1 :
ベロ ◆od7XM/js :
02/03/23 19:26
2 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/23 19:59
前スレの963さんはリアルに輪廻を感じることはないとおっしゃるが、 世俗諦としては輪廻はリアルだと言われる。ちょっとわかりにくいのですが 世俗諦とは我々が実感できうる真実なのではないでしょうか? 「勝義諦」と「世俗諦」の定義が不安になってきました。どう言う意味なのでしょう? 電波男さん、55さん、他みなさん方の意見を聞かせて下さいませんか?
3 :
考える名無しさん :02/03/23 20:01
空を説明したのが勝義。 色を説明したのが世俗。
4 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/23 20:09
>>3 では「色即是空・空即是色」といわれるのは
「勝義諦即是世俗諦・世俗諦即是勝義諦」と言いかえる事は可能なのでしょうか?
僕は勝義諦と世俗諦には断絶があると思うのですが。
世俗諦を克服してはじめて勝義諦が理解できると言う感じです。
世俗諦にせよ、勝義諦にせよ、定義は立場によってまちまちだ。 それをどのように定義するかによって異なった宗派が区別されると言ってもいい。 だから、単純にそれらを定義することはできない。 「自分はこう考える」と言うことはできるだろうがね。 中観のある立場では、勝義諦とは無自性・無我を指すが、そこで否定されている自性や我は 世俗諦としても存在しているものではない。世俗諦と勝義諦とは相容れない ものではない。 もちろん、同一のものでもない。それでは世俗諦として存在しているものは 何か。それは縁起している諸存在だ。縁起しているものには 自性はない。縁起するためには、それが固定的な実体であることはできない。 だから、それらは無自性であり無我であり空である。 それが勝義諦だ。 これは一つの立場であって、唯識なら別の主張をするだろう。しかし、 二諦を自らの思想の根幹に据えているのは中観であるのだから、 上のような二諦のとらえ方は、もっとも代表的なものだと言えるだろう。
>>983 さん
>でも経典を研究してるばっかじゃ
>仏陀のような自分で悩み苦しんだ末に悟った人には
>一生近づくこともできないんじゃないかな
自分で悩んで考えて悟った人は「独覚」と言われる。
仏教では、聞→思→修の三学を重視する。
まず、経典に忠実に耳を傾けることだ。
そして、それに思いを巡らし、正しい理解に到達したら、
それを自らの血肉にするまで繰り返したたき込むことだ。
だから経典の意味を正しく理解しようと努めることは決して無意味ではない。
横レススマソ。 宗教板で見かけたものでカキコしたくなって来ちゃいました。(ワラ 人間って無意識の内にシナリオ作って生きてるような気がするのです。 なんて言うか、”ああしなければならない、こうしなければならない”みたいな・・。 だから、そのシナリオから解放されれば精神状態が自由になる・・・。 ゴミレススマソ。
>>6 それだといいですね
聞→思→修→聞→思→修・・・
開始はどこからでも構わないと思うけど
(仏陀じゃないけど、世の苦しみを見て発心して
それから経典につき当たったりしてもいいと思うわけで・・・)
ただ、経典には方便の記述も多いから それを対象外の人が真に受けるとちょっと違うのかな、とか やっぱり自分でもちゃんと考えなきゃね、森羅万象さまざまな勉強をして
>>9 >ただ、経典には方便の記述も多いから
>それを対象外の人が真に受けるとちょっと違うのかな、とか
そのとおり。だから「経典の意味を正しく理解しようと努める」と言ったのだ。
>>10 基本的に同じ考え方の人だったようですね
・・・怒られなくて済んだみたい
>>4 >では「色即是空・空即是色」といわれるのは
>「勝義諦即是世俗諦・世俗諦即是勝義諦」と言いかえる事は可能なのでしょうか?
可能でしょう。
>僕は勝義諦と世俗諦には断絶があると思うのですが。
ありますね。
>世俗諦を克服してはじめて勝義諦が理解できると言う感じです。
克服という言葉が適切かは疑問ですが、順序はあり、
確かに世俗→勝義ですね。
例えて言うなら、本を読もうとしてそのページをめくる感じでしょうか?
普通はそこに文字が印刷されているので、それを「読み」本の内容を把握します。
これが世俗ですね。
一方、その本に接するときに、文字を読むのではなく、本を物体として、
そのページの印刷を、ランダムなインクのシミの羅列である、と観る。
これが勝義みたいな感じかな。
文字を読む人は、そこにストーリーがある、と言うでしょう。
インクのシミを観る人は、そんなのは幻想だ、何もそんなものはない、と言うでしょう。
両者は同時に存在し、なおかつ断絶があり、
そして人の見方が成長する順序は、読むから観る、という感じでしょうか。
>>944 >>輪廻を前提にしなければ、一切衆生を救うことはできないのではないでしょうか。
>それは全く違う。
少し前になりますが、僕が、輪廻を前提にしなければ、一切衆生を救うことは
できない、と言ったのに対し、「それは全く違う」と反連されていますが
僕の言い方は少し言葉が足りなかったようです。
一切衆生を救うためには、仏になる必要がありますが、仏になるためには
膨大な徳を積み、知恵を磨く必要があり、そのためには、とても
短い今生では時間が足りないので、輪廻転生を繰り返し、少しずつ
徳を積み、知恵を磨いて、仏になる資糧をためていかなければならりないのです。
そうでなければ、とても一切衆生を救うことはできそうもありません。
一切衆生を救うことを目指す菩薩が存在するためには、
輪廻転生がなければならない、ということになるのではないか、
と言いたかったのでした。
輪廻は決してマイナスの業の積み重ねだけではないと思います。
プラスの力も積み重ねることができ、そうして初めて仏になることが
できる可能性も開けてくる、ということではないでしょうか。
14 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 00:48
>>13 943さんの意見はその通りなのですが、空を悟る以前の考え方のような気が
します。僕が『十地経』(華厳経の一部)という経典を読んで理解した事は、
943さんの言われる事は第六地までの修行法であり、第六地で般若波羅密が
現前すると、無生法忍を得てあらゆる存在性の空性を悟り、救済すべき衆生も
求めるべき菩提も空であると思うようです。さらに第七地以降になると空で
あるからこそ救済や求道にもとらわれず、大いに利他行に邁進できるという
ような内様でした。勝義においては輪廻も衆生も空だと言う事ですね。
>>14 ペロさん。僕も同じ理解です。問題は第六地に至るまでは、輪廻転生
を繰り返して徳と知恵を積み重ねる必要があるのであり、第六地で
すべてが空であると分かるから、最初から輪廻転生はないと考えては
いけない、ということだと思うのです。そして、空であることを
体得したとしても、やはり一切衆生が輪廻を繰り返し苦しんでいる
ことは否定できないので、だから利他行を行う必要がある、ということに
なるのでしょうね。
>>11 >基本的に同じ考え方の人だったようですね
>・・・怒られなくて済んだみたい
スマソ。別に怒っちゃいないよ。言葉がぶっきらぼうなだけだ。
17 :
前スレの944 :02/03/24 01:38
>>13 >一切衆生を救うためには、仏になる必要がありますが、仏になるためには
>膨大な徳を積み、知恵を磨く必要があり、そのためには、とても
>短い今生では時間が足りないので、輪廻転生を繰り返し、少しずつ
>徳を積み、知恵を磨いて、仏になる資糧をためていかなければならりないのです。
>そうでなければ、とても一切衆生を救うことはできそうもありません。
>一切衆生を救うことを目指す菩薩が存在するためには、
>輪廻転生がなければならない、ということになるのではないか、
>と言いたかったのでした。
だからそれが全く違う。
もう根本の認識が違うよ。
前スレでも言ったが、輪廻の本質は二元性にある。
転生は本質的な話しではないね。
18 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 01:45
>>17 944さん
僕も「生まれ変わり」はいくら仏典に説かれていようが、決して本質的な話では
ないと思います。前スレで輪廻の本質の二元性とはコインの裏表のようなもの
ですか?とお尋ねしましたが、よく考えればコインの裏表だと不ニとなって一元的
になってしまうんじゃないかと思いますが、どうでしょうか?
19 :
前スレの944 :02/03/24 01:50
>>18 >僕も「生まれ変わり」はいくら仏典に説かれていようが、決して本質的な話では
>ないと思います。前スレで輪廻の本質の二元性とはコインの裏表のようなもの
>ですか?とお尋ねしましたが、よく考えればコインの裏表だと不ニとなって一元的
>になってしまうんじゃないかと思いますが、どうでしょうか?
二元性と一元性は両立している。
20 :
前スレの944 :02/03/24 01:52
人間存在において二元性を作りだしている根本原因が分からないと話しにならない。
21 :
前スレの944 :02/03/24 01:56
ついでに言っておこう。時間は記憶としてしか存在しない。
22 :
考える名無しさん :02/03/24 01:57
23 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 01:58
>>20 944さん、
その根本原因というのは分別の事ですか?
「業と煩悩は分別より生ず」『中論』
24 :
前スレの944 :02/03/24 01:59
時間の話は生まれ変わりと関係がある。
25 :
考える名無しさん :02/03/24 02:02
>>24 時間は連続した記憶の中において認識されるもので生まれ変わりとは
一切関係はないと思われる。
26 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 02:02
二元性と一元性の両立について、教えて下さい。
27 :
前スレの944 :02/03/24 02:03
>>23 >その根本原因というのは分別の事ですか?
いや、分別を作り出している原理。
28 :
前スレの944 :02/03/24 02:04
29 :
前スレの944 :02/03/24 02:05
30 :
考える名無しさん :02/03/24 02:05
>>26 二元性と一元性の両立はありえません。
どこまでいっても二元性のみです。二元性の延長上に一元が存在するわけでもありません。
31 :
前スレの944 :02/03/24 02:07
経典を学ぶのもいいが、その知識に自信を持ちすぎるのはどうかと思うよ。 じゃあね。(^^)/~~
32 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 02:09
>>27 944さん、
分別をつくりだしている原理とは根本無明のことですか?
33 :
考える名無しさん :02/03/24 02:12
>>32 根本無明とは原理なのですか?
原理が分別と認識させているのですか?
34 :
前スレの944 :02/03/24 02:13
>>32 言葉の意味は実在的なものだから、
そのように言っても何も説明していないのと一緒。
実在の意味から探るような議論でなければ意味がない。
私は普段宗教版で遊んでいるけど哲学版はやはり面白くないので帰ります。
では(^-^)/。
35 :
考える名無しさん :02/03/24 02:15
36 :
前スレの944 :02/03/24 02:17
>>35 ああ、そういう意味じゃないね。問いかけが薄っぺらだから。
37 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 03:59
僕の質問の仕方はホント言葉遊びのようでした、申し訳ない。ただ僕は宗教板より 哲学板の方がじっくり深い議論ができると思いますね。どうしても宗教的実存的な 問いかけよりも言葉の方に重点がおかれるのは仕方ないと思ってますが、匿名掲示板 では言葉だけが勝負ですし。
38 :
考える名無しさん :02/03/24 04:22
>>part I-988 >>嘘つきまくって幸せな人生を送った横井ヒデキとかどうなるの? >>生まれながらに不自由な人とか、白痴な人とかはどう解釈するの? >僕が輪廻思想に疑問をいだくのはこのような、宿業論を持ち出し、 >現在の不幸を過去世の業だとする、あるいは悪を犯してしまった人は >必ず不幸に陥るという思想は非常に民衆の脅迫や支配に利用しやすいと >思うからです。もし仏教の本質が業報輪廻の宿業論なら仏教と縁を切りますね。 仏教の基盤だと思います。「すべては行いの結果である」という考えでしょう。 そう差別に繋がるといって袴谷さんとかの仏教学者が切り捨てたことです。 しかし、これを受け入れなければ仏教は始まらない。 どんな悲惨な業でもそれは乗り越えることはできるのです行為によって、 どんな恵まれた業でもそれに安住して悪い行為を積んでいれば沈潜する。 それは無常であり、空であることが保証している。 こうゆう仏教の考えの方が、現実に即しているし、さらに平等に思えるのですが? どうも、ベロさんは近代主義の上に立って仏教を脱構築しているような気がします。 仏教は知的であり業・輪廻は非本質という袴谷さんとか松本さんとか好きなんでしょうね。
39 :
向こうの227 :02/03/24 04:25
>>982 >嘘つきまくって幸せな人生を送った横井ヒデキとかどうなるの?
>生まれながらに不自由な人とか、白痴な人とかはどう解釈するの?
「生まれながらに不自由な人とか、白痴な人がいるという事に(感情的)納得がいかなければならない。」
という思考に対して疑問はないのかな?
自分の幸・不幸観があらゆる人と同じであるとするエゴイズム(独り善がり)を疑問に思ったことはないの?
生まれながらに不自由な人は不幸であるというのは、あなたの主観だよ。
40 :
考える名無しさん :02/03/24 05:33
>>39 >「生まれながらに不自由な人とか、白痴な人がいるという事に(感情的)納得がいかなければならない。」
>という思考に対して疑問はないのかな?
すいません。意味が分からない。
>自分の幸・不幸観があらゆる人と同じであるとするエゴイズム(独り善がり)を疑問に思ったことはないの?
>生まれながらに不自由な人は不幸であるというのは、あなたの主観だよ。
そんなこと書いてないと思うけど?
要するに悪い行為には苦しい結果があるってこと。
それは経典にたくさん書いて有るけど、主観ではないとおもうけど。
41 :
向こうの227 :02/03/24 09:08
つまりこういうこと
688 :バイオレット吉川 :02/03/18 02:54
でも、元々理屈っぽい人間だったから「前生を考えなければ今生での生
まれながらの個々人の格差が説明出来ない」と常日頃思ってました。
ですから、仏教の因果論には納得しましたね。
689 :名無しさん@1周年 :02/03/18 03:11
>>688 「生まれながらの個々人の格差に説明がつかなければいけない」という思考にたいしては疑問を抱かなかったの?
2人の人が道を歩いていて1人の頭の上に鳥の糞が落ちて
「彼には糞が落ちなくて彼には落ちた。因果論を考えなければこの格差は説明できない。」と思う?
692 :変人 ◆1PfzdK1. :02/03/18 08:10
>>689 >「彼には糞が落ちなくて彼には落ちた。因果論を考えなければこの格差は説明できない。」と思う?
そうなんですね。
人間というのは、あまりにも合理的に考えてしまうところがあります。
「そういう事で納得したい」。というがありますからね。
42 :
向こうの227 :02/03/24 09:20
何が言いたいのかと言うと、 どうもあなたの発言を聞いていると、自分が感じることを基準に「他人も同じように感じるんだ」としているように見える。 「自分が苦しいことは他人も同じように苦しいに違いない」「自分がこう感じるんだから、他人もこう感じるに違いない」と ものの感じ方や幸・不幸の感じ方なんて人それぞれじゃないか。 「他人はほっとけ」と言ってるのではなくて、「他人は他人でそれぞれ苦しい」のであって それを自分中心に考える(ているように見える)のはオカシイということ。
43 :
向こうの227 :02/03/24 09:52
もっと色々書こうと思えば出来るんだけど、いちいち説明するのがめんどくさいから止めとく。 ただ一つ言っておくけど、あなたが言ってることは色々オカシイところがあるよ。 それは現代科学的に見てとかではなくて仏教的に見て。 「間違った仏教解釈が広められるのを黙って見ていられない」みたいなことを言ってたけど、 「逆だろ」って思うよ。 まあ、気が向いたら書くけど
ううむ。寝てる間にずいぶんとひどいことになってるきたな。 無効の227さん。舞えすれの944さん。本人は万全だと思ってるかもしれんが、 核心をぼかした言葉足らずに発言、根拠を述べずに断言や断罪する、 しかも言っていることと言えば、仏教学の常識に反することばかり。 もちろん、常識に反するからよくないのじゃないぞ。 それは大歓迎だが、そういう意見であればあるだけ、その根拠を明確に すべきだ。 それなくして、一行程度のやりとりをするようじゃ、混乱を招き、版が荒れるだけだぞ。
45 :
前スレの944 :02/03/24 11:28
>僕の質問の仕方はホント言葉遊びのようでした、申し訳ない。ただ僕は宗教板より >哲学板の方がじっくり深い議論ができると思いますね。どうしても宗教的実存的な >問いかけよりも言葉の方に重点がおかれるのは仕方ないと思ってますが、匿名掲示板 >では言葉だけが勝負ですし。 ペロさん。あなたがいいたいことはわかる。 しかし匿名だからこそ実在的な問いをしたほうがいいと思う。 言葉が勝負、ということと、知識が勝負というのは意味が全くちがう。 例えば「出家」という言葉ひとつとってみても、 この言葉の意味を紐解こうと思えば、このテーマ「出家とは何か」だけで スレがひとつ終わってしまうくらい深く議論できると思う。 教科書的に出家とは○○である。と書くとそれだけで終わってしまうけどね。 つまり、知識で勝負するより、やはり考え方で勝負するべきだと思うよ。 哲学版なんだから。もっとも私は「勝負」は嫌いだけど。
46 :
前スレの944 :02/03/24 11:28
>無効の227さん。舞えすれの944さん。本人は万全だと思ってるかもしれんが、
>核心をぼかした言葉足らずに発言、根拠を述べずに断言や断罪する、
>しかも言っていることと言えば、仏教学の常識に反することばかり。
>もちろん、常識に反するからよくないのじゃないぞ。
私が仏教学に反する、と言われるのはかまわない。
一応、知識として触り程度にしか知らないけど、
ペロさんがこのスレで言ったようなことはだいたい全部知っている。
だから自分の発言がそういう常識から外れていることは十分自認している。
しかしそれでも「本髄」は外していないつもりだ。
ちなみに、向こうの227さんの言うことはすごくわかる。
例えば
>>38 さんのいっているのは素朴なカルマ論だと思うけど、
現代インドでももちろんカルマ・マールガというのはあって、
良いことをしてカルマを克服しよう、みたいに教えている。
しかし、このカルマ論の本質は
「おこない(行為)」に力点をおくと、その真のねらいが見えてこないんだよ。
本当のポイントは行為ではなく、その「行為者」にある。
そしてカルマ・マールガの理想は、この行為者を消し去ることなんだね。
俗に、行為者なき行為はカルマをつまない、という言い方をするんだけど、
そういう意味では現代ヒンドゥーは仏教に酷似していると思う。
私が何回も輪廻の本質は二元性にある、と言ったのは、
「行為者-現象世界」というあり方が輪廻の本質である、という意味で、
これを「行い-報い」で見てしまうと、
本質が見えなくなってしまう、ということを言いたかったわけだ。
>それは大歓迎だが、そういう意見であればあるだけ、その根拠を明確に
>すべきだ。
根拠は私の中にある。文献の中には無い。
それを明確にするには質問者が自分で明確にしていかなければならない。
つまり、私にとって明確なことが、なぜあなたにとっ不明確なのか?
それを明確にするにはあなたが自分で考えなくてはならない。
「・・・・するとひとりの教師が言った。お話ください。「教えること」について。
アルムスタファは言った。
あなたに誰かが何かを示しても、それは所詮、すでにあなた自身の「知」の夜明けに、
目覚めを待ってまどろんでいたもの。
神殿の陰で弟子にかこまれて逍遥する教師は、自分の英知を与えるのではない。
与えるのはただ、彼の信念と慈愛だけ・・・・」
・・・・・カリール・ジブラン「預言者」より
>>46 >あなたに誰かが何かを示しても、それは所詮、すでにあなた自身の「知」の夜明けに、
>目覚めを待ってまどろんでいたもの。
「知識は想起だ」と言うとしても、教師が何も教えないってことにはならんぞ。
教師は須く弟子の精神のうちにある知を引き出す産婆術に長けていなければならない。
>根拠は私の中にある。文献の中には無い。
>それを明確にするには質問者が自分で明確にしていかなければならない。
なんてことにはならん。
>私が何回も輪廻の本質は二元性にある、と言ったのは、
>「行為者-現象世界」というあり方が輪廻の本質である、という意味で、
>これを「行い-報い」で見てしまうと、
>本質が見えなくなってしまう、ということを言いたかったわけだ。
二元というからには二つの項があり、それらがどのような関係にあるか、
そしてなぜそのように考えられるかを示す必要がある。
それと輪廻の本質との関係も、明確にする必要がある。
それが語られた後、それを理解できるかどうかは見ている人の心に想起すべき
ものがあるかどうかにかかっている。
48 :
考える名無しさん :02/03/24 18:33
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1010788424/991 に対する答えです。
何故、電波さんがチベット語に通じてないかの理由は、簡単です。
前にも書いたのですが、梵語の eva は包括関係を示します。
それは電波さんが仰るとおりです。
それは電波さんの先生とう噂もある梶山先生の論文で有名なものです。
その意味する所は、桂紹隆『インド人の論理学』中公新書、257頁の図、
及びその周辺に明らかです。
ですが、電波さんはそのチベットでの解釈術語に通じていないことも明らかです。
なぜなら、オラがgzhan ldan rnam gcodという術語を使用しているのに、
eva を知らないと言っているからです。(言いがかりしたかったけどするとこ間違っちゃったってかんじ!)
これは以下のように eva チベット語では kho na を解釈するための術語なのです。
mi ldan rnam gcod / srid sgrub 'phong skyen pa kho na /
アルジュナは名射手にほかならない。(桂図九に対応)
gzhan ldan rnam gcod / srid sgrub kho na 'phong skyen pa /
アルジュナだけが名射手だ。(桂図十 に対応)
mi srid rnam gcod / srid sgrub 'phong skyen par gnas pa kho na'am /
アルジュナは名射手で必ずあるはずだ。(桂図十一に対応)
いいかげんにしてくださいよ。電波さん。心からそう思ってんならどうかしてるよ?
そういえば梶山先生は確か輪廻肯定派だったような気がするな。
10年以上前のことだからよく憶えてないけど。
49 :
考える名無しさん :02/03/24 18:44
>>42 いやそんなことは思ってませんんよ。こう見えても学者じゃないから結構、経験豊富なんです。
驚くべき変態から本当に聖なる人までいろいろな方にお会いしており、本当に現れの多様性は
実感しております。ちなみにオラは世俗的な意味では苦しみは少ない方だと思います。
逆に少ないから出離の気持ちが少ないので困っちゃうんですけど。
>ものの感じ方や幸・不幸の感じ方なんて人それぞれじゃないか。
>「他人はほっとけ」と言ってるのではなくて、「他人は他人でそれぞれ苦しい」のであって
>それを自分中心に考える(ているように見える)のはオカシイということ。
ごもっともです。まったく同感です。
>>43 >「間違った仏教解釈が広められるのを黙って見ていられない」みたいなことを言ってたけど、
>「逆だろ」って思うよ。
それは教えて頂きたいです。間違いは多々あると思います。しかし、輪廻に関しては絶対の自信を持って、
貴方の立場の方が間違っていると言えます。証拠はたくさん挙げました。
また、いずれ
50 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 21:08
>>38 55さん、
>こうゆう仏教の考えの方が、現実に即しているし、さらに平等に思えるのですが?
>どうも、ベロさんは近代主義の上に立って仏教を脱構築しているような気がします。
>仏教は知的であり業・輪廻は非本質という袴谷さんとか松本さんとか好きなんでしょうね。
もし55さんの知り合いに障害を持った子供が生まれて来て、55さんに会った時に
55さんが「それは前世の因縁だよ」なんて事を言ったら、現代日本では55さんの
人格が疑われるでしょう。オウムの麻原さんがTVで「生まれつき私の目が悪いのは
前世のカルマだ」というような事を言っていたが、自分で自分の事を言うのならまだしも
それを他人にも押し付ければ間違いなく邪教だと思いますね。
僕は考え方は近いと思いますが、袴谷さんや松本さんのファンではありませんよ。
どちらかというと津田眞一さんの方が面白くて好きですね。
業や輪廻が非本質だと捨て去る袴谷さんや松本さんよりも、電波男さんの
釈尊は「輪廻の肯定」を否定し「輪廻の否定」を否定し、形而上的問題は気にせず、
「業」は現世の行いのみに適用され、「輪廻」は現世での自分の精神状態の表現
であるというお考えが僕にとっては一番しっくりきますね。55さんはそんなものは
自分に都合よく捻じ曲げた仏教解釈だとおっしゃるでしょうが。
僕は仏教はまさに「業報」からの解放を説くものだと思います。それを「業報」が
仏教の基盤であるといい、どんな悲惨な業でもそれは乗り越えることはできるのです
行為によって、どんな恵まれた業でもそれに安住して悪い行為を積んでいれば沈潜する。
という55さんの立場は「業」「輪廻」にとらわれすぎているのではと思います。
51 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/24 21:19
>>45 944さん、
おっしゃる通りですね、知識の量ではなく、考え方が大切ですね。
自分が何を疑問に覚え、それをどう考え納得していくか、
その過程こそが重要だと思います。結果としての知識よりも。
どうも輪廻肯定派の分が悪いようですね。55さんと、パチパチさんと僕くらいの ように思えます。ROMしている人はいますか? 前にどなたかがおっしゃっていたように、仏教への関わり方が違うことが 主要な原因のように思います。僕はもう20年くらい、仏教学者の末席を 汚しているのですが、これまでの研究生活での感触から言えば、 釈尊自身の真意はともかくとして、過去の仏教思想としては輪廻転生が 否定されたことはないと思います。 電波男さんのご意見は、自分の思想として仏教を現代風に読み替える ような解釈として以外には、認められていないように思います。 電波男さんの発言を、ずっと辿ってみて思ったのですが、たとえば、para-lokaにしても それを生まれ変わったあとの来世と考える必要はない、原義に質せば、そのような意味は ない、というご意見だと思いますが、それは、まさに輪廻転生が現代に おいて信じられないことから、来世と考えなくても一貫して解釈できるし、 転生と考える悪弊は、さまざまな罪を生み出してきたので、転生抜きで 解釈できるのであれば、そのように解釈すべきだ、とお考えのように 思います。 ですが、そのことは、過去の伝統的な解釈が、輪廻転生を前提にしたものであった ことを逆に示しているように思います。少なくとも僕には、釈尊を除く それ以降の大部分の仏教は輪廻転生を肯定していたと思われます。 どうでしょうか。現代のみなさんが、輪廻転生に納得できない、ということと これまでの仏教の典籍が輪廻転生を前提とするか、あるいは少なくとも それを否定しないこととは別のことだと思うのですが。
53 :
前スレの944 :02/03/24 22:58
>>あなたに誰かが何かを示しても、それは所詮、すでにあなた自身の「知」の夜明けに、 >>目覚めを待ってまどろんでいたもの。 >「知識は想起だ」と言うとしても、教師が何も教えないってことにはならんぞ。 >教師は須く弟子の精神のうちにある知を引き出す産婆術に長けていなければならない。 上記のどこに知識は想起だ、と書いてあるのか? あなたがそう解釈しただけでしょう。 そのように解釈した、ということは、 詰まるところ、あなたは自分で「自分の記憶の確認」をした、 というに過ぎません。そこには学びがないのは明白。 また、妊娠していなければ産婆も訳に立たない、ということをご指摘差し上げます。 >>根拠は私の中にある。文献の中には無い。 >>それを明確にするには質問者が自分で明確にしていかなければならない。 >なんてことにはならん。 いや、いや、これこそは誰にとっても「学び」の神髄ですよ。 私も昔は経典の類はそれなりに研究しまいしたが、 本当には何も分からなかった。 経典を読むのではなく、 「自分自身を読む」すべを身につけてから 初めて経典の意味することが理解できるようになったものです。 >二元というからには二つの項があり、それらがどのような関係にあるか、 >そしてなぜそのように考えられるかを示す必要がある。 いいですか。 あなたの質問のあり方、関心のあり方が「答え」の質を決めるんです。 上記の質問から、あなたが「本質」には興味がないことが分かる。 仮に答えを得ても、知識が増えるだけの訊き方です。 正しい問には必ず正しい答えがある。 また、熟した実だけが落ちることが出来るんです。 まあ、精進する事ですね。
>>52 確かに多勢に無勢だ。しかし、「仏教学の研究者」の常識のようなものを
持ち出したところで、何の説得力もないぞ。逃げちゃいけない。嘆いてもいけない。
前スレ964で問題点を整理したが、少し付け加えることがある。
・現代の仏教学研究者も個人としては輪廻転生を信じてもいないし、共感も持っていない。
したがって、輪廻転生抜きで解釈できる可能性がある場合、学問を離れて大衆迎合的な
発言をする場合には、現代風改釈をすることがある。
これは、輪廻を肯定する論拠ではないが、現代日本の僧侶と学者が輪廻転生に否定的
であること、特に僧侶は大部分、布教において輪廻転生を否定し、ないしは
それを持ち出さない。こういう現況だから、電波男氏の意見が納得のものとして
受け入れられるのだろう。
1. 三法因ないし四法因に輪廻転生が説かれていない。 2. 三法因ないし四法因こそが仏教の本質である。 3. 故に仏教では輪廻転生は否定されている。 というのが電波男氏の論法(の一つ)だろう。 これ自体は松本史郎氏が宗教的・時間的縁起のみを仏教の本義として、 それ以外の全ての仏教説を切り捨てるのと大差ない。 確かに三法因ないし四法因に輪廻転生は説かれていない。しかし、そのことは それが輪廻転生を否定していることを意味しない。 釈尊でさえ多様な言い方をしている。それ以降の仏教は輪廻転生を 前提とした様々な教説を作り出している。特に大乗仏教は全面的にそうである。 電波男氏の意見に従えば、それらは全て堕落した仏教であり、釈尊の 真意を誤解した歴史に他ならない、ということになるだろう。 もうそれは、松本一派が客観的な議論の余地を封じるのと同じだ。 だが、それは仏教を出汁に作ったあなたの思想にすぎないだろう。
56 :
向こうの227 :02/03/24 23:28
>過去の伝統的な解釈が、輪廻転生を前提にしたものであった >ことを逆に示しているように思います。少なくとも僕には、釈尊を除く >それ以降の大部分の仏教は輪廻転生を肯定していたと思われます。 > >どうでしょうか。現代のみなさんが、輪廻転生に納得できない、ということと >これまでの仏教の典籍が輪廻転生を前提とするか、あるいは少なくとも >それを否定しないこととは別のことだと思うのですが。 ひとつ言っとくと、過去の(釈尊以後、大乗仏教以後)伝統的仏教が輪廻をどう説いてきたかを議論しているのではないよ。 伝統的仏教がどう説いてきたかと言ったらそれは輪廻を肯定してきたろうね。 そういう事を言ってるのではなくて、仏教の根本教理は「輪廻という概念なしで成立するか」どうかを話してるんよ。 仏教は何を言いたいのかというと、突き詰めると「自己」に集約されると思う。 真理を「外」に求めるのではなく「内」にこそあるということ。 「輪廻があろうとなかろうと、関係ない」という禅の境地に通ずる。 インドで民衆などに説く時に、その思想の中に「輪廻」を含める必要があったということで、 「輪廻がなければ成り立たない」わけではないと言いたいということ。 「伝統的仏教が輪廻を肯定してきた」というところに異論があるわけではない。
57 :
向こうの227 :02/03/24 23:30
>3. 故に仏教では輪廻転生は否定されている。 だから、何度も何度も言ってるように、輪廻を否定してるのではない。
58 :
向こうの227 :02/03/24 23:35
なぜなんだろう?不思議だ? 「輪廻を否定しているわけではない」と何度も何度も言ってるのに、 なぜ「輪廻を否定している」という批判が出てくるのか? (向こうのスレでは「輪廻を否定してるわけではない」「わかった」というやり取りまであったのに、 そのあとにこのスレで懲りることなく「輪廻を否定している」というレスを付けている) なぜ???
>>57 なんかよくわからんぞ。「向こうの227」氏は「電波男」氏なのか。
55では、電波男氏の意見をまとめたつもりだが、なぜ「向こうの227」が
>だから、何度も何度も言ってるように、輪廻を否定してるのではない。
と弁明するのだ?
>>57 は電波男氏の意見を代弁しているのか。
それとも、それは向こうの227氏自身の見解を述べているか。
それとも、その二人が自作自演の同一人物だと言うことか。
60 :
向こうの227 :02/03/25 00:05
>>59 ああ、違うよ。
電波氏とは別人。
前のスレから読んでいるならわかるはずだけど、「向こう」とは心と宗教板のことだよ。
「このスレ」と書いたのは正確には前スレのこと。
61 :
向こうの227 :02/03/25 00:05
で、結局すれ違いの原因はこういうところにあるのではないか? 仏教の入口として輪廻の話しがあって、最終的に伝えたい核心部分がある。 俺は「核心部分は輪廻のあるなしに関わらずに成立する」と言い、 55は「核心部分に導くためには入口として輪廻がなければ入って行けない(行きづらい)。 始めにその教えを相手に伝えるに当たって、輪廻は必要」とするからではないか? 話の視点が「教理(最終的に言いたいこと)」と「教え(伝導を前提とする)」とにあるからではないか?
62 :
考える名無しさん :02/03/25 00:19
>>46 アルムスタファ
カリール・ジブラン
この二人ってどんな人ですか? 一人はムスリムみたいだけど。
無学でごめん。
63 :
考える名無しさん :02/03/25 00:26
>>50 >どちらかというと津田眞一さんの方が面白くて好きですね。
それはビックリ! 津田先生はまごうことなき輪廻肯定派というか、
一人で戦ってるといった方が近いかな。
私は津田先生の顕教解釈が好きです。特にマハーヴァッガのあたり。
でも、それってベロさんと大きく対立するんじゃないの。
>僕は仏教はまさに「業報」からの解放を説くものだと思います。
私も強くそう思います。ただし、それには行や菩提心が必要なのだ
ということも強調したいです。単に輪廻は幻だと言ってもしかたがないのです。
業は幻だと言っても、やっぱりドーンと堅固が輪廻のなかにいるわけで、それが苦であり、
それを乗り越えるためには発心して六ハラミツ等に、
精進しなければ、何も変わりはしないと思うのですが、どうでしょう。
64 :
考える名無しさん :02/03/25 00:27
54 :パチパチ :02/03/24 23:03
>>54 ずごく共感します。
65 :
考える名無しさん :02/03/25 00:29
>>56 >「輪廻があろうとなかろうと、関係ない」という禅の境地に通ずる。
だから、向こうで指摘させていただいたように、貴方のおっしゃる仏教の見解は、
勝義を表現した禅の記述を世俗に引きずりおろしていると思うよ。
そうゆうのは禅の中でもよく読めば、何も分かってないことが分かると思うです。
でも、禅ってよく分からないけど。禅の表現が仏教の中で特殊なのは間違いないでしょう。
>インドで民衆などに説く時に、その思想の中に「輪廻」を含める必要があったということで、
>「輪廻がなければ成り立たない」わけではないと言いたいということ。
では、アジア全域のみならず、ヨーロッパ、アメリカに伝搬した時に、今までその文化圏に
なかった輪廻が必ず説かれているのは何故。シナとか輪廻を理解するのに相当苦労したらしいですよ。
66 :
考える名無しさん :02/03/25 00:31
>>59 >なんかよくわからんぞ。「向こうの227」氏は「電波男」氏なのか。
>55では、電波男氏の意見をまとめたつもりだが、なぜ「向こうの227」が
>
>>だから、何度も何度も言ってるように、輪廻を否定してるのではない。
>
>と弁明するのだ?
>>57 は電波男氏の意見を代弁しているのか。
>それとも、それは向こうの227氏自身の見解を述べているか。
>それとも、その二人が自作自演の同一人物だと言うことか。
オラも違うと信じるぞ。227さんは上品で冷静で、オラの立場を理解しようという
感じがあるからね。そうゆうことを言ったら謝りましょう。オラに言われたくない。スマソ
67 :
向こうの227 :02/03/25 00:38
>>65 >では、アジア全域のみならず、ヨーロッパ、アメリカに伝搬した時に、今までその文化圏に
>なかった輪廻が必ず説かれているのは何故。シナとか輪廻を理解するのに相当苦労したらしいですよ。
だから、「仏教の入口が輪廻を肯定しているのを否定しているのではない」と言ってるっしょ。
68 :
前スレの944 :02/03/25 00:40
>>62 カリール・ジブラン(1883-1931)は、レバノン生まれの詩人・哲学者・画家です。
アルムスタファは彼の作品「預言者」の主人公。
69 :
考える名無しさん :02/03/25 00:43
>>61 >仏教の入口として輪廻の話しがあって、最終的に伝えたい核心部分がある。
>俺は「核心部分は輪廻のあるなしに関わらずに成立する」と言い、
>55は「核心部分に導くためには入口として輪廻がなければ入って行けない(行きづらい)。
>始めにその教えを相手に伝えるに当たって、輪廻は必要」とするからではないか?
なるほど、結構、歩み寄ってくださってますね。嬉しいです。
三つの状態を想定しました。
1.無自覚な凡夫:輪廻など思いもしない。
2.自覚的凡夫:輪廻を推理し菩提心を起こし利他行に精進する。
3.聖者:輪廻がない解脱、覚った状態。
1.と3.は共に輪廻など無いが意味が違う。3.は1.に教えを時、今、輪廻に居ることを自覚させ2.にする。
2.は輪廻を自覚し、みんなが3.になることを目指し精進する。
>話の視点が「教理(最終的に言いたいこと)」と「教え(伝導を前提とする)」とにあるからではないか?
これは227さんが結果を説き、私が基盤となる現在の状態と道を説いていると言い換えられます。
これでお分かりいただけましたか?
わたしの場合、以前は 「バラモン教:仏教=ユダヤ教:キリスト教」 みたいに考えていて 輪廻は仏教を布教するための方便だとみなしていたのですが 宇宙の長い時の中で わずかな生の時を除く全てが闇の中にあるというのは不自然ですし 極楽往生ですら極楽ですごす時間が永遠とはいえない以上 (無限大の時間はもはや時間とはいえないし、それこそ不自然ですね) これも輪廻のひとつとみなせいことはありません 輪廻を否定した仏教が生死をどう説明できるのかとても疑問に思えてきます
71 :
考える名無しさん :02/03/25 00:46
>>67 >だから、「仏教の入口が輪廻を肯定しているのを否定しているのではない」と言ってるっしょ。
失礼。
>>71 あら、こちらこそ失礼しました
重要な要素とはみなしていない
本当に伝えたいのは別のことだ
ですね
73 :
向こうの227 :02/03/25 01:04
ただ、「輪廻の概念がないと修行する理由がない」とか「利他心は生まれない」というのは疑問。 現代人の多くは輪廻の概念を持ってないけど、それらの人達はみな血も涙もない冷血漢というわけではない。 これは「あの世はない」と考えてる人達でも同じ。 死後を認めない人→利己主義者 とするのは勇み足だ。 「輪廻があるから善行をする」というのもひとつの利己と考える
74 :
向こうの227 :02/03/25 01:06
付け加えると、「輪廻はある」とした(そう思って励む)時の有効性を否定するわけではない。
例えば、聖書であれば黙示録があります。 新約の中で突如古代異教世界の原始的エネルギーが噴出したという感じで、 普通の感性からすればかなり違和感を感じる部分です。 明らかに僧侶専制のための復讐の政治学です(D・H・ロレンスがそんな 分析をしている)。 結局、この外典は聖典として編入されました。 仏教の場合事情は違いますが、(霊魂?の流転としての)輪廻が、キリス ト教の中の黙示録の身の上に相当するように思えてなりません。
76 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 01:49
(75補足) 黙示録は古代異教的隠語を教団の政治として活用したということです。
>>76 ごぶさた。
あいかわらず沸騰してますね。
ところで私は
「輪廻がないと仏教は成り立たない」という意見は表明していません。
「経典にある以上(安易に)否定するのは困難」ですよん♪といいました。
かってに「まるめないでね。」
79 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 02:33
>>63 僕は数年前に津田先生の講義にモグリ学生として参加しました。
津田先生は仏教を枠組みの中で考えないのですごくユニークな発想が聞けて
とても勉強になりました。あんな風に自由に思考できればいいなと思います。
でも学界などでは異端視されるみたいですが。開放系仏教学を言われてて
A:汝は自(おのずか)ら汝の父である。
しかも
B:汝は自(みずか)ら汝の父になるべきである。
と言う事が津田先生が背負った一生涯の命題だそうです。
津田先生も袴谷先生も「法然上人は偉大だ」とおっしゃっていましたね。
80 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 02:37
>>78 信濃町ママさん、
お久しぶりです。信濃町ママさんの意見はそうでしたか。
僕の勘違いでした、ごめんなさい。また発言して下さいね、期待してます。
パパに買ってもらった高価なパソコンで こんなくだらねーことしかできない自分が 嫌になんねーか?ベロよ。 俺がお前なら、無能で無価値でみっともない 自分に愛想つかして自殺するけどな。 まあ、臆病者の貴様にそんな度胸があるわきゃ ねーけどな。春休みの補習頑張れよ、劣等生!
82 :
考える名無しさん :02/03/25 05:13
ばかな、彼のような公平で開かれた態度を取れる人は、 少ないと思うぞ。 知識よりも、そういった誠実さの方が本質的だし、 みんなを幸せにするものでしょ。オラは結構、尊敬してるだけどな〜。 81さん、懺悔きぼんぬ。
83 :
考える名無しさん :02/03/25 05:25
>>72 ごめん、やっぱ重要だと思うです。
なぜなら、現状に気付くこと、つまり、苦諦に含まれというか、そのものかもしれない。
要するに厭わしい輪廻の中にいる現状に気付くことです。
>>73 >ただ、「輪廻の概念がないと修行する理由がない」とか「利他心は生まれない」というのは疑問。
>現代人の多くは輪廻の概念を持ってないけど、それらの人達はみな血も涙もない冷血漢というわけではない。
>これは「あの世はない」と考えてる人達でも同じ。
>死後を認めない人→利己主義者 とするのは勇み足だ。
もちろんです。私はへなちょこ行者だが、輪廻も仏教もしらなくても利他心、思いやりが
私よりある人をいっぱい知ってます。オラが悪すぎるだけかもしれないが? 恥じ入る次第です。
>>74 >付け加えると、「輪廻はある」とした(そう思って励む)時の有効性を否定するわけではない。
なるほど、あと一歩というとこで二人には深い溝があるみたいですね。残念です。
84 :
考える名無しさん :02/03/25 05:31
>>79 いいところに気付かれましたね。
元々は修羅がなく、五つです。ですから五趣と言うのが正確です。六道輪廻とは
迷いの世界である三界のありようを示す言葉で一般化されているので通常そのよ
うに使います。「阿毘曇八健度論」には六道輪廻が出てきますので部派仏教初期
からの言い回しである事は確かです。
また「婆沙論卷第」一の阿羅漢尸陀槃尼撰にも出てきますので、成立はかなり古いと
考えた方が言いようです。六趣という言い方では阿含部「佛説鸚鵡經」、「雜阿含經
卷第一」などに出てきます。更に「阿毘曇心論」「佛地經論」が有ります。
85 :
考える名無しさん :02/03/25 05:38
>>79 ピター テー トヴァム アシ スヴァヤム
ですね。私も随分昔は真言のようにつぶやいてました。
今は津田先生の密教学は文献学の最先端だと思うけど、
例のクリティカリティ「両立不可能且二者選択不可避」
つまり、利他と行、あるいは般若と方便はクリティカルという説には反対です。
般若と方便は正に不二だと信じます。
私には法然上人は謎です。もしかすると日本仏教の有名人の中で一番謎の人かも。
例えば、何故選択したのか、選択したのに何故、法然上人は菩提心を捨てなかったのか?
とか? 津田先生はクリティカリティが選択だという解釈ではないでしょうか?
だから、共感されているのでは? 私はよくわからない。逆に教えて頂きたいです。
86 :
考える名無しさん :02/03/25 05:42
前スレ
508 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/02/17 23:21
>>506 いいところに気付かれましたね。
元々は修羅がなく、五つです。ですから五趣と言うのが正確です。六道輪廻とは
迷いの世界である三界のありようを示す言葉で一般化されているので通常そのよ
うに使います。「阿毘曇八健度論」には六道輪廻が出てきますので部派仏教初期
からの言い回しである事は確かです。
また「婆沙論卷第」一の阿羅漢尸陀槃尼撰にも出てきますので、成立はかなり古いと
考えた方が言いようです。六趣という言い方では阿含部「佛説鸚鵡經」、「雜阿含經
卷第一」などに出てきます。更に「阿毘曇心論」「佛地經論」が有ります。
前スレから見てきましたが、55さんが一番傲慢と言えるでしょうね。 誰にでもわかる傲慢さをあらわしたと思うと、これまた解りやすい 卑下慢も見せてくれる。 都合の悪い事には絶対に答えようとしない。オウムさながらです。 それでいて、本人は静かで上品な人を好む。自称行者には注意しよう。
89 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 20:05
>>85 85さん、
津田先生語録
1、釈尊と大乗仏教、大乗仏教と密教は「両立不可能且二者選択不可避」なクリティカルだ。
2、原始仏教なんて一生涯の梵行を貫く事を教える非人間的なものだ。
3、大乗仏教は釈尊からの明らかな離反である。大乗は一生涯の利他行、密教は無時間のシンボル操作。
4、華厳の利他行は初発心時更成正覚なのに一生涯の利他行を説くのはなぜか?
最終的なものは最初に出て来る、しかも我々はその後も精一杯生きねばならない。
5、本覚思想は真理の半面である。悟っているからこそ行じなければならない。
6、仏教は智を出発点とする行の教学。神話的で非合理で非論理的である。論理的とは非論理の事。
7、弥陀の本願の救いに出遭ってそれで終わるのではない、そこから自分の一生涯を
かけた念仏行がはじまるのである。親鸞もすごいが法然はもっとすごい。
8、我々の取るにたらない、ちっぽけ行為の一つ一つこそが世界の存続に関わるのだ。
9、困難を背負って生きる人生こそ尊い。困難の展開。
などなど、津田先生の講義は密教学特論なのにブーバーやカールバルト、
ブルトマンなどのキリスト教学者の話が7割ほど占めてました。
90 :
考える名無しさん :02/03/25 21:43
>>88 可能な答えはできるだけ答えたつもりですが、
気が付かないのは自分だけなのかもしれません。
反省いたします。ご指摘頂ければ答えたいと思います。
91 :
考える名無しさん :02/03/25 21:44
>>89 私が聞いたのは「釈尊は操り人形なんだ」といって指で
操り人形のまねをされたそうです。
仏教徒としては書くだけで罪を感じるものがあるのですが、
何故か津田先生だと許せてしまいます。
92 :
考える名無しさん :02/03/25 22:39
>>88 どうしてでしょう。このスレの中でもっとも仏教を知っている人の
一人に見える55さんが、奇態な説を述べる人たちよりも評判が悪いとは。
仏教、仏陀が火を灯し、それを受け継ぎ続けてきた仏教にもう少し
謙虚に接したらどうですか。仏教の様々な言葉の中から、
たまたま自分の気に入ったものだけを「核心」と称して取り出し、
あまつさえ、それ以外のものを非本質的として切り捨てている
だけではないですか。みなさん。
>>92 ほんとうにそう思われますか?仏陀の法灯をどのように定義されておられますか?
三法印という観点で見た場合、55さんの説の方がケッタイだとしか言いようがあ
りません。今の文脈に二諦説は必要の無い事です。
94 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 23:17
>>92 92さん、
では92さんの思う仏教の核心、本質的なものとは何なのか意見を述べて下さい。
それと非本質的なものと切り捨ててるのは、まさに仏教の歴史だとおもいます。
釈尊は六師外道を、竜樹は部派仏教を、法然さんは聖道門を、親鸞さんは自力仏教を、
日蓮さんは法華以外を・・・みな非本質として切り捨ててるように思いますよ。
95 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/25 23:53
>>89 訂正です。
誤:9、困難を背負って生きる人生こそ尊い。困難の展開。
正:9、困難を背負って生きる人生こそ尊い。困難の転回。
困難の転回とはドイツ語のNotwendigkeit。
>>93 三法印・四法印で全ての仏教を包括することもできるでしょうが、
>三法印という観点で見た場合、55さんの説の方がケッタイだとしか言いようがあ
>りません。今の文脈に二諦説は必要の無い事です。
という意見は、全てを包含する三法印ではなく、ある特定の主張のみを
指しており、その一つのこと以外を切り捨てる傾向にあるようですが、
どうでしょう。「今の文脈」というのが、既にかなり狭い限定を
しているのではないですか。
>>94 過去の優れた仏教者たちは、ある一つの主張のみを真実と考え、
それ以外の全てのものを否定したわけではありません。
大部分の仏教説を受け入れ、一部の正しくないと思われるものを否定し、
受け入れたものについても、それぞれのしかるべき位置を与えて
いったのだと思います。三法印の表面的な言葉のみを本質として
それ以外のものから切り離していくような狭小な態度はとらなかった
のではないですか。
97 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/26 01:35
>>96 92さん、
わかりました、僕のレス94の「切り捨てた」というのは92のあなたのレスに
合わせて言ったのですが、確かに言いすぎでした。輪廻を切り捨てるというのではなく、
「輪廻転生(生まれ変わり)を前提としない仏教理解は成立する」というあたり
までは、僕や電波男さんや227さんの立場と55さんやペケさんやパチパチさんの
立場の方々とも歩み寄っているのかなというのが、今の僕の感触なんです。
92さんの仏教の本質についてご意見をお聞かせ下さい。
>>97 ここで、仏教の本質を述べるわけにはいきません。まず、私には何が
本質かを判断することができそうもないからであり、また、何かを
本質と捉えることが同時にそうでないものを非本質的と退ける
ことにつながるからです。ですが、こういうのは、言葉尻を捉えた
議論ということになってしまうので、建設的に話を進めましょう。
私には、仏教を貫いて流れる精神があるように感じられています。
通常私はある特定の分野の仏教しか研究しないのですが、
それ以外の、時も所も離れた仏教者の言葉を読むとき、相互に影響など
ありもしないのに、そこに同じ精神が流れているのに驚かされます。
それは、釈尊の教えにしたがって、一切の衆生をこの輪廻の世界から
救い出そうという情熱です。その方法は、それぞれ違ってはいますが、
この慈悲の精神は、一貫しているよう感じられます。この一切衆生の
救済を完成させるためにこそ、仏にならなければならないという
決意を抱き、それを遂行するための行に向かっていくのでしょう。
その行の方法は、それぞれの立場で違いがありますし、どうしたら
成仏できるかの理論にも違いがあるようですが、それを目指す
精神こそが、釈尊が灯した情熱の火ではないかと思います。
ところで、その仏教で観がえられている救済の方法とは、衆生を
教え導くこと以外にありません。何を教えるかと言えば、もちろん、
これも立場によって様々ではありますが、共通している項目は、縁起の
理法と無我の教えであり、これを人々に徹底的に見に付けさせることによって、
人々を涅槃へと連れてゆこうとするのが、仏教の基本姿勢だと思います。
>三法印の表面的な言葉のみを本質として >それ以外のものから切り離していくような狭小な態度 これまでいろいろな思考錯誤があっての発言者の言葉を「表面的な言葉」とか「狭小な態度」とあっさリ切り捨てるその自分の態度に気付いていないのだろうか…
100 :
考える名無しさん :02/03/26 06:36
>>98 >私には、仏教を貫いて流れる精神があるように感じられています。
>通常私はある特定の分野の仏教しか研究しないのですが、
>それ以外の、時も所も離れた仏教者の言葉を読むとき、相互に影響など
>ありもしないのに、そこに同じ精神が流れているのに驚かされます。
>それは、釈尊の教えにしたがって、一切の衆生をこの輪廻の世界から
>救い出そうという情熱です。その方法は、それぞれ違ってはいますが、
>この慈悲の精神は、一貫しているよう感じられます。この一切衆生の
>救済を完成させるためにこそ、仏にならなければならないという
>決意を抱き、それを遂行するための行に向かっていくのでしょう。
>その行の方法は、それぞれの立場で違いがありますし、どうしたら
>成仏できるかの理論にも違いがあるようですが、それを目指す
>精神こそが、釈尊が灯した情熱の火ではないかと思います。
オラはオラ擁護派だからという理由でなく、
素朴に92さんの上の発言に共感します。だから仏教は素晴らしい。
特に大乗の聖者たちに当てはまる普賢行を誓う
圧倒的な慈悲の大海に感動するです。
弘法大師やシャーンティデーヴァの有名な言葉、
虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。
虚空が永続する限り、また世界が永続する限り、
予は世界の苦を滅ぼす者として永続していたい。
しかも私はそのような生身の聖者に何人か接したことがある、
これは単なる言葉ではないのです、汲めども尽きぬ慈悲の力を感じるのです。
しかも、そこには輪廻が堅固に存在していると思うのですが。
「仏教」とは仏の教えでしょう。仏、つまり覚者は、それだけでは 自分が悟っただけで十分なはずですが、それが教えを説いたのは、 全ての人を自分と同じ境地に導くためでしょう。それが慈悲の精神です。 その教えは人それぞれにあったものがあり、どのように教えたら その人を導けるかに巧みであることが、教えを説くものの資質でしょう。 知恵と慈悲というのがともに支え合い完備してこそ、本当の仏教であり、 これまでの優れた仏教者はみなそのような人たちだったのではないですか。
ここは、違います!
103 :
前スレの944 :02/03/26 11:54
横レスになりますが、「個人」が悟る、ということはないと思いますね。 その意味で、悟りは終わりの無いプロセスだと思っています。 つまり同じ慈悲でも、覚者のそれは凡夫が考えるのと意味が違うと思いますよ。
>>102 >ここは、違います!
というのは、ここは「哲学版」なので「宗教版」のような、慈悲の精神
を説かれても同調しかねます、という意味でしょうか。
>>103 >横レスになりますが、「個人」が悟る、ということはないと思いますね。
>その意味で、悟りは終わりの無いプロセスだと思っています。
意味がよく分かりません。どのような「悟り」を指しているのですか。
>つまり同じ慈悲でも、覚者のそれは凡夫が考えるのと意味が違うと思いますよ。
もちろん、様々な段階の慈悲があり、それぞれの人のできることの
違いもあります。何が問題なのでしょうか。
106 :
向こうの227 :02/03/26 16:18
>>100 それが、「輪廻はある」とした(そう思って励む)時の有効性 だよ。
>>104 ここは、言いたいホーダイっていう意味 この板のみならずね。
108 :
考える名無しさん :02/03/26 17:49
109 :
向こうの227 :02/03/26 20:18
で、
>>100 の話の趣旨はこういうこと?
・大乗の聖者などには大きな慈悲があるのを感じる。
・なぜなら、「苦しみがあり、輪廻があり、死んでも(輪廻があるので)その苦しみが続く、その苦から人々を救いたい」
というのが大乗仏教徒の願いであるから。
・もし輪廻がないとすると、死んだらそこで苦が終わるので、そこまでして苦から救おうとする慈悲は生まれない。
・また、輪廻を前提としない(肯定も否定もせず)であっても、そこまでして救おうとする慈悲はやはり生まれない。
・輪廻を前提としているからこそ、そこまでの慈悲を発することが出来るのである。
・以上が、仏教思想に輪廻が堅固に存在している証拠である。
110 :
考える名無しさん :02/03/26 22:07
まあ、単純に言えば、 感動した! でしょうか? 感情ばっかでも、たまにはいいでしょ。だめ?
111 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/26 22:13
>>98 92さん、
92さんのこの意見には僕も共感します。ただこの部分↓で
>それは、釈尊の教えにしたがって、一切の衆生をこの輪廻の世界から
>救い出そうという情熱です。
一切の衆生をこの「輪廻」の世界からというのを、
一切の衆生をこの「自分が実感できる苦」の世界から
と言い換えてもなんらおかしな文脈にならないと思います。
特に生まれ変わりを前提とする必要があるとは思いません。
55さんをはじめとする「生まれ変わり」と言う意味での「輪廻」が世俗諦として
リアルに存在するという根拠は仏典に数々の「輪廻」に関する記載があるからでしょう。
それは当時の経典製作者や論師には常識であり前提であったと思います。でも彼らとは
時代も場所も異なる現代日本に生きている私達には「生まれ変わりと言う意味での輪廻」
は常識でも前提でもないのではないですか?共通しているのは「四苦・八苦」の現実の苦
だと思います。その苦からの解放を願って仏教に道を求めています。
そして僕には輪廻という概念がなくても、三・四法印を根幹とする教えに真実を見ます。
「義に依りて語に依らざるべし」と言う言葉もあるようですし、「輪廻」という概念を
通して何を教えようとしているのかを考える方が「輪廻の有無」よりも重要だと思います。
112 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/26 22:39
出張から帰ってきた。
>>55 ご苦労さん。誰もディグナーガの因の三相の話なんかしていませんよ。
eve 、そして遍充関係をキーワードに必死だったでしょう?
そのくらいのことで別にチベットを提示する必要もないし、その程度の話なら
マスターぐらいとしてください。
私のしているのはそんな話じゃありません。解らなければ桂先生の論文を全て
精査してください。これまでのやり取りであなたが梵蔵漢に渡って無知である
事を晒すのに一応の成果が出せました。(笑)
ま、あなたに問い掛けている本質的なことに何一つあなたは答えていない。
もういいでしょう。これ以上問い詰めるとあなたのお立場が危うくなる。
隠し球を持ちながら話していることにまだ気づきませんか?本当に哀れです。
そして、あなたには
「慈悲を語る資格は無い」
と付け加えておきましょう。
113 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/26 22:43
ええっと。。。。 もともとの話は三法印を根幹として、釈尊がどう考えていたか推測する ことじゃなかったのではないでしょうか? 「そこに論書や大乗経典には生まれ変わりを説いているから釈尊もそれを 主張した」というのが輪廻転生肯定派の言い分だったかず。
114 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/27 01:32
電波男さん、お帰りなさい。 そうですね、全仏教思想に共通する思われる三・四法印を根本に考えていきたいのですが、 釈尊が「業」をどう考えていたのかと思うと「輪廻」の問題は避けられませんでしたね。
>>113 電波男さん、喝采だ。脱帽するよ。
あんたの要約で、もやもやした気分がすっきりしたよ。
>もともとの話は三法印を根幹として、釈尊がどう考えていたか推測する
>ことじゃなかったのではないでしょうか?
「釈尊の考えを推測すること」が主眼だったんだ。そうとは知らず、あるいは
そんなことができるとも知らず、大上段に「仏教とは」などと議論してきた
自分が恥ずかしい。
ただ、少し訂正も必要なようだ。
>「そこに論書や大乗経典には生まれ変わりを説いているから釈尊もそれを
>主張した」というのが輪廻転生肯定派の言い分だったかず。
「大乗経典に生まれ変わりが説かれる」、ゆえに「釈尊もそれを主張した」
などという推論を輪廻転生肯定派がしたわけではない。まあ、これについての
要約は前スレの
>>964 でしたから、ここでは繰り返さない。
いずれにせよ、どこまで行っても平行線のままだろう。
116 :
面白いage :02/03/27 02:01
165 名前:155 投稿日:02/02/14 12:20
>>163 具体例を挙げましょう。念仏宗は、架空の存在である阿弥陀如来の誓願にすがって、
極楽往生すると教えます。だから、これは方便の仏教です。しかし、念仏を始める
動機というのは、親鸞さんが悟ったように、人間というのは悪とわかってもそれが
やめられない、自分の力ではどうしようもない、という「我の放棄」の面があるの
です。「苦」の中でもがき苦しみつつ、もはや自力に見切りをつけて、他力にすがる。
妙好人才市の歌を読んだことがありますが、彼の境地は自他の区別を超えていて、
禅僧の境地にひけをとらない。自力とともに「我欲」も捨て去るからです。こういう
信仰ならば、方便の教えと言いつつ、ちゃんと仏教の「四諦」を実践することになる
ので、仏教のひとつと言えるでしょう。
117 :
面白いage :02/03/27 02:08
181 名前:名無しさん@1周年 投稿日:02/02/14 19:34 ところで、 観音は菩薩だから、如来の釈迦の方が偉いと思うけど、 同じ如来の釈迦と阿弥陀とではどっちが偉いの? 182 名前:155 投稿日:02/02/14 19:39 阿弥陀如来は、後世の人が書いた仏典に登場するので、フィクションだな。強いて 言うなら、阿弥陀様は人々の心の中に生きている。如来になった以上、差別はない。 滴水が大海へ帰ったようなもの。
宿業論 でのマイナス面をどうにかしなければぁ・・・
119 :
某宗教団体 :02/03/28 22:53
それは、困る!!!
120 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/29 17:04
教えて頂きたいのですが、「刹那滅」という概念は有部から出てくるのでしょうか? 釈尊にまで遡れるものなのでしょうか?「輪廻」や「業」とも関係が深いと思います。
121 :
考える名無しさん :02/03/29 17:56
>>120 >教えて頂きたいのですが、「刹那滅」という概念は有部から出てくるのでしょうか?
>釈尊にまで遡れるものなのでしょうか?「輪廻」や「業」とも関係が深いと思います。
ベロさん、「刹那滅」という言葉はどうもアビダルマ以降のようです。理由は以下のとおりです。
パーリ文献を khaNabhaGga で検索したところ、以下の四つしかヒットしませんでした。
1.telakaTAhagAthA
2.jinavaMsadIpaM
3.visuddhimagga
4.mahArUpasiddhi
いずれも三蔵外のアビダルマ以降の文献です。
また、大正大蔵経も刹那滅で検索しましたが、『大毘婆沙論』以前の可能性があるかもしれないものは、
大正164『師子素駄娑王斷肉經』
如水中泡刹那滅 老病死苦亦無常(大正第3巻、392c頁)
大正1451『有部毘奈耶雜事』
一切諸行刹那滅 從生至盡皆歸苦(大正第24巻、403b頁)
の二つぐらいしかみあたりませんでした。この二つもオラがよく知らないだけで非常に怪しいものですし。
たぶん刹那滅というのはアビダルマ以降のようです。
ですが、漢訳の場合は他の訳語で古い文献があるかもしれません。
他の方のお智恵をお借りください。
122 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 10:56
簡単に走り書きします。 【有部:一切有為法刹那滅】 三世の刹那: 現在:現在の一刹那(現刹那) 過去:前刹那 (一刹那前) 未来:後刹那 一刹那は現在で言う0.013秒というのが通っています。 有部ではこの刹那滅を因果関係に束縛されない有為法に数え、その上に因果関係(業報含む)の構造全てを「六 因四縁五果」として配置していきます。因果関係には時間の前後があり、(因果同時という法体系もありますが )比較的時間の隔たりを持つ業とその果報は特にこれらの説明を必要としました。 時間の流れは流動的であり、細かく刻まれてそこにあると思う人は恐らく少数でしょう。しかし、事象を観察し 、説明するには区別し分析し、単位を持たせることが必要になります。時間、分、秒など人間が「とき」を刻ん でいくので時刻というらしいのですが、自然界に刹那があるとは経験的には理解しがたいものがあります。しか し時間に単位を持たせてしまうとあまりにも便利でこぞって利用するようになり、逆にその自縛から開放されに くくなります。 中観派が刹那滅を否定したことがよく知られていますが、それでも比丘以外に説教する時には刹那滅を用います 。また他のセクトと論争する場合、積極的に刹那滅を導入しておいて、最後に自身を否定してしまいます。つま り、通常の人の知識には刹那滅を使うほうが理解しやすく合点が行くからなのでしょう。このことが世間知と出 世見智として分けられるのですが、部派では書物や教えの条項などが世間知であり、それによって得た智慧が出 世見智であるとします。世俗諦や勝義諦も後の密教や中国日本で示されているような超越的なものではなく、こ の部派での定義からそんなに離れるものではないと考えます。 【犢子部、正量部:外界法には刹那滅を認めず】 外界ではない内面の心、知識の流に刹那滅を用いるというのは法則を全てに拡張させず、知りえるものから分析 しようとする極まっとうな考え方で、当然、反省反発として出てきてしかるべきものだと思います。また、対象 を有部のように分析しなくとも、身口意の三業の制御、認識、勧善等など仏教本来の思想には影響しないと考え ます。このことは次第に経量部、瑜伽行唯識派へと繋がります。(但し、歴史的前後はまだ研究結果が出ていま せん)
123 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 10:56
【化地部、飲光部:刹那滅を認める(「異部集輪論」)】 これについては良く知りません。 さて、阿含経典には刹那を前提とした記述はままありますが、現存するものは全て部派所伝であり釈尊の考えを 推測するには難しいものがあります。これらには「刹那滅」と言う語句は無く、「刹那」を「瞬間」と言うほど の意味、「刹那滅を前提」の両方に読むことが出来ます。また阿含経典とはいえ、必ずしも部派仏教(皆さんが 仰っている小乘という意味)所伝と考え難いものもあり、かなり複雑な様相を呈しています。例えば「命終之後 如箭刹那墮大地獄。何以故。虚妄計執分別彼我」とあり、唯識説に親近している阿含経典が多いのはすでに指摘 されて久しいのです。因みに、上記の刹那は刹那滅を前提にしているとは断言できません。 刹那滅を主張の根幹に据えて論を展開しているものに以下のものがあります。 「入阿毘達磨論」 「五事毘婆沙論」 「雜阿毘曇心論」 「阿毘曇心論經」 「阿毘達磨發智論」 ま、成立自体古くからあるようですね。 【結論】 現在の研究成果として、「刹那滅論は釈尊の思想としては存在しなかったらしく、部派仏教が諸行無常の弁証と して立てた新しい思想概念であった。またその概念は後の仏教思想に非常に大きな影響を与えた」と言う定説に 対して誰も反論していないし、それを覆す資料もしならいし、その主張に不合理性は見当たらない。私自身「刹 那滅論」には関心がありますが、私の仕事ではありません。今後だれかが新説を立てれば、それを検証する責任 はあります。
1分間でこれだけの書き込み(藁 まさに刹那
125 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 14:43
「刹那」という概念が特に必要になってくるものに授戒、受戒とその効力(止悪SeTu)の 発動と習慣性の説明に用いたコンテキストがあります。「対象や存在の分析」や「心の相 続」はその後に来るものだと考えて差し支えないでしょう。 刹那は「仏教徒がどのようにして仏教徒たりえるのか、そしてその効力は?」という独自 性の追及の中に説明されます。「○×戒を保や否や・・・・・よく保つ」と発声したその 瞬間に止悪我生じるのか、その次の刹那に生じるのか、またその習慣性は何によって幾許 の刹那保たれるのかという問題に変わってきます。毘奈耶経関係や律に関して言及してい る論書に「刹那」が欠かせないのはそのためです。55が提示した『有部毘奈耶雜事』もそ うですが、「根本説一切有部系毘奈耶」も事情は同じです。 さて、これから「業」に言及すべきなのですが、その「止悪」は無表業とされ、それ自体 が物質的存在(この場合、肉体)である色法であると主張する代表格が説一切有部になり ます。つまり、体が戒律を犯さないように「よく保つ」と発声した後に無見無対(見るこ とが出来ず、他の物質の場所を占拠することが無い)の色法として体に生じると言います 。 これに反してある経量部は止悪などの【無表業は種子】として相続されると主張します。 経量部の中でも主張は様々ですが、有部の色法と比べて心に属するものとして捉えている と考えて差し支えないようです。 上記の根本主張をもとに、対象などの存在と認識のシステムに関して決定的な相違が有部 と経量部では明らかになります。大まかに分けると
126 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 14:43
有部 :根境識の三事和合(同時:同じ刹那)により認識が成立する(例えば眼根と色境 と眼識の和合) 経量部:根が境と和合する事により後の刹那に識が生じて認識が成立する(眼処と色処の 和合) の違いがあり、認識とは根の働きであり、認識作用が認識するのではなく、認識能力が働 いたそのことが認識であると主張します。その後、経量部は根が種子であると引っ張って いきます。そしてまた別の経量部はその種子が全て収められたものを阿羅耶識であると定 義付けます。 このように戒律を受ける事によって心に生じる止悪の効果を無表業といいますが、それは あらゆる業の潜在印象についても無表業であると経量部、瑜伽行唯識派は定義付けます。 その無表業は習慣性などの性質や時期を隔てて結果が現れてくる異塾なるものとして取り 扱われます。戒律における無表も一度だけではその習慣性に限りがあるのでウポーサタな どで何回も確認しあいます。その「限り」の説明に「色法は壊れるから」と「異塾してし まったらそれで効果が終り」と言う別解釈が生じるのです。 今回は非常に不親切な説明になりましたが、質問を受け付けるという事で勘弁してください。 噛み砕くと10倍以上になりますし、専門語を使えば何のこと解らなくなるし、中途で発言しました。 なお、 自性の多義性 → 三性説に他ならない 刹那 → 刹那滅の主張他ならない ジャータカ浮彫→ 経典分類のジャータカに他ならない などと短絡断言し憚らない学問的手続き以前の人からの質問は受け付けませんので悪しからず。
127 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 17:03
55さん、電波男さんどうもありがとうございました。「刹那」が「止悪」と関連 するとは思いもよりませんでした。有部は受戒したその刹那に無見無対の色法として 体に生ずると考えるのですね。前にタイ仏教の僧侶が書いたものを読んでて「戒律が この身を守護する」と言ってたのが、電波男さんの説明でわかるような気がしました。 上座部仏教では戒律が非常に重要なのもうなづけます。
なるほど、電波は原始・部派が専門だったのか。だったら縁起説で カウンターパンチが飛び出てきていい頃だな。 有部の四種縁起や『清浄道論』から見た権威的教学と対比しながら 一方で、中央アジア出土の写本から掘り下げた八支縁起、サンスカ ーラからみたゴータマ・ブッダの人間観に生れ変り死に変わりなぞ 入り込む余地の無い事を示してやれ。仏教が権威主義に陥る段階で 生れ変り説が大手を振り出すのは一種の宿命だろうて。 ブッダは今生にて六道輪廻する心のあり方を痛感し、そこから逃れ ようとして出家した。決して生れ変り死に変わりしている自身を観 察し、生れ変りの連鎖を切り離そうとしたわけではない。出家する ために途中まで随行した従者に対して「心配せずに城に帰りなさい。 私はかつて前世でお前だったのだから」と言ったことで生れ変りを 主張する人がいるが、インド古典文学を楽しんで読んでいる人たち から言わすとお笑いである。 この言い回しは「例えば、私がお前であってもまったく同じ事をす るに違いないから、心配せずに城に帰りなさい」と言う意味なので ある。ジャータカでもそのように読めばいいのにインドでも読めな い人がいて生れ変りとして定着していく局面もあったのだろう。「 輪廻転生観念」がそのような言い回しに影響を与えたかどうかは私 には解らないが。 自分のことを「オラ」とか言う人とは汚らわしくてお話したくない し、電波もいい加減彼をおちょくるのは止めたらどうだ?
ペロさん 止悪とは戒律を受けた人の中に生じる、悪い行いをさせないように する働きのことですよ。
130 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 18:11
>>ベロさん 授戒と受戒とその効果との関係において、時間的な説明の上に「業」の本質が展開 されるのです。戒と業の関係は非常に難しいものがあり、比丘戒では「止悪勧善」 であり、無表業であるとします。天台円頓戒は大乗戒でありながら色法を主張し、 これは浄土宗にも引き継がれます。非常に不思議に思われますが、出家戒として まず「止悪勧善」と言う意味で菩薩戒以前に位置付けたかったのかもしれません。 戒体して比丘戒では無表業を言いますが、菩薩戒の戒体はまったく違う概念として 扱われ、「法界等流の悲」とされます。
131 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/30 18:18
>>128 さん はじめまして。
55さんにそのような事説明しても恐らく理解出来ないだろうし、理解しようとも
しないでしょう。輪廻に迷っている彼にそのような話は
「もったいない」
のです。ま、話の流でそうなればしますが、その方が自然でしょう。あなたがご自身で
説明しない理由も同じなのでは?
132 :
ベロ ◆od7XM/js :02/03/30 19:38
>>130 電波男さん、
電波男さんの解説をしっかり読んでみます。「戒」と「業」の関係が深い事はよく
わかりました。桜部先生の『存在の分析』の善と悪の部分も合わせて読んでいます。
表業と無表業の部分です。印象として有部はかなり強引な考え方してるなと思います。
文献学知識に根ざした書き込みでなくて恐縮ですが、 輪廻が生物学的な生死を越えてのものとして考えられるのは、 「有部」みたいに認識行為の実践から 独立な客観的な時間を想定するからですよね?
134 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/31 13:59
>>132 「六因四縁五果」をじっくり読んでください。
仏教における因果関係、輪廻、業報思想のシステム、存在の継続性、心の相続に
ついて概観できると思います。
>>133 そうですね。それが始まりと考えてよいようです。
135 :
考える名無しさん :02/03/31 14:49
55は田舎者で自民党支持者
お答えありがとうございます。 >それが始まりと考えてよいようです そうすると、輪廻とは未来(実在の客観的時間として?)が 自らの認識や分別行為の実践から構成或いは想定されてしまう、 というような方向の理解で正しいでしょうか?
137 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/31 23:30
>>136 すこしお話の方向性がこれまでの話題とは逸れますが、「認識外の事物や時間」など
を想定することは観念共時態へ混沌していく第一歩に通じるものがあり、自然と思考の
傾向として「生れ変り」に向いてしまうことを考えるべきです。
ですから歴史的な思想背景と人間が本来希求する「永遠の生命」への憧憬が生み出した
幻想への引入という要素の方が強いと考えるのが妥当でしょう。
それ以外には複雑な社会システムが生み出した観念操作の産物として考えるべき方向も
あります。
138 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/31 23:33
それとくどいようですが、「輪廻」とは「生れ変り」を示すものであるとは限りません。
139 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/03/31 23:41
平川彰先生がご逝去されました。 ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。
レグルスの『中論』やその他、空関係ですと主に新書系を読んだ程度で こちらで書き込むのは僭越の極みで申し訳ありませんが…… それらを読んでると、生存が苦だというのは、自己の存在が非絶対であるから※、未来を予測せねばならない、 (ただし予測しようとする時点で、予測が完全にならないことも確実、確実な予測が可能な絶対者は予測など不必要) 予測・判断するために、判断基準としての自己と、そして判断対象としての対象化された対象・客体をたてる、 つまり、主観と客観の形而上学的実体化/分割化、或いは、主語への述語付け(対象化・分別作用)行為の実践に依って、 「他に依存しない存在者」(諸々の客観化)の想定へと傾斜する、 この対象化された存在者(分別された不完全な個)に依って相対的な価値判断を下す、そして主語への述語付け行為の実践は このことが不可避的だから生存の一切が苦になり、だから苦を滅するには、全ては空であることを観て、 主語への述語付け行為の実践(=生存と解釈しました、客観的な生物学上の生ではなく、厳密化した場合の生) を滅すれば(この滅する方法、滅した状態については仏教思想史中で諸々の解釈があるように感じますが) 苦が除かれる、“とりあえず”こんなふうに解釈しているのですが如何でしょうか? ※全体的に曖昧ですが、ここ自分で一番理解が浅いです。本当は無明に基きとするべきなのではないかなと思います。 読んだ本には無明=根本的無知とあったので、@自己の存在の非絶対性(これも相当曖昧です、特に“自己”という表現自体が 大いに問題があると思います)、A全ては空であることを観ていない、B空から客観的実在者が措定されるプロセスの自明化等と “とりあえず”解釈しております。 未来を予測する(願望や欲望を持つという)ことが、どのようなプロセスで派生していくか、 無明に基き、過去に起こした行為によってとするべきなのかもしれませんが、上のように理解の浅いものですから… 曖昧でテキトウですみません。
141 :
ベロ ◆od7XM/js :02/04/01 03:03
平川彰先生がご逝去なされましたか。偉大な先生方が次々とお亡くなりになる。 学恩に感謝いたします。
140の投稿ですが、不快に思われたならば無知の蛮勇と思いお許し下さい… >「輪廻」とは「生れ変り」を示すものであるとは限りません このスレのパート1の方も閲覧しました。(133は閲覧後の投稿です) 中村先生の東京書籍の縮刷版の辞典の方でもそのように記されていますね。
143 :
考える名無しさん :02/04/02 22:36
133さん、パート1も読まれたのでしたら、今ここで『中論』は厳しいとは 思いませんか? パーニニが解決しないと、何も言えないです。
144 :
考える名無しさん :02/04/03 00:38
般 裟 若 是 若 密 顛 故 以 老 乃 無 不 復 空 五 観 若 婆 羯 波 無 波 多 倒 心 無 死 至 眼 浄 如 不 自 心 訶 諦 羅 等 羅 故 夢 無 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 在 佛 経 羯 密 等 密 想 圭 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 菩 説 諦 多 呪 多 得 究 礙 故 老 識 舌 不 利 色 空 薩 摩 波 呪 能 是 阿 竟 無 菩 死 界 身 減 子 即 度 行 訶 羅 即 除 大 耨 涅 圭 提 盡 無 意 是 是 是 一 深 般 羯 説 一 神 多 槃 礙 薩 無 無 無 故 諸 空 切 般 若 諦 呪 切 呪 羅 三 故 捶 苦 明 色 空 法 空 苦 若 波 日 苦 是 三 世 無 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 羅 波 眞 大 藐 諸 有 般 滅 無 香 無 相 是 舎 波 密 羅 實 明 三 佛 恐 若 道 無 味 色 不 色 利 羅 多 僧 不 呪 菩 依 怖 波 無 明 觸 無 生 受 子 蜜 心 羯 虚 是 提 般 遠 羅 智 盡 法 受 不 想 色 多 経 諦 故 無 故 若 離 密 亦 乃 無 想 滅 行 不 時 菩 説 上 知 波 一 多 無 至 眼 行 不 識 異 照 提 般 呪 般 羅 切 得 無 界 識 垢 亦 空 見 仏教の奥義はここに極まれり、輪廻転生などどこに説かれておるか?よく読め!
145 :
考える名無しさん :02/04/03 00:46
スマン、こっちで読んでね。ゴチャゴチャ言わずに般若心経だけでいいじゃんかよ! 般 裟 ● 若 是 若 密 顛 故 以 老 乃 無 不 復 空 五 ◎ | 若 婆 羯 波 無 波 多 倒 心 無 死 至 眼 浄 如 不 ◎ 観 ◎ 心 訶 諦 羅 等 羅 故 夢 無 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 自 佛 経 | 羯 密 等 密 ◎ 想 圭 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 在 説 | | 諦 多 呪 多 得 究 礙 故 老 識 舌 不 利 色 空 菩 摩 | | 波 呪 能 是 阿 竟 無 菩 死 界 身 減 子 即 度 薩 訶 | | 羅 即 除 大 耨 涅 圭 提 盡 無 意 是 是 是 一 行 般 | | 羯 説 一 神 多 槃 礙 薩 無 無 無 故 諸 空 切 深 若 | | 諦 呪 切 呪 羅 三 故 捶 苦 明 色 空 法 空 苦 般 波 | | ● 日 苦 是 三 世 無 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 若 羅 | | 波 | 眞 大 藐 諸 有 般 滅 無 香 無 相 是 舎 波 密 | | 羅 | 實 明 三 佛 恐 若 道 無 味 色 不 色 利 羅 多 | | 僧 | 不 呪 菩 依 怖 波 無 明 觸 無 生 受 子 蜜 心 | | 羯 | 虚 是 提 般 遠 羅 智 盡 法 受 不 想 色 多 経 | | 諦 | 故 無 故 若 離 密 亦 乃 無 想 滅 行 不 時 | | | 菩 | 説 上 知 波 一 多 無 至 眼 行 不 識 異 照 | | | 提 | 般 呪 般 羅 切 ◎ 得 無 界 識 垢 亦 空 見 |
>>143 恐縮です。
>パート1も読まれたのでしたら
読んだといっても、とにかく目を通したというレベルで
厳密に理解しているようなレベルではありません…
尚、143さんと同様に思われる方々は私の投稿を無視して下さい。
>>134 初めまして。
「輪廻転生」には関心があってここを読んでましたが「六因四縁五果」って何ですか?
仏教には全然詳しくないので電波男さん説明して下さい。お願いします。
149 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/04 22:24
仏教における因果関係を原因、条件(間接原因)、結果の三カテゴリーをそれぞれ6.4.5 に分けて相互関係を詳しく説明して日常に当てはめようとした概念です。 これは特に説一切有部が中心となって刹那滅論を土台として展開された教義です。
ありがとうございます。六の原因と四の条件と五の結果という意味ですね。 ではそれぞれは詳しく見るとどういうものなのでしょうか教えて下さい。 まず六つの原因とは何ですか?
しばらく見れなかったのですが電波さんはやはりすごいですね。 最近生まれ変わりを前提にしなくとも経典、論書を読むことができるのではないかと思うようになりました。 ただしそれでも「わたしは死んだらどうなるか」が重要であることに変わりはありませんが。
152 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/06 16:22
>>150 「六因四縁五果」を説明しようとすると膨大になります。先ずは桜部先生の
『存在の分析』<アビダルマ>の該当箇所をお読みになって解らないところを
質問してください。これを完全に説明し尽くすのと仏教を説明し尽くすのとでは
大差がないぐらいです。
>>151 ペケさんお久しぶりです。
慧眼をお持ちになられたようで敬服いたします。「生れ変り」を前提にしなくても
読めるところが仏教における本質部分であり、前提にする箇所と言うのは対機説法
や当時の思想通念を否定してしまうと聞かせる事ができないことや様々な不都合な
どが見分けられるようになったと推察いたします。
>ただしそれでも「わたしは死んだらどうなるか」が重要であることに変わりはありませんが。
私も含めて無明にあるものはこれゆえ、生きることに及んで恐怖いたします。また苦しみもしま
す。「生れ変り」の肯定はこのことに対する安易な解答であると言う認識があり、今生きている
事への希薄化に繋がりかねないと懸念いたしております。
仰るとおり、これは仏教に限らず、宗教、哲学、思想、人間にとって最重要課題の一つであると
認識しております。
>>152 そうですね、まずは自分で読んで見ます。ありがとうございました。
154 :
ベロ ◆od7XM/js :02/04/11 05:13
今は、電波男さんの書き込みと桜部先生の『存在の分析』をじっくり読んでます。
155 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/19 20:14
「したらば」に nifty 現代思想フォーラムからシフトしてきている人たちによって
宗教学掲示板が作られたらしいですよ。
http://jbbs.shitaraba.com/study/951/ (宗教学掲示板)
http://jbbs.shitaraba.com/study/912/FSHISO.html (本体)
ローカルルール-------------------------------
皆様にはリモートホスト表示の件で色々とご意見いただいておりました。発言の場の維
持、発言の自由さ、恐ろしさ、IPの漏洩性いろいろとご心配おかけしておりましたが、
一応の懸案解消策として以下の方法を講じました。
1 自由な言論の場を提供するために現在非表示にしてあります。
今後も非表示で通そうと思います。
(リモホ非表示でも過去発言がリモホ表示できる事が確認できました)
2 非難、中傷、悪意の有る発言、プライバシー侵害、プライバシー詮索、
複合体、成りすましは警告無しに見付け次第即削除いたします。
(発言削除も単体発言単位で出来る事を確認いたしました)
3 発言削除要請は「要望、削除(議論含む)」で受け付けます。
4 発言される方は発言者同定のため、極力キャップを付けて頂くよう、お願
い致します。--------------------------------------------------------------
というように煽りや成りすましは一切排除される仕組みとなっており、実の有る議論が
出来る場として提供されています。
156 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/19 21:40
157 :
考える名無しさん :02/04/24 03:52
あ げ
158 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/25 19:18
アップ場所間違えましたので転載です。
匿名掲示板での弊害は、議論の相手が定まらず継続したお話が困難であること
が第一に挙げられます。それはコテハンをつけることで解消されますが、今度は
コテハン叩きが始まり、煽りがあり、個人情報開示があり、スレッドが崩壊して
しまいます。
「みのもんた」に付いては証拠固めが出来ましたが、その後のアクションについ
ては考え中です。思想や哲学を語る能力が無いくせに個人攻撃だけは一人前で、
その思想の場の住人にメールで私の個人情報を開示してしまう始末。
匿名掲示板の弊害を出来るだけ排除した「web現代思想フォーラム」を
立ち上げましたので、そちらでお話を深めていきたいと考えます。
宜しくお願い致します。
http://homepage3.nifty.com/fhiso/
159 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/04/25 19:23
既成仏教は悪の巣窟である場合も否定できません。 その時は容赦なく叩き潰します。 寺院で禄を食んでいて普通人と全てが同じであると認識するのであれば、 その基盤を取り払わないといけません。当人がいない場所で侮辱、名誉 毀損の限りを尽くしたり、嫌がらせ電話をしたり、裏メールで人を陥れ ようとしたりする僧侶は駆逐されるべきです。
160 :
考える名無しさん :02/04/25 21:55
みのもんたの行状 某寺院住職であるみのもんたは子飼いをさる寺院の随身(丁稚奉公みたいなもの) に送りつけ、そこの住職が亡くなると後釜に据えさせた。その後自分を寺院法類 総代(寺院の親戚関係みたいなもので、その代表)に推させてしまった。 そして亡き先代住職婦人を寺から追い出す画策をする始末。 つづく。
あげ
162 :
電波男Ψ(´д`)Ψ ◆KW8mn4ss :02/05/05 00:11
みのもんたの行状について、もっと別の角度からぼくちゃんはアプローチしようかな? いいでしょ?>160 っていうか、そんな下らん奴に使う暇ねーよ。
無碍の光明に出れた人いる?
164 :
考える名無しさん :02/05/20 17:45
age
165 :
考える名無しさん :02/06/15 01:56
保全カキコ。
166 :
考える名無しさん :02/06/18 21:17
宗教の墮落、哲学はアポ〜ン。 とりあえず age ときます。
こんないいスレ、落ちるとモッタイナイ。 保全age
このスレは機知外スレです みなさん放置プレイで
169 :
考える名無しさん :02/07/07 12:51
ぽくぽくぽくぽく・・・・・・・ちぃ〜〜〜〜〜ん! 悟りましたっ!!!!
これこれ 一休どの
171 :
考える名無しさん :02/07/09 04:31
age
172 :
考える名無しさん :02/07/30 01:53
後続の期待アゲ
やはり、夏は、仏教だね !
174 :
考える名無しさん :02/07/30 17:31
なんじゃそりゃ? 夏はカレーだろ
175 :
考える名無しさん :02/07/30 18:57
インドってことだね。
176 :
考える名無しさん :02/08/10 00:14
横レスですまんけれど 仏教哲学を勉強したいのですが、何かいい本はないですか。 それとも、でかい本屋でそれぞれの宗派について説明されたものを 読まないといけないんでしょうか。ちなみに僕は哲学に興味がある学生です。 あと、失礼な質問かもしれませんが、電波さんは大乗仏教すべてを否定されるつもりですか? もしそうなら、その代わりどうするのですか。
177 :
ベロ ◆od7XM/js :02/08/10 01:56
やはり初心者には角川書店から出てる仏教の思想シリーズがいいと思うよ。 特に2巻目の「存在の分析・アビダルマ」3巻目の「空の論理・中観」 4巻目の「超越と認識・唯識」は必読でしょうね。あ、ちなみに電波男さんは 大乗仏教の否定などしていませんよ、既成伝統教団・カルトの教義を否定されて るんです。今は宗教板の「法華経と阿弥陀信仰」などのスレに出演中です。
178 :
考える名無しさん :02/08/25 03:00
みんな宗教板に逝ってしまたのか・・・
179 :
考える名無しさん :
02/08/25 09:25 age