道徳的行為をしてもあまり得なことがないのはなぜ

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1t.f
これに関して、皆さんはどう思いますか。

実は、このタイトルが講義試験の課題になったのですが、あまりにも面白いテーマなので、多くの人に
考えてもらいたいと思い書きこみに到りました。

私は、これに関しては、自分の見解を得ています。

それは、簡単に言うと、道徳的な行為をしても、それが「表面化して外面的な価値」となり、人間とし
て優れているということを証明してはくれないところにあるのだと思います。

つまり、人を一見しただけでは、どんなに道徳的に優れた考えを持っていた人がいたとしても、なかな
か評価されないということです。これは道徳が人間の根底にある大切なものであるにも関わらず、おか
しいと思いませんか。
2t.f:02/01/12 22:16
おそらく、道徳には捉えかたに個人差がある上に、形が存在せず、目に見えて即効・実践的な力がない
ため、このようなことがおきるのではないでしょうか。それに対して、目に見える実践的・即効的な価
値をもったものがあります。

そして、評価されないからこそ、テーマのような疑念がでるのではないでしょうか。評価されないので
あれば、得なことなどありませんよね。ソクラテスもイエスも実際はそうでした。道徳はどんな人にとっ
ても普遍性のある大切なものであるに関わらず。

とにかく、道徳には「形がない=悟る必要がある→難解=評価されない(世間一般では)=得なことなし」です。

ちなみに私は、道徳は非常に大切だと思っております。

実践哲学が好きな方!、興味のある方なら誰でもよいので、レスをくださいませ。もし、以前出ていたら
申しわけありません。一応調べましたが・・・。
3考える名無しさん:02/01/12 22:31
道徳的行為が得にならない、なんて感じたことがないので
ピンとこない。具体的にはどんなこと?
4考える名無しさん:02/01/12 22:37
得とは、評価されることであって、
評価されないことは損なのかね?
5マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 22:37
評価されることが得なのか?
ちやほやされたり、勲章もらったり。

道徳的に生きる方が、社会じゃ楽じゃないか?
6考える名無しさん:02/01/12 22:41
そもそも得とは何か、損とは何かなんて人それぞれ。
あえて言うなら1よ、他者に評価されることを得とし、それを目的としての行動は「道徳的」とは言えまい。
7考える名無しさん:02/01/12 22:43
道徳的である事が一番不道徳。
8マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 22:45
>>6
同意。

しかし、>>1はもしかして「道徳自体を社会で評価してほしい」と訴えているのか?
おいおい、道徳的行為が社会でまともに評価されるようになったら
俺が死刑になった意味はどうなるんだ?
10考える名無しさん:02/01/12 23:02
道徳っていまの社会で評価されてないのか?
11考える名無しさん:02/01/12 23:05
道徳的な行為、例えばお年よりに席を譲ったりとか、他人の悪口を言わないとか
他人に対して親切に接するとか・・
でもね結構得なことあるんじゃない。なんつーかねコミュニケーションが円滑
に進んで隣人と良い関係ができるとかね。

隣人になりふりかまわず爆音で音楽を聴いてるとかさ、結構殺意を抱かれて
自転車の空気抜かれたりとかね結構そういうのあるんだよ。おれの体験だけどさ
道徳的な人ってさ、そういうことしないでしょ。ヘッドフォンを使って静かにしてる
そして時々音うるさくありませんか?なんて気遣ったりしてね。そうなるととても
いい関係が築けるわけだ。
つまりだね、おれが言いたいのは、道徳的な人ってのはそれなりに得してんだってことです。
12マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:05
>>10
評価しにくいっていうか、目立たないっていうか。そういうのを評価する団体があるわけでもないし。

それに、道徳って「内なるもの」だろ?個人が持つ道徳観念をおしつけたり、その観念で評価すると不穏になるだろう。
1310:02/01/12 23:12
>12
宗教とか社会団体とか、道徳を評価する団体っていっぱいあるぞ。
道徳はほんとうに評価されてないのか?
1410:02/01/12 23:14
たとえばだ、あれはどうだ。電車に轢かれそうになった人を助けた韓国人。
私の宗教が日本で流行らないわけだ…。
16考える名無しさん:02/01/12 23:15
すくなくとも、損はしません。
そこに最大の美点を見出します。
17マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:15
>>13
宗教は総じて社会が限定されてるし、社会団体の場合は道徳っていうか「社会に貢献したかどうか」じゃない?
18考える名無しさん:02/01/12 23:16
つうか、そもそも、道徳的な行為は、何故「道徳的」と呼ばれるのだ?
例えば、「お年よりに席を譲ったり」とかは、どういう理由で「道徳的」と呼ばれるのだ?
これは単なる慣習や思い込みなのだろうか?
19考える名無しさん:02/01/12 23:19
>>18
昔(成立当時)かっちりとした意味、理由があったかもしれないが
今となっては、上にいる偉い人、年上の人の利益を無意味に守るという
ことぐらいしか意味がないような気がする。
2010:02/01/12 23:20
>17
つまりその宗教の内部では少なくとも評価されてるんだろ?
社会貢献は道徳的な善ではないのか?
21考える名無しさん:02/01/12 23:21
>>18
社会にとって有益だからじゃないですか?
有益さの価値観が国によって違うから、
道徳も国によって違ってくるのではなかろうか?
22考える名無しさん:02/01/12 23:21
>>20
あなたの言ってる社会と17の言ってる社会という語の
土台が違いすぎてない?
23マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:21
>>14
あれ、劇的だったからね。あそこまでしないと評価されないのか?悪くいえば、アレを評価したい社会団体ってのもあるだろう。あれだけ話題になってれば団体のアピールにもなるし。

車で川に転落した人を助けた学友がいたけど、「警察から」感謝状一枚だし。恐らく、あとはその家族に感謝されるくらいだろう。
俺がその場にいたらどうかな?見捨てるのは気が重いし、まあ、道徳行為で自分の気がすめば安いもんだ。「士気」ってやつかな?違うか?自己満足?
2410:02/01/12 23:22
道徳は社会的に評価されているのかどうか、それすらよくわからんな。
評価されていないなら、道徳批判をする必要もないんだよな??
なんかそれはおかしい。
25考える名無しさん:02/01/12 23:23
>>21
年寄りに席を譲ることが、社会に有益?
なんか違わないか?
26考える名無しさん:02/01/12 23:23
>>19
つまり、現代における「道徳」の定義は、
「上にいる偉い人、年上の人の利益を守ること」がであるということだね。
2710:02/01/12 23:23
>>20
どんな風に?
28考える名無しさん:02/01/12 23:24
>>26
だいだいそんなところ。
つまり、道徳くそったれ、と。
2926:02/01/12 23:25
>>21
なるほど、あなたは、「社会にとって有益なこと」が「道徳」だというのだね。

「上にいる偉い人、年上の人の利益を守ること」、
「社会にとって有益なこと」、
どちらが本当の道徳なのだろう。
あるいは、この二つは同じものなのだろうか?
3010:02/01/12 23:26
26の言い方だと、1の「道徳は評価されてない」という前提がおかしくなる。
31マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:26
>>18
道徳って悪く言えば思考停止だとおもう。明確な理由は取りあえず置いといて「こうすべき」って教えられること。

だから、道徳にそれた行為をしても、それを咎める人は通常、「いけないことだよ」くらいしかいえない。道徳は頂戴する観念だから、それで人を断罪することも評価するのも難しいんじゃないかな?
32t.f:02/01/12 23:27
価値観がどんなに異なっていても、人間皆に妥当するものが道徳なのでは
ないのかな?

道徳は普遍的でなければならないんじゃないの? 善悪の基準は価値観だ
けど、これを道徳と混合しては駄目なのでは?
33考える名無しさん:02/01/12 23:28
>>27
20の社会=宗教内部
17の社会=それも含めたもっと広い範囲
と思うがどうか。
34t.f:02/01/12 23:28
どうも先生が「得」の意味を言い忘れたようです。

でも、こういうことを言う人って実際にいません?

まぁ、これ自体、そのような人を前提にして考えたことになってしまいましたね。

でも、だいたい当てはまりませんか? 道徳が普遍だとしたら、そのような
行為は、常に満足するものではなくてはならないのでは?
3526:02/01/12 23:28
>>28
道徳はあなたにとっては、良くないことのようだね。
3610:02/01/12 23:28
ところで年寄りに席を譲るのは
「上にいる偉い人、年上の人の利益を守ること」
なのか
「社会にとって有益なこと」
なのか
37考える名無しさん:02/01/12 23:28
自分の体を張って他人の命を救ったっていうのは
道徳なのか?
同情つまり感情の延長にあるものじゃない?
道徳は自他の利益をはかるために取るべき態度
だと思うんで >>21 に同意。
38考える名無しさん:02/01/12 23:29
>>32
道徳と善悪の体系と、どう違うのですか?
39考える名無しさん:02/01/12 23:32
>>35
うん。
論理的に説明されれば納得もするけど
それがないからね。難しいんだろうけど。>説明
俺、まだ若いし。
4026:02/01/12 23:32
>>31
つまり、
「自分で考えず、人に言われたとおりにすること」
が、道徳であるということ?
しかし、最初に考える人は、何を持って道徳、不道徳を振り分けているのだろう?
あるいは、最初に考える人にとっては「自分で考えたこと」であるから、
それは道徳では無いということだろうか?
41マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:32
>>36
たぶん、鉄道、路線バスの高齢者獲得の策略。
42考える名無しさん:02/01/12 23:33
>>31
でも、あまりにも逸れたことやったら村八分とかにされると思う。
43ぴかぁ〜:02/01/12 23:34
「得」自体が漠然としているからなあ...
幸福論と似てるのか...
44考える名無しさん:02/01/12 23:34
>>37
>道徳は自他の利益をはかるために取るべき態度 だと思うんで
それいいね。同意。
4510:02/01/12 23:36
>>33
なるほど。
ではたとえば欧米人はほぼみなキリスト教徒だ。
そういう社会では宗教内部と社会はほぼイコールで結ばれるよな?
46考える名無しさん:02/01/12 23:38
>>40
>しかし、最初に考える人は、何を持って道徳、不道徳を振り分けているのだろう?
そいつの利益。
47マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:37
>>40
社会の同意。諸集団の恣意性だと思う。
仮に提唱者がいても、周りの「そのとうりだ。確かにすばらしい事だ」って手放しで受け入れたと思う。そこらへんで思考の停止が始まったと考えている
4810:02/01/12 23:38
>>41
あれ一応「互助精神」が入ってないか?(と、マジレス)
49考える名無しさん:02/01/12 23:42
>>34
満足を求めて行動した時点で道徳ではない。
つまり、「道徳的な行動をしたのに満足できなかった!」という奴は、始めから見かえりを求めていたわけだから、道徳的な行動をした事にはならない。
50考える名無しさん:02/01/12 23:42
ホッブスの言う「自然権の放棄」=自然法ってやつとは違うのかな。
51考える名無しさん:02/01/12 23:45
>>49
道徳は人の利益を保証すべきものと思うが。
52考える名無しさん:02/01/12 23:45
>>49
>満足を求めて行動した時点で道徳ではない。
そうか?

ところで、道徳的行為の最たる例ってどんなの?
53マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:45
>>45
まあね。教会に寄進したりとか、神の為に。だから、他の社会から煙たがれる。しかし、信仰心からくる行為と道徳行為をまぜていいのかな?疑問。
でも、宗派もいろいろあるし。
54マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:48
>>52
そういや、道徳って「なになにしちゃいけません」ってのが多いね。
まるで、性悪説を見とめているかのようだ。
5526:02/01/12 23:49
>>46
なるほど。

>>47
「集団の恣意性」か・・・、なんとなく宗教じみてくるね。
どのような判断が下されるかは、その場の雰囲気なんかによって決まってくるわけで、
その点ではシャーマンが神託を受けるのとあんまり変わらない感じがする。

根拠というものは特になくて、
あるプロセスによって決まるものが道徳であるということだね。
56t.f:02/01/12 23:50
49 満足にもいろいろと種類はあるよ?

食事食べて得られる満足と哲学で悟りを開いた満足とでは
質が違うと思うよ。 
5751:02/01/12 23:50
>>52
ゴルフ選手が能力を発揮するためには
静寂が必要であるため、
観客が雑談をすることは害悪である。
したがって「お静かに」という徳が生まれる。
5810:02/01/12 23:50
>>53
なるほど。
キリスト教内部で「道徳的」でも他の社会にはメイワク。

昨今の世界情勢がいろいろと偲ばれます。
59考える名無しさん:02/01/12 23:52
道徳の無い社会は住みにくいし、そもそも非道徳は自分が弱者であること
の証明だよ。
60マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/12 23:52
道徳って社会の鏡なのかも。
いま、問題になっていること、行なわれていることを「いけません!」っていう。
61考える名無しさん:02/01/12 23:57
いいかげん、いわゆる道徳を改訂したほうがいいよな。
古過ぎる。
62考える名無しさん:02/01/12 23:58
>>60
>いま、問題になっていること、行なわれていることを「いけません!」っていう。

これじゃわからん。説明希望。
63考える名無しさん:02/01/13 00:01
>>59
道徳のない社会って、道徳を守らない社会ってこと?
ストレートに道徳のない社会なんてないでしょ。
>非道徳は自分が弱者であることの証明だよ。
意味も分からずに、なぜ道徳に従わなきゃならんの?
64マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/13 00:03
>>62
たばこを投げ捨てるな(あ、条例になってるとこもあるな)とか、深夜はしずかに(これも騒音防止条例が)とか、ケータイの使用は気をつけろ(これも交通法規が)

昔はとりわけいわれなかった道徳だろう。しかし、時代の変化で「人が迷惑」、「不利益」などの障害が出てきたので、「いけないことだよ」ってみんないいだす。
ふつう、少し考えれば迷惑がかかるって分かるはずなのに。
65ぴかぁ〜:02/01/13 00:03
道徳って宗教だからなぁ〜...
6626:02/01/13 00:07
「社会が成り立つためには、なんらかの規則が必要である」、
ということを前提にした場合。

その「規則」を何に求めるか、という問題について考えると、

「道徳」を「理由を示さずに与えられる規則」とするなら、
「理由を示さずに与えられる」という点について
「道徳」を否定する人がいるわけで、

ならば、「理由を示して与えられる規則」が必要になるわけだけれど、
これはなんと呼べばいいのだろう?
「法律」がそれにあたるのだろうか?
6762:02/01/13 00:08
>>64
社会的道徳と個人的道徳ってものがあると
思うがどうか。
68マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/13 00:13
>>67
個人的道徳観念で行動するのは、その個人がよほど浮世離れしてないかぎり問題はない。
しかし、その個人的道徳観念で他人を縛り付けたり、押し付けたりすると不穏になる。
しかも、個人的道徳で他人を戒める場合、「あーららこらら、いーけないんだいけないんだ。せーんせいにいってやろ」レベルの追求にしかならない。
69ぴかぁ〜:02/01/13 00:15
「法律」をささえてるのは...「常識」じゃねぇの...
7062:02/01/13 00:18
>>68
もし道徳の目的が自他の利益の確保にあるならば、
他人に自説を押し付けることは不穏な雰囲気を生み出すから
結果的に相手の反発を招き、自他の利益とはならない。
そこまで考慮して道徳とはどうあるべきかを
考えていけば、充分有益な議論になると思うが。
71考える名無しさん:02/01/13 00:22
>>66
>「社会が成り立つためには、なんらかの規則が必要である」
と言うより、規則が成立するためにはそれ以前に社会の成立が必要とも言えるし。
互いに絡んでくるから何とも言えんが。

社会を成立させるためには
・個々人の利害をある程度捨て去る
・でも、最低限の自由の保障
みたいな、マクロな利害の一致とミクロな自由の保障があると思うが。
で、そこから紡ぎ出されるのが守るべき事柄。

すべきでない、という禁止の記述をされたのが法律で
こうしましょう、とされたのが道徳で
あれ?なんか変。
72マジデス ◆7y8WJd.s :02/01/13 00:21
>>70
なるほ。
7326:02/01/13 00:27
>>71
>と言うより、規則が成立するためにはそれ以前に社会の成立が必要とも言えるし。
>互いに絡んでくるから何とも言えんが。
なるほど・・・。
相互にちょっとずつ発展していくものという考えではどうだろうか?

>すべきでない、という禁止の記述をされたのが法律で
>こうしましょう、とされたのが道徳で
>あれ?なんか変。
うん、
それだけでは割り切れないというか・・・。
どういったらいいのだろう。
74考える名無しさん:02/01/13 00:33
とりあえず>>1は試験がんばれ
ということで、私は寝ます。
75考える名無しさん:02/01/13 01:15
あまり得がないことは道徳的行為とは言わない
76考える名無しさん:02/01/13 02:28
一般に「あの人は『徳』がある」という言い方をする場合、それは
「あの人は私にとって『得』になることをしてくれる」ことを意味
する。
すなわち、徳=他人にとっての得なのであるが、逆に、徳を施して
くれた相手に対して感謝の意を表明することや、徳のある人を賞賛
することも、それはそれで相手に精神的利益という「得」を与える
ので「徳」である。
このように、徳を循環させることが「道徳」なのであるが、仮に
人知れず行なわれた徳であっても、最終的に人は自分で自分を誉め
ることができるので、道徳的な行為によって損をしないですむよう
になっている。
77考える名無しさん:02/01/13 05:12
道徳=社会秩序維持のために守るべきことがらなんてあるけど、そんなの嘘だ。
道徳なんて、言ってしまえば一種の処世術です。
7826:02/01/13 11:55
>>77
つまり、社会にとっての損得は関係なく、
自分が、社会とうまく付き合っていくために有効なことが
「道徳」ということだろうか?

しかし、「それは自分にとって得になること」を目指しているように思うけれど、
なぜ、「あまり得なことがない」のだろう?
79考える名無しさん:02/01/13 14:32
なんか自己中心とエゴイズムの区別がつけられない方が多数おられるようで。
80考える名無しさん:02/01/14 01:54
>>1
前提自体が間違っている。
そう思いなさい。
81考える名無しさん:02/01/17 09:16
>>79 どう違うの?
82考える名無しさん:02/01/17 09:29
聖人は、「仁を求めて仁を得たり。」とゆーことに満足して、
餓死しても「また何をか怨まんや」と従容としてるの。

自分の道徳を全うすることが、イコール個人の幸福なの。
それが、道徳実践によって得られる「得なこと」なの。

1はまだ、孔子とかマルクス=アウレリウスとかの境地に
至っていない。
83考える名無しさん:02/01/18 02:43
不道徳には二種類ある。
エゴイズム…動物的本能。これがなければ生きていけない。

自己中心……世の中が自分を中心に回っていると思うこと。
      当然、人の気持ちなんか分からないから、社会不適合者になる。

84考える名無しさん:02/01/18 19:09
「動物的本能」は、それだけでは「不道徳」とはいえないのでないか。
「動物的本能」を「道徳」より優先するのが「不道徳」なのでは?(まあ、不道徳一般がそうなわけだけど)
食事も、排泄も動物的本能だけど、道徳に従って礼儀正しくやる限りにおいては、
不道徳とはいわないでしょ。
85考える名無しさん:02/01/18 19:15
因果律を捨てて予定説に鞍替えすれ。
そうすれば見返りうんぬん言わなくなるから。
86考える名無しさん:02/01/18 20:01
僕には問題は単純に思えるけど。
まず個人の善悪というか好悪と、道徳が強制する善悪とは対立する。
たとえば、僕はスピードを上げて車道を走るのが好きなのに、
他人に迷惑がかかるからそういうことはしない。
次に個人の好悪と相反するが故に、道徳は自分自身を偽装する。
それを守らなければ、その人はもはや人間とは見なされないかのように
道徳は形を変えて我々に力を及ぼそうとする。
この道徳の偽装が完全に成功すると、道徳に従わなければ
その人は共同体から排除されるという構造が成立する。
だから、誰もが自分の好悪に反することを道徳的行為として為すようになる。

僕はこんなストーリーを考えましたが。
87考える名無しさん:02/01/18 20:12
>>86
「好悪」ってなんだ?
「善悪」に対比するなら、「好嫌」じゃなかろうか?

>その人は共同体から排除されるという構造が成立する。
共同体から排除されたくないというのは、個人の欲望ではないの?
88考える名無しさん:02/01/18 20:18
>>87
> 「好悪」ってなんだ?
「好悪」の「悪」は「嫌悪」「憎悪」の「悪(お)」で、
「善悪」の「悪(あく)」じゃないよ。

>>86,>>87
悪事がばれれば共同体から排除されるけど、ばれなきゃ排除されない
わけで、「排除されたくないという個人の欲望」に還元するなら、
「違反が他人にばれちゃう場合は、これこれの行為をしましょう」
という規則しか出てこないんじゃない?
89考える名無しさん:02/01/18 20:27
>>88
>「好悪」の「悪」は「嫌悪」「憎悪」の「悪(お)」で、
>「善悪」の「悪(あく)」じゃないよ。
「悪を好む」ってこと?
ずいぶん物好きだね。

>悪事がばれれば共同体から排除されるけど、ばれなきゃ排除されない
>わけで、「排除されたくないという個人の欲望」に還元するなら、
>「違反が他人にばれちゃう場合は、これこれの行為をしましょう」
>という規則しか出てこないんじゃない?
「共同体から排除されくない」という欲望はあるわけだ。
そもそも、なぜ排除されたくないか、考えたことある?
90考える名無しさん:02/01/18 20:34
道徳とは常に人間として備わって置くべきもの、
得でないこともあるだろう。
得じゃないことをしたくない、だからやらない
そういう判断基準が「倫理観」と呼ばれるものである。
例えば荒波でよその他人が溺れているのを見て、
自分も死ぬ恐れがあるので、飛び込んで助けるのはよそう
とする。これは、その人の倫理観である。倫理観により、
別に飛び込んでも良い。
道徳とはおそらく相反する結果になることもある、それが
人間に備わるべき倫理観であり、善悪以前の問題となる。

わけがわからなくなった。

91考える名無しさん:02/01/18 21:12
>>89
>>「好悪」の「悪」は「嫌悪」「憎悪」の「悪(お)」で、
>>「善悪」の「悪(あく)」じゃないよ。
>「悪を好む」ってこと?
好悪の悪は「悪い」じゃなくて「嫌う」「憎む」の意味だ、といってると思われ。
92考える名無しさん:02/01/18 21:18
>>91
>好悪の悪は「悪い」じゃなくて「嫌う」「憎む」の意味だ、といってると思われ。
「嫌うを好む」、「憎むを好む」ってこと?
さらに意味不明。
9386:02/01/19 03:27
好悪ってのは、好きか嫌いかって意味で書いたんですよ。
熟語で上と下が対になっているタイプの熟語です。
94考える名無しさん:02/01/20 03:09
age
95考える名無しさん:02/01/20 10:38
>>87はヴァカ
96考える名無しさん:02/01/20 14:16
>>95
どこがどういう風にバカなのか説明できないなら
哲学やる意味無いよ。
97弱者:02/01/20 19:33
道徳的行為という言葉自体に「自分の利益とは関係無く人を助ける」という意味合い
が含まれているのでは?だから得が無くて当然。
自分の利益になりかつ共同体の利益になるような道徳は、ある程度定着していると
思います。
98反サヨ:02/01/20 22:08
「精神的快楽」という得がある。以上。

ボランティアなどの一見私欲の無さそうな行動でも「精神的快楽を求める」という私欲があるのだ。
99考える名無しさん:02/01/21 04:10
「道徳」「得」の定義をどうするかに拠るが、
>>98
1の課題に沿ってないよ。
10082:02/01/21 13:53
>>96
「悪」(あく)は、まさに「悪い」こと。
「悪」(お)は、「にくむ」とか「嫌う」とかいう意味。

日本語の意味も知らず、辞書の使い方も知らないで、
「どこがどういう風にバカなのか説明できない」とか言うバカには
哲学やる意味どころか、日本語で他人と議論する資格すら無し。
101考える名無しさん:02/02/08 16:17
102名無しさん:02/02/12 12:29
なぜ目上の人を尊敬しなければならないのですか?
およそ”目上の人”というような対象であれば別に何ともないのですが,
対象が私の近くの人など対象を具体化されると,全く以って尊敬できなくなります。
社会生活を営む上での潤滑油という以上の理由があるのでしょうか。
またこれらは一般に道徳・常識とされていますが,それは前者でいうところの
漠然とした意味のことを言っているに過ぎないですよね。
尊敬できない人間をも尊敬するということではない。
ただ,どんな人間が尊敬できないかの基準は難しいですが…。
103考える名無しさん:02/02/12 12:59
それよりも1よ、聞いておくれ。
スレタイトルクリック→→→→→画面蒼白。
104考える名無しさん:02/02/12 13:33
>>103
新種アラーシのせいです。
105考える名無しさん:02/02/12 13:35
>>104

39(゚Д゚)
106考えない名無しさん:02/02/12 14:39
>>102
世間の価値基準での「目上の人」と自分の内面規範での「目上の人(=尊敬できる人)」
が一致してないという事ですよね。
107:02/02/12 15:47
道徳的行為というのは本心から出てこそなんぼ
損得勘定に支配されている者がマネをしても
もちろん相手は助かるだろうが
自分は不満なんでしょうね。

経済のるつぼに生きる現在の我々の弱点は「すべてに見返り」を求めてしまうこと。
108純丘:02/02/12 17:17
>>106

ワシもそう思う。

目上、というより、
 年上なら尊敬されるのが当然と思っているヤツが、昨今あまりに多い。

尊敬は、礼節と違って、
 行いによる人格のみ基づくのであって、
  年齢や地位など、属性に対するものではあるまい。

だが、誰が尊敬できるか、より、
 自分が尊敬に値するか、を問うべきだと思う。

しかし、実際に尊敬させることを求めようとすると、
 これほど賤しいことはない、ということになるのが難しい。

109名無しさん:02/02/12 17:45
102です。
お互いを尊重するということとの比較から考えてみたいのですが,
皆さんが相手を尊重するということはどういうことですか?

個人の尊厳というのは,憲法にもあるように最高の価値なんですよね。
その意味は,端的に言うと相手の存在を人格的に認めるということではないかと思います。
例えば,相手が自分と異なった意見を持っているとしても頭から排斥するのではなく,
表現する機会を与えてあげるということだったり,
または,どんなに嫌なやつであっても殺さないことだったり(笑)
逆にいえばそのような最低限の態度で十分であると私は考えます。

だとすると”尊敬”とはどのように考えればいいのでしょうか?
尊重以上のものを求めるということ。
それは,やはり儒教とか宗教上の精神的態度の1つなのではないかと思います。
つまり,特定の地域の特定の人々についてのみ妥当する価値であるということです。
少なくとも普遍的な価値はもたないように感じられます。
だとするとそれにコミットしない人がいても全く問題ないような気がするのですが…。
110考える名無しさん:02/02/12 18:45
道徳的行為をする時に見返りを求めざるをえませんが、
それは道徳的行為が「こうしてはいけない」「こうしなさい」という
命令だからではないでしょうか。
命令を実行するのが道徳的行為なら、道徳的行為が得なことにつながらないのは当然ではないでしょうか。
命令を受ける時には「これをやればいいことがある」といわれるでしょうが、
それは命令者が命令を実行して欲しいが為に言うことであって、その見返りが本当にあるかどうかは関係ないのです。
ですから、道徳的行為をしてもあまり得なことがないのは、当然のことであると思われます。
111純丘:02/02/12 18:55
>>109

礼節としての形式的な表敬は、
 ゲームのようなものだと思う。
  つまり、社長はえらい、ということにしているのが会社ゲーム。

これにたいして、尊敬となると、
 むしろ美学的、感性的な問題であるようにも思う。
  カントのピエティスムや美的判断力ではないが、
   その相手の存在そのものが、
    自分の認識理解能力を超え、圧倒してくる。

したがって、尊敬すると言っても、
 なにか行為するでも、態度を示すことでもないのでは?
112考える名無しさん:02/02/12 19:33
他者にとって「認識理解能力を
超え、圧倒してくる」自分だから、
「自分が尊敬に値するか、を
問う」のはあまり、意味がない。

113考える名無しさん:02/02/12 19:40
a
得とは自分にとっての魅力の獲得であり、
道徳とは、加害しないことの体系である
とすると、まずは次「元」がずれている。

b
「道徳的行為」が「魅力の提供」の一部であり、
提供が贈与に終わりうるのだとすれば、相手は
獲得した見返りをかんがえることまでも省きうる。

114純丘:02/02/12 19:42
>>112

理屈からすれば、たしかにそのとおりだろう。

しかし、ここでいう自分が、自他未分の行いそのものであるとき、
 たとえば、消防官が崩れつつあるビルに飛び込んでいくとき、
  消防官である自分と、救出されるべき人々と、
   崩れゆくビルと、これを見守る人々に区別などつけておらず、
    ただこの状況を自分の手の中で握りつぶすには
     いかにすべきかを問う。

そして、こういうときの我を忘れた英雄的決断は、
 自分自身の認識理解能力さえも超えていると思う。
115考える名無しさん:02/02/12 20:18
理屈?

触法障害者が、完全な耗弱に陥ることはあれ、
消防士の救助活動に耗弱であることはない。

むろん、認識能力の部分的欠落はありうる
し、見失われた認識対象こそが問われる。

では、消防士にとって未分である対象は
何か。それは自他の生存「価値」であろう。
あるいはそれを超え出るものではなかろう。

救出を待つ人にとって、消防士は圧倒的
魅力として現れうるし、消防士にとっては、
救出を待つ人が、自分の「使命」にとって
圧倒的魅力として発見されうる。それは、
最終的救出への手段としての価値として
おなじ形式に属すが、そこには相互に汝
と私の立場の差が存在する。のみならず、
その差は抽象化された人称ではなく、実存
としての自他の差である。いかなる急場で
あろうとも「個人たる消防士」の認識の
仕方を拭い去ることはできまい。

自他未分にまで捨象したとき、
魅力の領域までが損なわれ、
けっきょく、自他未分の魅力を
論じることができなくなってしまう。

英雄的であるとは、崩れゆくビルと
人間の区別はもとより、その人間の
内でも区別された誰かによって、冷静
に、かつ、熱狂的に価値判断された
平時の魅力の携えをいうのだろう。

116  :02/02/12 21:21
  
  
  
117考える名無しさん:02/02/12 21:26
   ワケ      ワカ      ラン♪
  ∧_∧    ∧_∧    ∧_∧
 (; ・∀・)  (; ・∀・)   (; ・∀・)
⊂ ⊂  )  ( つ つ  ⊂__へ  つ
 く く く    ) ) )     (_)/
 (_(_)  (__)_)    彡(_)
118考える名無しさん:02/02/12 22:12
   ↑      ↑       ↑
   頭      悪      スギ?
  ∧_∧    ∧_∧    ∧_∧
 (; ・∀・)  (; ・∀・)   (; ・∀・)
⊂ ⊂  )  ( つ つ  ⊂__へ  つ
 く く く    ) ) )     (_)/
 (_(_)  (__)_)    彡(_)
119考える名無しさん:02/02/12 22:20
   ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (;・∀・)<  みんなはわかるのか?
  (    )  \_____________
  | | |
  (__)_)
120考える名無しさん:02/02/12 23:18
   ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (;・∀・)<  哲板全体で、頭が悪けりゃ、尋ねても
  (    ) |  無意味でしょ。答えも無意味だろうし。
  | | |  \________________
  (__)_)
121考える名無しさん:02/02/12 23:46
うそだから。
122666:02/02/12 23:49
道徳とは生きている上でのいや生きるための必然的律法。
人間に生まれたなら人間としてという概念を持つ事。
故に大多数の人間が出来てるわけでべつに得は無い。
あたりまえのことをして得をしようというのが大きな間違い
123考える名無しさん:02/02/13 00:04
>>1
道徳的な行為って例えば何?
124考えない名無しさん:02/02/13 11:09
>>109
>皆さんが相手を尊重するということはどういうことですか?
自分の自由を侵害しない限り価値観の多様性を認める、という事。

>だとすると”尊敬”とはどのように考えればいいのでしょうか?
尊敬とは「そうありたい」と思う強い者に抱く感情。
125名無しさん:02/02/13 18:02
尊敬には,相手を立てるというようなイメージがどうしても付きまといます。
じゃあなぜ相手を立てなければならないのか?
こう疑問を抱くのは,社会と自分の基準が違うからだというのは確かに一因ですね。

そうではなくて,そもそも社会には「相手を尊重すべきだ」という規範あるのはなぜか。
規範というのはある人々,地域,時代限定ですから,当然環境が変われば,規範自体も変わりえます。
そういう意味で今だに社会に”尊敬”という感情,態度,共通理解が存在しているということは
多くの人がそれに対して何らかの意味で同意しているということなんだと思います。
ここでは,規範の先ほどの定義に鑑みて,個人的な尊敬の感情というのは除いて考えます。
なぜなら,個人的に尊敬したい人間を尊敬するのは個人の自由なのですから。

ここで考えたいのは社会的な場面です。
つまり,多くの人が(私は違いますが),他人を尊敬すべきであると考える場面があるのはなぜか。
そこには本当に”ゲームとしての表敬”以上のものはないのか。
人間が秩序ある社会を成り立たせるために,形式的な価値序列・基準を定立したにすぎないのか。

そうだとすると,結局は,昔の人々が秩序ある社会を作るための基準なんて分らない。
でも何かあったほうが便利だよね。
だから「とりあえず」,年長者に対しては尊敬の念を抱くようにして,このような考え方を広めていこう。
勿論,これを形式的なものではなくて年長者も尊敬に値するような行為をして
実質的にも妥当するようにしていかないといけないよ,ということになります。

だとしたら,所詮形式に過ぎないものなのですから,尊敬の対象に実質が伴って
いなくても私は構わないのです。
だとしたら社会的に尊敬すべきとされている人間は形式的な尊敬に対して文句をいう,
非難をするという,のはおかしいと思います。
彼らは,形式的な尊敬をすべき人間がいうところの尊敬に必ず従うべきです。
だってあくまで形式なのですから。
でもそう考えた人は,多くがそうは考えない社会の中で生きていくことが極めて難しくなります。
このような考えが社会を成り立たせる根本的な考えであるのはおかしいのではないのでしょうか。

だから私は”尊重”という概念が最低かつ最高であると考えるのです。
私は,“人と人との原始的な関係は戦闘状態だった”というようなことを言った
ホッブズの考えがよくわかります。
そこには人格と人格との純粋なぶつかり合いがあるだけなのです。
そのような多様性を認めておいて,人間は皆違うものだという前提に立った上で
生きていけばいいのではと強く思います。
そうすれば,”とりあえずの”社会ルールに則った人だけが相対的にいい思いをすることはなく,
その一時的なルールに同意し得ない者と同じような痛みを感じることがあるからです。

人の,なるべく痛みを感じないでいたいという堕落を糧に,名目ばかりが肥大しているのが
現在の”尊敬”,ひいては”道徳”のような気がします。

長文スマソ。
126考える名無しさん:02/02/13 22:17
補足
“人と人との原始的な関係は戦闘状態だった”とは、互いが言いたいことを言い合っている状態です。
お互いが言いたいことを言うとは、自分を主張することもあるでしょうし、相手を思いやることもあるでしょう。
でもずっとそういうことをし続けると、お互いが疲れてしまうわけです。
誰に対しても自分の全人格をかけて対応する必要はないし、たまには聞き流したいこともあると思うんです。
そんなときに”道徳”という一種の社会規範を作っておけば、とりあえずそれに従っておけば、
”やり過ごす”ことができますね。それは多くの人が同意を与えているものなのですから。
好きでもない人間に挨拶されても、一応挨拶を返すことなどがそれです。

ですから、別に自分の属する社会にいたくなければ”道徳”を実践する必要はないんです。
でも、そうであっても、私は”それは社会が許さないからお前は出て行け”というのはおかしいというわけです。
なぜなら、個人の尊重が最上の価値だと考えるから。
人と違うことは悪いことではなく、自然なことである。それによって責められるいわれはない。
だから、いくら社会が嫌だと言っても少なくとも相手を尊重する態度を人間はとるべきであるわけです。
逆に言うと、社会は良い人も悪い人もひっくるめて引き受ける器でなければならない。
いい人だけを選択して社会を成り立たせることはできない。それは人がモノでなくて人間だから。
127考える名無しさん:02/02/13 22:40
善にしても、道徳にしてもそうなのだけれど、

「現在多くの人が、○○はそのようなことだと思いなしていること」を、
○○の自体の定義であると考えていいのか?

ならば、○○自体の定義というものは存在せず、
ただ、その言葉に対する「思いなし」だけが存在して、
いかなる概念であっても、
議論によってその性質を考えることは無意味であるということになる。
議論している最中にも、「多くの人の思いなし」は変化するのであるし、
大きなニュースなどの影響で劇的に変わってしまうものであるからだ。

善についても、道徳についても、
正しい意味を知りたければ、哲学ではなく社会学を学ぶべきであって、
さらには、そもそも学問的考察さえも無意味であって、
調査、観察のみが唯一の定義を知る手段ということになり、
演繹的思考は無意味なものとなる。

128かんと:02/02/13 22:46
>道徳的行為をしてもあまり得なことがないのはなぜ

いや、だからね、Seeleは不死じゃないと、いろいろマズイわけだし、
「神」ってのも、いなくちゃなあ、って話になるんだよな。

あ、散歩の時間だから。じゃ!
129    :02/02/13 23:22
>>1
リスクを背負わない行為をしても、なかなか得する事ができないのは
あたりまえでしょ。
130考える名無しさん:02/02/14 00:34
損しないんならそんでいいだろ。
131考える名無しさん:02/02/14 00:49
長いスマソ。
>「現在多くの人が、○○はそのようなことだと思いなしていること」を、
>○○の自体の定義であると考えていいのか?
そう考えないと、一個人の考える定義が定義だということになります。
でも規範の定義などというものは一義的には決まりませんよね。
これは存在しないのとは違います。たくさん存在するのです。
議論して定義の性質を変えることが無意味という意味がわかりません。
議論によって真理と誤謬が戦い合わされると真理が残ると言う考え方が法律にはありますが、
これにはそれぞれ、正しいことと正しくないことと置き換えることができると思います。
それを考えることは特段無意味ではないと思います。

個人が自分の調査・観察によってある物事についてとことん考えることが哲学だと言うのであれば、
それでもかまいません。
そのような独りよがり(必ずしも悪い意味ではない)の考察の積み重ねが”哲学すること(学問とは別という意味)”
なのだとすると、学問的な哲学(古典の研究など)というのとは確かに別です。
そのような”哲学すること”は紛れもなく自己完結の世界。
社会とのかかわりとを必ずしも必要としない世界。
その考察の結果、意味などを無視する徹底的な内向的思考態度。
それが本当の”哲学すること”なのか…。

しかし、人の思考の源泉はすべて社会ですから、このような”哲学すること”は存在しようがありません。
社会から生まれて社会を外れる人間はいても、社会から生まれなれけば人間自体が存在しません。
狼に育てられた人間がずっと狼社会で成長すれば、ためらいなく人を殺すでしょう。
でもそれは人間ではなくて、人間の身体をまとった狼だからでしょう。

どんな”哲学すること”でも思考する主体は人間なのですから、社会と全く切り離して思考することは出来ません。
社会と言う枠を離れて人間は思考することは生まれながらに出来ないわけです。
社会と接触はあるものの社会に対して信頼をおけない人、これらも間違いなく社会的存在なのです。
社会に背を向けるという時点において、すでに社会というものを観念していますから。

>正しい意味を知りたければ、哲学ではなく社会学を学ぶべきであって、
それは主体がどのような正しさを求めるかによります。
目的によっては必ずしもそうとはいえないと思います。
社会学が社会の仕組みを研究する学問であるとすれば、
社会で何が正しいかは必ずしも必要ではなくなり、考察の対象でもなくなります。
人の社会性を前提にして、物事を真理を求めるのが哲学だとすれば、意味云々ではなく

哲学における演繹的思考って具体的にどういうことですか。

※社会性の意味は「自分以外の人間とかかわりを持つ、意識する」ぐらいに考えてますが。
132考える名無しさん:02/02/14 01:00
>>131
>そう考えないと、一個人の考える定義が定義だということになります。
「思いなし」を定義とイコールだと考えるなら、そういうことになるね。

一義には決まらないのなら、
それらが、単に違うものについてのそれぞれの定義を述べているのではなく、
同じものについての異なる定義であるということがなぜいえるのだね?
133考える名無しさん:02/02/14 02:09
永井均みたいな「哲学すること」に社会性の考慮ないしな
134考える名無しさん:02/02/14 02:41
>>132
>一義には決まらないのなら、
>それらが、単に違うものについてのそれぞれの定義を述べているのではなく、
>同じものについての異なる定義であるということがなぜいえるのだね?
結論からいうといえません。
私が言っているだけです。

思考の順序と言うのは、何について思考するかを確定して、作業に入るように思えるですが、
ともすると実際は、これらの二つは同じ作業になってしまうわけです。
その理由は、物事を一義的に決めることが難しいから思考という手段をとるのであって、
思考とは目的でもあり手段でもあるのです。
つまり、あることを思考するために思考するというような状態がよくある。
それは、○○とはなにかというような命題を考える際によくあらわれる。
「道徳とはなにか」という命題について、まず道徳の範囲を確定して(これは、思考対象の確定を示す)、
そのあとにその定義を作る(これは、思考動作を示す)ものだと仮定すれば、
それらを明確に区別して思考することは出来ないのではないでしょうか。

こうなると、思考の対象が決まらないので、確かに「同じものについての異なる定義」であることは到底言えず、
かといって、「違うものについてのそれぞれの定義」であることも確定的にはいえないと思います。
このような思考にまつわる限界、制限、逡巡を知った上であえて私は、そのように表現しているだけなんです。
そのことについては思考を停止しているということ。
物事を考えるときには、何か一つ、絶対的な条件を決めざるをえません。
私の場合、それがこの条件なんでしょうね。
めちゃくちゃ混乱します。
135考える名無しさん:02/02/14 02:46
>>1が問いたいのは、

「道徳は、外面的価値として評価されにくい」で、「道徳は、人間の根底にある大切なもの」

なのに、「人間の根底にある大切なものが、外面的価値として評価されにくいのはおかしい」

ということですよね?

これは、「自己の大切なものは、すべて他人から評価される必要がある」という前提に立っているようですが、
その根拠がわかりませんね。

個人の根底にある大切なものを、他人から評価を受けなければならぬ必要性とは、どのようなものか?
136135:02/02/14 02:59

「個人の根底にある大切なものに従って行なう行為」のうち、
「すぐ近くの他人が直感的に心地よく思う行為」を、「道徳的行為」というのでしょう。

それ以外は「思想」「宗教」などという範疇にくくられるかと思います。

他人が個人に対して「道徳的」と感じるのは、
「その場」で「瞬間的」に「感じる」ことを言うのでしょう。

結果、現場に居合わせていない人達に、道徳的行為の情報を伝えるのがむつかしく、
評価されにくいという現象がおきるのでしょう。
それは、結果論であって、
「個人の根底にある大切なものを、他人から評価を受けなければならぬ必要性」がなければ、
おかしいと思う必要もないのです。
137135:02/02/14 03:28
乱暴な言い方をすれば、「道徳」とは、大きな視点での「社会性」とはむしろ無関係です。

もちろん、「社会体制、社会性にそった行為」も含まれますが、
個人的な「信念、信条、信仰、心がけ」からも、「道徳」は、時には逸脱することがあります。


例:道で拾ったお金を、交番に届けようとしていたところ、
  お金に困って今にも死にそうな人をみつけて、そのお金を施してあげる。

社会的にはずれた行為であっても、例外として道徳が他人の役に立つこともあります。
戦時中などにおいては、負傷した敵の兵士を助けてあげる、という美談もよく耳にするように。
当然、自己中心的、エゴイズム、からの行為もあるでしょう。
が、「道徳」はそれを否定するものでは無いと思われます。
結果的に、「その場」で、お互いが気持ち良くなれれば、それは「その場」では道徳的行為なのですから。


しかし、ここである人が、「拾ったお金は交番へ届けよ。困ってる人は、別の方法でたすけよ。」と指摘したとします。
検討した結果、そのほうが最善とされることもあるでしょう。
「道徳的行為」は、違う立場の他人の見方によっても、道徳的か否かは変化するものです。
強引に、誰からも評価される普遍的な道徳を追い求めようとすると、
結局は法律に従った行動、とならざるを得ないでしょう。
しかし、法律だけで、問題が解決されることはありません。
その隙間を埋めるのが「道徳」であろうと思います。


このように「道徳」は、その場その場の一過性の出来事でありますので、
それが、普遍的に評価の対象となるのは、むしろ稀だと思われます。

138考える名無しさん:02/02/14 03:52
”道徳的行為をしてもあまり得なことがない”
ということが前提に話が進められているのがおかしくない?
人が見ている前でやれば評価があがるぞ。
しかも、半分くらいはみんなに知られなくていい、ってくらいですると
かなりの効果がある。

しかし、そう思うところがないわけではないので、

それをしても損の方が大きいと思う人間が多い、行為を、
その行為をする、それをすると得の方が大きいと思う数少ない人間が、行うと
”道徳的行為”ということになる。

つまり、
”道徳的行為をしてもあまり得なことがない”のではなく、
”大勢があまり得なことがないと考えるもの”という条件があって初めて、道徳的行為になるわけ。
みんながやってりゃ、普通的行為でしょ。
139ヽ(`Д´)ノ:02/02/14 05:40
ヽ(`Д´)ノ<道徳的行為は非営利が原則なのだ。
たとえばみんなが嫌がる溝掃除をしたとする。でも、その人が報酬を受け取っていたら、
それは単なる仕事でしかないのだ。だから褒めることもないのだ。
じゃ、無償でやっていたとする。もし、その人が選挙に出馬することを考えていたら、
それもやはり当選するための行為であって、褒めることではないのだ。
そう考えると、その人にとって利益が得られる行為は道徳的とは呼べないのだ。

ヽ(`Д´)ノ<よって道徳的行為から利益は得られないのだ。

ヽ(`Д´)ノ<ついでに言うと、非道徳的行為は儲かるのだ。


140考える名無しさん:02/02/14 06:00
勉強になるなあ・・・
141アンアン:02/02/14 08:08
道徳的行為をしてもあまり得が無いのはなぜか?
1さんが言う得ってゆうのは人に評価される、何かしらの報酬を受けたりする
ってゆう事だと思います。
もし、仮に道徳が評価されたり、報酬を受ける事になったら
人間の欲望、野心を刺激する事になって、
今まで親切心でしてた行為(おばあさん立ってるの辛そうだ。俺なんかよりも
おばあさんに座ってもらおう)
が評価、報酬を受ける事によって(お!ばばあだ!席を譲る権利はおれがもらった!)
になります。
おばあさんに自分の損得をまったくかえりみず、おばあさんの事だけ考え
席を譲る精神は、言葉でなかなか表現しにくいものです。
しかし、その逆ふてぶてしい態度の不摂生そうなヤンキーに
(オラ!そこ俺が座るから どけ!)
(なんで俺がこんな奴に席を譲らなきゃなんないんだ?)と
席を取られそうになったり、取られたりする事よりも、人に悪意をぶつけられたり、ぶつけたりほうが
人間不信になり精神的に苦しくなりませんか?
おばあさんに自分の損得をまったくかえりみず、おばあさんの事だけ考え
席を譲る精神(道徳)は、
人間不信の精神的苦しさの逆の 人間を信じれる精神的開放感を養う事が
できる 金では絶対買えない 得 なんですよ


142125 ◆MqCfL50I :02/02/14 08:10
徳の報酬は自らの心から与えられます
143考える名無しさん:02/02/14 10:17
王様は裸だ、と非力で無垢な少年が指摘しても殺されるだけだろうな。
144考える名無しさん:02/02/14 12:22
>>143
世論のバクアプが必要かと思われ
145純丘:02/02/14 16:46
>>141

1の問題を逆に言うと、

 道徳的ルールがある社会において、
  それが道徳的ルールにすぎず、顰蹙は買っても罰則がないなら、
   ルールを守るより、破った方が一般に得、

ということになる。

このテーゼ自体は、おそらく真実だろう。

そして、問題は、
 にもかかわらず、あえて得を捨てて、
  なぜ道徳的ルールを守るヒトがいる(多い)のか、ということになる。


146くろぱんだ:02/02/14 19:17
>145
そりゃ得があるからよん。
147そりゃあんた:02/02/14 19:30
>146

そりゃそうだ。

1さん、
>道徳的な行為をしても、それが「表面化して外面的な価値」となり、人間として優れているということを証明してはくれないところにあるのだと思います。

と言ってるけれど、この前提がそもそも間違いだね。

考えてごらんよ。

君と長いつきあいがる友人の事を考えてごらん。
君の目から見て、「こんな非道徳的な奴つきあってられん」と
思うような人間かい?そんなんだったら、とっくに友達つきあいを
やめてるだろう?
これが145さんへの答えだね。罰というのは直接なにがしかの被害を
与えることだけじゃあない。友達を失う、信用を失う、という事は、
長い目でみて、非常に大きな損失をもたらすんだよ。

人生の中で、何が得をもたらして、何が損失をもたらすのか。

そんなことは、安楽椅子の上で「道徳とは?」と考えている
人間にとっては不思議な事でも、、現実社会に働いていて、
人付き合いの大切さ、約束を守ることの大切さ、評判を守る
ことの大切さ、人から「良い人だ」と見られることの大切さを
知っている人間から見たら、当たり前のことなんだよ。
148考える名無しさん:02/02/14 19:47
つまり、道徳的行為をするとちゃんと得になっている、というわけやね。
「情けは人のためならず」ならぬ「道徳は人のためならず」ということですか。

もっとも、こう考えたとしても、「道徳的行為は、じつは自分の得になるから
やっているんだ」という言い方が普通されないのはなぜか、という疑問が残る
かもしれない。
なぜか知らないけど、得になるとおおっぴらに言ってしまうと、道徳的行為とは
みなされなくなっちゃうんですな。
149そりゃあんた:02/02/14 19:50
あと、141さんよぉ。

一つだけ見落としがあると思うなあ。

人間は、意識的に「何が得なのか」を計算しつくして行動する
「だけ」じゃあない。

自分じゃあ気が付いてないけれど、ある行動が、実は、その人に利益をもたらしている場合だってあるんだよ。上に書いたようにね。

じゃあ、どうやって本人でさえ気が付いてないのに、利益をもたらす
行動を獲得できるのかって?

親は子供にどんな「道徳」を教え込むだろう?考えてごらん。
子供が社会の落ちこぼれになってしまうような「不道徳」を
教えたがる親なんて、ごくわずかだろう。

我々が他者の行動を模倣するとき、どんな他者を、模倣の対象に
するだろう?人生の落伍者?成功者?

我々が道徳を獲得するとき、それが「得だから」とは考えていない。

けれど、道徳を獲得する原理=社会化・社会的学習のプロセスは、
「結局、長い目で見て得になる」行動を、我々が獲得することを
サポートしているんだよ。
150そりゃあんた:02/02/14 20:02
ついでにもういっちょ。

人間が持つ合理的計算能力=「何が得かを意識的に計算する能力」なんて
たかがしれている。

せいぜい「おばあちゃん助けるなんて面倒だなあ=助けない方が
得だ」程度しかね。だから、「ここで婆ちゃんを助けて評判を
得る事のメリットと、助けないことで稼げる利益の総和は...」
なんて計算を、いちいちできるわけないんだよ。

けれど、その非力な合理的な計算能力だけに頼って行動していたら、
我々は「婆ちゃん助けて評判維持することのメリット」を失ってしまう。

だから、道徳は、我々の浅はかな損得計算を首根っこから押さえて、
「いやいや、面倒くさがらずに婆ちゃん助けよう」という行動を
とらせるだけの「心理的強制力」をもっているんだよ。
151KUVRVIFV:02/02/14 20:20
面白いテーマだね。
>>147
> そんなことは、安楽椅子の上で「道徳とは?」と考えている
> 人間にとっては不思議な事でも
同意するけど、それを不思議に思って問うのがスレの主旨じゃないの?

良いことをすれば必ず得になるかもしれないが、
それを損だと思う人もいるという価値観の違いも
含んでいる問題だと思う。

同時に、確かに1さんの言うように道徳性は損な部分がある。
全体主義的調和のための道徳と個人の意志、利得などとは
相容れないのは当然ともいえる。
152アンアン:02/02/14 20:27
>145
道徳のルールを守るとゆう意味は人間同士のかかわり合いを守る
とゆうことだと思います。
じゃあなぜ、得をよりも人間同士の関わりあいをとるのか?
それこそ、人間一人では生きていけない事だと思います。
>142
同意。
153KUVRVIFV:02/02/14 20:35
>じゃあなぜ、得をよりも人間同士の関わりあいをとるのか?
>それこそ、人間一人では生きていけない事だと思います。
そうだけど、ちょっと説得力ないような。かくいう自分も自分で思うに
説得力ないけど。

みんなが守ってれば道徳性ほどすばらしいものはないんだけど、
何かと皆さんずれようとしますでしょ?
それが本スレの問題を生んでいる気がする。

154そりゃあんた:02/02/14 20:40
>151: 全体主義的調和のための道徳と個人の意志、
利得などとは相容れないのは当然ともいえる。

いまいち良く分からないけれど...

道徳は「損か得か」?

いわゆる、意識的な合理計算では「損」。
だけれどそれは、そう見えるだけ。

道徳を持つことが巡り巡って自分にもたらす利益まで
計算し尽くすことはできず、「得」の部分まで
「意図的」に計算できる人は少ないから。

それに道徳がもたらす長期的利益を意識的に理解している
人間と、そんなの知らずに「損かもしれないけれど、道徳は
大切だ!」と主張する人がいたら、どっちの方が、友達として
選ばれやすいだろう?

だから、道徳を持っているとしたら「そんなのは損に決まってるじゃん!
けど大切なの!」という内容である方が、より利益をもたらすでしょうね。

パラドキシカルだけど。
155KUVRVIFV:02/02/14 20:47
>>154
>道徳を持つことが巡り巡って自分にもたらす利益まで
>計算し尽くすことはできず、「得」の部分まで
>「意図的」に計算できる人は少ないから。
よく分かります。
計算力がキーワードなわけですか。

道徳をもつにせよ、
計算せずに行動するほうがいいってことかな。
156考える名無しさん:02/02/14 21:54
そもそも、自分のとって得かどうかということ以前に、
「自分にとっての得とは何か?」
ということを明確に意識している人がいるのだろうか?
157そりゃあんた:02/02/14 22:24
>155

ここまで来たら、後は「オデッセウスの鎖 R. H. フランク著
サイエンス出版」をれっつ・とらい!ですね。

合理的に計算せず、感情(道徳)に駆られて行動する方が、
「非合理的に見える」けれど、結局長い目で見て得となる
場合がある、というお話です。
158KUVRVIFV:02/02/14 22:26
>>156
たとえば道徳的なことをしろって言われて育ち、
その通りにやってもいい事が何もなくて、
やはり自分の思うように生きたいし、従うのは
損だというような時には意識するんじゃないの?
159KUVRVIFV:02/02/14 22:29
>>157
うん、気が向いたら読む。レッツトライっていうくらい難しいの?

「場合がある」にすぎないにしても参考になりそう。
160そりゃあんた:02/02/14 22:33
>>159

全然。

数式とか出てこないのに理詰めで話が進むから、
読み始めたら一気に最後まで逝くかも。

これは本当におススメの良書です。学部生にも。

http://www.saiensu.co.jp/books-htm/ISBN4-7819-0752-0.htm
161考える名無しさん:02/02/14 22:36
>>158
うん、言い方がよくなかったかもしれん。
「明白に意識する」というのは、単に意識するということではなくて、
「自分にとっての得とは何か」を、「知っているか」ということだよ。
162ななし:02/02/14 22:42
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1006624716/
ここで祭りやってるんで、よければ。ついでに大橋様を論破して
163そりゃあんた:02/02/14 22:51
もちょっと、このロジックを押し進めると...

結局、道徳を内面化することが十分にペイするためには、
「私はとっても良い人なのyo!」という情報が伝わらなければならない。ゆえに、

1)いつも同じようなメンバーが顔を合わせる社会、か、
2)個人の人間性が噂・評判という形で、直接つきあった事が
ない人にも伝達される社会

のどちらかでしか、道徳なるものは発生しないのかもしれない。

たとえば、毎日、見知らぬ人と顔を合わせ、同じ人間と
つきあうことが二度とないような社会においては、道徳は
育ち得ないのかもしれない。

おもしろい話があります。とある狩猟採集社会では、
核家族が家計の単位となっていて、嫌なことがあると家族ごと、
すぐに森の中へ逃げ込んで、他者との関係を容易に断ち切ること
ができるそうですが...

この社会の人々は、基本的にひとでなしである程度が高いことが、
知られているそうです。
164考える名無しさん:02/02/14 23:12
>乱暴な言い方をすれば、「道徳」とは、大きな視点での「社会性」とはむしろ無関係です。
んー、でもやはり道徳と言うものが人間が作ったという時点で、
社会性を離れて論ずることは出来ない気がするのですがね。
人間の考えが及びうる範囲を超えた価値が道徳であるといえる場合があるとすれば、
それ自体人間が観念することが出来ないわけで、それに対する価値判断は出来ないわけでしょう。
だったらそのような状態から道徳のような、規範という観念は発生しようがありません。

道徳を考えるとき必ず社会を、自分以外の人のことを思うでしょう。
意識的にせよ、無意識のうちにせよ、ある人を助けたい・役に立ちたいというような性質を
帯びるのが道徳だと思います。
社会に外れた行為だと思って自分が何かをする場合であっても、社会を観念するでしょう
その結果社会に反するような行為をとったとしても、それは社会性がないとはいえないのでは?
反社会性は社会性の反対概念ですから。

例の話なら、落とし主にお金を返さないという行為は反社会性を帯びるのかもしれませんが、
それのお金を困っている人に与える場面に於いては、社会的に容認される行為だといえます。
これは反社会的な行為が道徳だというのではなく、その行為の中に反社会的な行為と
そうでないものがあるに過ぎないと言うことなのではないでしょうか。
規範は相対的な価値ですから、これは別におかしなことではないはずです。
165考える名無しさん:02/02/14 23:15
>>1
徳のある人はそもそも自他の分別がない。
よって、損得の概念もない。このような不徳なスレを立てて
損得を考えてる時点で、修行が足りない証拠だから、
もっと断食や滝に打たれて修行に励むように。
166KUVRVIFV:02/02/15 00:28
スポーツして得なことあるかという問題も参考になると思う。
労働にしてもそうだけどは疲れるけど、楽しいじゃないのって話。
この楽しさを感じない人は疲れるとかそういうペイメントに拘ってしまう。
損得が普遍的に決まってるわけないんだから、やはり個人の価値観の
差によって、得だとかんじるんじゃないかと。
でも、スポーツを得だからってやってるんじゃないよね。
そういう人はいるかもしれんが。
スポーツも道徳も他律的な行為を要求することがあるけど、
たとえば、「徒労とは何か」って普遍的に決まってるとは
思えないわけで、そしたら人生の全行為が徒労だというのも
否定できない。
167KUVRVIFV:02/02/15 00:31
損得が普遍的に→損得の基準が
168135:02/02/15 01:18

道徳を行うことが得か損か?というハナシをされてる方が多いようですが、
道徳を行うことが、得にならないという理由がわかりません。
道徳を行えば、心理的に、満足感のようなものが得られる、ということだけで十分得でしょう。

それとも、満足感ゼロの道徳的行為が存在するのでしょうか?

それと、道徳を行なうことは、相手が人間である必要もありません。

無人島で一人ぐらしをしていたとして、
道で枯れかかった花に水をあげるという行為も立派な道徳です。
泥に埋まった石を拾い上げることも道徳でしょう。

みもふたもないですが、道徳は、もっと利己的で自分自身の中で完結しうるものです。
自分がそれを「良い事」と感じ、実践することで自分が満足するなら、道徳として十分です。

他者からの評価は必要条件ではないと思われます。
逆に他人から「おせっかい」と思われ、ヘタをしたら社会から孤立することもあるでしょう。
169135:02/02/15 01:19

他人から喜ばれる道徳ばかりなら良いですが、他人から喜ばれない道徳もまた存在します。
永い目でみれば、いつかは評価をうけることもあるかも知れませんが、
当人が生きてる間は、変人扱いされ評価されなかった、ということは歴史上多くあることでしょう。

他人から阻害され、友人を失うこととなっても、本人が「よいこと」とという考えで、
行動しているのであれば、それは立派な「道徳」でしょう。

そうでなければ、「道徳とは、他人からの評価が最低必要条件である」ということになります。
「道徳が評価をうけにくいのはなぜか?」という命題を論ずる前に、
ここで「道徳」の定義を決定しなければなりませんね。

道徳とは、得か損かというよりも、
「他人からの評価が必要」なのか、「他人からの評価は必要でない」のか。

170135:02/02/15 01:33
そして、道徳は常に正しいことばかりとも限らず、間違いも犯します。

他人からの評価で「それは悪いこと」と指摘されることもあるでしょうし、
本人の考え方が変わり「あの時は間違いだった」と後悔することもあるでしょう。

そもそも、道徳は「正しい」「間違い」の区別があいまいで、
その時その時の本人の倫理観にゆだねられるしかしょうがないものかも知れません。

そして人はまた「道徳」について考えるのでしょう。

「道徳」を考えること、という意味では「徳道」という言い方もアリかもしれませんね。
171135:02/02/15 01:37
自己レス。

ああ、そうですね。

自分の倫理観を矯正するために、ということで、他人の評価を気にすることは、
間違いではないでしょう。

他人の評価を絶対的に受け入れる必要は無いとおもいますけれども。
172そりゃあんた:02/02/15 01:43
少なくとも、最近の発言で「損・得」という言葉が
使われているとき、それは主観的な利益ではなく、
個人の生存確率・金銭獲得確率などに影響を与える
客観的・物質的な利益の話ですが。

それに他人から喜ばれない道徳ならば
(e.g.,死をもって他者を天国へと導くべし、とか)
そんな道徳は消え失せていくでしょうね。

そういう人は、他の人から「友人・取引相手」として
扱われなくなり、そうでない人に比べて多大な、
客観的損失を被るから。
173135:02/02/15 01:54

>>172

>(e.g.,死をもって他者を天国へと導くべし、とか)
>そんな道徳は消え失せていくでしょうね。
この例は、極端なたとえですね。ありえますけど。


道徳の捉え方が、主観的か客観的かで違うようですね。

「道徳」が客観的な事象を指すものなら、その通りですし、
他人の評価を気にするのも当然ですね。
174名無しさん:02/02/15 13:00
>道徳を行なうことは、相手が人間である必要もありません。
こうだと仮定した場合に,その行為を道徳だと判断するのは人間です。
道徳という価値判断を下すのは”人間”なんです。

なんらかの偶然で無人島にポッと生まれさせられた人間が,人間社会を経ず
何らかの偶然によって事理弁識能力(それらしきもの)を備わったとする。
ここで,彼には人間界の道徳は当然には観念できないと仮定します。
この場合,彼の身に付けた能力は人間社会のそういった判断力と同じものであるとは限らない(当然)。
とにかく”自分が生き延びる”ことに最上の価値を置いて育ったのであれば
そういう明確な価値序列が彼の中で出来上がるでしょう。
それは動物に似ていますね。

世界に自分だけしかいない場合,彼がした行為が,道徳であると判断できると仮定した場合,
判断するのは彼しかいません。
よって,彼の判断が道徳に,ひいてはあらゆる規範にもなりえます。
でもそういう世界で道徳ということに違和感があるでしょう。
なぜなら,道徳というものが全くの独り善がりのものになるからです。
彼は何をしてもよいということになります。
彼には価値判断力が備わらず,全ての行為は”するかしないか”に収斂するのではないでしょうか。
動物だって,動物社会をへて彼らの世界の社会性を身に付けますよね。
社会性,つまり,自分が一人ではないということに気づいて初めて価値判断ができるような気がするのですが。

彼が何かの拍子に”感情”を持ったとして,自分にとって気持ちいいことと嫌なこととが
判断できたとすると,彼がある行為をしてそれを気持ちいいと感じた場合,道徳であるといえるのでしょうか。
自分がなんらかの肯定的感情を得るから,その行為が道徳的だといえるでしょうか。
端からそういう行為を見ていたら,嫌悪感を持つようなものであっても
彼にとっては道徳的行為である。他者を意識する必要はないから。
そこにあるのは自己完結の世界。
世界は自分であり,自分が世界です。そこに道徳が存在するのか。
んー。
とにかくいえるのは,一人の世界では何でもありになってしまって,どんな判断も肯定されます。
ある行為の反対の行為をしても肯定されます。
存在の中に矛盾があるのは分ります。
でも自分しかいない世界に矛盾は生じないのでは?
なんでも彼が肯定できるのですから。
彼にストップをかけることができるものがないのですから。
うまくいえない…
175名無しさん:02/02/15 13:00
時間だ(笑)
176考える名無しさん:02/02/15 13:08
自分が自分として識別されるためには、他者が必要ではないですか?
自分を自分と自覚してしまった時点で、社会性(と言いたくなるような感覚)は生まれている。
むしろ、人間が自分を自分と自覚してわざるを得ない、社会性のある存在でしかないならば、
一度は徹底的に自己完結した世界というものを突き詰めてみるべきなんじゃないだろうか。
ほんとうに自己完結できるのかどうか。
実践的な次元ではなく、仮想的な、つまり思索の次元で。
177考える名無しさん:02/02/15 15:20
>>172
「あのときは恨んだけど今では感謝している」
ということがよく言われるように、行為を成す人が、
相手にとって得であると判断したとして、
その相手が、それを得だと必ず理解できるわけではない。
もちろん、行為を成す人の判断が必ずしも正しいとは限らないわけだが。

だから、その場合、自分(相手)にとっての「損・得」の判断というものを、
そもそもできるかどうかということが問題になる。

178純丘:02/02/15 17:08
>>166
話を小さくすると、たしかにわかりやすい。

審判がしょーもないアホで、
 まったく反則を見つけられないときでも、
  どうして大半のスポーツ選手はフェアプレイを守るのか?

この場合、
 その方が最終的に得だから、というより、
  こういうときこそ、自分たちが自分たちで守らんと、
   そもそも試合が成立しなくなってしまうから、のような気がする。
179考える名無しさん:02/02/15 17:14
ルールは競技を規定するもの。
サッカーで手を使ったら、その競技は既にサッカーでは無い。

サッカーの選手はサッカーの試合をするのが目的で
グランドに出ているのだから、ルールを守るのは当然。
180そりゃあんた:02/02/15 17:21
>>177
自分の成した行為が「あのときは恨んだけど今では感謝している」 と
認識してもらえる確率が高ければ、そういう行為を促す道徳が
広まるだろう。

逆に、「自分ではこれが良い」と思っていても、それが相手から
「良い」と思ってもらい難い(確率が低い)行為ならば、そういう
道徳は消えていくだろう。

別に、「相手から良いと思ってもらえるか否か」を意識的に考慮する
必要はない。ポイントは「ある道徳が個人に利益をもたらす外部構造」が
存在しているか否かであり、道徳の保持者、道徳行為を受ける行為者の
主観的認識なんて、全く関係ないし、無視しなければならない。

それがこれまでの主張。
181考える名無しさん:02/02/15 17:32
>>180
つまり、個人の利益は、その当人の主観的認識とは
無関係に、普遍的に決定し得るということ?

182135:02/02/15 17:50
「損・得」というのは、道徳行為を成した人自身しか判断しようがないでしょう。


>>174
>とにかくいえるのは,一人の世界では何でもありになってしまって,どんな判断も肯定されます。

まず、「善悪」の判断すらできない環境を例にされてるようですが、
「善悪」の判断をするために、最低限の社会性が必要であるなら、そうでしょうね。
善悪の判断が、たった一人でも芽生えるか、集団の中にいる必要があるかどうかは、
このスレでは考える必要はないでしょう。善悪の定義から話を始めないといけませんし。

「道徳」は善悪の判断ができるという前提の行為でしょう。
「道徳」とは、「善悪を意識できてからのち、善を自分の考えで実行すること」ではないでしょうか。


ようするに、一人が自分の考えで「道徳的行為」を行なったとして、
社会全体が速やかにそれを「善」だと認識するとは必ずしもいえないということを言いたいのです。



奴隷制度が普通に法制化されていた時代では、奴隷解放を訴えること自体、反社会的でした。
道徳的に奴隷制度を許せない人は、たった一人でも社会に異を唱える必要があり、
社会全体を動かすには地道な努力が必要とされたのです。
当時は「得」どころか、命の危険さえあったでしょう。今現在、結果的に得であったとしても。

社会的に損得を決めるのには、時間がかかります。
また損得の価値判断はひっくり返る可能性もあります。
禁酒法のようにね。

現在の問題でいえば、差別用語を含んだ書籍などの発禁を求める運動などがありますが、
これは道徳的に正しいといえるのでしょうか。
正しいともいえるし、間違ってるともいえる、将来的に「得」かもしれませんが、
文芸的には「損失」かもしれません。

183そりゃあんた:02/02/15 17:50
>>181
もちろん利益の定義にもよるでしょうけどね。

もし個人にとっての利益を「生殖年齢に達する子孫の数」と
するならば、「子孫の数を増やすのに貢献する資源」、例えば、
食料、金、安全などを得るために有利となる行動傾向=この場合
は道徳が広まるだろう、という話。同様に、そうした資源に高い
価値をおくような価値観は、そうでない価値観よりも、世の中から
消え失せやすいだろうね。

ただし、これまでに書いてきたように「そんな資源なんていらねぇや」
という価値観を持つ人間の方が、逆に巡り巡ってそれらの資源を入手
しやすい客観的状況があるのならば、そっちの方が広まるだろう。
184そりゃあんた:02/02/15 17:58
哲学板にいるような人がどう思うか知らないけれど、
個人的には、価値観の源泉を一人の人間の頭の中に追い求める限り、
トートロジーや結論の出ようのない議論が続くばかりだと思う。

「なぜ〜を道徳だと思うのか?」、「結局それを為すのは良いことだから」

我々、人間を取り囲む自然環境、社会的環境、すなわち、客観的外部構造を
考慮しない、全てが一人の人間の頭の中の出来事として処理される、何でも
ありの哲学なんて、あり得ないと思う。
185考える名無しさん:02/02/15 18:01
>>183
全体を通して、主語抜きで語られてるのでよくわからないんだが。
また、あなたは「広まる」ということを結論としているけれど、
そのことと本スレの議論の関連がいまひとつよくわからない。

例えば、
>もし個人にとっての利益を「生殖年齢に達する子孫の数」と
>するならば、「子孫の数を増やすのに貢献する資源」、例えば、
>食料、金、安全などを得るために有利となる行動傾向=この場合
>は道徳が広まるだろう、という話。
この場合「個人にとっての利益を「生殖年齢に達する子孫の数」とする」のは誰?
186考える名無しさん:02/02/15 18:04
>>184
個人の価値観は多様だが、
それを満たそうと行動した場合に直面する、
世界の法則はどの個人にとっても同じじゃないのか?
187135:02/02/15 18:15
>>184

哲学は、客観的に真理の体系化を試みる学問でしょうが、
道徳は、そのような体系に縛られない、
もっと時と場合を含めた個人の自由裁量に委ねられてるような気がしますね。


188135:02/02/15 18:44
道徳をおこなうとき、時には個人の判断で、
思想や社会規範から逸脱することも必要だと感じる場面も多くあるかと。

道徳のすべての事例を一般化できるとは思えません。
道徳を損得の視点で哲学するなら、個々の事例を具体的に上げて、
検証したほうが建設的でしょう。

189考える名無しさん:02/02/15 18:55
>>188
道徳の全ての事例が一般化できないとして、
それら一連の事例を、道徳の事例であると識別する基準は何?
190そりゃあんた:02/02/15 19:31
>>185

>この場合「個人にとっての利益を「生殖年齢に達する子孫の数」とする」のは誰?

我々の頭の外に存在する外部(自然)環境。

>>186=185?

186で言ってることが言いたいんだけど。
191考える名無しさん:02/02/15 19:38
ヨコレスすまそん。

最近思うのは、いわゆる道徳的行為って、昔の人の知恵から生まれた
ものだと思うんだよね。だから、科学技術が発達したりすると前提が
変わって、現代には合わないことってありえると思う。

例えば、昔は「Aをしたら不治の病にかかるからやるな」が道徳的で
あったとしても、今はその病気が簡単に治るようなものだったり、
既に撲滅された病だったりすれば、Aをすることが許されない理由が
ないことになっちゃうよね。

こういう科学技術の変化なんかに、道徳命題はついていってないから、
いわゆる「道徳的行為」の中には、根拠の無いものもあると思う。
例えば、不純異性行為の禁止とか(藁
192考える名無しさん:02/02/15 19:41
>>190
>我々の頭の外に存在する外部(自然)環境。
すると、「利益」というものは、
人間の意識とはまったく無関係に存在するということ?

>186で言ってることが言いたいんだけど。
だとしたら、

個人の価値観がそれぞれ違っていることによって、
共通の規範の存在可能性を否定することはできないだろう。
世界の法則は共通なのだから、それにそって考える限り、
なんらかの共通法則を導き出せると考えるのは妥当なことだ。
それができないと結論するためには、「世界の法則さえ共通でない」、
としなければならない。
193考える名無しさん:02/02/15 21:21
見返りを求めてる時点で道徳的行為ではない!馬鹿!
194考える名無しさん:02/02/15 21:42
おそらく、「見返りを求めないこと」のみをもって、
道徳の十分条件であるというわけではないだろう。
見返りを求めないことは、道徳の必要条件とするなら、
「道徳であること」を成立させるための、そのほかの条件は何だろう。
195考える名無しさん:02/02/15 23:29
道徳の成立根拠は結局、「本能的な不快感」ではなかろうか。
「本能」的だから、大多数の人間には当てはまるわけだが、当然不快感を感じない異端者もいるわけで、彼らを押さえる役割を果たすのが「道徳」。
そして「道徳」のブレーキで止まれない人間が、時々世間を騒がせる。

例えば、世には「殺人」に快感を感じてしまう性質の持ち主(異端者)がいる。
でも、世間の「道徳」としては「殺人」は悪いこととされており、法律的にも罰せられるから、そう簡単に行動には起こさない、起こせない。
そう言う意味での「縛り」の役割を「道徳」は担っている。

道徳は結局、「多数決による暴力」に背景付けられた、社会維持のためのルールに過ぎない。
196考える名無しさん:02/02/15 23:39
>>195
つまり、「殺人」に不快を感じる人がいて、快感を感じる人もいる。

そして、不快を感じる人は、他者が殺人を行うことにも不快を感じる、
従って、他者の不快な行動を排除するために、
「殺人するな」という命令を他者に行う。

つまり、
「ある人が、自分にとって不快と思う行動を他者に禁じた禁止命令」
というのが、道徳の必要条件の一つであるということだね。

そして、以上のような命令のうち、この「ある人」というのが社会的に多数であるものを、
「道徳」と呼ぶ、こういうことでいいのだろうか?


197666:02/02/16 00:35
俺のイデアパクったな196 まぁいいか
198考える名無しさん:02/02/16 00:42
199考える名無しさん:02/02/16 00:52
そうすると、「道徳的行為」には「大多数の他人に不快に思われない」
以外の目的・意味は最初から無いということだね。
むしろ、「大多数の他人に不快に思われない」ように振舞うことこそが、
「道徳的行為」なのであって、その目的なのであると。

このような行為は、何の得にもならない行為なのだろうか?
200135:02/02/16 02:29

>>189
>道徳の全ての事例が一般化できないとして、
>それら一連の事例を、道徳の事例であると識別する基準は何?

これも、定義づけが難しいですね。
わかりやすい道徳は、もともと、法律、マナーなどの規範に含まれ、
世間一般が良い行為と認識しているのに、誰も進んで実践しようとしない行為。

しかし、特殊な状況では、道徳は、世間の規範や常識から逸脱する行為を求められることもあるでしょう。

特殊な状況、というのは、個人が遭遇した局所的な場面であり、
本当に個人の、そのときの倫理観によって実行される。
殺人や売春も、特殊な状況下では、道徳行為としてありえるかもしれない。
たとえ大多数が不快に思っても、自分を含めた一人だけでも、それで「救われた」と感じたならば、
その両者間では立派に「道徳」が成立するのです。
逆に、後世になって気高い行為と賞賛されることもあるかもしれない。

そもそも「道徳」を理論的に定義すること自体、ナンセンスなのかもしれない。

201135:02/02/16 02:34
たとえば、
医者が不治の病で苦しむ患者を安楽死させて、自らも殺人罪に問われる、というケースも、
道徳的殺人といえるのではないでしょうか。

それが、どの程度の大多数に支持されるかは、一概に言えない。
202135:02/02/16 02:49
>>201
自己レス

大多数の支持を得られたとき、ただの「医療行為」となり、
「道徳」ではなくなりますね。

定義するなら、個人(組織をふくむ)「超法規的行為」とでも言うのかなあ。
203考える名無しさん:02/02/16 03:03
道徳規範の実践に際して矛盾があらわれるように見えるのは、

行為の主体を何処に設定するか、そのズレが絶えず生じてしまうからじゃないの?

行為は目的に向かって実践されるものだろうけど、その目的を最終的に決定する主体が何処に設定されるかのズレ。

社会的な自己なのか、まったく恣意的な欲望に身を委ねる自己なのか。
204そりゃあんた:02/02/16 05:29
>>192

そうそう。さて、そんなあなたにおススメなのがこれ。
アナーキー・国家・ユートピアで有名なノージックの新著。
彼も最近死んじゃったけどねえ。

Invariances: The Structure of the Objective World
Robert Nozick, Harvard University Press, 428pp
ISBN 0674006313

http://www.amazon.co.uk/exec/obidos/ASIN/0674006313/humannaturecom/026-0890298-2420412

In this pathbreaking book, the eminent philosopher
Robert Nozick rethinks and transforms the concepts of truth,
objectivity, necessity, contingency, consciousness, and ethics.
Using an original method, he presents bold new philosophical
theories that take account of scientific advances in physics,
evolutionary biology, economics, and cognitive neuroscience,
and casts current cultural controversies (such as whether all
truth is relative and whether ethics is objective) in a wholly
new light.
205考える名無しさん:02/02/16 13:49
>>200-202
つまり、だれかかが「救われた」と感じることが、一つの基準になるということだろうか。

>それが、どの程度の大多数に支持されるかは、一概に言えない。
大多数の支持をかなり問題にしているようだけれど、
あなたの考えでは、「大多数の支持」は、道徳の絶対条件なのか?
一概にそう考えているようにもみえないけれど。

「救われたと思人がいる」 かつ 「大多数の支持がある」 ならば 道徳
なのか、それとも、
「救われたと思人がいる」 ならば 「大多数の支持」 が無くても 道徳

なのか、あるいは、

安楽死の問題でいえば、当事者がそれを道徳と思うのは、それによって、
「救われた」と考えているからであり、社会の大多数がそれを道徳とみなさないのは、
「救われた」とは考えていないからなわけで、
「だれかを救うこと」が道徳の定義であって、両者の道徳の定義は同じであって、
前提となる事実の解釈が違うだけである。

ということなのだろうか?


206考える名無しさん:02/02/16 13:51
>>204
まあ、それは結構だけれど、
このスレについて、その本の主張で言うとどうなるのか、
あなた自身の解釈も含めて、述べてくれないか。
そうしないと、スレ的には議論が止まってしまうよ。
207195:02/02/16 16:10
>>199
>>195で「多数決の暴力」と書いたが、これは正確ではなかったな。
道徳の正当性は、「多数決によって」」というよりは、「権力的な力関係」で保証されると言い直しておく。
たとえある道徳を指示する側が少数であっても、その社会の支配階級であれば、その社会においては正当性を持つ事になる。

>このような行為は、何の得にもならない行為なのだろうか?

「得」の定義にもよるだろうが、基本的に「道徳」に従う(従ったフリをする)事は、得を求めるためというより、行為選択の際の「前提」に過ぎないんじゃなかろうか。
208考える名無しさん:02/02/16 16:30
>>207
なるほど、権力という要素が入るわけだね。

そして、
権力を持つ者の「快、不快」の感情によって指示されることが、
その社会においては正当性を持つ。
これが「道徳」の定義なわけだね。

このような指示は(その指示が守られることは)
最終的に、「社会」や、当の「権力者」の得になるのだろうか?

>「得」の定義にもよるだろうが、基本的に「道徳」に従う(従ったフリをする)事は、得を求めるためというより、行為選択の際の「前提」に過ぎないんじゃなかろうか。
「前提」であるから、クリアしなければ得は得られないが、
クリアしたら必ず得を得られるとは限らないということだろうか?
なるほど、「道徳的なことをしても必ずしも得なことがあるとは限らない」ということはいえるような気がするね。

209135:02/02/16 17:43
>>205

あれ? 私の意見ってそんなに伝わりにくいものでしたでしょうか?
書き方を気をつけます。

>「救われたと思人がいる」 ならば 「大多数の支持」 が無くても 道徳

と、考えてます。

安楽死についても、社会が道徳とみなさなくても、
病人が安楽死を求め、医師も他に苦しみから救う方法がないと判断したなら、
道徳的行為なんだろうと思います。

しかし、客観的にみれば、犯罪の可能性を消し去ることはできないでしょう。
相続の問題が絡むなどすればなおさらです。
ですので、医師は殺人罪に問われる覚悟(得どころか損)をしなければならない。
その医師も、殺人行為にある種の快感を覚える人物かもしれない。
他人から見て、「道徳的安楽死」か「殺人」かは、
完璧に判定する方法はないとも思います。だから難しい問題なのです。
210考える名無しさん:02/02/16 20:51
>>209
>>「救われたと思人がいる」 ならば 「大多数の支持」 が無くても 道徳
>と、考えてます。
なるほど、了解した。

>他人から見て、「道徳的安楽死」か「殺人」かは、
>完璧に判定する方法はないとも思います。だから難しい問題なのです。
判断が難しいということは確かにいろんな意味で問題だが、
このスレの問題についていうなら、

道徳的行為が得にならないのは、
他者から見た場合に、それが誤解されるから。

ということになるのだろうか。
211考える名無しさん:02/02/17 04:55
 「道徳的行為をすれば得をする」っていう事を前提に、つまり得をするはずなのに
あまり得をしないのはなぜといっているようですが、この前提は必然的ではないですよね。
真偽は別として、「道徳的行為をすれば得をする」っていう因果関係は無理があると思います。
社会通念的にはそういう因果はあるといえばあると思いますが、誰しもが納得できるものではないですよね。
だとすると、「道徳的行為をしてもあまり得なことがないのはなぜ 」って問いも前提がもろいわけですから、
意味をなさなくなると思います。

 もちろん、「道徳的行為をすれば得をする」って言う因果を仮定してしまえば
議論は可能でしょうけど、到底客観性はもちえないと思います。

余計なお世話だったら、すみません


212考える名無しさん:02/02/17 05:47
道徳は何ぞやって事も話されてるみたいですが、
「道徳はa prioriなもの」だとしておくとすっきりまとまると思います。

ちなみに
a priori.( すべての人間に生得的、したがって本性的であること。
カントおよびカント以後では、すべての経験に、時間的に先立つというよりも、論理的に先立つこと。)

さらに知りたい人は「アプリオリ」、「カント」などのキーワードで検索してみてください


213考える名無しさん:02/02/17 05:58
??
214考える名無しさん:02/02/17 06:12
>>212

けど、「どうして道徳をa prioriなのか?」という問題を考えるのが、
このツリーの主旨に近い、問題設定だと思いますが。

上の方で書いてあった「(意識してなくても)結果として得になるから持っている」
という議論などは、そうした問題設定に対する一つの答えですよね。

何を言いたいかというと、カントが何を逝ってたかなんて、いまさら
ほじくり返しても意味はないこと、そして、カントが問わなかった問いを
考えることは(ホントかどうか知りませんが)、カントが逝った事を
ちまちまと学ぶよりも、もっと建設的であり、それこそが、哲学の本質じゃあ
ないかということ。
215考える名無しさん:02/02/17 06:21
(ok)
216考える名無しさん:02/02/17 06:38
>>214

「どうして道徳をa prioriなのか?」というのは
「道徳をするとなぜ得をし、あるいは得をしないのか」っていうことでしょうか?

a prioriだと、得するとかいったこと以前の問題になると思うので言い換えてみました
217chuzhen:02/02/17 08:08
運動の本質は絶対運動と相対運動の統一である。http://forrootbasic.51.net/wytk/lixue/gllx-xzh/gllx-xzh.htm
218考える名無しさん:02/02/17 12:25
道徳の定義でいうなら、道徳そのものが定言的命令か、
あるいは、それに先立つなんらかの他の定言的命令を前提とした
仮言的命令なのかという問題だと思うが。
219考える名無しさん:02/02/17 14:20
>>218

もっとわかりやすく教えてください。
220考える名無しさん:02/02/17 20:39
>>216

いやいや、その考え方が既に問題と思うんですよ。

「〜はa prioriである」と主張するのは「人間は道徳を持つ存在である。
故に道徳を持つ」と逝ってるのと同じ事。

しかし、人間は常に道徳的に振る舞うばかりではない。一人の人間が、利益に
目がくらんでしまうことだってあるし、道徳なるものが自己利益に反する場合には
道徳を行使しないことが容認されている場合だってある。例えば、人の命を救うのに
自分の身を氏の危険にさらす必要があった場合には、人を救わないことは、法律で
罰せられない=「自己利益>道徳」が社会的に共有された価値観として存在している例。

となると、問題なのは、「いつ人間は利己的で、いつ道徳的に振る舞うのか」という問い。

「道徳はa priori」と逝ってしまえば、この問いに対する答えは永遠に得られない。

通常、このような場合に有効な議論の方法は、道徳と利己性の上位に属するメタ原理を
仮定すること。それが「意識してないけど結果として得になっている」という考えのはず。
221考える名無しさん:02/02/17 21:46
もし、

>人の命を救うのに自分の身を氏の危険にさらす必要があった場合には、人を救わないこと

は既に「a prioriな道徳なの!」と主張する人がいたら。

その主張は、どんな行動原理が道徳であり、道徳でないのかを
決定することができない、という問題に直面するはず。

ユニバーサルな道徳原理だって、あるけれど、文化によって異なる
原理が道徳として扱われている場合だってある。けれど、それらの存在を
「a priori」という主張は「記述」するのみで、「説明」する事はできない。
222考える名無しさん:02/02/17 21:50
てめえだけが得しようなんてことばかり考えてる奴なんざ、
ろくでもねえ野郎だよな。

つまり不道徳な輩ってこった。
223考える名無しさん:02/02/17 22:00
>>222
過去数日の発言を読んでよ。
224222:02/02/17 22:11
ごめんなさい
225考える名無しさん:02/02/18 01:55
>>224=222
どういたしまして
226考える名無しさん:02/02/18 19:43
hage
227でぶねこ ◆cjiphjY2 :02/03/02 17:10
お蔵入り寸前阻止にゃ (^・o・^)ノ"
228考える名無しさん:02/03/05 23:31
~ξヾ( ^-x-^)ブリブリ
229考える名無しさん:02/03/17 21:06
道徳は弱者が作り出した虚構に過ぎない。
230考える名無しさん:02/03/17 21:46
現在は弱者が強者となっているということも
ニーチェの批判には含まれているのでお忘れなく。
ニーチェのいう弱者は、現実の社会的弱者と同一ではありません。
231考える名無しさん:02/03/17 21:55
道徳を守り続けることは弱者にはできない。
232考える名無しさん:02/04/08 08:02
ageeee
・哲学を宗教か何かと勘違いしてる奴。
・恣意的な感情の神秘性に逃げて思考停止してしまう奴。
・道徳的常識的価値観現実観に依存して思考停止している奴。
・主観を客観視に近づけるために事の定義付けをしない奴。

哲学は科学と区別される。
存在論(形而上学)、認識論(論理学)
実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ、「学問」です。

キサマ等が求めてるようなレスは帰ってきません
解ったらとっとと人生相談板にいって思考停止レス垂れ流してください。

↓人生相談@2ch掲示板         
http://life.2ch.net/jinsei/
234阿保次郎    :02/04/08 09:26
安楽死のこととかを範疇に入れちゃうと 正直1の議題からかなりはずれちゃっていると
おもうよ。 ソクラテスとかイエスとかは道徳的なことをしても得はしなかった。
そりゃそうだよな。道徳的なことって欲望で動いている人間からすれば いちいち邪魔な
ことだからね。道徳的行為ってのは つまり他人の幸せを気遣うっていう行為なんじゃない
かとおもうんだよね。己の欲望でのみ動いて己の幸福さえ得られれば他人はどうでもいいって
のが不道徳な行為なんだろ。 ただそういうものだから 道徳的行為ってのには面白みという
側面はない。 ある面自分だけのわがままをダイレクトに発散する行為ではないからだ。つまり
動物的な生命力の面でいうと魅力ある行為ではない(つまりカッコウがいい行為ではない→
競争というものの対極にある)。 が みながみな競争で他はどうでもいいとなれば 全く
すさんだ世の中になってしまう(つまり破壊の連続だけで生命が衰退してしまう)。
よって競争という生命の原則に則りながらも 他を思いやる 困っている人を助けると
いったことは やはり人間が未来にむけて創造的に発展していくのには必要不可欠な行為だ 
ということなんだということになる。 よって道徳的な行為というのは競争というレベルでの
直接的な恩恵をうける為の効力は発揮しないが 他人の幸福を思いやるという性質なため
直接キャッチボールのような対の効果ではないが 他人をおもいやることで 巡り巡ってつまり
は自分も生かされる(他人に思いやられる)という効果をもっているものだとおもう。その
競争レベルでのダイレクトな得はないが巡り巡って返ってくる得はあるのではないかと
思う(もしくは道徳的行為をするとそういった巡り巡ってくる循環サイクルに入りこめるの
ではないかとおもう)。  つまりそのダイレクトさがないため(ダイレクトさを狙った場合
偽善行為ともなりうる) 一見あまり得がないということになる。 ただ そうやって考えた
ばあい 実際それで命まで落としてしまうのに敢えてそこまでやるソクラテスやイエスの
ような人は もう越えちゃってるんでしょう。 次元がちがうんじゃないのかな。 


235考える名無しさん:02/04/08 20:45
私は道徳的行為はエゴイズムの集大成であると思います
道徳の存在意義はまさしく実践したものに利益を与えることです
ですから実践者が利益を得ない道徳は道徳足り得ないと思います

1さんの質問、なぜ「道徳的行為をしてもあまり得をしないのか」という質問に対しては
道徳を実践しない者に自滅的な人間が存在すること
そして道徳を実践する者にニーチェのいう「ルサンチマン」が存在してしまっている悲劇にあると思います
236考える名無しさん:02/05/09 23:37
柄谷も損するっていってるもんなあ。
237考える名無しさん:02/05/09 23:46
エゴイズムがエゴイズムたる条件は何だろう?
自分の得になる行為を全てエゴイズムと考えるのならば、
損得を判断するのに十分な知性を持った
個人の行動は全てエゴイズムということになってしまう。
238考える名無しさん:02/05/10 00:05
>>237
それでいいのでは?
エゴ=悪というのは馬鹿げた話さ
239考える名無しさん:02/05/10 00:22
道徳的な価値の尺度は
被支配者、弱者の不満を吸収し、
支配構造を維持する役割を果たしている。

「正しい事をしている私は本当は偉いんだ」と
思って自分を慰め、支配に甘んじている人達のおかげで
社会は成り立っているわけだ。
ギャハハ。
240考える名無しさん:02/05/10 00:30
>>239
>「正しい事をしている私は本当は偉いんだ」と
>思って自分を慰め、支配に甘んじている人達のおかげで

つうか、そうすると、本当は、
支配される側より、支配する側の方が偉いの?

241考える名無しさん:02/05/10 01:05
>>240
「本当は」って何?「偉い」って何?
「本当は」も「偉い」も道徳のシステムの一部だよん。
支配するシステムと支配される個人が存在するだけさ。
242考える名無しさん:02/05/10 01:46
道徳とは、評価されるものでは、無い。
243考える名無しさん:02/05/10 01:47
244考える名無しさん:02/05/10 02:19
>>241
>「本当は」って何?「偉い」って何?
もちろん、 >>240 で述べられていたのと同じ意味だよ。
「システム」の一部であるということは、
それぞれの言葉の意味とは関係無いだろう。

>支配するシステムと支配される個人が存在するだけさ。
システムに属するものがシステムに支配されるのは当然だね。

245考える名無しさん:02/05/10 03:25
説明が悪かった。

個人が、『尺度Aによって自分は低い価値しかないと見なされている』と
感じたとき、別のものさしBを持ちだして
『しかしBのものさしでは私は高い価値がある。尺度Aは尺度Bに劣っている。
 よって私を低い価値であるとするのは誤りであり、私は高い価値であるとするのが正しい。』
という思考をめぐらす事がしばしばあるのではないかと思う。

しかしながら↑これは自分自身を観察した結果からの憶測でしかない。

具体例としては、
たとえばダンスが好きな人にとってはダンスのうまさという尺度が一番だったりね。
たとえばこの板でも「哲学って何かの役に立つの?」とか書いて哲学の価値を否定する事で
自己肯定しようとするカキコミがありますが、もっとわかりやすいとこでは
「頭のよさ」に関するスレッドを見ると、テストで否定された自尊心をどうにか支えようとするカキコがいくつか見られる。

で、道徳のものさしというのは、
もっぱら社会において高い地位やその他の利得を得がたい人達が
自己肯定のために用いる尺度として使われてきたのではないかと思う。

いや、成立過程や今までの歴史がどうあれ、
例えば席をゆずって損をしたとしても「私は道徳的に正しい事をしたのだからこれでいいのだ」
と思って納得してしまい何のアクションも起こさなければ、
席をゆずった人間が損をするような世の中は変わる可能性は低いと思われます。
246考える名無しさん:02/05/10 03:56
>>245
>席をゆずった人間が損をするような世の中は変わる可能性は低いと思われます。
席をゆずった人間は何か損をしたのかね?


247考える名無しさん:02/05/10 04:01
しかも道徳それ自体が道徳的行為により見返りを求める事を否定しています。
ゆえに道徳的行為によって損した場合それに対して得を求めて行動が起こされる事は無い。
だから道徳的行為によって損する事が多いような感じになる。
248考える名無しさん:02/05/10 09:10
>>246
肉体的に楽が出来ないからじゃないの?
249xbox:02/05/10 14:56
道徳的行為と、「モラルハザード」とが、”ほぼ同時”に”道徳的
行為者にわからない形で”発生するという、社会的メカニズムを見
落としてるからだろう。
250考える名無しさん:02/05/10 17:43
>>248
普通に労働をしても肉体的に楽ができない場合はあるが、
損だとはあまりいわないのではないか?
251考える名無しさん:02/05/11 19:26
損得も文脈的で相対的なものだ。
252考える名無しさん:02/05/11 19:32
だからなんだっての?
253考える名無しさん:02/05/11 21:04
命令は遂行するべきであり、
命令遂行のために報酬があるだけだから。
254電波君:02/05/11 21:56
いいですかぁ?
1さんは本当に道徳的行為をしても利益が無いと思っていますか?
あなたには家族も友人ももしかしたら恋人も居るかもしれません。
そもそもその家族、友人、恋人などという概念自体、実体の無い人間が
作り出した空想でしかないのです。
他にも友情のようなものや区別なき愛情、慈悲もありますね。
それらはすべて道徳的であると言えます。もしも生物としてのみ生きるなら
邪魔な他者はさっくり殺してどこかに放り投げて異性に襲い掛かってその後は
放置して親がうざければさっくりと殺しておなかが減ったならその肉を食らう。
そういう世界になります。つまり道徳という架空の概念はすでに世界中に
浸透し、そして世界中の人々がその恩恵を受けているからこそ現在の世界が
形作られているのです。若い人にも分かりやすく言うならば恋愛などに関しても
それは確実に架空の幻想、道徳に過ぎないのです。しかしあなた方は確実に
恩恵を受けたと納得しているはずでしょう。
あなたが人々と喜怒哀楽を共有できていることこそ道徳から得た利益なのです。
255考える名無しさん:02/05/11 21:58
1のために、まじめにレスしても、全然無駄ジャン。
まさに、実証してるよ。
256考える名無しさん:02/05/11 22:04
自己犠牲が伴う行為だから、「徳」と言っているのではないか。
257考える名無しさん
じゃあ、自己犠牲が伴わなければ、どんな行為も道徳的とはいえないのか?