【【【【【ライプニッツ】】】】】

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1∫∫
スレなかったみたいなんでたてちゃいました
2∫∫:02/04/08 04:36
えー2
3考える名無しさん:02/04/08 04:51
弁神論マンセー
4考える名無しさん:02/04/08 06:13
ベルホルト・レーゼ……。
5阿保次郎    :02/04/08 08:05
 モナドか?  モナドには窓がないんだろ。 面白いねこういうこと考える奴は
形而上学はよくしらんが スーパー物理学じゃないか。 俺は原因体とかに興味
があった(ただ こんな話いままで理解できた同年代のやつは一人しかいなかったが)。

 俺(当時27)とそいつ(当時25)の思い至った共通の見解では 現実の世界は
形而上的な宇宙(もち論物理的な宇宙も含む)のある部分に密度の希薄は部分ができた
ために現れたというのが極論    ちょっと簡単に言い切りすぎかなあ 
6考える名無しさん:02/04/08 08:08
>>5

言いきり過ぎというより、単なる白痴。
7阿保次郎    :02/04/08 08:28
さっそく突っ込みが来てちょっとうれしい。
 自分の体って刀できれば真っ二つに割れるよね。 まっぷたつどころか何十個
何百個にも分割できる。 精神ってのも分裂病とかがあるくらいだから、なんとか
割れることができるのかもしれない。 でも 自分が在るという存在認識というか
原因みたいなのは 確かに割ることができんはなあ。全くそれ以上割ることができない
 それは要するに生命の存在原因は物理的な法則とは違う法則に基ずいているってことなんじゃないか 
自分自身を自分だって認識する。 それをモナドと言ったんだと俺は勝手に解釈してるが、、。
 モナドって数学的美しさを感じるよね。 あ たしかライプニッツは数学者でもあった
んだもんな。 凄いわ。
8考える名無しさん:02/04/08 09:15
語る前に、しっかり、テキスト読もうね。
基本テキストは『形而上学叙説』と『単子論』かな
岩波文庫の河野与一訳のものが、中公の「世界の名著」の
ものより、脚注と解説がしっかりしていてベターです。

もちろん工作舎の日本語訳全集も良いけど、なんしろ高価すぎる。
9考える名無しさん:02/04/08 09:17
>>8
そうそう。とにかくちゃんと本読んでくれ。
1はスレ立てたんだから責任もってせめて1次文献に基づく簡単なレポートぐらいはしろ。
そうでもしてくれないとレスのつけようがない
そういうつもりがないならスレ立てんな。
10考える名無しさん:02/04/08 09:20
スピノザスレみたいに、『形而上学叙説』か『モナドロジー』の
読書会スレみたいにすれば良いのでは?
11考える名無しさん:02/04/08 09:21
>>10
賛成。おい1、見てるのか
12    :02/04/08 09:40
学術的な解釈もいいけど もっと自分自身のインスピレーションとかはないのかね。
すべてが全て完璧にこまかいところを理解してるだけが能ではないともおもうよ。大体
そんな文献いちいちこまかいところまで読み込んでりかいしている暇人いるのかね。
ライプニッツだけで何年かかるんだよ。  まあスレがスレだけに そうなっても仕方
ないが いまいち面白くないね。
13考える名無しさん:02/04/08 09:43
>>12
少なくともこまかい読み込みを読める方が
電波飛びまくりの「インスピレーション」とやらを読まされるのに比べれば
ずっと面白い。
お前のような素人は
人生相談板とかぽえむ板とかとにかくどっかよその板いけ
14    :02/04/08 09:56
>13
じゃとくと拝見させてもらうよ。玄人とやらの見解を、、。
          できれば 自分自身の宇宙観 世界観もきぼーん




15考える名無しさん:02/04/08 10:38
読書会きぼーん
スピノザスレみたいなやつ
16考える名無しさん:02/04/08 10:39
>>12

それならば、テキストをしっかりと読んで理解する以外に、
ライプニッツの哲学を理解する方法があるというのかね?

学術的云々の問題ではなく、哲学が電波に陥らないようにするには
しっかりとテキストを読む以外ないよ。
17考える名無しさん:02/04/08 10:42
淡々としたのがいいね。
18考える名無しさん:02/04/08 10:50
自分の電波だけで十分なのにライプニッツスレで他人の電波まで見たくネエよ。
普通の読書会きぼーん
19考える名無しさん:02/04/08 10:52
そんじゃ、『モナドロジー』からいきましょうか。

1. La Monade, dont nous parlerons ici, n'est
autre chose, qu'une substance simple, qui entre
dans les composés; simple, c'est-à-dire, sans par-
ties .

1.私たちがここで論じるモナドとは、複合されたものの中における
単純な実体に他ならない。単純であるとは、つまり、部分がないという
ことである。
20age:02/04/08 18:00
age
21考える名無しさん:02/04/08 18:32
モナドとは「もの」の中の実体。
「もの」とは物体のこと。
つまり、モナドとは物体の中の実体。
これだと、物体に宿っているように見えるのだが、そうなの?
22考える名無しさん:02/04/08 18:35
いいえ、わたしは 鬱です。.................................氏のう
23考える名無しさん:02/04/08 19:32
『世界の名著』では「複合体をつくっている」と引っ張っているね。
これが妥当なものかどうかは読み進めないとわからない。
ちらっと2を見たらわけわからないね。
で、『世界の名著』の註を読むと、1で引っ張った方向で強引な解釈
をしている。
(初めて読んだ者にとって強引にみえるという意味)
とはいえ、そう読まないとどうしようもないという感じがする。
24考える名無しさん:02/04/08 21:11
>>23

entre dans les composésを「複合体をつくっている」ってしているの?

>>21

「もの」は chose で、「実体」は substance だよね。
25:02/04/08 21:24
ひさびさに見たら良スレになってる
変な虫が飛んでこないことを祈ってsage。
26考える名無しさん:02/04/08 23:08
そんじゃあ、第2節
2. Et il faut qu'il y ait des substances simples,
puisqu'il y a des composés; car le composé n'est
autre chose, qu'un amas, ou aggregatum des sim-
ples.

2.複合されたものがあるのであるから、単純な実体がなければならない。
複合されたものとは、単純なもの(実体?)の集まり、つまり、
集合体(集まったもの)に他ならない
27考える名無しさん:02/04/08 23:45
age
28考える名無しさん:02/04/09 00:21
ほらね、2はわけわからないでしょ。
29考える名無しさん:02/04/09 00:23
この2(>>26)は、それだけ取り出すと、説得力がないように思われる。
複合されたとということは、それはなにものかの集まりであるということ
になるが、そのなにものかもまた複合されたものであってもいいはずだ。
そしてそれはフラクタル図形のように無限回繰り返されてもいいはず。
何処までいっても単純な実体はないという可能性。
30考える名無しさん:02/04/09 08:37
そんじゃあ、第3節ね。
3. Or là, oû il n'y a point de parties, il n'y a ni
étendue, ni figure, ni divisibilité possible. Et ces
Monades sont les véritables Atomes de la Nature,
et en un mot les Eléments des choses.

3.さて、部分がないところには、広がりも、形も、可分性もありえない。
そして、それらのモナドは、自然の真なるアトムであって、
一言で言うなら、事物の要素である。
31考える名無しさん:02/04/09 08:50
>>29
参考になるか分かりませんけど、岩波版『単子論』の
第2節の河野与一の脚注を載せます。旧かなと旧字は現代かな使いになおしています。

「この議論はいろいろな誤解を招く。
合成体が広がりのあるもので単純な実体がその構成分子だと見れば
単子が広がりを持っているように思われる。ところが次節(第3節)で広がりを
持つことは否定されるために単子がきわめて神秘的な魔力を具えているように
考えられる。ライプニッツによれば合成的実体は真の実体ではなくて現象である。
空間は時間と共にその現象の秩序たるに止まる。而もこの現象は全然架空的な
ものではなくて何処か事象的なところを持つ。その事象性の由って来る
根拠を求めると己の中にはない。けれどもその根拠は何処かになくてはならない。
それは単純な実体のなかに存するということになる。」
32考える名無しさん:02/04/09 13:30
age
33考える名無しさん:02/04/09 13:43
ライプニッツもまた時代の制約を受けている
彼は進化論の全盛期に生きてたから
(裏返しでラッセルの哲学史本なんかにもこんな一面的な書き方がされているんだけど)
のロマン主義的ニーチェにしか着目しないってのは安直のそしりを免れないと思う。
生命の存在原因は物理的な法則とは違う法則に
サルから人間、人間から超人への進化の可能性を想定することもできたが
人間が進化の袋小路にあることが広く信じられている今
とりあえず今のところ最初の50ページですが
あまりお世辞にもおもしろいとは思えないです。違う人の意見が聞きたいですね
もし彼が今の時代に生きていたら全人類を地上から一掃するとか言い出すのでは?
34考える名無しさん:02/04/09 14:00
>>33
あなたは電波ですか?まともな人間なら、
他者が理解出来るように文章を書いてください。

変な書き込みでスレを荒らすのは止めてください。
35考える名無しさん:02/04/09 14:08
おれはたいへんおもしろく読んでいる。
もっと続けてくれ。
36考える名無しさん:02/04/09 14:14
>>35
電波カキコを続けろと言っているのですか?
3735:02/04/09 14:18
>>36
もちろん違います。電波カキコは無視して原書を読み続けて下さい、と言っているのです。あんまり上にいると荒らされるのでsage。
38考える名無しさん:02/04/09 14:24
そんじゃあ、第4節ね。
4. Il n'y a aussi point de dissolution à craindre,
et il n'y a aucune manière concevable, par laquelle
une substance simple puisse périr naturellement.

4.モナドには分解のおそれはないし、単純な実体が
自然的に消滅するであろうとは、どうしても考えられない。
39考える名無しさん:02/04/09 14:33
>>29
>>31
なるほど。
それは2節の文面だけからはわからないね。
そもそも「複合されたものがあるのであるから、単純な実体がなければな
らない」とライプニッツは遡行的な言い方をしておいて、その直後に「単
純な実体」はいつのまにか「集合体」になって、それがあたかも「複合体」
であるかのようになってしまっている。

とはいえ、「集合」といっても数学の「集合」ではないようだし。
>>31に従えば「集合体」は「真の実体ではなくて現象」。
現時点で2節にこだわりすぎるのは得策でないか。

ちなみに『名著』の注は
「複合体が単一体の集合であることは、無限に分割される各物体が固有の
統一原理にささえられていることである」となっている。

3節
モナドの非延長性、不可分性を確認した上で、これが「自然の真なるアトム」。
40考える名無しさん:02/04/09 14:49
4節
実体の存続性
41考える名無しさん:02/04/09 14:54
記号の魔術師ライプニッツ。素敵。
42高三→将軍→浪人:02/04/09 15:17
まだ哲学の真意が見えてこないぞぃ。
早いとこ次よろしく。
43考える名無しさん:02/04/09 16:54
そんじゃ、第5節

5. Par la même raison il n'y en a aucune, par laquelle
une substance simple puisse commencer naturellement,
puisqu'elle ne saurait être formée par composition.

5.同じ理由によって、単純な実体が自然的に始まりうるとはとても考えられない。
なぜなら、それ(単純な実体)は構成(複合)によって、形成されないからである。
44考える名無しさん:02/04/09 17:03
5節(>>43)は4節(>>38)の消滅の裏側で、発生の話し。
「自然的」始まりとは、構成(複合)でしかないという
暗黙の前堤があるということでしょうか。
絶対的始まり(創造)は、神の御技のみ。
先走り過ぎかな。
45考える名無しさん:02/04/09 17:14
>>44
>絶対的始まり(創造)は、神の御技のみ

う〜ん。たしかもっとあとになると、必然的真理と偶然的真理の
話が出てくるから、そっちでやった方がおもしろと思うよ。
46考える名無しさん:02/04/09 17:20
そんじゃあ、第6節

6. Ainsi on peut dire, que les Monades ne sau-
raient commencer ni finir que tout d'un coup, c'est-
à-dire elles ne sauraient commencer que par création,
et finir que par annihilation, au lieu, que ce
qui est composé, commence ou finit par parties.

6.そうすると、モナドは始まるにしろ消滅するにしろ、
一挙にするしなないと言ってよいだろう。換言すると、
モナドは創造によって始まるだけであるし、
消滅によって終わるだけである。ところが、
複合(合成)されたものは部分づつ始まるか、終わるかである。
47考える名無しさん:02/04/09 17:35
そんじゃあ、連続ですが、第7節もね。
長いので原文と翻訳は別投稿。

7. Il n'y a pas moyen aussi d'expliquer, comment
une Monade puisse être altérée ou changée dans
son intérieur par quelque autre créature, puisqu'on
n'y saurait rien transposer ni concevoir en elle
aucun mouvement interne, qui puisse être excité,
dirigé, augmenté ou diminué là-dedans, comme
cela se peut dans les composés, où il y a du chan-
gement entre les parties. Les Monades n'ont point
de fenêtres, par lesquelles quelque chose y puisse
entrer ou sortir. Les accidents ne sauraient se déta-
cher, ni se promener hors des substances, comme
faisaient autrefois les espèces sensibles des Scolasti-
ques Ainsi ni substance ni accident peut entrer de
dehors dans une Monade.
48考える名無しさん:02/04/09 17:36
第7節翻訳っす。
7.さらに、どのようにして、モナドがその内部をを何か
他の被造物により変質され、変化されることがありうるか、
ということも説明しようとしても、不可能である。
モナドには何も移し入れることは出来ないし、モナドの
中で内的な運動を引き起こしたり、それを導いたり、増大
あるいは減少させたりすることができる、などとは
考えられないからである。そういうことが可能なのは
部分同士の間で変化がある複合的なものにおいてである。
モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない。かつてスコラ哲学者が説いた可感的形象のように、偶有性が実体から外へ離れていったり、さまよい出したりする、というようなことは出来ない。こうして、
実体も偶有性も、外からモナドの中に入ることはできないのである。
49考える名無しさん:02/04/09 20:38
7節(>>48
無窓モナドの内部の独立性。
「モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない」

『名著』の偶有性accidentの注、「本質にともなって付随的にあるもの」。
「本質にともなって」とあるのだから、これは後から偶然付随したものでは
なく、ア・プリオリに内属しているものといえるね?
50考える名無しさん:02/04/09 20:47
>>49 「ともなって」という曖昧な言葉の使用が誤解を招いている。
「偶有性」とは、その存在あるいは非存在が、ものの本質に影響しないこと。
「ともなって」を除いて、「本質に付随的にあるもの」としたほうが
誤解の余地がなくてよい表現だと私は思う。
モナドに偶有性はない。だからこそモナドは実体と呼ばれるのではないか。
51考える名無しさん:02/04/09 21:31
>>50

属性(attribut)が実体の本質上もつべきものであるのに対し、
偶有性(accident)はある実体に属していても、それが必然的に
そうとはいえないもの。
52考える名無しさん:02/04/09 21:48
書籍デジタル化委員会にモナドロジーがあるね。
53考える名無しさん:02/04/09 22:04
山形浩生が英語から翻訳したやつでしょう。
原典から翻訳していないという時点でダメだが、
それ以前に哲学の素養のない人の訳だね。ダメです。

彼のウィリアム・バロウスとかの翻訳は良いけどねえ。
54考える名無しさん:02/04/09 22:04
この板で悟りとかなんとか逝ってるヒトは人格障害者ですね。
間違いあるません。
なんかね、「幸せ教」みたいな見えない宗教があってさ、
いくつかの条件がクリア出来た人は幸福で出来なかった人は不幸、
天才妄想のある高卒さんが一気に優位に立つためには悟りしかない、とい
人間って不幸ですねー頭と体が合ってませんよね
そんな年齢でわかるようなものでもないと思うし わかったとしてもシラけるだけじゃないの?
病院行って来いとか言ってる人も安易に物事片付けすぎでは?
ニーチェやキルケゴールは、そんなことを、人生をかけて死ぬまで考え続けてしまった人たちだと思うんだよね。
だからこそ彼らは偉大な哲学者だったと思うよ。
病院なんかじゃ絶対に治療出来ない、偉大な哲学病の患者たちだ
それは要するに生命の存在原因は物理的な法則とは違う法則に基ずいているってことなんじゃないか 
自分自身を自分だって認識する。 それをモナドと言ったんだと俺は勝手に解釈してるが
私たちがここで論じるモナドとは、複合されたものの中における
単純な実体に他ならない。単純であるとは、つまり、部分がないという
うことだと思います。
5549:02/04/09 22:08
>>50
「本質」を主語に置き換えて、偶有性は主語にア・プリオリに内属していると
すれば、これは充足理由として誤解が少なくなるかな?
でもこうなると、偶有性は本来の意味での偶有性の否定だね。
というか、偶有性に見えるものも実は…ということだろうか?

>「ともなって」を除いて、「本質に付随的にあるもの」としたほうが
>誤解の余地がなくてよい表現だと私は思う。
ここではそのほうが安全だとは思うね。
56考える名無しさん:02/04/09 22:11
頼むから頼むから
ハイデガースレとこのスレぐらいはまともなスレであり続けて欲しい
祈りsage
57高ぞう→将軍:02/04/09 22:26
>>55
頭がヤバクなりそうです。
とりあえず>>51の解釈で考えていいですよね。
58考える名無しさん:02/04/09 22:37
>>49
無窓モナドの内部の独立性。
「モナドには、そこを通って何かが出たり入ったりできるような窓はない」

ここで勘違いして欲しくないんだけど、よく「モナドの無窓性」って
いうのは、モナドには窓が必要ないって意味なんですよ。
モナドそのものが「窓」としての機能があるんで、
わざわざ「窓」は必要ないってことです。

確か、下村寅太郎のライプニッツ論にそう書いてあったよ。
59高ぞう→将軍:02/04/09 22:37
>>54
あなたもかなり電波ってますよ。
《「人生って何?」とか思って〜》スレの75はよかったのに…。
でも前半の「幸せ教」の話もどこかで見たな。同一人物とはおもわなんだ。

そんなことはともかく、質問意見がないようなので8節お願いします。
60考える名無しさん:02/04/09 22:52
電波は無視で行きましょう。無視です。無視。
61考える名無しさん :02/04/09 22:52
そんじゃあ、第8節 原典。

8. Cependant il faut que les Monades aient quel-
ques qualités, autrement ce ne seraient pas même
des Etres. Et si les substances simples ne différaient
point par leurs qualités, il n'y aurait pas moyen de
s'apercevoir d'aucun changement dans les choses,
puisque ce qui est dans le composé ne peut venir
que des ingrédients simples, et les Monades étant
sans qualités seraient indistinguables l'une de
l'autre, puisque aussi bien elles ne diffèrent point
en quantité et par conséquent, le plein étant sup-
posé, chaque lieu ne recevrait toujours dans le
mouvement que l'équivalent de ce qu'il avait eu, et
un état des choses serait [indiscernable] <indistin-
guable> de l'autre.
62考える名無しさん:02/04/09 22:55
第8節 翻訳ね。

8.しかし、モナドは何かある性質を持っているに違いない。
さもないと、モナドは存在するものとはいえなくなる。
それに、もし、それらの単純実体がそれらの性質によってそ
れぞれ異なっているのでなければ、事物のうちのどのような
変化であっても、それに気がつくことが出来ないであろう
。なぜなら、複合的なものの中に起こることは、単純な要
素からしかこないからである。そして、モナドが性質をもた
ないとすると、そもそもモナドは量の点については差異が
ないのだから、お互いに区別がつかなくなる。したがって
、もし充実した空間を仮定すると、運動においてはどの位
置も、つねに今までもっていたのと等しいものしか受け取
らないことになるから、物のある状態は他の状態から識別
できなくなってしまう。
63考える名無しさん:02/04/09 22:55
モナドロジーの最初のほうは、やさしそうでとんでもなく難しい。
深く理解しようとすると、「実体」だの「偶有性」だの「スコラ
哲学者」(>>48)ひいてはアリストテレスを読まないとだめなの
かもしれない。わたしもそんな教養はないので反省を迫られる。

>モナドには窓が必要ない…
>モナドそのものが「窓」としての機能がある(>>58
これは18節の「モナドには自足性(suffisance)があって」という
ことですね。

「モナドロジー」はひとつの体系で、縦横に諸節を参照していかない
とわからないところがあるけれど、まずは順をおって読んでみないと
話しにならないので、順調にこのスレが継続することを期待します。
64考える名無しさん:02/04/09 23:12
>そもそもモナドは量の点については差異が
>ないのだから、お互いに区別がつかなくなる。(>>62

モナドは数学的点ではない。
これは、ちょっと横道にそれるけれど、
数学的点の孕む問題についてヒュームが『人性論』で面白いことを
書いている。 点と点が接触することを考える。点は部分を持たない。
ゆえに点はその一部分が他のものと接触することはできない。つまり
点と点が接触するときには全面的に接触するしかない。
接触している「点と点」と、もとの「点」を識別することは不可能だ
ヒュームは言う。ヒュームの立場からすると、結局、部分を持たない
数学的点など実在しないのだ、ということになる。
物理的作用を可能にするような実体は数学的点ではありえない
とする議論においてライプニッツとヒュームは似ているかも知れない。
もちろんヒュームは実体をめぐる形而上学的議論には反対しているのだが。
65考える名無しさん:02/04/09 23:18
>>64

もちろん、モナドは数学的な点ではないよね。
それに、おそらく、ライプニッツも数学的点が事象世界に実在しない
ということは、とうぜん認めると思う。でも、ヒュームが
数学的点の議論で考えていることと、ライプニッツのモナドの議論では、
次元が違うんだと思うよ。ライプニッツのモナドの議論は
あくまでも、事象世界の上位システムだからね。

おそらく、事象世界の問題については、ライプニッツとヒュームは
大方同意出来ると思う。でも、その裏に別のシステムを認めるか否かって
ところだろうね。別れてくるのは。

この二人の議論がカントに影響を与えているのを考えるとおもしろいね。
66考える名無しさん :02/04/09 23:49
テキストの続きはまた後日アップします。
67考える名無しさん:02/04/10 00:09
>>66
モナドとは「もの」の中の実体。
「もの」とは物体のこと。
つまり、モナドとは物体の中の実体。
これだと、物体に宿っているように見えるのだが、そうなの?
68考える名無しさん:02/04/10 00:11
哲学者とは概念を創造するものであって、といういつもの話しから
「直観」「持続」「記憶」「エランヴィタル」を解説してゆく。
要するに、映画とは「コマ/コマ/コマ/……」なんだと。
編集が可能であることからわかるように、それぞれの
コマの隣接は外的なもので、「運動」などそこにはないのだということ。
ジャーナリスムの場でも、アカデミスムの場でもないのだから。
原文はprofondement nouvelle。
差異論文"La conception de la difference chez Bergson"も載ってる。
あるにすぎない。初めのテーゼに関する限り、運動はespace parcouru
(走破・踏破された空間?)とは全く異なる。espace parcouruは過去であ
り、運動は現在であり、これは走破する動きなのだ。espace parcouruは分
割可能であり、実に無限に分割可能なのだが、一方、運動のほうは分割不可
能であり、あるいはまた、それが分割されるたびごとに、質的なものが変わ
ることなく分割されることは出来ないのである。これはすでに、より複雑な
概念を前提としている。つまり、espace parcouru は全て単一であり、同
一であり、均質の空間に所属するのであるが、それに反して、運動のほうは
69考える名無しさん :02/04/10 00:15
>>67

宿っているっていうのは、ちょっとイメージが違うかもね。
物体が物体としてあるということは、常に既に、
モナドのシステムがあるってことなんだと思うよ。
70考える名無しさん:02/04/10 00:38
モナドって要するに原子の事?
明日本買います。
71考える名無しさん:02/04/10 00:42
>>70

ライプニッツ自身が言っているが、モナド(monado)は
原子(Atom)ではないよ。
72考える名無しさん:02/04/10 01:05
良スレだ!
がんばろう。
73考える名無しさん:02/04/10 01:08
 今度新刊も出した米山優さんの本を読もう。
『モナドロジーの美学』
74考える名無しさん:02/04/10 03:55
モナドを何かに喩えることはできますか?
75考える名無しさん:02/04/10 08:46
>>74
モナドは、表象をこととするから、
魂とか精神とかを思い浮かべながら
読むといいと思う。
もちろん、アリストテレス以来の
「実体」概念とかと突き合わせる
ひつようはあるのだけれど。
『形而上学叙説』と併せ読むと
いいと思う。
76電波指定をうけた5ですが:02/04/10 09:02
ここに書き込んでる人って 実際モナドとはどういうものだと想像しているですか。
ヴィジュアル的にもしくはその他でもいいんですが、具体的なイメージは持たれて
いるのですか。
77考える名無しさん :02/04/10 09:08
>>76

だから、テキストを読みなさいって。
それ以外に理解する方法はないよ。
78考える名無しさん:02/04/10 15:46
『名著』の偶有性accidentの注、「本質にともなって付随的にあるもの」。
「本質にともなって」とあるのだから、これは後から偶然付随したものでは
なく、ア・プリオリに内属しているものといえるね?
まだ哲学の真意が見えてこないぞぃ。
早いとこ次よろしく。
79考える名無しさん:02/04/10 16:10
他のみなさんも書いてるが、たいへんよいスレだ。
ぜひもっと続けましょう。
80考える名無しさん:02/04/10 16:17
名スレの予感
        /   /   /   /     |    |   |    |    
       |    |    |    |    ノ     ノ  ノ  ノ    
       |    \__\__\ /  __/___/      
       \ / ̄                :::::::: ̄\        ━╋━    
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      /  /。  ヽ_ ヽ V /::: / 。ヽ  ::::::::;;;;;::::\      ┃
    /  / ̄ ̄ ̄/  ____ ヽ ̄ ̄ ̄\: ::::::::;;;;;;;:::::::ヽ   
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     | :::::::   :::   |ヽ´      |   :::      ;;`´:;;:::: :ノ  ━━╋━━
    .| ::::      : |..|       . | :        O:::;;::;::/      ┃  
    | :::         | | ⊂ニニ::ヽ| |           :::: |        ┗━━
    .| :         | |   |::::::ヽ:::::::| |           ::|    . 
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    .| :         | ┌┌┌┌┌ |          : |             ┃
     \        ├―----‐-――┤                    ━━┛
81考える名無しさん:02/04/10 17:16
第8節わかった?
82高ぞう→将軍:02/04/10 18:06
「充実した空間を仮定」のところで
いきなり空間と言う言葉が出てきて混乱してしまい、
アトムが連想されてしまいそうです。
「空間」というのは、ベルクゾン的な
「等質的なもの(?)の併置される〜」でいいんでしょうか。
そのようにして、あくまで概念論として考えるべきなんだろうと思いますが。
83考える名無しさん:02/04/10 18:42
8節(>>62
複合体の中の変化はモナドによる。
しかも諸モナドには性質の違いがある。
だから複合体の中の変化に気づくことができる。
これによらない物の状態の変化は相対的なものにとどまる。
相対的なものにとどまるというのはイメージ的に例えていえば、電車の窓から
見える風景を眺めた時、電車が動いているのか、風景が動いているのかはどう
でもよくなってしまうということ。
(モナドの性質及び諸モナドの性質の差異がないとそうなってしまう)

まったく自信がないね。
84OFW:02/04/10 21:34
>>83
やってみればわかる。これに尽きる
やってから言え
革命の意義は、革命の経験論的事実に還元されない点にあるんじゃないかな?
もともと革命思想は、その現実的要請から来るパトスと、思想そもののが持つ
現実性を欠いた理論性との両義的側面を持っている。
なにはともあれ、「社会」をふたたび抽象物として個人に対立させ、
そのままくぎづけにしてしまうことは避けなければならない。
したがって、人間なるものは、たとえかれがどれほどまでに特殊的な個
人であったにせよ―そしてまさしくかれの特殊性こそかれをして一個の
個人たらしめ、かれをして現実的で個人的な共同体的本質存在たらしめ
ているのだ―、同様に全体的性格のものである。
85Aurelius:02/04/10 21:43

                /ー--- 、 _ ,...... -ヽ
 |  |:::| |          |             〈
 .|  |:::| |         }       厂 _,... -└ フ
  |  |:::| |           |      .ノ,.-'´  ._,,,yr彡           _ー、-、_
  .|  |:::| |         {   ◎=∠,.-ー'´从从ミミ        ,.-'´   ̄`ー `ー、
  |  |:::| |        ,i' ̄ ̄`` ノソ^ ,. -ーノノノミ        彡  ,. ‐i‐フノ     |
 | |  .|:::| |       i     iへ/    0 〈           彡'´  ノハフノ   λ
 .| |_|:::| |       ゙i     |δ   ″   ゝ         丿(・)  (・)  ヽi   |
 / ̄\ ̄``―-、_    `'リv , >-、    ,.-,ノ           /⊂⌒◯-----9)  /|`l
    / \     `ー 、,  ,´´''l;|,__ `-、_,.フ ,,,,_         / |||||||||_   ∠、  / | |
   /   ヽ        ゙<| ̄|  `-、_,.-´| ̄ ノ\  Θ-、   |  ヘ_/ \  l  /ノノ
  |    |         `ー、l      /  ノ   \  _`ー 、`> :::::::::::::ノ└'´ ノ ´
  l′    |           `ー、    |  |   ,.-‐ '´   ̄ ̄`ー-、::::::/`ー-(⌒)-、
 l′    ,|              `'-、_ .|  \/       ,.-'´    `ヽ    ヽ-(⌒
 |      |                  ^¨¨ ̄       ,.-´     ..:::::|        ̄
 ____ l                ____   ,. -'´     ....:::::::::;|
      |               /\     ̄ ̄ ̄`    ....:::::::::::::::ノ
      |      ,.-‐――---- 、,,|,,,__|         ......:::: ,、nri,.-'´
      |    ζ彡           |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::∩ | |'
      ノ::::::::::::::::::ι‐'´ ̄` ーー−'Tー-|:::::::::::::::::::::::::::::::::::..,.ソ_ノノ´
 ニニニノ::::::::::::::::::::::::mm::::::::::::::::::::::::::\/___,,,,,... ,.-'´
 l    |:::::::::::,. -つノノノノノ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::_,. -‐i'´
 \_∠,.-‐'´    `´´`´| ̄ ̄`ー-------ー'´   |
                 |               |
やぶ!よう頑張った!!
みんなよくやった!
尾張の某チームとは大違いだ。
オールスター終わってからも応援できるようにしてくれ。
オールスターが始まるころには、もうシーズンが終わっているのはもう嫌じゃ。
阪神マンセー!
86Aurelius:02/04/10 21:49
/~''-,,,_                              _,,,,,__ ._,,,-ー-,,_
..l'l | ~'ー,,~=-,,,_                       __.!l  '['   _,,,,,_ \
.l l .l   >.i-,,_ ]                 _,,,,,,-ー'''''~    |   .'l ./  ./  ._'l
.l,,| .'!-,,,,/ /  .Y            ._,-ー''''~/    _,,-ー'''''~  -,,l   .ノ_,-''ニ-'l
.|_ <~''''ー、.'l, .ト,         ._-'~   /  ._-''ニ’ ._. ̄~~),___ .~-i,,,_.~'''''''ー-l'
 .\,-,___>'-'ノ'l       ./    /  ./ / / ~''''''二,,,_.'ー<、.\ _,,-''
   .\ ,,,,,,-'~/l,      /     /  / ./ .(_/     ~   ~  .\ l
     ''''=''''~ヽ .'l、    ./ ._,,,,---/  / ./ / _,--           '''[
       \ ヽ  'l、 _ ./._-''    l'  .l ,,>-l ./          _-=,,_  'l
         'l. ヽ ]' 'l /     l   | .|  l'           il~~'''i'-,'l  l,
         i-=,,,ノ ./\    /   | .!, .ノ            l,,,-iilli l,  .'l,-.,
         '-=ー''~   \  .ノ    .l, 'l'    _,-ニ=_     \::!!!:::l   l l
           ~l l     ~(,_     l、 'l、  __l /~_,ノ::'l、    。 ~''-'~   l.ノ
           .l l       'l、    '!、 'l,  .l,.!~~lllll!::::|  _,,,--''l     ,l
            'l l   _,-,,,_ .'l、    \'_、  .\_::::ノ  .l   .'l   /l
            l、 '!,,,,l'~   .'l、 'l,     i' ,,,_   ~~    'l、  ノ _,-' .ノ
             .l、  .!,   ノ  l    !,_ .! i''~'-_,,,,,,---,,,_ニ=<'~ ._/
              \ 'ーi-'~/  l,~''-,,,,_ ~'''ニ三二---,,,,_  ~'')_ト~>-...._
               \_ .l, ~    'l,   ニ=彡-ー''''l,'ニ:巳ミ.-、 .), (~'~l、 ]-,
                 \\    .>'~~)-'~ _,,,,--<_   'l .\~ノ'.、''!ノ'ニv l
                   ~-ニ、  / /'⊃ニ----,,_ .'l,  ヒ,,-'~''l゚.。'~ .'l.'l
                   .[ ~'''''''~_/ .'(~  \   'l、 'l, /|    .l、   .|~.|
                    .~~~ミ二,,,_ニi__  'l   l l' .|    .| ゚  .| |
                      /      ~'''l~i   .| |/ーーー.!,,,_,-| l
                      L__    _,,-'~ l''l, _,_ノ./-ー--,,,,,,,,_/ i''i,/
                       .[~''ー'''~  .ノ l_-<,/    _,,-=ニ->,.',ノl
                    __,--'ニ~''=-,,,,,,-''~ .ノ .ノ--,,_,-''ニ-ニ-~ / '' |
                 _,--'~_,-'~   ~'-,,,,,,,-'~_,-<-=_-,-'~_/   ./   |
               i''~  .'=-,,,_ _,-'''~  .]~!'_-Sニ_/ ./    /   .|
              ./       .i='~     |,__∠,,,//     /   .l
がんばれ阪神タイガース!!
87考える名無しさん:02/04/10 21:51
続けましょう。
お願いします。
88考える名無しさん:02/04/10 21:55
や、早いやろ。余裕で。
もぉそろそろ信じてやってもええんかな?まだ早いか?
まぁ弱くても強くてもええねんけどよ
僕はプロにあこがれるアマチュアです。
89考える名無しさん:02/04/11 00:28
そんじゃあ、第9節 原典

9. Il faut même que chaque Monade soit diffé-
rente de chaque autre. Car il n'y a jamais dans la
nature deux êtres qui soient parfaitement l'un
comme l'autre, et où il ne soit possible de trouver
une différence interne, ou fondée sur une dénomi-
nation intrinsèque.
90考える名無しさん :02/04/11 00:29
第9節 翻訳

9.おのおののモナドは他のすべてのモナドと
異なっていなければならない。自然においては、二つの
存在するものがお互いにまったく同じようであって、
内的差異、すなわち内的規定に基づく差異をみとめる
ことができないということは決してない。

91考える名無しさん :02/04/11 00:30
すいませんけど、今日は9節のみです。
荒らしは無視でいきましょうね。相手にする価値もないですから。
92考える名無しさん:02/04/11 02:40
>>50 定義上、実体とは偶有性をもたない存在、という解釈は正しい。
>>51 この指摘も重要。スピノザは実体の属性(attribut)から“派生”した状態を
様態(mode)と呼んでおり、ライプニッツの accident はスピノザの mode に
対応する。
>>61,62 翻訳で「性質」とあるのは「質」とした方がわかりやすい。ここで問題に
されていることは「質」と「量」の区別だから。もう少しあとになって明らかに
されるように、モナド間の質的差異とはそれぞれのモナドが他のいっさいのモナドを
映し出す(表現する)ことによる。
>>64,65 次の9節で「自然においては dans la nature 」とあることからも
わかるように、ライプニッツは事象世界とメタレベルを階層化する議論はしない。
(だからといって後生がそういう解釈をすること自体がまちがいだということには
ならないが)。ライプニッツの大系では、モナドは事象世界の「構成原理」として
事象世界に内在しているという点に注意が必要だと思う。 65さんのあげ足とり
ではなく、この後の読解がおかしな方向へそれないために(おせっかいを承知で)
指摘しておきたい。ライプニッツがバロックの哲学者だと呼ばれる理由の一つは、
彼の大系が「一階記述論理的構造」の中に構成原理を内在させようとしたこと
にある(大伽藍=普遍数学=一階記述論理的構造を構築するにとどまった
ルネサンスの知性との対比で、そうした大伽藍自体の内部にそれを支える原理
を閉じ込めようとしたことを、彼の生きた時代の精神とむすびつけてバロックと
いうわけだ)。後生はこうしたライプニッツのシステムをどうしてもそのまま
受け入れるのに抵抗を感じる。そこから一階記述論理とメタレベルを階層化
する思考作法などが生じるのだが、むしろメタレベルがつねにすでに一階記述論理
に内在するというライプニッツ的素朴さ(?)は、ゲーデル、ラッセル、
ヴィトゲンシュタイン、クリプキ、ドゥルーズ、現代のAI学・大脳生理学、
どこかで先に話が出ていたフラクタル幾何学、といった分野横断的な知の基盤に
直結している。ただライプニッツの記述法は明らかに形而上学であって、
へたな読み手が読めば陳腐な神秘思想になってしまう危険が大きい。長レス、スマソ

93高ぞう→将軍:02/04/11 03:16
>>92
良レスありがとうございます。
ということは、8節の「運動」は質的変化の事をさすと考えてよいのですね。
事象世界とメタレベルを階層化する議論はしないというのも意外です。
なんだか、どんどん面白くなってきましたよ〜
94考える名無しさん:02/04/11 08:11
久しぶりにこのスレ見たが、
たいへん面白いスレになっている。
95考える名無しさん:02/04/11 12:28
>>93 8節の「運動」は、この節だけをきちんと読んでもわかりますが、複合的な
もの(=単純実体としてのモナドによって構成されている事物)の運動と、それを
支えるモナドの質的変化の総体を指しています。自然の事物の運動を量的差異に
よってのみ考えれば原子論(要素還元論)になってしまいますが、運動の量的変化を
構成するモナド間の質的関係を同時に想定することによって、自然界(事象世界)
それ自体に運動の原理を認めようという指摘だと思います。
だからこそ事象世界とメタレベルとを階層化しない、と言えるわけです。
こうしたライプニッツ・スピノザ的姿勢は、intrinsèque(内在的)という概念で
言い表され、transcendent な立場(超越的な立場、すなわち事象世界を超越した
原理を自然の外部に求める姿勢)を鋭く拒否する点において、カントの先駆を
なしています。このあたりの明晰な解読については、ドゥルーズの『スピノザと
表現の問題』を読まれることをすすめます。何かとジャーナリスティックにとり
あげられることの多かった哲学者ですが、この作品は本当に天才的で、ライプ
ニッツ・スピノザが実践したであろう思考のプロセスを実況してくれます。ぼくは
モナドロジー・形而上学叙説・エティカと並行して読みました。哲学科の講義とは
縁もゆかりもなかった(というか日本の哲学の講壇を信じられなかった)ぼくに
とっては、このドルゥーズの本が何よりの教師で、結果的にライプニッツと
スピノザの作品を何倍にも面白くしてくれたという経験があります。
96考える名無しさん:02/04/11 15:17
そんじゃあ、第10節ね。

10. Je prends aussi pour accordé, que tout être
créé est sujet au changement, et par conséquent la
Monade créée aussi, et même que ce changement
est continuel dans chacune.

10.すべての創造された存在するものは変化を受ける。
したがって、創造されたモナドもまた変化を受ける。
そして、その変化はおのおものモナドのなかで
連続的である。ということは誰しもが同意している
ものと私は考える。
97考える名無しさん:02/04/11 15:44
この節を読むにあたって注意すべきことは、モナドは変化する、ではなく、
モナドは変化をこうむる、とされていることだ。しかも「変化 le changement 」
は定冠詞つきの単数だから、事物やモナドの総体にかかわる一つの変化である点
も重要。したがって、「その変化はおのおののモナドのなかで連続的である」
とは、各モナドの内部で連続的な変化が起こる(各モナドが連続的に変化する)
ということではけっしてなく、「それぞれのモナドにおいて、それぞれのモナドを
横断する一つの変化が、どのモナドにも波及するという意味で連続的である」
といった意味になる。ライプニッツのシステムにおいて、ある世界に生じた変化は、
時間的にも空間的にも、その世界のすべての構成要素に多かれ少なかれ波及する。
98考える名無しさん:02/04/13 14:52
92=95=97です。たぶんぼくのレスのせいで人っ子ひとりいなくなっちゃいましたね。
ぼくはこのスレッドを牛耳ってご意見番を気取ったり、他の人の意見にどうでもいい
いちゃもんをつけるつもりはまったくないです。素人のライプニッツファンとして
おもしろいスレだなと思っただけなので。。あらしが引いたのはいいですが、本来
書き込んでくれるべき人まで引かせるつもりはありませんでした。せっかくの好スレ
なんですから、みんな気楽にカキコしてください。ということで、場ちがいだった
ぼくはこのスレから撤収します。さようなら。
99考える名無しさん:02/04/13 19:46
続けようよう。
100高ぞう→将軍:02/04/13 20:03
>>98
いや、ぜんぜんいいレスばかりだと思いますよ〜。
初学者の私こそ、他の人の意見を聞きたいのですが、
電波よけ(ですよね?)でsageてんのが存在感ないのかな?
私としては10節は97で疑問点がだいたいわかったので、もう11節いって欲しいです。
22時までに何もなかったらageて玄人さんの(何か)意見を聞きたいと思います。
101高ぞう→将軍:02/04/13 22:08
age
102考える名無しさん:02/04/13 22:18
え〜と、テキストをカキコしていたものです。
しばらく、多忙でカキコできそうにありません。
みなさんだけで、テキストの翻訳などやってみてください。
がんばってください。暇が出来ればまたカキコしたいと思っています。

一応、ここ↓にフランス語のテキストがあります。
http://un2sg4.unige.ch/athena/leibniz/leib_mon.html

ちょっと、どの程度テキストクリティークされているものか
分かりませんが、参考にはなると思います。
あ、ちなみに山形浩生の翻訳は絶対に信用しないように。
10398:02/04/13 23:19
「さようなら」はウソです。流れを再開させるためにちょっとネタふってみました。
(^^)v じゃ11節から13節、原典ね。
11. Il s'ensuit de ce que nous venons de dire, que les changements
naturels des Monades viennent d'un principe interne; puisqu'une cause
externe ne saurait influer dans son intérieur.

12. Mais, il faut aussi, qu'outre le principe du changement
il y ait un détail de ce qui change, qui fasse pour ainsi dire
la spécification et la variété des substances simples.


13. Ce détail doit envelopper une multitude dans l'unité ou
dans le simple; car tout changement naturel se faisant par degrés,
quelque chose change et quelque chose reste, et par conséquent
il faut que dans la substance simple il y ait une pluralité
d'affections et de rapports, quoiqu'il n'y ait point de parties.


104考える名無しさん:02/04/13 23:45
じつはいま手元に翻訳もフランス語辞典もないので、だれか河野与一さんの
翻訳アップしてください。いいかげんに訳すとだいたい次のようになります。

11 いままで述べてきたことから以下の事柄が導かれる。各モナドの自然な
変化(複数)は、内的な原理による。なぜなら外的な原因はモナドの内部に
影響を及ぼすことはできないからである。

12 しかしまた、変化の原理にしたがえば、変化するものの細部、単純実体
のいわば特性と多様性とを生み出す細部が存在しなければならない。

13 この細部は、一義性(統一性)あるいは単純さのなかに多数性を含む
のでなければならない。なぜならあらゆる自然な変化は、あるものが変化
すれば他のものは(変化せずに)残るといった漸次的な程度によって生じ、
その帰結として単純な実体の内部には、けっして部分というものはないにも
かかわらず、もろもろの影響(触発)と関係の複数性がなければならない
からだ。
105さおざる:02/04/14 12:24
104です。工作舎の著作集借りてきました。やっぱきのうの翻訳に誤訳が
ありました(汗。
12節×「変化の原理にしたがえば」
  ○「変化の原理の他に」
それから、102さんもオリジナルの翻訳をアップしていたようなので、今後
102さんのボランティアがむずかしいのならば、いっそのこと工作舎の翻訳に
統一して、気になるとこだけ注釈をつければいいんじゃないかと思います。
そこで、1〜12の翻訳をあらためて載せます。ではいきます。
106さおざる:02/04/14 12:31
1 これから論じられるモナドとは、複合的なものに含まれている単純実体に他
ならない。単純とは、部分がないということである。
(工作舎..以下K..注 モナドは「一」「一なるもの」を意味する。『叙説』で、
「個体的実体」「実体的形相」などと呼ばれ、以後「エンテレケイア」「能動的
力」「原始的力」「真の(統)一」「形而上学的点」などと呼ばれてきたものが、
1696年頃から「モナド」と呼ばれるようになった。
107さおざる:02/04/14 12:39
2 複合的なものがあるのだから、単純実体がなくてはならない。複合的なものは
単純なものの集り、つまり集合体に他ならないからである。
3 ところで、部分がないところには、広がりも、形も、分割の可能性もあり得ない。
それで、こうしたモナドは自然の真のアトムであり、一言でいえば諸事物の要素
である。
4 また、モナドには分解の惧れはないし、単純な実体が自然的に消滅しうるなど
とは、とても考えられない。
(K注「世界が超自然的な力で絶滅するのでなければ、モナドも消滅しない」)
108さおざる:02/04/14 12:43
5 おなじ理由により、単純な実体が自然的に生じ得るとは、とても考えられない。
単純な実体は、複合することによってつくることはできないからである。
6 そこで、モナドは生ずるにせよ滅びるにせよ、一挙になされるしかない、と
言える。つまり、創造によってのみ生じ、絶滅によってのみ滅びるのである。
ところが、複合されたものは、一部分ずつ生じ、あるいは滅びる。
109さおざる:02/04/14 12:54
7 さらに、どのようにして、モナドがその内部を何か他の被造物により変質され、
変化されることがありうるか、ということも説明しようとしても、不可能である。
モナドには何も移し入れることはできないし、モナドの中で内的な運動をひき起こし
たり、それを導いたり、増大あるいは減少させたりすることができる、などと
考えられないからである。そういうことが可能なのは、部分同士の間で変化がある
複合的なものにおいてである。モナドには、そこを通って何かが出たり入ったり
できるような窓はない。かつてスコラ哲学者が説いた感性的形象のように、
偶有性が実体から外へ離れて行ったり、さまよい出たりする、ということは
できない。こうして、実体も偶有性も、外からモナドの中へ入ることはできない
のである。
(「スコラ哲学者が説いた感性的形象」についてのK注「認識を主・客関係を
前提せず、具体的な存在者の間に成り立つものと考えた、近代以前に用いられた
用語。物を表現している非物質的形象が、その物を離れて人間に取りこまれ、
そこに物の認識が成り立つとされる。」)
110さおざる:02/04/14 13:14
8 しかしながら、モナドは何らかの性質をもつ、といわなくてはならない。さも
ないと、モナドは存在するものといえなくなる。それに、単純実体がその性質に
よってそれぞれ異なっているのでなければ、事物のうちでどんな変化が起こっても、
それに気付くことができないであろう。複合的なものの中に起こることは、単純な
要素からしかこないからである。そこで、モナドが性質をもたないとすると、そもそも
量について差異がないのだから、お互いに区別がつかなくなる。したがって、もし
充実〔した空間〕を仮定すると、運動においてはどの位置も、つねに今までもって
いたのと等しいものしか受けとらないことになるから、物のある状態は他の状態から
区別できなくなってしまう。
(「性質 qualités」についてのK注「部分や大きさをもたぬモナド、またモナドの
つくる世界には、いわゆる「量」とか「質」のカテゴリーは適用されない。ここでは、
それぞれのモナドがもつ独自の特徴、次節にいう「内的規定」を指す。なお12節参照」
「充実〔した空間〕」についてのさおざる注「61節に『すべてが充実しているので
どの物質も結びつきあっているし、充実体の中では、どの運動もへだたった物体にも
距離に応じて何がしかの効果を及ぼすからである』とある通り、ライプニッツの考える
事象空間には空虚がない。)
111さおざる:02/04/14 13:20
9 さらに、どのモナドも他のすべてのモナドと異なっているのでなくてはならない。
自然の中では、二つの存在者がお互いまったく同じようであって、内的な差異
すなわち内的規定に基づく差異が見出せない、ということは決してないからである。
10 また、すべての創造された存在者は、変化をまぬかれない。したがって
創造されたモナドも同様である。しかもその変化は、どのモナドにおいても絶えず
行なわれている。このことは誰もが認めると思う。
112さおざる:02/04/14 13:30
11 これまで述べてきたことから、モナドの自然的変化は内的原理から来ている、
ということになる。外的な原因が、モナドの内部に影響を与えることはできない
からである。
(K注「草稿には以下に『12 そして一般的に、力は変化の原理に他ならない、
ということができる。』とあり、後に抹消された」←これすごく貴重な注釈です。
工作舎さんありがとう by さおざる)
12 しかしさらに、変化の原理の他に、変化するものの細部が存在して、これが
いわば単純実体に、特殊化と多様性を与えているのでなくてはならない。
113さおざる:02/04/14 13:48
12節の「細部」についてのK注「次節(13節)でいわれるように、モナドは多を、
むしろ無限多の内容を含んでおり、しかもそれは微細な構造つまり細部から
成り立っている。これが各モナドの内的規定に対応するもので、その特殊化むしろ
個別化の原理となる。」
K訳の「特殊化」の原語は spécification で、これは英語のスペックとほぼ同一
の意味です。つまり細部の特性ということ。ライプニッツのシステムのユニークさ
は、複数の個性ある(個体化された)実体を認める点にあります(ちなみにスピノザ
のシステムでは実体は唯一絶対で、実体によって構成される世界の個性はあくまで
実体の属性と属性の様態(変容)に由来します)。12節では、単純実体の変化→
変化には細部が必要であるという要請→単純実体の細部の存在の肯定→特殊化
(細部の特性)と多様性、というきわどい論理が展開されているわけです。
そしていよいよ次節、13節こそ、モナドロジー前半のクライマックスの始まり
で〜す!
114さおざる:02/04/14 13:53
13 この細部は、「一」すなわち単純なものの中にある多を含んでいるはずである。
というのは、自然的変化は徐々に行なわれるので、あるものは変化し、あるものは
変わらないからである。したがって、単純実体には部分はないけれども、いろんな
変化する状態や関係が必ず存在していることになる。
115さおざる:02/04/14 14:06
103のぼくのがちがちの直訳と比べ、もちろんK訳は流麗なんですが、少しこなれ
すぎのきらいもあります。K訳と原文を対照しましょう。
「一」← l'unité (もちろん「単位」「統一」という意味です)
「多」← une multitude (「多数」「多数者」といった意味です)
「いろんな変化する状態や関係」← une pluralité d'affections et
de rapports
    ( affection は「作用」「影響」「情動(特に愛の感情とその発露)」と
      いった多様な意味があるので、ちょっと「状態」という訳は気になります。
     une pluralité も「複数性」というれっきとした概念であり、もちろん
     l'unité とこの節においては対応関係をもっています。これを「いろんな」
     と訳してしまうと、わかりやすいのはいいんですが、この節の華麗な諸概念の
     きらめきとそれらの相互関係の見通しが悪くなってしまいます。)   
116さおざる:02/04/14 14:22
今日はこれでおしまいにします。2ちゃんで勉強できるとはなんてありがたいんだ!
神様ありがとう。ところで前に(98)で書いた、「さようなら」だけはネタでしたが、
あとは全部本音です。つまりぼくはこのスレを私物化するつもりはありません(カキコ
が多いことと占有することとはべつですよね)。前にだれかがヒュームの「数学的点」
の話をカキコしてくれて、あれはたしかに脱線ではあったんですが、いい脱線でした。
ぼくの書き込みはたぶん脱線はしないので、このままだとほんの一部のひとしか立ち
寄らなくなります。それはそれでいいのですが、できれば気ままな思いつき、感想を
書いてほしいです。むしろそこからライプニッツにはない新しい思考の可能性が
開けるのではないでしょうか。
117考える名無しさん:02/04/14 17:10
>>116
ケラケラ
118さおざる:02/04/14 23:36
工作舎の著作集、いいですねぇ。高いので図書館で借りて読んでるんですけど、
だれかぼくにくれませんかぁぁ。今日は「理性に基づく自然と恩寵の原理」を
読んで感動した! さて、静かないい日曜日の最後を飾るべく、14節いくぞ!
原文から。
14. L'état passager qui enveloppe et représente une multitude dans
l'unité ou dans la substance simple n'est autre chose que ce qu'on
appelle la perception, qu'on doit distinguer de l'aperception
ou de la conscience, comme il paraîtra dans la suite;
et c'est en quoi les cartésiens ont fort manqué, ayant compté pour
rien les perceptions dont on ne s'aperçoit pas. C'est aussi ce qui
les a fait croire que les seuls esprits étaient des Monades,
et qu'il n'y avait point d'âmes des bêtes ou d'autres entéléchies
et qu'ils ont confondu avec le vulgaire un long étourdissement
avec une mort a la rigueur, ce qui les a fait encore donner
dans le préjuge scolastique des âmes entièrement séparées et
a même confirme les esprits mal tournés dans l'opinion
de la mortalité des âmes.
119さおざる:02/04/14 23:47
続いてK訳。
14 「一」すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を表現している推移的状態
が、いわゆる表象に他ならない。あとで明らかになるが、表象は意識された表象
つまり意識とは区別されねばならない。この点でデカルト派の人たちは大きな誤りを
おかして、意識されない表象など無いものと考えた。そのために、彼らは精神だけが
モナドであって、動物の魂とかその他のエンテレケイアとかは存在しないと思い込み、
俗見にしたがって長い失神状態と厳密な意味での死とを混同した。そこで彼らは、
完全に分配された魂というスコラ学者の偏見にふたたび陥って、ねじけた心の持ち主
に魂の死滅説を固く信じさせることにさえなったのである。
120さおざる:02/04/15 00:02
この14節と密接に関連する「理性に基づく自然と恩寵の原理」第4節を、工作舎版、
米山優さんの翻訳で紹介します。

4 各々のモナドは、特定の物体と一緒になって、生きた実体をなす。従って、至る
ところに肢体とか器官に結び付いた生命があるだけでなく、諸モナドにおいて生命には
無限の程度があって、或るモナドが他のモナドを多かれ少なかれ支配しているのである。
ところで、モナドがとても整った器官を持っていて、それによって、受け取る印象の
内と、従ってそれら印象を表現する表象の内に、浮き出したところ際立ったところが
ある場合(例えば眼房水の形によって光線が集中され、より強く働きかける時のように)、
感覚( le sentiment )にまで言い換えれば記憶を伴った表象にまで達し得る。
即ち、それの或る反響が長い間残っていて、機会があると聞こえてくるような表象
にまで達し得るのである。(長いので一度中断します)
121さおざる:02/04/15 00:14
「理性に基づく自然と恩寵の原理」第4節(続き)
そしてそういう生き物は動物と呼ばれるが、それはその生き物のモナドが魂と
呼ばれるのと同じようなものである。そしてこの魂が理性にまで高められる場合、
それは何かもっと崇高なものであり、精神の内に数えられるのだが、それについては
後ほど説明しよう。確かに動物だって時によると単なる生き物の状態にあり、その
魂が単なるモナドの状態にあることもある。それは即ち、それらの持つ表象が十分
際立っておらず、思い出すことができないような時であり、夢も見ない眠りとか
失神において生ずるのがそれである。しかし全く混雑してしまった表象も、動物に
おいては、後ほど第一二節で述べる理由によって、再び展開してくるに違いない。
そうだとすると、外的諸事物を表現しているモナドの内的状態である表象と、意識
( conscience )即ちこの内的状態の反省的認識である意識的表象
( l'Apperception )とを区別した方が良い。意識的表象はすべての魂に与えられて
いる訳ではなく、同一の魂にだって常に与えられているのでもないのである。
(もう一度中断します。スマソ)
122さおざる:02/04/15 00:26
「理性に基づく自然と恩寵の原理」第4節(続き2)
そして正にそういう区別をしなかったためにデカルト派の人々は意識されない表象を
無視してしまって失敗したのだが、それはちょうど人々が非可感的な物体を無視する
のと同じようなものである。またそのことが同じデカルト派の人々に、精神だけが
モナドであり、獣の魂などというものは無く、まして生命のその他の原理など無い
と考えさせたのである。そして、動物に感覚を認めないことで人々の共通の見解に
あまりに反してしまったのと同じような具合に、もう一方で一般の人々の先入見に
あまりに同調してしまい、表象の著しい混雑( confusion )に由来する長い気絶
と、表象全体が止んでしまう厳密な意味での死とを混同してしまった。そして
そのことが、幾らかの魂は破壊されてしまうという根拠の無い意見や、われわれの
魂の不死性〔という見解〕を攻撃してきた幾人かのいわゆる自由思想家の間違った
意見を正当化してしまったのである。
123さおざる:02/04/15 00:42
みんな! なんでこんなに長々と引用したかわかるか?
そうだ、ここでライプニッツが論じているのは現代のわれわれが言うところの
「無意識」だからなんだyo! カルテジアン全盛の時代、言い換えれば意識
中心主義がモードとなり始めていた時代に、すでに「混雑した表象」に
存在価値を認め、「動物の魂」を論じるこの卓見に驚かないとしたら、君には
哲学を論じる資格はない! ぼくが今日感動していた十分な理由、わかって
もらえたかな? 
ま、少し冷静になって、これからのモナドロジーの読解にあたって注意して
おきたいことがあります。いまの「原理」第4節の引用からもわかってもらえたと
思いますが、ライプニッツがモナドを「魂」というときには、
その「魂」という概念自体があらゆる表象の段階を含んでおり、神秘思想家
連中の言う霊魂概念などの外延をほとんど無限に越えてしまっているのです。
つまりライプニッツは「魂」という概念をきわめて合理的に用いているので、
この言葉の表面的な語感に反応すると、大変な誤解を招く点に注意が必要なのです。
124さおざる:02/04/15 01:26
だめだ、あした仕事があるのになんかやたらハイで眠れません。ぼくを構成している
「単なるモナド」のいくつかがさわがしいようです。しかたがないから、モナドロジー
第13節の「エンテレケイア」に関するK注、アップするぞ。

エンテレケイア アリストテレスによる造語。完成態、完全現実態などと訳される。
存在に関して可能態(潜勢)と現実態(現勢)との区別を考えるとき、
@現実態と同じ意味に、あるいはA可能態の現実化の作用・過程に対して、完全に
可能態が現実化された状態を指す。
そこで実体を形相と質料の複合物とすれば、無規定的受動的な質料に規定を与え
現実化する形相が、さらに現実化が完成し質料が形相化されつくした状態を意味
する。
ライプニッツは、魂、原初的力、実体形相、モナドなどと同義としているが
(『弁神論』396節)、とくにモナドが自己を実現させてゆく力、それも妨げる
もののないかぎりおのずから作用に移ってゆく傾向力、単なる潜勢力と実現作用
との中間に位するものとされている。

ま、年寄りの学者ならではのまわりくどい注ですね。簡単に言いかえれば、
アリストテレスの文脈では、質料が形相によって完全に規定され、可能態から
現実態に移った状態を指すが、ライプニッツはこれを「現実化する力」の意味で
用い、特にモナドの「力」の面を指示する場合にモナドと同義に扱うということです。
125さおざる:02/04/15 13:22
14節にはライプニッツのシステムを支える重要な概念である「表現」と「表象」
が登場します。これらの概念の意味を確認する前に、まずK訳が採用した訳語と
原語との対照表をどうぞ。なお「表出」はこの節には出てきませんが、「表現」
「表象」と同義に用いられることが多いので、いっしょに並べておきます。
表現← représentation
表象← perception
表出← expression
めんどうなことに、これらの翻訳語は河野与一さんたち先人の伝統にのっとった
もので、現代フランスの思想家(たとえばデリダやドゥルーズ)のテキストで上
の原語が用いられる場合には、また異なった訳語が当てられます。ご存知のよう
に、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』の翻訳では、expression が「表現」
となっていますし、一般にいまは représentationに「表象」を当てます。また
しばしば perception は人間の「知覚」を指して使われています。したがって、
混乱を避けるためには本当は訳語にたよらないのが一番なのですが、日本語のス
レッドでテキストを扱う以上、今後もK訳のお世話になりたいので、やむをえず
上の表の伝統的な訳語を採用しようと思います。もちろん必要な場合はこれから
も原語を併記します。
126さおざる:02/04/15 13:24
K訳14節に「表現 représentation 」についてのくわしい注記があります。全
文転載させていただきます。

表現( représentation )は表象( perception )、表出( expression )と
ほぼ同義に用いられるライプニッツ哲学の基本概念の一つ。これについてライ
プニッツは言う。「あるものが他のものを表出するというのは、一方について
言えることと他方に言えることとの間に、恒常的な規則的関係が存することで
ある。たとえば遠近法的投影図はその実測図を表出する。」(アルノー宛書簡)
この場合、両者が相似している必要はなく、一定の類比が保たれていればよい。
そこで方程式と図形のように全く別種のものの間にも、表現関係が成り立ちう
る。ところで、モナドは潜勢的にせよ宇宙全体を含み、その状態の刻々の変化
はモナドの自己展開に他ならず、そこに表現されている無限の多は、他のすべ
てのモナドあるいは宇宙の示す多様性に他ならない。ここで、たとえば二つの
系列の間の対応関係をも含む表出概念は、人間の意識に見られるような「一に
おける多の表出」に限定されてくる。「モナドは表現的であることを本性とす
る」のである。前出の書簡でひきつづいて「表出はあらゆる形相に共通であり、
自然的表象、動物的知覚、理知的認識などを種として内に含むような類(概念)
である。」と言っている。
127さおざる:02/04/15 13:26
上の注自体が誤解される余地のあるものなので、整理しておきます。
1.「表出」と「表現」は同義である。
2.「表出(表現)」とは二つの系列の間に恒常的な規則的関係があるというこ
とである。(写像や位相をイメージするとわかりやすいでしょう。)
3.2のように規定される一般的な意味での「表出(表現)」には、自然的表象・
動物的知覚・理知的認識などのいろいろなタイプが含まれる。
4.3のいろいろなタイプの一つとして、「一における多の表出」である人間の
意識がある。

以上をふまえて14節を読み返してみると、次の主張がなされていることがはっ
きりとわかります。
明晰な表出(表現)作用をもつ人間の意識だけがモナドなのではない。自然のあ
らゆる事物(複合体)を構成する一つ一つのモナドに、それぞれ明るさの程度が
異なる表出(表現)作用がある。
何という人なんだ、ライプニッツという奴は!
ぼくはいまこうしてひさしぶりに彼のテキストを読み直しているのですが(だか
らこのスレを立て逃げした1には感謝してるぜ)、読むほどに感心するばかり。
128さおざる:02/04/15 13:27
さらにK訳14節の「表象 perception 」についての注。

表象を構成しているのは、「内的なものにおける外的なものの表現」「単純なも
のにおける複合体の表現」「一における多の表現」である。(ワグナー宛書簡)
129考える名無しさん:02/04/15 18:02
うわ、なんて指摘してあげたらいいものか(ワラ
14節まで来ると、具体的でわかりやすいですね。
「理性に基づく自然と恩寵の原理」の引用も
かなり実際的な考え方でおもしろいです。
そこで、疑問点はもどりますが13節です。
「自然的変化は徐々に行なわれるので、あるものは変化し、あるものは
変わらないから」「この細部は、「一」すなわち単純なものの中にある
多を含んでいるはずである。」ということですが、
今一つこの「あるもの」というのがつかめません。
徐々に行われる、という点も含めて、明確に説明してもらえませんでしょうか。
131さおざる:02/04/15 22:29
>>129 もちろんモナドロジーの各節に対して思うところをコメントしてくれれば
いいんですよ。ぼくはしょせん狂言まわしのさるなので、ぼくをワラっていても
何にもなりません。いまの主役はとにかくモナドロジーです。
>>130 高ぞ〜う、こんにちは! 質問についてですが、この文脈でライプニッツは、
「自然な変化」が一挙に生じることはなく、段階を追って連続的に起こるということ
を指摘したいのです。「あるもの」という言い方は、モナドのなかの部分(もちろん
そんなものはありません)を連想させる点でたしかにおかしいのですが、これは
変化を時系列に沿って考えたときに、ある時点で変化のすべてが完了してしまう
ことはなく、それ以前に起こったことと、それ以後に起こるであろうこととは区別
できる、という意味で理解すべきだと思います。直感的なイメージで言いますね。
世界の自然な変化とは、各モナドが互いに配置を変えつつ、他のすべてのモナド
(つまりモナドによって構成される世界全体)を表象する連続的な過程です。
こうした過程はある終局をめざして一気に生じるものではなく、たえず生成の
途上にあって、各モナドの表象内容は世界の変容とともに時々刻々変わって
いきます。その意味で「一のなかに多が含まれる(表現される)」と言われて
るのです。こんなところでどうでしょうか?
132さおざる:02/04/15 23:34
14節への補注 by さおざる「aperception について」
K訳の「意識された表象」の原語は aperception です。
例の「表象 perception」に a がくっついた単語で、表象( perception )の
反省的認識という意味を表わすことばです。
133さおざる:02/04/16 08:46
では15,16節原典。
L'action du principe interne, qui fait le changement ou le passage
d'une perception a une autre, peut être appelée appétition:
il est vrai que l'appétit ne saurait toujours parvenir entièrement
a toute la perception où il tend, mais il en obtient toujours
quelque chose, et parvient à des perceptions nouvelles.

16. Nous expérimentons en nous-mêmes une multitude dans la substance
simple, lorsque nous trouvons que la moindre pensée dont nous nous
apercevons, enveloppe une variété dans l'objet. Ainsi, tous ceux qui
reconnaissent que l'âme est une substance simple, doivent reconnaître
cette multitude dans la Monade; et M. Bayle ne devait point y trouver
de difficulté comme il a fait dans son Dictionnaire, article Rorarius.
134さおざる:02/04/16 08:48
すいません、上の15節のナンバー、とんでます。
135さおざる:02/04/16 08:51
K訳です。
15 一つの表象から他の表象への変化や推移を引き起こす内的原理のはたらき
を、欲求( appétiton )と名づけることができる。もちろん、欲求のはたらき
( appétit )が、その目ざす表象の全体に完全に到達できるとは限らない。し
かし、いつもその表象から何かを得て、新しい表象に到達するのである。
16 われわれの意識する思想がどんなに僅少なものであっても、対象の中にあ
る多様性を含んでいることに気づくとき、われわれ自身で単純実体の中にある多
を経験するのである。そこで魂が単純実体であることを認める限り、誰でもモナ
ドの中にこうした多があることを認めなくてはならない。この点について、ベー
ル氏が彼の『辞典』の「ロラリウス」の項で述べているような難点に出会うこと
はなかったはずである。

K注「ベール」( Pièrre Bayle, 1647-1706)フランス生まれの哲学者。精神
的世間的放浪のうえ(ワラタ)オランダに住み『歴史批評辞典』を出版(1697年)、
好評を博し百科全書派の先駆となる。彼は信仰と理性の合致を否定し、いわ
ば二重真理説をとる。ライプニッツとは以前から交流があったが、『辞典』の
「ロラリウス」の項の脚注でライプニッツの思想を紹介し、予定調和説と実
体の自発性に基づく多様性を不可解としている。ちなみに「理性信仰合致論」
を緒論にもつライプニッツの『弁神論』では、ベールの所論を念頭に長い引
用を多く交えつつ、議論が展開されている。
136SZ:02/04/16 20:11
ハンドル、SZに変えます。
ここまでの記述でライプニッツは綱渡り的な論理展開をしており、
それは以下のようなパラドックスの形に要約することができます。

1.単純実体であるモナドが変化をこうむるというパラドックス
2.単純実体であるモナドが細部をもっているというパラドックス
3.単純実体であるモナドが多を内包するというパラドックス

モナドロジーの記述順に3つに分けてありますが、これらは
「単純実体とそれが構成する世界との間のパラドックス」という、
唯一で同一のパラドックスに帰着すると考えられます。なぜなら、
上記のパラドックスに含まれる「変化」「細部」「多(数性)」は、
複合体である物質によって成り立つ世界の性質ですが、こうした性質とは
絶対的に異なる本性をもつ単純実体(モナド)によって、複合体(そして世界)が
構成されると言われているからです。モナドと世界との間に横たわるように
見えるこの溝は、いったいどのように乗り越えられるのか?
このパラドックスを解くためにLが用意した鍵が、「表現(表象)」だと
ぼくは考えます。モナドそれ自体はあくまでも部分のない実体だが、それが
他のモナドを映す力を備えているとすれば、各モナドが表象する内容はモナドごとに
まったく異なり、その表象内容は「多」であって、そこには「細部」があると
言えます。しかもこのような表現能力をもつモナドの集合を仮定すれば、世界は
単なる複合体ではなく、互いにコミュニケーションする(=表現しあう)実体
によって支えられた構造体と考えられます。Lが、まさか世界は
モナドのたんなる寄せ集めによってつくられているなどという粗雑なことを
考えるはずはありませんから、アトム(原子)とモナドとを区別したからには、
モナドによる世界の構成様式についての、明確な構想が彼の中にあったはず
です。ぼくは、「表象」こそがその様式であり、Lは明示的に述べてはいませんが、
彼がモナド間の相互表象に、物質間の相互作用を支える力を認めていた
にちがいないと考えます。以上はM・セールやドゥルーズの思想に多くを負って
いますが、けっして受け売りではありません。いまはモナドロジーの読解に
かかりきりで、だれも助けてくれないので(w、セールやドゥルーズの文献に
まで言及する余裕がありませんが、もしぼくの根気が続けば、モナドロジー
読了後にやってみたいと思います。
137SZ:02/04/16 20:29
モナドロジー、暗記しようかな。原文で。
声に出して読んでるとけっこういいフランス語なんですよ。
ちなみにぼくはマラルメのソネットが大好きなの。
いくつかは暗記してますよ。Le vierge le vivace, et le bel aujourd'hui!
とかね(スペルが変だけど)。鉄板の人って数学も語学もできそうにない人
けっこう多いけど、それよりもう少し「語感」をするどくしてほしいな。
そもそも独語を母語とするLが、仏語でこんなにみごとな「詩」(=モナドロジー)
を書いてしまうということに驚かないとね。
すぐれた思想家は必ずスタイリストですよ。文章に凝るまでもなく、論理が美しい
文章を自然に生み出してしまう。そこへいくと頭の悪い文学者は文章に凝ったあげく
駄文を書く。この世にそうした駄文のなんと多いことか(オマエモナー、とか)。
138考える名無しさん:02/04/16 20:39
そんならK訳なんて丸写しせずに自分で訳したら?
139SZ:02/04/16 21:04
>>138 すみません、おっしゃる通り。これは怠慢としかいいようがないです。
ただ、手間が。。モナドロジーのフランス語は簡潔ですから、複数の翻訳がある
上にぼくの訳をアップする必要もないんじゃないかと思ったんです。そのかわり、
今後はK訳に疑義がある場合にかぎって、ぼく自身の訳を併記します。ご意見
ありがとう。
140SZ:02/04/16 21:25
あ〜あ、だれかモナドロジーそのものについての意見カキコしてくれないかな〜
ま、もう少し気長にやるか。でもsage進行は譲らないぞ。
141SZ:02/04/17 14:55
次節に進む前に、もう一つモナドロジーの読解にあたって無視できない論点に触
れておく。それは「単純実体としての魂」と、「魂の不滅」という、現代人から
見れば(非キリスト教文化圏の人間にとってはなおのこと)たんなるアナクロニ
ズムと映りがちな論点である(この板で「お前ら魂の不滅ってどうよ」などとい
うスレを立てても、1はさんざんアフォ呼ばわりされるか、完全に放置され、1
週間を経ずしてDAT入りすることは必至であろう)。しかし16節の「魂が単
純実体であることを認める限り」というフレーズは、前後の文脈( >>135 )か
ら明らかなように、当然誰もが承認すべき前提として記されている。つまり少
なくともLとその時代の知識人の多くは、魂=単純な実体、という共通認識をも
っていたと考えられる。ところで17〜18世紀の啓蒙主義および科学革命の時代
以前のヨーロッパにおいて、魂( l'âme )という概念は、キリスト教の説く地
上のくびき(=肉体とそこに宿る罪)からの救済、すなわち天上の至福と切って
も切れない考え方として、知識人から働くお百姓さんに至るまで幅広く支持・共
有されていた「常識」だった。魂とは何か、という議論についてはアリストテレ
スやプロティノスに代表されるギリシア系思弁哲学の長い系譜と知的蓄積があり、
それは教会の承認と結びついて知識人の思考基盤の一つとなっていたが(神学や
スコラ哲学)、そんな議論以前に近代以前のヨーロッパのキリスト教徒なら、聖
書の教えを信じることと、肉体の散逸を経て存続する魂を信じることとの間に差
異を認めなかったであろう。とはいえLの時代(それはニュートンの時代でもあ
る)はすでに合理主義の洗礼を受けており、たとえ公然とキリスト教の教えに反
対する者は少数だったとしても、肉体を離れて一人歩きする魂といった素朴な捉
え方がそのまま通用するほど、時代の知性はキリスト教的「常識」に対して甘く
はなかった。そこでこの時代の知識人たちは、魂という言葉自体、あるいは魂の
不滅という思想が、まだ一般人の多くにとっては常識であることに配慮しつつ、
慎重に言葉を選びながら、しかも合理的な態度で魂の概念の再構築に取り組まな
ければならなかったのだ。つまり、言葉は古いまま、思想を新しくする必要に迫
られていたわけである。そのため現代のわれわれから見ると、Lの時代における
魂の不滅に代表される神学的な議論は、なかば形而上学、なかば科学という奇妙
な姿に映る。(ちょっと中断)
142SZ:02/04/17 14:56
以上の時代背景をふまえて「理性に基づく自然と恩寵の原理」第4節の最後の
部分を参照してほしい。( >>122 )「デカルト派の人々」は「意識されない表象
を無視し」、「精神だけがモナドであり、獣の魂などというものは無」いと考えた。
「そして、動物に感覚を認めないことで人々の共通の見解にあまりに反してしま
ったのと同じような具合に、もう一方で一般の人々の先入見にあまりに同調して
しまい、表象の著しい混雑( confusion )に由来する長い気絶と、表象全体が
止んでしまう厳密な意味での死とを混同してしまった。そしてそのことが、幾ら
かの魂は破壊されてしまうという根拠の無い意見や、われわれの魂の不死性〔と
いう見解〕を攻撃してきた幾人かのいわゆる自由思想家の間違った意見を正当化
してしまったのである。」ここでLは一般人の先入見とそれに安易に同調するデ
カルト派を批判しつつも、「人々の共通の見解」に含まれる正当な知恵に対して
は、これを積極的に評価する姿勢をとる。これが先に指摘した、一般人の多くに
とっての常識に配慮しつつ、同時に合理的な態度で概念の再構築に取り組もうと
する困難な戦略の一例なのである(実はこうした戦略は、「常識=共通感覚
sense common 」という概念を再構築して思考の武器にしようとしたデカルト
の「方法」の一環だったのだが、魂の不滅という神学的テーマに限って言えば、
デカルトの下した判断は極度に合理主義的で、その内容は「意識が消滅するとこ
ろには死あるのみ」という、アッケラカンとした「近代的」解答だった)。
(まだ続くyo)
143SZ:02/04/17 14:58
これに対して「原理」第4節は、Lがあくまで「魂の不死性」を擁護すると宣
言している。その根拠は「外的諸事物を表現しているモナドの内的状態である表
象( perception)と、意識即ちこの内的状態の反省的認識である意識的表象
( aperception )とを区別」すべきこと( >>121 )であった。(モナドロジー
14節でもまったく同じことが指摘されている。「表象( perception)は意識さ
れた表象( aperception )つまり意識とは区別されねばならない」>>119 )
モナドの定義はあくまで単純実体であり、モナド=意識ではなく、モナド∋意識
である。またモナドは表象を伴うが、その表象はつねに明晰判明であるとは限ら
ず、「全く混雑してしまった表象」(「原理」第4節 >>121 )を伴うモナドも存
在する(動物の魂もモナドの一つである)。ここから導かれる帰結は、人が明晰
な意識を持っていない場合でも、その人を構成するモナドは表象を伴っている(表
現能力を維持している)ということである。ところでモナドロジー第4節が言
うように、「モナドには分解の惧れはないし、単純な実体が自然的に消滅しうる
などとは、とても考えられない」。したがって、人を構成するモナドも消滅する
ことはない。私たちが死と呼んでいる状態は、肉体の散逸と意識の消失を意味す
るが、複合体である肉体(物質)が部分に分かれても、その複合体を構成するモ
ナドは分解しないし、意識が消失しても、モナドの表現能力は残っており、意識
がない状態における表象は存続する。したがって、人は死によってたしかに肉体
と意識を失いはするが、人を構成するモナドはその表象とともに存在し続ける。
そこでいま仮にモナドを魂という伝統的な概念に置き換えるならば、魂は不滅だ
ということになるのである。(もうちょっとだけ続くyo)
144SZ:02/04/17 14:59
この議論ははたしてばかばかしいでしょうか? ぼくはそうは思いません。いま
はラフなスケッチにとどまりますが、以上のライプニッツの思想を、自然科学の
観点から見たらどうなるか、ちょっとだけパラフレーズさせてください(ちょっ
とというには十分長くなっちゃいましたが)。物質を構成している極微粒子(原
子でも素粒子でもかまいません)は、相互に作用し合っていまあるような宇宙を
形成するために、方向と速度を与えられなければなりません。この初期条件(方
向と速度)は、それらの極微粒子が数百億年かけて運動し、きわめて複雑な相互
作用をもたらしあっても、理論上は現在のその極微粒子の「位置」の中に「軌跡」
となって残っています(もちろんそれぞれの粒子の作り出す現象は非線形であり、
完全にランダムなふるまいや、いわゆるカオス的ふるまい、すなわち決定論的な
規定が与えられているにもかかわらず予測不可能なふるまいに満ちていますから、
それらの軌跡をわれわれが再現することは実際には不可能です。また量子力学の
「不確定性原理」によれば、極微粒子の現在の位置は決定不能である場合があり
ます)。ぼくはこの粒子の運動の「軌跡」を(ただ「軌跡」のみをです)、他のい
っさいの粒子との相互作用が反映しているという意味で「表象」と考えているの
です。そしてこうした軌跡は、そもそも粒子(具体的には質量)とは本質的に異
なる、方向と速度によって規定されたのでした。この方向と速度こそを、ぼくは
モナドと呼ばれているものの、自然科学的な相当物( equivalent)とみなしま
す。なぜなら質量を方向づけ、速度を与えて運動させる働きは、質量そのものか
らは出てきませんから。そして、粒子(=物質=質量)に運動をもたらす方向と
速度、そしてそれが宇宙の歴史の中に描き出す軌跡こそ、魂と呼ばれるものに他
ならないとぼくは考えます。たしかにぼくの肉体は滅び、ぼくの意識は消滅する
でしょう。しかしぼくを構成する粒子は、配置を換え、ぼくを越えて宇宙に存続
します。しかもそれぞれの粒子の軌跡、すなわちモナド(=物質を方向づけ運動
させる力)の表現作用はけっして失われずに、他のすべての粒子(つまり宇宙全
体)を表象し続けるのです。この観点から、ぼくはモナドロジーにおけるLの魂
の不死説に、完全に同意します。(この項はこれでおしまい。最後まで読んでく
れる人はいるのかなあ)
驚いた。SZ!
君は「唯心論物理学の誕生(海鳴社)」をよんだかね?
もし触れていないならすごい!確かに諸所の大きな違いはあるが、
物理学者の結論と、哲学者(言い過ぎ?)の結論が同じ方向性をもっている
というのは見事だ!
まあむしろ、この物理学者(中込照明)がライプニッツ化してるわけなんだが。

それにしても、SZの考え方にももう少し難解な点がある。
考えの前提が自然科学であるから仕方ないんだが、
哲学的な問題があるように思えるのだな。

ライプニッツの考えている魂の一つの働きとして「意識がある表象」
というのがあるだろう。それならその意識について考えるところ、
魂は運動の「軌跡」というよりは、運動に「持続性」をもたせるもの、
という立場をとらねばならない。この持続性というものを自然科学的に
表現するのは難解であるから、それが問題なのだが、
少なくともモナドを「軌跡」や「速度」「方向」と簡単にまとめてしまうと、
モナドの考え方が自然科学的態度を超越しえなくなってしまうのでこれはいけない。
要するに、>>144でSZのやったことは、
「一階記述論理構造(のもちろん高次段階)」の構成原理を
「一階記述論理構造」で表現してしまうことに他ならない。
ここら辺を反省してもう一度考え直して欲しい。

ところで、「唯心論物理学の発見」は、量子力学の観測問題
(つまりはここでSZが不確定性原理と呼んでいる奴だが)を、
モナド論を使って証明するというものである。
タイトルはあまりにも勘違いのあるものなのだが、中の内容は
論理的で、光速度不変の理由なども解こうなどと実に充実したものである。
しかも初学者に優しく観測問題の焦点がよくまとまっているし、
わかりやすく書いてあるからといって口ごまかし出ない証拠に、
高知大学理学部助教授の著者が「素粒子論研究」に出した論文も入っている。
私としては哲学的観点から、けして彼の理論が正しいとは言えないのだが、
科学的には、実証的な面以外で彼の理論を否定するのは難しいとはいえる。
もし興味ある方は絶対に読むことをお薦めする。
高二の俺でもわかったのだ。難しくは無い。そしてけしてトンデモでもない。
146SZ:02/04/17 19:37
高ぞー、読んでてくれたんだね! やっと放置プレイから解放された気分(w
ありがと!
「唯心論物理学の誕生」、そういう本の存在自体知らなかったよ。ぼくの文章
読んでくれればわかると思うけど、きちんと自分の頭で考えたことを書いてます。
それにだれかの思想の影響を受けているときには、いままでもそれについて
言及してるんで、きみが教えてくれた本の考え方との合致は、思考構造の合致
によるんだと思う。できるだけ近いうちに「唯心論物理学の誕生」読んでみるので、
また感想書くからね。でもびっくりしたのは、おれライプニッツ読んでると、
「魂の物理学」っていうイメージが湧くことがあるんだ、けっこう。(もちろん
物理学っていうのはたんなるたとえだけど。)だからおれにとっては
「唯心論物理学」ってすごくピタっとくる。不思議だ。
それから >>144 でね、なぜ「方向」と「速度」というあくまで物理の概念を
使ったかというと、モナド=根本原因=質量に方向と速度を加えて運動を始動
させる根源的力、という形而上学的(神秘主義的)思考様式が発生するからなんだ。
そりゃLだって原初的力、なんて言ってるわけだから、物質を越えるメタレベル
を考えていたことはたしかなんだけど、彼ほどの合理主義者(いい意味でだよ)が
そういうメタレベルを最後の逃げ道に使うことに満足するとはおれにはどうしても
思えないんだ。前に、事象世界とメタレベルとを階層化する議論の問題点に触れた
ことあったでしょ? 実はLの思想の最大の問題点は「予定調和」=神のみわざ
であって、これこそ宇宙を始動させる原初的力に他ならないんだが、おれは
この予定調和さえも、Lのシステムにおいては、この世界に内在的と解釈
すべきだという立場なんだ。これはモナドロジーの後半で必ず取り上げざるを
えないポイントだから、そのときにまたくわしくやるつもりだけど。
そういう理由で、おれは意図的に「方向」「速度」という事象世界内部の
要因を取り上げて、モナドの自然科学的相当物、と言ったんだ。つまりおれとしては
安易に自然科学を超越しようとする前に、魂の物理学をどこまで徹底できるかを
実践してみたいんだ。こういう「内在的=超越論的」な姿勢、一階記述(述語)
論理的構造から捉えられるかぎりでのメタレベルの記述が、形而上学を唯一理性の
統整のもとに置く方法だと考えるからだ。
しかしありがとう。ずばり「反省してもう一度考え直して欲しい」と言ってくれたね。
もちろんおれは専門家じゃなく、守るための体面はまったくないから、真理の
ために反省してもっときめの細かい思考と表現にあらためるよ。
147SZ:02/04/17 19:43

訂正
×「なぜ「方向」と「速度」というあくまで物理の概念を使ったかというと、
モナド=根本原因=質量に方向と速度を加えて運動を始動させる根源的力、
という形而上学的(神秘主義的)思考様式が発生するからなんだ。」
○「なぜ「方向」と「速度」というあくまで物理の概念を
使ったかというと、モナド=根本原因=質量に方向と速度を加えて運動を始動
させる根源的力、という形而上学的(神秘主義的)思考様式が発生するのを
避けたいからなんだ。」
おう。がんばってくれ。でも、ここまで行くと、
ご意見番のきらいがあるから要注意…。

それと…>>145、ちょっと表現がわるかったかもしれないなぁ。
まあ誤解されてるわけではないけど、問題点をもうちょっと明確にしようかね。
>自然科学的態度を超越しえなくなってしまうのでこれはいけない
と単純にいったけれど、この「これはいけない」というのは、
矛盾している、の意味に近い。それには主として意識の問題があるからだ。

意識の持つ特性、持続性などを論議する場合、もちろんそれは自然科学的態度を
脱している。なぜなら、自然科学であるうちは実証性がある議論でなくては
いけないし、実証性というのは客体的に表現されてこそ成り立つからである。
(加えて言えば主体性を主体性であるがままで客体的に表現するなど無理ということ)

ゆえに、意識のことをライプニッツが出す以上それが「物理学」的原理の範囲のこと
ではない。しかし、「速度」「方向」「軌跡」といった場合、それはあきらかに
物理学的原理であり、(客体として表現されている)ライプニッツのとらえている
モナドとはかけ離れている。私の言いたいのは私たちの内在的姿勢が、すでに
一階記述論理的構造から脱しており、その最もアプリオリな状態を問うべきである
ということだ。その中で、一階記述論理の構成原理を問うのだとしたら、
驚くべきは、それがむしろ現象学的な態度につながってしまうのではないか。
ということである。(これはかなり妄想です)

しかし、もしかしたら私の言う立場がライプニッツの記述するものと
ずれているかもしれないので、その時はよろしく、指摘して欲しい。
さて少し脱線してしまったので、そろそろもとのラインに戻ってやりましょうか。
SZしゃまよろしく〜
149SZ:02/04/17 23:09
>>148 論点がとても明確になったと思う。Lが意識としてのモナドを論じている
以上、そこでは実証的アプローチでは捉えられない主体性が問題になる。主体性を
物理学の尺度によって把握するなどナンセンスである。この点についてはぼくも
まったくその通りだと思います。
じゃ、なぜ高ぞうとぼくのアプローチが同じモナドをめぐってこんなに食い違った
(ように見えた)のかといえば、それはLのテキストそのものが、モナドを事象世界の
構成原理として見る観点と、魂(=事象世界と対峙する主体性)として
見る観点を同時に備えているからです。 >>144 でのぼくのラフ・スケッチは、
主として前者に照準を合わせ、表現する単純実体としてのモナドは、どのように
事象世界を支えているのかを記述してみる試みでした。本来なら、高ぞうが言う
通り、そうした記述にも主体性の位置づけがなければなりません。それはまったく
正しい指摘です。
またLのモナドへの関心の中心がどこにあるのかといえば、やはり主体性にある
ことは間違いないと思います。なぜならモナドロジーから魂についての記述を
取り去れば、それはもうLのシステムとは言えませんから。
それではもとのラインに戻りましょう。
ちなみにぼくはご意見番、てか仕切り屋にはなりませんからご安心を。デムパな
意見以外なら大歓迎ですよ〜
150考える名無しさん:02/04/17 23:13
102です。

なんだか、もの凄い量のカキコになってますね。
少人数なのに……。言いたいことは山ほどあるんですけど、
仕事があまりにも多忙なためカキコできません。
とにかくがんばってくださいね。

あんまり、テキストから離れると暴走すると思うんで、
読書会スレって趣旨からはずれないでくれるとうれしいっす。
151SZ:02/04/17 23:16
17節原文。ほれ。

17. On est oblige d'ailleurs de confesser que la perception,
et ce qui en dépend, est inexplicable par des raisons mécaniques,
c'est-à-dire par les figures et par les mouvements;
et, feignant qu'il y ait une machine dont la structure fasse penser,
sentir, avoir perception, on pourra la concevoir agrandie
en conservant les mêmes proportions, en sorte qu'on y puisse entrer
comme dans un moulin. Et cela posé on ne trouvera, en le visitant
au dedans, que des pièces qui se poussent les unes les autres,
et jamais de quoi expliquer une perception. Ainsi, c'est dans
la substance simple et non dans le composé ou dans la machine
qu'il la faut chercher. Aussi n'y a-t-il que cela qu'on puisse
trouver dans la substance simple, c'est-à-dire les perceptions
et leurs changements. C'est en cela seul aussi que peuvent consister
toutes les actions internes des substances simples.
152SZ:02/04/17 23:20
>>150 アドバイスありがとうございました。ぜひぜひひまみつけてきてください。
あと、できれば次来られるとき、適当なハンドルをお願いします。なんて言っても
読書会の流れをつくってくださったのはあなたなんですから。
153SZ:02/04/17 23:40
K訳です。

17 それはそうと、言っておかねばならないのは、表象も表象に依存しているものも
機械的な理由によっては説明できない、すなわち形と運動からは説明できない、
ということである。いま仮に、考えたり感じたり表象をもったりできる仕組みを
もった機械があるとしよう。その機械が同じ釣合いを保ちながら大きくなり、
風車小屋に入るようにそこにはいれるようになった、と考えてみよう。
そこでそう仮定して、その中にはいってみたとき、見えるものといっては
いろんな部分がお互いに動かし合っていることだけで、表象を説明するに足りる
ものは決して見出せないだろう。そこで、表象を求むべきところは単純実体の
中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに単純実体の中に
見出すことができるのは、それのみすなわち表象とその変化のみである。
また、それのみが単純実体の内的作用のすべてなのである。
154SZ:02/04/18 00:06
17節への補注です。

On est oblige d'ailleurs de confesser que ただし、私は(que以下のことを)
告白しておかなければならない
par des raisons mécaniques, c'est-à-dire par les figures
et par les mouvements 機械的な理由によって、すなわち形と運動とによって
une machine dont la structure fasse penser, sentir, avoir perception
その構造が思考し、感覚し、表象をもつことのできるような機械
cela posé そのように仮定すれば
des pièces qui se poussent les unes les autres  互いに働きかけ合う部品
les perceptions et leurs changements 表象(複数)とそれらの変化(複数)
les actions internes des substances simples 単純実体(複数)の内的な作用
(複数)
155SZ:02/04/18 16:34
17節は、単純実体の内的作用は表象とそれらの変化以外になく、表象作用を複
合体のメカニズムによって説明することはできない、という言明である。「機械
的な理由」と等置されている「形と運動」は、さまざまな「部品」からなる複合
体の形態と機能の両面を指していると考えられる。わざわざ「形 figures」と言
ったのは、機械の部品に特有の目に見える形態を、部品が互いに連携して働く運
動とともにクローズアップしたかったからではないか。直後の風車小屋の比喩と
ともに、機械(複合体)のメカニズムの明確なイメージを読者に伝え、そうした
メカニズムがいかに表象作用からかけ離れているかを実感させようとしているの
だろう。
この節の比喩をわれわれの時代の端的な例に置き換えるならば、たとえば脳の解
剖学的・生理学的構造(つまり脳の形態と機能)をいくら精密に観察しても、そ
こから意識とその作用を説明することはできない、という主張になるだろう。
これはちょうど >>148 で高ぞう氏が取り上げた、実証的にアプローチできない
意識と主体性の問題と等価である。われわれの意識や感覚に代表される表象は、
けっして複合体の客体的なあり方に還元されない、という主張。Lがこの節でき
わめて強くモナドと表象への唯物論的なアプローチを拒否しているということ
を、読者は記憶に留めておくべきである。
156SZ:02/04/18 21:29
18節です。ギリシア語が入っていますが、うまく表示できません。。
正確には>>102 のリンク先を参照してください。ちなみに私はギリシア語はまったく
わかりませんので、どなたかご教示を。

18. On pourrait donner le nom d'entéléchies à toutes les substances
simples ou Monades créées, car elles ont en elles une certaine
εχουσι το εντελεζ , il y a une suffisance αυταρκεια
qui les rend sources de leurs actions internes et pour ainsi dire
des automates incorporels.
157SZ:02/04/18 21:51
18節K訳。

18 すべての単純実体つまり創造されたモナドには、エンテレケイアという名前を
与えることもできよう。モナドは自分のうちにある種の完全性をもっている
(εχουσι το εντελεζ)からである。
モナドには自足性(αυταρκεια)があって、そのためにモナドは自分自身の
内的作用の源となり、いわば非物体的自動機械となっているのである。

エンテレケイア >>124
自足性 ← suffisance( suffisant の名詞形。 suffisant は「十分な」という
意味。 raison suffisante =十分な理由(充足理由) condition nécessaire
et suffisante =必要十分条件)
自動機械 ← automate (英語では automaton ) 前節の「機械 machine 」とは
翻訳上は区別しにくいが、原語では別の語である点に注意。
158SZ:02/04/18 22:33
オートマット(オートマトン)は、西欧では一般に「からくり人形」「ロボット」
というイメージをもつようです。くわしく覚えていませんが、17〜18世紀頃、
高名な自動人形(オートマトン)制作者がいて、当時の王侯貴族の間で評判に
なったという話を読んだことがあります。また近代に入っては、2ちゃんねらなら
だれもがひれふすべき人フォン・ノイマン、言わずと知れた現在のノイマン型
コンピュータの父が、まさにそのアイディアを公にした記念碑的論文のタイトルこそ
「自己増殖オートマトンの理論」でした。一定のコードにしたがって、連続的な
演算を自動的に処理していくシステム、とりわけ自己増殖的にプログラムを
つくっていくシステムのモデルを、ノイマンはセル・オートマトンと名づけた
そうな。西欧人に対して、オートマトンという語は少しばかり神秘的な、
しかしなんらかのからくりをもった自己生成システムのイメージをもたらす
のだという、たんなる雑談でした。ちなみにスピノザの「精神的オートマトン
automate spirituel」は、彼独自のシステムにおける「魂」、一定の法則性に
従う魂を形容する表現。ドゥルーズもこの語を好んで使います。
159SZ:02/04/18 23:10
1.エンテレケイアは現勢化する力を意味する( >>124 )。
2.18節は、モナドの自足性がモナドを自らの内的作用の源にする、と述べているが、
この「内的作用の源」とは、「現勢化する力」に他ならない。
3.前節によれば、モナドの内的作用とは表象とそれらの変化以外にない。

以上3点を総合すると、モナドの内的作用である表象とそれらの変化をもたらす源、
すなわち表象を現勢化する力はモナドそのものから生じ、その意味でモナド自体が
エンテレケイアであり、そういうモナドの性質を自足性と呼ぶことができる、
ということになる。

160SZ:02/04/19 17:34
19. Si nous voulons appeler âme tout ce qui a perceptions et appétits
dans le sens général que je viens d'expliquer, toutes les substances
simples ou Monades créées pourraient être appelées âmes;
mais, comme le sentiment est quelque chose de plus qu'une simple
perception, je consens que le nom général de Monades et d'entéléchies
suffise aux substances simples qui n'auront que cela, et qu'on appelle
âmes seulement celles dont la perception est plus distincte et
accompagnée de mémoire.
161SZ:02/04/19 17:40
19節、K訳。

19 いま説明したような広い意味での表象と欲求をもつものすべてを、魂と呼ぶ
ことにすると、単純実体すなわち創造されたモナドは、すべて魂と呼ぶことができ
よう。しかし、知覚は単なる表象以上のものであるから、表象だけしかもっていない
単純実体には、モナドとかエンテレケイアという一般的な名称で十分である。もっと
判明な表象をもちかつ記憶を伴っているモナドだけを、魂と呼ぶことにしたいと思う。

知覚 ← sentiment
162SZ:02/04/19 17:46
表象と欲求をもつ単純実体=もっとも一般的な意味でのモナド
  無意識的表象しかもたない単純実体=単なる(裸の)モナド
  判明な意識的表象(それには記憶が伴う)をもつ単純実体=厳密な意味での魂
163SZ:02/04/19 17:49
20. Car nous expérimentons en nous-mêmes un état où nous ne nous
souvenons de rien et n'avons aucune perception distinguée,
comme lorsque nous tombons en défaillance ou quand nous sommes
accablés d'un profond sommeil sans aucun songe. Dans cet état
l'âme ne diffère point sensiblement d'une simple Monade;
mais comme cet état n'est point durable et qu'elle s'en tire,
elle est quelque chose de plus.
164SZ:02/04/19 18:09
20節、K訳。

20 というのは、われわれは何も覚えていない状態、際立った表象をすこしも
もたない状態をわれわれ自身の中で経験する。たとえば気絶したときとか、夢さえ
見ないような深い眠りに入った場合である。こんな状態のときには、魂と単なる
モナドとは目立つほどの違いはない。しかしこの状態は長く続かず、魂はそれから
抜け出してくるので、魂は単なるモナド以上のものということになる。

際立った表象 ← perception distinguée
魂と単なるモナドとは目立つほどの違いはない ← l'âme ne diffère point
sensiblement d'une simple Monade ( sensible は、「知覚で捉えることが
できる」「はっきり感じられる」が原義。直訳すれば、「魂は知覚で捉えたところ
では(=見たところ)単なるモナドとまったく変わらない」。なお現代フランス語
では、副詞の sensiblement は文脈によって「明らかに」あるいは「ほとんど
(ほぼ)」の意味で用いられるが、この節では ne〜point の後に置かれており、
形容詞 sensible 本来の意味を強く負っていると考えられるから、
「知覚によっては(=見たところでは)」と読むのが妥当だ。
165SZ:02/04/19 22:12
だれもレスしてくれないから、また独り言かくよ〜。スレ違いスマソだよ〜ん。
きのう久しぶりに実家に帰って、L関係の本をもってかえってきました。
岩波文庫版の「単子論」「形而上学叙説」、論理学の教科書、クリプキの「名指しと
必然性」、puf版「差異と反復」、ロワイヤル仏和辞典などです。
で、岩波の「単子論」を電車の中で再読したのですが、翻訳も注釈もすばらしいです。
河野与一先生、さすが! その中でとくに教えられるところの多かった注を一つ
あげさせてください。第1節の「実体」についての注(P.212)で、
モナドロジーがあえて言及を避けている実体に関する「論理的側面」と、
モナドロジーでそれが伏せられた理由を明らかにする貴重な解説です。(旧かなは
新かなに換え、一部用語をこのスレの用語に統一しました)

『実体』 「形而上学叙説」第8章に、「多くの述語が同一の主語に属し、この主語
はもう他のいかなる主語にも属しない場合に、この主語を個体的実体と名づける。」
「個体的実体、すなわち自足的なものは、その本性上、それを表わす概念の属して
いる主語に含まれているすべての述語を理解するに足り、またそこから演繹してくる
に足りるくらい完結した概念をもっている。」「そこで事象の関連をよく考えると
実体にはいかなるときにもそれまで起こったことのなごりやその後に起こるべきこと
の徴のみならず、宇宙に起こるすべてのことまでも存在するということができる。」
ただしこの考えはアルノーによって危険思想だといわれた。そこからライプニッツ−
アルノー論争になるのである。Lは世間の思惑を慮って1695年の「実体の本性および
実体の交通ならびに精神物体間に存する結合についての新説」では、いったん草稿に
書いた実体概念の論理的側面を「学芸雑誌」に載せるときに削ってしまった。
この方面を顧慮しないと、モナドロジー全体がラッセルのいうごとく一編の
おとぎばなしになる。(B.Russell, A Critical Exposition of the Philosophy
of Leibniz, Cambridge, 1900. p.vii.)


166SZ:02/04/19 23:12
ついさっき、鯖が飛びました。。目の前でトンドルのを見たのははじめてです。
さて、前のレスで河野先生の注を紹介したのは、モナドロジーをその記述に
したがって読むだけではライプニッツの思想は十分には明らかにならない
ということを示すためです。そこでもう少ししたら、Lの論理学について、
ラッセル、フレーゲ、クリプキとの関連で考察しながら、モナドロジーの背景を
明確にする試みを始めたいと思います。お前らちゃんと読めよ、ゴルァ! !
167考える名無しさん:02/04/20 00:33
読んでますよ。
ライプニッツを初めて読む者にとっては、ラッセルがらみの話しとかスピノザがらみ
の話しが入れば、それが読解の手がかりになる可能性がありますので、楽しみです。
恥ずかしながらも、Lどころかラッセルまでも初心者の俺。
初心者は初心者らしく、疑問点があがったらレスるから、
もし独り言みたいになってても逆に、
レスしてることに矛盾が無いと思って自信もって続けてくれサオZ!
といっても、実は今も、ライプニッツの言うところの
sentimentの価値が気になったりもしたりもする...。
169SZ:02/04/20 23:21
>>167 こんにちは!
>>168 sentiment は、K注では「単なる無意識的表象でなくて意識されている
表象」、岩波の注では「記憶を伴う表象」「単なる感覚にいわゆる統覚的要素が
加わった意味での知覚」とされています。
170SZ:02/04/20 23:27
21. Et il ne s'ensuit point qu'alors la substance simple soit sans
aucune perception. Cela ne se peut pas même, par les raisons susdites;
car elle ne saurait périr, elle ne saurait aussi subsister sans
quelque affection, qui n'est autre chose que sa perception;
mais quand il y a une grande multitude de petites perceptions où
il n'y a rien de distingué, on est étourdi; comme quand on tourne
continuellement d'un même sens plusieurs fois de suite,
où il vient un vertige qui nous peut faire évanouir et qui ne nous
laisse rien distinguer. Et la mort peut donner cet état pour un temps
aux animaux.
171SZ:02/04/20 23:55
K訳です。

21 しかしそうだとしても、単純実体には表象がまったくないということにはなら
ない。それは前に述べた理由によってもありえないのである。なぜなら、単純実体は
消滅することはできないし、存続しているからには、何か変化する状態を伴っている
が、これこそ表象に他ならないからである。しかし、ひとは茫然とした状態にある。たとえば、たてつづけ
に何度も同じ方向に廻ると、目が廻って気が遠くなり、すこしも物事の見分けが
つかなくなるようなものである。死は、動物をしばらくこの状態におくことがある。

存続しているからには、何か変化する状態を伴っている ← elle ne saurait
aussi subsister sans quelque affection(直訳すると「また単純実体は
なんらかの影響を受けずに存続することはできない」。K訳は岩波訳にならうことが
多いですが、affection を「変化する状態」としているのも同様です。)

微小表象がどれほど多くあっても際立った表象がないときには ← quand il y a
une grande multitude de petites perceptions où il n'y a rien de
distingué (直訳「際立ったところのない小さな表象が多く集まっているときには」
微小表象 ← petites perceptions)
172SZ:02/04/21 00:01
前のレスで、K訳の一部が抜けてました。書き写しのミスです。訂正したものを
もう一度アップします。

K訳です。

21 しかしそうだとしても、単純実体には表象がまったくないということにはなら
ない。それは前に述べた理由によってもありえないのである。なぜなら、単純実体は
消滅することはできないし、存続しているからには、何か変化する状態を伴っている
が、これこそ表象に他ならないからである。しかし、微小表象がどれほど多くあっても
際立った表象がないときには、ひとは茫然とした状態にある。たとえば、たてつづけ
に何度も同じ方向に廻ると、目が廻って気が遠くなり、すこしも物事の見分けが
つかなくなるようなものである。死は、動物をしばらくこの状態におくことがある。

存続しているからには、何か変化する状態を伴っている ← elle ne saurait
aussi subsister sans quelque affection(直訳すると「また単純実体は
なんらかの影響を受けずに存続することはできない」。K訳は岩波訳にならうことが
多いですが、affection を「変化する状態」としているのも同様です。)

微小表象がどれほど多くあっても際立った表象がないときには ← quand il y a
une grande multitude de petites perceptions où il n'y a rien de
distingué (直訳「際立ったところのない小さな表象が多く集まっているときには」
微小表象 ← petites perceptions)
173SZ:02/04/21 14:50
21節の最後「死は、動物をしばらくこの状態におくことがある」は、やや唐突
です。これに関連して、1687年10月9日のアルノー宛て書簡に、くわしい記
述があるので紹介します(工作舎の著作集第8巻の翻訳を引用しますが、岩波文
庫の「形而上学叙説」をお持ちの人は、p.397 以下を読んでみてください。全
編非常に面白いです。なお引用文中の「畜生」は、このスレの用語に統一するた
めに「動物」に換えました)。ここでは広義のモナドのうち判明な意識をもたな
いもの、つまり単なるモナドが、「物体的実体」と呼ばれており、特に生命ある
物体的実体(生物とその組織)の不滅が論じられています。主張されていること
の当否はともかくとして、手紙という半ばプライベートなメディアによって再現
されるLの率直な言い分が興味深いです。
174SZ:02/04/21 14:52
ライプニッツ−アルノー書簡(1687年10月9日)

(中略)物体的実体は、自分自身の運動を、あるいはむしろ、瞬間ごとにおける運動の中
の実在的なものを、自分自身に与えるのである。運動とは一つの現象であるから、
おのずと他の現象を要求するのですね。そりゃあそうでしょう、実体の現在の状
態は、すべてそれに先だつ状態から発してくるのですから。なるほど運動だの、
あるいはむしろ能動や変化への傾向だのをもたない物体は、それを自分に与える
ことはできない。しかし私にいわせれば、そんな物体(=能動や変化への傾向だ
のをもたない物体)なんて、そもそも存在しないのだ。あなたは私に、おっしゃ
るかもしれない。神が物体を完全な静止状態に置いてしまうことだって可能では
ないか、と。お答えいたしましょう。それならば神は同時に物体を、無に帰する
ことだってできる。かつ、能動も受動も欠いたこのような物体が、実体であろう
わけもない。あるいはすくなくとも、こうはっきり申し述べておけばよろしいで
しょう。仮に神がなんにせよ物体を完全な静止状態に置いたとしたら(まっ、こ
んなことは、奇蹟にでもよらないかぎり起こり得ないことであるが)、これにふ
たたび運動を返してやるためには、新しい奇蹟が必要であろうと。いずれにせよ
卑見が、神すなわち第一動者なる証明をぶちこわすどころか、むしろこれを強固
にすることも、またお分かりでしょう。(中略)
175SZ:02/04/21 14:54
(前レスから続く)
魂つまり実体的形相(=モナド)を、仮に動物とか他の物体的実体に認めるとい
たしまして、この点については次のように推論しなければなりません。すなわち
これは、だれしも同様に推論いたしております人間の場合とおなじであって、人
間はその魂によってもたらされた真の一を具えた存在である。しかし他方、人間
の肉なる物塊は、さまざまな器官、管、体液、精気、等に分割されてしまう。そ
してその各部分には、またかならず他の無限の物体的実体が充満していて、それ
らがまたまた自己の形相を具えている、というぐあい。(中略)
ご高見によると、「動物ごときに魂ありとするのは、なんら根拠のないこと。そ
して仮にありとするなら、それは精神、つまり考える実体でなければならないは
ず。だって、われらが知るところの実体といえば、物体と精神だけであり、その
他に実体があろうとは夢にも思われないのだから」、と。さて、ですから、「牡蠣
が思惟するとか、ウジ虫どもがもの想うなどとは、到底シラフで口にできるセリ
フではない」、と。このようなご反論は、デカルト先生の説を奉っていないすべ
ての者たちに、ひとしくひっかぶってまいります。しかし、いかがでしょう、人
類みなすべて、動物どもにも感覚がいくらかは具わっておるぞ、という考えを、
いつも抱いてきた。これをもって箸にも棒にもかからぬほどのデタラメとするこ
とは、かならずしもできないと思わねばなりますまい。のみならずすでに私、お
示し済みと存じますが、いかなる実体も不可分である。したがって物体的実体と
いえども、かならずや魂、ないしすくなくとも、魂と類似の、なんらかの形相を
具えていなければならない。そりゃあそうでしょう、さもなければ物体は、みな
すなわち、ただの現象と化してしまいますものね。(中略)
176SZ:02/04/21 14:55
(前レスから続く)
さてあとは、いくつかの不都合な点、実体的形相が不滅であると申したことにあ
なたが述べたてられた反論にお答えして、ご満足を頂戴すればよろしいのですね。
まっ先に申して私、びっくりいたしております、これはけしからん、とても支持
するわけにはいかんですって? でもあなたがその同じ口でおっしゃっているお
説のとおりだとすると、動物に魂とか感覚があるとするかぎり、だれでもこのよ
うな不滅を支持しないわけにはいかないのですよね。あなたのいわゆるまずい点
とは、想像力ででっちあげた先入見にすぎません。一般の方々相手なら、さてこ
れにて“一件落着”ともあいなりましょうが、きちんとものを考えるだけの力の
ある人をたちを向こうにまわして、これじゃあまるきりだめだ。ですから私、こ
の点について、あなたにご満足をいただくのはいとも簡単と信じております。極
小の水滴の中にも無限に近い小動物が含まれている。これはほれ、例のレーウェ
ンフック先生の実験でご案内のとおりですが、この点がちゃんと呑みこめている
人たち、つまりですね、物質は至るところ生命をもった実体で満ちみちている聞
いて、なにっ、といきり立つことのない方々なら、ご同様、次のこともにっこり
笑って受け入れて下さるのではないでしょうか。すなわち、たとえ灰の中だって、
なにか生命をもったものが存在すること、動物は火に焼かれることはあっても完
全に破壊し尽くされてしまうわけではなく、変形し、小さくなるだけであること、
等々をです。(中略)
177SZ:02/04/21 14:56
(前レスから続く)
レーウェンフック先生は私とかなり近いご意見の持ち主で、それによればどんな
に大きな動物も一種の変形から生じるのであるという。氏のお考えの詳細をあえ
て是とも非とも申しませんが、結論としては、まことに的を射ている説ではない
でしょうか。また、スワムメルダム氏、ご同様えらい観察家で解剖学者ですが、
やはりこの説に傾いていたご様子がありありと窺われる。さてさてご両所のご意
見には、この問題に関する有象無象の先生方の、お説をぜんぶ寄せ集めても叶い
ますまい。そりゃあなるほどお二方のご意見は、お見受けしたところ一歩進めて、
理性的魂をもたない生物に関して、破壊とか、いや死さえもまた、変形の一つだ
とするところまでは行っていない。まっ、つまり、これが私の説なのですが。し
かし私思いますのに、もし仮に両先生が事前にこの説をハタと思いつかれていた
としたら、これを理に反するものとはお考えにならなかったにちがいない。いや
まったく、始まりのないところにまた滅びもない。これほど当りまえの考えはな
いではありませんか。すべて発生とは、すでに形成されている動物の増大、つま
り外へ広がることにほかなりません。さっ、この点を認めるかぎり、次の一事を
納得するのに、何の造作が要るものですか。すなわち、破壊ないし死とは、とり
もなおさずその動物の減少、つまり内へすぼまることであって、当の動物自体は
存続をやめるどころか、依然として生物であり有機的存在であり続けるのだとい
う一事を。
(引用終り)。
178SZ:02/04/21 14:57
「破壊とか、いや死さえもまた、変形の一つだ」。つまり、個々の動物は死んで
もその動物を構成していた物体的形相(単なるモナド)へと形を変えるだけだと
いうわけです。21節の最後で「死は、動物をしばらくの間この状態(際立った
表象のない気絶したような状態)におくことがある」とされていた理由が明確に
なったと思います。個体としての動物が死んでも、その動物を構成するモナドは
不滅であって、そこには判明ではないものの、何らかの表象があるからです。
さらに重要なことは、Lが人間の肉体を構成する器官についてもそれぞれに実体
的形相(単なるモナド)が充満している、と述べていることです。ここから人間
を構成するモナドには、記憶の連続性(26節に出てきます)に支えられた魂と
しての「一」なるモナドと、肉体を組織しているほとんど無限の単なるモナドの
複合体とがある、と考えられていることがわかります。
もう一つ、Lの生命観の中心に、個体の死を越えた有機的生命の連続性という観
点があって、これが魂の不滅説と直結しているという点も重要だと思います。17
世紀末といえば、もちろんダーウィンの進化論が登場する以前の時代です。にも
かかわらずLが種の進化に近いイメージで生命の連続性を理解していることに
は驚かされます。これではアルノーに危険思想家よばわりされたのも、ある意味
で当然だったのかもしれません。。
179SZ:02/04/21 15:16
22−23節はつながっていますので、あわせてどうぞ。

22. Et comme tout présent état d'une substance simple est naturellement
une suite de son état précédent, tellement, que le présent y est gros
de l'avenir;

23. Donc puisque, réveillé de l'étourdissement, on s'aperçoit de ses
perceptions, il faut bien qu'on en ait eu immédiatement auparavant,
quoiqu'on ne s'en soit point aperçu; car une perception ne saurait
venir naturellement que d'une autre perception, comme un mouvement
ne peut venir naturellement que d'un mouvement.

180SZ:02/04/21 15:22
K訳。

22 ところで、単純実体においては、現在の状態はいずれもそれに先立つ状態から
自然的に出てきた結果であり、したがってここでは現在は未来をはらんでいること
になるから、

23 そこで、気絶状態から目ざめたとき自分の表象を意識するのだから、たとえ意識
していなくても、目ざめる直前にも表象をもっていた、としなくてはならない。
というのは、表象は自然的には他の表象からしか出てこられないからである。
運動が自然的には別の運動からしか出てこられないのと同じである。
181考える名無しさん:02/04/21 18:49
がんばっているね。忙しくて参加出来ないが。
見守っています。
182SZ:02/04/22 23:40
>>181 どうもありがとうございます

ここまでのモナドロジー各節とそれに関連する著作を通じて、モナドには次のよ
うな側面があることが明らかになったと思います。
1.複合体である物質を成り立たせている作用あるいは力としての単純実体
2.表象の多様な状態(微小表象・感覚・記憶や意識によって統整された感覚と
しての知覚・判明な意識によって生み出される思惟など)を連続的に含んでいる
(つまりどの状態にもなることができる)が、あくまで「一」なる統一体として
の単純実体、すなわち魂
3.多くの述語を自分の中に含み、それ自体は他の主語の述語とはならないよう
な主語

以上は、1.事象世界の構成原理としての側面、2.魂あるいは精神としての側
面、3.論理学的側面というぐあいに分類できるかもしれません。モナドロジー
のこれまでの記述に拠るだけでは、以上の各側面の相互関係はまだ明らかではあ
りません。Lが上記の性質の違いに応じてモナドにいくつかの類型を認めるのか、
それともすべてのモナドに1〜3の性質が具わっていると主張するのか、あるい
はそれ以外の見解なのかについて、いますぐ答を出すのは無理だと思います。た
だ、モナドを一つの側面に偏って考えたり、考察対象となる分野(事象世界、自
己意識、論理など)からかけ離れたモナドの性質を論じたりすると、議論が混乱
するおそれがある点には注意が必要です。
183SZ:02/04/22 23:42
参考までに、Lの先輩であり、彼に多大な影響を与えたスピノザのシステムにお
いて、上記の3つの側面の関係はどう説明されているのかを要約しておきます
(「エティカ」、およびドゥルーズ「スピノザと表現の問題」に拠る)。スピノザ
に拠れば、唯一で絶対の実体には無限の属性があるが、われわれには「思惟」と
「延長」という属性が知られているだけである。そして、「思惟」の属性が変容
することによって「精神」の様態(精神のさまざまな状態)が、また「延長」の
属性が変容することによって「物体」の様態(物体のさまざまな状態)がこの世
界に生じるが、それぞれの属性の変容は実体の必然性にしたがうので、各様態間
にはなんらかの呼応関係がなければならない(これが有名なスピノザの並行論で
す)。つまり精神も物体もともに唯一の実体の属性が変容したものに他ならず、
精神や物体の一方にだけ固有な状態というものは考えられないし、それだけでな
く、精神が物体に影響をもたらすとか、物体が精神に影響をもたらすということ
はありえない(なぜならそれぞれが同じ資格で唯一の実体の属性に由来するか
ら)。これら二つの様態間に生じるように見える因果関係は見かけの現象であっ
て、実際には実体の属性の変容はそれぞれの様態において独立に生じているのだ
が、しかしどの属性の変容においても実体の必然性(あえて言えば論理)が共通
であるゆえに、各様態間に呼応関係があるとされるのです。おおざっぱに言えば、
精神も物体も一つの源から発した独立の系列で、両者に起こるできごとは、実体
に由来する唯一絶対の論理にしたがうかぎりで対応し、各系列間には直接の接触
はないのだということです。そこで、スピノザのシステムでは、物体の世界と精
神の世界は互いに異なる表現様式をもつが、それらがしたがう変容の論理はまっ
たく同一であることになります。実体に由来する論理は、実体のすべての属性に
共通する絶対的な規則であり、そうした規則にしたがって、それぞれに異なる仕
方で実体の本質を表現するのが精神と物体なのです。これは先に見たモナドのシ
ステムと比べてはるかに厳密であり、唯一の実体と唯一の論理が、性質の異なる
二つの様態(物体と精神)を統治するという均整のとれた構造に特徴があります。
184SZ:02/04/22 23:43
スピノザはこうした大系を熟慮を重ねて完成させ、その上で「エティカ」にまと
めていますが、これに対してLにはむしろ完成を避ける姿勢さえ見られ、厳密
さという点ではLのシステムは見劣りがするかもしれません。しかし、スピノ
ザのシステムは独自の完成度の高さゆえに時として現実離れした観があるのに対
して、Lのシステムは、われわれの思考が生み出す体系的な世界観はつねに完成
途上にあって、まるでいつもジグソーパズルの一片が欠けているかのような状態
にあること、そもそも未完であることがシステムの本質であるということを示し
ているようにも見えます。だからこそかえってLのシステムは現実的だと言える
のかもしれません。
185SZ:02/04/23 22:27
24. L'on voit par là que si nous n'avions rien de distingué,
et pour ainsi dire de relevé et d'un plus haut goût dans nos perceptions,
nous serions toujours dans l'étourdissement. Et c'est l'état des Monades
toutes nues.

25. Aussi voyons-nous que la nature a donné des perceptions relevées
aux animaux, par les soins qu'elle a pris de leur fournir des organes
qui ramassent plusieurs rayons de lumière ou plusieurs ondulations de
l'air pour les faire avoir plus d'efficace par leur union. II y a
quelque chose d'approchant dans l'odeur, dans le goût et dans
l'attouchement, et peut-être dans quantité d'autres sens qui nous sont
inconnus. Et j'expliquerai tantôt comment ce qui se passe dans l'âme
représente ce qui se fait dans les organes.
186SZ:02/04/23 22:29
K訳。

24 ここからわかるように、もしわれわれの表象の中に、くっきりと際立った
いわば引き立っているところ、ひときわ高い好みなどがすこしもなかったら、わ
れわれはいつまでも気絶、茫然自失の状態にとどまっていることになるだろう。
これがまったく裸のモナドである。

25 さらにわかることは、自然が動物に引き立った表象を与えたこと、多くの
光線や空気の振動を集めそれらを結びつけて、効果をいっそう大きくするための
いくつかの器官を動物にそなえさせる、という配慮をしていることである。嗅覚、
味覚、触覚、そして恐らくわれわれの知らない他の多くの感覚においても、事情
は似ているところがある。そして、魂の中で起こることが、器官の中で起こるこ
とをどのように表現するかは、あとで説明することにしよう。

25節「あとで説明しよう」→ 61、62、78節
187SZ:02/04/24 13:30
少しまえ前に、Lの文脈における sentiment の位置づけが気にかかるという高
ぞうのカキコがありましたが、たしかにまだ生物の感覚についての解剖学的・生
理学的な研究が未熟で、人間の知覚についての心理学的・現象学的なアプローチ
も不十分だったLの時代の、sentiment や perception の受けとめ方は、われ
われ現代人にとって十分想像しにくいところがあります。「理性に基づく自然と
恩寵の原理」第4節では( >>120 )、 sentiment (工作舎版「原理」では現
代風に「感覚」と訳されていますが、すでに見たようにモナドロジーの翻訳では、
工作舎・岩波ともに「知覚」です)とは「記憶を伴った表象」です。(「各々のモ
ナドは、特定の物体と一緒になって、生きた実体をなす。従って、至るところに
肢体とか器官に結び付いた生命があるだけでなく、諸モナドにおいて生命には無
限の程度があって、或るモナドが他のモナドを多かれ少なかれ支配しているので
ある。ところで、モナドがとても整った器官を持っていて、それによって、受け
取る印象の内と、従ってそれら印象を表現する表象の内に、浮き出したところ際
立ったところがある場合(例えば眼房水の形によって光線が集中され、より強く
働きかける時のように)、感覚( sentiment )にまで言い換えれば記憶を伴っ
た表象にまで達し得る。」)ただしここでLの言う記憶は、人間のそれに限定さ
れるものではなく、動物の条件反射までを含む、かなりおおざっぱな概念である
ことに注意すべきでしょう。
188SZ:02/04/24 13:32
ところで人間の知覚を論じる際、その解剖学的・生理学的構造から客観的に説明
するだけでは不十分とみなすのが、現代の一般的な学問的姿勢だと思います。と
いうのはたとえばゲシュタルト心理学やM.メルロー=ポンティがやったような、
われわれ自身の主体的経験から、人間の知覚は外界からの刺激をたんに受動的に
受けとめる働きではなく、「地と図」という基礎構造によって情報を秩序化する
能動的な作用だという事実を発見するといった、心理学的・現象学的アプローチ
が成果をあげているからです。人間の知覚の構造は、それを経験する主体(われ
われ自身)の内的な証言を与えられてはじめて十全に記述されるので、たとえば
小学校のカエルの解剖の実習のような、動物の感覚−運動系のメカニズムについ
ての客観的な観察が、どんなにその規模と精度を上げても、人間の知覚を理解し
たことにはならないわけです。ところが、Lは一方で perception の機械的・客
観的な解明を拒否しておきながら(モナドロジー17節 >>153 )、他方では動物
の sentiment や perception と、人間のそれを区別していないのです(動物
の混雑した表象と、人間の意識的表象との間には程度の違いしか認められていま
せん)。このようにLの用いる sentiment や perception は、限定された意味
での人間的な知覚・人間的な表象、とりわけ先に述べた知覚や表象の内的構造を
十分指示できないという点では、概念規定の判明さを欠くこと( indistinct )
を指摘しないわけにはいきません。すでに指摘したように( >>123 )、こうし
たsentiment や perceptionの概念の多義性は、Lの哲学に意識中心主義から
の脱却の可能性、言い換えれば無意識の心理学に接近する可能性を与えています
(なぜなら表象を意識に限定しないからこそ、人間の魂に無意識を認めることが
できるので)。その点ではindistinctであるからこそ、知覚や表象は大きな可能
性を得たという見方もできます。以上の問題点は記憶についても同様です。Lの
言う記憶は、すでに指摘したように条件反射をも含むおおざっぱな概念です。し
たがって、表象の連続性を動物と人間に共通するかたちで客観的に説明するため
には便利ですが、人間の記憶の経験的・現象学的な構造を明らかにするものでは
ありません。Lの sentiment や perception の概念の不分明さ( indistinct )
を批判し、その両義性(知覚や表象の構造を十全に解明するには判明さが足りな
いが、だからこそ現代人がそれらの概念に認めているのとは比較にならない可能
性をもっているということ)を指摘する以上のコメントは、Lが時代の制約の中
で十分に説明しえなかった論点が存在することを確認するためのものです。
189SZ:02/04/24 13:33
一つだけ独り言を許してください。ぼくは、個人的にはLの大系が未完であるこ
とに強い魅力を感じます。モナドロジー一つをとっても、とてもエティカのよう
には読めません。ある意味ではエティカには誤解の余地がないと思います。とこ
ろがモナドロジーの場合、読者の側が各節を横断し、ときにはミッシング・リン
クを自分で埋める努力をしなければならない。これはとても根気のいることです
し、だからこスリリングな冒険であるとも思います。
190SZ:02/04/24 13:41
26. La mémoire fournit une espèce de consécution aux âmes,
qui imite la raison, mais qui en doit être distinguée.
C'est que nous voyons que les animaux ayant la perception de
quelque chose qui les frappe, et dont ils ont eu perception
semblable auparavant, s'attendent, par la représentation de
leur mémoire, à ce qui y a été joint dans cette perception
précédente, et sont portés à des sentiments semblables à ceux
qu'ils avaient pris alors. Par exemple, quand on montre le bâton
aux chiens, ils se souviennent de la douleur qu'il leur a causée
et crient et fuient.
191SZ:02/04/24 13:51
K訳。

26 記憶は魂に一種の連絡作用を与える。これは理性に似てはいるが、理性とは
区別されなくてはならない。動物において見られるように、強い衝撃を与える
ものの表象をもち、さらに以前にも同じような衝撃を与えたことのあったものの
表象をもったとき、動物は記憶の表現作用によって、この以前の表象の中でそれに
結びついていることが起こることを予期し、そのときにもったのと同じような
感覚をもつようになる。たとえば、犬に棒を見せると、棒から受けた苦痛を
思い出して鳴きながら逃げてゆく。

記憶 mémoire 連絡作用 consécution(継起・連続・関連)
感覚 sentiment(この節では動物の条件反射が取り上げられているので、「感覚」
と訳されている)
192SZ:02/04/25 23:02
ぼくの素朴な疑問の一つは、“連続性の哲学者”ライプニッツが、なぜ記憶にも
っと重要性を認めなかったのか、ということです。26−28節に登場するかぎり
での記憶は、条件反射に見られるような表象の連結や、せいぜい観念連合をもた
らす作用にすぎません。モナドロジーにおける表象の重要性を考慮するなら、こ
れは不思議なことではないでしょうか? なぜなら、モナドにおいて表象がその
明るさの程度を変えながら連続的に維持される状態を、たとえば“モナドの記憶”
と定義することもできたでしょうし、そう定義された記憶は、表象の存続と密接
不可分な作用として、モナドの重要な性質とみなされてよいからです。「形而上
学叙説」や、モナドロジー61節などが言うように「どのモナドも宇宙の中で起
こることをすべて表現し、どのモナドの中にも、いま起こっていることだけでな
く、いままで起こったことやこれから起こるであろうことが含まれている」とい
う考え方がLの宇宙観の根本にあるのですから、事象の全系列を表現するモナド
の表象作用が、それ自体“記憶”と呼ばれてもよいと思うのです。スピノザの大
系の土台は(エティカ=倫理学というタイトルにもかかわらず)属性と様態の論
理学、つまり必然的な規則に従う事象の諸関係のシステムであるために、極論す
ればそこには時間がありません。これに対して、たえざる変化と生成のシステム
であるLのモナドの宇宙は、L自身はそれらの概念を重視していないにもかかわ
らず、時間的であり、至るところ記憶に満ちています。(つづく)
193SZ:02/04/25 23:03
Lが彼の宇宙を具体的にどうイメージしていたのかは、彼のテキストを読むわれ
われが推測するしかないのですが、ひょっとしたら彼は、現代の数学者たちがや
るように、経験的な時間や空間を何らかの論理形式に一般化し、具体的な時空の
ない状態で生成を考察していたのかもしれません。そう推測する根拠は、Lが微
分学の創始者の一人だった(したがって関数についての形式的な思考ができるの
は当り前だった)という事実のみならず、「モナドは無限に多くの述語を含む主
語である」という「形而上学叙説」の論理的定義にあります。このように定義さ
れたモナドは、経験的な時空における存在である必要はまったくありませんから。
それならモナドロジーの記述でLが時間や空間に言及するのはなぜなのかと言え
ば、たんに多くの読者にとって理解しやすいからでしょう。さて、事実が上の通
りであったとしても、モナドの宇宙の特質が“生成変化”であることにかわりは
ありません。さらにはLがたくみな比喩の使い手であることもまたまちがいあり
ませんから、やはりぼくには彼がモナドの宇宙を“表象と記憶の宇宙”と呼ばな
かったことが不思議に思えます。レヴィ=ストロースに言わせるとアメリカ・イ
ンディアンの宇宙観に近いというベルグソンの「物質と記憶」においては、精神
とは記憶に他なりません。ベルグソンのような、時間の相のもとに生成を見る直
観主義は、西欧の知的伝統においてはやはり異質なのでしょうか。あるいはLと
ニュートンの時代が、19世紀に現われる熱力学に見られるようなエントロピー
や時間の矢(=不可逆性)の概念をまだまともに取り上げず、あくまで抽象的な
時間軸t(そこでは過去への方向と未来への方向は同等)として時間を把握する
に留まっていたことが、この時代の生成変化についての記述にも影響を及ぼして
いるのでしょうか?
194SZ:02/04/25 23:24
27. Et l'imagination forte qui les frappe et meut, vient ou de
la grandeur ou de la multitude des perceptions précédentes;
car souvent une impression forte fait tout d'un coup l'effet d'une
longue habitude ou de beaucoup de perceptions médiocres réitérées.

28. Les hommes agissent comme les bêtes, en tant que les consécutions
de leurs perceptions ne se font que par le principe de la mémoire,
ressemblant aux médecins empiriques qui ont une simple pratique sans
théorie et nous ne sommes qu'empiriques dans les trois quarts de nos
actions. Par exemple, quand on s'attend qu'il y aura jour demain,
on agit en empirique, parce que cela s'est toujours fait ainsi
jusqu'ici. II n'y a que l'astronome qui le juge par raison.

195SZ:02/04/25 23:42
K訳、だよ。

27 動物に打撃を与え深く揺さぶる強い想像力は、以前もった表象の大きさや
その数の多さに由来する。実際、強い印象が、長いあいだの習慣とか弱くても
何度も繰り返された多くの表象と同じ効果を一挙に揚げることは、よくあること
である。

SZ注記 perceptions médiocres réitérées が、なぜか「弱くても何度も
繰り返された表象」と訳されていますが、médiocres は「平凡な・凡庸な」と
いう意味ですから、「弱い」とするのはかなり思い切った意訳です。実はこれ
河野与一さんの訳をそのまま使っているのです。K訳はモナドロジーに関しては
手抜きなんじゃないかなぁ。岩波訳を使った方がよかったかも。

28 人間といえども、表象間の連結がただ記憶の原理によってのみなされている
あいだは、動物と同じような行動をしており、この点理論抜きでただ実地の体験
を積んだ経験派の医者に似ている。じつはわれわれの行動の四分の三は、経験派的
なものでしかない。たとえば、明日も夜が明けるだろうと予期するのは、いままで
そうだったからという経験派的な振舞いである。このことに理性によって判断を
下すのは、ただ天文学者のみである。

empirique =経験的( empirisme で経験主義・経験論の意味になります) 

196SZ:02/04/26 08:10
まいど! 読書会スレではなく、読書スレになってます(汗

哲学史によれば、17世紀はヒュームに代表される経験論と、ライプニッツに代表
される合理論とが対決した時代ということになっていますが、注意深く彼らの
テキストを読んでいけばだれでも気づくように、すぐれた思想家は必ずその
なかに経験主義的な帰納の方法と、理論的な演繹の方法とを取り入れています。
モナドロジーが「実体」という仮定に基づく形而上学である以上、アプリオリな
原理からの演繹的大系であることにまちがいありませんが、すでに見てきたように、
Lの理論はまた生命や意識についての豊富な観察(つまり経験)から導かれた帰納的
推論に基づいています。28節ではたしかに経験派的行動と理性による演繹的判断
とが対比され、前者の意義は高くは評価されていませんが、こうした記述だけを
見てLが経験を過小に捉えたなどと結論するのは早計ではないかと思います。事実
モナドロジーでも、必然的真理と偶然的真理という区別が、それぞれアプリオリな
(=経験に依存する必要のない)知と、アポステリオリな(=経験から導かれた)
知とに対応しており、ここから見ても、Lが方法的に、演繹と帰納を等しく重視して
いることは明らかです。さて、いよいよこのあとの数節は、モナドロジーの原理を
確立しようとするきわめて重要な考察に入ります。必然的真理と偶然的真理、
矛盾律と充足理由律といういわば公準が立て続けに登場しますので、少し時間を
かけてマターリ逝きたいと思います。このへんはとても興味深く、またいろいろ
議論の余地が生じるところなので、ぼくもレスをあせらずに、1週間くらいはみなさん
からのご意見をまってみようと思います。連休に入るので、そんなペースが
ちょうどよろしいかと。
197SZ:02/04/26 08:19
29. Mais la connaissance des vérités nécessaires et éternelles est
ce qui nous distingue des simples animaux et nous fait avoir
la raison et les sciences, en nous élevant à la connaissance de
nous-mêmes et de Dieu; et c'est ce qu'on appelle en nous âme
raisonnable ou esprit.

29 しかし、われわれは必然的かつ永遠の真理を認識しており、この点で単なる
動物から区別され、理性と知識をもつのである。われわれは高められて、自己自身
を知り神を知るにいたる。そして、これこそわれわれの中にある理性的な魂、
すなわち精神と呼ばれるものである。

知識 ← les sciences(複数)
198SZ:02/04/26 08:36
30. C'est aussi par la connaissance des vérités nécessaires et par
leurs abstractions que nous sommes élevés aux actes réflexifs,
qui nous font penser à ce qui s'appelle moi, et à considérer
que ceci ou cela est en nous, et c'est ainsi qu'en pensant à nous,
nous pensons à l'être, à la substance, au simple ou au composé,
à l'immatériel et à Dieu même, en concevant que ce qui est borné
en nous, est en lui sans bornes. Et ces actes réflexifs fournissent
les objets principaux de nos raisonnements.

30 さらにわれわれは、必然的真理の認識と真理を抽象する作用とによって、反省と
いう行為にまで高められる。この反省が自我と呼ばれるものを考えさせ、これとか
あれとかがわれわれの中にあることを考察させる。このようにして、われわれは
自分自身を考えることによって、存在、実体、単純なものと複合されたもの、非物質
的なもの、さらに神そのものを考えるようになる。それは、われわれにおいては
制限されているものが、神においては制限がないということを理解するからである。
つまり、このような反省という行為がわれわれの思想のはたらきの主要な対象を
与えてくれるのである。

必然的真理 ← vérités nécessaires(複数)
反省という行為 ← actes réflexifs(「反省 réflexion」ではないので注意)
自我 ← moi (「私」)
思想のはたらき ← raisonnements (「論理」「推論」。ぼくなら「推論」と
訳します)
199SZ:02/04/26 08:43
31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes,
celui de la contradiction, en vertu duquel nous jugeons faux
ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictoire au
faux;

32. Et celui de la raison suffisante, en vertu duquel nous considérons
qu'aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune
énonciation véritable, sans qu'il y ait une raison suffisante
pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement, quoique ces raisons
le plus souvent ne puissent point nous être connues.

200SZ:02/04/26 08:55
31 われわれの思考のはたらき(raisonnements)は二つの大原理に基づいている。
その一つは矛盾の原理で、これによってわれわれは矛盾を含んでいるものを
偽(faux)と判断し、偽と反対なもの、偽と矛盾するものを真(vrai)と判断する。

32 もう一つの原理は十分な理由の原理で、これによってわれわれは、事実がなぜ
こうであってそれ以外ではないのかということに十分の理由がなければ、いかなる
事実も真(vrai)であることあるいは存在することができず、またいかなる命題
(énonciation)も真実である(véritable)ことはできない、と考えるのである。
もっともこのような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできないけれど。
201SZ:02/04/26 09:14
33. II y a aussi deux sortes de vérités, celles de raisonnement et
celles de fait. Les vérités de raisonnement sont nécessaires et leur
opposé impossible, et celles de fait sont contingentes et leur opposé
est possible. Quand une vérité est nécessaire, on en peut trouver
la raison par l'analyse, la résolvant en idées et en vérités plus
simples, jusqu'à ce qu'on vienne aux primitives.

33 真理(vérités)にも二種類ある。思考(raisonnement)の真理と事実(fait)
の真理である。思考の真理は必然的でその反対は不可能であり、事実の真理は偶然的
(contingentes)でその反対も可能である。真理が必然的である場合には、
その理由を分析(analyse)によって見つけることができる。すなわちその真理を
もっと単純な観念や真理に分解していって(résoudre)、最後に原始的な観念や
真理にまで到達するのである。
202SZ:02/04/26 09:19
ではみなさんのご意見をお待ちしてます。よい連休を!
203:02/04/26 11:18

キャロリン・マーチャント『自然の死』(工作舎)を読んだ。
分厚い本だが、言っていることは簡潔で、要するに有機体論世界観から機械論的世界観に
変わったことの問題点を指摘している。その世界観の転換を歴史的に書いたものである。
まとめ方としてわかりやすい。参考になる。彼女によればライプニッツが有機体論に立って
いる思想だという。私は実体ではなくて、知覚器官とその知覚領域をゲシュタルトとして
把握し、それを「場所」的なものと理解し、そうした場所性の拡張と交差が宇宙を形成して
いるという世界観である。このエッセンスだけに絞って、もう少しわかりやすく述べてみたい。

マーチャントはこの『自然の死』を踏まえた『ラディカル・エコロジー』の著書があり、
それから『自然の死』と同じような路線と思われるのがモリス・バーマンの『デカルトから
ベイトソンへ−−世界の再魔術化』(国文社)である。ここでは「参加する意識」から
「参加しない意識」への転換というふうに論を立てている。つまり、世界や自然から
自分を切り離し、外側に立つものとして自分を捉えるということだ。これがいわゆる
「客観性」という神話である。それはまた「傍観者」ということでもある。このことは、
ウィルバーが「モノローグ的」と「ディアローグ的」という「知のモード」の問題として
述べていることとほぼ同じである。バーマンはかなり頑張っている。しかしベイトソンが
はたして最終的解答を与えてくれるのかということは疑問である。ベイトソンの「精神」の
とらえ方ではまだまだ不満であり、要するにまだ理神論のレベルにしか到達していないと思う。
そこでは、人間に開かれているスピリチュアルな意識の地平は、まだ視界に入ってこない
のである。
204:02/04/26 11:18

問題は、「現実」ということがすでにある地平によって成立しているものであってみれば、
そこには不協約性(相互に通じ合わないこと)が存在する。

バーマンは、「異質の現実世界を相手にしたときの近代の思考は、無力さをさらけ出している」
という(p.100)。ユングも結局のところ妥協主義者で駄目だとこきおろしているのは、
「よくぞ言ってくれた」と言いますか。近代人が思い及ばないのは、現実構成というものは
相互に不協約であり、無数の現実が存在するということだ。つまり異質な現実構成の世界は、
パラレルワールドなのである。本当は時間も空間もない、何もない世界の上に、いくつもの
現実構成が島のように漂っているだけだ。頭上にも足の下にも本当は虚空があるばかりである。

無数のパラレルワールドが共存する世界ということを自分の「世界感覚」のレベルで理解する
ところまで行かなくては、ことの核心は見えてこない。日本の学者では、見田宗介の『時間の
比較社会学』が、かすかにそれに気づきかけているところを感じさせる。あとは、わかっている
と思えるのは、中沢新一くらいのものか。

本当は、そこまでわかっていないと、言おうとすることは通じないのである。だから、
ほとんどの人にはわからないかもしれないと思うのだが、それでも書かざるを得ない。
何かに気づくきっかけが書物から得られることもある、ということは事実だろうから。
205SZ:02/04/26 12:29
>>203-204 ほんとはしばらくお休みしようと思っていたんですが、
きちんとしたカキコをしてくださったので、レスします。>>204 の「不協約性」
と「パラレル・ワールド」は、まさにライプニッツ的概念で、彼の用語では
前者が「共通不可能性 incompossibilité 」、後者が「可能世界 monde
possible 」にあたります。Lによれば、ある世界とそれを構成する事象の系列が
Xであってそれ以外でないことには十分な理由がありますが、だからといって
世界Xに必然性はありません。シーザーがルビコン河を渡る世界Aと、渡らない
世界Bとはともに可能であり、たしかにそれぞれの世界における事象の系列は
それぞれの世界に特有のコンテクストのもとに展開して行きますが、「シーザーは
ルビコン河を越えた」という命題と、「シーザーはルビコン河を越えなかった」と
いう命題は矛盾せず(なぜならそれぞれは異なる可能世界においては真でありうる
から)、ただそれらの命題が属している世界が異なるために「共通不可能」だと
言われるのです。この考え方はLの「可能世界論」として有名であり、クリプキに
代表される様相論理学のテーマと密接に関連しているため、日本でも多くの人々の
共通認識になっています。見田さんや中沢さんくらいしか「自分の『世界感覚』
のレベルで理解する」人はいないのでは、というのは言い過ぎだと思います。ぼく
自身のことを言うのは恐縮ですが、ぼくがLの思想に強く惹かれた理由も、
まさにこの可能世界論にあるのですから。

206SZ:02/04/26 22:54
スレ違いでとても申し訳ないのですが、昨日イスラエル兵に射殺された3人の
パレスチナ人中学生の死を、私は心から悼みます。「弁神論」が言うように、
この世界は悪を含まざるを得ない十分な理由をもっていますが、われわれ人間の
多くがもっと哲学の存在理由を認識すれば、こんな悲劇は避けられるのに。
この世界がこれほどの不幸に満ちていることがとても悲しいです。
207考える名無しさん:02/04/27 00:10
>>206

はあ?何言っているよ?『弁神論』ちゃんと読んだ?
この世界が最善であるのは、あくまでも神の次元でだよ。
人間レベルの悪とか不幸とは関係ないの。
神は最善で最完全な世界を創造しているのです。

人間レベルでの最善とか悪とかそういったのとは別次元ですよ。

ところで、この世界が人間レベルで悪を含んでいることと
人間が哲学の存在理由を認識することによって、どうして、
「悪が減る=パレスチナのような悲劇がなくなる?」って
ことになるのか私には分かりません。あまり、先走った議論はしないほうが
よいと思います。
208考える名無しさん:02/04/27 00:13
工作舎のオカルトニューエイジ系サイエンス本は
話半分で読んでおいた方が良い。あまり、真に受けるとあっちの世界に
行っちゃって帰ってこれないよ。
209考える名無しさん:02/04/27 00:23
「思考の真理」と「事実の真理」の問題ですね。
ここで、一番難問となるのは、「思考の真理」にしろ「事実の真理」に
しろ、あくまでも、最終的には原始的命題に元の命題を解析できるってことだよね。
「思考の真理」ならそれでもOKでしょうけど、
「事実の真理」でも一つの「原始的命題」に解析出来るって
どういうことですかね?それって、結局、「事実の真理」も
最終的には「思考の真理」に回収できるってことと違うのでしょうか?

つまり、Aという世界がいま、かくのごとく存在するって
ことの理由が完全に説明出来るってことですよね?
それって「思考の真理」と同じことなんじゃないですかね?
210SZ:02/04/27 08:06
>>207 くさいなにわぶしはやめろ、というご意見と受けとめときます。
弁神論と結びつけたのは強引でした。たしかに、弁神論の「最善」とは、あらゆる
可能世界の中からこの世界が選択されたことには十分な理由がなければならず、
人間が悪と認識するできごとも、神の創造においては完全であるということです。
しかし、もしこの思想をわれわれの社会におけるいっさいの行動を放任すべしと
いう意味に解したら、倫理は不要になってしまいます。いまの世界の悪のすべて
が集約されているパレスチナ問題について、哲学にはもちろん何もできませんが、
あの3人が殺されない事象の系列も可能であること、またああした悲劇を悼む表象が
この世界のこれからの変化を予期しているのかもしれないことをわれわれが認識
することによって、社会は実際に変わる可能性をもっている、そうした議論と
社会変革への可能性自体が「最善」の世界に含まれていないとはだれにも言えない、
というのが私の考え方です。
>>209 事実の真理の原始的命題への解析とは、経験的な命題の分析判断、つまり
経験的な命題をトートロジカルに言い換えたり、その命題の主語に含まれている
述語を判明にしたりすることです。たとえば地軸は傾いているという経験的命題
(事実に関する命題)は、地上には季節による寒暖の差が生じるという命題を
含んでいますが、経験的事実に関して、こうした下部命題のすべてを集めても、
そこから思考の真理が導かれるわけではありません。なぜなら33節に言う通り、
「事実の真理」は偶然的真理であって、その反対も可能(地軸は傾きを持たない
ことも可能)だからです。これに対して「思考の真理」は、自同律や矛盾律と
いった原始的命題を含み、これらはアプリオリな(=経験に依存しない)必然性を
持っています。では事実の真理と思考の真理は無関係なのかと言えば、そうではなく、
先にあげたような経験的な命題を用いてわれわれが経験的事実を論証しようとする
ときには、論理的な思考の真理(自同律や矛盾律)に従います。ということは、
思考の真理は、事実の真理に関する論証過程で、論理的な結合の規則として働く
ということであり、事実の真理が最終的に思考の真理に回収されるということでは
ありません。
です。
211考える名無しさん:02/04/27 13:06
>>210

もちろん、人間レベルでよりよい努力はすべきです。それはライプニッツは
否定していないはずです。(というよりも、出来る限りはがんばれってことだと思う。)
しかしですね。ライプニッツの可能世界の話って、ああでも、こうでもあり得たけど、
結局、「この世界」でしかないってことが一番肝心なところだと思うんですけどね。
「この世界」が人間レベルでどんなに悲惨で悪に満ちていようとも、
それは神レベルで最善の世界なのであり、それ以外にはあり得なかったって
ことだと思うよ。あくまでも、神は全能であって、不完全な世界は創造することはないはずです。
212考える名無しさん:02/04/27 13:13
>>210

とすると、矛盾律=思考の真理(必然的真理)
     自同律=事実真理 (偶然的真理)
というかたちで、関わってくるってことなのかな?
自同律と矛盾律ってどっちが優先するんですかね?
そこのところが問題なんだと思うんですよ。

私は自同律が最終的に優先すると思うんですけど、
そうすると、思考、事実真理の両者があくまでも分析命題だ
っていうのと、最終的につじつまが合わなくと思います。

つまり、事実真理の分析の過程に終わりがないというのが
いったいどういう事態なのかが問題になってくると思うのですがどうでしょうか?
213SZ:02/04/27 23:57
>>211
>ライプニッツの可能世界の話って、ああでも、こうでもあり得たけど、
結局、「この世界」でしかないってことが一番肝心なところだと思う

Lはそう言いたいんだと思います。ただ、可能世界論の射程はLの意図を越えて
もっと広く、多義的だとぼくは考えています。しかしこの話題はぼくがくだらない
カキコしたせいで派生したものなので、申し訳ありませんが、ぼくが悪かった
ということで、これでおしまいにさせてください。

>>212 いえ、自同律と矛盾律は双子の兄弟で、どっちも思考の(原文では
raisonnement つまり推論の)真理に含まれる論理的思考の原理です。
これに対して事象の真理がしたがう原理は「十分な理由の原理(充足理由律)」です。
事象の真理は偶然的ですが、しかしXであってX以外でないということには
十分な理由があるはずだ、というのがLの仮定なのです。ただ32節が言うように、
「このような理由は、ほとんどの場合われわれには知ることはできない」。
つまり十分な理由は存在するけれど、その理由の中味はわれわれには知りえない、
というわけです。これうさんくさい議論に思えるかもしれませんが、ぼくは非常に
重要なことを言っていると思います。というのはわれわれを取り巻くこの世界の
現象の中には、決定論的な規定にしたがって非常に単純に記述されるにもかかわらず、
微小な初期条件の違いによってまるっきり異なるふるまいのヴァリエーションを
見せる「カオス系」の存在が確認されていて、このカオス系の一つのふるまいには
他のふるまいとの比較で必然的である理由はまったくないけれど、そのカオス系を
含むこの世界の事象の全系列を考慮するならば、いまここでのその系のふるまいが
Xであって別のものではないということには必ず理由があって、そうでなければ、
そのカオス系のふるまいそのものが生じ得ない得ないということがあるからです。
ここまでくると問題は偶然性をめぐる解釈になってくるので、Lは偶然の事象が
何の理由もなしに行き当たりばったりにおこるはずはないという信念にしたがって
ものを言っており、これは神はさいころをふらないと言ったアインシュタインの
信念に通ずるものがあります。二人はともに偶然の存在を否定しているのではなくて、
経験的で偶然的な事象にも、そうした事象が発生してくる理由がどこかになければ
ならない、と言いたいのです。これに対して、いやそんな理由さえないのだ、
偶然とは何の理由も持たないランダムな事象の行き当たりばったりの羅列なのだ、
という言明は簡単です。しかしこうした言明ははじめからすべてを闇の中に放棄
して事足れりという、単なる知性不在の証明に他なりません。
事実命題の分析過程に終わりがないとは、以上の前提を考慮していただければ、
事実命題はほとんど無限の分析ができる(なぜならそこにはカオス系の場合に
見られるような決定不能なヴァリエーションが含まれるので、つまり偶然の事象は
絶対に排除できない)という意味で理解すべきであり、事象命題はたとえ真である
ことははっきりしていても必然性を持たない、事象の全体は決定論的に
定式化できても、その定式にはほとんど無限の多様なヴァージョンが含まれて
しまう、われわれにはそのいちいちを再現することはできず、仮にそうした
再現の作業に精を出すとすれば、もう一度その事象が生じたのと同じプロセスを、
同じ時間をかけてトレースしなければならなくなる、と解するのが妥当だと私は
考えます。
214考える名無しさん:02/04/28 00:37
非常によくわかりました(冷汗
215SZ:02/04/28 12:17
34−38節は、

1.必然的な真理の分析によってわれわれは自同的命題(これは自同律のことで
はなく、自然数などの未定義概念や、幾何学の基礎をなす平行線公理(「ある直
線と平行な直線は一本だけある」「ある直線と平行な直線は一本もない」「ある直
線と平行な直線は無数にある」)のように証明不能な公理のこと)に至る。
2.偶然的な真理の分析には際限がない。
3.そこで偶然的真理の十分な理由(=最後の理由)は偶然の要素(=事象の構
成要素)の系列の外部になければならず、それは一つの必然的な実体、卓越的な
実体の中にある。それが神である。

という3つの重要な論点からなっています。33節で引用を中断すると、われわ
れの議論も中途半端になるおそれがあるので、38節まで引用しておきます。
216SZ:02/04/28 12:21
34. C'est ainsi que chez les mathématiciens les théorèmes de
spéculation et les canons de pratique sont réduits par l'analyse
aux définitions, axiomes et demandes.

35. Et il y a enfin des idées simples dont on ne saurait donner
la définition; il y a aussi des axiomes et demandes ou en un mot
des principes primitifs, qui ne sauraient être prouvés et
n'en ont point besoin aussi, et ce sont les énonciations identiques,
dont l'opposé contient une contradiction expresse.

34 そこで、数学者の場合、理論上の定理も応用上の規範も、分析によって定
義や公理や公準に還元される。

35 そうして最後に、定義することのできない単純概念がある。また、証明す
ることができず証明する必要もない公理や公準、一口でいえば原始的な原理があ
る。これらは自同的命題で、その反対は明白な矛盾を含んでいる。
217SZ:02/04/28 12:25
36. Mais la raison suffisante se doit aussi trouver dans les vérités
contingentes ou de fait, c'est-à-dire dans la suite des choses
répandues par l'univers des créatures, où la résolution en raisons
particulières pourrait aller à un détail sans bornes, à cause de
la variété immense des choses de la nature et de la division des
corps à l'infini. Il y a une infinité de figures et de mouvements
présents et passés qui entrent dans la cause efficiente de mon
écriture présente, et il y a une infinité de petites inclinations et
dispositions de mon âme présentes et passées qui entrent dans
la cause finale.
218SZ:02/04/28 12:28
36 しかし、偶然的真理すなわち事実の真理の中にも十分な理由がなくてはな
らない。つまり被造物の世界にあまねく行き渡った事物(choses)の関連のうち
にも、十分な理由がなくてはならない。この場合、自然の事物が極めて多様であ
り物体(corps)は、無限に分割されているから、個々の理由に分解してゆくと
限りなく細部に到ることになる。過去現在の形や運動が無数にあって、それらが
いま私の書いていることの作用因(cause efficiente)をなしている。また、私
の魂には、現在や過去の微小な傾向(inclinations)や気持ち(dispositions)
が無数にあって、それが私の目的因(cause finale)をなしている。

※ K訳が、qui entrent dans la cause finale を「それが私の目的因をなし
ている」としているのは誤訳です。河野訳では「(数限ない微小な傾向や気持ちが)
その目的原因の中に入って来ている」となっていて、直訳しているこちらが正しい。
もう一つ、両者がともに「目的(原)因」としているcause finaleは、
「究極的原因」というのが原義です。だからここでのLの主旨は、「私の魂の微小な
傾向(inclinations)や気質(dispositions)の無限性は、つきつめれば究極的な
原因にまで至る」ということです。
219SZ:02/04/28 12:31
37. Et comme tout ce détail n'enveloppe que d'autres contingents
antérieurs ou plus détaillés, dont chacun a encore besoin d'une
analyse semblable pour en rendre raison, on n'en est pas plus avancé,
et il faut que la raison suffisante ou dernière soit hors de la suite
ou séries de ce détail des contingences, quelque infini qu'il pourrait
être.

37 ところで、どのこうした細部にも、それに先立つあるいはより細微な偶然
的要素のみが含まれていて、その要素のそれぞれに理由を与えるためには同じよ
うな分析がまた必要となってくる。だからいくらやっても、少しも進んだことに
はならない。そこで、十分な理由すなわち最後の理由(la raison suffisante ou
dernière)は、偶然的要素のこうした細部がたとえどれほど無限でありえても、
やはり細部の関連つまり系列の外にある、としなくてはならない。
220SZ:02/04/28 12:33
38. Et c'est ainsi que la dernière raison des choses doit être dans
une substance nécessaire, dans laquelle le détail des changements
ne soit qu'éminemment, comme dans la source, et c'est ce que nous
appelons Dieu.

38 そうすると、事物の最後の理由は一つの必然的な実体の中にある、としな
くてはならない。この実体の中にはさまざまな変化の細部が、あたかもその源泉
の中にあるごとくただ卓越的に(éminemment)存している。その実体こそわれ
われが神と呼ぶものなのである。
>>219
系列の外!
サオZ、説明をよろしく...。
222SZ:02/04/29 00:39
>>221 ひさしぶり! つっこみがくると思ってたyo
事象の系列の外とは、事象の存在とその生成を支えている最後の理由、事象の源泉
としての神ということです。これは明らかに例の一階述語論理的構造の外部、メタ
レベルを指示する言明です。
36−38節は、偶然的真理(事実の真理)にも十分な理由がなければならないという
アプリオリな仮定と、偶然的真理(事実の真理)の分析には終りがないという経験
的事実との矛盾を解決するために、事象の外部に助けを求めるという論理構成にな
っています。つまり神を要請したのは十分な理由の原理に他なりません。
この点をまとめると次のようになります。
1.偶然的真理(事実の真理)が認められ、事象世界の偶然性と多様性が肯定される
こと
2.偶然的真理(事実の真理)に対して十分な理由が仮定されるため、事象世界の
外部に最後の理由としての超越的な神が要請されること
つまりこの文脈における事象の系列の外部(超越的な神)とは、事象の系列の級数
(収束点)であって、“神は事象世界の偶然性と多様性から導き出され”ていて、
あえて言えば事象世界の偶然性と多様性の方が神に先立っているのです。(つづく)
223SZ:02/04/29 00:41
たしかにLは、世界がこういうかたちで存在することに何か理由があるとすれば、
超越的な神の存在を認めなければならないと言明していますが、だからといって
事象世界の系列を離れて神を考えているわけではありません。ということは、事
象の外部とか神などと言われているものは、十分な理由の原理という仮定が導き
出した仮構物であり、事象世界の偶然性と多様性を肯定するための比喩的な概念
とみなすことさえできます。もちろん、テキストの言明を安易に読み替えてよい
というつもりはまったくありません。しかし、前にも指摘した通り、Lの時代は
キリスト教の教義と合理主義とが同居していた時代なので、Lが神とか事象の外
部などと言う場合には、その前後における記述を考慮して、彼の真意を慎重に探
る必要があります。ぼく個人は、モナドロジーのシステムにとって必要不可欠な
のは事象世界の偶然性と多様性の肯定、およびそうした世界に十分な理由がある
という仮定であって、それらは系列の外部(神)に依存する必要はまったくない
と考えます。実はこの解釈には強力な根拠があります。それはモナドがそれ自身
エンテレケイア(現勢化する力)である、という他ならぬL自身の言明です。実
体は自分自身を生み出す力なのですから、そうした実体は第一原因などによる必
要もなく、つねにすでに生成していると考えるのが当然ではないでしょうか。こ
れとまったく同じように、事象世界も、その偶然性と多様性をその系列の外から
もらう必要などない、とぼくは考えます。Lの問題意識の中に、あらゆる学の基
礎としての形而上学という考え方があり、どうしても最後には神を登場させない
わけにいかなかったという点は理解できるのですが、そのことと、モナドロジー
の論理的一貫性とは別問題であり、モナドロジーの論理において、超越的な神へ
の言及はむしろその一貫性をこわしかねないというのがぼくの解釈です。
224考える名無しさん:02/04/29 03:47
>>218 >qui entrent dans la cause finale
"G.W. Leibniz Philosophical Texts,1998"の
英訳(R.S.Woolhouse + Richard Rrancks)だと問題の箇所はこう。

which play a part in its final cause.

plau a partというといかにも予定調和〜って感じがしますね。
神が外部の系列かどうかは難しい問題ですが、「表現」という概念で
強引にその超越性を切りくずしていく道もありますね。
225SZ:02/04/29 23:16
>>224 >神が外部の系列かどうかは難しい問題ですが、「表現」という概念で
強引にその超越性を切りくずしていく道もありますね。

たとえばこんな感じですね。「系列の級数あるいは収束点は系列そのものから導か
れ、それらを系列から独立に考えることは無意味だから、われわれがこれ以上分
割不可能な実体とか最後の理由としての神などと呼んでいるものは、すべて系列
を総体として捉えようとする理性の産物に過ぎず、存在しているのはあくまでも
系列だけであり、「実体」とは単なる観念以上の何ものでもない。モナドや神は
物体が存在するのと同じようなしかたでは存在しない。われわれがモナドや神と
呼んでいる何かは、むしろわれわれが事象世界のある側面を表現する様式のこと
である。モナドは表象作用と表象内容そのものであって、それ自体としてはいか
なる存在者でもない。」
226考える名無しさん:02/04/30 00:13
>この解釈には強力な根拠があります。それはモナドがそれ自身
>エンテレケイア(現勢化する力)である、という他ならぬL自身の言明です。実
>体は自分自身を生み出す力なのですから、そうした実体は第一原因などによる必
>要もなく、つねにすでに生成していると考えるのが当然ではないでしょうか。

でもさ、実体が存在する理由と原因は神なんじゃないの?
神なしのモナドロジーは絶対にありえないよ。
目的論なしのモナドロジーっていうのは絶対におかしいし、
必然的真理の存在をあなたは忘れていませんか?

もちろん、ライプニッツが偶然的真理で、人間的自由を担保したかったのは
十二分に理解できるけど、あなたのように、「神」をはずした
ライプニッツ理解は、全然間違っていると思う。

「神」概念を無視していしまうと、やはり、デカルトやスピノザといった
当時の哲学との関係も消してしまいます。

私はライプニッツには「神」ということを言わなければならない
理由があったと思うし、彼の哲学を「神」を抜いて理解することは
彼の哲学を理解していることにはならないと思う。
227考える名無しさん:02/04/30 00:16
>>233

あなたの言っていることは、間違っていると思うな。
「神」概念抜きだと、モナドロジーの論理一貫性は破綻すると思うよ。
予定調和と最善律はどうなるのよ?

目的論抜きのモナドロジーだと、必然的真理も偶然的真理、
いやはや、ありとあらゆる真理の基礎付けが出来なくなっちゃうんじゃない?
228SZ:02/04/30 00:24
Lの哲学をLの言明通りに読むことと、Lの意図通りに読むこととは違う、
ということをぜひ理解してください。これからもぼくはLはこう言明して
いる、という点についてはテキストにある通り指摘します(そのために原典
から読んでいるのです)。しかし、Lがあることを言明しているから、それが
彼の言いたいことなのだ、という素朴な考え方だけでは、本当に彼の
テキストを読んだことにはならないのではないでしょうか? そこであなたに
一つ質問があります。なぜ「神なしのモナドロジーは絶対にありえない」のか
その根拠を示してください。少なくともぼくは、いままで私見を言うときには
必ず根拠を挙げてきました。
229考える名無しさん:02/04/30 00:34
>>228

もちろん、テキストの言明通りに読むことと、その意図を読むことは違います。
しかし、なぜ、そのように読めるのかということの、根拠をしめしてください。
「こうとしか思えない」では根拠ではないです。少なくとも、
「論理的にこうとしかい」ということを納得させるか
ライプニッツ自身が、テキスト上で言っていることを示すこと
以外はテキスト解釈の「根拠」にはなりませんよ。

思いこみと、読み込みは区別してください。
230SZ:02/04/30 00:42
>>229 ではしかたがないからもう一度ぼくの根拠を言いますから、
次はあなたが質問に答えてくださいね。
Lは偶然的真理の最後の理由を事象の外(=神)に見出すにあたって、
まず事象の系列が際限なく分析できるという経験的事実からはじめている
のです。ということは、事象の系列なしに神は考えられていないという
ことです。QED
231考える名無しさん:02/04/30 00:47
>>事象の系列が際限なく分析できる

のは神だけですよね?偶然的真理における事象の系列の分析を
しつくすことが出来るのは神だけじゃなかったけ?

あと、なんで事象の系列の分析がなんで経験的事実なの????

232SZ:02/04/30 00:49
分析は神がやるんですか? しっかりしなさい。
神に分析など必要ありません。
233考える名無しさん:02/04/30 00:50
>@まず事象の系列が際限なく分析できるという経験的事実からはじめている
>ということは、()
>A事象の系列なしに神は考えられていないということです。QED

これって、なんの説明にもなっていないんですけどね。
@とAのつながりはまちがっているでしょ?
この辺がおかしいんですけどねえ。

もうちょっと説明してくれないかあな。
234考える名無しさん:02/04/30 00:52
>>232

ああ、そうでした、神に分析は必要ないよね。
でも、人間による偶然的真理の分析は無限に至っちゃうんじゃないの?
もちろん、充足理由律から、偶然的真理にも分析の終局は
あることは確かだけど、人間には分析しきれないんじゃないの?
235考える名無しさん:02/04/30 00:54
>>232

さらに問うけど、もちろん神は、直視、直観によって、
偶然的真理の分析の終局を認識しているんだろうけど、

実際、神が真理の分析過程を計算し始めた場合でも
ちゃんと計算し終わることが出来るのかな?
236SZ:02/04/30 00:55
>>233 いいですか。事象の系列というのは経験に与えられたものでしかないんですよ。
そして事象の系列が際限なく分析されるというのは、事象が複合的であるゆえに、
どこまで分析してもきりがないというわれわれの経験の帰納から導かれているのです。
あなた、数学的帰納法って知ってますよね。ところでこうした際限ない事象の系列
に最後の理由を与えるために、神が持ち出されている以上、神は蛇足でしょ?
237考える名無しさん:02/04/30 00:58
どうして、経験に与えられたものでしかないの??
事象世界は、実在しないってことなのかな??

それならあなたの言うことに同意だな。
238SZ:02/04/30 01:00
>>237 事象世界こそが実在する、という意味で、事象世界は経験に
与えられている、と言っているのですが、なにか?
239考える名無しさん:02/04/30 01:01
SZさん

いや〜なんか質問攻めにしてすいません。

なんかおもしろそうなテーマだったので、いろいろと興味がわいたのです。
明日仕事なんで、そろそろお暇いたします。

いろいろと質問に答えてくれてありがとうございます。
勉強になりました。
240SZ:02/04/30 01:03
>>239 質問に答えて寝ろ!
ああ神という言葉の重さが痛いほど感じられ。
(というか、痛い、痛いだけ。)
口挟むようですまないけど、>>225の強引な切り崩しは、
あまり賛同できないので、それを結論にしないでくれよ。サオZ!
(モナドを表象作用や表象内容と言ってしまうのは先走りすぎだと思うので)
242SZ:02/04/30 01:04
>>241 ちゃんと読んでよ。あれにはカギカッコがついてるでしょ。しゃれですよ。
しゃれか〜。こいつぁやられた〜。

しかし、系外の外、という言葉にはやはり重みを感じるし、
サオZの考えにも簡単に同意できるだろうか。
244SZ:02/04/30 01:26
今日はライプニッツ・スレがやっと2ちゃんらしくなった日として記憶
しておきます。ではおやすみなさい。みんな頼むからまじめにやってくれよ。
245SZ:02/04/30 23:16
きょうは、偶然的真理は必然的真理に必ずしも還元されないこと、経験的な事
象の系列は必ずしも神によって十分な理由を与えられないことを明らかにしま
す。ここでは前にも一度例にあげたカオス系を、経験から帰納される偶然的真
理のモデルとして用います。カオス系に関するトリビアルな説明が必要な方は、
NTT出版から出ている黒崎政男『カオス系の暗礁めぐる哲学の魚』をお読みく
ださい。この本はライプニッツ論としても立派な内容です。
246SZ:02/04/30 23:17
必然的真理は、1)演繹的推論のためにも、2)経験からの帰納的推論のために
も用いられます。必然的真理「AはAである(自同律)」、「AはAの反対では
ない(矛盾律)」は、数学と論理学において演繹的推論の規則として働きます
が、また自然科学一般においては、たとえば「物質は複合体である」とか
「物質は単純実体ではない」というように、経験に由来し、経験を定式化
する帰納的推論の規則としても働きます。
しかし、私たちが経験する事象世界は、こうした必然的真理にしたがって
十分に記述できるわけではありません。
このことを明らかにするために、まず単純な命題を定式化し、事象の系列の
全体を帰納的な手法によって必然的真理へと帰着させる例をあげます
(数学的帰納法)。次に、これと同様の帰納的な手法を用いるにもかかわらず、
条件を少し変えるだけで必然的真理に至ることができなくなる例として
カオス系を取り上げます。カオス系は自然の事象の系列に比べれば比較に
ならないほど単純な決定論的方程式によって導かれるのに、帰納的な手法を
用いるとこのようなシンプルなモデルでさえ偶然を排除できなくなるという
事実を通して、事象世界全体が仮に決定論的に定式化されたとしてもなお
不確実であることを示します。
247SZ:02/04/30 23:19
さて漸化式(1回目の計算結果を2回目の計算式に投入し、これをn回
(n=自然数)くりかえす方程式)を作り、1回目の計算結果が真であること
を証明した上で、n回の計算の全体が真であることを証明する数学的帰納法は、
漸化式が線形であり、計算の実行に用いる数列が自然数なので、計算結果にも
リニアな規則性が生じます。その結果証明された命題は必然的に真となります
(その反対は成立しません)。
数学的帰納法は、たしかにn回の計算というわれわれの経験の手続きを一挙に
代行してくれるのですが、計算の対象は形式化されたもの(線形の方程式で
表現され、自然数の数列によって実行されるもの)であるため、まだ
われわれの経験する事象世界の複雑さにはほど遠い。極度に形式化されている
からこそ、そこから必然的真理を導くことができるのです。
248SZ:02/04/30 23:20
これに対して、同じように漸化式を用いて数列を導く数学のモデルであり
ながら、もはや必然的真理に還元できないものの1つがカオス系です。
カオス系は数列ですが、それを導くための決定論的定式は、非線形の漸化式と
実数の集合であるため、計算の結果得られる解は、n=1.0001とn=1.00001
とでは天と地ほども違います。しかもn=1.00001の解からn=1.00002の
解を予測することはまったくできません。つまりカオス系とは決定論的規定
(単純な方程式)によって記述できるのに、初期値(nの値)の微小な違い
に敏感で、生じる解のふるまいにまったく規則性がない系のことなのです。
こうしたカオス系は経験的な事象世界の至るところに認められる非線形現象を
記述するモデルとして、すでに多くの科学者の研究対象となっています。
つまりカオス系は事象世界の法則性を帰納的にとらえ、記述するための
きわめて有力な手段です。
249SZ:02/04/30 23:21
カオス系=その定式を見れば決定論的でありながら、ふるまい方はまったく
偶然に支配される事象の系列。その解のふるまいを知るには、一つ一つ
計算していくほかなく、それには無限の時間がかかります。
これこそわれわれが経験し、そこから帰納的に法則性(偶然的真理)を見出
そうとする、事象の系列の性格を明らかに示すモデルであり、このモデル
を通して、われわれの経験はたとえ真なる命題として定式化できても
(単純な方程式で表わせても)、実際のふるまいはけっして予測できない
ような偶然的事象を含むということがわかるのです。
250SZ:02/04/30 23:22
さてカオス系が表現しているような偶然的真理は、必然的真理に還元でき
ないことは明らかです。なぜならカオス系がランダムにふるまう
“十分な理由”は、非線形の漸化式と実数の集合にありますが、
必然的真理は方程式の自明性(方程式なのですから当然自同律にしたがい
ます)においてのみ働き、それ以外は任意に与えられた作動因
(=実数の集合)に依存しているからです。
この事態が示している論理的な帰結はきわめて重要です。つまり、
“神はたしかにさいころを振らなかった(なぜなら方程式においてその力を
発揮しているから)が、事象を戯れるままにまかせた(つまり事象のふる
まいに無限の自由を認めた)”ということです。
以上のことから、偶然的真理は必ずしも必然的真理に還元されないこと、
事象の系列は神によっては必ずしも十分な理由を与えられないことが
明らかです。
251考える名無しさん:02/05/01 00:36
「8--ことろで、宇宙の現実存在のこの十分な理由は、偶然的事物の系列の内には、
即ち物体と、魂における物体の表現の内には見い出されないであろう。なぜなら、
物質はそれ自体では運動と静止とに、そしてこれこれの運動とか別の運動とかに対
して、無差別なのであるから、そこに運動の理由を見い出すことはできないであろ
うし、ましてこれこれの運動の理由とかいったものを見い出すことなどできないで
あろう。そして物質の内にある現在の運動は先行する運動に由来し、後者はまたそ
れに先行する運動に由来するのではあるが、望むだけそうやっていけるのだとすれ
ば全然進んだことにならない。というのも常に同じ問題が残っているからである。
従って、もはや他の理由を必要としない十分な理由は偶然的諸事物のこの系列の外
になければならず、その系列の原因であり、自分の現実存在の理由を自ら持ってい
るような必然的存在者である実体の内に見い出されなければならない。そうでなけ
れば、そこで終りにし得るような十分な理由をまだ手に入れることにはならないで
あろう。そして諸事物のこの究極の理由は神と呼ばれる。」

 (ライプニッツ『理性に基づく自然と恩寵の原理』1714、工作舎著作集9巻、251頁)

ライプニッツは、宇宙の現実存在の十分な理由を与える究極の理由を神と呼ぶ。
神は諸事物の系列に外にあり、その現実存在の理由は諸事物の系列に依存しない。
決して諸事物の系列の結果ではありえない神は、系列の外にある原因である。
>経験的な事象の系列は必ずしも神によって十分な理由を与えられないこと(>>245)
そのような神はライプニッツの神ではないであろう。
そのように私は考えるのだが、szさんの論述はライプニッツ解釈の埒外に
踏み出しているのではないでしょうか?
252訂正:02/05/01 00:51
>>251 間抜けですいません。
×「8--ことろで、
○「8--ところで、
SZの新しい見解でのエンテレケイアの位置付けが難しい。
それに、モナド論では(あえてテキスト重視すれば)
「十分な理由」のあるところを神としたわけだから、
>>250の最後の文はやはり納得がいかない。
私には神と必然的真理はほとんど関係のないように思える。
十分な理由などがあればそれこそ演繹などが通用することではないようであるし。
(十分な理由については、>>251の、「他の理由を必要としない十分な理由」で
 やっとつかめてきました。)

しかし、カオスの考えはかなり参考になった。もう少し、
関連する項目を明確にすればもっとずっと解りやすくなるはずだと思う。
実に具体性があって、面白い。
254SZ:02/05/01 11:17
>>251 冷静なレスありがとうございます。これでようやくまともな議論になり
そうです。
まず、まえのぼくのカキコのはじめにはっきりお断りをしなかったために、誤
解を招いた点をいま釈明します。あのカキコでぼくが示したことは、Lの神の
概念の解釈ではありません。そうではなくて、Lとまったく同じ前提に立ち
(=モナドロジーの基本概念である「必然的真理」「偶然的真理」「矛盾の原
理」「十分な理由の原理」に基づいて)、「神=最後の十分な理由=最も完全な
必然的真理」の概念を批判したのです。事象世界は神の目の届かない領域に満
ちている、神だけでは事象世界に十分な理由は与えられない、と結論づけたのは
そのためです。したがって、これはL批判であって、L解釈ではありません。
このスレッドでのぼくの立場は少なくとも3つあります。1つはモナドロジー原
典と対訳をつきあわせてできるだけ原典に忠実に解釈すること。2つはLの言明の
周辺を哲学史的にふりかえること(特にデカルトやスピノザ、経験論などとの比較
をすること)。そして最後にモナドロジーを現代の視点から批判することです。前
のカキコでは、ぼくは3の立場でものを言っているのですが、その点が暴走に見え
たとすれば、ぼくの説明不足です。
たしかにLの神概念は、「事象の無際限の系列に存在論的な基礎を与える最後
の十分な理由」と定義されます。しかしここで注意すべきことは、「十分な理
由の原理」と呼ばれるものが「どうして原理であるのか」については、モナ
ドロジーも『理性に基づく自然と恩寵の原理』も明らかにしていないという
ことです。前にも指摘しましたが、モナドロジーに「神」概念が必要になる
のは、「十分な理由の原理」がそれを要請するからです(事象世界がXで
あってX以外でないことには十分な理由がなければならず、そうした理由は
事象間の関係には見出せないから、事象の系列の外に存在しなければならない。
それが神である)。しかし、Lはその十分な理由のほとんどがわれわれには
知りえないとも言うのです。このような意味での「十分な理由の原理」
の正体とは何でしょうか。
255SZ:02/05/01 11:19
それは「言い分け」です。ハイデガーは哲学の始まりは問いであり、その問い
を基礎づけているのは「世界に対する存在論的了解」だと言いました。この
「存在論的了解」もまた言い分けです。われわれが「なぜ」を徹底する考察を
始めたり、事象世界の成り立ちを問いかけたりするにあたって、どこかに仮構
する「根源」群。これがすべての哲学の足を挫く危険な罠でなくて何なのか。
ぼくの考えでは、事象世界は局所的にしか観察されず、それぞれの局所ごとに
帰納的・論理的に明快な理由があるのです(もちろんカオス系を通して見た
ように、われわれが知ることができる理由は常に「不十分」ですが)。しかし、
十分な理由を「原理」とみなし、事象世界の全体にかかわる究極的な理由を
求めようとすると、それは単なる思弁に陥ります(この点については、
もう少ししたらLに対するカントの批判(=純粋理性批判)を参照しながら
明確にします)。モナドロジーは神を起点=終点に置くことではじめて矛盾の
ない大系になるのかもしれませんが、それは無矛盾だからこそ不完全な大系
です。モナドロジーには多くの意欲的な課題が含まれていますが、事象世界
を形式化し、そこに明証性を与えようとする試みはその中でももっとも重要
な哲学的課題でしょう。ぼくもこの課題こそ哲学の核心だと考える点で、
Lの問題提起そのものには多いに賛同しているのです。しかしこの課題に
答えるにあたって、Lは最後の理由として神を持ち出した。これは論理学者
・ 数学者・自然科学者としてのLらしからぬ、言い分けがましい態度であり、
もっと深刻なのは、神に頼るこのような態度は哲学者のそれとしても非常に
カッコ悪い(なぜなら神概念の中ではわれわれの思考は停止してしまう
のだから)ということなのです。
256SZ:02/05/01 13:03
>>255 訂正
×世界に対する存在論的了解
○世界に対する前存在論的了解
257SZ:02/05/01 13:54
え〜と、1週間消えますです。オフラインで放浪してきます。
どなたか先へ進めといてくれてもいいし、議論でもりあがっててくれてもいいし。
ではまた。
>>253でふれたことを重ねて言うが、
問題はサオZが「最後の十分な理由=最も完全な必然的真理(>>255)」と
解釈していることなのだ。必然的真理とは結局、モナドロジーで言うところの
思考の真理のことだろう?
サオZの解釈ではLがまるで、
事実の真理が最終的に思考の真理に回収される、と言っていることになってしまう。
これはサオZも否定したいところだろう。
それが>>210>>213での論証を>>254で「L批判」にしたため、
Lがなおざりになり、Lの考えがこれでは誤解されそうである。
もう一度、L解釈に立ち返り、そこでいわんしている
「思考の真理」「事実の真理」そして「十分な理由」の、
定義を反省すべきである。サオZが帰ってくるまでは、まだ長いが
私の解釈を少し言っておこう。
ライプニッツの言う思考の真理は、>>210でサオZが言うとおり、
>事実の真理に関する論証過程で、論理的な結合の規則として働く
であると思う。それならば、「神」の要請におけるLの言わんとしている
「ある事実の理由を系列の内に求めた場合、その理由もそれ自体の理由を系列の内で
求めなければならない。結局、無限の細部や要素の分析に到り、どこまでいっても
理由は出てこない。ゆえに系列の外に十分な理由がなければいけない。
それを神と呼ぶ。
(この言明の内容自体はLのいうところと少し違うかもしれません)」
という言明自体が、思考の真理によるところの「神」の存在をなすものであって、
結局、事実の真理という仮定に含まれる意味で神があるだけである。
要するに結論としては、ある事実と、それについての十分な理由を
「結びつけるもの」が、上記の言明、つまり、思考の原理であって、
十分な理由そのものが「最も完全な思考の原理」であることはない。
御免
>>258の「〜真理(>>255)」は「〜真理(>>254)」に訂正です。
>>259ハンドル間違いました。すいません。
261SZ:02/05/06 19:37
高ぞう〜、ウィルス対策だいじょうぶか(5月6日はウィルスの日だよ)?
前のレスにこたえるけど、厳密な言い方するから(とてもだいじな論点なので)、
きつくきこえるかもよ。悪意はないのでよろしく。


          自同的命題(論理法則・公理)
   必然的真理 {
          自同的命題のみから演繹された命題(数学の定理など)
神 {
          論理法則にしたがって結合されているが、あくまで偶然的
   偶然的真理  に真なる(=その反対も可能である)命題
          (生物学の法則や歴史的事実など)

高ぞうが言っているのは、神=最後の十分な理由=最も完全な必然的真理という
分析は、事象世界の系列の十分な理由をイコール必然的真理とみなし、偶然的
真理を必然的真理に還元する誤りを犯している、ということだよね?
しかし、高ぞうも言うように(>>これはサオZも否定したいところだろう)、
ぼくが言っていることは全然そんなことではありません。
262SZ:02/05/06 19:39
まずぼくの解釈ではなく、Lの見解から。
上の自同的命題に含まれる「論理法則」と「神」との関係は次の通りです。
“神という最も完全な必然的存在の中には論理法則が含まれている、という意味で、
論理法則の必然性を根拠づけているのは神である。”
次に、事象の系列は偶然的な事実と論理的な結合法則とから成り立ち、Lによれば
前者の十分な理由は直接神のうちに、後者の必然性は必然的真理を媒介にして間接
的に神のうちにあります。
したがって、偶然的真理は必然的な真理に還元されることはけっしてありませんが、
偶然的真理も必然的真理に“導かれている”のであって、事象世界の系列は、
二重に神に支えられていることになります。
ここから先はぼくの言明の説明です。
そこでぼくが使った「最後の十分な理由=最も完全な必然的真理」の意味は、
「十分な理由=必然的真理」ということではなくて(そこに高ぞうはこだわって
いるわけですが)、事象世界の「最後の」十分な理由は、神を通して
「最も完全な」必然的真理と一致する、ということなのです。
ここでむしろ高ぞうに注意しておきたいのは、神イコール論理法則とみなすのは
誤りだ、ということです。上の表からすぐわかるように、神は必然的真理にも
偶然的真理にも内在していて、論理法則がつねに神を表現しているのと同様に、
偶然的な事象世界もつねに神を表現しているからです。
ただ、神そのものを規定するときには、われわれは「最後の」とか「最完全の」
という形容語を用いざるをえません。そこで「神=最後の十分な理由=最も完全な
必然的真理」という言い方になるのです。
263SZ:02/05/06 19:41
偶然的真理は必然的真理に回収(還元)されたりはしない。この一点だけを
とってもLはとんでもなく革命的な思想家です。
Lのシステムの決定的にすごい点は、スピノザのそれとは対照的に、偶然性を
積極的に認めるところにあります。
264SZ:02/05/06 19:42
ところがそのL自身が、大系の調和にこだわってよけいな概念を導入してしまった。
ぼくがいままで言い続けてきたことは、上の表から神をとっても、大系の
本質的性格(=偶然的真理の肯定と偶然に従う事象世界の多様性の肯定)は
失われないということです。神は大系の重しに過ぎず、そうした重しを要請する
のは「十分な理由の原理」という仮定に過ぎません。
Lのシステムでは論理法則にも歴史的事実にも、前者においては必然的な理由
として、後者においては十分な理由としての神が内在しています。
しかし、そのような神は、結局あってもなくても同じだというのが、ぼくの
言いぶんなのです。
265SZ:02/05/06 19:43
スピノザの汎神論が無神論に他ならないことに同意しない人はたぶんいない
でしょう。これに対してLのシステムのユニークさを支えているのはたしかに
「最善の世界」や「予定調和」という形而上学的(おそらくはまた倫理的)
支柱です。すでに多くの七死さんたちが、ぼくが神概念抜きのモナドロジーという
ことを言うたびにかみついてきました。それにはテキストのオリジナリティを
尊重せよというのはまちがっていないとぼくも思います。しかし、しつこい
ですが、モナドロジーの本当の革新性は、偶然的真理の肯定、偶然に従う事象
世界の多様性の肯定、そしてそれらを構成するモナドとモナドの無限の表現能力
の仮定ではないでしょうか。実際Lのシステムは、単純実体の複数性や偶然的真理
を認める点では、スピノザよりも過激な無神論に踏み込んでいるとも言えるのです。
だからこのぼくの論点については、今後もあきずに繰り返させてもらいます。
そうするうちに、いままでのような骨抜きの批判(スマソ)ではない本当の批判に
めぐりあうかもしれませんから。
“神という最も完全な必然的存在の中には論理法則が含まれている、という意味で、
論理法則の必然性を根拠づけているのは神である。”
なんてどこで言ってんだ〜〜。ってどっかで言ってんだろうけど...
確かに37節(>>219)でもあった「最後の」って表現には引っかかってたんだ。
だから、十分な理由、の意味もよくわからなかったし、>>253で「わかった〜。」
なんて、独り言言ってたわけで。
そんなことはともかく、なるほどね、Lの言わんとしてるところも、
SZの言わんとしてる所もわかってきたわ。
こんな馬鹿でもわかるレスをありがとございますよ。
でも、テキストの範疇を出た議論であることも然り、もう少し、
モナドロジーを進めてからした方が良かったのでは?とも思うのだが、
そろそろ路線を戻してくださらんか。サオズィ…。
267SZ:02/05/08 00:42
>“神という最も完全な必然的存在の中には論理法則が含まれている、という意味で、
論理法則の必然性を根拠づけているのは神である。”
なんてどこで言ってんだ〜〜。ってどっかで言ってんだろうけど...
すぐ後の40−41節で言ってるよ。。ところで、高ぞうのレスは本質突いてたよ。
おれ高校生のときライプニッツのラの字も知らなかったんで、むしろ今からそんな
ことに興味ある人って、驚異なんですけど? でこれからもよろしくお願いします。
268SZ:02/05/08 00:47
39. Or, cette substance étant une raison suffisante de tout ce détail
lequel aussi est lié partout, il n'y a qu'un Dieu, et ce Dieu suffit.

40. On peut juger aussi que cette substance suprême, qui est unique,
universelle et nécessaire, n'ayant rien hors d'elle qui en soit
indépendant, et étant une suite simple de l'être possible, doit être
incapable de limites et contenir tout autant de réalités qu'il est
possible.

41. D'où il s'ensuit que Dieu est absolument parfait; la perfection
n'étant autre chose que la grandeur de la réalité positive prise
précisément, en mettant à part les limites ou bornes dans les choses
qui en ont. Et là où il n'y a point de bornes, c'est-à-dire en Dieu,
la perfection est absolument infinie.
269SZ:02/05/08 00:58
39 さて、この実体はすべてのこうした細部の十分な理由であり、またこの細部は
いたるところでたがいに連関しているので、神は一つしかない、かつこの神だけで
十分である。

40 さらに次のようにも考えられる。この最高の実体は、唯一の、普遍的な必然的な
実体で、それに依存しないものは他に一つもなく、また可能的存在からの単純な帰結
であるのだから、この実体には限界などありえず、可能なかぎり多くの実在性が
含まれているのでなくてはならない。

41 そこから神は絶対的に完全であるということになる。完全性とは、事物のもつ
限界や制限を除き去って、厳密な意味に解された積極的実在性の大きさに他ならない。
そこで限界のないところ、つまり神においては完全性は絶対的に無限である。
270SZ:02/05/08 19:56
40・41節のK訳「実在性」の原語は réalité = reality です。
注意すべき点は、Lの言うreality の守備範囲の広さです。
Lはすべての可能な命題の集合という意味でrealityという語を
使いますので、そこには「シーザーはルビコン河を渡らなかった」
という、われわれの世界においては偽となる命題も含まれます。
そこで41節の「厳密な意味に解された積極的実在性の大きさ」
というのは、あらゆる可能世界が全部含まれている集合の大きさを
指すと解釈していいと思います。神という概念を用いる以上、これは
当然といえば当然ですが。
271SZ:02/05/08 20:16
モナドロジーはなぜモナドロジーなんでしょうか?
それは、モナドロジーが第一義的にはモナドをめぐる論考だからです。
あたりまえのことを言うなって? でもいまのわれわれのように、モナドロジー
を読む過程で、そこに含まれる形而上学の大原理(=十分な理由の原理)や
最後の十分な理由としての神に向かい合っていると、そういう当たりまえの
ことを忘れがちですよね? しかしわれわれは、モナドロジーはモナドの定義
から始まった、けっして神からは演繹されなかったという点を忘れるべきでは
ないと思います。なぜなら、モナドロジーはL最晩年の作品であり、彼が考え
抜いてきた思索の一つの頂点だからです。
Lの初期の珠玉の名品「24の命題」は十分な理由の原理の要請から始まっています。
またやはり初期の思索の集大成と言うべき「形而上学叙説」も、その第一節は
「神の完全性」についての考察でした。これらとの比較でモナドロジーを読むとき、
Lが生涯考えてきたモナドという概念の重要性がどうしても浮かび上がってきます。
272SZ:02/05/09 21:24
ちょっとこの辺で、神の存在論的証明をめぐるデカルト派とLの論点の対立を
ふりかえっておきましょう。この争点の概略は『形而上学叙説』23−24節にも
ありますが、少しわかりにくい書き方になっているので、より詳細な『認識、
真理、観念についての省察』(1684年、邦訳は工作舎版著作集第8巻P.26−
33 )をあわせて参照します。
デカルトは、「私がある事物(対象)について明晰判明に表象することは真で
ある」言い換えれば「明晰判明な観念はその事物(対象)を正しく記述できる」
という考えを示しました。「明晰判明な観念」とは、「精神に疑う余地なく現わ
れており、かつ他からはっきり識別される観念」のことで、これこそが真なる
観念だというのです。以上の前提に基づく「神の存在論的証明」とは、次のよ
うなものです。
「私は神を考える。しかし観念なしに考えることはできない。だから私はたし
かに神の観念つまり完全な存在者の観念をもっていなくてはならない。ところ
で、この存在者の観念はあらゆる完全性を含んでおり、現実に存在することも
完全性の1つである。したがって、神は現実に存在する。」(『形而上学叙説』
23節)
273SZ:02/05/09 21:25
同一内容を次のように言い換えることもできます。
「ある事物(対象)の観念ないし定義から帰結するものはその事物に述語づけ
られることができる。神(=最も完全な存在者、あるいはそれより大なるもの
が考えられないもの)の観念から、現実存在が帰結する。なぜなら、最も完全
な存在者はすべての完全性を含んでいるし、現実存在もまたその数の内に入っ
ているからである。それゆえ、現実存在は神に述語づけられる。」(『認識、
真理、観念についての省察』)
整理すると次の通りです。
1. 私は神(=最も完全な存在者)の観念をもち、それは明晰判明である。
2. だからこの観念は、それが指示する事物(対象)について真なる内容を述
べている。
3. ところで最も完全な存在者の観念には存在が含まれている。
4. したがって、神は存在する。
274SZ:02/05/09 21:27
以上に対するLの反論はこうです。
明晰な認識とは、ある事物をそれとして認め得る認識のことだが、それは必ず
しも判明であるとは限らない。われわれが「ある事物を他の諸事物から識別す
るのに十分なしるしを1つ1つ枚挙できない場合には、たとえ実際はその事物
の概念がそこへと分解され得るようなしるしや要件を当の事物が持っていよう
とも、認識は混雑している。」
明晰でありながら判明ではない(混雑している)認識の例として、Lは次のよ
うなものをあげています。「色・香り・味その他感覚の個々の対象を、確かに
われわれは十分明晰に認めるし、相互に識別するけれども、しかしそれは単な
る感覚の証言によるのであり、明言されうるしるしによるのではない。それゆ
え、われわれは赤とは何であるかを盲人に説明できない」。
逆に明晰判明な概念とは、「貨幣検査官が金について持っているような概念」、
ある事物を他の諸事物から識別するのに十分なしるしを数え上げることができ
る概念である。(つづく)
275SZ:02/05/09 21:28
しかし、明晰判明な概念も、それを構成している個々のしるしは混雑して認識
されるため、それは明晰判明であるけれども非十全である。もし判明な概念に
入っているすべての構成要素が判明に認識され、分析が最後までなされたとき
には、認識は明晰かつ判明かつ十全である。Lによれば「そういう認識の完全
な例を人間が呈示できるかどうか私にはわからない。しかし、数の概念はそれ
にかなり近づいている」。しかし、数の概念の分析が長くなると、われわれは
対象の全体を直観することはできなくなるため記号を使う。仮に数が明晰・
判明・十全な概念だったとしても、多くの場合、その認識は記号的なのである。
これに対して、たとえば直線の認識の場合のように、明晰・判明・十全であり、
しかも記号に依存する必要がないときには、その認識は直観的と呼ばれる。
明晰かつ判明かつ十全かつ直観的な認識こそが、最も完全な認識である
(『認識、真理、観念についての省察』による)。(まだまだつづく)
276SZ:02/05/09 21:30
というわけで、Lによる認識あるいは概念の分類は次のようになります。
{ 曖昧
  明晰 { 混雑
       判明 { 非十全
            十全   { 記号的
                   直観的

明晰な(=事物をそれとして捉えられる)認識も判明(=他の事物と識別する
ために十分な構成要素を分析できる)とは限らず、判明な認識も十全(=すべ
ての要素について、要素ごとに最後まで分析できる)とは限らず、十全な認識
も直観的(=一挙に全体を見通せる)とは限らないというわけです。
Lによる以上のカテゴリーのとても興味深い点は、「混雑−判明」および「非
十全−十全」までは認識の分析的な精密さを基準にしているのに対して、最後の
「記号的−直観的」において、もう一度認識の総合性(全体性)という基準に
立ち戻っていることです。
こうしてLは、デカルトが非常に曖昧なままに放置した、認識や概念の分析的
な密度と全体性を、論理的に明快なカテゴリーによって修復しようとしている
のです。(さらにつづく)
277SZ:02/05/09 21:31
以上を前提にLは次のように述べます。
「以上のことから既に明らかであるのは、われわれが判明に認識しているものに
ついてであっても、直観的思惟を用いているのでない限り、観念を表象してはい
ないことである。それに、われわれは、用いている数々の術語を既に説明済みで
あると誤って仮定する時、事物の観念を心の中に持っているのだと誤って思い込
むことが実際しばしばある。ある人々の言うには、われわれはある事物の観念を
持たないことにはその事物について自分の語ることを知解しながら語る訳にはい
かないということである。が、それは正しくない(……)。というのも、しばし
ばわれわれはそうした言葉を1つ1つはとにかく知解し、あるいは以前に知解し
たと記憶していても、それでもこの盲目的思惟に満足してしまって概念の分解を
十分に推し進めないで、図らずも複合的概念が含んでいる矛盾を見逃すこととなる。」
(もすこしつづく)
278SZ:02/05/09 21:33
このすぐ後に、存在論的証明の批判が続くことから見れば、ここでLが念頭に置
いている「複合的概念」とは神の概念のことだと解さなければなりません。神の
概念はたとえ明晰であったとしても、判明・十全・直観的であるとは言えない。
ここからわれわれが神について抱く概念は、神と呼ばれている対象を正しく表象
する観念とは言いきれないことが帰結します。そこでLは、先に引用した通りの
デカルトの証明を取り上げ、次のように批判するのです。
「しかしここ(われわれが、神=最も完全な存在者、という概念を持ち、最も完
全な存在者なる概念には“存在すること”が含まれるという前提)から結論とし
て出てくるのは次のこと、すなわちもし神が可能的であるなら神は現実存在する、
と帰結することだけであるのを知らなければならない。というのも、定義という
ものは、それが実在的である、すなわちいかなる矛盾も含まないことをわれわれ
が知る前には、結論を引き出すために安心して用いることはできないからである。
その理由は、矛盾を含んだ概念からは対立するものを同時に結論として引き出せ
るし、それは不合理だからである。」(あとちょっとだけつづく)
279SZ:02/05/09 21:35
ここで言う「実在的定義」とは、「当の事物が可能的であることがそこから確知
される定義」のことです。そこで、“もし神が可能的であるなら神は現実存在
する”とは、“最も完全な存在者という概念の定義が実在的(réel = real)
であり、最も完全な存在者としての神が可能であることがはっきり指摘できれば
(=その概念が先に見たLのカテゴリーにおいて明晰判明であり、最も完全な
存在者の可能性がそこから確知されれば)、神は現実存在する”ということです。
デカルトの証明は、神の現実存在のためには明晰判明な神の観念があればいい、
と言っているだけであり、神の明晰判明な観念(神の実在的な定義=神が可能的
であることがそこから確知される定義)の中味を示してはいないのです。最も
完全な存在者とは名目的な定義であり、かんじんのこの概念の内包は少しも明晰
判明ではない、というのが、Lの批判の焦点であり、これは非常に明快な批判
であるとぼくは思います。(あと1レス)
280SZ:02/05/09 21:36
ここで再びLに特有の「実在的 réel = real 」という語の意味を確認してお
きます。上の引用でも明らかなように、「実在的」=矛盾を含まないことであ
り、また「実在的定義」=当の事物が可能的であることがそこから確知され
る定義、です。ここから、実在的=無矛盾=可能であること、が導けます。
誤解してはいけない点は、ここで矛盾といわれている状態は、論理的必然性に
反する事態のことであり(矛盾の原理は必然的真理を支える原理でした)、
現実世界においてAと非Aはどちらも可能だが、両立しない、といった事態は
矛盾の内に入らないということです。「ドーハの悲劇」が起こったわれわれの
現実世界と、それが起こらなかった可能世界とを比べれば、「ドーハの悲劇」
が起こることも、起こらないことも同様に可能であり、2つの事態に矛盾は
ありません(Lの用語では「ドーハの悲劇は起こった」と「ドーハの悲劇は
起こらなかった」という2つの命題は矛盾せず、「共通不可能」である、
と言われます。『24の命題』参照)。
したがって、最も完全な存在者の定義が実在的であるなら、そこから最も完全
な存在者の可能性が導かれ、最も完全な存在者(その中には現実存在が属性と
して含まれている)が可能であることが示されれば、神は現実に存在する、
という、先に見たLの論理が生じるのです。(この項おわり)
281考える名無しさん:02/05/10 02:56
age
282SZ:02/05/10 20:42
42. Il s'ensuit aussi que les créatures ont leurs perfections de
l'influence de Dieu, mais qu'elles ont leurs imperfections de leur
nature propre, incapable d'être sans bornes, car c'est en cela qu'elles
sont distinguées de Dieu.

43. Il est vrai aussi qu'en Dieu est non seulement la source des existences,
mais encore celle des essences, en tant que réelles ou de ce qu'il y a de
réel dans la possibilité: c'est parce que l'entendement de Dieu est
la région des vérités éternelles ou des idées dont elles dépendent,
et que sans lui il n'y aurait rien de réel dans les possibilités,
et non seulement rien d'existant, mais encore rien de possible.

283SZ:02/05/10 20:46
42 さらにそこから、被造物の完全性は神のはたらきに由来するが、その不完全性は
限界なしであることができない被造物の固有の本性から得る、ということになる。
被造物が神から区別されるのは、まさにこの点なのだからである。

43 神が存在するものの源泉であるばかりでなく、本質の源泉でもあることは確かで
ある。ここでの本質とは、実在的な本質あるいは可能性の中にある実在的なものの
ことである。なぜなら、神の悟性は、永遠真理とか永遠真理のもととなっている観念
が存する領域だからであり、もし神がなければ、可能性の中の実在的なものは何も
なくなり、現実に存在するものだけでなく、可能的なものさえなくなってしまうから
である。
284SZ:02/05/10 20:49
44. Car il faut bien que s'il y a une réalité dans les essences ou
possibilités, ou bien dans les vérités éternelles, cette réalité soit
fondée en quelque chose d'existant et d'actuel, et par conséquent dans
l'existence de l'être nécessaire, dans lequel l'essence renferme
l'existence ou dans lequel il suffit d'être possible pour être actuel.

45. Ainsi Dieu seul (ou l'Etre nécessaire) a ce privilège qu'il faut
qu'il existe, s'il est possible. Et comme rien ne peut empêcher
la possibilité de ce qui n'enferme aucune borne, aucune négation,
et par conséquent aucune contradiction, cela seul suffit pour connaître
l'existence de Dieu a priori. Nous l'avons prouvé aussi par la réalité
des vérités éternelles. Mais nous venons de la prouver aussi a posteriori,
puisque des êtres contingents existent, lesquels ne sauraient avoir
leur raison dernière ou suffisante que dans l'être nécessaire, qui a
la raison de son existence en lui-même.
285SZ:02/05/10 20:53

44 というのは、本質すなわち可能性の中に、あるいは永遠真理の中にも実在性が
あるならば、この実在性は何か現に存在しているもの、現実的なものに基づいて
いなければならない。したがって、本質が現実存在を含んでいるような、すなわち
現実的であるためには可能的でありさえすればよいような必然的な存在が現に存在
していることに基づいていなくてはならない。

45 そこで神(すなわち必然的存在)のみが、可能的であれば必ず現に存在すると
いう特権をもっている。制限も否定も含まず、したがって矛盾を含まないものの
可能性を妨げるものはないから、このことだけで神の存在をア・プリオリに知るのに
十分である。われわれは、神の存在を永遠真理の実在性によっても証明したことに
なる。
 しかし、われわれはさきほど、この証明をア・ポステリオリにもしている(SZ注
=36−39節)。つまり、偶然的なものは現に存在しているが、それの最後の理由
つまり十分な理由を必然的な存在の中にしかもつことはできない。だがこの必然的な
存在は自分自身の中にその存在の理由をもっているからである。

286SZ:02/05/12 00:43
アプリオリとアポステリオリの意味を確認しておきたいと思います。
何をいまさら、というような基本概念ですが、この板のいくつかのスレッドを
見ていると、あまりに心もとないので、よけいなお世話覚悟で。

アプリオリ=経験に依存せずに。これを「先天的」とか「経験に先立って」と
訳してしまうと、生得的という意味に解されることが多いので、論理学・数学・
哲学の文脈では翻訳せずにそのまま「アプリオリ」とするのが一般的になって
います。しかし、その結果(かどうかわかりませんが)、どうもこの概念の本来
の意味を理解せずに、安易に「アプリオリ」を乱発する物書きが増えてきている
ように見えます。「経験に依存しない」とは必ずしも経験に先立つということで
はありませんし、ましてや生得的ということでは全然ありません。そうではなく
て、「必然的な法則性にしたがって」という意味です。
287SZ:02/05/12 00:45
たとえばA=Aという必然的な法則性は直観的に真であることが明らかですし、
たとえば直線の概念は直観によらなければ理解できないでしょう。ただし、必然
的な法則性のうちには、契機としての経験を必要とするものもあります。たとえ
ば三角形の内角の和が二直角になるということは、三角形の定義と二直角の定義
から必然的に導かれることではありますが、それを必然的なものとして知るため
には、作図をするなどの“経験”は不可欠でしょう。しかし、一度でもその証明
の明証性を理解してしまえば、この定理は可能な(L的に言えば実在する)あら
ゆる三角形について真であり、いちいち経験(=観察と実験)によって確かめる
必要はありません。こういう場合、三角形の内角の和が二直角になるという命題
はアプリオリに真である、といわれるわけです。
288SZ:02/05/12 00:46
よくある誤解に、どんな法則性もまず経験を通して見出される、だからアプリ
オリな法則性などというのは成り立たないetc. というのがありますが、三角形
という半ばは経験的な事物(最初は絵に描いてそれを知るのですから)も、
一度「三本の直線によって囲まれた図形」という定義として理解してしまえば、
そこから先はいちいち経験に依存する必要のない推論の対象になるので、三角
形についてのアプリオリな法則性ということが言えるわけです。
ここからカントにおけるような、アプリオリ=必然的かつ普遍的、という
用法が出てくることも明らかだと思います。またすでに知られている必然的真理
から、論理的必然性にしたがってある命題が派生する場合、そのような演繹の過
程そのものがアプリオリであることになります。そこで40−45節にあるような、
経験に依存しない可能的な概念からの神の概念の導出は、アプリオリと呼ばれる
わけです。
289SZ:02/05/12 00:47
アポステリオリ=経験によって。経験という語は、他者と共有可能な個人の体験
を意味し、哲学・論理学・自然科学では、一定の条件下で反復可能な事象の集合
(観察と実験がその代表)ととらえるのが普通です。したがって、繰り返される
経験から導かれる帰納的法則性は、アポステリオリに真といわれ、これがLの場
合の事象の真理=偶然的真理にあたります。36−39節において、神は事象世界の
無限の系列を収束する存在であって、かつ事象世界に十分な理由を与える存在と
して登場しました。したがってこのような神の導出は帰納的であり、45節はこれ
を神のアポステリオリな証明と言うわけです。
290SZ:02/05/12 00:48
モナドロジーを読む上で、神の“証明”(実際には証明ではなく、“要請”なの
ですが)はアプリオリな方法と同時にアポステリオリな方法によってなされてい
ること、アプリオリな証明はデカルトの存在論的証明の修正にすぎないこと、
アポステリオリな方法がアプリオリな方法に先立って記述されていることはとて
も重要だと思います。こうした点は、ぼくの場合今回モナドロジーを読み直して
はじめてはっきりしたことです。たぶん専門家には常識なのでしょうが、ぼくは
そういう指摘をしている書物や論文をいままで一度も読んだことがありません。
ぜひLを専攻しておられる方のご意見をうかがいたいものです。
291SZ:02/05/13 00:23
いよいよモナドロジー後半に入ります!

46. Cependant il ne faut point s'imaginer, avec quelques-uns, que les
vérités éternelles, étant dépendantes de Dieu, sont arbitraires et
dépendent de sa volonté, comme Descartes paraît l'avoir pris, et puis
M. Poiret. Cela n'est véritable que des vérités contingentes dont
le principe est la convenance ou le choix du meilleur, au lieu que
les vérités nécessaires dépendent uniquement de son entendement et
en sont l'objet interne.
292SZ:02/05/13 00:26
46 しかし、一部の人びとのように、永遠真理は神に依存しているから恣意的
なものであり神の意志に拠るものである、などと想像してはならない。デカルト、
そして彼のあとポワレ氏がそう考えたらしい。けれどもこのことは偶然的真理
についてしか当てはまらない。偶然的真理の原理は、適合すなわち最善なもの
の選択(la convenance ou le choix du meilleur)ということである。
ところが、必然的真理は、もっぱら神の悟性(entendement)に依存しており
その内的対象となっているのである。
293SZ:02/05/14 02:18
鯖いじんな、ひろゆき!
294考える名無しさん:02/05/14 02:20
鯖のカラage
295SZ:02/05/15 00:08
47. Ainsi, Dieu seul est l'unité primitive ou la substance simple
originaire, dont toutes les Monades créées ou dérivatives sont des
productions, et naissent, pour ainsi dire, par des fulgurations
continuelles de la Divinité de moment à moment, bornées par
la réceptivité de la créature à laquelle il est essentiel d'être
limitée.
296SZ:02/05/15 00:21
47 そこで、神だけが原初的な「一」つまり本源的な単純実体であり、創造された
モナド、すなわち派生的なモナドは、すべてその生産物なのである。これらのモナド
は、いわば神(la Divinité) の絶え間ない閃光放射(des fulgurations
continuelles)によって刻々に産み出されてくるが、本性上(essentiel )限定
されざるをえない被造物の受容性(la réceptivité)のために制限をうけている。
297SZ:02/05/15 17:55
推測だけど、“合理的な”神の証明の試みは、モナドロジーで終わるんじゃないか
な?
Lを徹底批判したヒュームの経験主義はカントに受け継がれ、「純粋理性批判」
において、神概念をめぐる思考(=アプリオリな総合判断の一つ)は悟性の
“不正”使用(=純粋理性の主導によって悟性が自己の境界を越えようとする
状態)であり、それはアンチノミーに至るというからくりが示されたのでした。
298SZ:02/05/15 17:56
これ以降、神は純粋に信仰の対象になってしまうわけで、デカルトから始まっ
た合理的思惟と信仰との分離は、哲学史的には純粋理性と実践理性を分離した
カントで完成されると言っていいでしょう(ニーチェのキリスト教批判=
真理批判は、合理的思惟から分離されたはずの神が、実はカントにおいてさえ
真理への意思というかたちで生き延びていることへの痛烈な攻撃でした。しかし
ニーチェが神の死を宣告せざるを得なかった歴史的な理由が、デカルトから
カントに至る“思惟と信仰の分離”思想にあることは間違いありません。この
意味では、“合理的な”思惟の対象としての神は、すでにカントによって殺され
ていたわけです)。
299SZ:02/05/15 17:58
現代哲学で神が取り上げられるとすれば、分析哲学や記号論理学で可能世界と
必然性を議論する場合でしょう。ただしこれらの議論では神の“証明”よりも、
神概念の解釈や再定義の方が重視されるようです。
こんないきさつがあるので、現代人がモナドロジーを読み、そこで論じられ
ている神の“証明”を前にすると、当然奇妙な感じを受けることになるでしょう。
ラッセルなどはこれをおとぎ話といって一蹴してしまうのですが、さてわれわれ
はどうしたもんでしょうか? 何となく読み流してしまっていいのでしょうか? 
いま読んでいる40節前後は、少し前の充足理由律などの場合と違って、レスが
つく可能性はめちゃ低いと思いますが。
300SZ:02/05/15 18:02
でもぼくとしては、あえてカントを無視しておおまじめに神を論じる、というの
も面白いんじゃないかと思うんです。ちょっとまた挑発的なことを言って、みな
さんの反応をうかがってみようかな?
301SZ:02/05/15 18:05
カントが「純粋理性批判」で「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」とい
う問いを立て、これに対して「純粋理性が悟性をその境界まで引っ張るからだ」
と答えた時、問いも答もあまりに見事だったので、だれもが恐れ入ってしまった
のでした(そしていまだにわれわれの知的宇宙の主流はカント系であり続けてい
るのです。言うまでもありませんが、近年の日本でのカント騒動は、知的宇宙と
は無関係なので、なぜか影響力のあるいかがわしい文芸評論家が、あるとき思い
出したようにカントに“転回”した結果、それまでカントの重要性を正当に評価
していなかったそこらへんの皆さんまでが、口を揃えてカントカントと言い出し
たにすぎません)。
302SZ:02/05/15 18:09
以来われわれの知的宇宙においては、神様は考える対象ではなくなりました。
さてここでぼくの提案を言います。“カント系をちょっと離れて、われわれの
悟性使用に境界はないということにしちゃえ”。だってそもそもカントなんです
よ、超越論的経験論ということを考えた最初の人は。超越論的経験論をぼくな
りに定義すると、“経験に内在するすべての可能性とその条件を知る試み”
となります。カントもまさにこういう試みを「純粋理性批判」でやったのです。
303SZ:02/05/15 18:11
ただし、彼の結論は、神とか宇宙やばいとかはわれわれの認識(これも経験)
の可能性を越えている、つまり悟性の境界の外へ踏み出している、という
ものだったわけ。でもこれはカントの仮説にすぎないということを、ときには
思い出した方がいい。そこでちょっとカント系を離れて、別の可能性を探ってみ
てはどうか、と言ったのです。しかし、もちろんぼくは、安易な形而上学の復権
を唱えているのではありません。カントが悟性のおごりを戒めたことが、どれほ
ど大きな功績だったかは十分に承知しています。しかし、その後の哲学はやっぱ
りさびしいものになっちゃいました。一時期のヴィトのように、「語り得ない
ものについては沈黙しなきゃなら〜ん」とまで言っちゃう人さえ現われたんです
から。
304SZ:02/05/15 18:12
そこでみなさんの中に、カントの批判なんかかまわずに、悟性の冒険を敢行して
神様のところまで行ってくるという人がいたら手をあげてください。おもしろい
答えを言ってくれたら高級ざぶとんを一枚さしあげます。
ぼくはカント系を離れてものすごいことを考えた哲学者の例を一つあげることが
できます。神様とは関係ないですけど。彼も超越論的経験主義の見本みたいな人
でした。
305SZ:02/05/15 18:13
それはニーチェです。彼はわれわれの経験の可能性を無限大に拡大する
とんでもない思考装置を作っちゃいました。「永遠回帰」! 真理への意志は
力への意志の偶有に過ぎないことを(正当にも)指摘することで、神を知的宇宙
から完璧にお払い箱にした彼は、神なき悟性の可能性の条件をみずから作った
わけです。ぼくは「ツァラトストラ」によって一つの宇宙がカント系から分岐
したと、本気で思っています。
というわけで、ニーチェにならい、ニーチェとは逆の方向でわれわれの経験の
可能性を拡大してみてください。神様をわれわれの知的宇宙に呼び戻して。
(もちろん超越しちゃだめなんですよ。あくまで超越論的=内在的、かつ
合理的に)。さあどうぞ。
306SZ:02/05/16 10:53
う〜む、反応が、ない。ぼくの書き方がよくないことはわかってるんですが。
しかしぼくはスピノザ・スレの承前さんのような人格的優秀さを
持ち合わせていないので。だれかレスしろよ!
307考える名無しさん:02/05/16 12:14
>>306
それっぽっちの前説で自分の命題の前提を説明し切れたのか?
アニメファンだってもっと世界観のディティールやら説明にこだわるぞ。
もう少しキッチリ前提を立てろ!
308 :02/05/16 12:56
じ さ く

じ ぇ ん

309考える名無しさん:02/05/16 13:02
電波はお花畑にいきませう。
310考える名無しさん:02/05/16 14:14
>>309
電波=お花畑(頭の中が)です。
失礼なことは言わないように。
311SZ:02/05/17 00:47
あ〜あ。レス数がもったいねえや。逝け、ヴァカども。
312SZ:02/05/17 01:08
いや、やっぱりおれが悪かった。くだらないカキコだった。承前さんを
見習おう。で、淡々とやる。
313SZ:02/05/17 01:09
48. II y a en Dieu la puissance, qui est la source de tout,
puis la connaissance, qui contient le détail des idées,
et enfin la volonté, qui fait les changements ou productions
selon le principe du meilleur. Et c'est ce qui répond à ce qui,
dans les Monades créées, fait le sujet ou la base,
la faculté perceptive et la faculté appétitive. Mais en Dieu
ces attributs sont absolument infinis ou parfaits, et dans
les Monades créées ou dans les entéléchies (ou
perfectihabiis, comme Hermolaüs Barbarus traduisait
ce mot) ce n'en sont que des imitations à mesure
qu'il y a de la perfection.
314SZ:02/05/17 01:10
48 神の中には、すべてのものの源泉である力(la puissance)
と、さまざまな観念の細部を含んでいる認識と、さらに最善という原理に
したがって変化あるいは生産を生じさせる意志とがある。この三つは、
創造されたモナドの中にある主体すなわち基礎と、表象の能力と、
欲求の能力とに対応している。しかし、神においてはこうした属性は
絶対的に無限つまり完全である。そして創造されたモナドつまり
エンテレケイア(ヘルモウス・バルバルスの訳語ではペルフェクティ
ハビエス)においては、その完全性の度合に応じてそれらの属性の
模倣があるに過ぎない。

48節は、神とモナドとの対応をめぐる重要な論考です。
315SZ:02/05/17 14:21
40−45節の「神のアプリオリな証明」の論理構成を再確認しておく。
そこから明らかになるのは、必然性・可能性・実在性・現実存在(現勢的な
もの)と本質(可能的なもの)といった様相概念の相互関係である。仮説だが、
Lがこの一連の節でやろうとしたことは、神の“証明”などではなく、以上の
諸様相間の結びつきを示すことだったのではないか。この論点については、
46節との関連で、モナドロジーでは言及されなかった(なぜ言及が避けられた
かについては>>165)「偶然的命題の分析的性格(=主語における述語の内在)
と、そこからの充足理由律導出」を、「叙説」「アルノー宛て書簡」にしたが
って示す過程でまた触れる。
316SZ:02/05/17 14:22
1.
神=唯一・普遍的・必然的なunique, universelle et nécessaire実体
→神から独立するものはなく、神は可能的存在からの単純な帰結
              une suite simple de l'être possibleである
→限界を持たず、可能な限り多くの実在性tout autant de réalités
  qu'il est possibleを含む
→絶対的に完全(完全性=厳密な意味に解された積極的実在性の大きさ
        la grandeur de la réalité positive prise précisément)
317SZ:02/05/17 14:24
2.
        現実存在existences =現勢的actuelなもの
神=源泉{
(43節)   本質essences =可能性の中にある実在的なもの
                ce qu'il y a de réel dans la possibilité
              =実在性réalitéをそなえた可能性(←44節冒頭)
318SZ:02/05/17 14:25
3.
「神が“本質=可能性の中にある実在的なもの”の源泉であること」の根拠
=神の悟性l'entendement de Dieu
=永遠真理vérités éternellesあるいは永遠真理が依存する観念 idéesの領域

したがって、神(の悟性)がなければ、可能性の中に実在的réelなものは
なくなり、可能的なものもなくなる。
“本質=可能性”の中に実在性réalitéがあるなら(永遠真理の中に
実在性があるなら)、それは現実存在している現勢的な何か
quelque chose d'existant et d'actuelに基づく。
したがって、“本質=可能性”の中の実在性réalitéは、必然的存在の
現実存在l'existence de l'être nécessaireに基づく。
(必然的存在においては本質が現実存在を含む dans lequel l'essence
renferme l'existence あるいは現勢的であるためには可能的であれば十分
であるou dans lequel il suffit d'être possible pour être actuel)
(=44節)
319SZ:02/05/17 14:26
4.こうして神(=必然的存在)のみが、可能的であれば必ず現実存在する。
  il faut qu'il existe, s'il est possible
  制限も否定も含まず、したがって矛盾を含まないものの可能性を妨げる
  ものはないから、それだけで神の存在をアプリオリに知るのに十分である。
  以上で神の存在を永遠真理の実在性réalité des vérités éternellesに
  よって証明したことになる。(=45節)
320SZ:02/05/17 14:28
2に示した図と、神の内部における本質(可能性)と現実存在(現勢的なもの)
の関係を示す次の図を比較してほしい。

神(必然的存在)∋本質(可能性)∋現実存在(現勢的なもの)
321SZ:02/05/17 14:29
“必然的存在は矛盾を含まないので、あらゆる可能性を含み、必然的存在におい
てはすべての可能性が現実に存在する”ということこそが、40−45節でのLの
主旨ではないだろうか。“神とは定義によって必然的存在であり、この定義から
帰結するのは、すべての可能性の現実存在である”。こう読めば、Lの言って
いることにはいかなる形而上学も含まれない。一方2の図で見たように、われ
われの現実世界は必然的ではないから、そこでは可能性と現実とは一致しない。
つまりLは、神という概念を用いて、“あらゆる可能性が現実に存在している
状態”を指示しているのでないか、というのが私の解釈である。(そんな状態が
本当にあるのか、という問いは無意味だ。なぜならあくまでそうした状態は
必然性=無制限かつ無矛盾という定義から帰結する“論理空間”における状態
だからである。)さらには神という語を人格神的に解釈して、それがどこかに
現実存在していることが証明されたなどと考えるのはきわめてばかばかしいし、
Lがそんなアフォではないことは(立証できないが)私には断言できる。
その根拠は、46節、「叙説」および「アルノー宛て書簡」を通してまたすぐ後
に示す。

あ〜、疲れた。きょうはミルバを聴きに行く(「ブエノスアイレスのマリア」)。
322SZ:02/05/19 01:55
いまこのタイミングで(46節に即して)、「叙説」と「アルノー書簡」での
Lの命題解釈をふりかえろうとする理由は、46節がふたたび充足理由律に
戻って、これを「偶然的真理の原理は、適合つまり最善なものの選択とい
うことである」と言い換え、しかも神の悟性よりも神の“意志”に結びつけ
て議論しており、これはモナドロジー53−55節の、最善の世界への言及の
伏線なのだが(そして弁神論での議論の再確認でもある)、モナドロジーの
ここから先の論調はこのように充足理由律を最善選択の原理として人格神と
関連づける方向へ突き進んでいくため、もう少し前の時期のLが、充足理由律
=神の最善選択という視点を示すだけでなく、この視点を“真なる命題の、
述語の主語内在”という論理的解釈によって根拠づけていたこと、しかし
この解釈はアルノーとの論争で、相手がLの予想を越える強い反発を示した
ために、以後公表が差し控えられたことに再度注意しておきたいからである。
323SZ:02/05/19 01:56
「叙説」「アルノー書簡」は工作舎版著作集第8巻を用いる。アルノーとL
の関係や往復書簡の経緯は、著作集か岩波文庫版の解説を参照のこと。まず
アルノーを激怒させた「叙説」第13節を引用する。「叙説」には各節にL自
身による要約が付されている。その要約から(ちなみにアルノーは、手紙の
やりとりの行き違いから、この要約しか読んでいなかったらしい)。

13 各人の個体概念は、以後その人の身に起こる事柄をすべて事前に含んでいる
ので、その観念をみれば、それぞれの出来事の真理について、そのア・プリオリ
な証明や理由がわかる。つまり、なぜある出来事が起こって他の出来事が起こら
なかったのか、ということがわかる。ただし、これらの真理は神と被造物との自
由意志に基づいているから、確実ではあるが偶然的であることをまぬがれない。
実際、神の選択にも被造物の選択にも常にその理由があるが、理由は傾かせるが
強制することはない。
324叙説13節1/6:02/05/19 01:59
以下叙説13節、本文全部。

 しかし、もっと議論を先に進めるまえに、われわれが先に示した根拠から生じ
うる難問を解決するように努めなくてはならない。われわれは、「個体的実体の
概念は、以後その実体に起こる事柄をすべて事前に含んでいて、この概念を考
察すれば、円の本性のうちにその本性から演繹しうるすべての性質をみること
ができるように、その実体について真に述べうるすべてのことを見ることがで
きる」と言った。しかしそうすると、偶然的真理と必然的真理との違いが失わ
れ、人間の自由が成り立つ場がなくなり、絶対的な宿命がわれわれのすべての
行ないとか他のすべての世界の出来事をも支配する、ということになりそうに
思われる。
325叙説13節2/6:02/05/19 02:01
 これに対する私の答えは、「確実なものと必然的なものとは、区別しなくては
ならない。未来の偶然的な出来事は、神がこれを予見しているのだから確実で
あるということは、だれもが一致して認めているが、だからといって、それが
必然的であると主張する人はいない」ということである。けれども、ある結論
が定義や概念から間違いなく演繹されうるのであれば、それは必然的である、
(と人は言うかもしれない)。ところで、われわれが主張するのは、「ある人に
起こるはずのことはすべて、ちょうど円の定義のうちにその性質が含まれてい
るように、その人の本性あるいは概念のうちにすでに潜在的に含まれている」
ということなので、難問は依然として残っている。それをしっかりした仕方で
解決するために、私は次のように言おう。「結合または連結作用には二つの種類
がある。その一つは絶対に必然的であって、その反対は矛盾を含み、その演繹
は幾何学の真理のような永遠真理のうちで行なわれるものである。もう一つは
ただ「仮定ニヨッテ」、つまりたまたま付随的に必然的であるにすぎず、その
反対は矛盾を含まないから、それ自身において偶然的である。この結合は、神
のもつまったく純粋な観念や単なる神の悟性に基づいているのではなく、神の
自由な決定と宇宙の全過程とに基づいている。」
326叙説13節3/6:02/05/19 02:03
一つの例をあげてみよう。ユリウス・カエサル(シーザー)が終身の独裁官
になって、共和国の主となりロ−マ人の自由を失わせることになっているから
には、こうした行為は彼の概念に含まれている。というのは、われわれの仮定
によれば、述語が主語に含まれるように、つまり「述語ガ主語ニ内在スルコトガ
デキルヨウニ」すべてを包含している、というのが主語のもつ完全な概念の本性
なのだからである。「彼がそうした行為をしなければならなかったのは、この
概念あるいは観念のためではなく、神がすべてを知っているがゆえに、この
概念が彼に属するにすぎないのである」と言うこともできよう。しかし、「シ
ーザーの本性ないし形相はこの概念に対応している。そして、神がシーザーに
こうした役割を与えたのだから、それ以後その役割を果たすことが彼にとって
必然的である」と主張する人もあるだろう。私は未来の偶然的な出来事を例に
とって、これに答えることができると思う。こうした出来事は、神の悟性と意志
とのうちにしかその実在性をもってはいないけれども、神があらかじめそのよう
な形相を与えておいたからには、やはり出来事はその形相に応じなくてはならな
いからである。
327叙説13節4/6:02/05/19 02:04
しかし、私は難問に対しては、同じような難問を例にとって弁明するよりも、
その難問自身を解決するほうを好むものである。これから私の述べることは、
どちらの難問にも解決を与えるのに役立つであろう。そこで、ここに前述の二
種類の結合の区別を、実際に適用しなくてはならない。私は「あらかじめ定め
られた条件にかなうように起こることは、確実ではあるが必然的ではない」と
言った。そこでもし、だれかがその反対のことをしたとしても、その人はそれ
自身が不可能なことをしたことにはならない。そのことが起こるのは(仮定ニ
ヨッテ)不可能であるのにすぎない。もしある人が、シーザーという主語とそ
の幸福な事業という述語との結合を完全に論証できたとすれは、シーザーが将来
において独裁官になることが、彼の概念ないしは本性にその基礎をもっている
こと、なぜ彼がルビコン河で止まらないでそれを渡ろうと決心したのか、なぜ
ファルサルスの戦いに負けないで勝ったのかという理由が彼の観念ないし本性の
うちに見られること、そうしたことが起こることは理にかない確実であること
などを、その人は示してくれることになる。しかし、そうしたことがそれ自身で
必然的であることも、その反対が矛盾を含むことをも示してはくれない。それ
は、「神が常に最善のことをするのは、理にかない確実ではあるが、それほど
完全でないことをしても矛盾を含まない」というのによく似ている。
328叙説13節5/6:02/05/19 02:06
こうしたシーザーの述語についての証明は、数とか幾何学の論証ほどには
絶対的でなく、神が自由に選んだ事物の系列を前提していることがわかってくる。
事物の系列は、常に最も完全なことを行なおうとする神の最初の自由な決定と、
人間の本性について(最初の決定につづいて)神のなした決定、すなわち人間は
常に最善と思われることを(自由にではあるが)すべきであるという決定とに基
づいている。ところで、こうした種類の決定に基づく真理は、すべて確実ではあ
るが偶然的である。というのは、こうした決定は事物の可能性をいささかも変え
るものではなく、前に述べたように、神は確かに常に最善を選ぶけれども、その
ことは、それほど完全ではないものがそれ自身可能であり、可能でありつづける
ことを妨げるものではないからである。そうしたものが斥けられるのは、それが
不可能であるからではなく、それが不完全だからである。ところで、その反対が
可能なものは必然的ではない。
329叙説13節6/6:02/05/19 02:09
 そこで、「すべての偶然的命題には、こうであって他のようにはならない、と
いう理由がある」ということ、あるいは(同じことなのであるが)「偶然的命題
には、それが真であるというア・プリオリな証明があって、それがこの命題を確
実なものとしており、この命題の主語と述語との結合はこの二つの語の本性のう
ちに基礎をもつことを示しているということ、しかし、「偶然的命題はそれが必
然的であるという証明はもっていない。この命題の理由は、偶然性の原理すなわ
ち事物の現実的存在の原理に基づいているにすぎず、言いかえれば、均しく可能
な多くの事物のうちで最善であるものもしくは最善にみえるものに基づいている
にすぎないからである」、これに反して、「必然的真理は、矛盾の原理と、本質そ
れ自身の可能性もしくは不可能性とに基づき、その点で神や被造物の由由意思と
何ら関わりはない」といったことをよく考えてみれば、この種の難問がどれはど
大きく見えようとも、(実際にこうした問題を扱って来たすべての人々にとって、
この難問は切迫したものであるが)解決することが可能であろう。
330SZ:02/05/19 02:11
アルノーの激怒の理由は多分に護教論的性格をもっている(アルノーは旧教に属
するジャンセニストであるのに対し、Lはプロテスタントである)ので、そうし
た問題に興味のある人は自分で調べていただくことにして、われわれはそちらに
踏み込まず、引き続きアルノーに対するLの論駁を読む(1686年7月。著作集
第8巻p.271−272)。

つまり、およそ真なる肯定命題においては、必然的・偶然的、普遍的・特殊的の
如何を問わず、述語の概念はいわばつねに主語の概念の中に含まれている。「述語
ハ主語ニ内在スル」です。さもなければ、真理とはなんぞや、私には訳が分りま
せん。もっとも私は、真なる命題の名辞と名辞との間に「実在的ニ」存する以上
のつながりを、もとめているわけではありません。そしてまさしくそのような意
味あいにおいてこそ、私はこう申すのです。個体的実体の概念はその中に、自分
にかかわるあらゆる出来事、あらゆる規定を含んでいる。俗に外的と呼ばれる
(事物と事物との普遍的結合によって、あるいは、その実体が自分なりのやり方
で全宇宙を表出していることによって、初めてその実体に属する)規定までも、
と。それはそうでしょう。一つの命題の名辞と名辞を結びつける基礎となるもの
は、かならずなければならないが、それがどこにあるかといえば、これらの名辞
の概念の中を措いてはありえないからです。これが私の大原理で、およそ哲学者
たるかぎり、だれしも異存のあろうはずはないと信じております。実際この原理
から出てくる系の一つが、あの広く世に行なわれている公理、つまりなにごとも
理由なしには起こらないとか、事物がこうなって、ああはならない理由はつねに
明らかにすることができる、等になるのですからね。もっともそのような理由な
るものは、傾かせるだけで強制はしないことがしばしばですが、だからといって
関係などなにもないと考えるのは、およそ現実ばなれした、ないし欠落のある臆
測にすぎません。いま申した原理は明々白々たるものなのに、そこから私がひき
だす結論は鬼面人を驚かす底に見えるのは、たとえどんなに明晰な認識でも、世
人がこれを十分に追求することに慣れていないからにすぎません。
331SZ:02/05/19 02:13
特にこの個所に注目する理由は、ここでLが、「なにごとも理由なしには起こら
ないとか、事物がこうなって、ああはならない理由はつねに明らかにすることが
できる」という「公理」、つまり“充足理由律”は、「一つの命題の名辞と名辞
を結びつける基礎となるものは、かならずなければならないが、それがどこに
あるかといえば、これらの名辞の概念の中を措いてはありえない」、つまり
“述語の主語内在”から「出てくる系の一つ」と説明していることにある。
「アルノー書簡」は、けっして気ままな思いつきで書かれたものではなく、
初期の思索の集大成である「叙説」を、L自身が当時最高の知識人の一人と評価
していたアルノーに読んでもらおうと意図したところから始まっているのであり、
しかもLはこれをはじめから公表するつもりで書いたという。したがって、ここ
でのLの言明は、彼の“本音”ととるべきであろう。神の最善選択に依拠する
“充足理由律”は、論理的には“述語の主語内在”の系であるというきわめて
重大な論点が、モナドロジーにおいては伏せられてしまっていること(この点
こそラッセルが「叙説」の重要性に注目した最大の理由である)に、いまわれ
われはもう一度注意を払っておくべきである。さもないと今後のモナドロジー
読解もいたずらに“人格神の配慮”重視に偏った“神学的”ものになってしまう
だろう。
332叙説13節6/6訂正:02/05/19 11:40
>>329 訂正(かぎかっこが抜けてしまって、これでは誤解を招く。)

そこで、「すべての偶然的命題には、こうであって他のようにはならない、と
いう理由がある」ということ、あるいは(同じことなのであるが)「偶然的命題
には、それが真であるというア・プリオリな証明があって、それがこの命題を確
実なものとしており、この命題の主語と述語との結合はこの二つの語の本性のう
ちに基礎をもつことを示している」ということ、しかし、「偶然的命題はそれが必
然的であるという証明はもっていない。この命題の理由は、偶然性の原理すなわ
ち事物の現実的存在の原理に基づいているにすぎず、言いかえれば、均しく可能
な多くの事物のうちで最善であるものもしくは最善にみえるものに基づいている
にすぎないからである」、これに反して、「必然的真理は、矛盾の原理と、本質そ
れ自身の可能性もしくは不可能性とに基づき、その点で神や被造物の由由意思と
何ら関わりはない」といったことをよく考えてみれば、この種の難問がどれほど
大きく見えようとも、(実際にこうした問題を扱って来たすべての人々にとって、
この難問は切迫したものであるが)解決することが可能であろう。
333SZ:02/05/21 17:04
「偶然的に真なる(=必然的ではないが、確実な)命題のすべての述語が主語
に内在するということ」=「偶然的に真なる命題は分析的であるということ」
=「偶然的な事象の系列は、その事象の概念の主語を分析することによってす
べて明らかになるということ」。このように偶然的真理を分析的と考えるとこ
ろにこそ、“偶然性の哲学者”ライプニッツの真の独創があるのだが、カント
はこれを理解しようとせず、すべての形而上学を「アプリオリな総合判断」と
規定してしまった(おそらく事象世界を表現する偶然的な命題は、その主語に
もともと含まれていない外的な述語を足し合わせることによって、すなわち
「総合的に」構成される、というヒュームの見解を、カントが受け継いだ結果
であろう)。ここにLとカントとの決定的な亀裂がある。
334SZ:02/05/21 17:06
ところですでに先の引用において見たように、「叙説」においてこうした偶然
的な事象の一例としてあげられているのは、シーザーのような「個体的実体」
すなわちモナドである。したがって、モナドには少なくとも二つの連続性が存
在することになる。一つはこれまでのモナドロジー読解を通じてすでに明らか
になっている、表象perceptionの連続性、言い換えれば、一つのモナド
による他のすべてのモナド(すなわち世界)の表出expressionである。
そしてもう一つは系列sérieの連続性、すなわち個体的実体としてのモ
ナドが自らの概念の主語(それは神の悟性の中にある)において過去から未来
に至るすべての述語を内包するということである。一見前者は空間的な連続性
(デカルトとライプニッツの時代のタームにしたがえば延長の連続性)、後者
は時間的な連続性を意味するように思えるが、そうではない。なぜならモナド
に延長はなく、またモナドの概念に含まれる述語がわれわれの時間の中で分析
し尽くされることもないからだ。したがって、この二つの連続性は、潜勢的
virtuelあるいは形相的formelであり、可能的なものである限り
において実在的réelである。しかし、モナドの二つの連続性は、
Lによれば神の意志と力とによって現勢化し、この現実世界monde
actuel(=現実存在の世界monde des existences)を構成している。
もし神が現実に存在existerしなければ、モナドの二つの連続性は現勢化
することはなく、したがってこの現実世界はいまあるようなかたちで
現実に存在existerしない。だから神は現実存在している。先(>>321
に見た神のアプリオリな証明は、「叙説」の“述語の主語内在”という論点を
用いることで以上のように展開exposer(=expound)できるのである。
335SZ:02/05/22 17:34
それでもまだ43−45節の“証明”の不透明さがすべて消えたわけではない。
「神の悟性は永遠真理とか永遠真理のもととなっている観念が存する領域」で
あり、「もし神がなければ、可能性の中の実在的なもの(=本質)は何もなく
なり、現実に存在するものだけでなく、可能的なものさえなくなってしまう」。
ここまではたんに神の悟性が可能性の中の実在的なものの基盤だという指摘に
過ぎず、とりたてて問題はない。
しかし、すぐ後に続くその論拠(=「本質すなわち可能性の中に、あるいは永
遠真理の中にも実在性があるならば、この実在性は何か現に存在しているもの、
現勢的なものquelque chose d'existant et d'actuelに基づいて
いなければならない」)には、重大な問題点がある。
336SZ:02/05/22 17:36
この文が「永遠真理」に言及している以上、ここでの「本質=可能性」とは神
の悟性におけるそれである。したがって神の悟性における実在性réalité
さえも、「何か現に存在しているもの、現勢的なものquelque chose
d'existant et d'actuel」に基づく必要がある、と言明されていること
になる。しかし神の悟性とは、必然的真理だけでなく、現実世界に属さない
réalitéを含むすべての可能性を認識する悟性だから、そのような悟性
におけるréalitéが「現実存在や現勢的なもの」に基づかなければなら
ない理由はない。むしろそのようなréalitéは純粋に潜勢的であっても
おかしくないはずである。それゆえ上記のような論拠に基づいて、「(本質あ
るいは永遠真理の実在性は)本質が現実存在を含んでいるような、すなわち現
勢的であるためには可能的でありさえすればよいような必然的な存在が現に存
在していることに基づいていなくてはならない」と結論するのは不合理に見え
る。一見神の現実存在を要請するために、神の悟性は何らかの現実存在に基礎
づけられていなければならない、と言っているようにも読めるのである。
337SZ:02/05/22 17:37
この問題はどのように解かれるべきだろうか。もしLが詭弁を弄しているので
はないなら、ここで指摘されている「何か現に存在しているもの、現勢的なもの
quelque chose d'existant et d'actuel」の規定を広くとる
ほかないだろう。いま現実存在とか現勢的なものと呼ばれている何かは、われ
われの世界内での事象のあり方ではなく、神の悟性の何らかの“存在様式”と
解釈するのである。
338SZ:02/05/22 17:39
そのような存在様式の一つとして、“論理空間”(=必然性にしたがう思惟の
空間)を考えることができる。なぜならアプリオリに真なる命題は論理空間に
“現実存在する”と言っていいし、またすべての可能世界を含む神の悟性の
réalitéは、われわれの世界内で事象の系列として展開することは
ありえないが、論理空間においては“現勢的”だからである。したがって論理
空間を、神の悟性のréalitéを支える「現実存在あるいは現勢的な
もの」とみなすことができる(論理空間は人間の思惟の創造物ではなく、むし
ろ思惟を可能にする場であることに注意してほしい。ちょうど自然が人間の生
活の創造物ではなく、生活を可能にする場であるのと同じように。つまり、
論理空間は神の悟性が現実に存在する場であると同時に、そこにおいてわれわ
れの思惟が現勢化する場でもある)。以上のように解釈すれば、あらゆる可能
性を含む神の悟性のréalitéが現勢的なものに基づくというパラドックスは
解ける。
339SZ:02/05/22 17:40
実際われわれは神を感じるか、あるいは考えるしかない。そしてもし神を考え
るのなら、そのようにして把握される神はたかだか思惟の属性を通して見られ
た神の一面でしかないだろう。ところでわれわれが思惟を通じて神を理解しよ
うとするなら、思惟において神と人間に共通の現勢的な何かがなければならな
いはずだ。それをここではとりあえず“論理空間”と呼んでいるのである。
すると当然のことだが、“われわれの思惟から見れば”、つねに神は論理空間に
“現われる。”言い換えれば、思惟する人は論理空間を通じてしか神を理解し
得ない。しかも神は論理空間における必然性そのものであって、同時にすべて
の可能性でもある。ならば必然的かつ無制限(=あらゆる可能性を含む)な存
在は、論理空間に現実存在する、と言わなければならない。ところでもしもだ
れかが、思惟されたものの存在を現実存在と認めることはできない、と反論す
るならば、アプリオリなものの現実存在、すなわち論理的必然性の現実存在を
認めないと言っているに等しい。したがって、必然性にしたがう思惟の空間
(論理空間)においては、「神(すなわち必然的存在)のみが、可能的であれ
ば必ず現に存在するという特権をもっている」という結論は妥当である。
340SZ:02/05/22 17:41
この結論が述べていることは、われわれが必然的かつ無制限な存在を論理的必
然性にしたがって考えるならば、それは少なくとも論理空間においてまぎれも
なく存在するということである。ただLは、神の悟性は神の現実存在に支えら
れている、という“比喩的”な論拠をあげるに留まった。この比喩をどう解釈
するかは、後生に委ねられたわけだが、私は神の悟性を支える現勢的な何かと
は論理空間であり、これこそが神の現実存在の一つの表現であると解する。
したがって、神の現実存在の一様式=論理空間=可能でありさえすれば現に存
在する存在においては、神の悟性が現勢化しており、したがって必然性にした
がうあらゆる可能性が現実に存在している(>>321)。それだけでなく、論理空
間においてはまたわれわれ自身の思惟が現勢化するのだから、われわれの思惟
は神の悟性と存在様式を共有しており、したがってわれわれの思惟が限界を持
つべき理由はさしあたり見当たらない、ということになる。
341SZ:02/05/23 23:27
神のアプリオリな証明の核心をなすものが“神の悟性”であるのに対して、ア
ポステリオリな証明を支えるのは“神の意志”である。また46節によれば、必
然的真理が神の意志(恣意)に拠るなどという考えはナンセンスだが、偶然的
真理に限って言えば、その十分な理由は神の最善選択、すなわち神の自由意志
にあると言う。
342SZ:02/05/23 23:29
スピノザのシステムでは、神の自由は神の自律的かつ必然的な“決定”にほか
ならず、たとえ神といえども恣意的な選択は許されなかった(この世界の事象
の秩序についても)。推測だが、Lがスピノザを読む過程で(またただ一度の
彼との会見において)、スピノザの決定論に大きな抵抗を感じた理由は、自然
現象の至るところに見出すことができる偶然の重要性を、自然科学者たるLと
しては到底無視できなかったことにあるのではないか。こう推測するのは、哲
学的には共通点の多いスピノザとLの相違は、Lの自然科学者としての幅の広
さに起因すると思われるからである。たとえば微積分学の創案一つをとっても、
自然現象に含まれる多様性と連続性をいかにして形式化するかという関心なく
しては、その具体的な実現は不可能だったと思われる。そうした関心に導かれ
ていたLが、この世界のすべては決定論的に定式化されるといった考えに納得
するはずがない。スピノザの決定論に対するLの生涯変わることのないオブジ
ェクションは、キリスト教的な神についての解釈の差によるのではなく、二人
の自然観の相違に由来するのではないだろうか。
343SZ:02/05/23 23:31
しかし偶然性を最大限に重視するLでさえも、事象の系列には究極的な理由が
なければならず、それは神の最善選択による、という“へ理屈”を持ち出さな
ければならなかった。私は、事象の系列に何か理由がなければならないという
“信念”は正当であると思う。なぜなら何の理由もなしに事象が生起するのな
ら、自然現象の秩序や私自身の存在について考えることはまったくのムダだか
ら。しかし私は、そうした理由はわれわれの悟性にとってつねに不十分である
(われわれの悟性は一度に理由の全体を解き明かすことはできないし、また最
後の理由があるかどうかを断定する根拠も見出せない)以上、十分な理由の存
在を憶断することもまた無意味だと考える。偶然的真理の理由は局所的にしか
見出せず、不十分だからこそ偶然的なのである。
344SZ:02/05/23 23:33
Lの言う神の意志は、充足理由律の擬人化された表現である(偶然的真理の十
分な理由は、神の意志による最善の選択にある、というのだから)。ところが、
すでに見たように充足理由律は、論理的には、“個体的実体(モナド)の概念
のすべての述語は主語に内在する”という公準の系であり、そうしたモナドの
概念は神の悟性の中にあるのだった。すると神の意志と神の悟性とは、充足理
由律において互いに衝突することになる。なぜなら神は、その悟性においては
すべてのモナドにその全系列を決定づけているにもかかわらず、その意志によ
って、特定のモナド群(=われわれの現実世界)だけを選択した、というのだ
から。
345SZ:02/05/23 23:37
L自身はこの点について、偶然的な事象の系列は、神の選択にしたがうことで
「確実性」をえているが、それは必然的に決定づけられているわけではない、
と言う。しかし、“神が最善の世界を選択したのなら”、結局のところ偶然性は
どこにあるというのか! 私には“最善の選択”という考えはこの世界が偶然
であることの追認に過ぎず、どうしても理由を見出せないréalitéに
ムリやり理由を与えようとして、神の意志という擬人的な仮定を持ち出してい
るように思われる。神の悟性という概念が、論理的な必然性に導かれたわれわ
れの思考のréalitéを表現する妥当性をもっているのに対して、神の
意志という概念はあまりに通俗的である。Lは偶然性を肯定し、神の悟性にお
ける事象の共通可能性(個々の事象を構成するモナドは神によって全系列を決
定されているが、神の悟性におけるモナドにはたとえば“ルビコン河を渡るシ
ーザー”とともに“ルビコン河を渡らないシーザー”が、つまりあらゆる可能
なモナドが含まれている)を想定した。それで十分でないか? われわれの現
実世界は、神の悟性の部分集合に過ぎない。神が考えた一つの世界がここにあ
る。そして神の悟性におけるあらゆる可能世界は、論理空間に現実に存在して
おり、それらをわれわれの悟性もまた認識しうる。これで十分ではないか?
346SZ:02/05/25 12:45
神の意志よりも神の悟性を強調し、述語の主語内在にまで遡って偶然的真理の
分析的性格を指摘し、神の悟性が現勢化する場としての論理空間を想定すると
いう、以上のようなモナドロジー読解は、Lをあまりに論理主義的に理解して
いるという批判に遭うかもしれない。私も神学者L、教会統一に熱意を傾注し
たLを軽視するつもりはなく、モナドロジーが神学を含む大系を意図している
事実を拒否する意図もない。だからここで繰り返しておくが、このスレッドで
の私の立場は、一人三役であって(自作自演の極みでもうしわけありません)、
モナドロジーを書かれている通りに原文から読むこと、哲学史的に位置づける
こと、そして批判的に読むことを同時に進めているのであり、この10日間ほ
どの“神の証明”にかかわるレスは、第三の立場からのものであることをお断
りしておく(でも、いったい、だれに対して?)
347SZ:02/05/25 12:48
神の悟性と永遠真理の問題は、まだまだ多くの重要なimplicationを持つ。
あと一点だけ考察してから、次節へ進みたい。ここでとりあげるのはLの観念
idéeの性格である。前にデカルトの神の存在論的証明に対するLの批判を
ふりかえったとき(>>272>>280)、Lの観念のカテゴリーを確認しておいた。
ただ、そこでは観念とわれわれの精神とのかかわりに触れる余裕はなかった。
この点について、「叙説」を引用しつつ明らかにしておきたい。

「われわれの魂は、何か本性natureとか形相formeとかいうものを考え
る機会がくると、それを思い起こすという性質を常に自分のうちにもっている。
何らかの本性とか形相とか本質essenceを表出しているという、われわれ
の魂のもつこの性質が、本当の意味での事物の観念であり、それはわれわれの
うちにあり、それを考えていようといまいと常にわれわれのうちにある、と私
は思う。なぜなら、われわれの魂は神と宇宙、さらにはすべての本質とすべて
の現実に存在するものを表出しているからである。」(「叙説」26節)
348SZ:02/05/25 12:50
「これは、プラトンが想起説を提唱したときにすばらしく見事に考察したこと
である。(中略)プラトンはまた、自分の意見をすばらしい実験によって確か
めた。すなわち、一人の少年をもちだして、彼には何も教えることなくただ順
序正しく適切な質問をするだけで、無理数に関する幾何学のたいへんむつかし
い真理(=ピタゴラスの定理)へと知らず知らずのうちに導いていったのであ
る。このことから、われわれの魂はそういったすべてのことを潜在的に知って
いること、真理を認識するにはただ注意のみが必要であること、したがって、
われわれの魂は少なくともこれらの真理が依存している観念をもっていること
がわかる。さらに、真理を観念のあいだの関係と考えれば、われわれの魂はす
でにそれらの真理を持っているとも言えるのである。」(同上)
349SZ:02/05/25 12:51
観念は「それを考えていようといまいと常にわれわれのうちにある」。「われわ
れの魂はそういったすべてのことを潜在的に知っていること、真理を認識する
にはただ注意のみが必要であること、したがって、われわれの魂は少なくとも
これらの真理が依存している観念をもっていることがわかる」。これはモナド
の表象の連続性(=混雑したconfus微小表象petites perceptions
に至る判明さのあらゆる程度を伴って、他のすべてのモナドを表現する
représenter性質)から演繹された、L流の想起説の読み換えであり、
また真理というものの分析的性格を、われわれの精神における、真なる観念の
潜在的な保持という観点から言い換えたものとも言える。こうしたLの観念の
独自性は、フレーゲの論理主義に直接影響を与えた(「算術の基礎」第3・11
節、またE・カッシーラー「実体概念と関数概念」みすず書房版邦訳p.364−
365参照)。またドゥルーズの「差異と反復」におけるidéeの探究
(もちろんこの場合のidéeはLのそれだけでなく、プラトンのイデア、
カントの理念を包括しているが)が、“差異の理念的総合synthèse idéele”
および“感覚可能なものの非対称的総合(強度量の研究)”という二つの重要な
章のそれぞれ最後で、Lの“明晰かつ混雑した観念idée claire et confuse”を
取り上げている(Ed.puf.p.275, 325)ことにも注目すべきである。
350SZ:02/05/25 13:04
49. La créature est dite agir au dehors en tant qu'elle a de
la perfection, et pâtir d'une autre en tant qu'elle est imparfaite.
Ainsi l'on attribue l'action à la Monade en tant qu'elle a
des perceptions distinctes et la passion en tant qu'elle en a de
confuses.

50. Et une créature est plus parfaite qu'une autre en ce qu'on trouve
en elle ce qui sert à rendre raison a priori de ce qui se passe dans
l'autre, et c'est par là qu'on dit qu'elle agit sur l'autre.

351SZ:02/05/25 13:10
49 被造物は、完全性をもっているかぎり外部に能動的に作用をおよぼすといわれ、
不完全であるかぎり他の被造物から受動的に作用をこうむるといわれる。そこで、
モナドが判明な表象をもつかぎりそれに能動作用を認め、混雑した表象をもつかぎ
り受動作用を認めるのである。

50 ある被造物の中に、他の被造物に起こることの理由をア・プリオリに示すのに
役立つものがあれば、その被造物は他の被造物よりも完全である。一方が他方に
作用を及ぼすというのは、こうした意味なのである。
352SZ:02/05/27 23:47
行ったり来たりで申し訳ないんですが、49−50節は、48節の、神とモナドとの
対応をふまえないと意味不明です。ちょっと再確認しておきます。

神様   力   認識(悟性)  意志
モナド  主体  表象能力    欲求能力

神の以上の属性は絶対的に無限(スピノザ風ですね)、つまり完全であるのに
対して、創造されたモナドは不完全なので、完全性の度合に応じて神の属性を
模倣する、というのが48節の趣旨でした。
したがって、49節の「完全性をもっているかぎり」は、モナドにおける相対的
な「完全性」の「度合」を指しています。
またここでは相対的な完全性の度合を、ふたたび表象の判明さの度合に求めて
いる点に注意すべきだと思います。
353SZ:02/05/27 23:53
あのう、言うまでもないことですが、ライプニッツって、
ものすごく重要な思想家ですよ。
みなさんぼくなんかにまかせちゃっていいんですか?
もっといろいろ言える人いるはずです! ! !
354SZ:02/05/27 23:56
荷が重いんだよ、ゴルァ! ! !(とひさしぶりに本音を言ってみた)
355考える名無しさん:02/05/28 08:35

 ヂ゙ミチガ イチバンデスゥ
  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
     ∧ ∧
     (*゚ー゚) 旦~~
      ノ つ━━
    〜  ノ
 ((  (/ J
356SZ:02/05/28 23:08
>>355 おいしいお茶をどうも。

51. Mais dans les substances simples, ce n'est qu'une influence
idéale d'une monade sur l'autre, qui ne peut avoir son effet que par
l'intervention de Dieu, en tant que dans les idées de Dieu une monade
demande avec raison que Dieu en réglant les autres dès le commencement
des choses, ait regard à elle. Car puisqu'une monade créée ne saurait
avoir une influence physique sur l'intérieur de l'autre, ce n'est que
par ce moyen que l'une peut avoir de la dépendance de l'autre.
357SZ:02/05/28 23:10
51 しかし、単純実体の場合、あるモナドは他のモナドに観念的な影響
をおよぼすだけであり、これも神の仲介によらなくては効果をもつことは
できない。そのときモナドにできることは、神のもっている諸観念の中で、
神が万物の始め以来他のモナドを規制していくに際して自分のことも考慮
してほしい、と正当な要求をすることだけである。なぜなら、創造された
モナドは他のモナドの内部に物理的な影響をおよぼすことはできないので、
一方が他方と依存関係をもつためには、この方法によるしかないからである。

「自分のことも考慮してほすぃ、と正当な要求をすることだけ」。うーん、
なんかモナドがかわいそう。予定調和が攻めてきました、って感じかな。。
358SZ:02/05/30 23:16
Et c'est par là qu'entre les créatures les actions et passions sont
mutuelles. Car Dieu, comparant deux substances simples, trouve
en chacune des raisons qui l'obligent à y accommoder l'autre,
et par conséquent ce qui est actif à certains égards, est passif
suivant un autre point de considération: actif en tant que
ce qu'on connaît distinctement en lui sert à rendre raison
de ce qui se passe dans un autre, et passif en tant que la raison
de ce qui se passe en lui se trouve dans ce qui se connaît
distinctement dans un autre.
359SZ:02/05/30 23:26
52 そういうわけで、被造物のあいだの能動作用と受動作用とは相互的である。つまり、
神が二つの単純実体を比較したとき、それぞれの中に一方を他方に適応させざるを
えない理由を見出すのである。そこで、ある点では能動的なものも、別の観点から
見ると受動的である。あるものにおいて判明に知られるものが、他のものの中
で起こることの理由を示すのに役立っているかぎり、それは能動的であり、あるも
のにおいて起こることの理由が他のものの中で判明に知られているものの中にある
かぎり、それは受動的である。
360SZ:02/05/31 18:13
モナド間には、他のモナドにおいて起こることの一面を互いに表象し合
う相互認識の関係がある。すべてのモナドの関連と、それらの配置の変
化が生み出すできごとの全体を判明に認識するのは神の悟性だけであり、
モナドはその制限された表象能力によって、自己の近傍におけるできご
との理由のみを判明に知ることができる。
たしかにモナドはみずからの概念の主語に含まれるすべての述語を、す
なわち自分について起こる事象の全体を包括しており、また全宇宙を表
出している。しかし、「魂が自分自身において読み取ることができるの
は、そこに判明に表現されているものだけである。魂は自分の襞を一挙
にすっかり開いてみることはできない。襞は無限に及んでいるからであ
る」(61節)。
モナド間の能動−受動の相互関係は、こうして各モナドの表象の判明さ
の違いから生じることになる。
ここでも、Lのシステムにおける表象能力の仮定の重要性がわかるが、
逆に表象の判明さの度合という規定の中に、自然のすべての神秘が閉じ
込められてしまい、これでは実質的に何の理由説明にもならない、と
言う批判も成り立つと思う。これとの類比で私が思い出すことは、カン
トの図式(シェーマ)である。カントは純粋理性批判の先験的感性論に
おいて、二つの質的に異なる感性形式である時間と空間を結びつける
先験的な機能をシェーマと名づけた。しかし、その規定によって、感性
の可能性を約束する時間と空間の形式が“ある仕方で結びついている”
ことは示されたが、どのように両形式がかかわりあうのかについての
解明はなされなかった(この点に着目して、時間性の構造から「純粋理
性批判」を読み直そうと最初に試みたのはがハイデガーであり、その後の
時間論的なカント解釈の“ブーム”も彼に由来する)。つまり、革新的な
概念は、たしかに問題の所在を明らかにするが、ときとしてそれは問題
提起のみに終わる、ということを私は言いたいのである。Lの「表象」は
彼の思索の魅力のすべてを凝縮している。私もこういうすごいことを考え
る人に対して最大の尊敬を抱くし、ずっとその尊敬は変わらないと思うの
だが、それにしても後に残されたわれわれは、表象とはいったい何か、を
あらためて考えなければならないのだから大変だ。カントのシェーマはハ
イデガーによって見事に読みかえられたが、モナドも表象も、いまだにわ
れわれに残された難題であることをでっかい声で言っておきたい(私には
到底この難題を解く能力はないからだ)。
361SZ:02/05/31 22:00
Allez,France! allez,Henry!!
362SZ:02/05/31 22:23
信じられん、フランスが開幕戦敗退。。
363SZ:02/06/02 20:44
53. Or, comme il y a une infinité d'univers possibles dans les idées
de Dieu, et qu'il n'en peut exister qu'un seul, il faut qu'il y ait
une raison suffisante du choix de Dieu qui le détermine à l'un plutôt
qu'à l'autre.
364SZ:02/06/02 21:02
ところで、神の持つ観念の中には無限に多くの可能的宇宙
(univers possibles)があり、かつ宇宙はただ一つしか
存在できないのだから、神に他の宇宙でなくこの宇宙を
決定させる、神の選択の十分な理由があったはずだ。
365SZ:02/06/04 23:03
54. Et cette raison ne peut se trouver que dans la convenance, dans
les degrés de perfection que ces mondes contiennent, chaque possible
ayant droit de prétendre à l'existence à mesure de la perfection
qu'il enveloppe.
366SZ:02/06/04 23:22
54 そしてこの理由は適合(convenance)ということの中に、あるいはこれらの
世界が含んでいる完全性の度合の中にしか見出せない。可能的なものはそれぞれ
が内包している完全性に応じて現実存在を要求する権利(droit de prétendre
à l'existence)を持っているからだ。

この節の写本の一つには、続けて「Ainsi il n'y a rien d'arbitraire
entièrement.そこでまったく恣意的なものは何ひとつない」という書き込みが
あるそうです(岩波文庫版、河野与一先生の注釈による)。
367SZ:02/06/05 22:19
w杯やっぱりおもしろいよ! カーンもびっくり、アイルランド、ロスタイムで
分ける!
368SZ:02/06/05 22:37
55. Et c'est ce qui est la cause de l'existence du meilleur que
la sagesse fait connaître à Dieu, que sa bonté le fait choisir,
et que sa puissance le fait produire.

55 これが、最善なるもの(le meilleur)の現実存在の原因であって、神は
その知恵によって最善なるものを知り、その善意によってこれを選び、その力
によってこれを生む。

もちろん、以上53−55節こそ、Lの予定説の核心をなす“最善観optimisme”です。
369SZ:02/06/06 22:31
56. Or cette liaison ou cet accommodement de toutes les choses créées
à chacune, et de chacune à toutes les autres, fait que chaque
substance simple a des rapports qui expriment toutes les autres,
et qu'elle est par conséquent un miroir vivant perpétuel de l'univers.

57. Et comme une même ville regardée de différents côtés paraît tout
autre et est comme multipliée perspectivement, il arrive de même que
par la multitude infinie des substances simples, il y a comme autant
de différents univers qui ne sont pourtant que les perspectives
d'un seul selon les différents points de vue de chaque monade.

370SZ:02/06/06 22:53
この二つの節は、モナドロジーのクライマックスかも。

56 ところで、すべての被造物がそれぞれの被造物と、またそれぞれが他の
被造物との間に持つこの連結(liaison)あるいは適応(accommodement)
によって、どの単純実体も他のすべての実体を表出するさまざまな関係をもち、
したがって宇宙を映す永遠の生きた鏡なのである。

57 同じ都市でも、異なった方角から眺めるとまったく別の都市に見え、
観点(=パースペクティブ)によって多様であるようだが、それと同様に、
単純実体は無限にあるので、その数だけの異なった宇宙が存在することになる。
ただしそれらは、それぞれのモナドの異なった観点から見た唯一の宇宙の
さまざまな眺望に他ならない。
371SZ:02/06/06 23:01
たまには哲学しろよ不定期age
372考える名無しさん :02/06/06 23:13
>>たまには哲学しろよ不定期age

プッ。(藁)
373SZ:02/06/06 23:53
>>372 こら
374SZ:02/06/08 22:23
58. Et c'est le moyen d'obtenir autant de variété qu'il est possible,
mais avec le plus grand ordre qui se puisse, c'est-à-dire c'est
le moyen d'obtenir autant de perfection qu'il se peut.


59. Aussi n'est-ce que cette hypothèse, que j'ose dire démontrée,
qui relève comme il faut la grandeur de Dieu; c'est ce que M. Bayle
reconnut lorsque dans son Dictionnaire, article Rorarius, il y fit
des objections où même il fut tenté de croire que je donnais trop
à Dieu, et plus qu'il n'est possible. Mais il ne put alléguer aucune
raison pourquoi cette harmonie universelle, qui fait que toute
substance exprime exactement toutes les autres par les rapports
qu'elle y a, fût impossible.
375SZ:02/06/08 22:51
58 そしてこれが、可能な限り多くの多様性を、しかもできる限り偉大な(最大の)
秩序とともに得る方法なのである。つまり、できる限り多くの完全性を得る方法
なのである。

59 それゆえ、神の偉大さをそれにふさわしい仕方で称揚するものは、この仮説
(あえて言うがすでに証明済みである)以外にない。このことはベール氏も認めた
のだが、その辞典のロラリウスの項においては、私が神に、あまりに多くを、
可能以上のことを託そうとしていると言わんばかりの異議が見られる。しかし、
この普遍的な調和(cette harmonie universelle)、すべての実体が、他の
すべての実体を自分との関係にしたがって厳密に表現するようにしむける普遍的な
調和が、なぜ不可能なのかというどんな理由も、ベール氏は挙げることは
できなかったのである。
である 
376SZ:02/06/08 22:59
訂正>>360 カントの図式について大ばかな間違いをしでかしてます。
以下の通り訂正します。

カントの図式=感性の内容と純粋悟性概念(カテゴリー)を媒介する先験的機能
=純粋な先験的感性形式としての時間
→のちにハイデガーがその重要性に注目して純粋理性批判の時間論的な読み替えを
 試みた
377SZ:02/06/11 00:56
予定調和説が要請された理由の一つは、60−79節において詳述される、単純実体
と複合体の一致、魂と有機的身体の結合を説明することにある。単純実体あるい
は魂は、それ自体としてはひろがりをもたない現勢化力であり、それらの相互作
用は表象を通じてのみ起こる。ところでLは、単純実体をその即自的状態におい
て思弁したいわけではない。単純実体は複合体の存在を抜きにして考えれば意味
を失う。彼がモナドを論じるときには、必ずそれと結合する複合体の存在が考慮
されており、これはちょうど神が事象世界の系列の最後の理由として要請される
のと同じである。モナドは、無限に分割可能な複合体にその存在理由をもたらし
ている力、あえて言えば物質の零度である。これからの20節ほどが言うように、
Lによれば複合体もまたそれらが構成する現勢的な宇宙に充溢していて、その
相互関係を不断に変えながら滅びることなく生成を続けている。これはモナドが
相互の配置を不断に変えながら他のいっさいのモナドを表出し続けていることに
呼応する。なぜなら複合体の零度としてのモナドが、必ず複合体に伴なうこと
こそが、複合体が変化しつつ不滅である理由だから。そして、こうした単純実体
と複合体との結合を最終的に支えているのはもちろん神であり、この結合の名
こそ予定調和に他ならない。
378SZ:02/06/11 01:05
60. On voit d'ailleurs dans ce que je viens de rapporter, les raisons
a priori pourquoi les choses ne sauraient aller autrement: parce que
Dieu, en réglant le tout, a eu égard à chaque partie, et
particulièrement à chaque monade, dont la nature étant représentative,
rien ne la saurait borner à ne représenter qu'une partie des choses;
quoiqu'il soit vrai que cette représentation n'est que confuse dans
le détail de tout l'univers et ne peut être distincte que dans
une petite partie des choses, c'est-à-dire dans celles qui sont ou
les plus prochaines ou les plus grandes par rapport à chacune
des monades; autrement chaque monade serait une divinité.
Ce n'est pas dans l'objet, mais dans la modification de
la connaissance de l'objet que les monades sont bornées.
Elles vont toutes confusément à l'infini, au tout, mais elles sont
limitées et distinguées par les degrés des perceptions distinctes.
379SZ:02/06/11 01:45
60 しかし私が述べてきたことから、なぜそれぞれの事態が他ではありえないか
の、アプリオリなそれぞれの理由がわかる。なぜなら神は全体を決定しつつ(en
réglant le tout)、各部分、特に各モナドを考慮しているからであり、モナド
の本性は表現的(représentative)なので、何ものもそれを制限して事物の一
部分しか表現しないようにはできないからである。ただし、この表現は宇宙全体
の細部では混雑している他なく、判明なのは事物のごく一部分、すなわち各モナ
ドとの関係で、最も近いもの、あるいは最も大きいものにおいてでしかありえな
い。さもないと各モナドは神的なもの(une divinité)になってしまうだろう。
モナドが制限を受けるのは、その対象においてではなく、対象の認識の変容
(la modification de la connaissance de l'objet) においてである。
モナドはすべて混雑したかたちで無限へ向かい、全体へ向かうが、それらは
制限されており、表象(perceptions)の判明さの度合によって区別されて
いる。
380SZ:02/06/11 09:09
61. Et les composés symbolisent en cela avec les simples.
Car comme tout est plein, ce qui rend toute la matière liée,
et comme dans le plein tout mouvement fait quelque effet sur
les corps distants à mesure de la distance, de sorte que
chaque corps est affecté non seulement par ceux qui le touchent,
et se ressent en quelque façon de tout ce qui leur arrive,
mais aussi par leur moyen se ressent de ceux qui touchent
les premiers dont il est touché immédiatement:
il s'ensuit que cette communication va à quelque distance
que ce soit. Et par conséquent tout corps se ressent de tout
ce qui se fait dans l'univers, tellement que celui qui voit tout,
pourrait lire dans chacun ce qui se fait partout, et même ce qui
s'est fait ou se fera, en remarquant dans le présent ce qui est
éloigné tant selon les temps que selon les lieux:
σψμπνοια παντα disait Hippocrate.
Mais une âme ne peut lire en elle-même que ce qui y est représenté
distinctement; elle ne saurait développer tout d'un coup ses replis,
car ils vont à l'infini.
381SZ:02/06/11 09:37
61 そしてこの点において、複合体は単純体と一致している(symboliser)。
というのも、すべてが充実している(tout est plein)ので、あらゆる物質
(質料 matière)は結びつき合っているし、充実体(le plein)の中で、
すべての運動はへだたった物体(les corps)に、距離に応じて何らかの効果
を及ぼすからである。そこでどの物体もそれに接触しているものから影響を
受け、そのものに起こるすべてを何らかの仕方で感知するばかりでなく、
自分に直接接触している物体を介して、この物体に接触している別の物体を
感知するのである。その結果、このような交感(communication)はどんな
遠いところにも及んで行くことになる。そこで、どの物体も宇宙の中で
起こることをすべて感知するから、何でも見える人がいれば、どの物体の
中にもあらゆる所でいま起こっていることだけではなく、いままでに起こった
ことやこれから起こるであろうことさえ読み取ることができるだろう。時間的、
空間的に遠く離れているものを、現在の中に見出すことによって。
「スベテガ共ニ呼吸シテイル」とヒポクラテスは言った。
しかし、魂が自分自身のうちに読み取ることができるのは、そこに判明に
表現されているものだけである。魂は自分の襞( replis)を一挙にすっかり
開いてみることはできない。その襞は無限に及んでいるからである。
382SZ:02/06/12 12:00
ベルグソンは「物質と記憶」でイメージ一元論を提起しており、それに
したがえば、すべての物質はイメージであるとともに、物質によって構成された
客体を認識する主体はイメージを反射するイメージである。外界がイメージで
あるのと同様に目はイメージであり、脳もまたイメージである。
この世界観はおおよそ次のような思考から導かれたものだ。外界は主観
(というよりもこの私)によって認識されることで外界なのであり、すべては
とりあえず私の主観の対象(客体)である。しかし、バークリー的独我論が言う
ように、対象が主観の構成物だと主張する根拠はどこにもないから、対象の
客観的な性質を否定することはできない。そこで対象の客観的性質をそのまま
認めた上で、なおかつそれらのすべてに、「認識されていること」という属性を
帰してしまえばよい。すると外界のすべての物質は客観的性質を備えたイメージ
として位置づけられる。
つまり、ベルグソンのイメージとは、認識(観測)される可能性を備えた物質なの
である。
383SZ:02/06/12 12:27
さて、モナドロジー61節では、モナド間の相互表象から成る宇宙ではなくて、
物質の宇宙、すなわちこの世界のもつ連続性・充溢性と、そこから生じる
すべての物質の交感(communication)が取り上げられている。しかも
こうした物質の交感は、複合体としての物質の存在理由であるモナド間の
相互表象に対応している。また先に指摘したように(>>377)、モナドは
即自的に思弁しても意味のない存在であり、あくまでも物質の零度として
(物質を構成する虚数項のように)捉えられるべきである。したがって、
Lのシステムにおける物質は、それ自体の構造と相互作用のしくみ(作用因)
にしたがっているが、常にモナドに支えられており、しかもモナドは互いに
表象し合っている。言い換えればLの考える物質は、物質のレベルにおいて
すべてが互いに作用し合っていると同時に、それらを構成するモナドのレベル
では、互いに表象し合っているのである。こうしたユニークな世界観は、
あくまで私の推測だが、先に見たベルグソンのイメージ一元論を導いた
思考に近接した思考から導かれたのではないかと思える。Lはあくことない
自然の観察者であり、この世界に充溢する物質間の、世にも不思議な調和に
取りつかれていた人であった。同時に哲学者たるLが、この世界を認識する
魂(つまり私)の謎から、生涯離れることもなかっただろうことは容易に
推測できる。だとすれば彼が物質と魂との間の結合を考えるにあたって、
“物質の客観的な性質と切り離しがたく結びついた相互表象する魂(モナド)”
という定式を考え出したことにも納得がいく。もちろんLのシステムでは、
物質の世界と魂の世界とはそれぞれ別個の原理に従う(前者は作用因に、後者は
目的因に従う)。この点ではLもスピノザの平行論を踏襲しているのだが、
Lの場合、スピノザのように延長と思惟の属性を(形相的区別という意味で)
厳密に区別してはいない。Lの言う物質−精神の結合は、前者は交感、後者は
表象という、実はまったく同一の様式を備えることによって成り立っている
のであり、もし神の意志による予定調和という最後の原理を考慮に入れなければ、
ベルグソンのイメージ一元論に近い考え方なのである。
384SZ:02/06/12 12:47
一言。
ライプニッツは美しい。
385SZ:02/06/14 21:52
日本代表おめでとう!

62. Ainsi quoique chaque monade créée représente tout l'univers,
elle représente plus distinctement le corps qui lui est affecté
particulièrement et dont elle fait l'entéléchie: et comme ce corps
exprime tout l'univers par la connexion de toute la matière dans
le plein, l'âme représente aussi tout l'univers en représentant
ce corps qui lui appartient d'une manière particulière.
386SZ:02/06/14 22:01
62 そこで、創造されたモナドはいずれも宇宙全体を表現しているが、
そのモナドに特別に付与されていて(lui est affecté particulièrement)、
そのモナドを自分のエンテレケイア(現勢化力 entéléchie)に
している物体(身体 corps)をより判明に表象する。充実体(le plein)
の中ではすべての物質(質料 matière)が結び合っているから、
この物体(身体)は宇宙全体を表現するが、魂もまた特別の仕方で自分に
属している(lui appartient d'une manière particulière)物体(身体)
を表現することによって、宇宙全体を表現するのである。
387SZ:02/06/15 22:45
63. Le corps appartenant à une monade qui en est l'entéléchie ou
l'âme, constitue avec l'entéléchie ce qu'on peut appeler un vivant,
et avec l'âme ce qu'on appelle un animal. Or, ce corps d'un vivant
ou d'un animal est toujours organique; car toute monade étant
un miroir de l'univers à sa mode, et l'univers étant réglé dans
un ordre parfait, il faut qu'il y ait aussi un ordre dans
le représentant, c'est-à-dire dans les perceptions de l'âme,
et par conséquent dans le corps, suivant lequel l'univers y est
représenté.
388SZ:02/06/15 23:07
63 あるモナドに属していて、そのモナドを自分のエンテレケイアあるいは魂
としている物体は、エンテレケイアと一緒になって生物と名づけ得るものを
構成し、魂と一緒になって動物と名づけ得るものを構成する。ところで、この
生物あるいは動物の身体はいつも有機的(organique)である。どのモナドも
自分の様態で(à sa mode)宇宙を映す鏡であり、宇宙は完全な秩序において
統制されている(étant réglé dans un ordre parfait)から、それを表現
するもの(le représentant)の中にも、つまり魂のもろもろの表象
(les perceptions de l'âme)の中にも、したがってそれによって宇宙が魂
に表現される身体の中にも(dans le corps, suivant lequel l'univers
y est représenté)、一つの秩序(un ordre)があるはずである。
389SZ:02/06/15 23:12
明敏な読者は、ドゥルーズ&ガタリの“器官なき身体corps sans organe”が、
(少なくとも一つは)何に由来するか、もうおわかりでしょう。もちろんモナド
です。
390SZ:02/06/16 19:26
64. Ainsi, chaque corps organique d'un vivant est une espèce de
machine divine ou un automate naturel qui surpasse infiniment
tous les automates artificiels. Parce qu'une machine faite par
l'art de l'homme n'est pas machine dans chacune de ses parties;
par exemple la dent d'une roue de laiton a des parties ou fragments
qui ne sont plus quelque chose d'artificiel et n'ont plus rien qui
marque de la machine par rapport à l'usage où la roue était destinée.
Mais les machines de la nature, c'est-à-dire les corps vivants,
sont encore machines dans leurs moindres parties jusqu'à l'infini.
C'est ce qui fait la différence entre la nature et l'art,
c'est-à-dire entre l'art divin et le nôtre.
391SZ:02/06/16 19:27
64 だから、生物の有機的な身体は、いずれもある種の神的な機械あるいは
自然的な自動機械なのであって、どんな人工的な自動機械よりも無限に
すぐれている。人間の技術によって作られた機械は、そのそれぞれの部分
までは機械になっていない。たとえば真鍮の歯車の場合、その部分とか
断片とかはもうわれわれには人工的なものとは見えず、その歯車の本来の
用途から考えてもはや機械らしいところは何も示していない。ところが
自然の機械つまり生物の身体は、それを無限に分割していってどんなに
小さい部分になっても、やはり機械になっている。これが自然と技術、
つまり神のわざと人間のわざとの違いである。

この節の記述は、自然に無限の連続性を見出したLならではの内容です。
まるでフラクタル幾何学を先取りしたかのような指摘。
392SZ:02/06/17 23:39
65. Et l'auteur de la nature a pu pratiquer cet artifice divin et
infiniment merveilleux, parce que chaque portion de la matière n'est
pas seulement divisible à l'infini, comme les anciens ont reconnu,
mais encore sous-divisée actuellement sans fin, chaque partie
en parties, dont chacune a quelque mouvement propre;
autrement il serait impossible que chaque portion de la matière
pût exprimer l'univers.
393SZ:02/06/17 23:48
65 そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべき(merveilleux)
わざ(artifice)をふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、
昔の人が認めたように無限に分割が可能であるばかりでなく、各部分は実際に
(actuellement)さらに多くの部分へと限りなく細分されていて
(sous-divisée)、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。
さもなければ、物質の各部分(chaque portion de la matière)が宇宙を
表出することは不可能であろう。
394考える名無しさん:02/06/18 01:42

  ∧,,∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ミ, ゚Д゚,彡 < まだ続いてたなんて、驚きだ…  
 (|<∨>|)    \_____________
  | : |
  ∪ ∪
395考える名無しさん :02/06/18 07:09

  ∧,,∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ミ, ゚Д゚,彡 < このスレって一人しかいないのかい?  
 (|<∨>|)    \_____________
  | : |
  ∪ ∪
396SZ:02/06/18 09:04
一人だけど多数だよ
397SZ:02/06/19 02:18
66. Par où l'on voit qu'il y a un monde de créatures, de vivants,
d'animaux, d'entéléchies, d'âmes dans la moindre partie de la matière.

67. Chaque portion de la matière peut être conçue comme un jardin
plein de plantes et comme un étang plein de poissons. Mais chaque
rameau de la plante, chaque membre de l'animal, chaque goutte de
ses humeurs est encore un tel jardin ou un tel étang.
398SZ:02/06/19 02:28
66 そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、
エンテレケイアの、魂の世界が認められる。

67 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなもの
と考えることができる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、
その体液のどの一滴も、やはり同じような庭であり池なのである。
399SZ:02/06/19 12:16
68. Et quoique la terre et l'air interceptés entre les plantes du
jardin, ou l'eau interceptée entre les poissons de l'étang,
ne soit point plante ni poisson, ils en contiennent pourtant encore,
mais le plus souvent d'une subtilité à nous imperceptible.

69. Ainsi il n'y a rien d'inculte, de stérile, de mort dans
l'univers, point de chaos, point de confusion qu'en apparence;
à peu près comme il en paraîtrait dans un étang à une distance
dans laquelle on verrait un mouvement confus et un grouillement
pour ainsi dire de poissons de l'étang sans discerner les poissons
mêmes.

400SZ:02/06/19 12:18
68 そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、
植物や魚ではないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それ
らがあまりに微細なので、ほとんどの場合われわれには見えない。

69 そこで宇宙の中には荒れ果てたところや不毛なところ、死せるところは
まったくなく、混沌も混雑もない。ただそういう見かけがあるだけである。
少し離れて池を見ると、池の魚そのものをはっきり見分けることはできず、
魚の混雑した運動、いわばそれらのうごめきが見える、というようなものだ。

しばらくこうした愛らしい記述が続きます。
401OFW:02/06/20 00:19
age
402SZ:02/06/20 21:48
>>401 これはまた珍しい。こんにちは!

70. On voit par là que chaque corps vivant a une entéléchie dominante
qui est l'âme dans l'animal; mais les membres de ce corps vivant sont
pleins d'autres vivants, plantes, animaux, dont chacun a encore
son entéléchie ou son âme dominante.

71. Mais il ne faut point s'imaginer avec quelques-uns qui avaient
mal pris ma pensée, que chaque âme a une masse ou portion de
la matière propre ou affectée à elle pour toujours, et qu'elle
possède par conséquent d'autres vivants inférieurs destinés toujours
à son service. Car tous les corps sont dans un flux perpétuel comme
des rivières, et des parties y entrent et en sortent continuellement.
403OFW:02/06/20 21:48
age
404SZ:02/06/20 22:02
>>403 あれ、ケコーン。本物ですか?

70 そこで、どの生物の身体もそれを支配するエンテレケイア
(une entéléchie dominante=現勢化力としてのモナド)をもち、
動物ではそれが魂であることがわかる。ただこの生物のどの肢にも
他の生物、植物、動物が満ちていて、そのそれぞれがまた、それを
支配するエンテレケイアとか魂(son entéléchie ou son âme
dominante)をもっている。

71 しかし、ある人たちのように私の考えを誤解して、どの魂にも
それに固有な、つまりそれに割りあてられている物質のかたまりや
部分があり、したがっていつも自分の役に立つように定められて
他の下等な生物をもっている、などと考えてはいけない。
すべての物体は川のように永遠の流動状態にあり、その部分はたえず
そこに入ったり出たりしているからである。
405偽OFW:02/06/20 22:13
>>404
違いますよ。
406SZ:02/06/20 22:29
>>405 本物だってsage覚えたんだよ。sageといて、虫が来るから!
407PLI:02/06/21 04:36
うう〜ん、
お勉強になりますなあ。
408SZ:02/06/21 14:15
>>407 ぷり、すろん、ぷり。ライプニッツ、マラルメ、ブレーズまんせー

ところで、イングランドに1票。ゲームの結果次第では
本日のアップデートはありませんので、悪しからず。
(仕事休みだ、サッカー観れる! しかも今日はむちゃ
くちゃ暑い。ゆえにビール飲んでます。。
これらの事態さえも,わが個体的実体の“主語”に
ちゃんと書き込まれてるらしいですよ。じゃ、
ベッカムのmonade dominanteにはどんな事態が?)
409SZ:02/06/21 17:38
なるほどこういうことでしたか..

72. Ainsi l'âme ne change de corps que peu à peu et par degrés,
de sorte qu'elle n'est jamais dépouillée tout d'un coup de tous
ses organes, et il y a souvent métamorphose dans les animaux,
mais jamais métempsychose ni transmigration des âmes:
il n'y a pas non plus d'âmes tout à fait séparées ni de génies
sans corps. Dieu seul en est détaché entièrement.
410SZ:02/06/21 17:49
72 そこで、魂は少しずつ段々にしか身体を代えないので、その器官全部を
一挙に失うことは決してない。動物の場合、変態ということはよくある
けれども、輪廻つまり魂の転生は決してない。さらに、まったく分離した魂
とか、身体を持たない精霊といったものもない。ただ神だけが身体から完全
に離れているのである。

【参照】
 >>120-122 「理性に基づく自然と恩寵の原理」第4節
 >>173-178 ライプニッツ−アルノー書簡(1687年10月9日)
411SZ:02/06/21 17:53
73. C'est ce qui fait aussi qu'il n'y a jamais ni génération entière,
ni mort parfaite prise à la rigueur, consistant dans la séparation
de l'âme. Et ce que nous appelons générations sont des développements
et des accroissements, comme ce que nous appelons morts sont des
enveloppements et diminutions.
412SZ:02/06/21 18:00
73 そこで、まったく新しい発生(génération)も、厳密な意味での
完全な死、すなわち魂の分離もありえない。われわれが発生と呼んでいるのは
展開(développements)や増大のことであり、死と呼んでいるのは
包蔵(巻き込み enveloppements)や減少のことなのである。

développements←→enveloppements これらの概念もしばしばドゥルーズが
好んで用いるものです。
413考える名無しさん:02/06/21 19:02
>>394-395

ライプニッツスレにフッサールがおるのがたまらん。
>SZさん
頑張ってくーださい。
414考える名無しさん:02/06/21 19:02
サゲワスレスマソ
415SZ:02/06/22 22:45
>>413
こんにちは! ギコフッサールねえ。彼、古参ですよね(同一人物かどうかは
わかりませんが)。

74. Les philosophes ont été fort embarrassés sur l'origine des
formes, entéléchies ou âmes; mais aujourd'hui, lorsqu'on s'est
aperçu par des recherches exactes, faites sur les plantes,
les insectes et les animaux, que les corps organiques de la nature
ne sont jamais produits d'un chaos ou d'une putréfaction,
mais toujours par des semences, dans lesquelles il y avait
sans doute quelque préformation, on a jugé que non seulement
le corps organique y était déjà avant la conception, mais encore
une âme dans ce corps, et, en un mot, l'animal même, et que par
le moyen de la conception cet animal a été seulement disposé à
une grande transformation pour devenir un animal d'une autre espèce.
On voit même quelque chose d'approchant hors de la génération,
comme lorsque les vers deviennent mouches et que les chenilles
deviennent papillons.
416SZ:02/06/22 22:46
74 形相、エンテレケイア、あるいは魂の起源について、哲学者たちは
おおいに困惑してきた。しかし今では植物、昆虫、動物について精密な
研究がなされて、自然の有機体は混沌や腐敗から生み出されるものでは
けっしてなく、いつも種子から、つまり何らかの予先形成(préformation)
を必ず含んでいる種子から生み出される、ということが知られている。
そこで種子の中には、受精以前にすでに有機体ばかりでなく、その体内にある
魂、一言でいえば動物それ自身が存していて、受精作用はこの動物が別種の
動物になるために大きな変形を受けるための準備にすぎない、と考えられている。
発生以外にも、似たようなことはウジがハエになったり、毛虫が蝶になったり
するときに見られる。

遺伝学創生以前の、ちょっと困った記述ですが、ここで言及されている形相
(forme)が、そう訳すよりは(生物の示差的特徴としての)形態と訳すべき
ことに注意すれば、個体発生および系統発生(進化)の要因(今風に言えば
遺伝子)こそ形態の根源である、と主張されていることがわかります。
ここまでは今のわれわれから見てもことさらヘンな考え方ではありません。
ただし、そうした発生の要因(=遺伝子)と形態の根源とは何かと言えば、
それはモナドに他ならない、という主張は、あからさまな生気論=形而上学です。
417偽OFW:02/06/23 03:00
このスレは倉庫落ちするまで、
あげないという趣旨のスレなの?
418SZ:02/06/23 03:42
>>417
いや、時々あげるんですが、そのたびにへんなレスついちゃうんですよ。
419デューリング:02/06/23 20:02
単純実体=個々のサッカー選手
複合体=サッカーチーム
神=サッカーボール       かな?

しかし、サッカーボールはライプニッツの神よりは
幾分気まぐれであろう。
420SZ:02/06/23 21:39
>>419
何かヘンなたとえだけどお茶目だから許しちゃう
421PLI:02/06/25 06:36
田辺元がintensityについて、こう言ってますね。
いかがでしょうか。

量としての「量」でなくして「質」としての量が内包量であつて、その根源が
微分なのである。このもとがあつてはじめて「量」としての量、即ち測定せら
れ得る外延量が可能となるのであるから、「量」のもとには「質」がなければ
ならぬ。ライプニツツが「内包量」を以て「外延的」のものとしたのもこれに
よるのである。外延量は内包量として生産せられる性質的全体を、その既成の
後に外に立つて反省した結果生ずるものである。(『数理哲学研究』1925)
422SZ:02/06/25 09:57
>>421
この指摘は質と量のカテゴリーを考える際の本質的問題を突いていると
思いますが、ぼくには少し単純すぎるように思えます。現象を記述する
カテゴリーとしての量と質は、測定可能な外延量である前者に、何らか
の内包的な性格を与える後者がカップリングされるという関係を持ちま
す。たとえば熱は内包的な、それ自体としては外延的にとらえられない
状態ですが、それを表現する水銀柱の体積は外延量です。これと同じよ
うに、一般にエネルギーとか力などと呼ばれている質的な状態は、それ
を測定可能にする量的な指標と結びついて科学の対象となるわけです。
ところでライプニッツの言っているエンテレケイア(それが田辺元の言
う「内包量」にあたると思います)、あるいは一般にintensityは、先
のような現象のカテゴリーとしての質と量を成り立たせるものですが、
それ自体としては質でも量でもない。そこで「質」としての量=内包量
=intensityという規定は乱雑に思えるのです。
先にぼく自身はモナドを物質の零度、とか物質の虚数項などと言いまし
たが、これらのたとえにはぼくも不満足です。これではまさにモナドや
エンテレケイアは外延量とカップリングされた内包的なものとして指示
されるからです。しかし、そうした内包的なものを、われわれが現象の
カテゴリーとしての質と混同しさえしなければ、こうした比喩も無価値
ではないと思います。ライプニッツ本人が、モナドはつねに物質に寄り
添うと考えているからです。
興味深いテキストをアップしてくださってありがとうございました。
intensityについてぼくが知っている哲学的考察の代表は「純粋理性批
判」と「差異と反復」ですが、田辺元先生がこういう考察をしているこ
とは知りませんでしたので、ぼくもテキストに自分であたってみること
にします。
423SZ:02/06/25 22:57
Deutschland!

75. Les animaux, dont quelques-uns sont élevés au degré des plus
grands animaux par le moyen de la conception, peuvent être appelés
spermatiques; mais ceux d'entre eux qui demeurent dans leur espèce,
c'est-à-dire la plupart, naissent, se multiplient et sont détruits
comme les grands animaux, et il n'y a qu'un petit nombre d'élus qui
passe à un plus grand théâtre.

75 動物のうちには、受精によってさらに大きい動物の段階にまで達するもの
があり、それらを精子的動物(spermatiques)と呼ぶこともできる。しかし
それらのうちで、もとと同じ種にとどまっているもの、つまりその大半は、
大きい動物と同じように生まれ、殖え、滅びてしまい、もっと大きい舞台に
移ってゆくのは、選ばれた少数のものにすぎない。
424SZ:02/06/27 21:23
最近この板の他スレで、Lのテキストに基づいて「原因と理由の違い」
という、超初級議論をやっているのを見かけました。そのスレはあまりに
終わっているので書き込みませんでしたが、うっかりそこに集まる人たちの
DQNぶりを見てしまって気が滅入っています(初級だから、ということでは
なく、そのスレの1が語り口だけ高慢なわりに、実質的な回答は何も
しないばかりか、それを批判できる人が周囲に一人もいないからです)。

このスレには書き込みがほとんどありませんが、むしろROMってくれる読者が
何人かいてくれればいいのかも..と思い直しました。
そういうLをよく知っている人たちにはわかりきった話で迷惑でしょうが、
Lにおける原因と理由の差異は一点のくもりもなく明瞭なので、
念のためそれを要約しておきます。
典拠は「24の命題」「形而上学叙説」「事物の根本的生産」「モナドロジー」
などです。
425SZ:02/06/27 21:29
原因とは、事象の系列において、ある事象がそれなしには起こらない事象のこ
とである。たとえば化石燃料使用量の急増は地球温暖化の原因の一つであり、
また20世紀に化石燃料使用量が急増したことにも、19世紀における熱力学の
発展や産業革命など、数知れない原因があるだろう。こうした事象の系列は、
錯綜した原因と結果の樹状連鎖を作っており、一つの原因だけに注目して系列
を遡ったとしても、それは無限に続く。しかし、こうした原因と結果の連なり
は、結果の側から見ればそうならざるを得ないことが論理的あるいは経験的に
明らかであっても、別の結果が不可能だったということを意味しない。たとえ
ば産業革命は16世紀の明朝で起こったかもしれず、その結果地球温暖化は18
世紀にピークを迎え、21世紀初めの人類は温暖化を乗り越え、地球規模のル
ネッサンス到来を祝っていたかもしれない。しかし、実際には21世紀の今、
私たちは温暖化対策を迫られている。ということは、事象の系列を結ぶ原因と
結果の連鎖には何らかの必然性がある(Lの用語では“仮定的必然性”がある)
が、しかしそうした事象の系列は、他の系列の可能性を排除するわけではない
(つまりLの言うところの“絶対的必然性”をもつわけではない)。そこでこ
の系列が起こって他の系列が起こらなかったことには、“原因と結果の連鎖と
は別に”、何らかの理由がなければならない。ここから原因と理由の差異が明
確に導ける。理由とは、事象の系列が(個々の事象が、ではない)、まさにそ
の系列をなすように誘導するもののことである。言い換えれば、事象の系列に
おいて、ある事象が別の事象の原因となる可能性を差し措いて、他でもないこ
の事象の原因となるように誘導するもののことである。今年のサッカーW杯で、
ドイツとブラジルが決勝に進出したことには完全に合理的な原因がある。しか
しそうした合理的な原因のどれ一つをとってみても、ドイツが決勝に進出しな
い可能性を排除することはできない(ミス・ジャッジがなければ、対ドイツ戦
にアメリカが勝った可能性は十分にある)。そこでドイツが決勝に進出した以
上は、そこに至る原因と結果の全系列が、他ではなくそうなる理由があるはず
である。以上のことから明らかなように、Lの言う理由とは、原因と結果の可
能な諸系列の中から、現実世界における原因と結果の系列を選択させるものの
ことである。つまり理由とは、現実性と可能性という二つの様相の間の関係に
他ならない。こうした原因と理由の差異は、私たちの日常的な語法にもきちん
と反映している。原因は現象を生起させる現象という意味で用いられ、理由の
方はできごとが他ではなくこうなったわけという意味で用いられているのであ
る。通俗的な用法において、しばしば理由が行動を裏づける妥当な説明の意味
になったり、「なぜそんなことをしたのか」とか「なぜその行為は正当化でき
るのか」という詰問への答が理由とみなされたりするのも、本来の理由という
概念が、他の可能性を差し措いてこの系列を現実化させるものであることに由
来する。(ちなみにニコラス・レイ監督の『理由なき反抗』の原題はrebel
without causeだったはず。このように原因と理由が区別されない例は、欧米、
日本を問わず日常生活にはざらにある)。
426考える名無しさん:02/06/28 01:39
>>424
チンポ博士のスレのことか?
427考える名無しさん:02/06/28 15:00
窓のないスレはココですか?
428SZ:02/06/28 18:23
76 Mais ce n'était que la moitié de la vérité: j'ai donc jugé que
si l'animal ne commence jamais naturellement, il ne finit pas
naturellement non plus; et que non seulement il n'y aura point de
génération, mais encore point de destruction entière ni mort prise
à la rigueur. Et ces raisonnements faits a posteriori et tirés des
expériences, s'accordent parfaitement avec mes principes déduits
a priori comme ci-dessus.
429SZ:02/06/28 18:27

76 しかし、これは真理の反面にすぎない。私の考えによると、もし動物が
自然的に存在し始めるということが決してないなら、自然的に滅びることも
なく、どのような発生もないばかりでなく、完全な破壊も、厳密な意味での
死もありえない。この推論はアポステリオリになされ、経験から導き出され
ているが、これは初めにアプリオリに演繹された私の原理と完全に一致する。

「アプリオリに演繹した原理」=モナドロジー第1−6節= >>106 − >>108
430SZ:02/06/29 05:04
77. Ainsi on peut dire que non seulement l'âme, miroir d'un univers
indestructible, est indestructible, mais encore l'animal même,
quoique sa machine périsse souvent en partie et quitte ou prenne
des dépouilles organiques.

78. Ces principes m'ont donné moyen d'expliquer naturellement
l'union ou bien la conformité de l'âme et du corps organique.
L'âme suit ses propres lois et le corps aussi les siennes,
et ils se rencontrent en vertu de l'harmonie préétablie entre
toutes les substances, puisqu'elles sont toutes des représentations
d'un même univers.
431SZ:02/06/29 05:21
77 そこで魂、滅びることのない宇宙の鏡ばかりでなく、動物そのものでさえ
不滅であることになる。もっともその(身体である)機械は、しばしば部分的
に滅びたり、有機的な殻を脱いだり着けたりすることはあるけれども。

78 これらの原理によって、私は魂と有機的な身体との結合(l'union)
あるいは一致(la conformité )について、自然的に説明する方法を得た
のである。魂はみずからの法則(lois)にしたがい、身体もまたみずからの
法則にしたがいつつ、あらゆる実体のあいだに存する予定調和
(l'harmonie préétablie )のおかげで両者は一致する(se rencontrer)。
なぜならすべての実体は、同じ一つの宇宙の表現なのだがら。
432SZ:02/07/03 17:27
79. Les âmes agissent selon les lois des causes finales par
appétitions, fins et moyens. Les corps agissent selon les lois
des causes efficientes ou des mouvements. Et les deux règnes,
celui des causes efficientes et celui des causes finales,
sont harmoniques entre eux.
433SZ:02/07/03 17:28
79 魂は目的原因の法則(les lois des causes finales )にしたがい、
欲求や目的や手段によってふるまう。物体(身体)は作用原因(実現原因)
の法則あるいは運動の法則(les lois des causes efficientes ou
des mouvements)にしたがってふるまう。そしてこの二つの世界(règne)、
作用原因(実現原因)のそれと目的原因のそれとは互いに調和している。
434考える名無しさん:02/07/03 17:29
仏語の綴り字記号を出して楽しむスレはココですか?
435考える名無しさん:02/07/03 22:00
工作舎のライプニッツ全集9巻の日本語訳を著作権無視で勝手に引用して
楽しんでいるデムパさんが一人で遊んでいるスレはココですか?
436SZ:02/07/03 22:05
夏の2ちゃんは暑苦しいです。そろそろ夏厨の季節だし。
>>435 オリジナル訳ですが、何か?
そんな時こそライプニッツの次のような清涼感ある手紙の一節をどうぞ。
「小さいときにアリストテレスを知りました。スコラ派の人々も私に反感を
起こさせませんでした。今でも嫌ではありません。しかしその頃からプラト
ンとプロティノスが満足を与えてくれました。今でも覚えているのが、15
の時ライプツィヒの近くのローゼンタールという森を一人で散歩しながら実
体形相を取ろうか、捨てようかと考えたことです。ついに機械論が勝利を占
めて一生懸命に数学をやることになりました。しかし、力学の究極の理由、
運動法則そのものの究極の理由を求めたときに、それが数学の中には見つか
らない、形而上学に戻らなければならないと気がついて本当に驚きました。
そこで私はエンテレケイアに立ち戻って、すなわち質料的なものから形相的
なものに立ち戻って、それからしばしば自分の持っている種々の概念を改め
たり進めたりした後で、ただそれがしっかりした根拠を持ち、うまく結合し
ている現象であることを了解しました」(1714年1月10日、ニコラ・レモン
宛ての手紙)
437考える名無しさん:02/07/03 22:42
電波が電波を笑っているスレはここですか?
438考える名無しさん :02/07/03 22:45
SZさんに質問です。
フランス語の原典を引用しているようですが、
大本のソースはどこですか?

439SZ:02/07/03 22:54
>>438 ネット上で公開されている次のモナドロジーのテキストです。
http://un2sg4.unige.ch/athena/leibniz/leib_mon.html
440考える名無しさん:02/07/03 22:58
>>438

このHTML化されているテキストの原典はどこから取っているか分かりますか?
441SZ:02/07/03 23:17
>>440 正確にはわかりませんが、工作舎版著作集の翻訳のテキスト,
André Robinet編“G.W.Leibniz, Principes de la nature et et de
la grâce fondés en raison / Principes de la philosophie ou
Monadologie”(PUF 1954; 3 édition, 1986)と内容は一致しています。
442考える名無しさん :02/07/03 23:19
>>441

??ロビネ編集のテキストのフランス語と一致していることは確かめていないんですか?
443SZ:02/07/03 23:24
>>442 ロビネ編のテキストとHTML上のテキストとは一致しています。
もしネット上のテキストに問題点があるのなら教えてください。
444考える名無しさん:02/07/03 23:34
ロビネ版とざっと照らし合わせてみると
ヴィルギュルの打ち方がだいぶ異なって
いるようですな。
445SZ:02/07/03 23:38
コンマの打ち方まで考慮してテキストクリティクをしなければ
いけませんか?
446考える名無しさん:02/07/03 23:40
やはり、きちんと読む気なら
したほうがよいと思いますが。
日本語でもそうでしょう?
447SZ:02/07/03 23:43
>>446 しかしそれでは定本はどうしますか?
アカデミー版とでも対照しますか?
もしよかったらぜひご協力をお願いします。
448考える名無しさん:02/07/03 23:48
>>446
激しく同意。日本語でも句読点の打ち方一つでニュアンスが
相当違いますからねえ。というか、SZはちゃんと翻訳したのか?
ロビネ版から翻訳された工作舎版の日本語訳と、HTML化された
フランス語のテキストと一致していたと考えていたのか?
449考える名無しさん:02/07/03 23:49
アカデミー版は信用できないと思います。
残念ながら。
とりあえず、モナドロジーに限定するなら
ロビネ版に基づくことで安心していいと思いますが。
450SZ:02/07/03 23:51
>>449 それはどうしてですか? その編の事情はくわしくないので、
ぜひ教えてください。
451考える名無しさん :02/07/03 23:51
>>447
アカデミー版は信用出来ないよ。
Gerhardt版の方がいいよ。
452考える名無しさん:02/07/03 23:55
>>450
アカデミー版は見たことがあるのですか?
453SZ:02/07/03 23:55
>>448 このスレの翻訳はHTML化されたテキストからの翻訳です。
そしてもう一度言いますが、HTML化されたテキストとロビネ版とは
一致しています。したがって、
>ロビネ版から翻訳された工作舎版の日本語訳と、HTML化された
 フランス語のテキストと一致していたと考えていたのか
そんなことはむろん考えていません。
454SZ:02/07/03 23:57
>>452 大学の図書館ではいつも見ています。しかし
くやしいですが自分では持っていません。
455考える名無しさん:02/07/03 23:58
アカデミー版はとにかく埋もれた原稿を
総活字化することが第一みたいで、細かい
検証は二の次にされちゃってるんです。
これはこれですごくありがたいことなんですが
精確な読みが要求されるときにちょっと
心もとないですね。旧字(古い単語)を勝手に
新字(現代の単語)に置換してしまっている
のも、ときにツライものがあります。
456考える名無しさん :02/07/03 23:59
>>453
>そしてもう一度言いますが、HTML化されたテキストとロビネ版とは
>一致しています。

ハァ?444によればロビネ版とはビルギュルの打ち方が大分違うって
報告があるぞ??あなたはロビネ版のテキストと照らし合わせて
一致不一致を一言一句漏らさずにチェックしたのですか?
457考える名無しさん :02/07/04 00:02
>>454

あんなに分厚くて巻数も多くて高額な図書を自腹で
購入する必要はそれほどないと思われますが。
458SZ:02/07/04 00:06
テキスト・クリティクの重要性をおろそかにする気はまったく
ありません。ただそういう能力と興味が私には十分ないだけです。
興味のある人がその興味に応じてここに書き込めばいいのでは
ないでしょうか?
459考える名無しさん:02/07/04 00:08
äöüß
460考える名無しさん:02/07/04 00:10
せめて「興味」と「注意」はしていただきたい。
ときにDQNな勘違いもおきるので。

>>454
枕にするにも幅広で我が家では不便ですな
461SZ:02/07/04 00:13
皆さんにお願いしますが、ライプニッツの言説そのものについて
意見を言ってくださいよ。
>>460 注意はしてるよ。あたりめーだろ
462考える名無しさん :02/07/04 00:29
ところで、SZは456の指摘には答えていないようだけど?
463SZ:02/07/04 00:30
ねむいのでもう寝ます。もうすぐモナドロジー終わりますから、
あとちょっとだけおつきあい願います。
いろいろおバカなことも書きましたが、ぼくにとっては
とても楽しい3ヶ月でした。ありがとうございました!
464考える名無しさん:02/07/04 00:30
>>461
>注意はしてるよ。あたりめーだろ

ふ〜ん。注意しているのに、原典にあたっていなかったんだあ。
465考える名無しさん:02/07/04 00:31
あ、SZ逃げた。(藁)
466SZ:02/07/04 00:31
>>463 まったく細かい連中だな。
一言一句なんか確かめてるわけねえだろ! おまえがやれ!
467考える名無しさん:02/07/04 00:36
>>466
SZが自分に自分でつっこんでいる!!
う〜ん。セルフつっこみしてるぞ。

というかやっぱり、SZはテキストを確認していなかったのね。
最初の方と言っていることが違うなあ。
468SZ:02/07/04 00:39
>>467 今日は鉄板に人がいないよね? 煽りに乗ってくれる人が
いてよかったね? おやすみ〜
469考える名無しさん:02/07/04 00:42
>>468
ハア?煽りもなにも、事実を述べているのが
どちらかは明確だと思うんですけど?嘘つきのSZよ。
470SZ:02/07/04 00:59
>>469 ぼくが言ってるのは、一字一句複数のテキストの異同を
確かめるほどの気力があれば、テキストの読解にそれを
向けたいということ。万が一HTMLのテキストがまずいのなら、
それを指摘するのがこのスレの趣旨から見て筋じゃないですか?
471考える名無しさん:02/07/04 01:04
このスレがふだんsage進行なわけわかりました。
みんな寝た方がいいです。
472考える名無しさん:02/07/04 01:05
久々に活気がありますな。
SZに期待age
473考える名無しさん:02/07/04 01:10
ライプニッツ・スレにとっては低レベルな一夜だったな。
残念。
ネット上のテキストと他の誰かの編著とを厳密に比べたって、
ライプニッツの原典そのものに到達することなどできるわけない。
ネット上にテキストがあり、それが信頼できる他のテキストと一致
しているなら、ネットからのコピペが楽なのは当然。
何が問題なのかわからん。
474考える名無しさん:02/07/04 01:16
453の指摘に従うと、SZはほんの少しだけテキスト・クリティークを
おこたっていたようですね。
原典そのものには到達できずとも、やはりくだらないミスを
減らす努力はしたほうがいいでしょ。
SZは大学の図書館へ出入りできるようなので、次節から何かの
リアクションを期待できるかも!
475SZ:02/07/04 08:07
おはようございます。昨夜は暴言を吐いて失礼をばいたしました。
テキスト・クリティクについての助言、ありがとうございました。
しかし実際問題として、モナドロジーには多くの写本があり、
原典を特定すること自体が困難な上に、すでに1710年代の写本の
段階で、副文冒頭の接続詞前にコンマを打つといったドイツ語流の
表記は訂正されているものもあるそうです(河野与一先生の
「単子論」解説による)。ロビネ版とHTML版の間の句読点の異同も
さかのぼれば写本間の異同にまでいくことになると思います。
ですがぼくにはそこまで細かいチェックはできませんし、その
必要もないでしょう。そこでこのスレがたよりにしているHTML版と、
ゲルハルト版やロビネ版との間の大きな異同にお気づきの方がいたら、
そちらの指摘はその人のボランティアに任せたいと思います。
明後日まで出張なので、書き込みしているヒマがありません。
しばらく空白が続くと一部の厨房がからみそうなので、以上念のため。
476考える名無しさん:02/07/04 10:59
>> 475

ご存知とは思いますが、ロビネ版には「ライプニッツ自身の草稿」
「A写本(=ライプニツの秘書による写本(ライプニツによる訂正を含む)」
「B写本(訂正を加えたA写本の清書)」(以上はハーノファー国立図書館所蔵)、
「ウィーン国立図書館にある写本」の間の比較が示されており、
B写本が定本として採用されています。この定本とゲルハルト版とを比較すると、
一部イタリック体による強調や句読点の打ち方などの違いを除けば、大きな異同は
ありません。(ライプニッツは草稿では下線を引いたり、強調の書き込みをして
いるので、それを編者が取り入れたり無視したりの判断を適宜するわけです)。
また全部を細かくチェックはしていませんが、HTMLテキストとB写本、
ゲアハルト版との間に決定的と言えるほどの違いは見当たらないと思います。
HTMLテキストの使用が重大な誤りを引き起こすことはないと見ていい
でしょう。
また工作舎の翻訳は、ロビネ版を用いたと言いながら、かなりの部分で
ゲアハルト版を用いた河野訳(岩波文庫)を踏襲していますよね。(語句の
レベルにとどまらず、接続詞や慣用日本語の言い回しまで)。これは
先輩の(河野氏の)顔を立てたのかもしれないですが、まあモナドロジーの
フランス語が簡単なので、翻訳どうしが似てくるのはいたしかたない
かもしれません。
477考える名無しさん:02/07/05 14:19
>>422
それでは、たとえば、位置エネルギーをどう解きますか?
478SZ:02/07/06 16:58
富山まで行ってきました。地の魚と日本酒が美味でした(暑かったけど)。

>>476 さっそくのご教示、感謝いたします。

>>477 これだけでは質問の趣旨がはっきりしないですが、
「位置エネルギーは外延量と内包量という観点からどう解釈されるのか」
ということでしょうか?
ぼくの流儀でおおざっぱに言えば、現象のカテゴリーとしての内包量=
状態や運動、現象のカテゴリーとしての外延量=ある単位に基づいて測定
される状態や運動の程度です。
熱はその状態から見れば分子運動であり、こうした状態は内包的であって、
それ自体としては定量化できない。そこでたとえば一定量の水の温度変化を
熱量という単位として規定し、外延化するわけです。
運動エネルギーや位置エネルギー(力学的エネルギー)の場合もこれと
同じことが言えます。位置エネルギーと呼ばれているものは、それ自体
としては二つの物体の相互関係に過ぎません。こうした“状態”そのも
のは内包的ですから、そのままでは定量化できない。そこで質量・速度・
高さといった外延量を決め、これらを単位として“測定可能な状態”に
変換するのです。質量や速度という単位は、われれには自明なものに
思えますが、それは慣れからくるものです。物理現象の外延的な基準に
絶対ということはなく(これは物理学者ならだれでも認めていることです)、
物体の状態や変化という内包量は、様々な外延化の可能性を持っています。
(光を粒子と見ることも、波と見ることも可能なように)。したがって、
力学的エネルギーを測定する外延量も、あくまでわれわれの認識にとって
きわめて便利な基準の一つに過ぎません。
479考える名無しさん:02/07/06 22:22
477ではありませんが、

SZの記述は、
測定不能なエネルギーという内包を外延化という
所作によって便宜的に測定可能になること。



位置エネルギーは、物体の相互関係という内包であるので
何らかの仕方で外延化すると測定可能になる。

でしょうか。

477さんの回答は?
480SAZ:02/07/07 17:18
80. Descartes a reconnu que les âmes ne peuvent point donner de
la force aux corps parce qu'il y a toujours la même quantité de
force dans la matière. Cependant il a cru que l'âme pouvait changer
la direction des corps. Mais c'est parce qu'on n'a point su de
son temps la loi de la nature qui porte encore la conservation de
la même direction totale dans la matière. S'il l'avait remarquée,
il serait tombé dans mon système de l'harmonie préétablie.
481SZ:02/07/07 17:22
すいません。きょうはひさしぶりにあった友達と
飲んでて手元がおかしいので、K訳をそのまま載せます。

80 デカルトは、物質の中にはつねに同一量の力があることから、魂が物体に
力をあたえることはできないことを認めた。けれども魂は物体の方向を変える
ことができると信じていた。しかしこれは、彼の時代には、物質において
方向も全体としては同一に保存されるという自然法則がまだ知られていなかった
からである。もしデカルトがこれに気づいていたら、私の予定調和説をとること
になったであろう。
482考える名無しさん:02/07/07 19:19
K訳って?
Kって誰ですか?
483SZyuzin:02/07/08 03:18
hehe
484SZ:02/07/08 18:21
>>482 工作舎版著作集の翻訳です。

モナドロジー80節を具体的に理解するには、
形而上学叙説の17・18節を合せて読むべきだと思います。
やや長いですが、引用しておきます。工作舎版を用います。
485叙説17節1/5:02/07/08 18:22

 私はすでに、下位の準則すなわち自然法則について何度か
言及した。その実例を一つ挙げるのがよいと思われる。
一般に現代の新しい哲学者たちは、神が世界の中で常に
同一の運動量を保存しているという、かの有名な規則を
採用している。実際この規則はたいへんもっともらしいので、
かつては私もそれを疑うべからざるものと思っていた。
しかしその後、どこに誤りがあるのかわかってきた。
その誤りは、デカルト氏やその他の有能な数学者たちが
信じていたこと、すなわち「運動量つまり運動体の速度に
その大きさ(=質量 sz注)を掛けたものは運動力と
まったく一致する」としたこと、あるいは幾何学的に言えば、
力は速度と物体(=質量 sz注)との積に比例するとした
ことにある。ところで、宇宙においては常に同一の力が保存され
ているというのは合理的である。そこで、いろいろな現象を
注意して見ると機械的な永久運動は行なわれないことがわかる。
一つの機械の力は、摩擦によって少しずつ減少し、やがて尽きて
しまうから、もし永久運動が行なわれるとすれば、その力は
補われ、したがって外から何か新しい衝撃をうけることなしに、
それ自身で増加することになるからである。そして人はまた、
一つの物体はその物体に接している物体に、あるいは「物体の
諸部分が別々に運動しているときは、それらの部分」に力を
与える程度に応じて、減少するのに過ぎないことにも気がつく。
486叙説17節2/5:02/07/08 18:30
 こうして、デカルト派の人々は、力についていえることが、運動量に
ついてもまた言いうると信じたのである。しかし、力と運動量との違いを
示すために、「ある一定の高さから落下する物体は、もしその方向が
もとの所に向かい、それを妨げるものがないとすればふたたびその高さに
昇るだけの力を獲得する」と私は仮定する。たとえば振子は、空気の
抵抗とか何らかの小さな障害とかによって、その獲得した力をいくらか
減少することがなければ、そこから降りてきたのと同じ高さに完全に
ふたたび昇るのである。
 さらにまた、「1kgの重さの物体Aを4mの高さCDにまでもち
揚げるのに必要な力は、4kgの物体Bを1mの高さEFにまでもち
揚げる力に等しい」と私は仮定する。これらすべては現代の新しい
哲学者たちも認めていることである。
487叙説17節3/5:02/07/08 18:37
 そこで物体AがCDの高さから落下すれば、物体BがEFの高さから
落下したのとまったく同じ力を得ることは明らかである。というのは
Fに達した物体BはEにまでふたたび昇る力をもっている(第1の仮定に
よって)から、4kgの物体つまりその物体自身をEFという1mの
高さにまで運ぶ力があり、同様にDに達した物体AはCにまでふたたび
昇る力をもっているから、1kgの物体つまりその物体自身をCDという
4mの高さにまで運ぶ力をもっている。そこで、(第2の仮定によって)
この2つの物体の力は等しいことになる。
488叙説17節4/5:02/07/08 18:44
 ところで今度は、この2つの物体について運動量もまた同じであるか
どうかを見てみよう。すると人はここに、極めて大きな違いのあることを
見つけて驚くであろう。なぜなら、ガリレイが証明したように、高さ
CDはEFの4倍であるが、落下CDによって得られる速度は、落下EF
によって得られる速度の2倍である。そこで、物体A(の質量)を1として
これにその速度2を掛けると、運動量は2となるけれども、他方、物体B
(の質量)の4にその速度1を掛けると、その積すなわち運動量は4と
なる。したがって、点Dにおける物体Aの運動量は点Fにおける物体Bの
運動量の半分であって、しかもこの両方の力は相等しい。そこで運動量と
力とのあいだには大きな違いがあり、これが証明されるべきことだったの
である。
489叙説17節5/5:02/07/08 18:51
 このことから、力は、それが産み出しうる結果の量、たとえば一定の
大きさと性質をもった重さのある物体がもち揚げられうる高さによって
測定されるべきであり、それが物体に与えられる速度とはたいへん違う
ものであることがわかる。そして、物体に2倍の速度を与えるためには、
2倍以上の力を必要とするのである。
 これほど簡単な証明はない。デカルト氏がこの点で誤りを犯したのは、
同氏の考えがまだ十分熟していなかったのにそれをあまりに信じたからに
すぎない。しかし、同氏の学派の人々がその後もこの誤りに気づいてい
ないことに、私は驚いている。そこで私は、彼の学派の人々がアリストテレス
学派を軽蔑しつつも少しずつその真似をしはじめて、彼らのように理性や
自然を調べるよりも、むしろ師匠の書物のほうを調べることに馴れてしまう
のではないかと恐れる次第である。
490SZの呑友:02/07/08 19:02
40男が夢中になるこの話題についてとりあえず分かりやすく解説してください。
491叙説18節1/2:02/07/08 19:09
 このように力を運動量と区別して考えることは、物理学や力学において
真の自然法則や運動の規則を見出すためにも、何人かのすぐれた数学者の
著作に紛れ込んでいる多くの応用の上での誤謬を正すためにも重要である
ばかりではなく、形而上学においていろいろな原理をもっとよく理解する
ためにもたいへん重要なのである。というのは、われわれが運動を考える
ときに、運動に含まれている正確で形相的(本質的)なもののみを、すなわち
場所の変化というもののみを考えるならば、運動は完全に実在的なものでは
なくなるし、多くの物体がお互いにその位置を変える場合に、これらの変化を
考察するだけでは物体のうちのどれが運動しどれが静止しているのかを決定
することはできないからである。今、私がこの問題に立ち止まって論じようと
思えば、幾何学的にも示すことができるのである。
492SZの呑友:02/07/08 19:12
しかしszほどねらーらしくないねらーもいない。
中身よぅわからん。
文章の言い回しの語感がいつもどおり冴えないということはわかるのだけれども。
493叙説18節2/2:02/07/08 19:23
 ところが、力、すなわちこうした変化の直接の原因は何かもっと実在的な
ものであって、それを他の物体ではなくむしろこの物体に属させるのには、
十分の根拠がある。また、それによってのみ運動が、とくにどの物体に属し
ているのかを知ることができる。ところが、この力とは図形の大きさや運動
とは何か違っているものなので、物体において考えられるすべてのことが、
現代の人々が確信しているように、ただ広がりやその変容のみに存している
のではないと判断することができる。こうして現代の学者たちにより追放
されたある種の存在ないしは形相を、われわれは余儀なく復活させることに
なるのである。そして、自然の特殊的な現象は、これを理解する人によって
数学的あるいは力学的に説明することができるけれども、物体の本性の
一般的原理やさらに力学の一般的原理は、幾何学というよりはむしろ現象の
原因となっている不可分の形相ないしは本性に属しているとますます
思われてくる。こうしたことをよく考えれば、近代の人の機械論的(力学的)
な哲学と賢明で善意の人たちの慎重な懸念とを和解させることができる。
こうした人は、非物質的なことから遠ざかりすぎて敬虔な心を損なうことを
恐れているが、それにはそれなりの理由があるのである。
494SZの呑友:02/07/08 19:53
つまり、SEX、と。
えすいーえっくす、せっくす、と。
えすぴーいーしあいえーえるえすいーえっくす、すぺしゃるせっくす、と。
495考える名無しさん:02/07/08 22:12
SZは40男なのか????
当方、SZのテキストクリティークの甘さを突っ込んだ者だが、
漏れは19歳ですよ〜。あれが本当に40男のリアクションなの???
496SZ:02/07/08 22:34
>>495 基地外のことばを真に受けないでほしいです..

81. Ce système fait que les corps agissent comme si, par impossible,
il n'y avait point d'âmes, et que les âmes agissent comme s'il n'y
avait point de corps, et que tous deux agissent comme si l'un
influait sur l'autre.

81 この説によると、物体(身体)は魂がないかのように(ありえないことだが)
ふるまい、魂は物体(身体)がないかのようにふるまう。しかも両者は、互いに
影響を与え合っているかのようにふるまうのである。
497SZ:02/07/08 22:37
82. Quant aux esprits ou âmes raisonnables, quoique je trouve
qu'il y a dans le fond la même chose dans tous les vivants et animaux,
comme nous venons de dire, savoir, que l'animal et l'âme
ne commencent qu'avec le monde et ne finissent pas non plus que
le monde, - il y a pourtant cela de particulier dans les animaux
raisonnables, que leurs petits animaux spermatiques, tant qu'ils
ne sont que cela, ont seulement des âmes ordinaires ou sensitives,
mais dès que ceux qui sont élus, pour ainsi dire, parviennent par
une actuelle conception à la nature humaine, leurs âmes sensitives
sont élevées au degré de la raison et à la prérogative des esprits.
498SZ:02/07/08 22:39
82 精神あるいは理性的な魂についていえば、すでに述べたように、動物も魂も
世界とともにしか始まらず、世界とともにしか終わらないということは、すべて
の生物や動物について結局同じであることを私は認めるけれども、理性的動物
にはやはり特別なところがあって、それが持っている微小な精子的動物は、
精子的動物である限りただ普通の魂あるいは感覚的な魂しかもっていないが、
そのうちのいわば選ばれたものが、実際の受精によって人間の本性に到達すると、
その感覚的な魂は高められて理性の段階、つまり精神という特権に達するのである。
499SZ:02/07/08 22:41
83. Entre autres différences qu'il y a entre les âmes ordinaires
et les esprits, dont j'ai déjà marqué une partie, il y a encore
celle-ci, que les âmes en général sont des miroirs vivants
ou images de l'univers des créatures, mais que les esprits sont
encore images de la Divinité même, ou de l'auteur même de la nature,
capables de connaître le système de l'univers et d'en imiter
quelque chose par des échantillons architectoniques,
chaque esprit étant comme une petite divinité dans son département.
500SZ:02/07/08 22:43
83 普通の魂と精神とのあいだの他のさまざまな差異(その一部については
すでに指摘した)の中には、さらに次のようなものがある。一般に魂は、
被造物の宇宙の生きた鏡あるいはその像(images  河野訳「姿」、
工作舎訳「似姿」)であるが、精神はその上に、神そのもの(la Divinité
même)、自然の創造者そのものの像でもある。そこで宇宙の大系を知ることも、
自分のもっている建築術の片鱗(échantillons 見本、サンプル)
によって宇宙のいくらかを真似ることもできるから、どの精神も自分の
領域における小さな神(une petite divinité dans son département)
のようなものである。
501SZ:02/07/08 22:45
84. C'est ce qui fait que les esprits sont capables d'entrer
dans une manière de société avec Dieu, et qu'il est à leur égard,
non seulement ce qu'un inventeur est à sa machine (comme Dieu
l'est par rapport aux autres créatures), mais encore ce qu'un prince
est à ses sujets et même un père à ses enfants.
502SZ:02/07/08 22:46
84 このことによって、精神は神とのある種の交際関係(société)に入る
ことができるとともに、神が精神に対する関係は、発明家の機械に対する関係
(神が精神以外の被造物に対する関係がそうであるのと同じく)にとどまらず、
君主と臣下、むしろ父と子の関係なのである。
503SZ:02/07/08 22:47
85. D'où il est aisé de conclure que l'assemblage de tous
les esprits doit composer la cité de Dieu, c'est-à-dire le plus
parfait état qui soit possible sous le plus parfait des monarques.

85 そこから容易に、すべての精神の集合は、神の国(la cité de Dieu)、
すなわち最も完全な君主のもとにある、できる限り完全な国家をつくって
いなければならないという結論が生じる。
504SZ:02/07/08 22:50
86. Cette cité de Dieu, cette monarchie véritablement universelle
est un monde moral dans le monde naturel, et ce qu'il y a de plus
élevé et de plus divin dans les ouvrages de Dieu et c'est en lui
que consiste véritablement la gloire de Dieu, puisqu'il n'y en
aurait point, si sa grandeur et sa bonté n'étaient pas connues et
admirées par les esprits; c'est aussi par rapport à cette
cité divine, qu'il a proprement de la bonté, au lieu que
sa sagesse et sa puissance se montrent partout.
505SZ:02/07/08 22:51
86 この神の国、この真に普遍的な王国こそ、自然の世界の中にある道徳的
世界であり、神の作品のうちで最も崇高、最も神的なものであって、神の栄光
が真に存するところである。もし神の偉大さと善意とが精神によって認められ
賞賛されなければ、神の栄光はありえないからである。さらに、神の知恵や
神の力はいたるところにあらわれているが、神が本当に善意をもっているのは、
この神の国に対してである。
506SZ:02/07/08 22:53
87. Comme nous avons établi ci-dessus une harmonie parfaite
entre deux règnes naturels, l'un des causes efficientes,
l'autre des finales, nous devons remarquer ici encore une autre
harmonie entre le règne physique de la nature et le règne moral
de la grâce, c'est-à-dire, entre Dieu considéré comme architecte
de la machine de l'univers, et Dieu considéré comme monarque
de la cité divine des esprits.
507SZ:02/07/08 22:54
87 さきにわれわれは、二つの自然界、つまり作用原因(実現原因)の世界と
目的原因の世界のあいだに完全な調和があることを確認したが、ここではまた、
自然の物理的な世界と恩寵の道徳的な世界、つまり宇宙という機械の建築家と
して考えられた神と、精神からなる神の国の君主として考えられた神との
あいだに、もう一つの調和があることを認めなければならない。
508SZ:02/07/08 22:56
88. Cette harmonie fait que les choses conduisent à la grâce par
les voies mêmes de la nature, et que ce globe, par exemple,
doit être détruit et réparé par les voies naturelles dans
les moments que le demande le gouvernement des esprits pour
le châtiment des uns et la récompense des autres.
509SZ:02/07/08 22:57
88 この調和によって、事物はまさに自然の道を経て恩寵にまで導かれる。
たとえば、この地球は精神に対する統治がそれを要求するたびに、あるもの
を罰し、あるものを賞するために、自然的な道によって破壊されたり修復
されたりすることになる。

SZ注 dans les moments que le demande le gouvernement
des esprits
河野訳「精神に対する統治がそれを要求する時毎に」と、
工作舎訳「精神を統治するのに必要とされるたびごとに」を比較すると、
前者の直訳の方がすぐれているように思います。
510SZ:02/07/08 22:59
89. On peut dire encore que Dieu comme architecte contente
en tout Dieu comme législateur, et qu'ainsi les péchés doivent
porter leur peine avec eux par l'ordre de la nature, et en vertu
même de la structure mécanique des choses, et que de même
les belles actions s'attireront leurs récompenses par des voies
machinales par rapport aux corps, quoique cela ne puisse et ne
doive pas arriver toujours sur-le-champ.
511SZ:02/07/08 23:01
89 さらに次のように言える。建築家としての神は、すべての点で立法者と
しての神を満足させる。そこで、罪は自然の秩序によって、さらには事物の
機械的な構造によって、自分の罰を担わなければならない。同じように、
美しい行ないも、身体に関わる機械的な道によって、その報償を得るのである。
もっともこれは、いつでもすぐに起こるとは限らないし、起こるべきである
とも言えない。
512SZ:02/07/08 23:03
90. Enfin, sous ce gouvernement parfait, il n'y aura point de
bonne action sans récompense, point de mauvaise sans châtiment,
et tout doit réussir au bien des bons, c'est-à-dire de ceux qui
ne sont point des mécontents dans ce grand état, qui se fient
à la Providence après avoir fait leur devoir, et qui aiment
et imitent comme il faut l'auteur de tout bien, se plaisant dans
la considération de ses perfections suivant la nature du pur
amour véritable, qui fait prendre plaisir à la félicité de
ce qu'on aime. C'est ce qui fait travailler les personnes sages
et vertueuses à tout ce qui paraît conforme à la volonté divine
présomptive ou antécédente, et se contenter cependant de ce que
Dieu fait arriver effectivement par sa volonté secrète,
conséquente et décisive, en reconnaissant, que si nous pouvions
entendre assez l'ordre de l'univers, nous trouverions qu'il surpasse
tous les souhaits des plus sages, et qu'il est impossible de
le rendre meilleur qu'il est, non seulement pour le tout en général,
mais encore pour nous-mêmes en particulier, si nous sommes attachés
comme il faut à l'auteur du tout, non seulement comme à l'architecte
et à la cause efficiente de notre être, mais encore comme à notre
maître et à la cause finale qui doit faire tout le but de notre
volonté, et peut seul faire notre bonheur.
513SZ:02/07/08 23:05
90 最後に、この完全な統治のもとでは報償のない善行はなく、罰のない悪行
もない。善い人々にとって、すべてが幸福な結果をもたらすに違いない。
善い人々とは、この偉大な国にあって不満をいだくことなく、自分の義務を
果したあとは神の摂理(Providence)を信頼し、すべての善の作者をこよなく
愛しかつ模倣し、自分の愛する者の幸福を見て喜ぶという真の純粋な愛の本性に
したがって、神のもつさまざまの完全性を眺めて楽しんでいる
(se plaisant dans la considération de ses perfections)人々の
ことである。こうしたところから、賢明で有徳な人々は、推測により知られる
神の先行意志にかなうと思われることをすべて実行するとともに、他方では
神の秘められた、帰結的かつ決定的な意志によって実際に起こることに満足する。
彼らはこのとき次のように考えている。われわれに宇宙の秩序が十分に理解
できれば、その秩序はもっとも賢明な人たちが抱くいかなる願いより優れていて、
それを現在の状態よりもっとよくすることはできない、ということがわかる
だろう、と。このことは全体について一般的に言われるだけではない。
われわれが万物の作者に対して、建築家つまりわれわれの存在の作用原因
(実現原因)としてだけでなく、われわれの主君つまりわれわれの意志の
全目標たるべき目的原因、それのみが人間の幸福をもたらすことができる
目的原因として、しかるべく結びついているときには、われわれ自身に
ついて個別的にもそう言えるのである。
514SZ:02/07/08 23:07
HTMLテキスト、工作舎・岩波書店に感謝します。

今後しばらくは2ちゃんを離れて勉強します。SZという固定ハンドルは、
あくまでこのスレでのIDにすぎなかったので、モナドロジーを一応読み終えた
いまとなっては不要でしょう。ぼく個人にとっては非常に実り多い3ヶ月でした。
ご不快をおかけした人がいたとしたら、勘弁してちょ。

哲学板とライプニッツ・スレの今後の発展を祈ります。
515SZ蚤友:02/07/08 23:17
なんだかなんとなく分かった気になるようなそれでいて全然分かられないような文章なんだな。
なんとなく何もいってないのとほとんど同じことのような気もしないでもないというような。
とりあえずこのスレを頭から読んでみるか。意味わかんないけど。

>496
白白しすぎて面白いです。
516考える名無しさん:02/07/09 00:09
おいおいおい、SZは逃亡かよ(w
517考える名無しさん:02/07/09 04:56
SZ逃亡したな。ちょいと煽られるとすぐに逃げる電波くんだからねえ。
518476:02/07/09 07:41
SZさん、モナドロジー読解、お疲れさまでした。
ぜひまた戻ってきてください。

つまらんコテハンたたきしてる19歳他のDQNたちよ、
自分のカキコ見て恥ずかしくないかい?
訳文も原典もろくに読めないオマエラのようなクズが、
テキスト・クリティークとか言って笑わせんじゃない。
自分がまともなカキコできないうらみをコテハンに向けるなよな。キショイからさ。
519考える名無しさん:02/07/09 07:55
え、SZさんいなくなっちゃったの?
3ヶ月間ほんっとお疲れ様でした。
激励のレスさえ書き込むのをためらったものです。
またボクにロムらせてくださいな。
ついでに辞書引いて語学にも取っ付いてみます。
どうもありがとう。
520SZ蚤友:02/07/09 14:50
テキスト☆クリティーク
521考える名無しさん:02/07/10 05:50
要反省あげ
522考える名無しさん:02/07/11 09:50
SZさ〜ん。
あなたの(たぶん)キライなチンポ太郎が、久しぶりに
出てきてこんなこと言ってます。
ぼくにはこのスレ全部読んで答を探し出す気力がないので、
どの辺に答があるのか手っ取り早く教えてくれませんか。

「矛盾律」についてだが、ライプニッツはそれを
哲学の二大原則のうちの一つに数え上げているよ。はっきり言って、
ライプニッツの哲学は三つの原理を持っている。
一番根源的なのは、充足理由の原理。次に矛盾の原理で、最後に完全性の原理だ。
但し重要なのは、矛盾の原理は推論の真理に適用され、完全性の原理は事実の審理に
適用されるのだが、充足理由の原理だけは、両者に異なる適用をされるということだ。
さて、これがどういうことが分かるだろうか。
ぜひ諸君も『モナドロジー』でこの辺りを検討して欲しい。
ヒントはライプニッツの言う「分析」という言葉だよ。
ひっさしぶりに哲板きたら、これかい!
まだ「叙説13節」までしかよんどらんのだが、
頼れるガイドがいなくなったこれから、
L哲学を正しく理解できるか不安でならない。
(本来は自分で努力してなんぼなのだが…)

サオZよ〜。時には顔出してくれよ〜。
勉強はもちろん必要だが、
ライプニッツのテキスト(単子論)が(ここで進められた哲学にもとづき)
やっと全て総括して考えられる今、
本当の(?)議論はこれからはじまるのではないか。
(なんてふっても誰も反応しないから(まともな))
とりあえず、なんか疑問があったらかくので、
できたら答えてください。お願いしまする。
524考える名無しさん:02/07/12 11:18
age
525477:02/07/12 19:47
亀レス失礼。

素人の理解では、外延量と内包量との関係は、可能態と現象態というか、ヘーゲルの「否定」に通じるニュアンスのものではないかと思ったのです。
526考える名無しさん:02/07/12 20:39

ライプニッツ ライプニッツ ヤッホー ヤッホー ♪

「ピクニック」だろ !


ワカルヒトハ チューネン デス
527SZ蚤友:02/07/19 17:12
あ、師匠、携帯ボッカレたのでワシんとこにメールとか送っといてください。
528SZ蚤友:02/07/20 01:28
下がってたし。
529考える名無しさん:02/07/20 20:32
530考える名無しさん:02/07/20 20:43
モナドとは、その内面が不可知の最小単位で、
デモクリトスが言う意味での原子だ。つまり人だ人。
531SZ蚤友:02/07/20 22:53
そんなことはどうでもいいから、はやくMAはGのケータイにメールを入れるようにしてください。
532考える名無しさん:02/07/21 01:05
「ライプニッツ、ライプニッツ、髪をたらしておくれ!」
533考える名無しさん:02/07/24 01:45
hoshu
534:02/08/01 07:17
維持age
535考える名無しさん:02/08/01 17:54
>>522
「完全性の原理」って何だ?
いいかげんに言ってないか?
536考える名無しさん:02/08/01 18:17
クワインの議論によって分析的真理と総合的真理の区別の無根拠さが
指摘されて以来、カントの分析判断と総合判断の峻別に対する
問い直しもまた哲学的な議論に上るようになっている。
こうした文脈において、プレカンティアンとしてのライプニッツの業績、特に
偶然的真理(事象の真理)を分析的とみなす彼の考えが注目されると言える。
537考える名無しさん:02/08/01 18:29
>>536
充足理由律が、個体的実体の概念における述語の主語内在(=偶然的事象を
構成する概念の分析的性格)から演繹されるって、そこまで言ったら、
世界そのものがあらかじめ決定されていることから充足理由律が成り立つ、
と言ってるに等しい。これがライプニッツの可能世界論とどうやって
両立するのか、わからん。
チンポ、教えれ。
538考える名無しさん:02/08/01 18:38
充足理由律とは、この世界がかくのごとくあることを受け容れる
覚悟の表明であると私は思う。

この世界がこうであって他ではない、ということはあまりに
おかしなことで、そこに何の理由(根拠)もないということは
(現にこの世界がこのような仕方であるのだから)考えられない、
という決断。

『論考』のウィトが、世界がある、ということが神秘だ、と
言ったのに似てはいないかな。
539考える名無しさん:02/08/01 18:42
>>536
はあ、なるほど。
逆にカントの総合判断に興味もったよ。
540538:02/08/01 18:43
このような覚悟がなければ、ライプニッツには
可能世界(神の悟性におけるあらゆる可能な事象の存在)
を考察することもためらわれたのではないか。

この点も『論考』の論理空間(SZはたぶんウィトからこの語を
引いている)があらゆる可能な事態の集合であり、
世界が現実の事態の集合であること、野矢茂樹の
言う通り、ウィトは後者の存在をまず受け容れることで
前者を定立しているということに呼応するように思われる。
541539:02/08/01 19:02
>>536
でも分析系の人が入るとなんか新鮮だよね。
俺には分析哲学のカントの処理の仕方があまりにお粗末に見えるんだが、
いろいろ考える動機を与えてくれるのも確か。
542536:02/08/01 19:06
>>541
フレーゲもラッセルもクワインもクリプキも、みんなライプニッツを
研究してますよ。分析系の研究者はどちらかというとカントの議論を
正面から取り上げない。
逆にウィトゲンシュタインは『論考』の時期にもろカントが入っている。
この辺は面白い現象だと思いますね。

ちなみにぼくは分析系ではないです。
543539:02/08/01 19:21
>>542
やっぱりそうだったんだ。
カントの数学の位置づけにまがまがしいものを感じたからだろうか?
この点で、ウィトゲンシュタインに関しては後期までカントから離れてないと思う。
544536:02/08/01 19:36
>>543
カントは数学的な真理をとりあげるときに、へんに経験論的になるんですよ。
例のアプリオリな総合判断、っつやつ。
フレーゲは「算術の基礎」で、特にこの点に敵対的で、ミルとカントを攻撃
しつつ、その一方でライプニッツ的な「論理主義」、つまり数学的な真理は
あくまで論理学的な真理から演繹できる、しかもそうした論理学的な真理は
われわれの悟性が作るのではなく、悟性の方がそこから学ぶものだ、という
考え方をとるわけ。ライプニッツの合理主義と、フレーゲ以降の分析哲学
のつながりは軽視できないと思いますよ。

もちろん、いわゆる論理主義は、カルナップのような連中の場合のように、
経験主義と結びついて論理実証主義というアフォな潮流を作ってりまうんだ
けど、これに対してはクワインのような正統経験主義者が、きっちり
かたをつけてくれるわけですね。(還元主義批判というかたちで)。
545考える名無しさん:02/08/01 19:54
今夜はばりばり学問系スレばかりあがるけどどうしてだ?
ま、よろこばしいからあげとこう。
546539:02/08/01 20:15
>>544
カントは経験そのものの構造を明らかにしようとした。
それで数学においては構成的なものと考えたのでは?
そこがウィトゲンシュタインの問題意識と似ている。
ただし、カントはその上で悟性の客観的妥当性という確実性を解明する
わけだけど、このへんは胡散臭い。
かといって分析哲学に俺は逝けないんだな。
だから分析哲学者がライプニッツに逝くようには逝けそうにない。
分析哲学はなにか重大な問題系を避けている。
そこが興味深い。
547あぼーん:あぼーん
あぼーん
548536:02/08/01 20:37
>>546
なるほど、あなたはどちらかというとカントからウィトへ通じる問題系に
惹かれるわけだ。
ぼくにはあなたの考えている問題系の中味はよくわからないが、二人に
はっきり共通することは、認識の問題から価値の問題を切り離すことはできない、
ということだろうと思う。ウィトの思考が大きく変転したことは事実でも、
一貫してこの世界に自分が生きるということの「価値」が、奴の関心の中にはあった、
とぼくは思う。カントについても、よく誤解されることが多いが、そういう
価値の問題への回答という動機は無視できないだろうな。
しかし現代の分析哲学だって、ぼくはよく知らんが、こうした問題を背後に
抱えていることは事実だ。ただ、それを言っちゃあおしまいだから、黙っている
わけなんだろうな。
ま、全然とんちんかんなことを書いているのだろうが。
549考える名無しさん:02/08/02 15:49
宇宙論スレでも話題になってるが、だれか「目的原因」の定義してみて。

アリストテレスは設計図のようなものをイメージしていて、
事象がそれにしたがって展開するプログラムを目的原因と呼んだ
ようだけど。

この理解が正しいなら、目的原因って、究極の過去とも
究極の未来ともとれるわけだよね。時間的には事象を
挟み撃ちしているようなもの。

あるプログラムにしたがって事象が展開していき、結果として
事象はそのプログラを完成することをめざす、ということなら、
目的原因って決定論の別名になりはしないのか?

ライプニッツがモナドや精神に目的原因を認め、他方物質に作用原因を認める
っていうのは、相当むりな構想ではないかと思うんだが。
ここがすっきりしないとやっぱりライプニッツの形而上学はうさんくさい、
ということに、(少なくともおれには)なりそうだ。
550あぼーん:あぼーん
あぼーん
551考える名無しさん:02/08/02 16:12
モナドロジーに当時の生物学の話がいっぱい出てくるように、
ライプニッツは生命がなんらかの目的に沿って活動している
という擬人観を持っていたのかもしれないね。1世紀ほど後の
ドイツの有機体論に似た。ま、脱線だけど、弁証法だって遡れば
たんなる擬人観だと思う。
アリストテレスの目的原因も、やっぱり彼の自然観察(「動物誌」
に代表される)から導かれたもの。
目的原因とは、自然現象(特に生命現象)や精神現象の
「背後」に何か隠された次元がある、と考える思考法
が生み出した仮構だとおれは思う。
552考える名無しさん:02/08/08 10:17
>>551
そう、ライプニッツは、モナドが全宇宙を
表象するという目的をもった活動をすると
とらえている。
でもそれは、あなたがいうような「単なる
擬人観」という言い方で片付けることが
できるのであろうか?
生物が栄養摂取し、自己を維持するためには
何らかの感覚(表象)がなきゃやってられな
いだろう。それは生物に備わった本質(目的
因)とはいえないだろうか?
あなたはそれも否定するのか?
あなたがこうして2ちゃんのスレを読み、
カキコしていること自体が、ある意味では
あなたの目的原因の実現だと言えるのでは
ないかな?

ライプニッツについては『叙説』と『モナド
ロジー』をちょっと齧っただけで、わかんない
とこも多いけど、簡単には括りきれない広がり
を感じるね。
>>549-552
自分もまだ377までしかよんでいないのだが、
せっかくこのスレにかきこむぐらいなのに、
SZの見解を読まないのはどうだろうか。

>>549
私の粗末な理解力ですまないが、説明させていただくと、

ライプニッツを批判的に研究した上で、
SZによって示されたライプニッツの理論の修正によれば、
たしかにモナドの行動とはモナドの中にすでに含まれている
(これを目的因とつなげられるかは、未だわからず)ので、
一見それは決定論的に見えるかもしれない。
しかし、それだからこそ現実界の出来事(?)は分析することができるのであり、
しかも、その分析は無限に終らない。
つまりカオス系で示されるような、その振る舞いからでは予測不可能な偶然的事象を
含むということである。
ゆえに、この理論を容易に決定論という名をなすには、不適であろう。
そしてそれは、ライプニッツの理論の時代的制約をできるだけ考慮し、
且、ライプニッツの理論体系をできるかぎり保護した修正であり、
ライプニッツの理論の発展としては必然的な形であると思われる。

それと、目的因をプログラムと言っていたが、
プログラムとは「情報」を処理する機構であり、
「情報」がなくては意味をなさない。
それは目的因の、形相に(絶対的に)内在的な姿勢とは違うのではないか。
といっても、私もアリストテレス哲学に詳しいわけでないので、
すまないが目的因とは何かを言うことはできない。
554考える名無しさん:02/09/03 01:12
バカじゃん
>>554
くやしいから、つられてやるが、(それ以前に俺に対してのレスなのか?)
とにかく、「目的因」の辞書的また一般的な定義としては
「自己の形相を実現しようとする欲求」
あたりだろうが、欲求がどう定義されるかも不明。それに、アリストがいう
ニュアンスともまた違うに違いない。
何しろ、>>549は「定義してみて」といっているのだから、
辞書棒読みは無意味だろう。
「目的因」と言う言葉を十分研究した上で定義しなければならない。
その研究の範囲とは、特にアリストテレス、
そしてそれから続く哲学史一般である。
ゆえに、私のようなバカにはできない芸当なのだが、
そこら辺の頭のいいものにも簡単にはできるものでないだろう。
ゆえに、それをもって、バカというのは本末転倒である。

>>551
ところで、「擬人観」とは事物を人間の形態や性質に類するものとして考える立場
だが、モナドとはもちろん「魂」も含まれるゆえに、(むしろモナドを「魂」とよぶのだが)
その点では事物といわれる中に人間の形態や性質が含まれているので
何も類しているわけではない。誤解を生まぬため次の引用も読んで欲しい。
>ライプニッツがモナドを「魂」というときには、
>その「魂」という概念自体があらゆる表象の段階を含んでおり、神秘思想家
>連中の言う霊魂概念などの外延をほとんど無限に越えてしまっているのです。
>つまりライプニッツは「魂」という概念をきわめて合理的に用いているので、
>この言葉の表面的な語感に反応すると、大変な誤解を招く点に注意が必要なのです。
上は>>123からの引用。

もう一つ加えて言えば>>551では
>目的原因とは、自然現象(特に生命現象)や精神現象の
>「背後」に何か隠された次元がある、と考える思考法
>が生み出した
とあるが、少なくともライプニッツが使う用語としての
目的因(現勢化へ向かわせる要因ととらえて)は、
「「背後」に隠された次元」を必要としない。
それは例のように主語の中に述語が含まれている、という
論理的に要請される原因に支配されているからである。
(なんだか変な文になっているがそこら辺はこのスレ全体を通しての文脈解釈を望む)
ゆえに、それは世界に内在している原理ということができよう。
557考える名無しさん:02/09/13 10:30
関係ないかも知れませんが、今、世界で有名なライプニッツ研究者って
どんな人がいるのか教えて下さい。出来れば所属先も。
558考える名無しさん:02/09/13 21:59
>>557

Andre Robinet,Benson Mates,Michel Fichant, Hide Ishiguro,
R.S.Woolhoues,Michel Serres,
559考える名無しさん:02/09/13 22:07
>>558
20年前のデータだね。そもそもいまライプニツなんて、文献学者と論理学者を
のぞいてまともに研究してるやついないよ。
それより、1901〜3年の、ラッセル、クーチュラ、カッシーラー等の
記念碑的業績を研究すべきだ。残念ながら、この三人のライプニッツ論は
いずれも訳出されておらず、英・仏・独語を読む必要があるけど。
ちなみにドゥルーズとセールだけは手を出すな。ただの韜晦だからね。
560考える名無しさん:02/09/13 22:12
>>559
>ちなみにドゥルーズとセールだけは手を出すな。ただの韜晦だからね。

ドゥルーズの場合、「襞」はつまらんが、「スピノザと表現の問題」と
「差異と反復」でのライプニッツへの言及は重要だと思われ
561559:02/09/13 22:47
>>560
>ドゥルーズの場合、「襞」はつまらんが、「スピノザと表現の問題」と
「差異と反復」でのライプニッツへの言及は重要だと思われ

おれはドゥルーズのライプニッツへの言及はどれもたんなるコラージュ
にすぎないと思うよ。ていうかドゥルーズはいつも哲学史に関して
コラージュ的引用しかやらない。スピノザと表現の問題はたしかに
エティカの再構築を目指しているけど、おれにはエティカの方がやっぱり
面白い。ライプニッツについては、ドゥルーズから教えられるようなことは
なかった。

562557:02/09/13 23:19
>>558
レス有難うございます。しかし確かにみんなお爺さんでもう棺桶に
片足を突っ込んでいる人が多いですよね。>>559さんが仰っているように、
ライプニッツの形而上学に本気で取り組んでいる人が少ないようで
残念です。
ラッセル、クーチュラ、カッシーラーの研究書は知っていますが(恥ずかしながら
まだ読んでません)、ハイデガーのライプニッツ解釈なんかはどうなんでしょう。
また出来れば上記三人のライプニッツ解釈の核心を御教示願えませんか。
宜しくお願いします。
563557:02/09/13 23:24
それからライプニッツの研究が一番盛んな国はどこなのでしょうか。
やっぱり独仏に限られるのでしょうか。
564考える名無しさん:02/09/14 07:05
なんでライプニッツはしっかり研究されていないのだろうか?
20年前のデータしかないということは、やはり最近は研究されていないのだろうか?
565559:02/09/14 10:37
>>562
>また出来れば上記三人のライプニッツ解釈の核心を御教示願えませんか

ちょっとそれはおれの能力を超えることなので勘弁してください。
おれが読んだのはラッセルのみだし。
またラッセルだけでもとんでもなく手間がかかりそう。

557さんはたぶん哲学科でライプニッツ研究をやるつもり
なんでしょうが、ラッセル、クーチュラ、カッシーラーで十分
研究テーマになると思いますよ。

ハイデガーのライプニッツ解釈については、工作舎版著作集
第8巻(前期哲学)53−62ページをご覧あれ。
ハイデガーが「ニーチェ」の中でとりあげた、ライプニッツ
初期のラテン語論文「24の命題」についての解釈の要点が書いてある。
566考える名無しさん:02/09/19 07:47
哲学板の設定を変更してもらって、フランス語のアクサンやドイツ語のウムラウト、
数学の記号などを使えるようにしてもらいたいと思うのですが、いかがでしょうか?
より正確な文献表、引用、議論の展開が可能になると思います。
        
賛同いただける方、意見のある方は、以下のスレッドにお書き込みください。
                        
哲学板にウムラウトやアクサン、数学記号を!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/philo/1032388691/l50
567考える名無しさん:02/09/21 23:36
うへへへへへ、あげへへ
568考える名無しさん:02/09/22 23:25
なんか、ライプニッツの良い入門書ってないですか?
バイオグラフィーも手頃なものがないし…。
569考える名無しさん:02/10/16 22:14
>>568

佐々木能章著『ライプニッツ術』工作舎はどうよ?
http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-367-7.html
570考える名無しさん:02/10/16 22:17
内容はよさげだけど、本屋で手に取ったら紙質がスゲーチープ
571考える名無しさん:02/10/16 22:22
>>570

工作舎でそんなに紙質悪かった?
漏れは読んでみたけど、かなり上質な内容だよ。
というか、これ以上の分かりやすいライプニッツの入門書って
ちょっとないね。
572考える名無しさん :02/11/04 07:29
あげ
573考える名無しさん:02/11/08 02:05
http://www.fukkan.com/
ここで「単子論」の文庫を復刊させよう!
岩波はなぜ絶版さす?
574考える名無しさん:02/11/10 02:37
>>573
『単子論』は絶版ではなく、「在庫切れ」って扱いのはず。
岩波文庫はこの手のことをよくやります。確か『単子論』の
最近の重版は1995年じゃなかったけ?
575考える名無しさん:02/11/16 03:36
576考える名無しさん:02/11/16 16:52
>>575
可能世界のうちの一つ・・・かな
577考える名無しさん :02/11/17 02:13
>>576
神が選択した最善で最完全な世界ですよ。
578考える名無しさん:02/11/17 02:21
デカルト・スピノザは分かるがライプニッツは全くわからん
579考える名無しさん:02/11/17 02:38
文庫って読みにくくない?
おれ、訳がそう変わらないならば、ハードカバーを絶対買うけど。
「単子論」って世界の名著に入ってたよね?
それじゃあダメなの?
580考える名無しさん :02/11/17 10:36
>>579
翻訳の良さ、及び脚注、解説の的確さを考えると、
岩波文庫『単子論』>工作舎版全集>世界の名著……の順番かなあ。

でも、岩波文庫は古本やでも3000円以上するだろうし、
工作舎版の全集は一冊1万円はするからねえ。
図書館に工作舎版があれば、その『モナドロジー』だけコピーがベストかと思う。
581579:02/11/18 00:02
>>580
親切にありがとう。
やっぱり岩波の方がいいんだ。文庫は長時間読むのに疲れるというのもあるけど、
書き込みがし難いのもつらいんだよね。
580さんの言うように、工作舎版のコピーがいいみたいだね。
『モナドロジー』はそんなに長くないし・・。
情報ありがとう。
582考える名無しさん:02/11/18 00:22
オンラインテキスト英訳なら簡単に手に入るよ
583考える名無しさん :02/11/19 23:30
>>582
仏語のオンラインテキストもあるよ。
少なくとも、下手な英訳よりは、岩波の河野与一の訳の方が良いと思われ。
584考える名無しさん:02/11/20 11:36
>>582
オンラインの英訳ってラタとかいうひとのやつだよね。
結構昔の訳らしくて、岩波文庫の河野与一も言及している。英語圏の多くの読者はこれで読んでるのかもね。
585考える名無しさん:02/11/21 00:10
和訳だったら、世界思想社から『モナドロジーを読む』というのが
出てる。もちろん注釈もたくさんついてる。
586考える名無しさん :02/11/21 22:26
>>585
池田善昭著の『モナドロジーを読む』は読んでも、あんまり意味ないよ…。
あの注釈は、何を言っているのかさっぱり分からないし。解釈も変なところが多い。

それよりも、岩波文庫の河野与一の訳と注釈の方が良いし、工作舎の第九巻のものの方がよい。
587考える名無しさん:02/11/21 22:40
オンラインテキストって無料でみれるんですか?
588考える名無しさん:02/11/21 23:10
>>587

おのれはGoogleやYahooを知らないのか?調べてみれば一発で行けるよ。
589考える名無しさん :02/11/24 00:25
上げておきます。
590考える名無しさん:02/11/24 00:55
SZさんは今どうしていらっしゃるのやら、とみなさん思いませんか?
591考える名無しさん:02/11/24 17:48
いろいろと、突っ込まれたりしたからいじけちゃったのかなあ………。
592考える名無しさん :02/12/08 21:08
age
593考える名無しさん:02/12/21 20:34
とりあえず保存sage
594考える名無しさん:02/12/23 10:22
さらに取りあえず保守age
595考える名無しさん:02/12/30 21:20
age
596山崎渉:03/01/08 19:26
(^^)
597山崎渉:03/01/18 09:49
(^^)
598考える名無しさん:03/01/26 18:45
NHK出版から山内志朗『ライプニッツ』でたね。
599考える名無しさん:03/01/26 23:57
>>598
誰か詳細なレポートをキボンヌ。
600考える名無しさん:03/02/02 22:03
保守age
601考える名無しさん:03/02/07 00:41
>>587

leibniz monadology
でググれば死ぬほどあるよ。
602考える名無しさん:03/02/23 02:04
さらに保守age
603山崎渉:03/03/13 13:15
(^^)
604考える名無しさん:03/03/15 06:29
ヴォルテールのカンディードに出てくるパングロスはライプニッツがモデルと
考えればいいんでしょうか?
605考える名無しさん:03/03/30 01:28
保守age
606質問者:03/04/08 17:56
このスレッドをきのうから読み始めました。
で質問があるんです。ほんとは全部ロムしてからのほうがいいのですが、
がまんできないので誰か教えてほしいのです。それは物についてです。
コップというものもモナドの表象と考えればいいのですか。
そのばあいモナドの数は一つですかそれとも無限数ですか。
607質問者:03/04/08 22:38
SZ様、再降臨おねがします!まわりに聞ける人がいないので。。
608考える名無しさん:03/04/08 22:44
こんなライプニッツは嫌だのすれは人気あるよね。
609質問者:03/04/08 23:30
>>143
一年前のszさんのコメントをきっかけに再質問します。

複合体である肉体(物質)が部分に分かれても、その複合体を構成するモ
ナドは分解しないし、意識が消失しても、モナドの表現能力は残っており、意識
がない状態における表象は存続する。

肉体と意識の総合である人間というものは「ひとつの」モナドの表象
というのがライプニッツの考えなのですか?もしそうだとしたらずいぶん
私には不思議な感じです。というのも、人体というものの分節の仕方は多様
でありうると思うのです。たとえば、足とかを切断したり、
臓器を取り出したりというふうに、人体というのは分かたれますよね。すると、
ふつうにいうところの五体満足の人体という枠を絶対的な分節とみて、それに対して
一つのモナドを対応させるのは、とても恣意的なことのように感じます。
人体は無限に分割可能だし、そうするとその肉片ひとつひとつに対して
無限数のモナドによって人体が表象されているのかな、とわたしは思ったのですが、
これはライプニッツの説と反しますか?
ご教示ください。
(この疑問にとらわれてから胃の右側がこそばゆくってかないません。だれか
たすけて!)
610質問者:03/04/09 01:55
>>609
ライプニッツの理解者ひっぱってきてちょ。
611質問者:03/04/09 01:56
訂正。609じゃなく608だった。

612SZ:03/04/09 17:42
質問者さん、はじめまして。「降臨」なんておおげさな表現はどうかやめに
してください。お答の前に、少し一般的なことから確認させてください。
ご質問はライプニツの世界観の核心に関わるだけでなく、われわれの
世界観の核心にも関わるからです。
現代人のだれもが認める、自然についての基本命題はたぶん次の
二つではないでしょうか。
A.物質は原子からできている。
Z.この宇宙における原子の分布にはムラがある。
613SZ:03/04/09 17:43
しかし、なぜ宇宙は統計的に一番安定した状態、つまり均等に原子が分散した
状態にならないのでしょうか?
AとZの間のギャップの理由は、いまに至るまでなぞです。
自然科学は、物質間の相互作用を定式化することに努め(A命題の精密化)、
なぜ宇宙が今あるような構成になっているか(Z命題の理由)について
考えることは、とりあえず棚上げしています。

しかし、ライプニツの時代までは、自然科学者が宇宙の構成原理について、
仮説を述べることへのためらいはありませんでした。
614SZ:03/04/09 17:44
ライプニツの答はこうです。
「物質は、原子と、原子相互を結びつける力からなっている(ただし彼の
考えている力は物理的学的に定義される力とは異なります)。
この力は複数の原子を横断して働く一定の単位 Unityを持っている
(この単位がモナドです)。
615SZ:03/04/09 17:45
このような力の単位(モナド)は分割・合成されることはなく、モナドごとに
異なった不変の強度を持っている。
各モナドの強度は、それが他のすべてのモナド(つまり宇宙)を表出する力に
対応する。
力の単位(モナドの強度)に応じて、原子の分布に偏りが生じる。
616SZ:03/04/09 17:46
原子はモナドの強度のもとで集合・離散を繰り返し、この宇宙の変容を演出
しているが、原子相互を結びつけている力の全体は不変である。
モナドは生成も消滅もせず、つねにすでに実在するが、モナドの配置が現に
こうであってほかではないことには理由がある。
その理由とは、それが最善であるということである。」
617SZ:03/04/09 17:47
以上はモナドロジーの素描なのですが、この観点にしたがうと、質問者さんの
疑問に、ライプニツは次のように答えると予測できます。
「生命体を構成している諸器官には、それぞれの器官の構成要素を結びつけ、
その作用を方向づけている諸モナドが対応している。それだけでなく、
そうした複数のモナドと並んで、その生命体全体の統一をもたらす
「支配的なモナド( monade dominante )」が存在する。
618SZ:03/04/09 17:48
シーザーという個体が、けっして彼を構成している諸モナドの合成体ではなく、
彼をシーザーと呼ばしむる支配的なモナドによってシーザーであるように、
生命体の一つ一つにはそれを個体化するモナドがある。しかし、生命体は
各器官の働きを支えるモナドによっても支えられており、こうしたモナドに
表象能力はあるが、その力は微少でしかない。人間に意識的な表象
( perception)が可能なのは、(諸器官ではなく)その個体の全体を
支えている支配的なモナド、すなわち魂のおかげである。
619SZ:03/04/09 17:49
だが、こうした支配的モナド(=個体的実体=魂)も、それが従えている
他のモナド(諸器官のモナド)との関係(互いに他を表出し合う関係)によって、
その表象の明晰さを維持できる。ところが諸器官(物質)は集合・離散し、
崩壊していく。各モナドの強度と、モナド間の関係は変化しなくても、
諸器官の変容にしたがって、支配的なモナドが表出する世界も変化する。
620SZ:03/04/09 17:50
人間が死ぬという事態は、魂(支配的なモナド)の死滅を意味するのではなく、
“支配的なモナドが表出する近傍の諸モナド(=諸器官のモナド)が支配する
物質の構成が変わるということ”を意味する。」
621SZ:03/04/09 17:56
質問者さんへのお答えは以上です。
もう一度ここで、A命題とZ命題の話に戻らせてください。
ライプニツの以上のような仮説が、ばかばかしく思える
(というより本当にばかばかしい)というのはたしかです。
特に、Z命題の最終的な理由を、「最善だから」と言って
かたづけているのは、キリスト教の悪しき伝統にしたがった
逃げ口上だと私は思います。
622SZ:03/04/09 17:57
しかし、このばかばかしさには、どう言ったらいいのでしょう、
解釈を強制する何か、おまえたちの時代に蘇らせてくれ、
と言わんばかりにつきまとう、「形而上学的な祟り」とでも
言いたい力があります。
623SZ:03/04/09 17:58
ライプニツが人生の大半を機械論の世界観で過ごしてきたのは有名な話です。
しかし自然の観察とそのモデル化を進めれば進めるほど、彼はこの宇宙の
構成原理を機械論だけで説明することはむりだと確信するようになる。
モナドロジーよりはもう少しましな仮説は作れなかったのか、と言えば
言えるでしょうが、そういう不平を言うよりも、われわれはこの時代の
豊かな自然科学の知識をふまえて、ライプニツの直観を再構築する道を
進むべきでしょう。
624SZ:03/04/09 17:59
私個人はライプニツ主義者でも形而上学徒(?)でもなく、むしろどこまで
ライプニツ的直観を今の自然科学に取り入れることができるか、
という関心に駆られています。ライプニツ本人が徹底的な合理主義者
だった以上、この時代に生きていたら全然別のモナドロジーを書いたはず
(あるいはモナドという着想をまったく異なる概念に育てたはず)なので、
こうした立場からのライプニツ読解を、彼も不快に思わないでくれるのでは
ないでしょうか。一周年がなつかしくて、つい長い書き込みをしてしまいました。
625質問者:03/04/09 20:56
SZさん、長い返答ありがとうございます
(まだちゃんとは理解できないのですが)。
もうすこし考えてみます。また過去ログを読み進めてみようと思います。
ぼくにはまだ疑問があるのですが、もう少しmonadologyを読み進めて
いまより理解したうえで書き込みたいと思います。
ときどき2chをチェックしていただけるとうれしいです。
626質問者:03/04/10 12:23
精読中。14節まできました。人間が物を制作する行為や、その制作された物
(コップ)はモナドロジーではどういうふうに説明されるのだろうかという観点で
読んでます。それと、コップが割れたり、あるいは人間がコップを割ったり
する行為など。
14節まででは、モナドというものは生命体に引きつけて
考えられているだけのようであり、コップなどの制作物や、石などについては
どうとらえればいいのかのヒントがあまりない。
627質問人:03/04/10 20:34
>>178
21節まで到着。
>「破壊とか、いや死さえもまた、変形の一つだ」。つまり、個々の動物は死んで
もその動物を構成していた物体的形相(単なるモナド)へと形を変えるだけだと
いうわけです。21節の最後で「死は、動物をしばらくの間この状態(際立った
表象のない気絶したような状態)におくことがある」とされていた理由が明確に
なったと思います。個体としての動物が死んでも、その動物を構成するモナドは
不滅であって、そこには判明ではないものの、何らかの表象があるからです。

もともと生きているものが死んだとき、それでも単なるモナドは残る、
とするのがLの説であると理解できる。
では、もともと死んでいるもの(コップ)に関してはどうなのだろう。
この場合も、この「単なるモナド」が対応しているのだろうか。
しかしそれでは妙な気がする。コップは人間が作る者である。コップがつくられた
とたんに、モナドが対応するようになるというのはいかにも変だ。現時点ではいかに
考えていいものなのか不明。もっと大局的に検討する必要がありそう。
628質問さん:03/04/10 21:16
>>182

モナドが複合体である物質を成り立たせるといわれるとき、

世界がマテリアルとして存在していることを前提としているのか?
あるいは、
そうでないのか。つまりモナドが複合体(物)を成り立たせるという場合、
モナドがマテリアルを「うみだす」と考えるべきなのか。

ずっと後者だと思っていたが……。もしかしてかなりおおきい誤解だったか。
629SZ:03/04/13 23:36
質問さんさん、こんにちは。
モナドロジーって、認識論と存在論とが一体となった議論ですよね。
モナドとは不可分な個体であると同時に、世界を表出する力です。そして、
モナドのこの二つの側面のうち後者が、モナドロジーの認識論的性格の支柱
となっています。人間を個体たらしめているモナドには、意識という高い
表出能力があるとされ、そうした意識をもつモナドは一個の独立した実体
として存在すると同時に世界を認識する、というのがモナドロジーの
世界観です。ここでは明らかに存在論と認識論が渾然一体となっています。
630SZ:03/04/13 23:37
一方、質問さんさんは、人体組織や微生物にもモナドがある
(これらのモナドは無意識の微小表象petite perceptionしかもちませんが)
というなら、コップのような無生物にもモナドがあるのだろうか、
と問いかけています。ライプニツは、ない、と言うはずです。
631SZ:03/04/13 23:40
第一に、コップが不可分な個体と認められるのは、あくまでも人間の意識
(モナド)に表出される限りにおいてだからです。不可分の一単位と
呼べるのは、コップというマテリアルではなく、コップの概念、
すなわちモナドの表出内容です。意識を離れて、コップを構成する
マテリアル(たとえば硝子)そのものが、コップという不可分な個体を
構成するわけではありません。マテリアルは分解や結合によって別の
マテリアルに変化しますから、意識から独立に一個の実体として
存在するとは言えません。
632SZ:03/04/13 23:41
第二の理由は、無生物、もっと一般的にマテリアルに表出能力を認めると、
表出能力と物質的な相互作用との差異がなくなってしまうということです。
するとモナドロジーは唯物論になり、モナドと原子を区別する意味も
なくなります。ライプニツによれば、マテリアルは物理学によって
定式化可能な法則性のもとにおかれているのに対して、そのマテリアル
から構成されている精神は、物理法則だけでは説明できない働きをします
(現代人ならば「情報」や「意味」といった概念で説明するような
あいまいなコードにしたがって働くということです)。
633SZ:03/04/13 23:43
こうした精神のふるまいのユニークさを、ライプニツは“あらゆる多様性を
包括する単一性”(たとえば環境から与えられる多様な情報にそのつど好き
嫌いなどの意味を与えつつ、自らは一個の単位として持続する意識)と捉え、
そこから“世界を表出する個体としてのモナド”という概念を導くわけです。
このようにモナドの表出作用は、ライプニツの構想においては本来物質的な
相互作用(物理法則の下での作用)から区別されるものです。したがって、
彼がマテリアルの一つ一つにモナドを認めるとは考えられないわけです。
634SZ:03/04/13 23:44
それではコップとモナドとの関係はどうなっているのかと言えば、
人間の精神というモナドに、硝子などのマテリアルが表出されることで
コップとして認識される、というあたりまえの答にならざるをえないようです。
635質問さん:03/04/14 01:35
SZさん、こんにちは。コメント助かります。

第一に、コップが不可分な個体と認められるのは、あくまでも人間の意識
(モナド)に表出される限りにおいてだからです。不可分の一単位と
呼べるのは、コップというマテリアルではなく、コップの概念、
すなわちモナドの表出内容です。

なあるほどなあ。うーむ。
おっしゃることが正しいとしたら、わたしはずーと誤解していたようです。

モナド論の最初のほうでは、複合物の中の単純な実体として
モナドが描かれているから、これにひきずられてコップのことも考えていた
のかな。不可避な誤解という感じもする。この誤解に基づく読みが、ラッセル
のいう「おとぎばなし」的なモナド論把握なのかしらん。
636山崎渉:03/04/17 09:52
(^^)
637あぼーん:あぼーん
あぼーん
638考える名無しさん:03/04/21 18:59
続けて
639考える名無しさん:03/04/21 23:23
いまちょいあたふたしてるのね。スレがある限り気にしています。
640考える名無しさん:03/04/23 00:14
モナドとイデアの決定的な違いは何でしょうか?
641考える名無しさん:03/04/30 03:37
age
642考える名無しさん:03/04/30 05:22
>>4
643考える名無しさん:03/05/20 18:09
節電しろよ
644考える名無しさん:03/05/21 15:07
あぐぇ
645山崎渉:03/05/21 21:53
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
646考える名無しさん:03/05/21 21:56
ふれあいカード表示 カタログ表示
647山崎渉:03/05/22 00:47
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
648あぼーん:あぼーん
あぼーん
649考える名無しさん:03/05/30 17:32
age
650考える名無しさん:03/06/01 15:02
なをん
651あぼーん:あぼーん
あぼーん
652考える名無しさん:03/06/10 00:30
この人東洋好きだよねえ
653考える名無しさん:03/06/10 04:50
>>652
カントとえらい違いだ
654あぼーん:あぼーん
あぼーん
655考える名無しさん:03/06/15 11:45
昔ニュートンは物理学から微積分学に辿り着いたのに対し、
ライプニッツは哲学的思考から入ったという話を聞いたのですが、
興味があります。詳しい方、教えてください。
656考える名無しさん:03/06/15 11:48
ライプニッツなんかさっぱりしらないが、キャンディード序曲
を中学の時ブラバンでやったのはいい思い出だ。
657考える名無しさん:03/06/29 09:08
石黒ひで「ライプニッツの哲学」の増補改訂版が岩波から今月出るぞ
7300円は高いなー
658考える名無しさん:03/06/29 10:30
>>657

英語版の方が良いらしいよ。安いし。
659考える名無しさん:03/07/04 09:22
>>657
ついでに、河野与一訳の「単子論」と「形而上学叙説」も復刊されないかな
>>658
現在、品切れ中でした
660考える名無しさん:03/07/04 13:44
英語版タイトルは?
661あぼーん:あぼーん
あぼーん
662考える名無しさん:03/07/05 02:33
>>660
Leibniz's Philosophy of Logic and Language by Hide Ishiguro
Cambridge Univ Pr (2nd 版, 1991/02/01)
663あぼーん:あぼーん
あぼーん
664考える名無しさん:03/07/23 23:16
誰もが死を体験するだろう。臨死体験者の言動には共通するものがある。
涅槃は煩悩のない心の状態である。そこで臨死涅槃は現実としてある。
事実として在るものを否定することは難しい。仏教諸派、ヒンズー教諸派
は解釈をするだけだ。教義が保てるかどうか、おそらく保てないだろう。
現実にあるものは大変強力である。となればいつものように、教義が習合
し、変容するだろう。
665考える名無しさん:03/07/23 23:33
>>664
コピペ風うざい。
666考える名無しさん:03/07/24 22:25
石黒ライプニッツ本出版記念あげ。
誰か買った人いる?ちょっと高すぎるよなあ。
667考える名無しさん:03/07/31 23:28
保守age
668考える名無しさん:03/08/06 02:47
>>666
俺、買ったよ。
前の版よりもかなり内容が深まっているように感じた。
669考える名無しさん:03/08/06 03:06
ちょっといくつか迷っている概念があるんですけど、
一義性という要請と予定調和説の関係はどういうものなのでしょうか?
670考える名無しさん:03/08/06 03:55
>>668
662のからも、さらに改訂されてるの?
671668:03/08/10 04:06
>>670
2nd 版の日本語版ですが、著者自身による翻訳であり、
10年以上かけて出版しているので、英語版とはまた違った
意味をもっていると想います。
672考える名無しさん:03/08/10 10:01
>>671
英語版は品切れだし、岩波め
7300円なんて吹っかけやがって…
買うか買うまいか、思案のしどころです w
673考える名無しさん:03/08/17 14:40
高いよねー
金ないよ
ほんと
本が高くなったな
しょうがないんだろうけど
674考える名無しさん:03/09/03 22:06
保守age
675モリジムソン:03/09/04 00:58
石黒のライプニッツ本は、図書館で借りて全コピーした。

676考える名無しさん:03/09/18 19:48
ag
677考える名無しさん:03/09/18 20:56
ライプニッツ術って如何?
図書館で借りてきたけど、自分的には石黒>>佐々木って感じ。
678考える名無しさん:03/09/18 22:50
>>677
漏れ的には、佐々木能章の『ライプニッツ術』はかなり好きな本ですね。
もちろん、ひで婆の著作は「哲学論文」としては良いのですけど、
書物としては『ライプニッツ術』の方が好みです。
哲学畑でない人に勧めているのは、やっぱり『ライプニッツ術』だなあ。
読み物としてもおもしろいし。この本を読むと、ライプニッツの多面性が
手に取るように分かりつつ、哲学的なところにも入れるというおいしさがあります。

まあ、この辺は好みかなあ。山内志朗の昔のライプニッツに関する論文も
似たようなところがあるかも。もちろん「哲学論文」なんだけど、
+αな色気があるんだよねえ
679考える名無しさん:03/09/18 23:39
なるほど、もう一度読み直してみますよ、ライプニッツ術。
ありがとう。
680TK:03/09/21 06:43
ライプニッツはデカルトと同時代の人であったらしい

http://www2.ocn.ne.jp/~hhirano/articles/leibnizj.htm

モナドは個物が表出するイデア
イデアは言語の影響を受けるだろう
モナドはものの性質なのか、それとも受け手のカテゴリー論になるのか
681考える名無しさん:03/09/21 07:37
アフロ男爵
682考える名無さん:03/09/27 18:58
アナル男爵
683考える名無しさん:03/10/20 22:50
世界の名著にありますか?ライプニッツって。
684考える名無しさん:03/10/20 23:01
モナドには窓がない by ビル・ゲイツ
685 :03/10/20 23:09
>>683
あるよ。スピノザと一緒になってる。
『形而上学叙説』『モナドロジー』『小品集』の三つが入ってる。
686考える名無しさん:03/10/21 00:23
>685
丁寧にどうも。
687考える名無しさん:03/11/11 01:36
あげちゃお。
688no-name:03/11/14 21:19
このスレ、レベル高い。
ライプニッツ自体が天才でレベル高い。
このスレの発言者のレベル高い。

興味ある人でいいんだけど
「なぜ自分は世界に一人しかいないのか」という本で
(たしかこのような名前の本だった)
ライプニッツ哲学を使ってこのことをうまく証明してるから見てください。
689考える名無しさん:03/11/19 22:47
どなたかライプニッツが保険について論じてるのはどの文献のどこかおしえてつかさい。
690考える名無しさん:03/11/19 23:05
>>689
前出の書籍『ライプニッツ術』に載っていた気がしたが…
あとはその作者の佐々木能章氏の論文に、ライプニッツの保険についての
論考ががあったと記憶している。そのあたりを参照すれば分かると思われ。
691考える名無しさん:03/11/20 10:46
>>688
「ライプニッツ」山内志朗 
のこと?
692689:03/11/21 20:11
さんくす>690
693考える名無しさん:03/11/22 16:42
>>688
でもSZのモナドロジーの読解で、44節に関する読解は間違ってるよね。
このへんはessenceやrealiteやexistentiaのモナドロジーにおける意味を
よく理解していないと誤解するのに……
694考える名無しさん:03/11/29 21:51
>>693
詳細キボン
695考える名無しさん:03/12/22 03:39
保守上げ
696考える名無しさん:04/01/11 02:22
モナドロジーって結局何を言いたいんでしょう?
697考える名無しさん:04/01/11 10:45
>>696
まず、翻訳でも良いので、読んでみましょう。
どの翻訳が良いかは、このスレの上の方に書いてあるし、
暇人が原典のからの逐次訳をしていくれているので、それを読んでも良いし。
(そいつがやっている解釈は、最初は読まないで考えてみよう。)
698ひまじん:04/01/16 23:01
>>697 るせーヴォケ
699考える名無しさん:04/01/18 23:13
あ、すまん。別に解釈が間違っているってことを言いたかったわけではありません。
最初はあまり人の解釈に振り回されない方が良いと思っただけです。
気を悪くしたならすいません。
700考える名無しさん:04/01/19 23:55
ななしゃく
701考える名無しさん:04/01/27 08:55
おもいだし、上げ
702考える名無しさん:04/02/08 11:26
age
703考える名無しさん:04/02/08 14:17
>>688
不可識別者同一性の原理じゃないですか。
704考える名無しさん:04/02/29 00:38
保守age
705☆キキ+キ゚Д゚♪ ◆ooOooooopo :04/02/29 00:47

ヽ(゚∀゚)ノ
706考える名無しさん:04/03/07 20:56
保守age
707考える名無しさん:04/03/21 09:53
保守
708考える名無しさん:04/03/21 14:39
sage保守できますよ。
弁神論面白いね。
709考える名無しさん:04/03/22 18:17
ヤバイ『弁神論』読み終わらないのに、『人間知性新論』読みたくなってきた。
710考える名無しさん:04/03/22 18:35
『単子論』と『形而上学叙説』の復刊激しくキボンヌ
711考える名無しさん:04/03/22 22:00
『人間知性新論』復刊キボンヌ
『弁神論』はぼったくり著作集じゃなくて単行本として出してくれ。
712考える名無しさん:04/03/22 22:09
http://www.fukkan.com/

復刊ドットコムでリクエストしよう。
713711:04/03/22 22:30
『人間知性新論』は2002年に復刊されてたらしいんです。
だけどその時はまだ哲学に興味なくて・・・
つーことでたぶんそんなに早く復刊されないと思う。>>712さんありがとう。
714考える名無しさん:04/03/22 23:20
『人間知性新論』は9.12ユーロだねえ。日本円だと1200円くらいかな。
これが一番リーズナブルじゃない?
ttp://www.amazon.fr/exec/obidos/ASIN/2080705822/qid=1079964954/sr=2-1/ref=sr_2_3_1/171-8772112-1668253
715考える名無しさん:04/03/22 23:48
714のは字がちっちゃくて、読んでると「イー!!」となる。

ライプニッツの著作集はちくまとかで文庫化して欲しいなり。
激しくキボン
716考える名無しさん:04/03/22 23:59
>714のは字がちっちゃくて、読んでると「イー!!」となる。

そうかな?確かにすべて読もうとすると、「イー!!」となる気持ちも分かるな。
漏れは精読するときは拡大コピーするか、スキャナでPCに取り込んで処理する。

>ライプニッツの著作集はちくまとかで文庫化して欲しいなり。
>激しくキボン

これは漏れも激しくキボンヌだが、無理ぽだろうね。
著作集は工作舎だし。版権渡さないでしょ。ちくまも買い取れるほど
体力のある会社とも思えないし、その上、買い取ったところで
あんまり売れないだろうしね。 でも文庫版で全集が出てくれると良いな。
717考える名無しさん:04/03/23 00:48
ライプニッツ(・∀・)イイ!

工作舎はイクナイ
718考える名無しさん:04/03/24 01:30
ぷにぷにっ
719考える名無しさん:04/03/24 22:26
オルテガのライプニッツ論なかなかいい。
720考える名無しさん:04/03/31 13:54
デカルト
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/philo/1080705411/

こちらのスレもよろしく。
721100:04/04/02 15:28
デカルトスレからコピー

>>98
「識別できない二つの個物はありません。 私の友人に才気煥発な一人の貴族がいて、
ヘレンハウゼンの庭の中、選帝侯婦人の御前で私と話をしていたときのことであります
が、そのとき彼は全く同じ二つの葉を見つけられると思っていました。 選帝侯婦人は
そんなことは出来ないとおっしゃいました。 そこで彼は長い間駆けずり回って探したの
ですが無駄でした。 顕微鏡で見られれば二つの水滴とか乳滴も識別され得るでしょう。」
(1716年6月2日クラーク宛第4書簡)

105 名前:100 :04/04/02 15:12
>>104
それ、ミスリーディングな例だよな。仮に、まったく同じかたちの二つ
の葉がみつかったとしても、それでどうだって言うんだ、と詰問したく
なる。一方が右側にあって、他方が左側にあれば、それだけでもう別の
葉だろ?

106 名前:考える名無しさん :04/04/02 15:15
>>105
「識別不可能ならば同一である」の対偶を取ってみろ。

107 名前:100 :04/04/02 15:19
>>106
趣旨がわからん。<二枚の葉が存在している空間的位置が違えば、
それだけでもう属性の差があることになるのだから、同じ形の葉が
見つかろうが見つかるまいが関係ないだろ>と言っているわけだが。
722考える名無しさん:04/04/02 17:29
山内志朗のNHK出版の「ライプニッツ」はいい評判聞かないね。
723考える名無しさん:04/04/02 17:34
おしゃべりだけで規定の原稿の枚数に達してしまった感じの本な。
ああゆーのもありでしょ。
724考える名無しさん:04/04/02 18:33
だからさ、不可識別者同一の原理を構造主義に無理やり結びつけるのは変なんだよ。
725考える名無しさん:04/04/02 18:58
>>724は全く分かってないみたいだから一言いっとくと、
抽象的な対象(例えば数とか色とか、構造主義者の言う構造とか)に関しては、
「不可識別者同一の原理」の妥当性に疑問を持つ人は(たぶん)いない。

にもかかわらずこの原理が疑問視されてきたのは、具体的な対象の同一性に関して、
この原理は何か実質的なことを述べてるのか、つうことだ。

構造主義とかゆう前に、その辺を勉強してから出てきてほしいよ。
726考える名無しさん:04/04/02 23:03
なんか、>>721での100さんの理解の仕方がおかしいと思うので、岩波の「哲学・思想事典」から
の引用を載せておきますね。
  ↓
不可識別者同一の原理〔仏〕principe de l'identite' des indiscernables

 ライプニッツによる〈個体の同一性に関する原理〉。いくつかの表現がある。「自然の内には数
においてのみ異なる2つの個体は存在しない」〔第一真理〕,「識別できない2つの個体はない」
〔クラーク宛第4書簡〕(そのほか,『形而上学叙説』9章,『人間知性新論』2巻27章3節,『モナ
ドロジー』9節など)。ライプニッツにとって個体とは,過去から未来に至るまでそれについて生じ
ることのすべてがその個体の概念に含まれているものである。したがって,一見外的であるような
規定,例えば空間的な位置関係も,その個体がいかなるものかを決定する際に不可欠となる.それ
は,「規定を受ける事物そのものの内に基礎を全く持たない純粋に外的な規定は存在しない」[第一
真理]からである。そこで,かりに2つの個体があるとして,それに帰属される述語がそれぞれ全く
等しく互いに識別できないとしたら,それは「同一の事物を2つの名の下に立てる」[クラーク宛第4
書簡]ことで,結局は同一であることになる。
 この原理は,ライプニッツにとって最も重要な原理の一つの充足理由律を補完する。なぜなら,複
数の個体に無差別なあり方を認めると,それぞれをしかるべく決定するための理由が見出せなくなる
からである。したがってこれは原子論を批判する根拠の1つになる。さらにニュートンの絶対空間・
絶対時間説に対しても,それが無差別の実在者の存在を認めるものだとして反対する論拠になっている。
この原理の背景には,宇宙では無数の実体が互いに関連しあいながらそれぞれ独自性を持って存在して
いるのだというライプニッツの世界観がある。なお「ライプニッツの法則」ともいわれる「同一者不可
識別の原理」は,ライプニッツ自身のものではない→個体化

[文献]石黒ひで『ライプニッツの哲学』岩波書店,1984            〔佐々木能章〕
727考える名無しさん:04/04/02 23:09
ついでにライプニッツ自身からの引用

「数においてのみ異なる二つの個体的実体はこの世に存在しない。というのも、それらがなぜ異なっ
ているのか理由を与えることができなければならないし、その理由は、両者の間のある差異に求めら
れる。トマス・アクィナスは天使たちが数においてのみ異なることはないという事実を認識したが、
その事実は他の事物にも適用されるべきだ。完全に類似した二つの卵、完全に類似している二つの木
の葉や草の葉は見つからないだろう。したがって、完全な類似性というのは、不完全な抽象的な概念
においてのみ成立することであり、そういった概念においては、事物はすべての観点において考察さ
れているのではなく、ある特定の視点だけから考察されているのである。ちょうど事物の形態のみを
考えている場合、その形態の材質を考えない場合と同じことだ。したがって、幾何学においては、二
つの三角形が類似していると考えるのは正しいけれど、材質まで考えると完全に類似した二つの三角
形は存在しないのである。」(「第一真理」)

728100:04/04/02 23:10
どこがおかしいの? まったく同じ形の二枚の葉が見つかったとしても、
それぞれの葉が空間的に違う場所にあるのなら、その二つに帰属される
述語は等しくないのだから、不可識別者同一の原理から見ても同一には
ならない。言い換えれば、葉の形が違うことは、それらが異なる二つの
物であるために必要ない、ということを言っているだけなのだが。
729考える名無しさん:04/04/02 23:25
もういっちょ

「然しながら単子は何か或る性質を持っているに違いない。性質がなければ存在とさえ
云えなくなる。それにもし単純な実体がそれらの性質によって互いに異なっているので
なければ、物の中に起こる変化を我々は一つとして意識することができないであろう。
なぜなら、合成体の中に起こることは、単純な要素からしか来ないからである。且つ単子
が性質をもたないとすると、元来単子は分量においても差異がないのであるから、互いに
区別がつかなくなる。したがつて、充実した空間を仮定すると、運動においてどの場所も
それぞれ今まで持っていたのと等しいものしか受け取らないことになるから、物の或る状態は
他の状態から識別することが出来なくなる。

 のみならず、どのモナドも他のすべてのモナドと互いに相違しているはずである。なぜなら、自
然の中において、二つの存在が互いに全く同じようであってそこに内的差異すなわち内的規定
に基づく差異を認めることが出来ないということは決してありえないから。」
(「モナドロジー 8−9)
730考える名無しさん:04/04/02 23:28
こうしてみてくると、ライプニッツの「不可識別者同一性の原理」と構造主義の
発想を結びつける根拠がますます分からん。

731考える名無しさん:04/04/02 23:41
さらに駄目押し

「フィラレート:スコラ哲学で個体化の原理と名づけられたもの、それが何なのか知ろうとしてとても人々は苦
しんだのですが、それは現実存在そのものなのです。現実存在は各存在者を特定の時間と、同じ種類の二つの
存在者が分ちあえない一つの場所とに固定します。
 テオフィル:個体化の原理は、個体においてはたった今述べたばかりの区別の原理に帰着します。もし二つの
個体が完全に同じょうなもので、等しくそして(一言で言えば)それら白身では区別できないとしたら、個体化
の原理などというものは無いでしょう。そういう条件の下では、個体的な区別とか異なった個体とかは無いだろ
うとさえあえて私は言います。ですから原子の概念は空想的なものであり、人間の不完全な概念作用にしか由来
しません。というのも、もしも原子が、即ち完全に硬くそして完全に不変ないし内的変化をし得ない物体があっ
たら、それは大きさと形でしか相互に異なり得ませんし、それらの形と大きさが同じであることもあり得、その
際にはそれ自身では区別され得ず、内的基礎無しに外的規定によってしか識別され得ないのは明らかです。それ
は理由についてのもっとも偉大な諸原理に反します。けれども本当は、いかなる物体も変化し得ますし、常に現
実に変化しており、従ってそれ自身で他のいかなるものとも異なるのです。卓抜した精神の持主である一人の偉
大な王妃が或る日彼女の庭を散歩している際に、完全に同じ二枚の実は無いように思うとおっしゃったのを私は
憶えています。散歩に付き従っていた才気のある紳士はそんなものを見つけるのは容易いと考えました。しかし、
それを探しまわったにも拘らず、そこには常に差異が見出されるのを、彼は自分の目で納得させられたのです。
いままでおろそかにされてきたこうした考察によって、哲学において最も自然な諸概念からいかに私たちが遠ざ
かっていたか、真の形而上学の偉大な諸原理からいかに遠ざかっていたかが分りましょう。」
(「人間知性新論」 第2部27章)

これらのライプニッツの議論が、構造主義的ですか?
732100:04/04/02 23:54
>>731
なるほど。そうすると、不可識別者同一の原理というのは、「二つの異
なるものであるためには、それらの『内的』属性に違いがなければなら
ない」ということだと解釈なさるわけですね? ふむ、ライプニッツの
もともとの考えは、そうなのかな。

一般的には、「内的属性」とは限らず、<AとBが異なる別のものと言
えるためには、一方に関しては成り立ち、他方に関しては成り立たない
何らかの述語がなければならない>みたいな感じで、不可識別者同一の
原理を考えるときも多いようですが、これはライプニッツのもともとの
思考に忠実でないのかもしれない。

そうすると、石黒氏の解釈は違うということになるのかな?
733考える名無しさん:04/04/03 00:04
>>732
岩波の事典の参考文献が石黒でしょ。そこでの記述と、引用されたライプニッツ
自身の言説との間に不整合がないとしたら、あなたの石黒本の読み方がおかし
かったということ。

734考える名無しさん:04/04/03 00:09
それから、>>725において、>>724氏になされた罵倒も取り消しておいて。
俺は724氏じゃないけど、見ててすげえ気分悪かった。
735考える名無しさん:04/04/03 00:13
ライプニッツの「不可識別者同一性の原理」と構造主義の
発想を結びつける考えは20年近い昔から有名のようですが。
736100:04/04/03 00:14
>>733
そうか? じゃ、辞典にある「一見外的であるような規定,例えば空間的な位
置関係も,その個体がいかなるものかを決定する際に不可欠となる」っていう
のはどうなの?
737100:04/04/03 00:18
その辞書の言葉に従えば、<位置のみが異なりそれ以外の点では識別でき
ない二つの個体>というのもありえることになりそうだが?
738考える名無しさん:04/04/03 00:21
>>736
モナドロジーからの引用を読み返して。
モナドにおいては一見外的規定と思える物も全て内的規定となる。
位置が違えばそれは位置の違い以外つまり内的規定も違うようになる
んだということ。
739100:04/04/03 00:24
>>738
それなら、まったく同じ形の二枚の葉が見つかっても、何ら問題なくその
二枚は異なる個体ってことになるでしょ?
740考える名無しさん:04/04/03 00:25
>>736
>そうか? じゃ、辞典にある「一見外的であるような規定,例えば空間的な位
>置関係も,その個体がいかなるものかを決定する際に不可欠となる」っていう
>のはどうなの?

その文章は、「したがって〜」と始まってるだろ。その文章の前提部分も考慮して。
741100:04/04/03 00:25
それぞれの葉がある位置は違うんだから。
742考える名無しさん:04/04/03 00:28
>>739
だから、「見つかっても〜」なんてあり得ないの。
見つからないんだから。(ライプニッツによれば、ね)
ライプニッツは顕微鏡フェチなんだよ。
743考える名無しさん:04/04/03 00:31
バカを相手にしてるとバカになるよ
744100:04/04/03 00:40
>>742
じゃ、その葉っぱの例は、「不可識別者同一の原理」とは関係ない、顕
微鏡フェチとしてのライプニッツの経験的知識の表現なのか?
745考える名無しさん:04/04/03 00:42
なんか下らないな。
不可識別者同一の原理について何かゆいたいなら、
とりあえずマックス・ブラックの論文くらいは読んどけ。
746考える名無しさん:04/04/03 00:47
>>744
>>727に書いておいた「第一真理」からの引用を熟読しておけ。
特に「数においてのみ異なる」という表現をよく考えろ。
ついでに言うと、そこの引用部分からしたら、ライプニッツであれば
構造主義を哲学とは認めなかっただろう。
747考える名無しさん:04/04/03 01:03
>>746
>ライプニッツであれば
>構造主義を哲学とは認めなかっただろう。

いくら構造主義と形式的に類似しているとはいえ、諸モナドを連結
するモナドは神だからね。
その神が構造主義のなにに相当するかはともかく、神では真理のカ
テゴリーが違ってしまう。
その違いが決定的でそういう方向でライプニッツを救いたいという
形而上学はそれでいいと思う。
古典はいろいろな読みを可能にするからね。
だけど批判力を失ってただの解釈のヘゲモニー争いになるようなタ
イプの解釈ならいらない。
748事務局からの連絡事項:04/04/03 01:10
2ちゃんでは、モナドはモナーと発音されるのがただしい。
以後、気をつけてください。
749100:04/04/03 01:21
やっぱりよく分からないね。「不可識別者同一の原理」というのは同一性の論
理的定義であり、原子などの否定の根拠になる「理由についてのもっとも偉大
な諸原理」というのは、別の形而上学的原理じゃないのかな? 

構造主義との関係は私は分からないが、たとえばラッセルの集合論の「集合の
同一性の定義」とかは、「不可識別者同一の原理」そのままと言っていいと思
う。要するに、「不可識別者同一の原理」というのは、ライプニッツの他の形
而上学的原理から切り離して、純粋に論理的な原理として応用できるというこ
とじゃないのかな?
750考える名無しさん:04/04/03 01:25
>>749
だから>>725読めよ
751考える名無しさん:04/04/03 01:25
>>749
ま・さ・か・・・・理由律を知らないわけじゃないよな?

752考える名無しさん:04/04/03 01:43
モナーには窓がない
753考える名無しさん:04/04/03 01:46
セールのラウプニッツ論、読んだ人いるのかな?
754考える名無しさん:04/04/03 01:58
98 名前:考える名無しさん 投稿日:04/04/02 14:57
>>93
それはAは非Aではないというだけの矛盾原理。

不可識別者同一の原理はライプニッツの思考の真理を担当し、異なるも
のの同一性という構造主義的な視点を持っている。


これ、デカルトスレからもってきたんだけどさ、明らかにおかしいだろ。
そう思わないか?>100
755100:04/04/03 02:37
何か、結構真面目にライプニッツの研究をしている香具師がこのスレに
は多いらしいので、発言を躊躇し始めたが、不可識別者同一の原理とい
うのは「Aに関して述語付けられることがすべてBに関しても述語付け
られるなら、A=B」という原理だよね。この原理だけなら、時空的な
位置だけが異なり、それ以外の点では区別できないような二つのもの
(たとえばまったく同じ形の二枚の葉っぱ)があってもべつに構わない
はずだ。

この世界でそうしたことはあり得ない、とライプニッツが考えるとき、
その根拠になっているのは、「現実世界はすべての可能世界の中で最善
のものだ」みたいな原理と並ぶ、非論理的な原理からなんじゃないだろ
うか? 矛盾律のような論理的原理ではないでしょ。

「Aに関しては述語付けられるがBには述語付けられないような述語が
存在するなら、AとBは同一でない」ということの方は矛盾律から言え
るだろうから、そのあたりで誤解が生じたのだろうと思う。

756100:04/04/03 02:45
>>754
あっ、全然答えになってなかった。「異なるものの同一性という構造主
義的な視点」って、まず「異なるものの同一性」ってのがよく分からん。
757考える名無しさん:04/04/03 03:07
100はまず、「述語付ける」てことがどうゆうことか、もっと考えれ。

それから、ライプニッツが不可識別者同一性の原理を擁護する場合のポイントは、
「内的規定」てな場合の内的/外的という区別だ。
ラッセルがヘーゲル批判からライプニッツ研究に向ったのも、その問題が大きく
関わってるわけだし。
758考える名無しさん:04/04/03 03:26
>>755
>>726, >>727, >>729, >>731で引用した文章をよく読め、としか言いようがない。
漠然とした印象にいつまでも固執しても意味ないだろ。

>>756
その場合の「異なるものの同一性」とは、異なっているように感じられても、
ある視点(構造なり数なり)から見れば同一のものと捉えてよい、ということだろ。
このような考えがライプニッツの「不可識別者同一の原理」とは全く異なっている
ことは、引用した箇所からも明白。
「個と全体性についての思想」といった漠然としたイメージからライプニッツと構造主義
の同型性を指摘する試みには何の意味もない。

759考える名無しさん:04/04/03 03:30
>>758
「異なるものの同一性」というのは構造主義の構造変換らしい。
760考える名無しさん:04/04/03 03:33
構造主義の不変の特性ということだよね
761考える名無しさん:04/04/03 03:38
そういえば不可識別者同一性の数学上の表現がライプニッツのなにか
に載っていた記憶が。
レヴィ=ストロースも数学をモデルにしてるし結構面白いテーマかもよ。
762考える名無しさん:04/04/03 03:38
構造主義の構造変換とは何だ?

要素が変換群によって置換されて様態がいろいろ変わったとしても「構造」
として抽出するとその構造は同一性を保つ、というのが構造主義では?
763考える名無しさん:04/04/03 03:40
不変の特性か
764考える名無しさん:04/04/03 03:45
もう一度、引用文を貼っとく

「数においてのみ異なる二つの個体的実体はこの世に存在しない。というのも、それらがなぜ異なっ
ているのか理由を与えることができなければならないし、その理由は、両者の間のある差異に求めら
れる。トマス・アクィナスは天使たちが数においてのみ異なることはないという事実を認識したが、
その事実は他の事物にも適用されるべきだ。完全に類似した二つの卵、完全に類似している二つの木
の葉や草の葉は見つからないだろう。したがって、完全な類似性というのは、不完全な抽象的な概念
においてのみ成立することであり、そういった概念においては、事物はすべての観点において考察さ
れているのではなく、ある特定の視点だけから考察されているのである。ちょうど事物の形態のみを
考えている場合、その形態の材質を考えない場合と同じことだ。したがって、幾何学においては、二
つの三角形が類似していると考えるのは正しいけれど、材質まで考えると完全に類似した二つの三角
形は存在しないのである。」(「第一真理」)


この考えのどこが構造主義的なんだ?
765考える名無しさん:04/04/03 03:57
>>764
そこだよ。
モナド間の問題。
構造主義とライプニッツは同じ変換の問題を前にして解決方法が違う。
モナドのモナドってがいしゅつ。
766考える名無しさん:04/04/03 03:59
同じ変換の問題??

何言ってますか?
767考える名無しさん:04/04/03 04:30
ラッセルはモナド論を重視したんじゃないだろ?
768考える名無しさん:04/04/03 09:20
>>761
何らかのモデルとしてであれアナロジーとしてであれ数学を引っ張って来るのは
珍しいことではないよ。
769100:04/04/03 09:47
>>757
あなたに「まず・・・もっと考えれ」などと偉そうに言われる筋合いはないん
だんがね。(笑)「述語付ける」ということについての私の解釈が変だと思う
なら、あなたの考えを書けばいいだろ。内的/外的についても同様で、もうち
ょっとちゃんと説明したらどうなんだ。
770100:04/04/03 09:52
>>764
よく分からんが、ライプニッツが構造主義的だという主張があるのかね?
ライプニッツの考え方のある部分が、構造主義の考え方のもとになった
というだけなのではないのか?

それから、引用文を張るのがお好きなようだが、そこから何を言いたい
のか、はっきり書いてもらいたいね。 
771100:04/04/03 10:12
<∀P( P(a)⇔P(b) ) ⇒ a=b>という二階の論理式で表される内容が
「不可識別者同一の法則」だよね? で、この法則自身と、その基礎
にあるライプニッツの形而上学とは、区別して考えたほうがいいと
思うのだが。
772考える名無しさん:04/04/03 10:45
NHK出版の『ライプニッツ』は中身が薄くて参考にならない。
773考える名無しさん:04/04/03 11:15
>>772
対象読者が違うんだよ。コレも含めて色々読めばいい。
774考える名無しさん:04/04/03 12:06
ライプニッツの場合汎論理主義が基本ではないの?
775100:04/04/03 12:10
>>774
汎論理主義というのは、ラッセルが数学全体を論理に還元しようとした
ように、形而上学全体を論理に還元しようとする考え方(仮にそういう
ことが可能だとして)のこと?
776考える名無しさん:04/04/03 12:19
「ライプニッツの業績の歴史的重要性は、一方では数理科学に端を発し
その刷新を目的とする演繹的形式主義に、他方では新しい数学に由来し
生命のような全体性の記述に適した理論的形態学との複合的結合に、そ
の多くを負っている」とセールは語る。
そうなんだろうなと思う。
だからこそ対抗馬のカントの存在意義も大きくなる。
777考える名無しさん:04/04/03 12:45
膨大なライプニッツの世界の可能性の中心は、全ての真理は分析的だという発想だ。
778考える名無しさん:04/04/03 12:52
全ての命題は主語-述語の形式をとるというのはものすごくわかりにくい。
779100:04/04/03 12:54
>>777
もしかして「汎論理主義=全ての真理は分析的という発想」ということ?

ライプニッツは「全ての真理は論理的だ」とは考えてないだろ? そう
考えていたら、<論理的に可能だが現実とは異なる可能世界>という発
想は不可能になるんだから。
780考える名無しさん:04/04/03 13:01
分析的ということは綜合的でないということでじゃない?
781考える名無しさん:04/04/03 13:24
>>777
そんなことどこでライプニッツは書いてる?
782考える名無しさん:04/04/03 14:00
ライプニッツの神はあからさまに人格神・創造神だから日本人には
理解できないと思われ。
783あぼーん:あぼーん
あぼーん
784考える名無しさん:04/04/03 18:45
ライプニッツは本質的にスコトゥスの存在の一義性を正統にも受け継いだのである。
スコトゥスのこのもの性(haecceitas)は強度的存在であり、ライプニッツの
思考の源泉でもあるのだ。
両者において力、内包的無限・強度・個体性と符合するところは多い。
私の理解ではそれは真の実在論である。
785考える名無しさん:04/04/03 18:46
>>784
肯定なら誰でもできるw
786考える名無しさん:04/04/03 18:49
存在の一義性ってなんじゃらほい
787考える名無しさん:04/04/03 18:51
可変的な単純様態が基体─存在─に原本的に含まれているように、
離接的様態も基体に含まれているから、ある存在に離接的両項の
どちらか一方が該当する、という命題は基体に原本的に含まれて
いる。そうすると、ある存在が第一のものである、ということは
存在の意味構造に原本的な仕方で潜在的に含まれることになり、
こうしてまた「あるかどうか」「なんであるか」も含まれている。
第一の存在はその意味構造の然らしめる必然として存在に原本的に
含まれているの。
788考える名無しさん:04/04/03 18:58
なるほど
789考える名無しさん:04/04/03 19:05
つまり、存在の一義性とは、端的に単純な概念としての包括性を有する
事象的概念であるエンスが、把握対象の実体であるか偶有性であるかに
よって、また被造的対象であるか神であるかによって、その実質的意味
を異にするか、それとも最小限の同一意味を維持するかを問う問題である。
790考える名無しさん:04/04/03 19:07
存在の一義性って最近よく耳にしますが、そういうことだったんですね。
791考える名無しさん:04/04/03 19:41
オイラはひとつのモナドだぜ。
オマイらはオイラをこれ以上分割などできないのだから。
オイラには窓がない。
だからナニかを入れたり出したりなんかできない。
オイラ永遠の安心立命を得ているわけだ。
しかしいつも内在的に変化している。
即ち一即多、多即一としてオイラは宇宙に繋がっている。
792考える名無しさん:04/04/03 19:47
オイラはヒダだ。
パワーの不定形の広がりをアコーディオンカーテンのように
折り込んでいる。
自我とはヒダだ。
それゆえ一気に開陳できないヒダヒダのおかげでオイラはなぞめいている。
ひとはオイラをニヒルだという。
そうかもしれない。
793あぼーん:あぼーん
あぼーん
794あぼーん:あぼーん
あぼーん
795あぼーん:あぼーん
あぼーん
796あぼーん:あぼーん
あぼーん
797あぼーん:あぼーん
あぼーん
798考える名無しさん:04/04/03 20:48
そんな素晴らしき有様なら
もそっとおなごにモテてもよかろうが
大変じゃね〜〜
799考える名無しさん:04/04/03 20:51
ヒダだからねえw
800考える名無しさん:04/04/03 20:52
飛騨高山
801サーファー:04/04/03 21:15
俺はヒダだ。折り重なる波のヒダの中で生きている。
802考える名無しさん:04/04/04 01:30
sage
803考える名無しさん:04/04/04 01:31
もう一度sage
804あぼーん:あぼーん
あぼーん
805考える名無しさん:04/04/16 00:33
電波出現記念にあげておく
806考える名無しさん:04/04/16 00:37
ざっと見た。コワイ、キモイが、800番台まで自作自演とは完全パラノイアで素晴らしい。
>>1 >>33 翻訳までつけておつかれ。
807考える名無しさん:04/04/16 00:46

すごいぞSZ。感動した。電波ばんばん出てますよ。
-----
「モナドロジーはモナドの研究だからモナドロジーという」…。
ハイデガーは哲学の始まりは問いであり、その問い
を基礎づけているのは「世界に対する存在論的了解」だと言いました。この
「存在論的了解」もまた言い分けです。われわれが「なぜ」を徹底する考察を
始めたり、事象世界の成り立ちを問いかけたりするにあたって、どこかに仮構
する「根源」群。これがすべての哲学の足を挫く危険な罠でなくて何なのか。
ぼくの考えでは、事象世界は局所的にしか観察されず、それぞれの局所ごとに
帰納的・論理的に明快な理由があるのです(もちろんカオス系を通して見た
ように、われわれが知ることができる理由は常に「不十分」ですが)。しかし、
十分な理由を「原理」とみなし、事象世界の全体にかかわる究極的な理由を
求めようとすると、それは単なる思弁に陥ります(この点については、
もう少ししたらLに対するカントの批判(=純粋理性批判)を参照しながら
明確にします)。モナドロジーは神を起点=終点に置くことではじめて矛盾の
ない大系になるのかもしれませんが、それは無矛盾だからこそ不完全な大系
です。モナドロジーには多くの意欲的な課題が含まれていますが、事象世界
を形式化し、そこに明証性を与えようとする試みはその中でももっとも重要
な哲学的課題でしょう。ぼくもこの課題こそ哲学の核心だと考える点で、
Lの問題提起そのものには多いに賛同しているのです。しかしこの課題に
答えるにあたって、Lは最後の理由として神を持ち出した。これは論理学者
・ 数学者・自然科学者としてのLらしからぬ、言い分けがましい態度であり、
もっと深刻なのは、神に頼るこのような態度は哲学者のそれとしても非常に
カッコ悪い(なぜなら神概念の中ではわれわれの思考は停止してしまう
のだから)ということなのです。
808考える名無しさん:04/04/16 00:47
sage
809あぼーん:あぼーん
あぼーん
810あぼーん:あぼーん
あぼーん
811考える名無しさん:04/04/16 13:26
構造主義とはなにか?
可変的な単純様態が基体─存在─に原本的に含まれているように、
離接的様態も基体に含まれているから、ある存在に離接的両項の
どちらか一方が該当する、という命題は基体に原本的に含まれて
いる。そうすると、ある存在が第一のものである、ということは
存在の意味構造に原本的な仕方で潜在的に含まれることになり、
こうしてまた「あるかどうか」「なんであるか」も含まれている。
第一の存在はその意味構造の然らしめる必然として存在に原本的に
含まれているの。
つまり、存在の一義性とは、端的に単純な概念としての包括性を有する
事象的概念であるエンスが、把握対象の実体であるか偶有性であるかに
よって、また被造的対象であるか神であるかによって、その実質的意味
を異にするか、それとも最小限の同一意味を維持するかを問う問題である。
812あぼーん:あぼーん
あぼーん
813あぼーん:あぼーん
あぼーん
814考える名無しさん:04/04/25 00:48
おまいら
「モナドには窓がない」
とか言って
恥ずかしくないですか?
815考える名無しさん:04/04/25 00:49
つーか、おまいら
内包論理も知らないのにライプニッツ語って
どうするよ?
816あぼーん:あぼーん
あぼーん
817考える名無しさん:04/04/25 00:51
別にクズは相手にしてねーし
818考える名無しさん:04/04/25 00:55
クズには raison suffisante なんかねーんだよ

おめーなんかいなくても同じ、つーことだ
819あぼーん:あぼーん
あぼーん
820考える名無しさん:04/04/25 01:02
意味の論
しても、
プニッツ
理由ての
の存在論
というハ
(プゲラ
のバカは
821あぼーん:あぼーん
あぼーん
822考える名無しさん:04/04/25 14:09
>>807
SZって、誰ですか。
823考える名無しさん:04/04/25 14:16
>>776
カ、カントが対抗馬?ふつうスピノザ、よくてデカルト。このDQSな引用の文脈なら
ダヴィンチじゃない(w
漏れ的には、ライプニッツの対抗馬は、シェリング、スェーデンボリ、フィッチオーニくらい。
テレ東で、電波チャンピオンやってほしい。


「ライプニッツの業績の歴史的重要性は、一方では数理科学に端を発し
その刷新を目的とする演繹的形式主義に、他方では新しい数学に由来し
生命のような全体性の記述に適した理論的形態学との複合的結合に、そ
の多くを負っている」とセールは語る。
そうなんだろうなと思う。
だからこそ対抗馬のカントの存在意義も大きくなる。
824考える名無しさん:04/04/25 14:19
ようするにライプニッツって、駒場を何百年も先行していたのね
825考える名無しさん:04/05/05 22:26
もう一度、真面目に、単子論、語りませんか?
826考える名無しさん:04/05/05 23:52
タンコって誰ですか?
827考える名無しさん:04/05/09 12:30
SZはじめ、熱く語っていたひとたちは今どこへ?
828考える名無しさん:04/05/09 12:35
>>826
モナドのこと。
829あぼーん:あぼーん
あぼーん
830考える名無しさん:04/05/17 05:56
清水高志『セール 創造のモナド』 
読んでますか?
831あぼーん:あぼーん
あぼーん
832考える名無しさん:04/06/07 22:45

>>830

至極まっとうな西田本って印象だね。

 http://www.thought.ne.jp/
833考える名無しさん:04/06/12 04:34
w
834考える名無しさん:04/06/13 05:16
                         
835考える名無しさん:04/06/14 22:43
      ☆ チン     マチクタビレタ〜
                        マチクタビレタ〜
       ☆ チン  〃  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ヽ ___\(\・∀・) < 単子論と形而上学叙説の復刊まだ〜?
            \_/⊂ ⊂_ )   \_____________
          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
       | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
       |  微分積分学 |/
836考える名無しさん:04/06/14 23:23
>>830

「図書新聞」に米山優さんの書評が載ってたね。 単子論、全集買えばいいじゃん。
池田善昭の『モナドロジーを読む』っていうのにも全文入っていたよ。
837考える名無しさん:04/06/15 21:47
スピノザがあれだけ復刊してるのにライプニッツがなかなか出ない
なんでだろう
838考える名無しさん:04/06/15 22:54
岩波の単子論と形而上学叙説は絶版じゃなくて
単に「重版」しないだけって扱い。

漏れは90年代の重版のものを持っている。
古本で買うなら神保町あたりで3000円くらいかなあ。
河野与一の訳本は絶対に持っていた方が良いね。
839考える名無しさん:04/06/16 07:01
>>838
漏れの場合、近くの本屋に1950年の初版の岩波文庫版『形而上学叙説』が
1000円で置いてあったので買った。

んで先日神保町出かけたら、店先で『96年重版の単子論』見つけたので
すぐさま買ってしまった。1400円。

河野与一訳は旧字体だけど訳は文章として読みやすいし、解説も充実しているのでよいな。
840839:04/06/16 07:02
「『96年重版の単子論』」ってなんだよ… >自分
「96年重版の『単子論』」だ_| ̄|○
841考える名無しさん:04/06/16 10:52
>>837
投票が100票に達してないからですよ。
投票してない方はぜひ投票を。

http://www.fukkan.com/vote.php3?no=3319
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=3320
842考える名無しさん:04/06/25 22:18
>>838-839

そんなに高いのか。僕は500円ぐらいで買ったよ。
843考える名無しさん:04/06/26 00:12
こちらもぜひ投票お願いします。

山本信『ライプニッツ哲學研究』
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=19674
844名無しさん@社会人:04/07/05 00:07
保守age
845考える名無しさん:04/07/05 00:18
レイプニッツ
846考える名無しさん:04/07/17 20:59
保守age
847考える名無しさん:04/07/17 23:39
845 の親父ギャグは悲しすぎる・・・。
848考える名無しさん:04/07/19 22:35
クラーク=ライプニッツ論争について興味もったんだけど、
どういうことか誰か説明してくれませんか?
おねがいしまつ
849考える名無しさん:04/07/19 23:03
850848:04/07/19 23:40
>849
どもです
851考える名無しさん:04/07/20 00:13
知 というか、情報というのは、そもそも分割ができない。
最小単位という概念はあまりない(情報科学のbit論は除く)
...という観点から実は、今日のハイパーテキストあたりが
出来上がっていたりしなかったりする。


ライプニッツが今、生きていたら果たしていまのWWWブーム
についてどうコメントする?( ´ー`)y-~~
852考える名無しさん:04/07/20 03:12
>>851
それよりも、一階述語論理が決定不可能であることを知って
ショックを受けてると思う。
853考える名無しさん:04/07/20 22:03
んなわけない(w。論理学からしかライプニッツを語れない人は、大抵ライプニッツのことなんか
何も語っていない。  ひたすらフレーゲの話ばかりしてたりね。
854考える名無しさん:04/07/21 00:21
>>853
> んなわけない(w。

その話、興味ある。
>>852で言ったのは、

M. Detlefsen, "Leibniz' program and the moral and political
significance of Church's theorem" in C. A. Anderson and M. Zeleny, eds.,
Logic, Meaning and Computation, Kluwer, 2002.

での議論なんだけど、間違ってるんならぜひ詳細を教えてほしい。
855考える名無しさん:04/07/21 00:29
ライプニッツって、単項述語論理を考えていたんじゃないの?
単項なら決定可能だし。
856考える名無しさん:04/07/21 01:31
>>855
それはとても興味深い問題で、
この世に実在する性質は1項述語にあたる性質だけである、
とライプニッツが考えていたかどうかはライプニッツ研究者の
間でも議論の分かれるところだったと思う
857考える名無しさん:04/07/27 17:53
『情況』に連載中の国分はなかなか優秀な奴だが、
よりによってなんであずまんを引用しているのか不明。
858考える名無しさん:04/07/28 14:20
>>857
誰その人?ライプニッツの研究者?
ライプニッツの研究であずまんがでてくるのか・・・
859考える名無しさん:04/07/29 00:14
: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : : : : : , --、: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : : : :ノ   `‐、: : : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : :r'´      `!: : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : l'=ヽ  ,-===、}: : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : :.i ,rェッ ,'、 ィェx {: : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : :i!  : ::::ヽ  .... ',: : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : l. /l__,)::iヽ  :::::::}: : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : :l、,,__、_、,,. ..:::::r': : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : :ヽ ヽ==彳.:::::丿: : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : : : :ト、、_ ,, -ー' : : : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : :/`-、;;;;;;;;;;;;;;;丶: : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : : \  ゙ヽ-、 / i : : : : : : : : : : : : : : : :
: : : : : : : : : : : : :ヽ  \_   `!l ト 、: : : : : : : : : : : : : :
860考える名無しさん:04/07/29 03:55
>>859
ヨクデキテイル
861考える名無しさん:04/07/29 04:08
ライプニッツが今の時代に生きてたら
数学の哲学みたいなダッセーものはやってなかったと思う
862考える名無しさん:04/07/29 12:49
惰性で数学の哲学をやっていたかもしれないと思う。
863考える名無しさん:04/07/29 12:59
ダッセー
864考える名無しさん:04/07/29 13:24
ださいって最近言わないよね。
865考える名無しさん:04/07/29 14:45
だっせー
866考える名無しさん:04/07/29 16:22
ペンローズ
867考える名無しさん:04/07/31 12:27
ださい=くださいの語尾変化? じゃねえべ。
あツ、ダッシュの経年劣化にともなう変化? でもねーか。
じゃー何なんだ。やい、みんな、教えろ。
868考える名無しさん:04/07/31 13:59
ださい (形)
かっこうがわるい。センスが感じられない。

ださ・い 2 (形)
粋なところがなく野暮ったいことを俗にいう語。
「―・い服」「―・い話」

by goo国語辞典

最近へぼい、しょぼい、とかのほうがつかうね。
869考える名無しさん:04/08/14 19:58
下村寅太郎『ライプニッツ』(みすず書房)なんてどうなの??

京都学派第一世代をして「後続恐るべし」って言わしめたみたいだけど・・・

古本屋で見つけたがバカ高かったんで、まだ私は読んではいませんが・・・

最近は西田の後期思想とライプニッツを比較する仕事がでてきていますね。
米山優『モナドロジーの美学 −西田 アラン ライプニッツ』(名大出版会)
とか、
清水高志『セール、想像のモナド −ライプニッツから西田まで−』(冬弓社)
とか。

誰か読んだ人、いますか???
870考える名無しさん:04/08/14 21:09
>>869
本人?
871考える名無しさん:04/08/17 06:01
 この人が今読んでいるらしい。
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/myDays.html
下村寅太郎、全集がすごく立派だよね。ある意味後期西田を一番継いでいるかも。
 米山さん、清水さんどちらも読みましたが、一見古風なようでものすごく斬新です。
872考える名無しさん:04/08/17 10:32
一見古風なようでものすごく電波な理由を書いてよ
でなければ単なるうざい自作自演・・・
873考える名無しさん:04/08/17 15:54
869=871がドキドキしながらレス待っているのが想像できるねw
874考える名無しさん:04/08/17 21:31
そもそも、後期の西田に下村がかなり大きな影響を与えているのだから、ライプニッツと
西田が似てくるというのはある意味当然なんですよね。田辺の批判も影響を与えていますが。
 米山さんのラインは、それを非実体論的なモナドロジー、という文脈で捉え、デカルトなどにも
目配りしながら論じたがっしりしたものです。その上で、現代の情報論に議論をつなげたり
美学の問題を独自に論じたりしているんですね。
 清水さんも、ほぼ似ていますが、こちらは非実体論的なモナドロジーをミシェル・セール
による「アルゴリズム的」なモナドロジー解釈と結びつけたところに新味があります。
 しかも現代のフランスの思想家の多くを、スピノジズムと結びつけて解釈し、差違性を明らかに
示したところもよかったですね。

 
875考える名無しさん:04/08/17 22:02
>>874
清水という方のは、ようするにセールによるライプニッツ解釈をなぞっただけ
ということですね?
876考える名無しさん:04/08/17 22:23
セールを直接仏語でも翻訳でもいいから読んでみれば分かりますが、到底そんな
生やさしいものではありません。かなり換骨奪胎しているようです。
 ライプニッツとセールの関係そのものが、後期になるとすでにほとんど分からなく
なってきます。フランス人でも分からないようですね。
877考える名無しさん:04/08/17 23:44
>>876=869
セールは読んでいますが、あなたの本はまだ読んでいないので分かりません
フランス人でも……というのはなぜか違和感を感じる表現です
清水さんはなぜそう感じるのですか?
878876:04/08/17 23:56
 私の本じゃないですが(爆。先日フランス人留学生とそういう話をしたのです。
セールはライプニッツをどんどん「フランス流」にこなれさせてきてますから、
フランス人たちは却って「純フランス的」な思想という風に思うみたいですね。
879考える名無しさん:04/08/18 00:13
たったひとりのサンプル___で、清水て日哲でも日仏哲学会でも聞いたことない
ですが何者?
米山の本はおもしろいね、訳もうまいし。
880考える名無しさん:04/08/18 14:23
 脳内作者と対話するとは、まさに2ちゃんの哲板だ罠w
881考える名無しさん:04/08/18 15:14
脳内作者?文脈よくよめよアホ。それとも、清水というのは実在しない
脳内人物なのかw
882考える名無しさん:04/08/18 15:47
立ち読みしたが究極の電波本だった
883考える名無しさん:04/08/18 19:26
>>882
漏れは読んでいないから、よく分からないけど、
一般的に京都系の電波本が多いのは定説。
どんな漢字で電波だったの?
884考える名無しさん:04/08/19 17:01
個人的には、セールよりもドゥルーズのライプニッツ論に萌える
セールはセクシーじゃないよな
885考える名無しさん:04/08/20 10:39
869=871晒しage
886考える名無しさん :04/08/28 10:55
保守age
887考える名無しさん:04/08/28 15:31
ドゥルーズのセクシーさについて語れ。
888考える名無しさん:04/08/28 20:54
このスレうざい。前の方の素人デムパとかのせいでライプニッツ語りにくい。
だれか新スレ立てろ。
889888:04/08/28 20:55
といいつつあげてしまった。鬱スマソ
890考える名無しさん:04/08/29 00:21
>>888
>このスレうざい。前の方の素人デムパとかのせいで

そんなの関係ないっしょ。君から語り始めればいい
891考える名無しさん:04/08/29 00:33
ライプニッツの研究者が petit perception とか平気で書いてるのは
かなり恥ずかしいことだと思うが、
あなたどう思うか?
892考える名無しさん:04/08/29 00:37
>>891
なぜ恥ずかしいと思うのですか。
こちらは素人なんで、すみませぬ
893考える名無しさん:04/08/29 00:39
あー perception てのは女性名詞あるよ。
だから petite perception てのが正しいあるね。
894考える名無しさん:04/08/29 02:23
>>891>>893
どこに出ているの?petit perception
895考える名無しさん:04/08/29 03:21
ライプニッツは本質的にスコトゥスの存在の一義性を正統にも受け継いだのである。
スコトゥスのこのもの性(haecceitas)は強度的存在であり、ライプニッツの
思考の源泉でもあるのだ。
両者において力、内包的無限・強度・個体性と符合するところは多い。
私の理解ではそれは真の実在論である。

896考える名無しさん:04/08/29 03:22
形容詞の性数一致くらいで専門家ズラ(w
 
897考える名無しさん:04/08/29 03:37
>>891が言ってるのは
専門家ならば性一致ができる
であって
性一致ができるならば専門家
ではないでしょ
この違いもわからん香具師はライプニッツを読む資格なし
898考える名無しさん:04/08/29 03:47
 大学一年の六月だろ(プ
899考える名無しさん:04/08/29 04:45
まあ日本語も覚束ない***は放置という方向で。

>>894
それはちょっと。
武士の情けで。
(って、別に武士じゃないけど。)
900考える名無しさん:04/08/29 04:49
ついでに900ゲト
901考える名無しさん:04/08/29 04:56
ついでに901もゲト
902考える名無しさん:04/08/29 05:10
「存在の一義性」、「このもの性」、「強度=内包量」とくると
さしずめ、DQNワード三銃士というところか
903考える名無しさん:04/08/29 14:47
山内君を馬鹿にするな
904考える名無しさん:04/08/29 15:04
だって馬鹿なんだもん
905考える名無しさん:04/08/29 15:57
ライプニッツの研究者かどうかわからんが、ぐぐったらでてきた
petit perception。ただ掲示板なので、単なるタイプミスかと。
906考える名無しさん:04/08/29 21:14
907考える名無しさん:04/08/29 21:55
なぜに堀江由衣?
908考える名無しさん:04/08/29 21:56
声優板逝け
909考える名無しさん:04/08/30 00:48
910考える名無しさん:04/08/30 14:51
明らかに906=907=908=909。
スレが荒れることでなにかが隠され、それで最も利を得る者の仕業だろう。
911考える名無しさん:04/08/30 22:52
>>910
「最も利」ってなにさ。(藁)
ところで909のサイトをたどっていくと、この日記を書いている香具師は
分析哲学やってる院生みたいね。で、アニメ好きだ。
ごくフツーの人間ですね。
912考える名無しさん:04/08/31 00:49
petit perceptionに話戻せ
913考える名無しさん:04/08/31 00:53
ライプニッツ本の続きをしる!!!

914考える名無しさん:04/08/31 00:59
微小表象ですな。
コネクショニズム解釈とかないのかなあ?
915考える名無しさん:04/09/15 21:38:15
山内先生、再度トリビアに登場
916考える名無しさん:04/09/16 11:26:30
山内君の頭頂部はとても笑える
917考える名無しさん:04/09/17 21:37:21
スレッドができて2年半近く経つのに、
誰もスレタイの「ライプニッツ」に突っ込まなかったのが驚き。
みんな大人なんだなぁ。
「ライブニッツ」なのに。
まあ片仮名で書いた時点で発音が違うといえばそれまでだけど。
918考える名無しさん:04/09/17 21:40:48
>>917
おまえドイツ語読みをしらんのか
919考える名無しさん:04/09/17 21:47:29
すごいヤツでてきたな
ライブニッツあげ

ドイツ語の発音知らないのは別にいいけど、
ヘーキな顔して書きこむ神経が理解できね
920考える名無しさん:04/09/17 21:58:50
今のこの板のレベルを象徴してんだろなあ>ライブニッツ
もうこの板来るのヤメよ
921考える名無しさん:04/09/17 22:00:45
ベルグソンかベルクソンか? フォン・リヒトかヴォン・ライトか?
なんて論争もあったね。
922考える名無しさん:04/09/17 22:02:38
フォン・ウリクト?

まあ、いずれにしても「ライブニッツ」は画期的
ねらーじゃなきゃ思い付かないだろうな
923考える名無しさん:04/09/17 22:06:52
そいつ、たしかリトアニア人か何かだったよね。そこで本当に「ウリク
ト」って読むんだろうか?
。。
925考える名無しさん:04/09/17 22:11:24
フィンランドじゃなかったっけ?
ヒンティカのお師匠さんだと思ってたけど。
(でもよく氏らね。なんかノルウェー出身だったような気もしてきた。)
読み方に関してはこんなの↓あるね。

http://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/ueeda/memo00-08.html
926考える名無しさん:04/09/17 22:11:33
2ちゃんねらってすごすぎるね。
927考える名無しさん:04/09/17 22:13:34
フロイドかフロイトかというのもあった。フロイトに決まってるが。
928考える名無しさん:04/09/17 22:15:49
>>925
でも、ヴィトゲンシュタインの弟子で、教えていたのも、ケンブリッジだろ?
929考える名無しさん:04/09/17 22:17:36
>>928
ケンブリッジで教授を務めてから
お国に帰って後進を育てたとか
何かで読んだけど。
(でも、これも記憶がてきとー)
930考える名無しさん:04/09/17 22:50:05
おまいらいい加減にしないと>>917が泣くぞw
931考える名無しさん:04/09/18 00:17:15
>みんな大人なんだなぁ。
>「ライブニッツ」なのに。
中学生でしょ?
932考える名無しさん:04/09/18 00:44:17
ライブニッツ
orz
933考える名無しさん:04/09/18 01:03:14
そういや、スコペンハウエルというのもあったな。
934考える名無しさん:04/09/18 01:12:01
ショーペンハウアーと呼ぶやつはアホ
プラトーなみにアホ
935考える名無しさん:04/09/18 22:02:39
「ライブニッツ」なのに。
936考える名無しさん:04/09/18 22:10:26
・・・・釣れますか? >>935
937考える名無しさん:04/09/19 06:34:59
>>918-920
独和辞典で発音を調べてみて下さい。
ご自分の無知が明らかになります。
938考える名無しさん:04/09/19 06:50:37
http://www5.mediagalaxy.co.jp/CGI/sanshushadj/search.cgi?cmd=detail&byte=0007021656&leng=0000000203
正しい発音は「ライブニッツ」なのですよ。
一般的なおばかさんは「ライプニッツ」とおっしゃりますがね。
939考える名無しさん:04/09/19 09:02:50
いずれにしてもカタカナの日本語表記は「ライプニッツ」が標準形だろ。
937-8は、テレビをテレヴィとか、ソクラテスをソークラテースとか書き記して得意になってる馬鹿。
940考える名無しさん:04/09/21 03:42:06
一般的なおばかさん
941考える名無しさん:04/09/25 11:12:18
ライプニッツの生まれた地方の方言では?
942考える名無しさん:04/09/25 21:14:50
あのさ〜
正しい発音って。あほか。
ドイツ人でもウィトゲンシュタインに近い発音するやつもいれば、
ヴィトに近い発音するやつもいる。
どっちでもいいんだよ。
943考える名無しさん:04/09/25 23:31:03
ライプニッツ?ライブニッツ?
気になるんだったら Leibniz って書けばいいじゃないの。

ところで
石黒ひで の『ライプニッツの哲学』の岩波(増補版)まえのやつ読んだある人いる?
944考える名無しさん:04/09/26 00:50:42
ハイデッゲル、フッセル、
ショーペンハウアーですよ
945考える名無しさん:04/09/26 00:51:43
>>943
ある。
946考える名無しさん:04/09/26 01:13:55
>>943は何をききたかったの?
947考える名無しさん:04/09/26 09:22:40
>>943
>>石黒ひで の『ライプニッツの哲学』の岩波(増補版)まえのやつ読んだある人いる?

 昔、大学の図書館にあった英語版の方は、全体を目を通して、
 面白そうなところは読んだが……日本語版は未読。誰か読んだことある人いる?
948考える名無しさん:04/09/26 10:13:09
>>941
ライプニッツ家はもともとスラヴ系の出みたい。
949考える名無しさん:04/09/26 23:10:17
>>948
出展は忘れたが、確かに数代前はスラブ系だって話を読んだことがある。
というか、確かライプニッツ自身が自分の系図の調査をしていて、
自分の出自はスラブ系だって書いていたと思ったが……

記憶違いだったらすまん。
950考える名無しさん:04/09/26 23:13:29
ハイル・ヒットレル!
951考える名無しさん:04/09/27 01:53:17
もな丼(ワラ
952考える名無しさん:04/09/27 11:30:03
増補版ねだん高杉だよ orz
差分ファイルだけ出版してくり
953考える名無しさん:04/09/27 11:46:40
最近の新刊って高い。普通に5000円とかする。
石黒本のように8000円ぐらいするのも多い。
哲学に関しては某ライプニッツ全集が釣り上げたんじゃないかと(w
954考える名無しさん:04/09/27 13:23:26
だから岩波は単子論の文庫を再版しろと
955考える名無しさん:04/09/27 13:42:46
「形而上学序説」もだね。この2冊は常備して欲しい。
956考える名無しさん:04/09/27 22:12:05
 骨がスラブ人だったらしいよ。身長は175cm。カントやハイデッガーとえらい違いだ。

 『現代思想』の読むべき古典特集にも「モナドロジー」が出ていて、佐々木能章さんが解説を書いてるね。
957考える名無しさん:04/09/27 22:59:03
175cmてデカイのかチッコイのかよく分からん

カントはナイナイ岡村より小さかったらしいが
958考える名無しさん:04/09/27 23:47:11
>>957
どうだろうね。まわりがゲルマン系ばかりだったとしたら
相対的に小さめだったかもしれないが、もし現代の日本にいたら
大きいほうかもね。

あと、パリにいたころはそれほど小ささを感じなかったかも。
ラテン系の男性はそれほど大きくないし。

まあ175cmならどの民族にいても「チビ」の部類ではないと思われる。
959考える名無しさん:04/09/27 23:53:17
 100年以上前は、ドイツ人でも今より平均10センチくらい小さかった。

ただし、上流階級は当時でもでかいかもしれん。
960考える名無しさん:04/09/28 00:16:32
>>959
>100年以上前は、ドイツ人でも今より平均10センチくらい小さかった。
>ただし、上流階級は当時でもでかいかもしれん。

 あ、そうなんだ。まあ、当時の骨を見てみれば一目瞭然か。
 当時の一般庶民がそれほど栄養状態がよかったとも思えないから。
 納得できるかも。それでも平均で170cmくらいかな?
 となると、ライプニッツは相対的に「普通〜大きめ」くらいかな。
 
 この辺は「17世紀のヨーロッパ人の体格」ってな研究書でも読まないと
 わからないなあ。たぶん当時の骨とか結構残っているだろうから、
 ある程度のサンプリングで統計は取れるだろうし。
 ドイツとかの図書館あさると、何冊かはその手の本はありそうだが……
961考える名無しさん:04/09/28 01:00:01
 せいぜい166cmくらいかな>庶民。戦前のイギリス人労働者でもそんなもん。
トマス・アクィナスは190センチあったらしい。
962考える名無しさん:04/10/21 14:41:17
このスレも、そろそろ次スレへの移行の時期だな。
963考える名無しさん:04/10/23 19:11:54
地震があったけど、山内さん@新潟大は大丈夫かな。
本棚のヴォルフ全集が倒れてきて怪我でもしてないかと心配だ。
964考える名無しさん:04/10/24 06:18:10
>>963
> 本棚のヴォルフ全集が倒れてきて怪我でもしてないかと心配だ。

栗原さん@新潟大の場合はヘーゲル全集が倒れてくるのか…大変そうだ。
って、不謹慎なうえにスレ違いネタスマソ。
965考える名無しさん:04/10/26 11:50:53
ライプニッツの時代には、複雑系の考えがなかったからな。
我々が作ろうとしているのは複雑系の世界だよ。
個々がバラバラの考えを持ちながら、かつ協調し同じ考えを共有する世界。

精神と物質とか、宗教と科学の融合でなく、個人と集団の複雑系としての融合。
デカルトの我は、実証主義的な他者と複雑系の世界で初めて一緒になれる。
966考える名無しさん:04/10/26 13:08:22
>>965
頭、大丈夫?
967考える名無しさん:04/10/26 16:27:18
我と他者と、宗教と科学と、自由と決定論と、デカルトからスピノザ、
ライプニッツへ。
968考える名無しさん:04/10/31 21:36:06
さあ、このスレの読者のみなさん、以下の質問にふるってお答えください。

728 :チンポ太郎 ◆zh1F2ePgb2 :04/10/26 01:11:07
私の方から質問して宜しいですか?

1.「予定調和」とは、ライプニッツの主張「モナドは窓を持たない」とどういう関係にありますか?

2.「予定調和」説は、マールブランシュ等のデカルト派の人々が主張した「機会原因説」と具体的に
どう違いますか? また、ライプニッツはその違いを示すために、どんな比喩をどのように
使いましたか?(スコラ哲学の心身関係規定も含めて。)

3.「予定調和」説に異議を唱えた人がいました。ライプニッツは『新説』執筆後、その人に対して
繰り返し反論を行いました。この異議を唱えた有名な哲学者は誰ですか?
また、この異議者は、「予定調和」をどのように評価しましたか?

4.ライプニッツは、モナドの本性として、「表象作用」以外の何かを挙げました。それは何ですか?
それと「表象作用」とはどんな関係にありますか?

5. 支配的なモナドと、支配されるモナドとの関係をライプニッツはどう規定しましたか?

6. 上の質問に関係して、ライプニッツは晩年、某神父との書簡において、ある有名なキーワードを
用いました。このキーワードをめぐって、以来、様々な論争が起きました。このキーワードは
なんであり、それは具体的にどのようなものですか?

7. ライプニッツはブルーノから「モナド」という言葉をとったと言われていますが、ライプニッツは
この言葉をずっと以前から知っていました。それは、彼の学生の頃の師に由来しています。この人が、
ライプニッツの学位論文の序文で「モナド」という言葉を使ったのですか、この人は誰ですか?
また、どういう文脈でその言葉を使いましたか?
969考える名無しさん:04/10/31 21:53:57
すべての答はこのスレのログにありますよ!>グル
970考える名無しさん:04/10/31 23:41:03
チンポ自演乙。
971考える名無しさん:04/11/01 00:41:40
そうか
972考える名無しさん:04/11/01 04:54:13
1.モナドには窓がないため、諸モナドの表象に何らかの一致があることには神のとりなしが必要であり云々。
2.デカルトは松果体で魂と身体がつながっているとしたが、
  ライプニッツは表象と物の間の対応に何の根拠も見出せないことから「予定調和」を考案した。
3.アルノー。自由意志を維持する観点から不満噴出。
4.impetus。欲求と訳される。表象から他の表象への変化を引き起こす動因。
5.表象の判明さの度合によってモナドには位階がある。
6.デ・ボス神父。vinculum substatiale 実体的紐帯。
7.トマジウス。アリストテレスにおける個体化を2種に分けた際に云々。。
973考える名無しさん:04/11/01 07:25:24
70点くらいじゃね?

どーでもいいけど vinculum substantiale だな
974考える名無しさん:04/11/01 09:17:46
で、そろそろ次スレを立てなければならないわけだが。
975考える名無しさん:04/11/01 09:26:34
2年半で1000か。
976考える名無しさん:04/11/01 13:39:47
972,ものすごいな。20点。
977考える名無しさん:04/11/01 13:44:13
4はappetitoじゃないっけ?
978考える名無しさん:04/11/01 13:45:04
>>977
あそっか。なんか変だと思ったんだよな。
979972:04/11/01 21:47:39
appetitusね。オン書きとは言え恥ずかしい(^^;)。impetusは運動量にあたるやつね。
それにしても、皆なツッコミ入れるだけじゃアカポス取れないぞぉ。
980考える名無しさん:04/11/01 22:01:41
専攻が哲学という時点でアカポスはなさそうな悪…
981考える名無しさん:04/11/02 00:24:55
>>980
激しく同意。ちなみに、この分野でアカポス目指しているってだけで
ギョーカイ内ならかなり特定される悪寒。
982考える名無しさん
スピノザスレとここでドゥルーズくさしている香具師は、
なんとなく想像付くよな