>>214 この内容を理解できないのはお前が哲学者の文章を理解できていない証拠
一から読み直せ
>>214 なるほど凄いですね。
で、あなたが「論理と哲学者の文章の説明形式で、妄想の域を出た」
哲学上の具体的な文章とはどのようなものでしょうか
鷲田、渡辺二郎、木田元
ラッセル、カント、ホスパーズ 等等
取敢えず、評価を受けた院レベルの論文から分析しろ
時代背景、定義誤解などの批判は数多くあるが、最低限214の違い
は視野に入っている
具体的な文章は自分で調べろ、甘えるな
その甘えがお前の論を妄想にしてるんじゃないのか?
無理ならお前の論が何故ここまで無視されてるのか自問しろ
>なるほど凄いですね。
本当に判ってるのか?
この4分間のレスの間にこのスレだけでもお前の論を見直したのか?
気安くなるほどなどど言うな
>具体的な文章は自分で調べろ、甘えるな
かけてもいいですよ。あなたはかけません。
理由はあなたがご存じでしょう。
何で俺が書けるかが問われすのか?
>かけてもいいですよ
匿名掲示板で吼えるなよ
理由はお前こそ判ってるだろう
今お前と俺しかこのスレにいないみたいだな
このレスでお前は独りになるかもな
自演無しと仮定して
お前が理解する気が無いのはよく判った
これ以上のレスは無駄のようだ
過去にもお前に説教して諦めた奴たくさんいるんだろうな
>220
・・・。
222 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/01/06 02:22
なんか眠れないのでレスしますね。
このスレは現実の感覚を騙せるかという様なテーマですよね。
それで何と言うか
>>191の>刃物を持った人に襲われたとき嬉しいと思えるか
という風に問いを立てられるととてもレスし辛いですね。そりゃ嬉しいとは思わないでしょ。
間違ってはいないだろうけど不満なのはもう少し遊び心が欲しいところかな。
・・・事情は色々あるよね・・・。
224 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/01/06 02:23
225 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/01/06 02:28
それでルビンの杯とかうさぎあひるの頭とか多義図形というのがあって
絶対に同時に見れない反転する図形がある訳です。
われわれは認識はとこかくせめて知覚ぐらいは騙されないだろうと思う訳です。
ところが最も基本的な視覚の段階で既に不完全な訳ですよ。
認知系の話だと神経がどうとかいう話になりますが哲学としては
エッシャーとゲーデルの関連とかにいきたいですね。
とにかく反転図形では面積零の線という概念は成立してますよね。
「実現してしまったイデア」(傍点振りたい気分)とでもいいますか。
錯視を考えるのは面白いと思います。
理想を仮想に求めてそこでの現実感を完全制御するのは不可能。
とかそういう話かな。
仮想現実を限定的にシミュレーターとして活用する事は可能ですね。
ただし、それが複合現実ともなれば意味合いが異なってくる訳です。
というか、そもそもなんで
>刃物を持った人に襲われたとき嬉しいと思えるか
が必要なの?別に刃物をもった人に襲われない普通の日常を嘘として見せれば騙せるんじゃないの
>>220 かけなかったでしょ
ではあなたがわかっていないという仮定で
あなたがいう意味で妄想でない哲学などないのでよ
ではまたのお待ちを
テーマ設定についていろいろいくつかでていますが
ここでのテーマはスレ題のままです
制御です
錯覚ではありません
錯覚程度なら心理学板でことたります
制御することが不可能なのです
マトリクスや瓶の中の脳を幼稚なお伽話化するのです
悪しからず
哲学などないのでよ
→哲学などないのですよ
ではまたのお待ちを
→ではまたのお越しをお待ちしています
(日本語訳)Tar ◆SQIDAUQYpc
232 :
しろうと ◆AUSirOutoE :04/01/06 22:02
>>230 そもそもマトリクスや水槽脳はSFや思考実験で
実際に出来ると言ってないから幼稚なお伽話化と言われても。
でも身体はともかくCG技術の発達なんかで視覚は騙されていますよ。
映画を見てて実写とCGの違いが分からない事はよくあります。
もしそういう話ではだめというなら「現実感」とか「制御」の
定義の話に関係してくるでしょうね。
>マトリクスや瓶の中の脳を幼稚なお伽話化するのです
そろそろ誰か突っ込んでやれや。「瓶」の中の脳ってw
全く読んでないことバレバレヤンw どうせ懐疑論の文脈で勝手に妄想してんだろ、このアフォは。
批判は相手を理解してからにしろ、ってことの意味が未だにわからんようだなw
>>233 ダメとかの問題でなくスレの主旨ということです
しろうとさんのいうような内容は
心理学、大脳生理学などですね
235 :
考える名無しさん:04/01/08 10:53
いーんじゃない、今のところ不可能って事で。
この先どーなるかは解んないけどね。
いや、あたしは頭悪いからホントの事は全然
知らないけどもさ。娯楽映画でしょ?
お伽噺化もなにも・・誰かに 〜化されなくとも
最初からただの娯楽でないの。
いいんじゃないですんだら哲学はいりませんよ
237 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 12:54
催眠術で水を熱湯だと信じ込ませた後、
その水をかけると火傷をするという
事例を耳にしたことがあります。
この場合はどうなるのでしょうか。
まずその話の信憑性、それと睡眠術の継続性の問題がありますね
239 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 13:12
ぴかぁさんのいっている無意識と有意識(とあなたが呼ぶもの)の関係は
本来とは逆転していると思います。
たとえばぴかぁさんはなぜ権威に反抗的なのでしょう。
その理由は無意識にあるのです。有意識が無意識を統括している
ならば反抗的な理由は有意識になければなりません。
しかし有意識よりも無意識のほうがより根源的なのです。
240 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 13:14
>>238 たしかに継続性については問題があります。
241 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 13:19
>>237 補足します。
「コップに入った水を熱湯だと思い込ます。」です。
242 :
考える名無しさん:04/01/08 13:41
ぴかぁ〜さんは、神にも出来ないことはあるはずだ!
いや、神そのものが存在するはずがない論を支持する
人なのですか?
神の問題はその存在を信じる信じないという次元に
あるのではなく、あなたがどこまで神意=Providenceに迫る
=それを理解することが出来るのか? というだけの問題ですよ
神意への理解がまるで覚束ないという人には
その存在自体が信じられないという現象が起きる
というだけの話です。
243 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 13:52
釈迦に説法かもしれませんが239に加えて
デカルトのcogito elgo sum (われ思うゆえにわれあり) は
この無意識の発見により決定的に打撃を受けたです。
私の行動を規定するものが私の意識と呼ばれるものにはない。
無意識と呼ばれるものにある。ということが、
デカルトの出発点である自己明証性に動揺を与えているのです。
この意味から自意識という言葉は少し慎重に扱う必要が
あると思うのです。
244 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 14:00
>>242 ライプニッツは明確に神にもできないことがあるといっています。
まずすべての可能なことを行うこと。たとえばイエスを地上に
遣わすことと、遣わさないこと。神には両方可能ですが同時には
不可能です。
そして論理に従わないこと。これも不可能だといっています。
その上で、全知全能は確保されるとも言っていますが。
まぁねぇある人間とか物を同時に存在しつつ存在しない状態に
することって、やっぱりそれすらも神ならば出来るんでしょうね(藁
ただ、というか だからというか 一番重要な問題・要素? は
果たしてそれをする必要があるのかどうか? ということなんですよ
あなたが仮に「もし神が存在するならかくかくしかじかの行為を
してみせてくれ!!」と要求したとします。
その願いを聞き届けた神様は、果たしてそのあなたのリクエストに
素直に答えてあげるべきなのかどうか、を良く考えた上で
「下らん。却下だ」と自主的に判断されたのならば
あなたのリクエストは無視する訳です。
何かが出来る力があっても遭えてその時はやらないという選択は取れる
ということです。
246 :
ちくびぎゅーん:04/01/08 14:23
私はこれこれこういう神がいるという主張をすると
多くの不都合が存在することを認めるものですが、
同時に神が存在しないと主張すると多くの解決しがたい
問題が発生することをも認めるものです。
だからこの議論はここでおしまいにしましょう。
ここですべき議論ではないからです。
>>239 確かに私がいう有意識と無意識の定義は不明確でした。
このスレでも思考しながら、自分でも変化していっているのはわかりました。
これを詰める過程なのです。
しかしあなたも混乱しているように見受けられますよ。
>たとえばぴかぁさんはなぜ権威に反抗的なのでしょう。
>その理由は無意識にあるのです。有意識が無意識を統括している
>ならば反抗的な理由は有意識になければなりません。
>しかし有意識よりも無意識のほうがより根源的なのです。
無意識に権威への反抗心がある。
しかし有意識より無意識のほうが根元的?
>>243 >デカルトのcogito elgo sum (われ思うゆえにわれあり) は
>この無意識の発見により決定的に打撃を受けたです。
>私の行動を規定するものが私の意識と呼ばれるものにはない。
>無意識と呼ばれるものにある。ということが、
>デカルトの出発点である自己明証性に動揺を与えているのです。
この考えでは、有意識により自己を掘り下げた結果、最後に無意識があったという
ことになります。
これでは「われ思うゆえにわれあり」ありの説明になっていません。
有意識により自己を掘り下げた結果、最後に有意識が残ったということですね。
有意識だけしか残らないから、「自己明証性に動揺を与えている」のですね。
デカルトに無意識を導入すると、cogito elgo sumのような簡潔性を
導き出すことはできません。
>>242 >神の問題はその存在を信じる信じないという次元に
>あるのではなく、あなたがどこまで神意=Providenceに迫る
>=それを理解することが出来るのか? というだけの問題ですよ
> 神意への理解がまるで覚束ないという人には
>その存在自体が信じられないという現象が起きる
>というだけの話です。
そうかもしれませんし、そうでないかもしれない。
神のみぞしる、ですね。
残念ながら私は無神論者です。
なぜならその方がおもしろいからです。
誰かに管理されたゲームなどおもしろくないでしょ。
250 :
ちくびつんつん:04/01/08 20:20
>残念ながら私は無神論者です。
不可知論者のほうが良くないかい?
>>249 >神のみぞしる、ですね。
>残念ながら私は無神論者です。
「無神論者」で「神のみぞしる」?そんなこと小学生でも言わないぞ?
>>251 無神論者が「オーマイゴッド!」と言ってはいけないようなことですか?
ほらね。
こういう人いるでしょ。
>233も同じ。
どちらも意図的。
255 :
考える名無しさん:04/01/10 23:13
面白いスレかと思って開けたら、ぴかぁだったりするとすごくがっかりする。
このスレマジくだらね〜。
同意だがワラタよw >255
ぴかぁ〜ってスレタイとか面白いのをつけるから目に付くんだけど、
蓋を開けてみたらいつも自己満My哲学の垂れ流しw
毎回それだから、もはや見なくても分かるんだよねw
とりあえず慕われてるって事だな。
ぴかぁ〜って一体何個コテハン使ってるんだよw
261 :
考える名無しさん:04/01/11 04:25
161 :ぴかぁ〜 :04/01/02 21:10
さらに脱線。
この哲学板で議論を活性化するには、学問的な知識も重要ですが、それと同じぐらい2chで過ごすこと
の技術も重要だと思います。
特に科学系の思想はマイノリティーなので2chという社会で議論を活性化するには、学問的な知識以上に
重要だと思います。
たとえば有名な科学系なスレッドに、「脳は物質だから意識も「必然」にすぎない」がありますが、
このスレ主の「機械的唯物論」者さんは、機械的唯物論決定論をまさに信仰しているわけです。
しかし私はこれはキャラだと思っています。
「機械的唯物論」者さんは科学的知識も豊富ですし、現在の科学において決定論の証明が
困難であることは重々承知していると思いますし、必ずしも狂信的に決定論を信仰していないと思います。
これは一つの2chで過ごす技術であろうと思います。
機械的唯物論決定論という極端な位置にキャラを設定することにより、この板で科学的知識がある
少ない人たちを集客しているのだと思います。あのスレは私も好きでよく見ていますが、
すでにパターン化しているようです。機械的唯物論決定論に対する反論が提示され、
それについて議論する。結局結論が出る問題ではありませんので、あるところで議論は収束します。
そしてさらに機械的唯物論決定論に対する反論が提示され、議論する。
この流れの中で、議論する人たちも必ずしも「機械的唯物論」者さんを論破することを目的にしていないよう
思います。その科学的議論に参加することが目的化していると思います。
これも一つの議論を活性化する方法だと思います。
なめんなヴォケ!機械はお前の自演だろうが!!
ぴかぁと比べたら機械が可哀想だろ >261
>人の現実感を継続的に制御することは不可能
同感。
ワシも、そう思っている。
(単に、個人的に、単なる高分子クラスターとしての脳内(脳機能範囲内)で考えている。)
理性と雑念の関係
ゆめ (夢)・うつつ (現)・まぼろし (幻) は、伝統的な日本人の発想区分である。
これらの区分は、英語の未来・現在・過去に相当すると考えられる。
だがしかし、英語には時制 (現在・過去・未来の文法による区別) があるが、日本語にはない。
時制があれば、未来・現在・過去の内容は、それぞれ別次元の文章となって別々の考察の対象にされる。
時制がなければ、現実構文オンリーの文章内容になる。
日本人は、夢・幻の内容が混入することを避けながら、うつつの一点に考えを集中させなくてはならない。
夢・幻は、うつつオンリーの考えを妨げる雑念と考えられている。
現実構文ばかりの考えは、刹那的であるとともに永遠の感覚を与える。
だがしかし、時制のある英語では、永遠の感覚は未来構文の中にある。
‘I shall return.’, ‘We shall overcome.’, ‘You shall not kill.’ といったようなものである。
これらの内容は、それぞれの主語が未来に達成すべき内容を表している。
議論のすべては、比較の問題である。基準と比較して正否を決める。
基準を立てることができなければ、正否も論ずることはできない。
英語においては、基準となるものは未来構文の内容であり、現実は現在と過去構文の内容である。
未来と現実を比較した上で判断を下すことは、アングロ・サクソンの理性判断である。
569文字
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