進化論は仮説?

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日本の高等学校の教科書「理科1・生物」の第3章には、「遺伝と変異」が取り上げ
られていて、有名なメンデルの法則などが、詳しく書かれている。そして第4章は
「生物の進化」と続く。ダーウィンやラマルクらの進化論に触れた章である。
メンデルの法則とダーウィンらの進化論、この二つが一緒に載せられた教科書は
欧米では稀である。もしかしたら日本だけなのかも知れない。 なぜかと言うと
この二つは全く相反するものだからだ。日本人にはなかなか気がつきにくいことだが
欧米人ならばすぐにその根拠を指摘することができる。
結論を言えば、メンデルは「種は常に種であり続ける」ことをエンドウの実験に
よって実証しており、進化論は「種と種の間には障壁は無い」という仮説を提出
しているからである。そして欧米人の「創造主なる神によって造られた生命」
という意識は「種は種として造られた」という理解に結びついている。
91名無しゲノムのクローンさん:2001/05/11(金) 21:29
だが、メンデルの法則はその後、「優生学」へと発展に寄与することになり、
ハイデッガーとともにナチスに利用され、ユダヤ人迫害の一翼を担ってしまうのである。
922:2001/05/11(金) 21:40
[旧約聖書」の「創世記」には創造主によって初めて植物や動物が造ら
れていった過程が記されているが、そこでは「種類にしたがって」とい
う言葉が何回も出てくる。 その例をあげてみよう。
「神が「地は植物、種を生じる草、種類にしたがってその中に種のある実
を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ」と仰せられるとそのようになった」
「ついで神は「地はその種類にしたがって生き物、家畜や這うもの、その
種類にしたがって野の獣を生ぜよ」と仰せられた。するとそのようにな
った」「神はその種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜
その種類にしたがって地のすべての這うものを造られた。神は見てそれ
をよしとされた」 これは信仰上の問題なのではない。日本人にとって、
老子や孔子の書、あるいは仏教書の教えは、生活意識に深く浸透してい
る。それと同じものが、欧米人にとっては聖書の言葉なのである。

933:2001/05/11(金) 22:10
さて、ここに出てくる「種類にしたがって」造られたとは、いったい
どういうことを意味しているのだろうか?
それは簡単に言えば、犬は初めから犬として、牛は初めから牛として
馬は初めから馬として、人間は初めから人間として生命を与えられた
ということであって、犬と猫の間にも、牛と馬の間にも、絶対に子供
が出来ない。同じ馬科の馬とロバの間にはラバが生まれるが、一代限り
であり、また雌しか生まれない。同じ猫科のライオンと虎の間に生まれ
るライガー、あるいはライオンと豹の間に生まれるレオポンも、一代
限りの種である。明らかに種の間には壁があるのだ。
こうした「種と種の間には越えられない壁がある」という現実に対して、
進化論は「種の壁は破られる」という荒唐無稽な仮説として提出された
ものである。生物が「進化」するならば「種と種の中間種の化石」が数多く
存在しておかしくないはずである。またそれらが仮に存在したとして現在の
科学の粋をもって分析され「本物」だとされなくてはならない筈である。
このように欧米人は、科学の目をもって進化論を「根拠の無い只の仮説」
だと見ているのである。
94ご冗談でしょう?名無しさん:2001/05/11(金) 22:16
オカルト板のほうで応援してあげれば?>>90-93
95名無しゲノムのクローンさん:2001/05/11(金) 22:19
あそこで勝てないのなら、こっちにくる資格無し。
964:2001/05/11(金) 22:43
ダーゥインの進化論はあくまでも仮説であり、したがって正確には
「進化論」ではなく、「進化説」と呼ばれている。高等学校の教科書
でもちゃんと「進化説」と書かれている。が、日本ではなぜか、進化説
がすでに証明されたものであるかのように信じ切っている人々が多い。
それに対して、メンデルは「種類にしたがって・・・」を証明した。
メンデルは種はいつまでも同じ種であり、他の種がその中からできたり
分かれたりすることがあり得ないことを、実験によって証明したのである。
エンドウはいつまでたっても遺伝の法則にしたがってエンドウであり続
けるのである。メンデルの法則が事実であることは、誰でもが簡単に
確認することが出来る。このようなわけで、メンデルの法則と進化論は
まったく矛盾するものなのである。が、日本の学校ではこの両者の矛盾
すら教えようとしない。進化論は進化論で科学的常識として信じ、同時に
それと全く相反するメンデルの法則もまた科学的な常識として信じる・・
これが日本人なのだ。どっちでも良い? ならば生命とは何なのか?
「なぜ生命は大切なのか?」への答えを持たない日本人の生命観と
「生命とは創造主なる神によって造られたもの」という概念を持つ
欧米人・・・先進諸国の中で何故日本人は世界的な信用が得られ
ないのか  何故「エコノミックアニマル」なのか・・・・・・
答えは此処に在るのである
975:2001/05/11(金) 23:38
「造られた」から始まる欧米思考
欧米人にとってこの問題は、深く「生命の尊厳」を思う心にかかわって
いる。「人はどう生きたらよいのか?」「なぜ生命は大切なのか?」
の問いの根本にかかわっている。「進化説」の立場に立てば、人間は
猿から進化したもの、何の目的もなく偶然に生まれたものということ
になる。そうした科学的な仮説をそのまま生命観に仕上げてしまうと、
「人間には特別に生きてる意味なんか無い」という考えも出現する。
生命が「造られた」と言うと、日本人の多くは「それは科学的では
ない、宗教的な信仰の問題だ」と言うに違いない。が、それは一面的
な理解にすぎない。そのことを少し話してみよう。
実に地球とは不思議に生命を育む環境のすべてが整っている惑星である。
例えば、地球をおおう大気の層は、宇宙に充満する宇宙線のエネルギー
をちょうどいい具合に緩和してくれている。層が薄すぎれば生命は生き
てはいけないし、また厚すぎれば生命に必要な化学合成も起こらない。
また地球は、海と陸の割合が七対三の割合でできあがっている。
陸が今よりももっと広いと、海から蒸発する真水が雨となって降る量が
少なくなり、自然界のバランスが崩れて陸地は砂漠化すると言われてい
る。七対三の比率で海と陸が出来ているからこそ、地球には豊かな生命
を育む最適な環境がもたらされているのだ。「旧約聖書」の「創世記」
には、海と陸が造られたことが、次のように書かれている。
「神は「天の下の水は一所に集まれ。乾いた所が現れよ」と仰せられた。
するとそのようになった。神は乾いた所を地と名付け、水の集まった所
を海と名付けられた。神は見てそれをよしとされた。」

986:2001/05/12(土) 00:27
すべてのものは偶然の産物ではなく、宇宙的な秩序のうちにあり、
宇宙的な法則の作用を受けて造られている  これが聖書の考えだ。
そして本来科学とは、利根川進教授によれば、こうした宇宙観を根底
に持つ「ヨーロッパの長い間の精神活動の結果として出てきている」
ものなのである。昭和六十二年十月に免疫の仕組みの解明でノーベル
医学賞を受賞した利根川進教授はテレビで日本とヨーロッパの科学的
なセンスの違いについて述べたことがある。
利根川教授は「日本にそのまま居たら、これだけの業績をあげることが
できたでしょうか?」というインタビュアーの質問に応えて、次のよう
に語った。「日本と明らかに違うことは、アメリカに限らずヨーロッパ
のサイエンスというものは、合理的なサイエンティフィックなものの
考え方であり、それは文明と密接に関係しているわけで、ロジカル
(論理的)に考えるとか、三段論法で考えることなどは、ヨーロッパ
の長い間の精神活動の結果として出てきているものです。そういう意味
でいわゆる日本的なものの考え方とは違います。サイエンスがヨーロ
ッパのものであることはどうしようもない事実です。人間が自分では
意識しないような精神構造というものが、サイエンスをするとき出て
くると思います。」 科学的な思考がヨーロッパの文明と密接に関係
しているという指摘は重要である。聖書では生命は、偶然の産物では
なく、宇宙的な法則にしたがう秩序あるものとして創造されたと述べ
られている。ここから物理学や科学が生まれてくるのである。
確かに日本でも物理学や科学が研究だれている。しかし創造主によって
「造られた秩序」という発想なしにいきなり受け入れられた日本の科学
は、その根底となる大切なものが抜け落ちてしまっている。
「なぜ生命が大切なのか?」への答えを持たないまま、生命について
教えているのが日本の教育の現状なのだ。子供の殺人、自殺、家庭崩壊
などの現象は、戦後の出発点で生命の意味の根拠を失ったままに生きて
きた日本人の、末路の姿を象徴的に映し出している。