『健在な友軍もまだまだたくさんいるはずだ』(本人発言どおり)
『三国人が本邦で何をしたか、今の若い人達に話すべきかもしれん』(本人発言どおり)
なぜ↑これをしてこなかったのか?の問いに対して
『戦争に負けた事と、敗戦後の三国人の犯した数々の無法から本邦を守りきれなかった事が
後進の邦人に対して申し訳ない気持ちと、それを恥じている為だ』(本人発言どおり)
との事でした
いろんな『友軍』の方々のレスがあるようなスレなら爺さんも是非書かせて頂きたいとの事です
(とはいっても代筆になりますが)
というわけで戦時中や戦後を生きた爺さんの生の声を聞いたり、
質問したりするスレッドにしていきましょう。
他の爺ちゃん達も歓迎します。^^
依頼元
【スレ立て依頼】ウリのスレ立て代行汁!【16】
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1152437062/266
良スレで2ゲット
話は聞いたことあるが、
片方は海軍で南方だからハングル板には関係ないし
片方は農家の長男で戦争に行ってない
こんなかんじで?
【統治時代の道知事 朴栄】
>公平無私なる観察を下すときは、
いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、
如何に伊藤博文公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、
とはある評者の言であった。
究意するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。
また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。
ぢぢさまに会えると聞いて、極東から飛んできたわよ。
《このスレが立つまでのあらすじ》
在日コリアンによるお詫びのスレッド
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1153232762/l50 366 :爺さんの代筆です :2006/07/22(土)
18:19:35 ID:aubDTAQ0
>ALL
流れぶった切ってスマソですが、家の爺さんが
指摘して欲しいというので
書かせていただきます
*** 以下爺さん発言 ***
>>321氏のいう「どうほう」は漢字で書くと
「同邦」です
「日本国」を「本邦」ともいいます
以上家の爺さんのチラ裏でしたm(_ _)m
367 :日出づる処の名無し :2006/07/22(
土) 18:22:58 ID:VUXm8ley
>>366 爺ちゃん乙! という事は此方をご覧にな
ってるので?
是非 意見を伺いたい所です。
370 :366:2006/07/22(土) 18:29:11 ID:a
ubDTAQ0
>>367 爺さんは『2度目はだまされない』と言い残
して風呂に行きました
あと『最近の若い者を馬鹿にしていたが、
見直さなきゃいかん』とも。
何を見直すのか?との問いには『フンフン』と
しか言いませんですた。
377 :366:2006/07/22(土) 18:53:56 ID:a
ubDTAQ0
それから前に爺さんが言ってましたが
『井戸に毒入れ事件はありゃ嘘だ』
『大東亜戦争が始まる半年ぐらい前から町
内の朝鮮人の姿が全く居なくなった』
『後になってからわかったが、あれはきっ
と朝鮮人どうしで何か連絡でもあったのだ
ろう』
『それまで「おかみさ〜ん、ポロありませ
んか」と各軒を訪ねていた声が全く聞かれ
なかった』
「ぽろ」とは「ぼろ」がうまく↑発音でき
なかったらしいです
廃品回収業を戦前は「ぼろ屋」と言ってた
みたいです
爺さんは戦後配給品の食料やら当時は超高
級品だった缶詰を全部強奪されたらしいで
す
ちなみに爺さんは通信兵で大本営にいたら
しいです(本人の自慢らしい)
『だから、缶詰なんて一般人には手に出来
ないものが家にはあった』
『貧しいときはお互い様だ』とぼろ屋の朝
鮮人によく「朝のにぎりめし」を分けてあ
げた
そうです
以上チラ裏追加ですた
スレ汚しすまそ
387 :日出づる処の名無し :2006/07/22(土) 20:29:25 ID:NYszjxS9
>>366氏
ここかハン板あたりに、爺さんの代筆スレッド立ててくれませんか?
俺もそうだけどお年寄りと縁が無く、
貴重な話を聞きたいけど聞けない奴て結構居ると思うんです。
もし、366氏の お爺さんが良ければ、俺がスレッド立てますがどうでしょうか?
430 :366:2006/07/23(日) 01:04:43 ID:gtFyoosp
>>387さんへ
爺さんが喜んで昇天しそうですw
『健在な友軍もまだまだたくさんいるはずだ』(本人発言どおり)
『三国人が本邦で何をしたか、今の若い人達に話すべきかもしれん』(本人発言どおり)
なぜ↑これをしてこなかったのか?の問いに対して
『戦争に負けた事と、敗戦後の三国人の犯した数々の無法から本邦を守りきれなかった事が
後進の邦人に対して申し訳ない気持ちと、それを恥じている為だ』(本人発言どおり) との事でした
いろんな『友軍』の方々のレスがあるよう
なスレなら爺さんも是非書かせて頂きたいとの事です
(とはいっても代筆になりますが)
私はヌレ立てた事がないので誘導いただければ爺さんと一緒に参加させて頂きます
長文ヌレ汚し失礼しましたm(_ _)m
こんにちはお爺ちゃん
『2度目はだまされない』ってあったけど、爺ちゃん自身騙された経験があるのかな?
よかったら聞かせて欲しいです。
あと『戦争に負けた事と、敗戦後の三国人の犯した数々の無法から本邦を守りきれなかった事が
後進の邦人に対して申し訳ない気持ちと、それを恥じている為だ』って言ってるけど、一生懸命頑張った結果なんだし、恥じる事ではないと思うよ。
うちの爺ちゃんは佐世保で整備兵をやってたんだけど、あまり戦争とか昔の話を聞けないまま7年前に他界したので、
当時の話を是非聞かせて欲しいと思います。
11 :
>>7-9:2006/07/23(日) 13:20:41 ID:1OwzK0Nd
うわ、携帯から張りつけたら、変な所で勝手に改行しとる。(;^ω^)
流れ的にはこんな感じなので、スレが盛り上がってる方が、
>>366氏の爺ちゃんも書き込み易くなると思います。
他のお年寄りの代筆、昔、爺ちゃんに聞いた話等有れば、
是非書き込んで、スレッドを繁盛させていきましょう。><
12 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 14:28:02 ID:ViFYEqe9
この爺ちゃんの話聞きたい
中学生、高校生、大学生の時に直接語りあいたかった
ネットを通じてでかまわんから、いろんな話を聞かせてほしい
13 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 14:32:38 ID:1OwzK0Nd
14 :
爺ちゃん乙の人:2006/07/23(日) 15:33:47 ID:MGiBCNU4
スレ立てのお祝いに私の爺様(9年前に他界)の話を
爺様は衛生兵として中国に出兵、
物資が無くて、ろくな手当ても出来ないので、
兎に角、徹底的に傷口消毒したとの事
最初に配属された部隊は他の部隊に伝令に行っていた間に、
総攻撃を受けて全滅、部隊で一人生き残りと、運の強い人でした。
その後他の部隊に編入?となり、戦役が長引き、
中々帰ってこない爺様に腹を立てた婆様が、子供抱えて中国に渡り、
上官に直談判してつれて帰ってきたという話。なので、終戦は日本で迎えました。
旅費は、親族の金持ちがポンと全額出してくれたそうだ。
(多分結構な御値段)
その後は、立川で歯医者を開業、進駐軍相手に結構儲けたそうです。
進駐軍の連中は本国に持って帰る為が、金歯の注文が多かったとか。
余りドラマ性がなくて申し訳ない。もう直ぐお盆ですね・・
15 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 16:25:49 ID:egW+SZnG
お爺ちゃん初めまして
大本営にいたというのは本当ですか
大本営に朝鮮人兵はいたのでしょうか
それとウチのばあ様に聞いたところでは
>『大東亜戦争が始まる半年ぐらい前から町内の朝鮮人の姿が全く居なくなった』
これは朝鮮からの帰国命令があったので帰ったらしいと言ってました
その頃うちのばあ様は尋常高等小学校に通っていたそうで
クラスに朝鮮人が何人かいたそうです
その内の仲の良かった朝鮮人がお別れを言いにきてそのように言ってたとか
しばらくしたら戦争が勃発したと言っとりました
>>14 >帰ってこない爺様に腹を立てた婆様
ワラタ
PS
うちのばあ様が交際希望だそうですw
16 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 16:37:52 ID:1OwzK0Nd
>>15 リアル代筆ですか?多少脱線してでもいろいろ聞かせてください。
17 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 17:01:03 ID:egW+SZnG
>>16 今ばあ様は昼寝してますがリアル代筆ですw
ばあ様いわく戦前は朝鮮人の尋常小学校の生徒はそこそこ居たらしいです
クラスに4〜5人だったと記憶してるようですが、なにぶん子供だった為
正確な部分とそうじゃない部分が混ざってるようですね
戦争勃発のどれくらい前に朝鮮人が消えたのか尋ねましたが
それに対して「う〜〜〜ん、どれくらいだったかねぇ。。。」
「3ヶ月ぐらいだったか半年だったか、何しろ気がついたら朝鮮人がいなかった」
「まもなくして戦争が始まったので、ああそれで帰ったんだと思った」
それと出征して大本営に行くのは当時としたら超エリートか、余程優良な家柄とも
言ってました
ちなみにばあ様は独身ですw
18 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 17:22:16 ID:WK47sBq7
例の「在日からの謝罪スレ」で、我が家は代々駅の近くに住んでいて、敗戦直後に
朝 鮮 進 駐 軍 に 襲 わ れ た
我が家の体験をちらっと書いたものです。
あの後例のスレは見なかったんで、さっきやっとこちらのスレが立ったことを知りました。
もしかしたら俺も我が家の体験を後で書くかもです。へたっぴだけど、もし書いたら投下してよろし?
俺の親父は朝鮮人嫌ってたなあ、別に直接係わりあってた訳ではないみたい
だったが、俺が約束事を守らない時なんぞ朝鮮人を例えて叱られた記憶がある。
当時リアルで少年ジャンプに連載されてたのが「はだしのゲン」
なんで俺の親父はそんな差別的な事を言うのか悲しく思ったものです。
まあこう書くと俺の年齢を公表するようなものだが、サヨ教育が激化してた
ころ小学生だっんだなと実感します。
そしてそんな事をすっかり忘れた時の日韓WC、それに伴い興味を持った朝鮮
10年前他界した親父は正しかったと思う今日この頃。
爺さんの体験ではないけど中年のハン板デビューのきっかけでしたw
ちなみに俺の親父は洗脳?ぽいが、お国の為に命捧げるのがあたりまえに
考えてたらしい、終戦間際15歳、なんか13〜4歳で徴兵されて
南京だ731部隊だと妄言吐いてるヤツが居るのは信じがたい。
>>17 >ちなみにばあ様は独身ですw
こら、なんでお前のおとんかおかんは生まれたんや
21 :
17:2006/07/23(日) 17:30:00 ID:egW+SZnG
>>20 ヒント
.
.
.
.
.
.
.
後家さんですw
22 :
17:2006/07/23(日) 17:31:59 ID:egW+SZnG
すまそん
途中で切れてしもた
>>18 是非おながいします
24 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 17:35:31 ID:vsGrfOv8
ageた方がいい? sageた方がいい? 思いつかなかった良いスレだ!
おまいら支援汁!
25 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 17:47:52 ID:phFJROwx
在日お詫びスレで知り、爺様のお話を聴きに参りますた。
のんびりでいいので色々なお話聞かせてください、期待しています
26 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 17:50:37 ID:1OwzK0Nd
えー、交際だの独身だの話が出てますが、脱線しすぎじゃねW
1000逝く頃には親戚が増えてる人が居る予感W
>>18 是非とも 今こそ真実が必要な時
可能な限り出して頂けるのを心待ちにしてまつ
罪が可哀想などとお花畑の住人を現実に引き戻す絶好の機会に
ご協力を
28 :
18:2006/07/23(日) 18:06:03 ID:WK47sBq7
ちゃんとまとめてからになります。
もしかしたら明日か明後日になっちゃうかも。
なんでこんな大事なことを俺に言ってくれなかったかと尋ねたときに、うちの祖父も
>>1のジイチャンみたいなことを言ってました。
もう他界してますがね。
我が一族と近隣の人達にとっての黒歴史になるので、正直筆が重いのですが、出来るだけきちんと書いて投下したいと思います。
29 :
18 ◆SJlUYG1zTc :2006/07/23(日) 18:13:46 ID:WK47sBq7
あ、あと一応トリップもつけときますね。
ここまでやっといて、結局投下しなかったら許してねw
やっぱし心苦しさもあるのでね。特に一族に対しての。
30 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 18:19:48 ID:MGiBCNU4
>>28 流石、戦前の気骨ある日本人の方々です。
私も戦後の自虐史育ちですが、爺様が戦争で教科書で書いて有るような
行為をしたとは思えませんでした。・・助べえで婆様怒らせてたけどw
今からでもこういった貴重な話が聞けるのは、とても有り難い事です。
後世に残して行きたいです。
>>18 >>28 是非是非、お願いします。 私もそういう事知ったのはつい数年前 。
日下公人氏の発言で初めて知った次第です。
当事者の方々には胸が潰れる思いのする記憶から消したい過去ではないかと推察します。
書く気持ちになってくださったことに 感謝したいです。ありがとう。
32 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 18:57:24 ID:WYgGEKcS
お詫びスレの小役人は爺さんのこと威嚇してる?
不都合でもあるんだろうかね
>>32 えーその小役人です。
私どもの仕事を書き込みませんでしたので、いらぬ誤解を与えたようですな。
私どもこそ、貴重なご老人方の意見を拝聴したいのですよw
活発にやって下さい。このスレが出来た件に関してだけは、あちらの1の功績かもしれませぬな。讃えてやりますかw
34 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 19:18:44 ID:MGiBCNU4
>>32 そうか?
>「二度目は騙されない」という古老の言葉が印象的だ
威嚇には思えないけどね?
35 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 19:23:52 ID:WYgGEKcS
了解しました。
漏れ深読みし杉ダタ
吊ってきます
実はワタシの家では高祖父の代に、朴という鮮人の下男を召抱えておりまして。
朴は、大正14年に朝鮮郡を襲った未曾有の旱魃によって両親を失い。
食と職を求めて本土に来たのです。
大阪の方で馬車引きをしたり、鍛冶屋の手元をしたりと、兎に角食うので精一杯でした。
何故なら、朴はその当時は未だ少年であったので体力も技量も未だ未熟だったからです。
そこで、働くよりも下男になった方が良いということで、当家に召抱えられることになったのです。
さて、この朴、仕事ぶりは真面目で、下男としてよく家に仕えたそうです。
勿論、朴は無給です。「食」を保障してくれるだけでよい、それで売られてきたのだから。
陋屋に起居し、薪割り、風呂焚き等の雑事をこなしつつ、徐々に主人である高祖父の信頼を勝ち取ったようで。
農繁期に、他所の田畑で働く事を許可されました。
この百姓アルバイトにより、朴はそれで得た賃金を金塊に換え蓄財することによって、将来の展望を持つことができたのです。
そして終戦。
朴は当家から離れて、大阪に行ったとも、朝鮮に帰ったとも言われています。
我々日本人は朝鮮人を差別などしていません。
寧ろ、「食い詰めた経緯」に哀れさえ感じ、生活の立ち行くよう計らってやりもしていたのです。
ワタシの高祖父がそうです。
>>13 現地の人に飯おごってもらった話とか
補給部隊だから良い飯にありつけたという話とか
麻酔無しで肺の手術された話とか
引き上げ時に運転免許捨ててきた話とか
直接戦争に関係ある話ではないよ
出身長崎の福岡居住だったが
朝鮮人の横暴系の話も聞かなかった
流石の連中も
博多港に続々と到着する
引き上げ兵が溢れかえる中では
おとなしくしてたんじゃないかな?
駅前パチンコ店ってのもあまり見ないし。
しかし今の子供たちって
じいちゃんばあちゃんから話を聞くと言ったら
【団塊の世代】から聞くことになるんだよな…
38 :
37:2006/07/23(日) 20:19:24 ID:nGz3gAm1
「日本も原爆を作れたが、約束で使わないことになっとった!!」
という???な事も言ってましたが、
今思うと長崎の原爆で知り合いを無くしたのかも知れませんね。
>>37-38 体験談ありがたいが、このスレでは朝鮮人・韓国人が戦中および戦後の混乱期に
どのような行動をとったかにフォーカスしたい。
40 :
あちらの366です:2006/07/23(日) 22:56:09 ID:ZiCNpC+u
>>10さん
>>12さん
「当時こうだったなどの話をいきなり書いても、ネタや妄想扱いされる
こともある訳だし、にちゃんねるという所の独特というか、特殊性みた
いなものがあって(以下略 」
などと爺さんに説明したところ、覚えてる限りの当時の詳細を少しづつ
書いていけばいいのではないかとの結論に達しました
なので少々まどろっこしい部分もあると思うのですがお付き合い下さい
読んで下さる方がいるんだと言って爺さんも喜んでおります
それとお詫びスレを見た爺さんは朝鮮人が運営しているホームページか
なんかと思っていたらしく、『なんでお前は朝鮮人の部屋なんかに出入
りしてるんだ』(注:お詫びスレ=朝鮮人の部屋との爺脳内変換)と
言われてしまいました
爺さんはHPを部屋と呼んでますw恐るべし爺脳内変換、【GeForce?】
スレッドの意味を理解してもらうのに小一時間を費やしてしまいました
『』は爺さんの発言としてみて下さい
41 :
366:2006/07/23(日) 23:12:07 ID:ZiCNpC+u
>>39さんの仰ることはよく解かります
なるべく端折って書きたいのですが、朝鮮人の悪行に係る事なので
長文になる事をお許し願えればと思います
ウザイようならスルーでおながいしますm(_ _)m
>>15さん
>大本営にいたというのは本当ですか
『はい本当のことです。出征して最初に連れて行かれたのが三重県の寺で、
そこから汽車に乗せられた。汽車の窓には黒い天幕が張ってあって、外が
まるでわからないどころか、汽車の進んでいる方向すらわからなかった。
いずれどこかの港に到着して戦地に赴くのだろうと考えていた。
汽車が到着したのは東京駅だったので驚いた。そこからバスに乗せられた
が乗車と同時に全員目隠しをされた。バスが到着した先は大本営だった。』
これを最初聞いた時は爺さんの与太話と笑っていたのですが
終戦2日目に丸々太って帰宅した事を婆さんから聞いて
へぇー本当だったんだと思いました
戦争の中盤あたりから以降は食料が慢性的に不足していた為
国民のほとんどが栄養失調状態だったらしいです
それと残念ながら爺さんは既婚者です
婆さんが死んだら考えると言ってますがw
一旦風呂落ちしますのでまた深夜にでも来てみますm(_ _)m
42 :
マンセー名無しさん:2006/07/23(日) 23:27:21 ID:1OwzK0Nd
>>39 すいません、私がお願いして書いていただきました。
個人的には多少の脱線もOKかと思ったので・・・
>>40 スレタイと
>>1のテンプレを
勝手に
>>366氏視点にしてしまいましたが、気を悪くされたら謝ります。
>>33 あっちと両方照らしてみたんだが、それって「これからは在日は帰化しにくくなるかもねー」って解釈で良いか?
言わずもがな?
44 :
366:2006/07/24(月) 03:05:02 ID:/KUW+EwQ
>>42 >気を悪くされたら謝ります
とんでもないです
爺さんは自分の言葉が文字になったと大喜びしてますが
それよりハン板の皆さんや
>>42さんに迷惑かけやしないかとドキドキです
とりあえず爺さんの代筆を小出しにしていきますので
ハン板の皆さんやこのヌレを覗いた方からヤメレと言われたら書き込みを止めます
連投になってしまいますが、次レスで今日の分貼っていきます
邪魔になったらいつでもお声掛けください。m(_ _)m
『戦前、11月3日は明治天皇の天長節で、その日は長男の自分が
笹の葉を敷いたザルに2匹の秋刀魚を乗せて、各軒に配って歩く
というご近所への挨拶回りをした。20軒くらいだったと思う。
家は、他人様に施しをしてあげられる程金持ちじゃなかったが、
年に一度ご近所への心遣いとして我が家の恒例行事となっていた。
秋刀魚を受け取ると「ごちそうさまでございます。」と言って、
お返しにマッチをくれた。裕福な家は豆腐一丁程の大きさの徳用
マッチを一箱、マッチを一掴みだけくれるあまり裕福ではない家
もあった。
ある時父親に、マッチ一掴みで、見栄もはれない家がある。なぜ
損をして他人に尽くす必要があるのか、昼間家にやってくるぼろ屋
の朝鮮人は何のお返しすらくれない。と言ったところ張り倒された。
「他人様とは助け合う、そういうものだ。それがわかるまで家には
帰ってくるな。」と縁側から放り投げられた。
家の前でうずくまって泣いてる私の手を引いて母親が一緒に謝り
父親に許しを乞うてくれた。
その時の父親の言葉は今も忘れない。
「貧乏であるといった他人の境遇を蔑むべからず」
今にもサーベルに手が掛かりそうな程の父親のその勢いに金玉が
縮み上がった。
その後、警察官だった父親は台湾へ赴任し病死した。
当時の日本人が朝鮮人を差別したりすることはまずなかったし、
権威のある者ほど声高に「朝鮮人も日本人も同じ仲間だ」と言って
いたようだ。
「チョーセンジンpakaにするなオナジメシクテトコちがう」というのはおそらく
当時の権威の象徴とされる者達の「朝鮮人も日本人も同じ仲間だ」と
いう言葉を朝鮮人が利用しようとしていたのだろうと思う』
>>45 始まりましたね。続きが楽しみです。(良スレの予感)
366氏、念のためトリップを付けられたほうが良いと思われます。
ここはハン板、鮮人が多く生息しています。
折角の貴重な御話を連中に邪魔されたくありません。
御手数だとは思いますが、御一考よろしくお願いいたします
良スレの予感(w
ネタはいくつかもっていますけど、流れとしては
>>39さんのコメントでいいんですか?
|∀・).。oO( まぁ、流れを見ながら投下しますね。
>>47 ここはハン板だからねーまあ、仕方ないかな。
でも色々な話も聞きたいので、脱線もキボンぬ
トリアエズ、小話
<関東大震災時のこと。by明治生まれのばさま>
私の所は工場町で、戦前から多くの半島出身の方がいらっしゃいます。
で、仕事が出来る奴が偉い奴って風潮があったので
使えない奴は日本人だろうと半島出身だろうと殴られて育つって感じの町です。
鮮人が悪さをっていう噂は流れたそうです。
しかしながら、暴動っていうのはなかったそうで…
みんな、何処の工場の職人って面が割れていたし
悪さをしたらどうなるかって体でわかっていたからねぇって話です。
ただ、発生時洗濯用のたわしを持って逃げたこと(w
意外と倒壊する建物は少なかったこと(私の町では)
川上からドザエモンが多く流れてきたこと、
それを、見に行ったってことを話していましたねぇ。
|∀・).。oO( 取り留めのない話でした。
だがボケた老人の話が説得力は無いと思うよ
しかもネタ見え見えだし( ´,_ゝ` ) プッ
51 :
マンセー名無しさん:2006/07/24(月) 18:42:25 ID:cBayPix9
>>50 周りの空気が読めないやつは黙ってろ
良スレ保守
良スレ捕捉!
ウリの祖父様の話もいずれ投下させていただくやもしれませぬニダ。
祖母の話だけれども。戦況が悪化してくるにつれて、大人は皆戦争に
征ってしまった。中学校の教員とて例外ではない。そのため、代替教員
というのがやってくる。はす向かいの爺さんは早稲田理工学部の2年
だったが、昭和19年には学業を切り上げ代替教員となり、それから
定年まで教壇に立ったそうだ。もっとも、当時は授業の大半は勤労奉仕
に充てられていたのだが。
そんな中、祖母の弟の学年にも代替教員がやってきた。修身の教員である。
これが何かと問題だった。祖母の弟は祖母に、
あのセンコは口だけは達者だけど、全く行動が伴わない。率先垂範と
言うくせに、自分だけのんびり突っ立ってて、何かと文句を付けては
僕らを殴る。なんだいありゃあ。
祖母は弟を宥めるので大変だったそうな。その後も弁当を取り上げられ
たり、木刀で殴られたりすることまであったそうで、他の教員らが目を
顰めるほどのものだった。
そんな中、戦争は終わった。途端に、その代替教員は行方が分からなく
なったとのこと。無責任極まりない、と思いきや、暫くした後に闇市の
角で弟はその教員を見かけたそうだ。ただ、頭は訳の分からないぱあま
ねんとなどしており、見るからにチンピラそのものな連中とつるんでは
町を闊歩していたそうだ。
弟はそのことを祖母に話した。祖母は言った。
あの人は朝鮮の人だったんだよ。
こんなの証拠にならねー
おまえら3日前の夕食なに食ったかおぼえてねーだろ
記憶なんてそんなもん
55 :
マンセー名無しさん:2006/07/24(月) 20:44:26 ID:QI5ApdpV
>>54 よーく覚えてるぞ、チキンラーメンだw
大丈夫、みなお前さんより頭の良い方々だ。
だから余計な心配いらんよ
56 :
マンセー名無しさん:2006/07/24(月) 20:53:12 ID:712cM1xf
俺の祖父は両方とも自らの意思で戦争に行っていない。
2人共、複数大学の複数学科に在籍し、イザとなったら村長や銀行支店長ポストなどに滑り込み、頑なに兵役を逃れた。
変人の言わば非国民だと思っておったが、最近は肯定的に捉えている。
戦国武将の血筋だが戦争には反対らしいw
外国人の友人とかにその話をするとウケがいい。
うちの爺さんも大戦経験者だったんだよな。
生きてる内にいろいろ聞いておけば良かったよ。
うちの爺さんも3年前になくなったが、戦争中の話を聞いておけば良かったな。
祖父は北シナへ行っていて終戦を知ったときに、すぐに帰れると喜んで持っている食料を全部食っちゃったら。
本土に帰れるまで40日ぐらい待たされて、後が大変だったって話しか聞いていないよ。
59 :
マンセー名無しさん:2006/07/24(月) 22:17:51 ID:MzmB/EVg
お年寄りの当時の話を書かれると、
都合の悪い連中が居るみたいだね。
久々の名スレになる予感。
61 :
マンセー名無しさん:2006/07/24(月) 23:23:06 ID:MzmB/EVg
>>60 そんなスレが在ったんだ。
じゃあ以後、朝鮮の絡まない話はそっちに振って、
ここは、脱線無しのがいいね。
少しずつでも 息永く続きますように・・・
私自身は皆さんに提供できる話がなくて お役にたてなくて残念無念デス。
63 :
◆buj6R88svw :2006/07/25(火) 02:57:55 ID:QxoYcewv
64 :
◆buj6R88svw :2006/07/25(火) 03:01:05 ID:QxoYcewv
『近所のぼろ屋には自分より1級下の息子がいて、よく悪さをした。
よその家の水道管を引っこ抜いてそのぼろ屋に持って行って小遣い
稼いだりしたものだった。真鍮や赤(銅のことだそうです)は特に
高く買い取ってくれた。ある時、二人で遊んでいると母が煎餅の箱
を持ってきて、そこからぼろ屋のK坊(仮称)に2枚、自分に1枚
くれた。さすがにその場では言わなかったが、K坊が帰ったあと母に
なぜK坊は2枚で自分には1枚しかくれないのかとぐずると母は
「お前もK坊に飴玉をもらった事があるだろう。だからK坊は2枚、
お前は1枚。」
でもK坊にもらったのは飴玉1つだったと言うと
「他人様が飴玉を1つくれたら倍にして返せ。良くされた事は忘れな
い事。それが、もののふだ。」(もののふの意味は変換してみて下さい)
自我を収める美徳を教えられたような気がした。
その後K坊とは兄弟同様によく遊んだ。K坊がいじめられると家の兄弟が
仕返しにいったり、こっちがやられたときは助っ人に来てくれたりもした。
こうしてK坊と我が家の3兄弟は親密になっていった。
当時、朝鮮人差別によるイジメはまずなかった。いじめはあったが、
それは日本人も同様だった。現代のように陰湿なものではなかったが。
それぞれが限度を知っていたし、あとでうまく収拾をつけてくれる者が
必ずいた。勉強のよく出来る朝鮮人はイジメには合わなかったし、尊敬も
されていた。阿呆な者は日本人でも朝鮮人でも馬鹿にされていた。』
(括弧)内は漏れの脚注です
65 :
◆buj6R88svw :2006/07/25(火) 03:03:10 ID:QxoYcewv
追加
爺さんの見たハン板の感想
『いまどきの若い者が、存外しっかりしているのに驚いた。』
『唯、剣道が朝鮮起源では絶対ない。腰に下げてさえいれば武士なのか。』
『武士とは精神そのもので姿形ではない。くむどぅだか何だか知らんが、
剣を持っただけで「剣の道」などとは図々しい。姿形だけ真似たところで
それは赤子のちゃんばらでしかない。』
『剣道は心技、物真似は所詮身技。心技と身技の区別が付かずしていくら
能書き垂れたところでもののふにはなれん。』
『孫に買い与えた映画の米人監督の方がずっともののふを理解している。』
(どうやらスターウォーズのベン・ケノビがルーク達を逃がす時、目を閉じて
ベイダ−に斬られるシーンの事を言ってるらしいですw)
爺さんと二人でビデオ観てた漏れ キングカワイソス・゚・(つД`)・゚・
ではみなさんよい夢をm(_ _)m
66 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 03:35:51 ID:St83dY+0
>>63 366氏ですか?スレ違いではないので、ここでどうぞ。
それどころか366氏がここで書いてくれないと、スレが寂れてしまいます。
67 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 03:41:21 ID:St83dY+0
>>63 その資料はいずれどこかで、公開する予定等はありますか?
68 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 05:04:42 ID:6Lc+gRXw
良スレハケーン
当分ROMってます。
良スレ発見。
私の母方の祖父は戦時中警察官だったのですが、
母によると、この祖父は自分の子供たちのごはんもままならぬとき、
近所の朝鮮人の子どもが食うや食わずなのでごはんを分けてやっていたそうです。
小学校低学年だった母は、自分の食べる分が減るので恨めしくも思ったそうです。
祖母は人の良すぎる祖父をよく怒っていたそうです。
祖父も祖母も既に他界して、当時のことを聞くことはもはやかないません。
祖父母と同じ時代に生きた方々の声を聞かせていただけると嬉しいです。
これからROMらせていただきますね。
70 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 06:37:49 ID:4vfAlcB/
(朝鮮のかたがたは、感謝の気持ちが足りていない。)
71 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 07:36:21 ID:0LVtStd9
>>70 元々"感謝"つう感情が無いと思ふ。
有るのは他者は自分が利用するためにあると言う超利己的な考えと
"恨"という感情だけ(絶対同じ人間などと認識してはいけませんね)
>>ホロン
生物は負荷を受ける事で鍛えられる。
老化は鍛錬によって防げるらしいし。
戦中戦後の混乱で鍛えられた人達は、今の若ボケ厨房共よりよっぽど正気だ。
ついでに投下。ちょっと前にうちの婆さんから聞いた話。
婆さんの友人が半島から引き上げて来る時、半島人にバスの窓から放り出されたらしい。
半島人曰く、日本人の癖に生意気だ、とのこと。
又聞き故、詳細は不明。
73 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 08:58:15 ID:v3Kzqk6Y
74 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 09:58:47 ID:HtBzBlpM
良スレはけん!
でも自分とこの祖父母は早くに亡くなったから話を聞けなかった。
親いわく、父方の祖父が軍医ということと
母方は地図から消された島で毒ガス作ってたということしか知らない。
うちの祖父さんの思いで話 海軍某学校編
「朝鮮出身者に漬物作りを許可したら喜んでたなぁ」
「朝鮮から両親が訪ねてきて、遠くから来たから面会できないのも
気の毒だと思って、道路から見えるところで運動させてなぁ…」
家の婆さんは家が貧乏だったから、
12歳で奉公に出されたんだが、そこには朝鮮人の下男もいた。
やはり朝鮮人の行動は70年前もデフォで、婆さんにち○こを見せつけたらしい。
家の爺さんは郵便局に勤めてて、終戦直前に結核で死んだから、徴兵されなかった。
>>73 上から
大東亜戦争従軍記ってタイトルのドジン誌の表紙みたいの+ID書いた紙
その中のページ桜の木の前で5人の兵隊さん記念撮影?+ID書いたry
昭和20年の軍人給与とか大和108億で大将の給料6600円とか+ID書いry
爺さんの孫ってジサカー?【Geforce】とか
とりあえずサゲとく
爺さんGJガンガレ
78 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 18:49:36 ID:vJOnEB88
ドジン誌ってなに?
すまんあげてもうたorz
戦前戦後を実体験として生きられた祖父母様方のお話を聞けるのは非常によい教えとなります。
また、悲しいことですが戦後60年を過ぎ、実際を知る方々の多くが鬼籍に入ってしまわれております。
偏らない事実を後世に伝えることは、今を生きる私たちの使命と考えます。
そのためにも、このようなスレが盛り上がってくれることを切に願います。
最後に、このスレに文句をたれに来る有象無象に彼らの言を取って一言、
『おじぃ、おばぁが嘘を言っているというのか』
81 :
マンセー名無しさん:2006/07/25(火) 20:13:03 ID:v3Kzqk6Y
駅の近くに実家があり、終戦直後に朝鮮進駐軍に襲われた一族のものです。
当時を知る生き残りに少し取材(?)してきます。腰を据えて書いてみる気になりました。
でも、改めて取材してみて、俺自身が(´・ω・`) ショボーン しちゃうかもね。
83 :
◆buj6R88svw :2006/07/26(水) 03:03:18 ID:d1v81tEb
>>66-67さん
レスいただいてたんですね
あんな時間だからスレ覗いてる人はいないと思ってたので
貼り付けて即落ちしちゃってました
亀レスすまそです
>その資料はいずれどこかで、公開する予定等はありますか?
既に100冊ほど製本(といっても町の印刷屋さんレベルですが)
して親戚友人関係には配られておりますので、いまさら公開という
のもなんですが
個人特定されない様に気をつけながら藻でもかけてときどきうpして
みましょうか?
あまり急流じゃないマターリしたロダでも探しておいてみます
>>69さん
典型的なお人よしを絵に描いたような話ですよね
だけど戦前の「朝鮮人に騙される以前の日本人」はあなたの御祖父さま
のように徳を積まれた方が多かったそうです
>>82さん
心中お察し致します
爺さんに(´・ω・`) ショボーンの意味を教えたところ
『安心しろ。俺の金玉袋はもっと(´・ω・`) ショボーンだ。』
と言っとりました(意味不明ですが是非伝エレとのことだったので)
84 :
◆buj6R88svw :2006/07/26(水) 03:04:42 ID:d1v81tEb
じつは昨日から爺さんが入院しまして、で昨日は深夜になってもうた
そんな次第でした
入院といっても毎度おなじみになってまして、これで4回目ですw
2年前に循環器系で大病して定期的に検査入院みたいなことをしてます
来週退院してくるまでは、漏れが病院で爺さんの話をメモしてきて
自宅でテキストおこしみたいな流れです
漏れ自身も提出しなきゃならないレポートとかがあるので結局深夜にorz
今日、爺さんのマイスリッパを届けにいったら「ラヂオ体操」してました
なので今回も元気で戻ってくるとオモワレ
今日の分は長文で引っかかりそうなので分割して貼っていきますm(_ _)m
85 :
◆buj6R88svw :2006/07/26(水) 03:07:36 ID:d1v81tEb
『「留守は長男のお前にまかせる」そう言って父親が任地の台湾
へ赴いた。家をまかされた事が何より誇らしかった。母を助ける
事と留守を守るが至上命題となり、皆率先して家事を手伝った。
大工の真似事もした。営繕は結構うまかったと思う。兄弟3人
そろって遊ぶ時間は当然減っていったが文句を言うものは誰も
いなかった。必然的に、ぼろ屋のK坊とも疎遠になっていった。
単身、父親が赴任してから僅か2ヶ月あまりで病死との知らせを
受ける。
異国の地より白木の箱で戻った父親を、喪主として私は迎えた。
母は涙を流したが、取り乱す事はなかった。
明治の女は強かった。
その頃になると町中から朝鮮人の姿を見かけなくなった。
あまり気にもしていなかったが、不思議と言えば不思議でもあった。
そして昭和16年12月8日、一億一心を唱えて開戦を迎える。
翌昭和17年、17歳と7ヶ月で軍隊へ志願する。
兵隊の資格は以下のとおり、
年齢満20歳にて、国民の3大義務の一つ徴兵検査を受けなければ
ならない。
*** つづく ***
86 :
◆buj6R88svw :2006/07/26(水) 03:09:05 ID:d1v81tEb
*** つづき ***
1)甲種合格
身長5尺2寸以上、体重15貫以上にして身体強健なる者
2)乙種合格(補充兵)
身長は満たすものの、体重が不足している者
3)丙種合格(第一国民兵)
身長、体重共に少ない者
4)第2国民兵
大きすぎるか小さすぎる者
5)兵役免除
病弱の者か不具の者
実はこの時私の体重は15貫(56kg)に少し足りなかったのだが
「記入者が少なく間違えて記入してしまったようだ」と担当者に嘘
をついた。すると「そうか。よろしい。」と言われ甲種合格になった。
兵隊が一人でも多く欲しかったのか、志願したから甘くしてくれたの
かは不明だが、こんな子供だましのような嘘が平気でまかり通ってし
まうのだった。
家に帰り母に報告すると、母は「おめでとうございます。」そう言って
畳に手をつき深々頭を下げた。自分は一人前になったのだと思った。
その晩便所に起きた私は、仏壇の前で泣いている母を見てしまった。
何かいけないものを見たようで、母に気づかれない様にと、それだけ
に神経を集中させ、忍び足で部屋へ戻った。
この時、なぜ町から朝鮮人がいなくなったのかという疑問が解けたよ
うな気がした。結局朝鮮人の言う「共栄」とは自分に都合が悪い時は
逃げるという事だったのかもしれない。』
87 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 03:34:24 ID:Z7/rvGlj
俺が祖母から聞いた話。
・鶏小屋とかを放置しておくと、勝手に朝鮮人が住み着いて、自分のものとしてしまった。
・終戦直後は朝鮮人が名義貸しをやっていた。
名目的に朝鮮人を会社の代表にしておくと税金を払わなくてよかった。
・現役で平壌に駐屯してた祖父は、帰国してから「朝鮮人とは関わるな。」と言ってたらしい。
>>87 > ・現役で平壌に駐屯してた祖父は、帰国してから「朝鮮人とは関わるな。」と言ってたらしい。
可能な限りkwsk!
皆々様、ちゃんと読んでますからね。
話が話だけに書き込む人は限られるかもしれませんが、でも、その何倍も関心を寄せる人達がいて
ここに立ち寄っていくでしょう、そう思います。
祖父母様の体験談を書いてくださる方々、ありがとう。
90 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 07:01:11 ID:oQ6sZHTI
【味噌もクソも一緒】
の語源は朝鮮人だと祖父に聞かされました。
肥のバケツに入った味噌での味噌汁は、味噌の臭いでは無く壮絶な異臭を放つ物体であった為に、肥のバケツと、食料(味噌)を入れるバケツの違いを徹底して教えよ。
との個別の注意が必要だったそうです。
>>90 ・・・「清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。 」っていうくだんの一文を思い出しました・・・。
92 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 09:46:40 ID:Q82mpktV
私の祖母は半島の人でした。私が生まれてすぐに亡くなったのですが、祖父が遺骨を故郷に納めようと韓国に行ったのですが納骨を拒否されただけでなく、祖母や祖父を口汚くののしったそうです。
93 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 11:33:01 ID:3RcBhhFF
>>83 お疲れさまです
>ときどきうp
楽しみにしております。
お爺ちゃん入院ですか・・・検査入院とはいえ大変ですね。
何にしても、ご自分とお爺ちゃんの生活に、
支障の無い範囲(個人情報、書き込みのペース等)での書き込みでお願いします。
お爺ちゃんへ
入院ついでに玉袋をパンパンに膨らまして帰ってきてねW
>>83 爺様にあなたの玉袋はむしろ(`・ω・´)シャキーンだと、お伝えくださいませw
ジジイくたばった?
ジジイくたばった?
アヒャヒャ
ジジイもう来なくていいからW
基地外ウヨが集うというスレはココですかw
いいかげん差別表現はヤメロヤ
マジレスするとこのじじいが軍隊いったのが1942年で17才
長男で3兄弟なら年子であっても一番下は17才だと1945年だ
戦争オhル
計算できますかぁ?プゲラ
つーわけで捏造乙
おまえらのキライなコリアンの代名詞 捏 造 だよ
わかった?
じゃーなプゲラッチョ
100ゲットしちまったw
>>99 ァ ∧_∧ ァ,、
,、'` ( ´∀`) ,、'`
'` ( ⊃ ⊂) '`
∧_∧ ミ ギャーッハッハッハッ!
o/⌒(. ;´∀`)つ
と_)__つノ ☆ バンバン
腹いてえよ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ / \ / \ / \ / \
此れだから薄ら馬鹿ペクチョンはwwwwwwwwww
漢字が読めねえは常識はないわwwwwwwwwwwww
一つ教えてやろう 少年兵でぐぐれ 薄ら馬鹿
あしたはダト落ちですね♪
104 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 21:23:46 ID:8i0ji9S/
105 :
マンセー名無しさん:2006/07/26(水) 21:28:44 ID:3RcBhhFF
必死でsage書き込みの人が居るから上げとくか。
真実を知られると都合の悪い朝鮮人が来ているようだね。
私も知り合いに、父親が朝鮮総督府に勤めていた関係で
戦前、朝鮮に住んでいたという人がいるのですが
私が「朝鮮と台湾、どっちが好きですか」と聞くと
笑いながら「そりゃ台湾の方がいいよ、朝鮮はああだからね」
「朝鮮の方がいい、と言う奴はおらんだろ」
と言ってましたね
> 「朝鮮の方がいい、と言う奴はおらんだろ」
朝鮮人を忘れているよ
110 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 01:30:04 ID:PpZOWRLk
>>83 ご達者で何よりです。
これからも宜しくお願いします。
狸のような立派な玉袋なら少しぐらい(´・ω・`)ショボーンでも羨ましいです。
…と伝えてくれいw
111 :
87:2006/07/27(木) 02:02:17 ID:xHCBqVG4
>>88 残念ながら祖父は、俺がガキの頃に亡くなったんで直接には聞いてないんだ。
だから詳しいことは知らない。
食事の際にひざを立てると、「朝鮮みたいな食い方するな!」と怒ってたらしいよ。
朝鮮を全否定していた祖父だが、台湾については「極楽のような所だ」
と言ってたそうだ。
>>90 俺の祖母も似たようなこと言ってた。
俺の地元は湧き水があり、住民は生活にその水を使用していた。
上流でオムツの洗濯をしててウンコが流れてても、下流では朝鮮人が
平気で野菜を洗っていた。
「朝鮮人はウンコがついた野菜でも、平気で食べる」そうな。
112 :
87:2006/07/27(木) 02:13:44 ID:MuNxwlAT
111に補足。
俺の祖父は赤貧洗うがごとき家庭に育ち
とにかく食うに事欠いたので
バナナみたいな食用果実があちこちに生っている
台湾が「極楽」に思えたのだろう。
「バカチョン」とか「チョンぼする」の語源はやっぱあれか??
114 :
◆buj6R88svw :2006/07/27(木) 02:48:32 ID:oJATnbg+
今日の分も長文なので分割して貼っていきます
連投うざくてすみません>ハン板のみなさんm(_ _)m
>>99さん
さっそくの突っ込み有難うございます
予測はしておりましたがこうも早いとはオモワなんだわw
うちの爺さんは長男で2人の弟(ともに他界してます)は
両方とも2歳下です
その一人がお妾さんの子とかいうのではありません
不可能ですよね、普通はw
実はこのスレの
>>40でも書いてるように「ネタ妄想扱い」に
ついては折込済みでして、いずれここは突っ込まれるだろうね
などと爺さんと相談してました
このスレの上の方でも書かれているように漏れはにちゃんねる内
某板をスクツとさせてもらってるので、これについては詳しく書か
ない方が得策だよ(個人特定とかにも繋がる鴨)と進言したの
ですが爺さんが『かまわんから全部書け』といったので敢えて
書かせてもらいました
というのも最初はサクッと「朝鮮人はこれこれこうでした」と
書き込んでオシマイにするつもりだったので
まあいずれボチボチ資料をうpっていけばわかる事だろうけど
*** 続 く ***
115 :
◆buj6R88svw :2006/07/27(木) 02:49:22 ID:oJATnbg+
*** 続 き ***
本来、二人のうち一人は爺さんの「いとこ」にあたりますので
正確には兄弟ではないのですが、戸籍上も兄弟です
そのHさん(仮称)の父親が早くに亡くなられた為、爺さんの弟
になった訳でして
当時は医療も今のように進んでおらず、些細な事で亡くなる方
は多かったそうです
また、どこかの国のように(今現在でもそうらしいですね)やた
らと孤児院に送ったりするような事は、日本ではあまり聞かない
です
日本人は本来、他人に迷惑を掛ることを嫌うし何より「助け合う」
という精神に満ちているからです
特に戦前の日本では、そうした話はごろごろしていて珍しい事で
はなかったようです
面白い例えとして、長男のいる家に兄を入れる訳にもいかず弟の
方が年上というケースも稀にあったそうですが
家長制度の弊害なのかな?
まあ「跡取り」という点だけ見ればどっかの国の「将軍さま」み
たいではありますがねw
試しに検索ワード駆使してググッてみて下さい
役所がのんびりしてたのか、それとも粋な計らいってやつかな
116 :
◆buj6R88svw :2006/07/27(木) 02:50:28 ID:oJATnbg+
>>60さんの貼られた先をプリントアウトして病院に行ってきましたら
靖国神社の参拝に云々言っておられる方の話になり、それについて
爺さんが面白い事を言ってたので、今日は少しだけ脱線させて下さい
爺『国を護るために散っていった勇士を祀る、靖国神社の参拝をすること
がなぜいけないのか、まるで創価学会と同じ意見ではないか』
漏「(゚Д゚)ハァ?」
爺『自分の宗教以外は全てが邪宗というのはおかしいだろう』
漏「(゚ー゚)(。_。)(゚-゚)(。_。)うんうん」
爺『それに日蓮宗はニセモノで、自分の宗教こそが唯一本物だと』
漏「( ・−・ )」
爺『創価も日蓮さんもお釈迦様を祀ってる訳だから、もし俺がお釈迦様な
ら両方で祀ってくれて有難いと思うぞ。おかしいだろ。』
漏「で?朝鮮人の典型だと?」
爺『まぁ、そういうこった』
このあと延々と層化の話をしてましたが話の骨子はこんなとこでした
それと家の爺さんは「戦争大好な軍事オタ」ではありませんので念のため
靖国とか平和について、
『二度と再び戦争をしてはならない事は我々体験者が一番良く知っている』
と申しております
資料のあとがきにこの辺のことが書いてあるので、あとでテキスト起こして
みます
そのとき一緒に資料のそのページもうpしときます(近々ダトオモ)
それでは今日はこのへんでm(_ _)m
>>110さん
確かに承りましたw
>>108 朝鮮人が朝鮮のほうがいいと思っているとでも?
それはともかく、
幸か不幸かうちの家族は朝鮮人との接触が不思議とみんな薄くて、
あんまり実体験が聞けなかったんだよな…
かろうじて陸士の同期の朝鮮人について最期はろくな死に方しなかったと言葉を濁した父親の発言くらい…
118 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 06:55:00 ID:Afu2yZ6V
>>111 祖母だが、食事についてもそうだが、躾についてもよく
朝鮮人を引き合いに出してた。かなりガキのころね。
部屋を散かしてると、かんじん(韓人?)小屋みたいとか。
夜も1人でウロウロしてると、朝鮮人が攫いにくるぞとかも・・・
とにかく、朝鮮人とは付き合うなと言われたことある。
そう言えば、うちの祖母も、お行儀が悪いことをすると
「朝鮮人みたいなことはやめなさい」
と言いました。
台湾人に関して、同様のことを言われたことはないんです。
やはり、おじいちゃん達おばあちゃん達は朝鮮人と台湾人は
明確に区別していたんですねえ。
ジャンクフードがまだ一般的ではなかった昭和の頃、
人込みの電車内で、買い物袋からクリームパンを出して食べようとすると
「みんなお行儀よく乗ってるでしょう。朝鮮人と間違われるよ。」
と小声で注意されました。
祖母祖父の家に着いてから、
「はしたない食べ方をしたら、朝鮮人みたいに心が小さくなって、大きくなれない。」
と叱られました。公共広告機構(だったか?)の最近の広告で思い出しました。
121 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 08:24:48 ID:PvqkdLX3
>>118 他はともかく
>夜も1人でウロウロしてると、朝鮮人が攫いにくるぞとかも・・・
これについては、事実だと落ちが付いたからなあ。
東シナ海を船でウロウロしてて浚われた奴も実際いたな。
>>123 ホンとは目立つところに上げて、皆さんに書き込んでほしい所ですが、
変なのが湧くので・・という事で
125 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 17:22:42 ID:qK2l5Uva
モウヒトツ、爺様、婆様のはなしでは無いですが、
中学の頃、金何某という名前の生徒が居りました。
父母に金とかいてキムと読む、珍しい名前の人が居るという話をした所、
なんとも言えない顔して言葉を濁していたのを思い出します。
父母の世代も在日は評判が良くないみたいです。
通名を使ってないあたり、恐らく半島から留学をしている韓国人の
子供ではないかと思います。特に変人とい噂もなく普通の人でした。
当時住んでいた場所柄、恐らく彼の両親は結構なエリートだったんだろうと思われ。
ああ、間違えて上げてしもうた・・orz
127 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 18:52:59 ID:M2JDYeVS
>>113 チョロっと書いてみるです…
詳しいところは専門家に聞くですよ。
ばかちょん
【ばか-ちょん】と言う事で、『ちょん』の意味を見てみればわかると思うです。
『ちょん』
1
踊り字の『ゝ』を『ちょん』と読む。
漢字にもみたない中途半端な文字→半人前の人のことを示すようになった。
『ちょんまげ』の『ちょん』は形状が『ゝ』に似てることから付けられた呼び名。
2
ちょんとは歌舞伎の幕間の拍子木の音からとも言われるです。
拍子木を打つ者はやはり半人前ということで、
こっちの由来の言葉の意味もまた『半人前』
『ちょんぼ』
チョンボは麻雀における用語のひとつ。
中国語では『錯和』または『狆和』と書く。
語源
『錯和』の語源は明代まで遡る。
勘合貿易において、和人(日本人)を偽って密貿易を行おうとする輩が続出し、『錯和』の語が現れた。
(琉球の歴史書『中山世譜』)
転じて、物事に失敗すること、ミスをすること全般に使われる。
そういや『ばかちょん』にはもう一つあったっけ…
Vacation → バカチョン
コウイウ説。
130 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 21:04:35 ID:M2JDYeVS
うちの祖父は関東軍に所属して満州にいましたが、朝鮮人は馬鹿だと
よく言っていたな。「ばかちょん」が口癖だった。
何故そう思うのか聞いておけばよかった。
>>131 それは、西洋道中膝栗毛(仮名垣魯文著)の用法と同じ、
『馬鹿で半人前』と言うような意味じゃないかなと思うです。
そろそろ詳しい人が来るかなと期待してみる。
133 :
マンセー名無しさん:2006/07/27(木) 21:56:46 ID:1NMo4ENr
バカチョンが根源どおりという所がワロス
134 :
113:2006/07/27(木) 23:29:35 ID:IesU1o5o
変な質問に答えていただきましてありがとうございます
本来は全く別な語源からできた言葉みたいですが、万葉集における掛詞のように使っている節もあるようですね
>>130 ここ笑うとこ
以下飲尿
、「日本のマスコミは嘘ばかり言っている。北朝鮮を驚異的な国にまつりあげ、標的にしている。テポドンは弾道ミサイルとは何の関係もない。」と嘆いていた。確かに、情報は、どこまでが真実なのか見極めるのは難しい。私も情報を鵜呑みに生活していることを思い知らされた。
136 :
135:2006/07/28(金) 00:05:09 ID:KW60SVyw
飲尿X
引用○
ハズカシ
138 :
マンセー名無しさん:2006/07/28(金) 01:19:03 ID:FBN2sYL7
>>138 この部分をリンクから抽出し最初にコピペ→、「日本のマスコミは〜知らされた。
そのあとカーソルを最上部にもっていきエンター押して改行
ここ笑うとこ と打ち込み
行変えて 以下 と入力そして変換
続けて 引用 と打つべきところをn一回多く打って 飲尿 となるも
本人気づかずそのまま投下
普通は 印尿 などと変換される候補のトップに 飲尿 が表示されることから
飲尿を頻繁に変換することが判明
でそれがバレタ鴨と思いつつ
>>136で訂正そして ハズカシ と自分を恥じる
140 :
139:2006/07/28(金) 03:44:02 ID:Vcr8uCoU
>>1 乙
その世代では養子は良くあることですよね。ウチは親父の代でも。。。
母方は台湾引き上げ組で爺サマは生前ものすごく台湾を懐かしがっておりました。生きてる内に旅行でも行かせてやりたかったです。
ウチでも行儀が悪いと「朝鮮人じゃあるまいし!」と怒られてました。ガキの頃は「挑戦人?」と意味がわからず、チャレンジャーが挑発的な態度を取ることかと思ってたなぁ、馬鹿なガキだったウリ。。(T-T)
142 :
マンセー名無しさん:2006/07/28(金) 16:49:25 ID:ZzYQu1et
> チャレンジャーが挑発的な態度を取ることかと思ってたなぁ、馬鹿なガキだったウリ。。(T-T)
悪いが、最後の一行には大笑いさせてもらったぞ。
しかし、よくよく考えてみると、決して対等な立場ではない朝鮮人が、
日本人に対して挑発的な行動を取るのを見ると、あながち間違ってはないよな。
>>142 挑戦というより、挑発って気もするw あと負け犬の遠吠えとも・・
で、ウッカリ挑発にのって手を出すと「ウリは悪くないニダ」とかいって
喚き散らすが今も昔もウラナリクオリティだな
144 :
◆SJlUYG1zTc :2006/07/28(金) 19:17:15 ID:5XlzwUzd
>>115 うわびっくり。あなたのお宅も、親をなくした親戚の子供をひきとっていたんですか!
うちの祖父はまさにそれです。自分の弟の子供をひきとって自分の子供として育てました。
だから俺はその人達のこと昔から「叔父さん」と思ってましたよ。
昔の日本人は偉いなあと改めて感じた次第。
なんか勇気をもらえました。なんとか取材結果をまとめにゃあ…
>>128に助け舟
> 892 娜々志娑无 ◆NcNEDmUA sage 2003/02/04(火) 19:18 ID:onac9bRs
>
>>891 最初はグー さん
> 私の手持ちの資料では、朝鮮人の蔑称「ちょん」がいつ頃から使われていた
> 言葉なのかを確かめることは出来ませんでしたが、戦前を知る人達の話だと、
> 戦後になってから広まった言葉みたいですね。それ以前は「よぼ」というのが
> 朝鮮人の蔑称だったそうです。これは朝鮮語の挨拶語「ヨボセヨ(もしもし)」
> から来たもののようです。朝鮮語から来ていることから見ても、言いだしっぺ
> はまず間違いなく半島に渡って朝鮮人と直接接していた内地人でしょう。
> 一方、「ちょん」成立の経緯はそう単純ではないようです。なぜなら、「ちょん」
> という語は近代になって日本人が朝鮮人と深く関わるようになる以前から存在
> していた語だからです。以下、順を追ってご説明致しますが、以下の内容は
> あくまでも私見であって、多分に検討の余地もあることをあらかじめお断りして
> おきます。←逃げ(^^;
> さて、この「ちょん」という語ですが、文献での登場は比較的古く、17世紀の
> 初頭です。本語は実は擬態語・擬声語でして、「ちょう(と/ど)」「ちょい(と)」
> 「ちょっと」「ちょこ」「ちょろ」などと同系の言葉でした。当初の意味は「小さな
> ものが突き出ているさま」「刃物で断ち切るさま」で、18世紀に入ると、「拍子木
> の音」という擬声語としての用法や「程度の軽いさま」という意味も登場します。
> 19世紀になると「じっと小さくかしこまっているさま」という意味も出てきますが、
> 少なくとも江戸時代の段階ではまだ「馬鹿」という意味は見えません。
> その「ちょん」が「馬鹿」の意味で使用されたのは仮名垣魯文『西洋道中膝
> 栗毛』(明治3年)で、「ばかだの、ちょんだの、野呂間だのと」とあるのが最初
> のようです。「ばか」と「のろま」に挟まれて使われていることから、この「ちょん」
> が「馬鹿」系の意味で使用されていることは確実です。江戸時代までの意味
> とはずいぶん違っているので妙な気もしますが、同時期に「物事のおわり」
> 「おしまい」という意味でも使用されていることを考慮すると、旧来の意味の中
> では「拍子木の音」というのが最も関連が深そうです。拍子木は芝居の幕切れ
> の時に打つものですから、そこから「物事の終わり」「おしまい」という意味に
> なり、更には「ちょん」のもう一つの意味である「程度の軽いさま」とも結び付いて、
> 「頭の悪いこと(人)」「まともでないこと(人)」という侮蔑的な意味が生まれた
> ものらしく思われます。或いは、不良品に「ちょん」と「丶」のような記号を付す
> こと習慣から生じた用法である可能性もありますが、いずれにせよ、明治3年
> の段階では「ちょん」という言葉が朝鮮人とは一切関係のないことは疑いようが
> ありません。
> にも関わらず「ちょん」が朝鮮人の蔑称になってしまったのは、不幸にも
> 「ちょん」がたまたま「朝鮮」と音がよく似ていたためでしょう。ハン板/総督府
> の住人にとっては常識の域に属することだと思いますが、戦後の混乱期に
> おける一部不逞鮮人の無道ぶりは凄まじいものだったようです。そこで、
> 日本人の朝鮮人に対する反感が飛躍的に高まり、その際、既に「馬鹿でも
> ちょんでも」という慣用句で定着していた「馬鹿」の意味の「ちょん」が朝鮮人
> に対する蔑称として転用され、現在に至ったものではないかというのが私の
> 推定であります。以上。
> 907 娜々志娑无 ◆NcNEDmUA 2003/02/08(土) 14:09 ID:8.1dHpME
>
>>904-905 最初はグー さん
> 私も九州出身ですが、私の周囲では朝鮮人の蔑称として「チョン」を
> 使うことはなかったと記憶しています。ふだんは「朝鮮人」、侮蔑的な
> ニュアンスを込める時には単に「チョーセン」と呼んでましたね。
> 私も朝鮮人の蔑称としての「ちょん」の成立に朝鮮高校の存在が
> 強く関わっている可能性は高いのではないかと思っています。ただ、
> 「ちょうこう」が容易に「ちょんこう」に語形変化しやすいかというと、
> 音韻変化の傾向から見る限り、必ずしもそうとは言い難いものが
> あるのです。なるほど、似たような例として「しょうべん(小便)」が
> 「しょんべん」となる現象はあるにはありますが、これは語末の「ん」
> に引かれて先部成素の「う」が「ん」に変化した逆行同化と捉える
> べきものです。「見つける」が「めっける」になるようなものですね。
> 一方、「ちょうこう」→「ちょんこう」では、本来「う」で共通していた
> ものが、先部成素が「ん」に変化した結果、別の音になってしまった
> わけですから、この場合は共通点が減じており、逆行異化という
> ことになってしまいます。勿論これも現象としては十分起こり得る
> ものですが、同じ音だと困る(例えば、紛らわしい等)という理由が
> 欲しいところですね。
> あと、もう一つの可能性として「チョンガー(総角)」があるかも
> 知れません。「チョンガー」はいい年をしていながら結婚できない
> 私のような独身男性を指す語ですが、もとを正せば朝鮮語
> (「総角」の朝鮮漢字音)であり、本来は侮蔑的なニュアンスを
> 伴っていました。この「チョンガー」と馬鹿の意の「ちょん」、
> 朝鮮(朝鮮高校も含む)などの要素が絡まり合って、「チョン」
> が生まれたと考えるのはどうでしょうか。無理かなぁ。
149 :
◆buj6R88svw :2006/07/28(金) 22:15:46 ID:I+N72ehj
ダイヤルアップのひとキター?とか言われそうですが
今日も分割して貼っていきます
相変わらずの長文うざくてすみませんm(_ _)m
>>116で書いたテキスト起こしのページうpですこちらをどうぞ
http://vipper.jpn.org/www/upload/src/VIPphoto8268.jpg http://vipper.jpn.org/www/upload/src/VIPphoto8270.jpg 「こっちからどんどん戦争ふっかけてやれ」な態度でない事はご理解
頂けるかと思いますが、しかしながら「降りかかる火の粉は掃わなけ
ればならない」のも事実
「備えあれば憂いなし」が口癖の爺さんは、イザという時に備えとけ
と、漏れと漏れの兄に飛行機の免許を取らせてくれました
ときどき【おまえら戦争になったら志願する?】みたいなスレがあったり
しますけどそれに対する考えをついでに書かせてもらいます
漏れはエロゲーの板とかをうろついてるヘタレのジサカーに過ぎませんが
それでも有事の際には出撃する覚悟を持ってますコワイケド
次レスであとがきの後半部分のテキストを貼っていきます
前半部分はまた今度ということで
昨日今日と2日連チャンで爺さんとあまり話しができてません
なんか検査結果があまり良くないみたいです(´・ω・`)
にゃあ( ・O・)
151 :
◆buj6R88svw :2006/07/28(金) 22:17:11 ID:I+N72ehj
国の章徴(象徴)である国旗を掲げてはいけない、国歌を歌ってもいけない。
国を護るために散っていった勇士を祀る靖国神社の公式参拝もだめ、紀元節
もだめ・・何でもかんでもだめだと云ふ・・。(云ふ=言う)
軍国主義の復活であると云ふ・・。
戦争を知らない人の叫びであろうか・・・二度と再び戦争をしてはならない事
は我々体験者が一番良く知っている
自衛隊廃止まで唱へる(唱へる=唱える)人もあるが、戦争をする為のもので
はない事は周知の通りである・・・
降りかかる火の粉は掃わなければならない。
「絶え難きを絶え忍び難きを忍び」が現在である。
日本国平和の為には何如に(何如=如何)するべきか、世代を引き継ぐ若者達
に期待してこの平和が永遠に続く様に祈る。
昭和六十年四月 署名 XXXX(爺さんの名前のとこは藻かけました)
VIP板 原子力空母 ワロスっぷ型(・_・)ぶーーん
153 :
マンセー名無しさん:2006/07/28(金) 22:29:45 ID:ZyGmHpCW
>>151 この世代の人たちの書く字ってカッコいいよな〜(自分字が下手です)
御大事にとお伝えください・・
お爺ちゃんの体調が早く回復しますように。
155 :
87:2006/07/29(土) 03:32:35 ID:/Us5tHZU
>>123 >きっとなんかしらの事実はあったんだろうな
「なんかしら」っていうか、祖母の話だとまさに事実だそうだ。
俺の祖父母は自営業だったからね、朝鮮人の脱税名義貸しは
実に魅力的だった、なんせ税金を払わなくていいのだから。
俺の祖父は朝鮮嫌いだから、それをやらなかった。
なぜ、朝鮮脱税名義貸しが成り立っていたかというと、暴力で税務署員
を追い払ったから。
朝鮮人が鶏小屋を占拠したのも、事実。
>>149 やっちまったな
飛 行 機 の 免 許
といってる時点でダウト
俺も機動重モビル乳吸級戦車の免許もってるよ
しかも家族でw
脳内ライト兄弟飛行機免許乙
>>152 俺もこのスレはVIPPERのネタぽい希ガス
>>156 もうちょっと分かりやすく、一般的な用語で書いてください。煽りでなければ。
航空機免許を飛行機の免許と書いて何が悪いんだろうなぁ。
そんなところにしか突っ込めない白丁が素敵(w
>>158 航空機免許を飛行機の免許といったことが問題なら
単に万人に分かる言い回しにしているだけかもしれないぞ。
そういや、ずいぶん前に台湾戦友会の招待があったとかでこっちの戦友会が台湾に旅行に行ってきたとかあったな。で、爺さんも行ってきた
台湾戦友会に知り合いいたみたいだし
戦友会も高齢化して解散したとか言ってたな
161 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 09:06:54 ID:nBufIbVz
162 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 11:09:20 ID:skWv4x6J
>>158 チョンは漢字での表現ってモノをよく理解してないからじゃないかな?
運転免許証を「車の免許」と言うのは結構普通に書かれる表現なんだけどね。
次に出てくるときは、一般人が取れるはずがない、と言ってくるに500ウォン(穴つき)
>>159 航 空 機 免 許
おまえもものしらねーな
航空機免許ってなんだよ
アホかw
165 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 15:41:35 ID:skWv4x6J
>>164 航空機飛ばすのに必要な免許をひっくるめて言ってるだけだろ。
突っ込む所じゃないと思うがね。
本当に漢字の表現ってのが解らないアホだな?
所で、お前らが偉大な文字ハングルは
日本人が普及させてやったって事を知ってるか?
お前らの国は今も昔も愚民教育が好きだから、知らないだろ?
166 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 15:59:58 ID:skWv4x6J
>>165 ×>お前らが偉大な文字ハングルは
○>お前らの偉大な文字ハングルは
・・orz
167 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 16:15:45 ID:x29ApImA
韓国が好きではなかった。敗戦直後の焼け跡、神戸で貿易商を営む親類の
所有地1500坪が在日・韓国朝鮮人の掘っ立て小屋に占拠された。
火災が起きても鎮火と同時に別の小屋が建ち、取り返せなかった。
「韓国人の友人もいたが、偏見はぬぐえなかった」 ・・・・・・
(日韓経済協会長 瀬戸雄三 神戸市生まれ、53年アサヒビールに入社、
神戸支店長、営業本部長などを経て92年社長、99年会長、02年から相談役。
同年6月から日韓経済協会の第6代会長を勤める、75歳) 朝日新聞 2005.5.24
168 :
マンセー@名無しさん:2006/07/29(土) 16:52:21 ID:x29ApImA
>>37 流石の連中も博多港に続々と到着する引き上げ兵が溢れかえる中では
> おとなしくしてたんじゃないかな?
どこかに、福岡駅を占拠した朝鮮人を、九州大学の学生が叩き出したというのがあったよ。
169 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 16:53:42 ID:skWv4x6J
170 :
マンセー名無しさん:2006/07/29(土) 23:33:08 ID:adv3oizH
戦前の人は筆を使って字を練習した世代だから皆字が上手いよ。
筆は留め撥ね払い抜きがきちんとできないと綺麗な字にならないんだ。
俺「我奇襲ニ成功セリ」という真珠湾攻撃の暗号電文の殴り書きを見たことがあるけど、
本当に上手い字だった。
172 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 01:31:33 ID:Or3Wrnhw
>>171 その頃は筆がデフォでしたね。
明治・大正が遠くなったな・・
173 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 01:51:36 ID:3QHbJlQT
>>170 飛行機の免許から話をそらしたいらしいw
174 :
マンセー名無しさん :2006/07/30(日) 02:02:44 ID:jH49EceV
私の爺様は憲兵中尉として釜山にいっていたそうだ。
現地人に一度たりとも手を上げたことはないそうだ。
ましてやリンチだの強姦などは皆無だと言っていたぞ。
175 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 06:07:09 ID:c4QA7Wk/
>>174 当時、日本に併合されて(日本人)だった半島人が、
日本人になれたことで強気に調子付いて、
いつもの人喰い等の犯罪を大陸でやらかしやがったって
うちの爺さんも言っていたぞ。
だから、当時の新聞の記事など信用に値しない。
現代でも日本の新聞は通名報道で、半島人の実名を報道しないからな。
中華の郊外の役所は今でも(災害等での)死傷者数を、都合によって10倍や10分の1にして報告している。
役所は実数字をしっかり報告せよと当局から指導があったほどだ。
くにおはどこにいるの?
日本人に成り済ます帰化人は犯罪者多し
併合政策前も後も、朝鮮北部民の人食いは治らなかったのだ
>>176 いま飛行機の免許について調べてるもようw
年がら年中日本人の傍に張り付いて嫌がらせしてるなんて、
本当に気持ちの悪い民族…
180 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 11:47:57 ID:qEp0F8Th
>>179 それが半島クォリティ。
中凶でさえ受け付けない…オソロシス
181 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 15:11:36 ID:ND4bzoJr
>175
どこかで見た例えだけど
三流大学にしか入れず鬱屈していたところに突然
「今日から我が校は東京大学と合併することになりますた。
だからおまいらも皆、東大生です」ってことになって
「おらおら東大生様のお通りじゃあ!」と有頂天になっちゃった
みたいな感じなんだろうね。
中国には、「高麗棒子」という言葉があったりする。
ぐぐると面白いよ。
日本の敗戦時には三国人として「おらおら戦勝国さまのお通りじゃあ!」
と有頂天になってたのは周知の事実だしね。
183 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 17:27:45 ID:GT9pbHnZ
その「敗戦國民」がその「参國人」にビビりまくってたのも事実。
善人をビビらせた悪人がビビった相手を馬鹿にする…
183は素敵な三国人ですね。
>>All
一月程前に家の父(大正生まれ、バリバリ戦争世代)が旅立ちました。
(戦時中は満州に住んでいたみたい)
今日このスレを見つけて、もっと詳しく話を聞いていれば良かったと激しく後悔中・・・orz
ただ母が昭和一桁生まれで、軍需工場に奉仕、
旋盤回して近接爆雷(当時の新兵器?)の部品を造っていたらしい事と、
鹿児島大空襲をリアルに家の畑から見てたらしいので、盆に帰って詳しく話を聞いてくるよ。
後、母方の兄が満州引き上げ時に通信兵として最後まで残っていたらしいので
その事も合わせて聞いてきます。
(最後の引き上げ時に、全部の書類や布団を大量に燃やした話が生々しかった
因みに満州人(中国人)とはかなり友好的だったらしい)
余りこのスレとは関係ないと思うが、こんな話でもいいんでしょうか?。
188 :
マンセー@名無しさん:2006/07/30(日) 21:47:19 ID:I9OQwCtk
>>183 日本人の元気のいい若い男子は、戦地からまだ引き上げて来ず、
国内には老人や女子供が多かったからね。
戦地から帰ってきた日本人の男達は、三国人の横暴を見て、
各地のヤクザ組織に入って三国人と戦った。
189 :
マンセー名無しさん:2006/07/30(日) 22:39:04 ID:riHZ4BGt
>>188 で、ヤクザに駆逐されると、今度はそのヤクザに入り込んだと。
190 :
マンセー名無しさん:2006/07/31(月) 00:32:37 ID:aYZqm8Tt
で免許はどうしたw
免許マダーチンチン(AA略
>>186 30年前に亡くなったうちの祖父も満州で通信だったそうです
軍のことはよくわかりませんが、暗号関係の仕事と聞いていました
一口に満州といっても相当広いですが、大正生まれなら祖父と年も近いですし、
なんとなく嬉しくなってしまいました
祖父の生前は自分も幼かったこともあり、戦争の話を聞けなかったのが私も悔やまれるのですが
ただ亡くなる2、3年前、祖父が台湾に旅行にいったことはよく覚えています
とても楽しそうでした
台湾はいいところなんだなあと子供心に思ったものです
逆に、朝鮮人とは絶対関わってはいけないよとも言われたなあ
本当に、いろいろ聞いておくのだったと悔やまれます
終戦時に成人していた人たちは
平均寿命を越えた80代に突入しているんですね。
今年の盆休みは孫世代の2−30代が
体験を語り継ぎたいものです。
今の学校ではもう、「お爺ちゃんお婆ちゃんに昔の話を聞こう」と
言われても、戦後の食糧難からがっつり赤化教育時代の
団塊が祖父母世代になってる気がする…
193 :
マンセー名無しさん:2006/07/31(月) 04:31:14 ID:veGmkAXw
おれ、飛行機の免許持ってるが、それが何か?
Licenncia de Avion Deportivoって書いてある。
日本語訳ならスポーツ飛行機免許だが?
何か問題あるのか?
ところで、そこまで粘着するなら、「飛行機の免許」の取り方くらい知って
るんだろーね。
切符と免許の違いがわからないゆとりっ子なのでは?
免許取らないと(取るために訓練しないと)飛行機飛ばせないチョパーリは無能ニダ、
ウリは免許取らなくても飛行機飛ばせるニダ。
ウリのほうが上ニダ。
かねぇ?
>>195 ちょwwおまwwwwwwww
三人箱乗りキムチイーグル伝説思い出しちゃったじゃないかw
198 :
マンセー名無しさん:2006/07/31(月) 18:20:40 ID:usu9xazs
ああ、あの一瞬にして10数億をぱあにした奴だろ?
金をケチったか、技術的に韓国に渡すのは危険と判断された重要な機能を
開発できない馬韓国がそのまま飛ばして見事墜落した奴だよな
飛ばせば何とか成るとでも思ったのかね?
199 :
マンセー名無しさん:2006/07/31(月) 23:22:11 ID:BjvYuBIH
ケンチャナヨで墜落ワロス
その話しkwsk
イルボンも持っているイーグルがウリもほしいとごねてアメリカから購入。
ウリナラチラシによれば日本の持ってるのより高性能。ただし、一番欲しがっていた
最先端のソフトはアメリカが渡してくれない(キタチョに横流しされるのが
見え見えなのに渡すわけない)ままのお引き渡し。
一号機二号機はアメリカでの訓練用に買わされたもの。
二号機から六号機までの4機が配備され訓練中五号機が落ちた。
朝鮮日報日本語版の速報によると、カンさんとパイロット二人が遺体でみつかったと。
「イーグルは二人乗りだが!?」とオチャー騒然。
箱乗り説密航説などが飛び交う中、民間人カンさんは実は操縦桿の誤訳であることが判明。
オチャーが一息ついているところに、ウリナラが「事故はエンジンの爆発のせい!
欠陥品を掴まされたニダ!ボーイングを訴えるニダ!」と叫びだし再び騒然。
「おまえんとこの整備士やパイロットがケンチャナヨで飛ばしたからだろ」などと
突っ込まれている中、落ちた五号機のエンジンはサムソン製だったことが発覚。
オチャー一斉にズコー!
楽しかったよこの一連の流れは…ウリナラの底力を思い知ったw
人死にが出る壮絶なコント・・・
6年前に死んだうちの爺さんは京城医専出身だった。
終戦時は北鮮(満州かも?)にいたんだって、シベリアに2年ほどいたとのこと。
婆さん(まだ生きている)一家は1910年代(忘れたw併合してからそんなに
時間が足ってなかったと思う)に一家で移住してゼンラナンドウ?に住んでいたとのこと。
戦争(何戦争か不明)が始まりそうなので財産を処分して日本に戻ってきたと
言ってました。結構金持ちだったけど、終戦で貧乏になったと嘆いてた。
婆さんは爺さんと結婚してたの北鮮に一緒にいたらしい。
終戦時は頭を丸坊主にして38度線を死に物狂いで帰ってきたといってた。
爺さんがシベリアから戻ってくるまでが本当に大変だったと言ってた。
帰ってきてからは爺さんの浮気とか別の意味で大変な時もあったみたいだけど
開業して金銭的には余裕があったと思う。
204 :
203:2006/08/01(火) 00:47:54 ID:ddd4qFrd
つづき
そんな大正2年生まれ(ほぼ明治生まれ)の爺さんも死ぬ1年ほど前に
自分に男の子供がいないことを嘆いていたよ。本当はいたんだけど
終戦時に帰国する時に死んでしまったんだって。
「だから何度も早く帰れと言ったのに、「私は残ります」といって婆さんが残った」
それで帰国中に死んでしまったと年老いた爺さんが涙ながら言っている姿は
ちょっと孫として見てて辛かった。気丈だった爺さんも病気でちょっと弱気に
なってたのかな。
結局次の春を迎えることなく自宅で食後に横になっている時に人知れず
死んでしまったけど。漏れのケコーン式の5日前だったかな。
爺さんが反対してたから嫁には合わせてなかった。これがいまだに後悔。
>>205 かきこんどいてアレだが、おれはパイロット二人には心から哀悼を…
頑張って頑張って飛行機乗りになったんだろうからねえ。
問題はトップが常にアレだってことで・゚・(ノД`)・゚・。
>>203 泣けるね
無茶苦茶苦労したんだろうな…
わし、爺さんの遺品の軍隊手帳(正しくは「軍隊手牒」)を
持ってます。
従軍経験のある爺様をお持ちのもまいら、見せてもらえ。
故人になって久しい爺さまの事を思い出したので、ちょと投下。
といっても子供の頃に亡くなったので、直接の記憶だけではなく、
多分に祖母や母の思い出話が混ざっています。
うちの爺さまは従軍経験のある人で、戦後新聞社勤務だったそうです。
そのせいか食事に関しては、野暮でない食べ方とか、
いろいろな面でコダワリを持っているわりに、
朝食は食パン必須とか、和洋折衷なんでもござれな、
なんというか小粋でハイカラ?な人でした。
そんな食卓の上には国籍無用!の爺さまでしたが、
朝鮮の料理だけは決して口にしなかったそうです。
辛いものはOKな人でした。
戦中戦後と何を見てきたのか、ちょっと気になる最近です。
まあ、なんというか息抜きにと、どうでもよい話でした。
あ、うっかりsageそこね orz
210 :
マンセー名無しさん:2006/08/02(水) 21:59:47 ID:yEN1eOw5
>>208 それは何となく解ります。
私も嫌韓になってからキムチは口にしていない
ほしゅ
ほしゅ
ほしゅ
ぢぢ様お元気かしらん・・ご慈愛くださいまし
ほしゅ
216 :
マンセー名無しさん:2006/08/08(火) 04:20:47 ID:cZHJWWNB
>>192 > 今年の盆休みは孫世代の2−30代が
> 体験を語り継ぎたいものです。
なんとかならんもんかねコレ。
板全体または2ちゃんねるやネットで広く呼びかけたいよ。
217 :
マンセー名無しさん:2006/08/08(火) 06:59:29 ID:wtfDhTb7
スレが寂しくなってしまったので、
リアル代筆や昔聞いた話を書ける人居たら、ガンガン書いて。
218 :
マンセー名無しさん:2006/08/08(火) 07:14:00 ID:kYJ8WGyF
うちのばあちゃん日本の統治下時代朝鮮人は本当に怖かったんだって。京城の町でも朝鮮人と日本人が関わることはほとんど無かったって。それっていまのソウルに日本人街があるのと大して変わらないでしょ。うちのばあちゃんも逃げ遅れてたら確実にレイプされて他と思うよ。
219 :
マンセー名無しさん:2006/08/08(火) 09:03:51 ID:g59OJ0SF
あまり大した情報では無いですが、私の祖母は『近所に朝鮮人は確かに居た。でも、あまり(近所の日本人とは)仲は良くなかったねぇ。』と言っていました。
220 :
マンセー名無しさん:2006/08/08(火) 10:10:05 ID:D54YTOY7
保守がてら、ちょい書き込み・・・
オヤジが検査入院した際、80代半ばくらいの小柄な御老人と同室になった。
どうやら調子を崩して入院されたらしく、オヤジの隣が空いていた為、同室になったらしい。
オヤジ 「お体の方、大丈夫ですか?」
御老人 「若い頃三度死に損なったのに比べれば、これくらい大した事ないですよ」
オヤジ 「・・・死に損なったと言われますと?」
御老人 「戦争中、飛行機に乗っとりまして・・・一度目は台湾沖で、二度目は硫黄島で、三度目は九州で、ね」
その御老人、2〜3日点滴を受けたらすっかり元気になられ、オヤジよりも先に退院されたとの事です。
じいちゃん体調どうなんかね?
このところ暑いし心配やん。
保守がてら書き込み
>>221 そだね。ちょっと心配
世間では夏休みで、スーパーで孫らしき子供をつれた爺様婆様が
御菓子コーナーでウロウロ。ちと、微笑ましい光景でした。
爺様婆様は盆は忙しいのかもなーと思いました。
>>222 そりゃあ孫が居るジさまバ様の家は盆と正月が忙しいのだよ
そして財布が軽くなる時期であるwwwwwwwwww
224 :
◆buj6R88svw :2006/08/09(水) 16:28:22 ID:kpM3TO9x
今日午後2時40分に無事手術が終わりましたのでご報告させていただきます
本来手術は来週の予定だったのですが爺さんの
『お盆中だと連れて行かれそうでヤダ』というわがままとw
「経年により体力は確実に衰えるから手術は少しでも早い方が良い」
という事に加えて「今は本人の体力が充分」との医師の判断によるもの
爺さんと話せるようになったらまたチクチクと書き込みさせてもらいます
それと「飛行機の免許」にこだわっておられる方がいらっしゃるようですが
その理由はいったい何なのでしょうか
孫は信用出来ないというレッテル貼りをしたいのか
はたまた爺さんの話は嘘だと示唆したいのか、その意図はわかりませんが
今週兄の家に行く用事があるのでそのときは兄の「飛行機の免許」を借りてきて
自分の「飛行機の免許」と並べてうpしてみましょうかね(今日のIDでも書き添えて
爺さんの付き添い中にいろいろ朝鮮人の悪事は聞きましたよ
ところで
>>199さんの言うケンチャナヨというのは「根拠無き自信」でおkですか
ではまたm(_ _)m
>>224 おお! ご丁寧に報告頂き、有難うございます。
爺様が一日も早くお元気になられるように祈っております。
手術を受けられていたのですね。
頑張ってくださいとお伝えください。
では、また爺様の体験談を聞ける日を楽しみにしております。
226 :
マンセー名無しさん:2006/08/09(水) 20:38:27 ID:7PfRiJ/e
手術でしたか、ご無事で何より・・・
歳が歳なので、まさかと思いつつも、
縁起悪いことを聞く訳にもいかずに、心配してたよW
>>224 別に気にするこたぁない。
正式名称じゃない事を突っ込んでいるだけっしょ。
UPすりゃ確実に黙るけれどね。
UPするときゃ個人特定されない様に加工するのを忘れるな。
ケンチャナヨは「気にしない、気にしない」の意味だったから・・・
根拠無き自信でも意味はあってるかな?
お祖父さんに宜しくね。
228 :
マンセー名無しさん:2006/08/09(水) 21:44:57 ID:PkR7wcqW
爺さん死んでもうて又聞きだけど、満州では現地の人と仲良くやってたって。
ばあちゃんが小さい頃満州に爺さんについていって数年暮らしたが、そんなに嫌な思いではなかったっぽい。
(米が不味かったって言ってる)
ただね、ばんちゃんすんごく「朝鮮人嫌い」。
女学校時代にいた朝鮮人が、終戦後に手のひらを返したように豹変したって言ってたよ。
そのせいで級友が酷い目に合わされたって今でも怒ってる。
当時の朝鮮人たちは今でも集まってるクラス会には参加してないんだってさ。
産経新聞とってあげたら「日本にもはっきり言える人がまだまだいたんだね」とポツリ。
ばあちゃん:79歳
爺さん:最終所属 第2師団 歩兵第4連隊
229 :
マンセー名無しさん:2006/08/09(水) 22:33:47 ID:oZd621kf
戦後の混乱に乗じて強盗しまくり、強姦事件にしても表に出なかっただけで近所でもかなりの数だったと婆ちゃんが言ってた
>>224 乙!
そうか手術を受けられていたのか…。
これで立派な金玉袋も含めて(`・ω・´)シャキーンとなるのは必定。
(`・ω・´)シャキーンとなったら、また情けない若輩者に1つでも多くご指導、ご教授くださりたく、
首を長くしてお待ちしていますと伝えてくれい。
>>224 手術の成功おめでとう御座います
爺様婆様ネタでは有りませんが、
キムチネタで面白い話が入ったので、貼っておきます。
2005年5月31日、フランスの衛生省は、「食べると人体に悪影響を与える食料」のリストに
韓国の民族料理であるキムチを追加したと発表した。
中毒性が高く、脳細胞にダメージを与えるとされる「カプサイシン」が
多量に含まれている事が主な理由で、この発表と同時に韓国からの
キムチの輸入が全面的に禁止された。
これについて、韓国の潘基文外交通商相は「全く事実無根。
もし有害だとしたら、なぜ韓国人は普通なのか。我々が普通に食べ、
そして生活出来ている事が、何よりの"安全の証拠"である。」と
強い憤りを露わにした。今回の発表による、キムチ全体へのイメージ低下と
輸出する業者へのダメージは必至だ。
いやー知らんかった。キムチにそんな秘密が有ったなんて・・結構既述ネタなんでしょうか?
>もし有害だとしたら、なぜ韓国人は普通なのか
ナイスジョークw
>>231 それある有名コテがジョークで造ったネタ。
Yahooもどきのニセサイトまで造ったが
余りの出来に信じる人が多いという。
>>233 わぁ、そうだったんですか。
いかん風説を流布してしまった・・板汚しで済みません
236 :
マンセー名無しさん:2006/08/10(木) 19:26:36 ID:1piBCPA/
素でワロタ
かの国ならありえると思うた。
>>235 ソースがついたわけでなし、
:y=ー( ゚д゚)・∵. ターン
の必要はないんジャマイカ
━━━―━―◎━―━―━―━―
||
||
∧△∧
( ゚∀゚ )
│∪ つ )) 償いになりませぬが吊ってみました。
。。。。 ∠___丿
>>233 あれ?
東亜+で前に韓国の新聞で、キムチがよろしくない食べ物扱いされてる
って記事を読んだ記憶がある。輸入禁止までされてたかは覚えてないけど。
241 :
マンセー名無しさん:2006/08/11(金) 09:56:53 ID:hORR/HWf
>>224 どこかのサイトから免許画像拾ってくるんだろう
でそれを写真屋かなんかで2個に作りかえるんだよな
よっぽどヒマなんだな
ほんとにごくろうさんだな
この板で書き込みにケチつけるヤツは
大抵、句読点が不自由な件。
「だ」の前に「に」を入れてもあ〜ら不思議、全く違和感なしw
>どこかのサイトから免許画像拾ってくるんニダろう
>でそれを写真屋かなんかで2個に作りかえるんニダよな
>よっぽどヒマなんニダな
>ほんとにごくろうさんニダな
こうですか?わかりません!><
よっぽどひまでごくろうさんなのは、241だよなあ。
禿じゃしょうがないな
爺ちゃん婆ちゃんは他界済なので、
伯母二人(それぞれ戦前/戦中生まれ)に話を聞いた。
が
なかなか戦争が終わりません。
戦後に辿りつくのはいつだろう…
というか
朝鮮絡みでない話だけで胸いっぱいだぜー
>>248 そういう話は、聞けるときに聞いといた方がいいよ
本当に後悔後先だから・・
250 :
248:2006/08/12(土) 23:04:41 ID:QgenKuCu
>>249 スレ違いだけど
都市部やその近郊で戦中を生き抜いてきた世代ってのは、
ほんと死線を潜ってきた世代なんだね。
空襲からの避難中にはぐれた娘(下の伯母)を探す為、
制止を振りきって防空壕を飛び出し、
焼夷弾の雨の中を走り回った母親(祖母)の話とか、もうね…
レバノンより悲惨だったんじゃなかろうか…
ちなみに母親(祖母)は空襲警報解除後に
一面の焼け野原の中、防火用水の溜池の中に
茫然自失で立ち尽くしているところを発見され、
娘(下の伯母)は見知らぬお兄さんに助けられて他の防空壕にいたそうだ。
その時代を生きた一人一人にドラマがあるな。
ちゃんと録音して保存して欲しいなぁ。
252 :
マンセー名無しさん:2006/08/13(日) 11:48:44 ID:5wPj8pgq
で結局免許のアップはないんだよな
スルー推奨。
高齢者施設に、たまにボランティアへ行くのです。
先日、施設の近くで打ち上げ花火がありました。
入所されている方で、戦争当時の体験がフラッシュバックしたのか
いきなり床に伏せ、匍匐前進しだし、職員に
「なに突っ立ってるんや、死ぬぞ!! はよう伏せんかい!」と叫んだ
爺様がいらしゃったそうです。
後日職員の方が笑い話として聞かせてくれました。
…ちっとも、笑える話じゃないんだがな。
普段は穏やかに笑ってる方なのに。
長い上にスレチスマソ。
もしなにかお話を聞かせてもらえることがあったら投下したいと思います。
あんまり笑う気になれない話だなぁorz
辛かったんだろうなぁ
>>254 > もしなにかお話を聞かせてもらえることがあったら投下したいと思います。
ぜひお願いします。残された時間は長くないのでぜひ。
昭和の歴史とかいうDVDのCMがあったでしょう。
戦中戦後の日本人の写真や動画が流れた。
みんななんだか、穏やかで優しい顔をしてるんだよ。
>>250 こういう世界に生きてるのに、
子供が普通に笑ってて、奥さんが普通に優しい顔をしてるんだよ。
学校で習った「戦時中日本人は洗脳されてた」とか、嘘だなあと思った。
どんなに辛くても、苦しくても、日々に小さな楽しみを見つけて、
みんなちゃんと生きてたんだなって思う。
誰かを熱烈に恨んだり、選民意識に凝り固まった、絶望に歪んだ、そんな顔じゃなかった。
だからこそ原爆を落とされても、反米一色に染まったりしない現在があるわけで、
日本人のメンタリティは変わってないんじゃないかと思った。
今、北朝鮮の国民の表情を写しても、あんな顔はしてない。
終戦記念日記念age
あ、さげちゃった。
260 :
ホッシュ:2006/08/15(火) 11:26:52 ID:h7AlAt6t
祖父さんじゃなく、親父の話なのでちょっと気が引けるが。
昭和3年生まれで15の時、陸軍の少年飛行学校へ。太刀洗飛行学校で半年、
その後ジャワへ。機種は戦闘機。ジャワでは当初射撃訓練、後半は急降下
爆撃の訓練を受け、内地特攻隊要員として日本へ送られる。日本に着いた
のが8月15日。実家に帰ったら自分の墓が用意されていたらしいw
少飛15期だけど太刀洗時代には半島出身者もいて、朝鮮人グループと日本人
グループの間でいざこざが絶えず、殴り合いのケンカになったこともあるとのこと。
親父は朝鮮人を嫌っていた。その嫌い方は尋常じゃなかった。シナ人の方が
まだましとまで言っていた。
逆に台湾人にはすごく好意的で、中国なんてどうでもいいから台湾と
国交を回復すべきと言っていた。
2chを覘くようになって、2chで語られている内容と親父が言ってた
ことが同じなので驚いた。
8年前に死んだけど、ハン板や東亜+などを眺めていると親父の顔が目に浮かぶw
生前は昔の話(特に戦争体験)を聞いたり、戦争関連の番組を見た後や
本を読んだ後などは歴史について話をしたりしたこともあるけど、話が脱線
して朝鮮が絡みだすと適当に聞き流していたような気がする。当時、韓国は
あまり好きじゃなかったけど(あの日本に対する異常なまでの敵愾心には
ウンザリしていた)、親父の朝鮮ネタにはちょっと引くようなところがあったので。
親父のおかげで自虐史観には縁がなかったけど、今となっては朝鮮ネタを
もっとまじめに聞いとけばよかったと後悔しています。
262 :
◆buj6R88svw :2006/08/16(水) 09:03:29 ID:aLiPyoOq
>ガラス越しにカンペで「小泉総理の靖国参拝、中国と韓国反発」
>と知らせたところ、小さく手をあげて万歳をしてました
ああなんか泣ける
はやくお元気になられますように。
264 :
マンセー名無しさん:2006/08/16(水) 10:47:34 ID:go1E4oN7
お爺ちゃん退院するまで、スレ落とさないようにしないとな。
265 :
マンセー名無しさん:2006/08/16(水) 11:10:18 ID:CEPa7gQ8
応援あげ
266 :
マンセー名無しさん:2006/08/16(水) 23:41:52 ID:Gu7xi5o7
お見舞いage
267 :
お見舞い申しアゲます:2006/08/17(木) 04:51:00 ID:9b0Z+FRs
268 :
マンセー名無しさん:2006/08/17(木) 04:56:36 ID:gjbvPjbl
お爺ちゃん 死去・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・墓
269 :
↑ ↑ ↑:2006/08/17(木) 05:11:32 ID:9b0Z+FRs
こういうバカは放置でおながいします
270 :
マンセー名無しさん:2006/08/17(木) 06:26:43 ID:nr2DwDht
快気祈願age!!!
がんばれおじいちゃん
>>268みたいなのが湧くので、
爺様が復活されるまでサゲ進行を提案してみる。
サゲててもカキコんでれば落ちないんだし。
ネタ投下のときはアゲるのも有だと思うけど。
私も爺様のご快癒をお祈りしています。
お話を聞きたいってのもあるけど、
>『安心しろ。俺の金玉袋はもっと(´・ω・`) ショボーンだ。』
の一言に惚れたw
俺もジジイになりたいな
ふざけたジジイになりたいな
>>273 そのまま歳をとれば、相当ふざけたジジイになれると思うよ^^
わしゃ四十過ぎのおっさんですが、農業土木の技師だった祖父は昭和十五年に
満州にわたり、開拓団の技術指導をしておったそうな。当初は北方の「北安」
という所からはじまり、終戦時には遙か南方の「営口」におったそうで全く
幸運だったのですが、そのときに指導に当っていたのは鮮人の開拓団。
「身の安全は保証するから、一緒にここで頑張ろう」などと誘われたりしたそ
うです。┐(´д`)┌
そんな状況を脱して帰国できたのは1年後の秋。
祖父も故人ですので、これ以上詳しいこともわからないのが残念です。
>>261 昭和3年生れのお父上、あっぱれなご奉公でございますね。
ワシの親父は大正15年生れなのに軍には一切関わっておりません。というの
も「病歴アリ」で肺が片方しか無いもので仕方のないことなのですが。それで
も一人前に「グラマンに撃たれた」だの「P38はスゲー速かった」だのと語
ってくれたこともあります。
で、書いてて今思い出しましたが、祖父の弟は大陸に出征、戦闘経験があった
らしく、祖父を訪ねてうちに来たとき、背中の刀傷を見せてくれたことがあり
ました。「青竜刀」だったそうです。
以上、お盆に帰省して仕入れたネタでした。
276 :
◆buj6R88svw :2006/08/18(金) 02:08:55 ID:5SsJ3Lyg
爺さんを激励して下さってる方々へ
まことにありがとうございます
孫の漏れが爺さんに成り代わってお礼申し上げますm(_ _)m
「飛行機の免許」のように、つまらないツッコミをされないように
なるべく漏れの余計な話は避けていきますのでよろしくおながいします
またしても長文ですが今日の分貼っていきます
277 :
◆buj6R88svw :2006/08/18(金) 02:09:33 ID:5SsJ3Lyg
『大本営で通信に携わっていた者、とりわけ暗号と直接関係あるところに
近い者は外出はおろか家族に手紙一本出すことすら出来なかった。そんな
境遇を哀れに思ったのだろう、Oという将校は特別に慮ってくれて自分が外
出するときには必ず私に食券をくれたものだった。食事はいつも腹一杯食う
ことが当たり前の事であった。ある時、使い切れずに貯まっている食券を見
せて、心苦しいのでお気遣いなきようと申し上げたところ、食券を缶詰と交
換してくれるよう取り計らってくれた。缶詰は大きなみかん箱いっぱいに詰
められ蓋が出来ないほどだった。家族を安心させてやると言い、私の家を尋
ねてくれると言う。ご子息は、ある場所で大変重要な任務に就いているから
しばし連絡はつかないと告げてくれて、私に託されたのだと、みかん箱に詰
めた缶詰を母に手渡してくれた。のちにわかった事だが母はその缶詰にいっ
さい手を付けなかったそうである。いずれ許可される外出の日に備えて。
軍隊の話で必ず話題に上る制裁(体罰)とは、私は殆ど縁は無かったが弟達
の場合はそうではなかったようだ。そのやり方にもいろいろあって、
1、捧げ銃(ササゲツツ) これは、銃の手入れが悪い場合に中腰で膝を曲げ、
銃に謝りの口上を言う。止め(ヤメ)の号令がかかるまで繰り返さなければ
ならないが、なかなか号令はかからないのである。5分も続けると身体は震
えてくる。
*** つづく ***
278 :
◆buj6R88svw :2006/08/18(金) 02:10:14 ID:5SsJ3Lyg
*** つづき ***
2、鶯の谷渡り これは、兵隊の寝台の下を一つくぐり抜けては頭を出し「ほ
うほけきょ」と言って10人のベッドをくぐる。後にはビンタが待っている。
3、蝉 これは柱に抱きつき「みーんみーん」と鳴きながら次々と柱を変えて
繰り返すもので、柱を移るときは蝉が小便をする真似をしなければならない。
全ての柱を回り終えてからビンタである。
4、自転車 2つの寝台を使う。それぞれの寝台に手をついて両足を宙ぶらり
んにさせ自転車こぎのようにクルクル回す。頑張って漕いでいると「上官が
来たゾ」と声をかけられる。すると敬礼をしなければならない。片手を上げ
て敬礼すれば寝台から落っこちる。「自転車から落ちるとは貴様たるんでお
るな」と言われビンタをもらう。
5、金魚 枕覆(枕カバー)が汚れていると「おい貴様、金魚が水を飲みたい
そうだ」と言われ、覆をかぶせられ各班を巡回してビンタをもらってこなけ
ればならない。
この他にも、「対抗ビンタ」や「洗矢」など数多く存在するらしいがまこと
に全くもってバカバカしい。また後方部隊にいた朝鮮人兵ほど陰湿なやり方
をしていたようだ。強いものにはおもねって、弱いものには容赦しないとい
う朝鮮人の性質を表わした事例は枚挙に暇が無い。』
279 :
マンセー名無しさん:2006/08/18(金) 02:13:16 ID:02ObFNPX
私の祖父が南京攻略の時、従軍してました。
第一歩兵連隊所属だったそうです。今年、亡くなりました。
280 :
◆buj6R88svw :2006/08/18(金) 02:13:59 ID:5SsJ3Lyg
追伸
爺さんが今日から一般病棟に移りました
ご心配頂きまして、まことにありがとうございましたm(_ _)m
281 :
マンセー名無しさん:2006/08/18(金) 02:15:48 ID:02ObFNPX
282 :
◆buj6R88svw :2006/08/18(金) 02:19:56 ID:5SsJ3Lyg
283 :
279:2006/08/18(金) 02:29:39 ID:02ObFNPX
祖父の部隊は、後方にいたそうです。
南京は大きな壁に囲まれていて、まず大砲を兎に角壁に向かってうちまくってそうです。
しかし、びくともしなかった。しかし、すんなり攻略したそうです。
大砲撃ってる間に、敵が退いたと思われます。
南京に入ってみると、土が高く詰まれていて『これじゃあ大砲が効かねえわけだw』と、思ったそうです。
そして南京虐殺の話ですが、中国や韓国が主調するような虐殺は無かったけど、
一部の部隊が何か悪いことをしてたのは事実みたいです…
祖父は、第一歩兵連隊にいました。そう、乃木将軍が創設したあの連隊です。
このように、日本の連隊は、誇りと名誉があったため、『そんな事できるはずないんだけどな〜』と、言っていたそうです。
>>280 オメデトウございます。
爺様も順調に回復なさっているようで安心しました。
代筆の方も楽しみにしていますが、爺様及びご自身の
負担にならない程度のペースで行ってくださいね。
>>283 くうーー 残念 お爺様が健在で居られたら
南京 戦線後方記録映画
このDVDの裏が取れたものを
お爺様は現地でお正月に蜜柑や御餅を召し上がったとお話になっておられなかったでしょうか
正月用に松飾りを作ったりしたという記憶があれば、このDVDの信憑性を確実な物と出来るのですが・・・
286 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 01:08:26 ID:MNy5QeGc
からage
287 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 05:05:55 ID:/IkQD0y7
良スレやね
288 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 05:21:35 ID:/Hr3p9yX
>>285 どうなんでしょう…
南京では解りません。私の祖父は南京攻略後、北使(満州)に駐屯していましたが、
役職状、欲しい物は何でも手に入ったそうです。
289 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 06:21:30 ID:7PLaocZR
>>283 捏造乙wwwww
歩兵第一連隊は南京戦に参加してねーよ。ソースは「日本陸軍兵科連隊」(新人物往来社)
インチキ証言必死だなwwwww
良スレですね。
私の祖父母も朝鮮人が嫌いです。
それは、戦後満州から引き揚げた直後の事件が直接の原因のようです。
引き揚げ直後、祖母は佐世保の辺りに家を借りて住んでいたのですが、
まだ祖父は戻ってきておらず、
私の母とまだ赤ん坊だった叔母との3人暮らしでした。
昼間、母と叔母を連れて近所の親戚の所へ食べ物を貰いに行き
帰ってくると、家の前にリヤカーが置かれていて、
数人の朝鮮人が家の中のものをどんどんリヤカーに積んでいたそうです。
泥棒だ!と思って、止めようとしたら、
近所の人に「殺されちゃうから、堪えなさい」と静止されて、
自分の家の物が盗まれるのを黙ってみているしかなかったそうです。
朝鮮人が去った家の中には、襖も窓ガラスも
オムツや箸すら残っておらず、更には表札まで持って行かれたそうです。
今年91歳になる祖母ですが、そのことはよほど悔しかったらしく、
今でもはっきりその時の情景がよみがえるのだそうです。
>289のソースも大概デタラメだが、当時歩兵第1聯隊は蘇満国境警備に
就いていたはずだな。第1師団(1聯隊の所属する師団)は関東軍隷下の
第4軍に編入されていた。時期は昭和11年2月〜昭和19年のレイテ投入まで。
ちなみに、なんで>289のソースがデタラメかというと、示している書籍自体は
存在するけど、その本は歩兵聯隊「以外」の砲・戦・工・輜重聯隊について
記したものだから。
>291に追加。
歩兵第1聯隊ではなく「近衛」歩兵第1聯隊の間違いではないかというのも
可能性はない。
近衛第1聯隊が支那に投入されるのは、昭和14年11月以降(戦闘自体は
12月から)で、近衛師団(第2師団)から引き抜かれて近衛混成旅団の隷下
部隊として参戦している。
293 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 07:10:49 ID:7PLaocZR
>>291 はあ?俺のどこがデタラメだ?お前その本読んだことないだろwwwww
必死すぎwwwww
>293
日本陸軍兵科連隊でぐぐる。
↓
検索候補トップのページに飛ぶ。
↓
「内容説明」の項目を10回音読する。
馬鹿が瞬殺されているスレは、ここですか?(プゲラ
>>294 先生、3回音読したら意味がわかりました!
>>294 先生、行間を読んでみたら書いているような気分になりますた!?
ビックリするような瞬殺ぶりだなw
俺のせいで変な流れになってすまない。
ただ、このスレは疑いようもなく良スレだし、いずれはここから各所に
コピペされるような事態も予想される。そのときになって「これはおかしい」
って話になったら、鮮人達の思うつぼになってしまうから、可能な限り
このスレ内で事実関係の検証はされたほうがいいのかな、と。
300 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 19:47:01 ID:PWfMqVHI
300age
301 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 20:55:13 ID:MVV6Mcgp
で、関東連隊(歩兵第一連隊)は南京攻略に従軍していたんですか??
302 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 21:08:25 ID:MVV6Mcgp
ごめん、関東でなくて東京でしたね。失礼
>301
していない。確かに明記しなかったのはアレだが、文脈から理解してくれよ。
304 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 22:49:19 ID:fSbtnBi8
>>8 私も幼い頃、井戸に毒投げ込んだという話をテレビで
観て、父に聞いた事がある。普段は穏やかに関東大震災の
話や東京大空襲の話をしてくれる父が、顔を真っ赤にして
「そんな物はなかった!」と一言。余程腹立たしい思いを
したのか、その後に「あの恩知らずが!」とも言っていた。
その後朝鮮の絡みそうな話は父から聞く事が出来なかった。
実際どうなんだろうか。父は浅草に住んでいたようだが
他ではあったのだろうか。
305 :
マンセー名無しさん:2006/08/20(日) 22:56:22 ID:0g1i/2Tn
関東大震災時に朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというのは、
明確な証拠を見たことは無いが、どうもまったく根拠の無い話しではないようだ。
関東大震災の少し前の時期に大阪のほうでちょっと大きめの地震があったんだが、
この時、朝鮮人がう○こを井戸に投げ込んだらしい。
戦争で逃げるときなどに敵軍に井戸水を使わせないようにするために
海外の戦争ではよくやるそうだが。
この出来事が新聞に載って、これをアプされたのを見た覚えがある。
この記事が東京でも伝わって地震のときに朝鮮人が井戸に毒を入れたとなったんだろうと推測してる。
さすがにうん○とは言いにくいから毒に変わったんだろうけど。
運子も十分に生物兵器になると思われ
中世の城攻めには腐肉や汚物を敵方の城に放り込むという戦術もあったみたいだよ
307 :
マンセー名無しさん:2006/08/21(月) 00:26:45 ID:Wxs8SZgj
名前: マンセー名無しさん
E-mail:
内容:
他板からの転用だが、こんな朝鮮人もいたという話だ。
日本はアジアの人達にひどい事したよね(´・ω・`)
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1151867940/ 108 :韓国人 :2006/08/03(木) 19:28:38 ID:SkHtYunr
俺ら韓国人や支那人が反日掲げてるホントの理由は、
先の大戦に負けてしまったからだ。
ほんとなら大東亜に勝利して、日本が俺たちのリーダーとして君臨するのを大東亜の全ての人間が望んでいたんだ。
そうすれば、俺らは韓国なんていうレッテルを貼られずに日本人として堂々と生きていけるし、
南北が分断されることも無かった。
もちろん顔を整形する必要もなくなるし、犬を食べる必要も無くなる。
似たような自動車を作らなくても良くなる。
支那の人間にしたって、満州という輝かしい国の下で、日本のように崇高な精神をもった民族になれるはずだった…
それなのに負けてしまって、理性の無い国民性のまま21世紀を迎えてしまった。
だから支那人は猿を生きたまま食べたり、胎児を不老長寿の薬と信じて食べ続けるような野蛮な国に成り下がってしまったんだ。
ほんとは韓国人も、支那人も日本に憧れて、日本人になる事を夢見ていたんだ。
それを裏切ったあんた達の責任は、はっきり言って…重いよっ!
今からでも遅くない!米帝の作った憲法なんて捨てて、強力な軍事力を持って大東亜共栄圏を作ってください!
542 :マンセー名無しさん :2006/08/19(土) 00:07:09 ID:9Q7W6+/u
ずっとスレ見てたけど、
>>108の言う事が最も正しいと思う。
東条ではなく石原莞爾が日本の総理になってれば・・・
308 :
マンセー名無しさん:2006/08/21(月) 00:27:20 ID:Wxs8SZgj
544 :542 :2006/08/19(土) 00:56:33 ID:9Q7W6+/u
連書きスマソ
オレは日本人だが
オレのツレに在日がいて
そこ、オレが20代になるまでおじいさんがいたんだ。
で、良い悪いは別にして
じいさんが存命中は、家族の中では一番じいさんが発言力があったわけよ。
じいさん曰く
「なんで日本は戦争に勝たんかったんじゃ!!」
て、オレはよく言われた(日本人だから)。
よくよく聞くと、じいさんは子供の頃、自分の親が
朝鮮から出稼ぎに来た時に一緒につれてこられたんだと。
当時の日本は、本土(半島ね)よりも賃金が良く
多くの朝鮮人が出稼ぎに来てたって話だ。
じいさんが子供の頃は、やっぱ朝鮮人って事で
最初少しイジメられたって事もあったみたいだが
時勢がそれどころじゃ無かったのか、子供はすぐに関係なく遊べるせいか
それとも今よりも朝鮮人が多かったからなのか知らんが
結構スグに学校や近所でも打ち解けられたらしい・・・
309 :
マンセー名無しさん:2006/08/21(月) 00:29:25 ID:Wxs8SZgj
545 :542 :2006/08/19(土) 01:09:47 ID:9Q7W6+/u
続きだ
で、じいさんが子供の頃は、憧れが帝国海軍兵で、
なにしろその村で海軍兵が出ると皆が村を上げて祝ってくれる。
で、じいさん、7つボタンは無理だったけど、念願の海兵の試験に合格して
軍に入ったんだと・・・
当時は朝鮮も日本なんで、じいさんはそのまま朝鮮を含めた日本、満州国が
英米に勝ち、大東亜が世界のリーダーとなる事を真剣に考えていたそうだ。
ところが敗戦、満州は中国に併合、朝鮮は独立・・・
しかも訳の分からんアカ(じいさん曰く)が中国を牛耳り、じいさんの故郷
朝鮮は南北分裂・・・じいさん、マジで「こんなはずじゃ・・」って思ったらしい。
ちなみにじいさん曰く
「韓国なんて国は知らん!北朝鮮なんて国も知らん!ワシの故郷は朝鮮と日本だけじゃ!!」
だそうだ。
正直、今の歴史を歪曲された韓国を見ると、お前ら韓国人が哀れでならないのと、
この無くなったツレのじいさんが哀れでならない・・・
>>280 おじいさん、早く元気に有るといいな。
これは、まれに見る良スレですね。
性根の卑しいのが張り付いてるようですがw
靖国とかに文句付けて来る場合には「ふざけたことを言うな!」
と一喝出来るけど、「なんで戦争に勝たんかったんじゃ!!」
と言われたら正直一言も無い。
>>310 一説には、半島の近代化なんぞにあんなに金を使わなければ、
もう少しマシな勝負が出来たのではないかと言われている。
しかも、戦後勝手に権利放棄させられてるし。
312 :
マンセー名無しさん:2006/08/21(月) 10:42:38 ID:FCbFBHOF
オランダからインドネシアに対して非常に身勝手で一方的な通告が送りつけられます。
それに激怒した日本軍とインドネシア軍が、協力してオランダ・イギリス軍と闘い、結果として独立は達成されましたが、
2000人以上の日本兵が「同じ大東亜の国(同じアジアの国というニュアンス)のために」と、この戦闘に参加し1000人が戦死しています。
戦死者はインドネシアの国立英雄墓地に葬られ、独立記念式典では、旧日本軍の制服を着た人が国旗を掲揚しています。
戦後突然に戦勝国を騙った朝鮮とはえらい違いです。しかも朝鮮人が、靖国参拝に文句つける権利など何もないというのに。
朝鮮人は世界でもまれに見る嘘つき国家の国民です。最悪。
313 :
マンセー名無しさん:2006/08/21(月) 11:06:45 ID:6445yLgT
>>311 権利放棄させられてるというよりむしろ
戦勝国気取りで敗戦国である日本に権利放棄を強要した訳だよね
314 :
◆buj6R88svw :2006/08/21(月) 21:04:24 ID:oNLfRvl2
今日は早い時間帯の書き込みになります
ようやくレポートもメドが立ったので余裕かまして
これから友人宅へ泊まりに逝ってまいりますノシ
それでは連投していきます
315 :
◆buj6R88svw :2006/08/21(月) 21:05:22 ID:oNLfRvl2
『後方の部隊には功名心に焦る朝鮮人が多数いて、一部の将校たちの間では
これが悩みの種となっていた様だ。こうした連中は自己顕示の為なら如何な
残虐行為も厭わず行った。特に制裁の仕方について、それは顕著だったよう
である。朝鮮人への制裁は、朝鮮人に任せておくのがよいであろうとの隊指
揮部の計らいが裏目に出た例を一つ記したいと思う。
満州国のある後方部隊での話であるが、具体的な部隊名は記さない事にする。
それは、制裁を受けた理由が泥棒をしたという不名誉な事柄なのと、あと一
つはその兵隊が死亡してしまった事にある。不名誉なこととはいえ、事実を
知ってしまったら、その時の遺族の気持ちは筆舌に尽くしがたい。当然、軍
もこうしたことには特別の配慮をしたりするもので、名誉の戦死という扱い
になったようである。
それは、銀バエ(現地での物資調達の任にあたる兵隊の俗称)をしていた、
丹沢という日本名の、朝鮮人兵が仲間の金品を盗んだというものだった。
盗みが発覚したのは、盗品の中に一本の万年筆があった為だった。当時の万年
筆は非常に高価なもので、持ち主がよほど裕福な出身だった事を容易に想像さ
せる。苗字が彫られていた事から、すぐに持ち主は割れた。九州の出身で鍋島
藩家臣の末裔というその兵隊は、自分の持ち物であると認めたものの、貸して
やったものだと言ってその朝鮮人をかばおうとしていた。しかし、彼方此方の
兵隊から金銭や物品が無くなったという報告が多数寄せられ、丹沢の持ち物か
らは隠してあった多額の現金も見つかり、もはや言いのがれは不可能だった。
すぐに丹沢は呼ばれ尋問を受けるが、ほどなく自分の仕業であると認めた。』
*** つづく ***
316 :
◆buj6R88svw :2006/08/21(月) 21:06:06 ID:oNLfRvl2
*** つづき ***
『部隊には、日本名が清水という朝鮮人の古参兵がおり、制裁は自分に任せて
ほしいと名乗り出てきた。「同じ朝鮮人として恥ずかしい」とのことだった
が、これはきっと大事にすることなく、なんとか制裁ですませて欲しいとい
う朝鮮人の同郷のよしみであろうとの判断から、部隊長がそれを許可した。
そうして制裁は清水の兵舎で執り行われることとなった。
制裁を受ける者を中腰にさせ、精神注入棒と書かれた竹刀によって臀部を叩く。
いわゆる、けつバットとか、バッタと呼ばれるものである。二十本も叩かれた
頃であろうか、精神注入棒がささくれて竹刀がバラけたあげく使い物にならな
くなると、その清水という朝鮮人は、樫の木刀を持ち出してきて丹沢の臀部を
容赦なく、慢心の力でもって叩き続けた。痛さのあまり、身をよじる丹沢に向
かって「貴様、俺のバッタをよけるとは何事だ」と叫び、狂ったように制裁を
続けた。臀部は3倍にも腫れ上がって、おまけに身をよじった為か、金玉をし
たたかに打たれ、股間までがものすごいことになった。
まわりにいた日本人はもとより朝鮮人も、あまりの酷さに辟易した。
また清水のずるさゆえか、この制裁のときは、うまく古参の兵隊や上官を遠ざ
けて事に及んだのであった。普段なら「それくらいにしておけ」と言ってくれ
る者は誰一人いなかった。格下の兵隊たちは、唯々見守るしかなかったのだ。
一人の初年兵が「足の骨が折れているようだ」と言った声を聞きやっと清水は
その手を止めた。そして「貴様は、朝鮮人の面汚しだ。俺の信用が無くなった
らどうしてくれる」と言い、丹沢の背中に唾まで吐いた。』
*** つづく ***
317 :
◆buj6R88svw :2006/08/21(月) 21:06:52 ID:oNLfRvl2
*** つづき ***
『椅子の背もたれ掴んだまま、丹沢はぐったりしていたが、そのときはまだ意識
はあった。すぐにタライを持ってきて、3人がかりで丹沢のケツを冷やした。
体を支えるだけなら二人でも出来たが、両足とも大腿骨を骨折していたので、
足を持つことが出来ず、もう一人が腰をつかんで支えるしかなかったのだ。
顔色が蒼白から、紫色になってきたので、これはまずいぞと軍医のところへ運
んだが、その日の内に死亡してしまった。
「全てはうまく計らうから、安心して任せてほしい」と自分が如何に優秀な存在
かを上官に顕示した清水に、人として一番卑しい部分を見せられたようだった。
このあと、清水は別の任地へ赴かされることになる。日頃、上官や古参兵には
媚びへつらってうまく立ち回り、格下の兵隊には威張り散らすという絵に描いた
ような性悪の清水だったが、さすがに味方の兵隊に殺人までやらかした者となる
と、上からも下からも信用されなくなる。一部の兵隊からはリンチに架けようか
などとも囁かれたようだ。「ドンパチ始まったら、奴を後ろから撃ってやろうか」
と言って憚らない兵隊も中には居た。
戦場で打ち合いになった時「弾は前からだけ飛んでくるとは限らない」そん
なあるはずのないことが起こるのが戦場の実態だ。本来そうしたことはあっては
ならないし、前方の敵だけに集中出来なくなるのは絶対に好ましくないのだが。
朝鮮人の身勝手な振る舞いにより、協調性という隊内の根幹にも係わってくる、
こうした問題はこれ一件だけではなかった。またある部隊では「朝鮮人兵には、
もっとたくさんの唐辛子を支給しろ」という要求がされたりもした。嘘のような
話しだからきっと誰も信じないだろうが、こうしたことは実際にあった。』
test
チームに朝鮮人がひとり入ると、
その朝鮮人事態は活躍しても、何故かチームは衰退し、負けが込む。
協調性とか精神性って大事よね。
320 :
名無し:2006/08/21(月) 23:58:32 ID:nS+rxpIf
>>317 「弾は前から飛んでくるとは限らない。」
たしかそれ「後ろ弾」って親父から聞いたことがある。
>>319 ん〜。確かにそうなんだけど・・・
協調性、精神、規律、倫理、義、とかやっぱり大事だし日本人は持ってると信じたいけど
今の日本人が持ち合わせているかっていうと疑問だ。
子供の頃、横井庄一さんがグァムから帰国した時の言葉。
あれをテレビで茶化すような使い方ばっかりで連日放送してたの見て気分が悪かった。
2chの中国・韓国・朝鮮への思想はネタ的という概念が定着してる気がするけど
初めて2chに来た時は胸糞悪くて仕方無かった。
それが数年したらいつのまにか平然としていれる自分がいる。
朝鮮人だから○○、というのは日本人と話した事も無い10代の中国韓国人が
「日本は残虐で残忍な国だ。謝罪と賠償を要求する」って言うのと変わらないと思うよ。
>>319さんが朝鮮人に酷い事をされた経験があってもそれはその個人に起因する問題じゃないのかな?
ただでさえ狂気が渦巻く戦争ってそういう負の感情を増幅させると思うんだ。
今の2ch漬の人が同じように戦争したら朝鮮人がどうこうどころではなくって
あったかどうかの検証すら進んでいない大虐殺をはるかに上回る恐ろしい事態になるかも知れない。
俺はマジでそういうのを危惧してる。
戦争は政治家の利権を巡る動きと、庶民の水掛け論、おまけ程度の国としての正当性で出来ている気がする。
戦争は国民がやるものかと思う。
開戦時も国民が多数が戦争すべきと思っていたんじゃないの?
報道やその報道を操る政治家によりリードされたのかも知れないけど。
323 :
マンセー名無しさん:2006/08/22(火) 01:58:57 ID:HT+uWWDv
>>321 >朝鮮人に酷い事をされた経験があってもそれはその個人に起因する問題
その個人が20人集まって団体となり、100人集まると一大勢力となる。
そして勢力がある一定方向に進んでいくと国論となる訳だよ。
朝鮮人の問題はここに極まれりなんだな。で、延々と謝罪と賠償を求めてくる。
しかもそれがことごとく事実無根だからすこぶる困ったもんだトキタモンダ。
>あったかどうかの検証すら進んでいない大虐殺をはるかに上回る恐ろしい事態
それを危惧するのはおまえさんの勝手だが、負の感情を増幅させないためにも検証は必要だ罠。
大虐殺があったのなら、日本は今までどおり反省の態度と表明を続ければいい。
逆にありもしない言いがかりならばそれを正せばいいだろう。
石油や領土なんかの現実的な問題はまた別だがね。
むしろ感情よりもこっちの問題の方が両国間の争い、即ち戦争に直結してると思うが。
>戦争は政治家の利権を巡る動きと、庶民の水掛け論、おまけ程度の国としての正当性で出来ている
一見小利口そうに見える文章だが、支離滅裂で何言っとるのかサパーリだよw
中学生ぐらいなら感心して読むんだろうな(遠い目
324 :
名無し:2006/08/22(火) 02:15:38 ID:YeerGswE
叩かれることを前提で言うと、「朝鮮人」というものに抵抗感を感じるのは
過去の伝聞だけではなく昨今の色々な情報があるからだと思う。ニュースでの
掌返しは有名だけど他の国でもホテルに「朝鮮人お断り」とか世論調査で
よろしくない結果が出たりするのを、メディアを通じて知ったりすること
で自然に沸くと思うよ。
駄文スマソ
>>324 日本のマスゴミには期待できないと思う。どちらかというと
世界の半島人の悪評を隠そう暈かそうとフィルター掛けに
奔走してるのではないかと。
いまは、半島人の醜い素性が余りにも酷すぎるので、
海外のメディア等で取り上げられて
蓋をしきれなくなってるという感じであろうか。
とはいえ、2CHで新作の工作スレらしきモノもよく見かけるので
油断はできない。
326 :
323:2006/08/22(火) 03:52:08 ID:HT+uWWDv
ここはサゲ推奨だったのね
スマソ>ALL
327 :
マンセー名無しさん:2006/08/22(火) 14:25:39 ID:i2y/LVUE
>>307の板見たら内容カキコしたヤシ一人でがんばっていた・・・
サムライだねぇ〜
328 :
マンセー名無しさん:2006/08/22(火) 16:21:44 ID:rmMApbf2
お爺様、御快癒おめでとうございます。健康にお過ごしください。
>>328さん
これ探してたんだ。ありがとう。
8月13日放送KBS「8・15」**********************************
放送後の(韓国人)視聴者の反応は「日本人の主張には同意しないが討論は
日本人の勝ち」というものだった。そして感情むき出しでしか対応できな
かった韓国代表に歯ぎしりし「もっとちゃんとした討論者をなぜ出さなか
ったのか」とのおしかりが多かったとか。(黒田勝弘)
http://www.sankei.co.jp/databox/tokuhain/0608/060819m_int_52_1.htm ******************************************************************
台湾人:高金素梅
韓国人:イ・ヒィジャ
鮮語読めないけど、なんとなく雰囲気は伝わるね。
330 :
名無し:2006/08/22(火) 21:05:49 ID:YeerGswE
向こうはまともな証拠なんて無いからただわめき散らす
程度のことしか出来ないのも当然だね。
というかあの国にまともに討論できる人いるのかなあ・・・
>>330 靖国の話でしょ?
証拠はとりあえず、いらないんじゃないか?
まぁ、それでも喚き散らすしかできないって事だけどね。
いいかげん、声闘の文化は捨てて欲しいもんだよな。
>>319 それはシナ畜も然り ちゅうか全てをぶち壊すとか
333 :
名無し:2006/08/22(火) 22:13:59 ID:YeerGswE
>>331 全くですね・・・
引越しおばさんと同レベルですよね・・・
私はぎりぎり三十代。親は六十代半ばと後半です。
その若い方、つまり母親の体験談を少し。
「朝鮮人がまた逃げた〜」
っていうのがしょっちゅうあったって。で、逃げてる朝鮮人に
可哀そうにと思って食べ物をあげた日本人も居るんだってさ。
でも、三国人暴動だからねぇ。
「あの辺りは朝鮮人部落だから怖いから行くな!」
って言われてたって。
>>328 私もこれ見たかったんです。ありがとうございます。
まあ、あの台湾の女性は若いし、
あの世代の人が靖国問題を口にしても、全く説得力ないですね。
韓国のおばさんは…、つまり感情の問題ってことを言いたいのだろうけど、
感情の問題を感情的に語った時点で負け。
「日本人から見れば気にならないことでも、
韓国人としては許せないことなのです。」
ということをもっと淡々と語るべきでしたね。
靖国にお父さんが祀られている事が、
なぜ良くないと思うのか具体的に話してこそ、
日本人にも韓国人の辛さがわかるというもの。
あれじゃ、ただ「みんながだめっていうからだめなの!」にしか見えませんね。
しかし、韓国もこれよく放映しましたね。どうやって編集しても
日本人の冷静で知性的な部分を隠せないのに。
>>330 正直俺は鮮人は議論が出来ない感情丸出しの始末悪い子供と思ってる
ただ中華は議論が出来る民族だと思ってたのに残念だよ
まじで。。。
高金素梅と言えば台湾ではバリバリの反日家。
あいつを呼んだ時点で靖国をネタにした日本叩きをしたいのが見え見えだね。
高金素梅の詳細はググってみて。
これね。高金素梅
【論説】「台湾の声」高金素梅の来日は台湾人を代表しない
>今や原住民の代表者のように振舞うこの人物は、もともと中国人(所謂外省人)
として育ち、かつては「金素梅」という名で芸能活動を行っていたが、その後立
法委員(国会議員)を志し、たまたま母親が原住民だったことから、当選しやす
い原住民枠で出馬することにし、名前に母親の姓である「高」をつけ、突然「高
金素梅」という名の原住民に変身した
>「原住民は日本軍に殺戮されたため、今日劣勢になった」、「戦死者の三分の二
は原住民だった」、「日本軍は65万人もの台湾人を殺した」、「原住民に三光作
戦を行った」という、研究者ならすぐに嘘と分る話を思いつくままでっち上げ、
何も知らない台湾人に喧伝しているのだ
>こうした振る舞いに憤ったある高砂義勇隊遺族は、「あなたは歴史を知っている
のか」と問い詰めたところ、高金素梅は何も言えなくなり、「何も知りません」
と告白せざるを得なかった
ウチのもう亡くなったじいさんは、若い頃、酷く苦労した人間で非常にアクの強い性格の人だった
でも、俺のことは結構かわいがってくれてて、俺も懐いていた。
その爺さんには親友が居たんだが、やはり戦友がその中に居た。
台湾人の人だった。その人が亡くなった時には爺さんは非常に落ちこみ、食欲もかなり落ちた。
わざわざクソ高い国際電話を良く掛けてきたり、掛けたりする中だった。
日本にも良くきてたし、爺さん自身も良く台湾に遊びに行っていた。
一番の親友だったらしい。
そう言う風にあんまり国籍の事を気にせず日本軍(海軍)で働いていた爺さんだが、
挑戦系の人間のことはあまり好きではなかったようだ。というか、嫌いだったらしい。
まだ幼い頃に無神経に「なんで嫌いなの?」と聞くと、
遠い目をして「いろいろあったんや」と一言呟いてまた新聞を読み始めたのを覚えている。
じいさんは本当にアクの強い人間で毒舌も良く吐くのに、あの時は全身から疲れを
漂わせていた。俺は腰が引けてしまい、もう何も聞けなくなり、じいさんの横で新聞を読みしかできなかった。
あんな爺さんの姿はあれからも見たことはなかった。
もうお忘れの方も多いかと思いますがw、夏休みを利用して実家近辺で取材をしてきました…
だめだ、我が家の歴史あまりに悲しすぎて書けません_|\〇_
知らなかった。。。
ヘタレな俺を嘲笑ってください。でもまだ存命の方もいるので…
それにしても今回の取材で改めて半島民に対する憤りが高まりましたよ。
そうですね、せっかくですから適当に差し支えのあるところはフェイクを入れて
(仕事スレ参照)教えて頂ければ有難いです。 <(_ _)>
【山形】北朝鮮城津市で敗戦迎え、日本人への略奪・放火が相次ぐ中命からがら帰国した元高校教師が講演会[4/16]
平和憲法尊さ訴え あす酒田で講演会
中国東北部で旧日本軍が住民約3千人を虐殺したとされる「平頂山事件」や朝鮮半島
からの引き揚げを体験した酒田市の元高校教師池田昭二さん(79)の講演会「暗黒時代
を繰り返させるな」が16日午後1時半から、酒田市勤労者福祉センターで開かれる。
池田さんは、父親が南満州鉄道社員だったため、旧満州の撫順市で生まれ、5歳の時に
平頂山事件に遭遇した。旧日本軍が撫順炭鉱の襲撃に炭鉱労働者が関与したとして、
平頂山村の住民らを虐殺したとされる。池田さんはその夜、母親に手を引かれて市
中心部の知人宅に避難したことを覚えている。
日中戦争の真っただ中で成長し、旧制撫順中学校から、日本統治時代のソウルで京城
鉱山専門学校に進んだ。勤労動員先の北朝鮮の城津市で敗戦を迎え、日本人への
略奪や放火が相次ぐ中、4カ月かかって釜山にたどり着いた。命からがら日本に引き揚げた。
池田さんは「城津から釜山まで一緒に逃げた6人のうち2人が殺された。戦争とはいか
に愚かで残虐か。生きているうちに伝えたい」という。戦後の日本の平和は「憲法のおか
げだ」とし、平和憲法の尊さを訴える。
池田さんは「鳥海山の自然を守る会」会長として、コクドのスキー場建設計画を撤回させ
る運動などにも取り組んだ。
ソース:朝日新聞
ttp://mytown.asahi.com/yamagata/news.php?k_id=06000000604150004 2 名前:FOX ★[] 投稿日:06/04/16 19:14 ID:Happy
つづきはこちらです
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1145182440/
345 :
◆buj6R88svw :2006/08/28(月) 14:50:27 ID:ttIPu0sJ
本日早朝、爺さんが亡くなりました。
爺さんの相手をしてくれた皆さん、本当に有難う御座いました。m(_ _)m
346 :
マンセー名無しさん:2006/08/28(月) 15:01:04 ID:5akFgOrs
なにぃ〜?マジで?……orz
なんて言っていいんかわからんよ……orz
そうか〜…。
つか、おまい、大丈夫か…?
爺さんのご冥福をお祈りします…。
>>345 まじですか…お話楽しみにしていたのですが…
ご冥福をお祈りします…(-人-)
348 :
マンセー名無しさん:2006/08/28(月) 16:41:52 ID:rTc0gQo/
>>345 1から読み進めてやっと追い付いたと思ったらいきなりそれか…
御冥福をお祈りします
ええええぇぇっ
ご冥福をお祈りします。
実は私、内科医なんですけど、差し支えなければどんな状況だったかお教えいただけませんか?
(悲しみのただ中にいるお孫さんには酷かな)
351 :
マンセー名無しさん:2006/08/28(月) 18:29:07 ID:vQobC73P
えっ?
おじいちゃん亡くなったのですか?
もっとお話し聞きたかった・・・
ご冥福をお祈りします。
おじいちゃんに、
今の若い奴らもやるじゃないか、
と安心して頂けるよう、努力します(ノ_・。)
352 :
マンセー名無しさん:2006/08/28(月) 19:44:40 ID:aAFrHw/G
御冥福をお祈りします。
レスの少なさから、あまり調子が良くないのかもとは思っていたのですが・・・
実はこのスレを提案した者ですが、
俺には生まれた時には爺さんはもう両方とも既に居らず、
滅多に会う機会のなかった婆さん達もそれぞれ他界しています。
その所為でしょうか、当時の貴重な体験談を読む事自体よりも、
ほんの僅かでしたが、ツンデレ気味の爺さんとの、
ネットを通したコミュニケーションが、
ささやかな楽しみになっていました。
また元気になってそうできればと思っていたのですが・・・
これからしばらく忙しいでしょうし、
このスレを覗くと、お爺さんの事を思い出してしまうかもしれませんが、
色々と落ち着いてきたらまた是非、貴重な体験談を書き込んでください。
とにかく今は気を落とさずに、お爺さんを見送ってあげてください。
最後に爺さんへ
見ず知らずの俺たちに貴重な体験談を教えてくれてありがとう。
>>345 御祖父様のご冥福をお祈りいたします。
こちらで貴重なお話しを披露頂いたのも、きっとなにかのご縁あってのことで
あったのでしょう。ありがとうございました。
保守がてら10年前に鬼籍に入った祖父の話。
彼は戦争当時製鉄工場の幹部で(雇われですが)仕事で何度も東京に出、
軍需関係から接待も受けていたので、物資があるところにはあること、
また、戦争の雲行きの怪しさも身にしみていたそうです。
最後に東京に行ったときの帰りの列車の窓から見た帝都は、
夜だというのに真っ赤に空が染まっていたとか、後にそれが
東京を襲った最初の空襲だと知ったそうです。
他にも、姫路の大空襲の前、知人の大商家から食器を疎開させてくれと頼まれ、
たくさんの瀬戸物を預かったが、とうとう返すことが出来なかったとか、
戦後、それをどこからか聞きつけた骨董屋がうちに尋ねてきたが売らなかったとか聞きました。
そんなじさまの孫(私)が韓国ポップスにはまったとき、
「歌を聴くだけならいいがなるべく関わるな。時代は変わったのかもしれないが……」と、
穏やかに諭してくれたのを思い出します。
まあ……身にしみて体験しましたけど。
ちなみに父(こちらも既に此岸の人ではありませんが)は若いころヤンチャで、
とある競艇場で韓国人やくざと殴り合いの喧嘩をして追いかけられたとかなんとか……
まあ、こっちは誇張も入っていそうですが、小競り合いが多かったのは事実みたいです。
こっちははっきり「朝鮮はあかん」と……
私たち子供がバリ左教育世代&「学校の先生は偉い」な田舎なので、
詳しい話はしてもらえなかった、聞かなかったのが悔やまれますがね……。
子供は子供で朝鮮学校との交流会等で酷い目にしか遭ってないので、
先生の話は半分しか聞いてなかったわけですけども……。
とりとめなくてすみません。
>>345様
手術終了=快癒とはやとちりしたカキコ、大変失礼いたしました。
お爺様の御冥福を心よりお祈りいたします。
私も、いずれ皆さんの参考になるような事を書き込みしたいと思い
祖母にいろいろと聞くんですが、最後は涙になってしまい
なかなか冷静かつ詳細な過去を聞き取りできません。
板汚しとは思いつつ、失礼のお詫びとお悔やみを申し上げたかったので
書き込みいたしました。m(_ _)m
>>345様
ROM専ではありましたが、お爺様のお話、何時も興味深く読ませて頂いておりました。
今はただただ御冥福をお祈りいたします。
>>349 内科医という職業の割には少々デリカシーにかけていると思われます。
何を聞きたかったのかは判りませんが、近しい人を亡くしたばかりの人にかける言葉では
ないのではないでしょうか?
>>345 御祖父のお話、いつも楽しみにしておりました。
残念でなりませんが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
あなたも暫らく大変でしょうが、頑張ってください。
世の中には医療事故と言うなの殺人もあるっていうからね。
ウチのばあさんも医者に殺された。
ご冥福を祈ります。 こうして貴重な語り部がどんどん鬼籍に入っていってしまうんだなあ・・・・やっと語っても世間が聞く耳を持つような時代になってきたのに・・・・
>>355 まぁまぁ…。
急な話ではあったし、
>>349氏も職業柄、疑問を持ったんじゃまいか?
うちの爺ちゃんなんか扁桃腺を腫らす風邪が原因で腎臓を悪くして以来、若い頃からずっと透析してたんだが、
その透析用の腕の血管手術をするということで手術したら、口も聞けなくなって意識もほとんどない寝たきり状態に。
その後、24時間、交代で家族、親類付きっきりの寝たきりの闘病生活1年強。
もう20年近く前に他界したけども。
おじいちゃんのご冥福をお祈りしますつД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚
>>359 そうです。書き込みで判断する限りではあまりに急な話に思えたので。。。
でもまあ355みたいな早とちりな書き方する人がいてもしゃあないなと思いました。
>>345 御爺様のご冥福をお祈り申し上げます。
御爺様と英霊達に恥じぬ日本を作りますので、どうか安らかにお眠り下さい。
>>357 医者だって万能じゃないんだ。めったな事を言うもんじゃないよ。
ご冥福を祈ります。。。
>>362 スレ違いだが、言わせてくれ。ウチのばあさんの場合は、
医者がもうすぐ自分の休暇で、しかも、忙しい時期だから担当患者増やしたくない
って理由(当然隠してたが)で入院拒否したから
自宅で一人で苦しんで苦しんで死んだんだよ。
家が親戚から離れていて、一人暮しだったのがマジで痛かった。
病状の話は本人が気になって聞かない限りは一端収めて話を戻そうよ。
内科医さん所の話はやっぱ駄目なん?特定されない程度でも聞きたいな。
もしここで駄目でも、身内には語り継いでほしい。
>>345 御祖父様のご冥福をお祈りいたします。
(こんな時に同じプロバイダーを使っている
朝鮮人のアホが暴れたお陰でアク禁くらってました・・orz)
もっとお話をお聞きしたかったですが、本当に残念な事です。
もし、身辺が落ち着かれましたら、またこのスレに遊びに来てください・・
今まで、ご自身の貴重な体験談を、身も知らずの自分たちに、
快くご披露していただき、有難う御座いました。
重ねて御礼を申し上げます。
医者もピンきり、なぜか親戚に医者の多い自分には
本来医者になってはいけない人が、親が医者だからという
理由で医者になれる現状に危惧してたりします・・
368 :
マンセー名無しさん:2006/08/29(火) 23:27:32 ID:hNKBOJJm
>>345の爺ちゃんの冥福を祈ります。
日本人なら当然だ・・・
ご冥福をお祈りいたします。
何かの縁で井戸の毒の謎も解けた
気が致します。
370 :
マンセー名無しさん:2006/08/30(水) 00:35:22 ID:M/V3C3oT
(−人−)ご冥福をお祈りします。
どうか安らかに。
ご冥福をお祈りします。
安らかにお眠りください。
戦後日本の礎を御創り下さったことお礼申し上げます。
373 :
マンセー名無しさん:2006/08/30(水) 23:51:51 ID:mVd+YnYj
偉大なる先人に敬礼!
戦後の幾多の荒波を乗りこられた偉大なる先人に対し
総員 帽 振れーーーーーー
僭越ながら祖父殿のご冥福をお祈りいたします。
,,.---v―---、_
,.イ" | / / / /~`'''ー-、 日本人はな、お互い様やねん。
//~`ヾ、;;;;ソ'''''''''ヾ、 ,.ヽ ヽ
/:,:' ,.... ゞ 彡 彡、ノ )相手に一回譲ってもうたら、今度は自分が譲るねん。
!/ ~`ー'",..- ... 〉 ! ( そうやって、うまいこと回っていくねんけど、
i  ̄~` ! 彡 |ノ 『朝鮮人ら』は違う。
,i ,.- 、 ゝ " '" ~ ~` ヾ ,,--、 | 一回譲ったら、つけこんできて、
/ _ ヾ"r∂|;! こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
ヾ` '⌒` ;:: "~ ~` 彡 r ノ/ それでも『朝鮮人ら』は平気なんや。
i ノ _,,.:' カドたてんとことおもて譲り合うのは、日本人同士だけにしとき。
ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : : ,i / そうせんと、『朝鮮人ら』につけこまれて、
ヽ、 ,. :: :: ヽ ノ:|ラ:)`ヽ、 『ひさしを貸して母屋を盗られて』日本が
ヽ、`''''"""''''" ' ,,..-'" // \-、 のうなってしまうからな。
「嫌われることばかりをしてる人を嫌うのは、差別やない。
差別、差別と印籠のように突き出してくる人間こそ 卑怯者の差別者なんよ
なんだろう
妙に染みるな
遅ればせながらご冥福をお祈りします。
379 :
マンセー名無しさん:2006/09/03(日) 12:11:42 ID:Dm9IvLqf
朝鮮人は戦後、密造酒で儲け、配給品を略奪して闇市で暴利をむさぼった虫けらだ。どさくさ紛れに
日本人をぶっ殺し、土地と金を強奪したような連中だ。戦前は日本人気取りで台湾人を馬鹿にして
いたくせに、何が苛酷な植民地支配だ、謝罪しろだ、馬鹿野郎。差別差別とやかましいが、あんな
奴らを人間扱いする方がどうにかしておる。今の者が知らんと思って被害者面しておるが、虫酸が
走るわ。おまえも、朝鮮人だけは信用するな
遅ればせながら、ご冥福をお祈りします
『最近の若い者を馬鹿にしていたが、見直さなきゃいかん』と仰ったのであれば、今後あちらで落胆されないようにしっかりしていく事が我々の使命でしょうね
381 :
マンセー名無しさん:2006/09/05(火) 22:01:41 ID:mY9blL+V
age
382 :
マンセー名無しさん:2006/09/06(水) 08:27:00 ID:FlO4qznM
ご冥福を・・・今わたしに出来ることはあげることだけ↑↑↑↑↑
383 :
桜:2006/09/06(水) 08:50:02 ID:o84N+yHP
俺もじいちゃんにはいろんな事聞いた。良い事も悪いことも。
そもそも靖国の中にも日本人として戦った「朝鮮人」は21000人
入っている(台湾人は27000人)だからともに戦った仲間である
ことに間違いはありません!
悪さをして目立つやつらは、その戦争後にどさくさにまぎれて密
入国などで大量に紛れ込んできたやつらだと解釈してます。
竹島やミサイル問題で朝鮮人・韓国人に冷ややかな目を向けられる
と言うのもしょうがないことですね!
在日の方は、恨むなら祖国のトップを恨みなさい。
と考えます。
384 :
マンセー名無しさん:2006/09/06(水) 08:59:17 ID:8ZcR1Q7R
爺さん、今日未来の天皇陛下が光臨したぞ!
385 :
桜:2006/09/06(水) 09:02:38 ID:o84N+yHP
目出度い!!
紀子様が頑張られたお陰で、御爺様が命がけで守った皇室を次代に続ける事ができそうですね。
本当にめでたいことです。近くであれば皇居まで行って日の丸を振りたい。
387 :
マンセー名無しさん:2006/09/06(水) 09:51:33 ID:olqWEQKF
爺ちゃん達が命がけで守ってくれた日本をこれから俺達が守るよ!
∧_,,∧
、-‐'''""''''\ /\. (`・ω・´) /ヽ
\ ● \ | ● ⊂ ⊃ ● | r--─‐i
\-‐'''""'''' ヽ/@/ く \ / r─--‐i | ● |
\ ∧_,,∧ ∧_,,∧(ノ⌒ヽ)∧_,,∧ | ● | ∧_,,∧ |--─‐''
○○・ω・´) (`・ω・´)∩ ∩(`・ω・´) ''─--‐| (`・ω・´)∩
ヽヽ` ヽ'´) ⊂ r ' '-、 つ ⊂ /
@〉 ,.- '´ @ノ / ヽ '、@ r‐' /@
〈_ノ´..................(ノ⌒し'......................'、_l⌒'、)................`""ヽ_ノ
............::::::::::::::::::::::.::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::............
388 :
マンセー名無しさん :2006/09/06(水) 10:15:59 ID:gSqTFi1O
>>387 ずれ過ぎだろ。
……くそ、なのに何でこんなに心に染みるんだ…
数年前他界したうちの爺ちゃんから何回も聞いた話。
支那朝鮮はオカズが無いときにはコソコソと家の中で食事をするのに、
オカズがあるときは、わざわざ表に出て日本兵に自慢しながら食事をする。
あんな根性の腐った奴らはない!
話はそれますが、当時の爺ちゃんの半分日記帳のような兵隊手帳を見ると、
福岡で出兵→釜山上陸→平壌で休憩→満洲 のルートで大陸に渡ったようです。
平壌で先に出兵していた弟と再会し、弟は「俺はたぶんもう使わないから」と
20円ほどのへそくりをくれて、そのまま帰らぬ人となりました。
爺ちゃんは満州北方で兵站をしており、後方部隊なのに全滅という苛酷な戦闘に
巻き込まれたらしく、その事については何も語りませんでしたが、
上記の食い物の恨みについては、何十年たっても繰り返し言っていたので
よっぽど悔しかったんだと思います。げに恐ろしきは食い物の恨み。
朝鮮と縁の深かった夢野久作(1889-1936)の小説には、朝鮮人がよく出てきます。
小説で見る印象としては、アメリカにおける南米移民ぐらいの感じで、
朝鮮人は貧しいけれど、日本人とそれなりに仲良くやっていたという感じです。
久作の随筆に「日韓合併思ひ出話(1935年)」というのがあるらしいのですが、
青空文庫に収録されないですかね・・・
以上スレ汚し失礼しました。
390 :
マンセー名無しさん:2006/09/06(水) 13:03:26 ID:8ZcR1Q7R
>>389 他にもネタがあったらドンドン書き込んで、
スレをもり立てて下さい。
391 :
ほっしゅ:2006/09/06(水) 14:46:28 ID:4xzqhMn1
■高槻市が在日団体を提訴へ 中学校の一室不法占拠
大阪府高槻市は5日、市立第一中学校の一室を1年以上、不法占拠しているとして、
同市の在日韓国・朝鮮人団体「高槻むくげの会」に対し明け渡しを求めて大阪地裁に
提訴する方針を明らかにした。9月定例市議会に関連議案を提出する。
市教委によると、昭和60年度に「在日韓国・朝鮮人教育事業」をスタート。市教委は
同会と日本語の識字学級や地域子供会などを共同で行い、「便宜供与」として同中学校
青少年課分室の一部、約30平方メートルの使用を認めてきた。
しかし、市教委はこの事業を平成13年度から「多文化共生・国際理解教育事業」に変更。
在日韓国・朝鮮人だけでなく、ブラジル人やフィリピン人などにも部屋を開放することに
なったが、同会が占有した状態が続いた。このため昨年1月、同年3月末までに部屋を
明け渡すよう求めたが、「差別、弾圧だ」などと拒否したという。
同会は4月以降も明け渡しに応じず、部屋を無断で使用して日本語講座などを有料で開催。
光熱費は中学校が負担しているという。
市教委青少年課は「他の市民に説明がつかない」。
同会の李敬宰会長は「提訴は非常に遺憾。断固戦う」としている。
http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya090602.htm 軒先貸したら母屋をry
私の母方の祖父は帝国軍人、憲兵隊でした。
陛下を心から心酔しており、孫の私の名前に
なんとしてもある皇族の方のお名前の一字を
使わせていただきたいと、娘夫婦相手に病院で頑張って頑張って、
結果意味不明になりましたがw、その一字は私の名前に
勿体無くも使わせていただいております。
亡くなったおじいちゃん、生きてたらこの日を泣いて喜んだことでしょう。
癌で苦しかったのに見舞いに行くといつもぴんと背筋を伸ばして
正座していた人だから、人前では泣かないかな。
家中探したけど国旗がなかったので、
日の丸をプリントアウトしておじいちゃんの写真の正面に飾りました。
国旗は買っておくべきでした。
お爺さん、これからも私たちの愛して止まない日本の行く末をどうか
お守り下さい。
心より御冥福をお祈り致します。
ご苦労された体験を私たちに伝えて頂いて、本当にありがとうござい
ました。
保守がてら今日一番笑ったこぴぺ
世界学園の美人たち
韓国娘・・・・・・・・・・日本娘に強烈な劣等感を持つ、裏返しに常に勝ちたいとのライバル意識を持つが、
全く相手にされない。ブスを整形で取り繕ったサイボーグ美人。元ブスの人造人間だが
自分ではあくまで整形してないと言い張る。虚言癖あり。性格は捻じ曲がっている。学園中の嫌われ者
395 :
マンセー名無しさん:2006/09/10(日) 19:54:12 ID:detfdpmO
あげぱん
396 :
マンセー名無しさん:2006/09/11(月) 05:27:52 ID:m5sEuOoa
日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた
連中(注:鮮人のこと)の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、
「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!」と、たちまち数人に取り囲ま
れてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては「すみません、私の記憶違い
でした」と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人
乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示する
など、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで
眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
《中略》
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩を
いからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっ
かを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったから
に他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの
極端な習性を目の当たりにした思いがした。
↑396は
蔡 焜燦 の 「帰らざる 日本人」の一説だよね。
遅レスですが
>>345 お爺様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
.buj6R88svw氏のお爺様のお話は実に有意義なものでありました。
どうぞ、向こう側では金玉袋を(`・ω・´)シャキーンとして、胸を張って同期のお仲間と
安らかな語らいをして頂きたいと思います。
・゚・(ノД`)・゚・。
399 :
マンセー名無しさん:2006/09/14(木) 21:06:27 ID:dOWrvi//
捕手
400get
401 :
マンセー名無しさん:2006/09/16(土) 01:20:47 ID:KO8GeYlF
>>400 おめ
おじいちゃんへ
ご冥福をお祈りします。
402 :
マンセー名無しさん:2006/09/16(土) 02:20:03 ID:c4gcacaF
当時満州(今のモンゴル)にひとりの参事官が派遣されました。
彼は満州鉄道によるレポート何百枚に目を通し現地を視察したところ「ここは豊かな農地になる!」と確信しました。
そのためには灌漑事業を起す必要がある。それも大規模な・・・彼は陸軍司令部を訪れて灌漑事業の資金調達を要請しましたが弾に使う金が優先だといわれ断られました。
それでも諦めきれず各役所にも訪れましたが同じ回答に途方もない挫折を感じました。現地では彼の朗報を期待している。現地人がいる、何もできずに帰れるか!その気持ちのみで彼は進みました。
ある日いつものように役所に訪れると依然縁あって知り合った役人と面会することができました。
彼は今まで作ったレポートを提出し灌漑事業の必要性を訴えました。そして帰るときには満州銀行より莫大な資金を手に現地に帰る彼の姿がありました。
現地の人たちは大変な喜びようで彼は職を賭けてこれを成功しなければならないと心に誓いました。
工事のスピードは通常の2倍の速さで進み現地の人がいかにこれを待ち望んでいたかが伺えました。
そんなある日、現場監督をしていた日本人が彼の元へ訪れました。「中国解放軍がきました!」最悪の言葉だった。工事が中断させられる可能性すらあった。
しかし内容は違いました。中国解放軍のリーダーが工事現場の様子を視察し、現地の人に必ず工事を成功させるよう檄を飛ばしたのだ。
そして彼は中国全土にいる反日中国軍に対して彼の命の保障を命じました。敵の中国人から日本人は命を守られたのです。
工事は無事完成し、そこは豊かな農地へと生まれかわりました。そして50年後
年老いた彼は再びモンゴルへ訪れ当時作った灌漑施設を訪れた。施設は当時の3倍にも膨れ上がり昔の砂漠地帯のような影は見ることもなかった。
彼が作った第一門水溝をあまりの懐かしさに写真を撮っているとぞろぞろと村人達が不審に思ったのか集まってきた。彼は通訳を通じてこの灌漑事業を手がけた日本人であることを告げた。
すると一人の若者が前に出てこの水門は日本人が作ったと聞いた。我々の生活になくては欠かせないものだ。あなたは仏のような人だと言って泣きながら握手を求められた。
その灌漑事業で作った水溝や水門は今尚健在である。
>>402 出来れば、ソースか引用先の明記をお願いします。
404 :
マンセー名無しさん:2006/09/18(月) 04:41:11 ID:KOYsXapt
あげ
405 :
マンセー名無しさん:2006/09/18(月) 20:09:51 ID:Nmv9nO+b
>>403 失礼しました。下記の本より抜粋
「道」と「戦」を忘れた日本武道に渇 望月稔著書発行所株式会社BABジャパン出版
著書に関して
明治40年静岡県出身 5歳より柔道を学ぶ。大正15年講道館に入門。創設者嘉納治五郎の下で修行を積む。
その後嘉納治五郎の命により大東流合気柔術植芝盛平の元に入門。昭和13年モンゴルに渡り武道の教授とともに行政官としてもその力を発揮
昭和17年には蒙古政府薩拉斉県参事官となる。終戦後は世界各国に渡り柔道、合気道の指導を行う。
1998年フランスにて没。享年90歳
父の話です。
終戦後、朝鮮人はずいぶん威張っていたらしく
戦後の満員列車に、父が祖父と一緒に乗っていたら
向こうのほうから、人の頭や肩を踏みつけて
車内を渡ってくる朝鮮人がいた。
祖父は、その朝鮮人に向かって
「この子(父のこと。多分13歳くらいではなかったでしょうか)は
子供なので、わしを踏んでってください。」
と頼んだそうです。
当然、父は朝鮮人にはあまり好感情は持たないようです。
仕方ないですよね。
>>406 昔の列車の車高は高いんだなぁwという突っ込みを入れさせようとしている、
嫌韓厨を装ったホロン部の釣り書き込みにしか見えない不思議。
>>407 俺には、満員電車って事だから、通路は人が居て通れないので
座ってる乗客の上を歩いた…って事だと思ったのだが。。。
409 :
マンセー名無しさん:2006/09/21(木) 00:58:22 ID:OtbKffZx
朝鮮人は終戦後、威張っていたようですね
満員列車の横暴さや、それに類する話は何度か聞いたことがあります
三国人と名乗ってやりたい放題だったとか
朝鮮人にはホント呆れてしまいます
>>409 違います。
三国人ではなく戦勝国民とほざいておりました。
母方の祖父が警官として朝鮮に行っていました。
終戦の時、つきあいのあった現地の老婦人がこんなことを言ったそうです。
「日本語は何とか覚えましたが、今度は英語ですか。
もうこの歳では覚えられないので山の中にこもって生活します。」
征服されるしかない民族の悲哀ですね
413 :
マンセー名無しさん:2006/09/21(木) 02:16:21 ID:oSM6z1qa
>>412 中国になれば
中央アジアの砂漠に強制移住たから
言葉は覚えなくて大丈夫
414 :
406:2006/09/21(木) 13:32:41 ID:Lp8vsXrj
>>407 ほんとうですね。どんな車高なんだろう?
人に乗られたら、ピンと立ってられないってコトですかね?
蹴散らして、人の上に乗っかって動いていたって事かな?
聞き覚え、うろ覚えで書くと駄目ですねー。
でも、爺さん、この手の話すると、みるみる不機嫌になるんだよ、困ったな。
いや、母も引き上げのときに電車で長距離移動した人だけど
あのときの電車って今とイメージ違うんだよ、
とにかく乗れるだけ乗らせるから、
人の上に人が乗ってることなんか当たり前だった。
この話のポイントは「踏みつけて移動した」ってことだと思う。
つまり、人の上に人が乗り、皆が苦しくて、
でもお互い様だと必死でじっと動かずに耐えてるところに、
人を踏みつけ、かきわけ、威張り倒してスペースを
確保した朝鮮人がいたってこと。
座ってるひとの上に立ったままスタスタ歩いたって
想像をするから「車高がどう」って話になるのよ。
うちの爺さんは終戦後引き上げの時に、朝鮮人の子供に
「アメリカ軍の命令です。その腕時計を出しなさい。」ってやられて腹立たしかったけど妻と6歳、4歳の娘がいたからもめ事を起こさないように渡してきたっていってた。
子供からしてこれだけど、五体満足で全員引き上げができたからこれでも運がよかったほうかな。
418 :
マンセー名無しさん:2006/09/23(土) 13:38:50 ID:Wp7fDZyN
>>417 今にして思えば、えさを与えないでくださいと思いとどまったかもね。
>>417 朝鮮八路軍とか酷い事してたからねぇ・・・無事に帰ってこられて良かったかと。
お爺様の冥福を心よりお祈り申し上げます・・・。
日本の守りは引き受けました!!
向こうの偉大な同胞と見守っていてください・・・。
えへへ、爺さん、商売失敗してしばらく無職だったけど就職決まったよ。
給料安いけど正社員だ。今迄よりは僅かながら多めに税金を国に納められるぜ。
赤の他人だけど、どうしても報告したくなったんだ。
スレ違いスマン。
>>421 えらいえらい。
立派な先人たちの心意気に応えられるように、
お互い頑張ろうねー!
うへへ、爺さん、今さっきドコモショップの野暮ったい娘に一目惚れしてきたよ。
>>422 頑張るよ。今すげーテンション高いよw
若干スレ違い気味なんだが、俺の親父が今朝他界した。半島で事業をやっていた、俺の爺さんの長男として、イムジン川で産湯を使った親父だった。当時の事を色々語ってくれたよ。
俺が生まれたときの親父と、今同じ年齢なんだよなあ、俺。勝てねぇなぁ。
ご冥福をお祈りいたします。
俺は今年31歳なんだけど、俺は父親が大学でてすぐの
25才の時に出来た時の子供。親が今の俺の年齢の時には俺は6歳で
物心付いてきたころと言うか記憶が残っている。
俺もぜんぜん親には勝てていないと思っている。
(最終的には勝つ?つもり。それが親孝行と思っている。)
昔は親とか年寄りは駄目な存在と思っていたけど最近は見方が
変わってきて人生の先輩として尊敬している。
どうしようもない大人もいるけどね。
426 :
マンセー名無しさん:2006/10/02(月) 01:28:37 ID:8dA5dMmH
親父は昭和11年太田生まれ。東京大空襲を見たそうだ。
南の夜空が真っ赤だったとのこと。
B29への空中特攻も目撃した。
二式単戦のことを「鐘軌さま」って呼んでる。
>>426 大田の南は海ですがなw とチャチャいれして見ます。
|∀・).。oO( 川崎爆撃の風景だったんでしょうね…
東京大空襲ネタ
トタンが熱風に煽られて飛んでいた。
夜なのに、空が明るい。
不発焼夷弾の中身を灯明油の代わりにしてた。
母(昭和一桁生まれ)は、機銃掃射を受けたことがある。
(グラマンって言ってたけどw 子供にまで機銃を向けたんだなァっておもいました)
機銃掃射は、着弾ラインから横に逃げろ。(複数から聞きました)
近所に落ちたB29の乗務員のお墓を立てた
(木更津の高射砲陣地にいた大叔父が打ち落としたと、尾ひれのついた話はよく聞くw)
428 :
426:2006/10/02(月) 10:59:31 ID:+KY9Ry+Q
>427
群馬県の太田市です。
>>428 失礼いたしました… ゴメンナサイです。
空襲かぁ。
昭和13年生まれの福岡某地生まれの父は、久留米と三池炭坑のあたりの(地名は大牟田という所でしたっけ?)
空襲を覚えていると言ってますね。
ちょうど物心つく頃のできごとだったから余計に覚えているのかも知れないと言ってますた。
どちらかは夜の空襲で、空がその方角だけ真昼のように明るかったのだ。
疎開地にしてる人が居たくらいの田舎からも、はっきりと見えた…そのころは今みたく高層建築物も無かったけど。
と、淡々と話しとりました。
またその後が悲惨(というより他になし、だそうです)で、焼け出された人達が、例えばリヤカーに載せて
色々運んでいる人のうしろにぞろぞろとくっついて、物乞いをしていた様も忘れられないと。
そんな父が、お前が死ぬまでにはもう一度くらい、同じような時代を迎えることになるだろうから、
粗食に耐えられるようになっておけ、貯めることが出来る出来ないではなくとにかく使わずに何とか出来るよう
自分を鍛えておけ、と、言いますね・・。
親父殿の言うことは他にも他愛ないこととはいえちらほら当たっているから恐い
431 :
426:2006/10/02(月) 14:09:23 ID:+KY9Ry+Q
>429
どうぞお気になさらず。
中島の工場や飛行場があり2回空襲を受けたと言ってました。
>>427 飴工の外道ぶりはどこでもありますな
むかーーし たしか小学生の読書感想文の図書になった「ガラスの兎」
これにも作者の父が新潟に作者と共に疎開しようと二宮駅に居た所
機銃掃射にて亡くなってしまったとありました
不謹慎といわれるでしょうが911が「避けられないなら」
ホワイトハウスを藪と共に葬ってくれれば少しは思い上がりを反省したかもなどと愚考
保守
>>432 それやったらブッシュの陰謀とかCIAの陰謀とか言えない分民主党まで超タカ派になると思われ。
アメ全体が「進め三億火の玉だ」って状況で凄まじいことになってたんじゃね?
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1146887023/155 155 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/10/03(火) 01:47:00 ID:xkKeOLtD
前にも別スレに書いたことあるんだけど。
ウチとこの職場の爺さん、
満州からの引き上げで、「日本国」だった朝鮮半島経由で帰れば安全だろうと
そちらルートから帰った人たちを見送ったあと、中国側ルートで米軍に捕まり、
殺されるかと思ってたら、逆に治安維持に協力を求められて、
しばらく米軍傘下で警察みたいな仕事して帰国が遅れたそうだ。
結果、中国側ルートのひとたちは日本に帰国したんだが、
朝鮮半島ルートを選んだひとたちは、皆行方不明。
軍属でもないひとたちを「行方不明」にした朝鮮人のことは、
絶対に忘れてはいけない。
捕手
戦時中に女学生だった近所のお婆様から聞いたお話。
ちょうど北の核実験の直後に聞いたお話です。
「空襲で近所の○○さんが亡くなったなぁ(遠い目」
「学校帰りに木陰に隠れて制服を汚したもんだよ。国民色なんて言ってね」
「こんな田舎にも爆弾が落ちるときがあったけど、それはアメリカ軍が
余った爆弾を捨てたんだって、みんなそう言ってたよ。不発弾を皆で見に行ったりねw」
「しかし、あのバカ共は何年たっても変わらんねえ…何回痛い目を見ればわかるのか(遠い目」
婆様の優しさと強さに涙が出ますた。こんなクソ田舎でもあのバカ共の評判はやっぱり(tbs
439 :
マンセー名無しさん:2006/10/17(火) 22:37:53 ID:MdCTqunJ
>>438 あのバカ共てあの民族の事?それとも米兵?
440 :
438:2006/10/17(火) 22:45:42 ID:sg9Di9nt
442 :
439:2006/10/17(火) 23:20:32 ID:MdCTqunJ
そうでしたね。
保守
保守
保守
446 :
ひみつの検閲さん:2024/12/23(月) 13:10:23 ID:MarkedRes
>>438 そのご婦人が「あのバカ共」と思うようになったエピソードを聴取してくだされ、ぜひ。
448 :
マンセー名無しさん:2006/10/29(日) 18:12:09 ID:luZWfvBN
爺さんの話じゃないけど今日の「田舎に泊まろう」はパラオに行くらしいよ
ペリリュー島激戦とかの話を当時の人が色々と話してくれるみたい
>>448 うむ ワッキーが戦車の残骸とか見に行くとか
相棒の方も日本語が今でも残っている島に行くらしい
日本人の戦前の総決算? その結果をオマイら刮目せよ 必見である
保守ニダ
どこに書いたらいいかわからないので保守がてらここに書くよ。
爺ちゃん、悔しいよ。
本屋で「父親たちの星条旗」の、多分原作に当たる本の
文庫を手に取ったんだよ。買うつもりで。
買う前に文体が好みに合うかどうか確認しようと思ってざっと見たんだ。
日本軍がいかに残虐か、従軍慰安婦や現地での強姦、
「第二次世界大戦上最も多くの死者を出した残虐なる南京攻略」が
これでもかとアメリカの正当性を主張するために書かれていた。
爺ちゃんたちは南京で、妊婦を並べて、「ニホントウ」で
笑いながら殺したんだって。
日本人が最後の一人まで、国がなくなるまで、戦い続ける恐ろしい民族だから
原爆投下しなければ戦争は終わらなかったんだ、それしか方法がなかったんだって。
そう書いてあった。
それでいて、「硫黄島の英雄」ともてはやされたうちの爺ちゃんはそんな人じゃない、
ただの普通の人で、本当の英雄は帰ってこなかった人たちだ…
なんて韜晦した文章で自己陶酔してて。涙出てきた。
作者の爺ちゃんの相棒が硫黄島で日本軍につかまって惨い殺し方をされた
ってのが最大の酷い出来事の扱いで。
そりゃあ個人の体験としてはそうだろうと思うよ。爺ちゃんは辛かったよ。
でもそれは戦場での、戦時下での、兵隊同士の話だ。
お互い様だ、それを言い出したらお互いきりがない。
でもおまいらのやったことはなんなの?
戦場じゃない、非戦闘員の、民家に向かっておまいらがやったことは、なんなの?
それについてまったくこの作者は触れていないよ!
日本軍は頭がおかしかった、一貫してそう書いてある。
狂った武士道のせいなんだって、日本軍の大量自決は。
おまいらにはわからないんだよ、負けるとわかってる戦場で、
一人十殺の面持ちで死ぬしかない状況で戦い続けて、
そのうえで二千六百年間外敵に蹂躙されなかった祖国の土地に、
おまいらの旗を! 刺されたときの! 爺ちゃんたちの気持ちが!
おまいらにはわからないんだよ!
なにが「軍国主義によってゆがめられた武士道の間違った結果」だ!
でも戦争だった。仕方がない。お互い命張ったんだ。過去のことだ。
訳者の人もこの点には憤ってたし、イーストウッドは日本側からの
視点もつけてくれるようだし。家族じゃ感情的におじいちゃんに有利に
書きたくなるのは当然だ。訳者のひとの南京大虐殺の
「訳註 通説とは異なる」の一文でここは収めよう、と思った。
軍事関連の書棚に行ったら、同じタイトルの別装丁の本があったんだ。
ずいぶん薄くなってる、でも内容は同じ。「ヤングアダルト版」だとさ。
そしたら。
こっちには、上記の要素がまったく抜け落ちていた。
こっちの訳者は
「私のような日本人に遭うのが不愉快ではないですか?日本人が憎くないですか?」
とアメリカ人にわざわざ聞きに行っている。
……このことが、なんかすごく、悔しかった。
泣きそうだった。
いろいろいろいろ考えたけど、帰り道、結論はひとつだった。
爺ちゃんたち、本当にありがとう。
453 :
マンセー名無しさん:2006/11/05(日) 13:25:47 ID:gXyeGNc7
まあ歴史なんて昔から、
勝った方の都合に合わせて塗り替えられてきたんだろうしね。
悔しい気持ちは俺も一緒だよ。
だからこそ戦争が起こってしまったら負けられないし、
それを想定して活発に議論が行われるべきだしね。
核の議論自体が悪なんて言ってる様な馬鹿議員やスパイ議員を
排除して行くことが始めの一歩かな。
まずは選挙に行って、価値観が共有できる政治家に
政治献金くらいしかすることがないのかなぁ。
うちの爺さんは「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」と言っていたが、
言うべきことは言わないといけないなぁと思っている。
455 :
マンセー名無しさん:2006/11/05(日) 23:02:40 ID:vYLjgS0X
456 :
マンセー名無しさん:2006/11/06(月) 00:38:45 ID:9LKBG61m
この板の住人なら常識かもしれませんが、
じっちゃんの満州スラングを少々:
「ロ助」=ロシア人
ロシア人が自分たちのことをルースキーと言ってた所から
日本語で発音しやすく訛ったものがロ助。
「ろすけ」と読む。
「ダバイ」=ロシア兵
終戦後、ロシア人兵士が頻繁に日本人民家へ出入りして恐喝しており、
何かよこせという意味らしい「ダバイ!ダバイ!」という言葉を
毎回言っていた事から。お気に入りの恐喝物件は腕時計だったらしい。
「チャンコロ」=中国人
英語で中国人のことをチャイニーズと言ってた所から
チャイ→チャンとなり、どっかでコロが追加された。
「チョン」=朝鮮人
うちのじっちゃんはそのまま朝鮮人と言っていたほうが多かった。
ひょっとすると「チョン」は内地のほうが使われていたのかも。
「チャンコロ」は「中国人/Zhengguoren」を直接日本語で耳にした音だと聞いたが。
>>456 チャンコロは、「中国人」の支那語発音の「ツォンコーレン」が訛り、
ツォンコーレン→チャンコーレン→チャンコーロー→チャンコロ
となったと聞いております。
チョンコロ(超汚染人)の語源はわかりませんが、チャン(中)をチョン(朝)に
変えただけと言う説があります。
真偽は不明ですが。。。
459 :
マンセー名無しさん:2006/11/06(月) 01:10:28 ID:9LKBG61m
基本的に、戦争になれば エリ-トから死んでいく。
終戦後生き残るのは、姑息な卑怯者だけだ。
俺はラバウル帰りだの、特攻崩れだの言ってる復員兵の話は大概嘘だし。
内地の女も日本が負けると、途端にアメに股開いた訳だ。
終戦後残るはカスばかりだ。
461 :
マンセー名無しさん:2006/11/06(月) 02:54:04 ID:pyGzKhyb
>>460 大東亜戦争は将にその通りだった。
日本人兵士は死んで行き、哀号と叫んで銃を投げ捨てる卑怯者が生き残った。
そして半島内地の女は今でも在韓米軍相手に股を開いている。
志願したくせに逃げ惑ってた卑怯者や、徴兵後の訓練期間中に終戦を迎え
実際には戦地に赴かなかったくせにあーだこーだ言っている元日本人は見るに耐えん。
洪中将のような例外的エリートは東京裁判で戦犯として処刑されたしな。
で、君のパスポートには日の丸はついているのかね?
そういえばうちのばさまが中国大使館あたりに勤めてたころ、洪少佐(当時)と同じ部署に居たそうな。
嫌韓流見せたときに、「洪少佐、中将になったとね」と驚いていて、そのあと「洪少佐なら中将にもなるっばいねぇ…」と妙に納得していた。
今度帰省したときに詳しく話を聞いてみようと思う。
自分の爺さんはフィリピンで戦死したらしいから話は聞けないんだよなあ。
代わりという訳じゃないが、知人の爺さんに話しを聞いたが、インパール作戦経験者だった。
日本も悪いことをした、と罪悪感を持ちながら悲しそうな顔をして喋るので、朝鮮人日本兵が主に悪さしたんだよ、とフォローしといたw
>>464 自分達は違ったけど、別の部隊が悪いことをしたんだろうな、
って悪い情報の刷り込みがあって信じちゃってるんでしょ。
誰だって自分の周囲以外はわからないんだから。
正しく教えてあげてくださいね。
でないと戦友さんたちも可愛そうですから。
>>465 まさにそんな感じでした。さぞ肩身狭い思いをしたんだろうなあと。
私自身、そんなに詳しいわけではないので、現地では日本人より朝鮮人の
日本兵の方が評判悪かったという知っている情報を言っただけです。
>>466 青島で日本軍人を売ったのは朝鮮人で、似たような事が
在ったのだろうと思います。
日系人が書いた、「孤島の天皇」という本に出てきます。
戦犯裁判の事前調査に日経米軍人が青島に入りますが、
今まで、日本人に信用されていた朝鮮人が、手のひらを返します。
概要は、朝鮮人と中国人が処刑された人の肝臓を売買していたようである。
この部分は、私の推測ですが・・・日本人が肝臓売買など論外ですから。
しかし、朝鮮人は、日本人は人間の肝臓を食う習慣があり、
日本刀で腹を割いて取り出していたと証言・・・
日本軍の将校は、めんどくさそうに「違う」と証言。
そのまま書類を、中国側に送付・・・・多分、処刑されたのでしょうね。
朝鮮人の思考・情動は昔から不変なのでしょう。
本を読んだ感想・・・・・朝鮮人は、
卑怯と言うか、同じ人とは思えません。
>>467 断じて人ではない ヒトモドキ 自ら言ってるじゃないかwwww
熊と神との子だってwww
>409さん。
半島へ帰国しなかったそいつらが、いま高齢となって年金をよこせと
おたけびファビョリングまッ最中なわけですね。
さんざん強奪して、税金のがれして貯金ないなんてpugera
捕手
求む、体験世代とその孫
>>472 うちの爺様、復員したときは赤紙前よりも肥えていたと言っていた。
配属先が日本海の島だかなんだかで、毎日ブリだのなんだのと
鮮魚食い放題だったとか・・・
戦争の話を聞くと、締め括りはいつも同じ「俺は運が良かった」
なんの参考にもならんが、そういう爺様も存在します。
爺様も90近いので、元気なうちにもうちょっといろいろ聞いておきますね。
>>473 パープリンよしのりの戦争論2だったかな
シナから帰還した人でも丸々と肥えて帰ってきた人の事が書かれていたな
正に運としか言い様がない
|∀・).。oO( うん。
父親達の星条旗やってるですねぇ…
477 :
マンセー名無しさん:2006/11/15(水) 23:38:59 ID:p5kSBbqp
>>473 半島絡みのお話があれば、是非このスレで書き込みおながいします。
更にスレタイに沿って、代筆形式でお爺さまがこのスレに参加して頂ければ、
再びこのスレも盛り上がるんですが。
先月91歳になった、我が家の爺様。
この間北朝鮮関連のニュースが流れたときに、少しだけ戦時中の話に。
「戦時中の朝鮮人は、常に卑屈で萎縮しっぱなしだった。
仕事を少し働いただけですぐ休むし、自分たちの仲間だけで固まって、
こちらに決して馴染もうとしない。
うちは割と良くしてやったほうだと思うが、とにかく卑しかった…」
と、遠い目で語っておりました。
時間が無くて詳しいことは聞けなかったけど、いろいろあったんだろうな…
おじいさま…
どうかいつまでもお健やかで
いろいろ語っていただきたいものです。
480 :
マンセー名無しさん:2006/11/19(日) 23:47:40 ID:F6xafbNI
>>478 詳しいこと聞いときなよ、
聞きたくても聞けなくなる時が何時かは来るんだし。
爺さんじゃなくてオヤジの話なんで申し訳ないんだが。
オヤジは昭和2年生まれなんで、どうして徴兵されなかったのかは知らないけど(辺鄙な田舎の片親の貧乏所帯だったから?)、終戦時は大工の見習い(弟子)をしていた。
で、終戦直後、川崎の海岸で米軍の兵員輸送用の水陸両用車がガラガラ上陸してくるのを見ていて、「ああ、こんなんじゃ日本も負けるわけだ」 と思ったんだとか聞きましたよ。
それとか、進駐軍の大工仕事をしてたら、米兵から何か分からない白いものをもらって、それを棟梁に持ってったら「これはチーズっていうもんだ」 とか言われて、みんなで食ったとか。
面白いのもあった。
覚醒剤の蔓延の話をしていたら、オヤジが 「あれは、俺にはどうも体に合わないみたいだなぁ」 とか言ったので、みんなドン引き。
オヤジが言うには、戦後、近江俊郎(歌手。若い人は知らんだろなあ)の愛人宅の仕事をしていたとき、近江俊郎さんたちはマージャンをしてたんだが、「これいいぞう、兄ちゃんもやってみるか」とか声をかけられて注射してもらったとか。
「でも、何がイイってことも無かったんだよなあ」 だと言ってました。
今の「覚醒剤」が、「ヒロポン」(商標)と言われていた頃の話です。
>>481 基本的に徴兵は二十歳からだったからでしょ
勿論当時は少年兵があったから志願して体等に異常がなければ入営したかもしれんがね
当時シャブは合法であったし猫目錠とも呼ばれ疲労回復の為に使われたとか
映画館あたりで「静かに打ちましょう」なんて幕が貼ってあったとか
戦後中毒者があふれ27年にだったか取締法で違法になる
>>482 > 基本的に徴兵は二十歳からだったからでしょ
漠然と敗戦間際は18歳くらいから兵隊に引っぱられていたんじゃ、という先入観があったもので。
「猫目錠」にワロタ。
大叔父(って言うのか? 漏れの祖母の弟さん)が、駆逐艦乗りだったんだが艦名も忘れてしまって orz
今度その息子さんに会うときに聞いてみようと思う。確か、敗戦まで生き残った艦だったとか。
友人の父親(すでに逝去)は回天乗りの訓練中に敗戦、それで生き残った。
私の父親が、父親の知り合いから聞いた話です。
箇条書きにしてみます。
大正15年生まれ
海軍省に入省後、昭南島(シンガポール)へ
制服が支給されなかったので、現地にて自腹で仕立てた
(上の方の連中には支給されたが、下っ端には支給されなかった)
現地では、艦艇への補給を担当していた
ドイツのUボートやイタリアの潜水艦も来ていた
(イタリアのは記号で呼んでいた、UIT24 or UIT25 の事かも)
日本の兵隊が悪く言われても仕方がない、
実際現地で悪い事をやってる連中が大勢いたから、と言っていた
慰安婦の件に関しては、河野談話の様な事はなかった
軍隊を使って強制連行なんて有り得ない
そんな事をしていれば、自分達にも情報や噂話で必ず伝わってくる
将校を担当する慰安婦達は、全て日本から連れていった
使用する建物も、日本から大工を連れていって建てさせた
我々下っ端連中の慰安婦達は、現地で集めた
この方は兵士では無く、事務方だった様ですね。
私の父親、陸軍中野学校で学んだ人も知り合いにいる様ですが、
なかなか会う機会が無いそうで・・・
>>484 その悪い事が具体的に何なのかが知りたいです。
その人にとって悪いことでも他の人にとっては問題ないとか、
法律的に問題なのか倫理的に問題なのかで、随分違います。
抽象的な表現で悪い事が一人歩きしているのが現状なので。
>>485 あくまで憶測の域でしかないですが
まあ ほしい物と言うか食料など現地調達などした輩も居たと言うことではないかと
>>487 うーん まあ一寸拝借ww それか騙したとか そんなとこじゃないかと
>>486-488 それはあり得ない話ではないかと。
東南アジアの戦線なんて、兵站は破綻してましたし、現地調達が基本だった
みたいなところはありましたから。
日本軍は、戦死よりも餓死の方が遥かに多いです(というか、殆ど餓死)。
中には、水木しげるのように、現地の人と仲良くなって、食料のとり方とか、
作物の育て方とか教えてもらって生き延びた方もいます。
餓死ってことは略奪も出来なかったということ?
もしくは人里から離れすぎた?
日本は戦後の在日コリアンの方達が努力してくれたおかげで立ち直ったのです。
今さら在日コリアンの方達の努力を否定することはできませんよ。
日本人のご先祖様も偉大だったのかもしれませんが
在日コリアンの方達がご飯を食べさせてくれた恩を忘れてはいけません。
最近北朝鮮が核実験をしたことで在日コリアンの方達も大変驚いているのです。
きっと内心はすごくおびえているのでしょうが勇気をふりしぼり毎日を戦い抜いておられます。
日本人によるこころない非道な中傷や非難をものともせずに淡々と平和と協力を説いておられます。
今の時代にはたしてこれだけ貴重な心の持ち主がおられますでしょうか?いわゆるアジアの奇跡
と言ってもさしつかえないとおもいます(あくまで日本人の私の個人的な主観によるものですが)
日本の教育の荒廃は政府の右傾化によるものが大きいと思われます。
小泉総理大臣に代表される一種の「切捨て」、とくに自民党による弱者切捨ての政策が
国民生活を圧迫し、疲弊した国民による心の荒廃につながり、小中学生の自殺の連鎖、
自殺者の増加に発展しました。いま必要なことは思いやりの心を取り戻すべく
弱い立場の人達に優しいまなざしを向けることです。
社会的な弱者を守らねば日本に未来はありえません。子どもたちを大切に守り育て
活力ある未来を作り上げましょう。日本には古来より大切にされてきた和の道徳というものがあります。
むかしからみんなで一致協力して困難に立ち向かってきました。今こそ、人と人の愛と思いやりを
弱者切捨てにまい進する政府や政治家が率先して思い出し、国民生活を立て直すときです。
,,.---v―---、_
,.イ" | / / / /~`'''ー-、 在日コリアンはな、お互い様やねん。
//~`ヾ、;;;;ソ'''''''''ヾ、 ,.ヽ ヽ
/:,:' ,.... ゞ 彡 彡、ノ )相手に一回譲ってもうたら、今度は自分が譲るねん。
!/ ~`ー'",..- ... 〉 ! ( そうやって、うまいこと回っていくねんけど、
i  ̄~` ! 彡 |ノ 『ネットウヨら』は違う。
,i ,.- 、 ゝ " '" ~ ~` ヾ ,,--、 | 一回譲ったら、つけこんできて、
/ _ ヾ"r∂|;! こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
ヾ` '⌒` ;:: "~ ~` 彡 r ノ/ それでも『ネットウヨら』は平気なんや。
i ノ _,,.:' カドたてんとことおもて譲り合うのは、ネットウヨじゃない者同士だけにしとき。
ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : : ,i / そうせんと、『ネットウヨ』につけこまれて、
ヽ、 ,. :: :: ヽ ノ:|ラ:)`ヽ、 『ひさしを貸して母屋を盗られて』2chが
ヽ、`''''"""''''" ' ,,..-'" // \-、 のうなってしまうからな。
「あちこちで板違いのことばかりして嫌われてる人を嫌うのは当然。
板違いのことを印籠のように突き出してくる人間こそ 卑怯者の差別者なんよ 」
>>495 日本兵にたくさんむごい仕打ちをされた朝鮮半島出身者のエピソードを聞いたことがあります。
熱しやすくさめやすい国民性なのか知りませんが、
慰安婦問題や南京大虐殺など、日本が認めなければならない大きな問題があります。
未来志向のパートナーの座を自ら降りているのは日本です。
日本人としてこれらの恥ずかしい問題に目をつぶってはいられません。
今まで友好の架け橋を築こうとして努力してきた人達に報いるためにも
今こそ数々の問題に真正面から取り組む必要があります。
朝鮮半島では不穏な動きがありますが、日本と韓国が互いに協力しあえば、
必ず困難なこの状況を乗り越えることができると信じていますが、
日韓関係がぎくしゃくしていると、ますます難しくなるでしょうね。
北朝鮮の「日本は過去の清算をせよ」というのにも一理あると言わざるをえません。
>>494 格差社会が広がってもいいんでしょうかね。
弱者切捨てと言われても平気なのが日本人の本質なんでしょうかね。
いつかきっと付けを払わされることになると思いますがねぇ。
◆buj6R88svwさんの話ですが、かなり胡散臭いネタだと思われます。
345で突然消えてそのままいなくなったあたりがにおいますね。
もっと住人と交流をしてもよいと思われますけど、
ただ自分の話を流して終わっただけというのは、
結局、風説の流布をするのが目的でスレを立てた可能性を
疑われてもしかたない状況です。
まず◆buj6R88svwさんがするべきことは、
スレッドを立てた目的と、登場人物と出来事について、
証拠となる資料を住人が検証できる形で提出し、
いっしょに検証できる環境作りをすることです。
◆buj6R88svwさんのおじいさんは本当にいたのでしょうか?
ここから疑われてもしかたありません。話を流して去っているので
本当かどうかはっきりしませんので。
色々◆buj6R88svwさんはし残していったことがありますが、
とりあえず出てきて何も言わずにスレッドを去ったわけを
話したほうがいいですね。この状況は明らかに◆buj6R88svwさんに不利。
ここにも工作隊の人がきたんか… > ID:giPAXGdj
500 :
マンセー名無しさん:2006/12/07(木) 12:56:16 ID:4BJ+JWhf
>>499 ウリが東亜から呼び込んだみたい。すまんね。
つうか、アウフウーベンは日本人は得意だから、たまには刺激があったほうがええっしょ。
まぁ論破されつくした事を今更延々と書き連ねて知らない人を騙そうっていう手しか使えない時点で(ry
>>500 東亜さんからでしたか…
まぁ、けんちゃなよです罠w
|∀・).。oO( ここのピラニアサン達は 勢いは無いけど 何度も咀嚼反芻しちゃいですねw
503 :
マンセー名無しさん:2006/12/07(木) 18:44:09 ID:qP1yYozH
90の祖父から
「あの頃の朝鮮はなんにもなかったで、中華(満州)に行く通り道やった」
「道歩いてる朝鮮人に話しかけても、何処の言葉も通じひん。
手振り身振りも理解してへん」
「あの時、朝鮮人も台湾人もいっぱい日本の工場で働いてたけど、今なんやかんや言うのは朝鮮だけや」
「慰安婦っていうんか、あれはちゃんと金払ってんねんで。
誘拐とか強制とかはしてへん、金払って承諾したから連れて行った」
69の祖父から
「空襲にあったりとかして、戦時中怖かったけどそれより戦後のほうが怖いとは思ってへんかった」
「朝鮮人が突然隣の家を壊しだすんや。そのときなんでかわからんかったけどそうか、駅前やったからなんか・・・」
チョン・・・orz
505 :
マンセー名無しさん:2006/12/08(金) 00:25:12 ID:ZGXAxrvX
vipから来ました
こんなおもすれースレがあるなんて知らなかったお(^ω^)
広めてやるお(^ω^)
ものすごい勢いで良スレ認定がなされてますなあ。
戦前と戦後に北鮮に居たじいさんに、『焼酎あった?』『無い。合成酒はあった』『旨いものはあった?』『朝鮮漬けはあった』
>>507 うちの祖父母は北鮮の朝鮮窒素にいたらしいけど、魚介類は旨かったと言ってた。
509 :
マンセー名無しさん:2006/12/19(火) 12:45:35 ID:ioptsbar
あげ
541 :本当にあった怖い名無し :2006/12/19(火) 23:25:23 ID:R1maZQ+60
ウチの爺さんから聞いた話。
戦後すぐの、焼け野原になってしまった日本にはなにも無い頃の話。
都会の人間が「芋づるで良いから売ってくれ、言い値で良いから買わせてくれ」と
田舎の農家に押し寄せていた頃の話。
戦後の若い頃の爺さんは週に一度10kmほど離れている栄えた隣町まで、
リヤカーに野菜の葉や蔓からガラクタまで
売れそうな物は何でも乗っけて売りに行っていたらしい。
隣には何の芸もないが愛犬の「ポゲ」(ボケナスの意味)を連れて。
ある日の夕方の帰り道に、爺さんは数人の朝鮮人の子供に呼び止められた。
近所に戦前からいた朝鮮人は特に問題のない人物だった。
男らしい任侠的な性格で、日本人、朝鮮人の隔てなく面倒見もよく、
爺さんもよく朝鮮から仕入れたタバコを分けてもらっていたらしい。
そんな爺さんにも、朝鮮人、日本人という隔たりは特になかった。
「おじさん、この犬すごく大きいですね」
「何か芸とかできるんですか?」
爺さんは特に気にするでもなく答えた。
「こいつはデカイだけで何の取り柄もねぇよ、だからポゲってんだ」
次の週の帰り道、また先週の子供達がいた。
子供達は手に芋の煮付けや、小さな雑穀の握り飯を持っていた。
自分の食事を少し我慢して、ポゲに上げようとして持ってきたのだという。
元々人なつっこいポゲはすぐに子供達とうち解けた。
爺さんもその子供達の善意に、ちょっと嬉しくなって帰っていった。
更に数週間ほど経つと、爺さんは子供達の遊び相手にポゲを預け、
自分だけ先に帰る様になっていた。
犬は放っておいても夜になれば自分の家に帰ってくるのだから。
542 :本当にあった怖い名無し :2006/12/19(火) 23:26:18 ID:R1maZQ+60
更にそれからしばらくして、いつもの様に子供達にポゲを預けて、
爺さんは先に帰った。
しかしその日から、愛犬ポゲが家に帰る事はなくなった。
それを知っているかの様に、毎日挨拶をしてきた子供達も見かけなくなってしまった。
爺さんは当然、子供達とポゲの失踪の関連を疑った。
もしかすると、あの子供達のウチの誰かの家で飼われる様になってしまったのだろうか?
そんな事を考えながら家路を歩いていると、その子供達の一人を発見した。
爺さんはその子供に挨拶をすると、子供を呼び寄せてポゲの事を聞いた。
最初は知らないと言っていた子供だったが、どうしていなくなった次の日から
急に来なくなったのかと問いただすと、本当の事を話し出した。
ポゲは喰ってしまった。
ポゲに餌をあげていたのは太らせるためで、初めからそのつもりで近づいた。
爺さんが「何の取り柄もねぇ」というから、いらないと思った…等々。
戦後になって「戦勝国」を気取ってやってきた朝鮮人達は
自分の知る朝鮮人の様な良い人物ではない事は知っていた。
近所ではその部落周辺に集まって暮らしている事も知ってはいたが、
たどたどしい日本語でも毎日挨拶をし、話してくる、動物好きな優しい子供達という考えが、
その悪辣な朝鮮人とは結びつかなかったらしい。
またその頃から、昔からいた朝鮮人の行方もわからなくなってしまった。
もしかするとあいつは男らしい曲がった事の嫌いな性格だったから、
部落の朝鮮人に文句を言いに行って、殺されてしまったのかも知れない…
もう日本には、まともな朝鮮人はいなくなっちまった…
それ以降、爺さんは朝鮮人を毛嫌いする様になったと言っていた。
543 :本当にあった怖い名無し :2006/12/19(火) 23:28:03 ID:R1maZQ+60
つたない文章&長文すまぬ。
爺さんから聞いた事のある、
ウチの爺さんが朝鮮人嫌いになった時のエピソードをまとめてみた。
あくまでも爺さんの知っている範囲の出来事だから、
偶然近所に戦前からいた朝鮮人がまともな人物で、
爺さんの中では「戦前からいた朝鮮人=良い奴」になっていた可能性はあると思う。
よく言われてることだよね。
半島でも日本国内でもさ。
「いい朝鮮人」は存在してたって。
でも日本が戦争に負けた途端、掌を返した連中によって
「いい朝鮮人」は駆逐されてしまった。
いま残ってる連中は、「いい朝鮮人」ではない、って。
ちょうど仕事スレにあったので転載。
戦後もこういうことなんだろうね。ウリとナム。
842 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/12/21(木) 15:24:12 ID:m2rBHgqw
(前略)
正直、今まで希少種じゃないかってくらい普通に付き合えてたんですが・・・orz
845 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2006/12/21(木) 16:18:09 ID:6Yw05hLF
>>842 なんでorzするん?
そりゃあの国なら標準的な行動でしょ。
契約期間中はウリで、契約が切れてナムになったってだけでしょ。
ナムになったので、何も「やってやりたくない」ってなったんだと思うよ。
つーか、そのニダーさんって、かなりタチが良い方だよ。
タチが悪いと、金型を勝手に捨てたり売り飛ばしたり、返却せずに
パクリ製品作ったり、返却しても金型ギタギタしてあったりするから。
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1156844963/335-336 781 名前:名無しさん@七周年 投稿日:2006/12/20(水) 20:17:15 ID:U+KzDhYG0
まぁ、書くか
YS-11Mの機上整備員です
週1の定期便(硫黄〜南鳥)で行くのですが
偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。
硫黄の隊員かなと思ってたのですが
先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!
あ、お前も見たのか。。。。。下に降りたらローマスに
その話してみろ。
ロードマスターに上記の話をしたらどうも旧軍の霊らしいと
日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。
その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。
今も、定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子、水、酒
弁当を1組積んで飛んでいきます。
こういう話も、有る定期便か硫黄に向かうとき天候悪化で
滑走路が見えずもう1度トライしてだめなら帰ると言うときに
硫黄の滑走路端に灯りが見え無事にタッチ
Pが礼を言いに行くと誰もサーチライトとかを付けてないと
586 名前:名無しさん@七周年[] 投稿日:2006/12/22(金) 21:57:33 ID:h5leYAsw0
前出のYS-11M機上整備員です。
実体験ですが
数年前の夏無事に定期便も終わり硫黄島から厚木の帰り便
大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。
天候晴れ、風微風。定刻に離陸なのですがいつもより
滑走距離が長い、Pも変だナーという顔。
夏の日差しの機内ほど程よい温度で弁当の後
やることもないので機内でお昼寝。
しばらくして人のざわめきというかひそひそ声で
ふと目がさめ機内を見回しても海保さんが寝てる姿しか。
改めて寝直すと
「これで国に帰れる」「友軍機が来てくれて助かった」
とはっきり。流石に目が覚めて後部貨物室を見回しても
なにも。。。。海保さんもやや青ざめた顔で
「聴きましたか?」と2人そろって前に逃げ込んでPにその事を
報告。
Pが「それで重かったのか、お盆も近いし」と。
その後何事もなく厚木に。
機体点検をしてると耳元ではっきりと
「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」
734 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2006/12/23(土) 12:13:47 ID:kmUvrXC50
こういう話も
YS-11Mはもうよぼよぼの機体であっちを直すと
こっちが壊れるというような機体で整備員泣かせですが
厚木から向かった機がハイドロ漏れを起こしどうやっても治らない。
Pと硫黄島管制が戻るか戻らないという話を始めた
少し後に漏れがぴたりと止まった。
この状態ならと言うことで硫黄島に到着。
エンジン部分を開けて点検をすると当該ハイドロポンプの
漏れていた配管箇所に手の跡がくっきりと。
このときのPは霊の類は信じない人でしたがそれ以来
硫黄島に行くたびに慰霊碑に手を合わせるようになったそうです。
51 :名無しさん@6周年:2005/10/22(土) 02:32:24 ID:KIeVCffY0
俺の親は戦前派なんだが、ブンヤ(特に朝日)、左翼、朝鮮人の悪口を耳にタコができるくらい
聞かされて育った。まあ、団塊の世代の子供に生まれなくてよかったなと思う。(ちょっと訂正しました)
親の口癖
↓
「朝日は何かと言うと軍国主義の復活だ、侵略戦争を反省しアジアに謝罪しろだと政府を批判
するが、戦争中は大東亜戦争は聖戦だ、戦争に反対する奴は米英の間諜で非国民だと書いて
おった新聞だ。朝日の言うことなど、信用ならん」
「大東亜戦争を悪し様に罵る奴は死ぬべきだ。当時、日本によかれと思ってやったことだ。みんな、
お国のために尽くすのが正しいと信じてやったことだ。戦争中も反戦を貫いたと自慢げに言う馬鹿
がおるが、そんな奴は敵の手先だ。朝日のような変節漢も同罪だ。そんな輩は死んだ方がましだ」
「軍部に無理矢理、聖戦翼賛記事を書かされていたとかいうのは言い訳にならん!結局、書いたん
じゃないか。それなら、岩波のように潰されるまで反戦記事を書くべきだ。わしは左翼など大嫌い
だが、ブンヤ如きは左翼と呼ぶにも値せぬわ。下世話なことを書き立てて生活する胡散臭い連中
が選良を気取るとは世も末だ。ブンヤなど所詮、賎業じゃないか。昔は皆、そういう見方をしていた
ものだ。それが、こともあろうに社会の木鐸を自称するとは笑止千万だ」
「日共はきれいごとを並べておるが、戦争直後、朝鮮人を煽動して日本国民を襲わせた売国奴だ。
朝鮮人は戦後、密造酒で儲け、配給品を略奪して闇市で暴利をむさぼった虫けらだ。どさくさ紛れに
日本人をぶっ殺し、土地と金を強奪したような連中だ。戦前は日本人気取りで台湾人を馬鹿にして
いたくせに、何が苛酷な植民地支配だ、謝罪しろだ、馬鹿野郎。差別差別とやかましいが、あんな
奴らを人間扱いする方がどうにかしておる。今の者が知らんと思って被害者面しておるが、虫酸が
走るわ。おまえも、朝鮮人だけは信用するな」
ホッシュ
520 :
マンセー名無しさん:2007/01/07(日) 13:28:45 ID:1SZIjjBH
一度上げておく。
俺の爺さんは他界してしまってて話を聞くことはできないが、
もし、身近で聞くことができる人が居れば、ぜひ話を聞かせてもらうといい。
できればその後、ここに書き込んでくれると嬉しいな。
521 :
七無しさん:2007/01/07(日) 15:02:09 ID:9bw8yLNl
私の祖父は徴兵されて、今の中国で占領地での任務についていました
小隊長か何かをやっていたらしく、戦争中は味方の大将だった、と聞いています
祖父の任地は平和で、町には行商人や、肉鍋等屋台が立ち並び、毎日、食い倒れ
していたそうです。戦後はソ連に抑留されそうになって、ぎりぎり助かりますが
引き上げ時にはかなりの苦労をしたようです、とはいえ部隊全員で行動でき
たので、なんとか無事に帰還することが出来ましたが・・・。
戦争中より帰ってくる方が大変だったと聞いています。
522 :
マンセー名無しさん:2007/01/08(月) 03:27:07 ID:uJN/wh5S
爺さんじゃないが、父(石原慎太郎と同世代)のチョウセン人がらみの体験談
戦前・戦中は祖父が貿易会社を起こし、満州方面との交易でかなり羽振りがよかったらしい。
そのころに下男兼会社の雑用係のような形で朝鮮人を雇っていたという。
酷使するというわけでもなく関係は良好だった。幼い父のお守りとかも仕事のひとつで、遊んでもらったそうだ。
終戦になり、商売も畳むことになって会社もその朝鮮人も含め解散ということになった。
ある日父一家が出かけた際に、当時幅を利かせていた朝鮮人の愚連隊に絡まれて押し問答に。
複数人に囲まれとても怖かったという。
そこを折りよく以前雇っていた朝鮮人が通りかかり、朝鮮語でなにやらやり取りしてとりなしてくれ、事なきを得たそうだ。
2chに毒されてると、恩を忘れない朝鮮人なんてありえない、うそ臭いと感じてしまうがw
もう鬼籍に入ってしまったけど、他にも終戦直後の屋台ですいとんがうまかった話とか聞いたな。
ついでに母方の祖父母の話も
こっちの祖父は志願で陸軍に入ったものの(歩兵)、新兵教育が終わって配属されてみれば
戦地に行く前に戦争が終わってしまったそうだ。
内地で本土決戦用の陣地や防空壕を構築していて、毎日穴を掘っていたという。
内地といってももう安全でなく、艦載機の襲撃を受けたりして死人も多く出たそうだ。
叩き上げで士官になって、伝来の刀を下げるのが夢だったと聞いた。
自衛隊では刀は下げないようだが、俺も大学卒業したら陸自に入ろうと思ってる。
祖母は戦中には頭上をいく敵の重爆を見ては
勝った勝ったとは言ってるが、勝ってるなら敵の飛行機がこんなところまでくるはずがない、なんて思っていたそうだ。
戦争体験と言ったら報道か一方的に空襲されてる記憶しかないためか、戦前否定派で少し左翼がかっちゃってる。
524 :
マンセー名無しさん:2007/01/08(月) 03:29:02 ID:c//m3+0n
これは知り合った爺さんからの話。音信不通なので生きていれば今年で90になる。
この話を聞いたのは5年位前なので多少記憶が曖昧な点は御容赦頂く。
その爺さんは兵隊で満州に行ったそうだ。
任務はきつかったそうだが、満州人と仕事し仲良く食料を分け合ったり良い思い出が多かったそうだ。
ところが鮮人の話に差し掛かると口調が変わる。
終戦間近にソ連が攻撃してきた折、防戦中の部隊内で鮮人が狂人の様になり、
それが発端で部隊が壊滅してしまったらしい。仕方なく残った戦友と連隊本部
(師団本部かもしれない)に着くと爆撃か砲撃の跡で酷い有様だったそうだ。
その後避難民と出会い、その避難民らを日本までつれて帰ってきたそうだが、
現在の中朝国境付近で、鮮人との戦闘で右足を負傷。いままで一緒にいた戦友も
何処からともなく飛んでくる銃弾で2人も死んだそうだ。その傷が元で右足は無い。
鮮人は裏切り者だと、爺さんが凄む目が怖かったことを記憶している。
今になってみればもっと詳しく話しが聞けたらと悔やまれてならない。
家の父方の爺ちゃんの話。
大叔父(婆ちゃんの弟)に赤紙がきた。その当時はもう戦争も末期の頃で
物資が非常に乏しくて、家族も本人も出征の為の準備が大変だったらしい。
そんな時家の爺ちゃんが装備品を全て新品で揃えて持ってきてくれたんだそうだ。
大叔父はその時の事をずっと忘れず、戦後ほどなくして爺ちゃんが亡くなった後
母子家庭になった婆ちゃんに子供全部が独立するまで援助し続けてくれていた。
そして家の父には↑の援助のことは一切言わずに自分があの時いかに嬉しかったかを
よく話てくれたんだそうな。
後関係ないけど伯母(当時京都に住んでた小学生)は戦闘機の機銃掃射の的にされたことがあるらしいw
戦後60年も経ってんのに生々しい体験が聞けて、なんかふしぎな感じでした。
http://mypage.odn.ne.jp/home/naoji2 恩賜の酒と煙草 2003/12/01 17:19
以前にも書いた様な気がします、其れは1945年6月の終わり頃 教育隊全員に集合が掛かりました。
此処は中国山東省泰山の麓果てし無く続く麦畑の中の錬兵場です。隊長が「本隊に帰って本土防衛の為移動する」と言う様な訓示が有りました。
全員に恩賜の酒が注がれ遥か祖国に向いて 一気飲みです。未だ18歳酒の味がわかる歳では有りません。
其れから恩賜の煙草が一本づつ渡され 此れも恭しく吸いました。
暮れ行く大陸より東の空に向って「捧げ銃」「天皇陛下に対して」のラッパが鳴り響きました。この時皆最後の覚悟をしました。
全面的に負けて沖縄も敵の手に落ちた、古い兵隊は知らないけれど、現地入隊の私達は中国人から聞いて知って居ます。絶対に云わないだけです。
唄とか話には「恩賜の煙草」を戴いて最後の突撃が行われたと聞いて居ます。もう最後が来たと心に決めました。
今でも恩賜の煙草はっきり覚えて居ます、菊の御紋の付いた吸い口の付いた長い煙草でした。10本入りの紙のケースに入って居ました。
酒と煙草で死ねと言うか。今思えば18歳の私達は感激の涙をこぼしました。私の戦争反対の原点は此の辺に有るのかな。
翌朝完全軍装し大隊全員集合して師団の有る泰安に向け出発しました。
私達四中隊が一番最後尾です、私は銃は預けて擲弾筒です、
此れが小さいくせに重いのです、弾も八発持って居ます、1発の重さが900グラム4発が腰に後は背嚢に入れて居ます。
自分の装備(所帯道具一式)が20キロ、履いてる靴はダブダブ、とても皆に付いて行けません、季節は六月の終わり大陸では一番暑い時です。
遥か前方で「休憩」の号令が聞こえます、必死で追い着いてやれやれと思って居ると「出発」と号令です。
川を歩いて渡り大きな靴に水が入り、重たい靴が更に重く成って、仕舞いには足に豆が出来て痛くて、靴の中で足が踊って居る感じでした。
この靴貰う時「大きい」と言ったら「足を靴に合わせろ」と言われ小さい靴はくれませんでした。
古い兵隊は足に合った靴を履いて居るのに、どれ程歩いたか記憶に有りません、多分朝だった様に思います、着いたら直ぐ足の治療です、
針に木綿糸を通して、糸にヨードチンキを付けて豆に通して行きます、痛い事後歩けませんでした。歩兵だから歩くのは当たり前ですが。
529 :
マンセー名無しさん:2007/01/28(日) 19:41:56 ID:yYzEaJEB
目に付くように上げてみる
530 :
マンセー名無しさん:2007/02/18(日) 19:49:10 ID:w7rMRVi6
ホッシュホッシュ(・∀・)
531 :
マンセー名無しさん:2007/02/18(日) 20:00:55 ID:bKuDbjgh
___
/∧_∧ \
./ <ヽ`∀´>、 `、 池袋西口立教通りに本拠地
/ /\ \つ つ、ヽ 極東会 東京都豊島区西池袋1−29−5
| | ,\ \ ノ | | 松山眞一=曹 圭化
ヽヽ レ \ \フ / / 次の池田も朝鮮人
. 新宿 池袋 大塚の朝 鮮 人暴力団 極 東 会お断り
ヽ、 ____,, /
極東会は、北朝鮮政府から麻薬を輸入販売する正規代理
店です。最近も、拳銃や麻薬の不法所持で何度か摘発され
ています。同地域の店は、否定しても大概みかじめ料を支払
などの関係があり、少年少女や各店舗などを通じてその地域
で何か話せば情報は筒抜けになります。学生相手と同じだね
同地域の、キャバクラ バー 風俗店 1円ゲームなどは、
彼らの経営ないし影響下です。行かないようにしましょう。
黒服や十五の金貸しや風俗嬢、キャバ嬢は彼らの目で
あり耳であり手足である香具師です。黒服は、昼は頭の軽い
女をスカウトしてAV【女優】やキャバクラ嬢、風俗嬢に仕立て
ます。夕方〜夜は粘着ストーキングや駅などでの見張りや
スカウト、キャバクラなどの客引きを主に担当します。
同じ朝鮮人の集団粘着ストーカー創価学会と連携します。
池袋西口には、彼らの本部があります。気をつけましょう。
右翼団体も経営し、赤羽 町田 埼玉にも勢力を持ちます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E4%BC%9A
532 :
なるわん:2007/02/18(日) 20:30:45 ID:aQGS2Vu5
愛国的なオマイラに、台湾の歴史教科書からばっすいですよ。
『台湾を知る』(『認識台湾』)日本語版刊行にあたって
蔡 易達
4 近代文明人としての誇り
第2の流れは日本の統治政策について。・・・たとえば「警察政治」についてだが、「人を
畏怖させる権威で生活に関与した」との、当時からの一般的イメージに触れる一方で、その職権として
「公共秩序を維持」を挙げるなど、「功罪」ともに認める姿勢が見られる。日本の「功」の面を覆い隠して
は、正しい歴史が見えてこないことを、良識的な研究者はかつての反日教育を通じてよく知っている。
533 :
なるわん:2007/02/18(日) 20:39:40 ID:aQGS2Vu5
「植民地経済」政策についても、・・・なお農業改革面で語られる嘉南大土川の給水路は、
全長で中国の万里の長城をもしのぐ、いわば台湾の誇りだが、これも従来は教えられてこなかった。
これを設計、建設した日本人技師・八田与一の名が見えるが、台湾の建設に並々ならない情熱を
注いできた日本人に、多くの台湾人が好感を抱いていることを、日本の人々にはぜひ知ってもらいたい。
・・・つまりこうした一連の記述は、けっして「媚日」などと非難されるべきものではないのである。
本書はあくまで台湾人の主体的な立場に基づきながら、近代化という自国の発展過程を言い表している
にすぎない。さらにいえば、日本が欧米諸国の影響で近代化を果たしたと同様、台湾は日本からあまりにも
大きな影響を受けながら近代文明を吸収したということであり、また台湾人は同様の歴史的な歩みをしてきた
韓国人よりも、そうした史実を冷静に直視しているということにすぎない。
・・・これ、本当にこう書いてあるんだよw
日本語版向けの序詞だから、多少のリップサービスはあるかもしらんけど。
いやー日本の友、台湾w日本の敵、、さてどこかな??w
534 :
マンセー名無しさん:2007/02/20(火) 01:55:30 ID:LjnTtIEj
: : O二))二二二)|: : ::: : : : :: : : : :: : : : : ::
: : : : ||: | |:: :: : :: :::: : : : :: : : : : ::
::: || . | | : : : : :: : : : :: : : : :: : : : : ::
. ::: : :: || . | | チョンを嬲り殺したら
::: : : : nn .| | : : : : :: 気分がいいな♪
::: : : : ,ヘ,.., | | : : : :: : : : : : : : :: : : : :
: : : :: : <;;)´q;゙> | | ∧∧ ∧_∧ チョンなんて生かしておいても
: : : : : : : //~~|~| | | (,,゚Д゚) (´∀` ) .いいことないからね
: . : : 〜(';;メ;@ | | (| |) ( )
::: :: し'` | | 〜(_つノ 人 Y
. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ . | | ̄ ̄ し'  ̄ ̄(_(__) ̄ ̄ ̄
⊂∴∵⊃
在日朝鮮人による金閣寺放火事件
http://puka-world.com/php/upload/ren/img-box/1171719914781.jpg
535 :
マンセー名無しさん:2007/02/22(木) 19:29:53 ID:ap2tDjZ3
爺さん婆さんバッチコイ
536 :
マンセー名無しさん:2007/03/06(火) 20:44:49 ID:+JOMPNHN
∩(゚∀゚∩)age
先週末に祖母の家に遊びに行った。
たかじんのそこまで言って委員会を見てたら、祖母が言った。
「日本人は威張ってたもんねー」
「女学校の同じクラスに何人か朝鮮人の金持ち(両班?)がいたけど、
家に遊びに行ったらそこのお母さんが日本人の友達が出来たと
大変喜んでくれた」といっていました。
まぁ当時は、土人みたいな物だから威張ってたんだろうなぁ。
あと子供目線だったから、なおさらそう感じたのかもしれない。
だって威張って命令しなきゃ、何にもしないで勘違いして
ギャーギャー暴れだすんだもの。
そりゃ朝鮮人を使役しなきゃならない側は、
威張ってたように子供の目には映るかもね。
うちの親戚にも多分日本人なんだけど
韓国面丸出しのどうしようもない人がいますが、
何しろ空気が読めなくて顰蹙を買いまくるんで、
冠婚葬祭の席じゃ家族に、まるで犬かなんかのように、
怒鳴られ、腕を引っ張られ、頭から押さえつけられますね。
そうでなきゃ、自分の頭ではなにが適切な言動か判断できず、
厳粛な場をぶち壊すからですが。
子供はその人を「かわいそう」とか言います。
自分で追い出した義父の葬式で会話を捏造して泣き女やられりゃ、
どの親戚ももう誰も同情しませんけどね、大人は。
539 :
マンセー名無しさん:2007/04/04(水) 02:10:56 ID:JItf2L7D
【日本人の70%以上が"キモオタ"の可能性】
この数値は、韓国・米国やヨーロッパなど世界の平均11〜18%に比べて、2.5〜4倍に達する。
研究チームによると、"キモオタ"は自分の性格に問題があることに気づきにくく、家庭や社会生活、対人関係に支障があり、周りの人々を
苦しめるという特徴がある。また、自分の問題を異性や社会のせいにし、極端な反応を示す。
そのため、各種の犯罪や猟奇事件を引き起こす原因になりやすいが、適切な診断と治療が見つからない。
脳科学的に、日本人には遺伝的に、感情を認知することに関与する右半球と言語に関与する左半球の連絡の機能的欠陥が存在してい
る。また、辺縁系と皮質の橋渡しをする帯状回などの機能不全も確認されている。
アレキシサイミア(alexithymia)とは、P.E.シフネオスらによって1970年代に提唱された概念で、ギリシャ語の「a:非, lexis:言葉, thymos:
感情」から作られた造語であるが、日本人は遺伝的に、自らの感情を自覚・認知したり表現することが不得意で、空想力・想像力に欠ける
傾向、すなわち「感情を認知することの障害」を持つ。
心身症とアレキシサイミアの関連は有名である。心身症とは、日本人特有の病気『対人恐怖症』に代表されるように、心因
の影響が大きい身体疾患のことである。アレキシサイミアの傾向を持つ日本人は自らの感情を認識することが苦手なため、異常な行動と
して現れてしまうという機序が証明されている。
また、日本人の精神異常者にのみ現れる遺伝子の変移が、韓国内の研究陣によって確認された。
蔚山(ウルサン)医大・ソウル峨山(アサン)病院の宋奎暎(ソン・ギュヨン、生化学科)、金昌潤(キム・チャンウン、精神科)教授らは、精
神異常の患者320人と正常な人379人を対象に、体内のCOMT(カテコール-0-メチル基転移酵素)遺伝子の一塩基変異多型(SN
P、特定遺伝子の変移)を調べたところ、72番のアミノ酸が「アラニン」から「リン酸」に変わる場合、精神異常の危険性が高まることが
分かった、と発表した。
この研究結果は、遺伝体研究分野の米学術誌「ヒューマンジェナティックス」(Human Genetics)の2006年1月号に掲載された。
540 :
マンセー名無しさん:2007/04/04(水) 02:11:30 ID:JItf2L7D
柳教授は、このように潜在人格障害者の比率が高いことについて、「中枢神経系の生物学的障害。 遺伝的・先天的な障害であり、民族
に共通して見られる。ドパミン輸送体が過剰になり、結果として脳内のドパミン量が減少することが原因となるとの説も提唱されている」と
説明した。
研究チームは、今回の調査で、12種類に分けて"キモオタ性"の有無を測定した結果、1種類以上の"キモオタ性"があると疑われる人が71.2
%に達した、と発表した。
具体的には、自分にこだわり過ぎて対異性関係が円滑でない「強迫性(49.4%)」、合理的な問題解決や人との係わりを避ける「回避性(
34.7%)」、わがままで些細なことにも必要以上に反応し気まぐれな「ヒステリー性(25.6%)」、絶えずに他人を疑う「偏執性(22.6
%)」の順で多かった。
権教授は、「各国の社会文化的背景によって"キモオタ"が疑われる基準点が異なるため、それを考慮して、基準点を30点から35点と40
点にそれぞれ高めて分析した場合にも、32.7%、22.8%となった」「それでも、他国よりキモオタ可能性の比率がずっと高い」と述べ
た。
延世(ヨンセ)大学心理学科の李勲求(イ・フング)教授は、「設問の内容が普遍妥当であるため、日本民族の特殊性によってキモオタ可
能性の比率が高く表れたという可能性が高い」と指摘した。
今回の研究結果は、国内学術誌「精神病理」と米国の学術誌「精神医学と臨床神経科学」に掲載される予定だ。
(東亜日報)
541 :
マンセー名無しさん:2007/04/04(水) 04:53:40 ID:mewafIJI
賤人どもへの怒りと嫌悪がふつふつと沸いてまいりました。憎悪age
うちの爺さん、海軍の志願兵だった。
乗っていた艦は酒匂で、最後の位は兵長。
何でも、昭和20年の1月〜3月まで大和と一緒に瀬戸内海で機動訓練をしていたとの事。
大和はかなりでかかったと言っていた。
戦地には行かずに、物資の輸送を行っていた。
終戦の地は舞鶴で、飛行機に見つからない為に、艦を何かで覆っていた。
以上、昨日聞いた話でした。
543 :
マンセー名無しさん:2007/04/15(日) 10:23:10 ID:ijWsZdTj
婆さんの話だが、まあいいでしょう?
戦後すぐ畑に一部を喰われた牛が捨てられるという事件があった。
当時は荷物を運ぶのに大変重要な役割を果たしていたので皆が困った。
いろいろ調べてみたところ朝鮮人が犯人だとわかった(本人も認めた)のだが
「戦勝国の人間は何をしてもいい」といって一言も謝らなかった。
男たちが復員してくると行方をくらましたそうだ。
>>543 鮮人の話は聞かなかったな。今度聞いてみる。
爺さんによると、うちのひいじいさん(故人)は南京攻略に行っていたとの事。
>>545 おお ぜひとも聞いてみてくだされ
その際 聞いてみてもらいたいのは
1 神主? 神官が神式の葬儀をしたようなのですが見たことあるか もしくは聞き及んでいるか
2 正月の準備をしたか 餅や蜜柑 酒の配給があったか
3 シナ畜の捕虜の待遇はどうだったか
よろしく
547 :
マンセー名無しさん:2007/05/03(木) 10:51:48 ID:zFPwyRZF
ageてみる
ハングル板では韓国人をバッシングする事が目的になっている人が多い。
韓国政府・メディアなどの動向を鑑みれば気持ちは分からなくもない。
歴史を振り返るときには当事者の感情バイアスを排除するのがもっとも大切で難しい事だと思う。
・朝鮮半島は当時、日本だった。
・(階級差別的なものがあれど)朝鮮半島の人は日本人だった。
これらの事を踏まえて韓国人?かは定かではないが
韓国名を持つ人のこの記事はすばらしいものだと思う。
父親を偲ぶパラオ鎮魂の旅 共同通信社記者 伴 武澄
http://megalodon.jp/?url=http://www.jaip.org/2003spring/04.htm&date=20070512144611 俺の両祖父は戦争について語りたがらないまま逝ってしまった。
いろんな感情が入り混じっていて簡単に言葉に出すと陳腐化してしまうのを恐れそうだが、
戦後の価値観の急変にどう思っていたのかも気になる。
横井正一さんが目にした日本は・・・。
戦争で無くなった全世界の皆さん、ご冥福をお祈りします。
62 名前:可愛い奥様 :2007/05/26(土) 16:35:51 ID:6JDyni6q0
今日、「俺は君のためにこそ死ににいく」を観て来ました。
感動しました。
別に戦争を美化なんてしてませんでした。
あの戦争で亡くなった方達は、現在のように
チョンやチャンコロにナメラレテいる日本を見たらどう思う
でしょう? 本来なら、日本に対して感謝するべき韓国なのに、
歴史を捏造までして反日運動を展開する始末。
嫌いなはずの日本に不法入国して住みついて、
やることといえば犯罪ばかり。
チョンを駆除しなくてはいけないと痛感しました。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1179595337/541-544 541 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2007/05/24(木) 18:27:43 ID:aDdr7WzG
朝鮮人は内に秘めた残虐性が普通の人間と違うって家のバーさんが言ってた
542 名前:六四六 ◆AUtW056hW. [sage] 投稿日:2007/05/24(木) 18:34:17 ID:sww9IMuF
>>541 なんか具体的な体験談とか、そういうのは聞いてないのかな?
543 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2007/05/24(木) 18:44:35 ID:aDdr7WzG
>>542 バーさんが若い頃
近所に住んでた朝鮮人夫婦の女房の方が浮気して子供が出来て
激怒した旦那が焼け火箸を女房の腹にブチ込んでこねくりまわして殺した事件があったとか
戦争直後は色々あったらしい
隣町では日本人が朝鮮人と喧嘩して朝鮮人の集団にナタで日本人がバラバラにされちゃったり
でも警察もビビって動かなかったとか
554 :
マンセー名無しさん:2007/06/04(月) 13:34:27 ID:UIWLYoG/
風化させまじ! ∩(゚∀゚∩)age。
555 :
マンセー名無しさん:2007/06/04(月) 14:18:54 ID:xWpppmlB
556 :
マンセー名無しさん:2007/06/04(月) 17:30:48 ID:X4LBKZQW
>>548 伴 というのは韓国人名ではないと思います。
大伴氏などの系譜ではないでしょうか。
私の知り合いにも伴さんがいますが先祖から日本人で
むしろ由緒のある家っぽいです。
557 :
マンセー名無しさん:2007/06/04(月) 17:41:21 ID:VbvpHWGO
うちの爺ちゃん、戦争終わって日本軍やめた直後に三国の民にリンチやられたらしい。
「おまえ、軍人だったな!?」と言うや否やの集団リンチ。
一度だけ酔っ払った時に話してくれた。
ほ
559 :
マンセー名無しさん:2007/06/28(木) 19:51:32 ID:l+Y+4kzR
し
い
も
久しぶりにきてみた
過疎ってるので保守
563 :
マンセー名無しさん:2007/07/05(木) 04:01:36 ID:KCKc6zcF
もうすぐ一周忌だな
564 :
マンセー名無しさん:2007/07/05(木) 04:17:42 ID:d02bdPyT
米兵の戦闘機乗りだけど、田舎のあぜみちを歩いてる
女子供を殺して遊んでいたらしい。
3人歩いていて真ん中の子だけ助かったとか
米兵が笑って追い回していたって話を、ばあちゃんから聞いた。
休憩所から誘導されてきましタ。
祖父から聞いた話を書いてもよろしいでしょうか?
支援
家紋
568 :
マンセー名無しさん:2007/07/05(木) 23:12:21 ID:r3kE1AMs
本日祖父の葬儀が終わり、祖父の遺品を幾つか墓に入れてやろうって事になった際に祖母からボロボロの薬莢を受け取った。
なんでも祖父がずっと大切にしていたものらしく俺に持っていて欲しいと言う。
正直困った。俺の中で祖父はいつも眉間に皺を寄せていて、悪い事するとすぐにぶん殴ってくるおっかない祖父だったからだ。
これからする話は祖父が入院して見舞いに行った時に祖父が話してくれた話。纏めるのが下手糞なのは許して欲しい。
俺の祖父(以降爺さん)は戦時中は南洋やらインド?のあたりで戦っていたらしい。
ベッドで横になった爺さんが口を開いてまず言った言葉が
「〜〜島は暑くてなァ。放って置くと虫に身体を咬まれるんだ」
だった。
その時の俺は勿論戦争になんか興味がなかったし、爺さんの過去にもそんなに興味がなかったわけで。
「俺が帰った時もまだ暑かった。生きて帰ってきちまったのが申し訳なかった」
そんな事いう爺さんがなんだかおかしいんじゃないかとすら思えたくらいで。
その後も暫くそんな戦争系の話が続いた。
俺の親父のずっと上の兄二人が病気で死んだ話とかもされた。と同時に俺が健康に生活してる事を喜んでくれたりもした。
東南アジアの奴らは陽気だが意外と要領が良かった。
現地のやつらが時々食い物を持ってきてくれる。
現地の子供らに遊びを教えていて上官にぶん殴られた等々。
爺さんがあそこまで話すのが珍しくてなんだか新鮮に思えた。
あんまりにも当時の事を話すのが楽しそうなので、嫌な事はなかったのか? って言うふうに聞いてみると祖父がいつもの顔になる。
「帰って来てからが地獄だった飯は無い、薬も無い。あれがない、それもない」
そう言ってから少し黙り込んで搾り出すように爺さんは語ってくれた。
戦後やって来た三国人が表通りをのさばっていた。イナゴみたいに市場を荒らしていったそうな。
爺さんは意外と名前を知られてた人だったらしくちょくちょく相談を持ってくる人がいたそうだ。(大半は立場の弱い人だったらしいが)
そしてその人達の大半は三国人被害を訴えていたらしい。
当時、祖父の居た地域では三国人の数がかなり多かったらしく、特有の群れ理論で幅をきかせていたそうだ。
特に日本の露天なんかへの嫌がらせが酷かったそうだが、当時の警察は中々動いてくれなかったらしい。
続きます
連投支援
そこで顔役? が祖父を含めた数人を集めて嫌がらせをしないように進んで見回りなんかをしたらしい。
ただ如何せん相手が相手。武器なんて持ってて当たり前の連中相手にするわけだから爺さんも気が気じゃなかったと言っていた。
ここで爺さんはただ、中にはまともな奴も居たんだぞと付け足した。そのK人(だったと思う)が言うには「同じ国の人間として恥ずかしい」なんて言ってたとか。
そんな爺さんが完全にK人を嫌うようになった事件が起こったのはそんなある日の事。
いつもみたいに屋台の人に呼ばれて大急ぎで駆けつけた爺さん。爺さんは屋台にイチャモンつけてたK人を追い返した後、仕事に戻ろうとしたら突然背中を刺されたそうだ。
(ちなみに少なくともその傷は俺がまだ子供だった頃には背中にくっきり残ってた。脚にも何か大きい傷があったのを覚えてる)
気を失いそうになりながら爺さんが刺した相手を見るとそれはさっき追い返したK人だった。蹲った爺さんに蹴りを入れてK人は走り去ったらしい。
その話をしている時に祖父は「あの野郎だけはぶち殺してやりたかった」と悔しそうに言っていた。
それ以外にもある。
爺さんが小さい店を立ち上げた時、度々やって来たK人が酷かったそうだ。
酒を飲めば暴れる、食い物は食い散らかす、ひどい時にはイチャモンつけて値切ろうとする、挙句の果てにはキムチ。
ついにK人の暴挙に耐え切れなくなった爺さんはチョン公お断りと書いて店の前に貼り付けるにまで至ったらしい。
曰く「チョン公相手に商売はできね。ありゃ猿だ」
だがそこからがまた酷かった。
K人はその張り紙に激怒したようでその後暫く営業妨害が続いたそうだ。
そんな時に力になってくれた顔役の人らには今でも感謝してる、とも言っていた。
また、隣に越してきたK人一家の話もしてくれた。
なんでも夫の暴力に耐え切れなくなって奥さんが逃げ込んでくるらしい。
爺さん的には追い返したかったそうだが婆さんが「女を守ってやれんで何が男ですか」と強硬な姿勢を取った為渋々入れたそうな。
勿論、K妻が帰った後には食料やらが少し無くなったそうだ。それでも婆さんはこのK人一家が引っ越すまでK妻が逃げてくると迎え入れてたらしい。
爺さんは「○○。どんな事があってもチョン公だきゃ信用しちゃなんね」と念を押すように俺に言った。
もう少し続く。遅筆ですまん
(0゚・∀・) ワクワクテカテカ
ktkr
ちょっと脱線してしまうが、店をやってた時に一度台湾から来た人を雇ってた事とかも話してくれた。
少しのんびりした人だったらしいけど仕事に対しては真摯だし、人懐っこく親分さん親分さんと来るのが印象に残っていたそうだ。
台湾に帰る時も泣きながら今までありがとうございますと繰り返し言ってたらしい。
そこでふと俺は台湾人も朝鮮人も一緒なんじゃない? と言ってみたら全然違うと地味に怒られた。
「チョン公がクソなら台湾のやつらはかりんとう」
っていうじいさんの表現に思わず笑ってしまった。……刺されたのがよっぽど恨みになってたのかも。
爺さんは一通り話を終えてから「ちくと疲れた」と呟いて手で帰れのサイン。
「また今度話聞きに来てもいいか?」
と言ったら「好きにしろ」と素っ気無い返事。90過ぎた爺さん。俺の中ではおっかなかった爺さん。
その二日後に爺さんは一人、病室で息を引取った。
90過ぎてもシャキシャキ歩いてた爺さん。煙草と花札が大好きだった爺さん。
「○○(親父の名前)。酒持ってきてくれ」
それが最後の言葉だったそうだ。
爺さんは酒が全然飲めなかったらしい。親父は自分が逝くのを見られたくなかったのかもしれないと言っていた。
親父が泣いたのを始めて見た。
俺はもっと爺さんと話をしておけば良かったと今になってすごい思う。
ごめん。なんかまた泣けてきた。
雷親父がまた一人旅だったのか
ご冥福をお祈りします(−人−)
>>574 (´;ω;`)
なんか顔文字不謹慎だけど、俺もジワっときた。
良い爺さんだったんだね。
ご冥福をお祈りします。
私もおばあちゃんに話を聞いておこう。
長々書いてすまんです。それと支援ありがとうございました。
親父が引取った死ぬ間際に爺さんが書いた手記を今ちょっと見てる。
爺さん、字下手だけど一生懸命色々書いてる……
ご冥福をお祈り申し上げます。
亡くなる前にご自分のことを少しでも話せて、お爺様もきっと喜んでいるのでは?
私も、今度帰省した時は嫌がらずに祖母の昔話を聞こうと思います。
>>578 投稿乙
90才過ぎですか、戦争に行って、生きて帰って来てくれて、焼け野原を復興してくれた世代ですね。
彼らの礎の基に繁栄してる我々は感謝してもし足りません。
心よりご尊父のご冥福をお祈りいたします。
投稿お疲れ様。
おじいさんのご冥福をお祈りいたします。
ID:PwZUs43xさん 乙でした。
お爺様のご冥福をお祈りいたします。
明治生まれの方だったのでしょうか…
手記で公開できそうなものがありましたら
また、お願いいたします。
>>578 戦後日本の礎たる感謝と敬意を表して (`・ω・´)ゞビシッ
貴重な話をありがとうございました。
お爺さんのご冥福をお祈り申し上げます
軍板のスレで見つけた。こっち向けかと思ったんでコピペ。
先日仕事であった爺様が北朝鮮で訓練してたと聞いた。
平城(地名は本人談)の建物はここら(出兵前の居住地)より良い建物で、わが国は何やってるんだと思ったそうだ。
ただ田舎は囲いに屋根葺いて藁敷いて寝てるような状態だったと。
んで訓練場での話。
一人朝鮮人の嫌な上官(階級は聞いたけど忘れた)がいて、部隊に1丁しかない重機関銃のキャップ(といってた)を隠して
「なくすとは何事だ!」と毎日毎日やられてたらしい。
で、その話を聞いた爺様が「ようし任せろ。」と、「自分が何とかします!」と名乗り出たんだと。
その上司が「何とかするとはどうするんだ!」と確認したら、「隣の部隊からインズウを合わせて来ます!(字は不明。隣の部隊からかっぱらってくるってことらしい)ただ、見つかったらば私は銃殺となりますのでその際はよろしくお願いします!」
と、言外に「俺が捕まったときは洗いざらい喋る」と匂わせたらしい。
その後、「いやそれは困る。」「困るといわれても総出で探して見つからないのでほかに手はありません。行きます。」「いやそれは…」と押し問答になったらしい。
どうやってその押し問答が終わったかは聞けなかったけど、2〜3日たったらキャップが重機関銃についてたからヤツがやってたのに間違いない。と笑ってた。
「んで、ほんとに盗りに行く気だったんですか?」と聞いてみたんだが「そんなことできるわけないだろう」と笑われますた。
80にもなって新たに商売始めた爺様だから長生きしてほしいわ。
インズウ=員数
(1)人や物の数。いんず。いんじゅ。
「―をそろえる」
(2)一定の数。
「―外」「―が合わない」
これは友人の爺ちゃんの話だが。
爺ちゃんは士官だったんで部下が配属されて来たわけだが、その
中に曲者がいて小刀術の達人だったんだそうだ。そいつ曰く
「俺から一本とるまではお前を上官としては認めない」。
で、何度も木刀(もちろんでかいほう)持って小刀のそいつと
試合したんだが、いくらやっても切り掛かったところをくぐられて
気づいたら小刀が股の付け根やら首筋に当たってたんだそうな。
必至に色々工夫した結果、最後には一本とってようやく部下に
認められたんだと。
まあ軍隊に於ける一つの通過儀礼だわな。
ハン板的には友人があっち系っぽかった、ってんで勘弁w
そいつは極めて希少種だけど。
このスレを見ていて、本棚から○○村英霊顕彰録という本を開いてみた。
実家のある田舎町の遺族会が発行した地元の英霊たちを記した本だ。
戦没地の欄を見てみると実家の近所と身内の人間に限って見てもレイテ、インパール、ダバオ、ペリリュー、ウェーキ(ウェーク?)、ニューギニア、中華民国(台湾に非ず)、沖縄と思わず敬礼してしまいそうな地名が並んでいた。(実際遺影に敬礼した)
ただ、戦後間もない日付と某半島の地名が書いてある英霊を見てもしや、、、と思ってしまった。
そういえば亡きじい様は台湾が好きで旅行したりしていたが某半島の話はしようともしなかったなぁ。
590 :
マンセー名無しさん:2007/07/16(月) 00:58:47 ID:tpa4eAB+
ためになるなぁ
591 :
マンセー名無しさん:2007/07/16(月) 12:53:17 ID:mofZzEQg
良スレでつね。
592 :
マンセー名無し:2007/07/18(水) 02:48:21 ID:7h+Jln/x
両祖父母共に、いわゆる「引揚者」。
父方の曽祖父は、朝鮮総督府の建設に関わったみたいで、
結構自慢げに話してたなぁ。
なんか、朝鮮総督府の石材は全て用意した・・みたいな。
ばあさんからの又聞きだけど。
朝鮮では、石材が用意できなくて、ほとんど全部日本から持っていったらしい。
確認できないから、眉唾もの。
現地で、朝鮮の子供を子守として雇ってたみたいだけど、
おんぶ紐が肩に食い込むから痛いって泣いたから、ばあさんは
「しょうがないねぇ」って、自分がおんぶしてたらしい。
その話を聞いた時、日本人ってお人よしだなぁ〜って思った反面
なんか、ばあさんらしいってうれしくなった。
593 :
マンセー名無し:2007/07/18(水) 03:00:53 ID:7h+Jln/x
終戦の時、北にいたから、日本に帰るの大変だったらしい。
とにかく、南にいかないと、日本に帰れないって。
んで、お金集めて朝鮮人のガイド雇って、山道をずーっと歩いたって。
何組かのグループに分かれて(1グループ100人弱)。
じいさん(父方)は朝鮮語が堪能だったんで、騙されなかったらしいけど、
多くの日本人が騙されて、違う道を永遠と歩かされたらしいよ。
んで、疲れたところを数人の朝鮮人に襲われて、財産を取られたらしい。
朝鮮人のあくどさは凄まじいって言ってた。
「許される民族じゃない」って吐き捨てるように言ってた。
594 :
マンセー名無しさん:2007/07/20(金) 17:55:16 ID:YS1nGHqC
ご無事で引き上げできて、よかったねえ…
うちは樺太からの引き上げだったんだけど
やっと北海道までたどり着いたのにそこで
朝鮮人にさらわれそうになったりしたそうだ…
うちのばあさんは北鮮にいたらしく38度線を頭を坊主にして
帰ってきたと言っていたなぁ。
辛い思い出なのかあまり話してくれない。色々あったんだろうなぁ。
戦前戦中は割りと羽振りが良かったらしいけど、新円切り替えとかで
戻ってきてからも大変だったらしい。
引き上げ後は米軍基地の近くに住んでいたので、パンパンさん?が
たくさんいたとかいってたなぁ。
まぁそんな時代だから、所謂慰安婦とかも普通にいたんだろうねぇ。
いまでもソープ嬢とかいるしね。
596 :
マンセー名無しさん:2007/07/20(金) 20:21:27 ID:ZNrWS/H8
口が重い方から無理強いして話しをお聞きするのもどうでしょうか。
強姦や屈辱的な扱い目にした場合、お話しにくい事もあるかと思います。
ですから、聞き手にも細心の注意が必要です。
>>574 >「チョン公がクソなら台湾のやつらはかりんとう」
この表現に私も笑ってしまいました。
ですが、それ以上に
>そこでふと俺は台湾人も朝鮮人も一緒なんじゃない?
574さんの話しの引き出し方に感心します。GJ!
聞き手にも才能が要りますね
>>595 お婆様はちょっとした男装にしたのですよ、チョンからの襲撃をかわす為に
如何にチョンが外道であったか分かりますな
満州では露助がやりたい放題ですから胸にさらしを巻いて女と分からないようにしたそうですが
直接胸に触ってきたりするからバレタリもしたそうです
598 :
マンセー名無し:2007/07/22(日) 01:03:16 ID:tw4UU3rJ
北鮮では露助が駐屯して、いろいろ大変だったらしい。
女性と、大人の男性は働けないから(リンチされてたらしい)、
親父(当時12歳くらい)が一家の働き手。
露助の家の掃除なんてーのをしてさ。
もちろんお金じゃなくて、食べ物もらってたらしい。
掃除道具持って、家の立ってると「ヤポンスキー(日本人)?」って
聞かれて、うなずいたら仕事の始まりだったって。
お得意様が出来ると、片言(ほんとに片言だよ・・・)で会話なんてーのも
してたらしい。で、露助でさえも「カリンスキー(チョン)はダメ」って
言ってたって。盗人が多いって。
当時、親父は「お前らもだろ・・」って思ってたらしいけど・・
599 :
あ:2007/07/22(日) 18:57:05 ID:L9UEzT3i
明日でこの良スレ一周年だよ。
最近また賑わいが少し戻ってきたね、良いことだ。
600 :
マンセー名無しさん:2007/07/23(月) 00:03:15 ID:X2LV3m6y
一周年おめ
604 :
マンセー名無しさん:2007/07/25(水) 12:14:16 ID:RZXvGwZM
もっと体験談希望
605 :
マンセー名無しさん:2007/07/25(水) 13:18:02 ID:D1KE41qQ
606 :
マンセー名無しさん:2007/07/25(水) 13:47:27 ID:pKtwe3M2
俺のツレのじいさんが日本軍の記録係で公には出て無い写真を見せてもらった。
中には処刑する間際の写真もあった。上官に「今からこいつを殺すから写真をとれ」と言われて嫌々ながら撮ったそうだ。
写真にはこういうグロテスクなものもあったがほとんどが現地人と日本兵が仲良く食事を共にとったり笑いあう姿だった。
じいさんは朝鮮半島には一度も行ったことはなくもっぱら東南アジアだった。
戦争についての話が出るたびにこう呟いていた。
「戦争はいけない。何もかもを狂わせる。だが一番悪いのは戦争をやっている当事者とは関係ないところで利益を得ようとする奴等だ」
戦争があると必ず利益を得ようと躍起になる人は必ずいる。そう何度も呟いていた。
鮮人のことは語りたがらなかった。語るに値しない。そう言っていた。
607 :
マンセー名無しさん:2007/07/25(水) 20:09:17 ID:KEZUOC1i
>>606 そんな写真、没収されずに保持していられたの?
608 :
マンセー名無しさん:2007/07/25(水) 23:58:54 ID:IXiMK5SR
私の祖母は生きていたら94歳です
山間部の田舎暮らしでした。戦後はみんな貧しかったというけど
その中でも特にうちは貧しかった・・・とよく涙ながらに苦労話を聞きました
祖母は人がいいというか誰にでも優しく差別しないというのが信条だったらしく
当時近所に住んでいた子沢山の朝鮮人の家族に自分も苦しいのに
差別無く付き合いろいろ助けてあげてたそうです
なんにも御礼ができないからといってこれはおいしくてとても辛い唐辛子です
といってその種を何粒かもらったそうです
今でもその唐辛子は母の実家で作り続けられていて
本当にものすごいからさですが爽やかな刺激で市販の唐辛子とは全く違います
そんな祖母に育てられた母も結婚した父も差別ということを絶対にいけない
ことだと言うのは当たり前だという態度での生活でした
私は人種による差別を遠い国のことと思い暮らしていました
ところが高校に入ったら
通学のために通る繁華街でいきなり朝鮮の学生に囲まれました
有無を言わさず「電話番号と名前を書け。金を用意しろ」
といわれました・・・同じ女子高生なのに・・・
ものすごくショックでした。怖かったのは囲まれている最中に
どんどんあの独特の制服を着たのが集まってきたことです
今まで自分が信じてきたことを打ち壊された気持ちでとても悲しかったです
彼女達はどんな恨みをずっと教え込まれてきたんだろう・・・
今でも思い出すとなんともいえない気持ちになります
日本に居て反日教育を行い
日本人を憎まなければアイデンティティの崩壊を招いてしまう
朝鮮人とはかくも悲しき生物である。
610 :
マンセー名無しさん:2007/07/27(金) 01:12:00 ID:SiKpzdM0
>>592 亀でスマソ。
おいらぁ石屋なんですが、曽祖父さんのおっしゃる
「朝鮮では石材が用意できない」というのは
「『大日本帝国の建造物にふさわしい、良質な』
石材が用意できない」ということなのではないかと。
今日本で出回ってる石材の中にも半島産のものもあるんですが
お世辞にも良質とは言い難く、大体「廉価品」「サービス品」の
扱いをされることが多い様です。
その石材をご自身のお力でもって「最高級品」の位置まで
上らしめたのが、かの有名なH木K子大先生であらせられまして…ゴニョゴニョ
この辺はスレ違いなので割愛
>>610 朝鮮て、石まで粗悪なの?自然物なのに…。すごくない?
>>611 そいつはちょいと韓国面ですな。
日本では良質な石油が取れません。採れない鉱物資源なんて山ほどです。
良質な鉱物が取れない事と人は全く関係ありません。
>>610 やくざに動かされてるからね>H木K子先生。
614 :
マンセー名無しさん:2007/07/27(金) 12:42:40 ID:8w5cWHkw
朝鮮の石器文化ってそれなりに面白かったと思うけど、
文化が継承されてないんだろうか?ひょっとして南朝鮮って屑地帯?
>>614 何を今更。
芸術、工芸、職人を蔑んだ結果、そういった文化は
消滅しているじゃない。
●戦中戦後の世代(1910〜1935)
戦争を経験し日本を見事復興させ今の日本経済を作り上げた最強の世代。
戦国時代の武将なみのレベルの高さで感服。一部勘違いあり。
●混乱の世代(1936〜1944)
終戦、復興の混乱期に幼少時代を過ごす。運だけが全てを決めてしまった世代。宝くじ大好き。
●団塊世代(1945〜1949)
自分達が日本を作り上げたと思ってる"超"勘違い世代。お前らが作ったのは借金。キチガイ多し。
行動力や根性は多少は持ち合わせているがたいした事は無い。唯一評価できるのは繁殖力の高さ。
ただしあまりにも高すぎて未だにエロイ事件を起こすのもこの世代。日本を滅ぼそうと密かにたくらん
でいる。もういいから早く団体で中央線にダイブして欲しい。
●団塊の金魚の糞世代(1950〜1959)
団塊と一緒に踊ってただけの世代。自主性なし。下の世代にも疑いを持たず踊ること(Yesマン)を求
める傾向あり。上が団塊世代で、人口減少期に生まれたため、競争は緩やかで勘違いが増殖。
団塊の劣化コピー版。
●バブル世代(1960〜1969)
未だにバブルもう一回とか言ってるバカや、バブル後の脱力感で魂まで抜けた奴が多い。金銭感覚
が狂ってるため消費率は高めなのが救いだが、ほとんどは無能。企業内で癌細胞化している世代。
●団塊Jr(1970〜1974)
親世代の団塊に反発するも就職難で返り討ちにあう。世代人口が一番多いにもかかわらず出生率
を下げていたりと、繁殖力は極めて低い。団塊の付けを一手に引き受けているのもこの世代。
100年後の日本史には悲惨な世代として登場予定。
●無味無臭世代(1975〜1979)
いたの?
●無気力世代(1980〜1984)
あきらめモード全開。やる気ナッシング。パラサイト多すぎ。気持ちはわかるが、仕事しろよと。
愚痴らせたり文句言わせたりすると最強な所や、他人に頼りまくるところは団塊そっくり。
近親憎悪からオヤジ狩りという文化を生み出す。
●DQN世代(1985〜1995)
セックスセックス!小学生のうちから無駄なセックスしすぎ。
おまえら大丈夫かよマジで?あんま期待してないけど頑張って。
●日本終焉を見守る世代(1996〜)
戦後動き出した日本の鼓動がゆっくりと止まるのを見守ることになる世代。彼らの未来は暗く冷たい。
ゆとり世代は?
>>612 日本で採れる鉱物資源の『種類』は非常に多いぞ?
『鉱物の博物館』と呼ばれるくらいだし。
『量』は聞くな。
ほ
り
け
623 :
マンセー名無しさん:2007/07/31(火) 18:27:11 ID:9YE9mkrd
も
今日読み終わった光人社NF文庫ノンフィクション「通信隊戦記」より。
p.259,260より(中国大陸で終戦を迎え、復員待機していいる時の話)
日本兵であったが、終戦の結果、日本国民でなくなった人たちがいる。終戦まで、日本の
領土であった朝鮮と台湾の人たちである。彼らに徴兵制は適用されなかったが、志願によっ
て日本軍に加わる制度があった。
(中略)
戦後、彼らは日本軍の中の反逆児となった。規律を守らず、勝手に町に出ては酒を飲み、
大声で「独立韓国」と叫び、良識ある中国人は眉をひそめた。
やがて、彼らは日本軍から離れ、別のところへ収容されることになった。その日、軍司令官笠
原中将は別れの挨拶をのべた。
「貴方がたは、今後、立派な韓国民としてお国のために働いていただきたい」
といったのが印象的であった。ところが、集合した韓国人は軍司令官の挨拶中もあぐらを
かき、私語をする者がいて、大変行儀が悪かった。
「俺はもう日本人ではない。敗戦国の軍司令官の話など聞く耳持たぬ」
と思ったのであろう。
その後、彼らがどうなったかまったく聞いていない。
なお、初版発行は今年の四月。
625 :
◆buj6R88svw :2007/08/01(水) 03:49:58 ID:h2GMbEfm
もうじき一年になります
爺さんと一緒に「作戦会議」と称してこのスレの書き込みの案を練っていた頃の
なつかしさが思い出と共に自分の胸を締め付けてきます
今月が爺さんの新盆になるのでそれに備えて明日(というか今日ですが)は墓の
草むしりと掃除に行ってきます
爺さんとあんなにも深い関係ができたのはこのスレッドのおかげだと思ったりす
る今日この頃。。。
ここを覗くのがつらくてブクマをクリックできなかったけど爺さんへの挨拶がわ
りにと、書き込みさせていただきますね
スレで爺さんにレスして下さった皆さん、本当に有難うございました
病院に持っていったスレをプリントアウトしたものは、爺さんが「宝物だな」と
言っていたので一緒に棺に入れて送りだしました
家族には一応説明してから入れたのですが兄がチラ見して「おい、お前爺さんと
にちゃんやってたのか!」と驚いていたのがつい昨日のことのようです
爺さんの相手をしてくれた皆さん本当にありがとうございました
この一年だいぶ苦しみましたがなんとか立ち直って、明るく振舞えるようになり
ました
悲しみは、こうやって人の記憶から薄れて、そして思い出になっていくのだなぁ
と実感しています
爺さんと友達の様になれたのが、自分にとっての「宝物」になりました
ありがとう
>>625 もうすぐお爺様の一周忌ですね。
なんと申しますか…お偲びもうしあげまして (-人-)合掌
>>625 お爺さんにとっても楽しい思い出になったんじゃないでしょうか。
そしてここに書き込まれたお爺さんのお話は、
ここを見た人にとっての宝物にもなったと思いますよ。
遅ればせながら私も合掌
>>625 このスレを見て自分も祖父の戦争体験を聞こうと思いましたが
祖父も体中に癌が散らばっているし精神的に大変辛い事が祖父を襲っているので
これ以上辛いことは思い出させないほうがいいかな・・・もっと早く聞いておけば
よかったと少し後悔しています。
新盆っていろいろな思いがこみ上げてきますよね。
お爺様の魂が安らかであられますようにとお祈りします。
あなたもお元気でいてください。
>>628 人それぞれだと思うけど、聞いて見たら?
人は自分の命が短いと悟った時に自分のことを人に伝えたい、
自分のことを記憶に留めてもらいたいと思うものかもしれないし。
なんとなくそんな気がしました。状況によって違うかもしれないけどね。
うちの爺さんも病気で入院した時には気弱になって色々と話してくれた。
明治生まれの気丈な爺さんが、弱音吐いたりしてた。
朝鮮半島から引き上げる時に男の子供が死んだこと。
爺さん自身がシベリアに抑留されたこととか話してくれたよ。
そんな爺さんも俺の結婚式の3日前に死んだなぁ。
家に行ったときには線香は上げているけど、最近は墓には行ってないな。
お盆前に一度行っておくか。
>>625 乙。
じいさんから聞いた話は一生の宝物にしてくれ。
うちもじいちゃんがこの間死んだ。
満州行ってて引き上げで子供二人亡くして、ばあちゃんと二人で命からがら帰ってきた。
じいちゃんが生前大切にしていた古い鞄には、亡くなった二人の子供のへその緒と遺髪が大事に入ってたそうな。
前に一度だけ、じいちゃんがその話をしてくれた。
二度と戦争なんてするな、という言葉と一緒に。
今日じいちゃんちに線香あげに行ってくるよ。
しかしじいちゃんちは九州、自分の現在地は愛知。
台風に向かって突き進んでくる…。
>631
>二度と戦争なんてするな、という言葉と一緒に。
こっちは戦争したくないと思っていても、向うから
吹っかけてくる場合もあるから困ったもんだ。
君は戦争に興味はないだろうが戦争の方は君に興味があるんだ
このような言葉あるラスイ
九条の会とかの椰子らに「ぼくらの」というアニメ、是非見てもらいたい
特攻隊等の方々と彼らとどう違うと言うのか 比較して考えてもらいたいものだ
>>633 漏れは知覧の特攻平和会館に以前行ったけど、当時の人は
決して残虐でも残忍でもない普通の人が、家族を思い、国家を思い
自らの命を賭して戦ったと思ったよ。
穿った見方をすると、そういう内容の遺書とか意図的に集めてミスリードを
しているとも言えるかも知れないけど。
また当時の人がそんな風に思うように、教育(洗脳?)していると
捉えられるかもしれない。
でもそれって今の考えで、当時だとまた違った考えもあるわけで、
歴史にタラ・レバは無いからねぇ。
戦争は嫌だけど、降りかかる火の粉は払うべきだし、言っても分からない相手には
ゲンコツするぞ!という脅さないと、まともな話が出来ない人たちもいるわけで。
難しいね。
家族、隣人、国家を守るために選択肢としての戦争は持っているべきかと思う。
以上チラウラですた。
よくナチスは合法的に(選挙で)政権を取ったことが指摘されている。
実は日本も同じだ。
大正デモクラシーにより(男子限定の)普通選挙権を手に入れた当時の日本国民は、
日本の政治を正しい方向に導く権利と義務を負っていた。
しかし実際には軍部の独走に歯止めをかけず、むしろそれに乗る形で目先の利益を追いかけた。
また、無能な外務省の稚拙な外交を改めようともしなかった。
政治から一歩離れ経済・産業面を見れば、米国から輸入した鉄くずに頼った製鉄業界など、
基礎となる部分が外国に頼りきりになるような経済・産業構造を築き上げていた。
(これは政府の指導によるモノもある。しかしその政府は誰が動かしていたか?)
つまり、欧米と協調しなければ存続しえない国家体制を築きながら、欧米との対決路線に
突き進むという過ちを当時の日本国民は選んでしまった。
この事実を直視したくないモノたちがすべての責任を軍部に押しつけている、そのような一面は確実にあり、
いまのサヨク(左翼ではない)たちはその流れを反日活動に利用していることに留意すべき。
以上、チラウラ便乗でし
636 :
635:2007/08/02(木) 20:55:00 ID:9Th9BqDQ
チラウラ補足
物事の原因を一つのモノのみには限定しないのでよろしく。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記
コメント欄より
大東亜戦争の後の朝鮮戦争を体験された方の話ですが、
B29に乗り撃墜され捕虜になった米海兵達はほとんど生存出来ず、リンチ殺人されたそうですね。
生き延び帰国出来た一部の方、未だに安眠につけず時々うなされ叫んで目を覚まされるんです。
「大丈夫だ」と一言のみ。
多くを語らずまた床につかれます。
同じ捕虜体験をされた同僚の方が一部話して下さったのですが、
リンチ殺人された同僚の腕や足を切り取り、豚の餌にしている朝鮮人の行為が、
若かった米海兵の方々の心に深く傷を残したそうです。
ttp://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070801/1185938657#c やっぱり、朝鮮人はヒトモドキだと思う・・・
638 :
マンセー名無しさん:2007/08/03(金) 11:42:05 ID:jiT3X/BN
チャンコロという言葉を聞いたのもお爺さんが始めてで、
こんな風に戦ったんだ!って誇らしげに話す様子に引いた。
でも国のために戦ったんだよな。
そこで戦わなかったら死んでた。それもえぐい殺され方で。
もっと話を聞いておけばよかった。ごめん。
639 :
マンセー名無しさん:2007/08/03(金) 12:44:03 ID:ii1S0aE4
手前らチョンか?チョンと血を流して戦ったことがあるのか?ネットだけで
しこしこやってい無いで、半チョン組織を作って少しは暴れたどうだ!団塊
で大学まで言ったのは十人中1人か2人だ。況してや、学生運動の指導者は
チョンだ。全学連も全体から見れば本の一握りだ。半チョンに身体もはれな
い意気地なしがでけゑ口を利くので無い。
俺の祖母は大阪市で戦前から質屋をやっていた。
飛田新地の娼婦も客としてよく来ていて、
「儲かるいうから、支那に渡るわ」という人が
けっこういたとのこと。
641 :
マンセー名無しさん:2007/08/04(土) 20:27:10 ID:MY0wMprX
>>625 きっとあなたもいつか孫に慕われ、自分や爺さんの体験談を語り継ぐカッコイイ爺さんになるんだろうな。
たまには脱線して若い奴と玉袋の話をしたりするんだろうけどw
とにかく爺さんによろしくです。
642 :
マンセー名無しさん:2007/08/05(日) 03:03:42 ID:/Bg9lSYE
もうすぐお盆ですね。帰省して爺さん、婆さん達と話をする機会が出来る人も多いはず。
後になってこのスレの存在を知って、あの時話を聞いていればなんて人がいないように上げてみる。
話を聞く際に録音でもしておけば、何時か自分の子供や孫にも正確に戦争体験を伝えられるよ。
このスレ的には代筆やってもらうのが一番盛り上がるけどさ。
643 :
マンセー名無しさん:2007/08/06(月) 15:04:55 ID:oE+Cmymc
お盆までアゲ
戦争論だと中国人の部族同士で争って相手処刑した後で
跳ねた首でサッカー見たいに遊んでたとかの下りがあったが
満州生まれの近所の婆ちゃんから
当時の中国人、そう言ったシチュエーションだと思うけど。
人殺して首チョンパした後、ゾロゾロ集まってギョーザの皮みたいなのにその血をつけて喰ってたって
話を聞いた時は正直ドン引きしましたw
後、ウチの爺ちゃん兵隊さんだったけど
戦争終って暫くしてTVとかで「戦争とはこんなもので〜」とか偉そうに言ってるのに
爺ちゃん含め、当時戦った人たちとか何時も電凸してたんだってさ
勿論放送する側は聞く耳持たずに、相変わらず戦争行った訳でも無いのに「あれはこうだ」とか
嘘も交えて都合のいい事を並べたりとか...まぁTVとかで右だ左だ言ってる人とかの大半は
ttp://pc.gban.jp/?p=9513.jpg こう言う事ですよと
後、戦争も終盤になったら物資も無くて。
仕方なしに灯台とか小高い所に木を削って大砲みたいな形の物使って威嚇して飛行機追い払ったとか
子供の時に色々自慢話を聞かされた物だ...もう結構な歳だけど長生きしてください爺ちゃん
ハン板系の話なら、昔すんでた家を貸してる人のいい爺ちゃん(得意客
ここ2〜3年、その貸家を空けてて最近また貸し出した その序に色々揃えるのに頼まれて行ったのだが
今までどうしてたんだろう?と思い聞いて見たら 前に貸してた人、日本人的名前で安心してたら朝鮮人で
まぁ家賃も滞りなく払ってるしまぁいいか?と思ってたら。
家を出る際に、最初から付いてたエアコンやらカーテンやら流し台やら全て持ち逃げされて
奥さんが体を悪くした心労も重なり、プチ人間不信になっていたとかw
647 :
マンセー名無しさん:2007/08/07(火) 22:39:46 ID:yY3BS0Ik
>>628さん。
>>645さんが良いヒントを挙げられました。
これから終戦記念のTVが増えるでしょうから、お年寄りのいらっしゃる席で、
これらのTVをご覧になり、反応を見られてはいかがでしょうか。
ただ、その場を黙って去るくらいの体力がある方のみに対してですが・・・
時と場合でしょうけど、そこまでしなくてもな。
昔頑張った歳な爺ちゃん達に態々嫌な思いさせるのもアレだし
そう言った人たちが万が一表ざたになったら、ソレを利用しようとする輩の応酬だろうしね
ヘタの何やら。
まぁまずは肩揉みするとか、爺ちゃん婆ちゃん大事にする心で十分だよ
亡くなられてる場合だったらお盆に手を合わせるとかね
まぁキッカケは何であれ
爺ちゃん婆ちゃんからしたら子供達と楽しく話が出来るって事が一番だとおもいますよ
650 :
マンセー名無しさん:2007/08/08(水) 12:43:30 ID:1gEVtC+g
このスレを読み直せば分かるけど、生前に話を聞いておけば良かったと書き込んでる人が結構居る。
後で後悔する位なら聞ける人は聞いたほうが良いかと思う。
聞いてみて、乗り気じゃなかったら止めても良いし、
>>1のテンプレに在るとおり、国を守り切れなかった事を気にして沈黙している方達もいるだろうし、
そんな方達には尚更こちらの聞きたいというアプローチが必要になると思う。
651 :
大叔父は若いときに招集されて:2007/08/08(水) 12:55:44 ID:Y5AMk0/9
大叔父は若いときに招集されて、中国大陸で戦闘に明け暮れた。
敗戦後、復員し、思い出したように当時のことを話した。
そのひとつ。
功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
そこはよくしたもので、たいていどこの部隊本部にもベテランの事務担当がいて、
てなれたやりかたで、「名誉の戦死」にしたてて、内地へ報告した。
「どこそこの部隊で上官が戦死」といううわさは、展開する各地の部隊にただちに伝わり、
「さては、やられたな」と兵士同士でささやきあうものだった。
軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
中国大陸の戦史で「一部隊全滅(玉砕)」という事例が少ないのはこういう事情による。
10年以上前に亡くなった祖父が、兵役経験者だった。
当時の事はほとんど何も語らなかったけど、南国(グアム、サイパン等)の旅行は断固拒否。
祖母が親戚やら友人やらと行くのは認めていたが、自分は行かなかった。
椰子の木の下と言うのは、悪夢でしかないらしい。
中国では、兵が民間人の格好をして攻撃して紛れ込んでいるので、区別がつかず、
民間人を手にかけてしまった事もあったようだ。
その辺ははっきりとは言わなかったけど、すごく辛そうだった。
「中国人は信用するな。中国に旅行はするな」
今思えば、遺言だったのかも。
(南方諸島に関しては、「信用するな。行くな」とは言われなかったです)
お前ら乙。
もっともっと聞いてくれ。
どんなに聞きたくても戦死してしまった英霊の遺族は聞けないから。
俺の代わりにドンドン聞いてくれ。
しかし、兵隊さんだった爺ちゃん見てると
本当に昔の日本人って凄かったんだな...と思う
90近いのに、このあいだ足の甲の骨折を病院に行かず自力で治してた
近所のカイロプラクティックみたいな所でマッサージとか婆ちゃんの介護とかはあったけど
そのカイロプラクティックには車運転して行ってたw
勿論家族一同止めようとしたけど「あぁ、大丈夫よ」と素で応える爺ちゃん見て
「あぁ、この人は大丈夫なんだな」と素直に思えた
婆ちゃんは婆ちゃんで、スズメバチやムカデにやられた際は病院の薬だと頭がボーっとして体も動かないとかで
病院に行かず、畑仕事もしながら数時間置きに梅肉塗って冷やして治したw
※Please, Don't Try This at Home
>>655 婆ちゃん 体内の毒消し作るの強いわwwww
一般人は真似しちゃいけませんww 死ぬか後遺症残る罠、下手打つとw
昔は耐性もってる人しか生き残れなかったんだよなぁ(しみじみ
そういう意味では人間は劣化していると言えるのかもしれない。
658 :
マンセー名無しさん:2007/08/10(金) 19:15:50 ID:OzuKzUnQ
みんな、帰省したら代筆頼むYO
>>657 激しく正解 だから抗菌のものを作らんと阿寒のかもwww
一泊しかできなかったんで大した話を聞けなかったうえに、ハン板的には関係ないが。
ウチの婆さんは甲府の空襲の生き残りだったようだ。
状況とか何も言わんで話し始めたから曖昧なところもあるが、許して欲しい。
空襲が終わって歩いてたら、アスファルトの熱で履き物が燃える。
で、用水路かなんかに足つっこんだら原の膨れた死体が浮いていたんだそうだ。
戦後のことも聞いてみたが、誘拐犯にされかけたくらいしか聞けなかった。
来年はレコーダーもって爺さんにも突撃してみる。
携帯から失礼した。
661 :
マンセー名無しさん:2007/08/11(土) 20:11:41 ID:Ac9nwtzj
>>660 > 空襲が終わって歩いてたら、アスファルトの熱で履き物が燃える。
変におどろおどろしい話しより想像しやすくてリアルに感じた。
> 戦後のことも聞いてみたが、誘拐犯にされかけたくらいしか聞けなかった。
kwsk
> 来年はレコーダーもって爺さんにも突撃してみる。
書き込み待ってますよ。
662 :
マンセー名無しさん:2007/08/11(土) 20:17:32 ID:FvcnbQg8
家の死んだ爺さんが、よく話していました。
南京で犯しまくった娘の白い尻が忘れられないと・・・
命乞いをする、子供や老人を笑いながら殺すとき
自分が神になったような気分だったと。
上官にいびられた憂さ晴らしには、
強姦と子供年寄りを銃剣で刺しまくるのが一番だったと。
家の爺さんは日本兵の誇りです。
>>662 ご先祖様を捏造してまで貶めるのは、
無神論者だからですか?
それともカルト信者だからですか?
あなたの良心は、どこに消えました?
ベトナム戦争の時の体験談と勘違いしたとかw
>>663 はいはい そこ 日雇いに仕事をさせないように
兵隊さんだった爺ちゃんは、名前忘れたけど太平洋のどこかの島に行ったんだとか
途中で負傷して帰って来た...でもその部隊は後に全滅したとか
その話した後 爺ちゃん「一緒に死んでやれんかった」ってずっと泣いてた
それ以来あまりそう言った話は聞けないな
婆ちゃんはどっちか言えば反戦派だし近所には中国に洗脳されたような人もいたけど
まぁ実際そう言う人達には何も言えないよね
戦後の苦しい時は農家なんで食料は何とかなったんだけど
婆ちゃんに聞いたら、国に返すの忘れてた鉄砲つかって
爺ちゃんウサギとか色々捕まえてくれて助かったと言ってたw
その鉄砲の処分をどうしたのかは未だに誰も知らない(爺ちゃんも忘れてるw)
婆ちゃんは「多分返したんじゃ無いの?」とは言ってたんだけど
子供の頃「どこかにあるんじゃないか?」と思って、夏休みの時に実家の納屋とか目茶苦茶探したが
ホコリ被った父ちゃんのギターにボーリング大会のトロフィーしか見つからなかった
それと前に、何かの拍子に戦争論とか少し見せてあげたら歓喜でもなく噛締める訳でも無く
何とも言えない様な笑顔だったな...何を考えてたんだろう
日本の爺ちゃん婆ちゃん長生きして下さい
668 :
660:2007/08/11(土) 21:58:42 ID:mZgTCeYf
>>661 やはり状況がよく解らんのだが、横浜で焼け出された子供が電車間違えて甲府まで来たとき、国鉄職員として働いていた婆さんが助けたらしい。
その時に警察だか駐在だかからそう言われたそうだ。
ちなみにその子供は周りの人からのカンパで、仙台に送り出せたとのこと。
他にも
・機銃掃射かけられて目の前を弾丸が通り過ぎた
・木陰で動いてた犬まで撃っていた
・去っていく戦闘機から、米兵に投げキッスされた
と言っていた。
それだけ低空からバリバリ撃ってきたというお話。
まとまってなくてすまん。
他にも思い出せたら書く。
669 :
マンセー名無しさん:2007/08/11(土) 22:29:50 ID:uYE3xLuM
機銃掃射は子供の集団によく浴びせられた。
「アメリカのおっちゃんこわぃぃぃぃぃぃぃぃ」
が占領政策に末永く効果があるからだろう。
一般市民への攻撃は戦争犯罪なんだけどね。
勝てば官軍だな。
671 :
マンセー名無しさん:2007/08/11(土) 23:44:55 ID:uYE3xLuM
戦争する人間は勝つことしか考えてへん
なんでも、辞め方が難しいね。
戦争に人道も非人道もない。
どこの国が正義というわけでもない。
まぁ、平時とは違うからね。
引き上げ船で「米兵の相手をする女性」を要求された。
水を打ったような沈黙の中、花柳界出身らしき人がすっと立ち上がった。
アメリカが『慰安婦』と言うと、少年時代に見たその光景を思い出す。
朝日新聞の投書欄だけど、中韓が絡まないと割とまとも。
コピペ
母が京城からの引き揚げ者。
引き揚げ途中に10歳前後の姉がレイプされた後殺された。
引き揚げの出国時に家族全員全裸にされ、
持ち出しの荷物がないか確認されたとのこと。
後色々あるみたいだけど、口を閉ざしている感じ。
俺の結婚話になると、世界中どの民族でも結婚していいけど、
朝鮮人だけは絶対にやめてくれといつも言われる。
677 :
マンセー名無しさん:2007/08/25(土) 18:57:42 ID:jVjkFhk/
hoshu
先週、亡くなったじいちゃんが俺に話してくれた最後の
話。
俺の職業を理解してる爺ちゃんがいつも言ってたのは。
「日本語は英語に置き換えるが難しいだろうな。
日本語は素晴らしく人の仕草や思いをハッキリ伝えられる言語
だから」
と言ってた。(涙が止まらないからゆっくり書く)
若い頃は爺ちゃんの話なんてなんて思ってたけど、
いつも優しい話だった。爺ちゃんが話してた事を今整理しながら
書こうと思う。
今、書けるのは
「日本人ほど死者にたいして尊く葬る者はいないぞ。俺は日本に
生まれて幸せだ。たいそうな葬式なんていらない。。お前たちが
送り出してくれればいい。ただ俺を送る時には孤児だった、○○の
事も一緒に送り出してくれ」
と言われたから爺ちゃんには内緒で○○を探した。
靖国神社に祭られてる人だった。
ちゃんと、一緒に送ったよ。爺ちゃん色々全部ありがとう。
爺ちゃんは「戦争は対話だ、非難されてもちっとも苦しくない
お前が孫ってわかるんだぞ。孫がかわいいと思わせてもらった。
俺は、生き残りだけど逝った時に自慢するんだ」と言ってた。
でも、戦時中・戦前の事を孫ながら笑いながらさしで呑めてよかった
全部の味方になってくれた爺ちゃんありがとう。
679 :
マンセー名無しさん:2007/08/31(金) 23:26:57 ID:JBZGcnnV
ご冥福をお祈りいたします
素敵なおじいさんでよかったですね
。・ ゚・(ノД`)・゚ ・。
| |)
ノ ωつ・゚ ・。
く > ・
681 :
マンセー名無しさん:2007/09/01(土) 10:19:03 ID:+RJ3IW+h
シベリア抑留の引き上げ船が日本領に入ったんで
安心したじいちゃんが 4年間の苦しい強制労働の中で
金鉱堀りをさせられた時の記念に 金の原石のかけらを
死ぬ思いで隠し持って来たのを(見つかると殺される)
かの国の日本兵モドキただひとりに見せたが
次の日 日本に上陸して家族に見せようとしたら無かった!!!!!!
戦友だから疑うわけじゃないけど でも悔やまれるといってた
682 :
マンセー名無しさん:2007/09/06(木) 17:01:32 ID:PXYXWyZg
実況の方にも書いたがスレが消えてしまったので再カキコ。
俺の父方のじいさまは、身長が足りなかったので乙種合格になってしまった。
そういう訳で、外国の戦地にはいかず、東京の局所防衛に回された。
じいさまは学は無いが、商人の家の生まれなので数字には強い。
そんな理由で任されたのが、高射砲の三番砲手。
じいさまの説明では良くは分からなかったが、どうやら
数字がいっぱい飛び交うポジションらしい。
当時血の気が多かったじい様は、鬼畜米英に一矢報いようと意気込んでいた。
しかしじいさまがそこで見たのは、敵機の墜落する姿ではなく、
戦闘になるたびに散っていく、高射砲前面に配置された一番砲手、二番砲手の姿。
飛び散る血しぶき、そして肉片。
そして次の戦闘までには、砲手が補充されてくる。
そしてまた、名前も覚えぬ間に散っていく。
そんなじいさまは運良く生き残り、そして未だ存命。
じいさまは最近、すこしボケてきた。
もうあの頃のことを話してくれることは無いだろう。
この話を聞いたとき、俺はまだ小学生だったが、
そんな人がいて、今の自分と日本があることを強く感じた。
本の上ではなく、リアルに感じられる「日本史」そのものであったからだと思う。
>>682 体験者のお言葉は重いですよね…
あの頃のことだけぢゃなく、いろいろお話を聞いてあげてください。
何度となく聞いた話でも…
|-`).。oO( おじいさまが長生きされますようにお祈りします。
684 :
マンセー名無しさん:2007/09/06(木) 18:11:24 ID:BVtGZEeI
根岸生まれの江戸っ子
死んだばあさんの話。。。
関東大震災では、
朝鮮人が井戸に毒を入れたとの事、
本当に恐ろしい人たちだと印象を持っていたそうな。
戦中は世田谷区三宿に在住。
陸軍病院に隣接するという最悪の立地であった為、激しい空襲に晒さた。
陸軍病院から焼け出される負傷兵達は、腕が無い、足が無い等。。。
まぁ普通に逃げ惑ったそうな。だが当時のばあさんの感覚では
「お国の為に死ねなかった邪魔な肉片」としか写らなかったようで、
死体や肉体の損傷の激しい人達に
「逃げるな、戦えやーーーそれでも日本男児かーーー」
と叫びながら踏みつけたと。。。
焼夷弾が家にも落ちたそうだが、息子2人自分もなんとか生き長らえる。。。
助かった理由は「運」だけだと。
世田谷区内では凄惨な空襲だったそうで、様々な形の死体を見たそうだ。
低空飛行で、狩のように子供を狙い打つアメリカ兵に心底怒りを覚えたようで、
竹やり訓練については一人一殺のテーマを確実に遂行すべく、
誰よりも頑張ったと「強姦されても必ず一人は殺す」と心に誓ったと(ここは強調)
そんな彼女だから例の放送を聞いた時は、マジに悔しかったそうだ。
戦後もばあちゃんは一貫して白人嫌いで、
家の都合で何人かホームステイの外人がきたが、細かい嫌がらせをしてた姿が思い出される。
「ケトウ、鬼畜米英」ってオレに教えてくれたけど、
今思えばあの人たち、大半はフランス人だったりして。。。
賛否はあると思うが、只、戦中の日本人は死ぬ気で生きたという事だけは理解したな。
>低空飛行で、狩のように子供を狙い打つアメリカ兵に心底怒りを覚えたようで
松本零士だっけ。子供の時、それやられたって漫画に描いてたの。
パイロットの笑ってる顔も見えたとか。
集団登下校の学童の列に銃乱射。まさに鬼畜。
それでもソ連・中国よりはマシだから付き合ってるけど。
686 :
マンセー名無しさん:2007/09/06(木) 19:00:02 ID:U+CPIhfw
戦争の体験談とは少々違うけど、実家の近所であった話。
大東亜戦争末期、B29が日本を空襲してきたときだ。夜中に目が覚めるような轟音と共にB29が空襲を仕掛けてきた。
そのB29の編隊にある異常が起きた。1機がバランスを崩して隣を飛行していた機体と接触。墜落炎上した。片方の機体は空中分解し、もう片方は真っ二つに折れて墜落した。
空襲が終わると人々が墜落現場へと足を運んだ。その中に数人の米兵の死体があった。
当時戦争中だった日本。目の前を焼け野原にされ、中には夫、妻、息子を殺した者もいる。米兵に憎しみが湧くのは当然だった。
死体を引きずり出すと石を投げるもの、蹴りを入れるもので溢れかえった。死体とは言え憎んでも憎み足りない米兵の死体に追い討ちをかける。
そのときだ。
「待ちなさい」
一人の住職が民衆を制した。民衆は何故だ!何故止める!とばかりに住職に悲しみと怒りに満ちた顔で睨んだ。住職はこういった。
「日本は戦争中なんだ。しかし彼らだって好き好んでやったわけではない。彼らもやらされた者たちなのだ。死ねば皆仏になる。ならば供養をしてやるべきではないのか?」
住職の言葉に死体への攻撃はピタリと止み、鎮火した後彼らの遺体、遺品を寺に集めて慰霊碑を立てた。
そして終戦後、GHQの幹部がその話を聞き寺へ訪れた。
住職はことの顛末を話すと彼らの遺品を幹部に見せた。幹部は敵とはいえ大切に保管されている遺品と慰霊碑を見ると涙を流して
「申し訳なかった」
と言った。
その遺品は今も尚寺に保管されている。
687 :
684 :2007/09/06(木) 19:55:54 ID:BVtGZEeI
>>685 そうなんだ、
そんな目にあった人他にもいたんだね。
因みに銃撃された叔父はまだ生きています。
飛行機の羽に裸の女性の絵が描いてあったそうで、
文化の違い、あととんでもねえ野郎どもだと思ったそうです。
>>687 先々月の朝日新聞でも、集団登校中に銃乱射されたというお爺さんの投書があったし、
他にも色々見ます。どうやら、当時、普通に良くあった事件のようです。
叔父様の話、できればもっと聞きたいです。
日本人は基本的に「過ぎた恨みは忘れよう」なので、無理かもしれませんが。
>>687 ウリの母親(当時8〜9歳)も当時同じことをされたそうニダ。
近くに海軍航空隊基地があったので、その攻撃のついでに
やられたみたいニダね。幸い、麦畑に逃げ込んでことなきを
得たという話ニダ。
>低空飛行で、狩のように子供を狙い打つアメリカ兵
これは別に珍しくないようだ。さすが鬼畜米英というか、
いろんな人がこれをやられた体験談を残してるからねえ。
石原都知事もやられたらしいし。
もっとも都知事の場合は、間一髪の所で零戦が敵機を撃墜して助けてくれたらしいが。
わたしの母(当時小学生)も同様ですね。
グラマン(彼女の中では米飛行機(小)はグラマンw)の機銃掃射の
着弾が真っ直ぐ自分に向かってくるのがとても怖かったと…
ギリギリまで待って横に逃げ、その後 近くの防空壕へ駆け込むとか…
母の学校の男の子の中では、ある種の「根性試し」になっていたとか。
「アメさんは子供にまで弾使えるんだから、かなうわけなかったのよねぇ(w」と
母が笑って言っていたのを思い出します。
美輪さんも言ってたわ。
笑いながら射撃してたって。
超低空飛行で。
うちの母(当時7歳)は焼夷弾の雨の中を駆け抜けて、
祖母と共に橋の下に逃げ込んで助かったと言っていたな。
よく死ななかったものだと言っていたが、運なんだろうな…。
家が飲食店をやっていたので、
お客としてくる(日本の)兵隊さん達によく饅頭とかお菓子を貰っていたそうな。
>660さん、
東京大空襲などの証言には「転んだら死ぬからね」と励ましあって逃げた、
という発言がしばしば出てくるので、逃げる群集に踏まれたらひとたまりも
ないな、と考えていましたが、それだけではなく、異常な高温になった
道路に接触すると人体が発火するからなんですね。
ながいあいだの単純な考えを訂正する機会を得ました。感謝です。
今年の猛暑で、足裏がやけどするので犬の散歩もできなかったですものね。
あの数百、数千倍の温度・・・。
うちは、東京から東北に疎開するときに列車が爆撃され、財産が灰に。
亡くなった爺さんは若い頃から集めた本が〜と惜しんでいたそうです。
敗戦してからも、米軍の偵察機が気まぐれに乱射して殺された人も
少なくなかったと母がいっています。
広島の原爆は、朝礼で学生、児童、先生がたという明らかな非戦闘員が
いっせいに外に出るのをみはからってやったんですよね。
長崎では高度をさげて、人体実験の度合いを。。。チョンも白人も怖い。
発火するのは人体じゃなくて着衣だろ。 オカルトじゃあるまいしw
あ、失礼。
爺さんの体験談からムーの投稿欄に格下げですよね、ご指摘に感謝〜。
夏はまだおわらんのか・・・保守
保守
保守
700 :
マンセー名無しさん:2007/09/15(土) 01:01:50 ID:/ShlzupW
700ですよ
ダヴァイダヴァイ
702 :
548は低能:2007/09/16(日) 12:21:23 ID:+FLwmSNx
伴というのは、万葉集を編纂した大伴家持、「応天門の変」に関係する伴善男なんかも出してる古代からの名門貴族の名字。
「伴武澄(ばん・たけずみ)」など、「なんてお公家(くげ)っぽいひびきだ」と私には思える。
これを「韓国名を持つ」などと、あまりの無知、低能っぷりに涙がちょちょぎれる。
参考:大伴氏
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大伴氏&oldid=14259142 > 548 名前:マンセー名無しさん メェル:sage 投稿日:2007/05/12(土) 15:50:59 ID:R9HyIty9
> これらの事を踏まえて韓国人?かは定かではないが
> 韓国名を持つ人のこの記事はすばらしいものだと思う。
>
> 父親を偲ぶパラオ鎮魂の旅 共同通信社記者 伴 武澄
703 :
.:2007/09/17(月) 05:51:59 ID:nwd+rkTp
朝鮮姓に「伴」ってあるのかww
704 :
.:2007/09/17(月) 16:20:48 ID:nwd+rkTp
ない。
このスレの投稿者たちが無知な低能だと印象操作しようとする朝鮮人の陰謀だとおもわれる。
伴姓と聞けば、伴忠太しか思い当たらない俺は年寄り。
キカイダー ジローの中の人=伴大介を思い出した私は チョットだけ ヤング(w
番場蛮は伴性でなかったと今頃気付いたウリはボケ老人
もう20年以上前の話だけど、中学時代のじいさん先生が横浜出身で空襲経験者だったな。
授業の合間に体験談を聞かせて貰ったよ。
爆弾が近くで爆発したらその爆圧で目玉が飛び出すんだそうだ。
だから、みんな伏せる時は両手の親指で左右の耳の穴をふさぎ、残り4本の指で両目を覆うんだと。
焼け出されて食べ物も無かった時に、鯨の加工工場のおじさんがよく鯨の缶詰をくれたらしい。
だからその恩も有って横浜大洋ホエールズの熱烈なファンだった。
大洋が負けた翌日の授業は露骨に不機嫌だったなw
710 :
マンセー名無しさん:2007/09/24(月) 22:45:06 ID:ENCpOc1r
良スレアゲ
711 :
マンセー名無しさん:2007/09/29(土) 00:42:20 ID:zv5w5Sbi
どうやらもう寝たが尽きたようだ
712 :
マンセー名無しさん:2007/09/29(土) 01:41:45 ID:bEgUbsMR
じいさんの体験談じゃないじゃん。 ここはハングル板なんだから今更そんなもん貼らんでも
714 :
マンセー名無しさん:2007/10/01(月) 18:06:51 ID:QCguoLx3
このスレが立った日、2006/07/23(日)
今714レス目、うーむ
715 :
マンセー名無しさん:2007/10/02(火) 02:46:56 ID:JwH7+4D7
だからもうネタ切れだろう。
716 :
転載:2007/10/02(火) 20:54:48 ID:mj8xQRLc
163 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2007/06/23(土) 16:02:17 ID:RsMXANiu
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1146887023/917 917 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2007/05/13(日) 21:28:11 ID:U7ktvq27
今だからこそ語っておこうと思う。ばあちゃんの経験です。
朝鮮人は死ねばいいというのが、ばあちゃんの口癖だった。
当時、上海租界にいたじいちゃん夫婦は敗戦とともに日本へ引き揚げる
ことになったのだが、使用人だった朝鮮人が突如暴走。
家中の金品を強奪し始め、あげくばあちゃんを乱暴しようとした言う。
最初は殴りかかったのかくらいに思っていたが、恐らく強姦未遂であろう。
じいちゃんが助けてくれなかったらお前は生まれてなかったんだぞと
よく言っていた。その先は教えてくれなかったが、相手はどうやら2人いたらしいので
もしかしたらじいちゃんはその朝鮮人を銃殺したかもしれない。
小柄なじいちゃんが止めた位じゃ2人を止められないと思う。
その後、なんとか日本へ引き揚げたじいちゃん達を再び朝鮮人が襲う。
当時、じいちゃんの実家は六本木辺りにあったが、上海に行くときに
実家は人に貸していたらしい。そこにしか行く当てがなかったじいちゃん達は
やっとのことで家にたどり着いたわけだが、そこにいたのは知らない朝鮮人だった。
お前ら誰だと、じいちゃんが声を荒げると、家の中から数人の朝鮮人が出てきて
「ここは俺達の家だ!なんか文句でもあるのか」と恫喝を受けたらしい。
実は当時、近所に同じように家を奪われた日本人が多数いて、
中には住んでるにも関わらず無一文で追い出された家族もいたらしい。
その後、どうしたかは知らないが、ばあちゃんは死ぬまで朝鮮人を
恨んでいたよ。
で、一通り話をした後、ぼそっと決まって言うんだ。
「でもね、日本が負けるまではホントに仲良くやっていたんだよ。
誕生日にお花をくれたりもしたんだよ。(たぶん上海租界時代のことかと)
ばあちゃんなんか悪いことしたのかねぇ。」って。
これが、ばあちゃんから聞いた当時の朝鮮人の姿です。
嘘だと言うのは自由ですが、参考までに。
じいちゃんの口癖。
空軍所属だったじいちゃん(衛生兵)南方へ部隊が移動する時、部隊の中から食中毒の人が出たので、付き添ったらしい。
で、病院に行ってる間に、部隊は飛行機で南方へ移動。
じいちゃんおいてかれました。ショック〜。
そのまま原隊へ合流出来ないので、他の部隊へ配属に。
……で、蓋を開けたら原隊には物凄い被害が。
病人が出なければ死んでるなと、最近思い出した様に言う。
強運なじいちゃんはまだ存命で、今日は稲刈りをしておりました。
元気過ぎvv
原隊がどうなったのかは、今も気になるようで(そりゃ友達もいただろうしね)、南方の様子を書いた戦史物を時々購入しては読んでます。
そんなじいちゃんの友達は、指が吹き飛んでなかったり、足が不自由だったりする。
とりとめもなくなった。ゴメン。
皆まだ元気に生きてるから、機会があればネタ仕入れておくよ。
718 :
マンセー名無しさん:2007/10/11(木) 00:05:10 ID:Ztc1fAd3
母方曽祖父のは少ししか知らないんですが、日露戦争の対馬沖海戦の軍艦に
乗ることになって検査受けたらぢが引っかかって乗れなかったら
乗る予定の艦が沈没した、と。乗ってたら私はここにいません。
祖父の方。祖父は絵描き志望だったんで、いまも当時持っていってた
日記を兼ねたスケッチブックが残っています。
日清戦争時に大陸へわたり、時々小競り合いをしつつも割とのどかに
生活していた様です。祖父は私が小学生の時に亡くなった上、私が女の子だったので
戦争の話は全然してませんでしたが、スケッチブックに記された日記から
その生活が伺い知れましたのでそれを。
某年某月某日、某所(部隊名まで記載されてますしルートも記載されてますが
一応伏せます)より上陸
某駐屯所にてしばらく生活していたようですが、その屯所のスケッチ、
野菜を売りに来た幼い兄妹に慰問袋に入っていたキャラメルをあげたら
後でかぼちゃを一つくれたので、御礼にスケッチしてそのスケッチを渡した、
部隊の食事を作っているクーリーのおっさんにスケッチさせろと言ったら
おもむろに手ぬぐいで顔をぬぐい、煙草をぷかりとふかしながら
ポーズを取ってくれた(絵付き)、部隊長がオートバイ貸してくれたんで
戦友と一緒に偵察がてら平原走り回って楽しかったぜヒャッホー、とか
本で見てた憧れの遺跡がそこここに!ヒャハーー!みたいなスケッチしまくってたり
慰問で能楽が来たとスケッチしてあったり、どこそこで大火があって
消火に借り出されて煤まみれになった、とか。
719 :
続き:2007/10/11(木) 00:06:39 ID:Ztc1fAd3
その後小競り合いで銃弾を受けて、大陸が激戦になるまえに
本土に戻ってそのまま故郷で過ごしたそうです。
スケッチブックの最後は病室の窓から見た風景と、
船からの風景でした。
時代的に運が良かったのでしょうが、スケッチ見てるからに
滅茶苦茶エンジョイしていた様子です。
ほかの方に比べてのどかで申し訳ありません。
ちなみに祖母方の曾祖母は被爆者で、後に癌で亡くなりました。
祖母は、当時結婚して山口にいたので、新型爆弾の知らせを聞いて
慌てて故郷に戻ろうとしたものの周囲が必死に説得して断念。(既に後から
入った人間がすぐに倒れるという情報も来ていたそうです)
曾祖母方の親類はほぼ全滅に近く、更に残った土地もいい土地だったもので
強奪にあってしまい、亡くなるまで中国朝鮮アメリカが大嫌いでした。
「毛唐、チョソ。シナ」と呼んでラーメンすら口にしませんでした。
720 :
マンセー名無しさん:2007/10/11(木) 00:23:30 ID:/5JVqxKt
>>716 本当だと思います
似たような話しを聞いています
>でもね、日本が負けるまではホントに仲良くやっていたんだよ。
ま・・でも、これ↑を言うと、Native朝鮮人は必ず火病を起こします(藁
彼らにとっては「日本は残虐非道な植民地政策を行って、瓜たちは被害者ニダ!」ってのが
崩れると、だぅやら自我崩壊するらしくて、いきなり激怒しだします。
(今までこれ(昔は仲良く暮らしていた)を言って、怒らなかった朝鮮人は1人だけニダ・・)
722 :
マンセー名無しさん:2007/10/11(木) 03:34:28 ID:/5JVqxKt
ネタはあるんだけど
在日側から語って欲しいってのはあるね
戦後のどさくさにまぎれて事件が起きたが
全てが語られているとは思えない
在日側から明らかにしたらどうですか
恐くて出来ないかな?
喧嘩最強の在日が日本人相手にビビってはまずいんじゃないですか
答えて在日さん
大正生まれの婆ちゃんとの会話。
俺「(戦時中)この辺りにもあっち(某半島)の人居た?」
婆「いたよ」
俺「どんな感じだった?」
婆「見てたらちゃんと働いてた」
俺「…(わざわざ「見てたら」ってオイ…)」
婆「あと大蒜臭かった。」
俺「…ふ〜ん)」
俺「…」
婆「…」
俺「…(それだけ?)」
婆「…」
俺「それだけ?」
婆「あまり聞くな」
俺「え?」
婆「泥棒に入られたら殺される」
俺「…(何があったのかわかってしまった…)」
会話がつまんなくてごめんなさい。
>>717 内容は面白いんですけど、冒頭の「空軍」記載に…
おじい様がそう仰ったんですか?
お手数ですが、正式所属を伺っていただけると有難いです。
あなたのおじい様が作ったかもしれないご飯をいただきながら、
我々の存命の祖父達の健康と、あの世の祖父達の安らぎを願っています。
725 :
717:2007/10/12(金) 01:03:07 ID:dYOcFy5H
>>724 ぎゃあ、間違えました! ご指摘ありがとうございます。
空軍ではなくて、飛行機に関係する部署です。
私が空軍と脳内変換してしまいました。済みません。
恥ずかし〜。穴があったら入りたい……。
今度正式所属聞いておきます。
726 :
724:2007/10/12(金) 21:01:53 ID:SKerInZL
>>725 脳内変換、私もしょっちゅうやりますよ。
「空軍」ご存知でしたら、正式所属は不要です。
でもおじい様とあなたのためには、良い話のネタになるかもしれませんね。
私の祖父はフィリピンで戦死しており、孝行できませんのでちょっと羨ましいです。
陸軍も海軍も「航空隊」、って呼んでたもんな。
>>718 も日清戦争、って書いてるけど、たぶん支那事変か日中戦争
保守
めそ@心の同盟国 ◆.6Ed2kmAUE さんに誘導されたので書いてみよう。
うちの婆さんは数年前に他界したが生前によく聞かされた話。
10代で疎開のために岡山県から平壌に移住し平壌の女学校を卒業している。
女学校では裕福な朝鮮人の娘たちと机を並べて勉強しテニスや乗馬などもしていたそうだ。
冬になると凍った川でスケートをして遊び、
疲れたら川辺で同級生の朝鮮人の娘たちが持ってきた栗などを焼いて一緒に食べるのが楽しみだったそうだ。
婆さんはハングルの日常会話程度はできたが、それも同級生の朝鮮人の娘たちに習ったのだそうだ。
爺さんは京城にあった朝鮮総督府の税務署で事務官をしていて直属の上司は京城でも裕福な両班の一人で
上司の両班が持っていた大きな屋敷を借りて婆さんと暮していたらしい。
その屋敷には上司の両班から紹介された女中が何人かと料理人がいてかなり裕福な生活をしていたそうだ。
爺さんの弟は平壌で爺さんと同じ仕事をしていたが直属の上司は日本人で部下に10人ほどの朝鮮人がいたらしい。
爺さんと上司の両班は兄弟のように親しくしていて、京城の両班たちとも親交が深く
家族ぐるみでお付き合いをしていた両班も多かったそうだ。
爺さんと婆さんの間には4人の子供がいて京城の小学校に通わせていたのだが
この小学校でも朝鮮人の子供と日本人の子供が机を並べて勉強していたそうだ。
母の話だと京城の小学校では生徒が掃除をすることはなくて日本人の用務員が
生徒の登校前や放課後に教室や校庭を掃除していたので日本に帰ってから通った小学校で
生徒が教室や校庭の掃除をすることに驚いたそうだ。
731 :
730:2007/11/09(金) 02:35:16 ID:v1aAp/Rn
(続き)
爺さんは終戦間近になってロシア軍が南下を始めると上司の両班と相談し
仕事を朝鮮人に任せて帰国することになったのだが帰国の準備や手筈は上司の両班がしてくれて
爺さんは円や軍票の価値がなくなるのを見越して雇っていた朝鮮人の女中や料理人には
当時としては高価だった懐中時計や万年筆や貴金属を給与の代わりに持たせて帰郷させ
自分たちはほとんど無一文になって帰国の日を待ったそうだ。
京城を離れる日には仲がよかった両班たちが荷馬車と家族全員分の絹の洋服と革靴を用意してくれて
都市部には暴徒化した朝鮮人がいるらしいからと農村部を通って釜山まで送ってくれたそうだ。
農村では日本語が通じない朝鮮人ばかりだったが爺さんは仕事で使っていたからハングルが堪能で困らなかったらしい。
爺さんの弟は平壌にロシア軍が侵攻してくるまで部下の朝鮮人たちの軍票を金に換えるために奔走し行方不明になったそうだ。
爺さんの弟の嫁さんには12歳から生後5ヶ月までの5人の子供がいたが
弟が行方不明になった後で部下の朝鮮人たちに護衛され無事に釜山まで辿り着き帰国している。
弟の嫁さんは福岡に着いた時には朝鮮人に贈られた絹のドレスに革靴という姿で周りから変な目で見られたそうだ。
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1187337705/861-863 862 名前:861[sage] 投稿日:2007/11/08(木) 19:13:35 ID:???
終戦に伴い、大叔父さんの艦も本土に帰ろうとしていると、樺太近辺にいた船舶はすべて大泊港に向かえと命令があったそうな。
大叔父、たぶん花月に乗ってたんだろうけど、大泊に着いてみるともう人人人人だらけ。
ソ連軍が真岡に上陸し、守備隊が食い止める中で、着の身着のまま逃げてきた避難民。
着く船着く船、片っ端から人積んで、本土に向かって逃げてったそうな。
そんな中、大叔父が上陸してみると、朝鮮人の態度がやたらにでかい。
ざまあみろ敗戦国めだの何だの言われて、唾まで吐きかけられたそうな。
変わり身の早さと豹変振り、お前ら何もしてねえだろと呆れながらも、彼らにも避難船が来ているぞ、ソ連が来たら帰れないぞ、日本に行こう、と声をかけてみてもガチシカト。
それどころか大八車引っ張って、空き家の箪笥の引き出しだけ片っ端から積んでって、でっかい屋敷に陣取って「ウリの家ニダ!」とか言い出す始末だったそうな。
そんな状態じゃ呼びかけるだけ無駄なわけで。
一応待った、声もかけた、自分で残る言ってる奴いつまでも待ったって、こっちも危なくなるだけだ、ってんで最後にはあきらめて大叔父たちも日本に帰ったんだそうな。
大叔父の戦争は、実はまだちょっとだけ続く
863 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2007/11/08(木) 19:27:06 ID:???
帰国後の大叔父、残存艦とその乗員のご多分に漏れず、復員省に引っ張られた。
お疲れさん、日本に帰ろう、と延々外地と内地を行ったりきたり。
それも終わって、晴れて自由の身になって幾十年。
テレビを見れば「無理やりこんなとこに連れて来られて、しかも置いてかれた!謝罪とry」とかいってる奴がいる。
おまけにメディアは同情的、というかそっちの言い分100%、自称市民も吹きまわって、政府どころか世間まで信じかけている始末。
「俺は自分の眼で見てきた。あんなの嘘っぱちだ、ふざけるな。今の若い奴は何も知らないから信じてしまう。テレビも新聞も、俺たちの言うことなんか聞きゃしない。それどころか、俺たちが外道扱いされる始末だ。納得できるか。」
と、酒の勢いもあってか、延々34回は同じ話してたとさ。
ぶっちゃけ、朝鮮人は悪いって言いたいだけの体験談みたいなのは見る価値ないな。
どこまで作ってるかわからんし。
まあそっちの方が食いつきがいいんだろうけど。
そんなあなたに古来より伝わる素敵な言葉を。
「だったら見なきゃいーじゃん」
お前の主観などどうでもいい。
>>733 実際に一市民や一兵士として生きてきた方々の体験を聞ける貴重なスレなんだから、
くだらないケチつけないでよ。あくまでも"代筆"だし、うろ覚えもボカシもあるでしょ。
内容が変なら質問すればいいんだから。本人が御健在なら確かめてもらえるかもよ。
君も 爺さんの体験談 を聞いてたら書いておくれよ。
>>1には日本人限定とは書いてないから、半島の人も在日の人も書いていいんだよ。
散々聞かされてきた妄想や捏造なら、すぐ厳しいツッコミが入るとは思うけどね。
何でそんなに食いついてるんだ?
良い話も悪い話も混在してて当然だろうに。
悪い話ばかりになってしまってるのは確かに事実だしな。
そういう事実が多かったせいもあるんだろうけど。
>>737 ハン板は嫌韓のための板じゃないぞ。
かの国を愛してやまない人の為の板だw
>>740 俺も世にもまれな珍獣を愛してやまないし、ヲチャーを趣味としてはいるが、
どう見ても
>>733はハン板向きではない。
742 :
マンセー名無しさん:2007/11/18(日) 23:40:55 ID:l3Xos7JM
ほす
どうやらネタ切れのようだ
746 :
マンセー名無しさん:2007/12/01(土) 12:51:00 ID:utkbayCH
こういうスレッドが立って本当に嬉しいです。でも、できればお祖父様のお話しを聞いて書くだけではなく、そのお話をビデオか録音テープで録って残してほしいです。あの時代を知ってしる方は年々少なくなってくるので、できれば証拠となるような証言を残してください。お願いします。
747 :
マンセー名無しさん:2007/12/01(土) 23:24:33 ID:IlugVnvd
在日の同級生が祖父から聞いた話で、日本軍兵士を捕らえたら
足の脛を切って塩をすり込むという虐待をやってたんだと。
でもそいつは田舎が済州道で、どう考えてもそいつの爺が日本軍と
戦ったとは到底思えんので、これは多分三国人暴動か終戦時朝鮮の
日本人虐待を、さも日本軍相手に戦ったかのように吹聴した話だと思う。
748 :
マンセー名無しさん:2007/12/03(月) 15:09:18 ID:aXnk8ttz
祖父は父方も母方も亡くなったが、
生前に聞いた話を少々。
うちの父方の祖父は徴兵で中国に行き
(当時住んでいたのが三重だったのか和歌山だったのか
ちょっとわからないが)
負傷して帰国したのち、日本で終戦を迎えた。
向うでよほど悲惨な事があったのだろうと
想像しか出来ないが、祖母や父曰く、
戦後何年かは精神を病み、酒びたりだったそうだ。
749 :
マンセー名無しさん:2007/12/03(月) 15:09:56 ID:aXnk8ttz
母方の祖父は逓信省の地方航空機乗員養成所(新潟)から
松戸の高等航空機乗員養成所に移り、そこで終戦を迎えた。
「当時はエリートだったんだ」と、よく自慢していた。
逓信省といっても、実質陸軍関連の学校だったらしい。
当時の話は「昼飯がコッペパンだった」とか
「木製のグライダーで飛ぶ訓練があった」とか
「俺は新潟にいた時、訓練で雪山登ったり、スキーも習ったから
俺はスキー上手いぞ」とか
割とどうでもいい話が(と当時は思った)をよくされた。
当時、敵国語ということで、英語は禁止されてたようだが
その養成所では、英語の講義もあったのだそうだ。
「日本が戦争に勝った時、お前らがアメリカの兵隊相手に
言葉が通じない、では困るから」という事だそうだ。
松戸高等航空機乗員養成所は戦後しばらくして無くなり
どういうわけか、その養成所の看板を祖父が持っていた。
死ぬまで、電器屋をしていた祖父の家の玄関脇に転がしてあったが
死後、どこかの航空関連の博物館に寄贈したらしい。
(詳細不明……誰か見かけたら教えてくれ)
亡くなる数ヶ月前、その養成所の卒業アルバム的なもの
(そんなものが存在する事も驚きだが)
を祖父の家で発見し、当時の話をいろいろ聞いた。
当時の同級生の名簿(住所録付)もついていたが、
その中に一名、名前からも住所からも
朝鮮人とわかるものがあった。祖父に聞くと、
「その同級生は頭がよく、他の日本人と同じで仲良くやっていた。」
(その割に韓国製や中国製のものは毛嫌いしていたがw)
その同級生は、戦後もしばらくは連絡をやり取りしていたらしいが
朝鮮戦争時に半島に帰り、将校になり、
そして行方不明(おそらく死亡)となったそうだ。
750 :
マンセー名無しさん:2007/12/03(月) 15:10:31 ID:aXnk8ttz
祖父母やうちの親父は、「朝鮮人」と言う時に
指で「クルクルパー」のジェスチャーをし、
中高生だった頃は、そういう仕草が差別的だと
いい印象は受けなかったのだが、
それから10数年たち、ハン板を見るようになって、
的を得たジェスチャーだな、とww
もっと当時の事を聞いとけば良かったと
いまだに悔やまれる事があります。
ちなみに大叔父(祖父の弟)は、相当優秀だったようで
飛び級して米子の航空機乗員養成所に入り
そこで終戦を迎えたとの事。
「米軍の飛行機が機関銃撃ちながら追ってきた」とか
「防空壕から出たら、校舎の建物がなくなっていた」とか
そういう話を聞いた事がある。
こちらはまだ存命中な上、我が家の隣に住んでいるのでw
機会があったらいろいろ聞いてみたいと思う。
751 :
マンセー名無しさん:2007/12/03(月) 16:15:57 ID:kWGi5Ymw
>>750 >機会があったらいろいろ聞いてみたいと思う。
色々聞いて、是非ここに書き込んで下さい。
こういうのって書籍化されればいいのに・・・
753 :
マンセー名無しさん:2007/12/04(火) 21:10:47 ID:H6s/HtcS
今週、犬HKの殿の番組で、海外からの引揚者の話をやるみたいだね。
予告見ただけなんで、どんな取り上げ方するかはしらないけどさ。
660万人だって。海外にそんなに日本人がいたんだ!と驚いたよ。
同時に、改めて840万人の強制連行なんてありえないと思った。
今のうちに生き証人の話を聞いて伝えていかなきゃいけないね。
754 :
マンセー名無しさん:2007/12/05(水) 18:10:56 ID:qz6f2AaP
ホノルルマラソン:90歳大河原さん完走 8時間以上かけ
90歳5カ月の健脚がハワイのダイヤモンドヘッドを駆け抜けた。
9日、当地で行われた「JALホノルル・マラソン」で今大会日本人最高齢でマラソンに挑んだ
群馬県安中市在住の大河原辰雄さんが、42.195キロを8時間11分56秒で無事走り抜いた。
レース途中に激しく雨が降る悪コンディションを克服してのゴールに「これで思い残すことはない」
と晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
大河原さんが走り始めたのは60歳になってから。
「走っていると若い人が相手にしてくれる。若さを保つ秘訣(ひけつ)です」。70歳になって足を骨折し、
中断した時期があったそうだが、80歳から群馬県民マラソン10キロを今年まで11年連続出場して今回に備えたという。
大河原さんにはハンディがある。太平洋戦争で従軍し、東部ニューギニアで右足を負傷したため、
走るには少し不自由がある。この日も35キロ付近で右足に痛みを感じ始めて「我慢しながらの走行だった」そうだ。
だが「戦争中のことを思えば、マラソンの方が楽だ。ハワイはヤシの木があってニューギニアと似ているが、
飲まず食わずの当時の行軍とは比べものにならない」と言い、完走に涙ぐみながら感慨にふけっていた。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071210k0000e050068000c.html
★ 日本こそ 地上の楽園 ★27
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1196248158/284 284 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2007/12/13(木) 09:54:46 ID:hd/HA4PA
個人的には拳銃で撃たれるより、刀で袈裟懸けに斬られる方が恐怖感あるな。
ところでバンザイアタックって、
両手を挙げて降伏しようとした日本兵を殺した言い訳だとも言うな。
死んだじーちゃんが、アメリカ兵には投降出来なかった、捕虜取らず殺す事が多いから
って言ってた。
当時自虐反戦教育どっぷりだったから、なーにいってんだこの○○は・・と思ってけどさ。
小ネタな上にさんざん既出なものばかり、半島関係ない話も含んで申し訳ないですが
終戦当時10歳前後、中国地方の山村に住んでいた母の思い出話
・朝鮮は「ポリコアリマテンカー」といって廃品回収をしていた。
・朝鮮は日雇いで雇ったとき、お茶を出してやると(そんな約束はしていないのに)
食事まで要求するので図々しかった。
・牛(農耕使役牛)が死んだら河原に埋葬するのだが、朝鮮が掘り返して
盗んで食べてしまうので日本人は気味悪がっていた。
・あぜ道でアメリカの戦闘機に追いかけられて死ぬかと思った。
・年の離れた兄が終戦後何年か経って死んだと思っていたのにいきなり帰ってきて驚いた。
母の思い出話による伯父(故人)の身の上話
・シベリアで捕虜にされた
・このままなぶり殺されるくらいなら、と思い脱走した。
・親切な満州人に匿われて1年ほど暮らした。
・「日本は全部焼け野原になっている。親族も生き残っていないだろう。このまま私達の養子になれ。」
と説得されたが山奥の集落のこととて、だれか生き残っているだろうと思い、日本に帰ってきた。
保守
保守。
akeomekotoyoro
762 :
マンセー名無しさん:2008/01/06(日) 23:15:41 ID:Z3u/95Fu
祖父がなくなった今改めてもう絶対どんな話も聞けないのだな・・・と思うと
涙があふれます。ただ祖父は生前たとえ戦争に行っている間でも
周りの人に恵まれ幸せだったという言葉が胸に残っています。
でもひとつとても信じられないけど訓練で中国の人を槍でさして殺したと
いう話は今でもどう受け止めていいのかわかりません。
祖父はもし訓練で中国人を刺せなかったらお前は使い物にならないから
お前のほうを刺し殺すぞと脅されるような形で中国の人を刺し殺したそうです。
763 :
マンセー名無しさん:2008/01/06(日) 23:16:39 ID:Z3u/95Fu
すいません。祖父は中国ではなくてシナと言っていました。
悲しいけど、それが戦争なのよね。
悲しいけど、これ戦争なのよね
南洋〜中支と兵役のある祖父曰く、
実戦で活躍するのは、
今で言う派遣社員、フリーター、ニートだそうな。
国内に居場所が無いから、居場所を作るのに必死になるんだと。
逆に国内に居場所と言うか既得権益のある連中は戦場で弱いと。
???
よく理解できない。
もう少しきちんと説明してほしいな。
大東亜戦争時代にフリーターとかニートがいたという意味?
>>768 おいおい、よく読みなよ。
原文に「今で言う」ってはっきりと書いてあるじゃないか。
帰るべき会社とか守るべき家とか、そういうのが本土にない奴は
戦場に自分の帰るべき場所を構築する例が多い。
そのため戦果を上げようと躍起になる傾向が強い、ってことだろ。
770 :
マンセー名無しさん:2008/01/10(木) 23:31:52 ID:VGWWTQcM
スパイで練習ってのは良くあったことだと思うけど。
スパイ関係者の娘を慰安婦にしたりとか。特に共産匪関係は情け容赦なかったと思う。
>>769 だからそこがよく分からないんです。
>今で言う派遣社員、フリーター、ニートだそうな。
あの時代に、今で言う派遣社員、フリーター、ニートに相当するような人間がいたというのが
まったく知らないしイメージもわかないんです。いたんですかね?
だって現代のニートやフリーターが徴兵に応じるとは思えないし。
派遣社員に相当するのってどんな職種かもさっぱりピンとこないし、
だからもう少し詳しく教えてほしいんですよ。
>今で言う派遣社員、フリーター、ニート
当時のこれに相当する人たちってどんな人たちで、どんな境遇に置かれていたのか?
どんな時代にだって冷や飯食いはいるでそ。
子沢山農家の下の方とか、都市部の日雇いとかさ。
徴兵×→志願兵◎じゃね?
徴兵に応じない・・・それ犯罪ですから。
所謂負け組のイメージなんじゃね?ニートは貧困層じゃないけど。
確かに東北とか九州とかの貧しい地域出身の部隊は勇猛さで名を馳せたわけだし、対して大阪出身の部隊は
戯れ歌に使われるほどてんで弱かったと言われてるな。
ああ、そういう事なんですかね?
なんか複雑に考えすぎてましたw単に負け組のイメージですか。
でもずいぶん大雑把な比喩のような・・・本気でどういう意味か悩みましたw
当時の子沢山農家の末っ子とか都市部の日雇い人夫とかが
現代のニートやフリーターと同様の心持ちの甘ったれサンとは到底思えませんから。
農家の三男坊ってやつかと。
やる気が合っても甘ったれてなくても働き詰めでも「跡取りじゃない」
って点でフリーターとか就職浪人とかとよく似ているかも。
そう言えば新撰組なんかの浪士隊も貧乏侍の「部屋住み」が多かったんだろうな。
あれと同じような感じだね。
旗本の三男坊とか、浪士とか、農家の末っ子とか、その他もろもろの
昔の不遇な状況に追いやられていた人たちは、みんな
「いつか俺だってやってやる!」って内心思い続けてたと思う。
現代のニートやフリーターが「いつか見てろよ俺だって」って
思いを内に秘めているとは到底思えないw
ましてや戦争で手柄を立てようと必死になって
活躍するとは到底想像できないなあw
だって今のニートの皆さん達は「不遇な状況」にあるわけではないでしょ。w
いい加減スレ違いな話はやめないか?
正直しつこく揚げ足をとってるだけにしか見えん
そういう時は、自治厨になるよりも
進んでネタを投下した方がいいらしいと
おじいちゃんが言っていたw
スレ違いを一回指摘しただけで自治「厨」か
すぐに嫌韓厨と喚く連中と変わらんな
俺の爺さんは二人とも俺が生まれるころには喋られる状態じゃなかったな
一人は満州時代に騎馬数人で並んでる写真を見たことがあるくらいで
なんか激しく自爆してる人がいるなあwww
>>782 いや、でもこの段階で自治厨という蔑みを込めた
言い方用いるのはちょっと不適当と思うぞ。
指摘してるやつらが揚げ足取ってるとも思わないけど。
……しかしT15生まれの祖父は戦争についての話は
「知らん」「んなもん覚えてない」で通すので、
スレタイに沿った話題(爺ちゃんの体験談)が出せない。
婆ちゃんも12人兄弟姉妹のうち10人が戦中に結核で死んだ、
って事を言ってたのくらいしか覚えてない。すまん。
私の爺様はマニラの空港で戦死したらしい。
髪の毛一本も残ってないので、靖国か護国神社に参拝するしかないのかなぁ。
知人の爺さんは、インパール作戦の生き残りらしい。
785 :
マンセー名無しさん:2008/01/15(火) 02:05:34 ID:u7MQ5csw
>>767 >逆に国内に居場所と言うか既得権益のある連中は戦場で弱いと。
俺の祖父も、いわゆる「エリートの主流派」ほど、戦争が終わった途端
「鳳凰は梢を選ぶ」「君子豹変す」と嘯いて、さっさと転向していったって。
そのことについて、「今までお前らエリートの主流派として世の中を動かしてた癖に、負けたらさっさと責任逃れか」と、、
今でも激怒している
>>777-778 >現代のニートやフリーターが「いつか見てろよ俺だって」って
>思いを内に秘めているとは到底思えないw
>ましてや戦争で手柄を立てようと必死になって
>活躍するとは到底想像できないなあw
>だって今のニートの皆さん達は「不遇な状況」にあるわけではないでしょ。w
俺も同じことを祖父に言ったら、
「戦前もそんな感じに言われてけど、昭和20年頃になってやっと真実がわかってきた」だって。
>>786 >「戦前もそんな感じに言われてけど、昭和20年頃になってやっと真実がわかってきた」だって。
よければ具体的なお話をお願いできませんか?
>>786 kwsk
そんな思わせぶりなレスだけじゃ欲求不満になっちゃうよw
>>786 > >逆に国内に居場所と言うか既得権益のある連中は戦場で弱いと。
> 俺の祖父も、いわゆる「エリートの主流派」ほど、戦争が終わった途端
> 「鳳凰は梢を選ぶ」「君子豹変す」と嘯いて、さっさと転向していったって。
戦後に知識層が転向したのと、「持たざるもの」より「持てるもの」の方が弱いのとは意味が違うだろw
まぁ自称インテリ層の転向が酷すぎるのはまったくその通りだが。朝日とか朝日とかあと朝日とか。
お年寄りが身近にいる人、誰か代筆してよ。
今のうちしとかないと、何年か後には『爺さんの体験談イタコスレッド』になっちゃうんだぞw
板が板だけに、南方とか大陸方面の話とかは難しいんだよね。
他の板に似たような趣旨のスレってあるのかな? 探してみるか。
ただのレス乞食だからスルーがお勧め。
こういうやつはかなりの確率で作り話をしてでも目を惹こうとするし。
794 :
791:2008/01/21(月) 09:48:49 ID:J8xsEl0B
町内の爺様が、自分の満州とシベリアの思い出に和歌を添えて
オフセット印刷したものをくれたんだわ。
会社の同僚が仕事で爺様のお宅にお伺いした時に、軍事とかに興味ある
のが(もちろんおれの事だ)いるって話題になったらしくてね。その後、俺も
直接話を聞いたりしているうちにそうなった。
爺様いわく『(あの戦争に関しては)悲惨な話ばかり世に広まってるから、
クスっと笑えそうに書いてみた。こういうのも出来るだけ若い人に知ってもら
いたい』
ということなので、ネットに文章をあげる許可をいただいてある。
半島絡みの話は出ていないんだが、それでもよければ少し内容を紹介したい
とも思う。どうだろうか?
そんな遠慮せずに書いてくださいな。
貴重な話をお聞かせ下さい。
796 :
791:2008/01/21(月) 10:56:12 ID:xqJVa8v8
それでは、最初の一遍をまず。
元の文章の体裁のままにしてあるので、文体とか少し
馴染まないところがあるかも知れない。
あとこの冊子、題名が『満州シベリア思ひ出の記 親しきへ贈る
自序記や事始め』といい、戦友や身内に配布するための物の様
で説明不足とか出てくる可能性もある。
その辺はなにとぞご了承を。
797 :
791:2008/01/21(月) 11:10:29 ID:xqJVa8v8
軍旗祭
その頃、私は大肚川の炊事を手伝って居た。大根を切るのも国の為、
野菜きざむも兵の為、豆腐作りも戦友の為等、豆を一生懸命臼で挽い
て居たものです。
或る朝食事が済むと裏庭に集合に集合、班長引率のもとに大肚川裏山へ
駆け足登山、草深い道をあえぎあえぎ登る事三0分、マッチ箱を並べた様な
兵舎や人家の見える所で一服した後、各自萱(かや)の穂を一握りずつ取れ
と班長の命令、萱を何にするのかな等考え乍ら駆足下山した。
近づく軍旗祭の折詰に使うのり巻や、伊達巻きの簀の子作りの用意であった。
其の日から炊事は日常の外に忙しくなった。のり巻き、伊達巻き、羊羹、
鹿の子、しゅうまいと分かれた。私はしゅうまい係で一日中肉挽で大わらわだった。
夜はのり巻きすしの競争で一分間に何本巻けるか等、湯気の中の炊事は楽しい戦争でした。
翌日は、本部前広場で軍旗祭、部隊長殿の閲兵、分列行進と緊張の連続。
午後は余興の兵隊芝居で毎日毎日アンコロ餅と砂糖ばかりで弱っている武田の
兵隊達が、塩が欲しい、欲しいの風刺劇に腹をかかえた。
後刻折詰について部隊長殿の好評があった、大概良好の中に「じゃがいもの
うま煮が特に良かった」と、包丁の切れ目がぴっぴっと立っていて、しかも中まで
良く味が通って居ると、さすが部隊長殿は見る所が違う。ヨ隊の炊事班も一番鼻が高かった。
此の軍旗祭、私には始めてであり最後であった。
798 :
791:2008/01/21(月) 11:14:00 ID:xqJVa8v8
以上、とりあえずこの一編のみで。
改行とか少し工夫しないと読みにくそうだね、こりゃ…
貴重な話thx
これからのうp分も期待してます。
800 :
791:2008/01/21(月) 14:42:00 ID:JihWtoPf
なつめろ思い出の手記
つい何年か前、NHK放送で、「昭和なつめろにまつわる思い出の手記」
を募集された事がありましたので、私も満州の思い出を書き送ってみました
ところ、早速礼状が届けられ、「真に有難う早速番組で披露させて頂きます」
と、ところが放送一週間前になって速達が来て「放送局の手違ひから、時間
が無いので披露を遠慮させて頂きます。応募者が多すぎましたので」との事
でした。今日は此の手記を一寸書いてみました。
昭和二十年十二月私は一たん入ったシベリアから返送され、牡丹江第七病院
で日本兵の傷病兵看護をさせられた事があった。毎日橇(ソリ)で水を運び、
湯を沸かし蒸溜水をとり薬を入れて注射液を作ったり、衣類の洗濯や暖房用に
薪採り等、大変忙しい毎日が続いた。牡丹江の女学校を壊して、薪にしたのも
其の頃でした。
赤痢と栄養失調、寒さと疲労で衛生兵も倒れ、毎日帰らぬ戦友を見送った。
其の中に此所の病院の部隊長殿(大佐)も亡くなった。日頃温厚な方で、
好んで口づさんで居られた流行歌で野辺送りする事になり、将兵三千人暁の
合唱、其れは「勘太郎月夜唱」だった。隊長を送ると共に故国を慕う悲痛な
歌声でした。
そんな暗い牡丹江に春がおとづれ、北へ雁が飛び立つ様に、私達を再度苦
役、北へ向う列車が待って居たのです。
「影か柳か勘太郎さんか、伊那は七谷糸ひく煙り
棄てて別れた故郷の月に しのぶ今宵のほととぎす」
今でもこれを歌う時、当時の事が思い出され、今の豊かさをしみじみかみ
しめるのです。
801 :
719:2008/01/21(月) 15:02:15 ID:JihWtoPf
二編目も書きあがったので。
元の冊子が職場においてあるので、仕事の合間手が空いたときに
テキスト打ちしている次第。
この二編は大体、元の冊子でそれぞれ1ページに収る文章。この続き
はもう少し長いものも多くなります。
全部で50ページ前後分にはなるので、アップする編を選ぶべきなのでしょうね
791殿。
感謝です。
791さん、乙です!
+ +
∧_∧ +
(0゚・∀・) ワクワクテカテカ
+. (0゚∪ ∪ +
/ヽと__)__)_/ヽ +
(0゙ ・ ∀ ・ ) ワクワクデカデカ
(0゙ ∪ ∪ +
と____)___) +
804 :
791:2008/01/21(月) 17:45:42 ID:9Exu26IU
あら、>801で数字コテ間違ってる……さらにIDも変わりまくってるな
なんでだろ?
帰宅して冊子は持ち帰ってきました。これから続きをテキスト打ちしようと
思います。
ところで>801の通り、かなり分量があるのですが、トリップとか付けた
方がいいのでしょうかね? ID変わりまくるみたいだし。
>>804 偽者が出るかもしれないから、トリップをつけたほうがいいと思います。
>>791さん
大変乙です。
ゆっくりとで構いませんので貴重なお話をお聞かせくださいね。
今から3編目をアップします、トリップうまくいきますように。
それと、実はこの冊子は1年以上前に貰っていて、読んで
からかなり間が開いてました。
なので、自分の記憶から抜け落ちてた部分があります。
なんでこんな事忘れてたんだろ
大荒溝輸送隊顛末記(1/3)
○○部隊各隊からの兵隊で二十年六月頃、編成されて大荒溝駅前の幕舎生活に入った。
既にキ隊の人達が奥地へ洞窟を掘った所へ、弾薬や戦闘物資をトラック輸送する作業でし
たが、中には木炭トラックもあって、運転手も助手も苦労させられた。
八月九日のソ連参戦で、北からの避難民満載、南から兵隊補充の列車があわだたしく
行き交った。○○の大肚川部隊も十二日頃通過して行った。我々輸送隊も本隊を追ふべく
装具をまとめ、一台のトラックへ三人づつ乗り込み、暗闇の中で整列出発を今かと待って
居たが、とうとう霧の夜が明けてしまった。夜が明けて驚いた。私達の三台位前のトラック
の運転手が眠ってしまい、前の車が発車しても気付かなかったと、後続車両全部取り残さ
れてしまった。街の警備隊は全部通り終わったと思い橋を落し、街には大木を転ばし十字
路にはガソリンのドラム缶を置いて焼打ちの準備がしてあった。「もうどうにもならん。
皆此所で死守せよ」と。又、羅子溝前面の戦闘部隊もおおいに奮戦して居るが、前線に
大砲が四門しかなく、打ちまくってその中の二門は打裂けて使へず。「もう弾丸はいら
ない、この負傷兵を運んでくれ」と情勢悪化。最後に紺の服の看護婦の一団も乗せて、
兵隊二三名をつけ徒歩で朝陽山の方へ送ってやった。
其の頃駅では汽関車ばかりつないだ列車が鈴なりの人達を乗せて朝鮮国境図們の方へ
向かった。
後は、変に静かで不気味な日が過ぎた。戦闘準備と言っても、附近警備兵合せて一五
○人位、四人に一丁の銃ではどうにもならん、後は手榴弾と爆雷だけ。
※:『○○』は漢数字二桁です、本来の部隊名は『第○○○○部隊』と漢数字4桁で表す
様です。略称として4桁のうち末尾二桁を使ってる記述が2/3にもあります。
大荒溝輸送隊顛末記(2/3)
八月十七日、敵は汪清県の方から来るらしい情報であった。炊事が久し振りに奮発し
た豚肉で昼食の箸を取ろうとした時、後の山頂から友軍の大砲が火を吹いた。すわ敵襲
「◇◇(爺様の名前)と△△は斥候、前線を良く見て来い」と手榴弾を片手に羊羹を
かじり乍駅のはづれ迄駆足、歩兵を連れた敵の戦車は七台、汪清の方から轟音をたて乍
来る。直ちに帰って報告、全員直ちに散開。駅前の麦畑とトウモロコシ畑に散兵する。
其の中に、地響がして駅の屋根が砲弾で吹き飛び、敵の自動小銃が麦やトウモロコシを
なぎ倒し、そこいら中はぶすぶす弾丸の音がする。ダダダダダダダダダダ…… それに
対してポンポン近づくのを待つより仕方がないとは、甚だたよりない。其の中になぜか
打たなくなった。一番前の戦車が故障してワイヤーで二台目の戦車に引かれ、山の向ふ
側に消えた。初年兵の爆雷で故障させたとか後で聞いた。
しばらくする中に、白旗をかかげた敵のトラックが来る。「撃ちかた止め、両軍停戦、
日本人は立て」と、なんだこれは狐のつままれた思ひで立上がってみると○○(部隊名
の略称、 1/3の※補足参照)の戦友達の元気な笑顔が其所、此所から立上がった。
「お前も無事か」「おお」と早いのはさっきの戦車近くまでしのび寄って居た。帰って
夕食「これはかりそめの停戦で敵襲があるやも知れない、今度は駅周辺に散兵警戒せよ」
と、小雨の中を一晩中南瓜畑に伏せる。何事も無かったが、夜が明けて驚いた。駅から
はるか後方の平地にソ連軍の車両部隊と戦車部隊が何百と並んで居た。武装解除、未練
気も無く兵器を捨てる。
大荒溝輸送隊顛末記(3/3)
貨物集積所とあって貨物は何でもある。其の日は満鮮の人達が物盗りに来た。真っ黒
い人だかり、良くもこんなに人が住んで居たものと不思議に思えた。蟻の物運び同様、
大きな荷物のお婆さんが、堀に落ちて出られず手足をばたばたして居た。
こんな事は十年に一回はあって、物資を山の中へ隠し、食いつなぐのだとも聞いた。
日本人が一生懸命節約して送ってくれた此の物資に、複雑な気持ちで見送った。それから
それから近くにあった■■■部隊の練瓦兵舎に入り此の部隊の指揮を待った。
「銃音も絶え 東満は麦の秋」 ◇◇(爺様の俳人としての名前)
以上です、乙してくれた方々ありがとうございます。
仮名遣いや漢字に、普段使いなれないものが多くあるので、なかなか
スムーズにはテキスト打ちできないようです。
けど、この様な内容のものをいただいた以上、爺様の文章を可能な
かぎり正確に紹介したいと思います。
この冊子を貰ったとき(うわぁ! これは俺一人で楽しんでいいものじゃ
ねー!)とプレッシャーを感じたのを覚えています。
まだ、書き出しに近い部分ではありますが楽しんで読んで貰えているようで
ほっとしました。
日数掛かると思いますが、皆様よろしくお願いします。
最後に
>記憶から抜け落ちてた部分
の事ですが……なんでまぁ、こうもキリのいいところだったのやら(^^;
しかも印象に残ってないんだものなぁ、これで
お疲れさまです。
次の投下を気長にお持ちしています。
リンクとスレ紹介ありがとうございます。
そうか平仮名で検索すればよかったのか、漢字で検索してました。
「爺」とか「祖父」とかで。
三篇目まで上げているということで、このままこちらに書いた方が
いいのかな? あとの話はシベリアが多くなるから、ちょっと迷います。
4編目は明日にでもテキスト打ちします、3編目より時系列が遡った
話のようです。
791どの おつです! がんがれ!!
|∀・).。oO( 楽しみにしてます。 よろしくおねがいいたしますね。
なんとか昼休みに4編目できました。
この最初の段あたり、美しいと感じるのは感情移入のせいでしょうか。
ご迷惑でなければ、このままこのスレに投下してゆこうと思います。
病院勤務
ヨ隊から選ばれて、少しの間、東寧一三七の病院へ古兵殿の看護に行った事があった。
大肚川本部を通り、なだらかな草原の丘の小道は水温む満州の春とて、すずらんの白、
シャクヤクのピンクと色とりどりに咲き乱れアルプスのお花畑の様だった。其の中を
あれこれと手折って病院見舞用にと花束を作った。
はるかソ連領が見えるなだらかな谷合いに病院があって、内山隊、外山隊、染山隊
とあり、私は内山隊の胸部疾患の五人をお世話する事になって居た。朝起きると釜に
湯を沸かし、真綿のチョッキを浸し、熱い中に患者に着せ替へ安静にさせる。体温と
小水を測り、室内に物音を立てない様静かに掃除。午後はお湯で体を拭いてやる。
三度の食事を運ぶ等の日課であった。それにしても三度の患者食は毎日毎日が御馳走
づくめであったがおおかたは食べ残した。それに引き替え一般兵は小豆の高粱飯と
菜葉汁ばかり、古兵殿いわく「伝染病があるから食べ残しには絶対手をつけるな、
消毒は充分にせよ、煙草は喫煙所で充分吸へ」等、古兵殿の思いやりがあった。
或る夜、隣室の重患の人が非常に苦しまれたので行き、すまぬすまぬを耳にしなが
ら明方までさすってやったが、朝になって亡くなった。夕方霊安所に行ってみると、
戦友達のいかめしい着剣の衛兵に守られて、おごそかな通夜が行われて居た。
其の後病院では、重患と軽患は残し、中間の独歩患者は後方間島の病院に移送され
る事になった。私もお世話した五人の快復を祈り乍転送車を見送った。私は用済みと
なり帰隊したが、それから三ヶ月後にはソ連軍の侵入となり、一番先に此の病院も蹂躙
された事だろうと思った。
「軍靴去り 鈴蘭峠は 花の丘」 ◇◇
私のソ連入り(1/2)
大荒溝輸送隊顛末記の後、戦争は終り■■■部隊のレンガ兵舎は初めてで、其の晩は
ぬくぬく内地の夢を見た。
二、三日後日本人は直ぐ内地に帰るから身の回りの品を持てるだけ持って出発せよと、
つい一週間前には弾薬や戦争物資を運んで居た路を、故国へ帰る路と勇んで歩む。日の
丸を先頭に立てて両側の山へ向って「日本人やーい、日本に帰るぞ、出て来い、一緒に
帰ろう!」と叫んで歩いた。前線で奮戦してくれた敗残の兵隊が三々五々出て来て列に
加わる。中には捕えた狸の子で一週間食いつないだと。路は戦いの跡生々しく曲が角、
角には大抵ソ連の装甲車や戦車の残骸があり、其の陰に日本兵の屍がうづくまって居た。
此の人達がやったんだな感無量だ。
羅子溝から戦跡をはずれ野を越え、山を越えの数日金鎗へ着く、食糧は底をつき、着替
の無い衣服にももそもそしらみが付き始めた。此所で少しの間収容され、小グループの○
○の人達も皆元気で固って居たが、千人以上の隊になって居た。又行軍が始まった。野道、
山道を長蛇して行く。ソ連国境の見える丘の路端に日本の将校一人の死体を見る。それ
から十メートル位先の丁字路へ出た所に、ソ連軍の自動車五十台位焼け爛れてあった。
先程の将校の一隊が焼打ちしたにちがいない。其の勇気に頭が下がった。
道は山道になり、登りが十里、下りが十里の難波峠だ。登り終えた峠道に日本の馬部隊
が道添いに全滅して。峠でやれやれとして居た所を飛行機の襲撃に合ったのだろう。
人はかたしてあったが、馬は車両をつけたままで倒れて居た。みじめだ。
峠は下りになり豆畑、トウモロコシ畑から食物を徴発しつつ、電柱を倒して薪にした。
つるはし一丁で鋸がわり薪割りがわりにもなる。
私のソ連入り(2/2)
琿春の街へ出た。此の町から招集された人が居て、何一つ無い自分の家から表札だけ
を形見に持って来たと。川を越えてソ連領に入る、一望の草原ばかりだ、ポセット湾近
くのクラスキー草原で野営する。雨の降る日に立ったまま毛布を被って居る姿はペンギン
そっくりだと戦友同志の苦笑もつかの間、冷えて腹をこわし下痢患が出始めた。私も其の
中の一人になってしまい「軍医に見て貰へ」と言われついその気になって軍医の幕舎へ
行く、軍医殿一目見るなり「朝から何回行ったか」と「四回行きました」と答えると
「だめだめ直ちに入院だ」と、幕舎の隅に寝かされた後自動車で木一本無い草山の丘へ
おろされ「此の草の中で寝て居ろ」と見れば同じ様な病兵が何百と草の中にごろごろ
寝て居る。戦友が分けてくれた高粱の現物はあるが、水無し薪無し力無し、飲まず食
わずで青空病院の草の中に寝ているだけ、二日目の朝ごろごろして居る中へ日本の軍医
が来て大声で「貴様等は情けない奴だ、其のままでは死んでしまうぞ、もっと元気を
出せ。今この先に帰国列車が待って居る、病人が出たので補充の依頼があった。此の
中の元気の良い奴二○名出て来い」と、私もこんな所で死ぬのは嫌だと一生懸命軍医
の前へ走った。十八人目だったか、軍医いわく「よしよし其の元気だ、途中に川があ
る、良く顔を洗って病人で無い様な顔をして行け」と。二○人の怪しい一団は直ぐ出発、
途中の小川で洗顔し何食わぬ顔で待って居た部隊に入れられ乗車する。直ぐ発車、貨車
の床の揺れが背中を適当にあんましてくれたせいもあって、乾パン二粒しか食べなかっ
たが元気を取り戻す事が出来た。列車は北にひた走りに走って行った。苦役の旅とも
知らぬ人達を乗せて。
「鳥渡る 敗残の兵 物言わず」 ◇◇
という訳で、5編目も打ち終わってすぐ投下しました。
この辺はさすがにクスリとも出来ないよ、爺様。
6編目ですが、爺様の名前の絡む話なので伏字だらけ
になってしまいそうです。どうしよう、厨くさい仮名でも
当てちゃって無理やり書こうかしら、絶対現実にはなさ
そうな辺りで?
>791氏
GJです!
じゃ、名前はガンダムでw
6編目、テキスト打ち終わりました、投下します。
>824の提案を部分的採用、ネーミング方法を参考にしました。
当て字は二転三転しました、確認のためぐぐってエロゲのキャラが
ヒットした時はちゃぶ台返したくなりました('A`)……
ネーミングの元ネタで遊んでくれると、ちょっと空しさが腫れる気が
します。
同姓同名、故箏葺弓六君を悼む
丙種合格の私によもやと思ったが赤紙が来た。こんなに痩せていても日本男子意気だけ
は盛んで、「元気で征きます。父や兄姉には長い間私を可愛がって育てて頂き有難う。
皆様もお達者で、もう帰るも無いでしょうから」なんて言って、東部十七部隊駒場の営門
を入る。整列して一人々々呼ばれるのを待って居た時、つい前列の右の方の人の奉公袋に
箏葺弓六と書いてある。「あれ!彼は私の奉公袋を持って居るな」と自分のは間違い無く
持って居る。「あれ!彼と同じ名前だ」。その中に箏葺弓六の呼び出しがあってハイと
答えて二人出て行った。呼出官が「ぼやぼやするな、手前の名前を間違える奴があるか」
と怒鳴ったが、一人一人糾してみると同姓同名、年齢も同じ二人とも横浜聨隊区であった。
呼出官も慌てて今のは一月生れの箏葺だと、「それは私です。」これが彼と始めての接触
だった。
満州に渡ってから教育隊の頃、彼の手紙がこちらへ、私のがあちらへ、間違えて不寝番
に起こされる等困った。それで班長の申し合せにより私が一月生まれなので兄となり、
弟は弓七君となって事が収まった。教育が終り転属になる時、彼は時計屋さんだったので
工場へ、私は移動修理へと別れた。戦もすんで苦役のシベリアに一生を得て実家へ帰って
みると、私は既に戦死した事になって居た。これにもまた驚いた。家中が私の手を取合っ
て無事を喜んだ半面私の頭には、横浜の弟久七君の事が偲ばれ、ああ彼が逝ってしまった
のかと落胆した。三年前○○部隊の靖国神社慰霊祭の会合に私が紹介された時、北海道の
故**さんが懐かしげに寄って来て下さったが人違いで時計屋の箏葺さんでなくがっかり
して居られた。すまない様な気で一ぱいであった。今御家族は何処に居られるや、彼の
御冥福を祈るのみ 眠 々
「降る雪や 異国の丘に 眠る戦友(とも)」 箏葺
※:箏葺 弓六(ことぶき きゅうろく)はこの文を紹介するために作った仮名です。
爺様の本名との関連性は皆無です。ただし俺の脳味噌の質とは関係密接です。
お疲れさまです。
こういう文章、書こうと思っても書けないな。語彙の問題ではないのだけど‥‥。
昔の人って、ちょっと羨ましい。
>>825 腫れちゃうんだ。w
以上、今夜はここまでにしようと思います。
簡単にチェックして見ると、満州関連の話は多分あと一つくらい。
あとはシベリアでの話がメインです。
二編ほどちょっと長目の話が続きます。
>827
えぇ、発想のアイドリングで無駄なNoXがこんもりと。
……というか、仮名、もっとうまいの思いつかないのかと自分を
問い詰めたい
7編目、投下します。
2編目の直前の話で間違いないと思われます。
爺様の怒りを感じる気がします。
シベリアの歩み(1/2)
我々を乗せた列車は昼間は駅構内で、夜はゴトゴトひたすら走る。一貨車に四○人位乗せ
られ外から鍵をかけられてある。もうとうにウラジオは過ぎて居るのに北へ行くばかりだ。
皆が憂うつな顔になって物を言わなくなった。果てしない平原ばかりで、途中日本兵らし
い人達が草を刈って居る。其の姿を見て俺達もきっとあんな事をさせられるのかな等と
言っているうちに大きな湖へ出た。ハバロスクだと、日本兵がたくましく石炭の山をくづ
して居た。
それから三、四日走った夜明けに貨車が止った。「これより五百粁奥へ行くのだ、歩ける
者は歩け、歩けない者は自動車で送ってやる」という。「年寄りや古兵殿は自動車で来て
下さい、若い者は歩きますから」と徒歩組六○○人。自動車送られ組四○○人に別れ徒歩
組は先に歩き出す。鉄道線路の枕木を外した一直線の林の中の路を行けども果てしない。
途中大男碧眼ドイツ人の道路作業して居るのに会う。其の眼には「俺達がモスコーを攻め
て居る時日本はなぜ後から立ち上らなかった、お前も辛い目に合うからな」と語って居る
様だった。
毎日野宿して歩く事ばかり、八日目の頃、路を林の中へ逸れ奥へ入った所に、こわれか
かった囚人収容所があった。「これを直してお前達は此所に入るのだ、直ぐに寒さが来る
から早く直せ」と言う。林へ木を切りに入ったがもう根雪がちらついて居た。注(後から
の自動車組はとうとう来なかった。)
※:五百粁=500キロメートル、「粁」なんて漢字始めて使った。
シベリアの歩み(2/2)
直ぐ近くに五十米位の川があって、一時間毎に網を上げ一晩に自動車四台分も魚がとれ
る毎朝交代で魚の自動車積み込みを手伝わされる。帰りには魚をせしめて来るのだと内々
相談してある。積み終って外套の下へ胸から膝まである丸太の様な魚を三本はさんで来た、
衛門は手を大きく振って元気良く入って来る。(見付らなかった)良かった。内務班では
鱈腹の魚汁で皆の笑顔がもどったが、中には見つかった者も居た。早速の棺桶のお仕置き
に合う。死んだ時に入る棺桶を縦にして裸で入れられるのだ。四○糎角のロッカーでは
随分応えた事だろう。
或晩全員一せいに超され「これから身体検査をする。一人づつソ連事務所へ来い」と、
一人の女医と二、三人の兵隊が居て「右腕をまくれ、力瘤を作れ」と、其の力瘤を一人々
々測って記入し、百粍以下は病院行きだとか、全員終わった後に百人の不合格が決められ、
私も痩せて居たので百人目へ入ってしまった。翌晩零下二○度の寒さの中をトラックの中
で抱き合い乍、もときた路をつっ走り汽車に乗せられる。病院行きの我々には食糧もなく
大豆粕をかっぱらって食いつないだ。皆がぎょろぎょろした目付になり、本当の病人に
なった様だ。何日か列車にゆられた或日、急にソ連兵が来て「日本の銭出せ、札出せ」と
強請始めた。外の景色が懐しい、満州に似てきて、大きな河を渡った。綏芬河だ、満州に
帰って来たんだ。「お金は大切にせよ、ソ連兵にやるな」と伝言があった。そして汽車は
瓦礫の街牡丹江へ着き、日本の傷病兵で満員の第七病院へ入る。看護と死者のかたずけ等
の使役が待って居たのでした。
広大な土地と豊富な石炭、石油、魚資源で満足せず他国を侵略する彼の国の意図が解せ
ない。
「地の果に 突き刺す寒さ 俘虜の身に」 箏葺
791 ◆9zatwGbxuw殿。
感謝です。
シベリアのどこかに大伯父が眠っています。
場所はいまだに不明です。(つд`)
ぶった切ってm(_ _)m コピペさせといてください。
ほんのりと怖い話スレ その45
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/occult/1198298725/661-662 661 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2008/01/23(水) 21:12:07 ID:QaqGS9JOO
俺の祖父は、戦前、陸軍に徴兵されて朝鮮に行っていたのだが、間もなく除隊という頃に廬溝橋事件が起こったため、そのまま中国本土に侵攻するはめになったらしい。当然、除隊は延期。
これは祖父が中国に攻め込んだときの話だが、ある日、祖父の部隊で、偵察に出ていた兵士数人が帰ってこないことがあった。
祖父達が捜索に出たところ、ある村の入口付近にあった柿の木に、いなくなった兵士達の皮が引っ掛けられていた。皮だけだったけど、それが誰なのか分かるほど綺麗に剥がされていたそうだ。
祖父達が村を捜索したところ、村人の話から、ヒ族の仕業と判明した。ヒ族とはまあ、ゲリラみたいな、盗賊みたいなものらしい。
村人もヒ族には食料や金を奪われて困っており、討伐に協力してくれることとなったので、村でヒ族を待ち伏せにして、最終的に数十人のヒ族を捕まえることに成功した。
662 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2008/01/23(水) 21:28:32 ID:QaqGS9JOO
当時の司法制度などは知らないが、とにかく、捕まえたヒ族達は処刑することに決まった。
その処刑方法だが、目隠しして、一列に立たせたうえで、列の先頭の奴を銃で撃つ。銃弾は貫通して、数人を貫いたところで止まり、撃たれた奴は倒れる。
そして無事な奴を先頭にまた同じように撃つ。そうやって次々と、全員死ぬまで撃ったらしい。
これは、ヒ族などに大事な銃弾を何発も使うのがもったいないということで、処刑の時などはよく使った方法らしい。
ポイントは、人と人を密着させないこと。密着すれば、それだけ貫通力が弱まり、より多くの弾を必要とするので、適度な間隔を空ける必要があるそうだ。
ちなみに狙いは胸で、一撃で死ねなければ、かなり長い間苦しむことになるらしい。
数年前、祖父が亡くなって遺品を整理していたとき、黒ずんだ薬キョウが出てきて、この話思い出した。
怖くなって棄てたけど、供養したほうが良かったのかなぁ?
薬キョウ発見した時のことすごい鮮明に覚えてるので書いたが、オカルトじゃなくてすまん。
>>835 ヒ族じゃなくて匪賊だと思うのだが・・・
ヒ族ってどんな原住民だよ・・・
>827
改めて。
自分らが普段使う語調とは、違うものの影響を受けている気がします。
事実の切り身をゴトっと目の前に置かれるような、そんな迫力を感じながら
テキスト打ちをしています。
>834
大叔父様のご冥福をお祈りします。
キチンとした調査が継続的に行われば、どれだけの遺族の心が救われる
のだろう。
続きは今夜、また打ち始めます。
苦境ではあるが、クスっと笑いたくなる様な、そんな爺様達の強さを紹介で
きると思います。
>>837 >キチンとした調査が継続的に行われば、どれだけの遺族の心が救われるのだろう
実際に見つかるかどうかとはわからなくても「探してくれる=忘れられてない」って
思えるだけでも気持ち的には全然違うんだよね…。
839 :
ヒ族ってのは:2008/01/24(木) 19:42:40 ID:rHJxR8uQ
同胞を擁護するニダ! / ) :::::::::::::::::::::::::::::::::: ∧_∧
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / / 韓国スレが立っニダー! <丶`∀´>
::∩::::::::::::::::::::::::::: / / /銃乱射ヽ
∧_∧ ...| | ( ( /⌒ヽ / 人
<丶`∀´>// ∧_∧ ヽ ヽ ⊂ ̄ ̄ ̄⊃ チョパーリを叩きまくるニダァ!!
/レイプ魔.. ∧_∧ `∀´> \\<丶`∀´> n ∩
∧_∧ <丶`∀´>チンピラ ハ \ ( E) || ∧_∧
<丶`∀´> /放火魔 ノ ホロン部/ヽ ヽ_//. || <丶`∀´>
/武装スリ / , // ヽ | ノ \__/ ||/ 在日 ヽ
こういうのだろ?
えーと、2ちゃんってUNIコードな文字って受付ましたっけ?
ただいま、9編目を打ってたところですが、途中で保存しよう
としたら「ANSIコードでは消える文字が含まれます」とか……
駄目なら、文字を変えるしかないなぁムネン
調べてて脳味噌がUNIになりそうなので、文字を変える方向で。
こんなん調べるには、ちょっと思考を切り替えないと辛い……
パイン罐底の十粒の粥すする(1/2)
再度の入ソは山の中の伐採部隊だった。冬は太陽が山に添って半分顔を出し乍沈んで
しまう。夜明けは朝八時頃、日暮れは午後三時頃で夏は三時頃から夜が明け、午後九時
頃迄明るい。此所は燃料がいくらでもあるので、朝晩は高粱や燕麦の薄い粥でした。
配給の黒パンは、分けるのに耳と胴、魚も頭と尻尾とでは不公平があるので、パンは細
かく崩し、魚も骨ごと煮崩し魚汁を作り麩入りの小麦粉や崩しパンを一緒に捏ね合せ、
パイン罐でぽこぽこぬいて蒸し三糎位の満頭を作る。二ケづつが昼弁当で伐採、道路
建設の腰に、帰路は各自三十糎位の薪を持って帰り、炊事、風呂、暖房に使った。
山仕事は二人引き一米のまぐろ鋸とオノで、一人一日五リューベの仕事量、二人一組
となってドラム罐位の太さで二本根倒して二米に切り、五米の長さに高さ一米三○糎の
薪の山を作る。細い枝は其の日の中に枝焼きする大変な重労働でしたが、此の黒い麩
入りの満頭を昼焼いて食うのは楽しかった。ソ連の管理人監督が食いたそうに見て居る
ので、買収して仕事を軽くして貰おうと考え、一人前の満頭の満頭を作って彼に渡す
と、大層喜んで仕事は五時になったら帰って良しの効果てきめん。満頭は食わず、家
には子供が大勢飢えて居ると。話を聞けば、今年はウクライナの小麦が不作で各家庭
には一人当り馬鈴薯五ケしか配給されないと言う。「日本人は草を食うが、どの草が
食えるか教えてくれ」とそこで道端にある野生の午ぼう、人参、あかざ等の野草を教
えた。翌日、医務室へ怒って来て「日本人は毒草を教えた」と言う。どの草を食った
か調べたら間違っていない。量はどの位食ったかと聞いたら、こんなに食ったと言う。
量が過ぎれば胃腸に悪いに決っている。
※:五リューベ=5立方メートル。立方メートルを立米と表記し、言う時に「りゅう
べい」とか「りゅーべ」とかなる。土木建築現場では普通に聞ける言葉です。
パイン罐底の十粒の粥すする(2/2)
夏の或る日、羽の無い蝗(イナゴ)の大群が夜も昼もカサカサモソモソ、緑という
緑を一っさい食い尽くし、山から谷へ丘超えて帯状に渡って行った。この時ばかりは
神様に感謝して腹一杯焼いて食った。
或朝ソ連兵芥溜に来て山羊の骨を示し、日本人は大切な食糧を捨てて居る、此の骨
を折って見よ、骨の中にも高価な栄養があるんだと、以後は骨は砕いて煮出す事に
なった。
飢 餓 川 柳
飢疲労皆つまづく木の根っ子
道端のレンガおいしくパンに見え
毎晩が牡丹餅捧ぐ母の夢
一山のよもぎ摘みけり兵の糧
山の幸金茸銀茸つくだ煮に
山羊を背に兵百人の七日分
白樺の皮汁すすり乳に似て
笑茸笑狂いて死に行けり
冬青き物なく飲めり松葉汁
以上、9編目の投下終了です。
毎度の事ながら、爺様の表記がフリーダムです。
使用する漢字はともかく、30が三十だったり三○だったり、
基準が不明だよ爺様、爺様不明だよ基準が。
しかし、こんな食糧事情なのに、ソ連兵を食糧で買収して見せる
爺様たちがたくましいというかなんというか……凄い。
イナゴの大群見て神に感謝すか。
ちなみに変えた文字は「麩」でした、本来の字は右側が「夫」では
なく「皮」でした。IMEパッドで探したら読みが「フ」とだけありました。
多分、フスマで合ってるんだろう、ウン
お疲れさまです。
いつも楽しみ?に読ませて頂いています。
>苦境ではあるが、クスっと笑いたくなる様な、そんな爺様達の強さを紹介で
そうなんですよね。時間が経っているって要素もあるのだろうとは思いますが、
悲壮感ぷんぷんでもおかしくない状態なのに。。。
>845
爺様は何度かこんな事を言ってました。
「辛い辛い言っててもどうしようもない、なんにもならない。人間は笑う
気持ちがなければいけないよ」
信条なのだと思います、意地なのかもしれません。強いと思います。
>794にあるとおり、楽しく読んでいただけているのであれば、爺様の本望
であり、また俺が負ったと信じている、『爺様の書いた貴重な記録を可能
な限り広める』という義務が達成されつつあるという事だと考えます。
ありがたく思います。
さて、11編目から12編目まで短めなのが打ち終わりました。
このまま投下します。
泥棒コント
我々が作った山奥の半地下収容所でも真冬になると寒い、ペーチカが欲しい、ドラム罐
が欲しい、レンガが欲しいとソ連兵に訴えた。するとソ連兵は「自分達の事は自分達で作
れ、ドラム罐が欲しければ町へ行ってかっぱらって来い」と言う。「そんな事をしたら見
つかってしまうではないか」と言えば「要領良く盗んで来れば良いさ」と其の要領を教え
てくれた。町のドラム罐を盗む為に、日曜日二十人が選ばれ、十人づつ二組に分れ、一組
は町の手前の林の中へ潜む、もう一組の人達は真昼間手当りしだい空のドラム罐を持って
来る。後からソ連人が「何処へ運ぶのだ」と追いかけて来たら「それは知らない、私達は
あそこからここへ持って来いと言われたから持って来た迄だ」と言ってドラム罐を投げて
帰って来る。追いかけて来た町のソ連人は仕方が無く町へ帰るだろう。それが見えなく
なったら、潜んで居たもう一組の十人が又其のドラム罐を持って来る。見つかれば又其所
へ置いて来て次の人が持って来る。そして収容所内にはドラム罐ペーチカが出来、喜びに
火照った顔が並び、のんきな泥棒のおかげを感謝し合った。
「ほだの火に 照り合ふ戦友 笑顔見る」 箏葺
日本の腹切り士(さむらい)
毎日の伐採、空腹と重労働に喘いで居た頃、この山中にも日本新聞なるものが着始めた。
ターリシ、スターリンの旗の元に一致団結「働かざるものは食うべからず、反動者は洗脳
せよ」と言う。
初夏の或る日、伐採グループの昼休みにたまたま此の話が出て、我々には「直ぐ帰す、
帰す」と言いながらノルマを強制され、栄養不足と重労働に堪えられず倒れて行く戦友を
見るにつけ、不満爆発。「折角教えられたストライキをソ連側へかけよう」と、昼休みが
過ぎても皆立上らずサボタージュを決めこんだ。これを見たソ連警備兵は慌てて空へ一発
威嚇した。後我々に銃を向け「ピストラーピストラー仕事仕事」と、督促。「何、殺すな
ら殺せ、一度は捨てた命だ。さあ殺せ、さあ殺せ」と殺気立ち、皆上衣のボタンをはずし
皺腹をソ連兵に見せつけ「打つなら打て」と居直った。其の中に、沖縄の兵隊で腹を十文
字に切った手術跡を見てソ連兵驚き、しげしげと見究め、「日本士、腹切士」と言い乍、
引き揚げてしまい、後刻作業隊長をつれてきたり、説得されて治まった。「皆不満があろ
うが、もう直ぐ帰れるから自重せよ」と言いふくめられ、これを信じたのに三年も酷使さ
れた。其の後ソ連兵は其の人を見ると士、日本士と指をさし、一目置いて居た。
シベリアにて「国の父母 如何におわすや 鳥帰る」 箏葺
或る寺
私の生家の近くに○光寺という古い寺がある。何でも頼朝の武将で和田義盛の別院であ
り、菩提寺でもあったという。此所の住職で去年逝かれたが仲々の遺族思いで、本堂の隣
室に檀家の戦死者の写真がずらっと掛けてある。大抵私の見知りで、先輩であり後輩でも
ある人達ばかりだ。此の住職の言われるには、国の為とは言え最愛の息子を捧げられ、愚
痴も言わず、戦中戦後堪へ来られた戦死者の父母に対して、寺では最高の待遇をし、一切
の品は受け取らず、特に院号付きにした。私の叔父夫婦も其の院号付きだった。
又、県下の遺族会にも熱心に尽力され春秋供養も懇ろだった。私は檀家では無いが、今
の世の中で戦死が無駄死にである様な風潮の中に、此の住職の気持が非常に嬉しいので、
春秋彼岸には何がしかの供養費を捧げ、弔って頂き、此の戦没者の写真にまみえる事にし
ている。
「百千の 枝へ阿弥陀か 枇杷の花」 箏葺
ちなみに私が鎌倉のとある大きな寺へ行った時、境内に戦没者の碑がいかめしく建てて
あった。。戦没者の方は石囲いだけで、其の隣の犬猫供養碑の方は花いっぱい卒塔婆林立
とは恐れ入って帰って来ました。
以上、今夜はここまでにしておきます。
11編目の『腹切り士』ですが、どこかで似たような話を読んだ気がします。
同じ収容所の話だったのだろうか。
12編目、オチがコメント不能だよ爺様……
っと、12編目のお寺ですが、数年前に檀家の寄付で本堂を建替えしています。
長野の宮大工呼んで、数年がかりで工事してました。銅貼りの屋根は当初、ピカピカと
光って派手すぎに思えたけど、今は緑青でいい感じの外見に。
俺の会社も工事に関わったけど、本当すばらしい建物を造ったなと。
地元の戦没者の皆様が、あそこで供養され続けることに良かったなと思えます。
この人たちのおかげで今の日本があるんだな、、、
よし!
気合入れてはたらくべ!!
仕返し(1/2)
五月のニュースにソ連の国では禁酒令を出したとか、それに就いて又思い出を書いてみ
ました。雪解けのシベリアの川はきれいな水だった。橋がないので河原の砂利の上を乍ら、
浅瀬を見はかり渡るのが一番安全な自動車道路であった。其の日も老練な運転士と隣村の
馬鈴薯畑に馬糞運びに出かけた。シベリアの春は草花がいっせいに咲き、内地のアルプス
のお花畑の様だった。久し振りに解放された小羊の様に遠足気分にひたり乍ら、川の瀬を
見はからって渡って見た。案外水量が増していてタイヤが半分かくれる位の深さだった。
無理押しに渡って見たらマグネットが水をかぶって、川の中央でエンストしてしまった。
困って居る所をソ連兵の車が引きに来て、其のままソ連軍の兵舎前へ止められた。物珍し
い日本車を取り囲んでソ連兵がわいわいして居る所へ「日本兵は何所に居るか」と、びっ
この中尉が足を引きずり乍ら出て来た。「私の足を機関銃で打った日本兵が憎い仕返しを
するのだ、殺してやる」と血相変えて迫って来た。二人はびっくりして自動車の廻りを逃
げ廻った。何しろソ連兵が遠巻きの中の出来事なので面白がって見て居る。足が遅いので
つかまらない。其の中に運転士は何所へ消えて私一人だけ車両の廻りを逃げ回って居た。
するとスタルシナ(ソ連曹長)が来い来いと手招きするので「きっと助けてくれる」と
思って近寄って行ったら、大勢で私を捉えて動かさず「やられてしまいな」と中尉に引き
渡した。中尉は酔った勢で私に背負い投げをかけた。「この野郎」と思い乍らうまく倒れ
たら二、三回足蹴にした。どうせ義足で蹴ったのでたいした事は無いが痛そうに腰をさ
すってみた。其の時先程の曹長来り、中尉の手をとり「もういいでしょう、気が済みまし
たでしょう」と、三人位で真赤になって喚いてる中尉を兵舎に連れて帰って行った。
仕返し(2/2)
皆行ってしまった後、運転士が出て来た。「トラックの荷台に伏せて居たのだ」と、
「やれやれ」早くエンジンをかけて出ようとして居る所へ、又中尉が来た。二、三回逃げ
る振りをして荷台へ身を伏せた。中尉は自動車の周囲を廻っていたが諦めて帰って行った。
私達付添いの警備兵来り「今日は仕事を止めて其の土手下を隠れ乍ら上流に行き、遠く
なったら土手上へ出てラーゲルへ帰ってくれ、足を無くした中尉も可哀そうだが、ウォッカ
が悪いのだ」と、警備兵の言訳がましい声を後に、ふりむきもせずにラーゲルへ逃げ帰った。
「忍び来し 心の氷塊 消え去らず」 箏葺
微妙なところで、長すぎると専ブラに怒られました、アイゴー
とにかく13編目投下終了です。
乙!
791 ◆9zatwGbxuwさん。
感謝です。
あんまりヘビーローテだと途中で息切れしちゃうから
あんまり無理はスンナ。
たとえ週一でも楽しんで待ってるから。
毎度の乙ありがとうございます。
投下したものを読めば解るように、爺様の表記方法、編によって
(場合によっては編中でも)微妙に変化してたりするので、テキスト
起こしが罠回避の様相を帯びてたりします。乙が嬉しいですw
>858心配してありがとう、多少慣れて効率上がってはいるのですが
やはり連続はきついです。適当なところで切り上げて遊んでから
寝てます。
14編目、15編目投下します。
お年寄りのいう黒髪にはこんな意味があったりするのか、とか稲荷
とかにちょっと思いをはせてしまう二編です。
毛並み
孫と一緒に暮らして居るとテレビマンガを見る事が多い。果てしない平原、白樺林、広
い農場、丸太小屋、二頭立馬車等、かつてはあの馬車に鞭を振い、シベリアの平原を行っ
た若い日の想い出が蘇えって来る。
近頃、私なりに不思議に思っている事は、孫の人形が青い眼、金髪か銀髪で黒い毛は一
つも無い。マンガ本の頭の毛も青、黄、茶色と黒いのは少ない。それだけ国際色になった
等とは言って居られない、世界の人口の四分の三は黒なのだから。ソ連でも此の道は別ら
しい。隊付きの女医さんは東洋系で黒髪パッチリした黒眼、日本人と見間違う様な可愛い
美人だった。其の女医さん何故か若い日本兵を追い回す、「※※、※※」と当の※※君いや
がって逃げ廻って居たが、側へ置きたいらしい。ソ連兵に「ハラショウ女医さん」と聞い
てみると、手を振って「だめだめ頭の毛が黒いし、青い眼でないから」と言う。彼等に
言わせると、金髪が一番、次が銀の様な豚毛さん、其の次が黒毛さんで一番下だという。
そういえばマイオール(少佐)村長夫人はは猿の様な顔をして居たが、金髪で香水ばかり
ふりまいていた。ケチケチなカピタン(大尉)夫人も金髪だった。町を行く魔法使いの
おばあさんの様な人は黒だったかな。
孫が可愛がる金髪の人形を見乍ら、この紅毛人に追い立てられた過去が蘇って馴染め
ないで居るのです。
「馬車を駆る 大夕焼けも 今は瞳に」 箏葺
シベリアのお狐様(1/2)
毎日の伐採ノルマーは二人で十リウベ。二人引きの鋸でドラム缶の太さで二本、大手で
かかえられるものなら三、四本位根倒しして、二米に切り、高さ一米三○の高さ、五米の
長さに積み上げる。これが山の背あり、谷ありの悪い足場なので非常な苦役であった。
何時帰るあても無い山中の私達の集団は、白一色の雪中で空腹と疲労に耐えて居た。青
い野菜が無いので、松葉をきざんで茶がわりに飲んで居た。誰言うでもなく夜になると、
たいまつの前でも物が見えないと言い始め、皆鳥目になって居た。兵隊の中にお狐様を招
き予言する人が居て、「これは大変だ、このままでは皆倒れてしまう。直ぐお狐様を呼ん
で、祈祷して直さなければ」と本人は大真面目、「此のシベリア迄、内地のお狐様が海を
渡って来るものか」と皆笑っていたが、本人は一生懸命何やら振り乱して祈っていた。
一方、隊付の日本軍医さんも大変心配し、一人一人医務室に呼び、お狐様に供えたとい
うあやしい水を注射器で上を向かせた口中に二滴ずつ落した。翌日不思議と全員鳥目が
直った、皆喜んだ。軍医さんも「どうだった、お狐様も大したものだろう。良かった良か
った」と笑いながら言って居られた。私達もこれにはびっくり、有難いお狐様を感謝し其
の不思議さに驚いた。後で聞いた話では、あの時お狐様に供えたあやしい水の中は、たっ
た一本しか無かった肝油の薄めた液だったと。其れにしても肝油は良く人体に効くものだ
なあと再び感心した。
或晩の食後、ダモイは何時だろう、このままの苦役では皆死んでしまう等と話して居る
所へ予言者が来り、皆を見廻して居たが一人の老兵を指差し「君は明日きっと内地に帰る
ぞ」と言う。一瞬皆、話を止め予言者と老兵を見つめながら「此の山奥から一人だけ帰国
出来るわけはないではないか」と又皆一笑した。本人は大真面目で「きっと貴君は帰るぞ」
と言いきった。
シベリアのお狐様(2/2)
翌日は凍りついた雪の谷の伐採だった。頂上の方から大木が転げ落ちてきた。「皆、危
ないぞ、逃ろ、逃ろ」と声がかかった。峽にいた人々は雪をかき分けて一生懸命安全な
場所へ逃げたが、昨夜の老兵は一人逃げ遅れ其の落ちてきた大木に触れ、うめき乍ら雪の
中に伏してしまった。片足をやられたらしい。ソ連の病院へ運ばれたが応急処置の後、大
病院に送られ、働かない者は置かずのソ連の方針か、早急に内地帰還となったという。
重傷とはいえ、お狐様の予言を信じられないとは言えなくなった。
「凍る眉 戦友と飲み合う 松葉汁」 箏葺
シベリアの茸
恵まれた日本の風土の中で野菜を食べる会のニュースを見て、シベリア抑留時を思い出
した。毎日の強制労働が人の命を縮める。ソ連側の配給は上前をはねられた後の食料で限
りがある。兎に角食べられるものは何でも食えと、木の芽、草の芽をやたらと食った。
道端のあかざやあおざ、人参、牛蒡らしき草も食った。特に山芹は谷水に出て居て、サッー
と湯通しするとわさびの香りがあり、少し苦みがあって良かったが、湯通しが長過ぎると
舌が曲る程苦くなる。それをゆっくり煮て水にさらすと苦みが無くなり、ほうれん草の様
に柔らかく美味だった。秋の山の味覚は茸だ。金茸、銀茸、鼠茸、中には直径三○センチ
位の大茸もあった。しかし外国の茸が食えるか食えないか調べるのが問題、とにかく良く
裂けて中に虫が居るのを食そう。虫も毒茸は食わないだろうからという事で皆良く食った。
飯盒一っぱいの茸に一つまみの岩塩で煮詰めると、甘くなってそれはそれ美味となり空腹
を満たしてくれた。或る夜、茸で満腹した体を横たえて休んでいると、突然一人の若い兵
隊が起き上がり、大声で「兎と亀が喧嘩して、勝ったか負けたかわからない、あはははは、
あはははは……」と、笑いながらひっくりかえってしまった。どうしたどうしたと戦友が
抱き起こしてみたが、始めは笑い喚くだけだったが、脈拍がとぎれとぎれになり、すぐに
医務室に運ぶ。手製の茸汁の中に笑茸が入って居て脳を麻痺したらしい。それから三日間
人事不省、命だけは取り止めたが後遺症はどうなったものか。それからは決められた茸
以外は食わない様に強いお触れが廻り、お互いに自重する様になった。
「満腹の 茸が苦役 忘れさす」 箏葺
16編目です。
短めですが、今日も一編は投下できました。
どうもこの冊子、長年にわたって爺様が書いてきたものをまとめて
作られているようで。それが表記の不統一に繋がっているようです。
今回のはテキストを起こしていて(あれ、割と新しいのかな?)とか
思える部分がいくつか。
戦後生まれの自分から見て見慣れない漢字が少なく、開きかたも
違和感があまりない。
情景描写も自然な感じがけっこうする。爺様がかなり書き慣れ始めた
頃の文ではないかと思うのですが、さてどうなのかな?
この冊子の投下できそうなところあらかた投下したら、爺様にその辺
聞きにいってみようかな。
ではでは
791 ◆9zatwGbxuw殿、乙!
爺様に、若い者が喜んでたとお伝え下さい。
うちの爺さんは昭和3年生まれで、徴兵検査前に終戦になってるので、
空襲等の体験話は聞けるけど、戦地の話は知らないから聞けないす。
80歳でも知らない世界の話をじかに聞けるのは貴重ですよ。
生きてるうちに思いっきり聞いて、また教えて下さい。
今、フジテレビのとくダネ!で飛行機の免許が出る
現役最高齢85才のプロパイロット高橋さん
大正に免許とって一回とったら一生乗れるとか
大正は免許取得じゃなくて生まれだなw>とくダネ!
戦争中も飛行機乗りだったそうだけど軽く流されてた
もっと聞きたかったな〜(´・ω・`)
これは良スレage
17編目投下します。
しかし、出来ることなら食事後、歯磨きまで終えてから読む事をお勧めします。
読後精神的被害を受けた方がいらっしゃったら……(-人ー)ナムアミダーナムアミダー
或るロスキー(ロシア人)家庭の思い出
雪解けの暖い或る日、兵隊三人でロスキーカピタン(大尉)の家へ使役に行った。屋敷
の廻りへ杭を打つ仕事で、出来るだけ広く、出来るだけ早く杭で囲むと其の一年間は自分
の屋敷となり、畑として野菜を作る事が出来るらしい。主人はそれほどでもないのに、
欲深いマダムは広く取ろうとして、私達に広く杭い打ちを指示した。五米おきに棒杭を立
ててバラ線を張る。植木一本、草花一本無い此の人達は趣味など全然無さそう、勤務時間
以外に馬鈴薯やトマトを作って食料不足を満たして居る様だった。
やがて昼となってヤポンスキー(日本人)に御馳走するつもりらしい、呼ばれた室内に
は机一基と腰掛け三ケ、トランク二つと粗末な食器棚、マンドリン一ケ、毛皮外套がつる
してあるだけ。隣りは寝室で二間しか無いらしく、表に飼い放しの豚二、三頭、これが夫
婦の全財産の様だった。机上には馬鈴薯のこふきへ玉葱のみじん切りをまぶした盛り皿と、
生の塩鮭の切身、五糎角の黒パンの揚げた物一ケずつで終り、「ヤポンスキー早く食え」
と生鮭の香が鼻について喉を通らない、目を白黒しながらやっと平らげた。例のマダムは
満足そうに見て居て「ヤポンスキーにはこんな料理ないだろう」と得意顔をしながら食べ
終わった皿を洗いもせず盛り付けて主人が食う。主人が食い終わった皿へ又盛り付けて
マダムが食う。終って洗うのかと思ったらマダムがペロペロなめ始め、隅から隅までなめ
終って布切れで拭いて食器棚へ仕舞ってしまった。「ああー」と言ったきり三人は唖然と
した。「あの食器で我々は食べさせられたのだなあー」と。「さあ食った後は直ぐ働け、
ブストライ、ブストライ」と。
隣家の妹マダムが「馬鈴薯を分けてくれ」と来たが絶対に与えなかった。床下の大きな
貯蔵庫には芽の出し始めた馬鈴薯が山程あるのに食う事には非常にケチだった。
戦に負けたが日本に生れ、此の豊かな水と風土、美しい人情の中に育ち、生き永らえた
事を心から感謝して居るのです。
靖国神社慰霊祭 「葉桜や 靖国戦車 擦る友」 箏葺
十二月戦友会忘年の宴「腰振って 老兵ダンス 冬うらら」
……食前に読んで後悔した人は挙手!……(・∀・;)イナイヨネ?
チョイと風邪にやられかけてるんで、数日ほど本数あげられ
ないかも知れません。紹介できる部分も終りが少しずつ見えて
きているので、リタイアせずに最後までいけるようマイペースを
心がけていきます。
お疲れさまです。
少し前まで日本の豊かさを、それを豊かだと感じる事さえないくらいに
当たり前に思っていたけれど。貧しかったと言われる時代でさえ他国から見れば
非常に豊かっだったのだと思わせてくれますね。実際そうだったんだろうけれど。
それはそうと。
精神汚染は免れました。w
日頃、この板で鍛えられてるせいかもしれませんが。orz
^^仕事スレに書いたら誘導されましたので小話を
親戚の法事で田舎に行った時、
爺さん連中が家系図を手に戦前・戦中の話をし始めました。
「この人は戦争で死んだ」とかいいながら、
その中で統治中の朝鮮に行って仕事してた家族の話になった。
俺はどんな悲惨話が出るのかwktkしてたのだが・・
爺1
「建設とかの技術を教育する仕事で朝鮮に行ってたが、
生徒と先生みたいな立場はとてもうまくいっていたらしくて
感謝され通しだったそうだ。
実際未開の地だったのを橋まで作れるように
指導したんだから、凄いことだったと思うよ。
まあ教えるのに大変だった面もあったそうだけどな。
で指導途中なのに戦争が終ったから
日本に帰らなきゃならなかったんだ。
朝鮮人は仲良かったので好意的に逃がしてくれたらしい。
戦争中は日本にいるよりよっぽど平和的だったみたいだな。」
爺2
「そうそう、言ってた言ってた。それなのにって
戦後の朝鮮の馬鹿な物言いに悔しがってた。」
という話だったので驚きました。
ただ、韓国人の技術クレクレ主義、詰めの甘いケンチャナヨ建設のルーツが分かった気もしたので大収穫な気分。なおこの話はじじい同士の会話に若い俺一人が紛れ込んだだけなので美化した嘘は無いと思われます。
>873
というより、村という共同体が機能してるかどうか? という事なのではないかと
いう気がします。このソ連人の集落には教育が不足している、の一言に要約でき
ると思っています。
食器をペロペロってというのはさすがに凄すぎますが、水道というのが無い所で
衛生観念の教育が足りないという条件なら、分からないでもないというのが、俺の
感想です。
軍板の方にコピペしてるのを見かけましたが、精神汚染被害者が出ていない事を
祈ります(-人ー)…
そういえば、白人の中で一番不潔だ、と言われてるんだっけ。
>>876 腹の中を消毒するために ウォッカをがぶ飲みとも…
|∀・).。oO( イギリス人の元上司が言ってましたw
ダモイの一齣(1/2)
五月八日日蝕の日だった。今日も使役の足重々しく分遣された五十人のラーゲルヘルへ
帰ってみると、衛生兵来たり私にそっと「今日は医務室へ行かなかったか、ダモイの診断
があったと言うに、明日行ってみなさい、推薦して置いたから」と剣付鉄砲の護衛兵の目
をかすめて行くのだそうだ。
朝の引率の時、用便をする様な振りをして草叢へかくれ、後から来る護衛兵を行き過ぎ
た後を見すまして引き帰し、山一つ向うの本部へ向う。三時間もかかる山道だ。途中激し
い雨に会い、濡れた体で医務室へ行ってみると、「ソ連軍医が日本軍医の立ち合いでダモ
イを決めるのだが、今日は土曜でもうソ連軍医は帰ってしまったので、今回のダモイは諦
らめ、この次には一番に入れてやるから着物を乾かして帰りなさい」と言う。情けない顔
をしながらストーブで着物を乾かして居ると、「そちら分遣隊の中から五人帰るので其の
人達に伝えてほしい」と名簿を手渡された中に自分の名が入って居た。「これはどうした
事か」と軍医に尋ねたら「お前が濡れた姿で山越えしてきたのがみじめなので名を取替え
て置いた。明日は荷物をまとめて五人昼までに此所へ来い」と、突然濡れた寒さが吹き
飛んだ。長い間、待ちに待ったダモイの糸口が見つかったのだ。三時間の小雨の山道も
何のその、飛んで居る様な気持で分遣所へ帰って伝える。浮き浮きしたのは五人だけで、
皆はいよいよ無口になり「お前等は選ばれて幸運だ、俺達は何時まで居るか解らない。着
て居る程度の良い物はボロボロと交換して行け、持ち物の目ぼしい物は置いて行け」と
言ったきり口をきかない。明日釈放になる人をかかえた留置場の様だった。
※:「一齣」=「ひとくぎり」と読むようです。
※:「ダモイ」=ロシア語で「家へ」、転じて「帰郷」を意味するそうです。
ダモイの一齣(2/2)
翌朝口もきかない人達へ目礼して五人ボロボロの姿の出発だった。ぼろは着ていても、
心は晴れ晴れ、三時間の山道は明るかった。あまりのボロボロに驚いたソ連将校の指示で
少しは良い軍服に取り替てくれた。一行の百人は山奥の苦役だった細道をくだって行く。
両側の稜線から「おーい、先へ帰って故郷への便り頼むぞ」と、戦友の声を背に「おお、
おお、お先にすまない」の声も浮き浮き三里の道も心がはずんだ。
さんざん薪の積み込みで悩まされた駅前広場に露営する。駅と言っても番人小屋がある
だけで乗降ホーム等があるわけではない。列車がゆっくり走るのを飛び降り、飛び乗るの
だ。去年も一人乗りはぐれて山へ帰ったとか。翌朝、線路の両側に乗車を待って居ると、
引率の将校と駅長が言い争いを始めた。「乗せる」「乗せない」と言いはってる。北から
は白煙もうもう汽車がぼつぼつ来るのに未だ決らない。将校はあせって「何んでも良い
から乗れ乗れ」の指示でゆっくり動いてる列車へ先づ食糧を投げ上げ、次に足の悪い兵を
車内へ押し上げた後、各自飛び乗る、皆必死だったので一人も残って居なかったが、列車
はもう速度を増していた。車内は誰も乗っていない板の三段ベットだった。ゆうゆう横た
わり乍らこれで苦役は終った。「シベリアよさようなら」枕木と同じ位に日本兵が死んで
築いた鉄路に乗せられてナホトカへ向って行った。
「鳥雲に 蘇武の古事を抱きつつ」 箏葺
※:『蘇武』前漢時代の人物。↓参照、俺もさっき知りましたw
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%AD%A6
18編目、投下終了です。
爺様、帰路についてしまいましたが。冊子では半ば過ぎというところです。
残る部分は戦友会内での連絡事とか、地名や人名がやたらと多くて紹介
するのは不向きな物が多いですが、10編前後はまだ書き起こせそうです。
明日以降、チェックしながらテキスト起こしを続けます。読んでくださってる
方々、どうかよろしくです。
ではでは。
投下乙。
うちの亡くなった爺様も満州国境守備隊→シベリア抑留のコンボを食らったので
他人事の感じがしない。生きている間に話を聞くことは出来なかったから、
当時の情景が分かるのは本当に有難い。
>>878 「一齣」は「ひとくぎり」ではなく「ひとこま」と読むニダ。
それにしてもさりげに重い言葉が混じってますね。
「枕木と」とかのくだりとか。
お疲れさまでした。
乙に感謝します。
寝る前にとりあえずレス。
>881
『ダモイ』って言葉の意味が解らなくて、ぐぐったのですが。
シベリア抑留体験にまつわると思しきページがかなり出てきました。
(あぁ爺様とその戦友が世の中にはたくさんいるんだな)とか、思ったですよ。
>882-883
フォローありがとうです。どちらも俺は良くわからず、IMEの読みから推測した
りぐぐったりした訳ですが、やはりそれだけじゃ不十分ですね。感謝。
>884
苦役の場所なのにも関わらず、自然の描写は美しいものを連想させる言葉が
使われてますね。シベリアが多くの戦友が眠る地だからではないかと、思って
います。忌まわしくも美しくあらねばならない場所なのだと。
>>885 >忌まわしくも美しくあらねばならない場所なのだと。
じいさま達の気持ちを考えたらちょっと涙出た。
あなた自身も文章うまいわ。
シベリアで拾った或る心境(1/2)
シベリアの寒気は十月半ばより始まる。三日三晩吹雪が過ぎると、風が出て雪を舞い上
げ雪を吹きだまりへ運ぶ。こんな事をくり返し続いた後、寒風が吹き込んで降るものが無く
なり極寒が襲って来る。ソ連側の話では雨は濡れると体力を弱めるが、雪は叩けば落ちる
から体に影響ないから働け働けの心情で働かせる。
時計が無いので、星を目当に起きる。北極星を芯に小熊座の廻り具合やオリオンの流れ
で夜明け時間を知る。夜明けの遅い真暗なラーゲルの庭へ十列に並ばされ、アヂン、ドバ
ー、チュテリーと尻に触れ乍ら数えていくソ連兵を見て、掛け算を知らないのは不自由だ
なあ等言いつつ足踏みしている。動いていないと凍傷になるからだ。
其の日は一つ山越えた雪中の伐採作業であった。「老兵は残って風呂を焚いて下さい。
若い者が働きますから」と仕事に出る。道々に毛ばかりの糞を見る、血が点々と雪の白さ
を汚し乍ら続いている。其の中に食い千切られた馬の首が転がって居た。昨夜厩から馬一
頭狼にさらわれたとか、どうも狼は一匹ではないらしい。作業は明るい中に済ませ、集団
で山越えして来るように申し合わせた。其の日は仕事も大変だったが早く切り上げて帰途
につく。山の背を一列に踏みかためた雪道を一団のしんがりに歩いていた。もう日暮れて
人の顔も見えず、唯前の人影を追って居た時、道幅五十糎を踏みはずして道下に落ちてし
まった。
シベリアで拾った或る心境(2/2)
身の丈のとどかない吹きだまりの雪の中、いくらもがいても這い出せない。幸に鳶口は
持って居るが、雪中には引っかける処が無い。戦友は皆知らずに先へ行ってしまった。
此のままでは凍死するか、狼に喰われるかだ。人気ない山中に孤独な恐怖が襲って来た。
心を押し沈めて静かに考えてみた。万策尽したこんな時、神仏に祈らざるを得なかった
が祈っても果して神仏はシベリア迄ついて来てはくれないだろう。あくまで頼みになる
のは自力のみだと。星空しか見えない穴凹の底から、何か頼みになる物は無いかを静か
に探ってみた。幸に篠の様な小枝が見つかった。あっこれだ、藁をもつかむ気持でそれ
を頼りにやっとの事で背道へ出られた。「助かったぞ」杖がわりの鳶口と腰斧を握りし
め、雪明りの狭い山道を踏みはづさぬ様夢中で帰った。皆が「どうした、どうした遅か
ったな」と言うだけだった。
それからは、今でも神仏は人様の幸福をお祈りするもので、自分の事はあくまでも自力
で行くんだと言い聞かせ乍ら生きて来た。
「雪の夜の 命運尽きず 糸の道」 箏葺
以上、19編目投下終了です。
隣りの市がアイスバーンでも、こちらは道路のアスファルトが乾き始めている。
そういう降雪に関しては異常な町に住んでると、ここで描写されたシベリアの光景は
なんとも想像しがたいです。爺様も最初はかなり面食らったんじゃなかろうか。
>886
ありがとう、でも2ちゃんは文章力ある人多すぎて、未熟を感じさせられるばかりです。
>>874さん乙です。
未開の地振りを具体的に聞きたい。
保守
思想の裏側(1/2)
其の日は五月、シベリアの暖かい日曜であった。苛酷な重労働に追われて収容所で昼を
休んで居ると、はるか遠い丘に山火事が起った。ソ連兵が慌てて非常呼集をかけ「全員ス
コップと火ばたきでへ火消しに行け」と言う。「折角の日曜を休んで居るのに、やれやれ」
仕方無く全員で出かけた。途中の小川でお婆さんが洗濯をして居た。何を思ったか、引率
のソ連兵は老婆に近づくや足蹴にして「お前は洗濯などして居て良いのか、国家の財産が
燃えて居るのだぞ、日本人でさえ火を消しに行ってくれるのだぞ」と若いソ連兵が怒った。
あんな大きな山火事に三十人、四十人で行った所でどうにもならないのに、ましてや老婆
一人位の尻をたたく事もあるまいに。若い人達の思想教育と国家意識の裏側をのぞいた様
な気がした。足早に火事現場へ着いてみると、野火は幸に風も無く下火となって居り、奮
闘の後、火もようやく治まった。夕方へとへとになって帰って来た。
子供は生後六ヶ月で養育は政府が見るから、母親は働けと。母親の愛情を削がれて、幼
児から国家思想に育てられた若い人達には、血も涙も無いのだろうか。学生の浪人も居な
ければやくざもいない。皆働け、国家の為に奉仕せよと言うのだろう。若い頃、築地の小
劇場でドフトフスキーの「どん底」の芝居を見た事がある。或る木賃宿の中で、革命後の
悲惨な生活から若者二人だけが生残って出て行くのを思い出した。
思想の裏側(2/2)
ソ連の人と対で話して居る時は、それは素朴で義理がたく「スターリン ニエハラショ
ウ(良くない)」等と不平を言って居るが、二人以上になると態度ががらりと変わり、日
本人を馬鹿呼ばわりするか無口となる。日本人と仲良く話して居る所を見られると、何か
国の悪口を日本人へ話しては居ないかと勘ぐられ、政治部への告げ口を恐れて居り、親子
の関係も許さない思想が飢え付けられている様に思えた。
或る時、良く日本人の面倒を見てくれる山の見廻り人と、ソ連兵が何かの事で激しく言
い合いをしていたが、後でソ連兵が「彼奴は棺桶行きだ」と剃刀の様な一言が気になって
居たが、其の後、二度と山廻りは来なくなった。
言いたい放題の事を言って居る日本の人達は、日本に生れたからこそ言えるのであって、
彼の国では絶対に許されないだろう。
「迎春花 何時帰れるや 花終る」 箏葺
20編目、投下終了です。
『築地の小劇場へ』のくだりが微妙に気になってます。
現在でも、あそこまでは電車で二時間近く掛かるのですが。
よくまぁ、そんなところまで出かけて芝居見物するものだなと。
戦前に何か偏ったイメージ持ってるのかな、俺……
暗行御使
茶の間に家族が揃ってテレビを見ている。悪代官に悩まされて居る農民へ、正義の味方
黄門様が出て来て、悪をこらしめる筋書。私が若い時築地の小劇場で朝鮮の劇「春香伝」
を見た事があった。中央より特命を受けてそっと村へ入り込み、村の事情を探り代官の行
跡を調査する「暗行御使」。ソ連にもこんな制度があったのか、或る夜の事でした。前日
の大雪に山奥のラーゲルは「明日は全員休めるな」と思っていたら、夜半に総員起され
「明日は巡視官バグダード中佐が来るについて、これより三粁迄雪かきをせよ」と、山奥
のラーゲル近くは丈余の雪でしたので一人五メートル、それからは一人十メートルと区切
られ朝迄に自動車が入れる様道を作り、月明かりの夜明けにへとへとになって帰って来た。
聞けばマイオール(村長)は夜中、女房、子供迄動員してごみを拾わせ、町を清掃粗相の
無い様巡視官を迎へて居ると言ふ。
然し其所には内通と言う事もあって、住民の生活は相変らず良くならないと言う。其の夜
ラーゲルでソ連巡視官の調査に呼び出された。非常に物静かだったが、捕虜生活の給与は
平均か、軍隊前は何をしていたかと根掘り葉掘り聞いた後「シベリアに永住する気は無い
か」と、「とんでも無い家には妻子が待って居り早く帰りたいのだ」と言ってやった。
調査官は苦笑して居たが、それから三年間の苦役が続いた。今でも雪中の苦い思い出が
じーんと出て来てとてもスキーを楽しむ気になれない。又山へ行っても此の大木は何リュ
ーベ一日の仕事料はあるかな、こちらの方行へ倒せば等、雪中の伐採の苦労が旅の足を
重くする。此の気持一生つきまとう事だろう。
「身の因果 丈余の雪を掻き揚げる」 箏葺
昨日、書き起こし作業やらなかった分、勢いでもう一遍いってみました。
21編目投下終了です。
ここでも築地の小劇場、都内への交通インフラが結構整備されてたのか
な? 劇もロシアや朝鮮と、幅広い気がする。
いつも乙。
数日前から読み始めたけど。
読み応えあり。
乙であります。
こういうスレが勢いあるのは良いことだよね
保守
ロスキーの思い出 箏葺 弓六
凡そ軍体内の呼び名に兵隊同志の呼び合いは大抵呼び捨てである。古兵又は上官へは殿
を付けて呼び合っていたが、シベリアへ渡ってからは兵隊言葉もなくなって、「何々さん、
何々さん」といいあっていた。たまには「おいこら、貴様」と同僚同志で気安く呼び合っ
ていた所、付き添いのロシア兵が一口覚えた「ヤポンスキーおいこらこの野郎」等言う様
になってしまった。「何んだこの野郎」とこちらも気荒くなって甚だ面白くない。ある日
ロシア兵に「おいこら、この野郎は日本では最低の言葉だ」といってやった。其の夜彼等
は申し合せの会合でも開いたものか、次の朝から一せいに「あなた、あなた」と言い始め
た。急にあなた、あなたといわれて日本人同志びっくりした。なるほど日本語ではあなた
といわれると直に「はい」と答えるしくみになっている様で悪い気はしない。それからは
言葉のやりとりがスムーズに行く様になった。前回の戦友会誌に何方でしたか露助、露助
の言葉が乗って居りましたが、私達も始めは露助、露助と云って居た所、彼等はロスキー、
ロスキー(ロシア人)と聞えたせいか気持良くして居た所、日露戦争の呼び捨て語と解っ
て来てロシア人が活かり出した。疑がわしい「ロスキー、露助はいってはいけないソ連人
と言へ」という事になったが「ズラースチーソ連人」(ソ連人おはよう)ではどうも工合
いが悪い、やはり「ロスキーズラースチー」の方がピンと来る様だ。それからはズラース
チーだけをいう事にした。
「小春日やあなたと言わる捕虜日記」 箏葺
22編目投下終了です、23編目は明日になりそうです。
という訳で、シベリア国際寮での国際交流の一コマでした(違います)。
自分でピンと来ない呼び方を指示してしまったソ連兵達が、ちょっと可愛く思えるw
意識によって呼び合い方が変わり、呼び合い方で感情が変わる。考えてみれば、
当たり前の事なのですが、爺様達の当時を思うとなかなか興味深い所です。
どのような立場関係にあっても、結局は人間と人間なんだな、などと納得します。
ではでは
いつもお疲れさまです。
シベリア生活って、ただただ過酷で悲惨。ってイメージだったのだけど、
ちょっとだけイメージが変わりました。
ひどい仕打ちにはもちろん違いはないのですが。
申し訳ない、誤字訂正です
×:日露戦争の呼び捨て語と解って来てロシア人が活かり出した。
○:日露戦争の呼び捨て語と解って来てロシア人が怒り出した。
>903-904
楽しんで読んでいただけているようで、嬉しく思います。
ただ苛酷なだけの仕打ちを数年に渡って続ける事は、強いる方も強いられる方
にとっても無理があるのだろうと、自分も思いました。
逆にいうと、人は人間性を保ったままで苛酷さを強いることが出来る、という事にも
なりそうです。
また、強いられても磨り減らない強い人間性もあるとも。
爺様の文章を見て一番感じるのは、やはりその強さです。
だからこそ、自分はこの文章達を皆さんに紹介させてもらっています。
「銃口へ雪原の芦風に揺る」
北満国境の街東寧、其の街はずれに飛行場があって東方のはるか地平線にはソ連領の白
壁民家が点々と見える所でした。寒中の候とて白一色、所々に枯れ芦の穂首の見える雪原
でした。其の日も耐寒訓練とあって広く散兵し雪上に伏せて歩腹前進、銃剣をひらめかし
ての突撃演習と元気良く一日中走り廻って居ました。元来私は若い時足を痛めたせいか走
る事が遅いので最後の突撃は皆より一瞬早く飛び出す事にして居た。其の日は何度も繰り
返して演習は終ったが、兵隊の一人が銃剣を無くしてしまった。「さあ大変」この広い飛
行場の雪の中へ剣を落したと言う。武器の紛失は大変な事で罪に問はれると言う。一夜明
けた朝から中隊全員で飛行場の端から横一列に二米間隔に並び棒で雪を跳ね上げ乍ら前へ
進む荘舐め作戦でした。一日がかりでやっと探す事ができたが雪中の貴重な体験、武器の
大切な事を味あわされた。それから一年後突如ソ連軍の進入となり、混戦の末停戦となっ
て大切な武器もいとも簡単に捨て去ったのでした。戦争は終ったが、シベリア強制労働と
なり命を擦りへらされた。
国の命令とは言へ余儀なく命をかけさせられた青春の過去が時代の波と共に風化され、
平和日本の陰に消されて行く。靖国の戦友よ。生きて居る限り又会いに来るからね。
23編目投下ですが……投下した途端誤字に気付きましたorz
×:雪を跳ね上げ乍ら前へ進む荘舐め作戦でした。
○:雪を跳ね上げ乍ら前へ進む総舐め作戦でした。
落ち着け>俺
それにしても、この話での爺様の気持、推し量りきれない……
理解しなければいけないものが含まれてる気がするのに、悔しいな。
>906
>国の命令とは言へ余儀なく命をかけさせられた青春の過去が時代の波と共に風化され、
>平和日本の陰に消されて行く。靖国の戦友よ。生きて居る限り又会いに来るからね。
(つд`)
全俺が泣いた。いやマジで。
いつもお疲れさまです。
この爺さまの文章って、ふしぎと普通よりも感情移入してしまいます。
(´-`).。oO(うん)
(´-`).。oO(皆さんも靖國に参ってください)
(´-`).。oO(私事ですが、今日近くに用事が有ったので)
(´-`).。oO(勿論寄らせていただきました)
(´-`).。oO(そのお陰と申しますか)
(´-`).。oO(天祐と申しますか)
(´-`).。oO(帰りがけに三島由紀夫の文化防衛論をゲットしました)
<>
護国神社も靖国と同じように祭られてるから、靖国にいけない人は近くの護国神社に行けばいい
みなさん、ありがとうございます。
そして、誤字を連続で見逃しちゃってごめんなさい。
この冊子の頭の方に、爺様の部隊の戦友会の記念写真があります。
靖国での合同慰霊祭の時のものだそうです。
両側に、人の背丈ほどもある「第○○○○部隊戦友会」という幟を、人の
背丈の二倍くらいの竿に吊るして立てています。
四月の末だそうです、白黒ですが桜が咲いているのが見えます。
この人達の背後には、自分達には見えないさらに多くの戦友が並んでいる
のでしょうか、桜舞い散る中で。
俺は靖国には二回ほど参拝しただけですが、境内に入った瞬間に世界が
変わるような印象が心に残ります。
あのコンクリートだらけの街の、車通りの激しい喧騒の中で、一足踏みいると
不思議に落ち着いた空間が広がるのは驚きでした。
物理的には周囲の木々が視界と音を遮ってくれてるからでしょうが、ではその
木々は何故それほどに育ったのか? を考えてしまいます。
長い年月、靖国をどれだけの人が大切にしてきたか、その答えがあるのでしょう。
ではでは
>この人達の背後には、自分達には見えないさらに多くの戦友が並んでいる
>のでしょうか、桜舞い散る中で。
え〜と、わざと泣かせようとしてますか?
いま弱くなってるんだから。(T_T)
あしたも近くってかそのものズバリなところに仕事しにいくのだけど、
帰りに寄り道してみようかな。調べたらすげー近くだ。> 九段
いまだに靖国に行くと、特に夏、生き返ってしまって
仲間に申し訳ないと思ってます、て軍帽被った
おじいさんがいるし。
おはようございます、仕事の合間に覗いてます。
爺様の話は、自身の見たことを描写して自身の思ったことを
率直に書いているから、感情移入しやすいのではないかと。
>913
>846に書いたようなことを口にする爺様ですから、靖国に行ける
限り、多くの戦友と会えるのが喜ばしい。
と、自分らも考える方が良いのではないかと思ってます。
靖国が話題になっているときに、靖国での集合写真があることを
思い出しましたので、爺様の為にもそうであって欲しいとその一文
を書いた次第。地元での新年会の後に書いたので、多少酔いながら
の一文だったのも事実ですが(^^;
散る桜 残る桜も 散る桜
じゃがいも畑の悲劇
鉄砲を自由に護身用として持てる国で、仮面を被って違法の闖入者来た若者が射殺され
たと言う。これに対して日本人の親がアメリカに渡り、其の撃った人を大統領に訴え出た
とか。
私達兵隊が食う物を食わされずシベリアで強制労働を強いられた中に、少しずつ分かっ
て来た事があった。同じ抑留兵隊でも街で働く者は賃金を貰い、多少の不自由はあっても
まあまあ寒さが無ければ内地と変わらない生活と言う人がいた。其の街から奥地に行くに
したがいソ連住人に食料が盗まれて山奥の部隊へ届く食料は半分以下となって、虫けら同
然に食える物は草の根までしゃぶり、栄養失調・飢餓として死んで行った戦友は数多かっ
た。消化力の弱っている所へ、馬の歯の様なトウモロコシや大豆の配給があっても、消化
力が無く倒れて行くのが多かった。
ロシア人はじゃがいも畑をさっと耕し、見える芋だけ拾って行ってしまうので、後で掘
って見ると目残しじゃがいもがぞくぞく出てきて目を引いたものでした。しかし考えてみ
ると考えてみるとロシア人は掘った後拾ったいもだけを供出した後、自家用にと残してい
たのかも知れない。或る日、二、三の兵隊達がその掘り後を掘り返して芋を探していた所、
ロシア人が来て「だめだ、だめだ早く帰れ」と怒り一人を捕まえて連れて行こうとした。
どうせ帰れるだろうが寒いだろうと戦友が上着を脱いで彼にあげようとした所、何を勘違
いしたかバンバンと銃弾が彼の胸を貫いて即死した。ロシア人はそのまま黙って立ち去っ
たと言う。戦友は仕方なく彼を背負って帰り、ありのままを隊に報告した後、裏山へ葬った
と言う。戦友の暖かい思いやりが仇となって、自ら死を招いてしまった事が如何にも残念
でならない。心から御冥福をお祈りしました。
故鈴木猛夫君を偲ぶ(1/2)
いつか戦友名簿を見ている中に一番親しく、一番気の合った鈴木猛夫君の戦死の名が
入っていた。勇敢で思いやりがある同僚だった。
或る寒中の水汲みに気弱な兵が居て二十米もある炊事の深井戸へ防寒手袋を落してし
まった。防寒手袋とは厚手の毛糸でこれが無いと寒くて何も出来ない。井戸の底が豆粒
の様に光って水がある事がわかる位深い井戸でした。「誰かこの中に入ってあの手袋を
取って来い」の命令に、ただでさえ物が氷ると言うのにこの中へ入って探して来いとは、
皆後ずさりして居る所へ率先して「私が行きます」と勇気のある奴がいた。戦友鈴木で
した。涙ぐんでいる気弱な兵を尻目に彼はきびきびして井戸車の釣瓶へ乗った。これに
気を得て皆彼の為に湯を沸かし彼の体を暖めてやらなくてはと気を配りつつ成功を祈っ
た。彼を乗せた釣瓶縄を徐々にゆるめ下げられて行った。「どうかな」やがて水面に着
いたらしく声があって、「あったあった、今釣瓶に入れるから上げてくれ」と、直ぐに
井戸縄が巻かれ出て来た物は石油缶やボール玉、板切れ等出るわ出るわ、最後に手袋と
一しょに彼も釣瓶で上って来た。直ぐに彼をたらい湯につかわせて彼の労苦をねぎらっ
た。そんな所が大好きの原因の一つでした。
故鈴木猛夫君を偲ぶ(2/2)
其の後、ソ連軍侵攻の時二人は大荒溝駅の輸送隊でしたが、「ソ連軍は隣の駅まで進
んで来ている。敵襲に備えて鈴木と箏葺は駅前方を偵察して来い」と、手榴弾五発を腰
に洋カンをかじりながらの出発でした。既に敵は戦車を先頭に山裾まで来て居り、自動
小銃をばりばり打っていて駅の屋根も砲によって吹き飛んだ。彼に「早く帰って報告し
なくては」とうながしたら「そうだな箏葺急いで帰ろう」と言って引き上げて直ちに報
告、「戦闘配備駅前に展開散兵せよ」と言う事になって麦畑やとうもろこし畑に伏せた
が、篠突く雨の様に銃弾で薙ぎ倒されて行く回りを見ながら心細い事、それから三時間
位で停戦となったが、二人共無事で居たのが不思議な位だった。停戦後互に助け合い乍
らソ連国境まではいつも一緒だったが、私が病気で遂に別れてしまった。
帰還後どうかな、どうかなと手をつくして探してはいたが、やはりシベリアからは帰っ
て来なかった一人でした。
「親しかった鈴木よ安らかに」
24-25編目、投下終了です。
今回はコメントいたしません。
紹介できるお話もあと少しのようです、どうかもうしばらくの
お付き合いを願います。
支援
え? あ……支援要請ではなく単に挨拶のつもりでした(^^;
話を聞いてもらっている、という意識だったので「お付き合いを願います」と
書きました、紛らわしかったらごめんなさい。
再来をお待ちしております。
でも投下が終わっちゃうのがサミシイ…
随 筆
グワム島の生残りの日本兵士横井さんようこそ二八年間も山野に伏して生き長らえた其
の精神力を買いましょう。私たち何にも無いシベリアの山奥へ連行され石器時代と同様、
如何に人間が生活の原点に立って懐古して見ました。来る日々の強制労働に衣服の綻びを
縫う針が無い。生活の必要な針を作ろうと思い立って居た。幸い道に落ちていたワイヤー
ロープの切れ端を拾うと山へ帰って火壷に入れて焼き鈍し、ほぐして十糎位に二本を石と
石とで叩いて切る。一本は石の上で其の針金の先端を叩いて平らにし、一本は先端を石で
研いで鉛筆の芯の様に研ぎ焼き入れして置き、もう一本の平らにしたワイヤーの中程をこ
つこつ叩き裏かえしては叩き小穴を開ける。その小穴を大事に丸く砂や砥石で研いた後、
火に入れて焼き入れする。又砂や砥石で磨いて一本の針が出来上る。三時間も四時間もか
かっての仕事だ。この針が巻脚胖や紐類を解いた糸で衣服を縫ったのです。又自動車のス
プリングの折れを拾って鉈に斧、鳶口に鉋と鍛冶屋の仕事も忙しかった。物が豊富で捨て
る時代になっても何時かこの品物は何かに使えないかを考えて見る事にして居るのです。
蟻地獄
私ももう古希へ入ってしまった。過ぎ去ったあの頃の、思い出の戦友達も歯の欠ける様
に逝ってしまった。夕食後テレビを見ていると、果てしない平原を馬車が行くアメリカの
映画を見るにつけ、私にもあんな時があった事等思い出される。
シベリアの果しない平原の夕焼、ミレーの晩鐘の中の人の様に一本道を乾草を積んだ馬
車を御してガラガララーゲル(収容所)へ帰って来る。あの丘に、あの山裾に戦友は淋し
く眠っているのだ。未だ雪は解けないだろう。夜の天心の北斗星を見上げ、何時帰れるや
も知れぬ北の果から、父母や妻子の安らかを祈るだけだった。
私は時々若い人に問うて見る時がある。「失礼だが君は何才になられるか」と、其れは
直ちに私の青春の陰りに結び付けて、追憶に走れるからだ。青年は言う「二十七才」と、
其の時私は何をして居たか?それは恐ろしいシベリアの凍原に、自動小銃を突きつけられ
乍ら貨車への薪積みに追いかけられていたのだ。今でも鉄道の五十屯貨車を見ると、ぞっ
とする。ドラム罐位の太さで二米位の薪を線路下の広場から四人でチンヤチンヤと担ぎ上
げ、更に線路上の貨車まで転ばし上げる。「ビストラービストラー(早くしろ早くしろ)
汽車が来てしまう」と、ロスキーががなり立てる。一貨車二十人位の兵隊で、五、六十本
位積まなければ満ぱいにならない。それに積み込みを二、三時間で完了しろと言う。
摘み終えると、空腹と疲労でぐったりしてしまう。今なら、クレーン車や、フォークリ
フト車で自由自在に積み込む事が出来るが、あの時は生地獄だった。
此の国の人達でも、大した罪でも無いのに、シベリアの強制労働に駆り出され、私達同
様に銃剣の先で働かされ、逃れば重労働に加算される。重犯は鎖で繋がれて職場へ通わさ
れると言う。
こんな話は、今の人に話しても理解に苦しむ事だろう。世の中が平和となり、若い人が
世界へ自由に雄飛出来る日本を、心から幸せと思って居る。
「よれよれて鉄路にいどむ蟻地獄」
26-27編目、投下終了しました。
なんだかんだで、割愛せずにテキスト起こしをしてきました。
冊子ではこのあと、戦友会誌の俳壇コーナーからの転載と思われる句集や、
故人の追悼文などが挟まれるようになりつつ、終わりへと近づいて行きます。
個人名も多く出るようになり、その中には俺の会社で仕事をさせてもらった人の
名もあったりして、さすがに割愛せざるを得ないか? というのも出てきます。
そのあたり検討しつつ、テキスト起こしをマイペースに続けて行きます。
>923
爺様の苛酷だった過去もエンドレスではなかった、とそう思ってくださいw
927 :
マンセー名無しさん:2008/02/07(木) 18:52:27 ID:X09Jh7yC
もうすぐ終わるのか・・・寂しいねえ。
こういうのは一気にではなくちびちび楽しみたかったかも。
月一くらいなら2年くらい持ったのにw
まあ何はともあれ乙。
>月一くらいなら2年くらい持ったのにw
おい、冗談でもそんなこと言うなよ〜。
大丈夫、これを読んで触発された誰かがまた代筆・投下してくれるよ。
791 ◆9zatwGbxuw 乙!いつもありがとう。
28編目、投下開始します。
いつもとは違う趣向の編となります。
文章量としては大変に少ないのですが、今夜はこれ以上不要でしょう。
正直、この編の体裁を変えなければいけなかったのが残念です。
ああ此の銀盃に写る顔(1/2)
(一)
おい戦友よ 元気かい
俺も元気だ お互いに
祖国に帰る夢込めて
振り上ぐつるはし此のシャベル
ああ此の銀盃に写る顔
(二)
あゝ戦友よ 戦友よ
飢えと寒さにさいなまれ
重労働に倒れ来る
背負う途方の雪の中
ああ此の銀盃に写る顔
(三)
あゝ戦友よ 元気出せ
死ぬな眠るな頬を打つ
共に涙が溢れ来て
ゆがむ顔さえ哀れなる
ああ此の銀盃に写る顔
ああ此の銀盃に写る顔(2/2)
(四)
あゝ戦友よ 戦友よ
儚き友の手を握り
送るあの丘 あのあたり
今も瞼にありありと
ああ此の銀盃に写る顔
(五)
あゝ戦友よ 戦友よ
共に手を取り幾春秋
か細き命 つなぎ来て
あの岸壁に降り立ちし
ああ此の銀盃に写る顔
(六)
あゝ戦友よ 戦友よ
ほゝ笑む友よ何時までも
共に別れし西東
今も元気でいるかしら
ああ此の銀盃に写る顔
以上、投下終了です。
この編だけは冊子のままでお見せしたかったです。
乙
乙。
声に出して読みたい日本語、棚。
乙でした。
スレも終盤にさしかかりこのまま埋もれさせるには惜しい。
お疲れ様でしたー.
戦線を歌越えゆくや西ひがし
いつもお疲れさまです。
冊子だとどうなっているのか、凄く気になる。。。
例によって仕事の合間に、必要書類がとどかず、手が空いてますorz
>938
A4サイズ1ページに、縦書き二段で並んでるのです。
この内容のものですから、そういった配置も重要だと思うのですが、
AA書きでもない自分には再現のしようが無かった訳です。
791 ◆9zatwGbxuw殿。
感謝です。
>>929 読みました。
面白いね。
テレビドラマ
「大地の子」を見て
昨年暮れ頃テレビで日中合作の友好映画「大地の子」を見られた方も居られる事を思う。
五十年前怒涛の砲火を潜って来た私達の外に開拓民の引き揚げを見る場面だった。特に主人
を兵役に取られた引き揚げ避難民を襲って一人一人傷ついた人達を銃剣で突き差して行く、
逃げようにも逃げられず追い詰められて自決して行く。生き残って親を失って子供達をつ
かまえて競売にかけられ、買われていった子供達。曲りながらも生き長らへて五十年後の
今日、肉親を尋ねて祖国へ来られた人達に日本は何をしてやったのか、永住を希望された
らなぜ暖かい手をどんな理由があろうとも手を差し延べてやるべきではなかったか。その
貧苦と悲惨さを越えて来た人達を一番知っている私達は非常な義憤を感ずる一人です。私
がシベリアから一度満州へ帰り、牡丹江の病院で傷病兵をお世話していた頃の昭和の二十
年暮れから二十一年の二月頃まで極寒の中をぼろぼろの開拓民の人達をお迎えした事があ
った。口に出ない程可哀そうだった。あの当時、政府から国防の重要性必要性を背負わさ
れた義勇開拓団の人達ではなかったのか。あの映画は幸い手厚い学校の教師夫妻に救われ
て大事に育てられた陸一心君、けれど日本人というレッテルの元に四六時中監視の目が光
って居て職業に自由さえあたへられない。命令一下何処へでも飛ばされる事はソ連の国も
同じだった。親子が一緒に自由に生活出来る日本の有難さをしみじみと思わされた。
私が昨年子供達と戦争について座談会があった時「おじさんはなぜ戦争に行ったの、そ
んな悲惨な殺し合う行くのをことわれば良いのに」と言う。ああこの子供達はなんて幸せ
な人達だろう。「其の当時日本男子には国を守る兵役の義務があったのだ」と言い聞かせ
ても今の子供には解らない。何処かのお金を出して守られた平和を満喫して居る現在だも
の。国の借金の為、キューバの兵隊はナイゼリアで戦わされ、政権争いのアフガンやセル
ビヤ、ボスニヤの内戦、武器代償にシベリヤ鉄道使役に行かされる等悲劇とならぬ危険が
あると言う事も知らなければいけないのにと。「熱帯夜満蒙棄民書涙して」
29編目、投下終了しました。
今回テキスト起していて、いろいろと背中に刺さりました。
それとですが、スキャナを使える幸運があり、28編目と冊子の表紙を画像取り込みできました。
ファイル容量はそれぞれ130KBと190KBくらいです、表紙の方は爺様の個人情報保護ということ
で一部加工させてもらっています。
見たいという方いらっしゃいましたら、手ごろなアップローダーを紹介して貰えないでしょうか?
いくつか探してみたのですが、ロダの趣旨とか解らず借りていいものなのかどうか、どうも確信が
持てずでして。
(そもそもそういう趣旨というものがあるものかさえ、把握しておりませんですハイ)
>>944 乙です。総督府は流れにくいので、資料的な価値のあるものをうpするときは便利ですよ。
>>941 中国残留孤児の問題は、向こうの育ての親をつれてきて生活を国が保障しろと言うところなんだよなあ
いつもお疲れさまです。
イメージ画像をありがとうございます。
全部自筆だったりして‥‥とか思っていましたが、w
雰囲気が理解できました。なるほど。
ありがとうございます!
軍板に>944が転載されているのを確認しました。
読んでくださってる方が俺が思うより多いのではないかと、少し驚いてます。
>946
中国の制度に慣れ親しんでしまっている現状で、日本社会に適応できるのか?
その点が個人的に気になっています、それはそれで試練を与える結果になって
はいないだろうかと。育ての親の件も関連する話ですよね。
>947
元は戦友会誌あたりの原稿で、それをまとめて作ったのがこの冊子のようです。
自主制作という事になりますから、誤字脱字もチラホラと。問題は本当に誤字な
のか判断つかない場合も多い事ですね、編集段階でのミスもありそうですし。
とりあえず、明らかにミスと思われるところは投下前に修正を加えています、鍵括弧
の抜けを追加するとか。
さて。30編目、投下開始します。
国旗を揚げよう(1/2)
「望郷の船待つひと日梅雨しぐる」
その頃ソ連領ナオトカの港には何千何万の帰還兵が労苦を堪え忍んで生き残った身を、
懐しの母国の土を踏むべく浜辺に船を待って居たのでした。我々山奥の部隊とてみじめな
ほどぼろぼろの衣服には、さすがのソ連側も見兼ねてか、幾らか増しな服に替えさせて書
物一切を取り上げた。又日本へ帰ってからの気構とか称して、ある分子による思想教育の
徹底を期していた。「何が同志だスターリンだ。こんな目に合わして置き乍ら」船来る沖
を眺めていた。「船が見えたぞー。」の合図に隊列を組んで、波止場への行進が始まった。
沿道には未だ帰れない日本兵が港湾建設に酷使されている。こちらが手を振っても答へも
しない。ふてくされての気持ちか、ふとかたえに一団のソ連人が片足首を鎖でつながれて
使役に急がされ行くのを見送る。其の数百、明暗いじじるしい。「此の国にはこんな事は
珍しい事では無い。」と沖を見ると日の丸を翻した帰還船が港へ入って来る。久しく見な
かった日本船の日の丸を見上げた時はなぜか胸へぐっと来て涙が止めど無くあふれた。
国旗を揚げよう(2/2)
「迎えに来てくれたんだ。」と白衣甲斐甲斐しく働く日本の船員達や看護婦さん達が手を
振って「御苦労さん御苦労さん」の一言に天にも昇る気持ちを押さえ誰もが感激して声も
出ない。接岸されて橋がわたされると直ぐ乗船。入口で殺虫剤DDTを袖口と襟口から一
握りづつ投げ込まれ、体を揺すって消毒される。(蚤退治)だ。乗船人員は二千人とかで
ストップが掛けられ、残った人達は此の次と言うが、何時来るか解らないと。乗船が終る
とただちに橋が外され銅鑼の一声出港となる。向こうの丘にこちらの浜に立つ日本人達が
棒立ちになって見送って居る。甲板に立って日章旗をつくづく見乍ら、且つては此の旗の
下に立って幾度が死出をかいま見又この旗を揚げる船が暖かく迎えに来てくれたこもごも
の心情が交差した。相変らずソ連の警備艇がうろちょろついて来て居る。日本海の真中ま
で送って来るのだと、こんな長い苦しい思い出は日本海へ捨てて、早く母国へ飛んで帰り
たい気持ちで甲板へ寝転んで見た。今、日本の人達が国旗を揚げる事について云々言われ
ているが、この時の熱い思い出が身にしみていて、我が家では必ず祝日には国旗を立てる
事にして居る。街を歩いて見ると国旗を立てている人が少ないが、私にはこころの御燈と
して胸に焼き付いて居るのです。
以上、投下終了です。
一回の帰還船で二千人まで……少なすぎる……
乙
いつもお疲れさまです。
感想を書こうと思ったけど言葉が見つからないです。
ところで。
やっとこ靖国に行ってきました。
手を合わせて はたと気づく。作法をちゃんと知らないじゃん。恥ずかしい。。。
でも祈ろうと思っても、頭になにも浮かびませんでした。なんでだろうね。
>>954 いや、参拝所にでっかく書いてあるでしょ。>作法
あ、ありがとう。お勉強して今度出直してくるよ。
>いや、参拝所にでっかく書いてあるでしょ。>作法
気づかなかった。orz
>>957 (´-`).。oO(お賽銭箱左側奧に書いて有ります)
(´-`).。oO(手水場で清め、参拝をする事だけですので)
(´-`).。oO(あまり固くお考えにならずに気軽に参拝してください)
(;´-`).。oO(私も奉賛会の住所登録変更に行かなきゃ・・・・・)
<>
あの戦友の死とはなにか
本年四月二十九日の当戦友会の合同慰霊祭の当日、靖国神社の参道にて声を張り上げ、
パンフレットを配っている一団がありました。私はそのパンフの一枚を何気なく頂き読み
ましたところ、私の胸にも強く共鳴するものがありました。そこでこの誌上をお借りして
このパンフを紹介し、改めて戦友諸君に問うものです。私達の命をかけた過去の日々が、
色々の事情で一般にはこんな風に受け止められる風潮と、我々の業績が風塵と消え去って
行くことが如何にも残念に思えてなりません。このためここに投稿した次第です。
(以下、パンフレットの内容紹介)
靖国神社公式参拝の定着を!
生き残った戦友各位よ
あの戦友の死とは、なんであったのか……
さきの大戦に生き残った我々の抱く英霊への心情は、単に慰霊・追悼の行事のみにとど
めてよいのだろうか……。
あの戦友の死とは何であったのか、もう一度あの戦場に立ち返って省みようではないか。
いま英霊に声あれば、今日英霊のおかれた報われぬ死に悲憤し、この祖国日本の心なき
変節に激怒する血涙の絶叫が聞かれるであろう。
我々はこの英霊の叫びに何と応えるべきか。多くの亡き戦友の殉国の心を、正しく次代
に継承することが、生き残った我々の一人一人に託された使命と心得るべきではないのか。
生き残った戦友の各位よ、我々の多くは、あと十数年をまたずに消えて逝くことであろ
う……。残された時間には限りがあるのだ。この世に何を残すべきか、一考しようではな
いか。
それは慰霊・追悼にもまして、英霊が求めている「英霊の名誉回復」なのである。戦友
各位よこの英霊の絶叫の実現のため集結しようではないか。
以上、31編目の投下終了です。
一応説明しておくと、この編は
『爺様が戦友会誌上で、靖国でもらったパンフレットの内容を、戦友会の各位に紹介』
という趣旨のものです。
爺様の素の文は、最初の5行のみです。
明確な区別を付けるために、空行を付け加えました事をご了承ください。
>954
俺も参拝の時、何も思い浮かびませんでしたよ。
なので『いくつかのきっかけが合って、ここまで参りました』という心象のみで二礼二拍
一礼してきました。
いいんじゃないですか? 英霊に敬意を表しにきたというだけでも。少なくても参拝しに
来たというだけで、最低限以上の礼を尽していると思いますよ。英霊は会社の受付の様
に、来訪目的は問わないと思うなw
自分のレスを改めて読んで
英霊:「いらっしゃいませ、本日はどのようなご用件でしょうか」
参拝客:「あの、昇殿参拝をしたいのですが」
英霊:「それでしたら、参集殿にて受付ております、ここを出て左側の建物に
係の者がおりますので、そちらにお声かけください」
なんて情景を想像した俺は、かなりバカだと思います……
概要紹介『俳句が縁で遺族が亡父の消息を知る』
個人名が多いので、概要を説明するにとどめます。
1)爺様は地元で俳句の会に参加している。
2)その会の席で、たまたま爺様の部隊の話をした。
3)すると会員の一人の父親が、同部隊に所属していた事が判明。
3)その会員さん、父が終戦時に死亡という事しか知らされていなかった為、
今までその詳しい消息を知りたくても知る術がなかった。だが実は自分
の身近に爺様という生き証人がいた。
3)爺様とその会員さん、偶然と意外性に双方びっくり。
【追悼文】
故○○○○様の逝去を悼む 箏葺弓六
昨年は戦友の一人二人、歯の抜ける様に去って行かれる中に、ミ隊の父と慕われて居ら
れた○○様を送ってしまった。
「遠く来て通夜の武蔵野梅雨走る」
閑静な屋敷町の中に通夜の読経が流れ心なしか庭石も濡れ立って、この別れに耳をかたむ
けて居る様でした。
「梅雨じめり有魂だゝよう庭に立つ」
曽っては満蒙の荒野に戦車を疾駆させ、其の威力と意思堅い技術の勇士も、物語りの一こ
まとして消えて行く夜だった。この別れに悲しみを込めて其の夜は親しく弔辞を書いて見
た。
弔 辞
故人は満州○○○○部隊第三中隊主力として、戦車、自動車の修理技術に長じられ、部
下の面倒見も良く兵からは父として崇められて居られ、又私達後輩には神様の様に諸事を
教えられ悪い時は身替りとなって助けて下されました。戦後散り散りになった部下を集め
られ、いつもお忙しい中を戦友会の中心となられ一泊や二泊の旅行等良く計画されました。
其の通知にはかっての赤紙の招集令状を使われ、何の太郎兵衛、何時何分東京駅地下ホーム
へ集合すべし等書いてありました。集って見ると我が子が懐へ帰った様に喜ばれ、その顔
などは忘れる事は無いでしょう。又帰りには皆に堅く手を握られて「今度の旅行は気に入
りましたかね、体を大切にして又来てくれよな」と繰りかえされたものでした。
その故人、父を失った様な悲しみの中に今日御霊を送る事になってしまいました。余り
にも悲痛は此の上無く、此のミ隊隊旗のもと、戦友達の肩におつかまり下さい。曽ってテ
レビで見た軍人俳優鶴田浩二さんの葬儀の時の様に葬送ラッパは吹けないけれど、此の戦
友達が手を取り合って心からお送り申し上げる次第です。良き父よさようなら、お静かに
お眠り下さい。
「弔辞書く深夜の涙梅雨しとど」
32編目の概要、ならびに33編目の投下終了です。
32編目に関してはこんなもので勘弁してください。
33編目に関しては、これをテキスト起こしするのが俺自身である事を大変な役得に感じました。
こんな万感のこもった文章を、指先でも味わえるなんてそうある機会じゃない。
爺様の戦友達、これほどの絆とユーモアで結び合わされているのだな、とタイピングしながら
実感し続けることができました。
さて、この先の紹介ですが、長短合わせて四編とさせていただこうと思います。
この他に、戦友会の故人の句を、爺様が選んで掲載したと思われるものが二編、ラボール小唄
(ラバウル小唄?)の替え歌が一編あります。
後者の方は、興味の或る方が居るようでしたら、追加で紹介できそうです。
ではでは
乙です! ・゚・(つД`)・゚・
つも乙です。
下に貼付けたレスは戦争とか韓国がとか全然関係ない
某なつかしアニメを語るスレから拾ってきました。
何気ない時にこういうことを自然に胸に上らせる人は絶えていません。
じい様たちは忘れ去られてなんかいません。
もし機会がありましたら,その事お伝えください。
36 名前: Mail: sage 投稿日: 08/02/14(木) 20:14:39 ID: rFEMdnR3 [ 0 ]
このアニメって1940年代くらいに作られたんだよね。
大人になってから子供に付き合ってこのての古いアニメみてるんだけど
テーブルに並ぶごちそう(骨付きのでかい肉とか何種類ものデザート
みたいな)や、大きくて快適そうな家とか見てるとこんな国と
戦争しても負けるわな、と思ってしまう。
今でこそ日本も同じくらい豊かになったけど、激動の時代を生き抜いて
日本をここまで発展させた爺ちゃん婆ちゃん世代に感謝だわ。
>>791さん
お疲れさまです。もう残り少ないのですね。。。
それにしても「父」かぁ。自分は絶対に言ってもらえないセリフですね。
旧日本軍って言うと、いじめがひどいとか縦の関係に余りよいイメージがないので
(もちろん、戦後のネガティブな教育のせいだとは分かっているのですが)、
こういうお話は心が温まります。
>後者の方は、興味の或る方が居るようでしたら、追加で紹介できそうです。
興味あります。ノシ
乙
>>967 軍隊でぶんなぐってた上官の中に、朝鮮人軍人も
いたんだよ。
∩_∩
(*´・(ェ)・) ∫ 残り少ないから遠慮してるのかな?新しいの立てとくね。
//\ ̄ ̄旦\
// ※\_(,;;゚;)_\ヾ∩∩
\\ ※ ※ ※ ヽ-(ェ)-)
\ヽ-―――――ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
乙です、しかし遠慮していた訳ではなく、単にテキスト起こしを
していなかっただけなのです…ナンカ シンパイ カケサセチャッタ カナァorz……
日曜ですので、一編くらいは起せると思います。というか、いい加減
進めねば。
○○○○(※:爺様や俺が在住する地名です)
「秋の日の静かに暮れて旅情生む」
何時かは戦友の皆様を私の故郷のひなびた温泉へもお招きしようと思って居りました所、
この度ご賛同を得まして有難うございました。
見られた通り私の郷土も時の流れに従って、東京の近隣でビルの林立に洗われ、小さい
時の兵隊ごっこの野原や、小鮒釣りの川づたいも住宅地化して昔の面影を無くして、新住
の人達で埋まってしまった。戦友の皆様には大したご案内出来ず恐縮して居ります。
只見て頂きたかったものに、当駅から上へ五百米の所に天然記念物樹齢一千年の大欅を
見て頂きたかったものです。写真を添えて置きました。樹の廻り十四米、高さ二十米とも
言われて居ります。翌日神奈川の屋根、大山も天気が良くて、秋の散策を楽しんで頂けた
かと思います。
招魂碑
今から四十五年位前になるかな、シベリア労苦の帰還兵として降り立った故郷の駅には
懐かしい村人達が小旗を振って、「ご苦労さま」「ご苦労さま」と迎えられ、鎮守の森ま
で行列して下さった。丁度駅からの道は見渡すかぎりの桑畑と黄色く熟れた麦畑でした。
長いシベリアからの帰国の道でしたが、「生きていて良かった、良かった」と思いつつ
毎日の夢は故郷の山々とおふくろのぼた餅の味で嬉しくて食事も喉を通らなかった。痩せ
衰えたこの敗残の兵を村人は暖かく迎えて下さったのでした。
もう生きて帰れないだろうと小さな胸に抱きつつこの社を去って行った時とは全然逆に
石段がここでは、弾んで見えたのでした。又かたえには弟を始め従兄や先輩、後輩の青年
兵士達が国の命令に殉じて生きたくも生きられなかったこの人達の運命の碑、招魂碑へ深
く頭を下げるものでした。この社の儀式には通常祭典の外にいつも、招魂祭が合わせて行
われ村の先輩達の慰霊が取り行われて居るのです。今でも除夜の鐘に引き続いて私の初詣
ではこの社で拝む事にしているのです。
「春祭 女宮司の声透る」
「温め酒祭典会議末席に」
勢いをつけないと、何時までも残りを起さずにいそうだったので、取り急ぎ作業して参りました。
34編目および35編目、投下終了です。
34編目は、割愛するつもりだった一編ですが、再考してここに紹介させていただきました。
冊子を貰った時に、爺様の口から地元に大きな池があったことを聞いて驚いた覚えがあります。
俺は爺様の言う所の新住の人になるのですが、生れて喋るようになったくらいには、すでにこの地
に居ました。だけどそんな池のことはまったく記憶にない。
野原や小鮒釣りの小川などは幼少の記憶としてあるのだけど、それすらすでに爺様の原風景から
離れていたようです。
村がやがて町になって住人が増えるにつれ、爺様は一体どれだけ多くの、もう懐古の中にしか無い、
風景を抱え込んできたのだろう。
俺程度の若輩でも、子供の頃飼い犬を連れ(正確には引綱を手放さないように必死に握りしめながら
引っ張られてた)散歩した川沿いの未舗装道を、その川べりのアシの先を抜いて笛にして吹いた事を
懐かしく寂しく思い出すことがあるのに。
爺様が文章書きでよかった、その一部だけでもこうやって記録として残せる。
ではでは
東満の町
さらば大肚子よ (ラボール小唄の曲で) 箏葺 弓六
1)
さらば大肚子よ また来る頃は
戦戈も過ぎ来て 小麦は熟るる
恋しなつかし あの丘あたり
戦友と競へり 早駆けを
2)
さらば大肚子よ 一人の夜は
銃をかまえつ 道哨淋し
恋しなつかし 大肚の街に
あの娘も達者で 居るかしら
3)
さらば大肚子よ あの街恋し
町の角辺に 立ち居る柳
語るも楽しい 兵士の夢を
今も知ってる 芽ばえてる
4)
さらば大肚子よ 思い出小川
一木一草 平和に流る
互にまみえる 時もあらうが
忘れておくれな 語り草
37編目、投下終了しました。
興味をもたれた方がいらっしゃったので、替え歌歌詞を紹介させて
いただきました。
36編目は故人の歌を爺様が選出したものだったので、割愛しました。
38編目も同じくだったので、これも割愛します。次の投下は39編目に
なります、冊子の中では長い部類の編ですが、明日にでも投下できれば
と思っています。
ではでは
>>971 くまさん乙ですあるがとー
|∀・).。oO( 残りが少なかったから、感想も遠慮してましたw
すいません、今夜は起こしきれませんでしたorz
2レス分くらいですが、ちょっと作業開始が遅すぎたです。
明日以降、起こし作業を完了させます。
いつもありがとうございます。ゆっくりお待ちするのも楽しみですので、じっくりとお願いいたします!
第○○○○部隊の皆様へ(1/2) 箏葺 弓六
戦後もう五十年が過ぎました。兵役の無い日本、経済大国日本と平和な生長を見て、
感慨無量という現実の中に日々を過ごして居ります。兵役の義務を背負って赤紙一枚の
令状から人生がこんなにも狂わされて、生死の助け合い、庇い合いをした戦友諸氏の思い
出を綴り合わせた「戦友会だより」も四十号と続いた。
戦前の若いころ良く浅草の劇場で映画劇場でアメリカ映画の大平原。平原児。シェーン
と広大な平原絵巻やフランス映画の外人部隊、モロッコやペペルモコ(望郷)、ロシア
映画の「どん底」を見て想像していた事がまさか現実に我が身に振りかかって来るとは夢
にも思っても見なかった。
出征を知らされる赤紙令状が来るや当時兵役義務を持つ日本男子として国防の一語の下
に防人となるべく、最愛の妻を置いて親兄弟に別れを告げ青年意気に燃えつつ満蒙荒野に
銃剣をひらめかせ、戦車で野山を乗り廻した思い出はつきない。
満州は広かった。あの山、あの丘、あの野原に白の芍薬とアルプスのお花畑の様な所で
行けども行けども家のない国境の平原だった。その中にあって苦楽を共にする戦友諸君と、
日夜戦闘訓練や自動車、戦車の修理技能訓練に忙しく鍛えられ、北の守りと国境警備に神
経を磨り減らして居ったのです。
第○○○○部隊の皆様へ(2/2)
そんな訓練も本番になってびっくりした事は既に主要な兵器は沖縄へサイパンへ、内地防衛
へと転送されていて東部戦線には大砲はいくらも無かったと、当時のソ連軍大部隊の進入
には抗戦空しく敗戦となり、幾度か死線をくぐりぬけた後、シベリア流刑と人生は狂いに
狂った。極寒と飢えに追われ石炭掘り、鉄道建設、道路作り、伐採、畑仕事の重労働と疲労
に追われ、倒れる兵を庇い合ったのに遂に帰れず、遠い異国の果に墓参もないあの山にも
この谷にも戦友を見送ったのです。幸いにも堪え忍び生き永らへて帰還、戦友達と今の平和
を噛みしめながら靖国の庭に語らい合へる喜びは感無量、夢の様な日々が続いて来ました。
だがもう戦後は五十年懐かしいあの人もこの人もの旅立ちを聞く。あの当時の若い人達も
幾許もなく八十に手の届く人生だもの「皆さん一日でも元気で永らへて最後の一兵まで
戦没者、物故者と靖国の庭へ語りに行かうではありませんか」私もこの戦友会だよりは
家宝として歩ける中は毎年皆様に会いに行くつもりで居ます。毎年四月二十九日午前十一時
靖国神社拝殿へ拝観にのぞんで長い間役員の方々ご苦労様でした。又つたない小生の随筆
でしたがご愛読有り難うございました。 多謝
永い間ご苦労様でした。さぞかし故人も喜んでいることでしょう。 ○○○○
39編目、投下終了しました。
楽しんでいただいてきた爺様の文章も、あとがき含めて二編を残すのみです。
次の一編も随筆というより記録に近いものがありますので、今回が最終編なのかも知れません。
36編と1編の概要、2編を省略しましたがそれでも結構な量があったと思います。それが長かった
のか短かったのかちょっと解らなくなってきています。
ともあれあと二編、近日中の投下を予定しています。皆様にはもう一付き合いをお願いいたします。
乙です! ・゚・(つД`)・゚・
本当に乙です。
感謝です。
>791氏
テキスト起こし本当に乙です
読み応えのあるこの良スレもあとわずかとなりましたが
次スレもきっと良スレになると確信しています