●○● Aquirax: 浅田彰 part7●○●
>>950 真偽のほどは知らないが、情報サンキューです。
要は各自が自分の発言に気をつけろということにつきますね。
はじめっからバッハって言えばいいじゃん。
クセナキスのような全体的な確率性を
岡崎は否定していたはず。『モダニズムのハードコア』
「モダニズムの再検討」あたりで。
>>947 浅田っちはそんなにセコくないやい!(w
もちろん、そうだといいんだけど!
でも、妙に下世話なところあるからなあ(w
955 :
考える名無しさん:02/10/05 00:38
岡崎乾二郎の話題もいいと思う。でも新スレでは
彰の話にしよう
957 :
考える名無しさん:02/10/05 09:17
試みにあげます
私は岡崎氏の作品を捕らえる領域として浅田氏の指摘をふまえ、すくなくとも
次のことが言えるかと思います。1)対位法、ないしは形式的操作に関する造形言語
での構築的作品として 2)現象学的というかこーりん・ろう的アプローチ可能な
作品として(本来そこに同期し得ないものの同居、諸次元のある次元での同居)
3)読むことのアレゴリー(ドマンの意味で。テクストはそれ自身の誤解の寓話であるとする)
いたずらなあそびごころってやつです(けっこう蛍光灯をちかちか点滅させるのやりますね)
まあ、彼はそれにどれだけ持ちこたえられるか自身を試す意味でも
つねにその作品において、複数の同居し得ないものをむりやり同居させる試みを
している、そこに私は一つ感動しますね。同居し得ない、という意味はもちろん、
その現象一つを認識しようとすればその他の現象は浮上してくるわけない、そういう
関係にある諸現象がしかし視覚において同居している困難のことで、この事態を捉えるには
けっこう分析能力が必要であるとは思いますね。個々の現象に気づき、なおかつそれらを
認識ないし認知の次元において一つ一つ明晰に分析していって始めて同居不可能と論理的に
いえるわけですから。この意味で、岡崎はかなり知的な(その理解に論理的分析を要する)
作品を作ってきたなとは思います。ただ、そのこと自体は、その知的操作ふりには
本当は驚いてはいけないんだと、繰り返したいとは思います。岡崎がいうように、
むしろこうした作り方があまりにも日本ではなされてこなかったのではないかという現状認識
が彼にはある、だから彼にはこういう作り方はむしろ美術かとして当然やるべきこと。
そして、彼の場合名人芸ともいえるかもしれない技術さえあるんですよ。たんに純粋に知的に
つくれるわけないんでね。技術でそこはカバーしているわけです。みえないところで。
そこももっと評価されていいのかもしれません。セラミックの作品なんか、焼き方において
うまいことやってますよ。つまり、そのまま焼けば爆発するものをさせない作り方をしている。
くりかえしますが、岡崎の作品に何か感銘をうけるとしても、それは対位法的であるからではない
気がしますし、じゃあ技術かっていうとそうじゃあないと思うし、これまであげられた論点に還元しにくい
なとは思います。岡崎氏の言葉を借りると、コラージュでもいい作品もあるしだめなのもある、
コラージュがうまく機能しているものもあるしそうでないものもある、同様に岡崎氏の作品では
対位法が「うまく機能している」んでしょうね。たんに対位法的構築だからいいというのではない。
その「うまさ」をどううまく言葉にするかってのが批評家の手腕ではないかとさえ、私は思う。
私にはその手腕がないってことですね。
浅田あきら
先日、テレビ朝日で放送された特別ドラマ番組「負け組みキックオフ」
には心底衝撃をうけた。メロドラマ的な純愛の都合のいい物語、それで
いてたからかに情熱に燃え尽きることに対してはあくまでクールに突き
はなした平凡な人間関係の心理的な処理の操作にばかり没頭する最近の
TVドラマの気分=感情の操作とは違う何かがそこにはあったのである。
まず平凡な人間関係が設定され、それが一度絡みもつれあった末、恋人た
ちの思い出の風景などを絡めながらも、ほとんど話し会いによってそれが
解きほぐされるというだけのそれ自体、空虚なフィクションに裏打ちされ
たドラマがある。そこでは残酷な運命といったものがあるときに、むしろ
人物に対してあまりに空疎に展開されるばかりでリアリティを欠く脚本が
あり、大根役者が「感情」を込めてそれを読むことでむしろ感情を逸らし
ているというべきだろう。そこでしかし、このドラマにおいてはそのよう
に相対的な人間関係から積み木崩し的に演出されたドラマからコペルニクス
的な転回がおこなわれたといえるだろう。つまりあらかじめ気分=感情か
ら出発し、動機に対して人間関係の葛藤や矛盾が展開して物語の筋から真
に人物の個性が露呈されるのに見る側は圧倒されるのである。ようするに
ダメ親父にすぎない飲み仲間がいつもの居酒屋で杯をかわしながらワール
ドカップの中継を観戦して盛り上がり、酔った勢いで自分たちもサッカー
チームを作り青春を取り戻そうとして立ち上がって、たんなるダメ親父の
自意識過剰なレッテルである「負け組み」という刻印を自ら剥がそうとす
る。そしてそれは実際にサッカーの試合で敗北し現に「負け組み」となっ
て解決されるという支離滅裂な自己欺瞞の物語なのである。そのはずが、
しかしその面々が大杉連に鈴木ヒロミツ、岡本信人、平田満、小倉久寛と
くれば勢いこのスポ根奮闘記をしかしたんに説話論的な次元にとどまるこ
となく疾走させるに十分なのだ。つまり単刀直入に言えば「負け組み」と
しての『ツラ』があまりに奇抜であり彼らがグラウンドに全力で走り、飛
びはね汗を流して、息を切らす姿に見る側も同じように反応し手に汗を握
るだろう。ここでそれをグロテスクとして目を伏せる女性のドラマ愛好家
はそのリアリティに耐えられるだろうか?
話は変わって、國分功一郎のドゥルーズ論がある。よんだ?
(ウェブによれば、國分の専門は政治学、とくに政治思想史、ライプニツということらしい。
そこでは53年のドゥルーズ「無人島」の要約をしながらそこに政治的非主意主義を導き
それ以降ドゥルーズが論じたことの一貫性を確認しようと
し(ドゥルーズ思想それ単体では政治的には意識的に自ら異議申し立てすることなく
ただ待ってる、つまり非主意主義、+ガタリ思想によりはじめて
政治へ自ら一歩踏み出す可能性)、それからドゥルーズの統一像作成への序奏
(散乱せるドゥルーズ像についてはここ
http://www.criticalspace.org/special/kokubun/020617.html)
となっている。ズーラビクヴィリによるレッテル「存在しうるもっとも非主意主義的な哲学」を参照し
ズーラヴィクヴィリの結論「可能なものを超えて生成へと向かうこと、可能なものと必然的なものとの同一性に至る
こと、そこではもはや意志は偽の問題でしかない」に賛意を示しつつも次のように疑義を呈する。
すなわち、ところでほかならぬドゥルーズ自身いかにしてそんな地点に到達していたっけ?
いいかい、初発から先ほど分析して示したように非主意主義だぜ?意味の論理学においても
同じようなことを書いた論文をくっつけてる。やっぱよ、そういう意志は偽の問題だといえる
地点に到達したのはよ、ガタリとの遭遇においてはじめてじゃあないか?ドゥルーズ哲学単体では
出てきようもない結論ではないか、と。おそらくこういっていたとおもう。
いずれにせよ、彼はドゥルーズの統一像、一貫して見える態度を提出すべき頃合だろうと
いっていて、けれど単体で無理に政治的行動主義みたいなものを取り出そうとしてもむだだよ、と。
興味深い論文だった気がする。
>> いやまじでさん、
ドゥルーズ論の紹介はうれしいのですが、ちょっと唐突なような、、(汗
945 からの流れ的には、浅田が批判していたという石岡なにがしの
岡崎評をレポートとかしてくれないかな、なんて期待していたのですが。
ドゥルーズはドゥルーズ・スレがありますし。
あ、わりいわりい。
でもおいらまだ、岡崎のパンフもってないんだ、
通販の注文してないんだ忘れてて。
とりあえず寝た不利をしたのだけど、おしゃるとおり。すまん
個人的には、國分のいいぶんにちょっと不明が合ったんで、みんなは
どうだったろうかときいてみたまで。また後で別スレにでも質問するよ。
ここには岡崎氏の作品を観るために知っておくべき前提となるような事柄が
、ほぼ、過不足なく書き込まれている。このような優れた「解説」の不在が、
現代美術をどれだけ不毛に孤立させていることだろうか、といつも思うのだ。
ここで石岡氏によってなされていることは、「岡崎理論」によって「岡崎作品
」を厳密に読み込む、ということだと言って良い。だが、「岡崎作品」が「岡
崎理論」によって読み解かれる、ということが果たして「岡崎作品」にとって
幸福なことなのだろうか、という疑問が浮上してしまうのも事実だ。(勿論、
石岡氏によって書かれたのは「解説」であり「紹介文」のようなものであって
「批評」ではないので、それに文句をつけるつもりは全くない。)
>いやまじで
965って古谷じゃん。藁わせんなよ(藁。
コイツは浅田の犬。web critiqueでもロクな文章書かなかった。
ふーん。そうだったんだ
ありがと。わんわん!!
969 :
考える名無しさん:02/10/06 02:17
浅田が古谷をパクったのでは?
いま、古谷の論をうぇぶくりてぃくで拝見してきたけど、すくなくとも
私のこのスレでかいたことよりは用語法において正確だった。
紹介に感謝する>居酒屋
971 :
ぺん(ぺん):02/10/06 02:37
漏れもパンフ持ってないんで石岡氏の解説は
誰かUPしてほしいです。
いやまじでさんが指摘するような「対位法が『うまく機能している』」状態というのは
例えば、対位法をある種の反復写像として考えると
その写像によってアトラクターを得ている状態と解釈されるかもしれません。
(いわゆる「複雑系」の考え方を性急に一般化してしまうのは
それ自体、貧困な理論になってしまうでしょうが
解釈の際のヒントくらいにはなると思います)
それから類推すると、エッシャーの絵は
明らかに周期性を持っている状態と言えるわけで
バッハのようなアトラクター状態(?)とは異なりますよね。
(ゲーデル文は反復写像における不動点に相当するでしょう)
『経験の条件』において岡崎氏が指摘する
ブランカッチ礼拝堂の壁画における「十六分の一だけズレた十字架の杭」は、
この壁画は、完全に自己完結的な周期性をもつものではなく
アトラクターのようなズレを孕んだ周期性を持つことを示しており
それだからこそ、格別に人を引き付ける魅力を持っていると言えるかもしれません。
972 :
考える名無しさん:02/10/06 18:34
次スレ立てられなかったよ
でもね、べんさん。
べんさんは丁寧な説明をしているけど、
そういう解釈それ自体がやはりそろそろ打ち止めにしたほうが
いいとおもう、というのはね
岡崎よんでればいいわけだからさ。
岡崎の作品から岡崎理論を引き出してきてもしょうがない部分があるはずです。
それは悪くないんですよ、しかしですね、それだけだとだめですよ。
考えてください。作家はどうおもうか。かなりいやになるはずですよ、
感想や解釈を聞いてみたところ、なんと、目の前の観客がじぶんのそれまで
書いていたことやはなしていたことを鸚鵡返ししてくるわけですから!
いや、そうなんだよね、すまん。
ああ、そうか。
だからむしろ、げー出る・エッシャー・バッハでいくところまで
いけ!っていうのもあるわけだ。かけるところまでかいてみろ、と。
いいとおもいます。私はとくにいうことないし。
むしろ皆様のかかれるところに期待しています。
古谷日記の一日後に浅田は感想をうぷしているね
978 :
考える名無しさん:02/10/06 21:10
次スレの時間ですよ?
古谷はどうやって食ってるんだ?
居酒屋店員は残り物のおすそわけだろうが。
プチヒモ状態じゃないの?
981 :
考える名無しさん:02/10/06 23:19
i-critiqueに中沢新一評があるというのは本当ですか
984 :
考える名無しさん:02/10/07 02:07
↓美術館賞板・岡崎スレでハケーン。このスレなめられてる(w。
ていうか、謙虚なようで、こいつ怖〜い。自演臭いし
631 :いやまじで ◆anzn0cLyDU :02/10/06 20:29
どなたか、饒舌なタイプが望ましいのですが、
すでにリンクをご存知のようなので、ぜひいらしてください。
そして、あそこのレスの愚かさを明示してやってください。
私も書いたけど、実のところ気に入っていません。
けっきょく、石岡というのとに低るか(したがって岡崎の論文読むが一番となる)
それ以下の論外と思いますから。
わーい、みっつかっちゃたー
986 :
考える名無しさん:02/10/07 02:26
>>985 お前単にぺん(ぺん) を晒したいだけだろう?
古谷の日記読んだよー。今まで読んだ中ではまだマシだったな。
「正直、これが絵画として良いのか悪いのかよく分からない」ってところが特に(w
しかし、上にもあったけどモダニズムのハードコアの中の
確率の話はやっぱりおもしろいよね。おもしろいというか、引用しやすい。
でも「リリィ・シュシュのすべて」批評とか、やっぱり浅田さんと比較すると
ぜんっぜんダメだね。977はいやまじでだと思うけど、まさか浅田さんが
古谷の日記を読んで影響を受けたとか思ってる?
>>986 たぶん、いやまじでの自作自演。どーでもいいから下げ
私はしかし自作自演したことないから
はっきりと告げておく。
<<おまえなんかだれもしんようしないんだぼけ。
はいはい、しかし、したこともないのに、するとあえて言う必要を感じない。
ややふざけたことをやったのは悪かったと思ってる。
だけど、それに便乗してかいいがかりをつけられるのはごめんだな。
浅田と古谷との影響関係やどっちがそのイヌであるかなんて
下らん問題にいちいち口出し南下するか ぼけ!
その調子♪
>>987 浅田は美術についてそんなに厳密じゃないし古谷の影響かも
991 :
ぺん(ぺん):02/10/07 04:35
いやまじでさんには、単に鬱陶しいと思われたのでしょう。
ちょっと残念ですけど。
漏れは、今たまたま数学基礎論に関心を持っており
(ゲーデル・スレで地味に勉強もしてます)
ゲーデル数化を写像として考えると
岡崎氏の考えるような「写像」や、対位法などと
構造的な類似性があると思って、興味を持ったのです。
それで、数学基礎論における考え方でもって
岡崎作品や岡崎氏の見解を解釈したら面白いんじゃないかと思ったまでで
「岡崎の作品から岡崎理論を引き出」すつもりは、まったくないです。
そもそも岡崎理論というのが、どのような理論なのか
漏れはよく分かってないです。
(『経験の条件』も一度目を通したでけですし、
そこで使われている変換や写像の考え方は、
間違ったところがあるとも思ってますし)
そもそも、このスレにカキコしたのも
浅田氏の「明晰な謎」などといった表現が、
作品の分析を拒否して、曖昧な言説で逃げてるのではと感じたからです。
岡崎理論で岡崎作品を解釈することの是非は置いとくとしても
少なくとも、岡崎作品を分析的に解釈しようとする姿勢は礼儀なのではないでしょうか。
あと、ちなみにホフスタッターは、単に批判するために引き合いに出したまでで
それ自体には興味はありません。
992 :
ぺん(ぺん):02/10/07 04:42
このスレも、残り僅かで打ち止めですが
誰か、岡崎理論を解説して頂けたら、うれしいです。
994 :
考える名無しさん:02/10/07 12:36
「明晰な謎」が逃げだというのには禿同
>631 :いやまじで ◆anzn0cLyDU :02/10/06 20:29
>どなたか、饒舌なタイプが望ましいのですが、
>すでにリンクをご存知のようなので、ぜひいらしてください。
>そして、あそこのレスの愚かさを明示してやってください。
>私も書いたけど、実のところ気に入っていません。
>けっきょく、石岡というのとに低るか(したがって岡崎の論文読むが一番となる)
>それ以下の論外と思いますから。
>べんさんの力量に敬服しています。
矛盾してるYO!
996 :
考える名無しさん:02/10/07 17:50
1,000げっとー
あさだ
もう
999 :
考える名無しさん:02/10/07 17:53
ぺん(ぺん) の言ってる事はよくわからんな。
>岡崎作品の「絵画や彫刻」を「自然数論や実数論」と対比的に考えた場合
>浅田氏の言う「明晰な謎」という表現も分かりやすくなると思います。
>例えば、素数の分布を考えてみると
>素数はこれ以上ないほど単純・明快ですが
>その分布の不規則性はこのうえない「謎」です。
>それと同様に、岡崎作品は、徹底して単純・明晰でありながら
>同時に把握しきれない複雑さをもっているという点で「謎」です。
>そのような「謎」が具体的な作品(数学ではモデル)において
>歴然として提示されるところに、芸術(数学)の魅力があるのではと思います。
こう言っておきながら、なぜ「逃げ」であるとか、「礼儀」がないことになる?
よっしゃー1000
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