ひかるちゃんねる!!
3 :
S・ピカァ− ◆oXDYWAsBcM :03/10/31 22:17
芸術はなぜ人の心をゆさぶるのか
私はかつて絵画とマンガの違いについて語ったことがある。
マンガはいかに少ない情報量で、より多くの人に認識されるよう描くかをめざす。
これが現代のマンガの多様性を無視した発言であることはわかっているが、
大衆性、商業性をめざしたところではこのようなことが必要とされる。
たとえばマンガはなぜ子供に好かれるのかといえば、わかりやすいからである。
実写には人物からその背景からすべて同じ密度で提示される。
人はそこから作り手の示したい情報を選び取らなければならない。
それにたいして、マンガではすでに作り手が、実写からいいたいことのみを描き提示してくれる
必要のないものは排除され、必要のある部分はより強調される。
4 :
S・ピカァ− ◆oXDYWAsBcM :03/10/31 22:19
このようにマンガは人が認識しやすいかたちで提示することをめざす。
これは大衆芸術と言われるものに共通するところである。
それに対して芸術的絵画は自己をめざす。
描き手の感じたものを描き手が描きたいように描く。
そこにあるのは描き手の独善的創造的欲求である。
このために受け手には、描き手の独善的内容を理解することが強いられる。
このマスターベーション的作品がなぜときに人に深い感動を与えるのか。
すなわち感情とはあくまで個人的、主観的なものだからではないだろうか。
懐疑論的に言えば、ひとは箱に幽閉された存在である。
そして箱の中には論理ではなかなか伝わらない想いが蓄積されている。
芸術はそのような想いを独善的に投入しているために、
ある確率でそれは他者に伝わる。
コミュニケート不可能と想われた気持ちが共有される。
このような論理で表されない、コミュニケート不可能と想われる気持ちとは、
マンガのような大衆全般にわかるところのものでなく、
より深層的な自分でも認識できないレベルであるために
その共有は深い感動を呼ぶのではないだろうか。
5 :
S・ピカァ− ◆oXDYWAsBcM :03/10/31 22:20
前述したが、みなさんご理解のようにもちろん大衆芸術と芸術、マンガと絵画の関係は
このような01の関係ではない。
ここでいいたかったのは論理の限界である
すなわち私たちには論理という限られな表現では表し切れない。
なおかつ私自身でさえ認識しえない気持ちがあるということである。
芸術とは絵画、マンガに限らず、それを共有しえる力、方法論を持っているのである。
故に箱の中の孤独な私にとってなくてはならないのである。
リアルぴかぁ〜はいずこへ?
7 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:34
世界の生成流転を否定しながらイデア論に帰着しない思想がただ一つある。ひかる主義における「新永遠回帰説」だ。価値決定者ではない、真理を信仰する殉教する戦士達にはこれを勧める。
「新永遠回帰説の薦め」
8 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:35
学校での、毎日の授業への出席、知識の詰め込み(これに反対する者どももこの範疇に入る)によって急速に芸術的精神が失われる。学問は貴族のものでなければならない。労働によってそれが失われるように、学問は感性を失わせるものであってはならない。
貴族は「労働」をしてはならないのだ。現代の教育は労働的なものになってしまっている。それを覆すのは不可能だし、知的大衆が歯車となって高機能な社会を運営していることを考えてみてもそれを覆すのはもはや得策ではない。
一切の労働をせず、寄生し、歯車を生活に利用し、独学で貴族的勉強をしてゆくべきであろう。
「勉強について」
9 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:35
「イーリアス」
トロイアとギリシャの戦い
神経がぶち切れそうな血生臭い戦い
血気に逸る男達が殺し合う
トロイアは命を繋ぐために
ギリシャは誇りを守るために
投げ合う槍は狙いが命中したり
反れて他の者を貫いたり
へクトールはパトロクロスを殺し
アキッレウスはヘクトールを殺す
復讐の連鎖
次はアキッレウスの番だ
彼の殺人は己の死を受け入れたもの
恐ろしくそして受け入れざるを得ない運命の中で古代の人々は生きる
神々は人々を弄びながら楽しんでいる
清澄な残酷さが全てを支配している
10 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:36
「残された時間」
君と付き合い始めたばかりの頃はまだ大して夢中じゃなかった
ただの軽い遊びのつもりだった
君はあまり綺麗じゃなかったし魅力もなかった
だけど今や僕は君の虜になっている
君を愛する心が 孤独に生きようと 獣として生きようとする僕の思いを挫こうとする
君は優しくて純粋だ
そして僕を心から愛している
そんな君が僕の心を温かくさせてくれる
僕は君との時間を出来るだけ温かいものにしようと願っている
やがて君にさよならを告げる日が来ることを知ってから
11 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:38
「再生」
僕の直感は間違いにされる
知的な論理が僕を無きものにする
人々への不信は間違いだったと
全てが間違いだったとされる
僕は憔悴し たくさんの薬を飲んでもう死のうと思った
そんな時に君への愛が僕を和ませてくれた
優しく可愛らしい君の姿が僕を和ませてくれた
そして君だけでなく たくさんの人々の素朴な顔つきが僕を和ませてくれた
再び立ち上がることができる
再び自分を信じることができる
深い感性を抱えて僕は人生に戻りゆく
12 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 18:39
「清涼剤」
吐き気がする
輝いていた頃に戻ろうとする自分に吐き気がする
ロックに吐き気がする
薩摩隼人に吐き気がする
信長に吐き気がする
全ての芸術に吐き気がする
哲学に吐き気がする
ネットに吐き気がする
チャットに吐き気がする
社交に吐き気がする
悟性に吐き気がする
それでも直感を信じようとする自分に吐き気がする
全てに吐き気がする
吐き気を感じないのは
古代ギリシャと愛する君
ひかるさんは、「哲学部屋」にいたひかるさん?
14 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 19:09
そうだよ。たたみ嫌い
よくいるの?
あそこのお仲間ですか・・・
断見教的価値、断見(生の一回性と死後の世界の無い事)、
連続(種の存続への努力)、観察(それらへの位置の自己確認)
最近時々見てるけど、ハルキ、ユウギリ・・・
ああいう仲間意識が気色悪い。
この前キキリに追い出されたw
普通に議論してたつもりなんだが、
所詮よそ者はよそ者なんだろうな・・・
あたま悪そうなやつが多いね。
18 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 19:33
うん。まあ頭はいいんだろうけど、人間性がしっかりしてない。たたみなんか人にあほとかばかとか言ったりさ。
謝れというと、君の主観的解釈とかわけのわからないことを言われる。いわゆる学問馬鹿。笑ってしまうような。
本当に哲学の才能がある人や、しっかりした大学院で哲学を博士まで修めたような人はもっと違う感じだと思う。
たたみ部屋の頭のよさは中途半端でいていうことがえぐい。
19 :
考える名無しさん:03/11/02 19:51
>>18 ひかる、おまえも前スレで「人にあほとかばか」ばっかり言ってたじゃないか
「人間性がしっかりしてない」のはおまえも同じだろ!
なにが「謝れ」だ。暴言吐いた人におまえ自身は謝った事が一回でもあったか?
また得意の「僕は正しい。何故なら僕は詩人哲学者だからだ」か?それでまた罵倒か?
前スレ流れたらもうシランプリか?
おめでたいほどの卑劣さだな…
20 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 19:55
僕は正しく罵倒しているからいいんだよ。あほ
21 :
考える名無しさん:03/11/02 19:57
なんでひかるの罵倒だけが正しいの?
正しい罵倒って何?
22 :
考える名無しさん:03/11/02 20:00
自分だけが正しいって…
どこからそういう発想が出てくるのか…
あなた、あたま大丈夫ですか?
23 :
考える名無しさん:03/11/02 20:10
人格のヤバさがそこはかとなく感じ取れます。
24 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 20:24
正しい罵倒とはセンスです。いちいち言いたくない。
25 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/02 20:25
頭の悪いやつだ。死ね。
26 :
小学校の先生:03/11/02 20:31
ひかるちゃん そういう幼稚なことしか言えないんじゃ
みんなにバカにされてしまいますよー
こりゃ小学生並みだな
Blue heavenはどうですか?>ひかる
28 :
考える名無しさん:03/11/02 20:41
このスレ見たら、まさに
>>19の予言どおりの展開に
こんな短時間なのに、お前がどういう人間かがわかり易すぎるぞ>ひかる
>>24「正しい罵倒とはセンスです。」
↓
>>25「頭の悪いやつだ。死ね。」
ひかる先生の罵倒センスは大変素晴らしいようで(W
30 :
ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/03 00:25
罵倒の正しさがセンスでわからないから、罵倒したんだ。それはセンスよい。
それだ! それだ!
お前は馬鹿だ、なお馬鹿だと評価したのだ!
ではなぜ人間は評価するか?
その大元は何なのか
それが連続のためだ!
今は色々な生き方が出来るようになったが、
基本はそれなのだ。
つまり、悩んだらそこに帰れ、と言う事だ。
うそ!ほんとに!へぇ=!
>>30 :ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/03 00:25
罵倒の正しさがセンスでわからないから、罵倒したんだ。それはセンスよい。
この日本語が俺にはさっぱりわからんのだが、どういうこと?
「それはセンスよい」という文がどこを指していれば、そう言えるの?
哲学や論理学を学んだ人、誰か解説頼む。
34 :
考える名無しさん:03/11/03 03:35
俺もわからん
学生でもいいから 哲学やってる奴はこれをうまく説明してくれないか
ユーモアの無い罵倒はただの戯れ言ってこと
36 :
考える名無しさん:03/11/03 05:04
>>35 ひかるさんの罵倒には
どのようなユーモアがあったのでしょうか?
そのどこにユーモアがあったのであようか?
哲学に関わっている皆さん、それをうまく批評してみてください
37 :
考える名無しさん:03/11/03 05:07
思いやり
重い槍
ひかるが来るとすぐに荒れて、その後このスレ廃れるよな。
ひかるよ、ここに書き込むなとは言わないから、もうちょっと謙虚になれよ。
お前一人の掲示板じゃなく、他の人も見たり書き込んだりするんだからさ。
お前のあの態度じゃ、怒る奴がいて当然だと思うぞ。
40 :
S・ピカァー:03/11/05 09:55
さてと
41 :
無職ヒキコモリ:03/11/10 12:20
さてと
>ひかる
この板では「ひかる ◆bodgOoQOHA」を使っているが、
以前「ひかる ◆AJnTBds.bg」を使っていたことがあるか?
ぴかぁ〜の哲学は「光源」を根拠にしている。
だから「光源」のいう名前の後が「◎」なのさ。
そのまんまだからと言って怒っちゃ駄目だ。
だってな、肝腎なのは実は「ぴかぁ〜」という一見普通過ぎる名前の
方だからさ。君達は「十字架」を知っているかい?
「十字架」は四方に拡散する、光源を意味する。
ところが「十字架」というのはだな、一番初期の象徴だと言われている。
当時は非常にメジャーな象徴で、これを日本式に言えば「ぴかぁ〜」
になる。日本の「桃太郎」なんかが好い例さ。
俺が言いたいのはな、有難い「十字架」と、極く平凡な「光源」という
二つのものが、何故か結合されているという謎なんだよ。
これはヘーゲルが男根を一方で排尿のための器官とみなし、
他方で生殖をつかさどる高貴な器官とみなし、
両者の結合するところに無限判断の本質を見たのと
同じ事なのさ。
つまりぴかぁ〜は「光源」の再来さ。
「光源」について補足しておこう。
君達も御存知のように、「光源」というのは積極性の意なのさ。
昔話の中に「パンドラの箱」というのがあって、これを開けるとえらく
大変な事になるそうだ。日本でもこの逸話を元とした話がある位さ。
『パンドラの箱』でも光源は欠かせないもので、箱を開けた時にあらゆる悪
なんかが出てくる。要するに「光源」は普通の光とは異なる、
何か神聖な比喩なんだ。
それが人間からガチャガチャと開けられて、最後に「光源」と
名づけられる。それでそいつが人間の積極性という偉業を成し遂げるわけさ。
大体偉い奴は昔から出生が尋常でない。釈尊は脇から生まれたというし、
イエスは処女から生まれたという。そしてこのぴかぁ〜は、
当然光源から生まれたのさ。
45 :
考える名無しさん:03/11/13 17:41
pika9パクリうざい
「国際貴族主義連合。神ひかるシヴァの元に。」というスレの774でひかるは
:ひかる ◆bodgOoQOHA :03/11/05 14:25
天才ひかるが自殺をしたがっています。
それと何もかもに吐き気がします。特に芸術全般。
みなさん国際貴族主義連合BBSに書き込もう!!
むかしは一日3000いったんだけどなあ。
などと書いています。
自殺を餌に構ってもらおうとする、恥知らずな最低最悪の人間
の名前はもう見たくないです。
ひかるはここに二度と書き込まないで欲しいです。
(あちらのスレでも同じようなことを書きました)
ごめんなさい。。。プトレマイオスの天動説は間違いでした。
科学者よ、恥を知れ!!!
プトレマイオスのプトレマイオスの天動説は完全に間違いだった!
科学の原則を無視した、デタラメのインチキ理論だったのだ。
そして、そのプトレマイオスの天動説の世界的な浸透は
ローマ・キリスト教勢力による世界支配のための思想戦略なのだ!
また、天動説の思想によって戦争が起こり、
貧富の差がひらき、終末的な絶望感が世界に蔓延しているのだ。
プトレマイオスの天動説は世界の平和を揺るがす、悪の元凶となっているのだ。
プトレマイオスの天動説とは、地球(人間世界)が宇宙の中心であることが絶対の真実であったため、
「地球(人間世界)が宇宙の中心である。」という理論である。
この理論は、ローマ・キリスト教の創造神話(神が天地を創造した)そのものである。
プトレマイオスの天動説の実態は、科学理論ではなく宗教思想なのである。
宇宙には万有引力の法則が存在していて『天地創造』ではない。
『天地創造』は文字通り、存在するものではないのだ。だから、
『天地創造』は科学的に証明できるものではない。
そして、『地球から天の誕生』も科学で証明できるものではないのだ。
だから、天動説が仮説である可能性は、0%なのだ。
天動説は完全に間違いであり、宇宙は時間も空間も無限なのである。
天動説が科学の正統であるという思想を、世界中の人々に
浸透させる戦略が成功したことにより、ローマ・キリスト教勢力の
世界における優位性が確立されていったのだ。(17世紀に)
そして、その思想的支配の最たるものが、三十年戦争なのだ。
天動説の浸透により、世界中に終末思想(世界の終わり)が蔓延してしまっている。
そのことにより、自己中心的、せつな的、短絡的な考え方が社会に広がっている。
科学的に間違っている天動説から脱却しなければならない。
そして、地球は宇宙の中心ではないということを理解しなければならない。
人間は本当の宇宙観、世界観を構築し、新しい時代に進んでいかなければならないのだ。
天動説が世界を支配している限り、平和な世界にはならないのだ。
そのことを科学者は重く受けとめるべきである。
さらば天動説!!!!!!!!!!!!!!!!
48 :
考える名無しさん:03/12/02 19:29
補完
49 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/11 22:21
言語論的転回の夢のあとさき
言語論的転回は20世紀最大の変革と言われるわけだが、
その重要性は、「私とは言語である」という観点にある。
その意味するところは、哲学を本格的に還元論に導いたのである。
すなわち私が言語であるならば、言葉により還元することにより
哲学史上、あやふやであった認識を詳細に解体、構築できることである。
これは科学が世界を数量化により還元し、世界を再構築するという
科学革命を起こしたことを、哲学においても可能にするのである。
その大きな期待から言語論的転回は20世紀最大の変革と成り得たのである。
ラッセルは記述理論により、現実に言語を還元する方法を提示し、
さらにヴィトゲンシュタインは、写像理論により還元された言語が世界
そのものを表していると示した。
まさに言語論的転回は革命を起こしたのである。。。ように見えた。
50 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/11 22:23
しかしその夢は一次的なものであった。
その後、ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」によりあっさりと、革命が夢で
あったことを自ら宣言したのである。
「言語ゲーム」とは、言語は論理により単純に解体、構築できるようなもの
ではなく、使われる状況を含んだあやふやなものでしかないということである。
しかしその後も還元要素を探した言語論転回は、言語が意味を持に至る
構造の解析(構造主義)として進む。
しかし言語による認識を還元することの限界を示した「言語ゲーム」は、
決定的なように思われる。
それはやはり言語であり、認識であり、思考であり、それらは認識の一部で
しかないという事実である。
これは科学という物質的還元論が現在において破綻をきたしていることと
繋がるように思う。科学においてはすでに遺伝子コードという黒船が
還元論からの非還元論的転回が行われ、それは哲学を飲み込む
革命を起こすと言われている。
新たな夢はすでに走り始めている。
51 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:03
言語射的ゲーム
私は言語とは、射的ゲームのようなものだと考えています。
発信者が受信者へ言語伝達を行うということは、
言語の矢を放つということです。
このために発信者は矢という言語そのものの意味の他に、
受信者というマトの狙ったところにあたり、狙った商品を手に入れることを
期待するという意味が込められます。
またこの射的ゲームの意味するところは景品を手に入れるためには
マトという受信者のことを知らないといけません。
これを可能にするのも言語の役割です。
もともと言語は人の内面を開拓する作用があります。
言語は思想です。各国の言葉、国の地方の言葉、集団の言葉は思想を共有します。
すなわち言語の射的ゲームとは、言語により共有された思想をもとに
形成された受信者というマトに向かって発信者が矢をいる行為と言えます。
52 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:03
言語が往々にあやふやなコミュニケーションをと言われるのは、
たとえば言語そのものの意味を論理的に明確にしても、
期待された意味が込められるからです。
そしてこの期待とはまったくもって主観でしかありませんし、
また期待を支えているのが、受信者というマトとは
発信者が受信者が想像した主観的なマトでしかありません。
すなわち他者を完璧に認識することは不可能故に
矢は100%の確率で狙ったとろこを射入ることはできないのです。
53 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:04
そして論理により言語コミュニケーション、たとえばそれは科学的事実ですが、
これは矢という言語そのものの意味を重視し、この期待としても意味を
排除することにより、矢をマトに当るのでなく、受信者に届けるということです。
その矢により受信者のどこに当たり、どのように反応するかという期待する
方法なのです。
しかし言語という矢はほとんどの場合には、期待をもって射られます。
そしてここで重要なのが「矢は100%の確率で狙ったとろこを
射入ることはできない。」というそのものなのです。
矢が100%狙ったところにあたるゲームは楽しいですか?
ゲームといえますか。ということです。
言語コミュニケーション、おしゃべりとは矢が100%の確率で
狙ったとろこを射入ることはできないから面白いのです。
まさに言語はゲームです。
54 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:18
21世紀思想
言語論的転回が起こった時代背景を考えると、
16世紀の数量化革命という還元論が科学の発展につながり、
19世紀後半は科学により世界が理解できるという欧州ではある種の高揚感が
あったと言われています。
ウィーン学団にも見られるように科学的に世界を理解できる幻想があり、
言語論転回もその流れの一部と考えることができます。
しかし20世紀に入ると幻想であることに気づがされるわけです。
よく言われるのが、相対性理論によりニュートン力学による絶対的世界観が
崩れ、さらに量子力学、不確定性原理による還元論が崩れる。
そして哲学では論理による世界の構築が不完全性定理や「言語ゲーム」により
早々と挫折します。
社会的には二回の世界大戦は特に欧州には大きな挫折感を味合わせたました。
人類史始まって以来の人の大量死、そしてそれが信仰していた科学技術による
ものであったからです
55 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:18
しかしその後も世界を引っ張るのはやはり科学技術でしょう。
その中の大きな流れが、脱還元論です。
そのターニングポイントがDNAの発見です。
これはいままの還元的世界観に対して、
原子そのものでなく、DNAという構造物において大きな意味をもつということを示しました。
これは還元論から非還元論への転回です。
そしてこのような非還元論を可能にしたのが、コンピュータの発展です。
いままでは基本的にこのような複雑なシステムは計算する方法がなかったのです。
このような非還元論は複雑系、システム論の発展につながります。
21世紀には従来の科学、物理中心主義から生物学、認知科学、
社会学、経済学、哲学?のある種の統一的な世界観を示すと思われます。
56 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:19
今後の思想という意味では、このような非還元論、構造論、システム論が
中心になると思います。それは科学が人を説明していく。
科学哲学がいままで以上に大きな位置を占めると思います。
また現在の哲学の構造主義は、現在のように言語論を中心に発展すると思われます。
哲学が言語にこだわるのは、言語が認識の大きな部分を占めているということが
ありますが、それは科学に追いやられたきた哲学が見つけた位置という意味でも
大切なポジションだと思われます。
科学との関係性で言語論を考えると、言語は科学では表されない。
または認識を科学する方法が言語である。ということになるでしょう。
しかし言語のみによる認識には限界があるように思います。
本当の意味での認識の構造は、言語の構造+生物としての人(生理、感情)
+自然環境+人の関係性+社会性+歴史的背景などを含めた構造化が
必要だと思われるからです。
これはまさに科学の非還元論や科学哲学が目指すものをオーバーラップします。
57 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/13 13:19
このような非還元論、構造主義まだまだ思想化、社会への浸透性という意味では
ほとんどなされていませんが、
21世紀に精神的革命をもたらす可能性はあると思います。
たとえば、この板でも多くの方がデカルトから続く認識論、私中心主義という
見知に立っていますが、それは世界との関係性、世界の一部としての私という
認識へと移っていくのではないでしょうか。
な〜んか、頑張ってるのはわかるけど・・・
ぴかぁ〜=ひかる=S・ピカァー=S=Sophia=「機械的唯物論」者=(-_-)さん=( ´,_ゝ`)ニヒリスト ◆b0CLAO0mX6=
我無◆D6djJ/Z9t=兎嗣=自殺スレ1=格坂=死刑スレ867=
懲役13年スレ1=Γ◆m0yPyqc5MQ=骨=シリア=コテハンX=何でも哲学スレの1
の思考の特徴
・己の社会的弱さを克服するものとしての、死の礼賛
全ての人間的価値を否定する人間的価値(=自己)の礼賛
・個人が作り出すルールを問答無用に無視するための全体(=自己)主義
・己の論理的弱さへの批判を克服するための、全ての正当化否定
(自分は正しくないと認めるから、あなたも正しくないと認めよ)w
・オウム返し
・論点Aを問題にされて都合が悪くなるとすぐ論点Bや
論点Aを含む全体論にもっていく
・個人の意見として変更可能でないところから意見を語りたがる
そうすると間違いを指摘されないから
例えば「事実」「現実」「原則」「法則」「(事実としての)脳の作用」
「本能」「種の目的=全体主義」など
・とにかく常に正しいところから他人を見下したいという強い衝動に
突き動かされているのがぴかぁ〜
ここでいう正しいとは、世間的・道徳的・倫理的なものではなく
「他人の意見が間違っていると指摘すること」程度の意味
・脳科学、数学、心理学に、異常なほどご執心
・数学板、理系板で、異様にレス数が少ない糞スレ立てまくってるヤシと
キャラが被ってるもよー。
・昼間からカキコしまくりー。
・似非科学・哲学型(ぴかぁ〜、 q1nu&、q1ou&、「機械的唯物論」者、「哲学的」者、Sophia ◆8ADoZCl6.k etc)
・世間話型(Γ ◆m0yPyqc5MQ、我無、ぴかぁ〜、Sophia ◆8ADoZCl6.k etc)
・反ルール型(死刑スレ867、懲役13年スレ1、ニヒリストetc)
・質問連発型(名無し・レス番コテで殺人ネタ系スレで登場)
・変態型(ヘラヘラ、骨、自演バレた後の自演、不二の愛・可憐な・・・ア姫だけ捧げるよ菩薩 ◆0ozysg2fXA
美シイ・・・アヒメ愛シテルアナタダケヲ・・イエスA ◆2LudavtYJo :03/11/12 10:42 etc)
・叩き用自演型(格坂、教導者etc)
・規制議論用(シリア)
・スレ立て逃げ名無し(殺人ネタ系、頻出ネタ系、アホキャラ系)
・自演否定するためだけに、タイミング良く登場する名無し
62 :
考える名無しさん:03/12/13 13:33
>>49-57 本の要約と多少の色づけで権威づけしようとしてもムダだから
./ <, い
行 お 〈 ,,._ ,_ ,_,_ ) ク い
き ナ ら >‐ , く ヽ ヽ r'^i 1 `メ、 < リ な
た メ も (´ , く ゙ヽ i_丿 ト、|_ | / ヽ、 ) リ ぁ
い . ッ . .> _∧ ヽ, ノ ̄ . ~"ヽノ ,ヘ <、 ン
ぞ ク . (. / ト、^‐r'" ゝィー-=ヘ く
! 星 > / .| `〈 _,,-‐=一- 、 八ー-一ト、 冫⌒Y⌒Y⌒Y
に i′〈 }ー-/:.:i /,,.-‐ ‐- 、ヽ |:.:.\ _ _| ヽ,
γ⌒V⌒Y⌒Y⌒ヽへ! 1 |_/.:.:.:.i'⌒ .//,,.-一テ‐、キ /.:.:.:.:.:^'↓ ヽ
.′ 1 レ゙.:.:.:.:.:.:.:i. / ,,イ// /;彡ヽi ./.:.:.:.:.:.:.:.:.:\
八/.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ヽ ⌒ヽ レ'| |/ / / |)(・.)|| /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
,.-‐ '⌒}.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ | | |/ /_{二}コ || /.:.:.:.:.:.:.
r'"´ ノ.:.:.:.:.:.:.:.:.:./.:.:.r.:.:.:.:^ー | | |/ヒニニ=ニニソ ||/ヽ;:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
、_ l {.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:|.:.:.:|.:|.:.:.:.:.:.:.:)ヘ{ |  ̄ ̄ /.:.:.:.:.:.|.:.:.:
. )`Y⌒ 〉 |.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|.:|.:.:.:.:.:.:./|.:.:ト ヽ===彳トぃ.:.!::::|:.:.:.:.
倫理、善悪の意味はなんであるのか。
自分とは物体の基本を原子に還元しますと、このような原子による構造物ということです。
原子の構造物が自分になるというのは、たとえばDNAを考えるとわかりやすいです。
DNAも原子の構造物ですが、このような多数の原子が構造化されたときには
とても複雑なシステムとしてなりえるのです。それはたとえば静的なものではなく、
自己的な組織化というような、とてもダイナミックな構造物となりえます。
すなわち自分とは、多数の原子によるとてもダイナミックな構造物ということです。
そしてこの単位によるダイナミックな構造物という非還元論は、
自分よりもミクロへ、マクロへ階層的に展開されます。
たとえばマクロ方向では、人が多数集まった場合に、
人を単位として社会、会社、都市、経済などという
ダイナミックな構造物が形成されます。
生命という単位では、生態系や進化というダイナミックな
構造物が形成されます。
宇宙では銀河というものもそうです。
またマクロには先ほどのようにDNAであるとか、
脳の構造であるとか、植物では幹の構造であるとか
ダイナミックな構造物が形成されます。
世界はこのようなダイナミックな構造が無数に、多様に、階層的に
形成された世界です。
自分とはこのようなダイナミックな構造物の一つであり、
また社会というダイナミックな構造物の一部であり、
文化、また文明というダイナミックな構造物の一部であり、
生態系というダイナミックな構造物の一部であり、
進化というダイナミックな構造物の一部です。
そして罪、善悪とは、または罪を規定している内容というのは、
このような社会、文明、生態系、進化などの
ダイナミックな構造の中の一つの関係性から決定されます。
すなわちダイナミックですので、時間的、空間的に
その価値観も変化しますが、
構造物を維持、成長させるための秩序です。
そして自分という構造物が罪に責任をもつ倫理観も
同じように構造物を維持、成長させるための秩序です。
すなわち私はさらにマクロな構造物の一部であるのですから、
その構造内の関係性としての善悪、法律の拘束をうけるのです。
よって物である私も倫理観により規定されるのです。
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波を感知しました。 |
|__________|
/ /
/
_ ビビビ
/||__|∧ /
。.|.(O´∀`) /
|≡( )) ))つ
`ー| | |
(__)_)
69 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/16 18:20
「生」
「生」とは人にかせられた業である。「生」は時として楽しいが時として苦しい
人は世界の「絆」中で生きている。「絆」は時としてやさしいが時としてきびしい
そして人は往々に不安になる
我々は夢見る力を手に入れた。「絶対的なもの」・・・神、論理、科学。
夢見る生理は止められない。
それは人が手に入れなあらたな知の新陳代謝のようなものだ。
われわれは相対的にしか世界をしりえない
フセインが悪いのか、ブッシュが悪いのか
それでも人はこの世界を生き抜いている
この「生」こそ深淵で神のごときである
ではこの相対的世界でなぜわれわれが生きられるのか
それは答えではなく、試みにこそある
秩序と混沌の淵というリングに立ち続ける限り「生」は続く
さあ、闘おう
さあ、リングにあがろう
勝つためでなく、生き続けるために
70 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/16 18:31
2ちゃんねるの楽しさ
2ちゃんねるの楽しさは、テキストベースという情報伝達量の少なさと
匿名という情報発信の無責任さにある。
これは究極?の言語ゲームである。
コミュニケーションにおいて情報量の少なさは、難解なパズル、
競馬のごときギャンブル性を生む。
見えない相手というあやふやなマトに対して矢を放つ。
多くはマトに当たらない。手探りで繰り返す、繰り返す。
相手からも私にマトに放たれる。何かを伝えようとしている。
ネットという応答性の早さがこの繰り返しを容易にする。
また匿名性という無責任さが繰り返しを容易にする。
奇跡的に?手応えがある。共鳴した瞬間。
他者の心にアクセスする。
奇跡的であるが故に嬉しく、その快感が習慣性を生む。
そしてその快感を焦りすぎると発散し、煽り、荒らし行為にいたる。
あほくさいので宿題やることにします。
72 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/16 18:38
私という「箱」に閉じこめられた私は孤独である。
しかし我々は100%分かり合うことはない。
分かり合いたいということは、欲求であるとともに
生理である。
2ちゃんねるやメールというのは、回し車を回すハムスターの
ごとく行為なのかもしれいない。
働けよ・・・
74 :
考える名無しさん:03/12/16 18:48
新生日本の息吹はまもなく知のパラダイムをも引き起こす。
私は、光の中で輝く闇。
76 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/20 21:15
還元論と非還元論
還元論は原子などの還元されたある単位で世界を考えます。
そして単位そのものに機能があると考えます
その単位が組み合わさり構造ができているわけですが
その構造の意味はすでに単位に含まれています
よって単位を研究すればいいわけです
これは機械論に繋がるります。
機械論は世界がこのような単位で形成され、単位の機能が理路整然と
動作していると考えます。
時計が例にだされますが歯車の機能の積み上げがと時計なのです
77 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/20 21:16
だから還元論、機械論的世界は静的です
すでに機能が決まった単位の積み上げですから
そこには変化はないのです時計はただ時を刻みつづけ
地球は太陽の周りを回りつづけ
機械は決まった機能を果たしつづけます
78 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/20 21:17
これに対して非還元論の場合は単位の機能の積み上げが構造の機能とは考えません
単位が組み合わされたときに単位にはない新たな機能がうまれますと考えます
この例として有名なのがDNAです
DNAの意味はそれを構成する原子を還元しても現れません
構造に意味があるのです
これは還元論と違い動的です
構造のパターンか変わると新たな機能があわれるからです
そしてこのようなパターンの変化を考えるのがシステム論です
このようなシステム論はDNA発見後に活発に研究が行われだしました
それは生命というものが非還元システムであることがはっきりしたことと
システム論は還元論のような簡単な数式であらわされるものではないために
研究が困難であったものが
コンピューターの発展によりより容易に計算、シミュレート可能になったためです
79 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/20 21:18
このようなシステム論は自己組織化システムやオートポイエーシスなど
日々進歩しています
その中でわかってきたことが
世界が同じようなシステムで溢れていることです
様々な物理現象や生命進化、体の構造から経済活動、都市化や宇宙の進化などの
動的な成長システムは同じようなシステムと考えられそうだということです
これは物理化学、生物学、生理学から経済、金融、哲学などを統一する可能性かあるのです
この非還元論、システム論は思想的にも大きな意味を持っていると思います
たとえば我々は経験的にこの世界が静的でなく
ダイナミックな非還元論であることを知っています
社会活動、経済活動、人間関係等々
しかしわれわれは還元論的教育を受けます
哲学の本読んでもそうですし、
経済学はまるで古典物理学のごときで
真の経済との乖離は大きいです
80 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/20 21:18
たとえばこの板でも定期的に立つ「私はなんのために生きているのか」スレでは
私に還元する、私の中に意味があり他者は二人目の私でしかないという還元論がほとんどです
しかし非還元論的に考えると
私とあなたがいると新たな意味が現れるのです
関係性、社会の一部としての意味は、
私自身の中だけではわからないということです
これは経験ととても近いのではないでしょうか
還元論の究極は独我論とも考えられます
個人主義化する社会の正当性のルーツは近代西洋の還元論思想にあるとも考えられます
これに対して非還元論思想への転回は
東洋的で経験的なものかもしれません
100年後の哲学板の「なんのために生きているのか」スレでは
現在の「生きることに意味などない」から
「絆のために生きる」が標準になっているかもしれませんね
81 :
考える名無しさん:03/12/20 21:29
あなたの還元論は狭く捉え過ぎで、現代科学のものではない。
83 :
考える名無しさん:03/12/20 21:40
ぴかぁ〜は復活したの?
偽者ではないですよね?
84 :
考える名無しさん:03/12/20 21:49
85 :
考える名無しさん:03/12/20 21:55
トリップ変わったけど???
86 :
考える名無しさん:03/12/20 22:07
ぴかぁ〜はストリッパーだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
87 :
大伴清麿 ◆HPBRDkE86A :03/12/20 22:14
あんまり嬉しくないストリッパーだね。
>>84 それはすなわち還元論の限界、破綻を示しているのでは
ないでしょうか。
WebSite更新しろよな。
あ,それと,過去ログはWebSiteに置いて欲すぃ。dat落ちで読めねぇぞ,ゴルァ。
>>90 それすっかり忘れてました。
誰か持っている方いませんよね。
92 :
考える名無しさん:03/12/23 03:36
>>88 私は、量子力学も還元論的科学の成果と考えていますが。
「私の意味」という思想
私が生きる意味は?
私が生きることに意味などない。
このような命題は誰でも一度はいだく。
ここでいう「私」とはデカルト還元論からの流れである。
そしてこれを社会的に浸透させたのは、
現代が科学技術で構築された社会ということ、
利便性の向上という現実的な面と
科学が還元論であるという思想面があるように思う。
そういう意味では「私の意味」という思想は社会思想としては比較的新しい。
日本でもそうであるが歴史的に見ても、
意味は集団であり関係性に見出だすものというのが一般的といえる。
では現代、なぜ「私の意味」がとわれるのか。
さらには生理的なストレスのはけ口や、言い訳に使われる傾向があるのか。
これはまさに科学技術思想と人間的生理のギャップが
生み出している面が大きいように思う。
>>92 量子力学は還元論的科学の成果です。
そして還元論の限界、破綻を示しているのではないでしょうか。
95 :
考える名無しさん:03/12/23 16:26
>>94 複雑な分子の電子分布も、あるいは、QED、QCDから、現在のヒモ、膜まで、
量子力学は生きてますが?
還元論は利便性において現在においても
科学技術とともに社会思想の根底をなしている。
しかし人の生理的面への軋轢を増幅させていることも
否めない。
科学そのものでは、還元論は破綻し、世界は非還元論へと
転換が進められている。
まさに世界は機械でなく、「意味は集団であり関係性に見出だすもの」
という方向に近い。
さらには非還元論では、還元論的「私の意味」という静的な認識行為論でなく、
「私が世界とどのような関係性を形成しようとするかよって私の意味が現れる」
という行為存在論へ向かう姿が現れるのである。
将来的に社会思想が非還元論へ転回し、より実際的に、人の生理に合う
よう進むことを期待している。
98 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/23 17:51
「私の意味」という思想 (改訂)
「私が生きる意味は?」このような疑問は誰でも一度はいだくと思います。
また「夢を目指す。」という生き方。これももはやスタンダード化しています。
このような「私の意味」という社会思想の起源は、16世紀の還元論革命に続く
科学技術の成功、そしてその中で生まれたデカルト還元論であると考えられます。
科学技術がこれほど成功する前には、人々の目の前には経済的な空腹や
階級的な抑圧への抵抗があり、生まれたときから生きる目的がそこにあったといえます。
そしてこのような状況では、私は他者に依存しなければ生きていけず
他者との関係性、集団に意味が求められました。
科学技術の成功は、画期的に利便性を向上させ、物質的豊かさは、
私の自由度を向上させ、他者との関係性、集団に意味をもとめる必要性を
希薄にし、意味は「私」そのものの中に求められるようになりました。
99 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/23 17:51
しかし逆に言うと、現代においては「私の意味」を強く要求されていることをしめします。
「私の意味はなに?」「私の夢はなに?」という疑問は、現代を生きる上で
突きつけられたストレスにもなっているのです。
自由度が獲得し、自分自身で立脚し、価値観を見いだし、自分なりの幸福を見つける。
そしてこのようなデカルト還元論を突き詰めれば「私に意味などない。」という虚無主義や、
究極的には独我論へ至るしかなく、生理的なストレスになっています。
科学そのものでは、還元論的世界は破綻し、非還元論へと転換が進められています。
世界は機械でなく、「意味は個体そのものにあるわけではない。」ということです。
さらには非還元論では、還元論的な「私の意味」という静的な認識行為でなく、
「私が世界とどのような関係性を形成しようとするかよって世界の意味が現れる」
という行為存在論へ向かう姿が現れています。
もしこのような非還元論思想が社会思想へ転回されるときに、なにが起こるのか。
なかなか興味深いところです。
100 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/23 18:06
「意味は個体そのものにあるわけではない。」
↓
「意味は個体そのものにあるわけではなく、個体を突き詰めても
見えてこない。」
101 :
考える名無しさん:03/12/24 11:11
あげ
「ロックンロール」
みんなは僕のことあれこれ責めるけど
僕はロックンローラー文句があるか
ロックンロールによって僕は初めて自分を信じることを学んだ
強いビートに揺られ 僕はもうふらふらだ
この狂った世の中では精神に異常をきたすことこそ健全な証
世の中の奴ら どいつもこいつも狂っているぜ
爽やかなモーツァルトの交響曲が僕の健康さを取り戻してくれる
だけど何はともあれロックンロール
正しいビートの証が僕の魂を守ってくれる
そうさロックンロールこそ最高!
ロックがなければ生きてけないぜ
正しい 普遍的な魂を歌う ロックンロールよ 僕を守ってください
僕の魂 僕の全人格が崩壊しないように僕を守ってください
103 :
考える名無しさん:03/12/24 13:44
sa【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
ひかるたん、復帰おめ!
「閉鎖病棟の絆」
今日は久し振りに君の電話をもらった 北本敦子よ
君はとても醜くて原始の本能剥き出しのいかれた女
初めて閉鎖病棟に入った時に君と戯れたことは忘れはしない
とても可愛い僕を君は猫可愛がりしてくれたね
もうあれから8年が経つ
もう何もかも変わってしまった
僕はロックはやめたし醜く太っておじさんになった
煙草も吸うようになったし女も知った
初めて女の子とも付き合っているけれど 十分満足しているけれど あの閉鎖病棟の仲間達との邂逅はやはり忘れられない
君も一応は仲間の一人だ
僕と君 何もかも変わってしまったけれど 二人の独特な絆は変わりはしない
裏切った仲間達 忘れ去った仲間達がもう一度帰ってくるようだ
日本の感性の最も鋭い資質は閉鎖病棟にある
あの素敵な素敵な仲間達との邂逅は忘れられないよ 閉じ込められるのは嫌だけれどもう一度帰りたい
深夜何度も病棟まで歩いて行っては切なく仲間達のことを想った
何度も面会に行っては再びあの素敵な出会いが戻ることを祈った
でもどいつもこいつも裏切っているんだなあ
いかれた狂女の北本敦子よ
君と話していると再び僕の故郷に帰れそうだ
君は偉大な歌手になる
僕は萩原朔太郎になる
あの素敵な出会いは幻ではない
真実だ
by ひかる 2003/12/24
106 :
考える名無しさん:03/12/26 00:31
>>105 あほけ、おまえ。
一生病院はいっとけ。
本能の人間的自然
芸術家の]人生の目的と目標は精神的成熟による肉体的解放なので、
肉体的快楽ではない。
肉体的快楽[ここでは、本能の結果]はすべて、
あとから彼の活動についてくるものであり、それ以上のものではない。
それは積極的に求められるようなものではなく、
求めても人間的には何も手に入らず何一つ達成されない。つまり、人生における副次性なのだ。
本能は個体が持つ動物性に過ぎず、
他のあらゆる生理的欲求と同じく、空気を吸い込み吐き出すように
「自然」に消費されるべきものだ。
あらゆる文明・文化的生活は理性によって可能な限り本能を支配し、破壊し、
結果としてより道徳的に、より完全に本能を満たすシステムをつくる。
こうして文明的進歩は一方では、本能的野蛮の退化を含む。
本能と理性の対立による絶え間無い相互作用と、ここに起こる『進化』の過程こそ、
人間的自然なのだ。
人生においてこの相互対立の均衡が達成される時、
彼らはあらゆる本能を「自然」に扱えるでしょう。
この為には本能と理性の釣り合いにおいて、
各自に可能な限り『理性』が支配的でなければならないはずだ。
またこの時、彼らは宗教や「神」に頼らなくとも常に、道徳的であることができる。
人間はこうして精神的存在になることによってこそ、本能の自然を達成できるのです。
抽象、そして真なる芸術家
科学や哲学などの抽象的表現、そして芸術という抽象的創造は普遍であり
『人間性』そのものの具現だ。抽象性とは人間性なのである。
しかし「今日の芸術」が教養ある人や見る目がある人にはさんざん馬鹿にされ、
あのようにいかにも非精神的で卑俗、つまり愚劣なのは、
「今日の現代人」が非人間的、ようするに動物的であるからに他ならない。
芸術作品は技術の進歩に対して退化し、疑似精神性[人格の表面性]や叙情性、
そして経済と権力に奉仕することでますます悪用されてきている。
ここから社会的反動が起きるのは明らかであり、また当たり前である。
ほとんどのマスメディアは偽の幸福やただの不幸の
溢れるばかりの卑俗なイメージの叙情や叙事によって
様々な人間活動のわずかな抽象性をも経済や[疑似利他心としての]利己心、
悲劇、喜劇に利用し、堕落させている。
創造者としての「芸術家」は、今や
漫画家やアニメーター、テレビゲーム制作者や歌手、運動選手、
そして芸能人などに取って代わられかけている。
歌手、運動選手、芸能人はその個別的具体性によって悲劇を助長する。
意識的、無意識的抑圧は基本として行き場を失っており、
具体的には犯罪やテロリズムなどの異常増加が心配されている。
社会的悲劇、つまり文化的悲惨は芸術悪用から、抽象性の具体的悪用から生ずる。
なぜなら芸術は時代精神を表現するからである。芸術は常に現実的でなくてはならない。
文化的悲惨は人間性の、抽象性の欠如に起因する。
大衆は不均衡な人生における悲劇によって、この欠如の反動を被る。
しかし彼らの中にこそ、真なる芸術家は生まれるのである。
芸術は人生における自由の領域であるから人間の希望であり、
悲劇によって宗教を失った後に人間達に残される最後の信仰の対象である。
よって芸術は究極的には人間界に楽園を創作し、人類に純粋な精神性をも創造するであろう。
真なる芸術家は独自の直観による純粋抽象作品によって、
また非本能的、非宗教的──理性的、道徳的生き方の追求によってすべての大衆を啓蒙し、
人類の社会的進歩に貢献する。
こうして真なる芸術家とは直観的抽象という神秘的かつ現実的な能力によって
完全に人間的な存在であり、そして神性であることを人類は悟るだろう。
「空手びと」
乱れた心を誠意の行き着いた不動の情熱に変える瞳の交歓
畏怖を覚えさせる直立した鍛え上げられた肉体
道場での稽古はさりげない一瞥に始まる
時には残酷な戦士
いつもは憐れみ深い仏の心
身体を引き締める声が何もためらわせず隙なく行動に移させる
一人稽古では屈強な誠意の戦士達と睨み合う
己の高貴さを信じて偏執的に鍛え上げる
化け物であろうとも師範には絶対服従だ
毎日の稽古が不動の情熱を与える
肉体は美しく光り輝く
誰にも届かない狂気の誠意を稽古にぶつける
それだけが僕の正しいあり方なんだと
111 :
考える名無しさん:03/12/26 17:11
>
知ちゃんねるの投稿どうすれば出来るの?
自作自演
114 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/26 20:07
私とはなんであるか
私とはこの世界の秩序のひと形態です
秩序とは様々な絆により内部と外部の境界を持ち得たシステムです
この秩序はこの世界のダイナミズムにより実体化します
太陽系、地球、自然界、生命、社会、企業、家族、脳なども秩序のひと形態です
この秩序は階層的な構造を持っています
私は細胞、体の部位という秩序が集まりできており、
また家族、社会、地球、宇宙という秩序の一部です
115 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/26 20:08
このような秩序形態のなかでも
私はより高い秩序性、すなわち個体性をもっています
自意識という秩序は、外部と内部の境界の明確化をより強く指向します
これは意思といわれる力です
たとえば都市を考えた場合に
さまざまな絆が秩序化し、実体化しているわけですが
人と同じようにダイナミズムを持ち成長するわけですが
人のような意識を持ちえるほどの個体性を持っていません
都市はより曖昧な境界のものその他都市と絆を築き、
国家という秩序を形成しています
人の意思という個体性はそういう意味では強いもので、
さらにはこれは人の脳という構造物の高い秩序性と複雑性によると考えることができます
推測すると寿命とはこのような高い秩序性を保つことと関係しているのかもしれません
116 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/26 20:08
このような単なる秩序でなく
成長するというダイナミズムをもちえるためには
確率論的な秩序と混沌の淵を綱渡りすることが必要です
秩序側に傾けば変化は停まり、環境変化という選択の中で淘汰されますし
混沌側に傾けば秩序性による境界がなくなり環境に飲み込まれてしまいます
このように秩序と混沌の淵を綱渡りするときに
秩序と言う実体は現れるのです
117 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/26 20:09
ではなぜに私はこれほどの複雑性を持ち得たのか
これの過程はまさに進化と言われる偶然性なせる技ということになるわけですが
人へと至る進化を一次元的に考えれば
より強い個体性へ向かう歴史といえます
自己複写性の分子構造、細胞膜という境界、有性生殖という個別化、
動物という環境からの離脱と自己判断という知能
文化という知能の高度化、
言語という知能の活用、そして自我
まさに世界からの離脱、個体性の明確化、認識能力の向上
知能の向上は世界をより明確に認識し
世界に溢れる秩序の境界をクリアーに写しだします
そして最後に自分自身と世界の境界をコントレースすることにより
自意識、意思に目覚めます
119 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/26 21:53
120 :
考える名無しさん:03/12/27 05:24
「禅」
座禅、立禅、一指禅、色々あるが何をなそうとするのか?
私はこう解釈する。楽を求めるためである。つまり一般的に言えば自らの
感情の合理化を図るために成す、苦の行為である。
この苦は業の少ないものにとってはかなり合理的な悟りへの道である。
普通、考えるのが嫌になったらそこで終わりであるが禅をしていて、
苦を与えられているので終わるに終われない。嫌でも考えざるを得ない
状態に自らを成すのである。そのうち合理化が成され、苦が楽になり、
楽が苦になる。自らは無となり、全てと繋がる。
しかし、禅はどんな姿勢であろうができるので、わざわざ苦になる姿勢を
とる必要は無い。ベッドで横になっていようができるのである。
重要とされるのは考えることを持続させることにあるのだろう。
座禅で考えたらいけませんよ
それは禅ではありませんよ
こんなすごい発想できる人のこと、
意識するなと言うほうが無茶ですよ。
たとえ自己が相対的な物でも、「魅力ある自己」の存在を否定しちゃ生きられないでしょ。
それとも、人間に「生きるな」と言えますか。
123 :
考える名無しさん:03/12/28 05:08
┗━━ ◆m0yPyqc5MQ
この人まだいたの?
細く→捕捉
「私とはなにか?」という他者依存心理構造
<行為存在論>
わたしはかつて「曖昧な境界想定認識論」を考えていました。
たとえば机の上にりんごがある場合
それが別の存在と考えるのは私の認識に依存する
机とりんごを知らない人はひとつのものと認識するかも知れない
なら私の認識を疑いとこの世界に境界はなくなると。
これはまさにデカルトからの存在認識論です
最後には私のいった境界のない世界や独我論などの
生きる意味や存在の発散、消失へ向かいます。
127 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 21:58
これに対して行為存在論ではこの世界には私という観察者がいなくとも
秩序が発生し、そこに外部と内部という境界が現れると考えます
それはこの世界が動的でたえず様々な関係性が生まれては消える世界であり
そこに秩序が現れる可能性が生まれるからです
この考えでは私は世界の関係性による秩序であり、日々関係の中で変化します
行為存在論では、「私とは何か」と問うことは無意味になり、
私の存在は私の行為により現れるのですから。
このように考えるときに、「私とは何か」と問いに、他者依存への心理が見えます。
128 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 21:58
<神という他者の喪失>
このような他者依存心理は神という概念からつながるように思います。
神とはなにかと考えると「大いなる秩序」ということになるのではないでしょうか。
たとえば毎日日が昇り沈む。ここに秩序があるわけです。
我々はこのような秩序に存在を感じます。
しかしこのような秩序は我々の理解を越えていました。
このような理解を超えた秩序を神と呼んだのではないでしょうか。
私がいま生きている。そしてしばらくして死ぬ。これが繰り返されている。
これも理解不能な「大いなる秩序」であり、神の意志とされました。
このように始まった神は、様々な思わくの元、様々な宗教として大系化されていきます。
その中で大きな位置を占めたのが、救いという「神という他者への依存心理」です。
129 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 21:58
しかし現在私たちは神を信じなくなりました。
これは「大いなる秩序」の多くを、科学思想が説明可能にしたからです。
科学思想は、秩序とは世界を細分化し、組み立てられた構造物であるという考えです。
これは経験とよく合致し、実利をあげました。
しかしこの科学思想は、唯物論であるために、観念が残されました。
進化論において私たちの位置が説明されたとして、
私たちは、デカルトにより細分化され「私という単位」までしか細分化できませんでした。
そしてこの存在認識論では、最後には私のいった境界のない世界や独我論などの
生きる意味や存在の発散、消失へ向かってしまいます。
このような取り残された観念は、人が不安になったときに頭をもたげます。
「私とはなにか?」
それは神がいなくなった今でも誰かに依存するようにつぶやかれます。
「わたしをなぜ存在させたのだ」と。
130 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 22:28
戦争という偶発
戦争とは一つの秩序である。
たとえば第二次世界大戦におけるヒトラーの役割はあまりに大きいが、
しかしヒトラーが第二次世界大戦を起こしたわけではない。
そしてヒトラーが権力をもち、多大な軍事力をもちえたのは、
社会的な背景を抜きにしては考えられない。
戦争とは様々な関係性の秩序により、実体化したのである。
あまりに多くは人が殺されたという事実の前に我々は愕然とする。
それが同じ人の意志により行われたという事実に、恐怖を覚える。
しかし戦争、虐殺は一人の悪魔により作られたのではない。
戦争という多くの人を飲み込み成長した「化け物」が存在するだけである。
131 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 22:28
人類史において、地球上で戦争がなかったときはないと言われる。
人類の歴史は戦争の歴史と言われる所以である。
戦争が実在化する可能性は、社会という揺らぎの中でいつも存在している。
それは悪魔のような個人の発生するからではない。
それは社会というゆらぎの中で、確率的にゆらぎがが共鳴し、
突然に高波が発生するごとくである。
しかしこのように戦争の発生を偶発的と語ってはいけないのだろうか。
偶発的ならば我々は戦争を制御することができないことになるからだ。
これからも戦争は発生しつづけることになるからだ。
日本において、明日にも戦争が発生するかもしれないからだ。
132 :
考える名無しさん:03/12/28 22:41
ここまで読んだ感想。
改行や段落分けの仕方をもっと考えて欲しい。とても読みにくい。
133 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :03/12/28 22:47
気をつけます。
134 :
考える名無しさん:03/12/28 22:55
内容は面白いのもあると思います。
ただネタが被っていて繰り返しになっているものも結構あると思う。
まぁ、これだけ書いていればそれも当然だと思いますが。
135 :
考える名無しさん:03/12/28 23:02
ちなみに134=132です。
>>134 ありがとうございます。
ほんとかぶってますよね。
伸び悩みでしょうか。
非還元論という知的衝撃を扱いかねている姿と思ってください。
138 :
考える名無しさん:03/12/29 00:30
ベルリンの壁を作ったのはイデオロギーだ
イデオロギーと作ったのは?
非還元論的「私」
--------------------------------------------------------------------------------
「私とはなにか?」「私の生きる目的は?」
このような疑問は誰でも一度はいだくと思います。
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近代以前
近代以前の世界では、人々は神を強く信仰していました。
神とはなにかと考えると「大いなる秩序」ということになるのではないでしょうか。
たとえば毎日日が昇り沈む。ここに秩序があるわけです。
我々はこのような秩序に存在を感じます。
しかしこのような秩序は我々の理解を越えていました。
このような理解を超えた秩序を神と呼んだのではないでしょうか。
私がいま生きている。そしてしばらくして死ぬ。これが繰り返されている。
これも理解不能な「大いなる秩序」であり、神の意志とされました。
このように始まった神は、様々な思わくの元、様々な宗教として大系化されていきます。
そこでは「私はとはなにか?」という問いには、「神の意志」という解答が用意されます。
そして近代以前の世界では、人々の目の前には経済的な空腹や
階級的な抑圧への抵抗があり、生まれたときから、「私の生きる目的」がそこにあったといえます。
そしてこのような状況では、私は他者に依存しなければ生きていけず
他者との関係性、集団に意味が求められました。
近代以降
16世紀の西洋において還元論革命が起こり、科学技術が成功します。
そして私たちは神を信じなくなりました。
これは「大いなる秩序」の多くを、科学思想が説明可能にしたからです。
科学思想は、秩序とは世界を細分化し、組み立てられた構造物であるという考えです。
科学技術の成功は、画期的に利便性を向上させ、物質的豊かさは、
私の自由度を向上させ、他者との関係性、集団に意味をもとめる必要性を希薄にしました。
還元論革命の中で生まれたデカルトからの存在認識論であると考えられます。
進化論において私たちの位置が説明されたとして、
私たちは、デカルトにより細分化され「私という単位」へ細分化しされ、
「私とはなにか?」「私の生きる目的」は「私」そのものの中に求められるようになりました。
わたしはかつて「曖昧な境界想定認識論」を考えていました。
たとえば机の上にりんごがある場合、それが別の存在と考えるのは私の認識に依存する。
机とりんごを知らない人はひとつのものと認識するかも知れない。
なら私の認識を疑いとこの世界に境界はなくなるのではないか。
これはまさにデカルトからの存在認識論です。
そしてこのような存在認識論では、最後には私のいった境界のない世界や独我論などの
生きる意味や存在の発散、消失へ向かってしまいます。
このように現代においても、「私とはなにか?」「私の生きる目的」は
「私」そのものの中に求められます。
そしてこのようなデカルト還元論を突き詰めれば「私に意味などない。」という虚無主義や、
究極的には独我論へ至るしかない。突き詰めれば、突き詰めるほど消失していく
これに対する流行の解答が「私は私の夢のために生きる。」というものです。
自由度が獲得し、自分自身で立脚し、価値観を見いだし、自分なりの幸福を見つける。
しかし夢を見つけられない、夢に疲れたとき、夢に破れたとき、
神がいなくなったはずの宙に向かいつぶやきます。
「わたしをなぜ存在させたのだ」と。
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非還元論的「私」
科学では、還元論的世界は破綻し、非還元論へと転換が進められています。
非還元論的「私」とはこの世界の秩序のひと形態です。
秩序とは様々な絆により内部と外部の境界を持ち得たシステムです。
この秩序はこの世界のダイナミズムにより実体化します
太陽系、地球、自然界、生命、社会、企業、家族、脳なども秩序のひと形態です
この秩序は階層的な構造を持っています
私は細胞、体の部位という秩序が集まりできており、
また家族、社会、地球、宇宙という秩序の一部です
このような秩序形態のなかでも
私はより高い秩序性、すなわち個体性をもっています
自意識という秩序は、外部と内部の境界の明確化をより強く指向します
これは意思といわれる力です
たとえば都市を考えた場合に
さまざまな絆が秩序化し、実体化しているわけですが
人と同じようにダイナミズムを持ち成長するわけですが
人のような意識を持ちえるほどの個体性を持っていません
都市はより曖昧な境界のものその他都市と絆を築き、
国家という秩序を形成しています
人の意思という個体性はそういう意味では強いもので、
さらにはこれは人の脳という構造物の高い秩序性と複雑性によると考えることができます
推測すると寿命とはこのような高い秩序性を保つことと関係しているのかもしれません
お、
お前の好きなソフィアがいるぞ
鐘突きに来い
このような単なる秩序でなく
成長するというダイナミズムをもちえるためには
確率論的な秩序と混沌の淵を綱渡りすることが必要です
秩序側に傾けば変化は停まり、環境変化という選択の中で淘汰されますし
混沌側に傾けば秩序性による境界がなくなり環境に飲み込まれてしまいます
このように秩序と混沌の淵を綱渡りするときに
秩序と言う実体は現れるのです
ではなぜに私はこれほどの複雑性を持ち得たのか
これの過程はまさに進化と言われる偶然性なせる技ということになるわけですが
人へと至る進化を一次元的に考えれば
より強い個体性へ向かう歴史といえます
自己複写性の分子構造、細胞膜という境界、有性生殖という個別化、
動物という環境からの離脱と自己判断という知能
文化という知能の高度化、
言語という知能の活用、そして自我
まさに世界からの離脱、個体性の明確化、認識能力の向上。
知能の向上は世界をより明確に認識し
世界に溢れる秩序の境界をクリアーに写しだします
そして最後に自分自身と世界の境界をコントレースすることにより
自意識、意思に目覚めます。
すなわち非還元論では、世界は機械でなく、「意味は個体そのものにあるわけではない。」
還元論的な「私の意味」という静的な認識行為でなく、
「私が世界とどのような関係性を形成しようとするかよって世界の意味が現れる」
という行為存在論へ向かう姿が現れています。
この世界には私という観察者がいなくとも秩序が発生し、そこに外部と内部という境界が現れる。
それはこの世界が動的でたえず様々な関係性が生まれては消える世界であり
そこに秩序が現れる可能性が生まれるからです
この考えでは私は世界の関係性による秩序であり、日々関係の中で変化します
行為存在論では、「私とは何か」と問うことは無意味になり、
私の存在は私の行為により現れるのです。
もしこのような非還元論思想が社会思想へ転回されるときに、なにが起こるのか。
なかなか興味深いところです。
「現実感」とはなんであるか
「現実とはなんであるのか」と考えた場合に、ヒューム的懐疑論を避けては通れないわけですが、
では、現実が懐疑論的にあやふやであるなかで、私たちは現実感をどのように認識するのでしょうか。
しろうと氏の考えでは、「反復も複製もできない単一性・固有性」ということになります。
しかし私はこれは必ずしも正しいとはいえないと思います。
「反復も複製もできない単一性・固有性」においても、現実感が欠落することはあると思います。
たとえばそれは思想的洗脳であるとかです。
私が考える現実感は、人には「肉感的な価値観」があると考えるます。
ここで「肉感的な現実感」とはなにかということになるのですが、
私が思う「肉感的な現実感」というのは、生命的なものだと考えます。
「生命的な倫理観」といってもいいと思います。
私が文明社会よりも古い生命史の中で生命としての倫理観、それは環境の中にある秩序性と
いうようなもの。それはたとえば安易に同種の生命を殺さないというようなことですが。
人の根元にもこのような生命としての倫理観が備わっていると思います。
これは、「反復も複製もできない単一性・固有性」にも関係していると思います。
そしてこれは(ヒューム的)懐疑論への反論にもなっています。生命には数十億年の生存の上に
立った「肉感的現実感」が備わっているということです。
しかし現代の我々がもつ現実感とは、このような「肉感的な現実感」を根底にしていますが、
それとはまた違ったものだと思います。
たとえば言語が人の認識を開拓した、都市の高い構造物からの眺めが、人の世界観を変えた、
TVが人の認識を変えたなどの体験による認識能力の開拓性を考えないといけないのではないでしょうか。
それは発信側と受け手側が影響しあい新たな関係性が生まれるということです。
人は文明の中で、新たな体験をして、現実感を変化させてきているのだと思います。
そして生命というのはこのような関係性に対してとても柔軟で、敏感な構造物であると考えられる
と思います。
このような生命としての倫理観に根ざした「肉感的現実感」というものに対して、
「開拓された現実感」というものがある。そしてこの「開拓された現実感」を一般的には
仮想現実的というように考えることもできます。この当たりは、定義の問題のような気がします。
現代において、「AVを見る」というような仮想現実的性行為も、一つの現実感ある性行為となりつつある。
それは生命としての順応性の高さであり、現実感は、様々な体験により内面を開拓され、
変化するということです。
しかしここで問題になるのが、このような「開拓された現実感」というものが、
「肉感的な現実感」と遊離していくという問題があるとことです。
それが様々な社会問題なっている。たとえば残酷なゲームを体験して、新たな現実感を獲得した少年
などが、「肉感的な現実感」から遊離して、安易に人を殺してしますというような問題です。
(しかし最近の少年犯罪が本当にこのような「開拓された現実感」というものが、
「肉感的な現実感」と遊離によるものなのか、あまり詳しくなく、疑問が残りますが。)
たとえば、マトリックスにおけるリアリティを考えてみましょう。
これは、どこまで「開拓された現実感」が「肉感的現実感」をだませるかの問題になるわけです。
マトリックスにおけるリアリティが、これはマトリックス内での体験であるという認識が本人に
ある時点で、「肉感的現実感」と遊離します。
もしかりにマトリクス内にいることをしらなければ、「肉感的現実感」そのものを表し、
だましているわけですから、本人にはまさにリアリティーなわけです。
しかしマトリクス的世界はあくまでSFであり、現実にはあり得ないでしょう。
マトリックスでは良くバーチャル世界の私の視点で語られることが多いのですが、
実際の肉体としての私を中心に考えるといろいろ矛盾が多いように思います。
実際の私は、カプセルに入れられて、眠りつづけ、そこへ栄養や情報がケーブルに
より送り込まれているわけですが、はたしてこのような場合に生命としての私には
なにがおこるのでしょうか。
情報と栄養だけで人は生きられるのか。
(つづき)
運動を行わない体は筋肉や各機能が衰弱していくのではないでしょうか。
このような身体的な衰弱は、神経器官にも及ぶでしょう。
いくら情報を送られても、受けての体が正常でなくなり、
それはバーチャルな世界での生活にも異常をきたすでしょう。
哲学的命題にはマトリックスのようなSFチックなものが多くあります。
たとえば瓶の中の脳であるとか。
たしかに話としては面白いのですが、それが実際ほんとに可能かという次元がなく、
知的ゲームと化してしまいます。
以前、誰かがいっていましたが、哲学的な命題においては
椅子を積み上げて月に達することも可能だろうと。
おわり
「現実感」とはなんであるか(改訂版)
「現実とはなんであるのか」と考えた場合に、ヒューム的懐疑論を避けては通れないわけですが、
では、現実が懐疑論的にあやふやであるなかで、私たちは現実感をどのように認識するのでしょうか。
私が考える現実感は、「開拓された現実感」と考えます。「開拓された現実感」とはなにかといえば、
まず人の現実感の根底には、「肉感的現実感」があると思います。
これは進化論上で生命が環境との間で関係性を持ちながら生存してきたことにより、勝ち取ってきたものです。
この「肉感的現実感」には、階層が存在し、生存に近いものほど深層にあります。
そして「開拓された現実感」は、このような「肉感的現実感」を根元として、環境との関係性で開拓していきます。
これは「現実と環境との差を埋める」というとても生理的なシステムです。
すなわち、環境への順応性というものです。
たとえば言語が人の認識を開拓した、都市の高い構造物からの眺めが、人の世界観を変えた、
TVが人の認識を変えたなどの体験による認識能力の開拓性を考えないといけないのではないでしょうか。
それは発信側と受け手側が影響しあい新たな関係性が生まれるということです。
人は文明の中で、新たな体験をして、現実感を変化させてきているのだと思います。
そして生命というのはこのような関係性に対してとても柔軟で、敏感な構造物であると考えられる
と思います。
これのような環境への順応性システムは生物においても見られますが、
人の場合、心という自己言及システムをもちえているために、その内部で想像を産むことが
できます。そしてこの想像も「肉感的現実感」を開拓します。
一般的に進化論では、環境への順応性とは、突然変異という偶然性を環境が選択するということで、
示されます。結局これでは環境順応性というのは、積極的な力をもっていないわけです。
しかし最近のシステム論を取り入れた進化論では、生命と環境を含めた形で秩序性が作られる
わけです。これはアフォーダンスにもつながりますが。
ここでは、環境順応性には、ある種の積極的な力というものが存在します。
で、人が現実感を開拓するという環境順応を考えた場合にもこれに似たシステムが考えられます。
発信側と受信側の関係性で、現実感は開拓されていくと言うことです。
そしてこの場合には、受信側の想像による補完というような、自己言及的なシステムも
考慮しないといけません。
これが心といわれるシステムですが、たとえば生物の環境順応性においてもこのような心の
自己言及システムが発生するのかということです。
たとえば蟻が環境に順応使用とするときに、このようにしたいというような想像を働かせるか
ということです。
一般的には蟻はこのような想像を働かせないと考えるわけです。
それは人というシステム(主に脳ですが)と、ありというシステムの複雑性の違いということだと
思います。
まとめると、人以外の生物では、
環境−生命(開拓された現実感(根元には肉感的現実感))
という関係性で現実感を開拓するのに対して、
人では、
環境−人(開拓された現実感(根元的には肉感的現実感))−想像
という関係の中で現実感を開拓します。
これはそれぞれが受信、発信の関係になるわけですが、想像側が強い発信者になるのが、妄想癖です。
また環境が強い発信者になるのが、仮想現実です。
どちらにしても現実感というのは主観的な要素が大きいと言えます。そして通常は、「肉感的現実感」の
さらに深層と環境との強い結びつきが、人を「現実的」に保っていると考えられます。
妄想であて、仮想現実であれ、その深層と環境の関係性を崩すことはむずかしいということです。
ただ夢や睡眠術、薬物などの場合は、根元的な「肉感的現実感」までの欠落させる効果があります。
より強く仮想的な現実を作り出す可能性があります。
ただこの場合には、継続性という問題があります。生命には肉感的現実感からの離脱に対する
反動というものがあるのではないでしょうか。それは長期的な「肉感的現実感」からの離脱は
生存に大きくかかわるからです。
しかしマトリクス的世界はあくまでSFであり、現実にはあり得ないでしょう。
マトリックスでは良くバーチャル世界の私の視点で語られることが多いのですが、
実際の肉体としての私を中心に考えるといろいろ矛盾が多いように思います。
実際の私は、カプセルに入れられて、眠りつづけ、そこへ栄養や情報がケーブルに
より送り込まれているわけですが、はたしてこのような場合に生命としての私には
なにがおこるのでしょうか。情報と栄養だけで人は生きられるのか。
運動を行わない体は筋肉や各機能が衰弱していくのではないでしょうか。
このような身体的な衰弱は、神経器官にも及ぶでしょう。
いくら情報を送られても、受けての体が正常でなくなり、
それはバーチャルな世界での生活にも異常をきたすでしょう。
この意味では、マトリクス的完全な仮想現実は非現実的ということになります。
155 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/01 00:19
現実を再現できなくても、もっと簡易的に人の「肉感的現実感」に高い添容性を持たす方法と
しては、「トゥルーマンショー」が考えられます。
しかし現実の社会生活で嘘を付くというと同じことと考えられます。
このように考えると、人の現実感を「狂わす」ことは、容易であるように思います。
そして人はそのような虚像をも取り込んで、「開拓された現実感」を作り上げて、順応しようと
するということでしょう。しかしこの場合にも、「トゥルーマンショー」的に主人公が空腹であることを
満腹なような仮想現実を作り出すことが困難なのは、根元的な「肉感的現実感」を騙すのは
難しいというこでしょう。
156 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/01 00:28
>>153と154の間が抜けました。
たとえば、マトリックスにおけるリアリティを考えてみましょう。
これは、環境が強い発信者になる仮想現実ということになるわけですが、
環境からの発信が、そこまで「肉感的現実感」に添容性を持ち得るかということになります。
これは過激すぎても、「肉感的現実感」に違和感が生まれます。
「肉感的現実感」に高い添容性を持たせた場合には、現実感をもたせることは
可能だと思います。
おまえの「肉感的現実感」も、
電極で刺激を与えられた脳の反応
かもしれない。
☆キキ+キ゚Д゚♪
メールチェックがてらに、みにきてみたんだけど・・・
あんたら、他にすることないの?
理屈こねれても時事の流れ感じれないと
意味ないよ・・
>ぴかぁ〜さん
ぴかさんの文章読みました。大体の部分賛成出来ますね。ちょっと「肉感的現実」
の部分で違和感があったので再読してからまたレスします。
ぴかの論では「肉感的現実」の説明(具体的な例)の部分がちょっと弱い。
歴史で説明するとして、具体的にどの部分が肉感的なものなのか?そこらへん
の具体例を挙げたら説得力を増すと思う。
あと、別の問題になるけど、ぴかは性格が幾つかあると思われてると思う。
だからマジレスされにくいのかな。
「開拓された現実感」 うまい表現。納得した。
>あと、別の問題になるけど、ぴかは性格が幾つかあると思われてると思う。
>だからマジレスされにくいのかな。
それもありますね(w
あと分野的な問題もあると思います。
この説はシステム論をベースにしていますので、
なかなかこのような知識を持たれている方がいないように思います。
他のスレでもシステム論についてのレスしている人は見たことないですから。
165 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/03 15:03
まばたきをしてその前の世界と後の世界が同一である事の証明
この問題において、「まばたき」は「認識の遮断」を意図しているとを考えられます。
「認識の遮断」の前後で、世界が同じと言えるのか。
通常ならば、懐疑論的に世界が同一とは言えないと言うことですが、
ポイントは「まばたき」にあると思います。
「まばたき」は視覚情報の遮断を意味するものです。人の体は皮膚呼吸するなど
世界を感知するセンサーですから、視覚以外で世界の連続性を認識していると
考えることができます。
すなわち「まばたき」では「認識の遮断」を意味せず、私は視覚以外で世界の
連続性を認識していると考えることができます。
これは「まばたき」をしてその前の世界と後の世界が同一である事ことを示しています。
このことが示すことは、「まばたき」という物理現象を「認識の遮断」として使うことにより、
私の前に現れるのは、物理的世界でしかないということです。
物理的世界であるならば、私の「生」がこの世界の連続性を保証するのです。
この命題は、物理学的世界と認識論的私を一つの世界に入れることから矛盾が生じていると
考えることができます。
167 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/03 15:08
ではこれを認識論的私と認識論的世界で考えると「まばたき」の間に変わる世界は
説明できるようにおもいますが、この場合、私の認識と世界と切り離す手段がなくなります。
「まばたき」は物理的世界の視覚遮断方法でしかないからです。
「認識の遮断」するという概念はそもそも懐疑論的にも破綻していると思います。
この問題はそのものにコギト・・・のデカルトの要素還元論的な認識論思想が含まれていると
考えられるのではないでしょうか。すなわち私は世界から独立して自立可能である言うものです。
そしてそのときに懐疑論が成立するということです。
懐疑論では私は世界から独立して自立可能であるとう前提をもとに、世界を私の中に
認識論的世界として構築しるために、成立するのです。
この場合には、認識論的世界は遮断のように認識論的私の外に出すことはできないのです。
世界を私の外にだしてしまうと物理学的世界が現れるという、矛盾がおこるのです。
懐疑論的にいえば私が「まばたき」したことも経験的考察でしかないということでしょう。
よってまばたきをしてもその前の世界と後の世界が同一であるのです。
ここで面白いのが、たえず認識論的私の中に認識論的世界があるということです。
私たちは死ぬまで、認識論的世界から離れられないということです。
眠る、気絶するなども経験的考察でしかない。不確かなものということです。
この当たりはさらに考察する意味があるように思います。
おしまい
「心とは絆を結びつづけることである。」
私はなんであるのか。私は秩序です。
私は環境からのインプットと環境へのアウトプットという開放系の中で
その秩序を維持しています。
だから私は私でいられる。このような環境から切り離されれば、私は維持されない。
しかしここで面白いのは、私という秩序は私だけではなく、環境も含めた
秩序が形成されているということです。
では、なぜ私は私の個体性を認識しているのでしょうか。
答えは物質的、空間的な境界にしかありません。
私は環境と物質的な境界(すなわち体)を持ち得ているから私なのです。
私は環境の外に出て私は維持できませんが、私は環境の中で
私の体の回りの身近な環境を置き去りにして移動することができます。
これは私には体という物質的、空間的な境界があるからです。
そしてさらに重要なことはこの物質的、空間的私の認識には
観察者が不可欠であるということです。
観察者が観察するから、境界は認識されるのです。
人の場合には、観察者は自分自身でもありえます。
では観察者から自立し、環境も含めた秩序とは何であるのか。
私と環境との秩序は物理的、空間的境界をもちえません。
それはプロセスそのものが構成要素になるためです。
そしてプロセスが継続されることより私は様相を表します。
たとえば社会、進化の境界のない秩序性も同じです。
また怒り、やさしさ、幸せなども同様に物理的境界を持たない秩序です。
この場合の私とは「心」という概念に近いように思われます。
この場合の私は(心は)どこにあるのか、ということは、社会は、
進化はどこにあるのかと同じで無意味です。
この場合、私の大切なものも私の心を形成する一部なのです。
私(心)とは物質的、空間的な境界を持ち得ない、
「絆」を結びつづけるというプロセスの継続により
様相を表すものなのです。
おしまい
171 :
ぴかぁ〜 :04/01/09 02:03
世界に誇れる、哲学者て誰ですか。(日本人)
どうでしょう
173 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/14 23:11
ハニカムハーツhoneycomb hearts 蜂の巣状化する心たち
<社会と心>
心とはなにか?心はどこにあるのかという疑問がある。体をきりきざんでもみえない。
明らかに心は体の中にあるし、特に脳の働きがになっているはずである。
肉体の構造はほとんど生得的である。生まれてからの栄養などにより変わるが、構造自体は
DNA配列により決定されており、各人大差はないし、それは数十万年前の人類と大差なく
さらには猿とも大差が無い。
このような生得的な肉体構造の意味を考える場合には進化を考えなければならない。
私たちの肉体構造は生命の進化過程で勝ち得て来たものであり、進化過程には肉体各部の
意味を見出だすことができる。
174 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/14 23:11
進化とは環境圧による選別である。遺伝子のランダムな突然変異による肉体の変化に、
環境圧がかかり、生き延びたもののみが進化としてみとめられる。
しかし最近の研究では進化はかならずしめ突然変異ではないと考えられている。
それは生命と環境という一つのシステムの中で環境が変化することにより必然的に生命が
変化するということであり、生命システムとは環境も含めたシステムであるということである。
どちらにしろ肉体と環境の結び付きは強く、進化というシステムの中で培われている。
では心とはなにかにもどると、私は心はかなりの部分が生得的であると考えている。
それは肉体、生理に大きく依存しているからである。しかしそれでも心の個性的な部分は
みとめなければならない。生まれてからの社会環境、教育など経験により様々な心が作られる。
これは体が環境とのシステムであったように、心が社会と言う環境とのシステムであるといえるだろう。
175 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/14 23:12
<心の時代性>
心を社会、文化によりつくられると考えると心の構造の時代性がみえてくる。
かつては社会は強固な社会規範という価値観により作られていた。階級構造があり、家長制度が
あり、そこにある規範は論理では無くただ絶対的な規範が支配していた。このような社会システムは
心に多大なる影響を及ぼす。このような明確な階級制、封建制にかたどられた心は、まるで
ジグソーパズルのワンピースのようにである。社会システムというジグサーパズルの一部として
はめ込まれてる。
しかし世界に科学革命が起こり、従来の論理性のない規範はぐずれはじめる。そして心は社会規範の
たがから開放されはじめる。民主化はこのようなそれぞれの心のたががはずれ、心が自立しはじめた
姿である。そして産業革命を経て物質的に豊かになった心は肥大しはじめる。
176 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/14 23:12
しかし問題がある社会において心は無限に肥大できない。なぜなら多くの心が肥大すれば衝突は
まぬがれないからだ。しかし絶対的価値観を失った今、どのように心を規定するのか。
それは各自が心の境界を産出するのである。このときの価値観は個人の価値観、すなわち趣向である。
自分の趣向により自分の心の境界を作るのである。
ここでおもしろいのが、本来各人個性的であるはずの心が社会的な規約の欠如により、マクロ的には
没個性化に向かうことである。ミクロでみると自分の趣向で作られたそれぞれの心がマクロでは
秩序が欠落した社会の中でこじんまりとまるで蜂の巣のように個性を失い、これが現代の心の姿では
ないだろうか。
蜂の巣化した心…
このキーワードで現代の心を見ていくと様々なものがみえてくるように思う。
177 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :04/01/14 23:13
<ハニカムハーツの特徴>
この心のハニカム構造を再度説明すると、合理的価値観を失った社会では、心はかつてのような
社会システムにより心を規定することが難しくなる。このために心は自分の価値観=趣向により
自己産出される。またこれは社会規範が低下した社会では心は
自然に自己防衛的に他者と一定の距離保つために、心の大きさは均質化する。
これはまるで心が一つづつの穴を形成する蜂の巣のように状態になる。
このハニカムハーツの特徴をいくつかあげると
・心の趣向化
趣向で形成された心は好きか嫌いという価値基準にもつ。
・心の個室化
趣向で仕切られた心は他者との密接なコミュニケーションを難しくする。
・心の幼児化
他者との接触をさけ、趣向により形成された心は体内回帰のごとく幼児化する。人間的に
成長するとはかつては社会性を身につけることを表した。他者との関係を避ける心は成長しない。
・心の孤立化
他者との関係性を回避し趣向により個室化する心はくつろぐ半面、強い孤独感にさいなまれる。
このために逆説的にはコミュニケーションが大きな価値を持つことになる。ハニカムハーツでは
心を保つために自己の趣向を守りながら、多くのコミュニケーションをもつことに価値を見出だす
パラドクスが生じる。
178 :
キノコのこころ:04/01/14 23:55
DNAという観点から言えば、キノコもぴかぁ〜も大差ない。
>176
しかし問題がある、社会においては心は肥大化できない
しかし、問題がある社会においては心は肥大化できない
句読点の置き方でだいぶ意味が変わるな。前者だとなぜ肥大化できないのか説明が不十分だし、そもそも「心の肥大」って何?
後者だと、「問題の無い社会」ってどんな社会なのかと。
>句読点の置き方でだいぶ意味が変わるな。前者だとなぜ肥大化できないのか説明が不十分だし、そもそも「心の肥大」って何?
>後者だと、「問題の無い社会」ってどんな社会なのかと。
はっきり言って、あなたの読解力にこそ問題があると思うのですが。
文脈から言って話題を転換しているわけだから、明らかに前者でしょう?
これを絞りきれないのはどういうわけかと思います。
それで、「なぜ社会で肥大化できないか」って、厳密に説明しなくても
感覚的に呑みこめません?ぴかー先生の今回の主張の中心はそこではないのですから、
その点に詳しく説明をおかないのは当たり前だと思うのですが。
181 :
考える名無しさん:04/01/15 00:36
またたきをすると世界が消えるなどと言う説は初耳なんだが。
182 :
考える名無しさん:04/01/15 00:47
>180
ぴかぁ〜先生wの今回の主張って何なんですか?
183 :
考える名無しさん:04/01/15 00:50
ぴかぁ〜先生はカニハムハーツを評価しておられるわけですか?
184 :
考える名無しさん:04/01/15 00:52
まばたきをしても「視覚」のみが影響を受けるだけなのにね。
その「視覚」すら黒が見えているのだから、そこから「世界」に
繋げるのは、いわゆる「詭弁」ですな。
ぴかぁ〜さんにお聞きしたいことがあります。^^
ハニカムハーツは結局、望ましい事なんでしょうか?
どんなお気持ちでハニカムハーツを見守ってらっしゃるのです?
あ、
>>183さんも同じ事聞いてるや。
まぁいいか。
>>186 それは、人が近代化したことは良いことだったのかと同じです。
良い面、悪い面がある。
見守るもなにも私もハニカムハーツの一人ですから。
ここは内容の濃いスレッドですね
190 :
考える名無しさん:04/01/24 02:54
ぴかぁ〜っと
心理学化するハニカムハーツ
昨年の大晦日、三つテレビ局が格闘技の放送を行った。まさに格闘技ブームである。
かくいう私も大好きである。なにがそれほどみなを熱狂させるのか。
そこに現代が失いかけている大きな物語が存在するからではないだろうか。
かつてジャイアント馬場になら勝てるというジョークが流行った。しかしプロレスの
リングの上にはかつてと変わらず勝ち続ける強いジャイアント馬場がいた。
これは大衆が、リングの上の表層でなく、プロレスの内部の演出を見抜いているから
である。年老いたジャイアントはほんとはそんなに強くないだろうと。
かつては大衆はプロレスの表層のみを見て熱狂していた。そこには主体としての
プロレスラーと客体としての大衆がおり、その境界は明確であった。
そして境界の外の客体には、内部は大きな物語が進む姿が見えた。
それに素直に熱狂したのである。
大きな物語とは、主体と客体と明確な境界があり、その表層のみしか見えないために
語られる「神話」である。ここでは客体は完全なる客体化する。
われわれはすでに純粋にものごとの表層のみを見ることができなくなっている。
表層の奥にある内部に見ようとする二重構造化でしか、世界を認識できない。
これは「心理学化する社会」といわれる構造だろう。
日本においては、このような物語の解体は、80年代に起こったと考えられる。
その象徴がTVにおける漫才ブームだ。そしてその中心人物がビートたけしである。
それまでのTVは、大きな物語を語る装置であった。TVに出演する主体と、見る大衆という
客体に明確な境界があった。しかし漫才ブームでは、内部にいる主体が、内部演出を
暴露し、大きな物語を内部から破壊していった。
バラエティー番組というジャンルにおいて、主体内部の演出そのものを見せネタにすることに
より大衆を笑わせる。
このようなTVにおける二重構造の露呈は、その後の大衆の視点の二重構造化を促進した。
一時期、現代は演出過剰の時代と言われた。ブームは仕掛け人により作られる。
仕掛け人は、より巧みな仕掛けを考え出そうとした。そしてさらに大衆はその内部を解体しようとした。
内部を見たいというのは一つの社会的な欲求になっています。
簡単な例では、写真週刊誌の暴露ネタはこのような欲求が支えている。
しかし大きな物語が解体されていく中で、大衆は単に大きな物語をみたいという、
近代的な思考ではなく、新しい動きがある。それがハニカム化である。
解体された大きな物語に自分が入っていこうとしているのである。
すなわちシミュラークルをつくるという行為である。
動ポスで東氏が示したエヴァンゲリオンの構造では、エヴァンゲリオンという物語は
解体され、オタクにより大量のシミュラークルを産む。
シミュラークルは大量に生産されることにより、「エヴァンゲリオンという新しい世界」が
生まれる。そして作り手もそのシミュラークルによる「エヴァンゲリオンという新しい世界」
の内部を解体しさらにシミュラークルをつくりだす。
ここにはもはや主体と客体という明確な境界はない。
ただそれそれが関係し組織化し、一つの物語がダイナミックに成長していくのである。
このようなダイナミズムは、女子高生のファッションにおいてもみられる。
女子高生は高校に入るから女子高生になるわけである。
これは社会的なルールにより、自分の立場が決められるということである。
従来は彼女たちはこのような社会的なルールによって女子高生になったのである。
しかし現代において、女子高生になるということはもっと複雑である。
社会には、大衆を客体とし、女子高生を主体とした境界があり、そこに物語がある。
その物語とはある面清純であり、ある面男達の強い欲望の対象である物語である。
女子高生たちは、その物語を演じることで女子高生になるのです。
そしてさらには、その物語を内部から解体し、シミュラークルを生み出すのです。
そのように大衆と女子高生が、主体となり客体となり、ただそれらが関係し組織化し、
一つの女子高生という物語がダイナミックに成長していくのである。
2ちゃんねるは、オタク系文化よりもさらに先鋭的なFフューチャー的ではないだろうか。
2ちゃんねるは、このようなダイナミズムを促進させる構造を、装置化にまで
発展させている。
スレッドとはなにかと考えると、物語の提示である。
たとえばある人が「なんのために生きているのだろう」というスレッドを立てたとする。
これは疑問であるが、実はそこには「生きる」というイメージが存在する。
それは、スレを立てた人により説明されるかも知れないが、説明されなくても、
住人の中で漠然とした共有されたイメージがあるのである。
すなわちスレッドを立てるとは、物語を解体してください、という提示なのである。
それに対して参加する人が、レスをつけて物語を解体し、そしてシミュラークルを
作りだす。
Fフューチャー的ダイナミズムの循環成長構造<物語→内部を解体する→シミュラークルが
作り出す→(物語)> 行われているのである。
しかしスレッドは多くにおいて発散的である。実はこのダイナミズムな構造とは
必ずしも何らかの秩序を形成するとは限らないのである。混沌と秩序の狭間で揺れ
ながら、混沌へと向かうこともあれば、秩序へ向かうこともある。
そして成長とはこの間を、綱渡りすることである。
スレッドが面白くなければ、成長しないし、ただただ発散することも考えられる。
このように現代は<物語→内部を解体する→シミュラークルが作り出す→(物語)>
という循環を無数に繰り返すことにより、さまざまな物語がダイナミックに
成長している。これは大きな物語ではない。ここにはもはや主体と客体という
明確な境界は存在せず、大きな物語を語る相手がいないのである。
ただすべてを巻き込んでダイナミックに成長していくだけである。
これはまさにポストモダン的であり、Fフューチャー的である。
そしてこのような現象には、大衆の心理学化という二重構造の認識と、
さらにはダイナミズムを促進させる情報化が必要である。
例えば近代的システムである政治においける内部は、もはや陳腐化している。
毎度毎度、保守的な議員による当たり障りない決め事、汚職や賄賂で捕まる政治家。
ここにはいまだに、政治家という主体と、大衆という客体の構造でできている。
Fフューチャー的物語のダイナミックな成長が起こらないのである。
小泉人気というものは、このような政治の陳腐化した内部において、
客体である大衆の意見を反映してくれる。すなわち主体と客体の境界を崩して
ダイナミズムを生み出すキーになることを期待してのものかも知れない。
しかし私はこれが単に政治家のせいとは思わない。抵抗勢力を悪者のようにいわれる。
しかし抵抗勢力を指示する大衆が確実に多数いるということである。
現代は、Fフューチャーではなく、まだポストモダンなのである。
まだまだ多くの人が近代的なのである。そして人が一度身につけたものを
変えるのは困難である。だから人には環境変化に対応するために
寿命という定期的な新陳代謝システムを持っているということである。
そして確実に社会は、さらに情報化されていき、Fフューチャー的にダイナミックに
成長するのである。
はじめに戻ると格闘技ブームは、このような時代においても大きな物語を作っている
のではないだろうか。格闘技に参加する格闘家は、特別な存在である。
彼らの肉体的な強さは簡単にまねする(シミュラークルを生み出す)ことなどできない。
格闘技の前では、我々は純粋に客体になりきることができる。
大衆はこのような内部を探り、解体にも疲れている。そして解体されないものを
求めているということも言える。だから我々は純粋に熱狂するのだろう。
おしまい
200 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:53
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
深く掘り下げれば真実が見えてくる、、、
そんな☆キキ+キ゚Д゚♪の哲学HPはココ↓
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8862/ 僕の哲学は、学問ではない。
人間が生きていく中、背負うべき道徳なのだ。(HPより抜粋)
孤独を越え、闇から光を見出した☆キキ+キ゚Д゚♪だからこそ言える!
もう何も迷う事は無い、、、
☆キキ+キ゚Д゚♪に触れ、明日への一歩を踏み出すのだ!
201 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:53
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202 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:54
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203 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:54
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204 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:55
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☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:55
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206 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:56
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207 :
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208 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:57
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209 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:58
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
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210 :
☆キキ+キ゚Д゚ ◆qpmo.OOqAo :04/01/25 01:59
哲板最強のカリスマ・☆キキ+キ゚Д゚♪が満を持して再登場!
物事に表面上の美しさを求めるな、
深く掘り下げれば真実が見えてくる、、、
そんな☆キキ+キ゚Д゚♪の哲学HPはココ↓
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孤独を越え、闇から光を見出した☆キキ+キ゚Д゚♪だからこそ言える!
もう何も迷う事は無い、、、
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211 :
考える名無しさん:04/01/25 01:59
☆キキ+キ゚Д゚♪よ、明日への一歩を踏み出すのだ!
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
<存在、言語、記号の世界>
*認識の原型
生命の認識の原型は、存在認識である。それは「あるもの」という認識、存在認識である。
意識という力により、この世界の中に境界を想定し切り取ることである。
そして存在認識するとは、私内部に心象を描くことである。
心象は個体内部に、五感を通して受けた情報がおよび内的な記憶、生理の
変化全てに対して総合された形で現れる塊のようなである。
たとえば神経生理構造においては外的刺激そのものが内的に現れるわけではない。
刺激は内的な心象として認識されるのである。
ここには有意識も無意識もない。それらを含めた内的なものだからである。
たとえば、赤い丸いボールの存在認識とは、外部の認識し得ないボールそのものに対して、
知覚を通して、内部に描かれる赤い、丸い、など情報の総体、すなわち心象である。
*個体における存在認識の世界
存在認識が生命の認識の原型であるとは、すなわち人または生命は「あるもの」としてしか
認識しえないということである。
人は進化において存在認識能力を向上させてきた。
カエルは動くものと動かないものにしか境界を引けず存在を切り取れない。
下等な動物は世界を切り取れる力、意識力が弱い。
これは五感の能力ではない。人は犬の嗅覚には及ばないし、鷹の視力には及ばない。
存在認識とは、知覚した「目の前」のものを基本とする。
「目の前」のものとは唯一無二の存在である。
「目の前」のバナナは世界の中で「目の前にしかない」バナナである。
それは内部に一度かぎり現れる唯一無二の心象である。
そしてそのバナナを食べた場合には味覚としてのおいしいという情報が加わり
バナナの心象は作られる。
そしてこのバナナ1の心象が記憶された場合に、
次にバナナ2を存在認識した場合には、バナナ2とバナナ1の心象の記憶は比較される。
そこで近似的であることにより、同類性が確認される。
そしてバナナの存在認識が繰り返されることにより、内部にバナナの最大公約数的心象(心象類)が
形成される。黄色く、長く、おいしいというバナナの「心象類」が形成される。
さらにこのように記憶に様々な心象類が存在する場合、
「みかん」という心象類と「りんご」という心象類の最大公約数から、「たべもの」や「おいしい」などの
高次の心象類が形成される。
また「リンゴ」と「丸い木」では、「丸い」、「赤い」などの高次の心象類が形成される。
このようにして存在認識は、心象類を階層的に形成した記憶構造を形成する。
そしてこの心象階層構造の複雑性は、意識という力の強さによる存在認識能力により
決定される。
*集団における存在認識の世界
個体における心象階層構造を示したが、集団性を考慮する必要がある。
個体とは階層の集団であり、上位層の個体の一部である。
すなわち私は細胞の集まりであり、社会の一部であるということである。
集団とは単に集まったものでなく、そこに共有された「情報」が存在すると
いうことである。これは私は細胞の共有された「情報」をもち、
社会の共有される「情報」をもっているということである。
まず大前提としてはほぼ同じ心象発生システム、すなわち生理システムを
もっているということが前提にある。
その上で「情報」の共有として考えられるのが、体験の共有である。
単純には空間的な近さと、近さの時間的な持続長さである。
小さな集団(人ならば家族や友達や恋人など)とても体験の共有性が高い。
そこにはコミュニケーションがあり、個体と同様に、集団の中に心象階層構造がおこる。
彼等の中の「バナナ」の心象類はとても近いものになるはずである。
心象階層構造は多くにおいて他者と共有されているということである。
すなわちこの心象階層構造は私という個体の内部にあるものでなく、
コミュニケーションにより、社会という個体の心でもあるといえる。
しかし世界を切り取れる力、意識力が弱い下等動物における高い集団性は、
遺伝子という先天的情報の伝達によるものが大きいだろう。
蜂などは遺伝子により、肉体形態までが、集団性により規定されている。
彼等は生まれながら社会という集団性を形成するための共有された情報を
もちえているのである。
生命は多かれ少なかれ、このような先天的な共有される情報を持ち、共有性を
維持しているのである。ではどこまで先天的でどこまで後天的か?
これはむずかしい問題である。
なぜならこのような遺伝子情報はそれのみで完結していないからである
すなわち遺伝子情報は可能性を秘めた情報だからである。
後天的な体験により現れたり、死ぬまで現れなかったりするのである。
これが一番わかりやすいのが種間の共生関係だろう。
ある種の植物と昆虫は、遺伝子情報はお互いの存在がいる可能性が組み込まれている。
ある植物は限定されたその昆虫がやってくることによってのみ受精が可能である。
これは人についてもいえる。私たちの体には無数の細菌が生活している。
生まれて、もしその細菌が体に入らなければ我々は生きることができない。
生まれて細菌がはいることを想定して、遺伝子情報はできているのである。
すなわち後天的な体験を予測して遺伝子情報はできていることであり、
一見、後天的な体験により手に入れたと思われた情報も先天的遺伝子情報の
スイッチでしかないことが考えられるのである。
バナナのおいしさは食べてからわかったのか?食べる前から知っていたのか?
生命は、言語習得の前に遺伝子情報の共有、そして空間的に近い個体間の
体験の共有により集団的な心象階層構造を持ち得ていたと考えられる。
このような考えは、ソシュール言語論に対して二つのことを示唆する。
一つ目はソシュールの言う認識の原型は言語であることを否定すること。
二つ目はソシュールの言う言語が差異構造を持つ理由が
言語に先立つ心象の階層構造にあるということである。
このように言語を持たない生物の認識では、集団に共有された集団的心象類と
そのときに一度だけ宿る個体的心象の二重構造でできている。
心象類は抽象的で、コミュニケートが難しいために、緩やかであろうが集団内の
コミュニケーションにより時代的に変化する。
言語を持たない生物の認識は、集団的心象類に拘束されながら、一度かぎりの
個体的心象を描くことである。
*言語認識の社会
人は心象類に言語表現というラベルを与えた。
さらに心象類自身を言語表現により説明することにより、社会的に共有された
言語意味を与えた。ここにラングとしての言語が体系される。
しかし心象類に言語表現というラベルを与えながら、その心象類をラベルにより
言語意味を与える行為は、存在認識を存在認識するという自己認識的行為である。
人の自意識はこのようにして取得されたのではないだろうか。
そして曖昧な心象類が言語化されることにより、存在の社会的な共有性を高め、
コミュニケーションが容易となった。
コミュニケーションとは自己の中に生まれた一回限りの心象を相手に伝えようと
いう行為であり、まず伝えたい事が先にある。
しかし伝えたいこととは、自己の中にある抽象的で、無意識的な心象である。
そのために社会的に共有された言語(ラング)が用いられるわけであるが、
心象を社会的言語(ラング)体系のみで伝えるには限界がある。
このために言語は、より心象を伝えようと道具として創意工夫され、つかわれる。
これがパロールである。
たとえば言語以外でのコミュニケーションを考えると、
両手で強く握手するという方法を選ぶかも知れない。
ハグするかも知れない。
または満面の笑顔を浮かべるかも知れない。
はにかみ、目を伏せるかも知れない。
相手を叩くかも知れない。
このような行為は、自己と相手含めた状況の中で選ばれる。
それがどのような場所なのか、自己と他者にいままでの関係性、
他者の性格が考慮されるだろう。
言語において同様である。
パロールという言語の利便性は、時代性の中で体系化され、社会的言語(ラング)を変化させていく。
しかし言語(ラング)は、社会的な共有性が要求され、社会的な拘束を含んでいるが故に、
時代の中で記号組織化しつづける言語の一瞬を切り取り、体系化したものにしかすぎず、
たえず差異が存在する。
それは社会的な言語(社会的な言語表現+社会的言語意味)と個人的な心象という
二重構造によるものである。
ただこの二重構造においては、社会的な言語(ラング)構造は、存在認識により
心象を生むという構造そのものをも侵食している。
*記号認識という現代社会
記号論では、対象物を記号ととらえ、直接知覚できる事象という「記号表現」と、
直接は知覚できない「記号意味」でとらえる。記号意味とは、直接は
知覚できないが無意識的な意味である。
たとえば「テーブルの上に置かれている一つリンゴ」の記号表現は、果物、丸い、赤い、木になるである。
そして「テーブルの上に置かれているリンゴ」の記号意味は、例えば「寂しさ」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「果物−丸い−赤い−木」と、新たな「果物−丸い−赤い−木−寂しさ」との
間で差異を生む。
たとえば「女子高生」の記号表現は、高校、女性、若いである。
そして現代における「女子高生」の記号意味は、例えば「退廃」を表しているとすると、
それは従来の心象階層構造、「高校ー女性ー若い」と新たな「高校ー女性ー若い」との差異である。
記号表現は、社会的に静的な意味であるのに対して、記号意味とは、動的な意味としてとらえられる。
これは社会的に体系化された言語(ラング)と、体験という個人的心象を動力とし記号組織化し
つづける言語との差異を解明することいえるかもしれない。
そしてポストモダンにおいて記号論が大きな意味を持った理由は、ポストモダン以降では
情報化社会の中で言語記号意味の記号組織化は、今までにないような加速度的に
ダイナミックに変化しているのである。そして差異が広がっているという現状が
によるものを考えられる。
そして記号論という行為そのものがポストモダン的なダイナミズムの内部にあるのである。
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228 :
ぴかぁ〜 ◆wMDHqGPerU :
補完