http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1098804635/113 より
>113 <実在論を考える>
永井の言葉ですか。
ちょっと興味深いのでレスさせてください。(とりあえず長文になったんで自スレに引き篭もりますが)
(しばらく考察らしい考察を発表していないので、発表したいのです)
> 人間がけっして知ることはできないけどほんとうは
> そうであることが確固として存在する、と考えるのが実在論だ。 【<子供のため>の哲学】 永井均
この言葉を聞いてまず最初に思ったのは、
デカルトの「省察」で使用される「透明な真理」という言葉でした。
デカルトは「四角形は四つの辺しか持つことができない」
という幾何学な真理を、「透明な真理」と、そう呼んだのです。 (中公クラシックス.p.28参照)
とりあえず、次に考えておくべきことは
"決して知ることができない"の“知る”/(行為)とはどんな行為かということでしょうか?
私は、それは"直観"だろうな、と考えています。直観の観は"ミル"です。何を見るのか?
中島義道の【カントの時間論】によれば、"直観"とは「時間をミルこと」だそうです。
また、ハイデッガーに実在について尋ねるなら、彼はこう答えるでしょう。
実在的なものを捕捉する様式として昔から通用してきたのは、
直観的認識であった 【存在と時間,43節】
つまり実在と直観の関係自体が普遍的だということ。
そして私の主観的意見を申し上げるならば、
直観の性質とは、実存する私が、現(ダー)を見ることだと考えるのです。
このように考えれば、"実存する私"を永井の言葉である【人間】に置き換えても
意味が一致するはずですよね。それについて述べたいと思います。
いちおう念のため申し上げて起きますが、私はレベル云々の話を
言っているつもりではないですのでご注意を。永井の言葉そのものに、
歴史的な根拠があり、また普遍的であるということを確かめたいだけですので。
ちなみに
>>99の(青春の)光と影の部分の考察は、たいへん素晴らしいと思いました。
光とは、自然の光の投影(幻影)のこと、つまり言葉のこと。
自然の光が織り成すシンフォニー(メロディー)のこと。
カインの印とは、カノン(規律)に従うもの、まあ音符みたいなもの。
言葉そのもののこと。でしょうかね?
考察を続けたいと思います。
<実在とは何か>
そもそも実在とはなんだろうか? これについても考えてみます。
私はいつも【実在】と【実存】の違いについて考えると混乱します。
それに"存在する"と"存する"と"在る"と"有る"の違いについて考えても混乱してしまいます。
まあこれを考えるのが面白かったりするのですがね。(これこそ哲学だと私は思います。)
まあ、ハイデッガーが「実在性とは、その他のもののうちの一つの存在様式に過ぎない」
と言っているのも気になります。そっか、それだけのことなのか?
じゃあ永井が言った"確固さ"の容器となるべき【真理】って何だ、
っていう話になると思うのですよ。思いませんか? (思うと仮定して話を進めますよ)
実在という言葉には、なぜか、そういう無機質なところがある。
配置的/(空間的)というか、たんに無時間的というか。
そう実在とは、無時間的なのです。
また実在"性"を発するなら、
安易に、どこかに「それ」があるだろう(配置)、という思い込みが生じる。
つまり、実在"無性"の定義を失った一般性(ハイデッガーでいうならば頽落の一種)
としての忘却の形態が顕になる。この忘却されたものこそが、
存在の"本質"と呼ばれるものでしょうか?( まあ、よく分かりませんが)
<本質について>
私の主観的な考えを述べるならば、実在という言葉には、人間を本質"的"に頽落に
落とし入れる何かが、あるように思われます。それは全てが無時間的な相を所有しており、
物自体としてある真理であるような、科学的真理を主体イメージします。
科学によって語られるもの(述語)が存在の本質という事でよいのでしょうか?
<実存について>
次は、“実存”/(存する)について述べます。 (今までに分かったことを勝手に述べるだけです)
おそらく私の用いる、実存という言葉はサルトルのものとは違います。
いやサルトルの言葉がいまだに理解できないだけです。
実存とは、実在する私が、現となった私を見る/(直観) という、
【私の時間】の"累乗"という形での"自己認識"から、
その【実存する私】が現象するのだと考えます。
そのとき 【実在する私】 と 【私の世界】 の双方の"抵抗"によって
【実存する私】が規定されます。そして【実存する私】は、私の世界にリアリティを
伴った形で触れることができるようになる。
それが【実存する私】の存在論、と申し上げてよいかと思います。
いちおう補足として申し上げると
【私の時間】とは、つまり、一乗な時間、あるいは純粋持続と呼ばれるものです。
まあ、差し支えなければ個我(エゴ)もしくは、コギトと呼んでも良いかもしれません。
「我思う、故に我あり」という言葉は、まさしく【私の時間】の累乗を示したものでしょう。
そして、デカルトが「自然の光」と呼ぶ論理を、所有する言語とは一体なんだろうか、
という問いにもどうやら答えが生じるものと私は考えます。
言語こそ、時間そのものではないでしょうか?
言語は語られることによって、時間自体を時間化するのです。
言語を概念と論理が分節された存在様式としてみるには私には限界がありました。
言語は空間ではなく、時間そのものとして考えたならばどうでしょう。
時間の中で、もう一つの時間を生成することが可能。
言語化とは時間存在の、時間化つまり時間の累乗行為と言えるのではないでしょうか?
そして、時間存在として"実存"する言語存在は、いつのまにか人間を超えて、
神の占める位置に立った。そう考えるとなるほど辻褄が合うのだと考えられるのです。
ハイデッガーが【存在と時間】において時間について語らなかった(語れなかった)のは有名ですね。
おそらく、彼は存在について語るには【私の時間】が必要であるという事を知らなかった。
すでに彼自身が、最初の存在について語るときすでに【私の時間】に依拠していることに
まったく気づかなかったのだと思われます。
私は、彼の「存在と時間」における実存論分析はひどいなあと考えていました。
それは、どうしてだろうか考えました。
まだ曖昧にしか分かりませんが、【私の時間】の主体である身体について、
つまりデカルトに習うはずの【心身二元論】についてまったく無視していたから
ではないかと考えられるのです。
カントでさえ身体の一部である感官を対象にした認識論を考察しているのにです。
いや最近読んだデカルトの「情念論」は面白かったな、それだけのことなんです。
ハイデッガーは【私の時間】について触れていない。
彼が心理学を嫌悪したのも、同一の理由ではないかと勘ぐっています。
いえただの愚痴です。ハイデッガーが時間について書いていたら
どうなっていたのだろうなという。
<存在の累乗について>
もう一つ補足します。
累乗とは、私は私である。という「AはBである」という命題(A×B)の、
A=B AとBが同一のものを指します。
これは論理学的見地において、主語と述語が同一の存在という事を示すものです。
A^2 (A1×A2) 「私は私である。」
これは次のような2つの形で解体されます。
「私は私である。」 = 「私である(私)は、私である」
そしてここにおいて、( ) 【括弧】によって"隠蔽"されていた本来 【無】 である
はずの【完全な他者】 である 【私】 が現象するのではないでしょうか?
A^3 (A1×A2×A3) 「私は"私は、私である"と述べる」
この述べるは単に言語化そのものですから、他の意志に置き換え可能です。
恒常的な現(ダー)を、私を包む容器として考えるならば、「思う」としてもいいでしょうね。
まあ、ここで「我思う故に我あり」と等式が成立するとわかると思われます。