ドゥルーズ追悼のインタビューでネタに走るデリダ萌え
953 :
考える名無しさん:04/02/23 17:40
浅田は結構本気にしてた。
このタイミングでマルクスを持ち出すのはやっぱドゥルーズは流石だ、みたいな。
デリダも本気にしてたよな。
ドゥルーズと予定されていた対談でまずマルクスについて尋ねたいと。
みんなドゥルーズに一杯喰わされてたわけだ。
別に騙そうとはしていなかった
ガタリと自然哲学について本を書くプランはあったのだから
というか本当か嘘かはどうでもいいでしょ
956 :
考える名無しさん:04/02/23 18:35
要するにドゥルーズの自分で仕掛けたドゥルーズ伝説の完成というのが
最後はマルクス論書くぞと宣言しておいて結局書きませんでした
というネタなの
この自己神話化作用の
フランス人的な洒落で
パフォーマティブなネタの次元が読めなきゃ駄目だと思う
デリダは最初からネタで付き合ってるよ
浅田みたいなのは最初から全部シミュラークルの人だからね
存在自体がはじめから亡霊みたいなもんだ
957 :
考える名無しさん:04/02/23 18:42
959 :
考える名無しさん:04/02/23 19:05
『マルクスの偉大さ』ね。走り書きのメモでもいいから読んでみたい。
草稿が本当にあるかどうかは別として、その題名で本を書く計画があったのは
確かでしょうね。
というのも、それまでドゥルーズは次に書く本のタイトルを何度か予告して、
実際その通り出してきているという経緯があるでしょ。
『マルクスの偉大さ』は「それが最後の本」とまで言ってるんだから書く気が
あったと考えるのは自然。
このインタビューの前の年に病気で具合の悪いドゥルーズは宇野邦一の「今ど
んな仕事をしているのか」という質問に対して「マルクスの再評価を試みてい
る」と答えているし。
ドゥルーズのマルクスはネタというのは悪意あるアジだとしても、それが
ドゥルーズ嫌いの人の発言ならいいけど、ドゥルージアンを自認してるよう
な人の発言なら…
960 :
考える名無しさん:04/02/23 19:11
>>959のような
ひ弱でか弱い意見には、浅田彰スレ@不法流出から先ほど出てきた
次のようなコメントを引用しておこう
>ドゥルーズを読むジジェク 2003.12.02a.
>マルクスが生半可な唯物論より観念論から学ぶことの方が多いと言ったように、我々も
、ドゥルーズを安易にネグリなどと結びつけようとするドゥルージアンたちの「善意」より
バディウやジジェクの「悪意」から、いっそう多くを学ぶことが出来るのではないか。
>
961 :
考える名無しさん:04/02/23 19:14
>ドゥルーズを読むジジェク 2003.12.02a.
>
ドゥルーズ本人は良くも悪しくも偉大な哲学者であった
(その哲学は「多」や「生成」にとどまらず「多の一」や「生成の存在」=「回帰」に
まで到達せずには置かないだろう)と思うし、ドゥルーズ本人を何とか開かれた多様性
の方に引き出そうとする凡百のドゥルージアンのドゥルーズ論よりバディウやジジェクの
ドゥルーズ論の方がドゥルーズ哲学の一面に肉薄していることを認めるに吝かではない。
>
>>960 やはりカントやヘーゲルとの格闘は不可避ですよね。
前のレスでカント、ヘーゲルとの対決に重要な原動力をみようとする
意見が出ていたけど、やはりそうかなと思うよ。
964 :
考える名無しさん:04/02/23 19:27
つーか
マルクスの根底的批判を回避されたところで
社会哲学的な実践性に回帰してくるのは不可能じゃないのでしょうか?
ドゥルーズのネタがネグリ派的に解消されてしまう過程というのは
日本の現状を見るだけでも多いにいい加減だし問題ありとみた。
ヨーロッパの受容についても言わずもがなでしょう
>>964 >マルクスの根底的批判を回避されたところで
マルクスによる根底的批判?
それともマルクスに対する根底的批判?
カント、ヘーゲルを避けるからドゥルーズ受容がイメージ先行に
なるんでしょうね。
それでもこうして2ちゃんねるでもカント、ヘーゲルの重要性が言われて
いるわけだから、まんざら捨てたものではないと思う。
968 :
考える名無しさん:04/02/23 19:40
マルクスに対する根底的批判だと思う
マルクスは別に「偉大な人間」でもないし
「特殊な天才」でもないし
カリスマでもなんでもない。
凡庸さと彼の誤りからマルクスを再発見する試みが重要だと思う
伝説化されたが故に虚構化されたマルクス像にあいも変わらずそのまま
乗っかってるのが、マルチチュードの中心勢力たるネグリ派の実体でしょう
このような左翼妄想からは距離を取れることこそが、本質的なる哲学の機能。
>>968 だからこそカント、ヘーゲルが重要なわけですよ。
ドゥルーズ自身も「マルクスの再評価」と言っているわけだしね。
971 :
考える名無しさん:04/02/23 19:46
マルクスを天才に見立ててそこに憧憬的な自己投影に酔いしれるタイプが
結果的に犯罪的な政治行為を生んでいる例といえば
最近の柄谷行人まであるね。
ネグリはまあ柄谷ほど酷くはないけどね
そういう意味ではあらかじめ去勢の美学を生きてるゲイスタディの浅田は
犯罪にも加担してきたことは否めないね
ふと思ったけど、フランス現代思想はヘーゲルをスプリングボードに
してきたのは確かだとしても、これからはより一層ヘーゲルを重視す
べきかもしれない。
カント、ヘーゲルはドゥルーズの受け売りで済ますわけにはいかない
だろうね。
ドゥルーズに東洋風の賢者をみるのも、ノマドといえばなにか革命的
であるのもぶざまだしね。
974 :
考える名無しさん:04/02/24 01:53
バカは書き込みにくい雰囲気・・・。
975 :
考える名無しさん:04/02/24 01:55
>>974 あんた正常だよ。精神病棟いる気分と一緒。
ここで、樫村さんの出番だろ。OFWでも良いけどさ。
977 :
考える名無しさん:04/02/24 09:40
アラファトの偉大という文ならあるよ。
まあ
>>959は正論なんだがプランとタイトルがあっても
草稿がない以上は推測しかできないわけでね。
『マルクスの偉大さ』がマルクスを正面から再評価するものかどうかは不明。
ベルクソン、カント、スピノザに対するのとは異なったものになった気がする。
アルチュセールの影響がどうなのかが気になるが・・・。
あと『差異と反復』を読めばわかるようにドゥルーズはアンチ・ヘーゲル。
弁証法なんてくそくらえって感じだからね。ハイデガーもスルーに等しい。
デカルト、カント、ヘーゲルの主流ラインで唯一評価してるのがカント。
初期の頃に超越論的経験論なんていってるのもドゥルーズらしい。
>>979 >あと『差異と反復』を読めばわかるようにドゥルーズはアンチ・ヘーゲル。
>弁証法なんてくそくらえって感じだからね。ハイデガーもスルーに等しい。
こういうところでドゥルーズの哲学って "very French" (Derrida) と評されてしまうんだよね。
優秀な哲学史家でもあるドゥルーズが、こうぬけぬけと無視を決め込むというのは、ふつうに
哲学を研究している者からすれば重大な問題となりうるよ。
なぜドゥルーズはそんなにも弁証法を回避するのか。回避したことで本当に批判になったのか。
それはドゥルーズの「強さ」なのか、あるいは「弱さ」なのか。
上でもあった通り、半分は当時のフランス哲学のヘーゲル受容においてドゥルーズが置かれた立場
みたいなものが絡んでいる。そして半分はドゥルーズの哲学自身の内的論理がそれを要請している。
気になるところだ。
>>979 >ハイデガーもスルーに等しい。
本当に『差異と反復』読んだ?
ちょっと嫌な言い方をするけど、
ドゥルーズを読んで、ハイデガーの影や、フランス哲学内部でのヘーゲル受容へのreactionsを
見つけられないのは、単に読み手の側に哲学史の教養がないからだよ。
煽りではなく。
>>982 「影」や「暗黙のリアクション」が「見つからない」と言っているのではなく、
明示的な言及がきわめて少ない点を問題にしている。
979 もそういう意味で言っているはず。
>>980 「明示的言及」がどういうことを言っているのかは分からないが
名前が出てくるというレベルなら『差異と反復』の index を見れば
分かるようにヘーゲル、ハイデガーもそこそこ出てくる。
>>980 ハイデガーについては、かなり詳しく、彼の概念を検討している部分もあるしね。
953はアンチ気味だね。
ハイデガー解釈に絡め取られた
ナンシーやラクー=ラバルトを見ていると、
ドゥルーズのハイデガー受容は妥当なありかたの一つだと思うよ。
次スレをどなたかお願いできますか?
私は駄目でした。
988 :
考える名無しさん:04/02/24 17:06
おそらく、ドゥルーズは読んでるけど、ハイデガーやヘーゲルは
入門書程度しか読んでいないんだね。
だから、「わかりたい君と僕のためのドゥルーズ哲学入門」なんて
揶揄されるんだよ。
しかし、そうした揶揄が、単なる紋切り型を振りかざしている
かのようには、思えないけどね。
989 :
考える名無しさん:04/02/24 17:10
哲学史を踏まえてないドゥルーズ読みがいかに悲惨かがよくわかる。
990 :
考える名無しさん:04/02/24 17:14
要するに器官なき身体だ、ノマドだ、超越論的経験論、内在性だと
ドゥルーズ用語を振り回すだけじゃ2ちゃんねるでも馬鹿にされる
ということ。
992 :
考える名無しさん:04/02/25 09:52
『差異と反復』でもヘーゲル、ハイデガーという名前はもちろん出てくるが、
ヘーゲルに対しては徹底してアンチであるのは確かだし。
「差異」についてハイデガーの「存在論的差異」をどう扱ってる?
これについては「スルー」という言い方は適当じゃないかもしれないが
わりと軽く扱われてるんじゃないのかな?
よければ次スレで「ハイデガーとドゥルーズ」のテーマで
『差異と反復』から具体的に引用しながら
ハイデガーの「存在論的差異」をどのように扱っているのか検討。
994 :
「ああシェストフ」:04/02/25 22:23
残りわずかなんで消費しますよ。
『差異と反復』邦訳で17頁。
こういうクスッと笑わせてくれる所がDにはあるね。
「口髭をはやしたモナリザと同じ意味で、
哲学的に髭をはやしたヘーゲル、
哲学的に髭をそったマルクスを想像してみよう」
ちなみに「ああ、シェストフ」は邦訳205頁にある。
ここもクスッと笑わせてくれたっけ。
「彼こそ、一時的でも永遠的でもない《反時代的な》者である。
ああ、シェストフ。彼が立てるすべを知っている諸々の問い。」
994の引用はヂュシャンとオッカムがコンテクストにあるだろう。
995の引用はニーチェのラインでシェストフ(またドスト)が
ドゥルーズの念頭にあることが見てとれる。
ドゥルーズを読むにはユーモアのセンスが必要だね。
997 :
考える名無しさん:04/02/25 22:57
そうかなぁ
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1000 :
1000:04/02/25 23:01
1000 円均一 !
1001 :
1001:
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