みなさん、盛り上げていってください。それをしたってたいした影響は
ないでしょう?だったらがんがんいった方がいい。
集中するもの、そっと寄せておくもの、それをこれからは明確にしなければ
ならない。人には体が一つしかない。やれることも限られてくる。
その意味はどれが大事か、それともそれほど大事ではないか、その分別を
付けるためなのだろう。
人は熱気に惹かれ寄っていくのは当たり前だろう。そこに興味となる素がある。
私たちは実は冷気に惹かれていくことは無い。
この点心の安息を求めることもある意味燃えたぎる情熱なのだ。
燃えに燃え安息を求めるがいい。人それぞれ安息は違う。だからそこが安息と
言ってもそこに集中し留まったということだけだ。そこを目指すこと。
これが我々のすべき事だろう。
愛と言ってもいろいろな種類がある。
どこにでもちりばめられていそうなもの。それが愛。かな。
つまり統一できない。集中も出来ない。それが小さく、または大きく偏在
しているからだ。私たちはとりあえずいろいろな愛の形態を知っておいて
損はない。それから取捨選択しても構わない。まあ、人生とは最後に
どれを大事なものとして残すのか、にかかっている。
535 :
◆EvilehrjfI :2005/08/22(月) 00:07:59
>>532 愛と言ってもいろいろな種類がある。どこにでもちりばめられていそうなもの。それが愛。かな。
完全主義と完璧が違う様に対して一攫千金とかあるけど自尊心はない日進月歩とか奥深い内容ですね
多分プライドが静かな自分自身を強くする一方何らかの衝突を招くことがありそうななさそうな境遇
とりあえず一言。私は偉そうなことを言ってるかも知れないが、そこに
願望が根強くはびこっている。おそらく。一語一語に私の希望が秘められて
いるのだろう。達成願望というか。
こんなことを言うのはこのネットの場と現実の場がどちらが私の本性なのだ
とつぶさに思い直してみたからだ。私はとても気分屋である。連続して
書き込むとそれが習慣になり義務を通り越して中毒にでもなるのか。
書かなくてはならない。そんな義務はすっぽかす。気分次第で。
そんな気分に吹かれてしまう私はどこに根付いてどういう形なのだろうか。
気分に流され何事も貫き通せない私は、どこにも定着できないのだろうか。
これが本性なのか、偽りなのか。
どうしようもないことだってある。義務や使命を果たせないことだってある。
私が気分やら体調やらに縛られてしまっているからに他ならない。
535.
あなた一連同一人物か?ま、いいけど。
おもしろい内容だった。おもしろいことを伝えることは出来ない。
説明はいらないし、説明が出来ないことだってある。うま味や音や視覚で
快楽の原因を分析、説明できるものはあっても出来ないことだって
山ほどあるだろう。素晴らしい。凄い。そんな説明の出来そうもないことを
私は求めているようでもある。逆に説明出来るものには陳腐なものに
成り下がってしまう危うさがある。実際自分の説明できる範囲にあること、
つまり自分の思考内容は陳腐である。
夢を見た。内容は忘れた。しかし、凄い夢だったことは憶えている。
夢は何故すぐ忘却するのだろう。科学的見識は全くない。
夢はその量が莫大であるため、つまり、莫大なゆえに均質であり、
インパクトはありすぎるのだが波がないゆえにどこを抜き出して記憶して
おくべきか分からなくなるのではないか、と思った。
宇宙もまたそうだろう。その広大さを知れば知るほどに全く理解不能、
説明不能になるのではないか。ただ凄い、それだけの記述に終わる。
このように私たちは極々一部分を解釈してそれをもって知ったような
気になってしまうものだ。物事は一部分を抜き出してその他は排除しなければ
説明できない、記憶にも残らない。何か知ったならば何かを排除したと
いうことを肝に銘じとかないといけない。絶対に満たされることはない、と。
自信過剰は動きを鈍化させるのだろう。満身創痍であることを自覚して
いることが活性化をもたらすのだろう。欲は傷を修復するための力。
夢と現実との繋がり。夢はおもしろいが記憶に残るような夢をよく見続ける
と何か寝たという気が薄れる。そういったものは脳波とかで精査できるの
だろうが、何故繋がればつまり現実と夢の境が薄弱になると疲れるというか
満足感がないのか。
では、またあとで。
私は人嫌いな所がある。自分にそぐわない者を見るともう目を合わせないと
いうくらい断片だけで判断してしまう。女は特にそうだ。
女は好きだ。でも嫌いなのだ。こういうのはいくらでも当てはまるだろう。
人間は好きなのだ。人間味。人間くささ。でもどうにも嫌になってくるとき
もある。外見だけで判断するのも失敗するが内面を知ってしまうことは
落胆することだってあるのである。
知能偏重の世の中になってきそうなのか。体力勝負の人はこれからどうなって
いくのだろう。体力もいらず機械任せ。機械は頼りがいがあるが、どうも
好きになれない。機械にもてあそばれることは避けなければならない。
立場が違うのだ。体力もまた必要であり侮れない力だ。
いや、だから偏重よりどちらも成り立たせてしかも上積みするべきである。
これは右脳、左脳偏重主義にも言える。どちらが優れているとか、
どちらを活用すべきとかの問題じゃない。
世の中は階層になっているとも言える。会社、人間関係、食物連鎖。など。
よく描かれるピラミッドの構造か。平面の三角形。食物連鎖の頂点が人間。
この概念が下等やらの傲慢な考え方をもたらすのだろう。
確かに人間は頂点にも思える。社長はトップに見える。
しかし、周囲の者は下等なのだろうか。蔑まれる者なのだろうか。
周囲の者達は頂点に立つものの周りを取り囲む放射状に位置する者達であろう。
決してピラミッドの下層にいるわけではない。中心から近いか、遠いか。
それくらいの違いだ。
だからそういう考え方を止めなければならない。上下関係とかそういった
関係ではないのだ。近縁、遠縁の関係なのだ。上下関係といった視点から
周囲を見ると自分の成長が止まる。バベルの塔が崩れる。そんな所か。
同心円上に位置する者達。他人や諸々の構造はそんな所だろう。
これがビッグバンのごとく果てしなく広がる構造なのだ。
適当なことを言った。
夢というものが悟りに重大に関係してくるとどこか引っかかる。
まあ、止めておきます。考えることを止めるのではなく。
書くのを止めておく。理由はいっぱいある。
まず第一に別にやるべきことができた。
次に面倒くさくもなってきた。
まだ思いつかない。
もう止めると決めた。
ということでまた後で。
時間差と還元については限りなくテレパシーに近い僅かな情報レベルである
547 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 23:20:13
微かで僅かでも情報は情報。大小に差はない。
>>547 燃費の良いクルマにはデメリットが意外に多い?
549 :
骨肉の争い ◆rBlGBOMBeg :2005/08/24(水) 00:18:01
543 :周囲の者達は頂点に立つものの周りを取り囲む放射状に位置する者達であろう。
中央と周辺 という使い古された手法
549よ。引用すんなって。なんか晒されてるみたいで恥ずかしいじゃないか。
それでもって使い古されたとかなんとか言われてバッシングされてしまうじゃ
ないか。別に俺にとっては使い古されていようが使い廻されていようが
どうだっていいんだ。いや、そのような心境を形成したいんだ。
彼女の過去なんてどうでもいいよ、というようなおおらかさを自然体で
創り上げたいんだ。ぼろぼろだろうと色あせていようとそれはそれで
味がある。そういった味わいある物事に心を寄せていきたいのだ。
いい大人になってモラルが形成されていない人って非難するべきだろうか。
確かにそんな人間がなっていない人はいる。逆に可哀想にもなる。恵まれない
環境であったのだろう。しかし、今の時代何人中の内の一人の割合なのか。
そういう恵まれない悪質といえば悪質な環境で現在に至る大人はどれほど
いるだろう。いい大人になったら、年月を経ているほどにモラルは
自ら分からなければならないのではないか。恵まれているはずなのに
常軌を逸した奴はいるであろう。人のことを言えるか分からないが。
国法は守るべきだし、人間としてのあり方くらいの基本となる所は大人だったら
押さえていなければならないのではないか。実際は法やらモラルやらは
破ってしまうものだ。しかしそういうのは半ばどうしようもないことだ。
私が言いたいのは破ることを何とも思っていない、破って当然の輩がいそうな
気配が憤慨しているのだ。本当はスピード違反やら、立ち小便やらささいな
ことでもそれが迷惑、あるいは悪事だと認識しておかなければならない。
平然として憮然としている大人は大人げない。
人間の寿命は千差万別だが、30年以上も生きてる奴はそんな基本的な
人間性は身につけていないと環境のせいと言い逃れは出来なく、その個人に
全責任が被わされてもいいのではないか。そのくらいの時間は十分にあり
そうに思う。死ぬまでそういった基本を身につけれなかったときその人は
人間として生きたのだろうか。人間を全うしたと言えるだろうか。
時間を無駄に過ごしてはならない。無駄というのは無視、傲慢から
導かれるのだろう。
だから人はそれが良くないことなのか。ということを常に思っていないと
いけない。良くないことをすることが頭ごなしに悪いことだとは思わない。
悪いのは平然と無視している態度なのだ。悪気もなく翻っている奴は
幼いというよりも人間として疑う。
良くないことを理由は様々であろうが致し方なくしているのだという
罪悪感が欲しい。どうしても人類全てを愛することなんて出来ないという
理由はそんな所からくるのであろう。傲慢な奴はかわいげがないのだ。
556 :
骨肉の争い ◆rBlGBOMBeg :2005/08/24(水) 22:49:58
いろいろな名前があるね。どうしてそんな名前を付けたのだろう。
由来を知りたい。まあ、そんなものの決定の決め手はインスピレーション
なんだろう。高位、あるいは中心にある何かが与えるもの。まあ、あまり
言うと妄想に近くなってくるのでとりあえず止めておく。
愛は包まれている。ベールに。ベールのめくるとまたベールがある。
いつまでも。その中心には何があるだろう。階層になっているようにも思える。
しかし、そんな階層は幻のように思う。大切なもの、大事なもの、愛を注いで
いるもの、その大きさ、広さがすなわち自分の大きさ、広さであろう。
中心が大きいほどにその人間性いや存在は大きい。中心を点と決めつけてしまう
のは狭いものの見方だ。
狭い世界に生きていることは楽なのである。束縛、規則に則ることは
迷いもせずに立派に悟りに到達できる環境であろう。悟りの反語は迷いとあった。
それは心の狭さに住み着くのもあるだろうし、狭い殻に閉じこもることもある。
階層の底辺に安住するのも良し。
私たちは地球という殻にいるわけだが。
重力を感じることに安堵を感じるのは私だけか。
私の初期動作原因は何であったのだろう。今となっては分からなくなった。
おそらく私の社会適合性の低さ、協調性のギャップといったところだろう。
私は協調しようと努力しようとした。しかしやはりどうしても無理なのだ。
自分の嫌な所は山ほどあるがやはり自分は自分でいたいのだろう。
結果孤立はするが、それは寂しいこともあるのだが、孤立から脱出したいが
孤立もまた捨てがたいし、だからこそ孤立に戻ってしまうのだ。
極限を超えるとそこは妄想の域だ。いくらでも妄想は出来るがそれをいくら
語った所でそれを聞くものにとっては上の空だ。限界を超えるレベルにあるからだ。
限界を超越したレベルを知るには、意気投合するには自らが限界を超えていなければ
ならない。現実に色濃く留まっているならばその限界は超えられないし、
堅物ということだろう。要するに一般にはどこが境界なのかを総合判断
出来ることが望ましい。むやみやたらに限界の超越したところを語っても
空廻るということを雰囲気なりで気付かないといけない。
空廻っていることが何よりも無駄なことだとは誰しも分かる。
かみ合って力が伝達されていないとあまり意義がない。
ただ、空廻ることを目的とした上での行為ならばそうともいえないのかも
しれない。まあ、そんな無意味なことをする馬鹿者はいないだろう。
私たちは何をするにも駆動伝達することを求めるし、その結果が如何様かを
気にするものだ。やはり打算は少なからずあるものだ。
結果が期待はずれだった場合その原因さえも無意味と結論してしまう。
562 :
考える名無しさん:2005/08/25(木) 18:36:46
それこそ私はギアがかみ合うことを期待していたのかも知れない。
その期待がなければそれこそ日記にしたためてもいいようなものだ。
期待は大きいが大きいほどに失意も大きいので下げているのだろう。
私は出会いとは一番良い頃合いに、ベストタイミングでやってくるものだと
信じている、信じたい。だからいつ上げ調子でいくか分からない。
そのタイミングを信じていると言うことはとどのつまり自分の奥底にある
何か、を信じていると言うことだろう。チャンスは逃すまいと思っている。
うーん。何者か。私がしたためている間に上げてしまうなんて。
これがチャンスか。
うーん。ちょっと流れが変わってというかつまづきがあって私は何を
続けていけばいいか分からなくなった。かみ合うと流れが緩くなるのですね。
流体がジェル状になったようなまどろっこしさを感じる。
私が想像しているベストなかみ合いはそんな抵抗を感じさせない自然体というか
流麗なさまなのだ。どうやら562、あなたは私にとっては道ばたの石ころ
と言った所なのだろうか。気分を害したらすまない。私のインスピレーションを
止めたことに対するやつあたりだろうか。申し訳ない。
人は思うようにはならない。しかしある程度思うようにいくのではないか、
という気にさせてしまうのが我が子、あるいはそれに類する者達だろう。
実際は自分以外の者である以上思うようにはいかないはずだ。
あるいは真に正しき教育をするのならばそれは可能なのかも知れない。
私たちが真に正しい者でない証でもある。そういった期待感が子を生み
そして育てる責務を負ってしまうのだろう。だれも反抗ばかりする子を望む
親はいない。その期待空しく摩擦が生じてしまうのは悲哀さえ感じさせる。
哲学と密接な部分が欠落した文脈というか
やはり自分は変わらない。根本にある部分はなーんにも変わってない。
人は変わるという人もいるだろうが、そんなことはない。変わってない。
変わろうとしても必ず元に戻るであろう。変身願望は叶わない。
今まできれい事を言っていた節がある。元に戻った。
何か旅をしていたように感じてしまう。人は変われるか変われないか。
別に説明も出来ないが、自分の胸に聞いてみてください。
何にも変わっちゃいない。変わったと思ってるのは恋をしているように
浮かれているだけである。変しい、恋。か。
569 :
考える名無しさん:2005/08/27(土) 00:58:53
自分は変わってない。成長も退化もない。何か日々を生活しこなしていくと
何か学んだり知恵づいたりしてさも自分に肉付けされるかのように強化進歩
していくかのように思ってしまう。しかし、そんなものは薄皮をまとっている
ような貧弱なもので強化などとはほど遠い。薄皮を幾十にも重ねると強化
するのだろうが鈍化してしまってはどうにもならない。
変わるには、成長するには記憶を捨てなければならない。二度と浮上して
こないように封じ込めないとならない。
記憶を捨てることは自意識では無理であろう。捨て去ろうとすることで
過剰意識してしまうことのジレンマ。意識的には忘れることは出来ない。
自然に任せるしかない。意識的には変わることは出来ない。
比較から変化を認識する私たちには変わったかどうかなんて分かるわけがない。
記憶の奥底にあることと表層にあるものとは比較対象外だ。
表層にあるものだけ取り出すしか出来ない私たちは変わっていない。
だから変身願望は無駄といえば無駄な抱負ですね。
ここで言ってる変身とは中身のことです。中身はいじくれないのです。
尤も私たちは外皮も容易にはいかない。
自分の体さえも素直にはならない。
どうにもならないとき、残る手段は。
すがる、か。
書きたいことは書き始めてから決まってくる。最初から何を書こうと決めて
いるわけじゃない。普段から悩ましく考えることは多いが、別にここに
記そうと決めてるわけじゃないし、おもしろそうなことを思いついても
すぐ忘れてしまう。内容は決まっていなくとも沸いてくるってこともある。
だから、吟味が不足しているし、穴も多かろう。しかし、整合させようと
すればこれまた大きな労働力がいる。私はまだ頭の中にノートを思い描く
ことは出来ない。脳内では許容量を超えている。だから、ノート、書記
しなければならない。
私にとって書きたいことの内容よりもまずは書き始めると言うことが
重要な行動となっている。それは思考を精練せずに混濁のままに
書き殴っているというわけでもある。その点は少し懺悔している。
頭の中はパニックです。私の脳はノートではないのですから。整合性を
求めるには酷です。私は整合性を得るために過去を振り返り統合して
いかなくてはならない。その過程で私は半ば強引に辻褄をあわせるなり
言い訳を作るなりしてしまうだろう。結局そういった自分を正当化することは
永久に終わらないし、真の正当性は得られない。
書き始めるには大変な勇気がいるし、面倒くさがりの私は自分の背中を
押し出さなくてはならない。書き込むってことは面倒くさいものだ。
思いのうちに秘めていればそのほうがずっと労力を消費しないし、
別のことにも移ることが容易だ。テレビを見ながら考えていてもいいわけだし、
考えることを中断することだって簡単だ。書き始めるとそうはいかない。
どんどん沸いてくるものだし、第一に納得が出来ないのだ。
脳内にある思考と表面に出てくる文にはそれだけの力の違いがある。
何が言いたいかってなると、表面にでてくるものは力なのだということです。
表現されるものは力だ。そして最も重要なのは初動だろう。
初動があるから増幅もされるし、減衰もまたする。
私の何かしなければならないという衝動、焦燥はそんな初動の潜伏なのだろう。
ま、いずれ。
576 :
◆EvilehrjfI :2005/08/28(日) 01:11:39
言い訳に過ぎん
577 :
◆EvilehrjfI :2005/08/28(日) 01:57:46
ここで書きなぐってるのは電波のふりした
なにかのいやがらせだろ。スレの主旨とも哲学とも
関係ない、なんの意味も見出せない内容だ。
他のスレでキリスト教信者が聖書の文句だけを
都合よくコピペするだけして、自分の不満なりを、
不特定の相手に呪詛ふりまいているようだった。
それと同一人物っぽい薄ら寒いほど意地の悪い、
根暗な意図も見える。いずれにしろ、この内容から
なにかを読みとるほうが無理。
いずれにしろ、ここは単なる電波スレ認定だな。
悟りがどうのともまったく関係ない、夢・独り言板逝きか。
つまらないことに神経質にこだわるような、
そういう根暗な人間というのはいるもので、
どういう意図があるのか、いちいち探ってもきりがない。
そういうものなんだ、と受け流すのが吉。
自分が興味のない事象は、あまり気にもとめずに、
ほうっておくことが処世術。
,、::::::::::::::::::::::::::::. 、
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/ ``'ー 、_\ .. -=ニ=- /
/ー 、_ `\:、_ `ニニ´/
\,,|丿‐''"ニ,,-‐''''''""'ヽヽ /、,,,,,-‐l" \ Q〜 っ |ヽ/
\丿 / / /,-''''" ̄ /ノl / \ \____/__ ./ ||
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,,,,-‐'" / | ,.‐'''""~ ,-'"ゝ、 ─''''"
''~ / ヽ / / _,,,,/-‐、 \
片付けると怒られる場合もあるが効率を考慮して無論すぐに使える場所に優先的な配置が形成されるという
片付けても何故か妙に散らかる場合は恐らく散らかす連中に落書きをできる猶予を親方としているから困る
だから片付けることはしない屁理屈は自然に散らかす畜生が舵を握ろうとするから舵取りが上手くいかない
把握されていて既に原因は家畜として育つ団塊にある口封じは其の場凌ぎは発展途上を腐敗的な怒りである
言い訳。うーん。
嫌がらせ。私はそういった気があるのだろうか。
根暗。私は結構こだわらずに即答を求めてしまう所がある。いい加減といえば
そうだし、単刀直入といえばそうだろうし、浅はかと言えばそのとおりだろう。
あんまりこだわらない所が間違いの元だし、それがまたいい所ではないかとも
思うときもある。
そしてラマラは意味が分からない。しかし、ニュアンスは分かる。おもしろい。
意味が分からないことはおもしろい。私は何かを読みとったよ。
私はごたくを並べてきたわけだが私というものがどんな人間か分かって
もらえたでしょうか。意味不明ならそれでもいいし、何かの型にはまるのなら
それでもいい。少なからず分かってもらえるならうれしくも思うが
決めつけられるのは心外でもある。人間には自分でも分かっていない部分が
あったりして他人に指摘されて気付くこともある。そういった指摘を
素直に受け入れるか否定するかで道は分かれる。いずれにしても指摘は
自分を知る助けにはなる。
そうなんです。私は意図というものを知りたいのです。もしもあなた方が
知っていたら教えてください。
しかし、私は否定癖が付いている所がある。懐疑的になっている。
一旦せき止めておいて通してもいい物だけ通すフィルター。フィルターの
性能は分からない。いずれにしても濾過された部分だけが私の許容する
ものだ。それ以外はいくら陽動されようと残留して留まっているのである。
あなたの意図が堅牢確実であるならばあなたは幸せ者です。
私などは意図なんてあるのかも分からず、あったとしてもその意図の意図は
なんであろうか、と詮索する気があるから少し困ったものだ。
尤も詮索しっぱなしではない。諦めに似た悟りを得るだろう。
そうそう。
人間、または存在するものは、何か一つの卓越した力、技術を身につけると
それが処世術でもある。たった一種の技能でもいい。種類は膨大とも言える。
走る技能を体得していれば敵に捕まることもない。一級の戦線にいる名人級
は引っ張りだこだ。いくつも突出した部分はいらないのである。
突出した部分以外は平坦でもいいのだ。丸く平々凡々と平均点で生きることも
出来るが人生そのもの人生の全てが平凡となってしまう。
突出した部分があるから山谷を知ることが出来る。山を登る醍醐味。
谷を下る醍醐味。どちらも醍醐味であり、幸不幸はあとから取って付けたものだ。
突出した所を探すのは難しい。運なのか。引き出されるのか。
とにかくその処世術である突出した所を見付け活かし育みたいのだ。
それがダイナミックに生きる処世術。
587 :
骨肉の争い ◆rBlGBOMBeg :2005/08/28(日) 11:59:28
>>じゅん
久々に覗いてみたらコレかよ…
『夢・独り言』板か『お花畑』板、もしくは『自己紹介』板に行け。
ここは貴様の日記帳じゃないんだ。
占有して、駄文を書き連ねてるんじゃない。
統失か、お前さんは??
>>588 ハルカさん
>占有して、駄文を書き連ねてるんじゃない。
そんなわけがあるか… orz
粘着(変態)に追われて一番迷惑しているのは、私のほうだよ。
ま、対処しようがないのでされるがままなのだけどね。
ちなみに、ハルカさんはお元気ですか?
私はそこそこ元気です。
哲学も続けてます。
哲学好きが高じてこんな掲示板も作ってしまいました。
よろしかったらご参加ください。
哲学魂 (てつがくだましい)
http://bbs8.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=5775 (^ヮ^)よろしく。
もしかしたら、上のレス
>>589がわかりにくかったかもしれないから言い直すけど
一連の尋常じゃない書き込みは、私じゃありませんのでね。よろしく頼みますよ。
ほんとに。
半日ぶりに覗いてみたらこれか。
よく分かった。いくら偉人でも凡人でも勘違い、言いがかりはあるものだ。
そんなこと言う権利はないと思うし、筋が通ってない。
行け。それは筋道通さずあまりにもストレートすぎだ。あまり省略しすぎる
のも良くないことが分かった。占有にしたって、他の奴らが書かないだけで
あって私が独占しているわけでもない。悟りが完全に出来ているなら
導くくらいの気構えがあってもいい。駄文にしたって自ら認識している。
そもそも内容のある文ってどんなものだ。私が聞きたいものだ。
統失とは統合失調症のことか。
誰しもがそんなものと思う。
自分がそうではないといい切れるものは逆に言えば犯されているか、狂ってる。
自分のことを的確に把握することは意外、というかかなり難しい。
あなたが病気と言えば当の私は病人になってしまうのか。まったく恐ろしい
押しつけである。私が病気と認めない限り私を常人と認めないのか。
結局駄文と言ってる事の非難が駄文にも思えてくる。駄文と非難するには
自らの文章に駄文という単語を入れてはならない。と思う。
その単語が入るだけでその一連の文章はともに駄文を共有してしまう。
こういうことは前にも言ったことがある。器が小さいことを指摘するなら
ストレートに言ってもその指摘自体が含有してしまう、被ってしまう。
人に馬鹿だと言う。そいつ自身が馬鹿である。そんなものだ。
そして私は引きこもりではない。引きこもってみたい節はある。
しかし現実問題としてそうはいかない。それが出来るものは恵まれているとも
言える。こもって考えてみるのも一考かも知れない。
実は人間一人一人がそのくらい、こもって考えるほどに物事を考えて
言って欲しいと思っている。かくいう私もよく考えていきたいのだが。
考えること、その選択肢は無尽だ。人の思いも千差万別。
しかし、何が正しいかを求めていくと行き着く道は一つに絞まるはずである。
私たちは収束がつけることが出来ない統合損失だろう。
私たちは理を整えるために発端と終局を強引に結びつけて中略してしまう。
中間がどんなに重要でもそれを無視してしまうわけだ。それで理に適って
いると結論する。しかし、そうではない。それではどんなことも理に適って
しまう。中間は侮れない内容なのだ。私たちは現在という終わり、結果の
瞬間の連続ではなく、むしろ中間の連続なのだ。少なくともここを
書き込んだ時点では中間であった。
そうですね。
生きるとはなにか。と問われても正直誰も答えられないのではないか。
内容があまりにも多いし、濃い。端的に答えられるはずないではないか。
内容、中身、真実といった類は言い表すことが出来ない。
まあ、そういった意味でどんな文も駄文でないとは言い切れない。
中身が中途のものが駄文でないと言えるだろうか。私は本意を言ってるかも
しれない。私が本意という単語をどう捉えているかにもよる。
駄文というのも私独自のとらえ方をしてるかも知れない。
要するにとらえ方、すなわち中身が外皮を左右するのだ。といいたい。
>>591-597 いいかげんしつこいよ・・・。
言葉遊びは言葉遊び。あんたがどんな内容の正論を
書いているつもりかには意味が無い。
嫌がらせと感じる人がいて、それでもやるあなたがいる、
あなたの信条なり信仰の迷いだかに、
正直ここで誰もつきあうつもりはない。
スレッドの主旨に対して、
建設的な態度が取れないのなら、
嫌がらせを自覚してほしい。
ここは人生相談板ではない。
ここでまともなコミュニケートができていないことを自覚してほしい。
人生哲学が哲学ではないなどと、狭量なことをいう人間では
本来は無いが、ものには限度がある。
600 :
◆n1001z04V2 :2005/08/29(月) 01:26:45
ここ一ヶ月くらいですか、おもしろかったですよ。言葉遊び。
遊びの心は最も大事だ。はっきりいってどんなことも楽しさを秘めていないと
興味も沸かないし、無視し、無意味化してしまう。そんなことは前にも言った。
つきあってもらおうとしていたとも考えにくいし、sageていることが
それを少ないけれど証明している。598のような当たり前のようなことの
口撃は予測可能だし、私にとってもあなたの言葉はおもしろくもない。
お互い様だ。言っておくが批判してるのじゃなく、これが私の表現だから。
当初私が書き込んだのは放られたスレのようであったし、スレ主とやらが
明言していた。なので別に構わないではないか。
私は嫌がらせだのと言われるがことを怖れて過疎スレにあえて下げて書いて
いるのだろう。要するにコミュニケーションを避けているのは何も全ての
人に対してではなく、当たり前のことを当たり前のごとく表現する人と
交流を避けているのだ。何にしたってここはネットのお遊びの世界だ。
常識を表現変えて味付けすることもお遊びだ。だからまともなことは
書かないように。そんなことは誰しも知ってることだから。
まあ、600のようなわけの分からないものが代えっておもしろいし、
何だろう?とふと思ってしまうものだ。
まあ、いいです。
じゃ。
とにかくこいつはどっちかつうと知力が低いみたいだから上げんな。
青春って何だったんだろう。私には青春がなかった。いや、あったのかも
しれない。よく分からない。時期がどこだったか分からないのだ。
それとは関係ないかも知れないが学生時代の夢はよく見る。
そしていつも何とも表現できない思いになる。なんと表現したらいいのだろうか。
懐かしい、しかも悲しい、しかし晴れやかで楽しくもあったし、舞い戻って
みたくもなるが青臭くて嫌にもなる。何とも複雑であり、錯綜していて
混乱にも似た熱い感情。おそらくあの頃はいろんなことを初体験として
凝縮されていたために入り交じっていたのだろう。
そして自律神経の不調を意識しだしたのはあの頃だ。
葛藤、矛盾、疑念、しどろもどろだったのだろう。
世の中の矛盾、自意識、そういったものに気付きだした。
自意識過剰だったと思う。
続けてもいいか?
返事がないから良いこととしよう。
あんたらは選挙にいくかね。
私はかつて二三回しか言ったことがない。
政治家を信用できないこともあるし誰がいいのかどこの政党がいいのか
分からないからだ。
政治家は国民のためという。国のためという。
そうやって他党を批判するってどういうことだ。他党ならば国民ではないのか。
おかしい。自分の身の回りばかり固めやがって。
言っていることと行動がまるでおかしいじゃないか。
そういう自分を美化することはどっかに穴があるってことは分かるものには
めざとく分かるのだ。私はめざとくないが。
いいことづくめのことを言っているのはどっかにどつぼがある。
そういうことを言っている奴は自分に利得があるからである。
自らを犠牲にしてまで主張するものは数少ないだろう。
真の政治家、それもまた見付けることは難しい。
当てずっぽうの賭けならば最初から投票するまでもない。賭けはそんなものに
するものでもない。負けてもいいものにするものである。
私が虚ろだったというよりもこの世の中が虚ろにも見えたこともある。
私は自分を美化しようとしていたところがあって、それが自分を過小評価
していた所もある。人目も気になったし、何か恥じらいを感じたものである。
それはまだ成熟していないと自覚していたのだろうし、だからこそ
改善あるいは成長を望んだ。それが思うようにいかなければ世間を非難
したりもした。私が悪いのではなく世の中が悪いのだと。
世の中が悪いと思っているのに自分は悪くないってことはない。
良い世の中と思っているのに自分が良くないってことはない。
それは政治家と同じだ。
世の中が悪いと思っているなら自分も悪いのだ。逆もしかり。
自分を美化しても自分だけが美化されることはないのだ。
自分だけを特別視してもそれは独りよがり、囲い込みになりやすい。
おまえいまいち分かってない。悟りってのはもっと駄目なもんだよ。前向きじゃ
分からないもの。
ここの一連の書き込み=@=ぴかぁ〜
結局、文体がどこまでいってもぴかぁ〜なんだよ。
どうやらあなたにとってぴかぁ〜は大勢いるようだ。
2チャンネルってそんなに狭いのかな。
でも、そのものの見方、ネットに対する取り組み方は良いと思う。
不特定多数と交流していると思って対処するより、不特定多数をひとまとめに
捉え対応する方がいい。なにしろ私は誰と話していると言うよりも
パソコンと話しているようなものだから。パソコンが端末であるのは
分かるがパソコンを通してあなた方が誰なのか一体何人なのか分からないからだ。
それはパソコンのIDって言うんですか?そういうのが表示されていようが
大して変わりがない。
私の文をみて前向きと思ってくれたのならなんだかうれしい。そのお言葉を
むげに否定することはしたくない。実は私は楽観主義というより悲観主義
の方である。未来が良くなる保証なんてどこにもないと思っている。
流れからいってあまり良い未来はあるように思えない。流れが反転する
ことがあるのだろうか。もしもそれがあり得るのなら私たちは今までの
常識をひっくり返されることになる。その時リンゴは下に落ちない。
私たちが生きる上で大切な要素。食。子孫など云々より、食が大切だ。
科学の発展によって不死も可能となるかも知れない。その時代が到来すれば
人間は子孫を必要とはしないだろうし、むしろ子孫は自分にとって大敵と
なるはずである。人口を増やす行為は犯罪にも等しきものとなるかもしれない。
現在でもその傾向は出てきている。つまり人があふれかえり、しかも
長生きされると困ったことが出てくるわけだ。環境の悪化もある。しかし
環境にはなじんでいくように改良されていくだろう。だから、長寿とは
環境の克服によって成り立つ。現在は環境をコントロールできないので
人口をセーブするほかない。
問題は食の問題はどうなるのだろうか、ということか。
食の材料は環境にある。環境から摂取するしかない。
私たちは病気になると薬を使うが、私は薬に嫌悪を感じていた。しかし、
よく考えると薬も食も同じことなのだ。致死量の差、構造の違い、くらいか。
微量で効くものが薬だ。それは毒でも同じ。
私たちは薬、食に頼っている。どうでもいいが適量があるってことだ。
適量ならば毒でも薬だ。そういった治療もあるようだがよくは知らない。
食糧が不足するのは目に見えている。私たちが栄養として摂取できる
種類が限られているからだ。おそらく石油やらのエネルギーよりも
直接的に私たちのエネルギーとなる食糧問題が人間の最大の難関となるだろう。
どうして石を食えないのだろうか。
環境を克服しても病気が減ろうと食い物がなければ終わりだ。
人口が飽和状態となったとき人間が生き延びるには殺し合うか、それとも
自分の肉体を改造するしかない。その時私たちは石をも食えるようになる。
まあ、石というのは喩えが飛躍しすぎているな。
私たちはこの先殺しあいをするのか、自分を改造していくのかの選択に
迫られる。構造改革とか環境保全云々はその前段階のプレステージだ。
模索していてる段階だが、その行く末はどうなるのだろうか。
改革も終わり、保全も完了したその後は、一体どんな結末があるのか。
前向きに考えるなら改造を選ぶとでもするか。
その時は一つ悟れるのかな。
一つ夢が出来た。
あ、そうそう。肉体改造というか。それもいいんだが。
精神への移行は出来ないものかと思っているんだ。
霊的存在ですか。環境に依存せずには存在できない現在から一つ跳躍できぬ
ものか、と思っている。ま、それはいずれ。とりあえず、劇的な変化に
耐えうる精神力が必要不可欠になってくるだろう。
622 :
骨肉の争い ◆rBlGBOMBeg :2005/08/31(水) 06:08:58
今日はちょっと駄目っぽいな。
骨肉のような奴が一番の嵐に思える。いや、荒らしか。
何かのために生きるってのは生きがいの一つだ。
それが自分の存在意義としている人も多かろう。まあ、それは良いことだ。
良くないのは引きこもりの態度だろうか。
それは誰彼のためではなくおもむろに自分のために生きている生活だ。
ですから、引きこもりは人生は無価値と決定しやすい軌道にある。多分ね。
何故そうなるかは簡単で自分本位で生きているからだ。
まあ、そういう心境に陥りやすいだろうと言うこと。
誰かのために生きる。すなわちそれが仕事だ。だから、無銭であろうが慈悲
活動であろうが明朗だろうが同じことだ。仕事は何も金に絡んでいるもの
が全てではない。もちろん金は重要な役割がある。請負、発注、売買、
そういった仕事はたくさんあるだろう。元は何かのためにする、という行為
なのだ。それが建設行為だろう。
引きこもりはその点誰のためではなく自分のために生きている。
自分のために生きることは根本だがそれはいともたやすく根腐れをする。
まあ、葉っぱをはやせってことですよ。それが建設的生き方。
食に対する態度も生きるために摂取するのではなく、自分を満足させる
ために摂取するという態度でなければならない。
生きるためってのはその後の第2事項だ。だから、食われる者、殺されるもの
それらはその建設的態度によって初めて成仏、いや存在した甲斐が出てくる。
食われる者と食う者は請負、発注の関係と近似なのだ。
すなわち、食われる者は食う者のため、食う者は食われる者のためという
対等の立場で各々の役割を果たし、存在意義も出てくるのだ。
だから決してまずいと思いながら、生きるためだという大義で食っては
ならない。満足することこれが第一。それで契約は完結する。
終わったのか?
何かちょっと変わったようだね。
いままで俺って中途半端に考えすぎだったのかも知れない。
疲れていて考えることも嫌になっている。
はるかにとって悟りって何なんだ。
決まり切っていそうな予感の未来はやはり滞りなくくる。
別に終末とかじゃなくて、私生活のことだけどね。
予定ってのは狂うこともあるが、私ごときの立てる予定はほぼ完遂される。
私にとっていやな予定はどこかで狂って欲しいが、うまくいって欲しい
予定ほど番狂わせがある。
集団活動、団体行動苦手なんだよな。合わせていくのはつらい。
合わないとそれもつらい。いずれにしたってストレスが貯まる。
今の世の中人間が力を結集したから大規模構造物なども建てれたりして
単独で勝手に生きていれば現在の暮らしはない。
それは分かっている。ことわざにもあったな。三本の矢の。なんだっけ。
しかし、私は不向きというか出来れば避けたい。
それは大きな力となり、大きなことを成し遂げることにはなるのだろうが
当の私は心労で疲弊してしまうからだ。我慢、忍耐、協調、義務、そういった
プレッシャーの数々が覆い被さってくる。
人との接触を避けたいわけではないが、団体の中に入るのが嫌なのである。
入らざるを得ない状況にあるわけだが。ここに私の今の所最もウエートが
高い問題をはらんでいる。
何かしらの大きな目的のために私は自分を犠牲にしなければならないのだろうか。
自給自足を目指したいが現実はそうもいかないようだ。
大きな輪の中に入り、没個性の忍耐、自己欺瞞の矛盾、自分の過小化
存在価値の低下、ストレスが貯まるのも無理はない。
圧迫が私を押しつぶし本当の私がどこにいるのか分からなくなる。
この問題は解決しなければならないと思っている。
何が不満と言えばここにある。この世の構造、社会の構造。
そしてそれを不満と思う私の心の構造。
いずれ。
まあ、みなさん知ってるかも知れないが。
愛と怖れか。何かを不満と思っているのも恐れだ。まだ来ず未来を
危惧するのも怖れ。対人恐怖症。自分の見てくれを気にするのは他人に
対する怖れ。それを取り除くには他人と接しないかそれとも恐れを克服
するか。どちらか。境遇不満。それも同じ。他人と比べて劣等感を持つ。
他人と比べるとどうしても恐れは出て来るものだ。
他人と接しないで生きていくことは出来ない。
簡単に言ってしまう。恐れを克服することだ。
愛は知るため。恐れは克服する。それが最大の目標。
どんどん不満を言ってみてください。そしてどうして不満なのか考えると
それが突如不満の要因となり得なくなるはずだ。
地位や名誉がなくとも何ら問題ないはずだ。それで恐れはなくなる。
では問題もなくなってきた。
632 :
暗黒軍 ◆SONYnbfBLY :2005/09/04(日) 19:47:15
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/youth/1125828173/3 名前:少年法により名無し :2005/09/04(日) 19:05:32
死王のプロファイリング
年齢25歳前後。自分では勉強できたと勘違いしてるが成績は中の中から下あたり。
運動神経は鈍く体育は5段階評価で3以上とったことない。(多少あればこんなとこはりついてないでしょ)
学校でも人望なくせいぜい班長あたり。クラス委員はやったことなし。
でも仕切り屋のため、結構人に嫌われるが本人鈍くて嫌われていることに気づかない。
学歴は3流大卒。1浪1留。職に就けずバイト中。自宅でパラサイト状態。
趣味はパソコン。主に2ch書き込みだけ。おそらく極端なデブかガリ。
そのため、加世田に対しデブ呼ばわりする(おそらくコンプレックスからくるものだろう)
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/youth/1125828173/10 名前:死王 ◆gRhkhd9Ikg :2005/09/04(日) 19:35:10
多分動物は生きて行くだけで色々な困難を乗り越えなきゃいけないんだ。
でも人間はあまりにも保護され過ぎているんだじょ。
自分の足で生きて行きたと言うだけでそれは、大きな自信になる。
そういう部分が無いからオドオドした自信の無いコンプレックス野郎が増える。
そんで勉強ばっかやらせる。勉強出来るけど自信の無い人間誕生。
そんで馬鹿が妬んで苛める。コンプレックス野郎は立ち向かえずストレスばっか
溜まって暴走。誰が悪いのだろう?全部自分が悪いんだじょ。
633 :
暗黒軍 ◆SONYnbfBLY :2005/09/04(日) 19:52:53
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/youth/1125828173/11 名前:少年法により名無し :2005/09/04(日) 19:39:15
>死王
正義感強すぎて、「悪人」の心のなかまではわからないんだね
私も昔はそうだったよ
しかしね、いろんな経験をすればするほど、本当に何が
「悪」かなんてわからなくなる。私にとっての「悪人」の人達は
実に哀れでかわいそうな、守ってあげなければ
ならない人達だと知ったよ。
君が全てとは言わないが、加害者の気持ちが熟知し
許してあげられる人になればと思うよ
もちろん、同情できない犯罪者もいるがね
私の知ってる限りなのだが。哲学板は冷めてきてるように思う。
ぴかあのような奴が去れば私も自然に去っていくだろう。現在も頻度は
減ってきている。私の頻度が減ったから冷めてきているように感じるのか、
冷めてきているから私も興ざめしてきているのか、分からない。
文体を見れば分かる。特徴ある文体の人から世話になったがいまは
去ってしまったようだ。私が見付けていないのかも知れない。
とにかく、このネットという場でさえ接点が何にもなくなってしまった。
私がネットを去れば接点は微小から皆無となる。もう一度あの文体を
拝見したいが、未練がましいのでやはり見なくとも良い。
別れは潔くなくてはならない。心が去らなくては本当の別れではない。
冷めてくる。この現象が私は愛なのではないか、とさえ思えてくる。
熱愛、熱中、その他諸々のことは際限なくヒートアップする。
しかし、実際はいつしか冷めていく。経験上みなそうであった。
冷。それがなくては私は私を見失ってしまうし、暴走を止められない。
どんどん高まる熱気。私たちの生活も冷やされる愛と言っていいのか、
それで均衡を保っている。宇宙に熱を排出しているが、まあ、その排出先、
受け手、が愛なのではないか。それがなくては私たちは自爆する。
私の暴走をいつしか止めるのもどこからともなく来る冷気、排出先が
あるということなのだ。
依存か。
依存症。
みなさんは何の依存症?
なくしたら一瞬ショックを受けそうなものって何ですか?
考えてみると特定のものに依存することは必要なさそうだ。
失えばショックを受けるがなくても何とかなるだろう。
ショックにしがみつかないように。それが本当の依存症だ。
右手で△。左手で□。同時に書こうとしたが難しいな。
なんと言いましょうか。
こういったことが何不自由なく出来るようになることが統合と
言っていいんでしょうか。
練習したら少し出来るようになった。
片方が○にすると難しい。○は難しいよ。つられて角張ってくる。
つられる。つられるとは深い意味がある。
つられたなあ。釣られた。魚釣りもつらして釣るのである。
だまされた、とも言えるし、惑わされた、ついつられてしまう。
俺なんてついつい、うっかりというか、本意かどうか分からないが
行動してしまったり、思ってしまったりする。
みんなが踊っていれば私もうっかり踊ってしまうだろう。
そういうのは罠である。罠にかかっては負けだ。
利口なのは罠にはまってやるのである。それで勝ちだ。
罠にはまらずそこから逃げたら負けだ。
罠をかけてそこにかかるものがいたら勝ちだ。
要するに故意に負けることは勝ちなのだ。
それはどういうことか。
相手も勝ち。当方も勝ち。負けているものなんていないのだ。
知らぬまにつられて負けていた。意図に反して負けた。
そういうことが負けなのだ。
つられて負けるのは致し方がない。そういうのは釣られた魚と同じと思う。
まあ、魚の意図は分からないが。
そういうときはこりゃ一本取られたな、と思うしかない。
罠だと知っていてそこから去るのも負けだ。
考えてみるに私は世の中に順応していかなければ現実問題として
生きていくには無理がある。いくら矛盾を訴えようが、否定しようが
それは現実逃避なのだ。黙認しないのならば生きていくことは出来ない。
だから、現実の世の罠、から逃げるのならばそれは現実という事態に
負けたのだ。
だから分かっているが了承する、これが現実では勝ちだ。
どうしようもないことだってあるのだ。つられてやる。それが
勝ち負けもない、両者優勝なのだ。引き分けではない。
利口な奴らはいる。と思う。
その利口な奴らのおかげで世の中に変なギャップを生じなく
さも辻褄があうように見せかけて動いている。
もし、沈黙、黙認をやぶって皆が口をそろえて矛盾や罠を指摘するなら
この世は混沌とするだろう。
もう一つ。つってやれば勝ちだ。
時間がなくなった。また後だな。
ラーメンがのびる。
>>639 >右手で△。左手で□。同時に書こうとしたが難しいな。
>なんと言いましょうか。
>こういったことが何不自由なく出来るようになることが統合と
>言っていいんでしょうか。
ちょっとうけました。
しかし真面目にやっている人には少しばかり失礼なのでしょうね。
ただあなたのこの誤謬は(おそらく誤謬なのだと思います)、
私が統合について理解するのにすごくためになると思いましたのでレスをさせてください。
私には、あなたの意見が哲学にありがちな勘違いなのかなと思われたのです。
そういった部分を今回書いてみたいと思いました。
part 2
でもたしかに"統合"なんて言い方は、仰々しく感じます。
おそらく、"統合"という言葉を、あなたはカントかライプニッツのあたりでみて、
知った概念なんだと思いますが、しかし『統合』というのはそういう超能力チックな
ものじゃないです。人間にあってまったく当たり前な(つまり普遍的な)、
"認識"についての一つの原理について表す概念なのです。
カントを読むにしてもなにか"超越論的"とか"認識"とか"普遍"とか
"アプリオリ(先験的)"とか、なんだか人間には体験できないような、
すごくとんでもないことをカントは言っているような気がしますが、
まあ彼の著作や、あるいは解説書などをよく読んでみるとそうでないことがわかるんです。
なんといっても彼の文章なんかは難しいので、十全には理解する人も
周りに少なくて、何とか自分なりに解釈しようとして"統合"という言葉を
色々な場面で当て嵌めた結果あなたはそうおっしゃったのだとは思いますが、
実際はいたって単純なものなのです。
そのことについて今から僭越ですが説明したいと思っております。
よろしければ引き続きどうぞ目を通してみてください。
part 3
結局のところ、この"統合"というのは、○や△や□が、全て、『図形』であることを
理解するような能力のことだったりします。
なぜなら私たちは○や△や□を図形として実際に統合しているからです。
なぜたった今私たちが、実際に○△□が『図形』かと理解できているかというと
その○△□が言語化されていて(丸、三角、四角と)、
それ自体がが図形のカテゴリーに収められているからなのです。
ですからこれでは説明しえたとは言えのでしょうね。
今一度、明らかにしてみることにします。
しかしながら、このカテゴリーこそがやはり"統合"の本質的要素なんですね。
たとえばもしこの○△□が、『材質』が全て同じのものであった場合
(例えばスポンジとして存在している場合)、この三つを統合しているものは、
スポンジという『材質』のカテゴリーとして"統合"すると言うことができます。
また同時刻、にその図形があれば、『空間的』に"位置"として"統合"できると言えるでしょう。
つまり『統合』とは、つまり人間の認識のうちに、そのようなカテゴリーを利用して
認識するものを一つのもの(カテゴリー)としてまとめるような能力のことを指すのです。
つまり本当にわかりやすく言ってしまえば"統合"とは"カテゴライズ"することなのです。
part 4
しかしながら、"統合"とはそんなカテゴリーの内部にのみ、
収まるようなそんな単純なものでもありません。
たとえば、『その足でありながら、その手であり、その背中であり、
考える存在であり、言語存在者であり、歩行する存在であり、生命を持ち、
相互理解可能な存在であるような存在』を、"統合"して、『人間』と呼ぶような、
つまりそれぞれが独立しているような存在の仕方がそれ自体のうちにありながら、
それを一つの概念として呼びまとめることも"統合"といいます。
そしてこのような"統合"の仕方を、先のカテゴライズとは分けて『概念化』と表します。
このような『概念化』も実際にはカテゴライズによる"統合"の能力の一つで、
この『概念化』は、言語作用によってのみ生成されるのですが、
『カテゴライズ』は、言語化以前の認識のうちに統合が含まれるかの違いでしかありません。
図形も人間もカテゴライズされたものとして、あるいは概念自体としては同一のものだからです。
しかし、なぜ『カテゴライズ』と『概念化』が違うものとして扱われるかというと、
『概念化』をなすところの言語作用には認識の純粋な作用としてのみあるのではなく、
テオリア(観照)のうちにある構想力から生じるものという限定があるためです。
ちなみにこの認識の純粋な作用を『悟性』と言い、テオリアの部分を『理性』と言い表したりもします。
part 5
そして『カテゴライズ』は悟性のうちの人間の"純粋経験"のうちに含まれますが、
言語化は『理性』により、<私>を対象化したところによる経験自体が反復されたところから
生じるものです。
そしてこの反復によりテオリアによる"構成化(構想)"が進み、
すでに認識されたものであるところの概念が新たに生成されるのです。
つまり言語化のないところの、つまり純粋経験のうちで、
あらたに認識が生成されることはありません。
言語自体は経験ではなく、経験を表現するものであるということを
まず留意していただきたいのです。
そして、ようやくここで概念化以前にある、『カテゴライズ』という、
まさに超越論的な『統合』の作用が確認できたのです。
私たちが○△□をみて、それらを図形と言い表す何かがそこにすで(アプリオリ)に
存在していることが認められたのではないでしょうか? (まあそれがカテゴライズなんですが)
そしてここで言う超越論的とは、その認識をまさに構成するような"形式"のことを指しているのです。
part 6
こういったカテゴリーは悟性によって認識する人間のうちから理解されるのですが、
このカテゴリーは、人間の認識から作用されることはなく、モノに直接付随するような"性質"で、
この"性質"が人間の認識に超越論的に作用します。
たとえば○△□という表象が、人間の内部にあるのではなく、
物自体にある"性質"として理解されるように。
そのような物自体の世界から、人間の認識の世界へと飛躍するようなその構造を、
まさに"超越論的"とカントは言っているわけですが、この構造を可能ならしめる条件(形式)が、
まあつまり『統合』の意味するところなのでした。
ちなみにこのような『統合』の能力が、実際には物自体ではなく、
人間の認識内部にのみ存することが自明であることから、
それが"知覚"の内部にあることを際立たせる為にも、『統覚』と呼ぶのです。
用例としては、たとえば"そこにいる存在"を"太郎"と呼ぶことを可能にするような認識
のことを『統覚』と言うわけです。
この意味がおわかりになるでしょうか?
これがおわかりになれば統合の説明はこれで終わりになるのですが。
part 7
それからついでですが、人間のこの『統合』の形式ですが、
これはまったく認識論的なもので、決して"実践"や"行為"に付随する物ではありません。
行為そのものはは一挙手一投足分裂されていくだけです。
しかしこれを認識(観照、理性)のうちに統合することは可能ですけれども。
ですから
>こういったことが何不自由なく出来るようになることが統合と
>言っていいんでしょうか。
>練習したら少し出来るようになった。
これはやはり、同時間に一人の人間の両手で
○と△を同時に描いた。ただそれだけのことにしか過ぎませんので、
あまり意味のない行為だなあと思います。でも言語的には何かと統合されていて
面白い文章なのでしょうけどね。まあリズム感の訓練にはなるかとは思いますが。
そして、こういうテオリア(観照)を含む行為を、"理論的行為"として、
すなわち『制作(ポイエシス)』などと言うわけなのです。
(まあ、アリストテレスの私的な解釈なので、今のところ私しか言う人はいないようですが)
まあ長々と書きましたが説明は以上となります。
勝った。か。
質問はありそうだがまた後で。
まあ、同時にって所が惹かれる所だったか。
能力開花、そんな所か。同時にやれることが出来るようになれば
人は変わる。それを超能力と言ってもいいだろうし、
現状が劣等としても別にいいだろう。
要するに訓練次第では可能となりえはしないかということか。
質問は後で。
∧/|_ ../´ ゝ`:::::::: ヽミ|
__ / ...{; ;,`/:::::━━'ソ:i:i:'━:|Τ . `,
〈〈〈〈 ヽ > }(ヘ{::: * ☆:/ ヾ _ i~ヽ, 、
〈⊃ } レヘ,::::::  ̄  ̄ | ` -´"´´(_H ̄)
| | ゝ{:::::::/ ゝ i ∴.'  ̄
! ! 、 ヽ::::::: )ー─ヽ ,/
/ /うるせ!アホ!,,・|\:::::::  ̄´ / ∵・∵
( ・ ⊇・) / , ’,∴ ・ _/ ``゙.ー--,i ´, ¨ ; ∴.'
/ / 、・∵ ’/ \/ ̄ ̄⌒ヽ
/ / / / お前だお前 ノ
( | { / / ̄
パート1のありがちな間違いって考えてみればうれしく思う。
私も人並みに間違っている。多数に部類するんだな。私も。
多数決になると私は勝つかも知れない可能性がある。か。
パート2のカント云々は私は知らない。私はいわゆる哲学という学問を
云々言う資格はない。ということで難しいのですね。カントは。
カントは難関ということか。
パート3について。○を見て図形と思うのは統合なのか。分離のようにも
思える。なんて説明したらいいのか。もぎ取るような。
果実が成っているともぎ取りたくなるような。食えるか食えないか。
うまいか、まずいか。そのくらいのものじゃないの?原理なんて。
○や△のようなものだけを図形とカテゴリするのは人間が勝手に
くっつけただけではないのか。それを統合といってもいいんだろうけど。
パート4。難しいですね。観照と言う意味を調べてみた。いい言葉ですね。
結局自分が理解していればそれでいいことなのか。かなり主観的だな。
パート5。言語化ってどういうことなんでしょうね。ここに興味は沸く。
言語化しない宇宙人っているのかな。もしや、それが知的生命体では。まあいいか。
まあ、誰を太郎と呼んでもいいってことか。分かればそれで済むことなんだな。
パート7。結局統合しているというのならそれは統合しているのだろうし、
分裂しているというのなら分裂しているということになるのだな。
私は自分の手足すら不自由なのに統合しているとは言えないのかもな。
○△をなぞることも難しいんだから。
パート8。気は悪くならないが頭は悪くなった。つまりもっと砕いて、
破砕して分裂させてかみ砕いて粉々にして説明してください。
654も全く分からない。分かろうとするのがどだい無理な話だ。
お前って誰だ。
そうか。太郎のことか。誰でもいいんだな。こうして考えると太郎はたくさん
いるな。どれが本物の太郎か。そうだな。自分にとって太郎ならそれでいいんだ。
曲解したな。申し訳ない。
あまり語らないようにします。
技術を磨くってのも人生で大事なことなんだ。
技術ってのは経験から得られるのであろうが、頭をひねらなければ
磨きはかからない。体得するものではあるがそこには頭脳が関わっている。
教えられて上達すると言うよりも結局は自分にとってどういうことが
上達に繋がるかを模索しなくてはならない。教わったことをそのままに
受け継いでいるのは上達はないし、技術は伸びない。
教えられたことは自分で活かしていかないと決して教えられたこと以上には
ならないのだ。そうです。人は曲解するからです。真意なんて伝わらない。
100%伝わるなんてことはないのだ。
頭をひねるってことは別に哲学をしていようが技術屋だろうが役人だろうが
結局は同じことなのだ。それは教わったことに対して幾分不満が
あるのかもしれないし、向上心がそうさせるのかもしれない。
完全に伝わらないってことが、その不足分を補う作用が知恵なのかもしれない。
まあ、どうだっていい。要するに他人の考えはまともには受け入れられる
ことはないってことで、だからこそ自分で結論を完成させなければならないし
自分で知恵をしぼり体得しなくてはならないのだ。
その知恵ってのはどんな分野にいようとそれほど違いはないのだ。
ところで客観って誰しもに理解できるように理解することが
真の客観と思うのは私だけか。
いくら冷静に考えて公平と思っていても自分だけが分かるような
範疇では決して客観とは言えないのではないか。
難解なことを言っていてそれが主観を交えていないなどというのは
どれほどの賛同を得られるのか。それは独りよがりである。
それか選民意識だろう。
>>695 なるほどあなたは、シンプルな考えをする人ですね。
おそらく今までよく考えに考え抜いたからできることなのかなと思いました。
あなたが私の説明を受けてよくわからないという点についてはまったく私の落ち度です。
私が『統合』という意味を理解したいがために、つまり自分のために書いたようなもんですから。
そのためにあなたを不快にさせたかどうかだけが気がかりでした。
どうやら、それは大丈夫だったようで安心しました。
一応質問には答えたいとは思うのですが、その前に誘導をさせてください。
当リンク先に質問に対する返答を用意しておりますのでもしよろしかったらのぞいてみてください。
強く生きることについて in 哲 学 魂
http://bbs8.aimix-z.com/mttbbs.cgi?room=5775&mode=view&no=6&list=all
どうして誘導するのかね。
見ましたよ。統合とはグループ化なのですね。カテゴリに分けているのは
物事が細分化されているように思いがちだが、実は膨大にある物事を
一塊りにすることであったのだな。語弊があったのだな。
一塊りのカテゴリ、グループをさらにまとめるとたった一つのグループに
なるのだな。まあ、その唯一の塊から見たら私たちのカテゴリの分類は
やはり分裂ではあるのだな。まあ、個人の視点から見ると統合である。か。
私は型にはまるのは何故か癪にさわる。何故だろう。
ところでさあ。
この世の中っていうか人の世は悪い風評はすぐに広まる。
新聞に載るのもほとんど悪さをしたものではないか。
逆にいいことして評判が良くなるってことは並大抵ではない。
少々の善行は誰も見向きもしない。
並に、まともに生きていくことは簡単なようで難しいことだ。
そして一度の悪評で末期にいたるまで後を引く。
だから、平凡に生きていくことは注意を要する。気は抜けない。
どうしてそうなっているのだろう。小さな善行も表彰されたらいいのに。
ムチ、罰ばかりでは張り合いもないよ。
どう思う。jun1さん。
私はこれ以上考えたくないよ。引用も恥ずかしいよ。別に恥ずかしいって
だけで構わないんだが。私たちは何が善行か何が悪行かカテゴリしなければ
ならないのだろうか。ならば悪行ばかりをあげつらえないで善行も等しく
対応しなくてはならないのではないか。それとも私たち人間は大事件と
なるような悪に傾倒してしまう性質なのだろうか。もう考えたくない。
悪だって我が身にとっては教訓になるし全く悪だと言えるものは
ないのではないか。反省は必要だろうが。まあ、反省するための見せしめ
的行為が罰則か。人の悪評も。うーん、もう反省はしたくない。
もう悪いことしないから、記憶が消えてしまうってことないのだろうか。
反省すると気が滅入ってくるんだ。だから謝りたい。赦しが欲しい。
>661
>どう思う。jun1さん。
>私はこれ以上考えたくないよ。
まあ、考えたくないのなら、書くのをやめればいいだけじゃないですか。
別に考えない人生が悪いというわけじゃないですし、
考えすぎがよくないってことも十分ありますから。
まあ見たとこ、あなたはどんなに考えても、全然つらくはなさそうなので
もっと考えて、考えまくって、面白い意見を哲学板に
書き込んでもいいんじゃないかと、思ったりもしますけどね。ハハハ(^^;)
>反省すると気が滅入ってくるんだ。だから謝りたい。赦しが欲しい。
どーもね、気が滅入っている様にも見えないし、謝りたいという風にもみえないよ。
でもなにがあったのかよくわかりませんが、聞いてもしょうがないんで
聞きませんが、そのうちなんとかなります! きっとね。んじゃ。
>>655-657 ◆eRDUfXaGp2 さん
>あーい、俺の頭、どうにかなっちゃったんじゃ?とドキドキされているとな?
ふふふ、もしかしたらそうなんじゃないのかしらん、と心がざわめいてました。
今頃あなたは、机の上でよだれたらしてるんじゃないかと、いえ、冗談です。(^^;)
というよりは、◆eRDUfXaGp2(ひじきごはん)さんの作家としての苦しみを
いたわったつもりですよ。
大概、作家っていうのはいつもいつも面白いことが頭の中から出てくるわけじゃないわけで。
たまには羽目をはずしたり、もしくは駄作を産み出さなければならない、
そういうときが来るもんなんです。
そういうのは、あなたが知らなくてもそのうちわかりますよ。
こればっかりは、しょうがないもので、神様が与えた試練なんです。
ちなみに私は、いつも、こいつにやられてましてね。
まあ私も精神的に弱いというかね、だから一瞬だけしか、
私は作品を輝かすことができないんです。
というわけで、作家としての才能という意味では、私には正直足りないものがある。
しかし別にそれでももかまわない。骨髄バンクのドナーと一緒で、100%作家としての
才能が符合する人もいないわけで、だからそういうのをいかにごまかすかが、
物語を書くコツなんだろうなと。だからこそテクニックや栄えのある文章よりも、
いかに地の文を誠実に書くか、それが本当の作家としての才能なのかなと
ふと思ったりします。
で、こういう能書きが喋れるようになるほどスランプっていうのも私は実は
知っていて、つまりよく私は体験していて、それをもとに、あなたはもしやすると
そう(スランプ)なんじゃないかなあと思っていたんですね。
気を悪くしたらすみません。
あ、
>>663は貼り間違えです。スルーしてください。
もう考えたくないってのはある意味真意なのだが、ここに書き込むために
考えたくないというほうが的確だったか。何かいいことを書こうとする
快楽的な打算じみたこじつけはもう熱が冷めてきたのだろう。
やはりこんな場でも自分の文体の構成をみて満足感を得ている輩もいるで
あろう。結局私はこの足りない頭で美を構成したかったのかも知れない。
しかし、この哲学板という場でしかも知識の欠如、センスの欠乏、
思考能力の限界、分析能力のなさ、といった所から美は構成出来なかった。
考えることより、素直に感じるといったほうが私の方向ではないのかと
思ってもいる。やはり考えるというとどこかで合理性が崩れてしまう。
ここから以下は半ば投げやりの態度で書いていくこととする。
すなわち、思考を十分に吟味しないで、そう、感じるままに、おもむくままに
書いていく。だから、私の書いた文章ではあってもそれは私の考えというより
も私の感情である。ですから、私的感情に対して正誤を指摘するのは
止めてください。感情はどうしようもない。私がこじつけて強引に
操作できる感情なんて今のところない。
つまり、私は何も悟りなどしていなかったわけだ。数々ある感情の
一つでさえ私は思うがままに作用させることもできないし、抑制することも
出来ないのだ。理性的であることもまた出来ていない。
ただ、表面に現れないように押さえつけることは少しばかりは出来るのだが、
表情、仕草には出ているのかも知れない。
しかし、ここで言ってるのは表面上をごまかせることが私を理性的に
しているのかってことだ。私は心の中でも感情をコントロール出来るように
はなっていない。そして感情をコントロールしようという気も失せてしまった。
ある種の感情はいくらかセーブ、あるいはコントロール出来るようになりたいと
思っている。それは怒りといった類のものだが。ほかにもあるかもしれない。
逆に保全しておきたい感情がほとんどだ。
やはり、感動のドラマを見て感動したいし、一日の充実感も捨てがたいものだ。
こういうとおかしいのかもしれないが、私の感情の中にもいるものといらない
ものがあるってことだ。いらないって言っても消滅させるのではなく
出てこないようにしまっておきたいのだ。嫌な思いをしなければ良い思いが
引き立たないかと言えばそうではなく、嫌な思いがあれば良い思いも
色あせてしまうのだ。
生きていれば嫌なことは付き物である。それは私たち(私)が嫌なことを
感じないと、逆の良いことというものを知ることが出来ないという
存在になっているからだ。これが私たちは嫌なことをするために生きている
という思考回路に陥ってしまう。人生は苦だと。
それは苦というものを与えないと楽を知ることが出来ない頭になっているからだ。
だから私は本来は必要のない苦という感情を持っている。
誰も苦しむことを目的に生きてはいない。皆その逆を求めている。
快楽はエスカレートしていっても何ら損害はないのだが実際は山あって
谷ありだ。この山谷があるってことで結局は平均は平坦ということで
無意味感が出てくる。それもこれも谷がないと山が見えないって所から来る。
ここで言っているのは山であること、山に登り続けることに谷は必要ないって
ことだ。いつまでもエスカレートしていってもいいのだ。
結局山も谷も自分が決めつけたものであるのだ。私のリズムは私が
決めたものだ。
自分が現状が上り調子であると感じるならそれはその通りなのだし、
下りであると思うならそれもそうだろう。
実際は下りであることを感じざるをえない事態に直面してしまう。
その事態を見まいとするがそれは現実逃避であるだろう。
私の欲しているのは下りであることを感じさせない感情の育成である。
世間のみなさんにも協力して欲しいという他力本願な所があるが
とどのつまり私に些細な嫌なことを感じさせないで欲しいという
身勝手な考えがある。
つまりですね。せっかく芽生えてぐんぐんと伸びようとしてるのに
芽を摘まれてしまうことが日常では茶飯事である。小さなつまづきで
振り出しに戻ってしまうある種の強制力がある。
まあ、そう言っている私は一回でものを憶えられない頑固者なのだろう。
そして人のせいにするのも良くない。
小さな石ころにつまづいて転ぶのは転んだやつが悪いのだ。私の境遇では
大きな石ころはそんなにない。だから私はつまずく自分を責めなくてはならない。
カマキリがねえ、トンボを食ったんだ。ちぎられて落ちていたしっぽは
よく見ると動いていた。すごいなあ、どうなってるんだろう。
ブラックバスを釣ってきて腹を割いたら心臓らしきものが動いていた。
すごいなあ、生命力。
いつになったら止まるのだ。
そこに再生の力を与えると生命はいつまでも生きているのだろうか。
細胞分裂した私は一体何者だ。
私が生まれたのはいつだ。受精したときなのか?精子のときは私では
なかったのか。あんなに活発に動いているのに無生物なのか?
植物は生きているのか?生きているように見える。
私たちは何を食っていけば生物に侵害しないですむだろう。
ということで卵か乳でも栄養にしていくか。卵や乳は生きていないでしょう?
脳みそですら再生の道があるとテレビでやってた。
損傷を受けて修復された脳はやはり私なのだろう。
修復、再生後私はどれほど損傷時と比べて変化があるだろうか。
逆に正常時と損傷後はどれほど違いが分かるのだろうか。
私がそれを判断出来るのだろうか。
ここで言ってるのは手足が不自由になったとかの認識ではなく、
なんというか私の心でしょうか。それが変動するのだろうか。
もう止める。そんなこと考えても実益があまりなさそうに思えてきた。
現実を直視出来ずに大元を知ろうとしてもたどり着けない。
私はつぶさに感じていくことが先決だ。
考えるだけに終始しているとインスピレーションが止まる。感じないと。
自分で考え出すというよりも受信するという心構えが受け入れ体勢をつくり、
純粋な感覚をもたらす。
まあ、私の場合考えていたとは言い難いレベルであった。つまり私は
最初から考えていたというよりも感じたままに書いただけだった。
だから私は他人に押しつけがましくしない。ただの感想だったんだな。
考えることが出来ない性質なのかもしれない。
全然考えちゃいない。脳裏によぎったことを書いただけだ。
くやしまぎれに聞こえるかも知れないが、実際悔し紛れだ。
川の流れは変えることが出来ない。源流まで遡って変えないと変えれない。
変えたと思っていてもそこにはひずみが生じていていつか破れる。
つまり私たちは生まれいずるその時から流れが決まっている。
その固有の流れは人間関係において不明瞭となる。
個別の流れは決定しているが未来は見えては来ない。
流れを変えようとするのは徒労に終わる。無理矢理変えることはできない。
自然に変わっていくしか、呆然と見ているほかないのだ。
たしかに変えることは強引に出来るかも知れないが、それはひずみ歪みで
あっていつしか破壊を経て元の状態に戻るであろう。
その破壊過程ですら自然の工程であるから、私たちのやれることといったら
破壊のきっかけを作ることくらいだ。もっともそれも決まった定めなのだが。
もがけばもがくほど破壊を生み出す。変えようとしてはならない。
私たちは今を生きているように思える。たった今という一瞬のつながりを
生きているように感じてしまうものだ。過去を思い出すのも、未来を夢
見るのも今という時しかない。実は私たちは過去も今も未来も一編に
生きている。決して今という一瞬のみに生きているというのではなく、
過去も未来も生きている。
未来に起こるべくことを知ることが出来ない、寸秒先も知ることが
出来ないと言うのは誤りである。実際は寸秒先は知っているのである。
私たちは未来を先読みして生きていると言えよう。それは能力的な個人差が
あると思われる。思うに大抵の人はその範囲は少ない。だからこそ今という
一瞬を生きていると錯覚してしまう。
時間がきたので。
少し時間が出来たので。
まあ、この言葉使いも間違っているが。
誰にでも怖れはあるものだ。それは未来が見えないからに他ならない。
怖れがないということは死んでいるといっても過言ではない。
すなわち生きているとは怖れているという状態である。予後が分かっている
ならば不安になることはない。死を怖れることも死後が予測不能である
からである。恐怖は未知からくる。すなわち既知であれば恐怖では
なり得なくなるが、そういった点で生きているとは恐怖を恐怖でありえなく
する行程である。それを踏まえていくと未来を知る能力が高いほどに
恐怖が少なく生きているとも死んでいるとも言えないような
何とも形容しがたい状態になる。
今という時が個人差があると言うことだ。人間の能力にそれほどの個体差は
ないように感じるのではあるが。しかし、若干は違いがあるだろう。
スパンが違う。これは人間だけに視点を置いて考えるのではなく多生物に
関しても同じことなのでもしかしたら人間よりも昆虫が生きている幅が
違うと言うことだってなくもない。
強度の恐怖症に近い性質の人はスパンが小さいということだし、
何事にも怖れない無鉄砲さは無知からくると思われがちだが、
その実恐怖などは幻影であるということを知っている強者でもあるのだ。
勇気がもてはやされるのは知への羨望である。
勇猛果敢に行動するものを馬鹿にするなかれ。彼らこそ私のような
ものにとっては憧れの的なのだ。
生死について。
とどのつまり、死後が知っていることならば生きているということは
ゲーム性を呈してきて収束が付かないほどに混沌としてしまう。
時間がなくなった。
いや、訂正。別の用ができた。
結論は仮に死後を知っていたとしてもそれを表沙汰にせずに
生きていくこと。それでゲームが輝いてくる。流れは決まっていたとしても
それには敢えて目をつむること。諸所を解析することだけがゲームではない。
なにやってんだろうな。俺。
一体何がしたいんだろうか。
こんなこと考えるタイプでもなかったのに。
諦めるなと巷では言う。しかし、それはしがみつきの未練ではないのか。
諦めるときは納得の上でしたいものだ。諦めるというよりも
それで完結というような心境になりたい。それが中途であろうと。
うわーい。下がってきたなあ。もう誰も書き込まないかもしれないな。
そういう雰囲気に仕立てあげたのは私なのだろう。きっとそうだ。
私にはそういう力がある。盛り上げる力の反意のしらけさせる力。
いいよ。もう。いい。
私は孤立無援でも負けやしない。援助の手なんて何もなかった。
ただ単に構ってもらうのが援助だなんてとんでもない。
私は構われるのは好まない。うるさいハエは絶滅して欲しい。
おろしろ半分興味半分で構われるのはまっぴらゴメンである。
蚊は絶滅して欲しい。私の血を吸うからである。
私はやめないだろう。最初に断りを入れた段階で最後までいくという
方向が決定づけられた。だからこのスレがあるうちはいくら駄文であろうと
書き記し罵倒が私を躊躇させようと所用でブランクがあろうと、
情緒不安定で気が滅入っていても
続くだろう。
いかにそれが無意味な行為であっても
続くだろう。
それが日記に陥ったとしてもやはり止めないだろう。
もう止められない初動があって来るべきものが来るまで完結させるだろう。
初動は私がこしらえたのだが、だからこそ、私は私を止めることは出来ないのだ。
私は完遂させるために初期動作を行ったと言っても過言ではない。
いかなる場面でも原因と結果は存在しているし、それはまた同義なのだ。
それを止める強制力は自身には有していない。
もしも私を止めたいのならば外圧を。私自身止めたいと半心思っているが
本心はそうではないのだろう。あくまで完結を目指している。
こんな私もいずれは終わる。1000まで行ったら、あるいは忽然と消えれば。
協力してください。1000まで。もう、こんなことはしませんから。
満足を得たらもう同じことを求めやしませんから。
私が立てたスレじゃあないが、そんな所有権はどうでもいいんだ。
とにかく常駐しているここを埋めて完結したい。
もちろんその過程で何か悟りを得れればこの上ないと思っている。
無視するのも協力だし、何か書き込むのも協力となる。
避けて欲しいことがある。スレ停止の強制執行力だ。
それは私を止める力ではあるがどこかで再燃の可能性を残す。
だから、1000まで。それで明確な答えが出ても出なくても
私はネットコミュニケーションから卒業する。そのための継続でもある。
私たちは決して死後を現在に知ることは出来ない。
いくら考察しても推論してもそれが確実かどうかなんて分からない。
どんな理論も理論以上のものにはならない。
仮に私が死して死んだと実感してもその実感している私は何が死んだと
思うのだろうか。それは私以外のみなさんにとって私が死んだと言うこと
に他ならない。つまりは死したものは生きているものどもとは生きている
ものとして交流できないということに過ぎないのだ。当たり前のような
ことだがそれが死したものの行き末だ。世界の違い。断層なのだ。
分からないものがために私たちはそれをどう結論しても良いのだ。
死後がある、なしは現段階ではどっちに転んでも良い。分からないことだから
差し支えがないのだ。
生きると言うこと、死ぬと言うこと、これを明確にわけ隔てているから、
生きると言うことも死ぬと言うこともぼやけてくる。
生きることも死ぬこともそれら単体では考えられないものであり
単体でもって定義も出来ないものだ。
もしも説明するなら
生きるとは死んでいないということ。
死ぬとは生きていないと言うこと。こういった何にも分からない説明に
なってしまうのだ。
それは生死を反、逆と思っているからだ。
正を説明するなら逆も説明しなければ成り立たない。
対立させると分かりやすくなりそうにみえていつまでも解決しないのだ。
双方の違いを羅列するばかりでなんら道理が見えないのだ。
死んだあとはどうなるのか、ということは詮索しても構わないのだが
もっとほかにやってもいいことがたくさんあろうかとも思う。
簡単に言うと別の世界にいって会えなくなっただけ、くらいに思っていれば
それ以上は思考を重ねてもどうにもならない。
来るべき時は必ず来る。結末はやってくるのだ。どんな形をとろうとも。
前取りしようと急いてもそれは私が強制執行力でここに書き込めなく
なるのと等しいことで、それは急遽訪れるということなのだ。
だから、前取りしようと頑張っているのならば、その急遽訪れる結果に
対しての心構えが出来ていないと参ってしまうだろう。ヤワでは
最初から求めるべからず。まずはタフさを求めるべきだ。
連続投稿が規制がかかっているのは煩わしいな。
これにて終わる。
とりあえず今日のストッパーが連続投稿規制、か。
まあ、知っている規制は強制力とはなり得ないが。
独り言晒しage
あげんなよ、こんなの
協力ありがとう。
1ポイントゲットですか。私はもう何ポイントゲットしただろう。
この世の物は使い廻されている。私たちはリサイクルをしているのだ。
新しい材料なんてないのであり、素材の新発見は実はそれまでに
眼中になかったということの現れでしかない。
私たちの肉体や精神もリサイクルの過程の一こまである。
私たちが一時も同じことは共存することはないと思ったり、
自分と同じ人間は一人もいないと思ったりするのは要するに形、型式が
それぞれに新しいものということだ。使い回しは古いのである。
古来のものが新規のものを創り上げるというまっただ中にいる。
形、形だけが新しいのだと頭にたたき込まないといけない。
それが時間を作り出しているということに。
新しい形を産出し続けないと時間は止まる。動いている、ただそれだけで
形は変わる。精神だけが活動していても時間は止まるし肉体だけが活動して
いても時間は止まる。時間を感じるために体を動かすのであるから
肉体と精神は切り離せない。肉体と精神の関係はフィードバックと言うよりは
やり回し、リサイクル行程と言ったほうがいいのかもしれない。
生まれ続けて死に続ける。それは同居している。
生きること、死ぬこととはそういうこと。
死ぬということが分からないように思ってしまうが、
日常経験していることなのだ。
私はプライドが若干高いのだろうか。
そして私は人の目を気にする方だ。つまり相手からみて自分はどうなのか、
ということを考えてしまうタイプだ。
それゆえか、自分勝手なやつには無性に腹が立つ。
人間嫌いなのもそこからくるのだろう。
ここでは簡潔にこれにて終わる。
つまらないことだらけの現実世界。
一抹の愉快なことを探し求めて私は疲れてしまったようだ。
日々の出来事、現象は驚愕に値はするが
いちいち感心しているのは疲れてしまう。
私は次は何を求めたらいいのか。
私は熱しやすく冷めやすい。切り上げるのは早いほうだと思っている。
だから何一つ達成出来たと思っていないし、それを名人級に達せても
別段どうなるのかとも思っている。中途半端といえばそうなのだが
執着から逃れるという意味では切り捨て、それで完結なのだ。
このように何一つ熱中しきれるものがなかった。そして幾度となく
その貫けるものを探し求めてその都度落胆のような感情の上で
切り捨てた。これからそんなものを探しても見つからないのかも知れない。
そして見付けたと思ってもやはりそれは切り捨てられるのかもしれない。
何度となく繰り返して私もようやくこの世にはおもしろさを保持できるもの
はないと確信してきた。それは経験によって実感するものなのだが、
経験不足からくる認識なのかも知れない。それが確かなことか不確かなこと
かは経験を積み重ねないと分からないことだし、いついかなる場面が
一発逆転をなし得るかもしれないということだ。いずれにせよ、
可能性云々といえばいつまでも正誤の判断はつけられない。
可能性は可能性でしかない。可能性に振り回されてはいけない。
そして最終的には自分の感情を捨てたいという感情になってしまうわけだ。
おもしろいともつまらないとも感じない感情になりたいと。
もうそれは感情とは言えないかも知れない。
変な言い方になるかもしれないが無感情になることがおもしろいのでは
ないかという希望がある。
感情を押し殺したり無理矢理捨てるというのではなく自然体で極めて
クールに眺めるのだ。
それが正しいものの見方であろうし、一貫したものとなるのではないかと
思っている。主観が入ると偏見が付き物だし熱も上がってやがては冷める。
自分がつまらぬ人間なのかさてまた外界がつまらぬものなのか分からなく
なる、それはこういうところに根本がある。局部的に執着することは
私のようなサイクルに陥りやすい。すなわち熱しやすく冷めやすい。
ロボットのように外見上は奉仕するのである。貢献するのだ。
それは自己欺瞞や体裁ではなく他者のための慈愛なのだ。
それは体裁といっても仕方のないことなのではあるが他人から見て
そう思われないのならそれで良いことだ。自分をだまし押し殺すのでは
なく、他人を欺くのである。それが他人にとっても自分にとっても
益が出ることなのだから。
しかし、心は明け渡してはならない。心は機械的になってはいけないのだ。
機械は同じことを繰り返す。同じことを繰り返しているのが機械だ。
それがつまらぬことだということは私が経験している。
そのサイクルはつまらないという結論である。
私たちが外界に目を向けるときどうしても視点はどこかに固定化される。
どうしても平均的にものは見据えることはできないのだ。
どこかに熱が入ってしまうのは当然のことなのだ。あなたがたもそうでは
ないのか。本を読みあさり知識を豊富にしようとしていたり、研究を
してみたり、それは執着ではないのか。だから長きにしろ短きにしろ
いずれ熱がさまるのである。ほとぼりが冷めてまた繰り返すのであろうが
いつも同じことの結末を得るのだ。それがサイクル化しているからだ。
雑事をこなしてみせても心は捨てないようにしたい。
心を冷却状態に保つのである。それでサイクルは止まる。
すなわちいつまでも貫ける状態がそれだ。
他人は欺こう。いい人と思われるように。偽善者と思われないような
巧妙さで。つまりは機械的に行動するのだ。
そのように機械的に行動していると本当に機械のようだと他人には思われる
かもしれない。しかしそれは何ら問題のないことだ。他人は自己に都合の
よい便利な機械をうざとく思うわけがない。人間味に欠けていようが
それは一向に構わないのである。自分に利があればそれでいいっていうのが
人間だ。
私は世にロボットとして貢献、犠牲といってもいいか、したいと思っている。
未だできていないが。私が私に執着しているから。
大事なのは心なのだ。
無感情人間になろうと努力したら涙が出てきた。
自分との決別。
そして意欲も無くなってきた。
私は生きているのか、死んだのか、分からなくなってきた。
とりあえず、何かが死んだ。
復活するかも知れないのだが。
では、じゃあなー。達者で。
かなり自分を偽ってきたがそれもさようなら。
誰もいないからさようなら。
愛する少人数の特定されたものたちさようなら。
そして私ともさようなら。
705 :
考える名無しさん2:2005/09/24(土) 12:00:14
感情は生来備わったものなので押し殺そうとしても無くせるものではないし、
INPUT と 何か とを比較して OUTPUT する機械的なものだ
感情に問題があるわけではないし、押し殺そうとすれば、歪むか後で爆発するだけだ
苦しいのは、何かを握り締めて離さないからだ
身体は傷つけないで、その何かと全面的に決別すると最初の悟りは起こる
苦しい時にしか最初の悟りは訪れない
それが決別へのきっかけになるからだ
苦しいことも悲しいことも、その何かの拘りを原因として生まれ、現実を曇らせる
「私」という何かへの拘りを全面的に放棄すれば、雲は晴れ渡るだろう
r、
___/ ̄// 「」「」i / ̄ //
|_ __ ̄ ̄|| l二二il ,「 ̄.| | / ̄ ̄__L [][]i. / //
7 // ̄| ||  ̄ ̄ ,i' |i' / // ̄」  ̄|i' / //
/ // | || ,i' |i'./_,二二.., |i' / // | ̄ ||
/ // | || ____,i' |i'  ̄ __,i' |i' / //__| ||
/_// [__|| 「______|i' |___|i'/________|i
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
/ '''''' '''''' ヽ
| (●), 、(●) |
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, |
| `-=ニ=- ' |
! `ニニ´ .!
\_ _______ /
自分であげてんのかこいつよ〜
上げんなチビ
709 :
絵里万:2005/09/25(日) 17:27:09
,,.. -―‐- 、
. ,.'´ , 、 `ヽ.
/ i .i ヽ
| _ .∨ _ ::|
. | ( ●>X<●.) |
| /∧\ ::|
| (,,ノ ヽ..ノ .::|
ヽ. .:::ノ
/~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
,;';;;;;_-=・=- -=・=-彡;;;;;ヽ、
./;;;;;;;;;;;;;"ー=〓=-'`;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヘ
l;;;;;;;;;' ~''''''''''~ ';;;;;;;;l
業ってなんですか?
自律は必然的な業に矛盾することがあるようですが、
業を認めるとすると、自律は無いってことですか?
今回スランプに陥った。
恥ずかしながら性欲はコントロール不能だ。いや、抑圧不能か。
そうです。それは爆発する一方なのです。私はそれを強引に押さえつけようと
すると私は私でなくなるのです。非常に参りました。もしかすると
私は私を捨てきるのなら性欲も奥底へ沈滞しているのかもしれません。
言ってることわかりますか?男なら分かるでしょう。
それと感情が機械的とはなにやらしらけてしまいますね。
どんな感動も機械的反応と感づいたとき、冷めてしまう。そうなったとき
私は何が感動ということが出来るのだろうか。
しかし今回のスランプで私はどうしようもならない機構が私を支配している
ことを痛感した。自分ではどうにもならない機械的なものの存在を。
713 :
絵里万:2005/09/29(木) 10:05:59
494 :こっちだよ?ヘラヘラ :2005/09/19(月) 23:41:03
.t冖゙゙~--------, ,,,,,――i、
`'i、 -=・=- `'i、 νー'''"゙゙″ .|
`゙ヽ,、 .,-''”` ゙l,-=・=-_,,r=r‐''''′
`゙''''!,,,,,,,,|,,. ,/ 丿
.ヽ 、`'┐ ,,フ''―-,,こ
`i、` `_、 .,,-ー┐ / . 、 ,i´
`''、,, ` 、`''r、 'ヽ r" ,/ `,i´
`'''i、 ``゙'''k,、 | | .,_,,ィ'"` ` ` ./
く ` 、 ```!,,、 |、 ゙l,,、 .,,,,f″ 、 丶.,/
`i、 ` ``゙゙゙ -=・=-リ 、 ` 、 ,/
`'く,, 丶 `ヽ-/勿-′ 、 ,i´
゙l、、 、丶 ]゙l″ ` `,,″
`゙'=―----'" ゙‘‐,,,,,,,。,-'"’
/` -=・=- │
495 :考える名無しさん :2005/09/20(火) 18:02:44
(・∀・) オーナーラ オォーナラー オーナーラーラー♪
不気味なことはやめろ。
私のせいではない。私の責任ではないのだ。私の責任としてなすりつけられて
しまうのだ。罰を与えられて苦しむものは悲惨である。罪を犯すのは自分の
せいではないというのに。根元なる苦の最たるものはここにある。生きることも
死ぬことも病も老いも苦ではないのだ。どうして変化することが苦となりえようか。
逆である。変化がないことがむしろ苦なのである。よって生老病死は苦ではない。
罪の呵責に苛まされることが苦なのだ。
それはどうしようもない。コントロール出来ない私たちは。コントロールされ
ているから。罰は受け入れざるを得ないことは常時あるがそれは自分の責任
ではないのだ。賞罰は受けてもそれは褒美や罰ではない。褒美は受けて
罰は拒絶するなんてことは許されていない。
あなた達は人を罰するときどんな心持ちで行っているだろうか。
罰に処せられるものには責任がないというのにやっきになってはいないだろうか。
715 :
絵里万:2005/09/30(金) 11:39:25
___ o
( ;;;;;_;;;;; )/'''
丶.-'~;;;;;;;;;;;;;;~'-、
/~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
,;';;_"-=・=-;;;;;;;_-=・=- ;;ヽ、
./;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヘ
./ ヽ 、"ー=〓=-'` / ヽ 阪神電鉄でつよ?
/ ◎ ヽヽ、_ ___ / ◎ |
. |_二二二__. `ニニ´. __二二二_|
| |古古||. H |×l]| H .||古古| |
. |  ̄ ̄ ̄l=====l ̄ ̄ ̄ |
|.____________.|
―//――――\\―
―//――――――\\―
俺より異常な奴っているのな、やっぱり。
俺も異常に見えるのかも知れないがそれは単に書き込みが多いからでは
ないのか。内容は的を得ていると思うのだが。いや、つっこみはいらない。
言いたいことは異常に見えるのはおよそ勘違いが多いのだ。
本当に異常な奴ってのは気が狂ってるやつだ。きちがいのことをいう。
それは偏屈にねじ曲がっていることなのだ。
717 :
絵里万:2005/09/30(金) 22:39:37
_,,. .、
,-‐''" ̄;;;; ̄`゙`;;ソ-'´─`゙`ヽ- .,
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .\_
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ベ
ノ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;イ‐-‐-、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|i
」. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;//´ "!,、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|、
ソ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;// l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .}
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l!_ ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .!、
,.j. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.-ノ };;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .┐
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;/´ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;, ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ヽ
.{;;;ン. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;i ;;_"-=・=-;;;;;;;_-=・=- ;;Y:;::;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .〉
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| .:;::;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .j
ヾ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;〉 、"ー=〓=-'` |.:;::;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./ いっちょ揉んでもらおうかね?
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;! /{;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|
`‐、. :.;:;;;;;;;;;{ /ゞ;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./
く. :.;:;;;;;;;;;', /ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ."
i`、l. :.;:;;;;;;;;j、 /-´;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ド
ヾ. :.;:;;;;;;;;;/ ヽ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./
\. :.;:;;;;;;゙、 \ ノ;;;;;;;;;;;;;:;.: .;:-‐-┘
`‐フ. :.;:\ ‐-,,,,,,,,,,,/;;;;;;;;;;:;.: .-‐´
,,.. :-‐'"´. :.;:;;;;;;;\._ \;;;;;;;/;;;;;;;;;:;.: .\_
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;/´ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;, ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ヽ
.{;;;ン. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;i ;;_"-=・=-;;;;;;;_-=・=- ;;Y:;::;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .〉 どうかな?
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| .:;::;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .j
719 :
絵璃万:2005/09/30(金) 23:45:22
| (,,ノ ヽ..ノ .::|
ヽ. .:::ノ
/~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
| (,,ノ ヽ..ノ .::|
ヽ. .:::ノ
/~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
| (,,ノ ヽ..ノ .::|
ヽ. .:::ノ
/~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
腐ってる奴っているのな。なんだかうれしい。みんな、腐ってくれ。
俺が輝いてくるから。社会批判はもうやめる。言ったってどうしようもない。
私ごときに批判されるほどに腐っていってもいい。私が新鮮さを保てる
からである。新鮮さとは食えるか食えないかってことだ。うまいかまずいか。
うまさを引き立てるまずさは必要でもある。
こんな俺に仕立て上げたのは世間が悪いのではない。世間は腐ってきている
のだ。しかし、私の力を引き立てるのである。だから私にとっては
望ましい方向だ。
ま、戯れだが。
金を出してまで能力開発をしようと試みたことがある。
端的に言えば金儲けをしようとして(それに似た類の)金を注ごうとして
いたわけだ。設備投資、先行投資のようなものだろう。
金をかければかけただけ得るものは倍になるなんてことはない。
それは浅はかな期待だ。その心理を利用した詐欺が多いであろう。
金を得ようとして金を放っているのはあほである。かくいう私はいくらか
放ってしまった。要するに得ようとするなら努力なのである。
努力を差し置いてしまっては得られるものではない。
努力は直接に作用させるべきだ。間接では目的達成には遠くなる。
努力に関しては後に。
723 :
絵里万:2005/10/01(土) 10:39:37
,r'^⌒⌒ヽ,r''⌒`ヽ、
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ´`´`ヽ;;;;;;;;;;;;i
!;;;;;;;;;;;;イ::. / \ ヽ;;;ノ
,-――、_ ノ ,,,@,,, ノ、 _,r―-、
( ⌒ ヾ、.::;;;;;;::.ノ ⌒ )
\ ヽ ミシミッ ノ /
\ ヽ、 ヽ( i i )ノ ,ノ /
\ l`ー-―' `∪´`ー-―' /
ゝ;;;;;;;|:::: (●) ,(●) |シ
从从/: \ 、_! / ノ
从从 i 'ー三-' i l
ノ从ヽ._!___!_/
性欲もまたオートポイエーシス的なものであり去来するもので脳でいくら否定しようとしても消せない。行為によってけすのである
725 :
絵里万:2005/10/02(日) 10:55:51
∧___∧
/-=・=∵=・=-\
| ,,(-=・=-), |
/| `トェェェイ ' .| iikagennimezamenasa---i
/ .ヽ、_ |,r-r-|_ノ
| _ `ニニ´ ノ
∪⌒∪ ∪
うわーい。下がってきたなあ。誰も書かないとおもしろいのに。
おもしろいってだけで書くなと思ってるわけではないが。
私は純粋さは好きだしそれを求めていきたいが、
完全な純粋は求めていないのであろう。
ほんの少し異物が混じっていても良い。
異物が多いともはや識別が困難になる、つまりおもしろくなくなる。
異物だらけだと難解を極める。混迷を極めるとはそういうことだ。
純粋すぎてもいけない。
薬の副作用に性欲減退をうたってるものが結構多い。
私はその副作用を逆に本作用として服用しようと決めた。
つまり薬の力を使って本能をコントロールしようと思う。
言っておくが私は普通の欲求レベルであろうと自覚している。
しかし、ともすれば性欲が私を狂わせる要因にもなるので私はそれを
制御したいと思う。
いらないと思うときには目覚めさせない制御が出来るようになりたい。
その手段として薬を用いたい。というかそれしかない。
私の意志の努力が及ばない力なのである。それは機械的にあるいは自動産出
的に行われるのだったら、それにあらがう力には薬の機械的、物理的
力に頼るしかないのである。
まあ、そう言った意味では私たちの本来の力というのは
何かに頼る、くらいしか持ち合わせていないわけだ。
自発で私たちがどうこうできる力は持っていない。
神頼み。そういうことなのですよ。
それが実を言えば、直接的な努力だ。
自分でどうこうしようという努力は遠回りではある。得られる達成感は
大きいが。得られる保証もない。確実なのは頼ることなのである。
私たちの脳は数%しか使っていなく、他の大部分は秘められた潜在能力で
あるという者達がいる。それを開花させるべきだ、とのたまう。そういった
関連を言っている。
しかし、ちょっと筋違いじゃないか、と思う。数%の現存能力が潜在能力を
引き出すと言うことは数%の能力は捨てがたい、いや、なくてはならない
大切な能力であり、やろうと思えば出来る能力が既にあると言うことなのである。
潜在能力が引き出されていないからといってもったいないとか、劣っている
というわけではないのである。引き出す能力が優れているのであって
引き出される能力が上回ると言うことはない。
そう言う観点で能力開発に取り組まないと現状がさも悲観じみてしまう。
引き出す能力を軽んじてはいけない。それが本当は一番の能力なのだから。
根本の力が努力なのである。秘められた能力を開花させる努力よりも
まずは努力を確実にさせる努力が必要なのである。
努力を育てる努力が大切だ。
秘められた能力というのは脳にある、未開発の部分である。
それは自分のものでありながらどうこうできる代物ではない。
能力開発。それは自分の脳、あるいは身体に対する神頼みなのである。
そうあって欲しいと自分が自分に頼み込んで祈っているのである。
薬などの他力本願もしかりなのである。
そう。祈るしかない。
祈りを貫ける努力が大事だ。
このように自分に本来力があるって自覚することもまた一つの悟りなのだろう。
隠された力を開花させる力があるってことを。
隠されたものは何があるか分からない。何を見付けようと構わない。
やみくもに広く知ろうとするのも良いし、的を絞って深く追求しても良い。
それは嗜好による。
しかし時間は限られているので有効に使おうとするべきだろう。
私たちが脳に依存しているからである。
だから時間に限りがある。
脳としての時間に限りがある。だから私のこの意識も限りがあるとは言える。
脳はネットワーク。依存しあって機能している。頼るしかないというのは
そう言うことだ。現在の意識も身体も引き出されたものと言える。
限りはあるものだが決して滅することはないという代物なのである。
だから死後があるないなどによって意味があるとかないとかは
全く関係のないことなのである。
終わり。
次回そもそも私たちは何だったのか。
なんてね。
733 :
絵里萬:2005/10/03(月) 00:53:48
,,.. -―‐- 、
. ,.'´ , 、 `ヽ.
/ i .i ヽ
| _ .∨ _ ::|
| -=・=-X-=・=- |
| /∧\ /
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_)
734 :
アナル―――○―糞一○―○―○ビーズ :2005/10/03(月) 19:27:56
引篭もってねーではよでてこいやー
今回モデムが壊れてニッチもサッチモいかなくなった。
こういう機械も壊れるのだなと思った。
ぶつけたりしない限り壊れることはないと絶対的な信頼を置いていた所がある。
だから外見上は全く壊れているのか分からなかった。
あんたらも壊れていないか?見た目じゃ分からない所が重大だ。
こういう風に傍目じゃ健常に見えても実は死んでいるってのは
分かりづらいのだ。実は死というものは機能しなくなったことを指している。
どうやら最近のやつらはどこか死んでいるらしい。
まさか壊れているとは思わなかった。業者が交換してくれた。
今回これが潮時なのかなという啓示なのかとも思った。あきらめは
8割方ついてた。神様が私に中止勧告をしているのだ、と言い聞かせた。
実際目は休められたしこんなこと考えずにすんだから良かった。
私は何か都合の良くないことが起きても、これは神様がそういう道に導いて
いるのだと思うようになった。だからもし仮に原因不明でネットにつなげる
ことが出来なくなったとしても私は別の道を歩むだろう。
文句も言わずに、それが神の道しるべだから。
いつのまにか壊れていて、つまり死んでいる事って結構あるものだ。
死とは当たり前に動いていたことが動かなくなるってことだ。
大抵は死とは不動となってから知るものだ。いや、不動のことを死と呼んで
いるのだからしょうがない。
生きているとはその逆であって物事が当たり前に動いている状態を言う。
当たり前に手足が動いて生きていると実感するのである。
だからその当然に動いていたものが動かなくなってくるのが多くなってくると
死期を実感してくるし、死を自覚する。
こうも言える。例えば右手を挙げようとして左足が上がるといった
予期せぬ不自然さを持った動きになると、それもまた生きている感じは
しないのだろう。つまり今生きているということは予期しうる事態であった
ということなのである。ここで当てはまるのは生きていると実感している
者に限るのだが。しかし、死んでいると実感している者はこの世には
いないはずだ。それは死んでいると実感することは不自然きわまりない
ことであるからだ。もっとも死をどう捉えているのかは人に依るだろうが。
過ぎ去ってしまったことは必然性を感じるものだ。実際偶然だったことは
何一つない。原因を見つけれないからといって偶然とは決めることは出来ない。
人生は予期せぬことが起こるものだがだからといって偶然だったということは
ない。それが自然に起こるものだからである。
私たちは予期しうる事態から学ぶのである。全く予期せぬことからは
やはり全く学び取ることは出来ないのだ。予期しうるのにそれをしなかった
ということから反省を促したり、疑問を提起し知っていくのである。
何故知っているのにそれをしたのか。という根源に迫っていくのである。
自然さを感じること。これがリアリティである。
つまり私は自然に生きていきたいのだ。不自然なのは不自然な考えをして
生きている状態を指す。なるべくしてなったことだ。だから境遇を恨むことは
無駄というかどうにもならないことなのではある。恵まれていようがそうで
なかろうが抗うことは不自然だ。
つまり、今までの概念。不自然さを何らかの死と思っている。
私がモデムが壊れたと思うのも先日までの自然さを保てなくなったからである。
ここから推進して、不自然さをかんじないのなら、壊れてもいないし、
死にもしないと言うことだ。やがて訪れる死、これも私たちは自然さを
持って対峙すると死は訪れないのである。
これはいずれ。
やがて訪れるというところがミソである。私たちは死ぬことを予期している
のである。だから実際に死が到来したときに誰しもが知ることとなる。
何故死んだのか、つまり何故生きていたのか。を。
743 :
絵里萬:2005/10/04(火) 23:58:23
,r'^⌒⌒ヽ,r''⌒`ヽ、
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ´`´`ヽ;;;;;;;;;;;;i
!;;;;;;;;;;;;イ::. / \ ヽ;;;ノ
,-――、_ ノ ,,,@,,, ノ、 _,r―-、
( ⌒ ヾ、.::;;;;;;::.ノ ⌒ )
\ ヽ ミシミッ ノ /
\ ヽ、 ヽ( i i )ノ ,ノ /
\ l`ー-―' `∪´`ー-―' /
ゝ;;;;;;;|:::: (●) ,(●) |シ
从从/: \ 、_! / ノ
从从 i 'ー三-' i l
ノ从ヽ._!___!_/
はみ珍ぷらぷら
744 :
考える名無しさん:2005/10/05(水) 00:19:15
現れたな
哲学神ミシミツ・・
745 :
考える名無しさん:2005/10/05(水) 01:53:58
おお、偉大なるミシミツ・・・!
ハルカさんって誰?
このスレの元スレがあるなら どっかにうpってくれないかな
なんかへんなのに寄生されたようだ。可哀想なスレ。
もっとも私が寄生してしまっているのだが。
でも害虫にはなりたくない。善玉でありたい。
私に悪性のものが寄生してしまったのだろうか。
まあ、自然に去るだろうがね。俺に寄生したって何の得もない。
ではさらば。悪性よ。
いいかね。私が別れを告げたのならあなたも振り返らないで欲しい。
あなたが振り返って私を見てもそれは私の背中だろう。
748 :
絵里萬:2005/10/06(木) 11:37:26
_,,. .、
,-‐''" ̄;;;; ̄`゙`;;ソ-'´─`゙`ヽ- .,
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .\_
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ノ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;イ‐-‐-、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|i
」. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;//´ "!,、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|、
ソ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;// l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .}
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,.j. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.-ノ };;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .┐
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;/´ ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ヽ
.{;;;ン. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;i Y:;::;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .〉
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'、 | .:;::;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .j
ヾ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;〉 |.:;::;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./
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く. :.;:;;;;;;;;;', /ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ."
i`、l. :.;:;;;;;;;;j、 /-´;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ド まだ懲りないのか?
ヾ. :.;:;;;;;;;;;/ ヽ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./
\. :.;:;;;;;;゙、 \ ノ;;;;;;;;;;;;;:;.: .;:-‐-┘
`‐フ. :.;:\ ‐-,,,,,,,,,,,/;;;;;;;;;;:;.: .-‐´
,,.. :-‐'"´. :.;:;;;;;;;\._ \;;;;;;;/;;;;;;;;;:;.: .\_
今、過去、未来、これらの時時は一つに重なり合っているのである。
一点に収束しているというのではなく、その場その場に折り重なっている。
場、というポイントを私たちは常に移動しているわけだが、
一度通過したポイントには2度と戻ってはこないので私たちは
過去は過ぎ去るごとく、未来は到来するごとく感じる。
しかしそうではなくてその時というものは場に一重にあるものなのだ。
本当は過去とか未来とかは区別されるものではなくて幾重にも重なり
あっているものなのだ。
つまり、未来が過去となっても問題ないし、過去が未来となっても
問題ないのだ。
死後はあるのか、ないのかもこんなところから解決する。
つまり未来に訪れる死は過去のものだとしても別段問題はないのだ。
死後はある。過去があるから今がある。過去も未来も順番が決まっている
わけではない。ならば何故未来が見えないのか。
こういう喩えをしておこう。私たちが後ろ歩きをしながら前に進んでいる。
過去という方向を見ながら未来に進んでる。だから過去しか見えない。
振り返ると未来が見えるのである。
ただ、死後があるといっても今の私、この人生を踏まえた私はないと思う。
私は私であるのだが、この人生という殻から抜け出すのである。
よく考えてみて欲しい。生前は私たちはどうだったのかは分からないことだ。
受精以前はいなかったと言っても良い。過去がやってくる。
追憶という形で辿っていくとどうしても限界がある。私たちは幼少の
記憶は思い出せない。どうしてなのだろうか。
それはポイントが離れてしまったからである。私たちの視力に限界が
あるように遠い過去は見えないのである。まして私たちの背後にある
未来は見えない。
このまま後ろ向きに歩んでいって未来を一つも知らないままに死を迎える。
その時私たちは前方を見れるようになる。過去も未来も見れるようになる。
私たちは肉体に依存しているから過去しか見れないのである。
死という解放を得たとき360度見渡せるようになる。
つまり、その時私は現在の私の人生だけでなく、他人の人生も見ることが
出来るのである。ただ実感は出来ない。ポイントが違うからである。
今、この瞬間の私というものは今この瞬間の私しか実感は出来ないのである。
解放を得た存在が神であろう。その神の存在のために私たちは存在している。
私たちは神の元にいずれ返っていくのである。現在は神の子として存在している。
過去を辿っていくのもきりがないことだし、未来もいつまで続くのか
分からない。過去も未来も絶えず産出されているからである。
神は何にも囚われていないのでいついかなることも知りうる。
どんどん新しいことを知っていくことでより完璧になる。
私たちが幾度となく産み落とされるのはそんな所である。
輪廻転生というのもあながち違っていないが、それにはわけがあるのである。
神が私たちを産み落とすのである。
前世というものはそれこそ決まっているものではない。定めることはできない。
家畜であってもいいし、偉人であってもいいし、どれと特定は出来ない。
来世も同じである。
同類だからである。この世にあるものは神の落とし子だ。
ということで私たちは狭い世界にいる。束縛されていると言っていい。
でもそんな世界にいるからこそ分かることだって有るのだ。
私の気持ちは私が一番良く分かってるというのはそういうことだ。
いくら神でも私の気持ちを忠実に知ることは出来ないのだ。
もしそれを知るのならば私と同化しなくてはならない。
神ならばそれも可能かも知れないが。
しかしながら、私は神と同化、つまり神となったという自覚がないもので。
なんともいえない。
756 :
絵里萬:2005/10/07(金) 00:03:59
., - ''" ̄ ̄ ̄"''-、
/ -==・==- \
/ '、
く 、,、,、-==・==- ',
.リ | -==・==- ヽ . |
| . ..|
| "ー=〓=-'` _ . .|
',-=・=- `ニニ´ -=・=- ..'.|
| |
ヽ -=・=- , ... |
| -==・==- ヽ |
| _ . .|
',-=・=- -=・=- ' .|
ヽ -=・=- , ... |
| -==・==- ヽ シi |
| _ ミシ.)/.|
',-=・=- -=・=- ミし' .|
ヽ -=・=- ,ノ |ノハ
\ `ー―' , ´ ,,ノ|
`┬― ''´,. -''" ノ\
 ̄| ̄ ̄ , -''
世界というのはどこへ行ってもそれほどの相違はないのである。
私たちは場の違いにより変化に富んでいる世界と思うものだが
それは内部から見た世界なのだ。私たちがいくら多種多様となっても
総体では変わり映えはないものだ。
どの部分を切り出しても大差ない。切り出してつぎはぎしても
目立たなく補修できる。そんな世界だ。
それは絵まりの絵を取っ払って別の絵を挿入しても何の違和感もないと
いうことなのだ。それだけ重要性はない。
この切り口から後で。
758 :
絵里萬:2005/10/07(金) 10:57:51
_,,. .、
,-‐''" ̄;;;; ̄`゙`;;ソ-'´─`゙`ヽ- .,
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .\_
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ノ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;イ‐-‐-、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|i
」. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;//´ "!,、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|、
ソ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;// l;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .}
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l!_ ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .!、
,.j. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,.-ノ };;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .┐
/. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;/´ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;, ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .ヽ
.{;;;ン. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;i ;;_"-=・=-=・=-=・=- ;;Y:;::;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .〉
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;'、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| .:;::;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .j
ヾ. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;〉 、"ー=〓=-'` |.:;::;;;;;;;;;;;;;;;:;.: ./ いっちょ揉んでもらおうかね?
゙、. :.;:;;;;;;;;;;;;;;;;;! /{;;;;;;;;;;;;;;;;;;:;.: .|
`‐、. :.;:;;;;;;;;;{ /ゞ;;;;;;;;;;;;;;;;:;.:
絵まり、あなただけか、私にかまう奴は。
あんたはいいやつだ。
私にもんでもらっても気持ちよくもないよ。期待に添えなくてゴメン。
あんたはいいやつだ。その良さを活かして欲しい。
最初から何でも知ってる奴はいない。これは常識だ。
最初は何も知らなかった。というわけだ。
すなわち最後は何かしら、最初よりは知ると言うことになる。
最初は知らない、最後は知る。そういう流れ。
しかし考えてみると知るということは単に遭遇したということに過ぎない。
すなわち最初は何とも遭遇していないということだ。
そして本当に最初は何とも遭遇していないのだろうか。
私たちは精子と卵子の遭遇によって生まれ出た。その受精時点で
我々は少なくとも一つは知ったのである。
最初や最後という考え方は常識だがまやかしだ。
私たちは流れに乗ってしまっているために、時の流れを一方向と決めつけている。
過去に戻ってやり直しはできない。それと同様に未来に高飛びも出来ない。
繋がりを重視しているからである。繋がりが切れるとものが分からなく
なるからである。それは遭遇がないと知れないということという意味なのだ。
私たちは何かと遭遇なくして物事を理解できないのだが、それは
時の遭遇、つまり時の繋がりなくしてもまた物事を理解できないのだ。
精子、卵子の時は私は私でなかったのか。最初すらでなかったのか。
そして死が最後なのか。分解すれば最後なのか。
最初、すなわち受精のときに私は今回の人生の私の境遇を知る。
最後、すなわち死のときに私は神と遭遇する。
受精以前は私は存在していなかったのだろうか。いや、いた。
私たちは自分の存在を認識するのに記憶という狭い殻に閉じこめられながら
生きていると実感している。
私は恥ずかしながらよく忘れる。でもきっかけがあって思い出すことも多い。
思い出さないのは別段他愛もないからだ。
あんなこともあったんだなあと思うのはえてしてきっかけが切り開く。
私たちは自分を実感するのに時の繋がりを感じないとならないというのに
思い出す事柄は欠落しているのが多いと言うことはどういうことだ。
欠落しているのは重要性に乏しいとも言える。
私たちは人生のうちの重要な部分を抜き出して私の人生として決定している。
実は思い出すうち重要でないものはない。それは全てが重要だ。
ただし、それは私の人生という限られた閉塞した記憶の中だけの話だ。
この宇宙にとっては重要な記憶ではない。宇宙に意志や記憶があるのかは
分からないが、あるとして、宇宙が私のことを思い出そうとして
全くの別人を思いだしてもなにも不都合はない。
それは私が絵まりを思い出そうとして恵理という女を思い浮かべても
差し支えないという程に他愛もないものだ。
つまり私にとって他人はどうでもいいといえばどうでもいいという存在なのだ。
しかしそうは言っても何かしら相違がないと何も分からないというものである。
私が誰かを思い出そうとして皆が絵まりであったら私は私としての実感も
持てないのである。必ずや少なからず違いがなくてはならない。
別にそれが誤りであろうとなかろうと違いはなくてはならないのだ。
その違いを見いだせなくなると痴呆やら恋やらマニアやらに陥る。
それこそ多種多様でなければ私は私として存在できないのだ。
そして地球は近くの星と比べて多様性に富んでいる。
これが地球が意識体ではなかろうかという提案である。
ちょっと飛躍しすぎた。
つまり時というものは一瞬たりとも同じ時が連続はしないし、飛躍もしない。
大差ない僅少な違いの繋がりが時、だ。
そしてそれは時というものの多様性を産み続けると言うことになる。
この地球上が多様なのは私が私であるための相互関係の保持のがあるからだし、
生物の体が複雑なのはその生物の内部の自己確立の相互関係の上で
形を保持している。私の内部で意識が発生するのはそのためだ。
私の肉体の傷が自動に治癒されるのもそのためだ。
地球そのものが私のような意識をもっていると思ってしまうのは
あながち違っていない。
最近対話って言う対話してないなあ。寂しいと言えば寂しい限りだな。
まあ、ほとんどの輩は高嶺から見下して忠言を吐く手合いだが。
謙虚さは感じられない文体で責めてくる。
ごり押しをしようとしているのは見え見えだ。
それが出来なくなると自然消滅。いや、自然と言うより忽然と消える。
対話が成り立たないのは私にも原因はある。
私が聞く耳を持たないからでもある。
私が聞こうとする態度を示さないからでもある。聞こうとした発言がないから
であろう。聞こうとするならその意志を表明しないとならない。
そうしないと語られない。即答はない。対話もない。
対話とは相互の接触であり遭遇だ。
対話せずともそれは成り立つが対話によって新たなものが生まれるのである。
接触によって必ず何かが生まれる。
しかし、接触によって生まれるものが私にとって+なのかマイナスの作用を
及ぼすのかは生まれてこないと分からない。
よって、望まないマイナス面を蓄積してしまうと言うこともある。
しかし、経験によってどんな接触がマイナスを生むのか予想が出来るように
少しはなった。無論、的はずれもあるだろうが。
これからの賢い生き方としてその予測の範疇にあるマイナスの接触の可能性
の事態を避けていくことだろう。時間にも限りがある。いつまでも
同じことを繰り返してはいられない。
つまり、対話にも+となるものがあると言うことなのだ。それを意識的に
選択していくことが糧となり肉となる。
私はマイナスの事態の想定は少しばかり出来るようになったが
+の事態の想定が劣っていることは自認している。
ここが私が全否定にも陥る危惧がある要因であろう。
つまり私にとって+の事態は未知との遭遇を経なければならないと言うわけだ。
今までマイナスの要因との遭遇が多かったと思う。それか、どちらとも
言えない中間のことが多かった。いっとくが良いことがなかったわけではない。
さらに良いことがあるには未知との遭遇が必要だろう。
その時に一歩踏み込む勇気が必要だ。そういう勇気が対話における聞く耳
と同義である。つまり聞く耳がなければ+のこともマイナスのこともない。
謙虚な勇気。選別された勇気。これを持つことにするか。
プレストレスを私は自分に与えているのだろうか。
自己完結型を目指して。うーん、わけが分からない。
スーパーハイテンション。ちょっと言ってみたかった。
ここからさらに発展させて考えてみたい。
見放されたようだ。
見放されると人間生きていけるのだろうか。
私を見捨てないでくれ。
救いを求めると救いの手は差しのべられるのだろうか。
助けてください。
私に救いを。
心の叫びは聞こえるのだろうか。
聞こえましたか。
私は叫んだのだが。
謎は謎のままに。そっとしておくのがよい。
継続は力なり。それは魔力なり。
証さない方がいい。とぎれるからだ。
私によって随分変わってしまったようだ。
これが私の力。
ここいらで少し流れを変えようか。
スリーセブンか。
今日は三行で7回でやめとこうか。
一週間も終わるなあ。
774で名無しか。
そういえば名を付けなかったな。
私に名はなかったのかな。
終わったんだろうな。
終わりの始まり。
プロローグはエピローグ。
問いはどんなものも疑いだったのだな。
疑うのは悪くもないが、あまり多いと自分すら疑うこととなる。
疑うことはほどほどに。すなわち問うことは極力避ける方向で
いければ望ましい。問うならば再確認のためにするくらいで
ちょうどいい。
以前は何かにつけて何故、と疑問符を付けられる考え方をしていたものだ。
どうしてか最近はそれはないようだ。
疑いつづけることは何も生み出さないと心底気付いたからであろう。
だから私は少々のことで疑うことはやめた。
断定的になったのはそのためであろう。
雑多なものから選抜するのは手間がかかるといえば手間がかかるものだ。
膨大な情報の中から選び抜き表現するのも逐一精査していると
本当に面倒だ。ほとんどの人間はいちいち自分の言が正しいのかという
詮索などなしに半ば投げっぱなしの言動をしている。
それが手間がかるからである。
これから怒濤の書き込みをしていこうと思う。可能かどうか分からないが。
自分本位に。自由気ままに。何のことはない。計画性のない
思いつきでやっていく。その場その場に即した、その場限りの
突拍子の順応したいい加減なことを書き込んでいく。
潰そうと思ってやっているのがあるのかもしれない。
圧倒的な量でもって達成感を得ようとしてる感がある。
しかし、私はハイクオリティを求めていた。その実、行っていることは
量を求めていたのだろう。その結果がこの連続投稿となっている。
質感はある種の快適さをもたらすのだが、物足りないものである。
それは私たちのものに対する飽くなき渇望がそうさせる。
物質至上主義にならざるを得ないというのが私たちの性質だ。
本当はいらないもの、つまり質の劣るものがいくらあっても愚の貯蓄なのだが。
しかし私たちはその劣等のものまでも渇望する。
量的満足を得ようとするから欲望は尽きない。それは質的向上を目指しても
尽きないという意味では同じなのだが。ただ量を求めると自分以外に
侵害せざるを得ないというだけだ。そこには奪取のための闘争が
起こるのは当然の帰結だ。闘争が一概に悪いことではない。
それは競争により研ぎ澄まされた生き残りという浄化作用だ。
その反面質的なものを求めるのは質素な暮らしを余儀なくされる。
わび、さびの世界。余計なものは取っ払う。質的に優れたものは
それほどないからである。質は時間の経過によって退廃するものでも
あるからである。
あまり意義のないことの蓄積が私たちの人生を形作っている。
量的蓄積が私たちの人生だ。だから究極的には無意味、無価値と決定しやすい。
実際、無意味なことがほとんどを占める。有価値、無価値とを峻別することは
手間がかかることだがやってみると価値あることは意外なほど少ない。
全ての出来事を無価値と分類する人もあろうが、それはその通り、その人は
無意味な人生を送っている。
ただし、本当に手間がかかる峻別作業をして導いた結果なのかという
疑問は残る。すなわち手間がかかるゆえにその行為、努力を放棄していながら
導出されたいい加減な答えを解としているからである。
こう考えると私たちの手元に残るべき価値あることというのは量やら質やら
ということではなくて、審美眼を養う努力にあるということに気付かされる。
そもそも量と質というのは切っても切り離せない不可分のものである。
量を省略していけばそれにともなった質も省略される。
量には質、質には量が付随しているからだ。だから物質主義が悪いとか
精神主義が良いとかは本来はどうでもいい議論なのだ。
悪しきことも善きこともその時流があるものだ。普遍的なことでもない。
私たちはともすれば宇宙の原初から終末に至るまでの絶対的な真理を
求めようとするがそれは答えが出て来るものと出てこないものがある。
善悪の判断は出てこない問いだ。
私たちは生き残りのような淘汰を進化のプロセスと思っている。
実は進化などはしないと言うことが分かる。
私たちの暮らしでも廃棄、残存を繰り返しているが別に年を重ねていくから
といって身の回りが優れてきたと言うことはない。実際は雑多なものの
集合である。
あまり殺ぎ落とそうとして進化という名の下に淘汰していくのは考えものである。
そういった進化というものは時流だからである。進化などは幻想であるからだ。
私などはそういった考えは退化なのではあるまいかと思うほどだ。
私たちが身につけていくことは自分にとって何が大切か、そうではないのか
という選別眼なのであり、なにもいらないからといって切り捨てたり
重宝しておくことではない。
年を取ると人にものを教えたがる傾向があると思う。
少し前まで私は年を取っているものは後輩にものを教えるべきだと
思っていた。しかし、今は考えが変わった。ものを教えるときは
かなり気をつけないといけないのだ。その注意力を欠くものは
絶対にものを教えてはならない。
間違ったことも混ぜ混ぜにして語ってしまうのはやめなければならない。
それが根本的な迷いを後世に残しているのだ。
それが混迷の最たる原因なのだから。
私などは自信がないことは言わないことにしてる。聞かれたら言い返すのだが
それでも前もって自信がない旨は言うことにしている。
だからだまされてはならない。もの多くさも正しそうにもうしている
ものが偉人などと思い違いをしてはならない。常識を語らうものは
人間出来てると勘違いをしてしまう。そうではない。常識を語った所で
別に優れてはいない。言わずとも良いことをわざわざ言ってるだけだ。
軽薄な人間であり、軽蔑に値する人物なのだ。
人はそういう饒舌なものに寄り添って固まっていく。たいしたことは
言っていないのに雄弁というだけで集まってしまうのだ。
人が集まるとさらに集まるという心理があるから、止められない勢力にもなる。
私たちは語りぐさで惹かれてはならないのである。
だまされてはならない。魅力を感じてはならない。
そういう薄衣を幾重にも重ねたような人物が名誉や名声を得ていても
その人を目標としてはならない。はっきり言って目標となる人は
未だかつて遭遇したことがない。尊敬できる人もいない。
人に教えたがる癖のある奴はくせ者だ。なるべくなら近づかない方がいい。
私たちが近づくべき人物像とは聞いたら答えてくれるという
おせっかいやきではない、それでいて明快な返答をしてくれる人なのだ。
何を聞いたらいいか分からなかったら、聞かなければいいし、
そのままずばり何を聞いたらいいかと聞けばいい。
800か。
勘違いしないで欲しい。
私は教えたがってはいない。答えは自分で見付けるべきだとも思っている。
幸い私に聞くものはいなかったが、いたとしても私は知ったかぶりで
答えはしない。むしろ私が皆に私の意見はどうなのか、と聞いていたと
言える。
危険な人物は実生活の身近な存在にいる。ここはネットであり、ぼやきに
近いインパクトも心に焼き付くこともない言葉の羅列だ。
休みが少なくて、私は一体何のために生きているんだろうかと思う。
もう少しだけでいいから休みが欲しい。
金もなく暇もなく、
毎日同じようなことの繰り返し。
せめて子の成長の変化を楽しむとするか。
私が変われないから、他人の変化を楽しもうとするか。
性格は簡単には変わらない。いや変わることなどない。
そんなわけで外部にちょっとした移り変わりを観察するって算段だ。
公務員はいいなあ。三連休か。
子供はストレートだな。
変にひねくれてない。
視野が狭いというか、まっすぐを見ている。
子供にかまうのはそんな回帰欲のようなものからくるのだろう。
視野、これは
疲れたなあ。
心身共に。
俺って持久力がないんだよね。
脳みそも疲れた。
脳みそも体力と同じようなものではないか。
筋肉ではないのだろうが実際脳も筋肉痛のごとく疲れる。
もうやる気が無くなってきていることは自分でも分かっている。
ムキになって意地になっている。
私は意地っ張りだ。
しかし、持久力はない。
よくここまでやってきた。最近は老後の人生のごとく
やる気の感じられない、かつ、何かを悟ったかのような
そんな感じのことしか書けない。
臨機応変に。いつもそれで対処していけば良いだけだ。
前もって訓練しても馬鹿らしい。
訓練などいらなくなるのだ。
いい人っているなあ。
ほとんどの人はいい人だ。
イエスキリストは言っていたようだ。
許してやってください神よ。あの人方は分かっていないだけなのです。と。
では、また明日。
起こされたようだ。
こんな時間に。
だめだ、私は何者なのか分からなくなってきた。
また、元に戻ってしまったようだ。
過去に戻ってやり直したいとは思わなくなった。
しかし、過去と同じような気分に戻ってしまうようだ。
ま、また振り出しなのか。
結局往復運動、そういった行きつ戻りつしていくしかないのか。
何の貯蓄があったのか。何かが活かされたとでも言うのか。
何も残りはしないのではないか。
波紋のようなものでした。
波形は変わらなかった。私の固有の波形があってそれ以外の波形になることは
出来ないようだ。そして何も残りはしない。突如たった波は
やがて静寂を迎える。
起きては寝て
食べては出して
貯めては使い
憶えて忘れて
そんなことの繰り返し。
私も以前に逆戻り。
幾度となく繰り返してもう先が読める。
こんな私も知らず知らずに年取って五十、六十になって
今とそれほど変わってもいないのだろうな。
見てくれは変わっても。
型は変わんない。
一歳の俺と八十歳の俺とは変わった所はないんだ。
見てくれが変わろうが型からは抜け出せない。
見てくれにしろ風貌は同じなのだ。それが型なのだ。
正確に言えば戻るとかいうよりも行ってもいないし返りもないっていうことが
本当のところだ。
性格も変わりはしない。山も谷も本当はない。上向きも下向きもない。
行きも戻りもない。浮きも沈みもない。幼少からじじいに至るまで
一貫している。
変哲もないのに。
生きていても、死んでも。変わらない。輪廻とはそんなものなのかも知れない。
そんな型、輪廻転生のまっただ中にいる。
来世私は同じような繰り返し。過去世も多分同じような感じだっただろう。
少し理想郷を求めすぎた。そして帰ってきた。それも型。
死んだって同じさ。逃避しても同じ。生まれ変わっても同じ。どんなものに
生まれても同じ。もっとも型から逸脱できないから生まれるにも種類が
あると思うが。死に理想郷を求めてもだめです。生存中に求めてもだめです。
必ず帰ってきます。行ったっきりは出来ない。
どっか行きたいなあ。マジで。でもそれが私の型。あーあ。
疑えばそこから離れるんだな。
人も疑えば自分から去って行くであろう。
大切な人も。疑うことで別れ、最後に後悔する。
俺はパソコンのスイッチを入れる理由としてメールをチェックするためと
している。しかし、メールは迷惑メールばかりだ。
私に対するレスをチェックするためではないし、わざわざここに
書き込むためではない。
しかし、その理由は本当の理由なのだろうかと思うときがある。
レスを気にすることは何か受け入れがたい、あくまでもついでと
しておきたい気持ちがある。
本当のことを言うとかなり気にかかっていることは事実だ。
ホームページのアクセスを気に掛けるのと同じだろう。
ホームページの方はもう気にかからなくなった。
放置に近い。
初期のうちは気にかかったものだ。
張り合いというものが出てくるか出てこないかの違いだ。
残念ながらホームページはアクセスが少ない。
作ったときは結構頑張ったんだが。
私の中で完成に近づいたという所もある。
信頼関係の繋がりが人間関係と思う。
まず何よりも自ずから信じないと成り立たない。
疑惑の念は解消されないうちは途方もなく増大してしまうやっかいなものだ。
何人の人にえん罪を課したのだろうか。
うわさから、偏見から、
いくらの人を疑っただろう。
信じていたものに裏切られる。
本当に裏切ったのだろうか。
何か深い理由があったからではないか。
その理由を知らずに裏切られたと決めつけていないか。
私は間違いを犯してきたのかも知れない。