1 :
天之御名無主:
来年にむけて日本人なら語るべき、
おーじんじおーじんじおーじん
応神天皇霊とされる様になったのは平安時代からですが、『枕草子』の中でも、
昔の帝という事で特別扱いされていますね。
平安時代初期には、奈良時代に同大菩薩をお迎えした聖武天皇霊とする考え方が
まず成立していました。
死後神となられたのではなく、菩薩が人として出て来られたという事で、『日本
霊異記』の末尾を飾る説話に発想が近い。
始まりは、北の鹿島・香取同様、辺境を守護する武神であった様です。
↑来ましたか、もっと聞かせて山野さん。
そもそもなんで応神天皇が武神なわけよ?
香椎廟(元々神社では無く、山陵扱い)に祀られていた、神功皇后繋がりでしょう。
「辺土」という言葉からは、対隼人戦ばかりでなく、対新羅戦も意識されます。
奈良時代以降、新羅との関係が悪化した時には、八幡大菩薩や香椎廟に朝廷から報告
がもたらされました。守護を祈っての事です。
院政期になると、大宰府では天満天神と並んで崇敬の対象となりました。
とりわけ二度も大宰権師となった大江匡房は、かつて仕えていた後三条天皇を応神天
皇同様、八幡神の化身とし、その本地は阿弥陀如来であるとして、理論上は本地を観
音としていた熊野・伊勢の上位に位置づけています。
この他、859年には京都にも八幡大菩薩宮(石清水八幡宮)が出来ています。
鰯という下等な魚が好きであったのを夫にとがめられた紫式部が、「鰯」と「石清水」をか
けた歌を詠み、冗談交じりに正当性を主張したという話は有名。
後に源頼信が氏神として信仰する様になると、武神としての性格が強調される様にな
りますが、織田信長も無神論者などではなく、八幡を厚く信仰していました。
スレタイトルに「明神」とありますので、ついでに「大明神」のお話でも。
「大明神」とは、元々『悲華経』にある用語で、釈迦が涅槃に入られた後、「大明神」
として衆生を救済されるという概念に基づいたものであって、単に神を明神・
名神と呼んだものとは、区別される様です。名神は名神大社の「ミョウ」。
「権現」も「仮に現れたもの」という意味で、共に背景には仏教がありました。
豊国大明神も、東照大権現も、家康や秀吉の霊を死後祀ったというだけではなく、
建前上は彼らを仏の化身として、その後に神として現れたとしたものです。
鎌倉時代以降、死者や動物の霊を神として祀る例も出て来ますが、これらは本地
を持たない「実社神」であって、本地のある「権社神」とは区別されました。
仏家からすれば、当然崇めるべきは権社神という事になります。
死者の霊を、単に死者の霊として、功績を称える為だけに神社に祀る様になるの
は、近世からじゃありませんかね・・・。
今はひっくるめて「神」扱いですが、日本人の発想が汎神論的なものばかりになっ
たのは、そう古い事では無いと思いますよ。「一文不通」の階層はともかく。
追加:「明神」と「大明神」の混在した、『古事談』の様な例もあります。
こちらはあまり厳密性に拘らなくても良いかもしれません。
山野氏のおかげで、わずか8レスで必要十分な内容になってしまったw
はやくもこのスレ終了か?
ところで、 「はちまん」 「やは[わ]た」 どういうつかいわけなのかねえ?
音読みか訓読みかですが、「広幡の八幡大神」と呼ばれた武神の名称の起
源は、法会に掲げられた幡説もあるものの、唐代の軍制の「八幡四鉾制」
に因んでいるという説が面白いですよ。
それなら、「八幡大神」の歴史は、そう古いものでは無かったという事に
なりますが。少なくとも応神天皇霊は後付けですし。
もっとも、今はやはた=地名だと思いますけどね。『信長公記』にも、織
田信長が長篠の合戦の前に、「やはたの八幡宮」が荒廃しているのを目に
して、わざわざ修築させたという話がありますが、これも地名でしょう。
わらべ歌にもよく、「八つ八幡の八幡様」とある。
中世の起請文には梵天・帝釈以下5〜6柱の仏神が挙げられたもので、
近世には「八幡断じて」などという様に、以下の文の断定や強調を表し
ていました。
私がこれまで見た中では、一番仏神の数が多かったのが島津が前田・徳
川に提出した約100柱ですが、信長の場合、朝倉義景との間に起請文
を交わしていても、「八幡も御照覧あれ」としか書いていません。
近世の史料でも言われていた事ですが、宣教師が伝えた様な無神論者と
いうよりは、方向性の限定された強烈な信者であった様です。
ところで日本最初に八幡様が降りられたとされる九州の宇佐では
八つの神像が本殿には祀られてると聞きますがその八つの神様は
どなたなのでしょうか?
15 :
天之御名無主:04/12/25 04:02:53
当方アマチュア(素人)ですが、
内田康夫の「はちまん」という小説(ミステリー)で
「八幡は廃仏毀釈の過程で神道側に利用された」という内容の
かなり学問的な記述がありました。
けっこうきな臭い神様では。
そういうのコミでの議論なら興味あるなー。
>15
詳細きぼんぬ。
八幡大菩薩っつーくらいだから、神仏混交のマージナルなキャラではあるんだろうが・・・。
とすると、おなじ権現系の蔵王権現なんぞはどうなんだ?とか思ってみたり。
八幡神(ヤワタノカミ)=ヤハヴェ(エホバ)である、と言ってみるテスト。
本棚に本がない!
古本屋探してきます。
「神仏習合の過程で目障りな神か仏か判別できないホトケは
みんな『八幡』に押し込めた」という話でした。
その「押し込める対象」として都合の良かったのが、八幡だった。
(イマイチ実体がはっきりしないから利用しやすい)、
という話だったはずですが。
記憶がやや不確か。
あまり政治的な話はスレ違いだとは思うけど、
八幡大菩薩と廃仏稀釈の話は民俗神話板でもアリですかね?
ええと。ちゃんと調べてまた正確に書きますので。
民俗と政治は切り離せない、と言ってみるテスト。
八幡大菩薩と廃仏稀釈の話は民俗神話板でもアリ、と言ってみるテスト。
久々、使ったよ、「と言ってみるテスト」。
>八幡大菩薩
「菩薩」号では、一番古いですからね。『続日本紀』にまで遡れる。
大江匡房の『箱崎宮記』の時代には、本地は阿弥陀三尊であるとして、以下
の様な話が伝わっています。
昔。新羅国が、我が国を攻めようとした事があった。しかし我が国を護る神
々が邪魔であったので、「十地の菩薩を本地としているのなら」と、十地の菩
薩を呪縛する誓いのある不動咒を使う事とした。
一人の童子を高楼の上で修行させ、七十になるまで行わせたので、霊験は計
り知れないほどになった。
かくして、童子改め老僧は日本へ渡来し、次々と神々を捕え、瓶の中に封じ
こめていった。熱田の明神は剣の姿となって逃れでようとなさったが、袈裟
で絡め獲られてしまった。
しかし、宇佐宮は不動咒にも動ぜられる事は無く、とうとう備後国において、
老僧を蹴殺してしまわれた。神々は、瓶の中から飛び出して来られた。
これで知る事が出来る宇佐宮の本地が、十地の如来であって、他に卓越した
存在であるという事が。
匡房の八幡信仰は、かなり強烈なもので、後任者の藤原季仲が箱崎宮と問題
を起こした時には、「八幡の伯母である」として、謀反相当の罪であると主張
し、周防(後に常陸)まで流罪にしています。
>その「押し込める対象」として都合の良かったのが、八幡だった。
元々、怨霊を鎮めるために勧請され易かったのが八幡。怨霊を「若宮」とし
て祀り、鎮撫される事が多かった様です。それでやたら数が多い。
八幡・北野は仏教との関りが強かったせいもあるでしょうが。
追記:上の新羅国の僧侶が、「道行」であった事、言うまでもありません。
空海と守敏、染殿后と(生前不動咒を行っていた)紺青鬼の話とも繋がる。
ともに『今昔物語集』にある話で、前者は歌舞伎にもなっていて有名。
23 :
天之御名無主:05/01/21 21:13:39
宇佐神宮と応神天皇と神功皇后との結びつきが今一よくわからん。
一ではなくて百くらい。
24 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :05/01/21 21:59:39
奈良時代に藤原仲麻呂が新羅征伐の兵を動かそうとした事がありましたが、
その時、かつて新羅に出兵した神功皇后の霊を祀った香椎廟や宇佐の八幡
神に加護が祈られています。
そうした辺境防備の神・霊という経緯から、八幡神・比売神と応神天皇・
神功皇后を同一視する様になったのでしょう。
25 :
天之御名無主:05/02/08 19:41:25
>>1 道鏡法師、称徳天皇の心よせと成て国王と成らんとせし時、
清丸、八幡大菩薩に祈請せし時、
八幡の御託宣に云く「夫れ神に大小好悪有り、
乃至彼は衆く我は寡し。邪は強く正は弱し。
乃ち当に仏力の加護を仰て為めに皇緒を紹隆すべし」等云云。
当に知るべし、
八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給ひけるなり。
26 :
天之御名無主:05/02/08 19:43:42
>>1 本地は不妄語の経の釈迦仏、
迹には不妄語の八幡大菩薩なり。
八葉は八幡、中台は教主釈尊なり。
四月八日寅の日に生まれ、
八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給ふ。
豈に教主の日本国に生まれ給ふに有らずや。
大隅の正八幡宮の石の文に云く
「昔し霊鷲山に在て妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云。
法華経に云く「今此三界」等云云。
又「常に霊鷲山に在り」等云云。
27 :
天之御名無主:05/02/08 19:48:09
>>1 今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給ひぬるか。
例せば秦の始皇の先祖嚢王と申せし王、
神となりて始皇等を守護し給ひし程に、
秦の始皇大慢をなして三皇五帝の墳典をやき、
三聖の孝経等を失ひしかば、
沛公と申す人剣をもつて大蛇を切り死ぬ。秦皇の氏神是なり。
其の後秦の代ほどなくほろび候ひぬ。
28 :
天之御名無主:05/02/08 19:49:41
安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。
平家ををごらせし失に、
伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失はれて、
其の後平家ほどなくほろび候ひぬ。
此れも又かくのごとし。
29 :
天之御名無主:2005/05/17(火) 12:06:43
age
30 :
天之御名無主:2005/07/06(水) 22:02:13
>>23 最初、宇佐には比売大神がいた。(比売大神は卑弥呼だと言う説もあり)
応神天皇とその母、神功皇后については神話が元に成っている。
宇佐八幡宮の伝説では、仏教が伝来した欽明天皇の時代(5世紀後半)、宇佐の地に不思議
な事件が起こったといわれている。今は宇佐八幡の境内にある菱形池のほとりに、鍛冶師の
翁(おきな)や八つの頭の龍が現れ、その姿を見た者は病気になったり、死んでしまったりした。
この翁やオロチの祟りを鎮めようと、修行者が断食して祈ると、鍛冶師の翁が子どもの姿で現れ、
「我は誉田天皇(こんだのすめらみこと)広幡八幡麻呂(ひろはたやはたまろ)、名は護国霊験(ごこ
くれいげん)威力神通(いりょくじんつう)大自在菩薩(だいじざいぼさつ)なり」と告げたという。
誉田天皇とは、倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇のこと。
http://blog.goo.ne.jp/takahashikun_goo/e/d8c7b5697592aab809c91893fcad3e23
31 :
天之御名無主:2005/07/07(木) 19:10:13
32 :
天之御名無主:2005/07/11(月) 11:29:49
八幡(ヤハタ)神・・・・・ヤハヴェ(エホバ)、唯一神
神功皇后・・・マリア(処女受胎神話あり)、聖母
応神天皇・・・キリスト(マリアの子)、神の御子 (天皇はキリストの子孫)
この三位を一体にして祀っている場所が宇佐八幡宮だろ?
33 :
天之御名無主:2005/07/11(月) 12:25:10
八幡さんは神功皇后が朝鮮から持って帰った三韓征伐の戦利品だろ。
34 :
天之御名無主:2005/07/11(月) 18:48:23
>>33 神功皇后が現れる以前から祀られてた社がある。
それが大元神社。
35 :
天之御名無主:2005/07/11(月) 20:34:14
大元神社の裏の藪は怪しげな石ころが転がってるだけだよ。
36 :
天之御名無主:2005/07/12(火) 00:39:15
秦氏辺り由来だったりして>怪しげな石ころ
38 :
がいやまん:2005/09/04(日) 08:45:53
>>32 宇佐八幡宮はキリスト教同様三位一体。伊勢神宮も天照の他に後になって
豊受大神を祀ったようだ。月読宮もあるから最終的には三位一体ではないかと
みられる。宗像の三女神というのもあり、また、磐座も3個一体が多い。
ただ、言われるキリスト教と古代日本を結ぶためには4000年前、つまり、エジプト
一神教、ユダヤ教、神道に共に影響を与えた一元的起源を考える必要がある。
40 :
天之御名無主:2005/09/06(火) 09:50:03
大分近畿や吉備の方の神様という印象
九州の他地域ではまともには祀られず。
41 :
天之御名無主:2005/09/06(火) 09:52:24
>>40 当たり前、九州の倭人を殺した、
渡来人(本州朝鮮人)を祀るのだから
当然忌み嫌われる。
42 :
がいやまん:2005/09/06(火) 10:56:39
豊前に取り付いた後、東進か。吉野ヶ里に入ったのとは別だな。
43 :
がいやまん:2005/09/06(火) 11:47:24
吉野ヶ里と同じ古い朝鮮小銅鐸が出雲からも出土するというから、出雲とは
吉野ヶ里から移住してきたものかもしれない。
44 :
天之御名無主:2005/09/06(火) 22:46:49
異賊の侵寇や国内の謀反に、国家の鎮護の徳果現し、武の神と言うべき
が八幡大菩薩で、清和源氏は八幡大菩薩が武の神であると云う事の他に、
一族の「氏神」としていた為、全国的に八幡宮は存在する。戦国時代に
も武将達に好まれた。
特に石清水八幡宮は、水元(源)を意味し、祖応神が武の神であったの
で源氏にとってまさに氏神だったのである。
45 :
天之御名無主:2005/09/06(火) 23:08:03
しかしだ、九州にとって八幡は侵略者でしかあるまい、
八幡が、九州のヘソ、神代の高良山に
祀られたのは元寇後の事である。
46 :
天之御名無主:2005/09/06(火) 23:35:41
47 :
天之御名無主:2005/09/08(木) 21:46:11
直にカンケーないかも知れないけど、八幡信仰と怨霊鎮撫って
繋がりアリ?
48 :
がいやまん:2005/09/24(土) 17:19:52
>>44 >特に石清水八幡宮は、水元(源)を意味し、祖応神が武の神であったの
>で源氏にとってまさに氏神だったのである。
大元神社
「八幡大神が小椋山に鎮座される前の霊行の場所であるから、大元神社といわ
れている。」・・・武の神が女神から離れる以前の場所という意味か。大元神社は
島根、安芸など宇佐の対岸に多い。宇佐彼出て各地に拡散するのか。
「御祭神 八幡大神、比売大神、大足姫神
祭典日 4月29日・毎月15日頃
宇佐神宮の奥宮大元神社は、御許山又は、馬城峯とも云われ山頂に鎮座され
ている。 この御許山は、神代には比売大神が降臨なさった聖域であり、また
八幡大神が小椋山に鎮座される前の霊行の場所であるから、大元神社といわ
れている。御祭神は御本宮と同じである。
山上には拝殿だけがあって本殿はなく、神山(しんざん)を霊代(たましろ)とする
神籬(ひもろぎ)の山である。宇佐神宮から南へ六キロ余の西馬城大字正覚寺
御許山にあって、神宮境内から眺めると青々として美しい山である。」
http://www.usajinguu.com/A_Yuisyo/Oomoto.htm http://www9.ocn.ne.jp/~usatan/omoto.htm
49 :
h:2005/09/24(土) 17:21:19
h
50 :
がいやまん:2005/09/24(土) 17:26:22
↑姉神・弟神に別れるという点ではアマテラス・スサノオとよく似ている。この場合は
戦闘集団の守護神が分離されたということであろうか。
51 :
がいやまん:2005/09/25(日) 19:52:47
52 :
がいやまん:2005/09/25(日) 20:12:30
>>47 何から着想されたのは存じませんが、八幡の「若宮」には怨霊を鎮める為に
祭祀されたものが多いと、柳田國男に指摘されておりましたね。
>がいやまん
神社側の語る由緒や家系図など、何時出来たのか分からないお話ばかりで、
歴史的事実かといえば信用しがたいかと。
54 :
がいやまん:2005/09/26(月) 08:34:55
>>53 朝廷が作るもの、官選のものが唯一正しいとするのは学閥の世界でどこそこ大学
の先輩とかの線に付くのと同じだと思います。問題は中味が考古学的事実と整合
するかどうかです。記紀も神社伝承も五十歩百歩。時には神社伝承の方が正しい
場合もありえましょう。漏れとしては豊前にまつわる伝承は極めて重要、また、残さ
れた巨石文化、修験道も同様だと思うのです。神道の方がそれらの部分である可能
性があると思います。
55 :
がいやまん:2005/09/26(月) 08:41:11
もちろん、記紀を作った人々、ご覧になった天皇は凡人の及ばないノウハウに基づい
たもので、田舎の神主さんの言うことをいちいち聞いていたらきりはなかったでしょう。
しかし、当時の知識にも限界があるわけで、田舎の神主さんの言うことは全部だめと
切り捨てられるものではないと思います。
56 :
がいやまん:2005/09/26(月) 08:50:18
豊前に伝わる天竺から投げられた五本の霊剣の話ほど、現在の日本人の
遺伝子に残るチベット、ブリャートの由来、馬韓に残る月支国の意味を
説明する、これほど端的な言葉はないと思っているんですが。
九州のサッカーチームがチョンの溜まり場なのは、そのせいか
58 :
がいやまん:2005/09/26(月) 10:55:17
それを言うなら大阪、新宿だろ。九州は神代の時代から薩摩隼人のいる国。西郷ドンは
征韓論。
60 :
天之御名無主:2005/09/28(水) 22:24:12
>>53 このスレの始めの方に書かれてましたね。
で岩波新書の「神仏習合」によれば、将門は八幡の御託宣で正統性?
を付与された訳ですから、鎮圧された後の怨霊も面倒みたのでは?
と思った訳で。
柳田さんのは未読ですが、若宮=怨霊ですか?
61 :
天之御名無主:2006/03/27(月) 23:30:18
62 :
天之御名無主:2006/10/19(木) 18:36:20
「花の御江戸は、八百ぅ八ちょうぉぉ〜」
63 :
天之御名無主:2006/10/20(金) 04:37:40
八って¨たくさんの¨って意味だろ
64 :
天之御名無主:2007/01/03(水) 12:57:05
[御許山大元神社(大神氏+宇佐氏)+市杵姫→奈多八幡神社(奈多氏)+薦神社(秦氏+辛島氏)]=→宇佐神宮
「八」の たくさんの、という意味合いがこれですかね。
そこに 大奉律令で 建国の祖代々天皇も各神社に入る
おおまかな6・7・8世紀の流れこんな感じかな。
八幡大菩薩は応神天皇の弥勒化身かな??
65 :
天之御名無主:2007/09/03(月) 06:02:03
八幡神はこれほどに日本全国に普及しているのにミステリーが多い。
ヤハタがもともと高麗の神だったことは間違いない。
これが日本に渡り日本の神になったと僭称した。
その後秦氏がこれを奉じ、宇佐神宮に納められた後、皇統と同化していった。
後に仏教と絡んで、大菩薩となった。
だがこの秦氏にはユダヤ民族という疑惑が根強く、ヤハタが西洋の神、
というよりキリスト教関係の神である可能性も出てくる。
一方で、日本と姉妹関係にある琉球では、ヤハタ神を奉じた人々が琉球王国を
興したという説があり、琉球王家の紋所が八幡神と同じ左三巴紋なのは
そのためだと説く。
キチガイの言う間違いないは、間違いなく間違い
>>60 >柳田さんのは未読ですが、若宮=怨霊ですか?
戦国期以降、そうされている例がしばしば見られます。なんという遅レス。
唐の八幡四鉾制に由来する軍神だという説がありますね。
応神天皇説は、奈良時代からあったという論者もいますが、私は平安時代前
期、9世紀頃まで下ると思います。
釈迦垂迹説が出たのは(垂迹という単語は使用されておらず、同体といった
方が近いですが)、10世紀の後半。
大江匡房、三善為康以降に阿弥陀説が登場し、石清水を中心に阿弥陀説が広
まりますが、鎌倉時代には宇佐や大安寺の掲げる釈迦説と衝突し、釈迦と阿
弥陀を同体とする説も登場しています。
平野の祭神が仁徳天皇あるいは光仁天皇というように、天皇が祭神とされる
ようになるのは、院政期以降のようです。
その数が増加するのは、明治以降でしょう。今の天皇を祭神とした神社が、
最初から天皇を祀っていたとは、限りません。
水無瀬廟(後鳥羽院)は神扱いでしたが、廟として意識されていたもの。
近代になって、今の水無瀬神宮となり、仏教色から離れた。
多田源氏の菩提寺だった多田院が多田神社にというように、人を祀っている
神社は、元廟や寺であったことが、少なくありません。
68 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 03:43:16
>>66 ヤハタが高麗由来であることについては史料があんだよ。
ヤハタが「我、日本の神となれり」といったことも日本側の史料がある。
これはヤハタを信仰していた集団が日本に土着したことを意味するのだろうが、
「日本の神となった」ということはもともと日本の神ではなかったということだ。
知らないならすっこんでろ基地外。
69 :
天の御名無主:2007/09/04(火) 10:26:20
>>68 私は66ではありませんが
あなたが高麗とはっきり断定する理由を述べてくださいませんか
70 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 10:52:45
手前で調べろよ。ぐぐれよ。ヤハタ神が外来の神ってのは民俗学では常識だぞ?
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu2-1.htm ここにはもっと詳しく書いてある。
>そして小倉山の麓において、三歳の幼童の姿となった八幡神が、
>竹の葉の上に現われ、辛国の城に始めて八流の幡を天降し、
>吾は日本の神となれりと宣した。
>右に掲げた八幡出現の託宣が語るように、辛国の城に八流の幡<はた>を天降らし、
>そこを聖地として降臨したのであり、したがって八幡神は元来は「韓国<からくに>」の神
>であったとすべきであろう。「辛国<からくに>の城」は「辛国の村」の意味であり、
>辛嶋氏の本拠の地を指していたと解される。宇佐には渡来系氏族が居住しており、
>その氏族によって奉祭されていたのが八幡神であったと思う。
嫌韓厨の低脳価値観を学問の世界にまで持ち込む愚物は黙って他人の意見を見てろ。
71 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 10:58:13
「吾、日本の神となれり」は無数のサイトで引用されてるな。検索すれば結構ヒットする。
八幡神を宇佐にまでしかさかのぼれないというのは間違い。
ヤハタ神が元々日本の神ではなく、渡来のものであることは疑問の余地がないし、
こればかりは韓国由来という説が有力。
もともと風雨の神であり、船を操る倭寇に信仰されていたという説もある。
72 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 17:21:20
>>70 よく読むと、
八幡神は小倉山の麓に現れた
辛国の城に八流の幡を天降らした
神様の本体が降りたのは小倉山
そのときついでに不要になった幡を辛国に投げ捨てた (辛国=ゴミ箱)
としか読めないのですが。
73 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 17:27:30
よく読むと、
八幡神は小倉山の麓に現れた
辛国の城に八流の幡を天降らした
日本の神となったと宣言した
神様の本体が降りたのは小倉山
そして辛国に旗を立てた (つまり神様が率いる日本が辛国を征服した。征服地に旗を立てるのは良く見る光景)
さらに中立の神である立場(抽象的な神の立場)から、日本の神となったと宣言した (それまで中立だったが、今後は辛国を見捨てると宣言)
としか読めないのですが。
74 :
天之御名無主:2007/09/04(火) 17:44:23
>>73 つまり、辛国=朝鮮半島は、
スサノオに「ここはロクなところじゃねェ」と力一杯馬鹿にされて見捨てられ、
さらに八幡神にも見捨てられたわけですね。
よほど、神様に嫌われる土地なのですね。
渡来系の影響を受けていた可能性はありますが、断言は出来ないでしょう。
スサノオと朝鮮半島の関係、八幡の神名が唐に由来するなどの説は、有力
なものだと思いますが。
>吾は日本の神となれり
確か、11世紀の『扶桑略記』以下の縁起にある台詞でしょう。
日本でなければ異国という訳ではなく、天より下った、或いは蓮台上から
垂迹したという意味でとった方が、分かり易いと思います。
ちょうど垂迹説(本地説はやや遅れる)や「天下る」神の説が成立・展開
していた頃の話ですし。
山王が三輪山に天下ったなど、天から日本国内に天下ったという神の縁起
は、珍しいものではありません。
ただ、『神道集』にある熊野縁起(原型は更に古い)などに見られるように、
熊野や祇園などの祭神が、本来は天竺や震旦の神であったという説は中世
には珍しいものではありませんでしたね。
日本の神々=記紀神話の神々というのは、明治以降に定着した説で、それ
以前には、日本国内の神や霊地はインドや中国の神や山などを移したもの
とする説が、普通に通用していました。
かつての日本の「神話」が、国際的なものであると認識されていたという
ことは、憶えておいて損のない話です。
>(辛国=ゴミ箱)
これは無理があります。中世に旗が天下るといえば、神の霊験があったということで。
『筥崎宮記』などにも見られますね。
なお、中世にインド起源とされていたからといって、熊野や八幡が歴史的に
見てインド起源であったということにはなりません。
ただ、日本で信仰されている神が「日本固有」の神々であったという近代の
「神道」に見られるような世界観とは異なる認識が存在していたのは事実で
すから、意識的にはインド起源は「事実」でした。
実際、母娘神と地主神などと言われた熊野の正体や、祇園の起源については
よく分かりません。少なくとも、現代の神社側の説明通りではなかった。
インド起源かどうかはさておき、祇園が記紀まで遡れる神ではなく、名前の
通り仏教由来の神であることは、確かなようですし。
『備後国風土記』逸文とされるものも信用しがたく、スサノオとする現代の
「八坂神社」の説明が見られるのは、鎌倉時代からのようです。
記紀の内容が、そのまま存続していたかも疑問です。近代になって、各地の
祭神を記紀や『延喜式』や天皇や功臣に改変したせいで、近世以前の信仰が
見えにくくなってしまった。
そして、「神道」=「日本古来の伝統」とする人間は、伝統や保守をさけび
ながらも、インドや中国との歴史上・意識上の関係が存在した歴史を説こう
とはしない。愛国心は結構ですが、「日本の神々」=「日本固有の神々」で
はなかったという認識ぐらいは、欲しいものです。
>>73-74 好き嫌いで歴史を曲解するなら半島系とメンタリティがかわらん。
>>75 日本神話では日本という島そのものが神の作った神域なのだから
「日本の神になった」という表現はやはり異質では?
渡来したものという見解はやはり揺るがしがたいと思うが。
>日本神話
藤原実兼や慈円ですら実見できずにいた記紀(というよりこの時代は書紀)
の内容である「神話」が、どこまで知られていたのかは疑問です。
それに、天上から日本の国土の神になったというのであれば分かる。
>渡来したものという見解はやはり揺るがしがたい
しかし、その割には異国退散の神としての信仰が奈良時代から続き、応神天
皇霊(それ以前は聖武天皇霊)としての信仰もありましたからね。
先に「認識上の」インド・中国起源説と天上起源説の二説を挙げましたが、
八幡に限って言えば、後者の可能性が高いと思います。
そして、当初から異国退散の神として奉幣されていたことを思えば、やはり
熊襲や新羅といった「異国」を退けるために、唐の八幡四鉾制に習って人工
的に祭祀されるようになった神ではなかったかと。
それと、これが肝心なところですが、『「日本の神になった」という表現』
が見えているのは、あくまでも11世紀の縁起です。
縁起はとりわけそうですが、記録というものは、過去を語ってはいても、あ
くまでもその時代の認識を現したものであって、「歴史上の事実」を示して
くれるものではありません。
記紀にしても、それ以前の事実を記したものでありながら、その時代に編纂
されたものとしての内容を備えているということを、意識しないといけない。
書かれたものは、書かれたその時代の「認識上の事実」=その時代の信仰の
実態を伝えてくれるものでしかない訳です。
11世紀の記録から、8世紀以前の八幡信仰の歴史的起源を論じること自体、
無理があるものと思われます。
「カラクニ」という地名や氏は古代には複数存在したようですし、その他に
も渡来系の地名は多い。古代の日本と朝鮮半島との交流が、信仰面を含めて
結びついていたことは事実でしょうが、逆にそうした例が多かったからこそ、
「カラクニ」が出てきたからといって、朝鮮半島系に起源を持つ神とは言え
ない筈です。
最初から全否定するネット右翼の態度は、確かに問題ですが。
しかし、「半島系とメンタリティがかわらん」という表現も、どうかと。
>>79-80 あまり有力な反論ではないかと。
応神天皇霊との混交については宇佐定着以降のものというのが定説です。
また、地名と朝鮮・渡来系の関わりを認めながら、信仰の渡来については
否定するのは無理があります。シャーマニズムが支配する古代社会において、
渡来人が信仰を持たずにくると考えるのは不自然でしょう。民族の渡来とは
文化、信仰の伝播でもある。
自然に読解すれば、ヤハタ神は朝鮮から渡来した、というべきでしょう。
82 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/06(木) 22:18:04
>宇佐定着以降のものというのが定説
はて、1999年に出た『神道宗教』175号所収の津田勉「応神八幡神の
成立年代及びその発生過程」では、「応神天皇祭神の文献上の所見(ママ)
が平安初期」というのが常識として取り上げられており、その上で養老4年
(720)までは遡りうるとされていますが、そんな「定説」があったとは
初耳です。私は、民俗学ではなく、文献史学の方の者ですが。
「平安初期」云々は宮地直一の説ですから、ずいぶん古いですね。
もっとも、奈良朝以降とする説自体は、これ以前に中野幡能先生が提唱され
て、『国史大辞典』でも採用され、吉原浩人先生らも度々引用されています。
院政期まで下らせる説もありますが、『三代実録』や『日本紀略』、『枕草子』
に、かつての天皇とする説が見られ、『三宝絵』ははっきりと応神天皇であ
るとしていますから(源頼信告文案はともかく)、平安中期までには応神天
皇であるとされていたものでしょう。
ただ、奈良時代の事例は状況証拠のようなものが多く、平安初期には聖武天
皇とされていた(神→天皇の化身説でしょうが)とする飯沼賢司説もあるの
で、応神天皇説はこれ以降だと思います。
応神天皇説の初見とされる『弥勒寺建立縁起』の成立年代に関しては、飯沼
氏の説よりは後のもの(10世紀)だと考えていますが。
83 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/06(木) 22:18:53
>また、地名と朝鮮・渡来系の関わりを認めながら、信仰の渡来については
渡来系の人と文化がありふれていたからといって、発祥・起源についてまで、
渡来系だと断定することは、出来ないでしょう。
>渡来人が信仰を持たずにくると考えるのは
それと八幡を無理に一致させる必要があるのか、ということです。
少なくとも、史料から確実なものとして、読み取ることは出来ません。
それに、信仰の伝播は「シャーマニズムが支配する古代社会」という類型的
な表現の支配下に置かれた時代に限らないと思いますが。
とにかく、貴方のお説は想像に任せたところが多過ぎます。
そもそも、最初に引用された「吾、日本の神となれり」云々の史料も時代が
下りすぎている。どこが「自然に読解」された結果なのか分かりませんし、
それ以前に読解すべき史料が間違っています。
すみません、えげつない言い方でした。
85 :
天之御名無主:2007/09/07(金) 05:01:14
えげつないというか、主観に任せた主張で、
一見識としてはわかるが、定説ではないですね。
>渡来系の人と文化がありふれていたからといって、
>発祥・起源についてまで、渡来系だと断定することは、
>それと八幡を無理に一致させる必要があるのか、ということです。
ヤハタの起源が韓国とはいっていない。韓国から渡来したのだろうと
論じているのですよ。
そういうことを言い出すのでは、あなたも感情的な嫌韓論者にすぎない。
>少なくとも、史料から確実なものとして、読み取ることは出来ません。
あなたがそういう推論を否定しているからに過ぎません。
86 :
天之御名無主:2007/09/07(金) 05:08:34
>>84 読み返してみましたが、『豊前国風土記』(逸文)がヤハタ神の由来に
ついての史料として重んじられ、用いられているのが定説の根拠であるのに、
あなたの主張はこれを私見で否定するところから始まっているから、
独自な見解を展開している。しかし説得力は持ちませんね。
こういう場所は学会ではないのだから、定説を論じてもらいたい。
87 :
天之御名無主:2007/09/07(金) 11:30:06
今の半島に、日本の渡来神信仰のルーツと思しき痕跡が確認されてるのか気になるなぁ。
まぁ、半島における古代の信仰に関する史料なんかでもいいけど。
結局、日本側の史料だけで渡来神かどうかや日本との共通性や相違性など論じるのは限界があるんじゃないかな?
帝釈天や布袋さんなんかルーツがはっきりしてるのは、インドや中国での信仰が確認できるからじゃないのかな?
88 :
天之御名無主:2007/09/10(月) 03:34:45
半島に資料などない
インドか中国か、日本で生じたか推測するしかない
89 :
天之御名無主:2007/09/10(月) 05:42:28
半島に資料はあるよ。それを採用するかはともかく。
90 :
天之御名無主:2007/09/12(水) 10:54:13
>>3 人のお姿で現れらるのかもね、
ここの人ってほんと学識ありそう
<丶`д´> < 文書は秀吉と日帝に焼かれたから、ここでは出せないニダ
川丶`∀´> < でも 魂にソースはあるニダ
>>84 >>85 二人とも違う。
日本、朝鮮、満州地方、蒙古、コーカサスの一部、バルト海地域を
含めて、共通の信仰?(言葉が見つからないので便宜上)があったので似てて当然。
神霊関係は、現界の事象のみ(為政者の都合)を書いてるから殆ど当てにはならない。
確かに資料に頼り議論するのもいいが、実践的な部分は不足しているな。
特に神、霊を扱うには自身が神霊との波長を合わせてないと
真意や成り立ちは解けない。
というわけで、幽体離脱関係のサイトや資料もそこらへんにあるから、
体得して実際に見てくるといいぞ。
現今、伝えられている歴史がいかに頼りないものかわかるし、
伝えられていない真相もわかるから歴史好きにはたまらないだろう。
ちなみに、それなりの修養は必要なので根気と情熱を持って体得しよう。
神霊関係でお薦めなのは、出口王仁三郎(大本教ではなく王仁三郎個人がお薦め)
あとはエマヌエル・スウェーデンボルグと隈本確。
この三人の著書を読んで、霊界の真相を知るといいだろう。
というか、神を語るには本人が神と想念を一にしないと
御経綸も神業も感知できないから必須といえる。
>>84 >>85 読み返してみて、ちょっと無礼なところがあった。
ゴメン、許してちょ。
ほな、さいなら。ノ
94 :
天之御名無主:2007/10/01(月) 00:24:32
道教の最高神である!とか、霊能者の霊視やら
なにが出て来てももう聞いてもしかたのない存在な神様・
いつも、何だろ?!っと思える事は素敵な事なんです
95 :
天之御名無主:2007/10/02(火) 03:47:05
国民皆様の仏壇
八幡様
後ろは何であろうとそこに神は在る。
建国の祖を労う事で先祖を供養するもよし
己の先祖供養の頼りにするもよし。地域安泰の感謝もよし
この現代で確定するには多き過ぎる神社。。
神威霊験あらたかな事も多い事に感謝感銘しています。
97 :
天之御名無主:2008/04/28(月) 01:43:57
氣比神宮との
繋がりが妙に隠されていて
超気になる
京都の八幡は「ヤワタ」さん。
ワタって来たいろんな部族の神々色々を秦氏がまとめた。
鹿児島県姶良郡隼人町*鹿児島神宮の「大隅正八幡本縁起」では『中国の震旦国隣王・陳大王の娘、
大比留女(おおひるめ)が七才で懐妊して生まれたのがホムタワケノミコト(応神天皇)である。
船で大隅の八幡崎に漂着した。』とある。
八幡神は外来の神、オオヒルメ(ムチ)も中国から遣ってきた?
すなおに読めば、八幡神は外来の神となる。この大隅正八幡は延喜式の壮麗な大社で、
隼人の一大拠点の上に建つ。隼人の雄族・曽君が勢力を持ち、この地に階層組織をもっていた。
もともと、石体宮(しゃくたいみや)という古社が、この地にあって、その古社に残っていた
古記録といわれるのが、大隅正八幡本縁起である。
大比留米が朝日の光を胸に刺して、七歳にして懐妊して生まれ、父王、恐れて空船(うつぶね)
に乗せて、海に流し、船の着いたところを所領としたまう。
着いたところが大隅で、この太子を八幡と名づけ、その岬を八幡崎という。
中国から籠船で流されて、つくところは九州西岸しか考えられない。
中国の舟山列島から出発して、潮に乗ると一昼夜で日本に着くと言われている。
やがて、大比留女は、九州の福岡にやってきて香椎聖母大菩薩となったという。
ニニギノミコト=応神天皇はこれによれば、渡海人となる。
この話、なにかに似ている。香椎生母といえば、香椎宮に遷都し、
そこに宮をおいた神功皇后をさすことは明らかだ。八幡神と聖母が中国から
海を渡ってきたと伝承している正八幡神宮の古歴を信じるか信じないか・・
それはかってである。
100 :
天之御名無主:2008/04/29(火) 04:44:05
その説は
その説。
しかしそれは薦神社の真薦を御神体にした御輿で
平定に至った事と正反対すぎる
101 :
天之御名無主:2008/05/27(火) 23:10:21
太祝詞の天津罪の罪の有り様を
薦神社みすみ池を見てひしひしと感じたのだ…。。凄いはあの池は…
大隅の伝承の誰かの墓が薦神社のあの三すみ池だとしたら大隅説もアリエル。
それと
博多の住吉三神が池から池へ龍のように飛来したら
ちょうど薦神社。
そのラインは→博多→薦神社→ヤマト。
博多→八面山→宇佐神宮→伊勢と向いている。
博多の詳細は小戸→大濠→住吉神社@の鳥居の池→本殿。
@の鳥居の池→本殿脇の奥の池。
因みに小戸の遥か海上は壱杵島姫神じゃなかったw壱岐。。。
祝詞の世界そのままなんだよな…
102 :
応神天皇:2008/05/28(水) 23:27:46
アシュタ・ケートゥ 八旗、八旗軍の将軍神 古代軍制の事。
その長の神格化。大陸から日本に移入された。
103 :
天之御名無主:2008/06/02(月) 08:02:03 BE:508296454-2BP(0)
俺は八幡様が産土神だから非常に興味がある
八幡信仰の淵源がどこにあるかはさておき、北部九州一帯の古社の殆どが
八幡と何かしらの繋がりがあるのは興味深い
特に高良・宝満・河上の伝承は俺に高良=神功皇后・宝満=比売大神を想起させる
宝満=竈門神社は今でこそ小さな社だが、かつて九州総鎮守と言われた事は
忘れてはならないと思う
高良=武内宿禰は、応仁天皇が生まれるのを助けたから八幡様の守り神と言われている。
八幡=八波多 戸畑=等波多 神功皇后の訪韓に付き添ったのが 波多八代宿禰
波多氏の匂いがぷんぷんするな。
八幡愚童訓は、14世紀初頭(成立年代及び成立過程については諸説有り)、
筑紫(現在の福岡県)の高良大社という神社の社人が京都に出向き、記録させた八幡信仰の布教用の書物
この中で元弘を退けたのは神のおかげと宣伝した。
1) 「香椎宮縁起にいわく、善紀元年壬寅(五二二)、大唐より八幡大菩薩〔大帯姫也〕日本に還り給いて、廻りを見給うに、人知らざる間に御住所を求め給いて、筑前國香椎に住み居り給う。(以下略)」
2) 「又、善紀元年記にいわく、大帯姫大唐より日本に渡った後、新羅との戦いの時、懐妊の間、石を以て御腰に挿し祈りていわく、もし是れ験有る石ならば、我が胎子今七日の間生まれ給まわざれ。」
>>92 えええー!
ところで、神武神話と応神神話って微妙に被ってない?
神武東征の話は応神天皇の畿内帰還と関係ありそうに思うんだけど。
神武の妃が三島の製鉄関係の氏族の娘で、応神の母が同様に金属と関係の深い神功皇后ってのは偶然じゃないんじゃないか。
110 :
天之御名無主:2008/06/19(木) 13:37:01
神様遍歴でいけば気比大神様かな?
神宮寺建立一号など、宇佐のしてきた事と同じで
あそこがどうも気になりますね‥
敦賀→鶴岡八幡だしな〜
111 :
天之御名無主:2008/06/20(金) 21:42:06
八幡さま見た人いる?
112 :
天之御名無主:2008/06/21(土) 16:18:38
境内脇の松林内で跪き松ぼっくり手にして
神聖な雰囲気だよな〜って感銘している時に
ぐっーっと光体が脳内の眼?に近付いて来たけど
我に返った時、他の参拝者も来たし
そのまま日常に戻った。
あれれ?って感じだけで、至ってそのままです
113 :
天之御名無主:2008/06/22(日) 22:13:30
>>112 えっ! おい、その松ぼっくりは捨ててしまったのか…?
114 :
天之御名無主:2008/06/22(日) 22:22:28
当然、身体に入ってるだろ
松果体でググってみなw
いいや
あくまでも「近付いてきた(迫ってきた)」
て感じで
森には私一人だけだったが
光がいい感じに入りそうな手前で、他の参拝者の接近で
そのまま、
形が見えそうな一瞬手前て感じ。
入ったとかそんな雰囲気も感覚もゼロ!
けど、以前からの眉間額のもぞもぞだったのから 最近では頭頂部がもぞもぞする。
116 :
天之御名無主:2008/06/27(金) 22:24:24
針葉樹なら悪い物ではない様子でないか?
柳から来たモノなら超怪しいが(-_-;)
そーいや八幡様の神託や神験や
神殿での神様同士の会話の人間の盗み聞きなど
数ある昔話はあるが、近代霊能者による話しはないね
うん
119 :
天之御名無主:2008/07/09(水) 20:43:45
八幡大菩薩
http://etc7.2ch.net/test/read.cgi/esp/1215839585/l50 仏像の力を信じる者はここで祈れ
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/12(土) 14:13:05 ID:xl45iBs5
仏像の神々しさ、超越的パワーは一切の衆生を救い給う。
その慈悲の厚さ、全能さを信じて止まないもの、何となく心ひかれるものは
毎日このスレで仏像の御方へお祈りささげましょう
日々の出来事、悩みを仏像に聞いて頂きましょう
/ヽ v1
|Y ゝくY :!
| |Yゝク |
f三 へ三ニト
{ゝ二 二kミ!
| ー 一 Y
U、 ー ,U
>'1ミ二彡^ヽ、
/ 个 ー イ 彡ヽ
/ i ト/ミy@┬ ヘ
/| ̄|ヘ / ,h /| ̄ |
7|> ' /n `タ._k |
ゝ _ /彡イ `〜 、...,,_}
__ >彡 '_ゞ_ゝニゝ、_
< ミ三三彡彡へ r‐ァニ三彡ハ
〉ーニ二三彡彡1 l キニ三二−ヲ
f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒ハ
f⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒Y⌒⌒ 〉
ゝ⌒X⌒ヽ〜‐-<⌒⌒ メ⌒Y / ヘ
( \ \ 〉-‐rく ,.-く ノ
`丶 _ へ ハ ) / // 【大日如来様】
どの仏像に願掛けしてもお前らの自由だ。
参考:
http://syorin.fc2web.com/butuzou.htm
121 :
天之御名無主:2008/07/20(日) 05:18:21
再来復活
122 :
天之御名無主:2008/08/21(木) 10:56:36
くる
123 :
天之御名無主:2008/09/06(土) 03:30:49
英彦山と
宗像の神社三社と島って一直線なんだよね
八幡宇佐宮御託宣集より
1) 「香椎宮縁起にいわく、善紀元年壬寅(五二二)、大唐より八幡大菩薩〔大帯姫也〕日本に還り給いて、
廻りを見給うに、人知らざる間に御住所を求め給いて、筑前國香椎に住み居り給う。(以下略)」
2) 「又、善紀元年記にいわく、大帯姫大唐より日本に渡った後、新羅との戦いの時、
懐妊の間、石を以て御腰に挿し祈りていわく、もし是れ験有る石ならば、我が胎子今七日の間生まれ給まわざれ。」
神宮皇后=八幡大菩薩
善紀元年 と言うのは九州元号
八幡はやはたの当て字
重要なことはやはた
やはたとは
私は、や=多い
はた、は=わた
つまり、多くの海
わたつみの、わた
わたつみは泡立つ海=波が泡立つ海。
と解釈してる。
海を越えてきた民族の神。
韓国や中国より遠い民族と思ってる。
神功皇后はなんか、中国人のイメージがある。どこかで絵を見たけど、ふっくらしていたような気がする。
もし中国人だったら、歴史は変わるだろうか?
129 :
天之御名無主:2009/03/10(火) 05:55:45
誉田別は気比の神との名前交換し得た名前。
気比の神は、神代からの北海の海に沸き立った龍神らしい
大神比宜が豊前にやってきて
比し形池に龍神が現る。
大神比宜が退治に乗り出し、そして誉田別応神天皇が退治したかのように龍神から翁→誉田別→鷹へと姿を変える。
豊前には秦一族の神や、色々な土着信仰が盛んであり、朝廷としては、、、
たいそうな大掛かりな仕掛けのあるマッチポンプだったのではないだろうか…
しかし宇佐二の殿に、姫神が鎮座するというのがつながらない…
住吉神はイザナギがアマテラスより先に産んだ神で、三女神は、そのアマテラスが産んだが
住吉三神の転写転生と見る私の私見では、九州をこの、両三神の神域にする必要があったのではないかと考え中。
本当に九州は大国主命主祭神社の少ない地域なんですよね…
そこがヒントのような気がする
130 :
天之御名無主:2009/03/11(水) 03:49:32
宇佐八幡と神社本庁が、宮司の人事をめぐってもめているらしいね。
宇佐八幡は代々、二つの家が宮司を勤めてきたが、神社本庁が割り込んできたらしい。
131 :
天之御名無主:2009/03/23(月) 02:55:11
132 :
天之御名無主:2009/07/16(木) 07:34:47
海龍という噂と、オオナムチという噂
しかし、豊前平定、宇佐でのマッチポンプ作戦は龍だな。
133 :
天之御名無主:2009/07/20(月) 00:01:07
倭寇などの海賊は八幡の旗を立てて行動した、だから海賊船のことを
八幡船と言ったと聞いたけど。
134 :
天之御名無主:2009/08/31(月) 01:20:20
南無八幡大菩薩
135 :
天之御名無主:2009/09/02(水) 06:21:11
英彦山(天忍穂耳尊)−宇佐神宮−石鎚山−(中略)−沼島(オノコロ神社/伊弉諾尊+伊弉冉尊)−国懸、国前神宮−伊勢神宮(天照大御神)
東西一直線にほぼ中央構造線(大断層帯)をトレース
136 :
天之御名無主:2009/09/02(水) 09:38:42
>>133 ただし倭寇の船は「八幡船」とかいて「やはたぶね」とは呼ばず「はばんせん」と呼ぶ。
やはた=はばんかは疑問符がつく。
倭寇が八幡を信仰していたという説はあるが、裏付ける歴史資料はない。
上のほうに画像があるぞ。
138 :
天之御名無主:2009/09/02(水) 21:00:04
139 :
天之御名無主:2009/09/12(土) 11:58:42
南無八幡大菩薩
140 :
天之御名無主:2009/09/12(土) 12:51:27
■特異な武士集団「松浦党」の起こり
春まだ浅い弥生、壱岐の空は穏やかに晴れ渡り、南西の微風が吹いている加愁の港を数隻の大型和船がひしめき合うように出港していく。
港口を出た船は直ちに帆を揚げる。風を受けた帆はピンと張り詰め、船足は速まり、船首には白波が高く舞う。船尾には純白の布地に三ツ星の
旗印が黒々と描かれ、その下には八幡大菩薩の文字が認められる。甲板では僚船への合図であろう、長竿の旗がしきりに打ち振られ、銅鑼が打ち鳴らされる。
これはまさしく、戦場に向かう軍船の出航である。このような戦闘船団が南北朝動乱の合間をぬって朝鮮半島へと向かった。前期倭寇といわれる集団の出現である。
前期倭寇の行動についての日本の史料は断片のみで、全貌を知ることはできない。しかし、朝鮮半島や大陸の史書は倭寇、またはバハン船襲来として数多く記録している。
また『李朝実録』は、倭寇の根拠地を対馬・壱岐・松浦の三島とし、松浦に居住する松浦党武士団を倭寇だと断定している。
あっと九州:
http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m199803
141 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 09:10:31
つまり朝鮮の記録でしかなく、松浦党=倭寇という確証はないということだな。
よって八幡船=倭寇は定説としても、倭寇が八幡信仰だったかの確証はやはりない。
142 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:16:43
143 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:18:26
144 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:27:41
映画「海賊八幡船」(1960年)あらすじ
戦国乱世の頃、瀬戸内海を根城に遠く明国、朝鮮、ルソン、シャムの諸国に八幡船は船首に八幡題菩薩の旗印をかかげ、交易、
通商に雄飛した。永禄四年、貿易港堺の船問屋壷屋道休の息子鹿門は、廓からの帰途八幡船の男たち黒白斎や小伝馬に囲まれ、
八幡船の旗頭で佐和山城主礎野丹後守の遺児だといわれた。道休は丹後守を裏切り、八幡船の一つめくら船を奪った張本人だという。
鹿門は信じなかった。八幡船の動きを知った道休は、財宝を淡路丸に積んで脱出を企んだ。が、軍兵のために殺され、船は行万不明になった。
黒白斉は鹿門が乗船を断ったので、彼を失神させ青影丸に拉致した。気がついた時は海上で、鹿門は村上水軍の若大将新蔵人と言い争ったがムダだった。
青影丸は村上水軍の本拠地因ノ島に入港、鹿門は頭領村上入道に会った。彼は父の遺志を継ぎ、ニセ八幡船を射てと説いた。
淡路丸とともに行方不明の妹小静を案ずる鹿門は、二代目頭目として彼を慕う島民の心を考え、心がゆらいた。父母兄弟を殺された
琉球娘謝花はニセめくら船の非道を訴えた。ある日、淡路丸が房った。船内は死体の山で、小静はいなかった。鹿門は決心した。
八幡大菩薩の旗印をかかげためくら船、青影丸、住吉丸は出発した。新蔵人の妹寿賀と謝花も同行した。南下する途中、右衛門太夫
のニセめくら船をみつけたが、交戦して逃がした。船団は修理のため貝殻島に寄港した。男まさりの寿費はいつしか鹿門に惹かれ、
謝花も新蔵人を慕うようになった。突然、狂暴なバランガ族が襲撃して来た。伝馬の機転でこれを撃退、鹿門の捕えた敵将陳赤竜は
ニセめくら船が島に入港しているといった。勇躍した鹿門、新蔵人らは捨身の攻撃をかけた。激闘の末、鹿門は右衛門太夫を射ち、
父の恨みを晴らした。小静も無事だった。鹿門の号令一下、八幡船団は追風に帆をあげ、一路故国に向け出発した。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23230/story.html
145 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:34:21
幡随院長兵衛の生い立ちをお話致します前に、九州西部で有名な「松浦党」についてお話しなければ、話が繋がりませんので、ちょっと寄り道をいたします。
松浦党とは平安時代末期から中世末期にかけて数百年にわたり九州西部の肥前国松浦の郡、現在の佐賀県の北部と長崎県の五島、
壱岐を含む地域で活動した武士の集団です。上松浦党と下松浦党に分かれています。
その発祥は1019年(寛仁3) 刀伊賊(中国の女真族)が攻めてきた時、これを撃退した前肥前守源知とされ、嵯峨源氏で
歴代一字いみ名を用いています。蒙古来襲にも武名をあげた武士がたくさんいます。この地方は昔から宋や高麗との貿易中継地で、
海外貿易で富を成した豪族がいますが、正規の貿易のほかに、倭寇として東支那海沿岸から高麗(韓国)を荒らし恐れられていたと言われます。
これには多々問題もありますが、ここでは割愛いたします。
146 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:34:46
以来、この上松浦党を束ねてきたのが波多氏で、戦国時代末期の党首に波多三河守親(はた みかわのかみ ちかし)がいます。
親は源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の酒顛童子や羅生門の鬼退治をした)を祖先とする源久の17代の後裔です。
松浦党の発祥に源知と源久の二説があるのですが、親の祖先は久とされています。
この親が幡随院長兵衛の父塚本伊織と繋がって参ります。
波多氏の居城があった岸岳は、標高320メートルの男山で、現在は唐津市相知町の西を限る山ですが、
頂上からは遠く玄界灘を望み、四方がよく見渡せます。頂上とその周辺には中世および近世当初の山城の石組みが今も残っていて、佐賀県の史跡に指定されています。
この山の東の麓に近い集落を「久保」といいますが、ここで幡随院長兵衛こと塚本伊太郎は生まれました。
147 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:10
ここ久保から南に8キロくらいのところ、現伊万里市大川野に波多氏の重臣である鶴田因幡守の日在城があり、
その砦が久保にありました。長兵衛の父を塚本伊織と言いますが、この鶴田氏の家臣であり、久保に住んでいました。
母も因幡守の家臣で、のち出家した建福寺の僧、田代可休の娘です。(養女)
没年から逆算して、長兵衛は元和元年(1615)に生まれたことになります。
ここで、伊織と長兵衛の親子が江戸へ向う話になりますが、その発端となったのは、かの太閤秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)と、
岸岳城主波多三河守親の関わりです。肥前名護屋に城を築いた太閤はここに出張って、20万ともいう朝鮮出兵の指揮をとりました。
この戦に三河守親は佐賀の鍋島氏の旗本として、兵750騎をひきつれ朝鮮に出陣しましたが、いわれなき讒言によって改易、
お家取り潰しとなりました。それは、「三河守は朝鮮において病気を口実に、釜山に近い熊川の港に隠れて、鍋島の軍と合流せず、
卑怯であった」と三人の武将からの告げ口によるものです。親が動かなかったのは、理由があるのですが、問答無用とばかりに、
釈明も聞かれませんでした。親はこの戦に部下の半数以上も失っています。
148 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:41
親は文禄2年2月9日(1593)太閤の勘気を蒙り改易となりました。親はこの処分状を朝鮮からの帰途名護屋沖で受け取りました。
故郷の山野を遠く海上から眺めたのみで、上陸もかなわず福岡の黒田長政に預けられました。その後、主従4人で常陸の国筑波山の麓に流されました。藩主佐竹侯のお預かりです。
親と一緒に豊後の大友義統・薩摩の島津又太郎が改易されています。これらは士気を高めるための見せしめでしかありませんでした。
この改易によって松浦党は崩壊し、武士たちは百姓となりました。藩政時代になると寺沢氏は懐柔策として、庄屋に取り立てました。
ところで、告げ口をした3人は誰々だったでしょうか。その周辺に寺沢志摩守がちらつきます。また志摩守は岸岳城の家臣を手馴づけ、城中に火をかけ岸岳城を焼き払ってもいます。
太閤秀吉と親はそもそも馬が合いませんでした。天正15年秀吉が島津征伐に九州に下向したとき、福岡への挨拶に遅刻、島津征伐の際には一兵も出さず非協力、
また名護屋を前線基地にする事に反対したなどなどがありました。しかも、太閤はもっと以前から、海外貿易の旨味がある波多氏の領土を狙っていました。このことを
、折から在日中のキリスト教の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」の中に記しています。
149 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:35:58
フロイスは述べています。
「実家の島原日野江城主ドン・プロタジオ(有馬晴信の洗礼名)の長兄にあたる
名護屋城図屏風
波多殿は(親は島原の有馬から養子に入った人です)肥前国にその領土を持っていたが、同領内の名護屋という港に、関白殿が宮殿と城と町を造営したことは先に述べた通りである。
ところが波多殿は高麗に渡ると、病気であると偽って熊川から先に進まなかった。彼はこのため三人の武将から告訴され、彼らは高麗から(この件)を関白に報告した。
波多に与えた俸祿と領地を没収するために、なんらかの口実を見出し小細工を弄しようと企てていた関白は、この訴えを耳にして満悦し、ただちに彼を追放処分に付し、
わずか八名の家来を伴わせ、身柄を黒田長政に預け、一方波多領地を寺沢氏に与えた」
と書かれています。 「取り潰し」を早くから考えていたことを、外人の目にも明らかに映っていたことが、これでよくわかります。
150 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:36:17
取り潰しの今一つの原因として、世に広く知られているのが、三河守の出陣中に、名護屋城中に呼び出された親の奥方秀の前が、
城中懐剣を落としたことを咎めたと。秀吉の好色が話題ですが、このとき秀の前は46歳、当時としてはいかに美人でも、おばあさんです。誰が脚色したお話でしょうか。
史実としては、この戦に際して九州の大名たちの妻子は、人質として大坂に集められていました。これは証拠の古文書が残っています。
さらに、塚本伊織は私的なことでも寺沢氏を恨んでいました。それは妻の父田代可休が寺沢によって処刑されたからです。しかも、
首・胴・脚部とそれぞれ別のところに葬られるという惨殺です。処刑には三つの理由がいわれています。
一級河川の松浦川が、可休の住んでいた大川野から相知を経て唐津湾に注いでいますが、唐津藩主寺沢志摩守は田地を潤すため、
この川に井堰を拵えましたが、洪水の度ごとに破壊されます。ここで、可休が中島を作って水を二分し、一方に導水口を作ることを進言しました。
これを、志摩守は干渉されたと腹を立てたのです。結局は可休の死後そのように作り上げたのです。以後洪水にはびくともせず、今も残っています。
151 :
天之御名無主:2009/09/16(水) 10:36:58
いま一つの説として、波多氏再興の計画の集まりを建福寺で度々開いていたというのです。また、建福寺に国禁のマリア様が祭られていたとも言われています。
面白いことにいま、この井堰の傍らに、寺沢志摩守と田代可休の碑が建っています。
伊織親子が故郷を捨てたとき、伊太郎は13〜4歳だったといいますが、いわゆる敵討ちの謀議と、
さきの可休の罪に連座したのかも分かりません。身の危険を感じたのでしょう。いずれにしても旅に出たわけです。
ところが、父伊織が下関(広島とも)で病死いたします。伊太郎は父の遺言により江戸は浅草の幡随院に白導和尚を訪ねます。
幡随院は京都知恩院の末寺で浄土宗、正式には神田山幡随院新知恩寺といいます。では、九州の片田舎と江戸との縁は何処で生まれたのでしょうか。
つづきは以下
http://www.yoyokaku.com/sub7-67.htm
152 :
天之御名無主:2009/10/11(日) 18:41:26
>>129 大神比宜って、誰なの?古代の宇佐八幡宮の3社家の大神氏の始祖とされ
6世紀代に入部した大神比義のこと?
誉田別尊は氣比大神様
氣比は敦賀
第三の八幡は鶴岡
(鶴岡は宇佐から勧請なし)
吉備とも読める氣比
あの一帯を治めた神様=大国主の尊も崇めた神様
そんなとこか
氣比大神=イザサワケは
分け合ったから両方についた名前だろうね
伊雑宮という天照大神=伊勢の大元とも関連してきそうな響きだ。
154 :
天之御名無主:2009/10/30(金) 14:46:44
九メートルの僧のような姿の神って何なんだったんだろ
155 :
天之御名無主:2009/10/30(金) 19:31:35
156 :
天之御名無主:2009/10/30(金) 20:02:02
道境の信託事件で
和気清麻呂の前に現れた神様じゃろ?
松浦系波多なんて新しい時代の話は無関係だろ。 7世紀以前の話に限らないとおかしいぞ。
142-151 あぽ〜ん推奨
南無八幡大菩薩
159 :
天之御名無主:
南無八幡大菩薩