真実を教えてちょんまげ。
2 :
考える名無しさん:03/05/15 18:59
,..、_ _ __ ..,,__ _,, ,,_ _ __
l ./====/ \| .l ,、| ./ , 、 \''゙ <.| i=' `l ヽ\ _ 7 フ,、
/ /.l`‐- ゙、| |=| .i- l ./= ,> /,_、.ノ| |.| !∧.| l' !、`'゙ _,,,..ゝ_,、
. / |.| || | | |.|`' __'`ノi、l / / 二| /'゙∠,,> = '゙l .| ゙7 .l ∠~_,,,,.)
~| |.| !! |.| .|.| | | .|ヽ. ./ .フ <'ヾフ / .| .| /!./ /_ ゙
| .|.!-'`二l .|| |._| .|/ `‐- /,、 |゙、ノ.> '-┐、 `.-‐'' .// ./ ヾ‐---‐、
|_,,,| \_丿!-‐'>,.-'゙~`、/ ` |_,,l/-‐'゙‐、_| `‐- -‐' ヽ_/ `‐- - ‐'
無はどこに在るのか?
4 :
考える名無しさん:03/05/15 19:03
【チンコのレス】
〓〓〓〓〓
|〓|
|〓|
|〓|
(⌒⌒)
\/
〓
【チンコお守りレス】このお守りを見たあなたは超超超幸せ者!
2週間以内に必ず彼氏・彼女が出来るよ!
すでにいる人は超〜ラブラブ みんなが幸せになりますように…
そのかわりこのコピペを1時間以内に、5つ別のスレに貼り付けてね・・
でないと、あなたはインポや性病になります。
無、虚無、虚
違いを述べよ
僕を裏切ったな!!!
ぼくを裏切ったなだろウォケ!!
またか…。
ちんもく
10 :
わかめ ◆xa9w6faqEk :03/05/15 20:08
在ると言ったとたんそれは無ではなくなるし
12 :
考える名無しさん:03/05/15 22:45
病人か、だめだこりゃ
無はなくてこその無だ・・・
それを掴み取ることなどできるのか?
こんな疑問をもった僕は天才に違いない
14 :
わかめ ◆xa9w6faqEk :03/05/15 23:32
>>11 これが、禅問答であるなら、「それでも、目の前にある。」と答える。
でも在ったら無じゃない!!
16 :
わかめ ◆xa9w6faqEk :03/05/15 23:41
17 :
考える名無しさん:03/05/15 23:49
またかい?
何度同じスレが立てば済むのかね、この板は
で、答えは出たの?
でないであきらめたの?
このスレで答えが出るかもしれないよ!!
デリダが絶賛するかもしれないし!!
アメリカがへこむかもしれない!!
たまちゃんがさらわれるかもしれない!!
だから続けよう
ア・プリオリには存在します。
しかし、ア・ポステリオリには確認した時点でその存在を否定します。
そこから私達は形而下での認識は有のみを見ていると思います。
それから、私達は全てを認識する事ができるという保証がない事から
無の存在は可能性だと思います。
あ、ソフィアさんだ!
サイン欲しいよ〜
21 :
考える名無しさん:03/05/16 01:34
なんかものすごく特殊なものとしてなら、存在するって言っても
いいかも知れないけど、普通の存在に期待されるような一般的な
属性(いい、とか)は、持たせられないだろうなぁ。
友人よりいいものは無い
カップ麺でも無いよりはいい
から、
友人よりカップ麺がいい
てなっちゃうもんね。
クラシックな論法だと、
カント=ヘーゲルの「否定命題」と「無限命題」との弁別が、
この問題を考える補助線として有効だと思います。
>友人よりカップ麺がいい
別に問題ないじゃん。
素粒子と素粒子の間にあるものは何なんだ?
空間です。
だからその空間を満たしているものは?
空間を満たしているものは空間だよ。
27の空間って何でできているの?
空間でできてるのだよ。
ふ〜ん、29は空間ってものが世界を構成する基本要素だって考えなんだね。
31 :
わかめ ◆xa9w6faqEk :03/05/16 02:35
>>19 あなたの言っていることは、論理的に正しいと思うし、
なんとなく、理解できる。(たぶん)
お願いなんですが、最後の行の「可能性」を、別の言葉に言い換えてくれませんか。もしくは、
ちょっと、説明してください。
>ふ〜ん、29は空間ってものが世界を構成する基本要素だって考えなんだね。
でなにか問題があるかね?
問題があるならちゃんと反論すべきなのだよ。
33 :
考える名無しさん:03/05/16 02:49
この宇宙のどこをとっても、場で占められていない空間はない。
あなたがあなた自身でそう考えていることに、何も異存はないよ。
私の考えとかなり違うので理解も反論もできないけれどね。
35 :
考える名無しさん:03/05/16 03:05
有ったら無じゃない
有ったら無じゃないけど
その有って、恒常的に有なんだろうか
しゃぼん球のように
ある瞬間有ったり、次の瞬間消滅したり
そうゆう生成流転が瞬間的に断続的に起きている状態は
有なんだろうか?無なんだろうか?
もうこっちにレスつけんな。
>>36のスレにつけろ。
>>1は死んで良いよ。マヂで生きてる価値ないもん。
39 :
考える名無しさん:03/05/16 03:52
どう考えても無は存在するのに、何故質問する人が無くならないのか不思議だ。
40 :
考える名無しさん:03/05/16 04:11
無など概念上にしか存在しない。それも、真の意味での無ではない。
41 :
考える名無しさん:03/05/16 04:15
43 :
考える名無しさん:03/05/16 04:29
無は存在しないだろw
45 :
考える名無しさん:03/05/16 04:39
存在しないから無なんだよなw
46 :
考える名無しさん:03/05/16 04:42
だから無は存在するの
45は死後の世界を信じているオカルトマニア )プッ
48 :
考える名無しさん:03/05/16 04:53
存在しないから無、
それゆえに、無は存在しない、は論理的におかしい。
存在しないから無、とはたんに無の説明であり、
無が存在しないという結論は導けないのである。
49 :
考える名無しさん:03/05/16 04:58
なら聞こう
無を想像でする事は可能か?
50 :
考える名無しさん:03/05/16 05:11
45は死後の世界を信じているオカルトマニア )プッ
「死=自分の存在が無になる」
でいいんじゃないの?
もちろんその世界(無)を想像することなどできない。
52 :
考える名無しさん:03/05/16 05:13
無が存在するなら無の概念が一気に崩れ去る。
無などあってはならない。
53 :
考える名無しさん:03/05/16 05:16
>>47と
>>50は馬鹿。
無がない→死後の世界がある
いやはや立派な理論ですね。
皮肉もわからんのか・・・
無は存在しない
とすれば、
無は存在しない
ということも
無意味なのではないだろうか?
56 :
考える名無しさん:03/05/16 05:20
もし無の存在証明をするなら、その証明する観察者が必要。
しかし、観察できた時点でそれは無ではない。
結局無の存在は証明できない。
自らが存在する限り、(対象としての)無は存在しない。
しかし、自らが無になる事はありえる。
無を存在者と考えたらダメだよ
59 :
考える名無しさん:03/05/16 05:22
60 :
考える名無しさん:03/05/16 05:26
死んでも、無になるのは不可能。もしなれたらそれは無ではない。
そもそも無を論じること自体無意味。
死んでも無になれないなんて、人間って不幸だな
62 :
考える名無しさん:03/05/16 05:28
存在しない「もの」が無じゃない。
存在しない「もの」は、存在したものの消え去った状態なのだ。
そんなものは、無とはいえない。
>死んでも、無になるのは不可能。もしなれたらそれは無ではない。
じゃあ、何?
64 :
考える名無しさん:03/05/16 05:29
>>60 それは、無を体験できないってだけで、無が存在しないって
意味じゃない。
>>62 そだね。
「ものが存在しない状態」と「無が存在する状態」
は全く別のことだからね。
66 :
考える名無しさん:03/05/16 05:32
>>64 つまり、無が存在するってことにもならないよな?
「無」って客観的な対象物の状態を言うんじゃなくて、
自らの存在の様態を指す言葉だと思う。
具体的に言えば、「死」とか「生以前」の状態こと。
そうでござる。
69 :
考える名無しさん:03/05/16 05:36
無について考えるのが不可能ならば、存在するかしないかも
考えられない。
無についての人間の反応しか考えられない。
だからハイデガーは、「無」を追求するためには、「存在」、
ひいては「人間の存在を分析」せねばならないって言ったんだと思ふ。
71 :
考える名無しさん:03/05/16 05:44
つーか、無って何?
72 :
考える名無しさん:03/05/16 05:51
無が何であるかを意見することが無の有無の答えに繋がる。
無があるという人にとっては、色々な意見は見られようが、
無いという人においては無は無であるとしか言えまい。
そもそも形容できた時点で無ではないであろうから。
73 :
考える名無しさん:03/05/16 05:54
結論。
完全なる無を想像する事は不可能である。
74 :
考える名無しさん:03/05/16 05:56
「無」とは単なる言葉にすぎない。
認識する主体が存在する限り、この世界のすべてが消え去ったとしても
(その主体にとって)「無」は存在しないと思う。
ただ、「なにもない状態」が存在するだけ。
真の無とは、認識する主体自体が消え去った時、
「その主体にだけ」適用される概念だと思ふ。
ここで疑問は、他人の死に対して
「あの人は無になった」
と、生きている人(認識する主体)が言っていいものか?
それとも、
「あの人がいない状態になった」
と言うべきなのか?
78 :
考える名無しさん:03/05/16 06:14
79 :
考える名無しさん:03/05/16 06:16
己の存在が消え去った時、己は無になる。
ただし、いまだ存在している人から見れば、
「ただ、いなくなったに過ぎない」
と言うべきであろう。
・・・それとも「彼は無になった」というべきか。
それとも無とは、人間にのみ適用される概念なのか?
「本が(燃え尽きて)無になった」とは言わない。
でも「彼は無になった」と言ってもいいのでは?
無とは、認識を具えている存在者が、その認識ができなくなった時に
使われる概念では?
85 :
考える名無しさん:03/05/16 06:30
>>79 つまりどうして俺が無を存在者として見なしているか
聞いたんだよ?俺は無の存在など認めていないんだけど。
87 :
考える名無しさん:03/05/16 06:35
認識ができなくなっては無も糞もないだろ。
>>87 だから、その状態が無ではないかと思ってるんだぼ。
89 :
考える名無しさん:03/05/16 06:40
>>86 ムキャーッ!馬鹿にして…分からなくてゴメン。
>>89 これだぼ。
67 :57 :03/05/16 05:33
「無」って客観的な対象物の状態を言うんじゃなくて、
自らの存在の様態を指す言葉だと思う。
だから、「無(という存在者)が存在する、という命題は無意味である」、
と結論づけるのは少しおかしいぼ。
91 :
考える名無しさん:03/05/16 06:48
>>88 だから、それは推測にしかならんだろ?
しかも、それを経験出来る観察者がいない。
だからこそそれを証明に使うのは適切じゃないって
言ってるんだよ。
93 :
考える名無しさん:03/05/16 06:52
>>90 アリガトン。ようやく分かった、俺の場合前の考え方だわ、無の捉え方が。
94 :
考える名無しさん:03/05/16 06:54
>>92 他者が観察者足りうるってことか?もしそうなら、足り得ないぞ?
>>90 どういたしまして。
無の問題を考える時、「無」を前もって定義しておかないと議論がすれ違うぼ。
いままでの不毛な議論も大抵これが理由だぼ。
96 :
考える名無しさん:03/05/16 06:56
科学的に言って、無なんて有り得ないだろ。
わしが「無」で考えているのは、「わしが生まれる前の、また死んだ後の世界」だぼ。
じゃあ、96はあなたが存在する以前、(もしくは以後の)世界をどう捉えているぼ?
補足
あくまでこの「以前、以後の世界」は「私(あなた)にとっての」というカッコ付きだぼ。
他人の「以前、以後の世界」ではないぼ。
訂正
じゃあ、96はあなたが存在する以前、(もしくは以後の)「あなたにとっての」世界をどう捉えているぼ?
101 :
考える名無しさん:03/05/16 07:06
おいおいおいおい、宗教話かよ!!!!!
そういう「無」かよ!!!!!
103 :
考える名無しさん:03/05/16 07:11
無は有り得ないと言ってる。
それで十分だろ?
無は有り得ないんだよw
さいなら
105 :
考える名無しさん:03/05/16 07:29
>>97 つまり、認識を具えているものが認識を失った時こそが無と
言っているのだよな?では、誰がこの認識を失った事を
確認するのか?認識を失っているのだから自己ではなかろう
では、他者はどうか?果たして他者はどのようにして認識の消滅を確認
するのだろうか?否、それは不可能である。観察の主体は
自己でなければならない、何故ならば経験をしていない者に
観察は不可能であるからだ。だからこそ、他者が他人の無を確定する
事は不可能である。よって、ここに証明者の存在が消え、
無の証明不可が完成する。
>>105 まともな意見だぼ。
>誰がこの認識を失った事を確認するのか?
誰も確認できないぼ。なぜなら、無は、認識する主体の存在が消え去る時、
「その主体にとって」現れてくる状態だから。仮に他人が確認できるとしても、
その時点でもうそれは無ではないぼ。(この辺確信は持てないが・・
>>76)
何度も繰り返すが、無は「己にとって」の無しかありえない。
己から離れた客観的な「無」などない。(だから認識などできない)
だから、
>無の証明不可が完成する。、
無など証明できない。わしがここで言っているのは「無の存在証明」ではないぼ。
強いて言うなら、「無があるとしたら・・だ」という定義だぼ。
107 :
考える名無しさん:03/05/16 07:42
感無量の高笑い
108 :
考える名無しさん:03/05/16 07:43
by 俺
さいなら
110 :
考える名無しさん:03/05/16 07:50
>>98-100 96じゃないが、そんなものどうでも良いんじゃない?
有れば有るし、無ければ無いだろ。この場合のこの無いは
無と言える。しかし、これもまた概念上のものでしかない。
あー、それは無だろうねと言えるかもしれないが
それは、後からの説明づけでしかない。確固たる無が
存在するときに証明しなければ意味がない。
しかし、それは無でないことの証明でしかない。
無とは一片の有も含んではいけない。含めばそれは有である。
存在しないからこそ無なのだ。
111 :
考える名無しさん:03/05/16 07:54
112 :
考える名無しさん:03/05/16 07:54
113 :
考える名無しさん:03/05/16 07:56
114 :
考える名無しさん:03/05/16 07:57
>>110 57が言ってるように、「無」の概念がすれ違ってるから、
議論してもそれこそ無意味だよ。
116 :
考える名無しさん:03/05/16 07:59
認識とは意識体の機能である。機能とは状態変化をともなう。
ある意識体の認識の有無を確認するならば、第三者がその意識体の状態変化を観察すればいい。
もし何かしらの変化があればその意識体は認識機能を保持している可能性が有るとできる。
逆に無ければその意識体は認識機能を保持していない可能性が有るとできる。
ある意識体の認識の有無は他者により確認可能であるだろう。
まず「無とは存在者ではない」って意味がわからないとね。
118 :
考える名無しさん:03/05/16 08:02
>>116 なかなかわかってもらえないぼ。
116は、無が己から離れて存在する存在者、もしくはその存在者の状態と思ってる。
だから、それを他者が認識云々という。
わしがいうのは、(何度でも言うが)「己にとって」だぼ。
他者の存在が消えることは、わしにとって無ではないぼ。
「わしにとって」は、「わしの」存在が消え去ることが無だぼ。
この「わし固有の無」を、他者が無と認定することはできないぼ。(この辺り考慮中
>>76)
>>119>116は、無が己から離れて存在する存在者、もしくはその存在者の状態と思ってる。
いや、それだけだとは思っていないよ。
ただ他者により自己の認識機能の有無の確認が為されうる可能性があると言ったまで。
自己により自己の認識機能が無であるという確認は不可能と思われ。
う〜ん。ぶっちゃけ、わしが死んで、わしの存在が消滅することが、「無」じゃないのか?
って考えてるんだな。
ここで、わしの無の定義をしとくぼ。
「わしにとっては、わしの存在が消え去ることが、わしにとっての無である。」
ある人の無を、他人が経験(認識)することはできないし、かといって、
自分が己の無を経験(認識)することもできない。
(認識できるうちは、いまだ無に至っていないから)
じゃあ、なんでその状態を無と言い切れるのか?と問われたら、
「己の存在が消えてしまう事への不思議」から、
そうとしか考えられないとしか言えないぼ。
禅問答なら、「そんなに自分が大事か。」と、言うでしょう。
世界中のすべてのものが消え去っても、そこにあるのは無じゃないぼ。
「何もない空間が存在する」「暗黒の闇が存在する」
カントは、時間・空間を客観的な対象物でなく、己にアプリオリに備わっている
直観の形式といったぼ。己が存在する限り、時間空間が存在するぼ。
しかし、認識する主体が消え去れば、それは無になったとしか言えないぼ。
「認識主体A」と「認識される対象X」
無は、Xの様態を表す述語ではないぼ。
Aの様態を表す述語だぼ。
ここで「A以外の認識主体B」を考え合わせてする。
Aの存在が消え去ることは、Aにとって、己が無になること。
しかし、Bにとっては、Aはしょせん対象Xにすぎない。
よって、Aの存在の消滅はBにとっては無ではない。
無は各自固有の存在様態だぼ。
っていうか無がある時点で無は無いんじゃないの?
128 :
考える名無しさん:03/05/17 00:14
無という言葉がある時点で無はないと思う。
本当の無は言葉に表せないんじゃない?
129 :
考える名無しさん:03/05/17 00:17
ないものはない!
う〜ん、だから「無とはなにか」は言葉で表せないぼ。
ただ、己の存在が消え去った状態としかね。
131 :
考える名無しさん:03/05/17 00:22
自分が存在するからこの世に無という言葉ができたから
存在がきえれば無ということばがきえて本当の無になるんじゃない?
133 :
考える名無しさん:03/05/17 00:24
無だから無い、これにキマリ
主観ー客観で考えると、
客観がいくら消去されようが無にはならない。
主観が消去された時のみ(その主観、ひいては主観が関わってきた世界が)
無となる。
そう考えれば、
「あるーない」は、事物的存在者の述語で、
「有ー無」は現存在の述語と区別すればわかりやすいかも。
「有ー私が存在していること」
「無ー私の存在消え去ること」
137 :
考える名無しさん:03/05/17 00:38
深く無をかんがえるほど本当の無ではないんじゃない?
無というものを存在させてしまう
無から考え始めたんじゃないぼ。
重要なのは、「己の存在が消え去ることの不思議」を考えていくうちに、
「無」に突き当たったということだぼ。
「世界がいかにあるかが不思議なのではなく、世界がある事自体が不思議である」
この不思議さがわからないと、単に論理上の問題となり、「無意味な命題」となってしまうぼ。
139 :
考える名無しさん:03/05/17 00:44
あるとかないとか人間がかってにこの世に存在させたんじゃない?
0とか1とか数字も人間がこの世に物体の存在を現すためにつくったわけで
そんなものつくらなければ無は存在しなかった、無は人間がこの世に作った
ものなんじゃない?
わしにとって大切なことは、「無」を考えることでなく、
「己の存在が消え去ることの不思議」を考えることだぼ。
>無は人間がこの世に作ったものなんじゃない?
少なくとも、わしの存在が消え去ることは動かしがたい「事実」だぼ。
その「事実」を、わしは無と考えているぼ
143 :
考える名無しさん:03/05/17 00:58
心を無にしている事が本当の無じゃない?無は何かということを
考えていないから、むを考えると無じゃなくなっちゃうし
144 :
考える名無しさん:03/05/17 01:00
人々が、会話を続行するのは、「無への恐怖」からではないだろうか?
145 :
考える名無しさん:03/05/17 01:02
死後の世界があると信じている人間には
意味を持たない理論だな。余りに決定打として弱すぎる。
そもそも死んだことのないヤツに死後のことを
語るだけの能力など無い。無は語れるようなものでは
ないのだ。
>心を無にしている事が本当の無じゃない?
禅みたいだぼ。
>むを考えると無じゃなくなっちゃうし
わしがいくら無(わしの存在が消え去ること)を考えても、
無はなくならないぼ。
無とは対象Xではないぼ
147 :
考える名無しさん:03/05/17 01:05
人は「語ることのできないもの」が怖い。
それは虚無ね
>>145 >無は語れるようなものではないのだ。
「無は説明できるようなものではないのだ。しかし、それを考えずにはおれないものなのだ」
が正しいぼ。
こっちの方がいいかな?
「無は証明できるようなものではないのだ。しかし、それを考えずにはおれないものなのだ」
151 :
考える名無しさん:03/05/17 01:09
>150
何に対して証明できないの?どの体系下で考えてのことでしょうか?
152 :
考える名無しさん:03/05/17 01:10
無など無い、無いからこその無だ。
153 :
考える名無しさん:03/05/17 01:10
人それぞれ違った無があるってことで
>>151 単純に「科学的に(もしくは論理的に)」ってことだぼ
155 :
考える名無しさん:03/05/17 01:12
虚無と,無は違うない。
156 :
考える名無しさん:03/05/17 01:13
>154
なら,その答えは問題あり.
>>153 そだね。まず「無」の定義をしっかり決めた上で議論しないと
いつまで経っても不毛な堂々巡りが続くだけだぼ。
>>95
158 :
考える名無しさん:03/05/17 01:14
>>149 別に君がそう思うならそれで良いが、俺にとっては
語らずにはいられないものではないよ。
ただ、これが無だと見てきたように言うヤツが嫌いなだけ。
分からないことなんだからもっと婉曲して言え。
しかし、定義した瞬間にそれが対象外になる人が現れる。
キリスト教的無や老荘的無や存在論の無やみんな対象が違う。
「無」(己の存在が消滅すること)へと直接至る道はない。
だったら、「無」でない状態「有」から近づいていって、
無をあぶり出していかねばならない。
それは、「人間の生」、ひいては「人間の本質を分析」、「あるとはどういう意味か」の問いへとつながるぼ。
おそらくハイデガーは、こうした道のりから、現存在分析へと突き進んだぼ。
163 :
考える名無しさん:03/05/17 01:21
何をしていいのか、わからないとき、ひとが対面している
ものを虚無と呼んでみる。。。
164 :
考える名無しさん:03/05/17 01:22
>157
証明うんぬんというより,そのような状態が記述出来る.
165 :
考える名無しさん:03/05/17 01:22
このスレでは57の言うような無しか論議してはいけないのだろうか、
無など無いという考え方も一つの意見であろうに。
横からいちゃもんのみつけられているように見えるが。
>>161 わしはわしの「無」でしか考えられんぼ。
それはこのスレでできる限り説明しようとしてるぼ。
>>163 ふむふむ・・
>>164 ?
>>165 もちろんそうではないが、今までの無の議論は「対象X」についての議論
>>126が
多かったぼ。
わしはわしの無について考えたかったぼ。
ちょうどこのスレが、重複スレで不必要なスレだったから、このスレを使ったぼ。
168 :
考える名無しさん:03/05/17 01:29
有からでは無にはたどり着けない。そもそも有の中に無はない。
「無」の意味を問うには、「有」の意味を問うしか方法はないぼ。
ぶっちゃけ言えば、
「自分の存在が消滅するとは、自分の存在があるとはどういう意味か」と問うことだぼ。
170 :
考える名無しさん:03/05/17 01:35
死後、認識主体の意識が霧消すればそこに無を見い出すことは
出来ようが、証明はできない。つまり、無は可能性として存在
するが、議論の意味をなさない存在でしかない。
またそれは絶対とは限らない。
171 :
考える名無しさん:03/05/17 01:36
>57さん
すいません。すごくトンチンカンなことを聞いてしまうかもしれないのですが
お考えをお聞かせください。
認識する主体が無くなるとして(死)
その主体は「自分が無くなった」と言うことは
認識できないわけですよね。
自分が死んで、自分が無になるというのは
自らが認識できませんよね。
とすると、
> 少なくとも、わしの存在が消え去ることは動かしがたい「事実」だぼ。
も言えなくなる、なんてことはないんでしょうか?
>>170 「なんども」いうが、無を証明などできないし、しようとは思わないぼ。
173 :
考える名無しさん:03/05/17 01:40
>>171 57は無の存在を証明しようとしてるんじゃないからいいんだろ。
彼は死んで認識を失った状態が無だと推測してるだけだと思う。
174 :
考える名無しさん:03/05/17 01:43
>>172 別に証明しろなんて言ってないだろ。
俺は証明できないんだったらそれは
仮定でしかないって言ってるだけだ。
175 :
考える名無しさん:03/05/17 01:43
>172
無を証明うんぬんは,見当違い.そのような状態が記述できるから,
その時点で,同時に考えられる.みんな,ハイデガーとか形而上とか
なんとかいってるが,他人のふんどしでは学問はできんよ?
>>171 ふむふむ。
>>少なくとも、わしの存在が消え去ることは動かしがたい「事実」だぼ。
>も言えなくなる、なんてことはないんでしょうか?
そのとおりだぼ。「事実」はいいすぎたかもぼ。
もしかしたら、死後の世界はあるかもしれないし、魂は不死かもしれない。
ただ、わしの「実感」では、死はわしが無になることとしか思えないぼ。
>自分が死んで、自分が無になるというのは、自らが認識できませんよね。
その通りだぼ。
わしはその認識主体すら消滅してしまう状態を「無」と考えたぼ。
>>126 逆に言えば、認識する主体がある限り、世界中の対象が消滅しても無にはならないぼ。
たんに、「何もない状態がある」としかいえないと思うぼ。
>>174 なら仮定でいいぼ。
ようは、わしが納得できればいいぼ。
178 :
考える名無しさん:03/05/17 01:49
存在とは無からの限定なのだ。
そういうわけで無は存在と同時に想定されざるをえない。
>存在とは無からの限定なのだ。
も少し詳しく説明欲しいぼ
座れ!
183 :
考える名無しさん:03/05/17 02:01
>>180 存在しているとは、何物でもないものから区別されて規定できるということだ。
だが限定とはそうでない可能性から区別されるわけだから、同時に無が導かれる。
だから人間は自分がいつか何物でもなくなる可能性を、つまり死を知っているのだ。
184 :
考える名無しさん:03/05/17 02:01
>175さん
>57さん
レスありがとうございました。
自分も、無に関しては57さんと殆ど考え方が同じなのです。
自分という主体が存在しなくなったそこが無だ、と。
ただ、自分は「自分が死んだとしても、自分はその死を認識
出来ない」=「自分にとって死はない」
っていうのをここんところ「どうなんだろう?」と考えて
いたので、逆側から同じ地点にいる気がする57さんの話が
ひどく気になって聞いてしまいました。
自分が無になったとしても、自分はその無を認識できない
自分にとって無はない。
ただしこれは本当に可笑しいのですが、周りの人をみると
見事に居なくなって(死んで)しまっているのです。
自分もたぶん人間だとおもうので死なない訳はないんだろうな
とは思うのですが。
「死」とか「無」というのは、人間が作った言葉と意識という
ものと関係があって、までは分かる気がするのですが、どうも
すーっと「分かった(・∀・)!」みたいな線がひけません。
もう少し考えてみます。
禅問答だったら、「お前なんか、いてもいなくても同じだ。」というでしょう。
3回目なので、これで最後です。
禅の人気がないみたいだし。(「お前のだろ。」っていうツッコミは、凹みます。)
>>162 補足
「無」(己の存在が消滅すること)へと直接至る道はない。
なぜなら、無が実現した途端、それを認識することは不可能となるし、
認識できる主体が残っている時点で、いまだ無ではないからだ。
ゆえに、「無」でない状態「有」から近づいていって、無をあぶり出して
いかねばならない。
それは、「人間の生」、ひいては「人間の本質を分析」、「あるとはどういう意味か」の問いへとつながるぼ。
187 :
考える名無しさん:03/05/17 02:13
おやおや、どんどん議論すると無が複雑化して無でなくなってしまうよ、無なんて人間だけが勝ってに存在させて考えてるだけで、他の生物には
無なんて言葉はない無なんて考えていない。したがって真のむである
>>183 興味深い意見だぼ
つまり、「存在とは無に区別(境界)をもうける「働き」のこと」という意味かぼ?
それなら、木田元がいう「存在=存在作用」という意味もわかるぼ。
その働きがなくなった時(死ぬ時)、無が訪れるということだぼ。
189 :
有になった無ん子ちゃん:03/05/17 02:20
うっかり存在してしまいました。。。
ほんとはそんな気じゃなかったんです。。
盲目的な衝動にかられて、つい、うっかりと。。
出来心なんです。。
見逃してください。。。。
>>184 あなたとわしは、自分の生について同じような問いを持っているぼ。
わしはあなたの疑問が凄くよくわかるぼ。
わしもいまだ納得いく答えが出てないし、これから先も出そうにない。
でも、考え続けないといけない。
ほんと世界は、ひいては、わしの存在は不思議だぼ。
192 :
考える名無しさん:03/05/17 02:27
>>188 厳密には、そうじゃない。
おれも
>>186に関してはほぼ同意する。
無から直接区別されるのではなく、存在の反作用として、無が想定されてしまうのだ。
>190
禿同(^_^)
ありがとうございます。
自分も考えていきます。
またいつかお会いしましょう。
存在は無の上に立っている。
その存在が朽ち果てた時、その下で眠っていた無が姿を現す。
存在の明るみは人間だけに備わっている。
その明るみの中で様々な存在者が到来する。
しかし、その明るみが消え去った時、無だけが残る。
無の経験不可能性を主軸に57は無を考えているとしていいのかな?
余談だが
人を愛したことのない者が愛を語ることができるだろうか?
に形が似てるよね。まあ愛は純粋概念とは言えないけど。
>>185 禅は嫌いではないがそれに続けるには
「では、お前は誰に向かってそれを言っているのだ」
でいいのかな?
>無から直接区別されるのではなく、存在の反作用として、無が想定されてしまうのだ。
う〜む。ということは、無はあくまで想定されたものでしかない、というわけかぼ?
>>195 わしの主軸、というか出発点は、
「わしのこの存在が消滅してしまうことの不思議」だぼ。
その消滅を無といっているので、もちろん経験はできないぼ。
>185
あるという主張無いという主張、それぞれに
思考の基盤となってる背景を想像して
ふんふん、まあそんなんもありかと思いますが
禅だけは何を言いたいのかまるで分かりませんでしたね
しかし、一番印象には残ってますよ
>>191 3つともマジレスです。
禅問答においては、正しいことですが、禅問答以外では正しくないです。
この前提でのレスなので、煽りでも、ジョークでもないです。
最後の1行は、本心です。
201 :
考える名無しさん:03/05/17 02:50
>>196 想定というか、より正確には可能性だ。
しかもサイコロの目のひとつのような偶然の可能性ではなく、
存在が無と区別されるものとして可能性のひとつであるように
存在と同様に確実な可能性だ。
>>200 ふ〜む。わしには「心を無にする」ことは、理屈では可能でも、
実際には不可能ではないかと思えるぼ。
心を無にするとは、
>>126であげた「心=対象X」と想定してる気がする。
つまり、心象をいくら0にしてもそれは、
「心の中に何もない状態であって、無ではない」とならないかぼ?
でも、よくわからんから、もう少しフォローの説明ほしいぼ。
カントは、時間・空間を人間にアプリオリに備わった直観の形式といった。
だから、己の認識以外のすべてが消え去っても、少なくとも空間・時間は残る。
それと同じく、心を無にしても、心という「空間」は残っている。
だから無ではないのでは?
無とは、それ(時間・空間)すら消滅する状態のことではないかぼ?
心を無にするとは、無の疑似体験と言った方がいいのかなぼ?
>>195 「今、そこにいる、お前だ。」と、と続くんですが、
長くなるので、必ずしも返レスしなくていいですよ。
>>202 無心にも色々あるので、なぞなぞ、ヒント、みたいに思ったほうがいいですよ。
ぶっちゃけると57にとっての認識主体の死を無とすると
悟りに覚醒することは死んだことになるわけです。
吹きすさぶ風の中で悟りを開く時その者は風になる。
それは「あるがまま」であり、まさに我々が動物に対して
無を意識していないから動物には無が想定されないのと同様に
あるがままであるが故に無が想定されない心=無と捉えられます。
こんな言い方をすると悟りを下げしめると叩かれそうですが・・
>>205 いままでの問答をまとめて解説してほすぃぼ。
>>203 無心は、(その人の)心がないだけです。
>>207 >吹きすさぶ風の中で悟りを開く時その者は風になる。
わしの無の定義では、こうなる時点で、存在は消滅していない(つまり無ではない)、と思えるぼ。
>あるがままであるが故に無が想定されない心=無と捉えられます。
それだと、存在とは何か?を問わない生物は無であると言えないかぼ?
う〜ん、ある意味、わしの無の定義もそう結論づけられるかもしれないが。
とりあえず、禅の無は、己が存在している状態でも、
実現可能というわけですぼ?
無心は意識が対象を持ってない状態で
心がない とは言えないのでは?
禅の無とは、ある心の状態のことをいうのかなぼ。
わしの無 ・・・ 己の存在が消滅すること
わかめさんの無 ・・・ あるがままであるが故に無が想定されない心の状態
でいいのかぼ?
心というのが
魂とかじゃなく、何かを意識する意識なら
無心で心が無いといえるのか
>>208 いろいろ考えたんですが、問答もジョークも、解説すると問答もジョークでなくなってしまい、
別のものになってしまうので出来ません。口だけ野郎なので勘弁してください。
>>214 それは、195さんの無かと思います。(だからといって、否定しません。)
無心にも色々あるので、この場では、「宇宙は動いてるので、心が止まれば無い。」です。
考え方の違いというより、
無という言葉の指し示しているものが全然違ったりする。
>>214 いや、それはわかめ氏の見解ではないです。私=195です。
「無ってなに?」という質問に対して、
私の考えは無いので、禅の言葉を借りると、「お前が、いることだ。」に、なってしまう。
>>217 「全然違っても、議論しなければいけないと、担任の仏様が言ってました。」
(仏教ジョーク)
>わかめ氏 195氏
なるほど。わしの勘違いでした。
ところで眠くなったので寝ます。また宜しくお願いしますぼ。
私の発言は、受け売りなので、話半分でお願いします。
[免責]
私の発言によって、あなたが、いかなる不利益を被っても、「オラ、知らね!」(孫悟空のつもり)。
(法治国家ジョーク)
223 :
考える名無しさん:03/05/17 04:37
有限のなかの無限を我々は討論してるだけで無限の中の無限
は有限の世界からはむりなんじゃない?なんか無限について
いい本おしえてもらえないですか?
>>223 野矢茂樹:「無限論の教室」講談社現代新書
225 :
考える名無しさん:03/05/17 04:47
無をかたるなんて無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ー
哲学からみた無はもう限界にきてるからこんど物理学から
みた無はどうなの?
226 :
考える名無しさん:03/05/17 04:51
>>223 君に同意するよ。
有の中には無は存在しない。
無が存在するならば、それは無の中にのみだ。
それは、我々有の中にある者には触れ得ない真理だ。
227 :
考える名無しさん:03/05/17 04:53
まぁ、だいたい57が言ってることは分かるんだが、
やっぱり無の存在だけは同意できないな。
馬鹿にされようとも、無は存在しないからこそ無なのだから。
>>225 ある記者が、アインシュタインに、
「相対性理論は、どうやって思いついたんですか?」と、聞いた。
アインシュタイン曰く、
「トンネル効果でひらめいた。」
(物理学ジョーク)
229 :
考える名無しさん:03/05/17 05:13
時がとまれば無になんじゃない?
暇だから
1 ×無:{A}
2 ×無:{無}
3 ?無:{ }
4 ?無: 無
5 ?無:
(注:{}は世界あるいは宇宙でも良い)
こう書くと少し整理しやすいかな?
恐らく
>>223氏は1〜5を全て拒否したいと思っているのだろうが
表現した時点で4のように無を取り上げて5の状態にしようと
している文章になってしまうのです。これが誤解を生む原因。
1〜5を拒否する物言いは不可能なんです。
(物理学ジョーク、その2)
ハイゼンベルグが、その功績により、女王からサーの称号を賜りました。
その、パーティでの挨拶で、ハイゼンベルグが言いました。
「今日から私を、仙人ハイゼンベルグと呼んで下さい。」
ゲッツ
232 :
考える名無しさん:03/05/17 09:00
存在しないから無なんだよ
233 :
考える名無しさん:03/05/17 09:38
む 【無/▼无】
(1)何もないこと。存在しないこと。
⇔有(ゆう)
「―に等しい」「―から有を生じる」
(2)〔仏〕
(ア)事物も現象も全く存在しないこと。
→有(う)
→空(くう)
(イ)禅宗で、世界の絶対的な真の姿。有と無の対立を超越した悟りの世界。絶対無。
(3)〔哲〕
(ア)有(存在)の否定または欠如。実在・はたらき・規定などがないこと。
⇔有(ゆう)
(イ)有や「無(3)(ア)」を超越し、有を有たらしめる絶対的無限定的なもの。老子や西田哲学など東洋思想で説かれる。絶対無。
→空
大辞林第二版より
234 :
考える名無しさん:03/05/17 11:31
前スレとこのスレ全部読んだよ。
皆、無に悩まされているね。言える事は、100人いれば、100人
それぞれのムの概念が違うようである。
思考の深さによって、高次元から低次元の概念を脳内にイメージしている。
自分の考える、最高次元の無とは、余り面白くないが、↓
>19 :Sophia
>ア・プリオリには存在します。
>しかし、ア・ポステリオリには確認した時点でその存在を否定します。
>そこから私達は形而下での認識は有のみを見ていると思います。
>それから、私達は全てを認識する事ができるという保証がない事から
>無の存在は可能性だと思います。
自分なりに解釈すれば、我々が、起きていて、瞬間瞬間に脳裏で何かを考え
ている時、その頭の中を占めているものが有で、それ以外のものが無である。
だから、次の瞬間その無の領域に思考が及んだとき、無は有に変わる。
この考えは、案外、有限の宇宙の外側は無かという疑問を考えるとき、
役に立つと思うし、量子力学の不確定性原理などとの共通点があるかも。
なかに
我々は、もともと無の上に起立している。
そこに、認識(存在了解)という明るみ(働き)が備わった時、我々は存在者(世界)を認識できるようになる。
これが人間の生。
しかし、了解の明るみが消え去った時(死)、我々は再び無へと陥る。
「無とは、存在の明るみの中で出会う何かではなく、その明るみ自体が消え去ることである。」
>>126でいえば
その明るみ =認識主体A
存在の明るみの中で出会う何か =認識される対象X
誤った無は、
1.認識される対象Xとして無を考察
2.言語的に無を考察
1の議論は、対象X(鉛筆、ノートとか、善という観念とか)が存在していない状態を無とする。
2の議論は、「無」という語には「何も存在しない」という意味が含まれているので、
「無が存在する」とは語義矛盾である。よって、無意味な問いである、と結論づける。
わしが考える無、
3.認識する主体Aが消滅することをいう。ぶっちゃけ、わしの存在が消滅することをいう。
「わしが死んで、わしの存在が消え去ってしまうことが、わしにとっての無である。」
先日、イラクのバクダッド爆撃の映像を見たぼ。
何人もの人がボロ切れのように死んでいたぼ。
おそらくこの死者達も、爆撃の直前までは笑いあっていたぼ。
それが一瞬のうちに、彼らの存在は消滅したぼ。
もしかしたら、1時間後にわしの街にテポドンが落ちてくるかもしれないぼ。
そしたら、一瞬のうちにわしの存在は消滅するぼ。
わしは、あと一時間後にはこの世に存在しなくなるぼ。
どう考えても、わしが存在しなくなることを想像することはできないぼ。
わしは無になるとしかいえないぼ。
イラクの人たちの存在がどれだけ消滅しようが、
わしにとっては対象Xがいなくなっただけで、無になったわけではないぼ。
しかし、わしの存在が消滅することは、わしは無になったとしかいえないぼ。
240 :
考える名無しさん:03/05/17 15:07
存在と無っていう分厚い本が上下ででてるけどこの本ってどうですか?
241 :
考える名無しさん:03/05/17 15:48
サルトルの主著、超有名。
実存主義、現象学に興味があるならオススメ。
難解で読みにくいこの本は、
読み解いてゆくうちに、
この本の存在が無意味だと気づかせてくれます。
無人島で手元にこれ1冊しかなかった場合は、
お薦めしたい一冊です。
243 :
考える名無しさん:03/05/17 19:00
俺が死んでも、俺の死は無ではない。
死後認識主体としての能をなくしたとしても、
それは、認識ができなくなった状態に過ぎず、
それは無ではない。俺を構成していた原子は
消滅せずに残存する。
244 :
考える名無しさん:03/05/17 19:04
そのように考えると無はないということになるな。
無とは消滅ではなく全体との融合なのだろう。
コップが在る、机の上に。
机が在る、家の中に。
家が在る、地球の上に。
地球が在る、宇宙の中に。
では宇宙はどこに在るか。
この先が無である。
ここに認識機能を備えたものが登場すると、
宇宙を意識の中に存在させることによりその無の流れを留めることが出来る。
そしてその認識機能を備えたものはコップの前に存在するのである。
これを存在のループ(無のループ)という。
宇宙と人間の関係はこのような関係にある。
人間が死ねばその無のループが壊れ何も存在しなくなる。
>>237=57
57氏は
>>230をどう捉えますか?
また何人かが無を規定することに反論していますが
その真意を237ではよく捉えきれていないと思うので
力不足でしょうが蛇足しておこうと思います。
無の無規定性について
語には意味があり、あらゆる語の中で最も意味が多い語は
実は「無」であると言える。
無は「存在ではない∧赤ではない∧重いではない∧曖昧ではない
無意味ではない∧何も存在しないではない∧無ではない・・」
あらゆる否定の拡張性によりその意味は際限なく規定され続ける。
ここで重要なのは237で論拠として挙げられている
「何も存在しない」ですらないということである。
237ではどこから借りてきた「無(何も存在しないを含む)」を
用いている点で無を性質あるものと歪めている点に留意して頂きたい。
これが最早、思考も意味も認識も可能性を閉ざした真の無。
もう一つ最も意味の多い語がある。それは「存在」である。
247 :
考える名無しさん:03/05/17 21:12
>>246 イマイチ。無の形容が多いのは認めるが、それは形容できないからである。
形容できるものは多くを語るを必要としない。
いくらまわりくどく説明しようとも、それが意図するものは少ない。
それは、人がそれを知っているからなのだ。
しかし、知らないことを簡単に語ることはできない。
勿論それは知らないことだからだ。形容が多いものは
逆に真理から遠ざかっているに過ぎない。
その形容の多さは分からない事物への単なる夢想に過ぎない。
248 :
考える名無しさん:03/05/17 21:20
>>246 ということは、無も含めて表現できること、を総称して存在とし、
表現できないこと(この言葉でも表せないこと)を、
総称して無というのか。
ならば、無についてはわかりようがない(あるかないかわからない)
ということだ。
249 :
考える名無しさん:03/05/17 21:21
>>1 >でも在ったら無じゃない!!
無いという形容詞は存在してるだろうが。
「無」は状態を表す語なわけで、
「無」の状態はあるんだよ。
>>249 誤りだと思います。
この世界に「無い」と呼べる状態は存在しません。
「水槽の中に水が無い」というのは水の存在に関する所見であり
事実は「水槽がある」ということに尽きるでしょう。
251 :
??????:03/05/17 21:50
水槽の中に「水槽がある」???????????
252 :
考える名無しさん:03/05/17 21:54
>>249 だから、今語ってるのはその無じゃない。
それは何もない状態としての無だろ。
ここで言ってる無は状態ですらないもののことだっつの。
253 :
考える名無しさん:03/05/17 22:00
無は語りえない。これが全てじゃないの。
>>251 じゃあ、たとえを変えますね。
皿があるとして、人はそれを見る時「皿の上に料理が無い」
という見方で物を見てはいないということです。
単に皿があるのであり、「料理の無さ」というものは
観測者が恣意的に作り出しているわけです。
日本語の特色ですね「無い」という形容詞は。興味深いです。
255 :
考える名無しさん:03/05/17 22:17
「規定は否定である」という有名な言葉が
あるが・・・
256 :
考える名無しさん:03/05/17 22:25
西洋じゃ「何も無い」を「無がある」という
わけだが、それも興味深いな。
257 :
考える名無しさん:03/05/18 00:03
無が有るとはわけわからん
258 :
考える名無しさん:03/05/18 04:20
>250
水槽の例を出した。水槽を例に出せばもっと面白い
有無をいめーじでくる。
水槽の中に泡がある。この泡は、大きくもなり小さくもなれる。
泡は、我々の五感、六感の感知にもとづいて、脳が認識する
世界である。泡の中身は46億の人間のそれぞれの脳内認識であり、
これが有である。
そして、泡の外側が、無である。
259 :
考える名無しさん:03/05/18 04:22
↑
有無をいめーじでくる。×
有無をイメージできる。○
あーははは!人生は泡のようだっ!
261 :
考える名無しさん:03/05/18 04:48
水を入れたプールと水を入れてないプール。前者は泳げる人のためのプール、
後者は泳げない人のためのプール。
つーか後者はプールであるとは認めない。
263 :
考える名無しさん:03/05/18 05:01
>1哲学なんかで使う自然言語では,無を客観的に定義出来ないと思う.
言ってることが,どうもなっとく出来ない.それと,ハイデガーのいう
存在とここのタイトルの無とは全然次元の違ういみあいと思うよ.
なんで出てくるのか・・・.無にたいして存在を対応したからかな?
科学の体系下では,誰に対しても客観的に無というものが出てくるし,
ちゃんと数学言語で記述出来るよ.だから,「無の存在」という定義は
科学の体系下では,要素として存在してます.
あと皆さんがいろいろいってる原因は,ラッセルのパラドックスの原因と
同じようなとこがあると思いますね.
つまり,「無」っていうのを「全てが存在しない」としてるが,その時
「無が存在する」とたてると,先ほどの「無」の定義にはんする.
それで,かれこれ言ってるわけで,堂堂巡り.よって,どのような体系を
設定するかできまります.ラッセルのパラドクスの解消は,なぜ出来たかを
考えれば良いと思います.歴史的には,(数理)論理学の飛躍的発展は
ラッセルのぱらどっくの解消が1つ上げられるし,違う例では論理学の発展が
大幅に遅れたのは,排他的論理和の概念がないことが原因であった
263ラッセルのパラドックスの解消は本当に出来たのかい?
階型論でしょう。例えば世界中の本を集めて本のグループを作り
名前をAとすると、そのAはその本のグループの中に入れるか
と自問する。所が入れない。所謂、あるものはその中の要素で
証明できない。メタレベルが必要になる。
世界は内包はあるが、外延(指し示す視点)がない。あったとしたら
それは、全てを包含する世界と矛盾する。
こう言う風にラッセルが矛盾を解消したと言うのだろうが、
ポスト・構造主義哲学的にはそれは解消ではありません。
永遠にメタレベルの要請によって、形而上学的真理をつくり、誤魔化しているのです。
それと同時に、数学、科学は真理を定義する者が人間であり、その人間の感覚に現われる
外界がそれ自体(物自体)であると言う感覚の証明を観察の前段でなさねばならない
のに、やっていない。この点が、数学・科学姿勢の問題としてあるのです。
仮に、デカルトのような証明があって、それが現象学的な視点、二元論批判等によって既に有効
になりえていない今、新たな証明が必要なのではないか。
ではないと思われるのですが?(264のついかだす。)
省略の後に入っていただす。
無なものは、ありえない。
無の状態は、ありえる。
無(わしの存在の消滅)を考えれば考えるほど、わしが存在していること自体が不思議に思えてくる。
わしが存在しないことも不思議だが、わしが存在している事も不思議である。
では、わしが存在しているとはどういう状態なんだろう。
なぜわしは存在しないのではなく、存在できるのであろう。
わしが存在する意味を解明することにより、わしが存在しないとはどういう意味か、あぶり出してみよう。
「世界がいかにあるかが不思議なのではなく、世界があること自体が不思議である」
>>243 あなたは、自分の存在の消滅を外部から観察してるぼ。己を対象Xとしてみてるぼ。
確かに、他人の死ならそういえる。わしもそう思う。
しかし、「己の」死はそれとは全く違うぼ。
>>245 >この先が無である。
あなたのアプローチは
>>237の1だぼ。
認識の主体が残っている限り、認識される対象(宇宙の先)は
「たんに何もない状態が存在する」としかいえないと思うぼ。
後半はよくわからないぼ
>>246 >57氏は
>>230をどう捉えますか?
230を誤って理解しているかもしれないので、はっきりとは言えないが、
1〜3は、認識される対象Xの中に無があるという議論らしい。なら、これは違うぼ。
よって、4か5だが、わしのイメージでは5。しかし、わしはその「 」の状態を
無と定義したぼ。しかし・・・
どうも、「わしの存在の消滅」を差し示す語を「無」とおくと、語義上の問題に還元され、
わしにとって全く無意味な問いとなる。
よって、230氏にならって、これからは「 」とするぼ。
「わしの存在の消滅」=「 」
>ここで重要なのは237で論拠として挙げられている
>「何も存在しない」ですらないということである。
そのとおりだぼ
>>75 何も存在しない状態とは対象X(
>>237_ 1)についての議論だぼ。
>もう一つ最も意味の多い語がある。それは「存在」である。
「 」を、己の存在の消滅と考えるわしにとって、「 」と存在は表裏一体。
むしろ「 」は規定できないから、存在の方から「 」に迫るしかないぼ。
ふ〜む。
無を考察する時、みんな無へのアプローチを言語的な問題として
捉え、己の存在の消滅にほとんど言及がないぼ。
わずかに言及する人さえ、己の存在を客観的事物として扱う科学者のような
アプローチをとり、正直わしは驚いてるぼ。
わしは、
>>184氏のような人がもっと現れると思ったぼ。
わしは、このような議論をすればするほど、「 」の本質から遠のいてしまう気がするぼ。
「無とは、存在の明るみの中で出会う何かではなく、その明るみ自体が消え去ることである。」
>>237の1.2とも、所詮「存在の明るみの中で出会う何か」にすぎない気がする。
それらの議論は、「(己の)明るみ自体が消え去ること」と比べるべくもない
ちっぽけな次元の問題に思えてしょうがないぼ。
わしだけかな?
>>269 認識の主体が消えることが自己の消滅と考えれば
そうなるのかも知れんが、俺はそう考えていないからな。
ただ、自己の一部が消滅することだと考えている。
しかし、やはりそれは完全な消滅ではない。それを無とする
訳にはいかないと俺は考えている。
ところで、57の考えは分かるのだが、再三同じことを
繰り返すだけで、イマイチ具体性にかけるように感じる。
もう少し、詳しく書いてくれると嬉しいのだがね。
274 :
考える名無しさん:03/05/18 20:36
虚空
>57さん
すいません。
またいつか、とかいいながら、図々しく出てきて
しまいました。
というのも、自分が考えたのはこんな感じだ、という
のを聞いてみてもらいたくなってしまったのです。
57さんの>235の書き込みをもとに、自分はこんな風に
思っているなぁ、と思って書いてみました。
我々は、もともと「在る」ことしか出来ない。
認識(存在了解)という明るみ(働き)を備えてしか、
「自己」として在り得ない我々は、存在者(世界)を
照らし見ること(認識)でしか存在者(世界)と関わりあえない。
これが人間の生。
しかも、了解の明るみが消え去る、消え去った時(死)ですらも、
我々はあり得るかもしれない無と出会うことはできないのだ。
「無とは、認識主体にとって、存在の明るみの中で出会う
何かではなく、その明るみ自体が消え去ったあとの静寂を
思わせるなにかである。(でも、それってなに!!??)」
すいません。頑張ったんですが・・・・・(´・ω・`)、
こんな感じ、っていうのが伝わるといいんですが。
276 :
考える名無しさん:03/05/19 00:33
む
277 :
考える名無しさん:03/05/19 00:37
「ある」は動詞。「ない」は形容詞。
ちんちんはあるの?ないの?
57じゃないよ
>>275 「無」は「存在者」に較べ、限定されにくいので
いくらでも後退させられる。
宇宙誕生の前とか、一切が消滅した後とか。
ハイデガーの「無」も西田の「絶対無」も
悪く言えばそういう「無」の特徴を利用していると
もいえると思うよ。
280 :
考える名無しさん:03/05/19 03:19
>264
いや,解消できました.そのように体系を拡張したのです.
また,次のれいで排他的論理和が当時の論理学も拡張して解消した.
みなさんがいっている無がなんとかってちゃんとみんながどの体系で
話すかを決めてないので訳わかんなくなって水掛論になってるし,
議論がすすんでないですな.
「無」っていうのを「全てが存在しない」としてるが,その時
「無が存在する」とたてると,先ほどの「無」の定義にはんする.
それで,かれこれ言ってるわけで,堂堂巡り.よって,どのような体系を
設定するかできまります.
これに似たことがおこってる.なんどもいうけど,ハイデガーは関係ないよ.
このタイトルの意味では.
>279さん
レスありがとうございます。
>「無」はいくらでも後退させられる、
というのはどういうことなんでしょう。
宇宙誕生前が無だったと思えないし(無から有は生まれ
ないと思うし)、一切が消滅するということが
ありえるのか(ありえないのではないか、と
自分は思うのです)。
ハイデガーも西田某の本も読んでいないので
(すいません)理解できませんでした。
>275
ひとつ自分で書いて違うかなぁ、と思うところが
出てきたので、訂正させてください。
>しかも、了解の明るみが消え去る、消え去った時(死)ですらも、
>我々はあり得るかもしれない無と<出会う>ことはできないのだ。
↓
>しかも、了解の明るみが消え去る、消え去った時(死)ですらも、
> 我々はあり得るかもしれない無を<知る>ことはできないのだ。
出会うだと「何かの事象」になってしまいますよね。
>>280 体系と呼べるかは疑問ですが立場としての主張は為されていると思いますよ。
1:Vacancyとしての無
2:Zeroとしての無
3:Nothingとしての無
1は欠如としての空。2は単位。3は存在への反転操作。
まあ3はNoの形容詞的意味とNotの副詞的も持ってる感じかな。
もちろんこの3つだけではないし、これが正しいとも言いません。
時の流れの中で意味の中にそれぞれを含んでしまうようになったので
厳密に区別することが難しくなっていますが、ダサイ分け方を
するとこのようになるのではないでしょうか。
1と3は意味的な無を想定してますし、2は記号的。
集合としては1だけれども、認識としては3、表現として2。
もう少し厳密化したほうがいいですかね。
245を撤回します。
285 :
考える名無しさん:03/05/19 14:48
「無」と言うのは有るとも無いとも言えない。
何とも言い様が無い。無なんだから。
286 :
考える名無しさん:03/05/19 17:40
無があったら無でなくなる。
むむっっっ。
英語では There is nothing.
直訳すると「無がある」になるでしょが。
>>281 「無」を幾らでも遠方に位置付けできる
ってことです。
>>287 また水掛け論になってますよ。
ワシ氏自体はちゃんと区別されてるみたいですが、書き方が
暗に
>>286を誘ってるじゃないですか。
There is nothing は何かを否定することで対置する無さでしか
「通常」使用されません。
空地を見て「何も無い」というとき過去にあった「家」を想定したり、
ただっ広い平原を見て「何も無い」のは「町並み」を見ていたり。
対して「積極的な無」に関しては否定する対置の無さに言明する
ことなので語り得ないでしょう。
体重0kgは存在するか?実体・想定の可能性
増減体重±0kgは存在するか?変化
セ氏0℃は存在するか?基準
カ氏0ケルビンは存在するか?可能性の想定
xy図の原点は存在するのか?場所・想定の可能性
全部否定できたらそれは「積極的な無」についての語り。
どれかを認めるとそれは別の意味合いを無に持たせる語り。
無があるのかないのか、この排中律が成り立たないのは
無の定義域が定まらない(いくらでも可変=
>>288)ために
共通していない無の主張を行っているからと言えます。
散々言われてきたことですね・・・。
こんばんは。
>288さん
レスありがとうございます。
>「無」を幾らでも遠方に位置付けできる
> ってことです。
この「遠方」とは、「184(私)の意識の
なかの遠方」という意味でよいのでしょうか?
概念としての「無」を意識しないように、
しないようにできる、という意味ですか?
すいません。なんか因縁つけてるみたいな
文章になっていますね<(_ _)>(そんな気はないです)>
ただ自分、この「遠方」がわからなかったので、
またお聞きしてしまってます。
292 :
名無しさん:03/05/20 00:03
無は、ま○このなかにあるんだよ!
またちょっと考えてみたのですが。
「無」を考えるとき、なぜか
<この184という私にとって、認識できる「対象」が存在していない>
と考えてしまうことが多いような気がします。
でも実際には、認識できる「対象」が存在しなくなる、
ということはありえないような気がします。
どこかのレスで57さんが書いてらっしゃったと思うのですが、
「何もない状態」が在る、なんですよね。
「在る」としか言えない。
で、振り返ってみると、どうしてもその「在る」が言えるのは
(または「在る」としか言えないのは)、認識している「184
という私」が在るからなんですね。
そうすると、その「「184という私」が在ることを継続出来なくなったとき、
それこそが「184という私」にとっての無なんだと思うんです。
ところが、その「184という私があることを継続できなくなる」
=死とは、当人である184という私にとっては認識できない物なのです。
なので、184という私にとって、無は認識できません。無は無いのです。
・・・こう書いてみると、なんだかとってもありきたりな事を書いて
いるような、それでいて「なんかおかしくないか?」みたいな違和感
があるというか、そんな感じなんですが。
いつも書き散らかしですいません。
でも書かせていただけて嬉しかったです。
294 :
考える名無しさん:03/05/20 00:21
存在があるから無という概念が出てくるように思える。
そうすると無は存在に依存する。
逆に存在は無に依存すかな? 今のところ、よくわから
ない。
ただ宇宙論の1つに無から生まれたとうい仮説がある。こ
れなんかは、存在は無に依存している。
無と存在は密接に関係しており、切り離せないないものであること。
存在あっての無だから、無だけがあるというわけにはいかないだろう。
無から宇宙ができたのなら、先に無があったというかもしれない。
でもその場合には無の中に存在(宇宙)が内臓されていたことに
なる。
>>293 もちろん「無い」で納得したわけではないですよね。
当人である184という私にとっては認識できない物が
あるとすぐに言い換えが効きますからね。
「ある」としたときに感じられる根拠と
「ない」としたときに感じられる根拠は独立してますから
どちらかを捨てる必要はないですよ。
北斗神拳究極奥義無想転生を習得シル
>195さん
レスありがとうございます。
思わず「あ」と声を出してしまいました。
そうです。ここから分からなくなるんです。
(でも、もしかしたら195さんのご指摘とは全然ずれているのかも
しれませんが↓以下)
認識できない=その当人には存在しない、だとは
思うのです。
で、たしかに「184にとって無は無い」はずなんです。
それは「184にとって死はない」でもあるんですが、
「それ、ホントすか??」なんです(笑)。
無いはずなのに、死は在るんですよ。
そこに「認識できない物が在る」と分かってしまうんです。
「184が認識出来ないものが在る」んです。
ここまで書くと、なんだか可笑しくなってきてしまいます。
なんかふざけているみたいですし、支離滅裂なことを言って
、自分、バカ丸出しみたいな(笑)。
>「ある」としたときに感じられる根拠と
>「ない」としたときに感じられる根拠は独立してますから
> どちらかを捨てる必要はないですよ。
言っていただけたことを自分、理解できているのかわからない
のですが、なんか「なるほど」と思いました。
ありがとうございました(^_^)。
298 :
考える名無しさん:03/05/20 01:18
まずは「無」の定義付けから始めせう。
299 :
考える名無しさん:03/05/20 02:04
「リンゴがある」の反対って何?
300 :
考える名無しさん:03/05/20 02:05
「リンゴがない」
301 :
考える名無しさん:03/05/20 02:10
そうなのかな〜
うーん。当たり前ぽいけど・・
302 :
考える名無しさん:03/05/20 02:12
「るあがゴンリ」
303 :
考える名無しさん:03/05/20 02:16
「リンゴがあらぬ」じゃない?
304 :
考える名無しさん:03/05/20 02:18
「居る」の反対「居ない」
「有る」の反対「有らない・有らぬ」
じゃないのかな?
305 :
考える名無しさん:03/05/20 02:23
「存在する」の反対は「存在しない」
「食べちゃったからもうない」
307 :
考える名無しさん:03/05/20 02:29
はんぶん食べかけのリンゴは、有?無?成?
308 :
考える名無しさん:03/05/20 02:29
「ミカンがある」
309 :
考える名無しさん:03/05/20 02:30
減
310 :
考える名無しさん:03/05/20 02:30
「ブドウもある」
311 :
考える名無しさん:03/05/20 02:59
>282
一理ありますが,それはあまり関係ないです.
というは,
※「無」っていうのを「全てが存在しない」としてるが,その時
「無が存在する」とたてると,先ほどの「無」の定義にはんする.
という事への解凍にはなってないので.みなさんが,議論してんのは,
この周辺のレベルです.時々,あなたではないですが,
形容詞とか動詞とかなんとかいってますが,この「無はあるか?」に
なにも関係ないので.まあ,※の意味が分かる人が出てこないとまったく
進展がないと思いますが・・。哲学科の人は何処へというか,その程度か?
312 :
考える名無しさん:03/05/20 03:00
「スイカはあるか?」
313 :
考える名無しさん:03/05/20 03:27
池袋駅の隣にあるやつ?
生によって死が生じたように、
光によって闇が照らし出されたように、
無は存在によって生じたのだから「無は在る」と言える。
315 :
考える名無しさん:03/05/20 04:31
存在がなければ、したがって無さえも無い...
316 :
考える名無しさん:03/05/20 12:16
無は無い。
317 :
考える名無しさん:03/05/20 12:32
学者に聞いてみる。「宇宙は無限じゃないらしいですけど、宇宙の外側
には何があるんですか?」
学者「神のみぞ知るですね。無としか答えようがないというか」
学者に聞いてみる。「死後の世界ってあるんですか?死んだらどうなるんですか」
学者「科学的に考えると死後の世界というのはナンセンスですね。無の世界じゃない
でしょうか」
結局人間は3次元の住人である事の制約や、生きている間しか活動できない事の制約が
つきまとう不完全な存在で、この制約により知りえないことについては結局
「無」ということにしてしまうのである。「無」は人間が知りえないことへの
結論といえる。
318 :
考える名無しさん:03/05/20 12:34
無という概念がある。これインド人もびっくり。
319 :
考える名無しさん:03/05/20 12:38
ホーキング博士が4次元の世界について出した結論として3次元の住人である
我々には到底知ることができない世界というらしい。私のような凡人に
彼のような天才がそこに行き着いた過程は恐らく理解できないであろう。
しかし直感的にではあるがなんとなくわかる。
あくまで仮説だが4次元の世界とは縦、横、高さに時間という軸が加わった
4次元の世界という。私はこれが何となく正しいのではないかと思う。
そして3次元の世界と4次元の世界は重なりあっているのではないかと思う。
互いに干渉しているのかどうかはわからないが、すくなくともホーキング博士
が言うように「我々には到底知覚し得ない」のであれば重なり合っていても
気づきようがないのであるから。まあ重なり合っていなくても気づきようがないが。
あくまで私の直感で話しています。ごめんなさい。
そしてその4次元にちょっとでも近づいてみたくて私は2次元と3次元について
悪い頭で考えてみた。
320 :
考える名無しさん:03/05/20 12:43
2次元とは縦、横の世界であるという。しかしそこには恐らく高さというものが
一方通行の形で存在しているのはないだろうか。一方通行とか言うと意味不明
かもしれないが、我々の住んでいる3次元の世界に「時間」というものが
一方通行で存在しているように。
今我々の住んでいる3次元の世界の写真を撮るとしよう。それも連射モードにして
100枚とったとする。1枚1枚はそれぞれ3次元の世界を表している。しかし
その写真を時間順に並べると何が4つ目の軸がそこに見え隠れしている気がする。
321 :
考える名無しさん:03/05/20 12:50
もし2次元の世界が存在して、そこに人間がいて、彼らが写真をとったと
したらおそらく1枚1枚が2次元の世界を表していて、その写真を並べていった
ものが今度は「時間」ではなく「高さ」を表していると思う。
実際に3次のx軸y軸z軸のグラフを描いてみる時、それは2次の(x、y)グラフ
がz軸に沿って無限に分けられ、かつzの値1つにつき1枚の(x、y)グラフ
が描けるというものであった。この時zは好き勝手に動かす事が出来る。
これが2次元の世界では好き勝手に動かせず、我々にとっての時間のように
一方通行のものとして存在していると思うのです。
高さの二次元と広さの二次元がある。この二人の付き合う時間が在って
、結婚したら三次元が生まれた。だから、次元は四つ子。
でも、一方通行じゃない時間て、わくわくする概念だね。
4次元でも一方通行なのはやはり認識?よく分からん。
323 :
考える名無しさん:03/05/20 13:01
では4次元の世界では「時間」という軸は「好き勝手に動かせる」ものでは
ないだろうかという話になるわけです。難しく考えず直感的にナンカソンナカンジ
するねえ、といったスタンスで聞いていただけると嬉しいのですが。
時間が好き勝手に動かせて、さらに5つめの軸が一方通行で流れている世界
が4次元だとする。そこでは5つの軸に従って誕生と消滅があり、誕生する前と
消滅した後が「無」であると考えられると思うんですね。
そんな世界では我々のいう「無」なんて馬鹿馬鹿しいものでしょうね。
それは我々が3次のグラフのz軸を好き勝手に動かせる時にxy平面の
グラフ上にある条件が存在している、していないなんて自由にコントロール
できるのですから「存在していない」なんてものは所詮ある条件を満たして
いないだけで、いくらでもまたその条件を満たした状態に戻す事ができる。
つまり無は儚くない。死すらも絶対的なものではない。死んだり生き返ったりは
z軸の値次第で変化する条件ひとつという事になる。
324 :
考える名無しさん:03/05/20 13:07
>>322 例えばz軸が一定の速度で変化するxy平面上で生活してる2次元の
住人達はz軸が「どれくらいの速度」で流れているかは分からないと思う。
ただ、z軸というものが「どれだけ流れたか」かは認識できると思う。
それは我々が時計でもって「時間がどれだけ流れたか」を測定はできるものの
時間の流れる「どれくらいの速度」までは計れないように。
※この場合の時間の流れる速度は体感速度ではなくあくまで物理的なものとして
解釈していただきたい。
そして先ほど私が述べました人間が「無」という結論を出してしまいがちな
2つの例、「宇宙の外側」「死後の世界」とは似ていると思うのです。
325 :
考える名無しさん:03/05/20 13:16
それを「無」と言い切ってしまうのは尤もだと思います。
しかし「無」は概念であって「無」、すなわち「何も存在しない」
という事はないと思うのです。あくまで直感なんですが。
必ず何かに満たされている、と思うのです。つまり「無」とは所詮概念
に過ぎないと。例えば他に概念に過ぎなかったものは空間、時間の最小単位。
概念上、時間や空間は際限なく区切っていけると思われるじゃないですか。
数学なんかでも「直線は幅をもたない」とか「極限までドウノコウノ」とか。
モノを考える便宜上は助かるものですが、これはあくまで概念上のものでしょう?
よくある話で「うさぎと亀がいました。10メートル先の亀を兎が追いかけると
して、最初に亀がいたAポイントに兎が到達した時、亀はその先のBポイント
に到達している。兎がBポイントに到達した時亀はさらに先のCポイントにいる」
このまま考えていくとABCDEF・・・とポイントの距離は狭まっていくものの
永遠に兎は亀に追いつけない事になってしまいます。これってそのまま時間、もしくは
空間に最小単位があるという事を表しているじゃないですか。
つまり時間や空間が際限なく分割できるというのはそんな気がするだけで
実際にはもうこれ以上区切れませんよっていうところがある。
326 :
考える名無しさん:03/05/20 13:25
密閉された鉄の箱の中の空気を抜いて真空状態にした時、それは「無」でしょうか
空間というものに満たされてますよね。同様に宇宙の外側も何かに満たされて
いるのでしょう。我々には知りえないかもしれない何かに。
死後の世界はどうでしょうか。我々は直感的に、もしかしたら本能かもしれませんが
何かがあると感じていたりすることはないでしょうか。大昔に全く交流のなかったはずの
いくつかの地域で同じように「死んだら天国があって」「死んだら新しい世界があって」
という考え方があったり、大昔の哲学者も「肉体は滅んでも精神は残る」と
言い切ってみたり死後=無を否定していたりしますよね。
ただ死の恐怖をちょっとでも和らげようとしていっているのかも知れません。
宗教とは本来そういう面をもっているものかもしれません。しかし比較的
最近の天才的と言われた科学者達になぜか死後の世界を確信していた人たちが
いるというのです。アインシュタインやエジソンがそうです。
結局それがなんなのかは分らず終いだったらしいですけど。
327 :
考える名無しさん:03/05/20 13:35
分らず終いだったのは結局我々が4次元の世界を知り得ないのと同じだったのでは
ないでしょうか。同様のこと、ではなく同値だったのではないかと。
我々が魂と呼んでいるモノ、アリストテレスが精神と呼んでいたモノ
それは3次元以外に干渉できた生命の有り様なのではないでしょうか。
宗教的な何かではなく直感的にそう感じるんです。
我々にとって生まれる前の半永久的な時間と、死んだ後に続く半永久的な時間。
肉体がまだ誕生していない、もしくは滅んだ後の世界なので似たようなもののはずです。
が、しかし明らかに何かが違うと感じませんか。
生まれる前はまだ我々は存在する前で、死んだ後は存在したあとなのです。
これは多分決定的な違いであり、「条件」が異なっていると思うのです。
生まれる前は存在していなかったが、生まれた事によって残り続ける何かというか。
328 :
考える名無しさん:03/05/20 13:38
まあいくら考えてもわかるはずのない話なんですがロマンを感じますよね。
個人的に釈迦の教えは面白いと思います。死について、死後について1番科学的
に考えていたのが実は東洋の人間だったみたいな。
あんまり釈迦とか言うとどこのカルト信者だとか思われそうなんでもうしませんけど。
329 :
FOREVER:03/05/20 16:00
>>311 おっしゃりたいことはよく分かりますよ。
無はないが、無の概念はあるってことですよね。
「全てが存在しない」という無
「何かが存在しない」という無(〜の無さ)
「純粋概念」という無(数そのものなど)
「不可能概念」という無
それぞれ意味が全く異なります。
特に二番目の無の概念は有の作用として現れますから
むしろ有的とする立場も頷けなくないですね。
無はあるんだけど見えないよ。
332 :
考える名無しさん:03/05/20 18:39
漏れが氏んだら“無”だ
333 :
考える名無しさん:03/05/20 18:55
無=循環
334 :
名無しさん:03/05/20 19:45
アルプスの少女 はい痔(じ)(*)
>>1 「無」は在りません。
”無い”から「無」です。
337 :
考える名無しさん:03/05/20 20:34
>>332 無ではないですよ。人間ではなくなるだけです。
>>333 それが我々に知ることのできる無の真相の限界だと思います。
338 :
考える名無しさん:03/05/20 21:52
332の考えは57の考えと多分同じだ。
339 :
考える名無しさん:03/05/20 22:48
>あくまで仮説だが4次元の世界とは縦、横、高さに時間という軸が加わった
>4次元の世界という。私はこれが何となく正しいのではないかと思う。
ユニークな仮説ですね。
そういう4次元観は聞いたこともありませんでした。
ホーキングもあい〜んシュタインも聞いたら
ビックらこくと思います。
340 :
考える名無しさん:03/05/20 23:16
>>338 多分似たようなものだネ
たとえどんな次元であれ それを観察し認識することができなければ
その存在は「“認められない”モノ」(仮称、あるいは不明)でしかないんじゃないかな
とマジレス
341 :
お口にファーック:03/05/20 23:43
“無”は存在しない事が存在すると認知されることにより、逆にその存在が証明される。
“有”は無の中に有る事によりその存在が証明される
342 :
考える名無しさん:03/05/21 02:38
存在と無って存在と時間のパクリですか?
343 :
考える名無しさん:03/05/21 04:55
無(ない)とは「非・有(ある)」であるとすると、答えは簡単。
「非・有」は、「ある」「なし」に踏み込めないわけですよ。
「非・有」という言い方そのものが、「有」を内包しているから、
あらかじめ「ある」「なし」を先取りしている。
「無」があるかないか、というのは、日常言語に引きずられた偽問題。
……というのじゃ、だめ?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
346 :
考える名無しさん:03/05/22 00:18
無とは概念に過ぎなく、現実に無とは物理的にはありえない状態である。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
人は認識の明るみの中で、様々な存在者と出会う。
その明るみが消え去るとき、おのれは「 」となる。
たとえば、私が植物人間となり、すべての認識──外界からの刺激・知覚、思考能力──を永遠に失うとする。
そのとき、私は「 」になったといえるだろうか?
わたしは「いえる」と思う。ただし、「おのれにとって」という限定つきで。
他人から見れば、もちろん私は生きている。それゆえ、私はいまだ存在し、「 」にはなっていない。
また、その状況を想像している今の私からみても、植物人間の私は未だ「存在している」と考えられる。
しかし、これは誤りである。
客観物(他人)を見るように、おのれの存在を対象化してはいけない。
なぜなら、おのれを対象化している限り、己の存在の明るみは未だ消えていないから。
その明るみが存在しているからこそ、そのようにおのれを対象化できる。
その状態は真の無とはいえない。
『おのれを対象化して「 」を概念化するのではなく、おのれの存在の明るみが消え去ることの「事実」から眼をそらさないこと』
対象化される「何か」に囚われるのではなく、、対象化する主体(私)自身の存在にこだわらねばならない。
「無」は、人によって様々に受け取られる概念である。
大きく分類すると、
1.認識される対象物(また、その全体としての世界)の中に無を求める。
ex)何も存在しない空間
2.概念のうちに無を求める。(広義には1に含まれる)
ex)数字の「0」
3.おのれ自身の存在が消え去ること。
私が考える無。1,2の無と誤解されやすいので、この場合の無を「 」とする。
認識する主体A −− 認識される対象X
Xの中に真の無は存在しない。Aの存在のあり方として無は存在する。
少し考えて見よう、、、
352 :
考える名無しさん:03/05/24 15:46
おっ、57帰ってきたか。おかえり。
また埒のあかない押し問答でも始めるか。
認識主体が消えることが本当に「 」と言えるか?
それは認識できなくなっただけで真の「 」とは
言えないのではないか?
353 :
考える名無しさん:03/05/24 19:53
最近、死について悩んでいるから、誰か適切な教示を頼む。
例えば、(1)100歳で死ぬ。(2)250歳で死ぬ。
(1)無限時間生きて、疲れて死にたくても永遠に死寝ない。
(1)も(2)も、100歳であれ、250歳であれ、死ぬ一瞬前の
心境は同じだと思うし、(3)の永遠に生き続けるのもきつそう。
結果、(1)(2)(3)どれも悲惨。これ例外の選択肢はないのか。
どうしてくれる。哲学徒の皆さん。
354 :
考える名無しさん:03/05/24 19:54
↑(3)無限時間生きて、疲れて死にたくても永遠に死寝ない。
355 :
考える名無しさん:03/05/25 01:49
ワレイマタセイヲシラズイヅクンゾシヲシランヤ
無は存在との対立概念としてのみ存在する。
357 :
考える名無しさん:03/05/25 06:59
>355
空海さんイラシャイ。
358 :
考える名無しさん:03/05/25 07:36
>357
×
>355
空海さんイラシャイ。
○
>355
孔子さんイラシャイでした。
『速い』と『遅い』、『遠い』と『近い』、『熱い』と『冷たい』は相対関係にあるが
『有』と『無』は相対してるのか?
漏れ個人としては、対極にあるようには思えないが
私の無の考え方が正しいかわからない。
ただ、様々な哲学的な問いがある中で、
「自分がこの世からいなくなる不思議」がダントツに不思議である。
この世で起こるすべては、私(の理性)にとって受け入れ可能であると思う。
たとえ、どれだけ常識はずれのことがおきようが、所詮、強弱の問題。
比較する対象は必ずある。
しかし、己の存在が消え去ることに比肩する経験はない。
わずかに似たものすらない。それでいて、すべての人に必ずやってくる。
他人の死は、「私もいつかは死ぬ」という事実を確信させるだけで、
私の存在が消滅したそこが何なのか(どういう意味なのか)教えてくれない。
もし無が、「ある」「ない」といった論理を超越した概念なら、それは「 」だと思う。
「 」と、論理の中で考察される「無」を同じ重みで扱うことはできない、、というのが私の基本的なスタンスである。
もともと私など存在していなかったのに、なぜか存在するようになった。
そしてまた、私の存在は消滅する。これはいったいどういう事なのか?
新スレを立ててもいいのだが、ここが重複スレで内容も(若干)かぶっている。
よって、このスレを使って考えてみようとした次第です。
>>359 >『有』と『無』は相対してるのか?
>漏れ個人としては、対極にあるようには思えないが
私もそう思う。
私の考え方──認識の明るみの中に無を求めてはいけない──には、大きな矛盾がある。
それは、今の私にとって「 」は、「その明るみの内に存在するもの」であるということだ。
といって、私が「 」となった時には、私は存在していない。
では、私にとって「 」は存在しないといえるのか?(184氏の
>>184>>293)
理屈でいえばその通りである。
しかし、今の私の実感からすれば、私が「 」になることは絶対に否定できない。
ゆえに「無はある」としか言いようがない。
この矛盾をどう考えるべきか。可能性として、
1.「認識の明るみの中に無を求めてはいけない」という前提がおかしい。
2.「 」は論理の中で考えることはできない。
1の考察は継続。
2は、己の実感から離れることなく、できるかぎり論理的な解答を導く。
364 :
考える名無しさん:03/05/26 01:18
無はあるよ。真空がそうだよ。
存在は、普遍的かつ空虚な概念で定義不可能といわれる。
しかしそれでいて、誰もがこの概念を無意識のうちに理解している。
「 」にも同じ事が言えないか?
「己の存在がいずれ消え去ることを疑う者はいない。それでいて、それは何かと問えば、全くの定義不可能なものである」
それは無と存在が対立概念(同じ土俵)だからなのか?
「私の存在」や「私の存在の消滅」を問う試みは、論理を超えたものではないかと思う。
存在(「 」) ⊃ 論理
論理という地盤に哲学という家が建っているのではなく、哲学という家の中の一室が論理なのではないか?
存在・「 」は、論理とは別の一室ではないのか?
もちろん我々は論理という部屋から出て、考えることなどできない。
それゆえに、「 」を(論理で)考えれば考えるほど難解になり、真理から遠ざかっていく気がするのではないか?
>>364 >無はあるよ。真空がそうだよ。
闇が存在する。
なかなかすばらしいスレだ。
368 :
考える名無しさん:03/05/26 01:52
ヴァイシェーシカ論理学は何でもありの
ようだ・・・
良スレ。
370 :
考える名無しさん:03/05/26 05:15
無か有かというのは物の有る無しだから、真空が無だよ。
372 :
考える名無しさん:03/05/26 06:49
物が変化する事が時間が経つ事だと思うよ。時間っていうものがあるというより、
物が変化する事を時間が経つって言ってるんだと思うよ。
>>57 頑張られてますね。こっそり応援してますよ。
ところで
>>352氏のレスはかなり重要ですよ。
また認識できないということと認識しないということも
よく考えないと死の定義すら揺らぎますよ。
現段階の57氏の所見ではその辺の犬は死んでるのと同じです。
いやはや
>>230の「 」をそう扱いになられましたか。
あれはレトリックの一種です。あまり過信して使うと
ハイデガーの現存在や永井の<わたし>のように叩かれますので。
>>352>>373 >認識主体が消えることが本当に「 」と言えるか?
いまのところ私の根拠は、直観(実感)だけである。
度々繰り返すことだが、
私が生きているうちに(実在の存在者のうちや観念の中で)出会う無と、
私自体が消え去ってしまう無を同レベルで扱うことはできない、というのが私の出発点。
「 」が、「無」でも「無ではない」でもかまわないのだが(しょせん言葉の定義の問題なので)、
「おのれの存在が消滅すること」の重大さ、比類のなさを考えれば、
「ない」の最高概念「無」が最もふさわしいのではないかと思う。
>それは認識できなくなっただけで真の「 」とは言えないのではないか?
>>352 私が「 」になろうがなるまいが、世界はこのまま続いていくことに(ほとんど)疑いを持たない。
しかしここで重要なのは、己は「 」になったにもかかわらず、その後の世界をその続いている世界の側から
(つまり自分が生きていると仮定して)規定してはいけないということ。
己の存在を考える時、己の存在の場からでて、外から客観視して考察することは許されない。
おのれの「 」を今の私が観察して「 」を推測することと、実際に「 」になることは全く違う。
おのれの存在が消え去る場とは、
1.今の私が考察することは、ここでいう客観視にあたる。
>>367 かといって、存在が消え去った時には考察不可能。
2.論理(言語)は存在しないので、言語で規定することもできない。
この考察もできないし、(言語で)規定もできない、かといって間違いなく存在している場を私は「 」と名付けた。
私にできることは、おのれの存在を照らし出す(解明する)ことにより、その陰影として「 」を浮かび上がらせるほかない。
>この考察もできないし、(言語で)規定もできない、かといって間違いなく存在している場を
これはおかしいな。
「存在する場」があるなら「 」ではないから。
『「 」がある』、とか『「 」になる』もおかしい。
「ある」「なる」は存在者の述語。「 」は存在者ではない。
ただ、うまい言い方を思いつかない。論理で表現できないから「 」なのだが、、難しい。。。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
379 :
考える名無しさん:03/05/29 13:05
age
nothingness
381 :
考える名無しさん:03/05/29 14:46
>>343 『無』だから存在し『ない』というのは
余りに通俗的過ぎると思います。
『ない』という言葉が『なければ』ほとんど
何も言え『ない』と思いますので。
无ハ ソンザイス!
383 :
考える名無しさん:03/05/29 15:26
ないことを「無」と形容する言葉はあるにはちがいないけど
要するに、「無」は「意味」として存在します。
385 :
考える名無しさん:03/05/30 04:06
>>384 つーことは、意味を認識する主体=観察者が存在するという...
無ってのは有から感じれないし、まず脳内で無を想定することから無でなくなるのでは?
無から有は生まれる、ってのも量子学で証明されてビッグバン説が有力だし。人口増加もカオス定理で
一定枠に留まるのも証明されてるし。世の中(この世だけでない)は有限で創造出来ないモノが在る、とも思う。
しかし無が在るというパラドクスが生まれるだろうが。と思う方々がいるだろう。そこで思った、無は存在と
対極でないと。無と存在は唯一比較は不可なのだ。そこで調和を保つために世の中は存在を認めなくも無も認めない
のだ。これこそが真理に近いのではないだろうか。例えばゴキブリが感じた筆箱と人間が感じた筆箱は違う、そして有りながら
無もあるのだ。無ってのも矛盾なわけだ存在ってのも矛盾なのだ。
387 :
動画直リン:03/05/30 18:17
388 :
考えよう名無しさん:03/05/30 19:11
無とは常に有る事である。
389 :
考える名無しさん:03/05/30 19:25
>>1 「ない」も「ない」が「無」であり
「無」も「ない」が「無」である。
「有無」は感じ取ることだから
死後の世界がないとすれば
何も感じ取れない「死」こそが「無」である。
>>384 意味として存在している という言い方が曖昧
意味を持っている というべきだろう。
391 :
考える名無しさん:03/05/30 20:39
ゼロは「無」か?
ゼロは、〇〇が1つも「ない」状態。
「〇〇がない」状態は現実にも、もちろん理論上も「ある」。
ところで、『無』が、『なんにもない』状態であるならば、
「〇〇がない」の「〇〇」が「すべてのもの(存在)」=∞になり、
「∞がない」になる。この自転で矛盾しているが、
こうした「無」が仮に「在った」とすると、ここに「在る」「無」は存在として先程の∞に内包され、
そうすると∞がないのが無とする先程の定義と反する。
392 :
考える名無しさん:03/05/30 20:42
ムッ
無はどこに存在させるのか?
>>391よ、無限は「限りが無い」ではないか?、つまり無限は無の属性なわけだ。
「〇〇がない」状態は理論上にもないのではないか?在るなら書いてみて欲しい。
無無!限りが無い=無限=創造出来ないものがある=有限、アボーン
すまない、必死になり過ぎて限りが無い=無限=創造出来ないものがある=有限
というわけのわからないモノを創ってしまった。
0というのは文字、記号であるが故に無そのものではないな、、、ま、ようするに
無が在ることは無いといいたい。
しかしこれでも矛盾する。無が在ることは無い。この文にも無が有の空間に在ることになる。
つまり、無が在ることは無い×無限=無、これが本質に近いのだ!しかし=と×は、同じモノが在る
という点で限りなく近い。しかし同じモノがあるならば無限はないことになる。
無が在ることは無い×無限=無、というのもまた矛盾しているな。
削除点:同じモノがあるならば無限はないことになる。
すると無限と無は絶対的ではないな。おお!
>>391が示しているように
「○○がない」これは素晴らしい。この○○にあてはめると無についての極限の
解が得られないか?例えば車が無い状態も無であるわけだ。つまり神が無い=無
である。地球がないならば無である。しかし地球は在るからこの世は無でなく有である
のだ。故に無限は無いのだ。宇宙にも限界があり有限なのである!。とごく当たり前の
宇宙論だがこれを哲学的に解いた。すばらしくないか?
スマソ病院に逝ってくる。
400 :
考える名無しさん:03/05/30 21:32
いってら
401 :
考える名無しさん:03/05/30 21:32
402 :
考える名無しさん:03/05/30 21:37
>>57さんに考えが近いので書き込みます。
無が在ると言ってしまうと、すべてが無いことが無であるに反しますが、無しか存在
しないといえばそれほど意味的に反しないと思います。つまり存在そのものの
否定です。
具体的に挙げると、死後私たちは脳の消滅により、世界を認識することができなく
なりますが、それと同時に生前生きていた記憶もなくなるわけです。
つまり今僕が生きているというそれ自体が、死んだ後の僕にとって存在しな
いことになるわけです。生きていたことが無効になるのですから、自分は存在すると思っているが、
最初から存在してはいない、世界も存在しない、言葉も存在しない、無という概念もない、意味も存在しない、
時間も存在しない、ということになると思います。
死後の世界がどんな所なのか観てきたわけではありませんが、無とはそういうものではないでしょうか。
幽霊がない=無である。よって幽霊は在る。在ることは確かだ。なぜなら人の概念に在る。しかしこの式も
数分前は欠点が在ると思った。それは存在と無の関係が対極ならば成立するからだ。存在と無の関係はなんなのか。
哲学をするならわかると思うが存在=無限では?、するならば存在=無になる。とも
考えれられる。しかし「○○がない」ことに当てはめると存在が無いことは無い(無)ともなる。
「○○がない」これは矛盾すらも説明してしまっている。数秒後は欠点がないと思った。
ん、待てよ。でも「欠点がない」は無だから、欠点が無いことは無いともなる。
と試行錯誤して思いついた。「○○がない」は矛盾であることに気がついた。存在=無でもあり無でもないのだ。
宇宙膨張説は「光速で宇宙が膨張している」これは凄い。これまで存在していたのが無にもなりうるのだ。
しかもこの説は光速が時間の最小単位であることも示していると思う。
>>402が考えたのも「○○がない」に説明されていないか?よ〜く考えてみてくれ
405 :
考える名無しさん:03/05/30 22:01
406 :
考える名無しさん:03/05/30 22:02
>>402 ごめんちょっとよくわからない。もう少し解りやすく説明してや
407 :
考える名無しさん:03/05/30 22:08
>>402に同意。
俺らが死んだとき、全ては消えうせる。
幽霊とか、そんなのなしに考えて。
有とか無とか、考えてるのは自分。
世界を認識しているのは自分。
個人が死んだとき、その人の感情とか意思とか全部消えちゃって
他人から見てもその人は無であるし
ましてや自分は存在していないのだから完璧な無。
物質の有る無しじゃなくてね。
402がこういう風に考えたのかどうかはわかんないけど、
私はこう思いますた
409 :
考える名無しさん:03/05/30 22:15
実態が無いものが「無」ではないか?
>>407 そう、そう。僕もそういう風に考えた。でもあくまでこれは、無の定義づけ
ぐらいにとらえたほうがいいと思う。死後の世界に悲観的になるから。
まあそれも生きている僕の立場で悲観的になってるだけだから、
死後の僕がなんて言うかは解らないけど。
生きてるうちは、死後の世界を半分信じてるぐらいのほうが気楽っちゃ気楽。
だから僕個人としては死後の世界を信じるようにしてるけど、哲学的な精神に反するわな。
>>402 実体が無いものが無ではないかってことだけど、たしかに無に実態は
無いかもしれない。それが証拠に無を認識する者がいないんだから。
死んだ人をもし仮に蘇らせることができるとしたら、その人のよみがえった後の記憶は
死んだときの記憶と続いてると思う。つまり死んでる時間が100年だろうが200年だろうが
死んでる間の記憶は無いわけ。自分が死んだと思ったらすぐ生き返ったみたいな。
411のつづき
その死んでる間の無はあたかも存在していないようにみえるが
それは違うと思う。無しか存在しないだけ。つまり存在そのものが消滅している。
413 :
考える名無しさん:03/05/30 22:51
俺たちの嫌いな数学。
面積のない点A。
それが集合するとなぜか線になり、
線が集合すると面になり、
面が集合すると空間になる。
さて、逆に、「空間」から「高さ」(?)をなくして「面」とし、
「面」から「広がり」をなくして「線」とする。
この「線」から「長さ」をなくしたら、「点」って「在る」の?
数字はひとつの点をなすんじゃなかったっけ。
415 :
389のコピペ:03/05/30 23:08
>>1 「ない」も「ない」が「無」であり
「無」も「ない」が「無」である。
「有無」は感じ取ることだから
死後の世界がないとすれば
何も感じ取れない「死」こそが「無」である。
>>415 しかしそれだと無も無いということになり、無が有の性質をおびてくる。
暇だから
>>330は認識としての無という概念のあり方です。
ところで57氏に賛同されている方が多いようですが
「死」の概念もまた簡単な構造ではありません。
痛みを感じるのは自分ですが意味は他者から学びます。
けれども死はその意味を他から学ぶに留まります。
誰もが未死に過ぎません。
1 死によって何か失われるのでしょうか。
2 そもそも失うような何かを言明できるのでしょうか。
3 それが果たして無と同義であるとすることが可能なのでしょうか。
この3つを越えてもらわないと「自己の死」への語りは
単なる修辞的表現で終わりです。
>>417 自己の死の修飾的表現ということですが、僕の認識としてはむしろ逆で
無に対する比喩的表現として自己の死を例に挙げたわけですけど。
これは47氏の意見とは食い違うと思いますが、むしろテーマとしては、
ありかなと思ってます。僕個人としては死後の世界を勝手に信じてるんですが、
あくまで自己の死が主体的な認識を失うと仮定しての話のつもりでした。
無とはどういうものなのか。絶対的な無はあるのかないのか。その議論を明確にするために
自己の死というものをもちだしたわけです。
>>330に書いてあるものでいえば「全てが存在しない」という無
に対する答えが出したかった。すべてが存在しないなどあるのかないのか。
もしそんな無が存在すれば、存在することによって、有になってしまう自己矛盾。
しかし無だけしか存在しないならば、すべてが存在しないと同義語になるわけです。
その一例として自己の死が主体的な認識を失うと仮定して提示したわけです。
419 :
考える名無しさん:03/05/31 02:04
もし無があるならば、それは我々の考えの及ばない
一種の聖域の上にあると言えよう。つまりは、
無を思惑することすら不可能なのである。
例えば、今我々の世界に電気に於いての知識がなく、
誰もそれを気にせずに生きていたとしよう。
その場合、電気という概念は限りなく無と近しくなり得る。
しかし、その中の一人でも電気について思考を始める者が現れた時
それは有となってしまう。これは無としては不完全であろう。
無とは絶対に思いを馳る事の出来ない境地にあるものではないか。
いや、この思惑すすら既に無を有たらしめている…難
420 :
考える名無しさん:03/05/31 02:23
認識主体が失われようと失われまいと、一度存在して
しまったら、既に無にはなれない。
421 :
考える名無しさん:03/05/31 03:23
無はあるのかって?
…あるよ。オマエだよ。絶対的にはオマエは無なんだよ。
相対的には有だけどな。
422 :
考える名無しさん:03/05/31 08:13
キチガイの会話ミタイ、、、、、
423 :
考える名無しさん:03/05/31 08:23
>>413 数学ってのは認識の論理なんだよ。
無っていうのは、認識にかかわる概念なんだよ。
たしかに存在しないものは存在しない、つまり無は存在しない。
しかし存在するものを理解するには無が必要なんだよ。
人間は直接に存在を理解できない。
無はその媒介なんだ。
>>423 たしかに(w
でも、それなりに哲学史を踏まえれば、面白い発言もある。
424 :
考える名無しさん:03/05/31 08:51
存在しないという状態が有ることが無であるから無であるという概念は存在するが無は存在しない。
何もない空間は無であるが空間が存在するから無ではない。
何もない空間も存在しないのが無であり無は概念のみで存在する。
ただし、無は存在しない。
存在しないという概念と存在しないという状態が存在するから無は存在するが
無は存在しない。
死後の世界が無ならば死後の世界のみが無である。
425 :
考える名無しさん:03/05/31 08:57
>>423 >>423である自分自身にレスをしてるがどういう事で、どういう意味があるのだ?
それとも、単純な書き違いか?
気にしない、木に竹刀
427 :
考える名無しさん:03/05/31 09:08
>>390 >意味として存在している という言い方が曖昧
>意味を持っている というべきだろう。
なぜに曖昧?
「意味を持つ」「意味を所有する」という言い方のほうが曖昧ではないか?
>無は在るのか?
「無が在る」という表現が字義的に矛盾しているという
意味論上の問題ですね。
真空状態があるかとかそういう問題じゃない。
だからそれは「意味」として在ると云えばいいわけです。
「慈愛に満ちた虐殺行為」とはありうるのか?
「非営利目的の金稼ぎ」とは実行可能か?
はーい、みなさーん。
ことば遊びですよー。
おもいっくそけいべつしてやりましょーねー。
429 :
考える名無しさん:03/05/31 09:15
クレタ島出身のエピメニデスがこう言った。
「クレタ人はみな嘘つき」だと。
430 :
考える名無しさん:03/05/31 09:32
「私は嘘しか言わない」
「無が在る」は字義的によく考えると変な表現ですけど、
しかし意味として通じないことはない。
「無が在るのか無いのか」という疑問文を
決して変とは思わないわけです。
432 :
考える名無しさん:03/05/31 09:49
>>431 「宇宙ができる前の状態のことを無という」でいいじゃん
なんか言葉遊びになってるよ
434 :
考える名無しさん:03/05/31 09:52
>>430 >「私は嘘しか言わない」
その言葉も嘘なら「本当のことも言う」ってことになる。
ってことはその言葉も本当だから、結局あなたは
「嘘しか言わない」ってことになる。
これは再帰的な無限循環か?
435 :
考える名無しさん:03/05/31 09:54
>>432 でも1が問いたいのはそういうことじゃないでしょ?
もしそうなら「宇宙ができる前の状態が在るか?」と
いう疑問文を書けばいい。
しかし1が発している問題はそういう意味じゃないはずです。
>>432 だから1は言葉の遊び(ゲーム)そのものを問題にしているんでは?
437 :
考える名無しさん:03/05/31 10:11
>>436 434のように言葉遊びだったのですか、失礼しました。どうぞ続けてください
438 :
考える名無しさん:03/05/31 10:12
439 :
考える名無しさん:03/05/31 10:47
>>437 434のようなのは単なる言葉遊びというよりは
言語論理学的問題ではないか?
言葉遊びを言語ゲームと解すればいいわけだけど。
>>418の
>>402氏
仮定ということならそれでよいとします。
けれどもその仮定は
>>330の1番目を対象にするのでは誤りでしょう。
「全てが存在しない」という無は則ち皆無の概念のことであり、
これを可能たらしめるのは有限における際限なき否定であるため
402氏がおっしゃりたい死に一歩足りないことは明白です。
死は
>>417にもあるように常に向こう側であるので
そのあり方は
>>330の2番目としてしかないでしょう。
それを拒否する57氏の最後の明るみの除去としての死は
独我論であり、到達できる無は
>>330の4番目しか残りません。
しかし独我論であっても理解不可能なもの同士を等しくする
言表などなく、表現されるものは
>>330の2番目にある欠如が
当人に起こるであろうという一般的事態になることが宿命です。
極端な言い方をすると
自己の死とは主体的認識の脱落に過ぎず、
「自己の死は無である」という発言によって我々は「自己の死が
無であること」を理解するのではなく、「自己の死は無であるという
何か理解、想定可能であろう事態があること」を理解しているのである。
我々は知らないのである。何か、つまり自己の死を。
「私は死んだ」という言葉は未だかつて正しい意味を持ったことはない。
まず状況があってそこから無という概念ができたのです。
だから無は存在が先行していて、この存在を認めないのはおかしい。
死後の世界が主体的認識をすべて失うとすればどうなるか、
われわれが存在している、世界が存在する、また生きていたときに、存在していたと思
っていたわれわれを含むすべてのものが、その瞬間失われるわけですから、今生きている我々の認識も疑わしいものに
なってくる。我々の認識がいずれ失われる以上それは頼りないものだとはいえないでしょうか。
我々が存在している、そこに物がある、それらの認識も真理ではなくあくまで公理である以上
「私は生きている」「私は存在する」という言葉は絶対ではないのだというわけです。そこに皆無つまり無だけしかない
という状況(概念)の余地がある。
445のつづき
無論、無だけしかないのですから状況、概念もありえないのですが。
448 :
考える名無しさん:03/06/01 03:00
449 :
考える名無しさん:03/06/01 05:06
ここまで進むと、無とは何か、無の実体とは何か
大体分ったろう。
無とは、ラッキョウの皮である。永遠にラッキョウの皮をむきつ
づけるとよい。それが哲学の使命であるなら。
それもよいが、答えのない、無は在るかを、人間は何故問い続けるのか
を問いつづけたほうがよい。それこそが哲学の真髄である。
450 :
考える名無しさん:03/06/01 05:53
問・無は在るのか?
答・無は無いから無。。。。。(;´Д`)
451 :
考える名無しさん:03/06/01 06:33
無、色即是空、死後・・。生きて考えることがたんぱく質内に電気信号
が走っているでけのもので人間は自立行動有機物で、死とはただ壊れて土
になるだけのものである。たぶん。無、を理解したあとのむなしさをどう処理
していいかゆきずまっているので、知ってたらおしえてくだちい。
>>451 晴れの日は『小鳥のさえずり』
雨の日は『雨音』
などなどを聞きながら、俳句でも、おやりになられたらいかがでしょうか。
453 :
考える名無しさん:03/06/01 09:18
哲学などのアナログ論理で思考すれば、
色即是空とか、有=無などの表現方法が使用される。
科学などのデジタル論理では、
0(無)は、(−5)+(+5)=0
(+−が同数値ならどんな数字を入れても0となるので、何をいれてもよい)
(−∞)+(+∞)=0(無)
例えば、このようなデジタル論理を用いる事により、
宇宙開闢以後、現在までの宇宙の歴史を数式で証明する際、
無から有が生じたと、一見矛盾する解釈を入れないと、論理的に
前に進めないとき、前記のような解決法を採るらしい。
>453
ところで、インドなどには、飲まず食わずい生きている仙人が
いるらしいが、理屈的には、消耗を極限にまで抑え、
養分は空気中に在る、酸素、水素を皮膚から取り入れ、
体内で分解することで、まんざら嘘でもなく、
可能との説もあると聞く。
454 :
考える名無しさん:03/06/01 09:57
>>453 >哲学などのアナログ論理で思考すれば、
>色即是空とか、有=無などの表現方法が使用される。
とても簡潔でスッキリ! 同意です。(^.^)
>>444 もっとわかりやすくできるのではないかな。
名前をつけるともっとすっきりする。
たとえば57氏の主張する無は主観無、死んだら主観はゼロになって
消えると、まあ断見教の論理だわな。それを証明したいなら脳の問題
に行かないといけないと思うのだがどうだろうか?
己の存在が死によって消えるとき主観無が訪れるのは意識・感覚と言
うものが脳を中心とする神経システムのみであって、それ以外の霊だ
とかそう言うものが働いてないと証明できて始めて実効性を伴う議論
ではなかろうか?
無に名前をつけるのはもうひとつ効能がある。それが無の特殊な形態
を論じているのであって、一般的な無について話していないことが
即座に了解されるからでもある。無は多様であり、その概念の共生
を認め、それを整理するには無の概念一つ一つに名前をつける必要
があると思うがどうだろうか?
>>443 で言ったことの重要さが伝わって
いないようなのでもっと詳しく書く。
私はこの無の概念があることが
常識になっている今の現状に一石
を投じたいのだ。
かつては無の概念はなかった時代も
あったのではなかろうか?
無の概念は古代インドにおいてで
きたとされるが、まあ事実はわからない。
そこでは欠如を意味する「シューニャ」
だか「シューシャ」とかいうサンスリット
語がそれにあたるそうだ。
「もともとあるはずのものがその場所にない」
と言うのがこの語の意味であり、無とはちょ
っとずれるのだが「空」の元であった概念と聞く。
続き
さてここで問題にしたいのは、
身と言う概念が状況に対して後づけで
できているのではないかという疑問である。
ならば、まず無といわねばならないような
存在形式がまず先にあって、それに対して
概念をつけているのだから、無という言葉が
在る以上、それに対応する存在がどこかにあり、
そして名づけられた。
だから「無は在るのか?」と言う疑問そのものが
「無という言葉がある以上、そう裏づけになる
存在形式がどこかにあったと言う証明ではないのか?」
と言う問いで問い返されるような事態ではないのだろうか?
と言うことを言いたかったのだ。
間違えた
身と言う概念が状況に対して後づけで
>無と言う概念が状況に対して後づけで
裏庭で首くくる。止めるな。
くろしろ、いいぞ
もっと語れ
>>445の402氏
ある飛躍が存在していることにお気付きですか。
自己の死をシミュレートする際、五感がなくなるとか
重力がなくなるとかそういった仕方で消していくことを想像する。
最後に自分を消そうと想像するが、それだけはどうしようもなく
出来ないと気付くはずである。どこかでエポケーせざるを得ない。*1
皆無概念には中心に否定するメタ的な主体が存在しなければならない。
メタ的な主体に対して否定操作を行うことは命題関数が異なる
出来事である。それは
>>330の2番目のようにしかありえない。*2
*1)動植物は概念を持たない。無というものに常にエポケーである。
*2)無の誤用はその定義域の違いから
>>290 死のあり方は
>>441
しかし無について考えるのもあれですな。
主観無の場合考えなきゃいけないことは、
これは危ない遊びなんだと言うこと。
死んだら全て無になるんだな、ならこの生
に対する意欲や、死を恐れる気持ちや、
さまざまな感覚が全部なくなるんだな、
気持ちよさそうだな、気持ちよさそう
なのも消えちゃうのか、とにかく、無
って
最高……
と、逝ってしまう御仁が
出てくる……
あ、
もう少しだ。
死ぬな、くろしろ
もっと、もっと語ってくれろ
くろしろ氏のいう無の発生と派生(拡大)から対立が生じる
ということですがこれはおっしゃる通りだと思います。
氏のいう状況無を見つけたがために純粋概念としての無まで成立する。
>>456 ここでいう主観無の証明に脳を持ち出してますがそれは
必要ないと思います。
>>461にも書きましたが
そもそも主観のないものに対して無が適応外であることは明白で
主観無と言うより主観の証明といったほうがそれに当たると思います。
認識主体A −− 認識の明るみの中で出会う対象X
X:1.外部世界のどこかに無はあるのか?
ない。「何もない状態」があるだけ。
2、観念の中に無はあるか?
ない。観念は論理によって組み立てられている。論理上「無が在る」とは虚偽命題である。
(ほとんどの議論はこの枠内で考えられている)
A:もし、無があるとすれば、おのれの存在の消滅こそがそれである。出発点は私の「実感」。
>>440-442 >それを拒否する57氏の最後の明るみの除去としての死は独我論であり
この世界が私の意識に現れた幻だとは思わないし、私が「 」になった後もこの世界は続いていくことを確信しています。
>自己の死とは主体的認識の脱落に過ぎず、・・・
これだと
>>330の「欠如としての無」になってしまう。私はこの無と、「 」ははっきり分けたいと考えています。(
>>568)
>「自己の死は無であるという何か理解、想定可能であろう事態があること」を理解しているのである。
>我々は知らないのである。何か、つまり自己の死を。
そのとおりだと思います。
「 」とはどういうことなのか、どれだけ考察しても解明できません。あくまでも想定、というより実感ですね、私の場合。
私にとって「 」が、語義上正しい無であるかどうかは大して問題ではありません。
そうではなく、私がいずれ「 」になることがどういうことなのか──それは私が存在しているとはどういうことかにつながりますが──
が知りたいのです。
>456
>無の概念一つ一つに名前をつける必要があると思うがどうだろうか?
私の立場は、「 」を「主観無」として他の無と同一の地盤におくことはできないということです。
あくまでも、「おのれの存在が消え去ること」は、私が生きているうちに出会う無──ほとんどは観念としての無でしょうが──
とは別格、全く別のもの考えています。それを混同しなければ意味あることだと思います。
他人の存在の消滅はどう捉えるべきか。
私の考えでは、他人の死は私の認識の明るみの中でであう出来事。それは必ず
「存在して(生きて)いる ー 存在しなくなる(死ぬ)」
という対立項で現れる。そう考えれば、「鉛筆が在る ー 鉛筆が(燃え尽きて)消滅する」と同じく「欠如としての無」として
考えるべきである。
他人の死は欠如としての無として現れる。
しかし、私の存在の消滅は私の生の欠如態ではない。
欠如としての無は、必ず「有」を伴っている。ある人の死は、その人が生きていたことを前提に存在する。
しかし、おのれの「 」には、そのような前提自体存在しない。
私の「 」は、”私が「 」であるとき”、私の生を前提として存在しているのではない。
(もちろん、”私が生きているうちは”、「存在ー(存在の)消滅」の対立項で欠如としての無として存在する。しかし、
それはおのれの「 」を、他人の死と同様に対象化しているからである。このあたりの違いを伝えるのが難しいが・・)
私の存在の明るみの中で出会う「無」(この場合他人の死)と、おのれの「 」を同格に扱うことはできない。
論理とは、認識の明るみを照らし出す定まった波長のようなもの。
明るみの中でであう、(概念を含む)様々な存在者は、論理という光を通して出会う。
しかし、その明るみ自体が消えたとき、論理も同時に消える。
論理のない世界を論理で説明することはできない。
では、どうやって「 」に近づけばいいのか?
「 」自体に迫ることができない。それならば次善の策として存在の側──私が存在していること──から解明するしかない。
では、私の存在をどのように解明していけばいいのか?
私が存在していることを可能にする条件を探っていくしかないのか?
これが今の私の課題。
私は他人の存在が次々と消え去ることに何ら不思議な感を抱かないし、極当たり前のことだと思っている。
しかし、私自身がこの世から消え去るとはどういうことなのかまったく理解できない。
その状況を想像すればするほど、実に不思議で興味深い問いが生まれる。
「世界がいかにあるかが不思議なのではなく、世界がある事自体が不思議である」
この問いは、素晴らしい問いだと思うが、私に言わせれば、
「そのうえ、私がこの世から消え去ることはさらに不思議である」
>>471-472 早々に論理を捨てる必要はないと思われます。
「私は死ぬであろう」
「私は死ぬはずである」
この側面も重要だと思いますよ。
ただ「私の死は無である」という一階の論理には
>>441-442-461で反証する立場もあるとご理解下さい。
477 :
考える名無しさん:03/06/01 18:17
今語られているのは結局は存在の対称としての無でしか無い。
どうも皆さんは無に対して先入観が強すぎるように思います。
何故、無を一種の闇に近い存在として捉えようとするのでしょうか。
そもそも、無がもしあるならそれは意識の及ばない
ところにしかないと思います。つまり、語られない対象、
否、意識外の対象のことだと思われます。
意識出来ないとは存在していないということです。
しかし、認識が消えるのは存在があって始めて成り立ちます。
つまり有から無が産み出されることになります。
しかし、それは無と言えないのでしょう。
>>477 背景としての無ですな。禿しく既出かな。
>>187 >>207 最近では
>>461 もっと色々あったと思うけど。
477氏のいうそれだけが無とすることは流れを見ていただければ
分かる思いますが別の定義域を持つ無との対立しか生まれません。
ドーナツの穴とからっきょうとか…。
>>461の195さんへ
その意見も十分すぎるぐらい分かるのですが、べつに生きている立場、存在して
いるものを認識する立場から死や無をシュミレートしているわけではないのです。
そもそもわれわれは存在しているのかと疑ってみる。つまり存在そのものの否定に僕の言いたいことはある。
われわれは存在しているのだから、それを想定してみるのは不可能だということですが、
逆に考えると、われわれが今ここに存在している、という前提がある上でそれは成り立ちうるが
われわれがそもそも存在しないならば、無を想定する前に、それを想定する自己や対象の存在が存在しないことになる。
パスカルが「吾思うゆえにわれあり」といっているが存在自体の明確な論証にはなっていない。
また存在があることを明確に論証しえないと思います。そこに全てが無であるということの余地が在る。
「私は生きている」「そこに物がある」という言葉は、もちろん全ての事象の前提であるが、真理ではないし、それを確認することもできない。
>>464 脳の議論ですが、この世には霊と言うものを信じる人の割合が、
世界中で見ると唯物論よりずっと多いのです。宗教と言う名の
主観の信じ方――永遠の命――これらに対抗するためにはなぜ主観
が死で消えてしまうのかと言う問題について語らざるを得ず、
結局、脳の問題を捨てることはできない。
それから動植物が概念を持たないという点についても、知能の高い
動物については、たとえばチンパンジーなどは丸や三角を見分けるし
概念がないとはいえないと思う。
>>467 もちろんそのような個人的思い入れから「 」を語りたいのは
わかるが、それは名前をつけてでもできると思う、ここで
問題にしたいのは無の多様性をどう整理するかであって、
整理したうえで思い入れを説明してもらいたいのだと思う。
まあ、無を「 」としている時点で名前はついていると
解釈してもよいが。
またあなたは脳の問題に触れて欲しいと思う。
あなたの前提としている死んだら「 」はここ日本では
広く受け入れられても、世界レベルで見ればまだ宗教に
よる永遠の命と言う考えが根強いからだ。
>>479 突っ込みどころ満載だがそこは目を瞑っておくとしよう。
後半はピュロニズムかな。それを言い出したら
>>402での
発言は矛盾してしまうと思うよ。
存在しているのかもしていないのかも分からない。て感じに。
そこで402は自分は存在してなくて無かもしれないと思ったとする。
でもそんなことはあり得ないのは自明。なぜなら無なら思うことなどできない。
逆に無だと確信しても結果は同じ。もう確信している時点で。
どうあがいても存在でしかあり得ない。そこに明確な論証など
出てくる暇もないほどに、迅速且つ明晰に自明なのが方法的懐疑なのだよ。
>>480 構わないけど
>>477の一行目のみんな云々と新しい提言を
始めようとしていたので既出と言いたかった。
>>481 永遠の命に対する主観無か、ちと譲歩しておきます。
知能の高い動物はちょっとずるいと思うw
この辺の境界線は難しい。概念の形成を強いてる傾向があるから。
くろしろ氏的には仏の無ってどう解釈されてますか?
>>483の195さんへ
今晩は、
>存在しているのかもしていないのかも分からない。
ということですが、別に僕はどちらであるとも断定していない。
>でもそんなことはあり得ないのは自明。なぜなら無なら思うことなどできない。
>逆に無だと確信しても結果は同じ。もう確信している時点で。
>どうあがいても存在でしかあり得ない。そこに明確な論証など
>出てくる暇もないほどに、迅速且つ明晰に自明なのが方法的懐疑なのだよ。
時は意味をもちえない、なぜなら認識する主体を失う死は、
生きているときの時間も逆流し飲みつくしてしまう。つまり無であるから時間は存在しないのである。
論証が必要ないといっているが、
コギトには認識する主体が必要であるが、その主体が最初から無いのであれば、成立しない。
「吾思うゆえにわれあり」といずれ失われる認識する主体が言ったとしても、その言葉はあいまいな意味を
もたざるをえないのである。そこに、なにもない無の余地がある。
487 :
シュトゲン・ウイタイン:03/06/02 01:24
>時は意味をもちえない、なぜなら認識する主体を失う死は、
>生きているときの時間も逆流し飲みつくしてしまう。つまり無であるから時間は存在しないのである。
それは認識を基軸に据えているのであって、我々の感知しないところにも存在
は存在しうる。分子レベルに分解してみれば恒久的に電子はスピンしている。
そこにはいつも時間がある。認識は「現在」行われるもので、「現在」から
パラメータとしての「時間」を分離することは出来ない
489 :
シュトゲン・ウイタイン(補足):03/06/02 01:30
>認識する主体を失う死は、
>生きているときの時間も逆流し飲みつくしてしまう。
時間の逆流は起こらない。時間は主体の死によって停止するのである。
また、主体は他者によって認識されうるため、死した主体(故人)は
偲ぶことが可能となる。そこにはかつて共有された時間がある。
>>487さん今晩は
基本的なことですが
>それは認識を基軸に据えているのであって、我々の感知しないところにも存在
>は存在しうる。分子レベルに分解してみれば恒久的に電子はスピンしている。
>そこにはいつも時間がある。認識は「現在」行われるもので、「現在」から
>パラメータとしての「時間」を分離することは出来ない
と感じることができるのも、あなた自身の認識の上に成り立っていることをお忘れなく。
>>489 もし認識する主体が無くなることによって、時間が停止するのであれば、
主体自身に生きていたころの記憶が存在することになる。
しかし、ここで言う死とは記憶も無くなることなので、当然時間は逆流し、無が流れ込む。
またたとえ、だれかがその死を偲んだとしても、主体自体が消滅しているので確認のしようが無い。
492 :
通りすがりの鉄人:03/06/02 03:04
「認識する」と言う言葉がたびたび出てきますが、
認識する、知覚する、と言うのはどういうことを言うのですか?
「無」について議論していますが、「存在する」と言うのはどういうことを
言うのか、明確になっているのですか?
また、いま議論している問題の範囲または対象、視点などが
人によってまちまちなので、いろいろと混乱があるように思えます。
456でのくろしろさんのように無について名前をつけることは、
どこに視点を置いているのかが分かりやすくなるのでいい方法だと思います。
>>483 僕はこのスレ最初から居るし、似たような意見も
確かにいくつか見たけど、決まって話がそこから及ばないわけで。
多分、僕らのようなのは無を無と定義してしまうことで
それ以上何も語れなくなるんですな。だから、無は無だと
言うしか出来ない。ある種の存在として認めれば
そこからどういう存在であるかという議論に発展
出来るのだろうけど、それでは信念を覆すことになるし。
だから、僕には無は無と馬鹿の一つ覚えのように
言うしか選択肢が無いのだと思う。恐らく、また少ししたら俺はまた
似たようなことを書いてるだろう。
無は無であって存在などない。
でも無という名前は存在する。
話が多少し行き詰まってきた感がありますが、実によい議論が続いておりますな。
若干、感想を述べさせていただきますと、57さんと195さんの対立は示唆に富んで
おりますな。お二人の対立が、何に由来するものなのか、これをはっきりさせる
ことができれば、話は先へと進みそうな気がしますが、いかがでしょう。
57さんは、死による無は他の無とは違うとおっしゃっておれる。異質だと認めて
おられる。195さんも死による無は、今ここで議論している無とは違うと考えて
おられる、認識主体なき無はもはや無とは言えないといっておられる。
この点においては、お二人の意見は一致しているように、私にはみえる。
にもかかわらず、お二人の間には溝がある。
なぜなのでしょうかな
501 :
考える名無しさん :03/06/02 22:25
我々が「存在」の領域に有る以上、「無」について語りえない。
また、「無」の定義が限りなく曖昧である。
>>402 氏が言うところの
無とは「生物学的」な「死」であり、「無はあるか?」という問いに
対して何も述べていないし、述べる気も無いのだと思われる。
502 :
考える名無しさん:03/06/02 22:48
503 :
考える名無しさん:03/06/02 23:24
「無」は可能性の中に存在する、ってのはどうですか?
504 :
哲学者」的:03/06/02 23:28
様相論理学みたいだね
>504
量子力学じゃないですが、シュレディンガーの実験なんかで説明できるような気がします。
かりに私が「 」から生まれ、「 」へと還っていくとする。
とすれば、私という有は無から生まれたこととなる。
(私の身体は両親という有から生まれ、死ぬ時も原子として
散り散りになるだけで、無に還るわけではない。
しかし、ここで「私」といっているのは私の身体のことでなく、私の「心」のこと)
生まれる前の私(の心)が「 」だとして、それは「 」から生成したのだろうか?
それとも、ある物質的条件が揃えたから心が生まれてきたのだろうか?
少なくともこの世界において、物質が無から生まれることはない。
しかし心は例外なのだろうか?
1.心は無から生まれる
もし、これを否定するなら、
2.心(魂)は永遠である
3.心は身体(物質)に備わった機能にすぎない
の二通りが考えられる。
我々の心はどこから生成したのだろうか?
しかし、これは心身二元論を、くわえて物理的直線時間を基礎とした考察。
心と身体(世界)の関係をどのように捉えるべきか。
>>482 >あなたの前提としている死んだら「 」はここ日本では
>広く受け入れられても、世界レベルで見ればまだ宗教に
>よる永遠の命と言う考えが根強いからだ。
「 」の世界を、何か意味のある世界のように思い描くことに否定的です。
それは語り得ないものだと思っています。
しかしおまえは、『「 」の世界は無であると語っているではないか』と言われればそうですね。
そう思う理由は、「私が生まれる前は、私は存在しなかったとしか思えないから」という直観だけですし・・。
私は、「私が「 」であるとき(生まれる前、死んだ後)は無である」という「前提」を仮定して
議論を進めています。
別に「 」の世界を狂的に否定しているわけでないので、途中で矛盾がでてきたら
「前提」が間違っているとして変説しようと思います。
「この世に生まれるとは、巨大な生命のエネルギー体の一部が身体に憑依することで、
死ぬ時に再びそのエネルギー体と一体化する」
と考える宗教もあるそうですね。全生命を一つのエネルギー体として考えるわけですね。
とてもおもしろい説ですが、今の段階ではそのような「物語り」に頼ることなく進めていきます。
510 :
考える名無しさん:03/06/03 22:06
>509
こんなのは、全ての新興宗教がやる事だよ。
いかにも、新しい思想をよそおって、幼稚な善男善女を
錯倒した世界に引きこむ。
全然、彼らの独創的思想ではない。
天才物理学者アインシュタインの、E=mc2乗。
少し教養ある人は誰でも知っている、公式である。
Eはエネルギー、mは質量(すなわち、物体だ)、cは光りの早さだ。
この公式から、
>全生命を一つのエネルギー体として考える、なんて思想は当然生まれる事になる。
新興宗教を崇めてはならぬ、騙されてはならぬ。
オウムの後の、アーレフ、だって、ラテン語のゼロと言う語からとったもの、
ブルーバックスを100冊でも読んでみろ。
哲学の視点も、少しは広がる。
511 :
考える名無しさん:03/06/03 22:16
「無」よりもむしろ「∞」の方に魅力を感じる。
512 :
動画直リン:03/06/03 22:17
513 :
考える名無しさん:03/06/03 22:17
>>510 大昔からある思想なので、アインシュタインはどうでもいい。
>>514は、わたしです。そっけないレスですが、
510を、嫌ってるわけではありません。
>>484 仏は空であって無ではないと思う。
仏で無と感じるのは禅の影響でしょうが、
本来的には空である。
空は全てのものはそれ自体で存在せず縁起
によって成り立っているので、実体は無く
、うつろで、移り変わるモノである、と言う事だと思います。
>>508 霊というものについて、その不在について、あなたはどう説明
をつけますか?
518 :
考える名無しさん:03/06/04 23:03
「中の人」ははたして無か有か。
>>461 ようやく195氏の述べる意味がわかりました。
私は、おのれの「 」を対象化することに反対しています。
なぜなら、「おのれの認識の明るみの中に現れてくる様々な存在者」と「その明るみ自体」を
同等に考えたくなかったからです。
しかし195氏のいうように、おのれの「 」は認識の明るみの中でしか存在しえません。
未だ「 」ではない私が「 」を考える時、必ず「メタ主体」(もしくは他者の視点)を
想定しています。
そうである限り、私の「 」は、私の存在の欠如態(欠如としての無)でしかありえません。
しかし、これだと私の「実感」とはほど遠いのも事実です。
私自身の「 」を、他の「欠如としての無」と同等に考えることはできません。
Xグループ a.「鉛筆がある」 ー 「鉛筆が(燃え尽きて)ない」 ┐
b.「友達が生きている」 ー 「友達が死ぬ」 ├── 認識の明るみの中で出会う出来事
c.「私が存在している」 ー 「私が「 」になる」 ┘
Aグループ d. 『おのれの「 」』 ─── 認識の明るみ自体の状態
しかし、私が存在している限りおのれの「 」はXグループでしかあり得ず、Aグループになった途端、
「 」を意味づけすることはできない。
また、こうやって考えること自体が、「 」を対象化しているジレンマがつきまとう。
他者の「 」は語り得る。しかし、おのれの「 」は語り得ない。
それでいて、『おのれの「 」』は、すべての人に必ず訪れる、各自の存在を脅かすこれ以上にない重大事。
語り得ないから黙っておこう、というのも味気ない。おのれの「 」をどう規定すべきか?
「 」を存在の欠如態として、存在の側から──つまり対象化して──「 」を意味づけるべきなのか?
それとも、「 」がわれわれの存在にどのような影響を及ぼすのかその関係を探るべきであろうか?
184氏のジレンマ、
>認識できない=その当人には存在しない、だとは思うのです。
>で、たしかに「184にとって無は無い」はずなんです。
>それは「184にとって死はない」でもあるんですが、
>「それ、ホントすか??」なんです(笑)。
>無いはずなのに、死は在るんですよ。(
>>297)
はよくわかります。理屈で考えたらその通りなんです。
おのれの「 」は不思議です。
ハイデガーは『形而上学入門』で
「人間の本質の規定は決して答えではなく、本質的に問いである」 (選集版p182)
といった。その通りだと思う。
524 :
考える名無しさん:03/06/05 23:35
「無」こそが物事の原動力ではないのか?
「有」が充満していたら身動きが出来ないではないか。
525 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 00:48
>>521 本当に己の「 」はやってくるのでしょうか?
霊は?死後の境は無いのでしょうか?
そこの所を抜きにして物事を語ってもしゃーないと思います。
ただ直感でそうではさびしくありませんか?
無はあるんだけどよー。おめーとは、かんけいねーんだよっ!おめーだよっ。
おめー。オヤジ。
527 :
考える名無しさん:03/06/06 01:28
『無い』=『無がある』
無いとも云えるし有るとも云える。
ただ一つはっきりしていることは、こんな需要の低い現実離れした問題を研究するのは哲学の将来を危うくするので止めておいた方がいいと思われ。
こんなこと考えてないで、戦争とは何か?
国家とは何か?を再考しろお前等ぁ。
無いと在るのパラドクスでもなんでもなく、
無とは何かという、言葉の遊び。
Aのない部分があり、Aの無い部分にはAは無い。
無いのはAであり、あるのは部分出る。
無は在るとは、Aの無い部分はあるの短縮系として言葉として成り立つし、
無は在るのはパラドクスな場合は、Aが無いのにAが在るという言葉は成り立たない。
531 :
考える名無しさん:03/06/06 02:15
532 :
考える名無しさん:03/06/06 13:52
「無いものだけが無い。」=「在るものは在る。」
「無いものは無い。」<
「すべてが在る。」
「在るものだけが在る。」
「在るものは在る。」< 「無いものだけが無い。」
「無いものは無い。」 <
「すべてが在る。」
533 :
考える名無しさん:03/06/06 14:10
「在るものだけが在る。」
「在るものは在る。」< 「無いものだけが無い。」=「在るものは在る。」
「無いものは無い。」 <
「すべてが在る。」
上記の通り、「存在」の中に「無」も「存在」も「存在」する。
よって、「無は存在」し、『無は在る。』
534 :
考える名無しさん:03/06/06 19:21
「無い状態」を「無い状態が在る。」と表現することができる。
「無い状態が在る。」ということは「無の状態が在る。」ということであり
「無の状態が在る。」ということは「無が在る。」ということである。
そして「無が在る。」ということは「無が存在する。」ということであり
「無が存在する。」ということは「無は在る。」ということである。
また、「無い状態」は実態としても「在る。」→『元気が無い。』『お金が無い。』『生き甲斐が無い。』
しかし、「無」は実態にのみ「在る。」だけで「存在」する物質には「無い。」
535 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 20:20
まあ考えなくても直感でわかんない?
あるものはあるってさ。
無仙人くろしろが言うとご利益あるでしょ。
>>534 >「無い状態」は実態としても「在る。」
それは状況無。数ある無のひとつにしか過ぎないよ。
それに存在が無を超えているとしたら、
無は在るんじゃない?
宇宙は無だったが存在である。
よって無は在る。
>>525 今までの議論と矛盾していると思われるかもしれませんが、死後の「あの世」や「霊」にはあまり関心がありません。
私は、「魂の不死」や「あの世」があってもおかしくないと考えています。(信じていませんが)
死後に(また生前に)形を変えて私が存続したとしても、あまり不思議に思いません。
しかし、「私が消えてなくなること」は不思議なんです。
私が「 」になることこそ、私にとっての哲学的問いなのです。
(説明下手ですみません。このニュアンスわかりますか?)
下記のレスが私の世界観のイメージに近いかもしれません。参考までに。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1044670327/l50 の
>>83-86 >>194(172は私)
永井氏の著作はほとんど読んだことありません。だから後に訂正するかもしれません。
私は自分を独我論者と思ってませんが、独我論的基盤で思考しているかもしれません。
世界を「主客二元論」で捉えている人は、こういった問いがないようです。
私のように、「おのれの存在の明るみ」こそ私を含めたこの世界すべての根源だ、と考える人間に特有の問いなのかもしれません。
(といって、この世界の実在を否定しているわけではありません)
で、私はその「不思議な方」を信じているのです。
538 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 21:42
>>536 あなたの世界観のレスは笑いました。
これは永井均さんが書いた考えなのですか?
ではこれは確信犯なのかもしれませんが、
これはただのパクリですよ。
釈尊が説いた教え「諸法無我」そのものではないですか?
此の世に「我」はもともと無く他のものとの対比で自分
の存在を確認していると言うのがそれなのですが、
それが空に結びつかず、独我論に結びつく所が面白い所ですね。
そもそも、全てが対比の世界なら私も今もありません。
全ては対比でできているのですから此の世に実在するものは
何も無いといっていいのです。
それに大丈夫、「あなたはいないかもしれませんが」
私は存在しますよ、確実に。
>此の世に「我」はもともと無く他のものとの対比で自分
>の存在を確認していると言うのがそれなのですが、
ぜんぜん違いますよ
540 :
考える名無しさん:03/06/06 21:56
存在しないから無なんですよ。
541 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 21:58
>>537 信じているでは哲学になりません。
それは信仰でしょう。
あなたが信じている「 」の不思議に迫るためにも
霊や永遠の命についてはあなたは考えつくさねばなりません。
なぜならそれらを「完全に否定して」、人間と言うものは
唯物でできていルことを証明してこそ、あなたの言う「 」
は成り立つのです。
それ抜きに「 」を思考しても無駄です。
なぜならこれも釈尊の教えですが因果論でいくと、
人間が唯物でできていることが因で
人間が死ぬと「 」になると言うのが果です。
因なくして果の本当の姿は見えてきません。
あなたはきっと脳について考えなければならないでしょう。
関心がないと逃げていても無駄です。
なぜならこのことが明らかになって始めて
答えが見えてくるからです。
このことがあきらかにならなければ、それはそれで
あきらめなければならないでしょう。
543 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 22:03
>>539 どこがどう違うのですか?
対比を全てと見て世界が成り立つとあるでしょう
これは「諸法無我」以外の何者でもないですよ。
あまり笑わせないでください。
544 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 22:08
>>540 存在は有ではありません無も含むのです。
時間との関係を考えてみる。
私は無意識のうちに、物理的直線時間をベースにして、「 」を考えている。
「 」 存在 「 」
───────────────┼────────┼───────────────────→
過去 生 死 未来
川の流れのような直線時間のある一点(生)までは「 」で、そこから私の存在が「なぜか」発生し、再びある一点(死)で「なぜか」私は「 」に還る。
このような「神の視点」による思考法を前提とすることが、間違っているのではないだろうか?
この時間概念でなく、別の時間概念の上に「 」が置かれたとすれば「 」はどのような形で現れてくるのだろうか?
たとえば、私の「存在の明るみ」から離れることなく、神の視点に陥らないよう時間を考えてみる。
そこに客観的な過去も未来もない。
あるのは、現在の中に記憶として現れる過去。同じく現在の中に予期として現れる未来。
その唯一存在する現在が、映写機のように瞬間的に消えては登場し、登場しては消え
明るみを創り出しているイメージ。明るみの外に世界はない。
その明るみが消える時。(独我論か・・)
確認。
私の前提は
1.外部の世界は実在する。
2.それでいて、その世界は、私の存在の明るみの中でしか存在しえない。
この矛盾をどう考えるべきか。
主客二元論(認識の模写説)を信じれば整合するが・・。
>くろしろ氏
どうやら向かっている方向が異なっているようですね。
私は「 」を証明しようとしているわけではありません。
別に私の死後が、「 」でも「あの世」でもどっちでもいいのです。
ただ私の(強烈な!)実感では、私が死ぬとは私が「 」になるとしか思えないのです。
そして、その実感を考えれば考えるほど、私が「 」になることがどうにも「理解できない」のです。
これが私の問いです。
仮に魂が不死で、死後も何らかの形で私の存在が続いていくと空想すれば、私はそれを「理解できる」のです。
つまり、私にとって問いは存在しないのです。
つまり、私の存在の明るみが残っている限り、どんなことがあろうと私の理性は受け入れられるのです。
しかし、明るみが消え去ることだけはどうしてもわからないのです。
これが私の出発点です。
仏教には疎いので、またアドバイスお願いします。
永井氏のレスに関してはよく読めばわかると思います。
549 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 22:57
あはははは、やはりあなたは自分の中にこもりたいだけですよ。
その間にも時間は流れ、あなたは「 」だか霊だか永遠の命
に近づいていくんですよ。まあ内心の自由は憲法も保障する所
です、存分にどうぞ。
550 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/06/06 23:14
>>548 いやまったく同じなんですよ。
私は早道を教えただけです。
あなたが強烈に感じている実感、
なぜ自分は「 」になるのか?
と言う事は煎じ詰めればなぜ
自分は物であるのかと言う不条理
につながるのです。
そして自分がなぜ死ぬのか受け入れられない。
それは生物的なパッションですから
正常な事です。
あなたは無意識的に唯物論を信じ
「明らかな私」を持ち出す事で
それが否定される可能性も探している。
暗中模索なのです。
それに他人が口を出すのは無粋と言うものでしょう。
模索してください。
ただし時間は限られているのですよ。
答えも決まっているのですよ。
なぜか。
>>538 >此の世に「我」はもともと無く他のものとの対比で自分
>の存在を確認していると言うのがそれなのですが、
此の世に「我」はもともと無くといった場合、相対するものもないので存在の確認はできません。
「この世に我がない、」といった後には、「仏がある。」と続き、
「対比で自分の存在を確認」の前には、「自分だけでは存在しないので」が正しいと思いますよ。
よって、
>>539は正しいです。
くろしろさんは、57さんのために笑ってるつもりでしょうが、57さんを笑う必要はありません。
仮に57さんがあなたの弟子であっても、笑う必要はありません。
>57さん
こんばんは。
実は自分、今、永井均さんの本を読み返しています。
今は「翔太と猫のインサイトの夏休み」を読んでいるのですが、
「うひゃー、時間くださーい、置いてくなー!」という所も
(かなり)多々あれど、とても面白いです。
「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとは
どういうことか」なんて章があるんですよ。
読みたくなりませんか(笑)。もし未読であれば、ぜひ読んでみて欲しいです。
たぶん57さんと同じ問いを問うて、問い続けている方だと思いますし、
それだけでなく、問いや、議論に関しての姿勢にも共通の資質を持ちあわせて
いる方であることにも驚きになると思われます(^_^)。
さて。
気が付いたらポカンと自分が在って、その自分はどこから現れたのかも
わからないし、考えてみたら、どう「無くなる」のかもわからない。
どうしても世界の中心に在る癖に、ある意味「在るだけ」で、それどころか
在ることしかできない仕組みだし(無くなるはずなのに(笑))。
おまけに「「〜」が在ることを感じつつ」在る」とかってのも、なんだか
凄いなぁって思ってみたり。
すいません、またまたとりとめなく投げ出す形で。
妄言多謝っす。
553 :
考える名無しさん:03/06/07 08:59
哲学学には、ど素人であるが、己の無知の知を知る人間は全て哲学の徒であるとの
前提で述べれば、やはり、言葉(言語)の持つ抽象性を考えると、出る結論は絶望
である。
人が無を語るとき、当人から発せられた無なる言語の概念の内容、外延を当人は
明確に言葉で説明できなければ、当人が自分自身無を理解したことにならないし、
また、相手も同じ操作をしなければ、双方の持つ無なる概念内容、外延の一致か、
不一致かを決めようがない。
この不確定性、不明確性を前提に2人が議論しているとすれば、哲学議論自体
意味があるのではなくて、誤解の上で議論する相手の発言を勝手に解釈し、
受けとめることによって、自己の知識が深まることに意味があると理解してよいか。
しかし、当人自身が無なる言語の概念の内容、外延を理解できないと言う、
問題は依然として残るが。
やはり、哲学議論は、それ自体に意味があるのではなく、その際の無意味なように見える
思考から生まれる、森羅万象に疑問を持つ習慣(これが、錬金術などそれ自体は無意味でも、
科学の発展の起爆剤になった。)を生むという、副次的効果のようである。
554 :
考える名無しさん:03/06/07 10:09
無は語りえない。語った時点でそれは無ではなく、
無が有る状態になってしまうからだ。
>>555 そのとうり。
しかし「無」は存在しないことを意味する。
「無」という言葉が存在する時点で「無」は存在することになる。
しかし「無」は存在しないことを意味する。
では、もうすでに結論は出たということか。
560 :
考える名無しさん:03/06/07 13:44
無に関する、皆の妄想をこの掲示板に吐き出す、それがこの
無スレの存在意義である。1000までにはいま少し余裕がある。
既出であるが、有=無を1つの例で証明しようと思う。
ここに四角い大理石がある(有)。この大理石に彫刻を施すと、
過去の聖人、偉人誰でもよい、立派な彫像が浮かび出る。
可能性としては、この四角な石には、今は現出していないが、
無限の彫像の可能性を含んでいる事になる。
>>551 いえいえ、それは違います。我は無いのですが、
相対があるのです。相対がまず先にあるのを考えれば
よろしい。「自分だけでは存在しない」はそのとおりです。
要するに縁起・相対があって自分も他人も在る、
縁起・相対が因で我・他が果です。
だから実体は存在しない。でもこれは無ではありません。
空です。
「仏がある」はちょっと違うのではないでしょうか?
行き過ぎた仏賞賛の思想は捨てましょう。
仏もまた空の内にあるのです。
私が57さんを笑ったのは彼の若さに嫉妬したのでしょうね。
でもおかしかったのですよ。あはは。
>>562 縁起・相対は因果であって、因ではありません。
よって、あなたは空を悟っていません。
それゆえ、仏を理解できないのです。
さらに、「相対がまず先にある」としているので、
自分に原因があるのに、他人を笑ったことを肯定できてしまう。
>>563 いえいえ、縁起・相対は因なのです。
でないとそれに基づく空も出てこれない事になる。
まず縁起・相対があるからこそ空があり、それを説くのが
仏と言うだけです。
私、よりみちと申しますが、下記レスルール違反と存じます。
いや、ご承知のとおり、哲学板は論理で思考するスレです。下記の
スレが間違ってうと言うのではないのです。私達、哲学の徒が、論理思考で
きるように解説・敷衍して下さるのが、社会人の常識ではないでしょうか。でないと、
単なる、煽利以外の何ものでも在りません。それができないのであれば、
下記の文章の変わりに、漏れは、指一本立てて、全てを語り尽くす、といって下さったほうが
素直に納得できます。
563 :わかめ
>>562 >縁起・相対は因果であって、因ではありません。
>よって、あなたは空を悟っていません。
>それゆえ、仏を理解できないのです。
>さらに、「相対がまず先にある」としているので、
>自分に原因があるのに、他人を笑ったことを肯定できてしまう。
>564
>>563 >いえいえ、縁起・相対は因なのです。
>でないとそれに基づく空も出てこれない事になる。
>まず縁起・相対があるからこそ空があり、それを説くのが
>仏と言うだけです。
>564〜1001までの枠を貴殿達に上げます。スタートして下さい。
>>565 縁起・相対・空・因果がわかんないだけでしょ。w
そんな大量のレスいりませぬ。
図解雑学仏教でも嫁と言いたい所だが、
大体他のレスでももっと分けわかんない所があると思うのだが。w
まあ特別に講義しよう。w
間違ってても責任持たないからそのつもりで。
縁起とは全てのものは他に依存して成り立っていると言う事。
相対は仏教用語とは離れるが縁起と対にして考えて欲しい。
全てのものは他と依存してあるがゆえに全てに対して相対的
になる。絶対的な基点というものがないわけだ。
さてそれで空とはそのような縁起の世界であるがゆえに、
此の世のものは実体を持たない、たとえばパソコンは
パソコンを支える構成物がそれぞれ他と依存しあって
存在する。その部品はその細かい構成部品がそれぞれ依存して存在、
さらに小さくしていくとその物質がそれぞれ依存して存在。
とこの考えでは永久に小さく依存しあうのだが、釈尊の説には
原子や素粒子などという洒落たものはないので、そこら辺
は大目に見てやって欲しい。
続き
さてそれで空とはそのような縁起の世界であるがゆえに、
此の世のものは実体を持たない、たとえばパソコンは
パソコンを支える構成物がそれぞれ他と依存しあって
存在する。その部品はその細かい構成部品がそれぞれ依存して存在、
さらに小さくしていくとその物質がそれぞれ依存して存在。
とこの考えでは永久に小さく依存しあうのだが、釈尊の説には
原子や素粒子などという洒落たものはないので、そこら辺
は大目に見てやって欲しい。
さて、このように、パソコンと言う一見実体のあるものでも、
実は細かい事象の縁起(他のものへの依存)によって成り立って
あるのであり、実体はない(そうも見える)。これを空という。
因果は因果関係というでしょう。そのとおりなのです。
原因の因と結果の果。
さてここで私は縁起・相対という原因があって始めて
空と言う結果が起こるのでしょうと言っているわけだ。
全てのものは他に依存し、そこに基点がない状態が
あるからこそ実体はないなのでしょう
(そう言う風に見えるでしょう)
というわけだ。
>566
>567
難解で、常識的思考法しかできない頭には理解不能なレスが多いなか、
↑ は平明で素直に読め、分った気分にさせてくれる。
まあ、良レスと僭越ながら判定させていただきました。
ところが、疑問に終点がない(つまり、何故?との質問が尽つきるところがない)
のが貴方様もご承知の通り哲学の悲しいところなのです。
>他のものへの依存によって成り立ってあるのであり、
実体はない、これを空という。
>・・他のものが分子、原子以下まで細分化されることも納得するとして。
ここまでは日常誰でもが認識していることではにでしょうか。
そこに敢えて、空と言う語を当て、相互関係性に相対、因果などの
用語を使われるが、それは空、相対の定義、概念を説明されるだけで、
特に新味は無いと思われます。
ま、>565は、それを求めたのではあるが、今少し、その先にある(?)意味論
ないし独創的思考を期待していた点も少しはある。
空とそれを実感する主体との関係性は何か、空を実感したとして、その意味は
何か。人間にとって空に意味があるのか。空を実感する事が宇宙の究極心理をつかんだ
事になるのか、それが無の究極の終点か。その先はないのか。空の実感は無限の
終点に行きついたことなのか。無限には行きつく終点があるのか。
要するに、哲学の徒は、東洋仏教的アプローチからではなく、言葉の持つ概念、
その意味などを論理的思考によって極限まで追求し、キェルケゴール言う、
「絶対的」なものを求める負(?)の気質を背負って生まれた人種かもしれない。
む?
570 :
考える名無しさん:03/06/12 03:14
「無い」と「無」を同一視してる香具師ばっかだな
スレタイ見ろよ
571 :
考える名無しさん:03/06/12 13:42
無は無としてのみ存在するが、それは非存在の証明にしかならない。
何度も言うが、無を無と考える人間にとっては
これを繰り返し言うしかない。無を語ることができないからだ。
これをもって既出と言われようとも、これしか反論の方法が
ないのだ。
572 :
考える名無しさん:03/06/12 13:43
くろしろとやらのいってることもかなりとんでもだな
>>568 空を大事にしすぎることは大乗仏教の悪しき伝統で、
空を悟ったからと言って日常が変わるわけでもない。
我々は、結局悟ったにしても日常を生きなければな
らないだけで、そこに新味はない。無の究極とか空に
よる新たな日常を追い求めるのはやめなさい。
そんなものはないでです。
空はただ、痛いの痛いの飛んで行けと言うレベルでしかない。
人生の見方を少し変えてくれるだけだ。
>>572 いや、だから間違ってる可能性は否定しないよ。
俺はそこら辺にある入門書を読んで独自に理解
しただけだから。
ただこういうレスには、具体的にどこがどう違うと
言って欲しいものだが。
俺は図解雑学だけでここまで行き着いたのだから。
>>571 存在は無を含むよ。無は非有であり、非存在ではない。
それに無は一様ではなくたくさんの意味がある。
ただそれを知ったところで君の人生は変わらないよ。
>>552 184氏
こんばんは。
あなたと私とはかなり近い問いを持っていると感じます。
>たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか
これも(私から見れば)素晴らしく哲学的な問いですね。
『おのれの「 」とは何か?』という漠然とした問いを問うとは、「私がこの世界で存在するとはどういうことか?」
を問うことだと思います。
私の「 」を突き詰めていけば、結局、「私と世界との関係」を問うことになると思うのです。
それは私と他者との関係、「私とは何か」の問いにもつながると思うのです。
永井氏の著作はほとんど読んだことありませんが、私と近い感覚の人かもしれません。
実際に直接当たってみたいのですが、その時間がなかなか取れません。
184氏が、スレの流れに合わせて、適宜、考えを述べてもらえれば私も勉強になるのですが・・・。
(『翔太と〜』は最初の方で水槽脳の話が出ていましたね)
「まず客観的な世界があって、その中に私という孤立した主観が登場し、やがて退場していく」
といった物理的直線時間を基とした、主客二元的世界観をベースに考えることが誤りではないか?
哲学は様々な世界観──私と世界との関係──を構築するが、その様々な世界観に基づいた視点から
「 」を考察することが必要なのではないか。
>>573 無は無でしかない。多種多様な無など存在しない。
いや、これは言い方が悪かったかな。つまり、ここで言う無とは
存在しないという意味での無を言ったのだよ。だから、
存在しないものに多種多様な見解は存在し得ない。
それはただ存在しないの一言に尽きる。また、無が存在に
含まれると言っているが、それは無ではなく「無」と言う単語が
含まれているに過ぎない。勿論こう言った意見は既に出ているが、
先ほども述べたように私たちにできることは繰り返し言う事だと
信じて止まないので、悪しからず。
>たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか
>>552 私が様々に考えられる無のうちで、おのれの「 」を特別扱いするのは、私という存在者の特別さ・不思議さにこだわっているからだと思う。
科学的客観的見方からすれば、私も多くの人間の中の一人に過ぎない。
しかし私は、「私」と「他の存在者すべて」を同列で扱うことはできない。
「Aさん」「Bさん」「猫」「机」等とはっきり区別させられるべき存在者は「私」である。
ある思考実験をしてみよう。
私の身体的特徴、全性質、記憶、思考等、私とまったく同一な人物(57)がいるとする。
彼(57)の行動も、鏡に写されたように私57とまったく同じである。
ゆえに、第三者から見れば、私57が──まるでコピーロボットのように──二人いることになる。
では、そのとき(57)は、私と言えるだろうか?
もちろん、「彼は私ではない」が正解である。
なぜなら、(私の今までの言葉でいえば)(57)は私の存在の明るみの中に現れた一存在者にすぎないからだ。
たとえ第三者から見て、私と(57)が同一人物であろうが、私57にとって(57)は他の存在者──イスや机や友人──
となんら変わらない。目の前にいる(57)は私ではない。
では、(57)から区別された、私57を規定するもの、その本質は何であろうか。
それが、「私の存在の明るみ」である。
存在の明るみ──存在者を存在させる地平──こそが私の本質である。
存在の明るみ(私)自体が無になることと、その明るみの中に現れる存在者が無になることを同等に扱うことはできない。
無の問題を言語上の問題として、論理の枠内で処理しようとする人たちがいる。
この考え方につまらなさを覚えるのは、目の前に私という特殊で不思議な存在があるにもかかわらず、
そこから処理しやすい方向へと目を背けているからであろう。
そのような議論は言語学者に任せればいいのであって、哲学はもっと存在の不思議さに目を向けるべきではないだろうか。
>>580 私は今まで57さんの考えをそれなりに評価できると思って
きましたが、かなり失望いたしました。
つまるとかつまらないではない!実に不愉快です。
何故自分の考えを言うことをつまらないの一言で
一蹴されなければいけないのか。そもそも、不思議と
感じることがそれほどまでに高尚な事なのか?不思議と感じる基準など
人それぞれ違うのに。僕は
>>580のような意見の否定は大嫌いです。
582 :
考える名無しさん:03/06/13 11:12
まぁ、そうかっかするな。
この掲示板にふと来訪したものですが、
>>579 不可識別者同一原理からすると、
「私」とまったく同一の、区別不可能と想定される
存在者はやはり「私」と同一だと思う。
それはともかく、もし「私」と同一な存在者を
想定したとすると、そこではオリジナルの「私」と
それと同一の「私」という二人の「私」が
思惟されたことになるわけで、
その際すでにオリジナルな「私」そのものに対する
問いの究明が消失してしまっているように思われる。
つまり、57=(57)と思惟したとしても、
そこでは同一律が意味されているに過ぎないわけで、
なんらオリジナルな「私」に対する問いの究明に
なっていないと思う。
しかし、その際、私=私という同一律そのものの
問題性、反省する私=反省された私という反省の形式
にひそむ問題性に着目するならば、
もはや私=私は陳腐で自明な同一律ではなく、
究明すべき大きな謎になってくると思う。
とは、通りすがりの意見でした。
584 :
考える名無しさん:03/06/13 13:20
無くなってみてもわからんかも。
>>570 「無い」と「無」が違うとはこれ如何に?
586 :
考える名無しさん:03/06/13 21:38
>>585 同じであるとも言えるが、ここで語られているのは別物だと
言えると思うが?
587 :
とあるウサギ国の・・(以下省略):03/06/13 21:46
んっと、なんか凄くレベル高いところに口を挟んでしまって恐縮な気分もしつつ;
「無い」=とある限定されたものがその場に存在しないこと。
「無」=認知できる存在がその場に1つとしてない。
っていうニュアンスを感じてる俺。・・・変かな;
588 :
考える名無しさん:03/06/13 21:47
>>577 それは無が存在しないと初めから決めている無。
初決無在無とでも言った所で、私がやっている事と大して変わりない。
無本来など決めようがないのです。
空間無、物質無、状況無、無知、不可知無・・
このように無は多様な概念を引き連れて登場してくるのであり、
その中には確実に存在する無もありますよ。
状況無は数学的なゼロを含みますが、それは
世界がゼロのように存在存在するだけで
それは存在の一様式です。
たとえば目盛がついていて、
その中に液体を入れるビーカー
が有るとしてそこに何も入ってなければ
それは一種の無(状況無)で、
そういう存在を無と呼んでいるに過ぎない。
それは存在の一形式です。
590 :
考える名無しさん:03/06/13 22:33
それで納得できないから不思議なのか。
納得できるから不思議なのか。さてはて。
各所でうんちくばっか語るくろしろは好かん。
偏った仏教観イクナイ
無についての独創的な思想を開陣しよう。
著作権は開放する。今朝電車の中で着想した。
要するに、存在とは有限であり、有限とは、この有限を除く
無限の可能性を排除したものである。
例えば、俺や君らが生まれて数十年後の今、ここにこうしている、つまり、
肉体を持ち、飯を食い等々の限定された中で存在しているのは、
それ以外に有り得た無限の可能性を排除した結果である。
故に、無限とは、有限を排除した全てである。
故に、無限に自らを侵したければ存在を止めればよい。簡単なことである。
まさか、どっかの哲人によって既出ではない事を祈る。
少なくとも、
>589 くろしろさんの唯我独論よりも、分りやすくないか。
593 :
考える名無しさん:03/06/13 23:16
わからねえ、、、、
594 :
アカシック:03/06/13 23:20
そもそも無限の可能性なんて存在したのかな?
595 :
考える名無しさん:03/06/13 23:22
>>592 「規定は否定である」
とよく似ているけど・・・
[無が存在する]それがそのまま答えであるとは言えないのか。
無が存在したらそれは即ち、無でなく、存在しないとするとそこに無が存在してしまい、やはり無でなくなってしまう。
ここでいう無の定義がなされていないので、論議するのも気が引ける。
全然違うことを言っているのだとしたら無視してください。
加古川の高校生より
597 :
アカシック:03/06/14 00:28
無ってのは別にモノじゃないっしょ?
無ってのが「無い」って形容詞化できることからも考えて、
無っては性質・状態・属性なんかを表す語だと考えられる。
「無は在るのか」っていう問いは、
「美はあるか」「『静か』はあるか」とかそんな問いと同列のものでは?
「○○という性質/状態は存在するか」
って何かもの凄く馬鹿げていて意味の無い問いだと思うんですが。
まあ、「在る」の定義如何にもよるんですけれども。
>>589 あのね、あなたが言っているのは無ではなく
無いという形容詞だよ。形容詞に多様な見解があるのは
当然とも言える。僕が言っているのは無それ自体。
よって、まず語れることは有るか、無いか。
勿論あるならばそれがどういったものかを論議できる。
しかし、無いとした場合、それはないという以外にない。
それに何度も言うが有に含まれているのは「無」という言葉であって
本質的な「無」それ自体ではない。
600 :
考える名無しさん:03/06/14 02:38
無は無であるがゆえにそもそも思考の対象となりえない
よって無はない
>>571=601
ソクラテス以前は好きですか??
なんとなくそんな気がしました
>>581 すみません。完全に私の勇み足でした。
「つまらない」というのは、もちろん「私にとって」つまらないです。
他意はありませんし、571氏を念頭に置いた発言でもありません。申し訳ありませんでした。
丁度よい機会ですので、私が強調する「不思議さ」について、私の意見を述べてみたいと思います。
それに気付いたのは、哲学を学び始めてからです。それまでなんら哲学的問いを考えることなく生活してきました。
というより、、今でも普段は、何の疑念も抱かずに生活しています。
ただし、夜、哲学書を紐解いて自らへの問いかけを始めると、おのれがこの世に存在しているどうしようもない不可解さが
湧き上がってくるのです。
そして、次の日にはすっかり忘れて日常を送っているのです。
ウィトゲンシュタインは
「人間は自然にしていると浮かび上がる傾向がある。哲学とは、それに逆らい沈もうと努力するようなものだ」
といったといいます。
私に関しては、完全に当たってます。いま不思議に思っていることを維持するためには、
常に意識し考え続ける努力をしないと、私はすぐに浮かび上がってしまいます。
日常の感覚に逆らって沈み続けようとする努力が、私の生にとってどういう意味があるのかわかりません。
ただの戯れ言、思考のゲームかもしれません。ただ、私の直観を信じてこだわってみたいと思っている次第です。
みなさんはどういう姿勢で哲学に取り組んでいるのでしょう?
たんに数学の問題を解く感覚で哲学的問いに向かっているのでしょうか。気になります。
>>606は57です。
余談だけどが、チャップリン映画祭見にいった。
「キッド」のオープニングは、完璧なまでに感心させられる演出だったなぁ・・。
>>607でのべたウィトの言葉は、「水中において」です。
610 :
考える名無しさん:03/06/14 08:26
>57氏は、珍しいタイプである。第3者を戸惑わせる、ぶれがあるのでは
(良い悪いではない、単純にそんな印象受けるだけ)。
例えば、
>580
>無の問題を言語上の問題として、論理の枠内で処理しようとする人たちがいる。
>この考え方につまらなさを覚えるのは、目の前に私という特殊で不思議な存在が
>あるにもかかわらず、そこから処理しやすい方向へと目を背けているからであろう。
この見解に大賛成。波長振幅の大きな同調性を感じる。
しかし、
>579
>ある思考実験をしてみよう。
>私の身体的特徴、全性質、記憶、思考等、私とまったく同一な人物(57)がいるとする。
>彼(57)の行動も、鏡に写されたように私57とまったく同じである。
>ゆえに、第三者から見れば、私57が──まるでコピーロボットのように──二人いることになる。
>では、そのとき(57)は、私と言えるだろうか?
>もちろん、「彼は私ではない」が正解である。
>(57)は私の存在の明るみの中に現れた一存在者にすぎないからだ。
上の見解には、全く同意できない。
思考、肉体全ての属性が全く同一の人物が2人いると言うとき、2人は空間的にも時間的にも
重なり合っていないと同一とは言えない。つまり、全ての属性が同一な2人という
言葉は矛盾を含んでいる事になる。
答えは、「彼は私であり、私は彼である」言うほかはない。
>(57)は私の存在の明るみの中に現れた一存在者にすぎないからだ、とは何を意味
するのか。>579の趣旨に反する発想と思うが。
100行を費やした敷衍を求める。
無?あるわけねえだろ!無いから、あんたたちは、いつまでも、頭抱えてんの。わかった?
>>583 T氏
>「私」とまったく同一の、区別不可能と想定される存在者はやはり「私」と同一だと思う。
(「不可識別者同一原理」は知らないのですが)私はそう思えません。
たとえば、T氏とそのコピーである(T)氏がいるとします。
私から見れば、その区別はつかないし、実際両者ともT氏であると言ってよいと思います。
ゆえに「T=(T)」が成り立ちます。
しかし、「私」の場合は違います。
目の前に存在する(57)は明らかに私ではありません。私は私の心が手に取るようにわかりますが、
(57)の心の中は──私が他人の心に立ち入ることができないように──わかりません。
私にとって(57)は、私以外のその他大勢の他者と何ら変わりません。(もちろんT氏からみれば、「57=(57)」です)
「私」とは、私以外のすべての存在者とは全く異なった在り方をしている唯一の存在者ではないでしょうか。
もしかしたら私57の方が、(57)のコピーかもしれません。
それでも私57は、この世でただ一人特殊な在り方で存在するかけがえのない存在者なのです。
それ故に、「私」が消え去ることの特異性は、他の存在者が消え去る問題と同一に考えることができないのだと思います。
>反省する私=反省された私という反省の形式にひそむ問題性に着目するならば、
この辺り勉強不足なので、もう少し説明を加えていただければ助かります。
「おのれを対象化する」ことにより問題点がずれてくるということでしょうか?
>>610 >思考、肉体全ての属性が全く同一の人物が2人いると言うとき、2人は空間的にも時間的にも
>重なり合っていないと同一とは言えない。
この思考実験で考えたコピーは、空間的に重なっていない、つまり身体だけは別々の場所に
存在しているもう一人の私を考えました。
>>(57)は私の存在の明るみの中に現れた一存在者にすぎないからだ、とは何を意味するのか。
例えると、私の存在の明るみとは、映画のスクリーンのようなもの(存在者を存在させる場)
(57)を含む私の明るみに現れる存在者とは、そのスクリーンに映る登場人物。
あまりいい例えではないかもしれませんが、感覚的にはこういうイメージです。
>57よ
君のことが、多少心配になってきたので、いらぬお節介かもしれないが言わせて
もらいます。
君が、今言っているのは「思う我(認識主体)」の不思議さを言っているのでし
ょうが、残念ながらこの「思う我」を捕まえることは誰にもできません。
多くの先人、先哲がこれに挑戦してきたのでしょうが、成功した者はいないはず
です。
例えていえば、君は自分の姿、自分の実像を君自身の目で見ようとしているよう
なもので、それができないのは、明らかでしょう。
君が、自分の姿を見るには、鏡に写すか、写真などの映像によるかしかなく、それ
は虚像であって実像ではありますまい。
君が君である限り、どんなに頑張ってみても君自身の実像を見ることは不可能です。
不可能なことに固執しつづけると、いずれ精神を病みます。
617 :
考える名無しさん:03/06/14 11:45
なるほど
>57氏は、今ここにいる自分と、「存在の明るみの中に現れた一存在者」としての自分が別にいるだろう。
それが>616さんの言われる実像と虚像か。これに悩んでいるわけだ。
まあ、5、6レス前の思考停止したお人より、どちらが幸せか分らんが。
疑問がフツフツと湧き出ることに理由はなく、(nature calls me),
人により精神病になり、死に至る病に罹る罹る人もいる。でも、「存在の明るみ」
などの言葉に生理的嫌悪感を感じるのは何故だろう。
少し飛ぶが、自分も、宇宙の闇の妄想に取りつかれ数年間悩んだ事がある。つまり、地球の
上層何十キロ圏までは太陽の光で明るいがその先は真暗闇の宇宙、明るさの空間
に限界があることに悩んだ時代がある。なぜそんな妄想が湧いたかは自分でもわからない。
精神科に行く事さえ思いつかなかった。結局忘れる事で時間が解決した。つまり、
思考停止(但し、フッサールさんだっけ?の言う、高度な意味の判断停止ではない)。
しかし、いい意味での哲学的懐疑は、ある種の人種には生甲斐になる。
>607のレスには全く同感できるのだよなあ。
618 :
考える名無しさん:03/06/14 11:57
>>617 おまえは「白光真宏会」とか「霊波之光」とかの
新興宗教の無料アピール誌にでも文章載っけとけよ
君ら、少しは物理の勉強したら? あーだこーだ言っても始まらんよ?
620 :
考える名無しさん:03/06/14 13:45
621 :
考える名無しさん:03/06/14 13:53
物理ってサインコサインだっけ????????
>>621 物理=万有引力の法則なのだが(リンゴ落とすやつね)
物理って、物と力の関係を実証的に考察する?
625 :
考える名無しさん:03/06/14 14:18
626 :
考える名無しさん:03/06/14 14:19
哲学の問題を物理で解けると思っているあふぉがいるのはこのスレですか?
>>599 基本的にある言葉は形容詞的であり、私が言ってるのは名詞でありながら
そのもの実体を形容詞的にも表現する。たとえば「白」は名詞で
「白い」と言う形容詞ではないけれども形容詞見たいな働きを
しちゃう。僕のも同じ事です。けれどもそれは言葉としては逆に
優れているのですよ。何が無いかはっきりしているから。
ところが、あなたが本質的と言う無は、それを「本質的な無」と呼ぶ事で
あなたが強度を感じるただの考えに過ぎないでしょう。
いったいそこには何が無いんですか?
本質的ということで問題をごまかしてませんか?
禅の影響で本質的な無という考えは日本人の心のひだに引っかかる。
それだけの事をさもわからなそうに続けてるだけじゃないですか?
僕の場合は状況無ひとつのほうが本質的ですがね。
続き
繰り返しましょう。
前の前のレスで書いたとおり状況無は確実に存在しますよ。
と、言うよりある種の存在を無といっているに過ぎないんです。
あなたのは存在無とでも呼べばいいのじゃないですか?
それならば確かに存在はしない。
でもそれが無一般、無全般、本質的な無か?と言われると
そうじゃないだろうと言いたくなる。
有る特殊な状況を一般化しようとしているようにしか見えない。
くろしろガンガレ
コケずにこのままいってくれよ
続き
要するに僕が言いたいのはこういうことです。
1自分の中に有るMY無を勝手に無一般にするな、
何が無いのかはっきりさせてラベルをつけろ
EX空間無、存在無(571氏)、主観死無OR「 」(57氏)、
無限−有限無?(通りがかり氏)、その他状況無、相対無、
不可知無、無知など
2それらの無一般に共通する無という概念を抜き出し、
それぞれの無に適合する本質的な無概念を見つけ出すまで
本質的な無とか言うな。結局自分の中に有る無が本質的と
言いたいだけで、他に有る無概念を無視してこれが本質
だといっているだけではないか。本質的というなら、まず
無のいろいろなバリエーションをよく吟味して、それらに
共通する無を見つけてみろ。
3すると、無とはただ無いことの名詞で、いろいろな無について
考えてみると存在する無もあれば存在しない無も有る。
「無は存在するときもあれば存在しないときも有る。」
そう言うみもふたも無い結論になる。
631 :
考える名無しさん:03/06/14 15:32
簡潔に言えば、こうだ。
無の対象は存在しないが、無自体は存在する。
存在していないということは、
概念としても捉えることが出来ないと言うことであり、
実在と存在とは異なる。
あぁー
くろしろは、詰めが甘いんだよなー
まあいい、気にするな、今回は出来がいい方だ
次回、期待してるぞ
634 :
考える名無しさん:03/06/14 16:15
スレのテーマとして、無とか無は在るか、最高である。
無は空間的無、時間的無、思惟的無、道徳的無、形而上的無
実存的無、物理的無・全てを包みこむ容器、(ブラックホール・ブラックボックスともいう)
である。ゆえに、無数の人が、無数の立場から、無数の無論を展開しても、その無数の説は
全て正しいし、間違いでもある、がその全てを無なる容器が受け入れるから、それは全て正しい。
したがって、無に関して、君らや僕らが語るときは、自信を持って、思いつく事
全てを書きなぐってもそれが許される世界である。それを否定する人も、肯定する人も、全てが
正しくもあり、全てが間違いでもあるが、判定者は、無だけである。アーメン
635 :
考える名無しさん:03/06/14 16:18
無は、無と名付けた瞬間に在る。
636 :
考える名無しさん:03/06/14 16:21
確かにあれは存在していました。
いえ、現在も太平洋に沈んだまま、復活の時を待っているのです。
私たち選ばれた民は約束の日までロスチャイルドの魔の手から人類を
守り(略
>>627 いやあなたのそれも一般化しているのではないか?無を。
多様な可能性を認めるのも結局は勝手な一般化だと思うのだがね。
しかしまぁ、僕の言い方も悪いのだろう。何分、稚拙な文章力
しかないので。それは本当にすまないと思う。一応、説明のために
「無」と言う単語は使ったが、そもそも私が言う「無」にはそれを表す
記号すら存在してはいけないと考えているわけです。
では57氏の「 」はどうか?勿論これも記号として成り立っているので
違うと言えます。では何が「無」かと言えば、それは語れないものこそそうなのです。
くろしろ氏は言語として表すことを、語る前提としているように
思いますが、私にとっては「無」を表す記号は然程重要ではないのです。
何故なら本来「無」は語ろうにも語れないもの、いや、
語る語らないすらなく、思考の及ばないものだからです。
とまぁ、考えているわけですが、そうすると「無」を語ろうとしている
自分もやはり間違っているのです。しかし、それでも語ってしまうのは、
馬鹿だからでしょう。それでもその考えに強い信念を持っています。
くろしろ氏に自身の考えがあるように、
僕にも僕の考えがあることを述べておきます。
>>637 私は多様な無を言うのは確かにひとつの一般化なのですが、
それでもあなたたちより誠実だと思うのはひとつのルール
を決めているからです。それは無を論じる際「何が無いか?」
を明確にしている事です。この作業が先にあって、無は一様
ではないとの結論が出てきたのです。
>>638 語ろうとして語れない無、知ろうとして知れない無、
これを私は「不可知無」「不可考無」として既に定義しています。
確かにあなたはあなたの考えがあって無に語るそれは正しい。
しかし特殊な無を無一般として考えてるのはやはりおかしい。
さらにその言語化をぼかしてしまうのはもっとおかしい。
結局ここでの議論の結末は言語によってなされるのですから。
あなたがあなたの無を特殊な無として「不可知無」「不可考無」
または別の用語を作って論じるべきでしょう。
自分の考えがあるからといって無一般をあらわす「無」を安易に
使っては欲しくないのです。なぜならば議論はそこで混乱し
「無」の定義をめぐってひどい騒ぎが起こって終わる、
そう言う事態を散々見てますが、それは不毛というものです。
>574・575
57さん。
こんばんは。
575以降の書き込みも拝見いたしました。
まずリクエストいただいたスレの流れと共に永井氏の
考えを述べる件ですが、恥ずかしながら自分にはまだ
それが出来るとは思えません。「おー」とか言いつつ
「これはこういうことかな?」というのを自分なりに咀嚼している
つもりでいるのですが、それを自分の言葉で言えるかというと、
かなり厳しそうなのです(つまり分かっていない、ということなの
でしょう(笑))。
勿論自信を持って言える分には、発言していけたらと思っているの
ですが・・・・アヤシイ・・・(笑)。
で。もう一回。
是非時間をお作りになって永井氏の本をお読みになるのをお奨めします。
無に関して言えば、自分は皆さんが語っている様々な「無」というのが
よく分かっていないようで恥ずかしいのですが。
自分が気になっていたのは、「自分」という<私>が在る間は、どうやっても
「無い」と言えないのが不思議な気がしてならないのです(「死」について考え
ていたんですけどね)。
もちろんコップのミルクを飲んでしまったあとで、「ミルクが無い」のはわか
ります。
でもそれは「無いという状況」が「在る」んですよね。「無はないよ」と言って
も、そこに無ってのが在るらしいよ、と分かる。「まったくなにも存在しない」
すらも<私>が在れば、在るになってしまう。そう考えていくと、その<私>が
無くなった「そこ」こそが、(これこそMy無になってしまうのですが)184に
とっての本質的な無なのです。それ以外の無があることは184は納得できる
と思います。
でも「184にとっての本質的な無」は、確かめようがありません。
でも、先にこのスレのどこかで書いたときもそうだったのですが、こう書くと
、本当に当たり前のことしか書いていない気がして、なに書いてるんだ?とか、
なんだか可笑しくなってしまうのです。
>>539 誠実?何度も言いますがね、何が有るとか無いとか、
そういう状態としての無いではないと言ってるのです。
有るだ無いだで捉えられる所にあるべきではないと言っているのです。
これは言葉を濁しているつもりはありませんよ。
はっきり、そうと考えを述べているのです。
>>540 言い換えはしません。もっとも簡単な表記として「無」を
使っています。それに言語化しないことがぼやけさせているとは感じません。
した瞬間にそれは存在(状態)になりますから。だからしないと
これもはっきりと考えを述べたまでです。
644 :
考える名無しさん:03/06/15 02:11
ふもうだねぇ、おれはすきだよふもうなことは。
それと、57さんの思考実験、57=(57)なのか、のお話ですが、
やはり(57)は57ではないですよね。
それは184が一時記憶喪失になって、全然知らない浜辺に打ち上げられた
として、気が付いたとき「私だれ?」と言っちゃうのと同じだと思うんです。
紛らわしくないように書くと「<私>はだれ?」でしょうか。
<私>は184であることは忘れても、やはり<私>である。<私>であるのは
自明なんです。
その<私>は私であることを、端的に分かっていて、その上で記憶が戻って
きたのであれば、その記憶のなかにある184という私に結びつける。
そしてその<私>とは、いつの間にかこの世界に現れ、まさにこの世界の中心
にある希有な存在であるのに、(なぜなら<私>が認識することによって
しか、<私>にとって世界は存在しない)のに、(たぶん)世界中のみんな
それぞれが、それぞれ<私>であり、だからこそありきたり・・・・。
悩んでいる訳ではないのです。なんか不思議だなぁー、って感じで
考えると可笑しいのです。こんなにスゴイ存在なのに、全然スゴク
ないよなぁ、とか。
あー、でもこの話自体は、無の話とずれてしまっている気が。。。。
646 :
考える名無しさん:03/06/15 02:39
647 :
考える名無しさん:03/06/15 07:38
不毛な議論(?)が延々と続いているので、ここらでお茶を。
問題提起である。懐疑のネタにしてくれてよい。
テレビで見た本当の話。30代の男性。ある病気で脳の手術をしたところ、
記憶が喪失し、30分しか記憶が残らない。
まるで飛行機に搭載のボイスレコーダか、30分のエンドレステープの世界
を脳内に持って彼の生涯を生きていくことになる。
彼にとって、存在とは、有とは、無とはなんなのであるか。
くろしろ氏や、184氏や、571氏も、思考する己の前提に深く立ち
戻って考えることも、無なる思考を深める上で意味があると思う。
不変的高次元的立場で無を思考しているとあなた達は言うであろうが、
砂上楼閣、根無し草的議論では意味がない。学問的厳密さを追い求め
るのであるならば、前後左右上下にきめこまかく行きつ戻りつしながら
して思考の隙間を埋めていく忍耐が必要である(という、おれ素人ね)。
>>617 >>57氏は、今ここにいる自分と、「存在の明るみの中に現れた一存在者」としての自分が別にいるだろう。
>それが>616さんの言われる実像と虚像か。これに悩んでいるわけだ。
ここでの思考実験は、私という存在者が、他のあらゆる存在者とは全く異なった在り方をしていることを
示すために行いました。もう一人の虚像の私がいると思っているわけではありません。
私が唯一特殊な存在者だからこそ、私の「 」が他の「 」と異なった比類のない出来事であることを証明したかったからです。
後半のあなたの問いは、油断すると浮かび上がってしまう体質の私には軽々しく触れてはいけない
過去なのかもしれませんが、私はあなたのような方に議論に参加していただきたいと思っています。
>184氏
>こう書くと、本当に当たり前のことしか書いていない気がして、なに書いてるんだ?とか、
>なんだか可笑しくなってしまうのです。
>>642 「哲学は、問いに始まり問いに終わる」
私は、理解しやすいように問いを希釈するくらいなら、初めの不可解さを抱えたまま、
問いで終わることが哲学の正しい道ではないかと思っています。
哲学的センスのある人とは、ある哲学的問いに無難な解を与える人でなく、
哲学的問いを自らの問いとして「実感」できる人ではないでしょうか。
>あー、でもこの話自体は、無の話とずれてしまっている気が。。。。
>>645 くろしろ氏の述べるように、無は様々な形で想定できます。
その中で、なぜ私や184氏が、おのれの「 」を他の無と同次元に置くことを許さないかといえば、
ひとえに、「私」という存在者が他のあらゆる存在者と比肩できない比類のない存在者である、という実感が
あるからだと思います。
ですから、<私>という特殊な在り方をする存在者の特殊性を追求することも、「 」の解明に必要なことだと思います。
私も興味あります。
>>643 繰り返しますが、それは無そのものではありません。
あなたの頭に浮かんだ無のひとつのタイプでしか過ぎません。
それに「無」と名前をつけて興じるあなたは何でしょうか?
オナニーの礼節すら知らない思考のトントンチキに過ぎません。
「不可知無」ひとつに無一般を示すような「無」を使う
不埒物は天に変わって呪いを分けて差し上げましょう。
あなたはこれからもてなくなったり、仕事がうまく行かな
くなったりしますよ。w
大体「無」って表現できてるじゃないですか?
「自分にはわからない知る事のできないもの」は明確に言語化
できると思うんですがねえ。
ただそこからは話が進まないだけで。
651 :
考える名無しさん:03/06/15 14:38
>>650 >「自分にはわからない知る事のできないもの」は明確に言語化
>できると思うんですがねえ。
「指示」はできるが「言語化」はできない。
652 :
とあるウサギ・・(以下省略):03/06/15 14:47
その言語化についてだけれど、
ある程度人の言葉については常に矛盾があると思うんだけど。
揚げ足取りと水掛け論は飽きた
>>650 あなたの反論の仕方は稚拙だな、それもあなたの言う
オナニー云々と何ら変わらないではないか。
それに僕が語れないと言いつつ「無を」語ってしまうことが
本来正しくないことは先にも述べているのだけどね。
今更言われるまでもないよ。何かあなたの話し方を見ていると
自分を神か何かと思い込んでるように感じるんだが、
そういうのは危ういと思いますよ。
さて、無についての考察は今日は面倒臭いのでやめておきます。
また、明日再考してみます。それじゃ、お休みなさい。
ひさびさに来ましたがあんま進んでないですな^^;
整理したほうがよろしいかと存じます。
一つ目は57氏の提唱する「死=無」に関する論議。
これに関しては
>>417と
>>441と
>>442が私の意見。
ハッキリ言って
>>417への回答は頂いておりません。
どこからともなく永井氏の<わたし>話が出てますがあの構図は
>>441的操作しか帰結できません。W的には
>>442 すでに永井自身もデカルトの方法的懐疑の解釈が読み替え構造を
有しているが故に、本来的に伝達不可能としています。
あれを主張するのであれば「転校生とブラックジャック」のほうが
「将太インサイト」より抽出しやすいと思われます。
二つ目はくろしろ氏のモグラたたき的様相を成す無のバリエーション。
なぜ、あるとかないとかの議論が為されるのかの根本は
「無さ」を無とするか存在とするかの立場の違いにあると感じます。
この第一点を跳躍した議論から始めているので、くろしろ氏は
常にモグラたたきを強いられています。ご苦労様です。
「無さ」を状況として存在させ、無とするなら、その無はあるでしょう。
対して「無さ」がその対象の存在否定操作である、とするなら
そこには無という言葉は出てこない故に無はないと考えられます。
>>655 正しくは翔太です。将太は寿司か…
吊ってきまふ
>>655 195氏
お久しぶりです。
195氏の言い分がわかりにくいのですが、「 」についての195氏の結論は、
「おのれの存在が消滅することは、無かもしれないし、無ではないかもしれず、
どちらにも断定することはできない。なぜなら、私が生きている時には死を経験できないし、
私が死んだ時にはすでに私は存在していないからこれまた経験できないからである」
でいいですか?
他の問いはもう少し考えてレスします。引き続き、意見を頂ければうれしいですね。
>>654 何度いってもわからないのにはあきれますが、
なぜ僕が神に見えるかというと、オナニーしている外の
次元で無を一般化しようとしているからですよ。
それは全然危うくない。他者を前提とした礼節というものです。
私が問題にしているのは無とはそれぞれオナニー的な
マイ無というのをもっており、それをラベリングもせずに
一般的な無として捕らえようとする。そのオナニーを外
でやる態度ですよ。
たとえば各人ががおのおのの無に対し自分で
名前をつけ自分でオナニーして深めていく。
そして互いの「無」を各人比べあう事で相互理解していく
それが礼節です。
それには僕は矛を向けませんよ。57氏に対しても
かれが「 」としてラベリングをしているから
唯物論的方向に進まないのを笑いはしましたが、
矛を収めましたよ
それはそれで正しい態度だからです。
オナニーかくあるべし。
ただあなたは「不可知無」をただの「無」として扱おうとする。
それはただの傲慢だし「無」でもなんでもないからです。
あなたのはただの「不可知無」、もっともそこでは
それが語りえない「不可知」という事が問題になって
自然と無はどうでもよくなる。無か有もわからないからです。
続き
わかりやすくいうと、
菅井きんと仲間由紀恵は女優ですが違うでしょう。
そのどちらかを女優として一般化しててもおかしいし、
バリエーションがあるという事の意味を考えず、
その一般化を図って議論を展開するのは無意味です。
だからまずラベリングしろといっているのです。
それが名前の付けられないものならそれでよろしい
仮にXとして他と違う名前をつけとけといいたいのです。
もちろんバリエーションを考えた上で、女優とは
を語る議論もあるわけで、そう言うものなら歓迎する。
女優とは女性からなる俳優である云々議論の展開
はいろいろあるでしょう。
しかしここではただ自分のオナニーの押し付け
俺は菅井きんを女優だと思うから他は違うとか
そんなのばっかです。
もちろん
>>655で指摘のあった存在に関する無
もラベリングできると思いますよ。
「不可知無」なんてその典型例だし。
660 :
考える名無しさん:03/06/16 02:45
661 :
考える名無しさん:03/06/16 03:25
うーん、どうもくろしろさんは、余程言葉として無を語るのが
お好きなようですね。また、氏は自分は外側にいるというようなことを言って
いますが、氏の場合多様性を認めていると言うより
多様でなければいけないと言っているわけです。
つまり、無がある一つのものである可能性を否定しているわけです。
この点で571氏と全く変わらない一人よがりであると言えます。
また、571氏が「無」にこだわっているのは恐らく不可知という語が
「無」という語を補足するからでしょう。571氏が、
「無」は語れないと言っていることから、本来、(続く
571氏にとっては「無」と表現することも好ましくないのだと思われます。
多分、氏にとっての「無」とは不可知という語では表せないのでしょう。
つまり、氏の考え方から見て「無」はそもそも存在していないという考え故に
無を補足する語を付随させることを嫌っていると思われます。
結果として571氏の「無」は57氏の「 」と表現方法としては
同一線上に存在していると考えられます。恐らくは紛らわしく
なるという理由で571氏は文字という記号を使い、その為に
逆に誤解を受けているのでしょうが、傲慢と言うほどでもないでしょう。
663 :
考える名無しさん:03/06/16 03:28
まあ、どちらにせよ皆さんの議論がうまくいくように望みます。
では、さようなら。
664 :
考える名無しさん:03/06/16 11:55
ねぇよ
665 :
考える名無しさん:03/06/16 11:56
答えはシンプルだ。
無はある。もしも有があるのなら。
それ以外の無(例えば死)を、無と呼ぶ必然性はないし、
「無はあるのか」という問いかけがある以上、適切でもない。
>>661 >つまり、無がある一つのものである可能性を否定しているわけです。
この点で571氏と全く変わらない一人よがりであると言えます
ツーか検証するとひとつじゃないでしょ。端的に571氏と57氏
の「無」って違うでしょ。存在すらわからない「不可知無」
と「 」と表現される主観が死んだ後の無。「主観死無」とでも
呼びたいけど。
彼らはその無自体に対してオナニーで
俺は議論の仕方についてオナニー。
個々のバリエーションをわかりやすくした上で議論しろっていう。
状況無とか彼らと同じようなオナニーもするけどね。
まあ昔ここで無を題材にした糞スレ立てて遊んでたんで
口出ししたくなるってだけで、実はどうでもいいような気
がしないでもない。
まあ、場を仕切る能力は無いなってのにはよくわかりました。w
昔おじさんは、無について考えて、様々な無のバリエーション
を発見し、表とか作ったよ。そのときは今見たいな無ブーム
でも無かっったので一人で無を考えるうちに宗教まで作っちゃいました。
今若い無の語り手がたくさん出てきたのでつい口出ししましたが
私の議論の方法論が全てではないだろうし好きにやってください。
でも本当はどうでもいいのですが、ついつい口出ししたくなるでつ。
>>669 まあそう悲観なさらずに^^;
漏れもその糞スレ(?)知ってるようなヤカン…
無に関しては超越論的認識論にオナを置きたいかな。
だから過去ログに四つ挙げてみたけど…効果ないよね。
>>657 ども、ごぶさたしてます。
おおまかにそんな感じで捉えていただいて結構です。
ただ限定の仕方にいくつか不足があると思います。
私や主体認識の解釈が非常に難しいところですが
この手の議論ですと論理と経験、認識、意味が空回りすることは
理解頂けると思います。なぜ空回りするか。
この板では永井解釈の主体認識処理に浮き足だった傾向があり、
そもそもの根源はW解釈にも波及します。つづく。
永井はWの「私」に関してトランスツェンデンタールの
二つの訳語に関して付しました。先見性と超越論的ね。
やはり、問題はここにあるということです。
飯田、野矢はどうでしょうか。これは57氏がご自分で
確かめて頂きたいところですね。
あと死に関してですが、可能ならしめる観点として
「私は死ぬであろう」「私は死ぬに違いない」
この論理についての考察を依頼しましたがまだのようですね。
クリプキやカルナップとかいう名前を挙げておきます。
この人たち誰なんでしょう?
まずは論理の足場固めをしたいところですな。
>>670 ありがとうございます。
ああ懐かしいなあの糞スレ。
どっかに無いかな。
>195氏
遅くなりましたが
>>417の問いへの返答です。
1 死によって何か失われるのでしょうか。
「私」ですね。
>>616氏の指摘するように、それが何かを厳密に規定することができませんが。
私はそれを「私の存在の明るみ(存在者が存在する場)」という言葉で表しています。
2 そもそも失うような何かを言明できるのでしょうか。
ここでいう「言明」が、「言葉で厳密に規定する」という意味ならば、答えは「NO」です。
指示はできますが、言明は不可能です。
ただし──ここが一番重要なのですが──誰しも「私」が誰かを知っていますし、
「私」が永遠な存在でないことは直観的に理解しているのです。
だれも「私とは何者か?」を哲学的基盤で答えることはできません。
それでいて日常的には、「私は誰か」を知らない人はいないのです。
そういう理由で、「言明はできないが指示はできる」と考えているわけです。
3 それが果たして無と同義であるとすることが可能なのでしょうか。
結論から言えば、「不可能」です。
無と「 」の同義を確かめるためにはまず、
a) 「無」の概念を規定
b) 「 」を規定
c)abが一致することを証明
することが必要です。
しかしbはともかく、aの無の概念すら規定することは不可能でしょう。
なぜなら「無」を考える時、人間は言語で考えざるをえず、そのためにはまず「無」という概念を
言語で定義しなければなりません。しかし、言語による概念は(イデアのような)普遍的なものではありません。
無が概念(言葉)である限り、個別的なものです。概念とは人間によってつくられた創作物であり、
時代・個人によって変化せざるをえないのは、それが言語である限り避けられないことです。
(実際、歴代の哲学者・思想家により多様な無が規定されています)
それゆえ私は、(くろしろ氏のように)「普遍的な無」を追求するのではなく、自らの無を定義して、
それを深く考察する道を選んだわけです。
無のような経験不可能で漠然とした存在者を考察する時、前者の道を通る限りしょせん言葉遊びにしかならない、
というのが私の立場です。
ところで、195氏は分析哲学系の方ですか?
私は分析は全く知らないのですが、常日頃から非常に興味を持っています。
分析の観点から、「 」の議論をどのように捉えるのか、私の議論をどのように批判するのか、関心があります。
195氏がここで述べられている批判は、その一バリエーションと考えていいのでしょうか。
答えはシンプルだ。
無はある。もしも有があるのなら。
それ以外の無(例えば死)を、無と呼ぶ必然性はないし、
「無はあるのか」という問いかけに答える場合、適切でない。
>>675 いえ、分析系の方ならもっとクールな言い回しをされるでしょうね^^;
永井氏の話が出てたので、それに沿って書いてる感じです。
おまけで永井式に私を簡単に否定すると…
1:「私は何処にいるのだろう?」
この言葉はいったい、位置に関する所見なのか
感覚に関するものなのか、必然性に関するものなのか。
2:「私は何処にいるのだろう?」
この言葉はいったい、特別な位置に関する所見なのか
比類なき感覚に関するものなのか、偶然的な必然性に関するものなのか。
1の位置はある正確な空間を意味し、感覚はある正確な物質の挙動を示し、
必然性はある脱人格的自我を指すでしょう。
あるいは三つとも脱人格的自我を要請するともとれます。
2はどうでしょうか。1が修飾されてますね。でも
強調すべき何かはすでに自明であり、結局1に収束してしまう。
主体と客体の比較から主体と非主体の関係を探り、
<主体>と主体をもって比類なさを導くことはすでに
主体と客体の関係から決まっていたことである。
<主体>を削り出そうと客体や非主体を除いたが故に
<主体>は主体であったことになってしまうのです。
問題なのは「自明」の解釈ってことですよね。
>>673と674の57氏
ども回答ありがとう。
我々が普段使っている言葉では「私」と「死」と「無」は
繋ぐことはできても事実に足らないということですね。
とりあえず「死」をもう少し明らかにしていきましょう。
「無」が現れる原初の場を考えてみよう。
「無」が最初に登場するのは、「ない(〜がない)」の名詞化においてである。
裏表を考えてみるとわかるように、どちらか一方だけが存在することはあり得ない。
表が存在すると同時に裏も存在する。表単体では存在しえない。
それと同じく「あるーない」は、「ある(状態)」が存在する限り、「ない(状態)」も存在する。よって「ない(状態)」は存在する。
その後、「ない」の名詞化において、「無」という概念が生まれてきた。これが無が誕生した根源的な場。
無という存在者(状態・概念)がまず存在してそれに無という言葉を当てはめたのでなく、「ない」という状態を機械的に名詞化したのが「無」。
根源的に存在したのは「ない」の方。「無」はそこから派生してきた概念。派生態。
その後、様々な思想家達が各々「無」に、特殊で深遠な意味づけをした。その結果、「無」という存在者が客体的に存在すると勘違いされる。
真に実在し、根源的な基盤に根をもつのは、「ない」である。
「無はあるのか」という問いには、様々な思想家が創作した「無の概念」ならある、と答える。しかし客体的な「無」は存在しない。
たとえば、くろしろ氏のいう「コップの中に水がない」という「状況無」。
これは「〜がない」という状態を、たんに名詞化したにすぎない。あくまでも、その場で起こっている根源的な状況は、
「(水が)ない」である。それを「状況無」と定義するのは、たんに言葉を名詞に置き換えただけの派生的な行為で、
なんら新しい概念は産みだしていない。(笑っている顔を見て、「笑顔」と名付けるのと何ら変わりない)
状況無は、「ない」に根を持つ派生態である。
「無」とは「ない」に根拠をもたず独立して存在するものだと私は考える。
それが「 」ではないかと考察しているわけである。
まとめると
1.「ない」は存在する
2、「無」は「ない」の派生態である
3.(様々な思想家が創作した)「無」という概念は存在する
4.「無」自体は存在しない
ちなみに、私がこのスレでやっているのが、2の無の創作である。多くの人は、3の無を追い求めている。
「ない」は、認識する主体が存在する限り存在する。
では、その主体が「いなくなった」時、「ない」は存在するのだろうか?おそらく、「ない」はない、としか言えないと思う。
私はその場を無(「 」)と定義する。
>ちなみに、私がこのスレでやっているのが、2の無の創作である。多くの人は、3の無を追い求めている。
→ちなみに、私がこのスレでやっているのが、3の無の創作である。多くの人は、4の無を追い求めている。
>くろしろ氏
私は、基本的にくろしろ氏の方法論に賛同できません。
個々の具体的な無を取りあげて、それらの共通項を一般化することにより普遍的な無を取り出すというやり方にです。
そのような方法論は存在者には当てはまりますが、存在者ではない無(ないの派生態)には当てはまりません。
個々の無を氏が選んでいる時点で、氏は前もって一般的な無という概念を持っています。
アプリオリに無一般の概念を持ちそれを基準に個々の無を選んでいるのに、個々の無を始めに規定して
そこから普遍的な無を定義しようとすることは本末転倒です。
無の構造は「存在」と似ています。
ハイデガーは、存在の探求には、個別の存在者を集めその共通項を一般化しても存在へと至らないと考えました。
たとえば「木一般」は、具体的に個々の木を取り上げて、そこから木一般の概念を創りだしますし、実際我々は
個々の木を経験することにより「木一般」とは何かを知るのです。
しかし存在(〜がある)は違います。
それは経験する以前に、アプリオリに誰しも理解しているのです。
そして、無も存在と同じです。経験以前に誰しも「無(ない)」を理解しているのです。
それゆえ、普遍的な無を規定するためには、この無自体(無一般)から直接考察を始めなければならないのです。
あと一回くらい書いとくか。
答えはシンプルだ。
無はある。もしも有があるのなら。
それ以外の無(例えば死)を、無と呼ぶ必然性はないし、
「無はあるのか」という問いかけに答える場合、適切でない。
君らは自分が何について考えているのかわかってないな。
まあわかっている人なんて滅多にいないが。
論理の一貫性が失われている箇所がいくつかありますが、おいおい訂正していこうと思います。
>>680 横やりですまないが若干手を加えないと
状況無の一面性で終わりになってしまうので補足。
「無さ」は存在の所見に関する一つの呼び名であり、
その名指しは二つの存在所見の選択の結果である。
「コップに水がない」
これは「コップ」と「水を貯えたコップ」の二つの
状況から「コップ」を選び出した結果である。
元来、無さというものは独立して存在しない。
あるのは無さと名付けられた有的状況である。
「コップ」は常に「水」を蓄える可能性を秘めており
当の「水」もまた時間空間の中に存在している。
故に「コップに水がない」は「コップ」と「水」の
時間空間的存在の把握に対して行われた名指しの状況である。
蛇足でした。
>195氏
レスありがとうございます。
睡魔に襲われダウン寸前ですので、日を改めじっくり考えた上で返答します。
『私はどうして私なのか』(大庭健)読んでみた。
著者は、デカルトにおいて典型的にみられる、おのれを「意識する自分(A)」と「意識される自分(B)」に
分離する思想を批判する。それは、前者を「内なる自己」として「57という人物」から独立した存在者とみなす考えを
導くからである。その結果、私を超越した「内なる自己」という幻想が生まれる。
その誤りの原因は、「私」という語と「57(という人物)」の語の『意義』が異なるという事実が、
「私」という語と「57(という人物)」の語の『指示対象』が(実際は同じであるのに)異なると
変造されるからである。
上の議論は、、
「世界内の個物であることを超越した世界の現れの原点である主体(=内なる自己)」
は幻想であると結論づける。
「世界の現れの原点である主体」とは現存在であることから見て、
ハイデガーの世界観の批判でもある。少し考えて見よう。
どちらにしても、「自分がいるという存在の問題を考えるのに、「私」という言葉を分析する」
という分析哲学の手法が門外漢の私には興味深い。
>57氏
奇病の混濁した中書きます。少々荒くなるがスマソ
>状況無は、「ない」に根を持つ派生態である。
これは逆に状況無があるから「ない」も派生する。
つまり、無という名詞があるから「ない」も存在する
とは考えられないでしょうか?
だから「無」自体が存在しないとは言い切れない。
逆にそれはアプリオリに存在する。
>経験以前に誰しも「無(ない)」を理解しているのです。
ならば、「無〔無い〕」は存在しないのでしょうか?
存在するからこそ、アプリオリに理解できるのではないでしょうか?
それに私の方法論は主にそれを言語化するときの方法論です。
禅的な体感論を私は止めませんし、否定はしません。
また言語化する際、普遍化した無だけを語るのではなく、
ファイリングした無、とs区主な無それ自体も掘り下げると言うのが
私の言っている方法論です。
私が消える「 」の証明を考えてみたのですが、
それには明確な私が何によって起こっているの考えねばいけません。
それを実感するのはドラック、または病気だとお思います。
私は今なぞの奇病ですが,意識が混濁し,明確な私というものが
肉の付属物である事を実感せざるを得ません。
これらによって精神と肉体の関係を実感し、後は自分の肉体を
切り落とし、それが腐敗するのを見る。
または垢をこすり、それが消えていくのを見る。
これらによって肉体が消滅する事、すなわち精神も消滅する事が
リアルに体感できるのではないかと思います。
おもちゃをひとつオマケに。
「相対無」これはそれがあるから他のものが存在できない。
パソコンがあるから、そこに本が置けない、そういう無です。
もともとは西田幾多郎の哲学から出てきた無です。
私の方法論それ自体をまとめますと、まずアプリオリに感じる無を
言語化しまとめ、ファイリングする、そしてそのもの自体を個々に
掘り下げるほか、その一般的な無を検証し普遍化する。
それがまたアプリオリに判断できるのかフィードバックする。
こうしたやり方です。
疲れた。
695 :
考える名無しさん:03/06/30 18:51
無とは何にも干渉されなく、そこには物質も思想も無い状態。
ということなのでしょうか?
696 :
考える名無しさん:03/07/04 21:00
さて、ことはそう簡単ではないでしょうな
あなたの心の中にいます。
死後=無だとしたら、
「夢を見ずに眠っているとき」は「無」にならない?
肉体が「存在」する時点で「無」ではないのか?
睡眠=一時の無?
>>698 もう少しよく考えてみてはどう?
「物(肉体)の不在」=「無」としたいのか。
「時間(過去や未来)」=「無」としたいのか。
「非意識(夢中になったり背景)」=「無」としたいのか。
「非自己」=「無」としたいのか。
698の見解は色んなことやものが混同してる。
すでに死ぬこととは別のことを言ってるよ。
簡単に「全てが無いんです」なんて言えないことが味噌。
まず何が全てなのか。次に全てである必要があるのか。
「何かが無いんです」における何かとは?
700ゲトー(´Д`)
あらゆる無を同時に成立させることは困難。
なぜなら無という語を使用する際のメタ級の定義が
なぜか(むしろ必然的に)あらゆる否定を許しているから。
純粋概念であるが故に或る観点に立つと総合性は破綻する。
そして或る観点といえど表記を超える想像は不可能であり、
想像を超えた表記は意味を空転するしかない。
みんな無には飽きちゃったかな?
ネタ切れなので暇潰しします(・∀・)
「概念」ってなんでしょう。
くろしろ氏は動物でも概念はないとはいえないといってる。
チンパンジーは三角や丸を見分ける云々
>>481 後回しにしておいたのでこの辺で考えてみまふ。
概念と聞くと観念が浮かぶ。ある受け取り方。
三角形の定義は何か?三辺でから成り内角和が180度?
だがそんなものは無い。直線も正しい角度も実在不可能。
あるのは三角形様の不完全図形である。
今度は丸。丸とは何か?
丸=○=(x^2+y^2=1)=過去の丸=想像の丸=目の前の丸
わざと≒は用いず=という記号を使いました。
円という表現は意図的に避けました。
上記の内、概念に必要な丸はどれになるでしょうか。
概念を可能ならしめる操作とはなんでしょうか。
チンパンジー(以下エテ公)を用いた実験。
たとえば「丸」を鍵としてエサを獲得させる実験を行ったとする。
「丸」は鍵型であったり、ボタンであったり、近道の符号だったりする。
エテ公は徐々に三角ではなく丸を選びエサを獲得できるようになった。
この時点でエテ公は丸を判別していることがわかる。
だが丸が何かを分かっていないことも確かである。なぜなら
実験とは離れ、丸を見つけたエテ公はそれにエサを探すだろうから。
このときエテ公に丸という概念は存在しているのか?
さらに実験を続けたところ、
ついにエテ公は丸型の鍵を自ら作り出し、エサを獲得してしまった。
だが丸が何かを分かっていないことも明かである。なぜなら
実験とは離れ、丸穴を見つけたエテ公はそれの鍵を作るだろうから。
このときエテ公に丸という概念は存在しているのか?
>>703 いや、それはただ脳内実験なだけだ。
ちんぱんは3歳児だか5歳児ぐらいの知能を見せると言うぞ。
俺のも怪しい記憶ですまんが。w
それに鍵穴が何であれ、それを見分けると言う事は概念を
理解している。
それに我々人間の活動も195氏の言うような純粋概念に基づいて
いるのだろうか?
そのほとんどが目的があるから概念を使うのでは?
目標があるから概念を使うという点ではちんぱんと
変わりないのでは?
>>704 うん、そこなんだよね。
見分ける=概念を理解している
これが疑問に思える。
形状認識は感覚によるものであるという仮定をたてると
ヘビは温度という概念をもっていると類推できてしまう。
(かなり飛躍してるけど意味は通ると仮定します)
どうも腑に落ちない。
思うに、直接対象の経験(第一を除く)なしに
対象を想像できることが概念には必要なのではないだろうか?
つまりそれを可能とする存在(エテ公であれ)は概念を持つと考えるのだが。
この場合、目的は不必要であり独立に概念は成り立たない?
エテ公も夢をみることは知られている。
猫が夢の中で狩りをシミュレーションすることも。
けれどもそれは想像ではなく、過去の復習の域を出ていない。
エテ公がエサを見つけ、仲間のために丸印を描いたとすれば
これは新しい丸であり、丸概念の獲得者にしかできない行為ではないだろうか?
ここには確かにエサという目標はあるが、それとは独立に
「丸」の想像選択が行われているように考えるんですが…いかが?
うーん、猿学はまったく無知なのでこれはギャンブルとして書きたい。
以前テレビで見たことのあるチンパンに餌をやるのに、丸とか三角とか
図形を見せてやる。するとチンパンは餌の出る丸とか三角のボタンを
押して、餌をむしゃむしゃ食べていた気がする。これは概念を理解し
ているとしか考えられない。直接的に丸ボタンを押せばすむと言うの
ではなく見分けて押していた。>>706のような事も丸を書くことを
学習させるかもっと単純なボタン式にすれば可能だと思う。
よく猿も同族のまねをする。トンでもで百一匹目のサルとか
なかったっけ?
蛇が温度を感じるのも概念と言っていいと思う。
そもそも頭の中の概念とは神経細胞のただのつながりに過ぎないの
だから、それが単純になった形として蛇が概念を持つと言っても
かまわないと思う。
ここで無の議論と同じ事態が発生しているのだが、
概念とは何か? そこに明確な規定がなされていない。
だからこの議論を続けても不毛だと思う。
概念をどう規定すべきか? しかしそこに何らかの恣意性は
産まれないだろうか?
俺は概念は脳細胞の認識機関として考えるが、
ある人はもっと言語的、形而上的なものと考えるかもしれない。
この概念の規定で状況は大きく支配される。
チンパンは3歳児だか5歳児だがの知能を持つが俺の上司の1歳半の娘
はアンパンマンを見分けると言う。
概念の規定が恣意的になるというのには同意。
でも恣意的であっても自覚していれば問題は無いと思う。
そして一つの観点があれば、別の観点と対立させやすいし。
くろしろ氏の主軸は「ある概念はある神経網と対応する」と捉えていいのかな?
見分けがその対象の概念を生み出すと考えるとそれで問題ないと思う。
見分けとは集合形成であり、この集合が概念である。そういう図式。
したがって見分けが鋭くなれば集合は拡大(分化)し、概念も豊かになる。
ガラス板の向こうのエサを獲得するエテ公は透明という概念を
手に入れたことになるのか…まあ実験方法にもよるだろうけど。
創発の問題。
3歳児はリンゴの絵が描ける。色を分けて塗ることもできる。
だがエテ公はリンゴを描くことは出来ない。赤い色すら塗れない。
エテ公はバナナとリンゴをある観点から見分けている。それは
味であったり食感であったり形状であったり色であったりする。
だがエテ公にはリンゴを想像することができていない。
リンゴという引き出しはあるが、それがリンゴを認識した
際にしか開けられていない。つまり即時的かつ受動的に概念を有する。
くろしろ論を進めてこんな見方してみたけどいかが?
うーん絵がかけないのかな。
猿学には詳しくないのでなんともいえない。
その証拠が欲しいな。
俺的には訓練ができていれば
言葉もボタンで押したチンパンが絵がかけないとは思えない。
絵はかけるんじゃないかと思う。
無とはどうでもいい話題になってきたな。w
今回の議論では、195の方に無理があるね。
私は、クラッシックが好きでよくCDなんぞ聴きますが、楽器の演奏なんかできませんよ。
195の話を聞いてると、その私を無理やりピアノの前に座らせて、譜面を前において
さあ、弾いてみろと言っているのと同じだね。私は、しかたないから、闇雲にピアノの
鍵盤を叩きまわるだろが、そうすると195はこう言うだろう、ほらみろ君は音楽という
ものをまるで理解していない。いや、そもそも音楽という概念さへ持っていないのだと。
絵がかけないから概念を持たないなどとは、いくらなんでも、チンパン君が気の毒では
ないのかね。
久しぶりなんで間違えた。
>>689 宗教くさいけど、自分のことを一個の人間としか思えない人(内なる自己は幻想と思う人)は、
たくさんの無を必要とし、自分がこの世と一体だと思える人(梵我一如)は、
無だけでいい。
武道(敵と争うスポーツでも可)をやると真我(内なる自己)を感じるよ。
オカルトと一蹴されそうだけど。
>>710 いやいや、それはちょっと急ぎ過ぎかと^^;
なにもそこまで言ってないです。
それに音楽はその定義が微妙に思えます。
楽譜通りじゃなくても適当にテンポやリズムを鳴らせるなら
音楽と呼べないことはないと思いますし。(鼻歌とか)
近所のワンちゃんも町内の十八時の音楽に合わせて遠吠えしてますから。
>>713 テンポやリズムじゃなくてリズムやメロディーだ・・
差し当っての問題は局在性。ここから攻めましょうか。
くろしろ的に「神経網=概念」と考えたとするとき
ヘビのピットによる選別を温度概念と想定すると
昆虫もまた脳により概念を持っていると予測が立つ。
これも了解できる。
蚊は嗅細胞刺激物質(温度も?)への概念をもつといえる。
恐らくは単純概念は五感覚(超音波や可視光外電磁波)と
対応する神経網との対応であると還元できることになる。
「チンパン君が絵をかけないのは、概念をもたないからだ」という事をいうためには
その前に、まず証明しなければならない事があるだろう。賢明な君ならわかるはずだ。
やめておけ、無理を敢えてする必要はない。
>>709 >無と関係ないかも
まあ閑話のノリでいきましょう^^;
>絵も描くチンパン
つまり言いたいのは絵を描くということは
単純概念である対象を想像出来なければならないことであり
それは単純概念の神経網だけでは不可能と考えられる。
絵を描くためには描くもの(筆など)を選び、描きの対象(紙など)を選び
描く対象(リンゴなど)を選び、色や形や大きさを考え描かねばならない。
したがってそのチンパンは少なくとも複合概念を有することになる。
ここまでくるとチンパンの概念形成能力はかなり高い。そして
手話を行うゴリラもいるわけで、動物が複雑な概念をもつ可能性は否定できない。
けれども、これは可能性であり、複雑概念の習得可能な事態は
偶然やかなり長期的な訓練環境がないかぎり成立しない。
そういう意味で今のところ動物には複雑概念は持てないのではと言いたかったのです。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
見分けることと見て分かること。
植物もまた状況に応じ気体分子の吸収・放出を行う。
みかん仕分け機はみかんの大きさを選別できる。
免疫細胞は主要組織適合分子を見分けている。
玉石混淆だけど、見かけと擬人化の問題も捨て置けない。
単純概念であっても一概に「見分け=神経網=概念」と切るのは難しい。
>>716 君がその程度に話をまとめられるのなら、異存はないよ。そのあたりが無理のない
妥当な線だ。
欲をいえば、チンパン君と人間の身体能力の差についても言及してほしかったけど。
いくらチンパン君が器用でも、人間ほどの器用さは持ち合わせてはいないからね。
絵をかくというのは、高度に複雑な作業だから、人間の場合でも言葉の方が先だ。
まず、カタコトを喋るようになって、絵がかけるようになるのは、そのあとだ。
これをみても、絵をかくということが、いかに困難な作業かということがわかる。
脳の発達はもちろんだが、身体の発達も重要な要素だよ。
いずれにしても、概念をもつ、もたないと、絵がかける、かけないをあまりに単純な
構図にしてしまうと、君が意図するところが別にあったとしても、誤解をまねく
ことにもなる。そう思って口出ししたまでだ、悪く思わんでくれ。
くろしろにも詫びておこう、話に割りこんですまんかった。以後つつしみます。
では、これにて。
>>719 いやわびられてもw 自由に書いてくれ。俺も適当だからw
「見分け=概念」ではなくても概念のある一部を相当している事に
間違いない。ここで問題は概念をここでどう規定するのかにかかっている。
結局それは恣意性を持つに違いないが、そこはラベリングで回避だ。
後、概念はどこまで行っても神経網だ。
>>719 くろしろ氏に同意。自由に意見を述べてほしい^^
的を射った横やりは時に弱腰を諌めることもあるし。
絵を描くことに関しては話の導入手順が悪かったと反省。
手話を行うゴリラは絵も描くことができる。
ついでにこのゴリラに死んだらどこいくのと訊くと
「穴」
と答えたらしい。そういえば象も穴に逝くね。
>>720 じゃあ
>>718の免疫(T)細胞の見分けはどう考えます?
細胞だから神経はないわけで。この識別は自己概念とは言えない?
もっと言えば、DNAなどの分子レベルであっても認識はある。
tRNA・mRNAはアミノ酸の選択を行い、運搬・結合を担っている。
神経網で線引きするとしたら上記は概念の見かけになると考えます?
>>721 それこそラベリングの出番じゃないのかな。
「複雑な概念」と「単純な見分け概念」
とでも分けて考えればいいんじゃない。
複雑な概念も所詮我々の神経網に過ぎないし、
見分ける事だけを概念と単純に捕らえるならば
免疫細胞もこの概念に含まれる。
724 :
考える名無しさん:03/07/27 17:20
くろたん布教は順調かい?
ナニコレ?w
sagesage
ナンデモナイ、ナンデモナイ
728 :
考える名無しさん:03/08/15 03:58
もしも無が在ったとして、あるときそれが無くなったとしても、
だれも気付くことができない。
したがって、無が在るか否かは、必然的だ。
「無」 駄な議論はたしかに ありましたね。
勉強なりました、。
730 :
エンゲルス:03/08/17 07:33
最近、ニュートンだったかネイチャ−だったかで
素粒子よりも、さらに小さい粒子が空間に自然発生し、さらにその粒子が
増殖する事で、空間を押し広げる結果、宇宙は膨張し通ずけると
読んだ記憶が有るのですが、この理論からすると
絶対的な無は 無い ような 気がするのですが
誰か お答え下さい、お願いします。
ここまでの、議論すごかったです。是非復活して下さい。
デジカメで撮った写真のビットマップを拡大していくと、予想できない色のピクセルがあることがあるよ。
特に色の境界部分には複雑な色が配置されている。
写真のような絵を描くには人間にははかりしれない境界の複雑さを予想しなければならないのでは?
単なるグラデーションでは写真のような絵はえがけない。
宇宙の無と有の境界でもこのようなことが起きている可能性があると思いませんか?
732 :
考える名無しさん:03/08/17 12:41
無は我々の周りにいっぱいあるんだけど、無じゃない状態のほうが上手く世界を作り上げているので無はほとんど感じられないのでは?
と考えた
そもそも無って何
?
>>733 そんな気がしてました
自身が言葉にして「無」だとやはり、そこには自分が居ますよね。
人間には生きている以上、無について語る資格はないんですかね。?
どらえもん 出てきて。
のび太君、呼んだ?
あなた の ポケット下さい。
ちょこ ちょこ 顔出します。
お願いします。
>>734 そう言いつつも、君が無について語るのはなぜ?
そもそも、無も有も 人間が考えた言葉だから・・
悩めば悩むほどわからなくなる。
ドラえもーん!!
人間が考えた言葉以外になにがあるの?
>>600あたりが、良いことを言ってるな。
ただし、前段は良いが、後段はいかん。
わしならこう言うな。
真に無いものは、認識の対象足り得ない
したがって無はある
>>740 >真に無いものは、認識の対象足り得ない
>したがって無はある
ならばその無は真に「無」ではない、ニセモノの無だということになりますが?
無はあるのかないのかという議論は例の
┌───────────┐
│この線の内側に書いてあ│
│ることは全部ウソです。│
└───────────┘
というのと一緒。
はい、終了♪
たーちゃん、良いとこに気がついたな。
わしは偽物の無はいっぱい知っているが、本物の無というものを未だ知らん。
君は、知っているか?
>>742 知りません。
仮に知ることが出来るとしても、知るのは怖いですね。
そうか、知らんか。
なら、たーちゃんもわしと同じ無はある派じゃな。
君が知っている無は、ある無だよ。
>君が知っている無は、ある無だよ。
うんにゃ、無と呼ばれるものの無とは異なるものでしょう。
その通りだよ、たーちゃん、分かっておるじゃないか。
だから、偽物の無なんだよ。
でもな、わしも、たーちゃんも未だ本物の無というものを知らぬ以上
たとえ偽物の無であるにせよ、それがわしらにとっての無であること
に違いなかろう。まずは、これを認め、これを出発点とすべきではな
いのかな。
そうでなければ、例のどうどうめぐりの挙句の果てにハイ終了という
ことになってしまうと思うんじゃが、どうじゃろう?
本物が手に入らないから偽物で代用するのは仕方のないことですが
そこから出発してどんなに言葉を尽くして語っても、やはり偽物に
ついて語ったことにしかならないと思います。
近似値はどこまでも近似値としての信頼性しかないわけで。
746氏は本物のワラビ餅、すなわち原料澱粉が100%ワラビ粉である
ものを召し上がったことがおありでしょうか?
100%ワラビ粉のワラビ餅というのは食べたことないよ。たーちゃんはあるのか?
100%ワラビ粉のワラビ餅が食べたければ、時間と労力さえ惜しまなければ、
自分でワラビを採ってきて、作ればいいのさ。どんな出来栄えになるのか、わし
には見当もつかんが、100%ワラビ粉のワラビ餅には違いない。
しかし、本当の無はそうはいかんよ。なにしろ無いものをつかまえようというんだ
からね。尋常の手段で出来ることではなかろう。可能性は0ではないが限りなく
0に近いと思うがね。偽物だからといって目の前の無には目をつむって、それが
なにか確かめもせず、無いものを探し続けるつもりのかい?
わしなら、目の前にワラビ餅があれば、まず味わってみるがね。たとえそれが
代用デンプンで作られた偽物であったとしてもだ。
100%ワラビ粉のワラビ餅は先日自分で作りました。
ワラビ餅屋の甘藷澱粉製ワラビ餅とは、色も舌触りも味もまったく違うもので
偽物から本物を類推することは不可能であろうと思われました。
偽物の無と本物の無は、偽ワラビ餅と本ワラビ餅の差以上にかけはなれているのではなかろうかと
思います。
ワラビ餅のことだけどね、偽物のワラビ餅を食べるには、それ相応の理由なり目的
がないと食べちゃいけないの。ただ、それがどんなもんだかどんな味がするのか食
べてみたい、知っておきたいということでは食べさせてもらえないの?
知りたい、知っておきたいということ以外に理由も目的もないんじゃよ。
偽物から本物を推測したり、逆に本物から偽物を推測したりなんてことが出来ない
ことは、明々白々じゃろう。
わしは、そんなことをやろうなどと、言った覚えはないし、考えてみたこともないよ。
わしは、可能性の高い方からやってみようと言っておるだけだよ。
わしやたーちゃんが知っているということは、認識の対象として捉えているというこ
とだ。それなら、手がかりも、とっかかりも有るだろうと思っているんだよ。
首尾よく目の前の無がどうゆうもんだか分かって、まだ、わしの寿命が残っていたら
それから無い無の方を探してみるよ。
それでは、たーちゃんのご意見をどうぞ。それでもってひとまずこの対話を終わり
ましょう。年寄りの相手をしてくれて、ありがとう。礼を申します。
>>750 ありがとうございました。厚く御礼申しあげます。
>>750 無を、本物と偽物に分けて考え、しかも偽物の無をあるとしたのはすごいですね。
年の功ですね。
753 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/16 22:58
ここに本物の無がある。つまり無いと言う事があるということだよ。
君らの家には現金が2億以上あるかな?
ないだろう?
コレが無だよ。
754 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/16 23:00
君がいるおかげでいない人がいる。
コレも無だよ。
755 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/16 23:07
「無は在るのか?」
この問自体無が「無い」可能性を捨てるならば何の意味もない。
ただ無が在るだけじゃからの。
つまりこの問いも「無い」に依存せねばなりたたない。
「無い」すなわち「無」じゃよ。
afokusa
757 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 01:43
dagasinrida
758 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 01:52
まずこの「無は在るのか」という命題。
三次元存在として無は在るのかとは問われていない。
だから言語レベルで答えても論理的にはオーケーである。
ここでは無と言う言葉で既に無が具体的に提示されている。
また無と言う言葉はわれわれもその意味をよく知る言葉であり
その存在を認められる。
ゆえに言語的に無は存在する。
759 :
考える名無しさん:03/09/20 01:59
ばかばかしい命題ですね
760 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 02:04
そうです。根本が間違っているのです。
でも、そこから3次元的に無は在るのか?
4次元的に無は在るのか?
などと話は広げられる。
私は主に言語構造について無はどのようにかかわり存在
するかについて暇なときに書きたい。
761 :
考える名無しさん:03/09/20 02:09
「 」が無い
という用法は在る、でも
『単に「無」という現存在は「無」い』
んでないの?
762 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 02:19
>>761 言語上では無はありますよね。
三次元レベルの存在では、
レンガをひとつ地面に積み上げて
それをどかすとレンガが地面に無になる
コレを状況無と言っていますが、
認めてもいいと思います。
それにレンガを地面に置いたことで、
他のものをその地面に置けなくなる、
コレを相対無と言っていますが、
コレも認めてもいいと思います。
763 :
考える名無しさん:03/09/20 03:03
みなさん哲学には答えがないの知ってますか?
764 :
DQN ◆DQN.TxIIOE :03/09/20 03:06
やっと気付いたのですか?(ワラ
765 :
考える名無しさん:03/09/20 03:07
暇つぶしに答えがあったら
暇に逆戻りだろーが! それを理解する事。
766 :
考える名無しさん:03/09/20 05:18
仮の、つまり相対的な無は役に立つのじゃ。
8世紀インド人の0の発見はアラビアに伝わって実にヨーロッパ世界に知の革命を起こした。
十字軍は実にこの知識を学ぶためにはるばる中東に出かけて行った。
虚数は一見意味のない数字に見えるが
この発見がなければ現代物理学はなかった。
これわしの仮説
反論どうぞ
役に立つという「働き」に「存在」という身分を与えて
話をするのは適切なことであるのかという問題ですか?
毛糸で編んだ「セーター」は存在するか
存在しているのは毛糸だけである と言うか
意味のあるのは「セーター」の方である
違いますか
セーター「として」「存在」する。
毛糸「として」「存在」する。
「意味」と「存在」。
意味の焦点の当て方によって「存在」の仕方が変わる。
「着る」ために「セーター」があり、
「セーター」を編むために「毛糸」がある。
目的により「存在」は多様に語られる。
>目的により「存在」は多様に語られる。
これが分かっている人なら良いのですが
宇宙は素粒子や超紐からできていると考えることに対する戒めでした
システムも物質と同様に「存在」している と言いたい
求めた瞬間、無ではなくなる。
私は独自に言語構造に無がどのように関連しているか書いていきましょう。
まず言語はそれ自体、何かを語る際、語る言葉を選別し、物語るのですから、
犬と言ったときに他の言語を言う可能性を捨てています。
つまりは相対無を含むのです。
相対無については
>>763をみてください。
このように、「求めた瞬間に、無を得る」のが相対無の特徴です。
このように、肯定文であれ、否定文であれ、仮定文であれ、
まあその他もろもろ、ものを語る際には他の可能性を捨てている。
つまり相対無を含むのです。
つまり言語とは物事を選別し、それによって次々と相対無を作り出す
存在であるといわざるを得ません。
今の私の言葉もそうです。無について語らず、兎の一生について語っ
ても言い訳です。しかし私は無について語り、兎の一生は無の世界へ
と入っていくのです。
さて否定文について考えて見ましょう。
「彼は牛ではない」と言う文について考えてみましょう。
このことは「彼が牛である事は無である。」と書き換える
ことが出来ますね。この際の無は状況無つまりゼロです。
否定と言う事はその状況無を動的にした形だと言う事が出来そうです。
ただの状況無は静的ですが、否定により、
動的に表現することによって「彼が牛である可能性」を打ち消すのです。
そこにはもちろん状況無の概念という前提があって、それなくしては
否定と言う言葉は機能しないのです。状況無は否定がどう動くかについて
機能しています。つまり言葉を状況無へ行くように動かしてるのです。
状況無+そこへ向かう動的な力=否定と言う事になると思います。
つまり、状況無は否定における目標だと言う事が出来そうです。
やったースリーセブンゲット!
たーちゃんがレスくれないのでヒマなのだトホホ。。
780 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 22:59
いいもん、相手してくれなくても、ここにまた壮大な無の帝国を築くのだ。
781 :
考える名無しさん:03/09/20 23:03
ところで、有るって、どういうこと?
782 :
くろしろ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 23:04
783 :
考える名無しさん:03/09/20 23:17
禅問答やりに来たのではない
784 :
くろしら@ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 23:21
禅問答をしているつもりはない。
有るの端的を指し示しただけだ。
785 :
くろしろ@ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/20 23:53
何だ終わりか?
786 :
くろしろ@ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/21 00:04
さて疑問について。
「彼が牛なのだろうか?」
この文には「彼が牛である可能性」と「彼が牛でない可能性」
に「どちらに動くべきなのかという運動性」が組み合わさって
出来ている。
この文は相対無をまぬがれないし、「彼が牛でない可能性」
には状況無が存在する。
もちろん「彼が牛である可能性」「どちらに動くべきなのかと
いう運動性」も相対無をまぬがり得ない。
そして回答がある場合とない場合(状況無)が存在する。
787 :
くろしろ@ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/21 10:40
疑問詞の着いた疑問文について
「牛である人は誰ですか?」
当然のように、この文が発せられた瞬間、相対無が発生する。
「牛である人はいつ来ますか?」等々他の言葉が発せられた可能性もあるし、
無言である可能性もあるからだ。
例文に戻ると「誰?」と言う疑問詞が着く事によってより相対無が出来る
構造になっている。その誰かさんが答えになった瞬間、他の選ばれる可能性
の会った候補は「牛でない人」になってしまうからだ。
「牛でない」を個別に考えると状況無であるともいえる。
このことから状況無は相対無の部品だと言う事が明らかになろう。
788 :
くろしろ@ ◆AcNr2wNPmQ :03/09/21 10:44
今気づいたが疑問は答えを誘発する事から、総じて相対無を
誘発する働きがあると思われる。
789 :
考える名無しさん:03/10/21 01:05
無は概念として存在するが、
無は無いから無なのである。
790 :
考える名無しさん:03/10/21 01:11
もうみんな断言しよう!無は神の領域、理詰めで考えるのはやめよう
「無」は何かを生み出すことはできない。
つまり、何も生み出すことができないものこそ「無」なのである。
この世に何も生み出すことができないものなんてあるのだろうか?
ある。「空間」だ。
俺達は「無」の中で生きているんだよ('A`)
(死は悲しみを生む。だから死=無ではない。)
793 :
考える名無しさん:03/10/21 03:35
無と名付けた段階で相当の概念が存在する
>>792 チョットダケダヨ(・ω・)ノシ
('A`)<「無」は無いから「無」なんだよ。
( ゚Д゚)<ちょっと待て、それは在るってことだろ?
・・・在ると決めたのだ〜れだ?
ハイ、ココマデダヨ(・ω・)ノシ
場の量子論に基づいた真空の概念というのは
真空はまったくの無ではなく、粒子と半粒子がセットになって生まれたり
消滅したりをたえず繰り返している状態のことを言います。
つまり何もない空間=真空という概念はとっくに打ち滅び、空間とはすなわち、
形なきエネルギーを存在せしめる細胞のごとき媒質であると考えられています。
自分、「無」を想像できない。無って何も無いってことですよね?
目を閉じても暗い何かがあるし・・。
私はりんごは想像できる。宇宙も想像できる。
でも「無」だけはどうしても想像できない。
「無は在るのか?」・・無はないと思う。あるとしても私は想像できない。
何かと比較した上で「無」という状態は在るだろうが、比較するものがなく
「無」単独で考えるならば、「無」は永久に無いと思う。なぜなら、無自身が
「ある」になってしまうから・・。だと私は思う。だと今日は思う・・。
無は単独だと「在る」になってしまい、無として生きることができない魅惑
的な言語である。従ってわれわれを奇妙な感覚へ陥らせることができる。
と感じる。
ちなみに 空間=無 とは思っていない。
適切な言葉が見つからなかったので、妥当な言葉を選んだだけです。
(;´-`).。oO(・・・あの部分って何ていうんだろ・・・)
>>797 「無」って想像できるのですか?「あの部分」が「無」ってことですよね?
クジラさん独特の特別な表象ですか?
ム〜・・難しい。(@@) 頭くるくるで奇妙な気分です。
>>798 想像できる=形有る物 ではないの。
だから「あの部分」を「こんなやつ」とかいって
説明することはできましぇん(ノ∀`)タハー
http://v.isp.2ch.net/up/9ebab5570737.bmp xとyの間には何かあるのか?
・・・何かあるからxとyは独立していると考えた。
その「何か」を私はzと名づけた。
では、もしzが無かったらxとyはどうなるか。
xとyは一瞬にして同化し、xyになるだろう。
もし、xもyも無かったら、そこには何があるのか。
zではないのか。
私はzに「無」と名づけた。そこから「無限」を感じた。
別の読み方を探したが適切な読み方が見つからなかったので
「空間」と呼ぶことにした。(ここは
>>799が絡んでます。)
では、zは「在る」のか。「有る」のか。「或る」のか。
「無い」のか。「ない」のか。(ここは
>>794が絡んでます)
私は「ある」ということにした。だって無かったら困るもんw
これも適切な言い方じゃないのよね。あとは
>>791。
・・・さんすうと、かんじドリルと、りかしか知らない俺には
この説明が限界(苦笑
以上
無はある!
限界は在るのか?
>無は在るのか?
私なりのまとめ。
「無」とは無いから「無」なのである。
「あるのか」「ないのか」という問いに対しては
「ある」と答えるべきである。
あとは傍観します。
認識の残りかす
「完全に何もないを上手く説明できない」からとりあえず名前をつけただけ
神とかとおんなじレベル
有るかどうか分からんけど無いとなんとなく具合が悪い
解んない物にはとりあえず名前付けて不可侵にしとけ
ブラックボックスというか、オカルトって世の中に必要ですよね。
解らないモノは解らない、で終わらないのが現代人なんですけど。
我々は「空間」の中で暮らしています、「時間」や「概念」の中ではなく。
だから、無というのは概念であって、言葉遊びだと想像できます。
「何も無ければ想像すら不可能では?」という疑問は
「我々の意識は電気信号である」で解決できないでしょうか?
>>799 カタチがない何かを想像することってできるんですか?
カタチが無い何か自体、既にカタチある気がします。
私は言語化された物体を想像することができます。
でも言語化されてないカタチのないものも想像できます。
でもそれは、カタチがないといっても「カタチのない形」を
もって想像可です。
このようなことをふまえて、私は「無」を想像できません。
>xとyの間には何かあるのか?
・・・何かあるからxとyは独立していると考えた。
その「何か」を私はzと名づけた。
私にはその「何か」を無と名づけることで、既に無ではない気がします。
「何か」というあやふやとしたものがあるじゃないですか。
無は「何か」であるとするなら、無はあることになってしまうのでは?
ヘレネさん
そう、意識の本質は電気といってもいいと俺も思う。
まあ電気的存在といってもいいかな。
在るのに無いような、形の損失、定まっていないのは、
量子物理学でも繰り返されている疑問だしね。
俺思うに量子学っていうのは本質的に答えを設定しないところに
面白さがあると思うんだな。あれも一種の科学的のオカルトと言えるかもしれない
まあ俺も量子学については詳しいことは知らんのだが。
空間、無・・・「無空間」と名づけようかな(´−`)y━・。oO
>>799 気がするだけさ。
ではー
>>807 >>805の電気信号云々、ってのは何となく言ってみただけです。
実際は電気信号もモノであるし、量子にも質量があるので
私の答えは答えになっていません。
でも、概念というものも言語論的転回によって観念でしかないと考えると、
「無」というのは「情報である」というように帰結されるのかもしれません。
解り易く言うと
「無は実在せず、無という情報だけが在る」ってことですが、
これは哲学の初歩の初歩みたいな答えですからねぇ・・・・
正直、自分で言ってて混乱してきましたよ
810 :
考える名無しさん:03/10/23 01:35
「俺、レンコン嫌いなんだよね」
「そう?あたしは好きだけど」
「特に穴があるところがイヤだな」
「じゃあ穴だけ残せば?」
811 :
物理関係者:03/10/23 01:49
量子学って何じゃ?
812 :
考える名無しさん:03/10/23 12:04
>810
ぎゃふん
813 :
考える名無しさん:03/10/23 20:26
最新の物理学者の見解は?
814 :
考える名無しさん:03/10/23 20:31
無は限界である。
二十世紀
それは、梨 !
ここはさげてほしいな
たいせつだな
無はあるのか?
無は状態としてはあるが、存在としては無い。
無について、無が無という存在であるという側面から考えると「ある」と言えると思う。
無について、無の性質という側面から考えると、無は「ない」と言えると思う。
「無はあるのか?」とう問いに対して、返答しようとするならば、条件をつけた場合
分けが必要のように感じる。
それと「無はあるのか?」という問いについて、どういう感覚からこのような疑問
に陥っているのか、その過程を記していただければ、もう少し的を得た返答ができる
かもしれない。できないかもしれないが・・。
819 :
考える名無しさん:03/10/24 01:26
どう考えても難しいやね
何も無いを証明するってのは、何も無い状態が存在する事を証明することだから
思考や認識が広がれば広がるほど難しくなる
大昔は目の前一切を否定する事でよかった
昔は空間すら否定する必要があった
最近は認識ごと否定する必要がある
3次元空間だけでも色々と問題がある
観測者が観測することによってそのものの状態が確定するという事は
観測しなければ状態は確率でしか語れない
無が有る事も無い事も確率でしか語れない?
はてさて、さらに高次元ではどうなるんだろうね
820 :
考える名無しさん:03/12/06 00:11
過去ログ逝き阻止
821 :
考える名無しさん:03/12/06 00:16
そもそも存在するとはどういうことか考えてみよ。
答えは、そこにしかない。
822 :
考える名無しさん:03/12/06 00:21
>>809 言語論的転回どころか、
それってカントの認識論的転回じゃないか?
とりあえず漏れに目鼻口をつけるのはやめろよな
824 :
考える名無しさん:03/12/28 07:03
仏教などで言うところの無ってのは、
有無の無ジャネーんだよな。
なんつうかな、混沌に近いな。
老子嫁。
無はある、無いがあるから
言葉の使い方がまだまだ勉強不足ですよね。このスレ自体
テスト
tst
829 :
考える名無しさん:04/02/13 01:30
おっとこのスレが無に帰すところだったぜ。age
830 :
考える名無しさん:04/03/17 14:59
無は無いから無であるが、
無という概念はある。
無いという概念があるから、
無という文字がある。
831 :
考える名無しさん:04/03/17 16:09
これは哲学じゃねえ、禅問答ってんだ
何もないところはないのです。
何かあるものがある限りそこにはなにかあるのです。
私が生きている限りこの世界に無は在りません。
834 :
考える名無しさん:04/03/17 19:30
835 :
☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆IDiumpIPqw :04/03/17 19:36
うんヽ(゚∀゚)ノ
836 :
考える名無しさん:04/04/11 21:19
206 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/04/06 20:31
>>204 数学的には楽だよ。算数しかでない感じ。
ただ文章は(((( ;゜Д゜)))ガクブル
529 :くろしろ@社会学白痴断見教教祖 :04/03/14 19:57
あ、あと
利潤率低下傾向の式で
M M/V
r=――― =――――――
C+V C/V+1
って式をよく見ますが、
要するにM/(C+V)をVで割っているわけですよね
なのになぜ左辺rはr/Vにならないんでしょう?
すいません。数学リア厨以下なんで。。。
ご説明できる方いれば一つ。
無=あの世は絶対的な濃密性である
見てきたのか?