例外はあるが、日常的には人は自分の思い通りに身体を動かして
歩いたり自転車に乗ったり食事をしたり2ちゃんねるをすることが
できるように思える。この意味で自由な意志による行為が存在するように思える。
ところが人間もまた(大雑把に言えば)他の物体と同様、分子や原子の
固まりであり、物理学的な自然の因果法則に拘束されており、
決して物理学的な法則を変更したり、それに反することはできない。
その意味では人のふるまいも風にそよぐ木の葉の運動と同様の自然
の因果法則に縛られた運動にすぎないようにも思える。
するとこれは最初の日常的な「自由な意志による行為」という直感と
反するようにも思える(一種のパラドクス?)。
果たして自由意志(による行為)は存在するのか?
それともそれは錯覚であり、全ては自然の因果法則によって
拘束され決定された物体の運動と変わらないものなのだろうか?
みなさんはどう考えますか?
2 :
考える名無しさん:01/11/27 05:48
1は歳いくつ?
>>2 それが、議論の今後の展開に実は結構重要だったりして。(w
ドキッ。どどどどうしてですか?
結構いい歳ですが(w
6 :
どこかのお姫さま:01/11/27 08:19
>>1 先に「自由」「意志」「自由意志」という諸概念をそれぞれ定義して(
もしくは文法の展望をして)見てください。そうすれば、結論は明らかだ
と思います。
(それ等の概念にどのような言語直観を論者(あなた)が持っているか
によって、「自由意志問題」あなたにとってのへの解答が異なる,と思い
ます。
たとえ人間の行為が自然法則に拘束されていても
それは必ずしもミクロな過程まで決定論じゃないから意志の自由の働く余地はあるんじゃないの?
ヤパーリ僕の出番?
9 :
考える名無しさん:01/11/27 19:51
この辺でしたり顔で不確定性原理を高説する奴が出てくるぞ。
その後、「ヤパーリ君たちには無理だよ。物理やりなアフォども」
「そもそも、物理なんて・・・・」
というパターンですかね?
11 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/27 20:40
>>7 それはあんま関係ないと思う。
非決定論で偶然的要素があったとしても、そこから意志の自由は
なかなか出てこない。ただの偶然かもしんないから。
それに完全に決定論的だとしても、それに対してどのような
意味を与えるかで変わってくると思う。
・・・・・・まあそれでもそのこと自体が決定されている事かもしれない
という疑念は残るけど。
グレッグ・イーガンの短編の中で、未来起こることがあらかじめ
分かっていても、自分の行動を「自由意志」として認めるという、
そんな物語があったような。。。
>>8 つーか、問題の本質的に不確定性原理は関係ないのでは。。。
俺、文系だからよく解らんけど、別スレにあったみたいに、不確定性原理は何か(何だっけ?)の位置をある程度以上特定できない、とかそんな感じだったような。
人間の行為は物理法則で決定されている?
じゃあ
物理学の法則で私が次に何するかを予測できますか?
できたら信じよう(w
意思は偶然である。と。
「決定されている」けれども「予測する」ことは不可能
考えれば考えるほど、意志で自分の手が上がるって不思議じゃない?
全ては自然の因果連鎖の中にあるはずなのに・・
18 :
考える名無しさん:01/11/28 00:58
それは時計屋で同じ時刻に異なる時計がベルを鳴らすのと同じ理屈・・・・・
19 :
考える名無しさん:01/11/28 01:07
>>16 じゃあ次に俺が何を言うのかも
予測は出来ないけど決定されていると?
>>13>>16 決定論の話になるとよく使う思考実験ですが…
「未来を正確に予測する機械」なるものが作られたとします。この機械はとに
かく正確で、一片の塵の動きすら正確に予測できます。ところでここに自分の
一分後の未来をシュミレートしてみたときのことを思い浮かべます。私たちは
その結果を確認した後で、予測結果に反して動くことはできるでしょうか。
おそらく当の機械は分析結果を本人に一分前に知られるということを計算に
入れることでしょう。そしてその結果もさらに一分前に知られるということを
計算に入れなければなりません。そしてまたその結果も同様です。
このように永遠に計算を繰り返すことなり、結局答えを出すことは
できそうにもありません。
すなわち未来を正確に予測するということに矛盾が含まれているということです。
確かにすべての物質は厳密に物理法則に従っているのかも知れません。
しかし今、現にここにいる私の行動は物質の運動によって必然的に決められて
いるだけでなく、私という個体の性質に基づいても必然的に動いているはずです。
つまり私が自分で考える、ということと自然法則によって考えさせられている、
ということは同じことです。
22 :
mimesis:01/11/28 01:12
自由というのを外部の原因から自由であるという意味にとると
自らの身体が主要な原因であるような行為を自由な行為と呼ん
でもいいのじゃないかな。勿論身体は因果連鎖のなかにあるの
だけれども。意志はその身体の一部。自らの身体こそ認識の対象
であって、身体の内にある行為の原因が「意志」として
意識に上るんじゃないのか?
自然が決定論的過程に従っているか否かと
自由意志による行為があるないは同じ問題?それとも別問題?
24 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 01:17
>>23 一応関係してると思うけど、やっぱり別問題じゃない?
>>23 私の考えでは決定論的過程に従うことと自由意志によって行動
することは同時に起こるとになります。
26 :
考える名無しさん:01/11/28 01:19
因果法則のなかにありつつ人間(や一部の動物?)の行為のみが
「自由意志による行為」とみなされるのはなぜですか?
たとえばブラウン運動してる分子とかは同じような自然の因果法則
のなかでランダムに運動しているけど「自由意志による行為」とは
呼ばれないよね?
>>24 それは例えば自然がランダムな過程に従っているとしても
必ずしも「自由意志」を導出するわけではない、ってこと?
ちょっと解説希望
28 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 01:23
>>25 >決定論的過程に従うことと自由意志によって行動すること
>は同時に起こる
決定論と自由意志はふつうは相容れないとされてるので
ちょっとよく分かりにくいけど
行為は既に決定されているけど行為者はそれを
知り得ないからということを言いたいの?
>>29 大体そんな感じですが、私たちは自然法則の働きかけに対して
受動的に強いられているばかりではなく、一種の素材として自身に
従い、運命に参加していると言い換えることもできます。
この問題はキリスト教やイスラム哲学でも
運命論と自由意志のどちらを信じるかで大問題だったらしい。
神の全知全能ゆえに人間の行為は神の運命によって定められているとした派と
だとすると人間が神を信じるも信じないも定められていることになるので
神によって不信心だと運命付けられた人を神が来世で罰するということに
なってしまい不条理であり、やはり現世での人の行いはその人の自由意志
によって責任があるとする派で論争が続いたとか
以上、井筒俊彦先生の本の受け売りでした
「ばかりではなく→だけでなく」がいいかも。
>>31 こんどは決定論と目的論の問題ですね。
神を実感したことの無い人にとってはかなりきつい考え方ですけど。
34 :
mimesis:01/11/28 01:42
スピノザスレの<承前>さんの書き込みを使わせていただきます。
私の
>>22の書き込みはこれが念頭にあってのものです。
「自由」=「自らに由る」=「自らの本性によって」。
定義7「自由と言われるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、
それ自身の本性によってのみ行動しようとするものである。だがこれに
反して、必然的あるいはむしろ強制されていると言われるものは、一定
の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるもののこ
とである。」
岩波文庫『エチカ(上)』p260「必然が自己の内部の法則によるもの
である時は自由と必然はむしろ合致する。」という説明が、有益。
>>31 うまく折り合いをつける解釈もあるよ。
神の摂理と自由意志は矛盾しないってさ。
私は自分の髪の毛を自由に伸ばすことすらできない
自由意志のなさに絶望したことがある。
むしろ、存在自体がすでに何らかの限定性を免れ
得ない。
37 :
考える名無しさん:01/11/28 01:53
意志による行為というのは確かに物理学の法則に拘束されているかもしれんが
自然の因果連鎖に介入してその連鎖の方向を変更しているのでは?
ゆえに自由意志による行為を認める限りは必然的に非決定論になるのでは?
例:「予言破りの自由」
>>34 同意。というより
>>21の書き込みはそれを念頭においていました(w
それ自身の本性⇒個体の性質
39 :
考える名無しさん:01/11/28 01:56
仏教的に言えば自由な意志なんて迷妄だ、と聞いたことある
以上、坊主からの受け売りでした
40 :
考える名無しさん:01/11/28 02:00
意志するのが脳の機能だとして
脳の中の過程も全て物理学的過程に従っているのは自明
42 :
nanasix:01/11/28 02:03
意志というのは、その正体をあかせば、自己言及能力のことだと思う。
ひとは自分がおこなう行為を対象化することができるが、実際にそうする
ことによって、かれの意識は、その対象である行為が置かれるレベル
(因果法則の働く現実的なレベル)とは位相を異にするメタレベルへと
ポコンと飛び出てしまう。
このメタレベルにおかれた意識(あるいはメタレベルを形成する意識)は、
そこにおかれている限りで、一切の抵抗物をもたず、したがって因果法則
に左右されないため、あたかも自由であるかのような感じをもつことができる。
>>41 私が喋るのも全て脳内の物理学的過程で「喋らされている」と?
私たちが考えることができるのは脳の中の物体の性質に従っている
からですが、因果法則にしたがっているまさにそれは個体としての
性質でもあるということです。
「その人自身の性質に従う=自由意志によって行動する」
と言うことだとすれば、因果法則によって自由意志が成り立つと
考えることができます。
>>43 表現は奇妙に聞こえるかもしれないけど
そう言ってもあながち間違いではないでしょ。
46 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 02:12
47 :
考える名無しさん:01/11/28 02:17
>>44 >因果法則にしたがっているまさにそれは個体としての
>性質でもあるということです。
>「その人自身の性質に従う=自由意志によって行動する」
>と言うことだとすれば、因果法則によって自由意志が成り立つと
>考えることができます。
すいません。しかし宇宙空間での月や火星などの運動もそれ固有の
質量などの性質ならびに因果法則に従って運動していますが
それだけでは「自由意志による行為」とは見なされませんよね。
(揚げ足取りに聞こえたらすいません。ちょっと44の文意が分からなかったもので・・)
48 :
考える名無しさん:01/11/28 02:18
>41
われわれがこうして掲示板にカキコしていることも、
スクリーンに映る文字から意味を読み取り自分なりのレスを返すことも、
これら総てが脳内の分子運動によって決定されてるということ?
それなら、どうやってこの分子運動は他の主体とのコミュニケーションを
取るんだ?
自我も自由意志も全ては因果の縁起による迷妄(マーヤー)にすぎない。
51 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 02:23
でも物理のレベルで決定論的だとしても
意味のレベルでは「自由」といっていい場合が
あるかもしれない。
52 :
考える名無しさん:01/11/28 02:24
>50
意志決定の主体が不在ですべて物理運動に還元されるなら
「人間」って言い方は不適当かなと思って「主体」と書きました。
>>51 >物理のレベルで決定論的だとしても
>意味のレベルでは「自由」といっていい場合
例えば?
>>47 その点は私もよくわかりません。
同じように通例に従うなら行為は生物に与えられる特性ということになりますね。
しかし私のような考えを推し進めると生物と物体の境界があいまいに
なるのも事実です。
ここではとりあえず「そう見なされていない」だけかもしれないと
答えておきます。
俺は昨日サールの『心・脳・科学』って本を読んだんだけど、
そこで書いてることがスッピーさんの主張と似てるなって思う。
スッピーさんはサールを読んだことありますか?
56 :
考える名無しさん:01/11/28 02:32
>>47 物理に自由落下という言葉がある。
重力以外の力から自由である本来の落下運動。
57 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 02:32
>>53 う〜ん、いい質問だね。ぼくも突っ込まれると思って
ソレを考えていたんだw
>>11も見て欲しいな。
例えば因果的には決定されていても、そこから論理的可能性を
視野に入れて「こうなっていたら、ああしてた。」とか
いろいろなストーリを語りだせるわけ。
また、ある決定された行動なり動きを、意味レベルでどう解釈
するかに応じて全く違った相貌を持つことになると思う。
まあ、それらのことそのものが「決定」されているのでは?という
気持ちは拭えないけど。
>>55 いえ、知りません。
できれば詳しい話をお願いできますか?
>>52 なるほど了解。ええと回答だけど
物理的過程に決定された分子の集合体だから
他の主体とコミュニケーションは取れないはずだなんて
ことは原理的には言えないと思うよ。
例えば非常に簡単なサーモスタット装置だって環境の変化に応じて
それなりに応答しているし、計算機だってそうだし。
もちろん人間とは複雑さの度合いが桁違いだけど。
まあこの話を始めると人工知能論争になりそうだけどね。
>>56 自由電子っつーのもあるね。
まあ別に「電子には自由意志があった!」みたいなトンデモとは全く無関係
>58
すんません、もう一度読み直してから詳しく書きたいと思います。
しかし、概略だけ述べておくと、われわれの意志は常に、
意識内での現象で自己完結せず、同時に脳内の分子運動として
物理的に実現されていること(つまり意志が物理運動に対し
原因としてはたらくのではなく、相伴って起こるということ)、
にも係わらず、意識が志向性を本質とすることで物理的運動とは
異なること、意志による行為には「そうしないことも可能である」
という感覚が常に付随すること、などを主張しています。
決定論vs非決定論という古典的な問題設定に対してははっきりした
答えは出してません。ただ、物理的決定論と意志の自由が両立する
ということは繰り返し主張してます。
63 :
考える名無しさん:01/11/28 03:06
ラプラスの・・・シュレーディンガーの猫・・・カオス・・・エーテル
・・・チューリングマシン・・・多世界解釈・・・とかは聞き飽きた
64 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/28 03:07
哲学チックに戻そうぜ
>59
これは自由の問題に限定されない大きな問題を提起せざるを得ない
ような気がするなあ。つまり、われわれはどういう種類の言明を
もって説明として受け入れるのか、っていう問題。
物理主義者にとっては、意識現象には常に脳内の分子運動が
付随しているっていう事実だけで
「一切は物理運動が引き起こしている」っていう主張にとっては
充分な論拠だっていうんだけど、哲学者はわれわれの意識にとっての
現実世界を説明する義務があるからね。われわれが意志行為に感じて
いる自由の感覚と物理的決定論が描く必然的運動の世界が折り合わない
というどうしようもない苛立ちと真剣に付き合わざるを得ないわけ。
哲学者といえども科学が提出する客観的な事実を認めないわけでは
ないけども、これとわれわれの実感を折り合わせるという仕事がメイン
になるんだな。もちろん、こうした感覚的な(自由を支持するための)
証拠を虚偽として退けることは選択肢の一つなんだけど、それでは
知識自体の貧困化につながると思う。
こういうまともなスレが立ったのを機会に突っ込んだ議論が出来れば
いいなと思います。
>われわれが意志行為に感じて
>いる自由の感覚と物理的決定論が描く必然的運動の世界が折り合わない
>というどうしようもない苛立ちと真剣に付き合わざるを得ないわけ
いやだから何回も出てるけど世界の因果関係が決定論的か非決定論かと言う問題(決定論問題)
と自由意志の問題は別次元なんでしょ?
>66
そんな馬鹿な。
別次元かどうかを考えるのが哲学における因果性解釈の本質ですよ。
>48氏
>物理主義者にとっては、意識現象には常に脳内の分子運動が
>付随しているっていう事実だけで「一切は物理運動が引き起こしている」
>っていう主張にとっては充分な論拠だっていうんだ
しかし、生物学者にとって意識が物理過程に付随するものという考えは
納得できない。というのは、これが生物学理論と矛盾するからである。
一切は物理運動が引き起こしているのであれば、意識が存在する生物学的
理由(進化の上で生存に有利である理由)がない。進化論は無意味なものが
保存されていることはありえないと主張している。従って、意識が存在し、
かつ、一切は物理運動が引き起こしているというのは生物学的に言って、
あからさまなパラドックスである。
>けど、哲学者はわれわれの意識にとっての
>現実世界を説明する義務があるからね。われわれが意志行為に感じて
>いる自由の感覚と物理的決定論が描く必然的運動の世界が折り合わない
>というどうしようもない苛立ちと真剣に付き合わざるを得ないわけ。
私にとっては、こちらの方が瑣末な問題に思える。電波な心理学者(電波
じゃなくてもいいが)が、我々の無意識の過程を全て説明したとしたら、
我々の意思はいったいなんだったのか、と思われるであろう。だって、我々の
行為あるいは思考は彼が言う因果法則によって決定されているのだから。
だから、自由の感覚というのは、我々は意思決定にかかわる全て(もちろん
物理的なことも含め)を意識できない、つまり、無意識の過程があるという
だけで十分ではなかろうか。
>66
別次元なのは自由意志の問題を心理学的問題と解釈した場合。
自由であることと決定されていることは相容れない。
70 :
考える名無しさん:01/11/28 05:06
>68
だから、物理的因果性と心理的因果性がその本質上異なるのか
あるいは同じなのかを問うのが哲学上の重要問題なの。
われわれの行為が物理的に決定されているのかどうかを解明することが
最終的な目標なのに、それを前提していたのでは全く意味が無い。
自由の観念についてもそう。この観念は意志行為の非決定性についての
観念を含んでいるが、それがわれわれの行為の非決定性の認識を
含むものであるのか、あるいはわれわれの意志決定そのものは
必然的法則に従っているが、にもかかわらずわれわれの認識が
この必然的因果性についての混濁した認識しか与えないがゆえに
われわれはみずからを自由と錯覚している
(スピノザもそういってたんだっけ?)のかを問うことも
哲学の課題。
こういう問題が解決済みだとしたら何を題材に議論するの?
あと、念のために言っておくが、俺は物理的決定論に対して人間の
自由を擁護しようとしているわけではない。
71 :
考える名無しさん:01/11/28 05:12
>68
ごめん、レス読み間違えてた。
心理学者の説明に含まれる因果性のことだったのね。すまん。
72 :
考える名無しさん:01/11/28 05:28
アフリカで蝶が羽ばたくと、隣の人が怒り出す。
73 :
考える名無しさん:01/11/28 05:34
>>6に激しく同意。
そのパラドックスは議論レベルの違いから生じるものにすぎない。
ん?やっぱ決定論か否かと自由意志の有無は別次元でしょ?
例えば仮に世界ないし脳の中の過程が非決定論的だったとして、
そのこと自体では別に自由意志の存在をなんら保証しない。
例えばサイコロをふって出た目に応じて特定の行動をとる人形を
想定してみよう(1が出たら歩き、2が出れば手を挙げ、3が出ればジャンプするとか)
ここでサイコロでどの目が出るかは完全にランダムだと仮定しても
だからといってこの人形が「自由意志を持つ」とは誰も言わないだろう。
からくり人形ね。
>66,74
>非決定論的だったとして、そのこと自体では別に自由意志の存在をなんら保証しない。
もちろん、これには同意するよ。生き物が存在する前の世界では、
非決定論的でも自由意志が存在しているとはとうてい思えない。
しかし、問題は世界が非決定論的であるのは自由意志が存在するた
めに必要条件になっている(十分条件ではない!)ということでしょう。
我々にとって、自由意志があることは明白に感じるわけだから、世界が
決定論的であるとされ、自由意志が存在しえなくなると思われるのが、
のっぴきならない問題とされるのだろう。
78 :
Pandora:01/11/28 13:16
基礎的存在論について以下に提案する。
われわれが日常慣れ親しんでいる空間はユークリッドのそれであり平行線が
交わるという考え方はなかった。しかし、公理主義は第五公準を変えれば空間
は様々な解釈が可能であり、実際相対性理論では非ユークリッド空間が適応
されている。世界解釈は事実世界に対して科学といわれる因果論を適応してい
るが、決してそれが絶対的な方法であるというわけではない。
科学の因果論を次のように表現してみる。
要素eにたいして、時間t1においてAと観測される・・・「eはAである」 t2>t1として
(これは「Aであるようなeがある」ということができる)
要素eにたいして、時間t2においてBと観測される・・・「eはBである」
(これは「Bであるようなeがある」ということができる)
このとき「AならばBである」という仮定が為され、べつのt1においてAが観測され
ればt2でBが観測される限りA⊃Bという条件法は法則として確定されるのである。
このときA,Bの観測は普遍的であるという付帯条件を持つ。
ここで、自由意志に言及する時、状況を記述する基礎的存在論に、別枠を設け
なければならない。自由意志を実現する要素eは意識の所有者であり、t1、t2
におけるeの状況は別の言葉で語られねばならない。
t1において「Aであるようなeがある」は事実の命題である。しかしeが自由意志で
運動することを記述するにはeの別の記述も必要なのである。
すなわち、t1においてeは「Bでありたい」および「Bになることが出来る」のふたつの
命題を必要とする。前者は価値命題、後者は可能命題と呼ばれる。
これら二つの命題は、現在の論理学や科学でいわれる命題の普遍性ということ
で特異性を持つ。つまり、普遍的ではないのだ。
誰にでも観測できて、すべての場所、時間、観測者に左右されず、一定の命題
を導く方法は普遍的といわれてきた。そして真理は普遍性を持つともいわれて
きた。しかし自由意志を記述する二つの命題の真偽は個別的であり主観的な
ものであるのだ。eにとって「Bでありたい」は観察者fでは事実命題は一致して
いるが、価値命題では「Bでありたくない」ということもいえるのである。
様相論理を知る人にとって可能命題はクリプキモデルを想定するかもしれない。
しかしここでいう可能命題は普遍性を持たない。eはそれまでの自己の事実世界
への関りという過去の記憶と現在の状況に基づいて独自に「Bであることが出来
る」を判断するのである。
この種の命題の取り扱いは主観世界というモデルにおいて語られるべきなのか
あるいはラッセルのいう命題的態度
http://homepage2.nifty.com/kymd/essay/prop_attitude.html で語られるべきであるかは、今のところ確定していない。
少なくもt1におけるeの意識内と言う閉じられた世界においてBの価値と可能が
肯定的に判断されることにより、自由意志が発動されt2においてfは「Bであるよ
うなeがある」を事実命題として確認するのである。
79 :
考える名無しさん:01/11/28 13:32
>>77 そのスレも41はバカだから気をつけないとね
80 :
考える名無しさん:01/11/28 13:34
つーか
>>6に答えられればすべてが解決。
6に答えた時に得られる結論は「自由意志なんてあってもなくても同じ」
81 :
すずらん ◆t4YnTEbg :01/11/28 16:01
>>80 禿同!!結局、「自由意志」の定義を与えないとそれぞれの感じる
「自由意志」を説明したところで、「それは私の『自由意志』とは違う!」
と言われ話が進まなくなる。
このまま議論してもしょうがないので、勝手ながら「自由意志」の定義を
勝手に与えます。デカルトの言い換え
「身体(環境)に影響を与えるが、身体(環境)からの影響は受けない「存在」」
↑こう言ったものが存在すると考えますか?
私は無いと思ってます ∴上の定義の自由意志は存在しないと思ってます。
82 :
考える名無しさん:01/11/28 17:18
>>81 それだと「影響」という言葉がブラックボックス化すると思われ。
83 :
すずらん ◆t4YnTEbg :01/11/28 17:44
>>82 なるほど…そうか。「自由意志」ブラックボックスを
「影響」ブラックボックスに言い換えただけですね。
無限後退だぁ…最悪。
俺は上手く定義づけられそうに無いのですが、
どなたか定義して議論進められませんかね?
では試しに…
自由とは主体の性質を最大限に表現できる状態にあることと解す。
意志とはある目的にむけて行為を促す原動力と解す。
従って自由意志とは自身の性質を最大限に表現する状態へと
自らを突き動かす原動力であると解す。
>>21 >>44 >>61 手間のかかることを言ってしまって申し訳ありませんでした。
概要を読んで興味を持ったので自分で読むことにします。
85 :
考える名無しさん:01/11/28 18:37
おお!久々に来てみたら興味深いスレッドが!
俺は現在、高1だが、つまらない教科の授業中とかに、
1と全く同じようなことを、いつも考えていたぞ。驚いた。
ヴァカなので変なことを言うと思うが、ほほえましいと思って見てくれ。
俺は1の考えに同意なんだよね。
俺はある思考実験をしてみた。
ある人間がいて、体内の原子、分子、素粒子等すべての条件が一致して、
気温、湿度、音、明るさ、はたまた地球の位置などの周辺環境まで、
一致した世界が二つあったとする。素粒子一つ違わず存在していたとする。
その2つの世界に、これまた粒子一つ違わぬ同じ位置に人間が立ってたとする。
その時2つの世界は全く別なモノなので影響し合うことはないとする。
それを第三者である俺が、神の目から見て、両者を同時に再生させてみる。
すると全く同じ動作をするのだろうか。完全に同じ状態なのだから、
「適当な数字を言ってくれ」と言われたら両者は、
同時に同じ解答をするのではないだろうか。
続き。その時頭の中ではどんなに裏の裏をかいても、
同じ解答が出るような気がしてならない。
たとえ「(133/47)^4・ルート5」とかいう複雑な
解答でも。俺はそのように考えるのだが、
量子力学ではミクロのレベルでは確率でしか動きを計算できない
とかいうことを聞いたことがあるのでどうかとも思ってしまうのだが。
定義は重要ではない。
いかなる自由の観念を用いようとも決定という観念と衝突している。
例えば月の運動を考えてみればいい。月の運動は物理法則を使って
完全に予測できるのであれば、月に自由はない。また、月が引力等の
影響を受けていることが分かっていたとしても、月が予期せぬ振る舞い
をとるのなら、月の動きを決定づけたことにはならない。月に自由が
あったと暫定的に言ってもいい。もちろん、自由の観念には主体的とい
う観念が入り込んでいるわけだが、月が主体的であろうとなかろうと月
の運動が外部からの予測によって決定されるのであれば、月は自由に
運動することはありえない。
また、落下する物体は通常、物理法則によって物体の運動は決定できる
とされるわけだが、もし、重力の法則が知られていない奇妙な世界であれ
ば、静止していた物体が勝手にどんどん落下していくように見えるわけだ
から、この物体が自由である余地がある。自由落下という言葉で混乱して
はいけない。物理法則によって決定できるのなら自由落下する物体は自由
に運動しているとは言えない。ただ、重力以外の力から自由になっている
というだけのことだ。
だから問題は、「我々の思考あるいはその結果である行動はなんらかの
法則によって完全に予測できるか」と言い換えてもよい。予測できるのなら
我々はその法則に従って生きているだけであり、そこから自由である余地は
ないことになる。
現在の科学では、例えば個々の放射性原子がいつ崩壊するかを予測する
法則はない。これらのミクロの過程が予測できるようになったら85がいう
二つの世界は同一でありえるだろう。が、たとえそのような予測できても
世界の全てを決定づけることはできないであろう。なぜなら、そういった
予測はある初期条件を用いて行うわけだが、その初期条件に対し、どうして
そういう条件になったかと問うことが可能だからである。初期条件が生じた
過程を説明するためにそれ以前の状態を初期条件に用いねばならず、無限後退
に陥るであろう。また、最終的とも思える「なぜこのような世界が生じた
か」という問いは原理的に説明不可能である。なぜなら、それ以前は世界が
存在しないのだから。
そもそも、同じ%という単位がついているが
100% 0% と間の99%〜1%は同じものなのだろうか?
円を考えてみよう。
この世の中には円は沢山ある。十円玉とか、百円玉とか。
しかし完璧にゆがみのない「真円」と呼ばれるものはあるだろうか?
哲学的に興味深い問題としては帰納法に関連する問題がある。
一万匹の牛を食べたとしても狂牛病で病気にならなければ「牛は
安全である」という理論が成り立つと主張するのが帰納法であるが
実際、何匹食べたとして安全と言い切れないわけだから帰納法は成
り立たないとヒュームなんがが言っている。となれば、「牛は安全
である」という理論が存在することは物理科学的にどうやって説明
すればいいのだろうか? 正しい理論と初期条件から出発すれば結論
も正しいはずであろう。それなのになぜ間違った理論が存在しえるの
か?
>>89 >>しかし完璧にゆがみのない「真円」と呼ばれるものはあるだろうか?
そうそれ。完全な真円というのが物理学的観察から帰結しないので
あれば真円の存在を予測することはできない(真円の存在を決定する
ことはできない)。しかし、当の物理学理論には存在している。これ
は矛盾ではないか。
92 :
考える名無しさん:01/11/28 20:09
量子力学とか持ち出している人もいるけど、もっと簡単に、
自由意志は存在するが物理的制約がつくでいいじゃないですか。
93 :
考える名無しさん:01/11/28 20:14
真円はイデアってことか?
コンピュータで書いた円じゃだめか?
>>89
興味深いスレなのでage
95 :
考える名無しさん:01/11/28 20:42
>>1 この問題ってフッサールが『ヨーロッパ諸学の危機』とかで指摘してた
日常的生活世界とガリレオ・デカルト以降の科学的世界の乖離の問題に
通じますね。
日常感覚では自由意志はあるように見えるが科学的世界像ではその存在余地はない。
96 :
難しいですね:01/11/28 20:55
>>87 >自由の観念を用いようとも決定という観念と衝突している
じゃあ、いま問題なのは
自由意志と決定論の対立として理解して良いの?
ただし既出のように非決定論だけでは自由意志の存在の必要条件であっても
十分条件ではない(
>>76参照)とすると
更にどういう条件があれば自由意志が存在しうるのか、を考えるべきなのかな?
>74
それは議論としておかしい。
俺がサイコロを振って5が出たとしよう。
サイコロが手から離れてからの振る舞いは完全に物理法則によって予測できる。
したがって、さいころの目が不確定にでるものならば、
それは俺の腕が物理法則によって予測不可能だからということになる。
ところが、そもそも自由意志を否定する意見は俺の振る舞いも物理法則によって
決定されているというのだから、この人形の振る舞いにランダムなところは皆無だ。
98 :
74じゃないけどヨコレス:01/11/28 21:34
>97
物理専攻じゃないのでよく知らないけど
物理法則に従っていることと予測できることは別では?
またサイコロを人間が振る
例が良くなければ、何か自然界のランダムな運動
(放射性原子の崩壊とか)に応じて
特定の行動をとるようなロボットを想定すればいい。
何かを決断する時には、生まれる前の遺伝的要素、その後の体験などの後天的要素が関わってくる。
そういう意味では厳密に言えば全くの自由意思など存在しない。
全ての行動には因果律に関係があるのだから。
ただそれが人間にわからないだけで。
上で出ているサイの話なら、サイを振る前に既に何が出るかは決まっているのだから。
100 :
Iridium:01/11/28 22:19
えとですね。
自分的なセオリーとして
生きるにあたっては「自由意思が存在する」と仮定します。
たとえすべてが決まっていたって僕としてはどうでもいい。
「自由意思がある」と考えたほうがおもしろいから。
>>96 >>更にどういう条件があれば自由意志が存在しうるのか、を考えるべきなのかな?
そう。例えば、脳の研究が進んだとしても、他者が思い浮かべている「真円」を
帰結する科学理論は出来ないのではないかと思うわけ。クオリアの議論と同様に、
赤を感じている脳の状態を記述できても、赤という主観的なものは記述できない。
記述できたら主観的なものではなくなってしまうのだから。
しかし、にもかかわらず、明らかに我々は赤という質感や数学的内容に基づいて
行動している。真円の存在を前提しなければ、我々の行動は説明できないように見
える。このあからさまな因果関係を「単なる幻想である」としていいはずがない。
102 :
考える名無しさん:01/11/28 22:39
>>96 >ただし既出のように非決定論だけでは自由意志の存在の必要条件であっ
>ても
「柔らかい決定論(soft determinism)」の様に,決定論と自由意志を
両立させる立場(即ち,非決定論は自由意志の存在の必要条件ですらない,
と考える立場)もあります
ですので,決定論/非決定論と自由意志実在論/非実在論との関係その
ものについて,先ず各論者が自己の立場を明晰に表明なさらないと,議論
の混乱が続く,と思いますよ.
>>99 そういう意味での完全な自由意志といったものがあると想定している
人がいるのであろうか。これだと、「殴れば怒るであろう」とか単純な
ものも含め、他人のことなど、一切わからないという想定に等しい。
104 :
考える名無しさん:01/11/28 22:59
ずっと以前に、以下のような書き込みしたけどだれも相手にしても
らえなかった。でもやっぱり自分はこう思うけどな。
自由意志を持ち得ているか、その最低の条件は、人間が、人間の存
在を、存在せしめていること。自分自身の始めと終わり、そして自
分の存在そのものも掌握していること。自分以外の何をも関係なく
存在すること、それが最低条件だろう。
しかし、これも矛盾を孕んでいる。それはその状態というのは、常
に自分と、自分を存在せしめる超越的な自分とを同時に自分の中に
抱え込んでいる状態だからだ。
モーセが神に、あなたのお名前は何というのですか?と問うた時、
「わたしは、在る」というものだ、と応えた。私達も「存在」その
ものでしかない。どんな成りゆきでその「存在者」に成ったのか、
成っているのかは別にして。
いずれにしても私達はその成りゆきを度外視して存在することは出
来ない。何故なら、その(成りゆき)の系の外に存在することは出
来ないのだから。
人間に自由意志が在るか無いかという問いは(成りゆき)の系の中
で発生したものだ。(成りゆき)の系の中でしか存在できないのに
、いかにもその系の外にいるような仮定のもとに考える、その錯覚
が「人間に自由意志は在るや無しや」という疑問を持続させている。
物理的な世界に色々な法則を観ることはできる。人間の心の世界も
、それなりの法則的なものを観ることができる。「自由意志は在る
や無しや」と問うことは、その法則をも変えることが可能か?とい
う疑問と等しいだろう。それは愚問だろう。その疑問を持ち続ける
ことは、私達の世界の系の外に居ようとする意識だからだ。
精神世界には自由意志はいくらでも在る、豊かに在る、自分の心の
法則(本心)に問うならば、と私は考える。
>>102 「柔らかい決定論(soft determinism)」もあるとかって、言葉にこだわる
から定義が必要になると思うのでは? 昔の多くの哲学者が言ってる決定論(
例えば、ある意思決定には必ずなんらかの原因がある)とかはここで1が言う
物理的な決定論ではないし、そういったことは書き込みを読めば明白ではない
のだろうか? 学問的なこだわりを捨てて、他者が言った意味(定義)で議論
すれば問題ないと思うのだが。
>106
そうですか。
ちょっとがっかり。
読みなおしてみます。
108 :
考える名無しさん:01/11/28 23:24
我々は物質?、肉体?→脳細胞?→有機物?→無機物?→素粒子?→波?・・・
どこまでが物質なのか?
物質が物質を認識するのか?
物質とは実体なのか?
物質とは現象ではないのか?
物質は実体の現象であり時間性によるもので、
時間性が物質的(有時間性)であるか空間的(無時間性)であるかを左右すると思われ
>>104 私なりに解釈すると、
「『(成りゆき)の系』の中の存在が、「自由意志は在るや無しや?」という疑問を持ち続けることは、『(成りゆき)の系』の外に居ようとする意識だから、なんだか不自然に感じる。」
ということでしょうか?
私としましては、この自由意志の話の発生も、その『(成りゆき)の系』の中にあると思っていますが、いかが?
110 :
考える名無しさん:01/11/29 01:01
>>102 >「柔らかい決定論(soft determinism)」の様に,
>決定論と自由意志を両立させる立場もあります
青天の霹靂!
私から見れば、そんなもんは決定論とは呼べんのだが。もしくは、自由意志の定義の違い?どちらにせよ興味あります。是非是非もうちょいお話聞かせてたもれ。
>109
レスありがとう。
貴方の指摘どうりです。そのように感じています。
「人間に自由意志が在るか無いかという問いは(成りゆき)の系の中
で発生したものだ。」と私は記しています。
いくら日常的に「自由意志」やそれによる行為があるように見えても
科学の言うこと(人間もまた原子・分子の集合体であり
それは自然の因果関係によって拘束されている)を信じる限り
やはり自由意志という概念は錯覚なのでは?
日常的に自明に見えるからといってそれが真理とは限らないでしょ。
大地は日常的には平らに見えるがそれは真理ではないし、
太陽が大地から昇ったり沈んだりしてみえるがそれは
科学的世界像を受け入れる限りは「錯覚」でしかない。
同様に「心」や「自由意志」が将来においては「ある特定の時代に
信じられていた民俗概念」ないし「錯覚」として棄却される可能性
も十分あるのではないか?
113 :
考える名無しさん:01/11/29 02:09
114 :
考える名無しさん:01/11/29 02:22
>>112 それは、「科学の言うことを信じる限り錯覚」というよりは、「現代科学の言うことを信じる限り錯覚」ということではないの?
もちろん、将来の科学により、自由意志が「錯覚」として棄却される可能性はある。
でも、やっぱ今はまだわかんないよね。
>>77読んだ?
115 :
考える名無しさん:01/11/29 02:24
「自由意志」なるものは存在すると思う。
本能とDNAによる経験による成長だけでは、死ぬまで新しい重要な発見が出来ずに
生き物の進化に矛盾を感じてしまう。
「自由意志」があることによって、危険回避とか感動的な遭遇に出会えるのではないだろうか。
やれやれ結局妄想しか出てこないんだな
117 :
考える名無しさん:01/11/29 02:34
「自由意志」という言葉で「何からの自由」を意味するのか?
を考えた方が生産的かな。
118 :
考える名無しさん:01/11/29 02:50
>>116 あの、
>>78読まれました?
私はPandoraさんじゃないけど、何か意見ありませんか?
>>118 116じゃないけど。今読んだ。で、率直な感想は
「なんでそんなに難しい言葉で言わなきゃなんないのかなぁ」
です。
また、
>>「Bでありたい」および「Bになることが出来る」
というのが特異であるのは普遍云々ではないと思うのだが。
例えば「ES細胞は神経細胞にも筋細胞にもなることができる」
とか普遍的で科学的な命題もあるし、逆に、進化論にとって
重要な、一回生起の事実に関する命題は普遍的ではない。
まぁ、価値は事実のみからは導けないとか、可能性としてしか
記述できない事象は決定論的ではないと言いたいようだが。
120 :
考える名無しさん:01/11/29 03:21
>>104 人を説得したい、自分の意見をわかってもらいたいなら
三段論法で書けよ。随筆みたいな文章で書くからみんなわかんねーんだよ
121 :
考える名無しさん:01/11/29 03:24
「哲学」のように前提も問うのか
「神学(科学、宗教)」のように前提ありきで問うのか
>>121 不思議な分け方だね。
科学は科学は不可避的に実在論を前提しているとか?
とっくに答えでてるじゃねーか。
上のほうでもサイコロは振る前に何がでてるか決まってるって言われてるだろ。
神はサイを振らないんだよ。
お前らが今考えてる事も、全てこれまでの経験(遺伝的な物も含めて)の影響。
自分で判断したと思ってる事も、実は判断材料は経験から来てるわけだから、独立した意思など存在しない。
124 :
考える名無しさん:01/11/29 08:30
>>112 >大地は日常的には平らに見えるがそれは真理ではないし、
>太陽が大地から昇ったり沈んだりしてみえるがそれは
>科学的世界像を受け入れる限りは「錯覚」でしかない。
日常言語の世界では、「大地は平らである」は真であり、それは自然科学で言う
「地球は球体である。(大地の表面は曲面である)」とかならずしも矛盾しない。
同様に日常言語で「太陽は昇る」は科学の散文に於ける「太陽は地球の周囲を回
転していない」と矛盾しない。
後者を例に取れば、「太陽は昇る」は地上での日常観測者にとっての太陽の視覚的
位置が変化していく事を述べているのである。これは、色つきの(例えば青い)サ
ングラスをかけた時「青みがかって見える」という発言が、実在についての誤った発
言ではなく、見え姿についての正しい発言であるのと同様に、「太陽は昇る」は日常
言語による見え姿への正しい発言である。
対して、自然科学における「太陽は地球を周回運動しない」は、見え姿にではな
く、もろもろの見え姿(データ)から構築された、但しそれ自身は見え姿とは異な
った存在論的枠組みをもつ物理的存在者について与えられた理論(言明)である。
従って、「太陽は地球を周回運動しない」という言明は、同様な言語的手続きに
よって構築された「太陽は地球を周回運動する」という(科学的な天動説の)言明
とは矛盾関係に立ち得るとしても、存在論的地位が異なる対象・領域についての言明
である「太陽は昇る・沈む」と矛盾関係に立つ事はあり得ない。
さて、以上のように日常的に自明で科学的に錯覚である、としてあげられた当の事
例は、日常的信念の錯覚を示すものではなかった。よって、日常言語の誤謬可能性を
論拠に自由意志問題への否定的解決を与えようとするのは、不適切である、と思う。
>同様に「心」や「自由意志」が将来においては「ある特定の時代に信じられていた
>民俗概念」ないし「錯覚」として棄却される可能性も十分あるのではないか?
ある言語的枠組みが部分的に改定を受ける場合は当然ある。但し、その改定は論理的
にではなく非論理的に(カルナップ的言い方をすれば、内部問題としてではなく外部
問題として)行われる。
従って、この改定は単にある規約体系が他の規約体系に取って代わられ得る事を示し
ているのみであって、その両体系の何れか一方が他方に比して優れている事を示して
いるわけではない。故に、「「心」や「自由意志」が・・・・将来において棄却され」た
としても、それは、我々の言語体系の中で用いられている概念としての「心」や「自
由意志」が、そしてまたその存在が、誤りであった事を証明するわけではない。
>神はサイを振らないんだよ。
何で分かるの?
あなたアインシュタイン?
126 :
因果律を破る会:01/11/29 09:08
127 :
考える名無しさん:01/11/29 10:00
>>125 違うと言うなら完全な乱数と言う物を示して欲しい。
>120
反応してくれてありがとう。
三段論法? インターネットで検索しましたが、どのように使ったらいいのか?
なにぶん、哲学は素人なもんで。しかし検討したいと思います。
129 :
nanasix:01/11/29 17:16
>>42(わかりにくかったかもしれないので補足)
なぜ、自己の行為を対象化する意識は、メタ領域にずれこんでしまうのか?
(あるいはメタ領域を形成してしまうのか)
そして、意志とは何か?
何かを対象化するということは、その何かと、それを対象化する自己とは
異なる位置に立たなければならない。
自分以外のものを対象化する場合には、その対象と自分とは同一平面上で
あっても異なる立ち位置をもつことが可能だが、
自分自身(の行為)を対象化しようとする場合、同一平面上の異なる位置に
自己を分裂的に置くわけにはいかないから、必然的に「位相」をずらす結果になる。
私は現象学については詳しくないから、それがどのように「現象学的還元」の問題と
関わるのかはわからないが、通常いわれる「カッコに括る」というのはこのことである。
それは、たんに自己の経験的な表象を相対化するのではなく、同時に、現実空間の
どこにも存在しない領域を形成し、そこに「自己」を置くことである。
(この自己は「超越論的自己」ともいわれる。)
だが、それは学問レベルでの方法論的な技法ではないし、特殊なものでもない。
ふだんそれと意識せずにおこなわれるごく日常的な所作である。
そして、重要なのは、この領域においてしか、第一原因としての「力への意志」
(byニーチェ)は生まれないということである。
因果法則の働く現実経験的領域、つまり日常のわれわれの生活で、通常、意志と
よばれるものは、第一原因になるものではなく、作用・反作用の結果でしかない。
それが「意志」とよばれるためには、まずその行為がなされるレベルとは、
異なる位相にわが身をおかなければならない。
ごちゃごちゃ無駄なこと書き連ねる前に早く6に対する明確な答えを示せよ。
「自由意志」を何によって定義するのかを。
まあどう定義したところで自由意志に基づいた行動と
そうでない行動を区別することはできないだろうがな。
せいぜいがんばってそれらを区別できる定義を考え出してくれ。
一応基本情報としてこれだけは与えておく。
1:古典的な意味での(
>>123の言うような)決定論的世界観は成り立たない
既出だけど放射性元素の崩壊時間とかな。量子力学的な効果が
ある限り同じ初期条件から同じ結果が得られるとは(理論的には)いえなくなる。
(補足:将来的に古典的決定論が復活する可能性は否定しない。が、ここではあまり関係ない)
しかし
2:初期条件と結果には当然ながら因果関係がある
原理的には初期条件から予測されたいくつかの状態の中のどれかが
同様に予測された確率に従い結果として実現する。
(補足:波動関数レベルでは完全な決定論)
とはいうものの
3:初期条件を厳密に知ることはできない
現実的な未来予測においてさえわずかな違いによる効果を
無視することはできない。厳密な意味での予測は現実的には不可能。
理想的な超強力計算機をもってしても同様に不可能だ。
(補足:考慮すべき要素が無限に存在するから)
表層的には1と3により曖昧な意味での自由意志は十分成り立つだろう。
問題は2、すなわち因果律の部分だが。
安易に因果律を破って自由意志を定義するのはやめてもらいたい。
やるならそれなりの根拠と利点とそれによって生ずる問題点についても
同時に考察してくれ。
あ、「物理法則をやぶって云々〜」もな。
物理法則ってのはある一定の条件下の現象から
抽出された規則性にすぎないわけで、自然そのものではないんだから。
たとえ既知の法則が破られてもそれは単に
未知の、より厳密な物理法則の存在を示唆するだけ。
ま、どうせ
>>130-132ももう似たようなことは書かれてるようだが。
スレの流れがてんでバラバラなので方向修正の意味でまとめておいた。
個人的には、自由意志を認めたい人は130の3を解決するために
「宇宙の外の誰か=因果律から外れた現象」を設定しているように
思えてならないんだがね。
あー要するに129の人と同じ意見だね多分
使う言葉が物理屋と違うので細かな言葉の意味は
俺には正確に読み取れないけど。
134 :
nanasix:01/11/29 20:17
おい、物理バカ。
自己言及の意味がわかるか。
ひとが(ひとに限らないが)自己言及をおこなう性質をもつ
動物であるということがどういう意味をもつかわかるか。
いくら物理的な説明をしても、それを自己言及的に
ひっくり返すレベルが無限に生じるということだ。
物理学は、そのような自己言及性を排除することで成立する。
つまり物理学の領域では、実験者や観察者は勘定に入れられず、
実験対象だけしか考慮されない。
唯一それを考慮に含めようと試みたのがハイゼンベルグだったが、
その結論がどうなったかは周知の通りだ(不確定性原理)。
しかし、だからこそ、哲学の存在意義もまた残されている
ともといえようが。
135 :
nanasix:01/11/29 20:35
きつい言い方して悪かった。
136 :
名無しさん:01/11/29 21:20
>>134 唯一は過言だと思うが……。>ハイゼンベルク
137 :
考える名無しさん:01/11/29 21:22
フーテンの寅は自由意志なのか?
はあ、観測行為と観測対象は不可分なんですけど
じゃあ133は却下ということで
知らん言葉だらけの文章に安易に同意しちゃだめだったねごめんね
こんにちは。
ゲーデルは天才ですね。
>>130 ある人間が、対象AあるいはBの、どちらかを選ばなければならなかった時、
両対象A,Bに対する志向、つまり初期条件が同じと判断できるなら、
ある人間はA,Bを選択できないということでいいのか?
そして逆にこのとき、どちらかを選んだ場合、
初期条件に誤差が生じていると認識していいのか?
(すなわち、情報の欠如)
これを自由意志と呼ぶかどうかなのか?
>>138 >>134の言っているのはおそらく、
観測行為と観測対象は不可分だが、
観測対象が自己の行為(この場合は観測者に観察された行為だが)
に違う意味付けをするとき、
観測された行為の捉え方が、観測対象と観察者で変わってしまう
可能性があるということだ。
ある人間Cの、このスレに書き込むという行為に対する初期条件が、
観測者に総て与えられているとして、
Cが書き込んだ結果、観測者が行為の因果関係をその人間に
開示しても、Cが否定する場合、
Cは、「自らの意志による行為」と主張する
ということがありうるというお話。
>>80氏の130
>>2:初期条件と結果には当然ながら因果関係がある。
これは形而上学的決定論だな?
この「当然ながら」ってところを否定したいと思うが、
その下にある「確率に従い」というところを見ると決定論ではないともとれる
(AとBがともに50%の確立で生じることは決定されているが、実際にある実験で
どちらが生じるかは決定されていない)。上の命題に従えば、Aが生じるかBが生じ
るかを決定する「因果関係」も当然あるはずだが。どうなんだ?
>>129 >>自分自身(の行為)を対象化しようとする場合、同一平面上の異なる位置に
>>自己を分裂的に置くわけにはいかない
これこそ幻想ではないのか? 自分自身の行為を対象化したら、それはもはや
自分自身ではなく、自分自身についての「今さっきの記憶」であろう。そして、
それは外部にある対象の記憶と同じ位相にあるものだ。こう考えてなにも問題ない
のに、なぜ超越的なものを持ち出す?
144 :
考える名無しさん:01/11/29 23:40
厨房って、よくアルファベットを使いたがるよね。
不必要な時に。ま、見た目はカッコいいが
自由意志を定義すれば問題解決みたいな人がいるけど
「定義しろ」っていうけどどう書いて欲しいの?
極めて日常的な意味で自分の思い通りに(何か他のモノやコトから
拘束されずに)自分の恣意のままに体を動かして何かをする
という日常的な了解のことを指すって言うのは最初に1が例を
挙げてるはず。
これでは不十分だという人は自分でまず定義を提出すべきだろう。
>>1 >日常的には人は自分の思い通りに身体を動かして
>歩いたり自転車に乗ったり食事をしたり2ちゃんねるをすることが
>できるように思える。この意味で自由な意志による行為が存在するように思える。
146 :
考える名無しさん:01/11/30 01:52
意志と運命はフラクタルな平面の裏表
147 :
考える名無しさん:01/11/30 02:13
これってさ、フラクタル理論とかで一応は整頓できるっしょ?
相似形をなす内宇宙と大宇宙。複雑適応系と不確かな多様性。両方にいえるん
宇宙は連続して回転進行
もう膝バシバシじゃんか
>>1 連続する点に構造上のポテンシャル高低(つまり波線)があるから不可もあれば可もありつかね。
だから、先を見届けようとしたり、後悔すんのを怖れるなって事かな
>>141 おまえは物理板で電波バリバリ飛ばしてくれて非常に
迷惑したので無視することにする。悪く思わないでくれよ。
>>142 >これは形而上学的決定論だな?
1行目では単に原因は必ず結果より時間的に先行する
と言う因果律に触れているだけだ。
因果律は否定しても何ら得るところはないだろう。
現象の捉え方、解釈の問題だからだ。一方通行の時間軸を
設定した以上因果律は満たされねばなるまい。
時間の定義を変えるなら因果律も壊していいかもしれんがな。
2行目以降はいわゆる量子力学的な決定論についての話。
量子力学では事象の起こる確率は波動関数ψの絶対値の2乗で
与えられるからニュートン力学的な意味での決定論は通用しない。
ただ、波動関数ψ(t)自体は初期条件を与えれば一意に決定されるということ。
ついでだから
>>129のレスに関連しているであろうことを話そう。
(これは俺もよく知らんことなので非常にあやふやなのだが)
決定論的な波動関数ψは、観測行為によって波束の収縮を起こし
その結果確率に従ってひとつの結果を生むわけだが、
観測によって生じる「波束の収縮」という摩訶不思議な現象は
(摩訶不思議といわれても何が不思議か分かってもらえないかも知れないが)
全体の中から部分系を取り出す行為が原因である、とも言われていたような覚えがある。
これは観測対象とそれ以外(観測装置,観測者,外界)を分けて
捉えるということで、えー…あー…関連はありそうだが俺の手に余るので
やっぱりこの話はこれで終わり。
>>145 1は物理法則との関連性に触れている。
だから科学として検証可能な形にしてくれないと話にならない。
因果律のように「ないと困る」ものでもない限り実証不可能な
ものに存在価値は無い。
日常的なレベルでの自由意志なら当然成り立っている。ように見える。
>>147 電波飛ばしすぎると後でバテるぞ。
クッ...コテハンが裏目に出たぜ...
80=148はもう少し分かり易く日常的な日本語に近い言葉で
説明して欲しい。
物理板じゃないんだし。
151 :
考える名無しさん:01/11/30 04:51
院生かなんか?
半死半生の猫。観測すればその瞬間の状態が分かる。検知器とか状態の時間的変化の記述だから因果的でいいんじゃないの?収束イイッ!
てかな、専門分野だかしゃしゃりでて、反論もせず、端折っただけで電波いうなもう口きかなーい
量子力学の部分はこれ以上簡単に書こうとすると
膨大な量になる上結局このスレだけじゃ理解できないと思うので
一般向けの量子力学の本にでも1度目を通してください
それ以外の部分は特別な言葉は使ってませんね
ってそれはちょっと無責任か。またそのうちに。。
154 :
考える名無しさん:01/11/30 08:56
>>148(=80)
>迷惑したので無視することにする。悪く思わないでくれよ。
ワラタ。
それはともかく、量子力学の話については、
>>77から飛んだトコ読んだ方がわかりやすいんじゃないの?エライ時間はかかるけど、面白かったし。まぁ、専門じゃないから、偉そうな事は胃炎けど。
155 :
びたみん ◆BWLMxAG. :01/11/30 08:58
>>148 波動関数は世界全てを含むから、そのなかに存在している観測者が
観測行為によって波を収縮させるのはおかしいYOって話でしょ。
んま、確率的にだけどさ。というか、さっきまで共存していたのが
観測(マクロレベル)によって瞬時に統計的なものに変化するってのは
・・・怖いね。
このスレには関係ないけど・・・まあ、理論の持つ論理的説得力は置い
とくとして、多世界解釈論者って「決定論(そのレベルは違えど)」を
固守したい!という「願い」も強く持ってるんじゃないかな・・・。
物理学的観点から見ると、世界から人間の意志現象まで全てが法則に
従うもんかもしんないけど、それとは別の実践的観点(?)とかから
見ると、それは「自由意志による行動」と考えていいんじゃないのかな。
語られるべき文脈によって変わるってゆうかさ。。。
定義に関してだけど、とりあえず「することも、しないことも出来る能力」
っていう風にフツーっぽくてもいいんじゃない?
で、行き詰まってきたり、なんかナイスなアイデアが出たら、そのつど
変えていけばいいじゃん。
>>6を見ると「あなたにとっての」って限定が
ついていて、まあその通りだと思うけど、とりあえず対話による
共有ってのをみんなで目指せたらいいね。
ついでに・・・プレステで「シュレディンガーの猫」っていう良質な
アドヴェンチャーゲームがあるから、よかったらどうぞ。。。
ああ、でも素人にはオススメできない。システムやレスポンス悪いから。
シュレディンガーの猫ってたとえば
ネコ嫌いが来る公園にネコを入れた箱を
置いて殺されてるか見るのとはちゃうの?
放射性原子だから故なの?
そこ専門家以外いまいちわからんで。
ええと、厨房な思いつきですみませんが。
そもそも、人間の自由について話すのに、物理法則を持ち出すこと自体が変なのでは。
もしも、物理学が進歩した結果、物質の運動は決定されて い な い、 という事になったら、
どうなるんだろう。そうしたら、人間の行動はすべて自由な行動である?
そんなわけはないのでは。
>143
>これこそ幻想ではないのか? 自分自身の行為を対象化したら、それはもはや
>自分自身ではなく、自分自身についての「今さっきの記憶」であろう。そして、
>それは外部にある対象の記憶と同じ位相にあるものだ。こう考えてなにも問題ない
>のに、なぜ超越的なものを持ち出す?
このスレの問いのような何かを対象にするその構えは、常にその対象を含む
全体系を括っている意識にもとずいている。そのように常に対象を括る構え
に陥らなければ対象を対象として意識できない。まさに形而上的な閉域での
作業なのだ。それをあえて外観するなら超越的立場でものを見ていることに
なると。
>158
批判しているのか同意しているのか明確にしていただければありがたいのだが。。
143は129にある
>自分以外のものを対象化する場合には、その対象と自分とは同一平面上で
>あっても異なる立ち位置をもつことが可能だが、
>自分自身(の行為)を対象化しようとする場合、同一平面上の異なる位置に
>自己を分裂的に置くわけにはいかないから、必然的に「位相」をずらす結果になる。
というのを批判したものだ。だから、143で言う超越的(立場)というのはただ単に
主観的(立場)あるいは観察主体という意味ではない。自分自身を対象化しようとす
る場合に特有なものだ。
154は「何かを観察している(対象にしている)自分」というのを外観する立場は
超越論的であると主張している、と解釈できるが、143で私は「何かを観察している
(対象にしている)自分」というものでさえ、観察の対象にしてしまった時点で、第
一次的である「何か」と同列になるだろうと批判している。つまり、自分ないし観察
主体は、それ自身の観察によって、超越するのではなく、単なる対象に成り下がるだ
けなのだ。
>156
ワラタ
もとい。放射性原子ゆえに量子力学で言う純粋状態が適用される
とみなされるから。
なんだけど、量子力学は公園の猫を含め対象に適用できるはずで、
なんで純粋状態かそうではない混合状態かにわけられるのか、謎。
十分納得いく説明は聞いたことない。
161 :
考える名無しさん:01/11/30 18:55
>>156 >(自由意志とは)「することも、しないことも出来る能力」
そのような能力があることを確認するどのような方法があるのでしょう
か?
もし、ある状況下αで行為者甲が行為タイプAに属する行為aを現実に
為したとしたら、彼がその状況下で行為タイプAに属する行為aを為さ
ないことも又可能であったのか否かは確認しようがありません。
従って、能力についての実証主義がとられる限り、びたみん氏が提示さ
れた規定では、自由意志の有無について議論を進めることができない事
になると考えます。
それとも、状況αと類似した状況α’、α”等々においては行為者甲が行
為タイプAに属する行為を為さなかった、といった類似した諸事例の有
無に基づいて、彼の状況αにおける行為タイプAなる行為をする/しな
い何れも為しえる能力があるかないかを「類推」するのでしょうか?
あるいは、能力についての実在論をとり、現に何ら確認する手段が存在
しなくとも、その能力が彼にあるかないかだ、と考えるのでしょうか。
この場合、その能力の存否を我々が議論する事に何らの有効性も存在し
ないと思います。
>>161 同意。
同じ人物が全く同じ状況にいたら、全く同じ行為をするだろうけど、
それ以前に全く同じ状況なんて作り出せないし。
例えどんなに似た状況でも、カオス理論というものがあり風向き一つで結果が大きく変わる可能性があるわけだしね。
163 :
考える名無しさん:01/11/30 20:38
それでは、シュレディンガーの猫の箱の中に
運動物センサーを仕掛ける、箱の中の動きが止まったら(猫の鼓動)
連動して観察者に仕掛けたピストルが発射される仕組みにする。
この場合観察が観察者の生死を決定するのか?
165 :
考える名無しさん:01/11/30 23:10
うちらの知る宇宙をシステムと考えたとき、破局を避け安定した平衡状態を保つと考えるんよ
いつか始まり、宇宙の爆発的連鎖誕生からオリジナルがコピーを、更に…時間軸はパラレルな多重宇宙像をつくるん
一方で内部を分業、細分化し、生物は単機能単細胞から多機能多細胞化し、生態系における多様な種
レベルについては、量子力学と易経を参考にね
無限につづくのかは分からないさ
重要なのは、うちらは中心の点でありながら、複雑適応系である生命体の多様性、相補性、不確定性、高次性つまり先へ延びながら、振り子が揺れている状態なんさ
166 :
考える名無しさん:01/11/30 23:29
系は螺旋階段を描いて、上へ行く程にレベルは巨視化して決定論的に振る舞い、下は微細構造に行く程に非決定論的になるつーわけね
そして完全な安定や絶対不変は、停点となり真に不安定となり、同時に熱的死になるん
宇宙は熱力学第二法則などでわかる、複雑多様化しつつ回転進行(膨張)しているね
飽きたからやめ
てか、喋りすぎ
>159 TIII
>159
ここであつかっている問いを発しその答えを導き出そうとする時、私達は常
にその対象の全体系の外にいるという錯覚に陥いっている。その錯覚が「人
間の自由意志は在るや無しや」という疑問を持続させている。
そのような超越的な主感性に依拠していることを忘却している(柄谷氏)。
>167
104さんは、超越的なものは錯覚に過ぎないと仰りたいのですか?
>164
最初からセンサーを付けてたら、不明な状態(純粋状態)にならないよ。
定期的にセンサーを作動させてやれば観察が観察者の生死を決定するって
ことになるね。この話では。
>不明な状態(純粋状態)
なんすかそれ?
じゃ〜観察するまでは観察者は半分死んでるのか?
>168 TIII
167を読み直したのですが、ちょっとおかしかったです(笑)
(錯覚)という言葉は適当でなかったようです。(忘却)が適当です。
書き直し
ここであつかっている問いを発しその答えを導き出そうとする時、私達は
常にその対象の全体系の外にいるという構えでいることを忘却している。
その疑問を持続させているのはその忘却そのものだ。
すでにその問いじたいも成立しないということである。
私はこのスレを最初から読み直して、nanasix氏の書き込み(42、129
、134)はとても勉強になりました。それと124の名無しさんのものも。
量子論は素晴らしいが
それが意味することは一本道を否定することではない。
TIIIよ
くだらん解釈からも〜一度解放されよ
173 :
考える名無しさん:01/12/01 05:56
>>104 たとえば、「人間は動物である」という結論を言いたい、これを主張の核としたいとする。
ならば、
哺乳類は動物である。
人間は哺乳類である。
よって、人間は動物である。
このように論じると説得力が増す。
アリストテレスによれば、こういう論法が正しいばあいというのは2百通り考えられるそうだけど、
あんまり科学的とはいえない部分もある。
174 :
考える名無しさん:01/12/01 05:58
梵我一如でいいではないか
>173
オレも文章が下手だとよく言われるんだけどさ。104さんのカキコみると
こういうふうに思うのよ。
>ここであつかっている問いを発しその答えを導き出そうとする時、私達は
>常にその対象の全体系の外にいるという構えでいることを忘却している。
ふむ、確かに何かに熱中すると我を忘れるな。それで?
>その疑問を持続させているのはその忘却そのものだ。
はて、ここにはもう解決づみみたいなカキコもあるからなぁ。
上の文は「誰でもそうだ」っていう論調だったからおかしいな。
何か限定が省略されてるのかなぁ?
>すでにその問いじたいも成立しないということである。
へ、なぜ? 問いは持続してるんじゃなかったっけ?
文章下手なもんが大きなこと言えないけど、オレがきちんとした文章書く時
心がけてるのは、まず、完全に分かるようにしつこく書く、そして、論の流れを
見ながら短い文章に削ってくってこと(論に余計な情報やくどいとこをなくす)。
2chは短文が好まれるけで、理解されなければ損した気分になるもんね。それと、
よく、哲学の文には箔付けるために、わざと難しく書いてんじゃないかと思わせ
るものがあるけど、それは最低だと思うよ。あと、論の流れを見るにはこういう
とこで論争を観察するとか、実際に論争してみるといい訓練になるよ。論点が追
えるからね。
177 :
名無しやろー:01/12/01 12:03
参考までに。
量子論のトピックで、モール『人間の自由と生物学的本性』(1984)をテキトーに要約して
みる。「2 “量子力学への追随”によって解決する試みの批判」の部分ね:
(1) ボルンの定式化:
「粒子の運動は確率法則に従い、確率は因果法則とどこまでも一致する、つまり、それは
シュレーディンガー波動法的式に従えば決定論的である」というボルンの定式化は広く普及
した。
(2) ヨルダンの理論(1932):
微視領域では、因果性原理の厳密な妥当性は確証されない(ハイゼンベルク不確定性原理
の帰結)。ヨルダンは、ここから、認識論的な疑念を抱かずに、特定の素粒子のプロセスは
因果性を持たないとした。以下、ヨルダンの主張である。生きた生物は1個の電気的な増幅
器と類似した仕方で働く。特定の原子的レヴェルでの反応の「非因果性」が増幅され、巨視
的にも有効な非因果性が生じ得る。人間の身体の諸反応を支配するそうした事象は、様々な
意味で、原子的領域に至るまで多様な自由を持っており、決定論的な因果性に最早従属しな
い。ここで、原子物理学における諸々の経験によって、意思の自由の否認は論駁された。
(3) ヨルダンの問題:
ヨルダンの問題とは、因果性からは解放されるだろうが「盲目的偶然性」からは解放され
ないという点にある。ヨルダンの見方では、「自由な」決断は、物理的には因果的な、従っ
て偶然的な微視的プロセスによって支配され、この微視的プロセスが生物の巨視的領域でも
増幅するとされる。しかし、そこからは、「自由」や「責任原理」や倫理学のために何らか
を得ることはできない。寧ろ全てが失われる。ヨルダンは、我々を因果性から救ってくれる
が、それによって我々は偶然的な非因果性に委ねられてしまう。これでは一難去ってまた一
難と言わねばならない。
(4) プランクの提言:
既にプランクは、ヨルダン以前にこう述べている。最近若干の著名な物理学者は、意志の
自由を救うために因果法則を犠牲にしなければならないと考え、不確定性を因果法則の突破
物として導入することに、何らの疑念も抱いていない。だが彼らは、盲目的偶然の仮定が道
徳的な責任感情と一体どのようにして結び付くのかについて、説明を疎かにしている。
178 :
名無しやろー:01/12/01 12:03
(5) ビュニングのヨルダン批判(1943):
ビュニングは、生命過程とその制御との基礎をなすのは、偶然的な恣意性ではなく、厳密
で一義的なシステムの組織性と秩序を含む厖大な機能的な豊かさであると考えた。ここで、
次のようにヨルダンを批判する。もしも物理的な非因果性が生きたシステムにおいて増幅さ
れ、本質的役割を果たすことになれば、生物における偶然とは考えられない秩序は妨害され
、致命的な結果が生ずるであろう。だが、そうならない以上、物理的な非因果性は、生物的
な制御においては何ら本質的なものではない。
補:我々は今日(個々の個体ではなく)個体群に関する生物統計の言明が、「認識論的に見
れば」全体として古典的力学の範囲に含まれることを知っている。大きな数の場合、生物統
計の「予測」は厳密かつ一義的である。このような厳密な統計の中では、生物学的出来事に
とって微視的領域で要請される非因果性は重要なものとはなり得ない。
(6) ヨーナスの問題:
ヨーナスは、著書『主観性の力か無力か』で、ハイゼンベルク不確定性原理を援用してい
る。しかし、「精神的自発性と機械論的因果性の間の矛盾を量子論的に克服する」試みは、
疑わしい。第1にヨーナスやその仲間が想定しているような、量子力学の「統計的」解釈は
主観的であり、何ら拘束性を持たないからである。
「量子論に追随しつつ」生命現象における強い因果的決定論を弱めようというヨーナスの
野心的試みは、以上(5)までの中の異議に対する有効な答えとはなっていない。「量子物理
学では、自然の力学と意識の影響との間に明白な矛盾はない」というヨーナスの結論は、ヨ
ルダンの考え同様に説得力に乏しい。「人間の脳は量子力学的な不確定性が脳の決定可能性
に与える自由な領域を享受し得るだろう」というヨーナスの希望的観測は、物質から精神へ
の移行を概念的に捉える「いかなるモデルも視野に入れていない」限り、曖昧模糊としたま
までる。ポパーとエックルスの共著『自我とその脳』も、この問題に関しては1歩も前進し
ていない。
ヨーナスの著書によって、ヨーナスとは逆に、量子物理学の認識論的な問題(コペンハー
ゲン解釈)に依拠しては心身問題を解決できないと確信することになる。我々の倫理的な行
為は結局のところ人を欺く見せ掛けのものに過ぎないのではないかという疑問は、依然とし
て残る。
>176 TIII、 >173(気に掛けてくれてThks)
書き込みをすればするほどバカを披露するようでちょっと辛い(笑)。
それでも敢えて説明を試みます。
私が問題にしているのは、このような問いを持つ態度を問題にしているのです。
1は、日常は自分の意志で自由に生活している。ところが見方を変えると自分
も物理法則に拘束されている。それならば自分も風にそよぐ木の葉の運動と
同様ともおもえる。はたして自由意志(による行為)は存在するのか?
この、(はたして自由意志(による行為)は存在するのか?)への移行がす
でに超越的な見方を試みているのです。前にも言いましたが、これは形而上
的な閉域での作業そのものです。
私達はどうやらここでの問いをそれぞれ取り違えているのじゃないですか?
1の、自由意志による行為は存在するか?は、勿論存在してますよね?私達
は自分の自由意志で自由にパソコンに打ち込んでいます(笑)。
じゃ〜、自由意志は存在するか?
173さんの助言にそって言った方がいいみたいですね(笑)。
人間には自由意志が在る。
自由意志とは?、どう定義します?
人間とは?、どう定義します?
ここまで書いてきて、これはネタじゃないのかな〜と思えてきた。
これでもやっぱり私は勘違いしているのですか(笑)?
180 :
考える名無しさん:01/12/01 14:53
いや、いい線いってるゾ。
>180
あんたパソコンの前で、ここでのやり取りを笑ってたんちゃう?(笑)。
182 :
考える名無しさん:01/12/01 15:59
自由と不自由を区別する方法がないんだから
自由意志なんて考えるだけ無駄。
183 :
考える名無しさん:01/12/01 16:46
マジレス
決定論ってのは人間の頭脳が発達したから生じている一つのフィクション。
つまり、認識能力が一定レベルを超えた時には必然的に決定論は生み出されるの。
これはパラドックスでもなんでもない。
一定レベル以上の論理性が生み出すフィクション。
もちろん一生懸命悩むような問題ではない。
一定のレベル以上ならもうフィクションとは呼ばない。
ドゥーユーアンダスタン?
>183
興味本意でお聞きします。
この世に起こっていることは全て私達生物の宿命ということですか?
もう少しましになる手立てを考えるとしたら、あなたはどんな考えを
お持ちですか?
なぜ興味本意だと断わりを入れるのかが分からない。
>186
あなたは183ですか?
あなたが183として答えます。
183のように、ここまで客観的に人間を捉えている姿勢と普段
の生活でのあなたの感情の拠り所はどういものか?どのように
同居しているのか興味をもったのです。
失礼な言い方でした。
188 :
考える名無しさん:01/12/02 02:42
>>185 宿命てあーた、科学的議論してる場で宗教臭いセリフ吐くなや
>188
お前誰や?
>183
>自由意志による行為は存在するか?は、勿論存在してますよね
>じゃ〜、自由意志は存在するか?
この問いはコギトでしょ?
我思うゆえに我あり。
「我思う」が実在についての真なる言明であれば、我は実在するであろう。
同様に、「自由意志による行為」が真であり、かつ、行為という抽象概念が
実在しえるというのなら、自由意志は存在しているとみなしているのと同じ
ことだ。これで問題は解決ではないのか?
しかし、そもそもの問題は「その行為は自由意志によるものなのか?」と
いうことではないのか? 例えば、プリオンは牛に感染して狂牛病を引き起
こす。このような現象はプリオンが自由意志を持っていなくても、プリオン
の行為とみなせるだろう。また、上で出てきた量子力学における「観測行為」
という言葉は、量子論に主体を持ち込まない議論でも混乱なく用いられてい
る。つまり、通常、行為というものは決定論と矛盾しないで用いられている。
だから、「その行為は自由意志によるものなのか?」あるいは「自由意志
と決定論についての問題を考える行為は必然的に超越的自己を前提としている
ことを帰結するのか?」といった問題こそが根幹にあるのでしょう。要する
に何が言いたいのかというと、104 さんはこれらの問題をあたかも自明である
かのように書いているということです。だから論点がわからない。
また、1の「自由意志(による行為)は存在するのか?」と104さんが言う
「1の、自由意志による行為は存在するか?」は同じ意味ではない。1は自由
意志による行為の存在は明白ではないと述べているはず。明白であるのは「
我々は自由意志で行為していると一般に信じられている」ということだ。だ
から、この問いを解明するためには、自由意志の定義として、そのような一般
に信じられている自由意志の観念に対応したものを用いざるをえない。つまり、
自由意志が何であるかは明白であり、わざわざ哲学的に特殊化した定義を作成
するのは問題のすり替えになるだけなのだ。
191 :
どこかのお姫さま:01/12/02 09:10
>>190 >プリオンは牛に感染して狂牛病を引き起
>こす。このような現象はプリオンが自由意志を持っていなくても、プリオン
>の行為とみなせるだろう。また、上で出てきた量子力学における「観測行為」
>という言葉は、量子論に主体を持ち込まない議論でも混乱なく用いられてい
>る。つまり、通常、行為というものは決定論と矛盾しないで用いられている。
「行為」概念が決定論と両立する,という結論には賛成ですが。プリ
オンの事例には反対です。
プリオンが(意志や意図をもって他者に狂牛病を感染させたのでなけれ
ば),その感染は単なる因果的結果であるに過ぎず,行為という特殊な
因果関係における因果的結果とはいえない,というのが我々の言語使用
の事実,我々の言語直観,ではないでしょうか?
もし,全ての因果関係は行為と見なされえるならば,世界は行為であ
ふれてしまいます。木の葉が左右に揺れるのも木の葉の行為,電球のフ
ィラメントが切れるのもフィラメントの行為等々・・・・
しかし,現実に我々はそれらを行為とは呼んでいないわけです。
そうであるのなら,単に因果関係の成立をもっと行為の存在の充分条
件と考えるのは誤りなわけです。
具体的には,ある出来事が行為である為には,その行為が何の意図で
為されたのかが説明なし(得る)ものでなければならないのと同時に,
意志的にもなされたのでなければならない。そうでなければ,人間や動物
に帰属される出来事ですら「行動」と呼ばれ,動物以外であれば殆どの
場合単なる「出来事」「結果」と呼ばれるのです。
一定の知能が備わり、論理性が備わると、決定論的な見方が生じるのはいわば必然のこと。
逆に言えば、決定論、運命、宿命という考え方は、論理的にはまっとうなようだが、それ以上でも以下でもない。
つまり不毛な議論。
>>185 >この世に起こっていることは全て私達生物の宿命ということですか
全然違う
>>187 186じゃないです
>191
これはこの問題にとって瑣末な議論なのだと思うけど。私見を述べて
おきましょう。横道にそれてるから省略解除ボタン押さなくてもいいよ。
生物学的にはプリオンは生物とみなされないけれども、生物にみられ
る性質のいくつかは持っている。そこで、もし、「大腸菌は鞭毛を使っ
て泳ぐ」という用語法(泳ぐは行為である)が正等なら、「プリオンは
細胞膜に吸着して細胞内に入り込む」といった用語法も正等であると思
う。これらは端的に言って擬人化であるが、擬人化をもたらす「目的性」
といった性質が両者に備わっている。この目的性なるものは、「進化的
に保存されたものには、生存という目的にとって無駄なものはないだろ
う」という理論によるもので絶対的なものではない(ある期間たまたま
存在しつづけることはいつでも有り得る)。しかし、生物を構成するタ
ンパク質や核酸、あるいは生物が表現する運動のほとんどに生存にかな
う目的を見出すことができる。例えば、「リボゾームは生体の維持のた
めに、mRNAの暗号を翻訳する役割を担っている」といったぐあいです。
これらの擬人化は通常、便宜的なものであり、哲学的な議論を呼び起
こすものではないだろう。そこで多少哲学的に寄り道した議論をしよう。
すなわち、ここには原始的な戦略あるいは生存仮説が見られるということ
である。これはややこしいことかもしれないが、宇宙はただ時間的変化
という気質をもったために、さまざまな性質、大きい、速い、等々のなか
で、保存されるという性質に特権的な地位をあたえているように見える。
変化にって生じたさまざまな物質の配置のうち、保存されるものが保存さ
れる。これはまったくの同語反復だが、変化する世界のなかで異質なもの
を作り上げる(変化と保存は定義上異質だ)。このように物と時間的変化
のみから論理的にある構造が特殊化していくことがわかる。生存するとい
う目的にかなった構造だ。
ところで、カントのアプリオリは何だろうか? それがあると生存に有利
な理論で、それらは遺伝子の働きによって脳内で作られる構造物ではないだ
ろうか。つまり、プリオンと同じ種類のものなのだ。
プリオンは心をもっていないけれど、プリオンの生存戦略は我々の「世界
は三次元的だ」や「2chでメルアド晒すのはやめよう」と本質的に同じで、
我々はそれを意識に照らして見ることができるだけなのである。とこのよう
にも思ったりするのだがいいかがだろう?
>192
>一定の知能が備わり、論理性が備わると、決定論的な見方が生じるのはいわば必然のこと。
だとしても、
>逆に言えば、決定論、運命、宿命という考え方は、論理的にはまっとうなようだが
というように論理的妥当性が付与されるものか?
子供は「親は頼るべきものだ」という見方を必然的にするようだが、論理的に妥当でも
ましてや、真理でもない。そうやって虐待されてしまう哀れなガキもいるじゃん。
195 :
考える名無しさん:01/12/02 14:08
>>193 >生物の行為の目的性
決定的な見解の相異は、ある行為を外部から見た場合の
因果的整合性からの見解と、行為者自らのその行為の見解
との間に生じている。(既出かもしれんが)行為者自らが
その行為の目的性を問い、意義を与えるというのは、
上の例のように外部から生物に目的性と言う説明を加えるのとは
違うのではないか?
(決定論者?)に聞きたいのは、外部の観察された行為
ではなく、決定論者である自分の−生理的なもから日常的な、
普段なされる思考のひとつひとつまでの−行為すべてを
決定論的であるとみなしうるかどうかだ。
したがって「自分」の行為に意志などないという見解が
成立するかしないかは、どちらの見解もいまだ選択可能で
あるならば、世界観の問題にすぎない。いずれにせよ、
明日の晩に何を食べるかを、自分で決めなければならないものは
決めなくてはならないのだから。
>明日の晩に何を食べるかを、自分で決めなければならないものは
>決めなくてはならないのだから。
どうでもいいがなんかこれ、食う物の「内容」が決まっているか否かを
食わざるを得ないと云う事で反論されるような気がする。
>いずれにせよ、 明日の晩に何を食べるかを、
>自分で決めなければならないものは
>決めなくてはならないのだから。
どうでもいいけれど195さんは一人暮らしですか?
親と同居だと明日の夕食は親任せ。
「自分で」決めたりしないのです。
>TIII
正直こんがらかっています。頭の性能がよくなくて。
今すぐ考える余裕もありません。少し整理が尽きましたら・・
>195
>決定的な見解の相異は、ある行為を外部から見た場合の
>因果的整合性からの見解と、行為者自らのその行為の見解
>との間に生じている。
オレはこの二つが決定的に違うとは考えない。いずれの場合も
見解は仮説というかたちで現れ、また、行為の主体も(143 で既
出のつもりだが)同じように思考の対象になっている。違いをあげる
とすれば行為にまつわる感覚として、過去において直に感じた感覚
を用いることができるか、あるいは推測に由来するものしか使えない
かという違い。それと、行為した際に考えた思考の痕跡を自分の脳に
見出すことができるかどうかという違いだろう。前者の違いに関して、
例えば、私と他者がまるっきり違うクオリアを持っているということが
想定されるが、たとえそうだとしても社会的、論理的文脈においては、
それらが同一の機能をもつと考えられるため、仮説として現れる両者
の見解に質的違いをもたらすものではないであろう。そのようなこと
から、両者の見解は正確さという意味ではなはだ違うことが多いだろう
にもかかわらず、決定的なものではないと考える(寝ぼけ状態の時、
自分の行為について的外れな見解をすることもあるだろう)。
ちなみに、これら全てのことは自分の脳で行うものであるが、
この「全てに」には両者が等しく含まれる(全てだから当たり前だな)。
このような考察を心を持つと推定される他者(人間)とそうでない動物
とで比較し、こころを持つということが両者の間でいかなる違いを生じせ
しめるかを考えたのが、193 だ。
>(決定論者?)に聞きたいのは
決定論者じゃないのでパス。
>104
夕食くったら眠くなったので、いつでもいいよ。
ずっとしなくても気にしないし。
>>197 あんた何当たり前の事いってんだ?
っていうかなんでそんな事いうの?
謎。
203 :
考える名無しさん:01/12/03 03:21
age
204 :
考える名無しさん:01/12/03 05:15
>>203 あんがとネ
人間すべての行為が決定されているか。何冊か読んでみて、唸ってしまうもんがあったよん
逆説的に、忘我の状態がもっとも自由な行為である、意識は無意識へ還流する、とかとか。
この世界に決められたレールはあんのか
でもさ、未知の要因があるから分からないじゃん。
うちらは、それしかない。因果も理由ももすべて、意志の他にありはしない
夢中になれば、何故か?考えないしょ。理由は自由だし、やるかやらないかは意志なんよ
法則って、自然の掟、宇宙のきまりじゃん。つづきがあるけど…眠い。また今度
とりうる行動書いてさいころ振ったら面白い人生送れるんじゃないの?
206 :
考える名無しさん:01/12/03 11:41
>205 とりうる行動書いてさいころ振ったら面白い人生送れるんじゃないの?
そんな人生絶対いやだーー
>>194 まっとうなようだが、
と
まっとうである
は
違うでしょ
208 :
考える名無しさん:01/12/03 16:01
今頃聞いても気が抜けるわい(笑)。
210 :
考える名無しさん:01/12/03 19:31
匿名掲示板で誰がどれだなんてまったく意味の無いことなのに
なぜいきなり誰だと聞かれたのかちょっと不思議でしてね。
確かに「誰がどれだ」なんて意味がないよ。
でもね、俺の書き込みに君は確かに心を動かされて書き込みしてる。
そして俺も君の書き込みを読んで正直ムカッときた。
お互い匿名性を帯びているけど、俺はその向こうに確かに居る君に
射程を定めて発したんだ。それには意味はあるとして。
212 :
考える名無しさん:01/12/04 01:06
1の考え方おもしろいね。
自由意思ですらも因果に基づいているって考え方ね。
確かに寿命とか先天的能力とか 変えられないものは
因果(運命)に基づいていると考えていいと思うけどね。
自由意思は因果(運命)とか言われているものには縛られないと思うんだよね。
213 :
考える名無しさん:01/12/04 01:25
>>211 こういう議論に感情的なイメージを持ち込むのは
どう考えても混乱のもとなんだよ。
宗教とか人生観とかそんなの世界のありようとはなーんにも関係なんだからさ
214 :
考える名無しさん:01/12/04 01:28
212なんかまーるで根拠なし、事実ですらないことを
書き綴ってるだけだしさー。
現代科学では、あらゆる事に原因があるとされているのではないだろうか。
ただ現時点でその原因が解明されていないだけで。
生後10秒後の自分は、それまでの経験(Aとする)で形成される。
11秒後の自分はA+1秒経験で形成される。
この連鎖が何十年と続いて自分が形成される。
つまり、今のこの思考も行動も、これまでの経験の積み重ね。
自由意思ではない。
仮に自由意思などという物があるとしたら、それは単独で存在し、あらゆる事と関係ない存在でなければならない。
その意味では、この世界を一つとしてみれば、一つの自由意思があるかもしれない。
216 :
考える名無しさん:01/12/04 01:44
>>214 どのあたりが事実ですらないことなのか
根拠を述べてくださいねー
217 :
考える名無しさん:01/12/04 01:59
>>215 なんか数学の微分積分のような説明 興味深い。
今この瞬間ある自分は、生後から始まって
日々の一瞬一瞬の経験を積分してきたようなもの。
しかしその一瞬の経験を積分せずに逆に微分したら
傾きがでると思うのだが、それは自由意思に由って
右上がりになったり右下がりになったりするんじゃないかね。
218 :
考える名無しさん:01/12/04 02:03
>確かに寿命とか先天的能力とか 変えられないものは
まず一つ。寿命なんて生活習慣によっていくらでも変えられますねー。
先天的能力の部分は言葉の定義から言って後から変えようがないのは
当たり前ですけどねー。後天的能力とあわせて考えると
厳密に考える時にはあまり意味のない概念ですねー。
そして因果に(運命)と注釈をつけている部分、
これはなぜ運命という言葉を因果に付加したのでしょうかー?
「運命」という言葉によって「束縛」という負のイメージを持たせて、
「自由」という言葉とそぐわないからおかしいという極めて
感情的な論理でお話を展開しているのではないですかー?
そうでなければもともと「運命」と対比される意味を持つ「自由意思」
の定義や存在そのものに焦点をあてるスレでそのような言葉を出すことの
意味がないんだよねー。
どうも因果という言葉にももともとの仏教的な意味をこめて考えてないですかねー。
219 :
考える名無しさん:01/12/04 02:05
>>217 「自由意志」によったかどうか確かめる方法が原理的に存在しないんですけどー?
220 :
考える名無しさん:01/12/04 02:14
私達の脳が微弱な電流を介して、ネットワークをかたち作って
いるということが、現代では解明されてきました。
私達のまわりにある全ての事象は数学的に説明ができます。
惑星や、恒星の運動、銀河までもがある法則に支配され、運動
をしています。
わたしたちの脳は、もちろん、コンピューターよりも複雑な神
経ネットワークで思考をするわけですが、かならずそれにも規
則性が存在するはずです。
そうだとすれば、わたしたちの現在は、ある一定の法則に支配
されており、すべては予測のつく事象でしかないという言い方
はできないでしょうか?
221 :
考える名無しさん:01/12/04 02:17
予測がつくつかないの問題というよりはー、
予測から外れているからこれは自由意志、
とは言えないというのが問題なんですねー。
222 :
220より:01/12/04 02:29
予測がつくというのは、人が予測可能だとかいう話ではないんです。
例えば、天気予報は当たる時とはずれの時がありますけど、磁場や、
月からの引力や、あらゆる事象全てを正確に数値化し、計算すれば、
それは、100%の予測となるでしょう。
しかし、あらゆる事象は元からそこに存在しているのであり、法則
にのっとって、正確に運動をしているにすぎません。
わたしたちも、そのようなものではないか、と言いたかったんです。
今は、これまでの膨大な論理の上に積み重ねられた論理でしかないと
いうことだと思うんですが。
もし自由意思などという物が存在するなら、科学の根底が覆るね。
寿命が自分でコントロールできることは認めますね。
あと因果という言葉の意味を仏教的な観点から捉えすぎて
いたことも認めましょう。
となるとここで述べられている因果法則とは
自然法則と同じであると解釈していいわけでなのですね。
>>220
人間の行動は 天気予報のように
天気にかかわる全ての事象を解析すれば
予測は完全には不可能ではない・・・ということでしょうか。
確かに人間の行動は天気のように
物理的な事象だけでなく、社会的な事柄も影響しますし、
その人の現在持っている価値観も影響します。
またそういう影響を受けることで人間の価値観は日々
更新されていきますし、社会も日々変化していきます。
よって完璧に人の行動を予測しようと思えば本当に膨大な
データが必要になります。
さらに予測した事による変動も考慮しなければならないね。
予測した時点と、予測後では「予測した」という点において予測前と条件が変わるわけだから。
227 :
考える名無しさん:01/12/04 04:18
自由意志を肯定したい人→そこそこの人生送っている人
自由意志を否定したい人→つらい人生送っている人
228 :
考える名無しさん:01/12/04 08:14
自由意思を肯定したい人→何も考えとらん奴
自由意思を否定したい人→極めて科学的な人
このスレでの分類分けはこっちの方が正しいよ。
229 :
考える名無しさん:01/12/04 08:32
>>228 全然正しくない。
何も考えずに自由意思を肯定する人と
考えたうえで
自由意思を肯定する人は違うだろ。
230 :
名無しやろー:01/12/04 21:44
>>220 >私達の脳が微弱な電流を介して、ネットワークをかたち作って
>いるということが、現代では解明されてきました。
確かにね。
>私達のまわりにある全ての事象は数学的に説明ができます。
>惑星や、恒星の運動、銀河までもがある法則に支配され、運動
>をしています。
誰も全ての事象が数学/科学的に説明できるとは言っていません。
法則というものがあると「仮定」して、実験や観測、法則の理論的構築を繰り返し、精緻化しているに過ぎないハズです。
光速度が一定であると仮定し(←後で実験で証明されてるみたいですが)、理論を作り上げると、たまたまそれが宇宙の出来事を上手く説明できただけす。
もしかしたら、また、この理論では説明できないことが観測されれば、新たな理論が出てくるかもしれません。
あなたの言う法則はそれほど確実なものではないと思われ。
>わたしたちの脳は、もちろん、コンピューターよりも複雑な神
>経ネットワークで思考をするわけですが、かならずそれにも規
>則性が存在するはずです。
>そうだとすれば、わたしたちの現在は、ある一定の法則に支配
>されており、すべては予測のつく事象でしかないという言い方
>はできないでしょうか?
認知科学者たちは、そう信じて研究してるでしょうね。
「そうだとすれば」と書いてますが、まったく不安定な仮定だと思います。
科学は実証されてなんぼです。
実証されていない以上、
“私たちの脳は意識的に物事を考えられる。
そこには、方程式的でない不確定性とそれを意思的に操る方法があるはずです。
そうだとすれば、私たちの意思に依拠する行為の中には、外部からは原理的に予測不可能なものがあります”
と大して変わらない。
>>222 >予測がつくというのは、人が予測可能だとかいう話ではないんです。
>例えば、天気予報は当たる時とはずれの時がありますけど、磁場や、
>月からの引力や、あらゆる事象全てを正確に数値化し、計算すれば、
>それは、100%の予測となるでしょう。
>しかし、あらゆる事象は元からそこに存在しているのであり、法則
>にのっとって、正確に運動をしているにすぎません。
>わたしたちも、そのようなものではないか、と言いたかったんです。
>今は、これまでの膨大な論理の上に積み重ねられた論理でしかないと
>いうことだと思うんですが。
上に書いた通りです。
科学の方向としては、そうかもしれませんが、単なる「でしょう」だよね。
実際のところ、科学が人の認識下にあるということも重要で、だから、観測問題も発生するのでは。
「人が」予測可能であるというのは、重要な点になってきます。
人が予測可能だとかいう話ではないんです、ってのは、虚しい主張だと思います。
バタフライな...カオス...
232 :
考える名無しさん:01/12/04 23:38
>>230 だーかーらさあー
「人が」予測可能かどうかではなくて
「原理的に」予想可能かどうかが問題なんだよね〜
233 :
考える名無しさん:01/12/04 23:43
234 :
考える名無しさん:01/12/05 00:01
主観的に考えると自由意志は存在するように見えるが、
客観的には自由意志は存在しない。
235 :
名無しやろー:01/12/05 00:08
>>232 ちゃんと読んでよ。
原理的に予想可能かどうかってのは、
認識論的に(でいいのか?)、
人が予測可能かどうかってのと密接に関わってるの。
>>232って、こーゆーことでいいのか?
236 :
考える名無しさん:01/12/05 00:29
だからさー、それはどーでもいいんだよ
人にとって原理的にどうこうと考えてもどうでも。
科学的な認識を否定的に捕らえる人はさっさと
自由意志の定義をしてもらいたいんだけどねー
237 :
考える名無しさん:01/12/05 00:43
自由意志を否定する意志って何?
それも自由意志?それともそれは意志じゃないの?
どこに自由意志を否定できる「位置」があるの?
238 :
考える名無しさん:01/12/05 01:14
自由だと思いたがる人はセンスなし
239 :
考える名無しさん:01/12/05 01:18
>236
自然科学者で自由意志の問題を論じてる人って誰かいますか?
普通、科学者は原理的な問題には慎重で手を出さないという
イメージがあるんだけど。
240 :
考える名無しさん:01/12/05 01:24
肉体が自然の一部であるように心も自然に根ざしている、
とか一元論的汎神論者がいっていたような。。スピノザかゲーテか
241 :
びたみん ◆aSQpixxY :01/12/05 01:27
>>239 物理学者のデヴィッド・ドイチュは確か、自由意志を
認めてたような気がする。多世界解釈の人だけど。
ん?でも脳は古典的なコンピューターっつってたような気も。
うろ覚えでスマソ。
ペンローズは自由意志は必ずしも物理学的世界観と矛盾しない
って言ってた気がする。不完全性定理とかで・・・なんか
計算不可能性がなんたら・・・と。
242 :
名無しさん:01/12/05 01:27
>>236 >科学的な認識を否定的に捕らえる人
誰も否定してはいないと思うが。
>241
レスさんくす。
英語圏では自由意志と決定論を両立可能とするのが主流なんだろうか?
ホッブズやヒューム以来の流れかもしれないっすね。
244 :
考える名無しさん:01/12/05 01:37
「因」→主、「果」→従
と捉えるからいけないような気がする。
「因」もその前は「果」だったろうに
245 :
考える名無しさん:01/12/05 01:48
>>244 いーこと言うね。
そーゆーのって、気を付けてるつもりでも、刷り込まれてて囚われやすい概念だと思う。
ときに、「因」も「果」も本質的には同じだとしたら、そこから出てくる次の発想って何なんだろう?
因果の無限ループとかは、ちょいと短絡的な気もしちゃうし。
アインシュタインが言ったように、「実質的に新しい思考の形を身につけなければ」、こっから先の発想は無いのかなぁ?
246 :
考える名無しさん:01/12/05 02:03
とりあえず自由意思の定義はあとにまわしたい。
問題は人間の意思の決定も、膨大な論理の上に
成り立っているかどうかという問題だから
人間が予測可能か・・・という問題ではないから
247 :
考える名無しさん:01/12/05 02:16
>>243 そーなの?
自由意志と物理学的世界観が必ずしも矛盾しないのはわかるけど。
自由意志と決定論はいかにして両立可能なんでしょう?
興味アリ!
248 :
考える名無しさん:01/12/05 11:52
249 :
考える名無しさん:01/12/05 12:59
例えば、「A君は、学校に提出するレポートを書かねばならなかったのだが、まだ三日
あるから大丈夫だと思い、2ch哲学板に書き込んでいた」と言えば、A君は自由な
行為をしたと言っていい気がする。
それを、「A君の脳では、(レポートを書かねばならないという意識に対応するような)
一定の神経細胞の活動が起こり、その後に別の(大丈夫だという意識に対応するような)
神経細胞の活動が起こり、その次にまた別の(2chに書き込むという意識に対応するよ
うな)神経細胞の活動が起こり、指の筋肉等も活動した」と言い換えたら、A君は自由で
はなくなったりするんですかね?
250 :
考える名無しさん:01/12/05 13:13
何に対して自由なのかよくわからないんですが、
251 :
名無しやろー:01/12/05 15:32
>>244:
>「因」→主、「果」→従
>と捉えるからいけないような気がする。
>「因」もその前は「果」だったろうに
>>245:
>
>>244 >いーこと言うね。
>そーゆーのって、気を付けてるつもりでも、刷り込まれてて囚われやすい概念だと思う。
>
>ときに、「因」も「果」も本質的には同じだとしたら、そこから出てくる次の発想って何なんだろう?
>因果の無限ループとかは、ちょいと短絡的な気もしちゃうし。
確かに。
「因果の無限ループ」も短絡的かもってのも同意。
因果のループを考えるんなら、シェリングのいう「原始偶然」を除いた偶然って、全部決定済のことになっちゃう(でいいのか?)。
今の自然科学なら、原始偶然=ビッグバンってことになるんかな。
だと、ビッグバンが起こった時点で全ての事象は決定論的。
因果を突き詰めると、こんな感じ?
>アインシュタインが言ったように、「実質的に新しい思考の形を身につけなければ」、
>こっから先の発想は無いのかなぁ?
さらりと恐ろしいこと言ってるね、アインシュタイン。
>>246 >とりあえず自由意思の定義はあとにまわしたい。
>
>問題は人間の意思の決定も、膨大な論理の上に
>成り立っているかどうかという問題だから
>人間が予測可能か・・・という問題ではないから
人間が予測可能かってのと、厖大な論理の上に成り立ってるってのは、結局同じ議論の中にあるって、上のほうにあるよ。
>>247 高校レヴェルの知識になっちゃって申し訳ないが、ホッブズって、むしろ自由を否定してなかったか?
万物を機械論的唯物論で捉えたはず。
感覚的経験論を唱え、思考と実在とは一致しないとした。
刺戟が感情を、感情が欲求を生み、欲求が機械的に意志(利己心)を支配するとし、欲求される快が善、嫌悪される苦が悪であるとする快楽主義。
意志の自由や客観的価値は存在せず、自由は欲求の充足を希求する行為が、外から阻害されないことと考えた。
彼の機械的決定論では、意志は自由ではなく、自由は行為の問題である。……ということらしい。
一方、ヒュームは、懐疑論で有名な通り、因果律を否定してます。
この因果律の否定は、科学にどっぷりつかった現代人には理解しにくいと思われるけど。
また、観念は、個別的な印象の類似、時間・空間的接近、原因・結果の関係の法則によって、習慣を通して連合される。
何か微妙に矛盾してるような気がしないではないが、因果関係はあくまで因果関係でしかなく、必然性はないということか?
よく解らん。
>>249 これ、ホッブズ的に読み換えていいのかな?
252 :
名無しやろー:01/12/05 15:35
>>251 >高校レヴェルの知識になっちゃって申し訳ないが、ホッブズって、むしろ自由を否定してなかったか?
ホッブズが否定した自由って、自由意志か。
>251
>これ、ホッブズ的に読み換えていいのかな?
へえ、ホッブズという人は、そういう議論をしてたんですね。
読み替えてもらった方がいいですね。249で言いたかったことは、「同じ一つの出来事
でも、考え方次第で、自由と言えたり言えなかったりするんだろうか」という疑問。
どうせなら、物理学っぽい用語は全く使わない方が、話がすっきりしそうなので。
254 :
なななななし:01/12/05 16:32
自由意志が存在することは実在的に証明できないという意見があるけど、
同様に決定論についても、何の何にたいしての決定論であるかというのは
「事前には」説明できないと思う。
もしそれが事前なされたならば、それに反対する行動をとることができる
のだから。
つまり、決定論というのはあと知恵的な在り方でしか存在できない。
255 :
なななななし:01/12/05 16:41
またここで、自由意志の「自由」とは、決定論にたいしての「自由」と
規定することができるね。
だから、上レスでいったように、決定論が成立しないならば、それに
対する自由意志もまた存在しえない。
その逆に決定論が採られるならば、自由意志も必要とされる。
つまり、決定論と自由意志というのは、互いに矛盾するものではなく、
むしろ、二つでワンセットになるようなもの。
256 :
名無しやろー:01/12/05 17:10
>>254 決定論って「事前に決定されている」という程度のものであって、
事前にどう決定されているか(「どう」ってのは、行為の具体的なレベル)というところまで言及するものではないはず。
なので、決定論によって「事前にこう決定されている」と具体的に呈されているわけじゃないから、
「それに反対する行動」とかを議論することはムリなんじゃない?
257 :
なななななし:01/12/05 18:06
>>256 >>255で言いたかったのは、決定論にたいしては言われているような
一種、特例的な在り方を認めるのに、自由意志には何故それを認めない
のか、条件をそろえなければおかしいではないかということ。
決定論が256でいうようなものならば、自由意志もまた、客観的に
明示されるようなものである必要はない。
>「それに反対する行動」とかを議論することはムリじゃない?
いや、原則論あるいは原理論的にならば議論するのは可能だよ。
べつに個別のケースを挙げて検証してもいいが、しなくてもまた
成立する。
258 :
なななななし:01/12/05 18:20
(257のつづき)
さらに、決定論が「(物事は)事前に決定されている」というものならば、
論理としては、というより文章としてさえも、成立してないと思う。
やはり、(何が)決定されているのか、というところまで規定できるもので
なければ、何も言ってないに等しいし、たんに包括的なだけである。
259 :
考える名無しさん:01/12/05 18:27
精神が物理法則に支配されているか、興味ぶかいですが
もしされているとして、されている私たちの脳は永久に
それを理解できないのでは?
支配されているかどうかよりも今ある中で精一杯
生きるしかないのでは。
いまある支配から逃れたら今以上に知的、肉体的に優れている存在に
なったとしても、そのときまた、自分の知性は何かに支配されているのでは?
という疑問があがるような。
そもそも完全に物理法則から離れた自由な存在なんて
想像もできない。
今目の前にある仕事、家庭、学校、から自由になったらいいな。
みたいな次元の自由とはまるっきり異質な
孤独な存在?
自由って縛られている部分があるからある発想であって
縛る鎖が無ければ自由なんて概念も無いでしょう。
そして宇宙に存在する限り縛られない物なんて一つも無い
他の物質なり、分子なりに影響されるだけで完全な自由はない。
存在しなければ拘束も無ければ自由も無い。
厳密な自由を求めれば存在出来ないのでは?
我々に観察された時点でそれらはすでに自由ではない。
そんな”もの”があっても少なくとも我々知的生命体には
関係ない、のではないかと思う。
精神が物理的な脳を通じて別の世界から来て我々を動かしているとしたら
話は別ですが、それはもう信じる信じないのレベルの話でしょうね。
私は物理法則どころか、人間社会の中で限定された生活を送っていて、
さらにそれをむしろ、楽しい、と思っているので、
あえてその支配から逃れて無のような存在になりたいと思わない
261 :
なななななし:01/12/05 18:33
>>259 何がどう違う?
おれの論旨が? それとも決定論のとらえ方が?
思わせぶりに惑わせないでくれ。
262 :
考える名無しさん:01/12/05 18:37
>>261 よくわかんないけど、違うかも、と思った。
激しく同意みたいなもの。
263 :
なななななし:01/12/05 18:43
>>260 あなたがそんなことを考えられるのは、意志の自由性があるからじゃないの?
本当に縛られているものは、そんなことすら考えないんじゃないの。
やっぱり、ひとは、自律的な体系システムからは、疎外された生き物だと
思うよ。
人間は、自分が存在する、その仕方まで対象化することができる。
それゆえに、自分が何をするか、自分の一存で方向づけることができる。
ただし、そのための材料となる物質はもちろん物理的条件下にあるが。
だから、ひとは完全な剰余性として在るわけで、だからこそ、文明や文化をつくりあげる
こともできるのだろう。それらは必ずしも人間にとってなければならないという
ものではないだから。
>263
自由意志はある、と思います。
ただそれが物理法則や他の干渉から完全に逃れた
存在であるかどうか?は
分からない、わけですが、
それがわかったら我々の思考や生き方に影響を与えるのか?
ってのが私の疑問です。
私はそんなに無い、と思っています。
さいころを振ってその通りに行動する人形の例が出ましたが。
たとえそうだとしても、そのさいころが人形の理解できない以上の
パターンを持っているなら、人形はその条件下での自由しか
語れないのではないかと思います。
さいころを自分の手で転がしたい、と言うのは先ほどのべた
完全に孤立した無みたいなものではないかと思うのですが。
265 :
なななななし:01/12/05 18:59
>>264 自由意志はあっても、それを実現する世界は物理法則に従っているため
結局は、完全な自由はないということになるってことだね。
だけど、それは自由意志がないということを意味するのではない。
でも、自分の意志で世界は(変えるとまではいかなくても)方向づける
ことができる、と考えるのと、自分はどう動こうが世界に関係ないと
考えるのとでは、大きな違いがあると思うよ。
むしろ、人間はさいころを転がすだけではなく、作ってしまうのだと思う。
(おれの方が「な」が三つ多い)
266 :
考える名無しさん:01/12/05 19:02
>>263 現代科学を否定するなら根拠を示してください。
思考形式という物は今までの経験から形成されるわけで、他者と係わり合いを持っている以上、
独立な存在などという物は無いと思うのですが。
何者からも全く影響を受けない物質なんて物が存在するとしたら、それは我々人間には認識できないでしょう。
認識された時点で干渉してるわけですから。
物理法則に反せないことが
自分の意志で周りに影響を与えないってのは
極論だと思います。
人間社会や、地球全体に影響を与える可能性は
多分にあるかと思います。
周りに影響を与え、与えられるというのも物理的に完全に
自由では出来ない芸当だとおもうのですが。
我々を縛る鎖は無数にあっていろんなものとつながっている
そのつながりが文化や社会を築いているのでは?
それが主観でじゃまな時だけ不自由、だと認識するのでは
ないでしょうか。
268 :
考える名無しさん:01/12/05 19:10
>>267 自分の意思で宇宙全体に大きな影響を与えるかもしれない。
私が「思う」事で厳密に見れば既に何らかの影響を与えているのだろう。
だが、その思うという行為すらも今までの経験(生まれてからだけではなく、生まれる前の遺伝的な物も含めて)
で形成されているわけだ。
故に、独立した自由な意思など存在しない。
私が何を思うかも既に今までの経験で決定されていた。
ただそれが認識できないだけで。
269 :
なななななし:01/12/05 20:25
>>266 現代科学を否定しているのではなくて、限界があると言いたいのだよ。
だけど、その限界内では完全を保ちえるのだから、それはそれでいい。
科学の限界を示す例として、たとえば、人間の脳の構造がわかって、
どういう作用を与えればどのような反応を起こすかというのが明らかに
なったとする。そして、科学者は人間の脳に電極かなんかを差し込んで
実験したとする。そして、その結果は予測どおりだったとする。
だけど、その電極で実験するか否かは本人の意思しだいだし、さらに
言えば、実験する科学者の意志による。
これは、物理的レベルとは異なる次元に意志のレベルが存在するという
ことだね。
それはまた、あなたの二つめの疑問への答えにもなるけど、結果が
認められるところには意志が必ず存在するとニーチェもいってるね。
意志がないところには、ただの関係の連鎖しかないから。
意志を働かせたうえで、科学的実験などで事象を切り取ることによって
結果は「つくられる」。
270 :
なななななし:01/12/05 20:38
>>267 物理的(現実的)レベルと意志の存するレベルは異なるというのが前提
にあるんだ。(あなたも264で「自由意志はある」といってたけど、なん
だか話が錯綜してるようだ)。
そして、あなたが言うような、社会的な影響や関係性は、意志のレベルの
作用関係であって、物理法則にのっとったものではないということ。
271 :
名無しさん:01/12/05 21:26
>>257 >>258 >
>>256 >
>
>>255で言いたかったのは、決定論にたいしては言われているような
>一種、特例的な在り方を認めるのに、自由意志には何故それを認めない
>のか、条件をそろえなければおかしいではないかということ。
申し訳ないが、解りにくい文章ですな。
決定論に特例的なあり方なんてないように思えますが。
「自由意志」は1つの概念ですが、「決定論」はあくまで「論」ですので、条件を揃える必要は、特にはないはず。
>決定論が256でいうようなものならば、自由意志もまた、客観的に
>明示されるようなものである必要はない。
別に決定論が客観的に明示された覚えもないですけど。
根拠的なものがあっても、完全な実証とか反証とかはしようがないという部分が大きいかと。
>>「それに反対する行動」とかを議論することはムリじゃない?
>
>いや、原則論あるいは原理論的にならば議論するのは可能だよ。
>べつに個別のケースを挙げて検証してもいいが、しなくてもまた
>成立する。
私がそこまで話してた内容からいうと、「それに反対する行動」を仮定することは無駄である、という意味だったんです。
>さらに、決定論が「(物事は)事前に決定されている」というものならば、
>論理としては、というより文章としてさえも、成立してないと思う。
決定論は、周りに因果法則があると気付いたら、そこから直観的に導き出されてもおかしくない内容であると思われます。
論理的な成立がどういったことなのかよく解らんです。
>やはり、(何が)決定されているのか、というところまで規定できるもので
>なければ、何も言ってないに等しいし、たんに包括的なだけである
何が決定されているのかというところまで規定できるものではなければ何も言っていないに等しい、ということもないと思われます(これは1つのスタンスに過ぎないんでしょうが)。
「何らかの仕方で」決定されているという言い方もある。
272 :
考える名無しさん:01/12/06 02:22
麻雀の上級者は牌の流れだけではなく相手の意志動向をも読むそうです。
「次に東家は牌を切った後タバコを吸い始める」とか
「西家がコーヒーを飲むと同時に北家が背中をポリポリと掻く」とかまで
273 :
考える名無しさん:01/12/06 02:25
それは癖を見抜いてるってことだろ。
自由意志の議論と同繋がってくるの?
274 :
名無しやろー:01/12/06 02:42
私たちは有限の存在で未来の完璧な予測は不可能なので、
自由意思を持つように思える。
因果、運命とは全知全能の存在の視点から見た概念である。
私たちには未来の完璧な予測は不可能なので、自由意思で物事を判断するしか
ないと思われ。
278 :
考える名無しさん:01/12/06 05:40
>>272 >>273 >>274 本人にとっては自由意志による行為かもしれませんが、
読みのできる対戦者からすれば決定されている行為となるのではないでしょうか。
配牌の時点で「この局は8順目に南家がツモ上がりする」と読む人もいますからね。
上がった本人である南家はわからないのに
高確率の予測なら、神のような視点でなくても、
第三者の視点からでも因果がわかることもあるでしょう。
他人の方が自分より自分のことを知ることができることもある。
自分のことを一番知らないのは自分なのかもしれない。
>>269 全然266の言ってることがわかって無くない?
その電極の実験で言えば、被験者の意思も科学者の意思もこれまでの経験で作られているわけで、
完全に独立した意思などという物ではない。って事を言ってるんでしょ。
観測するという行為を行った観測者の意思は、これまでの経験で作られていて、
これまでの経験となった存在はさらにこれまでの歴史で作られていて...
起源が何かなんてわかってないけど、連続している呪縛からは逃れられないよ。
独立した意思という物が存在するとしたら、世界の起源となった意思だろうね。
>>279 あんたこそ全然分かってい無くないか?
なななななしのいっているのは『どう』呪縛されているのかが
分からなけりゃ何もいってないに等しいつってんだろ?
281 :
考える名無しさん:01/12/06 13:32
282 :
名無しやろー:01/12/06 14:18
>>279 なななななしに部分的に同意(ってことになるのかな)。
>被験者の意思も科学者の意思もこれまでの経験で作られているわけで、
の辺りについて言うと、
意思は、今までの経験によって作られるってのも、
「意思が今までのどの経験を根拠として選択するのか」っていう自由(自由性)があるんじゃないのか?
もしそれを包括してしまう経験(など)の背景があるとしても、それは、意思の自由性を完全に否定したものではなく、
自由性と不自由性が同居してるって見ていいんじゃないか?と思われます。
ちょいと外れますが、なななななしは物理的レベルと意思のレベルを分離してますが、
そこまで意図的に分割する必要もないと思います。
しかし、物理法則で意思が自由であるということを証明したり反証したりするには、
物理レベルから意思のレベルを媒介するモデルを立てる必要があり、今の段階では、
そんなモデルを思い付いた人はいないはずです。
アインシュタインのいう「新しい思考法」の中にこのモデルの具体的着想も含まれるのでは。
>>280 なななななしは決定論に対しては、そうやって反駁してますが、
ここでは、何かそういったことではないように思われ。
283 :
名無しやろー:01/12/06 14:22
>>282 >自由性と不自由性が同居してるって見ていいんじゃないか?と思われます。
の続きということで。
更に、いろいろな経験を根拠として、今まで自分を拘束していた包括的な経験=背景を解消してしまえる可能性も、
意思の自由性の一部と見ていいのでは。
284 :
考える名無しさん:01/12/06 16:26
だからとっとと自由意志の定義を示せつってんだろ。
「自由意志はあると思う」っていうだけじゃ意味ないんだよ。
だいたいなあ、そんなこともしないで物理がどうこう言うなよ。
明確な定義がないと決定論や因果律との関係性も見えないだろうが。
因果律や物理法則といったものの概念的問題と矛盾しない
定義ができるものならつくってみろよ。
>>232 「意思が今までのどの経験を根拠として選択するのか」なんて選択の余地などありません。
今までの全ての経験(先天的な物、後天的な物全て含めて)ひっくるめて、判断がなされるわけですから。
上の方でも出てますが、生まれて1秒後の行動、2秒後の行動〜100年後の行動、と連続しています。
そこに偶然性は無く、必然的になるべくして成っただけのことです。
そしてその因果関係が証明不可能なだけで。
287 :
名無しやろー:01/12/06 17:29
>>286 選択の余地はあると思います。
判断が、まさに意思という場所においてされる限り。
私たちがアンビヴァレントな状況に陥った時、最終的に何らかの結論を下さねばならなければ、
そういった選択性を強く感じるでしょう。
それをも必然と言い切るのは、意思がどんな決定を下しても、過去となってしまえば、決定はたった1つしかない、
という事実(と時空の連続性?)からのアナロジーじゃないでしょうか。
これも証明不可能ですが。
と言うより、証明するのがナンセンスなことでしょうが。
288 :
考える名無しさん:01/12/06 17:40
自分まだまだヒヨッコですが、話を通じやすくするために、新語をつくってみました。
気に入ったら使ってやってください。突っ込み歓迎。
<完全自由意志>
他から全く制約されず、完全に自発な決定に基づく意志。
<完全決定論>
全知全能の存在から見れば、万有が辿り得る道筋は一つであり、不確定性も選択の自由も無いとする論。
よって、完全自由意志も無いとする。
289 :
考える名無しさん:01/12/06 18:16
自由意志とは言葉で言うほど自由ではないということか
290 :
名無しさん:01/12/06 18:21
é
291 :
考える名無しさん:01/12/06 20:29
>>287 証明不可能なことをあると主張するほどナンセンスなことはないぜ?
しかもこの場合は原理的に証明不可能だ。
292 :
考える名無しさん:01/12/06 20:30
>>284 戦争じゃねえんだからあんたがそれを定義する事もできる。
293 :
名無しやろー:01/12/06 20:32
>>291 今まで哲学の中で完全な意味で証明されたのってほとんどないんじゃ?
そうそう証明っていうのは前提があって初めて証明って云えるんだよ。
それをたかが絶対的なものとして捉える事もナンセンスというか
証明の意味が間違っている。
295 :
名無しやろー:01/12/06 20:41
>>294 と言うより、哲学論題を「証明しよう」という行為が、けっこうナンセンスでは。
論理があっても、ことさら証明というほどのものはないと思われる。
デカルトの神の存在証明にしても、その証明結果自体が彼の主張の結論ではないはずだし。
296 :
考える名無しさん:01/12/06 20:54
>>288 288を見て思ったのだが、因果関係に縛られない
自由意志があるという人は、自己と外界を分けて考える時
「ある状況に対してとる行動」の「ある状況」の部分を、
外界に対してしか明確に指定せず、自己の内部状況を
ブラックボックス化して考えていないだろうか。
ただしここでの
自己=精神活動を行う脳の状態
外界=外部の情報(場所、光、音、におい、その他あらゆるもの)
つまり因果関係(A→B)をみるときに初期条件Aを勝手に
A=A_in(自己) + A_ex(外界)
と二つに分け、
A_ex→B=B_in + B_ex、
つまりA_inを見ない(もしくは、暗に知ることのできない情報が
含まれていると仮定して一部の情報を欠落させた不完全なA_inを用意して)
ことから生じる不定性を「自由意志」と呼びたがっているのではないだろうか?
そのへんの自覚はあるのかないのか知りたい。
297 :
考える名無しさん:01/12/06 20:57
>>293-295 完全に形而上の世界に引きこもっているならそれで
かまわないのですが、実際に世の中で起こっている現象に
絡めようと思うのならなんらかの実証方法が存在しなければ
ダメでしょう。
298 :
名無しやろー:01/12/06 21:10
>>297 そうなのは解ってるんです。
実際のところ、上のほうの決定論だって、頷けるし、
自由意思が取り敢えずある、ってのも頷ける。
だいたい一理あるな、と思えば、それでよい……と私は思っています。
「だいたい一理あるな」=ある程度の論理性ですよね。
「と思えば」=1人が思うんじゃなくて、ある程度の人々がそれに賛同する(共通的)。
形而上学に引き籠もらない場合、例えば、行動情報学などの分野でも、実証って難しいですよね。
ある実験が証明しても、別の実験は反証してしまう、など。
実証を伴うとはいえ、これでは、方法論的に形而上学と危うさとして大差ないように思えます。
実験という手段が余り取り得ない哲学という分野だと、「何らかの実証方法」ってどんなんだろう?
余り実証方法にこだわるのも感心しないでしょうが、確認方法は、共通諒解くらいしかないように思われますが。。。
299 :
名無しやろー:01/12/06 21:20
300 :
考える名無しさん:01/12/06 21:21
>296
自由意志のある側からも反論させていただく。
そもそも原理的に前の状態が分かっていれば後の状態も分かる。
のは分かるんだが、
「前の状態が分かっている事として」
自由意志をどうこうというのはお話にならないと思う。
そんなん自由意志はないに決まってるがな、大事なのは
実際に全ての前の状態を分かってるってどういう事よ?って事だな。
301 :
考える名無しさん:01/12/06 21:25
>>300 自由意志が存在するという主張があるんだから、
自由意志による結果を他と区別しなければならないだろう。
それに必要な情報のことだよ。
302 :
考える名無しさん:01/12/06 21:49
まあ300のいうことももっともなのだが、これは要するに
不定な部分を「人間がチェックしきれていない情報があるせい」
ととるか「人間の自由意志による結果」ととるかの違いなのではないか?
ということだ。前者の立場をとって、徐々に精度を高めていく
ことを選んだのが科学的手法一般なわけだ。
これは要するに解釈の問題なわけで、どちらの立場も完全に
正しいと証明しきることは不可能だな。
ただ、情報の欠如というものは何も人間の行動にのみ
伴うものではないわけだ。ある程度複雑な現象には不可避な
ことで、その中で人間を特別扱いするのは不自然ではないだろうか。
人間に自由意志があるなら猿には…犬には…虫には…細菌には……
きりがない。明確な線引きなどあろうはずがないんだから。
このレスでは勝手に自由意志を定義してしまったが
それ以外の定義があるなら言ってくれ。不適当な定義か、
このレスの定義と等価な表現にしかならないんじゃないかと思うけどね。
まあどの立場がもっともな解釈か考えてみておくれ。
あと、量子力学は確率がどうこうは、この解釈の判断には
関係ないから分けて考えてね。
303 :
考える名無しさん:01/12/06 21:58
>>296 同意。
脳医学の進歩により、思考すらも電気信号だとわかりかけているこの時代に、
外界と隔たれた独立した自由な意思なんて物が存在すると思ってる時点で会話にならない。
自由意思否定派は意思が無いと言っているのではなく、意思すらも外界の刺激によって
形成される物なのだから、独立した存在では無いと言っているのだよ。
それに対し頑なに「自由意思はある」などと主張されても議論にならない。
明確にしておきたいのは「これは解釈問題である」ということであり、
また科学の方法論上「自由意志の領域は狭まる一方である」
ということでもある。無論、完全に消滅することはない。
世の中の現象の"すべて"に対して検証を行うことは不可能だからだ。
"すべて分かった"と確認することは不可能、と言い換えても良い。
重要なのは296や302に順ずる定義による「自由意志」の存在によって、
何ができるか?何が言えるか?ということだ。
305 :
名無しやろー:01/12/06 22:39
>>303 部分的ツッコミですが。
>>296にもつながるかもしれん。
>脳医学の進歩により、思考すらも電気信号だとわかりかけているこの時代に、
不正確。思考が電気信号だ(と解りかけている)とは誰も言っていない。
思考を起こすものが電気信号(特に脳内のニューラルネットワークの電気信号)であると言うに過ぎない。
「思考」という「精神的な」レベルと「電気信号」という「物理的な」レベルとを介するモデルが提唱、そしてその実証については、まだ何もなされていないように思われる。
306 :
名無しやろー:01/12/06 22:41
>>305 また最後日本語おかしかったね、、、鬱。
307 :
考える名無しさん:01/12/06 23:54
>>303 >>自由意思否定派は意思が無いと言っているのではなく、意思すらも外界の刺激によって
>>形成される物なのだから、独立した存在では無いと言っているのだよ。
>>それに対し頑なに「自由意思はある」などと主張されても議論にならない。
もし外界の刺激により形成された意思自らが
「自由意思はある」
と表現した場合、不都合、不整合なのだろうか?
308 :
考える名無しさん:01/12/07 01:22
>>307 何言ってんの?
それはこのスレの内容そのものだろが。
また1に戻るのか?
310 :
考える名無しさん:01/12/07 01:44
311 :
考える名無しさん:01/12/07 02:04
312 :
名無しやろー:01/12/07 02:06
――――――仕切り直し――――――
なんかぐちゃぐちゃになってきたので、仕切り直し。
どきゅんで冗漫だけど、それだけ簡単な内容だから、誰かレスして。(w
特に哲学に詳しい人。お願い。
自由意思と因果法則を巡るパラドクス。
メンドイので、自由意思と決定論を巡るパラドクスに置換する。
このレス論調は、上の方で繰り返し要請されていることだけど、
自由意思の定義することと、パラドクスがどんなものか具体的に同定すること。
自由意思を定義しても、パラドクスが何なのか言わなきゃ、スレの議論が先に進まない。
上の方で、パラドクスが何なのか言ってないがために、
ちょうどそのパラドクスに陥っているレスが多いように思われるが。
要旨(レス番ずれたらスマヌ)
>>313 自由意思と決定論を巡るパラドクス
>>314 >>312を1回だけ展開
>>315 おまけ 物理学の決定論
313 :
名無しやろー:01/12/07 02:07
>>288のような「完全自由意思」と「完全決定論」とのパラドクスは、個人的に好かないので、パス。
私は、自由意思を肯定したいが、さすがに「完全自由意思」を肯定する気にはなれない。
あと、取り敢えず、物理学が全てを決定付けてくれるってのも、パス。
それとか、量子レベルでの説明、不確定性原理を援用しての自由意思肯定もパス。
理由は
>>305にある通りということで。
>思考が電気信号だ(と解りかけている)とは誰も言っていない。
>思考を起こすものが電気信号(特に脳内のニューラルネットワークの電気信号)である
>と言うに過ぎない。
>「思考」という「精神的な」レベルと「電気信号」という「物理的な」レベルとを
>介するモデルが提唱、そしてその実証については、まだ何もなされていないように思われる。
物理的なものについてはもう1つ言わなきゃいけないと思うので、それは下にて。
パスを連発したが、別に無視してるわけじゃない。
反論時に私の論調に絡んでくるなら、援用可だしね。
パラドクスは、次の点にあると思うのだが。
同時に、自由意思がどんなものか、定義できる(定義というほどしっかりしてないけど)。
決定論では、過去も1つであり、未来もゆくゆくは1つに確定されるものであり、結局1本道である。
一方、自由意思は、過去の経験などを背景に、選択的に次の行為を選ぶ
(ホッブズ的かも。思考することも行為である(行為である部分を持つ)とするなら、完全にホッブズか)。
選択的であるとか、意図的に何かを選び取っているとか、そういったことは、私たちは日常的に知覚している。
逆に、自由意思の定義はこれということで。完全に自由ではなく、ある程度の選択の幅がある、ってこと。
ここで、考えられ得る選択肢は、全てそれぞれ現実となる可能性を持っている。
決定論における「結局1本道である」ってのと、
自由意思があるとする理論における「考えられ得る選択肢は、全てそれぞれ現実となる可能性を持っている」ってのが、パラドクスを成立させている。
314 :
名無しやろー:01/12/07 02:07
もう1つパラドクス。上記のパラドクスの変奏と思われ。
でもって、自由意思があるとする立場からすれば、
「結局1本道」というのは、虚構的だ。
なぜなら、それは、何事も選択すれば1つに決まってしまうという事実を、
超越的に視点を未来に飛ばして表現したものに過ぎないから。
過去も1つであり、未来もゆくゆくは1つに確定されるものであるなら、
現在という時点で、意思が1つに確定するという自由を持つ。
つまり、過去の影響で現在の意思がどのようなものか決定されているが(仮定されていようと実際そうであろうと)、
それでも自由意思が否定されないのは、未来を決定するのが、影響を与えた過去に属する諸要素ではなく、
まさに現在の意思であるからだ。
で、反対に、決定論からすれば、
私たちは、あくまでこの世界内に存在しているものであり、
ボールを投げれば抛物線を描くように、意思も何らかの法則を持つ。
意思も自然から発生したものであるし(ここでの自然の定義は適当に推測して)。
自由意思が幾ら選択性を持っていても、それには規範、善悪、順当性が伴う以上、
それは(たとえ物理学的な因果率に還元されなくても)大きな因果の流れに組み込まれていると考えてもおかしくない。
もちろん、これには、自由意思を肯定する立場からは、
意思は自然から発生したものであるが、逆に自我を持つレベルにまで発達したからこそ発生したのが、
自由意思という余地ではないのか、という反論が来る。
>>304の言う通り、解釈問題に位置付けるなら、こういった解釈の対立になると思う。
私たちが日常的に何かを意図的に判断しているという感覚を重視する解釈(自由意思があるとする理論)と、
私たちは実際にこの世界内に存在している存在者であり、
その世界には何らかの大きな因果律があるという感覚を重視する解釈(決定論)との対立。
思ったんだけど、行動や思考のレベルでの決定論って、
物理学の基盤にあると言うより、行動学とか社会心理学の基盤にあるよね。
第3者からは(つまり実験のように純化された状況では)行動は決定的であるって。
315 :
名無しやろー:01/12/07 02:08
以下、ずっと決定論についての補遺ということで(こだわってる人多いし)。主に物理学など自然科学の問題。
@完全な決定性
A物理的な決定性
B記述レベルでの決定性
C観測レベルでの決定性
上で書いた決定論での決定性は@のやつ(物理法則に還元できるかどうかは問わない)。
対して、一切は物理法則に還元できるとかいうのは、Aの決定性を前提にしている。
B、Cは現実レベル。
物理学にかかわるのは、A、B、Cの決定性です。
決定性は確定性ではないので、観測レベルでの決定性は、差し当たり観測問題を指すものではないです。
簡単に言うと、物理的因果律(A)を想定して、観測(C)と理論構築(B)を繰り返して、理論体系を精緻化するってこと。
ここから先、論理があやふやなので、誰かフォロして。
かなり上の方のレスでの言葉遣いがイイ加減だったから、ちょっと精密に使ってみた。
B、Cが「実際に人が」予測可能か、ということにつながり、
Aの決定性が「物理的という意味での原理的に」予測可能か、ということにつながり、
@の決定性が「もう何でもいいから原理的に」予測可能か、ということにつながる。……ということでいいのだろう。
これが正しいなら、物理学の姿勢(理論精緻化のプロセス)から言って、
@の意味で原理的に予測可能か確かめるのは、ナンセンスってことになる。
Aが問題とされてると思われます。
現に上の方のレスでの決定論を主張する人で、科学を持ち出す時は、@じゃなくてこの意味だと思うが?
Aは無条件で仮定されるものではないと主張したいです。
たしかに、仮定する際に、ある程度は無条件であるのですが。
@を背景にして直観的にAが生じたってのも大きいだろうけど、
やはり物理なら実証性を問題にしたい。
Aは前提であると共に、目的でもあるんだから、
B、Cとは、一方通行の関係ではなく、相補的な関係にあるんじゃないか。
つまり、物理的に予測可能を前提として、観測と理論構築を繰り返し、
また、それを根拠に物理的な予測可能性(因果律)への確信を深める。
その時に、因果律があるということだけじゃなく、
漠然とであれ、どのような因果律かということも確信を深めるのだろう。
従って、かなり上のレスで主張したことと同じになっちゃうんだけど、
物理的に原理的に予測可能か(A)ってのは、人が予測可能か(B、C)と密接にかかわっている。
それは物理学のスタンスから言って、当然であろう。
これちょっとおかしいよなぁ。@とAを明確に分断していいとは思えないし。
@に機械論的って限定を加えるとAになってくれるかも。それなら、@、Aに連続性が出てくるかな。
全知全能の神 私はあなたの来年の12月7日の夕食が何かを知っている。
自由の人 そんなはずはない。それはその時の私が決めることだ。
全知全能の神 これは決まっていることなのだ。私は全てを知っている。
自由の人 私は自由だ。私に選択肢はたくさんある。勝手に決め付けないでほしい。
全知全能の神 あなたに選択肢というものはない。あなたは無知なだけである。
自由と未知は表裏一体である。そして、全知全能は我々からは遠い存在である。
317 :
名無しやろー:01/12/07 02:13
>>314 >思ったんだけど、行動や思考のレベルでの決定論って、
>物理学の基盤にあると言うより、行動学とか社会心理学の基盤にあるよね。
>第3者からは(つまり実験のように純化された状況では)行動は決定的であるって。
単純に書き過ぎました。
不正確な言い方でした。
最後の文、なかったことに。
>>316 今いいところなんだから黙っててくれYO!
区切りがついたらいくらでもいっていいから(ワラ
319 :
考える名無しさん:01/12/07 02:38
>>315 1・2・3・4の意味がさっぱりわかりません
「物理的に」と「原理的に」の意味も明記してください
>>318 ゴメソ、読み飛ばしてくれ。しかし名無しやろーさん長文だ。
重要なところはどこだ?
321 :
考える名無しさん:01/12/07 02:39
それと、解釈問題だと言った意味がわかってもらえなかったようですね
>>321 同意。視点が違うだけで、パラドックスではない。
323 :
名無しやろー:01/12/07 02:48
>>321 あなたの言う解釈問題とは違うってことは解ってます。
全く別の方法で論じてるんだし。
解釈問題とするなら、ってことです。
>>322 視点を変えると、結論が逆になってくるってことで、パラドクスです。
純粋な論理的パラドクスを導くつもりはないので。
324 :
名無しやろー:01/12/07 02:51
>>320 最初のこれです。
>自由意思の定義することと、パラドクスがどんなものか具体的に同定すること。
↑日本語間違ってる。(ウツ
325 :
なななななし:01/12/07 03:07
離れているうちに話が進んでるみたいだけど、どこから手をつけていいのか
分からないのでとりあえず自分の言いたいことを言わせてもらいます。
そもそも科学は、分析的かつ実証的であることをその本分としている
はずだろう。
それが何故、決定論についての言及においては、包括的で原理的な神学と
なっていることに平気でいられるのか。そこでは、科学の本質とされる
分析性、実証性が閑却されている。それが単純に疑問である。
そんな中で言われる決定論は、もはや科学的真理などでなく、信念の表明に
過ぎないだろう。
むろん、かつての欧米の科学者たちのもつ不合理な信念(それは宗教的思考と
密接な関係がある)が科学をここまで進歩させたという事実があるけども、
その事実こそがまさに、世界は意志によって発展してきたということの証に
なっていると思う。
科学はあくまで世界をはかる物差しであり、ひとつの物の見方だと思う
(それが大きな意義があるのは言うまでもないけど)。
もちろん、決定論が証明できないからといって、そのことがただちに、自由意志が
あるということの証明には厳密にはつながらないのだけど、いまの文脈(スレ題)に
おいては、決定論が成り立たなければ自由意志が認められるという問題設定のもとで
話をすすめてきたのだろうだから、それは背理法的に証明されることになるのではないか。
326 :
なななななし:01/12/07 03:10
あと一つ、素朴な疑問なんだけど、
たとえば、私が書いた上のレスにたいして、ある者は反論するかもしれない
し、またある者は同意し、またある者は無関心だったり無視したりするかも
しれない。
そして、その反応にもとづいて行動するかもしれない。
そのような事態にたいして、どのような法則性があるというのか。
327 :
名無しやろー:01/12/07 03:37
>>319 じゃあ
>>315の補足。
私よりもキレイにまとめられる人いると思うが。
ってか、
>>315に書いたじゃん。よく解らんって。
物理的にってのは、物理学的にって言った方がよかったかも。
物理学者の理論の射程内ってことです。
唯物論的とか機械論的とか、そんな感じです。
世界を計算可能な対象と見るといったところ。
やたらと包括的な一般的な決定論の因果律を、唯物論に限局すると、
物理的な因果律(決定性)になるかと。
原理的って、実在原理といっていいのかな。
世の中の原則はこのようなものだろ、っていう根幹を指す。
@完全な決定性
A物理的な決定性
B記述レベルでの決定性
C観測レベルでの決定性
メンドイので、具体的に書く。
@:何となく世の中は大きな因果律に載っていると直観。
A:その因果律は数値とか関数に置き換えていけるのでは、と思う。
C:データ採取。
B:定理にまとめる。定理を組み合わせたりして、また新しい定理を作成。
C:それを実証する。
A:B、Cがうまく繰り返せるので、やっぱり因果律はあるんだと予想する。
以下、A、B、C繰り返し。
この中で科学が技術に応用され、観測(C)の幅が広がり、
今までの理論(B)では説明のできないことが出てくる。
でも、発想を転換し、理論体系を広げる(B)。
すると、データに合致し(C)、うまく説明できる。
A:また因果律があると確信深める。
>>327 2,3,4はひとまとめで決定性が出てくる。だがそれは部分的な現象について
のみである。
329 :
考える名無しさん:01/12/07 03:53
はぁ…
330 :
名無しやろー:01/12/07 03:57
331 :
名無しやろー:01/12/07 04:00
>>328 うん、そういうこと。
ひとまとめ=相補性ってことで。
部分的な現象=全事象を機械論的に限った場合のみってことでいいの?
332 :
なななななし:01/12/07 04:07
>>327 いや、そこで言われてるのをひっくるめて原理的というと思いますよ。
それらが実証的、分析的ではないという意味で。
あと、どこかで名無しやろーさんは、物理レベルと自由意志の存する
レベルとを切り離す必要はないと言ってたけど、やはり、それが「自由」
たりえる為には独立の領域になければならないと考えます。
でなければそれは作用・反作用の連鎖に組み込まれることになるから。
自由意志はそれ自体固有の連鎖関係をもち、また、物理的な世界と相互に
影響しあうような関係(この関係には因果性や法則性はない)をもつ世界
といえるか。
ここでいう部分的とは科学者の固い頭で考えられる範囲。
完全な決定性は哲学的な広い範囲では?
335 :
名無しやろー:01/12/07 04:20
>>332 >
>>327 >いや、そこで言われてるのをひっくるめて原理的というと思いますよ。
>それらが実証的、分析的ではないという意味で。
ごめん、これ、どういう意味ですか?
>あと、どこかで名無しやろーさんは、物理レベルと自由意志の存する
>レベルとを切り離す必要はないと言ってたけど、やはり、それが「自由」
>たりえる為には独立の領域になければならないと考えます。
>でなければそれは作用・反作用の連鎖に組み込まれることになるから。
>自由意志はそれ自体固有の連鎖関係をもち、また、物理的な世界と相互に
>影響しあうような関係(この関係には因果性や法則性はない)をもつ世界
>といえるか。
それちょっと考え直してみました。
>>313 >>314 参照ということで。
そこでは、自由意思を認めており、そうなると、ある種の特異性を認めることになり、
それがレベルわけになっているかもしれません。
>>333 >ここでいう部分的とは科学者の固い頭で考えられる範囲。
>完全な決定性は哲学的な広い範囲では?
うん。
ありていに言えば、そういうことです。
336 :
名無しやろー:01/12/07 04:25
>>335 >自由意思を認めており
自由意思を認めているところだと、に訂正。
337 :
名無しやろー:01/12/07 04:28
338 :
名無しさん:01/12/07 04:54
今晩最後。
>>335 物理学を取り敢えず切り離す作業をしたので。
その理由も書きました。
339 :
なななななし:01/12/07 05:00
>>335 そこでいった原理的とは、「原」理論的とでもいえるでしょうか。
実証的、分析的に対置されるものです。
340 :
名無しやろー:01/12/07 05:10
>>338は私です。
最後とか言ってたけど、レスがあったので。
>>339 諸理論の源泉に位置するってこと?
理を理論の意味で使えるのか?
原理は結果的に原-理論になるんだろうけど。
なんで実証と対置されるのでしょう。
よく解んないので、説明して頂きたいです。
341 :
名無しやろー:01/12/07 05:17
>>339 理論⇔実証っていうことで、対置ってこと?
342 :
考える名無しさん:01/12/07 05:56
世界が決定的か否かについて語るコトバそのものが不確定じゃ
どうしようもないなぁ。
やっぱし「コトバ」の問題ですか?
343 :
考える名無しさん:01/12/07 06:46
ちょっと物理学について言わせてください。
私は昔この種の議論に参加した者ですが、
次に挙げる方達が必ず現れます。
あたかも現在の物理学が完成したかの様に語る方です。
古典物理の延長で決定論的世界観をごり押しする方です。
この方達は、確率的であれ計算出来るのであれば、
つまり法則に従っているのだから決定的だというのです。
この言い方にはレトリックが隠されていて、意志や思考を考慮せず、
又、可能世界を計算して導き出す事がどう言う事かも考えません。
思考や意志が脳の随伴現象であると証明できますか?
果てしなく大きくなる分母の上にのる実世界は決定的なんですか?
量子力学から考えると目の前に物質が突然現れる可能性は
ゼロではないんですよ。
又、現今の世界へ導いた宇宙の始まりは因果的に解明されました?
宇宙生成のシナリオはどれも仮説なんですよ?
物理法則が局所的漸次的なものである可能性を否定するんですか?
科学哲学なんか語るつもりは毛頭無いんですが、言わないと不毛な
遣り取りになるんで言っときます。
もしこの議論をしたいのなら、物理学板か心理学板なりの
該当スレのリンクを貼って下さい。
>>333 だからさ、『包括的なだけ』の意見は勘弁。
誰もそんなのはいらんのよ。ホントに。
あちょーは自分のその場その場で思いついたメタな意見が
有害にしかならないのは分かってる?
今までの議論を整理的に理解しやすくするものでなし。
新たな事をいってるわけでもなし。
省略されている文脈を頭を働かせて理解しようとするほどの価値があるわけでもなし。
sageてるのはなぜ?自分の言うことが見当違いかも〜って思いつつ
でも聞いてくださいとでもいうのか。勘弁な。
まあ普通ならぴかぁ〜や666のようなコテハンが何をどういおうがほっとくんだが、
今あまりにもいい線いってると思ったので。
>>344 333は名無しやろーさんに4つのレベルの決定性について思考の整理を
促しただけです。たいして意味のあることではないのでsage
348 :
考える名無しさん:01/12/07 15:01
>>344-346が同一人物だと仮定してのレスです。
>>346 (前略)今あまりにもいい線いってると思ったので。
と言う部分には激しく同意いたします。
しかし、さすがに、「誰も」とか「有害にしか」とか断定するのはやめましょうよ。
哲学的ではないしね。 お願いします。<(_ _)>
実は目的はage。
349 :
考える名無しさん:01/12/07 17:28
350 :
名無しやろー:01/12/07 23:12
>>343 不肖私のレスを見て頂ければ、あなたの主張に対しては、前以て論陣を敷いておいてあるのですが。
現代の科学が完全であるとは言ってません。
むしろ、不完全であると考えています。
この自由意思と決定論のパラドクスの議論にのぼるには不十分なほど不完全であると思います。
理由は、前に書いた通りです。。。
>ちょっと物理学について言わせてください。
と言うか、ちゃんと過去ログ読んでほしいのですが……
>>350 すんません。
久しぶりに覗いたら懐かしい議論が。
つい条件反射して、、、
352 :
考える名無しさん:01/12/08 04:37
主観→過去は、はかり易く、未来は、はかり難い
客観→過去は、はかり難く、未来は、はかり易い
やっぱりはかる視点問題かな
数学的には未来はわかるが過去はわかり難いっていうし・・・
353 :
考える名無しさん:01/12/08 09:20
ここすごい
354 :
もう終わってしまったのかな...:01/12/08 16:42
自由意志を定義せよと言いますが、問題の本質は、自由意志が定義できないということ自体にあるのではないでしょうか?
自由意志という概念を
>>130のような意味で定義するためには、それを語るための正確な言葉が必要です。
ところが、正確な言葉を使って話をしようとした時点で、もはや自由意志の存在する余地はなくなってしまうわけです。
(集合論のラッセルのパラドックスや混沌の説話を思い出します。)
「自由意志」と呼ばれる何かが存在すること自体は、個人のレベルではほとんど自明なので、むしろ自由意志が厳密科学の言葉で捕らえられないことを前提として、それを捕らえる方法論を探っていくほうが面白いと思いますが。
例えば、ちょっと古いですが、唯脳論というのがありました。
思考は脳の機能であるから、脳で、肉体(ハードウェア)から精神(ソフトウェア)への、ゲームの規則の転換がおきているのだというお話です。
それからすると、自由意志とは脳が見せる幻影であって、脳の機能表から導かれる不確実性ということになるでしょうか。
ただし、この説明には、脳の機能表を作る際に「機能」がはっきり定義できないのではないかという問題があります。
ソフトウェアの機能というのは多義的であって、機能を有限の言葉で語り尽くすことはできない可能性があるからです。
結局のところ、多義的で、開集合で、自己言及可能でもあるソフトウェアの世界を厳密に語る方法が依然として存在しないという事実に行き着くわけです。
そういう意味では、情報科学はデカルト、ニュートン以前の状態というべきでしょうか。
私はよそ者ですが、哲学板には、言説の多義性とか、自己言及とか詳しい人がいそうですが。
>>42?
356 :
考える名無しさん:01/12/08 18:15
根拠も無いのに自由意思があると主張するのはオカルトチック
狂信者と変わらない
357 :
考える名無しさん:01/12/08 18:35
根拠も無いのに自由意思がないと主張するのはオカルトチック
狂信者と変わらない
>>354 定義を促したのは自由意志が証明できない
単なる現象解釈的存在であることを自覚してもらいたかったからです。
そして、その解釈に有効性があるのかどうか、
いいかげんな先入観に満ちた感情や言葉に囚われず考えてもらいたかったのです。
359 :
考える名無しさん:01/12/08 19:26
つまり、人間の中に外界と遮断された「意思」なる物が存在したとしても、証明不可能。
そして存在してないことを証明する事が不可能なのは周知の事実。
つまり自由意思が存在しようがしまいが、関係無いって事ですな。
>いいかげんな先入観に満ちた感情や言葉に囚われず考えてもらいたかったのです。
これって人を馬鹿にしてないか?
自由意志がないという側の人間もただ脳やら何やらの原理がそうだからから〜という
不完全な言い分を振り回して(というかそういうグズに限って
自由意志のある側は感情的で駄目だね、と蝿のようにうるさく付きまとう
それだけでスレを立てた大馬鹿者もいた)
真摯な自由意志のない側と真摯な自由意志のある側の議論を邪魔しているじゃないか。
362 :
考える名無しさん:01/12/08 20:23
>>358の言うことにも一理はあると思います。
ただ、今の場合に必要なのは、定義よりも代表例だと思います。
何が代表例か分かれば、定義ができなくても議論を進めることは可能だと思います。
私は、代表例として、自由意志を持つと考えられる最小の構成を探してみるのが簡単だと思います。
例として、進化の歴史をさかのぼってみます。
人間...
猫...
ミジンコ... (←人工知能はこの辺?)
ミドリムシ...
という感じで、このへんが自由意志を持つ限界かなと私は思います。
何でここで止めたか分析してみると、
- 自分に有利な状況を認識して
(ハードウェアの情報から未来予測や価値判断ができる)
- 具体的な行動を取れる
(記憶装置の情報をもとにハードウェアを動かせる)
という2つのことがあったからです。
ここで、後者が普通自由意志と言われるものですが、そちらは、どうも物理的決定性とは矛盾しなさそうです。
本当のパラドックスは、物理的な階層から情報を集めて価値を決める、という情報の自己組織過程が構成されていることのほうにありそうです。
だとすると、自由意志のパラドックスの本質は、情報論的エントロピーの減少に集約できるのかもしれません。
これは、まさに、昔シュレディンガーが論じたことではありませんか...。
これは一つの例でしかありませんが、自由意志を科学の言葉と絡めて論じることは不可能ではないわけです。
>362
> (←人工知能はこの辺?)
消し忘れです。
鬱だ...
>>360 「ある」「ない」ということを証明する類のものではないと
言う意味なのですが?
>>362 296あたりからちゃんと読んでください
>>364 あんたのいってる事が正しかろうが
あんな説明じゃ誰も納得しないだろうな。
もっと洗練された形でお願いするよ。
あんたのどこそこが駄目、どこそこが駄目なんてだけで相手に分からせられたら
誰も苦労シネーヨ
368 :
考える名無しさん:01/12/08 23:07
>>365 誤解されていると思います。
私は、ここまでの議論では、自由意志の定義に対するアプローチの方法が間違っていると感じました。
自由意志というものは、経験科学の言葉では語れないところに本質があるのだと思います。
だとしたら、正確な言葉で語るためには例示による問題の変換が必要ではないか、というのが
>>362の趣旨です。
人間とミジンコの違いを挙げたのは、
>自由意志のパラドックスの本質は、情報論的エントロピーの減少に集約できるのかも
という結論を導くための方便でしかありません。
重要なのは分類によって定義することではなく、どこで物理のゲームが情報のゲームにすりかわるかという、論理の境目を探ることです。
これは
>>42以降、散発的にしか出てきていないと思いますが。
※ちなみに
>情報論的エントロピーの減少
というのは、物理的にはあってはいけない現象です。
自由意志のパラドックスが、物理のパラドックスに変換されたものだと思って下さい。
書き方が分かりにくくてすみません。
370 :
考える名無しさん:01/12/09 00:33
age
371 :
考える名無しさん:01/12/09 02:23
age
>>369 エントロピーの減少なんて系の一部だけ見てればいくらでも起こるだろ。
分けるのはいいけど、分けて意味あるのか?と言うことを考えてほしい。
373 :
考える名無しさん:01/12/09 04:30
age
>>360 自由意思否定派は科学的見地にたって、あらゆる事象には原因があるって言ってるわけだよね。
けどそれに対し自由意思肯定派は具体的に理論を打ち立ててないじゃん。
原因無く起こる現象なんてのが見つかってないし、意識や魂なんて物も観測されてないしね。
それに観測するという行為自体が対象に影響を与えるとしたら、独立した意思なんて存在できないと言ってるわけでしょ。
だから。自由意思とはどんな状況を指すのか、自由意思肯定派に定義して欲しいってことじゃないの。
少なくともあなたの書きこみ見ていると、感情的になってるのは自由意思肯定派だと思われても仕方ないよ。
肯定派のあなた自身感情的になって、関係無いアホスレにリンクまでしてるんだから。
ちょっと読めばわかるだろうけど、リンク先のスレの1を信じるなら、1がこのスレを読んだのはスレ立てた後。
別にこのスレが原因でスレ立ったわけじゃない。
>自由意思否定派は科学的見地にたって、
>あらゆる事象には原因があるって言ってるわけだよね。
あらゆる事象に原因があるって言ってるのは科学的見地じゃないですよ。
376 :
考える名無しさん:01/12/09 09:45
377 :
考える名無しさん:01/12/09 10:06
とりあえず理論がないって言ってると先には進まないのに
なんでしつこく言うかなあ。
あらゆる事象に原因があるって言ってるのは科学的見地じゃないですよ。
貴方間違ってますよ、っていうか科学の事分かっていってませんよね?
キリスト教だっていってるでしょ?人間を創造したのは神だって。
科学的見地っていうのは『どんな原因』かを調べる(勿論神などではなしに)
事ですよ。あやふやな理解で科学的見地なんていうことはちゃんちゃらおかしいですね。
それでも理論がないから駄目って反論しかいえないなら黙っていて欲しいですね。
378 :
考える名無しさん:01/12/09 10:20
大体、自由意志の定義を皆で考える事もできるのに
なんで一方の論敵(笑)だけに押し付けるのか。
スレの流れでそうなったけどね。
優越感に浸りたいだけの人はやっぱり黙ってられないんだろうね。
379 :
どこかのお姫さま:01/12/09 14:49
>>370 私は,
「自由意志」も「自由な意志」も存在は認めず「自由な行為」は存在を認める
「自由に意志する」「自由に行為する」事は可能
(従って)「自由な意志による行為」は存在する
「自由意志」はテクニカル・タームっぽいのでその意味が不詳
という立場です。
まず、<意志>は純粋持続でも瞬間的な出来事でもなく(ヰトゲンシュタイン,
アンスコム,メルデン,大森荘蔵ら参照)むしろ行為のサブ・セットを限定する形
容なので,その存在を問う事は無意味だ,と考えます。
その上で先ず<自由な行為>(行為は特定の再記述の基での行動ですから存在し
ます)が存在するか否かを問題にします。我々は時に<自由でない行為>を為しま
す。強制による行為や(珍しいですがこの問題に関して重要な事例として)催眠術
にかけられたために為す行為,(所謂)無意識に影響されて行う行為などです。
これらが「自由になされたのでない行為」と呼ばれ,その残余が「自由な行為」と
呼ばれます。
同様の推測が「意志」についてもなされえないでしょうか?<意志による行為>
である条件としては,本人がそれを為している事を意識している事があげられます。
さて,脅迫による行為は,その行為を自らが為している事を行為者自身が認識しな
がらも,その行為を<本心では欲していない>という点において「自由な意志によら
ない」行為である,という事も可能です。
但し,この主張については,強制されているのは<行為>であって<意志>ではな
く,従って,「自由にではない」という形容を(行為ではなく)「意志」に付与する
のは誤りだ,という反論が成り立ちえるでしょう。
しかし,現にそのような場合に<も>「自由な意志によらず」という形容が使用さ
れている,という事実はこの反論を退けます。その違和感は我々の語使用がここにお
いてややリダンダントなのだ,というだけの事です。
380 :
どこかのお姫さま:01/12/09 15:21
とはいえ,それ以外には<自由な意志に>よる/よらない行為,とい
う対比は求められえないのでしょうか?
例えば,催眠術にかけられて,本人にはその理由を(一人称特権的に
は)説明できないにもかかわらず,その行動を為している事を認識して
いる行為,というものは存在します(時折,テレビのショウ等で見かけ
ますね。)この時,ふらふらと窓に近寄り窓を開けた被術者は,問われ
た際に,「窓のドコドコの位置に腕が置かれ,次いで左から右に動いた」
といった行動の記述をではなく,「窓を開けたのだ(何故か私にもわか
らないが)」といった様に行為記述を与えるのです。従って,意志的で
ある,と言い得ると思います。
これなどは,一方で行動の自認があり,行為記述も与えられるにも拘ら
ず,他方ではその行為の適切な理由を行為者が与え得ない,といった点で
行為概念の中心を逸脱した事例です。それは,<意志>が行為者において
通常・適切に持たれていない,にも拘らず,彼/女が<意志なくして>
その行為を行ったとは言いがたい以上は,<自由な>意志によらない行為
といって良い,と思われます。
あるいは,所謂強迫行動もそれに挙げられる,と思われます。手を何度
も何度も洗わずにはいられない人は,手を洗う事を意識的にその記述の基
での認識において行っている(=意志された行為である)にも拘らず,
彼/女がその行為を<心底>欲しているのではない,何らかの非自主性や
他の生活文脈からの逸脱が存在してる点において,全ったき<自由な>意
志とは言いがたいように思われます。
つまり,<自由な意志によるとは言いがたい行為>が現に存在するの
です。それゆえ,行為の内のその残余は<自由な意志による行為>であ
り,それは大部分の行為として存在する,という事になります。
「自由な意志による(か否か)」と(いかなる種のものであれ)決定
論・非決定論の問題とは拘りが(ほとんど)無い,少なくとも概念的に
は無い,という事になります。
こういうのはどうか?
とりあえず、形而上学的な決定論、あるいは非決定論はパスということ
にする。そして自由意志を、ある行為が内的要因に影響され、かつ、その
要因の発生を完全に決定するできない場合、あるとみなしてよいものとする。
このように定義すれば、心の存在を認めるかどうかによって、論点が二
つに絞られてくるであろう。すなわち、心はない、あるいはあったとして
も、物理的な実体とはなんら相互作用をしないものであるとする立場では、
脳内の事象が物理学的法則によって決定されるかが焦点になる。なぜなら、
脳という器官は外部との接触が始まる前から自発的に活動することが知ら
れているからである(外的要因は無視できる)。そして、行為を引き起こ
す心の存在を認める立場では、心に現れた欲求なり規範的な観念が、脳内
あるいは外部の物理科学的データから完璧に導かれるかが焦点になる。
このような考察から、我々の自由意志は二重に保障されているように見
える。まず、物理学における知見から、完全に決定的な予測は不可能だと
されること。第二に、観察データから、普遍的な理論や規範(「電話が鳴っ
たら受話器を取るべきだ」など)を演繹する(導く)ことはできない。す
なわち、論理や規範の成立には、必ず何らかの不確定要素がともなうこと。
382 :
どこかのお姫さま:01/12/09 16:12
>>381 >自由意志を、ある行為が内的要因に影響され、かつ、その要因の発生を
>完全に決定するできない場合、あるとみなしてよいものとする。
これだけの規定の場合,単なる決定不全もしくは予測不全な出来事と自
由意志に基づく行為との区別が出来ないでしょう?
木の葉の揺れ方だって完全な予測は不可能なのだから,木の葉は自由
意志で揺れている,という事になってしまう。
>行為を引き起こす心の存在を認める立場では、心に現れた欲求なり規
>範的な観念が、脳内あるいは外部の物理科学的データから完璧に導か
>れるかが焦点になる。
>第二に、観察データから、普遍的な理論や規範(「電話が鳴ったら受話
>器を取るべきだ」など)を演繹する(導く)ことはできない
二つの主張の間の連関性がよく判らないので敷衍していただけないでしょ
うか?
383 :
どこかのお姫さま:01/12/09 16:34
>>358 >定義を促したのは自由意志が証明できない単なる現象解釈的存在であることを自覚
>してもらいたかったからです。そして、その解釈に有効性があるのかどうか、
上記のように<自由な意志による行為>ならば,出来事世界についての特定のアス
ペクト的観方(おそらく現象解釈的存在と類義でしょう)に他なりません。
そして,その観方は現に我々の言語実践に見出される以上,否定すべき理由はあり
ません。また,その観方――語り方の有効性は,帰責に際して,<自由な意志による>
か否かによって,その行為についてどの程度行為者に責任を帰属し,賞賛あるいは非難
・報奨あるいは処罰を為すべきか,その評定に差異付けを社会がなす,という点に存す
ると考えます。
384 :
考える名無しさん:01/12/09 18:26
>>375-378 >>374の言葉を借りるなら、
「物理学の発展により観測するという行為が対象を確定させているのに、完全に独立した物などというのは存在の立証が不可能。
また完全に独立していない以上、なんらかの影響を外界から受けるのだから、完全な自由では無い」
ということになる。
だから今ここで言われている「自由意思」という物が、どの程度の自由を指すのか定義して欲しいという事だろう。
意思は脳内にあるのか、それとも超越したどこかに存在するのか。
そういった事を全て仮定した上でなければ話がかみ合わない。それはこのスレの経緯を見ればわかると思う。
そして意思も脳内の電気信号の産物だと考える人は、自由な意思という物が想定できない。
だから自由意思はあると言っている人にその定義を求めているのだよ。
だが君達をみればわかるように、一向に定義しようとしない(その後のどこかのお姫さまなどはキチンと発言しているが)。
その点ではむしろ君達の方が相手の言った事をはぐらかしているという事実に気がついてくれ。
ちょっと日本語おかしいけどまぁ理解できるべ。
最後の皮肉は
>>374風に書いただけだから特に気にしなくても良し。
386 :
考える名無しさん:01/12/09 18:30
どっちもどっちだ。
387 :
考える名無しさん:01/12/09 18:38
ん?つまり自由意志を定義できないなら自由意志はないって事?
コテハンにしよう。
もう一度
つまり自由意志を定義できないなら自由意志はないという事?
>>379-382 >>1が言っているのは決定論をどうやって否定するか、という問題だと思います。
やや論点がずれていると思うのですが。
>>381 >物理学における知見から、完全に決定的な予測は不可能だとされること。
そんなことはありません。
現実世界では、巨視的な物体は非常によい精度で古典力学に従っており、実質的には決定論が成り立っています。
量子論を持ち出されるかもしれませんが、量子論でさえ波動関数ψや密度行列ρのレベルでは完全に決定論的です。
量子論がどの程度まで非決定論なのかは、いまだに意見が分かれる問題なのです。
したがって、上のようなおおざっぱな言い方では、決定論に対する有効な反撃にはならないと思います。
物理的な決定論は、暴力的なまでに強力なのです。
「自然は数学によって表現される法則性を持ち、その法則は例外を持たない」
>第二に、...必ず何らかの不確定要素がともなうこと
この部分を掘り下げると何が出てくるか、ということだと思います。
不確定要素が何か、私には分からないのですが。
量子論でレベルを決定されている事と、人間のレベルで決定されている事
は同じかな。
もし量子論のレベルで決定されていても人間のレベルで決定されていないのなら
無意味かな?無意味じゃないのかな?
量子論のレベルで決定されていると、人間のレベルでも決定されるのかな?
>>384,388
定義というのは解けた問題を分類するためのものです。
よく分からないものを相手にする時は、定義にこだわるより
問題文の本質をうまく表現することを考えたほうが生産的かと思います。
392 :
考える名無しさん:01/12/09 19:06
つまり、不確定要素の存在を証明できれば、ノーベル賞もんだってことだ。
393 :
考える名無しさん:01/12/09 19:10
つーか、ダーウィンの進化論がある以上、独立した意思など存在不可能。
だから「自由意思がある」と言っている奴は、何を「自由意思」と呼んでるのかいい加減教えてくれ。
「現代物理が全部間違ってるかもしれないじゃん」って回答はパス。
それ言ったら、「お前が言ってる『自由意思がある』ってのも間違ってるかもしれないじゃん」
って事になり、空想上だけの話になる。
仮にも哲学板なんだから、議論すんべぇや。
妄想語り合うだけじゃなくてさ。
そういえば昔ゲシュタルト心理学って物があったね。
うろ覚えだけど人間の心は要素に分解できるものではなくて
全体で捉えるものだっていう心理学かな?
>>393 とりあえず気まぐれっていう線でどうでしょうか。
横レスすいません。
>>393 時間を巻き戻したとして、同じことしかおきないんなら自由意志は存在しないわけですね。
そういう意味では、ファウストのような違う人生を選択する自由は残されていないわけですか。
私が上で言ってたことはうそですね。
物理学的には、時間を巻き戻して、同じ初期条件から出発すれば同じ結果にたどり着かなくことが保証されるわけですね。
だとすると、個人レベルであると思っている「自由意志」が本当に自由であるためには、
-物理法則に抜け穴/例外がある
-時間を巻き戻すことは不可能
-厳密に同じ初期条件は存在しない
のどれかが必要ということになるのでしょうか?
気まぐれはなかなか許してもらえないみたいですね。
僕は自由意志がないっていうのは
物理法則が解明されて、それを利用してあるAの行動を
完璧に予測した時に始めてその通りだ、と肯定される思っているんですけど。
原理的に、理論的に、で自由意志はないと思っている人ってやっぱりいるんですかねえ。
399 :
ぴかぁ〜 ◆xlzVSD3I :01/12/09 20:01
僕は自由意志があるっていうのは
物理法則が解明されて、それを利用してあるAの行動を
完璧に予測できない物だと立証した時に始めてその通りだ、と肯定される思っているんですけど。
原理的に、理論的に、で自由意志はあると思っている人ってやっぱりいるんですかねえ。
おや?となると
>原理的に、理論的に、で自由意志はあると思っている人ってやっぱりいるんですかねえ。
で自由意志が認められるであろう、という原理があるようですね。
教えて欲しいなあ。
おや?となると
>原理的に、理論的に、で自由意志は無いと思っている人ってやっぱりいるんですかねえ。
で自由意志が認められないであろう、という原理があるようですね。
教えて欲しいなあ。
>401
はい、どうぞ。
>で、反対に、決定論からすれば、
>私たちは、あくまでこの世界内に存在しているものであり、
>ボールを投げれば抛物線を描くように、意思も何らかの法則を持つ。
>意思も自然から発生したものであるし(ここでの自然の定義は適当に推測して)。
>自由意思が幾ら選択性を持っていても、それには規範、善悪、順当性が伴う以上、
>それは(たとえ物理学的な因果率に還元されなくても)大きな因果の流れに組み込まれていると考えてもおかしくない。
403 :
考える名無しさん:01/12/09 20:25
>>402 んじゃぁあは自由意思が無いと思ってるのけ?
だとしたら
>>398の書きこみの理由がわからん。
404 :
どこかのお姫さま:01/12/09 20:31
>401
仮に意思が(同時に物理的でもある)存在者である,と仮定しても,物―心因果の
非法則(anomalous)性の故に,タイプ・レヴェルでの心的概念の対象がかかわる因
果関係については厳密法則が成立し得ない,とするディヴィドスン的立場もありえま
す。(意思は存在者にあらず,とする,私の立場からするとどうでもいい事なのです
が。)
>>自由意思が幾ら選択性を持っていても、それには規範、善悪、順当性が伴う以上、
>>それは(たとえ物理学的な因果率に還元されなくても)大きな因果の流れに組み込
>まれていると
規範・善悪等は,それに従ったり背いたりし得るからこそ,即ちそれが指令する規則
と背馳しえるからこそ,当為なのです。つまり,たとえラフにであろうと法則性を持
つ事を保証し得ないはずです。従って,規範や善悪への言及は決定論をなんら支持す
るものではないように思われます。
405 :
考える名無しさん:01/12/09 20:33
で、反対に、独我論からすれば
私は、あくまでこの世界内で、一人で存在しているものであり、
死をもって認識主体がなくなるように、意思も独立した主体に従属する。
世界も認識主体から初めて認識可能であるように(ここでの主体は各々
個人だと適当に推測して)
因果律がいくら私を支配しようとも、それには、現実の個体の選択行為、
思考、予測との逆の行為の可能性がある以上、
それは(たとえすべてが主観でなりたたなくても)認識行為と主体の
独立が多少なりともあると考えてもおかしくない。
>403
あると思っていますよ。
でも>402のいう事も正しいと思います。
という事は>402をどう解釈するかの問題ですよね。
ああ、どう解釈するかというかどう拡張するかですか。
私は最初に無いと思っていても、あると思っていても
それを貫き通す事に興味はないです。
本質的に何か正しい物がある、という側へと行きます。
とりあえず最初にいた、いや、暫定的に決めた側から疑問を投げかけますが
それは保持の為ではないです。
>403
例えば原理的にいって人間は水の上を右の足を踏み出したら
右の足が沈む前に左の足を踏み出す事で歩けます。
しかし同じく原理的にいって人間の足はそんなに早く動かせません。
と、今はこういうような事を考えてます。
410 :
考える名無しさん:01/12/09 22:38
>>393 >だから「自由意思がある」と言っている奴は、何を「自由意思」と呼んでるのかいい加減教えてくれ。
過去ログをある程度読んで頂ければ、少なからず示唆的なものはあると思われますが。
411 :
考える名無しさん:01/12/09 23:27
>>409 >例えば原理的にいって人間は水の上を右の足を踏み出したら
>右の足が沈む前に左の足を踏み出す事で歩けます。
>しかし同じく原理的にいって人間の足はそんなに早く動かせません。
中学理科の知識から言って 足を早く動かしたからといって
歩けないと思いますけど。
412 :
考える名無しさん:01/12/10 00:34
おぅおぅおぅ、何だかこのスレ、200番台でヤマは終わったかと思ってたら、
まぁ〜た盛り上がってきやがったなぁ!どんどんやってくれぃ!
とくにこちとら姫さんにゾッコンとくらぁ!文が解りやすいからなぁ!
他のも頑張ってくれよ!オイラは皆応援してるぜぇ!
ちゃちゃいれてゴメンよ!あまりに興味深いのでつい、な!
んじゃ、よろしく頼むぜぇ!
ニュートン力学が物理学を覆いつくしたとき、その決定論は哲学
さえも席巻し、自由意志などというようなものはないとされがち
となった。でも、量子力学が台頭し、決定論は確率論になり、
さらに、最近では、膨大な脳細胞同志は、様々な干渉をしあって
いるに違いないので、カオス理論が適応される可能性が出てきて
いる・・ 成功体験、失敗体験が、脳の感受性にしたがって様々に
フィードバックされているのは間違いなく・・ その情報処理に
主観の影響が反映されないと考えることが可能かどうか・・
このあたりには、主観の干渉が入り込む余地があると思います。
しかし、神経伝達物質の欠乏とか過剰は、それ以上の影響力が
あるのは、患者さんを診ていると一目瞭然です。
(ぼくは、精神病理学を専門にしている精神科医です)
カオスは決定論ですし量子力学も確率的な予測がなされるだけで
デタラメなことが起こるわけじゃありません。
自由意志の定義を決めないと確定はしませんがみなが
漫然と思い描いている自由意志のありようとはなんの関係もございません。
>411
できないというだけでなくどうしてできないのか教えてはくれないんですか?
>414
漫然と思い浮かべているイメージから定義が生まれる事は
否定しますか?肯定しますか?
決定論を信じないという事は自由意志があるという事と同義か?
419 :
考える名無しさん:01/12/10 11:53
>>418 そりゃ違う。
「決定論を認めない」ことは「自由意志があるということ」の必要条件に過ぎず、同義ではない。
また、「決定論」と「自由意志」の定義によっては、それは必要条件ですらなくなる。
>>382 :どこかのお姫さま
> 木の葉の揺れ方だって完全な予測は不可能なのだから,木の葉は自由
>意志で揺れている,という事になってしまう。
いえ、そういうことになるという主張です。ただし、これは心が存在しないと仮定して議論
した場合ですので、心がなければ自由意志はありえないというのでしたら、そのとおりです。
あるものに自由意志があるかどうかは、そのものを解剖しない限り、外からは見えない内部
の要因によるものであって、それが予測不可能なら、そのものは自由意志を持っているとする
問題設定です。で、脳の場合、脳を解剖して研究する学問は、物理学と矛盾するとは思えない
わけですから、物理学が完全に決定論的であるなら、脳も決定論的とみなしてよいことになる
でしょう。
>二つの主張の間の連関性がよく判らないので敷衍していただけないでしょうか?
決定論を擁護する重要な仮定は、この世界にあるものは全て物質であり、それは物理学
の対象であるというものだと思います。そこでまず、そういった物質の法則は完全な決定論
であるかを考えるわけです。しかし、実際に我々が感知しているものは、物質そののもでは
なく、記号や法則といった観念的実体です。だから、そもそも物理法則が存在しないとする
とある種の自己矛盾に陥るのです。従って、決定論が真であるならば、物理法則そのものの
発生を完全に説明(予測)しえなければなりません。これが第二の問題設定です。
>>ALL
論点がずれるのは、定義があいまいだからじゃなくて、問題設定に
対する認識があいまいだからなのです。全ての物は物理学の研究対象で
すし、全ての心的事柄は心理学の研究対象で、これに例外はありません。
例外がない以上、それら全てのものは当該の理論によって説明されなけ
ればならず、説明から逃れるものが存在する余地はありません。オバケ
は存在できないのです。自由意志といった場合、多くの人が思い描くの
は、主観的な経験です。しかし、主観を客観的に説明することはできま
せん(説明されたものは、それを認識するものにとっては客観的な対象
にすぎません)。だから、自由意志を主観的なものと定義してしまえば、
不毛な議論になることは目に見えてます。この事情は、オバケを説明不
可能なものと定義してしまう際に陥るジレンマと同じです。そのような
オバケはいつまでたっても説明できません。従って、我々が通常自由意
志に対して感じることを、とりあえず脇において、議論可能な問題を
模索していかなければならないのです。
そこでまず了解しておきたいのは、ここでの問題が、説明できるかで
はなく、決定できるかだということです。というのは認識できる対象は、
どんなものでも説明可能だからです。進化がダーウィンの法則によって
説明できたとしても、進化が決定されるわけではありません。さらに考慮
すべきなのは、論点を、だいたい決定されるかではなく、完全に決定さ
れるかという点にしぼることです。我々が完全に自由ではないことは誰
の目にも明らかなのだから、「だいたい」と言えば程度問題にしかならず、
いくらがんばっても自由を排除することはできないのでしょう。こうい
う問題は脳科学者なんかに任せた方がよいと思いませんか。
422 :
考える名無しさん@1周年:01/12/10 20:33
>421
>例外がない以上、それら全てのものは当該の理論によって説明されなけ
>ればならず、説明から逃れるものが存在する余地はありません。オバケ
>は存在できないのです。自由意志といった場合、多くの人が思い描くの
>は、主観的な経験です。
だから、主観的な経験は心的でも物的でもない第三のカテゴリだとは考
えないのか?
>しかし、主観を客観的に説明することはできません。だから、自由意志を主観的な
>ものと定義してしまえば、不毛な議>論になることは目に見えてます。
主観のカテゴリに属する自由意志は、物理的な存在じゃないから物理的に説明でき
ない、でいいじゃないか。
ちゃんと整合性はとれている。その上で主観と客観との関係・法則の有無は別に問
題設定できるが。
なんで不毛な議論になる? 客観的に説明できない主観的経験というカテ
ゴリが立てば、それと
この事情は、オバケを説明不
可能なものと定義してしまう際に陥るジレンマと同じです。そのような
オバケはいつまでたっても説明できません。
自由意志が
>オバケ
の同類だったというのは、目からうろこです。
物理の世界には自由意志が存在しない、と考えている人が多いようですが、その点で異論がある人はいないんでしょうかね?
もしそうなら、オバケを、どうやって科学のメスで解剖するかという話に帰着してしまうと思うのですが。
424 :
考える名無しさん:01/12/10 23:52
何でお前らはそんなにバカなの?無意味な長文レスばかりアホみたい
TIIIさんが...こんなところに...
>>424 どこらへんが無意味だと思いますか?
全部?
決定論の問題の答えを短い文で現せますか?
それで他人を納得させる事ができますか?
427 :
考える名無しさん:01/12/11 00:03
>>426 424は言いすぎだけど、確かに、文章構造と見た目の読みやすさには、改善の余地があると思う。
無礼でごめんなさい。
428 :
考える名無しさん:01/12/11 00:49
>>415 理由も言わずに否定してごめんなさい。
理由はこんな感じでどうでしょうか。
物体が静止するためには、力の釣り合わなくてはいけません。
しかし人間の体重と 水の抗力は 釣り合いません。
>>428 教えてくださってありがとうございます。
人間は普通は心で考えた事を行動に移しますが
どの考えがどの行動と関連するかを解明できるのでしょうか?
431 :
どこかのお姫さま:01/12/11 12:32
先ず、<考え>を個別化可能な出来事と考えるとしたら、それは誤謬。
しかも、潜性的な擬似持続である考えは,言語による解釈によっての
み(出来事としてではないが)個別化可能。
(よって,解釈の不確定性が,考えの個別化に生じる筈です。)
よって,物的出来事との考えの因果的関連付けは不可能だ,と考えます。
対して,記述において表現されたある考え(思考内容)は,行動と関連付け
可能でしょう。
(合理性を前提して)欲求(〜すべき,といった規範達成の志向も含めま
す)やその達成手段と行動は,説明関係として成立するはずだからです。
432 :
どこかのお姫さま:01/12/11 17:20
431付記
但し,記述の基での思考のある種のもの(広義での欲求及び充足手段への信念)と
行為との関係は,法則的・因果的関係ではなく,理由化的関係であらねばなりません。
433 :
考える名無しさん:01/12/11 17:42
原理的な部分についての考察(思考実験)だから
とりあえず脳の細かい仕組みについて議論する必要はないでしょう
>431
解説ありがとうございます。
木の葉が舞う事は風によって舞いますね?
では木の葉が舞う事を支配する物理法則は風ですね?
風によってどのように木の葉が舞うか決定されますね?
では風を知れば木の葉がどのように舞うかが分かるでしょう。
人間がどう行動するかは、脳(心)によって決定されますね?
すると、人間は脳の物理法則によって木の葉と同じように支配されている
という帰結になりますね?
では、風を知る事と脳を知る事は同じ事だと思いますか?
436 :
考える名無しさん:01/12/11 19:40
あなたは何をもって「同じである」「同じでない」、を区別したいのですか?
>>436 何かを区別をする時にこれこれのもので区別したいとは
殊更考えた事はありませんでした。
今度考えてみます。
438 :
どこかのお姫さま:01/12/11 20:42
>人間がどう行動するかは、脳(心)によって決定されますね?
未だ確証されたわけではないでしょうが,私は,ある人における先行す
る脳及び身体の(他部分)の状態と後続する彼/女の身体動作(行動)
とはタイプ・レヴェルでも非常によい対応付けが可能だ,と信じています。
但し,行為については,その存立に行動への意味付与(解釈)が要求さ
れるので,社会的状況もその存立様態を左右する因子に含まれますし,
解釈の不確定性の問題もあります。
>人間がどう行動するかは、脳(心)によって決定されますね?
脳と心を等値して良いか否かが重要な問題でしょう?
但し,人間の後続する<行動>と関連する主要な因子が先行する脳
状態である事は,私は認めます。
>すると、人間は脳の物理法則によって木の葉と同じように支配されてい
>るという帰結になりますね?
身体動作,即ち行動については あ氏が主張されたい野ではないか,と
推測する事に私は概ね同意します。
(但し,「脳の物理法則」という表現は止めていただきたい。「ある時
点に於ける脳の状態を,先行事象とし,それに引き続く人間の身体状態
を後続事象とする,その関係に物理法則が妥当する,という意味でなら,
承認します。)
>では、風を知る事と脳を知る事は同じ事だと思いますか?
風の物理的状態(おそらく,風が吹いていると称される時の空気の状態
でしょうが)を知る事と,脳の物理的・化学的・生理的状態を知る事と
は,同種の認知形態だ,と私は考えます。
439 :
考える名無しさん:01/12/11 21:58
えっとね、だからね、今考えてるのは自由意志についてでしょ?
脳がどうこう心がどうこうなんて後でいいの。
根元がしっかりしてないのに枝葉末節に飛びつく必要はないの。
脳も体もひっくるめて考えておけば少なくとも間違えることは
ないんだから、今は脳云々のことは忘れるべし。
440 :
考える名無しさん:01/12/11 22:05
441 :
考える名無しさん:01/12/11 22:35
300前後読んでください
>>439=441
それで、貴方のレスは何番?
自由意志の定義だよ?
>>435 非常にシンプルで明快な論理ですね。
>人間は脳の物理法則によって木の葉と同じように支配されている
>という帰結になりますね?
438さんが言っておられるように 人間の身体動作は
人間の脳の電気信号によるものですから
電気という点で完璧に物理法則といえます。
ただその電気を起こす要因は、風を起こす要因に対して、
物理的な要素が少ないと 私は考えます。
444 :
考える名無しさん:01/12/12 00:46
注目したいのは、「自由意志が、物事を説明できるかどうか」
という点だ。俺が302に示した条件では自由意志は物事を何も説明しない。
説明できない(できていない)部分からさらに一部を抜き取って
自由意志と呼んでみただけだからだ。
じゃあ物事を説明可能な自由意志が定義できるのか。
物理は、数多の原因と結果を結ぶ因果関係の中から法則をつむぎだす。
しかし、そもそも因果関係という言葉自体過去から未来へと続く
事象の間に一定の関係があることを仮定している。
仮定。ただしこの仮定は反証不可能。世界の捉え方、解釈。
どうあがこうと「物理法則から外れた自由意志」といった定義は不可能。
なんらかの現象に見られる特徴の総称として
自由意志を定義する程度が関の山だろう。
446 :
考える名無しさん:01/12/12 01:24
>>445 詭弁だな。
物事を説明可能な自由意志とは?
過去から未来へと時間が流れていることと因果関係は別のこと。
決しておなじものではない。
また、そこでいう仮定は、自由意志がない、行為はすべて決定されて
いるということと関係ない。
またその仮定をするのは自由意志なのだとしたら、その仮定から
逃れることができる。
自由意志は、物理的法則性に直接左右されない、人間の行為の第一原因、
原動力となるものとしてどこかで言及してなかったか。
いやだからさー…名づけるだけで満足ならそれでいいんだけど。
>過去から未来へと時間が流れていることと因果関係は別のこと。
因果律が成り立たないと時間の意味ないよね
>自由意志は、物理的法則性に直接左右されない、人間の行為の第一原因、
>原動力となるものとしてどこかで言及してなかったか。
「物理的法則性」ってのが何をさしているのかいまいちわかんないけど、
その部分については296,302あたりの情報の欠落による
ブラックボックス化のあたりの話を読んでおくれ。
>過去から未来へと時間が流れていることと因果関係は別のこと。
明らかに別じゃないなー。
448 :
考える名無しさん:01/12/12 01:50
結局、言葉とは何か、観念とは何か、という問題に帰着するのかも。
それによって自由意志のことも理解できてくる。
言葉や観念あるいは情報は、たんに脳神経を伝わってくる電気信号と同義ではない。
それはただ単に流れてくるままに受けとられ、作用をあたえるものではなく、
その主体による解釈にしたがって変形され、否定され、加速され、分断され、
薄められるようなあり方のものだ。
>>444 風が起きるのは 物理法則によるものでしょう。
風は物理的な要素から起きていると考えて問題ないですよね。
そして木の葉が舞う行為は その風が当たることによる。
一方 人間の脳で発生している電気は
寒い、暑い、重い、軽い・・・といった
物理的な要素だけによるものではないと考えます。
たとえば 他人の発言を聞く事や 本またはテレビ をみることでも
人間の脳の中で電気を発生させる要因になります。
これらの要因は物理的な要素ではないと私は考えます。
450 :
考える名無しさん:01/12/12 02:00
>>447 因果関係とは、原因aによって結果bが導き出されるということだよね。
これは逆にいえば、結果bを分析すれば原因aが導きだされるということ
であるはず。
それに対して、時間とはあくまでも不可逆的なもので、現在から過去が
分析されるようなものではないはず。そのような過程の「外」に流れて
いるような(これはあくまでも比喩で、本当は流れていない)もの。
情報が欠落しようと、ブラックボックスだろうと、自由意志がそれらを
対象化するような性質をもつ限り、何の妨げにもならない。
451 :
考える名無しさん:01/12/12 02:00
>>449 いや449さんのおっしゃる物理的な要因ですよ。
外界からの情報は全て物質orエネルギーですから
風が発生する物理的なお話を少し・・・
風が発生するのは何故か。
それは空気の圧力(気圧)の問題です。
ある場所の空気の圧力が、他の場所比べて
高かったとします。
するとそこにある空気は 空気の圧力が低い場所へと
移動していきます。
その空気の流れ・・・・・それが風です。
このように 風は物理法則から説明ができます。
453 :
考える名無しさん:01/12/12 02:05
情報までは物質もしくはエネルギーだとしよう。
だけど、人間にはそこから「意味」に変換される過程が存する。
この過程がおこなわれる場は、いわばブラックボックスなのかも
しれないが、それは情報の欠落としてのブラックボックスではなく、
「本質的な」ブラックボックスで、それがブラックボックスである
がゆえに自由性が生じうると考えられる。
>また、そこでいう仮定は、自由意志がない、行為はすべて決定されて
>いるということと関係ない。
物事が一本道に予測できる、なんていう素朴な古典論的決定論は
現実的・原理的な観測の観点からもおおもとの理論の性質の観点からも
否定されてるし多分もう何度も出てきてる話だろう。
観測の観点における「すべての要素を正確に把握しきることはできない」
という問題をもう少し一般化した形に言い換えてるだけだよ。
>物事を説明可能な自由意志とは?
これはこっちが聞きたいことなわけでな。
俺個人の結論としてはなんらかの物事を説明可能な
定義は不可能、ただの現象解釈、と既に言ってあるので。
455 :
考える名無しさん:01/12/12 02:07
自由意志って「己」の問題じゃないでしょうか?
誰にも認められない、定義しようの無い自明的な付加価値のようなもの。
運命とか自然法則があろうと無かろうと、全ての可能性が在り得る事を
知った上でも選ぶのは本人であり、それが物理の示される現象であったと
しても当の本人には何の関係も無いのでは?
456 :
考える名無しさん:01/12/12 02:17
(453のつづき)
要するに、人間の意味の関係する領域においては、作用aを受けたからと
いって必ずしも機械的に反作用bとして反応するわけでない。
それはつまり作用aにたいしてのズレまたは誤差があるということ。
また、その作用ー反作用は機械的でないという同じ理由から、そこには
ワンクッションがあって、それは時差となる。
この「誤差」や「時差」がズレとして、因果関係にたいしての空隙、
つまりブラックボックスを生じせしむ。
ゆえにこのブラックボックスは、情報の欠落によるものではなく、
本質的な存在である。
そして、意識とは、このブラックボックスでおこなわれた作用−反作用
関係で生じた、いわば「澱(おり)」のようなものであるが、人間は
この「おり」自体をこねくり回したり(解釈)、まるめてキャッチボール
したり(意志の伝達)するような存在となっている。
457 :
431→428:01/12/12 02:17
ごめんなさい 431(どこかのお姫さま)さん
僕は428でした。
過去ログ眺めていたら今気付いたもので・・・
>>450 原因と結果の関係は非対称です。世の中を眺めてみても一目瞭然です。
(もっとも、物理現象が時間反転に対してほとんど対称な形で
成立するのは驚くべきことですが。)
因果関係について。
あるところから見てA→Bという順序で起きた互いに関連ある現象が
違う立場から見てB→Aと見えることはありません。
不可逆だからこそ因果関係というものに意味があるのです。
これは時間の不可逆性と密接な関係があります。ていうか同じです。
分析の順番とは関係ない話です。
>>449 勝手に階層分けして考えてるだけですね
>>452 それ全然話それてるのでいいかげんやめたほうがいいです
>>453 エネルギーも含めた物質の状態はすべて情報です。
あと、後半三行がちょっとわかりません。
「本質的なブラックボックス」と
「情報の欠落としてのブラックボックス」の違いを教えてください。
459 :
考える名無しさん:01/12/12 02:26
>>454 むしろ現象解釈するのが自由意志と解すべきです。
∧ ∧
ξ・д・ξ <ぎょくせきこんごうでしゅね。
(,_,,)
463 :
考える名無しさん:01/12/12 02:35
>>458 時間の流れてない空間には因果関係は存在しない?
情報の欠落としてのブラックボックスというのは、テクノロジーが未熟な
ゆえに解明されてない未知の領域という意味合いだろうけど、
本質的なブラックボックスといった場合、まったく何もない空間(すき間)
のこと。
464 :
考える名無しさん:01/12/12 02:41
>>458 時間性と因果関係が同じだというのは、
物事の推移はすべて(時間の流れる)この世界で起こる、
ということのたんに別の表現に過ぎないのでは。
>>463 >時間の流れてない空間には因果関係は存在しない?
そりゃしないでしょうね。
>まったく何もない空間(すき間)
ちょっとわかりません。
>>464 そうですね。
a→b ←→ t_a<t_b
非常に大雑把にいってただこれだけのことですね。
467 :
考える名無しさん:01/12/12 02:49
>>465 何もない空間というか、直接的なつながり、パイプを欠いた空間とでも
いえるかな。
たとえば、本を読むとき、活字を見ただけでは、つまり視覚情報を
みただけでは、それは意味としては結実しないね。
アラビア文字なんかを見ただけではそれは意味とならない。
それが意味となるためには、意志の働きかけがなければならない。
468 :
考える名無しさん:01/12/12 02:50
君たちこんなアフォやってないでクソして寝なさい
469 :
考える名無しさん:01/12/12 02:54
470 :
考える名無しさん:01/12/12 03:00
意味なんてのは単に入力と出力の対応付けだろ?
471 :
考える名無しさん:01/12/12 03:06
意味の構成は脳の肯定。
せっかくのブラックボックスがもったいない
>>422 >だから、主観的な経験は心的でも物的でもない第三のカテゴリだとは考
>えないのか?
考えます。(
>>143を参照してほしいのだが)、経験それ自体は客観的ではない
かもしれないが、我々が認識する対象としての経験は客観的であり、それは、紙に
書かれた文章と同様に、記憶として脳に刻まれている。
>主観のカテゴリに属する自由意志は、物理的な存在じゃないから物理的に説明でき
>ない、でいいじゃないか。
認識主体そのものは説明できない。しかし、だからといって、経験にまつわる全ての
問題が解答不可能になるわけではない。ブラックボックスから排出される産物から、
ブラックボックスの性質がわかる場合がある(科学の実験はたいがいそうですが)。
今、あなたの脳には古典物理学が刻まれているとしよう。そのような記憶は、あなた
が死んだ後になって、脳科学者が再発見するかもしれない。そのようなニューロンの配線
構造は、物理的に可能な構造であることは明らかだが、古典物理学自体は観察から導く
ことはできない(ヒュームによる帰納原理の否定)。
では、どうしてそれが脳の中に生じたのか? 多くの人にとっては教科書の記述に
由来する必然的なものだろう。しかし、あなたがニュートンであったらどうか? 私は
ここに偶然が存在する証拠がると見ている。
>>431 :どこかのお姫さま
>言語による解釈によってのみ(出来事としてではないが)個別化可能。
>よって,物的出来事との考えの因果的関連付けは不可能だ,と考えます。
>対して,記述において表現されたある考え(思考内容)は,行動と関連付け
>可能でしょう。
いまいちよく分からないのですが、
1)考え→主観的に経験する行動(私)
2)ある脳状態→行動(他人)
3)プログラム→行動(コンピュータ)
我々はいつも1)のような関連付けを行ってますよね。それは言語による解
釈だと言われたら、それでいいのですが、そこには解釈される前の「関連付
け思考」みたいなものがあるはずですよね。
また、2)の脳状態を科学的に記述できたとしたら、この人が実際何を考えて
いたかにかかわらず、行動と関連付けることが可能だし、ここまでできるなら
この人の短期記憶の中でどういう考えがあったのか記述できるかもしれない。
3)の場合は、最初から言語として表現されているわけであから、改めて解釈
する必要がない。
つまり、<考え>と言語化された考えには決定的な違いはなく、主観と対象
にのみ超えられない断裂があるように思うのですが?
474 :
考える名無しさん:01/12/12 07:41
>>270 そこでいう意味の入出力の対応にズレが(不可避的に)生じるということ
が問題なわけで、このズレがあるからこそ、言葉や数式は必要とされる。
>>671 そこで言う「肯定」は主観的なものだろう。
人それぞれに肯定するものは同一とはならないのだから。
ブラックボックスには現実世界から直結する経路はなく、
いってみれば反照関係または投影関係になっている。
それゆえに、意識は、たとえるならば、現実にたいする「フィルム」
のようなものといえようか。
現実の射影形式としてのフィルムは現実の諸条件に依拠するが、
その内容(意味)においては自由である。
また、この意味内容はまた、それを観る者に行動の示唆をあたえる。
475 :
どこかのお姫さま:01/12/12 14:15
>>473 >1)考え→主観的に経験する行動(私)
>我々はいつも1)のような関連付けを行ってますよね
この主観的に経験する行動と私の並置の意味がわかりません。
行為者である<私>自身が認識しているその限りでの行動,という意味でしょうか?
そうだとして,行為者の思考内容は,行為者自身にも無制限且つ確実に知られている
わけではないでしょう。行為者自身は,「私はスモモではなくリンゴを食べたい」と
欲求していると思い且つ誠実に主張しながら,にも拘らず,リンゴではなくスモモを
専ら選んで食べているとしたら,その行為者の欲求は,リンゴではなくスモモを食べ
る事であり,自己自身の欲求の認識に誤謬を犯している,といわれてしかるべきでし
ょう。このように,欲求をはじめとする思考内容の自己認識は,それら思考内容その
ものではありません。従って「考え(思考内容)→行動(あるいは寧ろ行為)」とい
枠組みが思考内容をその心的内部であると解される限りでは,行為者において成立し
ているわけではないのです。
>2)ある脳状態→行動(他人)
>2)の脳状態を科学的に記述できたとしたら、この人が実際何を考えて
>いたかにかかわらず、行動と関連付けることが可能だし、
先行する脳状態と後続する行動との関連づけは,原理的には可能だ,と考えます。
>ここまでできるならこの人の短期記憶の中でどういう考えがあったのか記述できる
>かもしれない。
これには,私は同意できません。彼/女が有していた考えがどういう考えであったの
かは,因果関係によって判断されえるものではなく,また,脳状態のタイプと思考内
容のタイプは必ずしも対応付けされないでしょう。従って,その時点の脳状態やそれ
に継起する行動<から>,当該時点における思考内容を知る事は不可能です。とすれ
ば,その際,TIIIさんのお考えではどのようにして,人は彼/女の考えを知るのでし
ょうか?
>3)プログラム→行動(コンピュータ)
>3)の場合は、最初から言語として表現されているわけであから、改めて解釈
>する必要がない。
プログラムは思考の言語表現とよりは寧ろ当該時点での脳状態に比されるべきもの
ではないでしょうか?そして,そのプログラムそのものは,そのプログラムの意味
を我々が解釈しない限り,因果的的効力を有した(ある特定の結果がそれに引き続
いて継起する)だけの存在者に思えます。(但し,私は殆どコンピュータの事を知
らないので,「プログラム」なる概念を誤解しているかもしれません。)
476 :
どこかのお姫さま:01/12/12 14:20
>>473 訂正です〜!
ごめんなさい>431に大きな書き間違いがありました。
>対して,記述において表現されたある考え(思考内容)は,行動と関連付け
>可能でしょう。
>(合理性を前提して)欲求(〜すべき,といった規範達成の志向も含めま
>す)やその達成手段と行動は,説明関係として成立するはずだからです。
上記の「行動」は全て「行為」の間違いです。入れ替えて読解ください。
>>1 自由意志が無から生まれた有であるならたしかに
パラドックスになる。
が、意志そのものを因果(と言うより物理の)
連続性における結果ととらえれば意志も法則の一形態
ではないだろうか。
>>439 このスレッドの主旨は自由意志と決定論の問題ですね?
では基本的にその主旨に沿うべきですね?
さて、自由意志と決定論の問題は、決定論とはとある物象の物理法則を
把握すれば、その物象の行動は決定しているという事ですね?
対して自由意志とは物理法則に縛られない、だから行動は決定していない
という事ですね?
では、自由意志はどこにおけばいいのでしょう?
物理法則の中にあるものはすべて決定論が真となるものですね?
という事は自由意志は決定論に縛られないという事で物理法則の外にありますね?
それならば自由意志がなぜ物理法則の外にあるのかを考えなければいけませんね?
(自由意志が物理法則に支配されるというのなら決定論は真であり
我々の行動は決定されているという事でよろしいですか?)
自由意志が物理法則の外にあるのかないのかを考えなければいけないのは同意しますか?
自由意志とはなんですか?自由な意思ですか?
それは、自由な意思だから物理法則に支配されないという事で
物理法則の外にあるという事ですね?
しかしそれで誰かが納得すると思いますか?
なぜ自由なのかを説明するべきだとは思いませんか?
自由意志と決定論の話を考える時に、自由な意思はなぜ自由なのかを考える事は
枝葉末節な事ではなく、当然であり、必要な事は同意しますか?
479 :
どこかのお姫さま:01/12/12 16:33
>>478 >対して自由意志とは物理法則に縛られない、だから行動は決定していな
>い
あ さん,自由意志の問題の大半(少なくとも,少なからず)は「自由意
志」という概念をどう定義するか,にかかっています。
上記の規定はすでに自由意志を否定する方向に大きく傾いています。
自由意志論者の多くは,上記定義を否定するのではないですか?
>all
自由意志支持で決定論を否定しない(中立を含む)の人,どのくらいい
らっしゃいますか?
∧ ∧
ξ・д・ξ <うちはスピノジストでしゅ。
(,_,,)
>>478 いや、現実の経験を映す写像としてのつながりはあるけど
そのつながりに法則性はない。
意志は、その法則性を対象化するような超越論的な在り方をしている。
「超越論的」なあり方とは、論理をはさんで対象化するということで、
「超越的」と混同しないよう注意すべき。超越的なものというのは、
たんに自我の肥大化にすぎない。
482 :
考える名無しさん:01/12/12 19:28
>>478 今までの流れをまったく理解してないのな
>>479 自由意志の問題の大半は自由意志をどう定義するかとおっしゃいましたが、
それでは>自由意志支持 というのはとりあえず自由意志はあるという意味でしょうね。
私は、決定論は至極当然な事と思えますが、自由意志はあると思います。
>>481 よく理解できなかったので、下げます。
>その法則性を対象化するような
これは、意思とは、意思の法則とは常に法則そのものが変化する、
超越する、更新するという意味でしょうか?
それならば、変化する法則、どう超越するかの法則、どう更新されるかの法則が
あってしかるべきだと思います。
でなければ、記憶が確かであれば、私がいったところによれば
その変化の仕方には法則がない、すなわち『意思は気まぐれ』という事でしょうか?
それとも、意思は気まぐれでありながら、しかしまた何らかの法則性を持っている
時もある、という混在によって意思が決定論的ではないという事でしょうか?
そして、その混在ぶりの妙が、自由意志という事でしょうか?
はぁー…言葉振り回してるだけじゃん君
487 :
考える名無しさん:01/12/13 10:16
実質的に議論に寄与するものではないけど、
本読んでたら面白い文章が引用されてたんでひとつ。
万物ものなべて、あらゆる惑星も不滅の法則に従っているのに、
五尺の小動物がこういう法則はいやだといって勝って気ままに振舞うなんて、
実に妙なことだ。 ヴォルテール『愚かな哲学者』より
488 :
考える名無しさん:01/12/13 10:30
>>487 拡大解釈だけど、「妙」をどういう意味に受け取るかで、
全く文のニュアンスが変わるのも面白いですね。
489 :
考える名無しさん:01/12/13 11:08
納得のできる説明をお願いします。
490 :
考える名無しさん:01/12/13 12:09
>>475 :どこかのお姫さま
>また,脳状態のタイプと思考内容のタイプは必ずしも対応付けされないでしょう。
パトナムもこれと似たようなことを言っていたと思う。しかし、科学において(すら)
完全な認識は不可能であって、完全確実な対応関係が確定できなくても、対応
関係についての知識は無限に増大させることができるでしょう。
>>475 の前半にも関連しますが、脳においては、ある脳状態の一部に意識に
のぼる状態があると仮定されます。ここで、「私はスモモではなくリンゴを食べたい」
という意識をもっていたにもかかわらず、実際にはリンゴを食べたという人を考えて
みます。この人は脳状態はリンゴを食べるという行為を引き起こすものであるわけ
ですが、だからといって、「私はスモモではなくリンゴを食べたい」という脳状態(の
一部)が存在するという仮定が偽になるわけではありません。この人の脳状態は
意識の上でもリンゴを食べようと思っていた人の脳状態とは違うと推測されます。
このような違いが存在しないのなら、私はお手上げです。意識を科学的研究する
ことは不可能になるでしょう。しかし、実際にはこういう違いあるという前提での研
究が頓挫しているようには見えません。他人が実際何を意識しているのかを直接
知ることはできませんが、他人の話すこを疑う必要も特にないでしょう。従って、
対応関係についての確実な根拠を確定できなくても、ある脳状態がある考えに
対応するとする知識は得られると考えます。たとえ、その脳状態が別の人にとっ
ては違う考えに対応するとしても、それらの考えが脳に対し別の作用を有する以上
その考えは、当該の脳全体との関連で別の意味付けがなされるはずです。その
ようにして、ある脳状態はその人にとって「ある考え」に対応していると言うことが
できるでしょう。
>>475 :どこかのお姫さま
>プログラムは思考の言語表現とよりは寧ろ当該時点での脳状態に比されるべきもの
>ではないでしょうか?
そのとおりですが、上で、脳科学者が解釈した「考え」は他者のうちに実在
するものです。あるコンピューターに「真円」を表すプログラムがあったとしても、
そのコンピューターを物理的に(還元主義的に)解析しても真円が見つかる
ことはないでしょう。しかし、このコンピュータは真円の性質に依存して動いて
いるわけです。そう考えないとこのコンピュータは物理的に可能だが、極めて
奇跡的な振る舞いをしているように見える。
>そのプログラムそのものは,そのプログラムの意味を我々が解釈しない限り,
>因果的的効力を有しただけの存在者に思えます。
では、物理的に存在しないはずの「真円」がどうやって(物質に)因果的効力
を発揮することができるのでしょう?
あ、
>>491のカッコ内は、「私はリンゴではなくスモモを食べたい」です。
494 :
名無しやろー:01/12/13 16:48
私、あんまり脳科学について知らないので、横から口出していいとは思えないのですが。
議論が興味深いので。
脳の生理学的な部分と観念的な部分が、随伴的であるのか2元論(部分的に2元である)なのか、という問題で、
随伴現象的に説明できないのがあるとブルーバックスのどこやらに書いてあったような。
いつの本か解らない上にリソースとしてブルーバックスなので、信用できるか保証もないのですけど。
脳科学の研究の場で、2元論的な言葉を吐いたら、そうすかんを喰らうという話が載っていたような。
脳科学者が意図的に随伴的な部分しか研究しないということは(たぶん)ないでしょうから、
今までの方法論からいって、目下のところ観測されたのが随伴現象的であったということはないでしょうか。
この方法で突き詰めていっても、最後に2元論的な現象の部分が残って、方法論として行き詰まるとか、
そういうこともないとは言えないでしょう。
科学の成果(もちろん過程を含めて)を考えると、完全に行き詰まることはないと思うんですけど……
(ちょっとくらい行き詰まったとしても)。
すいません。ちょっと見てない内に面白い感じになってました。
遡って読みたいと思います。
このレスが場違いな内容だったら、申し訳ありません。
>>484 意志とそれをのせるビークルである言葉は、物理的レベルでの事象に対しては
過剰なもの、次元を異にするものとしてある。
いわばそれらはウイルスみたいな存在で、自己目的的に増殖し、事故的に変容を
重ねていく。
それは微分化されたものが、累積され、それどおしで累乗されるような事態で、
またそれは、純粋に一回的で、かつ絶えまざる更新性のもとにあるので、
そこに再現的な法則性を当てはめてることは不可能である。
それは法則性を当てはめている際にも生成変化するようなものだから。
>495
変容を重ねていくとは流動的という事か、それとも
とても細かいのだが、しかし段階を経て変容していくという事のどちらでしょうか?
というのも、『純粋に一回的』という事は、変容する時に一回ずつ段階を踏まねばならないという事ですし、
絶えまざる更新性という事は流動的、流れる水を分けられないように
段階に分けられるものではありません。
つまり、意思の変容というものは、坂を登っていくのか
それとも階段を登っていくのか、どちらでもないのか。という事です。
こういう事を訊くと、ある説明をしてもらった時に、その一部だけを抜き取って
あれこれ疑問を並べ立ててどうするのだ、といわれるかもしれませんが、
何かの性質を決める場合、些細な事ですら、その性質の説明の中で相反する(と思われる)事柄が
あってはならないだろう、と思っているのです。
>>496 それは、意味の発生する瞬間は、流動的(連続的)であるのか、
それとも段階的(断続的)であるのかという問いに等しいけれど、
その問題は個体(人体)内に限定して考えてみても、
たとえば、脳神経のシナプスがつながる瞬間というのは、連続的なのか、
そうではないのかと考えた場合でも、やはりそれは連続的とはいえない
のではないか。
シナプスがつながることがすなわち意味の発生を意味するわけではないけど、
それ一つとってみてもこの問題には断続的な飛躍が介在するのではないか。
>>494 どっかのスレで哲学の終焉なんてことが言われているけど、哲学的問題が存在する限り哲学は生き残るでしょうね。その点、
心身問題はあからさまな哲学的問題だといえる。どう問題なのかというと、
1)徹底的唯物論(この世には物理的な物しかない)
それでは、その根拠となった物理学も存在しないことになるのでは?
2)二元論(心は物質と相互作用する)
んなわけないのでは?
3)随伴説(心はあるが物質と相互作用しない)
そんな役に立たたずの「心」が存在するなど進化論的に説明できない。
4)独我論(この世はすべて心である)
あなたがいないときは世界がなかったの?
と、どう考えて問題ありなのだ。随伴説はおとなしい主張だからことを荒立てたくない科学者に好まれている
けれど、彼らが属する生物学において主要な前提となっている進化論に反していることはあまり知られていない。
500 :
名無しやろー:01/12/14 01:04
>>499 私は、
随伴説=脳の物理的現象に心的現象が随伴(対応)している。
2元論=物理的現象と心的現象は、多少(orかなり)の連関はあるが、少しは相互に独立している部分がある。
だと思っていたのですが……。
>>499だとこれとは違う意味ですよね。
私の勘違いでしょうけど。
501 :
名無しやろー:01/12/14 01:05
>>500 2元論=物理的現象と心的現象は、多少(orかなり)の連関があっても、相互に独立している部分がある程度はある。
の方がいいかも。
502 :
考える名無しさん:01/12/14 01:20
連続性がある限り一元論じゃねーの
そんなに自由でありたいのかい
503 :
名無しやろー:01/12/14 01:23
>>502 いえ、そーゆーわけではなく、脳科学で言う2元論ってのが、どういうものなのかなと。
私が自由でありたいとかそうでないとか主張する以前に。
相互に独立している部分が少しでもあれば、2元の系を立てなければいけないんじゃないかなと思うのですが。
魂を信じます。脳をあやつる魂を。
自由意思を尊重します。
世界の側が決定的であるか否かは問題ではないと思う。
認識の側は必ず、決定的なものとして考えるから。
例えば、世界は量子力学等から不確実である。
ということが確実だとして、物事を判断するのだから。
506 :
考える名無しさん:01/12/14 01:29
>>499 脳科学で普通言われる随伴説は、心的現象全てが唯物論的に
説明できる事、心を脳の物理現象として説明する唯脳論の事です。
これは相互作用する事ではなく、つまり心≠脳ではなく脳によって心が現象する
心=脳なので御間違えなく。
二元論的な解釈も出来ますが(脳に随伴して現れるが、心《霊魂?》は独立している)、
そうすると脳科学だけの問題では無くなってしまうので一先ず棚上げされます。
簡単に言えば一元論ですね。
二元論は身体や脳と相互作用はするが独立してある、霊魂等の心的な主体
が存在する事を主張する説です。デカルトですね。
独我論は、・・・。ここでそれ俎上にのせるんですか?
今のところ、脳科学、神経科学では膠着状態です。
日進月歩の世界です。奇説珍説飛び交ってます。
二元論がトンデモと罵られる事はありますが、主流がどれと言えない世界です。
TIIIさんはその道の方ですか?なら、まだ断定できる事が無いと思うんですが?
進化論は唯物主義解釈が主流ですよね?
とりあえず自由意志の定義からコツコツやってった方が良いかと思いますが、、、
507 :
名無しやろー:01/12/14 01:36
>>506 >最近若干の著名な物理学者は、
>意志の自由を救うために因果法則を犠牲にしなければならないと考え、
>不確定性を因果法則の突破物として導入することに、何らの疑念も抱いていない。
>だが彼らは、盲目的偶然の仮定が道徳的な責任感情と一体どのようにして結び付くのかについて、
>説明を疎かにしている。
↑これは不確定性から自由を導こうという輩に対するプランクの提言です。
これは随伴説についても言えることでしょう。
唯脳論の立場でも、物質と意思を媒介する仕組みを実証できていないならば。
実際はどうなんでしょう?
脳科学にこのプランクの言からの進展はあるんでしょうか?
508 :
考える名無しさん:01/12/14 01:46
何もないとされていた真空にも
何らかのエネルギーがあったりなかったりするようですね。
つまり何らかの物質があったりなかったりするとしたら、
物質的なものと精神的なものとを分けることはアヤシイものとなる、
と考えるのは飛躍かな。
509 :
考える名無しさん:01/12/14 02:12
物事を解析するには因果律を使わざるをえない。
我々は因果律を持たないものを理解できないから。
510 :
考える名無しさん:01/12/14 02:15
>>507 ええ、まさにそこに哲学に跨る問題がありますよね。
幾つものモデルが提案されてますが、実証を促す強力なモノはまだ無さそう。
参加数は上昇してるが、方向性が決まらずバラバラに研究してるのが現状では?
アプローチの方法だって無数にあるんですから。
心理学板に「心ってどこにある?」ってスレあるんですが一度覗かれては?
兎に角、物理学で精神現象を解析するなんて、幾らなんでも荒過ぎます。
やっと最近化学が量子力学等で説明できる様になったばかりなのに、、、
ニューロンの働きだって論文がまだ大量に生産されてる状態ですよ。
まだまだなんですって。この分野。
哲学は哲学で出来る事をまずやるべきです。
自由意志の定義からコツコツやりましょうよ、、、
>>508 真空のゆらぎですか、、、
物質そのものの正体を自然科学、物理学は今探っているんですよね。
今、哲学が科学に提示できる実在論は意味を持ってると思うんですけどね、、、
二元論か、一元論か?そんな簡単な問題ではなさそうですよ。
私は今の学問体系ではこの先無理っぽい気がするんです。
哲学ってまだまだ重要じゃないのかな?
511 :
考える名無しさん:01/12/14 02:56
>>510 私も哲学は重要だと思うよ。
哲学が世界を体系化する。ノカナ〜?
512 :
考える名無しさん:01/12/14 03:09
>>509 ヒュームは因果関係は人間が勝手に構成したもんだって言ってます。
因果律を使わざるえない理由はなんですかね?
>>511 >哲学が世界を体系化する。
主題と絡む問題ですか?
自由意志と因果律、因果法則をそれぞれ定義する所からやりましょうよ。
って事で纏める為、過去ログ読んできます。
>512
スイマセン
それでは主題と絡むように。
心脳問題の場合は物質的なものと心の働きを総体的に考える必要が有ると思われます。
確かに考えるという事象は脳のニューロンの働きに縛られると思います。
しかし考えている事柄は人間の思考的限界を超えない限りは自由に考え、思うことができます。
自由意志が単独で存在し、あらゆる事と関係ない存在でなければならないというのであればその様な存在はありえません。
それは神って事になりますが本当の神は我々の社会、思想の中にだけある物です。
自由に考え、思うことが出来るのに脳に縛られている。それは自由でない自由意志という事になります。
そこで自由意志が何に対して自由かを考えるべきであると思います。
私は考えるべき思考の方向性、物事の判断、決定であると考えます。
しかしそれも社会的生活の中から生まれる経験と身体的特徴によっても左右されます。
アレルギーからくる食べ物の好き嫌い。昔犬に追いかけられて犬が嫌い等。
また脳の働きに不確定性要素が無いとすれば思考の結果はそうなるべくしてしかならないという事になります。(日本語へん?)
しかしそれでも思考の中の思考の方向性、物事の判断、決定は自由であるといえます。
それは思考という限られた中では自由意志は存在するということです。
二元論的になりますがデカルト的二元論では有りません。魂は信じてません。でも幽霊はいます。
こんなもんで許していただけますか?
補足
>それは思考という限られた中では自由意志は存在するということです。
というよりそれは思考という限られた中ではそう思えるといったほうが良いのかな?
魂はあるよ。
じゃあ君の自由意思はすべてニューロンのきまぐれ?
ニューロンも魂も自由意志もない。
私の書いた魂はデカルト的な物理世界とは異とする世界に存在する何かという事です。
>じゃあ君の自由意思はすべてニューロンのきまぐれ?
ニューロン自体が意思を持っているのですか?
悲しいかな思考はニューロンの活動の産物である事には私は疑いを持ちません。
しかし心には心の考え方が有ってしかるべきであると思います。
またまた補足
>しかし心には心の考え方が有ってしかるべきであると思います。
心理学になるのかな。
魂が永井 均先生の<私>であるのなら私も認めますよ。
たとえクローン(コピー)が出来て<私>と同じに生きたとしても<私>にとってはクローンは<私>ではない。
まーたバカのせいで話がぐちゃぐちゃになっちゃった。
521 :
考える名無しさん:01/12/14 09:57
>>511 過去ログ読まれてますか。
量的にタイヘンでしょうけど。
>521
実は読んでません。
取り合えず逝ってきます。
この問題はかなりの部分で、脳科学に還元されてくるのではないで
しょうか。なにげない、ふとした思いつきや行動など、
乱雑な記憶や五感からの反応に拠っているのではと思われます。
そもそも「自由意思」なる言葉ですが、これの明確な定義って、
あるのでしょうか?神経学者の立場は大きく2つあって、
心は遺伝子の乗り物というか脳内のシナプスに付随する
いわば錯覚であるというものと、個々の脳内反応から「創発的に」
生じる上位的階層であるというものです。
ぼくは、社会や自然現象を考えると後者を支持しますが・・・。
そして、心(人間)の集合に上位にも何かがあるハズ。
それを神といっていいのかしりませんが。
つまり個人とか自由意思という発送もこの「層」における
相対的な1つの視座でしかなく、個なる発想はエゴに近い
んじゃないでしょうか。では、その
エゴは、どこからくるか。わかりませんね〜。
だって気がついたら「自分」がいるんだもん。
そこで意思が発動されるんじゃないでしょうか。
つまり「人」なる層に焦点したときは、個人や意思は
あるとしていいし、そうすべきである。
でも別の層に目をむけたら「それ」は相対化されて
前と同じ意味をもたなくなる。と考えます。
524 :
考える名無しさん:01/12/14 12:51
自由意志とは、ちょっとずれちゃうけど…。
Aという人が「赤い色が見えている」と言ったときに、Aが持っている赤い印象(私的印象?)
と、そのときのAの脳細胞の状態が、どういう関係にあるか、よくわからんのですよね。
Aが何度も実験を受けた結果、Aの脳細胞に一定の状態が生じたときには、Aは赤い印象を
持ち、「赤い色が見えている」と言う…というような関係は、あるんでしょう、多分。
しかし、それをもって、「一定の脳細胞の状態が、すなわち、赤い印象を持っているということ
である」と言えるのかどうか。
オオカミに育てられたため言葉をしゃべれない少年(?)の脳を調べたところ、他の人なら
「赤い色が見えている」と言うようなときと同様の脳細胞の状態があったら、少年は赤い印象
を持っている、と考えていいんでしょうか。少年自身の言葉で確かめているわけでもないのに。
525 :
考える名無しさん:01/12/14 12:52
ケトウ思想にまみれないようにね。
>>506 えーと、
>>381あたりでも書いたように僕は随伴説および同一説は基本的に唯物論だと
思っています。心が説明できるといっても、なんだかオマケのように対応あるいは創発
といってくっついてくるものでしょう。けれども、科学における形而上学的研究プログラム
としてみた場合、これらの説がそこそこ優れているということは認めます。特に心理学と
脳科学との間の最も単純な橋渡しとして役立つでしょう。
自由意志という観点で見た場合、脳から心が創発しても、現象しても、心と脳の間に何らか
の相互作用がなければ、心が意志によって身体を動かすことはできません。従って、僕は、
「物理的世界は完結しているか? あるいは、心との相互作用があるか?」という点に関する
区分が重要だと考えます。この点はいかがですか?
>二元論は身体や脳と相互作用はするが独立してある、霊魂等の心的な主体
>が存在する事を主張する説です。デカルトですね。
相互作用を最初に言ったにはデカルトです。が、デカルトのことは、この際、忘れましょう。
そしてついでにエックルスも忘れましょう。彼らは、この相互作用について物理学的な
モデルを考案しているようですが、物理学的世界を広げ、問題を先送りしているだけです。
個人的には、心理学におけるゲシュタルトのような認識過程を分析することに問題解決の
糸口がるように思います。
自由意志の定義に関しては、上記のように二元論的なものにならざるを得ないでしょう。
随伴説を前提とした定義では結論が見えています。しかし、自由意志は二元論そのものより
複雑です。二元論が真であっても自由意志が存在しないことはありえます。が、二元論が偽で
あれば自由意志の土台は崩れます。
そこで、定義よりも先に、二元論を批判してみるのはどうでしょう?
脳の話を出す前に自由意志の存在確認法を固めないと意味がないので
延々と今の世界認識の上では自由意志がただの現象解釈的存在であると
言い続けて来たのだが、すぐに脳だの心だの持ち出して地に足を
つけてない話に持っていくのはやめたほうがいいんじゃないかな。
それとも知らんうちにもう解決して次の段階に進んだの?
529 :
名無しやろー:01/12/14 16:42
>>527 > そこで、定義よりも先に、二元論を批判してみるのはどうでしょう?
ええと、2元論を批判していくというのは、
結局は心的現象は外部に因を求められると主張するということであり、
つまり意思に「外部とは無関係に他(=その意思に継起するもの)に影響を与える可能性」としての自由を認めないということでしょうか。
そして、その上で「私たちが意思する場合に通常感じている」自由とは何かを検討すればよい、ということでしょうか。
>>528 >>527の最後の段落は、528さんの言っていることと似ていると思われますが……。
私が読み違えてなければ。
530 :
>>512 :01/12/14 19:21
>ヒュームは因果関係は人間が勝手に構成したもんだって言ってます。
因果律を使わざるえない理由はなんですかね?
我々は因果律を持たないものを理解できないから。
って言ってるだろうがゴルァ〜ン
>>529 名前:名無しやろー
>つまり意思に「外部とは無関係に他(=その意思に継起するもの)に影響を与える可能性」
>としての自由を認めないということでしょうか。
そうです。物理的世界が閉じていること(自己完結していること)を証明すれば二元論は
反証されたことになるでしょう(心は物質である身体を動かすことができない)。しかし、
物理世界の閉鎖性は当たり前のようだが、証明するとなるとかなり困難です。ここには
神の非存在証明に見られる困難さに加え、我々の周りには、心の産物であって、物質
とはみなせないものがいたるところにあるからです。その代表的なものが物理法則その
ものです。証明に物理法則などの理論を用いてはいけないなどと言うつもりはありませ
んが、実在するものというカテゴリーにこういった理論あるいは真円を含めたらインチキ
になるでしょう。
それよりも、二元論者が持論を擁護する根拠としているものを攻撃した方がいいでしょう。
例えば、「我々やコンピュータは真円に独特であって、自然界には存在しない性質に依存
して行為している」といった命題を唯物論的に説明することによって否定するとか、あるいは
「(随伴説がいうような)何の役割も持たない進化論的観点から見て存在しえない」という
命題を攻撃するとかです。
>そして、その上で「私たちが意思する場合に通常感じている」自由とは何かを検討すれ
>ばよい、ということでしょうか。
そうです。上のような反証ができたら簡単です。我々の勘違い(錯覚)を心理学的にで
も説明すればよいでしょう。
逆に反証できず、二元論を擁護するような結果になったら厄介です。実際、自由意志
と感じる多くのものは錯覚でしょうから、「本当に自由意志はあるのか?」という問題は
依然として難解であり続けるでしょう。
>>528 >脳の話を出す前に自由意志の存在確認法を固めないと意味がないので
>延々と今の世界認識の上では自由意志がただの現象解釈的存在である
自由意志はあくまで心的な現象ですから、直接的に確認することはでき
ないでしょう。ここでなにか物理科学的な方法で確認できるようなことを言えば
彼は半分唯物論に足を突っ込んだようなものです。自由意志は唯物論を前提
として定義できませんから、無理やり定義すると何も議論する前に自由意志
が存在しないとい結論が出てきましょう。とはいえ、自由意志の存在を信じる
者にとって、自由意志が何なのか、明確であるとは思えません(実際、私が
感じている自由意志の、少なくともほとんどはニセモノでしょう)。
それゆえ、自由意志が存在するために必要な前提を抽出し、それを逐一
批判的議論にさらすのが懸命でしょう。で、実際、多くの自由意志支持者が
認めるであろう前提に、「この世は非決定論的である」というのと、「二元論
は真である」というのがあると考えます。
533 :
名無しやろー:01/12/14 20:39
>>531 理想的にはそうだと思います。
しかし
>>510で言われているように、前半の2元論への反論も、後半の心理学的補完も、難しいのでは。
現段階の科学では、自由意思を打ち破る方法としては、非現実であるように思うのですが……。
決定論的な科学モデル(科学理論)が提唱されていない以上、それを哲学の厳密な議論に持ち込むのは、
まさに机上の空論で(論が空なのだから)、説得力に欠けるような気がします。
534 :
参考にしてね:01/12/14 20:53
自由意志を規定するのが難しいのであれば、「決定論」のほうから定義してみてはどうでしょうか。
例えばこんなのはどうでしょう。(よくなかったら訂正して下さい
>>528,533,あ)
「物理法則に例外がないとすると、現在の世界の状態から予測される未来の世界の状態は、一通りだけである」
この意味は、時間を巻き戻して時間の運行を何回もやり直す思考実験をしてみることによってはっきりします。
1回目:
現在の世界を構成する素粒子/原子/分子の運動状態が、完全に数値的に分かったとします。
そうすると、物理法則が例外を持たない限り、未来は一通りに決まってしまいます。
この未来を仮に「A」とします。
2回目:
時間を巻き戻してやり直したとします。
1回目と全く同じ状態から始めると、やはり未来は一通りに決まります。
同じ状態から始めたのですから、結果は同じです。(力学法則の決定論的性質より)
したがって、2回目も「A」という未来に辿り着きます
3回目以降、何度繰り返しても、辿り着くのは同じ未来「A」です。
もしも、人間の意識と脳を構成する原子/分子の運動状態が1対1対応するのであれば、人間の意識も初めから決定されていたことになります。
この立場から出発すると、自由意志は幻であって、現象解釈上の問題ということになってしまいます。
これにも関わらず自由意志が存在するというのは、こういう立場から見ると非常に疑問なわけです。
ちなみに、理系関連の板で見かけた反論としては
・量子力学的確率性
・無限大自由度の役割
・現実世界と通常使われている数学的記述の不一致
などがありました。
さて、自由意志を脳の内部に求めている方が大勢いますが、時間を巻き戻す思考実験を適用すると、脳が能動的に未来を変えることはありえません。
脳を出せば決定論から逃れられる、ってわけではないみたいです。
自由意志って、どう定義すれば存在するんでしょうかね?
だいぶ立場にギャップがあるような気がしたので説明してみただけです。
レスは不要ですので、議論を続けて下さい。
やっぱ、本物のいちご姫が云う様に分哲で概念を洗いましょうよ。
皆、それぞれ勝手に自由意志を定義していて議論の土台が、、、
537 :
考える名無しさん:01/12/14 21:15
自由意志の定義は今ここで考えているような気が。
「自由意志否定派」の人は、こういう定義はまずいよと言っているだけで、定義を探すことには賛成だと思う。
538 :
名無しさん@1周年:01/12/14 21:37
539 :
考える名無しさん:01/12/14 23:30
>>499 物理法則に従う物質のレベルと、一見融通無碍に見える情報(心)のレベルを区別することは必要です。
ただ、意味のある情報は「心」以外にもありえることを忘れないで下さい。
例えば、雲の形がウロコみたいだったりイワシみたいだったりという、偶然なんだけど意味を付与しうるような情報というのは世の中にたくさんありますよね。
脳内の電気・化学信号のパターンとかも、この情報のレベルに属するように思われます。
一方、「心」のほうは、自由意志が存在するという前提でしか定義できないかもしれないという疑いもあります。
だとすると、分類に「心」を持ち込むのは不適当で、例えば
A)徹底的唯物論
情報を統べる法則も、物理法則に支配されている(決定論?)
B)随伴論
情報を統べる法則は、物理法則とは独立である(でも
>>534には勝てない?)
C)二元論
情報を統べる法則は、物理法則に介入できる(んなわけないだろ!)
D)独我論
(...ちょっとこれは議論の階層が違いますね)
とするほうが妥当ではないでしょうか?
これなら、A)やB)はおかしな話ではありませんよね。
「我々が物理法則を認識している」という状態に対応した分子の運動状態はありえますから、物理法則の存在も、唯物論と何ら矛盾しません。
情報を統べる法則のあり方は、複雑系の科学で追及されていますが、まだ結論は出てないみたいです。
>>532にも書いてある通り、自由意志の実例を探すのが近道でしょうね。
>>539 >物理法則に従う物質のレベルと、一見融通無碍に見える情報(心)のレベルを区別することは必要です。
これが間違いだっての。
実際に分析する上で有効な分野分けの仕方と
原理的な構造に対する考察は別だ。
そんなもん分けられるものじゃない。
541 :
名無しやろー:01/12/15 14:44
>>533 >机上の空論
「空理空論」に自レス訂正。
ここで要請される理論は、実証されるか否かは問わないので、机上のものでも結構であるため。
>>1 >みなさんはどう考えますか?
人間意外に聞いても無反応。
↑
「以外」のまちがい。
あ,「意外」でも意味は通じるね。意外だった。
546 :
考える名無しさん:01/12/16 13:46
age
547 :
考える名無しさん:01/12/16 22:21
意思と意志の使い分けしてる?
548 :
考える名無しさん:01/12/16 22:37
>>547 それは1から参加してるオレとしても気になっていたが、「使い分けしてない」で正解のようだ。
私は1じゃないです。
>>548では紛らわしい書き方をしてしまってスイマセン。
550 :
考える名無しさん:01/12/16 23:13
>>547 そうですね。
でも、使い分けされなくても支障ないみたいです。
辞書見るとこのスレッドだと「意志」が適当みたいです。
哲学でも、習慣的にも内容的にも「意志」がいいと思うのですけど。
どうでしょう。
>>539 >A)徹底的唯物論
>情報を統べる法則も、物理法則に支配されている(決定論?)
>B)随伴論
>情報を統べる法則は、物理法則とは独立である(でも
>>534には勝てない?)
>C)二元論
>情報を統べる法則は、物理法則に介入できる(んなわけないだろ!)
実際問題として、我々が見ている世界はもはや物質そのものではなく、物質に関する
情報になっているわけですよね。そして、物理法則も実際には、物質の速さや質量など、
物質に関する情報が適用されている。また、真円や理論といった観念的なものも、広い
意味では情報と言える。つまり、いずれの立場から見ても、物理法則に適用される情報も、
そうでない情報もある(ただ、徹底的唯物論者は自らが用いている情報の実在を自分の
心とともに否定するかもしれませんが)。だから、情報という言葉をここで用いるのは不適切
ではないでしょうか? あと、法則が法則に介入できるという言い方はおかしいのでは?
二元論者とて心の法則が物理法則と矛盾し、それを否定するようなことになるとは考えて
ないでしょう。また、温度に関する法則(情報の法則?)によって分子の振る舞いが支配される
というような問題はちょっと違った観点のものでしょう。
僕が
>>499を書くとき念頭においていたのは、ポパーの世界3です。世界3は一般に心が
作り出した世界と理解されていますが、ポパー自身が述べているように、必ずしも心が介入
になくても生じる場合がある。典型的なのは、ローレンツが述べているような生得的な観念
です。
>>539 上のつづき
確かに、心は曖昧な概念ですから、分類に心を持ち込むのは不適切かもしれません。だ
から、多くの人に世界3の特殊性が理解されているのなら、問題を次の形に修正したほうが
分かりやすいと思います。
A)徹底的唯物論
世界3は幻想であり、実在しない(あなたが話した内容は実は存在しない?)
B)随伴論
世界3は、世界1と相互作用しない。(あなたの生得観念は世界3ではない?)
C)二元論
世界3は、世界1と相互作用する(んなわけないだろ?)
D)観念論
世界はすべて世界3である(物自体こそが幻想?)
E)独我論
世界はすべて私の世界3である(へ?)
ちょっと議論がずれてきているように見えるので解説しておくと。
多くの論者はカントのアプリオリやローレンツの生得的な観念が実在すると
信じている。と僕は考えているのだが、決定論が真であれば、これらは実在し
えないと主張したい。というのはカントはニュートン力学をアプリオリに真だ
と考えていたようだが、完璧な初期条件と真なる(物理)法則から、ニュート
ン力学のような(厳密には)偽なる法則は導けない(決定できない)。つまり
世界は3次元的であるというのは人という生物種に備わったアプリオリではあ
るけれど、それは進化の過程で偶然に生じたものであって、決定論的必然に由来
するのではないであろう、ということです。
>>551,552
情報という観念を持ち出したのは、不適切だったようです。
暗黙のうちに、情報に関する因果法則の存在を仮定することにもなりますしね。
今問題なのは、因果法則にとらわれない選択を探すことのほうでした。
話をずらしてしまってすいません。
ただ、世界3については何かよく分からないので、説明して頂けるとありがたいのですが。
あと、発言の背景について一言言い分けさせてもらいたいと思います。
物理板住民の私にとっては、「神」とは自然の因果法則のことなので、自由意思の存在証明は、人間の意思決定における「神」の不在証明になるのです。
証明は、できるだけ「神の世界」(=科学の世界)の言葉でやるのが、ゲーデル的でかっこいいかなと思ったわけです。
これは本質ではなくて、趣味の問題でした。(
>>540)
物理のこと話すときに神とかそういう言葉使わないでくれる?
557 :
考える名無しさん:01/12/19 03:13
ゲーテは、光と闇の境界にこそ「色」は存在すると考えていた。
光と闇の境界の部分にだけ、あざやかに色が並ぶことを、ゲーテは発見した。
「色は、光と闇の結婚であり、なかば光、なかば影である。」
観測するものと観測されるものが、一体となったときに初めて、自然が本当の姿を現す。
ゲーテの思想は、量子力学者によって、再評価されている。
実時間と虚時間の境界の部分に空間や物質が存在化する。
不確定性原理を発見したハイゼンベルクは、こういっている
「ゲーテがニュートンを攻撃したのは、深い意味があった。
もし、ゲーテに非難すべき点があったとすれば、ニュートンにとどめを刺さなかったことだ。」
ははは、またでたらめなことを…
559 :
考える名無しさん:01/12/22 07:01
>>545 2元を前提とする方法がfantasicという意味で非現実的なら、
TIIIさんの方法はimpracticableという意味で非現実的であるという意味です。
>>553(TIII)
>つまり世界は3次元的であるというのは人という生物種に備わったアプリオリではあ
>るけれど、それは進化の過程で偶然に生じたものであって、決定論的必然に由来
>するのではないであろう、ということです。
人という生物種にとって、空間が三次元的であることはアプリオリではない。
むしろ、空間が三次元的であるという考え方を、人は"有効に"利用しているだけだ。
それが"有効で"なくなるとき、人はその考え方を利用しなくなる。
それだけのことだ。
>>555(539)
>今問題なのは、因果法則にとらわれない選択を探すことのほうでした。
で、見つかりそうかい?
561 :
どこかのお姫さま:01/12/22 14:03
>>491 >科学において(すら)完全な認識は不可能であって、完全確実な対応関係が確定で
>きなくても、対応関係についての知識は無限に増大させることができるでしょう。
物理科学における完全な認識の不可能性は(1)世界の創始から終末に至る全事象の
データを入手する事の古典論での不可能性 (2)それを入手したとしてもなお残る
理論の決定不全性 そして場合によっては(3)物理的出来事の非決定性と(4)不
確定性原理の問題に基づくものでしょう.
しかし,(素朴心理学における)心は日常言語に依拠して初めてその存在を語りえる
ものであるが故に,解釈の不確定性の問題と,心的状態の決定的同定の不可能性の問
題が生じます。
それゆえ,同じ「確定できない」にしてもその内容に相違があるのです.
>この人の脳状態は意識の上でもリンゴを食べようと思っていた人の脳状態とは違う
>と推測されます。このような違いが存在しないのなら、私はお手上げです。
>意識を科学的研究することは不可能になるでしょう。しかし、実際にはこういう違
>いあるという前提での研究が頓挫しているようには見えません。
両者の間に違いがない,という可能世界は――即ちこの世界と異なった物理法則が成
立しているのかもしれない世界――想定可能です.
哲学が扱うのは,可能世界が如何であり得るか(可能性の制約)であって,現実世界
が如何であるか(現実の描出)ではありません.従って,<哲学の議論として>心と
,脳なり何なりの物理的事物の関係を論じるのであれば,あるアプローチの基で現実
世界の記述・法則化が上手くいっているという事は,何らそれが心と脳との関係の哲
学的規定を与えるものではないはずです.(但し,現にそうであるという事実はそれ
が可能である事は証明しているわけですが,その論点は上記議論では除外)
>>560 :代理いぬ
>人という生物種にとって、空間が三次元的であることはアプリオリではない。
>むしろ、空間が三次元的であるという考え方を、人は"有効に"利用しているだけだ。
あくまでアプリオリなものの例として三次元的云々を持ち出したので、別に適切な
例があれば僕はかまいません。が、一応反論しておく。
確かに、空間が三次元的であるという考え方を、人は"有効に"利用している。しかし、
単なる選択肢の一つというだけではない。例えば視覚情報の認知について考えてみれば、
我々が両眼の視差によって三次元的映像を認知する生物学的機構を持っていることが分
かる。これをうまく活用したものに立体視用のメガネがある。このメガネは、実際は二次元の
スクリーンに映った映像が三次元に見えるよう、我々を"強制"する。だから、もし、我々が
突然、四次元の空間に投げ出されたとしても、我々には世界が四次元に見えることはない
でしょう。このような場合、我々は単に考え方の選択によって対処できず、陸に上がった魚
のように我々自身が自然によって選択され、淘汰されることでしょう。
>>554 >何言ってるのかさっぱりだよ。
うーん。
例えば世界を巨大な計算機として考える。そうするとある時間における素粒子なり
分子なりの物理量についての情報から、ニュートンが記述した本が計算できると考
えられる。だって、実際に世界計算機の出力として本が出来上がっているわけだか
ら。ここで、世界計算機のプログラム(アルゴリズム)は決定論的な因果法則という
ことになる。しかし、論理学的な理由から、真なる前提からは真なる帰結が導かれ、
偽なる帰結が導かれるなら、前提の中に間違った理論や情報が一つ以上含まれて
いるとされる。だから、本の内容であるニュートン力学が偽であるなら、決定論的な
因果法則が間違っていたということになる(初期条件に使った情報は正しいと仮定
する)。これで、決定論が反証されたように見えるわけだけど、問題は大有りで、
第一の反論として、「本(プリンピキア)とその内容であるニュートン力学はそもそも
違う、とか、それらは別の階層になる理論だ」というのがある。実は、こういうツッコミ
を期待してたのだけど。そう思わない?
>>555 世界3は数学や科学理論、さらには芸術や人工物の世界で、上の
>>563に即して
言えば、紙にインクが付着している物としての本が世界1で、その内容であるニュートン
力学が世界3ということになります。ちなみにポパーが言う世界2とは心の世界という
ことになっている。が、脳に記憶された理論やその他もろもろの考える対象が世界3
と認められることから、この世界はあったとしても極めて薄っぺらいものになるでしょう。
>>561 名前:どこかのお姫さま
>しかし,(素朴心理学における)心は日常言語に依拠して初めてその存在を語りえる
>ものであるが故に,解釈の不確定性の問題と,心的状態の決定的同定の不可能性の問
>題が生じます
これはクワインですか?
>両者の間に違いがない,という可能世界は――即ちこの世界と異なった物理法則が成
>立しているのかもしれない世界――想定可能です.
想定不可能と言っていたつもりはありません。そういう想定はかなりとっぴなもの
であろうということです。
よく言われているのは、
A君、リンゴを食べた。
B君、スモモを食べた。
という二人の人物の脳状態が同一である可能性でしょう。これは行動主義ないし機能主義
への批判になっている議論ですが、外から見える物理科学的な事実からは、この二人の違っ
た行動を説明することはできません。しかも、脳の運動野から運動神経にいたる活動を含めて
脳状態を考えたとしても同一である可能性があります(リンゴとスモモがほぼ同一の形状で
ほぼ同じ位置にあるとするなら)。また、この二人が心の中でもそれぞれ違ったもの(リンゴと
スモモ)を食べようと思っていたとしてもしかりです。しかし、
(上の続き)
A君、リンゴを食べた。
B君、リンゴを食べた。
であって、B君の脳状態は「スモモを食べた」という時と同一であるならば、B君は心の中で
「スモモを食べよう」と思っていた、あるいはB君にとっては、そもそもリンゴとスモモの区別は
なく、同じ食べ物であったと考えざるをえません。もし、B君の前にリンゴとスモモがその名前
付いた札とともに並べられ、それらを食べ比べて見るよう仕向けたならば、リンゴを食べた場合
とスモモを食べた場合で、B君の脳の中で違った出来事が起きるはずです。例えば脳のRという
領域が活性化されたら手をリンゴの方に動かす神経が活動し、Sが活性化するならスモモの
方に、というぐあいです。働く運動神経が違っているのに元になる脳の活動がまったく同じと
いうのは物理科学的に(神経科学的に)ありえないでしょう。これはいかなる科学を想定しよう
とも、それが科学と呼べるようなものなら同一であることは不可能でしょう(リンゴを食べろと
指示されて、実際にリンゴを食べたというような必然的でかつ再現性がある現象に関して
時間軸のある一断面の状態が同一であるなら、因果律そのもが破綻してしまうでしょう。
一回の出来事に関してたまたま同一になることは非決定論によれば許されますが、再現性が
あるなら必ず有意差が生じること期待される)。したがって、B君のある脳状態が「スモモを食べよう」に対応するならば、たとえそれがA君の「リンゴを食べよう」と同一であろうとも、B君にとっての
「リンゴを食べよう」と同一ではありえません。
つまり、前提とする因果法則によって可能世界はさまざまありえるだろうけれど、因果法則
自体を仮定しないような世界は、ほとんどなんでもありになってしまうので、どんな世界かすら
も想定できないことになってしまうでしょう。
>>556 ある意味、ここでの議論で一番必要なのは、一神教の神学論争の知識では
ないかという気がします。
常識的には、唯物論で自由意志が存在しないのは、法則の記述形態や適用
限界が原因だと思うのですが、そこを議論すると細かい技術論になって
しまうので板違いになると思われます。
# そういえば、プリゴジン学派の力学だと時間が巻き戻せないみたいです。
自由意志の存在証明から入るのであれば、中世の僧侶がこういうことを
真剣に考えていたに違いないので、きっと説得力がある例証があるはずだと
思います。
>>560 というわけで神学づいてますが、なかなか調べる暇がありません。
>>563 >>554は私じゃないですが。
今ある法則が間違っているかどうかは大した問題ではなくて、自然に
規則性があるかどうかとか、もっと根本的なことが問題になっているの
だと思います。
例えば、ニュートン力学が間違っていたとしても、相対論という別な法則
を持ってくれば再び因果律による支配が復活するわけです。
相対論にも適用限界はありますが、その先にある法則が微分法則として
表せている限り、やはり因果律の支配がついて回ると思われます。
量子力学は別かもしれませんが、解釈の問題があるのでそれもどうなるか
分かりません。
>>564 ありがとうございます。哲学の側も、深いですね。
568 :
考える名無しさん:01/12/23 09:17
パッとみただけで過去ログも読んでない部外者だけど、
1の議題そのものがなんかおかしなことになってないか?
人が自由意志で行う行為ってのとそれを取り巻く物理法則なんて
全然レベルっうか物差しが違う話の気が・・・
あ、そんなのとっくに解決済み?
それで500超えるスレなんだ。
ある意味すげえな。2ちゃん的ではあるが。
569 :
考える名無しさん:01/12/23 09:36
これぞこのスレを見た個々人の自由意志の決定による物と言えなくもないかも。
570 :
考える名無しさん:01/12/24 10:59
この議題ってときどき立ちますね。
私には、自由意志とは
「意思どおりに行動する自由」のことであり、
決定論、因果法則とは矛盾するものではないと思うのですが。
因果法則からはずれた意思をも人は持ちうるでしょうか。
「無限の可能性を能動的に切り拓いていく自由」は
意思にはないと思います。
因果法則が一意決定的であれ確率的なものであれ、
その法則によって生成された意思しか持たないでしょう。
571 :
考える名無しさん:01/12/24 14:39
性格が生まれつき決まってるんだから
自由意志なんてあるわけないだろが、豚ども!
>>563 あのさー、その話はとっくに却下されて終わってるんだけど?
574 :
考える名無しさん:01/12/24 16:58
>>570-573 そんな単純な話しでは無いと思うが、
哲学板の結論としてこれ以上進展も無さそうだ。
これが限界なのだろう。
多くの異論を排除し、これにて終了。
575 :
考える名無しさん:01/12/24 19:37
577 :
考える名無しさん:01/12/25 10:03
578 :
考える名無しさん:01/12/25 18:15
自由意志がないとすれば、この世の現象は全て
起こりうるべくして起こるのでしょうか?
もし人間の行動や自然現象が科学の発達により
全て解明されれば、株式市場をはじめとする資本主義
市場経済はどうなるのでしょうか?
【リスク】という言葉は死語になるのでしょうか?
また犯罪行為等も予測可能であれば【刑罰】や【責任】
はどうなるのでしょうか?
579 :
考える名無しさん:01/12/25 19:04
「予測する」という情報も人間の行動に変化を加えるから
原理的にどうやって予測した情報を人間が有効に活用できる
(というか使用できる)のかが分からない。
580 :
考える名無しさん :01/12/25 19:13
まあ西洋哲学史を貫く問題であるので
ここで解決されるわけないか。
解決どころかラプラスの魔についてはこのスレでは触れてもいない
何いってんだ?
あ、そうなの?
読んでないからわかんないや。
じゃあ全然ちゃんと議論してないんだね。
自由意志は「あるのかないのか」を議論するスレで
「ないとしてのうんぬん」のスレ違いをいきなりぶちかました挙句
それについては議論してないよ、というと
ちゃんと議論してない、などと勘違い極まってる発言をする奴を
馬鹿といわずになんという?
586 :
考える名無しさん:01/12/25 20:52
アフォ。
587 :
考える名無しさん:01/12/25 21:02
なんかよくわかんないや。
僕は自由意志は「あるのかないのか」の議論に対して
ちゃんと言及したつもりなんだけど。
規範的法則と人間の自由の相克が問題じゃないの?西洋哲学史一般にあるよ。
ラプラスのデーモンは物理的因果性による「予言」の問題じゃない。
僕そんなこと一言もいってないよ。
思うに583は580=579と勘違いしてると思われ・・・・・・
589 :
580=587:01/12/25 21:19
なんだよそれ!
ラプラスの魔って知らなかったから、そうなの?とかいっちゃったよ!
ったく!
自由意志はみんながもっているわけではない.
もってると思ってる人はもってるんだろと思う.
だってそう思っちゃってるんだからね.
もってない人は,まさに機械人形.
因果の中でカタカタとしちゃってる.
と思う.
591 :
考える名無し:01/12/25 21:34
↑本当の馬鹿を発見しました。
592 :
考える名無しさん:01/12/25 23:13
生きる事も死ぬ事も、実際には自発的に行える事なんだよ。
善や悪もまた然りだ。
予め規制された意志など人間には存在しない。
関係性と共同体の中で、人はその為に規制されるべき事柄を学ぶ。
そういった事柄はあくまで独立体であり、人間に生来的に植え付けられた
能力みたいなものじゃない。
もし自由意志が無いというなら、善悪なんて概念も存在しない筈だ。
人生の様々な場面において、それらを選び取っていく可能性も無い筈だ。
というか、そもそも「自由意志」なんて事思いつくのだろうか?
>575
既出なのは知っています。
というか、以前から私は同じ主張を書き込んでいますから。
有効な反論があるのならどうぞ。
むしろそれが知りたい。
595 :
考える名無しさん:01/12/26 23:13
↑(プ
晒しあげ
596 :
考える名無しさん:01/12/27 22:27
>>572 >あのさー、その話はとっくに却下されて終わってるんだけど?
その話ってどの話?
一応言っておくけど、決定論と自由意志の問題は物質に関する言明と
心に関する言明の間に存在するギャップが主要な難問になっているわけでしょ。
それに対する態度として、
>>552に挙げたようなさまざまな立場がある。
あなたが言う「その話」というのがこういう話を指すのでしたら、終わってる
なんてとても言えないでしょ。もし終わってる感じるのなら、それは問題が
解決したと言うのではなく、あなたの哲学的態度が「終わってる」のではない
ですか?
デネットを始めとする多くの唯物論者は基質中立的な理論やアルゴリズムの
存在を認める。我々の認識の及ばない物自体しかこの世界には存在しないという
徹底的な唯物論者は世界を語る言葉を持たないとも言えるわけで、世界を語る唯
物論者は観念論者と近いと言ってもいいだろう。
>>563で想定されている反論は
そのような世界にはアルゴリズムが存在すると考えている立場からのものです。
で、それは真偽を判断する理論は、当該理論に対してメタな立場にあるとするもの
だろう。しかし、真偽を言うためには必ずしもメタ理論を援用しなければならないの
ではなく、理論を同一階層上で比較するだけでもいい。古典的な決定論において
はニュートン力学が決定論的宇宙を表現していたのだけれど、ニュートン力学と
観察事実だけから、相対性理論を導くことはできない。第一、ニュートン力学と
相対論は厳密に言えば矛盾している(極限状態について矛盾した答えを導く)の
だから、導出関係にあることはない(こういう場合、真理は1つとすれば、どちらか
に真というレッテルを張ることは必然的に他方に偽のレッテルを押すことになる)。
従って、ニュートン力学的な宇宙のアルゴリズムには相対性理論を作り出すこと
はできない。
徹底的唯物論者や随伴説の立場からは次のような反論があるであろう。つまり、
因果法則によって決定されるのはインクが付着された紙という物質の振る舞いだけ
であって、その本の内容である理論は心によって認識されてはじめて意味をもつ
ものであって、それは実際には存在しないか、あったとしても物質になんらの作用も
及ぼさないだろう、というものです。これを完全に否定することはできないが、批判
することは可能で、まず次のように言えるであろう。すなわち、認識には必ずも
心の存在を前提にする必要はないのである、と。例えば、スキャナーを買ったとき
についてくる文字認識ソフトを考えてみればわかる。これは心理学で言うゲシュタルト
な認識をしているわけだが、この認識結果によってプリンターを動かしたり、さらには
爆弾を起爆させるように仕向けることも可能である。このような問題は下向きの相互
作用と呼ばれる問題で、パソコンという人工物が気に入らなかったら生物に適当な
例を見つけてもいい。生物はDNAの物質としての多くの情報(三次元的構造や、分子
や電子の配置)の中から、塩基の配列に関する情報だけを抽出して次世代に伝えて
いる。だから、配列を認識し、それだけを抽出するメカニズム、つまり理論ないしアル
ゴリズムが存在すると考えられる。
>>567 :555
>自然に規則性があるかどうかとか、もっと根本的なことが問題になって
>いるのだと思います。
>>598に書いたような下向きの相互作用についてはどう考えますか?
問題はやはりゲシュタルトのような理論は自然に「ある」か?という
ことになると思うんですが。
還元主義は優れた研究プログラムだとは思いますが、要素によって
説明するというのは生物学では分子(のある性質、例えば配列とか)
でストップしてますし、そもそも物理学における「力」などは還元不可能
なようにも思えます。実際、何が本当に存在しているのでしょうか?
また、解説します。
僕の問題に対するアプローチは、まず、問題の中心となっている概念そのもの
を最初に定義することはしない(けれど人間は複数の問題を同時に考えられないの
だからそれ以外の概念は定義したりする)。特にこのスレの自由意志のような概念
を定義してしまうと結論の先取りになって不毛な議論が生じる可能性があると思っている。
だから、そのかわりに、問題となっている概念が成り立つための前提を探り、それ
を解剖して矛盾を引き出す。そうすることで、例えばこの問題で一番厄介な「こころ」
というものを脇において議論可能にできたりすると思う。
>>598はその線で書いたもの
で、自由意志の問題を下向きの相互作用の問題に「還元」しているつもりなのだが、どうか?
601 :
考える名無しさん:01/12/28 15:08
>>597 決定論が〜初期条件が〜って話。
このスレの真中あたりではそもそも初期条件に関する情報を
完全に集めることが不可能だ、ってことは散々出されてて、
さらに人間の知っている理論法則は完全なものにはなりえない
ことも同時に説明したはずだけど。
だからもうこんなのは解釈問題にしかならないって話をだしたわけで。
つーかマクスウェルの悪魔って知ってる?
そういう「宇宙計算機」みたいなものを考えるのは
「宇宙の外」を宇宙の中の話に持ち込むようなものだぞ。
602 :
考える名無しさん:01/12/28 18:23
>>601 ?? ラプラスじゃなくて?
マクスウェルの悪魔って熱力学のお話じゃあ……。
違ってたらスマヌ。
>?? ラプラスじゃなくて?
>マクスウェルの悪魔って熱力学のお話じゃあ……。
この指摘の仕方いやらしい。
すまん。間違えてたな。ラプラスに読み替えてくれ。
>>601 >決定論が〜初期条件が〜って話。
なんだ、その話か。僕の
>>563は決定論を批判してるものだから、
決定論ではなく、その批判論の話かと思ったよ。
けれども一応反論しておく(決定論を擁護することになるとは思わなかったけど)。
>このスレの真中あたりではそもそも初期条件に関する情報を
>完全に集めることが不可能だ、ってことは散々出されてて、
これが
>>80のことを言っているのでしたら、不可能というのは原理的な不可能性
ではなく、「実際には困難」といった程度のものでしょう。第一に、単純な系の場合に
は完全な予測というものが可能であり、それがより複雑な系になったとしても、無知
の度合いが増えるだけで、原理的に超えられない壁は見出せないこと。第二に、如
何なる情報が初期条件として必要かということは、予測に用いる理論によって決め
られるわけだが、現時点において完全に真であることが確定している理論なく、どの
ような理論が妥当か分からない以上、初期条件を知ることの不可能性も確定しえない。
#ちなみにポパーは古典物理学でさえ決定的な予測はできないと主張しているが。。
>さらに人間の知っている理論法則は完全なものにはなりえない
細かいことかもしれないが、これは、
「完全に真なる理論を知ることは可能かも知れないが、我々はそれが真である
ことを(完全に)確かめることはできない」
と言うべきです。だから、実際上、真理を知ることは無理と。
>だからもうこんなのは解釈問題にしかならないって話をだしたわけで。
いや、そもそも哲学なぞ(世界についての)解釈の問題でしょ。
(解釈を馬鹿にしちゃいかんと思うよ)
>そういう「宇宙計算機」みたいなものを考えるのは
>「宇宙の外」を宇宙の中の話に持ち込むようなものだぞ。
ゲーデル?
こういうツッコミも期待してアルゴリズムとかって書いたんだげど。違います?
、、、, ,、,
/二二二\
/_____ヽ
_ /_______ヽ
/ ̄ \ /___/____|
| \ \ | <●>ハ<●>|
| , \ \ |二二二二二二二 |
\ ' , /\ ⌒ |/WWWWWWヽ|
\ \ / /\ \MMMMMM/ヽ__
\ \ / /\ \_’___/ / ヽー、
\ \ \ / /  ̄\ ・ ◆,_l⌒l⌒l⌒l | , , )
\ \ |\/ \ ヽ・’/ ̄ ̄| _ | _ | _ |⌒l一
\ \ | | \ ノ\ ヾ.,’◆∨ ∨ ∨|_ |
| \_ノ |`◆;・ |∨
| ・ (●λ'◆
>>1 ( ) | |
◆ , |’|,|´゚ _ ` | |゙
’ ||゚。|・ ) ヽ` | |゙
◆|゚ | |。◆⌒´ | |
|_._._._._._|_|
607 :
考える名無しさん:01/12/29 05:52
意外とマキァヴェリの『君主論』とか『ディスコルシ』とかの運命論が示唆深いかもしれないと思うが。
>>605 原理的に不可能ってのは、全体系を考えようとしたら不可能ってことね。
そんなのある部分系に限定して単純化したモデルを考えればそりゃ予測できるよ。
そしたらその分予測できる事象も、その精度も限られてくるんだからさ。
無限個の要素が存在するんだから、無限個の初期条件が必要になるのは当然でしょ。
しかも、情報の伝達速度の有限性から、現在原理的に知りえない領域から
将来受けることになる影響については、そもそも初期条件として
の情報を用意することすらできないのは明白でしょう。
そういう意味でも、完全な初期条件を用意することは原理的に不可能。
> いや、そもそも哲学なぞ(世界についての)解釈の問題でしょ。
> (解釈を馬鹿にしちゃいかんと思うよ)
いや、バカにしてないよ。
だからこそちゃんとした解釈方法を話合ってほしいと思っただけ。
実証できるものではない、という認識をもってもらいたかったの。
>ゲーデル?
> こういうツッコミも期待してアルゴリズムとかって書いたんだげど。違います?
わかりません。
>>609 >原理的に不可能ってのは、全体系を考えようとしたら不可能ってことね。
>そんなのある部分系に限定して単純化したモデルを考えればそりゃ予測できるよ。
全体を考慮した場合に予測不可能になるのは
>>20のように自己言及にまつわる
矛盾を引き出すような議論によってでしょ。全体には未知な要素があるから、って
いうのは原理的ではなく、実際問題不可能って言うのではないかな。
>無限個の要素が存在するんだから、無限個の初期条件が必要になるのは当然でしょ。
いや、宇宙に存在する原子や素粒子の数は有限です。無限を持ち出して不可能性
を主張するなら、全体である必要はなくて、目の前の1cm四方の空間でもいいし、逆に
それが言えなければ原理的に不可能とは言えないでしょ。で、何を言うかといえば、
この1cmは数学的連続体であって、そこに存在する粒子の位置は無限にありえると
言えばいい。
決定論と自由意志の問題が悩ましいのは、ある犯罪者が「自分の行為はあらかじめ
決定されていたものであって、自分ではどうしようもないものなのだ(だから罰することは
無意味)」と言ったとしても「んなばかな!」という以外に有効な反論ができないといった
ことにあるのでしょう。確かに予測可能性は重要ではあるけれど、それによって、自由意
志を否定する主張を無効化する力はない。そもそも予測が不可能だったら自由意志があっ
ても意味がないという主張さえできる。だから、予測できるかどうかではなく、本当のと
ころ決定されているのか?という問いが最も重要なのでしょう。
>実証できるものではない、という認識をもってもらいたかったの。
ラプラス云々にあるように、決定論が台頭し始めた歴史的経緯は物理学の発達によって
「実際に物理学によって決定できる」と考えられるようになったからで、その意味で、実際
に予測が可能であるという思い込みを潰すのは有効かもしれない。けれども、非決定論
が物理学から叫ばれている今になってはあまり面白みのあるものではない。だから、
実証できないような領域にある決定論こそをターゲットにすべきではないかと思う。実証で
きなくても批判することはいくらでもできるわけで、それによって我々の形而上学的信念
が変われば大いに意味のある議論になるのです。
>>610 > いや、宇宙に存在する原子や素粒子の数は有限です。
へー、だれがそんなこと言ったんですか?
実際はさ、どんな狭い領域を考えるときでも
有限の時間内でまともに計算を終えるために
めちゃくちゃたくさんの要素の数を人為的に切り捨ててるの。
しかも、「全体を見ずに部分系を見る」という行為自体、
部分系と外部との相互作用を無視する近似が含まれてるんだよ。
> 決定論と自由意志の問題が悩ましいのは、ある犯罪者が「自分の行為はあらかじめ
>決定されていたものであって、自分ではどうしようもないものなのだ(だから罰することは
>無意味)」と言ったとしても「んなばかな!」という以外に有効な反論ができないといった
>ことにあるのでしょう。確かに予測可能性は重要ではあるけれど、それによって、自由意
>志を否定する主張を無効化する力はない。そもそも予測が不可能だったら自由意志があっ
>ても意味がないという主張さえできる。だから、予測できるかどうかではなく、本当のと
>ころ決定されているのか?という問いが最も重要なのでしょう。
結局まだこんなこと言ってるのか…
>そもそも予測が不可能だったら自由意志があっ
>ても意味がないという主張さえできる。
その通りじゃん。
その後の文も。誰も「物理ですべて予測できるから〜」みたいな
青臭い話をしてるんじゃないんだけどね。
そもそもの物理的な世界の認識方法から考えれば
自由意志は原理的に実証できないっつーことを言ってるのに。
>>611 >> いや、宇宙に存在する原子や素粒子の数は有限です。
>へー、だれがそんなこと言ったんですか?
ネットで検索すれば納得できるよ。宇宙論では宇宙の総質量というのが話題になって
いるわけだけど、粒子の数が無限だったら宇宙の総質量も無限にならないといけないで
しょ。エネルギーについて考えても同様。
>そもそもの物理的な世界の認識方法から考えれば
>自由意志は原理的に実証できないっつーことを言ってるのに。
>>605 で既出だし十分に承知してるけど、そんなことは自由意志に
限ったことではないし、そもそも哲学は科学的実証を目指しているのでは
ないでしょ。
613 :
考える名無しさん:01/12/31 03:45
>TIII氏
仰る通り。
で、ちょっと貴方の小耳に挟みたい。
今月の日経サイエンスで面白い記事見たんです。
原子スペクトルの微細構造定数αが変化してるかもしれないと言う記事。
クエーサー観測で整合性が付かないデータを得たとか。
まだ、別のアプローチで検証段階ですが、
これ、もし本当の事なら一大事です。
来年科学に大きなエポックが起きる事を期待してます。
特に基礎科学の分野で。
それでは、良いお年を。
♪ ♪ ♪
♪ ∧∧ ∧∧ ∧∧ ∧∧♪ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ゚Д゚) ( ゚Д゚) .( ゚Д゚) ( ゚Д゚) < カステラ一番 電波は2ちゃん
.⊂ つ⊂ つ⊂ つ⊂ つ | チン子な駄スレは晒しage〜♪
〜( つノ〜( つノ〜( つノ〜( つノ . \_______________
(/ (/ (/ (/
615 :
考える名無しさん:01/12/31 17:31
>>614 哲学板に貼りついて、糞レスしか付けられないのに楽しいのか?
しかも大晦日に。
616 :
考える名無しさん:01/12/31 17:54
まぁ、大晦日にそう怒らんでもいいがな。
マターリな
617 :
考える名無しさん:02/01/01 02:26
>>612 いいえ。例えば光子は、質量がゼロなので
限りなく低エネルギーの光子は事実上無限に存在していても
まったく問題ありません。そして色々な種類の粒子は相互に変換しあうので、
「粒子の個数が有限」というセリフはあなたの発言中にもあるような
宇宙論の中で粒子の総質量(もしくは密度)を概算したり、
ある種類の粒子が現在どれくらいのオーダーで存在するか
見積もったりするためのものでしょう。ま、どうでもいい話なんだけど。
>>612 >
>>605 で既出だし十分に承知してるけど、そんなことは自由意志に
>限ったことではないし、そもそも哲学は科学的実証を目指しているのでは
>ないでしょ。
ならさ、自由意志って概念はただの心理的な言葉みたいな
ものだってもうわかってるわけでしょ?
>>600の意見みたいに定義せずにイメージだけで話を垂れ流すよりは、
ここまでで既にはっきりした自由意志という概念の限界を整理して、
与えうる定義の範囲を制限していくほうがいいんじゃないの?
もはや脳の働きがどうとか物理法則がどうとか、話し合う段階じゃないよね??
618 :
考える名無しさん:02/01/01 02:28
↑
ハァ?
619 :
考える名無しさん:02/01/01 04:10
↑はぁ。
620 :
猫電波@あけましておめでとう:02/01/02 00:43
まだ殆ど読んでないけど
>>617 一瞬きする間に太陽が出した光を、サッカーボールに詰め込んだとしたら、そのボールは滅茶苦茶重いですよ。
621 :
考える名無しさん:02/01/02 00:43
>>1はこの問題を考え付いただけでも偉い。「哲学者」と認定する。
レス中に高校1年生(ダッタかな?)で同じことを考えているという
者もいたようだけど、もし本当なら、天才的と言っておこう。
で、結論だけど、自由意志があると言っている者は、頭が悪いって
事でイイ?
特に、不確定性原理やシュレジンガーの猫だのと量子力学を持ち出して、
自由意志を証明したつもりになっている者は、そのなかでも極めつけ
のバカ(小賢しいだけで本質を理解していない)ということだね。
622 :
考える名無しさん:02/01/02 00:45
623 :
考える名無しさん:02/01/02 00:48
>>622 残念じゃったな。わし(
>>621)は、今さらスレを立てたり
するような者ではないのじゃよ。
624 :
考える名無しさん:02/01/02 00:53
自由意思がないと思っている人は、頭が悪い可能性が高く
救いがたい
625 :
猫電波@あけましておめでとう:02/01/02 00:53
いや、この問いは誰でも思いつく問いだと思うけど。
626 :
考える名無しさん:02/01/02 00:53
>>621 というか、何がおもしろいんだこのスレ?
同じ議論を何度も何度も繰り返すというループ的楽しさ?
>>623 何いってんの?
それぐらい小学生でも思いつくだろ(ワラ
628 :
考える名無しさん:02/01/02 01:00
余のレスではないが
>>177-178はわかっておるようじゃから、
よく読んでおくことじゃの。フォッフォッフォ。
629 :
考える名無しさん:02/01/02 01:02
>>627 錯乱してはいかんぞ。レス番号を検証せよ。
631 :
考える名無しさん:02/01/02 01:11
632 :
考える名無しさん:02/01/02 01:16
>>631 自由意思があると(単純に)思ってるやつは、アホだ。
自由意志がないと(単純に)思ってるやつは、アホだ。
自由意思はないかもしれないのに、あることに意義を
おくものと、自由意思があるかもしれないのにないことに
意義をおくものは、現段階では世界観の問題に還元される。
でいいか?
633 :
考える名無しさん:02/01/02 01:18
>>617 >いいえ。例えば光子は、質量がゼロなので限りなく低エネルギーの光子は
>事実上無限に存在していてもまったく問題ありません。
宇宙論では総エネルギー量も解析の対象になってるはずだが。。
(いくら低エネルギーでも、無でなければ、総エネルギーは無限)
というか、あなたは、「原理的に・・」という根拠として粒子数の無限を持ち出してる
わけでしょ。その根拠が「質量やエネルギーをもたない粒子が存在する可能性を否定で
きない」というではあまりにもお粗末ではないでしょうか? 確かに神のような観察でき
ないものの存在は誰も否定できませんが、そんなものを根拠にして議論していたら、そ
れこそ不毛でしょ。
科学では、観察データによって理論によって裏付けられない存在をむやみに仮定して
はならないという原則があるのだから、あなたが上のような粒子の存在を主張するなら、
それなりの議論をしてくれないと困ります。誤解されないように言うが、僕はそういう議
論になんの期待もしていないわけではありません。二元論では、物理的な質量もエネ
ルギーも持たないような「こころ」が物質と相互作用すると主張されているのだから、
そういった因子が存在するなら、エックルスなどは大喜びするでしょう。だから、EPRに
関する実験にあるような遠隔作用なんかが注目されたりするのだ。
参考
http://www.qualia-manifesto.com/essays/quantum.html >>
>>605 で既出だし十分に承知してるけど、そんなことは自由意志に
>>限ったことではないし、そもそも哲学は科学的実証を目指しているのではないでしょ。
>ならさ、自由意志って概念はただの心理的な言葉みたいなものだってもうわかってるわけでしょ?
>>531 >>532に書いたように、我々の自由に対する印象は、ほとんどが思い込みに
よるものでしょう。しかし、このように言うのは純粋に科学的な考察によるものであって、
物自体を認識しえないというカント流の考察や、真理を確認できないというクセノパネス
流の論証によるものではないのだ。
この点について、あなたの中ではどうなってますか?
>ここまでで既にはっきりした自由意志という概念の限界を整理して、
ぜひ整理してくだされ。僕にまだ全然はっきりしません。
635 :
白色レグホン:02/01/02 22:09
じゃあ、仕組みはどうあれ
意志をどうにか決められる限りで
<自由意志>って呼べばいいじゃん。コケ。
636 :
考える名無しさん:02/01/03 12:35
貴方たちおひまねー。生きがいも見つからないのねー。お前は馬鹿だ、俺は賢い
こんなに賢い、こればかりね。お釈迦さんの手の中で威張っている孫悟空ね。
私はこのお釈迦さん(自然)がにくい。
637 :
考える名無しさん:02/01/03 16:00
>>632 >自由意思はないかもしれないのに あることに意義をおくものと、
>自由意思があるかもしれないのに ないことに意義をおくものは、
>現段階では世界観の問題に還元される。でいいか?
無理やり調停するなよ。世界観の違いこそ重要だ。
例えば主観的には自由意志はある。
しかし客観的には直接それに当たる物理現象は見出せない。
このような特性は意識についても同様に成り立つだろう。
>>636 うんお前は馬鹿だ。
釈迦の事を知るのは孫悟空だからな。
数学が数字に制限されるがごとく、
自由意志は(少なくとも脳の機能・あるいは虚数を妄想の相似と
見なす場合における論理性の規則に)制限されている。
>数学が数字に制限されるがごとく
やっぱり数学を知らない哲学者が数学を語っちゃいけないとおもうんですよ。
641 :
考える名無しさん:02/01/03 21:09
>うんお前は馬鹿だ。
釈迦の事を知るのは孫悟空だからな
文章を理解できないようね。若いわ
642 :
考える名無しさん:02/01/03 21:59
>文章を理解できないようね。若いわ
いやいやオマエガナー
エネルギーが無限小の光子か、初歩的な読解ミスだ…。
人間の行為は神の被造物であり、運命のもとにある。
しかし、それを獲得していくのは我々自身である。
アシュアリー学派
644 :
考える名無しさん:02/01/06 09:42
>>598 >認識には必ずも心の存在を前提にする必要はないのである
認識という行為を三人称的視点からみた場合、そこに
ことさらに一人称的視点を導入する必要はないだろう。
それはそれで結構だが、しかしながらその三人称的視点による
説明では、一人称的視点による「認識」について何も分からない。
違うかな?
>>644 >その三人称的視点による説明では、一人称的視点による「認識」について何も分からない。
いや、何がしかが分かるのではないかと期待してるんです。
例えばニューラルネットにみられる「帰納」とも見える現象をどう解釈したらいいのか?とか、
そうやって得られた記号なり理論は、我々の主観と独立した存在であるのか?とか、なか
なか面白いテーマではないでしょうか?
生物進化の観点からみて、理論が意識より先に存在していると認めるの
なら、意識が存在するようになったことへの、そこそこ納得いく説明ができる
のではないでしょうか。こころ(意識)が生物種の維持に役立つというのは、
僕には明白な事実に思えるのですが、随伴説ではこのことを説明できない。
それどころか否定しているようにさえ見えます。しかし、自然がそもそも精神的
であるならば、物質と心を明確に分断させる必要もなくて、意識の役割について
の客観的な説明も可能になってくるのではないでしょうか。
647 :
考える名無しさん:02/01/06 11:07
キミがバッターボックスに立ったとしてさ〜、
当然、そこで起こることはみな自然の摂理に従っているわけだけど、
それなりに、ピッチャーも読んでくるから、自由意志的には
ヒット出したいにもかかわらず、空振りしたりするわけじゃん(w
観客席から飛んで来たビール缶で頭切って、途中退場するかもしれないし。
そりゃ、事後的にはその缶の軌跡の放物線も緻密に記述できるだろう。
でも、空振りしないこととか、缶投げられないことの方が、
とりあえず大事なんじゃないかな。
648 :
考える名無しさん:02/01/06 15:34
>いや、何がしかが分かるのではないかと期待してるんです。
ただ期待するなら、サルでもできますよ。
>例えばニューラルネットにみられる「帰納」とも見える現象をどう解釈したらいいのか?
それはまったく三人称の話でしょう。
>そうやって得られた記号なり理論は、我々の主観と独立した存在であるのか?
三人称的視点だけで語られたことに対して、
一人称的視点とどういう関係があるといわれても
答えの出しようがないと思いますが、如何ですか?
>なかなか面白いテーマではないでしょうか?
いいえ、あなたのいうことには一人称的視点が
まったく出てきていませんから、答えを出すことに
まったく貢献しないでしょう。
649 :
考える名無しさん:02/01/06 15:43
>生物進化の観点からみて、理論が意識より先に存在していると
>認めるの なら、意識が存在するようになったことへの、
>そこそこ納得いく説明ができるのではないでしょうか。
なぜ理論が意識より先にあることが、生物進化の観点から
みとめられるのでしょう。
そもそも「理論」という言い方が間違ってます。
あなたのいう物理の理論は、物理現象に対するものなのですから
当然それを理解する意識が前提になります。こういう揚げ足取り
をされたくないなら、せめて
「物理現象が意識現象より先に存在している」
というべきでしょう。
そして、さらに進化を考えたところで、
意識現象は物理現象よりも後に発生した
とは言えません。いや、それどころか
どう考えてもそれらは同時並行的に
発生したと言わざるを得ないと思います。
物が口を利かないというだけで、何等の
意識も持ち得ないことの証にはなりません。
>こころ(意識)が生物種の維持に役立つというのは、
>僕には明白な事実に思えるのですが、随伴説では
>このことを説明できない。 それどころか否定している
>ようにさえ見えます。
じゃあ、貴方が間違っているのでしょう(笑)
明白に思えることがいつでも正しいのなら、
人は何も考える必要はなく、ただ感じてさえ
いればよいことになります。しかしながら、
実際には、明白に思えることは実にしばしば
真実とは相違しています。
>しかし、自然がそもそも精神的 であるならば、
>物質と心を明確に分断させる必要もなくて、
>意識の役割について の客観的な説明も可能に
>なってくるのではないでしょうか。
分離不可能であるから、主観を客観から説明できる
という主張は正しくないでしょう。なぜ、分離不可能
かを示すことが重要なのです。そして、それが、
「なぜだか分からないが反例が存在しない」
というだけであれば、それは説明不可能な、
永遠の前提として残りつづけるでしょう。
648はどうしてあんなに馬鹿な煽りができるんだろう?
651 :
考える名無しさん:02/01/06 19:25
認識しようと努力しなければいつまでもたっても認識できん。
日本にいながら英語を理解するも理解しないも、全ておいらの意思力にかかっている。
650はどうしてあんなに馬鹿な煽りができるんだろう?
653 :
考える名無しさん:02/01/10 21:48
>>634 だからさー…例えば光なんて、
物体がちょっと加速したり減速したりするだけでも発生すんのよ。
可能性としては、数はゼロから無限大まで無限個の状態をとりうるし、
事実厳密に考えようと思うなら無限個の状態を考慮しなきゃなんないの。
別に光でなくて電子だって、対生成や対消滅なんてものがあるしね…
>それなりの議論をしてくれないと困ります。誤解されないように言うが、僕はそういう議
>論になんの期待もしていないわけではありません。二元論では、物理的な質量もエネ
>ルギーも持たないような「こころ」が物質と相互作用すると主張されているのだから、
>そういった因子が存在するなら、エックルスなどは大喜びするでしょう。だから、EPRに
>関する実験にあるような遠隔作用なんかが注目されたりするのだ。
いきなり何の話?何の話かよく分からずに言うけど
そりゃエネルギーじゃなくて情報伝達一般の問題なんじゃないの?
>ぜひ整理してくだされ。僕にまだ全然はっきりしません。
過去のレスでもうやったのであんたが勝手に探してくれ
なんか煽ってるような文体だな。すまん。
別に煽る気はないので適当に脳内変換して読んでおくれ
前スレ、少ししか読めなかったので既出だったらすまない。
ワタシノハンノウヲヨソウシテクダサイ input 0:No 1:Yes
if input=0 then output=1;
else if input=1 then output=0;
素朴な決定論は通用しない。
output=floor(random(2));
同上。
もちろん、こんなのは自由意志の根拠にはならないけど、
我々の反応というのが
output=f(x1,x2,x3,...):fはブラックボックス
だったら、結局同じことかとも思う。
>>649 >なぜ理論が意識より先にあることが、生物進化の観点から
>みとめられるのでしょう。
意識を持たないような生物における、ある意味知的とさえ言えるような
「ソフトウエア」や「プログラム」を我々が言うところの理論とみなすことに
よって(例えばあなたが今意識してなくても、あなたの中にはニュートン力学
といった理論が存在していると言えるのだから)、理論が意識の出現に先行して
存在すると考えることができる。ということです。
>そもそも「理論」という言い方が間違ってます。
はい、どんどん拡張して、眼とか足も理論と呼びたくなりますね。
というわけで、
>「物理現象が意識現象より先に存在している」
と言いたいのではありません。
>物が口を利かないというだけで、何等の意識も持ち得ないことの証にはなりません。
例えば、睡眠という現象を考えてみれば分かるように、意識という言葉に対応する
ような生物学的な現象があります。それらを無視して意識を定義することで何か得ら
れるのでしょうか? 別の用語を作った方がいいかと。
>じゃあ、貴方が間違っているのでしょう(笑)
そうかもしれませんね。でも、どこが間違ってると思うの?
>分離不可能であるから、主観を客観から説明できるという主張は正しくないでしょう。
これはロボットが他者と同じような心を持つかと言う問題ですから、主ー客における
不可知論とは(とりあえず)違います。
>>655 1個目の例は、離散的な振動をしているだけで、特定の時刻に0が出力されるか1が出力されるかを予言できる。
最後のコメントのほうは、関数fがブラックボックスであるだけではダメで、不確定であることが必要なはず。
基本的な物理法則から、そういう「決まっていないもの」を導くことは可能でしょうか?
あるいは、どうすれば出てくるんでしょうか?
>>598 遅くなりました。
下への相互作用というのは、制御工学で言うフィードバック機構のことを言っているのだと思いました。
もしそうなら、ほとんどの場合には、下への相互作用まで考慮して、システム全体の応答を予測することができます。
とくに
>>598の例については、どれも全体の応答を予測することができそうな気がします。
したがって、原則的には、下への相互作用だけによって自由意志が生じるのではないと思います。
ただ、フィードバック機構の設計が工学的な意味で「下手」だと、システムが暴走して、あたかも意思を持っているかのような振舞いをすることがあります。
身近な例で言うと、パソコンの暴走なんかがそうですね。
(ついでに言うと、2001年宇宙の旅でも、HALは暴走によって意思を獲得したのでした)
システムの暴走と自由意志の関係は、議論する価値がある問題だと思います。
一般的に言って、システムの暴走というのは、システムの線形伝達関数の発散が、
・外部環境への鋭敏な応答性
・非線形性の発現による、初期条件への強い依存性
を引き起こして、その結果、システムの動作や内部状態が不安定かつ一見予測不能になる現象です。(だと思います。)
「一見予測不能」と書いたのは、外部環境や初期条件を完全に把握しさえすれば、原理的に予測可能なのかもしれないからです。
もしそうなら、一見自律的ではあっても、原理的には「自由はない」ことになります。
そう考えてくると、結局のところ、「自然法則は決定論的な数学によって表現できる」という命題を否定しない限り、物理的な意味での自由意志は存在しないのかなと思います。
660 :
考える名無しさん:02/01/13 03:10
age
661 :
重力と恩寵:02/01/13 05:17
予測可能性も、決定/非決定もどうでもよい。
結局、唯一絶対神はいるか?ということなんだよな。
662 :
考える名無しさん:02/01/13 06:43
自我の特異性は自然法則によって原理的に保証され得るのか?
663 :
考える名無しさん:02/01/13 08:27
>意識を持たないような生物における、
>ある意味知的とさえ言えるような
>「ソフトウエア」や「プログラム」を
>我々が言うところの理論とみなすことによって
意識をもつもたないを貴方はいかに判定するのですか?
>(例えばあなたが今意識してなくても、
>あなたの中にはニュートン力学 といった
>理論が存在していると言えるのだから)
>、理論が意識の出現に先行して
>存在すると考えることができる。ということです。
存在するのは、理論ではなく「力」でしょう。
表現とそれが表す意味と同一視すべきではありません。
>例えば、睡眠という現象を考えてみれば分かるように、
>意識という言葉に対応するような生物学的な現象があります。
意識が「生物学的現象」だというのは誤りです。
それは個人的な体験です。
>それらを無視して意識を定義することで
>何か得られるのでしょうか?
都合のよいことだけ定義して何が得られるのでしょうか?
664 :
考える名無しさん:02/01/13 08:29
>これはロボットが他者と同じような心を持つか
>と言う問題ですから、主ー客における不可知論とは
>(とりあえず)違います。
そういう問題に「心」という表現を使うべきではない。
それはただ「ヒトの機能」といえばよい話だ。
665 :
考える名無しさん:02/01/13 08:39
このスレッドに宮原勇の授業受けてる人いるのか?
今気がついたのだが、このスレの
>>80は、
物理学科院生じゃないか?
あぼーん
668 :
考える名無しさん:02/01/13 17:40
↑
すごい!どうやったら日時消せるの?
完全なる主観は客観的事実が無くとも成立し得るが、
完全なる客観は主観的意思が無ければ成立し得ない。
決定論は結果論に過ぎない。
自由意思は自己の無意識にのみ起因する。
670 :
考える名無しさん:02/01/14 15:12
>>657 それは熱平衡状態にある系の状態を表す統計的な式。
話題がずれていることは分かってるんだけど、君が
いちいち間違ってるから一応指摘してるだけ。
あと、そこでプランク定数を持ち出すことで何が言いたいのか
さっぱりわからないと言っておきます
>>663 定義は都合の良いように与えるものでしょ
>>659 だからそれもう終わってるから。
671 :
考える名無しさん:02/01/14 15:15
>>670 >定義は都合の良いように与えるものでしょ
違う。だれがいつそんな嘘をいった。
貴方が自分のためにその場でとっさにいったのだろう?
>>670 670は自由意志を定義できると思ってるんだっけ。
自分では絶対定義できないと思ってるものを定義しろと言うのは酷なのでは?
問題点を明らかにしたいのなら、定義する前に存在事例を検証するところから始めないと。
UFOやオバケの問題と違って、何を錯覚してるのかさえ見当つかないんだから。
厨房はすっこんでろい!
自由意志があると思っている人は怒る権利があるが(スマソ)、
自由意志がないと思っている奴には怒る権利がないぞ。
675 :
考える名無しさん:02/01/14 21:12
>>659 >したがって、原則的には、下への相互作用だけによって自由意志が生じるのではないと
>思います。
ある種のフィードバック(ループ)が自己保存的性格を持つため、(それがシステム
を制御するという「規範性格」までも持つと解釈するなら、)意志とみなすことができる
のではないか、ということですね? そして、それが「自由」であるためには、
>フィードバック機構の設計が工学的な意味で「下手」だと、システムが暴走して、あたか
>も意思を持っているかのような振舞いをすることがあります。
というように、フィードバック機構の振る舞いが決定できない(計算できない)もの
である必要があると言うことですね。
>システムの暴走と自由意志の関係は、議論する価値がある問題だと思います。
基本的に同意です。
で、議論する方向としては2つあると思います。第一に、やはり上のような「規範」を
はじめ、「情報」や「プログラム」というものは、あくまで人間が考案した言葉ですから、
そういったものが、ほんとうに人間とは独立して機械の中に存在しているのか、ただ
単に、我々がそう解釈しているだけではないのか、という問題。第二に、仰られるように
「決定できない」というのは「原理的に決定できない」のか、という問題。で、後者に関
してはゲーデルの定理を援用して考える人がいます。が、僕としては、
>「一見予測不能」と書いたのは、外部環境や初期条件を完全に把握しさえすれば、
>原理的に予測可能なのかもしれないからです。
というような場合に、初期条件の範囲というものを決定論的法則自身が決める
ことができるのか、あるいは決めるべきではないのか、といったことに興味があり
ます。
>>663 >意識をもつもたないを貴方はいかに判定するのですか?
そりゃ、実在に関することだから絶対的な定義はできません。しかし、暫定的(仮説的)
な定義はできるでしょ。例えば、胴体には意識がなくて、頭には意識があるといった明
らかに思えることから範囲を狭めていける。それに、そのうち他人の意識を直接体験で
きるようになるかもしれん。そういった可能性は否定できないでしょ。
>存在するのは、理論ではなく「力」でしょう。
?。ニュートン力学が「力」を意味しているとしても、ニュートン力学は偽だからそういった
「力」はないのでは?
というか、僕が言ってるのはプリンキピアという本にはニュートン力学という内容がある
ということです。
>意識が「生物学的現象」だというのは誤りです。
感覚や知覚といったものが生物学的に研究されてるでしょ。そのように意識も「生物学的
現象」として研究されています。また、個人的な体験も医学の研究対象になっています。
なぜ、研究してはいけないのですか?
>>670 >あと、そこでプランク定数を持ち出すことで何が言いたいのか
>さっぱりわからないと言っておきます
あのHPの一番下に光のエネルギーを計算する話があるでしょ。
それで、宇宙の総エネルギーが無限じゃないとしたら、宇宙がすべて光で出来ていた
としても、最大で総エネルギーをプランク定数で表される単位量で割った数しか光は存在
しないということになるじゃん。
679 :
考える名無しさん:02/01/14 21:42
>仰られるように
>「決定できない」というのは「原理的に決定できない」のか、という問題。で、後者に関
>してはゲーデルの定理を援用して考える人がいます。
誰?
初期条件を完全に把握しても予測できないことは厳密な形で示されているが。
スレ違いなのでさげ。
っていうか最新50はほとんどスレ違いだが。
681 :
考える名無しさん:02/01/14 22:10
もう滅茶苦茶すぎてよくわからん。とにかく、TVがやりたいのは
>しかし、自然がそもそも精神的
>であるならば、物質と心を明確に分断させる必要もなくて、意識の役割について
>の客観的な説明も可能になってくるのではないでしょうか。
という文章に要約できるものと受け取っていいの?
>>672 >670は自由意志を定義できると思ってるんだっけ。
定義はできないが実感はできると思っている。
だから実験は考えることができるが、
それがもくろみどおりに成功するかどうかは
難しいところがあると思う。
>>677 >そりゃ、実在に関することだから絶対的な定義はできません。
>しかし、暫定的(仮説的)な定義はできるでしょ。
>例えば、胴体には意識がなくて、頭には意識があると
>いった明らかに思えることから範囲を狭めていける。
まず、「明らかに思える」のはなぜかを考えたほうがいいね。
意識に脳が関与していると考える理由としては
1.脳にダメージを受けると意識がなくなる(三人称的視点)
2.脳に刺激を与えると意識に影響がある(一人称的視点)
の2つがあるだろう。
>それに、そのうち他人の意識を直接体験できるようになるかもしれん。
>そういった可能性は否定できないでしょ。
否定できなければ肯定できるというわけでもない。
いいっぱなしならサルでもできる(笑)
>>678 苦笑していいですか?
> あのHPの一番下に光のエネルギーを計算する話があるでしょ。
>それで、宇宙の総エネルギーが無限じゃないとしたら、宇宙がすべて光で出来ていた
>としても、最大で総エネルギーをプランク定数で表される単位量で割った数しか光は存在
>しないということになるじゃん。
684 :
考える名無しさん:02/01/16 10:04
これだけ語って結論が出ないと言うことは
われわれがヴァカなのか
問題が本当に難しいのか
それとも逆に疑似問題なのか
その全てなのか・・
>>679 ペンローズの似たような線だし(だけど彼は決定論者)、ゲーデルを自然科学に
応用しようとしてる人の多くはそういう感じなんじゃないかな。ネットにも俳諧してるね。
>>681 >という文章に要約できるものと受け取っていいの?
僕はポパーの世界3みたいなことをよく考えてるけど、あの文章はどっちかと言うと
ttp://mfg07.nikkei.co.jp/pub/science/page/honsi/9602/ishiki.html というのを念頭においていた。(精神的=意識を基本単位とする) でも、ここで
僕がやってるのは何かを論証するというより、問題状況を整理するってことだけど。
>>682 単なる煽りならレスしないよー。
意識に関する常識的見方はかなり科学的(反証可能)なものを含んでいるんだ。
ただ、実際の実験は倫理的な理由からアプローチはかなり限られてくる。けど。
思考実験ならいくらでもできる。それによって科学的なものかどうか分別することが
大事なんじゃないか。例えば二つの脳をつないだ場合、どういったことが生じるか
考えるだけでもいい。当然こんなことをすれば最初は混乱するけれど、慣れてくれば
1)他者の個人的な経験を見ることができるのか、2)この二人の人物がまったく同
じものしか見ることができないのか、3)それとも、同じであることはありえないのか
4)他者意識の存在は、自己の自由な意識活動をならんらかの形で妨げるのか、
といったことが考察されるであろう。で、4)などは相互作用説の評価にもつながる
よね。
>>683 なぜ? そりゃ粗雑すぎる話だけど、物理量には最小単位量があって、粒子の
最大可能な数はそれによって決められているというのは、こういうプランク定数
からくる話では?
苦笑するなら不確定性原理も考慮に入れて、厳密な話をしてくだされ。
>>684 とりあえず納得のいく結論は世の中にないよね。だからいいじゃない。
>意識に関する常識的見方はかなり科学的(反証可能)なものを含んでいるんだ。
漠然とした言い方ではなく、何が反証可能で何が反証不能か示されたい。
>例えば二つの脳をつないだ場合、どういったことが生じるか
>考えるだけでもいい。当然こんなことをすれば最初は混乱するけれど、
>慣れてくれば
>1)他者の個人的な経験を見ることができるのか、
>2)この二人の人物がまったく同じものしか見ることができないのか、
>3)それとも、同じであることはありえないのか
>4)他者意識の存在は、自己の自由な意識活動をならんらかの形で妨げるのか、
>といったことが考察されるであろう。
せっかく脳をくっつけたのに、ずいぶんと粗雑な考察しかできないんだね。
意識が一つであれ二つであれ、当人同士がそれがわかるかどうかが、まず
怪しいとは思わないのかね?他者の経験を見たところで、それが、他者の
経験だと素朴に分かると思ってるのかね?そういう根本的な疑問に気づか
ないのが「慣れ」だとすると、ずいぶんと反知性的なものだと思うがね。
>>686 何が言いたいんだ?
>漠然とした言い方ではなく、何が反証可能で何が反証不能か示されたい。
>せっかく脳をくっつけたのに、ずいぶんと粗雑な考察しかできないんだね。
と(脳をくっつければ)粗雑じゃない考察ができると言いたいのか、
>意識が一つであれ二つであれ、当人同士がそれがわかるかどうかが、まず
>怪しいとは思わないのかね?他者の経験を見たところで、それが、他者の
>経験だと素朴に分かると思ってるのかね?そういう根本的な疑問に気づか
>ないのが「慣れ」だとすると、ずいぶんと反知性的なものだと思うがね。
というように科学的な考察は粗雑なものにしかなりえない(根本的な疑問は
解決しえない)のだ、と言いたいのか、どっちだ?
それとも、ただ単に「長文を書け」と言ってるだけなのか?
>>686 >(脳をくっつければ)粗雑じゃない考察ができると言いたいのか
否。
>科学的な考察は粗雑なものにしかなりえない
>(根本的な疑問は解決しえない)のだ、と言いたいのか
否。
君が思考実験を粗雑にやってるといいたいだけ(w
裁判官「では今から判決を言い渡すが何か最後に言いたいことはあるかね?」
殺人犯「俺を死刑に問うのはのは無理。なぜなら自由意思なんて錯覚だし
俺が殺人をする事はあらかじめ因果の法則で決定されてたんだから」
裁判官「なるほど。では判決は死刑!もちろん私が今お前に死刑を言い渡すのも
あらかじめ因果の法則で決定されていたってことで納得するよね?」
692 :
考える名無しさん:02/01/17 07:24
age
>>685脳をつなげる思考実験は面白いと思いますが
(たしか野矢茂樹氏もどこかで似た例を書いていたように思いますが)
それで私が例えば誰かの脳に接続したときに感じる意識や
感覚はそもそも「私」という言葉の定義上「私の意識」「私の感覚」ではないでしょうか?
「他人の感覚」は逆に既に言葉の定義上、「私にとって感知しえない」もの
ではないかと思います。
この点は野矢茂樹氏がもっと詳しくどこかで書いていた気がします
し、「コウモリであるとはどういうことは」のネーゲルの論点にも
通じるのでないでしょうか(うろ覚えですいません)
自由意思の問題からややずれてすいません。
>>693同意
ただし、「定義から」というのではアッサリ終わってしまうので
もうすこし考えてみたい。
つまり、「私」というものが「意識」や「感覚」と切り離せない
から、自分の意識が、他人のものであるという感覚が不自然だと
いうわけだろう。
あなたのいうことは、あなたが考えるほどずれてはいないと思う。
むしろ真っ正直に考えることが必ずしも適切ではないのではないか?
695 :
考える名無しさん:02/01/17 22:19
age
696 :
考える名無しさん:02/01/18 00:38
あげ
>>694>ただし、「定義から」というのではアッサリ終わってしまうので
>もうすこし考えてみたい。
了解
>つまり、「私」というものが「意識」や「感覚」と切り離せない
>から、自分の意識が、他人のものであるという感覚が不自然だと
>いうわけだろう。
うーん。というより具体的な例で言えば、私の脳を例えば別人Bの脳に接続して
そこで別人Bの体、例えば手をつねってみるとする。
そのときに仮に私がそのBの手の部位に痛みを感じたとして、それは「B氏の痛み」なのだろうか?
仮にBの手をつねって私とBが同時に痛みを感じて同時に「痛ッ!」とか叫んだとしても
そのときに私が感じた痛みとB氏が感じた痛みが同一であることは全く保証されない
のではないか?
私が「B氏の痛み」を感じることができるか否かは、
いわば経験的に検証可能な問いというより論理的(といって語弊があれば「私」とか
「痛み」に関する文法上の)問題ではないだろうか?
なんだかスレとはだんだんずれて他者問題とかになりそうだが
>あなたのいうことは、あなたが考えるほどずれてはいないと思う。
ということなので敢えてレス
698 :
考える名無しさん:02/01/18 05:13
>697
具体例読むと気持ち悪くなてきたよ、、、今、朝の5じ
>>697>私の脳を例えば別人Bの脳に接続して
>そこで別人Bの体、例えば手をつねってみるとする。
>そのときに仮に私がそのBの手の部位に痛みを感じたとして、
>それは「B氏の痛み」なのだろうか?
まあ、自分の脳がB氏の脳と接続された時点で、
私がB氏にもなるという自明な反駁(笑)を除けば
それは「他者の痛み」ではないだろう。
>仮にBの手をつねって私とBが同時に痛みを感じて
>同時に「痛ッ!」とか叫んだとしてもそのときに
>私が感じた痛みとB氏が感じた痛みが同一であることは
>全く保証されないのではないか?
確かに。
どうも科学者は、他者と自分を比較するという根本的な
問題において、十分な思索を行わないまま、勝手な前提を
立てて「同値化」しようとしているように思うんだ。
まあ、同値化したいならそうしてもいいんだが、その前に
自己と他者の比較の困難性について考えてもいいと思う。
で、その問題が、
「経験的に検証可能な問いというより論理的なものではないか?」
という可能性は、大いにあるだろうと思う。
(ただ、それだけではない部分もあるようには思うが)
700 :
考える名無しさん:02/01/18 12:33
範囲は限られているが自由意志は存在するよ。
ガリレオの成果は時間と共に自然的に流れた結果ではなく
彼の努力の結晶ゆえに花開いた芸術である。
>>685一量子のエネルギーは確かにhで量子化されてますけど、
例えば一つの光子のエネルギーはE=hν(νは振動数)で
振動数はゼロから無限大までなんでも取りえますよ。
で、ゼロに近いエネルギーの光子というのは
この振動数が低い(=波長が長い)光のことなんじゃないですか?
あと、不確定性関係といえば例えば
粒子数と位相の間には不確定性関係がありますけど…
関係ない話ですのでこのへんでもういいですか?
702 :
考える名無しさん:02/01/18 20:08
あげ
>>697 >>699 他者の感覚を考えるにはクオリアについて考察するのがいいと思うよ。
とりあえず、他者の眼(と視神経)を自分の脳につないだ場合は、その
眼を通していつも見てるような世界が見えるでしょう(眼はカメラと同じ
ような感覚器だろうから)。けれども、他者の脳にある視覚野(かどっか)
と接続したら、赤い物が青く見えるかもしれない。こういうことが発見されれば
「クオリアは言葉で表現できない」ということも明確になる。しかし、物理的な
用語でも定義でないか、といえばそうとは限らなくて、その赤と青の違いが
例えばあるニューロンのパターンで定義できるかもしれない。
また、このような場合、クオリアは主観とか一人称的視点というより、ある
ニューロン群(これは客観的なもの)の属性ということになるでしょう。
>>701まって、もうちょと話そう。
僕の理解だと、プランク定数は光が一回振動することに対応するエネルギーだから、
当然、振動数の高低には依存せず、決まった値をとる、それが最小単位量。
ということで、振動数ゼロとか宇宙で一回も振動しないことになる光はあってはな
らないと思うのだけど、どうか?
あってもいいかもしれなけど(しかし、その場合、エネルギーの最小単位量とい
うのが?になる)、そうすると粒子数が有限だという話はどこかるの?
あと、
http://www.sfc.keio.ac.jp/~shafi/essays/zenon.htmlこれは正しい? 僕は良く分かんないんだけど。
>>703>けれども、他者の脳にある視覚野(かどっか)と
>接続したら、赤い物が青く見えるかもしれない。
赤いままかもしれんよ(笑)
チャルマースは他者の脳のかわりに人工的なチップで
機能を代替させた場合にも、機能が同じならば色の変化は
ないだろうと推論している。
ここで君は「物理で説明できた!」というかもしれんが
結局のところは、機能とクオリアの関係がわかったところで
「なぜそのような対応関係があるのか?」はわからないまま
棚上げされたというべきだろう。
>>705>赤いままかもしれんよ(笑)
そりゃそう。
>チャルマースは他者の脳のかわりに人工的なチップで
>機能を代替させた場合にも、機能が同じならば色の変化は
>ないだろうと推論している。
チャルマースがそういったとは思えないんだけど、クオリアは
に関する通常の議論は違うでしょう。機能が同じならばというのは
「それを指す言葉は変わらない」ということで、クオリア自体は変
わっててもおかしくない。試しに、上のような他人のクオリアで
生活していくことを考えてみよ。初めはひどく戸惑うだろうけど、
慣れてくれば、青く見えるものを赤と読んで生活できるようになるはず。
チップについても同様で・・・・以下省略。
707 :
考える名無しさん:02/01/18 22:09
専門知識を披露したがってるみたいですね・・・
この問題はそんなに複雑な問いなのでしょうか?
俺がここにレスすること自体、全宇宙的プロセスによる圧力強制ってか?
おおおげさだよ、俺の単なる気まぐれさ。
遊ぶ自由、遊びすぎた故の責任などはおおよそ自分に起因する。
708 :
考える名無しさん:02/01/18 22:17
限られた中での選択肢があって
どれを選ぶかはあなたの自由。
選択肢が一番多いのが人間。
ゆえに人間の人生は最もバラエティーに富んで内容の濃いものとなる
709 :
考える名無しさん:02/01/18 22:45
>>1君の言う自由意志ってのは何なの?
ちょびっと念じるだけで
全宇宙を木っ端みじんにできちゃったりする
能力があってこそ自由意志だとでも?
710 :
考える名無しさん:02/01/18 23:03
誰かが「明日お前をぶっ殺す!」と脅迫してきたとしても
僕には何もできやしないんだね・・・アーメン
>>1何かしたいと思ったことは本当にそう思いたくて思ったことなのかなぁ
ニーチェによるデカルト批判
我在りと我思う故に我在りと我思う
認識を認識するのは難しいね
>>704不確定性関係がどうとかいう字面が気持ちいいものにばかり
都合よく飛びつかず、とりあえず「量子化 光量子仮説」
あたりで検索かけて自分で調べてください…
713 :
考える名無しさん:02/01/19 04:24
>>703>けれども、他者の脳にある視覚野(かどっか)と
>接続したら、赤い物が青く見えるかもしれない。
いやだからその青いクオリアが接続した先の他人の見ているクオリア
だとどうして検証できるの?相手にとってはそれはあくまで「赤い」色
に対応するわけだから言語的に確認することは不可能だよね?
例えば以下のような問答になるんじゃないの?
私「へぇー。君にはリンゴの赤い色が青く見えるんだね」
接続した相手「え?リンゴは「赤く」しか見えないけど?なに馬鹿なこと言ってるの?」
私「だって俺には君の視野にあるリンゴは「青く」見えるけど?」
相手「いや。生まれてから今までずっと「赤く」みえてたけど?
君には「青く」見えるの?」
714 :
考える名無しさん:02/01/19 15:27
アンドロイドに自由意志を与えてしまったら終わりだろうね
2001宇宙の旅みたいにスイッチをOFFにされることを防止しようとしたり
働きたくないとかいってテメエで脳線回路破壊して消灯につく奴も出てくるだろうから
計算力と記憶データが半端じゃないんで全てを事前に察知したりね
やっかいだよほんとに
人間に役立つ本物のアンドロイドを製造するにはたいそう時間がかかるでしょうね
それから
人間には自由意志ありますよ、自殺した人何名いると思ってんの?
動物の中で自ら死ぬ奴なんて人間しかいないっしょ
たいそう自由な思考力と想像力を兼ね備えた生き物ですよ・・・
715 :
考える名無しさん:02/01/19 15:43
>>711>>何かしたいと思ったことは本当にそう思いたくて思ったことなのかなぁ
それを言っちゃあなた、宅間ちゃんを無罪にしてあげてちょ。さあ早く!
>>714だから自殺する動物なんていくらでもいるって...
老化自体が一種の自殺なんだし...
717 :
考える名無しさん:02/01/19 16:11
首吊り自殺や飛び降り自殺する奴はいないだろ
首つりはいないかも...
飛び降りは常套手段...
方法になんか意味があるの?
719 :
考える名無しさん:02/01/19 16:35
飛び込み自殺もないな(歩く生命ならできる手段だ)
自分の考えていることにすら疑念を覚える奴って
なんかトラウマでもあるのか?
昔、催眠術師にオモチャにされて周りのみんなから失笑をかったとか
721 :
考える名無しさん:02/01/19 16:43
人と面と向かってあつく語り合った後に
「僕には自由意志がないんです。」なんて言ってごらんよ
こいつとは永遠に時間を共有したくないって思うぜ。
自由意志のもとに友達関係が成り立ってなきゃアホらしいだろ
722 :
考える名無しさん:02/01/19 16:52
犬が「ワン」と吠えるのも太郎君の自由意志に違いないよ
個性がいっぱいあっておもろいじゃーありませんか
723 :
考える名無しさん:02/01/19 17:04
漫才師の練りに練ったネタが自由意志の力じゃないとすれば
人間に賞賛は不要だね
>>706>チャルマースがそういったとは思えないんだけど
貴方がそう思えなくても、彼はそういっている。
「意識する心」第7章の3節を読まれたい。
ところで他人の脳を使うのは、
機能が違う可能性があるから
同じクオリアだとは云えない。
>>1自分の思考力を否定してまで生きていけるほど
俺は田代まさしってないよ。
>果たして自由意志(による行為)は存在するのか?
>それともそれは錯覚であり、全ては自然の因果法則によって
>拘束され決定された物体の運動と変わらないものなのだろうか?
自然法則の中にあって定められた能力で
切磋琢磨する自由はもってますよ。
わたしには目という機能があり世界を見ることができます。
その能力を使って今、私はあえて難しい本を読んでいます。
人間の脳環境にしっかり陣取った状況の立場にいながら
何を見て、何を食べるかも選べないとすれば
地獄以外のなにものでもないでしょうね、きっと
私たち自身、人間の脳環境という立場をとってしか
ロジックを解明できないうハンデを背負っている生命です。
意識環境が違う=他の生命との分離・・・
なぜ今現在、わたしがこの状態にあるのかは謎のままです。
しかし確かに限られた中での選択権はそなわっています
それを否定することは無理でしょう。
ここって人間賛美のスレなんですか...
728 :
考える名無しさん:02/01/19 18:40
ツインタワーが崩壊したのも脚気と同じ原理です。
命あるもの自由だぜ
腹のビフィズス菌かて 俺の都合をよそに勝手に寝返りうっとるがな
730 :
考える名無しさん:02/01/19 19:44
>>1愛する人の前で「僕の本意ではないんですが結婚してください」なんて
言葉でプロポーズするつもり?
731 :
考える名無しさん:02/01/19 19:56
人間の行動は大体生理現象ととれるが
その生理現象でも意識において自制し
また解放命令を出しているのであるから
自由意志はあるものと思われます。
なければウンコ垂れ流しかもしれまんね
732 :
考える名無しさん:02/01/19 20:23
もしこの世のあらゆる事象を観測できたら、
未来はカオスじゃなくなって、これから起こることも
過去に起こったことも全部分かるようになりますよね。
文字通り”因果”法則。
で、これ(この世のあらゆる事象を観測)は理論上可能だと
思うんだけど、これでもし未来を予測した場合、人間は当然
それに対応しようとするよね。
そうなると、未来を変えることが出来てしまうことになる。
あれ?因果律で起こることは決まり切ってるんではなかったのか?
この矛盾は論理がどこか間違ってるんでしょうか?
それとも不確定性原理で説明可能?
733 :
考える名無しさん:02/01/19 22:43
タイムスリップしたのと同じだね。
734 :
考える名無しさん:02/01/20 00:34
今、一番興味のあるのは
「時間は枝葉のごとく別れることができるのかどうか?」ということ
別れるのなら未来はもちろん無数の過去も存在可能なんだよな
仮にタイムマシンができたとして
俺が徳川家康を竹千代時代に殺した場合、別の日本史が出現することにある。
しかしこの世界(家康が天下を獲った歴史をもつ現在)はいつもとかわらんのだろう・・・
735 :
考える名無しさん:02/01/20 00:45
人間が得体の知れない領域に足を踏み入れるきっかけは
タイムマシンと一瞬で宇宙の果てまで旅行できる乗り物が完成した時かな。
たぶんその後に従来の常識がもろくも崩れ去り
思考大転換を迫られるんじゃないでしょうか...
どんな認識や知が待っているのやら
736 :
関係ないが:02/01/20 00:49
散髪と板前をロボットに任せることができたら
ほとんど自由の身でしょうね。
737 :
考える名無しさん:02/01/20 11:53
お前様たちの言うたいむましんってのは
どんなのですか?歴史に手を加えちゃうとかですか?
ショーモナー(´Д`;)
739 :
考える名無しさん:02/01/20 17:32
「因果性の原理は精神世界には当てはまるが、
古典力学の世界では成立していない」
(パース『連続性の哲学』岩波文庫、p.136)
普通、因果律は古典力学の世界でこそ通用して
いると思われてるが、パースは全く反対のこと
を言っているね。
さらに因果律を精神世界のほうに妥当するもの
と考えていることも意外だ。
なぜ、俺は明るく快活に振舞えないのか?
なぜ、俺はキムタクじゃないのか?
なぜ、俺は東大じゃないのか?
自由意思などごくごく限定された者としか考えられない・・・。
>>713>いやだからその青いクオリアが接続した先の他人の見ているクオリア
>だとどうして検証できるの?相手にとってはそれはあくまで「赤い」色
>に対応するわけだから言語的に確認することは不可能だよね?
>>706にある「違ったクオリアで生活すると・・」という議論を参照されたし。
ここでの問題は、(クオリアは意識にともなって生じるものではあるが)、
クオリアは意識ないし主観に属するものなのか、それとも意識の対象で
あるのかということです。分かってると思うが、この問題の背景として、
「赤い物」という外的なものは、誰にとっても同じであり、そこにクオリア
という個人的なものはない。しかし、だからといって、クオリアが意識ないし
主観に属すると断定することはできない。そういった可能性を指摘してるのが
上の思考実験なのです。ここで対象が二つのカテゴリーに分けられている
のが分かると思うが、荒っぽい言い方をすればクオリアは脳内の対象と
言ってもいいかと思う。
で、言語との関係を言えば、「赤」という言葉は外的な存在である「赤い物」
を指す機能をもっており、「赤のクオリア」を規定するものではない。クオリア
は言語に依存せず自由に変更可能なのだ。が、しかし、ある個人にとっての
「赤のクオリア」は赤いものを見れば必ず生じるものであり、それが突然「青の
クオリア」に変わればとんでもないこととしてその差が明確になる(赤信号が
青く見えたら大変だろう)。だから、誰にでも当てはまる普遍的・絶対的な「赤
のクオリア」を特定することはできないけれど(少なくとも当面は)、その違い
(赤のクオリアと青のクオリア)というのもは経験的に確認可能なのです(上の
思考実験のとおりならば)。
ややこしいかな。普通の生活によって経験的に(言語的に)確認することは
できないけれど、特殊な実験をすることによって経験的に(結果として言語的
にも!)確認することができるということです。別に変なこと言ってないでしょ。
>>724>ところで他人の脳を使うのは、機能が違う可能性があるから
>同じクオリアだとは云えない。
機能という言葉を限定してくれ。上は行動主義や機能主義が言うところの
「機能」と解釈したが、ここでは何を意味する? 他人の脳は生物学的にも
違うと言えるのだから、機能が違と言っても当然のこととも言えるんだし。
>>742>上は行動主義や機能主義が言うところの
>「機能」と解釈したが、ここでは何を意味する?
意味は同じだ。
afe
>>741 >ある個人にとっての
>「赤のクオリア」は赤いものを見れば必ず生じるものであり、それが突然「青の
>クオリア」に変わればとんでもないこととしてその差が明確になる(赤信号が
>青く見えたら大変だろう
おしゃることは分かるし脳をつなげる実験が無意味だとは思えないが
仮に私が他人の脳に接続して赤が青く見えたとしても
その変化した青のクオリガが果たしてその接続された他人がいつも見ている赤に対応する
クオリアであることはやはり論理的には保証されないと思います。
これはやはり原理的に検証不可能ではないか?
視力2.0の奴と0.03の奴が同じ世界を体験しているはずもなく・・
他人との能力の違いを分析しても、敏感か鈍感かに別れるくらいのもんでしょう。
トピ主さんの
>>740のカキコを見て
限られた中での選択肢しか与えられていない現状に満足できないだけなんじゃ??
>なぜ、俺は明るく快活に振舞えないのか?
>なぜ、俺はキムタクじゃないのか?
>なぜ、俺は東大じゃないのか?
なぜ俺は弱いのか?なんて言われても強くなるように鍛える事しか道はないだろ
東大に入りたかったらがんばって勉強しろ、
馬鹿でも30年勉強し続ければ東大レベルになるはず。
しかし、自由意志と何の関係があるのかね?
747 :
考える名無しさん:02/01/22 16:30
まるで、「どこでもドアが欲しい」と言ってママに泣きすがる子供のようですね...
叶えられたら自由意志在りですか、やれやれ...
748 :
考える名無しさん:02/01/22 18:10
何に縛られるかを自由に決めればいい
すいません。リアル1です。
いままで匿名でレスをしたことはありますが1だと名乗ったのは初めてです。
よって
>>740などは私
>>1ではありません。
それからいくつかのレスを見ていて若干、誤解があるかもしれませんが
私がこのスレを立てたのは、「自由意志などはない」と主張したいがためではありません。
むしろ自由意思は直感的、日常的にはまったく自明に思えます。
しかしそれがいったん学知的(特に近代科学の枠組みによって)に反省して考察すれば、
その存在余地が無いように見える、というパラドックスをどう考えれば良いのだろうか?
という素朴な疑問からです。
そして現時点ではまだクリアな回答は出ていないように思います。
いずれにしても多くのレスありがとうございます。
750 :
考える名無しさん:02/01/22 22:57
あげ
またしばらく野暮用でレスができないかもしれませんが
ROMは続けます。
752 :
考える名無しさん:02/01/23 01:35
「本来、意志とは何か?」という問いに導かれる答えとしては
固有生命特有の脳の錯乱・錯覚か
全宇宙唯一の存在と同意義である”わたし”のどちらかでしょうね。
ある条件が整えば”わたし”という意志の息吹が根付く環境が
創始から定められているかもしれませんね
>>743 しょうがないなー。
機能主義ないし行動主義で機能が同じってのは、行動や働きといった外見が同じなら、
同じと考えるしかないってことだろ。普通。で、ここで言ってるのは、ある人Aが「これは赤
い」と発言する場合に発生している「赤クオリア」が別の人Bにとっては「青クオリア」である
という可能性だ。Bにしてみれば、Aは赤い物体を見て、なおかつ「これは赤い」と発言して
いるにもかかわらず、Aは「青クオリア」を使っている。この「青クオリア」は「赤クオリア」と
同じ役割を担っているのだから、この二つのクオリアの機能は同じだ。しかし、クオリアは別。
>>706 >チャルマースは他者の脳のかわりに人工的なチップで
>機能を代替させた場合にも、機能が同じならば色の変化は
>ないだろうと推論している。
なぁ、おかしいだろ。
>>745 >これはやはり原理的に検証不可能ではないか?
そもそも「検証」というのは原理的に不可能だと思っています。が、クオリアは客観的に記述
できないという議論が、他人の心が分からないという信念を擁護しているのは間違いないので、
こういった解析によって、不可知であるという信念は揺らぐはずだと思います。とはいえ、これは
思考実験ですから、別の結果を想定することもできます。例えば他者の赤が青く見えるにもか
かわらず、その繋いだ先の神経群が物理学的にも生物学的にもまったく同じだとしか思えない
ような場合(こういう結論を下すのは極めて困難ですが)、主観と脳に対応関係があるという
信念の方が揺らぐでしょう。そうなれば、他者の主観がますます不可知になるはずです。
「自由に決定する」という言葉の意味が、厳密科学の文脈と、脳の働きを言う
文脈とでは逆転しているからだと思います。
厳密科学の枠組みでは、自然法則がものごとを決めることが出発点です。
「自由な決定」というのは、人間という主体が、自然法則に逆らってものごと
を決めることを意味しています。
一方、脳の働きについて言う時には、脳という器械にはもともと意思がない
ことが出発点です。赤ん坊は初め自分の意志を持たないように見えますが、
物心ついて成長していくにつれてはっきりとした意思を持つようになります。
この場合の「自由な決定」とは、虚無の深淵に落ち込むことなく、自分の
認識に則して現状を変えていくことに他なりません。もっと言うと、脳が、
正常な働きをして、現在持っている認識から秩序だった仕方で次の瞬間の認識
を再生産することこそが「自由な決定」であると言えます。
対比させて書くと、
厳密科学の文脈での「自由な決定」=
自然法則の「秩序」に<逆らって>ものごとが決められること
脳の働きを言う文脈での「自由な決定」=
脳の「秩序」に<したがって>ものごとが決められること
になります。脳の秩序の裏には、当然厳密科学の秩序があります。
一方では秩序に逆らうことが自由な決定であり、もう一方では秩序にしたがう
ことが自由な決定であるわけです。
この2重性が、この問題の本質ではないでしょうか。
この考え方によると、
>>1の
>例外はあるが、日常的には人は自分の思い通りに身体を動かして
>歩いたり自転車に乗ったり食事をしたり2ちゃんねるをすることが
>できるように思える。この意味で自由な意志による行為が存在するように思える。
は、脳の文脈での自由な決定であって、脳の秩序に従ってものごとが運ぶこと
を意味します。
>ところが人間もまた(大雑把に言えば)他の物体と同様、分子や原子の
>固まりであり、物理学的な自然の因果法則に拘束されており、
>決して物理学的な法則を変更したり、それに反することはできない。
のほうは、厳密科学の文脈での自由な決定であって、自然の秩序に従ってものごと
が運ぶことを意味します。
両者ともに、ものごとはある秩序に従って進むことを言っているので矛盾はありません。
結論:脳にとっての自由というのは、自然秩序への隷属を意味しているため、
厳密科学における自由意志とは文脈の違いが生じている
ということでどうでしょうか?
訂正。
>>758 ×
>ところが人間もまた(大雑把に言えば)他の物体と同様、分子や原子の
のほうは、厳密科学の文脈での自由な決定であって、自然の秩序に従ってものごと
○
>ところが人間もまた(大雑把に言えば)他の物体と同様、分子や原子の
のほうは、厳密科学の文脈での自由でない決定であって、自然の秩序に従ってものごと
つーかあんたら「自由」って言葉に勝手な解釈つけて弄んでるだけじゃん。
生命・・特に自分を呪いだしたらキリがないぜよ
763 :
考える名無しさん:02/01/24 21:57
>>753 > 機能主義ないし行動主義で機能が同じってのは、
> 行動や働きといった外見が同じなら、
> 同じと考えるしかないってことだろ。普通。
然り。
>で、ここで言ってるのは、ある人Aが「これは赤い」と発言する場合に
>発生している「赤クオリア」が別の人Bにとっては「青クオリア」である
>という可能性だ。
なるほど。
>Bにしてみれば、Aは赤い物体を見て、なおかつ「これは赤い」と発言している
>にもかかわらず、Aは「青クオリア」を使っている。この「青クオリア」は「赤クオリア」と
>同じ役割を担っているのだから、この二つのクオリアの機能は同じだ。しかし、クオリアは別。
まず、全体として同じ機能を有するからといって
各モジュールも同じ機能を有するわけではない。
A,とBに関していえば、色を見る部分のモジュールと
色名を答えるモジュールの機能は違っている。
しかしながら、組み合わせによって違いが相殺され
全体としては同じ機能を有しているに過ぎない。
クオリアを論じる場合、何を入力とし何を出力とするかに
最大の神経を払うべきだ。漫然と「目で見、口で話す」
という枠組みに従うのは知的弛緩だろう。違うかね?
765 :
考える名無しさん:02/01/25 11:39
>>20 だとすれば、「未来は予測できない」という物理法則が成り立っている事にもなるのでは?
はぁ?
>>766 だってそうじゃん。
>>20が言ってるのは「未来を正確に予測できる機械が発明されたとする」という仮説。
で、その仮説には矛盾が出てくる訳でしょ?
んじゃ、その機械は物理的に発明できないって事なんだからさ。
言ってること分かる?
768 :
考える名無しさん:02/01/25 14:33
”知る”ということは
唯一未来を変える原動力になるのかな?
>>761 じゃあテメエがもてあそぶ事無くこの問題を解決してみろよ。
もうアフォかと。
>>769 物理的な言葉として解釈した場合自由意志は存在しない、
別の言い方をすれば有意な定義は不可能。
その理由はこのスレでも散々出てきている。
心理学的?もしくはそれに類する人間的な分野における言葉として
一般化して考えた場合、言葉の文脈によって自由意志が存在していると
言っても差し支えない。
「自由」という言葉をどう捉えるかに激しく依存するからだ。
日常用語と学問的な意味での専門用語を無分別に区別せずに使えば、
相(phase)の異なる学問間での定義の不一致・矛盾が生じることは避けられない。
あなたはそういうことをちゃんと踏まえて考えてたんですか?
例えば756の人はしっかり考えてるよね。物理の相と生物or日常感覚の相を区別してて。
予測はできるけど、確定は出来ないんだな。
その系の中に自分がいる限り。
固定常識もひとつの発明、一人の天才によってうち砕かれる
773 :
考える名無しさん:02/01/26 10:53
未来が正確に予測できるようになったら
株で儲けられないな。
資本主義が崩壊するぞ。
>>770 >例えば756の人はしっかり考えてるよね。
そうかな?
まず、厳密科学云々のところはアホでも思いつくことだろう。
次に、脳の働き云々のところは脳の物理現象と意識現象の区別が
まるきりなされない上に、脳の働きを前者の意味で考えた場合、
厳密科学の中に飲み込まれてしまい、結局自由意志が消えうせて
しまう点で、まさに自爆行為である。
思うに、厳密科学に対比させるべきは脳ではないだろう。
では何か?といわれると私にはうまい答えが思いつかない。
776 :
考える名無しさん:02/01/26 14:36
無意識の領域を語るにはあまりに資料と歴史がなさすぎる。
あと数千年研究しなきゃならん分野かもね
オートメーションが進めば必然と資本主義は姿をかえて消え去るだろう。
>>774 内容すべてに賛同している・していないということは述べていないが。
区別しようとする意志が垣間見られるところを賞賛したまで。
意識や心といった現象をより根源の物質的活動として
解析していけば自由意志が消失するのは当然だから
別に彼の自爆ともなんとも思わないけどね。
それと、彼の説明は二つの異なる領域の境界を
考えることで翻訳を試みているのでしょう。
アホでも思いつくことを、どう扱うかが問題だと思いますが。
自由意志とは何ぞや?
>>774 >脳の働きを前者の意味で考えた場合、厳密科学の中に飲み込まれてしまい、
>結局自由意志が消えうせてしまう
答えるべき問題として、
・未来が決定されているという前提は本当なのか
・自由意志(による行為)は存在するのか
という2つがあったわけですが、自分は、未来は決定されているが自由意思はある
という立場です。
>>756では、「因果法則と矛盾しない自由意志」が実際にありえる
ことと、それはどういうものであるかということを書いたつもりでした。
そこを分かってもらえなかったのは書き方が悪かったからだと思うので、別な言葉で
言い直させてもらいたいと思います。
今は、「自由意志(による行為)が存在するか?」という命題を考えているわけですが、
これは、何から自由なのかということが指定されていない点であいまいな命題です。
(「人間の思考や行動は自由か?」と言い換えてみると分かります)
何から自由であるかに注意すると、「自由意志」には
・「人間の思考や行動は<因果法則の支配から>自由であること」
・「人間の思考や行動は<ボケや虚無の支配から>自由であること」
という2つの定義がありえることが分かります。
前者の自由意志は因果法則と矛盾しますが、後者の自由意志は因果法則と矛盾しません。
>>1では、このような2重性があるにも関わらず、両方を一くくりに自由意志と言って
しまったせいで、存在するともしないとも言えないという矛盾に陥ってしまったのだと思います。
この2つの定義は、物理の言葉に直すと
・「人間の思考や行動は<力学法則による秩序から>自由である」
・「人間の思考や行動は<熱力学第二法則による無秩序から>自由である」
と言い直せると思います。非平衡開放系では、前者の自由は存在しませんが、
後者の自由は存在します。(因果法則とは力学法則のこと)
だから、後者の意味で、自由意志は存在すると言ってよいのではないでしょうか。
ただ、これは原理上の話なので、
>脳の物理現象と意識現象の区別
について議論するのには役に立ちませんね。
782 :
考える名無しさん:02/01/28 01:58
age
>>780 >答えるべき問題として、
>・未来が決定されているという前提は本当なのか
>・自由意志(による行為)は存在するのか
>という2つがあったわけですが、
いや問いは、前者1つでいい。
2つの可能性があるのは答えのほうだろう。
・未来は決定されていない
・未来は決定されているが、事前に知ることはできない。
前者の場合、厳密科学の文脈でも、意識現象の文脈でも
「自由な決定」があるというわけだが、後者の場合、
厳密科学の文脈では「自由な決定」は存在しない。
なお、「自分の将来を前もって知り得ない」という意味の
「自由」を疑う人はいないだろう。
>>783 いいえ。前者の文脈でも
自由に物事が決定できると言うことはできない。
>>783 >2つの可能性があるのは答えのほうだろう。
>・未来は決定されていない
>・未来は決定されているが、事前に知ることはできない。
・未来は決定されていて、事前に知ることもできる。
という選択肢もあるのでは?
例えば、何千億年もかけて巨大なコンピューターシステムを組み上げて、そのシステムの
全リソースを使って一人の人間をシミュレートしたとしたら、10秒先の未来くらいなら
予測できるような気がしませんか?
それに、「事前に知ることができない」ことを原理のレベルで証明することは不可能では
ないでしょうか?
>自分の将来を前もって知りえない
というのは幻想だと思いますよ。
もし自分の未来を知ることができるような計算システムがあったら、人間の自由意思が
消滅して、代わりに人間と計算システムを合わせたスーパーシステムが意思を持つよう
になるというだけですから。(情報処理システムの入出力関係が、最終段でのフィードバック
によって変化するだけ)。
自由意志という言葉を日常的な意味で使うと、ミドリムシには自由意志がありそうですが、
ミトコンドリアにはなさそうに思えます。より大きなシステムに取り込まれた時点で、
部品にとっての自由意思はなくなるという例と言えるかもしれません。
786 :
考える名無しさん:02/01/28 20:57
>例えば、何千億年もかけて巨大なコンピューターシステムを組み上げて、そのシステムの
>全リソースを使って一人の人間をシミュレートしたとしたら、10秒先の未来くらいなら
>予測できるような気がしませんか?
この例は
「SF」ならそれでまったく結構だが「哲学」はそんな枝葉の事より大事な
「で、その予測するプログラムはどうすんだよ?」っていう肝心かなめ、
そういうプログラムがあるっていうのでお茶を濁さない(濁すのがSF)具体例が欲しいんだが。
あ、何千億年〜ってのはいいよ。
未来が決まっているかどうかは、
物理学による記述の完全性の問題だから、
物理の言葉でしか語れないと思われ。
とりあえず決まっていると仮定して、自由意志の
ありかを探るほうが実りがあるような気がする。
動因ト性質ダロ
>>786 予測できないとは限らないと言いたかっただけ。
結局、できることもできないことも証明できないから、感覚的な話しか
できないんですよね。きっと。
790 :
考える名無しさん:02/01/28 23:15
1931年、ニコラ・ステラの指導により、
シカゴ大学学長ジョン・ハチソン卿、オーストラリアのエミール・クルトナー博士、
デビッド・ヒルバート博士らが研究に携わり、対レーダー不可視実験のため、
エルドリッジ号の船体を「電磁気の壺」によって覆い尽くすという実験。
1943年にフィラデルフィア沖において、初の実験が試みられた。
なんと実験は大成功。船体はレーダー上から跡形もなく消え去った。
しかし、消えたのはレーダー上の船ではなく、船本体だった
忽然と姿を消した船は1600キロ離れたノーフォークに瞬間移動し、
4時間後には再びフィラデルフィア軍港に姿を現したが、
その乗組員たちは……。
これは実話であるとされています。
「フィラデルフィア・エクスペリメント」という映画にもなっています。
バーミューダトライアングルでの奇妙な体験談はまんざら嘘でもないだろうから
そういったことが自然現象の力で起こりえたといこと自体、何かしら法則的に可能かもよ
未来現在過去が一つの線上に・・
792 :
考える名無しさん:02/01/29 02:42
>>791 >バーミューダトライアングルでの奇妙な体験談はまんざら嘘でもないだろうから
この時点でもう駄目・・・
>>764 僕の
>>742 の意図を読み取ってほしいんだけど、「あるのもの機能」は何か、を
問うた場合、それを問う枠組みなり観点の違いによって、さまざまな回答がありうる
わけでしょ。記憶媒体にディスクを使おうとテープを使おうと、ある内容のデータを記憶
させるという観点からは、機能は同じといえるが、物理的・工学的意味での機能は変
わってくる。あなたも、
>然り。
と書いているように、このへんは了解していると思う。で、今回、
「言葉、赤に対応する波長の光」→「色を見る部分のモジュール」→「赤と答えるモジュール」
という図式の「色を見る部分のモジュール」に個人差があるかもしれないと想定される
わけですね。ここまでは同意されるでしょう。しかし、
>クオリアを論じる場合、何を入力とし何を出力とするかに最大の神経を払うべきだ。
というのは何を意味しているのでしょうか? 「色を見る部分のモジュール」と「赤と答える
モジュール」の間にある矢印(ニューロン)は「赤と答えるモジュール」を活性化する以外に
なにか別の機能をもっているのでしょうか? 別の言い方をすれば、確かに「色を見る部分
のモジュール」は個人によって違うかもしれない。さらに、そこからの出力も違ってしかるべき
かもしれない。しかし、基本的なこととして生物が生きていくうえで不要な出力(ニューロン)
は死滅していくのだから、「赤と答えるモジュール」を活性化するといった必須な出力しか
残っていないとの推測も成り立つ(もしあったとしても、それは盲腸のような無駄なものでしょう)。
だから、入出力で考えたら「色を見る部分のモジュール」は単なる中継装置としてしかみなさ
れない。
これが、あなたの示唆に従って、入出力に焦点を当てて考察した場合の結果です。これは
行動主義と同様の袋小路、つまり、クオリアは区別できない(機能が同じになる)という困難
に陥っていると言えましょう。
あるいはエックルスのように主観や自我に向かう経路(出力)を仮定しますか?
ニューロンがどうだこうだと、おまえら
そういうの扱って意味がある話をしてるのか?
>>793 >僕の
>>742 の意図を読み取ってほしい
ボクの
>>764の意図は読み取ったのかい?
>>クオリアを論じる場合、何を入力とし何を出力とするかに
>>最大の神経を払うべきだ。
>というのは何を意味しているのでしょうか?
読んで字の如しだよ。
全体として同じだからといってモジュール単位でも同じとは限らない
切り口さ、切り口。組み合わせて同じだからといってパーツの切り口が
同じだとはいえないだろ?
例えば、目の玉から口にいたる神経系のどこに捻りをいれても、
「赤」をみて「青」と答えるようにできる、さらに、もう一階
捻りをいれれば、「赤」をみて「赤」と答える通常の反応に
戻せる。
これは全体の機能としては同じだろうが、部分で見れば、
はじめの捻りから次の捻りの間は違うだろう?そういうことさ
796 :
考える名無しさん:02/01/29 16:02
手を動かすチャンスが今この瞬間に与えられている。
そしてある者は手を動かし料理を作る
ある者は手を動かし握手をする
ある者は手を動かし首を絞めて殺す
原動力は思考世界に起因する。
思考世界はプラスとマイナスに常時影響を受けている。
邪念を自制せず拡大すれば自ずと犯罪者になっていくことだろう
自分の心を恨みや横暴な欲望でいっぱいにするか平安にするかは
自分自身の環境に対する責任及び思考世界の構成にかかっている。
物性と霊性の両方からアプローチするべきだね
800 :
考える名無しさん:02/01/30 04:36
>>794 まずあんたの意味あるところを明確してから喋れ。
>>1 もう何も出てこないんとちゃうか
今のとこどんなにがんばってもこんなもんでしょ
意思の定義:
「観察者Oが、原子、分子から構成される物質のシステムSを観察して、
Sを特徴付けるマクロな状態変数Xを見いだしたと仮定する。
この状態変数Xの時間変化から、一つの開いた情報システムS’が定義
できる。
もし、この開いた情報システムS’の時間的推移が、その内部状態Xだけ
によって決められるのならば、情報システムS’は意思を持つ。
一方、外部からの攪乱のせいでS’の時間変化が内部状態Xによって決められ
ないとき、情報システムS’は意思を持たない。」
注1:
S’が意思を持つ時、S’の情報論的エントロピーは増加しない。
また逆に、S’の情報論的エントロピーが増加しない時、S’は意思を持つと
考えることが可能である。
注2:観察者が複数いる場合、物質システムSに対して、2種類以上の
情報システムS’を定義することができる。
例:有意な変数を見出した人にとっては、地球も、遺伝子も、ロボットさえも
意思を持つ。
もちろんこの定義は唯一のものではないですが。
もう来ません。
804 :
考える名無しさん:02/01/31 00:21
>>756=803
>もう来ません。
いえ。結構面白いのでまた来てください。
まとまってレスする時間がないのですが読んでます
805 :
考える名無しさん:02/01/31 01:41
自分が存在する理由すらわかんねぇーからな
自由意志のあるロボットを故意にぶっ壊しちゃった場合、罪ですかね?
人間も死ねば何もなくなるんだからロボットの身と何らかわらないね。
意志の未来は失望??
806 :
考える名無しさん:02/01/31 06:48
どうやってロボットに自由意志がある事を確認するんだ???
>>795 一応読み直してみたんだけどね。論点がずれてるとしか思えないんだよ。
僕は
>>703 >>742 でクオリアに対応するニューロン群なりモジュールは
生物学的にも物理学的にも区別可能だということを言っている。にもかかわらず
僕が「区別できない」と言ってるのは、
>>743 から始まる「行動主義的な意味で」
は区別できないということだ。これはあなたが、
>>764で「然り」と言った定義だ。
これらを踏まえた上で、
>切り口さ、切り口。組み合わせて同じだからといってパーツの切り口が
>同じだとはいえないだろ?
これをどう読めばいいんだ?
>これは全体の機能としては同じだろうが、
青と答えるようになったら、「機能」は違うだろ。
>部分で見れば、
赤と「正常に」答えるのなら同じだろ。しかし、配線の数やパターンが最初のものと
わずかでも違えば、物理学的・生物学的な意味で違いはある。
プリンターを繋ぐのにUSBを使おうがIEEE1394を使おうが同じ機能を果たせる。が、
それらの切り口は違う。物理的性質も違う。当たり前の話ではないか。
>>807 ずれてるのは僕ではなく君だよ。
君は「行動主義的な意味」を全体システムにのみ
適用しているようだけれども、そう制限する理由は
何も無い。それが「切り口」の意味。
君は「クオリアに対応するニューロン群なりモジュールは
生物学的にも物理学的にも区別可能」といってるけど、
どう区別するつもりか考えているのかい?一度でも考えた
ことがあるなら、モジュールについてやはり「行動主義的
機能主義的比較」をやらざるを得ないのではないのかい?
>青と答えるようになったら、「機能」は違うだろ。
だろう?だから私は最初からそういっているじゃないか。
「配線の数やパターンが最初のものとわずかでも違えば」
切り口によって、機能が変るんだ。
>プリンターを繋ぐのにUSBを使おうがIEEE1394を使おうが
>同じ機能を果たせる。
それはあくまで全体システムとしてだ。
もしコンピュータとプリンタをそれぞれ別にみたなら
それらの機能は前者と後者では違う。それこそ当たり前の話ではないか。
君は機能の違いを認めたくないが、事実を変えられないから
物理的、生物的性質という別の言葉で逃げようとしているだけだ。
>>808 >君は「行動主義的な意味」を全体システムにのみ
>適用しているようだけれども、
もともとそういう意味だろう。
入出力の違いしか考慮に入れないって言ってんだから。
そもそも、
>>795 >目の玉から口にいたる神経系のどこに捻りをいれても、
>「赤」をみて「青」と答えるようにできる、さらに、もう一階
>捻りをいれれば、「赤」をみて「赤」と答える通常の反応に戻せる。
これのどこにクオリアが言及されてんだよ。単なる光受容器ですむ話
ではないか。
>君は機能の違いを認めたくないが、事実を変えられないから
>物理的、生物的性質という別の言葉で逃げようとしているだけだ。
おい。下の日本語読めるか?
>>742 :TIII
> 機能という言葉を限定してくれ。上は行動主義や機能主義が言うところの
>「機能」と解釈したが、ここでは何を意味する? 他人の脳は生物学的にも
>違うと言えるのだから、機能が違と言っても当然のこととも言えるんだし。
もう一度言うが、行動主義はヒトと外見上区別できないロボットはヒトと同じで
あると主張する。ロボットの心臓が金属で出来ていようが、ヒトと同等の役割(
ポンプ)として働くなら機能は同じだと言う。これが、ここで言っている「機能」の
意味だ。しかし、金属の心臓とタンパク質等で出来た心臓の物理的特性は違う。
この違がある限り、何らかの機能的な差を導くことはできる。が、それは新たな
指標(観点)が導入されて始めて可能になることだ。
ところが、このような話は、金属製のロボットとシリコン製のロボットの間におい
ても成り立つ話であって、ヒトの特殊性にはなんら言及していない。ヒトを説明す
るためには主観について満足のいく説明がなされなければならないのだ。そこで
出てきたのがクオリアだろう。AとBという人間がいて、彼らが同じ身体能力を有
するなら、彼らの身体のどのパーツ、眼だろうが、発話に関するモジュールだろう
が、を互いに交換してもなんら支障をきたさない。これらは機能的に等価なのだ。
なら、クオリアを発生するようなモジュールはどうか? 当然、交換した当初は
はなはだしい混乱に陥るであろう(赤いものが青く見えるのだから)。しかし、時
間がたてばその混乱は消失する。つまり、赤のクオリアは青のクオリアと同じ機
能を果たすようになるのだ。
ここで僕が何を言ってるかわかるか? 切り口などと言って単純化に理解できる
話ではないぞ。少なくとも主観とか、言語社会とかを考慮しないと理解できないだ
ろう。組み合わせで相殺されるなんて的外れもいいとこだぞ。
キミは素朴な唯物論者に見られる誤解を犯しているようにしか思えないのだ。
#なんで僕が主観を擁護しなきゃなんないんだ・・・・・。
810 :
考える名無しさん:02/02/01 10:54
>>809 >>君は「行動主義的な意味」を全体システムにのみ
>>適用しているようだけれども、
>もともとそういう意味だろう。
>入出力の違いしか考慮に入れないって言ってんだから。
いや、どこを入力としどこを出力とするかは別の問題だ。
君はただ与えられたものを鵜呑みにしているだけだ。
>そもそも、
>>795 >>目の玉から口にいたる神経系のどこに捻りをいれても、
>>「赤」をみて「青」と答えるようにできる、さらに、もう一階
>>捻りをいれれば、「赤」をみて「赤」と答える通常の反応に戻せる。
>これのどこにクオリアが言及されてんだよ。
>単なる光受容器ですむ話ではないか。
それなら、人間も単なる光受容器だろう(笑)
外からみただけではクオリアなんてどこにも現れないさ。
>おい。下の日本語読めるか?
>>742 :TIII
> 機能という言葉を限定してくれ。上は行動主義や機能主義が言うところの
>「機能」と解釈したが、ここでは何を意味する? 他人の脳は生物学的にも
>違うと言えるのだから、機能が違と言っても当然のこととも言えるんだし。
先の言葉で、君の「機能」という日本語の使いかたが
間違っていることがわかった。つまり、君は行動主義
および機能主義が、システムの「境界」を限定している
と思っているようだが、それは君が勝手にそう思って
いるということだ。
何度でもいうが、君が物理的特性が違うというとき、
それはモジュールレベルでの機能が違うといっている
のに等しいのだ。物理的特性をいかに調べるか考えれば
そのことは明かだ。何等の入出力のやりとりなしに、
違いを知ることはできないのだから。
君はこのような主張に対して「新たな指標の導入だ」と
批判しているが、君が行動主義の意味を誤って理解
しているからそう思うだけで、全く新たでもなんでも
ないのだ。単に君が知らないだけのことだ。
811 :
考える名無しさん:02/02/01 11:04
810のつづき
>>809 >AとBという人間がいて、彼らが同じ身体能力を有するなら、
>彼らの身体のどのパーツ、眼だろうが、発話に関する
>モジュールだろうが、を互いに交換してもなんら支障をきたさない。
>これらは機能的に等価なのだ。
>なら、クオリアを発生するようなモジュールはどうか?
>当然、交換した当初ははなはだしい混乱に陥るであろう
>(赤いものが青く見えるのだから)。
モジュールレベルの機能が同じだというなら、
君のいう混乱はおきないだろう。
もし、混乱がおきるなら、それは機能の不整合として
観測されるはずである。つまり
「赤いものが青くみえる」
という為には、機能の不整合がなくてはならない。
それゆえ、機能が同一ならばクオリアは同一だと
考えざるを得ない。これがチャーマーズの主張だ。
「意識する心」を読めば書いてある。
>ここで僕が何を言ってるかわかるか?
>切り口などと言って単純化に理解できる話ではないぞ。
>少なくとも主観とか、言語社会とかを考慮しないと
>理解できないだろう。
>組み合わせで相殺されるなんて的外れもいいとこだぞ。
もちろん分かっているさ。君は自分の云ってることが分かってるか?
切り口と組み合わせの考えは君の誤りを的確に指摘した。
むしろ言語社会を持ち出すことが的外れじゃないか。
どこに社会が出てくる?たった一人の人のことじゃないか。
>キミは素朴な唯物論者に見られる誤解を犯しているようにしか思えないのだ。
キミこそ素朴な二元論者に見られる誤解を犯しているようにしか思えないね。
>>810 >>811 まず、素朴な唯物論者という発言は撤回しよう。が、論旨は変らない。
とりあえず確認だが、キミは
>行動主義は・・・ロボットの心臓が金属で出来ていようが、ヒトと同等の役割(
>ポンプ)として働くなら機能は同じだと言う。
という典型的な行動主義・機能主義の主張には同意するわけだろ(少なくとも
このような用語法を認めるわけだろ)。
しかし、物理的に言ってロボットの心臓とヒトの心臓は別のものだ。だから、
これらを全く違った状況(例えばサッカーボールとして使うとか)においてやれば
違った機能を示すだろう。当然だよな。つまり、行動主義・機能主義での機能的
に等価というのはある決まったシステムにおいて定義されるものだということになる。
だから、キミが
>「配線の数やパターンが最初のものとわずかでも違えば」
>切り口によって、機能が変るんだ。
といった場合に、機能の変化があると言えるのは脳(あるいは個体)という、
あるシステムにおいて何らかの変化が観察されるときに限るわけだ。配線の
数が倍になったとしても、脳の働きに何も影響しなければ、機能は同じであると
言わねばならない。(配線の)切り口の変化は機能の変化と一義的に対応しない。
もし、キミがそれでも機能が変化しているというのなら、それは「機能」という
言葉の用語法の拡張であろう。このへんをはっきりさせないと議論にならない。
つづき、
>>当然、交換した当初ははなはだしい混乱に陥るであろう
>>(赤いものが青く見えるのだから)。
>
>モジュールレベルの機能が同じだというなら、
>君のいう混乱はおきないだろう。
キミは無視しているようだが、僕の主張が「混乱のままだ」というのであれば
そのとおりで、機能の変化が起きているという議論になろう。しかし、これは
色の変化に気付くという段階を作るために導入した一過的なものに過ぎない
のだ。それでは、なぜこのような変化が生じるか考えてみよ。この思考実験
において、赤と青のクオリアを発するモジュールは完全には交換されていな
かったからだ。要するに、記憶に関するモジュールも過去に経験した赤や青の
クオリア発すると想定されている。だから、ここで言われる変化は手術を施され
たいう記憶が後の生活に影響を及ぼすと言っているのと同じで、なんなれば
元の記憶も削除したと仮定してもいい(しかし、その場合は色の変化に気付く
ことはない)。が、これが一過的なものに過ぎないということは、元のシステム
を保存したまま、色の交換ができるということだ。これを理解するためには
>どこに社会が出てくる?たった一人の人のことじゃないか。
などと言っていてはならない。キミは僕が「システムの境界を限定している」
と言っているようだが、脳(一人)だけ見たら脳が理解できると思ったら大間違いだ。
発話といった脳の機能は外部の実在や社会によって、正常に保たれていて、
上のような一過的な異常もそれらによって補正されているという事実を無視して
はならないだろう。
814 :
考える名無しさん:02/02/01 16:55
>>1 自由意志ってのは、人間の脳みそをブラックボックスとしてみた場合の、表現だろ。
脳みそを細胞レベル、原子レベルまで解体して考えたら、自由意志なんてあるはずないだろ。
素粒子は物理法則、確率にしたがって、自由に振舞ってるとも解釈できるがな。
それはただの無限後退だ。
さらにつづき、
クオリアに関して特殊な点は青と赤が機能的に等価であると想定されている
点だ。このように仮定されていないと、そもそも上の思考実験は成り立たない。
機能的に等価である二人の人間において、クオリアが違っているなどということは
ありえないだろう。キミは
>>764で、この仮定を認めているが、キミはこの時点で
終わっているのだ。モジュールを機能単位として、それから出入力される配線
が全く同じであっても、クオリアが違っていることは可能なのだ。クオリアモジュ
ールの機能はただ単に色を区別するということでしかないからである。それは、
二人の人物を区別したのにAとBという記号を使わずに、XとYを使っても主張の
内容になんら変りがないのと同じことだ。AとXの機能は全く等価であって、これ
の使用は単なる取り決め事でしかない。
さらに言うと、キミがおそらく同意するであろうロボットとヒトが機能的に等価で
あるという主張。この主張が想定しているような検定法は、チューリングテスト
のような言語を用いたものであろう。このようなテストにおいてはロボットが普通の
人間と変らない常識的発言をすればロボットはテストに合格したとみなされるわ
けだが、常識とは何だ? 常識は言語で表現できるのではないのか? ならば
言語のどこに色(クオリア)があると言うのだ。盲人でも色に関する言葉が常識
においてどのように使用されているか把握することはできるであろう(なんなら
機能主義者が書き表したクオリア理論を彼に提示してもいい)。それが出来るの
なら、クオリアなどなしにチューリングテストは通るはずだ。
キミがもし、「青と赤は機能的に等価である」という想定の受け入れを拒否し、
新たに議論するというのなら、上のようなことが不可能であるという主張をしな
ければならないだろう。
816 :
考える名無しさん:02/02/01 17:21
想念は物質なのか?
817 :
考える名無しさん:02/02/01 21:13
>>812 > とりあえず確認だが、キミは
>>行動主義は・・・ロボットの心臓が金属で出来ていようが、
>>ヒトと同等の役割(ポンプ)として働くなら機能は同じだと言う。
>という典型的な行動主義・機能主義の主張には同意するわけだろ
>(少なくともこのような用語法を認めるわけだろ)。
君はどうして核心を隠すんだい。
問題は行動主義や機能主義じゃない。君がシステムの境界を
fixすることにあるんだ。それは行動主義や機能主義じゃない。
>行動主義・機能主義での機能的に等価というのは
>ある決まったシステムにおいて定義されるものだと
>いうことになる。
では、君のいうクオリア発生部とやらに関して
機能的に等価だということを今ここで保証してくれ。
それだけで君の言っていることが間違っていると示せる。
818 :
考える名無しさん:02/02/01 21:24
>>813 >>>当然、交換した当初ははなはだしい混乱に陥るであろう
>>>(赤いものが青く見えるのだから)。
>>モジュールレベルの機能が同じだというなら、
>>君のいう混乱はおきないだろう。
>キミは無視しているようだが、
>僕の主張が「混乱のままだ」というのであれば
>そのとおりで、機能の変化が起きているという議論になろう。
キミこそ無視しているぞ。
一瞬でも混乱したなら、それは機能の変化が起きてることになる。
一過的だからいいとはならない。絶対にあってはいけないことだ。
つまり
>この思考実験において、赤と青のクオリアを発するモジュールは
>完全には交換されていなかった
というのであれば、それはキミが機能主義に反したことになる。
例えば、キミは
>要するに、記憶に関するモジュールも過去に経験した
>赤や青の クオリア発すると想定されている。
といっているが、そういう抜けがあってはダメなのだ。
私が思うに、記憶もクオリア発生モジュールをとおって
始めてクオリアを発生するのであれば、それが交換される
ことで、記憶のクオリア自体も交換されてしまうだろう。
つまり、一瞬といえども変化が認識できないことになる。
もちろん、この場合、本当に変化がないのか?という疑問が残る。
しかし、そこでいう本当とは一体なにか?それもまた疑問だろう。
さてここまでの議論で、外部の実在や社会には何一つ言及する
必要がなかった。キミは、考えもせずにこれらのものに寄りかかって
いるが、ちょっとでも考えたならそんな必要はないのだ。つまり
キミがこれらの概念を必要と考えるのは的外れだ。
819 :
考える名無しさん:02/02/01 21:39
>>815 >クオリアに関して特殊な点は青と赤が機能的に等価であると
>想定されている点だ。このように仮定されていないと、
>そもそも上の思考実験は成り立たない。
そうだから成り立っていないのだ。
実際には赤を見るときと青を見るときと
機能は同じではない。
>機能的に等価である二人の人間において、
>クオリアが違っているなどということは
>ありえないだろう。
キミがそれを認めるならこの議論は終りだ。
なぜならそれこそチャルマースの結論だからだ。
>モジュールを機能単位として、それから出入力される配線が
>全く同じであっても、クオリアが違っていることは可能なのだ。
>クオリアモジュールの機能はただ単に色を区別するということで
>しかないからである。
しかし、交換によって変化が寸毫も認識されないという
結論からいえば、クオリアは違っていない。少なくとも
違っていることが認識できない。キミはすくなくとも
違っていることが認識できるといったのだから、それは
間違っているということだ。
>それは、 二人の人物を区別したのにAとBという記号を使わずに、
>XとYを使っても主張の 内容になんら変りがないのと同じことだ。
>AとXの機能は全く等価であって、これの使用は単なる取り決め事
>でしかない。
もし、機能を等価にたもつ交換をした場合、AはあまねくXに置き換え
BはあまねくYに置き換えられるだろう。だからこそ違いは認識されない
のだ。このような考えでいけば、クオリアを文字になぞらえることが
実は適切でないことは明かだろう。
820 :
考える名無しさん:02/02/01 21:45
>>819 >さらに言うと、キミがおそらく同意するであろうロボットとヒトが
>機能的に等価であるという主張。この主張が想定しているような
>検定法は、チューリングテストのような言語を用いたものであろう。
>このようなテストにおいてはロボットが普通の人間と変らない
>常識的発言をすればロボットはテストに合格したとみなされる
>わけだが、常識とは何だ? 常識は言語で表現できるのではないのか?
> ならば
>言語のどこに色(クオリア)があると言うのだ。
>盲人でも色に関する言葉が常識においてどのように使用されているか
>把握することはできるであろう(なんなら機能主義者が書き表した
>クオリア理論を彼に提示してもいい)。それが出来るのなら、
>クオリアなどなしにチューリングテストは通るはずだ。
機能的に等価であるなら、言葉だけ理解するわけではないだろう。
目で見、耳で聴かなくてはなるまい。
赤い物を見せて色をたずねたときに赤だと答えなくてはならない。
このように考えた場合、もしヒトに為し得ることが機械にも為し
得たならば、クオリアを否定することはできない。
なぜならヒトは自分ではクオリアを持っていると信じているのだから。
その他のものがクオリアをもたなくとも、その信念だけで、機械が
クオリアを持たざるを得ないと信じるには十分だ。
821 :
考える名無しさん:02/02/01 21:52
>キミがもし、「青と赤は機能的に等価である」という想定の受け入れを拒否し、
>新たに議論するというのなら、上のようなことが不可能であるという主張を
>しなければならないだろう。
うむ、まさにその通りの主張をしたはず。
つまり赤と青が機能的に等価ならば、色を識別できない。
色を識別するためには、赤と青が違うとしなくてはならない。
そういうことだ。
822 :
考える名無しさん:02/02/02 13:13
だからどうしたんだ。
>>817ー
>>821 >では、君のいうクオリア発生部とやらに関して機能的に等価だということを
>今ここで保証してくれ。
おっ、まともなこと言うようになったじゃん。上の思考実験では二人の人物が
全く違ったクオリア(赤と青)を持っていると想定されている。僕は機能主義者
じゃないから、この想定を受け入れて議論を進めていたわけだが、キミが機能
主義者なら、この想定こそを攻撃しなければならなかったのだろう。
つまり、違ったクオリアを持っている二人の人間が機能的に等価であったら、
機能主義は否定されるわけで、モジュールの物理的な性質が違っているなど
という言い逃れは、機能主義の研究方針が間違っていると自ら告白することで
しかない。キミはこの点を明確にすべきだ。だいたい、機能主義というのはある
システムで機能的に等価ならば、それらは同じとみなしてよいという単純化に
によって成功してきた研究プログラムなのだ。この点を自覚していない機能主
義者はいないし、また、青と赤が機能的に等価であることは一般に認知されて
いることだ。だから、キミがチャルマースを持ち出して言った「機能が同じならば
色の変化はないだろうと推論している」というのは逆転して推論であって、
キミは「色の変化があれば機能も違ってくるはずだ」と言うべきだったのだ。
このへんの状況については、例えば、
http://www.sccs.chukyo-u.ac.jp/ICCS/olp/p3-70/p3-70.htm にある。
つづき、
で、赤と青が機能的に等価であるという議論は、僕の思考実験の元になって
いる思考実験、つまり、「生まれた時から赤と青が反転している人物を仮定
し、彼が普通の生活を送るのにあたって何か困難があるか考えてみよ」という
考察から来ている。僕はとりあえず、何も困難を見出せなかったから、
この等価性を受け入れているわけだ。ただそれだけのことだ。だからキミがこの
等価性を攻撃したいのなら、何らかの困難があることを主張すればいい。
例えば、快・不快の感覚が反転した人物を考えてみよ。一般に不快とされる
出来事(例えば殴られる)によって彼は初めから「快」の感覚を受けるのだ(こ
のへんはマゾとは違う)。彼が生きるのに困難であることは十分に理解されよう。
要するに、
>一瞬といえども変化が認識できないことになる。
というのは機能的に等価であるということだ。これ(赤と青が反転しても何も
変らない)を認めたら機能主義に問題があることになろう。だから、キミは自分が
何を主張しているのか明確にすべきなのだ。原形となる思考実験を認めれば、
機能主義は擁護できない。いいか? 機能的な等価性を批判したいのなら、
何らかの困難を見つけ出さなければならなのだ。そして、何かを見つけるため
にはできる限り広い視野でみなければならないだろう。
>さてここまでの議論で、外部の実在や社会には何一つ言及する
>必要がなかった。
必要がないじゃなくて、それも考えろよ。
さらにつづき、
僕の思考実験がやとうとしているのは機能主義の批判じゃなくて、クオリアに
ついては客観科学はなにも知りえないという主張に対する批判だ(だから、変化
に気付く段階を想定した)。機能的に等価であってもクオリアの違いは記述できる
であろうと言っているのだ。
>うむ、まさにその通りの主張をしたはず。
キミは何の論証もなく、ただクオリアは機能的に等価じゃないという独断をして
いるだけだ。キミの根拠がチャルマースにあるのなら、それを書け。
>赤い物を見せて色をたずねたときに赤だと答えなくてはならない。
>このように考えた場合、もしヒトに為し得ることが機械にも為し
>得たならば、クオリアを否定することはできない。
素朴すぎ。一応キミの熱心さは買っているんだから、もっとよく考えろ。
ある波長の光を検出して「赤」と答えるようにするプログラムは簡単にできる。
光受容器と音声の入出力を備えた単純なロボットにクオリアがあると短絡的
に認めるのはあまりにも幼稚だ。誰もそんなこと信じないだろう。チャルマース
だって、そんな幼稚な議論に説得力があるとは思っていないはずだ。
ところで何の話してるんだこの無駄話野郎は。
827 :
考える名無しさん:02/02/03 14:42
>>823 >だから、キミがチャルマースを持ち出して言った
>「機能が同じならば色の変化はないだろうと推論している」
>というのは逆転して推論であって、キミは
>「色の変化があれば機能も違ってくるはずだ」
>と言うべきだったのだ。
二つの命題が対偶の関係にあることはあなたもよく御存知だろう。
私が後者が前者に勝るとは考えない。
>>824 キミはなにも言及していないが、赤と青が反転しているとは
誰がそう認めるのかな?Aかい?Bかい?
どちらでもいいが、そう認める為には、結局なんらかの
モジュールの交換をせねばならんのだろう?そして
「色が反転している!」と気づかねばならないのだろう?
それなら機能は違わなくてはいけないだろう?(笑)
> 要するに、
>>一瞬といえども変化が認識できないことになる。
>というのは機能的に等価であるということだ。
ということだよ。
>>825 >ある波長の光を検出して「赤」と答えるようにするプログラムは簡単にできる。
>光受容器と音声の入出力を備えた単純なロボットにクオリアがあると短絡的
>に認めるのはあまりにも幼稚だ。誰もそんなこと信じないだろう。
>チャルマースだって、そんな幼稚な議論に説得力があるとは思っていないはずだ。
キミがそう思わなくても、チャルマースはキミが「幼稚」という
主張を実際にしている。それが「サーモスタットであるとは、
どんな感じか?」でなされている議論なのだ。
『サーモスタットは経験をもてるという想定を「クレージー」と
見る人は、少なくともいったいなぜそれがクレージーなのか
我々に説明する義務があるだろう』
あなたは、どう説明するつもりか?
828 :
考える名無しさん:02/02/03 14:51
>僕の思考実験がやとうとしているのは機能主義の批判じゃなくて、
>クオリアについては客観科学はなにも知りえないという主張に対する
>批判だ(だから、変化に気付く段階を想定した)。
>機能的に等価であってもクオリアの違いは記述できるであろうと
>言っているのだ。
まず「クオリアについては客観科学はなにも知りえない」という主張は
キミのいうとおり批判されるべきだろう。
しかし、「機能的に等価であってもクオリアの違いは記述できる」
という主張は、機能主義の適用の誤りによるものだろう。
つまり、クオリアの違いを「記述」できる時点で、モジュール
レベルでの機能の「違い」が示されるわけであり、貴方の意に
反して機能主義が「なぜ、そのような対応が起きるのか?」
という一点を除いて、実に有効であるといえる。
831 :
考える名無しさん:02/02/06 14:51
age
832 :
まぢまぢ?!すっごい:02/02/06 18:10
833 :
考える名無しさん:02/02/08 21:28
>>827 >「色が反転している!」と気づかねばならないのだろう?
上の思考実験では被験者が色の反転に気付くようにしてあるが、
色が反転していることを言うためには、必ずしも被験者が色の反転に
気付くようにする必要はないだろう。
またしても心臓の例で、言おう。宇宙人がある人物をさらって、
人工心臓との入れ替え手術をしたとしよう。この人がそれに気付かず、
また、以前と同じように生活していけるのなら、この人工心臓は元のもの
と機能的に等価と言える。ここまでは同意だろう? が、キミはこのように
何の影響なく交換されるモジュールにおいて、一方が赤であり、他方が
青であるということはありえないと主張するわけだな?
しかし、よく考えてみよ。人間本来の心臓と人工心臓はそもそも別のもの
なのだから、それらの性質が違っている可能性はいくらでもある。それでも
キミはモジュールが別の色を発するという可能性を否定する。モジュールを
交換しても気付かなければ、それは初めから同じ色を発するモジュールだった
のだと。ここにキミが犯したであろう誤解が現れていると思う。
もちろん、被験者本人にはそうとしか思えないだろうが、だからといって、
モジュールが別の色を発していないということにはならない。
これを理解するためには、上の思考実験でさらに別の人物Cを仮定すればいい。
AはBとの不完全なモジュール交換によって、自分とBのクオリアが違うことを
発見したわけだが、ここで、Aに入ったモジュールは、Aに元々あるモジュール群と
等価ではないとしてもかまわない。が、発する色も違う。
ここをおさえておいて、今度はCがAやBと完全なモジュール交換をすると想定する。
AとBのモジュールは違うのだから、Cが両者のいずれとも同じであることはない。
しかし、上で議論したように完全な交換では、色の違いに気付くことはなかった。
故に、本人が気付かずとも、色が変っている可能性はある。つまり、キミは
被験者に成り代わって独我論を主張していたにすぎない。
つづき、
>『サーモスタットは経験をもてるという想定を「クレージー」と
> 見る人は、少なくともいったいなぜそれがクレージーなのか
> 我々に説明する義務があるだろう』
>あなたは、どう説明するつもりか?
そういう仮定を方法論的に用いている限り、クレージーとは思わないが、
このような発想の裏にある「意識や経験といったものは客観的に説明でき
ないが故に」というのは素朴な場合が多いと思う。このクオリアにしても
意識にしても科学的な探求が十分に可能なのであって、例えば色を発する
モジュール(これはサーモスタットのような認識機械には必要のないものである)
の発見と生物学における経済性の原理(無駄なものが保存されていることはない)
によって、クオリアの有無について客観的な判断が下せるようになるだろう。
だから、上のような主張もある種の科学的な仮説を述べているのであり、そのように
して見るならば、これが魅力的な仮説として述べられているか評価しなければ
ならないはずだ。
>>828 >しかし、「機能的に等価であってもクオリアの違いは記述できる」
>という主張は、機能主義の適用の誤りによるものだろう。
というかキミがなぜ機能主義にこだわるのか分からん。今の科学には
機能的に等価なものはいくらでも記述されている(例えば相同遺伝子)。
このような記述が科学的に意味がないなんてことはないわけで、機能主義
で全てやっていこうとするなど無謀すぎる。
機能を重視するという一つの研究方法として割り切って考えるべきではないのか。
>>835 >色が反転していることを言うためには、
>必ずしも被験者が色の反転に気付く
>ようにする必要はないだろう。
気づかなければ「言う」ことは出来ないだろう。
まず、心臓の例について。君は「機能的に等価」というとき
何の機能について、といわなかったがそれは君のミスだ。
つまり、血液を循環させるという意味で等価ではあるが、
その他の「意図せざる」機能については等価ではない可能性
を無視している。
次にモジュール交換の話だが、これまた完全、不完全の意味
について何も述べられていない、つまりそれは気づかないとか
気づくという現象と同義になってしまっているのだ。それでは
反論にはならない。ただの駄々だ。
>>836 >例えば色を発するモジュール
>(これはサーモスタットのような認識機械には必要のないものである)
>の発見と生物学における経済性の原理
>(無駄なものが保存されていることはない)
>によって、クオリアの有無について客観的な判断が下せるようになるだろう。
その期待は、素朴というか天真爛漫すぎやしないかね?(笑)
サーモスタットと脳の違いは、前者が自分ではなく
後者が自分の一部だという一点しかない。
それは全く客観的でもなんでもない。主観性の極みだ。
つまり君は、その究極の主観に立って意識のある無しを
判断しているのだ。どこが客観かね?
>キミがなぜ機能主義にこだわるのか分からん。
君が自分の誤りを認めたくないのは痛いほど分かるよ。
でも容赦しない。私のためではない。ほかならぬ君のために。
君こそ、誤りは誤りだと割り切るべきだろう。
自分はいつでもどこでも正しいなんて阿呆の極みだ。
839 :
考える名無しさん:02/02/14 21:45
840 :
考える名無しさん:02/02/15 00:51
勝った負けたはいいから で、どうなんよ?
841 :
考える名無しさん:02/02/15 00:52
◆◆§§最悪板来たらここクリック→【壷】§§◆◆
http://teri.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1013615075/l50 1 :最悪板コテハン一同 :02/02/14 00:44 ID:???
〜〜最悪板に御訪問ありがとうございます〜〜
我々コテハンは最近退屈でたまりません。そこで、あなたにお願いがあります。
このスレッドに「レス」して下さい。その「レス」に興味を持ったコテハンがあなたに又「レス」します。
しかし誰もが優しく対応するとは限りません。放置されるかもしれません。
それはあなたの「レス」そしてコテハンの「個性」の問題です。
あなたが最悪板に新しい旋風を起こす事を期待してます。
では、どうぞ。。
単一の意識化において、「自由意志」というものは存在する。
それは自己の認識が意識を確立しているからであり意識自体が認識の塊であるからである。
意識の中で自由(思いどうりな行為)と言う物はあるが概念の中での自由意志は、
他者の脳内を思考を現在の科学でも100%理解できていないので曖昧である。
推測自由意志というものが一般概念の中での自由意志であり、
本質的な自由意志とは単一の対象をその意識が認識する事によって確立される。
自然法則とは無為自然と同義か?
しかし全て自然のままであったならその自由意志を理解しようとするコギトも自然に
来るべき時に理解できるのではないか?
今はその過程とでもいうべきなのか・・・
844 :
考える名無しさん:02/02/16 03:00
よくわからんが、脳みそは確かに物質なのでそれを変化させたり、
壊したりするのは物理法則に従う。
けれども、「人の意志」は物質ではない(ように思われる)ので
物理法則とは関係がないのではないか。
意思決定論は人相占いみたいな発想が発端のようだが、脳みその
神経回路や身体的な傾向と何かの関係があるとしたら、一理ある
考え方ではある。
でも、人間は遺伝的な形質や習慣によって創られた行動パターンを
突然変更できるという柔軟性も持っているから、これに着目すると
自由意思があるということになる。
だから、ほうっておくと決定されるが、自分が選べば自由になれる
っていうことか。
845 :
考える名無しさん:02/02/16 03:10
ロボットがロボットの「意志」でりんごをつかんだ。
だがその開発者は、それはあらかじめ組み込まれたプログラムだと告げた。
もしこのおれがそのロボットであれば、ロボットであるこのおれは、
「断じてそんなことはない。これはおれの意志だ!」と主張するだろうし、
それは正しいとおれは思う。
>>845 開発者
「おれの意志だから、組み込まれたプログラムでない。
そういいたいのなら、それは間違っている。」