2 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/09(水) 13:33:26 ID:EeKEe4Bt
2か?
すごく・・・1乙です。
前スレ埋めてくださいよ
7 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/09(水) 19:58:35 ID:VOxh/oyE
めでたく埋まったようです
給食の牛乳がいつも水で薄めてあった
これがホントの水増しってやつ
しかも牛乳ビンは飲み口が少し欠けていて危険だった
今じゃ考えられない
食器はメッキが剥げていて真鍮が黒くなってとても不衛生だった
しかも食器はボコボコにへこんでいて
それ以上に中身は本当に食べられたものじゃ無かった
小学校を卒業した時は、給食が無くなって本当に嬉しかった
今までいろいろなもの食べてきたが
給食ほど不衛生でまずいものなかったな
煮物が多くて、じゃがいもは溶けていて
にんじんは硬いか、つぶれていて
入っている肉はミンチのカケラ
牛乳は1.5倍に薄めていて
コッペパンにマーガリン
パンは持ち帰って焼いてマーガリン付けると食べられる味になった
フルーツポンチはいつも争奪戦だった
酢豚は半分くらい残っていた
肉団子の入った中華風スープ、好きだったけどな。
田舎で給食を作る設備がなかったので、給食は中学3年の時一年しか経験ないが
そのせいか良い印象しかないな。すごく不味い物もあったけど、これが世間で言う給食か!
と感動して食べてた。
給食がない時はミルメークが最高のご馳走で、クラス中が最高に盛り上がった。
でも小中学通してミルメークって2、3回しかなかったなー。
牛乳瓶はそういえばよく欠けてたな。
瓶といえば、ジュースの瓶の底付近に丸とか四角の窪みがあって
丸だと甘い、四角だと辛いという噂があった。
でも本当は味は変わってなかったらしい。
地域・学校により差があるけど
昭和50年代だと悪名高いセンター給食方式だったからね。
・熱い物はぬるく
・冷たい物はぬるく
ついでに言うとその頃の料理を作っていた人だと
年代的に戦中〜戦後生まれ
なのでトンカツ・カレーと言った和食に近いのはまだしも
ドリア・スパゲッティ、こう言う洋食系は『自分が(料理人が)食べたことがない』料理
だから給食が不味かった。こう思う人は少なくない。
50年代だけど、学校でおばさんが作ってた。結構美味かったような記憶があったけど、
センター方式じゃなかったからなのかー。
転校生とかすごい喜んでいたな。
低学年の頃牛乳は瓶だった。
小さな身体でえっちらおっちら運んでいた。
3年頃からテトラパックになって、かなり軽くなった。
食器はメラミン樹脂だったなあ、クリーム色の。
6年生の頃試験的に米飯給食が始まって、たまにご飯だった。
7つ下の妹の時代になると、週一回はご飯になっていた。
揚げパンはうまかったなあ・・・
>>18 こちら42年生まれだけどかなり近い
5年か6年から米飯給食が始まった
ソフト麺と唐揚げが旨かった思い出がある
食パンとハムも嬉しかったなあ
家で食べても何故か給食程旨くなかったなぁ
牛乳の蓋でめんこもどきの遊びをしてた
口でむぱぁってやってひっくり返してた
教師のセクハラや えこひいきがすごかった
給食って恵まれてた所もあるものだね
小学校には3500人もいたので給食準備は大変だったのだろう
給食の薄めた牛乳はもちろん室温で生ぬるかった
家で飲む牛乳は美味かったが、給食の牛乳はとても牛乳と呼べるものじゃなかった
おかずは全て小学生が運ぶものだからか室温だった
暖めてあれば、美味かったのかも知れんが、冷えたおかず、冷たいパン
デザートはみかんの切れ端が多かったよ
フルーツポンチはなかったけれど、ぬるい蜜豆があって、それは人気があったっけ
給食で出たトクレンオレンジゼリーは美味かったなぁ
半分凍ってるんだ
バブルフルーツっていうデザートがおいしかった。
当時バビル2世が流行ってたので、バビルフルーツとか呼んでたっけ。
授業をしない教師が以外と多かったな
最初の5分だけいて、後は絵を書いておけといつも居なくなる美術教師(3年間)
学生運動をしていた教師は、戦時中の沖縄の話を半年して残りの半年は戦後まもなくの頃の生活保護費の話を半年して、おかげで政治のことが今でもわからん
2年間自慢話だけで終わった工作の教師
今じゃ考えられん
理科の授業中にめぐり合い宇宙をみさせられてたりしたなそういえば
いいところで終わりそうになってホームルームの時間も延長してみせてくれたなぁ
エロ教師に気持ち悪いからさわらないでと言ったら校庭をうさぎ跳びで一周させられた。
おかげで次の日の陸上県予選はボロボロの成績・・・今でも訴えたい
>>24 高校の時の美術の教師がそうだった。1、2年次はそうでもなかったけど3年になってから
4月の時点で、市のポスターコンテストに応募するポスターを描くようにという課題を出されて
その後はいつまで経っても同じ課題を指定して最初の1分で準備室に行ってしまう。
美術は2時間あったから、2時間ずっと遊び放題。
卒業した後、一個下の後輩が「あの先生、授業全然しなくておかしいと父兄から言われて
他の教師が色々聞いても言動がおかしくて、強制的に病院に連れて行ったら脳血栓で
すぐに亡くなった」と教えてもらってちょっと怖かった。
あと社会の教師がちょっとおかしくなってて、教室に入ると生徒の方を全く見ないで
一時間の間ずっと教科書の文章を写すだけというのをやってた。
テストもそのまま教科書丸写しで所々空白になってるのを埋めるだけ。
先輩によると職員室で「僕の妻がね、弁当に毒を入れてるんですよ…」と薄ら笑いをして
毎日お弁当をゴミ箱に捨ててたらしい。今にして思えば統失?
そういう教師が普通に教職に就いてた。
その後彼らがどうなったかというと、
実は今も学校の2階にいるのです。
小三くらいの時、担任がいきなり怒って授業2日くらいボイコットされたw
今じゃあり得ないな。原因は先生の分の給食置き忘れたからw
冬場はよく牛乳をストーブで温めてたな。
だるまストーブの上でパン焼いてトーストにした。
串かつが半生状態で、回収された。
今なら新聞に載るんだろうなあ、そんなことでも。
>>27 >美術は2時間あったから、2時間ずっと遊び放題。
子供側は天国の時間だけど、父兄はケシカランの嵐だろうね
まーでも、今でもおかしい教師は沢山いるよ
あいつら、基本学校と家庭しか知らないから
ま、でも、なんだか今思うとオカシイ教師でも、
おかげで何かこう、お仕着せでなく何かを考えたりすることができたりもしたし、
素っ頓狂な思いつきや支離滅裂な考えでも面白がって受け入れてくれる人だったりとかもして、
その1年(あるいは数年)だけでも自分を多少肯定できる時間が持てたりした場合もあったものだけどな。
自分の子供の頃って、今の子達のことを思うと無駄なことをやりすぎ、無駄な時間がありすぎ、なんだろうけど、
そういう時間とか、そういうへんな先生とか、ひでー環境とか、そういうのも実は大事なことだったという気がする。
作ってまで持たせる必要はないだろうけど、あるなら潰してはいけないもの、っていう感じで。
今の時代は余裕が無いからな
34 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/11(金) 10:28:15 ID:wB51sci3
揚げパンの時は必ず豚汁だった
丸いフランスパンの日はシチュー(ブラウンの)。
で。フランスパンにはクリームチーズが標準装備だったので、
クリームチーズをシチューに溶いて食べるのがデフォだった。
電車が警笛を鳴らしまくってた。発車するとき、カーブ、踏み切りでは必ず。
うそぉん。
そんなの路面電車だけだろ。
未だに最寄り駅が都電だから警笛ならしてる
工房の頃、通学に使っていた駅は改札を通らず駅の踏み切りからホームに上がるのが
デフォだった。数ヵ月後、近隣の高校あてに鉄道会社から改札を通るようにとの通達が
一斉に届いた。
>36
そんなおしゃれな昭和があってたまるか
42 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/11(金) 23:41:43 ID:+7UV07ZH
昇天に出ていた三遊亭小円遊を思い出した。
(キザを売り物にしていた噺家)
43歳で亡くなったんだよね
歌丸は昇天しそうだな。
豆電球に黒い笠を被せて米兵から身を守る日々…
また、病院も外を黒く塗つていた
ライチを初めて食べたのが給食だったなぁ
20年ぐらい前
>>41 昭和もいよいよ末期の都会の話としか思えない。
48 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/12(土) 08:13:16 ID:AH/mXrOM
ミーはおフランスのレストランでシチューをパンに擦り付けて食べてたザンス、
って書けば、ああ、そんな人、昭和にもいたな、って感じだな。
母が持ってたマナー百科みたいな本に、洋食のマナーとして
バナナ・リンゴ・みかんなどが丸ごと出た場合の食べ方が載ってた。
フォークでライスを食べるときは、フォークの背中を使って食べるのが正しいザンスとかw
誰だよこんないい加減なマナー言い出した奴www
バナナ、りんご、みかんが丸ごとでてくるような食卓なら
洋食マナーを守った食べ方するほうがTPOには合って無いよな
今考えると…
>>50 マナーにうるさい食事の場では
そもそもライスという選択ってないと思うんだよなw
そうそう。
正式な洋食で平たい皿に盛った日本米をナイフとフォークで食べる機会がどのくらいあるのかという
根本的な疑問w
自分は海外に行っても、パンかライスか選べるもんだと思ってたよw
アメリカに初めて旅行に行くまで気がつかなかった。
>>50 テーブルマナーの本で確認したけど、
『フォークでライスを食べるときは、フォークの背中を使って食べる』のが
『いい加減なマナー』とは言い切れない。
イギリスとフランスのマナーの違いもあるし、
ライスを“主食”として捉えるか“おかず”として捉えるかによっても違う。
その本には、ライスを『フォークの背中に載せて』食べても間違いでは無いし、
TPOで判断しろと書いてるよ。
いや、そもそもイギリスとかフランスとかで
”ライス”が出るのかよ、って話だと思うんだが
>>57 イギリスやフランス本土で料理にライスが出るか出ないかの問題じゃ無い。
「イギリスとフランスのマナーの違い」とは、
テーブルマナーに『イギリス式』と『フランス式』が存在し、
両者は細部において相当違う。それはライスの食べ方にも関係している。
と、その本は書いてるんだよ。
ほーら召喚しちゃった…
そんなことより先割れスプーンの正しい使い方でもレクチャーしてくれ。
きょうび、ヨーロッパでもアメリカでも中東でもインドでもモルジブでも、そこそこの街の
飲食店で「ワリバシ」というと箸が出てくるよ。
「ハシ」と言っても通じないで、「ワリバシ」と言えよ。
フランス本土のたっけーフランス料理の店でも、「ワリバシ」というと箸くれるで。
>61
むしろそれを高く掲げてウルトラマンに変身しようとしなければ
今じゃ考えられないな
実相寺監督はスタッフの猛反対を押切ってあのギャグを採用した
結果は大反響・大好評で、黒部進氏のサイン会には今もスプーンを持参するファンがいるとか
>>66 しかしあのシーンよく見ると
ハヤタがスプーンをテーブルに置いてから、立ち上がっているのが映ってる。
ふとした時に何となく口ずさんでみたくなる台詞
スカイドンは
あきれ返るほど
重いのよ!
最近聞かないけど電車の事汽車って言う人いたよね
>>69 いまは逆。気動車(ディーゼルカー)のことを電車という人が多い。
71 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/13(日) 11:02:30 ID:7vKuCuOp
俺の通ってた高校の近くの駅は、1時間に1本しか電車(ディーゼルだったかな?)が来ないから、
改札はいつもフリーパス。電車が来るときだけ駅員が改札に立つ。それ以外は野良仕事やってた。
72 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/13(日) 11:06:57 ID:06+bBXC6
徳島は今でも汽車だよ。
福岡県独特のことばかもしれんが、国鉄・JRは汽車、西鉄の路面のヤツは電車。
西鉄でも大型車両の分、天神から久留米の方へ行く分は、汽車。
京王線も小さい駅は入場時フリーパスが普通だったな。
切符を買うと日付を入れて更に鋏をいれてた。
>>73 長崎市も電車というと路面電車のことで、JRは汽車。
路面電車が走る街ではよくあるかもだけど。
初めてビデオ買ってテープを入れる時
「いつカセットを裏面にひっくり返せばいいんだ」と聞いて
笑われたのは絶対自分だけではないと信じてる。
標準120分テープだと60分か…いちいち入れ替えて裏面に録画するとなると
映画録画するのは面倒だな。だから6倍(だっけ?)で録画する人が多いんだな、と思った。
ウォークマンとかその後CD全盛期の頃発売されたCDウォークマンとか
よくあんなでかくて重いもの持ち歩いてたなぁと思う。
あれが入るサイズがバッグを選ぶ基準だった。
初期の頃なんてオートリバース出来ずリモコンもなかったので
電車の中なんかでバッグに手を突っ込んでゴソゴソやってたなぁ。
79 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/15(火) 21:43:02 ID:sQhzHFar
インフルエンザの予防接種って、毎年学校でまとめてやってたよな?
にもかかわらずインフルエンザで休んだ時に、親が連絡帳に書いたのは
「流感で休みます」
>>79 えっ?そうだった?
覚えているのはBCGとツベルクリンだわ。
>>79 学校でインフルエンザの予防接種あり
↓
型が違うと予防接種の効果なし
予防接種の副作用あり
金銭的負担が大きい
↓
だから予防接種は無駄、廃止すべし ← 95年頃
↓
ワクチン製造会社、生産縮小
↓
インフルエンザの大流行でワクチン不足発生 ← 2000年頃
そして今に至る。
ホント、サヨクって日本に害を与えるだけだと思う。
インフルエンザの予防接種で思い出した
自分の行ってた小学校では、使用される注射器の色が緑と青の2種類あって
緑色のほうが痛いとかいや青いほうが痛いとか、毎回噂になってた
今考えればそんな訳ないんだけど、何で色が違ってたんだろう
>>81 ま、別にどうでもイイんじゃねーの?
それ位でカリカリすんなよ。
>>83 その予防接種廃止した人が今になって
「国の対策が後手後手だぁ」と言っているんで
まぁこれ以上は他スレに行くよ
予防接種と言えば機械打ちが有ったな。
評判が悪く、2回(2年)ほどで無くなった気がする。
予防接種の赤紙懐かしい
そうか今は腕に
…
…
こんなスタンプ押されないのか。
87 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/16(水) 05:44:23 ID:2bDU1h+G
ぎょう虫検査もあったね。ぎょう虫が見つかるとポキールという
薬を飲まされた。
88 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/16(水) 05:54:28 ID:k6PNqEk7
赤い液体の飲み薬だっけ
>>86 > …
> …
がかぶれた跡剥き出しの二の腕某国民的大スター、マジ笑えた。
うちのオヤジ曰わく
「家が貧しすぎて満足に医者にも逝けなかったんだよ(笑)」
な訳ねえだろっつうの(笑)
ちなみに誕生日、兄貴の3日後です。
>>86 それはBCGだな。
ツベルクリン検査で、反応が陰性だと接種される。
ツベルクリンって確か、体内に結核菌がいると赤く腫れができて、その大きさでその量が測れるってことで、
一定量の菌は持っていたほうがいいから、反応の出ない奴は微量の菌を植えられる、それがBCGって説明された気がする。
逆に腫れが馬鹿でかいとレントゲンで肺を撮られた。発症してないかどうか。
ツベルクリンの注射を打たれた後、腫れが出てくるのを面白半分で見守った記憶もある。
ちなみに今BCGは、生後数ヶ月で接種が行われてるはず。
>>89 腫れてるのは種痘痕じゃなかったかな
…
…
は腫れたりかぶれたりしてでかい痕に残るってもんじゃなかった気がする。
一定の年齢の人の肩には種痘跡があって、これは体質によって腫れて盛り上がっちゃう人と
ちょっと目にわからない跡の人がいる。
自分も肌がケロイド体質だから結構大きい痕になってるが、イトコは真っ赤にただれたような
腫れ上がった痕になってる。別に痛くも痒くもないらしいが、ちょっとあれは嫌だよな。
今の若い人が羨ましい。
種痘の予防接種はのこるね。
ケロイド体質の人は薄い赤色で浮き上がってる。
今の時代で地味に残るのは日本脳炎かな。
昔の予防接種痕ってモデルなんかを目指す人には後々大きなハンデになったらしい。
今みたいにフォトショで修正ってわけにもいかなかっただろうしね。
そんなの誰にでもあるものだろうになあ…
>>94 モデルさんはそもそも病気にならないんだよ。
96 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/16(水) 20:25:45 ID:4PYdSuJi
●しない、病気にならないって、世間一般が考えてる「ロボット」みたいだな
97 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/16(水) 20:31:43 ID:PzQrDwD4
塩&酒どこでも買えなかったよね
たかが塩と言ったら塩に失礼だけど
ぎょうちゅう検査は今もあるってこと?
ペタってセロハンみたいの貼るよね。
昔は検便でギョウチュウじゃなくて主にサナダムシの卵とかをチェックしてたね。
いるってなると虫下し飲むんだけどそれがチョコ味だったから
昔はチョコレートなんて買ってもらえなかったから親に嘘ついて薬買って貰ったもんだ。
そういや銭湯行くとたんぽんの紐・・・ではなくサナダムシをぶらぶらぶら下げてるおばあちゃんとかいたな。
お風呂とかで体が温まると虫は外に出てくるんだって。
ポキールは薬品ではなくあのフィルム状の検査シールのこと
今度の連休中にいとこが小学生の子供連れて遊びに来るから
ぎょう虫検査のこと聞いてみる
醤油は近所の醤油店に空の一升瓶下げて買いに行った。
作りたての大きな樽?の前で柄杓と漏斗でおじさんが入れてくれた。
ムセるような醤油の匂いがいまだに記憶に残ってる。
甘酒の近所の麹屋さんに買いに行った。
卵はざるを持って近所の養鶏所へ、量り売りしてもらった。
2kgで100円だったかな?
都会じゃあもう無い風景だけど地方はまだあるのかな?
予防注射の回し打ち、1本当たり20人だったけか
最初の1人目だけ消毒して、次からは消毒もしないで次々と20人打ってた
当時は子供だったから前のヤツの血が混じらないか心配だったけど
今から考えると、病気が伝染する恐ろしいことやってたのだな
>>103 うちの親父はそれでC型肝炎になった。
でも証拠がないから、テレビで見るような訴訟おこして賠償金がっぽりなんて無理で
15年もかけて自費で治療したよ。
数が多すぎて保障できないんだろうけど、国が憎かったな。
味噌は樽に山盛りになったのがいくつも並んでて、そこからしゃもじですくって貰う量り売りだったなぁ。
106 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/17(木) 07:13:00 ID:vt8pP5p7
カバンに珍味たくさん入れて売りに来るおっさんがいたな
あれは一体何だったのか
>>103 昨日のためしてガッテンで見てゲンナリした
ある意味懐かしかった
>>103 俺の記憶じゃワクチンを入れた注射器が沢山置いてあって助手が次々と針を交換してた。
使用済みの針は蒸し器みたいなもので消毒してた。
針は何度も砥いで使うので長いの短いのまちまちだったな。
自分の記憶でも同じ注射器同じ針での回し打ちってのはやってなかったな。
細い注射器が何本も置いてあって、次々と注射を取り替えてた。
子供心になんでいちいち取り替えるんだろう…とか不思議に思ってた。
面倒くさそうだなーと。
今にして思えば取り替えない方が怖いわけだけど。
昭和中盤あたりには回し打ちはもうしてないんじゃないの?
学校で一斉に何らかの予防注射を打つ時。
保健室に並んで段々と自分の順番が回ってくるのを待つ時の微妙な恐怖感、
列前方で時々聞こえる子供の泣き声と叱責する教師の声、
既に注射終了して腕を押さえながら保健室から出てくる友達に
「痛かった?」「大きい注射?」と尋ねる声、
いよいよ自分の順番になると覚悟して妙に落ち着いたけど
お医者さんが「地獄からの使者」に感じた。
大人になった今でも健康診断の採血は大嫌いで数日前から憂鬱になる。
>>550 うちの地域(学校)では、昭和50→51年度でバッタリ変わった。
蒸し器のような煮沸消毒器・ガラス注射器山盛りから、プラスチック製テルモシリンジへ。
ガラス注射器時代は、医師が目盛りを見ながら半分づつ2人で1本の注射をしていた。
>>112 わかるよわかるよ。同じスレ見てるよ。
きっと住民かぶってるからどこの誤爆だかわかるよw
誤爆に見えねえww
アンカー間違っただけでは?
116 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/18(金) 15:21:15 ID:IGiHND+O
>>111 あったね〜
俺は終わった後、
わざと 痛〜い、こんな痛いの初めてや、大っきな注射や〜
と叫んで跡の奴おどしてた。
自分は注射大好きなので、「全然痛くなかった」と言って
後ろに並んでた奴らにいつも恨まれてたなww
献血も大好きだからいつも針が刺さる瞬間からじっと見つめてる。
今でも注射は嫌いだけど、小学校の時はみんながいる手前、痛くない
フリしていた。
あと、健康診断も嫌だったなぁ。パンツ一丁で並んでると後ろの奴が
パンツをずらそうとしてきたり、脇や横っ腹をこそばしてきたりで嫌だったわ。
>>117 自分もだw
子供の頃病弱だったので頻繁に注射されてたから予防接種くらいじゃどうってことなかった
というか病弱すぎて予防接種の時に風邪引いて接種を受けられないことが多くて
注射の列から外されて同級生の羨望の眼差しを浴びていた
自分は注射される気満々なんだけど受けられなくてしょんぼりしてたんだが
予防接種は、体育館に校医が数人来て、それぞれに並んで一斉に注射するんだが、
痛い医者と痛くない医者が生徒の間で噂になり、当然注射が上手で痛くない医者
のところにばかり並ぶので、痛い医者のところがガラガラになる。
見かねた教師に無理やり空いた列に並ばされたりして痛い思いして恨んだもんだった。
今でも会社の健康診断で注射のときに泣きそうなオッサンとかいるけどな
神経を損傷するので問題化した無針注射器とか
>>105 味噌を自分ちで作ってた家庭はどの程度居たのかなあ。
地方では結構多かったりするんじゃない?
農家では普通に作ってたんじゃないかな。
昭和9年生まれのうちの母は「味噌のあのツブツブが嫌いでしょうがなかった」
とか言ってた。
あと漫画のサザエさんの初期の奴だけど、サザエがカツオに
「お味噌すっておいてね」と頼んで、カツオが擂り鉢で味噌をすってた。
あれを読んで「味噌ってする物なのか!」と驚いた記憶がある。
あれは多分豆を潰してたんだな。
サザエさんの設定では東京の世田谷在住だったから、昭和30年くらいまでは
味噌なんて自宅で作るのが普通だったんじゃないの?
ジェラードみたいに樽に盛ってる味噌はうちの近所の米屋で今でも普通に売ってる。
自家製の味噌よりもかつお節を削ってた家の方が多いんじゃないかな?
ウチに削る道具はあったけど、削ってるのはみたことがなかった。
母に削りたいとねだったが、「パックのがあるからダメ!」と言われたよ。
129 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/23(水) 12:23:13 ID:3vf30Yhc
餅や漬物を「買う」と、「なんだあそこの家(の嫁)は」と陰口をたたかれたものだった。
130 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/23(水) 12:31:47 ID:iqEXmykU
昔は各家庭にミニ焼却炉があって家庭ゴミを燃やしてた。
>>130 うちは小さい灯油缶みたいのだった。
井戸端会議しながら燃してたよ。懐かしいな、幻想かもしれないがいい時代だった。
「日本石油」とかの一斗缶灯油も昔は定番だったな
>>130 うちは庭に穴掘ってゴミ燃やしてたよ
秋〜冬は時々ついでに焼き芋作ってた
東京近郊の住宅街だけど近所から苦情が来たことはなかった
どこの家でもやってたしな
平成に入るか入らないかのころ苦情がきてやめたw
134 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/23(水) 16:02:31 ID:t0HtE7bf
大家族や商家だと中古ドラム缶だった。
そういえば最近、中古ドラム缶売ってたり、ドラム缶や古タイヤ野積みにしているところ見かけなくなった。
(ウチの近所だけかもしれないが)
135 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/23(水) 16:13:34 ID:iqEXmykU
今の子供はガスコンロの火くらいしか見てないのかな…
冬に頬が痛くなるような焚き火の感覚を知らないとか可哀想
136 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/23(水) 16:19:57 ID:vPDc3QNP
そうそう、うちもおじいさんがカンカンでゴミ燃やしてたなぁ…。ついでに芋とか焼いてた気がする
今だと、「そんなの教わらなかった」とかいう理由で、
焚き火だけして消さずに帰る奴が続出するだろうな
>>129 >餅や漬物を「買う」と、「なんだあそこの家(の嫁)は」と陰口をたたかれた
さすがにそれは無い。
俺の幼少時(昭和40年代)、餅や漬物は普通に買ってたし、
母もそうしていた。それについて、
存命していた祖父が文句言ったということは、記憶に無いな。
>>138 自分も昭和40年生まれだが、農家なら自宅で餅をつくけど
一般の家では米屋とか総菜屋みたいな所で伸し餅注文するのが普通だった。
さすがに切り餅を買うと肩身が狭かった(伸し餅を売ってる店に対しての義理とかで)けど
漬物も八百屋で売ってるのを買ってたしな。
昭和三十年代が舞台の三丁目の夕日(漫画の方)でも、餅や漬物を買うシーンは
ごく普通にあるよ。文句を言われてるシーンもなかった。
ところでうちの近所の小さい自動車整備工場では毎日一斗缶で色々燃やしてるぞ。
強風でも誰の見てなくて、中身が燃えたまま転がりだす事もあるし
木材ならまだしも、でっかいビニールを燃やしてる事もあった。
これって市役所かなんかに言った方がいいのかね。
>>138 そういうのは住んでるところによってまちまちだよ。129の住んでるとこは昭和の頃はそうだったんだろう。おかしな話でもない。
>>139 危ないな。とりあえず役所でいいんじゃね?燃えたものが転がって危ないとかビニル燃やしてるとかは言った方がいいね。
山村部か都市部だかにもよるだろうし、
家庭環境や親戚づきあいなどによっても違うだろうしな
昔は都市部と農村部の差、地方ごとの差が大きかったんだよね。
兄弟がやたらと多い。
うちの父は10人兄弟。
昭和といっても初期ですが。
>>143 親が兄弟おおかったから、自分たちはいとこが多く、それがことあるごとに思い出とつながってるんだよね。
自分は父方母方あわせると20人以上のいとこがいるけど、うちの子供にはいとこは二人しかいない・・・
(じぶん一人っこ、配偶者は二人兄弟)
今の子供たちは、親のきょうだい(おじ・おば)が少ないから、
お年玉をもらえる人が少なくてカワイソウだね。
でも、もらえる額は増えてるんじゃないかな?
昔みたいな金額ってことは無いと思うけど。
500円や1000円で喜んでたよ
子供の時はまだ500円玉がなくて500円札だったから
500円でもお札がもらえたってだけでかなり嬉しかった
自分の叔母の家は、自分たち三兄弟より年下の子が二人。
叔母は、姉である母に、似対三だと不利だから、お年玉のやり取りは無しにしようと持ちかけた。
姉の三人の子供の方が、自分の二人の子供より先に社会人になることを忘れてたんだねい。
後に叔母にも三人目が生まれたが、われら三兄弟は、叔母の子供たちに、びた一文お年玉をやらずに
済んだ。
叔母ちゃん、どうもありがとうwww
>>144 遅レスですが。
そうそう、いとこがいっぱいいた。
自分の甥っ子(弟の子)は、おばちゃん(自分)に子供がいないので、
「おとうさん側のいとこ」が誰もいないことになる。
今ってそういうのが(いとこが少ない)多いんだろうな。
たくさんの孫にお年玉くれて、故ばーちゃんどうもありがとう。
うちのばーちゃんは19で結婚してから十数人くらい子供を生んだらしいが、
子供の頃疫痢で死んだり跡取り問題だかで子供置いて強制離婚させられたり、
ちょっと大人になってから腸捻転で死んだり、戦争に行って帰って来なかったり
戦時中に栄養失調で死んだりで、結局自分が物心付く頃には
伯母とうちに母と叔母のみしかいなかった。
生き残ったのが全部女だけだったってのも凄いと思った。
そんで三人とも結婚して離婚した。
イトコも三人だけだったな。で、うちは兄弟二人。
このイトコ5人全員で結婚したのは2人だけ。2人とも子供ななし。
跡取りの為に残してきた子供は知能に問題があって、結婚どころじゃなかったらしい。
うちは多分呪われた家系だと思うw
「昔はたくさん死ぬからたくさん産んだんだよ。だからたくさん生き残っちゃうと生活苦しくて大変なんだ」
とあっさり言ってるばーちゃんがちょっと怖かった。
とある田舎の大豪農。(本当に、洒落にならんぐらいの土地持ち)
ご先祖は年貢の取り立てをやっていて、小作農をぶちのめしてた。
その家では、5人だか6人だかの子供のうち、家督を継げる男の子一人だけを大事にしており、
「他の子はどうなろうと知るか。」という態度だった。
ところが、その男の子は戦争であぼーん。
男の子の妻となった女性は、その豪農の家屋から土地まで全て売り払って海外に渡り、そこで
大失敗して、ほぼ無一文の状態で帰国した。
…かくして豪農は、この男の子の代であっさり滅亡。
今では、屋敷外にあった井戸を残して、何一つ残ってはおりませんとさ。でめたしでめたし。
ちなみに、この男の子の戦死公報を耳にした妹は、嫁ぎ先で、ぼそっと、「いい気味だ、ザマア見ろ」
と言ったそうです。こわー。
そのやり方でよくそこまでもったなぁ
>>153 男の子しか家督が継げない制度って、よく考えてみりゃあ、何らかのトラブルがあったときには、国が
その家の財産を合法的に没収できるシステムなんだよなあ、ってつくづく思う。
ちなみに、豪農の土地と家屋の跡には、その県のとんでもなく広い公共施設をたくさん作り、さらに
その施設専門の駐車場やらを作れる(ちなみに、施設の名前を出せば誰でも知ってるところだけど、
身バレするから書かない)ほどです。
「嫁が、持て余して売ったのも判るけど、やっぱり許せない」そうだけど、お上はそれが全部手に
入ってウマー、ですよね。
>>154 いや、女でもいれば、家督は継げないけど繋ぎにはなるよ一応。
本当、女は単に繋ぎでしかないんだけどね。
嫌な制度だよなぁ。
>>151 >「昔はたくさん死ぬからたくさん産んだんだよ。だからたくさん生き残っちゃうと生活苦しくて大変なんだ」
メーテルリンクの「青い鳥」に出てくるチルチルとミチルの兄妹の上にも何人か
兄弟姉妹がいたらしいのだが、終わり近くなってはしゃぎ回る兄妹を見た母親が
「まあまあ、この子達どうしたんだろう?他の子供たちと同じにまた死んでしまうんじゃないかしら」
とか言ってる。1908年発表の戯曲なんで、大正初めの頃の描写。
抗生物質が発明されたのはこの後、量産されるようになったのは1947(昭和22)年
から、細菌学はすでに知られていたが結局のところ抗生物質がないと抵抗力が弱い者は
すぐ死ぬ、時代だったのだなあ。栄養の不足が追い討ちをかけたとか。
昭和はr戦略だったんだな。
158 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/28(月) 05:57:37 ID:M9hHgF92
うちも母の姉は、一人だけかと思っていて、戸籍を取ったときに、
五女だと知ってビックリしたことがある。
「むかしは、衛生状態が悪かったから、ちょっとしたことで
死んでしまっていた」と言っていた。
自分も2つ下に弟がいたのだが、5才のときに事故死してしまい、
自分になにかあったら家がなくなるってことで、
急遽(当時の)高齢出産に耐え、もう1人をもうけた。
逆に今は子供が少なすぎるせいか、
学校の明り取りの窓の上で勝手に暴れて転落死したのは管理責任が悪いだの、
外から帰ったらうがい、手洗いを習慣漬けるのはいいんだけれど、
新型インフルエンザで1人も死者を出すな的に騒ぐのは、過保護すぎる気がする。
水(水道水)の味を気にする人なんていなかった。
人に集まるところに行って、服や髪にタバコのにおいがつく、
なんて気にする人はいなかった。
タバコのにおい、って意識することもなく、そのニオイはどこにも
うっすらと染み付いていて気がつかなかったんだろうな。
汲み取りトイレも多かったし、
もっと、家々のニオイって言うのが強烈に感じられた。
>>159 いやいや、汲み取りトイレの匂いに敏感でかなり早い時期に水洗にしちゃったり
(といってもさすがに昭和30年代以前には無理だったろうけど)
トイレから出たら全部着替えるって人も結構いたよ。
トイレの度に風呂に入るって人もいた。
ま、それは極端な例だけど、昔の人は匂いを気にしない人が多かったとかそんな事はなくて、
気になっててもどうしようもなかったってところだろ。
昔ながらに香を焚き染めて部屋をいつもいい匂いにさせてる人もいたし、
部屋や服をしょっちゅう陽に当てたり虫干ししてたしね。
タバコを吸ってる人は今も昔もタバコの匂いが他人の髪や服に付くのを気にする事は少ないけど
吸わない人はやっぱり物凄く気にしていたよ。
特に若い女性なんか、自分が吸わないのに髪や服に匂いが付いて喫煙者と言われるのが嫌で
職場では上着を着たりしょっちゅう風に当てたり、凄い人だとキャップや帽子を被ったまま仕事をしてたり
今ほど消臭剤もなかったから神経質になってる人は多かった。
タバコの匂いを消したくてコロンや香水をザブザブかけちゃう人もいたよ。
水道水はそれほど不味くはなかった。
井戸水が普通だった頃は水の味を気にする人なんていなかったけど
半強制的に水道を使うようにされた所は、水道の水なんて信用できない、不味いと
不衛生だと言われてても井戸水飲んだりしてたし。
トイレが無い時代のヨーロッパみたいだな
159と160ではかなり住んでた土地の環境が違うように思う。
つか、どこもそんなに締め切ってなくて空気が常に変わってるような状態だったから、
室内で煙草を吸ってもにおいが篭もらなかったりもしたし、
服なんかを干すのは煙草というより防虫目的や汗臭さを飛ばすためだったり。
そもそも今ほどこまめに洗濯なんかせず、汚れはベンジンで拭いて陰干しして何回も着てたりしたしな。
だいいち晴れた朝にはそこかしこの家庭の裏でゴミを燃やしてたり、風が吹けば土ぼこりが舞ったり、
車が通れば排ガスは今の比じゃなかったし、夏なら蚊取り線香、冬なら石油や石炭や薪のストーブ・・・
ことさら煙草のヤニ臭が際立たないほどに、似たような臭いがそこらじゅうにあったもんだ。
>>159 大多数の成人男性がタバコを吸うのが当たり前だった時代、
(病院やオフィスや飛行機やありとあらゆるところで喫煙可だった)
職場の女の子にタバコのお使いを頼むような時代には、
本当は嫌でも非喫煙がマイノリティーなわけだし言えなかったってのがあるよね。
もちろん喫煙者は、そのへんの感覚はつゆ知らずなんだが。
これ以上言うと、嫌煙みたいな話になるかしらんけど、
>>160さんのいうように昔から匂いに敏感な人とそうでない人がいたとオモ。
自分は父親が室内でタバコ吸うのいやだったけど、仕方ないというかそういうふうに思ってた。
汲み取りできるだけトイレは息を止めてしてたww
アレだろTVは野球しか見せてもらえなかった子供が大人になって野球アンチになるように
大人の酔っ払いやタバコの煙で苦労した子供が大きくなって酒タバコ毛嫌いするんだな
成人の来客があったら、お茶より先にまず灰皿。
タバコのにおいが家につく、ってこと自体を考えなかった。
喫煙を非難すること自体ありえなかった。
そういえば、トイレが汲み取り式だった頃、バキュームカーが来ると、
作業中家の中でお茶を焙じたり、炭火をおこしてそこに醤油をたらしたり、線香をたいたりしたものだった。
ばあちゃんがそのときだけ刻み煙草を吸ったり(ふだんはほとんど吸わない)したなあ。いい香りのするやつだったけど。
あと、今時分から10月前半、衣替えの時期とか、電車の中が樟脳くさかった。混んでるとちょっと目がちかちかしたり。
臭いってけっこう記憶をよびさますものがあるな。
実際嗅覚は視覚異常に記憶中枢と直結するそうだよ
学校帰りのカレーの匂いとかすごかろう
昔の怪力系プロレスラー、ドン・レオ・ジョナサンのあだ名である
「モルモンの暗殺者」って今だと完全にアウトだな
>>164 子供の頃父親のせいでニュース番組大嫌いっ子(子供の力ではどうにも変えられない絶望的な現実を突き付けられて
夜も眠れないほどの恐怖に陥ることさえあった)にされた自分は、今でも気分がすぐれないときはニュースを見ない。
もっぱらインターネットニュースと新聞。
民放のバカバラエティーニュースなど論外。
子供をひっぱたいてでも、子供番組の時間に強制的にニュースを見せたがる大人という奴は、実は大した事のない奴
…我が子に、ニュース見てる大人な俺様カコイイ!!を誇示したいだけのガキんちょだと思ってる。
つか、子供と喧嘩して本気で泣かせてニュース見る奴のどこが大人かと小一時間
>>159 >人に集まるところに行って、服や髪にタバコのにおいがつく、
>なんて気にする人はいなかった。
昔から数多くいたよ。
ただ昔は喫煙派が主流だったから、声高に言えなかっただけ。
他人の居ない所では、タバコの匂いが、髪の毛やセーターに付いたことを、
ボヤいているのを何度も聞いたことがある。
私なんかぜんそく持ちだったから観光バスにも長距離列車にも乗れず
とにかく人の集まるところを避けなきゃならなかったのでつまんない子供時代だったよ。
職員室で教師が喫煙したりしてたから学校も安全ではなかったし。
今はいい時代だよね。
うちなんて中学まで狭いアパートで自分の部屋なんかなくって
両親ともチェーンスモーカー。
制服は皺にならないようにハンガーに吊るして壁にかけてたけど
(洋服ダンスはあったけど、親専用で子供の制服は入れさせてもらえなかった)
そのせいで制服もヤイシャツも常にタバコの匂いが染み付いてた。
教師に呼び出されて喫煙してるんじゃないかと言われて
親に確認取られたり、同級生に「なんかいつもタバコの匂いがする」とか言われて
本当に嫌だったよ。
高校になってから自分の部屋が出来たけどタバコの匂いは結局ついたな。
そして自分は親の喫煙のおかげで慢性気管支炎になったし
調子悪くてレントゲン撮ったら肺に癒着の痕が見つかって(一応原因不明と言われたが)
「あんたの肺は喫煙者の肺みたいだけどタバコは何歳から吸ってる?」と
当時未成年なのに医者に言われたりして、本当に嫌だった。
でも昔ってタバコ吸ってる事に文句言う奴がおかしい、って風潮だったんだよな。
人生で一度もタバコ吸った事ないけど、そういう経緯でタバコは本当に嫌いだ。
タバコに関しては、いい時代になったと思う。
好き嫌いの問題じゃなくて健康に害があるからね。
私の子供時代は昭和50年代ー昭和60年代なのに、
頑固な祖父のせいでトイレは汲み取り、風呂は薪、電話は黒電話だった。
あれから、30年…いまだに田舎の実家は昭和のまま時が止まって、
今度は頑固なおじがひきついでる。洗濯機もいまだに2層式だし…。
汲み取りトイレが恐ろしくて、遊びに行っても長居できない。
ウチの実家のまん前にパチンコ屋があるのだけど、昔は換気が悪くて店の
ドアが開くたびにたばこの煙がもうもうと出てきて、飯時だと大変だった。
最近は換気もよくなったから、そうでもないけど。それと軍艦マーチが
うるさかったなぁ。
円い蛍光灯のことを「サークライン」と言っていた。
パチやと言えば軍艦マーチだったね。今は流れてる店ってないんだろうか?
>>176 楕円形ハンドルの幼児用自転車もあった。
>>178 宮田ピーターパン自転車?あの自転車は安全対策の為に
ホイールのスポークもなかった。
今でもあれ「サークライン型」って言わんか?
181 :
178:2009/10/01(木) 07:22:37 ID:TY8NeiSc
>>179 みっやったーのピーターパンっ♪
あとで調べてみたら、楕円というか、ハンドルがちょっと潰れた円になってて突起物が無いんだね。
知人の男性が、「子供の頃、自転車とぶつかって顔に刺さった(金属製ブレーキレバーが、左眼窩に
眼球を掠めて刺さったそうだ)」と言ってたから、そういう、ぶつかっても刺さりにくいハンドルに
したんだろうか。
今では、傘でも何でも子供向けの物は先端が丸い。
ワイヤーブレーキのレバーは、大人向け含めて丸くなってる。
知人のみならず、自転車が刺さった人が結構いたのかなあ、なんて考えたりもする。
知人のケースは、下手すりゃ眼球破裂で失明のケースだし。
>>180 開発・発売した東芝の商標で、他社の絆創膏でも「バンドエイド」って
呼ぶ人もいたように、昭和中期は主婦なども使っていたけど、そんな慣用で
言ってる人は昔に比べてずっと少なくなったんじゃない?
東芝製のにもよく見ないと分からないくらい、ハコにも小さくしか書いてないし。
今じゃ在来管は、ホムセンあたりで扱う安売り用の器具に使われ、
最近はツイン型がメインなんだけど、あれ、球が高いんだよね。
在来管みたいに山積みで安売りなんかしてない。
肝っ玉母さんをCSで観た。
前後はちょっとわからないんだが、22歳の娘が母親に内緒で
好きな人と海に遊びに行った(時代的にも内容的にも日帰りでちょっと行っただけっぽい)
そこで娘が病気になった。その好きな相手が海の貝殻を持って昼間に見舞いに来たらしい。
夜(多分10時ごろ?)に娘がお礼の電話をしようとしたら母親が来たので慌てて切った。
「なんで突然切っちゃったの?」と聞かれたので、「話中だった」と嘘をつくと母親はいきなり
そこにあったメモを見ながら電話をして「今娘に替わります」と無理やり会話させる。
内容は「お見舞いありがとうございました」1,2分程度。
その後、母親は娘が親に言わずボーイフレンドと海に遊びに行った事
親に内緒で電話しようとした事を「こそこそして、このドブネズミ!」「泥棒猫!!」と罵る。
それはもう罵る。
兄が出てきて、母親というのはどれほどありがたい者かを説得すると、それまで
「もう22歳なんだからもう少し放っておいて」と反論的だった娘は泣きながら土下座して母に謝罪。
「ごめんなさい。これからは好きな人や友達が出来たら全部お母さんに言いますから許して!」
すげぇ…。
親に内緒で一泊旅行とか、親に内緒で真夜中の電話で「愛してるわ。お母さんなんかより
あなたが好き。あなたが捨てろというのなら私は家を出るわ」とかならまだしも。
子供の頃このドラマ好きだったし、この時代(昭和40年代?)には当然だったのかもしれないけど
それにしても凄い。恋人はともかく友達まで親に全部言わないといけない時代だったんか。
>>183 うちの母親いまでもそんなもんだよ。自分はもう30代で独立してるけどw
未だに泥棒猫とか言ってくる。
父親は母が精神病なんじゃないかと心配しているが。60過ぎなので
母も「泥棒猫!」とか言われて育ったんじゃないかと思う。
「婚前旅行」なんて言葉、もはや死語だし。
むしろその肝っ玉母さん世代のほうが奔放だったりw
タイトル忘れたけど吉永小百合映画で、
父親を亡くし母親と娘四人くらいで暮らしてて、学生を下宿させたりしてる
んで、上二人が下宿した学生とくっついて、三女(吉永小百合)は
それに反発して、次に下宿人がきても自分は絶対結婚しない!と意地をはる
んでも、結局やってきた学生と紆余曲折の結果結婚することになる…
って内容なんだけど、若い男女を一つ屋根の下において
結婚させてしまおうってすげー奔放というかオープンというか…って思ったんだよなあ
親の目が届かなかったらどんな些細なことでも駄目だけど
親の目が届いていればどんだけ発展してもOK、つう時代だったんだな
まあこれはこれで合理的ではあるか
昔のドラマの話だけど、基本的に全部隣近所でくっつくよな。
特に商店街とかそういう店だと、年の近い男女の幼馴染同士が
喧嘩したり反発しつつ結局結婚。
結婚した相手の兄弟同士がまた結婚。
結婚して親戚になったら、その縁で適齢期同士が結婚。
働きに行くとその店の相手と従業員で結婚。
現実でも適齢期になると、恋人がいるかどうかの確認なんか一切なしで
近所のおばさん同士で「あそこの親戚に適齢期の人がいるから結婚させましょ」
とか、「あそこのおばあさんがボケてきちゃって、もう面倒見られないのよ。
お嫁さんでももらっておばあさんの面倒見てもらわないと大変だわ」とかで
本人不在で話が進む。
「あそこの娘は不美人だから、もらってくれるならぼけたばあさんがいても大丈夫」
とか、結構酷い事で縁談が決まったり。
結婚を誓った恋人がいるとか言っても「この不良」「親不孝」とか罵るだけ罵られて
無理やり分かれさせる。
んでかけおちとか、もっと複雑だと心中とかしちゃったり。
恋人がいるのに、「家を継げない相手との結婚は許さん!!」と言われて、親の決めた入り婿と結婚させられたお嬢さん。
一晩だけ添い遂げたが、その翌日から「もうお役御免」とばかりに、額一面に小さく切ったサロンパスを貼って「お前の
顔を見ると頭痛がするんだよ!!」と言って、もう顔を見ようともしなければ体に触らせようともせずに、そのまま入り婿を
追い出してしまった。
(ちなみに、お嬢さんは公務員なので、夫なんぞどうでもよかった。)
恋人は、その後戦死していることが確認されたそうだ。
お嬢さん、とにかく頭にあったのは、生涯その恋人だけで、入り婿は完全スルー。
190 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 08:08:43 ID:XGQUgl71
>>189 そんな時代にサロンパスがあるかよw
と、思って念のため調べたら、昭和9年発売なんだな。恐るべし。
>>188 そう言うおばさんが居なくなったから少子化が進んだのかな?
192 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 09:03:55 ID:x1yyv7vT
初めて近所にコンビニができたときは感動したな〜「これで夜でもパンとか牛乳買えるんだ…」って
>>191 それもかなりあると思う
日本人はなんだかんだ言って恋愛結婚向いて無い人も多いんだろう
家族ぐるみ向きっつうかさ
危機感なくぼーっとして、気がついたらちょっと焦らなきゃならない年齢になるも
仲介してくれるお見合いおばさんはもういない
結局、糞高い金を結婚相談所に払わなきゃならない
ああいう、尻を叩く人も必要だったってことだね
>>192 俺は自分の町に、初めてCMで流れているファストフード店が出来たのが感動したよ。
ちなみに吉野家だけど、中学の時に出来てクラスのみんなで「吉野家に行った?」
という話題で盛り上がったよ。今じゃあ考えられないけどね。
>>193 うまくいけばいいけど、行かなかったら相手の家と息子娘にボロクソに言われるんだから
お世話おばさんなんていなくなっちゃったんだよね。
サロンパスってすごいなw
家のおばあちゃんは「膏薬」ってのを貼っていた。同じようなものかな。
不意に思い出したけど、昔、湿布は、
ガーゼに「ゼノール」を塗って貼り付けてたな。
灰色のねばねばした軟膏状のもの。貼ってると乾いて石膏みたいにぱりぱりになる。
あらかじめ布につけてあって、貼っても肌に残らない「湿布」には感動したものだった。
あーそうだったそうだったw
あれ着けるとケガのなかでもランクがちょっと上のような気がして
なんとなく誇らしいような気がしたよw
>>196 …いくら意にそぐわぬ相手への嫌がらせとはいえ、その当時お高かったであろう
サロンパスを細かく切り刻んで、己が額一面に張り付けて、出て行けオーラを出し
続けたお嬢様って…
と、話を聞いた時は吹き出しそうになりました。
今だと冷えピタさんか
>>197 思い出した。
レトルトパウチみたいなのに入ってて、
角を切ってニュルニュル出してヘラで伸ばすんだ。
あれって喘息なんかで使う奴じゃないの?
俺小さい時、喘息もちだったからよく胸に塗ってもらったよ
冬なんかに塗ってもらうと冷たくて冷たくて
>>202 俺も喘息もちだったので同じような奴を使ったがダメだった。
胸がスースーと言うより冷えて余計に苦しくなった。
ちょっと酷い傷だと「リバノール」って黄色いガーゼを使われたなぁ
過酸化水素水で消毒ののち、傷の度合いによって、赤チン、ヨードチンキ、ホルムスという
粉薬を吹き付けて後リバノールガーゼを貼って、油紙で押さえてテープで固定、だったよね。
ガーゼ付きテープは偉大なる発明だった。
206 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 20:55:25 ID:0rmEBDS1
何を言っているんだ!
昭和のキズ薬は、赤チンだよ!赤チン!
207 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 21:03:34 ID:D80NUfdh
女の子と遊んでキズモノにするとヨソにお嫁にいけなくなくなる、って
子供の頃、外に遊びに行く前、耳にタコが出来るほどきかされた。
女の子にとって不慣れな、チャンバラごっこや、木登り、自転車遊びで
顔に怪我させたらどうする、おおきくなってお見合いが出来なくなっちゃう、
と思っていた。
だから女の子と遊ぶときは、向こうに合わせて、塗り絵やビーズ、着せ替え遊び
に付き合っていたけど、面白くないので、疎遠になったなぁ。
208 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 21:04:39 ID:DGXy1OfT
赤チンもうないの?
209 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/02(金) 21:14:14 ID:2swDgBXn
赤ちん はまだあるよ
この前の連休、岩手県に行ったらボンネットトラックを見かけた。
まだ現役で走ってんだね。びっくりしたよ。
類似品ならあると思う
マーキュロクロムが生産中止になったのは昭和じゃなかったか?
あれがなくなってマキロンが台頭した。
マーキュロ塗った後のしみる感じ
そんな懐かしさにあふれた日々
って歌があった
>>210 ものすごくごついやつ、バリバリ現役やね
215 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/03(土) 03:39:24 ID:kMd0cUzD
>>212 赤チンが廃止でマキロン台頭、というより、マキロンを選択したのは子供たちのほうだと思う。
並存期間は10年強あったけど、子供はやっぱり、CM打たれたり、目新しいものには弱い。
「マキロン、シュ〜パッ!!」のCMと斬新なスプレー式。
子供たちのほうから、今度は、アレにして、と徐々に赤チンと置き換わっていき、
S.50年ころには、患部を真っ赤に染める「赤チンはダサい」というイメージになっていた。
子供も流行や見た目を気にしだす時代にもなってきていた。
赤チンは、無頓着な親が買ってしまう、今に例えれば、まわりがトランクス、ボクサーブリーフ
になっているのに、グンゼのブリーフ愛用させられているようなとり残された存在
という感じになってくる。
50年代半ばになると、子供たちの世代も入れ替わり、赤チンを知らない世代に。
マーキュロが生産中止になるころには、子供たちの間ではすっかり過去のものになっていた。
そんな実感がある。
216 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/03(土) 04:22:46 ID:G6dhiBSc
赤ちんて効果無しって発表されたもんね
赤チンは怪我した時に塗るのは恥ずかしくて嫌いだったけど
怪我も何もしてない所に塗って「うわぁ!血が…血がぁ〜!」
「大丈夫か!傷は浅いぞしっかりしろ!」みたいな大怪我出血ごっこに使うのが大好きだった。
そしてすぐなくなって親に怒られる。
赤チンが乾いたあとの金属光沢のテカり具合が好きだった。
>>215 服が汚れるのを嫌ったり、ガーゼを切って貼ったりするのが煩わしい親御さんたちも
速攻でマキロンや救急絆創膏に乗り換えていったもんだよ。
220 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/03(土) 09:12:21 ID:UBTkN2bp
ABC海岸では「赤チン塗って直らない、黒チン塗ったら毛がボーボー」って
歌で馬鹿にされていた。
オレは、頭部にその黒チンなるものがほしい歳になってきたぞよ
>>220 昔そういうスプレーがあったじゃないかw
今はカツラ技術が発達しているからわからないけど、昭和の時代のカツラやごまかしグッズは
バレバレだったね。
マキロンってなんか当時「最先端!」な気がしてた。
>>26 その教師の家の近所に
その内容のビラ配り。
>218
あれはブロンズ現象と言ってだな(ry
226 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/05(月) 02:33:08 ID:MXzTeheh
名古屋市出身です。
ガキの頃(昭和40年代前半)は、集落を出ると一面の田んぼでした。
春先になるとそこにレンゲ草が咲いて、
見渡す限り、赤紫色のレンゲ草の色で染まりました。
今でもその光景が忘れられません。
現在は田んぼは全て埋め立てられて、住宅地になってしまいました。
とても大切なものを失った思いで一杯です。
田んぼがあれば蛍がいた
子供の頃よく遊びに行ってた湿地帯。
一面が沼みたいになってて、深い所は池みたいになってて
おたまじゃくしやザリガニがいた。
そしてそこはセリが群生していて祖母が季節になるとよく摘みに行ってた。
そこには数珠玉も生ってたんで男女大人みんなが遊んだり何か取ったりしてたな。
それが昭和50年前半くらい。
その後埋め立てられて一気に住宅地になってしまった。
いくら埋め立ててもあの沼地に建ってる家ってのも怖いが、セリも数珠玉もザリガニも
本当に惜しい。本当にいい場所だったのに。
中学の通学路は表通りが県道で危ないので、畑と田んぼの真ん中に
通学路が作られてた。
片道40分程度で坂だらけの道だったけど、田植えから刈り入れまでを毎日見て通学してた。
年中鳥避けの空砲の音がしてたけど、子供たちは「いつか撃たれるかも」と噂してた。
畑もあったんで、冬は大根を干したりしてた。
春先には
>>226のように田んぼにレンゲが咲いてて綺麗だった(地域の水はけの関係で
うちの方は田んぼが少ないのですごく貴重な風景だった)
十年くらい前は、まだその道も田んぼもあったけど、スミレはもう咲いてないと聞いた。
今もあの通学路は回りが田んぼと畑なんだろうか。
気になるけど怖くて見にいけない。
うちも小学校の通学路のまわりは畑がたくさんあって、
道も舗装されたところは少なく、
春の初めにはかすかに肥溜めの匂いがした。
そうそう、数珠玉もたくさんあったよ。
ほかにも道端にはたんぽぽやスミレやレンゲ、
鮮やかな黄色のキンポウゲ、白いノバラがたくさん咲くから
通学途中にたくさん摘んで、学校に着いたら牛乳瓶に活ける。
教室の後ろの黒板の横に飾ると先生がほめてくれる。
下校時はナワシロイチゴの実を摘んだり
スカンポの茎を「すっぱいね」と言いながら食べ歩く。
放課後は空いた畑で遊ぶ。脇には湧水が漏れ出したような
小川とも呼べない小さな流れがあって、手で掬って水を飲む。
青大将が掬う手のひらをサッと横切ったりもした。
夏にはカラスウリとヤブカラシがジャングルみたいになって、
夏の終わりにはススキが茂り出すから、奥のほうに基地を作る。
近くの川にはもちろんホタルがいた。
日が暮れるとカエルがうるさいくらいの大合唱。
秋の肌寒さとか冬の朝の冷たい空気とか
春の初めの土のやわらかさとか、
通学路には思い出すことがいくらもあるな。
今はほとんどなくなって、思い出すのが切ない。
地方とはいえ、そこそこの人口がある県庁所在地。
でも少なくとも昭和40年代まではこんなに自然が豊かだった。
あの時代にあの場所で子供だったことを幸せに思う。
230 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/06(火) 21:25:45 ID:BDoWh5MO
名古屋市出身です。
丁度今の季節といえば、これから柿の実がたわわに実るので
すごく楽しみでした。
今は首都圏に住んでいます。
通勤中、柿の木はよく見るんですが、誰も収穫しないんですね。
小鳥がついばむか、もしくは熟して落ちるままにしています。
とてももったいない気がします。
おいしいのに。
232 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/06(火) 21:32:24 ID:BDoWh5MO
渋柿もね、瓶に詰めてしばらく置くと
甘くなるのよ。
233 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/06(火) 21:33:34 ID:BDoWh5MO
渋柿もね、瓶に詰めてしばらく置くと
結構甘くなるのよ。
234 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/06(火) 21:46:38 ID:V7Tgv/vC
今より大人数の家庭が多かったのに、主婦の買い物は楽だった
みんな御用聞きが配達してくれる
その日使う野菜や魚買うだけだから、小さな買い物籠で十分だった
235 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/06(火) 22:02:27 ID:pYsWxplu
初めててコンビニが出来た時、コンビニに行く事がステイタスだった
からあげ君買ったやつとかは神だった
しかし、コンビニに行くのが不良とみなされ、学校の先生から注意されたな
ちょっと悪い不良はコンビニの前でたむろしてた
コンビニ=カッコいいみたいなw
俺が子供の頃すんでたのは埋立地の住宅団地だったが、集会所にヤマモモが植えてあって、
ある日兄弟と遊んでいたら知らないオっさんがやってきて実を取ってくれたりした。
たった一度っきりだったが。
>>235 『からあげ君』
↑
一見おいしそうだけど、食べてみるとマズイんだな、コレが。
肉が脂身ばっかりでさぁ・・・
>>235 >>237 そうそうw 脂身ばっかで不味いんだw
今は随分旨くなったみたいだけどねw
でも、あの頃は良かったなぁ・・・
今じゃ考えられない位不便な生活だったけどね
パンの耳をフライパンで炒めて砂糖をからめるとけっこうなおやつ。
>>239 パン屋がチョコがけのパンの耳売ってるよな。いまは
>>235 7-11って最初は朝7時から夜11時までの営業だったよね。「開いててよかった」って言うコピーが
忘れられない。
山田邦子だな
>>240 そうそう、最初見た時に「なんじゃこりゃ」と思ったけど
買って食べたらカリカリしてうまいのなんの。
モスクだな
ビスク
ある人が、とてもおいしいマーブルケーキを見つけたと言って持ってきたんだけど、
どう見てもカステラの端っこを木箱にぎゅうぎゅうに詰めて切った物にチョコをかけた
物だった…
247 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/07(水) 19:27:13 ID:Ayf7UAtr
タバコ屋などたいていの店で、サービスとして両替に応じてくれた。
銀行での日本円同士での両替はタダだった。
今じゃ、たいていの店で両替は断られるし、
銀行での両替は原則有料だ。
逆に
、上野、東京などのターミナル駅では、日本円の両替商がいた。
100円で5円、1万円で100円の手数料が天引きされて帰ってくる。
同時に各種小銭も揃う、というメリットはあったが。
銀行も含めて、日本円同士の両替に金をとる、という感覚がなく、
ダブルの礼服を着たおのぼりさんが、なんだ金取るのか、とつぶやいていた。
いちど、10100円分の小銭を持っていって1万円札にしてもらえるかどうか
試す前になくなってしまった。
カップヌードルを歩きながら食べるのがオシャレだった
>>249 >カップヌードルを歩きながら食べるのがオシャレだった
これウソだよ。
いわゆる「作られた伝説」の一種。
251 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/07(水) 20:13:24 ID:dLLFfsZ3
発売当初なかなか売れなかったので、銀座の歩行者天国で売り出し、
「食べ歩き」を非常識を楽しむ若者の流行としてマスコミで報道させ宣伝に利用した。
日清自身もこのときの映像をCMに利用した。
日清は先月も、渋谷で3万個無料配布をプレス発表、挙行しているが、
1個100円(小売業者の利益分を考慮する必要がない)としても300万円。
TVCMや雑誌広告、屋外看板討たなくても、マスコミがタダで報道
してくれるから、投資効率としては、よっぽどいい。
"カップヌードルは、浅間山荘事件で機動隊員が食べているところが
中継されて周知され、売上が急伸びた"という「美談」も後付けっぽい。
2001年9月の日本経済新聞紙上での日清創業者・安藤百福の「私の履歴書」、
2003年9月9日にプロジェクトXでこのエピソードが取り上げられる前に
こんな意識をもっていた日本人などいなかったと思う。
ちょうど、売上が伸びてきたころだろうが、「ヤングお〜お〜」や
サザエさん開始30秒前はじめ、あれだけ大々的にCM流してりゃ
売れ始めてもおかしくあるまい。
あくまで、オレの視点だけどね。
俺、ガキの頃(30年以上前)カップヌードルよりもカップライスの方が
好きだったわ。特にピラフをよく食べたよ。
>>251 >"カップヌードルは、浅間山荘事件で機動隊員が食べているところが
>中継されて周知され、売上が急伸びた"という「美談」も後付けっぽい。
>こんな意識をもっていた日本人などいなかったと思う。
全く同感。
事件当時の1972年に、カップヌードルが流行ったなんて聞いたことが無いよ (ι`・ω・´)ノ キッパリ!!
アン・ルイスが宣伝してた「アルキメンデス」を
覚えてますかい?
カップピラフ。
>>254 アルキメンデス、発売された時は
「なんだこれ冷めた皿うどんと同じばい」と思ったなあ。
>>248 今こそそう言う商売を復活して欲しいよ。
257 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/08(木) 01:14:50 ID:zHo73fQm
西部警察や太陽にほえろなんか昔のドラマで町並みを見ると妙に落ち着く俺
「太陽にほえろ」でよく映っていた新宿のガスタンクも
今はパークハイアット。
近所からしめたばかりで血が滴ってることもある鶏を子供が貰ってくる光景。
今警察の目にとまったら酒鬼薔薇事件の関係で問題児扱い、下手すれば病院送りだろうな。
>>258 もう初台に近いってところのあそこか?
あまりに昔すぎてスマンが、あの辺り鉄腕アトムの実写版で写った。
アニメが昭和38年ぐらいで実写版はそれより数年前だろう。
山田邦子と渡辺徹の深夜番組で放映されてガスタンクが写っていた。
>>260 >もう初台に近いってところのあそこか?
多分そうですね。今でもホテル近くには東京ガス関係のオフィスはあります。
ホテルといえば
かつて石原裕次郎が結婚披露宴したり植木等の映画によく登場した
日活国際ホテルが今はペニンシュラホテルに。
ついでに
「洗濯屋ケンちゃん」で登場した青姦シーンの草原は今は東京ディズニーランド。
>>230 首都圏のアパート在住。
入居した時から庭に小さい実のなる柿の木があって
特に柵もないので近所中が秋になると狙って忍び込んで取りに来る。
しかし渋柿。
自分も一度焼酎に漬けたのと干し柿やってみたけど、実が本当に小さくて
(八百屋やスーパーに売ってる柿の1/3くらい)そのくせに種は昔ながらの柿並み。
実の1/4くらいが種って感じ。
なので一度取りに来た人は二度と取りに来ない。
専ら落ちるに任せるか、鳥に食べてもらう。
その代わり9月頭から2月くらいまで色んな種類の鳥が来るので面白い。
というわけで、これは時代は関係ないと思う。
首都圏の住宅地は土地が痩せてるってこと?
264 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/08(木) 08:01:08 ID:/jXrnQNU
シブガキ鯛
>>252 あれ、味付けの粉をまんべんなく混ぜないと、味の薄いとこと、濃いとこが
できるんだよね。お湯を入れて、お湯を捨てたらひっくり返して蒸らしていたと
記憶しているが。
>>263 品種(ひんしゅ)って日本語分かるかな?
269 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/08(木) 21:10:38 ID:if1S46VD
柿渋は、昔、番傘の防水剤に使ったんだっけ?
当たり外れなく甘いのは
折り紙で作ったような真四角に近い
富有柿だったと思う。
270 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/11(日) 19:05:01 ID:TSenLg4C
新宿も空き地があったもんな。土管もあった記憶がある。
272 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/11(日) 21:28:39 ID:tF6YIjr6
昔はとにかく寒く、雪も今より多かった。
横浜での小学校時代に、校庭でかまくらを造った。
その写真、今でもアルバムにある。
昔の夏はここまで暑くなかったような記憶がある
274 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/11(日) 21:48:04 ID:P8uuNtl8
既出みたいだが酒屋の御用聞きと魚や野菜のトラック販売。豆腐も米も牛乳も
配達もしくは売りにきた。店まで徒歩10分もかからないのに。
うちの近所だと魚のトラック販売に車が突っ込んで奥さんたちが亡くなってから
そういう形態があっというまに消滅した。
275 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/11(日) 21:57:39 ID:8jFRQRUk
テレビのチャンネルを変えるのにテレビの所まで歩いていってチャンネルを回していた。
>>273 平均気温・最高気温で比較すると
今年の夏 = 昭和の暑い夏 なんだよな。
夏の暑さは全然違ったね。
昼間は暑くても、夜は涼しくなった。
暑いっていっても30度を越すくらい。
38度とかw
お正月の違いはものすごいな。
三が日は店なんかやってない。
「正月の準備」はものすごい重要だった。
>>277 自分が大人になったせいもあるんだろうが
年末とか正月独特のあの感じはホントに薄くなったよな
店なんかも元旦から普通に営業してるし
三が日とかも普段の三連休みたいな雰囲気になってる
お正月はなんかお店も一斉に閉まって、昼間は初詣とかの人通りもあるけど、
夕方になるとヒッソリ静まって、なんか町がゴーストタウンみたいになるので
薄ら恐いイメージがあった。だから昔の正月って嫌いだった。
>>279 子供にとってはすることないしね。早くお年玉持っておもちゃ屋とか行きたかったw
>>280 そうそう、お年玉持って近所のおもちゃ屋さんに行ったよ。ゲイラカイトを買ったり
ミクロマンの基地を買ったりしたよ。
ゲイラカイトなんか、破れたりどこかに流されたりで、一日でパーになるのに。
>>281 んで、ミクロマンと間違えてアストロミュー5を買っちゃったりするwww
うちの街の個人経営のおもちゃ屋さんは、元旦からの営業だったなあ。
当然店内は子供まみれ。
うちの田舎じゃ三が日は女は外に出るなって言われてたな
年末には、お正月用ののし餅とプラッシー(われわれ子供用)を
お米屋さんに注文してたよなあ。
285 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/12(月) 21:21:41 ID:vDsg93oq
新宿に都庁が来る前の空き地
創刊当時のnon-noの特集が「新婚旅行は宮崎で決まり!」みたいな内容だった。
>283
女が正月早々他人の家を訪問したら、訪問された先の家にとっては縁起が悪い
と言われた
>>285 あった。都営三号地だったか5号地だったか。
>>282 うちの近所も同じ。正月早々空いてるのはおもちゃ屋と美容院。
おもちゃ屋は正月価格で三が日は一割高w
>>285 その空き地でマイルス・デイヴィス・グループがライブをやっている
ところを通りがかりで見たことがある。
キャッツの初演もあそこじゃなかったっけ?違ったかな。
292 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/13(火) 19:02:42 ID:Jo4e04oV
いまでは、コンピュータ以外でも「リセット(する)」という言い方は一般化したが。
昭和期は末期まで、よく「ご破算にする」と言っていたもんだ。
5,60年代は、電卓は普及していたものの、コンピューターはまだまだで、
暮らしに根付いていたソロバン文化はそうそう消えるものではない。
(数値的な)シュミレーションのことも「そろばんをはじく」と言ってみたり。
「そろばん高い」「そろばんづく」などと言っていたものだ。
ま、「リセット」は30代以下だと、(初代)ファミコンの影響もあると思うが。
>>289 おもちゃ屋で正月割り増しって、すごいなぁ。
よく喫茶店なんかは正月料金と言って、普段250円のコーヒーが倍ぐらい
していたのを覚えているよ。
294 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/13(火) 19:30:04 ID:zf3ye2Pv
親父の問答無用鉄拳
通学路の途中に牛小屋があって牛を2頭ほど飼育してる家が有った。
牛小屋の横に狭い通路が有ったんだけど時々その通路に牛がでかい爆弾を落としていて跨いで渡った覚えが
297 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/13(火) 23:59:17 ID:AD6c/dsi
>>293 そのうえ、手の混んだメニューは載ってなかったりする。
普通の人が休んでいる時期に働いているのだから、と納得してはいたが。
お正月明けはOLさんは振袖で出勤したりしてた
いまでも、正月に特ににぎわう観光地の土産物屋兼食堂では
正月料金×特別メニュー×セルフサービス×使い捨て紙容器になるぞ。
自販機のジュースは年中150円だ
300 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 00:45:57 ID:bh0hV/UN
09
どっかのばあちゃんが、デパートのぬいぐるみ売り場で子猫物語のチャトランを
買おうとして、マイケルを手にとっていた。
同時期にブレイクしてたからまぎらわしいねw
イーグルサムのグッズとか店頭にたくさんあったな。
>291
キャッツシアターはタカシマヤのあたりだったと思う。
「えっ、都庁って昔から新宿にあったんじゃないんですか?」
なんて奴も多くなってきたなあ。
とうきょうとっきょきょきゃきょく
たしか、京王プラザの近くだと思ったけど>キャッツシアター。
2代目があったのかな。
タカシマヤの出来る前は、貨物ターミナルじゃなかったかな。
甲州街道沿いであることを利用したトラックターミナル。
機関車、真っ黒い貨車、油と埃のニオイ…。
東口、西口みたいにきれいじゃくて、もっとドヤドヤしていた。
池袋も貨物扱ってたんじゃなかったっけ?
今の都心じゃ考えられない。
306 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 07:13:25 ID:DKZeLqOh
なんたって、いま湘南新宿ラインや埼京線が走っているところは
「山手貨物線」なんだから。
今はなくなってしまった証券会社に勤めていたが、大発会の時には会社備え付けの着物があって
それを着て取引所に行った
>>305 貨物の取り扱い駅はあちこちにあったね。目白、巣鴨、恵比寿とか。
昭和40年頃も新宿を通るSL牽引の貨物列車があった。
工学院大学の裏手、今の新宿副都心は広大な淀橋浄水場だった。
年がわかってしまうが。
電化製品とか壊れたら、何度も修理して使った。
>>308 汐留も貨物駅あったよな
まさか日テレが移転してくるなんて当時は夢にも思わなかった
ああ、そういえば親父が「テスター」使って直してたな。
配線切れ箇所を探す「テスター」。
故障って言えば大概はどっかショートしてるとか配線切れで、それをどうにかすれば直った。
昔はお父さんとかが電化製品を開いてねじ回しやらペンチで
何かすると直ってたもんだよな。
今は「素人が無闇に開かないで、開いたりいじったら保証期間が無効です」だもんな。
実際素人がどうこうできる電化製品は少なくなった気がする。
素人がどうこうできたのは、初期のビデオデッキくらいまでかな。
一応開いて「あーこりゃ無理だ」とすぐ閉めて電気屋さん呼ぶ感じでw
今は壊れるまで使うってことじたい少ないような気がする。
自分などは壊れるまで使ってしまうが、いざ壊れてから家電店に行くと
浦島太郎状態だ。
デジカメなんか、メディアじたいもう売ってなくて
「まだそんなの使ってたんですか?」と驚かれたし。
終電の時間。昔は何件もハシゴをした時に気にするもんだったな。
今は仕事をしながら終電の時間を気にしてる。
315 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 13:31:15 ID:uJ/3ogBf
>>313 フィルムカメラのころは、一度買うと10年、15年と使ったものだった。
そりゃ、ズームだ、オートフォーカスだ、モータードライブだ、と言う
追加機能の進化はあったが、ピント合わせ、絞り、シャッタースピー
ドを司ってフィルムに感光させるという基本システムは枯れて、完成さ
れていて、うまく言えないが、全く時代遅れになる=古くなると言うこ
とはなかった。ニコンFとか。
しかしデジカメは、画素数だ、記録メディアだ、ドライバー・ソフトの
対応OSだとかで、数年で時代遅れになる。
オリンパスがデジカメでペンを復活させたが、なにか違うような気がする。
せっかく復活させても、「使い捨てブランド」になりそうな気がする。
カメラはどんなに画素数が上がろうがコンパクトになろうが
やっぱり印画紙焼付けの昔ながらのフィルム感光のがいいと思う。
技術云々はよくわからんが、長く残したい物ってやっぱりアナログ最強だと思うんだ。
でも自分みたいな、撮影したっきり現像に出すのを忘れたり
カメラの使い方がよくわからなくてカメラの蓋開けちゃってフィルム全部ダメにしちゃったり
現像に出し忘れたまま何撮ったのか忘れちゃってそのまま捨てちゃったり
十年近く経ってから現像に出して、写真の半分が紫色に変色しちゃったり
ピント合わせ間違えて全然知らない人にピントが合ってたり、被写体から外れて
全然違う物が写ってたり、うかれすぎて旅行の最初でフィルム全部使っちゃって
後半の写真が全くなかったりとか、そういうタイプからしたらデジカメだの携帯カメラって
本当にラクだ。
現像代かけず見る事もできるし、携帯メールやPCとか専門のハードがあれば
ほぼ無料で送る事もできる。
いちいち封筒に写真入れて「写真在中」なんて書いて切手貼って送ったのに
郵便事故で行方不明になったり、雨なのにポストの放置されて写真がくっついちゃって
見られないって事もない。
個人的にはフィルム代と現像代がかからないってのが一番大きいな。
結構馬鹿にならない金額だ。
写真として手元に残す場合はそれなりに金がかかるけど、データとしてちょこっと
ペットの写真なんかなら写真として残しておく必要もそんなにない。
317 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 17:46:40 ID:I9AkLeY5
そういや、カメラ、時計、万年筆は、みんな大切に使っていた。
長く使っていると愛着もわき、壊れてもなかなか捨てられない。
遺品とされることも多かった。
こういう、モノに対するこだわりも失われていくんだろうね。
>>307 あれ、会社の備品だったのか!
証券会社の女性社員はたいへんだなあ、いちいちタクシー乗って会社か?
でも家が横浜とかだったらどうすんだろ、着物一式持ってって会社で着付け?
…とかいろいろ考えてた。
>>307 へー
会社の備品でも美容師さんを雇わないと振袖はひとりできれないよね。
すごいなぁ
320 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 21:10:11 ID:vUXSKx+d
>>307 その発想はなかったな〜!!てっきり私物だと思っていたよ。
321 :
307:2009/10/14(水) 21:11:19 ID:2hU7u2ul
銀行もそうだけど店頭で新年に振袖着ている女の子のは自前。みんな自宅の側の美容院で
朝の5時とかに着付けしてもらって出勤する。
取引所のはなかば業界の公式行事なので、勤めていた会社では秘書室のきれいどころが
代々受け継いで着ていた。バブルの頃だったので、当然のように着付けとか美容院とかの
費用も会社持ちだった。
>>314 昭和では休みが日曜日だけってのが信じられん
323 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 21:38:18 ID:l/NxkoB3
そーでもない、振替休日はなかったが。
324 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 21:49:57 ID:l/NxkoB3
建国記念の日:昭和42年初施行
敬老の日 :昭和41年初施行
体育の日 :昭和41年初施行。
3丁目の夕日のころは、3学期は祭日が1日しかなかったり、
今では休みの多そうな2学期も秋分の日以外はしばらく祭日がなかったんだな。
あの頃のニートはなにしてたんだ?
TVが白黒だった頃、映りが悪くなるとオヤジがアンテナ線
(ケーブルじゃなくて平べったいカンピョウみたいなやつ)に
タバコの銀紙を巻いてそれを上下させて一番映りがいい所を
探していた
もちろん良くなる事もあるが、たいていは受像機の故障ってか
327 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/14(水) 22:44:00 ID:adc28sa2
そのひらべったい「フィーダー」もVHF専用だから、もう少しで過去の遺物になるだろうな。
小中学生の時、運動会の振り替え休日ってあったのかな。
昔過ぎて覚えてません。
>>329 中学は有ったな
小学校は覚えてないや。
でも文化祭の振り替え休日はあったぞ。
淀橋浄水場があったところは淀橋區だったはず。
うちの父親は淀橋區角筈(つのはず、西口明治安田生命ビルのところ)の生まれ。
東口の紀伊国屋書店で「角筈の○○さん!・・・」というアナウンスは
社員への報せらしい。
淀橋第○小学校は現存する。
ヨドバシカメラは昭和40年代は普通のカメラ屋さんだった。
>>331 父親がやはりその近辺の生まれ。
戦時中に北海道に引っ越して、私の結婚式の時に、ほぼ半世紀ぶりに上京。
こどもの頃に遊んだ淀橋近辺を、伯母(父の姉ね)と二人っきりで歩いて、
昔を懐かしんでいた。
50年ぶりだけど地形は変わってないはずだから、大丈夫と豪語してたが、
ビルに囲まれて地形自体がわからず、記憶も曖昧でかなり迷ったが、本当に
楽しかったらしい。
その年齢に自分がなったとして、50年ぶりに帰っても楽しい場所って、
どこだろう。
自分の記憶では都庁がある場所は以前は少年野球グランドだった。
十二社温泉もいつの間にか無くなってしまったが。
東口広場線路沿いの巨大な映画宣伝看板もいつの間にか消滅。
アルタは以前は二幸だったかな?
昔のままなのは地下駐車場「レインボーパーキング」の巨大な円筒。
新宿西口の角筈や東口の三光町、隠田(原宿)田村町(西新橋)霞町(西麻布)
など都内の旧町名は消えつつあるけど
高樹町、代官町、谷町、土橋など首都高速で残っているのが面白い現象。
>>329-330 日曜日に運動会だったので、月曜日が振替休日になって東京ディズニーランドに
よく連れてってもらった。
86年から90年くらい。
>>334 鼠でバイトしてたけど、確かに運動会シーズンの月曜は混むってのが定例だったな。
牛込地域出身なんだが(旧町名を死守した町)、新宿も変わったよね。
さっきふと思い出したんだけど、低学年の頃って
学校の机は長いのをふたりで使ってた。
今でもああいうの使ってたりするのかな。
真ん中に線ひいて「ここまでー」とかやってた。
>>331 うちのジイチャンが教育実習に行った中学が、新宿の淀橋中学とかいうとこだったよ。
実習簿が残ってて知った。
今はもうない学校かな。
実家のある狭い集落、昔は小学生だけでも10人以上いて
上の子が下の子の面倒をみながら集団登校していたが、
今はわずか1人で、親が送迎しなくてはならなくなっている
子供が減ることで、増える手間ってのもあるんだね
小学校も減ってるし
一切発展しようがないので、昔の風景は残っているっちゃ残っているが
>>319 昔は会社内に着付けのできる人の一人や二人普通にいたし
就職したら半強制的に着付け教室に通わされたりもした。
女子写真は意外と着物を着る機会があるから。
あと昭和末期には簡単に切られるワンタッチ振袖と付け帯ってのが存在してたな。
主にレンタルだけど。
>>327 UHF兼用のフィーダーもあるぞよ。
(ソース・昭和40年代後半建築の我が家。壁についてるアンテナ線をテレビに取り付けるための
部分もフィーダー線対応の二口式。立派にデジタル放送も受信できまっせ。)
昔のいけてるギャルって、型パット入りの真っ赤なスーツ、真っ赤な口紅、
黒黒した眉、ソバージュ黒髪だったな。
今のようにムーミンのミィのような髪型、付けまつげ&マスカラべったりで
濃いメイク、露出の激しい服を着た女などは風俗嬢ぐらいしかいなかった。
母の結婚式の写真見たら(昭和49年)
ウェディングドレスがミニスカートでびっくりした
343 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/15(木) 23:43:46 ID:umFTK36I
昔イトーヨーカ堂に紙袋の自動販売機あったよね?
一枚30円で
ジュースも粉末で紙コップだったな
ヨーカ堂よりも昔ね
何気にうまかったな
値段までは記憶しないが60円とかそんなもんだったかな
345 :
331:2009/10/16(金) 00:19:40 ID:OuO6jP3i
>>336 今、自分は牛込地域(神楽坂近く)に住んでゐる。
>>337 淀橋中学があるかどうか判らない。
西新宿出身のせがわきり(トゥナイトU)ちゃんは知っているかもしれない。
父親は各地転々としたので渋谷の大和田町(道玄坂)に住んだころ、
小学校は途中から渋谷の大和田尋常小学校(桜ヶ丘町)あたりだと思う。
中学はやっぱり渋谷大向通り(東急本店の隣りあたり)だと思う。
>336
全体が木製で天板の一部が開くようになってたアレか?
70年代から80年代に移行すると、まるで手の平を返したように70年代の流行・風俗全てがいっぺんにダサいものとなった
今にして思えば、時代の移り変わりによって過去のものがあそこまで全否定された節目もそうそうないんじゃないかという気もする
今はファッションにしたって、70年代の流行も80年代の流行も程よくミックスされている感じだし
ちょっと前の流行はものすごくダサく見えるのはいつもいっしょ。
90年代はじめには「80年代…恥ずかしすぎてトラウマ、あんなの二度と流行らない」とか
言われてましたよ。
>>341 つけまつげ、マスカラベッタリは70年代の流行ですがな。
「超獣戦隊ライブマン」見てたら(88年度制作)主人公が一目ぼれする女性ってのが
メイクも何もない、やぼったい服装の子で、「ああ、そう言えばこの頃は男の子が思い
描く手に届きそうな女性ってこんなだったなあ」って思った。
今は堅気のお嬢さんもメイクばしばし。
>>349 キーハンターとかに出てくるようなアバズレはつけまつげべったりだろうけど、
一般人は地味だったんじゃない?
昔の日本人の写真見ても、一重の化粧けのないネーちゃんが多い。
お色気歌謡歌手のメイクはすごかった。
つけまつげ2枚貼りとか。
嫌いだったのが「聖子ちゃんカット」だわ。芸能人でもみんなあんな髪型していた。
伊藤つかさや松本伊代、わらべの三人とかも聖子ちゃんカットをしていた。もちろん
クラスの女子もみんな聖子ちゃんカット。似合ってないのがほとんどだった。
ちょうどその頃、えりが大きいブラウスが流行った。レース状の大きな白いブラウスを
着て、髪型は聖子ちゃんカットの女の子が街を闊歩していた。
昔って、流行ったらほとんどの人が、それに飛びついたよね。ルービックキューブとかでも。
今じゃ考えられないけどね。
352 :
351:2009/10/16(金) 16:54:39 ID:SQkampYW
ごめん。
× レース状の大きな白いブラウス
○ レース状の大きなえりのついた白いブラウス
353 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/16(金) 18:45:53 ID:W+AUdHEP
>>351 当時のアイドル・女優は自分に近い年代なのに、萌えることはなかったのはそのせいもあるのかも。
ルービックwww
いまだにやったことない。
イライラしてすぐ諦めそう。
聖子ちゃんヘアみたいので唯一かわいいと思ったのは石川ひとみちゃんだな。
切なそうな表情が良かったのかも。
男のツッパリはリーゼントだったかな。
いまだに野球の三浦はやってるけど。
>>351 それに、膝下丈のスカート、足首丈のソックスを合わせてポシェットをつけて
全体的にパステルカラーでまとめるんですね判ります。
自分も死ぬほど嫌いだった、そのファッション。
一時歌手を休業して、というか世間的には歌手として認知されてなかった
小林幸子がキイハンターとかザ・ガードマンに女優として出てた。
DVDを全部見れば証明されるんだが、記憶にはっきり残ってる。
>356 キカイダー01に出演時、ゲストには珍しく役名付き表示
ゼロワンに出演してた女優さんって、志穂美悦子さんしかわかんないや…w
昔の女性のアクションスターは、志穂美悦子やマッハ文朱だったね。
360 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 16:31:58 ID:ENB/nxN5
聖子ちゃんカットって言うけども当時のアメリカ映画の白人の女優さんもああいう髪型してたから別に松田聖子発信では無いと思うけども
50過ぎのおばさんだといまだにあの髪型の人がたまにいる、逮捕前の和歌山カレー事件の林真須美もあの髪型だったな
361 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 16:32:52 ID:sPadujf7
今じゃ考えられない古代ローマの生活
昔はピンクよりも桃色、と表現するのが普通だったよな。
363 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 20:26:09 ID:MqEMrF/o
>>322 土曜日は半ドンと言ってだな…というオッサンの回顧が始まる!!
それよりスチャラカ社員とか思い出すに、日本のサラリーマンもその昔は夏場には
ノーネクタイに開襟の白シャツ着てデスクワークしてたように思うんだが、扇風機の
風に当たって。
「真夏の炎天下でもダークスーツにネクタイカッチリしめて汗一つかかずに営業で
外回りしろ」と言わんばかりのキチガイ風習は誰が広めたんだ何が原因だったんだ。
どうもクーラーの普及に合わせて広がったように思えるんだが。
364 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 20:35:25 ID:KRRq34yd
やっぱ、このスレに走ってきたよ。
1 :☆ばぐ太☆φ ★:2009/10/17(土) 19:37:25 ID:???i
★加藤和彦さん 死去
・「あの素晴らしい愛をもう一度」など多くのヒット曲で知られるミュージシャンで
音楽プロデューサーの加藤和彦さんが17日、長野県軽井沢町のホテルで
亡くなっているのが見つかりました。62歳でした。
加藤和彦さんは、昭和22年に京都府で生まれ、大学生のときにフォークグループの
「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成し、昭和42年に初めてのシングル
「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしました。その翌年には朝鮮半島が南北に
分断されている悲しみを歌った2枚目のシングル「イムジン河」を録音しましたが、
レコード会社が政治問題になることを懸念したとして発売中止になったことでも
話題になりました。
グループが解散したあとも、「あの素晴らしい愛をもう一度」などのヒット曲を発表したほか、
ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成して海外でも高い評価を得ました。
また、音楽プロデューサーとしても活躍し、泉谷しげるさんや吉田拓郎さんなどと組んで
多くのヒット曲を送り出しました。加藤さんは17日に長野県軽井沢町のホテルで
亡くなっているのが見つかったということで、地元の警察で亡くなった原因について
調べています。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10013181131000.html#
>>363 スチャラカ社員をじかに見た人はこのスレにはいないだろ。
俺だって記憶がアイマイミーだよ。
大村昆と佐々十郎が出てたのは違う番組だったかな。
ダイマルラケットがスチャラカ社員だったかアイマイミーだよ。
>>364 マジか?何でニュースでやらなかったのだ。
ビックリこいた。拓郎のほうが先だと思っていたのに。
366 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 20:52:18 ID:KRRq34yd
スチャラカ社員、リアルで見てたよ。
ダイマルラケットとか、餓死自殺したルーキー新一とか、
いたよな。
拓郎しぬしぬ言うなよ。まだ生きててほしいよ。
人間はちょうどいいときに死ぬものだと言ったのは司馬遼だけど、
ほんとにやることを果たしてしまうと、死んでしまうのな。
「スチャラカ社員」は見てなかったけど、「てなもんや三度笠」は見ていた。
白木みのるを芸達者な子供だなぁと思っていた。当時、若手のやすきよも
出ていた。財津一郎の「〜して、チョーダイ!」はよくマネしたわ。
どこぞで「てなもんや」の映像を見たときは爆笑したよ。
369 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/17(土) 21:37:09 ID:JnW9ku2a
手頃な音楽媒体がカセットテープしかなかった
音楽は、主にラジオを録音したものを、ダブルカセットデッキで
別のカセットテープに編集しながらダビング
だから、必ず曲の前後にDJの声とか「FMヨコハマ〜」みたいな
ジングルがほんの少しカブる
たまにテープのゆるみを直すために、テープの軸の穴に
エンピツを差し込んでくるくる巻き取る
FMの番組は国内有名家電メーカーのオーディオ専用ブランド+オーディオ専業メーカーがスポンサー。
ライバル同士の相乗りどころか、1時間枠単独スポンサーも珍しくなかった。
ダイアトーン
アイワ
サンスイ
パイオニア
トリオ/ケンウッド
ビクター/JVC
テクニクス
オプトニカ
エクセディア
デンオン(デノンでは無い、「電音」)
オンキョー
SONY
単独で生き残っているメーカー/ブランドなんて殆どなくなりましたw
FMチューナーが高音質メディアで、5〜10万円する
チューナーとか普通にあったし、放送はNHKか各地の民放一局しかなかった。
その放送をカセットテープに録音して楽しむのが普通だったから、FM局も
細心の注意を払って音質を調整し、曲をかける前には数秒無音の時間を
作ってスタート。フルに演奏が終わった後にやはり無音時間があり、
それから「お聞きしていただいていましたのは・・・」と”アナウンサー”がしゃべり始める
のんびりした放送をしてた。
「次の録音の準備できました?今から新曲かけますよ・・・」
DTM/DAWの普及、高音質録音機材の一般化、地方のライブハウスとか
多くなって、個人で音作ったりする奴や、インディーズ連中にとっては今のほうが
楽しめるんだろうけど、おっさんの回想として、昔のほうが音楽が大切にされてたかな?
同じアルバムが半年連続チャートインなんて絶対今じゃありえないし。
>>366 スチャラカ社員は見た憶えはあるが内容は覚えてない。
東京で放送してたのは「お笑い三人組(小金馬、貞鳳、猫八)」に
お筆ばあさん出てたろ、浅草仕込みの武智豊子。あと楠トシ江、桜京美とか。
大村昆は「頓馬天狗」うれしいとメガネが落ちるんですぅ。
「番頭さんと丁稚どん」with佐々十郎(後年喧嘩別れ)
大宮デンスケ「デン助劇場」
月光仮面、てなもんや三度笠・・・
キリがない。
思い出した「やりくりアパート」大村昆、佐々十郎
>>365 言葉には言霊ってのがあるんだ。
そういうことを書かないでくれ。
>>370 もう今は70になったうちの父ちゃんがFMレコパルって雑誌を
欠かさず買ってFM放送をカセットテープに録音していたなぁ。
>>373 わかった。
だが忘れちゃいないかい?
フォーククルセダーズ おらは死んじまっただぁ〜天国に逝っただぁ〜
吉田拓郎 自殺の詩「人間なんて」
拓郎もガンだからな。気をつけなきゃいかん。
>>363 半ドンのドンは正午に空砲打ったからだとか。大正時代から半ドンと言っていたらしい。文化だったんだな。
加藤和彦さんは最近まで和幸とかやってたのに信じられん。残念だ。
>>376 半ドンは半分どんたくの略。
どんたくとはオランダ語で日曜日を意味するzondagの訛りである。
って聞いたけど
>>364 中学の合唱コンクールで「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌った記憶がある。
ハモらせると感動的に素敵になるんだよ、あの曲は。
♪今は もう かよわっなっい〜
才能が枯れたら、あとは裏方でのんびりやっていくとか、趣味を見つけて
没頭するとかいうのもアリだと思うが、美意識とかプライドがジャマしたのか
心を病んでいたのかわからんが、合掌。
うつ病が悪化してたらしいぞ
380 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/18(日) 11:12:25 ID:vgFIpztu
カセットテープが発売されたときは実に画期的だった
それまでは録音されてるテープが巻いてあるリールから
空のリールに巻き付ける作業から入らなければならなかった。
しかし一部の音楽愛好家はカセットテープを認めず
音質は絶対にオープンリールデッキが良いと主張し
メーカーも70年代半ば頃までオープンリールデッキを生産していた
高額な物は当時でも10万円くらいで販売していたし
今のようにオープン価格じゃないから値段がはっきりしていた。
>>360 > 聖子ちゃんカットって言うけども当時のアメリカ映画の白人の女優さんもああいう髪型してたから
ファラ・フォーセットかな?
ファラ・フォーセットのサーファー系の髪型のほうが軽い感じ
聖子ちゃんカットは髪質もあるのだろうが固くて重い感じ
最近若手芸能人がインフルエンザで休養、という記事をよく見かけるが、
昭和末期くらいまでなら無理やり熱を下げて働かせていると思う
昭和の頃は根性論がまかり通ってて
一般社会でもそういうところがあったね
インフルエンザと風邪がイマイチ区別されてなかったり
熱があっても仕事するってのが「やる気がある!」って評価されたりね。
386 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/18(日) 18:42:33 ID:bUjoknx4
>>380 河あきらのマンガ(少女漫画)で
音質はオープンリール>>カセットテープ、と言うような事が書いてあったので
オープンリールは音質が良い。
そう思ってたけど違うの?
>>386 まずテープの巾が違うからね
あとカセットに収める必要が無いから
テープの長さもカセットに比べて格段に長くできて
テープのスピードもカセットの倍以上取れた
だから単位時間あたりに情報を詰め込める面積が格段に大きいから
アナログだと決定的に情報量が増えて音質も良くなるし
デッキの方もスペースの制約無く録再ヘッドを作れるのも大きい
何度か既出のアイテム、エルカセットはテープ巾、テープスピードを
オープンリールのまま大きめのカセットに押し込んだものだけど普及しなかった。
388 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/18(日) 19:13:49 ID:Rk1Cnbbv
今なら大問題なんだが、陸上の練習で炎天下の中水を飲ませてもらえなかった。
飲むと叱られた。最後は唾が血の味になった。
後、ウサギ飛び百回やらされたな。
389 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/18(日) 19:17:55 ID:/hyKonfb
子供の頃のりが無い時に、ご飯粒を水で溶いて使ってた
父親に教えて貰ったアイデアw
ご飯ネタなら、前夜の冷飯をお湯で洗うってのもあったな。
本来は今の電子レンジに相当する方法だったのだろうけど、
実際は・・・。
>386
フィリップスが開発した際はもともと会話録音用程度の使い方だったんだけど、
凝り性の日本人がCDレベルの音質、つまり人間の可聴域といわれるレベルまで
特性を高めた。それでも業務用で生き残っていたオープンリールデッキのほうが
上だった。
その高音質化の立役者だったナカミチも別会社のカーオーディオ部門以外は事実上無くなりました。
歌番組で女性アイドルが風邪をおして強行出演するも声が出ず悔し泣きなんてことがあった。
今似たようなことしたらフルボッコだろうな。
>387
憧れの「サンパチツートラ」ってねw
ウチにあったのは当然19の4トラだったけど、それでもカセットとは全然違った。
そういや8トラってあったな。ベータマックスのビデオテープ(これも昭和だw)よりも一回り小さいくらいの。
最初は新譜とかも出てたけど、じきにカラオケ専用メディアみたいになって。
当時のカラオケスナックとかに行くと、カウンターの隅とかにこの8トラのラックがあった。
メディア付属の歌詞カードを専用クリアファイルにまとめたのを見ながら歌った。
オヤジが乗ってたカローラに8トラがついていて、家族旅行する時は
アニメの8トラを流して、兄と一緒に主題歌を歌っていたよ。
なんか、ちょっとだけはみだしているのが当時不思議に思ったよ。
カラオケの媒体って結構レトロなものがあるよね。最後のレーザーディスクが何だったか
調べていたら、最後にプレスされたのも、新作としてリリースされたのもカラオケ用のものだった。
レーザーカラオケっていうハイテク
398 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/19(月) 17:45:14 ID:FZi5tPrR
スペインに留学したくて、大学のスペイン人教授に
推薦状を書いてもらいに会いにいった。
道すがら、教授に「レーザーディスクとは何か?」と問われて
とにかくレコード盤から映像が出るのです、と答えたら
「全く理解できない」と言われた1985年の秋。
でも私のLDプレイヤーは、今でも現役。
奥田民生の曲で
「名曲をテープに吹き込んで〜♪」
ってフレーズがあるが、これがどういう作業を指すのか理解出来ない子供が
もうぼちぼちと出て来始めてるんだろうな
ダイヤル回して手を止めた〜♪
が意味わからないと言っている子は何人も知ってる…
我が市内には、「夢の電話機、プッシュホンをどうそ」という行灯が付いた公衆電話ボックスが現存している。
402 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/19(月) 20:21:32 ID:k4BaDOUt
VHSでもβでもLDでも無いディスクシステムなるものがあった
親戚の家にあったのを一回しか見た事無いのでまったくと言っていいほど普及しなかったと思われる
時期的にはその機材で高校生役の菊池桃子の主演映画を見た記憶があるのでおそらく80年代中頃だと
テラって題名だと思った、竹中直人も出てたな
テラ戦士Ψ(サイ)BOYだな
VHDだな
タイムギャルとういうゲームがあれでしか・・・・
>>400 ダイヤルを回すのは知識として知ってるが
回し方が分からないようだ
どっちに回す?
回した後、どうやって戻す?
>389
直接粒を付けていたw
>>405 数字の描かれた穴に指をいれて、左端までまわす。
離すと勝手に元の位置まで戻る。
>>398 工エエェェ(´ロ`ノ)ノ
LDって日本にしかないの?
時計回りに、と言った方が正確か
そういやMDも日本独自のメディアなんだよね。
初めて買ったPCで付いたお店のポイントでMDウォークマン買ったなあ。
>>408 いや、三大テノールのLDは当時輸入盤で見たよ。
MDだけでなくDATも忘れないでください・・・
私はAIWAとSHARPのポータブルDATデッキ持ってました。
MD後は音楽専用メディアってのが廃れたね。
今はHDDかシリコンデバイスに音声突っ込むのが普通。
テープメディアも昭和の時代に発達して最盛期を迎えたものだね。
電話は例のダイヤル電話だとNTT回線に繋ぐ場合は
停電中でも使えるので、いざというときのバックアップとして
電電公社のものが残してある。
DATテープはうちの会社じゃ今も現役
電話線は若干の電力も供給するので、プッシュホンでも通話だけは大丈夫だったりする。保留や留守録は使えなくなったりするが。
祖母の家は電電公社謹製の緑色のプッシュホンだけど、これには電池もACアダプターも無い。いまだにリンリン使えてやがる。
ダイヤル回線にボタン式の電話つないでる場合も同様通話だけはできるように作られてる。
昔ダイヤル電話のリサイクル品かなんかで、電話機2台が直結してあってちゃんと話せる聞こえるおもちゃになったやつもってた。
それには片方の電話機に単1電池を1個か2個入れていたと思う。
ダイアル式電話といえば、プロレスラーの故アンドレ・ザ・ジャイアントを思い出す。
ダイアルの穴に指が入らないんで鉛筆で回してたとか。
電話つながりで。
昔、ウチに固定電話と、一階と二階を結ぶ電話型のインターホンがあった。
二階の兄の部屋にだけあったのだけど、一階の電話に兄の友人からの電話が
あったら、電話の受話器とインターホンの受話器をくっつけて(もちろん
話す方に聞く方をつけて)兄と友人とを会話させた。
今なら携帯があるから、そんな手間隙かけることはないけど、昔ってある物を
なんとか利用しようと、知恵を働かせたものだったよ。
黒電話に被せる電話カバーもあったな
未来の電話といえばテレビ電話だったよね。
携帯とかインターネットがここまで発達するとは思いもよらなかった
ビデオテックスとか
赤チンを知らずに僕らは生まれた
>>416 巨人症(末端肥大症)だから通常の身長2m超の人より手が大きかったんだよね。
健康体で身長が2mになった人はあそこまで手が大きくない。
423 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/20(火) 19:44:37 ID:KDe0hngS
1986年にマドリッドに留学した。
市内のレコードショップで、「あしたのジョー」のビデオを見つけた。
現地でのタイトルは"ROCKY JOE"だった。
あしたのジョーの方がロッキーより先じゃないかと思ったが
マドリッドじゃ、誰に話しても理解してもらえないんで
ちょっと悔しかった。
でもROCKY JOEって、スペイン語読みだと
「ロッキー・ホエ」になるからとても間抜けなんだけどな。
その他TVでは「アルプスの少女ハイジ」とか「母をたずねて三千里」とか
やってたみたい。
下宿のおばさんが、常々、
マルコが可哀そうだ、ハイジが可哀そうだ、と言っていた。
おばさんに、それって全部日本のアニメだよ、って言ったら
「うそだー」って、全然信じてもらえなかった。
>>411 でも日本にしか売ってないわけじゃないよ>MD
7年前アイルランドに行ったとき、お店でMDウォークマンとか
普通に売られてたし、私の持ってたMDウォークマン見た現地人にも
「あー、それMD?」って聞かれたし。
MD-DATA(データ記録用MD)使ってるのは韓国ソウルの音楽関係の店が集まった一角で見かけただけだ。
426 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/20(火) 21:45:52 ID:fPRN/nkP
ラテカセが欲しい!
昔買ってもらえなかったんだよぉ
427 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/21(水) 17:27:31 ID:Abu3+8dg
蛍光灯スタンドで、グロー管を使わず、ボタンを2〜3秒押し続けないと
始動しないヤツがあったよね。
中学の時、技術の時間で蛍光灯を作って、それがまさにスイッチ長押ししないと
つかない奴だった。ほんとイライラしたよ。
>>427 >蛍光灯スタンドで、グロー管を使わず、ボタンを2〜3秒押し続けないと
>始動しないヤツ
小学校高学年から大学生まで使ってた。
今でも手元にある。
当時は、そんなものかと特に不便とも思わなかったよ。
>>426 ラテカセの更に上をいくラテカピューターなんてのもあったな
マイコンを強引に合体させたモノだったが
単にこりゃすごいな、と思うだけで
実際買う人がいたかは不明w
岩波文庫の値段は星ひとつ70円。カバーがパラフィン紙。
平成になるまで本屋に残ってた(買取だから)。
部屋の蛍光管をわざわざパルック(FCL30E**/28)からただの白色(FCL30/28)に変えてみた。
ちょっと濁った感じになるが、光色がやさしく(電球色ほどオーバーではない)、
「昭和の茶の間」という感じがする。
433 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/21(水) 22:10:49 ID:xFpo/89E
白黒テレビのブラウン管に色つきのパネルみたいなもの付けてた
434 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/21(水) 23:30:13 ID:cP8oUw7f
昔の妾とか本妻とか今じゃ考えられない。昔は普通だったのか。
ケツを新聞紙で拭いていたこと。
新聞でじかに拭いていなかったけど、新聞の上にちり紙を乗せて拭いてた。
今ではトイレにウォシュレットがあるかどうかでホテルを選ぶという時代に…
昔だって一部の金持のものじゃないのか<妾
>>434 昔の政財界&芸能界の有力者は、大抵、妻公認or黙認の愛人を持っていた。
世間もそれを当然の事としていた。
但し愛人は素人の女性ではなく、祇園あたりの玄人が多かった。
(妻の座も要求しないし、金で片がつく割り切った関係だから、女房も安心)
昔はとにかく家の跡取りを絶対生まなきゃいけなかった。
とにかく男の子が生まれないと話にならない。
昔の子供は弱かったからすぐ病気になったり死んだりするし
要は大奥の真似なんだよな、妾って。
本妻は妾に常に気を使って、歳暮や中元を贈ったり
一緒に住んでる場合もあった。
妾は妾で、本妻を立ててたな。
もっと昔は妾は下女扱いだったり。
大奥と違って男の子を産んだからって立場が変わるわけではなくて
あくまで妾は妾なんだけど。
でも後には跡取り無関係で、単に愛人として本妻も認める妾ってのは
普通にいたんだよな。
貧乏人でも普通に妾を持ってるって時代もあったよ。
てことは、昔のほうがあぶれてる男は多かったのか?
いくらなんでも女が男の何倍もいるわけじゃなし
皆が皆、妾をもてるわけないと思うんだが
それとも、一人で何人もの男の妾を兼ねるとか?
それじゃ意味無いか
女が男の何倍ってことはないだろうけど、男の赤ちゃんのほうが死亡率高いし、
戦争だので死んだりもしてただろうから、女のほうがちょっと多かったんじゃね?
>>440 >戦争だので死んだりもしてただろうから
大正生まれは男1人に女トラック1台分と言われた。
ラブホのことは温泉マークとか逆さクラゲと呼んだ。
>>442 さすがにそれは世代的にピンと来ないな
せいぜい「連れ込み旅館」ってくらい
>>441 なるほろ
昭和では普通っつうか、戦後は普通って感じか
>>442 父親の持って帰った週刊誌に「逆さクラゲも仁王立ち」とかあって何事だろうと想像を巡らせた
「モーテル」は死語?
447 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/23(金) 21:32:36 ID:PIhXF+D/
外国映画の日本語吹き替えはモーテルだな、ラブホつってんの見た事ない
448 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/23(金) 22:01:17 ID:cCyNaJSW
500円札を2枚あるようにうまく折って「1000円札と替えてくれ」ってやったな
温泉マークと言えば、うる星やつらの先生だ。
算数の授業でよく使ってた木製のデカイコンパスとか分度器って
まだあるのかなぁ
でっかい三角定規でよく先生にしばかれてたもんだ
あとでっかい算盤をスケボー代わりに遊んでた
今の子って算盤の授業やってんのかな
>>449 大人になって見返してみると、あの人は優しくて純で誠実で素敵な人だった。
逆さクラゲっていう名前のクラゲは本当にいるんだな
こんなところにメメクラゲ
先生をセンコーって言ってたが今でも使うのかな
もちろん面と向かって言う奴はいなかったが
オジン、オバンって言わなくなったねえ。
残ると思ったがなあ。
>>456 先コー ポリコー ヤーコー とやたらコーがついたよな
ハチコーは可愛い
>457
少年法はあっても、オジン法オバン法は無いのです!byきみまろ
460 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/25(日) 12:42:24 ID:h5eX07nN
ツッパルことが男のたった一つの勲章だって思ってたyo
461 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/25(日) 14:25:27 ID:Y+76I6TF
ヤンキーじゃなくてツッパリだったんだよな
なんでヤンキーなんだろうな
ヤンキー ゴーホーム!
ってプラカード掲げてデモしたら
んだよコラ うっぜんだよ てめえ何中だよ?
お前が望むなら〜♪
ツッパリもやめて〜いいぜ〜♪
↑で思い出したけど
「ハイティーン・ブギ」って、今でいう恋空だよな
>>461 このあいだ関西の深夜番組で不良の成り立ちをやっていて面白かったw
番長(グループ)→ヤンキー(横須賀発症・関東方面)→つっぱり→ヤンキー(全国制覇)
だったかな??
嘉門たつおの歌が全国制覇に一役買ったとか買わないとか。
そういえば昭和の不良は学ランだったねー。丈が長いのから短いの、ズボンの幅もすごかった。
学ランの下は紫か赤のハイネックシャツだった。あと、眉毛がなかったりもした。
あのころの悪い奴ってのは見た目がとてもわかりやすくてよかったw
465 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/26(月) 20:19:31 ID:o/YaIooT
坊主強制の中学だと眉毛剃りとソリコミくらいしかやる事が無いんだよなw
学ランの内側には竜虎の刺繍いれて
ボンタンはいて
カバンは寝押し
北海道だが、昭和50年代後半の高校時代に特ナガというのが流行った。
膝下まであるゴム長靴。それにエアフォースジャケットと呼ばれるモノを組み合わせて。
長靴はブランドとしては、第一ゴム製よりもミツウマゴム製。
思い返すと、何であんな履き物で街中を歩けたか、恥ずかしくなる。
ちなみに、スノトレを履くのは中学生くらいまでで、大人が履いてると笑われました。
468 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 08:37:19 ID:loRejfWb
それは不良っていうより北海道ってロケーションも相まって屯田兵みたいだなw
469 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 09:56:08 ID:8A4nX6hr
携帯なんて無かったから
彼女や友達と話すには必ず親を通してた
今思えばそれが良かったのかな
言葉を選んだり敬語の勉強にもなった
今は初対面でも即タメ口なんて当り前の世の中
更に文化は発展し便利になり
低能やマナー違反が増殖するんだろうな
・近所の橋が戦前に作られた木製の橋で所々穴が空いていた
・おやつに蕎麦粉を練って食べていた
・1日10円の小遣いで事足りた
・舗装路なんかなく砂利道で通る車はオート三輪が主流だった
・木炭バスも走っていた記憶がある
・信号がなくて大きな交差点には警察官が誘導してたかな
・空き地で穴掘って遊んでたら焼夷弾が出てきた事がある
・幼稚園頃テレビが白黒だった気がする
471 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 10:17:48 ID:YBy36cLZ
シートベルト,チャイルドシートなしで車乗ってた
470ってお幾つなんでしょうか?
473 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 15:23:46 ID:Dy98ubi5
>>469 > 今思えばそれが良かったのかな
> 言葉を選んだり敬語の勉強にもなった
まったくそのとおり。
特に異性のところへかけようと思えば、
(クラスや部活の連絡なんかでね)
きちんと話さないと取り次いでくれない親もいたから、
どうしたって、ちゃんとした口のききかたをおぼえたよね。
470氏にならって、自分の子供時代を思い出してみると……
・公園のすべり台が木製だった。時々ささくれが刺さる
・おやつに片栗粉を練って食べていた
・1日10円の小遣いで事足りた(おなじ)
・舗装路は幹線だけで多くは砂利道だったし、荷馬車が通っていたりした
・車掌さんのいる路線バスに乗ったことがある
・大きな交差点で警察官が誘導しているのは何度も見た
・遊び場は防空壕で近所に3箇所あった(うち1箇所は健在)
・幼稚園頃まで家にテレビがなかったけど、めずらしいことではなかった
ちなみに東京オリンピック以降大阪万博以前の生まれ。
474 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 15:28:33 ID:am/zVl2B
そうやな、
やっぱり一番考えられなかったのは
携帯とパソコン、につきるな。
475 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 15:30:14 ID:c0TL5xPH
175あれば大男の扱いじゃなかった?
476 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 15:41:12 ID:fzFREdP2
>>470 俺もそう思った。
東京オリンピックの頃の話みたいだな。
477 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 15:52:39 ID:fzFREdP2
478 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 16:05:38 ID:Sp2fAOwx
電話交換手に繋いでもらって婆ちゃんと会話した
479 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 16:24:42 ID:loRejfWb
スゲエな、ひょっとして受話器がラッパ状になってて手回しハンドルみたいのクルクル回す奴?
昭和生まれだけどドラマでしか見た事ねえわ
1970年前後のお話
大戦末期中国大陸引き揚げ組の疎開地域だったから都市開発がすごく遅れてたようで
80年頃にやっと舗装路や木製の橋が鉄筋に架け替えられた
信号やアスファルトなんて80年頃になるまで見たことなかったな
真似してみようー
・公園のすべり台が鉄製で舐めると血の味がした
・おやつに小麦粉でホットケーキやお好み焼き(時々)
・1日30円の小遣いで何とか足りた
・舗装路が多いが奥の道は砂利道、オート三輪見るとラッキー。
・路線バスはワンマン、電車には汽車便器健在。用を足すとき下見るとスリル満点。
・遊び場は近所の寺、庭のビワや柿は盗み食いしたことない。飢えてませんでした。
・幼稚園頃まで白黒だったけど我が家だけで近所はカラーが主流だったらしい。
・祭りには見世物小屋と傷痍軍人、でも6歳ぐらいからあまり見かけなくなった気がする。
ちなみにメキシコオリンピックの年生まれ(東京の次)大阪万博は2歳ぐらい?
滑り台どころか最近は公園に遊具自体ないんだよな。
学校もか。
俺の場合、
・アポロ11号の月面着陸を生で見た。
(ちなみに深夜だったはず、両親は寝てた俺をわざわざ起こして見せてくれた。
但し、画質がボヤけてボンヤリとしか写らなかったことを覚えてる)
・大阪万博行って、帰り道、あまりの人の多さにゲートから出るだけで、
2時間もかかった。おまけに父親とはぐれて大騒ぎになった)
・浅間山荘事件も生で見た。
(のんびりアニメを見てたら、突然、全ての局の番組が次々と終了して、どのチャンネル回しても、
浅間山荘からの中継番組に変わっていったことに驚いた)
当方、東京オリンピックの翌年生まれ、大阪万博の時は4歳ぐらい。
>>482 最近の公園は高齢者のストレッチ用具が置いてあるからな。
浅間山荘は自分も生で見た。
当時我が家は自営で工場をやっていたが、従業員も両親も半日仕事せずにTVの前w
自分もちょうど学校から帰ってきたところで見始めて、そのままずっと。
いつもはさぼるとめっちゃ怒られるそろばん塾に行かなくてもその日だけは何も言われなかった。
・・・・・そろばん塾に毎日通っていたんだよな。憂鬱だった。
学童保育なんてものがなかったから、自営の家の子供にとってはその代わりのようなものだったのかもしれない。
路線バスは記憶にある最初の頃は車掌さんがいた。手を振ると停まってくれて、乗ると切符を売りにきた。
バスの中にさえ灰皿があって、ふつうにおっさんが煙草を吸っていた。
>>485 そろばん毎日ってすごいね。
そろばんと書道通ってたけど、どっちも生徒の待合室みたいのがあって、古本屋から流れてきたような漫画雑誌がたくさんあった。
町内の公園なんだが俺が小学生の頃に遊んだ遊具がまだある
コンクリート製の大きな滑り台・・ていうか遊具というにはややデカいか
かれこれ40年以上前からずーっとある
ある意味偉大だw
公園という概念があんまりなくて
近所の寺の境内に鉄棒とか滑り台とかブランコがあった
だいたいどの町内の寺の境内にもあった
都会には公園ってのがあるらしいよ、って感じだった
夏休みはお盆以外毎日ラジオ体操→そろばんだった
今考えると朝7時に毎日教室空けてた先生も大変だったんだなぁ
流行は繰り返す、というけれど、
またそのうちヤンキー女子は長いスカートをはくようになるのか。
ボンナイフの刃が武器になるのか。
昭和の頃はファミレスにちょっと高級感があった気がする
こじゃれたレストランなんてない田舎ものだったので、
車で20分のところにできたすかいらーくに家族で行くのに
ワクワクしたもんだった
すかいらーくなくなっちゃうんだなあ…
ポン菓子屋さんが屋台みたいな機械の車で近所のお宮(神社)にやってきて
お米持って行くとポン菓子作ってくれてた
ぬくぬくでんまかった
>>489 最近スカート丈の長いヤンキー女?を見かけるようになったよ
>>490 ファミレスが初めて近所にできた頃
入り口で靴を脱いで入ろうとするおばあちゃんとかいたな
時代だよね
>>491 おー懐かしい
すんげー旨かった
最近めっきりみないよな
そういや集会所で葬式があったら葬儀屋が○○さんの葬式です家の人に声かけてねーって
近所の子供にビスコくれたっけ(それ以前は鬼おこしだったかな?)
で、ビスコ持って帰ったらおかんが誰の葬式?って聞いてきて
知ってる人なら葬式いってたな
あれも電話が普及してない時代に子供の機動力を生かした情報伝達だよな
これも最近みかけないな…
大阪の話(他府県はこういうのないのかな?)
葬式は自宅で、がデフォだったよ。
回覧板か、「言い継ぎ」の人(たぶん隣組の組長さんかなんか)が「だれそれさんが亡くなったのでよろしく」みたいなこといいに来て
自分たちの組ならおかんが割烹着持って手伝いにいってた。よその組の付き合いのある人ならお焼香にいっていた。
葬式出すうちは遺族は基本働いちゃダメで、家の中の片づけから接待準備片付けその他まで全部隣組の主婦たちがやった。
唯一例外はそこんちに「嫁入り前の娘さん」がいるとき。
そこで働きぶりを見せないといい話がもらえない、とか言って。座るのは葬儀の間だけ、みたいな。
でも実際主婦になったら今度は手伝う側に回るから経験しておけってことでもあったかもしれない。
今はそんな実家の周辺でも、自宅葬儀を嫌って斎場とかを使う人が増えたらしい。
家を新築するにあたって南側にぶち抜きの和室を作れ(仏事用に)といって譲らなかったようなじじばばが、
いざ自分があの世に、って段になって、かつての葬儀のてんやわんやを思い出して「斎場でやってくれ」と言ったりしてるらしい。
なんなんだ。
洗濯機が1層式でハンドルで回すローラー式脱水機?付
脱水ローラーがすぐ壊れるウワァァヽ(`Д´)ノァァァン!!
>>491 爆裂種という、専用のトウモロコシで作ると、映画館で売ってるような、形の崩れたポップコーンができる。
普通のトウモロコシを乾燥させたものを、ポン菓子の機械にかけると、トウモロコシの粒をそのまんま大きく
したポップコーンができる。
服全部脱いでタオルで前かくして近所の銭湯に走ってくるおっさん
見なくなったな
>>493 隣組がとくに強くなくても葬式・お祭・運動会の炊き出しは近所の
奥さん大集合。平成になってからあっというまに廃れた。
>>498 そういえば小学校の運動会なんて地域の祭りと同義だったなw
応援席で近所のおっちゃんたちが酒盛りしてたり、なんか屋台が出てたりもした。
確か町内会対抗つなひきみたいな出し物もあったんじゃないのかな。
ゆでだこになったおっちゃんがねじり鉢巻で綱引っ張ってた記憶がある。
参加賞の文具一式は今も配られるんだろうか。学校名入りのえんぴつとノート、あといろがみとかさ。
そうだ、それよりあのころ運動会は「紅白まんじゅう」が出たじゃないか!あれは今もあるのか?
500 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/30(金) 21:28:29 ID:bdc81Twe
だからと言って、一挙一動作が町内に筒抜けになる「放送局」おばさんがいる世の中に逆戻りしたいか?
子供の頃はそういうおばさん普通にいたし、別にいたってかまわないな
自分がやりたくて仕方ないんでしょ
そういうおばさんの存在が気にならなかったのは
ひとえに自分達が子供だったからな訳で
504 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/31(土) 07:20:29 ID:YO4ie08O
姪や甥と遊んでいて「ああ、今の子だなあ」と思うのは、
携帯やデジカメで写真を撮ってやると「見せて、見せて」と寄ってくること。
おっちゃんが子供のころにはなかった感覚だぞ、それ。
ふと思い出したのは、2ドアの車って、普通にファミリーカーとして走っていたなぁ・・・ってこと。
ステーションワゴンとか1ボックスとか乗ってると「商売ですか?」て感じ。
バブル時期にはペッタンコのクーペやオープンカーが月3000台以上
売れたりしてたけど、レガシィワゴンが売れ、次にオデッセイが売れてからだね、
4ドアセダン共々廃れたの。
>>505 あったな
助手席を倒して奥にもぐり込むためジジババ乗せるのがやたら面倒だった
カローラ、サニーとかでも4ドアセダンあったのに2ドアは安くて
いくらか格好よく見えたんだろうな。やや貧乏臭いのがまたいいw
軽の2ドアハードトップなんてのもあったくらいだしw
あとワゴンなんて当時は少なくライトバンばかりだったな
ワゴンは「カリフォルニアで人気」と宣伝されたらコロっとみんなの評価が変わった
側面に木目の模様がついてる車があったね
509 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/01(日) 09:39:12 ID:8m5iMcGy
>>508 あったなあ。
なんだったんだろう、あれは。
テレビが家具とゆうより家の一部で木目どころか箪笥や柱と同化してた
テレビみる前に観音開きの扉を開けるの、まるで仏壇みたいに
今は仏壇もないのかな
「自家用車」と書かれてる車も
まず見なくなったね
車のクラクションの
プップププップッ! プップッ!
と鳴らす人も、居なくなったね。
子供の頃、道端でローセキで、ウルトラマンの絵を描いていたら、
よくそんなクラクションを鳴らされて、道を譲ったよ。
>>512 最近路地で遊ぶ子供みないな
けんけんぱもゴム飛びも道路遊びって壊滅?
木目調サイドデカールの元祖はジープグランドワゴニア等のアメリカ製ステーションワゴン。
国産だと、サニーカリフォルニア、Y31型セドリック/グロリアワゴン、ホンダシビックカントリー、
このあたりかな。みんなあくまでデカール処理。この頃の日本人って、アメリカ並みに
フェイク好きな人種だったのかな?と考えてしまう。
本気でボディにウッド張ったのはミニカントリーマンただ一車種だと思う。
広島市では、バ科学者のディズニーランドABCCが木目ワゴンだったので、木目ワゴン大嫌い族が多いそうだ。
>>508 昨日パチ屋の駐車場に止めてあったよ
20年ぐらいは乗ってそうな感じ
カクカクしたデザインがまた懐かしかった
517 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/02(月) 12:31:26 ID:jIrqpXuP
今世紀生まれである姪や甥がレコードをとてもおもしろがる。
かける前の儀式(スプレーして拭いて)からして興味津々って感じ。
で、回ってるところが見えるのもたのしいらしい。
うちに遊びに来ると「お歌聴くの、お歌」って。
俺たちがガキのころに聞いてた童謡のレコード、
死んだ親父が残しておいてくれてほんとうによかった。
ああ、ゴメンなあ。アンパンマンはねえや。
プリキュア?それもない。
アンパンマンは古いから、7インチシングルは中古で売ってそう。
連続すまん。
>>490にレスしようと思って忘れてた。
自分も初めて行ったファミレスがすかいらーくだったな(埼玉)。自分の誕生日に家族4人で自転車でw行った。
30年ぐらい前の話だから、まだまだファミレス黎明期だったのかな?
それほど貧しい家庭ではなかったけど、ファミレスに高級感は確かにあった。
ファミレスは高級、というイメージだったが
反対に初期のコンビニって生活臭ぷんぷんで、缶詰や乾物がやたら多く
あとは日用品ばかりで菓子やジュース類は隅っこに追いやられてた
うちはロイホが多い地域だったのでファミレス=ロイホだった
卒園式とかイベントのあと、母とお昼食べたりパフェ食べたりしてたな
当時メニューのクラブハウスサンドが美味しそうだったのを覚えてる
ロイホ行きたい
>>518 うちにアンパンマンのマーチと勇気りんりん入ったEPあるから
ネット中古品名探せばまだまだ入手できんじゃないかな?
昔のアニメ、特撮関連やおよげたいやきくんなどポンキッキ関連と
ピンポンパンやお母さんといっしょ関連
あと学年誌の付録類でソノシートなんかも大量にあるわ
>>519 自分も埼玉で、初めてのファミレスはやっぱりすかいらーくだった
歩いて5分の距離にあった、というかできたんだよね
30年ぐらい前で当時は幼稚園生だった
子供だったし、ファミレスがまだそんなに無かった時代だったからかもしれないけど
何か特別な感じがしてた
今の子は何も感じないんだろうね
うち(福岡)は初めてのファミレスはロイヤルだった(ロイホの親会社ね)。
いわゆるファミレスなんてなかった頃から
小さい子も含めた家族で行ける数少ない店のひとつだった。
デザートには本物のメロンやオレンジの皮に詰めたシャーベットが定番。
空港内の支店はセルフサービス式で
それがまたすごく新しい感じでかっこよかったんだよね。
うち(福岡)はぐるっぺだった
隣にくるくる寿司があった
どっちも潰れた
>>518,522
そっかぁ。
さがしてみるかなあ。
527 :
526:2009/11/02(月) 17:46:21 ID:D8myBABp
スマン「俺も」って入れるの忘れた。
これじゃ俺が517みたいだな。スマンよ。
いや、うちにもプレーヤーがあってさ、やっぱり親戚のチビがよろこぶんだ。
童謡はないんだが「フランダースの犬」とかあるから聞かせてやってる。
「アクマイザー3」はウケなかった。
>>519 >>523 >>490だけどうちも埼玉だよw
外食といえば、うどんかラーメン、うなぎか寿司くらいの
選択肢しかなかったから、ファミレスの広くて綺麗な店内と
目新しいメニューは子供心にうれしかったな
当時まだ珍しかったパパイヤ、マンゴーがメニューにあって、父が毎回
食べていたのがすごく印象に残っている
>>517 そういえば子供の頃、針を置くのをやりたがってたわ
小さい子供だからうまくできないんだけど「自分でやってる感」があって楽しいんだよね
ずいぶん前に親がステレオや蓄音機(これは祖父の持ち物)ごと処分してしまったようだけど
沢山あったのにもったいない
レコードは意外にも新品を売ってるんだよな。数は少ないけど。
中古を探すなら、リサイクル/ジャンク系ショップに山ほどおいてある。
ハードオフは狙い目。
プレーヤー本体も、昔とそう変わらない値段で、針も国産で手頃なものが手に入る。
ついでに、交換針で有名だったナガオカも、「倒産する前に
会社やめた方がいいって」判断して一回解散したあと、経営者や事業形態を
変えながら当時の在庫を引き継ぎ細々とやってる。
http://www.nagaokatrd.co.jp/
>>524 話はズレるけど、福岡でロイホに行った時、入り口で
「お食事ですか? 焼き肉ですか?」と聞かれて、驚いた。
本場のロイホは、焼き肉コーナーもあるのね。
クラムチャウダー食いたい。
子供の頃の実家の車が、その木目入りステーションワゴンだった。
昔はシートベルトもへったくれもなかったから、
子供は後ろの荷台に乗ってごろごろしたりトランプやったりしてた。
飽きると、リアウィンドウに張り付いて変顔したりタコ踊りを踊ったりして、後続の車の運転手を笑わせたりとか。
高速でそんなことやってたから今考えると超あぶねーんだが。
後続車にちょっかい出すの、やったなあ
助手席に同年代の子供がいると、変顔合戦とかあっち向いてホイとかな
今の子はそんなことしないしお行儀がいいよねえ
>543
1.チャイルドシートかジュニアシート+シートベルトで縛りつけ
2.PSPかニンテンドーの虜
3.DVDでディズニーとか見てる
たまに無邪気なのがいて和むけど。
未来レスしちまった。>534だわ。
>>527 アクマイザー、格好いい歌詞なのに。・゚・(ノД`)・゚・。
うちはプレーヤーがないので(当然、レコードもない)
たまに遊びに来る甥姪のために「子供のためのクラシック」みたいなCDを買った。
「クシコス・ポスト」とか「ラッパ吹きの休日」とか入ってるから、
「うんどうかいだ〜!」ってよろこんでくれる。
あの手の選曲には昭和も平成もないなあ、と思ったり。
この曲な。
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4555425 これの6分27秒あたりから。
そういや運動会の音楽って変わらないね。
541 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/05(木) 10:10:25 ID:8tJFUur0
俺の周りだけかもしれないけど、
店にある自動ドアが、片方からしか開かないタイプがけっこうあった。
だからスーパーなんか入り口と出口が完全に別れていてさ。
町中にむき出しのドブがあってボールとか
落とすと泣けてくる。よく見たらウジ虫とかいたし。
>>531 福岡のロイホでは今でも焼肉をやってるんだ
昭和50年前後、小倉のロイホに家族で行って焼肉を食べるのがたまの楽しみだった
こないだ帰ったら釣り具店になってたけど
544 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/06(金) 12:58:35 ID:a9BUkuLv
>>540 小学校の教師をやっている友人から聞いたんだが、
代わり映えしないのはどうかって声があって、別のいろんな曲にしたら、
父兄から「あのチャチャチャーン、チャチャチャーンって曲はやめたんですか」って、
残念そうに聞かれたんで元に戻したそうだ。
自分で撮ったビデオを見るときに、BGMに「運動会らしさ」がほしいんだって。
まあ、たいていの学校では惰性で使っているだけなんだろうけど。
80年代にはYMOなんかをかけてたと聞いて時代は変わったと思ってたが、また戻ってるのか?
うちの小学校ではクシコスポストや天国と地獄に混じって「太陽にほえろ」のサントラがかかってた
547 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/07(土) 07:46:59 ID:piXTKsbS
>>545 なにも定番曲ばかりかけてるわけじゃないでしょ?
あいだにはさむ曲は世につれ人につれだと思うよ。
そのうえで、絶対不動の定番というものがドーンとあるだけ。
今だと宮崎アニメの曲なんか多いだろうね。
一時期運動会は平日にやってメシも給食、の流れがあった
今は父兄と校庭で弁当に戻ってるんだろうか
549 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/07(土) 15:01:50 ID:nqxD2wS4
運動会ネタは、それはそれで続けてもらうとして。
女は運転がヘタ、というのは今も昔も変わらない評価だが、
オートマ限定免許ではないけれどオートマしか運転できない姉にくらべると、
母はマニュアルでも運転できるので、ずいぶん上手いほうだなと思ってしまう。
いやまあ、母がふだん乗ってるのもATなんだけど、
父の車がMTで、そっちを運転することもあるからね。
姉貴は「え〜、私、お父さんの車運転できな〜い」ときたもんだ。
子供の頃、
父はATのクラウンに乗っていた
母はMTのライトバンに乗っていた(自営なので)
なのでAT車は高級車、MT車は大衆車だと思い込んでいた
(ATの方がテレビに出てくる未来の乗り物っぽいし)
うちも父がATのクラウン
母がMTのバンだったw
自営じゃないけど大家族だったから
ちなみに、父方の家系(男多め)は皆運転が下手(というかまるきり興味なし)
母方は皆運転大好き運転上手だったから
男は女に運転を任せるものみたいなイメージがながらくあった
そう、クルマでAT車はやや高級なイメージあったな
貧乏人はマニュアルでセコセコ走って、
AT車持ちはイージードライブといった感じか
しかし当時のATは安グルマだと2速しかなく、
ただ楽チンなだけだった
あ、ホンダは作りがちょっと違ったかもな
バイクのナナハンにもATがあったくらいだし
そう言えば昔は配達中の車はシートベルトをしなくてよくて、母は車に「配達中」のプレートを常に貼っていた
あとライトバンの後部座席を倒して下校途中の子供を大量輸送したりもしてた
(今はよその子供を車に乗せたりしたら、例え近所の子でも通報されかねない)
初めてパワーウィンドウの車に乗せてもらったときはテンション上がった。
免許はMTで取ったけど車は全部ATで、子供を乗せても親の車よりランクが低いので全く驚いてくれないのが寂しい。
ナビもDVDも俺の脳内にしかないんだよ(´・ω・`)
数年前までマニュアル率が50%近かったスバルも今はAT主流、
MT車選ぶには、軽乗用は一番安いグレード、普通車はお高い
ターボ付きのグレードを選ぶ必要が出てきた。
そのほかのメーカーはそもそもMT選ばしてくれなかったりするので、
自分みたいな、免許貰ってからMT車限定で所有してきた人間には買いづらいな。
AT普及率97パーセントだっけ?
トラックですらAT、もしくは電子制御のセミAT導入の方向だからねぇ。
現代の「ATかCVTか、SST(セミAT)か?」って選択肢、以前は考えたこと無かったわ。
エアコン/パワステ/パワーウィンドウが軽に至るまで
当たり前になるのはバブル絶頂の90年付近の頃、
この頃までの車の10年てものすごく差があるから、
人間の年式次第で、「隔世の感」を感じた人は結構いるはず。
三角窓知っている人は特に。
免許を取ったのが20年以上前で、俺含めて周りは、まだ
親の車を乗ってる人間ばかりだった。
俺の家はカローラで、友人はローレル。そのローレルは
ギアはハンドルについてたコラムシフトだった。
よく「タクシーみたいだな。駅まで行ってよ、運ちゃん」
と言ってたわ。
あと、ミッションの車なのに、ギアチェンジをスムーズに
運転して、オートマっぽい感じで走行するのが、
俺らの間で流行ったよ。
昔はコラムシフトの方が高級だと思われてたから、無理してコラムシフト搭載した中級車とか多かったよな、
「リモコンシフト」とか言ってw
558 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 03:39:13 ID:ZSvnczO5
あんま様にならないよなコラムって
ワンボックスだとサイドブレーキが引っ張って回すタイプだった
559 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 06:20:13 ID:zjQva72B
かつては2ストエンジンの車もあった、と言っても若いやつは信じないかもしれないな。
560 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 07:17:45 ID:NEMXKv74
561 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 08:44:14 ID:ZSvnczO5
バイクみたいな音で速そうな感じだけど全然加速して無いんだよな
うるせーだけ
562 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 09:05:27 ID:+Ol6ggiC
アルトも2ストだったね。
当時は「安いんだ、こんなもんだろう」と思ってたけど、
もういっぺん乗れといわれれば、たぶん無理。
2スト軽は常に白い煙を吹いていたな
後ろにピッタリくっついて走ると、こちらの
フロントガラスにオイルの霧がうっすらとw
>>563 ホンダのMVXの後ろを走っていて白のパーカーが
パンダみたいになったおいらが通ります
>>558 117クーペはコラムじゃなかったけど
サイドブレーキはそのタイプだった
DOHCの癖にとにかく遅かった
クーペというと大久保清を思い出すね
567 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 16:14:29 ID:ARy8xPsB
>>566 あの事件、俺は小学校に上がる前のことなんだが、
それでも3年生のときにおなじクラスになった大久保君のあだ名は「きよし」だったなあ。
くわしいことは知らなくても、なんかヤバいやつの名前なんだってことはわかってた。
もっとも、すぐに担任からやめるように言われたんだけどね。
浅間山荘事件もおぼろげながら覚えている。
まあ、これはあたりまえで、あれしかやってなかったからな、テレビ。
今調べたら、突入って1972年2月28日だったんだな。妹の1歳の誕生日だ。
568 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 17:56:28 ID:VqVOjySI
「無鉛入れましょう」と車のガラスにステッカーが貼られていた。
水色に白い字で無鉛って書いてあるシール貼ってあったね。
いつの間にかなくなった。
つい二日前、仕事場にセドリックの初代!がきた。
持ち主の若い人が、2眼レフ風トイカメラで自分の車の写真撮ってたよ。
117クーペは、通称「ハンドメイド」が来る。
両方とも「有鉛ガソリンに限る」の赤いステッカーが貼ってある。
ヒルマンミンクスも現役で居るな。
自分はセカンドカーとしてキヤリイ(ST30型の2サイクルの奴)を
2年ほど所有してたけど、車好きの自分としてはとっても新鮮だった。
もう、音が楽しくて・・・。
それと同時に、運転手一人+手荷物が短距離移動する手段としては、
高速道路も含めてこれで十分だと言うことも思い知った。
特に渋滞多い町中は、28馬力+4速ギヤで十分過ぎる。
「有鉛」「無鉛」シールから連想で思い出したが、
人工甘味料の発がん性が騒がれてチクロやサッカリンが使用禁止になった頃、
三ツ矢サイダーとかジュース類の瓶に「全糖」ってシール貼られてた時期があったよな。
洗剤にはデカデカと「無りん」と書いてあった。ヘタすりゃ商品名よりデカいくらい。
「高速有鉛」っていうオレンジのシールもあったな。
あと緑色の「混合」シールも。
574 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 15:32:21 ID:ufSRU/Ia
>>572 あれっそういやここ20年ぐらい見た記憶がない
いつの間に消えた・・・?
575 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 15:50:42 ID:aexorsQ6
>>574 石鹸のように汚れを包んで落とす→酵素で汚れそのものを分解する
になったからじゃないの?
あー酵素パワーか
時代は変わるものだのう
最近はオレンジの皮から洗剤が〜云々だね
みかんの皮で風呂磨くとピカピカみたいな話は昔からあった気がするけど
>>564 MVXなつかしい
ペリカンロードですな
578 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 19:02:49 ID:8jH5atqf
俺は昭和55年生まれで昭和末期しか分からんが
昔のジュースって250mlが主流だったよね(細いやつ)
おまけにフタも今みたいにくっついたまま飲めなくて切り離れてた
あのフタを手遊びして手を切った事もあった
子供の時飲んでたメローイエローとかまた飲んでみたい
>>578 プルタブ切り取る前には
小さな缶切りであけるトマトジュースがあって(ry
ドブで幼女が股広げて小便してた時代だった。
581 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 19:16:43 ID:tV6RGKq6
>>578 丸っこい瓶のジュース世代です
ビール瓶や1gコーラの瓶は酒屋でお金に替えてもらえたけど
丸いのは駄目だったような
そういえば初めて午後ティーミルク(250_缶)を飲んだ時はうますぎて感動した
メローイエローとかアンバサとか、たまに復刻版で出てるよね。
メローイエローだったかなぁ、千葉の柏辺りには売ってるとか、一時期噂になったw
583 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 19:31:56 ID:y1w+aPhJ
スーパーカーブームというものがあったわけだけど、
そもそも「王冠を集める」というのが今じゃ考えられないわなあ。
いまだに「フェラーリといえば512ベルリネッタボクサー」と思ってしまう。
584 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 21:32:45 ID:xabEv0lR
>>579 そんなのがあったのか知らなかった
>>581 子供の頃サイダーは瓶だったな〜
近所の酒屋から定期的に親が買ってたわ
そういや昔は野球の中継でランナー表示がなかったよね
いつから出すようになったんだろう
プラッシー
ミリンダ
マミー
7アップ
オガライト
小学校途中まで給食はビンの牛乳で
キャップをきれいにはがすのにこだわってた
集めるのもはやってた
なんか色々な絵柄のキャップが出回ってて(コレクション用?)
今思うと切手集めと同じようにわりと芸術的でおもしろかった
587 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 22:07:06 ID:CXb+/ItV
コレクション用の王冠は曲がらないように10円玉をあてて開けてたな。
回転させながら均等に広げて。
588 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/09(月) 22:10:28 ID:fG77htYd
洗濯用洗剤の箱がでかかった。
兄ちゃんが王冠を金槌で叩いてペッちゃんこにしたのを
学校の裏にある神社のおみくじ販売機(一回10円)にぶち込んで壊した。
バレて先生に怒られてた。
>584
缶入り飲料は全部それだったよ、ジュースもビールも。
あれは小さい穴しか開けられないから飲む穴の他に空気穴を反対側に開けないと飲めなかった。
>>584 >そういや昔は野球の中継でランナー表示がなかった
今みたいに投手の後方からじゃなく、バックネット裏のカメラがメインだったから2塁ランナーは見えたしな。
字幕も黒い板に白字で手書きしたものを使っていたから点数とランナーの組み合わせ通りの数を用意しなければいけなくなる。
ランナーが次々とホームインする時は字幕が画面の前に倒れてくるように切り替わってた。
>>586 学校給食のビン入り牛乳は、昭和ならではではない。
自分の通ってた小中は平成だが牛乳はビンだった(コーヒー牛乳もヨーグルトも)。
>>583 > いまだに「フェラーリといえば512ベルリネッタボクサー」と思ってしまう。
同志発見。
594 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/10(火) 10:03:06 ID:8VzP+bXB
>>591 そうそう
CSなどで昔の野球の試合を見ると後ろから写してるね
後楽園の試合はリアルタイムで微かに残ってるわ
昭和の終わりとともに東京ドームに変わった感じだね
595 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/10(火) 10:10:17 ID:8VzP+bXB
千枚通しの太い奴(氷割る道具)で両端叩けば子供でもいけるんでないかね
>>595 だから、缶に小さな缶切りみたいなのが付属してるの。
缶きりっつーか「穴あけ」だわな、それこそ。
>>595 今でも練乳缶がそうだが、先のとがったパンチか、缶の縁に引っ掛けてレバー式に少しずつ切り開くタイプの缶切りの刃を深めに突いて開けてた。
缶切の柄にパンチのようなものが畳み込んである奴は今でも売ってるとおもう。
今は力を入れず簡単に開く食品パッケージがたくさんあるけど、
昭和の時代は大人の男でも開かないような丈夫すぎる袋や缶に
商品を入れていたな。
ビニール系は、文房具店でおいてあるような小さな
はさみは駄目で、「開けてください」表示に従っても
引っ張れば伸びるだけ、もしくは突然開いて
袋が崩壊、中身を床にばらまく。
醤油に袋とかでやると悲惨。
紙箱でも、ミシン目が丈夫で、隙間無く
べったりボンド付けで爪も立たない・・・。
600 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/10(火) 13:55:18 ID:WS/nRp5b
オイこそが 600へと〜
601 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/10(火) 14:02:17 ID:1qjyyZij
>>578 250缶はすごい昔からあるな。
昭和の末期に一時的に使われたのが300mlくらいの丸っこいガラス瓶。
>>598 練乳缶って今でもあるのか・・・
平成以降、チューブ入りのイメージしかなくなった。
>>599 結局、レトルトパックの安定性がイマイチだったから分厚くして安全を確保してたんだろう。
パックの品質が良くなって、薄くても保存性が確保出来るようになったから開きやすくなった。
>>595 子供の頃それらを自分で穴開けて飲んでたよ
トマトジュースとか
その缶に穴を開ける為だけの栓抜きならぬ穴あけは、もう絶滅したのかなぁ
十徳ナイフみたいにセットになってるやつならあるかもしれないけど
ビールの穴明けは幅15mm位で先が三角だったな。
さすがに ビールはちまちま飲むと美味くないしな。
そういや小学校の時 用務員が鶏の首ひねって〆てたなww
まだ だるまストーブで地下室からバケツでコークスを運んでた時代。
恐らく教員の飲み会の鍋の材料だろうけど今だったら新聞沙汰かな?
職員室のだるまストーブで鶏鍋・・・ おおらかな時代だった。
ちなみに小学校は田舎じゃなく 皇居のある区の区立小学校。
しかし鳥小屋の飼育係 カワイソス・・・・
>>583 フェラーリといえば308
フェラーリの女豹だ
ロータスヨーロッパが最速だと思ってた。
地方都市のベッドタウン住まいだったが、近所にペットとして鶏を飼っている家があり
雄鶏が毎朝ときを作っていた
しかしなぜかいつも7時過ぎにふた声三声鳴くだけのため、住民は普通に受け入れていた
(働くお父さんのほとんどが近くの地方都市へ通うというベッドタウンなので
通勤で朝が早く、朝7時には人間はとっくに起きてる)
今だったら速効で苦情が出そう
607 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/10(火) 19:56:54 ID:rgonphnc
市橋容疑者が確保されたか
>>605 あのマンガの影響もあったのかな
駄作もいいとこだったが
609 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 06:34:24 ID:CBh4bxv4
昭和の終わり頃だと思うが国産車にベンツマスクを付けるのが流行った事があったな
マークIIとかクラウンのフロントだけベンツ、ベンツのエンブレムだけっていうのも
パチモノ感全開でめちゃくちゃダサかった
>>609 軽の前面にミニクーパー風のグリルつけたのもあったな
マネクーパーと呼ばれ、たぶん今でもあるかも
昔はTVドラマやCMの影響で車を買う人が多かったよね。
代表的なのが「HONDA CITY」や「いすずジェミニ」に「日産レパード」。
俺の兄貴もCITYターボに乗ってたわ。
それとターボも今ではあまり見かけなくなったね。
ホンダッ♪ホンダッ♪ホンダッ♪
613 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 21:37:44 ID:tDWJFy1a
そういえば少し前の雑誌の記事で最近の若者に「オッサンの特徴は?」
って題目でアンケートをとった回答集が載っててその中に
「あぶないデカの影響を受けている」ってのがあって心が苦しくなった…
けど俺まだ32だぞ
614 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 21:56:25 ID:CBh4bxv4
あぶデカをよく知ってるよな、アレの影響っていうのがよくわからんけど
レパード乗ってるとか口癖が 関係無いねッ!だったりとか
615 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 22:37:19 ID:Vq0d5lxc
リンスってお湯で溶いて使ってたよね。
616 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 22:40:22 ID:q2VBCn3y
使ってた
617 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 22:56:37 ID:Vq0d5lxc
あれっていつの間に直接使うようになった?昭和56年ぐらいまでは母ちゃんや姉ちゃんと風呂入ってたからお湯で溶いてたと思うんやけど…
平成になった頃自分も色気づいて使いだした時には直接だった。
その間に何がおきた?
メリットのシェアの変化と何か関係ある?
618 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:08:24 ID:qIpyA7JH
お湯で溶いて使うリンスって、コンビリンスと、あともう一つあったなぁ。
(クリームリンスタイプで液が黄色い奴ね)
↑
コレ、けっこうお気に入りだったな(´・ω・`)
エメロン、メリット、恋コロン〜、シャワランあたりは溶かしてたような気がするが
なにぶん子供だったので記憶があいまい。
ティモテは直接つけてたよね?
今調べたら、フルーつぶのあれとティモテが昭和59年らしい。
>>618 ずばりそのまま資生堂のクリームリンスだと思う。
びっくりすることに、まだ売られてる。
621 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:33:14 ID:qIpyA7JH
>>620 情報サンクス(*^ー^)ノ
>びっくりすることに、まだ売られてる。
おぉ、根強い「固定ファン」がいるんだな。
(^o^)/ 香りがイイんだよね、このリンス。
622 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:35:30 ID:U6grcQA6
メリット・リジョイ・ティモテ このあたりだよね?お湯に溶かさなくなったのって。
平成元年が小1だったんだけど、
まだ小学校低学年はお湯に溶かしてた気がする…
623 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:40:47 ID:JaFwNy7c
赤い色の容器に入った透明の液体のシャンプーとリンスがあったけど
確かこのリンスはお湯に溶かして使ってたんだけど
名前が思い出せない・・・
624 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:45:41 ID:Vq0d5lxc
いろいろありがとう!
何で変わったんだろう?
何か合理的な理由があったんだろうか?その位の時期に多分全国的に溶くから塗る感じに変わった訳だけど、
何か不思議で凄くない 何千万人の人間の使い方が変わった訳だよね!
何となくだけど、チャンリンシャンが分岐点のような気がする
あれが出た頃とリンスをお湯に溶かさなくなった頃って一致しない?
626 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/11(水) 23:58:30 ID:CBh4bxv4
同じ時代を生きてたハズなのに少年時代マルコメ坊主だったから一切記憶に無いな
気にせず直接つけてた
シャンプーハット
>>625 一致しない
チャンリンシャン、つまりリンスインシャンプーは、リンス直塗りがはじまって数年後だ
ガキの頃、銭湯に行ったらトニックシャンプー派かメリット派しか
いなかったよ。トニックシャンプーって、頭でクールミントガムを
噛んでるみたいだった。目に入ると強烈に痛かったし。
リンスを水に溶く時代から直接つける過度期あたりに色気づきだした年代だけど
水に溶くリンスを若い女の子は直接髪に付ける子が多かった。
銭湯でも見たし友達と話してもそう。アイドルなんかでもそう言ってた子がいたような気がする。
当時はリンスの効能とかわからなくて、お湯に溶いてすすげば髪がサラサラになるなら
直接付ければもっとサラサラになるだろうという心理と、トリートメントとか
直に髪に付ける物が発売されてたから、トリートメント気分でもあった。
若い子向け雑誌にも「リンスをお湯に溶かして使うなんておばさんみたい」とか
「直接付けた方がリンスとトリートメント効果がある」とか言う子が多いと書いてあった。
で、その頃あたりから直接髪に付けるリンスが出始めた気がする。
「リンスを水に溶かさない若い子が多いので、リンスをそういう使い方にできるようにした」
みたいなのを当時どっかで読んだかテレビかなんかで聞いた気がするが
これは記憶違いかもしれない。
ちなみに昭和40年生まれ。
ということは、昭和54年生まれの自分が生まれた頃には直塗り第一世代がもう存在したということか
自分は髪が長かった所為もあるけど、中学入学前後ぐらいまで水に溶かしてた
直塗りが浸透するのに十数年かかってんだな
632 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/12(木) 19:36:57 ID:Cnl3ENXV
昭和と言ったらやっぱりファミコンだよね
今のゲームはグラフィック重視で内容が弱い気がする
ファミコンは熱中できたものだ
子供の頃は1時間までとか夜は禁止されてたな
夜、親がいないときはワクワクしたもんだ
なぜか夜やるファミコンは楽しいんだよ
銭湯といえば玉子シャンプーだろ!
たわけ者が
シャンプーかリンスのコマーシャルで
「天使の輪」ってのが出た頃から
リンスを直接髪の毛につけるようになったのでは?
635 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/12(木) 21:01:54 ID:y4r9jf0v
今日嫁にリンスお湯溶きでやって見て貰ったんだけど。
お湯溶きはワンプッシュで洗面器半分ぐらいのお湯で髪全体になじんでた。
直接ではいつものとおりだと二回プッシュ… もしかしてナチスか何かの陰謀か!?
>>630 横だけど・・・
よく覚えてるなあ・・・
同い年だけどリンスの変遷についてなんて全然覚えてないや・・・
記憶が上書きされてるというか・・・orz
ヘア・コンディショナーとか言い出した頃からじゃないかな?
朝シャンがブームになった1985年前後は、それを意識した商品も
結構出ていたな。花王ピュアとか資生堂モーニングフレッシュとか
恋コロン髪にもコロンヘアコロンシャンプーとか。
トリートメント、ってのが始めて出たのが何年ごろだったかな。
髪に栄養、ドレッサーしましょう♪、って歌うCMで、チューブ入りのを直につけて3分おいてすすぐ、みたいなの。
それが出るまでは直につけるタイプのリンスはなかったように思う。
原液直だと地肌に刺激が強すぎてフケがでやすくなるから
今でもシャンプーリンスは水で薄めてから使ってるな
玉子サンプーは使うと髪がガッシガシになる
>>639 昭和47〜48年ぐらい。アンルイスがCMやってたような。
気になるお年頃だったのでさっそく買って使ってみた。
>>638 朝シャンタオルなんつーのもあったな
吸水性が高いタオル
644 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/13(金) 11:46:16 ID:dl871K67
>>496 亀でごめん
帰りはやっぱ走って帰るの?w
正月は皆プリントゴッコが定番じゃった
今考えてみるとなんてアナログな機械・・・
646 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/13(金) 12:19:13 ID:OzFBDaYL
プリントゴッコは2008年に販売終了
昔は郵便番号なくてさ
郵便番号が導入されたとき番号入力欄が付いた年賀状を買ったとき番号自体がわからんかったな
7桁に改正されたときも同じ症状に陥った
>>645 いも版を機械にしました、みたいなノリだもんね。
今は生産してないんだっけ?
年賀状もそのうち「平成まではギリあったねー」と言われそうだ。
いも版テラナツカシスw
なんか昔は年賀状作るにもいちいち手間かかってたなあ
そのおかげで友達から貰うのも嬉しかったけど
650 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/13(金) 13:10:36 ID:XDhQgSde
ATMの機械がタッチパネル式ではなくボタン式だった。
いまでもサブインターフェイスとしてテンキーがよくついてるけど
横にならんだエレベーターみたいなボタン
651 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/13(金) 13:50:30 ID:zsUlUAnz
土曜の夜はみんな何見てた?
全員集合かカトちゃんケンちゃんごきげんテレビ
どこがくぎりが分かれるのかな?
昭和55年生まれですがカトケンです。全員集合はあまり記憶がありません
幼稚園〜小学校低学年までは全員集合
それ以降はひょうきん族
カトケン始まったのは小学校5年生ぐらいの時だったと思うけど
あまり見てなかった、というかその時間帯のテレビをあまり見なくなった
年齢は
>>651の5歳上
欽ちゃんのドンとやってみよう!だな…
土曜の夜は、親の居ぬ間に「ウィークエンダー」。
再現フィルムのHなシーンにハァハァしてた。
年賀状は小学校高学年から中学にかけて、友達と一緒に大晦日の夜に
自分らで配り回ったよ。近所ばっかりだったしね。
655 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/13(金) 17:29:09 ID:hSiz3vKt
正月に年賀状が来るのをワクワクしながら楽しみにしてたな
今は・・・・・
復刻版のサッポロビールとかアサヒビールが今でてるけど、
あれ飲んだときに、「子供の頃ビールは糞苦いと思ってたけど、本当に苦かったんじゃん!大人になって味覚が変わったのかと思ってたけど、実はビールの味が変わってたのかよw」
て思った
欽ドンはラジオのときのほうが好きだった。
香坂みゆきが可愛かった
欽ちゃんのドンといってみよう!
欽ちゃんのどこまでやるの?の、ご飯食べる順番当てる好きだった
大手が作る加工食品はまずかったが
それ以外の総菜は地場で作る手作りが多かった気がする。
お肉屋さんのおばちゃんが作ったコロッケとか、
お総菜屋さんのじいちゃんばあちゃんが
炊いた豆やひじきとか、今じゃ貴重。
(大手のは混ぜ物大杉。そら不味いわ。)
時間を選んでお店に特攻すると、はかりで量って
総菜を新聞紙やぺらぺらのザラ紙で包んで
作りたてを渡してくれるんだよな。
お勘定はザルに入ったお金w
包装の紙がめくれないってぺろっと指舐めてる人もいたしw
醤油や味噌も、お米屋さんとか酒屋さんで
タルの量り売りで売っているところがあったね。
桶とか瓶持って行って買うスタイル、ペットボトルが
開発された80年代にはほぼ無くなったと思う。
ウチの近所にあった、お肉屋さんのコロッケが
めちゃくちゃおいしかったわぁ。
その店はとっくに無くなったけど、今でも食べたいよ。
アチコチでコロッケを食べてみたけど、その店の味には叶わない。
しかし、子供の頃に食べたおいしい物って、大人に
なっても忘れないね。
クリスマスの時に食べた、不二屋のケーキはおいしかったなぁ。
学校帰りに赤ウインナーの串揚げ、ハムカツなんかを買い食い
ジャンプ130円(150円だったか)を毎週買ってサーキットの狼を愛読
20円でガチャガチャをまわしスーパーカー消しゴムを大量に集めたっけ
スーパーカー消しゴムはチョロQやミニカーと一緒に押し入れに眠ってる
エンコは車が故障して動かなくなること
ウィークエンダーは金曜の夜10時からじゃなかったか?
あれ「傷だらけの天使」の後番組なんだよな。
オタク向けじゃない、子供向けのアニメが
ゴールデンにいっぱいやっていた
赤毛のアンとかハイジとかコナンとかホームズレベルの
クオリティのアニメを普通に毎週テレビで見られてたのって
思えば結構幸せだったな
>>665 金曜10時は うわさのチャンネル じゃなかったっけ
>>666 あの頃は、ジブリの幹部連中がみんなテレビシリーズやってたし、まだ手塚治虫も
吉田竜夫も存命だったし、東映黎明期のスタッフもまだ現役バリバリだったので、
他人に幼稚だなんだと言われようが本当にアニメが面白かった。
…そういう方々がテレビから退いたり死去したりしたら、本当にがたっとレベルが落ちた。
>>666 ×普通に毎週テレビで見られてたのって
○普通に毎日テレビで見られてたのって
こうだと思うぞ。
>>665>>667 wikiで調べたら「うわさのチャンネル」が金曜。「ウイークエンダー」は
土曜だった。
昔はふつうに土曜日は仕事が(学校も)あったから、ウィークエンドってのは土曜日のことだったんだよな。
花金とかいって週休二日が多数派になって金曜日に浮かれるようになったのは昭和の終わりごろのことだ。
ちゃっちゃらっちゃちゃっちゃ〜
えー新聞によりますとー
>>666 朝と夕方の再放送もな…
ルパン三世、タイムボカンシリーズ、キャンディキャンディ、魔女っ子ものは夕方の定番
みなしごハッチ、名作物は朝の定番だった。
テレ東じゃ平成の最初の頃までドカベンの再放送をゴールデンでやってたっけ
>>672 クインシージョーンズ 鬼警部アイアンサイドのテーマ
懐かしす
同級生だった男子が再現ドラマに出てたことがあるw
あ、ウイークエンダーのことっす>675
>>673 そういえば在京局では平日の夕方に子供向けの再放送しなくなったね
(U局は結構やってるけど)
なんで夕方が子供空白地帯になってるんだろう。不思議。
>>677 ・少子化&塾通い等で夕方5時に子供がいない
・その時間は専業主婦がTVを見ている
・大事件等が起きると、昼のワイドショーの後は夜(22:00以降)まで
報道できず、タイムラグが大きすぎる
等が民放の言い分
今もう子供向けのアニメは日曜の朝が中心だよね。
大きいお友達向けには深夜に放送してるけど。
>>678 …で、NHKが「ぜんまいざむらい」放送してる時間に「北朝鮮脱北者強制売春の実態」
等と流して、真実を見つめるジャーナリスト気取りの犬の糞どもの鼻の穴にドングリを
しこたま詰め込んでやりたい気分になった。
ローカル局の番組見てると、よその家のホームビデオ見てるような気分になるよ。
681 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/14(土) 21:33:55 ID:uhQVpvgB
北斗の拳で人体が破裂したり土曜のゴールデンタイムにともだちんことか今では無理だろうな
貧困が云々言ってる世相じゃリアルびんぼっちゃまが実際にいそうだし
当時、子供に悪影響が云々がなり立ててたヒステリックなババアの団体が何故かセイント星矢を手放しで絶賛してたな、あいつらの基準はよくわからん
ちび黒サンボが差別だって時代もありました。
単なる言葉狩りじゃん。
「そんなにぐるぐる回したらバターになっちゃう」くらいの
冗談は言わせてくれって感じ。
>>682 ジャングル黒べえは復権かなわず、無かった事にされたままです
内容ではなく、表面であげつらうんだよな、そういうの。
肌が黒いからって何なんだ?松崎しげるなんか死刑物の大罪じゃないかw
>681
北斗の拳もセイントも、一応仲間の力を借りつつ悪を倒す話に
代わりはないんだけど、セイントの方が血が飛び散らない、
美男子揃いで絵ズラが綺麗、ストーリーが少女漫画チックで当時の腐女子に
大人気だったこと、が考えられる。
早い話、見た目よ見た目。
力石の葬儀に行った事は嫁にも内緒にしてる
>>685 ええっ!?実際に行った人が居たとは!
その時の事をkwsk。
>>683 でもカラオケには主題歌あるんだよねw>ジャングル黒べえ
ウラウラタンタンウラウラタンタンウラー!てやつ?
あるのか
歌えるのか
てか小学校のとき、朝の縄跳びの時間の曲が
ジャングルくろべえだった
ジャングル黒べえは原作漫画が
復刻されるよー
>>685 嫁さんが出かけてても不思議はないがw
「北斗の拳」でレイが死んだ回の週、担任の女性教諭が喪服で出勤してたって話を
アウトかファンロードで読んだ覚えがあるw
>>683 …よく見るとあのキャラ、確かに藤子の考えそうな意匠じゃなくて、「未来少年コナン」
や「もののけ姫」(特にこっちにそっくり)なのよね。
原案が宮崎駿だからなんだけど。
692 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/15(日) 07:17:18 ID:8AiNQh+p
>>684 セイント星矢は1巻で早速手刀で耳削ぎとか首チョンパとかあった気がするんだがどこ見てんだろうな
北斗の拳は結構教訓的なんだども、今日よりも明日とか悪は滅びるとことか
ハート様やモヒカンの人権を守れって事なんだろうな
もう殺しだろうがレイプだろうがやったもん勝ちって感じですな
>>682 ちびくろサンボのどこをどうしたら黒人差別になるのかと本気で怒った俺
トラのバター美味そうじゃん!パンケーキ(だっけか)つけてガシガシ食いたいじゃん!
あれを取り締まろうとした奴は本気で基地外だ
夕食は父親が帰宅してからとか朝食は父親と一緒とか
家族全員が父親に合わせた時間に食事すること。
空腹での夜更かしをした上に翌朝の早起きなんて子供がかわいそう。
昔の子供の身長が低かったのはこういう短い睡眠時間と空腹で過ごしたあとの遅い時間の食事が原因じゃないかと思う。
昔の父親はそんな遅くに帰宅しなかったから、いっしょにご飯食べてたんだよ。
今の子供のほうが夜更かしさせられてるよ。小学生は9時にはもう寝てた。
696 :
691:2009/11/15(日) 13:18:00 ID:Icu+6VtR
と思ったら見た目だけじゃなくて、やってることも、ナウシカやトトロやコナンやもののけ姫と
全くと言っていいほどおんなじだった。
道理で、「藤子漫画のキャラとしてはちょっぴり浮いてる?」感じがするわけだ。
実は、「変身忍者嵐」の、余韻嫋嫋のちょっぴりおセンチな最終回に、兄弟三人そろって大感動して
「次はどんな感動的な番組?」と思ってたら「黒べえ」だったので、三人そろって「ふざけんな!!」
と大激怒。
「黒べえ」は第一話から途中までは見たけど、「ウルトラマンタロウ」の放送開始に伴い、兄の号令
のもと、三人そろって乗り換えましたとさ。
でめたしでめたし。
>>696 うちはTVが1台しかなかったからタロウが見たかったけど妹がゴネたので自分一人本を読んでたよ。
>>697 その妹さんは何を見ていたんだろう?キャンディキャンディとかかな?
>>698 キャンディキャンディは、大鉄人17の裏番組ですがな旦那さん。
700 :
698:2009/11/15(日) 18:19:37 ID:19K8e4oZ
>>699 そうなんだ、失礼。しかしよく知ってるね!?
タロウの頃はリミットちゃんや魔女っ子メグじゃない?
キャンディは5年くらい後だったよね
>>697 自分は女ですが、兄からウルトラの星の子としてのエリート教育を施されていたので、
半ば義務としてウルトラシリーズを視聴し、ウルトラの星の子となるべく雑誌にテレビ
に絵画に怪獣名や必殺技、ウルトラ兄弟の名前の暗記にと日々研鑽する幼少期を過ごし
ておりました。
リアル視聴は「レオ」で足を洗いましたが、現在でも特オタであると同時に、「マン」
「セブン」などを、ビデオなどで滝の涙を流しながら見る事も御座います。
>>702 あなたは私の友達ですか?ウルトラ5つの誓いを毎日学校で諳んじて、先生に怒られていた。
マンか帰りマンでスズメが鳥かごに入ったまま焼き殺されるエピソードがあったんだけど、
あんなのは今放送できないだろうなと。
>>702 3才で「Q」に震え上がっていた自分は、
「マン」で人型のヒーローが交換条件なしで助けてくれるって言うのが
ご都合主義っていうか、こどもだましっぽさを感じていた。
(人魚姫みたいに交換条件を突きつけられるのではなく)
おい、MATってウルトラ警備隊はどうなったんだよ!説明しろ!
騒いでいるのはガキばっかりって感じだったし。
ゴジラにも似たような印象。近所の友達といった東宝チャンピオンまつりは、
グロテスクな怪獣の乱舞が一番長くて苦痛だとしか思えなかった。
そのくせ、ピュンピュン丸やもーれつア太郎、ウメ星デンカなどのギャグには、よくこんな
こと思いつくなぁ!と腹を抱えて大笑い。
ひみつの掟があったり、友情を考えさせられる魔法使いアニメに心が惹かれ、サリー
ちゃんやアッコちゃんの最終回には不条理さを感じ、涙。
絵本は「ねずみの嫁入り」をかってもらい、花嫁のネズミには、幼稚園で、いちばんかわいい
子のなまえを書いていた。
リカちゃんじゃなく、きみとボクできせかえごっこしようよ〜とは、
思っていても口に出せなかった。
姉・妹がいなくて、女の子の世界を美化してたんだろうけど、ヘンな男の子だったオレ。
生活の話のつもりが、自分語りになっちゃった。
>>699 懐かしいな…
「お前は年上なんだから我慢しろ!」でワンセブンは見せてもらえなかった。
706 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/16(月) 02:22:26 ID:kTbEk3H1
ワンセグ
ゆうべの実写版サザエさんは昭和を強調しすぎてたなあ。
ホントにあんなんだったっけか??
>>704 ハヤタを過失でぶっ頃しちゃった交換条件としての地球防衛だよん。>ウルトラマン
ピュンピュン丸も熱中して見てたけど、もう一切記憶に残ってない。
「グズラ」「おそ松くん」「パーマン」「オバQ」「どろろ」等の記憶は断片的に存在する。
>>707 サザエさんが着てた服とかはよく再現されてたなぁ。柄とか衿の形とか。おそらく仕立てたんだろうけど。
ただ子供たちは仕立てっぱなしじゃなくてなんどか水をくぐった感じのへたった服を着ていて欲しかった。
とくに家で着てる服なんて一般家庭じゃお下がりとか仕立て直し(そういうシーンあったね)とかが多くて、
つぎが当たっていないまでも色落ちしたり生地がよれていたり場合によってはとれないシミがあったりしたもんだ。
家具調度のたぐいはよく探してきたなって感じ。電話台の下の電話帳までそれっぽくてよかった。
昔のアニメも放送してたね
カツオとマスオの声が初代の人たちだったのが懐かしかった
もう日曜6時半は再放送のループでいいよ
>>683 つい最近漫画版がこっそり全集に収録されたらしい
テレビのアンテナ修理してるシーンで写ってたのはコント55号だったな。
アレ誰という子供に一生懸命説明したよ。
最近漫画のサザエさんを最初から読んでるけど
昭和のいろんな時代をみることができて面白い。
ただ、漫画もアニメ同様年齢は「サザエさん方式」だけど。
>>713 初登場時4歳前後だったワカメが、アニメの年齢に達した時、キャラが年をとることをやめた。
そうだったんだ。
しかし自分がイクラより年下だったのは驚いた……
会社に勤めていて、残業が無くても生活に困らなかったこと。
嫁さんは普通に専業だし、今より豊かだったのかもなぁ・・・
うちは父親が自営だったため帰ってくる時間がが不安定で大抵
8時過ぎで、母親に「帰ってくるのが遅いから子供とご飯が別々になる」と
不満を言われていた。(母親も働いていたが、5時過ぎには帰ってきていた)
今の世の中、サラリーマンで8時台に家に帰れる人がどれくらいいるのだろう…
あと、母親が働いていたので、近所のおばあさんが子守に来ていた。
今は共働き家庭でも子守に来てもらうなんてできないよなあ。
海外で共働きが盛んな国だと、たいてい家事育児のアウトソーシングが
しやすいのに、日本は女性に働くことを期待しつつ、その辺は
むしろ退化する一方だ。
718 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/16(月) 22:04:41 ID:8TBfHwGf
>>717 俺も自営だけど週に5日は24時間家にいるよ(泣)
中卒大手工場勤務平社員の親父が昭和末期に税込み年収500万は貰ってたな…
今その大手工場は大卒でも契約か派遣で同様業務では年収300万もないらしい
そういえばガキの頃、友達の家に行ったら、どこの家でも
その子のお母さんが居たよ。
ピンポーンと押したら、「はーい」とお母さんが出てくるのが、
当たり前の光景だった。
今は大概の家庭は共稼ぎだもんね。
>>718 俺も自営何だけどここ1年は土日祝しか営業してない
月〜金は去年末に正社員で就職した会社で8時17時で労働してる
ん?
父が高度成長期に土木現場で働いていたことがあるそうだが、日給7千円もらっていたそうな。
昭和40年頃の話。最近聞いて驚いた。
そういえば
中卒でも大手に入れたな
>722
それ、トンでもない金額だよな、ほぼ10倍くらいになるんじゃねぇ?
建築作業員やりながら雲隠れしていた市○も、金が欲しいからとほとんど
休みを取らずに働いていたというが、それでも、月収10万円台。肉体労働
の価値ってそこで下がったんだ、ということに驚いた。技能持ってる鳶やら
左官だと違うんだろうが。
昔のその手の労働者は、飲む・打つ・買うと、豪快だったなぁ、という印象が
あるのだが。
高度成長期時代の造船景気鉄鋼景気を知るじいさんが、「今の若い子はかわいそうだと本気で思う」
と言ってました。
子供の頃は将来に夢と希望を抱いていたが
大人になったら本当にただの夢でしかなかったよ
解体の廃材仕分け(めちゃくちゃしんどい)が
1日6000円なんだよな 今
それでも日払いだからかも知れんが殺到してるんだよ
若い奴等はほとんどいなくて中高年ばっかり
20年前は18000円でも人が集まらなくて困ってた人がいたのに
うちの親父が40年前に鳶してたけど
月10日働けば十分食っていけたらしい
まぁ安全性は低くてよく死人がでてたらしいが
競争相手がいっぱいできちゃったからね
隣の大陸に、二束三文の命の奴らが何億人も
うちの実家も自営だけど、昭和50年当時で年収1000マソ以上あったらしい
(ちなみに従業員は親父とオカンだけ)
肉体労働でそれだけ稼げた時代、日本は本当は裕福だったんだと思わずにいられない
うちの実家も田舎のタバコ屋だけど、昭和60年代に1000万あったらしい
>>711 こっそりもなにも雑誌広告のど真ん中に黒べえがいるけどw
>>729 命の安い国の場合、底辺の国民は「命は安いものだ」と叩き込まれているし、
国外の人権団体が何を言おうが、需要がある限りビジネスになるわけだから無視すればいい、
と無茶苦茶やっとるな。
バングラデシュの浜辺での大型廃船解体の原始性なんか、話を聞いただけで溜め息が出るような人海戦術だ。
インドで、日本の航空会社が事故を起こして、現地人が死んだので見舞金を出そうとしたら、
インド政府から抗議があったの。
「半額に値切れ!!」って。
「そんなに出したら、滑走路が死亡見舞金目当ての群衆で埋め尽くされるぞ!!」って。
>>710 カツオは二代目の高橋和枝だった
初代は大山のぶ代
昔家にサントリーオールドの空瓶を重ねてフェルトや毛糸などで顔を作ったり服を着せ
クロンボ人形ってのか?おかんが作って飾ってたんだがそういうものがあった人っている?
多分50年代前半頃だった記憶があるんだが
オールドは知らんが、何か空き瓶や空き箱に毛糸編みをかぶせて人形ってのは昭和のオカンアートの定番だな。
着なくなったり穴のあいたセーター類は解いて編み直すのがデフォで。
そんな中でもさらにくたびれた毛糸を使って「モチーフ」と称する小パーツを暇を見て編み編みする。
それをつなげてこたつカバーだの椅子カバーだのやたらあちこちにカバーをかける。
でなきゃ電話だの花瓶だの例の首振り鳥だのとやたら何かの下に敷く。
>>736 我が家にはなかったが(酒飲みがいないので)友達の家にあったよ。
あれはなんのムーブメントだったんだろうな。
黒人人形だな
同じウイスキー瓶を二本用意し、
首から下の部分になる瓶に砂を半分まで入れて割り箸を挿し、上の瓶を逆さまにして口同士を接着
接着部分は人形の首なのでレースで首飾りみたいに飾り、毛糸で髪を、フエルトで目や口を
レースや布を貼り付けて服に見立てて、イヤリングにはなんか金の輪っかを使ってた
母が作る横でずっと見てたもんで……母も叔母から教わってた
そういうのってちびくろサンボやダッコちゃん人形と同じ理由で淘汰されたんだろうか
>>740 専業主婦が減って、和裁洋裁手芸自体がすたれたからでしょう。
ほっこり系w手作りとか、おしゃれカフェめしとか、方向性が違ってきたんだと思うw
家で手芸してる暇があったらパートしろって時代だからな。
子供の数は半分以下になってるのに保育園だけは入りきれないんだからおかしいよ
おかんはウイスキーではなくて、小さめのコーラの瓶で作ってた
くびれを女性の身体のラインに見立てて毛糸を巻きつけ
胸元〜頭は紙粘土で作って色を塗って完成
ジョアの容器を芯にした犬の編みぐるみもあった
思い出したが、ガーゼのハンカチのふちにレース編みで縁取りをするのを叔母がせっせとやっていたな。
うちのオカンもハンカチにレースの縁取りやってるわ。今でも
うちの母が一時、編み物に凝った時期があって、電話や炊飯器にも
セーターらしきものを着せていた。困ったのがドアノブ。
回そうとしても、セーターですべってドアが開けられなかった。
手でやる編み物は今でもやってる人多いだろうけど
「編み機」というものは廃れに廃れまくったなあ。
うちの母親もシルバー編み機教室なるものに習いに行ってたが・・・
キーボード(音楽のね)位の大きさで、ハンドルを握って
右へ左へ、しゃーしゃーっと。
>>749 うちにもあったよ。模様を入れる時は、薄っぺらいプラスチックのシートみたいなのを、
パンチのようなので模様の形に穴を空けて行くんだよね。
751 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/18(水) 23:30:29 ID:kfVQi5wI
リリアン編みわからないだろうな
シンガー編み機を持ってたブルジョアには
>>749 そういえば親戚の家にあった。
あれカッコ良かったなあ。
小学生の頃は登校途中に忘れ物があった時に商店で電話借りて家に「○○持ってきて」と電話して
10円置いていた。今でもこういうことやってるのかな。
うちの小学校はピンクの公衆電話があったから、そこで家に電話してた
>>748 …石鹸にピンをたくさん挿して、バスケットだのスワンだの作ってたりしませんでしたか?
>>749 アミアミっていう子供向けおもちゃ買ってもらったなー!
>>749 あれ結構場所取るんだよね
6畳の部屋にあったがかなり窮屈だった
他の家具もあったし
>>755 あったあったw
子供心に「普通に石鹸として使った方が役に立つのに」と思ってた
サラリーマンの定年が50歳とか55歳だったので、お祖父ちゃんが家にいた。
お父さんも夜8時には家にいた。それでも持ち家、マイカーだった。
学校に学習と科学を売りに来た
うちは父親の職場に届いてたから学校に来るより早く読めてた
首都圏発の新婚旅行の定番は熱海だった。
うちの親の新婚旅行は阿蘇だったな
箱根ではなかろうか
新婚旅行などというものはバレンタインデーと同じようなもので、
熱海だかが思いついて広めて、宮崎が参入して本格化して、ハワイが止めを刺した、って感じだ。
うちの両親は田舎の農家だったこともあって、結婚式も近所の神社→自宅で宴会、新婚旅行なにそれ状態で
島田を結った翌日には田んぼに出ていたそうだが。
追記。それでも嫁に島田を結わせたのは集落ではうちだけだと姑(祖母)は鼻息荒かったらしい。
だいたい嫁ふぜいに髪結いさんに入ってもらうだけでも贅沢、みたいな感覚で他の家からいろいろ言われたらしいので。
これでも昭和30年代の話。
沖縄に新婚旅行に行くのにはパスポートが必要だったうちの両親世代。
結婚式の定番の場所が、大浴場付き国民宿舎だったうちの街。
宮崎も新婚旅行先としては定番だったはず
うちの両親なんか県内ですぜ、新婚旅行。
まあ、いちおう名の知られた観光地ではあるんだが、
車で1時間もかからんような距離だ。
ちなみに万博のころの話。
771 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/19(木) 19:22:08 ID:EIRwRUd/
修学旅行は小学校は伊勢
夫婦岩で朝日を見るために早く起きた
中学は阿蘇
地獄めぐりだった
逆に変わってないのは
修学旅行で京都。かな?
当方、40代の大阪。小学校の修学旅行が伊勢神宮だった。ミキモトパールアイランドや
夫婦岩も拝んだ。おみやげが伊勢名物の「赤ふく」。定番だらけだったよ。
新婚旅行で舟橋ヘルスセンターと言う時代もありました。
そういやうちの親も新婚旅行が沖縄だったんだが
やたら自慢げだったのは要パスポートの国だったからか
780 :
773:2009/11/20(金) 00:18:57 ID:dZSQzLR+
>>779 岸壁に停泊してあるのを見たと思う。
ちなみに大阪から鳥羽へは近鉄の二階建ての特急で行った。
あの時は、二階建ての列車と言うだけで、ハイテンションになった。
しかし、そんな二階建てに乗ったにも関わらず、友達と
ずーっとトランプでカブをやってた。
札幌だったが、修学旅行は、小学校が洞爺湖、中学校が十和田湖。
修学旅行とは、湖に行くものだと思い込んでいた。
高校では関西方面なんだけど、当然、琵琶湖がメインだと思っていたよ。
ちなみに、京都・奈良だけでした。
そういえば、修学旅行の京都で、地域限定発売の「雅」というタバコを
買う奴が多かったけど、調べたら、昭和の終わりを待たずしてなくなってたんだな。
自宅そばの海の向こうに当時まだめずらしいセブンイレブンがあった。
母親から「あさ7時から夜中まで、お正月もやってるお店。でもすごく高いんだよ」と聞いていた。
暗くなっても海の向こうのセブンイレブンの明かりが目立ってとてもキレイで、いつか行ってみたいと思っていた。
商店街にスーパーマーケットが出来始めた頃の話。
大阪だが小学校の修学旅行は宮島
中学校は『夏の』長野…
高校は『冬の』長野でスキー
784 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/22(日) 15:12:11 ID:7NGIRBBu
京都から東京に引越してきて修学旅行が奈良・京都って奴がいたな
実につまんなそう、東京生まれで修学旅行が浅草とかディズニーランドとか旅行って感じしないし
戦前だって昭和にちがいはないわけだから書かせてもらうけど、
大人になるまで(もしくは一生)海を見たことがないって人も、
昭和の早い時期までに限定されるだろうね。
うちの父方の祖父は大正2年生まれで昭和10年に結婚したんだが、
新婚旅行のときに初めて海を見たそうだ。
山の中の村で生まれ育って、村から出たことがなかったから。
本や映画で知ってはいたけど、本物を見たのは初めてだったって。
鉄道は通っていたし、べつに村から出られなかったわけじゃないから、
海のあるあたりへ行こうと思えば行けたはずだけど、
特に出かける用事もないから、考えもしなかったらしい。
だから、初めて見た海には感動したし、興奮もしたらしい。
水をなめてみて、ほんとうに塩辛いってよろこんだり。
そんな祖父を、海の近く(海辺ってわけではないが)で育った祖母は、
「当時は言えなかったけど、山の人っておもしろいなあと思って見てた」そうだ。
山村で育って村から出た事のなかったおじいさんが
何故海のそばで育ったおばあさんと結婚することになったのか不思議
>>786 見合いだよ。
両家に共通の親戚があって、そこから話が進んだらしい。
どっちも農家っていうのも話がまとまりやすかったんだろう。
サラリーマンが何故あんなに早く家に帰れてたのか不思議。
ある自動車ディーラーの昭和末期の年間販売台数は今の3倍程度。
販売報告書や営業日報の類は一体どう処理してたんだろ?文書作成専門の従業員がいたんだろうか?
今の販売台数でも報告書など提出文書の作成で連日24時以降の退社になってるのに。
>>785 今年の夏に生まれて一度も海に行ったことがない新入社員を海に連れて行ったよ
平成の世の中でも海に面してない県出身者は海を知らないもんだよ
さ、埼玉県民を馬鹿にするなぁッ
子供の頃って刺身が不味かった気がする
昔は刺身嫌いで、大人になって味覚が変わったのかなーとも思ったけど
やっぱ昔は保存、輸送性能が今ほどじゃなかったから、海から
遠い地域はあんまり魚が美味くなかったってのもあったと思う
あと刺身のネタの種類が少なかったなー
791 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/22(日) 18:17:14 ID:dT6XOQQf
>>788 >販売報告書や営業日報の類は一体どう処理してたんだろ?
推測だけど、書かなければならない書類の類が、今と比べて格段に少なかったのでは?
昭和の時代は、今と比べても全体的に「ドンブリ勘定」というか、個人の才覚に頼って商売していたような印象がある。
そんなやり方でも物が売れて会社が儲かり、個人の給料も上がっていった時代なのだろう。
>>789 へえ、いるもんなんだね。
念のため聞いとくけど「海を見たことない」と「行ったことない」はちがうと思うんだ。
そのへんはクリアってことでいいのかな?
いや、べつにケチをつけるつもりはないんで、気を悪くしたら謝るけど。
海辺で生まれ育ったけど、刺身はきらいだったよ。
いまは好き。おとなになってからうまさがわかった気がする。
794 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/22(日) 18:20:05 ID:dT6XOQQf
>>790 >刺身のネタの種類が少なかったなー
同感。
俺が物心ついた頃(1970年前後)、刺身は「赤身」が最高で、
「トロ」などというモノは存在しなかったよ。
「行ったことないけど見たことある」は成立するけど「見たことないけど行ったことある」は成立しないんだから
問題ないと思うの
我が家の家族内で世界最南端に到達したレコードホルダーは、
弟が数年前に新婚旅行で南半球のオーストラリアに行くまで、
祖父が昭和18年に北緯7度のトラック島へ送られたのが長年最南端だった。
弟夫婦の帰国のキャリアはJALのボーイングのエコノミーだったが、
祖父の内地帰還のキャリアは日本郵船の名客船・氷川丸だった――当時病院船になってたのだが。
昭和時代には、家族で自宅から最遠方に行ったことのある人は
兵役で遠方へ送られた爺さま、という例が多かったろうな。
>>796 うちは母方の叔父がインパールに送られて戦死したのが最南端。
父方は親父が釜山の予科練でカッターこいでて終戦迎えたが親父の親父の
郷里が鹿児島なのでこちらが最南端か。
798 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/22(日) 20:44:04 ID:zUX+KLJe
>>788 営業マンが手書きで報告書類を作る
↓
事務のお姉ちゃんがそれをパソコンに入力
こう言う流れだったかな?
だから事務処理のお姉ちゃんが多数いたね。
パソコンではなくワープロだな
その前は手書きのまま
いまや短大卒女子の就職内定率が20%台だからなぁ…。
そういえば昭和末期に勤めていた会社で、年末とかは
事務の女の人が、たくさんの伝票や帳簿を家に持って帰って、
仕事してたよ。年内、間に合わないとかで。
その事務の女の人の電卓もデカイ奴で、片手でパチパチとやってた。
電卓も使い過ぎで、ボタンに印字されてる数字がかすれていたなぁ。
親指とひとさし指に指サックつけてね。
さすがに区役所のおじさんがはめてる様な、袖につけてる
黒い袖カバーはやってなかったけど。
PCが普及して、1人あたりの仕事時間はかえって増えたって言われるしなあ。
>>791 なんか役所の人の仕事ぶりを書いたブログとかどっかで見たんだけど、
「『真面目に仕事してます。不正はしてません』てことを証明する資料作りが
全体の三分の二を占めている」とかいう主客転倒というか本末転倒というか、
とにかく資料ばっかりかさばる仕事が平成になってから…あたりで増え出して
るんだとか。昭和の頃はこんなことは無かったのか。
なんかそれは生産性が甚だ落ちる非効率極まりない話なんじゃないかと思ったが
クレーマーに対応するために仕方が無いのか、それともお役所仕事的人的・時間的
資源の無駄遣いなのか。
>>802 部品発注する場合
昭和の時なら、部品番号/使用ユーザー名/個数/担当者
コレを手書きで書いて事務のお姉ちゃんに渡していたな
今は全部自分で処理してるよ
ライン工もその日の生産が終わったら日報一枚書いて帰れてたな。
今は5時でラインが止まっても日報を書き終わるのが8時ぐらい。
何処に何を何の目的で送信してるのか把握できないぐらい文書を作る。
正直なところ、文書の書き方がこれでいいのかさえ知らない。
こんなスレで自分の馬鹿さ加減をひけらかして何になる。
今はとにかく提出書類が多すぎ。
外勤なのに社内でPC使ってる時間のほうが長い場合も。
1件の契約に対して丸一日潰れるぐらいの量の報告書があったりとか。
事務のお姉さんおばさんがいなくなったなあ。
あれってちょっと意味の違うワークシェアリングだったんだろうか。
勤め人は土曜も会社だったしな。命令系統も業務遂行のための最小限のもんだったんだろう。
今は役付けに役目持たせるための書類書きが殆ど。だから儲からない。
月に二回土曜日は休みになって、
間違って来ちゃった客に「今日は休みです」
という当番があったがあれは平成だったか。
土曜も仕事ってことで思い出したんだが、
当地では、可燃ゴミの収集日は地区ごとに違っていて、
「月・木」「火・金」「水・土」の3コースにわかれていたんだが、
「水・土」がなくなったので、昼過ぎまで回収されない地区が増えた。
仕方ないことなんだが、真夏なんか近くを通れないからなあ。
昔の「不燃ゴミ」は、不燃ゴミと資源ゴミに細分化されて、
いろんな曜日に回収されるから、どこも朝のうちになくなるみたいだ。
しかし、資源ごみといえば紙類もあって、これは昔の「可燃ゴミ」だけど、
その当時は可燃ゴミの日に、今の紙類の日ほどは紙類が出ていなかったように思う。
やっぱりみんなちり紙交換に出していたってことなんだろうかなあ。
昭和の時代には新聞の回収利用率は80%Overと聞いた。
ごみ分別も、自分の地方では昭和50年代にはスタート。
「燃えるごみ、燃えないごみ、資源ごみ、有害ごみ、大きなごみ」だった。
リサイクルだとかぎゃあぎゃあ言う前から、
日本は資源リサイクル大国だったのに、
今は全国でごみを入れるためのゴミ袋を
わざわざ作って販売しているという・・・。
余談だけど、最近また割り箸でわあわあいい
はじめてるな。国内の間伐材を使う分には
リサイクル+林業の活性化+山林の保全と
9割以上いいこと尽くめなんだけど。
リサイクルで口うるさいような連中は、無農薬で大騒ぎするやつとまったく一緒で、
林業や農業のこと知りもしないで騒ぐから農地や山林は自然放置が一番いい状況だと思ってる。
知ろうともしないで自分は正義だと信じてるバカが一番たちが悪いし、声だけはでかい。
そしてたぶん昭和と一番変わったのはここ。
何かあったとき誰かを悪人に仕立て上げたがる。サザエさんのンガグッグすら悪。
>>813 手塚治虫、永井豪、(匿名時代の)宮崎駿と高畑勲。
彼らも全員昭和の一時期ボッコボコでした。
昭和30年代の「赤銅鈴乃助」が孝行息子の話で良くて、
鉄腕アトムが幼稚な夢物語で駄目、という話に
手塚治虫が怒っていた話は聞いたことがある。
当時の漫画ってのは堕落の象徴みたいな扱いだった割には
その根拠って言うのが、ほとんどの人が、人から
「漫画は悪だ」という伝聞を聞いて勝手に悪役に
仕立てていただけで、しかもどの話もまともに
読んでなかった、という・・・。
この辺は昭和も平成も変わらんね。
健康法や食べ合わせ、エコ(笑)に置き換えると特に。
>>815 中沢啓治は、原爆漫画第一作「黒い雨に打たれて」を、所謂低俗エロ漫画雑誌で発表した。
「おれは偉そうぶってきれいごと言う奴のために漫画なんか描いてねえよ」と言った風な
気持ちがあったそうだ。
全盛期の手塚が叩かれた手口は、現在ゲームやサブカル、ヲタを叩く手口と全く一緒。
818 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/25(水) 11:41:57 ID:JhqA3o1z
ふしぎなメルモちゃんが有害図書に指定された事があったような・・・
メルモちゃんはおっぱい丸出しになってしまうので。
キューティーハニーと同じ。
エッチな漫画で思い出したが、昔の「ヤッターマン」もドロンジョの
おっぱいポロリが放送されていたね。
最近のは、おっぱいポロリとなりそうになっても、ボヤッキーが
隠して、さらに「昔は放送できたけど、今はダメなのよね」と
言ってたよ。
>>819 一方で幼女のヌード写真集が「芸術作品」として無修正で普通の本屋の店頭にあったんだよね。
今なら書店ごと消されるけど。
アグネーーーーース
>>815 今のクレヨンしんちゃん叩きの連中と一緒。
>その根拠って言うのが、ほとんどの人が、人から
「漫画は悪だ」という伝聞を聞いて勝手に悪役に
仕立てていただけで、しかもどの話もまともに
読んでなかった、という・・・。
第一話で「みさえ〜」は、父親の口真似だときっぱり言明してるのに、「オヤヲヨビステアクエイキョウ
ファビョファビョファビョーン!!」っての。
おフランスの人なんか、「ああ、大人になりたくて父親の真似して背伸びしてるのね。どこ
の国の子もそうだよね」とさくっと言ってそれで終了だったぞ。
しんのすけの数々の台詞は同年代くらいの子供を持つ親は
たいてい「うちの子供もそうだわw」って反応だったね。
そういうのを知らない(理解できない)、または忘れた人のファビョンが、
いろいろ物事を窮屈にしてる気はする。
しんちゃんは迷子になって母親の名前訊かれたときに「みさえのおなまえ何だっけ」って言ってるし
母親を呼ぶときは「みさえ」と呼ぶと認識してただけ
…要するに、いつの時代でもそういう自分の事がよく見えていない奴ってのはいるという事で。
ちなみに、有害図書指定されてたのは「やけっぱちのマリア」だよ。
「ふしぎなメルモ」の主題歌をカラオケで見つけて歌った時、目から汗がだらだら出て止まらなくなったのは
内緒だ。
「アポロの歌」は?
828 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/26(木) 13:26:22 ID:jm80OANZ
クレヨンしんちゃんに出てくる子はみんな良い子だと思うけどなあ。
ちょっと変な子がいても、いじめたり疎外したりせずにそういうもんだと受け入れてるし。
829 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/26(木) 13:46:40 ID:Y9cYgJqP
僕 大学生でレポートをよく作らなきゃいけないんだが、昭和の時代の大学生たちは全部手書きで書いてたのか?
みんな腱鞘炎になっちまうだろと
>>829 ワープロ文豪オアシス書院なんて
インクリボンが高くて・・・・
831 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/26(木) 14:37:48 ID:XxRLEieJ
年末のボーナスの日父さんが給料袋に入った札束を引っ提げて帰ってきた・・・
>>829 書いたぞ。全部手書きだったぞ。そんなもん慣れだ。
卒論なんか冬の寒い日にストーブもないアパートの部屋でコタツで、指先切った手袋はめて白い息吐きながら書いたりした。
それで腱鞘炎にはならなかったが、後年マウスの使いすぎで腱鞘炎になったw 細かいグラフィックスをマウスでやったら。
そういえば手書き時代の学生の指にはこんもりとペンだこがあるのが普通だったが、今時の学生にはあるのだろうか。
833 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/26(木) 16:29:53 ID:gtzjkuIS
再生インクリボンっていうのがあったな。
使い終わったら巻き戻してまた使えるやつ?
>>834 そりゃ、パーソナルワープロの熱転写じゃなくて、パソコン用のドットプリンター
用では?インクを含浸させなおすヤツ。
熱転写のヤツは巻き戻して使うと、使ったところの字が欠けるよ。
意外と読めないことはないんだけどね>インクリボン再利用。
家庭用FAXを事情があって業務で使う場合、一回は試してみると思う。
そういえば昔、小遣い貯めて初めて買ったシャープ書院は
モノクロSTN液晶で30文字*2行くらいだった気がする。
全体レイアウトはアタマん中で創作、感熱紙にプリントアウトして
確認してた。変換は単語ずつでないと色々無理だし。それで3万円。
今3万出せば当時のワープロなんか話にならないような性能している
ネットブックが普通に買えるよね。
勤め始めた頃、
「大学時代、テスト前に友人にノートを借りて百万遍(←地名)の
10円コピーの店に行くため夜中にバイクでよく走ったもんだ」みたいな
話をしてたら年配の人に
「我々はノートを借りたら徹夜で写したものなのに!!」って言われたなあ。
時はめぐり、今はコピーとかすらアナログな手段になってしもうた。
あと、コピーも高かったよね。
私の知る限り京都市内でそこだけだった>10円コピー
それでも、自分の考えた文章が活字(体)になる、っていうのは感動だった。
この感覚は、平成生まれには考えられないことだろう。
学校のプリントもガリ版刷りが普通だったから、活字になるには、よほど
文章力があって、作文コンクールに入賞して文集に載る、新聞等の出版物
に採用されるとかでもないと。
昭和期は子供だったので、大人になっていた人だと違うかも知れん。
現代でもPCの脇にあるプリンタのインク代って安くないと思う。
>>829 平成時代大学生だけどワープロ不可とかいう教授がいて手書きしてたお
卒論も修正液禁止とか言われて、間違えたら別の原稿用紙に書いて切って貼るという方式だった
卒業して2年したらワープロ解禁になっててorzってなった
バブルの頃、新人でもボーナス80万位貰ったので頑張れば袋が立ったけど、
先輩はわざわざ全部千円札に両替して大変なことになっていた。
今年の平均は30万くらいだっけ?50万だっけ?
バブル崩壊時に高校生だったおいらの平均ボーナス、半年で30万。
でも、専門学校卒で頭悪いので、年60万でもお小遣い感覚
(もらえること自体が奇跡)という感覚なので文句は言ってません。
まさか銀行での両替が有料になるとは昭和期では考えられない。
棒硬貨の巻紙が銀行ごとにオリジナルだった。
昔は銀行の粗品って、貯金箱が多かったよね。
実家にあったんだが、カレンダーみたいになってて、毎日
100円を日付の所に入れていくのが、どこかの銀行でもらった。
100円×30日=3000円を毎月預金する仕組み。
子供の時は、特に感じなかったが、物心ついて振り返ると、
銀行もなかなか考えてるなぁと思ったよ。
それに今と違って、ちょっとした額を預金したら、ティッシュ(box)や
ラップとかくれたのに、今はせいぜいポケットティッシュしかくれない。
>>845 やたら皿くれたよね
皿とか茶碗とかコップとかマグカップとか
>>832 昭和末期に社会人になったが、社内文書はすべて手書きだった。
申請書なんかは、鉛筆で下書き→修正→ペンで清書って感じ。
筆圧が強く、鉛筆・ペンをがっしり握るので、ペンだこどころか、いまだに中指が微妙に曲がっている。
最近は手書きなんて、メモ程度しか見かけない。実際、短いメモを書くだけでも、手が疲れちゃう。
>>837 自分が小遣い貯めて買ったワープロはパナソニックのやつだった
当時としては最小のA4ファイルサイズ
椎名桜子がイメージキャラクターだったw
自分が購入して間もなく、その機種には「スララ」というブランド名が付き
イメージキャラクターもSMAPになった
当然、森くんがまだ居た
俺が買ったワープロは東芝RUPOだな
機種名はわからないが
業務用デスクトップ型で10万ほどしたと思う
表計算やら図形やらグラフやら
FDDの入れ替えでいろいろ機能が追加できて
20年ほど前にしたらかなり高性能だったんじゃないかな
未だに会社では現役で使ってるがインクリボンが手に入らなくなった
無駄な機能がない分仕事に使うにはこれで十分
850 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/27(金) 03:36:42 ID:haPWVRrR
アンパン10円
ガソリン28円、昭和33年頃。
自分用パーソナルワープロ第1号機は、ワープロ教室払い下げ品の
MyOASYS2.
システムも辞書データも文書も、1枚の5インチフロッピーをアクセス
していた。(もちろんシングルドライブでハードディスクなどなし。
自分でディスクをフォーマット、コピーできず、専用品を買わなくては
いけなかった)
20代後半のヤツは5インチフロッピー自体知らん。
ジャケットにラベルがついていても、ボールペンで書いてはいけないことも。
ぶっちゃけ、昭和末期〜平成初頭は、
仕事(文書作成)=ワープロ、
ゲーム=ファミコンorスーパーファミコン
で、良かったんじゃね。
ヘタにPC98なんかで、一太郎or松、24ドットプリンター、
ハードディスク、増設メモリ、なんてやってたらいくら
かかったことか…。
PC入門は、win95発売以降で充分。
業務用ワープロの払い下げ品買っている人いたけど、
今のデスクトップPCと間違うような外観だったなぁ。
ただ、漢字変換のお馬鹿さ加減は業務用も
2行表示の最廉価機でもそう変わらなかった。
854 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/27(金) 08:35:09 ID:Mk2EDwru
>>829 >大学生でレポートをよく作らなきゃいけないんだが、昭和の時代の大学生たちは全部手書きで書いてたのか?
そんなもの、「当たり前」だったよ。特に腱鞘炎にもならなかったぞ!
>>839 >自分の考えた文章が活字(体)になる、っていうのは感動だった。
>この感覚は、平成生まれには考えられないことだろう。
全く同感。当時は「印刷物」のステイタスが、今では考えられないほど高かったよ。
>>847 >昭和末期に社会人になったが、社内文書はすべて手書きだった。
>申請書なんかは、鉛筆で下書き→修正→ペンで清書って感じ。
当時、履歴書・申請書・申込書等の書き直しでどれだけ泣かされたか。
上記の文書に修正液なんか使えないから、間違えたら最初から全部やり直しになって苦労したよ。
>>853 >業務用ワープロの払い下げ品買っている人いたけど、
>今のデスクトップPCと間違うような外観だったなぁ。
甘い。
高級機(当時100万以上)になると、「今のデスクトップPC」とは
比べ物にならないほど大きかったぞ!
>ただ、漢字変換のお馬鹿さ加減は業務用も
>2行表示の最廉価機でもそう変わらなかった。
これは違う。社会人になって、上記高級機(富士通オアシス)使ったけど、
漢字変換に関しては、現在のワープロソフトより、遥かに賢かった。
文章入力に関して言えば、現在のPCがワープロより退化してることを嘆く人は多いよ。
>>854 単文節変換のワープロしかなかったので、最近のPCの日本語変換でも十分だけどな。
昔のワープロや日本語変換と比べて、登録されている語彙数が多くなったことも、
変換にストレスを感じる原因かも知れないな。
>>855 学習機能が簡略化されちゃって、日本語変換が育たなくなっちゃったんだよ。
OASYSとか、同音異義語はきちんと使用頻度順に出てきてたからね。使ってるうちにどんどん変換が楽になった。
単語登録も楽だったから、定型文をかな二文字くらいで単語登録してとかいろいろな用途に使えた。
つまり、あんまりいろいろはできないけどカスタマイズは容易、だったんだな。
自分用辞書フロッピーを作成→変換がどんどん自分好みに進化していく
高校生の頃はコピー機が普及してなかったから
休んだ分のノートなんかは手書きで写してたげと、
手書きするとより深く頭に入るんだよね。
大学時代はコピーも使ったけど、試験前で大事な科目は
自分のノートを再度書き写して勉強してた。
卒論はワープロOKだったしマシンも持ってたけど(OASIS30)、
なんとなく手書きのほうがかっこいい気がして
満寿屋で原稿用紙を大量に買って万年筆で手書き。
そんなアナクロなことする学生って今はいないんだろうな。
腱鞘炎にはならなかったけど、ペンだこ痛が大変だった。
昔はよくカーボン紙を使って複写していた
>>829 > みんな腱鞘炎になっちまうだろと
みんなってこともないけど、なるやつがいなくもなかった。
まあ、ないものはないんで、当時は手書きが当然だと思ってたし、
かといって今、手書きにもどれといわれてもイヤだわな。
手紙ならともかく。
手紙で思い出したけど、昔は手書きが当たり前だったので、
年賀状なんかの字を見たら(あぁ、あいつの字だなぁ)とわかったよね。
今はPCのプリンターを使用しているのがほとんどなので、特徴はあまり
ないけど。字を見て、その人の顔が浮かぶ感じだったよ。
年賀状は毎年5枚以内で済むから今でも手書きだな
枚数出す人はいいけど、少ない枚数だとPCで作成→プリントする方が時間かかる
>>851 オアシス懐かしいなあ
平成の初めの頃高校生だったが、学校でオアシス使ったワープロの授業があった
記録はペラペラの5インチフロッピー
パソコンの授業はベーシックを使った簡単なプログラム作り
ウィンドウズなんてなかったもんな
これも5インチフロッピーに記録してた
スレチだけど
懐かしオアシスの文書って今のMSワードでも読めるんじゃなかったっけ?
それだけ普及してたっつー事かもな
当時は、作家らの電子入稿のデファクトスタンダードだったんだよ>OASYS
ま、フロッピー手渡しだったけど。
でも、他社が使い物にならない連文節変換やらインクリボンをバカ食い
するカラー印刷やらの「パフォーマンス」を競ったので、個人向けには、
シェアが伸びなかったな。
アレは買って実際に使ってみないと、使い物にならないことがわからんから
なぁ。
MSのIMEがあほなのは、韓国/中国人が作っているから、と言う話があるな。
途中から日本製からそっちに開発を移してみたらMSが呆れる結果になったらしい。
(じゃあ、最初から最後まで日本人に作らせろよ金あるんだからw)
ちなみに、日本初のワープロは
ttp://museum.ipsj.or.jp/computer/word/0049.html 630万だと。
逆に最後期のワープロは、パソコンが遠回しの競合製品になっちまって
高機能化のためにインターネット接続やパソコン通信、スタイラスペン入力に
対応させたり・・・。
>>865 インターネットのできるワープロ持ってた('A`)>文豪
パソコンなんてよくわかんないし、文字が打ててプリンター内蔵、
ネットもできれば文句無し!!ってことで14万くらい出して買った。
市内通話代が安くなる11時以降にのみ楽しくネット生活を
送っていたが、2年位した頃から「このサイトが容量が大きくて表示できません」
ってのが急に増えてきて使い物にならなくなった。
もちろんその頃は2ちゃんの存在は知らなかったが、知っていても
表示不可だったであろう。
またサイトで「お便りはこちらへ」とあるメールマークを一生懸命ペンで押して
「何でお便りできないんだろ・・・」と思っていた。
(勿論アウトルックが入ってないのだから開くわけが無いが当時わかってなかった)
それでもそのワープロ、去年だか12000円で中古やさんが引き取ってくれたw
ごめん、昭和じゃないや・・・平成バリバリだた・・・
そういやテレホーダイなんてありましたね。
Windows98の頃になるとみんな11時に一斉に
電話するから繋がらないのなんの・・・。
パソコン通信の時代には、アマチュア無線の電波に
「ぴー−ひょろろー」を乗せて、安価に通信しようって
試みがあったようですね。
混線する電話番号があってそれにかけると複数の人と会話できる。
友人が公衆電話で知らない人としゃべってた。チャットみたいだった。
私は結局やらなかった。今もできるのかな。
昭和の話を頼む。(´・ω・`)
ゆく年来る年が民放全部同じ番組だったのはいつまでだっけ
中学の時、つきあっていた女の子の家に、電話する時は、
家の電話からではなくて、公衆電話からかけてたなぁ。
ウチの親に会話を聞かれるのが、恥ずかしかったから。
いつもかける時間を決めておいて、電話をかけると彼女が
出るんだけど、たまに家の人が出る時があって、緊張したよ。
>>870 まさしく昭和。
63年64年またぎが最後。
>>871 男のから電話が掛かってくると
女の子の家でもちょっとした騒ぎだった(らしい)
いい意味には、取られなかったな。
中学の同級生でも親からは「どこの馬の骨」「悪い虫」扱い。
公立中学校なら学区内に住んでいればだれでも行けるから、
他人から見れば、ただのサカリのついたオスガキ。
連絡網の言い継ぎでも、本人に取り次がないで「伝えておきます」
で、その親が本人に伝えるのを忘れたり、間違って伝えられて、
オレの言い方が悪い、呼ばわりされたり。
周りの席や理科の実験とかで班を組む女の子に、年賀状をこっちか
ら出しても、向こうから来ないどころか、返事もなく、親にナイショで
付き合ってるじゃないかと疑われたらしく
「親が誤解するから出さないで。小学校の頃とはちがうんだから」と
新学期早々突っ返された。
思春期に入ったら、適度に距離を持って節度ある交流をしましょう。
グループ交際はいいけど、1対1は、まだ早い、と言う流れに見えた。
親や先生の言いなりで、小学生の延長みたいな子だったんだけどな>オレ。
それとも、年賀状なんて行儀のいい小学生みたいなことはせず、多少反抗
的でも覇気のある子の方が、ウケがよかったのかな。
昭和50年代前半のお話
女の子の家に電話する時間大体決めて、2日おきくらいに電話してたんだけど、
必ず親父さんが出るのな。はじめの頃はお母さんが出たりしてたのに・・・
もうすんげえプレッシャー。
アレを感じなくていいだけでもうらやましいよ。
聞かれてるのわかってるからデートの約束もなかなか取りずらいし
電話で必ず用件を聞かれたよな
オヤジがでた場合気に入らなければおこられて電話切られたり
中学のときだが、女の子の家に電話した。
↓
母親が出たので、翌朝品物を取りにいくと伝えた。
↓
翌朝、彼氏が来る。
と誤解され、その子の母親&姉さんが待機してたよw
こう言う誤解は昭和のモノだな。
ちなみに、女の子に何町に住んでるの?と聞き
電話帳で自宅電話番号と住所を調べ
住宅地図で自宅場所を特定
今じゃ出来ない技だな。
878 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/28(土) 22:36:06 ID:92kZBAwE
耳の穴にコインを入れてる人
879 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/28(土) 22:40:56 ID:k8ku7Yr9
連絡網なのに女の子の家にかけたらオヤジが出て
「何の用だね?こんな時間に!」と切られた。
次の日
「何で持ち物教えてくれなかったのよ!」とその女子に怒られた。
880 :
↑:2009/11/29(日) 03:02:47 ID:Rlbt2i/Q
俺の地元だけかなぁ?
小学生の頃、遠足とか運動会が天気で中止か決行するかは、学校から一番家の近い生徒が学校の旗が上に飾られてるかどうか見に行って、中止の時は緊急連絡網の一番最初の人に電話する。
>>879 自分は、小中のうちは連絡網は母親がかけてた。
そういうの対策だったのかなあ。
電話の呼び出し
昭和40年代の初めくらい
近所の電話ある家に呼び出し頼んでたな
それを自分の連絡先として書くとか
今ではいろいろ考えられない
>>882 昭和50年代に小学生だったけど、クラスに何人かいたな、呼び出し電話の子。
そういうもんだと思ってた。
>>883 そういう子は、クラスの連絡のための名簿欄に
「○山○夫 123-4567(呼)」
って書かれてあったよね。
885 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/29(日) 11:15:47 ID:7xkAHlbj
コピー機のことをゼロックスと言ってたな。
今みたいなコピー機が普及する前、半透明の紙に原稿書いて、
感光紙を重ねて機械に入れたら、紫色の字で転写されて出てくるのがあった。
出てきたすぐ後は紙がしっとりしていて、揚げパンみたいな独特な匂いがした。
>>886 青写真だね。
造船所に勤めてる人が「裏に絵でも描け」と言いながら、いらなくなった船の設計図をたくさん持ってきたよ。
青コピー、だね。
図面などは、けっこう最近まで使われていた。
青写真とも言っていた(厳密には違うかも)
そこから派生して、構想を描くことを「青写真を練る」という慣用句が
あったが、ほんとにいつの間にか使われなくなったね。
>>885 リコピーとも言っていた。
(ウチの地元の強化書も扱う最大手の書店(兼文具屋・事務機屋)が
リコー販売店でだったせいもあるかも)
889 :
888:2009/11/29(日) 13:05:23 ID:HIZzD9A2
888をしたためている間に、887さんが書かれましたね。失礼。
>>(呼)の時代のおはなし。
電話を引くのには施設負担金(加入権)のほかに債券を買わなくては
いけなくて、40年代で20万円ほどかかったと思う。
カラーテレビ並みだったのだ。
カラーテレビが普及する前後に一般家庭に普及していったと思う。
通話料金も競争がないから高くて、東京からだと大阪で4秒10円
(3分450円),対北海道・九州(750km以上)だと2.5秒10円(3分720円)。
水戸・熱海・高崎、といった100kmクラスでも15秒10円と、後の携帯
電話並み。
100円玉の使える公衆電話もなかったから、進学・就職で地方から
大都市に行くと、急病などめったなことでなければ電話は使えず、
手紙が頼りだった。
農村部では、市町村単位の農協が敷設した有線電話があったが、
回線を共有しているので、近所で通話していると使えない上、
会話が筒抜けだった。
スピーカーが着いていて、朝・昼・3時・夕方に、NHKのニュースや
ラジオ体操、昼のいこい、農産物市況、火災速報などを流していた。
ウチのほうは、昭和40年代半ばにクラスでの電話普及率が7割くらいで、
有線しかない家や(呼)の家が結構あったが、貧富の差みたいなのがけっこう
出ていた。
農家はけっこう有線で用が足りていたようでそれは感じなかったが、商家で
もない一般家庭は、銀行や信金に勤めているような高給取りそうなウチ
(代々いい仕事をしているので、お手伝いさんがいたり、庭の植栽なんかも
すごい)→ふつうのサラリーマンの家→アパート住まいのウチ。
季節労働らしく半年間だけクラスメイトだったアパート住まいの子は最後
まで(呼)だった。
親戚のおばちゃんはいまだにコーンフレークの事をケロッグと呼んでいる
方向性はちがうけど、日本語として定着した「(レンジで)チンする」について、
会社の若い子(ギリギリ昭和生まれ)が、なんでチンなんですかねえって不思議がってたな。
コンビニのやつなんかチンって鳴るところもあるけど、家庭用はほとんど言わないか、今どき。
>>893 一時期なくなってピーピーになったが、
最近よく見かけるよ、チン。
僕のポテトはチンチンチンというCMを思い出したがあれは昭和だったっけ平成だったっけ
「おそ松くん」のお父さんは毎年年末になるとボーナスを落として帰宅した
父が自営業だったウチは「ボーナス」の実感がなく不思議な気分だったな
>>894 そうなのか。
じゃあ、これからまた違和感のない表現になるのかな。
>>895 たぶん昭和。
あれ、ヒカルゲンジ(表記は忘れた)だったでしょ。
平成に入ってすぐ「HAY! SAY!」ってアルバムを出したはずで、
そのCMは、それより前のデビュー間もないころだったんじゃなかったかな。
チンチンポテトは平成
899 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/29(日) 18:16:09 ID:peoxjsH+
一軒家の庭には、植木と、なぜかデカい石を置くのが流行った。
>>899 不審者をあの石でしばき倒すんだよね。
冗談はさておき、小さな池を作って鯉を飼う家もあったね。
ウチも、借家だけど池があったので鯉を飼った。
そんな池は、家の所有者が老いると、片っぱしから埋め立てられていった。
うちは昭和40年代前半に某公団に引っ越したがしばらく(呼)だった。
お金が高くて電話をひけなかったのではなくて、電話工事を希望する人が
多くて、申し込んでもすぐには順番が回ってこなかったって母が言ってた。
今だったら電話設備は標準装備だからどこへ越してもつなぐだけでいいけど
昔は文字通り電柱から電話線を引いてもらわなくてはいけなかったのかな。
893こういうスレなので真面目な話うちが最初かもしれない。昭和45年には電子レンジがあって、チンと呼んでいた。それから10数年経ってチンチンポテトのCMがあった。
昭和40年頃松下の工場長をやってた親父が電子レンジを初めて持って帰ってきた
当時最先端の家電が近所では真っ先に入手していたので
そのたびに近所の人等が見学に来たもんだ
904 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/30(月) 06:59:47 ID:xh6400fa
500W 650Wが主流と勝手に思ってるから
750Wってえらく中途半端に感じてしまう
松下と言えば、昔電気屋さんの入り口に、男の子の人形が
不二屋のペコちゃんみたいに立っていたのを思い出すわ。
それとテレビの「水戸黄門」の始まる前の
♪始めましょうか〜新しいこと〜みんなウチ中明るいナショナル〜
と長年流れていたあの曲。
昭和の香りがしていたのに、ドリカムの曲に変わって、またひとつ
昭和が終わった感があるよ。
ナショナル坊やだな
>>888 青焼き(と呼んでた)、あの紙もう10年以上見てないや
設計図描くのが機械化(CAD)して手書きの図面を印刷することもなくなったよ
一時期巨大なボードにコードで繋がった鉛筆で図面を書いてそれを直接データで取り込むとかいう
よくわからない機械で作成した図面のみ受け付ける機関があって投資費用に泣いたとか云々
>>904 パオレとか言うガス屋が売ってたオーブンレンジ20年くらい使ってる。ターンテーブル外して専用の釜をセットしたら、パンとかつくれる。
庫内も小さ目のオーブントースターが入りそうなくらい広くて鳥の丸焼きとか余裕だった。
湿式コピー、あれ要するに「日光写真」だよな。
確かバブル前後だから平成にかかってるかもしれないけど、
銀行預金の金利が普通に5%とかあったよね。
銀行に預けるって事は銀行にお金を貸してるのと同じなんだから
今みたいなただ同然はおかしいよな。
14〜5年前に入った3年以上郵便定期が
たしか6〜6.5%くらいの利子だったかな
913 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/30(月) 18:37:59 ID:1vDHZkQu
>>911 >>912 最高で8%台という時代もあった。
当時、ちょっとした資産家なら、貯金の利子だけで老後を過ごせた。
預金金利ゼロに近いけどデフレの現在は実質金利を考慮すると
金利付くだけでも十分高金利。
消費者物価指数の下落考慮するとマイナス金利でもおかしくない。
しかし食料品は同じ値段でもだんだん小さくなっていったりしてるし、
牛乳、菓子パンなんかは値上がりしてるぜ。
916 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/30(月) 22:08:07 ID:esR3XL4x
いや、高度成長期はそれ以上に給与や物価が上がっていたので、
金利が5〜6%でも、みんな株式やらに走っていたものだよ。
昭和40年代、信託銀行が小学館の雑誌「幼稚園」や「小学一年生」に
投資信託の一種の「家庭教育信託」なる金融商品の広告載せていた。
小学入学時に6〜10万円くらい(初任給の約3倍:いまでいえば60
万円くらい)を預けて、元本には手をつけず、その配当金(予想配
当率6〜7%)で6年間の「小学*年生」の購読料と通信添削の費
用をまかなう仕組み。
だが、6年後に帰ってくる元金は、預け入れ当初のほぼ半分の価値に
なっていた。
田舎だったからかも知れないが、近所の田んぼに入ってセリを取っていた。
ガキだったからすぐ飽きて、レンゲを食べるのに夢中になった。
その辺の山でツワブキ・ウド・タラの芽……取り放題だった。
入会地なんて思想はなかった。
今では、山菜のシーズンに山に入るだけで怒られる。
そりゃ怒られるわな
俺も田舎だったせいかも知れないが、少なくとも地元の住民は山菜採り放題だったなあ。
山に限らず、昔は、その辺の野原や空き地も好き勝手に出入りしていたよね。
ちょっと前の山菜、というか自然食ブームみたいなので町から車で来るやつが、
山菜取るとき引っこ抜いたりとかして、荒らすもんだから締め出さざるをえんよ。
来年も収穫できるようにとか考えてないからな。農業知らないジジババは特にひどいよ。
若いやつと違って注意しても聞かないからな。山菜取りだって根っこの考えは農業と一緒なんだから。
俺はイタドリ(方言でスッポン)を取って食べるのに夢中だったぜ。
路地は舗装されてないから穴開けてビー玉で遊んでたぜ。
山菜の
1/3 は人間がとる
1/3 は動物用に残す
1/3 は来年用に残す
ですね。
「最近は少なくなったわねー」とか言いつつ根こそぎ持っていくんだな。
>>916 うちの母親の記憶によると昭和40年代石油ショック前は10%まで行った…らしい。
「10年預ければ倍になる」みたいなキャッチコピーがあったとか。
ただ不動産価格がその間に10倍になっていたとかね。
不動産価格は困ったことに未だに全然値下がらない…
現金の価値は、大体2005年頃と比較して1965(昭和40)年頃で10倍、
つまり今の3億円は30億円の価値があったとかいう乱暴な計算も麻雀漫画で見た。
そりゃ3億円事件が騒がれるわけだ。
>>924 ドラえもんで有名なように銀行の定期預金は10年で2倍が平均的だったからな。
926 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 18:39:46 ID:b+N3GIiV
郵便定額貯金は、半年複利で利息は当時非課税だったから、
年利7%でも、10年後は約1.98倍となり、年平均9.8%
(≒10%)と言うことになるね。
昭和期は本人確認がゆるく、家族名義や偽名を使って、
金持ちは何口も貯金していたとか。近年では、平成2年
ごろにバブル景気を引き締めるた6%台の金利をつけた
ことがあったが、郵貯も課税対象になったので、複利で
8%が6%台になってしまっていたが、その後、低金利
から脱却できないことから、10年間元利保証のズバ抜け
た金融商品だったのだ。
927 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 19:10:42 ID:pHANXLMj
コンビニの単色コピーが10円だった
大きいサイズも10円だった。今は確か80円か
あと為替手数料も10円→100円になった
928 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 19:36:21 ID:c/mvJPJt
テレホンカード式の公衆電話が最新で、ちょっと古めのタバコやとかだと
赤電話とかピンク色した電話が置いてあったな。
あとポストが赤くて丸かった。
膝丈スカートに白いハイソックスという格好を普通の主婦がしていたりして
母の写真を見てびっくりした。
生放送があたりまえだったから、8時だよ全員集合で、ゲストのパンツが見えることとか
一度はスタジオ停電でずっと番組がはじまらずに画面が暗かった。
今じゃ考えられないなー
>>928 停電の全員集合見てた〜
暗い中でも番組は始まってたよ。
「おい停電だな、どうする?」みたいなこと言ってた。
たしか長さんが「8時10分過ぎだよ!全員集合!」と言ってたと思う。
「8時だよ」って、一晩で1000万くらいのセットをぶっ壊していたらしいね。
あの、舞台の上をパトカーが通り抜け、2階建ての家が総崩れするような
壮大な終わり方だから・・・
今じゃ無理だって。生放送で毎週番組を行うのも無理だろうね。
932 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 21:27:15 ID:c/mvJPJt
そ、そんなにあのセット金かかってたのか・・・
たしかにあのジャンジャカジャンジャンジャーンっていう終わり方は定番だった。
比較の対象が少なかったのかもしれないけど、
あのときのドリフのほうが今のバラエティーより遥かに面白かったと思うんだよね。
その後の「かとちゃんけんちゃん・・・」になっただけでも
面白くなくなったように思う。やっぱ長さんが引き締めてたのかな。
先日知人と話してて、上から物が落っこちてきそうな恐怖を語ったら
「ドリフの桶みたいなのね」と言われて、同じ世代っていいよなーと実感した。
あとは冬でもランニングに半ズボンの小学生がいたなあ。
>>932 全員集合は、毎週、生のビッグバンドをセット後に待機させてジングルやアイドル歌謡の伴奏をさせてたのも贅沢だったな
最近はコストの問題でなかなかできなくなってる
934 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 22:03:00 ID:Ae1SZRCJ
>>932 >>あとは冬でもランニングに半ズボンの小学生がいたなあ。
テレビの中ではね。
”テレビでとりあげられるほど珍しい存在"だったよ。
「ズームイン朝」とかみて、アレは絶対
「ウケ狙い」「エエカッコしい」
(先生とかオトナ向けの)「点数稼ぎ」
と仲間ウチで揶揄していた。
親からも、ヘンなことで競ってカゼひいて学校休んだら勉強遅れる、
って言われるのがオチ。
ドリフのコントは徹底的に練習して造っていたから面白くって当たり前
だったんだよ。今のコント(笑)ってやっつけ仕事と遜色ないぐらいヒドイもんな。
全員集合の一番すごいところは、あれがずっと固定したスタジオに客を入れて
放送していたところではなく、地方のホールなどでもやっていたところ。
>>934 ごめん、うちの小学校では学年に3人いたわ…。昭和50年代。
全員集合の壮大なコントを見て育った世代には、
レッドカーペット等は「仮に面白くても小粒」な感じが
している人が多いかも、と勝手に想像している。
レッドカーペットとかエンタの神様とかそういう番組で、
何割かでもネタと話術のおもしろさを売りにしている芸人が
存在すること自体が奇跡だと思える状態だし。
>934
うちの地方は冬の朝は必ず半袖短パンでランニングとか
裸足教育ってのが幼稚園等で流行った。
ここ10年くらいはないけどね。
裸足教育ナツカシス
小学校3年から卒業まで裸足教育だった
学校までは靴はいて下駄箱で靴脱いでそれ以降は校庭も教室も全部裸足
うわばき必要なし、ただし体育館だけ体育館シューズ着用
帰りにまた下駄箱で靴履いて家まで帰る
冬は業間マラソンと称して休み時間になると全員校庭に出て裸足でただひたすら走る
何周まわったか記録して毎日貼り出し
他の学校からよく見学に来てた
ガキの頃って、靴もショボかったよね?低学年の頃はウルトラマンや
仮面ライダーの絵が靴全体にプリントされてあって、中〜高学年になると
のび太がはいてる様なので、足の甲のゴムの所と、かかとの所、ひどい時は
内側まで「3-1 山田」とマジックで名前かいて。
今の子供に人気のある「駿足(しゅんそく)」などとは比べ物にならなかったよ。
940 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 22:36:17 ID:VfY10sMT
靴だけじゃなく、服もなにかもショボかったよ。
<オレが小坊だった昭和50年±3年間。
カランダッシュの色鉛筆なんか社長令嬢でもなきゃ持ってなかったし。
カ、カランダッシュってw
S50年に生まれたおいらの時代は田舎だからかな?
小学三年生の頃シャープペンを親戚に買って貰って
喜んで学校に持っていったら、ボッシューされたよ。
15色の絵の具も先生がいい顔しなかった。
942 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/02(水) 22:49:28 ID:HPz19x2c
いまやホームセンターも売ってるからな>カランダッシュ。
S.60頃の$1=\200を切ったあたりから、
「入学祝」や「親族からのプレゼント」ならおかしくない金額で売っていたが。
>>941 15色でいい顔しないって、ヒドイねぇ。
そういえば、絵の具の時の、あの4つぐらいに仕切られた黄色いバケツが
懐かしいな。
>>941 自分も50年生まれ。シャーペン没収されたよね。
鉛筆OK、ロケット鉛筆OK、シャーペンNG だったと思う。
5・6年生(S60年くらい)からなしくずしにシャーペンOKになっていった記憶がある。
あと自分は小学校入学前に親から肥後守の使い方を教わって
「これで鉛筆を削るのよ」と言われてたのに、いざ学校に行ったら
みんな鉛筆削りを使っててショックを受けた。
家では肥後守を使い、学校では鉛筆削りを使うので、鉛筆の削られ方が見事にまちまちだった。
小学校の頃はなにも言われなかったが、
おじいさんからもらったカランダッシュの
色鉛筆を中学の技術科の製図の時間
に使っていたら
「おまえ、なんでこんなもの持ってるんだ!?」
と、技術の先生にたいそうタマゲられた。
(没収等はされなかった)
その先生に言われるまで、芯の部分が水彩(水溶性)に
なっているとは思わなんだ。
946 :
945:2009/12/02(水) 23:06:36 ID:Rt/FTtG1
↑あ、それと、それを「カランダッシュ」と読むことも。
もらった当初は、同時にもらったイトコとともに、
ただの「横文字しか書いてない珍しい外国製の色鉛筆」
としか思ってなかった。(その頃は外国製自体が珍しい)
(観光地のみやげ物屋にある、ぶっとい10色ボールペンと同じ認識)
947 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/03(木) 01:37:41 ID:JrDj3YN6
>>938 運動会や体育の時だけはだしってとこもあった。
自分の学校は特にそんな方針はなかったが、運動会ははだしで走ってみたかった気もする
はだし教育の学校の運動会で、、トラックにたばこを投げ込んだ馬鹿親がいて、児童が踏んづけて大騒ぎになった。
踏んだ子は、その後、何を言われても裸足にならず、教師も注意できなかった。
つか、その子に「たばこ!」と言われただけで何も言い返さなかった。
昭和50年代に学研の雑誌の投稿欄で
小学校低学年の女の子の自己紹介欄に
「40度の熱でも学校を休まないがんばりやさんです」
拷問だろうそれは
本人がバカなのか、親が狂ってるのか、
いずれにしてもこれを頑張り屋扱いして記事掲載する編集部もアホだ
950 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/03(木) 07:22:17 ID:0Ttye52g
タバコ、ガソリン、酒の値段は税金のおかげで、日本はベラボウに高い、
という認識。
いまや、日本が先進国ではベラボウに安いらしい。
海外旅行のお土産は、タバコはぜかKENTが多く、酒はナポレオン、コニャック、
ジョニ黒などを免税枠いっぱいに持ち込んでいた。
酒は応接間のサイドボードのインテリアになったりする。
>>932 >あとは冬でもランニングに半ズボンの小学生がいたなあ。
平成初期だけど同じ通学班の1つか2つ上の男子が正にそれだった。
部活とかでスポーツ中に水飲んだら怒られたりね
中学のとき、「貧富の差が出ると貧しい家の子が可哀想だから」という
理由で弁当はおにぎりのみ可だった。
(普段は給食で、土曜に部活がある人等への適用事項だったが)
昭和50年代末期〜60年代を小中で過ごしたが、戦後の貧乏時代、
数年前に全国を席巻した学校荒廃それぞれの余波を引きずって
世の中はどんどん豊かに明るくなっていっているのに、学校の中だけ
暗く、理不尽に厳しい規則で溢れていたっけ。
数年後、妹が中学に上がる頃には下らない規則がほとんど撤廃になっていて
なにか損をした気分だった…
こんな変わった校則が〜
っていうのが一時期テレビラジオの定番だったけど、
今はそういうのあまり聞かないもんね
下は年がら年中半ズボンだけど、上は季節に対応ってやつはいたなあ。
冬なんか、上はジャンパー(ブルゾンにあらず)で下は半ズボンなの。
昭和50年代前半頃のお話
小学校の3〜4年の頃ストレートのジーンズとGジャンを着て学校に行ったら1人浮いたっけ
親父が衣料品製造会社を経営してたから
欧米の最先端ファッションを小さい頃からさせられていた
毎日珍しい格好だったから女子にはウケが良かった
しかし、あの頃は今みたいにファッションが自由ではなく右に習え的な感じだったため
反比例して男子から奇異な目で見られたのは言うまでもない
学校からも格好が派手すぎると注意を受けた事もあったな
958 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/03(木) 15:56:26 ID:IDQpTGAE
女子中学生の多くが黒いパンストをはいて通学してた
昭和47〜8年ごろに、小学校5〜6年だった俺。
四つ上の兄貴のお古を着さされていたので、なんか年相応っぽい服でなかったから
よく上級生から「生意気だ」と目をつけられた。
襟の長いシャツにデニムのラッパズボン、デカイベルトをしていたから。
しかも髪を伸ばしていたので、よく女の子と間違われたよ。
960 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/03(木) 17:36:06 ID:ODa2rjXe
赤いスカーフを首に巻いたらまんま変身前の仮面ライダーだな
小学校の制服が半ズボンだったから男子は全員年中半ズボンだった
体操服は男女共半袖半ズボンしかなかった
小中学校の夏の体育は、女子はブルマーだったなぁ。男子は短パン(ハーフパンツにあらず)だった。
今は男の子の入学式なんかの服も、膝丈の短パンだけど、昔のはもっと短かった記憶が。
964 :
959:2009/12/03(木) 18:46:03 ID:VV9hrMPK
>>962 しかも靴下じゃなくて白タイツだったりするんだよな。
中学で男子は丸刈り強制(学校単位でなく市内全体が!)、女子はおかっぱ強制。
ツインテールか三つ編みだとokだったが、ポニテは禁止だった。
襟足が欲情させるって理由だったwもうアホかとw
またひとつ昭和が終わる・・・
★<学研>「学習」「科学」の休刊を発表 老舗学習誌
・学研ホールディングスは3日、学習誌「学習」と「科学」を休刊する、と発表した。
「学習」は09年度冬号(10年1月1日発行)、「科学」は09年度3月号(10年3月1日発行)で
休刊する。
「学習」(1946年創刊)は「『できる』よろこびと深く学びとるチカラを」を、「科学」(57年創刊)は
「“小さな発見・大きな感動・科学っておもしろい!”」をそれぞれコンセプトに発行を続けてきたが、
「児童数の減少やニーズの多様化など市場環境の変化による部数の減少のため」休刊を
決めたという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091203-00000031-maiall-soci
>>962 ふだんは「おなか冷やさないように」毛糸のパンツ代わりにスカートの下に
はいて、体育だけじゃなく、掃除や草取り、花壇の作業、いや休み時間に
遊ぶときや下校後に公園とかで遊ぶときには、ポイッと気軽にスカート脱
いで、名札のついた普段着のトップス+ブルマー、という出で立ちになる
まるで「臨戦態勢の戦闘服」でしたな。
まるで、そんなカッコになるのが粋、ならないとダサイ、くらいに。
その姿でランドセル背負って下校する姿なんて、ごく普通の光景だった。
バレエ習ってるようなスタイルのいい子なんか、カワイイ×カッコイイ
+ドキドキ…。
そんな子が体育の「かつぎ合い」で、対面で、こちらがかがみこむ側、
あちらが抱えられる側になった日にゃ、その後の休み時間のトイレで…。
>966
学研の科学、親には玩具が付録に付く雑誌だと思われて、
ねだっても買ってくれなかった。理科好きだったけど、
うちの親にはそんなの関係なかったからな。
小学校だった頃はちょどポートピアとか筑波科学万博とかの頃、
所々でコンピューターがブームだった。
学研の雑誌とは別に、パソコン(マイコンの範疇に入るかな?)を
ねだってみたことはあったが、ソレは「買ってもらえなくて当然」と
最初から諦めていたな。10〜20万円とか途方もない金額だったし。
ただ、買う気はないのに思わせぶりな態度した後分かっててクニャクニャ
言い逃れする親の屁理屈にムカついて、
「お金がないから駄目とか、最初からきちんとした理由を言ってくれ!」って
ギャーギャー怒っていた覚えはある。
969 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/03(木) 23:43:00 ID:7dOaaEgZ
>>961 >小学校の制服が半ズボンだったから男子は全員年中半ズボンだった
大阪市内の小学校は、今でもそうだよ。
茶色の制服も30数年間デザインが変わらず昔のまま。
最近目撃してビックリした。
都内、私服の区立小学校でしたが冬でも半ズボン。
風邪気味で長ズボン履くときは親の署名が必要。
インフル流行でクラス1/3くらい欠席でも
担任教師は「たかが風邪、学級閉鎖は恥」という思想で
他クラスとっくに学級閉鎖で誰も登校していないのにガラガラの教室で授業受けた。
当時の親からは「熱心な良い教師」だったらしいが今なら問題視されているだろう。
971 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/04(金) 06:29:09 ID:pOAKzcs1
>>870 それはちょっとちがうかと。
学級閉鎖はさすがに校長が校医と相談の上で決定するものだけど。。。
>>966 学習と科学も終わってしまうんだ?
小学館の学年雑誌もそうだけど、子供は誰でも読んでいた時代しか知らないので
社会構造の変化にびっくり。
自分も「小学○年生」は4年生までしか読まなかったもんなー。
5年生以降はりぼんやなかよしやジャンプにはまりだしたし。
おはよう姫子が小学1〜3年生で、うわさの姫子が4〜6年生に掲載されていた気がするが
(うろ覚え)
おはよう、から、うわさの、になり姫子が突然大人っぽくなりすぎてて
これはないわーと当時思ったな。
「小学○年生」は学研じゃないよ
「○年の科学」「○年の学習」が学研
今は大人の科学があるから大丈夫!
"学校(授業)のある土曜日"のような、日本人なら世代を超えて持てる共通認識
がどんどん失われていくのは悲しい。
977 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/04(金) 20:52:19 ID:Xpxrimce
学研("学習""研究"社)が「科学」「学習」を、「小学」館が(一部とはいえ)
学年誌を休刊するなんて、「看板」を降ろすようなもんだろ…。
少子化や出版不況、興味の多様化なんて理由付けより、
ストレートに,"未来のない"「日本オワタ」を暗示していないか。
「学習」はいまいちだったが「科学」は面白かった。
付録の「ぐりちゃんの実験 」が好きだった。
紫水晶が入っていたときは感動した。
>>977 思い出補正が大きいようだが、そこまでの存在じゃないだろ
学習科学も小学○年生も
岩波あたりがつぶれたら本格的に日本オワタ気がするが…
今の学習と科学はもしかして「たくさんのふしぎ」くらいマイナーな存在になってしまったのだろうか
月刊でもないらしいね
>>982 乙
科学雑誌といえば公文が出してたコペル21って子供向け科学雑誌
誰か覚えてないかな
>>983 しっとるよw
「子供の科学」の付録の紙飛行機がすきだったなぁ・・・・
985 :
↑:2009/12/05(土) 03:24:44 ID:+m5A2bhM
東京に住んでたけど、隣のオバチャンがづかづか家に入ってきて、醤油貸して〜っと言って普通〜に俺ん家の醤油を持って帰ったが違和感なかった。
南アフリカがオリンピックから締め出されていた
>>975 結局、子供の頃にハマった世代がそのままシフトしているだけっすなw
>>987 数年前、学研が「電子ブロック」を再販したところ、即完売だったらしいね。
んなもん話題にはなるけど半年たってすぐ飽きるダロって思ったけど、
今の今までオプションを増やしながら継続して販売しているからねぇ。
>>965 坊主頭のくだりは
神戸市民ですか?
自らや揶揄して
坊主頭のこと「ハゲ」って云ってた
>>990 当たり。
当時は「瀬戸内は暖かいから」という理由で冬のタイツマフラーコート禁止で拷問だった。
男子は体育の授業でマラソンやったあとは頭から湯気が出ていたw
>>992 「瀬戸内は暖かいから」
神戸じゃないけど、明石って巨人のキャンプ地だったんだよな、昔。
994 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/06(日) 08:52:39 ID:WlQ7lcAW
>>933 まあ今はロックバンドのスタイルが主流だしな
ダンスミュージック系とかもターンテーブルとかシンセとかだし
ブラスバンドってのは時代にそぐわない
あらまそうかい
懐かしいな
へんな薀蓄小ねたを学んだよ
>>988 未だに再販品じゃないのを持ってる。
まだ使えるのかなぁ・・・
持ってるなら使ってみたまえよ。
>994
「ビッグバンド」と「ブラスバンド」は全然別物
ほれ、1000持ってけ
↓
_‖_ ―◇
|| ̄ ̄|| /
||__||
 ̄ ̄ ̄ ♪
∧_∧ 〜 1000〜♪
( ・∀・)__ __
( つ¶/\_\ |ロo‖
|||\/_/ |冂‖
(_)_) _||_ |凵‖
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
1001 :
1001:
.................................. ── ....................................................
........................../ \..........................................
....................../ ..................................................... .
.. ... ... ... ../ ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ... ...
... .. .. .. ...| |.. .. .. .. .. .. .. .. .. .
. . . . . . . .| |. . . . . . . . . . . . . .
. . . . . . . . . . . . . . /. . . . . . . . . . . . . . .
. . . . . .\ . . . . . . . . . .
. . . . . . . .ー __ /. . . . . . . . . .
次スレへ行こうね うん
∧_∧ | ̄ ̄| | ̄
 ̄ ̄| (::: ´∀) ∧_∧  ̄ ̄| |  ̄ ̄ 1000を越えたのでもう書けません。
 ̄ ̄(::: つヽ(∀`::)  ̄ 新しいスレッドを立ててください。
..___ |::: | | ( o ::)ゝ . ._____
/ (__)_) J`J .... \ 【生活全般@2ch掲示板】
/ ..... 三三 三 ... .. \
http://changi.2ch.net/kankon/ / 三三三 .. 三三 .. .. \