純愛って何?

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1考える名無しさん
どういう場合に存在するんですか?
2チンポ太郎:01/09/24 00:06
純愛はチンポ同士の愛を差します。男女間、つまりチンポとマンコとの
間には成立しません。もし成立するとしても、それは性本能が背後から
操っている愛であり、本当の愛、つまり純愛ではないのです。

しかしだからと言って、マンコ同士で純愛が成立するのではありません。
純愛はチンポの特権であり、チンポの本質であります。
マンコは所詮、性の対象としてのみこの世に発生したものであり、
けがらわしいものであり、臭いものでさえあります。
それに対して、チンポは高貴な香りをたたえ、優雅な形態で
人々の目を魅了します。こんなチンポだからこそ、純愛が可能なのです。

これはチンポ太郎のチンポ哲学からの必然的な帰結であり、
恋愛の本質を的確についたものであるのです。チンポ。
3考える名無しさん:01/09/24 00:08
>>1
女がジュンと来るとき
4チンポ太郎:01/09/24 00:20
純愛というのは哲学的に言えば普通の愛を愛たらしめている愛そのものを
言うのだ。だからそのような抽象的なものは現実的には存在しない。
「女がジュンと来る」とは女の欲望を誘起した瞬間に過ぎず、これは結局
欲望の満足に至り終息する態の、動物並の性本能を指示するに過ぎないのだ。

チンポ太郎のチンポ哲学に従えば、女という性を有する者は悉く奇形なので
あって、フッサールの用語を借りれば「志向的変様」であり、それは
起源の忘却に由来する我々の怠慢を表しているのである。
原初にはまずチンポが存したのであり、このチンポが万物の形相因なので
ある。

チンポ太郎は女性差別論だ。
5:01/09/24 00:25
>>2-4
わかりました。妄想ってことですね。どもさんきゅ。。。。。
6チンポ太郎:01/09/24 00:38
き、きみ・・・チンポ太郎の議論を真に受けちゃ駄目だよ。
純愛というのは一般的な意味でなら成立し得るさ。
例えば性衝動の始まる以前の恋愛(フロイト流に言えばそんな
時期はないのだが)とか、性衝動が終息した後の恋愛とか、
そういうものだ。要するに恋愛が外部的な要因から成立するの
ではなく、内部的な要因から成立すればそれが「純愛」なのだ。
7matuaki:01/09/24 00:45
スピノザによる愛の規定を正しいとすると
愛は外部の原因の観念を伴った喜びである。
であれば、チンポ太郎さんのいうことは
成立しないのだが
8チンポ太郎:01/09/24 00:50
スピノザは人間の「知情意」というものに特殊な規定を与えるからね。
チンポ太郎のプラトン的チンポ哲学とは相容れないのさ。
実体は自己原因である、という規定もおかしい。
実体はチンポのみであり、これは因果性から語られるものではない。
要するに純愛というのは、スピノザの「聖書で聖書を読む」とは
異なる立場にあるのであり、小生は今年も放尿祭りでGO!
9matuaki:01/09/24 00:59
プラトン的にいうと
純愛は不純な愛(エロス)からの上昇の果てにあるものでしょうか?
それがチンポ太郎さんのいう「性衝動が終息した後の恋愛」でしょうか?
性はのちに捨てるために一度は上らなければならない階段でしょうか?
10 matuaki:01/09/24 01:06
「階段」じゃなくて「梯子」でした。失礼しました。
11チンポ太郎:01/09/24 01:07
>>9

うん。君はなかなか鋭いね。しかし、

>性はのちに捨てるために一度は上らなければならない階段でしょうか

というのはある意味でショーペンハウアーの問題提起とそっくりだ。
それは愛と知恵とを段階的に考察する事から生ずるものさ。
フロイトもこの考えに従属している。
だがね、チンポ太郎の思うに、プラトンのイデアはもっと別なもの
なのさ。しかしこれを論ずる元気は今日は無い。
ごめんね。チンポ太郎は結構多忙なんだよ。
12 :01/09/24 01:15
純愛したことある?
13考える名無しさん:01/10/05 17:27
ママが子供に注ぐ愛情が純愛だと思う。
14考える名無しさん
家族愛