927 :
前スレ970:04/06/30 19:10
>907
確かに元ネタは>908氏の仰るとおり観音経世尊偈なのですが
正確に言うと「光」の方は大宮司郎という人物の説です。
これは古神道(幕末以降勃興した日本風神仙道)でいう得仙秘文
「福壽海無量」(聚が本来の経文ですが、音が同じなので中世には
壽と表記される事があり、古神道では壽の方を採用したようです。
一応、壽という言葉そのものを重視しているらしく読みも少し異なるとか)
が元なのですが、この人物は神仙界に出入した(という)
紫龍仙道人という人物の甥に当り、この紫龍仙道人の主催した団体名が
「玄光修道会」と云ったそうでそれが元ではないか、との説があります。
但し、この得仙秘文「福壽海無量」そのものは単純に仏教からのパクリで済む
ものでなく、その背景には天台宗で伝えていた周の穆王が西方に行って
霊鷲山で法華経を聴聞したという伝承、そこから生まれた「法華御即位」という
天台流即位灌頂、それらの元の話である実際に穆王が西に狩をしに行って
失踪した事件から出た「周の穆王は西の崑崙山に行き、西王母に遇った」という
漢代の説話などいろいろと複雑な事柄があるので一筋縄では行きません。
それでも、精々中世から位の歴史しかないですがね。
>>927 良くご存知ですね。
得仙秘文が含まれるから観音経は功徳があるんだという説もありますよね。そういえば昔、福寿講というのもありました。
>>927 >>928 叡山には福聚教会という、ご詠歌の講中というか、組織がありますが、
そういうことなんですかね?
930 :
前スレ970:04/06/30 20:02
>929
それはむしろ、伝教大師の密号福聚金剛からでないかと。
霊魂不説…釈尊は霊の存在の有無について何も答えない(無記avyaakataの立場をとる)。これを霊魂不説という。
佛教では、霊の有無が問題ではなく、霊が有る、無いと執着し迷い続ける自分自身の心を問題とする。
『小マールンキャ経』
毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。
世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。
>>911 ランボーさん
偶然とは思えませんが・・・
痙攣(ひきつけ)を起こしてる場所は蛇が巻き付いてる
らしく、霊能者に怖がられたことがあります。
ただ、普通の蛇ではないはず(と思っている)なので、
もし仮に蛇の影響と考えればご神仏の怒りをかってるっちゅー
ことになるでしょうか?
ひどいときは強い恐怖心と不安感でいっぱいになって
視界が真っ白になり思考ができなくなったことがあります。
いまはなんとかギリギリ耐えています。
935 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/06/30 22:42
>>931 知っていますよ。
そう言いながらも、世俗の生活をしてしまうと
執着してしまうのが人情。
それを言ってしまっては、諸仏などの存在は
全否定をしなくてはいけない。
あれは比丘に対して述べられた言葉でしたね。
在家の者には言っていない。
密教は、出家者だけのものではないハズ。
どうにもこうにも、毒矢が刺さっているのを認識していないのに
「矢を抜け」と一方的に言っているように思えて仕方が無い。
>仏教が霊魂不説の立場をとっていると伝えられても、それが正しいということは云えないでしょう。
>大日如来は、我は最も崇高な霊体と述べているのですから。霊を否定すれば、仏も否定、仏教も無くなる、輪廻も無くなる。
これを読んで頭が混乱したので言葉の定義を確かめるために貼ったものです。
そして諸仏などの存在は、密教を理解しているのならば、それが自心の事だと分かっているはず。
937 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/06/30 23:02
真言のスレでそんな基本的な事を書く馬鹿がいるとは思わんかった
つーかそこから???な奴はスレ違いにもほどがある
その状態で真言に興味を持つきっかけが知りたい
938 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/06/30 23:43
ここでは基本的なことじゃないんだな。
密教が仏教だとは思われていないからね。
仏も幽霊も一緒だもんね。
939 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 00:31
ふむ、では密教が仏教だということすら理解せずに真言スレに居る(のか?)人に対して、もう一度質問
真言に興味を持ったきっかけは何ですか?
940 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 13:24
仏と幽霊の大きな差は、
その一 我執の差 ハイ。次の人どうぞ。
941 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 13:45
ランボーに質問したい人は他スレ行けよ。
密教でも何でもない、ただのオカルトなんだからさ。
質問もオカルト、回答もオカルト。
942 :
北海大将智:04/07/01 15:00
920さん
大日如来の捉え方が問題になってきていますが、大日如来とは宇宙に
編満する知恵の総体が法身としての大日如来であり、曼荼羅の中央の大日
如来は報身の大日如来であることをご存じですか。尊格として姿のある大日
如来と智慧の総体としての法身大日如来を混同すると「大日如来が究極的な
霊的存在に思えてならない」という見解に陥る気がします。
例えば川の水が流れ海に行き蒸発し雲になり雨となって地表の泥を流すと
いう背後には霊的は力が存在するのでしょうか?世俗的な眼、顕略な視点から
するとこれらは自然現象でしかないのですが密教的な視点からすれば水大の働き
であり煩悩を清浄にする智慧の働きが背後にあるとみるわけです。
真言密教では衆生も佛も地、水、火、風、空、識の六大からなると見るわけです
がここで「世俗体」から見た場合、自然科学的な元素や現象や心作用が表面的には
感じられますが、そうでな無くこれらの現象の背後に智慧の働きがあるのであり、
五大はそれぞれ五仏に配当され五仏から五智が展開し、前五識から第九アンマラ識
にいたるまでの識大は世俗体での識大から「出世間」での智慧へと展開する世界が
三密加持により開現して初めて密教の世界になるんです。
もはや「霊」という二元論的な存在概念は消失し『華厳経』系の教学で説かれる
事理無礙(現象と理念の無礙)も超えた不二なる世界が「阿字本不生」の世界であり
それらの世界を尊格的に捉えると法身大日如来となるんです。
真言密教の立ち場からすれば「霊」を捉えることは十住心思想の「第三嬰童無為心」
に配当されるのではないでしょうか、則ち仏教以前の外教の住心に。
943 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 17:23
>>941 そういうことはランボーがいるときに言わなきゃ
意味ないだろうな。
あのおっさんには何言っても通じないけどね。
そもそも日本語が通じてないし使えない。
>>942 おっさん語りたきゃ他所逝けよ
質問したい奴も他所逝け
1000目前だし丁度いいだろ密教スレ立ててやってくれ
オカルトもオカルト板逝ってやってくれ
御真言集
947 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 20:18
真言のカキコだけじゃもたんだろな。
948 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 20:22
>>947 だから、ランボーさんや真言坊主さんや、北海大将智さんらの書き込みは必要だよ
949 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/01 20:53
>941>944
まだお前らのようなのが居るんか?
>>949 相手にすると付け上がるから無視しようよ。
951 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 18:48
>>942 つきあってくれてありがとうございます
>真言密教の立ち場からすれば「霊」を捉えることは十住心思想の
>「第三嬰童無為心」
>に配当されるのではないでしょうか、則ち仏教以前の外教の住心に。
もしそのとおりだとすると、霊が前提になりませんか?
とりあえず、出家者じゃ無い方が見るのですから。
それに「第4」以上に進んでいる人が、いるのか分かりません。
4は、声聞乗の境地に達した人だから、相当の執着から離れていますよね?
ここでは、霊の存在がどうのこうのは言え無そうですが、
「第六他縁大乗住心」の境地なら、唯識により、否定できると思います。
>中央の大日如来は報身の大日如来であることをご存じですか。
「釈尊が悟りを開かれたとき、尊敬するところ無く、恭敬するところなき
生活は苦しい。・・・・中略・・・・・
この法こそ、敬い尊びて、近づき住すべきであろう」
この法を霊格化したのが、大日如来だと思います。
報身は正直意味が分からないです。
>背後には霊的は力が存在するのでしょうか?
ですので、背後の力を霊格化していると考えると
霊の存在を否定というより、意味が生まれると思います。
952 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 19:56
大日如来を始めとした尊格が、智慧や真理の象徴としたら、人格神的な心を持った仏は存在しないことにならないでしょうか?
つまり、無機質な法則や真理を仏像の形に現わして、崇めている。概念の中だけの存在になってしまうように思うのですが。
>>952 あなた御仏の性格や本質をもう少し勉強したらいいですよ。
幅広くね。
別に密教に限った訳では無いでしょうけど
先祖の崇りとか悪霊とか・・・
どうしても切っても切れない関係でしょう
理論ももちろん必要だと思いますが、完全否定も如何なものでしょうか?
密教の修法にも(雑密?)には縁切りだとか金縛りとかあるみたいですし。
それにも理論があるはずですよ。もちろん口伝でしょうけど。
955 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 20:24
密教は他の思想文化と融合してきたのだから、霊だの祟りにもそれなりに正当な解釈はあるでしょうな。
956 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 20:54
>>952 >無機質な法則
無機質なのかは置いておいて、その法に我を作らずに則った場合
釈尊のような人格者が形成されると思います。
私の思う霊格化は、心を持った者だから起こると思います。
逆に我々からみれば、本来は
心を持ってあらゆるものが存在すると思います。
つまり、山や、風、雨など、すべて
心を持った存在と認識がありえると思います。
よく考えると、それらは我を張らずに、法に則って存在している。
のかもしれません。
法は釈尊が示してくださいましたが、大自然自体が
法を常に示されている気がしてきます。
私達は常に説法を受けている?
形に現しただけならば、偶像ですね。
本来、釈尊のような高い悟りの境地で
なければ、窺い知る事の出来ない「法」を私達にも
私達の目線でありながら、一端を知る事ができます。
957 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 21:15
>無機質な法則
賢者がいる、良き師がいる、良き友達がいる、良き親がいる
または、神様がいる。
そのように、尊び敬う人がいる生活は楽しい。
だけども、釈尊は自分の他に頼れる、また尊敬できる人が
いなくなった。
そのときに、ふと自分を観察したのだと思う。
長い間、迷っていて、他をことごとく頼ってきたけれども、
頼るものがいなくなった今、優れたるは自分しかいない。
その中、悟りし法は自分と比べると、遥かに尊いものでは無いかと!
こう考えたとき、体得した悟りし法は、釈尊の上に存在する。
私達も自覚はしてないが、その法がなによりも、尊いのだと思います。
今は、良い意味での法としか言ってないけれども、
悪い事をしたら悪循環が生まれるのだから
良い法と、悪い法に分類される。
その法とは「正しい教え」と言えると思います。
悪い法の中に、染まらずに、混ざらずに存在するから
あたかも、泥のなかから、綺麗な花を咲かす蓮華のように。
「正しい教えの白蓮華」
>>957 自分もそうじゃないかと考えていたところです。
救済を主とする神や仏といえども因縁によって人間を侮辱
し痛めつけることもありえる中で、もしそれらの尊い存在が
尊いと考えられなくなった場合にその恨みや苦しみを抜ける
方法は、もはや自分の中にしかないと感じます。
お釈迦様は人間として生まれたから別です。
法身大日如来やその化身とされる仏様に心はあるか?ということを考えてもらいたかったんです。
大日如来に心があるなら霊的な存在、意思を持ったみえない人格的存在が実在する。といえるし、ないとするなら哲学的、概念的なもので
方程式を人の形に象徴して崇めているようで、なんだか味気ないなと思っただけです。
>>952 こころや意思がないならただの機械だよね。
大日如来=超精密機械?
ばっかじゃないの?
961 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 22:38
心と幽霊を混同するとは…
意志は…どうなんだろうね。
962 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 22:44
まっ、とりあえず
霊(幽霊)の話と諸尊の智慧や理の話は
分けて話そうよ。
963 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 22:53
>>959 >仏様に心はあるか?
無いはずがありません。自分の心と感応するのですから。
その前に、無かったら、我々の心は、法を超えた存在ではないですか?
仏様の心は大慈大悲と言われています。
大慈大悲とはどうなのか、語りつくす事が出来ないほどだといいます。
それが分かれば、悟りだと。
例えば、釈尊が法を恭敬したと言った時に
どうしても、こうだと強引に理解をしようとするものだと思います。
例えば、あなたのおっしゃる二通り。
1.完全な人格者。謂わば創造主
2.無機質で何でもない、方程式
この二つの考え方は、法を間違って理解をしてしまっていると
思います。なぜなら、
普通の頭で考えて、理解が出来たら、仏陀ですから。
宇宙の果ての外は、何があるんだと考えるようなものかも知れません。
だからこそ、最終的に釈尊の理解したようになれるように
様々な仏様、総じての大日如来と姿を現される。
964 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 22:54
どの仏から、法を理解するかは、人それぞれだと思います。
もっとも注意しなければならないのは、
釈尊が自分に法を見出したという事です。
自分を別個のままでは、法の理解から離れてしまいます。
その時点で偶像崇拝だと思います。
(例えば、創造主といって、像を崇める。自分とは完全に別)
自分と深く結びついている事を感じる必要があると思います。
逆に自分をおいて他にないものだと。
如来は、道を示してくださります。
その一つに大日如来あり、諸仏ありだと思います
>方程式を人の形に象徴して
これは、人が勝手に形にした訳ではなく、
実際に現された姿のハズです。
「きっとこうだ」と想像したのなら、偶像に他なりません。
自分でも分からないのです、そのようにお出ましになるのですから。
また、姿を取らない場合もあります。
論理的思考を超えています。
965 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/02 23:01
>>958 ニッコリ。
神をもっと手前に持ってくると
先祖であったり、両親であったり。
例えば「薬師如来」
病から救っていただける仏様ですが
薬師様が無機質(心が無い)とすれば「救う・救おう」と思われるでしょうか?
あくまで私見ですが、自分(凡夫)が救われたいと願う心と
薬師様に限らず仏様が「救う・救おう」と願う?事は、究極的には全くの等価だと思います。
これが最初から既に救われているとか
悟りへの種は既に蔵しているとかに繋がるのではないでしょうか?
己の心と大日如来の心は等価であるのが密教の大前提ならば
仏様を無機質とみたらその前提は全く無意味になってしまうでしょう。
967 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/03 00:11
968 :
北海大将智:04/07/03 00:20
みなさまのいう「霊」が大分、いわゆる「幽霊」的な捉え方から
神道的な「霊」に近付いてきましたね。私が執拗なまでに「霊」という
言葉を嫌ったのは自然現象の背後にある神秘的な「力」の存在を神道
では神々として捉える場合があるようですがまだ「幽霊」的な霊とは
分けて捉えない部分があります。外教もしかりです。しかし日本人には
八百万の神々という自然観がありこれらを純粋に仏教を見つめる場合かなり
の注意が必要なんです。
自然の背後にある力、「智慧の働き」を諸尊の加持力と捉えれば
大分、私が言いたい事と近くなります。
我々も諸尊も「地、水、火、風、空、識」の六大という智慧の働き
からその当体がなること、これは極めて人格的な捉え方なのであり
「凡聖不二」。つまり高い人格を有する「仏陀」歴史上の釈尊しかり
あらゆる如来しかりと我々凡夫が重なる所がなくては「救い」はないと
思います。
そして大曼荼羅、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、羯摩曼荼羅という四種の
曼荼羅として智慧の世界が相をなすこと、しかも羯摩曼荼羅という智慧
の働きが曼荼羅として開現していることは、この現実世界が実はその本質
が羯摩曼荼羅であることなんです。しかしこの世界=仏国土となるには
衆生がみな智慧の眼(密教眼)が開眼されなくてはなりません。
そのためには三密行という行用が必要であり客塵煩悩により妄想に覆われ
た我々凡夫は上記の条件をこの色身で満たす具体的な実践方法がなければ
身、口、意により輪廻の因となる業を作り続けてしまうのです。一般大乗
ではこのために経を読誦し菩薩行を行ない遥か成る時間を得なければ解脱
し成仏できないと説かれているのですが、密教では三密行という覚りを
得るための具体的実践方法でありその加持力により衆生を救済するという
具体的実践方法を以って「菩提心に通達すれば父母所生の身に速やかに大覚
の位を得る。」わけなんです。ちなみに『即身成仏義』をかなりおおざっぱ
に話させていただきました。
969 :
北海大将智:04/07/03 00:22
956さんー法は釈尊が示してくださいましたが、大自然自体が
法を常に示されている気がしてきます。私達は常に説法を受けている?
大日如来の説法は三世十方に常中説法 されているが衆生は煩悩を
取り除く具体的な方法として出家し三密行を行ない自らを大日如来の
聴聞者である金剛サッタであると観じてどの法を聞く事ができるように
なるというのが真言密教の立ち場であると私は思います。
957さんーその中、悟りし法は自分と比べると、遥かに尊いものでは無いかと!
その法こそが大乗仏教が起こる時に色身の釈迦を失った仏教徒が新たなる
真理として見いだした『般若経』で説かれる所の「般若波羅蜜多」であり
『法華経』の久遠実成の釈迦牟尼仏が各時代で覚りを得られた理由となる
ものであり、大乗に於いては真理の法そのものが法身として究極の理想的な
存在であり理仏であるとされるのを真言密教では六大からなる具体的かつ人
格的な説法する法身大日如来であるとします。
966ーあくまで私見ですが、自分(凡夫)が救われたいと願う心と
薬師様に限らず仏様が「救う・救おう」と願う?事は、究極的には全
くの等価だと思います。
金剛杵さん 弘法大師の加持の概念をかなり捉えられていますよ〜。
レスが進み荒れる時もありましたがみなさまの論議の内容がすばらしく
成ってきたとおもいます。
970 :
名無しさん@京都板じゃないよ:04/07/03 21:07
>「幽霊」的な霊とは分けて捉えない部分があります。
逆転の発想をするのならば、無常なるものを
無常の重ねあわせ、縁をもって常見とするのが煩悩の効果ならば
その霊というものを、幽霊のように見る事が可能ではないかと
私は思います。
というのも、霊と表現しているのは、我を持った自分が
大前提になっていると確信するからです。
我執を伴った世界ゆえに、世間、俗世間だと思うのです。
世間とは、「破壊される故に世間だ」と釈尊が仰ってますが
我があるから壊れる性質があるわけで
例えば、なにか大きな力が自分に働いていると感じますが
そう感じるのは、五蘊の内にあるハズです。
つまり、我執があるという証拠。
我と思うが故に、「働いている」と表現が生まれる。
無明の根本には、全く手が届いていないのだと愕然してしまう。
〜前<<
教学に長けている真言宗智山派に『智山教化資料 第21集 霊障問題を考える』という
ものが有ります。 だれかお読みになった方おられませんか?
高野山出版社にもそういう本があったような..
>>971 高野山出版社のは、村上先生の本のことですかね?
>970
言葉遊びでは?
有るは有る。無いは無い。そのままに受け止められないところが我執。
>>973 同感w
理屈こねてみてもしょうがないものに理屈をこねてるような・・・。
ついでに言えば「神学」ってこうやって発展したんだろうな、と思うw
>>972 わすれました。すみません。
>>972,
>>973 阿字本不生。それをいっちゃ〜おしめぇ〜だ!(w
総ての宗教は無から有を無理矢理作ってきたみたいに見えるし。
密教の教相・事相も各僧の独自の解釈で発展してきたため、
弘法大師が伝えたものとは似ても似つかないものまであるし...
もしかすると無じゃなく最初も有なんだろうけど、
わしら凡夫は愚かだからそれがわからん、判ったふりして
死ねばまた繰り返し。 三業六道を彷徨ってもまだ答えが出ないで
また自ら好んで輪廻の因業に絡み、釈尊のように悟ることが出来ん
ばかりか、大日如来の言葉も理解できない。
ああ、おらだめぽ。