【佐賀】邪馬台国を考える会(仮称)4月に発足 畿内説との討論などを交えながら吉野ケ里遺跡が邪馬台国であったことを究明★2

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1 ◆KIHA55jUA2 @キハ55φ ★
吉野ケ里遺跡(神埼市郡)が邪馬台国であったことを歴史、考古学的に究明する「邪馬台国を考える会」(仮称)が四月発足する。
連続講座やシンポジウム、畿内説との討論などを交えながら、市民レベルで九州邪馬台国説を補強していく。

「九州説」を主張する日本考古学会の奥野正男さんを会長に、同遺跡保存に尽力した郷土史家石戸敏治さん(佐賀市)が副会長、
佐賀女子短期大学学長の高島忠平さんが顧問を務める予定になっている。

会では奥野さんの集中講座や同遺跡の現地見学会のほか、「畿内説」を主張する研究者との討論会なども計画。
研究成果は雑誌にまとめたいとしている。

邪馬台国論争では、20日に奈良県桜井市の纏向遺跡で、卑弥呼の時代と一致する3世紀前半の建物跡が確認された。
事務局長の関家敏正さん(佐賀市)は「吉野ケ里が邪馬台国だということを検証し、若い世代に受け継いでもらうため
会を立ち上げる」と期待する。

設立総会を4月19日、佐賀市のグランデはがくれで開く。
問い合わせ先は副会長の石戸さん、電話TEL番は省略しました。

佐賀新聞 2009年03月25日
http://www.saga-s.co.jp/view.php?pageId=1036&blockId=1213175&newsMode=article
前スレ 1=2009/03/25(水) 15:25:46
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237962346/
関連スレ
【考古学】卑弥呼宮殿の一角か 特異な張り出し柵や建物跡出土 奈良・纒向遺跡★2
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1237824846/
2名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:07:37 ID:627o2vF00
前スレ>>3で終わったんじゃ・・・
3名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:09:03 ID:zdLqcbEx0
チョンか
4名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:09:52 ID:KgLACBZM0
九州説が不自然なくらい有力視されているのって
某団体パワーが入っているとしか思えない
5名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:13:27 ID:IZ4oxiVS0
6名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:15:55 ID:1fZ8A20Q0
間を取って熊本で
7名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:22:00 ID:1sopq1EF0
邪馬台国は名古屋に決まってるだろ
8名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:28:10 ID:VjeDMwxy0
「元祖・邪馬台国」「本家・邪馬台国」「邪馬台国本舗」
なんちゅー焼酎ない?
9名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:40:01 ID:XA28Ez+7O
ここで意外性を狙って埼玉が立候補するよっ!!(`・ω・´)
10名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:48:23 ID:d8t81zdd0
中国からの使者「どこだ?」
福岡人が指差して「山たい」
そして邪馬台国と名付けられる。
よって邪馬台国は福岡だな。
11名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:50:50 ID:AriH7Pfl0
かつて「騎馬民族説」というものがあった
かつて「邪馬台国九州説」というものがあった
12名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:52:01 ID:6sZ+HTIN0
熊襲は?
13名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:52:24 ID:qJPDBX6h0
昔は、九州説のほうが有力と聞いたことがあったんだが、
今は学閥問わず畿内説が有力なのね。
14名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:54:33 ID:+RwZOqyo0
千年以上も前のことでしか自らのアイデンティティを築けないって恥ずかしいよね
もっとこれからの佐賀を同発展させるかに力を入れたらいいのに・・・
15名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:54:56 ID:/9YaKBTYO
だから徳島だと何遍言えばわかるんだ?
16名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:55:31 ID:x0biuLKW0
>>1
最初から結論ありきじゃ討論は無駄
17名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:55:53 ID:6sZ+HTIN0
>>14
佐賀はそのうち在日に占領されるだろうから。。
18名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:56:27 ID:m3TvFEiuO
もう俺ん家が邪馬台国でいいよ
それでいいじゃない
19名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:58:16 ID:X33JN2aDO
邪馬台国は南朝鮮
20名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:59:05 ID:AriH7Pfl0
>>19
朝鮮は高天原
21名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 08:59:58 ID:ioImTReL0
北九州→畿内に国ごと移動したという高木彬光先生の推理って歴史に詳しい
人的にはどうなの?(邪馬台国の秘密)盆地の方角とそれぞれの地名が気味悪い
程一致しているし。(開拓者は、故郷の地名を付けたがる。北海道とかアメリカとか)
素人には、わりとしっくり来るんだけど。例の邪馬台国への道筋も、季節による
2ルート(時間)の併記で解決してるし。
22名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:04:20 ID:zgBM97cW0
中国の史書を読めば
どう考えても九州だろう
阿蘇山ありだ
23名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:10:32 ID:7sgw4ls9P
こんな答えの出ないことより弥生人がどこからきたのかはっきりさせてもらいたいもんだが
24名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:13:19 ID:cqKwzwcI0
当時のやつらちゃんと伝承しておけよ。
古事記とかが書かれたたかだが2,3百年前の話だろ?
25名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:13:25 ID:PxAjeZW1P
最近はジャマイカ説が優勢になってきたね。
26名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:14:29 ID:fQEDSJn30
>>4
有力視なんてされてないって。
すでに学界では見向きもされてないのに、
マスゴミを通すと有力になっちゃうんだよな。
27名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:24:31 ID:JnL0t7YJ0
 最初から結論ありき?
学問といえるのかな?
28名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:25:23 ID:KkWLKQhf0
魏志倭人伝の通りなら海の上。なら距離か方角かその両方かが出たらめ。
地名も当事の本当の呼び方が曖昧で、九州説も畿内説もそれなりにありそう。
記紀にいたってはファンタジーの要素がかなりある。
どれもこれも決め手にかけるから、仕方ないから出土する遺跡の検証待ち →畿内でボコボコ出土中
29名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:41:25 ID:kCe2bw/ZP
政治的意思と歴史捏造が活発すぎて笑えるよなw
ウリナリマンセーと本質的に同じ。

何でもありならがんがん妄想していけばいいw
高天原=九州
出雲=島根発祥で丹波を拠点にし、畿内勢力も支配下に置く国。
   その力の源泉は、金属加工技術。
八岐の大蛇=河内と大和の河川 河内が尻尾、大和が頭。
葦原中国=河内

大和の反乱分子を同盟軍が鎮圧しに行き
丹波と九州勢力の婚姻関係が築かれる。
草薙の剣が河内の尻尾から出てくるのは、出雲の
金属加工技術の高さが表現されてる。
それと八岐→大和となったと考えるべきだw
農耕する上で川は非常に重要。河内の河川、奈良盆地の河川は
最重要拠点。八岐の大蛇の中心的河川がまさに大和川。

で、スサノオと出雲勢力との外交婚姻関係を足がかりに
九州勢力が一気に葦原中国である河内に進出してくる。

そして出雲が完全に掌握しきれていない大和への東征が行われるとw
30名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 09:48:41 ID:4M6wB//+0
南韓〜九州〜沖縄までが倭人の邪馬台国。
出雲〜畿内が大和朝廷。
31名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 10:53:20 ID:RRNFUTjLO
>>28
当時の里と今の里は距離が違うよ?
32名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:10:46 ID:1hSX76c70
結論あり気の歴史研究か。
九州人が朝鮮人の末裔だというのが良くわかるな。
33名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:37:50 ID:B++QFHOF0
道筋に関しては魏志倭人伝の通り読んだら、ほぼ畿内に至ると書かれている。
ただ、これも奴国を基準としているからな
後漢書東夷伝に記されているように奴国が冊封して授かった金印から、現在の志賀島から発見されている
この事が決定打となり、奴国はこのあたりにあった国だろうと推測され
道順もこれを基準に読み解かれているけどね

しかし金印は後世の捏造である可能性も棄てきれない
ま、いまのところ本物である可能性が高いとされているけど。
しかしやはり金印があったからといって奴国だと断言はできない
戦争で別の国に掠奪されたって可能性もあるのだからな

そもそも魏志倭人伝の奴国と東夷伝の奴国が同一の国であるとの証拠もないし
その辺から道順については幾らでも反論も出来る
34名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:39:10 ID:HazxRLEv0
北陸説を押す
継体天皇は卑弥呼の子孫
35名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:45:55 ID:zPFnn/FC0
邪馬台国なんか無かったんだろ。
黄金の国ジパングと一緒だよ。
36名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:50:00 ID:B++QFHOF0
魏志は中国のその時代の王朝が正史として編纂したものだから
信頼度は極めて高い。
中国の歴史書は、旧王朝を悪く言ったりするが。
歴史そのものを捏造するような事は聞いた事はないからな
37名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 11:59:48 ID:kNU55yYR0
孫受け調査員が南の島にでも行って
現地人からだいたい内地の都会じゃこんなよって聞いて送った  これじゃね   
38名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:08:58 ID:3sLg4g1/0
前スレ
放射性炭965 :名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 03:18:48 ID:JBFxG4350
>>960
>わが国の土器発祥の絶対年代はまだ確定してないし、
>山内丸山に限らず、縄文時代の定住やら農耕のはじまりも
>実態は議論のまっさいちゅうとしかいいようがない。
>スレのレベルが落ちるのはむしろあんたみたいな書き込みではなかろうか

馬鹿めが。土器の付着物で、年代測定をしてることも知らないのか?
炭素年代測定法による誤差は、今や20〜40年に縮まっている。

そもそも、採取放浪の民が、三内丸山のような巨大構築物を建てるか?
周囲に無数の食用果樹を植えるか?
「なにが議論のまっさいちゅう」だ?

スレのレベルを落とすんじない。この朝鮮人めが(あえて書く)

おまえらの祖国の学校や在日学校教科書では、「古代朝鮮(韓国)人が日本人に
稲作を教え、土器やカマドの作り方を教えて、煮炊きを教えた」と記してあるので、
縄文時代という存在が非常に邪魔になっている。

だから、縄文時代をスルーしたり、過小評価する。
この間の東亜版のスレでは、変な奴が、低音で焼かれた縄文土器では、
煮炊きできなかったと、もっともらしく記していた。
冗談じゃないよ。
縄文土器には、ちゃんと煮炊きの痕跡がついているじゃないか。
もう、縄文時代を貶める、質の低いスレは書くな。気色悪いぞ。
39(´-`).。oO ◆abcDBRIxrA :2009/03/26(木) 12:21:45 ID:4gpPJU7c0

<魏志東夷伝倭人に書かれてる、歯黒国と裸国は南米。
<縄文土器が出土してるから、日本人が太平洋を往復してたことは物証が残ってる。
        ∧_∧
      ⊂(・∀・ )つ- <これ豆知識な。 
     ///   /_/:::::/ 
     |:::|/⊂ヽ ノ |:::| /」
   / ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
 /___________________/ | |
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40名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:29:45 ID:HD6tLRhe0
それ以前に、魏志倭人伝の信憑性はどのくらいなのだろう?
41魔裟呼:2009/03/26(木) 12:29:47 ID:w2SnRC3X0
先に成立し普及していた三国志の魏志倭人伝に卑弥呼がいて、
その存在を意識しつつ後から成立した古事記日本書紀に居ない。
これが全てを物語る。
卑弥呼は皇室の一族ではない。

「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国」

卑弥呼は三十国連合のアタマに担がれてただけ、「百余国」全体は統べてない。
倭王あつかいして貰えたのは、
魏(曹氏)→晋(司馬氏) への政変のたびに
いちはやく司馬氏側を支持する使者を送ったことで
外交的配慮してもらえただけ。

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_01.html
奴国 伊都国 卑弥呼 邪馬台国
>司馬懿率いる魏軍によって公孫氏一族は滅ぼされる。238年のことである。
> 「倭国」はそれまでおそらく公孫氏に帰属していたと思われるが、
>卑弥呼は機を逸せず翌年直ちに魏に遣使朝貢し、魏への服属を誓った。

この三十国連合は大和朝廷に直に発展した勢力でなかったから
古事記日本書紀から記録が削除されてるという事。
だから卑弥呼の邪馬台国も三十国連合も畿内でなかった可能性が高い。
42魔裟呼:2009/03/26(木) 12:35:18 ID:w2SnRC3X0
日本書紀は大陸側にも持って行き朝廷の権威の正当性を示す狙いもあって編纂された。
ところが大陸側にはすでに魏志倭人伝があり卑弥呼が「親魏倭王」と明記されていた。
卑弥呼が大和朝廷の祖なら問題はなかったが、
卑弥呼が大和朝廷の祖でないなら、朝廷が新興勢力でしかないと読み取られてしまう。

しかしながら、日本書紀の編纂者は皇族ではなく官吏でしかない、
皇族や皇族の祖先について、記録を改竄するのは畏れ多い。
そこで苦肉の策を講じたと推定するのが当然だろう。
日本書紀は西暦でなく干支や「何々天皇の何年」で記されており、
絶対年代を記しているわけではないし、前後関係も明言されているわけではない。
そこで官吏たちが、ところどころ干支一巡分を前後関係を無視して差し込んで、
絶対年代で60年のずれを読者の勝手な勘違いを誘おうと狙ったのでないかとも言う。
天武天皇の時代から単純に逆算すると神功皇后が卑弥呼の時代の人物という事になり、
魏志倭人伝の卑弥呼とは神功皇后の事でないかと読者の勝手な推定を誘う。
だが神功皇后の子の応神天皇紀など
干支二順120年繰り下げると『三国史記』の対応記事と一致するという。

「プラス・マイナス120年構想」に説得力がある。
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/books1.html
倉西裕子の著作1
>本書では、日本書紀の紀年法には、プラス・マイナス120年構想が設定されており、

応神天皇陵や仁徳天皇陵の周囲から出土する埴輪の形式も、単純な逆算より
約100年(120年?)ほど後の編年上の形式のものだと指摘されている。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku244.htm

日本書紀は天皇以外に神功皇后だけ特に一巻を割き、
そこに魏志倭人伝の卑弥呼の記事が引用されているなど、
編者は必死に神功皇后=卑弥呼と印象付けようとしたかのようである。
43名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:35:51 ID:OELKYEnp0
>>20
高天原は葛城。
延喜式を呼んでみろ。
44名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:39:23 ID:nzjKeRfP0
邪馬台国は沖縄沖だよ
海底神殿のあるあたり
45名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:41:44 ID:bFuSfcVe0
邪馬台国も魏も呉も蜀も曹操も劉備も孫権もみんな韓国だよ。
46名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:44:33 ID:qJPDBX6h0
邪馬台国の時代は、今の「国」みたいな存在はまだ確立してなかったんだとは思うんだけどなあ。
数家族がよりあつまった小さな村みたいなシロモノだったんじゃないかね。
47名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:47:42 ID:KkWLKQhf0
高天原=日向
根の国(黄泉)=ネの国(コンの国?)
          ※『古事記』では「根堅州國」(ねのかたすくに)・「底根國」(そこつねのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)、
            祝詞では根の国底の国(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。
豊葦原中国=豊国中津(宇佐)
48魔裟呼:2009/03/26(木) 12:49:22 ID:w2SnRC3X0
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi.html
魏志倭人伝は俗称、
通称は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」、
正式には「三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人」

http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-B.html
帯方郡から「塞曹掾史」張政が派遣され、帰国後の報告を元に書かれているそうだが、

http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0209/bbs/153.html
魏は呉に朝鮮半島側から攻める/攻められる可能性を睨んで
軍事偵察として張政を派遣したと考えるのが一般的。

http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-D.html
魏は卑弥呼の邪馬台国と関係を強化するとともに
卑弥呼と対立する周辺国が呉と関係を深めないか
張政に詳しく情報収集させていたようである。

http://members.at.infoseek.co.jp/chibineko/china/_yamatai05.htm
張政は約20年も逗留して軍事指導と情報収集していたという見方もある。

これで魏志倭人伝の内容がいい加減という事はまず有り得ない。
49名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:49:38 ID:8h7PxLw+0
>>43
どこ読めば分かる?
国史大系『延喜式』でページを指定してみて。
50名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:53:36 ID:OyP+Cd3x0
>>5
沖縄には沈んだ大帝国があるんだよね
51名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 12:55:44 ID:g0cH1i7N0
討論ねぇ・・・
52魔裟呼:2009/03/26(木) 13:15:38 ID:w2SnRC3X0
http://johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gi-original.html
『魏志倭人伝』の里は、長里で1里=436mではなく、短里で1里=77m、とみなすしかない。

http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/hok-wakok.html
「・・・至不彌國百里」まで「里」で書かれていて、そこから急に
「南至投馬國水行二十日」と「日」「月」で書くように変わっていて、
ここでいったん「出発点からかかった時間(日数)」の記述に変わったとみると、
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」 は
出発点の帯方郡からの所要時間という事になり
女王国は九州、におさまる。

http://inoues.net/yamahonpen3-5.html
後でもう一度、「自郡至女王國萬二千餘里」
(帯方郡から女王国まで一万二千余里)と出てくるのが、
1里=77m で約930kmとかになり、
帯方郡と九州の位置関係とも、「水行十日、陸行一月」とも
そう違和感なくおさまる。
53名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 13:16:16 ID:7VjyUT8H0
仮説を戦わせるのです
54名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 13:25:54 ID:4M6wB//+0
魏志倭人伝をそのまま読めば九州。
by兵庫県民
55名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 13:32:09 ID:3ic0pThf0
>>42
>編者は必死に神功皇后=卑弥呼と印象付けようとしたかのようである。

編者は神功皇后=卑弥呼で書いたつもりだったんだけど
伝承の中の倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼とは自分は気付かなかったといオチ
56名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 13:34:54 ID:FLjAf40vO
卑弥呼のアナザーがクリア出来ない。
57名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 14:01:57 ID:jj3mm3lL0
>>54
なんで?
九州から船に乗って投馬に行って、またまた船に乗ってから陸にあがって、
そのあとてくてくと相当な時間がかかるのに。
58名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 14:34:48 ID:OyP+Cd3x0
>>57
だから、沖縄を今の大きさと考えてはいけないのです
59名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 14:34:48 ID:3dgfiTGwO
九州でもなく畿内でもなく、月にあったんだよ。
60名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 14:36:40 ID:sGpelBsN0
>>10
この論法で行くと畿内なら「山でんがな国」になってたはず、って訳だね。
単純に「山」のことだった可能性は確かにあると思う。卑弥呼も単純に「ヒメ」
だったかもしれんし。
61名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 14:39:49 ID:4M6wB//+0
>>60
でんがなって(´д`)
「山や国」やな。
62名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 15:09:49 ID:k4HabreX0
鹿児島から青森までローラー作戦で地面を掘り返し遺跡調査・検証
63名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 15:30:49 ID:uwSkYE7Ui
これから電信柱の地中化をやれば、かなりのものが出てくる。
64名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 15:31:11 ID:y/ua742t0
じゃまたいこくか
65名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 16:11:09 ID:E0st1VmM0
いまだにジーグなし
66名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 17:07:49 ID:sRdOauuV0
九州人だけど邪馬台国は畿内だと思う・・・
というか邪馬台国よりは神武東征のほうが気になる
67名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 17:43:46 ID:PawPIko80
四国説をぶち上げた徳島のおっさんの事も、たまには思い出してあげてください(´・ω・`)

安本美典に、こてんぱんにされてたけどw
68名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 17:54:28 ID:VK8ePjq30
>>67
え?

公開討論の挑戦状送ったほとんどの学者からはシカトされたんじゃなかったのか?

どの道、安本自体いまじゃあイロモノ扱いだろw
69名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 18:40:17 ID:FZg3plq+0
先生出番だぜ!
70名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 18:40:57 ID:qgxnUKmY0
派遣団:(なんか、あっちこっち行くの面倒くせえ)
    「○○国ってどうやって行けばいいの?」「距離はどれくらいですかね?」

邪馬台国:「えーと、陸で東に行って○里くらいかな」
     「そうですね、水行で○日くらいですかね」
     「人口は○戸くらいですよー」

派遣団:「ありがとさん♪」
    (実際に行くの面倒だから、これをそのまま書いちゃえ)
    
71名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 18:45:12 ID:/CMK6IYr0
歓待されたり追い剥ぎにあったり
そういう日数も入ってると思う
72(´-`).。oO ◆abcDBRIxrA :2009/03/26(木) 18:53:51 ID:4gpPJU7c0

箸墓古墳の埋葬者と言われている「ヤマト・トトヒ・モモソヒメ」は、4世紀中頃の人物。
卑弥呼は3世紀中頃の人物。しかも卑弥呼の墓は円墳。直径100歩、145メートル。

箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。年代の推定が古すぎる。学者は年代推定をやり直したほうが良い。
        ∧_∧
      ⊂(・∀・ )つ- <これ豆知識な。 
     ///   /_/:::::/ 
     |:::|/⊂ヽ ノ |:::| /」
   / ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
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73名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 18:55:18 ID:OELKYEnp0
>>66
まず、神武東征以前に

纏向遺跡が邪馬台国なら、
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(孝元天皇の兄妹)の可能性が高い。
魏志倭人伝には、倭国大乱後、卑弥呼が共立されたと。

ということは、天皇家の系図から考えて
ヤマトトトヒモモソ媛命の兄妹とか両親とか祖父母の代あたりで
倭国大乱があった可能性が高い。
ちょうど、欠史八代の中ごろの天皇で、
このあたりの天皇の名称には、後世、「孝」の名称がついている。
孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇で、
年代は西暦2世紀の中ごろから後半にかけてという計算になる。
この時代は、もろ倭国大乱の時期といわれている。
ちなみに、最初の孝昭天皇の嫁さんが、熱田社の尾張氏のご先祖。

で、神武天皇だが、もし、いたとしても、
西暦1世紀前半から中ごろぐらいって感じになると思う。
74名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 19:00:01 ID:OELKYEnp0
>>72
あの頑固な井沢元彦ですら、箸墓の年代を修正してきたのに...
75名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 19:11:24 ID:1hSX76c70
九州説信者ってもはやカルトだよ。
事実を見ずに感情だけで喚いてる。

まさにネトウヨと同じ存在。
76名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 19:18:27 ID:VK8ePjq30
>>1

そもそも吉野ヶ里なんて3世紀ごろには衰退の一途として
邪馬台国の候補からはとうに外されていた遺跡を持ってこなければならないこと自体
九州説のにっちもさっちも行かない現状を表しているw

無論、衰退しつつあったクニに卑弥呼がいたとしても不思議ではないが
少なくとも9万戸・・・それが誇張された数字であっても倭人伝に見える中では
最大の数値を誇るクニの中心・・・と言うのはあまりにも無理があるww

いやそんな事は奥野や高島なら百も千も万も承知していると思うのだが・・・

ひょっとしてこの会は安本みたいに考古学に対し真っ向から年代観争いを挑むつもりなのかな?

77名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 20:21:01 ID:YCgXd8vnO
wikiを読んだ限りでは、畿内説って客観的な根拠はとても薄弱だね。
畿内説が正しいという前提で解釈された根拠の辻褄合わせばかりしてる。
畿内説は学問じゃなくて宗教。
78名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 20:28:49 ID:IpM/AYCK0
それは九州説でも同じ
そもそも邪馬台国なんて存在しないんだから
79名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 20:32:19 ID:Ppg8O9/3O
>>77
旅程に登場する国が全部北九州だからねw
80名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 20:40:06 ID:VK8ePjq30
>>79
通説に従えば九州北岸をとりあえずは東へと移動している。

そこから引き返して筑紫と言うのはあまりにも無理w

まあそこで放射説の登場になるわけだがwww


81名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 20:57:03 ID:m18G6Zie0
どちらにせよ、邪馬台国なんて存在しなくても
畿内が弥生時代末期以降の日本の中心地で
あった現実に変わりは無い。
82名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:00:00 ID:OELKYEnp0
邪馬台国九州説って、邪馬台国を商売にしてきたら、
そりゃ、もう必死だわな...
>>1なんて、宗教団体のセミナーみたいなもんだろう?
83名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:07:32 ID:VK8ePjq30
>>82
いや流石に奥野や高島が名を連ねているんだし、まあマトモなものだと思いたいw

まあビッグネームを連ねて騙すって(=威光暗示)言うのが詐欺のパターンの一つだけどwwwww
84名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:07:32 ID:Ppg8O9/3O
>>81
全土を平定してもいないのに中心はないでしょう。
85名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:08:53 ID:VYOUqNFf0
86名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:15:55 ID:yPpqXNpV0
数日前のテレビ番組で徳島説というのがあったんだが
87名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:41:06 ID:Gl4pny4RO
古い文献には半島から海を渡って「南」に行ったトコって書いてあんだよな。

で、畿内説の学者は、「東」と書くとこを間違えて「南」と書いてしまったのだ
と主張してたんだよな。

書き間違え説は苦しすぎないかい?


88名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:52:05 ID:NS57Qx8z0
吉野ケ里はないわ
これ推してる学者一人もいないでしょ
バカバカしい
89( ゚Д゚)<ボクメーツ ◆uhiboKUMEQ :2009/03/26(木) 21:53:28 ID:YpuGK/Hd0
( ゚Д゚)<吉野ヶ里遺跡のあたりは
( ゚Д゚)<最近
( ゚Д゚)<良く行くんです http://bokumeq.exblog.jp/10494907/
90名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 21:53:41 ID:Xifle4JbO
全滅だ!
91名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:03:20 ID:PzAs6tau0
>>87
いいから九州説は距離と日程をなんとかしてから反論しろな?
92名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:11:17 ID:QQwBMEOl0
>>91
お前がなんとかしてから反論しろ
カス
倭人伝の距離と日程を考察したらどうやったら畿内に到達するのか説明してみろや
93名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:12:11 ID:VYXS9vAl0
そこで飛鳥昭雄ですよ
94名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:13:28 ID:oGMgBh7n0
行程で方角だけ修正すれば畿内とあうなら畿内でしょう。
方位磁石も羅針盤も無い時代、基準になるのは太陽か星。
季節によって方角が変わる。
95名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:13:54 ID:NS57Qx8z0
こういう
「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない」という結論が
もうほぼ99%出ているこの場所で
グダグダ運動やってる馬鹿老人たちは死んだほうが日本のため

邪馬台国じゃないけど日本有数の弥生遺跡ということで
なんで納得できないの?

96名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:21:37 ID:oGMgBh7n0
行程は無視して九州の可能性をさぐるなら
遺跡の規模から宮崎の西都原だと思うな。
魏書の邪馬台国は畿内にあったとしても、日本神話のとおり
ヤマト王権の東征がホントにあったならスタート地点も宮崎。
あの古墳群が何であるか?、大規模集落の遺跡はでるか?
このあたりがポイントでしょうな。
97名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:21:46 ID:4M6wB//+0
>>94
南と東を間違うか。カス
98名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:23:59 ID:VK8ePjq30
>>96
>遺跡の規模から宮崎の西都原だと思うな。

弥生末期の西都原の遺跡ってなんですか?

古墳群の殆どは5・6世紀の物だろうに・・・
99名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:26:07 ID:ORSt2hk/0
というか、前方後円墳の出現自体がヤマト王権の傘下に入った証拠みたいなもんだから、
ヤマトの王権とは別に邪馬台国があったと主張しつつ前方後円墳を探すというのは、
まさに自己撞着。
100名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:26:14 ID:VYXS9vAl0
くだらん議論はヤメ!
というわけで八女が邪馬台国です
101名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:27:28 ID:tj2DJ8F70
じゃ・・・邪馬台国
102名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:28:04 ID:oGMgBh7n0
>>97
正確に方角を測れるようになったのは
羅針盤が発明されてからだよ。
103名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:28:28 ID:z2yn4n3W0
大阪府立近つ飛鳥博物春季特別展 開館15周年記念「卑弥呼死す、大いに冢をつくる 前方後円墳の成立 」
講演会や現地見学会などの関連イベントも多数開催します

開催期間  平成21年4月25日(土)〜6月28日(日)
場  所  大阪府立近つ飛鳥博物館 特別展示室 〒585-0001 南河内郡河南町東山299

講演会 時間/午後2時〜午後3時30分  会場/地階ホール  定員/200名
 5月17日(日) 鈴木靖民氏(國學院大學教授) 「3・4世紀の倭国と東アジア」
 5月31日(日) 白石太一郎(大阪府立近つ飛鳥博物館長) 「卑弥呼の死と前方後円墳の誕生」
 6月14日(日) 岡村秀典氏(京都大学人文科学研究所教授) 「中国における3世紀の鏡と墳墓」
 6月21日(日) 水野正好氏((財)大阪府文化財センター理事長) 「倭国がつくりだした大王墓の形象 前方後円墳」

その他詳細はこちらのリンクから
http://www.pref.osaka.jp/fumin/html/21622.html
104名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:32:03 ID:oGMgBh7n0
>>98
古い物は3世紀から。
けど宮内庁管轄で発掘されてないものが多い。
だから西都原は大規模古墳群なのに謎のままなんだよ。
105名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:36:17 ID:HVbV4w880
西都原81号墳 長さ52メートルの纏向型前方後円墳。築造は3世紀前半
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm

これが纏向より本当に古ければ、考古学的に形成逆転。
106名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:37:41 ID:cBeeIF/60
邪馬台国は九州でいいよ。
で、クナ国に滅ぼされ歴史から名を消した。

これでオールオッケー。
107名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:37:47 ID:uldNhRE1O
弥生時代だといっても、それなりに整備した道路があったからな
国から国への行程は迷ったりするようなもんじゃ無かった筈だ
そんな事をしていたら命が幾つあっても足りん

つまり道のりの距離や日数は、記述ミスやら勘違いが重なったと考えるしかない
108名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:38:12 ID:VK8ePjq30
>>104
だからわざわざ「殆ど」と書いたんだ。

所謂「纏向型」しか使えないのに

そこら辺を曖昧に時代を無視して遺跡全体の大きさをもって
さも説得力がありそうに言うから胡散臭く思われるんだw

大体、宮崎にめぼしい環濠集落があるのかよ?wwwwwwww
109名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:38:49 ID:oGMgBh7n0
>>105
古墳だけではダメ。
大規模集落が出てこないと。

しかし行程を考えると
邪馬台国は畿内なんだよな。
110名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:40:28 ID:ORSt2hk/0
>>103
近つ飛鳥博物館ておとり潰しじゃなかったのか
111名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:42:41 ID:8h7PxLw+0
>>105
そこはクナ国じゃないの?
112名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:42:58 ID:oGMgBh7n0
>>108
私は「もし九州にあるとしたら」と書いてるわけだが。
私自身は畿内だと思ってるよ。

西都原って規模の割に謎だらけで、私的には魅力的な場所w
113名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:48:05 ID:NS57Qx8z0
>>109
あれだけ大規模な古墳群があるわけだから
西都原は周囲にかなり多数の人口が住んでいたのは確実
でもそういうものは
いまだに田んぼの下なんだろうな
114名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 22:48:29 ID:Ym1L4EfeO
ハニワ幻人が出てくるあれだな
115名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:01:17 ID:ccU5y82j0
おまいら、大陸移動説を知らんのか?
卑弥呼の頃の九州はずっと南方にあったんだろが!
これですべて丸くおさまる!w
116名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:05:57 ID:YCgXd8vnO
>>94
総里数が全然足りないので畿内には到達できません。
117名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:08:55 ID:ccU5y82j0
「吉野ヶ里」、「吉野川」、奈良の「吉野」って、
好字令が出る前は「葦野」だったんだろか?
118名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:17:59 ID:RntQSD4m0
>>87
中国人が日本列島を南北に倒立する形に誤認していた
という説もあるけど。

魏志に「計其道里當在會稽東冶之東」とあるから、
倭国は浙江省とか福建省の東の海上あたりまで
南北に伸びた形をしていたとか、あるいは
龍谷本「混一疆理歴代国都之図」に描かれる南北に倒立した
日本列島が例に出される。
ただし、同系の地図とされる本光寺本「混一疆理歴代国都之図」や
天理本「大明国図」では日本列島は東西に伸びる姿になってるから
こうした地理認識が昔からあったものなのかどうか不明。
そもそも、3世紀ごろの倭国の地理なんて中原の人間には
大して重要でなかったろうし、正確に記録する必要もなかったろうから
字面をみても答えは出ないかもしれんね。
いづれにせよ旅程記事を検討したところで、九州にも大和にもたどり着かない。

龍谷本「混一疆理歴代国都之図」
http://www.ryukoku.ac.jp/university/kouhou/shuppan/kohoshi/kohoshi60/11_treasure/treasure.htm
119名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:19:18 ID:YCgXd8vnO
>>107
ならばなおさら記述は正確と考えて邪馬台国の位置を考えるべき。
120名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:20:33 ID:d12DfogUO
倭のある方角は、楽郎や帯方から東南であり、南ではない。
そして、会稽の東。これが魏人あるいは晋人の地理感覚である。
地球を少し潰れた球体として計測したわけではない。
現代の地図でもメルカトル図法など方位の精度を無視したものでは、方位を求めると曲線を書く。
邪馬台国論争での方位は、論者が都合良く物差しを作っているだけでしかない。
記録者や編纂者が自分と同じ地理感覚であると無意識に論じているのが多く史料批判ができていない。
用語なども同じである。
団塊世代位のアマチュアによく見られる傾向でもある。戦後直後のイデオロギーの影響に無自覚である。
121名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:21:58 ID:YCgXd8vnO
>>109
行程からは畿内は絶対導けない。畿内であってほしいという先入観がお前に畿内
だと思わせているだけだ。
122名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:25:53 ID:YkjROrRl0
>>72
箸墓古墳は3世紀の中ごろに造られたんでそ?
卑弥呼の没年も一致するし魏志倭人伝の卑弥呼の墓の記述も
箸墓と一致する。箸墓は卑弥呼の墓に違いないのだ。
123名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:28:29 ID:YkjROrRl0
>>121
>行程からは畿内は絶対導けない。

九州説はもっと導けない。
124名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:29:54 ID:1hSX76c70
水行20日で投馬国=出雲国へ
水行10日で丹波国へ
陸行一月で巻向へ

どう見ても行程的には畿内しかあり得ないっしょ。
125名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:32:43 ID:E8DKk18I0
>>21
それは邪馬台国じゃなくて高天原の人たちじゃなかったか
126名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:38:48 ID:+Ryr3b4s0
女王国までの距離は最後にちゃんと書いてある。

「帯方郡より女王国にいたるまで1万2000余里」

帯方郡→末盧国まで足すと1万里 (7000+1000+1000+1000)
末盧国→奴国 700里 (500+100+100)

すると、→投馬国→邪馬台国 は1300里となる。

対馬国→一支国が1000余里。
これが対馬と壱岐であるのはほぼ確定だから
両者の距離は68km。これが1000余里ということになる。

奴国が福岡あたりだとすると、そこから車で1〜2時間くらいの
ところに邪馬台国はある。末盧国からなら2000里。唐津あたりから数時間。
方角は南だ。
投馬国も邪馬台国も、はっきり南と書いている。さらに
「女王国より北は道里や戸数を書けたが、それ以外の国は遠くてわからない」
ともある。つまりそれまで書いた国は邪馬台国より北ってことになる。

でも1300里を水行陸行1ヶ月かかるわけないという反論もあるが
1300里を30分で移動したなら、有り得ないと言えるが、1ヶ月かけて
移動した可能性は否定できないだろう。
距離は短くても、険しい山越えをしたかもしれないし
(末盧国の描写で、草が生い茂って、前を行く人の姿も見えないとある)
魏使が来たのは夏。台風で増水やガケ崩れなどで足止め、遠回りしたかもしれない。
だから時間がかかってるから遠くまで行ったなどとは断言できない。
それに、日数は郡からの全行程にかかった時間だという説だってある。

いずれにせよ途中から距離を書いてないのだから仕方ない。
そして「郡から女王国までは12000余里」とハッキリ書いてあるんだから、
むしろ日数を主張する人はこれをまるで書いてないかのように完全無視してる方がおかしい。
127名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:43:53 ID:d12DfogUO
有効な史料批判としては、記事内容と用語、漢字の用法、文体の傾向を整理し記
録者と編纂者の意図や背景、年代、書かれた対象の形を把握することである。
例えば、倭の地域国の長は「官」、次長は「副」と記録者あるいは編纂者から呼ばれ、現地呼称が紹介されている。
これは、皇帝が任命した倭王は一人しか存在できず、その傘下にあるとみなされた首長は倭王に属する「官」とされた為。
現地語で王に相当する用語でも「王」ではなく「官」である。「王」は皇帝が任命するもの以外は認められない。
また、女王国の「官」は他国と明らかに違った名称であり、「次」で連なっている。
他国が称号と位の順位を示しているのに対して、人名と「官」の継承順を示している可能性がある。
128名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:46:22 ID:1hSX76c70
>>126
で、その場合の投馬国はどこですか?邪馬台国はどこですか?
129名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:46:53 ID:x65QyHxM0
どこでもいいよ
130名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:51:20 ID:d12DfogUO
因みに数字に「余」と付く時は、正確な数はわからないの意味。
131名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:53:55 ID:Lbpnr/WA0
>>128
どこかなんて、あれだけの文でわかるわけない。
だから九州説でも、場所はそれこそひとりひとり違う。

畿内説だって、バラバラの主張があっておかしくないのに
最初からここだと決めうちでやってる方が違和感がある。
132名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:54:22 ID:B++QFHOF0
卑弥呼とは、姫巫女が訛ったものだろう。
卑弥呼の後継者とされるトヨ(イヨ)も、そうである可能性が高い。
当時、高貴な女性に対する尊称として、刀自あるいは戸女と呼ばれたものがある
これらが訛ったものと考えられる。
邪馬台も訛ったとしたら、ヤマトが訛ったものと考える事もできるけどね。
133名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:56:05 ID:YCgXd8vnO
>>78
三国志を偽書とでも証明しない限り邪馬台国の存在は間違いない。
>>79
そう、簡単なことなのに、畿内説論者は頭が固すぎるんだよ。
134名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:58:08 ID:E3uKQPlt0
八幡平(ヤマタイ)
135名無しさん@九周年:2009/03/26(木) 23:59:35 ID:B++QFHOF0
>>131
邪馬台国論争が注目されるのは、この論争が畿内説なら、すでにヤマト朝廷が三世紀の中ごろには成立していることになる
つまり日本の誕生がこれまでの定説より、ずっと早くなるからだよ
あなたの指摘する通り、畿内説が正しくとも、この邪馬台国は現在のヤマト朝廷に繋がる政権ではないと主張する人もいるし。
それこそ百家争鳴の状態だ。

まあ、日本書紀によれば、崇神天皇の時代にはすでに畿内に強い王権ができていた事になるが
あるいは三輪山とその周辺の限られた範囲の小さな王朝だったかも知れないな。
136名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:02:40 ID:LXJ1DEa5O
佐賀県民だけど邪馬台国は佐賀だったのか

佐賀はやっぱり何かもってんなW

すべての道は佐賀に通ずって言うしね

う゛ぞ !

でも佐賀で黒い三角のUFOは見たよ
しかも至近距離で
あれはビビった
137名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:05:52 ID:B++QFHOF0
>>78
魏志は中国の王朝が正史として書いたものであるから信用性が高い。
まあ、魏志を記したのは晋の官史だから、前王朝の魏に関しては良く書くわけはないから
その辺のことは割り引いて考える必要があるが、しかし倭人伝の記載に関してはわざわざ虚偽を書く理由が考える事はできないな
それに魏志に書かれている倭人の風俗はその後の時代にも受け継がれたものもあり
信頼性を裏付けられるよ
138名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:07:00 ID:CPgNaAHy0
邪馬台国は自分の故郷にあったという奴の主張は、全く信用できない。
139名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:09:36 ID:MLN4ztSM0
山タイ

やっぱ九州だろ。
140名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:13:38 ID:1uP1T03u0
邪馬台国は近畿で、投馬国が出雲あたりか、四国のどこかにあったと思う。
141名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:15:28 ID:vMAMLv3n0
>>135
しかし今日の考古学の進展を見るならば

ぶっちゃけこの世に魏志倭人伝なる物が無く、当然固有名詞の「卑弥呼」や「邪馬台国」等が無くても
3世紀中頃には三輪にヤマト王権の祖形ができていたと言う説は持ち上がっていただろう。

逆に倭人伝が無ければ人によったら九州の半分ぐらい、下手したら全域を収めているような
クニが九州にあったなんて妄想も出てこなかったのでは?www
142名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:16:11 ID:TxVCBhxzO
いわゆる魏志倭人伝の倭の地域国のうち旅程上にあるものは九州の中にあるとの
論は、それらが九州にあるとの論者の想像や願望を前提にしているものであり、
魏志倭人伝中の具体的な記述を根拠とするものではない。
143名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:17:24 ID:DKiOUZVm0
邪馬台国はふつうに「ヤマト国」と読むべきだろう。
そしてこの邪馬台国が後の大和朝廷になったと考えるのが妥当。

では場所は?
魏志倭人伝の記述がいい加減…というのはまず却下すべき。
当時の中国は漢という巨大帝国の運営を経て、広大な領域内の測量や計測技術は
相当確かな物を持っていたと考えるべき。よって、邪馬台国までの行程の説明も
おおよそ正しいと見て良い。とするならば、半島と対馬との距離の説明などから短里
(おおよそ75キロ)で考えるのが一番正しい見方だろう。
それで考えるのであれば、場所は九州の中部から南部だろう。
行程の日数の説明は出発地点(ソウルあたり)からの数えと見るべき。

この二つの整合性を図るには、結局「九州にあった邪馬台国の本拠地が、何らかの理由で
畿内に移動し、後の大和朝廷になった」と考えるしかない。「神武東征」はこの移動を
語ったものだろう。
144名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:18:40 ID:r0AOtGgS0
>>137
でも邪馬台国は、晋にも朝貢してるんでしょ
145名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:22:54 ID:TxVCBhxzO
距離は直線なのか、「道」なのか。「道」ならばそのルートは?これらはいまだ解答が出されていない。
記述がなく不明だからだ。論者の好みで想像されているだけである。
146名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:23:39 ID:uC44q7Nn0
九州派は書く文章は長いが、中身が無い。
具体的な場所も示せず、ただ魏志倭人伝を盲信し
自らの妄想を垂れ流すだけの存在。
147名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:24:45 ID:anpKyZz50
邪馬台国がヤマト朝廷のことなら、その宿敵のクナ国は当時のヤマト朝廷の強力な対抗者だった
筑紫の熊襲か、出雲だろうよ
平安時代にまで、大宰府や出雲には、特に朝廷の官史が派遣されている
この事実をもっても、九州や出雲が後々までヤマト朝廷を悩ませた勢力であった事が理解できる
ヤマトタケルの神話でも、ヤマトタケルが一番に討伐したのが、クマソやイズモだったことでもそれはわかるだおる
148名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:27:31 ID:1uP1T03u0
>>143
中国発の当時の日本の地図は、四国と中国地方が逆さまじゃなかったっけ?

おれは

「陸行一月」…関門海峡あたりから、陸で近畿に行った距離
「水行10日」瀬戸内海を全て船で行った場合


という見解を17年前の中学生の中間テストで書いて、それなりに評価された。
149名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:33:32 ID:TxVCBhxzO
近代国家以前は君主の婚姻は勢力圏作りの大事であった。
日本書紀を見るに、崇神天皇の頃までには尾張や山背、近江、河内などに拡大しているのがわかる。
150名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:37:37 ID:ly+7oZ520
狗奴国王の乱って
どうみても、武埴安彦命の乱だよ。
151名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:37:46 ID:anpKyZz50
崇神天皇の頃の記述を読めばわかるが、それこそ戦争に次ぐ戦争だよ
武埴安彦の反乱
武埴安彦は葛城一帯を支配していた豪族と思われる。
そのあとの垂仁天皇の時にはサホヒコオウの乱が起きている。
この沙穂彦は、現在の佐保山一帯から春日野に至るまでを支配していた強力な豪族と思われる。
つまり畿内の有力豪族が次々と反乱を起こした事になる。

しかし反乱となっているが、実際は大王の一派が畿内を制圧する過程を示しているのかも知れない。
つまりこうした戦いに勝利するまでは、大王の一族は畿内の限られた範囲を支配していただけだった
そう考える事も出来なくも無いね。

ま、四道将軍の派遣とか、全国を支配していた事を示す記述も日本書紀にはあるけど。
これは地方豪族と大王家を分家と本家と結びつけるために作られた創作と考える事もできる
152名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:41:55 ID:ly+7oZ520
邪馬台国九州説論者の中には
やたら神武東征に拘る奴がいるがw
その割には、ニニギ命(神武の曽祖父)の天孫降臨のことを
無視する奴が多いw
たしかに、神武は九州で生まれたかもしれんが、
彼の曽祖父のニニギ命って九州産まれじゃないよ。
つまり、皇室の先祖が九州にいたのって、ニニギ命〜神武までの4代だけだ。
で、神武が畿内へ遠征した時、自分の先祖が河内よりも東にあるともらしているんだ。
しかも、神武を出迎えた豪族たちは、神武と親戚関係にあったものたちだったw
つまり、神武は九州かもしれんが、彼の先祖は畿内の出身だよw
153名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:44:45 ID:anpKyZz50
>>152
神武東征は何らかの歴史的事実の反映とは思うけど。
ただ、それをそのまま受け入れる事はできないよ
畿内豪族の間に、我々の先祖は筑紫から東を征伐してやってきた
そのような伝承が残されていたので、それが神武東征の神話に反映した
その程度のものである可能性だってあるのだ
154名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:47:42 ID:ly+7oZ520
>>151
違う違う。あれは創作じゃない。
つーか、あんた、ちゃんと記紀を読むようにw

武埴安彦命の所領は、山城のほうだ。
で、彼の母方が河内の豪族だ。

で、山城国風土記逸文によると、もともと、京都の宇治市のあたりは
許乃国(このこく)といったらしい。
それが、応神天皇のころに、宇治と言われるようになったとか。

狗奴国というのは、当時の漢字音である中古音だと、このこく
って読むんだよw
しかも、狗奴国の官は、魏略によると、拘右智卑狗(こうちひこ)といったとか。
武埴安彦命の乱は、彼の母方の河内彦が動いていたことは有名w
155名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:50:55 ID:ly+7oZ520
>>153
京都朝廷は、延喜式などでもそうだが、
高天原=葛城というふうに公式見解をもっていたんだよ。

それが歴史がたつにつれて、在野などを中心に
それを疑うものが出てきた。
なんで、わざわざ、畿内から九州南部へ首都を移して、再び畿内へ戻るんだとw

でも、正解は、高天原=葛城でOKだ。
156名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:54:50 ID:ly+7oZ520
>>151
>ま、四道将軍の派遣とか、全国を支配していた事を示す記述も日本書紀にはあるけど。
>これは地方豪族と大王家を分家と本家と結びつけるために作られた創作と考える事もできる

戦後教育の影響なのかw
そんなこといったら、徳川吉宗も、本当は徳川家とは関係ないが
いかにも、自身を正当化するために、江戸将軍家と偽証したとか、
いくらでも、疑える。

だいたい、記紀とかは、藤原氏に都合が良いとかいうけど、
藤原氏は、自分たちの家系を天孫にはしていなんだわな。
だから、あれは、そんなに都合が良くは無い。
157名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 00:55:40 ID:HGLOB8Z4O
>>123
九州説なら可能、畿内説は不可能。
>>124
それは総里数を無視して、行程を捏造しているから、あり得ない。
丹波〜大和に陸行1月は、かかり過ぎ。
158名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:00:38 ID:vMAMLv3n0
>>157
個人的に倭人伝の行程記事の解釈なんかどうでも良いが…

「陸行1月」を九州でどうクリアするのかな?
159名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:01:46 ID:vkhEhi/V0
行程は南を東に置き換えて、瀬戸内海じゃなくて、
日本海ルートを出雲経由で行けば、いい按配に
落ち着くと思うんだけど、何か欠陥があるのかな。

北九州 水行20日→ 出雲(投馬国)
出雲 水行10日、陸行1月→ 舞鶴辺りに上陸して大和へ。
160名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:02:37 ID:xtHwS72C0
161名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:08:31 ID:NW4KYZSn0
邪馬台電気は群馬が発祥です。
162名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:11:43 ID:+mP9WNZI0
決定的な証拠、つまり卑弥呼の根拠地であったことを示す文字資料が見つかればいいけど、
難しいのかな。
163名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:12:31 ID:anpKyZz50
>>156
記紀では藤原氏(中臣氏)の祖神は天児屋根彦となっている
これは天の岩戸では、祝詞を唱えた神とされている。
また、国譲りで活躍したタケミカヅチノ神や経津主神も、藤原氏が建立した春日大社に祭られている
この両神も、藤原氏は一族の氏神に位置づけているのだよ

つまり藤原氏の神は何れも記紀では重要な役割を果たしている
164名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:28:01 ID:ly+7oZ520
>>163
というか、藤原氏は後世
天孫や皇別の豪族たちに
お前の家系は昔から家来筋だよなみたいなこと言われるんだわな。

もし、家系をでっちあげるのなら
皇別や天孫のほうが出自が上なのに。
165名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:30:08 ID:TxVCBhxzO
この前京都府の木津川辺りの三世紀終わり頃の遺跡から河内系の遺物が出土した。
166名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:36:55 ID:HGLOB8Z4O
>>141
記紀がなかったら、大和朝廷の存在も妄想だったろうな。
167名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:41:02 ID:HGLOB8Z4O
>>142
倭人伝に記された里数からそれらが九州を出ないのは明らか。
168名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:44:24 ID:ly+7oZ520
>>165
武埴安彦命の遺物かもな。
169 ◆6.s5Op95zk :2009/03/27(金) 01:50:51 ID:sEJx9NE3P
            / ̄ ̄\
          /   _ノ  \
          |    ( ●)(●)
          |     (__人__)  
             |     ` ⌒´ノ      大和朝廷の存在なんて妄想だろ
              |         }
              ヽ        }       日本の歴史は明治維新から始まるんだ!     
            ヽ、.,__ __ノ
   _, 、 -― ''"::l:::::::\ー-..,ノ,、.゙,i 、      下らない蛮族の時代など、いくらでも否定してやるぞ!!     
  /;;;;;;::゙:':、::::::::::::|_:::;、>、_ l|||||゙!:゙、-、_
 丿;;;;;;;;;;;:::::i::::::::::::::/:::::::\゙'' ゙||i l\>::::゙'ー、  
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170名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:56:48 ID:TxVCBhxzO
里のメーター換算はどれが正しいの?水行の距離は何里と記述されているの?
「余」はどの位の数になるの?里程は直線なの?道なの?道ならルートは?
171名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 01:58:29 ID:HGLOB8Z4O
>>146
倭人伝を信用しないなら、>>78のように邪馬台国なんて存在しないって言う方が
潔いぞ。倭人伝の畿内説に都合の悪いところだけ信用しないなんて態度は学問とは
呼べない、単なる捏造だ。
172名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 02:04:02 ID:HGLOB8Z4O
>>151
その場合、大和の一豪族が中国に使いを派遣するのは当然不可能だよね。
173名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 02:07:44 ID:0Doj/KKoO
帯方郡から12000里のところに邪馬台国。
不弥国までで10700里。残り300里。
不弥国から南に300里に邪馬台国国境があった。
そこから水行十日陸行一月で畿内大和に行ったんだな。ぴったりだ。
不弥国までは任那の九州人がよく知ってる地理なんだな。
そこから先は九州人が知らない九州の外の地理だったから日数だけの記述と曖昧になった。
174名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 02:22:56 ID:PLFPKK6nO
>不弥国から南に300里に邪馬台国国境があった。

どこですかそれw
175名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 02:31:14 ID:0Doj/KKoO
>>174
しらん。九州の人は見当つくんじゃない?
肝心なのは、不弥国までは詳しい北九州の地理なのが、そこからが曖昧な日数の記述になるということなんだ。
不弥国までは任那人(九州人)に聞いたんだろう。
その先は、九州人の知らない九州の外に水行十日陸行一月としかありえないよ。
176名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 02:58:33 ID:HGLOB8Z4O
>>156
江戸時代とは史料状況が違うのだから、比較はできないな。
177名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:02:54 ID:HGLOB8Z4O
>>158
>>126が答えを書いてくれている。
178名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:07:54 ID:HGLOB8Z4O
>>159
南を東に置き換えてる時点で失格。それなら陸行1月も陸行1日に置き換えれば
いいからな。
179名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:12:31 ID:0Doj/KKoO
>>177
すごい僻地ですね。
180名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:18:03 ID:0Doj/KKoO
九州だったら「〜から〜に何里」って最後まで書いてるよ。
不弥国からあとは九州の外にでてしまってよくわからないからざっと日数を書いてるんだよ。
九州の内陸を一月も陸行しなきゃならないってどんな僻地?そこに大国があるの?
181名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:19:18 ID:vMAMLv3n0
>>177

はあ?

 >>126より丹波〜大和が陸行一月の方がよっぽど説得力あるんだが?
182名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:22:05 ID:HGLOB8Z4O
>>179
もっとも九州内の比定地の話になると、同じ九州説でもそれぞれの説があるからね。
どちらにしても九州内から出ることはないというのが、倭人伝から導かれる最低線
の結論だ。畿内説はあり得ない。
183名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:26:41 ID:HGLOB8Z4O
>>181
おまえ、丹波〜大和歩くのに1月かかると思うのか?
184名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:32:04 ID:HGLOB8Z4O
>>173
国境までじゃないよ。女王の都する所とあるんだから、首都までだ。
つまり帯方郡から邪馬台国の首都までが、12,000余里ということ。
当然そこから水行10日陸行1月もさらに旅行するなんてナンセンス。
185名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:42:26 ID:TxVCBhxzO
倭は帯方から東南、会稽の東。これが魏や晋の人間の地理感覚。
これを整合化したら倭人伝の記述になったんじゃないだろうか。
編纂者が情報分析を誤った。いや、当時の魏人にとっては正解か。上記の範囲に倭があれば正解。
現代人の視点からは不正解。
186名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:49:34 ID:6z/DDftz0
後世の中国の史書でさえ、日本に関する記述は滅茶苦茶で
物凄い大筋でしか史実と合致しないというのに、
漢書地理誌や後漢書東夷伝、魏志倭人伝など当てにできようか?
考古学の研究成果と記紀の記述をすり合わせて考える方が、
余程真実に近づくだろうな
187名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:52:33 ID:TxVCBhxzO
崇神天皇の頃は婚姻範囲は尾張、近江、山背、河内。
河内、山背の反乱も尾張、近江、越経由で外部と連絡できる。吉備でも同じ。
河内、山背が通れないなら陸路も時間がかかるか。
188名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:54:23 ID:DKiOUZVm0
>>173

>帯方郡から12000里のところに邪馬台国。

この記述は、それこそそのまんま受け取ればいい。
短里(75キロ)で換算すればおよそ900キロ。
帯方郡の位置はハッキリしないが、一番有力な平壌の南50キロあたりだとすると、
陸路で半島の南端まで行き、対馬を経由して海路で九州へ、そこからさらに宮崎あたりで
だいたい900キロになる計算だ。

またこの全行程が、およそ陸行一月・水行10日程度と思われる。
189名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:03:11 ID:DKiOUZVm0
>>188
訂正
短里は「75キロ」ではなくおよそ「75メートル」
190名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:04:28 ID:TxVCBhxzO
短里と長里の使い分けの基準は何?

各国についての記述に距離がついているのに、女王の都する所の水行十日陸行一月は何で帯方からになるの?
編纂者のルールを勝手に変えちゃダメだよ。
191名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:10:54 ID:vMAMLv3n0
>>183

ん?少なくとも>>126よりはるかに現実的だなwwww

ちなみに>>126は間違えている。

奴国から邪馬台国が1300里 じゃなくて
不弥から邪馬台国が1300里 な

68km=1000余里

としているんだから
1里=68m

1300里=88.4km

ここから水行の計30日分を引かなきゃならんのだが
仮に全てを陸行としても88.4kmを一月ってお前wwwww

実際に何処から何処までと答えても無いし
88.4kmを水行30日陸行一月ってそんな電波飛ばされても困るわw



192名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:14:36 ID:77nvFlsd0
魏志倭人伝がな・・・
193名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:31:37 ID:p9LFBM8G0
短里でググっても怪しげなのしかヒットしないぞw

国営吉野ヶ里歴史公園の運営しているサイトからの引用だけど、
「一歩は六尺、魏の一尺は約七寸九分とすると、一歩は一・五メートル」
とある。一里は三百歩だから450メートルだね。

帯方郡から邪馬台国までの距離12000里は実に5400キロメートル。
列島突き抜けてカムチャツカ半島まで逝っちゃうな。

http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html
194191:2009/03/27(金) 04:40:43 ID:vMAMLv3n0
ちなみに地図で見れば、丹後から三輪あたりだと
ざっくりした数字だが120〜130kmと言った所か?

ただしそれはあくまで直線距離なので
実際の道のりは更に延びる。

少なくとも70kmを水行30日陸行一月かけるのより余程マシw

195名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 04:45:03 ID:E6QWylEnO
>>75を見る限り九州説が正しい。
なぜなら朝鮮人は正しいことを言えないから。


はい論破(笑)
196名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 05:48:12 ID:0Doj/KKoO
>>188
ならば最後まで「〜から邪馬台国に至る◇★△里」とならなければ不自然。
197名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 06:02:54 ID:HGLOB8Z4O
>>191
丹波〜大和間を陸行1月かける話と状況は大して変わらんだろ。
実際のところは>>126が後段で書いてるように、帯方から邪馬台国への所要総日数
を表すと解釈する方が無難だろうな。
198名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 06:07:43 ID:HGLOB8Z4O
>>193
それは漢の長里だ。
>>194
寄り道しまくらないと日数が合わない点では同レベル。
199名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 06:12:15 ID:HGLOB8Z4O
>>196
なってないんだからしょうがないじゃん。文句は陳寿に言えよw
俺たちは残された史料に基づいて考えればいいんだよ。
200名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 06:24:54 ID:0Doj/KKoO
>>199
残されたものを合理的に解釈しないとね。
吉野ヶ里ならそこまで同じに書くよ。
その先が九州から全然離れた地理の分からない水行十日陸行一月の場所なんだな。
201名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 07:17:29 ID:p9LFBM8G0
>>198
短里って何尺(あるいは何歩)なの?
どの史書の律暦志に載ってるの?
202名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 10:52:51 ID:6nVu96b/0
>>187 :名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 03:52:33 ID:TxVCBhxzO
>崇神天皇の頃は婚姻範囲は尾張、近江、山背、河内。

崇神に限らず、それ以降も
近隣諸国との婚姻がメイン。
203名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 11:20:32 ID:XCDMDM4Z0
>>201
グーグルアースで距離を測ってみると、
半島南端から対馬北端かで約50km、対馬中部から壱岐まで約50km、
その壱岐の到着した地点から壱岐をぐるりと回りこんで唐津までが約50km

グーグルによればそれぞれ約50km、魏志倭人伝によればそれぞれ千余里。
204名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 11:46:58 ID:HGLOB8Z4O
>>200
陳寿は総里数をきちんと明示しているのだから、それは単におまえが倭人伝に
忠実な解釈をしていないだけのこと。
205名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 11:47:34 ID:pHFWP+e50
「三国志」の中で「長里」と「短里」がどう使い分けられてるかは、
ここが分かりやすいと思う。

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page009.html
邪馬台国(2)  1里の長さ−1
206名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:07:48 ID:y+tqkRWq0
水行10日 陸行1月・・・四国一周できそうだな。邪馬台国は88番札所だろ
207名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:18:48 ID:2lQBtWZ60
吉野ヶ里って伊都国じゃないの。
「(末廬國から)東南へ陸を五百里行くと、伊都國に到る。」ピッタリじゃない。
でも前原市が先に伊都国って名乗ってるから駄目か。
なかなか折り合いが難しいね。
208名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:19:31 ID:uC44q7Nn0
九州説なら、水行10日or陸行一月で宮崎南部
筑前〜宮崎まで約230km 1日平均7.6km
畿内説なら、水行20日で出雲、水行10日で丹波、陸行一月で大和
丹波〜大和まで約180km 1日平均6km
209名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:24:24 ID:6nVu96b/0
>>207
吉野ヶ里のあたりは、米多国(めたこく)といわれていた。
旧事本紀の国造のところにも記載されている。
あのあたりにも、そういう地名が残っている。
これは、西暦107年の倭の面土国(めたこく)の帥升の本拠地。

伊都国=糸島で、奴国の端っこにぽつんとある。
おそらく、邪馬台国(ヤマト国)が九州統治のために
奴国の端っこを切り取って作った国でしょう?
一大率がおかれていたし、
奴国の名称が上古音の時代につけられたのに対して
伊都国のほうは中古音でつけられているから、
少なくと、中国側に知られた年代は、奴国よりも、ずっと後。
210名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:33:15 ID:pHFWP+e50
あれかな。
南北朝時代で言えば、
北朝の伊都国王と、南朝の卑弥呼とで、もめてるあいだに、
将軍の一大率がブイブイいわしてたのかな。
211名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:45:51 ID:6nVu96b/0
>>210
邪馬台国はヤマト国で、卑弥呼はヤマトトトヒモモソ媛命でしょう。
伊都国というのは、奴国の端っこにポツンとあり、
普通、あんな地域が独力で、独立国家としてやっていけるわけがない。

そうしたら、案の定、伊都国には
邪馬台国(ヤマト国)から、一大率がおかれていて
九州諸国を監視していたもよう。
邪馬台国(ヤマト国)が政治的に作った国が伊都国でしょう?

ちなみに、倭国大乱とは、
卑弥呼がヤマトトトヒモモソ媛命と考えたら
欠史八代の中ごろに起こった大乱と思われ。
おそらく、尾張氏の先祖と皇室の先祖が祭祀王の座を争った事件だと思う。
尾張氏と皇室は、天忍穂耳命の子供の代で別れた兄弟の家系同士に当たり
いわば、古代版の南北朝時代と思われ。
212名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 12:49:55 ID:ZzDu+XB40
>>209
勝手に中古音でつけちゃいけないお。
上古音がどんなものだったか知らないけど。
213名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:07:39 ID:neUNd/kk0
邪馬台国の存在が九州であろうが近畿であろうが
どうでもいいんだが、福岡の人間にとっては結構重要な問題らしい。
昔、「九州説裏付ける証拠が・・・」なんて報道された時に
福岡の人間が誇らしげに喜んでたのを思い出す。
214名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:09:10 ID:pHFWP+e50
元伊勢宮は伊都国にあったのか?
215名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:12:08 ID:VXyyR9Pi0
邪馬台国は近畿だろうけど、先祖はもともと九州から入植して
勢力を拡大したのかもわからんよね
邪馬台国の時代は少なくとも北九州諸国と邪馬台国は
同盟関係のようだし
216名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:24:35 ID:+juE+AcP0
>>204
魏志倭人伝に忠実な解釈をすれば、邪馬台国は現在は海中に没してることになるが。
217名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:54:35 ID:2lQBtWZ60
吉野ヶ里って外壕と内壕の二重の環濠で囲まれてたんでしょ、
熊襲は相当な荒くれ者だったんだろうな、

この時代、倭の新羅に対しての侵略ぶりは凄まじいものがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E7%8C%AE

まさに食い物が無くなれば襲いかかるような感じ、
たまりかねた新羅の王が、百済と共に倭を討つと発言して、叶わないから、止めとって言われたぐらい。

纏向は戦いの様子はほとんど見られない、平和な感じ、
この時代の倭の主役は九州であり、その中でも熊襲は重要な位置をしめていたと思う。
218名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:57:06 ID:7WxOHlhR0
邪馬台国は俺たちの心の中にあるんだよ
219名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 14:09:51 ID:094CL2yo0
>>217
なんでも熊襲っていうのは津田学派の悪しき影響
関東の北側をアイヌもなんもかんもいっしょくたにして蝦夷というのとおんなじ
記紀では熊襲も隼人も同じように書かれてる部分もあるが
隼人と熊襲は別の部族
220名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 14:15:40 ID:Plx3561Q0
邪馬台国九州支部
邪馬台国畿内支部

でいいじゃねえか
221名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 15:09:48 ID:HGLOB8Z4O
>>201
短里説では長里と同じく、一里=300歩みたいだな。尺については知らん。
もし律暦志に短里だと書いてあったら、邪馬台国論争は起きてないだろうな。
但し三国志に律暦志があるのかどうかは知らん。隋書にはあるらしいね。
短里説では周代及び魏晉朝について短里だったとしている。
222名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 15:11:01 ID:6nVu96b/0
>>212
上古音とか中古音は、最低
漢和辞典で調べてみろよ。
あと、漢字の音韻については、森博達先生が詳しいと思う。
魏志倭人伝が関われた時代は、中古音の時代であり
倭人伝は、中古音の音韻を踏んでいるとか。
でも、西暦57年の奴国の時代は、完全に上古音の時代。
223名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 15:13:10 ID:6nVu96b/0
>>215 :名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 13:12:08 ID:VXyyR9Pi0
>邪馬台国は近畿だろうけど、先祖はもともと九州から入植して
>勢力を拡大したのかもわからんよね
>邪馬台国の時代は少なくとも北九州諸国と邪馬台国は
>同盟関係のようだし

同盟関係とかいって、一大率おかれて監視されるわ、
魏の国も邪馬台国にいる女王に
倭国王と認めているぐらいだから
北九州諸国は、邪馬台国の完全な傘下だろうよ。
224名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 15:41:58 ID:HGLOB8Z4O
>>205
混在説って示唆深いね。蜀志(長里)、魏志(後漢:長里、魏:短里)、呉志(短里?)の
使い分けが起きた理由をあれこれ考えると非常に面白い。
陳寿が三国志を編纂した時、各国宮廷の文書をそのまま原資料として使用したこと
が短里と長里が混在した直接の原因なんだろうね。
さらに陳寿は蜀出身の官僚だったから、長里にも慣れており、再計算による短里
への統一を、敢えてしなかったんだろうな。
225名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 15:57:22 ID:HGLOB8Z4O
>>216
つ短里説
226名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 17:48:39 ID:vnFO3PhY0
邪馬台国論争って、どうしたら決着つくの?
金印か鏡が出たら終わる?

それとも、どちらかの最後の一人が死ぬまで終わらないのか。
227名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 17:53:15 ID:aWNb2mZS0
>>226
遺跡から親魏倭王の金印が出たら終わる。
228名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:01:52 ID:CQkfGhDU0
>>227
じゃあ箸墓や巻向あたりガッツリ掘ってみるといいかもね。時間かかるけど。
229名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:11:41 ID:aWNb2mZS0
>>228
埋まってたらいいけど、重要宝物だろうから皇室とともに移動して
その間にどっかに行ってしもたかもしれん。
あるいは農民が拾ってて農家の蔵の片隅で忘れられてたりw
230名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:19:43 ID:bBNha6cd0
どうでもいい時代に売られて溶かされてじゃねーか
231名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:21:07 ID:CQkfGhDU0
あと、墓に100人(?)生き埋めっていうのもあったね。
232名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:24:14 ID:GYwxthNd0
あれだけの古墳だ、箸墓を掘れば色々出てくるだろ。
掘る事が出来ればだけどw
233名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:26:00 ID:CQkfGhDU0
>>232
まずはそれからだよなー
234名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:26:07 ID:0T2CLTrN0
>>226
もう終わってる。アカデミズムにはもう九州説なんていない。

いまだに進化論は認めない、人間は神が造ったとまくし立てる人が
いなくならないのといっしょ。進化論にはまだ問題があるとしても、
人間を神が造ったかどうかについてはもう決着してるでしょ。

そんな状態。
235名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:34:18 ID:GYwxthNd0
今も九州説を守っているのは宮内庁と言っても過言では無いだろう。

ぶっちゃけ巻向周辺の御陵墓を何基か掘れば邪馬台国はどこか
すぐに確定しちゃうだろ。
236名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:34:49 ID:JlAH8TaL0
邪馬台国をヤマタイと読んだのは本居宣長。
卑弥呼が魏に朝貢したため、大和政権と繋がりあるのを皇国史観の観点から嫌ったので、
むりやりヤマタイと読んだ。 大和朝廷とは無縁だと言いたいばかりに。
大和朝廷は邪馬台国を滅ぼしたのだと言いたいばかりに。
邪馬台国の台はトとも読めるのだが、ヤマタイと言い張った。
今も、九州説をとなえる人の中には、こういう心情からの人がいる。

自分としては、邪馬台国は大和政権につながるヤマト国だと思う。
別に当時の中国に朝貢したからって、現代の日本の値打ちが下がるわけでもない。
天皇陛下や皇室がこんな事で汚される事はない。そう思う方が不敬だと思う。
中国にしたって、漢民族以外に制圧されたこともある。

つまらん意地に拘らず真実を追究すればいいのにと思う。
237名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:35:47 ID:6nVu96b/0
>>234
現在、邪馬台国九州説って、左翼と右翼に多いんだよw
むろん、両者が九州説を支持する理由は違うわけだがw
左翼が邪馬台国九州説を支持するのは、
地方主義の支持、畿内の国家中央集権に反対する理由からw
一方、右翼が邪馬台国九州説を支持する理由は、
神武東征の解釈問題、あるいは、卑弥呼の中国への朝貢をよしとしない理由から。

いずれにせよ、米国の進化論を支持しない宗教右翼と同じ。
238名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:40:42 ID:PLFPKK6nO
畿内説こそ最も皇国史観に毒されていますw
中央集権なんて幻ですからw
239名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:41:16 ID:6nVu96b/0
>>236
まったく、そのとおり。
むしろ、本居宣長があんなこといたせいで、
皇室の歴史はずいぶん短縮されてしまい
しまい、万世一系は嘘だとか、三王朝交代説、騎馬民族征服説など
本居宣長にとっては、もっと否定したくなるような説が出回る結果になっている。
なんとも皮肉な結果だ。

ちなみに、例の三角縁神獣鏡の研究での中国人の先生なんかは
卑弥呼政権=崇神天皇政権のことだと確信し
それは、中国人から見ても、かなり強力な政権と評価しているくらいだから。
前方後円墳にしても、纏向遺跡の規模の大きさからみても。
240名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:44:55 ID:ccbWPDxdO
普通にヤマト=ヤマタイだろw
どんだけ似た音なんだよw
241名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:48:36 ID:iVLC3Sxu0
ヤマタイって、完全に九州弁じゃねーか
242名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:49:00 ID:1/HnGmai0
243名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:49:33 ID:CQkfGhDU0
>>241
w
244名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:55:34 ID:q9Zf4b4/0
邪馬台国=ムー大陸という説を俺は未だに信じてるよ
245名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 18:57:07 ID:OTCj5BrW0
邪馬台国って言うくらいだから、邪心を司る馬の産地の近くの丘あたりかな
邪心を司る馬といえば鹿かな。とすると奈良あたりか
246名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 19:11:04 ID:bBNha6cd0
盆地だろ
247名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 19:30:52 ID:HGLOB8Z4O
>>209>>210>>211>>223
一大率って六波羅探題みたいなものか?
一大率と一大国は名前が似ている。一大率は一大国と関連があるのかも知れない。
ところで古事記に出てくる神々はアメノミナカヌシ、アマテラス、アメノウズメ、アメノオシホミミなどと、
アメ(天)が名前の初めに付くことがよくある。また隋書によればイ妥王の姓は阿毎
とあるから、倭王は高天ヶ原以来の「天」を姓とした一族であると考えられる。
つまり倭王の祖先が住んでいた高天ヶ原は「天」氏の国=「天国」とも言うべき
国なのである。ここで先程の一大国を書き出してみる。漢文だから当然縦書きで。
 



 
何と、天国と読めないだろうか?一大国が天国を元にした名称ならば、高天ヶ原
の中心地は壱岐であった可能性が出てくる。
そうなると一大率も天率となり、倭王の祖地である高天ヶ原と関係の深い存在と
いうことになる。一大率が検察したのは女王国より北という旧天国勢力圏と思しき
地域であることからも、また諸国が畏れ憚ったということからも、かつての祭祠
権力としての高天ヶ原=天国=一大国と一大率との関連性が考えられるのでは
ないだろうか?
248名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 19:40:14 ID:TxVCBhxzO
畿内説というか、今の主流派はこの時期は畿内を中心とした連合であって中央集権ではない。
中央集権化へ向けての整備を始めたのはその後の成務天皇だし。
249名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:12:59 ID:VXyyR9Pi0
>>236
そうなんだよな
文明の黎明期に他国に貢いでたって別におかしいことじゃ
ないんだし
250名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:13:06 ID:094CL2yo0
>>241
「邪馬臺國」なら
当時の中国音の読みは
「ヤマトコク」と考えられてる
「ヤマタイ」ではない
251名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:21:35 ID:ozTsrVlj0
>>236
ハゲ堂!
ヤマタイコクじゃなくてヤマトコクなんだよね。
252名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:24:49 ID:aWNb2mZS0
ヤマタイコクなんて恣意的な読み方やめたらいいのに
253名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:25:04 ID:VXyyR9Pi0
そういえば倭の五王の遣使なんかも記紀ではなかったことにされてるんだっけ
254名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:31:55 ID:eNTSfERL0
さらに一回目の遣隋使もね
恥かいたからだろうといわれるが
255名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:33:31 ID:vkhEhi/V0
隋書に「都はヤマト、魏志で言う所の邪馬台国なり」と丁寧に
書いてくれているのに、これが邪馬台国論争でほとんど無視
されている理由は何?
256名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:36:38 ID:ccbWPDxdO
>>255
論争が終わってしまうから
257名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:42:59 ID:iveZln3H0
神武東征は嘘なら嘘でも別にいいんだ。
ただ。あえて、あんなところから来たと書かなければならなかった
記紀の事情が知りたい。

1.ほんとうに日向から来た。
2.日向は先進地とか、神秘てきなところとみんな思っていたので、もっともらしくそう書いた。
3.とりあえず遠いところだったらどこでも良かった。

あと考えられる理由はあるかな?
258名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:49:39 ID:bo7qI+Pn0
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国てことないよね

「水行10日陸行ひと月」て言葉覚えてるよ、
吉野ヶ里遺跡じゃぜんぜん合わないよね。違う?
259名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 20:55:09 ID:aWNb2mZS0
>>257
魏志倭人条の邪馬台国は畿内だと思うが、
神武ではないだろうが、祟神までの間に東征はあったと思うな。
もしかしたら祟神もフィクションで応神か仁徳が東征してきたのかもしれんが。

それは三輪山の大物主と出雲大社の大国主が同一視されてること。
祟神が大物主を畏れて大田田根子に祭らせてること。
つまり最初に国づくりをしたのは大国主で後から来たのが天孫かもしれない。

邪馬台国が3世紀に畿内にあったとしたらそれより前ってことにはなるが、
すると応神や仁徳の東征では遅いってことになるけどな。
260名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:00:37 ID:7eOPVCr60
沖縄県北谷沖にある海底神殿こそ邪馬台国だよ
261名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:06:59 ID:HGLOB8Z4O
>>234
進化論とかお前が勝手に決めるなよw
考古学者が九州説より畿内説を支持しているのは知っているが、学会の動向なんて
時代時代でどうとでも変わる。彼らには人事という生活の糧が必要だからね。
アカデミズムとか干からびた権威にすがってるお前が惨めなだけ。
九州説を否定したかったら、何でもいいから畿内説の根拠を地道に挙げていきな。
262名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:11:04 ID:aWNb2mZS0
>>261
むしろ九州説の根拠。
一番知りたいのは七万戸と記載されるほどの大きな遺跡はどこなのよ?
263名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:12:02 ID:HGLOB8Z4O
>>235
九州説の側としても、畿内の古墳は早く発掘してほしい。邪馬台国とは無関係な
遺跡であることが証明されるかも知れないからね。
264名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:12:25 ID:vD3Ap3KG0
>>262
ヒント:阿蘇山の噴火
265名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:13:18 ID:aWNb2mZS0
>>264
阿蘇の麓ってこと?
行程に合わないよ。
266名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:14:01 ID:ndeGbPNe0
こういうもんは客観的中立的に研究していく会でないと、どっちかの説に想い入れが
強い会だとおかしな研究発表して混乱招くだけだぞ
267名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:15:20 ID:AGeXYuR80
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だということで、当時進められていた工業団地の造成がストップしたのは有名な話なんだがな。
268名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:17:42 ID:BrxYTNEB0
オマエラ無知だな。邪馬台は東北にあったの!
本で読んだもんね( ̄^ ̄)
269名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:18:33 ID:aDQN925k0
あっそ。
270名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:19:21 ID:094CL2yo0
>>257
古事記を編纂するときに
全国各地の伝承を集めた(風土記の元)のだが
出雲と日向にもっとも古い伝承が残っていた
271名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:27:24 ID:094CL2yo0
>>262
西都原に日本最大級の首長級古墳群があるが
それを作る(3〜7世紀)のには
大変な数の労力が必要だったわけで
宮崎平野〜西都原には
かなりの数の人間が住んでいたと予測される

上智大学教授鬼頭宏の「人口で見る日本史」によると
西暦2世紀の南九州の人口は
北九州より、山陰より、畿内より多い

はっきり言って
九州説なら残るは宮崎だけ
272名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:28:10 ID:HGLOB8Z4O
>>236>>237>>239
学問に政治やイデオロギーを持ち込まんでくれ。おまえらみたいな結論先にありきの
連中こそ宗教右翼そのものだよ。
273名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:31:25 ID:aWNb2mZS0
>>271
もし、仮に、万が一、九州だとしたらオレも西都原だと思うw
邪馬台国とは別に東征があったなら
神話に沿ってもあの辺からだと思うしな。
274名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:33:38 ID:aWNb2mZS0
>>272
本居宣長が「ヤマタイコク」と読んだことこそイデオロギーからなんだけど。
275名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:36:53 ID:GYwxthNd0
>>273
九州説なら西都原以外考えられないのは確か。
しかし、だとしたら投馬国は一体どこなんだろうな。
276名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:37:32 ID:JlAH8TaL0
>>272
>学問に政治やイデオロギーを持ち込まんでくれ。

は?
>>236 は 「邪馬台国の研究にはイデオロギーを持ち込まず、
つまらん意地に拘るな」が主旨だよ。

九州説をとる人=皇国史観からの拘りを持つ人だともしていない。

あなたは、畿内説をとる人=すべて政治やイデオロギーを持ち込む人だと
主張しているわけではないでしょう?
277名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:40:07 ID:ozTsrVlj0
>>239
>卑弥呼政権=崇神天皇政権のことだと確信し

ズブの素人なんですが、マキムク、大神神社周辺を調べている時
そう思いました。中国でもそういう意見はあるのですね。
感激しました。

278名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:41:20 ID:vMAMLv3n0
>>267
まあ地元の新聞記者に情報をリークした学者が確信犯的にやったと言うのがもっぱらの噂www

無論当人は否定しているがwwwwwww

279名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:43:13 ID:eNTSfERL0
卑弥呼と崇神朝って微妙に年代あわないだろ
卑弥呼の時代より後になるぞ
280名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:47:40 ID:VmFdgSQM0
>>257>>259>>270

12代景行天皇、15代応神天皇、16代仁徳天皇のお妃様たちの中に、
南九州から嫁いできた女性たちがいるよね、皇后じゃないけど

【12景行天皇】
妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
妃:襲武媛(そのたけひめ)
妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)

【15応神天皇】
妃:日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)

【16仁徳天皇】
妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の女)

日向の一族が目立つけど、この時代に天皇家と姻戚関係になっちゃったものだから
「いや、元々われわれは、もっともっと由緒ある一族だったのだぞ」
と、初代神武天皇の話をこさえたんでは?
281名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:47:53 ID:aDQN925k0
国営公園になっちゃったから、国交省を説得するために相当苦労してるみたいね。
某先生から「自分の目で見たもの以外は信じられない」とまでいわれちゃってるし。
282名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:48:19 ID:HGLOB8Z4O
>>255
隋書に書かれている都の名は「ヤマト」じゃないよ。
「邪靡堆」だったはず。
これをどう読むかは議論が必要だと思う。
283名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:49:28 ID:eNTSfERL0
それをヤマトじゃないって言い張るのもすごいな
じゃあ推古朝の時の都はどこだよw
284名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:52:18 ID:DKiOUZVm0
>>275
投馬国は当時かなりの人口を抱えた大国(大集落)だったと見られるから、
日本側の歴史にもしっかり残るような国(場所)だったに違いない。

…とすると、可能性は「出雲」の国だろう。
当時出雲には相当な人口がいたと見られるし、大きな社も抱え栄えていたと
見られる。邪馬台国ともそれなりに近い関係だったろう。

また出雲なら水行20日の表記もそのまま受け入れることができる。
当時の船足を考えれば、ちょうど20日前後で帯方郡←→出雲を行き来できたろう。
285名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:55:13 ID:GYwxthNd0
出雲なら西都原と同じ方向っておかしくない?
286名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 21:57:16 ID:JCNpLhSWO
じゃ…邪馬台国
287名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:06:02 ID:HGLOB8Z4O
>>262
まだ発掘されてないんだろ?吉野ヶ里だって三内丸山だって発掘前はあんな規模
の遺跡があると予想されてたわけじゃないからね。今ある遺跡だけで判断するのは
危険だね。畿内説にも九州説にも言えることだけど。
>>264
ポンペイかよw
ただ、隋書において阿蘇山とその祭りだけが特記されていることから、倭の都
からは阿蘇山が見えた可能性が高い。
288名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:07:54 ID:1pIKCaCt0
邪馬 ←これって朝鮮語ではどう読むん?
太古の文献は朝鮮語で解読できるらしく、日本語ではものすごい強引な当て字になり意味不明なものになるらしい。
この時代は、さらにさかのぼるわけだし、文明の差から言っても、統治者は半島出身者だろう。
卑弥呼は朝鮮人だと思う。 地理的に近いという点で、北九州説のほうが自然だよね。
289名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:08:53 ID:SuCoyka30
邪馬台国をどげんかせんといかんの会なら応援する
290名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:10:08 ID:2lQBtWZ60
投馬国は薩摩じゃないの
291名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:10:19 ID:HGLOB8Z4O
>>262
それから、九州説を叩く暇があるなら、畿内説の根拠をあげてくれよ。
纒向が巨大遺跡だからっていうのは、根拠にはならないからね。
292名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:11:26 ID:SuCoyka30
薩摩は隼人ですたい
293名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:21:19 ID:vkhEhi/V0
>>282
遣隋使の時代のことまで否定するのは無茶じゃないかな。
実際に、都は大和にあったんだし。
294名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:21:26 ID:HGLOB8Z4O
>>274
宣長が政治的イデオロギーでそう読んだというのが本当だとしても>>236>>237>>239
ような連中はその点に政治的イデオロギーでこだわってるから同類なんだよ。
学問に政治的イデオロギーは邪魔なだけ。
295名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:23:40 ID:aWNb2mZS0
>>291
なんで?
九州から水行して到着するのが投馬国で出雲、
さらに水行して陸行して到着した七万戸とかかれる大規模遺跡に相当するのが巻向。

行程からして九州ではないだろ。
規模の大きな遺跡も出ない。
むしろ九州に邪馬台国があるなら里数表記してるハズだわな。
296名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:26:31 ID:CQkfGhDU0
>>255
自分もそれは前から疑問に思っていたよwww
297名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:31:26 ID:aWNb2mZS0
>>294
本居宣長が国学のイデオロギーから、中国に朝貢したり金印を受けたことが許せなくて
大和朝廷の名を騙った熊襲の女酋長だと説いて、
大和朝廷の偽物とするために、あえて「ヤマタイコク」と呼んだんだよ。

あくまでも、偽物とするために「ヤマタイコク」と読んでるわけで
記載の邪馬台国を本来なら「ヤマトコク」と読むと宣長も認識してただろう。
イデオロギーから偽物とするために違う読み方をしたってこと。

で、宣長のイデオロギーによる読み替えを、事実としちゃってるのが九州説だわな。
298名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:40:25 ID:aDQN925k0
>>287
7万戸はどうやったって遺跡一つでは無理だよ。
最大規模の遺跡でも同時期に建っていた建物は250棟ぐらいだから。
大雑把な計算で奈良盆地ぐらいの広さで1万戸。
話半分として7万戸ならその三倍くらいの面積がいる。
299名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:42:52 ID:RZ7nSD060
邪馬台は宮崎で間違いなか
300名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:44:50 ID:GYwxthNd0
>>293
そこで九州王朝説ですよ。
都は大宰府こと邪靡堆にあった。
301名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:47:56 ID:ydsXsh6Q0
隋書は随所に問題あり。
まあ九州王朝説に期待したい。
302名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:48:49 ID:3juN3k5A0
筑後川下流域だな。
クナが熊本。ツマが薩摩。
東が海と年中温暖がちと疑問。
西都は何国かな?
303名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:50:24 ID:gUFwAjmh0
熊襲が クマ+蘇 でいいなら
薩摩も 蘇+投馬 か?
304名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:56:22 ID:ydsXsh6Q0
隋書でいう倭王タリシヒコって誰やねん?
305名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:57:07 ID:HGLOB8Z4O
>>276
現代で皇国史観から九州説を唱えてる人なんて知らないけど、研究者の内的動機
としてのイデオロギーは当人の自由だよ。だからこそ、学者の権威とか多数決で学説
の優劣を決めたり、自らのイデオロギーを根拠に他説を批判したり、相手のイデオロギー
そのものを批判する行為は、すべて学問にとっては邪魔なんだよ。
これが、君の方がむしろ学問にイデオロギーを持ち込んでいると見た理由。
君とのスタンスの違いはわかってもらえただろうか?
306名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 22:59:29 ID:W8Nx8QtEO
>>303
それがFAだろうね。
邪馬台国も邪馬国と台国が合わさったと思う。
307名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:03:51 ID:BgDhZgaqO
どこでもいいじゃないかっ!
308名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:04:02 ID:KyqDFvQ0O
奈良には大仏やら鹿やら他の遺跡や有名な観光スポットがあるけど
佐賀には他に何もないからなぁ必死になるわけだ
309名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:05:11 ID:1Y6ziInP0
そもそも邪馬台国など存在しない。

創作の世界
310名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:17:05 ID:aWNb2mZS0
>>305
新唐書にある用明天皇では?
311名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:17:28 ID:gUFwAjmh0
そうか、7万戸の投馬国は
桜島の火山灰に埋まってるのか。
312名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:20:04 ID:ydsXsh6Q0
大宰府の下に遺跡が埋もれてるよたぶん。
だれか掘り返してみて。
313名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:28:25 ID:HGLOB8Z4O
>>283
隋書の記述に忠実に考えると、「邪靡堆」=魏志の「邪馬台」だから、邪馬台国
九州説なら必然的に、「邪靡堆」は九州内にある3世紀の邪馬台国の都を指す
ことになる。
314名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:30:41 ID:aWNb2mZS0
>>310>>304
スマソ
315名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:39:01 ID:6nVu96b/0
投馬国は、ヅマ国。 ツマ国ではない。

まあ、出雲国のことだろう。
316名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 23:40:53 ID:GYwxthNd0
>>313
九州説なら必然的に九州王朝説を認めなければならなくなるのか・・・
317名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 00:54:01 ID:h+52Do3F0
>>305
>自らのイデオロギーを根拠に他説を批判したり、相手のイデオロギー
>そのものを批判する行為は、すべて学問にとっては邪魔なんだよ。

わたしゃ、本居宣長のイデオロキーそのものを批判しておりませんが?
と言うより、「それに囚われて真実を曲げようとする本居宣長の姿勢は
真実追求のためには良くないのじゃないの」ってことですが・・。
そんなつまんない物に拘らず、真実を追究すべしって書いてます。

>君とのスタンスの違いはわかってもらえただろうか?

「邪馬台国の研究にイデオロギーに囚われるな」って言う意味では貴方と同じでしょ?

>>272
>学問に政治やイデオロギーを持ち込まんでくれ。

私の主張が、あなたのこの主張に反してるとは思わないですね。

九州説をとる人は皆、本居宣長を支持しているのですか?そうではないでしょう?
貴方は、本居宣長のイデオロギーからの決め付けを良しとはしていないでしょう?

私は、邪馬台国は畿内にあったと思っています、が、今後の研究や発掘によって
真実が明らかにされて、その結果、それが九州にあったと分かったら、それは
それでいいのです。真実が分かる事が一番なのですから。
また、同様に研究や発掘によって畿内にあったのなら、それでも良いです。真実なら。
しかし、それが本居宣長のような観点から、それを認めないようになっては
学問としてマズイだろうと思いますよ。
318名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 01:42:03 ID:1ccIDigu0
>>239
>>277
中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊の本ね
彼の本はすごく論理的で面白い
日本の学派なんかにとらわれてないから
一読お勧め
319名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 01:46:01 ID:+sz0DkFSP
どこにあろうが歴史はなんもかわらん
320名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 01:47:40 ID:CyaTz4jf0
「邪馬台国の所在を究明する会」
じゃなくて、
「邪馬台国が近畿にあったらいいな」
だろ。

結論ありきの研究会って、かの国みたい。
なんか嫌だなw
321名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 01:50:09 ID:yjq7MQzq0
邪馬台国がどこにあろうと、今ごろ観光名所にはならないと思うけどな。
卑弥呼まんじゅうとか売るつもりか?
322名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 01:56:04 ID:MI0sVqWJO
邪馬台国→ヤマト国なんだよ?

邪馬台国への経路も丸っきり嘘ってのも気が引けるので暗号化したんだ。適当にね。


そんな悩む場面の夢を見た
323名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 02:01:42 ID:y3vyxYxu0
邪馬台国って所在があいまいだから、人気があるんであって
場所が確定しちゃうと、観光資源としての価値はどうなるだろうな。
324名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 03:30:44 ID:CuQmiXhD0
>>205
とりあえずサイトの紹介ありがとう。
つまり、そこのサイトの人は通説でいう一里の距離だと説明がつかないから
実際の距離を里数で割って、「真実の一里」の距離を出しているわけだ。

方法論かなりおかしいよね…

魏志韓伝の韓の「方四千里」を通説の一里にすると
約1800キロにもなってしまうところから
そういう方法に飛躍してしまったようだけど
倒錯というか顛倒というか、
結局邪馬台国までの里程を列島内、いや九州内で
収めたいがために辻褄合わせをしているだけだ。

定まった一里の距離があるのだからそれを使うしかない。
四千里とかとんでもない数字が書いてある理由をまず考えるほうが先。
岡田英弘氏のように月氏の国と対置させるために東夷の国を大きく
描かざるをえなかったというのもアリだろう。
325名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 03:33:18 ID:CuQmiXhD0
(続き)

さらに赤壁の戦の一場面を例に出してるけど、

>問題は黄蓋が火を放った地点が、「北岸を去る二里余」とあることです。この二里
>余が通説の通り(長里)なら約1キロメートルとなり、岸に近づく前に、追い風を計算し
>ても船は流されてしまうと思われます。何よりも1キロメートルの彼方からでは「降伏」
>の声も届くかどうか良く分かりません。
>これが短里であれば130〜180メートル程度ということになり、良く状況に合うと思
>われます。

別に1キロ先から火を放ったって問題ない。
降伏の声だって、兵士が声をそろえて喚いたんだから届かなかったとはかぎらない。
…というふうにすぐ反駁できてしまう。
こうした恣意的な解釈は論証とよぶに値しない。
326名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 03:42:45 ID:CuQmiXhD0
>>221
>もし律暦志に短里だと書いてあったら

あるわけない。>>205のサイトのような人々が捏造もとい
独自の計算で割り出したんだから。

>但し三国志に律暦志があるのかどうかは知らん。隋書にはあるらしいね。

三国志には律暦志どころか志そのものが存在しない。
詳しそうなのに知らないとは意外だな。
隋書の律暦志には晋代に復元された周代の尺を基準として
歴代王朝の尺が列挙されている。
周尺を一尺として、漢の官尺が一尺三分七毫、
魏尺が一尺四分七釐、晋後尺一尺六分二釐…とある。
周尺は約23センチメートルだから魏尺約24.08センチメートルとなる。

1里は1800尺だから、結局魏代の1里は約433メートル。
327名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 04:08:04 ID:N1pPFtFf0
(邪馬台国がどこにあったかなんて)タイムマシンが出来たら一発で解決できる
グダグダ議論するよりもタイムマシンの開発を頑張るべきだ



と、高校のときに担任の先生が言ってたのを思い出す
328名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 04:14:25 ID:D7kXPsgZ0
タイムスリップするには宇宙全体の空間だかを歪めるエネルギーが必要らしいけどな。絶対無理だよw
仮に出来たとしても、宇宙全体の天体の動きを正確に把握して、
1750年前の地球の座標を完璧に割り出さないとタイムスリップしても
何処か不明の宇宙空間に放り出されて放流し続ける事になる。

って思いっきりスレ違いな話だなw
329名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 04:29:05 ID:XXAabEDh0
おい倭ってどんな風だい?
――郡から船に乗って海を渡って・・・とこうこうですだ
間違いないか?
――いつもそうやって行ってるだよ間違いねえだよ
よしわかった
330名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 04:38:44 ID:jLTwI4sE0
短里(1里=76m程度)説の弱いところは、中国ではこの考えがまだ一般的に通用しない
ところだろう。もし本当に短里も使われていたなら、その痕跡がいろいろと中国に残っていて
よいはずなのに、そのような記憶は今の中国にはない(たぶん、なさそうだ)。

ただ、じゃあまったくのご都合で短里なる考えが生み出されたのかというと、そういうわけでも
なくて…「周髀算経」という古代中国の天文学の基礎となる算術書があり、その中で扱われている
里はおよそ76m程度になる…と、解明した人がいるんだな。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogazu3.jpg

これら短里の解読が正しいかどうかは、正直わからないが。
もし今後もこの短里の研究が進み、中国側でも同じような研究結果が出たならば、魏志倭人伝の
距離の表記もおおむね正しいと見ていいのかもしれない。
とすれば1万2千余里=900キロ強(無論、これは直線距離ではないだろう)で、おそらく九州の
どこかに邪馬台国があったと考えられるだろう。
331名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 08:50:45 ID:sTvotLnU0
またかよ周髀算経。そんな蓋天説に基づいた話に意味があるわけないだろ。
332名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 09:43:23 ID:R/v2KJ4b0
「白髪三千丈」の国の書物に出てくる数字がそもそもどれだけ信頼できるんだ?
使者が、自分はこれだけ苦労して行って参りました、とアピールするために
相当の水増しをした行程を報告したんだよ。
実際は北九州あたりにあったんじゃないの。
333名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 09:53:44 ID:CuQmiXhD0
>>330
古田氏の知り合いらしいが、この谷本さんの説は正直よく分からない。
『周髀算経』のいう蓋天説というのは天円地方かつ天平地平な世界観なんだろ?
蓋天説を説明したサイトや『周髀算経』本文にはそう書いてある。
なのになぜ地球の極半径を使ったりして計算できるの?

それから仮に『周髀算経』から76メートルの短里が算出できたとしても
他の文献や渾天説の天文書ではどうなっているのか検討しなければならないし
そもそも、天文書でしか確認できない(本当に確認できるのか疑問だが)
短里をもって『三国志』を読み解かねばならない理由が全く見当たらないんだが。
334名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 10:09:22 ID:MrH/MBXU0
もうじき、安本や古田さんは、どうするんだ?
彼らの商売が崩壊するよ。
335名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 10:53:44 ID:sTvotLnU0
>>330
大昔に調べたことなので資料を掘り出すのに難儀した。
周髀算經にはこう書いてある。

陳子曰.復坐.吾語汝.于是榮方復坐而請陳子之説.
曰夏至南萬六千里.冬至南十三萬五千里.日中立竿測影.此一者.天道之數.
周髀長八尺.夏至之日[キ]一尺六寸.髀者.股也.正[キ]者.句也.
正南千里.句一尺五寸.正北千里.句一尺七寸.
※ [キ]=影のこと

おおよそこんなこと。ちゃんと訳せないので抜粋。

陳子がいった。夏至の時には太陽は南に一万六千里にある。
夏至のときにある場所で8尺の棒を立てると1尺6寸の影ができる。
真南に千里なら影は1尺5寸、真北に千里なら影は1尺7寸。

8尺の棒に1尺5寸の影ができるということは8尺:1尺5寸=5:1なので、
太陽の高さは水平距離の5倍。水平距離が一万六千里だから
太陽の高さはその5倍で八万里。

南にy里の場所の影の長さが一尺五寸であるとすると
80000:(16000-y) = 8:1.5 → y=1000
となり、移動距離が千里と出る。北も同じ。

このとおり、周髀算經の計算は太陽の高さを固定し世界が水平であるとして
机上で出した計算。これを現代の知識で球体の地球に当てはめても意味なし。
336名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 10:56:00 ID:sTvotLnU0
>>335
訂正

>8尺の棒に1尺5寸の影ができるということは8尺:1尺5寸=5:1なので、

の1尺5寸は1尺6寸の間違い。
337名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:06:42 ID:Rx5Lz44R0
末盧国の位置については、諸家の意見も
東松浦半島に一致している。

だが一支国からやってきた使者たちの上陸地点を
呼子付近とする説には絶対反対である。

当時はまだ呼子の瀬戸が通じておらず、
前面の加部島が地続きだったから、名護屋でなければならないのである。

中には唐津付近ではなかったかと説く人もいるが、
いいかげんな当て推量といわざるを得ない。

わざわざ唐津に上陸して、伊都までの悪路を何を好んで歩かねばならないのだろうか。
唐津に上陸するくらいなら、直接伊都まで船を乗りつければよかったはずだ。
それができないところに問題があるのだ。

壱岐、名護屋の航路によらず伊都へ直行しようとすれば、
距離は二倍近くのび、しかも波の荒い玄界灘を乗り切らねばならない。
それだけ航海日和の選択は不確実となり、追い風が少し西に寄りすぎているので
操舵がむずかしく、危険性は倍加する。

そこへゆくと名護屋コースは距離も近く、安全かつ最も適確な航路で、
より航海に適した日和を多くえらぶことができるのである。
そこに名護屋の価値があり、上陸してから少々歩こうと、
できるだけ海路を避けたのであった。
338名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:12:10 ID:ijYKGqPJ0
隋書倭国伝
夷人不知里數、但計以日

都までの行き方を取材したら倭人は里数を知らんから日数で答えたんだろ。
それを陳寿が換算したのが12000里。
九州ではないよ。
339名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:12:36 ID:TCfnrgjt0
>>323
価値なし。平城京だって人気はない。藤原京や難波京なんか誰も興味なし。
そのレベルになるだろう。
邪馬台国人気は、歴史に興味があるからじゃなく
推理小説みたいだからが最大の理由
340名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:15:40 ID:CuQmiXhD0
>>335
しかし、この人の論文は間違いなく『数理科学』という雑誌に載ってるんだよね。
短里とやらが主題ではないのかもしれんが。
しっかし、意味不明な操作だわ…

>>339
素人が口を挟む余地があるから人気があるんだろうな。
341名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:19:15 ID:1nv5AN/y0
四国って言うの聞いたことがあるが、信憑性のある説?
342名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:24:40 ID:99E5fcw70
>>338
倭国の様子を描写したシーンはどう見ても
中国人からの視点で、倭人の報告を書いてるとは思えないが。

だいたい、240年に梯儁、247年に張政を日本に行かせたと
なってるじゃん。
張政は新女王のイヨに、激をもって告諭までしてる。

343名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:32:53 ID:kdUoCagGO
>>341
邪馬台国はまちがいなく四国にあった:っていう本を読むとそれなりに説得力はあった
344名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:33:37 ID:ofuQFyJE0
もうさあ、判明したらニュースにしてw
345名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:36:29 ID:QF50Cyln0
こんだけ揉めるならもうどっちも邪馬台国でいいじゃん
畿内も邪馬台国、九州も邪馬台国
みんな邪馬台国
346名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:37:14 ID:epkHk2vB0
じゃ…邪馬台国…
347名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:40:47 ID:ijYKGqPJ0
>>342
中国人が邪馬台国まで行ってたとしても、
測量の技術なんてないんだから
換算の基準は何日かかったか?だろ。
348名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 11:43:28 ID:LYbJWErQ0
宮崎康平が嫁に一言↓
349名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:03:34 ID:sTvotLnU0
>>337
>唐津に上陸するくらいなら、直接伊都まで船を乗りつければよかったはずだ。

倭人伝の冒頭に書かれた行程どおりに帯方郡使が移動したかというと
それは結構疑問だったりする。

そもそもの行程記事を見ると、詳細なのは末盧國までで、
その先は官名と戸数のみという簡略なものになっている。

こういうことから、この行程記事は実際の移動行程ではなくいくつかの情報源から
つなぎ合わされたものということが想定されるのだな。
戸数の単位が戸であったり家であったり統一されてないところや、
最後のほうが里数ではなく日数になっているところなどもそれっぽい。
成立時期も異なる可能性がある。

だからこれを一連の移動記録だとは思わないほうがいい。
同じ行程記事でも、この辺が裴世清の渡航記録とは異なるところ。

でまあ、個人的な感想に過ぎないんだが、帯方郡使が倭に来るときには、
いったん加唐島か呼子あたりに停泊して、そこから船のまま、
イト国あたりの外洋船が係留できる大きな港まで行ったと思うよ。
そのほうが楽だし。

一般人が地元民の船に乗せてもらって海を渡ってきたときには
船頭にあまり無理を言うわけにもいかないから、呼子か唐津か、あのあたりで下ろしてもらって、
あとは陸路、えっちらおっちら山越えしてイト国に行ったということじゃないかな。
350名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:06:34 ID:ZcvPM18jO
>>293
当時「大和」という名の都はない。存在したのは宮だ。当時の推古天皇の宮は、
「小治田」もしくは「小墾田」であり、「邪靡堆」と音は一致しそうにない。
351名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:33:51 ID:ZcvPM18jO
>>295
遺跡は現在わかっているものと限らない。単に大規模遺跡があるだけでは無意味。
不弥国までで10,700余里かかっているのに、君のような行程の読み方をすると、
そこからさらに水行20日、次いで水行10日、陸行1月も移動することになるから、
その後に書かれてある帯方〜女王国の総里数12,000余里と計算が合わなくなる。
よってその読み方は無理ということになる。
他にもう畿内説の根拠はないの?
352名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:41:19 ID:jA7Fmuwt0
昔の日本がヤマトだった、日本に改名したのが飛鳥時代。
飛鳥時代に中国の書物が入ってきて、邪馬台国とはヤマトの事とは自明の事だった。
九州説が出たのは江戸時代、皇国史観に毒された歴史家が、中国に朝貢なんて行為が許せなかっただけ
353名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:47:04 ID:ZcvPM18jO
>>297
「台」を「ト」と読む例を知ってる?俺は知らないから「邪馬台」を「ヤマト」と
読むことには同意できない。
宣長がイデオロギーから「台」を「タイ」と読んだにせよ、学問的には「台」を「タイ」
と読めるか、「台」を「ト」と読めるかだけが重要であり、他人のイデオロギーの
中身にこだわっても学問上は無意味。むしろ学問上の論争に政治的意見による
批判を持ち込む連中が出てくるから有害。
354名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:53:32 ID:ijYKGqPJ0
邪馬台国はヤマトコクだろう。
もし邪馬台国が九州にあったなら3世紀から6世紀の間に
東征したことを証明しないといけないだろうな。
やはり応神天皇か?

しかしながらヤマトの勢力が九州から本州に移ったというより
三輪山の麓がヤマトであって、そこの勢力が拡大したから
九州もヤマトの一部と解釈されるようになったとする方が自然だと思う。
355名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 12:55:06 ID:0lwAkVkaO
>>350
普通に考えて
中国の史書を見て「ヤマト」と名乗った可能性大。
356名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:00:32 ID:s7ZiA05hO
>>351
不弥国から300里で女王国国境なんだよ。
そこから水行十日陸行一月で大和なんだ。
357名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:01:05 ID:ijYKGqPJ0
>>353
平安時代以降、日本での漢字の音読のベースは呉音が定着したから「タイ」だけど
魏志倭人伝に書かれてるのは魏音だから、今の日本の読みは当てはめられん。
倭人が「ヤマト」と発音するものを、中国人(魏人)が聞いて
当時の魏音で「ヤマト」に似た音の漢字で「邪馬台」を当てはめたのは十分あり得る。

358名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:02:00 ID:0lwAkVkaO
>>353
「台」は昔の中国語が日本に伝達された時点で「タイ」。
現代の北京語では「タイ」広東語では「トイ」。つまりあまり変わっていない。
なのでヤマトに合わせて「ト」と読むのにはかなり無理がある。
邪馬はあきらかに山を国名に入れたもの。問題はタイが何を指すかである。
そして近畿勢が「ヤマト」と名乗るにあたって、何故「ヤマタイ」を捨てたかである。
359名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:04:37 ID:ZcvPM18jO
>>298
確かにそれは言えるね。想像以上の大規模な集落だったか、想像以上の数の集落が
邪馬台国に存在したか。いずれにせよ、倭人伝を簡単に誇張とするのは危険だと
思う。当時の朝鮮半島や中国大陸の集落はどんな規模だったんだろうね。
360名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:07:14 ID:ijYKGqPJ0
>>358
同じ魏志倭人伝で「台与」を何と読むか?

一般には「トヨ」と読まれてるだろ。
台与をトヨと読むのに、邪馬台をヤマタイと読む方が不自然なんだよ。
361名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:11:09 ID:zWDafYiC0
別にヤマトと読んだ所で、九州にもヤマトって地名はある訳だし。
ヤマタイに拘る必要はまったく無いと思うけどな。

九州弁説を信じてる訳でもないだろうに。
362名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:11:37 ID:bP0QheYz0
山太国が大阪民国にあると知ったらネトウヨはどのゆに反応するのであろうか
363名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:15:01 ID:0lwAkVkaO
>>360
台与をトヨと読むのは日本人だけ。
九州説だとトヨ=豊でいい感じだからね。
あぁ、やっぱ九州かぁ、邪馬台国。
タイヨ、タイユとは読まない?
364名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:17:00 ID:MrH/MBXU0
>>363
トヨ=豊鍬入姫命(崇神天皇の皇女)
やっぱり畿内。
365名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:18:12 ID:v79cN99i0
>>297
>>353
だから、太古の文献は朝鮮語で読み解いていけばあっという間なんだよ。
なぞが一気に解けていくようだ。 まあ、それはタブーなのかもしれないが、国としてでなく学問としてやってみるのも面白いと思うぞ
366名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:22:22 ID:MrH/MBXU0
>>365
あのな、古代朝鮮語なんて、どんな読み方をしていたか
手がかりになるような文献は残ってませんww

魏志倭人伝は、西暦280年代の中国人が書いた史書。
また、倭国に行った中国の使者も西暦200年代の人だから
この時代は、中国語の発音は中古音の音韻を踏んでいた時代。

だから、魏志倭人伝は、一応、中古音よみで解釈しないといけないんだわな。
367名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:26:03 ID:MrH/MBXU0
この邪馬台国論争の面白さは

本居宣長の国学思想の発表から第二次世界大戦の終結まで
日本では、皇室と中国への朝貢を否定する意味で
邪馬台国九州説のほうが、右派思想だと思われていた。

しかし、戦後は、
地方独立国史観を支持する意味において
左派のほうから、邪馬台国九州説を支持する史観が出てきた。

右派と左派が同じ事を言い出したというわけ。
368名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:26:26 ID:aLnbrIer0
>>365
そういう某民族の脳内ファンタジーを歴史学に持ち込まないでくれます?
369名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:29:30 ID:dl9fPLx6O
研究することによって正解は出てくるものなの?
新発見が出てきたらまだしも、解釈の違いだけで終わりそうな気がするけど。
研究するのは大事な事だと思いますよ。
370名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:29:58 ID:v79cN99i0
天皇の歴史を学べば朝鮮の影響が測り知れないことはわかる
古代日本は他民族国家であったことは常識であるよ。
371名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:32:16 ID:VLHQbbkE0
>>365
あなたは在日朝鮮人? だとしたら、あなたは勘違いしているぞw

たしかに、本居宣長は皇国史観のために邪馬台国九州説を支持したが
今は、むしろ、邪馬台国九州説のほうが、
皇室の歴史や日本の歴史を短縮させて崩壊させているわけで。

今、纏向遺跡が邪馬台国だと確定して、畿内説が確定したら
むしろ、韓国の民族主義教育にとっては逆に都合が悪くなるぞ。
なぜなら、日本の国家統一時期が大幅に早まるし
ますます任那日本府を裏付けるような証拠が高まるから。

あと、古代朝鮮語なんて文献史学上、残ってないぞ。
そもそも、高句麗も百済もモンゴル語族であって、
朝鮮語とは異なると思われているし。
372名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:32:42 ID:tg2pDddK0
>>370
古代朝鮮人と現代朝鮮人とは別民族ですよね?
373名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:34:09 ID:ubYC9eN4O
機内説か四国説で確定だろ?
374名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:36:37 ID:gkWtrB0QO
結論を“九州説” にもっていく事が決まっている議論に何の意味がある?
近畿でも四国でも東北でもいいんだよ。皆が知りたいのは真実であって、捏造ではない。
375名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:37:18 ID:VLHQbbkE0
>>370
>ID:v79cN99i0

あなたは在日朝鮮人かもしれないが、邪馬台国畿内説が確定しだすと
逆に任那日本府の話がいっきに真実味を増すわけで。

むしろ、本居宣長の皇国史観で邪馬台国九州説を支持してくれたおかげで、
江波博士のような騎馬民族征服王朝説が沸きあがってきた。

今、纏向遺跡の発掘で盛り上がっているけど
それに対して韓国の学者とか、ぽかーんとしているが
もし、邪馬台国畿内説が確定しだすと
いっきに、日本書紀や古事記の年代が見当がつくようになり
任那日本府の話は確定しだす。
376名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:40:34 ID:ubYC9eN4O
ところで、壹は台の書き間違いということでいいの?
377名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:43:39 ID:VLHQbbkE0
>>376
これが参考になる。

倭(人、国)条の『臺』と『壹』
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/bunken.html#tai-iti
378名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 13:47:49 ID:pMpxI8Z80
そうだよな、本居宣長の邪馬台国九州説が否定されて
邪馬台国畿内説で確定しだすと
日本書紀に古事記に書かれている内容が復活する。
日本に全国規模の政権が出来ていたのは、
どんなに遅くとも、紀元2世紀になり、
早ければ、紀元前1世紀になるという説もある。

韓国の学者が任那日本府説を否定するために
日本の国家統一時期を遅らせようと必死だったが、
邪馬台国畿内説なんか確定したら
朝鮮半島が小さく国家が分かれているのに
日本では大規模な版図があった大帝国がとおの昔に誕生したことになる。
379名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:04:00 ID:SnEocWbA0
>>358
広東語で「とい」なら邪馬台はやまとでOKじゃん。
ていうかそういう説はもう出てるんだろ。
380名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:07:08 ID:qp5dNfHR0
>>375
おまえ、そんなこと言うなよ〜 ID:v79cN99i0には内緒にしておけよ(笑
381名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:09:32 ID:SnEocWbA0
>>370
古代朝鮮の影響は受けたよ。
今の韓国と同じ民族だという証拠ゼロだけどね。
382名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:10:50 ID:92PDTsig0
>>370
でもな、古墳を発掘してチョン国製の遺物がでたら、
古事記・日本書紀・三国史記・宋書・随書の記述の通り
半島が日本の植民地であり、半島からの貢物があったという、
文献史料の補足しかならないんだけどな。

古墳からチョン製が出たから、天皇にチョンの血混じっている
なんてマジメに言う奴は気が狂っている証明だな。

そんなにチョンの血が欲しかったら、神功皇后の存在と
業績があるだろwww
383名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:12:17 ID:SnEocWbA0
>>382
天皇に百済の血は混じってるだろ。
でも韓国とは関係なし。
384名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:14:46 ID:92PDTsig0
>>383
ああ、確かに、倭の植民地だった百済の王族が日本に帰化して、
10代以降に高野新笠が桓武天皇を産んだよな。
それが何か?
385名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:15:09 ID:GP5r8liW0
九州人必死だな、という印象しか持てないな。

>>383
そもそも南北朝時代に絶え(ry
あれ?誰か来たみたいだ・・・
386名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:20:32 ID:cTp1HgHW0
百済の血が混じっているって...
そんなこといったら、その百済にも
日本や中国の血が混じっているんだろうが...
そもそも、百済と高句麗って、扶余系だろう?
中国北部にあった契丹も扶余系で、こいつらはモンゴル人と通訳無しで会話できた。
387名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:27:39 ID:+sz0DkFSP
大和朝廷は古代朝鮮人の国だろ
朝鮮が内紛で消耗して力関係が逆転したけどそれまで日本は植民地だった
388名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:34:34 ID:QvSerIgM0
>>387
そんなことは文献史学上、どこにも書いていません。
逆に、中国の歴史書、日本の歴史書、その両方に
当時のヤマト王朝が、朝鮮半島を軍事的に支配していた記述が
ふんだんに出てくる。
紀元2世紀に始まった纏向遺跡発の前方後円墳も、
紀元5世紀〜紀元6世紀にかけて出没し
これは、日本書紀に登場する任那日本府の年代にぴったしだよ。
389名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:35:07 ID:92PDTsig0
>>387
三国史記にもそんな記述一切ありませんが?
倭に滅ぼされかけたって記述ばっかりですけど?

民族学校じゃ自分の国の正しい歴史も教えないんですか?
390名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:35:09 ID:GP5r8liW0
>>387
大和朝廷=徐福の船団説も強いけどな。
こちらの方が辻褄があうことも多いわけだし。
391名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:39:07 ID:QvSerIgM0
>>387
そんなことは文献史学上、どこにも書いていません。
逆に、中国の歴史書、日本の歴史書、その両方に
当時のヤマト王朝が、朝鮮半島を軍事的に支配していた記述が
ふんだんに出てくる。
紀元2世紀に始まった纏向遺跡発の前方後円墳も、
紀元5世紀〜紀元6世紀にかけて朝鮮半島南部に出没し
これは、日本書紀に登場する任那日本府の年代にぴったしだよ。
392名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:40:11 ID:UKSTB2Qk0
>>390
それもないと思うよ。
年代が全く合わないし。
393名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:51:50 ID:FpwPxXJ/0
好きだなあウヨって任那日本府が
とりあえずちょっとした概説書でもいいから読めよ
394名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:53:33 ID:+sz0DkFSP
>>391
力関係は逆転したって言ってるでしょ
ヨーロッパとアメリカの関係みたいなもんだよ
395名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:55:08 ID:b+NH3frm0
呉や越から黒潮に乗って流れ着いて来た勢力が発展したんだろ
倭の五王も呉の太伯の子孫だって中国に手紙書いてるし
396名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 14:58:37 ID:1t7Ue3wuO
邪馬台国の在りか それは皆の心の中にです -FIN-
397名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:03:01 ID:92PDTsig0
>>393
その概説とやら以前に、半島が倭の植民地だと、
宗主国の正史、日本の正史に記述されていますがw
倭にボコボコにされて人質を倭に送ったって三国史記に記述されていますがw
魏志倭人伝にも半島の南側は倭の北限と記述されていますがw

概説とやらは正史より正しいんですか?
398名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:10:41 ID:fjSNzwau0
久しぶりに本屋へ行って古代史関係の本を買ってきた。
正直食傷気味だったんで、しばらく遠ざかっていたら、
東アジアの古代文化が廃刊らしい。ナムナム。

でなにげに本棚を見ていたら、

「邪馬台国 魏使が歩いた道」(吉川弘文館)

というい本を見つけた。珍しくまともな人が書いた九州説の本らしい。
例によってリタイアしたおじいさん先生で、交通死を専門にやってこられたらしい。
まだよんでないけど、久しぶりにおもしろく読めるかもしれない。
399名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:11:46 ID:UKSTB2Qk0
倭の半島支配の話は、日本書紀や古事記だけじゃなくて
第三者的立場だった中国の史書にも多く登場し
半島自身の三国史記にも多く登場する。

また、纏向遺跡が邪馬台国なら、
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命(7代目天皇の娘)でほぼ確定になり
欠史八代の部分の天皇の存在も明らかになってくる。
また、日本書紀の崇神紀10年前後の記述が、
西暦240年代くらいになり、大まかな記紀の年代も明らかになる。

だから、これから、どんどん韓国の民族主義者にとっては
旗色が悪くなる。
400名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:14:40 ID:FpwPxXJ/0
>>397
あのさあ
たとえば戦国時代にさかんに人質を送ったりしてたけど
それでもってどこどこの大名はだれだれに支配されてたとかいうか?
いろんな外交戦略のうちの一環だろ
もちろん倭国の軍事的な力が強かったのは事実だろうけどそれでもって支配したといわんだろ
あと植民地だなんて一言もかいてないし
401名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:15:37 ID:UKSTB2Qk0
普通に今の歴史の教育でも、倭の半島への軍事介入や
倭の五王の中国への上奏文(朝鮮半島への軍事侵攻、朝鮮半島への軍事支配権の要求)
は、普通に習うわけだから、隠しようが無い。
広開土王碑文でも、今では倭の半島侵攻は確定的に書かれているし

任那日本府の文言だけ、必死に否定しまくるが
半島の軍事支配権の話は、普通に中国史料の宋書を
学校の授業で必ず習うから、隠しようがないわな。
402名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:17:44 ID:92PDTsig0
>>400
で、倭は半島に人質送ったのかw
現地駐留の武官は送ったけどな。

植民地とは書いてないな。
【属国】とは書いてあるし、【朝貢】とも書いてあるな。

確かに民族学校の授業は全く逆の教育してるよな。
403名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:22:49 ID:UKSTB2Qk0
俺は、纏向遺跡の邪馬台国研究の成果の話が飛び込んだ時
結構、韓国の学者がどういう反応をしめすのか
注目していたんだけど、意外に鈍感なのにビックリしたというか...

たぶん、彼らも深くは観察してないんだろうけど
これは、もろ、任那・百済への倭の軍事侵攻の話に影響してくる。

この纏向遺跡が前方後円墳の発祥地であって、それが遅くとも紀元2世紀後半にはじまる。
それが、紀元4世紀には北九州から関東に広まり
紀元5世紀後半〜紀元6世紀前半には、半島南部にも小規模の前方後円墳が広まる。

紀元5世紀後半といえば、倭王武(雄略天皇)が半島への軍事支配権を
中国の皇帝に要求した時代であり
紀元6世紀前半といえば、倭が任那から完全に撤退した時代なんだわな。

だから、この邪馬台国畿内説に通じる纏向遺跡の研究成果は
とおからず、倭の半島南部の軍事的支配権の話にも繋がってくるんよ。
404名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:27:15 ID:92PDTsig0
>>403
前方後円墳の年代測定がハッキリしてから、あの国では
壊して無かった事にしていますからw

80年代前半発行の書物を見ると、前方後円墳は半島発生だ。
とか思いっきり抜かしていたアホ学者が日本にもいましてねwww

未だに存命というのが笑えますがw
405名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:28:46 ID:UKSTB2Qk0
倭の半島への軍事的支配に乗り出したのは
紀元4世紀後半からで、これは神功皇后からだと思われ。
その切欠が、中国の朝鮮半島における行政区間だった楽浪郡が崩壊し
朝鮮半島が地政学的に激動した時代である。
そこで、倭が積極的に軍事介入し、半島南部を緩衝地帯にしようとした。
当初は、緩やかな支配で、あくまでも緩衝地帯にしようとしただけだろう?
実際に、半島中部で、高句麗と戦って、一度、撃退されたらしいし。
しかしながら、徐々に支配権を強化し
紀元5世紀後半、雄略天皇(倭王武)の時代に、中国に要求するまでになった。
その時代に、半島南部に前方後円墳が発生する。
406名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:33:01 ID:r71Rx7YRO
因みに、国譲り伝説で統治権をヤマトに強制的に譲渡させられる出雲族は満州族か朝鮮族の血が濃く
ヤマトは中国風楼閣をかなり早い段階で建設してた形跡が有るから、漢族系だな。
所詮、朝鮮族は本家漢族と分家倭族にとっては狩場の野蛮人扱いって事だな!
407名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:36:23 ID:riAFv6GqO
>>124
水行10日で丹波国なんて書いてないだろww

そういえば急行丹波は良かったな。キハ58系って直角クロスなのに乗り心地がいいんだ。
一度キロ28に乗りたかったな
408名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:37:47 ID:b+NH3frm0
船で行ったら10日だけど陸を行ったら道がまだロクに無い時代だから
1ヶ月はかかるって意味だと思ってた
409名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:38:26 ID:UKSTB2Qk0
>>406
その可能性も薄い。
たしかに、出雲王朝は日本海沿岸での交易権によって巨大化したが、
彼らの発祥地は、やはり、広島県の三次盆地あたりから発生している。
出雲特有の四隅墳丘墓は三次盆地から発生しており、
ここから日本海へ重要な河川が流れている。

おなじように、畿内王朝のほうも、初期は葛城(高天原)のように
河内へ流れる重要な河川の上流部から発生している。

古来の日本の王朝は、それぞれ各地の重要な河川の上流部を支配することによって
勢力を拡大したものが多い。
なぜなら、水を支配したものが、権力を握れたからだ。
410名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:38:30 ID:bB6m7Pzf0
吉野ヶ里とマキムクが九州説と畿内説、それぞれの有力候補なのか。
411名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:41:07 ID:uWDg/LpqP
邪馬台国って、よこしまな家畜の国って、日本を馬鹿にした呼び名じゃないの?
卑弥呼は、卑しい女って意味で。
412名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:42:02 ID:92PDTsig0
>>406
民族学校じゃ正史を使わず、そんな教育してるの?
413名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:44:46 ID:UKSTB2Qk0
>>411
当時の中国は、自分たち意外には、そんな感じだろう?

でも、中国(魏)が外交した国々のなかで
金印を送ったのは倭国だけで、
銀印が大月氏国で
満州とか半島の国々は格下扱いだよ。
414名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:46:19 ID:1ccIDigu0
>>400
おまえ馬鹿だろ
百済が大和朝廷に人質として送ってきたのは
王子だぞ
ただの人質じゃない

完全に百済の王の人事権を大和朝廷が握っていたってこと
415名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:49:04 ID:uWDg/LpqP
>>413
おお、わざわざレスさんくす。
単純に、邪・馬・卑って、なんか嫌な漢字だなって思たんだ。
じゃあ、それでも倭国は一目置かれていたんだな。
416名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:50:26 ID:UKSTB2Qk0
>>415
というか、魏志倭人伝に書かれている倭の戸数が多い。
かなりの大国という認識。
417名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:55:36 ID:34Pzzka40
つーか、当時の日本って7万戸なんて大きな数字を
数えるだけの知能があったのだろうか?
418名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:57:07 ID:1ccIDigu0
【三国史記新羅本記】より
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
     私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。
     これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、
     不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、
     常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、
     かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
419名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:58:12 ID:b+NH3frm0
思ってたよりかなり高度な知識はあったんだろう
420名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 15:59:30 ID:BMwXt0uz0
あの頃の中国は日本の500年以上先を行ってたからなぁ
421名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:02:30 ID:Mlf/WxRK0
世界一といわれた外国の霊能者も邪馬台国の中心は奈良にあって、
卑弥呼の住んでいた場所は今、公園になってるっていってるから、
九州説を主張してどんだけ調査しても無理な気がする。
422名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:04:30 ID:UKSTB2Qk0
>>417
考古学者は、それを期待しているんだよ。
そうやって戸数が分かるということは
普通に漢字の知識で、中国側の使者に伝わるはずだから。

実際に、紀元前から、中国の王朝と倭の王朝は
外交していたみたいだし、
外交するとなると、当然、漢字の知識をもってないと出来ないでしょう?
423名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:09:08 ID:UKSTB2Qk0
>>421
なんだ?その霊能者はw
424名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:09:40 ID:1ccIDigu0
>>422
外交は渡来人の仕事だったんだよ
弥生〜飛鳥時代に150万人が
大陸や半島からやってきた(戦争の敗走などもあった)
その渡来人達の仕事
日本人の使者を送るようになるのは遣隋使からと推測される
425名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:13:42 ID:34Pzzka40
数字が無ければ7万なんて数えるの無理だよな。
でも当時日本には文字なんてなかったんだよね。
426名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:20:58 ID:1ccIDigu0
縄や紐を結んで
数字や暦を数えてたんだよ

体系的な文字は無くても数字にあたるものは
あったと思われる
427名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:23:48 ID:9KXnEVZL0
ゴッドハンドふたたび!?
428名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:25:28 ID:DDS3059Z0
>>418 この時代の倭人の傍若無人ぶりは凄まじいものがあるよな、
とても同じ系統の民族とは思えないし、政治的な意図で侵略してるとも思えない。
上の方にも書いてあったけど、九州の奴らが単発的にやってると思う。
この荒らしい奴らを収めるために卑弥呼が出てきた訳か・・・
429名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:27:46 ID:7vXPTTFa0
 >>424 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:09:40 ID:1ccIDigu0

ろくに歴史の本も読んでないド素人が知ったかぶりをするな。
何が150万人だww  馬鹿も好い加減にしろ。朝鮮人。
430名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:29:36 ID:UKSTB2Qk0
>>424
あほうくせ。
どこに、そんな数字があるんだよ。
431名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:32:12 ID:UKSTB2Qk0
>>418
まあ、すくなくとも、西暦345年くらいからは
大和朝廷の軍だよ。
それ以外は分からんが
邪馬台国は伊都国に一大率を置いていたわけだから
それ以前も、大和朝廷の軍かなんかだろうね。
432名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:33:48 ID:9KXnEVZL0
「漢委奴國王」 金印における一件は爆笑ものだな。

当時、藩の重要性をアピールするため 「中国から送られた金印を捏造」 したところ
あせった中国側も 「それと同じデザインの金印を捏造」 してしまったww

おかげで、とんでもない様式の、一目で捏造とわかるデザインの金印が
政治的理由から国宝に指定されてしまったんだよな・・・
433名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:35:31 ID:ijYKGqPJ0
>>428
書状で国交を断って新羅の首都の金城を包囲するなんて
倭人のどこかの集団ができる技じゃないだろう。
おそらく鉄を狙いとして加羅に進出した倭人が
任那日本府を基地としてやってたことだと思う。

「海を渡って攻めたい」と考えてるのは
任那日本府の勢いを止めるのは、
倭国の本国に撃って出るしかないという認識では?
434名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:37:30 ID:cCNatYZwO
>>418
倭人張り切りすぎワロタw
435名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:37:35 ID:UKSTB2Qk0
日本の皇室が隠したかったことって、もろ、王朝内部の権力闘争の話でしょう?
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命なら
その直前で倭国大乱が起こったんでしょう?

皇室系図をみればわかるが、要するに、古代の日本では
祭祀王と政事王の二つの王がいて
すくなくとも、政事王のほうは、現在の皇室の先祖が握っていたんだろう?
しかしながら、祭祀王の地位は、別の王統が握っていた。
それを、現在の皇室が卑弥呼(モモソ媛命)をたてて奪ったんでしょう?
ちなみに、形式的にも、地位の高さは、祭祀王>政事王であり、
中国の歴史書に倭王として登場したのは、祭祀王のほうだった。
その家系に、尾張氏の先祖がついていた。
436名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:38:26 ID:w74a/9xR0
ソロモンの秘宝伝説、失われたアーク
だがしかしイスラエルから四国までやってくるには
地理的に遠すぎる気がしないでもない・・・
437名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:39:21 ID:1ccIDigu0
>>429-430
「先史時代の人口と人口密度」と「先史時代の人口の推移」から
3000年前75,800名
2000年前594,900名
1300年前5,399,800名

渡来人の数がそれだけいないと
自然増じゃあ説明がつかないわけ
700年間で10倍に増えているのね
438名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:39:48 ID:UKSTB2Qk0
>>432 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:33:48 ID:9KXnEVZL0
>「漢委奴國王」 金印における一件は爆笑ものだな。

でもさ、偽造するのなら
漢倭奴國王と偽造すると思うが
委なんだよな。
一応、本物のような気がするw
439名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:41:19 ID:ijYKGqPJ0
>>435
王朝内部の権力闘争よりも
国譲りの伝説として伝わる
大国主vs天孫かもしれんな。
440名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:41:27 ID:w74a/9xR0
失われたアークと同胞の探索に、ロスチャイルド来日
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3084106

それでもユダヤが剣山を調査してたのは事実らしい。
やつらがアホなんだろうか?
441名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:42:28 ID:UKSTB2Qk0
>>437
その数字にはカラクリガあって
その数字の算出したサンプル自体が
非常に怪しい代物なんだよ。
それは、明治以降に捉えられた、日本の農耕の始まりを
紀元前3世紀にした場合の数字なわけで。
だいたい、その時代に図った戸籍なんて、現存しているわけではないw

だいたい、日本で本当に人口がどの程度なのか分かったのは
江戸時代に入ってからなわけで。
442名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:45:52 ID:plZipInR0
>>437 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:39:21 ID:1ccIDigu0
>>429-430
>「先史時代の人口と人口密度」と「先史時代の人口の推移」から

これは、日本の農耕の始まりを紀元前3世紀にした場合だよ。
でも、最近は、遅くとも紀元前10世紀には水稲が始まり
紀元前30世紀には陸稲のほうが開始されていただろうから
その数字は全く異なったものになる。
443名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:47:47 ID:1dJTsBKl0
>>440
日本の皇室もユダヤに守ってもらうために
自分たちの起源を曖昧にしたんだよ、明治以後w
おかげで、江波の騎馬民族征服王朝説は出るは
トンデモ説のオンパレードw
444名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:48:15 ID:9KXnEVZL0
>>438
国宝の金印から少量でもサンプル採取できるなら
高輝度電子分施設(SPring-8など)にかければ一発でケリのつく話だが・・・

いつか国宝を削る機会が訪れるまで、真相は闇の中だね。
445名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:48:22 ID:1ccIDigu0
>紀元前10世紀には水稲が始まり

これが確認されてるのは
今のところ北部九州の限られた地域だけだよね
列島全体に広がるのはBC3世紀
446名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:51:43 ID:ew/Mhtns0

初めに結論ありきの討論ジャン
447名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:51:54 ID:ijYKGqPJ0
>>437
2000年前でももっと人口が多かったと思うな。
縄文人と弥生人と言われるけど、ホントに弥生人が大陸から大量に流れて来たなら
その原因としては中国の戦乱や圧政があったりすると思う。
中国の春秋・戦国時代や秦の圧政や崩壊が原因だったら紀元前10〜5世紀程度か。
448名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:52:12 ID:jdH8inyW0
漢委奴国王印【かんのわのなのこくおういん】
1784(天明4),博多湾の志賀島叶ノ崎かなのさきで百姓甚兵衛が農作業中に
発見したと伝えられる金印。
蛇形の鈕つまみをもち,1辺約2.35cmの正方形の印面に,隷書体で
「漢/委奴/國王」と3行にタガネ彫りされている。
発見以来,真偽論争があったが,中国雲南省石寨山遺跡から
「#王之印」と刻まれた蛇鈕の金印の類例が出土したこと,
1辺が漢尺の1寸に当ること等から真印とされる。
後漢書倭伝にみえる建武中元2年(57)光武帝が倭の奴国王に授けた印に
相当するとみなされる。福岡市博物館蔵,国宝。

[株式会社岩波書店 岩波日本史辞典]
449名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:55:35 ID:1dJTsBKl0
>>445
違う。四国とかも、紀元前10世紀ぐらいだったと思う。
そもそも、植物学者の説だと
紀元前15世紀くらいには、日本に水稲が伝わってないと
おかしいらしいし。
これまで長く信じられていた紀元前3世紀って
植物学の先生からしたら、ありえね〜って感じだったらしいし。

考古学者は、稲作の伝播を人為的な要求にもとめるけど
植物学者たちは、気候変動による環境の激変に求めるわけで。
つまり、稲作が先進だから広がるのではなくて
気候変動で、仕方なしに稲作をするしかなかったから広まったという説だわな。
450名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:01:09 ID:QA15/V3x0
>>445
一応、四国でも紀元前9世紀とかの水稲跡が見つかったはず。
そもそも、陸稲に関しては、5000年ぐらい前にも始まっているだろう説が有力。
だから、昔みたいに、縄文時代は狩猟生活だけだった
とうう説自体が成立しなくなっているから、いずれにせよ、
>>437の説は完全に崩壊している。
451名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:05:21 ID:QA15/V3x0
>>439
国譲り神話は倭国大乱よりも
もっと前のような気がする。
452名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:08:03 ID:kdUoCagGO
畿内説>四国説> >>>>>九州説
453名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:08:05 ID:9KXnEVZL0
当時の集落が、何代にも渡る永住型であったとは考えにくい。
事あるごとに遷都したはずで、特定の場所などあるわけがない。
国の境界すらあやふやで、互いの位置が入れ替わるような事態もあっただろう。

人が自然の脅威に打ち勝ち、永住の地を得るのはずっと後の事だよ。
むしろ邪馬台国を決定付ける品が出土するほうがマユツバものだ。
454名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:08:53 ID:riAFv6GqO
>>450
じゃあ日本にも五千年の文明があるかもな。
農業のあるところには貧富の差があり、国家があるからな。

古王国中王国新王国とかつくれそうだ
455名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:11:33 ID:kdUoCagGO
日本も半万年の歴史があるのか
456名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:11:34 ID:QA15/V3x0
中国の文献よむと、倭って周の時代から
中国の王朝と交易していたみたいだな。
457名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:14:46 ID:DdRi+Zl60
>>444
> いつか国宝を削る機会が訪れるまで、真相は闇の中だね。

非破壊でも一発で分かる方法がある、素人でも簡単にね
それで藩主は鑑定人(実は黒幕)を閑職に追いやったのだろう

458名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:18:07 ID:XljYGB1eO
九州説って願望なんだ
459名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:19:23 ID:1ccIDigu0
>>450
稲作とはまるっきりアプローチの違う
「墓の数で知る人口爆発」でもほぼ同様に
飛鳥時代までの1000年間で8倍ぐらいの人口増があったと推定されている
学者によっては(埴原和郎など)
この時代に300万人が渡来したと考えている
460名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:22:07 ID:kceO0tdqO
もうね、〜を考える会なんて名前からして胡散臭い
どうせ結論ありきで他の話はアーアーキコエナーイだろ
九条教信者と構成員カブってんじゃねぇか?
461名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:22:17 ID:7vXPTTFa0
 >>437 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 16:39:21 ID:1ccIDigu0
> 「先史時代の人口と人口密度」と「先史時代の人口の推移」から
>3000年前75,800名
>2000年前594,900名
>1300年前5,399,800名

そもそもそんな推測がどれほど根拠があるかも疑わしい。
仮にある程度の精度があったとしても、2000年前から1300年前は
コメの増産がかなり進んだし道具なども進歩した。
700年と言う時間単位で数倍に人口が増えてもなんら不思議ではない。
人口の流入があったとしか考えられないというのは数十年で数倍に人口が
増えたようなときに言うことだ。
462名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:24:14 ID:rsUTV2hYO
なるほど
関東人が関西叩くのはコンプレックスなんだね
463名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:25:07 ID:kdUoCagGO
1000年近くのスパンでそれくらいの自然増は可能だろ
464名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:26:25 ID:9qAAJvFQO
邪麻台国はどこですか?って本が面白かったな。
465名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:27:20 ID:AQ6KmN9K0
( ‘д‘)y-~~<徳島に決まっとるやろがハゲ
466名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:28:08 ID:cOH8IDT40
>>447
しかし支那語も日本語も言語学的にはほぼ孤立語。無理に西欧の言語年代学を改良して
算出しても、最短でも6000年〜1万年以上分は隣国と差異が出るらしい。
そこまでいくとどこからきたという論法が通らなくなるし、元いた地域に似たものが
もう少しあってもよいはず。いきなり1部族が丸々移住してきたと考えるにはちょっと
無理があるきがするな。文化の伝播と移住を同じと考えなくてもいいと思う。
人口の増加は都市化すると増えるわけで、都市化の理由は農耕か交易が発達し、
ものが安定して量産されるからなわけで。不毛の湿地帯が農場にかわったからかと。
467名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:28:46 ID:ypmnvwpn0
>>459
というか、そんなもん、定説にはなりようが無いだろうがw
墓の数って...
当時の墓制なんかも、詳しくは分からんのにw
まあ、そもそも、邪馬台国時代にある倭国の戸数の文献からして
その人口推定値は全く整合性が取れんわけだし。
そもそも、人骨のサンプル自体が極端にすぎないのに。
468名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:29:25 ID:7vXPTTFa0
 >>459 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:19:23 ID:1ccIDigu0

埴原和郎と言う人の本は俺も読んだことがあるが、主に骨などの鑑定によって
民族などを調べている人だ。
しかし最近の研究ではDNAによる調査が進んでいるので、今まで考えられたような
大陸からの人口流入というのはそれほど多くなかったというのが定説だ。
言語学的に見てもそんなに多くの民族の流入があれば当然、弥生時代とその後で
言語の断絶が見られるはずだが、そのような兆候は無い。
469名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:29:37 ID:1ccIDigu0
>>461
そういうキミ自身の見解であまり根拠のない意見は
とりあえず俺にではなく
学者にどーんとぶつけたらいかがか
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~yt1/staff/tanakapage/sonota/toraijin01.pdf
ここにその学者らの根拠が書いてある
>世界の農耕民族における紀元1000年期の人口増加率は0.1%程度

これがこの学界の常識
470名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:29:52 ID:O20JvttF0
日本武尊が読んだ国読みの歌は奈良だろ。
奈良が大和国のまほろばなんだよ。
九州にまほろばは似つかわしくないだろ。
471名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:32:40 ID:s7ZiA05hO
佐賀県これといってあんまないからなあ。
邪馬台国ほしいんだよ。
472名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:33:21 ID:5IPixEi50
邪馬台幻想記って本が面白かったな。
473名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:34:58 ID:1/tV7tQ+0
日本人って、ある時期に丸々
移住したとは考えられないんだわな。
なぜなら、日本語って孤立言語で、中国はもちろん
朝鮮語とも孤立言語。

だから、本当に、そんな短期間で渡来したのなら
英語とドイツ語くらい近くないといけないが
日本語と朝鮮語って、無理やり見積もっても、7千年ぐらいの開きになる。
それも、無理してだ。
これだと、もう、別系統の言語って感じになる。
だから、古来から日本の成立は謎めいていると言われている訳で。

あと、父系経由のY遺伝子でみたら、
中国・韓国人は、日本人よりも、欧州人に近かったりするw
474名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:35:23 ID:7vXPTTFa0
 >>469 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:29:37 ID:1ccIDigu0

お前の上げている学者の論文を読んだが、

「渡来人の数はそれほど多くなかったので従来の日本人との間に住み着いて・・」と
書いてあるぞ。
お前は本当にこの文を読んだのか?
475名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:38:32 ID:riAFv6GqO
>>471
サガテレビとがばいばあちゃんがあるだろw
476名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:45:08 ID:7vXPTTFa0
 >>469 :名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:29:37 ID:1ccIDigu0

ろくに読みもしない論文を自慢げに参考資料として持ち出すのは止めなさい。
恥をかくだけだぞ。
477名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:46:26 ID:kdUoCagGO
1ccIDigu0さん頑張って!
478名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 17:49:40 ID:1ccIDigu0
>>476
謝るわ
それは「渡来人の数は、今まで東大などの大学者や学派が唱えていたものよりも
ずっとはるかに少ないものだった」ということを実証する
きわめて重要な論文だわ
479名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:42:30 ID:0lwAkVkaO
>>379
トイって事は必ず「イ」が付くって事だよ?
480名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:48:11 ID:0lwAkVkaO
>>403
マキムクの古墳が2世紀ので九州に古墳が出来始めたのが4世紀なら
卑弥呼の時代には九州は邪馬台国の影響下には無かったんだね。
481名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:51:02 ID:LIte/4csO
昔ガイドのおっさんが「この下に邪馬台国の確証がある」
とか言いながら神社を指してたな
神社は国の決まりか何かで発掘出来ないって

そんなら一生眠ってろって気もするが
482名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:54:45 ID:v79cN99i0
>>478
渡来人の来襲/移住は大規模なもので4回あるよ。

なんかみんな願望めいたことばかり言うよね。

僕は日本人だが、はっきりいって事実を探求したい気持ちのほうが強いので、
当時の支配層が朝鮮であったというごく自然な考えはそのまま受け入れられる。
483名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:57:08 ID:rB50uefrO
【動物】上野動物園からゴリラの子供が逃亡、山手線に3時間乗車…「何かのコスプレかと思った」乗客は無関心
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/fish/1235665825/
484名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:57:51 ID:kdUoCagGO
>>482
大規模ってどれくらいの想定を言ってるの?
485名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 18:59:29 ID:MrH/MBXU0
>>478
それと、その論文が書かれたのは2001年だよね。
水稲の始まりを従来の紀元前3世紀から
紀元前10世紀に改めはじめたのが2003年。
だから、その論文が、さらに実証されつつあるわけで。
486名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:00:30 ID:MrH/MBXU0
>>482
おまえは朝鮮人。
大規模なものがないから、比較言語学の世界では
日本語と韓国語は、それぞれ孤立言語なんだろうが?
487名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:05:27 ID:bdtEuqamO
こういう考古学や天文学みたいに、最初に「〇〇は〇〇である」って仮設を立ててから
立証していくタイプの研究って、最初の仮説が間違ってたらすべてが無駄になるよね?
こういうのって、真相がわかった時の落胆とか半端じゃないと思うんだけど、
学者って常にそういう恐怖に苛まれてるのかなあ。
488名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:06:12 ID:cOH8IDT40
>>482
残念ながら半島経由説は隣国に配慮したイデオロギー論としての位置しかないんだよ。
事実を探求したいのなら15世紀ぐらいしかさかのぼれない朝鮮の文献意外にも目を向けてください。
489名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:07:09 ID:MrH/MBXU0
弥生時代の始まりが遅くとも紀元前10世紀。
その間に、北九州で、縄文系と大陸系との間で緩やかに混血し、
その混血した連中が、徐々に日本列島のほかの地域の人たちと
また混血したんだろう?

ちなみに、出雲国譲りが紀元前1世紀くらいだろう?
弥生時代が開始されて、約1000年がたって、
出雲国譲りが行われたのであり、
日本神話の時代は、
完全に弥生時代が確立された数百年以上たった世界だろう?

日本神話を読んでも、あれには縄文人と弥生人の葛藤は無いわな。
あそこに登場するのは、完全に現代の日本人の直接の先祖である
弥生人(古アジア人種と新アジア人種のハイブリッド)の世界だわな。
490名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:10:50 ID:MrH/MBXU0
ちなみに、紀元前10世紀に
日本が水稲がはじめ年代は中国では春秋時代。
日本の水稲時代の開始は、
中国の戦国時代ではなくて
中国の春秋時代のほうに関係ありって
歴博の人が言っていたな。
491名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:12:06 ID:92PDTsig0
>>433
つまり、三国史記は、12世紀という日本に比べて400年以上も後に
やっと正史が作られた後進国の正史だから信用おけない、俺が考える説が
一番だって事ですか?
492名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:14:23 ID:n45bcfsE0
もういいじゃん、畿内で。

九州(笑)
493名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:14:44 ID:b+NH3frm0
そもそも倭王が呉の太白の子孫だって自己紹介してる件
494名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:17:17 ID:92PDTsig0
>>482
正史ができて1000年も経っていない後進民族が日本に来て何ができるの?
495名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:17:39 ID:MrH/MBXU0
一応、半島南部の前方後円墳は、韓国の考古学者も隠してはいないよ。
ここで埋め戻されたとか何とかいう書き込みをみたが
埋め戻すのは、古墳の保存のためだろう?
だから、今、必死になって、任那府の言い訳を考えているんだろうけど
この前方後円墳が日本発で、任那府の記述のあたりで
半島南部に進出してきたのは、彼らの間でも隠しようがない感じ。
496名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:18:59 ID:9OSrD48h0
>>493
まあ、弥生時代の始まりが紀元前10世紀なら
周の時代の最初ぐらいじゃないの?
497名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:19:59 ID:11RT8E2aO
>>489
諸国平定の歴史に葛藤がないって?
498名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:20:22 ID:XasvdIvl0
八百万の神々というくらいだから諸民族の連合体なんだろうなぁ
499名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:23:29 ID:ZcvPM18jO
>>310
隋書に忠実に考えてみると・・・
多利思北孤の使いが初めて隋を訪れた600年は推古8年。国王について質問を受けた
使者が13年も前に崩御した先々代の王を現在の王として説明する理由が不明。
しかも8年後の推古16年には隋からの使者裴世清が多利思北孤に直接会っており、
隋側は生きている男性の王として多利思北孤を確認しているのである。
従って、隋書における多利思北孤が用明天皇ということはありえないし、また、
女性である推古天皇ということもありえない。
500名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:24:07 ID:92PDTsig0
>>495
残念ながら2000年の中央日報に壊しているって記事が出てるんだよ。
古墳の年代判定の方法が明確になった時点から、古墳半島伝来説が
一気に消えてるよ。ソースはハングル板か東亜に行けば蚯蚓氏が持ってる。

後の証拠は80年代中盤から90年代中盤までの古代史の解説書。

初期の半島起源説から終盤では無かった事や無理やりなこじ付け。

初版で書かれていたものが無かったように削除されていたりするぞw
501名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:32:29 ID:9OSrD48h0
>>500
それは、2007年ごろの中央日報か朝鮮日報にも出ていたな。
2ちゃんねるで韓国の掲示板に書きまくった奴がいて
韓国の新聞でも、いやいやながら、壊しているという噂があるとか書いていたw
でも、ついに隠せなくなって、2年位前か
半島南部の前方後円墳は、倭人の墓だと本を出した人がいたよ。
それを韓国のマスコミでも報じていた。
最初は倭人の方式を取り入れて云々とか書いていたが
最近は、この墓は倭人の墓で、半島王朝に使えた云々とか書いていたw
彼らの頭には、任那の件があるんだろうねw
502名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:33:17 ID:fbZlhFDc0
半島が古代ブームにでもなって一生懸命遺跡発掘すれば
面白い新発見がとか思ったが
韓国とか滅んだあとじゃないとダメか
503名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:34:26 ID:b+NH3frm0
そもそも大和王権の豪族は加羅諸国の王を兼任してなかったっけか
504名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:39:45 ID:ZcvPM18jO
>>316
そういうことになる。
隋書内のこの記述に限って考えれば邪馬台国東遷説も否定はされないが、それでも
東遷後の邪馬台国の都が、隋代においても、九州の旧邪馬台国の都と一致する
必要性が出てくるので、日本書紀の記述と合わなくなってくる。
一方、大和朝廷による邪馬台国征服説の場合は明らかに隋書の記述とは矛盾する。
505名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:44:13 ID:b+NH3frm0
もし神武東征があったとしても魏志倭人伝の邪馬台国よりずいぶん前って事だよな
506名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:47:07 ID:92PDTsig0
>>501
ところが、半島での前方後円墳ってあっちじゃ王様クラスの大きさで、
日本じゃ地方豪族のショボイ程度の規模なんだよな。

王様クラスの規模を持つ墓を倭人の部下が持てるなんて、
ウリナラは寛大ニダね。
ホルホル。
507名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:47:22 ID:riAFv6GqO
>>505
神武は実在すると仮定しても、
はたして何世紀ごろなんだろうね。
508名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:50:26 ID:92PDTsig0
>>502
何故かWordで作られた古代文献って奴か?

あいつらバカだから、ハングルはまずいから漢文で書こうとして、
草書、楷書で書かれた古文書出してくるんじゃねーのかw
509名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:51:16 ID:9OSrD48h0
>>507
卑弥呼をヤマトトトヒモモソ媛命と仮定したら
おそらく、神武さんは紀元1世紀前半ぐらいの生まれ。
自分は、西暦30年代ぐらいじゃね〜かと思うんだ。
だから、神武東征は、西暦50年代ぐらいじゃんかと。
510名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 19:52:19 ID:FpwPxXJ/0
>>509
そこまではいかんだろう
せいぜい二世紀半ば
511名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:12:49 ID:XasvdIvl0
うーん、スサノオとヤマトタケルノミコトがイメージが被ってるのところに
この問題の解く鍵がある気がする

なぜ似たような征服神話を二度繰り返す必要があったのか?
しかも征服神話で出る剣は同じ剣である設定(草薙の剣)
それもスサノオがオロチから見つけ出すまでが物語
さらに草薙剣はスサノオの時点では天叢雲剣なのにヤマトタケルノミコトでは名称が変更されたのか
512名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:17:17 ID:bHxVhjRl0
>>510
二世紀半ばだと、世代間がギュウギュウになるんだわな。
しかもだ、神武〜モモソ媛命の間には
叔父と姪の結婚もあるんだわな。
そういうのも考慮したら、神武さんは西暦1世紀の前半ぐらいになる。
西暦2世紀半ばで、孝昭天皇くらいになる。
この天皇の奥さんは、尾張氏の一族。
513名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:23:03 ID:FpwPxXJ/0
あんな直系継承だけの系図を鵜呑みにするなよ
514名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:26:12 ID:bHxVhjRl0
>>513
そういって、勝手に系図を変える奴がいるが
まあ、一応、当時、15歳ぐらいで最初の子供を作っていたら
30歳の子供は、長男がまたまた15歳で作った子供と
同じ年になる。
だから、世代代数がずれるのは珍しくはない。
515名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:31:18 ID:92PDTsig0
>>513
で、概説書はもういいのか?
人質の件も無かった事か?
オマエの国の正史じゃ近親婚じゃなければ、王に成れる資格なかっただろ。
従兄弟婚どころか叔父叔母、兄弟婚繰り返していたくせに(失笑
516名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:40:46 ID:FpwPxXJ/0
王子が人質だから百済は日本が支配してたってか
じゃあキミの大好きな中国の史書をみるとどうよ
再三の要請にもかかわらず百済の軍事支配権をもらえなかったんだけど
517名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 20:46:30 ID:92PDTsig0
>>516
宋書が百済の軍事支配を認めないかから属国じゃないんだってw
随書では属国と書かれている事は無視なんだ。
魏志倭人伝で南朝鮮は倭の北限と書かれていつ事も無視ね。

で、倭は駐在武官を派遣、チョンは王子を人質ですかw

民族学校ではそう習うのかw
518名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:04:08 ID:FpwPxXJ/0
隋書のどこに属国なんてかいてあんの?
519名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:06:55 ID:92PDTsig0
>>518
新羅百濟皆以イ妥為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
新羅・百済、皆、倭を大国となす

学が無いと恥ずかしいよな。
520名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:08:22 ID:FpwPxXJ/0
で、どこに属国ってかいてあんの?
521名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:10:12 ID:92PDTsig0
>>520
あの本当に基礎的な学問の知識が無いですね。
>以イ妥為大國
の大国と為すの意味を理解できていますかw
522名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:16:31 ID:92PDTsig0
>>520
お勧めの概説書には、大国の意味が書いていないのかな?

正史やほんの少しの基礎的な漢文の素養があれば理解できる意味だよwww

ハングルで書いてあるから、漢字が分からないんだね。
523名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:17:24 ID:bHxVhjRl0
>>516
西暦5世紀前半ぐらいから、さいさん、倭王は
半島での支配権をくれくれと、中国に要求し続ける。
が、ついに、倭王武のときに勝手に名乗ったので
中国も根負けして、半島の軍事的支配権を認める。
その頃に、纏向遺跡発の前方後円墳が、半島南部にも出現する。
524名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:17:26 ID:FpwPxXJ/0
外交政策上朝貢の形をとって隋や高句麗への対抗としていたってことでしょ
そく属国と考える単純さがすごい
525名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:19:58 ID:11RT8E2aO
>>523
宋書にそうあるね。
526名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:21:44 ID:bHxVhjRl0
任那日本府だけじゃないんだよ。
宋書にある倭の五王の要求も、学校の歴史で習う。
そこには、凄まじいことが書いてあるしw
どちらにせよ、支配形態は別として
倭が半島南部の軍的影響下においていたことは消すことは無理。
広開土王碑文の話では、半島中部まで倭軍が侵攻した記載がある。
527名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:21:57 ID:92PDTsig0
>>524
あのw
失笑を禁じ得ないんですが、『隋書』の記述は、
隋に親書を送った日本に対して訪問した使節団の報告書なんですがw

当然、使節団は半島にも訪問して調べてますよw

まともに日本の学校で歴史習ってますか?
528名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:25:09 ID:92PDTsig0
>>526
日本軍が改ざんしたとか喚いているのは、ID:FpwPxXJ/0の
民族学校だけだよな。

日本軍が取る前の拓本が中国で見つかり、改ざんの跡は
一切無かったって2001年頃に発表されたしね。
529名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:30:19 ID:92PDTsig0
>>524
後、周辺諸国の蛮族の管理しなきゃならない
当時の中国が半島が日本の属国と書いた事を
民族的イデオロギーだけで証拠もなしに違うという
単純さの方が凄いと思うぞ。

何万人もの中国の歴史学者、日本人学者、欧米の
研究者の合意事項に反対しているのってオマエの
母国だけだぞ。
530名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:35:25 ID:1ccIDigu0
>>495
つーか
それだけじゃなくて新羅建国の時には
日本人が宰相してるしね(どの建国神話にも出てくる)
531名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:40:51 ID:92PDTsig0
>>530
瓢公の話と昔氏の始祖の話は半島人には、タブーだよな。

しっかし、ID:FpwPxXJ/0みたいに正史も碌に読んだ事もなし、
簡単な漢文の基礎知識もなし。
ミンジョクの為なら過去の学者の研究も貶める。
そんな無知が書き込める2chってやっぱり自由で平等なんだろうね。
532名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:43:13 ID:MrH/MBXU0
西暦5世紀の日本が、朝鮮半島を軍事的に制御できるようになっていたことは
日本、中国、西欧の学者の間でも否定できないことだぞ。

任那日本府(任那倭宰)の解釈は別として
倭が大軍を何度も半島へ介入、または駐留させていたことを
完全に否定することは無理だわな。
533名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 21:49:47 ID:92PDTsig0
>>532
ウリミンジョクは常に日本より、文化的に優位であって古代から
日本の憧れの的ニダ、だからヒデヨシがウリを狙ったけど、
優秀なウリが追い出したニダ、ニッテイ支配は、近代化が
早かった日本が卑怯な事をしたからニダ。

数1000年間日本よりウリの方が上ニダ

ってイデオロギーだから史実があっても無理なんだよ。

まして、中華文明の近くで圧倒的上だったとミンジョクを洗脳して
いた古代に日本に制圧されたなんてwwww

絶対に認められないよな。
534名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 22:20:32 ID:krAxU6b90
邪馬台国って佐賀県にあったんか
これで1個は県の特産品ができたな
535名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 22:22:58 ID:rin+nu8dO
まあいろんな面で九州にあったのはほぼ間違いないだろうな
536名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 22:58:29 ID:92PDTsig0
>>531
もっと書くとチョンの苗字のうち
正当の王族のものとされる、
赫=朴、昔、金の始祖は瓢公の庇護の下って事だもんなww

李なんてモロ中国由来。

チョンには絶対のタブーだもんな。
537名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:09:11 ID:ZcvPM18jO
>>317
違いを説明する。イデオロギーに囚われることは真実を曲げることではない。宣長の
姿勢も悪いとは思わない。イデオロギーはつまらない物ではなく真実追究の燃料にも
なる。研究がイデオロギーに囚われてもよいしイデオロギーからの決め付けも構わない。
すべて学問以前の内心の自由だからだ。
>>272の趣旨は学問の手続きにおいてイデオロギーを持ち込むなということ。
イデオロギーを立論の根拠にすれば検証不可能になり、論争にイデオロギーを持ち込めば
論争自体が不毛に陥るからだ。学問の手続きの鉄則は、根拠が客観的であることと
立論や批判が論理的なことである。学問の手続きにおいてこの条件を満たして
いれば、動機がイデオロギーであっても問題ではないのである。
自説より真実を尊重する君の態度は尊敬するが、他者が信念からこだわる態度を
否定する君の考えには同意しかねる。なぜなら学問における真実は時代によって
動くので、時の主流派が少数派に対しイデオロギーのレッテルを貼ることになるからだ。
538名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:17:08 ID:92PDTsig0
>>537
イデオロギーが元になって結果正しい答えが得られるなら
研究動機としてはOKであって、結果をイデオロギーに無理やり
当てはめる事がNGって事だろ。

ID:FpwPxXJ/0みたいにイデオロギーの為には証拠も無しに
自国の正史を否定しても構わないっていうのがNGって事だろ。
539婆 ◆HKZsYRUkck :2009/03/28(土) 23:20:44 ID:OaUhfRue0
>>537
べつに反論するわけじゃないけど、最後のとこがよくわからん。
主流派が少数派に対しイデオロギーのレッテルを貼ったとして、
それが不当かどうかは多数決によらず決められるのではないかと。
なぜなら手続きの話だから。
逆に、多数派が貼るレッテルが正当だとされるなら、それは手続き
の問題じゃなくなっている気がするの。
540名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:21:02 ID:ZcvPM18jO
>>324
現代のようにメートル原器が保管されてるわけでも、三角測量してるわけでも
ないんだぜ。決まってると言っても大まかなんだからこの方法論が正しいんだよ。
君の書いてる岡田氏とやらの想像を三国志の原文より尊重する姿勢こそ倒錯だよ。
541名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:26:55 ID:ZcvPM18jO
>>325
反駁もせずに思いつきで、恣意的な結論下してるのは、君の方だよ。
542名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:47:45 ID:92PDTsig0
そろそろ、IDが変わるからID:FpwPxXJ/0のミンジョクが出る頃だな。
543名無しさん@九周年:2009/03/28(土) 23:58:39 ID:CuQmiXhD0
>>540
>現代のようにメートル原器が保管されてるわけでも、三角測量してるわけでも
>ないんだぜ。

こういっておきながら、方四千里やら万二千余里を現実に測定された数値と
考えるのはいかにも矛盾してるね。
岡田氏の見解は、こういうのもアリだろというあくまで一例として出したもの。
要はなぜ斯様に誇大な里数が記述されているのかをまず考えるべきということ。

>決まってると言っても大まかなんだからこの方法論が正しいんだよ。

繰り返すようだけど、魏代の尺が定まっているんだから里も定まる。
「大まか」だったとしても、433メートルの里が76メートルに縮むというのはありえない。

ところで、短里なるものがあったとして、なぜそれは『三国志』のみで
採用されて他の史書では採用されていないの?
544名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:06:12 ID:CcgxukSdO
>>326
その表は以前見たので知ってる。隋書律暦志の中には短里の痕跡はないけど、
一方で、>>205のリンク先によれば三国志には長里と短里が混在している。
制度としての短里が未証明でも、三国志における短里の具体例について長里である
という合理的な説明は必要になるよ。
545名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:20:20 ID:Eef7oHzA0
>>544
>>>205のリンク先によれば三国志には長里と短里が混在している。

短里の例として出されたものに全く説得力がないと言ってるのだけど。

>制度としての短里が未証明でも、三国志における短里の具体例について長里である
>という合理的な説明は必要になるよ。

里は制度でしょ。後半部は言ってる意味がわからない。
546名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:41:58 ID:APLbyVLS0
>478 >>489
「弥生人」が渡来人なら
大陸のどこかに弥生土器が大量に出土する地域がないとおかしい。
そんな地域はみつかってないんだから、
弥生文化は九州北部の狭い地域でほぼ独自に発達し
ある時期に爆発的に広まり始めた、と考える方が理に叶ってる。

「紀元前10世紀」頃に大陸のどこかから九州北部に農耕民の移住があり、
そこで約700年も孤立した熟成期があって独特な文化になったのでは。
その集団は言語的には周囲の縄文系に取り込まれたのかもな。 >>473

大型船による大陸との定期航路の安定運行が始まり、
大型船が列島各地に巡回するようになって、
船員用の保存食を供給するため列島各地で稲作を始めたので
稲作指導員として「弥生人」が列島各地に一斉に分散移住した
のでないかと一部で言われている。

この大型船の定期来航により大陸の諸民族も移住しては来たんだろうが、
「渡来人型の」弥生人遺骨は意外と発掘数が少ない。
弥生文化圏の急速な拡大が、海を渡っての民族移動によるのかは疑問が大きい。
547名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:51:05 ID:o+thPVw2O
イデオロギーってなんなんだぜ…
インテリぶんなカス!
548名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:51:58 ID:Y3mV+VhpO
百済の軍事支配権については、百済が先に南朝に行って册封されたから倭王の傘下に入れなかった。
倭王の要求を認めると皇帝としての正統を自ら否定しかねない。
倭王の官職を百済より低くしたのも中華の建前の為だろう。
549名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:54:20 ID:DzWewzXmO
過ぎた過去を振り向くな
550名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:57:15 ID:6r5IXa8p0
邪魔大国 あれ?変換できない。
551名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 00:58:20 ID:Q+2b4aaEO
現状、九州説を唱えてるのは研究者ってより活動家崩れみたいな人物ばっかだしね〜
科学的な根拠を思想と信心で覆せると頑張られたら
もはや学問では無い罠
552名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:03:53 ID:9gswYrhv0
もうややこしいから第三者地域の学者呼んでこい
553名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:06:37 ID:ymI1xJv10
>>548
でも、結局、倭王武が勝手に半島の軍事支配権を名乗ったので
その翌年、中国はそれを認める。
554名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:13:04 ID:XOtBHSS8O
そういえば、山口方面で出土した、2300〜2400年前の漢族と見られる2〜30代の男性遺骨数百体は結局どうなったんだ?
頭の方向性が殆ど山東半島を向いて埋葬されたモノだが。
555名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:14:32 ID:EeCB72tQ0
まあ邪馬台国論争が完全決着することも無いし
少数意見が存在している方が健全だともいえるが・・・

「今更、吉野ヶ里かよ!」と思うのは俺だけじゃないだろ?www

556名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:16:50 ID:APLbyVLS0
この件?

http://choshuyamaguchi.blog80.fc2.com/blog-date-200711.html
下関市の日本海側、響灘に面した土井ヶ浜から大変保存状態のよい弥生人の遺骨が、300体も
557名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:18:20 ID:Gqnq7vDa0
何を実証したらどこそこが邪馬台国だったと言い切れるんだ?
558名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:19:00 ID:Y3mV+VhpO
そうそう、応神天皇あたりまでは末子継承の可能性があるので、兄弟間継承が無くても不思議ではない。
559名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:21:48 ID:qGoSgqXSP
弥生時代の遺跡から高床式と竪穴式住居が混在して見つかってる事から
高床式住居で生活する弥生人に縄文人は隷従してたんじゃないかっていう話があるね
教科書では高床式は米倉庫ってことになってるけど
湿地帯の稲作地域では高床式住居が一般的らしいから
560名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:23:02 ID:hOYfYmpsO
卑弥呼の名前の入ったものが見つかれば。
死ぬまでに邪馬台国の場所と、坂本龍馬を殺した真犯人・首謀者は知りたい
561名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:23:22 ID:aAcKlymkO
>>557
「邪馬台国」とかいう表札じゃないなか。
562名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:24:02 ID:EUYaLShPO
どこに在ったか議論するより、タイムマシンでも作って見に行った方が早いんじゃね?
563名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:25:26 ID:w3hL+Qop0
>>557
ここにあったって言う石碑か稲荷山クラスの金文以外無理だな。
金印は移動可能だしw
機内で見つかったら、神武東征の証拠と九州説が騒ぎだす。
景初3年の鏡でさえ散々結果でていないだろ。
564546:2009/03/29(日) 01:25:27 ID:APLbyVLS0
>>559

稲作指導員としての「弥生人」は
縄文系首長に奴隷交易で売り渡されたのかも知れんよ?
565名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:26:36 ID:OgL4+ceg0
ヤマトのルーツは宮崎県だから佐賀は違うよ
566名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:27:08 ID:Y3mV+VhpO
>>553
百済だけは認めなかったんだよ。で、変わりに馬韓を入れて誤魔化した。
皇帝が册封した百済王は地位を守られ、「馬韓」は倭王の軍事支配下と認知された。
567名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:29:53 ID:fTDZ1/UFO
>>560
オレはそれプラスJFKの真相が知りたいな
568名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:39:02 ID:XOtBHSS8O
>556
そぅ、それ。
mDNAの判定では山東半島方面に類似性が高いそうだが、経年と汚染の為に精度がイマイチとして
法医学骨格鑑定をやって、弥生人より当時の山東半島の墓から出た骨の方が近いそうだが。
やっぱり核DNAが完全な形で発見出来なかったから誤差がつきまとう様だね。
569名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:40:37 ID:ymI1xJv10
>>566
百済は馬韓のひとつなのにw ある意味、ご都合主義だなw
でも、なんで、中国の宋王朝は、
倭国の要求をはねつけなかったんだ?

中国の学者が言っていたが、倭王武のやり方は
中華秩序に対する挑戦であり、無礼千万だとか。
でも、このことは、それだけ、当時の倭国が
国力に自信を持っていた現われだと。
570名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:41:07 ID:0paNknrO0
今はもう奈良優勢
571名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 01:46:29 ID:wctHyk550

在日の方々の立派な志、確かに拝見致しました。日本で生まれ育ちながらも、朝鮮民族としての埃(ホコリ)を失わないその姿勢に、驚愕しますた。
日本国民の皆さま、長文となりますが、ぜひ下記をご覧下さい。

‐以下コピペ‐
年金支給や参政権は自民党政権では無理でしたが民主党政権なら実現できます。
日本の政治を我々が動かすことができる時代がこれから来ます。
目の前の気になることは少し目をつむって将来の我々の大きな勝利のために進みましょう。

とにかくこれから2年は忙しくなります。
次の衆議院選挙は2009年の9月。
ここでも民主党に過半数を獲得してもらう必要があります。
そのためには良識ある日本人をもっとたくさん増やす必要があります。
この記念すべき2009年のために戦後我々の同胞たちは日本のマスコミ各社に同胞を送り込み、日本人の良心の改革を進めてきました。
その結果が今回の選挙でようやく出てきましたね。
〜中略〜
日本の一般国民も今は年金や不祥事なんかの目の前のことだけしか見てませんしね。
マスコミもそういうところをどんどんやりますから都合がいいですよ。
笑いが出るくらいです。
とにかく日本の左派はまだまだ利用できます。
とくに日本が嫌いな日本人がいるというのはおもしろいですね。
十分使えます。日本憲法改悪反対派の議員たちをもう一度洗い出しましょう。
護憲派の人たちは我々と考えが似ていますから、まだ利用できます。
同じような人たちは自民党にもいます。落選議員に活動資金を献金するといった方法で良心を目覚めさせることも簡単でしょう。

民主党にはかつて北韓の辛先生の擁護をしてくれた人たちもいますし。
572546:2009/03/29(日) 01:52:30 ID:APLbyVLS0
>>568

縄文の要素がほとんど認められない特異な遺跡、
文化的には満州沿海州起源の要素が多いらしい。
土器は弥生式なのかな?

http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/doigahama.html
>中国大陸の青銅器時代(約3,000年前)の古人骨に酷似

殷・周からの難民の末裔なのかな??
573名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:02:37 ID:AwPR4PAd0
日食の問題は畿内説で解決しないじゃんかよ。
天文学的に言われているんだから、これはかなり決定的な証拠じゃないの?
574546:2009/03/29(日) 02:02:47 ID:APLbyVLS0
「倭の東北一千里にある多婆那国」
ってこの土井ヶ浜じゃね?
575名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:10:20 ID:dJlWlMyb0
>>572
民族の大移動があったなら、中国での王朝の崩壊や圧政などの原因があるハズ。
殷は3000年前に周に滅ぼされ、殷は漢民族から見れば夷で異民族扱いされてるから
漢民族の周に追われて逃げて来た殷の人々が弥生人でもおかしくないね。
576名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:12:49 ID:aAcKlymkO
>>573天文学は九州も奈良も同じだよ。日蝕に北九州と奈良の違いないよ。
577名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:12:57 ID:XOtBHSS8O
ついでに言えば、その年齢層は軍隊や水夫の使える奴に相当する。
十代は簡単に烏合と化すし、平均寿命四十代では練度と体力から30代が限界だろね。
上陸直後に葬ったと見れなくもない。指南車は当時既に使用されたし、水夫なら方位は読めないと航海で迷子になっちまうし。
578名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:16:59 ID:APLbyVLS0
>>575
てゆうか、殷の支配民族の青銅器の祭事器を、
周代にを小さくなりながらも作りつづけ、
漢代に一部が楽浪郡に移住させられて
そこで小型の銅鐸になり、
さらに一部が南下して列島に持ち込んで銅鐸文明人になった
らしいとの研究があるらしい。

http://unkar.jp/read/academy6.2ch.net/archeology/1066237353
銅鐸について語ろう
579名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:19:07 ID:dJlWlMyb0
>>574
多婆那国は方角としては合わないんだけど
地名から類推するに熊本県の玉名。
もし多羅と呼ばれてたとしたら玉名から有明海を挟んで対岸には
多良岳という山やその麓には太良町があり、その辺りかも。
その南西に倭があるとしたら東シナ海の中になってしまうけどねw

580名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:22:08 ID:Eef7oHzA0
>>557
考古学者の石野博信氏は、卑弥呼への詔書や贈り物をとじていた
封泥(手紙の封蝋みたいなもの)が見つかればそこで確定できると
いってるけど、泥だけにまともな形で見つかる可能性は低いらしい。
581名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:24:22 ID:AwPR4PAd0
>>576
2回の日食とも、奈良ではほとんど見えないはずだが。
北九州では非常に素晴らしい天文ショーが見られた。
582名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:25:20 ID:dJlWlMyb0
>>578
弥生人も一気に流れ込んで来たというより、徐々に増えたと見る方はいいだろうね。
中国人は日本人は秦の末裔と信じてる人が多いみたい。
583名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:37:54 ID:Y3mV+VhpO
>>569
すまない、本を読み直したら、馬韓は慕韓で最初から入ってた。記憶違いだった。
でも百済は認められていない。代わりに加羅を入れている。
倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事。安東将軍。
その後また百済を入れて安東大将軍を自称している。

まあ、南北朝の時代だし。三国志の時も対立や人口の減少で周辺に気を遣ってるし。
高句麗とやり合う大国だし。そんな国が北朝側にいかれたら面子丸潰れ。しかも百済の册封も否定されかねない。
百済だけは譲れないがと変則的な形で認めるしかなかったんじゃないかな。
584名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:44:47 ID:Y3mV+VhpO
>>573
日蝕は最新データからの計算で修正されているとのこと。修正以前の日蝕ネタは不成立。
585名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:46:56 ID:dJlWlMyb0
>>583
百済は東晋が近肖古王を鎮東将軍領楽浪太守に任命して属国扱いしてたからな。
この太守の任命をうけて百済が建国されたかたち。
だから倭の勢力圏からは外したんだろうな。

ただ首都漢城を高句麗に攻められてからは、
倭国が首都を熊津に遷して百済を再建してるな。
586名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:52:54 ID:w3hL+Qop0
>>580
いかんせん、持ち運べるものはダメだな、景初3年の鏡が圧倒的に
機内にあったってあれは偽者だだろw
それが機内で見つかったらそれこそ、東征の証拠とか言い出すんだよ。

九州にあれば本物というくせに。。。
もう地元誘致の国体とかオリンピックなんだよ。
587名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 02:53:17 ID:Eef7oHzA0
短里説と日蝕もペケと……φ(.. )メモメモ
588名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:00:54 ID:Eef7oHzA0
>>586
石野さんがいうに、封泥ならば贈答品を開封したその場、つまり卑弥呼の宮殿
で捨てられるだろうから、発見場所=邪馬台国となるそうな。
そのままだと土中で消失してしまうから焼けたのがあれば…ということらしいが
どうも厳しいみたい。
589名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:07:23 ID:bGePuTrK0
邪馬台国を
誰かが「ヤマタイコク」と呼んだのがそもそも間違い。

卑弥呼の後継者は「台与」というが、これは「トヨ」と呼ぶ。
ようするに「台」は「ト」と呼べるのだ。

邪馬台国は「ヤマトコク」と呼ぶのが正しい読み方。
それなら、大和国のことだろ。

議論の余地もない。

590名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:18:43 ID:Fp8SMwfb0
>>589
発音が同じなら、最初から議論の起こりようがないよな。
591名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:23:39 ID:w3hL+Qop0
>>588
だって泥の塊だろ、泥の印が魏の時代のもので、炭素測定で3Cのもの
ってありえんぜ、焼けたりなんかしたら、それこそ、時代測定が狂うw

もう、邪馬台はオリンピックと同じで誘致合戦なんだよ。
邪馬台の場所1点の議論しかないから、交通路とか言った線、
倭の勢力範囲に明らかに半島南部が含まれているのに
九州説だとせいぜい、長崎、佐賀、福岡、大分程度の
勢力範囲の中で中津だの山門だの抜かしているんだろ。
熊本、宮崎、鹿児島は無かった事。

機内だとすると半島南部から奈良までは勢力範囲と読めるが
愛知、長野、岐阜なんて勢力範囲とみなしていない中途半端な
研究なんだよ。
592名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:23:53 ID:Eef7oHzA0
>>589
あれもトヨかイヨか議論あるし…
593名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:26:50 ID:w3hL+Qop0
>>590
元々は新井白石が大和説・九州説の両論を出してから
一歩も進んでいないんだよ。
結果>>591の通り邪馬台国誘致合戦が現状。
倭の首都が何処にあったかの議論だけで点の話しか
していない低俗論争なんだよ。
594名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:33:53 ID:CGMhWdAO0
>>572
>縄文の要素がほとんど認められない特異な遺跡、

抜歯は縄文後期の特徴
と言うより「弥生」自体が東大が創り上げたペテン、存在確立は「脚気菌」と同レベル

1、弥生町、東京大学敷地内で土器が発見される

2、弥生式(縄文)土器と発表
3、自ら(東大)の業績大きく見せるため、新時代土器=弥生土器と言い換える(式が抜けた)

4、古墳時代の土器の疑い発生

5、東大敷地内にもかかわらず、何処で発掘したものか所在地不明に。
6、東大、こっそり「弥生」の定義を「稲作文化」に挿げ替え
7、東大、こっそり「弥生人」の定義を「弥生土器を使う者」から「別の人種」に挿げ替え
8、大量の移民により人種の総入れ替えがないと辻褄が合わなくなるため

9、九州に100万人移民説

10、邪馬台国九州説

595名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:41:25 ID:bGePuTrK0
>>592
台与がトヨかイヨかはさておき

台が「ト」と呼ぶこともできるなら

邪馬台がヤマトの当て字なのは明白だろ。
596名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 03:45:25 ID:w3hL+Qop0
>>593
追記:戸数7万とか書いてあるなら、当時の家族構成なら
最低でも爺婆+父ちゃん母ちゃん+ガキ3人の計7人家族で
49万人の大都市だぜwww

そんな人口食わせる大規模農業できる場所が吉野ヶ里にある訳が無い。
少なくても大規模農業が可能な平野部にあり灌漑施設を備えた
地域じゃなきゃ不可能なのに九州、大和説も誰も農業施設の証明
をしていないw

他所から食料持ってキタとか抜かすアホも昔いたけど、交通網や運搬
手段、盗賊防止の為の安全保障を答えた学者なんか誰もいない。

邪馬台論争ってこの程度の質の悪い、地元利益の為の誘致合戦と
認識しないと、もっと重要な記紀の記述の正確性とかに金掛けないと
人的資源の無駄使いだぜ。
597名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 05:32:17 ID:VEPsrZ970
●台
「台」を「ト」と読ませているのは、
日本書紀別伝第三および旧事紀の中で
興台産霊(ココトムスビ)の神の台(ト)として用いてあるだけ。
だから一般的な用字とはいえない。

もともと無理な読み方で、原音は明らかに漢語でタイ、
呉音でダイであるからタとしか読めない。

また、ヤ、マ、トの各音が、どんな意味をもっており、邪馬台という国の名が
何を意味するかということすらわからないで、これまでの邪馬台国論争は、
ただ漠然とヤマトとかヤマタイとか読んで論争を繰り返している。

●邪
「邪」は、ヤとエの中間音として発音すべきで、
記紀では「屋」の字をもってあてられる。
現在、入り江といっているエの部分の原音だと思われる。

●馬
馬は本来漢音でバ、呉音ではメであるが、後代合体して
慣用的にマとも発音される。
バラ(原)、イバラ(茨)、イマラクの国(茨城の国)、マメ(豆)、ハマ(浜)などが
意味する畑(やきはた)の意味である。

本来、倭人伝に記された固有名詞は、音写を目的とした漢字を
用いただけの音表であるから、一文字を日本語の二字音として発音してならないことは常識。
この原則さえわからず平気で一字を二字音で読んだり、
漢音と呉音を混同して読んでいる人も多い。

台の意味は耕地であるタ(田)を意味している。
したがって邪馬台本来の音の組み合わせはヤ+バタであってヤバ+タではない。
この本義がわからないから、ヤマ+トとしてヤマトと読みたがるのである。
598名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 07:37:15 ID:+/s9w6jzP
昨日からちょくちょくこのスレ見てるけど、みんな凄い博識だな!
この手の話って好きだけど、みんなの知識に付いて行けないwww
3000年ほどROMってます。
599名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 07:38:35 ID:CcgxukSdO
>>330
リンク先読んでみたけど、この書物の宇宙観とは関わりなく、夏至の日の南中時の
影の長さという実測データだけを元に谷本氏が計算している点が重要だね。
だから実際の地球の極半径を計算に使えると。
しかも単に三国志以外の文献というだけでなく、この書物の成立が後漢末だから、
卑弥呼とほぼ同時代の短里の使用例になるという点に意味があるね。
600名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 07:45:11 ID:YoCzun+e0
>>597
台与は一般的に「とよ」と読むんだなあこれが
だから「台」=「と」
601名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 07:52:18 ID:Eef7oHzA0
>>596
里数ばかりでなく人口も誇張なんだろうね、きっと。

>>567
橋本進吉博士が万葉仮名として挙げている中に
清音・乙類の「ト」として「臺(台)」がみえるけれど、
「興台産霊」の他に用例はないのかな。
602名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:02:21 ID:CcgxukSdO
>>338
確かに隋書のその記事は重要で、三国志の里数の書いている行程は魏使が実際に
行った部分、投馬国や黒歯国の日数のみの行程は倭人からの伝聞による部分だと
思う。しかし12000里の内、不弥国まで最低10700里は使ってるから、畿内では
ないよ。
603名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:06:12 ID:CcgxukSdO
>>340
>素人が口を挟む余地
学者の研究(=労力)のレベルが低すぎるからだろうな。
604名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:13:15 ID:4vZs/IAd0
>>559
BC6,000年。縄文時代。日本最古の稲のプラントオパールは、岡山県の朝寝鼻遺跡。
BC4,000~BC2,000年代。岡山には、縄文稲作の痕跡を示す遺跡がズラズラ。自分でググレ。
BC1,000~BC700。佐賀県の菜畑遺跡。日本最古の灌漑水田。100%縄文人の村。
BC800。福岡県、まがりだ(曲田)遺跡。70%縄文土器。30%弥生式土器。同じ
村に共存。戦争、支配、階級の痕跡なし。

稲は縄文時代、縄文人によって日本へ持ち込まれた。灌漑水田も100%縄文人に
よって開始された。その頃、朝鮮半島南部に居た弥生人は、縄文人の海洋交易民
にリクルートされて、日本へ稲作労働民として移民した可能性が高い。気候も
土地条件も違う日本で、弥生人は、最初の一年、稲が実る迄、縄文人に喰わせ
て貰いながら、倉庫を建てたり、水田開墾して、縄文人の元で働く以外、弥生
人には、どんな生き延び方が有ったと思うかね。半島から騎馬民族来て日本征
服なんてホラ話が通用する程、古代のサバイバルは甘くなかったのよ。
605名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:14:54 ID:CcgxukSdO
>>342
三国志にしろ、隋書にしろ、中国側が倭王に会ったり倭に長期滞在している点が
すごく重要なんだけど、ほとんどの古代史論者がそのことを軽視している。
だからすぐに中国側史書を誇張とか誤りとか否定する傾向にあるんだと思う。
606名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:16:08 ID:AYFnssSh0
>>591
封泥って何か知らないだろ。
607名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:23:44 ID:CcgxukSdO
>>347
大まかでも二点間の距離ぐらいは割と正確に出してたかもな。
前言を翻してなんだが、周髀算経によれば棒の影を利用した簡単な三角測量は、
できるみたいだし。
608名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:35:44 ID:EGDDk4R30
>>600
そこ変だよな。邪馬台国をヤマタイと読むなら
台与は、タイヨと読まないとおかしい。
他にも、邪をヤと読んだり、ジャと読んだりもしてる。
奴をヤと読んだり、ナと読んだり。
(そもそも、ヤの発音は邪があるんだから、邪と奴は同じ発音でないはず)
同じ倭人伝の中なのに、漢字の読みを平気で変えてる奴の
説は信用できない。

609名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 08:40:53 ID:Om+xJIqR0
>>598
もう落ちちゃったけどもう一つあった邪馬台国スレの方がもっと博識だったよ。特に初代スレ。
情報量が多すぎて読んでいて途中で頭がパンクしそうになったw
610名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 09:01:47 ID:Eef7oHzA0
>>599
谷本氏が計算に用いているのはそっちのピタゴラス定理みたいのではなくて
「測量の公理であるところの「一寸千里の法」」でしょ。
自身で「現代の我々の知識からすれば何とも幼稚極まりないし、
その方法の誤りも明らかである」といってる説。

つまりは実測データとは思えぬ古拙な仮説にすぎないものから
太陽の角度をもとめ、さらに「地面は平坦であると考えている訳である」
といいながら、なぜか地球の極半径を用いて千里の弧線の実長を
算出してる。これは手法として明らかにダメでしょ。

結論として、短里は『三国志』からも『周髀算経』からも
導き出せない。


>>609
纒向スレ落ちちゃいましたか、残念。
611名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 10:06:43 ID:CGMhWdAO0
「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。」
とあるから最短距離、釜山ー対馬で60キロぐらい
それなら一里は60メートル
612名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 10:14:46 ID:KWS5NbfKO
邪馬大王国は九州だろ?
613名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 10:22:07 ID:wp1fkA3L0
>>537
>イデオロギーに囚われることは真実を曲げることではない。

私は>>317にそんな事を書いていません。
なぜ、私の書いたものを、わざと歪めるのですか?

私が書いたのは、イデオロギーに
>囚われて真実を曲げようとする本居宣長の姿勢は
>真実追求のためには良くない

という事です。それに私は317で書いたように
>本居宣長のイデオロキーそのものを批判しておりません

その人にイデオロギーが有ろうがが、それが事実追求を妨げなければ別に良い、
しかし、事実をイデオロギーに合うように変えるのはダメという事です。

>>538が簡潔に書いてくれている。が、私の言葉で書くと、

イデオロギーのせいで
事実を事実と受け入れられず
それどころか、捏造や独りよがりな決め付けを根拠にして、
事実と違うものを事実にしようとするのは
ダメだということですよ。

それと、貴方は、私に「貴方と一緒だ」といわれるとお嫌らしいので、言っておきます。
自分のイデオロギーに合う歴史としたいために真実を変えようとした本居宣長を、
私は貴方みたいに、良しとはしない。

>信念からこだわる態度を否定する君の考えには同意しかねる。
真実より信念を優先する貴方と私はまったく違う。

本当に貴方とはまったく違う。これで、気がおすみですか?
614名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 10:27:01 ID:3dfIntIt0
とりあえず金印出てきた方で決定ってことでいいよ。
615名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 10:49:21 ID:CGMhWdAO0
>>614
ああ、あれ偽物だから
書道家の西川氏が金印偽物説に反論するために「金印の刻法」の文のせたが
「この印は両壁が或る所はやや斜め、或る所は垂直にたててあり・・・」

この書道家は泥封を知らなかったんだろう、金印は本物だと擁護するつもりが
致命傷に。
この印は紙に朱印だとそれなりの印影になるが、粘土板に押すとグチャグチャの
お粗末なもの。
泥封印として成立しない=偽物
616名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 11:03:20 ID:DJ4ziNZc0
>>605
>ほとんどの古代史論者がそのことを軽視している。
ほとんどってそれ素人だろ
誇張とか誤りとかいうのはだいたいウヨ、九州説
617名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 11:32:57 ID:4vZs/IAd0
>>616
九州説に右翼も左翼も関係ない。同時に近畿説にも右翼左翼関係ない。
朝鮮人が出ると、必ず論敵を右翼にして貶める。うざいから半島へお帰り。
618名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 11:34:44 ID:Nl2cPsi80
そろそろ韓国が邪馬台国の起源を言い出す頃じゃね?
619名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 11:35:36 ID:veLIblCK0
>>618
高天原の石碑まで建ててるしなw
620名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 11:40:15 ID:gEdaGr250
>>614
そんな簡単に持ち運べるものなんか、
どこで出たって場所の証拠にならない。

倭人伝に金印をあげたと書いてあったのは本当だった
という証拠にはなるから、デタラメ説が消えるだけ。

そういや、卑弥呼の使者たちが、銀印を3個くらいもらってるんでしょ。
そっちの方が見つかる可能性が高くね
621名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:06:36 ID:cxvDr8w50
本当は指輪型だったりしてそんなファンタジー
622名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:07:28 ID:ymI1xJv10
>>618
英語とか外国語の掲示板で、とっくに
マキムクのことを韓国人の移民の国家って言っているよwあいつらw

むしろ、マキムクの研究の成果で、この説は完全に崩壊しているのに。
623名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:07:29 ID:YUCIPxw9O
邪馬台国は韓王朝? 竹島から金印出土

韓国外務省は29日、竹島(韓国名・独島)で金印の出土を確認したと発表した。
金印には「親魏倭王」の文字が含まれており、竹島が邪馬台国の勢力下に置かれて
いたことを説明する重大な証拠であるとして、日本政府は韓国政府に対し今後一層
竹島の領有権を強く主張していくとしている。

http://kyoko-np.net/2006072601.html
624名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:12:44 ID:ymI1xJv10
>>619
連中が、高天原の石碑をたてたのは、結局は
日本側が高天原の地があったのに、それを明治以後、突然、隠したのが原因。
だから、空想小説の舞台になってしまったw
その思想の切欠は、本居宣長が「高天原は天上の地とせよ」と言ったのが大きな原因。
最近、旧皇族のやつに、高天原はどこか?とたずれたら
本居宣長と同じことを言っていたw

でも、明治天皇は東京に行く前に、わざわざ高天原にいって
そこにご報告して、東京に行かれている。

さあ、それはどこでしょう?
625名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:18:59 ID:DJ4ziNZc0
>>617
つくる会会長だった西尾が魏志倭人伝は信じるに値しない、邪馬台国は九州といってたんだよなあ
626名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:20:53 ID:H+aPqXI30
>>623
>「金印と一緒に発見された銅鏡にはハングル文字が刻まれており

ハングル文字ってさ・・・・・・
                    ま、いいや。
627名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:23:22 ID:kxrfpIy30
基本的に九州説を本気で信じてる奴は頭が弱い。
ネタとして楽しむ分には、浪漫があって面白いけど。
628名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:24:21 ID:ymI1xJv10
あと、邪馬台国九州説を唱えたのも本居宣長。
卑弥呼が中国に朝貢したのが嫌で
「あれは、九州の熊襲の女酋長が勝手に朝貢した話だ」
って言ったのが大きな要因。

でも、卑弥呼は中国に朝貢したかもしれないが、
当時、中国(魏)側が外交していた国の中では、圧倒的な好待遇で
倭人伝に書かれている内容からして、倭国はかなりの大国という記述。
そんなことを卑下する必要はないわけで。
高句麗や扶余なんて、倭国よりも小規模な国というかんじ。

しかし、本居宣長が邪馬台国を九州に追放してしまったために、
このあたり前後の数百年の日本の歴史が暗闇になってしまい
第二次世界大戦後は、三王朝交代説や騎馬民族征服王朝説とか
トンデモのオンパレード状態になってしまった。
629名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:25:28 ID:4vZs/IAd0
>>625
だから何?
九州説は何万人もいる。近畿説も何万人もいる。
西尾幹二が右翼と言うなら、韓国・北朝鮮は、国家国民6000万人全員が超極右。
おまけに起源捏造ストーカー。
ンな国の人種に、右翼だの左翼だの、言われる筋合い無いわ。
630名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:28:29 ID:DJ4ziNZc0
最終的に魏志倭人伝なんて伝聞で書かれたものだ、信用できないって
いうのが多いんだよ素人は
だから素人でも入り込む余地があるっていうよりかってに妄想膨らませてるというか
で九州説はそういうのが多い
631名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:28:34 ID:nYydek+u0
ふん
邪馬台国がどこにあったかってか
きわめてくだらん争いだな
そんなもん明確な証拠が出てくるまでわかりっこないだろ
まー醜いわ
どーせ邪馬台国があったことを観光資源とかにしようとしてるだけだろ
ほんとあさましいというかなんというか
632名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:30:37 ID:ymI1xJv10
>>625
戦前の大日本帝国では、邪馬台国九州説が信じられていたよ。
その流れで、騎馬民族征服説とか、日鮮同祖論とか、満州帝国とか
大東亜共栄圏とか、話がどんどん膨れ上がっていった。
つまり、右翼と左翼って、逆のよう見えて、実は全く同じだったことの例え。

西尾みたいな右翼のほうが、邪馬台国九州説を信じているのは
戦前ではむしろ当たり前だった。
633名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:33:24 ID:kxrfpIy30
>>631
邪馬台国があって観光に使えるって九州くらいだからなぁ。
畿内だと、やっぱりって感じになるだけで観光としては使えない。

実際、藤原京なんか悲惨なもんだよ。
634名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:35:38 ID:4vZs/IAd0
>>632
だから何?
邪馬台国が九州だったか、近畿だったか。誰がドッチの説を信じようと、クニが
ドッチに有ったかとは、関係ないじゃないの。
635名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:38:25 ID:ymI1xJv10
右翼の中で、邪馬台国九州説に拘る奴は
神武東征の解釈を凄く原理主義化しているのが多い。
西尾とか...
でも、そういう連中は、意外に日本書紀や古事記を
それほど詳しく読み込んでいない場合が多い。

あと、左翼の中で邪馬台国九州説を信じているのは
地方独立国王権という考え方、反中央集権主義の観点から
邪馬台国九州説を信じているのが多い。

つまり、邪馬台国論争には、イデオロギーを持ち込んでいるのが多いが
九州説と畿内説で、はっきりと左右の対立軸に分けることは出来ないわけで。

ちなみに、イデオロギーぬきに邪馬台国を研究している人は
ほぼ畿内説で統一されているといっても良い。
636名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:38:57 ID:/h9xd1Zz0
>>617

作る会の理事だった、古代史と中国史の岡田英弘は
邪馬台国は畿内以外にありえないといってるし
別に作る会自体が九州説に照るわけじゃないんだが
637名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:39:21 ID:HfjhLALs0
だからなんでそんなことで争いがはじまるのかわけわからん
そんな昔のこと証拠でも無い限りはっきりとわかるわけ無いじゃん
なのになんで九州だの畿内だので争いが起こるわけ
どっちの側もあいての言ってることが正しいかもしれませんねという気になれないのか?
638名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:40:47 ID:DJ4ziNZc0
>>637
そんなあほなこというやついるかよw
639名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:43:14 ID:/h9xd1Zz0
>>632
低学歴らしい知ったかだな

640名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:44:24 ID:YUCIPxw9O
>>637
学究とは到底言い難い態度ですよねw
641名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:44:49 ID:kxrfpIy30
>>637
話としては面白いねって事はあっても
九州説が正しいねって事はあり得ないw

邪馬台国はマキムクでほぼ確定してるけど
誤魔化しておいた方が互いに都合がいいんで
そうしてるだけ。

邪馬台国論争は考古学者にとっても金を引っ張ったり
商売する為の大切なネタだからね。
642名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:50:13 ID:BuEovJ2H0
邪馬台国のHP作ってる人ってほとんど九州説だよね。(音がうるさい。)
大体神話の事には触れないのが多いんだけど、
中にはモモソ姫=卑弥呼、神功皇后=壹与で、
卑弥呼は行橋に住んでった言う人もいるよ。
643名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 13:02:30 ID:ymI1xJv10
邪馬台国論争で盛り上がるのは、九州説VS畿内説だが、
この争い以外で、盛り上がるネタがみつかれば
とっくに、九州説は下火になると思う。
小説なんかでも、九州説のほうが、面白い話が作りやすいから。
644名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 13:05:48 ID:DJ4ziNZc0
根拠が少ないから妄想たくましく出来るからな
645名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 13:10:05 ID:ymI1xJv10
>>642 :名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 12:50:13 ID:BuEovJ2H0
>邪馬台国のHP作ってる人ってほとんど九州説だよね。(音がうるさい。)

あのHPか...
あれ凄く重いw
646名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 14:36:37 ID:Y3mV+VhpO
>>605
あとね、中国側の論理や古代日本人の論理を無視して現代人の論理もちだすのとか。
中国史書はあくまで中国人の思想体系で用語が使われているわけでね。
長期滞在しても中華フィルター通した文を書くわけでね。この点を史料批判しないアマチュアは多い。
しないってより出来ないんだけどね。方法論の基本が無いから。
記紀に対しても同じ。
647名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 14:39:25 ID:4eqjlCLx0
九州説を必死に唱えているのは薩チョン土肥

そう、半島人独特の捏造精神でいっぱいの薩チョン土肥
そして、畿内を抑え込み、
薩チョン土肥の東京民国が日本の中心であるように錯覚させたいため

半島人は半島にいても薩チョン土肥の東京にいてもやることは常に捏造www
648名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 15:26:28 ID:nwXa5pB30
吉野ヶ里=邪馬台国が前提だなんて、
学会ってより観光協会みたいなもんだろ。
ツチノコに懸賞金を出すとか言ってるレベルの話w
649名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 15:31:06 ID:Czgp5FBTO
箸墓掘ろうよ。つかマキムク掘ってんだから
ついでにうっかり掘ってしまえよw
650名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 15:54:34 ID:Y3mV+VhpO
同じマキムクにある箸墓より少し古いとみられる古墳三基の調査が行われ、二系統あることがわかった。
箸墓と同じ方墳部分が寸詰まりの物と長い物。初期に既に二系統あったなら、これはこれで面白い。
651名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 16:46:36 ID:AYFnssSh0
>>648
でもまあ、九州説の場合はいろいろな場所でこういうのやったほうがいいよ。
○○を邪馬台国とする、を前提としていろいろな項目に○×を付けていって
どこが一番もっともらしいかっていうことを検討してみる。

九州説の人ってこういうことすらやらないから。
だから「畿内説では東に海がないからだめだ」と批判しておいて、
平気で東に海がない熊本説を唱えたりする。
652名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 17:46:05 ID:qJK2H/s20
>>650
そんな寺沢理論よりも、
周濠の形に二種類ある方が、
古墳発展の理解には重要そうだ、
と石野は言いたげだ。
去年末に出した本の序文を読むと。
653名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 18:01:21 ID:YUCIPxw9O
>>651
畿内説は日本列島が南北に長いと言っているのだから、邪馬台国の東には当然海がありますからね。
654名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 18:48:05 ID:6udvdDFf0
691 名前:日本@名無史さん :2009/03/29(日) 18:41:36
純粋に考古学的証拠だけで、邪馬台国畿内説は決定的なのだから、
今は畿内説を前提に、魏志倭人伝をどう理解するかの段階だと思う。
あれだね「南至投馬国」は「東至投馬国」を、写本の段階で隣の行に惹かれて間違ったのだろう。
その一時を訂正するだけで、投馬=出雲 邪馬台国=大和
狗奴=クマソ 東海渡倭種=東海地方とすべて説けてしまう。
何も地図を横転させる必要もない。
晋書に卑弥呼を「東倭の女王」と明記しているのだから、もうこれで間違いないよ。
魏志倭人伝に書かれているのは、大和とクマソの戦いだろう。
655名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 18:58:20 ID:YUCIPxw9O
「一時を訂正」は一字の間違いでしょうか。
となると投馬国からは陸を船でいくんでしょうかね。
656名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:01:31 ID:6udvdDFf0
>>655
水行10日で敦賀あたりに上陸して、そのあと南行一月で大和到着じゃん。
全体として南に向かってるわけだから問題ない。
657名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:12:38 ID:YUCIPxw9O
>>656
では二度も書き間違えるほどのウスラバカだったということで。

南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月
658名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:16:16 ID:6udvdDFf0
>>657
南至邪馬台国はただしい。
明らかに出雲から大和へは南下しているわけだから。
まあ、そもそも考古学資料だけで畿内説は確定だからねw
659怒髪 ◆5ACRBES7TA :2009/03/29(日) 19:20:16 ID:3pSlOzAS0
邪馬台国ならオレの隣で寝ていますよ。


などとしか言えないくらいの浅薄な知識ですが、
九州あたりにあったんじゃないでしょうか。

佐賀かどうかはわからんですが。
660名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:24:15 ID:YUCIPxw9O
>>658
明らかに南下している!
新説ですね!!!
661名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:27:29 ID:3iBBanhyO
邪馬台国がどうとかでそんな食えるもんなのか
662名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:36:01 ID:AYFnssSh0
教祖様になり切れれば食える。あの人とかこの人とか。
663名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 19:47:37 ID:YUCIPxw9O
史学ってセクト化するよね。
664名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 20:38:47 ID:3iBBanhyO
宗教ってことね。
665名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 20:59:38 ID:veLIblCK0
邪馬台国九州説というのは学問からかけ離れて
観光利権絡みだからうっとうしい。
東征の起点となる宮崎が騒ぐならまだわからなくもないが
佐賀が騒ぐのは明らかに観光目当てだからな。
666名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 21:05:10 ID:kxrfpIy30
>>661
邪馬台国ってだけで全然食いつきが違う。
ニュー速+でも邪馬台国が絡むとスレが伸びる。
667名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 21:28:02 ID:LcTkzrax0
みなさん真実を知ってください。
潜在的記憶を呼び覚ましてください。
邪眞薹(ヤーマティーラー)の臨界涅槃に際して、私たちの記憶は、40億年前までさかのぼります。
妃美沙羅(ヒーミサーラ)様、ティライアポッパ様、転生回帰の無理解は、
それらを監査されると惹かれる熊祖の諍い…。
ありえないことです。
騙されてはいけません。蘇生します。必ず。
私たちは信じています。
あなたも、手遅れにならないように。お願い申し上げます。
668名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 21:49:25 ID:YZHwdTP00
>>667
相手にしてもらえるといいね
669名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 22:03:46 ID:+egPZp8O0
こういう議論もいいけど宮本武蔵の出生地もそろそろ結論づけて欲しい
最有力地と言われてる俺が住んでる町はすっげーやる気ないけどさ
670名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 22:12:46 ID:24EGzq2g0
俺、倭人だけどぉ〜
南って太陽のある方向のことだろ?
朝はあっちが南だしぃ〜、昼はこっち!
夜は見えないからわからないなぁ〜
671名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 22:25:03 ID:kt+M+aVi0
日食問題は調べてみたら、解決済みどころか、かえってわからなくなってるじゃん。
NASAの日食のデータだって近畿も九州も通っていない。
NASAのデータも信用できるわけではなさそうだし。
神話が事実に基づいていたら素晴らしかったのに残念。
672名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:00:09 ID:hCqsFJol0
シミュレータソフトで、日食は確認出来るけどさ。
673名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:05:13 ID:ymI1xJv10
日食の件は、安本が大騒ぎしたんだけど
今では、なかったことにしているよw

いずれにせよ、卑弥呼の時代に、目だった日食はなかった。

卑弥呼の正体は、ヤマトトトヒモモソ媛命。
674名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:19:49 ID:hCqsFJol0
247年3月24日、九州でなら太陽が欠けながら沈んでいく様が見れた筈。
あくまでシミュレーションでの話だけど。
675名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:42:32 ID:iknc4F+u0
>いずれにせよ、卑弥呼の時代に、目だった日食はなかった。

違う
ソフト上あるという計算もあるけど
(ご存知のように九州地方)

天文学者が
あったとは断言できないと言って
そのまんま
あったかどうかよくわかんない
というのが正しい
676名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:43:39 ID:xA5dxgBa0
畿内説を憎悪する安本ミチョン先生ニムは鮮人の鑑ニダ。マンセー!
677名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:47:14 ID:wYKeDQzr0
日蝕に拘ってるのは、卑弥呼=天照大神ってことか?
しかし天照大神を持ち出している段階で畿内説だろw
678名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:47:45 ID:Zu5ipS3l0
1800年前の中国人が中途半端な仕事するからこうなるんだよ。いい迷惑だ。
679名無しさん@九周年:2009/03/29(日) 23:51:17 ID:UdhvI2U60
お前ら真面目だな。
AV女優の話をしようと思ったのだが、
ここには書かずに一人でかくことにするよ(´・ω・`)
680名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 00:04:10 ID:+JbacguK0
>>675
2000年近く溯って日食を導き出すって難しそうだ。
有効数値何桁必要なんだか想像もつかない。
月の公転、地球の自転も遅くなり続けているしなぁ。
681名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 00:07:24 ID:GPyrKpVOO
日食シミュレータおもしろーい
248年9月4日には日の出と同時に観測できるね
恐らく部分蝕だけど
682名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 00:26:13 ID:8xrUM6Gm0
>>680
まあ正確な日数は分からなくても、
最低40年に一回くらいはいい感じの日食があったのは確実だけどね。
683名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 00:39:18 ID:IzRlGcOd0
>>597
長々と書いているが
当時の中国人が「台」を「ト」と呼んでいた可能性もあるだろ。

邪馬台国をヤマトコクと呼べば
なんの問題もなく大和のことなのだから。

邪馬台国の研究者は、ごちゃごちゃ無駄な研究をしないで
台の部分をどう読むかについて研究すべき。
684名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 01:46:44 ID:bQKw7T240
>>683
そんな研究したら、あっさり畿内説で確定してしまうから
発掘資金捻出のためにも
それが出来ないんだろうw?
685名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 01:58:52 ID:bQKw7T240
769 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:47:17
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
→その後、男王、倭国で大きな戦争がおこる

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
→翌年、崇神天皇、四道将軍を全国に派遣。
686名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 02:32:44 ID:lXfegGhZ0
>>685
それはかなりありうるなあ
687名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 02:35:36 ID:4kTUTjqq0
>>679 オッサン乙
688名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 02:37:33 ID:oAmGc7I8O
>>685
ほほぉ(・∀・)
689名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 04:18:07 ID:8iUZF+dJ0
>>685

倭人伝
→卑弥呼が死んで国が乱れた後、台与がその後を継ぐ

日本書紀
→倭迹迹日百襲媛命が死んで豊鍬入姫命が祭祀となる


これも加えないと。
690名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 04:37:18 ID:DsqpPEwb0
>>638
>邪馬台国をヤマトコクと呼べば 
>なんの問題もなく大和のことなのだから。

 九州にも「ヤマト」という地名が二カ所ほど有ってだな、 
691名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 04:51:12 ID:pUhceYa90
>>689
それを入れると
卑弥呼の後に崇神を立てたが、服さずに内乱
豊鍬入姫命を女王にしておさまった
となって無理やりがわかるから、入れない方がいい
692名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 04:54:57 ID:lP9wWUU30
神の字がついた天皇が3人いる。
神武、応神、崇神天皇だ。

これらの名前は漢風のおくりなで、奈良時代につけられたと言われる。
適当につけたのではなく、その文字には当然、意味があるだろう。

神武天皇は日向から東征してきて大和朝廷を開いた。
応神天皇も九州生まれ。香坂王・忍熊王という二皇子を討って大和を平定した。
この二人の天皇は東征したという点で共通している。
神という字を使ってるのは、
外部からの征服者を意味してるのかもしれない。

崇神天皇にはそのような記録はないのだが、奇妙なエピソードがいくつか残されている。
天照大神を宮中で祀るのはよくないと言って追い出したという話。
最終的に伊勢神宮が天照大神を祀ることになるきっかけとなったエピソードだ。

また神の祟りがあったため、大物主の子孫であるオオタタネコを探した話。
崇神天皇が本当に直系の子孫なら、先祖の神の天照大神を追い出したり、
母方の神である大物主の祟りを受けるだろうか。

崇神天皇の和名ミマキイリヒコにちなんで
任那と名づけたというエピソードもその後に書いてある。
つまりミマキイリヒコとは、任那から入ってきた天皇という意味ではないだろうか。
693名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 05:31:27 ID:Y/ioKxsB0
狗奴国の位置については、邪馬台国大和説を前提とした場合、
濃尾勢の東海西部地域を想定する考古学者が多いようだ。

古墳時代前期に東日本において前方後方墳が広く分布して
いることから、東日本一帯に前方後方墳祭祀を共有し、
西日本の邪馬台国中心の倭国(前方後円墳祭祀を共有)と対立する、
もうひとつの政治連合体を想定し、その中枢を狗奴国としている。
男王卑弥弓呼は連合体の盟主だな。

東日本のなかでも特に濃尾勢地域といわれるのは、前方後方墳の祖形
である前方後方型墳丘墓(廻間遺跡、西上免遺跡など)が愛知県西部
に存在するため。前方後方墳はこの地域を中心に出現し東日本一帯に
広がったと考えられている。

ただ問題点として、倭国と戦争していた狗奴国が東海西部に
あったとすると、邪馬台国すなわち纒向遺跡への
大量の東海系土器の搬入すなわち東海からの人の流入を
どう捉えるべきかということがある。
694名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 05:33:50 ID:Y/ioKxsB0
(続き)

これについては、卑弥呼は狗奴国の男王と「素より和せず」とあるけれど、
実のところ対立に至る前は狗奴国も卑弥呼に属す倭国の構成員であり
しかも主要メンバーだったのではないかと考えることもできる。
近畿の庄内式土器(3世紀初頭に出現)に先行する畿内第五様式の甕
が東海地域において出土する、つまり近畿から東海への人の流れが
あったことも参考になるかも。

残る問題として、「狗奴」に比定される地名が濃尾勢に存在するか
ということがあるけど…


桑名(久波奈)とか?
695名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 06:27:43 ID:8oJM+Jg00
>>654
純粋に考古学的証拠なら、九州が圧倒的でしょ。卑弥子の時代に中国から貰った
文物ならば、魏および後漢のもので無ければ時代と合わない。前漢でもイーよ。
で、近畿は、九州に比べて、それらの出土物がショボ過ぎるのよ。但し、墓の
規模は、巨大だから、ここにパワフルな勢力が卑弥子の時代と前後して存在した
事は、九州説もみんな認めてるの。論敵を、いちいち右翼とか左翼とかウザイ
攻撃するな。遺跡が大きいから卑弥子とか、そんなの駄目。巻向の出土物が
魏と後漢時代に合わなければ。でも鏡も国産品とバレたでしょ。おまけに出ては
ならない馬具が出たでしょ。後から挿入したとか。これで説得される人は信仰
レベルだつーの。
696名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 06:30:42 ID:m+yErhYQ0
狗奴国=クマソでいいんだよ。
内藤湖南説でいいの。
地図を横転させる必要はないの。
すべてを「一カ所も訂正せずに」読もうとすると、九州説みたいな
たちの悪い推理小説になっちゃうの。
>>654が明らかに正しい。
697名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 06:51:29 ID:2pli+yo/P
>>695
>卑弥子の時代に中国から貰った
>文物ならば、魏および後漢のもので無ければ時代と合わない。

卑弥呼が貰った…となると常に論争の種になる鏡と言うことになるだろうが
元々確実に魏の時代と分かる出土例は極めて少ない。

(魏自体が短命であったこと、また薄葬が徹底していたこと
 三国志の英雄、曹操の墓も分からないw)

で、その数少ない出土例のを見ても九州説連中の一押し
内行花紋やTLVは出ておらず
実は神獣鏡は出ているw(三角〜ではないが)

三角が国産だとてそれで年代が自動的に3世紀から外れるわけでもなし
まして魏鏡か和鏡かはケリがついていないのが現状。

2ちゃんレベルの九州説の連中のタチの悪さは
国内外を問わず国産説を唱える学者の説を出して
さも年代も4世紀以降と言う説が多いように印象操作するところw

ちなみに三角縁を国産と唱えた国内の考古学者で
一番のビッグネームであろう森浩一は

 「箸墓は卑弥呼かトヨの墓」

とか言っちゃってるw
698名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 07:11:56 ID:hCYyTu4f0
>1
この断定口調は
「バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う」
に、似ていて微笑ましい……
699名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 07:35:46 ID:tfft+JypO
>>691
「王」を「斎王」とみるなら、「男王」はオオタタネコかもしれない

>>692
漢風諡号はもっと素直に見ればいい。「崇神」は神を祭っているから。
700名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 08:03:25 ID:ACUYDqtQO
森浩一といえば、韓国の連なった円墳を
「一目見てこれは前方後円墳に間違いないと確信した」と、やらかしてたな
701名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 08:11:58 ID:Qf/sjYKl0
まるぼしの邪馬台国

干乾の女王卑弥呼
702名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:28:37 ID:bQKw7T240
>>692
そんなわけがない。
それは、戦後の学者のもうトンデモ説だ。

崇神天皇のミマキイリヒコのミマキ=三巻 のこと。
三輪山の三輪の由来をみてみろ。
日本書紀にそういう記述がある。

崇神天皇が、天照と大物主の祟りを恐れたのは
彼の家系がニニギ命の家系だったから。
欠史八代の頃は、ニニギ命の兄とされる火明命の子孫たちが
倭の正統な王だったのだろう。
欠史八代の頃の天皇たちは、実際の政治を行っても祭祀は継承していなかった。
703名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:32:01 ID:bQKw7T240
>>691
普通に、豊鍬入姫命がトヨだと思うけど
まあ、中国側の勝手な解釈だからね、トヨによって治まったというのは。
704名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:35:31 ID:y7vyBiRv0
>>692
>崇神天皇の和名ミマキイリヒコにちなんで
>任那と名づけたというエピソードもその後に書いてある。

どこにそんなことが書いてあった?

705名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:51:36 ID:8oJM+Jg00
>>702
ニニギはアマテルの家系じゃなかったの?アマテルの子孫と高木の子孫の
間に産まれた子でしょ。
崇神天皇がニニギ系なら、同じ血統のアマテルの霊をなんでウザイと敬遠した
のかなあ。
706名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:52:58 ID:3IsTG2oT0
古代日本史的には邪馬台国の所在や歴史上の位置づけを言い始めると
議論が終わらないので傍に置いている。

学会では同時期、畿内に巨大な都跡から全国各地の品が出土されている状況から
初期大和政権がすでに確立していたと言うのが主流、と言うかほぼ確定。
707名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 11:59:39 ID:eWlApKNv0
こないだテレビで徳島だって言ってたからそう思ってたのに
708名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:09:46 ID:8oJM+Jg00
九州の伊都国や邪馬台国と近畿の proto-Yamato は、イギリスとアメリカみたいな
関係じゃないかな。本家よりも分家の方がパワフルになった。本家の王家には
イパーイ大陸の血が流れているけど、近畿の分家の方では、ンなもん、知った事かって
態度。
709名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:11:29 ID:bqhmo8IOO
電波スレたのすぃー
710名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:12:26 ID:RbjrLv9K0
お前らもっと九州説を支援してくれよ
このままいくとこの国の起源が関西だったってことになってしまう
悔しくないのか?東京の人たちはこのままでいいのか?
711名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:13:58 ID:bQKw7T240
>>704
古事記に書いてあるだろう?
崇神紀の終わりのほうの年代。
712名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:15:54 ID:SyhbBTLoO
もう韓国起源でいいよ
713名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:16:09 ID:bQKw7T240
>>708
その可能性はない。
伊都国って、建国年代が新しい。
もともと、あのあたりは奴国だけだったのを
邪馬台国(大和国)が、奴国から切り取って
直轄地として切り取った天領みたいな土地だろう?
だから、あそこに一大率を設置した。
714名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:18:21 ID:ziobO66YO
今時、吉野ヶ里が邪馬台国とか言ってたら恥ずかしい
遺跡そのものはすごいと思うけどね。
715名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:20:39 ID:bQKw7T240
>>705
崇神天皇は、天照(アマテラス?)の祟りを恐れたとある。
それ由来の神社はあるんだけど、
なぜか、そこの主宰神は、天照国照彦火明命になっている。
つまり、アマテラスではなく、アマテルのほう。

ちなみに、アマテラスという女神を祭りだしたのは、天武天皇から
という説があるが、
それ以前は、女神ではなく、男神のアマテルを祭っていて
それが、この火明命だったと考えられる。

天武天皇は、晩年、尾張氏とけんかしていたしねw
716名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:21:10 ID:Y/ioKxsB0
>>695
>卑弥子の時代に中国から貰った文物ならば、
>魏および後漢のもので無ければ時代と合わない

纒向から10キロ北にある東大寺山古墳出土の「中平」年号銘の大刀は?
中平(184〜189)だったら、卑弥呼が共立されたとされる(梁書だけど)
時期にも合うよ。
717名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:23:16 ID:d7RngiPpO
天空の国邪馬台国
718名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:29:05 ID:wBx72CwBO
霊能者を集めてどっちなのか霊視させればいい
719名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:29:12 ID:bQKw7T240
鏡作坐天照御魂神社(鏡作神社)

祭神 天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命

由緒  「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
 第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内に
お祀りすることは畏れ多いとして、
まず倭の笠縫邑におし祀り(伊勢神宮の起源)、
更に別の鏡をおつくりになった。
社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において
日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。
今の内侍所の神鏡是なり。
本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として
祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、
ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。
 古代から江戸時代にかけて、このあたりは鏡作師が住み、
鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、
鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。

http://genbu.net/data/yamato/kagami1_title.htm
720名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:35:42 ID:S4qKqRR30
>>708
てゆうか西ローマと東ローマの関係。

四分裂してみたり、最後は滅んだ西の領域を東が回復しようとしたり。
東ローマなんか征服したはずのギリシャ土着人に文化的に飲み込まれた。
721名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:38:01 ID:DxKGDFwB0
>>718
邪馬台国発見―FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルのサイキック考古学
722名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:39:01 ID:bQKw7T240
伊都国みたいな、あんな小さな地域で
どうやって、東征して、畿内に王朝をつくるんだ?
ありえないだろうw
723名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:45:20 ID:GPyrKpVOO

63 出土地不明 2008/02/13(水) 00:02:56 ID:LsNPikMB

ジョー・マクモニーグルが邪馬台国と卑弥呼を透視!!
http://www.gakken.co.jp/mu/mumagazine.html

ついに明らかになる邪馬台国論争の真実。
超能力捜査官ジョー・マクモニーグルが透視。

卑弥呼は雲南省昆明からベトナム、台湾を経由して沖縄からやって来て
西日本から朝鮮半島南部までを治めた海洋民の出自。
卑弥呼のサイキック能力を畏怖した他の首長達から乞われて、連合国家の王として祀り上げられる。
卑弥呼は奈良県鳥見山に於いて、自分の部族と他の部族達を統治した。
山口県の安徳天皇陵(前方後円墳)が卑弥呼の墳墓。
大和の箸墓古墳が作られたのは、それよりもさらに過去(卑弥呼の時代よりも)に遡る。

「ムー」2008年3月号より抜粋
724名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:46:52 ID:bQKw7T240
>>723
ジョー・マクモニーグルは予習が足りなかったなw
別の欧米人の霊能者は、ちゃんと予習していたから
今の奈良県と答えていたよw
725名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:50:16 ID:tfft+JypO
河内には読みが2つある。「カワチ」と「コウチ」だ。
でね、河内国の上流にかつて許乃国(コノクニ)があった。応神天皇のころ宇治に改名された。
河内が「コウチ」なら「コ」は川なわけだが、すると、コノクニの「コ」は川か。
宇治は木津川宇治川桂川の合流点。「川の国」だ。古代から内陸水運の要所だ。
726名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 12:54:56 ID:VxFby/a2O
また、韓国が空気読まずに、邪馬台国の期限は韓国ニダ!!とか言いそうだ
727名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:08:29 ID:8oJM+Jg00
>>722
伊都国を馬鹿にするな。
前漢・後漢の遺物が日本最多、出土するお。遺跡の規模は近畿の唐古鍵遺跡な
どとは比較にならない大きさだお。近畿は、元気一杯、ドンガラガッカ巨大な
墓を作りまくったゼネコン王朝。でも中身は、伊都国の出土物に比べたら、
ショボイお。
728名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:09:44 ID:2N+VP0sW0
南朝の末裔が岡山に今もいるよねえ。
こっちが本物で今の天皇の血は怪しい。
729名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:12:32 ID:bQKw7T240
>>727
だから、伊都国は玄関口だったといっているだろうがw
730名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:21:03 ID:FJNc/Iru0
邪馬台国は、海底に眠る戦艦大和でいいよ。
日本人なら誰も反対しないだろ。
731名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:28:27 ID:bQKw7T240
>>728
あれは南朝じゃなくて、承久の乱の頃に別れた皇族の子孫だろう?
たしか、頼仁親王だったか?の子孫だったと思う。
732名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:29:46 ID:8xrUM6Gm0
>>703
> まあ、中国側の勝手な解釈だからね、トヨによって治まったというのは。

逆に、記紀でトヨの記述が押えられているのは、
当時の中国的価値観に影響されているからなのでは?
733名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:34:16 ID:8xrUM6Gm0
>>706
> 学会では同時期、畿内に巨大な都跡から全国各地の品が出土されている状況から

この辺はまだ議論の余地がある段階。
大型前方後円墳が最大の理由。富の集中がないと無理だから。
734名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:36:33 ID:8oJM+Jg00
>>716
「中平」年号銘太刀一個じゃショボイお。鏡とか、ばんばん出て欲しいお。
三角はダメだお。
735名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:49:13 ID:8oJM+Jg00
>>720
西ローマと東ローマのたとえ、素敵!
も一回、西洋史おさらいしよっと。
西ローマも広いが、東ローマも広いからね。バルカン半島の土人も皇帝に
成ってる。でも文明的にはギリシャに圧倒されギリシャ人に併呑された。
これが日本の隣のXXX半島出自の土人酋長と長江文明との関係を彷彿させんだわ。
736名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:55:44 ID:JpvzYhn00
伊都国は後の太宰府のルーツなのかな
大陸との貿易だけでなく対熊襲戦でも重要だったんだろうな
737名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 13:56:06 ID:3IsTG2oT0
SPQRと古代日本を例える男の人って
738名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:20:11 ID:f2lD/cJS0
ヤマト王権で日本を平定したのは誰だろう?
卑弥呼が鬼道でやったわけでもないだろうし、ヤマトタケルが本当に東奔西走して
平定したとも思えない。
神武天皇が東征してきたとき大和の地にはナガスネヒコがいて
激戦の末ようやく大和に入ったと神話は綴る。
しかし日本全国に武力の神として祭られ、圧倒的な数を誇るのは応神天皇を祭る八幡神社。
神武=応神で、ヤマトとヤハタはイコールか?

神話と歴史が混ざる話ではあるが、日本で国を譲った人といえば大国主。
その名のとおりまさに「国主」であり、三輪山の大物主と同一視される神だ。
大物主はヘビの化身で、ヘビといえばインドから東南アジアで
ナーガと呼ばれる大蛇の神。
神武と戦ったのはナガスネヒコでナーガを連想させるこの武将が
大国主の一派であることを想像させる。

大和で国づくりをしたのは大国主で、
大和を奪い武力で平定したのは九州から来た応神か?
739名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:27:11 ID:TFT26T3nO
八幡神社は源氏の信仰を集めて、源氏=武士の氏神として鎌倉以降に各地に作られただけで、
古代の勢力図と八幡神社の分布は一致しないのだけどね。
740名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:35:09 ID:JB68FkIG0
中国の学者の統一意見として
邪馬台国=大和朝廷だって言ってるね。
邪馬台国の読み方はヤマタイコクじゃなくて
ヤマトコクだと中国の学者も言ってる。
741名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:37:23 ID:f2lD/cJS0
>>739
しかしながら天皇がそのまま神として祭られてるのは
応神天皇しかいないのでは?
これも謎。
742名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:37:41 ID:/sA6PsNY0
いまだに九州説を押してるのって、
ちょっとおかしい人か、開発利権がらみだろ。
743名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:38:59 ID:CHdDOzr90
優木まおみが佐賀出身なんだから吉野ヶ里でいいだろ
だってかわいいし
744名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 14:51:42 ID:iTmUm72u0
でたぞ、神武=応人。
応人天皇は神武天皇にあやかっただけじゃないの。
神武天皇が九州から東征して、邪馬台国を作った。それでいいじゃん。
ナガスネヒコも九州から来たのかもしれない。
めでたし、めでたし、
745名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:04:37 ID:K/GYemOw0
>>710
別にいいよ。
関西=斜陽のイギリス
関東=新興のアメリカ
だから。
ただ、アメリカも今斜陽になりつつあるけど。
746名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:15:21 ID:FLPb6mzFO
誰か俺と一緒に花立山発掘しない?
747名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:30:41 ID:bQKw7T240
そもそも、神武天皇の曽祖父のニニギ命が
畿内の葛城(高天)の出身。
神武天皇の家系は、畿内王朝から送り込まれた日向知事の家系。
748名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:34:09 ID:bQKw7T240
ここで伊都国を神聖化している阿呆がいるがw
神武東征神話に伊都国など出てこない。
神武は日向から宇佐を通過し、博多湾のほうは
わずか1年ほど滞在しただけ。
そんな状態で、なぜ伊都国が畿内王朝の起源になるわけよw?
749名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:40:28 ID:jyn+3KPY0
新幹線利権の佐賀が調子づいてんのか。
邪馬台国が九州とかって、ばかじゃねw
750名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:44:21 ID:3IsTG2oT0
本拠地を遠い地に移す例なんて日本の歴史上でもまずお目にかからないのに
九州から攻め上りつつ征服した大和を根城にするなんてどうよ?

現代でも首都機能移転ですらは150km圏内で勘弁、とか腰砕けの答申だったしさ。
751名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 15:58:00 ID:iTmUm72u0
>>747は九州説論者よりたちが悪い。
>神武天皇の家系は、畿内王朝から送り込まれた日向知事の家系。
ニニギ命は高天原から日向国の高千穂峰への天孫降臨だろ。
自分の脳内でストーリーが固まって、嘘と本当の区別がつかなくなったんだな。
可哀そうな奴だ。

752名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 16:12:56 ID:eWlApKNv0
宇宙戦艦邪馬台
753名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 16:25:05 ID:f2lD/cJS0
>>750
もともとある都を奪った場合でしょうな。
だから東征があったにせよ、それ以前から大和には大規模な
首都があったってことでしょう。
754名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 16:31:23 ID:ily9qX/h0
国譲りも神武東征も畿内での勢力争いでしょ。
足利高氏みたいなもんだ。
755名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 17:10:37 ID:930tJgB80
もう結論は出てるじゃないか!!
ジョー・マクモニーグルによると邪馬台国には冬用の居城と夏用の居城があり、
卑弥呼は両者を行き来していた。
冬の居城は山口県下関市の安徳天皇陵付近。卑弥呼の墓もここにある(現地透視済)
兵馬俑のような陶器と一緒に埋葬されている。
夏の居城は奈良県桜井市付近で、おそらくここが首都であろうとの事。

卑弥呼は南方系の顔で今風の美人。目はパッチリ瞳の色はグレーでロシア人かコーカサス人に近く
肌は美白。木の棒にガラスビーズ玉をゆわえたカンザシをしていた。
儀礼で戦闘服を着ることがあったがフンドシスタイルで大変セクシー。
住居は高床式住居。年老いてもシワがなく若さを保ち73歳まで生きた。
最期は飯島愛と同じく肺炎で死去

江原や美輪に聞いても同じことを言うはずだ。
756名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 17:15:00 ID:JB68FkIG0
>>755
>もう結論は出てるじゃないか!!

ジョー・マクモニーグルが精神病院に入院するってことだろ。

757名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 17:15:44 ID:93EW/VBl0
>>751
というか、京都朝廷では
一応、幕末までは、高天原=葛城という認識だったんだけど。
民間では、様々な高天原伝承地が誕生したが
京都朝廷では、高天原=葛城だった、いちおうね。
延喜式でも、その前提で書かれている。

だから、奈良県御所市高天には、高天という地名が残っているし
高天彦神社という式内社もあったわけで。
金剛山のことは、河内からみたら、そういう名称だが
大和からみたら、あの山は高天山と言われていた。

また、記紀でも、神武天皇が再三、自分たちは天津の出自だといって
その天津は河内よりも東にあったという記述がある。
また、神武を畿内へ向かいいれた登場人物が
神武と親族だったというおまけつき。
758名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 17:18:16 ID:93EW/VBl0
>>754 :名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 16:31:23 ID:ily9qX/h0
>国譲りも神武東征も畿内での勢力争いでしょ。
>足利高氏みたいなもんだ。

これは、なかなか良い例え。
足利尊氏は東国の出身。
それが、畿内へ上洛し、畿内で政権を立てた。
でも、足利尊氏の先祖は清和天皇の畿内出身。
そういうことw
759名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 17:30:03 ID:930tJgB80
ジョー・マクモニーグルのスケッチを見ると卑弥呼は
鷲尾いさ子の若い頃に似てるね きれいだったんだな

http://tisen.jp/pukiwiki/index.php?%CF%C9%C8%F8%A4%A4%A4%B5%BB%D2
760名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 18:02:34 ID:tfft+JypO
>>741
天皇を祭神としているのは「神宮」で検索すればでてくるよ。
明治以降の新しいものだけじゃなく平安時代のものもある。
八幡宮はいつ応神天皇と神功皇后を祭神としたか、ということを検証しないと。
761名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 18:07:24 ID:93EW/VBl0
日本には様々な伝承があるが、それって
いつぐらいから伝承されたのか、検証しないとね。
たとえば、有名な徐福伝説って、あれは以外に新しいんだよ。
762名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 19:09:16 ID:mhn1gTSg0
今日の日経新聞に高松塚古墳のカビ大発生の調査報告に触れていたけど
あまりの内容に眩暈がした。
「アルコール消毒したのだが濃度が低くなると逆に栄養源になる可能性があるのが分かった」との事。
医療の世界では何十年も前からの常識、今頃何言ってんだ?
「それ」を防ぐには無水アルコールがいいが、壁が腐食するし塩素はもっとまずい
どうしても薬品使いたいなら、逆性石鹸しかないだろうに、これなら水が染み出て
濃度が薄くなっても(最初が高濃度なら)大丈夫。




763名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 19:26:30 ID:SgKnENFxO
文系脳だからしゃーない
764名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 19:56:09 ID:IP7NToRq0
考古学は理系。
邪馬台国がどうのというのは文系。考古学にとって有害無益だ。
765名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:00:04 ID:GPyrKpVOO
カビには次亜塩素酸ナトリウムでしょう。
766名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:02:07 ID:uhpDKs9l0
あとは、そろそろ謎の4世紀の謎にも触れる時期だろうな
神話が大よその展開なんだろうが、古墳発掘も重要な時期
3世紀の卑弥呼の時代の検証にも繋がるかと
三国志経由からだけでは分かり難いだろうしな

>>28
畿内説は謎の4世紀と関連がありそうな予感もする
邪馬台国は卑弥呼の頃は九州だが、その後に近畿に移動したとかな
そうなれば両方正しいともなる

その後に大陸からいわゆる大陸顔の騎馬族が来て(秦関連のとか)、中和していったとかな
その時に来たのが天照大神みたいなので描かれてさ
馬があれば東にも早く移動できるし、九州から近畿に拠点を動かすのもありえるだろうから

そうなると邪馬台国=大和朝廷とも言えるかも知れない
百済や任那の存在からも、倭は半島に領地を持ってたしな

この辺の古代史の謎はいい加減に氷解して欲しいもんだ
767名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:07:56 ID:jSobS08k0
>>766
>邪馬台国は卑弥呼の頃は九州だが、その後に近畿に移動したとかな

東遷説なら、よそでやってくれ。
768名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:13:30 ID:bQKw7T240
>>764
はあ?
考古学も文系の学問だよ。
769名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:16:29 ID:bQKw7T240
>>766
残念ながらw
そういう説は、もうトンデモ認定なんだよw

なぜなら、纏向遺跡の研究の成果で
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命だから、
これによって、日本書紀と古事記の年代が
大まかになってきて、それに当てはめていけば
邪馬台国が、ヤマト王朝の初期の頃の話って
繋がってきたわけだ。
770名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:18:39 ID:bQKw7T240
769 :日本@名無史さん:2009/03/30(月) 00:47:17
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
→その後、男王、倭国で大きな戦争がおこる

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
→翌年、崇神天皇、四道将軍を全国に派遣。
771婆 ◆HKZsYRUkck :2009/03/30(月) 20:30:24 ID:PPgPMBZU0
>>762
スレ違いですまんが、あれは巨大な金をかけて低温処理を
したばっかりに結露を招いてカビが繁殖した気がする。カビに
とっての好適条件を維持しながら除菌しても仕方がない。

てなわけで窒素充填。たいていの黒かびは好気性なんだから、
酸素がなきゃ増えられん。調査のときに外気を入れても、そのあと
孔を塞いで窒素で満たせば胞子も発芽できん。
772婆 ◆HKZsYRUkck :2009/03/30(月) 20:37:26 ID:PPgPMBZU0
>>769
だから驚天動地の「古代九州は畿内にあった!」説の出番なのだ。
これは考古学のみならず物理の学界においてもバカ呼ばわり
されている説だが、すべての史料を矛盾なく解釈するには
これしかない。
773名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 20:59:41 ID:Ly3JyHr50
邪馬台=大和=yamato(敢えて漢字を当てるなら山徒or山人)

熊襲とか隼人とかと同系統の命名法だと思う。
so/tso/toは部族名を表す接尾語(今でいう「族」)。

無論、邪馬台国が大和国であり、畿内にあったことは異論を挟む余地がない。
774名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 21:18:16 ID:0ZXhO77+0
出雲と吉備の連合国みたいなんだろ?
そこと九州が争っていたということか。
775婆 ◆HKZsYRUkck :2009/03/30(月) 21:38:02 ID:PPgPMBZU0
>>773
ヤマトタケルさんの時世の句が
「ヤマトは国のまほろばたたなづく…」
(夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久…)
だし、それはない気がする。

やっぱ、「ト」は「門」な気がするな。
776名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 21:55:07 ID:tfft+JypO
記紀と好太王碑を認めるだけで四世紀は謎じゃなくなるんだけどね。
777名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 21:55:58 ID:eNxmg2860
昔、上野動物園の飼育係のおっさんが、魏志倭人伝に思いのほか動物が出てくるので興味
を持ったとか。そこで最後に「馬なし」と書かれているのを見て「伝聞を元に書いたんだろうなあ」
って言っていたっけ。糞のニオイとか餌とか嘶きで馬の痕跡は消せないらしい。
馬がいたら当然貢物に加えられるので「馬はいない」って言ったんだろうなあ。
又他の人が言っていたことは、
そもそも「魏志」は高句麗に初めて勝っって領土を取った戦勝記念に魏の領土の大きさを
誇張するのに書いたらしい。
当然周辺国が遠くにあればあるほど魏の領土も広いからね。邪馬台国側も「すぐ近くにある」
印象を持たせたら攻めてこられる要素もあっただろうし。ちょっと遠目に書いといたんじゃないか。
しかし魏志倭人伝の伝わっていなかった飛鳥時代に日向(ひむか)と豊(とよ)の国が九州にある
のは何故だろうな。
「大和」って字は絶対に「やまと」って読めないからこの「大和」って字以外に「やまと」をあらわす字
が畿内にあったんだろうなあ。「大和」はあくまでも連合政権のスローガンだろうなあ。
778名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 21:59:35 ID:DUfF6L2E0
卑弥呼ってAVだろ
779名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:01:51 ID:64D27XMe0
遺跡なんかいくら探しても調べても邪馬台国かどうかは絶対わからない。
卑弥呼の墓を探し当てるしかないんだよな。

宇佐掘りてぇ。
780名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:19:40 ID:jSobS08k0
宇佐は渡来人が開拓した土地だから、絶対違うね。

781名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:25:29 ID:tfft+JypO
大和は奈良時代は「大倭」と表記。天平期に一時的に「大養徳」。
国名は好字二字表記とすることにしたので「倭」が「大倭」に。
782名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:27:09 ID:XYoojWK/0
ヤマトタケルが熊襲退治した時に熊襲から
名前を貰ってるよな。

なんでわざわざそんなエピソードを入れたんだろ。

九州の邪馬台国=熊襲を滅ぼしてヤマトの国名を
譲り受けた(奪った)と考えられないだろうか。
783名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:27:53 ID:0HmhsBlF0
専門の研究者でもないような人が必死だったりするんだよな、こういうのって。
784婆 ◆HKZsYRUkck :2009/03/30(月) 22:40:57 ID:PPgPMBZU0
>>782
今でも鹿児島には「クマソタケルは、よか男♪」みたいな
俗謡が残ってるらしいよな。
女装して酒席に潜り込んでくるような卑劣な敵なのに、
「わしを討つとは天晴れな若者じゃい。わはは」と笑える
度量が偉いと。

ある意味、「譲り受けた」と言ってもいいかも知れんけど、
やっぱり勝った側の記録だしなぁ。
785名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 22:57:54 ID:tfft+JypO
>>782
「ヤマトタケル」の「ヤマト」は、オウスノミコトが川上タケルの問いに「ヤマトオグナ」と名乗ったから。
自分は一番強いと思っていたから「タケル」を名乗っていたが、その自分を知恵を用い倒したことを誉め「タケル」を進呈した。
頭の良さも含めての勇者ってことなのでは。人々の上に立つ身なわけだし。
786名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:02:24 ID:kBri7X0K0
っ政略婚の気配しか感じないがなあ
モメたのかもしれないが
787名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:07:31 ID:KrRl78Lr0
「日本」ももともとヤマトの当て字
788名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:14:28 ID:zcpamzE8P
まあ全部作り話なんだけどな
789名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:25:23 ID:H+L6ywDd0
113 名前:名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2009/03/25(水) 16:11:01 ID:Pl1f0nMp0
ヤマトタケルといえば、熊襲征伐だが、これがへんな話なのだ。

熊襲とは大和朝廷に反抗した九州の勢力だ。
小碓命(ヲウスノミコト、後のヤマトタケル)は、
熊襲の王カワカミタケルを討つため、なんと女装して近づき、
すきを見て相手を殺すことに成功する。
その時カワカミタケルは小碓命の勇気をたたえて自分の名をおくり、
以後ヤマトタケルと名乗ることになるという話だ。

建国神話の英雄譚だから堂々と戦えばいいものを
女装するとは奇妙だし
そんなセコイ手で殺した相手から名をもらうというのも理解に苦しむ。

女装して近づいたとは、結婚したと解釈できないだろうか。
大和と熊襲は、政略結婚によって同盟関係となったのだ。
結婚なら名前をもらったというのもおかしくない。
後に朝廷の力が強くなると、熊襲を従えたように話を変えていったのではないか。

もうひとつの反抗勢力・隼人は奈良時代になも記録があるのに
熊襲の方は、この事件以降、歴史からまったく消えてしまう。
これは大和と熊襲が完全に一体化したということではないか。
なぜ一体化できたかといえば、もともと同族だったからだ。

神武天皇の東征に従わず、九州に残った連中もいただろう。それが熊襲ではないのか。
むしろ熊襲が本国で、神武軍は遠征軍だったかもしれない。
九州本国のバックアップがなければ、畿内を制圧するなど難しいだろう。
その後、大和の方が強くなり本国と対立、最終的に飲み込んでしまったのだ。

神武軍は敵を倒したとき、「久米歌」というのを歌う。
「みつみつし久米の子等が〜撃ちてしやまむ」といった内容。
彼らは自分たちを久米の子と呼んでいたのだ。久米とはクマではないのか。
790名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:32:28 ID:29d8zN2q0
>>710
東日本には、そんな中国に朝貢してた国とは
まったく関係ない巨大な王国があった事が
だんだん明らかになってきた。

いずれこっちの方が日本のルーツとして
重要になるだろう
791名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:33:43 ID:bQKw7T240
もう、トンデモのオンパレードだ。
纏向遺跡の研究の成果で、もはや
謎でも何でもなくなりつつあるのに。
記紀の信頼性も大きく高まるというものだ。
792名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:38:11 ID:mjDhoIIt0
短里説がもう少し信憑性を伴う事実が発見されれば、魏志倭人伝の表記どおり、
九州に卑弥呼の治める国があったと言えるんだろうけどな。

現状では近畿説は魏志倭人伝をデタラメか、都合の良い部分しか認めてないからな。
特に里数計は完全にシナ人の間違いで片付けてしまっているのは、ちといただけない。
793名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:40:59 ID:35JjY/AX0
>>777
馬は北から日本に入ってきて
東日本にはいたが、西日本にはいなかったんじゃね。
奈良時代に、東北からの馬の献上が多い。
794名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:42:51 ID:g6W+RuEX0
>>792
度量衡は国家運営の根幹をなすものだから、
同じ単位に二重の意味があるなどありえんのだよ。
795名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:43:49 ID:jSobS08k0
>>792

事実として、魏志倭人伝はデタラメだろ。

邪馬台国は沖縄にあったのか?
796名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:48:35 ID:/rFEbRA10
>>748
むしろ東へ向かうのに、なぜ福岡に1年もいたのか
とも言える
797名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:48:37 ID:GPyrKpVOO
>>794
歴史的に見ると普通にありますよ。
798名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:50:13 ID:jSobS08k0
>>796

神武は福岡には行きませんでしたよ?

勝手な想像はやめてね。
799名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:57:19 ID:Y/ioKxsB0
>>792
短里説は破綻してると上のほうでさんざん言われてるじゃん。
まともな反論もないし。

>現状では近畿説は魏志倭人伝をデタラメか、都合の良い部分しか認めてないからな

卑弥呼の共立、魏晋への朝貢にかかわる部分あたりは疑えないだろう。
800名無しさん@九周年:2009/03/30(月) 23:57:43 ID:EBAPHOwa0
7世紀に、裴世清が日本にやってくる。
竹斯(筑紫)上陸したあと、
「東して秦王国に至る。その人、華か夏かと同じ」
と書いている。華夏とは中国人のこと。

筑紫の東に中国人の住む秦王国というのがあったのか
801名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:00:13 ID:fad0jPzOO
岡水門ってどこにあるの?
802名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:00:28 ID:g6W+RuEX0
>>797
どこに?
803名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:01:58 ID:AQdLz77U0
>>21
高木彬光なら宇佐神宮が卑弥呼の神殿じゃなかったか。
21世紀初頭に宇佐神宮の秘密の箇所が
開かれるのでその時真偽が分かると書かれていたような。
結構説得力があったんで楽しみに待っているんだが。

まあそれは別として畿内説は東大派,九州説は京大派と
言われていたが,今の大勢はスレ読むと畿内派に傾いてるんだね。
804名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:02:21 ID:qZpMCK/20
畿内説が魏志倭人伝を無視している?
馬鹿も休み休みに言え!
そもそも、九州説も、魏志倭人伝の言うとおりだと、
整合性が取れないぞw

そもそも、魏志倭人伝に登場する地名や出来事
戸数などをみても、畿内説のほうがしっくりくる。

それになおかつ、考古学的資料でも畿内説が有利。
805名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:08:20 ID:mQisGLqT0
大きな遺跡を発掘する度に、ここが邪馬台国かと盛り上げるんだよ。
吉野ヶ里のときもそうだったろ。

学者は学問にだけまじめに打ち込んでると思ったら大間違い。
自己顕示欲満々で、取材が殺到することがうれしい。
その世界はその世界で、ステータスとか派閥とかが
入り込んでくるのはどこも一緒。
806名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:10:33 ID:fad0jPzOO
>>802
欧州
807名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:23:10 ID:0ggERrH40
>>806
欧州のどこ。
808名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:27:58 ID:K/CCXLZS0
>>189
岡山県久米郡がありましてな。

神武は吉備から軍勢を供与されて
主力は吉備兵なわけで・・・
809808:2009/03/31(火) 00:30:46 ID:K/CCXLZS0
間違えた
>>789
810名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:34:32 ID:fad0jPzOO
>>807
えー、この時間に調べるの面倒いな。
確かドイツだったかな?
旧ローマ領外は間違いないと思うけど、村一つ過ぎる度に重さの単位が違うとか、そんな感じ。
811名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:35:31 ID:qZpMCK/20
>>808
神武さんは吉備にも何年か滞在していたんですよね。
それにしても、なんで九州南部からやってきたような人に
吉備の人たちは親切に軍まで貸すのか?
しかも、畿内に入った時に、神武さんとは親戚筋にあたる人が
ずっと前から畿内にいて、わざわざ道案内もして...
で、神武さんが河内に上陸した時に
自分の先祖は河内よりも東のほうの出身といったり。

なんとなく、神武東征とは何だったとか読めてきますな。
812名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:36:32 ID:K/CCXLZS0
205 :名無しさん@九周年:2009/03/27(金) 11:47:34 ID:pHFWP+e50
「三国志」の中で「長里」と「短里」がどう使い分けられてるかは、
ここが分かりやすいと思う。

http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page009.html
邪馬台国(2)  1里の長さ−1
813名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:37:59 ID:PIel5/SI0
>>810
>旧ローマ領外は間違いないと思うけど

この時点でダメだろ。
同じ同盟国領域内で度量単位が違ってたら経済が崩壊するってことだよ。
814名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:42:32 ID:ruv1wYVo0
>>789
その説、大好き!もう邪馬台国は何処にの問題は、悪いけど、九州、近畿、
ドッチが好きかの問題として語らせてもらうわね。
その説の、もう一つ強い点は、前にも誰かがコメントしてたけど、魏志倭人伝
の行程通りに成る事ね。水行10日で有明海側に回って、そこから上陸して陸行
一ヶ月。九州中部の内陸部を横断したら、東側の西都原や日向の海岸に出られ
る。From the valley to the valley to the east coast の徒歩コース。アメ
リカのワゴン・トレイルみたいなロマンが有る。ジンムが東征してクメの兵士
らと共に歌う酒歌に「若い妻には柔らかい肉を上げて、歳くった妻には固い肉
を上げる」なんてヒドイのが有るでしょ。あれ、アメリカでも西部開拓史の中
で生まれたクレメンタインの歌に似てるんだ。オレの為に川へ水汲みに行った
愛しのクレメンタイン、冷たい水に落ちて死んじゃった、オレは別の若い女と
再婚したと言うニュアンスのケシカラン歌なんだよ。
ただ、なんで時計回りに伊都国から宇佐、日向へと舟で行かなかったのか謎な
んだけどね。アメリカの歴史でも、金持ちはStar of India の様な豪華巨大帆
船でサッサとカリフォルニアへ回ったのよ。貧乏人は歩いて西部へ行った。映画
では馬車に乗ってるけど、アメリカ人に聞いたら(在米)あれは例外だった、
本当は、馬車に積んでたのは貴重な食料、樽水、衣料、家財道具で、人間サマ
の方は、女子供も皆、テクテク歩いて峠を越え、谷間を歩いたんだと。日本だって
アメリカ人がやれた事を、やれなかった筈はない。
815名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:45:30 ID:fad0jPzOO
>>813
そもそもどういう形態の経済があったんですか?
近代的な貨幣経済があったとは思えないけど。
816名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:47:10 ID:PIel5/SI0
>>815

「旧ローマ領外」って自分でいってて、バカじゃないの?
817名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:49:50 ID:fad0jPzOO
>>816
どういう意味?
818名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 00:50:26 ID:K/CCXLZS0
>>762
高松塚古墳やキトラ古墳については、
現在の皇統の正当性に関るような
極めて微妙な情報が出てくる可能性があるので、
わざと劣化を早めている説
を雑誌で読んだ気がする。

天智系統と天武系統のせめぎあいの時期に当るとか・・・
819名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:00:29 ID:fad0jPzOO
もう寝てもいい?
てか寝る。
820名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:01:42 ID:yMljMsx4O
>>809
そういや久米歌というのがあったね。
マキムク研究と照らし合わせると、やっぱりちゃんとした伝承に基づいているんだろうと思うようになる。
欠史八代にしても、尾張氏との婚姻があるし。
ただ、記紀は皇室主体のものなので、皇室が絡まない事柄、吉備と出雲と筑紫の独自の動きはわからない。
魏志にある伊都国と一大率の成立は皇室絡みじゃなさそうだ。
821名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:08:05 ID:ugEkJ4mB0
吉野ヶ里が邪馬台国というのは無理があるし、当時最大規模でもなかった集落。
糸島半島にもっと大きなクニがあったはずで考古学者が調べてる。
そのイトのクニも邪馬台国ではない。なんらかの影響を与えた国家だったかもしれんが。
俺は福岡もんだが畿内説を押すね。
822名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:21:42 ID:yMljMsx4O
同じ規格で二重の度量衡というと、買い取りは大きい升で量り、売る時は小さい
升で量る不正が思い浮かぶんだが。
使い分けがあるってのはまずこれだね。
上の方で言いたいのは規格違いのことかな。実際領国によって規格が違うという
のはあった。秀吉による統一前の日本もね。
しかし、統一政権下でバラバラのままにするのは正統の問題があるからしないん
じゃないかな。
魏志は統一した晋で書かれたものだ。
823名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:26:08 ID:K/CCXLZS0
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page009.html
邪馬台国(2)  1里の長さ−1

「蜀志」・・・・長里
「魏志」前半・・長里
「魏志」後半・・短里
「呉志」・・・・長里?
824名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:30:40 ID:Z6LCeDYl0
卑弥呼の時代は九州にあり、トヨの時代に大和へ移ったのではないか。
と考えてた俺は奈良人。

でも最近は、巻向で、卑弥呼を共立したのかも、と思う。

少なくとも、たとえ九州にあったとしても、吉野ヶ里でないと思うな。
専門家は誰も吉野ヶ里なんていわないし、九州なら別のところらしい。
吉野ヶ里は、騒がれただけ、いや、保存されるきっかけになったのは
いいことだとは思うが、保存されたから邪馬台国、ということとは違う。
825名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:40:17 ID:hiamzB9i0
>>794
>同じ単位に二重の意味があるなどありえんのだよ。

それ、ただの思い込み「マイル」一つとってもアメリカ合衆国内ですら
4種類の違いがある、つまり4重の意味合いがある
あとガロン、イギリスとアメリカでは意味合いが違うが
アメリカではガソリンはアメリカガロン使うがスコッチはイギリスのガロン使ったり
して、ごっちゃごちゃ。
その反省から度量衡の考えが出てきたのであって(リットル、グラム、メートル)
、歴史的にはそれはごく最近の話


826名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:41:16 ID:VZX7oFZe0
普通に考えて有史で大和朝廷がずっと奈良あたりでうろうろしてたんだから
畿内に決まってるじゃん
827名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:44:33 ID:fad0jPzOO
寝ようと思った矢先に一つ思い出したので、これを貼っておきますよ。
http://tokyo.atso-net.jp/moby.php?mode=show&UID=1224945613

そういえば東大寺も再建前と後で尺度が変わってるそうですね。
828名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:45:34 ID:pllumIBaO
まだやってんのかww
どっちでもいいよもうww
829名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:55:07 ID:K/CCXLZS0
>825 :名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:40:17 ID:hiamzB9i0
>>>794
>>同じ単位に二重の意味があるなどありえんのだよ。
>
>それ、ただの思い込み


この人は「短里は無かった」説だが
西晋の頃に単位が適当なので修正された話を書いてる。
http://kitsunekonkon.blog38.fc2.com/blog-entry-1836.html
幻想の短里説
830名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:55:11 ID:ViiDLUOT0
勾玉と銅鏡と剣をそれぞれの宝としている部族の連立政権なんだな。大和政権って。
だからそれらを共有財産として認知したのが3種の神器。つまり連立政権の象徴。
剣が出雲。銅鏡は邪馬台国。勾玉は奴国。
831名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 01:57:08 ID:18C5Gmd9O
>>789
これは初めて見た
おもしろいな
832名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:01:40 ID:K/CCXLZS0
>>830

http://haichaolu2008.blog71.fc2.com/blog-entry-247.html
前原市平原歴史公園
>平原(ひらばる)弥生古墳は今から1800年前、弥生式文化の末期に埋葬された古墳で、
>カメ棺からは三種の神器が出土し、日本国家の起源と言われています
833名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:09:12 ID:qZpMCK/20
>>832
纏向遺跡の件でその可能性はなくなった。
そもそも、三種の神器みたいなこと、
各地の豪族がいろいろやっていたらしいじゃん。
皇室だけじゃない。

卑弥呼はヤマトトトヒモモソ媛命だったら、
少なくとも紀元前1世紀が天忍穂耳命の時代。
834名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:13:37 ID:T1RS3i1t0
>>782
タケミナカタとかタケミカズチとか
タケって強いんだねぇ。

タケがつくと強いのか。
835名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:18:56 ID:rpuqiReJO
各候補地が邪馬台国として調査されるのも何か微妙な話だよなぁ。
こんな状況で客観的な調査ができるのかね?
マキムクは邪馬台国云々を外しても、この国の始まりの地には違いないわけで・・
三輪山や山の辺の道をもっとアピールすればいいのにと思う。
日本人なら伊勢神宮と大神神社には一度は行きたいものだよ。
836名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:20:28 ID:T1RS3i1t0
>>811
王位継承問題か。
英仏の100年戦争みたいな。w
837名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:35:34 ID:3dDoi08O0
纏向遺跡の最盛期は3世紀後半から4世紀ってことらしいし、
3世紀前半の遺構は今のところ少数。
しかし、遺跡は非常に大規模で特に祭祀用の品々が目立つ。
神話・伝承もこの地との整合性を結構持っている。

…そのあたりをふまえて、九州にあった邪馬台国が、卑弥呼の死後
その中心地を移した可能性もありそうな気はするんだがな。

つまり卑弥呼の時代にはすでに畿内(の一角)も邪馬台国の
一部だったわけだ。それなら魏志倭人伝の九州北部に近い地名や
旅程なども結構説明つくだろう。また7万戸も九州と畿内、四国あたりも
含めれば、十分辻褄が合う数だ。
838名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:51:56 ID:Z6LCeDYl0
>>837
>つまり卑弥呼の時代にはすでに畿内(の一角)も邪馬台国の
一部だったわけだ。

いや、邪馬台国は、あくまで「女王の都する所」であって、女王の力の
及ぶ範囲とは違う。
女王に属する国は、もっと範囲が広い。

「女王の都するところ=邪馬台国」であれば、
「女王に属する国」の中で、都を九州から近畿へ遷都したか。
839名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 02:55:52 ID:bpQSatA30
>>837
3世紀の九州の土器(西新式)はほとんど畿内へ流入していない。
逆に同時期の畿内の土器(庄内式)は大量に九州で見つかる。
土器の移動=人の移動だから、九州からの東遷というのは
考古学的にはまったく裏付けることができない。残念ながら。
840名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 03:08:12 ID:ruv1wYVo0
>>835
>日本人なら伊勢神宮と大神神社には一度は行きたいものよ。
ハーフの娘と金髪のボーイフレンドが日本へ一年留学した時、親として言った
んだわ、あんたち、日本へ行った以上は、必ず伊勢神宮へお参りしなさいと。
二人は新幹線に乗って名古屋で降りて、器械出しのカップラーメン食べて、
近鉄に乗って、バスに乗って、はるばるお伊勢参りへ。行ってみたら神宮は塀
の向こう側で屋根しか見えなかった。中へは入れてもらえなかった。仕方ない
から商店街で、何故かフクロウのお手玉みたいな可愛い詰め物を買って送って
来たよ。私が卒業旅行した頃は、伊勢神宮は中庭まで自由に入れたのに。。。
841名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 03:28:30 ID:T1RS3i1t0
卑弥呼を共立した後にマキムクに定まったのか、
トヨ共立の後にマキムクニ定まったのか。
この辺だな。
卑弥呼とトヨの間で遷都があったとは書いて無いけどね。

ただ、ヤマトの連中はコロコロ都の位置を変更するからね。


周の東遷とかヤバクなると都を移す事は良くある。
倭大乱とか卑弥呼の死後の乱とか拠点変更のタイミングは何回かあるね。
842名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 04:05:54 ID:ruv1wYVo0
>>839
3世紀に近畿発祥の庄内式土器が大量に九州で発見されるって事は、九州に近畿
の情報が大量に入って来てたって事だわね。ジンムは出発前に充分、近畿の情報
持ってたって事ね。でないと、大軍率いて国盗り遠征なんか出来ないもん。
ヤマトを盗ったつっても地元の娘と政略結婚したり、文化的にはヤマトに呑み
込まれて、ドッチがドッチを盗ったのか分かんないけど。
843名無しさん@九周年:2009/03/31(火) 04:11:55 ID:TpRMG4CFO
知らない方がロマンなんだがな
844名無しさん@九周年
卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛命の可能性が高まったんだから
日本書紀の崇神紀のあたりを読んでみい。

http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html#chapter5