>前提となるものを全て取り去って在る主体的なモノ?
そうではなくて、分析の前提そのものだと思いますよ。
7 :
考える名無しさん:01/12/01 15:51
純粋経験をする主体は何なんでしょう?
申し訳ない、教科書程度の知識しか無いから…
>>7 「純粋経験」というのは名前であって主体・客体の区別はないと
理解しております。今すこしばかりまとめを書いてみております
のでしばらくお待ちを。
>>4 ageてるよ。メール欄参照のこと。
内容を私なりトレースしてみたいと思います。
わかりにくい点などあればご質問ください。
第二編 実在
第一章 考究の出発点
・真の実在、天地人生の真相を知るためにはすべての人工的仮定を捨てて
疑いようのない直接の知識から出発しなければならない。
・因果律の要求によって私たちは心とモノが独立に存在しているかのように
思っているが、因果律によって意識外の存在を推し量れるかどうかは
まだ定かでない。
・私たちが意識現象について持つ知識こそ疑いようのない直接の知識といえる。
・立ち現れる意識現象と意識するということは同じである。
・意識現象が立ち現れた瞬間には主観と客観の区別がない。
・主観と客観の区別をつけたとき、それはもはや前の意識ではない。
後の意識による推理である。
・直接経験の状態、すなわち主観と客観が分かれていない状態での経験が
私たちの知識の基礎となるはずだ。
・私たちが直接に経験することには真実と錯覚といったように区別があり、
経験に偽のものと真のものがあるという人がいるが、それはある経験を
標準として他の経験を推し量っているだけであって、それぞれの経験は
直接の事実である。
・どの経験を標準とするかについて、一般には触覚を標準としているようで
あるが、これを標準とする理由は不確かなものである。
・私たちに経験できない実在を思惟によって知ることはできない。
なぜならば思惟の作用も意識現象の一種に過ぎないからだ。
・思惟の一般性、必然性によって真の実在を知る標準としても、
これらの性質もまた、自分の意識の中で直覚する一種の感情、
つまり意識上の事実なのだ。
・意識上の事実として見れば、思惟も感覚も同じ作用である。
直覚や経験は個々の事物を他と関係なくありのままに知覚する純粋な受動的作用であり、
一方、思惟は事物を比較判断し、その関係を定める点で能動的作用と考えられている。
しかし、実際には純粋な受動的作用はないのである。なぜなら直覚とは直接の判断だから
である。
・直覚というのは単に感覚とかいう作用のみをいうのではない。
思惟の底にも常に「統一的或者」があり、これは直覚すべきものだ。
判断はこの「統一的或者」の分析から起こる。
読んでない方もお気軽にどうぞ♪
やや、しょっぱなから間違ってしまった。訂正です。
考究の出発点→考究の出立点
11 :
考える名無しさん:01/12/01 16:50
俺が高校生のとき、他人ってなんだ?他人の心とはなんだ?
そんな疑問に苦しんだ。
人が俺の名前を呼ぶと、その対象は本当に俺なのか疑われた。
それは苦痛以外の何ものでもなかった。
そんなころ『善の研究』序の「個人あって経験あるにあらず、
経験あって個人あるのである」という一文に出会った。
救われたような気がした。
『善の研究』は俺が哲学するきっかけになった本だ。
陰ながらこのスレ応援している。
たとえば今私はキーボードをたたいてこの文章を打っているわけですが、
タッチタイピングを憶える前はもちろん一本指打法であったのです。
一本指でキーボードをたたくのは一文字一文字が一つの作業であります。
だから今打とうとしている文字が何でそのために打たなければいけない
キーはどこか、いちいち意識してやらなきゃならなかったのです。
けれどもタッチタイピングをマスターしてしまうともはや自然と
手が動くわけですよ。こうなるともはや「一つの文章を書く」という
単位になります。でもよく考えて見れば遅い速いの違いがあっても
やってることは変わらないわけです。別に作業を簡略化しているのでは
ありませんから分解すれば同じです。でも前者と後者では明らかに
違いがあります。後者において私は画面上に現れる文字と一致している
のです。タイピングの例になじみがなければ歩行でも筆記でもそろばん
でも自転車でも何でもかまいません。ただ、自分にもそういう
瞬間があったということを思い起こしていただきたいのです。スポーツに
熱中している瞬間などはまさにそういう状態であったろうと思います。
>>11 ありがとう。頑張って盛り立てていきたいと思います。
13 :
考える名無しさん:01/12/01 18:19
>>13 そのつもりです(ただ実際には推理によって分析と統一が絶えず
繰り返されているだろうと思います)。ちなみに直接経験=純粋経験です。
何か自分で思うところと食い違う点でもありましたか?
あげます・・・・・・。
17 :
考える名無しさん:01/12/03 08:44
age
18 :
考える名無しさん:01/12/03 12:18
純粋経験ツーのは
自由民権運動のことらしいですよ
>>18 西田氏が自由民権運動に興味を持っていた、というのは
聞いたことがありますが・・・・・・それは違うでしょう。
・・・・・・(大丈夫なんだろうか)。
以下のようなやりとりを見つけました。
108 :考える名無しさん :01/12/04 04:12
絶対の善というものは、その行為により生まれる結果の為に善になるのではない。
それ自身において善なのである。
人を殺すのが悪であるということは、これより起こる結果によるというよりも、
むしろ自己を欺き自己の人格を否定する為である。
113 :89 :01/12/04 04:21
>>108 絶対の善など私は問題にした覚えはありません。そんなものはありません。
>人を殺すのが悪であるということは、これより起こる結果によるというよりも、
>むしろ自己を欺き自己の人格を否定する為である。
そういえる理由はなんですか?
119 :考える名無しさん :01/12/04 04:26
>>113 『善の研究』の一節を少し手直ししただけなんだけど・・・。
理由ですか・・・言葉の通りだと思いますが。これ以上説明要るのかな(汗
125 :89 :01/12/04 04:31
>>119 それは単に本の題名を出してびっくりさせようとしているだけにしか
見えませんが。私の質問に対する答えにはなってないですよ。
127 :考える名無しさん :01/12/04 04:37
>>113 理由としては
自己の人格を実現することが善であるので、
それを貶めると言う意味で悪といえる、
でどう?
128 :89 :01/12/04 04:39
>>127 その定義で、善悪を考えるというのなら、別にいいと思いますが、
その善悪の基準に従って行動して問題が生じないと考える人は、
あまりいないのではないでしょうか。
人を殺すことも、自己の人格を高めるという視点からすれば、
ある者にとって善でありうる、と言ったところで・・・。
はあ、私はそんなものは善と考えないし、他の人もそうなんじゃないですか、
としかいえません。理論的に間違いだともいえないですけど。
131 :127 :01/12/04 04:42
>>128 この場合「ある者」は関係ないのです。
内的必然性から生まれるものだけが善なのですから。
133 :89 :01/12/04 04:45
>>131 内的必然性を感じるものだけが善というのは、要は、
自分が必然性を感じれば善ということですか?
人殺しは悪い事なんですか?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/philo/1007311654/
さて、原文はこちらです。
「至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない、
それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、
これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を
否定するの故である。」
(第三編 善 第十一章 善行為の動機(善の形式))
私なりにリライトしてみますと、
「知識の判断と人情の要求が意思に一致する善というものは、それが引き起こす結果に
よって善になる のではなく、その行為自身が善なのである。人を欺くのが悪だと
いうのは、そこから起こる結果から判断されるのではなく、むしろ自己を欺いて
自己の人格(知情意の一致)を否定するからである。」
さて、この場合「他人を欺く」「他人を殺す」というときに
どのような軋轢があるか(または全くない場合があるか)ということが問題に
なると思います・・・・・・。
ちなみに至誠=内面的必然=真の人格的要求=知情意合一の上の要求
のようです。
>>15で検索すると簡単に確認できます。
試(こころみ)に善の事実と善の要求との衝突する場合を考えて見ると二つあるのである。
一は或行為が事実としては善であるがその動機は善でないというのと、一は動機は善である
が事実としては善でないというのである。(中略)次に第二の場合について考えて見よう。
動機が善くとも、必ずしも事実上善とはいわれないことがある。個人の至誠と人類一般の
最上の善とは衝突することがあるとはよく人のいう所である。
しかしかくいう人は至誠という語を正当に解しておらぬと思う。もし至誠という語を真に
精神全体の最深なる要求という意味に用いたならば、これらの人のいう所は殆ど事実でない
と考える。我々の真摯なる要求は我々の作為したものではない、自然の事実である。
真および美において人心の根本に一般的要素を含むように、善においても一般的要素を
含んでおる。ファウストが人世について大煩悶の後、夜深く野の散歩より淋しき己(おの)
が書斎にかえった時のように、夜静に心平(たいら)なるの時、自らこの感情が働いてくる
のである(Goethe, Faust, Erster Teil, Studierzimmer)。我々と全く意識の根柢を異に
せるものがあったならばとにかく、凡(すべ)ての人に共通なる理性を具した人間である
ならば、必ず同一に考え同一に求めねばならぬと思う。勿論人類最大の要求が場合に由って
は単に可能性に止まって、現実となって働かぬこともあるであろう、しかしかかる場合でも
要求がないのではない、蔽われているのである、自己が真の自己を知らないのである。
(「第三編 善 第十三章 完全なる善行」より。 改行などを加えてある。)
つまり意識の根底が同じで、共通の理性を持っていれば、自然と深いところで
私たちの要求は一致するというのですが・・・・・・。そもそも至誠(知情意の一致)という
のがかなり難しい在り方に思えます。どうしても理性の判断を優先したり、感情だけ
で行動したりする場合もあるわけですよ。自分とは何だろう? 自分の真の要求とは?
(でもこう考えて出された「理性的」な答えには満足できないのでしょう。答えは生きる
ことの中で初めて見出されるものだと思います)
殺人、ということを考えるにつけても、はたして善なる殺人があるのでしょうか?
殺人者はいろいろ考えるし、感じるわけですよ。殺したら自分はどうなるのか。
覚悟はあるのか。親しい人はどう言うか。殺せば自分の気は済むのか(でも自分の中の
憎悪は燃え続けるかもしれない)。)
こう考えてみると殺人を以て善となせる場合はほとんどないんじゃないかと思います。
納得ずくの殺人なんてできるものでしょうか? たとえ虫を踏みつぶしたにしろ、
嫌な感じがするものです・・・・・・。
>>18にもあるが歴史的な背景が邪魔して盛り上がらんのかなあ、角度とか(失礼
んーん、さすがウヨ御用達京都学派の教祖なんちって。
この辺の比較検討も後々入れるか。田辺とか、わしはでけんが。
純粋経験で自転車とかタイプとかから、社会性の入る運動を含めると。。。
善ってこの辺で問題になるか
ただあげるのもなんだから過去ログで見つけた批判載せときます。
「27 名前: 剣豪 投稿日: 2000/07/13(木) 21:03
はい。いいタイミングですね。今大学で『精神現象学』読んでます。
西田の場所論は好きなんですが、『善の研究』は読むに耐えません。
一元論なんですね。純粋経験とは○○で、それは○○であり、他方で○○であるとも言える、などなど。
同一地平面で対象がコロコロ変わるだけで、対象とそれを把握する知との循環運動が展開されてない。
ヘーゲル的な弁証法の域に達してない、というより、ヘーゲルの言う、観察する悟性の抽象的思考の段階に
とどまっている、という印象があります。
余談ですが、関西ではいまだに西田研究は下火だそうな。理由はふたつくらいあって、ひとつは例の京都学派の
戦争責任の問題。もうひとつは・・西田の直接の弟子連中が存命中(失礼!)で、あからさまな批評ができる環境
ではないそうな。
東洋哲学・・うさんくさいな。 」
>関西ではいまだに西田研究は下火だそうな
どうでもいいが、「いまだに〜下火」って日本語おかしくないか?
>どうでもいいが、「いまだに〜下火」って日本語おかしくないか?
普通、「いまだに」は(打消)と呼応しますからね。「下火」ってのが
ネガティブな言葉だから使ったんでしょう。でも「いまだに」ってことは
いずれ燃え上がるはずだってことかな?(そうだといいなあ)
27 :
考える名無しさん:01/12/06 01:41
他の著書は読んだ?
『善の研究』だけでは不十分過ぎるぞ、西田哲学は。
>>27 ここは『善の研究』を読むスレでしょ。
きみのようなやつに限って、きわものの解説書で済ましている
ものなんだよ。
29 :
考える名無しさん:01/12/06 02:19
純粋経験って現象学で言うところの
超越論的主観性みたいなもん?
11の引用「個人あって経験あるにあらず、
経験あって個人あるのである」
を読んでなんとなくそう思った。
30 :
考える名無しさん:01/12/07 08:50
昔「独我論を論破してください」というスレに、善の研究から引用して
独我論を論破してみたが完全に無視された。(このスレはまだ下らんことを
ごちゃごちゃ言ってるらしい。見てないが。)
ちょっと前にあった西田スレは全くレスがつかないまま沈没してしまった。
この板で西田を語ろうとすること自体、不可能に近い。
>この板で西田を語ろうとすること自体、不可能に近い。
だから「善の研究」から読んで、知識を共有しながら話してみたいと
思ったんですが・・・・・・。 人がいなければいないで細々勉強して
いくつもりです・・・・・・。
>>29 む、現象学ですか。勉強してまた書いてみたいと思います。
sage進行で参ります。
33 :
考える名無しさん:01/12/14 04:10
今日はこれあげて寝るか。
保守。
34 :
考える名無しさん:01/12/14 04:15
>>31 中岡さんの本の「個人あって、、」の解説読むべし。
>>1 「我惟う故に我なし」スレ主です。その節は書き込みありがとうございました。
向こうにも書きましたが、「我惟う故に我なし」だと我が惟ったとき・思い出したときに対象を
思い出せないのではないかと思います。
経験の直後ではなく、経験の瞬間に同時に対象と自己との関係を記憶していないなら、
記憶として思い出せないのではないかということです。
例えば花火を見たという経験を思い出せるには、
花火と自己との関係を経験時に直後ではなく同時に知らなければ
花火をみたということを思い出せない。
これは私が考えたのではなく伝聞で、
もとネタはダルマパーラとか玄奘の唯識思想の「四分義」です。
見分(対象化する作用)、相分(対象的な現われ)、自証分(自己意識)、証自証分(自己意識の意識)
この内の自証分への批判への反論としての説明です。
>>35補足
西田について知らない身ですみません。
37 :
考える名無しさん:01/12/14 04:45
西田知りたきゃ禅やったらどうです。
純粋経験というのは,自己と社会の同時決定をするプロセスなのだと
理解しています.このプロセスはそもそも自己の立場ある以前のもの
なので,無の立場ということでもあり,またそれは学問そのものを成
立させる最も根幹にある(どこまでも根幹にある)真への欲求と位置
付けられているのだと思います.またこのとき,自己をとりまくもの
の否定は(自己と社会は同時に決定されているので)同時に自己の否
定でもあり,自己の人格を否定するということで,自己を欺いている,
つまり善ではないということだと思います.
私の思う禅とは世界に起こったことが瞬間的に自己へと成ることであると考えます。
即ち世界が自己となり、自己が世界となります。
>自己と社会の同時決定をするプロセスなのだと 理解しています
そういう意味では近いものがあるとは思いませんか?
私の記憶が正しければ西田は禅をやっていませんでしたっけ。
40 :
考える名無しさん:01/12/14 14:36
18の説は柄谷行人の説だね(笑)
>>34 すみません、もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか。
中岡成文氏のことですか?
>例えば花火を見たという経験を思い出せるには、
>花火と自己との関係を経験時に直後ではなく同時に知らなければ
>花火をみたということを思い出せない。
「花火と自己との関係」は推理によって得られるものではないかと思います。
ですから「花火をみたこと」は経験に対する推理を思い出すことだと
思うのですが。ただもちろんありありと純粋経験を反芻することもできる
でしょうね。
「たとえば我々が自己の好む所に熱中する時は
殆ど無意識である。自己を忘れ、ただ自己以上
の不可思議力が独り堂々として働いている。この
時が主もなく客もなく、真の主客合一である。」
sageです。
>>31 実際に西田哲学系を読んでる人は以外に少ないからかもです。
そしてなぜ人気がないかというと
アメリカ‐ンな感じでないから
英語ベースで、漢籍読めないとそうなるのではありませんか?
世界的哲学者らしいから海外では人気なの、か?
管理sage
てすと。
書き込みtest
49 :
考える名無しさん:02/01/21 17:56
>>7純粋経験は、主体が経験するものではなく、そこから主体と客体が分化してくるよ
り根源的な存在。ただし、『禅の研究』の段階では、西田は単なる没頭と存在論即
認識論的な根源事態との区別を十分出来ていない。
50 :
考える名無しさん:02/01/21 18:02
>>49禅→禅(陳謝)
>>24>ヘーゲル的な弁証法の域に達してない
確かに『善の研究』においては、純粋経験において与えられるその経験の構造の分析
に至っていないからね。後々には行為的主体の問題などを通して過程的構造の分析に
も立ち入っている。但し、西田の主眼は、ヘーゲルのような過程的(時間的)弁証法
よりは、純粋経験が成立する今・此処・自己における構造の弁証法(=場所的弁証法)
にあったわけだが。
>>35の補足
『大乗仏教』世界の名著2 長尾雅人・編 中央公論社 p468〜より「自証分」
もし対象への自己認識がないとするならば、対象が知られているという事態も成立しないであろう。
それは、「その限定者(である知識自身)が知られていないときには、被限定者(である対象)について
認識は生じない」という論理にもとづいているのである。すなわち、対象は限定されるものであり、
(その対象が)知られている、ということが限定するものである。しかも、知られているということは、
知識によって限定されていることに他ならない。だから、もし知識自らがその自己認識性によって知られていないならば、
どうして知識によって限定された対象が理解されようか。それはちょうど、杖(という限定者)が認識されないときには、
杖をもっている人(という被限定者)を認識することも論理的に不可能であるようなものである。
現代書館のフォー・ビギナーズシリーズの
『西田幾太郎』という本を立ち読みしました。
分かりやすそうだし、安いから買ってみようか。
誰か読んだ人いる?
情報キボンヌ。
西田幾多郎全集2万3千円は安い?高い?
お買い得なら買ってしまおうと思っているのです。
29 名前:あちょー :02/02/05 03:02
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄」
―――――――――――――‐┬┘
|
____.____ |
| | | |
| | ∧_∧ | |
| |( ´∀`)つ | とりあえず、西田はいらないっと
| |/ ⊃ ノ | |
 ̄ ̄ ̄ ̄' ̄ ̄ ̄ ̄ | __
|| |
|| |
(三三
30 名前:あちょー :02/02/05 03:03
今だ!西田ゲットォォォォォ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
31 名前:あちょー :02/02/05 03:04
∧∧
(゚Д゚,,) 西村京太郎じゃんかよ!
⊂l/⊂l
| |
∪∪
20日経過。保全。