1 :
本当にあった怖い名無し :
2011/07/11(月) 23:57:36.78 ID:uEjR7gEB0
2 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/12(火) 00:06:49.59 ID:ZL3wWKDo0
3 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/12(火) 00:08:51.19 ID:ZL3wWKDo0
淡路島はユダヤの聖地 武智時三郎(塩翁)著 淡路島の神秘 エル・エロヘ・イスラエル 言霊研究家・武智時三郎が著した日ユ堂祖論。 昭和28年刊。 大本信者で出口王仁三郎から戦前「鳴門の仕組」を委嘱されたと主張する武智が、その神業の成果をまとめたもの。 武智によれば「鳴門の仕組」とは、ユダヤと日本の完全な提携により「立替え立直し」が完成することであり、 王仁三郎から託された使命はその雛形を説き示すために淡路島に「元井戸」を掘ることであったという。 武智は井戸を掘りつつ、ユダヤ民族渡米を証明する遺跡を探索、独特の言霊学を駆使して淡路島こそ日ユ両国の「聖地」であると主張した。
5 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/13(水) 23:31:33.45 ID:Wk9xLm0HO
諭鶴羽山も関係あるみたいよ!
なんで謎の島なん…
798 :神も仏も名無しさん:2009/08/17(月) 19:39:05 ID:eVjvixma
だいぶ昔に、「富士と鳴門の仕組み」についてやばいことになってると書いた者だがその時の詳細を書く。
淡路の昔のこと(大本のことにも)に詳しい人から聞いたのだがのだが、「富士と鳴門の仕組み」に
関係する重要な淡路島の神代にある井戸の上に何年か前に家か倉庫を建ったみたいな話をしてくれた。
井戸を埋めて建てたのかそれとも埋めなくて建てたのかは分からない。
富士と鳴門の仕組みで淡路島の井戸って分からない人は分からないだろうが、
「淡路の神秘エル、エロヘ.イスラエル」という本にでてくる武智時三郎という人が、
出口王仁三郎に「富士と鳴門の仕組み」で託されたみたいだ。
昔下記HPに詳しいこと載ってたのだが今はないみたい。
http://koko1.no-ip.com/nisikinomiya/member/Yuigon-1.pdf http://majinnnn.jugem.jp/?day=20071209 に重要箇所の引用が載ってる。
ちなみに今現在、井戸の方はどうなってるか分からない。
801 :きんたん:2009/08/17(月) 21:49:20 ID:sSSvd3rg
>>798 さんへ
>ちなみに今現在、井戸の方はどうなってるか分からない。
1996年2月号の雑誌ムー183号の総力特集「竜宮神示と天言鏡」に詳細が掲載されてたと思います。
大本裏神業の錦宮の特集記事ですが、本棚を探しましたが見つかりません。
古本屋で探して見て下さい。
『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』岡本三典著作 徳間書店(絶版)
六、至恩郷の神殿と神業203頁にも少しだけ記載が有ります。
元井戸は神社が祀られて永久保存される筈でしたが、
持ち主が焼身自殺をして取り壊されて埋め立てられました。
元井戸の跡地には民家が建っているはずです。
802 :神も仏も名無しさん[age]:2009/08/17(月) 22:34:07 ID:vwWIIGpG うげっ、焼身自殺した跡地に民家? それはいくらなんでも怖すぎるな・・・。だが非常に気になる。 誰か現地に行って見てきてくれ。 804 :798:2009/08/18(火) 01:23:22 ID:VlZu9ZpK 昔のムーに載ってたとは。 元井戸の正確な場所は当時詳しく聞いてないので正確な場所は分かりません。 教えてくれた人とは疎遠になってしまったし。 一応ググってみたら昔のムーにM高校から南東1.5キロ程度にあるというアバウトな情報がヒットしましたが、、、 せめてご神体だけはどこかへ移動されてたらいいと思いました。
805 :きんたん:2009/08/18(火) 06:34:57 ID:UpmCyuPB
>>798 さんへ
>せめてご神体だけはどこかへ移動されてたらいいと思いました。
出口聖師の言うとおりに
御神体は近江を経て北伊勢まで辿り着いたみたいだけど
現在は至恩郷にあるのかな。それとも錦宮にあるのかな。
私も解りません。済みませんが昔の事なので忘れました。
810 :きんたん:2009/08/18(火) 19:14:08 ID:n2Oo9J+C
>>807 :798さんへ
不確かな情報で済みません。
元井戸は国常立大神が出る穴であり、
それを塞いだ為に阪神大震災の様な災害になったとかムーに書いてあった気がします。
843 :神も仏も名無しさん[sage]:2009/08/20(木) 10:31:19 ID://z7QxXL
>>813 予言の面があり、教団はその書とよく似た経路をたどることになりました。
前の方にあります、
井戸は今の南あわじ市神代社家という地域に昭和61年まであったようです。
桃之宮という宮が近くに立てられ井戸を管理していたそうです。
昭和58年に宮は全焼・管理していた元修験者の女性は焼死。
ご神体は辻天水氏によって錦之宮へ戻されたはず。
あぁなった今でも所有しているのではないでしょうか。
845 :神も仏も名無しさん[sage]:2009/08/20(木) 12:56:51 ID:5KTyeoOa
>>843 >昭和58年に宮は全焼・管理していた元修験者の女性は焼死。
きんたん氏がいっていたような焼身自殺ではなかったのか?
853 :きんたん:2009/08/20(木) 21:06:29 ID:ILZNytsf
>>845 さんへ
焼身自殺をして全焼したと聞いてましたが、私の間違いでしたら済みません。
東京都市部にムー全巻揃ってる図書館がある 調べてくれないかな?誰か うちの母方阿万なんとかだったかの出身 絶家寸前 五七の桐紋で士分だったみたいたけど 維新からこっち 神職とはいってもなんの「神様なん?皇室にちゃ〜んとつながってるん?」 そんな神様を祀る禰宜 修験 フケ僧等 そういった連中で相当の由緒のあるもの みんな士分に組み込まれたんだよ、淡路は特にそうだったみたいあと北陸とか 稲田騒動前後で「卒族」に落ちてしまうかさすがにそれは厭だったみたい 一家で北に向かったんだ。で もうすぐ消えるからいいんだけど 錦の宮の顛末はおととしだったったか 信じられないことがあるんだと知った 暴露話を神あがりなさるまえに、教祖の女性が書いていて あらららと読んで、んで亡くなった あとはあっという間に乗っ取られrた 日本人ではないのだそうです。もともと差別感情はほとんどないのですが、 日本の神様を外国出身の方にお任せしておまつりいただくことに違和感がぬぐえません 亡くなったケイコ氏もはっちゃけたひとだったようですが... 情報は ある程度 阿修羅にあります 「錦」の字が「綾」になってます ぜひスレ続けてください
大本教では出口王仁三郎の裏神業で、淡路島に空井戸を掘っていたことが知られている。 つまり、その空井戸から地球の親神様とされる国常立大神が出現するというのだ。
昭和19年10月、白山義高(武智時三郎の女婿)が淡路島での活動を報告すると、 王仁三郎は秘蔵の銀色の短冊に御神号をしたため、「これを御神体とせよ」と渡した。 それには「大国常立大神」と主祭神の名が書かれ、その両脇に「金山彦神」と「金山姫神」の名が記されていた。 そして王仁三郎は、「この御神体はやがて近江に移り、さらに北伊勢に移るときが来る。 この御神体がおいでになるところが、ご経綸の中心で無風の状態である」と予言し、昭和23年1月に没する。 この御神体はその言葉どおり、やがて天明のもとに移されることになるが、 王仁三郎は「大本の進癸より神業の艮めは北イセ…」という言葉も残していた。 (ムー1995年3月号48ページ)
辻天水は刑務所に出口王仁三郎の面会に行ったり、保釈後も何度も会見している。 淡路島に井戸を掘れと指示したのは王仁三郎であるが、それに付いての細かい指示は三雲隆三の神示に依っていた。 辻天水は井戸掘りの経緯の報告に何度も王仁三郎に会見しているのに恫喝されていないのは、 私は暗に王仁三郎が三雲隆三の事を認めていたからだと考えている。 淡路島の井戸を掘った場所は神代地区という処であるが、ここには、戦前、大本神代支部があった。 又、戦前から戦後にかけて、徳島や淡路島で再燃炭の採掘をしている大本信徒がいた。 これら地元の大本信徒の協力がなければ、戦争後期の頃に大きな井戸が掘れる筈がないのである。 淡路島の井戸掘りの折に、王仁三郎から辻天水に《息吹きは富士より高い》という謎かけが伝えられたが、 辻本人は死ぬまで気がつかなかったが「霊界物語・天祥地瑞」の高照山の事である。
かつて出口王仁三郎は、大本裏神業の一環として弟子の辻天水に、淡路島に国常立尊を出現させる元井戸を掘らせた。 これは水が出なくても良い井戸で、国常立尊が出現する霊的な穴を意味し、 これによって岩戸開きの第一弾である阪神淡路大震災が起きた。 その元井戸を生涯守り続けたのが白山義高で、ある時、淡路島のユダヤ人遺跡を発掘するよう王仁三郎から命じられた。 そして洲本市の観光ホテル『四州園』の敷地内でユダヤ人遺跡らしきものを発見し、 その遺跡の形は、大きな立方体の石がV字型に置かれ、その上に様々な石が積み重ねられ、 不思議な青玉石が安置されていたという。 この青玉石は後に、御神体として岡本天明が一時預かり、その後、辻天水に返された。 この遺跡を最初に発見したホテルの当主・森重吉氏は、発見の翌日に急死したことから、 青玉石がグラビトナイトと同様に強烈な放射線を発していたのではないかと考えられている。
『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』三浦一郎に拠ると、戦後、淡路島でユダヤ遺跡を発見した白山義高は、 戦時中は淡路島で岡山の牧進平らと亜炭を採掘していたとのこと。 岡山の牧進平とは、牧慎平のこと。 大本信徒で熊山遺跡の存在を広めて、出口王仁三郎を熊山に導いた一人ですね。 三浦の著書が出た、昭和288年には故人だったようです。
昭和28年でした。 因みに白山義高氏は、岡本天明氏の師匠に当たる武智時三郎氏の女婿で、 淡路古文化開放協会会長を務めた人物です。
淡路島裏神業 元井戸の経緯
http://pontosu2011.blog12.fc2.com/blog-entry-162.html 淡路島の元井戸についての経緯について、これから、(少々長くなりますが)お話しさせていただきます。
これまで、この鳴門神業の中でたびたび触れて参りました、例の井戸とは、
淡路島の南端の某所にかつて存在していたものです(現在は、埋め立てられてすでにありません。
今、現在この場所には、一般の民家が数軒建っています)。
この井戸は、大本教の出口王仁三郎が、その晩年に、大本裏神業と呼ばれる秘密神業のなかで、その中核となる辻天水、
白山義高という2人の神業家に命じて作らせた、【淡路島裏神業】の要となる中心舞台となる場所です。
この井戸は、“元井戸”と称されています。
当時の大本教は、2度にわたる国からの官憲当局による大弾圧にあい、教団本部は破壊され、
王仁三郎自身も治安維持法違反などの容疑で逮捕されるに到りました。
逮捕後、冤罪が認められ7年で保釈されるものの、要注意人物として当局の厳しい監視下のもとに、
公的な神業活動は一切禁止され、また老齢による肉体的な衰えもあったために、密かに自分の身代わりをたて、
大本裏神業としてブレーンとなるメンバーに様々な神業を執行させていました。
この2人の人物も、大本裏神業に加わった実行部隊のメンバーでした。
昭和17年保釈出所後の王仁三郎は、『大国常立大神』と書いた御神体となる短冊を辻天水に託し、
この短冊のある場所が神業の中心地になると告げました。
そして、この短冊の奉り方を、『近江で祀り、淡路に入り、あとは伊勢に入らなならん』と告げ、
この言葉に従い、天水はまず近江にて短冊を実際に祀ります。
その旨を報告した後、王仁三郎は、次に淡路島神業について切り出しました。
その指示とは、淡路島に 『元井戸を掘れ』 と言うものだったのです。
この話を聞き、怪訝そうな顔をする天水に、王仁三郎は続けて、
『直径1間半(約2.7メートル)、深さは60間(約108メートル)や』 と伝え、
その時、王仁三郎からは淡路島のどこを掘っていいか全く示されませんでした。
その後、三雲龍三という霊能者によって、井戸を掘る場所が特定され、白山と天水は私財をなげうち、 井戸堀りを進めることとなります。井戸は該当の大きさに達した時点で、王仁三郎に打診したところ、 『成功』と解する意味の文字が天水のもとに届けられました(ただ、この時、井戸に水はまったく出ませんでした)。 その後、王仁三郎との面会を果たした天水が井戸の意味の教示を請うと、 『あれはなあ、大国常立大神さまがご出現される穴だったんや』 と初めて明かしたのです(なので、 王仁三郎にしてみれば、水が出る出ないは問題ではなかったのです)。 その後、井戸を掘ったことで出現した、大神の御神霊を最終的に鎮め祀る場を求めるための “北伊勢神業”へと引き継がれていきます(この神業にあって、かの岡本天明や、武智時三郎などの神業家が登場します)。 昭和19年10月、元井戸の完成の後、王仁三郎は短冊に神号をしたためて、大神の御神霊を北伊勢に遷すことを2人に指示。 そこに“最後の宮殿”を建てることによって神業が成就することを告げます(北伊勢神業 → 岡本天明、辻天水へ)。 これまでの流れからみる、出口王仁三郎による淡路島神業の意味とは、 淡路島という“国の源”の地に埋没させられた最大最尊の大神“大国常立大神”の御神霊を、 辻天水と、白山義高の2人に封印開きを執行させたことによる、 イザナギ、イザナミの2神による国産みの真の完成の成就を意味していたものと思われます。
白山は、『元井戸は完成後、永久保存の方法をとりそこを世界の中心の聖地として奉祭せよ』という王仁三郎の言い付けを守り、 北伊勢神業の後もさらに井戸を掘り続けました。 果たせるかな、その後、井戸水も出て、彼はこの水が鳴門の渦潮に通じているとも考えていたといいます。 昭和30年、白山の前に、浪上千代鶴という一人の女性神道家が現われます。 彼は『あなたが現われることは以前から神のお知らせがあった、運命的な神縁を果たした。』と彼女に告げると、 その後、元井戸に関する一切を彼女に託し、彼は淡路島を去ることとなります。 こうして、北伊勢と淡路島の二箇所で、世の立替、立て直しを押し進める場として彼女は「桃の宮」を創設、 昭和28年に元井戸の傍に社殿を建立することとなります。 そして、運命の昭和58年11月23日早朝、桃の宮が全焼、焼け跡から浪上本人の焼死体が発見されることとなります…。 (この井戸跡のすぐ横に、一体のお地蔵さんが祀られています。建立の日付けは昭和61年となっており、 この火事から2年以内ということで、おそらく火事と井戸を埋めたことへの供養から住民によって建立されたものと思われます)。 火事の後、井戸は埋め立てられ、現在は建売住宅の並ぶ、何の変哲もない住宅地となるに到っています。 1995年に発生した、阪神淡路大震災の原因が、この井戸を不用意に埋め立ててしまったことによる反作用として、 溜まりに溜まった神的エネルギーが閉ざされてしまったことによる飽和状態が一気に噴出したことで起きてしまったとする見方も少なくない…。
元井戸跡ってどこにあるの?
┌─────┐ | 良スレの予感 | └∩───∩┘ ヽ(`・ω・´)ノ
>>24 上のレスに南あわじ市神代社家と書いてある。
多分、淡路断熱の辺りだと思う。 上の画像の風景と酷似している。 淡路断熱でググればすぐわかる。
浪上千代鶴女史は元井戸から成仏できないのか( ー人ー)|||~~~ ナムナム 火事で亡くなったのか、それとも焼身自殺を図ったのだろうか?
今年、平成二十三年三月八から十日にかけて、淡路島 鳴門の地にて ある神の御魂が、壊された“井戸”の奥底から、その咆哮とともに復活を果たした…。 その神の御名は 『大国常立尊』 即ち 真ノ“艮ノ金神”ノ荒御魂 ソシテ其ノ神の真ナル御名ハ…。
30 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/21(木) 11:23:11.33 ID:owMqTg9V0
>元井戸の完成の後、王仁三郎は短冊に神号をしたためて、大神の御神霊を北伊勢に遷すことを2人に指示。
>そこに“最後の宮殿”を建てることによって神業が成就することを告げます(北伊勢神業 → 岡本天明、辻天水へ)。
この空井戸の神事
北伊勢=菰野のここの御神水(という)
http://nishikinomiya.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7558.html こちらの道場で「しくみ」の「あがり」なんじゃないかな?
今後の地変で 首都機能は地球博の後地に移転される
最終的に日本列島がどうなるかわからないが、北伊勢は最後まで持つみたいだ
ここにたくさん難民化したひとが集まってるのが見える、もちろんそんな難民たちも
「選ばれた人々」だ この時点で他の人はかなり「出直し」、もしくは「カルマの終了=あがり」になってる
このBLOG主はケイコ氏が「カムバーック」と書いていたひとなのか?
いろいろケイコ氏を批判していたが、虚言はあったにせよ、姑とともに血のにじむような
思いで錦の宮を維持してきたことに変わりはない。
御神体の意味
http://belovedone.exblog.jp/15951531 (『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』からの内容として)
昭和10年の第二次大本事件も迫ったある日
王仁三郎は(白山義高に)
「お前は一宗一派に囚われてはならない。
それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ」と諭した。
「皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質を知らせ
更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが
方便の上には、立替立直しの雛型を以て教を示すところである。
雛型では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し
日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ
この筋書を本当に知らせて置く適材が見つからぬ」と述べた。
昭和22年12月、王仁三郎との最後の会見になった際
王仁三郎は、白山に次のように告げたという。
「元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の
最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として
各宗教が相集り、世界の宗教がこの一堂に会する場面となる」
(御神体の位相について) 王仁三郎によれば、日本国土は、世界の国土の縮図であるという。 即ち、淡路島は、雛型神業上の日本国土発祥の地であると同時に 世界国土の発祥の地という霊的位相をもっている。 御神体は、まずこの淡路島に祀られた。 王仁三郎は、近江地方の霊的位相について 「江州はユダヤの型で、ここが開けんと世界は開けん」 (『新月の光』)とも述べている。 王仁三郎の命により「大国常立大神 金山姫神 金山彦神」の御神体は 近江に祀られることによって、世界経済の支配者(金銀財の支配者) ユダヤの黄金神としての霊的位相を獲得した。 ユダヤの黄金神の本質は、優勝劣敗・弱肉強食の 市場原理主義を宗旨とする、拝金教の神である。 王仁三郎が、白山に下した御神体は 大国常立大神が、金銀財の支配者ユダヤを駆使して 世界の立替え立直しを行うことを暗示していた。
北伊勢菰野の丘は、武智翁の命名により「シオンの丘」とされ その丘にユダヤの象徴ダビデ章の位相に満ちた神殿が建立された。 御神体は、「至恩郷」の神殿でユダヤ黄金神としての霊的位相を確立した後 白山義高と淡路元井戸掘りに従事した、辻天水の「錦之宮」に祀られた。 辻天水は、1930年頃、信徒ではなく、一般人として大本の研修に参加した際 王仁三郎に「伊勢のカンノシ」となれと命令口調で言い渡されたという。 その後、天水は、亀岡の大本本部に奉仕、第二次大本事件後も信仰生活を続け 終戦後に故郷の北伊勢菰野町に「錦之宮」を開き密かに神業を行っていたという。 王仁三郎が、天水に言い渡した「カンノシ」には 「神主」あるいは「神皇子」の意味があったようである。 雛型経綸上の「伊勢の神主(神皇子)」が 北伊勢菰野の丘(三保山)の「錦之宮」の神殿にユダヤ黄金神を祀り 伊勢の神主として日々、黄金神を拝していたこととなる。
34 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/22(金) 04:03:11.74 ID:+ciDZHFIO
シオンタウン
第二次世界大戦中のことであった。 一人の日本人が、ユダヤの遺跡を日本で発見したことから 日本とユダヤの関係について、深い研究がはじめられた。 その時一人の日本人は、ある日ユダヤに対して 「合図の旗をたてよ」と促した。 それは西暦1944年8月1日(皇紀2604年)の日付の書面をもって 「聖書に啓示されている合図の旗」と題する20頁の勧告書であった。 それが日本政府(情報局総裁宛)経由、 米英ユダヤ聖徒への宣言として送られたのであった。 あるユダヤ聖教徒は、西暦1945年1月1日「第三の合図の旗」の宣言をもって 日本占領軍総司令官の格式と権限をもつ聖教徒を通じて 敗戦日本に対し、聖書に示された神言 「シオンに指示す、合図の旗を樹てよ」との宣言と同時に 「太陽国旗の常時掲揚の指示を許可」とを、年頭の辞として飾った。
瀬戸内海の入口にある淡路島にて、古代イスラエル文化遺産を 発見発掘した一人に、西暦1952年10月14日 当時、日本占領軍総司令部に従軍牧師として活動の ユダヤ教大司教テー・ローゼン牧師は呼応し、西下した。 同遺跡を中心に暗黒状態の世界を照らす太陽と星は 神勅合図の旗と変化して、この日本国旗とイスラエル国旗とが 始めて神国日本にて交叉の上掲載されて 同日午後6時、洲本市洲本第二小学校講堂にて ローゼン大司教は、ユダヤ聖教徒を代表して次の宣言をされた。 「世界に幸福と平和をもたらすものは、この二つの国旗である。 太陽と星(日生まれるの意)のこの国旗、太陽は昼の世界を照らし 月と星は夜の世界を照らす。全人類と全世界とが悩むその時 この暗黒の世界を導くものは月(衝き出す意)と星(産むの意)であり 世界の人々の心に、正義と力を与えるものは太陽である。 この二つの国旗が交叉して、母なる月とともに進む時 世界と人類社会に平和をもたらす。
『偉大なる太陽の国シオンよ、眼を醒せ!』と、この大宣言は 神勅第一と第四の『シオンに指示す、合図の旗を樹てよ」の現代版であって この神孫民族として誇りをもつ神国日本、太陽国家の淡路島に 神選民族を誇りとするイスラエル民族の古代文化を立証するものが 実体として、地上に顕現された神蹟の地に 『太陽と星』の国旗の神勅を立証するかのように樹てられたことの 厳粛な大事業と重大な秘義があることを感じる」 淡路島の元井戸と桃の宮の建設の指示をした人、これに答えた人、 その他の人は、昭和37年、淡路の面積13里と7里の里程を基準として 13尺と7尺、その旗の中心である太陽章の経は 長井戸の寸法と同寸法であることをもって 「合図の旗」として、この地に厳然とたてることになった。 これが、北伊勢神業「至恩(シオン)郷」の意義へと繋がるのです。
39 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/23(土) 00:13:20.32 ID:OkvQwSEz0
ふむふむ
至恩郷のこと
http://belovedone.exblog.jp/15950754 銀色紙の御神体は、最終的に「至恩郷」に建立された神殿にまつられます。
(ただ、この神事の意味を経て、再び「錦之宮」に戻ったようです)
1956年6月10日とあるので、先の記事に引用した
天明の文章「大祭案内」が、当時の記念の奉祭に当たるようです。
(6月10日は、日月神示が降りた日で、ご鎮座の日)
「至恩郷」の土地を開墾したのは、数霊学者の武智時三郎です。
大本の信徒でしたが、弾圧事件後は世界の聖典などを研究し
神都としての聖地を探した結果、北伊勢に結論づけたようです。
その上で、北伊勢に移り住むのですが、その経緯は
岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』から引用します。
約千三百年前、天武天皇は、伊勢の国を「神都」として 一つの理想郷を建設されようとしました。 武智先生は、徳による都を創るその場所は、 伊勢それも北伊勢でなければならないと考えられたのです。 岐阜一の宮の南宮様の御祭神は、「金山彦・金山姫命」で 神業に携わる者は、先ず岐阜に住んで南宮様からミタマを頂いてから その御神体の国(神名金山とはカナ山で言霊の意) 鈴鹿山脈(鈴=音・鹿=声・音声=言霊)である北伊勢に 入ることができると言われています。 当時の武智先生の口をついて自然に出た歌に 「神世より流れつきせぬ長良川 美濃尾張経て伊勢に入るかも」 というものがあります。 先生は、美濃・尾張・伊勢を一本に見ておられたようです。 ふとした縁で、菰野湯の山温泉を開いた寿旅館の先代、葛谷春太郎氏が 武智先生のことを聞き、日本文化の為、世界平和の為であればと その持ち山であった約千坪近い土地を提供されたのでした。 これは、辻正道(天水)氏のご紹介によるものでした。 こうして、武智時三郎先生御一家は、昭和21年12月8日に 今の至恩郷である北伊勢菰野の丘に住まわれることとなりました。 北伊勢こそ、日本列島中央、東西南北の分岐点 統一の数五十の国であり、真理の皇都を建設すべき聖地なりと 早速にこの土地の開発に着手されたのです。 昭和29年9月、ついに先生は、この土地の開墾という慣れぬ仕事の為に 病いに倒れられることとなりました。
(注:井戸を掘り、井戸水が出るようになった記述があるのですが) 武智先生は、御弟子さんの一人に指示を与えられ、元伊勢籠神社の 「天の真名井の水」を頂いてこさせました。関係者が少しずつそれを飲み 国常立大神を祀る式典をして、今「至恩郷」の井戸である、この井戸に その水を入れるという神業がなされたのでした。 武智先生は、井戸水が出たので、後継者として白羽の矢を立てていた 岡本天明を呼ぶ決心をされたようです。 それは当地在住の大本裏神業の辻正道氏とも相談の上のことでした。 この井戸があったればこそ、天明も菰野に入る気になれたのであって すべての根源は水であるとも言えます。 武智先生の御誘いに応えて、天明が菰野移転を決意したのは 昭和30年(1955年)7月22日の夜のことでした。 こうした経緯の後、同年8月21日、私どもも菰野の住人になりました。 武智先生は、「日月神示」冒頭の 『二二八八れ十二ホン八れ(富士は晴れたり日本晴れ)』を 位相数理で解明され、天明に伝えられました。 之を土台として、天明は北五十(イセ)に入ってから 霊感で数が出てきはじめ、古事記を数で読むようになり 『古事記数霊解序説』を書きました。 また昭和36年に出た自動書記は、『五十黙示』です。 これらの内容は武智先生の学説と似たところがあり、そのことを 武智先生が喜ばれて、「此処(至恩郷)の極意だ」と言われました。
tsukimisoraさん 「この国のかたち」というエントリーはいいですね (以下引用↓) 以前、本や資料での紐解き、真っ最中だった頃。 今はというと、現場現場の体当たりにて紐解かれます。 出口王仁三郎について、書かれていた一節でした。 今は手元にもないので、おぼろげで恐縮ですが 『本当のことが知れると、この国は潰れてしまう』 といったことを、(他にも多分いろいろ)言っていたようです。 それは、この国の根幹のことを言っておろうと思われます。 晩年、彼は多くを語らず、静かに過ごしたようですが 1948年に亡くなった後、同じ年にイスラエル建国となりました。 子年でした。 その裏で、パレスチナのナクバ(大破局)が起こっています。
ユダヤ神業中心地
http://belovedone.exblog.jp/15941529 北伊勢の神秘とそれに対する学的根拠については
霊学の権威武智松翁師所説の如く
この土地こそ、神秘の国日本の中心的位置を占め
法華経に示されたる「経巻所住の地」であり、神約の聖地である。
即ち、北伊勢を中心として南伊勢、近江、美濃、尾張の一部の土地を
「イセ」とよび、其処に神事、古事、経巻の文字、章句が施設されている。
(例 御在所冠峰は鈴鹿山脈中央に在る)
出口(王仁三郎)聖師の説によると
宇宙の経綸は、その因縁地に於いてのみある。
日本で初めて根拠されたのは、イセである。
又最後に王成される地も、イセである。
始めは南で終りは北。北は極である。
乃ち、大本の進発より神業の艮(とど)めは北イセと云うことで
唯一の極意秘言が大本の生命である。
父母があって子が生れるが、御経綸は母体より始る。 そして後に、父が母体に乗ることにより、経綸が具現する。 その具現は宇宙の中心より生まれることが、惟神のあり方である。 その中心地とは、開祖様が御用意になってあった 銀の色紙の御神体(その当時は何も書いていなかった)の在り場所が 常に御神業の中心地である。 大本が地上に於ける一切の型を仕上げた 昭和十年事件を契機として、聖師は岩戸隠れされたが 一番にお気付きになったことは、銀色紙に主宰神を移して 中心地に早く置かねばということで、昭和十七年に出獄されると 徹夜で神様と問答されてから、御揮毫になり白山氏に下された。 ここで、金(かな)=神名(かな)=言霊のことで 鈴鹿山脈が御神体といわれる。 (岡本天明・記 昭和31年「大祭案内」より)
46 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/25(月) 12:01:38.81 ID:uGJOTQekO
よし、この夏は淡路島へ探訪に行くぞ
淡路在住だが、移動に車は必須だぞ
裏神業の終息
http://belovedone.exblog.jp/15953780 裏神業でまつられた御神体・ユダヤ黄金神は
「大国常立大神が、金銀財の支配者ユダヤを駆使して
世界の立替え立直しを行うことを暗示していた」とのことでした。
この御神体、裏神業の行方がどうなったかというと
役割を終えた後は、基本的に「消えていく」定めにありました。
経綸上の役割が成された後は、同じ位相を保った状態のまま
存続してもよい性質のものではありませんでしたし
終了・解散・消滅も、経綸上の神意を伴う事柄として扱われます。
皇道大本の弾圧・消滅。
王仁三郎の意向を離れた「愛善苑(後に大本へ改称)」と、内部分裂。
裏神業で形成された団体なども、裏神業に従事した天水、武智、天明などの
当事者が亡き後は、基本的に役割を終えたものとし
次世代に繋がれるような継続は、神意上、許されなかったと思います。
これらのミタマ役目は一代きり、世襲のような必要は生じていませんし
神との絆によるため、親子とて役目の質を同様に受け継ぐとは限りません。
そのため個人的な感想として、天明氏に子がなかったことは
その後の継承の展開を考えればこそ、無用な葛藤劇がない点は幸いでありました。
至恩郷は、天明の妻・三典氏が継続の後、2007年6月10日に解散。 三典氏も、2009年6月23日に逝去されました。 錦之宮は、天水氏が他界してから、方向性がどうも変わっているようです。 2008年、身内の継承者が亡くなった後は、違う運営者に取って代わっています。 「消滅」という形では、以下はいずれも火災によって失われました。 1983年11月23日 淡路島の元井戸 1998年3月23日 至恩郷・御神体をまつった神殿「日の宮」 2010年8月14日 大本・亀岡にある熊野館
至恩郷では、日月神示発祥50年となった1994年 第二神殿「月の宮」建立の運びとなり、翌年には完成していました。 二つの神殿ともに、麻賀多神社から建築資材が贈られています。 「月の宮」は、「日月地宮(ひつぎのみや)」とも呼ばれ 天明が、「おふで」が出ている最中に描かされた「三尊神像」 =日月地(太陽・月・地球)大神の肖像がまつられました。 火災の時、日の宮は全焼したのですが、月の宮は免れました。 雛型経綸上のシオンの丘の神殿のみが、焼き払われたということです。 また、至恩郷の解散に伴い、月の宮も解体されました。 伊達宗哲 『王仁三郎と日月神示のひな型神劇』で、指摘しているのは これらの裏神業が、米国主導の金融資本主義崩壊(ユダヤ崩壊)の 雛型を打ち出す、神の雛型経綸遂行としての意味合いです。 雛型→日本→世界へと、三段階に移写拡大するのですが ユダヤ神殿の位相は失われ、それが現実へと波及していくということです。 ひふみ神示が出た頃は、縁あるミタマにのみ配付する状態でした。 (神業に従事する)役員向けの内容も、実は多々入っているもので 文言においても、神業的な意味に捉えるべきものがあるような気がします。
神業に関しては、以前の記事も参考にしてください。
・神業の核
http://belovedone.exblog.jp/13409482 (2010-06-05)
・雛型の移写
http://belovedone.exblog.jp/13409601 (2010-06-05)
この時点では、文章の引用元(特定の裏神業者)を出すことが
どうもためらわれたのですが、この機会に添えておきたいと思います。
泉田瑞顕『救世主 出口王仁三郎』(数冊ありますが、多分こちらの本)
1986年「日月神示」に関する本を出し、存在を知らせた方です。
また、王仁三郎が第二次大本事件の法廷で、裁判官に
故事「人虎孔裸に墜つ」の意味を尋ね、逆に尋ね返されると
このように説明したという、虎穴問答のエピソードを付け加えておきます。
「虎の方が強いため、人は逃げようとして殺されるのだ。
刃向かっていっても、結局は同じこと。
じっとしていても虎は腹がへっていると、殺しにくる。
どっちでも死ぬことは一緒だ。しかし、ひとつだけ生きる道はある。
それは、虎に食われては駄目なのだ。こちらから食わせてやるのだ。
食われた後には、何も残らない。
しかし、自分の方から食わせてやれば、後に愛と誇りが残るのだ」
この心性は、神業の底辺にあると言えるのかもしれませんが
個々に動く神業者には、その時点では、やはり知る由もないのです。
大局を知るヒントとして、見ることはできるものと思います。
どうしても故人の話になってしまうが 天水氏の後嗣が実は..という話は、生前のケイコ氏がしていた、本当なんだろうか DVで流産したとか錦の宮k子さん、満身創痍だった そしてあの急な亡くなりかた 虚言だとか誇大妄想だとかそういうのの罰で早死にしたとかそういうことは 「絶対にない」のが神様のなさりかた、それはハッキリ知っているのだが 神芝居、これはオニ氏が好んで使っていた言葉だ その芝居の出番を失ったら、そく退場ですか?と神様やオニさんに問い詰めたい気分だけがのこるな これがもし神業の筋書きだとしたら、だ 「いのちのとうとさってなんですか」とかそんな言葉を使いたくなってしまう。
裏の推移
http://belovedone.exblog.jp/15951377 出来事の順序を並べてみると
1935年(昭和10年)
大本第二次事件で王仁三郎ほかが投獄
白山義高に元井戸掘り、ユダヤ遺跡調査を命じる
収監直前、面会した辻天水に裏神業を託したとされる
1936年(昭和11年)
2月頃 後継者・日出麿が拷問による精神異常をきたす
3月13日 王仁三郎ほかが起訴される、大本などの団体に解散命令
1938年(昭和13年)
辻天水と三雲龍三が、籠神社の奥宮・真名井神社を参拝した時に
真名井龍神による神示が降り、後に「龍宮神示」と呼ばれる
1942年(昭和17年)
8月7日 王仁三郎が保釈される
1944年(昭和19年) 6月10日 岡本天明に日月神示が降りる 10月 淡路島の元井戸が完成、王仁三郎が銀色紙の御神体に揮毫 1945年(昭和20年) 辻天水が北伊勢菰野・三保山に「錦之宮」を開く 終戦後、御神体を元井戸から近江へ移す(その後は北伊勢へ) 9月8日 上告棄却の判決 10月17日 王仁三郎ほかが無罪となる 1946年(昭和21年) 2月7日 新生の大本として「愛善苑」を発足 12月8日 武智時三郎が北伊勢菰野に移る(注1) 1947年(昭和22年) 「錦之宮」に王仁三郎の霊姿が現れ、「天言鏡」などが記録される
1948年(昭和23年) 1月19日 王仁三郎が他界する 1952年(昭和27年) 白山義高が淡路島でユダヤ遺跡を発見 10月14日 洲本市でユダヤ教大司教とともに式典を行う→合図の旗 1955年(昭和30年) 8月21日 岡本天明が北伊勢菰野に移る 1956年(昭和31年) 6月10日 菰野の丘に神殿を建立、御神体をまつり、至恩郷と命名
1958年(昭和33年) 5月10日 御神体が「錦之宮」に戻る(至恩郷にまつってから700日目) 1960年(昭和35年) 12月6日 武智時三郎が逝去 1961年(昭和36年) 5月〜 五十黙示録が降りる 9月10日 辻天水が逝去 1963年(昭和38年) 4月7日 岡本天明が逝去 注1:これは岡本三典によりますが、1948年に武智時三郎が辻天水を訪ねてから 移り住んだという記述も見かけるので、正しくは分かりません。
57 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/27(水) 05:12:49.49 ID:fKUiv35wO
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される @
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=406 『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』より転載
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm P.8 より
其の当時の私には、出口聖師の曰はれた、
「お前は一宗一派に囚はれてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ。」と
教えられたお言を理解することができませんでしたが、聖師は、当時の情勢の変遷に就て、次の如く語られました。
現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。
如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。
どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤと日本の完全な提携によることは、既定の事実である。
さうしない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることはできない。
眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。
今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、まことの宗教を知る者はない。
これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた気違ばかりの世界となる。
皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、
更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、
方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。
雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、
いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。
然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか。
と相談をもちかけられました。 私は一議に及ばず従順に「私の出来る事なら」とお引受けをいたしました。 すると聖師のいはれるには、 皇道大本の究極の宗教原理を示す雛形建設の必要がある。 それでは淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。 然し実際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、 淡路島の古文化遺跡の史料調査をして欲しいと要所要所の差図を受けました。 P.9
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される A
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=407 間もなく第二次大本弾圧があって、出口聖師は投獄され、同時に皇道大本の宗教的雛型たる神殿は取拂はわれてしまいました。
これも何かの雛型の教の部類に入るのでありませう。
昭和十七年八月、私共の井戸掘の機が熟して、着手の段取になると出口聖師は仮出獄の恩典に浴しました。
私は井戸掘着手報告のために、京都府亀岡町に向ひました。
当時はまだ面会禁止でありましたが、秘かにお会ひすることが出来ました。
同伴者は井上功氏でありました。
色々とお話のあった後、
井戸掘が始まる相で目出度い。
これは私の無上の歓喜とするところだ。
この井戸は元井戸と命名する。
最早元井戸さへ出来れば、一安心だ。
この意義と目的に就ては、これから月に三四日づゝ講義すれば、大体が解るであらう。
但し時節到来まで、他言は無用。
元井戸が出来たなら、宗教の目標が出来る訳であるから、そのうち、お前にも解るやうになるであらう。
解って貰はねば大事のことを頼むことも出来ぬからな。
元井戸が完成する時分には、この戦争も終るであらう。
勝つべき戦争がな。
忘れんようにせんと負けて勝つ秘法も消えてしまふがな。
本当の神業奉仕は、それからだがな。
兎に角、元井戸は永久保存の方法をとって貰い度い。
こゝも世界の聖地になるだらう。
一隅にお宮を建てて、祭るよう。
御神体は、その時に下げませう。
さうしているうちに、時機が到来して、ユダヤ人とのつながりが自然に出来るであらう。
そのためにはアメリカユダヤに重点を置いて大いに研究するがよい。
そのうちに、ユダヤ人もユダヤ国を再建するであらう。
これも世界国の雛型だ。
それ以来、私は元井戸の工事を急ぐと共に、毎月のやうに二三日づゝ京都府亀岡へ通ひました。 終戦近くの十九年十月には、元井戸が完成し、元井戸の敷地内にささやかな神の祠も出来上ったので聖師に報告すると、 聖師は、大本開教当時から保存されてあった銀紙の短冊に御神号を認められて「これを御神体とせよ」と下されました。 その時の聖師のお話は、 この御神体は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差図する。 この雛型行事の上にも、第一に淡路の神秘が開発されねば、「不二と鳴門の大本の仕組」は完成せぬ。 不二と鳴門の仕組に就ては、皆の者が知ったか振をして、種々と取沙汰をするが、 この「大地六変に震動す」の世界文化界の大問題は誰にもわかっていない。 と語られました。 それから間もなく、終戦となり、聖師から御神体を近江へ移せと指示されたので、 滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸は、その儘の姿で保存してゐます。 P.12
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される B
http://majinnnn.jugem.jp/?eid=408 私は昭和二十二年十二月聖師にお目に掛ったのが最後でありました。
その時のお話に
元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、
この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教が子の一同に会する塲面となる。
この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。
淡路の霊山諭鶴羽山の山腹にある子宝温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開発することが大切である。
其の時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を広く世界に告げ知らす必要がある。
かうなると、日本とイスラエルに、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣伝が始る。
その頃には、自然に之に当るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。
お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰ひ度い。
然しわしはモー来月からお前の世話することが出来ない。
と申渡されましたが、聖師は翌年一月十九日に昇天されました。 P.12
皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される C 私は不二の仕組も、鳴門の仕組も、何が何やら判らないけれども、只管、忠実に出口聖師の筋書通りに突進して、 遂に古茂江小磯の古代イスラエル文化遺跡の聖地に日本の国旗とイスラエルの国旗を交叉して、 これを広く全世界に告げ知らすまでの役目は果しました。 これから聖師の示された雛型通に進んで行けば、諭鶴羽の山腹の子宝温泉でも開鑿して、 脉々と涌き出る温湯の出口でも発見すれば、其の血(智)湯津石村に走りつきて、 成りませる神の名は、石拆神、次に根拆神次に石筒之男神となるのでありませうが、 徒に稱名ばかりしていても、何の利益もありさうにもありません。 問題は走りつくべき地(智)の在り方であります。 さて、これから先はどう行むだらよいでせうか。 「その心配には及ばない。神業に当るべき人材は用意してある。」と 聖師は、この預言を遺して昇天されたのであります。 考へるまでもなく、天のエルサレム(平和神)の、雛型を地上に移す大神業が、一人や二人の少人数で出来るものではない。 ヨハネ黙示録を見ても、 視よ羔羊シオンの山に立ちたまふ。 十四万四千の人、これと偕に居り、その額には羔羊の名及び羔羊の父の名記しあり とありますから、そのうちにこれ等因縁の用材が集って、全世界国家建設といふ大神劇を始め呉てれるであらうと、 高を括って納っていることの出来ないのは、差迫った今日の問題、 発掘した古代イスラエル文化遺跡の歴史科学的の実證であります。 この実證的証明によって、この遺跡の久遠の文化価値を高揚するの挙に出なければならぬは申すまでもありません。 P14
問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは @ 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、 四州園内の小磯とよばれる景勝地の海岸に突出した盤岩の岬に秘められた問題の古代淡路文化遺跡の実相が、 遂に多人数立会いの許に確認されました。 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、 其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる火と水との作用で製作した女の陰所(ほど)の彫像でありました。 今から三十年程前に一度発掘したことがあって、この預期せぬ工作物を発見したことがあるが、 祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。 P.14
65 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/28(木) 16:52:49.90 ID:84qi6n16O
洲本市と五色町が合併するとき 新市名にシオン市と命名しようとする運動があったようだが・・・
66 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/28(木) 21:40:44.20 ID:Cokh6YO00
琵琶湖は琵琶で表されるが、淡路島は法螺貝に見える。
67 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/28(木) 21:52:07.63 ID:ICUi0Qg30
昨年位から近海で謎の気泡とか上がってたよな?
68 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/28(木) 22:01:19.99 ID:Gk2+u5/UO
北淡の石上神社へ行ったことある人いる?
>>65 そういえば…あったな。
やっぱ宗教は強いな
「淡路市」をめぐっては、洲本市・五色町の合併協の動きも複雑に絡み合う。 津名郡五町とたもとを分かった五色町は「対等合併」の条件として、 「旧市町名は使わない」と覚書を交わして今年二月、洲本市と合併協を発足させた。 その後、中川市長の「淡路市」温存案を前提に公募した結果は、 (1)洲本五色、(2)すもと、(3)シオン、(4)洲本、(5)淡路中央―の順。 (1)、(2)、(4)は条件に反する。 (3)は「新市はユダヤ教ゆかりの地」とする一部住民の呼びかけに賛同した人たちの“得票”とみられている。 こうした中、同市長の発言は「五色町側がそれ(洲本)でいいと言えばそうなる」と玉虫色。 市民には「城下町・洲本の名を残すべき」との声も根強いが、「ルールを破れば津名郡五町を批判できない」との声もある。 片や、五色町側にも「ここで折れれば実質“吸収合併”になる」との危ぐがある。 名称をめぐるせめぎ合いは、二十七日の協議会会合がヤマ場になりそうだ。
71 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/28(木) 22:47:52.33 ID:vNWLCKBTO
俺の知り合いにジオン(持音)さんならいたけどな。
淡路島には古来、ユダヤ人の日本初漂着地伝説があり、 南端部の水仙郷で有名な南あわじ市灘の「油谷」地区がそれであると言われています。 峻険な淡路島最高峰の諭鶴羽山(元熊野の伝承地)を超えた真北には「油谷山」。 更に淡路富士の先山(真東は吉野山〜滝原宮〜伊雑宮)〜伊弉諾神宮と繋がるラインが有ります。
淡路島にはユダヤ人の漂着、日本初上陸(伊島〜沼島。 さらに、灘油谷/ユダニ…ユダヤ?地区)伝説と、それらに各地には関連性があるとされた遺跡群が数多あると言われます。 淡路島の南端、油谷など灘地域は近年まで北に聳える急峻な諭鶴羽山系(南側は「壁」と言っても過言のないような急斜面。 訳は、沼島との間にある日本最大の大断層帯。日本構造線が走る)や海と交通の便の悪さで外界と隔絶された僻地指定地域。 太古、漂着した人たちはそれこそ産めよ殖やせよで急速に人口を増やして行ったと言われます。 この土地の人たちは昔から淡路島の他の地域とは異なり、 背が高く目鼻立ちがハッキリスッキリした人たちが暮らしていて、美人美男の里と言われて来ました。 時代が下って屋島等の源平の戦いで敗れた落人も時を隔てて奇しくも油谷に漂着。 その時には既に件の人たちのコミュニティーが有ったと言われます。 このやんごとない都人たちとも混血が進んでいったとされます。 この油谷の人たちが山を越え全国各地に進出して行ったと…。 油谷地区から諭鶴羽山系を越えた真北に「油谷山」、その北には「大和国魂神社」(祭神は伊弉諾尊、 伊弉冉尊とされた時期も永くあり)や「自凝島神社」(・・・謡曲、高砂で有名な高砂神社や尾上神社もこの真北)。 更に北には先山や伊弉諾神宮。 地元歴史研究者ほか結構ディープにやっているグループが有り出版物も出しているようです。
漂着ユダヤ人となると伊弉諾さんや伊弉冉さんはユダヤ人? 天の御柱は先山? 地元の国生み伝説では先山はおのころ島に他に先駆けて出来た原初の霊山。不二の山=富士山。 地質時代に遡れば今の洲本平野にはかなり大きな火山があって、 いつの日か大爆発と山体崩壊して陥没した後に堆積物が堆積して平野となり、 現在の山並みはその火山の外輪山だともいわれます(ぐるっと見渡せばなる程、それらしく見えない事もありません)。 先山には目立ちませんが岩戸神社ほかあり。 頂上がお寺に占拠される以前は御神体山として伊弉諾尊や伊弉冉尊他がお祭りされていたのかも知れません(伊勢の森も同様)。 伊弉諾尊は淡路島神ともされる淡路島の大地主神さまですから。 麓の数多の神社の社殿は一様に先山に背を向けて参拝者は先山を遙拝するような格好です。
淡路の巨石群
http://www.gd.il24.net/~shamon/kyoseki/hyougo/awazi/awazi.html 国生み神話の淡路島にも全域で磐座、巨石、高山信仰はワンサカあります。
てか、元祖に近いと思われ(日本の縮図、雛型)。
北の端、地名からして『岩屋』。
名勝、絵島と大和島。三対山の海からの鳥居の役目、伊勢の夫婦岩に同じ。
反対側の真東を向けば住吉大社があり、その遙拝鳥居の役目も考えられます。
三対山(山頂は石屋(いわや)神社の元鎮座地)。(岩屋の語源?)
麓には洞窟があり古代祭祀の痕跡と『伊弉諾尊の幽宮の伝承』があり、
岩樟神社(ヒルコ大神/伊弉諾神宮摂社)として祭祀されています。
入口には岩屋恵比須神社(元エビス)が洞窟をあたかも目隠しするようにあります。
エビス大神はここで生まれ、不具のために前の岩屋の浜(松帆浦)に流されました。
舟木の石上神社は磐座を組合せた神社で太陽祭祀が現在も続いています(女人禁足)。
伊弉諾神宮の近くにも巨石を御神体とする神社(伊弉諾神宮の奥宮とも)
中央部の先山(せんざん)は淡路富士とも言われ、小さいながら火山由来の山。
現在は山頂には真言宗別格本山『千光寺』がありますが、
国生み神話に際して日本初発の不二の霊山(富士山)の意味で先山とされました。
勿論、頂上から少し下った所にお約束の洞窟と磐座のセットで岩戸神社があります。
その外多数有りますが、最後に、南の離れ小島の曲玉の形をした沼島(オノコロ島の候補)には
立て神岩(イザナギの逸物)と平場岩(なぎとなみの寝所?)とイザナミの岩(侵蝕風化で上部崩壊)が有ります。
76 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/29(金) 15:33:23.39 ID:S/NgTrSR0
淡路島の近くにある友ヶ島はエビフライに見えるんだよな。 伊弉冉は沼矛、伊弉諾は剣、ナイフとフォークで島が出来たわけだ。
77 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/29(金) 17:58:44.61 ID:S/NgTrSR0
友ヶ島は淡島で、淡路島とは言霊でリンクしているようだね。鳴戸と淡路島に琵琶湖を併せて音の仕組み。 友ヶ島(淡島)も日本の雛形の一つだろう。二つを繋ぐのが鳴戸の浜だ。鳴戸は国生みの型ともいう。
78 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/29(金) 22:57:24.11 ID:amm8I581O
79 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/29(金) 22:58:26.63 ID:xqs6pjQ5O
おのごろじま
80 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/30(土) 00:41:27.57 ID:uHXBp9EOO
このスレは淡路関連の中で一番興味をそそる良質スレだな!
┌───────┐ |. これは 優良スレ | └─∩───∩─┘ ヽ(`・ω・´)ノ
貴重な情報を転載してくださってありがとうございます。 この本は絶版になってしまい入手できません。 できれば続きが読みたいのですが。 | 王仁三郎ファン | 2011/03/06 7:50 PM | 王仁三郎ファン様 ご訪問ありがとうございます。 私が書き写させていただきました 『淡路の神秘 ヱル.ヱロヘ.イスラエル』は、洲本市の「Books 成錦堂」さんより通販で購入したのですが、 今問い合わせたところ、本は売り切れですが、コピーを2100円で販売していらっしゃるとのことでした。 よかったら、お問い合わせになってみて下さい。 私も久しぶりに読み返すことができました。 ありがとうございました。 | くー | 2011/03/07 9:54 AM | びっくりしました! ご親切に問い合わせまでしていただいたのですね。 感激です! 本当にありがとうございます。 さっそく注文いたしました。 読むのが楽しみです。 | 王仁三郎ファン | 2011/03/08 9:19 AM |
只今コピ−版のみの販売になっていますが 現在解読難解部分を現代語に作業を進めています。 成錦堂 代表 湊 格 | エルエロヘイスラエル | 2011/04/25 9:52 PM | 成錦堂 湊様 その節は、コピー版を販売されていることを教えていただき、有難うございました。 今、作業を進めていらっしゃるとのこと、ぜひまた読ませていただきたいと思います。 岡本安出(アデル)著『合図の旗』P.6〜8に、ローゼン牧師のお名前はじめ、関連記述がありました。 | くー | 2011/04/26 2:45 PM |
柞木田龍善の著作で淡路島のユダヤ遺跡について紹介していますが、
武智竹雷の婿(白山義高)が発行した当時の関連書籍が昨年復刻(地方出版)されました。
武智翁のそれは『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』でしょうか?
純粋・・・2冊だけ原本あったと思います。
先のものは後に題が『日本学とイスラエル』に変わりましたね。
柞木田さんの淡路紹介物は持っていません。
白山義高発行、武智塩翁解説『淡路の神秘 エル・エロヘ・イスラエル』という本で、
淡路古文化開放協会編の復刻で、ラビ・ローゼンを遺跡に案内した
方のお孫さんが社主の書店から復刻(二千円弱)されています。
柞木田氏の著作は、風濤社の『日本超古代史の謎に挑む』です。
貴重な記事が散見されます。古書でも入手しやすいかと思います。
淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル
http://www.atc.ne.jp/seikindo/awaji/elelohe.htm
85 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/30(土) 23:24:21.53 ID:UOX+/UEWO
成錦堂の店主は関係者の孫だったのか 店には当時の資料とかいっぱい残ってるんだろうなあ
仮に「ねりこ祭り」がユダヤ由来だとして、なぜ少し離れた由良に伝播したのだろう? 灘からほど近い福良に、それっぽい伝承が無いのはなぜなのか?
87 :
本当にあった怖い名無し :2011/07/31(日) 14:51:13.19 ID:n0uRVTwSO
古代、三原平野の阿万と福良、沼島、島の西側などは阿曇氏(海人族)の拠点 一方、洲本平野周辺は物部郷の地名が示すように物部氏(物部冬男)の拠点 いずれも大和王権に帰順した縄文系の豪族一派 僻地の灘や由良にはそれら豪族の支配が及んでいなかったのでは? 中世、油谷には平家の落人である奥野氏が灘一帯の庄屋頭を 約30代にも渡って勤め、阿波藩の蜂須賀氏の時代まで続いた。
なるほど
淡路の海人族といえば住吉仲皇子の乱に荷担した野島海人の阿曇浜子が有名ですな 乱に加担した阿曇浜子は履中天皇によって顔面刺青の刑に処されたとか… 履中天皇の弟で住吉仲皇子を誅殺した反正天皇も確か淡路島の生まれですな
90 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/01(月) 18:52:16.90 ID:xv2dwxu50
>>87 阿万の地名の由来自体が海人(あま)からきてるからな。
91 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/02(火) 07:42:41.62 ID:akQq4G8B0
淡路、ユダヤと聞いたら樋口季一郎がまず浮かぶ
>>91 阿万出身だしな。
樋口氏とユダヤとの接点は、「欧州赴任中にユダヤ人に世話になった」という説が一般的だが、
もしかすると灘地区からほど近い、阿万で育った幼少時代に何か関係があるのかも・・・?
93 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/02(火) 21:32:36.46 ID:LnXF50pv0
灘は奥野氏以前の歴史がわからない 由良は安宅氏以前の歴史がわからない それ以前に何があったのかわからない 何か参考になる書物はないの?
94 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/02(火) 22:21:23.26 ID:T3wKu4m6O
『味地草』 『淡路草』 『堅磐草』 『常磐草』 これら淡路四草と呼ばれる地誌を読めば 淡路史のことなら大抵わかるようだが…
95 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/03(水) 22:22:22.02 ID:1zsxUsS/0
ユダヤ系海人族
>95 すごいタイムスタンプ すごいし、すごく惜しい
97 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/04(木) 20:03:27.86 ID:yPeMy1Xf0
Q1 海人族が沼島に来る前に、沼島に人は住んでいましたか。 A その答えは{ずばり}住んでいました。 ○海人族がやって来たのは、古墳時代ですが、それより前に縄文時代の土器が見つかったり、今の銭湯の所付近で貝塚が見つかったそうです。 ですから、沼島にはすでに縄文時代から人が住んでいたことが分かります。 沼島には海人族以外にもいろんな人達が住んでいたのでしょうか。
98 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/04(木) 23:11:33.83 ID:yPeMy1Xf0
99 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/04(木) 23:26:09.79 ID:yPeMy1Xf0
淡路(沼島)の海人族
http://www.minamiawaji.ed.jp/nushima_jhs/11sougou/2001/11sizensi/13amazoku/ 縄文時代晩期から弥生時代にかけての時期に、大陸の呉(中国)や越(ベトナム)の人たちやその沿岸の海洋民、
すなわち海人族の人たちが北九州を中心に渡来してきました。
また、南方諸島からの海洋民も日本へ来て海人族と呼ばれました。
その間、たびたびの渡来があり、漁労、航海運輸、土器による塩づくり、水田稲作などの技術や文化とともに、
彼らの地方に伝承していた神話を持ってきました。
沼島の歴史をたどってみると、南洋の民族が黒潮をつかまえて北上し、沼島へたどりついたと推測できます。
その何十年かの間に淡路島にも上陸したことが、弥生時代前期の古い土器の出土からわかります。
もちろん沼島には、沼島古墳(竪穴式石室)があり、鹿角製のヤジリ、土錘、石棒、須恵器(すえき)・土師器(はじき)のほか、
多量の製塩土器(弥生時代後期200〜300から古墳時代後期のもの)も出土していることから海人族の住んでいた島であったと言えます。
このことから、沼島も渡来の人たちと先住の縄文の人たちと出会った地点の一つであったと考えられます。
100 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/04(木) 23:43:58.94 ID:yPeMy1Xf0
大地震で沈んだ村
http://www.minamiawaji.ed.jp/nushima_jhs/11sougou/2001/11sizensi/14tikei/ 古い淡路島の地図に驚くべき事がありました。
それは、明応9年の大地震(南海地震)で土生から沼島に出ている半島が、沈んだというものです。
その半島には、白石村も含め5つ村があり漁港として栄えたそうです。
その半島が1日で、沈んだことは大変な驚きです。
私達は、その時の地震が、どんなに凄まじいものであったか文献やインターネットで調べてみました。
記録では、1498年7月9日に明応南海地震(M7.5)が起って、多くの被害が出たようです。
揚子江近辺に数十メートルの大津波が襲いました。
さらに9月20日には、明応東海地震(M8.4)が起って、津波が紀伊から房総の海岸を襲ました。
静岡県で死者2万6000人という凄まじいものだったようです。
しかし、淡路島に関するものは、ほとんどありませんでした。
阿万中学校には、その時の様子が描かれた絵があったそうですが、火事で燃えてしまったようです。
101 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 00:28:37.32 ID:5Jr1g5Bm0
幻の『白石村』 〜「ふるさと探訪の集い」で
http://green.ap.teacup.com/morikami/317.html 4年生の時のおじいさんの話から
阿万の公民館活動『ふるさと探訪の集い』の今日の例会の話は楽しかった。
講師は灘在住の林幹昭さん。高校卒業後、ずっと大阪で働いてこられましたが、
お母様の介護で数年前にふるさとにUターン。
ある日、小学校4年生の時に、近所のおじいさんが話してくれたことを思い出しました。
『ずっと昔、 土生(はぶ)の南にずっと半島が延びていて、『白石村』があったんだが、
大地震で半島ごと海に沈んでしもうたんじゃ。』
『ほんまかいな?』と思いつつも、 彼の興味はつのるばかり。
それからというもの、まず地元灘地区で古文書や資料を探し回りましたが、
それらしきものに巡り合えません。『三原郡史』をはじめ数十点の歴史関係の文献や資料を独力で調べましたが、
『白石村』の事や『大地震で海没した半島』を記した資料に巡り合うことが出来ませんでした。
清水さんに巡り合って
そんな時、 林さんは、『ふるさと探訪の集い』のメンバーでもいらっしゃる湊在住の清水さんを訪ねました。
清水さんは、知る人ぞ知る郷土史家。
清水さんから『旧津名町の図書館に、昔の淡路全体を記した古地図がある。』と教えていただきました。
榎列のある旧家が、古文書を旧三原町に買い上げてもらおうとしましたが、お金がなかったので、
ある人の仲介で旧津名町が買い上げ、町立図書館に保管されているというのです。
102 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 00:29:22.70 ID:5Jr1g5Bm0
『白石村』の名前が! 今日の勉強会に、清水さんがその古地図を(実物大か拡大したのか分かりませんが)会員に持ってきてくれました。 この古地図、誰が、いつの頃に作成したのか分かっていないそうですが、『阿万「庄」』、『由良「駅」』というように、 その頃の島内の集落を『庄』と『駅』で区分けしているのが一つの特徴です。 ただ、私自身、この地図を作製した年代がかなり新しいのではないか、という素朴な疑問を持ちました。 その一つは、『阿万』と書かれていること。私が子どもの頃でも『阿萬』という表記だったことと、 所々に『破線』(…)が使われていること。古文書や古地図に破線による表記法があったのだろうか、という疑問があります。 とは言え、この古地図には、灘の『土生』の南あたりから沼島の西側に向けて、破線で囲われた『半島』が描かれていて、 その中には『五ヶ村アリ。明應九年大地震デ没ス…』とあり、『白石村』という名前も見えます。 この地図を見ていて私が判断したことは、@この地図はかなり新しい時代に(明治以降かも)作成されたのかも知れない。 Aしかし、この地図の制作者は、当時淡路全体の地理や歴史にくわしい第一級の郷土史家だったのだろう。 B白石村のことも、地元の灘の方々から聞いていて、当時は当然科学的に実証するすべは何らなかったものの、 史実に間違いないと判断され、書きこんだのだろう。ということでした。 ここに記されている『明應九年』は、西暦1500年に当たります。 また、他の史書には、明應七年に『明應南海地震』があったと記されているそうです。 とにかく、この西暦1500年頃に、灘地域一帯で、天地を揺るがすような大地震があったのでしょう。 科学的実証に向けて 半島を海没させるような大地震があったに違いない、と仮説を立てた林さんは、 それからというもの、いろんな方面に足を運び、また研究されました。 京大防災研や海上保安庁へも行き、航空写真や克明な海底地図も入手。 この海底地図を復元した立体模型をパワーポイントで見せていただきましたが、説得力がありました。 海底探査機やダイバー等に調べてもらって、海底に沈んでいる『白石村』関係の物品が出てきたら…と、 林さんの期待は膨らみます。
103 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 00:31:24.48 ID:5Jr1g5Bm0
白石村(しらいしむら)沈没伝説について
http://sitakisou.blog.fc2.com/blog-entry-35.html 淡路島最南端に位置する南あわじ市灘地区に、子々孫々に伝えられてきた伝説があります。
白石村沈没伝説です。それは約500年前に大地震により海岸にあった村が海没したという話です。
灘土生(なだはぶ)というところに漁港があるのですが、
その土生の海岸から3〜4`b沖合に浮かぶ沼島(ぬしま)の方に向かって岬のような地形があったとされています。
おそらく砂嘴(さし)という地形であると考えられます。
北海道・根室の北西に野付崎という所がありますが、海岸から沖に向かって突き出す砂州からなる半島のようなものです。
そのような砂嘴という地形が灘土生にあったのです。そこには白石村という村があったと言い伝えられています。
その白石村が大地震で海没したのですが、それを裏付ける話がいろいろとあります。
『淡路温故之図』という古地図があるのですが、その古地図にも記載されています。
灘土生から沼島の手前まで突き出している砂嘴地形が描かれています。
しかしこの古地図は、地方史家の研究により江戸時代後期に作られたニセモニだという評価になっています。
この古地図の作者が想像でそれらしい古地図を描き、言い伝えられる白石村沈没伝説を図中に書き込んだものと思われます。
明応9年(1500年)に白石村が沈没したとしています。また沈没したのは白石村の他に5ヶ村があったなどと書いてあります。
古文書や文献に白石村沈没事件の記載はほとんどありません。
わずかに、江戸時代末の安政4年に編纂された『味地草・みちくさ』という淡路国の郷土誌には次のように記されています。
「白石、阿万東村の境畝号にして池あり。上本庄村にも白石という畝号あり。村より北西、谷は西向。
奇怪清誠談に曰く、淡路の国白石村と云片山家に柴村武左衛門とて田畑数多の主にて裕福にくらしける郷士あり。(中略)
按するに今白石村と云所なし。然れば畝号の白石は則往昔の村名なることもあらんか」
ようするに今は白石村はないが、昔あったらしいということです。
104 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 00:32:08.54 ID:5Jr1g5Bm0
宇佐美龍夫編著『わが国の歴史地震被害一覧表』にはごく簡単に「十町の砂州海となる」と記載して、 明応7年(1498年)の東海道沖の大地震の被害だとしています。 証言もあります。灘土生の漁師さんの目撃証言です。大潮で海面が下がったときで、波や風がなくてベタ凪のときに、 しかも海水の透明度が高い時に、沖合の海底に鳥居(神社の鳥居です)が見えるというのです。 おそらく500年前に沈んだ白石村の鎮守の社の鳥居であろうと考えられます。 ほかにも諭鶴羽神社に昔白石村の信者が玉石(白石)を奉納したと伝えられていて、 本殿の御垣内にその白石が敷き詰められています。言い伝えでは浜辺に白い石があったから白石村という村名になったそうです。 ●考察です。おそらく、明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生した南海トラフ沿いの巨大地震の被害であろうと思われます。 紀伊から東海道にかけて大津波に襲われ、伊勢大湊で溺死5000人、伊勢志摩で溺死1万人、 静岡県志太郡で流死26000人など(理科年表による)ものすごい人的被害です。 白石村は砂嘴(砂州)地形だから低海抜で津波に一瞬の間に流され、 あとの砂地の地形も地盤沈下や海食で跡かたもなく沈没したのではないでしょうか? 石造りの鳥居だけが海底に残ったのか?
105 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 00:36:42.99 ID:/VIyvEjzO
今度 淡路島いきます 淡路島に件が産まれる噂もあるので。
106 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/05(金) 23:24:36.86 ID:XjZ7EGgEO
500年ほど前の大地震(明応の大地震)で半島が海底に沈み、 裏の山がずれて新しい土地が生まれたから土生という地名になったんだろうということで、 この辺りでは「ずれはぶ」と言うそうです。
107 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/06(土) 12:25:16.22 ID:VNGG5NqAO
阿万と油谷の間は500年前の地震で海沈するまでは 半島によって隔てられてたわけか
宇宙の中心ツアー IN 淡路島
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ttp://plaza.rakuten.co.jp /amateru/diary/200907050000/
>出口王仁三郎、中山みき両氏が、ここに地球のための宮を建てるべし、といわれた上内膳のお山。
>すぐ向こうには、淡路富士と称される先山が見えます。
一体どこの山のことを指しているのだろうか?
淡路島のシオン山に登ってきました<その1>
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ttp://ameblo.jp /teatehituki/entry-10717656806.html
淡路島のシオン山に登ってきました<その2>
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ttp://ameblo.jp /teatehituki/entry-10718346384.html
シオン山ってどこにあるの?
由良沿いにある私有地?の山みたい 入るには管理人の許可が必要らしい
123 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/13(土) 16:25:13.64 ID:etkTKihx0
淡路島は陰陽勾玉説で琵琶湖と対だし、琵琶湖が羽に見えて淡路島が法螺貝に見えるから、 天使のラッパ(法螺吹き)とも見えるね。
ラッパならともかくホラ吹いてる天使は信用できねえww
EQUAL大本「オモテ」神業T
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ttp://equal japan. blog 117.fc2.com /blog-entry-45.html
EQUAL大本と聖なるインベーだー T
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ttp://equal japan. blog 117.fc2.com /blog-entry-69.html
EQUAL 誰がために多賀大社
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ttp://equal japan. blog 117.fc2.com /blog-entry-166.html
129 :
忍法帖【Lv=22,xxxPT】 :2011/08/16(火) 16:49:48.61 ID:BOMA7hc/0
淡路島の古い神社の話題も頼む。
俺淡路在住だけど、 ここに書いているコトなんかほとんど知らんかったわ すげーな
>>131 話半分で、ネタとして楽しまないとだめだよ
134 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/17(水) 23:28:56.92 ID:z3ctopc40
淡路島に心霊スポットとか廃墟とかって何かある?
135 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/18(木) 18:16:47.62 ID:2cosAev20
136 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/18(木) 18:17:33.11 ID:2cosAev20
137 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/18(木) 18:18:05.59 ID:2cosAev20
138 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/18(木) 18:18:46.11 ID:2cosAev20
「若●の広場」 :兵隊の霊が出没率100% 「煙島」 :行って帰ってきた者が居ない 「城山トン●ル」:丑三つ時に兵隊の霊 「浅野公園」 :侍の霊が何度も目撃されている上に自●多し 「鮎屋の滝」 :目撃多数 「洲●城」 :侍の霊多数 「中山峠」 :獣の物の怪が居るらしい上事故多数 「上田ダ●」 :数十人生き埋めに付き多数目撃、自●多数 「諭鶴羽●ム」 :かなり昔から目撃あり 「沖の島」 :古代海人族の古墳があり盗掘をすると命は無い 「門●付近」 :車関係の怪現象多数 「御局塚」 :飛び回る白い女の影を見たらしい 「護●寺付近」 :直線道路で事故多数
641 :名無しの権兵衛さん:2007/05/24(木) 21:40:18 ID:umHT6kH+
洲本IC近くの山中に不気味な廃墟?のようなとこにある
花立トンネルって、昔に何か事件とかありましたか?
友達が「ここのトンネル何か感じる…」って言ってたんで気になって…。
勿論、自分も結構通った時、気味が悪かったんですけど。
何か知ってる人、教えてください。
644 :名無しの権兵衛さん:2007/05/25(金) 14:28:12 ID:+/ywHJVM
淡路で幽霊でるとこある?
645 :名無しの権兵衛さん:2007/05/25(金) 14:58:33 ID:eDHR4FXB
最強は 上田池、五色旧トンネル辺りじゃね?!
霊感ほぼない漏れでも、いやな感じがする。
648 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 16:09:39 ID:F/nPCdXH
幽霊やほんまにおるんけ?
649 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 17:12:13 ID:6gzm1TqR
>>648 一回 夜中に旧五色トンネルの五色側から行ってみ!かなり恐いし、気持ち悪い。
五色から行くと100円野菜ワゴンから300bあたりかな?
上りの途中に、左方向の細い道行くと封鎖トンネルがある!!
柵してあって中には、入れませんがね!
651 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 17:40:53 ID:ggJNxb2G
>>649 旧五色トンネルってどこ??
もうちょい詳しくお願い。最近引っ越してきたから、あんまわかんなくて。
653 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 20:19:06 ID:6gzm1TqR
>>651 んー。説明しにくいなぁ(;´д`)
洲本からコーナンから柳学園の山道を上って行ったら豊島スクラップセンターがある!
その4方向の道を右に曲がって進んで行くと、途中に左へ上る道がある!
ずっーーと上って行ったら見渡しのいい峠があるから、
その上りと下りの前後に、細い脇道(洲本からは、右手に・五色からは、左手に)がある!!そこにあるよ!
何が起きても、俺は保証しないぞ(;´д`)
654 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 20:25:56 ID:6gzm1TqR
続き→
ちなみに、昔に若者4人?だったか肝試しに行ったら、急にそのうちの一人が何か見たらしく、叫びながら逃げたんだって!
そして、皆もビックリして急いで逃げたらしいが、一人逃げ遅れて行方不明になったとか?!
数日後 見付かったらしいが、その子は原因不明の植物状態になってたらしいよ。
くれぐれも、自己責任で行ってくれなっ。オソロシス(;´д`)
655 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 20:35:20 ID:6gzm1TqR
ついでに もう一つ怖いトンネル!
サンヨーから山手に行くと(奥畑?)五色に抜ける道に、小さいトンネルがある。
そこもヤバイ!今は、電灯着いてて明るくはなってるけど、トンネル出てすぐ左手か?右手か?に、廃墟がある。
そこで一家心中があって、それから出るようになったらしい……。
656 :名無しの権兵衛さん:2007/05/26(土) 22:02:23 ID:4Z5gle21
旧五色トンネルっていつ封鎖されたんだっけ?
659 :名無しの権兵衛さん:2007/05/27(日) 14:22:33 ID:mCtZF2ul
>>653 何が起きても…
行くの怖くなってきた。
661 :名無しの権兵衛さん:2007/05/27(日) 19:15:00 ID:8qdYONbM
>>653 >>654 めちゃ詳しく教えてくれてありがとー。
怖すぎるけど、ちょっくら行って来ます。
旧五色トンネルより100倍怖そうな
>>655 も行ってみる。
っていうか、そこはトンネルより廃墟っていうのが怖そう…。
一家心中って新聞載ったんかな?載ってたら本物出そうだけど。
662 :653:2007/05/27(日) 20:58:31 ID:cyoMzDbs
>>661 いえいえ!どうもです。
行ってきたら、是非感想聞かせて下さいね!
その事件は、かなり昔だから載ったは分からないなぁ(;´д`)
663 :名無しの権兵衛さん:2007/05/28(月) 05:53:22 ID:oyq2vKTr
>>662 >>655 をバイクで一人で深夜通ったことがある俺がきました
そういうとこだって全然知らなかったからそのトンネル走ったんだが
通ったあとここはやばいって霊感ない俺でも思った
664 :名無しの権兵衛さん:2007/05/28(月) 12:59:52 ID:GMqUX4ma
>>655 は、まじヤバイよ。
漏れは、そうゆう肝試し感覚で昼間通ったら、その日に事故して廃車になりかけた。その後も事故多発orz
車代えてから全然事故しなくなった。もう通りたくないやorz
666 :名無しの権兵衛さん:2007/05/29(火) 10:05:52 ID:r8xNjMnT
怖い所探検するの一人では怖くて行けないわ
友人も嫌がるし…
神秘とオカルトの凝縮
曲田山の廃墟ホテル
http://nakasansui.exblog.jp/13660938/ http://nakasansui.exblog.jp/13700843/ 456 :名無しの権兵衛さん:2011/02/25(金) 00:00:06.35 ID:wWUcCH7y
ジャスコの近くの弁天神社でいいのかな
そこの神社の近くのわき道に入って散歩してたら山の方に廃旅館っぽい建物があったから近くまで行ったんだけど
ガラスが割れるような音がして何事だと思って上の窓を見るとそこから赤い紐を持った女がこっちを見下ろしていた
びっくりして大通りまで逃げたけどあれは一体何だったのだろうか
あの廃墟って昔に何かあったりしたのかな?
思い出すだけで鳥肌が立つ…
459 :名無しの権兵衛さん:2011/02/26(土) 01:25:47.81 ID:alSP9yw1
多分本物かもしれない
今日ちょっと上がったとこから見たけど旅館に入る道は草がボーボーなのに草が踏まれた後とか無かった
携帯で写真撮ろうかと思ったけど移ってたら怖いからやめといた
近くの家は空き家ばっかで怖かった
お地蔵様みたいのが置いてあってちびったのは内緒
462 :名無しの権兵衛さん:2011/02/26(土) 21:38:08.79 ID:W3F2XgN0
この辺り?
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.339043,134.895146 463 :名無しの権兵衛さん:2011/02/26(土) 22:32:12.50 ID:B5scKWXL
>>462 多分そこかな
もしかして有名だったりするの?
514 :名無しの権兵衛さん:2011/05/25(水) 14:55:35.48 ID:FvuRqpi5
ニートで暇だから廃墟いってきますた
草がボウボウで入れんかったぜ
515 :名無しの権兵衛さん:2011/05/25(水) 17:33:44.98 ID:9Zlfp/TU
>>514 草ボウボウぐらいで諦めたんか?
俺なら逆にボウボウのほうが闘志湧くわ。
516 :名無しの権兵衛さん:2011/05/26(木) 07:40:08.71 ID:CaA7GyYp
膝の上くらいまで生えてるんだぞ
火葬場の廃墟なら残ってるところあるよ。下司とか煉瓦の煙突が今も見えてる。 洲本なら天川の山奥とか桑間1丁目の寺裏の山とか向かいの安坂下のゴルフ練習場の上の方とか 墓のある所、屋根と手引き車が残ってるとこもある。
兵庫県道31号線沿い謎の不気味な廃墟
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.386048,134.763804 348 :名無しの権兵衛さん:2010/02/12(金) 10:39:59 ID:y8MFyN4y
都志から鳥飼に行く途中に角川越えた辺りの
右側に木々がありその海側に見える廃墟みたいな建物ってなんだろう?
不気味すぎる
349 :名無しの権兵衛さん:2010/02/12(金) 19:35:19 ID:67WPhQsj
天理教の建物?
350 :名無しの権兵衛さん:2010/02/13(土) 09:34:07 ID:1HAOEi3b
海側にある建物です。
木々に囲まれてる感じがして入口らしきものも
看板もなく不気味な建物です。
155 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/27(土) 12:19:07.72 ID:kRNR/hXhO
今日の読売新聞淡路欄に平和観音の記事があった。
アワシマはクラゲのような状態で形を成さなかったので、 仮の姿として現在の琵琶湖の部分をくり抜いてその体(淡路島)とした。 淡路・・・アワジ アワは外に開いて和合する渦を表し、泡も表す。 渦から生まれ出ることを意味する。 ジは地であります。 つまり、誕生の出発点。 ところが、初発は不完全で形をなさなかった。 ゆえに、無から有(仮の姿)への切り替わりであり、 因(見えない)から、果(物質化)への移行を示すものであるとするならば、 事に及べば仮の姿(出発点としての物質的形)を返上し、 ゼロからやり直しの中心的(因の因という意味)存在となる可能性があります。 つまり、鳴門が動いて淡路が沈む、あるいは姿を変えるようなことがあれば、これは全世界へ影響し、 すべて、ゼロに近いところからやり直し(おそらく良い意味で)になる可能性を秘めている。 重要な位置にありながら発展してこなかったのも、おそらくは実体を琵琶湖地方から借りていることが原因でないかと思われる。 但し、別の方向から考えると、これはいざというときには日本はおろか世界全体をも造り替えるという役割を担っているのでなかろうか。 そのための役割を隠すために目立つことなく発展しない状態で据え置かれてきた。 淡路島に何かがある・・・といっても、それは目に見えるようなものではありません。 存在としての因であり陰でありますからね。 因は火であり、この火は富士と連動しています。 水(渦)は火によって激しく大活動しますから、ここにおいて富士と鳴門の関係が大きく浮上してきます。 ・・・・という筋で考えることもできますね。
上方から見て 阿波への路、 あわじじゃないの?
>>157 定説ではね。
だが、しかし・・・・・・・を語るのがここのスレ
横尾トンネル怖ろしい・・・
御食国
162 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/30(火) 16:28:25.65 ID:LYeXPg7a0
音は和合するあわ、その道が渦海。富士は因の木霊、言霊。
海の雛形は相国寺(京都)の天井の「鳴き龍」に納められている。
『海にはどんな宝でも竜宮の音秘殿持ちなされてゐるのざぞ、この世の宝 皆この方つくりたのざぞ』
http://friction-apartment.com/komasa/11_shokoku%5B1%5D.jpg この水龍の肝腎が淡路島だが、ここは岩の神殿が有名。
www.gd.il24.net/~shamon/kyoseki/hyougo/awazi/awazi.html
208:本当にあった怖い名無し[] 2011/07/28(木) 15:32:03.46 ID:Cokh6YO00(1)
島根半島〜男鹿半島には海の勾玉の影
沖縄トラフには海の尾
牡鹿半島〜四国を繋いで海の龍
海の玉は北極海と太平洋、海の尾は大西洋、海の龍はインド洋の雛形
淡路在住だが、オカルトにはことかかん場所だったんだな・・・
淡路島は、『古事記』では淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)と書かれ、 『日本書紀』では淡路洲と書かれていて、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の産んだものとされる。 この「記紀」によると伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神が天上の「天浮橋(あめのうきはし)」に立って、 「天沼矛(あめのぬぼこ)」をもって青海原をかきまわしてその矛を引き上げたところ、 矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となった。 これがオノゴロ島で、二神はその島に降りて夫婦の契りを結んで国産みを行った。 初めに造られたのが淡路島で、その後次々に島を生んで日本国を造られたとされる。 このおのころ島の所在地については諸説紛々としていて、淡路島北端の淡路市にある絵島、 南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社のある丘、あるいは淡路島全体であるという説もある。 しかし南あわじ市には古くからおのころ島の地名があり、二神を祭る「おのころ神社」が存在するため沼島とする説もある。 「Wikipedia より抜粋」
165 :
本当にあった怖い名無し :2011/08/30(火) 23:17:24.38 ID:LYeXPg7a0
実は青海原をかきまわした天使が他にいる。 大鳴門橋から見下ろす鳴門海峡の渦潮は、天浮橋から海をかきまわす最中。 沼島はオノゴロ島のしずくだから実際はかなりの迫力だろう。
若人の広場は有名だね。
133 名前: 近畿人 投稿日: 2008/06/14(土) 11:11:23 ID:q4QtSPd6 猪鼻ダムから山竹牧場跡へ行ってきました。 山竹牧場跡は廃墟好きな人にはオススメ。 朽ちた牛舎は牛の幽霊が出そうでガクブルでしたし、 ナンバー外した車がそのままになってました。 死体がありそうで中を覗く勇気はありませんでした。 (((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル 野生の鹿もいましたよ。
939 : 774RR : 2008/06/14(土) 19:48:21 ID:FZXxsyYY ベク150でタコフェリーに乗って淡路島の猪鼻ダムへ行きました。 廃墟の山竹牧場までは一部悪路なのでベクでは厳しかったです。 車一台の道幅で、勿論ガードレールは無し。 大きな落石に乗り上げると谷底へ・・・(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル オフロードバイク絶対なら楽しいと思います。
172 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/03(土) 09:24:42.87 ID:NLvsA8En0
ト音記号はオノコロ島の暗示
最近現場で洲本によくいくんだが 由良町の内田にある廃墟は有名ですか? 先日仕事の都合で近くまで行ったが怖すぎ! 国道の脇道を右手に上がって1km位のところにあります。 今月又行くんで情報あったらよろしくお願いします。
174 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/04(日) 12:21:45.11 ID:UkM4y0Uu0
175 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/04(日) 16:31:51.46 ID:UkM4y0Uu0
>>173 うーん、ちょっとわからないな。
>>151 や
>>153 みたいに地図で示してくれると助かる。
>>174 岩戸神社は空気が澄んでて神聖な雰囲気が漂ってる。
頂上の千光寺よりよっぽどパワースポットな気がする。
177 :
173 :2011/09/04(日) 23:45:46.19 ID:nt2dz2iP0
>>176 アプロダが少しわからないので住所を
調べてみました。
由良町内田993の北西方向にある
大きな建物です。
アプロダわかれば写真も何点か撮ってあるんで
ウプするんですが、、、。
178 :
176 :2011/09/04(日) 23:54:27.21 ID:QrT+zTrc0
179 :
173 :2011/09/05(月) 00:09:57.84 ID:A9tKqTz70
ビンゴ、そこです。 外観は3〜4F建ての保養所のような感じで 1F部分は大きな教室?のようなものが2部屋。 入り口部分は開いており2Fへの外階段も行けそうでしたが 夕方4:00前後の時間帯で霧雨、私ひとりだったため 突撃できませんでした。 詳細はわかりますか?
180 :
173 :2011/09/05(月) 00:18:51.35 ID:A9tKqTz70
181 :
176 :2011/09/05(月) 00:29:08.74 ID:138jX/LV0
由良の廃墟と言えば一昨年に取り壊された龍宮園が有名でしたが
ここの存在は知りませんでした…
お役に立てず申し訳ありません…
>>180 ウムム…これは不気味ですねぇ…。
どことなく学校の廃校舎っぽい気もしますが…
地図上からでもハッキリわかる謎の巨大廃墟…
これは気にならざるおえませんね。
いえいえご覧いただきありがとうございます。 行こうと思ってる方がもしいるのであれば 車では入口の バリケードで入れませんし入っても太い枝がそこらじゅうに 敷き詰められておりかなり困難です。 信じられないくらい大きい鹿もゴロゴロいてます。 坂も急でコンクリートの路面には苔があり思いっきり滑ります。 自分は詳細が解るまで二度と行く気はおきません。
県道沿いの入口付近に石像はなかった?
>>184 上記に挙がってる話題は過去スレでも何度か挙げられていた、心霊モンのDVDに収録されてた廃墟の事でしょ。
元はホテルか旅館やったんとちゃうかな、廃業してかなり経ってると聞いたで。
先週の廃墟2
http://ameblo.jp/rusty-place/entry-10738636957.html 巨大観音の前に黒潮荘という極上廃墟を見つけました。
すでに2つの廃墟サイトで公開されているのを見つけましたが、実は違う廃墟の情報をもとにココへ辿り着いてしまったのでした。
記事の内容から、今は無き龍宮園と巨大観音の間に廃墟があると予想をつけてグーグル地図と睨めっこ。
グーグル地図がなかなか役にたつんですよ。
いつ更新されてるのか分かりませんが、おそらくちょいと古い気がします。
航空地図の方をじっくり眺めてみましょう。
廃墟が浮かんでくるはずです。
黒潮荘は少し小高い丘の上にあるので、下からはその姿が確認できません。
登り口には工事現場で見るような簡易バリケードが置いてありますが手で動かせます。
2つに道が分かれているので右へ行った方が良さそうでした。
はっきり確認はしていませんが、上から分かれていた道の片方は車は通れそうにありませんでしたから。
管理者はいるんでしょうが、まったく管理されているような様子のない荒廃ぶりでした。
丘を登り詰めたところに姿を現すそのホテルの外観は、なんともいえない味わい深いものがあります。
これぞ廃墟って感じです。
某サイトには大したことないと書かれていましたが、多分それは龍宮園を見た後だからそう感じたのではないかと思われます。
私には、こじんまりとしながらも素敵要素は大でした。
まぁ感じ方はヒトそれぞれですからね。
日暮れが早い冬場は、廃墟探索はせいぜい2物件が精一杯です。
黒潮荘と巨大観音の間にも数箇所怪しい物件見つけましたので、再度淡路島探索します。
おのころとか廃墟になんねぇかな…なんて不謹慎なことを思ってしまいます。
淡路島の廃墟・廃隧道
横尾隧道
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.383936,134.847198 御札の家
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.352985,134.815784 大見山荘
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.232756,134.710895 黒潮荘
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.320445,134.916453 水の大師荘
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.368626,134.897539 ジャンボクラブ淡路島
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.387526,134.893049 平和観音像前温泉施設跡
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.503803,134.978751 仁井保育所跡
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.531048,134.946763 廃養豚場
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.210746,134.817329 ダントー福良工場跡
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.249639,134.703996
194 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/13(火) 08:17:11.02 ID:eehCyIIb0
かつて出口王仁三郎は、淡路島に来たことはあったんでしょうか?
195 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/13(火) 11:14:45.67 ID:L+N2MFmy0
あれだけ全国巡業したんだから、行っていて当然なんだが さくっと ぐぐったがワカランかったよ 北海道まで来たたんだよ アシベツ山 はクニトコタチさまなのだそう...
196 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/13(火) 23:59:28.47 ID:2XBLGV1e0
>>195 植芝盛平と一緒に満州まで行ったくらいですから、来てても不思議ではないですよね
芙蓉仙人というひとだったかな? 名前を間違えていたら悪い その霊人の導きで 富士山で修業 そのひとと時空を超えて 宇宙の全容から細部に至るまでことごとく知悉 することになった、って これは 普通に暮らしていた日々に到来した他発的なできごとで まだ青年時代に起きたこと だから組織化された おおもと で 神業やっていたときに 淡路にいったかどうか?というより かれは修業を通じて、日本の古代現在未来 行ったことのない場所はなかったはず どの日本の未来に私たちの体はいくのだろうね?
199 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/23(金) 07:29:01.28 ID:jRu3Rq6wO
北部で廃墟や心霊スポットありますか?
淡路というのは重要な位置にあるけれども全然パッとしない。 これは一種のカモフラージュなのではないかと思われるわけです。 時が来れば真価を発揮するという構図が何となく感じられますね。 まあ脇役ではありますが、しかし、淡路なくしては務まりません。
204 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/25(日) 23:09:59.50 ID:TRibr2tu0
>>175 ということは、正負問わず、エネルギーが集まる。
人のマイナスの念も、エネルギーとして集まっているのかもしれない。
近々底が抜けたりして・・・
205 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/25(日) 23:12:17.79 ID:TRibr2tu0
淡路島という栓が抜けて、鳴門の渦に、巻き込まれていくとか。 お風呂の栓を抜いた後、みたいに。
206 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/26(月) 14:03:35.92 ID:rDT4JVWP0
鳴門は、地球の便所? そこを浄化しないと、弥勒の世は、来ないのでは?
207 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/26(月) 18:07:03.78 ID:1qPFIdQy0
208 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/26(月) 23:52:52.29 ID:UwZIWpt3O
あの道はかなり危ないよ。俺も通った事ある。 北淡の仁井から津名の八浄寺に抜ける道。
こういうのスレチかもしれないけど 神話の国の成り立ちは淡路島からだよね 阪神淡路大震災の時、何でそこなの?と思った時 神の戸が開かれたんだ!って思ったことがあった… すみませんでした。。。
出口王仁三郎も、淡路島には上陸しないで四国で巡教をしています。
211 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/27(火) 13:36:24.88 ID:DrJGrE2D0
淡路島はイングランド、ウェールズの雛形
212 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/27(火) 14:00:39.76 ID:znWM4f64O
神の戸が…は霊崩壊という怪しげな宗教
>>209 左様
渦巻きグルグルで創造を成したわけだが、鳴門はそのなごり。
アワシマは形を成さずグニャグニャだった。
形を成さぬ因(核)であったが最後に琵琶湖から体となる土を持ってきて体とした。
瀬戸内を渓谷として考えると淡路の位置は実に不自然。
侵蝕による左様を考えると淡路は岩山ではないからもっと小さくなっていなくてならんかったのだ。
それがあのサイズで瀬戸内の東側を塞いでいる(守っている)。
故に、霊的核は最初にあったが形となったのは最後発。
怖い話
http://blog.livedoor.jp/namihey777-2ch/archives/51859563.html 907 :名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/08/22(月) 14:06:13.55 ID:Y3RLqhoy0
スレも終わりで読む奴も少ないだろうから書いておこう
怖い思いをしてみたければ淡路島南あわじにあるマンションへ行け
何故か各階のエレベーターホールに公衆電話が置いてある
深夜に4階まで行きエレベーターを一階に戻し、30分程4階の別の場所で時間を潰せ
エレベーターホールに戻るとお前が着くのにあわせてエレベーターがあがってきて
着くと同時に扉が開く
乗らずにいたら30秒程で横にある公衆電話が鳴りだす
忠告しておく、乗ってはいけない、つれていかれる
勇気があるなら電話にでてみろ、保障はないが
【恐怖】既女が語る恐い話【心霊】44
http://blog.livedoor.jp/namihey777-2ch/archives/51832614.html 201 :可愛い奥様 :2011/06/01(水) 11:29:29.65 ID:5XpjtqiI0
ウチの娘が2歳ぐらいのころの話
家族旅行に行った淡路島で
山中で道に迷い夜中に同じ辺りを車で何回もグルグル回るはめになった
途中、古い小さな墓地の前を通ったんだけど
娘が笑いながらそこへ向かって手をふる
しばらくたってまた通りすぎた時も何やらいいながらバイバイしてる
そこで手をふってる何かに向かって返事しているような感じ
ふいに、私がその場が墓地であることに気がつくずっと前から
娘はそこを通るたびに窓の外へ向かって手をふってたんだということに気付いて
運転してる旦那(幽霊なんかからっきし信じない人)もすっかり怖くなって、
どこをどう走ったかわからんけど、とりあえず山の中は脱出できた。
ちなみに成長した娘は本人曰く霊感なんか全くない子ですが
体調とか気候とか色々と細々したことに敏感な子ではあります
216 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/30(金) 07:52:23.83 ID:+8Gc2VXkO
>>214 マンション多すぎてどこに行ってええかわからんがなw
217 :
本当にあった怖い名無し :2011/09/30(金) 19:04:51.35 ID:irmJ1Lwh0
島の最南端近い母親の古い実家では50年前まで土葬してた 葬式やら法事の風習が変わってて興味深い 宗派よりも地域によって風習が違うんだね
>>216 4階以上で各階のエレベーターホールに公衆電話を置いてるマンションだろ?
となれば田舎だから結構限られそうな気がするが…
>>218 土葬ならわかるんだが三萬だっけ?
ため池に死体を捨ててたって本当かな?
>>219 ため池に死体って水葬になるんだろうかw
南の方は田舎だしありそうな話だね
今でもお盆の奉りもの海に流すぐらいだし
>>220 志知奥にある間河瀬池には地蔵あるみたいやけど
昔はやっぱり捨ててたんかなあ?
222 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/01(土) 12:41:21.50 ID:7mG0vCR60
出口王仁三郎の淡路島神業は失敗どころか、関連全て悲劇的な事になった。 淡路島の元井戸は火事の後に埋められ、北伊勢の宮も焼失。 おまけに昨年には、大本の熊野殿も焼失。 まるで呪われてるように、神業に関わる地が火災にあった。 これが日本のひな型なら、これからもっと悲劇が襲うだろう。
224 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/05(水) 18:38:27.04 ID:OLaeix9+0
>>223 男性のみでも、うまくできなかったんだよ。
大本は、出口ナオ氏、王仁三郎氏が、別々に働いていなかったけ?
男女で、息を合わせて行わないと、うまくいかないんだよ。
浪上千代鶴氏や辻恵子氏では力不足なのだろうか?
226 :
343 :2011/10/06(木) 02:42:39.14 ID:p3xgbfOJ0
もう、だめでござる。。。おやすみでござる。
227 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/06(木) 14:07:54.64 ID:MJEfmpm10
228 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/06(木) 14:17:23.36 ID:MJEfmpm10
淡路は中心とはなり得ませんよ。 但し、脇役としては極めて重要です。 何で重要かというと島の形がそれを物語っていますから。 それに、富士を大きく動かすのは淡路(鳴門)の役目ですからね。 淡路が悪い方向に転がると結果は最悪になります。 神の仕組みは一石数鳥。 瀬戸内を守る扉としての役目と、富士を大きく動かす役割を担う。 富士が動いた後に瀬戸内が極めて重要な地域となります。(多分) 時代が大きく変わるときに淡路はとても重要な役を果たすわけです。 方便としての暫定版である東京はどうやら役を終えつつあることを考えると、 時は迫ってきたのかも知れません。
233 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/12(水) 16:47:11.99 ID:tcIwF7mV0
海を支配するであろう淡路富士の岩戸神社は「元井戸」と同様の仕組みになり得る。
234 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/12(水) 23:01:32.40 ID:dDPoVOs20
先山噴火
235 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/13(木) 00:12:46.22 ID:6B+k2bhwO
どあほ
上げが弱すぎるわ 昨日より弱いじゃないか よって、夕方に暴落確定。
>>219-220 コピペですが
------------------------
兵庫の心霊スポット 第16夜
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1257094096/ ---------------------------------------------------
248 名前: 本当にあった怖い名無し 投稿日: 2010/02/21(日) 19:02:27 ID:eAj/xqb40
淡路島の南部、賀集という集落に、
地元でも"出る"と評判の池がある。「美女池」という。
委細は知らないが、その名のとおり女の幽霊がでるのだそうだ。
ちなみに生き埋め事故があった上田池ダムも近くにある。
余談だけど
降水の少ない淡路島は昔からため池やダムが多くて、
近代以前までは生活水、農業用水などに活用されたりと、島民には無くてはならないものだった。
しかしなにも、良い事ばかりに利用されてはいなかったようである。
祖母に聞いた話だが、淡路島では屍体をため池に投棄する習慣があったそうだ。
飢餓や疫病で墓地に埋葬しきれない量の屍がでたときや罪人などを屠ったときにそうしたらしい。
当時そのため池は「三萬」(さんまと読む)と呼ばれ倦厭されていたが、現在知っている者は少ない。
そしてその多くは、未だに名も無き小さなため池として淡路島に散在している。(実家の近くにもある)
バスフィッシングで淡路島に行く人、池に釣り糸をたらす前に周囲を確認しよう。
もし水辺に地蔵が立っていたら、そのため池は「三萬」である。
そういえば俺らの地域の火葬場は昔から「さんま」と呼ばれている。 淡路じゃないけどな。 由来が分からんが焼くときの臭いがサンマを焼いたときの臭いなのだろうと思う。
『さんまい』からきてる『さんま』ではないのかな? サンマ焼いてる匂いの火葬場とか腹減りそう
淡路島在住age
246 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/18(火) 17:52:47.27 ID:jSPo5NQy0
>>238 五体投地くらいしないと、無駄だと思う。
247 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/18(火) 18:38:28.21 ID:fuIq5IGm0
・・・。
松帆浦の淡路島の神様の表玄関口、岩屋恵美須神社「分神」。 「岩屋恵美須神社」の後背の岩山が国生みの舞台?「三対山」。 神社裏側の洞窟は伊弉諾大神の隠れたもうた原初の「幽宮」(墓)の伝承地で岩楠神社が鎮座し「伊弉諾神宮の摂社」。 名勝、「大和島」、「絵島」は三対山の天然の鳥居。夫婦島。 石屋神社は何やら色々と三位一体の御事。 いにしえ、天地大明神と天皇より御名を奉られました。 神功皇后はここ三対山山頂の石屋神社で何やら色々と御祈祷なさりました。 ここはまた、原初の「太陽之道」(淡路島×伊勢国では三本以上が現存)。 東の対岸は住吉大社、信貴山、石上神宮(いそ→いせ)。 石清水八幡宮の冬至の日没方向。 南東遥かには玉置山。
「松帆神社」 御神体は、楠木正成の守護神、八幡大菩薩が出自の八幡宮(公より託された家臣たちが流転の末に1399年創建)。 明治以前は「旗山八幡宮」と号し、爾来、近在一円の総氏神社。 また、ここが本当の三輪山の真西。北緯34度32分。 真南の伊勢久留麻神社は元来はこちらに御鎮座と拝察。 6世紀の敏達年間の創建当時は久留麻神社の現在地は間違いなく海中か波洗う渚。 旗山八幡宮/松帆神社と伊勢久留麻神社はニコイチのような関係かも知れません。 江戸時代後期の淡路島名所図絵に画かれた様は、鄙には稀なる規模や長い松並木の参道、要件、造りが酷似していて、 本殿が丘の中腹(八幡宮)か平地(来馬神社)の違いだけのようにも見えます。 どちらも昭和40年代までの国道や県道の敷設に伴って境内や参道が何ヶ所も寸断されたり、 名所名勝であった根上がり松やクネクネ這い回る松の大木の並木の奇観は松食い虫被害で消え失せて往時の森厳とした 面影は全く有りません(特に伊勢久留麻神社の逼塞ぶりは酷い有り様。境内のど真ん中を新旧国道が分断)。 因みに、久留麻明神さまは楠木正成一党の氏神。 ワケは、富田林鎮座の式内社。 美具久留御魂神社が多分総本社。 楠木正成公ら御一党が崇敬した氏神の一つ。 死地をやっとの事で落ち延びた淡路島で奇しくも久留麻神社(久留御魂神)を見た御一党の感慨と無念いかばかりか・・・。 久留麻神社の楠木正成公の駒止め松の伝説もこの辺りが出自か。
久留麻(来馬)神社の創建理由は史書のB面を読み解けば、欽明、敏達、用明年間は天然痘で度々大疫し、 あまつさえ敏達天皇が罹患により玉体平癒と天下安寧を企図して、 大和朝廷成立より軍事と祭儀を取り仕切っていた物部守屋さま麾下の朝廷の手により奉祭されたものと 愚考し拝察致します(当然ながら名前は異なれども物部氏が信奉する威力あるあの神祇(皇祖神)であるはず)。 「布留部」由良由良、「布留部」。 ひふみゆらゆら・・・ひふみよいむなやここのたり・・・。 伊勢久留麻神社の南北線が原初(六世紀、敏達天皇年間)の近畿の西の結界の模様。 ・・・神社仏閣などが海を越えて直列に整列。 「潮鳴山」が南北線のランドマークの模様(石屋神社の西)、子午線はこの南北線の近傍(若干東側)に位置します。 久留麻神社の祭神はいつの頃からか大日霊女貴命(大卑弥呼女王)ですが、 勧請元の久留真神社が大己貴命、須世理姫命ですから改竄や伊勢国からの勧請と言う事で勘違いが生じたものか、 しかしながら個人的には様々なお印から別な神様(皇祖神♂)ではないかと愚考いたしております。 境内社に弁天社、愛宕神社、猿田彦神社、伊弉諾神社、稲荷明神が鎮座坐す。 弁財天こと、市杵嶋姫命は伊弉諾大神の御孫姫神様にて、共に一伝天照大神とも。 市杵嶋姫命は別名を「狭依姫命」と奉り、 その御名からは日巫女(日霊女貴)さまで在らせられたご様子。 また、天鈿女命さまであらせられます。 神奈備、ランドマークは西南西後背の小高い山。 通称、「愛宕山」(山頂に愛宕神社/久留麻神社境内社の愛宕神社は浜宮の遥拝所)。 愛宕山と久留麻神社は伊弉諾神宮の夏至の日の出方向。 この愛宕山はまた京都愛宕山/愛宕神社の裏鬼門。 三輪山よりも二上山のラインに近いかも・・・。
蛭子エビスさま有縁の三社詣りはいかが? 蛭子エビスさまはイザナギ命とイザナミ命のハネムーンベイビーの第一子で淡路島生まれ。 淡路島北端の岩屋地区に御鎮座の岩屋恵比寿神社が元エビス。 この奥、岩壁下の洞窟には岩樟神社(エビスさまはこちらでお生まれに・・・伊弉諾大神の幽宮伝承があり同神宮摂社)。 この岩屋(松帆浦には岩屋恵比寿神社の分神が明石海峡に向かって建っています)の海岸から岩樟舟に乗せられて・・・。 次は、神戸の和田岬の和田神社(第一漂着地伝承)。 最後は、言わずもがなの西宮戎神社(和田岬〜鳴尾浜に・・・)。 古来、船渡御では鳴尾浜〜和田岬沖まで巡幸。 ちなみに、石屋と書いて「いわや」と呼びます。 石屋神社は「いわや」神社と呼びます。 現在、石屋神社と岩屋恵比寿神社は別々の場所に有りますが、 元は同じ岩屋恵比寿神社と同じ岩山、三対山(通称、城山の)の山上と山麓に有りました(神功皇后有縁)。
淡路島北端の淡路市岩屋地区 石屋(いわや)神社には天地大明神として国常立尊と共に、イザナキ大神、イザナミ大神がご鎮座、奉祭されています。 元は北側一`?の岩山。通称、城山の三対山にご鎮座。戦国時代に池田氏により岩屋城築城の為に現在地に遷坐されました。 三対山麓には洞窟(古代祭祀の痕跡〜イザナキ様の幽宮伝承)の岩楠神社。前には恵比須神社(元エビス伝承)が、 真東の対岸、同一緯度上には住吉大社〜信貴山〜法隆寺〜石上神宮等が数珠繋ぎ。の『太陽の道』の一つ。 近隣には、オノコロ島の比定地の一つ、神代、万葉〜の名勝『絵島』、大和島他、国生み神話の舞台装置が多数有ります。 この石屋神社には全国で唯一、拝殿の天井に方位を示す十二支円盤に『方位磁石』が取付られています。 由来、いわくは不明です。
此処が三輪山の真西。太陽の道ドンピシャ。 件の線は隣の元神宮寺との間にある模様(ケータイのGPSで計測)。 本殿から海までが本来の境内と参道です。 県道と国道が境内を三カ所も分断して現在のお姿に(伊勢久留真神社も同じく)。(怒) 明治期の神仏判然令により現在の松帆神社と社名変更。 八幡さまは、神さまで有りながら菩薩様と言う神仏混交の精華でした。 旧称は、「旗山八幡宮」 //後背の神奈備山を仰ぎ見るとなんとも言えない気持ちに成ります。 境内を振り返って東の方、三輪山やお伊勢さま他にご挨拶しています(伊勢久留真神社でも)。 本殿脇には宇治皇子社。 高良神社(武内宿禰)。 仁徳天皇社(仁徳天皇陵は東対岸やや北に)。 松尾神社。 末社に、天満宮。[疱瘡社。金毘羅社。祖霊社]。猿田彦神社。 昔の名所図絵には海浜近くに舟玉社が描かれていましたが、金毘羅さまの事? 往時には境内や周辺には枝がグニャグニャと曲がった大木の根上がり松が沢山有ってその奇観が名物、名所でしたが松食い虫により枯死。 これにまつわる民話が有ります。 ・・・ある時、旧暦の10月の楽しい出雲詣でツアーにこの旗山八幡宮が淡路島の八幡さま方の集合場所になりまして、 期日にえらい早朝から三々五々、津々浦々村里から八幡さまが境内にご到着。 旧知の仲間、御同輩で近況や世間話、氏子からの祭祀に花が咲いて門前市を成すの賑わい でも、肝心の家主の旗山八幡宮の八幡さまが何時までたっても出て来ません。 神さま方が松に腰掛けて待ってたのですが余りに待っていたため神さま方の重みで枝が次第にグニャリと曲がったとか。 そうこうしていると奥からやっと当の旗山八幡さまがばつの悪そうな呈て゛お出ましに。 皆から色々言われて・・・ 取りまとめ役の八幡さまの「まあ、皆さん揃った事やし、 岩屋の八幡さんや他の神さん方も総集合場所の松帆浦のえべっさんとこ(恵比寿神社分祠。淡路島の北の玄関。 参道はなく鳥居の外は即、明石海峡)で大分お待たせしてるよってにソロソロ連れもっていきまひょか?」と鶴の一声でガヤガヤ賑わしくご出発。 ・・・ また、丁度この辺りは狐狸に騙された話がイッパイ。
255 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/23(日) 15:40:46.36 ID:OPYtfyB80
先山は、イザナギノミコト、イザナミノミコトの二神が最初に創ったとところから名づけられたという。 これが鳴門の渦潮と繋がっている理由。渦目が富士。
256 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/24(月) 00:06:33.49 ID:9Gq77z2m0
松やには、船の防腐剤・水漏れを防ぐもの・塗装で使われていたみたいですね。 今の船の防錆剤・塗装が、環境ホルモンを出しているとか・・・ そして、海の生態系で濃縮されて、母親の母乳にも影響しているとか・・・ 結果、奇形児・障害児が生まれてしまう。 つながっているね。。。
258 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/24(月) 21:31:09.83 ID:bUb56y/k0
259 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/26(水) 19:41:51.31 ID:mmTlF4970
月刊ムー 11月号
http://www.fujisan.co.jp/product/2614/ オノゴロ島にやってきた古代イスラエル人の足跡を追う!!
淡路島のユダヤ人遺跡
文=菅田正昭
記紀神話に登場する淡路島は昔から古代ユダヤ人が渡来した地ともいわれている。
その説を裏づけるように、淡路島では古代ユダヤ人の遺跡が数多く発掘されている。
そのひとつが、洲本市にある四州園の女陰石だ。
260 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/27(木) 21:57:27.41 ID:L2q0zVvf0
261 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/28(金) 20:09:32.97 ID:xx6aLikQ0
262 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/29(土) 20:53:35.39 ID:TpJYrET50
263 :
本当にあった怖い名無し :2011/10/30(日) 20:38:58.61 ID:JW6TMP3L0
お前、オモロい
266 :
本当にあった怖い名無し :2011/11/08(火) 20:39:42.49 ID:3JIeIoAq0
267 :
本当にあった怖い名無し :2011/11/10(木) 21:42:11.68 ID:YPh9Nh4G0
日本の放射能汚染を狙う悪神の計画〜出口王仁三郎は「霊界物語」で予言していた。放射能消す技術も
http://ameblo.jp/yellows16/entry-11053897454.html (引用開始)
「放射能(死の灰)を消す秘法がたった1つ日本に伝えら
れている。「ミトロカエシ」という秘法である。ミトロカエシには。
ナゾの超高速粒子アマハヤミが使われるという。
「ミトロカエシの秘法」は、鉛や水銀を金に変える錬金術の
秘薬「賢者の石」に関係するとAは述べる。すると「賢者の
石」は、死の灰を消すのか。
またミトロカエシの秘法は、妙義山で発見された青い鉱石
に関係しているという。その青い鉱石は大本裏神業で、
淡路島か発見された(以下・・・続く)」
(引用終了)
270 :
本当にあった怖い名無し :2011/11/21(月) 16:49:19.88 ID:iaV7HIlo0
淡路島って「じわじわ島」と似てるよね 響きが
271 :
本当にあった怖い名無し :2011/11/22(火) 01:30:34.36 ID:3GTVZoJ1O
住みたくはないな。
淡路島イイトコロアルヨ。
273 :
本当にあった怖い名無し :2011/11/24(木) 18:25:25.76 ID:DVVwctMq0
sage
sage
276 :
ミス花子 :2011/11/29(火) 20:07:42.61 ID:eHB2tBbrO
♪東京よりも 大阪の方が 淡路島に近い〜♪
阿波の道〜♪
278 :
本当にあった怖い名無し :2011/12/06(火) 17:34:26.36 ID:o8S8cPrj0
淡路島起源説
280 :
本当にあった怖い名無し :2011/12/15(木) 19:23:11.32 ID:HnaJAY8wO
280
淡路島発祥説
海底から見上げると凄く高い山、それが淡路島 こんな狭い湾内に何処にも陸続き(半島、岬)じゃない島なんて 地震の巣以外他無
283 :
本当にあった怖い名無し :2011/12/20(火) 18:03:24.68 ID:zzJSvdQ70
日本海と太平洋上に結ばれた線は 結界を表しているのですか
285 :
本当にあった怖い名無し :2012/01/01(日) 11:43:55.57 ID:mnItlqjy0
南海トラフと淡路島
いよいよ2012年へ突入
いまさら4日にと突っ込もうと思ったが仕事始めのことか? でも民間の会社は5日からが多いみたいよ
俺なんか暮れから働き詰めで、明日からやっと正月休みだ
お疲れさまでした ゆっくり休んでくださいね 今は淡路も寒いのかな 淡路を離れて20数年、北関東の冬は寒すぎるよ
郵便局員とかそうだな
292 :
本当にあった怖い名無し :2012/01/13(金) 18:12:48.61 ID:isI4ZmdrQ
子午線は畿内の西結界。 古代には明石の岩屋神社(成務天皇の勅命により淡路島北端の石屋神社=三対山(洞窟は伊弉諾尊の幽宮伝承地)より御神体を奉迎して創建) の南北線が西の結界。 北の遥か神出の雄丘山(伊弉諾尊)と雌丘山(伊弉冉尊)。 特に雌丘山は子午線が通り重要かも。 淡路島のランドマークが汐鳴山。東側が石屋神社。 その南に 素戔嗚神社、 真言宗別格本山、本福寺(安藤忠雄氏の設計により本殿の上に蓮池を配置した「水御堂」となり有名に。三洋電機創業家の菩提寺。同社の物故者慰霊所)、 松帆神社(旗山八幡宮。1399年に楠木正成公有縁の八幡大菩薩(八幡大神)を遷座し創建。湊川神社、京都は方面は鬼門。三輪山の真西)、 伊勢久留麻神社(式内社。淡路三宮。六世紀末の創建。本殿脇社に伊弉諾尊が坐す。)、 仮屋の寺社群ほかが整列。
293 :
本当にあった怖い名無し :2012/01/22(日) 12:10:44.39 ID:hrP/6jqv0
琵琶湖には還流が渦巻くことから、鳴門の渦潮に通じる水脈がスリップしたもの。
国之常立神復活!
295 :
本当にあった怖い名無し :2012/01/26(木) 14:41:36.32 ID:/Tye8rqv0
洲本で生まれ小学校までいて記憶はかなり残ってるが 太郎池の記憶がまったく無い 何でだろ ちなみに住んでたのは上物部
>>296 釣りに行かないとあんまり行かないんじゃない?
ちなみに上物部
299 :
本当にあった怖い名無し :2012/02/17(金) 21:59:21.76 ID:TkuQQwON0
淡路に漂着したが 移動してるね そこは住むところではないから
300get
>>299 気候風土は申し分ないと思うが
移動したのは、人が少なかったから?
302 :
本当にあった怖い名無し :2012/02/19(日) 20:33:48.42 ID:7gJitwyr0
>>301 戎の霊がでるからだよ
約束の地が他だからそんだけ
303 :
本当にあった怖い名無し :2012/02/19(日) 21:00:43.62 ID:/at4y0/vO
知り合いの霊感持ちさんの師匠は淡路島で充電するらしい もちろん普段は近所のパワースポットで力を借りたりするらしいが どうにもいかない時は淡路島らしい 詳しい場所は教えて貰えなかったけど どこか察しがつく霊感持ちさんいらっしゃいますか?
鬼神山の八畳岩(旧淡路町の民話)
http://www.yumekaiyu.com/blog/log/eid120.html 鬼神山にはその昔、夜ごと浜に降りては、人家を襲い人を誘っては、その血をすすり肉を喰らった恐ろしい鬼が隠れ住んでいたと言います。
また、その鬼も平家の落人に退治されてしまったとも言われています。
人も寄りつかなかったこの人里離れた山中に、岩屋のP戸の流人か、天狗か、鬼かが住んでいたらしく、八畳岩の辺りには、貝殻が沢山落ちていて人々の想像を搔き立てたものです。
305 :
本当にあった怖い名無し :2012/02/23(木) 22:23:09.10 ID:ItZBj5hN0
>>303 大体低級霊憑きで稲荷などの物の怪関係だよ
淡島
淡州
>曲田山の廃墟 廃墟が霊的なスポットかどうかは知らないが、近くの公園では たまに首吊り自殺する人がいた 今は知らんが とりあえず、曲田山周辺は霊的なスポットは多いとされています 神社関係とか不思議な出来事が起こる場所とか >花立トンネル >横尾トンネル 島の東西を抜けるトンネルがその2つしかないし、 島の中央は山中になるので気味が悪いのは当然ということもあって かなり虚飾されてる部分は大きいと思う 事故が多いのは無理なカーブが多く、道も狭く、電灯も少ないからです 個人的に怖い思いをしたのは淡路島の南端付近の入り組んだ狭い道を 車でぐるぐる廻ったときだった
曲田山には物部氏由来の古墳がある
310 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/01(木) 01:44:16.23 ID:djWyeZv90
>>308 沼島から福良へ向かう地域か?
あの辺りは何もない地滑り地帯って感じだけど、
確かに山の中走ってると不思議な感じはするな。
つーか、諭鶴羽山を中心に南あわじ市の下半分(ほぼ山)はなにかオーラあるな。
柏原山にある廃墟化した牧場跡地も不気味なオーラを放ってる。 あそこ絶対に何か出るな。
柏原山ってほんと人気(ひとけ)ないよね 駐車広場付近ですら閑散としてて怖い
諭鶴羽周辺は神々しい意味でのオーラ包まれてて、変な心霊スポットとして 扱うのはちょっと問題あるような気がする。
諭鶴羽神社行きたいんだけど、灘側と三原側のどちらから行けばいいですか? 車で行きたいんですが・・・
>>308 >>312 廃墟サイト見回してみても曲田山の廃墟と山竹牧場の情報がどこにもない・・・
龍宮園とか若人の広場とか有名な廃墟しか載ってないんだよね・・・
>>315 普通は三原側からでしょう
318 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/06(火) 14:44:02.41 ID:sSzKvkqr0
319 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/06(火) 14:58:51.07 ID:zukjx9nX0
どっちも神話だからな。あたりまえだ
淡路島は近畿の結界ポイントやな。 震災以降、結界は機能停止したけど。
>>317 そのサイトは知ってるというよりそこで廃墟の存在を知った
ただ有名な廃墟サイトには載ってないんだよね・・・
それと
>>153 の廃墟も廃墟マニアを惹きつけるような外観なのに廃墟サイトには載ってない・・・
どの廃墟サイトを見ても国道28号線を中心に探索してるみたい
寧ろ廃墟探索なら播磨灘側だと思うんだけどね
>>321 曲田山はマイナーだからな
誰もが気軽に行ける山でもないし、なにより交通の便が悪い
入り口もわかりにくいし、
周囲は何もない田舎というより住宅街だしね
>>153 の廃墟は何度も目にしてるけど、別に怖くない
周囲に霊的に怖く感じるようなところのない、素朴な小さい漁村と農家の
近くだからね
廃墟探索、確かに西浦のほうがありそう
28号線は活気ありすぎて恐怖心下がるしね
>>322 曲田山は安覚寺が管理してる墓地が広がってるからね。
山の麓には防空壕もあるし、緑は手付かず生え放題、でも嫌な気はしないよ。
三熊山の駐車場とか、ニューアワジに抜ける急カーブのがドキドキする
>>323 同意
三熊山には武士の霊が出ると有名だけど、別にそこまで怖くない。
出仕してた場に武士がでるんだからまっとうといえばまっとうだし。
むしろ洲本城からサントピアへ下りていく道だとかのほうが怖いよな。
駐車場は俺もなんとなく怖い。
>>324 あの道怖いね。カーブ事故が多いからそういうのが寄ってるんだと思う。
三熊山はむかし競馬場もあったから、賭けに負けた人の怨念のが強いんじゃねw
よく曲田山の水路でサワガニとったり、津田の段々畑で遊んだよ。
あそこは地元の仏さんがたくさん祀られてるから、変な霊はそんなにいないと思うけどね。
>>325 わかる
津田周辺って実は洲本では本当に住みやすい環境の一つ
曲田山公園付近以外は怖くないと思う
旧神代建設廃墟ってどこやねん?
淡路に○○地区ってあるのん?
>>329 どういう意図で聞いてるかは知らんが、
淡路は多いことで知られる兵庫県の中でも少ないところだよ
淡路は夙など雑芸能関係の部落が多いね 穢多部落や朝鮮部落はなかったと思う
>>331 雑芸能関係以外にも存在するけど、少ない
流罪関連にしても淡路には犯罪者じゃなくて、皇族が政争に負けてってパタンだしね
北海道、沖縄、小さな離島等を除いて幕府の支配が及んでいたところにはある
333 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/16(金) 21:04:11.42 ID:LyycHFx6O
勉強になります
オッスオッス
335 :
137 :2012/03/24(土) 09:13:38.14 ID:ZEDQT5vz0
油谷=ユダヤ 本当?
336 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/29(木) 10:56:49.49 ID:EkADlDDs0
337 :
トニー力が出ないよーグレイト君もタイガーだ :2012/03/29(木) 11:02:09.54 ID:UuSnD7iY0
何でも淡路島が世界の救世主になるようだぜ。面白そうなお話だなおい。
339 :
本当にあった怖い名無し :2012/03/29(木) 13:19:08.20 ID:EkADlDDs0
>>338 「防妖」とか「封呪」って書かれたものもあったから、魔除けか何かかと思った
鳥居に書かれてる文字は全部違ってて、中には壊れてるものもあった
大きさは高さ20cmくらい、確認出来ただけで20個以上
道沿いに並んで海側の茂みに立てられてた
>>339 あれ普通にゴミの不法投棄の防止だと思っていつも通ってたわ
その位ゴミの不法投棄目立つから。電波少年のゴミ掃除思い出す
ゴミ投棄防止結界
鳥居に書かれてる文字はそれぞれ違うんだよね。 ホントなんなんだろう、あれ。
いや、だからゴミ投棄防止策...........
マジでゴミ投棄帽子結界なの?www なんという大袈裟なwww でも、確かにあんなのあったら祟られそうでゴミ捨て辛いかもね
よほど投棄ひどかったんでしょ まぁ、立小便禁止なんかでもふつーにミニ鳥居おくしな 別に珍しいことじゃない
先日行ってきた。 おのころ島神社といざなぎ神宮は、まぎれもなく超パワースポットだった。 伊勢神宮や出雲大社に並ぶ神社のはずなのに、なんだかマイナー感があるよね。
元井戸にも行ってみよう。
国之常立神
王仁三郎
350 :
346 :2012/05/02(水) 12:49:52.24 ID:x6A5ym8/O
お土産に買ってきた淡路島玉ねぎ美味い。
351 :
本当にあった怖い名無し :2012/05/04(金) 20:57:05.23 ID:9lAcQa0J0
へー
淡路島をバイクで走るついでに、おのころ神社と天浮き橋を見に行ってきた 何ていうか、期待ハズレだった 特に天浮き橋、最初気づかずに通り過ぎた。しかも、お供え物か知らないけどワンカップのお酒が1つだけポツンと置かれてたし
葦原国の鳥居は行かなかったの?
355 :
本当にあった怖い名無し :2012/05/15(火) 07:19:39.13 ID:NJEm9G2h0
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 2 森と記憶―淡路島の大地震の体験と出来事
「天災は忘れた頃にやって来る」という、みなさんがよくご存じのことばは、
日本人が持っている災害についての深い知識を私に思い起こさせてくれます。
この知識は、人間と環境との相互作用の賜物です。しかしこれは、環境の絶え間のない変更と、
地方の過疎化、都市部における人口の過密化などとともに、いくらか再考を必要とするようになってきました。
ところでいま、私が知識といった時に、これが意味しているのは、通常は、宗教と呼ばれている文化の一側面を指しています。
これから、私は、荒神信仰として表現された民間信仰が、1995年に発生した阪神淡路大震災に際して、
淡路島北部の島民の間で、どのようにして、彼らが体験した破局を説明するための装置となったかについて紹介していきます。
言い換えると、荒神信仰は、大地、もしくは島の、地質学的特徴についての、具体的に表現された知識を象徴するものなのです。
この物語は、淡路島の北淡町から始まります。淡路島は、日本の文化的記憶にとって極めて重要な地域です。 日本神話の中では、アマテラスオオミカミ〔=天照大神〕が、天皇家の祖先神であるとされていますね。 『古事記』では、淡路島は、アマテラスオオミカミの両親である、イザナギ・イザナミの二柱の神々が、最初に生んだ島と書かれています。 『万葉集』では、淡路島は「御食国」とされ、食べ物が豊富で、島民たちは奈良の天皇に食べ物を貢納していたとされています。 この島はまた、古代から後世に至るまで、中国大陸や朝鮮半島と行き来する際に、海を航海する人たちにとって、 重要な目印であり、中継地でした。淡路島は、本当に特別な「場」であったのです。 しかし、中世においては、淡路島は、本州から四国の阿波へ旅する際の単なる通り道でした。 現在では、淡路島は、明石海峡大橋によって本州に結び付けられています。 この橋が架けられる30年以上前、すなわち、1970年代から1990年代にかけて、インフラストラクチャーの革命が北淡町で起こりました。 淡路島の北部は、兵庫県、特に神戸市の市街地の土地の拡張と再構築のための資材の供給地になりました。 1970年代から、多くの盛り土が北淡町の丘の地表からはがされました。 その結果として、丘陵地帯だった町は平坦になり、谷と平野が大きく広がるようになりました。 また、切り崩されてテラス状になった地域もあります。さて、ここで、土地利用について見てみましょう。
1. たとえば、1975年から2005年の間に、居住地域である可住地面積が27.552平方kmから32.594平方kmと、 おおよそ5.042平方km拡大したことを含めて、牧草地が増加しました。 この増加は、丘陵部の掘削に原因があり、それゆえ、平坦地の拡大を意味しています。 もとの高台の土地から、それと等しい平坦な土地に換算するための手続きに問題があるため、 実際には、以前の丘陵地帯の所有者の多くは、自分たちの取り分を手に入れていません。 拡大した平坦地の下の大きな凸凹のわだちの跡は、日本のバブル経済がはじける前の投機の結果を象徴しています。 土地投機家たちは、ゴルフコースや別荘地の開発を計画していました。 バブル経済がはじけた時、投機家たちは淡路島経済を破産させたまま去っていきました。 要するに居住地・牧草地は、1975年を100とすると、2005年には約1.18倍に拡大したことになります。 2. 森林地域が削られた結果、かつて12.179平方kmあったものが8.619平方kmへと、ほぼ3.56平方km減少しました。 すなわち森林地の場合、1975年を100とすると、2005年には70.7へと減少したことになります。 3. もう一つの興味深い変化は、農地が減少し、造園地が増加したことです。農地は0.888平方km減少しました。 すなわち8.453平方kmから7.665平方kmへと減少しました。つまり、農地は1975年を100とすると、2005年には95に減少しました。 4. 造園地は1.381平方kmから3,240平方kmへ、すなわち1.859平方km増加しました。 1975年を100とすると、造園地は、2005年には234に拡大しました。 造園地が好まれて農地が放棄されるということは、コミュニティが老齢化して後継者がいないことを示しています。
北淡町のインフラストラクチャーに関係した最初の大きな観光産業は、今日も存続している1964年に建設されたゴルフコースでした。 1970年代の直前には、斗の内地区の周辺で巨大なベルトコンベアーによる、丘陵から輸送船へと直接に土砂を運び出す事業が始まりました。 これらの丘陵から採取された土砂は、関西国際空港の建設に際し、大阪湾を埋め立てるために使われました。 これは1980年代の後半まで続きました。 1970年代初期、島内の交通は、山々を切り開いて、島の東海岸から西海岸へと島を横切る斗ノ内バイパスが建設されたことによって再編成されました。 豊島地区の採掘操業を奨励する記述のなかで、1971年の写真の見出しは、毎日のように際限なく森が消えていくことを 「豊島では開発の波が押し寄せ、緑は日一日と消えていく」と表現されています。 このような「破壊」が続いた結果、淡路島の住民は1973年には、仁井地区に空港を建設する計画に対する反対運動を起こしました。 しかし、北淡町の浅野出身の野心家で、国会議員であった原健三郎氏は、 淡路島と本州を結び付ける橋を建設するように国土交通省を説き伏せることに成功しました。 その地鎮祭が1986年に行われました。10年の後、淡路島を通る本州・四国連絡橋が開通しました。
しかし、その1年前の1995年、マグニチュード7.2という大地震が関西地方を襲いました。 震源地が淡路島にあったことから、この地震は、後に阪神・淡路大震災と命名されました。 淡路島では、野島断層と名付けられた活断層が発見されました。 野島断層は、北の江埼灯台から南の野島川に至るまで、南北に約7kmにわたって続いている断層です。 断層は二つに枝分かれしており、長い方の断層は豊島の南部に向かって断続的に続いていて、 全体で約10kmに及ぶ活断層をなしています(中田高・岡田篤正〔編〕『野島断層』一九九九、一三五―六)。 地震から11ヵ月後の12月12日から18日にかけて北淡町の各地で行われた毎年恒例のお祭りの儀礼に際して、 祭司を勤めていた僧侶は、数多くの荒神様が断層に沿って分布していることに気づきました。 「環境破壊」が最も激しかった時期の出来事と年代を示した図をご覧下さい。 ここにご紹介したお坊さんのように、この地域の住民の多くは、荒神様の怒りは北淡町の土地を丸裸にしてしまったことの結果であると信じました。 1997年の1月には、荒神様の怒りという噂が広まっていたと私は考えております。 この1年後には、実際の断層と、断層によって倒壊した家屋を保存した震災記念公園が建設されました。 ここには、震災の被害の様子を展示する展示館もあります。 さらに2年後には、震災記念公園の職員が、北淡町の教育委員会の職員に断層に沿って存在している七つの荒神様の祠を調査するように依頼しました。 荒神様の写真が撮影され、荒神様の祠に関する短い報告書が作成されました。 しかし、報告書の執筆者によると、荒神様が断層線に沿って存在しているという現象に触れた資料や文献を何も発見できなかったということです。 結局、この調査は、この短い報告書が出されただけで終わってしまいました。
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 3 破壊と祟り
荒神さんは荒神山とも書かれ、荒ぶる神の宿る山という意味になります。
一般には荒神さんと言われ、「さん」(または「様」)は敬称で、「尊いお方」を意味することになります。
蟇ノ浦出身のインフォーマントによると、荒神山とは、荒神さんの社が祀られている丘の上の場所だそうです。
この二つの言葉は、「さん」という発音に当てられた同音異義語ですね。荒神さんは、土地の神様です。
日本の、他の多くの場所と同じように、蟇ノ浦でも、これは妥当な見方です。
『日本民俗事典』(一九八六、一六四―五、二四五)の記述によれば、荒神さんとは、竈神を指し示す囲炉裏の神様だそうです。
みなさんがご存じのように、日本の伝統的な家屋では、台所は土を突き固めて作られていました。
近畿地方では、それは荒神様と呼ばれており、その性格は、火の神様、同族の守り神、部落の守り神、
あるいは、家の敷地の、つまり屋敷の神様、などとされています。
全体として、それは、血縁でつながっているか、隣接する場所を共有している世帯、
もしくは世帯の集団を包み込んでいる特定の場所の神を意味しています。
荒神さんは、普通、東に面した丘陵地域の森に位置しているか、台所の供物台の上にあります。
荒神信仰は、北日本から、沖縄まで広範囲に分布しています。
瀬戸内の島々や、九州、中部地方では、一般に、荒神さんは土地の神として知られており、荒ぶる神とされています。
大分県では、旦那さんは、奥さんが怒っている状態にある時、それを荒神さんと呼ぶそうです。
本質的には、荒神は、台所の神で、特に水の神であるようです。
すべての村に共通しているのは、荒神さんの存在している地域への女性の立ち入りを禁止していることです。
このタブーに関しては、原因不明の病気に悩むことになった地方新聞の記者についての有名な話があります。
彼女は、朝の六時から始まる荒神祭りを取材しようとして、その準備のために一人で早朝の三時に荒神様のある場所に行ったそうです。
それからというもの、彼女は、原因の診断がつかない病気に悩まされたということです。
直江広治氏(『淡路島の民俗』一九七四、二八二―三)によると、二つのタイプの荒神信仰が存在しているそうです。 すなわち、一つは、屋内、もしくは台所に見出されるもので、三宝荒神の信仰と呼ばれて敬われているものです。 もう一つは、家屋の外に存在しているもので、部落神、同族神、組神、株神、屋敷神といったものです。 これらのなかで、淡路島で見出されるのは、部落神と組神だけです。 荒神を祭る祭祀が継続されないと、何か悪いことが起こるという信仰があります。 荒神森という場所があって、そこには、儀礼の主要な部分が行われる小さな祠が祀られています。 淡路島北部の島民の先祖は、野島断層について知っていたのではないかという議論は、 荒神様の祠の環境を検討してみると何らかの信憑性が生じてきます。 私たちは、丘陵は何万年も前に起こった地底からの隆起によって形成されたものであることを地理学で学びます。 地震が、いくつもの丘陵や山岳を消滅させることがありますが、同時に、それらを創り出すこともあります。 北淡町では、長年にわたる丘陵や森林などの自然の破壊によって、荒神様の祠のいくつかが掘り返されてむき出しの状態となり、 そうでないものも、適当な避難場所に移転させられました。 私は、これらの森に覆われた丘陵に住んでいる神々の典型的なものに光を当てようと思います。 そうすると、石上の荒神様が典型的なもので、おそらくそれは他の祠よりも、もっと古いものだと思われます。 私の考えでは、荒神様の祠の理想的な形は、富島の石田にある荒神様のように森に覆われた丘に位置しているものだと思われます。 この写真では、荒神様は女性の立ち入りが厳重に禁止されている丘の上に存在していることを示しています。 轟のように丘陵が卓越している地域では、海を見晴らすことのできる丘の上に荒神様の祠が祀ってあります。 蟇ノ浦では、荒神様の祠は氏族の第二の埋葬地に程近い森に覆われた丘の上にあります。 それで、これら三つの例は、これらの荒神様の祠が緑に覆われているか、森になった高い場所にあることを示しています。
しかし、すでに言及しましたように、丘陵のいくつかは平坦にされてしまい、 祠の他の地への避難と、荒神様の住まいの雰囲気の変化を招きました。 小倉の祠の場合は悲惨な例です。小倉の長畠地区の河野さん一家のお話によると、丘の上の場所には四軒の世帯が住んでいました。 彼らの山の居住地域では、1970年(昭和45)から神戸製鋼により、 西宮と大阪湾に使用するための土地掘削が始まり、それが、約10年間続きました。 荒神様のお社は、保護のために、20年間にわたって近くの場所に移転されていました。 1989年の平成時代の初めから、再び、ここの土砂は、関西国際空港の建設に使用されるようになりました。 そして平成になってお社は現在の場所に帰ってきました。 しかし、1995年の地震がお社に沿って通り過ぎていきました。 そして、この地域一帯は地震の記憶を保存する記念公園を作るために政府によって買い上げられました。 1998年の記念公園の完成により、敷地のなかの他の四つの神聖視されている神々を含めて、 荒神様の新しい社は、現在では、誰でも見る事が出来るようになっています。 これは、荒神様の石の目印が現在どのように見えているのかの様子です。 他の暴かれてしまったものに較べれば、この祠はまだ運の良い方だと思われます。 私は、時に、隠されていない、あるいは剥き出しにされてしまった荒神様は、 その正体が暴露されてしまったことによって、その力を失ってしまったと考えたくなります。 なぜなら、それらは、もはや森に覆われた丘の上の聖域ではなく、 そこに行くための舗装された道路に付属している平地の開かれた場所にあるからです。 神秘的な何かは、どこかへ去ってしまいました。 もちろん、全ての荒神様が同じ不運に見舞われている訳ではありませんが。 かつて舟木の一部である小倉にあった運の良かった荒神様が、舟木の山の神の間に再建されています。 この荒神様は、現在では権現様と不動明王とともに森に覆われた丘を共有しています。 それは、石上神社にある荒神さんと共に崇拝されています。
この荒神様のための森に覆われた特別な丘は、その領域のなかへの女性の立ち入り禁止が厳格に守られている 唯一のものであるという点で、全ての荒神のなかでも別格です。 そこでは、木々の住居と石上さんとお稲荷さんという神々もまた隣り合って保存されています。 北淡町で祭られている全ての荒神様のなかでも、この荒神様は、書き残された文書に基づいて規定されている 最も複雑な儀礼と祭儀で守られています。 この、特別な荒神様は、野島断層の上にはありませんが、それでも、やはり、その近くにあります。 次に、とくに舟木部落の荒神祭りを例として取り上げ、やや詳しく紹介してみたいと思います。 舟木部落には、現在22の世帯が居住していますが、1955年には30世帯が存在していました。 これらの世帯が、この儀礼執行の主体となることになっています。 しかし、現在では、そのうちの21世帯が、儀礼への積極的な参加を続けています。 この参加は、世帯主の奥さんの状況によって左右されます。 時には、家族の中の誰かが亡くなった、というような理由で、ある世帯とそのパートナーになる世帯が参加できないこともあります。 近親者が亡くなった時の喪に服している状態は、ケガレの観念によって不浄であると信じられているからです。 1884年以降は、儀礼のやり方が書き残されるようになりました。 その中には、お供え物の作り方、荒神祭りの準備と実行に責任を負う当番の順番、饗応されるべき食べ物、などが決められています。 それ以来、村の人々は当番の指示に従って役割を果してきています。荒神さん祭りは、二ヵ所で行われてきました。 一ヵ所が石上神社の荒神さんで、もう一ヵ所は、山ノ神の荒神さんです。 これらのコミュニティの森林の丘の二つとも、他の村の守り神です。 石上神社の中には、石上さんとお稲荷さんの祠があると言われていまいますし、 山ノ神の中には、権現さんと不動明王さんがあるそうです。 ここの荒神さんは、もともと小倉にあったのですが、採石に伴って森に覆われた丘は平坦にされてしまい、 そのため、その地域の住民は、現在の場所でお祭りを行うように依頼されたのだそうです。
淡路島における災害と記憶の文化 −荒神信仰を中心に−
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/pdf/fn204.pdf 4 結びに代えて
景色の美しい小島の名前であった野島は、もはや『万葉集』の歌のなかに残っているだけです。
それは、その場所に因んで名づけられた近くの村の名前です。
それから、何百年もたって、この名前は、丘陵地帯の人々の生活に凄まじい破壊をもたらした大地の亀裂の残された傷跡として、
もう一度、今度は永遠に記憶されることになったのです。
大昔の祖先たちは、後世の人々に、危険な場所はどこであるかを知らせるために、そこに荒神の祠を祀ったのでした。
荒ぶる神を喜ばせることは難しいことではありませんでした。
その怒りをなだめるために、12月にお供え物を捧げて儀礼を行い、
祝うことによって、コミュニティは、それを記憶しておくように注意を促されていたのでした。
荒神信仰は、大地、土地、あるいは場の観念が、いかに取り扱われるかが理想的であるかを示しているのです。
この考察は、私に、糸魚川から静岡にかけて走っている日本列島最大の断層で、本州を二つの地理的なエリア、
すなわち東の関東と西の関西、に分割しているフォッサ・マグナについての類似した見方を思い起こさせてくれました。
30年以上前の日本の人類学者によると、地質学的な分割は、文化的な分割に対応していると言われています。
すなわち、東日本の文化は家を中心とする見方で理解できるのに対して、西半分のそれは、組や講、座の存在によって理解できるというのです。
私たちはこの見方を民俗的と呼ぶかもしれません。
しかし、それはまた、長期にわたる文明のなかで、自然環境と社会環境の調和を通して、
日本人がどのようにしてその知識を蓄えてきたかを理解するもう一つの道となるかもしれません。
数十年前の民俗の消滅についての柳田國男の嘆きは、人々が、1930年代における、 日本の急速な近代化に吸収された工場労働者の単なる一人となってしまうならば、 私たちの祖先が残してくれたものを、学ぶことはないだろうという意味でした。 しかし、阪神・淡路大震災の後に、彼らは、もう一度声を発したのです。 今こそ、私たちは、民衆の叡智に耳を傾け、再考する時ではないでしょうか。 文化の解釈者としての私の作業は、私自身に、森や自然の破壊、祟り、そして共同体のあり方について考えさせてくれました。 淡路島の人々の経験を通して、森は、荒神様のお住まいになっている神聖な茂みとして再来しました。 地の神様は、他の人々が自分達の島を建設しようとしたことによってその住まいから追い立てられて、淡路島の森の自然破壊が生じました。 淡路島を真っ二つに引き裂いた一九九五年の阪神淡路大震災は、 何千年にもわたって荒神様が守ってきた自然の無差別な破壊に対する祟りであると解釈されました。 毎年のお祭りの体験のなかで、荒神様を讃える儀礼を通して、人々は、荒神さまの「力」を私達の周囲の環境を守っているものとして理解し、 このことにより地域共同体が存続してきました。
荒神様の祟りじゃあ!
30年ぐらい前に洲本第3小学校に大きなトイレがあった そこにある和式便器が緑色に変色していて何時の間にか周りで便器から緑の手が出て追いかけてくると噂になって トイレを我慢してお漏らしする奴がいた 保育園の隣りにある2階建ての校舎があった場所に元トイレがあった
今はないのか
腐緑便所
【ミステリー】兵庫・三熊山に謎のカレーの匂い 正体つかめず
http://www.asahi.com/food/news/OSK201205270010.html 洲本城がある三熊山の山中で、「プ〜ン」と、カレーの匂いが漂う、という。日によって匂ったり匂わなかったり、
場所も違ったりして“神出鬼没”。早朝登山の人たちは「皿とスプーンを持ってこんと」と、冗談を言いながら登っている。
三熊山登山会のメンバーは朝早く山道を上り、6時半からお城の広場でラジオ体操をするのが三十年来の習わしだ。
「カレーの匂いに気付いたのは、10年ほど前」とメンバーたち。 今シーズンは4月末から、匂っている。去年は
まったく匂わなかった。特に雨の翌日によく匂い、間もなく訪れる梅雨のころが「本番」だそうだ。
同市下内膳の東田弘さん(78)、千代子さん(74)夫婦は三熊山とは20年近い付き合い。千代子さんは「山では
木の花の匂い、タケノコのゆでたような匂いなど、いろいろ匂いがする。でも、カレーの匂いは特別」。
仲間内では、10年間毎日、夜間登山で午前0時きっかりに記帳し続けた女性、100歳近くまで登っていた男性と
「カレー」を、“三熊山の三大不思議”と呼ぶ。その最高齢男性が3年ほど前、匂いの元を突き止めようと山に分け
入ったが、正体はつかめなかった。
カレーに縁のある草木には、葉が香辛料として使われ「カレーの木」と呼ばれるオオバゲッキツ(大葉月橘)や、
カレーに似た香りがするとされるツリガネカズラなどがあるという。植物に詳しい洲本市宇山の南光重毅さん(86)は
「三熊山の植物は十数年前、大学の先生たちが調べたが、そんなものはなかった。それに、私は三熊山でカレーの匂いを
かいだことはないのだが……」と首をかしげる。
三熊山のナゾの正体は?(由本昌敏)
カレー臭
野糞臭
test
阿波児島
377 :
本当にあった怖い名無し :2012/06/28(木) 02:07:09.34 ID:6X27F5Ot0
n
379 :
本当にあった怖い名無し :2012/07/04(水) 08:10:21.23 ID:DzjRxiY4O
犯人は「シャーオラー」と意味不明な言葉を叫びながら立ち去った
380 :
本当にあった怖い名無し :2012/07/04(水) 08:17:19.66 ID:GIgoNFvFO
>>372 普通に浮浪者が山のどこかでカレーを煮てるんだろうね
用心深い浮浪者は人からは逃げようとするし
リンゼイ事件の犯人も島で野宿してたらしいし
正体はサンカ
正体はインド人
あわわわ
385 :
本当にあった怖い名無し :2012/08/09(木) 00:19:04.64 ID:c5RklaXci
淡路島にピラミッドは無いけれど、日本の富山県に 有りそうだよね。
尖山のことか?
先山
388 :
本当にあった怖い名無し :2012/08/19(日) 01:18:02.56 ID:BDcpVZsdQ
先山。 柏原山。 丸山(弁天島) 雨乞山(生穂、賀茂神社神奈備。伊弉諾神宮ー伊勢神宮の東西線上、常隆寺の真南。) 月の山/釜口山。 摩耶山。 愛宕山(伊勢久留麻神社の神奈備か?境内に愛宕社。また京都の愛宕山の鬼門裏/伊弉諾神宮の夏至の日出方向、ランドマーク。近世まで山頂の三本の大松がご神木で有名でした) 三対山/城山。岩屋地区の語源か。神功皇后がわざわざ参拝に来た程の小岩山の神奈備。 戦国時代までは山上に石屋神社が鎮座。 東麓の洞窟は伊弉諾尊の幽宮伝承地。 日本の建国史に何やら曰く因縁有り? 岩屋の真北の二つ並んだ播磨富士、雄岡山、雌岡山。(真東は交野の星田妙見権現ほか) 雌岡山の山頂は日本標準時子午線が通過。 雄岡山の真南は三対山、石屋神社。
諭鶴羽や先山と違って、柏原山はあまりパワースポット的な話ないね 神社もないし
柏原山は滝水寺って廃寺があるぐらいだな