1 :
名乗る程の者ではござらん:
■江戸時代に「未来」なんて概念あるの?
→ 平家物語巻三「このおとどは不思議の人にて未来の事をもかねてさとり給ひけるにや」
また江戸中期には、「未来記もの」という未来の江戸を想像した滑稽本が庶民の間に流行したと
江戸風俗研究家の杉浦日向子先生の著作「一日江戸人」にもあります
江戸時代の未来予想
・季節感がなくなる(旬の時期がべラボーに早まる)
・諸事高級志向となり、贅を極めた後はマニアックな趣味に走るようになる。
・各界での女性の台頭。(男性独占分野がなくなる。)
・自然破壊(山奥まで宅地化が進み、神聖な山も俗っぽくなる)
・プロとアマの差がなくなる。(特に芸能関係で)
・今まで家庭で創っていたものが、セット物として売られる。(七夕セット、お正月セットなど)
・草双紙(マンガ)が大人の読み物となり、小難しい本を読む子どもが増える。
・子どもが辛い物好きになる。
・日本語が乱れ、通言(業界用語)が流行り、得体の知れないカタカナ語が横行する。
・遊女(風俗ギャル)が金持ちになり、実業界に乗り出す。
・年寄りの若作り、老いらくの恋が流行し、(逆に)若者は老人趣味になる。
・盆と正月がのべつ一緒にくる。(イベント流行)
未来人予想図
ttp://jewelrycraft-column.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_5d0/jewelrycraft-column/E69CAAE69DA5E4B98BE59BB3EFBC92.jpg
江戸時代の三貨制度(金、銀、銅貨) 〜大体、元禄から享保期 1700年頃〜
・小判1両=4分=16朱
・小判1両=銭4000文前後の変動制
・銭1000文=銭1貫文
・銭1貫文=銀15匁(もんめ)前後の変動制
・銀60匁前後=小判1両の変動制
・銀1貫=銀1000匁
尚、幕府がこの時期に定めた公定比率は1両=銀60匁=銭4000問=米に換算すると1石ぐらいかな
→【子】→ ‖ →【丑】→ ‖ →【寅】→ ‖ →【卯】→ ‖ →【辰】→ ‖ →【巳】→ ‖ →
→九つ→九つ半→八つ→八つ半→七つ→七つ半→明六つ→六つ半→五つ→五つ半→四つ→四つ半→
→零時 →1時 →2時 →3時 →4時 →5時 →6時 →7時 →8時 →9時 →10時 →11時→
→【午】→ ‖ →【未】→ ‖ →【申】→ ‖ →【酉】→ ‖ →【戌】→ ‖ →【亥】→ ‖ →
→九つ→九つ半→八つ→八つ半→七つ→七つ半→暮六つ→六つ半→五つ→五つ半→四つ→四つ半→
→12時→13時→14時→15時 →16時 →17時 →18時 →19時 →20時 →21時 →22時 →23時→
一刻2時間を上刻、中刻、下刻に三分割して、例えば申の上刻とかいう表し方もある
みなさん、ご苦労様です
保守っとく
共産党支持者だが保守
11 :
名乗る程の者ではござらん:2010/03/17(水) 02:52:39 ID:1x8rxkbw
>>4 結構あたってるのが多いなw
> ・季節感がなくなる(旬の時期がべラボーに早まる) →既にある程度前からなっている
> ・諸事高級志向となり、贅を極めた後はマニアックな趣味に走るようになる。
→バブルで派手な生活の後、現在は価値観の多様化でオタク趣味が増えている
> ・各界での女性の台頭。(男性独占分野がなくなる。) →既になっている
> ・自然破壊(山奥まで宅地化が進み、神聖な山も俗っぽくなる) →高度経済成長時代辺りからの大規模開発
> ・プロとアマの差がなくなる。(特に芸能関係で)
→ひな壇芸能人はどう見ても素人。プロの芸能人とは言えないレベル
> ・今まで家庭で創っていたものが、セット物として売られる。(七夕セット、お正月セットなど)
→既にある程度前からなっている
> ・草双紙(マンガ)が大人の読み物となり、小難しい本を読む子どもが増える。
→小難しい本を子供が読むは当てはまらないが、大人が漫画を読むのは当たり前になってきている
> ・子どもが辛い物好きになる。
→子供は甘いものも好きなので断定できないが、辛いお菓子もあり、ある程度当たってる面もある。
> ・日本語が乱れ、通言(業界用語)が流行り、得体の知れないカタカナ語が横行する。
→まさにその通りになってる
> ・遊女(風俗ギャル)が金持ちになり、実業界に乗り出す。 →その通りになってきてる
> ・年寄りの若作り、老いらくの恋が流行し、(逆に)若者は老人趣味になる。
→概ね、当たってる。チョイ悪親父やアラフォー世代の派手めな生活に対し、若者は温泉を好んだり国内旅行を好む。
> ・盆と正月がのべつ一緒にくる。(イベント流行) →その通りになってる。
>>11 というか、この未来予想図については
いろいろ書かれている中で
杉浦さんが現代にあてはまっているものをピックアップしてるから
お氷さまと同心24時とかいうの見たかった
回船問屋と廻船問屋って同じだったのね
>>13 3月29日(月)22時55分から
タイムスクープハンター #1「室町飢饉(ききん)救援隊」
のようですな。
17 :
名乗る程の者ではござらん:2010/03/28(日) 12:43:12 ID:EYmb70Tt
保守
18 :
名乗る程の者ではござらん:2010/03/28(日) 12:58:23 ID:dlNmXE6s
>>11 >・季節感がなくなる(旬の時期がべラボーに早まる)
これは江戸時代に何度も有った暦(太陽太陰暦)改定と
初鰹など「走りの物」に無茶な大金を出し
農家も季節の先取りのため当時の基準では「やりすぎ」の工夫をした事を
嘲笑しているんだよね
(江戸に近い農家では独活などを室で軟化栽培したり
発酵式の温室で野菜の苗を育てたりして「初物競争」をしていた)
保守
町奉行
江戸府内の武家・寺社を除いた町方の司法・行政事務を行った
主には町方からの訴訟・犯罪者の裁決をするのが主といわれ
囚獄(伝馬町牢屋敷の奉行)・町役人と町民・小石川養生所・江戸の寺社地の町民の支配
火災時の消防の指揮、市中の上下水道の事まで管理し
その職責の範囲は広範囲だった
管轄地域は初め300町程であったが、
高輪・深川本所・小石川・浅草・小石川・牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂・麻布などが順次、江戸府内に組み込まれ
天保の頃には1679町にまで支配の範囲は拡大した
町奉行の定員は2名で
二人の町奉行が月番と非番と分かれて一カ月交代で職務を担当した
江戸の地域を両奉行所が分割してそれぞれの民政を担当したのではなく
南・北というのは町奉行所(御番所)の所在の名称にすぎない
なお、従来の南町奉行・北町奉行に加え
1702年(元禄15年)から 1719年(享保4年)まで中町奉行が設置され、町奉行の定員は一時期三名になった
中町奉行の職責は月番制で担当したわけではなく
どうも南北町奉行のお手伝いをしていたらしいが、どういう分担をしていたのかはよく分からないw
毎年6月7日の中橋天王社の祭礼の日はオープン町奉行所で
庶民は町奉行所の中に入って見学できる
また公方様が紅葉山で御能を見物する日は
諸大名、諸役人の他に庶民も城内に入って御能見物が許される
その折は公方様が町奉行の評判を知りたいが為
庶民は町奉行の良し悪しを自由に言う事が出来たそうな
どのラインまで思った事を口に出来たんだろう?
23 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/09(金) 21:44:14 ID:NheQFDKS
保守
24 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/13(火) 17:41:45 ID:KYoVzZ+B
ほす
25 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/13(火) 21:23:16 ID:HV+U28UE
やくざの
組長。貸元 かしもと
二番目。代貸 だいがし
本出方。(どなたか発音を教えて下さい)
助出方。(どなたか発音を教えて下さい)
三下。さんした。
>>25 本出方(ほんでかた) 博打の時に、正面で壺を振る役
助出方(すけでかた) その両脇で、寺銭とったり掛け金を合わせる役
それと、時代劇での知識なんだから
"やくざ"よりも、"博徒""渡世人""任侠"を使う方が似合っているような
28 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/22(木) 10:09:49 ID:bUYzK8/p
up !
江戸市中の治安を担当
町奉行所
・隠密廻り同心(南北に2名ずつ)
・定町廻り同心(南北に6名ずつ)
・臨時廻り同心(南北に6名ずつ)
俗に言う三廻り
火付盗賊改役=本役
・与力10騎、同心50人
同上 =当分加役(平時において大体は火事の起こり易い十月〜三月に増役される)
・与力5騎、同心30人
一応はこんな所だっけ
中村主水は?
>>30 元は、同心花形の定町廻り同心
何か失態をやらかして閉職の牢屋見回り同心になったり
書庫番やったり、定町廻り同心に返り咲いたりといろいろやってる
32 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/23(金) 11:58:57 ID:JV0ZbXkG
隠密同心って実在したんだ・・・
33 :
名乗る程の者ではござらん:2010/04/23(金) 20:13:43 ID:72TDmcTv
C・A・Lやユニオン映画で、江戸城天守閣の絵が出てくるがあれは誰が書いたのか。
>>33 アレ、随分昔から使い回しされているねw
有名な画家が描いたとかではなく 、たぶん東映京都撮影所の美術部の中の
大道具=装置か背景担当の人では?
まあ、時代劇で扱われるかは不明だが・・・。
今でこそ便所の汲み取りは業者に金を払うが江戸時代の長屋の場合は、
し尿を汲み取りに来た百姓に売っており、大家の収入の一つとなっていた。
それを伺い知るエピソードとして、落語の話でケチな大家に住人が「おめぇんとこでもうクソはしてやらないからな!」と啖呵を切るやりとりの話がある。
・牢屋見廻り与力、同心
町奉行に属し小伝馬町牢屋敷内の事を監督する。
囚人を監督するのではなく、囚人を監督する牢屋同心を監督する。定員は南北それぞれに与力一騎、同心二名
同心は町奉行所から牢屋敷に絶えず見廻りに出役する。
・牢屋同心
牢屋奉行(囚獄)石出帯刀の配下で牢屋敷の事務、監督、取締りを行った。定員50名で二十俵二人扶持
鍵役、数役、打役、世話役、書役、小頭、賄役同心などに分課されている。
37 :
名乗る程の者ではござらん:2010/05/02(日) 12:54:51 ID:GSBwrVnk
>>36 仕業人で牢屋見廻りが主水と島忠助の2人なのは
史実通りだったわけなのだね。初めて知った。
38 :
名乗る程の者ではござらん:2010/05/04(火) 02:52:14 ID:L6d67zaX
農民は米等で年貢を納めていたけど、町民は何だったっけ?
士農工商のうち、年貢の支払いをしなければならなかったのは農民だけ
だからこそ、武士の下に身分をもってきてガス抜きしていたんだよ
商人は、せいぜい冥加金などの商売などの営業免許代金を支払う程度
でもこれらは、一般の庶民には関係ない税金
40 :
名乗る程の者ではござらん:2010/05/04(火) 15:44:16 ID:L6d67zaX
えーっ (驚く)
農民以外無税でつか…
なんで逃げなかったんだ?
>>40 たしかに田舎で喰えなくなったら逃げるしかないかも・・・ただし、それも命懸けになる事もしばしば
逃げる(逃散)
↓
無宿者になる→渡世人・ヤクザ・旅芸人など
→都市部に入ってその日暮らし そしてうっかり捕まる→良くて人足寄場、悪くて佐渡金山送り
あるいは生国の領地に送り返される→運悪く見せしめの為、さらし首になる事も
ちなみに天領(幕府直轄領)はその他の大名領とかと違って年貢がはるかに軽かったらしい
43 :
名乗る程の者ではござらん:2010/05/05(水) 05:23:44 ID:dCbEuZcP
天領は大名の警察権が及ばないから、無宿人とかが流れ込む無法地帯のとこもあったとか聞いた。
>>43 大名家の飛び地や旗本知行地なんかもそうだけど
天領の代官なんて、代官以下、手付や手代、小者を入れても20人〜30人ソコソコの人数しかいなかったとか・・・
そこに村方の衆や番太の数を入れて、何十万石という土地を支配していたそうな
最後の方になると勘定奉行支配の八州廻りなんて役人を設置しても巡回したが
しまいには土地の親分に十手捕り縄を預けて・・・
45 :
名乗る程の者ではござらん:2010/05/08(土) 07:27:44 ID:IpUEdzhi
>土地の親分に十手捕り縄を
効果より、弊害の方が大きかったと。
>>44 なんで有り余ってる旗本や御家人にやらせなかったんだろうね?
どうせタダメシくってるだけなのに・・・
そんなに信用されてなかったのか・・・
例えば八州廻り=関東取締出役
まあ代官所の手代・手付から抜擢されるが
手代と言うは地元の町人や村役人、早い話が百姓から特に任命された代官所役人で
手付は御家人から任命、つまり武士なワケで (もしかしたら逆だったかもしれない)
一説にはその手代の方が真面目に勤務して、手付はというと…在任中は一所懸命一財産を作るのに励むとか
八州廻りもそんな感じだったとか
たしかに治安も守るんだけどね… でも田舎まわりさせられてやってられんのかもしれないw
NHKの杏の戦国武将学見て気づいたんだけど、
刀の差し方って甲冑装備の時と普段着の時って、刃の向きが上下逆なの?
甲冑の時の刀は下弦に、普段着の時は上弦に反っている。
咄嗟の切り合いでは慌てないのかな?
火鉢って木製だよね
その中に灰を入れて炭を入れて使うようだけど
誤って火事になったりしないのかな
>>51 まず、火鉢には、陶磁器のものや金属製のものなどいろいろあるよ
特に、瀬戸物の火鉢は普及率が一番で、今でも植木鉢や金魚鉢に転用されてるでしょ
で、あなたが言っているのは、「長火鉢」や「箱火鉢」のことなんだろうけど
灰自体が耐火断熱材なのはもちろんだけれど
たいていは、金属性(銅や錫)の枠を、焼杉などの木製の板で囲って
二重の構造にもなってるよ
>>50 ナベケンの娘が間違えたんじゃね?
普通は刃を上向きに差すでしょ。
あの番組見てるとあれだけ伊達政宗の話が出てくるのに、
杏が父親の話題には一切触れないのはナゼだろう?
騎乗の際には鞘が馬の体を打たないように、歯を下に向けたんだと。
武具はあんま詳しくないのだけど
そもそも刀の種類が違うのでは
甲冑にぶら下げるのは「太刀」で→→そのうち平服の折は「打刀」になったとか・・・じゃなかったかな?
>咄嗟の切り合いでは慌てないのかな
太刀の場合、刃が下向きになるので抜いた時に返すかなんかしないと相手に刃が向かないから
たしかに咄嗟だと慌てるかも
まあしかし、名乗りも上げず咄嗟に斬りつけてくる奴なんて卑怯だわなw
58 :
名乗る程の者ではござらん:2010/06/13(日) 00:09:16 ID:Z6cT5SXL
あげ
刀は一度使うと研ぎに出す必要がある
研ぎ代は現代では30〜40万円くらい
江戸期は5両前後だからだいたい同じくらいの値段
一介の浪人が簡単に人を斬ることは難しい
辻斬りも5両以上稼がないと割に合わない
研ぎをさぼると刀自体鞘から抜けなくなるしね
60 :
名乗る程の者ではござらん:2010/06/16(水) 21:34:00 ID:ad2cHtk0
刀を見る(?)時に紙を口にくわえるのは何故?
61 :
名乗る程の者ではござらん:2010/06/17(木) 04:52:33 ID:DjnA58X7
息がかかって曇るから。あとで錆びるから。
>>61 あんなカッコつけなくても素直に鼻で息すりゃいいだけじゃん
鼻息も当たらないように、鼻に垂直にくわえているんじゃないんだろうか
梅雨時は大変そうだな……
>>64 あんたの鼻は口のしたについとるんですか?
楽しすぐるw
いや、基本は鼻息がかからないようにだよ
刀を見るときに口でハアハア息するやついないから、いくら好きでもw
鼻息の向きを考えると懐紙をくわえるのは理にかなっている
あと、こんなに大事に見ています、って儀礼的なものもあったと思う
>>67 鼻息の向きを考えると懐紙に跳ね返って刀に当たるような気がするが・・・
69 :
名乗る程の者ではござらん:2010/06/18(金) 18:32:06 ID:WDwcJnvB
紙の折った方を口にくわえて、唇の真ん中あたりで紙を止めて、
口の両横から、左右に息が出るように。
腕は伸ばして、刀は離して。
刀ってデリケートなものだったんだね
当時の製鉄技術とかを考えれば当然といえば当然だけど
本当は人を切った後、そのまま鞘に納めたりはしないってね
刃についた血が固まって鞘から抜けなくなるんだそうな
少なくとも、鹿皮で血をぬぐわないとね
時代劇とかじゃもっとペロ〜ンってなってるな
>>72 もしかしたら和紙が鼻息の湿気を吸収するかもしれないと思った
鼻だけで息してると粉振った時にくしゃみであ(ry
最近はあまりそういう設定ないけど
忠臣蔵で浅野内匠頭と脇坂淡路守が仲良くて
松の廊下の前に脇坂が浅野の屋敷訪ねて酒宴してたりしてますよね
あんな風に縁戚関係のない大名同士の私的な付き合いってあったんですかね?
>>78 詰めの間が一緒の大名は、一緒に雑談しながらお弁当を食べるから仲良くなるらしい
珍しいおかずを交換しあったりね
そうなれば、屋敷を訪ねあうのも不思議ではないと思う
元々、詰めの間が同じということは、家格とかが似通ってるわけだから
普通の付き合いもしやすいし
ただ、それによって仲たがいすることもあるから
そうなると、詰めの間で一緒になるのも気まずい
そういう時は、どちらかの大名が参勤交代で国許にいる時に
体調を崩したとか偽って参勤交代の上京の時期をずらし
以後、詰めの間で出会わないように、
互いの居留守居役が交渉・手配することもあるらしいよ
江戸城でも通いの人はみんな弁当持ちなの?あれだけ広いのに社食とかなかったの?
>>80 社食?
そんなものは、ありません
お茶だけは、茶坊主といわれる、それぞれの広間についている
小間使い的なことをするお坊さんが出してくれるんだけど
チップをはずまないと、物を頼んでも聞こえないふりをしたり
大切な伝言や文を渡し忘れたふりをしたりと嫌がらせをするので
大名たちや用心・留守居役たちは、気を使って大変だったらしいよ
かと言って、そのことで文句をつけようものなら
すべての茶坊主たちから総スカンを喰らって、もっと大変なことになるらしい
82 :
81:2010/06/29(火) 13:33:49 ID:???
あ、社食がないのは大名たちの話ね
一般のお城に勤めている人たちは
昼食が「御台所」と呼ばれる食堂でお膳が出る
一度に食べると給仕が大変だから
正午組と二時組に分かれて食べたんだとか
ただし、出るのはおかずとお茶だけなので
白飯は持参(禄として米が支給されていたんだから建前的には当然かな)
夜の泊番の人には、おかずだけでなく白飯つき
また多少だけど、酒や肴もついたらしい
江戸城の人気メニューベスト5は?
>>83 食べ物のことをあれこれ言うな、が建前の武士社会では
そういったことが分かる文献は残ってないだろうから、まず分からないな
武士たちも、官官接待に余念がなかったから
実際には、喰い道楽も多かっただろうけどね
江戸城内では、建前優先でしょう
町人たちは、料理屋の番付だしたり気楽にやってたから
当時流行りの料理屋の名前や食べ物の話が残ってたりするけどね
実際は知らぬが、大河の吉宗で
夏に老中がタライのそうめんを食っている描写があった
現代劇じゃよく給湯室やトイレで話が展開されるシーンがあるけど、
時代劇ではどうしてないの?江戸城には大きなトイレはなかったの?
大奥なら一定以上の人が利用できる
六畳くらいの畳敷きの厠が登場する事はあるけどねえ
>>81 そこを突かれた話として、
日米通商修好条約が締結された時に、
責任者である幕府大老井伊直弼に含む所のある水戸の老公斉昭が
尾張、越前を引き連れて押し掛け登城に及んだ事がある。
その時、井伊直弼は御用繁多を理由に面会を引き延ばし、
無届け登城だからこちらからの用意は無用として飲まず食わずで放置したために、
夕刻に面会した時には水戸以下は体力からしてKO状態。
結局、御三家親藩のご威光でねじ込みを掛けた筈が丸で勝負にならず、
水戸一派は散々に言い負かされた上に無届け登城を理由に登城を禁止され発言力を失う自爆状態。
スレが下がり過ぎているので御数寄屋坊主で登城とするか
90 :
名乗る程の者ではござらん:2010/08/12(木) 02:17:43 ID:LZNWKMmB
>>59 斬首を行う打ち首役人には刀の研ぎ代として
金二部を支給されるらしいが、それじゃ割に合わないね
>>90 首斬り役人こと山田浅右衛門家にとって、斬首刑の執行は副業で、
正業は、将軍家に納める刀剣の切れ味の試し切りである「公儀御試御用」だから
そっち(打ち首)の報酬は少なくてもいいんじゃないの?
一般の試し斬りなら青竹や藁束で代用するのに
将軍家用だけは、実際の人肉(死罪になった死体)で斬ってみなきゃならなかったそうだから
報酬より、打ち首になった死体を貰うのが大切だったんだと思う
山田浅右衛門家って、公儀のお役目にありながら
旗本ではなく、ずっと浪人のままだったんだってね
不浄を嫌ったとかいろいろ説はあるみたいだけどさ
で、浪人だから、役料以外にもいろいろと余禄
(他の大名や旗本とかに頼まれての試し斬りに対する礼金とか、
好事家から頼まれて刀剣の鑑定をした礼金とか)があって
大名レベルの収入がありながら、身分は浪人だから儀礼に金が要らず
かなり裕福な生活をしていたんだってね
とはいえ、山田家の跡継ぎはつらいだろうけどさ
生まれたときから、人斬りの業を背負い、不浄の人と見られるんだから
他スレで 【十手 (じって) 】 の房の話が出ていたから……
町奉行 ・ 町与力や町方同心 【赤房】の十手 (恩賞で【紫房】の十手の場合も)
勘定奉行 ・ 勘定吟味役や代官など 【紺房】の十手
八州廻り (関東取締出役)-勘定奉行配下- 【紫房】または【紺房】の十手
寺社奉行 ・ 吟味物調方や大検使など 【白房】の十手
目明し・岡っ引き 【房なし】の十手
十手の部位
【棒身】 長い部分
【鉤(かぎ)】 刀などを受ける短い部分
【柄】 握り手の部分
十手の長さ
一般の見廻りには、30cmほどのものを携帯
捕縛する時には、60〜100cmほどの【長十手】を使用
※ 「御用だ!御用だ!」ってときは、本来ならこの長十手を持っていたはず
十手術として、いくつかの流派あり
【一角流十手術】 捕縄術を中心とする流派
福岡藩においては、主に下級武士が学ぶ捕手術である「男業」のひとつとして伝えられる
【当理流】 宮本武蔵の父が起こしたとされる流派
一刀剣法、二刀剣法(二刀流)、實手術(十手術)、小太刀術、手裏剣術等を伝える総合武術
【駒川改心流】 中太刀の他、實手、小太刀、薙刀、両刀、三ツ道具、八重鎖鎌等を含む総合武術 などなど
94 :
名乗る程の者ではござらん:2010/08/28(土) 22:54:02 ID:+3rl/M7V
>>93 そういや昔の映画なんだけど、嵐寛寿郎が主演の大塩平八郎を描いた作品で
劇中、天満与力としてどっかに出向いて取り調べをするシーンで
座敷の上座に座ってナニか一喝しようと「お上を謀ると・・・・・・」
とおもむろに懐から30cmくらいの袋を取り出して、袋の中から立派な十手が出てきて
畳に先っちょをコンコンと叩くと、下座の一同がへへっーと恐れ入ってたw
内容はともかく、この携帯の仕方は史実に近いのかなw
>>94 ウィキペディアによれば
>持ち運び方も時代劇では帯に差しているが、実際は主に十手袋といわれる袋に入れ、懐に入れていた。
だから、正しいんじゃないのかな
特に与力なら、十手を捕縛の実戦として使うことよりも、指揮や身分証明に使うんだろうし
>>95 94だが、そうなんだ
ロクに調べもせず書きこんでスマヌ
映像を見てて、最初はナニをする気かなって見てたら、
そういう流れだったので、随分まどろっこしい事をするんだなっとチョット笑えたんだ
(´-`).。oO(白獅子仮面は何流なんだろ…)
カッチンカチャリコズンバラリン二丁十手流
99 :
名乗る程の者ではござらん:2010/08/31(火) 22:36:35 ID:kePwzJZS
山田浅右衛門家の主たる収入の一つには
薬としての「肝」の販売があった。 「人肝」
これは、奉行所とかの役人が賄賂としての「肝」
の要求が過多なので、なんとかしれという上申書が
残っている
試し切りも主たる収入は胴体は山田家に下げ渡されるから、
これを使った試し切りで、鑑定書を出す。
丸太(胴体)3本を一刀にて両断したが刃こぼれせずとか。
代々の山田家はほとんどが養子、つまり、各藩とから弟子入り
していた(首切りではなく、武芸の一環として)者から養子に
入ってる。 直系は少ない。
代々の山田さんに委託しているのが常態化していたが
ホントの時折、諸般の事情で本来の同心にお鉢が回ってきたりすると
そんな役今更したくないから、みんな逃げ回ったらしいとか
101 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/05(日) 21:50:28 ID:bEW06Edx
時代劇で、野外を歩いているシーンをみると、
針葉樹林が出てきますが、たいてい混んだ森林です。
時には倒木なども見られますが、当時はおそらくなかった
光景です。
当時は貪欲に森林を伐採していました。
今よりも強く間伐されていました。
(浮世絵などで山の光景をみれば、木がまばらに描写
されているはずです)
切った木も薪などに使われまくったので、倒木もなく
すっきりした森林であったはずです。
(ただし禁伐とされた幕府や神社、寺社の森林など
は例外です)
もっと言うと、当時ははげ山も多くありました。
里山広葉樹では、薪林として共同でつかっており、
たいていは根元から数本生えた木に仕立て、胸の高さ
くらいの直径が20cmは超えていなかったはずです。
薪としてどんどん伐っていたはず。
102 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/05(日) 22:20:20 ID:bEW06Edx
昔の時代劇では、当時なかったはずの木が映っていたり
します。今、時代考証がしっかりしているせいかあまりない
です。
ただ、江戸より前のはずなのに、まだないはずのサクラ
がでてきているかも?
林道とおぼしき道を歩くシーンで、約百mにわたり細かい
砕石を敷いてあるのを見たことがありますが、これも当時は
ない光景だと思います。敷いたとしても、拳大の石を使って
ぬかるみを数m程度のはずです。
103 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/06(月) 05:11:26 ID:5yOCzzB/
>bEW06Edx
面白くなるどころか、つまらなくなる知識だな
>>103 書き込みがしにくくなるなぁ、そんなこと書かれると
ところで、雑学本読んでたが、離婚の流儀でちょっと驚いた
>妻の方から離婚できる条件
>
> ・妻の承諾なしに、夫が妻の持参財産を質入れした時
> ・別居、もしくは音信不通が3〜4年続いた時
> ・髪を切って、一生尼になってでも離縁したいと考えた時
> ・夫が家出して、1年が過ぎた時
> ・駆け込み寺へ行って、所定の期間が過ぎた時
江戸では、女の数が少なかったから、かかあ天下が主流で、
言われているほど男尊女卑ではなかったと知ってはいたけど
実際、離婚の条件は、かなり近代的だと思う
妻の個人的財産や権利を一切認めない家長制度だった
明治〜第二次大戦前の方がよっぽど、男尊女卑だ
時代劇では、縁切り寺と三行半の話くらいしかでてくることはないけどさ
江戸時代、生類憐みの令も出ていたから動物を食べる
人があまりいなかった…ということはなく、(今ほどではない
にしろ)動物や鳥を食べる習慣はありました。
「鹿食(喰)免」という免罪符が発行されていたこともその
証拠です。
動物の肉は江戸市中では、どちらかというと滋養強壮の
薬品のような扱いで高価だったようです。
こうした肉をあつかうのは「ももんじや」と呼ばれ、生きた
鳥も売ったようです。鳥を生け捕りにするにはとりもちが
もっぱら使われました。
>>105 薬喰いってことで
病人や老人はいつでもOK
健康な成人も、冬は滋養を付けるってことでOKだったらしいね
生類憐みの令と言えば、悪いことばかりではなく
そのおかげで、孤児・捨て子や、病気になった身寄り不明の旅人なども
手厚い保護がされてたっていうのは、過去スレで出ていたけ?
彦根藩は、「牛の味噌漬け」を特産にしていたらしいけど
そんなのを食べられるのは雲上人ばかりだよね
庶民はやはり、狸・猪・鹿・鶏ってとこなのかな?
>>104 江戸は男あまりで、いくつになっても結婚できないとっつぁんが多かったらしいしね
少ない女も、金や地位のある人間が何人も囲ってしまうんだから
庶民はそりゃ、たまに安い女郎でも買うしかないわな
そんなだから、女は離縁しても、すぐに再婚先がきまるってね
>>107 鶏卵も高価だった(放し飼いが主流だったみたいだしね)し、
肉は野鳥とか野兎の方が多かったのでは? 獣は高価だたろうし。
肉より魚(干し魚、塩漬魚、糠漬魚、干しイカなど保存の効くの)
魚より野菜(里芋、大根とか) 白菜、キャベツは無いはず
野菜より米(成人男子で、5合/日が標準、江戸以外では玄米なので健康)
+漬物、納豆(叩き納豆を味噌汁に)、豆腐(雷豆腐とか)
貧乏なら雑穀米(玄米+粟、稗)、あるいは玄米+根菜、
もっと貧乏なら雑穀オンリー、高地なら、蕎麦主体(蕎麦がき、蕎麦雑炊)とか。
しかし、5合っていったら、お茶碗10杯 喰えんなあ。
>>108 三行半は「お前さんがどの男とくっつこうと我関せず」
という書面だというところが面白いですね。
>>109 1日5合はすごい! 食えない。
ご飯と言えば、当時は関東と関西でご飯を炊く時間が違うのが
面白い。関東が朝炊いて、関西が午後炊くんだっけかな?
ぬか漬け魚とありますが、野鳥もぬか漬けでも保存されて
いたんですよ。
>>106 故 杉浦さんの本では、孤児や身寄りのないひとは、
町ぐるみで面倒をみた、とあります。
「小僧の一人や二人、おらっちの町で育ててやらあな!」
っていう心意気をみたようで、心が熱くなったことを
思い出しました。
杉浦さん……良い人に限って若くして逝ってしまう……
>>110 それがないと、女の人は再婚できなかったから
文字がかけない旦那だと、ただ線を三行と半分引っ張って
名前と印だけでもOKだったとか
また、判じ物好きな江戸っ子らしく、鎌と茶碗の絵を描く(かまわん)のもアリだと
読んだことが以前あって、笑ったことがある
113 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/09(木) 17:13:39 ID:GyaSmmWY
長屋のおかみさんはそうだったけど、
表店とか、大店の内儀の場合には、
三行半の受け状ってのを離縁した妻から
必ず、貰っていたそうです。
まあ、財産がある家の場合ってことですね。
妻に非が無い場合には、持参金は全額返金
離縁する。 離縁する。 離縁すると3回
言ったら(同じ日という意味では無い)
離縁が成立して、三行半を出さざると得ないとか
読んだことがあるけど、本当なのかな?
・江戸時代には屋台の寿司屋が多く、流行した。
・当時、寿司屋の「のれん」は、客が食事後に手を拭くためのものだった。
ということを、最近テレビの雑学番組などで何回も聞くようになりましたが、
屋台の寿司屋が出てくる場面など、時代劇で見たことがないです。
どころか、そもそも寿司屋がほとんど出てこないように思います。
何故でしょう……。
>>114 単純に小道具さんが消え物として作るのが大変だからじゃないか?
うどんやそば、煮物とか焼き魚なら専門の料理人じゃなくてもそれなりの形にできるけど(味はともかく)
寿司だと職人に握らせないと形もキレイにはできない。
出前を頼むって選択肢もあるだろうけど、撮影って予定時間通りに進むものでもないし。
どうしても寿司じゃなきゃいけない話(どんな話だw)ならともかく
色々面倒くさいなら寿司を劇中に出さない方を選ぶよ。
池波正太郎の本で読んだことがあるんだけど(ちょっとうろおぼえだが)、
今のような握りずしの形になったのは江戸時代でも幕末に近いころらしい。
鬼平の時代にはまだ無かったということで小説でも鬼平がすしを食うような
場面は書かなかったと。
いなり寿司の屋台はだいぶ前からあったそうだけどね。
>>114 屋台じゃないけど3〜4人入りそうな小店の寿司屋を
必殺シリーズのナニかで見た事ある
今は亡き山内八郎がねじり鉢巻きで握っていたよw
幕末手前の贅沢寿司(表店で、留守居役とかも使ってとかなんとか)
の前の時代なら、寿司、蕎麦、てんぷらは屋台の立ち食いが基本。
4文屋、天麩羅や、寿司屋の屋台が並んでいる画とかもある。
文庫本なら、石川英輔氏の江戸風俗本にも載っていたはず。
暖簾は屋台の表側にちょこっと下がってるだけだし、店の看板
江戸時代って布は高価(挨拶に手拭は上等)だから、今の扱いとは
違うし、暖簾は店の顔だから、手拭とかはさせないのでは?
それこそ、そこな擬宝珠にでもなすりつけておきねぇ だと思う
食った後のお手拭はそれでいいとして、寿司を食う前のオシボリ的な物は無かったんだろうか?
やっぱ江戸っ子は手で食ってたんだろ?
志賀直哉の「小僧の神様」かなんかで
立ち食いの寿司を食べた後、暖簾で指を拭くのが粋で云々って記述があったような
>>119 それより握ってる職人の手の衛生管理の方が気になるな・・・
123 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/10(金) 20:24:25 ID:OpNrGEpr
1貫、2貫とか手で食べるのは、明治時代のグルメブーム以降では?
寿司屋も今の形態(屋内でカウンターで、その場で握る)
お江戸の屋台物は今で言えばマクドとかケンタ。
寿司は魚河岸で仕入れたのを酢で〆たのに酢飯の早寿司、稲荷寿司で
作って置いたもの、屋台は売るだけ、つめを塗るぐらい。
喰ったのは箸(割り箸 今の割り箸とはチョット違うらしい)
天麩羅は長串(味付き衣でタレにはつけない)で刺して喰った
寿司(早寿司)も、長楊枝を挿してる画がある
(今だと、タコ焼に全部楊枝を刺してる感じ)
>>123 江戸時代の寿司はかなりデカかったようだから、串刺しだとさぞかし食いにくかったんだろうな、ボロっって感じで・・・w
125 :
名乗る程の者ではござらん:2010/09/11(土) 04:17:59 ID:IUxuL29t
学研の漫画でも勝吉、お花夫婦が手づかみで寿司食べてたなあそういえば
ちょっと上に茶坊主の話題が出てるけど、
現代では悪口っぽい言葉として使われている茶坊主だけど、
大名の愚痴を聞いたり世間話に付き合ったりするのも仕事の内の茶坊主は、
実は知識人で気配りも出来る人物でないと勤まらないかなりのエリート職であったとか。
何で悪いイメージになっちゃったのだろう。
字面がいかんのか?
>>127 今で言うとサービス業だけれど、得た情報を自分の利益に使ったりするからじゃないかな。
>>127 何をするにも心づけがなきゃねっていう奴が多かったからじゃないの
茶坊主、数奇屋坊主って、剃髪法服してるけど、僧侶では無い。
妻帯もできるし、立派な武士階級。 だが、俸禄は低い
御家人〜足軽頭〜足軽レベル 俸禄だけでは知識を仕入れる元手は無い。
本来は諸大名を玄関から溜まりの間へ案内、行事での場内の移動の
案内、幕閣の部屋への案内(大名が相談に行きたいとか)が公務。
本来、大名は昼過ぎには下城するので、昼食の用意、場所は無い。
が、不測の事態の為弁当を持参。だが、溜まりの間には持込禁止。
大名の弁当の預かり、食べる場所の提供(茶坊主の控え部屋)、
公務外での幕閣への取次ぎと面会の斡旋とかの職務外で受け取る
「お小使い」が無ければ生活できない(城中に入るから衣服にも金がかかる)
評判が悪いのはそこで知り得た情報をチクったのがが原因では?
歌舞伎でも数奇屋坊主は悪者だなあ。
数奇屋坊主頭3名(150俵高)、組頭18名(40俵高)、
坊主108名(20俵2人扶持高)、庭造坊主2名人
>>124当時の寿司はでかかったけど一皿に一つだけ
一枚の皿に二つ乗せるようになったのは↑がでかすぎて食べづらいので半分の大きさ二つに分けたことから
当時、特に江戸では食べ物(米)を一度に口に入れる量が多かったため顔の骨格が変形する程だった
えら張りで頬の辺りがふっくらして横を向いた時の顔の形が悪い
顔の形で分かる良い例は浮世絵
前に大河ドラマで信長が正座していて、びっくりしたことがある
正座が習慣になったのは江戸時代からと思っていたけど、
戦国時代の武将が正座するのは、どんな状況のときなんだ?
>>132 NHK大河「天地人」では、軍略会議がドラマ途中からみな正座だったよ
玉山鉄二があぐらがかけなくて
不自然な貧乏ゆすりが出てしまって芝居にならなかったからだとかw
痺れてさえいなければ、あぐらより正座の方が臨戦態勢。
座布団無しで畳に直に正座して、
痺れない方法ってあるのかな?
>>133 天地人はいい加減なドラマだから、参考にはできないなあ
そもそも時代劇の所作はあてになるのだろうか
江戸時代(300年のどこ頃かは知らない たぶん砂糖を庶民が買える以前)
には女子の好むものは甘みの強い芋蛸南京だったらしいけど、
蛸の味付けってどんなんだったんだろう?
正月に食する酢蛸のイメージしか無いんだけど。
芋も薩摩芋では無く里芋なのかな?
>>137 井原西鶴(1642-1693)の 「とかく女の好むもの 芝居 浄瑠璃 芋 蛸 南京」 って一節から来ているらしいから
薩摩芋の歴史を考えれば (薩摩藩でよく食べられていた薩摩芋を、
江戸を中心に全国的に、青木昆陽が広めたのは、1732年の享保の飢饉の後)
この芋は、薩摩芋じゃないのは確かだろうね
蛸の味付けについては、江戸時代の料理書に「蛸の江戸煮」というのが出てくるらしいけど
ほうじ茶の煮出し汁に酒を加えて柔らかく煮たものに醤油と少量の酢で味付けするとのこと
他には、「桜蛸」というものがあって、こちらは、さっと熱湯にくぐらせた蛸を
煎酒(日本酒に梅干を入れて煮詰めたもの)、酢、焼き塩で味を調えたものだとか
>>138 なるほど、
江戸時代の酒は醸造が止まっていないで、
米麹が沢山入っていたらしいから、
でんぷんがあれば水飴みたいになるだろうから、
里芋+タコ+酒で甘くなるのかな?
日本酒に火入れがされて長期保存ができるようになったのは
日露戦争の為に火入れの手法が開発されたかららしいです。
>>139 何か勘違いしてないか?
「芝居 浄瑠璃 芋 蛸 南京」は、女が好むものをそれぞれ羅列してあるだけで
一緒くたに煮た料理が存在するって訳じゃないよ
まあ、里芋と蛸の煮ものは、アリだろうけど
141 :
140:2010/10/04(月) 07:10:41 ID:???
つまり、蛸が甘いから、女が好きって話ではない
単に女が好きなものを並べてみたら
芋や南京のような甘いものが入っていただけ
>>138 >煎酒(日本酒に梅干を入れて煮詰めたもの)
時代小説に、料理人季蔵捕物控シリーズっていうのがあって
その料理人は、いつもこれを調味料として使うんだよね
もろみから作る今の醤油が流行り出した頃(以後、煎酒はすたれる)って設定で
頑固に、煎酒にこだわり続ける職人がいいんだよね
ドラマ化されないかな
もっとも、煎酒で調理した料理は京都で食べたことがあるだけだけど
(ヒラメと蛸の刺身と水菜などをこの煎酒で合えてあった)
味に癖があるので、醤油みたいな万能選手ではないから
一般家庭の調味料としては、駆逐されたのも仕方ないかなって感じはしたけどw
143 :
名乗る程の者ではござらん:2010/10/04(月) 16:57:20 ID:JZ4OepW6
>>141 里芋と蛸の煮物ってのがあったのかどうかは知らないけど
江戸時代の高級料理って言えば甘みでしょう?
現在とは価値観が違う。 甘みは憧れ
料亭の料理の高級さ=三盆とか砂糖を幾ら使っていたか?
ってぐらいだったはず
甘いものをありがたがる風潮はあったにせよ
庶民の好みの話しなんだし、一般的に口にするものだから
好きな物尽くしの蛸が、甘い味付けだと限定する方がおかしい
滅多に口にできない高級なものでも良かったから
金鍔とか羊羹とかも売り出し始めている時期なんだし……
好きなもの尽くしは、庶民がいつでも囃し立てたり、口にしたりできるものってことだと思うよ
>好きなもの尽くしは、庶民がいつでも囃し立てたり、口にしたりできるものってことだと思うよ
これって、おなごが好きな甘みだってことじゃね?
論理が矛盾してると思うな。
おまえら、蛸が甘かろうが、浄瑠璃が辛かろうが
時代劇は面白くなりはしないと思うぞ、いい加減やめれ
もっと江戸っ子っぽく煽ってくれ
149 :
名乗る程の者ではござらん:2010/11/05(金) 03:39:36 ID:sMJ5+BLW
なんとなく久しぶりにネタになるかな
南北両町奉行所には与力は25騎、同心はそれぞれ120人、同心はのちに140に増員された
この内、犯罪捜査追捕に当たっていたのは
>>29の人数に増員しても各奉行所で二十数人だったといわれる。
与力の役料は平均200石(4公6民=80石=200俵=玄米状態)で、段階に応じて120俵〜230俵位と差が有る。
これは上総下総の天領のうち1万石の土地が割り当てられ定員で割ると平均の数字が出るといったワケである。
同心の役料は蔵米取りで平均30俵2人扶持、古参の同心は35俵ぐらい、
また勤務評定、手柄などで増えるケースもあったらしい。
ちなみに二人扶持とは御扶持米といって家士(家来)もしくは個人的な部下の食費として
1日に付き玄米5合を付け足しましょうー、でっその二人分という意味。
年間換算で行くと約10俵ぐらいにはなるだろうか
ところで蔵米取りというのは、原則は御公儀の御米蔵から現物支給というワケだが
これでは他の費用は米を売ってお金に代えなければいけない。
そこで登場するのが御蔵前で商売をする札差という商人で
この札差に3分の1を米で残りを現金で代弁させた。
なお春と夏にそれぞれ全体の4分の1、冬に4分の2と分割して支給されるので、これを俗に三季の御切米と呼ばれた。
旗本退屈男のご用人様は笹尾喜内
一心太助のご用人様も笹尾喜内
なぜ同じ名前なの?
153 :
名乗る程の者ではござらん:2010/11/08(月) 15:44:36 ID:IxoPumcr
御用人様の定番さ
ついでに言うと マチャアキ親子は 善内をやってたな 親子二代で
殿様も 親子二代でさ
落語の大名はみんな赤井御門守みたいなもんか
旗本って言ってもピンキリだろうが
定番の三太夫クラスがいる、そこそこの旗本家の用人だとどのくらい貰っているんだろ
中小姓で三両一人扶持くらいだと聞いた事が有るが
石高とか経済状態によるんじゃない?
1石=150kg(昔は1年に1.8石/大人、5合/日を喰った)1俵=60kg 1石=2.5俵
米価は江戸時代でも大きく上下しているが、安定期の値段は1石=1両=銀60匁 が米相場
の値段(つまり、大阪の堂島、江戸の米相場での売買価格、市中での売値は *1.5倍)
裕福な3,000石の旗本(実収入は1,000石=1,000両)程度の場合には、
家老が150石、年寄120石、用人100石、大小姓/中小姓30俵2人扶持、表小姓25俵2人扶持
ただし、役職に応じた付け届け、出入りの商人からの賂(まいない)等があり、住居、時服は主家持ち
町屋の女中(炊事、雑用)が1両〜2両、祐筆、足軽とかが3両1人扶持(俗に言う3ピン)
旗本に切り米は無いので、石高の30%程度が取り分、奥(旗本の私的な費用、奥の費用)は約10%(この場合なら100両程度)らしい、
領地の豊作凶作に影響も受けるし、治水などの土木工事の費用は旗本がなんとかしなければならないから、
御家人の切り米(領地は無い、御蔵米で支給される)取300石より貧乏とも言える
100俵3人扶持で家来(出仕の時に付添う家来 家内の下僕は別)を養うより、30俵1人扶持で家来が無い方が貧乏では無いとか・・・
出入りの商人(台所の魚、野菜、薪、炭、味噌、醤油など)が賂の要求に悲鳴を上げてたなんて記録もある
明治時代に聞き取り調査した書き物を元にした「江戸の旗本大辞典」などから孫引き
昔は米の品種や質によって同じ石高でも手取りに違いが出ることがあったのかな?
所領(旗本にもあるんですよ)の収穫などに相当左右されたようです。
ですから大名は新しい産業を起こして所得を隠すことに腐心しました。
(播州赤穂浅野家は、塩田開発と過酷な徴税で領民を苦しめ、しかも国元の
次席家老大野九郎兵衛がこれを隠匿していました。ケチがもとで喧嘩をおこし、
お取り潰しになったとき、城下では餅をついて祝ったそうです。)
実際にはこれは両刃の刃で、商人がより太り、武家が勝手元不如意に
なると漬け込まれる素にもなりました。
天領でも作柄収穫は大問題でした。ですから幕末に二宮尊徳さんみたいな
有能な農政家が重用され、名字帯刀を許されたわけです。
品質は4段階ぐらい。 産地、その年の作柄。 堂島の入札の早見表では
そうなってるみたい。 切り米としての配分も身分と等級は比例している
ただし、品質と言っても、籾、玄米での保管とは言え、廻船(湿気の多い船底)、
湿気の多い米蔵なので、古米、古古米と古くなると腐臭が出てくるので、
庶民が食べる米レベルでは臭わない米が旨い米とかなんとか
産地は綿花栽培が盛んになる前は山陽、山陰、九州などが優良産地
高収入な綿花(干しかと関連)栽培が盛んになると、優良産地は北陸、東北
冷害を生き延びた稲(突然変異)を育てた「惣兵衛早生」など寒冷地用稲が勃興したのも関連するかも
人工交配による品種改良は明治30年以降から、「惣兵衛早生」から、
寒冷地用稲の亀ノ尾、陸羽132号や水稲農林1号を開発
金額は季節的にも変動 江戸の御家人の「切り米時期」で価格が大きく左右されていた様です。
年3回、旧暦の10月に1/2、2月、5月に1/4ずつ、この時期には大きく下がる
取引量が増える、市中にも大量に米が流通するから
大阪・堂島の先物取引(帳合米取引)の時期も〆日は切り米の時期
江戸で御家人の切り米の売買を委託されたのが札差で、堂島で大名小名の年貢米の
売買を委託されたのが掛屋。 いずれも問屋(株仲間)制。 鴻池屋、淀屋、柏屋など
南部(青森)、北陸、山陰、山陽、四国、九州は北前船で大阪に、東北(太平洋側)、三河は江戸に廻船
堂島、江戸で換金した場合には、品質にもよるが、売買時期による変動も大きい
切り米時期を避けて、現物取引(正米取引)をすれば、売値を高くできます
江戸での売り米に力を入れてたのが仙台伊達藩、年貢米以外にも買米も実施
本所深川の仙台堀は仙台藩が自前の米蔵への廻船をする為に掘削(拡張)した堀、
周囲には米問屋、廻船問屋、酒問屋が櫛比 江戸の米の5割以上を供給したことも有り
東北地方には冷夏による凶作が周期的に襲ってきます
買い米とか年貢米の江戸・大阪への廻船が度を過ぎると、
南部藩(青森、大阪に廻船)の飢饉に様に凶作時には大量の死者を出しています。
江戸時代にも輸入米ってあったの?
輸入米は知らないけど、外来種(長粒米系)はあった
大唐米(別名 唐法師、赤米)というのが奈良時代に
渡って来ている。 粘りが無くさっぱりしている
中国経由だが、原産地はベトナムあたり
収量が多いので稗、粟と同じく、貧しい小作人とかの食料だったみたい
(昔は百姓は田畑持ちのことで、蔑称では無く尊称になるのかな?)
百姓を蔑称扱いにしたのは日教組と解同
江戸時代は第一次産業に対しての尊称だった
つーか今でも別に蔑称とは思わないなあ
実際、農家の人たちは自分たちの事を普通に百姓と言うし
なぜか放送禁止用語らしい。
ドン百姓など、バカにする使い方が増えてきたから。
今でも自分で言う分にはカットされない事が多いはず。
百に姓とは何か意味が?
wikiでは田畑持ち、年貢、賦役を支払う権利のあるものは
書かれてるけどねえ なんでしょう?
秀吉が小田原城攻めあたりで出した各種の諸法度の
前と後では意味合いが違うかも?
前:主従の関係は、「従」が領有している土地を「主」が安堵、
従は年貢、賦役(戦争時の荷駄の運搬、橋、河川の工事)
長男が家を継ぎ、次男以下は武将として、
小作人は戦には足軽、賦役 戦が終われば百姓に戻る
まあ、郷士であり、百姓であり、その領地の全てを司ってた
後:刀狩、検地、武家諸法度(武家の争いは秀吉が裁定、身分を固定)
武将として参加した次男以下は、そのまま、武士となる
残った長男には領地の安堵と引き換えに云々ってのは無いから、
つまり、田畑持ち、年貢、賦役が「義務」となったとも言える
三河から江戸に国替えになった徳川家康関連では悲喜交々だったそうです
169 :
名乗る程の者ではござらん:2011/01/21(金) 03:53:28 ID:+mOqTNFL
高家の髪形って
吉良上野介みたいにあんな髪形だったのかな?
公家、医師(後藤流、普通は剃髪)、神官は非戦闘員だから
総髪でも良いだろうけど、月代を剃るのは戦闘員の証(兜の為)、
幕府の直参、直臣で月代を剃ってないのは不味いのでは?
直臣が隠居した場合はどうなのかな?
カツ回収は総髪の写真が残っているが
あれはもう幕末のドサクサてことなのかね?
あるいは写真撮ったのがすでに幕府瓦解後?
172 :
名乗る程の者ではござらん:2011/01/22(土) 16:44:48 ID:y4++Gkrp
フォトショ(r
近藤も土方も総髪。あの時代はあれでよかったんだろう。
あくまでドラマの中の話で実態は分からないが
小普請組や無役の御家人や不良直参の中には伸び放題の連中も居ますよね
なんかに文書であの水野十郎左が切腹になった決め手は
騒動そのものというよりかは
その後の公の呼び出しで奇天烈な髪形に衣服も着流しのままで出頭したからとか書いてあったっけ
無役の小普請組や御家人でも
月に何回か長のところへ挨拶伺いが必要だから
(失業手当をもらうのに、ハロワに通う必要があるのと同じ)
少なくともその前には、威儀を正すとは思うけどね
176 :
名乗る程の者ではござらん:2011/02/27(日) 22:27:39.07 ID:AB+Tf0ij
中奥台所
一の間二の間で調える膳は、格の高い表の客用で、中奥高級役人は三の間、下級が四の間で食べる。
四の間の食事は酷かった由。
177 :
名乗る程の者ではござらん:2011/02/28(月) 21:46:58.31 ID:4EeNVqeX
一色由良之助は大目付で有りながら総髪
だから、テレビの時代劇はダメダメ
知識が無いので質問を
草鞋(草履では無い方)は旅に使っていたみたいですが、足裏は保護されるけど、
足指は草鞋から出ているので地面(土、石、石畳み)と直に触れると思うのですが、
40km/日ぐらいは歩いていたそうですが、足指は大丈夫だったのでしょうか?
実際の歩くのなら
せめて足袋ぐらいは履いた方が宜しいのでは
182 :
名乗る程の者ではござらん:2011/04/29(金) 03:37:50.86 ID:iCJB/5BB
江戸〜京都を踏破した人いますか?
連続、飛び飛び(休暇を使って数か月)も含めて沢山ある
学校行事で徒歩で一部を歩いている処もある
小田原城から、元箱根(関所跡)まで旧東海道を歩いたことはある
草鞋では無いけどね
東海道五十三次 徒歩 とかググルと徒歩日記が沢山読めます
中山道とかの五街道、水戸街道、京都〜小浜の鯖街道、大山街道
伊勢参りなど、徒歩日記は沢山ある様です
185 :
182です:2011/04/30(土) 15:39:30.63 ID:p+EpiaYm
>>182 183
ありがとうございますm(__)m。
連続じゃあ無理なんで、飛び飛びで挑戦します。
おひるごはんを中食っていうらしいけど
参勤交代等旅先ではどんなの食べていたの?
江戸時代は1日2食だろ?
江戸時代は300年もあるから、同質では無いでしょう
参勤交代は軍役なので、江戸開府初期には夜旅とか、
本陣とかの旅籠でも、木賃にして、朝食、夕飯を
野のもの(野草とか)での自炊(料理人が作る)とかで
摂るの大名もあったが、それでも昼食は摂っていたみたいよ
(出典 参勤交代道中記 加賀藩史料を読む 平凡社)
でも、この書籍には内容は記載されていない
江戸の出職の大工・屋根職人とかは朝炊いた白米を弁当として
携帯していた(杉のわっぱという弁当箱もあるし)みたい
白米なのは、麦飯(白米+麦)、玄米より保存が効くということもあった
江戸時代以前の戦国時代でも出陣時には、昼食、夜食も摂っていた
乾飯(炊いた玄米を干したの)、糠味噌(但し、固い、塩分過多)だったらしい
江戸初期には白米、大豆味噌にグレードアップ
「中食」ってのは炊飯を伴わないという意味もある
江戸後期の街道の茶屋のメニューはお握り(山菜入りとか)、
漬け物、煮しめ、うどん、そば、焼き魚、味噌汁とか、結構豊富だったとか
参勤交代もこのあたりのを喰っていたのでは?
詳しい人がいるね、さすがだ。
旅人は宿で作ってもらった折り詰めとか食べていたんじゃないかな?
参勤交代ってよく考えたら分からないことだらけだな
上りと下りで行列がすれ違う時はどっちかが止まって待ってたりしたんだろうか
大名が在国中の城下を通過する際は大名同士で会って挨拶したりしたのかな
やっぱ八兵衛が茶店で白飯に大福のっけて日本酒ぶっかけて食うのが一番衝撃だったな。
>>190 大名同士で会ってまで知らないが、何かしらの挨拶はするんだろうね。
行列は江戸市中でもそうだけど上格の行列とかち合ったら
下格の行列は脇によって、駕籠は戸を開けて挨拶するんじゃなかったっけ?
殿様にしてみれば、それが絶対にイヤなもんだから先ぶれを出して偵察させるとか聞いたことあるw
外様、譜代とか「格」で4月、6月(今の季節、旧暦では2月、4月頃))
とかに分かれていたので、
互いに左右に避けて、行軍して、すれ違う時に
乗り物の引き戸をあけて挨拶する程度らしい
御三家と会ったら、脇に避けて、全員が下馬、土下座、平伏では?
「下にぃ、下にぃ」は御三家だけ、その他は「寄れ」だしね
挨拶(使者を遣わす)のが面倒なので、幕府領(天領)に
宿泊ってのも多かったとか、箱根越えがあるのので小田原藩
(小田原宿)は前泊が必須、挨拶(使者)の資料も残っているみたい
捧げ物もあったのかな? 三島は天領
川止めで、一か所に溜まる方が大変だったらしい
そんな問題を回避する為に江戸での用人による根回し(出立時刻の調整など)
先遣隊(宿のチェック、予約の変更、先行している諸大名のチェック)があったとか
>>193 そういや、この前見たNHKの隠密八百八町で
米倉丹後守の登城行列が「よれっ、よれっぃ」になっていた。
もちろん、市中の人も土下座なしで
映画では昔、鑓の権三って作品で
松江藩の参勤行列が「さきよれっぃ、さきよれっぃ」って叫んでいて
最初見た時は何言っているのかなとw
もしかしたら「わきよれっぃ」かもしれない
他に映像化したのでは大概「下にぃ、下にぃ」だよね。
>>193 俺それを何故か電気グルーヴの本の注訳で知ったよw
186です。ありがとうございました
連休に旅に出るので昔の気分を味わいたく
質問してみました
廣済堂あかつきから、ウンチク本が出ていますね。
絵でみる 江戸の町とくらし図鑑(2011年6月1日初版)
巻末に記載されている参考書籍の内容から新規の事柄は追加されていない、
取捨選択されてるだけともいえるけど、イラスト、軽妙な説明で読みやすかった。
大名行列のイラストは秀逸(内藤高遠家3万3千石)
加賀藩の大名行列の資料とか浮世絵図の書籍はあるけど、今一わかり難かった
姉妹本
イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典~時代小説のお供に(こちらは2010年2月)
けして宣伝では無いからネ!
>>177 大目付なのに、○○守とか役職名?がつかないのも変だよな。
何故か悪事をするのは、若年寄か勘定奉行。廻船問屋が多い気がする。
廻船問屋は密輸ネタで使いやすいからね
勘定奉行はお約束の横領。
ここらへんは現代劇にも通じるものがあるな
勘定奉行の(江戸市中以外での)司法官としての活躍を描いた時代劇ってあったかな?
北大路さんがやってた関八州見廻(佐藤雅美原作)は、勘定奉行配下か。
関八州の公事方なら、隆慶一郎氏の人斬り弥介シリーズかな?
隆慶でそんなシリーズあったっけ?
ひょっとして峰隆一郎?
>>201 テレビ時代劇なら、古いけど1972年の「世なおし奉行」なんてのも有るよ
主演は片岡千恵蔵
役は公事方勘定奉行に道中奉行兼任だったかな?の跡部能登守
配下の八州廻りが田村正和が演じてた
天領で悪事を働いたヤツが他領に逃げたりして・・・というのは描かれていた
まあ最後は例によって奉行が自ら御出座しになって斬ってしまうけどw
206 :
202:2011/06/05(日) 16:29:18.30 ID:???
すみませんお知恵を拝借。若山富三郎版子連れ狼を見ていたら
「俺たちゃナ、わたりかじヨ!!」という台詞があったのですが
「わたりかじ」とは職業を現す言葉なんでしょうか、またどんな
字を書くのでしょうか、ぐぐる様でもヒットしません
エスパーじゃねえから、
どの巻で、誰が、どこで言ったかって
5W1H的な事を書かなきゃ
誰も教えてくれんだろうさ
鉄砲鍛冶が出てくるのは萬屋の方じゃね?
すみません「死に風に向かう乳母車」です。浜木綿子が貸元役で加藤剛の役が「わたりかじ」
で旅をしながら藩の臨時雇いのようなニュアンスです
萬屋さんの方だと、渡り徒士ってのが、vol.22にあるみたい
訂正です、 ワタリ・ジュンシでは無く、「ワタリ・カチ」です ごめんあさい
皆さんありがとうございます、渡り徒士なんですね。もやもやが取れてスッキリしました
216 :
208:2011/06/20(月) 21:26:50.87 ID:???
すいません。間違いでした。
時代劇に興味もたなければ、あやうく自分の国の言葉や習慣を
捨ててしまうところでした。江戸時代なんてほんのちょっと前の
ことなのに、ビバ!時代劇!
>>211 あの途轍もなく腕の立つ渡り徒士か
参勤交代の臨時雇いには勿体ない腕だったねw
ラストの御大の歌がトラウマです、加藤剛の首よりも。
220 :
名乗る程の者ではござらん:2011/08/31(水) 00:03:33.01 ID:GLy0kkas
江戸の大名家の上屋敷は場所によっては石高が違っていても
各家の敷地ってか、地図上ではそんなに面積が変わらない所があるよね
石高の少ない大名家は家臣の数の少ないし駄々広く感じたり、維持費も大変だったりするのかな
維持費は敷地面積より、屋敷に広さに依存すると思う
敷地は広くとも、石高、大名行列の格式(人数)に合わせて、
屋敷を建ててたのでは?
(てか、おおきな費用は奥の費用、参勤交代の費用だったらしい)
特産品が豊富にある藩は下屋敷、あるいは、運河、河沿いに立てた
抱え屋敷を持っていたとか
>>221 >特産品が豊富にある藩は下屋敷、あるいは、運河、河沿いに立てた
抱え屋敷を持っていたとか
それで破れ奉行が突入する訳だな
225 :
名乗る程の者ではござらん:2011/10/16(日) 15:26:42.22 ID:iQkfTx9X
なんとか一家の893の皆さんは、人別帳とかに入っていたんでしょうか?
無宿人というだけで、佐渡送りになるような渡世人が、
草鞋を脱いで、子分になったりしているようですが?
組に入れば街道に居ても良かったんでしょうかねぇ?
先祖が人別帳にどんなふうに記載されてたか見てみたいな
人別帳。自分ちの先祖のとこが見てみたい
人別には入っていないじゃない?
なので、人宿を経営していて、武家の中間に押し込んでた
とかってなんかで読んだ
(中間も一応は武家になるから、町奉行所は手出しできない)
代貸しとか、宿でゴロゴロしている子分は良く判らない
無宿(帳外)なら、捕縛の対象にもなるのでしょうけど、
江戸では町奉行所の手が回ら無かったかも?
名目的には草鞋(ららじ)を履いていれば、江戸所払いの受刑者でも
旅行中ってことで、江戸市中への立ち入りは可能、宿泊はムリ
(なので、渡世人)
江戸周辺には関所も無い、木戸も初期だけ扉+徒士の常駐、
止める手立てが無いでしょうね
しかも、品川〜新宿〜板橋(千住大橋)〜深川より外は
勘定奉行、道中奉行、関八州取締り(時代で違うはず)の支配で町奉行所の管轄外
無宿になると、地方では住み難いので、5街道の大きな街か、
江戸に流入、人数で江戸が殆ど、 ただし、無宿の大部分は離散農民
無宿人狩り+佐渡送りは、長谷川平蔵が石川島人足寄場を作る前あたりかなあ?
良く知らない
人足は田沼の後の松平定信の時代の寛政の改革の時
宗門人別帳でググレは画像は出てきますね
草書だから読み難いけど
うおっ、こんな所でアノ人に遭遇するとはw
オレ、オレ、おれだよ
他所のスレを散歩中、偶然見かけた質問ですが
まだ誰からの回答もないようなのでコチラに持ち込んでみました。
139 :名乗る程の者ではござらん:2011/09/28(水) 21:50:20.33 ID:bUQbXNW7
質問はこちらでよろしおすか?
よく
上様?からの御沙汰が書いてある手紙の包に
「上」て書いてあったりはたまた
「下」て書いてあったりと、
あれはどんな意味なんざんすか?
上様から家臣へは「下」で
身分の低い方から上の人に出すときに「上」じゃなかったかな。
島流しの流し先ってだいたい佐渡島?
鳥も通わぬ八丈島永代からのるにんせん
ちょっと軽い鳥島金杉からの流人船
身分があれば佐渡流し
無宿人狩り纏めて佐渡の金山堀り
平蔵の人足寄場前の佐渡金山堀り
>>234 ありがとうございます
罪の重さや罪の種類で色々あったのですね
御沙汰書ってのは別の意味になるのでは?
末端の武士とかが幕府、諸侯に意見を上程するのは建白書では?
咎ヶ条書(上意書)の宛名に「上」、「下」と書かれてるのは
時間に制約のあるテレビ時代劇のお約束ってことでは?
咎ヶ条書が末端に披露されることは無い、家臣団でも幹部クラスだけ
咎ヶ条書(上意書)は家臣の全員に披露するものでは無いから、
殿様からの火急の知らせなら、早馬とか大名飛脚を使って、
家老なりの重職に宛てられるでしょう
ってことです。
239 :
名乗る程の者ではござらん:2011/11/25(金) 06:48:12.16 ID:xKty4FXV
保守ってことで
なんかの時代劇で上使が読み上げて
その後、そのまま持って帰ったりしているのがあったw
242 :
名乗る程の者ではござらん:2012/01/01(日) 21:37:23.11 ID:/+jbCvR0
ついでに新年に上げるべ
>>241 勧進帳かw
使者が嘘八百並べてもわからんな
NHKのクロ現で時代劇特集やってたらしけどどうだった?
>>244 日本の時代劇は斜陽
これからは韓国時代劇
マジでこんな放送だった
>>245 斜陽というか最早全滅でしょ?
韓国時代劇はたしかに面白いが・・・
247 :
名乗る程の者ではござらん:2012/02/12(日) 11:58:37.86 ID:63AkqXzU
>245
私も見たが 別に韓国時代劇推しはなかったぞ
ただ、国を挙げて制作を支援しているってところを強調していた
まー やつらには全力で過去を捏造したいってモチベーションもあるのだろうが
日本も伝統芸能としての時代劇をもう少し国が支援すべきだってのには賛成
ただ、時代劇の危機っていうなら NHK自身も時代劇枠を地上波で復活させろ!
と思ったので お客様の声にそう書いた
韓国時代劇、なんだか面白いよね悔しいけど・・・
侍が面談する際に刀は右に置く
左に置けば「いつでもお前を斬るぞ」という意志表示
背負い刀は右肩からではなく左肩から刀を抜けるように背負う
別に右肩に背負っても良いが、刀を抜く際に右脇がガラ空きになる
人の手、腕の構造から
刀はそのままでは迅速には抜けない
閂(つまり、刃、鞘を寝かせる)にすることで、
迅速に抜ける
つまり、時代劇の抜刀の仕方はウソ大盛り
時代劇板にまでチョン涌いてんのかよ
ホントお前らは日本頼みじゃなきゃ何もできないんだなw
253 :
名乗る程の者ではござらん:2012/03/22(木) 19:15:07.13 ID:10bbigi1
あげ
江戸時代の時間の考え方がよくわからない
季節によって一時の長さが違うと言う事は漠然と分かるんだけど
誰がどうやって測っていたの?日時計?
昼は日時計、
夜は月の位置(満月とか三日月で違う)、北極星+周囲の星座
江戸での統括は幕府の天文方(天文台)
それを鐘付き堂に連絡、
堂の維持費は聞こえる町内から集める というか結構な収入
離れた場所では、浅草寺とかの鐘の音を聞いてから搗く
線香、地面を使った線香とかも使ったとか
江戸末期には不定時法に対応した和時計もあったそうな
(とっても高価、シーボルトも欲しかったが断念してる)
といっても基準は日の出、日の入りなので、アバウト・・・
江戸末期には油も安くなったので夜更かし(夜の店)も流行った
行燈=10w?(2m四方ぐらい)、百目ロウソク=20wぐらい
花魁の総白塗りはそんな理由だとか
当時の縫い箔、絞り友禅とかもそんな照明の下で見ると印象が違うそうな
(出展 石川英輔氏の江戸関係の文庫本など)
>>257 ありがとうございます
現代の感覚だとものすごく複雑なように思えるけど
寺の鐘の音と空が時計代わりで逆にシンプルかもしれませんね
勉強になりました
259 :
名乗る程の者ではござらん:2012/04/30(月) 07:44:41.92 ID:rF07CZf1
5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
タモリの番組で阿部寛が「褌を締めてローマ風呂に入る場面が出て来る」と言ってたけど、
『西洋古典学事典』の「テルマエ」の項目を見ると、
男性は日本と同じく全裸で入ってたらしい。
評判の事典だけあって、「ハドリアーヌス」とか「カラカッラ」とか「エラガバルス」とか
映画『テルマエ・ロマエ』に関連する項目を読んでみたら、
メチャクチャ面白かったぞ!
FELLATIOの逸話も、しこたま出て来るしネ。
名将ハンニバルや英雄アレクサンドロス大王、カエサルといった著名人の男色の話題も満載!
やっぱ「英雄色を好む」という俚諺は真実なんだね
各藩の江戸詰めの連中はどこに住んでるの?
上屋敷・下屋敷の中に藩士の宿舎もあったのかしら?
ずうっと江戸詰めで家族持ちもいるだろうに社宅みたいな感じなのかな
江戸家老クラスでも自分の屋敷はないのか?
あまり時代劇でも時代小説でもそのへんの描写がないんで気になってます
普通は上屋敷(一番大きい)じゃね?
藩の規模によるけど、基本、藩屋敷=街の集合体
目付、番組頭、目付頭以上は邸宅があった
妻帯した江戸定府の上士の下のクラスは
屋敷外に住んで通いもあったそう・・
中屋敷は基本、隠居所(西の丸みたいなもの)
下屋敷は江戸城から離れており、基本、火事の時の避難場所
物産が豊かな藩では蔵屋敷も兼ねる、貧乏なら農地
そのあたりの概略を知りたいなら、
江戸の用語辞典
絵で見る江戸の町とくらし図鑑 各1,500-
廣済堂出版 あたりがお奨めかな?
>>261 早速、ありがとうございました!
>目付、番組頭、目付頭以上は邸宅があった
>妻帯した江戸定府の上士の下のクラスは
>屋敷外に住んで通いもあったそう・・
…なるほど
ご教示いただいた本も当たってみます
263 :
261:2012/05/08(火) 23:51:09.88 ID:???
>藩の規模によるけど、基本、藩屋敷=街の集合体
>目付、番組頭、目付頭以上は邸宅があった
しつこい様ですが、 藩の規模によるので一概には言えません
時代劇の合戦シーンで、あれは嘘で昔の馬はポニーで騎兵はいなか
っただの、ポン刀は首狩り用で白兵戦はほとんどなかったって言う奴は多いのに
鎧に関してはスルーorあれが真実だと思い込むやつ多いじゃん?
理不尽じゃね?
まず、馬はポニーじゃあねえよ
騎馬武士の身長---当時の馬
現代人---サラブレッド
を考えてみ?
>>266 体高147cm以下の馬はポニーに分類される。ちなみに、ユーラシア大陸を暴れまわった
モンゴル騎兵の馬もポニー。
>>267 いや、ポニー種かどううかでは無く、
当時の馬の体高と、武士の身長
と、
現代の馬の体高と、現在の俳優、エキストラの身長
の組み合わせなら、比率が同じ程度になるから、
映画、テレビがウソって訳では無いってことだろ?
鎧に関しては
弓、槍、鉄砲と戦場での主力兵器は変遷してるけど、
戦法も変わっている 槍にしても当初は半間程度から
1間で、単独、あるいは、数人で使う
足軽が主力になる戦国時代では6m〜10mで 数十人で槍衾が主体
騎馬武者も弓、、槍の時代で違うし、獲物も弓、薙刀、馬上刀から
鉄砲時代には、騎馬は上級武士のシンボルに変わっている
鎧も弓からの防御の嚇しから、色々な変遷をして鉄砲時代には胴丸になってる
ちなみに首狩り(落武者狩り)は農民、郷民のボーナス
一番の獲物は3mとか長い竹槍、落とし穴など
(誰が空き好んで、手負いの落武者に近ずくというのか?)
白兵戦、組内になって最も使うのは鎧通し
嚇し、胴丸、いずれにしても斬撃は無理
上級武士は首、顎下は面頬+で保護してる
鎧の隙間から刺すが最も効果が大きい
(両刃、あるいは、片刃の・・・匕首みたいなので、刺す)
日本刀と言っても、エロエロあるが、戦場の白兵戦(組打ち)
あるいは、落武者狩りで主力の武器って聞いたことが無い
って思うけどね
さて、
>>265 はどれの時代の鎧を言ってるのか?
あるいは、どんな時代劇のどんな鎧を言っているのだろうか?
270 :
名乗る程の者ではござらん:2012/06/05(火) 21:19:19.47 ID:/IcOOoXC
今日テレ見てるけど、このスレ向きかな
>>119寿司は箸で食べてた
次第に屋台が銭湯のそばで店を出し始めて手で食べる習慣ができた
>>180草鞋といえば鳶が履く草鞋は旅用ではなく滑り止め
従って旅用より幅が狭い
現代の神輿を担ぐ時に履くのもこのタイプ
なかなか良いのが売ってなくて祭り好きの鳶から買うのがベスト
>>269 よくネット掲示板見かけたんだが時代劇の合戦シーンにおいてホントは接近戦はほぼなか
っただの、日本の馬はポニーで騎馬武者は嘘って自信満々に宣伝する奴おおいじゃない?
そのくせ「鎧」に関しては時代劇でよくある描写を真に受けて、日本の鎧
の(主に矢に対しての)防御性能を過少評価する奴はもっと多い。なんでだろうな?っていいたか
ったんだ。だからその質問の答えは源平〜戦国時代の終わりまでの鎧。
272のつづき
ついでにいうなら、騎馬武者は存在した。根拠は、「大鎧」「太刀」「和弓」
が騎上戦を前定に造られたモンだから。例えば和弓は馬の上でも使いやすいように
真ん中より下のところに持って使うようになってる。太刀は騎馬系民族の刀剣に
類似した反りが付いてる。
あと、言っておくが、首狩り=落ち武者狩りじゃないぞ。首狩りってのは戦場におい
て敵兵士の首を切り取りそれを戦功の証とするための行為であって落ち武者
狩りとはちがう。
>>269は白兵戦=組打ちっていいたいのか?確かに組打ちは
白兵戦の一種だが組打ちだけが白兵戦じゃない。
隊列を組んでの長柄槍での殴り合い突き合い、敵味方入り乱れた乱戦も立派な
白兵戦だよ。
そのグラフって、
鎌倉〜江戸時代の平均身長は160cm以下って
ことを証明してるんじゃない?
サンプル数、階級と食事とか不確定要因が沢山あるけどね
古墳時代〜鎌倉の間は6世紀末〜1200年からと
600年も空いてる・・・
「邸館または田野において戦があると市民はそれを見物している。
戦争ではまず双方矢を放ち、更に近づいて槍を用い、最後に刀剣を
交えて戦う。」1557年 パードレ・ガスパル・ビレラ
まずその変な改行をなんとかしろ
話はそれからだ
改行は変だけど、言ってることは合ってるんじゃ?
斎藤一の左利き説を採用して刀を右に帯びて描かれる事があるけど、
実際に左利きの侍は右に刀さしてたのかな?
剣道では利き腕に関係なく竹刀は必ず左に携え、構える時は順手で持つ決まりになってるんだけど
小太刀も利き腕にかかわらず必ず左手で持たされる
それはあり得んわな〜w
絶対に居なかったとは言い切れないけど。
五人の野武士に右に太刀ぶら下げてるのが出てくるが非常に気持ち悪い。
現代人が見て違和感ありありなんだから当時の人間にはいわずもがな。
暴れん坊将軍の大岡越前が捕り物とかでよく使ってる短い弓?みたいな物の
名前はなんというのでしょうか?鞭とかじゃなく弦の張ってない短い弓っぽい
物なんですが。ググッても正式名称が分からないので全然名前が見つからないんです。
>>284 ご教授ありがとうございます。でもちょっと違うみたいです。
実際の画像があればいいんですけど、それさえも見つからなくて。言葉足らずで
分かりにくいですよね。スイマセン。
たしか劇中のセリフで、なんとか弓、弓なんとか?と言う風に「弓」という言葉が
入っていたような記憶があるんですが・・・。
>>285「竹篦」でgoogle画像検索した?
うちの親父に聞いたら弓を半分に切ったものだろって言ってた
んで「弓を半分に切ったもの」で検索したら出てきた
>>285大岡越前DVD第二巻のジャケで持ってる物が竹篦
それ以外なら分からん
>>286,
>>287 わざわざ調べていただき、どうもありがとう。加藤剛の大岡越前は竹篦のようです。
横内正の大岡越前のほうは弓折れ、または弓折杖というもののようでした。
勉強になりました。
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293 :
名乗る程の者ではござらん:2012/10/01(月) 14:06:40.96 ID:cN8NeNiT
子連れを字幕でみるとしらん単語ばっかりでてくるますね。
実際は十手ってお飾りだったんだな
単なる御用の象徴と言っても過言ではないかも知れん
捕り物で使う長十手(60cmぐらい)は実用武器
普段使い(35cm程度)はお上の象徴、同心の配下である象徴だったかもね
匕首には対抗できても、道中脇差あたりには対抗できないでしょうし、
手札(鑑札)と共に房なし十手を同心から拝領した岡っ引きは
袱紗に包むか、専用の袋に入れて、懐に仕舞ってた
同心、目明しが十手を腰に挿すのは時代劇の大ウソ
鉤縄、六尺棒、鉤縄、熊手、袖がらみ、梯子、大八車が
捕り物の時の小物の実際の武器だし、
木戸番所には、大八車以外は常備されてた
目明しの普段使いの武器も鉤縄とか目つぶしとか遠くから・・・
象徴としての十手以外に私物の十手を武器として使うようなことはなかったのかな?
普通にその辺のチンピラを殺さない程度にドツき回すのには丁度よさそうだ
捕縛術としての十手術は確かにあるけど、あんなもん
「岡っ引きのどれだけが習得していたか」と言われると
はなはだ疑わしいよなあw
長ドスを帯びてないことは判っても、
懐に九寸五分を飲んてるかもしれないからなあ。
十手術というのも有ったくらいだから、
出目は武器として成り立っていたんでしょうけど、
十手術は骨法、柔術などと同じく、刀より「相手に近い」体術系
鉄扇、長煙管と同じく、手近の物を使った護身術系
目明し、岡っ引きは己の身を危険に晒すより、別の武器を使うと思う
300 :
名乗る程の者ではござらん:2012/12/04(火) 14:50:30.63 ID:q1oANtyM
敵を倒す所が面白い
小判の一束(切り餅一個)で50両だそうです
どう見ても50枚も重なってる厚さには見えません
小判ってもの凄く薄かったの?
>>301 映像作品で使われているのは25両タイプのが多いように思う
50両のはそれなりにカサが高くなっている
ガキの頃に駄菓子屋にオマケに小判の入ったチョコレートが売られていて
25枚集めて半紙で包装して切餅作った事があるが大体それくらいのカサになったw
ちなみに爺さんが古銭を集めていて小判もあったけど気持ち分厚かったかな?
>>302 25枚の切り餅もあるんですね
納得しました!ありがとうございました
304 :
名乗る程の者ではござらん:2012/12/18(火) 18:13:22.59 ID:YJYbUJ7R
効果音があると面白い!!(正義の人が悪を斬ってるシーンとか)
切り餅って本当は一分銀の4掛ける5の5段重ねだよ
25両が四角く白い紙に包んである
切り餅みたいに見えるでしょ
小判は嘘
豆知識もそろそろネタ切れか?
>>304 効果音も制作会社によっていろいろあるけど
80年代までの大映系(座頭市や映像京都制作の)の音は本当に斬られているみたいで痛そうだねw
時代劇は必要以上に知識がありすぎると楽しめないような気がする・・・
歴史学者や考証専門家は、気になるかも知れんね
医者は医者ものを、刑事は刑事ものを楽しめないだろうけど
このスレに書かれてるぐらいの知識なら、あった方が
やっぱり楽しめるでしょう
やくざの出入りシーンで、ハチマキの下に紙を折ったものを
括りつけてるのけど、あれは御札?
>>311 なる。
やっぱ、指裏が丈夫だったんだ。
飛脚とかは足半を履いてたから、走れるだろうけど、
時代劇で、草鞋で走ってるのは無理があるだろうな
革足袋とか履いてればOKだろうけど(お高い)
保守
保守
316 :
名乗る程の者ではござらん:2014/11/02(日) 03:11:55.36 ID:QDgbNeok
あげときます
保守
318 :
名乗る程の者ではござらん:2014/12/21(日) 23:53:30.87 ID:IK6NKPVp
ぬるぽ
ガッ
一両は四分
一分は四朱
一両は四千文のちに六千文
落ちちゃうから今更だが書くわ