1 :
名誉片山:
2 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 03:42
なんで無理に勧誘するのか
おのれの行動に自信がないから、いちいち誘うと思うんだけど、どうなんでしょう。
本当に自信があれば、誘わずともみんな付いてくると思うんだけど。
分けの分からん言葉でなく、一般の人にも分かりやすい言葉で述べよ
3 :
通りすがりの者です:2001/05/17(木) 03:45
>>1 ありがとうございます。>名誉片山さん。
しかし、これを立ち上げたのはトニーさんだったはずです。
>トニーさん。共々に1000万やりましょう!
明日は座談会です。がんばるぞ!
4 :
通りすがりの者です:2001/05/17(木) 03:46
>>2 こんばんは。
今後もよろしくお願いします。
5 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 04:05
>>3 質問していいですか。
以前は、800万票の壁があったと思います。
末端の会員はその壁を破るのに四苦八苦してました。
なぜ、いきなり1000万票なんですか?
単に、キリのいい数字で景気づけしてるだけなの?
6 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 04:38
学会独特の法則に乗っ取って計算されています。
続に言う800万進数ですね
800万の次は1000万になるわけです
↑メチャわらた。
レス、待ってた甲斐がありました。
あとでまた来ます。
8 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 04:58
>>3 戸田先生の御遺命であるとか。
たしか、人間革命第十二巻に出てたと思う。
目的としては、日本の1割を占める平和勢力としての連帯を具体的に示そうということですね。
口では簡単にいうが、これは大変なことですよね。
でも、せっかくの新世紀の戦いなんだから、同じやるなら勝ちたいものです。
それにしても、まったく未曾有の戦いですね。1000万。
まさに限界突破の戦いですね。
ともに題目あげて動きに動いてがんばりましょう。
なんか、ワンパターンな口調になってしまい自己嫌悪。
現場では、こんな単調な激励はしないのだが。恥ずかしい。
9 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 05:08
>>8 お前はバカか?
いい年こいてゲキョゲキョ?
いい加減、家族や世間に迷惑かけていることに気付け
学会員でいられる神経の異常さに気づけ
バカか?
10 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 05:10
8はある意味被害者だよね
可愛そう
学会はこういう人たちを生んでいるんですよ
まったく
これ以上不幸な人たちを増やさないでほしいとおもいます
11 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 05:11
1000万もいいけど
事件起こさないで暮れよな
無視するのも疲れるよ
12 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 05:13
とりあえず家に来るな
不自然な電話してくるな
座談会を理由に残業断るな
普通を履き違えてるぞ
13 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 05:15
いやらしい連中だ
14 :
5:2001/05/17(木) 05:30
>10 に激しく同意
末端の会員が、いくらがんばっても
800万票の壁は破れないけど
『安藤建設』『佐藤工業』『キンデン』・・・これってゼネコン?
等が利権がらみで票を取りまとめてくれれば、
1000万票ぐらい楽勝だよね。
15 :
5:2001/05/17(木) 06:00
↑ちなみに企業名は、『聖教新聞』『公明新聞』の
題字(?)の下あるいは右横に載せてた広告より
適当にピックアップしました。
今夜、また来ます。
16 :
如是我聞:2001/05/17(木) 06:20
うちの会社も取りたくない聖教新聞取らされている。
利権がらみで来るから断れないようでした。
(一度創価学会の仕事をしたことが有るそうだ。)
17 :
名誉片山:2001/05/17(木) 09:21
383 名前:政教分離名無しさん 投稿日:2001/05/17(木) 01:22
>379
広宣流布の戦いはまさしく自分との戦いじゃよ(藁
「こんなことして仏教となんの関係あるのかな?」と言う素朴な、
そしてまっとうな疑問という「魔」との戦いなんじゃ(藁藁
疑問を持つ自分との戦いなんじゃよ。
384 名前:通りすがりの者です 投稿日:2001/05/17(木) 02:03
>>383 >名誉さん、お久しぶりです。
ずいぶん、学会理解が進んでいますね。
びっくりです。(聖教新聞を読んでいるのですか?)
わたしも、今もなお「魔」と戦っています。
なかんずく「睡魔」とも戦っています(魔の十軍に「睡眠」とある>「大智度論」(竜樹)
広宣流布は魔との闘争であるとの理解に異論はまったくありません。
勝つと楽しいですよ。
>名誉さん、またよろしく。
*******************************************
通りすがり氏よ、頼むから皮肉を理解してくれ(T_T)
18 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 09:28
>>8は人間革命に書いてある事が全部事実と思っているDQN
19 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 10:08
http://www.toppa.org/bbs/_msgs/000002e7.htm 自民・公明は、選挙制度を変える。来年それを強行する。都市部の不利な小選挙区を廃止して2名区にするのだ。自民・公明は政権を死守するため何でもする。それを多数派の今、強行する。自公には政権を死守しなければならない理由があるのだ。
自民は経済恐慌の影を予感し、その混乱にも『利権』を握り続けたい。公明は組織防衛のため『司法』を支配したい。
これについての簡単な意見キボー
20 :
名誉片山:2001/05/17(木) 11:01
ゲリマンダー(藁
21 :
政教分離名無しさん:2001/05/17(木) 21:03
あげ
22 :
ドラポンタ:2001/05/17(木) 23:43
>>8 >日本の1割を占める平和勢力としての連帯を具体的に示そうということですね。
アホか。そんなもん示さんでいい。目障りなんだよ。
公明党が与党にいる時点で世界の恥なんだから、これ以上ムダなアピールはやめろ。
聖教新聞も、自分たちだけで読む分には許容できるが、興味のない人にまで購読を強制するのは紙のムダだからやめろ。
これは、創価が憎たらしいから言ってるんじゃない。何事も自分の身の丈を考えろってことを言いたいんだよ。
23 :
名誉片山:2001/05/18(金) 00:09
24 :
政教分離名無しさん:2001/05/18(金) 00:30
名誉か田山かどっちだ?
25 :
政教分離名無しさん:2001/05/18(金) 00:56
名誉か田山かどっちだ?
26 :
政教分離名無しさん:2001/05/18(金) 01:04
何故、学会の人間は、批判を誤解と言いきるのか?
くそ学会員
28 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 00:07
お久しぶりです。>名誉さん。
ギャラリーが大勢いますね。
>>17 当然です。むしろ、わたしのほうが皮肉がきつかったかもしれません(ウソ)。
しかし、それだけの皮肉は名誉さん以外にはなかなかいえないのではないでしょうか。当然、知識も要りますし。
>>23 読みます。
29 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 00:29
>>23 その3までざっと読みました。もうすこし精緻に読む必要もあると思いますが・・。
名誉さんの問いたいことは、「宇宙生命論の根拠とはなにか」ということでしょうか。
30 :
名誉片山:2001/05/20(日) 00:34
>>29 違うぞい。
よく読んでもらうしかないのう・・・
31 :
大王蛇:2001/05/20(日) 00:38
>27
せめて「地獄に落ちた“地獄”」にしたらどう?
「地獄に落ちた地獄」じゃワケワカメですがな。
32 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 00:57
名誉さんのこだわっている部分は、わたしとしてもなんとなく解るような気がします。
皮肉でなく、名誉さんは仏法理解のセンスはもっていらっしゃいますよ。
ただ、信心している当事者としての意見としては、学会教学=ブラフマニズムという定義は、相当に実感から遠く、無理があるかなという気がいたします。
そのあたりを、今後は検討してみたいと思っていますが、如何でしょうか。
まあ、わたしには、あのような理論家の方々のようなお話は到底できないと思いますが。あくまでも、わたしは創価学会の信仰を実践している者として発言しております。
明日は交流です。思う存分に友好の輪を広げてきます。
「拡大」この一点に集中します。
皆さん、よろしくお願いします。
わたしたちは、山本かなえさんを応援しています。
http://www.y-kanae.net/ http://www.y-kms.net/ それでは、また。>名誉さん。
33 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 00:58
34 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 00:59
35 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:11
>>32 実践を重視して信仰を重んじることはよいことじゃと思う。
しかし、議論する上で理論を避けては通れん。
あそこでは、Libra氏・三吉氏以外に大した理論派はおらん。
つうか、ワシも含めてみんな素人じゃ。
それでも議論はしておる。無い知恵を絞ってのう・・・
もし、通りすがり氏が学会教義の哲学的真理性を一般人に主張したいなら
理論を避けては通れんのじゃ。
「やってみれば分かります」ではあまりにも幼稚な発想じゃ。
インチキ自己啓発セミナーの常套文句じゃよ(藁
三色旗君以上の理論武装をするか、或いは議論を放棄して討論の場から
立ち去るか、いずれかじゃ。
現実世界に参加を求める以上、討論は避けられん。
ワシは、現実世界に参加せん方がいいと思うがの。
36 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:15
>>34 もしかして、おぬしは理解力が低いのか?
皮肉じゃないが・・・
一回読んで分からんなら、二回読めばよい。
一言でいうと、学会の教義は「信仰」宗教であって、釈迦仏教とは
全く関係がないということじゃよ。
37 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 01:15
>>35 もう参加してしまっています(笑い)。
名誉さんは、「空仮中の三諦」はご存知でしょうか。
学会教義ではポピュラーなものですが、先述の方々は取り上げられていませんでした。
38 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:18
>>32 >学会教学=ブラフマニズムという定義は、相当に実感から遠く、
無理があるかなという気がいたします。
そのあたりを、今後は検討してみたいと思っていますが、如何でしょうか。
それを繰り返したくないから、わざわざ
>>23のURLを貼りつけたんじゃ!
39 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 01:18
>>36 教学的には釈迦仏法との関連は当然あります。
釈尊と日蓮との関係が問題ですね。
40 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:19
41 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:21
>>39 原理が異なる。言葉が似ておるだけじゃ。
繰り返したくないのう・・・
とりあえず、
>>23でしておらん議論をしてくれい。
42 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 01:23
>>38 わかりました。
しかし、名誉片山さんが釈迦仏法に固執される理由は、あまりないのではないですか。
43 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:25
>>37 ワシの主張は、「釈迦仏教との整合性」がポイントじゃから、
どんな理屈を持ち出しても縁起説・無我説との整合性を求めるぞい。
44 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:30
>>42 あるぞい。
釈迦仏教は「信仰」宗教ではない。
デカルトやカントと同じ哲学じゃ。
理解するものであって信仰するものではない。
「信仰」宗教と釈迦仏教は別者じゃ。
学会員はそこのところをごまかして、自己の教義の真理性を一般人に
主張するのが気に食わんだけじゃよ。
これも
>>23で言うてある。
>>23をとりあえず熟読してくれい。
45 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 01:37
>>40 わたしの理解する範囲でよろしければ、すこし説明させていただきます。
「空諦」「仮諦」「中諦」のことですが、これはとりあえず3つに分けてますが、本来ばらばらのものではありません。念のため前置きしておきます。
説明というより、アナロジーになりますが。
「仮諦」は仮和合ともいいますが、あらゆるものが因縁によって仮に和合しているということです。
水で例えますと、摂氏零度以下で固体となり「氷」という現れ方になり、温度が上昇すると液体の「水」に、摂氏百度以上で気体となり「水蒸気」としての現れ方を示します。
当然、分子結合の有り様が異なるわけですが、このような現象は確かに現実に認められる「事象」ですから、それをひとつの真理として認められます。
現象として現れた相を認める。これが、「仮諦」にあたると思います。
46 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:40
>>45 読むからあせらんで書いてくれい。
眠かったら今度にしてもいいぞい(藁
47 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:50
落ちる。またな>通りすがり氏
48 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 01:54
「空諦」は、あらゆる存在はすべて因縁によって起こりまた消えるのであって、その本性は空であるということです。
このあたりは、名誉さんの得意の分野ではないですか?
ただ、この空観は、いわゆる釈迦仏法(というか小乗)のそれとは異なることをお断りしておきます。
また、水で例えますと、水の本性といっても、熱を与えれば「湯」から「水蒸気」へと変化し、それが持つ性質も変化します。
「水」を掛けると濡れますが、「氷」を投げると相手が怪我するかもしれません。
つまり、水といっても因縁(温度・圧力など)によってさまざまな性質が生滅するのであり、他の事象との関係をはずした上で措定すべき本性というものは空であるということになるでしょう。
存在するものの性分は関係(因縁)において変化するものであるがゆえに実体はない、空である。これを認めることが「空諦」になると思います。
49 :
名誉片山:2001/05/20(日) 01:58
言い忘れたが、
>>23を読むとき、Libra氏の引用する論文の抜粋も
ちゃんとよまんといかんぞ(藁
そんなに簡単には読みこなせんがのう(藁藁
50 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 02:01
>>46 ご配慮ありがとうございます。
実際眠いのですが、もう少し頑張って書いてみます。
ただ、このような法門を徒手空拳で説明するというのは、我ながら危険なことをやっているなと思います。
もし変な所があれば、遠慮なく指摘してください。
51 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 02:40
最後の「中諦」ですが、これは中道ともいいます。名誉さんがこだわっておられるのはここだと思っていたのですが、先ほどのお話では違うということですね。
また、水ですが、これは先述のように「氷」になったり「水蒸気」になったり、さまざまな相を現します(仮諦)。
性分も変化します(空諦)。しかし、これらの変化する性分とさまざまな現象を、「水」という存在に帰結させることができるでしょう。
目に見えない状態の「水蒸気」も水であり、液体として流れゆくものも水であり、凝固した氷も水である。H2Oとして、不変であるといえます。
この水としての本質というものを認めることが、「中諦」にあたるのではないでしょうか。
存在としての本質を認めることが、「中諦」ではないか。
人間の生命に話をもっていくと、肉体の姿・行動の現れは「仮諦」、その内面の性分、精神面にあたるのが「空諦」、そしてその人間の生命それ自体が「中諦」にあたるわけです。
繰り返しますが、この「三諦」はばらばらにあるものではなくて、真理を三つの方向から解明したものです。ひとつの真理(法華経方便品の諸法実相にあたる)を三様に説いたものであって、もちろんすべて真理ではありますが、それらを独立したものとしてとらえるのではなく、
「あらゆるすべてのものが空仮中の三諦を具えた当体である」ととらえていくことが、いわゆる「円融の三諦」であります。
52 :
通りすがりの者です:2001/05/20(日) 02:50
ここまでの話は、まだ天台の範疇で、ここで止めるのはいささか心外なのですが、もはや時間がありません。
われわれ創価学会員は、日夜朝暮に日蓮大聖人の顕わされた三大秘法の御本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えるときに、自然に我が身の「三諦」が即「無作三身」とあらわれるのです。
これが結論となります。途中の過程は次回にゆずります。
それでは、また。>名誉片山さん。
今週は大いに戦ってまいります。
戦うのがわたしの健康法(ロマン・ロラン)ですので。
おやすみなさい。
53 :
名誉片山:2001/05/20(日) 03:31
>>45-51
その話しは、
http://page.freett.com/Libra0000/link_log_08.html [1683] チーズはどこえ消えたか? 投稿者:かつや 投稿日:2001/03/17(Sat) 14:34
で、既にかつや君から聞いておる(藁
かつや君は中途半端になんかの本を写しておるもんで
分かりにくかったがのう(藁藁
通りすがり氏の説明は理解できるぞい。
「仮諦」「空諦」を認識することによって「中諦」の認識に至る、
とでも言うのかのう・・・
釈迦の縁起説・無我説と矛盾しておるとも思わん。
問題は次の部分じゃな。
>人間の生命に話をもっていくと、肉体の姿・行動の現れは「仮諦」、その内面の性分、
精神面にあたるのが「空諦」、そしてその人間の生命それ自体が「中諦」にあたるわけです。
人間存在の「中諦」を人間の「生命」と呼ぶにしても、その「生命」
に、学会得意の「永遠性」を読み込むことは無理じゃろうな。
そもそも釈迦の無我説とは、人間存在そのものを否定する考えではなく、
人間存在の根底(背後)に存在するとバラモン教で考えられていた、永遠不滅の
アートマン(我)を、ドクマとして排除することにあったんじゃからのう。
「生命」は存在する。しかしそれとて関係性の中でのみ存在するものであり、自性の
存在足り得ない。無常の存在である。「永遠の」生命は存在しない。
釈迦仏教の発想からすれば、こうなると思うがのう(藁
54 :
名誉片山:2001/05/20(日) 07:09
55 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:16
>>54 こんばんは。交流から帰りました。
>名誉さん。本当にお久しぶりです。
曽我さんの論文読ませていただきました。
大変よくわかる話です。
56 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:18
>>54 曽我さんの問題意識は、観念されたものとしての「法界縁起」が「悪しき発想を導くもの」となる可能性があるということにあります。
まったく、そのとおりだと思います。
仏教というのは、つねにこの部分で格闘しています。
57 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:19
>>54 「仏教の思想5絶対の真理<天台>」(田村芳朗・梅原猛)にも、そのへんの事情が書かれています。
(参考のため、すこし引用させていただきます)
梅原:(天台の「法華三大部」に関して)魂の実体とか、そういうカテゴリーはないのですか。
田村:ないですね。そういう実体観は強く戒められていますからね。ただ、それが華厳には若干でてきます。
梅原:如来蔵思想になると出てきますか。
田村:「涅槃経」にはそれが出ていますが、しかし、そうなると仏教本来の立場に反するのではないか、ということで弁明をつけ加えるわけですね。たとえば如来蔵は我だ、大我だなんてことをいい出します。ところがウパニシャッドに見える実体説などと同じではないかという疑問がおこる。そこでまた空をもち出して、そうではないのだというのです。けれども、客観的にみれば相当に実体説が出てきますね。だからたえず弁明をくりかえすのです。
梅原:実体論というのは、魂の不死とつながっているでしょう。ヨーロッパではそうですね。仏教のほうだとこれが因果でしょ。だからたえず生死の問題になる。永遠の生というのは考えない。道元あたりも一種の外道の説だとして、魂の実体説をしりぞけていますね。
田村:身滅心定説だとして否定していますね。
梅原:そういう論理的カテゴリーまでが、仏教の基本的な死生観みたいなものを反映している。それがおもしろいと思いますね。
田村:それは仏教の思想史の底をずうっと流れてきていますね。だから実体的な説が出ても、そのあとで、すぐことわり書きをつけるというわけです。
58 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:20
>>54 これは、「華厳経」「涅槃経」に対してのお話ですが、このように仏教のスタンスというのは、どこまでもドグマになりそうなところでそれを否定していくというスタンスをとるわけで、天台も、中国の格義仏教の「空」を「無」と同一視して実体化する誤りに対して異を唱えるところから始まった「仏教批判」としての仏教だったといわれています(上掲書より)。
仏教に限らず宗教の本質とは、とりもなおさず「宗教批判」であり「宗教革命」であると考えられます。これは、創価学会員であるならばご理解頂ける認識だと思います。
また、「永遠の生命」も、学会教義としては当然ながら、観念の上でそれを実体視するような考え方をとりません。
もともと天台教義にないのですから、日蓮大聖人の仏法にはもちろんありませんし、ましてや学会教義には当然ないのです。
59 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:21
>>54 ただ、少し気になるのは、名誉さんの釈迦仏教理解であるところの、「(生命は)無常の存在である。「永遠の」生命は存在しない」という展開が、名誉さんご自身の「断見」(生命が死によって無に帰するという生命観)がベースになっているように感じられることです。
「断見」は「定見」とともに、仏教(なかんずく釈迦仏教)では否定されています。あたりまえですが。(「見」とはこの場合、イデオロギーとみなしても良いかもしれません)。
名誉さんの釈迦仏教理解は、ご自身の「断見」を克服されない限り、曽我さんのそれとはやや質的に異なるように思われるのですが。
あくまでも、我見を排してものを見るというのが仏教の態度です。
>58
日蓮仏法に永遠の生命(三世の生命観)といてないんですか??
61 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:23
>>54 > 釈迦仏教から見れば、学会教義は外道、
> 学会教義から見れば釈迦仏教は外道じゃな(藁藁
この理解は残念ながら誤謬であるといわざるを得ません。でも、学会教義を外道として蔑まれることは、法華経勧持品に説かれているとおりなので、むしろ悦ばしいことなのです。
(そうすると、名誉片山さんは道門増上慢に該当してしまいますが)。
今後は、お互いに偏見を捨てた上で、もう少し歩み寄った地点からお話しをしたいと思っております
62 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:24
63 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 01:25
>>60 挨拶が遅れました。こんばんは。はじめまして。
64 :
60:2001/05/26(土) 01:26
>62
あほに分かるようにご説明希望
65 :
60:2001/05/26(土) 01:26
あっ、すいませんはじめまして!
66 :
60:2001/05/26(土) 01:57
通りすがりの者さんへ
もし、レスをしていただけるのなら、
後日確認いたします。
67 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 02:06
>>60 大聖人の言葉に「生死をみて、嫌い離れるのを「迷い」といい、「始成正覚」というのである。一方、本有の生死(本来、永遠にある生死)と知見するのを「悟り」といい「本覚」というのである。今、日蓮と門下が南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、「本有の生死」であり「本有の退出」であると悟るのである」とあります。
この文について、池田名誉会長は、「法華経の智慧」でこのように述べています。
「釈尊の仏法の場合は、「永遠の大生命」のほうに目を向けさせようとするあまり、「生死を離れよう」という傾向性を、まだ残しているとも言える。
しかし、大聖人の仏法では、その「永遠の大生命」に基づいて、「本有の生死」を生き、「生死即涅槃」を実現していくのです。
「(戸田先生も)「一心欲見仏 不自惜身命」であった。ならば自分も「一心欲見仏 不自惜身命」で生きていこう、と。これが寿量品の心です。この師弟の継承がなければ、「永遠の生命」といっても抽象論になってしまう。ただの「理」になってしまう」と。
師匠の心を我が心として、世界の平和と一切衆生の幸福のために広宣流布へと戦うなかに、自身の胸中に永遠の生命が現れるということだと思います。
所詮、現実の中で信心根本に戦いきっていくなかに「永遠の生命」はあるのではないでしょうか。
「永遠の生命」とは、現実の善なる「行動」の中にこそ現れる。また、現実に力強く生きて「今世」を勝利していくことが、「三世(永遠)」の勝利になるのです。また、そのための仏法なのです。
日蓮大聖人の仏法は、人々に観念の「永遠性」を希求させる仏法ではなく、現実をどこまでも(ここにこそ「永遠性」がある)力強く生ききって行く力を人々に与える仏法なのです。
わたしは、以上のように理解しています。
また、ご意見をお寄せ下さい。
よろしくおねがいします。
68 :
名誉片山:2001/05/26(土) 02:14
>>58 >「永遠の生命」も、学会教義としては当然ながら、観念の上でそれを
実体視するような考え方をとりません。
意味がわからん。撤回するのか?
縁起説・無我説は「化導」ではな言というのか?
>>59 これは分かりやすく単純化していったまでじゃ。
「永遠の生命」などは考えない、と言うこと。
「非」我説に近いな。
>>61 >この理解は残念ながら誤謬であるといわざるを得ません。でも、
学会教義を外道として蔑まれることは、法華経勧持品に説かれていると
おりなので、むしろ悦ばしいことなのです。
誤解かどうかは上の説明が筋が通っておるかどうかにかかわる。
筋が通っておらんのなら、おぬしの我見じゃろ(藁
それにワシは「外道」と言う言葉に蔑みの意味は込めとらんぞ。
「違う考え」と言う意味でつこうとる。
おぬし自身も釈迦の教えを「化導」と断言したではないか。
それが本来の教えとは違うと言う意味なら、釈迦の教えは外道じゃろ。
逆もまた真なりじゃ。
69 :
名誉片山:2001/05/26(土) 02:19
>>67 その「永遠性」は自性的なものか否かが問題じゃろ。
結局どっちなんじゃ?
70 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 02:48
>>54 仮に名誉さんの仏教理解が「断見」を免れたものであったとして、上記の「永遠の生命観」(観念にあらず)に対してどのように反応されるか、わたしは興味があります。
また、ただ「空」のみに執着することを「但空の理」といって、これも天台では否定されています。
「「空」とは、存在するものは滅び、無に帰するものとして、その本質は無である」ということをいったのではない。そのような無の考えは、やはり一種の執われた固定観(我見)である」
「不変不滅のものがあるとする考えが、定見・有見として破せられるとともに、すべては変滅して無に帰するという考えも、定見・有見の裏返しとして同領域・同次元の迷執の考えであり、断見・無見と評される。無を固定視したもので、やはり我見である」
(前掲の「仏教の思想5」より)
名誉さんの「科学的」という表現も、「但空の理」でしか仏教を理解しないとの態度表明のように感じられてなりません。
わたしは、曽我さんと同じく「中観」に関心を持つものですが、その論理の驚異的なまでの精緻さは、ひとえに小乗のドグマを破するためにあったことを改めて想起すべきだと思っております。
今後ともよろしくお願い致します。>名誉さん。
おやすみなさい。
71 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 02:50
>>69 あ、しまった。来られてたのですか。
こんばんは。
72 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 02:55
>>68 「外道」という言葉を誤解しておられます。
前に、「儒教」と「仏教」の違いを説明したときに使ったと思うのですが。
簡単に言えば、生命の「外」に因を求めるのが「外道」、「内」に求めるのが「内道」です。
上記の相対では、「仏教」は「内道」、「儒教」は「外道」となります。
73 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 03:05
>>72 げどう(‥ダウ)【外道】
1 仏語。@仏教者が仏教以外の教えをいう語。また、仏教以外の宗教を信奉する者
をさす。外学。外教。異教。*狭衣‐二「げだうの娘にも仏ははかられ給はざりけ
るものを」A仏教内の小乗などをいう。内外道。
2 真理にそむく説。また、それを説く人。邪道。*観智院本三宝絵‐中「汝(なん
ぢ)はこれ外道なり」
3 厄災をもたらすもの。悪神。悪魔。*黄・桃太郎発端話説「悪魔外道(ゲダウ)
を一纒めになして」
4 悪魔やばけものの姿をした仮面。また、その仮装。
5 人をののしっていう語。「人でなしの外道め」
6 釣りで、目的の魚以外に釣れる別の魚。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ
Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988
********************************
ワシは1の意味じゃな。誤解とは思わん。
74 :
60:2001/05/26(土) 03:08
心地観経「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」
御義口伝「無(空の意)も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振る舞いなり・・・されば
無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり」
>世界の平和と一切衆生の幸福のために広宣流布へと戦うなかに、自身の胸中に永遠の生命が現れるということだと思います。
>所詮、現実の中で信心根本に戦いきっていくなかに「永遠の生命」はあるのではないでしょうか。
>現実の善なる「行動」
これらの戦いきる、又善なる行動とは、この仏法を疑いなく信じると事ととらえて
よろしいですね?その事によって「永遠の生命(観)」が現れる。
つまり生命の奥底から「三世の生命観」を実感できるということでしょうか?
私は、過去世も来世もあるかどうかわかりませんがそうとらえて現世をより充実
させて行こうととらえています。来世がないと思えば先の事を考えない生き方を
してしまいそうです。過去世がないと思えばコンプレックスや悩みを真正面から
受け入れようとしないと思います。
ただ大聖人が最も望まれた事は現実を力強く生きる、勝利していく事を訴えられ
たかったというのは理解できます。ですので先ほど過去世が〜云々と書きましたが
宿業論を持ち出すような悲観的な生き方をする気は全くございませんし。。
>「生死を離れよう」という傾向性を、まだ残しているとも言える。
結論としてこの部分が大きく違うってことですね!
なかなか学生部っぽくて、それそのもの(現実の中に永遠の〜云々)が観念的に
とらえられてるように思ってしまいました。。すいません
ありがとうございました。
75 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 03:08
>>70 まず、
>>68-69に答えてくれ。
それから通りすがり氏よ、あんまりクソ丁寧な言葉遣いは止めてくれ。
フランクにゆこうや(藁
76 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 03:17
>>70 チラッと読んだが、ワシャ「空」を「何もないこと」と言った覚えは
無いがのう(藁
本質を考えない考え方、みたいなもんじゃろ?
ドグマを排する考え方はまさに科学的じゃろ。
ドグマを排する、イデオロギーを排すると言う思考形式を「科学的」
と表現したんじゃ。
77 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 03:28
>>69 >その「永遠性」は自性的なものか否かが問題じゃろ。
>結局どっちなんじゃ?
どっちかになれば、「有無」に偏するのではないですか?
「無自性」というのは、老荘の「無」(これ外道なり)と同一ではありません。
「無から有がでてまた無にかえる」という思想は、仏法ではありません。老荘思想です。
「永遠の生命」も、理の上では「三諦」(三身)でいうところの「中諦」(法身)にあたるとはいえ、それのみで存立する概念ではなく、三諦(三身)がすべて備わってはじめて成り立つ「真理」であります。
智慧(知性)=信心と、現実行動(慈悲の振る舞い)=折伏、があってこそ、真実(人間主義の仏法)=創価学会の正義があるのではないでしょうか。
ゆえに、永遠性といい普遍性といっても、「抽象」されたものではなく、あくまでも「具体的」なものとして捉えていくべきだと思います。
それ以外の論議は、まさに釈尊が否定した観念の遊戯に堕する恐れがありましょう。
仏法は何のために説かれたのか。「永遠の生命」は何のために説かれたのか。
一度は、このことに深く思いを致してみるべきであると思います。
そして、われわれ創価学会員はその目的観を明確に持って信仰し行動しているということも、知っていただきたいとおもいます。
78 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 03:42
>>74 こちらこそ、ありがとうございました。
質問していただいたことで、自分の考えがより明確になったように思います。
わたしも、三世の生命観を信じるものとして発言したつもりでしたが、「バラモン教」と同一視されるのを警戒するあまり、ことさら理屈っぽい書き方になってしまったようです。
確かに信心は理屈ではなく、あくまでも信じるものですから、あまり観念的に詰めていって何か変な方向に行くのもどうかと思っています。
わたしは、少し観念的な傾向があるのかもしれませんが、がんばって組織の戦いでも結果を出していきたいです。
これからも、ご指導よろしくお願いします。
ありがとうございました。
79 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 04:16
>>76 >チラッと読んだが、ワシャ「空」を「何もないこと」と言った覚えは
>無いがのう(藁
>本質を考えない考え方、みたいなもんじゃろ?
>ドグマを排する考え方はまさに科学的じゃろ。
>ドグマを排する、イデオロギーを排すると言う思考形式を「科学的」
>と表現したんじゃ。
本質を考えない考え方だけだと、偏頗な考え方になってしまうと思いますよ。
「生命」という概念も「永遠」という概念も、人間存在に関わる本質的概念ではないですか?
それが、どのように人間生活の上で「生きて」いるかが問題なんだと思います。
「永遠の生命(三世の生命)」は、わたしも信じていますよ。
でも、死んだことないし(笑い)、死後の世界なんて考えたこともないんですよ。
未来世のために、今世を頑張ろうと思うだけです。
まさに、
>>60さんの仰られるとおり、「現世を充実させるために」信じているのです。
でも、未来世についても今から予定を立てておいたほうがいいのかな?
まだ若い(つもり)なので、なかなかそこまで発想が及ばなくて・・。
おやすみなさい。
80 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 04:24
>>60さんのご意見は、
>>74に書かれています。
ああ、もっと信心強盛になりたい。
観念的なのは、やだよー。
さらなる唱題を決意。
「馬鹿」が「りこう」になる唯一の道だ。
信心より凄い智慧は無いのだから。
この傾向性を良い方に転換するために、祈ります!
81 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 04:35
>「馬鹿」が「りこう」になる唯一の道だ。
>信心より凄い智慧は無いのだから。
世に盲信の 種は尽きまじ
82 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 04:48
>>81 こりゃ!せっかく一生懸命に説明してるのに、チャント読まんか(藁
少なくとも盲信とは違うぞ。
83 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 04:53
>>81 おはようございます。
前に書いたやつも読んでくださいね。
では、さようなら。
84 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 04:56
>>82は間違っても名誉さんではないですよ。ついコテハン入れ損ねた。
85 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 05:04
盲信と言われ、狂信と言われ、非科学的と言われ続けてもなおも懲りずに書いています。
まあ、今後もよろしくお付き合いください。
86 :
政教分離名無しさん:2001/05/26(土) 05:05
ま、がんばれ
87 :
如是我聞:2001/05/26(土) 06:04
1)よ 誤解がぜんぜん解けないな。
どんどん深まっているのみだ。
88 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 06:21
>>87 おはようございます。>如是我聞 さん。
> 誤解がぜんぜん解けないな。
> どんどん深まっているのみだ。
「誤解をときたくて名乗り出た」のは、トニーさんです。
わたしは、その名の通り「通りすがりの者です」。
この辺の事情は、>幽霊学会員さんや、>Arexさんならご存知でしょうが。
まあ、わたしとしては理解も誤解も「どんどん深」めていけばよろしいかと思っています。
ちなみにPart3の名付け親は、>名誉片山さんです。
その名を付けた意図は、しかとは存じ上げておりませんが、単なる続編ということではないでしょうか。
今後もよろしくお願いします。
89 :
名誉片山:2001/05/26(土) 07:37
>>74 >どっちかになれば、「有無」に偏するのではないですか?
「無自性」というのは、老荘の「無」(これ外道なり)と同一ではありません。
「無から有がでてまた無にかえる」という思想は、仏法ではありません。老荘思想です。
縁起説を肯定するのが釈迦の教えじゃろ。それについて否定するなら釈迦の否定じゃろ。
無自性とは「無から有が出て・・・」と言う考えじゃあるまい。
関係性が無く存在するものは無いと言う考えじゃろ。
老荘思想と似とるのかもしれんがワシは老荘思想を知らん。
やはり、
>>69の問題は残るのう。
>仏法は何のために説かれたのか。「永遠の生命」は何のために説かれたのか。
「永遠の生命」が縁起説に乗っからんものなら釈迦の教えではないと言うのがワシの
考えじゃ。
>そして、われわれ創価学会員はその目的観を明確に持って信仰し行動している
ということも、知っていただきたいとおもいます。
どんな目的を持とうがその宗教の勝手じゃ。ワシはただの一度も否定したことはない。
そのことは問題ではない。
90 :
名誉片山:2001/05/26(土) 07:44
>>79 >本質を考えない考え方だけだと、偏頗な考え方になってしまうと思いますよ。
「生命」という概念も「永遠」という概念も、人間存在に関わる本質的概念ではないですか?
それが、どのように人間生活の上で「生きて」いるかが問題なんだと思います。
本質にとらわれると偏頗な考え方になってしまうこともあるわい(藁
「これが正義だ!」と本質を捉えた「つもり」になることは非常に危険じゃろ?
>「永遠の生命(三世の生命)」は、わたしも信じていますよ。
でも、死んだことないし(笑い)、死後の世界なんて考えたこともないんですよ。
未来世のために、今世を頑張ろうと思うだけです。
まさに、
>>60さんの仰られるとおり、「現世を充実させるために」信じているのです。
大いに信じればええ。しかし、ワシは信じんよ(藁
何度も言わすな。
>>80 >「馬鹿」が「りこう」になる唯一の道だ。
信心より凄い智慧は無いのだから。
この傾向性を良い方に転換するために、祈ります!
もっとバカになっとるかもしれんぞ(藁
91 :
名誉片山:2001/05/26(土) 08:01
>>77 >永遠性といい普遍性といっても、「抽象」されたものではなく、あくまでも
「具体的」なものとして捉えていくべきだと思います。
それ以外の論議は、まさに釈尊が否定した観念の遊戯に堕する恐れがありましょう。
どう考えてもかまわんが、自性的なものか否かを聞かせてくれ。縁起するものか否かを。
老荘思想の話は聞いておらん。
>>69の問題が重要じゃ。
92 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 08:31
>>89 おはようございます。
>縁起説を肯定するのが釈迦の教えじゃろ。それについて否定するなら釈迦の否定じゃろ。
>無自性とは「無から有が出て・・・」と言う考えじゃあるまい。
>関係性が無く存在するものは無いと言う考えじゃろ。
それだけに止まると、「但空」になってしまうのです。「無自性」が縁起説の帰着点ではないのです。
それを言いたくて、三諦論(空・仮・中)を出したのですが。
>老荘思想と似とるのかもしれんがワシは老荘思想を知らん。
中国では、はじめ「空」は老荘風に理解されたようです。
自分流の理解に仏教を引っ張ることは、「我見」につながります。
危険ですね。
>「永遠の生命」が縁起説に乗っからんものなら釈迦の教えではないと言うのがワシの
>考えじゃ。
縁起説も、それに囚われ過ぎると単なる主知主義になってしまうと思うんですけどね。
釈迦の教えにある「涅槃」も、主知的に捉えられたものではないですし。
仏教って、観念論に偏ってはいないんですよね。縁起説の「空」の教えのみに執着するのも一種の「観念論」じゃないかなあ。
それに、「永遠の生命」といっても、時間についての実体的な考え方をいうのではありませんよ。
「仏教哲学大辞典第三版」で、「三世一念」をひいてみました。
一瞬の生命に、過去、現在、未来を具えていること。三世とは過去世、現在世、未来世をいう。
一念は一念心ともいい、瞬間瞬間の生命、一切法として展開する生命の究極存在をいう。
(長いので、分けて書くことにします)。
93 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 08:37
生命といっても瞬間の連続であって、瞬間以外に生命の実在はない。
今、その瞬間と思ったときは、直ちに過去となり、未来と思った瞬間は、現在となり、直ちに過去となる。
この瞬間の生命こそ真実の存在であり、人はこの瞬間に幸福を感じ、不幸を味わい、希望を持ったり、失望したりする生活を送るのである。
94 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 08:43
また、この一瞬の生命に因果を具している。
過去のあらゆる行業、あらゆる行動の集積が因となって現在を規定し、現在に結果として現れている。
また、現在の行動が因となり、未来に果を生むのである。
現在を離れて未来はなく、未来は現在の瞬間の一念によって決定づけられていくのである。
95 :
名誉片山:2001/05/26(土) 08:45
>>92 >それだけに止まると、「但空」になってしまうのです。「無自性」が縁起説の帰着点ではないのです。
それを言いたくて、三諦論(空・仮・中)を出したのですが。
ならば三諦論(空・仮・中)は釈迦仏教とは関係無いんじゃろ。
>中国では、はじめ「空」は老荘風に理解されたようです。
自分流の理解に仏教を引っ張ることは、「我見」につながります。
危険ですね。
おぬしは学会流に仏教を引っ張っておるんじゃろ?(藁
それが危険とは思わんが、ワシは信じんだけ(藁藁
>縁起説も、それに囚われ過ぎると単なる主知主義になってしまうと思うんですけどね。
釈迦の教えにある「涅槃」も、主知的に捉えられたものではないですし。
仏教って、観念論に偏ってはいないんですよね。縁起説の「空」の教えのみに執着するのも一種の
「観念論」じゃないかなあ。
だから、縁起説にとらわれない仏教を否定しておらんと言うとるじゃろ?(苦笑
そう信じたきゃ信じればいい。しかし、信じない人間には意味が無い。
ワシは縁起説から説明のつくものを釈迦仏教と呼び、それは一般人にも
理解が出来ると言うとるまでじゃ。
>それに、「永遠の生命」といっても、時間についての実体的な考え方を
いうのではありませんよ。
そんなことはどうでもいいんじゃ。
>>69。
>「仏教哲学大辞典第三版」で、「三世一念」をひいてみました。
学会の公式見解じゃろ。
それをおぬしらが信じることに問題はない。
またまた同じこと。
96 :
名誉片山:2001/05/26(土) 08:49
縁起説に変なもんくっつけるなよ(藁
97 :
名誉片山:2001/05/26(土) 08:51
>>93-94
学会の宣伝をしておるだけ。
仏教は観念論ではないと言うのなら、議論なんか止めたらどうじゃ?
98 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 08:57
日蓮大聖人はこの瞬間の一念の上に永遠の幸福を確立する方途を示された。
「総勘文抄」には「過去と未来と現在は三なりといえども一念の心中の理なれば無分別なり」(526)と説かれ、
また「御義口伝」には「所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(788)と仰せられ、
「本因妙抄」には「久遠一念の南無妙法蓮華経」(871)と述べられている。
以上、「仏教哲学大辞典第三版」に書かれている「三世一念」についての説明でした。
これは、ご質問いただいた学会員さんのご理解と同じですよね。
大変勉強になりました。
99 :
名誉片山:2001/05/26(土) 09:00
>>98 何で関係の無い話を延々とするんじゃ?
意図は大体分かるが(藁
釈迦の縁起説・無我説を「化導」と言い切ったあの発言は撤回するのか?
そう言うのを「うなぎ問答」と言うらしいぞい(藁藁
100 :
名誉片山:2001/05/26(土) 09:05
縁起説に変なもんくっつけるのならそれは縁起説ではない。
それを縁起説と呼ぶのはおぬしの勝手じゃが、信じておらんワシには
説得力が無い。
ワシの言っておることはたったこれだけのことじゃぞ。
いいかげんに面倒臭くなって来た(藁
101 :
名誉片山:2001/05/26(土) 09:08
落ちるぞい。またな>通りすがり氏
ふむふむ。
名誉さん、すっかり通り魔君と仲良くなったんだなぁ(藁
103 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 09:28
>>95 >だから、縁起説にとらわれない仏教を否定しておらんと言うとるじゃろ?(苦笑
>そう信じたきゃ信じればいい。しかし、信じない人間には意味が無い。
>ワシは縁起説から説明のつくものを釈迦仏教と呼び、それは一般人にも
>理解が出来ると言うとるまでじゃ。
わたしも、一般人のひとりですが。
信・不信の問題が決定的と言われるのは、まことに尤もなご意見ですが、ご自身の信じられる(理解が及ぶ)ものが勝れており、信じられない(理解できない)ものが劣っているとは、よもや主張されるわけではないですよね。
名誉さんが、ご自身の宗教として「縁起説」を選ぶと言うことでしたらまだ納得もできますが、そのことが学会教義の「非合理性」を主張する根拠にはならないはずです。
わたしは、「三世」という概念にしても「生命」(一念)という概念にしても、十分な理論的根拠に基づくものであることをお知らせしたかっただけです。
しかも、仏教哲学的に整合性のあるものとしてです。
さらに、その哲学が現実に実践され、また実践する人々の生活の上に大きな価値をもたらしていることを知ってください。
価値を創造するのが「創価学会」なのです。
>>97 それを広宣流布といいます。
仏法をのべ伝えるのが、われわれ学会員の使命ですから。
どのような本を読んでももちろん結構ですが、どうか学会書籍にも一度触れてみてください。
そして、現実にいる生身の学会員の声も聞いてみてください。
きっと今まで得られなかった何かが得られると思います。
いままでの自分に執着していても、成長はありません。
これは、学会員でもだれにでも当てはまることです。
名誉さんも「無自性」ならば、縁によって変わり得るはずですよね。
変わらない自分に固執することは、「縁起説」を自ら裏切ることになってしまいますよね。
どうか、勇気を持って真摯に創価学会の仏法を求めていかれることを切に望みます。
>名誉さん。それでは、また。
104 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 09:30
>>102 あ、おひさしぶりです。>佐田和成@本物。さん。
105 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 09:33
お元気ですか。
わたしは、信心する前は元気じゃなかったです。
神経症で家にひきこもっていました。
106 :
通りすがりの者です:2001/05/26(土) 09:34
また、お話しましょう。>佐田さん
それでは、また。
107 :
名誉片山:2001/05/26(土) 10:26
>>103 >わたしも、一般人のひとりですが。
学会以外の人間を「一般人」と言っておる。曲解は止めよ。
>解が及ぶ)ものが勝れており、信じられない(理解できない)ものが
劣っているとは、よもや主張されるわけではないですよね。
そのように最低10回は言ったと思うが(苦笑
>名誉さんが、ご自身の宗教として「縁起説」を選ぶと言うことでした
らまだ納得もできますが、そのことが学会教義の「非合理性」を主張す
る根拠にはならないはずです。
縁起説は宗教では無い。
信仰宗教ではない。
宗教は合理性は無いが、縁起説には合理性がある。
しかし、合理性があることは価値があることには直結せん。
しかし、合理性が無いものは、政治にはなじまん。
議論の発端はこのことじゃろ?(藁
108 :
名誉片山:2001/05/26(土) 10:28
>名誉さんが、ご自身の宗教として「縁起説」を選ぶと言うことでした
らまだ納得もできますが、そのことが学会教義の「非合理性」を主張す
る根拠にはならないはずです。
縁起説は宗教では無い。
信仰宗教ではない。
宗教は合理性は無いが、縁起説には合理性がある。
しかし、合理性があることは価値があることには直結せん。
しかし、合理性が無いものは、政治にはなじまん。
議論の発端はこのことじゃろ?(藁
全く伝わらんのう、合理性が(藁
>しかも、仏教哲学的に整合性のあるものとしてです。
釈迦仏教との整合性は無い。
>それを広宣流布といいます。
仏法をのべ伝えるのが、われわれ学会員の使命ですから。
意図はわかると言ったじゃろうが(藁
>どのような本を読んでももちろん結構ですが、どうか学会書籍にも一度触れてみてください。
そして、現実にいる生身の学会員の声も聞いてみてください。
きっと今まで得られなかった何かが得られると思います。
古本屋で買って読んだ(藁
自己啓発セミナーと同じじゃな。
「ワシは」なにも得られんかった。勇気付けられる人もおるじゃろう。
それは結構なことじゃ(藁藁
>いままでの自分に執着していても、成長はありません。
これは、学会員でもだれにでも当てはまることです。
おぬしは「永遠の生命論」に執着しておるじゃろうが(藁
109 :
名誉片山:2001/05/26(土) 10:30
>いままでの自分に執着していても、成長はありません。
これは、学会員でもだれにでも当てはまることです。
おぬしは「永遠の生命論」に執着しておるじゃろうが(藁
>「無自性」ならば、縁によって変わり得るはずですよね。
無常である。
> 変わらない自分に固執することは、「縁起説」を自ら裏切ることになってしまいますよね。
どうか、勇気を持って真摯に創価学会の仏法を求めていかれることを切に望みます。
何物にもワシは囚われんよ(藁
もちろん「永遠の生命論」にものう(藁藁
しかし、それを信じるおぬしをワシは最大限に尊重するぞい。
ワシは全く信じておらんが。
通りすがりさん。何を信じようと自由だから。
それで自分が幸せな人生送れるならば大いに結構なんです。
ただその価値観を盲信し他人に押し付けるなっちゅうことなのよ(w
だから俺も自分から宗教屋に対して「そんなもんやめちまえ」とは言わんのさ。
この板で挙げられる創価問題のほとんどは、その一言に代表される。
112 :
層化氏ね:2001/05/26(土) 18:47
話が拡散気味なんで、少し整理させてくれい。
そもそもワシとおぬしがこんなことをグズグズ議論しておるのは、「宗教的信念を
国政に持ち込むことの妥当性」を考えるためじゃろ?
少なくともワシはそのつもりじゃ(藁
そして、釈迦の縁起説・無我説に立脚した宗教(?)なら別に問題は無いと考えとるんじゃ。
なぜならそれは哲学と同じで、誰でも理解が可能じゃと思うとるからじゃ。
ところが「永遠の生命論」を主体とする宗教を持ち出されると、それを信仰しない者
との対話が不可能じゃから、政治に持ち込むのは適切ではないと考えとるんじゃ。
何度も言うが、縁起説は特殊な考え方ではないじゃろ。
あらゆる物は関係性の中でのみ存在すると言うのは誰でも納得ゆくんじゃないのかの?
木から木の葉が落ちるとき、どこに落ちるかは偶然に見えるが、実際は、気温・湿度・
風向・木の葉の形状・葉の表面の抵抗力等々、無限の要素が絡み合って落ちる場所は
決定されるじゃろ?現在の科学では計測不可能でも、その「必然性」は誰もが納得できる
とワシは思う。肉体も、人の心も、あらゆる物に縁起説は当てはまるじゃろ。実証は不可
能でものう。
合理性があると思う。科学の上位概念と言ってもいいかもしれんの。
この縁起説からは、関係性を持たない自性の存在としての我(アートマン)は出てこんじゃろ。
輪廻の元になる「我」は否定される。或いはドグマとして思考から排除される(非我説)。
万物が縁起するとすれば万物について自性の存在はない。これが空論じゃとワシは理解
しておる。万物が縁起しておることから、無常説・無常感が出てくる。
これらを理解すれば、なにかに執着することのあほらしさに思い至るじゃろ。
それによって人間の悩みや苦しみを乗り越える精神的技術が釈迦仏教じゃとワシは
思うとるんじゃ。ものの見方・考え方を言うとるだけじゃ。
外人に言うても理解してもらえるんじゃないかのう・・・
そこからは現世利益も輪廻転生の考え方も出てこん。当たり前の事を言うとるだけじゃ。
以上が仏教暦2ヶ月の成果じゃよ(藁
この考え方を持っておる人間が政治に参加しても対話は成立するじゃろ?
もちろん、釈迦仏教的思考をする人間が権力闘争するのもなんだか矛盾しておるような
気がするが(藁藁
縁起説は釈迦が言うとるから合理性があるんじゃないじゃろ。もし、通りすがり氏が言うても
その合理性は失われんじゃろ。考え方の内容に合理性があるんじゃから。
ところが、「永遠の生命」は縁起説のようには説明できんじゃろ。
おぬしは「三諦論(空・仮・中)」でそれを説明したと言うが、何で本質が「永遠の生命」
なのか、さっぱりわからんぞい。人間の本質は憎悪・怨念かもしれん。原子・分子かも
しれん。守護霊かもしれん。何とでも言えるじゃろ?
それを敢えて「永遠の生命」であるとするのは、そう信じておるからにほかならんじゃろ。
信じておる人間には真理なんじゃろな。
しかし、ワシのように信じておらんものにとっては真理ではない。
釈迦の縁起説とは違うと思わんか?
縁起説は「信じる・信じない」の話じゃないじゃろ?
信じておる人間にしか通用しない「永遠の生命」を出発点にして「現世利益」「輪廻転生」
「業論」「仏教民主主義」等々を説かれても、信じていない人間にはちんぷんかんぷんじゃ(藁
その考えで政治的主張をされても説得力がないじゃろ?
国民にわかる言葉で話さなきゃ意味がないからのう。
それでも信仰の自由がある以上、その考え方で政治的主張をすることは批判できんと
思う。ワシが言いたいのは「政治にはなじまん」と言うことじゃよ。
政治にかかわるなら、学会員以外の国民にも理解可能な言葉で主張せざるをえん。
国民に伝わる言葉で話すためにはその合理性の根拠をどこに求めるのかのう?
結局は法律とか、政治的駆け引きとか、そんなもんじゃろ?
おぬしらの宗教とは関係ないじゃないか(藁
最悪なのは、ケツまくって、自分らの宗教をそのまんま政治に持ち込むことじゃな。
信じておらんものには真理でないものを押し付けることになる。
それは拙いじゃろ(藁
そして、学会の連中の言動を見ておると、そうする可能性がゼロとは言いきれんのが
恐ろしいところじゃ。
ドグマとは合理的根拠なくある考えを正しいと思い込み、主張することじゃろ?縁起説
はドグマではあるまい。少なくとも万有引力の法則以上に合理性があるようにワシは
思う。もし通りすがり氏が縁起説はドグマであると言うのならば、それを論証してくれい(藁
従って、自性的な存在を否定する無我説もドグマではあるまい。釈迦がドグマとして
排したのは合理的根拠なく当時の古代インド社会で信じられておった輪廻思想じゃろ。
輪廻思想の根拠となるアートマン(我)を明確に否定した釈迦仏教はドグマではある
まい。従って、現在のところ、無我説と非我説は同義じゃとワシは思う。
釈迦は「アートマンなんていない。輪廻なんかない。」と確信しておったんじゃないかの
う?それをそのように表現しなかったのは、種々の理由が言われておるが、詳しくは
Libra氏引用の上記論文の抜粋を見てくれい。
以上が釈迦仏教の理論的話。蛇足じゃが、機能的話をしてみたい。ワシの感想じゃよ。
宗教の社会的機能の問題として、ワシは学会の「永遠の生命論」はそう悪い考
えじゃとは思うとらんよ(藁
そもそも釈迦が輪廻論を否定したのは、当時のインド大衆の人生が苦しかったから
じゃろ?推測じゃが。
戦争・疫病・貧困・飢餓・搾取等々、現代と比べて、当時は生きてゆくことそのものが相
当辛いものじゃったんじゃなかろうかのう・・・
その辛い人生を何度も繰り返さにゃならんのは大変な苦痛じゃったんじゃあるまいかのう。
現代日本とは状況がだいぶ異なるじゃろ?現代でも生きてゆくこと自体を苦痛と感じて
おる人が沢山おることは事実じゃろうが、生まれ変わり(輪廻)を苦痛と感じる人の割合
は古代インドとは比較にならんくらい少ないんじゃないのかのう。生まれ変わりを求める
大衆の根強い欲求があるからこそ、どれほど釈迦や竜樹が輪廻を否定しても仏教はこ
れを完全に否定し去ることはできんかったのではないんじゃろうかの。社会の生産性が
向上して、人生を楽しみと感じる人間の割合が多くなればなるほど、むしろ輪廻を求め
る思想が強くなってくるような気がするわい(藁
つまり、釈迦の輪廻否定の教え(哲学)は、例えそれが真理であったとしても、そのまま
では社会のニーズに応えられなくなったと言うことではないかと思う。
ワシも例外ではない(藁
輪廻があるなら、今度はキアヌ・リーブスやビル・ゲイツみたいに生まれたいとも思うわ
い(藁藁
しかし、翻って考えてみるに、釈迦仏教の発想には現代にも価値を持つ点はあると思う。
万物は縁起し、自性の存在はないと確信し、万物の無常を実感するとき、人はいかなる
考えを持つかをワシは考えるんじゃ。
「愛おしさ」みたいな感情は生まれてこんかのう?バカでもブスでも貧乏人でも、あらゆる
人間の存在は一瞬一瞬転変し、同一の状態では存在し得ないと実感するとき、今目の
前に存在する「その人」「その物」「その現象」になんとも言えん「愛おしさ」の感情は湧い
てこんじゃろうかのう?
その感情は、輪廻を肯定し、「次の機会」を認める思想の下でのそれとは一味も二味も
違ったものにならんかの?「敵・味方」の考えもつまらなく感じんかの?「打倒日顕!!」
と感じる代わりに日顕氏に「愛おしさ」を感じんかのう?もしかすると、それを「慈悲」と言
うのかもしれんが。
どっちがいいのかワシはわからん。ふとそう思うたんじゃ(藁
119 :
政教分離名無しさん:2001/05/29(火) 23:24
通り魔はどうした?
120 :
政教分離名無しさん:2001/05/30(水) 19:13
>118
名誉片山さんって隱居?
口調がそっくりですが。
121 :
名誉片山:2001/05/30(水) 19:16
>>120 違うぞい(藁
隠居氏の特徴は対話を拒否することじゃろ?
ワシは話がしたいんじゃよ。
122 :
波木井坊竜尊@日蓮宗(本物):2001/05/30(水) 19:22
>121
それでは私と汗臭い野郎同士の愛について語り合いませんか?
日蓮宗では男色はオープンなんですよ。身延山は男の極楽です(藁
123 :
名誉片山:2001/05/30(水) 19:24
>>122 どうせ成りすますならもっと上手くやることじゃ(藁
124 :
名誉片山:2001/05/30(水) 19:25
あほがやっておるのか?
それともドキュソか?
125 :
佐田和成@本物。:2001/05/30(水) 19:25
波木井さん
漢が好きだなんて早く言ってくださいよ。私も汗臭い男に抱かれたい
っていつも悶々としています。身延に入山していいですか?(藁
126 :
名誉片山:2001/05/30(水) 19:26
臭い芝居は止めろ(苦笑
127 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 04:40
>>126 おはようございます。>名誉片山さん。
なかなか、来れなくて申し訳ないです。
上では、非常に興味深いお話をされておりますね。しっかりと読ませていただきます。
それにしても、「空」「縁起」の概念は改めて思うにむずかしいもんですね。
わたしは、むしろ大乗で「空」論を知ったので、名誉さんの「空」論とどっかでかみ合わないところが出てくるのかも知れませんね。
(でも、名誉さんの話はけっこう面白いですよ。・・いや、面白がってばかりではいかんのですけど・・)。
ちゃんと読んでからコメントしたいと思いますが、縁起説は無論ドグマではないと思います(当然だ)。
でも、それを発展させた三諦論(天台)だって、ドグマではないと思っています。
つまり、法を説いた説き方が異なるだけではなかろうかと。
ドグマでない限り、その教えが示す法は「普遍的」かつ「永遠」なものであらねばならないでしょう。
この普遍的かつ永遠な「法」そのものを指して、「南無妙法蓮華経」と呼ぶのであり、「永遠の生命」といってもこの「法」と一体であるのです。
この永遠・普遍の法を説くのが、仏(もちろん人間です)なのです。
だから、「永遠の生命」が「ドグマ」ってことにはならないと思うんですよね。
「仏」が説いたのはあくまで仏法であって、「仏」は単なる「価値相対論者」ではなかったと思うんですよ。
しかし、この話をするのには、さらに「生命」の概念についてもお話しなければなりませんね・・。
今回はこれくらいにして、ちゃんと読んでから次回きちんとコメントさせていただきます。
よろしくお願い致します。
次回はいつのことになるのやら・・(苦笑)。
それでは、また。>名誉片山さん。
128 :
政教分離名無しさん:2001/05/31(木) 04:43
どうも前々から薄々とは気づいていたが、
名誉片山氏は隠居に近いと思っていた。
あの常連だった隠居が引退した後、突然
ででてきたキャラは名誉片山氏以外にない。
129 :
名誉片山:2001/05/31(木) 05:00
>>128氏
何度も言うが、的外れじゃよ(藁
隠居は芸風を変えてカキコしておるじゃろ。
隠居の場合は対話を拒否し、己の哲学・知識をひけらかすことに特色
がある。隠居のカキコは相当知識が凝縮されておるじゃろ?
じゃからこそ嫌われもするし、読みにくい。
ワシの場合は見て分かるとうり、知識はスカスカじゃ(藁
スカスカの知識からなんとか考えてものをいっておる。
隠居とタイプが違うのがわからんかのう・・・
130 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 05:06
>>129 おはようございます。>名誉さん。早起きですね。
わたしは、今から配達です。
131 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 05:07
隠居って、だれのことですか?
見たことないですが。
132 :
:2001/05/31(木) 05:07
>>130 おはよう。通りすがり氏。
気をつけての。
133 :
:2001/05/31(木) 05:10
>>131 「隠居が語る・・・」とか言うスレを立てて、延々と自分の世界観を
論じる人間じゃよ。改行もほとんどなしでカキコする。
人が何言っても泰然自若ちゅうか、知らん顔するんじゃ。
じゃからみんなに嫌われて、散々なめにあっておった(藁
ここ2〜3ヶ月は見かけんのう・・・
134 :
名誉片山:2001/05/31(木) 05:13
135 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 05:16
前回のお話は興味深かったです。
わたしは学会書籍以外の本も読みますので、狂信者といわれるのはいささか心外なのですが、
名誉さんの論点はたしか、「社会と宗教」(名誉会長とウイルソン氏との対談)にも取り上げられていたと記憶します。
ちなみにこの本は、古本屋にはポピュラー(苦笑)なものなので、ゾッキ棚で見かけたら買って下さい(笑い)。いい本です。名誉さんの興味に合致すると思います。合理性にこだわる方にはぴったりですよ。
136 :
政教分離名無しさん:2001/05/31(木) 05:17
>>133 今月も本物が現れたよ。一瞬だけどね。ニュース板にも一瞬顔を
出してた。「隠居爺」ってHNでね。小泉内閣について語っていた
ような気がする。ちょっとした人気者になっていた(藁)
137 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 05:19
>>133 ふーん。いわゆる「ヤなやつ」ってことですね。
情報どうもありがとうです。
それでは、時間ですので。
また、お会い致しましょう。>名誉さん。
138 :
名誉片山:2001/05/31(木) 05:20
139 :
名誉片山:2001/05/31(木) 05:21
140 :
通りすがりの者です:2001/05/31(木) 05:22
>>136 「知ったかぶり」って嫌ですね。
ああ、自分もそうなりたくない・・。っていうか、そうなる知識をもってない(笑い)。
どうもです。
ではでは。>136さん
141 :
政教分離名無しさん:2001/05/31(木) 05:23
>>138 GW以後は見かけなくなったと思う。隠居に生意気な口を叩いた
奴が周りから叩かれるといった感じでちょっと笑った
誰も言わないけどトニーって36歳だったよね・・・。
144 :
政教分離名無しさん:2001/06/11(月) 05:26
要するに、トニー=通りすがりのものです。(藁
145 :
政教分離名無しさん:2001/06/11(月) 05:34
>>144 もしそうなら通りすがりの者は凄い役者だと思う。
あれだけキティな自作自演は難しいぞ。
146 :
創価万歳:2001/06/11(月) 10:36
創価はいいぞ
名誉さんはジジィ口調使ってるというだけで、隠居なんかとは。。。(苦藁
第一もし隠居なら、すぐにそれとわかるジジィ口調使ったりしないだろう。
結論・・・120%別人。
148 :
政教分離名無しさん:2001/06/13(水) 02:21
149 :
政教分離名無しさん:2001/06/13(水) 04:33
150 :
通りすがりの者です:2001/06/13(水) 06:12
>>144 おはようございます。
って、わたしはトニーさんじゃないよ。年もこっちのほうが若いし。
谷川九段の敗戦でフルセットになってしまった名人戦、ますます目が離せなくなりました。
というわけで、また次回に。みなさん、ごきげんよう。
151 :
通りすがりの者です:2001/06/13(水) 06:14
怒りすぎると体に悪いですよ。>名誉さん。
152 :
如是我聞:2001/06/13(水) 06:19
トニーよ銃を取れ!
154 :
普通の人:2001/06/13(水) 18:31
通りがかりの者です さん
はやく誤解を解いてください、お願いしま〜す。
155 :
名誉片山:2001/06/13(水) 18:35
通りすがり氏はよそのスレで「高速道路での幅寄せ」みたいなレス
付ける癖に、ここでは中身のあるレスをつけんのう・・・
156 :
政教分離名無しさん:2001/06/22(金) 03:19
>>155 最近まとまった時間が取れません。ごめんなさいね。
>>154 誤解を解くというモチーフは、トニーさんのものであり、わたしのものではございません。
私のモチーフは、学会員といっても特別なというか、怪異な存在ではないということを知ってもらいたいだけです。
>>153 アホといわれるのにも慣れてきました。
改めて宮沢賢治を読んで見たいと、ふと思いました。
早朝雨上がりの街角には紫陽花が鮮やかな色を満々とたたえて咲き誇り、道行く人の目を慰めています。
その次第に移ろい行く色彩に心を惹かれながら、確かに近づきつつある夏の足音にも思いを致し、心逸る昨今です。
八月にはキャンプに行こう。
(気が早い)
明日は名人戦(多分)最終局を、友人とネット観戦する予定です。楽しみ。
というわけで、東京への遠征も恙無く果たし、ますます勢いを倍化させた「通りすがりの者です」は、六月後半も勇猛精進で突っ込みます。
寝不足なんのその。
皆さん、夏風邪にはご用心を。
それでは、おやすみなさい。(内容なくてごめんね)
157 :
通りすがりの者です:2001/06/22(金) 03:21
>>156 上記は、固定ハンドル名「通りすがりの者です」の書き込みです。
158 :
政教分離名無しさん:2001/06/23(土) 16:06
Tonyage
>156
学会員だというだけで特別で怪異なものなの。
善人ぶるなぼけ。逝ってよし。
−−−−−−−−−−終了−−−−−−−−−−
>159
飽きずになりすましか?偽物は逝ってよし。
>159-160
成りすまし&自作自演の偽者は逝ってよし。
162 :
通りすがりの者です:2001/06/29(金) 01:20
>>159 >>160 >>161 大王蛇さん、以前失礼なことを書いてしまい、今でも反省しています。
すみませんでした。
「通りすがりの者です」より。
163 :
政教分離名無しさん:2001/06/29(金) 01:24
騙りが巧妙化。。。
>162
159と160は偽者です。
166 :
政教分離名無しさん:2001/06/29(金) 01:43
>>165 >大王蛇さんへ。
あらためてお詫びします。すみませんでした。
「通りすがりの者です」より。
167 :
通りすがりの者です:2001/07/02(月) 03:18
暑い夏がやってきました。
体調管理に注意して、この七月は悔いの残らない闘いをしていきたいものです。
そのためにも、まずは寝不足にならないように注意しましょう。
(本幹の先生のスピーチに思わず涙してしまいました)。
168 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 01:22
『「健康第一」「睡眠第一」「題目第一」で前進を。勝利と幸福のために!』(聖教新聞より)
炎の七月。
獅子王の心を取り出すときは今。
「通りすがりの者です」は、この夏すべての目標を完遂し、完全勝利します。
同志の皆さん、断じて勝ちましょう。
池田大作の勝利と幸福の為でしょうが・・・。
170 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 01:35
171 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 01:38
>>170 あなた(創価?)の勝利と赤の他人の幸福の間にどんな因果関係があるのか聞きたい。
>>170 私にとって幸福な社会とは、「バランスをもった」社会です。
創価・公明支持者の様に失政を犯しても支持し続ける
奇妙な社会ではありません。
173 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 02:36
全自動投票マシーンが国を亡ぼす。
175 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 02:56
>>171 >>172 圧倒的な高支持率を誇る小泉首相の率いる自民党は、参議院選もこの勢いで勝利し、日本政治におけるイニシアティブを確固たるものにしようとしています。
しかし、全国民が望むことは、いつの世にあっても平和な社会であり、安全な暮らしであることはいうまでもありません。
そのためにも、たとえ小泉内閣が諸改革を断行するにしても、その痛みを民衆にのみ押しつけることがあっては絶対にならないと思います。
「民衆のための政治」という理念を掲げた公明党が、政権の中で今後も果たすべき役割はきわめて大きいと思います。
日本の産業の基礎とも言うべき中小企業の多くが、構造改革のあおりで経営難に陥る可能性もありますし、推定で十八万人もの失業者を生むとも報じられています。
このような不安に直面して、我々国民ができることは、庶民の暮らしをしっかり守りながら改革路線を支えていける政党に未来を託し、より力を増すよう支援していくことなのです。
176 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 02:57
>>171 >>172 「バランスをもった社会」とは、「どんなひとも政治の恩恵をうけられる成熟した社会」を意味します。
低所得者・社会的弱者・在日外国人などの方々にも、政治の光を当ててこそ、真のバランスのとれた政治が日本に実現すると考えています。
また、「靖国参拝問題」や「新しい歴史教科書問題」にみられる国家主義の蠱動にも敏速に対応し、二度と戦争の悲劇を繰り返さないためにも、悪しきナショナリズムの台頭を許さない確固たる理念と力をもつ政党が、今後果たすべき役割はまことにおおきいと断言せざるをえません。
戦争はすべての人を不幸にします。その不幸は、誤れる思想(なかんずく国家主義)が跳梁跋扈するとき、すでに起こりつつあるととらえるべきです。
小泉政権の暴走を食い止められるのは、公明党をおいて他にありません。政権内において(いな政権外もふくめて)確固たる平和理念を持っている政党は公明党ただ一つなのですから。
「自分の幸福を願うならば、社会の平和をまず祈り実現していくべきである」というのが、日蓮の教え(立正安国論)です。
そのために自分自身がいかに行動し、現実に勝つかです。
所詮「赤の他人の幸福」を祈り実現を目指すことが、創価学会員なかんずく自分自身の闘いなのではないかと思います。
日本に一千万人の平和勢力を築くために、日々新たに頑張っていきます。
>>175 :「民衆のための政治」という理念を掲げた公明党が、
この場合の民衆とは創価学会員の事を指します。聖教新聞と同じ。
注意しましょう。
178 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 04:32
>>177 このような差別との闘いも避けられませんね。
”エイズ”は誰からも嫌われますよね。<患者じゃ無いよ。病気として
それは差別とは言いませんよ。
180 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 04:40
ハンセン氏病に対しては、どうよ?>Arex? さん。
それと、君の差別の定義を教えてください。
ついでに、ユダヤ人に対してはどうよ?
>>176 いい加減にしないと怒るよ(苦笑)
世の中は低所得者・社会的弱者の方が多いの。解る?
”まっとうなジャーナリズム”が存在していれば
それで事は足りるの。解る?
一方的情報しか流さないモノはマスコミとは言わないの。
それに加えて”聖教”なんて罵詈雑言機関紙なんてのは法的にもマスコミじゃ無い。
>>180 ”いわれ無き中傷”でもってあらゆる事に区別される事。
創価は言われるだけの事をしている。
過去においても現在においても。
人に迷惑かけておいて
「嫌わないで下さい!!」とは厚顔無恥って言うモノだ(わらひ)
183 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 04:43
>>181 その解る?解る?って書く書き方は以前誰かが多用してましたよね。
誰だったか覚えてます?
185 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 04:50
>>181 すみません。わたしへのレスだと思いますが、どういうご趣旨の発言なのか、いまひとつ掴みきれませんでした。
>世の中は低所得者・社会的弱者の方が多いの。解る?
これは、わたしのレスに対してどういったご意見を述べられているのか、教えてください。
いずれにせよ、この七月、「立正安国」の精神のままに、全力で戦っていきます。
>>185 理解違いの無い様に言ってあげる。
「バランスの良い社会に、お前ら創価は必要ない」
ナショナリズムがイケナイと言う。
世の中にある国の殆どがダメだな(わらひ)
北朝鮮王国と創価王国だけだな。
ナショナリズムが困るのは。
真っ当なジャーナリズムが働いていれば、「バランスの良い社会」に成る。
間違っても一方的情報で個人を糾弾したり、
少数を糾弾したりする宗教が政権に喰い込む事が
バランスの良い社会になる訳が無い。
戦前を忘れたのか?
朝日新聞なり、殆どのマスコミが戦争を煽った現実を。
お前ら創価の読んでる新聞は何だ?
「勝利!!勝利!!前進!!正義!!」
おい、自分達の見てる新聞と、戦前の新聞が”全く同じ”だと言う事が
何故理解出来ない?
お前ら創価がバランスの悪い社会にする張本人だ。
189 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 05:03
>>186 ああ、これが差別的発言でなくてなんでありましょう。
差別と言うのは、人の心に巣食うものです。
この言葉が出てくる心の中を問題にすべきですね。
>Arexさん。自分のいってることがおわかりですか。反省しましょうね。
>>189 お前ら創価は”害悪”だと言っている。
社会の害悪に害悪だと言って何が悪いのか。
証拠は188で述べた。
お前ら創価は社会の害悪。
戦前のメンタリティーそのまま。
191 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 05:07
「われわれがだれかを憎むとすれば、そういう人間の形の中で、われわれ自身の中に宿っているものを憎んでいるのだ。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない」>ヘッセ・「デミアン」(高橋健二訳)
この箴言をあなたに贈ります。
それでは、さようなら。>Arexさん。
>>191 忠実な下僕が。
お前のその行動自体が
その他大勢のコピーに見えて気持ち悪いわ(わらひ)
個人としての自覚があるなら
池田大作のマネをするのはやめろ。
お前は自分の意見を言うにも
他人の権威を使ってしか表現出来ないって事を恥じろ。
いくつの歳晒しているつもりだ。
193 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 05:21
>>192 そろそろ罵詈雑言だけになってきましたね。
あなたの言っているご自身のご意見が、
>その他大勢のコピーに見えて気持ち悪い
と思っているひともいるかもしれないと、思ったことはないかな?
わたしは、不肖ながらも池田先生の弟子でありたいと念願しています。
そして、あなたにも、わたしは可能性を感じています。
あなたには、「純粋なもの」に対する感受性が大いにあります。
だから、夜な夜なこの場に来るんでしょう。
あなたは、知らず知らずに求めているんですよ。ともにがんばりませんか?
また、お話しましょう。>Arexさん。
194 :
通りがかりの者です:2001/07/07(土) 05:23
それでは、これで失礼いたします。
195 :
通りすがりの者です:2001/07/07(土) 05:24
勘に触るといつだって牙を剥く事を忘れないように。
人の迷惑になる事を嬉々とやる様な人間は非常に迷惑。
君らがいなくても
真っ当なジャーナリズムがあれば公平な世の中になる。
既に述べた事だが。
君らのメンタリティーは戦前と一緒。
君らは「ピュア」のだ。
つまり何も深く考えていない。
君らの様なメンタリティーではすぐに戦争に突っ走ってしまう。
だから君らは”害悪”。
188で言ってる事が見当違いだと思うなら反論すれば良い。
197 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 06:44
池田の何処がいいのか良くわからない。>>>
198 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 06:51
>>通りすがり
次の参議院選後に、喪家=荒迷は政権離脱が決定するよ。
君たちの惨敗も確実。投票率の上昇とともに、激減。
なんと反民主的な政党なことでしょう(藁
199 :
政教分離名無し本物:2001/07/07(土) 07:01
公明党なんて波止場の”杭”みたいなもの
満ち潮で隠れ、引き潮で出てくる。 (爆)
200 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 08:58
>>176 >所詮「赤の他人の幸福」を祈り実現を目指すことが、創価学会員なかんずく自分自身の闘いなのではないかと思います。
社会的な幸せと個人的な幸福感とは違うと思うんだけどなぁ。
あなたが書いてるのは社会的な方なんじゃない?
それだってヒエラルキーの上下、立場、生立ちによって変わってくるはずだし。
他人が幸せかどうかなんて一定の定義を作って比較しないとわからないと思うんだが。
「彼より私の方が恵まれてるから私は幸せだ」とか「私はいつも楽しいから幸せだ」とか。
つまり、人が10人いれば10人分の幸せの定義があるわけで、そこで「あなた方の幸せのために公明党に票を入れよう」
なんてやられてもとか言われても、「はあ?」「なんだそれ?」としかならない。
すべての人を幸福にしたければ、それこそすべての人に同じ価値観を持たせなきゃならない。
それが不可能なことだってのは判りますよね。
もし判ってないのなら、あなたの「幸せの祈り」はひとりよがりでしかないと思いますよ。
判っていて祈ってるならただの詐欺師。
201 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 09:57
203 :
法犬郎:2001/07/07(土) 16:53
馬鹿ども見たか?
>>203 ここの何をどう見ろと?
あなたが玲那という人物に罵倒されているところが一番印象に残ったのだが…。
205 :
house:2001/07/07(土) 20:25
名誉片山さん、折り入って話があります。どうやったら
あなたを捕まえられるのでしょうか。
自己紹介しときます。
だいたい、宗教に関してはこんな感じでとらえてます。
仏教 学問 哲学
キリスト 道徳
イスラム 兵法、実践的マニュアル
まだ、2CHでは議論らしい議論は
しておりませんが「心と宗教」の霊友会スレですこしかきこしました。
206 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 21:19
>>193 あなたは、知らず知らずに求めているんですよ。ともにがんばりませんか?
何を一緒に頑張れと?
意味不明な名誉毀損の罵倒をか?
被差別者をダシにした創価学会の仏法無視の汚さかくしにか?
選挙違反か?
207 :
政教分離名無しさん:2001/07/07(土) 22:23
208 :
通りすがりの者です:2001/07/14(土) 01:09
>>200 レスどうもありがとうございます。
>すべての人を幸福にしたければ、それこそすべての人に同じ価値観を持たせなきゃならない。
>それが不可能なことだってのは判りますよね。
創価学会の目指している社会像というのは、一元化された思想に塗りつぶされた全体主義的な社会というのではなくて、
たとえ考え方や流儀が異なった人でも、共有されるべき普遍的な価値を認め合って、ともによりよき社会をつくっていくという社会だと思います。
「やっぱり人間が大切」だし、「生命は尊いもの」ですよね。
でも、今の日本の社会に生きる人々が、そのことをほんとうにわかっているのかどうか、疑問に思うことがあります。
創価学会の目指している広宣流布とは、日本の社会に「人間主義」「生命の尊重」といった普遍的価値観を根付かせる運動でもあります。
各人の意見が違うのは当然ですし、むしろ異なる意見を持つ人と対話することで、より多くの収穫が期待できるのではないでしょうか。
また、対話の中から、双方の意見の対立を超えて、人間的な共感が生まれることも多々あります。
対話はまさしく平和への第一歩だと思います。また、開かれた対話を可能とする社会こそが、平和な社会であるとも言えるのではないでしょうか。
幸福といっても、人それぞれにとらえかたもさまざまですが、創価学会員のめざす幸福とは「絶対的幸福」といって、なにがあっても崩れない永遠不変の幸福境涯を獲得するために、
日々仏道修行にはげんでいます。
「なにがあってもへこたれない強い生き方ができる人が、ほんとうに幸福な人である」と池田名誉会長は常々指導されています。
そういう強い生き方を可能にするのが、この創価学会の信仰なのです。
209 :
通りすがりの者です:
>もし判ってないのなら、あなたの「幸せの祈り」はひとりよがりでしかないと思いますよ。
>判っていて祈ってるならただの詐欺師。
あなたにも、雄々しい強い生き方は可能です。
ぜひ創価学会に開かれた心で接してみてください。
また、池田名誉会長のことも、少しずつでも認識を深めていかれることを望みます。
まず自分自身が強くなることです。
そこから自他ともの幸福な人生を拓きゆきながら、よりよき平和な社会を築いていきましょう。