素晴らしい展開を遂げた前スレ、
「ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』を勝手に訳すスレ 」を勝手に引き継ぐスレです。
基本的には前回と同じく私がマターリマターリ訳していきます。
フランス語・ドゥルーズ・ベルクソンに詳しい人は(そうでない人も)
どんどん意見をください。
過去スレなどは
>>2に書きます。
2 :
考える名無しさん:04/01/20 00:57
2get!
3 :
考える名無しさん:04/01/20 00:58
そんなに宇波の訳って駄目なの?
4 :
考える名無しさん:04/01/20 00:58
3get!
5 :
考える名無しさん:04/01/20 00:59
やられた
7 :
考える名無しさん:04/01/20 01:00
クソニスム
8 :
考える名無しさん:04/01/20 01:01
クンニスム
前回と同じく、
相対的に正確な直訳で日本語のみでドゥルーズを理解したい全国の
一般人のためになる訳にしたい(半分以上は自分のため)。
とにかく理解したい人が理解できる訳にする。
あきたらやめます。
使う辞書は旺文社ロワイヤル仏和中辞典です。
「走る取的」は筒井康隆の短編ですぅ
ちょうど段落が変わってすぐに終了したので
まずはそれを引用します。
354 :仏語5級 :03/05/11 20:26
>>351の修正訳
【56】第1章の第18段落(原書/14 邦訳/16)
『物質と記憶』のこの第一章ほど、分割の方法としての直観に対する扱いの複雑さを
示すテクストは他にない。表象を、それの条件となっている要素に、つまり本性におい
て異なる[二つの]純粋な現存にあるいは[二つの]傾向に、分割することが重要である。
どのようにベルクソンは論を進めるのか。ベルクソンはまず、何と何の間に、本性の差
異が有り得るのか(あるいは、有り得ないのか)を問う。
【コメント】Gilles氏の指摘
>>353により修正。
【57】第1章第18段落(原書14/邦訳16)
最初の答えはこうである。脳は他の諸イマージュのなかの一つの「イマージュ」であり、
あるいは他の諸運動のなかの特定の諸運動を保証するものであるから、脳のいわゆる知覚
能力と髄の反射機能のあいだには本性の差異はありえない。したがって脳は表象をこしら
えるのではなく、ただ集中する運動(刺激)と実行される運動(反応)のあいだの関係を
複雑にするだけである。
【コメント】一文目では「保証するassurant」の意味に困った。
脳が身体の運動を司っていることに掛けられているのだろうか。
二文目で「fabrique」に「こしらえる」という語をあてたのは、
fabriquerにもともと軽蔑的な使い方があるから。かえって不自然な
日本語になってしまったかもしれない。
それより問題なのは「集中する」と訳したrecueilli。
辞書では「瞑想にふけった、内省的な、思いを凝らした、黙想に適した」などの語が見られる。
宇波訳では「受け取った」と意訳されている。動詞の「recueillir」は「取り集める」の意味を
持っており、刺激としての運動がまた生体(『物質と記憶』では「中心」と言われる)においては
思考でもある、という感じなのだろうけど、両者に折り合いのつく良い訳が思いつかない。
ヘンに考えたせいで無駄に分かりにくくなってしまった。
いざ翻訳し始めると結構しんどい。
明日からはもう少しテンポをあげて、しかしあくまでマターリやっていきます。
すみません、今日はできあせん
俺はドゥルーズの原書を手元に持ってないんだけど、
とりあえず訳文を見たかぎりで幾つか気付いた点について――
・“assurant”は、ここでは「請け負う」くらいの意味合いで
良いのではないか? ここで言われているのは要するに、「身体
が営む様々な運動の中で、脳が関与しているのはその一部にすぎ
ない」といったことだから、【コメント】にあるように、「脳が
身体の運動を司っている」といった意味で受け取るのは少しミス
リーディングだと思う。
・“fabrique”はここでは「こしらえる」という訳でいいと思う。
ただ、“fabriquer”自体は(別に侮蔑的な意味合いを含まずに)
普通に使われることもあるから、ここでそれが侮蔑的な意味合いを
含むとすれば、それはあくまでも「表象をfabriquerする」という
ことから来ているのだと考えるべきだと思う。
・“requeillir”は基本的に「受け取る+集める」というような意
味合いだから、「取り集められる運動(刺激)」といった訳では
どうか? 『物質と記憶』の初めの方にある「電話交換所」の譬えで
言えば、電話交換所(=脳)は、色々な場所にあるたくさんの電話
機(=感覚受容器)から来る信号を受け取り、取りまとめる、といった
イメージで考えるとよいのではないか。
取り敢えずはこんな所だけど、翻訳がんばってちょ。
ってゆーか、誰かもっとちゃんとしたレス付けて欲しいぽ。
あとそれから言い忘れたけど、前スレの倉庫を作ってもらえたのはありがたい。
サンクス
あとも一つ言い忘れたけど、【コメント】で言われている「刺激としての運動がまた
生体(『物質と記憶』では「中心」と言われる)においては思考でもある」云々と
いったところについて言えば、そこでの「思考」というのが何を指すかも問題
なんだけど(例えば感覚することも「思考」に含まれるのか?)、ともかく大事な
ことは、「脳=思考の座」といったような前提に不用意に寄り掛からないことだと思う。
17 :
Gilles:04/01/22 01:50
>>12 assurant:
問題となっている『物質と記憶』の箇所では、いちおう生理学的の議論に乗っかりながら、それをすべて
イマージュ一元論へと還元した上で批判するという形になっている。「私の身体」にせよ「脳」にせよ、
数あるイマージュ――その全体が「世界」となる――の一つにすぎないという意味では、メー氏のいうと
おり。が、結論からいうと、ここで assurer という動詞は、運動(この場合には身体の)を保証する、
確定する、方向づける、というほどの意味だと思われる。
ドゥルーズの「脳のいわゆる知覚能力と髄の反射機能のあいだには本性の差異はありえない」という文言
はほぼそのままの形で『物質と記憶』に出てくる(PUF版 p.19、岩波訳 p.33)。
(ついでながら、ドゥルーズは il ne peut pas をイタリックにしているので、「ありえない」は何らか
の仕方でマークしたほうがよいのでは?)
その直後の箇所でベルクソンは「(脊髄であれ、脳であれ)いずれの場合でも、神経物質の役割は、運動
を導き、結び合わせ、あるいは、抑止したりすることである」と言っている。最初に書いたとおり、この
辺の話は、末端で受容された刺激が神経中枢に伝わりそれが末端に送り返されて運動を引き起こすという
反射のモデル(いわゆる反射弓)を念頭において進められている。(だから recueilli はメー氏も書いて
るとおりで「受け取る」の意味)
受容器 → 求心性(感覚)神経 → 中枢(脊髄)→ 遠心性(運動)神経 → 効果器
脊髄などと違って、脳の場合、刺激が中枢に伝わった後の可能性が複数ありうる(何かを見たとき、それ
に対してとる反応はさまざまでありうる)。ドゥルーズが、脳は刺激と反応のあいだの関係を「複雑にす
る」と言っているのはこのこと。
だから、運動を方向づけたり、準備したりすることはあっても、運動を作り出す(こしらえる)ことはな
い、そのかぎりで脳は数あるイマージュの一つであることに変わりはない、という話になっている。
遅くなってすみません。
>>メー氏
レスありがとうございました。励みになります。
提案していただいた語のほうがしっくりくるようなので
さっそく利用させてもらいたいと思います。
>>16 >そこでの「思考」というのが何を指すかも問題
上手く言えるかどうかわかりませんが、
「思考」という言葉で言おうとしたのは
受け取った運動を直ちに反作用にするのではなくて
ちょっと待つことができるというこのあり方が、ある意味「思考」なのではないかと思うからです。
それで受け取った運動に対してrecueilliという、内省的な意味合いを持つ言葉が冠せられたのではないかと。
上手く言えてませんが、指摘していただいたようなこと(「脳=思考の座」)を
考えているのではないと思います。
というわけで
>>12の修正訳。
【57】第1章第18段落(原書14/邦訳16)
最初の答えはこうである。脳は他の諸イマージュのなかの一つの「イマージュ」であり、
あるいは他の諸運動のなかの特定の諸運動を請け負うものであるから、脳のいわゆる知覚
能力と髄の反射機能のあいだには本性の差異はありえない。したがって脳は表象をこしら
えるのではなく、ただ取り集められる運動(刺激)と実行される運動(反応)のあいだの関係を
複雑にするだけである。
【58】第1章18段落(原書14-15、邦訳16-17)
受け取った運動を際限なく分割するのであれ、可能的な反作用の複数性へと
延長するのであれ、脳はそれら二つの運動[取り集められる運動と実行される
運動]のあいだに、ひとつの隔たりを設ける。記憶がこの隔たりを利用すると
いうこと、厳密な意味で記憶が[そこに]「入り込む」ということ、このことは
何ら変化をもたらすのではない。いまのところ我々は記憶を別の「線」に属す
るものとして排除しておくことができる。我々が辿っている線の上では、我々は
物質と運動、多かれ少なかれ複雑化され多かれ少なかれ遅らされた運動しか持って
いないし、また持ちえない。
【コメント】
第一文目、語順を変えてある。そのため、誤解を避けるため[ ]内に語を補った。
これからも必要に駆られて訳注を挿入する場合は[ ]を使います。ecartを
「隔たり」と訳した。宇波訳では「分離」とされているが、分離はsepare系の
語を想起させるのでやめておいた。
第二文目、s'intercalentを「入り込む」と訳した。『物質と記憶』を読んだ
印象だと、記憶は「挿入される」という受身形よりは、勝手に「入り込ん」で
くるものとされているように思われるので。宇波訳では「互いに絡み合う」と
されている。なぜそんな訳語をあてたのか想像に苦しむ。「厳密な意味で」は
a proprement parler。その直前の節で「記憶がそれを利用する」と言ってい
るのを詳しく言い換えているのではないかな。
第三文目、第四文目については特になし。
あと、意見の分かれるところだとは思いますが、さしあたりsouvenirを「記憶」、
memoireを「記憶力」で統一したいと思います。
コメントばかり長くてすみません。
20 :
考える名無しさん:04/01/22 02:27
初歩的な質問ですみませんが、ベルクソンの「イマージュ」とは、「表象」の
ようなものでしょうか?
リロードしてなくてGilles氏のレスを見落としていました…。
>assurant
やはり「運動を保証する」だと日本語としていまいち通じにくいと思います。
「確定する」「方向付ける」だと今度は些か狭すぎるように感じます。
これら三つの意味を少しずつ残しながら、
イマージュとその運動しかない世界の中で
特定の運動(身体の運動)に関与し方向付ける(だけ)、という感じをだすのに
「請け負う」はけっこう良いと思われるのです。
あとちょっとびっくりしたのですが、
>運動を方向づけたり、準備したりすることはあっても、
>運動を作り出す(こしらえる)ことはない、
たとえば自発的な行動の時などにかんしては脳は運動を作り出すことは
あるのではないでしょうか?
>イタリック
そうですよね。
ちょっと不恰好ですが、<>を使おうかと思います。
前スレでは仏語五級氏は日本語を読みやすくするために<>を
使っていたようですが、ここでは主にイタリックに対して使います。
そういうわけでさしあたりの
>>12の修正訳。【57】第1章第18段落(原書14/邦訳16)
最初の答えはこうである。脳は他の諸イマージュのなかの一つの「イマージュ」であり、
あるいは他の諸運動のなかの特定の諸運動を請け負うものであるから、脳のいわゆる知覚
能力と髄の反射機能のあいだには本性の差異は<ありえない>。したがって脳は表象をこしら
えるのではなく、ただ取り集められる運動(刺激)と実行される運動(反応)のあいだの関係を
複雑にするだけである。
脳が表象を作り出す器官であることの否定は、心の物質への還元の拒否ですね。
イマージュ一元論としては当然かもしれませんが。
腹が減りすぎてて何も書けず…
_| ̄|○
時間があったら後で何か書き込むかも。
ちなみに俺は、ここ5、6年ほどフランス語の文章はほとんど全く
読んでないくらいなんで、フランス語に関して俺の言うことは適当に
マユツバで読んでくらはい。
(Gilles氏のコメントはやっぱり的確なのだった。)
24 :
考える名無しさん:04/01/22 13:09
>>運動を方向づけたり、準備したりすることはあっても、
>>運動を作り出す(こしらえる)ことはない、
>たとえば自発的な行動の時などにかんしては脳は運動を作り出すことは
>あるのではないでしょうか
どうなんでしょうね?
復活しますた。
>>19 ざっと読んだ感じだと、この訳文で大体いいような感じがする。
“s'intercalent”が宇波訳で「互いに絡み合う」となっているのは、
“se”を「様々な記憶どうしが互いに」という意味合いで取ったため
ではないか? ここは【58】の訳で良いと思う。
一つだけ、あえて言うとすれば、この訳文の中で「何ら変化をもたらす
のではない」という箇所は、できたら少し直した方が良いのでは?
ここでの要点は、「記憶が介入するといった事態があっても、《脳のいわ
ゆる知覚能力と髄の反射機能のあいだには本性の差異はありえない》という
論点には何の変りもない」ということだから、前の部分【57】とのこうした
つながりができるだけ明確になるようにした方がよいと思う。
その他、細かい点はまだあれこれあるかもしれないけど、【58】に関して
俺からは取り敢えずこんなところ。
それから、これは全く個人的な要望だけど、できれば訳文と並べて原文も
掲げてくれるとありがたい。
ドゥルーズの本は家の中にあるはずなんで、昨日も捜してみたけど未だに
見つからないんだな、これが。(家の中の複雑性を根本的に縮減しないと
見付けられそうにない。)
でも、一々仏文まで書き込むのは面倒だから、無理にとは言わない。
>>18 「思考」とか「心的」といった概念について言えば、今問題になっている箇所
とのつながりで言えば、正にこうした(常識的に理解されているような)概念こそは
「真の質的差異」を覆い隠してしまうものだということが、ベルクソン=ドゥルーズ
の重要な論点だと考えるべきだと思う。
だから、「ある意味「思考」…」と言いたくなるような局面で、それがどのような意味
で思考であり、どのような意味では思考ではないかを適切に切り分け、分割することが、
ここでの重要な課題ということになる。
同じようなことは、
>>20, 22 の疑問についても言えると思う。一般に(常識的に、
あるいは哲学的に)理解されているような「表象」とか「心」とか「物質」といった
概念を前提した形で『物質と記憶』を理解しようとする非常に危険。
不親切な言い方かもしれないけど、「イマージュ」の概念については、あれこれ解説を
読むよりは、『物質と記憶』のテキストに自分で直接あたった方が、結局は手っ取り早い
と思う。
それから、これはベルクソンを離れて一般的に言えることだけれど、「心の物質への
還元」云々といったことは、とりあえず頭の外に追いやった方がいいと思う。
最近の心の哲学の文脈でも、「心的なものから物理的なものへの還元という問題は、
真の争点ではないのではないか?」という立場(要するに、「たとえ心的なものが
物理的なものには還元不可能だとしても、物理主義の貫徹には全く問題はない」とする
立場)が一定の支持を集めている。
この辺は余計なウンチク垂れの話みたいになってしまうし、かえって混乱させるだけ
だろうから適当に切り上げることにするけど、ともかく、「心」とか「還元」といった
ものが本当は何なのかということは、いまだに哲学的にはそれほど明らかではないと
いう点は、念頭に置いた方がよいと思う。
(何だか偉そうな言い方に聞こえたら謝る。ゴメンしてけろ。)
前のレス↑は、なるべく簡潔に書こうとしたら、かえってワケワカラソになってしまった。
もし分析哲学系の心の哲学に興味があったら、セラーズによる「感覚」の取り扱いとか、
「心的/物理的」という区分に対するストローソンの批判を考え合わせて欲すい。
じゃ、今日はこれで〜
28 :
考える名無しさん:04/01/22 14:51
>>26 >不親切な言い方かもしれないけど、「イマージュ」の概念については、あれこれ解説を
>読むよりは、『物質と記憶』のテキストに自分で直接あたった方が、結局は手っ取り早い
>と思う。
『物質と記憶』読んでも、一般的に言って「イマージュ」なんてわか
るようにならないと思うのですが。
「イマージュ」中心に読みきるというのはドゥルーズ側のバイアスで
はないですか?
であるならば『物質と記憶』というなら、これをドゥルーズはどのよ
うに読んだのか跡付けしないと説明できないと思いますが。
あれ、早速批判の矢か?
28さん、すまん。今は時間が無いもんで、俺からは明日にでも書くナリ。
>>メーさん
ここで問題になっている「イマージュ」はドゥルーズの意味ではなく
ベルクソンの意味でだったんですね(
>>20)
失礼しました。
どちらにせよわかりにくいのですが、ベルクソンの「イマージュ」とは
なんでしょう?
物質とはわれわれにとってイマージュの総体だということが、どうして
イマージュは物と心象の中間だという知覚世界を提供するのかわかりに
くいです。
抽象を排した常識といえばそうなのかもしれませんが、「持続」との絡
みですからね。
そこのところをうまく説明していただければありがたいですね。
『物質と記憶』を読めなんて言われて読める人なんてめったにいないと
思いますよ。
少し時間ができたので、28さんの言い分について、ちょっとだけ答えておきたい。
(このレスの趣旨からは離れてしまうかもしれないので、読み飛ばしてもらっても
構わない。)
・
>>20では「初歩的な質問」という断りがあったので、俺としては、『物質と記憶』を
読んだ経験はないけど「ちょっと興味がある〜」という人を念頭に置いていた。
(もしこの点で間違ってたら謝る。ゴメンチャイ)
・そうした人に対して俺が言いたかったのは、ベルクソンの言う「イマージュ」の概念を
理解するには、まず第一に『物質と記憶』を直接読むのが良いのではないか、ということ。
・ただしもちろんこれは、「『物質と記憶』を読みさえすれば、イマージュの概念は速攻
で理解できる」といったことではない。(実際、俺自体も良く理解できていない。)
・それにまた俺は、イマージュの概念についてきちんと説明できるような人が発言する
機会を封じたかったわけでもない。そうした説明が色々な人から寄せられるのは当然、
歓迎すべきことだと思う。ただ単に、初心者の人がそうした説明の正否を適切に見定める
ためにも、まずはベルクソン自身のテキストを見ておいた方がよいのではないか、という
だけの(ある意味ではまったく当たり前の)こと。
・念のため言っておけば、俺自身は一般には、「あの本を読め」とか、「この本を読んで
ないヤツはあれこれ言うな」といったタカビーな発言は下らないものだと考えている。
(だから、もし俺の以前の発言がそのように聞こえたとすれば、俺としては素直に謝って
おきたい。)ただし、『物質と記憶』については、少し特殊な事情があるように思う。
32 :
考える名無しさん:04/01/22 17:41
イマージュより持続の方が本質的らしいので、持続の解説もたのんます。
メーさんいたんだ。ちょうどいい。たのんます。
(31の続き)
・同じベルクソンの著作でも、例えば『創造的進化』や『二源泉』であれば、簡単な概要
を読むだけでも、それなりにベルクソンの論旨をつかむことはできるかもしれないけれども、
そうした点では『物質と記憶』は本当に分かりにくいと思う。
(良い解説書があれば教えて欲しいけれども。)
そうした意味で、特に『物質と記憶』や、そこでの「イマージュ」概念を理解するには、
やはり自分で読むのが一番だと思う。
・それから、
>>30を読んで気付いたことだけど、俺が言いたかったのはあくまでも、
ベルクソンのイマージュについてであって、ドゥルーズが『シネマ』で展開している
ようなイマージュ概念についてではない。(とゆーか、俺は『シネマ』は読んでナイ!)
・最後に、
>>28で言われている二つの点について。つまり、@『物質と記憶』を参照
しても、「イマージュ」概念は不明瞭だということ、それからAドゥルーズによるベルク
ソンの「イマージュ」解釈は強引ではないかということ、という二点については、
俺としては、「アナタどう思うか?」と訊かれても、うまく答えられそうにない。
(ドゥルーズとベルクソンを読み返す時間が持てないので。)
・俺としては、これら二点について28さんの方からもう少し詳しい説明をしてもらえると、
(このスレの趣旨からは少し外れるかもしれないけれども)とても有益だと思う。
(ドゥルーズの本の第3章とも密接に関わる問題であるし。)つまり、@『物質と記憶』
において「イマージュ」の概念はどのような点で不明瞭であるのか?、Aドゥルーズのベ
ルクソン読解はどのような問題を孕んでいるのか?、という点について、もう少し述べて
もらえると、このスレを見ている他の人にとっても大きな意義があるだろうし、生産的な
展開になると思う。
・言うまでもないことだけど、俺が言いたいのは、28さんの方に「立証責任」を押し付け
ようとかいったコムズカシイことではなくて、そうした形で生産的な展開になればいいの
では、というだけのことなので、そこのところヨロシク。
――以上、急いで書いたんで、かえってまた行き違いがあるかもしれないけど、
できるだけ善意に解釈して欲しい。自分勝手なお願いだけど、そこんとこ頼みます。それじゃまた〜
このスレの迷惑になるからベルクソン哲学そのものの議論はベルクソンスレでやろうよ。
最初に: よそのスレでは「です・ます」調で書いてるのだけど、ここでは旧スレ同様、ぶっきらぼうな調子で失礼する。
【58】 に行く前に、走る取的氏の
>>21 の疑問について:
> あとちょっとびっくりしたのですが、
>
> >運動を方向づけたり、準備したりすることはあっても、
> >運動を作り出す(こしらえる)ことはない、
>
> たとえば自発的な行動の時などにかんしては脳は運動を作り出すことは
> あるのではないでしょうか?
結論的にいうと「ない」と言ってよいのだと思う。以下、相当長くなるがしばらくお付き合い願いたい。
やや遠回りになるけど
>>20 氏の質問に戻ると、
>>20 > 初歩的な質問ですみませんが、ベルクソンの「イマージュ」とは、「表象」の
> ようなものでしょうか?
「〜のようなもの」というのはその通り。ベルクソン自身は『物質と記憶』第7版の序文でこう述べている:
「観念論と実在論の両者とも等しく極端な見解であり、[観念論のように]われわれが物質についてもつ表象に物質を還元する
ことも、[実在論のように]われわれのうちに表象を生み出すが表象とは異質な事物として物質を考えることも、ともに間違って
いることを示すのが、われわれの第一章の目的である。物質とは、われわれにとって、<イマージュ>の総体である。この<イ
マージュ>という表現をわれわれは、観念論のいう表象より多いが、実在論のいう事物よりは少ない、何らかの存在のことだと
理解する。つまり、<表象>と<事物>の中間におかれた存在である。物質についてのこのような考え方はごくごく常識的な
ものである。」(PUF p.1, 岩波 p.15)
第1章の冒頭もこれに対応するような話になっている:
「しばらくの間、物質に関する諸理論や精神に関する諸理論について、また外的世界の実在性や観念性に関する議論について
何も知らないかのように考えてみよう。すると、私の前にはさまざまなイマージュがある。この語を理解しうるかぎりで最も曖昧な
意味でのイマージュ、私が感覚を開けば感じられ、私が感覚を閉ざせばわからなくなってしまうイマージュである。」(11/25)
この最後の文を見ると、何やら私という主観の知覚だけに限定されているような印象を受けるが、後で登場するイマージュには、
(内容上は自分の)神経や脳まで含まれているので、少なくとも直接的な知覚にとどまらないらしいことがわかる。原理的に主
観が知覚しようのないもの、単に観念として考えることができるにすぎないようなものも含まれているらしい。とすれば、「ありと
あらゆるもの」が「イマージュ」として「ある」わけで、これと言って何も除外されないという意味では、まさしく「常識的」な考え方
ということになるだろう。
ここでベルクソンがやろうとしていることを、例えば、フッサールがやった現象学的還元とある程度パラレルなものと考えることが
できるかもしれない。イマージュが<表象(representation)>と<事物(chose)>の中間におかれた存在だと言っているが、その
当の表象(観念論のターム)やら事物(実在論のターム)やらがこれから批判されようというのだから、それらは基準点になりえ
ないはずだ。ならば、中間という語を厳密に考えようとしても始まらないのだろう。
要するに、ここで宣言されているのは、「観念論の言うことも、実在論の言うことも、ひとまず忘れたフリをさせてもらいますよ、どち
らの言うことも信用しないことにしますよ、みなさんも『しばらくの間』はお付き合いください。さて、何が残りますか? 別に何も消
えてないですね? じゃ、とりあえずそれを――ほかに適当な表現もないので――イマージュとでも名づけておきましょうよ」、とい
うことなのではないか。ベルクソンの専門家には怒られるかもしれないが、一種の「エポケー」なのだと考えれば、イマージュの存
在性格が「曖昧」に思われたとしても(ベルクソン自身あっさり認めているように)致し方ないことになる。
このような操作を行なう当面の目的は、脳や神経系に「世(物質)界についての表象を生み出す」力を認めようとする見解の批判
であるらしい:
「私が生理学者や心理学者にこの両者[求心的神経と遠心的神経]の用途を訊ねる。彼らの答は、『神経組織の遠心的運動が
身体や身体部位の移動を引き起こす(provoquer)ものだとすれば、求心的運動、少なくともその一部は、外的世界の表象を生じ
させる(faire naitre)』というものだ。これは何と考えたものか?
求心的神経[=知覚神経]はイマージュであり、脳もイマージュであり、知覚神経によって伝達され、脳へと送り込まれる興奮
もやはりイマージュである。脳内の興奮と私の呼ぶこのイマージュに、もろもろの外的イマージュを引き起こす(engendrer)ことが
できるためには、このイマージュが外的なイマージュを何らかの仕方で包摂し、物質的宇宙全体の表象がこの[脳内の興奮とい
う]分子運動の表象の中に含意されているということが必要になるだろう。だが、このような命題を述べれば、その馬鹿々々しさ
を悟るのに十分であろう。脳が物質的世界の部分なのであって、物質的世界が脳の部分となっているのではない。」(13/27)
ベルクソンの論拠は煎じ詰めれば、「部分が全体を生み出すことはありえない」ということに尽きるように思われる。部分が全体を
生み出す可能性だって皆無ではないはずなのだが、脳や脳内シナプスの状態から表象が「作り出される」という考え方をかなり
あっさり「馬鹿々々しい」と斬って捨てる。
もちろん、ベルクソンにせよ、脳やその生理的状態がいわゆる表象と無関係だと言いたいわけではない。ただ、前者が後者を「作
り出す」とか「生み出す」とか「生じさせる」という考え方に、外見以上の無理があること、少なくとも過度の単純化が含まれている
ことに注意を向けたいのだろう。例えば、脳や神経系が、それを維持している個体、その個体が呼吸している大気、その大気に包
まれている地球、その地球が周回している太陽を取り去っても相変わらず生き続けられるか、と彼は問うている(cf. 19/34)。
今、あなたはブラウザでこのスレを見ている。一見すると、あなたの端末はモニター上にあなたの読む文章を「生み出している」よう
にも見える。たしかに、ある意味ではそう言えないこともない。モニターが壊れれば、表示されなくなるだろう。
しかし、常識的に考えて、この文章は「Gilles」というハンドルネームをもち、地球上に実在し、どこかの端末からネットに接続してい
る一人の人間によって書かれたものなわけだ。当然、この人間がいなかったなら、今あなたが読んでいる文章は少なくともこのよう
な形では存在しなかったろう(別の人の別の文章が表示されていただろう)。また、インターネットを構成している無数のコンピュータ
や、それらをつないでいる各種の通信回線や、それらすべてに電力を供給している発電・送電設備や、さらにそれらすべてを形成・
維持している商業・金融システム等々々――こういったものが存在しなかったとしたら、今あなたのモニター上にこの文章が現われ
ることもなかったはずだ。
しかし、この文章がコンピュータの端末やモニターによって「生み出される」かのように考えるとき、いわば部分を全体と取り違えると
いう誤謬ないし過度の単純化を犯していることになる。こう考えれば、ベルクソンの議論もごくごく常識的な話であることがわかる。
これでようやく最初の問題に戻るのだが、
> たとえば自発的な行動の時などにかんしては脳は運動を作り出すことは
> あるのではないでしょうか?
例えば、上にあげた「Gilles」がある時点でこの文章を書いているという例で考えよう。これが、Gilles の脳内シナプスにより「産出」さ
れたものと考えることはできないか? むろん、できないことはない。しかし、この脳内のシナプスにしても天から降って湧いたものでは
ない。Gilles は定期的に栄養を摂取しているはずだし、それが多かれ少なかれ十分な量でなかったとしたら、この組織自体が維持さ
れていなかっただろう。(
>>23 でメー氏が書いていたように、「腹が減りすぎて何も書けず」ということだって起こりうる)
また、レス(response)をつけるということは、定義上、それに先立つ書き込みがあったはずであり、それが Gilles によって読まれたは
ずだ。もちろん、Gilles が読んだのは 2ch の書き込みばかりではないはずで、その他の本を読んだり、いろいろな人間と話をしたり、
その他もろもろの経験というものもしてきただろう。つまり、個別的に見ると、「Gilles がこの文章を作り出した(生み出した)」と言えそ
うに思われるが、それはこの行動を可能にしている諸条件を捨象しているからなのだ。
もう一つ、ごく素朴な意味で、脳によって「作り出す」ことができるのは――私が知る限り――さまざまな脳内組織の間で取り交される
物質の状態にすぎない。その状態が、いろいろ限定つきで、その人間の行動の「原因」の一部にはなっているかもしれないが、脳がこ
の行為を作り出すというのは、途中の諸条件をはしょった表現になっている。
>>17 で次のように書いたのは、そういう意味にとってもらうと、言いたいことはわかっていただけるかと思う。
> 運動を方向づけたり、準備したりすることはあっても、
> 運動を作り出す(こしらえる)ことはない
というわけで、ようやく本題:
>>19 > 受け取った運動を際限なく分割するのであれ、可能的な反作用の複数性へと
> 延長するのであれ、脳はそれら二つの運動[取り集められる運動と実行される
> 運動]のあいだに、ひとつの隔たりを設ける。記憶がこの隔たりを利用すると
> いうこと、厳密な意味で記憶が[そこに]「入り込む」ということ、このことは
> 何ら変化をもたらすのではない。
おおむね問題ないと思うが、「可能的な反作用の複数性(une pluralite de reactions possibles)」はちょっと硬すぎる気が。
>>17 で書いた
ように、ベルクソンは脳の機能の一つを、刺激 → 反応 の右辺を多様化・複雑化することに見ている。同じ刺激に対しても、反射のように
決まったパターンだけでなく、A や B や C 等々の複数の選択の余地が与えられるということ。だから、reaction(s) は「反応」のほうがわか
りやすいだろうし、une pluralite de ... は「複数の〜、さまざまな〜」としたほうが読みやすいと思う。
→ 「複数の可能な反応」
a proprement parler の意味合いは、「隔たりを利用する」を「詳しく言い換えている」という理解でいいと思う。が、だとしたら、普通に「厳密
に言えば」としないと「言い換え」の関係がわかりにくくなるのでは?
内容的コメント:
・「受け取った運動を際限なく分割する(divise a l'infini le mouvement recu)」:
知覚された内容に直ちに反応するのではなく、知的機能によって詳しく「分析」し、後の行動に役立てるという意味合いだと思うのだが、ベル
クソンの文脈で該当しそうな箇所をあげれば、
「この物質[脳]の中で、驚くほど多様な運動経路が全体として、末端から来た単一の刺激に開かれるため、この刺激はその中で無限に分化
される(s'y diviser a l'infini)能力、したがって無数の、単に生じつつある運動反応へと消え去っていく能力をもつ」(26/41f.)
・「記憶がこの隔たりを利用する」:
『物質と記憶』でベルクソンが論証しようとする重要なテーゼは、脳は記憶の貯蔵所ではないというものである。脳は、感覚刺激を運動(行為)
へと媒介する仲介者(
>>14 でメー氏の紹介している「電話交換局」 cf. 26/41)にすぎず、その行為への接続地点としての脳を、記憶はいわ
ば足がかりにしているにすぎない。この話は『物質と記憶』の第3章に詳しい。
というわけで、今回のコメントはいくら何でも長すぎたが、
>>35 で 32氏が書いているとおり、あまりベルクソン解釈に深入りするのもスレに混乱
を招きそうなので、以降はできるだけ控えるつもり。今回だけは大目に見ていただきたい。何はともあれ、走る取的氏にがんばってもらいたい。
ちょっと前の方の話の蒸し返し(&言わずもがなの話)になるかもしれないけど、
寝る前に一つ、忘れない内に書いておきたい。
ってゆーのは、
>>14でも書いたような“recueillir”のことなのだ。たしかに
>>18で
走る取的氏が書いているみたいに、“recueilli”に「内省的な意味合い」を添えて
理解したくなる気持ちは分かるのだけど、もともとこの言葉が「内省」とか「瞑想」
といったような意味合いと結び付くようになったのは、次のような事情があると思う。
例えば辞書では、“recueillir ses esprits”で「精神を集中する」といった用法が
出ているけど、これは当然、「(下手をすると色々な方向に向って注意散漫になりかね
ない)心の働きを取りまとめる」といったところから来ている(“esprits”という
複数形にも注意)。
こうした事情は、例えば“reflexion”とも通ずる所があると思う。
「(心が営む)反省」というその意味は、もちろん、「(鏡などによる光の)反射」
という原義に由来している。
そして、例えば身体が営む生理的な反射的運動について、それを特に(心の)反省と
結び付けて考える必要がないように、【37】の箇所で言われていたような「脳による
刺激の取り集め」という事態も、何か「内省的」な作用と特別に結び付けて理解する
必要はないのではないか…
――といったことをとりあえず書いておきたかっただけなのだけど、「言われなくても
分かってるよ」という話だったかもしれない。以上、お粗末。
【37】じゃなくて【57】だな。間違えたっぴ。
不規則な生活なので再び遅くなってしまいました。
まずは、メー氏とGilles氏の指摘を受けての
>>19の修正訳です。
【58】第1章18段落(原書14-15、邦訳16-17)
受け取った運動を際限なく分割するのであれ、複数の可能な反応へと
延長するのであれ、脳はそれら二つの運動[取り集められる運動と実行される
運動]のあいだに、ひとつの隔たりを設ける。記憶がこの隔たりを利用すると
いうこと、厳密に言えば記憶が[そこに]「入り込む」ということ、このことは
事態に何ら変化をもたらすのではない。いまのところ我々は記憶を別の「線」に
属するものとして排除しておくことができる。我々が辿っている線の上では、我々は
物質と運動、多かれ少なかれ複雑化され多かれ少なかれ遅らされた運動しか持って
いないし、また持ちえない。
【コメント】「cela ne change rien」を結局「事態に何ら変化をもたらすものでは
ない」と訳した。宇波訳では「・・・にせよ、・・・にせよ、それはなにも変化をうむので
はない」となっており、すごく上手いと思った(失礼な言い方でしょうか)。しかしその
まま真似するのもこのスレの存在意義を危うくしそうなのでこのようにした次第。
まずければ修正します(笑)。
詳しく説明していただいてありがとうございます。
僕は当初次のようなレベルで考えていました。
脳はイマージュでしかない以上、表象をこしらえることはできない。これは分かる。
しかしそこからさらに進んで、「運動」をこしらえることができないと言ってしまうの
は行き過ぎではないのか、と。
たとえば、手元にないので詳しい箇所は示せませんが、
ベルクソンは「私の身体というイマージュを介して真に新しいものが生じる」というような
ことを何回か言います。このとき「新しいもの」といわれるのはイマージュのみを
(さしあたりの)実在と見なすベルクソンにとっては運動であるように思われます。
それで、
>>36-40の説明を読んでGilles氏がどのような意味で
「運動をこしらえることはできない」とおっしゃったのか理解できました。
運動の時間的・空間的なネットワークがあるのであり、それらを捨象して脳が独自に
運動を「こしらえる」というのはたしかに不条理です。
上に引用(?)した、身体によって生み出される「新しいもの」は運動であるという
よりもむしろその運動の「不確定性」のほうである、と考えるべきなのですね。
Gilles氏のレスを読んで『物質と記憶』第一章に対する僕の見方が少し変わりました。
脳って何にもできないじゃん、みたいな。
さて、すぐにでも先に進めたいのですが、いま辞書やその他の資料を参照できる
状態にいません。いい加減なものを提出するのも失礼なので今日(22日の分)は
これで終了します。
あと、自分の立場を表明しておくと、このスレではあくまでも「翻訳者」で
しかないので、翻訳に関係のないレスは基本的にはストイックにスルーして
いきます。悪しからずよろしくお願いします。
>>46はGilles氏へのレスでした。
>>43 いやいや、ご指摘ありがとうございます。
そういう事情があるとは知りませんでした。
確かにrecueilliを何とか内省的な意味合いに理解しようとしているのは、
自分でも「ちょっとした発見だぜ」みたいな変な功利心が働いているからだと思います。
こういうバイアスは翻訳者としてもあまり好ましいものではないですし、
なるべく素直な訳を心がけるようにしたいとおもいます。
これからもよろしくお願いします。
48 :
考える名無しさん:04/01/23 09:43
ベルクソンは「対象的な存在」を複合したからとて「主体」や「意識」になるわけじゃない。
と言っているのかな?
走る取的さん頑張ってくらはい。
でもマターリゆくのがよろし。
ちなみに俺は、難しげな質問が出された時には
_| ̄|○
死んでしまうのれす。
鉄平「ぐはっぁ・・・なんでこんなに・・・はあはあ。気持ちいいの・・・」
鉄平はヨダレを垂らしながら妄想の世界に入る。腰は一定のペースでピストン運動を
繰り返している・・・マロヌの皮膚に。
(´Д`;)ハアハア「エナメルじゃないと萌えないでつ。」
(´Д`;)ハアハアはプリプリしながら、感じまくり、今にもイキそうな鉄平を遠目に見る。
(´Д`;)ハアハア「・・・・・・。」
突然鉄平を見る(´Д`;)ハアハアの目つきが変わる。いつも落ち着かない表情の(´Д`;)ハアハア
はもう既に、そこにはおらず、鉄平を鋭い目つきで見つめ続ける・・・
鉄平「がっ・・・ぐぬぅ・・・ほっ、ほっ、ほっ。」
鉄平の顔が絶頂を迎えようとしている。更に動きに力が入る。
そして、完全にオナニーに集中しきった鉄平を狙う、大きな手は動き出す!!
恐る恐ると動き、鉄平の上まで上った所で、その手は凄い勢いで鉄平に掴みかかる!
鉄平「うおおおおお!!マスターーーーベイコンッ!!」
息を潜めていたマロヌの瞼が突然開く!!
マロヌ「死ねぃ!!!」
刹那!鉄平の体に衝撃が入り、宙を舞いながら地面に叩き付けられる。
バチンーーーーーーーーッ!!鉄平が飛ばされるのと同時にマロヌの大きな手が鉄平のいた
はずのマロヌの胸を打つ。そしてマロヌは舌打ちをする。
マロヌ「誰だ!?俺様の計画をじゃましたのは!!」
すると、長い銀色の鞭を縮め、自分の元へ引きつけるとマロヌの腹の上に突如舞うように現れた
(´Д`;)ハアハア「おいらでつよ。」
【59】第1章18段落つづき(原書15/邦訳17)
まさにそこから、我々がすでに知覚をも持っていないかどうかを知ることが問題の
すべてになる。じっさい脳の隔たりの名のもとに、ある存在は物質的対象やそれから
生じる行動について、その存在の関心を引くものしか引き留めておくことができない(注1)。
したがって、知覚は対象に何かを<足した>ものではなく、対象から何かを<差し
引いた>ものであり、我々の関心を引かないすべてのものを対象から差し引いたもの
である。あるいは、知覚は対象から我々の関心を引かないものだけを引き算するが、
我々の実際の知覚が対象と混同されるのと同時に、対象そのものは我々の潜在的な
<純粋な>知覚と混同される、といっても同じことである。
注1:MM186/33 「もし諸生物が宇宙において「不確定の諸中心」をなすのならば、
そしてまたこの不確定の度合いがこの生物の機能の数と増大によって測られるならば、
そのような生命は現前するというただそれだけで、その機能が対象について関心を
引かれないすべての部分の廃除に等しくなりうると考えられる。」
【コメント】
第一文目にかんしては特になし。
第二文目、En vertu de l'ecart cerebralを辞書どおり「…の名のもとに」と
訳した。内容的には、「脳は表象を拵える能力はない。そのような脳のあり方に
おいて、知覚は対象に何か(表象)を付け加えるのではなく、関心のないものを
差し引くことである」という意味であると思う。「脳の隔たりの名のもとに」という
訳でそのニュアンスが出るかどうか怪しいが、辞書で隣に並んでいる「…によって」
という訳ではちょっと違うような気がする。
第三文目、第四文目は特になし。こんなもんじゃないでしょうか。
注の後半がヤヤこしかった。
『物質と記憶』の当該箇所(翻訳)を読んでも「不確定性」と「関心のないものの排除」
との関係がいまいちつかみづらい。
原文と翻訳(田島節夫訳/白水社)を書いておきます。
「Si les etres vivantes constituent dans l'univers des <<centres
d'indetermination>>, et si le degre de cette indetermination se
mesure au nombre et a l'elevation de leurs fonctions, on concoit
que leur seule presence puisse equivaloir a la suppression de toutes
les parties des objets auwquelles leurs fonctions ne sont pas
interessees. 」
「さてもし所生物が宇宙の中で「不確定の中心」をなし、この不確定性の程度が
その機能の数と発展に応ずるものであるとすれば、それらがただ現存するという
ことだけで、その諸機能にとって利害関係のない対象のすべての部分が廃棄される
というのも同じことでありうると考えられる」(41頁)
ひとつ気付いたのだが、宇波訳ではsuppressionが「抑圧」と訳されている。
たぶんsurpressionと見間違えたのだろう。否、アラ探しばかりするのはよそう。
僕は「廃除」にしておいた。田島訳の「廃棄」だと「どっかに捨ててしまう」の
イメージが強いように思われる(ここではせいぜい「取り除いて、見ないでおく」
という感じに思われるので)。
【59】の訳、読んだじょ。
この箇所は、内容的には比較的問題はなさそうだけど、翻訳(日本語に移す)
という点では、ちょっと厄介な部分が幾つかありそうですね。
俺様からのツッコミはまた後で書きまつ。
54 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/24 16:31
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
深く掘り下げれば真実が見えてくる、、、
そんな☆キキ+キ゚Д゚♪の哲学HPはココ↓
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8862/ 僕の哲学は、学問ではない。
人間が生きていく中、背負うべき道徳なのだ。(HPより抜粋)
孤独を越え、闇から光を見出した☆キキ+キ゚Д゚♪だからこそ言える!
もう何も迷う事は無い、、、
☆キキ+キ゚Д゚♪に触れ、明日への一歩を踏み出すのだ!
走る取的さんすまん。ちょっと時間が無くてあれこれ書けそうにはないのだあ。
とりあえず、ベルクソンのテクストについては、問題の引用箇所からもう少し遡ってみて、
「生物の知覚機能が、当の生物にとって開かれる行動の可能性とどのように結び付いているのか」
という論点(例えばメルローポンティの『行動の構造』にも引き継がれて大きく展開される
ことになるテーマ)に関わる論述から辿り直してみると内容を理解しやすいと思うのだあ。
今日はバイト、その他の事情で進めません。
>メーさん
お忙しいのにもかかわらずレスありがとうございます。
>>49を改めて読んで気付いたのですが、当初の「マターリ」をすっかり忘れていました。
先を急ぐばかりに焦っていました。
少しずつ丁寧に進めなくては、と反省した次第。
『物質と記憶』も遡って読み返してきます。
57 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◇qpmo.OOqAo :04/01/25 23:55
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
深く掘り下げれば真実が見えてくる、、、
そんな☆キキ+キ゚Д゚♪の哲学HPはココ↓
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8862/ 僕の哲学は、学問ではない。
人間が生きていく中、背負うべき道徳なのだ。(HPより抜粋)
孤独を越え、闇から光を見出した☆キキ+キ゚Д゚♪だからこそ言える!
もう何も迷う事は無い、、、
☆キキ+キ゚Д゚♪に触れ、明日への一歩を踏み出すのだ!
>>51 > じっさい脳の隔たりの名のもとに、ある存在は物質的対象やそれから
> 生じる行動について、その存在の関心を引くものしか引き留めておくことができない(注1)。
まず訳語だが、actions は物質的対象から生じるもののことだから、「行動」ではなく「作用」のほうがよいのでは?
en vertu de l'ecart cerebral も、やはり「〜によって」と訳したほうがいいように思う。「脳の隔たり」もこれだけ読む
と何のことかわからない可能性があるので、「脳[における刺激と反応]の隔たり」のように説明を付け加えてはどう
だろう?
再度『物質と記憶』の文脈確認だが、まずベルクソンは、下等生物における感覚が、触覚のように対象との直接的
接触という形をとること、多くの場合、触覚器官が同時に運動器官でもあり、感覚(獲物・危険)と反応(捕食・回避)
の間にほとんど隔たりがないことを指摘する。この場合、感覚ないし知覚はそれとして意識されず、即座に行動に
移行するわけだが、ベルクソンによれば、意識をともなった知覚というものが生じるのは、受け取った刺激が反応
へと直接結びつかなくなる、まさに時だという(MM 28f./岩波訳 43f.)。
その限りで、意識というのはいわば進化の過程で偶発的に生じた(刺激-反応間の)間隙のようなものだということ
になるだろう。つまり、それ自体ではポジティヴな性格をもつものではなく、太陽の黒点が周囲の温度より低いため
黒く際立って見えるように、ネガティヴな性格しかもたないことになる。意識(知覚・表象)は、意識される対象(物質・
事物)に何かを<足した>ものではなく、何かを<引いた>ものだという、第3文目の議論はここから来ている。
つまり、
対象 > 意識
ということだが、右辺では「我々(意識)の関心を引かないもの」が差し引かれている。
ベルクソンは、このような知覚内容の質的劣化が、知覚領域の量的拡大と相補的関係にあると考えているらしい。
たしかにこの辺りの論理展開はあまり明確でない。注でいう「不確定(性)」が、知覚領域(生物による潜在的行為
の到達可能範囲)の量的拡大に相当し、知覚における質的劣化と量的拡大が相互に条件づけあっているとすると、
「脳の発達によって、刺激に対して生物がとりうる行動の範囲は広がったけど、その代わり、対象の知覚は対象の
ごくわずかな側面しかとらえられないようになった」という話になり、en vertu de ... の意味もすっきりするんだが。
ちなみにこの文の un etre は un etre vivant の意味だから(本文への注を参照)、「生物」と訳してしまったほうが
いいかもしれない。
問題の注だけど、後半がややこしいのは、equivaloir と suppression のせいだと思う。
まず、suppression を「抑圧」(宇波訳)と訳すのはたしかにあまりよくないが、まったく不可能な訳ではないと思う。
要するにここで suppression というのは、本文中で diminuer(減らす)、diminution(削減)などと言われていること
に相当する。少々意訳すれば:
「もし生物が宇宙の中に『不確定性の中心』を作り出しているのだとすれば、そしてまた、この不確定性の度合い
がその生物の諸機能の数と増大によって測られるとすれば、生物が存在するということはまさに、その諸機能が
関係をもたないすべての部分が対象から取り除かれるということに等しいことがわかる。」
(付記:どういうわけか半日以上書き込みができなかったので遅くなった)
Gilles氏の後で、別に付け加えることも無いけど、ちょびっとだけ。
>>51 ・Gilles氏が書いてる通り、「ある存在(un etre)」は今の場合、
「生物」の方がいいと思うけど(文脈から見ても「脳を具えているもの」
が問題になってるわけだし)、もしそうするのでなければ、
(「存在するもの」という意味で)「存在者」というところでは?
・“en vertu de”のところの訳し方は、どうもあんまりうまい言い回しが
思い付かなかった。やっぱり、「脳における隔たりによっては」くらいかな?
・ベルクソンからの引用箇所については、さっき押し入れの中をかき回してたら、
岡部さんという人の『物質と記憶』の翻訳(駿河台出版社)が見つかったので、
参考までに引用してみる。――
「ところで、生物は、そのそれぞれが、宇宙における《非決定性の中心》であり、
また、この非決定の度合いは、生物のもつ機能の、数と高さで測られるとすれば、
これら生物が存在すること自体が、その機能に無関係な対象の部分すべてを、
対象から排除するに等しいことが理解できよう。」
――最後の辺りの訳し方は結構ヨサゲな感じがする。
・Gilles氏が
>>59で指摘するようなベルクソンの「論理展開」の不明瞭さについては、
色々書いてみたいこともあるんだけど、ちょっと今日は時間がないので、こんな所で
失礼〜
61 :
考える名無しさん:04/01/26 22:04
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
┌───┐ / / ● 、,.;j ヽ|
└── / /. - =-{_●{
,-、/ / |/ ,r' / ̄''''‐-..,●
< " / { i' i _ `ヽ
\ \  ̄フ i' l r' ,..二''ァ ,ノ
n\/ / 彡 l /''"´ 〈/ /ミ
ll _ > . 彡 ;: | ! i {ミ
l| \ l 彡l ;. l | | !ミ
|l トー-. !. ; |. | ,. -、,...、| :lミ
ll |彡 l ; l i i | l
ll iヾ 彡 l ;: l | { j {
|l { 彡|. ゝ ;:i' `''''ー‐-' }
. n. n. n l 彡 ::. \ ヽ、__ ノ
|! |! |! l彡| ::. `ー-`ニ''ブ
o o o l :. |
62 :
考える名無しさん:04/01/26 22:11
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
>>51の修正訳
【59】第1章18段落つづき(原書15/邦訳17)
まさにそこから、我々がすでに知覚をも持っていないかどうかを知ることが問題の
すべてになる。じっさい脳[における刺激と反応]の隔たりによって、ある生物は物質的対象やそれから
生じる作用について、その生物の関心を引くものしか引き留めておくことができない(注1)。
したがって、知覚は対象に何かを<足した>ものではなく、対象から何かを<差し
引いた>ものであり、我々の関心を引かないすべてのものを対象から差し引いたもの
である。あるいは、知覚は対象から我々の関心を引かないものだけを引き算するが、
我々の実際の知覚が対象と混同されるのと同時に、対象そのものは我々の潜在的な
<純粋な>知覚と混同される、といっても同じことである
注1:MM186/33 「もし生物が宇宙において「不確定性の中心」をなすのならば、
そしてまたこの不確定性の度合いがこの生物の諸機能の数と増大によって測られるならば、
そのような生物は現存するというただそれだけで、その諸機能が関心を持たない
すべての部分が対象から取り除かれるということに等しいことがわかる。」
【コメント】
本文に関して:
actions、un etreに関しては、何も考えずに漠然と訳してしまっていました。アホだ…_| ̄|○
un etreは直訳すれば「存在者」とすべきですが、Gilles氏の指摘を受けて
注に出てくる「生物」を採用することにします。>メー氏
注に関して:
Gilles氏の訳を見ながら直していったら結果的にはほぼ一緒になった(笑)。
>>51で「現前」としたpresenceは、田島訳の「現存」で行きたいと思います。
「現前」は別のことを想起させるし、そして「存在」も他の語に使うべきような気がするので。
注の中の「interesse」にGilles氏、田島氏、メー氏が挙げておられる岡部氏諸氏は
「関係」の語をあてておられますが、僕はドゥルーズの本文の訳「関心」の語を用いたので
注でも「関心」を採用したいと思います。
(ヘンなところばかりこだわってすみません。マズければ速攻修正します)
>suppression を「抑圧」(宇波訳)と訳すのはたしかにあまりよくないが、
>まったく不可能な訳ではないと思う。
そうなんです!むしろこちらの方が分かりやすいくらい。本当に、不思議な訳本です。
ベルクソンの論理展開の不明瞭さについては、僕も何か言いたい気がするけど
手に負えなさそうなのでやめておきますw
【60】第1章18段落つづき(原書15)
そこからベルクソンの[次に挙げる]有名なテーゼが出てくるのであり、我々はそのあらゆる
帰結を分析しなくてはならないだろう。すなわち、我々はものをそれがある場所において知覚し、
知覚は我々を一挙に物質のなかに置き、知覚は非人格的であり、知覚は知覚される対象と
一致する。この線の上で、ベルクソン的な方法とはすべて、まずそれらのあいだでは本性の
差異があり<えない>ような諸項を探求することであった。脳の能力と髄の機能のあいだには、
また物質の知覚と物質そのもののあいだには本性の差異はありえず、程度の差異だけがありえる。
【コメント】
第一文目、nous arons a analyserを、一応単純未来(のつもり)で訳した。
現在形でも問題はないと思う。
第二文目(:から後ろ)、「純粋知覚」の要約。『物質と記憶』を読んでいない人でも
純粋知覚論が大方何を言っているのか分かりよいように、ひとつの述語にひとつの
主語を逐一対応させた。余計な配慮だったかもしれない。
第三文目、difference de natureを「本性の差異」と訳した。宇波訳は「質的な差異」。
これはさすがにマズいんじゃなかろうか。 同じくdifference de degreを「程度の差異」と訳した。
仏語5級氏の訳を引き継いでいる。ちなみに前回の注ではdegreを「度合い」と訳した。宇波訳では「段階」。
これは「空間における連続量」とかの問題を考えるとまた問題があるような気がする。
それから、il ne peut pas y avoirを、仏語5級氏の訳(当スレで
>>11に引用した)を引き継いで
「ありえない」と訳した(正確には仏語5級氏は「有り得ない」と、「ある」(存在)のニュアンスを
強調している)。正直なところ「存在しえない」の方が座りがいいのだが、どうだろうか。
そのあとは特に問題なし。
自己レス。
defference de degreが「段階の差異」だとマズい理由。
要は、「段階の差異」だと諸々のステージが用意されており、
あるステージから別のステージへの移行が<一挙に>行なわれる、というイメージを想起させるため。
defference de degreは、たとえば『物質と記憶』でベルクソンが批判するような、苦痛が徐々に弱まって記憶になるとか
記憶が強まって苦痛の感覚になるとかいった、連続的な仕方で示される差異について言われる(白水社版154-155)。
だからこれは「段階」といわれるよりも「程度」「度合い」と訳されるべきだと思う。
>>65 【60】の訳文でほぼ良さそうなので、オレの方からは特に無し。
ゴーゴー!
>>64 細かい点だけど、“interesse”について一言。
ベルクソンからの引用箇所について言えば、「その諸機能が関心を持たない…」
という所は、単純に日本語としては、「関わりを持たない」くらいの訳の方が
良いような気がする。
例えば、「視覚は色に関わりを持つ、聴覚は音に関わりを持つ」といった言い方は
自然だけども、「視覚は色に関心を持つ」という言い方は(言わんとすることは
分かるけれども)日本語としてはやはり不自然だと思う。
それからもう一つ、“interesse”はもともと
“inter”(=間)+“esse”(=存在、あること)
に由来しており、「間にあること」、あるいは何らかの「関係的なあり方」
の成立を意味する語。
例えば“interessant”(興味深い、面白い)と言えば、何か特別の関係へと
人を引き込むだけの力(魅力)を具えている、ということ。
こうしたことからすれば、“interesse”について、「関心」のように
「意識の働き」を前提もしくは含意する訳語を充てると、かえって不適切になる
場面も出てくると思う。
.──-─--┐ //ヽ\
 ̄ ̄ ̄ ̄/ / / / ノ "´ ̄ ̄''''‐-...ノヽ
ノ / / 丶 |
,--'" / / ,ィ \
ヽ-''" 7_// _/^ 、`、
┌───┐ / / ● 、,.;j ヽ|
└── / /. - =-{_●{
,-、/ / |/ ,r' / ̄''''‐-..,●
< " / { i' i _ `ヽ
\ \  ̄フ i' l r' ,..二''ァ ,ノ
n\/ / 彡 l /''"´ 〈/ /ミ
ll _ > . 彡 ;: | ! i {ミ
l| \ l 彡l ;. l | | !ミ
|l トー-. !. ; |. | ,. -、,...、| :lミ
ll |彡 l ; l i i | l
ll iヾ 彡 l ;: l | { j {
|l { 彡|. ゝ ;:i' `''''ー‐-' }
. n. n. n l 彡 ::. \ ヽ、__ ノ
|! |! |! l彡| ::. `ー-`ニ''ブ
o o o l :. |
69 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◇qpmo.OOqAo:04/01/28 01:40
((゚m゚;)アレマッ!
>>67 メー氏
>“interesse”はもともと
>“inter”(=間)+“esse”(=存在、あること)
これ、面白いですね!
全然知らなかった。勉強になります。
interesseだけに、「感心」しました。
たしかに「諸機能が関心を持たない」は不自然なのでさっそく修正しておきます。
>>63の注の修正訳
注1:MM186/33 「もし生物が宇宙において「不確定性の中心」をなすのならば、
そしてまたこの不確定性の度合いがこの生物の諸機能の数と増大によって測られるならば、
そのような生物は現存するというただそれだけで、その諸機能が関わりを持たない
すべての部分が対象から取り除かれるということに等しいことがわかる。」
これから出かけてくるので、更新があるとしたら明け方になると思います。
それでは。
>>70 ちなみに“interesse”というのは、キルケゴールが変にこだわっていた概念なにょだ。
だからその辺から、はいでがー先生の Sorge とかにも繋がっていくんだろうけど、
はいでがー先生についてはオレはまったくのドキュソだから、これは単に、言ってみる
テストなのら。
何か考えてみたら、ここ最近のオレのレスってのは単なる「言葉の説明」だけになってて
自分でもかなりトホホな感じだけど、でもまあ、ベルクソンが言語というものを敵視する
理由の一端を理解する上では、こうした説明にもそれなりの価値があるだろう。
なんちて。
次からはもっとちゃんとレスするナリ。
73 :
考える名無しさん:04/01/28 23:54
ageてみた
74 :
考える名無しさん:04/01/30 03:29
またageてみた
【61】第一章第18段落(原書15-16)
それで我々は、第一の線とは本性において異なる第二の線を引くことができる。
第一の線を打ち立てるためには、我々は<フィクション>を必要とした。我々は身体を、
空間においては数学的な純粋点であるとし、時間においては純粋な瞬間ないし
諸瞬間の継起であると想定したのである。
【コメント】
まずは第一文目、「我々は第二の線を引くことができる」の原語は
nous sommes en mesure de tracer la second ligne
で、これは
>>45の「我々が辿っている線」の原語
la ligne que nous sommes en train de tracer
と対応しているぽい。
だから
>>45で「辿っている」と訳したtracerも「線を引く」の意味で訳すべき
かもしれない。そもそも動詞「tracer」には、ロワイヤル中辞典で調べるかぎり,
「辿る」「追跡する」の意味はない。僕はあまり考えずに宇波訳をそのまま転用
していた。さらにまた、「en train de」の「ただいま…している」の意味も挿入
するべきかもしれない。
気になるのは、第二の線が第一の線とは「本性において異なる」differer en natureということ。
第一の線においては「まずそれらのあいだでは本性の差異があり<えない>ような諸項を
探求すること」がベルクソンの第一の方法であった。だから第一の線の上には本性の差異がない
というのは分かる。しかし、第一の線と第二の線の<あいだに>本性の差異があるというのは
ちょっと解せない。ただ単に、第一の線と第二の線が根本的に異なる、というだけのことかもしれない。
第二文目・第三文目にかんしては特になし。
なかなか時間がとれず遅くなってしまいました。
短いけどキリがいいので今回はここまで。次回あたりから難しい話になりそうな悪寒。
>メー氏
僕は言葉を良く知らないし、しかも鈍感だったりするので
「言葉の説明」は勉強になっているです。
これからもおねげえしますだ。
遅くなってすまん。
>>65 > 【60】第1章18段落つづき(原書15)
> そこからベルクソンの[次に挙げる]有名なテーゼが出てくるのであり、我々はそのあらゆる
> 帰結を分析しなくてはならないだろう。すなわち、我々はものをそれがある場所において知覚し、
> 知覚は我々を一挙に物質のなかに置き、知覚は非人格的であり、知覚は知覚される対象と
> 一致する。
「有名なテーゼ」というわりに、ドゥルーズは該当箇所をあげていない。このままの文面は見つからなかったが(『物質と記憶』第1章には
おそらくない)、ほぼ同趣旨の叙述はあちこちに見られる。ちょっと煩雑になるが、関連箇所をあげてみる。
(なお、知覚の語にかかる impersonnel という形容詞は、記憶が混交していないためにまだ「私の」とか「誰の」という性格をもたない知覚
のことだから、非人称的と訳すほうがいいのではないか)
1. nous percevons les choses la ou elles sont
物は(主観の内部ではなく)それがあるまさにその場所で知覚される:
「外的対象は、それらがあるまさにその場所、私の内ではなく、それ自身の内で、私に知覚される(les objets exterieurs sont percus par moi
ou ils sont, en eux et non pas en moi)」 (PUF版 p.58/岩波訳 p.75)
2. la perception nous met d'emblee dans la matiere
知覚は我々を一挙に物質の中に置く:
「知覚の原初的で基底的な作用、純粋知覚を成立させ、我々が一挙に物の中へと置かれるこの作用が誤認される(On meconnaitra l'acte
originel et fondamental de la perception, cet acte, constitutif de la perception pure, par lequel nous nous placons d'emblee dans les
choses)」(PUF版 p.70/岩波訳 p.87)
3. [la perception] est impersonelle et coincide avec l'objet percu
知覚は非人称的であり、知覚される対象と一致する:
「この人々[知覚=非延長的感覚の外部への投影と考える人々]はただ、[知覚の]非人称的基礎があいかわらず存在し、そこでは知覚が
知覚される対象と一致することを忘れている(ils oublient seulement qu'un fond impersonnel demeure, ou la perception coincide avec l'objet
percu)」(PUF版 p.69/岩波訳 p.86、p.30/p.45f. も参照)
> それから、il ne peut pas y avoirを、仏語5級氏の訳(当スレで
>>11に引用した)を引き継いで
> 「ありえない」と訳した(正確には仏語5級氏は「有り得ない」と、「ある」(存在)のニュアンスを
> 強調している)。正直なところ「存在しえない」の方が座りがいいのだが、どうだろうか。
まあ「ありえない」でも問題はないだろうし、仏語5級氏訳との連続性もある程度あったほうがいいと思うので、今のままでいいのでは。
「存在」は別の訳語を連想させるかもしれないし。
>>65の修正訳。
【60】第1章18段落つづき(原書15)
そこからベルクソンの[次に挙げる]有名なテーゼが出てくるのであり、我々はそのあらゆる
帰結を分析しなくてはならないだろう。すなわち、我々はものをそれがある場所において知覚し、
知覚は我々を一挙に物質のなかに置き、知覚は非人称的なものであり、知覚は知覚される対象と
一致する。この線の上で、ベルクソン的な方法とはすべて、まずそれらのあいだでは本性の
差異があり<えない>ような諸項を探求することであった。脳の能力と髄の機能のあいだには、
また物質の知覚と物質そのもののあいだには本性の差異はありえず、程度の差異だけがありえる
【コメント】
Gilles氏の指摘を受けて、「非人格的」を「非人称的」に改めた。相変わらず的確なアドバイスを
ありがとうございます。それと、
>>77-78で挙げてくださった対応箇所があまりにも美味しいので
訳注として収録させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
まだ
>>75についての意見を頂いていませんが、明日は進めそうにないので
今のうちに次の分をやっておきます。
【62】第1章第19段落つづき(原書16/邦訳17-18)
しかしこれらのフィクションは単なる仮説ではなかった。これらのフィクションは、
経験そのものを先取りする方向を、経験のかなたへと突き詰めることから成っていた。
そのようにしてのみ、我々は経験の条件の片面をすっかり明らかにすることができたのである。
いまや我々に残されているのは、脳[における刺激と反応]の隔たりを満たそうとするものが
何であるのか、受肉するためにこの隔たりを利用するものが何ものであるのか、を問うことである。
【コメント】
第一文目はとくになし。
第二文目、内容的に難解。原文は次のようである。
elles consistaient a pousser au-dela de l'experience une direction prelevee
sur l'experience elle-meme;
僕的な解釈では、「我々の経験には、経験の条件を指し示すような方向が与えられており、
それをフィクション(仮構)を突き詰めることによって経験の条件へと達することができる」
という感じ。それで上の訳文になった。「突き詰めるpousser」だが、宇波訳の「進める」では弱い気がするのでこのように訳した。
第三文目はとくになし。
第四文目、「受肉する」の原語はs'incarner。この語をみると条件反射的に
この訳語を充てたくなってしまう。「具体化」や「具現化」の方が自然か。
なお
>>75が第18段落になっているけど第19段落の間違いですた。邦訳の頁数も抜けてます。17頁でつ。
レス遅れてすんまへん。
>>75 【61】の訳は大体いいような感じがするんだけど、幾つか気付いた点。
・“tracer”の意味合いについてはオレも良く知らないのだが、ちなみにスタンダード仏和辞典
には、古い用法として「追跡する」という意味での使い方も載っていた。
まあ、走る取的氏が指摘するように、
>>45にあった箇所と対応しているのは確かだと思うので、
訳語をそろえておいた方がいいのでは。
・第一の線と第二の線との間に「本性の差異がある」云々という問題は、第1章で主題的に
取り上げられることになる主要問題。それはつまり、本性の差異を持つもの(第一の線)と
本性の差異を持たないもの(第二の線)との間の差異というのは、果たしてそれ自体が
「本性の差異」なのか、それとも単なる「段階の差異、程度の差異」にすぎないのか、
ということ。そしてドゥルーズがベルクソン読解を通じて主張するのは、要するに、
この二つの線の間の差異は「本性の差異」だということ。言い換えれば、「(本性的な)
差異を含まないもの」と「(本性的な)差異を含むもの」との差異自体が、本性的な差異を
含んだ差異化の運動から生まれでてくる、といったことになる。
(ただしこのまとめ方は、かなり大雑把でかなり不正確!)
【61】の箇所で「第一の線とは本性において異なる第二の線」と言われているのは、
こうした展開を示唆していると考えられる。
>>62 ・“pousser”について「突き詰める」という訳語を充てるのは、
オレ個人的には正直な所、ちょっとピンとこない感じがある
(かと言って、もっとヨサゲな訳語が思い付くわけでもないのだが)。
というのは、日本語で普通「突き詰める」と言うと、「物事を突き詰めて
考える」といったように、何か物事の真の奥底まで突き進んでゆくような
ニュアンスがあるけれども、今の箇所での“pousser au-dela de l'experience”
というのには、もう少し両義的なニュアンスがあるように感じられるのだ。
どうもあんまりうまく言えないけど、この問題はつまり(もう少し後の方で述べられる
けれども)、「経験の条件」というものに関するカント的なアプローチと
ベルクソン的なアプローチとの違い、という論点とも関わってくると思う。
つまり、カントが経験を(超越論的に)超出した地点から「可能的経験一般」の条件を
明らかにしようとするのに対して、ベルクソンが明らかにするのはあくまでも
「現実的経験」なのだという違いをドゥルーズは指摘しているけど、ここで言う
“pousser au-dela de l'experience”というのも、あくまでも「現実的経験の条件」
を浮き彫りにするための一つのやり方、しかも仮構的なやり方であって、次の文で
言われているように、このやり方で明らかにできるのは、あくまでも「経験の条件の
片面」にすぎない、ということ。日本語の「突き詰める」という言い方だと、
こうしたニュアンスが消えて、ちょっと一面化されてしまうような感じもするのだ。
>>62(続き)
・それから同じ第二文中で、「経験そのものを先取りする方向」という訳が
ちょっと良く分からない。これは宇波訳では「経験についてのあらかじめ与えられた
方向」となっている部分だけれども、ここでの prelever は基本的にはやはり、
「取り出す」とか「引き出す」という意味なのでは?
(と言いつつもあんまり自信がにゃい。)
・“s'incarner”の訳し方は個人的な好みもあると思うんで、オレからは
特に無いけど、そこの箇所の「受肉するためにこの隔たりを利用するもの」
というのは、「この隔たりを利用して受肉するもの」といった言い回しに
した方が日本語として分かりやすいのでは?
でもまあこれも個人的な好みの問題かもしれない。
・とりあえず気付いた点はこんなところ。翻訳おつかれさまでちた。
84 :
考える名無しさん:04/02/02 15:02
ちょっとあげてみた
遅くなってすんません。
二日連続で徹夜勤、そのあとくたばっていました。
まずは
>>45の修正訳です。tracerの訳語を「辿っている」から「いま引きつつある」に変更しました。
その理由については
>>75とメー氏のレス
>>81を参照のこと。
【58】第1章18段落(原書14-15、邦訳16-17)
受け取った運動を際限なく分割するのであれ、複数の可能な反応へと
延長するのであれ、脳はそれら二つの運動[取り集められる運動と実行される
運動]のあいだに、ひとつの隔たりを設ける。記憶がこの隔たりを利用すると
いうこと、厳密に言えば記憶が[そこに]「入り込む」ということ、このことは
事態に何ら変化をもたらすのではない。いまのところ我々は記憶を別の「線」に
属するものとして排除しておくことができる。我々がいま引きつつある線の上では、我々は
物質と運動、多かれ少なかれ複雑化され多かれ少なかれ遅らされた運動しか持って
いないし、また持ちえない。
段落番号を修正した
>>75も挙げておく。
【61】第1章第19段落(原書15-16、邦訳17)
それで我々は、第一の線とは本性において異なる第二の線を引くことができる。
第一の線を打ち立てるためには、我々は<フィクション>を必要とした。我々は身体を、
空間においては数学的な純粋点であるとし、時間においては純粋な瞬間ないし
諸瞬間の継起であると想定したのである。
ついでメー氏のレスを受けての
>>81の修正訳です
(詳細なレスをありがとうございます!)。
【62】第1章第19段落つづき(原書16、邦訳17-18)
しかしこれらのフィクションは単なる仮説ではなかった。これらのフィクションは、
経験そのものから取り出された方向を、経験のかなたへ押し進めることから成っていた。
そのようにしてのみ、我々は経験の条件の片面をすっかり明らかにすることができたのである。
いまや我々に残されているのは、脳[における刺激と反応]の隔たりを満たそうとするものが
何であるのか、この隔たりを利用して受肉しようとするものが何ものであるのか、を問うことである。
【コメント】
>第一の線と第二の線との間に「本性の差異がある」云々という問題は、第1章で主題的に
>取り上げられることになる主要問題
Σ(゚Д゚;) 一番大事な問題を適当にやり過ごすところだった…
つか勉強不足がバレバレですね。精進します。
・pousserについて。
今の時点ではよく判断できないので、さしあたり「押し進める」としておきました。
要は、経験の外側にいきなり飛び出てしまうのではなく、あくまで経験の内部に踏みとどまり
そこに与えられているヒントをもとに経験の条件を明らかにすることができる、
ということなのでしょうか。
・preleveeについて。
辞書に、「prelever sur…」で「…から取り出す、先取りする」という訳が並んでたので
意味がわからずに何となく後者を選択したのでした(アカンやん・・・)。
そもそも「…の方向を押し進める」という日本語がしっくりこなくて(「…の方向へ押し進める」
なら無問題なのですが)、そのこともあったので
>>80では「突き詰める」という訳語を使った記憶があります。
しかしpousserについて書いた↑の箇所のように考えるならば、
「経験を経験そのものから取り出された方向へ押し進める」
というかんじになるので、これで腑に落ちたような気分です。
自分でも何を書いているのかわからんくなってきました。
読みにくい文章で申し訳ないです。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
,へ / \ ,ハ百
\ \ / ヽ ム.只
/へ/) l:::: ::::|
∧_∧∩ )( . |::::: (●) (●) :::::| =夫=_
(#´〜`)7 ( ! ____ |::::::ノ'""ゝ.\___/ :::::::| フi三iヽ
゚ .冂つム゚_」 Y (_ ____) ':; \/ ::::::::ノ '─'
゜ ム_」」」」ゝ 人 ___) (__∠__ \
(,_,,ノ `ー´ ( '; (__________) ~':;,,.
,' . / .' ヽ (_ ,,;::'~ ~':::;;,,,_
/ / ' \ヽ. __,,,,-‐''"~ ∧_∧ ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
'0 __,,..l⊂Z_).⊃! ∬・∀・∬  ̄ ̄ ̄ ̄) (二二二二二...... 0
0Π0- ‐‐'''"" |;;:.:. ヮ . .:::;| ,べヽy〃へ ( ̄ ̄ ̄ 0Π0
HΠH ∩.∧_∧∩ ∧∧/ :| 'ツ' | ヽ  ̄λ_λ ̄ ̄ ̄ ̄ ∧∧ ̄ HΠH
EEE (◎´∵`◎) (*・_・). o |=デ=! o | (0´く`0)ヮ [`Д´] EEE
|l|lil|ili| 瓜ゞッ=Lく ,くリ=ッ=[ゝ.__」「「「「L_.」 厂〉=ッ冂づ ヌ Oヮ⊂[]ヨ |l|lil|ili|
,,.<卅卅ゝ.__.,.,.,___.__.,.,.,(__)ヾZ)'_.,.,_じ(ノルハ)Jつ」」」」」⊂ソ.,_.,_.(入ム]つつ.__,L!__. (_」つ.,<卅卅ゝ
【63】第1章第19段落つづき(原書16、邦訳18)
これに対するベルクソンの答えは三つある。答えの一つ目は、身体が数学的な点いがいの
ものであることを前提し、身体に空間におけるヴォリュームを与える情感性である。ついで答えの
二つ目は記憶力の記憶であり、これはもろもろの瞬間を互いに結び付け、あるいは過去を現在に
挿入する。最後に答えの三つ目は、別の形式のもとでの記憶力、すなわち、質を生じさせる物質の
収縮という形式のもとでの記憶力である(したがって記憶力が、身体を瞬間性以外のものにし、
時間における持続を身体に与えるのである)。
【コメント】
第一文目についてはとくになし。
第二文目、un volumeを何と訳そうか迷った。宇波訳では「ひとつの量」。
量はquantiteに使うであろうし、空間的なひろがりのニュアンスも感じにくいので却下。
カタカナで意味は通じるのでとりあえず「ヴォリューム」としておいた。
ドゥルーズやベルクソンが他の場所でもこの語(「volume」)を使っているのかどうかは知らない。
それほどこだわるところでもないだろうと思われる。
第三文目、les souvenirs de la memoireに困った。そのまま「記憶力の諸記憶」では日本語だと
意味が不明だ。『物質と記憶』をざらっと調べた限りではles souvenirs de la memoireという語は
出てこなかった。うーん、何か良い訳はないでしょうか。
ちなみに、「諸瞬間を互いに結びつける」と「過去を現在に挿入する」は基本的には区別され得ると
思うので「et」を「あるいは」と訳しておいた。
第四文目は特に問題なし。
さっそくミスに気付きました。
上のレスで「
>>75 【61】」となっているのは
>>86 【61】
です。
93 :
考える名無しさん:04/02/06 12:44
にょ
わたくし、アクセス規制のせいでなかなか書き込めなかったんですのよ、オホホ。
というわけでレス遅れてすまん。
・前に
>>82で書いたのは、少しピントがボケた所があったかもしれないけど、ドゥルーズが
“pousser au-dela de l'experience une direction prelevee sur l'experience
elle-meme”という言い方をしているのは、イメージ的に言えば、例えば曲線上のある一点で
その曲線の接線を引くような感じではないか。(そうした接線は、その一点でその曲線の内に
あらかじめ潜んでいる方向を、その曲線を越え出て引いたもの。)
あやふやなイメージに頼るのは危険でもあるけど、多少は理解の助けになるかと思って書いてみた。
・【63】の箇所は内容的な理解とも深く関わってきそうで、ちょっと難しい。本音を言うと
ちょっとペンディングにしておいてもらいたい、という感じもあるんだけど、
そんな中で一つ気になったのが、「情感性」という訳語。宇波訳では「感覚性」になってたんで、
オレはてっきり原語は“sensibilite”あたりかと思ってたんだけど、もしかしたら違うのかな?
(“affectivite”?) 原著を見てないんでちょっと判断がつかないんでござる。
・あとそれから、memoire と souvenir の訳し分けは厄介な問題だけど、とりあえず
内容的な事柄は措いて単純に訳語の問題として言えば、「記憶(memoire)」と「記憶
内容(souvenir)」という形でよいのでは?
(こうした訳語は宇波訳でも使われているし、前田英樹さんの『記憶と生』の翻訳でも
使われていたと思う。)
すみません、夜中には復活します。
復活しました。
>>94 メー氏
こちらこそ遅くなってしまってすみません。
またよろしくお願いします。
・「情感性」については、原語はaffectiviteです。これも僕の条件反射的な訳付けで、
affectiviteは情感性、sensibiliteは感覚性をそれぞれ充ててしまいます。
・memoire / sensiviliteについては、了解です。何も「力」にはこだわる必要ありませんね。
以後「記憶」memoire / 「記憶内容」souvenir で行くです。
【64】第1章第19段落つづき(原書16、邦訳18)
そこで、いまや我々は主観性という新しい線を持つのであり、その線において情感性、記憶内容としての記憶、
収縮としての記憶は横に並ぶのである。これらの諸項はさきにみた線(知覚−対象−物質)とは本性において
異なると言われる(注1)。
Nous voila des lors en presence d'une nouvelle ligne, celle de la subjectivite, ou s'echenelonnent affectivite,
memoire-souvenir, memoire-contraction: on dira de ces terms qu'ils different en nature avec ceux dela ligne
precedente(perception-objet-matiere)(1).
注1:この線は全面的に等質的である必要はなく、破砕された線でありうる。そのようにして情感性は本性において
知覚から区別されるが、しかし記憶が知覚から区別されるのとは違う方法で区別されるのである。その一方で、
〈純粋〉記憶は純粋知覚に対比されるが、情感性はむしろ知覚を撹乱する「不純性」のようなものである(MM207/60 参照)。
情感性や記憶といったものがいかにして主観性の多様な側面をいかに描いていくかということは、のちに見ていく。
(1) Il n'est pas la ligne soit entierement homogene, ce peut etre une ligne brisee. Ainsi l'affectivite se disengue
en nature de la perception, mais non pas de la meme que la memoire: alors que'une memoire pures s'oppeser
a la perception pure, l'affectivite est plutot comme une <<impurete>> qui trouble la percetion(cf,MM207,60).
Nous verrons plus tard comment l'affectivite, la memoire, etc., designent des aspect tres divers de la subjectibite.
【コメント】
全般的に特になし。
la ligne briseeは「屈曲線」とも訳せるようだが、ここでは普通に「バラバラ」というイメージでしょう。
しかし「粉砕された」はやや強すぎるかもしれない。
なんとなく原語を全部書き出して見ました。
結構しんどかったので、次回以降に続かなくても僕を責めないでください(笑)。
レス遅れまいた。
>>96 “affectivite”という単語は、ベルクソン自身はどういった風に使ってるか
よく分からないんで、あんまり自信は無いんだけど、ドゥルーズ自身はやっぱり
スピノザのことを念頭に置いてるのでわ、と、つい考えてしまった。
ちなみに、『エチカ』の第三部「感情の起源と本性について(De Origine et Natura
Affectum)」でスピノザが与えてる定義によると――
感情(Affectum)ということによって私が理解するのは、身体の活動能力を増大
もしくは減少させたり、促したり抑えたりするような身体の変様(Corporis
affectiones)のことであり、それとまた同時に、そうした変様の観念のこと
である。…(定理3)
――というわけで、訳語は「情感性」あたりでもいいと思うんだけど、
こうした哲学史的な背景もちょっと念頭に置いた方がよいのでは。
>>97 注の箇所の訳文について幾つか。
・“homogene”と“brisee”の対比については、どうもオレ自身あんまりピンと
こないので、特に言えることはなし。(というのは、ごく素朴に考えて、「バラバラ」
のものが「等質」であっても構わないように思えるから。)
・細かいことだけど、
>記憶が知覚から区別されるのとは違う方法で区別されるのである
という箇所については、「方法」という言い方を入れない方がいいと思う。
(この章の主題である「ベルクソンの方法」と混乱しかねないから。)
むしろ、「記憶が知覚から区別されるのとは違う仕方で区別される…」くらいで
よいのでは。
・その直後の「その一方で(alors que)」の訳は単純な文法ミスだと思う。
ここははむしろ(前文の敷衍という形で)、「〈純粋〉記憶は純粋知覚に対比される
のに対して(alors que)、情感性はむしろ知覚を撹乱する不純性のようなものである」
ということでしょ。
>>97(続き)
・あとそれから、原文を見ながら思ったことだけど、できればピリオドとコロン(:)
との違いといったことも訳文に反映させるように努めると、一読して文脈がとりやすく
なるように感じた。例えば、いま上で取り上げた箇所について言えば、
走る取的さんの訳文では二つの文に分かれている箇所を繋げて、――
そのようにして情感性は本性において知覚から区別されるが、しかし記憶が知覚から
区別されるのとは違う仕方で区別されるのであって、〈純粋〉記憶が純粋知覚に対比
されるのに対して、情感性はむしろ知覚を撹乱する「不純性」のようなものである
――といったようにした方が、文頭の「そのようにして」もいっそう効いてくるし、
「情感性」と「記憶」との対比も明瞭になるのでは。
(とはいうものの、訳文で一つ一つの文があんまり長くなると読みにくくなる、
という問題もあるので、その辺の兼ね合いは難しいけど。)
とりあえずはこんな所でちた。おつかれさま
100ゲトしてたことに気付かず欝…
>>97 も一つオマケ。
「不純性(une impurete)」とあるのは、やっぱり「不純物」の方がいいように思う。
103 :
考える名無しさん:04/02/19 13:56
>>97の注の修正訳。
【64】第1章第19段落つづき(原書16、邦訳18)
注1:この線は全面的に等質的である必要はなく、切れている線でありうる。
そのようにして情感性は本性において知覚から区別されるが、しかし記憶が知覚から
区別されるのとは違う仕方で区別されるのであって、〈純粋〉記憶が純粋知覚に
対比されるのに対して、情感性はむしろ知覚を撹乱する「不純物」のようなものである
(MM207/60 参照)。情感性や記憶といったものがいかにして主観性の多様な
側面をいかに描いていくかということは、のちに見ていく。
【コメント】
>メー氏
レスありがとうございました。
・affectiviteについて。
僕はスピノザ(やaffection,affectumをめぐる議論)に関してはまったくの
無知なので、これから勉強します、とお茶を濁したいと思います。
さしあたり「情感性」でも問題ないと思われますし。
・homogene,briseeについて。
やはり「粉砕された」はマズいので、宇波訳の「切れている」を採用しようかと思います。
内容から考えると、知覚-対象-物質は同じ線に属する(これらのあいだには「部分と
全体の差異」ないし「程度の差異」しかない)。それに対し、情感性・記憶内容・収縮は
いずれも前者の線から区別されるけれども、だからといってこれら三項が皆同質的な
ものであるわけではない、ということだと思います。
それで、これら三項は線の上にはあるけど、ひと繋がりの線を作るわけじゃない
(これら三項のあいだには微妙な違いがある)、という感じで「切れている」かな、と。
う〜ん。
・>記憶が知覚から区別されるのとは違う方法で区別されるのである
これは迂闊でした。「仕方」にしておきます。
・alors que について。
単なる文法ミスでした。またもや無知を露呈してしまいました。
alors queから始まる一文は、
>>100で挙げてくださった訳文のがすっきりしているので
頂いてしまいます。
あ、あと100ゲトおめでとうございました(笑
【65】第1章第19段落つづき(原書16 邦訳18)
つまり表象は一般的に、本性において異なる二つの方向へ、表象されえることのない
二つの純粋な現存へ分割されるということである。その一つは我々を<一挙に>物質の
なかに置く知覚という方向・現存であり、もう一つは我々を<一挙に>精神のなかに置く
記憶という方向・現存である。二つの線がいまいちど出会い混じりあうことは問題ではない。
この混合は我々の経験そのものであり、我々の表象である。
Bref, la representation en general se divise en deux directions qui different en nature,
en deux pures presences qui ne se laissent pas representer: celle de la perception
qui nous met d'<emblee> dans la matiere, celle de la memoire qui nous met d'<emblee>
dans l'esprit. Que les deux lignes se rencontrent et se melangent, encore une fois,
ce n'est pas la question. Ce melange est notre experience meme, notre representation.
【コメント】
だんだんと難しい香りが漂ってまいりました。
一文目(" : "まで)について。
en generalを「一般的に」と訳してよいのかどうかに迷った。
ここではベルクソンの哲学において、表象は二つの〜に分割される、という話。
なので「一般的に」だと広く感じさせすぎてしまうかもしれない。
「(ベルクソンにおいて)」ぐらい補っておくべきか。
二文目について。
celle de la perception 、celle de la memoireのcelleが何を受けているのか。
direction とpure presenceの二つが考えられるが、celleが単数形になっている。
こういう使いかたがあるのかどうかわからないけど、両方を同一視して受けているように思われるので、
「・」で区切って両方並べておいた。うむむむ…。
三文目については特になしです。
>>106 ・訳文の中で一つ気になったのが、「現存(presences)」というのだけど、
考えてみたら自分でもあんまりいい訳語が思い付かないんでやんす。
representation(表象)ときて presence(現存)とくれば、すぐに思い付く
のは、
現前するもの(presence)→その再-現前化(representation)
といったようなことだけど、ここでは御丁寧にも、
“presences qui ne se laissent pas representer”
という風に言われているわけで、あくまでも、
「経験されるがままの表象においては再現前化されることのないような
純粋な presence」が問題になっているわけなんですな。
ここではドゥルーズ自身がかなり苦しい言い回しを強いられてるように見える
けど、結局うまい訳し方が良く分からない。
(ちなみに、ここで出てきた“presences”は、前の【64】にあった
“Nous voila des lors en presence d'une nouvelle ligne...”という所とも
つながってると思う。)
>>106(続き)
・“en general”は「一般的に」で良いのでは。たしかに「(ベルクソンにおいて)」
ということではあるけど、これを補うとすれば、ほとんど全ての文も同じように
補う必要が出てくるのでは??
・“celle”は、内容的には“direction”と“pure presence”の両方を受けている
ということになると思う。
ただ今の場合、上でも書いたように“presence”がうまく訳しにくいということも
あるから、「方向・現存」よりもむしろ「方向」に統一してしまった方が、
日本語としてもすっきりするのではないかと感じた。
(そうした方が、それに続く「二つの線…」という文ともスムーズに繋がるし。)
>>107 >>109 まず抑えておくべき点として en genreal は、「日本語としてどういう文章を作るか」をまずおくとして、
名詞の後ろに来ている場合、形容詞のように名詞にかかっていると考えたほうが良い。
Philosophie en general、les hommes en general、l'ordinateur en general
あるものを、個々の相においてでなく、あるgenreとして総体的に見た場合に、ということ。
で、ちょと微妙な日本語の感覚になるのだけれど、「一般的に」とすると
とりわけ「あるものは、一般的に〜される」とすると、「普通はそう考えられている」といった
ニュアンスで、つまり、フランス語で言うと、動詞にかかるgeneralementに対応した表現になってしまうと思う。
とはいえ、実はen generalに対応する簡潔な日本語の表現って難しいんだよね…
個人的には、それに対応する日本語は「〜というものは」という表現で、「表象というものは」でよいと思う。
それでも「一般」という言葉にこだわるのであれば、「表象というものは、一般に」かなあ。
deux directionsを言い換えて、deux pures presencesと説明しなおして
(ドゥルーズは、間に接続詞も何も入っていない言い換え〔正確には単なる言い換え、
つまり、最初の表現を後者が同じ意味として説明しているというよいrも変奏とでも
言うべきか〕を良く使うよね。)
では、その二つとは何か、ということで、celle、celleと受けている。
受験英語ではないので(笑)、単に
「そのひとつは〜という知覚であり、もうひとつは〜という記憶である」
と訳して、
日本語としては、それが前に出てきた二つの方向、二つの現存の説明だと分かるので
それで良いと思うのだけれどな。
celle de〜と言っているけれど、このdeは説明的同格のようなものと考えてよいと思う。
訳すのであれば、
>>209でメーさんが書かれているように、directionを使うのが良いと思う。
presence〜というのは、そもそもその言い換え的説明なのだしね。
>最初の表現を後者が同じ意味として説明しているというよいrも
説明しているというよりも、のtypo
遅くなってすみません。
夜中には復活します。
朝になってしまいました。
【65】の修正訳
つまり表象representationというものは一般に、本性において異なる二つの方向へ、
表象representerされえることのない二つの純粋な現存presenceへ分割されるということである。
その一つは我々を<一挙に>物質のなかに置く知覚であり、もう一つは我々を<一挙に>精神の
なかに置く記憶である。二つの線がいまいちど出会い混じりあうことは問題ではない。
この混合は我々の経験そのものであり、我々の表象である。
メー氏、
>>110氏のレスを受けての修正訳。
・presence、representationはさしあたり原語を付しておくことにします。
・en generalにかんして。
「(ベルクソンにおいて)」はたしかに不要ですね。
・celle de〜は省略は
>>110氏のアドバイスを受けてこのようにしました。
こりゃ便利だ。
【66】第1章第19段落つづき(原書17、邦訳18-19)
しかしすべての偽の問題は、我々が経験を経験の条件や実在の分節のほうに超えていくことが
できないということ、また我々に与えられており我々がそのなかで生きている混成物のうちに、
本性において異なるものを再発見することができないということに由来している。
Mais tous nos faux problemes viennent de ce que nous ne savons pas depasser
l'experience vers les conditions de l'experience, vers les articulations du reel, et
retrouver ce qui differe en nature dans les mixtes qui nous sont donnes, et dont nous vivons.
【コメント】
全体的に特になし。
・les articulations du reelは「実在の分節」とした。
この場合は「現実」という感じじゃないので。
・retrouverは「再」発見で。
ちょっと短いですが、とりあえずここまで。
可能であれば夕方あたりに続き(『物質と記憶』からの引用部分)を進めたいと思います。
>>114 内容については取りたてて問題は無さそうなので、日本語の言い回しについて
幾つか――
・全体の文脈のことだけど、原文をなぞって「問題は…ということに由来している」
という形にするよりも、例えば「問題の原因は…ということにある」といった形
にでも移し変える方が、日本語として読みやすいように思う。
・「すべての偽の問題」のところは、やっぱり「われわれの(nos)」という
言い方を入れた方がいいように思うんだけど、そのまま入れると収まりが悪い
ということであれば、少し言葉を補って、例えば
「われわれが落ち込む偽の問題はみな…」といったような言い方を使う
という手もあるのでは。
・あと、
>我々が経験を経験の条件や実在の分節のほうに超えていくことが
>できないということ
という箇所は少しゴタゴタしてるので、ここも例えば
「われわれが経験を超え出て、経験の条件や実在の分節へと向うことができない
ということ」といったように訳出してみたらどんなもんだろうか。
>>114(続き)
・それから、「実在の分節(les articulations du reel)」というのは、
これでもいいと思うけど(“le reel”というのはラカン派であれば条件反射的に
「現実界」と訳すんだろうが)、このままだと「実在的な分節(つまり、それ自体が
実在するような分節)」という読み方もされ得ると思う。もっとも今の箇所では
どっちの読みをしても大した違いは無いと思うけど、もしかするとこの辺の訳し方が
微妙な論点に関わってくることもあり得ると思うので、念のため書いてみた。
【66】の修正訳
しかし我々のすべての偽の問題の原因は、我々が経験を超え出て、
経験の条件や実在の分節のほうに向かっていくことができないということ、
また我々に与えられており我々がそのなかで生きている混成物のうちに、
本性において異なるものを再発見することができないということにある。
メー氏のレスを受けての修正訳。
翻訳能力以前に日本語能力という問題があることに
いまさらながらヘコむのでありました。
>「実在の分節(les articulations du reel)」というのは、
>これでもいいと思うけど、このままだと「実在的な分節(つまり、それ自体が
>実在するような分節)」という読み方もされ得ると思う。
さしあたり僕は「それ自体が実在するような分節」を考えています。
【67】第1章第19段落つづき(原書17、邦訳19)
「知覚と記憶内容とはつねに浸透しており、内方浸透現象によってそれらの何らかの
実質をつねに交換し合っている。心理学者の役割とは両者を切り離し、おのおのに
その本性における純粋性を返してやることである。そのようにして、心理学や、
あるいはおそらく形而上学までもが提起する数々の難問が解決されるのであろう。
しかしそうしたことは全然行なわれない。配合は異なってもまったく純粋知覚と
純粋記憶内容とから構成されているこの混成状態を、人々は単純な状態であると
考えようとするのである。そこから、人々は純粋知覚と同じく純粋記憶内容も
知らないことになり、二つの側面[純粋知覚と純粋記憶]のいずれが彼にとって
重要であるかによって、あるときは記憶内容と呼ばれ、あるときは知覚と呼ばれるで
あろう現象のただひとつの種類しか認識しないことを余儀なくされ、したがってまた、
知覚と記憶内容のあいだに程度の差異のみを見て、もはや本性の差異を見出さない
ことになるのである」(注1)。
注1:(参照)『物質と記憶』(白水社、田島節夫訳)77-78頁
<<Perception et souvenir se penetrent toujours, echangenet toujours quelque
chose de leurs substances par un phenomene d'endosmose. Le role du
psychologue serait de les dissocier, de rendre a chacun sa purete naturelle;
ainsi s'eclairciraient bon nombre de difficultes que souleve la psychologie,
et peut-etre aussi la metaphysique. Mais point du tout. On veut que ces mixtes,
tous composes, a doses inegales, de perception pure et de souvenir pur, soient
des etats simples. Par la on se condamne a ignorer aussi bien le souvenir pur
que la perception pure, a ne plus connaitre qu'un seul genre de phenomene, qu'on
appellera tantot souvenir et tantot perception selon que predominera en lui l'un ou
l'autre de ces deux aspets, par consequent a ne trouver entre la perception et le
souvenir qu'une different de degre, et non plus de nature>>(1).
(1)MM,214,69
【コメント】
参照にあげた田島訳に依拠しています。
うーむ、上手いこと訳してある。すごい。
一文目、penetre と un phenomene d'endosmoseをそれぞれ「浸透する」と「内方浸透現象」と訳した。
後者のほうは、「浸透」とはぜんぜん別の語で置き換えたほうがいいかもしれない。
substancesは、「実体」だと強すぎるので田島訳の「実質」を頂いた。
二文目、三文目(;以降)は特になし。
四文目、Mais point du tout.は田島訳を語順を変えて拝借した。
六文目(Par la〜)はちょっと長いので、途中で区切るべきかもしれません。
とりあえず一文で訳してあります。
さて、これまでも度々間をあけてしまってご迷惑をおかけしてきましたが、
今日から3月3日(下手したら8日あたり)までPCを触れない状況になります。
必ず戻ってきますのでこれからもどうかよろしくお願いします。
我ながら自分勝手だとは思いますがご容赦を…
ここも参照しながらフランス語勉強しようと思います。頑張ってください、応援してます。
復帰はしたものの時間が取れません。
明日には…
>>120 ありがとうございます。
しかし、くれぐれも僕の訳を参考になさりませんようにw
>>121 新スレ開店おめでとうございます。
一日目からして盛り上がってますね。
僕はこのスレだけでも精一杯なのでROMらせてもらいますです。
>>118 ・訳文は、最後のあたりの少しゴタゴタした部分をもう少し整理した方がいいのでは、
と感じたけど、でも自分自身でもあんまりすっきりとは訳せそうにないのでちた。
・あと、細かいことを言うと、
>現象のただひとつの種類しか認識しない
という箇所は、「ただひとつの種類の現象」の方がいいのでは?
・それからもう一つ、この部分は大まかに言うと、“Mais point du tout”をはさんで
前半が条件法、後半が直接法で書かれているわけで、「こうだったらいいのに、こうすべき
なのに、実際にはこんなザマだ」というニュアンスをもう少しはっきりさせるように
した方が、趣旨が伝わりやすいように思った。
保守
125 :
考える名無しさん:04/04/07 04:46
保守
走る取的さん多忙なんでしょうか?
もしなんなら、せっかくだから私が後を引き継ごうかなあ、とか思ってるんだけど。
どうでしょうか?
127 :
考える名無しさん:04/04/09 05:35
いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の火ぶたを切った張本人とされている、物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの話題の書『「知」の欺瞞』がようやく日本語で読めるようになった。
現代の一部の哲学に見られる「当世流行の馬鹿話」(原著のタイトル)−すなわち数学・物理学などの科学の誤用と濫用−を徹底的に暴いた本である。
現代哲学のビッグネームたちが次々と俎上に上げられては、なます切りにされている。自然科学者の目から見て明らかなまちがいを、「彼ら」が何一つ理解できていないのは滑稽ですらある。
たいへん刺激的でおもしろい本で、私は笑いながら読んでしまった。
サイエンス・ウォーズという大仰な言葉とは裏腹に、本書は淡々と現代の第一線の思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考を指摘し続ける。勝負は最初からついていたのだ。一読をお薦めする。
>>126 やっちゃえよ。
その方が絶対いい。
彼も喜ぶはず。
それに俺も見てみたい。
でやれるところまででいいから、頑張ってみるといい。
応援するよ。
>>128 そうですか。じゃ、やっちゃおうかなあ、とその気になってきました。
もし異存のある方がいなければ、あるいは他にやろうという意気込みのある人がいなければ、
私の方で時期を見て始めようかと思ってます。
>>127 ソーカル&ブリクモンの本ならもう読みましたよ。
私自身もその本は面白く読みましたし、そこに書かれている内容も基本的にもっともだと
思いますが、
それは何よりも彼らがきわめてまっとうな哲学的センスを持っているためだと思います。
(だいたい、哲学には何より批判がつきものですし。)
だから、彼らの本からの孫引きで今さら鬼の首を取ったようなことを言われても、
私には、全く子供じみているとしか思えません。
というのは、そうしたやり方には何の「哲学」も感じられないからです。
もっとも、このスレでそうした議論をするつもりはありませんが。
と、言ってはみたものの、ドゥルーズ関連のスレが軒並荒らされて潰れてるのを見ると、
何だか自信が無くなってきました…
もうちょっと時間を置いてから始めた方がいいのかも。
>>130 定期的にこの手の荒らしは来るので、気にする必要はないと思います。
黒木さん辺りが、リアル社会で嫌な目にでも遭ったのでしょう。
ドゥルーズ関係のスレはほんと、「パ」から始まる人が暴れまくったせいで
もう壊滅状態。
ここには来るなよ。
とりあえずお札でも貼っとくか。
パ○○○ンってDQNが下手に思想にかぶれるとこうなりますっていういい見本だよなw
>>129 とりあえず今までの走る取的さんのレスを見てどういう風にやっていったらとか、
また感想があったなら述べてみれば?
そしたら彼も刺激がでて復活するかもよ。君もイメージが湧いてきてやる気が
出てくるんじゃない?
もし今まで走る取的さんと付き合ってきたのなら、どういったことを走る取的
さんが考えてレスしてきたのかあなたに説明してくれるとこちらとしては助かる。
あと自分が、わからなかったところを質問してみれば、議論も盛り上がるかも知
れない。なんだか勝手なことばかりいっている気がするな。まあよく考えてみ
るといいよ。
ちなみにドゥルーズの『ベルクソニスム』ってどんな内容なの?
136 :
パンタロン:04/04/11 04:08
こんばんわ〜!!
うるせー!
>>135 Quel est le rapport entre les trois concepts fondamentaux
de Duree, de Memoire et d'Elan vital?
Quel progres marquent-ils dans la philosophie de Bergson?
Il nous semble que la Duree definit essentiellement
une multiplicite virtuelle (ce qui differe en nature).
La Memoire apparait alors comme la coexistence de tous
les degres de difference dans cette multiplicite, dans
cette virtualite.
L'Elan vital enfin designe l'actualisation de ce virtuel
suivant des lignes de differenciation qui correspondent
avec les degres ---- jusqu'a cette ligne precise de l'homme
ou l'Elan vital prend conscience de soi.
持続、記憶、エラン・ヴィタルという三つの基本的概念の間の関係は
どのようなものか?
ベルクソンの哲学において、これらはいかなる進展を印しているのか?
われわれの見るところでは、持続は潜在的な多様体(本性の差異をはらむもの)
を本質的に定義している。
それに対して記憶は、この多様体、この潜在性の内でのあらゆる度合いの
差異の共存として現われる。
最後にエラン・ヴィタルが示しているのは、これらの度合いに対応する
差異化の線に沿ったこの潜在的なものの現勢化であり、
ついにはまさしく人間という線上でエラン・ヴィタルは自らを意識するに
至るのである。
>>139 さんくす。
邦訳はあるみたいだね。
こんど本屋に行ってみるよ。
どこまで進めるか分かりませんが、ともかく試験的に始めてみます。
>>118の箇所からの続きになります。
始めに幾つか「凡例」的な事柄について。
・原文のイタリック部分は、ゲシュペルト(隔字)で表記することにします。
・[…]は私自身の補足です。
・脚注は邦訳の番号付けにしたがって示します。
・ただし、参照箇所を指示するだけの脚注は、本文中に組み込んであります。
他にも断っておくべき事柄があるかもしれませんが、思い付いたら後で記します。
【68】第1章第20段落(原書17-19、邦訳19-20)の前半部分
直観の導きによってわれわれは経験という状態(l'etat)を越え出て、
経験の諸条件へと向かう。だがそうした諸条件は一般的でもなければ
抽象的でもなく、条件付けられたものより大きくはないのであって、実在的(reelle)
経験の諸条件なのである。ベルクソンは、「経験をその源泉で探究すること、
あるいはむしろ、経験がわれわれにとっての有用性の方向へと向き変わって正に
人 間 的 な経験へと変貌するこの決定的な 転 回 点(tournant)のもとで
探究する」ことについて語っている(MM, 321, 205)。この転回点こそはまさしく、
本性の差異がついに見出される地点である。
しかし、この焦点に到達するには幾つもの困難があるため、直観の様々な働きを
繰り返さなければならないのだが、それらは外見上は矛盾しているかにも見える。
例えばベルクソンは、時には、経験にぴったりと適合した運動について語り、
時には拡大について、また時には引き締め(serrage)や縮小[=締め直し]
(resserrement)について語っている。というのは、まず、それぞれの「線」の
規定には一種の収縮が含意されているのだが、この収縮においては、外見上は多様な
諸事象(faits)が、その本性的な親近性にしたがって類別され、その区分(articulation)
に即してまとめ上げられて[=締め付けられて](serres)いるのである。
だがその一方でわれわれはそれぞれの線を転回点の彼方へ、その線がわれわれの経験を
越え出る地点にまで押し広げるのであり、この異常な拡大によってわれわれは、
物質と全く同一の純粋知覚、過去の総体と同一の純粋記憶を考えるように強いられる
ことになる。
【69】第1章第20段落(原書17-19、邦訳19-20)の後半部分
ベルクソンが何度も哲学の歩みを微積分計算の過程になぞらえるのも
この意味においてである。ある区分線を告げる微かな煌めきが経験の内に
認められた場合、この線を経験の外部にまで延長する仕事が残っているが、
これはちょうど数学者が、実際の曲線(la courbe reelle)上に見て取られる
無限小の諸要素から、「それらの背後で不明瞭なものの内に伸び拡がっている
曲線そのものの形」(注23)を再構成するのと全く同様なのである。
いずれにせよベルクソンは、本来の意味で人間的な叡智や均衡を哲学にあてがう
ような哲学者ではない。非人間的なものや超人間的なもの(われわれのものより
劣った持続や優れた持続…)へとわれわれを解き放つこと、人間的条件を越え出る
こと、これこそが哲学の意味[=方向付け]である。しかも、われわれは
自分たちに課せられた条件のために、〈よく分析されていない混合物〉のただ中で
生きねばならず、われわれ自身も〈よく分析されていない混合物〉であらざるを
得ないからこそ、なおさらのことである。(注24)。
以上で、一応この段落の全訳です。
読みやすさを考えて、私なりに区分を入れておきました。
脚注の部分の訳は、後で時間を見つけてupします。
訳出部分へのコメントとして幾つか付け加えておけば、
邦訳本では最後のあたりの「非人間的なものや超人間的なもの」という箇所が間違って
訳されているので、少し意味がとりにくくなっていました。
それから
>>142の「実在的(reelle)経験」という訳語はあんまり適切ではないような
感じもありますが、さしあたって actual と区別するために、こうしてみました。
【70】
(注23)
MM, 321, 206. ベルクソンは無限小解析[分析]をしばしば批判している
ように見える。つまり、無限小解析は、考察される区間を無限[小]へと
還元してはみても、けっきょくは運動を、それが通過する空間でもって
組み立て直すことで満足している、というわけである(例えば DI, 79-80, 89)。
だがもっと深いレベルでベルクソンは、科学における計算法の革命に
類 比 的 な革命を形而上学にも要求している。EC, 773-786, 329-344 を
参照。そして形而上学は、「質的な微分や積分を執り行う」ために、
「われわれの数学の創造的(generatrice)観念」(PM, 1423, 215)から
着想を得なければならないのである。
(注24)
PM, 1416, 206 を参照。また 1425, 218 ――「哲学は、人間的な条件を越え出ようと
する努力でなければならないだろう。」(上で引用した 経 験 の 転 回 点 に
関するテキストは、この主張についての注解である。)
脚注の訳ものっけておきました。
あとそれから言い忘れてましたが、
>>143で使ったようなカッコ〈…〉は、
単に文意を取りやすくするためのものです。
次の段落はちょっと長いので、訳文をupできるのは、早くても数日後になると思います。
>>141 おおっ
君が始めてくれるんだね、すごくうれしいよ。
、、、って男に褒められても君はうれしかないかもな。
まあ君の好きなようにやってくれ。自分は本も読んでないから、勝手は
口出しはできんのでね。(自分も本買ったら、議論に参加できるといいなあと
思うけど)ただ君の好きなようにやって、好きなところでやめたらいい。
応援だけは俺は絶対にし続けるから(w)孤独だなんて思っちゃだめだ。
今からここは君のスレだ。君がどういう風にしようと君の自由だ。頑張れ!
【71】第1章第21段落(原書19-20、邦訳20-22)の前半部分
しかしこの拡大、あるいはこの超出でさえ、概念を目指して経験を超出すること
に存するわけではない。というのも概念は、可能的な経験一般の諸条件を
カント的な仕方で規定するにすぎないからである。だがここで問題となっているのは
逆に、その全き個別性における(dans toutes ses particularites)実在的な経験
である。そして、この経験を拡大する必要が、さらには超出する必要さえある
としても、それはただ単に、こうした個別性を支える諸区分を見出すためでしかない。
したがって、経験の諸条件は概念においてよりもむしろ純粋な知覚内容
(des percepts purs)において、いっそうよく規定されるのである
(PM, 1370, 148-149)。
また、もしそうした諸々の知覚内容が一つの概念の下に集まるとすれば、
その概念とは、当の事物そのものに合わせて截断され、その事物だけに適合する概念
なのであり、この意味においてそれは、説明されるべき当のものよりも大きくはない
わけである。というのもわれわれは、諸々の「線」のそれぞれを、経験の転回点の
彼方にまで辿った上で、そこからさらに、それらの線どうしが収斂してその向きを
交える点、本性的な差異をはらむ諸傾向が再び合流して、われわれに認識される通りの
事物を生み出すに至る点を、再び見出さなければならないのだからである。
これは何とも容易いことであり、われわれには経験そのものによってこの点が
すでに与えられているではないか、と言われるかもしれない。だが事はそれほど
単純ではない。発散する諸々の線を 転 回 点 の 彼 方 にまで辿ったのに
引き続いて、これらの線が――われわれがそこから出発した点においてではなく――
ある潜在的な点において収斂するのでなければならないのである。
それはつまり、経験の転回点の彼方に位置する〈出発点の潜在的なイマージュ〉に
おいて、ということであり、この潜在的なイマージュこそはついに、
事物の十分理由(raison suffisante)、混合物の十分理由、出発点の十分理由を
われわれに与えてくれるのである。
【72】第1章第21段落(原書19-20、邦訳20-22)の後半部分
したがって、「決定的な転回点のもとで」という表現[→
>>142【68】]は二つの
意味を持っている。この表現がまず第一に表しているのは、諸々の線が、経験の内で
与えられている混濁したある共通点(un point commun confus)から出発して、
真の本性的差異に応じてますます発散してゆく瞬間である。だがこの表現はさらに、
これらの線が新たに収束して、今度はこの共通点の潜在的なイマージュないし
判明な理由(la raison distincte)をわれわれに与えるという、もう一つの瞬間を
表してもいる。転回(tournant)と反転(retournement)。それゆえ二元論は、
ある一元論の再形成(re-formation d'un monisme)へと至るべき一契機[瞬間]に
すぎない。それゆえに、ちょうど分化の後には統合[=積分]が続くように、
拡大の後には最終的な縮小[=締め直し](resserrement)が続くのである。
「かつてわれわれは、こうした〈事実の線〉について語ったことがあるが、
これらの線のそれぞれはあまり遠くまで伸びていないため、真理[へ]の向きしか
与えてはくれない。だが、そうした二つの線を、両者の交叉する点まで延長すれば、
真理そのものに辿り着くことになるだろう。…われわれの考えでは、この交叉という
方法こそは形而上学を決定的に前進させることのできる唯一の方法なのである。」
(MR, 1186, 263)[参照:世界の名著『ベルクソン』p.470]
それゆえ、互いに逆の方向[意味]にある〈経験の二つの転回点〉が相次いで存在する
のであり、それらは、ベルクソンが哲学における 厳 密 さ(precision)と
呼ぶものを形作っている。
思ったよく早くできたので、次の一段落分の訳文を貼っておきました。
どこまでこのペースで行けるかは分かりませんが…
それから【71】と【72】に関するコメントを幾つか。
1)【71】の最初の所の「超出」は、depasser, depassement の訳です。
前に【68】のあたりでは「越え出る」と訳してしてあったのと同じ語です。
できたら前の部分は「超え出る」という風にでも読み替えていただければ、
つながりがはっきりすると思います。
あらかじめ訳語をある程度決めてから始めた方がよかったのですが、今後も訳語の
選択に多少のぶれが出てくるかもしれません。
2)内容的な事柄として言えば、【72】でいきなり「二元論」について言及されている
のが少し唐突な感じですが、これに関しては
>>106のあたりを見ていただければ、
ドゥルーズの言わんとする所も分かりやすいように思います。
3)それから、同じく【72】でいきなり「潜在的なイマージュ」について
(ほとんど説明もないままに)述べられているのも分かりにくい所ですが、
この点に関しては結局、詳しくは第3章を見るしかないと思うので、
ここでは立ち入らないことにします。
ドゥルーズは「当の事物そのものに合わせて截断され、その事物だけに適合する概念」
について語っていますが、ここでドゥルーズがベルクソンの内に読み取っている
「方法」それ自体も、その方法によってもたらされるべき「哲学的内容」と
密接している(だから方法というものを、哲学的内容から抽象された形式的で
一般的な形で提示することは難しい)、という事情があると思います。
>>147 ありがとうございます。何とかできる範囲で続けていきたいと思いますが、
果たしてどこまで行けるものか…
152 :
考える名無しさん:04/04/14 00:08
奈落の底までさがってたYO!
良スレage
上げると変なのがきちゃうでしょ
あっしが悪うございやした
許しておくんなさい
155 :
考える名無しさん:04/04/14 06:35
>ベルクソンは無限小解析[分析]をしばしば批判している ように見える。
嘲笑。
誰もいちいち大数学者の定理や予想などきちんと理解する能力もヒマもないのだが、フランスのポストモダン思想家達のもっともらしい、術語に満ちた「哲学」に欺かれても止むを得まい。
しかしソーカルはそれを許さない。いやしくも思想界の旗手たるthinkerたるもの、「メタファー」などという言葉を超拡大解釈して、
それを隠れ蓑にして堂々と嘘をつくなど(実は本人も嘘をついているつもりはなかったりして)、言語道断の仕業なのだ。
「知の欺瞞」はなんの意味も根拠もないことを「ファッショナブル」(聞こえよく)喧伝し、それが如何にも自らのオリジナルな作品であるかのように取り繕うイカサマ思想家たちを糾弾した、優れた書である。
ムカムカするなあ 何だろう? このムカムカは・・
そうだ 原典読まないシッタカの文章に感じるムカムカだ
ベルクソンをポモ扱いしてるからでしょう。
暇がある内になるべく進めておくことにします。
【73】第1章第22段落(原書20-21、邦訳22)
ここから、第二の規則への 補 足 的 規 則 が導かれる。すなわち、
実在的なもの(le reel)は、本性的な区分もしくは本性の差異にしたがって
切り分けられる(se decoupe)ばかりではなく、さらには、ある同一のイデア的
ないし潜在的な点へと収束する複数の道のり(voies)を経て交叉する
[=断ち直される](se recoupe)ことにもなるのである。
【73】に関するコメント
1)原文ではこの段落全体がイタリックになっていますが、ゲシュペルトにすると
間延びした感じになるので、普通と同じ形で表記しています。
2)この段落に関しては邦訳本は全く悲惨な状態です。decouper と recouper との
対比が見落とされているので、根本的に意味不明になっています。
3)recouper に関しては、【72】で「交叉(recoupement)という方法」について
述べられた箇所も御覧ください。
4)その他内容的には、例えば ideal というのをどう読むか、といった厄介な問題も
ありますが、とりあえずここでは先送りします。
(御意見を寄せていただければ感謝します。)
邦訳本では「観念的」と訳されていますが、この訳語は色々と不適切な含みを
持ちそうな感じがするので、「イデア的」としておきました。
【74】第1章第23段落(原書21、邦訳22-23)
この規則が持つ特有の働きは、良い仕方で提起された問題が、
どのようにして自ずからに解決されてゆくものであるかを示すことにある。
例えば、『物質と記憶』の第1章においては常にそうなのだが、われわれが
記憶内容と知覚との混合物(mixte souvenir-perception)から出発して、
発散し分かれてゆく二つの方向――つまり霊魂と身体、精神と物質との間の真の
本性的差異に対応する二つの方向――へとこの混合物を分割する場合には、
われわれは記憶の問題を良い仕方で提起している。
だが、われわれがこの問題の解決を得るのは、もっぱら縮小によってである。
それはつまり、発散する二つの方向が再び収束する原点(le point original)、
記憶内容が知覚の中に入り込むことになる正にその[厳密な]点、
出発点の反映にして理由として(comme la reflexion et la raison)ある
潜在的な点、が把握される場合に[問題は解決される]、ということである。
このようにして、霊魂と身体、物質と精神との問題は、極度の収縮によってのみ
解決されるのであり、その際にベルクソンは、客観性の線と主観性の線、外的観察の
線と内的経験の線が、それぞれの相異なる過程の果てにどのようにして収束する
ことになるのかを、失語症のケースにまで辿って示している(PM, 1315, 80)。
【74】へのコメント
1)memoire と souvenir は、それぞれ「記憶」と「記憶内容」としてあります。
2)「正にその[厳密な]点」という箇所は、le point precis の訳ですが、
>>149【72】で「哲学における厳密さ(precision)」について述べられていたこと
との繋がりを考えて、言葉を補っておきました。
3)「出発点の反映にして理由として(comme la reflexion et la raison)ある
潜在的な点」という箇所もちょっと意味がとりにくいかもしれませんが、
「理由」としての「潜在的なもの」に関しては、
>>148【71】の末尾も
参照してください。
【75】第1章第24段落(原書21-22、邦訳23-24)
同じようにベルクソンは、霊魂不滅の問題も二つの大きく異なる線の収束によって
解決に向かうことを示しているが(MR, 1199-1200, 280-281)、それはつまり、
記憶の経験の線と、これとは全く別の経験――神秘的経験――の線という、二つである。
さらに複雑なものとしては、三 つ の 〈事実の線〉の収束点で解決に導かれる
ような問題もある。例えば、『精神のエネルギー』第1章における意識の本性
[という問題]がそうである。
こうした〈交叉の方法〉が真正の確率論(un veritable probabilisme)を形作って
おり、それぞれの線はある確率を規定している、ということに気づかれよう
(ES, 817-818, 4; 835, 27)。ただし、ここで問題となっているのは質的
(qualitatif)な確率論であり、諸々の〈事実の線〉は質的に区別されている。
これらの線が発散し、これらの線が本性的差異に即して〈実在的なものの解体
(desarticulation)〉をもたらす、という局面において、これらの線はすでに
〈上位の経験論(un empirisme superieur)〉を形作っていたが、これは、
諸問題を提起し、経験を超出してその具体的諸条件へと向かうのに適ったもの
であった。そして今や、これらの線が収束して〈実在的なものの交叉〉をもたらす、
という局面において、これらの線は〈上位の確率論〉を規定しているのであり、
これは、諸問題を解決し、条件を〈条件付けられたもの〉へと――その二つの間に
いかなる隔たりも残らないほど[近くまで]――再び持ち来たらす(rapporter)
のに適っているのである。
いちおうこれで、「第二の方法」に関する部分はおしまいです。
疲れた...._| ̄|○
「第二の方法」ではなくて「第二の規則」でした…
また間違えた...._| ̄|○
165 :
考える名無しさん:04/04/14 14:31
(・∀・)イイ!
良スレ。
期待
167 :
くろしろ@社会学白痴断見教教祖:04/04/14 16:15
『ベルクソンの哲学』てのは、U波大先生の輝かしい業績の中だと
まだマシな方だと思ってたけど、
見比べてみるとやっぱひどいね。
【74】のとこなんかでresserementを「縮小」て風に訳すのは
ちょっとピンとこない感じがする。
「縮小」つうと、「ただ単に規模とかサイズをちっちゃくする」みたいな感じ
にも取れちゃうけど
ここでいってんのは、いったん拡散つうか発散してったものをもういっぺんギュッと
一まとめにするような意味合いだから
もうちょいピッタリくるような訳語て無いのかな?
収束とか
収束はconvergenceに充てられてるんじゃないか?
「収縮」か「緊縮」というところ。
あ、どうも訳者です。(こういう名乗り方でいいのだろうか…)
訳語について少し述べておくと、「収束」と「発散」はそれぞれ convergence と
divergence の訳語にあててあります。
>>169で指摘されているように、たしかに resserrement を「縮小」とするのは
あんまりピッタリこない感がありますね。
もう少し「ギュッと締め付ける」感じが出るような訳語を選んだ方がよかったと
思います。
(宇波訳では「縮小」となっていたので、それに引き摺られてしまった…。)
ちなみに「収縮」という語は contraction の訳語として使っています。
ということで、残る選択肢としては、
>>172で提案されている「緊縮」も良さそうな
感じがしますが、これまでの行き掛かり上、「縮小」を使い続けることになるかも
しれません。
もうちょっと考えてみますが、いずれにせよ、御指摘&御提案には感謝します。
174 :
考える名無しさん:04/04/15 01:39
ベルクソニスムキタ━━━━━━(・∀・)━━━━━━ !!!!
【76】第1章第25段落(原書22、邦訳24)
第三の規則:空間よりむしろ時間を顧慮した形で問題を提起し、解決すること(注30)。
Poser les problemes, et le resoudre, en fonction du temps
plutot que de l'espace.
(注30)MM, 218, 74 を参照。「主体や対象、またそれらの区別や合一に関わる
諸問題は、空間よりむしろ時間を顧慮した形で提起すべきである。」
【76】へのコメント
ここから新しい節に入って、最後の第三の規則の話になります。
訳出した部分は原文では全体がイタリックになっています。
残念ながら本日はこれだけでおしまいです。
正直スマン..._| ̄|○
期待してたのに ( *゚з゚*)
気合いが足らんようだな (´、丶)y━┛~~
( ^Д^){気にすんな
180 :
考える名無しさん:04/04/15 20:07
ちょびっとキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
つかガンガレ
すみませんすみません
次の段落の分です
【77】第1章第26段落(原書22-23、邦訳24-25)の前半部分
この規則は直観の「根本的な意味」を与える。直観は持続を前提(suppose)
しているのであり、直観とはつまり、持続に基づいて考えること
(penser en termes de duree)に存するのである(PM, 1275, 30)。
この点を理解するには、本性的差異を規定する〈分割(division)の運動〉に
立ち戻ってみなければならない。一見したところでは、本性的差異は二つの
事物の間に、あるいはむしろ二つの傾向の間に打ち立てられるように思われるだろう。
これは正しいのだが、ただしその正しさは表面的なものでしかない。
持続と空間という、ベルクソンにおける主要な分割について考えてみよう。
この分割を含意するようなそれ以外の分割、それ以外の二元論はみな、
この持続と空間との分割に由来する[派生的なものである]か、もしくは
この分割に帰着する。ところで、ただ単に持続と空間との間に一つの本性的差異を
主張するにとどめることはできない。
[真の]区分は、あらゆる本性的差異を自らに担い引き受ける「傾向」を持つ
持続(というのも持続には、自らと質的に相違するようになる力が与えられている
からである)と、単に程度の差異しか示さない空間(というのも空間とは量的な
同質性なのだから)という、この二つの間でなされる。それゆえ、このように区分
された双方の間に本性的差異が存在するのではなく、本性的差異はもっぱら一方の側
だけに存在するのである。
【78】第1章第26段落(原書22-23、邦訳24-25)の後半部分
われわれが事物をその本性的な諸区分に即して分割する場合、ケースに応じて
その割合や様子には大きな多様性があるとはいえ[いずれにせよ]一方には
空間の側が、また他方には持続の側が得られる。当の事物は、[一方での]
空間の側からすれば、他の事物との間でも、ま た そ れ 自 体 と の 間
でも、程度の差異しか持つができない([量的]増大、[量的]減少)が、
[他方での]持続の側からすれば、他のあらゆる事物の間でも、ま た そ れ
自 体 と の 間でも本性的差異を持つのである(変質)。
【77】と【78】へのコメント
1)二種類の差異について。difference de degre は走る取的氏にならって
「程度の差異」にしてありますが、difference de nature の方は「本性的差異」
という言い方を使ってみました(その方が修飾語をくっつけやすいので)。
いちおうお断りしておきます。
2)【77】の「自らと質的に相違するようになる力」というのは、原語では
pouvoir de varier qualitativement avec soi。
どうもうまく訳せなくて、自分でもちょっとぎこちないなあと思います。
3)【78】の終りの方に出てくる「[量的]減少」の原語は diminuation です。
前に
>>169とかで指摘された「縮小 resserrement」と混同されないように、
「量的」という言葉をカッコ内に補足してみました。
4)あと訳語のことでいうと、最後の「変質」は alteration の訳ですが、
自分でもあんまり気にくわない感じがします。alter=「他」というところ
からすれば「他化」とでもしたいところですが、あんまり変な言葉を使うのも
どうかと思い、「変質」にしました。
それにしても人が少ないみたいですね?
まあ地道に続けていきたいと思います。
ごきげんよう(というか、もう寝る)
すみませんすみませんすみません
見直していて気づいたのですが
>>181の訳文の中の「[真の]区分は〜」という箇所は
「[真の]分割は〜」の間違いでした。
すみませんすみません
見直してたら他にも色々とミスに気づいたのですが
後で訂正しておきます。
というか、もう寝ます。
俺は原著も読んでないし、訳語をまだ買ってないんでなんとも言えないん
だけど、君の訳語はすごく良いなあと思って読ませてもらっている。
ドゥルースの文章が平明でわかりやすいのか、それとも君の文章がそうな
のかわからないけどさ。ここにある君の文章は洗練されていていて俺は好
きだけどね。君は翻訳者のプロ、もしくはその卵なのかな?
またリアルタイムで外の世界の景色が、翻訳されて我々に伝わる作業をじか
に目にすることは、ある意味で衝撃的な体験なのだな、と思ってしまった。
なんだかとりとめもないことばかり言ってすまないね。
とりあえずまあ、地道にがんがれ。
さっそく【77】の訂正
@「…この持続と空間との分割に由来する[派生的なものである]か、もしくは
この分割に帰着する」という所で、ou(英語のor)を「…か、もしくは…」という
風に訳したのはあんまり良くなかった感じがしてきました。
ここで言われているのは、「AかBか、この二つのどっちかだ」というようなことでは
なくて、「A、あるいは別の言い方をすればB」というようなことみたいなので、
とりあえずは「そういった気持ち」で読んでいただけるようお願いします。
A最後の方に出てくる「このように区分された双方の間に…」という所は、
「区分」→「分割」と直して下さい。
日本語の「分割」も「区分」も大した違いはありませんが、いちおう今の文脈では
division にはずっと「分割」という訳をあててきたので。
【78】の訂正
細かい点ですが、下から二行目の所の「他のあらゆる事物の間でも」は
「他のあらゆる事物との間でも」です。(「と」が抜けていた)
【79】第1章第27段落(原書23-24、邦訳25-26)
角砂糖が一つあるとしてみよう。それはある空間的形状を備えているが、
この外観(aspect)の下で把握されるのはあくまでも、この角砂糖と他のあらゆる
事物との間の程度の差異でしかない。
だがこの角砂糖にはまた、ある持続、ある持続リズム、ある時間的あり方も
備わっており、これは、その角砂糖が溶解する過程の内に――少なくとも部分的に――
現われ出て、どのようにしてこの角砂糖が――他の諸事物とばかりではなく――
何よりも先ずそれ自体と本性的に相違する(differe en nature)のかを示す
ことになる。このように一個の事物の本質もしくは実質(substance)と一つに
なった変容(alteration)、――これこそは、事物を持続の観点から
(en termes de Duree)考える際にわれわれが把握するものに他ならない。
こうして見れば、「私は砂糖が溶けるのを待たねばならない」という周知の
ベルクソンの言葉も、その文脈から読み取れる以上に大きな意味を持つことに
なる(注32)。この言葉が意味しているのは、つまり、例えば[砂糖が溶けるのを]
待つ苛立たしさにおいて正に体験されるような私自身の持続が、他の持続
――私のものとは本性的に異なり、別のリズムを打っている持続――を現わにする
働きをしている、ということなのである。
ともかく、持続は本性的差異の場にして環境[媒質](milieu)であり、
本性的差異の集合にして多様体でさえあり、本性的な差異は持続の内にしか
存在しない。
これに対して空間はあくまでも、程度の差異の場、環境[媒質]、集合でしか
ないのである。
【80】
(注32)EC, 502, 10 ―― その文脈でベルクソンが角砂糖に持続を認めるのは、
あくまでも、その角砂糖が宇宙全体に参与している(participe)限りでしかない。
こうした制約が意味するものについては後に見ることにする。第4章を参照のこと。
【79】についてのコメント(1)
相変わらず訳語がなし崩し的に変わったりしてますです。すみませんです。
@ alteration は、「変質」というのがどうも引っ掛かるので、「変容」に
してみました。
いずれにせよ、この語で言われているのは、
「事物がそれ自体との間でさえ本性的な差異を持つに至る過程」
といったようなことになると思います。
A differance「差異」に対応する動詞 differer の訳は、前の方では
「差異を持つ」とか「差異をはらむ」といった風にしてあったと思いますが、
何だかそれもぎこちないので、「相違する」という言葉を使ってみました。
B「持続の観点から(en termes de Duree)考える」というのも、
前に【77】では「持続に基づいて考える」という風に訳してありました。
【79】についてのコメント(2)
内容的には、少し説明を補っておいた方がよさそうなのが、
訳文を三つに区分した内の第二の所の冒頭の方にある「ある時間的あり方」という
箇所だと思います。
原語では une matiere d'etre au temps ということなので、
これはただ単に「時間の中でのあり方」というよりも、むしろ、
「それぞれの物に固有の、そうあるべき時宜を得た、時機に適ったあり方」
といったような意味になるのではないかと思います。
そうした意味合いはあんまり訳語には反映されていないので、
ちょっと補足しておきます。
>>186 どうも、ご声援ありがとうございます。
残念ながら私は、翻訳家の卵ですらありません。
正直いうと、ちょっとシンドクなってきたところですが、
何とかもう少しがんばってみようかと思います。
それから、ドゥルーズのこの本は、フランス語としてはかなり平易な方
だとは思います。
ちなみに、週末はたぶん無理ぽなので、今週分はこれでおしまいです。
193 :
考える名無しさん:04/04/16 18:01
>>191で matiere と書いたのは maniere のミスでした。
また間違えた..._| ̄|○
194 :
考える名無しさん:04/04/16 18:50
differerは「異なる」でいいじゃん。
195 :
考える名無しさん:04/04/17 12:02
続きキボン
196 :
考える名無しさん:04/04/17 12:04
キキキの神度について語ろう
197 :
考える名無しさん:04/04/17 14:03
<a href=186 target=_blank>
>>186</a>
198 :
Gilles:04/04/17 19:43
いろいろ事情があってこのスレにもコメントできず、走る取的氏には悪いことした。
「訳者」氏、ご苦労様。「第三の規則」まで到達、おめでとう。
今、原書が手元にないので確かなことは言えないが、
>>188【79】について2点だけ。
aspect は、時間ないし持続と対比した空間のことが問題になっているので、「外観」
というより「側面」ないし「観点」とすべきでは?
>>191 ある時間的あり方:原語が une maniere d'etre au temps だとすると、この etre au
temps は、ハイデガーのいう「世界内存在(In-der-Welt-sein)」のフランス語訳である
etre au monde を踏まえている可能性が高い。ドイツ語の前置詞 in ――世界内存在の
「内」と訳される前置詞――がフランス語では(dans などでなく)a になっている。
この関連を踏まえるなら、etre au temps は「時間内存在」ということになるだろう。
とすると、maniere も、ハイデガーのよく使う「様態(Modus)」を意識した語と考えて
いいかもしれない。「時間内存在の一様態」という感じか。
今後もほとんどコメントできないと思うけど、がんばってください。
お!
Gilles氏も読んでくれているようだ。心強い。
実は俺「ベルクソンの哲学」を買ってきた。
なんで、わからなかったところなどを勝手に質問したりしても
いいだろうか?
まあとにかく俺も、早速読み進めることにしよう。
>>194 たしかにそうですね。何で思い付かなかったんだろ…
>>198 詳しいコメントありがとうございます。
二つの点に関して、御指摘の通りと思います。
une maniere d'etre au temps のところに関しては etre au monde
というのも一応頭の片隅にはあったものの、
とりあえずは先ず、なるべく普通のフランス語として読む&訳す方が
いいのかなあ、と考えていました。
でも、ドゥルーズの(おそらく)言わんとする所を簡潔に伝えるには、
やっぱりハイデガー的な etre au monde の概念への仄めかしがすぐに分かる
ような訳し方──「時間内存在」──にしたほうが良さそうですね。
>>199 質問は歓迎ですが、私自身に的確な答えができるかどうかは、
あんまり自信がありません…
内容的に突っ込んだ質問だと、むしろドゥルーズ関係の別スレの方が
いいかと思いますが、でも最近はあんまり機能してないみたいですね。
あとそれから、時間の都合の関係で、修正を加えた訳文を掲げ直す
作業は省かせてください。ゴメンなさい。
その分、なるべく先に進むようにします。
ということで本日の分です。
【81】第1章第28段落(原書24-25、邦訳26-27)の前半部分
おそらくわれわれは、最も一般的な方法論的問題を解決する手段を
手にしている。プラトンも、〈分割の方法〉を作り上げようとした際にやはり、
一つの混合物を両半分に、もしくは幾つかの線に即して分割することを提案
していた。だが問題は挙げて、どのようにして良い半分を選ぶことができるか、
ということにあった。なぜわれわれの求めるものは、一方の側であって他方の側
ではないのだろうか? それゆえこうした[プラトン的な]分割に対しては、
これでは真の方法ではないという非難を寄せることができたのであって、
というのもこれには「媒概念(moyen terme)」が欠けていて、いまだに
インスピレーションに依存していたからである。
ベルクソニスムにおいてこの難点は消滅しているように思われる。
というのもベルクソンは、混合物を二つの傾向――その内の一方だけが、
時間の中で事物が変わって行く仕方を示すのだが――に即して分割すること
によって、実際にそれぞれのケースにおいて「良い側」、つまり本質の側を
選び出す手段を手にしているである。
【82】第1章第28段落(原書24-25、邦訳26-27)の後半部分
要するに、直観は方法となる、あるいはむしろ、方法は直接的なもの
(l'immediat)と和解し合う。直観は持続そのものではない。むしろ直観とは、
われわれが自分自身の持続から脱け出ようとする運動、われわれが自分自身の
持続を用いて自分の上位もしくは下位にある(au-dessus ou au-dessous de nous)
他の[様々な]持続の存在を直接的に肯定し認識しようとする運動である。
「唯一われわれの述べる方法によってのみ、観念論と実在論の双方を超出すること
ができるのだし、われわれよりも劣った対象や優れた対象――とはいえまた
ある意味ではこれらはわれわれに内在するのだが――の存在を肯定することが
できる。…[このようにして]望むだけの多くの数の持続が、互いにきわめて
大きな差異をはらむものとして見出されるのである」(PM, 1416-7, 206-8)。
(ただし「劣った」と「優れた」という言葉を誤解してはならない。これらは
本性的差異を指しているのである。)
もし方法としての直観がなければ、持続は単なる心理的経験にとどまることだろう。
また逆に、もし直観が持続と一致することがなければ、直観は先述の諸規則に
対応するプログラム――真なる諸問題や真正の本性的差異を規定すること――を
実現できないことだろう。
【81】&【82】へのコメント
@冒頭に出てくる「プラトン的な分割の方法」(たしか『ソフィスト』に
出てくる話だったか?)については、ドゥルーズはいろいろな所で論じていますが、
うろ覚えで言うと、『差異と反復』での議論が一番詳しかったように思います。
ということで、詳しくはそちらを見ていただければ、と思います。
A「上位もしくは下位にある」持続、それから「劣った」&「優れた」について。
>>143【69】の箇所で「非人間的なものや超人間的なもの」について述べられて
いた部分も御覧ください。
この辺りの話は、後の第5章で大きく展開されることになりますが、
ドゥルーズのこのベルクソン論が、「ベルクソンをニーチェ化した」という非難を
招くことになる、言わば「問題含み」の部分と言えるようです。
ということで、以上、本日の分でした。
204 :
考える名無しさん:04/04/19 18:08
乙カレー
205 :
考える名無しさん:04/04/19 18:44
参考になります。
206 :
考える名無しさん:04/04/20 20:59
【83】第1章第29段落(原書25-26、邦訳27-28)の前半部分
そこで、偽の問題という錯覚(l'illusion des faux problemes)に
立ち戻ることにしよう。この錯覚はどこから来るのだろうか? またこれは
いかなる意味で不可避なのだろうか?
[この問題との関連で]ベルクソンが問題視するのは、[第一に]欲求(besoins)、
行動、社会の次元(l'ordre)――この次元は事物の中からわれわれの関心を
引き付けるものだけを引き留めておくようにわれわれを導く――であり、
[第二に]知性の次元――これは空間との本性的な親和性を持つ――、
[第三に]一般観念の次元――この次元は本性的差異を再び覆い隠そう
とする――である。
あるいはむしろ、一般観念といっても多様なものがあり、それら相互の間にも
本性的な差異がある。中には、生物における客観的な類似性に根ざしたものも
あれば、無生物における客観的同一性に根ざしたものも、また最後に、
作り上げられた対象(les objets fabriques)における主観的要求(exigence)
に根ざしたものもある。だがわれわれはすぐさま、全ての一般観念の一般観念を
形成して、諸々の本性的差異をこの一般的なエレメント
(cet element de generalite)の内に溶かし込んでしまう(PM, 1298-1303, 56-64;
『思想と動くもの』岩波文庫 pp. 84-90)。
「われわれは、様々な質的差異を支える空間の同質性の内に、それらの差異を
溶かし込む」(EC, 679, 217;『創造的進化』岩波文庫 p.258)。
207 :
考える名無しさん:04/04/20 21:00
【84】第1章第29段落(原書25-26、邦訳27-28)の後半部分
[とはいえ]たしかにこれらの理由はどれもまだ、われわれの[置かれている]条件
とは不可分の心理的なものである。われわれはもっと深い理由を考慮してみなければ
ならない。
というのも、たとえ同質の空間という観念の内には、われわれを実在(la realite)
から隔てるような一種の詭計や記号(une sorte d'artifice ou de symbole)が
含意されているのだとしても、それでもやはり、物質や延長が実在するもの
(des realites)だということ、それら自体が空間の次元を予示している
(prefigurent)ということ、には変りはないのである。錯覚というのはつまり、
空間は単にわれわれの本性の内にその基礎を持つというのではなく、
諸事物の本性の内に基礎を持っているのである。物質とは実のところ、
諸事物が相互の間でも、またわれわれに対しても、程度の差異しか示さないような
「側面(cote)」である。
経験はわれわれに混合物を与えるのだが、ところでこの混合物という状態は、
本性的に異なる諸要素をただ単に一つにするというのではなく、
むしろ次のような仕方でそれらを一つにすることに存している。つまり、
混合物においては[もはや]、[その混合物を要素として]構成している
諸々の本性的差異が 把 握 で き な く なるわけである。要するに、
一つの視点があり、またそれに加えて、本性的差異がもはや現わ出ることができない
ような諸事物の状態が存在する。真なるものの 逆 行 的 運 動
(mouvement retrograde)は、単に真なるもの に 関 す る(sur) 錯覚
というだけではなく、真なるものそれ自体に 属 し て い る。
ベルクソンは「宗教」という混合物を静的宗教と動的宗教という二つの方向に
分割しつつ、次のように付言する。すなわち、ある特定の視点に身を置く
ことによって、「実際には(reellement)根本的な本性的差異があるところに、
一連の推移や程度の差異のようなものが認められることになるだろう」
(MR, 1156, 225;世界の名著『ベルクソン』p.432)、と。
208 :
考える名無しさん:04/04/20 21:00
【83】&【84】へのコメント
この段落は、正直な所、よく分からない箇所がイパーイあります。
きちんとベルクソンのテキストを参照すればいいのですが、
あんまり時間が無かったので、とりあえず「訳してみるテスト」という状態です。
訳語のことについてだけ幾つか加えておくと、
「錯覚 illusion」は、前スレ等では「幻想」という訳になっていた
ように思います。
別に深い意味があるわけではないのですが、何となく個人的な好みで
「錯覚」としてみました。
それから、【84】に出てくる「側面(cote)」というのは、
以前に【77】【78】【81】などで「側」と訳してあったのと
同じ語です。
ということで、今日のベルクソニスムでした。
209 :
考える名無しさん:04/04/21 01:17
おつかれ!
210 :
考える名無しさん:04/04/21 11:29
まいどどうも。
【85】第1章第30段落(原書26-28、邦訳28-29)の前半部分
したがって、錯覚は単にわれわれの本性に由来するばかりではなく、
われわれが住まっている世界にも、われわれに先ず最初に現われる
〈存在[者]の側面(cote de l'etre)〉にも由来している。
ベルクソンはその著作活動の始めから終りまで、ある一定の仕方で進展を
遂げていった。そうした進展の主要な二つの点は次の通りである。
[第一に]ベルクソンにとって持続はしだいに、心理的経験には還元不可能なものと
見られて、[むしろ]事物の可変的(variable)な本質となり、複合的な存在論
(une ontologie complexe)の主題を与えることになる。だが[第二に]他方では、
これと同時に、ベルクソンにとって空間はしだいに、この心理的実在からわれわれを
隔てるフィクションには還元不可能なものと考えられ、空間もまた存在の内に
その基礎を持ち、その[=存在の]二つの斜面の一方、二つの方向の一方を表現する
ものだとされることになる。
ベルクソンによれば、絶体者(l'Absolu)には、形而上学によって洞察される精神と、
科学によって認識される物質という、二つの 側 面 がある(注37)。
ただし厳密に言えば、科学は決して、単にその成功や有効性だけを支えとするような
記号的(symbolique)分野でも相対的認識でもない。科学は存在論(l'ontologie)
に属するのであり、存在論を形作る両半分の内の一半である。
絶対者は差異であるが、差異には、程度の差異と本性的差異という二つの貌がある。
それゆえに、われわれが諸事物の間に単純な程度の差異を把握するとき、
われわれが科学そのものに導かれて世界をこの見地から見て取るときでさえ、
やはりわれわれは一つの絶対者の内にある(「現代の物理学は、われわれが
[見出す]質的な区別の背後に、数の差異(differences de nombre)をますます
明らかにしている…」)(PM, 1300, 61;『思想と動くもの』岩波文庫 p.87)。
211 :
考える名無しさん:04/04/21 11:30
【86】第1章第30段落(原書26-28、邦訳28-29)の後半部分
とはいえこれも一つの錯覚である。ただし、これが錯覚であるのはあくまでも、
われわれが一方の実在的な光景(le paysage reel du premier)をもう一方(autre)
の斜面に投影する限りでのことである。もしこの錯覚が抑圧できるとすれば、
それはこのもう一方の斜面、すなわち持続という斜面の働きによってである。
持続はわれわれに、空間の内に――また物質や延長の内には既に――現われている
ような〈割合(proportion)の差異〉と 最 終 審 級 に お い て
対 応 す る ような本性的差異を与えてくれるのである。
(注37)PM, 1278 sq., 34 sq.;『思想と動くもの』岩波文庫 p.55 以下を参照。
(また 1335, 104;岩波文庫 p.144 ――知性が「その際に絶体者の[二つの側面の
内の]一面に触れるのは、ちょうど、われわれの意識がそのもう一つの面に触れる
のと同様である…」。)
212 :
考える名無しさん:04/04/21 11:31
【85】&【86】について
コメントと言うよりも単なる私自身の疑問なのですが、それは【86】の最初から
二番目の文に関してです。いちおう原文を掲げてみるとこんな具合です。
Mais c'est seulement une illusion dans la mesure ou nous projetons sur
l'autre versant le paysage reel du premier.
ここでいきなり出てくる peysage というのも(意味として)どうもよく分からず、
premier の使い方も(文法的に)よく分かりません(ってダメじゃん)。
ちなみにこの【86】では、「投影 projeter」や「抑圧 refouler」、
「審級 instance」といった精神分析用語が多用されているので、
もしかすると paysage du premier というのは「原光景」といったような
意味で使われているのかとも思いましたが、
ラプランシュ&ポンタリスの辞典を見ると、「原光景」というのは
フランス語では scene originaire もしくは scene primitive という
言い方をするようです。
誰か御存知の方がいたらお教え下さい。
この掲示板に私や他の教員、学生に対する誹謗中傷を書き込んでいる者に警
告します。
483の書き込みはその前後および過去の掲示板から私のことを指していること
は十分断定できると思われます。また、622では実名での記載であり、明らか
な名誉毀損です。もし、一週間以内に名乗り出て謝らなければ法的な手段に訴
えます。2ちゃんねるは裁判に負けてからIPをとっていますから、おそらく裁
判所で会えると思います。
君のような人が生命科学部に関係していることは恥ずかしいかぎりです。私も
このような書き込みはしたくありませんが、今後、被害を広げないために必要
であると判断しました。
東京薬科大学
生命科学部
教授 多賀谷光男
[email protected]
sage進行でヨロ>>all
変なコピペキタ━━(・∀・)━━ !!!!
つか下らないからヤメレ
この前の【86】までで、第三の規則に関する節は終りです。
そして節が変わって、次の一段落でいよいよこの第1章全体のしめくくりに
なります。
【87】第1章第31段落(原書28、邦訳29-30)
それゆえ直観は、これら三つ(もしくは[補足的規則を加えた]五つ)の規則
を備えた一つの方法をみごとに形作っている。
これは本質的に、問 題 化 (problematisante)し(偽の問題の批判と真の問題
の案出)、差 異 化 し(切り分けと交叉)、時 間 化 する(持続の観点から
考える)方法である。
しかし、どのように直観は持続を前提しているのか、また逆に、どのように直観は
持続に――存在と認識の視点から――新たな拡がり(extension)を与えるのか、
これを明らかにするという課題がまだ残っている。
【87】へのコメント
・「切り分けと交叉」
原語では decoupages et recoupements です。【73】も参照ください。
・「直観は持続を前提している…」→【77】
これで何とか第1章の終りまで辿り着けました。
このまま次の章まで続けていければいいのですが、
私の方は、残念ながら時間的にちょとキビシイ感じなので、
続行できるかどうか分かりません。
誰か次に引き継いで下さる方がいれば、
私としてはここらあたりでそろそろ身を引いて
バックレることにしようかなあとも考えてます。
220 :
考える名無しさん:04/04/21 22:57
訳してる人バックレで
============== 終 了 ===============
ってマズイっしょ
221 :
考える名無しさん:04/04/22 05:04
( ^Д^){気にすんな
222 :
考える名無しさん:04/04/22 05:54
あヴぉわ〜るって何? えーとるって宇宙に満ちてるあれ?
私が自信を持って後を引き継ぎます。
存在と所有
存在と(´・ω・`)ショボーン
225 :
考える名無しさん:04/04/23 21:42
だれか続けれー
226 :
考える名無しさん:04/04/23 21:45
================ 終 了 ================
227 :
考える名無しさん:04/04/23 21:48
終わるなっつの
存在と終了
229 :
考える名無しさん:04/04/24 00:11
持続しまつ
230 :
考える名無しさん:04/04/24 00:52
おフランス語できる香具師はもうこの板には残ってないと思われ
とりあえず訳者さんは1章終わったんだ。
まずはお疲れと言っておこう。
ありがとさん。
仏語検定5級のピエっぺに期待
233 :
考える名無しさん:04/04/24 01:28
5級w
哲学板を代表する名スレも終了か
235 :
考える名無しさん:04/04/24 01:45
もうだめぽ
やっぱりかなりの人が見ていたんだね。
つーかもう遅いよ。みんなで盛り上げないと。
終わったあとにわいわい騒ぐなんてみっともない。
238 :
考える名無しさん:04/04/24 13:08
フランシ語できる神降臨しる
239 :
考える名無しさん:04/04/24 21:48
もう氏ぬし
240 :
考える名無しさん:04/04/29 11:03
保守 age
241 :
考える名無しさん:04/04/30 15:20
ふ〜ん ドゥルちゃんだけじゃなくてベルク損もデムパなんだね
ニーチェとかディルタイとか、生の哲学のやつってみんなデムパなの?
実際ベルクソンが電波だとしても、ドゥルーズのベルクソンで電波だと決め付けられるベルクソン悲しいものだな。
ディルタイ、ジンメルは電波だとは思わん。
243 :
考える名無しさん:04/05/14 21:11
追悼文だっけ。
ドゥルーズなんてベルグソンよりはるかにメチャクチャだろう。