分析哲学の定評ある教科書、飯田隆『言語哲学大全 第1巻』(けい草書房)を倦まず弛まずマターリと読みます。 1巻はフレーゲとラッセルの哲学がテーマなので、この二人のテキストを参照しつつ読むとグッドです。とりあえず最初はフレーゲなので、フレーゲ著作集のうち、 『概念記法 1巻』 『算術の基礎 2巻』 『算術の基本法則 3巻』 『哲学論集 4巻』 あたりを参照しつつ行きましょう。フレーゲの自著が日本語で読めるようになったというのはありがたいことです。ついでに論理学の入門書として 戸田山和久『論理学をつくる』 R.ジェフリー『形式論理学』 野矢茂樹『論理学』 なんかも持ってるとなおしわわせです。僕がこの3冊しか持ってないだけなんですが。
論理学DEすって! 東大出版から出てる記号論理学しか持ってねぇけど、なんか意味わかんなかった。 論理学って勉強してると、さびしい気持ちになりません?なんていうかー、んー ロンリー?うん。わかるよね? なんて、毒にもヤクにもならないこと書いちゃったけど、 スレッドっていうのはさ、初期の頃はつまらない書き込みが連続して 濁ったお茶が澄み渡る暇さえないくらいなんだけど、根気強く続けてるうちに まともな人が来るから頑張ってね!チャオ!
これは応援どうも。気長にやるつもりです。
4 :
第1章 フレーゲと量化理論 :03/03/04 23:57
さて、何はともあれ現代論理学の扉を開いたG.フレーゲ(1848-1925)です。 フレーゲと言えば述語論理(predicate logic)、述語論理と言えば命題関数(propositional function)と量化理論(quantification theory)というわけで、まずは量化理論の解説です。 論理学の講義受けると出てくる∀と∃というけったいな記号を使う理論です。 ∀がAの逆さになった形ではなくモナーの口にしか見えない人はこの機会にきちんと理解しましょう。 でもいきなり量化理論の話をするのも唐突なので、ちょっとだけフレーゲ以前の歴史の話もあります。アリストテレス以来の伝統的論理学がずっと解決できていなかった一つ問題を挙げ、その解決という形で量化理論を導入するわけです。 その解決できていなかった問題は、今で言う「多重量化(multiple quantification)」、一つの文の中に量化子が二つ以上現れてしまう場合に生じる問題だったわけです。
5 :
考える名無しさん :03/03/05 00:44
期待してるよ。1さん。
6 :
1.1 ひとつの問題 (1) :03/03/05 01:11
伝統的論理学にとって悩みの種であった多重量化の問題は、単純な例を使って導入できます。つぎの二つの文を考えます。 (1)誰もが、誰かをねたんでいる。 (2)誰かが、誰もからねたまれている。 この二つの文は、(1)が能動態で(2)が受動態であるという表現上の違いがあるだけのように見えます。つまり、(1)と(2)の関係は、次の二つの文の関係と等しいような気がする。 (3)太郎が、花子をねたんでいる。 (4)花子が、太郎からねたまれている。 (3)と(4)は、まさに能動態か受動態かの見た目の違いがあるだけで、その意味する内容は一致します。(3)が真なら(4)も真だし、(4)が真なら(3)も真です。 ところが、(1)と(2)については、(3)と(4)の間で成り立つこの推論が適用できない。 その簡単な例として、登場人物を太郎、次郎、花子に限ります。太郎が花子をねたみ、次郎は太郎をねたみ、花子は次郎をねたんでいるとすると、(1)は真になります。 ですが、≪3人が共通にねたんでいる「誰か」はいないのだから、(2)は偽である≫(p.19)。 こういう簡単な例なら間違いにはすぐ気付くのですが、実は同じ構造を持った推論の誤りが哲学史上珍しくなく、しかも発見が簡単ではありません。 飯田先生はアリストテレスやバークリーから3つの具体例を挙げていますが、さすがに全部並べるとくどいので省略します。 結論としては、≪(「誰も」、「誰か」、「何も」、「何か」)などの表現が一役買っている推論の妥当性を判定するような理論≫(p.22)が必要とされる、ということです。しかしその理論の出現は、19世紀後半まで待たなくてはならなかったのです。
7 :
メモ:論証の妥当性 :03/03/05 01:24
ところで、p.22でいきなり「推論の妥当性」という言葉が断りなしに出てきますが、一応この「妥当性」の定義を紹介しておきたいと思います。 まずそこで「反例」という用語の定義をします。 【定義】 論証の前提がすべて真になるが、結論は偽になるような場合をその論証の反例(counterexample)と呼ぶ。 先の「太郎、次郎、花子」の例で言うと、前提である(1)が真なのに、結論たる(2)が偽になるので、このケースが反例となります。反例が一つでもあればその論証は妥当とはいえません。妥当な論証とは「反例が一つも存在しない論証」のことです。 【定義】 A1,A2,・・・・・・AnからCを導く論証が妥当であるとは、A1,A2,・・・・・・を同時に真とし、Cを偽とするようなもの(つまり反例)が存在しないことである。 (A1,A2・・・やCは命題と思ってください) 参考:『論理学をつくる』p.62
続きはまた明日にいたします。 あ、忘れてました。参加者の方募集です。要約引き受けていただける方でも、コメンテータの方でも。 ∧∧ ヽ(=゚ω゚)ノ (∩x ) U
続けます。
10 :
1.1 ひとつの問題 (2) :03/03/05 20:33
さて、(1)や(2)のような文を扱う推論のための理論として、一つ、自然で単純な道があります。それは、中世の論理学者が考え、20世紀初頭にラッセルも思いついた理論でした。結局このやり方はうまくいかないのですが、量化理論にたどり着くまでの道は長いのです。 で、その理論を一言で言うと、「なんとか命題論理だけで解決するために「誰も」「誰か」が指す範囲を有限に限定しよう」理論です。 飯田先生は命題論理という言葉は出さないのですが(若干不親切な気もします)、でも命題論理の知識が前提になります。 ≪先にも述べたように、「誰も」や「誰か」といった句が用いられるとき、そのコンテキストによって、これらの句の指すものの範囲は決まっている。そうしたもの全部に名前がついていると仮定しよう。≫(p.23) この仮定を使うと、(1)・(2)を命題論理の論理式の形に変形できるのです。具体的にやってみましょう。 仮定:(1)・(2)での登場人物は「太郎」、「次郎」、「花子」の3人に限定される。 「誰も」は、問題となる範囲の人物全てを指し、「誰か」は問題となる人物のいずれかを指すので、「誰も」を「太郎 and 次郎 and 花子」で、「誰か」を「太郎 or 次郎 or 花子」で置き換えることができる。従って(1)と(2)はそれぞれ次のようになります。 (5)(太郎 and 次郎 and 花子)が、(太郎 or 次郎 or 花子)をねたんでいる。 (6)(太郎 or 次郎 or 花子)が、(太郎 and 次郎 and 花子)からねたまれている。 まだこれだけじゃあまり進展していません。でも次のステップを見れば、「おっ」と思うのではないでしょうか。僕はちょっと「おっ」と思いました。見慣れた命題論理の論理式に変形されるからです。
11 :
1.1 ひとつの問題 (3) :03/03/05 20:35
ここで次の二つの規則を導入します。 (A)「名前 and 名前」を含む文は、「and」で結び付けられている名前の各々が個別に現れる文から成る連言に書き換えられる。 (B)「名前 or 名前」を含む文は、「or」で結び付けられている名前の各々が個別に現れる文から成る選言に書き換えられる。 この二つの規則を(5)に適用すると、 (7)(太郎が、太郎 or 次郎 or 花子をねたんでいる)and (次郎が、太郎 or 次郎 or 花子をねたんでいる)and (花子が、太郎 or 次郎 or 花子をねたんでいる) が得られ、次に規則(B)を(7)の連原肢に適用すると、 (8)((太郎が、太郎をねたんでいる)or(太郎が、次郎をねたんでいる)または(太郎が、花子をねたんでいる))and ((次郎が、太郎をねたんでいる)or(次郎が、次郎をねたんでいる)または(次郎が、花子をねたんでいる))and ((花子が、太郎をねたんでいる)or(花子が、次郎をねたんでいる)または(花子が、花子をねたんでいる)) が得られます。同様にして、規則(B)・(A)の順番に(6)に適用すると、 (9)((太郎が、太郎からねたまれている)and(太郎が、次郎からねたまれている)and(太郎が、花子からねたまれている))or ((次郎が、太郎からねたまれている)and(次郎が、次郎からねたまれている)and(次郎が、花子からねたまれている))or ((花子が、太郎からねたまれている)and(花子が、次郎からねたまれている)and(花子が、花子からねたまれている)) が得られます。
12 :
1.1 ひとつの問題 (4) :03/03/05 20:40
(8)・(9)まで式変形すれば、中世の論理学者が、ラッセルが何をやりたかったのか、その狙いは一目瞭然です。なぜなら、この二つの文は、(3)や(4)のような原子式を連言と選言によって組み合わせて作った命題論理の正当な論理式(wff)だからです。 とういことは、(8)と(9)は、その真理値表を見比べることによって、論理的に同値であるか否かを決定できる、ということになります。この「二つの命題が同値かどうかを調べる」ことをやりたかったのです。 ≪もとの(1)と(2)ではなくて、(8)と(9)を比較することの一番の利点は、後者が、(3)あるいは(4)といった形の文 [=原子式] から連言と選言によって作られていることであり、(3)と(4)は論理的にはまったく同値であると考えてよいことである。 たとえば、(9)に現れている受動形の文は、すべて、(8)の要素である能動形の文に書き換えても論理的には何ら異なることはない。 そのうえで、(8)と(9)を比較するならば、(8)と(9)が論理的に同値ではなく、(9)が(8)から帰結しないことは、連言と選言を支配する論理法則だけから[つまり、命題論理の範囲で]知ることができる。≫(p.26) ([ ]内は僕の註)
13 :
1.1 ひとつの問題 (5) :03/03/05 20:42
なかなか見事な方法です。もしこれで解決できるなら量化理論の出てくる必要もありません。しかしそうは問屋が卸さない。この理論には二つの根本的欠陥があります。 欠陥1:問題となる範囲の対象が無限個あったらダメ 欠陥2:規則(A)・(B)の適用の順序によって同じ論理式には変形できない文がある 特に欠陥2は重大です。たとえば「その一味の誰もが、誰かから金を受け取っていた」(*)という文は、規則を(A)→(B)の順番で使うか(B)→(A)の順番で使うかによって違う論理式になってしまいます。 暇なときに書き出してみてください。(A)を先に適用すると、「一味の全員が、各々、必ずしも同一人物とはかぎらない誰か(複数人でもいい)から金を受け取っていた」という論理式が得られます。 他方、(B)を先に適用すると、「一味の全員が誰か一人の人物から金を受け取っていた」という論理式が得られます。こいつはいけません。 ≪すなわち、この理論が、言語的現象を説明するための理論として決定的に不十分であるのは、それが、(*)におけるような多義性がどのようにして生ずるのかを説明しないという点にある。≫(p.27) ようやく1.1が終わりました。先は長い。
14 :
メモ:命題論理 :03/03/05 20:54
先のラッセルのアイデアの解説では、名前こそ出てきませんが命題論理の知識が前提になっているのは明らかです。「同値である」、「連言」、「選言」などの用語も断りなしに使われます。 あるいは「この本読むならせめて命題論理ぐらい知っていて」というメッセージかもしれません。 明日は「1.2 文の論理形式」です。お待たせしました。量化理論(と命題関数)の導入です。
15 :
考える名無しさん :03/03/05 21:10
頑張ってくれたまへ。 原著のように十年以上かけて(長いブランクがなければ、そんなにはかか らんけど)四巻まで読み通すことをきぼんぬ。
↑同じく。楽しみにしています。
17 :
考える名無しさん :03/03/05 22:15
稲はどうした?
>>15 参加していただけるともっと早く終ると思います。
19 :
考える名無しさん :03/03/06 18:41
1巻目次を
言語哲学大全T 論理と言語 目次 まえがき 序論 ヴィジョンと論証/分析的道具の役割/哲学における進歩/ 哲学とその過去/「第一哲学」としての言語哲学 第1章 フレーゲと量化理論 1、1 ひとつの問題 1、2 文の論理形式 1、3 フレーゲは言語哲学者か? 1、3、1 思想Gedankeと論理的記号法 1、3、2 言語と哲学 1、3、3 フレーゲの位置
第2章 2、1 意味と像 2、2 文脈原理と合成原理 2、3 意義SinnとイミBedeutung 2、3、1 区別の導入 2、3、2 イミBedeutungと実在 2、3、3 イミBedeutungから意義Sinnへ 2、3、4 意義SinnからイミBedeutungへ 2、4 陰影と力 2、5 フレーゲ的意味論の構造 第3章 3、1 前史:『数学の原理』の意味論 3、2 革命:「表示について」(1905) 3、2、1 「表示について」における表示の理論 3、2、2 文脈的定義:論理的に完全な言語への翻訳としての 3、2、3 存在論的帰結 3、2、4 ラッセル対フレーゲ 3、3 余波:論理的固有名を求めて 3、4 残響:単称命題の意味論 文献案内 索引
これは気が利かずすいません。 目次をUPしていただいた方、ありがとうございます。
23 :
1.2 文の論理形式 導入 :03/03/06 21:21
1.1で、多重量化を含む文が伝統的論理学や命題論理では扱えないことを確認しました。多重量化文を命題論理の論理式に翻訳するというラッセルのアイデアも、決定的解決にはなりませんでした。 彼らの理論は、多義的な文の異なる読みを導くことはできるが、≪なぜそうしたパラフレーズを許すのかは、まったく説明されないまま≫(p.27)だからです。 言い換えれば、これらの理論には命題の内部構造を分析する方法が欠けているのです。 こうした論理学の沈滞ムードの中、フレーゲが述語論理をひっさげて登場します。1879年、『概念記法』が世に出ます。命題を外から眺めていて埒があかないなら、その構造を分析してみよう、というわけです。 ≪中世の論理学者達に、そして1900年前後のラッセルに欠けており、フレーゲには確実に備わっていたと思われる(ただし、ある留保のもとで)本質的な洞察がある。 それは、文がそれを構成する語の一次元的な並びではなく、一連の段階を経て構成されるものであるという洞察である。≫(p.28) 1.2では、(フレーゲが同じ思考の経路を辿ったかは分かりませんが)文を実際に語の並びから形成していく過程を追い、量化理論を誕生させます。
24 :
1.2 文の論理形式 (1) :03/03/06 21:24
文の内部構造を分析する第一歩は、文を「述語(predicate)」と「変項(variable)」に分解することです。このカテゴライズの仕方は、唯一の文の分解方法というわけでは、当然ありません。 他の方法の分解の仕方もあるでしょう。その意味でこの分解規則は恣意的です。 ただ、こういうふうに文の構成要素を定めると、うまいぐあいに多重量化の文を推論の中で扱えるので便利です。 述語論理の大きな特徴の一つは、まずもって「道具としての便利さ」にあると思います。この便利さがあったから、論理学の一分野にとどまらず数学や計算機科学など幅広い分野に応用されたのでしょう。 さて、1.1の例文のうち、(1)と(3)は「―が・・・をねたんでいる」という形式を、(2)と(4)は「・・・が―からねたまれている」という形式を共通にもちます。 これらの形式の空所を名前で埋めると文ができます。ここで述語を定義しておきます。 【定義】 述語とは、いくつかの空所を持つ以外は文と同じであり、それらの空所を名前で埋めれば文となる形式である。 ところで普通の名前で埋める限り、「―が・・・をねたんでいる」と「・・・が―からねたまれている」は論理的に同値な命題を作ります。 そこでこの二つの述語を同じ述語とみなして「F(―, ・・・)」と表記します。だんだん数学の関数の表記に近づいてきました。 すると、(3)と(4)はともに F(太郎, 花子) と表記できます。ところが、(1)・(2)まで F(誰も, 誰か) という同一の表記で表せてしまうのは困りものです。 (1)と(2)は同値な命題ではないからです。同値でないのに表記は同じ――問題発生です。
25 :
1.2 文の論理形式 (2) :03/03/06 21:25
さあどうするか。選択肢は二つです。 選択肢1:ちゃぶ台返し そもそも述語と変項に文を分解するやり方がまずかったんじゃないか? 選択肢2:アドホック修正 いや何とか述語の定義は変えずに部分的修正で対応したい。 選択肢1を採ると、述語論理を捨てて別の論理体系による解決へ向かうことになるので、このスレが終了してしまいます。従ってこの選択肢は不可です。 では満場一致で選択肢2。 ≪なすべきことは、「誰も」や「誰か」を名前と類比的に扱うことをきっぱりと断念することではないか。≫(p.30) (1)と(2)を次のように書き換えてみます。 (c)どの人についても、F(そのひと, 誰か) (d)ある人について、F(誰も, そのひと) つまり、「誰も」や「誰か」を述語の入力項とは認めず、"外出し"するのです。この表記の利点は、命題の真理条件が分かりやすいことです。
26 :
1.2 文の論理形式 (3) :03/03/06 21:27
(c)と(d)に、さらに変項も導入します(変項は数学の変数に相当しますが、数以外も代入されるので変数ではなく変"項"と呼びます)。 (e)どの人xについても、F(x, 誰か) (f)ある人yについて、F(誰も, y) だんだん完成に近づいてきました。(e)と(f)には、まだひとつづつ、「誰か」と「誰も」が残っていますが、心配無用です。ちゃんと消去できます。 「F(x, 誰か)」と「F(誰も, y)」は、それぞれ次のように書き換えられるからです。 (g)ある人yについて、F(x, y) (h)どの人xについても、F(x, y) (g)と(h)をそれぞれ(e)・(f)に埋め込めば、完成です。 (i)どの人xについても、ある人yについて、F(x, y) (j)ある人yについて、どの人xについても、F(x, y) (1)を(i)に、(2)を(j)に変形してみれば、両者が真となる場合は同じでないことはひと目で分かります。 ≪いったん(1)と(2)を、それぞれ、(i)・(j)といったかたちに書き直してみると、(1)と(2)の相違は、量化子の適用の順序の相違であることがはっきりする。 「適用の順序」という考えは、文が、表面的には語をつなげて作られると見えようとも、実は、段階的に形成されるのだという考えを前提する。文は、形成史を持つのである。≫(p.33)
1.2章は、もうちょっとで終わりですが、今日の要約はここまでです。 というのも、タイトルにもなっている「論理形式」という言葉についてまとめる時間が欲しいためです。 「論理的ポテンシャル」とも言い換えられるこの言葉を、理解しかねています。 どうも論理形式という言葉を聞くとあの ≪およそ像が現実を――正しくであれ誤まってであれ――写像しうるために、いかなる形式のものであれ、いずれの像も現実と共有せねばならないものが、論理形式である、即ち、現実の形式である≫(2・18) という一節が連想されてしまうんですが、関係あるのかないのか・・・・まだ判断つきません。
タイムリーな論文を見つけたのでご紹介します。
「述語とは何か」山田 健二 京都大学哲学研究室哲学論叢 25 (1998)
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phil/ronso/25/yamada.html ラッセルの方に議論の重点が置かれていますが、フレーゲの「述語」の概念を理解するうえでも有用な文が含まれています。いくつか引用すると、
「述語は二つの側面をもつ。一つは、主語に帰属されるべき性質を指し示すこと、もう一つは、主語を受け取って、その主語についての一つの言明(または命題)を形成することである。」
「フレーゲは、命題を形成するという側面を強調するかのように、述語を不完全者と理解した。そのいうところは、述語とは、主語として生じる別の対象によって「充填」されるのでなければ命題にあらわれることができないようなものだということである。」
「フレーゲによれば、述語とは何かに述語付けされてのみあらわれることができるのである」
こう考えると、ラッセルの用語である「命題関数」とフレーゲの「述語」を同じとみなすのは早計のようです。
29 :
考える名無しさん :03/03/07 06:20
今本が手元にないから手伝えないが、応援している がんばってくれ
>>28 なんかパッとしない論文だな.ラッセルとフレーゲの見解がごちゃ混ぜになっている.
下から3段落目
>「「人間である」が指示するもの」は、「人間である」と同様の(フレーゲ的)「不完全性」
>をもつであろう。つまり、「「人間である」が指示するもの」も実は個体によって充足され
>るべき述語であり、正確には「( )は「人間である」が指示するものである」と書かれる
>べきである。
書くんであれば,「( )は『人間である』が指示するもの」ではなくて「『( )は人間である』が
指示するもの」でなければいけない.この問題にフレーゲはどう答えたか.フレーゲは
「『( )は人間である』が指示するもの」は概念ではなく,「( )が概念『xは人間である』に帰
属することの真理値」と答えた.じゃあ概念はどうなるのかというと,今の考え方を敷衍すれ
ば,概念は「対象から真理値への関数」なんだから,「命題を形成する能力」なんてものは
関係なくて,むしろ
ある発話者がある命題を正しく判断できるという能力を通して,その発話者がそこで問題と
なっている概念を理解しているということが示される
とでも言うんだろうな.そもそも多重量化理論を含めて論理学を展開する上でフレーゲはい
わゆる普遍論争ときっぱり手を切ったんだから,普遍をどう認識するのかという問題の定立
そのものがおかしい.
>>27 『論考』の「論理形式」と結び付けないほうがいいと思うね. まったく関係がないという言うつもりはないけど,
いまの議論は多重量化を展開するために論理式がどのようにして形成されねばならないか,またその形成が
どういったものであると理解されねばならないかということが焦点だからね.多重量化を理解するために,そも
そも像理論は関係ないし,多重量化文が現実の形式でもあるかどうかという問題に答えなきゃいけないわけで
もない.だからここで問題となっている論理形式を『論考』の論理形式と関連づける必要はないと思うよ.
>>30 >フレーゲは「『( )は人間である』が指示するもの」は概念ではなく,
>「( )が概念『xは人間である』に帰属することの真理値」と答えた.
文のBedeutungの定義ですね。この辺の話は第2章「意味と意義」の範囲ですから、楽しみはそっちに回しませんか?自分で論文引っ張ってきておいて難ですが。
>>31 そうですね。僕も、根拠はありません
つい連想されてしまった、というただの出来心です。流しましょう。
『論考』に話をずらすと帰ってこれない危険が高いので、先に進みたく思います。いいでしょうか?
>>稲さん
とりあえず1.2章を終らしてしまいましょう。後は特に問題となる箇所はないですから。
34 :
1.2 文の論理形式 (4) :03/03/07 21:44
後は量化子の記号を導入するだけです。 「全てのxについて〜」 ∀x (普遍量化子、または全称量化子(universal quantifier) 「〜ようなxが存在する」 ∃x (存在量化子(existential universal)) ヘンテコな形をした記号だな、と思うかもしれませんが、全称量化子はローマ字の「A」を上下逆にした形、存在量化子は「E」を左右逆にした形です。 「全てのxについて〜」を英語でいうと「for All x, 〜」、「〜ようなxが存在する」は「there Exists x that 〜」と書くのでこういう記号が採用されたのでしょう。 そうすると、(1)・(2)の最終形態はこうです。 (k)∀x∃y F(x, y) (l)∃y∀x F(x, y) こう書いてみれば、(1)と(2)の相違は、量化子のスコープの範囲であることがはっきりします。 (k)[=(1)]では存在量化子が全称量化子に支配されているのに対し、(l)[=(2)]では逆に全称量化子が存在量化子に支配されています。
35 :
1.2 文の論理形式 (5) :03/03/07 21:46
こうして、1000年以上のながきにわたって哲学において混乱の源泉であった多重量化の問題が解決されました。それを解決したのが、『概念記法』で提唱された量化理論だったのです。 では先生から締めのお言葉を。 ≪結局のところ、われわれが考察してきたのは、多重量化の現象を満足な仕方で取り扱うことのできる理論はどのようなものとなるかという問題である。 ・・・・・・量化子と変項という分析的装置の使用が、多重量化の問題を初めて解決することを可能としたのである。 こうした分析的装置を用いる理論は、「量化理論quantification theory」と呼ばれるが、これこそ、現代の論理学をそれ以前の論理学から区別するもっとも重要な洞察を含む理論なのである。≫(p.35)
さて、なんとか量化理論の誕生までこぎつけました。 次の1.3「フレーゲは言語哲学者か?」では、テクニカルな話は一旦おいて、フレーゲ自身の思想および哲学にとっての言語分析の重要性がテーマとなります。 予告: 1.3 フレーゲは言語哲学者か? 1.3.1 思想Gedankeと論理的記号法 1.3.2 言語と哲学 1.3.3 フレーゲの位置
37 :
考える名無しさん :03/03/07 22:30
38 :
考える名無しさん :03/03/07 22:40
39 :
メモ:量化理論の必然性 :03/03/07 23:32
1.3に入る前に、量化理論の必然性について思った疑問を書いてみます。皆さんはどう考えるか、聞いてみたいです。 量化理論を導入すると、確かに、多重量化文の問題を解決できることは、今までに見た通りです。 ですが、多重量化文を解決する理論は、量化理論だけなのでしょうか?そうではない理論(具体的には思いつかないけど)によって解決できる可能性は否定できないのではないでしょうか。その意味で、量化理論は必然的ではないと思ったのです。 フレーゲが量化理論を思いついたことは、優れた発想だったと僕も思います。 ですがそのことは、多重量化文を扱える理論が量化理論「だけ」であることの証明がなされたことと同じではありません。 だから、量化理論を通して見ると、文が形成史を持つように見えたとしても、ひょっとすると、他の理論を通してみると、そのような見え方はしないかもしれません。
ふ〜む。俺この本もってないんです。明日買って来ます。
41 :
考える名無しさん :03/03/08 04:08
>>39 答えになるかどうか分からないがコメント。
一般量化子理論(generalized quantifier theory)からみると
一階の量化理論とはまた違う‘量化’の意味がでてくる。つまり
後者では(Tarski流の意味論を想定するとして)束縛変項への
値割り当てとして量化の意味論を定義するが、前者では
集合間の関係として量化の意味論を構築する。
ところで一般量化子理論は(少なくとも)二階(あるいは更に
高階)の論理なのだが、一階の量化理論をほぼ完成させたと
いわれているフレーゲ自身は量化子を述語の述語と定義して
いる点に注目。つまり一般量化子理論がでてくる5、60年も
前に既にフレーゲの頭の中では量化子とは(後に発展する)
モデル理論的に高階の対象であるということを見抜いていた、
ともいえるわけ。
ということであなたの疑問に関する解答としては、
1フレーゲが定めたといわれる量化理論以外にも多重量化
問題を回避する理論はある。つまり一般量化子理論。
2しかしその一般量化子理論のアイデア自体は既にフレーゲの
着想の中にあったとも言える。
>>40 ぜひそうしてください。この本を読む人口が増えるのは良いことです。
>>41 >1フレーゲが定めたといわれる量化理論以外にも多重量化
>問題を回避する理論はある。つまり一般量化子理論。
なるほど。一般量化子理論の存在は知りませんでした。ありがとうございます。
高階述語論理は、1.4「ArgmentとFunction」の内容の一つですね。そこでまたコメントをいただけると嬉しいです。
1.3.1「フレーゲは言語哲学者か?」の要約は明日の夜アップの予定です。
です。 > 1、3 フレーゲは言語哲学者か? > 1、3、1 思想Gedankeと論理的記号法 > 1、3、2 言語と哲学 > 1、3、3 フレーゲの位置 これらの後に、 1、4 ArgmentとFunction 1、5 文法的カテゴリー というのがありましたが抜けていました。 ちなみにこの二つの節には「*」印が付いていて、 その意味はまえがきによれば 「最初に読むときには飛ばして結構」だそうです。 以上、訂正・補足でした。
45 :
1.3 フレーゲは言語哲学者か? :03/03/09 21:56
フレーゲは間違いなく現代論理学の創始者です。1879年は現代論理学の誕生の年です。 ですが、フレーゲは分析哲学の創始者に位置付けられるかというと、それは無理。 ≪フレーゲを分析哲学の起点に置きたいという誘惑は実に強いものである。しかし、かれの関心事が言語にあるということは妥当だろうか。≫(p.45) 「妥当じゃない」という答えがこの章での飯田先生の結論です。どうやらフレーゲ研究の大御所ダメットの「フレーゲは分析哲学の元祖だ」という主張に対する反論の意味があるようです。 なぜ妥当ではないかというと、フレーゲが本当に関心を持っていたのは言語ではなく、言語によって表現される「思想(Gedanke)」だから、というのが理由です。 フレーゲが言う「思想」が何か、という問題はけっこう難しいと思うんですが、とにかくそういうことです。 それでは、フレーゲの関心と分析哲学の関心にどういうズレがあるか、具体的に見ていきます。 まず1.3.1でフレーゲ、1.3.2で分析哲学に、それぞれ焦点を当て、1.3.1で両者の比較をして結論、という構成になります。
46 :
1.3 フレーゲは言語哲学者か? :03/03/09 21:56
フレーゲが『概念記法』を書いた直接の理由は、≪算術の命題が純粋に論理的な手段で証明できるかどうかという問題を解決するため≫(p.37)でした。論理主義の立場の表明とも言えます。 ですが、フレーゲの根本的な動機は「言語への不満」でした。 思想(フレーゲにとっては非常に重要なもの)は言語を通してしか人間には感覚できないのに、通常の言語は思想の表現手段としては貧弱すぎる、という不満です。 それゆえ、思想を純粋な形で表現するための言語が必要になる、というわけです。 ただし、飯田先生はここで注意するのですが、この不満は近代の観念論者(例:ベルグソン)が表明するような「思考の表現手段としての言語への不満」とは違います。 フレーゲの思想 Gedanke は、観念論における観念と同じではないからです。 観念は≪誰かの心に浮かぶとか、誰かによって把握されているとかいった意味で、必ず、誰かによって所有されている≫(p.41)必要があります。 フレーゲのGedankeは、誰かの持ち物ではありません。「考えられたもの」という語感が紛らわしいですが、極端な話、人間がいなくてもGedankeは存在しえます。 その意味で、カントの「物自体」に近いと思います。 このように、観念論と手を切ったという点で、フレーゲは分析哲学への道を用意しました(「言語への転回」)。しかし、主な関心が言語ではなく思想にあったという点で、分析哲学とも袂を分かつわけです。
47 :
1.3.2 言語と哲学 :03/03/09 21:57
この章の要点は、「分析哲学は観念論の行き詰まり(アポリア)を回避するために生まれた」ということです。 飯田先生によれば、近代哲学と現代の分析哲学の違いは、目的ではなく手段にあります。どちらも目的は同じです。つまり≪概念の明瞭化≫(p.40)です。 両者の手段の違いは以下の通りです。 近代哲学: 個々人の心の内省による観念(idee, idea, Vorstellung)の明晰化 分析哲学: 言語表現の規則の解明 なんで分析哲学が、近代哲学の方法を放棄して、言語分析に走ったかと言うと、ぶっちゃけ、近代哲学が行き詰まったからです。 観念の正確さを証明するには、観念と何かの比較が必要になりますが、何と比較すればある観念が正確であることを保証できるか、近代哲学は答えられないのです。 具体例として、3つ挙げられています。 1.実在の物との比較 → 外界の存在をどう証明するのか 2.他人の観念との比較 → 他人の心の存在をどう導くのか 3.過去の自分の観念との比較 → 記憶が正しいことをどう証明するのか 観念論の内部に留まる限り、八方ふさがりです。そこで分析哲学は、観念論を捨てました。 ≪分析哲学の基調は、概念の解明がその言語的表現の解明ということを抜きにしては考えられないという立場を取ることによって、 こうした「観念の道 Way of Ideas」からきっぱり訣別することにある。≫(p.45)
48 :
1.3.3 フレーゲの位置 :03/03/09 23:16
前の二つの章で、フレーゲと分析哲学の基本スタンスを見ました。この章では、両者の"微妙な関係"が解説されます。 飯田先生がフレーゲを分析哲学の祖とみなしたがらない理由は、唯一つ。フレーゲが思想に重点を置いているという事実です。 フレーゲの言う思想 Gedanke について、正直僕はよく理解していません。とりあえず思想は、以下のような特徴をもちます。 (1)認識者とは独立に存在する。つまり客観的存在。 (2)他人に伝えることができる(伝達可能)。 まず(1)について。 思想の典型として挙げられている例はピタゴラスの定理のような、数学の命題です。 するとですよ。これはフレーゲが数学的プラトニズムの立場だった、ということを意味すると思うのです。 数の世界とか幾何の世界が人間の数学の営みとは別にあって、そこでは既に全ての定理が決定されている、というわけです。 話は数学に限りません。≪「思想」がいかなる認識者からも独立に存在しうると認めることは、そうした思想が、われわれの所有する言語的表現を超えて存在する可能性を認めることである。≫(p.47) この考えこそが、分析哲学の基調から外れるポイントです。 一方(2)において、≪フレーゲは、分析哲学の基調をなすテーゼを準備した≫(p.47)ことになります。なぜなら、思想の伝達は言語以外の手段によっては行なえないのだから、 思想の解明は、≪その言語的表現の解明によってなされざるをえない≫(p.47)からです。
49 :
メモ:分析哲学にアポリアはあるか? :03/03/09 23:23
本章で、近代哲学の行き詰まりを回避するために分析哲学が生まれた、という話が出ました。 「押してダメなら引いてみな」というわけです。 ですが、分析哲学もまた、アポリアへ突き当たる可能性も、ないわけではないでしょう。 もし「分析哲学にアポリアはない」ことが証明されでもしたら、哲学の世界は分析一色に塗りつぶされることでしょう。 ひょっとするといつか、分析哲学のアポリアを回避するために、「分析の道」と訣別し、第三の道へスイッチするべき日が来るかもしれません。
50 :
考える名無しさん :03/03/10 00:06
僕も『言語哲学大全』を読んで挫折したんだよなぁ。 1さん、がんばってください。
51 :
考える名無しさん :03/03/11 10:45
久しぶりに来てみたら、 なんか、スギモトっぽい板だなあ。
53 :
メモ:心理主義 :03/03/11 20:38
飯田先生が言う「観念論」は、フレーゲの用語では「心理主義」です。 フレーゲの時代の哲学・論理学の支配的風潮だった心理主義は、GGAの中で批判されます。 余談ですが、この心理主義批判は後に後期Wに引き継がれて有名になった議論ですね。 ≪「心理学的思考法則」は、結局個々人が「真とみなすこと(判断)」に還元され、ある時代ある文化圏のある集団に属する人々が平均的・一般的に従っている一定の「規則性」にすぎず、時と所、人々の心の変化とともに変化する。≫(GGA.T-T) 個々人が抱く観念は移ろいやすく不確かなものなので、そんな不確定要素を哲学・論理学・数学の基礎に置くことはまかりならん、とフレーゲはいかるわけです。 じゃあ何を哲学や論理学の基礎に置くかというと、論理法則です。でも、ここからが疑問なんですが、論理法則を正当化できる根拠をフレーゲは厳密に答えていない、と思います。 派生的な論理法則は、基本的で少数の論理法則(数学で言う公理)に還元することで正当化できる。でも公理の正当性(公理が真であることの根拠)は、論理学内部では証明不可能で、意味論に頼らねばならない、とフレーゲは言います。 要するに意味論に責任を転嫁した形です。本当に意味論による公理の正当化はうまくいくんでしょうか?これは第2章を読むときのポイントの一つに加えたいと思います。
(^^)
55 :
考える名無しさん :03/03/14 01:05
おい、1はどうした?楽しみにしてるんだが……。 たいへんなら手伝おうか?
手伝っていただけると嬉しいです。 1.4はとりあえず土曜日にはアップできると思います。 「存在する」が2階の述語であることをフレーゲが示している『算術の基礎』の箇所を読んでからアップの予定です。 飯田先生は「ここの議論省略」と言ってるので。
以前1.2を読んでいて分からなくて困った「論理形式」という概念について、ちょっと分かってきました。 というか、『論理学をつくる』のp.16にちゃんと説明があった。 この論理形式という概念の出自は、明らかに、文法形式の不十分さを補うという動機にあるはずです。 文S1とS2の文法形式が違うということは、つまり「見た目、字面」が違うということです。 記号列の見た目が違えば、その意味する内容(フレーゲなら「思想」と呼ぶかな)も必ず違う、というのなら、論理形式の概念が導入される必要はありません。 ところが僕達の日常言語を使う限り、そうはいかない。 S1:太郎は花子を憎んでいる。 S2:花子は太郎から憎まれている。 この二つの文は、文法形式(=字面)は違うのに、その意味は同じ、つまり論理的に同値です(文の意味はその真理値である、という前提条件があるにせよ)。 これは困るわけです。文法形式の違いは文の意味の違いを正しく反映していないのです。 そこで、論理形式が導入されるわけです。つまり、論理形式が異なる二つの文は、その意味も異なるし、意味の異なる二つの文は異なる論理形式をもつ、という仮定を置くわけです。 うむ。なぜ論理形式が必要とされるか、という問いに対する説得力のある説明です。
1.4「ArgumentとFunction」の目玉は、何と言っても二階、またはそれ以上の高階の述語論理への拡張です。 一言で言うと、述語をArgumentみなし、「述語の述語」を表現するのです。すると凄いことに、述語を量化できてしまいます。方法は、一階論理においてArgumentを量化したときと全く同じです。 何でフレーゲは述語をArgumentとしてみなす必要があったのか、その理由は僕には分かる気がします(憶測ですが)。 フレーゲが論理学に求める役割の一つに、数学をそこに還元する、ということがありました。いわゆる論理主義です。 数学においては「関数の関数」という表現は何の問題もなく許されます。だから、論理学だって「述語の述語」という表現は許されて然るべき、というかそれができないと数学を論理学に還元することはできなくなります。 だから、フレーゲにとっては、二階述語論理へ踏み出すことはごく自然であり必然的な拡張に思われたはずです。ところが、良く知られているように、これは自然な拡張などではありませんでした 1902年、ラッセルのパラドクスがフレーゲにショックを与え、ついでにカントールをふっ飛ばします。 一階にとどまれば無矛盾だが数学を還元できない、二階に上がれば数学を還元できるが矛盾。 悩ましい、としか言いようのない状況にフレーゲは嵌まり込んでしまいます。 ここで論理主義の立場を放棄できれば楽になるんでしょうが、「世間が通しても背中の全称量化子がとおさねえ」わけです。
59 :
考える名無しさん :03/03/14 21:42
ageage
文を分析する装置として導入されたArgumentとFunctionは、伝統的論理学における主語と述語という装置とは全く異なるものです。フレーゲはこの点を強調します。 その証拠にArgumentは別に主語でなくてもいいのです。 (12)花子は太郎をねたんでいる という文は、もちろん (α)花子 ――は太郎をねたんでいる というように、伝統的な主語・述語と同じ形式でArgumentとFunctionに分解できますが、同時に (β)太郎 花子は・・・をねたんでいる という分解の仕方もできます。この場合、文法的には目的語の位置にある太郎がArgumentになっています。さらに、 (γ)太郎 花子 ――は・・・をねたんでいる のように、二つのArgumentへ分解することさえできます。恐ろしく柔軟な装置と言わねばなりません。
しかしArgumentとFunctionの柔軟性はこれに留まりません。今まで見た例では、Argumentに置き換えられたのは単称名だけでした。ですが、いいでしょうか、ここからが本番です。 Functionもまた、Argumentで置き換えることができるのです。 (15)真っ白なカラスが存在する という文は、 (16)あるxについて、xは真っ白なカラスである。 と書き換えられます。「――は真っ白なカラスである」という述語を他の述語、たとえば「――は禁酒主義の哲学者である」に置き換えれば、 (17)禁酒主義の哲学者が存在する という文になります。この操作が示すことは、(15)と(17)がある共通の構造を持っているということです。その構造は (18)あるxについて、Φ(x) です。「Φ」が(一階の)述語によって置き換えられた変項で、残りの部分は(一階の)述語をArgumentとして取るFunctionです。このFunctionは、「存在する」という意味ですが、述語を引数にとっているので「二階の述語」と呼ばれます。 さて、(18)を良く眺めましょう。変項が「Φ」という記号である点を除けば、(18)は今までに見た存在量化子を使った文と同じ構造をしています。「Φ」もまた、量化の対象となるのです。
面白くなってきました。ですがいいところで続きは明日です。
すいません。まちがえました。レス
>>63 の(18)はまだ述語を量化する構造はもっていません。
>>27 、
>>57 「論理的ポテンシャル」とも言い換えられるこの言葉を、理解しかねています。
↓
以前1.2を読んでいて分からなくて困った「論理形式」という概念について、ちょっと分かってきました。
これについてコメントしようとおもったら、哲板が変になったので、気が削げた。
後日にカキコします。
>>58 細かい話にはなるけれど・・・.確かに二階の論理は一階の論理がもつ重要な性質を満たさなくなるけれど,
フレーゲでなくても「二階述語論理へ踏み出すことはごく自然であり必然的な拡張」だと思う.あと,「二階に
上がれば数学を還元できるが矛盾」するというのは正確じゃない.どうであれ,二階の論理でも算術を展開する
ためには算術に特有な公理を置かなきゃいけないし,そのこととラッセルのパラドックスとは直接的には関係な
い.
ほう。そうなのですか。修正ありがとうございます。 すると仮にラッセルのパラドクスがなかったとしても、二階述語論理に数学を還元することはできなかった、ということでしょうか。 >二階の論理でも算術を展開する >ためには算術に特有な公理 この「算術特有の公理」について知ることのできる本を教えていただけますか? 週末に読んでみたいです。 >フレーゲでなくても「二階述語論理へ踏み出すことはごく自然であり必然的な拡張」だと思う なぜそう思われますか?
67 :
フレーゲにも論理学にも無知A :03/03/20 10:00
>飯田先生がフレーゲを分析哲学の祖とみなしたがらない理由は、唯一つ。フレーゲが >思想に重点を置いているという事実です。 > フレーゲの言う思想 Gedanke について、正直僕はよく理解していません。とりあえず思想は、以下のような特徴をもちます。 > (1)認識者とは独立に存在する。つまり客観的存在。 > (2)他人に伝えることができる(伝達可能)。 > まず(1)について。 > 思想の典型として挙げられている例はピタゴラスの定理のような、数学の命題で >す。 > するとですよ。これはフレーゲが数学的プラトニズムの立場だった、ということ >を意味すると思うのです。数の世界とか幾何の世界が人間の数学の営みとは別にあ >って、そこでは既に全ての定理が決定されている、というわけです。 >話は数学に限りません。≪「思想」がいかなる認識者からも独立に存在しうると認 >めることは、そうした思想が、われわれの所有する言語的表現を超えて存在する可 >能性を認めることである。≫(p.47) > この考えこそが、分析哲学の基調から外れるポイントです。 『大全』における飯田氏が、フレーゲは分析哲学者ではない、と考えている理由は そのとおりでしょうが。しかし、フレーゲは分析哲学者ではないという主張を、飯田 氏解釈から離れて為す時、その主張の論拠は飯田氏のそれと同一でいいのでしょうか? 即ち、「思想」なる存在者が言語から独自に存在したって、分析哲学にとってはど うでもいい問題ではないのでしょうか?あくまで、「思想」なしには文がコミュニケ ーション手段となりえないにも拘らず、思想それじたいは文と文の発話者・解釈者か ら独立とされている点こそが、彼を分析哲学から分かつ点なのではないでしょうか? というのは、ドナルド・ディヴィドスンは分析哲学者に分類されて然るべきである と私は考えていますが、その彼は意味などという存在者を認めず、コミュニケーショ ンの成立を解釈一本槍ですましています。この立場からすれば、思想は言語の存立の 必要条件でないだけで、言語が存立している際に思想が対認識者独立的にプラトニス ティックなイデア的に存在が想定されても何の実害もないとおもうのですが。いかが でしょうか?
>>67 まず、Aさんの意見を僕が理解しているかどうか、まとめてみます。
確認していただけますか。
僕なりにAさんの意見を整理するとこうでしょうか。
・分析哲学者が興味を持つのは言語であって、認識者と独立に存在するイデア的存在ではない
・だから分析哲学者は、フレーゲの「思想」のようなイデア的存在に興味はない。そういうのはあってもなくてもどっちでもいい。
・だから、フレーゲが「思想」という存在を想定するのは、別に分析哲学の基本方針に反することではない
・むしろ、フレーゲと分析哲学が相反する点は、「『思想』が言語の存立条件として不可欠だ」という主張にある
・なぜなら分析哲学の基本命題は「イデア的存在は言語の存立条件ではない」だから。
あと、ディヴィドスンを名前しか知らないので、基本をお聞きしたいのですが、
ディヴィドスンの言う「解釈」は、解釈者を必要としますか?
もしそうなら、解釈は解釈者の持ち物ですから、解釈とは観念の一種であり、ディヴィドスンは観念論者と言えますね。
「分析流観念論派」といったとこでしょうか。それも「実在-観念」二元論ではなく、観念(解釈)一元論の立場、と考えてよろしいでしょうか。
69 :
考える名無しさん :03/03/21 01:47
>>67 デイヴィッドソンからは話はずれるが……。
フレーゲの「思想」って概念はけっこう問題含みだよね。論文「思想」を読んでも
フレーゲは明らかに首尾一貫していないし。
この論文中で、存在論として、フレーゲは三つの領域を用意している。
つまり、(1)外的世界の事物、(2)表象、(3)思想の三つ。
でも、たとえば、「表象」を外界の事物とは別の領域に分類するさい、フレーゲは
その理由として、「二人の人間が同じ表象をもつことができない」(S.352)って挙げ
ているが、そもそもこれは、「同じ」であることの基準がどこにもない以上、
ナンセンスであると考えられる。
他にも、フレーゲは他者に伝達できない思想の存在を認めており、それは、思想
の客観性に反する(S.350)。
だから、フレーゲが分析哲学者かどうかの判定基準に「思想」をもってくることは
あまり適切ではないと言えるし、そもそもそういう問い自体深く追究しても
袋小路にはまってしまうだけでそれほど実りはないとも思われる。
>>69 すいません、頁付けはKleine Schriftenによるものです。一応参考として。
日本語版著作集買わなきゃな……。
71 :
フレーゲにも『大全』にも無知Aさん :03/03/21 09:07
>>68 =67です。
こっちのHNが気にいったので以下これでいきます。
>ディヴィドスンの言う「解釈」は、解釈者を必要としますか?
ディヴィドスンが言う「解釈者」は,ある個人(先鋭化すればある解釈の瞬間にお
けるある個人)です.(解釈には解釈者が必要であると改めて明言された箇所があっ
たか否かについては記憶にありませんが,常識的に推察すればディヴィドスンの解釈
にとって解釈者は(それに解釈が帰属される限りの存在者として)必要でしょう.
>もしそうなら、解釈は解釈者の持ち物ですから、
直前に述べたようにまさにそのとおりです.
72 :
フレーゲにも『大全』にも無知Aさん :03/03/21 09:10
>解釈とは観念の一種であり、ディヴィドスンは観念論者と言えますね。 「解釈とは観念の一種」という事の妥当性には,(十分な証拠なしの,彼へ の私のイメージのみからは,かなり違和感を感じます.)解釈とは,人が言語 的コミュニケーションを相互に行い相い、それが継続している限りにおいて, 発言者の発言を聴取者が、(そしてまた発言者自身の発言を発言者自身が, 「理解している」あるいは「理解しようと努めている」(=コミュニケーショ ンがある程度円滑に進んでいる)限りにおいては少なくとも,発話者―談話の やり取り―聴取者関係におけるコミュニケーションの成功・失敗を説明するモ デルを作る時に発話者・聴取者に帰属せしめられる所のものです. (その存在的性格についてはほとんどディヴィドスンは言及していないように 思われます.推測するならば,例えば,観念でも心的表象でも「思考の言語」 でも、意識には顕れない心理的プロセスでも,脳状態でも,「この問題に限 って論じられるならば,可能性があるように想われます.) ※ この問題に限って論じられるならば、との注釈はディヴィドスン自身の主 要課題の一つは言語・思考と行為の関係なので、そこでは心と物の関係と存在 の仕方が重要です。その議論においては明確にとられている,非法則的一元論 が当該問題の「解釈」について如何なる発言をするのか,現在の私は頭ボケボ ケ&無知なのでコメントできないので逃げました. >「分析流観念論派」といったとこでしょうか。それも「実在-観念」二元論ではな >、観念(解釈)一元論の立場、と考えてよろしいでしょうか。 上記の理由から,現在のコメントは避けさせてください.
>>69 なるほど。「思想」という用語に一貫性がないのでは、この言葉を軸に議論をしても曖昧になりそうですね。
>>72 (Aさん)
つまり、ディヴィドスンが「解釈」という言葉を持ち出したのは、「観念論-分析」という問題系の中ではなく、意図は別のところにある。
だから彼は解釈の存在的性格は問題しないし、そういう図式の中に収められる概念ではない、ということでしょうか。
ふーん、でもディヴィドスンが「解釈」のそういう側面を問題にしていなくても、この用語は観念論の仲間入りをするに十分な資格がある気がしますけどね。
議論が深みにはなりそうなので、そろそろ『大全』へ戻ろうかと思います。
1.4も中途半端で止まってますし。
今日の夜に1.4の残りの要約をUPします。
74 :
考える名無しさん :03/03/21 12:40
そもそも、ある人を「分析哲学者」かどうか判定するには、まず、「分析哲学」 というものが、どのように定義され、その定義のもとでは、具体的にどのような 哲学(者)が「分析哲学(者)」に分類されるのかを明確にさせておかないと。 フレーゲやデイヴィドソンが、「分析哲学者」でないとするならば、誰が「分析 哲学者」になるのだろう。ウィーン学派の哲学が、典型的な「分析哲学」なの? クワインは、既に「分析哲学者」ではないの?
75 :
考える名無しさん :03/03/21 12:51
あと、そもそも、「分析哲学」の特徴は、存在論的問題を、 必ずしも基本的な哲学的問題とみなさないところにあるんじゃ ないの。だから、フレーゲが、「思考」というものを、存在者として どのように捉えていたかということも重要だけど、むしろ、 フレーゲが「思考」というものを持ち出した議論の文脈というものを、 むしろ、重要視すべきなのではないのかな。 と思ったりする・・・
76 :
フレーゲにも『大全』にも無知Aさん :03/03/21 19:45
>>74 >ある人を「分析哲学者」かどうか判定するには、まず、「分析哲学」
>というものが、どのように定義され、その定義のもとでは、具体的にどのような
>哲学(者)が「分析哲学(者)」に分類されるのかを明確にさせておかないと。
一見正論だけど、むしろこの種の概念は、分析哲学者という語が誰に適用されてい
るかを見て、そこから共通しそうな幾つかの特徴を取り出すほうが、天下り的議論
より有益ではないでしょうか?
>フレーゲやデイヴィドソンが、「分析哲学者」でないとするならば、誰が「分析
>哲学者」になるのだろう。ウィーン学派の哲学が、典型的な「分析哲学」なの?
>クワインは、既に「分析哲学者」ではないの?
ディヴィドスンは明らかに分析哲学(この称号を付与されたどの哲学者も嫌がると
いうのは内輪受けの笑いだが)の範疇でしょう。
しかし、フレーゲ、ラッセルは分析哲学への重要な里程ではあっても、分析哲学に
は属さず『論考』の著者ですら微妙、というのがここ20〜30年くらいの哲学界
の平均的見解ではないかと思うのだけれど。(まぁそんな昔の事をリアル・タイム
で見知っている(acquaintanted 藁)わけではないので、あくまで聞きかじりで
はありますが。)
1.4にすぐ戻ろうと思っていましたが、せっかくスレが動き出してきたことなので、もうちょっと今までのテーマを続けてお聞きしていいでしょうか。
>>75 >そもそも、「分析哲学」の特徴は、存在論的問題を、
必ずしも基本的な哲学的問題とみなさないところにあるんじゃ
ないの。
逆でしょう。むしろ分析哲学が存在論に新たな光を当てたのでは?
飯田先生もそのようなことを『大全』で言っていたような気がします。
ただ、まず存在論的問題ありき、ではなく、言語分析の過程で存在論が
析出されたのでしょうが。
>>77 そうですね。でも、「分析哲学」って何?という問題は厄介かつ不毛な問い
だと思ったりもします。哲学史的考察よりもまず個々の哲学者の内実に
迫る方がこのスレの主旨に合うのでは?
>>78 「存在論は、現代の分析哲学のなかでももっとも活気に満ちた分野である」
(『大全』U巻287ページ)でした。クワインとの関連で言われています。
先走りしてしまいましたね。
>>75 >フレーゲが「思考」というものを持ち出した議論の文脈というものを、
>むしろ、重要視すべきなのではないのかな。
この「文脈」について是非説明していただけませんか。
というのも、個人的にフレーゲがなぜ「思想」という、自分でも定義が曖昧な存在者を置いたのか、その理由が最初にフレーゲを読んだときから疑問だったのです。
『大全』にもこの理由についての説明や推測はないと思います。
実際、フレーゲ以後の分析哲学者たちは、フレーゲの道具(述語論理)は借りても、フレーゲの哲学の中心であるべき「思想」は捨て去るわけですよね。
>>78 >哲学史的考察よりもまず個々の哲学者の内実に
>迫る方がこのスレの主旨に合うのでは
そうですね。『大全』自身がそういうスタイルの本ですから、まずはフレーゲに中心を置いて、哲学史全体の話はその議論展開の中で都度、という感じで進められるとよいと思います。
>>76 >一見正論だけど、むしろこの種の概念は、分析哲学者という語が誰に適用されてい
>るかを見て、そこから共通しそうな幾つかの特徴を取り出すほうが、天下り的議論
>より有益ではないでしょうか?
これは、その通りだと思います。で、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン
あたりが「分析哲学者」の代表ではないとすると、結局、分析哲学の基礎を
作りあげた巨人たちは、典型的な「分析哲学者」ではなくて、彼らが作りあげた
方法論的土台の上で哲学をしている人たちが、「分析哲学者」の代表である
ということになるのですかね。
しかしながら、「分析哲学」の手法の「開発者」たちが「分析哲学者」とあまり
呼ばれないのには、一体、どういう理由があるのでしょう。キリスト自身は「キリ
スト教徒」と呼ばれないのと同じような理由?
>>78 >逆でしょう。むしろ分析哲学が存在論に新たな光を当てたのでは?
クワインに代表されるように、それは、確かにそうだと思います。
>ただ、まず存在論的問題ありき、ではなく、言語分析の過程で存在論が
>析出されたのでしょうが。
私もそのようなことが言いたかったのです・・・。
>>80 フレーゲの「思想」については、元の論文をまったく知らないのに下のように
書いてしまいました。
>フレーゲが「思考」というものを持ち出した議論の文脈というものを、
>むしろ、重要視すべきなのではないのかな。
この部分は忘れてください・・・。
どうも、中途半端な書き込みで、議論の腰を折ってしまいました。
申し訳ありません。先を続けてください。>1さま
83 :
考える名無しさん :03/03/22 19:45
>>81 >しかしながら、「分析哲学」の手法の「開発者」たちが「分析哲学者」とあまり
>呼ばれないのには、一体、どういう理由があるのでしょう。
言語の問題(従って分析による解明)が哲学の決定的問題ではなく、言語の問題(
言語分析)を用いたとしてもそれをそれによってより決定的に重要な哲学問題の手
段と見ていたからでは?
この点前期のウィトゲンシュタインは日常言語の完全性と日常言語からのアプロー
チの否定、『論考』内の存在論と言語とどちらが権利上優先なのかという対立を
どう解釈するかによって、分析哲学者の範疇に入れるべきかどうかわかれるところ
でしょうね。
>>80 >この部分は忘れてください・・・。
了解です。どのみち「思想」は第2章の意味論の話の中で必ずもう一度通ることになるテーマですので、そこで本格的に検証いたしましょう。
というのも、フレーゲによれば意義Sinnと思想Gedankeは切っても切れない関係にあるからです(思想⊆意義)。
85 :
1.4 ArgumentとFunction (3) :03/03/25 23:43
大分あいだが空いてしまいましたが、1.4を明日には終らせます。 さて、二階述語論理へ踏み出そうとしたところで話は中断されていました。 もう一度復習として繰り返すと、二階の文を作るには、「変項に述語を代入する」だけでOKでした。 そうすると、一階論理において変項を量化したように、述語を量化することが可能になります。 (12)花子は太郎をねたんでいる。 という文から、 (19)花子と太郎の間にはある関係がある。 ↓ (20)ある関係Φについて、Φ(花子, 太郎) ↓ ∃ΦΦ(a, b) という二階の論理式を導くことができるのです。言うなら、「存在汎化」の二階バージョンです。 ※念のため存在汎化の規則を以下に書いておきます。 存在汎化: Ftから∃xFxを導出してよい。(tは任意の定項または変項)
86 :
1.4 ArgumentとFunction (4) :03/03/26 00:00
さて、ArgumentにFnctionを代入できるということは、ArgumentとFunctionの間に実は違いなどないのでは?という疑問が湧いてきます。そして事実、フレーゲは「大した違いはない」と断言します。 ≪[ArgumentとFunctionの]区別は、概念内容に関わるものではなく、単に見方の問題に過ぎない≫(BS 第9節) 「概念内容」ってのは「思想」の言い換えでしょう。「思想」に関わるものではないということは、フレーゲにしてみれば「どうでもよい」の遠まわしな表現です。 ですが、ここで重大な疑問が提出されます。それは、文の分解の方法が無限にあるのでは、一つの文に固有の「論理形式」なんてないのでは? ひいては、文の分析が思想の構造を明らかにすることもできないのでは?という疑問です。 ですが、飯田先生はこの疑問は誤解であると言います。 ≪文がさまざまな仕方でArgumentとFnctionに分解できるという事実が、文が一定の構造、「論理形式」をもつという主張に対する反証になるといった考えは、 結局のところ、ArgumentとFunctionという区別を、それに基づいてはいるがそれとは異なる区別、すなわち、文法的カテゴリーの間の区別と混同するところから生じたように思える。≫(p.65) 「文法的カテゴリー」という新しいキーワードが出てきました。この文法的カテゴリーは、次の1.5のテーマなのですが、1.4でもちょっとだけ触りの解説があります。
とちきい
88 :
1.4 ArgumentとFunction (5) :03/03/26 23:51
文を「分解(Decomposition)」する方法は無限にあれど、「分析(Analysis)」する方法はただ一つである。 これが、フレーゲによる「文を分析することで思想の分析が可能になる」というテーゼを擁護する方法です。 しかしこの主張は、ArgumentとFunctionへの分解が、文の分析に対して重要な役割を果たしていない、という意味ではありません。ArgumentとFunctionの区別も、二つの点において重要なのです。 (@)文と単称名以外の文法的カテゴリーの生成は、ArgumentとFunctionへの分解によって生成される (A)量化を含む文の分析のためには、必ずその文の形成史に現れる量化を含まない文の分解が必要になる。 1.4はここまでです。次は1.5「文法的カテゴリー」です。この章において、フレーゲが文の分析に不可欠と考えた重要概念「文法的カテゴリー」が解説されます。 第1章の最後の段です。頑張っていきましょう。
89 :
考える名無しさん :03/03/29 18:20
初心者なのでお手伝いできませんが、参考にさせていただいております。頑張ってください。
1さん応援してます!
91 :
考える名無しさん :03/04/05 23:48
僕ももう一度一巻読み直すよ。でも独自の論点というかダメッと的よね。 と友人が言っておったそうな。
今年飯田さんは最新の研究もフォローしつつ大全第一巻に即した授業をやるんだと。
でも微妙にダメットの解釈を修正しつつ独自色を出そうとしている箇所も散見されると思います。 1.5は今週中に終らす予定です。
95 :
1.5 文法的カテゴリー(1) :03/04/08 23:43
1.5 文法的カテゴリー(1) 句Aと句Bが同じ文法的カテゴリーに属するということは、AとBを入れ替えても文が文法的に正しいということと同義です。 これは、文法的カテゴリーという分類の方法が、ある句をArgumentとしてみなすことに基づいているからです(つまり同じ文法的カテゴリーに属する句は、同じ変項に代入できなければなりません)。 飯田先生いわく、フレーゲの文法的カテゴリーの体系は「きわめて明快」な構造をもっています。 まず文法的カテゴリーは以下の2種類に分かれます。 ○基礎的カテゴリー ○派生的カテゴリー 基礎的カテゴリーには文(S)と単称名(N)のみが含まれます。派生的カテゴリーは、基礎的カテゴリーが決まれば以下の二つの定義によって帰納的に定義できます。 1. NとSは基礎的カテゴリーである。 2. cを基礎的カテゴリー、c1, c2, ・・・・・・, cn(n≧1)をカテゴリーとするとき、 (c/c1, c2, ・・・・・・, cn)は派生的カテゴリーである。 (c/c1, c2)という表現が出てきましたが、別に難しいものではありません。「cは、c1とc2を代入した結果得られるカテゴリー」ということです。 例えば、(S/S, S)は二つの文を代入すれば文となる表現の(派生的)カテゴリーのことですから、「かつ」「または」などの結合子が含まれます。
96 :
1.5 文法的カテゴリー(2) :03/04/09 20:45
この章で「単称名」というフレーゲの用語が、(例によって)断りなしに登場します。 単称名ってのは固有名と同じではありません。フレーゲの言語論に固有名というカテゴリーはありません。 単称名 = 固有名 ∪ 確定記述句 です。じゃあ今度は確定記述句って何だ?ということになります。 確定記述句ってのは、「月面を最初に歩いた人(the first person who walked on the Moon)」のように、名詞・形容詞・動詞を組み合わせて一つの個体を指す表現です。 英語では「the」で始まるのが特徴です。 この確定記述句は、論理学に困った二つの問題をもたらします。そのため大全でも後半に一章が割かれています。 ラッセルの章で本格的に扱うことになるでしょうから、今は確定記述句については触りだけにしたいと思います(てっとり早く知りたい人は『論理学をつくる』p.208へGo!)。 確定記述句がもたらす問題は、以下の二つです。 (1)確定記述自体が持つ情報 (2)指示対象が存在しない確定記述(例:「太陽の上を最初に歩いた人」) (2)の問題は、フレーゲの意味論におけるBedeutungとSinnの区別にもかかわります。また、この二つの問題に対する一応の解決が、1905年、ラッセルの記述理論によって与えられることになります。
97 :
1.5 文法的カテゴリー(3) :03/04/10 01:11
さて、フレーゲの定義によれば、派生的カテゴリーは基礎的カテゴリーから作られるものですから、基礎的カテゴリーさえ明確に決定できれば、自然言語の言語表現も全部カテゴライズできることが保証されます。 ところで、基礎的カテゴリーには、文と単称名の二種類がありました。このうち、文のカテゴリーを特徴づけることは多分簡単だ、と飯田先生は言います。 何が文で何が文でないかは常識的にわかるだろう、というわけです。 問題は単称名の方です。この線引きを行なうのは難しいです。フレーゲ自身も≪単称名を特徴づけるようなことをまったくせず・・・・・・おおざっぱな特徴を挙げているのみ≫(p.72)です。 フレーゲも頼りになりません。どうするか。ここで「絶対"やってはいけない"方法がある」と先生は言います。それは、 ≪単称名がどのような種類の物・存在者を指すものであるかの考察から引き出そうとする道≫(p.69) です。なぜなら、≪対象を指すものが単称名であるのではなく、単称名の指すものが対象である≫という動かせない大前提があるからです。 (この「言語的区別は存在論的区別に先行する」というテーゼって分析哲学の常識なのでしょうか?僕は知りませんでした。) 確かに考えてみれば、対象は直接知覚できず、言語を通してのみ表象されるものですから、言語が存在する前に対象があるのかないのかを議論するのはナンセンス、ということでしょう。言語論的転回というやつです。 今日のテーゼ:物があるから名前があるのではない。名前があるから物がある。
98 :
1.5 文法的カテゴリー(4) :03/04/10 01:27
フレーゲも上記のテーゼを持っていたに違いない、と飯田先生は言います。だからこそ、≪フレーゲは、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない≫(p.71)。 数が対象だから数詞が単称名なのではなく、数詞が単称名だから数が対象だ、という推論になるわけです。ただ、フレーゲがこのテーゼを明言した箇所はない、ということも付け加えられています。 さて、単称名のカテゴライズの方法に話を戻します。この点に関してはフレーゲもいい加減で頼りにならないことは、先述の通りです。何かいい方法はないのか。 飯田先生は、一つ有望な道を紹介しています。 それは、単称名とみなしてよい句が、言語の中でどういう振る舞いをするか、≪具体的には、言語の中で可能な推論のパターンに注目することによって、そこから、ある言語表現が単称名であるための基準を析出しようという方法である≫(p.72)。 要するに具体例から一般法則を導こう、という帰納的方法です。そういえばWも「言語が使用される現場を見よ」と言っていましたね。W流に言えば「単称名の家族的類似性を析出しよう」というわけです。 最後に、単称名の線引きがなぜ重要であるかの理由が再度確認されます。それは、全ての文法的カテゴリーの体系が文と単称名から生成されるからです。 だから、述語論理をモデルとして自然言語の理論を構築する場合には、単称名の定義は基礎中の基礎となるわけです。 ここで、第1章「フレーゲと量化理論」は終わりです。
99 :
1.5 文法的カテゴリー(4) :03/04/10 01:28
フレーゲも上記のテーゼを持っていたに違いない、と飯田先生は言います。だからこそ、≪フレーゲは、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない≫(p.71)。 数が対象だから数詞が単称名なのではなく、数詞が単称名だから数が対象だ、という推論になるわけです。ただ、フレーゲがこのテーゼを明言した箇所はない、ということも付け加えられています。 さて、単称名のカテゴライズの方法に話を戻します。この点に関してはフレーゲもいい加減で頼りにならないことは、先述の通りです。何かいい方法はないのか。 飯田先生は、一つ有望な道を紹介しています。 それは、単称名とみなしてよい句が、言語の中でどういう振る舞いをするか、≪具体的には、言語の中で可能な推論のパターンに注目することによって、そこから、ある言語表現が単称名であるための基準を析出しようという方法である≫(p.72)。 要するに具体例から一般法則を導こう、という帰納的方法です。そういえばWも「言語が使用される現場を見よ」と言っていましたね。W流に言えば「単称名の家族的類似性を析出しよう」というわけです。 最後に、単称名の線引きがなぜ重要であるかの理由が再度確認されます。それは、全ての文法的カテゴリーの体系が文と単称名から生成されるからです。 だから、述語論理をモデルとして自然言語の理論を構築する場合には、単称名の定義は基礎中の基礎となるわけです。 ここで、第1章「フレーゲと量化理論」は終わりです。
100 :
考える名無しさん :03/04/10 01:28
第一章修了おめ〜
101 :
第2章 予告 :03/04/10 01:33
2重カキコ失礼。 さて、第1章はフレーゲの構文論でした。第2章「フレーゲ的意味論の基礎」は題名の通り意味論です。 内容は 2.1「意味と像」 2.2「文脈原理と合成原理」 2.3「意味SinnとイミBedeutung」 2.4「陰影と力」 2.5「フレーゲ的意味論の構造」 です。後にWにも影響を与える心理主義批判から始まって、「フレーゲと言えば意味と意義」とまで言われるようになった有名なSinnとBedeutungの区別などが取上げられます。
> 戸田山和久『論理学をつくる』 > R.ジェフリー『形式論理学』 > 野矢茂樹『論理学』 この並びは… 昔、論理なぜなにスレッドで見た…
103 :
>>89の初心者 :03/04/10 07:48
戸田山和久『論理学をつくる』 野矢茂樹『論理学』 を読み終えて、なんとかここまでついてきました。 ところで、Wってウィトゲンシュタインのことですよね。 フレーゲとウィトゲンシュタインは、思想的にはどの程度影響し合っているのでしょうか。 逆に言うと、FとWの決定的な相違点は何処に求められるのでしょうか。初歩的な質問ですみません。 弟2章を楽しみにしています。
>103 まず自分の意見から書くものだ。 考えることを放棄して他人の意見を暗記して明け暮れたいなら話は別だが。
105 :
>>89の初心者 :03/04/10 23:16
>>104 >>27 >>31 でもウィトゲンシュタインの話題が出てきたので、何か特別な関係(あるいは強い思い入れ)があるのかと思ってお尋ねしたかったのです。
「考えることを放棄して他人の意見を暗記して明け暮れたい(しろうとなのでわかりませんと言って逃げる)」というやましさを持っていることは認めざるを得ません。
なにしろ、FとWが無関係である理由を提示できませんから。
スレを汚してしまって申し訳ございません。
無視して先へ進めてください。
>フレーゲとウィトゲンシュタインは、思想的にはどの程度影響し合っているのでしょうか。 Wがフレーゲを尊敬し、大きな影響を受けた、というのは常識でしょうし、個人的にもそう思います。 『論考』『探究』を読めば、フレーゲの名前は出さないもののフレーゲの議論を下敷きにしている箇所は嫌でも目に付きます。 素人である僕が読んで分かることなので、89さんも、読めば必ず分かります。 >FとWの決定的な相違点 こっちは挙げていくとキリがないでしょう。 僕が面白いと思う点を一つだけ挙げるなら、日常言語に対する態度です。フレーゲは日常言語にそっぽを向いて人工言語を作ることに精を出しましたが、Wはそういう行為に前期の時点から批判的だったように思われます。 >強い思い入れ そうですね。言われるように、僕はWに思い入れがあります。初めて哲学書を面白いと思わせてくれた人物ですから。
でもフレーゲも悪くないですよ。悪くないどころか、かなり面白いです。 Wに興味ある人は、Wだけじゃなく是非フレーゲも読むといいと思います。
108 :
双六 ◆U59sA8ukys :03/04/12 00:38
このスレッドをはじめて知りました。頑張ってください。
「〜大全」を参照していないので勘違いしているかもしれませんが、
スレッドを読んだ限りでは以下の疑問が出てきました。
>>13 規則の適用順序によって論理式が変わってしまうという例として(*)が新たに
導入されていますが、確かに(*)の文は規則の適用順序によって異なる論理式に
変形されると思いますがそれはもとの(1)、(2)からして、又一般に多重量化の文は、
そうなのではないですか。
例えば(1)はA, Bの順番での規則適用では正しく『∀x, ∃y s.t. xがyをねたんでいる』
の内容の論理式となりますが、B, Aの順番では『∃x s.t. ∀y, yがxをねたんでいる』
という意味になってしまうと思います。
>>13 , 23-26, 34
適用順序による論理式の曖昧性を根拠に、書き換え理論はダメで、量化子の導入が
正当化されるという議論に読めましたが、その量化子のスコープは文の形成史から
決定されています。しかし、文の形成史を考慮に入れてよいのであれば、書き換え
理論でも(1)の文が成している(誰もが(誰かをねたんでいる))という句構造の外側から
規則を適用するようにして適用順序を一意に決定すれば、曖昧性の問題は起きないので、
結局、文の形成史、文の内部構造を考慮するということの必要性が示されただけで
論理の記述法としての量化子の導入が、書き換え理論に対して正当化されたわけでは
ないと思うのですが。
109 :
考える名無しさん :03/04/12 16:41
↑え? 大全をまとめてるんでしょ?その論点は後で出てくるんじゃないのかい。
『大全』も大分以前に読んだので具体的な内容は忘れてしまったが,僕も108が 言ってるように,13の議論はなんかおかしい感じがするな.問題は書き換え理論 がなぜだめかということだよね.規則の適用の順序は関係ないんじゃないかな. 要するに,書き換え理論だと個別名辞と変項の区別ができないということなんじ ゃないのかな.要は,書き換え理論が「誰か」とか「誰も」といった表現を「太郎」 とか「花子」といった表現から区別しないところに難点があるということではない だろうか.
111 :
考える名無しさん :03/04/13 00:10
>>FとWの決定的な相違点 > こっちは挙げていくとキリがないでしょう。 > 僕が面白いと思う点を一つだけ挙げるなら、日常言語に対する態度です。 >フレーゲは日常言語にそっぽを向いて人工言語を作ることに精を出しました >が、Wはそういう行為に前期の時点から批判的だったように思われます。 はっきり批判してますね。 あと、言語超越的実在(Gedanke)を認めるプラトニストか否か とか こと『論考』においてなら SinnとBedeutungの両者を語・文ともに認めるか否かとか 後期Wなら、「明晰でない概念はそもそも概念ではない」と考えるか否かとか 言語において命題以外・真理函数以外のありかたを認めるか否かとか
112 :
>>89の初心者 :03/04/13 18:08
>>106 >>111 ありがとうございます。勉強になります。
わたしもウィトゲンシュタイン(家?)が好きです。ラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』とか、クリムトとか。ピエロ・スラッファ(!)も。
なによりも、(誤解かもしれませんが)一般的な天才像と一致しているようで。ミーハーですけれども。
>双六さん(
>>108 )および稲さん(
>>110 )
ご指摘を受けて、13番を読み返しました。確かに大全で行なわれている書き換え理論批判とは違うことを書いていました。
大全における該当箇所を引用します。
≪すなわち、書き換え理論が言語的現象を説明するための理論として決定定に不十分であるのは、それが(*)におけるような多義性がどのようにして生ずるのかを説明しないという点にある。
たしかに、規則を適用する順序を変えることによって、多義的な文の異なる読みを導くことはできる。だが、これは与えられた文をパラフレーズするための手続きを与えるに過ぎない。
与えられた文がなぜそういうパラフレーズを許すのかは説明されないままである。必要なのは、パラフレーズの可能性を根拠付けるような「文の構造」についての理論である≫(pp.27-28)
つまり、
>>13 における僕の議論だと、「一つの文から多義的な読みが導ける」ということを書き換え理論の欠点とみなしていることになるが、
本当はそこが欠点なのではなく、「なぜ」多義的な読みを発生させるのかを説明できないことが欠点だ、としなければならなかった。
こういうことでよろしいでしょうか。
115 :
双六 ◆U59sA8ukys :03/04/14 06:43
>>113 詳しく説明してくださって、ありがとうございます。
つまり、(*)が他の多重量化の文、例えば(1)や(2)と違うのは、ある種の手続きで
(*)だけが異なる二つの論理式に変形されるという点ではなく、『人間が実際に』
(*)だけを二つの異なる論理的意味に解釈するという点においてなわけですね。
その多義的な読みを理論は説明しなくてはいけないが、そのためには文を単なる
一次元的な単語の並びとしてではなく、形成史に由来する内部構造を持つものとして
捉える必要がある、という議論であれば納得できます。
しかし、それは文の内部構造を考えることの必要性の議論であって、書き換え[1]に
たいする量化子[2]の優位性とは関係が無いのではないかという疑問が消えません。
「書き換え」と「文を一次元的に捉えること」が、また「量化子」或いは「述語論理」と
「文を構造的に捉えることが」同一視され対照されているのでしょうか?
「大全」を参照していないため、的を得ない指摘になっているのは大変申し訳ありません。
近いうちに入手したいとは思うのですが・・・
[1] 「誰も」「誰か」という語句を文脈上ありえる固有名全てのand, orで書き換え
命題論理の範囲で文の論理式を表現する方法
[2] 「誰も」「誰か」という語句を命題論理の範囲で取り扱うことを断念し、命題関数という
概念と量化子という新しい記号の導入で解決する
>>13 遥か昔のカキコミへの批判で悪いんだけどさ(しかも「決定的な」方の欠陥についてではないし)
――まあ双六さんや稲さんが言及した
直後だからいいかな
> 欠陥1:問題となる範囲の対象が無限個あったらダメ
これって構成主義的無限概念をとってもやぱーし欠陥なままなの??
でなければ、実無限はだめー って強い論証にならんのかな?(勿論、フレーゲ=
ラッセルの論理学的業績がない時代になら 「強い」論証ってことだが)
>>115 (双六さん)
>その多義的な読みを理論は説明しなくてはいけないが、そのためには文を単なる
>一次元的な単語の並びとしてではなく、形成史に由来する内部構造を持つものとして
>捉える必要がある、という議論
ええもう全くそのとおりの議論です。「何で(*)は二重の読み方ができるの?」という疑問に答えられるか否かが、書き換え理論と量化理論の決定的な違いになる、ということだと思います。
>「書き換え」と「文を一次元的に捉えること」が、また「量化子」或いは「述語論理」と
>「文を構造的に捉えることが」同一視され対照されているのでしょうか?
されている、と思います。
「書き換え理論」=「伝統的論理学」=「文を一次元的に捉えること」 -
「量化理論」 = 「文の構造を分析できる理論」 = 「多重量化を分析できる理論」
という等号が、"大全では"成り立っていると考えてよいと思います。
量化理論 = 述語論理
は、細かいこと言うと違いますね。正しくは
量化理論 ⊆ 述語論理
です。量化理論は述語論理の核となる理論ですが、述語論理には量化理論以外の要素もありますから。
ただ、個人的には、
「量化理論」 = 「文の構造を分析できる理論」
という等式は、留保つきの等式だ、と思っています。「文の構造を分析できる理論」が量化理論一つだけということは証明されていないからです。
>>33 で述べたことの繰り返しですが、一応補足を。
>>116 (いちご姫さん)
面白いですね。可能無限の立場から、ラッセル流書き換え理論を救えないか、ということですね。
ちょっと考えてみましょう。
120 :
考える名無しさん :03/04/14 19:56
>>116 代わりにコメント。
答えはやっぱし欠陥のまま。
ポイントは普遍量化を連言で、存在量化を選言で“書き換える”と
命題論理のwffになるというところ。
ところで命題論理の式は有限の長さであるということが定義から導き出せる。
従って書き換えたら無限の長さになってしまうものはもはや命題論理の式ではない。
じゃあ命題論理のシンタックスの中に無限連言と無限選言を定義しておけばいいか?
一理あるがこれを定義すると効果的な(effective)意味値の割り当て法である真理値表が利用できない。
また、一般に(可算、非可算にかかわらず)無限の領域から無限の値域への関数の定義は
効果的に数え上げることができないことが知られているので、
ここから真理関数による普遍量化・存在量化の定義(或いは書き換え)がいい手ではないということになる。
>>120 「効果的な(effective)」というのはどういう意味でしょうか?僕の知る論理学の用語ではないのですが、教えていただけますか。
この言葉の意味がわかっていないので、以下の反論も的を外しているかもしれませんが・・・
確かに、命題論理の論理式が以下のように無限の選言肢や連言肢から構成されたら、真理値表も無限の行を持つことになりますね。
P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ・・・・・・・・
でも、無限連言の命題の真理値表を書き尽くすことはできないとしても、その真理値表を構成する手続きは定められるのではないでしょうか。
もしそうなら、可能無限的には、無限連言命題を認める命題論理もありうるのでは、と思うのですが。
もっともそれはもう古典論理としての命題論理ではなくなっているのは確かでしょうが。
122 :
考える名無しさん :03/04/14 21:00
>>121 効果的って、まぁ緩い概念だけど数理論理学や数理言語学、計算の複雑性などの領域で問題にされるもの。
簡単にいうと「誰でも間違いなく目標に到達できることを保証できる手続きであるかどうか」ということ。
アルゴリズムがあるかどうか、という言い方もする。もっと説明すると、目標に到達するのには猿のように
手続きに従っていれば良くて、目標に到達しようとする側の閃きや勘などはいらないということ。
ここでの目標は「部分の意味から全体の意味を割り出すこと」で、命題論理の式の長さが有限であれば、
真理値表を使った(つまり真理関数的な)意味の割り出し方は上に示した意味で効果的であるといえる。
効果的っていうのがちゃんとした訳語かどうか分からないのでeffectiveといっている方が無難かな。
例えば真理値表を使った意味の割り出しが一般的な意味での効果的とはほど遠いから。
ついでにその下の「効果的に数え上げることができる」の「効果的」はまたちょっと意味が違ったりしたりする。
曖昧な言葉遣いをしたことを謝らなければいけないんだけど、ここでの効果的は「再帰的な定義を用いて」の意味。
さてじゃあ可能無限的に真理値表を構成するという手続きは定められるのか?答えはNOということになる。
いや定めてもいいんだけどそれは「再帰的な定義」にはならないはずなんだよね。
ここまで書いて自信なくなってきた。計算可能性関連の話になるんだけど。
もし>1や>116がこういうことに興味があるならBoolos & JeffreyのComputability and Logicっていう本を
薦めます。2nd editionが一番いい(ちなみに今は4th)。
123 :
考える名無しさん :03/04/14 21:11
飯田先生はバク転ができます 秘密にしてるそうです
124 :
考える名無しさん :03/04/14 21:17
>>117 納得しました。ありがとうございました。
126 :
考える名無しさん :03/04/14 21:27
飯田先生は腕ひしぎ十時固めができます 秘密にしてるそうです
127 :
考える名無しさん :03/04/14 21:29
128 :
考える名無しさん :03/04/14 21:30
飯田先生はスペシウム光線がだせます。M78星雲出身だそうです 秘密にしてるそうです
>簡単にいうと「誰でも間違いなく目標に到達できることを保証できる手続きであるかどうか」ということ。 >アルゴリズムがあるかどうか、という言い方もする。 これって「決定可能性(decidability)」の概念ですよね? 効果的というのは決定可能と同じ意味で使うのですか。初めて知りました。
130 :
考える名無しさん :03/04/14 21:49
>129 まさにその通り。って俺が言葉間違って使っている? effective procedureとか、effectively computableとか使うときのeffective。
ああやはりそうでしたか。 さてじゃあ言葉遣いのギャップが埋まったところで、焦点となる問題は、 「可能無限的に真理値表を構成するという手続きは(再帰的に)定められるのか」 でした。うーん、できそうな気もするんですが。要するに付値関数を再帰的に定めればいいんですよね。 ある行数nを持つ真理値表に対応する付値関数をVとして、行数が1増えたときの付値関数V'をVを使って定義できればいいような・・・ もう少し考えてみます。
132 :
考える名無しさん :03/04/14 22:24
infinitary logic
「effective」を「効果的」とか「効率的」と訳すのはあまりよくないかな.
内容的には122が言っているようなことだけど,僕は「実行的」と訳そう
ということになってると聞いたことがあるけどね.
131の話だけど話はそんなに単純じゃないよ.例えば今n個の命題があると
するとそれに対する真理関数は2^n個あることになるでしょ.だから可算無限個
の命題には非可算個の真理関数が存在することになるからね.それを再帰的には
定義できないでしょ.ちょっと話を単純にし過ぎたかな.まあ厳密な話は122で
紹介されてる本でも読んだほうがいいだろうね.『計算可能性と論理』は昔読ん
だけど忘れてしまった.
>>116 (いちご姫)
「構成主義的無限概念」がはっきりわからないけど,どだい全称量化を『論考』のように
無限連言で考えるのは無理だよ.まあ真理の決定に関する困難ももちろんだけど,単純な
話として,例えばRを実数について成立する性質だとして,「\forall x Rx」をRa,Rb,
・・・の連言でなんか表現できないじゃん.だから述語論理を命題論理に還元するという
のはすぐにその限界がはっきりするんだよ.構成主義的無限という概念をもってきてもだ
めだろうな.
>>122 >>133 effective の訳語は「実効的」が一般的かと。
それにしても良スレだ。
>>129 「決定可能性」というのはある理論(あるいは問題)について言われる性質です。
言語Tにおいて表現可能な文Aが与えられたとする。その際、AがTにおいて真で
あるかどうかを決定するアルゴリズムが存在するならば、Tは決定可能である、
と言われる。
「effective(実効的)」という概念は、ではそのアルゴリズムとはどういう
手続きなのか?と問われたときに、その内実を説明するために持ち出される概念
です。つまり、こちらは手続きに対して言われる性質。
>>121 ここで1さんが言われているのは、「任意有限の長さの式に対して、その真理表
を与える実効的手続きが存在する」ということであって、それだと文字通りの
意味で「無限選言」や「無限連言」を考えていることにはならないと思いますが。
つまり、それは「無限連言命題を認める命題論理」ではなく、普通の命題論理
と何ら変わるところはないのでは?
なんか、『大全』と直接関係無い話題で引っ張ってしまって恐縮です。
理解していらっしゃると思うけど、一応補足させてもらうと、
>>135 の文章はdecidebleな問題とは解を出すアルゴリズムが存在する問題のことで、
effectiveは、そのようなアルゴリズムが持っていたり、持っていなかったりする性質であるとも
読めてしまうけど、decidableな問題とはeffectiveなアルゴリズムが存在する問題ですね。
例えば自然数nに対して1/nを求めるとき、単純な筆算と同様のアルゴリズムを使うと
アルゴリズムとしては簡単に記述できるが、nの値によっては停止しない。
よって単純な筆算はeffectiveではないが、循環小数の判定をアルゴリズムに組み込めば、
必ず停止するアルゴリズムが作れるので問題自体はdecidableである。
> 稲さん、 122さん 整理します。間違ってたら突っ込んでください。 まず、可算無限の命題集合に対する真理関数の集合の濃度は、非可算になる。 なぜなら、真理関数の集合は、命題集合の冪集合を作ることで与えられるから。 これはちょうど、自然数の集合(可算無限)の冪集合を作ることで実数の集合(非可算無限)を作ることに相当する。 だから、濃度という観点から見ると 命題の集合 = 自然数の集合(可算無限) 真理関数の集合 = 実数の集合(非可算無限) という等号が成立する。こうしてみると、「真理関数の集合を体系的に構成できるか?」という問いは、実は 「実数の集合を体系的に構成できるか?」 という問いと同じだったことになる。 この問いに対して、可能無限派は当然、「No」と答える。 こういう論証でいいでしょうか?
修正 「体系的に構成できる」では言い方が曖昧でした。 「真理関数の集合を体系的に構成できるか?」 を 「真理関数の集合を構成するeffectiveな手続きはあるか?」 に変えて読んでください。
>ここで1さんが言われているのは、「任意有限の長さの式に対して、その真理表 >を与える実効的手続きが存在する」ということであって、それだと文字通りの >意味で「無限選言」や「無限連言」を考えていることにはならないと思いますが。 >つまり、それは「無限連言命題を認める命題論理」ではなく、普通の命題論理 >と何ら変わるところはないのでは? 奇遇ですね。僕も今日になってそう考えるようになりました。 確かに、可能無限的に無限選言Aや無限連言Bを作っても、「ある時点で」そのAやBを見れば(いかに膨大な数になろうとも)たかだか有限個の原子式をつないだ標準的な命題論理のwffの形をしているのですよね。
>>138 可算,非可算の話を僕がもちだしておいていうのも何だけど,この方向では
あんまり考えないほうがいいと思う^^.再帰的という話が出てきたんで直
観的な話をしただけだから.
むしろ,ここ一連の議論が命題論理と述語論理の決定可能性の問題であるなら
適当な論理学の本を読めば正確にわかると思うよ.
「effective」って「実効的」が一般的なのか.僕は「実行的」だと思ってた.
でも何かの本に「実行的」と書いてあったのをうら覚えしてるんだけどな・・・
>>136 >>140 えっ,無限連言でしょ.1が
>>121 で言ってたのは
P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ・・・・・・・・
という点々の部分が重要なんではないの?
>138 の証明自体は正しいように見えるが?141の稲は何言ってんだ?
長引いてたんだ・・・ 僕が考えていたのは基本的に>1さんが>138でいったことと同じ。 で可能無限については>134さんが>136で示したことと>1さんが>140で述べていることに禿しく同意。
>>143 >>144 の話とも関連するんだけど,そもそも今の話の流れは量化を消去して
述語論理も命題論理と同じように真理関数で考えられないかという議論なわけ.
つまり,全称量化は無限連言,存在量化は無限選言で扱えないかという話.そこで
もしそんなことができれば『論考』でWが言ってたように量化はいらないというこ
とになる.だけどそんなことはできないことは命題論理は決定可能だけど述語論理は
そうではないということからもすぐにわかる.
でそれをどう考えるかということなんだけど,真理関数理論の話で押し通すのは正
しくない.つまり,述語論理の場合には「述語論理について真理関数の集合を構成す
るeffectiveな手続きはあるか?」「いやない」とは考えない.そもそも述語論理に
ついて議論するときにはもう意味論として真理関数を考えてないから.だって,この
議論は量化を無限連言ないし無限選言に置き換えたとしてという話を前提してるからね.
>>144 いや134が
>>136 で言ってるのはそれだと可能無限を考えたことにならないだろうという
ことだから,仮に全称量化を
P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ・・・・・・・・
で考えた場合には,「・・・・・・・・」の部分が怠惰の点々ではなく
実質的な点々で考えないとだめでしょ.『論考』のWもそう考えている
と思うけど.
146 :
122=120 :03/04/16 01:58
言葉が足りなかったかな・・・
>>稲さん
>
>>144 > いや134が
>>136 で言ってるのはそれだと可能無限を考えたことにならないだろうという
> ことだから,仮に全称量化を
>
> P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ・・・・・・・・
>
> で考えた場合には,「・・・・・・・・」の部分が怠惰の点々ではなく
> 実質的な点々で考えないとだめでしょ.『論考』のWもそう考えている
> と思うけど.
ちょっと複雑だけどやっぱり僕の誤読かな。
可能無限の立場から再帰的な定義をするとしても実際の無限連言・無限選言は捉えられない、
ということに同意ということを意図したんだけど。
>述語論理も命題論理と同じように真理関数で考えられないかという議論なわけ. >つまり,全称量化は無限連言,存在量化は無限選言で扱えないかという話.そこで >もしそんなことができれば『論考』でWが言ってたように量化はいらないというこ >とになる. そのとおりです。より正確に言うと「全称量化は(可能)無限連言で、存在量化は(可能)無限選言で扱えないか」ということが焦点かと。 >だけどそんなことはできないことは命題論理は決定可能だけど述語論理は >そうではないということからもすぐにわかる. すいません。すぐにわかりません。 確かに、命題論理では任意の論理式がトートロジーかどうかを判定する手続きが必ずあります(=命題論理は決定可能)。 また、述語論理には任意の論理式の妥当性を定める手続きがありません(述語論理は決定不可能)。でもなぜこの事実から「量化を(可能的)無限連言と(可能的)無限選言に変換できない」という結論が出てくるのでしょう? 前提:(命題論理は決定可能である) ∧ (一階述語論理は決定不可能である) 結論:量化は無限連言と無限選言に書き換えられない この推論の過程が僕には分からないのですが。
>仮に全称量化を > > P1 ∧ P2 ∧ P3 ∧ ・・・・・・・・ > >で考えた場合には,「・・・・・・・・」の部分が怠惰の点々ではなく >実質的な点々で考えないとだめでしょ.『論考』のWもそう考えている >と思うけど. 稲さんの言う「実質的」というのがどういう意味かちょっと分からないのですが。 「実無限的」という意味ではないですよね?うーん。説明希望です。 Wが『論考』で「・・・・・・」で表していた概念は、操作の反復適用の概念だと、僕は思っています。 操作の反復適用とはつまり、無限への構成主義的なアプローチのことであり、要は可能無限です。 ≪「・・・・・・」という記号で表される「以下同様」という概念はもっとも重要な概念のひとつである(『草稿』1916年11月21日)≫ ≪操作の反復適用という概念は「以下同様」という概念に等しい。≫(TLP 5・2523)
149 :
衝撃のアルベルト :03/04/16 22:20
(^^)
151 :
考える名無しさん :03/04/17 11:04
age
今の議論に何かの足しになるかもしれないので、「論考における量化の扱い」というテーマを整理してみます。足しにならなくてむしろ混乱を招くだけでも、スレの本筋とは関係ないので1章と2章の間の幕間狂言と思ってくれれば結構です。 しかも実は、「論考における量化の扱い」は、大全2巻の1章と2章で扱われています。その意味ではフライングですが、面白いのでいいでしょう。 さて、本日ご紹介するのは二つの解釈です。 (1)フォジラン & 飯田(実無限) (2)野矢(可能無限) (1)は、異種の多重量化は『論考』では扱えず、従って『論考』の体系は述語論理をカバーできていない、と主張します(でも、注意が必要ですが、1種類のみの量化子を使う多重量化は扱えることは認めています。)。 (2)は、そんなことはない。『論考』でも多重量化を、ひいては述語論理を完全にカバーできる、と言います。 両者の見解の違いを生むのは「要素命題は、ひいては対象領域は無限か」という点です。 (1)は、「『論考』は実無限の立場だから、無限」と答えます。 (2)は、「『論考』は可能無限の立場だから、有限」と答えます。
さて、まず(1)の主張を見ます。 フォジラン & 飯田の『論考』理解による議論はこうです。 1.対象領域は無限である 2.真理操作は有限回しか適用されない 3.操作Nは無限個の要素命題を基底に持ちうる。 さらに『論考』では、 「いかなる真理関数も真理操作N(-ξ)を要素命題に有限回繰り返し適用することによって得られる」(5・32) 「いかなる命題も要素命題に操作N(-ξ)を適用することで得られる」(6・001) という強い要請がある(※)。 対象領域が有限個(⇒要素命題も有限個)の場合なら、何も問題ない。 問題は、対象領域が無限の場合、全称量化と存在量化を組み合わせた多重量化はどうしても操作Nの無限回の適用を必要としてしまうことにある。これは5・32と6・001の「操作Nの有限回の適用」という前提と矛盾するではないか! ≪基本操作N(-ξ)によって「(x)(∃y)Fxy」を構成しようとするならば、このような方法以外に道はない。 だが、この方法は、可能な定項が有限個に限られる(よって対象の数は必然的に有限である)といった仮定を設けない限り、基本操作N(-ξ)を無限回適用することを含まざるをえない。 対象の総数が有限であるという仮定は、『論考』中のいくつかの主張(たとえば論理空間の無限性――4・463)と相容れない≫(『大全 2巻』p.173) ※本当は「ξ」という記号の上に否定を意味する横棒「-」が加えられたものです。2chで表記できないのでそのつもりで読んでください
>>133 (稲)
命題の数がn個なら、その付値が2^n通り、可能な真理関数の数は2^(2^n)
に訂正すべし。細かいけど、、、
その他の点では、稲の説明は簡明でとても分かりやすかった
>>152 >「『論考』は可能無限の立場だから、有限」
↑がよく分からなかったけど、おもしろそうだから先を続けてくれさい
さて(1)の主張に対し可能無限の立場から『論考』を擁護するのが、「可能無限派・ゴミ系」こと野矢先生です。 「可能な定項が有限個に限られる(よって対象の数は必然的に有限である)といった仮定を設けない限り、基本操作N(-ξ)を無限回適用することを含まざるをえない」。 なるほど。だが心配は要らない。なぜなら≪対象領域が(上限を持たぬにせよ)有限であるから≫(『論考を読む』p.176)。 要するにフォジランの立てた3つの前提のうち、1.と3.は間違っている、というのが野矢先生の批判です。 ≪それゆえ、異種の多重量化であっても、真理操作の有限回の適用として捉えることができるのである≫(p.177) おいおい『論考』における対象領域が有限?それじゃあ ≪Die Tautologie lasst der Wirklichkeit den ganzen -- unendlichen -- logischen Raum.≫(4・463) の「unendlich」という単語をどう解釈するのさ。これって論理空間の無限性を言う命題だろう? ちっちっち。君は何も分かっていない。このunendlichは「限界を設けない」「際限なく大きくできる」と訳すべきなのだよ。 こうして『論考』を可能無限として考えると、対象領域は現実には必ず有限なので、めでたく多重量化も扱える、ということになるわけです。
ところで、Wは世界にいくつのものが存在するかなんてこと述べてたっけか?
>>155 unendlichとかlogische Raumとかは日常言語だけど
Tautologieの概念は明確。そこで、
P→P
(P→P)→P
((P→P)→P)→P
...
どう考えてもTautologieは無限にある
P→P P→(P→P) P→(P→(P→P)) ... の間違いだな
159 :
双六 ◆U59sA8ukys :03/04/18 08:58
わからないところを質問します
>>152 >(1)フォジラン & 飯田(実無限)
「論考」が構成主義的でなく、『実』無限に基づいているというのは、
具体的には、この人たちのどの著作に書いてあるのでしょうか?
>1種類のみの量化子を使う多重量化は扱えることは認めています
それは例えば『∀x ∃y Fxy』は扱えないが『∀x ¬∀y ¬Fxy』は扱えるということですか?
>> 159 (双六さん) >「論考」が構成主義的でなく、『実』無限に基づいているというのは、 >具体的には、この人たちのどの著作に書いてあるのでしょうか? 飯田隆『大全 2巻』pp.171-174 B.J.Fogelin, Wittgenstein(1976, Routledge & Kegan Paul)pp.70-75 です。ただ、僕自身はフォジランの本は読んでません(フォジランの本のページ指定も『大全』に書いてあるのを丸写しです)。 また、飯田先生はフォジランに賛成しているだけで特に自分の意見は出していないので、両者は同じ意見とみなしてよいと思います。 >例えば『∀x ∃y Fxy』は扱えないが『∀x ¬∀y ¬Fxy』は扱えるということですか? なるほど(笑)、確かに『∀x ∃y Fxy』にド・モルガンの法則を適用すると『∀x ¬∀y ¬Fxy』という見かけは一種類の量化子を使った多重量化の論理式に同値変形できますね。 なかなか盲点を突いた質問をいただいて嬉しいです(皮肉じゃなくて。僕も勉強になりますから、本当にこういう質問は有難く思います)。 でも『∀x ¬∀y ¬Fxy』も扱えないと思います。ちょっとテクニカルな論証まで詰めるのは週末忙しくてできないので、来週に回答を持ち越させてもらいます。
>1 Fogelinってフォーゲリンって読むんじゃないのか.フォジランなのか・・・ ところで,Wの一般形式と述語論理の議論だけど,僕は飯田先生とも野矢先生 とも違うように理解してる.でもどちらかというと野矢先生に近いのかな. そもそも『論考』の時期にWは無限とか有限の問題そのものに無頓着だったんだ と思うけどね.
>>154 >命題の数がn個なら、その付値が2^n通り、可能な真理関数の数は2^(2^n)
>に訂正すべし。細かいけど、、、
そうそう^^
>>160 「∀x ¬∀y ¬Fxy」は多重量化文ですよ.このことはいいのか.
フォーゲリンや飯田先生が「異種の多重量化は『論考』では扱えず、
従って『論考』の体系は述語論理をカバーできていない」と考えて
いるのであれば,それは単純に間違ってる.そもそも全称量化文を
無限連言,存在量化文を無限選言と見なしてよいと考えるのであれば
Wの一般形式で多重量化文も扱えるよ.たしかこのことはギーチが指
摘したのではなかったか・・・.
むしろ問題になってるのは一般形式の有限回の操作という部分という
ところだと思うけどね.
>>161 の補足(ちょっと僕のスレが連続しちゃうけど.)
やっぱり野矢先生ともだいぶちがうな.飯田先生も野矢先生も間違ってると思う.
話は非常に単純で,要は論理空間が無限だといってるのに一般形式の適用は有限
だというのはおかしいんじゃないのか,ということだよね.飯田先生はだからそ
うだと考えて,野矢先生はここでの無限は無限定・無制限ということだと解釈す
るんだよね.でも考えてみれば,『論考』の一般形式って否定式の無限連言であ
りうるということが前提されてるんだよね.だから「一般形式の有限回の適用」と
いうことであれば何も問題はないと僕は考えてるけど.
(
>>164 の続き)
だから可能無限とか実無限とか,そういった問題意識が『論考』には全然
なくて,そもそも無限の問題に対してこの時期のWは非常に無頓着だった
と思うんだよね.
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
竹田青嗣の現象学入門でも読んで勉強して。 こんなごちゃごちゃした議論意味ないし。
>>167 現象学者のすごいところはその自信だね.
169 :
考える名無しさん :03/04/21 01:46
____ /∵∴∵∴\ /∵∴ / ̄ ̄ ̄\ /∵∴/ ∧タケダ∧\ |──| <・> <・> | |∵ /| )●( | |∵ | \ ┣━┫ ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \| \____/ < 意味ナイ議論ハヤメテ竹田ノ現象学入門デモ読メヤ \____/ \_________________
>>169 意味のない議論じゃなくて,「君がその意味を理解できない」議論だろ^^
遅レス&非常に些細なことで申し訳ないですが、気づいたんで。
>>153 での「-ξ」についての説明で、
> ※本当は「ξ」という記号の上に否定を意味する横棒「-」が加えられたものです
とありますが、この横棒は否定の横棒じゃないんじゃないでしょうか。
『論考』5.501に、その棒は≪可変項が括弧内可変項の全ての値を代理することを示す≫ってあるので。
否定の意は(-ξ)の前のNによって表されているものと思います。
それだけです。失礼しました。
>>1 さん応援してます。
>>164 (稲)
量化子を無限連言・無限選言で書き換える操作を「有限回適用する」
ってことか、、、とすると、
(Ax1)(Ax2)...(Axn)Fx1x2...xn
みたいに無限のargumentをもつものは命題じゃないってだけの話だ
『論考』は間違ってなかった、よかった
(Ax1)(Ax2)...(Axn)Fx1x2...xn じゃ、argumentは無限じゃないな(w (Ax1)(Ax2)(Ax3)... Fx1x2x3... に訂正!
>171 (gakubuseiさん)
あ本当ですね。自分でも書いてから「胡散臭い説明だったな」と思っていた箇所でした。
ご指摘ありがとうございます。
微妙に参加者の方々も増えてきたようで嬉しく思います。
ただ今週僕が議論に参加できそうにないので、引き続き議論の方をお願いします。
>>164 (稲さん)
>でも考えてみれば,『論考』の一般形式って否定式の無限連言であ
>りうるということが前提されてるんだよね.だから「一般形式の有限回の適用」と
>いうことであれば何も問題はないと僕は考えてるけど.
僕としてはここで稲さんの言う「無限連言」の「無限」が可能無限としての無限というようにしか読めないんですが、どう違うんでしょう。
何か野矢先生と同じ主張に思われるのですけど。
>そもそも無限の問題に対してこの時期のWは非常に無頓着だった
この部分だけ見たら永井均さんと同じですね。理由は多分全然違うでしょうけど。
>>174 可能無限だろうが実無限だろうが僕の議論は何もかわりませんよ.
そもそも問題は「論理空間は無限だ」という主張と「一般形式の有限回操作」
という主張が矛盾してるんじゃないのか,ということですよね.僕が主張して
るのは,そもそも一般形式自体が無限連言でもありうるから,「一般形式の有
限回の操作」と「論理空間の無限性」は対立しないということです.この部分
に関しては可能無限とか実無限の議論はいらない.
それと,永井均の本は読んだことがないのでわかりません.
時間がないと言いつつ。 >そもそも問題は「論理空間は無限だ」という主張と「一般形式の有限回操作」 >という主張が矛盾してるんじゃないのか,ということですよね. はいそうです。そして問題の中心は、矛盾は異種の多重量化を構成するときに現れるか否か、ということにあると思います。 >僕が主張してるのは,そもそも一般形式自体が無限連言でもありうるから,「一般形式の有 >限回の操作」と「論理空間の無限性」は対立しないということです. 真理操作N(-ξ)が無限連言を表現できる、というのはもちろんそうです。 すると、N(-ξ)によって∀x∀y¬Fxy、¬∃x∃yFxyを有限回の操作で構成できます。 つまり、同種の量化子のみが現れている命題なら、N(-ξ)のみで構成できます。ここまでは、多分稲さんとの間に食い違いはない、と信じます。 ですが、異種の量化子が現れる多重量化、たとえば∀x∃yFxyという命題を構成するとき、”論理空間が無限(→定項の数が無限)なら”N(-ξ)を無限回適用しなければならない。 それは、「全ての真理関数は、要素命題に操作N(-ξ)を有限回適用するだけで得られる」(5・32)の主張と矛盾する。 繰り返しですが、これがフォジランの主張の骨子だと思います。 だから、稲さんが「,「一般形式の有限回の操作」と「論理空間の無限性」は対立しない」ことを主張するなら、異種の多重量化文も、有限回の真理操作で構成できることを示さなくてはならないのではないでしょうか? というのは、僕の疑問なのです。
>>176 いや,だからそれは単純にフォーゲリンの間違い.その問題は単純な一般形式を
使った変形の問題であって,一般形式を入れ子状に適用すれば多重量化を扱えま
すよ.確かこの問題はギーチが解決してるから,彼の論文を探してみたら.
なんだ。フォジランの論は間違いという意見だったのですか。それなら分かります。 ギーチの論文というのは、 "Wittgenstein's operator N" Analysis 41 のことでいいですか?
>>178 かな・・・,タイトルを見る限りそれっぽいね.僕は読んだことないんだ.
飯田先生が『大全 2巻』で挙げている論文なので多分これでしょうね。 そのうち当たってみます。でも飯田先生はギーチの反論があってもなおフォジランに軍配をあげてるってところがすっきりしないですね。 こればっかはとにかくギーチの論文読んでみないと判断つかないですけど。
181 :
考える名無しさん :03/04/22 13:59
____ /∵∴∵∴\ /∵∴ / ̄ ̄ ̄\ /∵∴/ ∧タケダ∧\ |──| <・> <・> | |∵ /| )●( | |∵ | \ ┣━┫ ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \| \____/ < 意味ナイ議論ハヤメテ竹田ノ現象学入門デモ読メヤ \____/ \_________________
182 :
考える名無しさん :03/04/22 14:07
ヘタクソな絵、止めろ。
183 :
考える名無しさん :03/04/23 02:56
なんで哲学者たちはみんな意味論意味論ゆってるんじゃよー。言語学者じゃないのに?
>>183 哲学者には〈言明のアツマリが妥当であるような形式〉をもとめようとするタチがあります。
というのは、哲学者が自己の思索を言い表わそうとすると、それには〈論証〉がふくまれがちだからです。
いまどきの哲学では「真か偽かを定めうる言明のアツマリ⊆意味をもつ言明のアツマリ」という観方が主だっているので、
〈言明のアツマリが妥当であるような一般的な形式〉すなわち〈真理一般の構造〉をもとめようとすると、いきおい、
〈言明のアツマリが意味をもつような一般的な形式〉つまり〈意味一般の構造〉をも、もとめようとするコトになります。
それで、〈真理の構造をもとめる理論〉と〈意味の構造をもとめる理論〉とには根深い絡まりがある、という見地から、
哲学者たちは意味論を問うわけです。
もっと詳しい説明は、このスレで『言語哲学大全W 真理と意味』が読み解かれるあたりで、
なされるでしょう―――だれかしらによって。
>>160 ご回答ありがとうございました、遅レスで恐縮です。
>>149 > 「実効的」のほうが良いでしょ。
丹治もそう訳しているね。
さて今週末から第2章へ入ろうと思います。
188 :
考える名無しさん :03/05/02 03:20
1巻最後まで読みましたが(ちなみに、このスレを読むのは初めてです) ラッセル、わけわかりません。電波なのでしょうかカレは
189 :
考える名無しさん :03/05/02 11:29
スレの雰囲気壊してすいません。 現象学に興味があるんですが、言語関係といえば ソシュールとバフチンしか読んでないんです。 分析系では、いちおうヴィトは読もうと思うのですが・・ 広大な分析哲学へ、どうアプローチするべきでしょうか。。。 まず読む本は、やっぱりこの飯田先生の本がいいんでしょうかね??
190 :
考える名無しさん :03/05/03 02:15
191 :
考える名無しさん :03/05/03 02:19
シロート質問なんだけど、命題の真偽とか パソコンで解けたりするの?
論理学は、深入りするつもりないなら野矢さんのだけで十分っしょ。
193 :
考える名無しさん :03/05/04 21:04
194 :
2.1 意味と像 (1) :03/05/05 00:13
では第2章です。2.1「意味と像」は、フレーゲの意味論の核心に入る前の前座です。 この章の目的を一言で言うと「心理主義的言語観を叩き潰しておくこと」です。飯田先生は余程この素朴な言語観が嫌いのようです(個人的にはそう無げに否定するのもどうかと思うんですが)。 ともあれ、フレーゲも19世紀末の数学の哲学における心理主義の風潮が気に入らなかったわけで、意味の心像説批判に先鞭を付けることになります。そしてこの批判はWに受け継がれ、『哲学探究』の中でこてんぱてんに批判されます。 ≪言葉の意味に対する心像説は、Wが徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであると見なすことができる。≫(p.82)
195 :
2.1 意味と像 (2) :03/05/05 00:14
心理主義によって言語の意味を全部説明しつくそうとする試みは、ちょっと考えただけでも破綻は明らかです。以下の二つの批判を見てください (1)心的イメージはあらゆる語や文に対応しているわけではない 「赤という語の意味は、私の心に浮かぶ赤のイメージである」。よろしい。この説明はいいでしょう。ですが、例えばフレーゲがGLAで提出した問い「数詞『5』の意味は何か」という問いに対し、心理主義の立場から答えられるでしょうか? あるいはWが言うように、「しかし」「または」などという語に対応する心的イメージとは何か? (2)もし語の意味が心的イメージなら、ある語を理解するとき、その人は語と結びつくイメージを持っている必要があることになるが、現実にはそうではない場合は多々ある もし人が心的イメージによって文を理解し、然る後に行動するなら、例えば「進め」という命令を聞いたら、 1.「進め」という語によって喚起されるイメージを通して命令を理解し 2.理解した内容に従って行動を起こす という二つのステップが必要になります。しかしWの挙げる例「赤い色を想像せよ」という命令に従うときは、1と2のステップを区別できません。 これだけでも、心理主義だけで一般的意味論を構築することはおよそ無理であることが分かりますが、≪ここまではいわばまだ前哨戦にすぎない≫(p.84)のです。 次に、決定的な批判が二つ紹介されます。一つはフレーゲの、もう一つはWのものです。
196 :
考える名無しさん :03/05/05 00:31
197 :
2,1 意味と像 (3) :03/05/05 00:50
フレーゲの批判: フレーゲが心理主義批判の際力説するのは、≪言葉の意味が主観的なものではなく、客観的なものである≫(p.85)ということです。 なぜこういう主張をするかと言えば、もし言葉の意味が心的イメージのような主観的なものなら、それを知ることができるのは本人だけで、他人には伝達不可能であることになるからです。 フレーゲが出す例は、「色の逆転スペクトル」の議論として知られているものの数学版です。 有名な議論なので詳細は略します(「逆転スペクトル」については野矢茂樹『哲学の謎』p.76に分かりやすい解説があるので、興味ある方は参照を)。 結論だけ言うと、「平面」と結びついているAのイメージと「点」と結びついているBのイメージと一致し、 「点」と結びついているAのイメージと「平面」と結びついているBのイメージが同じだとすると、二人はどのような定理が成立するかについて、意見が全く一致します。 すると、この「平面」や「点」という語と結びついている心的イメージは、≪言語伝達の場面で何ら役割を果たしていない≫(p.86)ことになります。 一体、言語によるコミュニケーションにおいて全く関与しない(場合もありうる)要素を「言葉の意味」などと呼ぶことができようか。できるわけがない。だから、言葉の意味は心的イメージではありえない、というのが批判の骨子なわけです。 しかし、このフレーゲの批判には二つの難点があります。 (1)私秘的な主観性の領域と公共的な客観性の領域という前提が疑わしい (2)心的イメージは確かに言語伝達において役割を果たさないかもしれないが、「私的意味」として温存する立場にはこれ以上追及のしようがない 結局、心理主義批判を哲学の舞台から葬り去る役割は、後期Wによって行なわれることになります。
198 :
考える名無しさん :03/05/05 01:30
>>197 >結論だけ言うと、「平面」と結びついているAのイメージと「点」と結びついているBのイメージと一致し、
>「点」と結びついているAのイメージと「平面」と結びついているBのイメージが同じだとすると、二人はどのような定理が成立するかについて、意見が全く一致します。
真理値を保存するようにして語の意味を入れ替えることができる(そのような関数が
存在する)というのがフレーゲのやった入れ替え議論だから、「定理」じゃないだろ。
パトナムも「双子地球」(だっけか?)なんかで言及してるし、意味論的証明もある
んだからデネットなんかで誤魔化さずにちゃんとやった方がいい。
その上で、この議論をしても語の意味が客観的に固定していることにはならんじゃない
かという問題が残る。
>(1)私秘的な主観性の領域と公共的な客観性の領域という前提が疑わしい
ってのはそういうことだろう?だったらいい、続けてくれ。
199 :
考える名無しさん :03/05/05 02:04
>(1)心的イメージはあらゆる語や文に対応しているわけではない 「赤という語の意味は、私の心に浮かぶ赤のイメージである」。よろしい。この説明はいいでしょう。ですが、例えばフレーゲがGLAで提出した問い「数詞『5』の意味は何か」という問いに対し、心理主義の立場から答えられるでしょうか? あるいはWが言うように、「しかし」「または」などという語に対応する心的イメージとは何か? 心像を心に浮かぶ絵と貶めて、「しかし」の絵は書けないだろう、と批判するなら、『目の見えない人でも話すから、言語の意味はVisual Imageではない』で十分じゃない? ここで批判している心理主義って具体的には誰の何て本よ?
200 :
考える名無しさん :03/05/05 03:11
だいたいフレーゲだって真理主義じゃんか なーんてシャレの通じるヤシはここにはいないのか!?
>>199 具体的に誰ということは言ってないようですが、今日、意味論における心理主義
というとブレンターノあたりを指す習慣になっているようです。
あと、最近学術文庫から出たG・H・フォン・ヴリグト『論理分析哲学』なぞも、
記号や式がほとんど出てこない恰好の入門書となっております。
赤間世紀氏によると「入門」を謳った論理学のテキストは、決まって難解なんだ
そうであります。
それと関連するかどうか分かりませんが、渡邊二郎『英米哲学入門』はおすすめ
しません。なんだか、この人が気の毒になっただけでした。
202 :
考える名無しさん :03/05/05 04:34
>>199 > 赤間世紀氏によると「入門」を謳った論理学のテキストは、決まって難解なんだ
そうであります。
で、自身も「計算論理学"入門"」(絶版ですが…)という名前の
テキストを書いていると。というのはどうでも良いのですが、「
入門」を謳った論理学のテキストが難しいと言うのは勿論、米国
のテキストに対して言えることですよね。
スマソ。レス先が違ってた。
そういえば一番最初に手にした論理学の本ってクリーネだったような・・。 敢えなく撃沈して、すぐ他の本さがしたっけ(^_^; ここらで軌道修正しますと、R・ローティが、分析派も超越論派も認識を視覚 イメージ(曰く、「自然の鏡」)だけに限って議論してるからアカンねん、 みたいなこと言ってた、確か。だから199氏は先走りしすぎかもですね。 大河入門書のスレなので気長に先を待ちましょうです。
>>198 >真理値を保存するようにして語の意味を入れ替えることができる(そのような関数が
>存在する)というのがフレーゲのやった入れ替え議論だから、「定理」じゃないだろ。
批判の内容が理解できませんでした。もう少し詳しく書いてもらえますか。
>真理値を保存するようにして語の意味を入れ替えることができる(そのような関数が
>存在する)というのがフレーゲのやった入れ替え議論
はいそうです。関数というのは面白い説明ですね。どちらかというと「手続き」という感じの気もします。
この場合、戻り値を返す必要はなく、入力項となる二つの語の意味を入れ替える作業を行なうことが目的ですから。
>「定理」じゃないだろ。
「『定理』じゃない」というのは、何が「定理ではない」のでしょう?主語を教えてほしいです。
206 :
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207 :
196&198&200 :03/05/05 13:48
心理主義が批判されねばならない点は唯一つだと思う。それは方法 論が定まっていないということ。心理主義ってだけでワッケワカラ ン主張たちが侵入してくるってのがダメ。 心理主義のささやかな主張ってのは、数学の論理学では指向性や傾 向性をもった述語、信念文、間接話法などの真理条件が分からんと か、(言語的)必然性を表現したいってこととかだろ? さてと、クワインも死んだことだし、様相とか内包とかってものが どれだけ有効なのか試してみる自由が哲学者にはあるんじゃないか? 、、、ってくらいで心理主義の話はもういいっつうか何つうかw
208 :
196&198&200 :03/05/05 13:57
>>205 語の意味には関係なく、形式的な理論が二つあって使う文字も公理
も推論規則も同じでありさえすれば同じ定理が出てくるじゃん。
>>208 うーん、再度聞きたいのですが
>>198 の文章において
「『定理』じゃない」というのは、何が「定理ではない」のでしょう?主語を教えてほしいです。
俺も
>>208 を読んだら余計わからなくなりました。
語に割り当てられる心的イメージ
には関係なく、形式的な理論が二つあって使う文字も公理
も推論規則も同じでありさえすれば同じ定理が出てくる
ので、語に割り当てられる心的イメージは意味ではない
というのはそのままフレーゲの議論の再構成になるんだから
「定理」でも通じてしまうでしょう。「定理」ではいけない、という
理由がこの段階ではまだ明らかになりません。
私に想像できた理由といえば、
問題の関数は「真理」の概念に訴える意味論的なものだが、
「定理」の概念は証明論的なものなので不適切。
だから「定理」を「真なる文」に置き換えるべし。
くらいでしょうか。そういう理解でいいですか?
(ただし心理主義批判当時のフレーゲに意味論的・証明論的
という確たる区別があったかは検討の余地がありますが。)
211 :
考える名無しさん :03/05/05 17:21
我考えるゆえに我あり
212 :
考える名無しさん :03/05/05 18:23
「多くの場合、色の名前は、われわれのもつ主観的な印象を指すものではない。 そうした主観的な印象については、それが他人の印象と一致するかどうかを知る ことはできない。なぜならば、同じ名前を用いることが、そうした一致の保証と はならないからである。そうではなくて、色の名前が指すものは、客観的な性質 なのである。」(『大全T』p85) これはフレーゲ『算術の基礎』の基礎からの引用の箇所なのですが、確か、先に触 れられた野矢さんの本によると、印象が主観的であろうと客観的であろうとフレー ゲの入れ替え議論が利くことになったと思います。このへんはどうなんでしょう? それはおくとしても「多くの場合」というのがやはり気になります。微妙な中間色 の場合でも客観性は保たれるでしょうか? 勿論、ここではフレーゲに限った議論 で結構です。
213 :
196&198&200 :03/05/06 04:54
>>209 >>210 そもそもフレーゲにおいては、語の意味は文の真理値への寄与なんでしょ?
定理以外にも真である文もあるでしょ?だから、定理だけ一致しても「言
語伝達」にはならないじゃん。
でさ、こんなこともあのフレーゲが分かってなかったはずがないじゃん。
「フレーゲの心理主義批判」なんて話半分でいいと思うよ。心理主義は根
本的に矛盾する、ということをフレーゲが示したって訳じゃないんだから。
「言語伝達」が不可能になるような心理主義的な意味の理論はダメだって
だけなんだから。
俺は研究者じゃないから207みたく無責任なことも言えるんだが、もひとつ
言わせてもらうと、「フレーゲの心理主義批判」みたいなのをあんまり強
く言い過ぎると、外延主義者というヌレギヌをフレーゲに着せることには
ならないか?ラッセルのパラドクスで相当へこんだらしいが、『意味と意
義』とか『思想』とかを見るとフレーゲだってやる気と時間さえあれば、
カルナップみたいなことやったんじゃないか?
ああ、変なこと言ってたら夜が明けてきたよ、、、
>>213 なるほど。それなら理解できました。まったく同意見です。
ただ、
>>197 は点や面など幾何学の文脈でしょうから(しかも
形式的な定理と非形式的なもの、という区別が重要な文脈
ではないようですから)、あの場面では「定理」を例にとった、
ということで理解できるかもしれませんね。
> 「フレーゲの心理主義批判」みたいなのをあんまり強
> く言い過ぎると、外延主義者というヌレギヌをフレーゲに着せることには
> ならないか?
たぶんならないと思います。カルナップだってフレーゲ流の
心理主義批判の上に立って仕事をしていたわけですから。
内包性・様相と心理主義は独立のものでしょう。
>>207 の
> 心理主義のささやかな主張ってのは、数学の論理学では指向性や傾
> 向性をもった述語、信念文、間接話法などの真理条件が分からんと
> か、(言語的)必然性を表現したいってこととかだろ?
もミスリーディングに感じました。
急にレベルが下がったな
>定理以外にも真である文もあるでしょ? あります。が、例として数学が用いられているので、「定理」も「真な文」の数学という分野における一例というだけの話だと思います。数学以外の言語一般にフレーゲの議論を適用するときに、「定理」ではなく「真な文」と言言い換えればよいかと。 >前提:語の意味(Bedeutung)は文の真理値への寄与である >結論:ゆえに、[二人の人間の間で]定理だけ一致しても「言語伝達」にはならない。 この推論の妥当性が、僕には分かりません。 推論の過程を詳しく書き出してもらえますか? >でさ、こんなこともあのフレーゲが分かってなかったはずがないじゃん。 >「フレーゲの心理主義批判」なんて話半分でいいと思うよ。心理主義は根 >本的に矛盾する、ということをフレーゲが示したって訳じゃないんだから。 >「言語伝達」が不可能になるような心理主義的な意味の理論はダメだって >だけなんだから。 「心理主義は根本的に矛盾する」ことを示さずに、「心理主義的な意味の理論はダメ」と主張することがなぜ可能でしょうか?そんなことをすれば、無根拠な独断と言われるだけだと思います。 それこそ、「こんなこともあのフレーゲが分かってなかったはずがないじゃん」
217 :
考える名無しさん :03/05/07 22:34
フレーゲの示した、心理主義の根本的な矛盾って何?
>>216 =1さん
> >結論:ゆえに、[二人の人間の間で]定理だけ一致しても「言語伝達」にはならない。
> この推論の妥当性が、僕には分かりません。
>>213 でもっとも重要なのは
> 定理以外にも真である文もあるでしょ?
の部分でしょう。
> 「言語伝達」にはならない
の部分は、
2人が言語伝達の上で同意するには真なる文すべてについて
一致しなくてはならないので、定理すべてについて一致しても
十分でない
くらいに受け取っておけばいいと思います。
>>216 > 「心理主義は根本的に矛盾する」ことを示さずに、「心理主義的な意味の理論はダメ」と
> 主張することがなぜ可能でしょうか?そんなことをすれば、無根拠な独断と言われるだけだと思います。
>>213 には
> 「言語伝達」が不可能になるような心理主義的な意味の理論はダメだって
> だけなんだから。
とありますが、これは、
心理主義のうちでも、言語伝達が不可能になるようなタイプの
心理主義の意味理論は矛盾する(あるいは非常にまずいことが
帰結する)
ということでしょう。213さんは内包性や様相を支持する立場まで
心理主義のうちに含めているらしく、「そうした心理主義までもが
フレーゲによって否定されるわけではない」とおっしゃりたいよう
です。
俺や1さんはそういう立場を心理主義に含めず、「心理主義のうち
でも、言語伝達が不可能になるようなタイプの心理主義の意味
理論」のことを「心理主義」と呼んでいる、というだけのことで、その
立場が否定されることには213さんも1さんも同意しておいでなの
ですから、実質的な見解の不一致はないでしょう。
いずれも実質的な論点ではありませんので、これ以上この話に
こだわってもたいした収穫はなく、「レベルが下がった」と言われる
だけだろうと思いますよ。次の議論に進みましょう。
>>217 >フレーゲの示した、心理主義の根本的な矛盾って何?
フレーゲはそれを現代の哲学者も納得するような論証では、示せていません。示した、と本人は信じたかもしれませんが。
フレーゲの論証の二つの難点は、
>>197 へ
>>219 >213さんは内包性や様相を支持する立場まで
>心理主義のうちに含めているらしく、「そうした心理主義までもが
>フレーゲによって否定されるわけではない」とおっしゃりたいようです。
そういうこと・・・なんでしょうか。
もしそうなら、正直今の段階(第1巻の内容)で僕から213さんへの反論はありません。
>いずれも実質的な論点ではありませんので、これ以上この話に
>こだわってもたいした収穫はなく、「レベルが下がった」と言われる
>だけだろうと思いますよ。次の議論に進みましょう。
レベルについては、あまり高きを望まれるとちょっと困る、というのが正直なところです(笑。
もしフレーゲの心理主義批判について、他にご意見がないなら、次の、Wによる決定的な心理主義批判へ進もうと思います。
ちょっとみんな心理主義に拘泥し過ぎかな.197の二つの難点といっても, フレーゲがおこなった批判は数学や論理学の基礎としての心理主義の立場に 対する批判だから,仮に主観的領域が存在するとしても,それは数学や論理 学を支えるものにはなりえない,という議論の仕方だよね.なのになんで 「私的意味」なんてものが問題になるのかわからない. 僕なんかフレーゲの議論は非常に鋭くてほぼ完璧だと思うけど.「なるほど ,数が何がしかの観念であるとしよう.すると私の数1の観念とあなたの数1の 観念があることになるだろう.ところで観念とは主観的なものであるというこ とが前提されている.だとしたら私の数1の観念とあなたの数1の観念が同一で あるということをどうやって示すことができるのか.観念を取り出して,それ が同一の観念であるということを示すことができるとでもいうのか.できない としたら,私の数1とあなたの数1が存在することになるだろう.しかしそれで は数存在の唯一性が説明されないのではないか.だから数を何かの観念だと考 えるのは不合理だ.」フレーゲの議論の仕方というのはプラトンの対話編に似 ていて,相手の前提条件を認めたうえで,その不合理さを内在的に示すという やり方だと思うけどね. 他にも僕は経験主義による抽象の議論に対する批判が好きでね.「経験主義 者は数3が,三つのものの特殊性を排除することから抽象されると主張する. しかしそれはまったく不合理だ.ここに異なった三つのものがあるとしよう. そしてそれらのものの特殊性が抽象されたとしよう.しかしなぜそのときに三 つのものが存在すると言えるのか.特殊性を排除してしまったら,そこに残 されるのは同一のものだけではないのか.だから経験主義の抽象などによっては 数は説明されない.」
222 :
2.1 意味と心像 (4) :03/05/11 15:07
Wの心理主義批判 その1: 参照箇所はPU第1部139-141節(73-74, 85-86節も参照)。 批判の流れは以下の通りです。 (1)言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵に置き換えられる。 (なぜなら像は"何物かの"像なのだから、心像⇔具体像の行き来は保証されている) (2)絵や見本などが言葉の意味ならその適用法(解釈法)が含まれているはずである。 (そうでないと絵を見てもそれが何の絵なのか理解できない。ちょうど抽象画を見てもそれが何の絵なのか分からないように。それでは絵が言葉の意味だとは言えない) (3)だが絵や見本には、常に、多様な解釈が可能であり、唯一の解釈があるわけではないことが指摘される。 (4)だから絵や見本は、言葉の意味ではない。連鎖的に、心像も言葉の意味ではない。
223 :
2.1 意味と心像 (5) :03/05/11 15:08
Wの心理主義批判 その2: Wが139節で出している例は、「立方体と三角錐の両方に見える絵」や「老人が山を登っているようにも下っているようにも見える絵」です。 ≪私が或る像を見る。その像は、杖にすがりながら急な坂道を登っている老人を表している。――それでは、如何にしてその像は、そのような事実を表しているのか? ・・・もしかしたら火星人はその像を、老人はその姿勢で坂道を滑っているのだ、と述べることもありうるではないか。≫(PU139節) さて、ここで、心理主義者から反論が来るかもしれません。その反論とは、 ≪語の意味は、心像とその投影法(解釈法)の両者から成るのであって、語を理解するとはあるイメージとその解釈法の両方が心に浮かぶことだ、とすればよいではないか≫(p.89) ですがWは逆に聞き返します。「投影法が心に浮かぶとはどういうことか?」と。それは結局心像を理解するための対応表が心に浮かぶことでしかない。 そして、その対応表も結局は心像である。とすれば、この対応表の解釈法も無数にあることになる。これでは無限後退だ。 対応表の解釈を決める対応表の解釈を決める対応表の・・・とやっていてはいつまでたっても語の意味は理解できません。
224 :
2.1 意味と心像 (6) :03/05/11 15:16
結局、否定すべきは仮定である「語の意味は心像である」という命題だったことになります。 それでは、飯田先生のまとめのお言葉です。 ≪Wの議論は、私には決定的と思われる。またこの議論が『哲学探究』全体の中で果たしている役割については多くの異なる解釈が可能であるとしても、 言葉の意味についてのデカルト以来支配的であった理論をその根底から崩すものとして、それ自身で独立の価値を持つものであろう。 そしてWの議論の源流は、『算術の基礎』におけるフレーゲの心理主義批判に求められるのである≫(pp.89-90) というわけで、2.1章は終わりです。次は「2.2 文脈原理と合成原理」です。 いよいよフレーゲ独自の意味論へ足を踏み入れることになります。
225 :
考える名無しさん :03/05/15 19:53
>>222-224 「Wの心理主義批判」となっているが、飯田の主張はピントが少しズレてるような気がする。
まず、PU138.の議論。
「立方体」の意味をある種の像のようなものとすると、これによって「立方体」の全使用
が必然的に決定されるように思われる。例えば、「立方体の像と三角プリズムの像は一致
しないのだから、『立方体』を三角プリズムに使用することは間違っている」と言うとき、
我々は語の像がその使用を決定すると考えているのである。
しかし、「立方体」を三角プリズムの像に適合するように投影してやることは可能である。
したがって、語の像がその語の全使用を必然的に決定する、というのは誤りである。
この議論はW後期のおもな主張とされる「Wのパラドクス」にも通じてる。これに習って
クリプキの議論を述べ直せば、
「+」という関数が存在すると考えると「+」をクワス的に使用することは間違っている
ように思われる。しかし、「+」をクワス的に使用しても矛盾しないように定義し直して
やることはいくらでもできるし、クワス的使用が間違いであるという議論は無限に後退す
るから決して正当化できない。
こうした議論でWは何をしたかったかというと、直観主義を批判したかったんだと俺は思
う。ここで言う直観主義は、我々は論理(排中律)を越えた実在を直観する、と主張す
る素朴なタイプのもので、排中律抜きの論理を主張するようなタイプじゃない。
だから、これらの議論ではWと直観主義の周辺とか、「排中律が成り立たないところでは
論理が成り立たない」というWの中期以降の主張とかを問題にすべきなんだと思う。とい
うのも、W自身がこの議論の「像」ってやつが「想像の中で浮かぶということは、全く本
質的ではない」とPU141.の後ろから三段目で述べてるから。
どう思う?
>>1
>>225 面白そうな意見をありがとうございます。
すぐには理解できないので、よく読ませてもらってからレスします。
最初に225さんに確認しておきたいのですが、PU138-141の議論が、(主要な論点ではないにせよ、とにかく)心理主義批判に「も」なっている、ということは、225さんは認められますか? それとも、この箇所の議論では心理主義批判はできていない、ゆえに飯田先生の読み方は間違っている、と考えますか? >「立方体」の意味をある種の像のようなものとすると、これによって「立方体」の全使用 >が必然的に決定されるように思われる。・・・・・・ >しかし、「立方体」を三角プリズムの像に適合するように投影してやることは可能である。 >したがって、語の像がその語の全使用を必然的に決定する、というのは誤りである。 という225さんの書き込みを見る限り、心理主義批判には成功している、と考えているように読めますが。 その上で、「PUのこの箇所でWが本当に議論したい焦点は本当は心理主義批判じゃなくて、直観主義批判だったのだ」 という意見でしょうか?
>>227 議論中の「像」なるものが「想像の中で浮かぶということは、全く本質的ではない」と
述べるPU141.の後ろから三段目はやはり無視できない。俺の手元には黒崎訳しかないん
だけどw。
この部分が本来Wの意図したものだとしたら、「Wの心理主義批判」にはならないと思う。
ところでWの決定可能性についての議論は19年『論理形式について』の「色排除問題」
までさかのぼることができると俺は思う。「これは赤くかつ青い」のような命題は
『論考』の論理にとっては決定不可能だったから。これ以降、無理数についての命題
の中には、例えば「πに123...789は現れるか」のように算術にとって決定不可能な
命題があるというよく知られた主張も繰り返し出てくるし。ダメットの『Wの数学の哲学』
でも触れられているけど、これはWが直観主義から借りてきたもの。
意味と言えば真理条件しか知らないWは、
「『πに123...789は現れるか』が決定不可能でも、我々はπの実在を直観する」
と主張する直観主義はおかしいと思ったんだろうな。
あ、俺は225、だった。
230 :
考える名無しさん :03/05/17 10:49
>この部分が本来Wの意図したものだとしたら、「Wの心理主義批判」にはならないと思う。 なるほど225さんは、「心理主義批判にも成功していない」という意見ですね。それなら議論の焦点となるポイントは以下の二つになると思います。 (1)WのPU第1部139-141節の議論では心理主義批判としては成功していないのか? (2)同箇所の議論は、「人間は実在を直観する」という直観主義の主張に対する批判になるのか? また夜に書きます。
>議論中の「像」なるものが「想像の中で浮かぶということは、全く本質的ではない」と >述べるPU141.の後ろから三段目はやはり無視できない。俺の手元には黒崎訳しかないん >だけどw。 >この部分が本来Wの意図したものだとしたら、「Wの心理主義批判」にはならないと思う。 あの,「彼の想像の中で浮かぶ事は,全く本質的ではない」のは,「念頭に浮かん だ像」がではなく,「その像について――時の流れの中で――彼が行なった使用」こ そが,その記号の意味を決するものだからなのではないでしょうか? つまり,「念 頭に浮かんだ像」という心理的な事象は,(その「記述,描写,あるいは模造を形成 する」[Baker & Hacker 1980,83, 262])事等によって公共領域に齎され得る限 り,全く言及し得ないものではないにしても),少なくとも記号の意味にとっては非本 質的なものだ,という意味の心理主義批判がメインのパラグラフに,私には思えます. あるいは >225氏がいわれる<直観主義>は,心的作用による本質の無媒介的 把握を主張する立場,のようにも解せるように思われ,その場合は,その意味での <直観主義批判>と所謂<心理主義批判>は同一の問題の異なった観点からのネーミ ングのようにも思われます.
233 :
考える名無しさん :03/05/18 23:05
>>201 >渡邊二郎『英米哲学入門』はおすすめ
>しません。なんだか、この人が気の毒になっただけでした
某氏の感想、「僕はこの本を見て、他人を罵倒する日本語の語彙が各も豊かなもので
あることをはじめてしりました」
>>201 >>233 >渡邊二郎『英米哲学入門』
私は読んでないので詳しいことはよく知りませんが、間違いが多くてかなり
有害な本らしいですね。英米系分析哲学がさかんな某大学では、学生が読ん
ではいけない本に指定されているようです。
>>225 >ここで言う直観主義は、我々は論理(排中律)を越えた実在を直観する、と主張す
>る素朴なタイプのもので、排中律抜きの論理を主張するようなタイプじゃない。
このような意味での「直観主義」という言葉ははじめてきいたのですが、わりと
一般的な用法なのでしょうか? また、「論理(排中律)を越えた実在を直観する」
というのはどういう意味なのでしょう。もう少し詳しく説明していただけると
ありがたいのですが。
あと、このような意味での「直観主義」を主張した哲学者ということで、具体的
には誰が念頭におかれているのでしょうか。
236 :
考える名無しさん :03/05/20 21:23
おーい225、君の回答がないとスレが進まんぞ。
てかうちの大学では渡邉はローティ評価してるから許せん!って教授が 怒り狂ってたが
>>236 スマソ、仕事だ。
>>230 >>235 ええと230の(1)についてはPU141.の後ろから三段目次第だな。
これを無視してもいいって言うんなら話は別だけど、俺はこれを無視できないと思う。
「Wの心理主義批判」という飯田の解釈についてはこれを中心問題にしてくれ。
230の(2)とか235とかは俺の考えについてってことでいい?
でも、面白そうとか言って興味があるなら自分で調べなよ位は言わせて欲しい。俺は1の指導教官じゃないからね。
その上で、論理学上の直観主義のプログラムはヘック?とか自然演繹とかでしょ?
意味の理論はダメットの主張可能条件?正当化可能条件?でしょ?
それ以前は素朴な主張もあったんじゃないかな。
ブラウワや裏切り者ワイルの著作およびWの彼らへのリファレンスを自分で当たってくれ。
>>232 心理主義と直観主義の区別については決定可能性についてのところを頼むから読んでくれ。
土日月と不定期の仕事だった。儲かりもしないのに何やってんだろな、俺は。
どうぞ。
>>1
ワイルって裏切り者なのかよ・・
240 :
255で逝くことにした :03/05/20 22:11
>>238 238の「?」付きのとこは今のところ記憶が定かでない。
必要があったら訂正してくれさい。
徹夜はもう御免です、もう寝るんです、、、
241 :
255で逝くことにした :03/05/20 22:15
布団の中で思い出した。直観主義論理の形式化はヘックじゃなくてハイティイングだった。
>>239 ヒルベルトは烈火の如く怒ったらしい。
こんどこそねる
242 :
考える名無しさん :03/05/20 23:14
>228さん >>これは赤くかつ青い」のような命題は『論考』の論理にとっては決定不可能だったから。 なぜ決定不能なのですか?
225からまた随分とりとめない回答が着たな・・・?マーク多すぎだよ。
具体的なリファレンスの書名は一冊もあがっとらんし(自分で調べろって?)。
>>232 >心理主義と直観主義の区別については決定可能性についてのところを頼むから読んでくれ。
何の本の「決定可能性」の箇所?『大全T』にもPUにも決定可能性について直接論じた箇所はないと思うが。
自分の典拠と論拠を隠して「後は調べて」でネット上の議論を進めるのは難しいぞ。
>242
>>これは赤くかつ青い」のような命題は『論考』の論理にとっては決定不可能だったから。
>
>なぜ決定不能なのですか?
この問題やり始めると終らない予感。スレの主旨ともズレるし。
>>238 (225)は本当に
>>232 のいちご姫のレス読んだのか?
PU141節の最後から3段目の段落には確かに「像が想像の中で浮かぶことは本質的ではない」という記述がある。
だが、ちゃんと前後の文章を読んでくれ。他の人々にも分かるように該当箇所を書き出そう。
「そしてこの場合、その像が、絵或は模型として彼の眼前に在るよりは、或はまた、彼によって模型として作られるよりは、むしろ、彼の想像の中で浮かぶという事は、全く本質的ではない、ということは全く明らかではなかろうか?」(黒崎訳)
「そして、かかる映像が空想の中でかれの念頭に浮かび、むしろ見取図やモデルとして彼の前にあるのではなく、また彼によってモデルとして作り出されるのではない、ということがあくまでも非本質的なことである、ということがここで明らかになってはいないか」(藤本訳)
どちらの訳も、比較構文を直訳したために回りくどい訳になっているが、要するに「像が想像の中で浮かぼうとも、模型として眼前に見えようとも、両者の間に本質的違いはない」ということだ。
これは、
>>222 で1が要約した
(1)言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵に置き換えられる。
ということと同じ主張だ。
225の日本語読解力を疑いたくなる。
「200=225」という仮説を立ててみた。 半端な知識といい加減な論証、その二つの欠点を補って余りある態度のデカさがよく似ている。
246 :
考える名無しさん :03/05/21 07:24
>>229 >「これは赤くかつ青い」のような命題は『論考』の論理にとっては決定不可能だったから。
これ、ほんとに決定不能?
論考の大前提って真理函数の相互独立だから、分析して「これは赤い」「これは青い」
に真理知付与すればどっちかはすくなととも偽だから、連言「これは赤くかつ青い」は
偽だ、が真理値は決定される。
(問題は、原子命題は相互独立なのに、「これで赤である」と「これは青である」はそれ自身は
相互独立ではなく、しかも、相互独立な原始命題に分析できそうにもない点。)
君が言う決定不能は何に付いてかなのかな?
247 :
考える名無しさん :03/05/21 20:18
>>246 >論考の大前提って真理函数の相互独立だから、分析して「これは赤い」「これは青い」
>に真理知付与すればどっちかはすくなととも偽だから、連言「これは赤くかつ青い」は
>偽だ、が真理値は決定される。
そう簡単にはいかない。
「分析して「これは赤い」「これは青い」に真理知付与すればどっちかはすくなとと
も偽」といえるかどうかが問題点。
分析した結果「これは赤い」が「これは青くない」を含意(その逆も)している複合
命題ならば万歳だが、分析結果相互排斥はでそうにない。
この色の相互排斥問題は「論理形式について」『考察』などで扱われ、結局、色文法
の特性であるとして、『論考』自己否定の一契機になるトピなんだから。(「我々は物
差しの両端を物にあてがう」といった時、『論考』におけるように両端のみがではなく、
その物差しの全ての尺度があてがわれているのだ。」)
248 :
考える名無しさん :03/05/21 20:21
246撃沈(激爆)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
250 :
考える名無しさん :03/05/22 00:23
246はまあいいとして、225の言うことはホントに訳ワカメだ。
>>232 のいちご姫と
>>244 の主張(「141節は心理主義批判だ」)は全く正当だろ。
ていうか141節の最後から3段落目をどういう読み方したら「141節は心理主義批判ではない」なんて言えるんだ?
まさかそんな電波な読み方されてると知ったらWもあの世で怒り心頭だな。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
252 :
考える名無しさん :03/05/22 01:21
246=250 アホ丸出し。(ワラ
253 :
考える名無しさん :03/05/22 08:58
>>244 >(1)言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵に置
> き換えられる。
私も議論の流れは概ね>244さんがおっしゃるとおりだと思います.ここでの
ウィトゲンシュタインの思考は
α) もし,心像が語の意味であるなら,心像は公共的世界に対応者を持たねばなら
ない( この場合,公共的対応者を意味として扱って何の問題もないので,心像
は意味論的には余剰 ).
β) もし,心像が公共的に齎され得ないのなら,それが語の意味であるとしたら他
者との公共的コミュニケィションは不可能になるので,語の意味ではない.
よって,何れにせよ,心像は語の意味でない,
という論法の流れにおいて,§141-bも読まれてしかるべきではないでしょうか?
254 :
考える名無しさん :03/05/22 09:31
>>213 >「フレーゲの心理主義批判」みたいなのをあんまり強く言い過ぎると、外延主義者
>というヌレギヌをフレーゲに着せることにはならないか?
ならめ。 Sinnは、Bedeutungの与えられ方といわれるだけで、その与
えられ方は別に心理的だとはいわれていなねべ。
255 :
考える名無しさん :03/05/23 20:50
225は議論放棄して尻尾巻いて逃げ出した、ということでOK?> all
256 :
考える名無しさん :03/05/23 20:52
哲学学者の特徴 ・独創性より小器用さを重視した議論をする。常識的結論を恐れない。 ・論理学を学んでいない相手を馬鹿にする。記号遊びの自覚がない。 ・学問の蓄積なるものを重視する。哲学は進歩しないのに気付かない。 ・哲学は共同作業だと思っている。独り考えることこそ重要なのが判らない。 ・哲学はロマンではないと主張する。本当に大切な問題に興味がない。 ・哲学は問題解決だと信じ込んでいる。神秘の前で立ち止まる事をしない。 ・哲学科の学問が哲学だとする。「人は何のために生きるか」など考えない。 ・深淵な問題を回答可能に修正したがる。ナマの問題に立ち向かわない。 ・英米の哲学を有難がる。日本本来の思想に関心がない。 ・哲学学が役に立つと考えたがる。社会のお荷物なのをを認めない。 ・明晰な議論をしていると自負している。全然明晰な議論をしない。
258 :
2.2 文脈原理と合成原理 (1) :03/05/24 02:05
GLAにおいて、フレーゲは次の三原則を立てました。 1.心理的なものと論理的なものを区別せよ。主観的なものと客観的なものも区別せよ。 2.語の意味(Bedeutungの方)は文の中で考えろ。語単独の意味を問うな(文脈原理)。 3.概念と対象との区別を常に念頭に置くべし。 この章ではまず2番の文脈原理について、なぜフレーゲがこの原理を立てたのか、この原理の重要性は何か、という2点が解説されます。 その後に、文脈原理から導かれる合成原理「文の意味は、それを構成している語の意味と文の構造(=論理形式)によって決定される」について解説されます。 一見したところ、≪文脈原理と合成原理は矛盾するのではないか≫(p.97)という疑問を持つ人もいるかもしれません。 ですが、飯田先生はこの両方の原理が≪矛盾するどころか、ともに言語理解にとって不可欠であること≫(p.99)を、この章の結論としています。 そして本章を読み終わった時には、 文の意味 = 語の意味の総和 ではなく、 文の意味 = 論理形式 + 語の意味の総和 であることが理解されるはずです。
259 :
2.2 文脈原理と合成原理 (2) :03/05/24 02:06
文脈原理はなぜ必要か?: フレーゲは何故文脈原理を立てたのでしょうか?語の意味を問うとき、例えば「犬」という語の意味は何であるかを考える時、「犬」という語単独の意味を考える、というのはごく自然な態度です。一体このやり方のどこが悪いと言うのか。 フレーゲによれば、語の意味を単独で問う方法の欠点は、それが心理主義を生み出す原因になるところです。 ≪文脈原理をなおざりにするならば、個々の心に属する内的な像や行為を語の意味と解することを余儀なくされ、その結果、第一の原則にも反することになる≫(GLA 序文) 確かに「『犬』という語の意味は何か」と尋ねられれば「それは犬のイメージだ」と答えたくなるのが心情というもの。しかしこの答えが不正解であることは、2.1章を読んだ僕達には明らかです。 ですが、フレーゲが挙げるこの理由が正しいかどうかは疑わしい、と飯田先生は言います。 要するに「文脈原理を守らなかったからといって、そのことが必然的に心理主義を導くという証明などどこにある」ということです。 おまけに、フレーゲの心理主義批判には文脈原理は全然関与していません。ひょっとして文脈原理というのは全く不要な原理だったのではないだろうか? その心配は要りません。≪文脈原理を、心理主義への歯止めとして消極的に使用するのではなく、より積極的に語の意味についてのテーゼとして解釈するとき、この原理の重要性は明らかとなる≫(p.92)からです。 その重要性は以下の3つです。 (1)言語における文の中心的役割の認識 (2)文の意味と語の意味の関係についての洞察 (3)文の理解が何に存するかという問いへの一つの解答
260 :
2.2 文脈原理と合成原理 (3) :03/05/24 02:06
文脈原理の重要性: (1)伝統的論理学では、語の意味と文の意味との間に区別はありませんでした。この単純な意味論の背景には、無論、第1章で見たように、文を一次元的な語の並びと解釈する構文論があります。 この伝統的意味論の欠点は、≪複合的な句と文の意味の違いを説明できない≫(p.93)ことです。なぜなら文の意味は語の意味の足し算として捉えられるからです。この意味論に従うと句と文は同じものになってしまいます。 文脈原理の重要性の一つは、文を意味論の基本単位に据えたことにあるわけです。 (2)文が言語における中心単位であることを認めたなら、当然、語の意味も文の意味との関連で求めねばならない、ということにも同意してもらえるでしょう。 ≪文の意味の一般的な特徴づけが与えられて初めて、語の意味は、それが現れる文全体が持つ意味への寄与として、一般的に特徴付けることが可能になる≫(p.94) 「文から語へ」というこの戦略がほとんど必然的な理由は、以下の2点に集約できます。 1.文の意味の一般的特徴づけは語の意味の一般的特徴づけをしなくてもできるが、その逆をやろうとすると、文を言語の中心単位に据えるという(1)の方針に反する結果になる。 2.この戦略を取ることで初めて、文の意味に寄与する語の意味以外の要素、つまり文の「論理構造」の寄与を評価できるようになる。 (3)文が言語の中心単位である、という認識は、一つの重大な問題の存在を明らかにします。それは、「一つの言語の中で構成できる文は無限にあるのに、なぜそうした日々生まれる新しい文を僕達は理解できるのか?」という問題です。 この疑問は、語の意味を第一義に考える理論では生じません。見知らぬ文であっても、それを構成する語の意味が分かれば文の意味も決まるからです(だがもし「文の意味=語の意味の総和」なら、同じ語から違う意味の文を複数構成できるのは何故なのか?)。 フレーゲはこの問いに明確に答えています。「それは語の意味が文の意味に寄与するからだ」と。それゆえ、人間は無数の文の意味を一つ一つ覚えるという苦行をしなくても、初めて会う文の意味も、語の意味と論理構造を組み合わせることで理解できるわけです。 以上が、文脈原理についての解説です。次は、合成原理です。
>>144 つまり、星井七瀬(;´Д`)ハァハァの人にとっては、自己-星井の
間に生起する関係は「我-汝」であらねばならないのに、実際の
「なっちゃん」と言う言葉はどうしても田中麗奈を連想させてしま
うため、そこに第三者が不可避的に介入し、生起する関係が
「我-彼女-彼女」という、自己から距離を置いたものにならざるを
えず、最終的に自己は孤独のうちに自慰して一日を終えるという
ことか。。。
262 :
考える名無しさん :03/05/24 07:33
【分析哲学の特徴】 ●独創性より小器用さを重視した議論をする。常識的結論を恐れない。 ●論理学を学んでいない相手を馬鹿にする。記号遊びの自覚がない。 ●学問の蓄積なるものを重視する。哲学は進歩しないのに気付かない。 ●哲学は共同作業だと思っている。独り考えることこそ重要なのが判らない。 ●哲学はロマンではないと主張する。本当に大切な問題に興味がない。 ●哲学は問題解決だと信じ込んでいる。神秘の前で立ち止まる事をしない。 ●哲学科の学問が哲学だとする。「人は何のために生きるか」など考えない。 ●深淵な問題を回答可能に修正したがる。ナマの問題に立ち向かわない。 ●英米の哲学を有難がる。日本本来の思想に関心がない。 ●個別の問題解決にこだわる。包括的な体系に頓着しない。 ●哲学学が役に立つと考えたがる。社会のお荷物なのをを認めない。 ●明晰な議論をしていると自負している。全然明晰な議論をしない。
263 :
考える名無しさん :03/05/24 07:38
哲学屋の特徴 ・独創性より小器用さを重視した議論をする。常識的結論を恐れる。 ・論理学を学んでいない相手を馬鹿にする。記号遊びの自覚がない。 ・学問の蓄積なるものを重視する。哲学は進歩しないのに気付かない。 ・哲学は共同作業だと思っている。独り考えることこそ重要なのが判らない。 ・哲学はロマンではないと主張する。本当に大切な問題に興味がない。 ・哲学は問題解決だと信じ込んでいる。神秘の前で立ち止まる事をしない。 ・哲学科の学問が哲学だとする。「人は何のために生きるか」などしか考えない。 ・深淵な問題を回答可能に修正しない。戦争は哲学で解決可と本気で言う。 ・英米の哲学を有難がる。日本本来の思想に関心がない。 ・哲学学が役に立つと考えたがる。社会のお荷物なのをを認めない。 ・明晰な議論をしていると自負している。全然明晰な議論をしない。
264 :
考える名無しさん :03/05/25 02:18
犬の意味とは 娘「パパー。私の結婚式このタキシードにしなよ。」 父「だめだめ、貸衣装でいいよ。」 タキシードには「愛犬とペアルックで」の宣伝文句が! 可愛いチワワのタキシ−ド姿が父の心象に浮かぶ。どうする?アイフルー! 父の選択は「語の意味は心像である」という命題だったことになります。 したがって Wの心理主義批判は、私には決定的に現実の状況をつかめてないと思われる。 心象の解釈法は無数には存在しないよな。
265 :
考える名無しさん :03/05/25 02:19
くーちゃんは?
266 :
考える名無しさん :03/05/25 02:23
ねえくーちゃんは?
267 :
考える名無しさん :03/05/25 13:41
犬の意味とは(リマスター版) 娘「パパー。私の結婚式このタキシードにしなよ。」 父「だめだめ、貸衣装でいいよ。」 タキシードには「愛犬とペアルックで」の宣伝文句が! 可愛いチワワのタキシ−ド姿が父の心像に浮かぶ。どうする?アイフルー! 父の選択は「語の意味は心像である」という命題だったことになります。 したがって Wの心理主義批判は、私には決定的に現実の状況をつかめてないと思われる。 心像の解釈法は無数には存在しないよな。 Wの心理主義批判を使用してこのケースが間違いだと例示できなければ ウィトゲンシュタインの心理主義批判は、金銭的に余裕のないオヤジの意味の 捉え方より劣る思考法になってしまいます。
つまんね
269 :
考える名無しさん :03/05/25 14:09
>267 あのパパの心臓は意味ではない
271 :
考える名無しさん :03/05/25 19:03
犬の意味とは もう無視してもらって結構です。現実に近いサンプルの提示でも扱えない ケースは多いでしょうから。
272 :
考える名無しさん :03/05/25 19:20
誰も答えられず、全滅。 ボバ〜ン
273 :
考える名無しさん :03/05/26 11:03
語の理解 犬を意味理解するには語の意味との一致が必要ですよ。 でも大全スレに関係ないので。
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
保守
276 :
考える名無しさん :03/05/28 22:21
誰も答えられず、全滅。 (爆)
277 :
考える名無しさん :03/05/28 22:26
>263 すげえ!超☆的確だ!
279 :
(( ;゚Д゚)) :03/06/05 21:18
>>122 > 2nd editionが一番いい
ちなみになんでですか?
280 :
考える名無しさん :03/06/05 21:20
この板の初心者ですが、ひとつ根本的な質問に答えてください、 お願いします。 哲学というのは何を研究する学問ですか? 誰か答えてよ〜。
281 :
考える名無しさん :03/06/05 21:28
この板の初心者ですが、ひとつ根本的な質問に答えてください、 お願いします。 哲学というのは何を研究する学問ですか? 誰か答えてよ〜。 別にふざけているわけでも、荒らしているわけでもありません。
282 :
考える名無しさん :03/06/05 21:43
犬の意味とは(リマスター版) 娘「パパー。私の結婚式このタキシードにしなよ。」 父「だめだめ、貸衣装でいいよ。」 タキシードには「愛犬とペアルックで」の宣伝文句が! 可愛いチワワのタキシ−ド姿が父の心像に浮かぶ。どうする?アイフルー! 父の選択は「語の意味は心像である」という命題だったことになります。 したがって Wの心理主義批判は、私には決定的に現実の状況をつかめてないと思われる。 心像の解釈法は無数には存在しないよな。 Wの心理主義批判を使用してこのケースが間違いだと例示できなければ ウィトゲンシュタインの心理主義批判は、金銭的に余裕のないオヤジの意味の 捉え方より劣る思考法になってしまいます。
>282 語「犬」の意味は、可愛いチワワのタキシ−ド姿の心像ってことですか?
>282 >>父の選択は「語の意味は心像である」という命題だったことになります。 父は「愛犬とペアルックで」の宣伝文句の意味を理解して、可愛い チワワのタキシ−ド姿を想像したのであって、「愛犬とペアルック で」の宣伝文句の意味が何であるかと考えたら、可愛いチワワのタ キシ−ド姿という心像が思い浮かんだというのではないでしょう。 飛躍しすぎでは。
それはさておき、 『意味とは、われわれの心に浮かぶ像である』という考え方をとる 場合、同じ心像が異なる語に対して思い浮かんだとき、その語は同 じことを意味していなければならない。しかし、明らかに意味の違 う語に対して同じ心像を思い浮かべることはありうる。 次のようなことを考えてほしい。ある人が語「愛犬とペアルックで」 に対して可愛いチワワのタクシード姿という心像を思い浮かべたと する。また、この人物が語「自分のことを人間だと思っている犬」 に対してまったく同じ心像を思い浮かべたとする。この場合、その 人にとって語「愛犬とペアルックで」と語「自分のことを人間だと 思っている犬」は同じ意味をもつはずである。なぜなら、意味=心 像が同じなのだから。しかし、これは明らかにおかしい。 心像の解釈法が無数にあるから意味の心像説はおかしいとウィトゲ ンシュタインは批判しているのではない。批判のポイントは、意味 づけされる語やその同意語にのみ適用される心像の解釈法を心像か ら決定することができないという点にある。異なる語に同じ心像を 割り当てる解釈を排除することができないのだ。
ちょっとしたパズル(意味の心像説をとるひとに) 「心像に浮かばない」という語の意味となる心像とは、どんな心像 だろうか。そもそもそんな心像はあるのだろうか。
287 :
考える名無しさん :03/06/08 02:03
犬の意味とは >次のようなことを考えてほしい。ある人が語「愛犬とペアルックで」 >に対して可愛いチワワのタクシード姿という心像を思い浮かべたと >する。また、この人物が語「自分のことを人間だと思っている犬」 >に対してまったく同じ心像を思い浮かべたとする。 無理して同じ心像を割り当てなくてもいいのに。これではテキトーな 解釈されても仕方ないよ。現実じゃないんだから。 ウィトゲンシュタインと同じようなやり方だ。現実にどう解釈しても たいして困らない例しか提示しないんだ。
288 :
考える名無しさん :03/06/08 02:06
犬の意味とは >批判のポイントは、意味づけされる語やその同意語にのみ適用される >心像の解釈法を心像から決定することができないという点にある。 >異なる語に同じ心像を割り当てる解釈を排除することができないのだ。 解釈を排除できなくても、人間だったら何らかの決定はできるよな。 愛犬が可愛いパパのようにねえ。語の意味を心像にすればいいだけ。 どうする?アイフルー!
289 :
考える名無しさん :03/06/08 02:08
フレーゲの文脈原理に依拠しても、語の意味は心像になる フレーゲ「語の意味は、文脈において問われなければならず、 孤立して問われてはならない。」 『算術の基礎』 そのとおりです。それでは、以下の文脈で意味を問うてみよう。 『犬の意味とは(ファイナルアンサー版) 娘「パパー。私の結婚式このタキシードにしなよ。」 父「だめだめ、レンタルでじゅうぶん!」 タキシードには「愛犬とペアルックで」の宣伝文句が! 可愛いチワワのタキシ−ド姿が父の心像に浮かぶ。どうする?アイフルー!』 やっぱり語の意味は心像だよ。なんでだろう? 語の意味を文脈で問う方法の利点は、それが心理主義を増強できることです。
290 :
考える名無しさん :03/06/08 02:27
犬の意味とは(合コン版) おしゃれな居酒屋で 分析哲学徒「次のようなことを考えてほしい。ある人が語「愛犬とペアルックで」 に対して可愛いチワワのタクシード姿という心像を思い浮かべたと する。また、この人物が語「自分のことを人間だと思っている犬」 に対してまったく同じ心像を思い浮かべたとする。」 アユミ 「それよっかさー。森山直太朗の「さくら」っていいよね。 なんかさー。高校ン時の先輩思い出しちゃった。もー超イケメン。」 語の意味どころか、合コンの意味すらわからないんです。 >意味づけされる語やその同意語にのみ適用される心像の解釈法を心像から >決定することができないという点にある。 人間の言語活動をまともに見てないんだから、決定できなくて当たり前。
291 :
考える名無しさん :03/06/08 03:04
>286 名前:284 :03/06/08 00:39 > ちょっとしたパズル(意味の心像説をとるひとに) > 「心像に浮かばない」という語の意味となる心像とは、どんな心像 > だろうか。そもそもそんな心像はあるのだろうか。 語の意味は心像です。 自己を含む語の心像でもイメージングはできるよね。語の意味は心像だから。 人間だったらできるよな。 自分のひげを剃らない床屋なんて現実には存在しないだろうが、 イメージはできる。なぜなら、語の意味は心像だから。
292 :
考える名無しさん :03/06/08 03:45
またしても圧勝! すばらしい。
293 :
考える名無しさん :03/06/08 07:20
295 :
考える名無しさん :03/06/08 19:09
犬の意味とは すみません。分析哲学の才能がないので、書き込まないようにします。 今後は飯田先生が薦めていらっしゃるようにプラトンの対話編を読み込みます。 プラトンなら哲学で少年愛好者の恋心まで扱ってますから。 美少年なら、色黒だろうが、色白だろうが誰でも肯定できることを他人に承認 させて、そこから<真の哲学者>の定義を<真実を観ることを愛する人>だと 強引に論証していくテクニック。 美少年愛好者の恋心から<真の哲学者>の定義だって。 もう、すんごい哲学おじさんが古代にはいたんすねー。
296 :
考える名無しさん :03/06/08 20:11
犬の意味とは まだまだ解決してないとおもわれるので 以後もがんがん書き込んでいくつもりです。 とりあえず。
297 :
考える名無しさん :03/06/08 21:01
解決してないなら他スレいけ
298 :
考える名無しさん :03/06/08 21:25
確信犯だと思われ
犬の意味を書き込んでるのはコテンパテンにやっつけられた225だろ。 無視しろ。
犬ですね299は。
>>280-281 〈哲学〉=pdfn.《( )を研究する学問》。
さて、どんな文句を、丸括弧のなかに書き入れようか。
とりあえず、
〈哲学〉=pdfn.1 《(あらゆる学問)を研究する学問》。
と入れてみる。
302 :
考える名無しさん :03/06/09 17:59
〈哲学〉=pdfn.《(世界)を研究する学問》。
303 :
考える名無しさん :03/06/09 18:07
マスコミの盗聴、盗撮は許されるのか?
http://natto.2ch.net/mass/kako/974/974478132.html 489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。
ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。
ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
そこからマスコミに広がって行った。
だから余計「妄想」とか思われそう。
友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。
書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど)
305 :
考える名無しさん :03/06/10 08:03
1さん、このスレに帰ってきまつよね? ちょっと忙しいだけでつよね?
言語哲学大全2を読むスレはここですか?
>>306 あるいは、1さんは、合成原理についての〈読み〉を、まとめあぐねているのかもしれない。
もっとも、その可能性は、読解力のある1さんについては、低そうだ。
「大全」を、各人で読み解きながら、1さんのカンバックを期して待つべし。
保守
ユクーリいきませう
保守。4巻むつかしいな
ちょっと仕事で家を留守にしてました。 お待ちの方々にはご迷惑をおかけしました。 少ししたらマターリと再開する所存です。
あ、1さんだ!
>>313 おかえりなさーい。
再開する前に読み直しとこっと。
316 :
考える名無しさん :03/07/13 02:12
a g e
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ぶっちゃけミック氏ですよね・・・
319 :
考える名無しさん :03/07/20 13:57
せっかくの良スレ。資源を大切にしよう。
320 :
考える名無しさん :03/07/20 23:49
>318 本人が黙ってんだから詮索すんなよ。誰だっていいじゃない。
スマソ
323 :
考える名無しさん :03/07/27 03:40
アゲハチョウ
324 :
考える名無しさん :03/08/03 18:23
再開のめどは立たないのか・・
326 :
Kurihara :03/08/03 18:35
僕が仕切りましょうか?
327 :
考える名無しさん :03/08/03 18:48
おながいしますw
328 :
考える名無しさん :03/08/03 18:48
是非お願いします
この板の現状にいい加減あきれてんじゃないの1さんも・・・
どんな現状?外見てないから分からん
哲学者の書いた「カオス理論の解説」てこんなんよ。 「減速するということは、すべての速度が超えない限界をカオスの中に置くということであり、 しかも結果的に、横座標外延量として規定されるひとつの変数を諸速度が形成し、 同時に、超えることのできない普遍的定数を限界が形成するということである (たとえば、収縮の最大値)。したがって、第一のファンクティヴは、限界と変数であり、 そして準拠は、変数のもろもろの値のあいだの関係、あるいはもっと深く見るなら、 諸速度の横座標としての変数と限界との関係である。」 スゲー! スゲーよ! 全然分からない!!! これがカオスなの? やっぱ哲学てヘンよ。
誰が言ったの
333 :
考える名無しさん :03/08/22 07:05
>>331 はあ?
なんじゃそりゃ?
哲学ってあんた、みそもくそも一緒にすんなよ。
デイヴィッドソン追悼age
336 :
考える名無しさん :03/09/01 19:56
ちんだの?
ここでカキコできるか、できないか。 判断できるとおもお。
日本語?
?
341 :
考える名無しさん :03/10/03 21:44
あげ
343 :
考える名無しさん :03/10/04 04:09
田 代 政
344 :
考える名無しさん :03/10/21 03:51
言語哲学大全
稲さんやポールさんがこっちも進めてくれないかな。
稲さんどこにいるんですか?
言語哲学大全ていうけど大全じゃねえ
やっと3巻読み終わった。 1・2巻と3巻には難易度の差がかなりあるね。 4巻は・・・難しいだけじゃなくつまんなそう(´・ω・`) 実在論論争扱ってほしかった・・・
hosu
期待あげ ,-=;, {__7! 〔_ラレ ,、_,-‐y; `y"l rヲレへシ'" iト-ヘ、 (_;フイ r;_/iレソ l 'ヽ ル || し ン′ ヽ ヽ レ' ||! 人_フ V ヽ, | |.| /ヘ;;;;;r 、 _/ / ヽ ヽ, ト = }{i ';=r=‐ リ / / `i 、, ヽ, }- ルハjヽ▽ /´ -r'" シ´ V `;| i∨  ̄~7 ン〈___/ V丶 | リ >, ( <_/ ,_ ヾ { ソ レ ン ;_ン'" ,r"<rn ゞミヽ ゝ、ゝ = 〃ソノ__/ / y'"J | \` ヽ rn, rfレ`ー-=-‐''~ ̄ /`7 `、| ヽ-'ヽ rJllル7 rnh; l´ ´'リ ,rn / r'ン==ト、!__ V ヽ 〉__ソ ヾヽ``ij'l 〉 /、,ハjjj し'l mhレ' /f" |リレ7,,m〉 | | | { rfjn ,;'V _ン',/ //〉r>,、__//リリ ト 〈 }'=‐' ソ 〉トii,_/ j
351 :
考える名無しさん :03/12/14 05:40
352 :
考える名無しさん :03/12/14 08:13
3巻が難しいと思うが
>>353 3巻は話題が一貫してて、議論も追いやすい。ややテクニカルな内容について
はものすごく丁寧に解説してるので、一番読みやすいと思う。
1、4巻はテクニカルな知識は要求されないけど、議論自体がけっこう難しい。
2巻で*が付いてるところは本当に難しい。テクニカルな知識をある程度前提
してるし、なにより議論がなかなか追えない。
一巻のフレーゲの箇所についてなんだけど,巻末にBedeutungを「指示」と訳してはいけない とあるよね.なぜなの? だれか解説できる人いる? 教えてくれないかな. あと二巻か三巻の註で『論考』のやり方では述語論理が展開できないというような趣旨のことが あったけど,あれって間違ってるんじゃないのかな.だれか同じように思った人っていないかな.
2巻が難しいと思うが
357 :
考える名無しさん :03/12/14 22:19
>あと二巻か三巻の註で『論考』のやり方では述語論理が展開できないというような趣旨のことが >あったけど,あれって間違ってるんじゃないのかな.だれか同じように思った人っていないかな. これスレの上の方であんたと1がやりあってたテーマじゃん。忘れたの? 確かに、飯田先生は2巻でフォジランの論に賛成する形で、「論考では述語論理全体をカバーできない」ってこと言ってる。 で、稲は、「それはフォジランの論そのものが間違ってるんだ。だから飯田先生の意見も間違いだ」って言ってたじゃん。
>>357 ああ,そっか^^.ぜんぜん忘れてた.そ〜か・・・
359 :
考える名無しさん :03/12/15 22:16
『思想』のフレーゲ特集は素晴らしかったね。概念記法が矛盾した理由についての あれだけつっこんだ分析は、世界的に見てもほとんどないと思う。哲学者はFrege構造 とか知らないからなぁ。
360 :
考える名無しさん :03/12/15 22:17
↑ いつのもの?
363 :
考える名無しさん :03/12/16 09:48
>>362 その号だけ大人気で、もう品切れみたいだよ。すぐに店頭から消えちゃった。
364 :
考える名無しさん :03/12/16 09:56
>>359 >概念記法が矛盾した理由についてのあれだけつっこんだ分析
禿同。あれはほんとうに目から鱗の論文だった。でも、実際にFrege structure
の勉強をしようとしてAczelの論文読もうとすると、なかなか歯が立たないいんだよなぁ...
366 :
考える名無しさん :03/12/16 21:41
フレーゲ構造って恥ずかしながら初耳。 どんな文献がある? 今ぐぐったけど、あまりぱっとしたページがない。
>>366 原典は、
Peter Aczel, ``Frege structures and the notions of proposition, truth
and set'' in J. Barwise et al. (eds.), _The Kleene Symposium_ (North-Holland, 1980).
です。フレーゲ構造というのは Aczel が概念記法をパラドクスを逃れた仕方
で再構成してつくったもので、
・ラムダ計算のモデル
・その部分集合である「命題」の集合
・そのまた部分集合である「真なる命題」の集合
を定めることによってつくられる、数学的構造のことです。すると、この構造
をモデルとする形式的体系を構成してやることができて、その体系は概念記法
を現代的なしかたで再構成したものとみなすことができます。(つづく)
(つづき)体系の中身は、ラムダ計算の言語に、推論ができるように論理定項
が入ってるというものなんだけど、ラムダ計算にただ論理定項を加えただけだ
と、概念記法のようにパラドクスが起きてしまいます。なので、フレーゲ構造
の体系においては「命題を表現するターム」とそうでないタームとを構文論的
に区別して、証明中には命題を表現するタームのみがあらわれるようにしてパ
ラドクスをブロックし てます。(ラッセル・パラドクスを導くために必要とな
る、
(λx. ┐xx)(λx. ┐xx)
のようなタームは、フレーゲ構造においては命題とは認められないので、そも
そも証明中に登場することができない。)
概念記法の矛盾した原因というと、これまでは素朴に集合論的枠組で考えて、
第五公理だけに問題があるかのような議論がなされてきたけど、概念記法の内
容をより忠実に反映しているフレーゲ構造をもとに矛盾の原因を分析してみる
と、そんなに単純な話ではなく、第五公理そのものに問題があるとはいえなく
なる、というのが『思想』の津留論文の要旨です。
フレーゲ構造の実際に中身についてはAczelの原論文にあたられるのが一番だと
思いますが、オンラインで入手できるものだと、たとえば
Fairouz Kamareddine, ``Set theory and nominalisation I'' (1992)
Available from:
http://www.macs.hw.ac.uk/~fairouz/papers/ に解説があります。また、フレーゲ構造は、計算機科学の分野でプログラムの
形式的開発のための枠組として応用されているらしく(私も詳しくは知らない)、
その方面からの解説が、
林晋・小林聡、『構成的プログラミングの基礎』(遊星社、1991年)
にあります。
(゚д゚)ウマー
>>368 こいつは丁寧にありがとう。
林先生の本を読んでみるよ
>>355 (稲)
>一巻のフレーゲの箇所についてなんだけど,巻末にBedeutungを「指示」と訳してはいけない
>とあるよね.なぜなの? だれか解説できる人いる? 教えてくれないかな.
思うに、この指示reference という語を使うと、論点先取りの誤りを犯すことになるからだと思う。
というのも、「語のBedeutungは何か?」という問いに対する答えとして初めて「それは指示対象である」と言うことが可能なのだから、
ダメットも確か、この論点先取りを避けるために、文のBedeutungにはreference(意味論値)を、語のBedeutungにはreferent(指示対象)という訳語を当てるという配慮をしていたと思う。
確かに大全1にも、論点先取になるって書いてあるね。 でもそれは注に書いてあるだけで、しかもなぜ論点先取になるかは 書いてないのに、なんでそんなポイントを巻末で問題にしたのかは わかんないけど。
>>371 >>372 ちょっと『大全』をもう一度簡単に読んでみたけれど,多分論点先取りというのではなくて,
フレーゲは確かにイミBedeutungを指示対象ないし指示と同一視したかもしれないが,イミに
ついて一般的に考察する場合,必ずしも指示とか指示対象と同一視ないようなケースも考慮さ
れねばならないから,ということではないかな.たとえばp.144の註(37)なんかを読む限りそ
うだね.
>373 (稲) >イミについて一般的に考察する場合,必ずしも指示とか指示対象と同一視ないようなケースも考慮さ >れねばならないから 確かに、p144の註37を読むと、そのことも「Bedeutungを「指示」と訳すことが不適切な理由の一つだ」と書いてあるな。 でもこの書きぶりだと、理由はそれだけじゃないし、ここの註の理由はどちらかというと補足的な扱いのように読めるのだが、その点はどう思う? >372 >確かに大全1にも、論点先取になるって書いてあるね。 >でもそれは注に書いてあるだけで、しかもなぜ論点先取になるかは >書いてないのに、なんでそんなポイントを巻末で問題にしたのかは そら君、君みたいにすぐ答えを本文に探そうとする連中に何とか自分で答えを考えさせるよう仕向けるための配慮だよ、うん。
素朴な疑問だが… 「概念記法が矛盾した理由」と「解決の方法」は別じゃない?。 つまりAczelの方針で矛盾がおきなくなったからといって それが「理由」だということにはならないんじゃない?
>375 >つまりAczelの方針で矛盾がおきなくなったからといって >それが「理由」だということにはならないんじゃない? そうだけど・・・それがどうかしたの?
>そうだけど・・・それがどうかしたの? うん、他所でBCK論理を使うと内包公理使っても ラッセル=パラドックスが回避できるって聞いたからさ。
378 :
考える名無しさん :03/12/22 22:25
>>377 それはつまり、↓こういう話だね。
http://science2.2ch.net/test/read.cgi/math/1071060325/37 ただ、あくまでもこれは BCK logic ベースの集合論での話なので、
概念記法の分析に使うにはあまり適切ではないと思う。
概念記法を分析するさいに Aczel のシステムを手がかりにするの
は、概念記法が集合論の言語よりもはるかにラムダ計算の言語に
近いからでしょう。
Russell paradox をブロックする方法がいろいろあるというのは、
>>377 氏のおっしゃる通りだけど、「Frege の概念記法においてなぜ
paradox が起きたのか」を分析する場合には、やはり概念記法に
近いシンタクスを持った体系で考えたほうが良いのでは?
『思想』の津留論文は、まさにそういう観点で Aczel のシステムに
注目してるんだと思う。
あちょーには死んでもらう!
アクセス規制中なんだが・・・
書き込めた.
>>374 やっぱりBedeutungを「イミ」とわざわざ訳した理由を読む限り,やっぱり意味論の
ひろい枠組みも考慮に入れた方がいいから,Bedeutungを指示とか指示対象と訳すのは
適切ではないということなんだと思う.だから論点先取りということではないと思う.
>>375-
>>378 >「Frege の概念記法においてなぜparadox が起きたのか」を分析する場合には、やはり概念記法に
>近いシンタクスを持った体系で考えたほうが良いのでは
ということが,公理Xが矛盾した原因についての集合論的説明が解明的でないという理由の直接的な
理由にはないっていない.要はスタンダードモデルに訴えているからだ,というわけでしょ.しかしな・・・
まず津留氏は「公理Xが関数を外延的に扱う限り自然な原理だ」と主張してるけれど,ここでの「自然な」
というのは当然スタンダードで考えた場合だと思うけれど.
>>381 の続き
ちなみに論点先取りは「解釈上の」となっているね.だからここでの論点先取り
は次のことだともう:
もしBedeutungを指示対象と訳すことにすると,そもそもフレーゲがBedeutungをどのような
意味で使っていたかということを問題にする際に,テキストを解釈する以前に指示対象とい
う意味で使っていたと断定してしまうことになる.だから解釈上の論点先取りを犯すことに
なる.
ということじゃないかな.
384 :
考える名無しさん :03/12/25 20:52
>>382 すまないが、言ってることがちょっとわからない。
>まず津留氏は「公理Xが関数を外延的に扱う限り自然な原理だ」と主張してるけれど,ここでの「自然な」
>というのは当然スタンダードで考えた場合だと思うけれど.
これはどういうこと? 「スタンダード」ということの意味がちょっとわか
らないんだが。津留氏が二階論理の言語についての「スタンダードなモデル」
といっているのは、いわゆるヘンキン・モデルに対して「フル・モデル」と
よばれるもののことだけど、稲氏が言ってるのはこれのこと?
違ってたらごめん。
>>384 ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1
>>385 ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11
>381 >やっぱりBedeutungを「イミ」とわざわざ訳した理由を読む限り,やっぱり意味論の >ひろい枠組みも考慮に入れた方がいいから,Bedeutungを指示とか指示対象と訳すのは >適切ではないということなんだと思う. 強情だなあ。意味論一般まで考慮すりゃ稲の言う理由も十分説得力のある答えだと思うよ。本文の註に書いてあるとおりさ。そこは否定せんて。 でもここのクイズは意味論一般の話じゃなくてわざわざ”フレーゲの”Bedeutung、と限定付きだってことが言いたかったの。 >もしBedeutungを指示対象と訳すことにすると,そもそもフレーゲがBedeutungをどのような >意味で使っていたかということを問題にする際に,テキストを解釈する以前に指示対象とい >う意味で使っていたと断定してしまうことになる.だから解釈上の論点先取りを犯すことに >なる. だからおれも前レスでそういっとるじゃないか。
>>388 ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>>387 『大全』の巻末にある問題って「フレーゲの」という限定つきになってたっけ?
単純に「Bedeutungを指示と訳すのはまずい」とあったんじゃなかったっけ?
>>390 ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
393 :
考える名無しさん :03/12/25 21:52
おりゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!
394 :
考える名無しさん :03/12/25 22:24
>391 >『大全』の巻末にある問題って「フレーゲの」という限定つきになってたっけ? 確かに『大全』のクイズの本文には「フレーゲの」という限定が付いてる。
>>394 ホントだ.ごめんごめん.そっか.じゃあ366が言ってるように論点先取りになるから
ということなのかな.
クイズの件が落着したところで、スレ再開の話しない?
397 :
考える名無しさん :04/01/04 09:59
このスレはいいな。
398 :
考える名無しさん :04/01/25 07:27
あげげげ
399 :
考える名無しさん :04/01/27 08:58
あげえ
400
401 :
考える名無しさん :04/02/14 01:49
age
sage
保守
人来ないな。
405 :
考える名無しさん :04/03/27 23:27
ほしゅ
野矢厨氏ね
>406 誰に向って言ってんだ
あれ?
hosyu
410 :
考える名無しさん :04/04/26 01:45
simouta hosyu age
411 :
考える名無しさん :04/05/19 20:59
みんな! かえってきてよ〜
hage
このスレ、まだあったんだ。久々に来たので記念ぱぴこ。
414 :
考える名無しさん :04/05/30 08:03
415 :
考える名無しさん :
04/05/30 08:10 >>1 ┌―――――――─┐
| ,. -─- 、 |
| ,へ、 ヽ |
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| ヽ \ノ .|
| ` 一 ´ |
| 【挫折禁止】 |
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