1 :
澤井奉公会:
新規スレが1個立つと、古いスレが1個消えてしまうんだよ。
だから重複スレや、駄スレが立つとみんな怒るんだよ。
そのシステムが解らない人にとっては
「なんでそんなに怒ってるんだ?」って思うかもしれない。
名門→迷門かぁ、これも時代の変遷か。。。
3 :
岡崎久彦:02/07/26 06:48 ID:EkHKYVv5
百年の遺産-日本近代外交史−01 岡崎久彦
【歴史を曇りない目で】 その時代の尺度での真実を
ペリーの来航(1853年)から、日本の敗戦、占領の終わり(1952年)まで、ちょうど
百年になります。
この百年は、いわば、現代の日本にとって少年期、青年期の人格形成期にあたります。こ
の百年を曇りのない目で見つめることによって初めて、現代の日本も理解でき、将来の日
本も見えてきます。
ところが、敗戦後しばらくは、こんな基本的な認識さえ失われた時期もありました。つまり、
現代日本の原点は敗戦の焼け跡にあり、それ以前は考えるに価しない忌まわしい過去
だという考え方です。これは、戦後二十年余を経て、司馬遼太郎が『坂の上の雲』で明治
を語り、人々が「ああ、日本にもそういう時代があったのだ」と郷愁と畏敬の念をもって過
去を想い出すようになるまでは、少なくともマスコミ、評論次元では一般的な感じ方でした。
今はもう、そういう考え方の人はほとんどいなくなりました。しかし、一口で歴史を曇りの
ない目で見る、と言っても、それこそが歴史を書く場合の永遠、かつ究極の課題であり、
決して容易なことではありません。
しかも日本の近代史は、今まで様々な偏向史観で引き裂かれてきました。
まず、明治維新の歴史は、必然的に勝者の史観、即ち薩長史観が優勢でした。封建的な
古い日本が維新で一挙に打ち砕かれ、夜が明けたようになったという史観で、大筋では
そうも言えるのですが、日本民族がそれまで千年間培ってきた文明、とくに江戸300年の
高度の文化と歴史の継続性を軽視する弊害がありました。それはアメリカの占領で夜が
明けたように日本が民主化したという占領史観とも、勝者の史観という点で共通する所が
ありました。
4 :
岡崎久彦:02/07/26 06:49 ID:EkHKYVv5
その後、大正から昭和の初期まで、すべての史論が許された自由な時代がありましたが、
やがて国内、国際社会の緊張が高まるにつれて皇国史観が強くなり、非常時体制の下で、
その他の史観が封殺されます。当時は、豊臣秀吉や北条泰時などの歴史的業績を讃える
際に、皇室を尊崇したことが強調されました。秀吉、泰時が偉大だったのは、別の理由から
でしょう。それは戦後のTVドラマが徳川家康や北条時宗について、歴史上の事実かどう
かさえ疑わしい、その平和主義を讃えているのと同工異曲の偏向史観でした。
そして、占領中は厳しい言論統制が行われ、東京裁判と占領政策の批判は許されなくなり
ます。東京裁判は、満州事変以降の日本は一貫して侵略的であり悪であって、その行動は
暴虐を極めたという史観であり、また、占領政策は、過去の日本は軍国主義的専制国家で
あって、これを占領軍の力で軍事力否定の平和的民主国家に作り直したのだ、という史観
立ち、それに対する批判は封殺されました。
このアメリカの政策は、冷戦の激化に伴い、日本を軍事的に信頼できるパートナーに育て
ようという政策に変わります。ところが、この占領初期の偏向史観は、日本を軍事的に弱
体化させることが最大の目的である共産主義勢力の戦略と完全に一致したため、占領が
終わっても、今度は、国際共産主義勢力や日本国内左翼によって、温存、増幅されて国民
に深く浸透し、いわゆる戦後日本の偏向史観が形成されます。
この史観を背景として、60年安保、70年安保の反政府運動が荒れ狂い、それが治まった
と思うと、80年代に入って、いわゆる自虐史観という形で、今度は外国の干渉を日本側か
ら誘って呼び込む形で再燃します。
他方、特に左翼偏向していない一般の人々の間でも、戦争と敗戦の惨苦があまり酷かった
ため、史論と言えば「誰があの無謀な戦争を始めたのだ」「何が悪かったのか」という歴史
の善悪是非論が繰り返されています。
5 :
岡崎久彦:02/07/26 06:49 ID:EkHKYVv5
歴史学の泰斗・ランケは言っています。
「皆さんは歴史から教訓を学ぼうとされるが、私はそんな大それたことは考えていない。
ただ歴史の真実を追求するだけである」
歴史というのは、国家と個人がそれぞれに力の限り生きてきた営みが集まった大きな流れ
です。戦争も平和もその中に生じます。その間、戦略の是非、外交の巧拙はあっても、倫
理的な是非善悪は論じ得べくもありません。
この連載の目的は、歴史の真実、それも私の能力の及ぶ限り、バランスの取れた真実を追
求することしかありません。そして、歴史がその時代の人々の努力の集積であるならば、
その時代の人物を、現代の尺度でなく、その人が生きていた時代の尺度に合わせて見つめ、
その努力の軌跡を追うことによって歴史の真実に迫るのが正攻法でしょう。それはまた古
来の史家の伝統的な手法であり、歴史が人間のものである以上、それしかないのでしょう。
ここでは、日本の外交を中心に、日本の近代外交史を論じるので、おのずから、陸奥宗光、
小村寿太郎など、その時代の外交を担った人々の軌跡を中心に追いつつ、その時代を捉ら
え、歴史の真実を求めていきたいと思います。
地下室でやってきたことは誰にもいえません。
7 :
卵の名無しさん:02/07/26 07:18 ID:QjI1LUBs
広告やる金があるなら社員の給料を世間並みにしてやってくれ
8 :
岡崎久彦:02/07/26 07:26 ID:PIHmHRSL
百年の遺産-日本近代外交史−02 岡崎久彦
【陸奥宗光の生い立ち】 「才学双全」は刻苦勉励の結果
朝誦暮吟(ちょうしょうぼぎん)15年
飄身漂泊(ひょうしんひょうはく)難船に似たり
他時争い得ん 鵬翼(ほうよく)の生ずるを
一挙に雲を排して 九天に翔(か)けん
−古典や詩文を学んで15歳となった。難破船のように身を寄せる所もない。しかし、
いつの日か、他との競争に打ち勝って、鵬(おおとり)の翼を得よう。一挙に雲をつき
破って、大空を翔けめぐるのだ。
これは陸奥宗光が数え年15歳の時、苦学のために江戸へ旅立った時に賦した詩です。
今で言えば、中学2、3年の少年の作です。しかもそれはただ漢詩の体をなしたものを
習作したというだけでなく、当時の陸奥の感慨を正確に歌い上げたものであり、また、
陸奥はまさにこの詩で決意した通りの一生を送っています。陸奥もまた、新井白石から
吉田松陰に至る、江戸時代が生み出した早熟の天才達の系譜に連なる人物の一人
だったと言えましょう。
当時の陸奥一家は、詩にある通り、落魄(らくはく)していましたが、元は紀州和歌山藩
の名門です。「陸奥」という名は宗光が自ら名乗った名ですが、元は伊達という上士の
家でした。
徳川八代将軍吉宗が紀州藩から出て以来、歴代将軍は悉(ことごと)く紀州家となり、江
戸時代後期の紀州藩の威勢は大したものでした。紀州侯の江戸往復の際、沿道の庶民
は平伏しなければならず、「表の行列なんじゃいな、紀州の殿様お国入り」と歌われた通
りの盛儀でした。
9 :
岡崎久彦:02/07/26 07:27 ID:PIHmHRSL
その紀州の上士ですから、徳川時代のエリートです。しかも宗光の父、伊達宗広は桁(け
た)はずれの大秀才でした。漢籍は当然のこととして、国学、和歌でも一家を成し、晩年
には仏教や禅を究め、また歴史家としても、後に内藤湖南が日本の五大史論の一つに数
えている『大勢三転考』を著して、ひそかに幕府の滅亡を予言しています。他方役人として
も若い時から抜擢(ばつてき)と出世を重ね、テクノクラットの最高位ともいうべき勘定奉
行となり、藩の財政再建に大いに実績をあげます。
時は江戸文化最後の華、文化、文政、天保の時代で、宗広はその社会的成功とありあま
る才気で、わが世の春を謳歌します。
18世紀ほど西欧でも、清国でも、日本でも、人々が永久に続くと思われた社会秩序を信
じ、人生の優雅さを尊重した時代はないと言います。しかし、その典雅と華美の時代は、
フランス革命で一転して、革命と硝煙、英雄と志士の時代の19世紀となります。その歴
史の潮流は半世紀遅れて、阿片戦争とペリーの来航で、極東の門口まで来ます。
宗広の失脚は、まさにペリーが日本に向かって航行している時期でした。宗広を重用した
紀州国元の老公(舜恭公)が死ぬと、たちまち宗広は政敵に追い落とされ、自らは幽囚の
身となり、家族は禄を奪われて城外に追放という苛酷な処分を受けます。
この時宗光は十歳でした。周囲に権勢を誇り、特権意識をもった家族が急に没落し、富も
権力も一朝にして去り、しかも一家離散となる。こうしたことは少年でも、あるいは、自分
の力ではどうすることもできない少年ほど心に深く響くものでしょう。この時以降、陸奥の
人生は勉強と努力の連続、今の言葉で言えば、ハングリー・スポーツの一生でした。
後年、反逆罪で5年間収監されますが、その時夫人にあてた手紙では「一昨年来、毎朝
8時から夜は12時まで読書して1日も怠ったことはありません。大いに面白く楽しく、春
の日(は長いというが)も短いように感じ、独り寝の夜(は長いというが)もちっとも長いとは
感じず、退屈するということは全くありません」と書いています。
10 :
岡崎久彦:02/07/26 07:29 ID:PIHmHRSL
宗光の長男広吉は、「世の人は父のことを“頭脳の人”と言うが、私はそれだけとは思
わない。あれほど刻苦勉励すれば、普通の人でもあそこまでいき得るのではないかと
思う。……父の遺した教訓の一つに、夜眠れない時は、何か一つ持ち出して考えてみ
るものだ。その考えは他日きっと役に立つ、というのがあるが、父は平素これを実行し
ていた」と回想しています。
陸奥は才学双全の人という評価があります。才能がある上に努力家だったという事です。
幕末維新は、現代人の限られた人生経験では想像もできないような、本来相容れない
はずの二つの性格の長所を兼ねた人物を生み出しています。西郷隆盛は生来小心で
感傷的な性格でありながら、大度量、剛腹な人物となり、伊藤博文は目先の利く実務家
でありながら、明治憲法の思想的柱石となります。
現代人の到底及ばない教養で古人の哲学と経験を学び、かつ大変革期を身をもって処し、
その間人格識見を陶冶(とうや)、成長、変革する機会を何度も与えられたからでしょう。
才学双全という表現の裏には、才子学ばず、という言葉があります。才能のある人はえて
して努力しないという意味です。宗光も、もし十歳の時に一念発起する機会がなかったな
らば、その性格から言って、万事才気と口でごまかして、ガリ勉の徒を嘲笑するような人
になったことは想像に難(かた)くありません。
それが運命のいたずらで、本来なら性に合わない刻苦勉励を自らに課したため才学双全
の人ができあがったのです。
11 :
卵の名無しさん:02/07/26 07:36 ID:IUqJIt2S
地下室の怪人がまたまた新しいスレッドでも登場してるね。
なんで東〇のスレッドには出てこないの?
12 :
卵の名無しさん:02/07/26 07:46 ID:IUqJIt2S
こんなスレッドたてるよりも製品のアラを探した方が早いと思うよ。
先発MR殿
13 :
岡崎久彦:02/07/26 08:18 ID:m/5+s24h
百年の遺産-日本近代外交史−03
【世界でも希な文治社会】 教養人生み 近代までの礎築く
江戸留学を志した15歳の陸奥は、もとより旅費もないので、高野山の老僧が江戸に行く
供(とも)として東海道を下り、江戸についてからも書生をしたり、筆耕のアルバイトをしたり
しながら安井息軒など一流の漢学者について勉強します。
男児志を立てて郷関を出(い)ず
學若(も)し成ら無くんば死すとも還(かえ)らず……
人間到る処(ところ)青山あり
青山とはお墓のことです。今でも韓国では、青々とした芝を植えた土葬の盛り土が見られ
ます。一人前の学者として認められるようにならなければ、おめおめ故郷に帰らない。他
郷に骨を埋めるという覚悟です。
スパルタの若者が戦いに赴く時、母親が「汝(なんじ)、楯(たて)を掲げて(勝利を誇って)
還れ。しからずんば、楯に載りて(戦死者は楯に載せる習慣)還れ」と言ったのと、文武の
違いはあれ、同工異曲です。
元和偃武(げんなえんぶ、1615年、元和元年の大坂城落城を言う)以降、それまでのよ
うに、武勲で出世する途を絶たれた武士階級としては学問で身を立てるのが若者の夢
となりました。
現に、新井白石や荻生徂徠は、ちょうど陸奥と同じように、親が主家を逐(お)われて、青
春時代を貧窮の中に過ごしますが、刻苦勉励して大学者となって、時の将軍を補佐して
権勢を振るいます。
儒学というのは、畢竟(ひっきょう)は国を治めるための学です。その儒学に最も優れた人
を、政府も世間も尊敬し、その教えを乞うという政治社会制度が生きていたのが、徳川時
代です。その結果、世界史でも稀な文治社会が出現しました。
14 :
岡崎久彦:02/07/26 08:19 ID:m/5+s24h
安岡正篤によると、世界史で最高の文治社会は、後漢の200年と徳川の250年でした。
それだから、その直後の三国時代と幕末維新の時代は、活躍する人物が皆一流の教養
人であり、その言動が一つ一つ味わい深く、その歴史が面白いのだそうです。
後漢(AD25〜220年)の初代光武帝は、武力で天下統一を果たしながら、武事を厭(い
と)い「天下未だ平らかならざるに、すでに文治の志あり」と十八史略にあります。そして
光武帝を継ぐ歴代皇帝は努めて賢人を登用しました。たしかに三国時代の諸葛孔明も、
曹操も、また維新の西郷隆盛も勝海舟も、現代人が及びもつかない教養人です。
この江戸時代の教養主義は明治以降も敗戦まで、いわゆる旧制高校などに脈々として
受け継がれてきました。
江戸時代の教養主義の一つの大きな成果は、中国の古典文明を、日本的な徹底的な完
全主義(パーフエクシヨニズム)で吸収したことです。今でも中国ではなかなか手に入らない
ような、完全な出典別の注釈のついた古典のテキストが、日本では本屋の店頭で容易に
入手できます。
また原文の意味をいささかも違(たが)えることなく、完全な日本語にした訓(よ)み下(くだ)し
漢文も完成させています。こんなことは世界史でも稀でしょう。この背景があるからこそ、明
治維新後、政治、経済、技術、文学、哲学に至るまであらゆる外国の文献を吸収消化でき
たのです。
しかし、近代のドイツ思想の翻訳文の生硬さなどを見ると、まだ徳川時代の漢文消化の域
に達していないように思います。
15 :
岡崎久彦:02/07/26 08:20 ID:m/5+s24h
江戸留学初期の陸奥の勉強が本物だった事は、その後の陸奥の著作を見ると明らかで
す。陸奥が獄中で著した『左氏辞令一斑(さしじれいいっぱん)』は春秋左氏伝から、近代
外交の参考になる巧みな外交的表現の挿話55を紹介したものです。
左氏伝は今は読む人はほとんどいませんが、荻生徂徠が「何を読んだら良いでしょうか」
と訊(き)かれて、常に真っ先に推奨した本です。福沢諭吉は「大概の書生は左氏伝15巻
の内、3、4巻でしまうのを、私は全部通読、およそ11度読み返して、面白い所は暗記し
ていた」と自伝に書いています。
当時の人の勉強が質量ともに現代人の想像を絶しているものだった事がわかります。特
に昔の人は「読書百遍意自ずから通ず」と、同じ本を繰り返し読むことの大事さを知ってい
ました。そのためには寝食を節しても勉強の時間を創り出さねばならなかったでしょう。
新井白石が、少年時、一日の勉強の予定をこなすために、寒中に井戸水を浴びて眠気
を覚ましたという故事もあります。こうした厳しい競争でできた文治社会ですから、現代
人がなかなか及ばないのも当然です。
また、陸奥が入獄前に脱稿した『資治性理談』を読むと、陸奥が、宋の朱子学、荻生徂徠
の学、そしてイギリス人でもなかなか読破できない難解の書、ベンサムの『道徳及び立法
の諸原理序説』を精読し、噛み砕いて自分のものにしていることがわかります。
「資治」とは、政治に資する、という事です。陸奥にとっても、学とは、世を治める学であった
わけです。
もし、徳川の平和がそのまま続いていたならば、陸奥もまた、新井白石や荻生徂徠のよう
に、漢学で一家を成し、廟堂(びょうどう)にのぼって天下の政治を掌(つかさど)り、故郷に
錦を着て還る志を果たしていたのかもしれません。
16 :
岡崎久彦:02/07/26 08:58 ID:uBSj08Pz
百年の遺産-日本近代外交史−07
【土佐のいごっそう】 デモクラシーの先駆者、板垣退助
狷(けん)者というのは、ヘソ曲がりのことで日本語ではあまり良い意味ではありません。
しかし孔子は論語で、ちょうど良い人間というのはなかなか得られないのだから、それな
らば「必ず、狂か狷」が良いと言い、狂者は他人(ひと)のしないことをする人であり、狷者
や皆がすることでも、いや俺だけはしない、という所のある人だと説明しています。
土佐のいごっそうというのは、まさに狷者です。皆のするようにはうまく立ち回れず損を
するという不器用な面があります。
維新の過程で、討幕の力の基礎である薩長連合を作ったのは土佐の坂本竜馬、薩長軍
と並んで東北に転戦して武勲を挙げたのは板垣退助と、薩長に次ぐ維新の功労者を出し
ながら、藩閥政府の中枢には誰も残っていません。
板垣退助は、ある意味ではいごっそうの典型と言えます。極端な潔癖症で、他人の茶碗を
使うのがいやで自分の茶碗を持ち歩いたといいますが、その潔癖さで武士的教育を額面
通り実行しました。「目に利を見ず、耳に利を聞かず、心に利を思わず、ただ武を磨き、恥
を知る心を養うことをもって武士の本分」としていました。
孔子のいう、「利を見て義を思い(自分の得になることを見れば、それに飛びつかず、まず
それが義にかなっているかどうかを考える)」を実践し、無類の「お人よし」と呼ばれ、維新
の功臣でありながら、一生赤貧に甘んじていました。
17 :
岡崎久彦:02/07/26 08:58 ID:uBSj08Pz
この板垣が日本のデモクラシーの先駆者となるのです。板垣は生粋の軍人です。佐幕派の
牙城会津攻めの時は、土佐の兵を率いていました。攻める側も守る側もほぼ同数の3千人。
ただでさえ城壁によって守る防御側が有利ですが、板垣が心配したのは会津藩の町人や農
民が一緒に戦えば、官軍に勝ち目はないことでした。ところが戦争が始まると一般人は皆
荷物を背負って逃げてしまいました。
そこで板垣が考えたのは、それは江戸時代に侍が庶民と苦楽を共にしていないから、いざ
という時に苦しみを共にして貰(もら)えないのだ、今や帝国主義時代で日本は何時列強の
侵略を受けるかわからない、四民平等になって一致して国を守らねばならない、というこ
とでした。
これは戦後の左翼偏向史観が目を背(そむ)けて語ろうとしないところですが、明治の自由
民権論者は、板垣から中江兆民に至るまで、愛国主義、国権主義でした。それは帝国主義
時代に日本の国を守らねばならない、という緊張感があったからです。
軍事上の勝敗というのは、議論を許さない厳しい結果が出ます。その結果を見て、封建主
義の根本的な問題点をここまで見抜いた洞察力と、それを一生変えない問題意識として自
由民権運動を推進した信念の力には感嘆すべきものがあります。
板垣は西郷を深く敬愛していました。維新で、いや日本史上誰が最も純粋な人物かと言え
ばこの二人を措(お)いてないのですから、意気投合したのも当然です。後年板垣は西郷を
評して「維新三傑といっても、西郷と、木戸、大久保との間には零(ゼロ)が幾つあるかわ
からない。まるで算盤(そろばん)の桁(けた)が違う」と言っています。
明治六年征韓論に敗れてそれぞれの故郷に帰る時、板垣は、民選議院−−政府の任命でな
く選挙で選ぶ議院、つまり今の議会制度−−の設置を生涯の目標にすると述べ、西郷は手
を打ってこれを励ましたといいます。
18 :
岡崎久彦:02/07/26 09:26 ID:pes3seLM
土佐に帰った板垣は、明治7年1月、民選議院設立の建白書を出します。その冒頭板垣は、
今の日本の政治権力は天皇にも人民にもなく、官僚にあると指摘します。そして国民は税
金を払う以上その使途に発言権を有するという民主主義の基本から説き起こし、日本の民
度ではまだ議会政治は無理だという論に対して、人民を教育するには、まず議会を持たし
た方が良いと反論しています。今なら当たり前の議論ですが、無知な人民に選挙権を与え
て果たして良い政治になるだろうかという議論は、憲法発布と議会の開設、制限選挙の撤
廃、婦人参政権、そして植民地の自治、独立容認のあらゆる局面で過去200年繰り返し論
じられた問題です。
そして板垣は愛国公党という政党を設立しますが、これが後の自由党、政友会、自由民主
党という大河の源流となります。おりしも、木戸も政府を離れて、孤立してしまった大久保の
下の政府は、木戸と板垣を中央に迎え入れる妥協をして、明治8年、漸進的に立憲政体に
向かう方向を詔勅で明らかにし、将来の上院を想定した元老院を設けます。
陸奥は、板垣の建白書と時を同じくして、薩長専制を痛撃する『日本人』という大論文を書
き、官途を辞していましたが、板垣と共に元老院議員に任命されて、元老院による中央権
力の抑制という議会本来の機能の強化に努力します。
しかし、保守派の抵抗は強く、また政府も木戸、板垣の中央復帰を得た以上もう譲歩の必
要もなく、陸奥らの努力は挫折して少しも進展のないまま、西南戦争を迎えます。
19 :
岡崎久彦:02/07/26 09:30 ID:pes3seLM
上記「7」の3つの投稿は削除対象。。。
20 :
岡崎久彦:02/07/26 10:23 ID:TqM+MNPX
百年の遺産-日本近代外交史−04
【激動の明治維新】 「志士と英雄の時代」が到来
陸奥が勉強にいそしんでいる間に時代は大きく変わります。
陸奥の父宗広追放後、伊達家が一家流浪の苛酷な処分を受けるのはペリー来航の年、
陸奥が江戸に出たのは安政の大獄の年です。そして、その2年後に、井伊大老暗殺の
ために、佐野竹之助が水戸を出て江戸に向かった時の詩は、同じ郷関を出るにしても、
もう陸奥の詩とは違っていました。
決然国を去って天涯に向かう
生別また死別を兼ねるの時
弟妹は知らず阿兄(あけい)の志
慇懃(いんぎん)に袖をひいて帰期を問う
(お兄さんは何時(いつ)帰るの?と訊いている)
苦学して学者となり故郷に錦を飾ろう、という徳川の平和の時代はすでに去り、国を出る
時は命を捨てる覚悟だという、志士と英雄の時代がきたのです。
江戸にいた陸奥は、このすべての歴史的変化を肌で感じていました。そして、やがて、自
ら「蛍雪苦学(けいせつくがく)の志を絶ち」天下の志士たちと交流して国事を論じます。
人物がいると聞けば百里の道を遠しとせず会いに行くのが東洋の伝統です。陸奥は、長
州藩の桂小五郎(木戸孝允)、土佐藩の板垣退助など、当時既にひとかどの人物であると
いう噂の高い人物たちの門を叩きます。伊藤博文ともこのころ会っています。
21 :
岡崎久彦:02/07/26 10:23 ID:TqM+MNPX
徳川幕府の崩壊はペリー来航に始まります。
日本の開国を迫る欧米諸国の近代的武力を前にして、これに抵抗し得べくもない事は、国
の政策を現に担当している幕府当局者にとっては自明のことです。しかし200年間鎖国を
国是とし、人々が開国を受け容れる用意がない時に、幕府が開国を独り断行するのは政
治的に困難でした。そこで国内のコンセンサスを得ようとして諸侯の意見を求めます。
これが幕府転落の第一歩となります。それまで、事の大小となく、誰にも諮(はか)らず、譜
代大名出身者だけの幕閣で決めてきたのを、外様大名を含む外部の意見を徴したことが
すでに専制体制の基礎を揺るがします。フランス革命の発端が、財政困難を克服する税制
上の措置について貴族達の合意を得ようとして、180年間開いていなかった三部会を招集
したことにあったのと同じです。
そして、広く意見を徴しているうちに、朝廷の勅許を得ようと考えたのが結果として命取り
となります。そもそも武家は700年間朝廷から権力を奪ってきたのですから、これに発言
権を与えるのは重大なことです。
当初幕府は勅許などは形式的なもので、すぐ取れると思っていたようです。ところが、朝廷
とその周りの志士達で攘夷論(じょういろん)が強く勅許はなかなか下りません。そこで幕府
は、やむを得ず、勅許なしでアメリカとの通商条約締結に踏み切りますが、いったん幕府外
の人々にまで政策論議を許してしまった以上、時の将軍継嗣問題など他の政治問題も絡
んで世論が沸騰します。そこで安政の大獄で反対派を弾圧しますが、それがまた却って反
発を呼び、幕府の中央統制力は弱まっていきます。そして遂に武力で反抗する長州の征伐
に失敗して、もはや徳川幕府を維持する実力もないことが明らかになってきます。
こうなると、徳川家としては最後は朝廷と協力して事態を収拾する、いわゆる公武合体と
いう妥協案しかなくなりますが、その前提として、大政奉還を行ったのが、幕府の命脈に
止めをさします。
22 :
岡崎久彦:02/07/26 10:24 ID:TqM+MNPX
そうなると徳川家は単なる一大名に過ぎなくなるので、鳥羽伏見で薩長連合軍と衝突した
後、各藩は、朝廷側か徳川側かと迫られると、お家の安全のためには朝廷側に帰順せざる
を得ず、たちまち天下の権は天皇を戴く薩長の手に移ります。幕府崩壊の過程を一口で言
えばこういうことです。
この疾風怒濤の5年間、陸奥は坂本竜馬にその将来を嘱目(しょくもく)され、勝海舟の海軍
操練所、竜馬の海援隊に入り、国内、国際情勢に目を開き、攘夷論を脱して、それが一生
変わらぬ信念になる開明思想を得ます。
鳥羽伏見の戦いの直後、誰も先の見通しを持たなかった時期に、陸奥は「独り天下の形勢
に察するところあって」、イギリス公使パークスを大坂に訪れ、その結果を京都に帰って岩倉
具視に意見書として出します。内容は、今後は開国進歩主義を取る他はなく、まず、王政
復古と開国政策を内外に闡明(せんめい)するということでした。
岩倉は全面的に賛成しました。王政復古した以上、外国との正式国交の当事者となるのは
当然のことですが、そのためには今までの攘夷の姿勢を捨てねばなりません。そこで鳥羽伏
見の戦いのわずか5日後、明治新政府は外交文書で各国公使館にこれを通告し、国内には、
「大勢まことにやむを得ず、この度朝議の上断然和親条約取り結ぶ」旨布告しました。
その翌日、岩倉は陸奥を外国事務局御用掛に任命しました。一緒に任命されたのは、伊藤
博文など薩長の錚々(そうそう)たる俊秀ばかりで、その中で陸奥は最若年の25歳でした。
これは陸奥独りの判断と行動力でかち得たものです。
23 :
岡崎久彦:02/07/26 10:25 ID:TqM+MNPX
百年の遺産-日本近代外交史−05
【藩閥の専制】 帰郷して藩の近代化に成功 (産経新聞2002・04・05)
ここでは従来の、維新の勝利者側の史観ではあまり取り上げられていない歴史に触れなけ
ればなりません。それは、自らもう一度省みても、陸奥に対する依怙贔屓(えこひいき)から
ではありません。
藩閥専制の問題を避けて通っては、明治の自由民権運動も、国会開設以降、原敬に至る
20数年の民党の苦闘も理解できないからです。それが従来の、大正デモクラシーに対する
不当に低い評価の一因であるとも思われます。
全ての革命がそうであるように、革命当初は誰もがバラ色の新世界を夢見る時期があり
ます。西郷隆盛が江戸城を攻めようとしている時に、留守の新政府が、五箇条の御誓文で
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と、民主主義の神髄を見事に表現したのも当時の
雰囲気を示しています。
しかし、革命が成功して時が経つにつれて、政治権力は新しい実力者によって掌握され、
それに従おうとしない分子は、疎外され粛清されるのは、20世紀の多くの革命を見てきた
我々の世代が良く知っていることです。
外国事務局の陸奥は、持ち前の才能を発揮して業績を上げます。箱館(函館)攻略はじめ
長い期間、明治新政府の主力艦となった東艦(あずまかん)を、幕府側でなく朝廷側にアメリ
カから引き渡させる外交交渉に成功し、また、買い取り資金の調達までしたのは陸奥の働
きです。
しかし、新政府の人事が藩閥偏重となるにしたがって陸奥の憤懣(ふんまん)は高まり、ま
た、維新の改革を進めるには、藩を廃して郡県制にしなければならないという、正論を進
言しても受け容れられず、ついに新政府を離れて故郷和歌山に帰ります。
24 :
岡崎久彦:02/07/26 10:35 ID:ieuALvXe
陸奥の胸中にあった計画は壮大なものでした。新政府が動かないならば、和歌山藩をまず
改革して、プロシャ式の近代的軍事国家を創り出そうということです。
鳥羽伏見の戦いの後、関西の諸藩は一斉に朝廷側に靡(なび)きますが、和歌山藩は徳川
との深い関係でそうもいかず、鳥羽伏見の敗兵を和歌山に収容し、手厚く関東に送り返し
たりして朝廷側の印象が悪く、一時は滅亡も危惧されました。
陸奥は岩倉具視を説いてこれを救い、その代わりに和歌山藩改革の全権を得ました。
改革は開明的な蘭学者津田出を中心に一気呵成(いっきかせい)に行われました。侍の特
権を廃して刑法の適用を平等にし、官僚機構の頂点たる勘定奉行に民間人のヤマサ醤油
の浜口梧陵を任命しました。最も抜本的だったのは侍の家禄を20分の1に削減して改革
の財源を捻出したことです。その時の通達では、本来家禄というものは国家に仕え、民を
治めるためのものであって私(わたくし)すべきものではないと心得よ、と申し渡しています。
兵制は、一家の跡継ぎを例外として、士農工商を通じ平等に適用されました。こうして創ら
れた軍隊は、明治4年に解散されるまでに、歩兵6個連隊、騎兵1個連隊、砲兵2個連隊、
工兵1個連隊、2万人近い精鋭となり、弾薬製造所では毎日1万個ずつの弾丸がドイツと
同じ工程で生産されていました。
この改革はセンセーションを呼び、イギリス、アメリカ、独の公使は和歌山まで参観に来ま
した。薩摩からは西郷従道が来て、やがて村田新八が来て、西郷隆盛が来たいが来られ
ないので、話を聞きたいからぜひ上京して欲しいと津田に伝えています。
薩長の受けた衝撃は想像にあまります。薩長は維新の功で加増を受けていますが、それ
でも万単位の軍隊を出すことは困難です。紀州の場合は、一歩誤れば朝敵として藩が滅
亡する瀬戸際までいったので、禄を20分の1にし、四民平等にする改革もできたのですが、
特に士族の国、薩摩にそんな改革ができるはずがありません。陸奥自身、紀州10万の兵
を出すこともあえて難(かた)くなく、薩長恐るるに足らず、と洩らしたともいいます。
25 :
岡崎久彦:02/07/26 11:10 ID:ieuALvXe
新政府はこれを妨害しようとしますが成功せず、逆に西郷隆盛は、津田に辞を低くして経
綸を問い、郡県制度、徴兵令の必要を聞いて、津田を首相に推薦して改革を実行しよう、
とまで言います。
胸中一片の私心もこだわりもなく、優れた人間への尊敬と、国事しかない西郷の真面目躍
如(しんめんもくやくじょ)たるものがあります。西郷はこれを実行して津田を「首相」に推奨
したのですが、藩閥政府でそんな意見が通るはずもなく、津田に食言の罪を謝したと言い
ます。
新政府は、明治4年廃藩置県を決定し、5年には「全国募兵の詔(みことのり)」で徴兵制が
施行されます。薩長史観ではもとよりその背景は隠されていますが、和歌山の改革をこの
まま放置できないので、改革の先取りをする必要のあったことは充分想像できます。
陸奥の失望、挫折も想像にあまりますが、陸奥は反対する部下を抑え、軍を解(と)いて新
政府に帰順します。
新設された強力な権限を有する大蔵省は、薩長出身でない津田出、浜口梧陵、陸軍の幹
部に、紀州軍の岡本柳之助、鳥尾小弥太も登用されますが、それも一時の紀州懐柔のた
めで、明治政府はやがてその人々も疎外し、藩閥で固められていきます。
26 :
岡崎久彦:02/07/26 11:11 ID:ieuALvXe
百年の遺産-日本近代外交史−06
「話せる男」西郷隆盛 生涯を「誠」で貫き通した男
明治維新とその人物を語る時、あるいは日本人というものを語る時、西郷隆盛という人物
を語らないわけにはいきません。西郷隆盛は明治10年に反乱軍に担がれ、敗れて故郷の
城山で割腹しますが、今に至るまで、日本人で西郷を惜しみこそすれ、誰一人西郷を憎み、
謗(そし)る人はいません。
日本人が、西欧人とも、また中国、韓国の人とも違う、何らかのアイデンティティーを持って
いるとすれば「西郷を好きだ」ということもそれを考える一つの基準になるかもしれません。
それは西郷隆盛が西南戦争で賊軍だった時からそうでした。その時政府軍が歌った軍歌
は「敵の大将たる者は古今無双の英雄で、これに従う兵(つわもの)は共に剽悍(ひょうか
ん)決死の士…」と歌っています。そして、これも西郷の敵側であった熊本地方の豪傑節は
「西郷隆盛や 話せる男 国のためなら 死ねと言うた」と歌っています。
征韓論が政策論として非現実的なものであったとか、無益の反乱を起こして同胞相殺す戦
いをしたとかいう点は、誰も問題にせず、日本人の心の底にある価値観、つまり、古来の東
洋思想、武士道、愛国心、そしてその全てを貫く「誠」という点について誰も疑いを持たない
純粋な人物として敬愛されているのです。
西郷の言動はよく記録されているので、西郷神話や虚像ではありません。現在でも手に触
れることのできる書軸の筆勢も、そこに表明された心事も、超一級品です。
27 :
岡崎久彦:02/07/26 11:12 ID:ieuALvXe
世上の毀誉(きよ)(世間の評判)
軽き事塵(ちり)に似たり
眼前の白事偽か真か
追思す孤島幽囚の楽しみ
今人(こんじん)在らず古人在り
維新の志士達は幾度か迫害を受けて死地をくぐり抜けています。西郷の島流しも酷いもの
でした。壁がなく格子だけの吹きさらしの豚小屋のような2坪の牢獄で、西郷の健康はみる
みる衰えますが、西郷は常に端座黙想していたといいます。
この時の事を回想して「孤島幽囚の楽しみ」と言っているのです。心の中では何を考えてい
るか解らない今の人など相手にせず、古(いにしえ)の哲人達を相手にしていれば良かった
から楽しかった、というのです。普通人とは次元の違う達人です。
西郷を最も良く理解していたのは勝海舟でした。勝は、西郷がまだ低い身分だった頃から、
将来幕府を倒すのは西郷だろうと言っていましたが、はたしてその通りとなりました。
勝があまりに西郷をほめるので、坂本竜馬は勝から紹介状を貰(もら)って鹿児島まで会
いに行きます。そして帰って曰く「なるほど西郷という奴は大きな鐘のような奴だ。小さく
叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」。どんな小さな事でも謹直に糞真面目に反応
する。だから大きな事はわからないかと思うと、どんな大きな事でも立派に反応する見識
がある。そういう人だというのです。これを聞いて勝は「坂本もなかなか人を見る目のある
奴だ」と言っています。
28 :
岡崎久彦:02/07/26 11:13 ID:ieuALvXe
この西郷隆盛が官軍を代表し、徳川側を代表する勝海舟との間で、江戸城の平和的引き
渡しをしたのが、歴史の白熱する瞬間です。これで江戸百万の市民は戦火を免れ、徳川
の幕臣は生活の場を得ます。それよりも何よりも、日本国内の分裂に乗じようと爪牙を研
いでいる帝国主義列強の干渉を排し、日本の独立と領土の保全を果たします。
西郷隆盛は、イギリスからの援助の申し入れに対して、日本の事で外国に援助をして貰う
ような恥ずかしい事は到底できない、と断り、勝海舟はロシアからの資金援助を断ってい
ます。
後年、清国の李鴻章がロシアから賄賂を取って満州駐兵を許したのが清朝瓦解の大きな
契機となったことを思うと、日本がこの時期にかくも傑出した人物二人を持った幸運に改め
て想いを致さざるを得ません。
西郷は、維新後は当然に権力の中枢に入りますが、新たな権力者達が権力の維持と特権
の享受に汲々(きゆうきゆう)としているのを見て、維新の志士達が命を捨てたのは、こん
な世の中にするためだったのかと、怏々(おうおう)として楽しまないものがありました。
そこに征韓論が起こると、ここでもう一度国民の気持ちを引き締める機会がきたと奮い立
ちます。しかし、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允などは、日本近代化が優先課題で、征
韓の余裕などないと反対し、西郷は、板垣退助、江藤新平などと共に政府を去ります。
その後は故郷鹿児島に帰り、兎を逐(お)って悠々と隠退生活に入ります。しかし、その頃
から、特権を奪われた旧士族の不満反乱が相次ぎ、また新しい地租に反対する農民運動
も起こり、さらに薩長専制政府に反撥する自由民権運動も加わり、全国騒然とする中で、
期待は翕然(きゆうぜん)として西郷に聚(あつま)り、それを受けて鹿児島の士族が反乱
の旗を掲げます。
もとよりそれは西郷の意図ではなく、報を聞いて「しまった」と言っていますが、その後は、
西郷を敬愛する部下の言いなりになって、一言も作戦の指揮などせず、従容として運命に
身を任せて死にます。
29 :
岡崎久彦:02/07/26 11:43 ID:bNoq+AIz
百年の遺産-日本近代外交史−07
【土佐のいごっそう】 デモクラシーの先駆者、板垣退助
狷(けん)者というのは、ヘソ曲がりのことで日本語ではあまり良い意味ではありません。
しかし孔子は論語で、ちょうど良い人間というのはなかなか得られないのだから、それな
らば「必ず、狂か狷」が良いと言い、狂者は他人(ひと)のしないことをする人であり、狷者
や皆がすることでも、いや俺だけはしない、という所のある人だと説明しています。
土佐のいごっそうというのは、まさに狷者です。皆のするようにはうまく立ち回れず損を
するという不器用な面があります。
維新の過程で、討幕の力の基礎である薩長連合を作ったのは土佐の坂本竜馬、薩長軍
と並んで東北に転戦して武勲を挙げたのは板垣退助と、薩長に次ぐ維新の功労者を出し
ながら、藩閥政府の中枢には誰も残っていません。
板垣退助は、ある意味ではいごっそうの典型と言えます。極端な潔癖症で、他人の茶碗を
使うのがいやで自分の茶碗を持ち歩いたといいますが、その潔癖さで武士的教育を額面
通り実行しました。「目に利を見ず、耳に利を聞かず、心に利を思わず、ただ武を磨き、恥
を知る心を養うことをもって武士の本分」としていました。
孔子のいう、「利を見て義を思い(自分の得になることを見れば、それに飛びつかず、まず
それが義にかなっているかどうかを考える)」を実践し、無類の「お人よし」と呼ばれ、維新
の功臣でありながら、一生赤貧に甘んじていました。
30 :
岡崎久彦:02/07/26 11:44 ID:bNoq+AIz
この板垣が日本のデモクラシーの先駆者となるのです。板垣は生粋の軍人です。佐幕派の
牙城会津攻めの時は、土佐の兵を率いていました。攻める側も守る側もほぼ同数の3千人。
ただでさえ城壁によって守る防御側が有利ですが、板垣が心配したのは会津藩の町人や
農民が一緒に戦えば、官軍に勝ち目はないことでした。ところが戦争が始まると一般人は皆
荷物を背負って逃げてしまいました。
そこで板垣が考えたのは、それは江戸時代に侍が庶民と苦楽を共にしていないから、いざ
という時に苦しみを共にして貰(もら)えないのだ、今や帝国主義時代で日本は何時列強の
侵略を受けるかわからない、四民平等になって一致して国を守らねばならない、と言う事
でした。
これは、戦後の左翼偏向史観が目を背(そむ)けて語ろうとしないところですが、明治の自由
民権論者は、板垣から中江兆民に至るまで、愛国主義、国権主義でした。それは帝国主義
時代に日本の国を守らねばならない、という緊張感があったからです。
軍事上の勝敗というのは、議論を許さない厳しい結果が出ます。その結果を見て、封建主
義の根本的な問題点をここまで見抜いた洞察力と、それを一生変えない問題意識として自
由民権運動を推進した信念の力には感嘆すべきものがあります。
板垣は西郷を深く敬愛していました。維新で、いや日本史上誰が最も純粋な人物かと言え
ばこの二人を措(お)いてないのですから、意気投合したのも当然です。後年板垣は西郷を
評して「維新三傑といっても、西郷と、木戸、大久保との間には零(ゼロ)が幾つあるか解ら
ない。まるで算盤(そろばん)の桁(けた)が違う」と言っています。
明治6年、征韓論に敗れてそれぞれの故郷に帰る時、板垣は、民選議院−政府の任命で
なく選挙で選ぶ議院、つまり今の議会制度−の設置を生涯の目標にすると述べ、西郷は手
を打ってこれを励ましたといいます。
31 :
岡崎久彦:02/07/26 11:45 ID:bNoq+AIz
土佐に帰った板垣は、明治7年1月、民選議院設立の建白書を出します。その冒頭板垣は、
今の日本の政治権力は天皇にも人民にもなく、官僚にあると指摘します。そして国民は税
金を払う以上その使途に発言権を有するという民主主義の基本から説き起こし、日本の民
度ではまだ議会政治は無理だという論に対して、人民を教育するには、まず議会を持たし
た方が良いと反論しています。今なら当たり前の議論ですが、無知な人民に選挙権を与え
て果たして良い政治になるだろうかという議論は、憲法発布と議会の開設、制限選挙の撤
廃、婦人参政権、そして植民地の自治、独立容認のあらゆる局面で過去200年繰り返し論
じられた問題です。
そして板垣は愛国公党という政党を設立しますが、これが後の自由党、政友会、自由民主
党という大河の源流となります。おりしも、木戸も政府を離れて、孤立してしまった大久保の
下の政府は、木戸と板垣を中央に迎え入れる妥協をして、明治8年、漸進的に立憲政体に
向かう方向を詔勅で明らかにし、将来の上院を想定した元老院を設けます。
陸奥は、板垣の建白書と時を同じくして、薩長専制を痛撃する『日本人』という大論文を書
き、官途を辞していましたが、板垣と共に元老院議員に任命されて、元老院による中央権
力の抑制という議会本来の機能の強化に努力します。
しかし、保守派の抵抗は強く、また政府も木戸、板垣の中央復帰を得た以上もう譲歩の必
要もなく、陸奥らの努力は挫折して少しも進展のないまま、西南戦争を迎えます。
32 :
岡崎久彦:02/07/26 12:54 ID:LewMF4vS
百年の遺産-日本近代外交史−08
【日本のデモクラシーの源泉】 独断を排した聖徳太子の思想
日本の政治の近代化は明治維新に始まる−大筋としてはそれで良いのでしょう。しかし、
政治というものは、民族の体質ともいうべきもので、その背後には歴史と伝統があります。
戦後の日本の民主主義がかくも確立している背後には、明治の自由民権運動から大正デ
モクラシーに至る歴史があったように、明治の近代化の背後にも長い民族の歴史の伝統が
あるといえるかもしれません。
日本の歴史を辿(たど)って見ると、大陸の中国、韓国とはどこか違う独特の発展が散見さ
れます。
アングロ・サクソンのデモクラシーの淵源として時々引用されるのは、タキトゥスのゲルマン
人の描写です。「大した事のない場合は首長が決定する。重要な問題はコミュニティー全
体が決める」ところが不思議な事に聖徳太子の憲法の最後、第十七条に「独りで決定して
はいけない。小さな問題は軽いことであるから必ずしも皆と相談しなくても良いが、大きな
問題は、間違いがあってはいけないから、皆と議論すれば妥当な線が出てくる」とあります。
中国の古典では、独断は良い意味です。十七条の憲法の「独断」という言葉の原点と言わ
れている管子は「明主はひろく聞いて独断す」と言い、韓非子は「よく独断する人こそ天下
の指導者にふさわしい」と言っているのですから、「不可独断」と言い切った聖徳太子の思
想は、東洋思想の中で独創的とも言えます。
それがデモクラシーに発展する制度の進化の歴史は伴っていませんが、少なくとも、現在
に至る日本の政策決定はコンセンサス方式の傾向が強い事の一つの歴史的背景と言え
ましょう。
33 :
岡崎久彦:02/07/26 13:00 ID:goSl9MC9
日本の封建主義制度がアジア大陸よりヨーロッパ中世に似ている事は度々指摘されま
すが、北条時代の善政は、後々まで武家政治の鑑(かがみ)となっています。裁判では
13人の評定衆が起請文(きしょうもん)を書いて、決して私的感情に(おぼ)溺れず、権力
者を恐れず、判決決定後は少数意見の者もこれに従うことを誓いました。法の支配、法
の下の平等はデモクラシーの基本原則ですが、確かに日本の社会には伝統的な遵法
精神があるようです。
こうしてみると、万機公論に決すべし、という五箇条の御誓文の思想も、ただ西欧思想を
輸入しただけでなく、これを受け入れる文明の伝統が日本人の中にあったという事もでき
ましょう。ところが、この維新当初の清新な期待はやがて藩閥専制で裏切られます。板垣
は「維新の新政府は公議世論を重んじることをその大方針として、徳川の専制を廃して
公明、自由の政治を標榜(ひょうぼう)した。ところがこの維新の改革を途中でやめて、公
議世論を無視して、官僚による専制を復活した事に対して公憤が爆発した。これを自由
民権運動というのである」と自由民権運動を定義しています。
西南戦争が勃発(ぼっぱつ)して、板垣も陸奥も明治政府の転覆を夢見ます。土佐も西郷に
呼応して蜂起を考えますが、意気盛んなばかりで具体性のない、いごっそう達の計画で、
中途半端に終わります。そして、この計画に加担した陸奥は反逆罪で逮捕収監されます。
土佐派としては累を板垣にまで及ばせないために、陸奥については事実を認めたことも
あったらしいのですが、この陸奥への借りを土佐の人は決して忘れませんでした。そして、
議会開設後、陸奥と土佐の自由党とを結ぶ強いパイプは、日本の議会政治運用のため
の不可欠の要素となります。
34 :
岡崎久彦:02/07/26 13:01 ID:goSl9MC9
西南戦争が西郷の敗北に終わると、武力による明治政府反抗の見通しは失われ、これ
に代わって、明治11年以降、議会民主主義の達成を目指す自由民権運動が土佐を中
心に全国に広がっていきます。そして、明治13年の北海道開発をめぐるスキャンダルを
契機に、専制政治反対の世論が沸騰し騒然としてきます。
明治14年、板垣を総理とする自由党が結成され、翌15年には大隈重信を総理として改
進党が発足します。
その時の板垣の思想は明治15年の「自由党の尊王論」に端的に表現されています。
「最近のシナ、ロシア、トルコを見ると、帝王は奢(おご)り高ぶって人民を軽侮し、人民は
帝王を恐れ、あるいは恨んでいる。帝王は野蛮で人民は卑屈である。しかしイギリスで
は人民は自由であり、帝王、人民共に国を愛している。自由党は、日本の天皇がシナ、
トルコ、ロシアのようになってはいけないと思うのである。自由党は、そのために、自由を
主張し、政党を組織し、国事に奔走しているのである。自由党ほどの尊王家はないので
ある」
民党なるものは、徒党をなして政府に反抗しようとする不忠不孝の輩(やから)であるとい
う誹謗(ひぼう)中傷に対抗するための論でありますが、板垣の自由民権論は、いかに日
本を良い国にするか、という国を愛する気持ちから出発していることを示す大文章です。
35 :
卵の名無しさん:02/07/26 13:18 ID:xWtHLel8
この荒らしみてると情けなくなるね
いろいろ問題がありそうですね、この会社
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37 :
岡崎久彦:02/07/26 13:52 ID:A9OKDylP
百年の遺産-日本近代外交史−09
【伊藤、陸奥の海外留学】 シュタインの思想に感銘して
日本の議会制度を作ったのは、野にあっては板垣退助、官にあっては伊藤博文といっても
過言ではありません。伊藤は明治13(1880)年以降常に政府の中にあって明治憲法制定
問題の中心的役割を果たします。憲法案を自ら草したのも、後に政友会総裁として政党内
閣を率いたのも伊藤でした。
伊藤は、思想家、理論家というよりも実務家です。伊藤の学問的背景といえば、日本外史
という歴史物語を読んだ程度です。しかし、強靭な体力で、睡眠も休養もほとんど取らず
精力的に活動し、人の何倍も動き回って重宝がられ、吉田松陰から「なかなかの周旋屋」
と評価された人です。
しかし、それだけの人ではありません。かれの書き残したものを見ると、同時代人の中で
最も傑出した見識を持った人です。気取らず悪びれず誠心誠意実務に徹することにより、
思想家も及ばないような調整力、歴史観、哲学を持つに至ることができた稀有な見本とい
うべき人です。
明治13(1880)年、政府のスキャンダルと国会開設運動で騒然たる危機の中で各参議が
意見書を提出しますが、その中で伊藤の建議が断然光っています。しかし、その内容は政
治思想というよりも冷徹な情勢判断と対策です。
「百年前にフランス革命があってから、その影響を受けない国はない。国によっては何時
までも試行錯誤でゴタゴタしている国もあるが、上手に変化に応じて国の基礎を固めた国
もある。日本でもここ数年間防ぎようのない勢いとなっている。中には乱暴な議論もある
が、これは世界の大勢の一部と考えるべきである。結局は専制をやめて、政治権力を人民
と分け持つほかはない。人心を安定させるには詔勅でその方針を明らかにするのが良い」
38 :
岡崎久彦:02/07/26 13:53 ID:A9OKDylP
そして、明治14(1881)年には、岩倉具視あてに「この問題に早く決着をつけないと薩長
の維新の功も水の泡となる形勢です。1、2年の長短はどうでも良いのですが、(9年後の)
明治23(1890)年に国会開設をお決めになればちょうど良いところでしょう」と書き、詔勅
案を自ら起草します。
伊藤の情勢判断の正確さ、そしてそれをすぐ政策に実現させる実行力は感嘆すべきもの
があります。ここで政府は3本建ての政策で事態を収拾します。
第1は詔勅による国会開設の約束です。そして約束通り22年に憲法発布、23年に国会
を開設します。9年先の事を約束し、政府も民党もその約束が守られることにいささかも疑
いを持たず、その通りに実施したという事、当たり前のようですが、世界の憲政史上でも
稀なことでしょう。いかに政治的に敵対し合っても日本人が信義を重んじ、お互いに信頼し
合っている証左と言えましょう。
第2は苛烈(かれつ)なる弾圧です。集会条例、新聞紙条例等を改正して取り締まりを強化
し、これに反発する自由党員を多数検挙しました。自由党の壮士の中には、これに反発し
て、板垣など中央の統制に服さずに加波山などで暴発する者も出てきて、板垣の表現で
は「腐った縄で六頭の馬を御するような」状態となります。当局の締め付けが強くて資金も
集まらず、板垣が私財を投じても焼け石に水で、結局、せっかく賑々(にぎにぎ)しく登場し
た自由党も解党に至ります。
なお、反体制運動が盛んだった1960年代後半の史観は加波山事件などを明治の自由党
の代表的な活動のように描写していますが、これは浅間山荘や、よど号ハイジャック事件の
ように大衆から遊離した例外的少数の行動で、板垣を中心とする自由党主流派は、常にイ
ギリス風憲政の実現を目指す穏健な人々でした。戦後は自由党をフランス風共和思想とし
て、改進党と対比させる史観がありますが、それは間違いです。
39 :
岡崎久彦:02/07/26 13:54 ID:A9OKDylP
第3が政府による憲政の本格的準備です。
政府は伊藤個人にわざわざ詔勅をもって「欧州立憲諸国に至り、その政府または碩学(せ
きがく)の士と接して」憲政を研究するよう命令します。
ここで伊藤は、吉野作造によれば「まるで一介の書生、極めて謙遜な態度でまじめな研究
に一身を傾倒」しました。はじめはベルリンでドイツ流の理屈っぽい憲法論に辟易したよう
ですが、ウィーンでロレンツ・シュタインの講義を聞いて豁然(かつぜん)として前途の展望
が開け、「死処を得たる心地」で楽しい気持ちになったと岩倉あての書簡に書いています。
伊藤は明治16(1883)年夏に帰朝しますが、その年初に出獄していた陸奥宗光に対して
留学をすすめ、陸奥は翌明治17(84)年外遊します。シュタインの思想は、陸奥が遺した
詳細緻密なノートの方が分かり易いのですが、シュタインの思想は一口で言えば、フランス
革命以来、百年の試行錯誤から学んだ教訓として、立憲君主政治が最も優れた政治制度
であり、国王の下に、独立の行政府と立法府が存在する形が望ましいということです。
これはまさに、岩倉、伊藤が希望してきた、当時の日本の実情に最も即した政治論でした。
伊藤は、この実現のためならもう命を捨てても良いと、まさに「死処を得て」安心立命の境
地に立ち至ったのです。
40 :
岡崎久彦:02/07/26 13:54 ID:A9OKDylP
百年の遺産-日本近代外交史−10
【日清戦争の序曲】 国民的支持を得て進む軍備
極東の国際情勢の主要テーマは、明治9(1876)年の江華島条約による朝鮮開国から日
清戦争に至るまでの約20年は、朝鮮半島をめぐる日清の覇権争いだったと言えます。
江華島事件後、日本は朝鮮との修好を求めましたが、朝鮮は「清国に藩属しているから
自分勝手に決められない」と言い、それではという事で清国と交渉すると、「朝鮮は属国
ではあるが、地は清国に属せず、清国が内政に関与した事もなく、強制はできない」と答
えています。
近代日清関係史の権威・王芸生は、「その後の朝鮮問題の一切の紛糾は、皆この一語の
禍(わざわい)するところとなった」と嘆いています。
この後は、朝鮮の宗属を主張する清国と、朝鮮を独立国と見なして清国の影響力を排除
しようとする日本との間の争いとなります。そしてこの覇権争いで、第一ラウンドの壬午事
変(1882年=明治15年)と、第二ラウンドの甲申事変(1884年=明治17年)は、清国の
圧倒的優勢勝ち、第三ラウンドの日清戦争(1894〜95年)では、日本のノックアウト勝ち、
というのが歴史の結果です。
はじめの二ラウンドには、日本の明治維新にならった近代化、そして清国からの独立を達
成しようという朝鮮の欲求が背後にありました。壬午事変は、日本にならった新式軍隊の
育成に旧式軍隊が反発したのが発端で、日本人将校は銃殺され日本公使館が焼かれた
のですから、日本側が強硬姿勢をとっても良い事態でしたが、清国は、機敏に大兵を発して
事態処理の主導権を握ります。
甲申事変は、親日近代化路線を標榜する独立党の金玉均(キム・オッキュン)が、日本の援
助を期待してクーデターによって新政権樹立を宣言しますが、清兵の介入でたちまち瓦解し、
日本公使館は焼き払われ、日本公使、独立党幹部は命からがら汽船で日本に脱出します。
41 :
岡崎久彦:02/07/26 15:01 ID:VMaKnywA
いずれも理屈から言えば、日本に分(ぶ)のあるケースですが、当時の日清の軍事バランス
では日本は引き下がるしかありませんでした。
清国というと阿片戦争以来列国に蚕食され続けた老帝国のように思われがちですが、一旦
帝国主義の脅威に目覚めてからは、「同治の中興」と称して内政と軍備を整え、日本に対し
ても東征を唱えるような勢いでした。本当に弱体化するのは日清戦争後の話です。
特に富力にまかせて購入した軍艦で作り上げた海軍力は到底日本が太刀打ちできるところ
ではありません。当時の危機感は壬午事変の後の福沢諭吉の論説に表れています。
「最近の戦争は人の勇気よりも武器によって決まる。日本人がいかに勇敢でも兵器が不充
分で負けたと想像しよう。 (以下原文通り) 無数の支那兵は軍艦をもって東京湾に闖入(ち
んにゅう)し……東京市中を砲撃し、百万の市民は仰いで天に叫び、俯して地に泣くのみ。
豚尾(弁髪のこと)の兵隊は黒煙と共に上陸して……婦女を辱しめ、錦帛銭財を奪い、老幼
を殺し……およそ人類想像の及ぶ限りの禍悪至らざる所なかるべし……」
そして福沢は、今まで自分も近代化達成が優先だと思っていたが、今後は、経済の方は後
回しにしても、軍備拡張にこそ努めるべきだと思う、と説いています。
確かに清国海軍の近代化は恐るべきものでした。明治19(1886)年には、巨艦「定遠」以
下の清国北洋艦隊が長崎を訪問します。朝鮮半島で第一、第二ラウンドを制した上での軍
事力誇示の訪問です。上陸した清国水兵が街で乱暴を働き、日本の警察と衝突して双方に
多数の死傷者が出ました。ほんの10年後の日本ならば忽ち実力行使となったケースですが、
沖合に碇泊している「定遠」の巨砲には抵抗するすべもなく、警官の帯刀禁止という屈辱的
な要求にも屈せざるを得ませんでした。
42 :
岡崎久彦:02/07/26 15:03 ID:VMaKnywA
明治17年の自由党解党と甲申事変はほぼ時を同じくします。すでにその前から、板垣退
助はじめ自由党の人々の革新の情熱は、すでに一応の目的を達成した議会開設から朝鮮
問題に移っていました。民権から国権へと情熱の対象が変わったのです。壬午、甲申の屈
辱と政府の弱腰に対する国民の愛国主義的憤懣(ふんまん)を民党として表現したわけです。
多数の元自由党員は、武器弾薬を準備して朝鮮渡航を企てますが、事前に発覚して一斉に
逮捕されたのが、明治18(1885)年の大阪事件です。元々自由党の壮士達の、意気盛ん
なばかりで現実性のない計画でしたが、この時期から日清戦争にかけて、国民の国権意識、
愛国主義が高まり、日清、日露の大戦争に備える国民の精神的準備ができてきたと言えま
しょう。
日本の軍備も、乏しい財政の中で国民的支持を得て漸次進みます。明治19(1886)年には、
建艦公債を発行して、定遠に対抗するためにわざわざ設計した、いわゆる三景艦の建造を
急ぎ、明治23(1890)年には明治天皇の御内帑金(おないどきん)下賜と国民の建艦寄付
運動で、どうにか建艦を続けます。そして明治26(1893)年、民権意識の高揚していた議会
が建艦費を全額削除すると、その後6年間、天皇は宮廷費節減、官吏は俸給の10分の1返
納を決め、ここで議会も一転して満場一致で建艦計画を採択します。こうして日清戦争の準備
が着々とできていきました。
43 :
岡崎久彦:02/07/26 16:53 ID:848fqTyb
百年の遺産-日本近代外交史−11
【憲法発布と選挙】 サムライ・デモクラシー誕生
明治22年(1889)2月11日紀元節、憲法が発布されました。ちなみにそれは、フランス
革命からちょうど100年になります。
そのまた100年前の1689年は、イギリスの名誉革命による権利章典が制定された年
です。逆に100年後の1989年は、東ヨーロッパ諸国の共産体制が次々に崩壊し、年
末にはベルリンの壁が崩れた年です。イギリス、フランス、日本、東欧共産国と、議会制
民主主義の達成に一世紀毎の時差があります。
また、日本以外の場合は、いずれも戦争か革命の大騒擾(だいそうじょう)の中で生まれ
たのに対して、日本では知識層の民間運動である自由民権運動で平和的に達成された
点が特異です。
戦後の日本の民主主義が、政治体制としてもはや他の選択肢を全く想像できないほど
定着しているのは、単に占領とか新憲法があったからということでなく、やはり100年の
歴史があるからです。実は、その後の占領中の言論統制で記憶から失われてしまって
いますが、占領当初、アメリカの知日派の人々の考えは、日本の自由民権運動の最後
の到達点である大正デモクラシーを復活させることでした。現に戦後の日本の選挙制度
は大正デモクラシーの延長以外の何ものでもありません。
憲法発布と同時の大赦令により、逮捕収監されていた自由党員は釈放され、処刑者の
復権も行われました。板垣は、『自由党史』の終わりの方で次のように結んでいます。
「ひとたび憲法が発布され、立憲政体がここに確立されると、昨日まで死をもって争った
人々も、忽ちそれを忘れたように、和気まことに藹々(あいあい)たるものがある。これが
わが国民の美質である」
44 :
岡崎久彦:02/07/26 16:54 ID:848fqTyb
日本国民は清新の気をもって憲法を迎えました。戦後の一時の反体制的偏向史観は、自
由党の主流からはずれたはぐれ者の言動を引用して、それもかなり我田引水の解釈を加
えて、国民が憲法に否定的だったように書いていますが、自由党員の圧倒的多数を含め
て国民が両手を挙げて、この新しい憲政を歓迎したことについては板垣の描写が正確の
ようです。
それは、直ちに第1回選挙の実態に反映されています。伊藤痴遊を引用します。
「当時の選挙と昨今の選挙(昭和初年ごろ)を較べると、どうしてこうも違うようになったか
と驚くほかない。第一回の総選挙には、多少の情実投票はあったにしても買収は絶対に
なかった。立候補者の顔ぶれも、最も程度の低い人でも一府県の代表的人物であり、そ
の多くは天下の名士ともいうべき立派な人物だった。したがって当選しようと落選しようと、
候補者というものは非常に尊敬されていた……」。ここで情実投票というのは、自分の親
類や知人に投票するという程度のことで、今ならば当たり前のことですが、当時の考え方
では、公平無私に立派な人を選ぶのが選挙であるから、それさえも不正なことと考えられ
ていました。
全国各地とも、藩閥官僚に代わって国政を託せる一流の人物を挙げようとし、そしてまた
各県は自分の県からは他府県に負けない人物を出そうと競い合いました。自分から立候
補を名乗り出る人などは品性下劣とされ、本人が迷惑がる立派な人物を選挙民が担ぎ出
す例が多々ありました。
陸奥宗光と共に西南戦争の反逆罪に連座して岩手の獄にあった大江卓などは、岩手県
民が、そういう立派な人が岩手県にいたことは名誉だと言って、いやがる大江をかつぎ出
して当選させました。大江は第二回総選挙にも無理やりかつぎ出されますが、猛烈な干渉
選挙の中でも一度も選挙区に帰らないので、見事に落選します。その時は「折角、閣下の
お陰で名誉ある選挙区となったのに、我々の選挙運動が成功せず、まことに残念です」と
いう詫び状が届きました。
45 :
岡崎久彦:02/07/26 16:55 ID:848fqTyb
第1回議会では、政府は8千万円の予算を提出しますが、反政府の意気盛んな民党は8百
万円の天引きを主張して対立します。
議会の承認がなければ予算の増額ができないのは、明治憲法が手本としたプロシャ憲法よ
り一歩進んでいる点です。拡大を続けている日本経済と軍備の下では、これが民党の最大
の武器となります。
ここで板垣退助と大江卓予算委員長は、迫りくる日清戦争に備えて、軍事費を除く6百万
円の削減を主張しますが、多年血を浴び獄をくぐってきた自由民権の強硬派は譲らず、板
垣、大江等土佐派29名は決然として自由党を脱党して妥協案に賛成投票し予算を成立さ
せます。
これがいわゆる「土佐派の裏切り」で、戦後の反体制史観はもちろんこれを批判していま
すが、同志との決別も敢えてして国家的見地から行動するということは、板垣、大江など
という純粋な人以外、到底できないことでした。
このお伽噺のような、清廉潔白人物識見本位、国家社会のためだけという世界が崩れる
のは第2回の総選挙の大弾圧からです。もしそれがなくて、この清新の気風がそのまま続
いていたらば、日本の議会民主主義は世界に誇るサムライ・デモクラシーとなっていたと
考えると、惜しんでもあまりあります。
46 :
岡崎久彦:02/07/26 16:56 ID:848fqTyb
百年の遺産-日本近代外交史−12
【不平等条約の改正】 正面突破の正攻法を採り成功
開国以来ほとんど半世紀にわたって、不平等条約の改正、つまり、関税自主権の回復と領
事裁判の撤廃は、日本外交の最大の課題でした。
それは日本だけでなく、ペルシャ、シャム、中国など、19世紀帝国主義の下でからくも植民
地支配を免(まぬが)れたアジア諸国の最大の課題であり、孫文の死ぬまでの悲願でした。
不平等関税が何を意味するかは、むしろ植民地になった国がどういう目にあったかを見る
のが手っ取り早いでしょう。イギリスの対インド輸出はほとんど無税でしたが、当時、成長中
だったランカシャーの繊維業のために、インドからの綿布輸入には保護関税をかけました。
その結果、ベンガルの織物業は壊滅し、織物業者の白骨累々となったと言います。
日本の場合は、列強により一律5%の関税を押し付けられましたが、19世紀も後半となる
と、各欧米諸国間の産業競争が激しくなり、お互いに高関税で自国産業を保護し合うように
なり、明治11年に上野駐イギリス公使がイギリスに指摘したところでは、欧米一の低関税、
自由貿易を誇るイギリスの対日輸入関税は、無税品も含めて10%以上でした。
戦後は、開発途上国が、自分の国は禁止的な高関税をかけて自国産業を保護するのを許
され、先進国が特恵関税まで与えているのと較べると今昔の感があります。日本は、よく
その中で産業を発展させ、アジアでただ一人近代化を達成したものだと明治の人々の努力
に尊敬と同情の念を禁じ得ません。
>>19 >上記「7」の3つの投稿は削除対象。。。
なるほど、荒しでも本家争いが勃発か。
48 :
岡崎久彦:02/07/26 18:10 ID:9DTcJRKz
単に「3」の次に「7」をコピーしてしまったから。。。
49 :
岡崎久彦:02/07/26 18:11 ID:9DTcJRKz
領事裁判は、文明国の人間は、法律も完備していない非文明国の裁判を受けられないとい
うことで、領事が裁判をする制度で、もとより差別的屈辱的な制度ですが、その結果が公正
を欠くことも避け難いことでした。
ひとつの例は、明治19年イギリス船ノルマントン号が紀州沖で沈没し、イギリス人船員は全
員無事にボートで脱出し、日本人乗客23人は全員溺死したのに対して、領事裁判が船長を
無罪にした事件です。たまたまその2カ月前に長崎で定遠の水兵の暴行事件があったので、
この相次ぐ国辱事件に世論は激昂しました。
この不平等条約を解決したのは、陸奥宗光です。これは明治初年以来、明治政府の最大の
外交懸案で、岩倉具視など欧米訪問の目的もそうでした。また、井上馨外相が鹿鳴館で西
欧を真似たパーティーを催して、日本が文明国だということを誇示しようと、今から思えば稚
拙な無益なことを試みたのも、そのためでした。
交渉は堂々巡りでした。アメリカとの交渉では、領事裁判は後回しにして、日本経済に影響
の大きい関税自主権の方は合意しましたが、それは他の欧米諸国もそうするならという条件
付きです。それは当然のことで、アメリカ製品にだけ高い関税をかけられてはアメリカが損を
するからです。それではと、列国を集めて国際会議で決着させようとしますが、それだけ多く
の国を満足させる最小公倍数となると、妥協や譲歩が多くて国内が納得しません。
明治22年に時の大隈重信外相が爆弾を投げられて片足を失うのは、妥協として大審院(最
高裁判所)に外国人判事を任命しようとしたのが、国辱と考えられたからです。この極秘の
案をひそかにロンドン・タイムズに洩らしたのは、国権主義者、後の外務大臣小村寿太郎
だったといわれています。
50 :
岡崎久彦:02/07/26 18:11 ID:9DTcJRKz
明治25年外務大臣となった陸奥は、時の覇権国であり、世界の通商の指導者であるイギリ
スとの交渉で正面突破をするという正攻法を採り、成功させます。
しかし、条約改正は、外国との交渉と国内の反対を抑える二正面作戦です。過去において、
寺島宗則、井上、大隈、いずれも外国との交渉は一応妥結しながら国内のナショナリズム
の反発で挫折しています。
陸奥がイギリスとの交渉で合意した案は、もはや条約の文面上は国内から反対を受ける事
のない完全な平等条約です。しかし民党の意気盛んな初期議会ですから、そう易々とは政
府に手柄を立てさせてはくれません。反対派の主な口実は、それまで外国人居留地に制限
されていた外国人を国内で自由に行動させると−現実には、すでに規制はかなり緩んでいま
した−治安、風紀上の問題が起こるということでした。
ここで陸奥は、勝海舟、坂本竜馬の薫陶を受けて以来の開国進取主義を真っ向から振りか
ざして大論陣を張ると共に、子飼いの子分星亨、従来の盟友土佐派、また紀州派などの政
治勢力を駆使して条約改正を擁護しました。
ロンドンにおける条約調印は明治27年7月16日、日清戦争の幕を切って落とした豊島沖
海戦の9日前でした。キンバレーイギリス外相は、日本公使に対して、「この条約は、日本
にとって、清国の大兵を敗走させたよりはるかに大きな意義がある」と祝ってくれています。
51 :
岡崎久彦:02/07/26 18:12 ID:9DTcJRKz
百年の遺産-日本近代外交史−13
【朝鮮出兵から日清開戦】 日本の素早い対応に驚き
日清戦争を理解するための本として、陸奥宗光の『蹇蹇録(けんけんろく)』以上のものは
ありません。その冷静、犀利(さいり)な判断力と文章力から言って、チャーチル、ドゴール、
キッシンジャーの回顧録にも優ると言って過言でないでしょう。何よりも『蹇蹇録』が史書
として価値があるのは、偽悪的なまでに赤裸々に当時のパワーポリティックスの裏表を
解説してあますところがないことです。
日清戦争は、開戦の時に明治天皇は「閣臣らの戦争にして朕の戦争にあらず」と反対の
意向を表明された戦争でありました。また清国側は、いったんは出兵を決定した後、日本
の早い動きをみて「しまった」とほぞを噛んで、列強の干渉を頼んでも避けようとした戦争
でした。
これを巧みに戦争に持ち込んだのは陸奥と川上操六でした。そう言うと戦後の歴史観で
は戦争を始めた陸奥は悪い、ということになりましょう。しかし、歴史に善悪是非の観念を
持ち込むと歴史の真実が見えなくなります。
陸奥や川上にとっては、一歩踏みはずせば奈落の淵に落ちる弱肉強食の帝国主義時代
に、いかに日本の存立を守り、国権を伸長するか以外は念頭にはなかったでしょう。
仮に、もし日本が、日清戦争の勝利とその勝利の賠償金による軍備の増強がなく、10年
後のロシアの極東進出を迎えていたとしたら、清国も朝鮮もロシアの侵略を防ぐ実力のな
かった極東で、日本がアジア人種最後の独立を守り通せたかどうかさえ危うい状況でした。
52 :
岡崎久彦:02/07/26 18:27 ID:9DTcJRKz
力で自分を守り、自分の外辺をも守る、そうしなければ滅びる、これが帝国主義時代の掟
でした。今、日本人が享受している高い生活水準は、途中で敗戦はあったものの、明治の
近代化の遺産です。日清戦争に敗れた清国と、勝った日本のそれぞれのその後の運命を
考えると、それだけでも日清戦争を勝ち抜いた我々の父祖に感謝すべき事は多々あります。
朝鮮では、一種の排外主義民衆運動である東学党の乱が起きました。明治26年の段階
で、清国はいち早く軍艦「来遠」「靖遠」を派遣して宗主国の威を示します。27年になって
南部の反乱が拡大すると、清国政府は朝鮮政府内の親清派と呼応して陸軍を出兵します。
これに対して、日本は、甲申事変では、清国側の兵力が圧倒的に優勢だったために親日
派を見殺しにした失敗を繰り返すまいとして、3千名の清兵の倍以上の兵力を手早く朝鮮
に送り込みます。
ところが、東学党の乱は間もなく収まり、日本側の素早い動きに驚いた清国は相互撤兵を
提案するので日本は進退に窮します。そこで伊藤と陸奥は、清国と共同で朝鮮の内政改
革をすることを提案し、そして陸奥は、さらに清国がこの提案に同意しない場合は、日本
が独力で改革を行う方針を閣議で確認させます。
内政改革は、それがない限り朝鮮では、壬午、甲申、東学党の乱と、何度でも問題が絶え
ないではないかという説明が可能でした。また、日本に亡命中だった親日独立党の金玉均
が上海に誘(おび)き出されて殺害され、その遺体は、首と胴は京城と仁川、四肢は八道に
分けて路傍に捨てて野良犬の食うにまかせるという六所の刑に処せられたという衝撃的な
事件に日本の世論が激昂している最中でもありました。
いずれにしても、帝国主義時代に、文明国が弱小国の内政に干渉するのは珍しくなく、日
本の場合は明治維新の経験を朝鮮に教えてやるという正義感もありました。
53 :
岡崎久彦:02/07/26 19:37 ID:GbYmwg3G
しかし『蹇蹇録』は冷静です。「日本の朝野の議論は、日本は義侠国として隣邦の改革を
援(たす)けるべきだと言う。自分は初めから、朝鮮のような国が満足な改革ができるかど
うか疑っていた。しかし、日本の世論が一致してこれを支持したことは好都合と認め、こ
れを事態を一挙に急展開させる手段にしようとした」と赤裸々に書いています。王芸生が
これを引用して「夫子(ふうし=自分)自ら、日本政府の意図と野心を表明している」と書い
た通りです。
清国と共同の内政改革といっても、ことごとに宗主権を主張している清国が日本と対等の
関係を容認するはずもありません。その点は陸奥もはっきり予測しています。
だから日本による単独改革の方針を閣議で固めておいた訳ですが、清国が日本のなすま
まにさせれば、朝鮮の覇権が清国から日本に移る訳ですから、これを無視するはずもあり
ません。つまり戦争です。
清国は、兵1300と砲13門をイギリス船高陞(こうしょう)号で護送艦付きで増派しますが、
これを日本艦隊が迎え撃ったのが、日清戦争の口火となる豊島沖海戦です。
日本側の戦史では清国側が先に発砲したことになっています。しかし、これは成歓の地
上戦闘を前にして、清兵の増援を阻止する必要があった日本側から攻撃したと考えて間
違いないでしょう。
もっとも清国側も、日本側が迎撃することを予想していて、わざわざイギリス船を使い、高
陞号撃沈の報に接して、自国将兵多数の死にもかかわらず、「これでイギリスは黙ってい
ないだろう」と、かえって喜んだといいます。まさに、ことの善悪是非など何の関係もない、
パワーポリティックスの権謀術数だけです。
54 :
岡崎久彦:02/07/26 19:38 ID:GbYmwg3G
百年の遺産-日本近代外交史−14
【戦略、戦術の違い】 ほぼ対等の戦力が命取り
戦争を始めてみると戦闘毎には日本軍の完勝でした。宣戦布告は明治27年(1894年)
8月ですが、9月には朝鮮内の清国軍の拠点平壌を陥(おと)し、黄海海戦に勝ち、11月
には大連、旅順を占領し、翌95年2月には威海衛を占領しています。戦闘前の兵力差、
装備差などは関係のない勝ちぶりです。
当時の新聞によれば、金州で捕らえた捕虜の中に、言語挙止が自(おのずか)ら他と異な
る敵将がいました。日本の将校が「君は戦いに利あらず捕虜となっている。心中を思うと
軍人として同情に堪えない。釈放するからもう一度雌雄を決しにこないか」と言うと、彼は
頭を振って、「清国軍は日本軍には勝てない。その理由の一つは突貫である。日本兵の
突貫は迅速敏捷(びんしょう)で射撃の暇(いとま)がない。一兵倒れれば一兵次ぎ、防御の
方法がない。しかも清国兵は一度も突貫することができなかった。もう一つは散兵である。
一カ所にまとまらないので砲弾の的となることが少ない。清国兵は散兵ができない。もし
散開すれば、その多数は必ず逃亡する……」と語り終わって愁然たるものがあったと言
います。
これはまさにナポレオン戦争の再現でした。それまでは王家の傭兵同士の戦いで、兵の
逃亡を防ぐために、赤い色の目立つ服を着せ、隊伍を組ませて戦争しました。ところが、
ナポレオン軍は三色の旗を翻す国民軍で、その運用ははるかに楽でした。そして、他の
諸国が徴兵制を導入して対抗するようになるまでは、連戦連勝しました。
また突貫などは日中間の伝統的戦略思想の違いを示しています。中国の戦略思想は、
孫子以来、戦わずして勝つ事にあります。つまり必勝の形を作って相手を引き下がらせ
るのが一番よい。戦闘などしてどうなるか分からない結果に賭けるとか、勝っても自分が
けがをするかもしれないことをするのは賢い人のやることではない、という考え方です。
55 :
岡崎久彦:02/07/26 19:38 ID:GbYmwg3G
黄海海戦では、定遠、鎮遠は12インチ砲を4門ずつもって撃ってきます。日本側は三景
艦が1門ずつ持っていますが、貧乏で無理をして小さな艦に巨砲を積んだのでうまく撃て
ません。日本艦隊の周りはたちまち巨弾の水煙で包まれます。中国側の伝統戦略思想
では、日本側はここで中国の威を恐れて引き揚げるべきなのでしょうが、日本側は接近
戦に持ち込んで6インチなどの速射砲を清国側の甲板に撃ち込んで戦闘に勝ちます。
中国側の戦略で勝つには、圧倒的な優勢が必要ですが、日本側の営々たる軍備拡張を
放置して、ほぼ対等に近い戦力バランスにさせた油断が命取りとなったわけです。
戦争2カ月前に、清国は大観艦式を催しますが、その際、李鴻章は美辞麗句でその威容
を讃えつつも、「日本はちっぽけな国であるが、節約して毎年軍艦を増やしている」と警告
を発しています。そして参観していたイギリス人が、日本に対抗するために快速艦をもう
2隻買ってはどうかと忠告しますが、西太后の還暦祝いの頤和園(いわえん)建設に費用が
かかり、沙汰(さた)やみとなっています。
明治天皇は、明治26(1893)年から内廷費30万円を節約して、6年間建艦に寄付します。
つまり180万円です。
西太后が頤和園建設に流用した海軍経費は3千万両、約4500万円です、この一部で快
速艦2隻を買うだけで、清国海軍は圧倒的優勢を誇れたでしょう。もし黄海海戦で勝てな
いと、日本軍は黄海での補給路を絶たれますから、遼東半島は到底攻め切れず、長期戦
になって、国力がもたなくなった恐れがあります。
56 :
岡崎久彦:02/07/26 19:40 ID:GbYmwg3G
つまる所、戦争準備に真面目に取り組んだかどうかが、戦争の勝敗の分かれ目となり、そ
の後何十年もの、日本と中国との歴史的経験の差となっていくわけです。
日清戦争の際の一般日本国民の愛国心の昂揚ぶりは、日露戦争や大東亜戦争を上回った
と言います。全国で義勇兵の志願が後を絶たず、遂に詔勅で、「義勇兵の必要はないから、
おのおの生業にいそしむように」、と訓諭する必要があったほどです。思想家、評論家、新
聞はこぞって戦争を支持し、のちに日露戦争に反対する内村鑑三も日清戦争を義戦である
と主張しました。
明治27(1894)年秋の議会はすべての軍事関係の法案を5分で無修正で通しました。ほん
の数カ月前の伊藤、陸奥の議会操縦の苦労を考えると、夢のような変わり方です。日本の議
会制民主制度が安定軌道に乗るのは、初期の伊藤、陸奥の努力と、それが行き詰まった頃
の日清戦争のお陰と言えます。
戦後の偏向史観は、自由民権は善、戦争は悪という方程式を作って、日清戦争で民党が善
から悪に急変したといって歎いています。しかしこの連載で、自由党、改進党以来の民党の
主張が民権と国権の両方であったことを知っている人には何の違和感もないでしょう。
溯(さかのぼ)れば、維新の戦いの中で、帝国主義時代に日本の独立を守り抜くには、国民
全部が苦楽を共にしなければならないと感じた板垣の初心が、ここに見事に開花したと言
うべきでしょう。
57 :
卵の名無しさん:02/07/26 23:08 ID:GXFnr1p3
35歳の平均年収は1000万円くらいですか?
58 :
岡崎久彦:02/07/26 23:18 ID:SoyMgz/G
百年の遺産-日本近代外交史−15
【列国の干渉への対応】 陸奥の事務処理の早さ奏功
伊藤博文が生前座右に置いていた機密文書が昭和8年に『機密日清戦争』として公刊さ
れました。その冒頭に、開戦早々のものと思われる内閣総理大臣奏議があります。実に
伊藤博文らしい、ズバリと核心を衝(つ)いて一字一句無駄のない名文です。
要約すると「イギリス、ロシアなどの開戦前の干渉は一応去ったが、彼らは決していつまで
も黙って見ていることはなく、必ずまた干渉してくるだろう。しかも、今度は実力を行使して
その目的を達しようとするかも知れないし、フランスやドイツなども嘴(くちばし)を入れてくる
かも知れない。目下の急務は、干渉がくる前に、一大勝利を収め、日本側の要求をすぐに
でも持ち出せる立場を確保することである。そうしておけば、例えそれを全部達成できなく
ても、国威を損せず、日本の利益となる結果を得、しかも将来の計画も立てられる」と、まる
で三国干渉、遼東還付も、さらに臥薪嘗胆(がしんしょうたん)と日露戦争まで見通したような
文章です。
軍は、干渉がくる前に勝利を収め、要求を出せるようにするという伊藤の希望に見事に答
えました。むしろ、日本側がまだまだ進撃できるという状況で、清国の方から早く戦争をや
めたいと言ってきて、日本側から、「李鴻章のようなしかるべき人物がくるまではダメだ」と
言ってやり直させたほどの余裕がありました。
外交の方が、開戦時手際良くいったのは、ひとつに陸奥宗光の功績と言えます。日本の出
兵をみて「しまった」と思った清国は、ロシアやイギリスに事態収拾のための干渉を頼みます。
これを的確に処理していったのは陸奥の優れた判断力に負うところが大きいのですが、何
より大きかったのは陸奥の事務処理の早さです。
59 :
岡崎久彦:02/07/26 23:18 ID:SoyMgz/G
朝鮮内政改革案に清国が拒否の回答をしてきた6月21日のもう翌日には、理路整然たる
長文のいわゆる「第一次絶交書」を手渡しています。
6月30日にロシアの干渉が来ると、直ちに伊藤と相談して、言辞は丁重で事理を尽くした
回答案を作成し、7月1日に閣僚と協議して天皇の裁可を得て、2日にはロシアに回答し
ています。そして、7月21日のイギリスの干渉に対する回答書は22日に出しています。
人員も充実し、英語の能力も格段に上がった今の外務省でも、これだけの内容の仕事を
この早さで仕上げるのは至難のわざです。おそらくは陸奥自身が筆をとり、あるいは徹夜
もしたかもしれません。まして、それが不平等条約改訂交渉の終盤と重なったことを思え
ば、なおさらです。この陸奥の迅速さは、清国の対応、そしておそらくはロシアの対応を後
手後手に回らせる効果がありました。
日清戦争後の講和条約交渉は明治28(1895)年4月に妥結しました。要は、遼東半島と
台湾を日本に割譲し、償金2億両を払うという事です。ほかに朝鮮の独立を認め、宗主権
を放棄し、日本と清国の間に欧米並みの通商条約−つまり不平等条約−を結ぶことを決
めました。
ロシアが反対したのは、この中の「遼東半島の領有」です。ロシア皇帝ニコライ二世は、皇
太子時代に訪日した事もあり、極東に関心を持っていました。ウィッテの回想記は、「皇帝
は、この方面に進出し、領土を拡張したいという希望があり、そういう希望があると知った
以上、日本に遼東半島を領有させることは到底容認できないと考え、日本が言うことを聞
かない場合は、日本砲撃ぐらいはやむを得ないと考えた」と記しています。そしてドイツと
フランスを誘って、日清講和条約批准の4月20日に三国干渉を始めます
60 :
岡崎久彦:02/07/26 23:19 ID:SoyMgz/G
戦前までの世代の人は、三国干渉と聞くだけで体中の血が怒りに逆流したものです。極東
の平和のためと言って遼東半島の返還を強要したロシアが、舌の根も乾かないうちに自分
で遼東半島を占領したことは厚顔無恥であるだけでなく、日本に対する侮辱だからです。
しかし、それが国際政治の現実です。狼が渾身の力をふるって大鹿を斃しても、そこに虎
がくれば、自分の権利も何もないのがジャングルの掟です。三国干渉の張本人のロシアも
トルコを蚕食しようとして、何度イギリスの干渉で涙を呑んだかしれません。
もう日本としては打つ手はありません。アメリカイギリスの助けを借りようと言っても、アメリ
カは実力でパワーポリティックスに参入する気は全くなく、イギリスについては、陸奥の表現
では「イギリスは他人(ひと)の憂いを我が憂いとするドン・キホーテではなく、日本が同盟国
として大英帝国の防衛に寄与できる国とは思っていない。もしイギリスが一言同盟と言って
くれれば、それに賭けたかもしれないが、そうでないので三国干渉を受諾した」わけです。
確かに、当時戦艦と言えば、分捕ったばかりのボロボロの鎮遠しかなかった日本が、その
後臥薪嘗胆して着々と戦艦を購入して、ひとつの海軍勢力となってから初めて−それを最大
の理由として−イギリスは日本との同盟に踏み切り、日本は日露戦争という大戦争に勝つ
のです。
実力がなければ日英同盟は不可能という陸奥の理論こそ、伊藤が平和回復後の議会に軍
備大拡張計画を提出した動機だったと言います。
61 :
岡崎久彦:02/07/26 23:23 ID:SoyMgz/G
百年の遺産-日本近代外交史−16
【道半ばの陸奥の死】 「憲政の完備」果たせぬ無念
明治30(1897)年、陸奥宗光は、海援隊以来の同志で、初代衆議院議長を務めた義
弟の中島信行に「自分の願うところは、条約の改正と憲政の完備にあった。前者は既に
成功したが、後者はまだその半ばまでも行っていない。これが自分の妄執で成仏しきれ
ない」と言いつつ逝きます。
政府部内での議会制民主主義達成のための陸奥の戦いはほとんど孤軍奮闘でした。
第1回議会の運営を成功させた土佐派の動きの背後には、当然、陸奥がいました。しか
し、品川弥二郎内相など藩閥の保守派にとっては、この妥協は成功でなく、屈辱でした。
保守派は、「民党は国家の公敵、不忠不孝の徒、その撲滅こそ君国に忠なる所以」と考
えて、第2回総選挙には警察の実力を使って大々的に選挙干渉をします。折角の、お伽
噺の世界のような汚れのないサムライ・デモクラシーが頽廃(たいはい)していったのは、
この大干渉をはじめとして、健全な選挙を育てようという観念が藩閥側になく、民党撲滅
のために暴力や買収など破廉恥な行為も許されるという習慣が蓄積していったからと言
えます。
陸奥宗光は、閣内でその干渉が非法なことを痛論して譲らず、遂に農商務大臣を辞任し
ます。彼は「私には藩閥はない。私独りの力があるだけだ。もし私が一歩譲ったならば、も
う陸奥というものはない。私はいつも白刃を頭上に振りかざして人に対さねばならない」と
言って周囲の忠告を斥 (しりぞ)けたと言います。
62 :
岡崎久彦:02/07/26 23:25 ID:SoyMgz/G
他方、日本の民党は、自由民権運動以来の確固たる地盤のある政党であり、選挙干渉して
もどうなるものではなく、第2回議会でも過半数を占めました。しかも弾圧で負傷して松葉杖
をつく議員が登院する議会の雰囲気は険悪を極めました。
政府は嬲(なぶ)られる)ばかりで何ひとつできず、松方正義総理は、総辞職を纏める政治力
もなく、独りで辞表を出して辞めてしまいます。
このままでは、日本の議会政治は続けられるかどうか判らず、憲法を停止してやり直しさえ
考えられた事態でした。ここで、「明治政府末路の一戦」と言われた伊藤総理、陸奥外相の
元勲内閣が、議会の反対を凌いで条約改正にまで漕ぎつけた経緯はすでに述べました。
しかし、それは陸奥の苦心惨憺たる議会工作と、議会解散権を繰り返し使うという政府の
強権発動によるもので、挙国一致態勢を作らせた戦争が終われば、また伊藤内閣が議会
対策の困難に直面することは目に見えていました。
そこで、伊藤と自由党の提携の話が進み、板垣が内相として入閣し、陸奥は閣内で板垣を
いろいろ援(たす)けます。
ここに伊藤博文という人の発想の柔軟さ、現実主義があります。そもそも伊藤は心血を注
いでプロシャ型憲法を作り、自らをビスマルクに比してビスマルク型の議会操縦ができると
思っていましたが、議会開設してみると、そうもいかないことがわかりました。
次は、自分で政党を組織しようとします。「俺がやれば政党のひとつぐらいできる」という
自負心です。それはちょうど同じ頃、品川弥二郎が警察力で民党を撲滅できると考えた
のと同じぐらい非現実的な話でした。まだ、誰も議会政治なるものの本質を肌で経験して
いない時期でした。
63 :
岡崎久彦:02/07/26 23:26 ID:SoyMgz/G
そして結局は民党の代表的存在である自由党と提携するという議会政治の王道しかない
事に気づき、やがては自由党を中心とする政友会を結成して、大正デモクラシーへの道を
開くのです。振り返ってみれば、日本のデモクラシーの根源は板垣退助の自由党にあると
断じても良いでしょう。
明治の自由党は、戦後の一時の反体制史観で、ほんの一部のはね上がり行動ばかりが評
価され、自由党の議会活動はそれが反政府的でないというだけの理由で、裏切りとか右寄
りとかいわれていますが、それははっきり誤りと言ってよい偏向史観です。
自由民権運動を通じてできた自由党は、すでに国会開設の前に、各地に深く根を下ろした
政党となる素地を持っていました。しかも、それを代表する人々には、志士として尊敬され
た人や、地方の名望家であり、政治家として国政を担う資質を持った人々でした。最初の
議会が開設される前に、日本はすでに立派な政党を持っていたのです。
伊藤は初期議会を経験して、最大野党の自由党と組むという議会政治の大道を覚ったの
ですが、これを常に冷静にみていたのは陸奥です。
陸奥は、プロシャ型憲法でも何でも、議会さえ開設すれば、それはやがて政党政治になら
ざるを得ないことを見通しつつ、年来の知己である伊藤を援けて議会民主主義の確立を計
っていたのです。
陸奥の死ぬ頃は、政党の離合集散の激しい時期で、板垣は自由党の総裁を辞任し、次期
の総裁は陸奥となるのが避け難い流れとなっていました。
陸奥は年来の念願を果たすチャンスと考えますが、それを果たせずに逝きます。しかし、その
遺志は陸奥の真の子飼いの子分である星亨、原敬に引き継がれて、やがて大
正デモクラシーとして開花します。
次スレのタイトルは、迷門→迷惑「ゾロの迷惑」でどう?
65 :
岡崎久彦:02/07/27 07:13 ID:xBJ2MKte
やはり先発MRか。。。
66 :
卵の名無しさん:02/07/27 08:40 ID:03mryqUz
次スレのタイトルですが、「地下室の怪 徹底追求!」ってのはどうでしょう?
67 :
岡崎久彦:02/07/27 09:12 ID:1KgT+6f6
それでいいだろう。。。
68 :
卵の名無しさん:02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :
卵の名無しさん:02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
71 :
岡崎久彦:02/07/27 12:15 ID:0HM6EBpy
百年の遺産-日本近代外交史−17
【政党政治の揺籃期】 主義と信念に徹した星亨
陸奥宗光の死後、日本の議会政治は試行錯誤を重ねつつ成熟していきます。
日清戦争後の議会運営のため、伊藤博文は板垣退助と提携しますが、こうなると当然、
与党を持つことの便利さがわかってきます。すると薩派も改進党と提携して松方・大隈
内閣ができます。
そうなると、今度は民党としては代わる代わる利用されるだけではつまらないという事
になって自由党と進歩党を合体して憲政党を作り、伊藤は山県有朋などの反対を押し
切って政権を大隈重信、板垣の憲政党に譲ります。
ここでも伊藤の柔軟さが憲政を救っています。もし山県などの超然主義を貫いていれば、
藩閥内閣は解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備もできず、あえて戦争の
準備をするためには憲政の停止もやむを得なかったかもしれません。
隈板(大隈と板垣)内閣は準備不足でもあり、短命で終わりますが、憲法発布の時にプロ
シャ的超然主義を標榜して発足した日本の憲政が10年たたずに、ドイツでは第一次大戦
で敗れるまで実現していない政党内閣を作ったのです。日本は再び平和革命に成功した
と言えます。
その裏には日本人同士の信頼関係があったのでしょう。伊藤にとって、大隈・板垣は維新
以来の同志です。国を思う心には変わりはないという信頼関係があって初めて政権を譲
れたのです。
72 :
岡崎久彦:02/07/27 12:16 ID:0HM6EBpy
次いで伊藤は旧自由党系を中心に立憲政友会を作り、自ら総裁になりました。300議席
中155議席を占める大政党です。この政友会内閣も準備不足で短命には終わりますが、
この政友会が将来の大正デモクラシーへの大道を開きます。
ところで、この政党の揺籃期にあたって山県有朋などを中心とする藩閥勢力は政党政治
に対する歯止めを考えます。それは軍部大臣現役制と文官任用令です。
文官任用令の方は、政治が役人の人事に容喙(ようかい)できる範囲を狭めたもので、そ
れまでは藩閥が勝手に藩閥の人間ばかり登用していたことを考えると、民党が政権を掌
握した途端に官吏の任免権を政治から奪った事に対する民党の憤懣(ふんまん)は解り
ますが、この時決めた政官関係はその後日本では定着しています。
軍部大臣現役制こそは、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた
元凶です。統帥権の独立よりも、実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向
に従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になってしまいました。
政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして山県が作ったこの制度が昭和期になって
国を誤らせることになるのです。
この間の政局で台風の目となるのは、陸奥の子飼いの子分、星亨です。星は、士族階級の
出身者を中心とする明治の指導者達の中で例外的に庶民の出でした。左官屋の父は大酒
飲みで家出し、母は乳飲み子の星をかかえて下女奉公をして一時は生活に疲れて赤坂の
溜池に星を投げ込もうかと思ったといいます。
73 :
岡崎久彦:02/07/27 12:16 ID:0HM6EBpy
星は、生涯を通じて、上流階級、士族階級には傲岸不遜(ごうがんふそん)でしたが、自分
の結婚に際しては母と嫁との折り合いを考えて、畳屋の娘を貰(もら)うなど、庶民の情け
のある人でした。
若い頃から終始陸奥が世話をみましたが、イギリスにも留学し、日本人で初めてイギリスの
弁護士という栄誉ある資格を得、帰国後、法律事務所を開いて成功します。
星は自由党に入り、知識階級ぶった改進党を嫌悪します。実は、板垣も陸奥も改進党嫌い
でした。改進党は結党に際して自由党の了解を得ようとして、自由党は剛直な正義派だか
ら、穏健な人はついていかないので別動隊を作るのだと説明したのに対し、板垣は「我々
を猟犬としてその獲物を取ろうとするのか、狡猾も甚だしい」と面罵し、改進党側は一言も
なかったといいます。これが自由党と改進党、進歩党、後には政友会と民政党の対立の
歴史的な源です。
板垣が自由党を解党した時、独り解党に反対し、その後も私財を投じて自由民権運動の火
を細々と守ったのは星です。また、第2回議会の衆議院議長として、大選挙干渉をした松方
内閣を苛(いじ)め抜いて潰したのも星ですし、代わった伊藤内閣では内々陸奥と呼応して
条約改正、日清戦争の準備に協力しました。
隈板内閣ができると、駐アメリカ公使だった星は、東京の許可も待たずに帰国し、外相の
ポストを要求しますが、大隈が星を警戒して断ると、今度は旧自由党系を分離させて隈板
内閣を潰します。そして、その後の山県内閣では、政府と協力して日露戦争の準備をする
中心的役割を果たし、次いで伊藤政友会内閣にも実力者として入閣しますが、汚職の疑い
で辞職します。
星は庶民出身として反骨精神の権化でしたが、他面、金銭を卑しむ士道とは無縁の人で
あり、臆面もなく金を集め、腐敗政治家の代表のように思われ、これを憤った壮士に刺殺
されます。しかし、彼の死後残ったのは借金だけで、私財は全く貯えていませんでした。
星は、あくまでも、主義と信念に徹した人でした。
74 :
岡崎久彦:02/07/27 12:17 ID:0HM6EBpy
百年の遺産-日本近代外交史−18
【小村寿太郎の登場】 強烈な国権意識と度胸の良さ
小村寿太郎という人物を知ることは、戦前日本の指導者の一つの型を知ることにもなりま
す。まず第一に大秀才でした。かつての日本では、若い頃から周囲の誰もが「あいつにだ
けはかなわない」と思うような大秀才を皆が尊敬し、社会のトップになるまで皆が推すの
が普通でした。
新井白石から、戦前の外相幣原喜重郎、重光葵、東郷茂徳までそうでした。むしろ、戦後
日本の反エリート風潮の方が、日本の伝統にも世界でも、あまり例のない特異な現象です。
現在の東京大学の前身である開成学校には、全国300余藩から推挙された若者達が集ま
りましたが、小村は飫肥(おび)藩からただ1人選ばれて入り、その中で50名選ばれた給
費生となり、また、初めての省費外国留学生の中の法科4名の1人に選ばれ、ハーバード
大学に留学します。
開成学校時代に書いた英語の文章が最近アメリカの図書館で発見されましたが、日本が血
を流すことなく明治維新で封建制を廃したのはイギリス仏の歴史と較べても特筆すべき成功であ
り、それは国民の封建領主への忠誠心よりも愛国心の方が強かったからだと論じています。
英語といい、自らの体験に基づいたその論旨といい、20歳前後の若者とは思えない立派
な文章です。
第二は、強烈な国権意識です。既述のように外務省の局長でありながら、クビを覚悟で国
辱と思った条約改正案をロンドン・タイムズに洩(も)らして、これを葬(ほうむ)ったのは
小村でしたし、日清戦争の際「よしっ、この俺が戦争を始めてやろう」と、訓令の到着を
待たず北京の公使館の旗を降ろして引き揚げてしまったのも小村です。そして常に近衛篤
麿、杉浦重剛などの国粋主義者の支持を背後に持っていました。
75 :
卵の名無しさん:02/07/27 12:34 ID:NdtyYuh9
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :卵の名無しさん :02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
76 :
岡崎久彦:02/07/27 13:19 ID:5Yvvat6S
政治思想も、民主主義よりも国家政策本位です。当時は議会政治の勃興(ぼっこう)期です
が、「こう政党屋ばかりできては仕方ない。何か中立のしっかりしたもの」が欲しいと言
い、当時高級官僚のお決まりのコースは政党入党(にゅうとう)でしたが、大隈重信総理か
らの誘いを「暑いのに入湯(にゅうとう)などは真っ平」と断っています。
第三に、これも江戸時代以来の日本知識層の風(ふう)として、辺幅(へんぷく)を飾らず、
つまりバンカラでした。小村の貧乏は本人の責任でなく、親の借金を引き継いだためでし
たが、家具のほとんどない家に住み、夏も冬も着古しのフロック・コート一着だけで、昼
食時には袖のほつれ糸を鋏(はさみ)で切るのが習慣でした。夏は暑いだろうと訊(き)かれ
ると、貧乏していると暑さを感じないと答えたといいます。小村の度胸には天性のものも
ありましょうが、これ以上失うものはないという環境もあったでしょう。
小村が日本外交に登場する頃、東アジアの情勢は激変期を迎えていました。その引き金は
日清戦争で、それまで「眠れる獅子」と思っていた清国が小国日本にあっけなく負けたこ
とです。
これをみた帝国主義列強が、これは東洋史では何度も使い古された言葉ですが、それなり
に正確なので使いますと、「死屍に群がる禿鷹(はげたか)のように」清国に襲いかかった
のです。日清戦争の翌年、ロシアは李鴻章を買収して、シベリア鉄道の満州通過と鉄道を
守る駐兵権を獲得し、その翌年ドイツが膠州湾を占領して租借権を認めさせたのに乗じて、
大連、旅順を租借します。ウィッテの回想では、もし清国が同意しなければ、ロシア軍は
行動を起こしてどのみち占領しただろうといっています。するとフランスは広州湾を租借
し、イギリスは威海衛と九竜半島を租借します。
77 :
岡崎久彦:02/07/27 13:20 ID:5Yvvat6S
日本はまだ、到底列強と争う力はなく、わずかに台湾の対岸の福建省を他国に割譲しない
ことを約束させます。ちなみにアメリカは、その年の大統領選挙のスローガンとして清国
の領土保全政策を掲げますが、選挙後は列強と競って三又湾に貯炭所を求めます。しかし、
それが日本の勢力圏である福建省なので、日本に婉曲に断られて、かえってアメリカの原則の
一貫性を傷つけないですんだ、という経緯があります。
ここに至って、ついに清国も目覚めます。光緒帝は明治維新にならった変法運動を始めま
すが、これは「百日維新」に終わって、かえって政治の実権は西太后に移ります。他方、
民衆による排外運動も当然起こって、団匪(だんぴ)が跳梁(ちょうりょう)し、外国人の生
命財産を脅(おびや)かしたので、列強は軍艦から水兵を揚げて、これを救おうとしますが、
これに対して西太后の朝廷は、こうなっては「かりそめに生き延びて恥を万古にさらすよ
りも戦って雌雄を決する方が良い」と諸外国に宣戦を布告します。これが北清事変です。
この時、孤立無援の北京城内の外国人は、日本の柴五郎中佐の指揮するわずかな数の義勇
兵で生き延びました。そして、連合軍が北京に入城した際、「北京篭城(ろうじょう)の功
績の半ばはとくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と公正な発言をして日本に讃辞
を送ったマクドナルドイギリス公使は、後に駐日公使となり、日英同盟の推進のための力とな
ります。
地理的に最も近い日本は、一個師団をおくりますが、白人兵の暴行掠奪(りゃくだつ)が横
行する北京市内で、日本軍は規律厳正で日本軍管轄区に大勢の市民が流入し、また、北京
の家々には暴行を避けるために日の丸が掲げられ、師団長がこれを禁止しなければならな
かったほどでした。
78 :
岡崎久彦:02/07/27 13:21 ID:5Yvvat6S
百年の遺産-日本近代外交史−19
【ロシアの東進と日本】 意図見抜いて行動する小村
当時の日露の国力の差を考えると、日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰でした。
当時の鉄や鋼の生産は、日本はロシアの30分の1ぐらいでした。真珠湾の前にウィンス
トン・チャーチルが松岡洋右外相に対して、鋼の生産が700万トンしかない日本が合計
2千万トン生産するイギリスアメリカと戦争できるだろうかと忠告したのと較べても、そのまた10倍
の較差です。陸軍の兵力は、ロシアが日本の約十倍でした。
それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかな
いと覚悟を決めたのは、結局はロシアの意図を正確に把握していたからです。北清事変を
機に、ロシアは満州に進撃します。1900年8月にはチチハル、9月には長春、吉林、
10月1日には奉天を占領して全満州を制圧します。ロシアは、満州を永久占領する意図
のないことを公式文書で声明しますが、小村寿太郎駐露公使は、早くも9月24日の電報
で、「ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう」と分析し、報告して
います。
実は小村はそれよりも早く行動を起こしています。ロシアが満州進撃を開始した7月20
日に、この際日露両国で、韓国と満州がそれぞれの勢力範囲であることを認め合うべきだ
と、本省に意見具申して、10月には自らヤルタに保養中のウィッテを訪れて、それを説
得しようとします。
つまり、ロシアはどうせ満州を取る気なのだから、取ってしまう前のこの時期に、それを
認めてやって、代わりに日本による韓国の自由裁量権を取ろうということです。小村の冷
徹なパワーポリティックスとそれを実現しようとする思い切った行動力の面目躍如たるも
のがあります。
79 :
岡崎久彦:02/07/27 13:22 ID:5Yvvat6S
日露戦争の後になってみれば、それはロシアにとって良い取引だったでしょうが、当時の
ロシアは弱小日本など相手にしません。ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアは満州
を取ろうと思えば何時でも取れる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合する
と韓国は隣接地域となるのでロシアの方が日本より大きな利害関係を持つようになる、と
いう返事でした。
ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、次は韓国を
取りにくる、と見極めてロシアと戦うしかないと臍(ほぞ)を固めるのです。これが「満韓
交換論」から「満韓一体論」への転換です。
戦後の史論の中には、ロシアにそこまでの侵略的意図はなかったという論もあります。た
しかにロシアの公式発言だけ引用すればそういう立論も可能でしょう。しかし、そういう
作業は無意味です。ロシアの中央アジア侵略の歴史では、イギリスから咎(とが)められる度に
永久占領の意図もなく、それ以上進む意図のないことを確約しつつ、結果はどんどん進撃
して併合しています。
ロシアの意図は、普通の帝国主義的発想と、極東の地図を見ればわかる話です。ロシアと
いう国はよくよく因果な国で、西も東も大洋への出口が閉ざされています。ピョートルが
やっとバルト海に出ても、その先にはデンマーク海峡があり、黒海北岸、東岸を制圧して
もダーダネルス海峡があります。東は千島、北海道から対馬に至る日本列島に出口を抑え
られています。ウラジオストクの出口を扼(やく)する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、
というのはツァー(ロシア皇帝)も含めてロシア側が陰に陽に洩らしているところでした。
日本の心配はそれだけではなかったでしょう。もとより文書に残るような公式発言にはあ
り得ないことですが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮を取られたら、次は北海道も対
馬も取られると思っていました。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後
は、いずれそれが正確な判断となったでしょう。
80 :
岡崎久彦:02/07/27 13:23 ID:5Yvvat6S
もちろんロシアは、イギリスが干渉してくることは十分覚悟していたでしょう。しかし、すで
に日英同盟も結ばれ、日露戦争も始まった後で、ウィッテはイギリスに対して、対日講和条件
として、満州、朝鮮の併合はもちろん、「日本は永久に戦闘力を失わねばならず、太平洋
沿岸のロシアの優越は保障されねばならない」と探りを入れています。強国ロシアの隣で
無防備となるということは、問題の決着でなく、始まりです。「太平洋沿岸のロシアの優
越のため」必要な北海道、対馬などの運命は、ロシアの手に委(ゆだ)ねられるわけです。
この強大かつ危険なロシアに勝つためには、極東がロシア中心部から遠く離れているとい
うロシアの弱みをつくしかありません。それは完成間近で輸送能力も限られているシベリ
ア鉄道で遥かに送られてくるロシア軍が十分に増強される前にたたくことです。事実、も
し開戦が半年遅れていたら、日本の勝ち目はなかったでしょう。
開戦時の小村外相の粒々の苦心が、早く交渉を打ち切って戦争に持ち込むことにあったの
はこのためです。
>>71-80 地下室の話題に反応したか。
やはり統領様とゾロの地下室には密接な関係があるようだ。
82 :
探偵:02/07/27 15:06 ID:DuES7v5e
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :卵の名無しさん :02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
83 :
岡崎久彦:02/07/27 15:17 ID:3I6OeiBA
百年の遺産-日本近代外交史−20
【日英同盟イギリスの思惑】 イギリス海軍の負担軽減が狙い
19世紀の世界の覇権国、大英帝国イギリスは、そのほとんどの期間「光輝ある孤立」(ス
プレンディッド・アイソレイション)」を守ってきました。その孤立を終わらせた最初の同盟国
が、非白人の弱小国日本でした。
どうしてそんなことができたのか?、これをイギリスの側からトラヴェリヤンの『英国史』は
淡々と説明しています。「トラファルガーの戦いから100年間イギリスに拮抗(きっこう)する
海軍を作った国はなく、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーはイギリスの力を必要とせず
維持されたが、20世紀に入って、世界の軍事バランスは誰か確実な友人を必要とさせた。
アメリカが最も望ましいが、アメリカは孤立主義の国是があって不可能であり、そこでロシ
アの太平洋岸への進出と中国分割を避けるために日本と同盟した。それは太平洋に大
海軍を配備する必要をなくした……」
これをもう少し詳しく説明すると、イギリスはそれまで世界のどの地域でも、イギリス1国の
海軍力で他の全ての海軍力より優越していました。それが光輝ある孤立の基礎条件です。
ところが、極東進出を目指すロシアが新鋭艦をどんどん極東に送るので、戦艦の数だけか
らいうと、イギリス4隻、ロシア5隻となってしまいました。ロシア側にフランスの1隻が加わ
ると全く劣勢です。そこで、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)で営々と戦艦5隻を買い揃えた日本
との同盟が解決策となったわけです。逆にここで、日露協調を先に作られると、イギリスの
覇権は極東では完全に失われることになります。
日英同盟がイギリスの閣議で討議された時、ビーチ蔵相が「この条約の利益は、イギリス海
軍の負担を軽減することにある」と言った通りです。
84 :
岡崎久彦:02/07/27 15:19 ID:3I6OeiBA
三国干渉の時に、大英帝国の防衛に貢献できない限り、イギリスとの同盟は無理だと言った
陸奥の理論に伊藤が従ったのが臥薪嘗胆時代の大軍拡だと言いますが、それがまさに効果
を表したのです。
どれだけの軍事費を投入したか見てみると、戦時予算である明治28(1895)年の海軍費が
1300万円だったのが、平和になった29(96)年には、3倍の3800万円となり、翌30(97)
年には7600万円と、そのまた倍になっています。
大増税もしましたが清国から取った賠償金の9割は直接間接に軍備に使っています。清国
が本来対日戦に使うべきだったお金を日本が使い、結果として、ロシアの満州併呑、ひい
ては中国の分割を防いだ、と言う事になります。外交の裏話としては、ドイツから日英独同
盟の示唆があったのが契機となったのも事実ですが、大きな流れとしてロシアのアジアにお
ける膨張を抑えようという日英の国家戦略が噛(か)み合った結果でした。
問題は、むしろ日本側にありました。イギリスの場合は、長い孤立政策の惰性を離れる事に
若干の心理的抵抗があったという程度ですが、日本の場合はロシアを仮想敵とする同盟を
結んで、この恐るべき強大国とはっきり敵対関係に入るかどうかの問題でした。伊藤博文
などの元老はとくに慎重論で日露協調を主張しました。これについて、桂太郎首相は「親
露論はロシアに敵対することは不可能だという考えに基づくものであるが、それは一時の
平和論であって、ロシアは満州を取れば韓国にも手を出し、いずれは日本と衝突せざるを
得ない。さもなくばロシアの言うがままに屈従するしかない」と観察しています。やはり、ど
うせ戦争せざるを得ないのなら、今するしかない、という小村の判断と同じです。
85 :
岡崎久彦:02/07/27 15:20 ID:3I6OeiBA
伊藤は日露協調を諦(あきら)めずロシアを訪問しますが、その留守に、小村は歴史的な文
章である小村意見書を元老会議に提出して全員一致で合意させます。意見書は、ロシアの
侵略的意図を的確に分析し、他方大英帝国に同盟することの政治的、経済的、軍事的(特
に海軍力)の重要性をあますところなく説き、幕末以来のアングロ・サクソンかスラブかの選
択に最終的な決着をつけます。これはその後、大東亜戦争で中断されますが、日本の親イ
ギリス・アメリカ路線というオーソドクシーをはっきりと掲げた大論文です。
日英同盟は1902年1月署名され、2月にその内容が公表されます。
その頃ロシアは表向きは撤兵の代償ということを口実にして、満州を実質的にロシアの支
配下におくさまざまな条約の締結を清国側に迫りますが、当時清廷はすでにロシアの脅威
に目覚め、ロシアの要求をその都度日本に通報し、小村はその度に助言してロシアの圧力
に抵抗させています。そして、満州経済を露清銀行の支配下におく執拗(しつよう)な要求を
清国が断固拒否した次の日、ロシアは日英同盟締結の通報を受けています。小村外交の
勝利です。
ここでロシアは一応無条件で満州撤兵を約束せざるを得なくなります。しかし、ウィッテが「撤
兵は実際上不可能であり、自分も最早それを勧告し得ない。撤兵をゼロに等しくするまで曖
昧(あいまい)にする便法がロシアにとって有利である」と言っている通り、約束を守らず奉天
に居座り、かえって兵力を増強します。
ここに至り、日露間に外交交渉による満州問題解決の余地はほとんどなくなってきました。
86 :
??:02/07/27 16:28 ID:NdtyYuh9
読み返してみると不気味な荒らしだな
ふむぅ、確かに。
統領様のダークな部分を一身に背負っている感じがする。
>>87 慈愛に満ちた統領さまの心情を理解できないとは、嘆かわしいことです。
89 :
ペーストしました:02/07/28 06:58 ID:AH1KIu5z
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :卵の名無しさん :02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
統領さまと総書記は一見、似ているが、
総書記より人相が悪いで。
91 :
岡崎久彦:02/07/28 07:46 ID:SaA4JNwX
百年の遺産-日本近代外交史−21
【いよいよ日露開戦】 イギリスとアメリカが資金と情報を提供
日本は、初めから独りで、ロシアに撤兵を要求しようとしたのではありません。イギリスや
ドイツなどと共同でロシアに申し入れを試みたのですが、両国とも満州については、もう打
つ手はないと諦めて乗ってこないで、日本が腹を決めて単独でロシアに撤兵要求をしてい
る状態でした。
アメリカは清国の領土保全を宣言していたのですが、満州については、結局頼りになりま
せんでした。実は、その宣言をした国務長官のジョン・ヘイ自身、たった2年前の宣言を守
る気はありませんでした。
ヘイはセオドア・ルーズベルト大統領への書簡で、「我々は、満州については、ロシアにい
かなる反対の態度をもとっていない。逆に、北清におけるロシアの例外的な地位を認めて
いる」と書き、ロシア側に「アメリカの経済活動の自由が満州で保障されさえすれば、アメリ
カ政府は満州に関するロシアの行動を妨げぬであろう」と明言しています。
それから30年後の満州事変では、日本が作る既成事実は一切認めないという強硬態度
を取ったのと大きな違いですが、所詮は当時のロシア帝国と満州事変当時の日本との力
の差でしょう。国際政治は畢竟(ひっきょう)は力の世界です。
ただ、ルーズベルト大統領は、「満州におけるロシアの行動に私が怒っていることをロシア
が知ることに私は何も異存はない」、「満州問題では、私は国民が支持する極限までいき
たい」と洩らして、終始日本に同情的でした。しかし、その「極限」は明らかで、ヘイが判断
していた通り、領土保全宣言の実行はとうてい上院の支持を得られない状況でした。
もう日本は単独でロシアの進出を阻止するしかありません。
92 :
岡崎久彦:02/07/28 07:47 ID:SaA4JNwX
明治36(1903)年秋にはシベリア鉄道は普通貨物の取り扱いを停止して、軍事輸送に専
念します。軍事常識では戦争秒読みの段階です。11月には木材伐採という名目でロシア
兵が韓国の竜岩浦を占拠します。これに先立ち、小村は長文の意見書において、万難を排
しても韓国はその一部でもロシアに譲らないという事を御前会議で決めていますから、もう
それだけで開戦理由はあるわけです。
明治37(1904)年1月のヘイの日記は「ロシアは日本に何も譲歩しないと決意し、今や日本
を粉砕する時期がきたと考えている」と記しています。
1月末には、それまで慎重派だった伊藤博文が、自ら筆を取って「ロシアの侵略的意図は明
らかであり、一時的妥協をしても、いずれ衝突は避け難く、力不足と考えて一時の小康を得
るか、国運を賭してロシアの侵略を阻止するかの二者択一しかない」と判断を下し、ついに
小村などと共通の認識に達します。
それでも、明治天皇は「もし失敗したら(国民と祖宗の霊に)申し訳ない」と繰り返され、最後
まで決断をためらわれますが、ロシア艦隊が旅順を出港したとの報もあり、ついに2月5日
に海軍発進令をご裁可になり、同日交渉の断絶を電訓し、2月10日に宣戦の詔勅が発せ
られます。
交渉断絶と同時に、小村は対イギリス・アメリカ工作のため、アメリカにはハーバードの1年
後輩で同じ下宿に起居した金子堅太郎、イギリスには伊藤の女婿の末松謙澄を送り、政府、
世論の啓発を命じます。
戦争前はロシアの満州侵略に手の打ちようがないと傍観していたイギリスとアメリカは、日
本が戦争の決意を固めると、自(おのずか)ら全面的に支持します。
93 :
岡崎久彦:02/07/28 07:47 ID:SaA4JNwX
何より貴重だったのは、同盟国としてのイギリスの援(たす)けでした。条約の規定で日本が
ロシアと戦っている間は、イギリスは中立でしたが、戦争以外のあらゆる方法で日本を支援
してくれました。戦艦の建造には年月がかかるので、完成した戦艦を日露どちらが買い取る
かは直接軍事バランスの帰趨を決します。イギリスの造船所で建造中の2戦艦をロシアが
買おうとすると、イギリスは即金でイギリス海軍用に買ってしまいます。
イタリアで重巡2隻建造の情報をつかんだイギリスは、日本にそれを知らせ、日本はロシア
よりも1日早く手に入れます。これが日進、春日です。
完成は1月8日で、ロシアの地中海艦隊は開戦と同時に撃沈か拿捕(だほ)しようと追尾して
きます。そこへイギリス艦アルフレッド号が割って入って日本艦を護(まも)ります。そしてスエ
ズ運河では、イギリス当局が日本艦を優先的にインド洋に送り出しました。日進、春日の横
須賀到着は、まさに戦争開始の時で、まるで凱旋(がいせん)将軍を迎えるような国民的歓
迎を受けています。
イギリスとアメリカの援助で、特に有り難かったのは資金と情報の援助でした。高橋是清・日
銀副総裁が起債のためイギリスに派遣されましたが、大国ロシアに挑戦する日本債が容易
に売れるはずもなく、はじめは苦労しました。しかし、ロシアのユダヤ人弾圧に反発していた
アメリカのユダヤ資本が協力してくれて、イギリスとアメリカの市場がそれぞれ半分ずつ引き
受けて起債しました。
情報については、日英同盟が成立すると、イギリスは日英軍事協議を提案し、情報の交換
に特に力を入れました。七つの海を支配しているイギリスの情報が、それまで孤立していた
小国日本にとって、どれだけ貴重だったか想像にあまりあります。
日本は、「お金と情報」という戦争に不可欠でありながら、日本の一番弱いところをイギリスと
アメリカに補って貰(もら)いながら戦争したのです。
94 :
岡崎久彦:02/07/28 07:49 ID:SaA4JNwX
百年の遺産-日本近代外交史−22
【黒木軍の猛進】 ロシア軍撃破、世界が興奮
日露戦争で何より大事なことは、1日毎に増えていくロシア軍が増える前に早く叩くことで
あり、そのためには、日本軍を少しでも早く満州に送り込むことでした。従って最初の作戦
は朝鮮半島西側の補給路を確保することにあり、開戦早々海軍は仁川沖、旅順沖のロシ
ア艦隊を攻撃し、旅順港内に退避させます。
その次は、旅順湾口の狭い水路に老朽船を沈めて、出口をふさぐ旅順港閉塞作戦です。
湾口を守る重砲火の中をくぐる危険な作戦ですが、必要人員の100倍の志願があり、中
には血書した者もいました。兵の愛国心がここまで高かったのです。
また、回が重なると当然経験者を重用しようとすることになりますが、東郷平八郎連合艦
隊司令長官は「将校は良いが、兵は同じ人間が行ってはならない」と厳命します。危険な
任務にはエリートがつくべきだというノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)の精
神です。
閉塞作戦自体は失敗しますが、ロシア艦隊は敢(あ)えて港外に待機している日本艦隊に
戦いを挑まず、引き籠もってしまうので、日本側の軍事輸送は順調に進み、3月には黒木
為(ためもと)の第一軍を仁川に、5月には奥保鞏(やすかた)の第二軍を遼東半島に上陸
させます。
鴨緑江の北岸に陣を築いていたロシア軍は、日本軍の到着は5月中旬、兵力は2万と予
想していましたが、4月中旬には早くも4万の黒木軍が到着し、5月1日に渡河作戦を始め
ます。そして、有利な地形に據(よ)って守るロシア軍2万を激戦の末わずか1日で撃破して
しまいました。
社会の底辺会社をもてあそんでなにが面白いのだ!
社会通念の低いゾロは相手にせんでよし。
97 :
日本ケ*ファ:02/07/28 09:20 ID:8pb9FMvy
うちの会社はゾロではありません。
一緒にしないでください!
旧悪は記憶に残るものです。
当院で使っているS井社の製品に効き目の悪いのがいくつかあります。
先発からスイッチしたら患者から元に戻してほしいという要望がかなりあります。
ご検討、真剣にお願いします。
100 :
岡崎久彦:02/07/28 14:13 ID:mXhDBr3o
クロキはクロスキーというポーランド系だという噂(うわさ)も流れ、ロシアでは、クロキは
混血でロシア人の血が流れているから優秀なのだ、と宣伝したといいます。黄色人種は
劣等人種であり、白人並みの能力を持つはずがないというのが常識だった時代です。
満州に侵入するが早いか、黒木軍は、鳳凰(ほうおう)城、摩天嶺(まてんれい)と、まだ大
本営が作戦を予定していなかった要衝を次々に占領します。この速い動きは時間と競争
の、この戦争で、敵の準備不足を衝(つ)く絶大な効果がありました。
でも遼陽(りょうよう)の前の弓張嶺には、1万7千の露軍が堅陣を布いていて、これを突破
しないと遼陽の大会戦に間に合いません。ところが、大本営からは砲弾の補給は当分見
込みなしといわれます。砲弾なしの攻城となると、夜陰にまぎれて敵の至近距離に迫って
白兵戦をするしかありませんが、小人数ならともかく、師団規模の夜襲など暗闇で兵の指
揮も困難で、個々人の義務感と勇気に期待せねばならず、世界の戦史でも例のない事で
した。
黒木軍は各将校毎に分担を決め、夜毎に持ち場に潜入して、地形を覚え込ませ、攻撃の
晩は群がる蚊を叩くのも控えつつ1万2千の大軍が粛々と敵の守る山頂を目指しました。
戦闘は3時半に始まり、死闘の末、午前11時半には山頂に日章旗を掲げました。世界戦
史に残る弓張嶺の大夜襲です。
この勝利は、有色人種が近代兵器を用いて、正面から白色人種を圧倒した最初の戦闘
としてたちまち世界的反響を呼びます。ロンドン・タイムズは、日本軍の勇気、組織、指
揮は賞讃の言葉もないと讃えました。
黒木の名は世界中に轟(とどろ)き、メキシコで最大の鉱山を「黒木将軍鉱」と名付け、カナ
ダでは新設駅に「黒木駅」、新設郵便局に「黒木郵便局」と名付けました。
101 :
岡崎久彦:02/07/28 14:14 ID:mXhDBr3o
黒木軍に従軍したイギリスのハミルトン中将は、日本軍は「赤子(あかご)のように純粋で
ライオンのように勇敢で、祖先と天皇に対する義務を果たす事だけを考えている」「10回
でも賞讃したい」と言っています。
そして「戦う国家以外から偉大な芸術が誕生した事は一度もない。私が戦争が芸術の基
礎だというのは、それが人類の徳と魅力の基礎だという意味である」というイギリスの芸
術批評家ジョン・ラスキンの言葉を引用しながら、「良い鉄は釘にしない。良い人は兵隊に
ならない」と考える中国が、今どういう状態になっているかと考え、日本が武士を中心とした
精緻な文化を築き上げたことに注目して、日本の文武の道の教育に感嘆しています。
そして、「イギリスの女性は日本の女性の10分の1も民族の伝統精神を子供に伝えてい
ない」と祖国イギリスの将来を憂(うれ)いています。
戦後の日本の教育が、占領時代に制定された教育基本法以来、伝統精神を意図的に排
除していますが、かつては日本はこういう国だったのです。
日露戦争で発露した日本人の愛国心をみて、自らの国を憂いたのは、イギリス人だけでは
ありません。「秋風秋雨人を愁殺す」の句で有名な秋☆女史は、出征兵士を送る小旗を振る
子供達の可愛らしさをみて「私は羨ましさのあまり死にたくなった」とまで言い、ハミルトンと
同じように日本の女子教育を讃歎(さんたん)しています。
そして日本人がこんなにも団結して軍人を大事にするからこそ、軍人は生命を捨てて戦争
に赴くのだと、兵隊が蔑視されている中国を歎(なげ)いています。これもまた人民解放軍に
属することが誇りであり特権となった革命後の中国を思うと今昔の感があります。
☆=僅のにんべんを王へん
102 :
岡崎久彦:02/07/28 14:15 ID:mXhDBr3o
百年の遺産-日本近代外交史−23
【遼陽、旅順の戦い】 死闘の連続も涸れぬ愛国心
戦闘はすべて血みどろの戦いでした。両軍の兵士とも、国と自らの名誉のために死を賭し
て戦うのが時代の精神でした。
遼陽(りょうよう)の大会戦は22万5千の露軍に対する13万4千の日本軍の攻撃で始ま
ります。数からいって無謀な戦いのようですが、敵の数は時間と共に増えるのですから
日本側としては早期決戦以外に選択の余地はありません。
しかし、正面攻撃はことごとく失敗し、日本軍は次第に敵に押される形勢となりました。
軍神橘中佐の奮死もこの時です。この難局を救ったのは、再び東の方から駆けつけた黒木
の第一軍でした。黒木は敵の裏をかいて素早く太子河を渡り、要衝饅頭山(まんじゆうざん)
に向かいます。黒木渡河の報を聞いたロシア軍は、饅頭山の死守を命じると同時に主力を
東に転じたので、これで正面の日本軍は救われます。
ロシアの大軍が麓に着いた時は、またも黒木は一足早く饅頭山を占領しています。これに
対するロシア軍の砲撃は凄まじく、ハミルトン中将は「饅頭山は平らに崩され、弓張嶺の
勇士達は全員生き埋めになるかと思われた」と書いています。その後は山頂を取りつ取ら
れつの肉弾戦の繰り返しで、日本に再び取り返された時に、ロシア側は黒木の戦いぶりを
みて大事をとって撤退します。
もし東部正面で敗れると、補給路が遮断される恐れがあったからですが、もともとロシア
側の大戦略は遅滞作戦です。敵に損耗を強(し)いながらチチハルまで引き寄せて殲滅す
れば良いという考えが基本にありますから、危ないことはする必要はないわけです。
103 :
岡崎久彦:02/07/28 14:20 ID:mXhDBr3o
日本側としては、負けたら後がない、薄氷を踏む勝利でした。日本軍の損害2万3千、撤
退していく露軍を追う力はもう日本側には残っていませんでした。
仙台の第二師団がガダルカナルで壊滅するまで、日本最強師団と言われるのは、この日
露戦争と後の満州事変の勇戦のためです。
旅順の戦いこそ最も悲痛なドラマでした。日本国中が一喜一憂して見守る中で、130昼夜
の肉弾攻撃が行われ、死者だけで1万5千、全部で6万の犠牲者を出した戦闘です。
あまりの悲惨さに与謝野晶子が、戦陣の弟に向かって『君死にたまふことなかれ』と呼び
かけたのもこの時です。当時の文学界でも、非愛国的という批判はありましたが、晶子に
対する社会的迫害はありませんでした。
軍国主義時代や、すぐマスコミの非難にさらされる現代の日本に較べて、いかに明治の
日本が溌剌としていたか驚くに価します。他方130日の死闘を戦い抜くということは、前
線の将兵や国民一般の間で最後まで愛国精神の泉が涸れる事なしに到底できる事では
ありません。
情理兼ね備う、という言葉があります。「一(ひ)と足ふみて夫(つま)思ひ、ふた足国を思
へども、三足ふたたび夫思ふ、女心に咎(とが)ありや」と歌った大塚楠緒子の詩こそ、情
理二つながらに言い尽くしています。
与謝野晶子は、その後大正、昭和を通じて、その名を聞くだけで、全ての日本の男性が憧
(あこが)れを持つような女性であり続けました。そして大東亜戦争に際しては、「水軍の大
尉となりてわが四郎み軍(いくさ)に往く猛(たけ)く戦え」と歌って我が子を戦場に送ってい
ます。硬直した社会の規範やイデオロギーなどに捉(と)らわれず、最後まで自分の心の赴
くままに歌ったひとです。
104 :
岡崎久彦:02/07/28 15:41 ID:mXhDBr3o
苦戦の原因は日本側の戦略戦術の拙劣さより、むしろ名将コンドラチェンコが築いた堅城
と彼の指揮下の水も洩らさぬ防備にあったと言えましょう。現に彼の死後、防禦側の士気
は衰えたといいます。
名歌『水師営の会見』の中で、乃木、ステッセルの両将軍が「我は讃えつ かの防備 かれは
讃えつ我が武勇」と歌っている通りでした。
通常の方法で何度攻撃しても堅塁は破れず、そのうちにバルチック艦隊が刻々近づいてく
るので、攻撃目標を203高地に変え、7昼夜の言語を絶する死闘でこれを制し、山頂か
らの砲撃で眼下の艦隊を沈めて、連合艦隊にバルチック艦隊迎撃の準備の余裕を与えたの
が戦闘の概略です。
乃木希典は明治天皇崩御の時、見事に古来の作法通り割腹殉死して以来、戦前日本の神、
偶像になります。戦後はその反動で、乃木は妻に自決を強要したという偶像破壊的(アイ
コノクラステイツク)な説まで流れますが、乃木は自決後の夫人の身のふり方にまで配慮
していたことは乃木の遺書に明らかで、夫人が慣れない手で自ら乃木の後を追ったことは
疑いを容(い)れる余地はありません。
乃木の人格の高潔さは、生前からあらゆる証言が一致しています。戦場では兵士と全く同
じ生活をして、満州の厳冬に、他の部屋で暖房を焚くのは許しても、自分の部屋では決し
て焚かせなかったと言います。
長男は南山で戦死し、二男は司令部勤務をさせようという幕僚の配慮も斥けて、203高
地の戦いで戦死させます。当時の市井(しせい)の庶民達は歌っています。
一人息子を と泣いてはすまぬ 二人なくした方もある
105 :
岡崎久彦:02/07/28 15:42 ID:mXhDBr3o
百年の遺産-日本近代外交史−24
【日露戦争の勝利】 非白人世界に大きな影響
1905年3月1日から6昼夜にわたって行われた奉天の戦いでは、ロシア軍は遼陽(りよ
うよう)の23万から、もう32万に増えていました。日本側は精一杯の増強と旅順から駆
けつけた乃木軍7万を合わせて25万、戦線の長さは100キロに及び、おそらくは史上
最大といえる大会戦でした。
戦いはいずれが勝ちとも言えない力闘でしたが、遼陽の時と同じように日本軍の頑強な
戦いぶりに辟易(へきえき)したロシア軍は、西から北上した乃木軍に包囲されるのを恐れ
て撤退を開始し、あとは猛烈な追撃戦の中でロシア側は戦傷死、行方不明9万(うち2万
は捕虜)、日本側は戦傷死7万の損害を出し、ロシア軍は奉天を明け渡して北に退避しま
した。
形の上では、日本は勝ち続けていましたが、ロシアは軍事的には痛痒(つうよう)は感じ
ませんでした。ナポレオン、後にはヒトラーに勝った戦略で、後退しながら敵の補給線が
伸び切るのを待って勝てば良いわけです。
奉天会戦直後のツァーの御前会議では、海相はバルチック艦隊の勝利に期待し、陸相は
歩兵60個師団が増援可能と述べて、継戦を決定しました。すでに極限まで力を振り絞って
いた日本としては、60個師団増派されては、日本海海戦で勝とうが負けようが、陸上で
は満州はおろか朝鮮半島までロシア軍の進撃を止め得べくもなかったでしょう。
ただ日露戦争では、ナポレオンやヒトラーに対するのと異なる条件がありました。それは
国内の革命機運です。まず旅順の陥落が衝撃を与えました。誰の目にも見える形で、白人
が黄色人種の前に白旗を掲げたのです。
106 :
岡崎久彦:02/07/28 15:43 ID:mXhDBr3o
レーニンは旅順陥落を「ツァーリズム降伏の前奏曲」と呼んでいます。そして旅順陥落の
20日後には、ロシア革命の最初の血の祭典と呼ばれた「血の日曜日」が起きています。
この事件の裏には日本の謀略工作がありました。明石元二郎中佐は、大本営の特命を受
けて、レーニンなどの革命家や、少数民族独立運動家たちと接触して、革命機運の醸成に
努めています。ロシアが対日講和に踏み切るのも国内情勢への憂慮が大きく、結局、日本
は、アメリカを国内反戦運動で敗退させたベトナムと同じような勝ち方をしたといえます。
バルチック艦隊を対馬海峡で迎え撃った日本海海戦は、世界の海戦史上、空前で恐らく
は絶後かもしれない完勝に終わりました。対馬海峡を通過したロシア艦隊38隻のうち戦
艦6隻を含む19隻を撃沈し、戦艦1隻を含む5隻を拿捕しました。これに対する日本側
の損害は水雷艇3隻でした。
戦術が優れていたと言っても、いわゆるT字戦法で敵前大転回してからは平行して砲撃し
合っているのですから、普通なら損害は5分5分です。まして主砲12インチ砲は、ロシア
26門に対して日本16門の劣勢です。
畢竟(ひっきょう)日本の砲撃の熟練度が高かったからです。鎮海湾における猛訓練は命
中率を確実に向上させたようです。おそらくは発射速度も違っていたのでしょう。日本人が
武器の操作が速くてミスが少ないことは、現在の自衛隊に至るまで世界一と言われます。
茶の湯の作法の伝統のように無駄を節する動きです。早い話がロシアで買い物して、きち
んと包装して正確に釣り銭が出るまでの時間は、日本の3倍はかかりましょう。発射速度
が3倍ならば、命中数も3倍になります。畢竟は日本とロシアの一般庶民、つまり下士官、
兵の民度の差が戦いを決したと言えましょう。
日本海海戦の大勝利は、英国や米国を興奮と歓喜の渦にのみこみました。ロシアでは各
地に革命騒ぎが起こって、オデッサでは戦艦ポチョムキンの反乱が起こっています。ポーラ
ンドは動乱状態となり、2千名の死傷者を出しています。
107 :
岡崎久彦:02/07/28 15:44 ID:mXhDBr3o
確かに、日露戦争は20世紀全期を揺り動かした社会主義革命の導火線となりましたが、
あるいはそれ以上に世界史的意義があったと言えるのは、世界の非白人全部に及ぼした
影響でした。
ネールは自伝で、「日本の戦勝は私を熱狂させ毎日新聞を待ち焦がれた。インドを、アジア
を、ヨーロッパの隷属から救い出そうと思い、私自身が剣を取ってインドのために戦う英雄的
行為を夢見た。1905年5月、15歳の時に私の一家は英国に旅行し、途中汽車の中で、対
馬沖の日本の大勝利の記事を読み耽(ふけ)り、私は全く有頂天になった」と記し、『父から
子に語る世界史』の中で、「お前に何度も話した通り、沢山のアジアの少年少女、そして大人
が私と同じ感激を経験した。アジアは歴史上しばしばそうしたように、今でもヨーロッパを打ち
破ることができるはずだ。『アジア人のアジア』の叫びが起こった」のだと語っています。
孫文は「日本勃興(ぼっこう)以来、白人はアジア人を見下さなくなった。日本は他のアジア人
たちの国際的地位も向上させた」のだと言っています。1906年のペルシャ革命、1907年の
インド国民会議派の急進化、1908年のトルコ革命、1911年の辛亥革命のすべての背後に
日本の勝利の影響があります。
108 :
通行人:02/07/28 17:31 ID:EnoSd2uX
95 :卵の名無しさん :02/07/28 08:16 ID:FQajeGCK
>>91-94 この荒らしは、統領様に対する誹謗に反応したのか。
96 :卵の名無しさん :02/07/28 08:41 ID:l/3BB7uO
社会の底辺会社をもてあそんでなにが面白いのだ!
社会通念の低いゾロは相手にせんでよし。
97 :日本ケ*ファ :02/07/28 09:20 ID:8pb9FMvy
うちの会社はゾロではありません。
一緒にしないでください!
98 :卵の名無しさん :02/07/28 11:12 ID:IuOy1tXL
旧悪は記憶に残るものです。
99 :卵の名無しさん :02/07/28 12:30 ID:sSJJzDq7
当院で使っているS井社の製品に効き目の悪いのがいくつかあります。
先発からスイッチしたら患者から元に戻してほしいという要望がかなりあります。
ご検討、真剣にお願いします。
109 :
卵の名無しさん:02/07/28 17:50 ID:0Hr2GHG+
かなり異常なスレッドだな。
ゾロってこんな会社ばっかしなのか?
110 :
卵の名無しさん:02/07/28 17:53 ID:0Hr2GHG+
僕もあらしの真似してペーストしてみました
64 :卵の名無しさん :02/07/27 07:11 ID:mjoXEYgi
次スレのタイトルは、迷門→迷惑「ゾロの迷惑」でどう?
65 :岡崎久彦 :02/07/27 07:13 ID:xBJ2MKte
やはり先発MRか。。。
66 :卵の名無しさん :02/07/27 08:40 ID:03mryqUz
次スレのタイトルですが、「地下室の怪 徹底追求!」ってのはどうでしょう?
67 :岡崎久彦 :02/07/27 09:12 ID:1KgT+6f6
それでいいだろう。。。
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
70 :卵の名無しさん :02/07/27 11:19 ID:IGgaHuVy
>>67 >それでいいだろう。。。
自分の所は関係ないという思いこみは危険だぜ。
統領様こそ、地下室の怪人という噂もある。
111 :
卵の名無しさん:02/07/28 18:16 ID:gP47A81z
>>109 >ゾロってこんな会社ばっかしなのか?
統領様の会社だけです。
112 :
あり:02/07/28 18:21 ID:GVj6+4KY
就職スレッドでここのこと書いてあった。
113 :
岡崎久彦:02/07/28 18:21 ID:s/7JxFXT
百年の遺産-日本近代外交史−25
韓国併合までの道 伊藤博文暗殺を機に併合
日露戦争が始まると、日本は直ちに韓国政府に日韓議定書を結ばせます。戦争のためには
韓国の領土を自由に軍事使用できるようにするのが、当面の目的ですが、これに反する協
定を他国、つまりロシアと結ばないという条件も入っていますから、韓国の外交権を制限
する意味で、保護国化の第一歩でした。
F・A・マッケンジーの『朝鮮の悲劇』によると、日本軍に対して当初は反日的な雰囲気は
なく、一般庶民は従来の圧政からの解放を期待し、指導階級は日本の援(たす)けによる抜
本的な改革を期待したといいます。金玉均以来の親日近代化路線への期待が、まだあった
のです。この期待がやがて裏切られていく悲劇が、この連載のテーマの一つです。
韓国の保護化は、もう国際的には避け得ようもない趨勢(すうせい)でした。アメリカのア
レン駐韓公使は、宣教師出身の典型的な善意のアメリカ人でしたが、戦争開始時「韓廷の
腐敗と陰謀」に幻滅して「韓国民は自分を治め得ない」と判断し、「自分は親日派ではな
いが、韓国は日本に所属すべきものと考え」「日本の韓国併合は韓国民にとっても、また
極東の平和にとってもよいであろう」とワシントンに書き送っています。
ルーズベルト大統領は、終始日本の対韓政策を支持し、「韓国は絶対に日本のものである。
確かに条約(日韓議定書は独立と領土保全を保証しています)は韓国が独立を保つべきだと
厳粛に保障している。しかし韓国自身は条約の実行に無力である。韓国が自分でできない
ことを他国が韓国のためにするなどは問題外だ」と言っています。
そして1905年7月、訪日したタフト陸軍長官と桂太郎首相との覚書は、日本はアメリ
カのフィリピン領有を、アメリカは日本が韓国を保護国化することを相互に支持しました。
114 :
岡崎久彦:02/07/28 18:22 ID:s/7JxFXT
そして8月には、日英同盟が更新されますが、その際ジョーダン駐韓イギリス公使は「保
護国が韓国人の利害のために唯一可能な解決であり、役人は別として、民衆は過去10年
間の名目的な独立の期間中持っていた政府よりは、その方を限りなく好むであろう」と判
断し、イギリスは日本の保護権設定を承認しました。
すべては韓国の頭越しですが、当時は文明国以外は、国際法の主体として相手にして貰え
なかった時代です。先進国は一方的に、この民族は独立する資格、能力があるかを判断し、
それを実行に移した時代でした。
もちろん、韓国皇帝や廷臣達が無抵抗だったわけでもありません。また老儒崔益鉉、ある
いは、やがて伊藤博文を暗殺する安重根などの抵抗はありました。ただ、それをウィルソ
ン的民族自決とか、レーニンの反帝国主義闘争とかで説明すると、歴史を見誤ります。そ
れは「天地正気の歌」を歌いつつ南宋の滅亡に殉じた文天祥など、東洋思想の中に脈々と
流れる殉国の至情と解すれば、この人達の真情を理解してあますところないでしょう。し
かし、彼らの行動は当時の国際情勢には、影響を及ぼすところはありませんでした。
あとは保護国のままとするか、併合するかの問題です。国際的に認められているのは保護
国化までですが、帝国主義時代において、その意味は、韓国は日本の勢力範囲で他国の容
喙(ようかい)を許さないということであり、合併まではいかない限界を定めたものではあ
りません。現に日本が併合した時、アメリカ、イギリス、露いかなる国からも文句はきていません。
実は、伊藤博文は併合には否定的でした。韓国に統監として赴任してソウルで行った講演
では、「旭日の旗と韓国の旗が並び立てば日本は満足する。日本は何を苦しんで韓国を滅
ぼす必要があるか」と保護国韓国の自治を主張しています。
115 :
岡崎久彦:02/07/28 18:22 ID:s/7JxFXT
ところがその間、保護国ではすまない事態に進展します。何千人もの日本人の一旗組が日
本官憲の保護の下に傍若無人に韓国人に暴行して土地や権利を侵害し、伊藤の表現を借り
れば、それは陵辱を極めました。
日本側に事情があるとすれば、アメリカ移民が教育のある者だけに制限されたため、アメ
リカから締め出された下層階級が韓国に殺到しました。
イギリスのように、知識層はインドに、下層民は豪州へということもできない状態だった
のですが、他方、小村寿太郎などの考え方に、インドのような間接統治でなく、「なるべ
く多数の本邦人を移植させ」植民地支配の永久化をはかろうという、ちょうど現在中国が
チベットや新疆で行っている漢化政策に似た、意図的な政策があった事も否定できません。
これに韓国人が反発するのは当然で、そうなると自治を与えた政府は必ず日本の羈絆(き
はん)から逃れようと策動するので、保護関係がうまくいくはずがありません。また、山
県有朋や小村などの目的はもともと併合にありました。伊藤もこういう状況下では、やが
て併合に反対しなくなり、伊藤の暗殺を機に韓国は日本に併合されます。
116 :
岡崎久彦:02/07/28 18:26 ID:s/7JxFXT
百年の遺産-日本近代外交史−26
小村外交の功罪 国家戦略の是非で評価異なる
小村寿太郎は1911年(明治44年)に逝きます。明治の終わりを象徴する一つの死で
した。翌12年、明治天皇は崩御され、乃木は殉死します。頭山満は「先帝には、小村を
先供(さきとも)に、乃木を後供にせられてご満足でしょう」と語ったと言います。
小村外交を振り返ってみますと、日露戦争に至る過程での小村の判断は、ロシアの意図の
正確な読みといい、日英同盟の重要性といい、ことごとく正鵠(せいこく)を射ていました。
もし、伊藤博文などの元老の慎重論が勝って、日露開戦がもう半年遅れていたらば、陸戦
で日本の勝ち目はなかったでしょう。しかし、戦争に勝って以来の小村の判断は、当時の
政府部内でも是非の論があり、また後世からも毀誉褒貶(きよほうへん)の対象となります。
まず、ポーツマスでも小村は領土と賠償の要求が容(い)れられない場合は交渉打ち切りと
継戦を主張し、小村の強硬さに手を焼いたルーズベルト大統領が、直接日本の首脳に訴え
ると言う手段に出て、伊藤と西園寺公望の決断で、講和が締結されます。強硬な国内世論
の非難を一身に浴びながら、敢(あ)えて和平を達成したというのは、戦後の平和主義史観
が作り上げた小村の虚像です。
そして小村がポーツマスから帰る前に、アメリカの鉄道王ハリマンは訪日し、日本がロシ
アから獲得した南満州鉄道の日米共同経営を提案します。所有権は半々ですが、日本は現
物出資でお金はかからず、軍事使用の場合は日本に特権を認めるという条件ですから、戦
争で疲弊した日本としては有り難い話で、特に元老の井上馨は「このチャンスを逸するの
は愚の骨頂である」と説いて回ります。これに反対して潰(つぶ)したのは小村です。
もともとアメリカは戦後構想として満州を中立地帯とする国際的な管理を考え、小村は満
州を日本の「ある程度の勢力範囲」におくことを考え、それに反対していました。
117 :
あらしさん 応援します!:02/07/28 18:51 ID:0Hr2GHG+
95 :卵の名無しさん :02/07/28 08:16 ID:FQajeGCK
>>91-94 この荒らしは、統領様に対する誹謗に反応したのか。
96 :卵の名無しさん :02/07/28 08:41 ID:l/3BB7uO
社会の底辺会社をもてあそんでなにが面白いのだ!
社会通念の低いゾロは相手にせんでよし。
97 :日本ケ*ファ :02/07/28 09:20 ID:8pb9FMvy
うちの会社はゾロではありません。
一緒にしないでください!
118 :
あらしさん 応援します!:02/07/28 18:52 ID:0Hr2GHG+
僕もあらしの真似してペーストしてみました
64 :卵の名無しさん :02/07/27 07:11 ID:mjoXEYgi
次スレのタイトルは、迷門→迷惑「ゾロの迷惑」でどう?
65 :岡崎久彦 :02/07/27 07:13 ID:xBJ2MKte
やはり先発MRか。。。
66 :卵の名無しさん :02/07/27 08:40 ID:03mryqUz
次スレのタイトルですが、「地下室の怪 徹底追求!」ってのはどうでしょう?
67 :岡崎久彦 :02/07/27 09:12 ID:1KgT+6f6
それでいいだろう。。。
68 :卵の名無しさん :02/07/27 09:44 ID:ptTwRmY/
社長がポkトオマネーで2億円ほど社員に還元って話はどうなったの?
69 :卵の名無しさん :02/07/27 11:06 ID:UNmBrMOT
地下室は入室にIDカードが必要で
5人分しかありません。
119 :
あらしさん 応援します!:02/07/28 18:52 ID:0Hr2GHG+
68は本当??
120 :
岡崎久彦:02/07/28 18:58 ID:pEJAGzo4
小村の行動は、この日本の国権主義に沿ったものでしたが、もし、あの時、日本がハリマ
ンの提案を受けていたら、20世紀の歴史はまるで変わっていたでしょう。
アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパート
ナーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では伊藤が健在だった時でもあり、
第一次大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日アメリカイギリスの協調路線
ができていた可能性は小さくありません。
太平洋戦争に負けた今となっては、失ったチャンスを嘆(なげ)き、小村の誤判断を責める
ことは容易ですが、他面、小村の死後20年経って満州国が建国された時は、あの時の小
村の判断がなければ今の満州国はなかったと言われました。歴史に善悪是非の判断を加え
るのは難しいことです。
結局は小村外交の功罪は、そのまま敗戦につながる大日本帝国の歩みの功罪そのものです。
つまり国際協調、詰めて言えば、アングロ・アメリカン世界との国際協調に日本の運命を
委(ゆだ)ねないで、日本の自主外交を貫き、独りで日本の勢力圏をアジアに築こうという
国家戦略の是非です。
もう一つ、その是非を言うことの難しさは、小村のような考え方は、その後滔々(とうと
う)として、誰も抵抗し得べくもない国民世論となっていったということにあります。と
くに昭和史では、軍よりも先に国民世論の国権主義が国の政策を引っ張っていった例は数
多くあります。
121 :
岡崎久彦:02/07/28 18:58 ID:pEJAGzo4
この時流にブレーキをかけ得た人物は、伊藤博文ただ一人だったと言えましょう。そう考
えると、小村に2年先立った伊藤の死は、小村の死とは全く別の意味で、国権主義をも抑
え得る自由闊達(かったつ)な思考を許した明治という時代の終わりだったといえます。
伊藤は、戦後の満州経営にも歯止めをかけています。日露戦争後、軍は日本の「権力扶植」
のため満州の軍政を維持し列国の猜疑(さいぎ)を招きます。これを憂いた伊藤は長文の意
見書を草し、元老、主要閣僚の会議を招集します。
伊藤は、このままではイギリスやアメリカと疎遠になるだけでなく、ロシアのタカ派の思
う壷(つぼ)となって「ポーツマス条約は一時の休戦条約となり」清国の怨恨(えんこん)を
買って、満州だけでなく「21省の人心はついに日本に反抗する」ようになると、的確に
警告しています。
特に「自分が心配なのは、アメリカの世論が強大なことだ。政府当局は日本に同情的でも、
世論が動けばやむを得ず世論に合った政策をとる」と、まさに全ての20世紀の指導者達
が直面し、しばしば判断を誤った問題点を正確に指摘して、ああだこうだと日本の行動を
正当化しようとする小理屈を粉砕しています。そして陸相が、その趣旨には賛成だという
と「大体において異存がないというのは駄目だ。直ちに実行せよ」と決めつけます。
これだけの見事な情勢判断を自らの筆で書き上げ、反対論は自ら一々論駁(ろんぱく)する
伊藤の知的エネルギーは驚嘆すべきものがあります。会議は座長をつとめた西園寺公望総
理のまとめで全員一致、伊藤の意見を支持することになりました。
122 :
岡崎久彦:02/07/28 19:00 ID:pEJAGzo4
百年の遺産-日本近代外交史−27
時代の変わり目 盛り上がる憲政擁護運動
日露戦争から明治天皇崩御までの10年間は、桂−西園寺−桂−西園寺−桂と、藩閥政治
と政友会内閣が交代するいわゆる桂園時代で、日本の政治は一応安定します。
西園寺は政友会総裁として政党内閣を組織しますが、原敬など一、二の政党人を主要閣僚
にして実力をつけさせる一方、政党や藩閥に関係ない人材主義を貫いて藩閥の警戒心を解
きました。また、西園寺の人柄もあって西園寺は衆議院、桂は貴族院の多数を率いて互い
に協力し合っていました。
西園寺は公卿(くぎょう)の中でも格の高い家柄に生まれ、早くから俊秀の名が高く、幕末
維新の時は19歳で、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通と並ぶ参与になって維新の功績も
ありましたが、維新後は自ら官途を離れてパリに留学します。
パリには、普仏戦争敗戦時のパリ・コミューンの騒動の最中に着き、その後10年間のフ
ランスにおける政治思想の最も激動する時代を体験し、生涯変わらないリベラリズムの思
想を身につけます。
帰朝した明治13年は、自由民権運動が高潮している時期で、東洋自由新聞の社長に迎え
られます。西園寺自身は「自由、自由といって誤った道に走る恐れがある」といって壮士
風のはね上がりには反対する正統的自由主義者でしたが、政府としては華族が自由民権派
では困るので、明治天皇直々の詔勅で退職を命じました。
.' _ _
___ノ _ _―
( ̄ ___ノ, '  ̄
\ (
) )
iiiiiii
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|波|
|平|
|─|
|彡|
|彡|
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(6-------◯⌒つ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| _||||||||| | < もう、終了じゃ!
\ / \_/ / \___________
\____/
124 :
ff:02/07/28 21:31 ID:XyxmSqb7
誰かがpart11をたちあげるかもしれないぞ
>>119 >68は本当??
そんなこと、沢○であるわけがない。
ステークホルダー(利害関係者)の中での第一位は、沢○が株主なら東○が社員だろう。
株価的には、東○は沢○に大差をつけられたが、決して不名誉なことではない。
東○には名誉ある良識派の正道を突き進んでほしいものだ。
126 :
セブ:02/07/28 21:41 ID:XyxmSqb7
東◎の社長って自腹切って社員にボーナス出したりするらしい
それも億単位
沢井の社長は?
127 :
岡崎久彦:02/07/28 22:21 ID:VSU4V7sk
明治31年文部大臣の時は、第二の教育勅語を作ることまで考えます。すなわち、従来の
道徳は社会が上下の関係で組織されていた時代の産物なので、これからは人民が平等で相
互の権利を尊重し合う関係でなければならないので、教育勅語一つでは足りないから、も
う一つリベラルな勅語を作ろうというのです。これは天皇のご内諾は得たものの内閣総辞
職で実現に至りませんでした。
もし、この第二教育勅語が明治天皇の名で出ていれば、日本は大きく変わっていたかもし
れません。戦後の日本のデモクラシーは、イギリスの権利章典や、アメリカの独立宣言のよう
な国家的な理念を与えられず、常によそ者扱いでした。もし、この勅語があれば、大正デ
モクラシーはもっと早く達成され、そして戦争の悲惨を経ずに一回で定着していたかもし
れません。
西園寺は、もともと政治よりも文人墨客、才子佳人とつき合う方が好きで、名利には恬淡
(てんたん)としていました。またそれだけに物事がよく見えて、これと思う人は公平無私
に支援しました。西園寺が最も期待したのは陸奥宗光で、陸奥の訃報(ふほう)に接した時
は、傍(はた)の目にも労(いたわ)しいほど落胆して悄然(しょうぜん)としたと言います。
しかし、伊藤博文、陸奥宗光亡き後も、政府部内で一貫して、親イギリス・アメリカ路線
の中心的存在となり、また伊藤後の政友会総裁を引き受け、陸奥の遺志を継いで原敬を育
て、ついに大正デモクラシー達成に道を開きます。
ただし、無欲恬淡であるだけに、反対派のあくどい政治工作に同じレベルで対抗するのは
潔(いさぎよ)しとせず、引き下がってしまうところもあり、また、皇室の藩屏(はんぺい)
としての義務を何よりも重んじ、いかなる形でも皇室を傷つけまいとして、昭和の激動期
には天皇の政治介入を抑制し、結果として軍部の独走を許してしまったという批判はあり
ます。
128 :
岡崎久彦:02/07/28 22:22 ID:VSU4V7sk
大正政変の原因は、陸軍の2個師団増設問題でした。日露戦争後のロシアの報復戦に備え
るために常備師団4個の増設の要求がありましたが、戦後の窮迫した財政では、到底無理
なので、とりあえず2個師団増設を認め、あと2個師団はそのうちに、と言っておいたの
が大正時代を通じて大きな政治問題となります。
第二次西園寺内閣は、財政難解決のため、各省予算を8%〜15%削減しますが、陸軍は
3%しか削減せず、しかも削減分で2個師団増設を要求します。
西園寺が拒否すると上原陸相は辞職し、西園寺は山県有朋に後任を依頼しますが、山県は
言を左右にして出しません。山県が作った軍部大臣現役制を使ったのです。山県としては、
それを梃子(てこ)にして予算に何か色をつけて貰(もら)おうという腹だったようですが、
西園寺はそんな面倒な取引をする気はなく、さっさと総理を辞職してしまいます。
後継は三度(たび)桂となり、今度は海軍が二個師団増設に反対で海相を出さないのを、強
引に詔勅を使って組閣します。怒った政友会は内閣不信任案を出しますが、今度は不信任
案撤回の詔勅が西園寺に下され、苦悩した西園寺は、政友会総裁を辞任します。
誰もこれが即位されたばかりの大正天皇のご意向などと信じる者はいません。国民は激昂
し、全国に憲政擁護運動が起こります。群衆は議会を取り囲んで、護憲派の登院には拍手
を送り、桂派の議員は裏から出入りする状況で、騎馬警官だけでなく軍隊も出動し、死傷
者も出て全国で警察署焼き打ち事件が起こり、桂はついに辞職し失意の中に死にます。
こうして大正時代は憲政擁護運動の中に幕を開け、明治はたちまち遠い過去となってしま
いました。
129 :
岡崎久彦:02/07/28 22:23 ID:VSU4V7sk
百年の遺産-日本近代外交史−28
アメリカの影響 君子豹変に振り回される列強
20世紀とは、アメリカという旧世界とは異質で、かつ強大な国家が突然国際政治に登場
し、やがてはアメリカの独り勝ちに終わる世紀です。ただ、ヨーロッパにアメリカが登場
するのは、アジアより20年近く遅れて第一次大戦でアメリカがウィルソン主義を引っ提
げて参戦した時からです。
アメリカは1898年にハワイとフィリピンを併合し、1903年にはパナマを分離独立
させ運河地帯の租借権を得ます。この頃のアメリカはマッキンリー、T・ルーズベルトの
下の帝国主義時代でした。
日本としては、先にアメリカにハワイを占領されて、帝国主義競争に遅れをとり、小村寿
太郎が口惜しがったようなことはありましたが、日本もアメリカもお互いに帝国主義国で
すから、朝鮮は俺が取るからフィリピンはお前に、というような取引も可能でした。
そして、日露戦争でロシアが満州から逐(お)われた後、アメリカにとって、極東問題の中
心がロシアから日本に移ったのはパワーポリティックス上自然の成り行きです。
ただ、オレンジ・プランなどを証拠として、日露戦争以後アメリカが日本を敵視したとい
うような史観もありますが、それは不正確です。オレンジ・プランは、1903年から始
まったアメリカ政府内部の委員会が、アメリカの仮想敵として、ドイツは黒、ロシアは紫、
メキシコは緑、イギリス国は赤、日本はオレンジと色を着けただけで、とくに日本に敵意
を持ったわけではありません。
このアメリカの帝国主義時代は長く続かず、やがてその伝統に復帰し、ウィルソン主義か
ら孤立主義へと極端から極端に揺れ動きます。
130 :
岡崎久彦:02/07/28 22:24 ID:VSU4V7sk
そうしたアメリカの君子豹変ぶりに振り回されるのが20世紀の列強の宿命です。日本が
満州国を作った時に「アメリカがパナマでした事と全く同じではないですか?」と言って
も、もうその時はアメリカは価値観の違う国となっていました。そうなれば、畢竟(ひっ
きょう)は国力の差で、アメリカの圧倒的な国力が二十世紀をアメリカの世紀とさせます。
この間、日本にとって特殊な問題として移民問題がありました。人種問題はアメリカの恥
部で、それが解決されるのは遥か後の1960年代の公民権運動まで待たねばなりません
が、移民についても中国系住民の扱いなどは、アメリカ史の汚点と呼ばれるぐらい、ひど
いものだったようです。
日本移民は、人種蔑視(べっし)というよりもむしろ競争者、とくに農業の白人労働者に対
する競争者として警戒されました。
1908年の紳士協定、今で言えば自主規制で、日本の移民は教育のある者だけに限り、
労働移民は自発的に禁止しました。しかし、すでに移住した日本人農民が勤勉有能でだん
だん土地所有者となるにつれて、対日本人差別法が次々にカリフォルニアで制定されます。
この間、ワシントンの政府は常に日本に同情的でした。ルーズベルトは、日本は欧米一等
国と同列の文明国で、アメリカの友好国であり、一州が国交を損なうことは兵力を用いて
も阻止するとも公言しましたが、結局は、大統領と州議会との憲法上の関係で、如何(い
かん)ともできませんでした。
後年、ドゴールが「アメリカという国は重大な問題に際して、複雑な国内問題と子供っぽ
い感情を持ち込む国だ」と歎いたのも至言です。
131 :
岡崎久彦:02/07/28 22:26 ID:VSU4V7sk
幣原喜重郎は、大正デモクラシー時代の日本の外交を担う人ですが、駐アメリカ参事官、
後に大使として終始この問題にかかわります。まだ参事官の時にも、幣原はその温厚篤実
な性格と、自らの努力で達成した能力識見で、イギリスの駐アメリカ大使ブライスの知遇
を受けます。
当時ブライスはパナマ運河問題を抱えていました。アメリカは条約で平等待遇を約束しな
がら、上院はアメリカ船だけを無料とする差別法案を通そうとしていました。ブライスは
それを止める工作に奔走しましたが、結局法案は通過しました。「どうします?」と幣原が訊(き)くとブライスは「もう抗議はしません」と答えます。イギリスはアメリカとは決
して戦争をしない基本政策があり、抗議を続けると戦争以外行きどころがなくなるから、
有害無益な交渉はやめる、というのです。
そして、幣原に向かって日本の人種問題はどうなっているのかと問い、幣原が「世論もや
かましいし、やはり抗議を続けるほかにない」というと、「あなたはアメリカと戦争する
覚悟があるのですか。これはアメリカと戦争して日本の存在を賭けるような問題ではない。
私なら思い切ります」と言う一方、「アメリカという国は不正を犯しても、それを修正す
る回復力のある国だから、黙ってそれを待つべきだ」と説いています。たしかに、運河の
差別はやがて撤廃され、移民の対日差別もやがて撤廃の動きがありますが、満州事変で日
本の評判が悪くなって沙汰(さた)やみとなります。
今の日本でも「言うべきことは言うのが真の同盟だ」と言って、対米屈従の批判が必ず出
るケースです。イギリスの大人の態度には感服します。現在の緊密なイギリスの対アメリ
カ関係は単なる同文同種というだけでなく、その背後にはブライスのような識者の叡知(え
いち)と努力の積み重ねがあることがわかります。
今地下室ではフル回転です。夏休みは返上です。
133 :
名無しさん:02/07/29 07:10 ID:fs6e6YE/
124 名前:ff :02/07/28 21:31 ID:XyxmSqb7
誰かがpart11をたちあげるかもしれないぞ
125 名前:卵の名無しさん :02/07/28 21:37 ID:q3gv5KUp
>>119 >68は本当??
そんなこと、沢○であるわけがない。
ステークホルダー(利害関係者)の中での第一位は、沢○が株主なら東○が社員だろう。
株価的には、東○は沢○に大差をつけられたが、決して不名誉なことではない。
東○には名誉ある良識派の正道を突き進んでほしいものだ。
126 名前:セブ :02/07/28 21:41 ID:XyxmSqb7
東◎の社長って自腹切って社員にボーナス出したりするらしい
それも億単位
沢井の社長は?
134 :
岡崎久彦:02/07/29 07:20 ID:o+ilUUSj
百年の遺産-日本近代外交史−29
【辛亥革命と日中関係】 21カ条要求という愚行
1911年、辛亥革命で清朝が倒れます。
革命の主導力となった中国革命同盟会は、1905年日本で結成されたものです。
祖国の近代化を志す中国人が明治維新を達成した日本から学ぼうとするのは自然の勢いで
した。百日維新が挫折したあと、康有為(こうゆうい)、章炳麟(しょうへいりん)などが日
本に亡命します。日露戦争後は日本に対する期待はますます高まり、留学生は1万2千に
増えます。
そして日本亡命中の孫文の興中会、辛亥革命の軍事指導者となる黄興などの華興会、章炳
麟の光復会などが大同団結して、孫文を総理として中国革命同盟会を結成しました。終始
孫文の右腕となる汪兆銘、議会民主主義の主唱者宋教仁もその時の同志です。
彼らの活動を容易にさせたのは、宮崎滔天(とうてん)など、日本人の間に理解者がいたこ
とです。滔天は、自由民権派として西南戦争で死んだ長兄の影響で、子供の頃から「自由
民権が何だかわからないまま、自由民権は良いことと思い、官と名の付く人間は泥棒、悪
人の類(たぐい)であって、賊軍とか謀反(むほん)ということは大将豪傑のなすべきこと」
と考えた反権威主義者であり、「白色人種の暴威に対抗して黄色人種の権利を回復するこ
と」を志した三兄の影響を受けたことでアジア主義者、民族主義者という、明治の壮士の
一典型でした。滔天は、親分と頼む犬養木堂と共に亡命の革命家達を助けました。
当時日本政府は、ロシアとの秘密の協約で満州を南北に二分して南満州に日本の勢力圏を
築いていましたが、一つ気になることといえば、日本が大陸経営の根拠地としている遼東
半島の租借期限が25年で切れることでした。
135 :
岡崎久彦:02/07/29 07:21 ID:o+ilUUSj
そこに辛亥革命が起こりました。満州はもともと清王朝発祥の地で、漢民族の土地ではな
いということで、清朝時代は特別な地位が与えられていた地域です。その満州古朝が倒れ
たのですから、満州を日露勢力圏分割の線に沿って分割領有しようという提案が、陸軍や
駐露本野一郎大使から出てきます。しかし、時の山本権兵衛海相は、日英同盟尊重で、ロ
シアと共同行動すべきでないと反対し、イギリスアメリカ協調派の西園寺公望首相はもとよりこれに同
調します。
その後も旧満州皇族を擁した満蒙分離運動が起こりますが、その都度日本政府の支持がな
くて失敗し、この繰り返された挫折感が、21カ条要求、満州事変の伏線となります。
そこへ第一次大戦が勃発し、列強は極東を顧みる余裕がなくなります。当時の山県有朋の
表現を借りれば、「袁世凱(大総統)が策略に富むといえども(外国の干渉を求める)手段に
窮する」であろうから、日本が「従来の怠慢と誤りを正して、対支政策を一新する好機」
として、提案されたのが、21カ条要求でした。
その第一条は、もちろん遼東半島の租借権の延長で、その後の各条は種々の利権要求です
が、最も評判の悪かったのは、第五項に含まれた最後の二条です。それは清国が日本の政
治、経済、軍事の顧問を受け入れるなど保護国扱いの要求と、鉄道など外国利権に抵触す
る要求でした。
日本政府もさすがに気がひけて、最終案では内容を緩和したうえ、要求でなく希望条項と
し、同盟国イギリスに事前通報するに際しても、この項は要求ではないということで落と
しています。
しかし、中国はこれをイギリスに内報し、イギリスは当然怒ります。また内容はイギリス
から洩(も)れて、中国全土は憤激します。
136 :
岡崎久彦:02/07/29 07:22 ID:o+ilUUSj
結局は、最後通牒を発して中国に呑ませますが、内外から轟々たる非難を浴びます。最後
通牒発出も中国側から頼まれたと言いますが、中国側交渉者としては、自分の責任では受
諾できないから、最後通牒にしてくれと言ったことは、あり得ることですが、それに乗る
ということは非難を日本一身に浴びるのが前提の行為です。
原敬は議会の弾劾演説で、「満蒙における日本の優越権は中国も列強も認めている。こん
な騒ぎを起こさずとも、日支親善の道を尽くせば談笑の間にもできたことである」と批判
し、大正、昭和を通じてリベラルな主張を枉(ま)げなかった石橋湛山は「南満州の権益だ
けならば、既成事実として中国側もやかましく言わなかったであろうが、結局は何の役に
も立たない、そのほかの十九の要求を並べ立てて、本来問題にならないはずの遼東半島、
南満鉄道まで改めて議論の的にしてしまった」と批判しています。
山県が代表する軍の単純強引な強行突破策、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大
風呂敷、これに迎合した外務省が起こした、当時から誰もが認める愚行でした。この愚行
によって、日中関係は不可逆的な衝突路線に入ったというのが、戦後史観の通念と言って
よいでしょう。
しかし、その後も日中関係修復のチャンスは何度もありました。孫文が日本に何よりも期
待していたのは、関税等の不平等条約の撤廃でした。それは維新以来の日本外交がそのた
めに払った営々たる努力を思い出せば分かり過ぎるくらいわかる話です。
もし日本が後年の幣原外相のように、率先して中国の関税自主権回復に協力していたらば、
孫文はもともと満州には柔軟な考えを持っていましたから、それだけで日中関係の信頼を
取り戻しあまりあるものがあったかもしれません。
137 :
卵の名無しさん:02/07/29 12:06 ID:cS3mYAMu
おもしろいね
激しく反応を繰り返してる
-=≡ (⌒Y⌒Y⌒)
/\__/
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(⌒ / (・) (・) |
( (6 つ | / ̄ ̄ ̄ ζ
( | ___ | < おい、そこのハゲ! / ̄ ̄ ̄ ̄\
-=≡\ \_/ / \ 轢き殺すぞゴルァ! / U \
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-=≡ __/ /_ .||||||| (・) (・)| / ̄ ̄ ̄ ̄
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-=≡ /\\ \\ | U _||||||||| | < しおって!
-=≡ / \\ \\ \ / \_/ / \____
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-= ヽ | / / ./ ⊂ ) ノ\つ
-=≡ ゙ー'| LL 、 ./ (_⌒ヽ
-=≡_(_ _ヽヽ/ ヽ ヘ }
-= (◎) ̄)) ε≡Ξ ノノ `J
(⌒Y⌒Y⌒)
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_____ / \l il/ \ \
| | | (・) (・) \ ⌒ )
|磯野カツオ| | ⊂ U 9) ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 算数 | | ___ | ) < カツオ・・・・・
| 30点 | \ \_/ / \ 帰ってきたら殺すわよ!
| | \____/ \_________
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 ̄ `ー__|| |  ̄ ̄ ̄ ̄‖
| |/(-_-)\|
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:::::::::/∵∴// \|ウツダ
:::::::|∵/ (・) (・) |
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::::::\ \_/ / < 暗号を見られた。姉さんに殺される....
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:::::\二、_)二ノ _____________
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| わかったわ! カツヲちゃんを男にしてあげるからネ!ウフフ!
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143 :
岡崎久彦:02/07/29 15:52 ID:xMjSqbRs
百年の遺産-日本近代外交史−30
難しい用語の問題 現代を過去にあてはめる愚
このあたりで、日本の近代史を辿(たど)る筆を一時休めて、用語の問題に入らねばなりま
せん。
辛亥革命の後の時代になると中国の呼称が難しくなります。清国が存在していた間、国の
呼称は清国でよかったのですが、その後長く続いた軍閥割拠の時代となると、何と言って
いいのかわからなくなります。戦前までは、国名、民族名、中国全体の地域の名称として、
「支那」と言えば、それですみました。
この連載に引用する全ての文献はイデオロギーの左右を問わず、全部「支那」となってい
ます。歴史を記述するにあたって、文献を正確に引用するのが原則とすると、「支那」と
書いてある文献をその部分だけ「中国」と書き直すのは、公正な歴史を書くという作業に
異質なものの介入を許したという知的な不正直さを感じます。
かつて私は、韓国に滞在して、『隣の国で考えたこと』という本を書いたことがあります。
その頃は「韓国」と言っただけで、左翼から親韓派、右翼と非難され、「朝鮮」と書くだ
けで韓国から差別用語と言われた時代でした。それだけの理由で、朝鮮半島問題を論じる
のを避けた人もいたくらいです。NHKの外国語講座は、韓国語、朝鮮語を避けて、「ハングル講座」としたと記憶しています。
そこで、私は「……ということで、私は用語についてはあまり気を使わないで、適当にそ
の場その場で使い易いものを使うことにしました。この本をお読みになる方も、韓国とい
う言葉がどうもひっかかるようならば、頭の中で朝鮮と読み代えて頂いても良いし、また、
その逆でも結構です。むしろ、そういう所にひっかかって先に進まず、隣の国の真実を理
解することができなくなることが憂慮すべき問題と考えます」と書きました。
144 :
岡崎久彦:02/07/29 15:53 ID:xMjSqbRs
これに対して、当初はある評論家から「朝鮮半島の問題は我々がこんなに遠慮しいしい書
いているのに、岡崎なる一介の公務員がこんなことを平気で言えるのはどういうことなの
だ?」というお咎(とが)めがありました。
どういうことなのだと訊(き)かれても、私としては答えようもありませんが、それから後
20年間それで通してきて、ただの一度もこのくだりについても、私の用語の使い方につ
いても、批判や抗議を受けたことはありません。
中国についても、呼称の問題はその場その場で語感上適当と感じられるものを使おうと思
います。語感上両者を交ぜて使うこともあります。
現在の中華人民共和国を「中国」と呼称することには、何の問題もありません。およそ一
つの国の呼称は、相手が使って欲しいというものを使うのが、当然の礼儀です。しかし、
その国ができる前の歴史的な事象について、とくに清朝瓦解後の混沌たる状況で、「中国」
「中国人」と呼ぶのはどうも不正確に感じる場合が少なくありません。
公式には、昭和5年10月、幣原外相の時の閣議で、それまでの「支那共和国」を改めて、
公式文書で中華民国と呼ぶこととしました。しかし、その閣議決定後も日本における慣用
語は「支那」でした。中華民国でも、むしろ慣用は「民国」だったように記憶しています。
また、現実に、昭和5年以降も中国内の分裂は続き、「中国」が日本の慣用語となるのは、
戦後になってからです。
ですから、本当は支那(つまり英語で言えばチャイナ)の方が使いやすい場合もあるのです
が、ただ支那という漢字表記は、戦後使われなくなって、若い読者には馴染(なじ)みが薄
いので、カタカナでシナと書く最近の慣行にしたがうことにしました。それでも、支那事
変とか日満支のような場合は使わざるを得ません。
145 :
岡崎久彦:02/07/29 15:54 ID:xMjSqbRs
同じように、今後支那事変か、日中戦争か、大東亜戦争か、太平洋戦争か、そのあたりの
呼び名の是非の論には、ここでは全く入るつもりはありません。賛否それぞれの理屈があ
るのはよく理解していますが、ここでも頭の中でご自分の好きな呼称に読み替えされて、
先に進んでいただいても、歴史の真実を追求するこの作業に支障は生じない、と思います。
用語に限らず、現代の考え方、慣行を過去にあてはめて歴史をみることは厳に戒(いまし)
むべきことと思います。読者の中には、今までみてきた伊藤博文、陸奥宗光、小村寿太郎
の発想が国権主義的、拡張主義的、帝国主義的であることに困惑されて、それを平然と記
述したことに反発する向きもあると思います。
彼らは疑いもなく帝国主義者です。これから出てくる、平和主義に徹した幣原喜重郎も同
じように大日本帝国の隆盛を希求した帝国主義者です。ただ、そのやり方に硬軟、巧拙の
差があるだけです。しかし、帝国主義時代の人間を帝国主義者と呼んで批判することは、
中世の人間を中世的、封建的と批判するのと同じで、別に不正確ではありませんが、歴史
の真実を追求しようという努力にとって、邪魔にこそなれ、何のプラスにもなりません。
むしろ、一歩誤れば、どんな危険が待ち受けていたかわからない帝国主義時代に、日本を、
植民地、半植民地にもされず、固有領土の大きな部分をもぎ取られもせず、後世の我々に
遺してくれた先人達の営々の苦心に感謝すべきものがあるでしょう。
146 :
岡崎久彦:02/07/29 15:55 ID:xMjSqbRs
百年の遺産-日本近代外交史−31
ロシア革命と日本 原内閣成立にも大きな影響
平成の元年にあたる1989年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連の共産党独裁の終焉
で、ロシア革命は遠い過去になってしまいました。
実は、もうその10年ぐらい前から社会主義思想は人々の心の中で色褪(あ)せていました。
レーガン、サッチャー、中曽根の時代からは産業の民営化、規制緩和という社会主義に逆
行する思想が先進国の中で主流となり、他方、東南アジア中南米などでは、中産階級の興
隆と相まって、政治経済の自由民主化が時代の流れとなり、共産主義は誰も住まなくなっ
た廃屋が崩れるように崩れ去ります。
ここでは、その失敗の原因を究明するよりも、なぜ共産主義があれほど人々の心を魅了し、
20世紀の国内国際政治に猛威を振るったかを、当時の人々の心を辿(たど)りつつ究める
ことが−−冷戦後の世代にとって、やがて忘れ去られる過去であるだけに−−歴史の証言
として必要だと思います。
共産主義の魅力は、何よりも、人間の羨望(せんぼう)、嫉妬(しっと)、怨恨(えんこん)と
いうような感情の爆発を許し、それに対して、かなり短絡的な政治経済理論ではあります
が、その理論的正統性を与えたことにあります。大正時代の革命歌は
貪婪(どんらん)飽くなき資本家の魔の手は長く労働の成果を奪い、むさぼりて……とマル
クスの労働価値説、搾取(さくしゅ)論を謳(うた)い上げ、資本家憎けりゃその餓鬼(がき)
も、呪(のろ)うわれらの復讐に、貴婦人、令嬢強姦し、鉛の熱湯うち浴びせ……と、その
後のソ連、中国の共産党、ポル・ポトなどによる旧勢力大量虐殺の心理的背景をそのまま
に表現しています。
>>139 沢○で30点なら上出来だろう。
有効成分が3割しか入っていない商品を出したぐらいだから。
148 :
ytry:02/07/29 18:45 ID:InnKgXrQ
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149 :
岡崎久彦:02/07/29 19:03 ID:GOrlXet9
この思想は、初期資本主義の労働者の生活が真実悲惨であったこともあり、また、その一
見明快な論理が、若者、未熟なインテリ層の心を捉(と)らえたこともあり、燎原の火のよ
うに世界中に拡がります。
≪「米騒動だよ」と原≫
日本でもロシア革命の翌年米騒動が起こり、寺内内閣は辞職し、原内閣が成立します。「山
県(有朋)がよく承知しましたね」との問いに、原敬は「米騒動だよ」「もし政友会が扇動
でもしたら、あの米騒動で山県が殺されていたかもしれないよ」と言ったといいます。
もちろん、日本初めての本格的政党内閣である原内閣成立の背後には、自由民権運動以来
の民党の営々たる努力、隠忍を重ねた原の山県工作、そしてその背後には、政党内閣成立
のための西園寺公望の一貫した尽力があったのですが、やはり、ロシア革命に脅(おび)え
る雰囲気の中で、政党無視の超然内閣の危(あや)うさが感じられたのでしょう。
実は、帝政ロシア崩壊の一年前の1916年に、日本はロシアと同盟関係に入っています。
日露戦争後の1907年の日露秘密協約では、日露両国は満州を南北に二分して、それぞ
れを勢力範囲と決めました。16年の秘密協約はさらに進んで、日露の中国における権益
が脅かされた時は相互に援助し、戦争では単独講和はしない、という同盟関係にしていま
す。その対象は表面上はドイツでしたが、実際はアメリカでした。外務省は加藤高明外相
も石井菊次郎外相も、日英同盟中心を主張しますが、山県などが強力に推進したものです。
21カ条要求といい、日露同盟といい、山県に繋がる人々の意見で、日本は随分危ない橋
を渡ったものです。幸い、帝政ロシアが翌年崩壊しますので、実害は生じませんが、もし
講和条約まで帝政ロシアが残り、ダーダネルス海峡をめぐってイギリスとロシアが対立し
た場合は、当時ロシア政府は「ロシアがコンスタンチノーブルに求めるものを、日本がシ
150 :
岡崎久彦:02/07/29 19:04 ID:GOrlXet9
ナにもとめるのは当然だ」と公言していたのですから、日露対イギリスアメリカの対立と
なっていた恐れさえあります。「日本の求めるもの」とは、その前年の21カ条要求であ
り、希望条項のまま残っている第五項も意味しましょう。
こういう危険なパワーポリティックスを弄(もてあそ)んだのは、大日本帝国の奢(おご)り
と言えます。それに対する唯一の歯止めが日英同盟だったことを思うと、日英同盟廃棄後
の日本の暴走を考えて、思い半ばを過ぎるものがあります。
≪シベリア出兵に批判≫
日本の対露政策は、帝政ロシアが滅びると、一転してシベリア出兵問題となります。シベ
リア出兵は、21カ条要求と同じように、その当時から内外の批判が強く、また、結果と
しても10億円の国費と三千五百名の犠牲者を出して、一片の領土を得たわけでもなく、
アメリカの対日警戒心を強め、ロシア国民の反感を買っただけでした。おりからの大正デモクラシーの雰囲気で、国民の評判も悪く、アメリカのベトナム撤退のような後味の悪さ
を残しました。
この時期、日本の外交はかなり迷走します。
外務省の外に外交調査会を設置して、元老や政老が外交を取りしきろうとしますが、山県
が元老として存命中のことでもあり、シベリア出兵、何の役にも立たない西原借款など失
敗を繰り返します。
敢(あ)えて当時の外交を弁護すれば、辛亥革命、ロシア革命など、日本政府が一旦対策を
立てても現地の情勢は時々刻々変わってしまいました。
誰も経験したこともなく、誰も先の見えない時代でした。
151 :
岡崎久彦:02/07/29 19:05 ID:GOrlXet9
百年の遺産-日本近代外交史−32
良き日英同盟時代 外交的に未熟な日本を援助
日英同盟時代は日本の安全にとっては、最良の時代でした。イギリスと日本という世界最
強の海洋国が同盟しているのですから、空軍がない時代、日本の安全は100%守られ、
また世界7つの海の航路と資源は日英同盟の思うままでした。
人間、安全と繁栄が保障されれば自由が欲しくなるのは当然で、大正デモクラシーが生ま
れました。日英同盟は1902年から22年まで、大正デモクラシーは1912年の大正
政変から32年の犬養首相暗殺までそれぞれ20年ですが、日英同盟が双方とも不本意な
がら、打ち切られてからも日英間の好誼(こうぎ)は満州事変までは続きます。この30年
間が日本の古き良き時代です。その時代を垣間見た人は、皆もう百歳近くなりつつありま
すが、それが良き時代だったことには誰も異議はないでしょう。
それはイギリス崇拝の時代でもありました。歴史が、事実の後追いであることは避け難い
ことです。イギリスが3世紀も世界に君臨している理由をその国民性の中に求めたのも自
然の成り行きです。イギリス紳士といえば、社会人、常識人として最高の型の人間だとい
うのが、大正、昭和初期を通じて一般的な通念でした。
また、島国日本は自ら極東のイギリスと称して、自己をイギリスと同一化しようとしまし
た。学校では君が代とゴッド・セイブ・ザ・キングの両方を歌ったとも言います。戦後日
本のアメリカ崇拝といっても較べものになりません。
陸軍の秀才村上啓作の『戦争要論』は、ドイツ人は自分達は神に選ばれた最優秀民族とし
ての使命を持つと考え、ソ連邦の人は世界革命を夢想し、こういう人達は、日本人やイギ
リス人のような実利主義の国民にとっては理解困難だと書いています。その日本が10数
152 :
岡崎久彦:02/07/29 19:05 ID:GOrlXet9
年後には「八紘一宇の大使命」を掲げて「聖戦」を戦ったこと、戦後は逆に空想的平和主
義を掲げたことを思うと、日本にもイギリスのような常識(コモンセンス)を重んじる文化
が生まれる余地もあの時代があったことに郷愁を感じます。
≪現実主義者、原敬≫
大正デモクラシーを代表する原敬こそ、陸奥宗光の衣鉢(いはつ)を継ぐ現実主義者でした。
「外交思想が必要というが、シナ保全論とか分割論とか観念的なことをいってもしかたが
ない。外交思想とは常識のことである。たとえば、条約は相手があり、日本の意思だけで
は決められないとか、独立国は平等といっても実際上は強弱の違いはどうしようもないと
か、戦争は相手が一国でも妄(みだ)りにすべきものではないが、二国、三国を相手にする
など、いかなる国もできないとか、そういう単純なことがわかる国民こそ外交思想のわか
る国民である」
この原の常識をその後の日本の指導者が持っていたらば、どれだけの外交上の錯誤を避け
得たかと思います。
日英同盟の後半期の試練は、イギリスがその存亡を賭(か)けている欧州大戦に、同盟国と
してどこまで協力するかでした。しかし、日本は結局、陸兵の派遣は見送り、海軍も巡洋
戦艦の要請は断って駆逐艦の派遣にとどめました。
日本が積極的でなかった一つの理由は、日英同盟の主な目的地域はインド洋までというこ
とでしたが、駆逐艦を地中海に出しているのですから、理由になりません。
むしろ、日本が虎の子の巡洋戦艦を失うと、戦後の軍事バランスで不利になるという計算
があり、さらにその裏には、山県有朋は白人間の戦争が終わると、今度は白人諸国が連合
して日本に向かってくるとまで考えていました。
153 :
卵の名無しさん:02/07/29 21:12 ID:1OMU+y+u
おもしろいね
激しく反応を繰り返してる
147 :卵の名無しさん :02/07/29 17:21 ID:GHBEfZ+n
>>139 沢○で30点なら上出来だろう。
有効成分が3割しか入っていない商品を出したぐらいだから。
154 :
卵の名無しさん:02/07/29 21:14 ID:1OMU+y+u
132 :卵の名無しさん :02/07/29 06:29 ID:Q4VK0unp
今地下室ではフル回転です。夏休みは返上です。
133 :名無しさん :02/07/29 07:10 ID:fs6e6YE/
124 名前:ff :02/07/28 21:31 ID:XyxmSqb7
誰かがpart11をたちあげるかもしれないぞ
125 名前:卵の名無しさん :02/07/28 21:37 ID:q3gv5KUp
>>119 >68は本当??
そんなこと、沢○であるわけがない。
ステークホルダー(利害関係者)の中での第一位は、沢○が株主なら東○が社員だろう。
株価的には、東○は沢○に大差をつけられたが、決して不名誉なことではない。
東○には名誉ある良識派の正道を突き進んでほしいものだ。
126 名前:セブ :02/07/28 21:41 ID:XyxmSqb7
東◎の社長って自腹切って社員にボーナス出したりするらしい
それも億単位
沢井の社長は?
155 :
岡崎久彦:02/07/29 22:33 ID:hh93nHmM
≪日本と対照的なアメリカ≫
こうした日本の中途半端な姿勢に対して、アメリカは桁(けた)はずれの大軍と大艦隊を送
りました。それだけでも、戦後処理の過程でイギリスフランスが日本よりアメリカの言い
分を聞いたのは自明の理です。後年日英同盟廃棄の際、イギリス連邦側の中で、賛否両論
が伯仲していたことを考えると、日本がもう少し同盟の証しを立てるゼスチュアを示して
いれば、あるいは結果は変わっていたかもしれないと思うと残念です。
しかし、それでも外交面では、イギリスは兄貴分のように面倒を見てくれました。とくに
アメリカの参戦に際して、同じ同盟国となった日本とアメリカがそのアジア政策を調整す
るよう腐心し、結局、中国における日本の特殊な地位を認めるという、日本独りではとう
てい得られなかった石井・ランシング協定ができるところまで、裏で助けてくれます。
パリ会議では、山東問題がもめます。中国は対独宣戦したのだからと言って、ドイツ権益
の直接返還を求めますが、日本はその前に参戦して占領した権利を主張します。
ここでもイギリスは日本の言い分を覚書にしてアメリカフランスに説明し、それでも難色
を示すウィルソン・アメリカ大統領を説得します。中国は怒って条約調印式に出ず、中国
全土で反日の5・4運動が起きますが、実力者イギリスの取り仕切り通りとなります。
国際関係に未熟な日本にとって、老練なイギリスの援(たす)けは何ものにも代え難いもの
でした。
156 :
岡崎久彦:02/07/29 22:35 ID:hh93nHmM
百年の遺産-日本近代外交史−33
国際連盟の発足 人種的偏見による不利を
1917年1月、アメリカのウィルソン大統領は、従来の帝国主義外交を否定する14原
則を発表し、これを掲げて4月に対独参戦します。ここにアメリカ外交が世界の舞台に登
場し、その後の20世紀の国際社会は、理想主義と孤立主義の間を揺れ動くアメリカの世
論と国際政治の現実との相克の波間に漂うことになります。
アメリカの戦後構想の基本は、国際連盟のような国際機構によって世界の平和を守ること
です。これはウィルソン主義の執念とも言うべきもので、第二次大戦末期、スターリンは
どこまで東欧、ドイツの征服が許されるか探りを入れますが、ルーズベルト大統領の関心
は、国際連合の成立に重点があることを知って、委細かまわず占領地を拡げています。
パリ会議における山東問題でも、あそこで日本に脱退されると、連盟が成立しないという
危惧(きぐ)から譲歩したといいます。理想主義が、その形式的な目的の達成のために、現
実政治の要求を許容したわけです。
≪白人国の横暴を心配≫
連盟設立に際して、日本の心配は、白人国多数の国際連盟では、白人が横暴を極めるので
はないかということでした。今から考えると余計な心配なようですが、ただ独りの非白人
国として日本がそう感じる理由はありました。たとえば、日本の欧州派兵問題について、
ドイツ側が「欧州の戦争に他人種を呼び込むのは欧州の自殺を意味する」と言ったのは、
戦時プロパガンダとしても、アメリカのハースト系の新聞は「日本の派兵は、アジア人を
して白人を虐殺させ、白人の力を弱める」と論じていたような時代でした。
157 :
岡崎久彦:02/07/29 22:36 ID:hh93nHmM
パリ会議の日本代表も「国際連盟ができると、白人国が圧倒的多数なので日本が不利とな
る恐れがある。といって加盟しないで孤立するわけにはいかないから、人種的偏見で不利
が生じないよう適当な方法を講じるよう」正式の訓令を受けています。会議で日本が提案
したのは、各国内での人種差別、とくに移民の差別の撤廃でした。
17世紀以来のイギリスの世界覇権の下で、世界中の新発見の沃土(よくど)はイギリスに
独占され、その結果、アメリカ、豪州、ニュージーランド、カナダ、南アフリカから日本
移民は締め出されていました。現在は一応世界的な自由貿易体制があり、日本のような先
進国は移住の必要はありませんが、当時の貧しい日本としては切実な問題でした。
ただ、日本の言い分は連盟に加入して国際責任を分担している国は平等であるべきだ、と
いうことで、日本人の利益が第一でした。また、イギリス連邦諸国の当初の反応も「日本
の主張は理解できるが、日本人だけでなく、シナ人、インド人も平等に扱わざるを得ない
のが問題だ」ということでした。これは当時としては当たり前の考え方です。文明国と、
そうでないとされた国との間に歴然たる差別があった時代です。
≪日本の提案は否決≫
イギリス連邦諸国の反対が強いので、日本側は、これを連盟規約の条項でなく、前文の原
則宣言だけにとどめる譲歩もしますが、結局、賛成十一反対五で、議長のウィルソンは、
満場一致でないということで否決を宣言します。反対国の中には、イギリス連邦諸国に同
調せざるを得なかったイギリス、西部諸州の反対を恐れたアメリカも入っていました。道
義的には反対し得べくもなかった内容だけに、国際世論は一斉にイギリスアメリカを批判
し、日本の世論は沸騰(ふっとう)しました。
人種差別反対は、その後も日本外交の旗印となりました。ナチスの迫害の下のユダヤ人が、
日本経由のビザを求めた時、昭和十三年の五相会議は、ドイツとの関係もさることながら、
多年主張してきた人種平等の精神の下に、ユダヤ人を差別せず公正に扱うことを決めまし
た。リトアニアの杉原千畝領事の話も、実は、この訓令に沿った行動です。
158 :
岡崎久彦:02/07/29 22:38 ID:hh93nHmM
現にモスクワでもユダヤ人にビザは出ていますし、杉原氏自身、ユダヤ人を救えるのは大
日本帝国だけだと誇ったといいます。杉原氏のしたことは、シベリア横断の時間を考慮し
て、日本到着時までに受け入れ先、資金調達が整うことを条件に、最大限好意的に配慮し
たことと、離任ギリギリまで献身的にビザを出し続けたことです。
戦後の日本では、本国の訓令に反して、という反権力的姿勢がないと美談にならないので
しょうが、そんな話にしなくても日本領事が、人種平等の国是の下に何千人のユダヤ人の
命を救ったということだけでも、日本人としては誇りにできることです。
さて、人種差別反対の原則は排除されましたが、国際連盟規約はパリ会議で採択され、国
際連盟が発足しました。しかし、アメリカの上院では、批准に必要な多数が得られません
でした。ウィルソン大統領は、次の大統領選の選挙イシューにまでしますが、共和党のハ
ーディングに敗れて万事休します。アメリカ世論が、アメリカが国際世界の安全にコミッ
トして旧世界の紛争に巻き込まれるのを警戒したからです。ここからアメリカは孤立主義
の色濃い時代に入っていきます。
159 :
卵の名無しさん:02/07/30 05:55 ID:tPNo6Ty7
書かれたらまずいことがあるためか?荒らし沢*関係者は一日中必死の
妨害工作やってるようです。(ワラワラ
↑ これも地下室勤務者の宿命です。
捏造・偽造・騙取・詐称・妨害・誹謗・中傷等が
私どもの業務です
161 :
卵の名無しさん:02/07/30 06:40 ID:J1OlvrX4
ここまで妨害するのにはかなりのエネルギーが必要。
そこまでしても隠し覆いたいものがあるのでしょう。
興味津々でみんなここを見てます。
162 :
名無しさん:02/07/30 07:03 ID:fQeVM4WE
ここまでやる荒らしもめずらしい
オレの会社のやつもここを見てるやつ結構多いよ。
下がるものが荒らしのため下がらず長期延命という
典型的パターンですね。
163 :
岡崎久彦:02/07/30 07:56 ID:5VyRAtwN
百年の遺産-日本近代外交史−34
日英同盟の終焉 同盟で安全の守れぬ時代に
国際連盟に入れず、アメリカ州内に篭(こ)もってしまったアメリカも国際政治から絶縁す
るわけにはいきません。一つは議会からの建艦計画見直しの声です。建艦というのは、他
国との軍事バランスを考えてやっているわけですから、予算削減のためには、他国との軍
縮交渉が必要になります。
もう一つは、中国において、日本及び欧州列強の特殊権益を排して、機会均等を得ようと
いう従来の政策の継続です。
こうしてワシントン会議は1921年8月、軍備及び極東を議題として開かれますが、こ
の二つがアメリカの政策意図の中では、両方とも日英同盟廃棄の方向に働きます。
21年1月のアメリカ上院で、海軍長官は、日英同盟があるかぎり軍縮は望めない、と発
言しました。アメリカは、日英同盟の海軍力に対抗できるようになるまで建艦をやめない、
という趣旨です。
実は、日英同盟はその十年前に事実上アメリカをその対象から除外しているので、日英両
国は直ちに反論していますが、こうしたアメリカの動向を受けて、ロンドンで開かれた大
英帝国会議では、日英同盟継続問題が中心議題でした。
≪意見別れるイギリス連邦≫
豪州、ニュージーランドは存続論でした。ヒューズ豪首相は「敵としての日本より同盟国
としての日本の方が望ましい。日英同盟の廃棄は、西欧諸国グループから日本を排斥(は
いせき)するに等しくなる。また、日本がイギリスのような文明国と同盟することは、日
164 :
岡崎久彦:02/07/30 07:56 ID:5VyRAtwN
本にある種の抑制を課することになる」と論じています。やはり、近い国はよく見ている
と思います。同盟廃棄後、孤立した日本の国粋主義が強くなったことを考え、また、親イ
ギリス的な天皇、元老、外務省、海軍の、陸軍に対する抑制が効かなくなったことを考え
ると、実に的確な指摘です。
南アフリカは、同盟という第一次大戦の惨禍をもたらしたシステムによらず、国際協同体
の精神の下の協議によるべきだという、ウィルソン主義の公式論を述べます。
カナダは、最も強力な同盟継続反対派として秘密会では討議をリードしますが、公開の席
では、中国を含めた協議を提案しています。孫文は日英同盟に反対しているのですから、
中国を含めるということは、即ち反対です。
イギリス政府内は、カーゾン外相、チャーチル植民地相、連盟担当のバルフォア枢密院議
長、チェンバレン国爾尚書、陸海軍大臣、参謀総長まで、全て同盟継続派でした。
もし日本が、同盟堅持を言えば、イギリスはとうてい自分から廃棄を言い出せず、また、
当時のイギリスアメリカの力関係から言っても、アメリカのいうことを全て聞かねばなら
ないわけでもなかったのですから、同盟は継続したでしょう。 ところが、日英同盟を
最終的に切ったのは、日本代表幣原喜重郎でした。幣原は大正4(1915)年から8年ま
で外務次官として五代の外相に仕(つか)え、模範的な事務官僚として、どの外相からも絶
大な信用を得ていました。典型的な紳士でしたが、性格には剛毅不屈なところもあり、そ
れは外相時代、そして戦後の首相時代に発揮されます。幣原という人こそ、真に治世の良
臣、乱世の忠臣ともいうべき人です。
原敬は幣原を深く信頼し、ワシントンでの交渉は、まだ閣僚でもない幣原にまかせきりと
するほどでした。
165 :
岡崎久彦:02/07/30 07:57 ID:5VyRAtwN
イギリスは、窮余の妥協策として、(1)日イギリスアメリカの協議条約を作る(2)必要に
応じて、その中の二国は軍事同盟を結ぶ自由を有する、という試案を作りました。それを
アメリカはとうてい受諾しまいと判断して−−おそらく正確な判断でしょう−−単なる日
イギリスアメリカ、それにフランスを加えた四カ国協議条約という、その後の歴史が示す
通り、何の役にも立たない条約にしたのが幣原です。
しかし、それは東京の信頼の厚いあまり独走したとか、才子才に溺(おぼ)れたとかいうこ
とではなく、幣原の信念からきているものです。
幣原は、中国問題でも、二十一カ条要求の第五項の正式放棄、石井・ランシング協定の解
消、満州における種々の特権放棄などの譲歩をします。日本は中国では、地理的優位に恵
まれ、自由平等競争で勝てるのだから、そんなものは必要としない、と言っています。
≪信念貫く幣原外交≫
つまり、旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切り、中国では機会均等というアメ
リカの理想主義に全面的に同調したわけで、幣原はその後の幣原外交で、この信念を貫い
ています。
アメリカという異質な超大国が登場して、誰も先行きの見えない時代、幣原の判断を責め
るのは酷ですが、結果から見れば、それは失敗でした。
また、それは幣原だけの失敗でなく、フランスもまた同じ頃、ドイツの報復を恐れて、ア
メリカ、少なくともイギリスとの同盟を希望しましたが、代わりにイギリスフランス独伊
などの、これも何の役にも立たなかったロカルノ条約を与えられています。
同盟で安全を守るという手段を奪われた各国は、モンロー主義を持つアメリカと大英帝国
を持つイギリスを除いて、砂のようにバラバラになり、かえって誰も安全を保障されない
ジャングルの世界にほうり出されることになったわけです。
これって、競合ゾロの謀略じゃないの?
日の出の勢いの某社辺りは、やりそうな感じだが。。。
167 :
卵の名無しさん:02/07/30 18:49 ID:MHAb6i4a
この会社って同業他社に嫌われてるらしいから、案外
荒らしは他のゾロ関係者がいやがらせしてるのかもな。
少なくとも、この荒らしのためにえらい盛り上がってるぞ。
168 :
卵の名無しさん:02/07/30 20:04 ID:jFDhQH/c
だから、、地下室の怪人の徹底究明をしよう
169 :
荒らしファンクラブ:02/07/30 21:47 ID:PYFuGaiN
ここ荒らしさんの活躍でうちの会社(ゾロ一員)はかなりの社員が見てます。
みんな面白がってるので頑張ってください。
沢井スレッドは永遠です。
170 :
卵の名無しさん:02/07/30 22:22 ID:RacLM+tN
なぜ沢井だけ盛り上がるのだろう?
171 :
卵の名無しさん :02/07/30 23:04 ID:TPZk9Kei
あるSWのMRの話し。
塩酸チクロピジンに変わるものはないかと
ちょっと意地悪な質問をしてみた。
すると、自分のところのプレタールとドルナーを薦めてきた。
もう少し勉強したら?○○くん。
こんなMRがいるからゾロは信用できん。
もう二度と来るな!
172 :
岡崎久彦:02/07/31 04:35 ID:ZtYdQnNb
百年の遺産-日本近代外交史−35
大正デモクラシーの完成 護憲連合の結成からスタート
大正元(1912)年の大正政変から、大正7年の原敬内閣の成立まで、まだ紆余曲折(う
よきょくせつ)があります。
大正3年の大隈内閣は、もともと藩閥側が政友会の力を何とか崩そうと、大隈重信を担ぎ
出して、警察力も背景に、未曾有の金権選挙をした結果できた内閣です。かつての廉潔な
サムライ・デモクラシーの伝統が死に絶えたのも、この頃からといいます。しかし、それ
は政党政治への屈折した前奏曲でした。
藩閥も、こういう大衆政治家(ポピュリスト)の援(たす)けがなければ、政党の力に対抗で
きなくなっていたのです。ただポピュリズムは冷めやすいものであり、山県有朋が後継に
寺内正毅を任命しても、さしたる世論の反対はありませんでした。
そして米騒動後、寺内の後は、西園寺公望が山県を説得して、原敬が組閣します。
時に原敬は63歳、内閣成立の日、原は「もう10年前にやらせて貰ったら」と言ってい
ます。たしかにもう十年早かったら、あるいは原がもう10年生き延びていたら、日本の
議会民主主義はもっと確立していたでしょう。
実は原敬暗殺後三カ月経たずに山県が死に、まるで地獄の釜の蓋(ふた)が開いたように軍
に対する批判が議会で噴出します。
「現行官制は立憲政治の本義を乱し、軍の跋扈(ばっこ)もここに胚胎(はいたい)す。速(すみ)やかに官制を改正して憲政の健全なる発達を期すべし」という激越な建議が、衆議院
本会議で満場一致採択されています。原敬は山県亡き後は軍閥の牙城、参謀本部の廃止ま
で考えていたようですから、原がせめてあと半年生きていただけで、随分違ったでしょう。
173 :
岡崎久彦:02/07/31 04:36 ID:ZtYdQnNb
≪汚職腐敗に国民幻滅≫
原の後任の高橋是清は、性洒脱で私心がなく、2・26事件で暗殺されてから今日に至る
まで、財政金融の大御所として尊敬され、悪口を言う人はいないという上等な人物です。
しかし、無理に総理を引き受けさせられ、せっかくの建議を受けても、これを実施する政
治力もなく、やがて政友会は分裂してしまいます。高橋はその後、心機一転して、爵位を
返上して衆議院議員となりますが、その勇猛心をもっと早く一番大事な時に出していたら
と惜しまれます。高橋の後は、加藤友三郎、山本権兵衛、と人物としてはそれぞれ優れた
超然内閣が続きますが、これには世論の支持がありました。
それは初めての政党内閣の党争の弊、汚職腐敗に国民が失望したからです。それは利権漁
り、国益より党利優先など、現代日本の新聞紙面を賑(にぎ)わしているようなもの以上で
はありませんでしたが、それまでは、藩閥政府といえども、幕末維新の武士、志士の伝統
を継ぎ、国益優先、清廉の風があったので、これと比較して国民が幻滅を感じたのです。
吉野作造でさえ、憲政の常道、つまり多数政党支配で政治を律せよ、と説くのは「僕の厚
顔をもってしても、なお、甚(はなは)だきまりが悪い」と言うような雰囲気でした。
ちなみにタイ国民は、政治外交に天才的なところがありますが、戦後半世紀の歴史は、政
党政治は必然的に金がかかるので腐敗し、国民がそれに不満を持つと、軍が介入して規律
を引き締め、開発独裁を遂行し、国民が独裁に倦(う)んで、自由を欲すると民政に復帰す
るという循環で、たゆみなくその政治、社会、経済を発展させてきています。
人間社会の政治の流れには、アリストテレスがギリシャの都市国家の盛衰を民主主義→無
政府状態(アナーキー)→独裁制↓再び権力の分散、の循環と、科学的に観察して以来、不
変のものがあるのでしょう。
174 :
岡崎久彦:02/07/31 04:37 ID:ZtYdQnNb
日本の民心も、三つ目の超然内閣、とくに清浦奎吾の貴族院内閣となると、もうおさまら
なくなります。そこで分裂後残った高橋の政友会、加藤高明の憲政会、犬養毅の革新倶楽
部の三派による護憲連合が結成されます。そして大正十三年の総選挙で圧勝し、元老西園
寺は、最大党の憲政会党首加藤を首相に奏請し、ここにその後八年間の政党政治時代が始
まります。
≪民主主義が軍閥主義へ≫
この間の政治は、軍にも政治に介入を許さない、国際的基準から見ても、完全なデモクラ
シーでした。それがなぜ、その後軍閥支配にとって代わられたのか、現在のデモクラシー
を守るにはどうすべきか。これが繰り返される問いです。共産党などは、プロパガンダと
して防衛費が一円増えると「軍靴の足音が聞こえる」などと言います。
それは端的に言えば、初めての民主政治だったからでしょう。「民主政治は最悪の政治で
あるが、今までに存在したいかなる政治制度よりもましである」という哲理、あるいは諦
念(ていねん)に達するには、イギリスといえども何世紀かの試行錯誤を経ています。
戦前の日本には、まだ民主主義以外の選択肢がありました。藩閥官僚の超然主義は、日本
の近代化を達成し、日清、日露の戦争に勝って大日本帝国を築いた実績のある選択肢でし
た。そして、腐敗した政治家に対する凛(りん)とした軍人への期待、これもまだ試されて
いない選択肢でした。
この二つをすでに試み、もう他の選択肢のないという意味で、現代の民主政治は安定して
いると言えるでしょう。
175 :
卵の名無しさん:02/07/31 07:05 ID:AwVQhyJJ
166 :卵の名無しさん :02/07/30 18:15 ID:ZTa6FFKg
これって、競合ゾロの謀略じゃないの?日の出の勢いの某社辺りは、やりそうな感じだが。。。
167 :卵の名無しさん :02/07/30 18:49 ID:MHAb6i4a
この会社って同業他社に嫌われてるらしいから、案外荒らしは他のゾロ関係者がいやがらせしてるのかもな。
少なくとも、この荒らしのためにえらい盛り上がってるぞ。
168 :卵の名無しさん :02/07/30 20:04 ID:jFDhQH/c
だから、、地下室の怪人の徹底究明をしよう
169 :荒らしファンクラブ :02/07/30 21:47 ID:PYFuGaiN
ここ荒らしさんの活躍でうちの会社(ゾロ一員)はかなりの社員が見てます。
みんな面白がってるので頑張ってください。
沢井スレッドは永遠です。
170 :卵の名無しさん :02/07/30 22:22 ID:RacLM+tN
なぜ沢井だけ盛り上がるのだろう?
171 :卵の名無しさん :02/07/30 23:04 ID:TPZk9Kei
あるSWのMRの話し。塩酸チクロピジンに変わるものはないかとちょっと意地悪な質問をしてみた。
すると、自分のところのプレタールとドルナーを薦めてきた。もう少し勉強したら?○○くん。
こんなMRがいるからゾロは信用できん。もう二度と来るな!
176 :
岡崎久彦:02/07/31 07:55 ID:MmbaQwwv
百年の遺産-日本近代外交史−36
大きな課題の軍縮 新機軸を開いた幣原外交
大正デモクラシーの外交課題は、まず軍縮でした。
1922年のワシントン軍縮会議では、イギリス、アメリカ、日本、3国の主力艦の比率
を5・5・3に決めました。この会議が成功だったことは、その後の軍国主義史観も戦後
の左翼史観も、誰も異議はありません。この交渉の成功には、日本側の代表加藤友三郎の
中正妥当な判断と、幣原喜重郎の外交的技倆(ぎりょう)が光っています。
実は、日本としては渡りに船でした。大戦景気が去り、税収が減って建艦を続ける見通し
が立たないところでしたが、この軍縮によって1921年に実に総予算の3分の1、5億
円を占めた海軍予算は、その後半減されました。
逆説的に言えば、もしアメリカが建艦を続けていれば、貧乏国日本としては、冷戦末期の
ソ連のように経済的破綻か競争を諦(あきら)めるかの選択を迫られ、いずれにしても真珠
湾攻撃の時期までアメリカと張り合うのは無理だったでしょう。
敢(あ)えて言えば、軍縮が戦争を可能にしたというのが、軍縮のパラドックスです。
≪山県死後に軍縮案≫
こうなると、「仮想敵帝政ロシアが滅んだから陸軍も軍縮できるはずだ」という声が出て
きます。山県有朋死後の議会では、野党から陸軍削減案が出ると、与党もこれと対抗する
削減案を出さざるを得ない状況で、加藤友三郎内閣は、六万名を削減します。これが山梨
軍縮です。
177 :
岡崎久彦:02/07/31 08:08 ID:s9OCSqus
山県の死後、大正11(1922)年から12年にかけては、反軍思想が最も高まった時期
です。あるいは戦後の日本より高かったと言えるかもしれません。軍服で電車に乗るのは
気がひけて平服にしたというのは、一時の戦後の日本と同じですが、軍人が人力車を呼ぶ
と、俥(くるま)引きが「戯談(じょうだん)じゃない。歩いたらいいでしょう」と言ったと
いいます。
今でもアメリカ軍の占領がなければ、日本に軍国主義の時代が続いた、という人もいます
が、日清、日露戦争の大勝利のあとでも、日本の世論はここまで変われる潜在力(ポテン
シャル)があるのですから、あれだけの敗戦、しかも戦時中の軍の横暴のあとには、占領
がなくても自(おのずか)ら強烈な反動があったことは十分想像されます。
この世論には、また再反動もきます。実は山梨軍縮よりももっとインパクトがあったのは、
加藤高明内閣の宇垣軍縮でした。宇垣一成陸相は、日本陸軍が欧州大戦で長足の進歩を遂
げた欧アメリカの陸軍に較べて、近代化が遅れたのを憂い、その経費捻出のため4個師団
を削減します。
4個師団長、16連隊長を失った軍人は昇進のポストを失い、連隊の所在を誇りとしてい
た各都市から抗議や陳情が殺到し、世論は一転して軍に同情的になります。
すべて大正デモクラシーの雰囲気を彷彿(ほうふつ)とさせます。多年の軍人の尊大さに対
する鬱積(うっせき)が山県の死を契機に爆発したのもわかりますし、他方日清、日露の栄
光ある日本の軍をそんなに苛(いじ)めてもよいのか、という同情が翕然(きゅうぜん)とし
て集まったのも理解できます。
何か本然(ほんねん)的な自由の存在を感じさせます。いずれも、他から強制されたもので
もなく、偏向教育の結果でもない、内から自発的に出てきた国民感情であり、それがまた、
自らチェック・アンド・バランスを形成しているという、真の意味の自由で民主的な社会
の反応でした。
178 :
岡崎久彦:02/07/31 08:09 ID:s9OCSqus
≪法に基づく平和主張≫
大正デモクラシーの加藤高明内閣の陸軍を代表したのが宇垣陸相ならば、外交を代表した
のは幣原喜重郎です。それまで人と競わず、敵を作らず、明哲保身の外務官僚として出世
街道を登り詰めてきた幣原は、責任ある地位に着くや猛然として外交に新機軸を開きます。
就任時の記者会見で、「今や権謀術数や侵略的な政略の時代は去り、外交は正義、平和の
大道を踏む」とウィルソン的信念を披瀝(ひれき)し、自ら書き下ろした外交演説で、ベル
サイユ条約、ワシントン条約等の諸条約の権利義務を尊重して、国際社会における法の支
配による平和を主張しました。
幣原は、一貫してこの信念を枉(ま)げず、アメリカの関係者もこれを讃嘆しています。し
かし、ナショナリズムの沸騰(ふっとう)する中国では、既存条約とは打破すべき不平等条
約であり、やがてワシントン体制を推進した当のアメリカが中国に同情的になっていく推
移が後年の幣原外交の挫折につながります。
ただ幣原は、法と話し合いによるかぎり中国の現状打破には同情的でした。中国の関税自
主権回復交渉を率先して推進したのも幣原です。幣原がまとめ上げた案は、中国の内戦で
中国側代表団が自然消滅して棚上げとなりますが、これで中国の対日感情は一変します。
イギリス代表は、今後問題が起きた場合は中国側から一番信頼されている日本がやってく
れ、と率直に言っていますし、北京市民は、日本代表団に全面的に好意を示し、各地にも
親日の空気が台頭してくる情勢となりました。
ただ、治外法権の撤廃は、動乱で外国人の生命財産が絶えず脅(おびや)かされる状況では
無理でした。この点、幣原はむしろ率直に、日本の場合は外国を責めず、打倒帝国主義な
どと言わずに、まず己を責めて、国内政治を近代化し、その結果列強は快く対等条約に同
意したのである、といい、中国国民に自重を求める堂々とした発言をしています。
179 :
御気の毒:02/07/31 08:13 ID:md5GRXGO
荒らせば荒らすほど一般人にも
「あ、沢井製薬って悪口書かれると嵐に来るくらい製品が駄目なんだな。」と宣伝してるようなもんだよ。
あんたがたが荒らしても 購買客なんぞ減るんだから無駄ですよ。
180 :
岡崎久彦:02/07/31 12:11 ID:fq6lbh2r
百年の遺産-日本近代外交史−37
国民党政府の誕生 一貫した幣原の不干渉政策
1924年、日本の政党政治は護憲三派内閣によって完成されますが、その前年、23年
には広東に、アジアの歴史の大転換点となる、孫文の国民党政府ができます。
特に決定的な影響をもたらしたのは、それまで各種軍閥と組んで、それが頼むに足らないことを知った孫文が、自らの軍隊を作ろうと、蒋介石に命じて黄埔軍官学校を作ったこと
です。
当初から300名の募集に3000名が応募し、その後速成教育を繰り返して、たちまち
に一大将校団が現出します。
校長の蒋介石は率先して生徒を訓育します。後年腐敗や親族びいきの批判のある蒋も、革
命に純粋な情熱を注いだ青春があり、それによって得た部下の敬愛と支持が、蒋の一生の
財産となります。国民党内での能力と識見でも、孫文の信頼でも、はるか上だった汪兆銘
の力を蒋が凌(しの)ぐに至るのもこのためです。
実は、この広東の情勢の変化は日本はよく解っていなかったようです。かつての孫文、黄
興の第一次革命には、多くの日本人が同志として参加し、援助したのと較べて、広東政府
に協力したのは日本でなく、ロシアの革命政府でした。
もはや中国にとっての手本は、明治維新でなく、成功したばかりのロシア革命に変わって
いたのです。広東政府は「連ソ容共」の方針の下に、ソ連教育団を軍官学校に迎え入れ、
蒋介石校長の次の副校長は周恩来でした。
日本の士官学校に留学したこともある蒋介石と太いパイプを持たなかったことが、後の日
本の中国政策の蹉跌(さてつ)の一因ともなります。
181 :
卵の名無しさん:02/07/31 13:44 ID:QYq6ogoa
この荒らし不気味なやつだなあ。
こんなこと続けてるとますます不気味な顔になるよ。
このスレッドかなり評判に
気味の悪いスレッドNO1みたい
183 :
岡崎久彦:02/07/31 18:47 ID:9QvF6o2M
そんな事、ず〜〜〜っと書いてるが、去年の11月頃から
な〜〜〜んもかわらんなぁ・・・・
185 :
岡崎久彦:02/08/01 01:49 ID:9By+kpku
日本は広東政府の出現を、軍閥の離合集散の一つとしかみていませんでした。奉天総領事
吉田茂は「南北政情の不安定は軍閥私闘の故(ゆえ)」であり「南方国民政府出現以来攪乱
(かくらん)さらに甚(はなは)だし」と判断しています。
その頃の日本の方針は、満州の張作霖政権を育成、援助し、日本の満州権益を守らせるこ
とでした。
≪「満州を守れ」とデモ≫
幣原喜重郎は外相就任後まもなく、北京の呉佩孚(ごはいふ)の軍が今にも山海関を越えて、
満州に侵攻してくる勢いとなりました。満州を守れというデモが外務省に押し寄せて幣原
外交の優柔不断を罵(ののし)りました。
しかし、シナ人の気持ちを傷つけないように厳正に不干渉の態度を取れば、シナ人は日本
の利権を尊重してくれる、というのが幣原の一貫した態度で、北京側の顧維鈞外相も「日
中友好の精神で、努めて日本の利権を保護する」と幣原外交の方針歓迎を表明しました。
しかし、張作霖の敗勢が濃くなると、閣議でも加藤高明首相、高橋是清蔵相までが介入論
になります。
加藤は別室に幣原を呼んで説得しようとしますが、幣原は、これは自分の信念だから妥協
の余地はない、といって用意していた辞表を出し、加藤も説得を諦(あきら)めました。
その後、馮玉祥のクーデターで呉佩孚は満州進撃をやめます。その時、高橋は、幣原の手
を握り、「よかった、よかった。君が頑張ってくれたお陰で日本は救われた」と言いまし
た。「高橋という人はこんな人だった。先刻まで憂国の一念から私と議論を戦わせていた
のが、面目に拘泥(こうでい)せず、かえって自分の主張が行われなかったことを喜ぶとい
う、その光風霽月(こうふうせいげつ)(爽やかな風と晴れた月)の心事には、誠に尊いもの
があった。私は思わず目に熱いものを感じた」と幣原は回想しています。良き時代の良き
人々の話です。
186 :
岡崎久彦:02/08/01 01:51 ID:9By+kpku
≪出兵論を断固阻止≫
その後も中国出兵の議論は二度起こっていますが、二度とも幣原の反対がなければ出兵と
いう情勢でしたが、幣原は内政不干渉を堅持して一歩も譲りませんでした。
一つは軍官学校設立のわずか二年後の一九二六年、蒋介石は八軍十万を率いて北伐の途に
つき、大軍を恃(たの)む呉佩孚らの北方軍とよく戦い、二七年には南京に入城します。そ
の際、外国人に対して相当な規模の暴行虐殺があり、これがいわゆる南京事件です。
北京の列国代表は、最後通牒(つうちょう)を作製し、各国の承認を得た上で蒋介石に通達
し、さっそく軍事行動に移る手筈(てはず)を決めました。
この電報を受けた幣原はイギリス、アメリカの大使を外務省に招いて、「もし蒋介石がこ
の最後通牒を受諾すれば、国辱的な譲歩をしたといって政権が潰(つぶ)れるかもしれない。
すると、国内は大混乱に陥り、居留民保護がもっと難しくなる。もし、断固拒絶すれば出
兵する懲罰しかないが、シナというのは無数の心臓があって、一つの心臓を叩き潰しても、
他の心臓が鼓動して、何時(いつ)になったら目的を達するか予測し得ない」と干渉の不可
を説きます。
この「心臓の複数性」という幣原の表現は、国務省の記録にも残っています。支那事変で
は、南京という心臓を落としても、かえってそこから泥沼が始まったことを思うと、もし
あの時に幣原ほどの洞察力ある人間がいたら、と悔やまれます。
しかし、加藤病死の後を継いだ若槻礼次郎の内閣は、南京事件の翌月倒れ、幣原外交は中
断します。直接の原因は金融恐慌(きょうこう)ですが、枢密院の討議も、金融政策ではな
く、若槻、幣原の対支政策批判に集中しました。世論は幣原軟弱外交批判に、ここで一旦
(いったん)は揺れます。
187 :
岡崎久彦:02/08/01 01:54 ID:9By+kpku
百年の遺産-日本近代外交史(38)」
田中内閣誕生と辞職 大きな転機となった済南事件
田中義一内閣は、戦後の史観では軍国主義時代の幕開けのようなイメージがあります。
しかし、それはまだまだ大正デモクラシーの内閣でした。もとより超然内閣ではなく、田
中は軍服を脱いで政界に身を投じ、政友会総裁となり、前内閣が南京事件と昭和恐慌(き
ょうこう)で退陣した後、野党の党首として組閣します。
また、田中という人は明治以来の陸軍軍人の中で最も傑出した人の一人です。
山県有朋の秘蔵っ子でしたが、山県に取り入ったというのではなく、時には山県と大喧嘩
(おおげんか)かと思われるような論争も敢(あ)えてした剛直さもありました。連隊長時代、
ビンタなどの体罰を厳禁し、愛情をもって兵に接することを徹底させています。
原敬内閣の時に、高橋是清蔵相が予算の編成に苦慮して、陸海両相を招(よ)んで「本当に
同時にこれだけ要るのか。緩急軽重はないのか」と訊(き)いたのに対して、田中陸相は「海
軍が先だ。海軍には艦齢というものがある」と譲っています。
≪高橋是清が敬服≫
これは少しでも政府、官僚というものを知る人にとっては、感嘆せざるを得ないスケール
の大きさです。後に高橋が政友会総裁を田中に託したのは、この時以来、田中の器量に敬
服していたからといいます。上司としても、外務次官として仕(つか)えた吉田茂は、その
時ほど愉快だったことはないと追想しています。そして、総理としての引き際も潔く、死
後は借金しか残らない廉潔さがありました。
188 :
岡崎久彦:02/08/01 01:56 ID:9By+kpku
ただ中国政策については、長期的戦略を持たず、時流、即ち「幣原軟弱外交」に対する、
当時の反動の流れに政策を任せた責任はあります。
田中の就任早々、南京を制圧した国民党軍は、北進を始め、在留邦人や日本権益の多い北
方地域に迫ったので、田中内閣はこれに対して、幣原の不干渉政策の反動として、武力に
よる邦人保護政策を取ります。
この時は、国民党軍は敗退しますが、一九二八年には大兵力で再び北上し、たちまち山東
省境に迫ります。
もうこの頃は、蒋介石軍の北京制圧は必至で、邦人保護も蒋を信頼して任せる考えもあり
ましたが、さきに一旦(いったん)打ち出した武力邦人保護の方針に沿って出兵します。
その結果、自(おのずか)ら両軍の衝突も生じ、邦人に対する掠奪(りゃくだつ)、虐殺、凌
辱(りょうじょく)事件も起きます。これが済南事件です。
幣原は、翌年の貴族院で「南京事件では出兵せず、日本人には一人の死者も出なかった。
済南では出兵して、かえって死傷者を出した。……多年築かれた日支親善関係は根底から
破壊された。実に国家のために痛恨に堪(た)えない」と発言しています。
たしかに済南事件は大きな転機となりました。中国の排外運動の主要目標が、従来のイギ
リスから日本に移ったのは、この時からです。
この事件を契機に、知日派の黄郛(おうふ)外交部長は、イギリスアメリカ派の王正廷に代
わり、以降中国の政策は国際場裡での日本非難、孤立化の政策に変わります。
田中内閣は就任早々、対支政策の見直しのための東方会議を開いています。
189 :
岡崎久彦:02/08/01 01:59 ID:9By+kpku
実はその結果は、強硬派の森恪政務次官などの当初の意気込みに反して、それほど抜本的
な政策転換を提言しているわけではありませんが、幣原外交を否定する新しい政策を打ち
出したという内外のイメージの方が先行します。
後に東京裁判で引用される、日本の世界征服案、いわゆる田中上奏文という偽書が、中国
の新聞紙上に表れるのも、この会議の後です。
≪現実主義者の田中≫
田中はより現実主義者でした。田中は当時の奉天総領事吉田茂が、張作霖との間に意思の
疎通を欠いていたので、満鉄総裁山本条太郎に交渉させて、鉄道問題など多年の懸案はほ
ぼ解決の目途がつくに至っていました。
他方、関東軍や在満邦人の間では、張がだんだん日本に対して尊大になってきたことに不
満が鬱積(うっせき)し、張が北京を国民党軍に明け渡して帰る途中、列車を爆破して殺し
てしまいます。田中は「なんたる馬鹿どもだ。親の心子知らずとはこのことだ」と、繰り
返して慨嘆(がいたん)したといいます。
190 :
岡崎久彦:02/08/01 02:00 ID:9By+kpku
西園寺公望は、軍紀を厳正にする方が長期的には良いのだからと、犯人の断罪と軍の綱紀
粛正を田中に説き、田中も天皇に真相の公表と厳重処分を言上します。ところが、閣僚は
これに反対し、結局警備の手抜かりの処分にとどめます。これを事後報告した田中は、そ
の場で天皇から食言を問責されます。誠忠な軍人として天皇のご信任を失った以上、田中
としては辞職するしかありません。追いすがって反対する閣僚に「黙れ!」と一喝して辞
職します。
この事件は昭和史の大きな転機となります。一つは、軍人が独断専行しても、動機が私利
私欲でなく純粋ならば処罰を受けないという先例となり、その後の軍人の跋扈跳梁(ばっ
こちょうりょう)の弊は、ここに発します。
もう一つ重大なのは、日英同盟と大正デモクラシーの子であり、イギリス風憲政を信奉さ
れた昭和天皇が、その時のご言動が、「君臨すれども統治せず」という原則に背馳(はい
ち)して、田中を辞職させたことを反省され、その後、昭和史の節目において、天皇以外
チェックできないような事態でも、自らのご言動を自制されるようになったことです。
この点は昭和天皇ご自身が歎(なげ)いておられるところで、昭和史を決定する一つの要素
となります。
就職版スレッドでここの荒らしのこと盛り上がってるで
マスコミにでるかもね
193 :
岡崎久彦:02/08/01 11:04 ID:kC/MsbYP
百年の遺産-日本近代外交史−39
統帥権の干犯問題 政党政治が機能しての油断
昭和4(1929)年田中義一内閣が総辞職すると、西園寺公望は、野党民政党の浜口雄幸
を後継首相に奏請します。
浜口は幣原と同じく、明治初年に生まれた明治の第一世代です。旧制三高の前身の高等中
学で幣原と同期、共に東京帝大法科に進み、幣原は外交官試験、浜口は高等文官試験で大
蔵省に入った、明治教育が生んだ天下の秀才であり、幣原の莫逆(ばくぎゃく)の友でもあ
ります。
組閣翌年早々の総選挙で、民政党は273議席と圧勝します。それまで半年間の浜口内閣
の業績はといえば、財政立て直しのために官吏の一割減俸までした緊縮財政で、政友会の
放漫財政と対比されて、民政党は不景気の代名詞のように言われていたのですから、決し
て人気取り政策の結果ではありません。
≪揺れ戻った世論≫
世論の振り子が、また戻ったのです。「幣原軟弱外交」では、シナの日本権益が侵される
と心配した人々も、今度は田中外交で、反日運動、日本品ボイコットが起こったりすると、
浜口、幣原の人柄もあって、やはり民政党の方が安定感がよいと揺れ戻ったわけです。
昭和初期の日本は、まだまだ一直線に軍国主義に向かうにはほど遠く、デモクラシーのチ
ェック・アンド・バランスが正常に機能する社会でした。
この民政党の圧倒的優位を崩そうと、田中の後継の犬養毅の政友会が取り上げたのが、ロ
ンドン軍縮に関連する統帥権干犯問題でした。軍の統帥権を制限しようとしつつも、山県
有朋よりも先に無念の死を遂(と)げた原敬の後を継ぐ政友会が、やっと政党政治が軍の統
194 :
岡崎久彦:02/08/01 11:05 ID:kC/MsbYP
帥権を抑え込める実力を持ったその時期に、党争のために、統帥権の独立を主張して寝た
子を起こしてしまったのです。
政党政治花盛りを迎えた油断だったのでしょう。それが10年経たないうちに、当の犬養
は暗殺され、政党政治が終わりを告げるとは、誰も予想しないことでした。
軍国主義時代には、軍のすることを少しでも批判しようとすると、下級士官までが、「統
帥権の独立を侵犯するのか」と軍刀を振り回すことも間々(まま)あり、明治憲法下の統帥
権の独立が国を滅ぼしたという史観も生まれました。
しかし、そもそも統帥権の独立が明治憲法の正統的解釈かどうかも疑問です。平和主義者
の海軍評論家水野広徳は「憲法第11条は『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とあるが、第15条
は『天皇ハ爵位勲章……ヲ授与ス』とあり、だからといって、恩賞権は独立して総理大臣
が関与できないことはない。それと同じことだ」と論じています。
ちなみに水野は、日本海海戦で水雷艇長として勇戦し、金鵄(きんし)勲章を持った元海軍
軍人ですが、すでに1924年の論文で「日米戦争は持久戦になる。その場合、食料、原
料は隣邦に需(もと)めるという国防方針のようであるが、腕ずくでもお前の国の資源を取
り上げるぞと脅(おど)かされて隣邦は好意を持つだろうか。世界中を敵としなければなら
ない」と、将来を的確に予見し、その後、「戦えば必ず四面楚歌の声、三千年の歴史あわ
れ亡(ほろ)びん」と歌っています。
やがて軍国主義の叫びの中に消されていきますが、これが大正デモクラシーのディフェン
ス・インテレクチュアルの声です。
ロンドン軍縮は、さきのワシントン軍縮が主力艦を制限したのに続いて、巡洋艦以下の補
助艦の量を制限する条約です。
195 :
岡崎久彦:02/08/01 11:06 ID:kC/MsbYP
海軍軍令部が難色を示したのを、政府が抑えて署名したのですが、その時点では軍令部も
やむを得ず、これに従いましたが、政治が完全に軍を抑えていたのです。
しかし、その批准に際し、政友会が、政府攻撃の手段として、これを統帥権の干犯として
キャンペーンしたのが、騒ぎのもととなり、将来長く禍根(かこん)を残すことになります。
批准自体は、浜口、幣原の完勝でした。浜口は議会で「憲法上、統帥権も、兵力決定権も、
条約締結権も、天皇の大権であり、一つの大権が他の大権を侵犯することはあり得ない」
と、統帥権の独立を真っ向から否定する正論を述べます。
西園寺も、裏で積極的に動き、浜口に対して、反対派の牙城である枢密院が「不条理なこ
とを言うならば、総理は職権をもって枢密院議長、副議長を罷免(ひめん)してもよい」と
まで言い、浜口は「一種のクーデターであるがやむを得ない」と肚(はら)を固めます。こ
の決意の前には枢密院も屈して批准を承認します。
≪条約は批准されたが≫
しかし、一旦(いったん)政友会が火をつけた国権主義的親軍感情はもうおさまりません。
条約批准の一カ月後、浜口は右翼のテロに重傷を負い、走り寄った幣原に「男子の本懐だ」
と言い、やがて死にます。
これがその後海軍中尉三上卓が「昭和維新の歌」を賦(ふ)しつつ犬養を暗殺し、政党政治
を終焉(しゅうえん)させる5・15事件に至る昭和のテロの始まりとなります。
もう一つの重大な影響は、それまで一糸乱れぬ統制を誇っていた海軍が2派に分裂し、喧
嘩両成敗の形で多くの良識派の人材を失ったことです。その一人、堀悌吉について、山本
五十六は「堀と巡洋艦とどっちが大事なんだ」と慨嘆したといいます。
>>191 鷹ハ群レズ、ですか。
孤高を守るのはいいが、この荒し何とかしてよ>統領さま
197 :
卵の名無しさん:02/08/01 18:23 ID:12hqdUg1
この荒らしには腹立ってきた。
ここのスレッドを病院でみんなに紹介して、医局へ来るMRにもこのスレッドのことを教えてやろう。
荒らしは何が不満でこれだけエネルギーをかけて荒らしてるのかわからん。
このスレッドで荒らし以外の書き込みのペースト希望!
199 :
岡崎久彦:02/08/01 20:08 ID:0wgLk3tw
百年の遺産-日本近代外交史−40
中国の革命外交 済南事件によりイギリス・アメリカ派台頭
浜口雄幸内閣で幣原喜重郎が外相に復帰した時は、中国はもう昔の中国ではなくなってい
ました。その原因は、必ずしも田中義一の責任と言えなくても、全て田中時代に胚胎(は
いたい)します。
関東軍は張作霖爆殺を機に満州を制圧しようという意図でした。3年後の満州事変と同じ
発想です。陸相はこれを提案しましたが、田中首相は、これを抑え、張作霖の生前に成立
した合意の線で満州問題の解決をはかろうとして、後継者には、他の親日的人物という案
もありましたが、敢(あ)えて息子の張学良を立てます。しかし、張学良は父を殺したのは、
日本軍と知り、報復の機を待っていたのですから、この点田中の判断は甘かったわけです。
≪張学良が蒋介石に帰順≫
張学良は、後継者と決まると、たちまち蒋介石に電報で恭順の意を表し、満州に中華民国
の国旗青天白日旗を掲げることを決定します。
その後の歴史で、反日運動では日本を挑発し、満州事変に導いたのは彼ですし、後に、西
安事件で国民党と共産党の統一戦線を作らせて支那事変へと導いたのも彼です。日本を戦
争と敗戦に一歩一歩追い込んだのは、親の仇を討つ彼の執念だったと言って過言でないで
しょう。
もう一つの後遺症は、済南事件で国民党政府内の親日勢力が弱まり、代わってイギリスア
メリカ派の王正廷が外交部長となって、国権回復外交を推進したことです。公表されたス
ケジュールによると、第一期に関税自主権回復、第二期に治外法権撤廃、第三期に租界回
収、第四期に租借地返還、第五期に鉄道利権等回収です。
200 :
岡崎久彦:02/08/01 20:09 ID:0wgLk3tw
1931年、満州事変の年の春、重光葵臨時公使がその真意を訊(たず)ねると、王正廷は
この計画を肯定し、租借地には旅順、大連、鉄道利権には満鉄も含まれると答えました。
これでは全くの衝突路線です。重光は日本でこれを幣原に報告し、事態が行き詰まるにし
ても「堅実に」行き詰まるようにすべきだと述べ、幣原と「堅実に」を合言葉として、固
い握手をして別れました。「堅実に」というのは、「いかなる場合でも、外交上日本の地
位が世界に納得されるようにしておく」ことだと、重光は説明しています。
さすがの幣原も、再任以来、王正廷との外交では苦労しています。日本の駐支公使を新任
しようとすると、その人物がかつて21カ条要求に関与したことを理由にアグレマン(同
意)を出さず、外交儀礼を破って、その理由を新聞に公表しています。
かつて幣原が率先提案した関税交渉は、済南事件のおかげで、かえって日本が最後に協定
を結ぶことになります。それでも幣原の外相復帰は、「田中武断外交去り、幣原平和外交
来る」と、民間の反日運動もやや下火となり、日本の軍事顧問招聘(しょうへい)の数も増
えたりしています。
≪排日侮日運動が奏功≫
しかし、満州事変の年早々に、蒋介石と反蒋連合軍の天下分け目の戦いがあり、張学良は
蒋側に参加して勝ち、大いに地歩を固め、それ以降は自信をもって反日運動を進めるよう
になります。
田中時代に張作霖が合意した鉄道問題も、南京政府と話してくれ、といって取り合わず、
逆に、満鉄と競争する平行線の計画を宣伝して日本側を刺激しました。
201 :
岡崎久彦:02/08/01 20:11 ID:0wgLk3tw
最も効果があったのは、排日侮日運動です。利権回収といっても、条約上の権利はなく、
実力で取り返そうとしても、かえって日本の武力にやられてしまいます。そこで日本に武
力行使の口実を与えないギリギリの範囲で、在留邦人、とくに女性、学童に、唾(つば)を
吐く、石を投げる、殴る、小売を拒否する等のいじめで、満州にいたたまれないようにす
る方策です。
重光によれば、これを国民党指導の下に国策遂行の手段として行いました。幣原の信念は、
全ての国が既存の条約、法律を守り、その変更は話し合いによることです。当時のアメリ
カ公使マクマリーによれば、日本はワシントン会議の条文と、その精神を最も忠実に守っ
た国であり、ワシントン体制を守れるかどうかは、実際には中国の自制と、それをはっき
りと中国に要求すべきだったアメリカ、イギリス、とくにアメリカの態度にかかっていま
した。
しかし、排日侮日という形で、日本の権益が損(そこ)なわれるのは、幣原の平和外交をも
ってしてもどうしようもありません。東京裁判では、日本が自衛のために戦ったと主張し
たのも、この歴史的背景があったからです。
国際法上の自衛とは言えませんが、国際法とは責任ある国家間の関係を律する法律であり、
国民党主導の排日侮日など国際法以前の問題です。
マクマリーの覚書は満州事変後、振り返ってどうしてこうなったのか、当時の情勢を分析
したものですが、日本側の中正穏健な識者達も同じような感想を洩(も)らしています。
「満州国の建設という結果となった原因の一つにシナの利権回復熱の躁急(そうきゅう)性
をも挙げねばならない」(矢内原忠雄)
満州建国後、日本では、これに反対の声は消え、穏健な人でも、満州国は既成事実とした
上での国際協調論を唱えていたのは、右傾化、軍国主義化というよりは、事変前の情勢で
は、もう他の現実的選択肢がなくなっていたことが誰の目にも明らかだったからでしょう。
202 :
岡崎久彦:02/08/01 20:20 ID:NnK7U+/O
百年の遺産-日本近代外交史−41
天才石原莞爾 “虎”を野に放った満州勤務
昭和6(1931)年の夏に入ると、6月には中村震太郎事件、7月には万宝山事件と満州
事変は刻々と迫ってきます。
この時、幣原喜重郎はどう考えていたのでしょう。8月に訪日中の広東政府外交部長陳友
仁と3回にわたって隔意なく話し合っています。
幣原は「支那人は満州を支那のものと考えているが、あれはロシアのものだった。牛荘(ニ
ューチャン)の領事を任命するには、ロシアの許諾が必要だった。日本がロシアを追い出
さなければ、満州は清国領土から失われたことは間違いない。しかし、日本は領土権は主
張しない。日本人が相互友好協力の上に満州に居住し、経済開発に参加できればよいので
あって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。また、中国がかりそめにも日本の
鉄道に無理強いするような競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と言い
ます。
法と正義の支配が、国際政治における幣原の一貫した信念です。しかし、中国は不平等条
約を法と認めず、ナショナリズムを道義より優先させています。
幣原外交の正攻法は、日、イギリス、アメリカ一緒になって、蒋介石と張学良に対して、
既存条約を尊重して、躁急(そうきゅう)な利権回復運動や反日運動をやめるよう働きかけ
ることですが、それはまさに、マクマリーが国務省に主張しながら、親中派のホーンベル
ク極東部長に斥(しりぞ)けられたところです。
幣原がいかに、その持ち前の外交能力を発揮しても国務省の身内のマクマリーが成し得な
かったことを達成するのは不可能だったでしょう。
203 :
岡崎久彦:02/08/01 20:21 ID:NnK7U+/O
その間在満邦人は、全満日本人連合会や満州青年同盟を結成し、幣原外相の言動に反発し
て、もはや外務省は恃(たの)むに足りずと、会の名を「自主同盟」と改め、軍の支持の下
に、日本政府の実力行使による解決を要求しました。
≪不可避の満州事変≫
客観的には、満州事変は不可避の情勢でしたが、今から考えて、これが実行されたのは、
昭和の天才石原莞爾あってのことと言えます。
ロシアの満州占領以来、中国本土の政権の実効支配が及ばない地域になっていた満州を征
服しようという考えは何度もありました。
1911年の辛亥革命で満州王朝たる清朝が倒れた時、そしてその後、2度にわたる粛親
王の満蒙独立運動の時、幣原が出兵を止めた24年の「第二次奉直戦争」の時、28年の
張作霖爆殺の時、いずれも、もしその時に石原のような洞察力、企画力、実行力のある人
間が現地にいれば、この時に満州事変のように、現地で軍事行動が起こり、既成事実を作
ることに成功していたかもしれません。
逆に、石原莞爾なしでは、とてもあの短期間に全満州を征服してしまうところまでいき得
なかったでしょう。
石原は、ロクに勉強しないで陸軍の登竜門の陸大に合格し、卒業は2位の成績で恩賜(お
んし)の軍刀をいただいています。石原の教育にあたった全ての人は「石原の頭脳は陸大
創設以来かつてない優秀なものだろう」と評しています。
その後石原は、陸大の教官としてナポレオン戦史の名講義で尊敬されていましたが、それ
以外のポストでは「石原はご免だ」と引き取り手がありません。どこの組織でも天才が入
ってきては扱いに困るのです。そこで当時は、満鉄の課長より下位に見られている関東軍
参謀に出すのですが、これこそ虎を野に放つようなものでした。
204 :
岡崎久彦:02/08/01 21:17 ID:GC9Ffhgw
≪板垣とのコンビ誕生≫
昭和3年の着任後、石原は鋭意満州問題を研究して、満州征服の成案を得ました。そして、
その後着任した板垣征四郎高級参謀がこれに賛成し、2人のコンビが生まれました。ちな
みに世界的指揮者小澤征爾氏の名は、この二人から取ったものです。
昭和6年9月18日の満鉄線爆破はお粗末なものでした。それは東京に関東軍の不穏な動
きを察知されたので、急遽(きゅうきょ)予定を繰り上げたからで、後年リットン調査団が、
こんなことが戦争の原因となるだろうかと、訝(いぶか)しがった程度のものでした。しか
し、その後、石原が練りに練った軍の作戦、対外説明は周到迅速を極めました。
真相は、日本軍の発表以外誰もわかるはずもありません。関東軍はまず、支那軍が満鉄線
を破壊し、わが守備隊を襲ったので交戦中と電報し、第二電以下では敵は抵抗中なので奉
天城を攻撃すると報告しています。実は、中国側は寝込みを襲われて何のことかわからな
いうちに奉天を占領されてしまうのです。
当時、着々と装備の充実を進めてきている張学良軍20数万が腰をあげて抵抗してきたら、
1万余名の関東軍はとうてい勝ち目はありません。
そこで、かねて同志である朝鮮軍の神田正種参謀と事前の打ち合わせで、19日午前8時
半には朝鮮軍が支援出動中という電報が入ります。つまり、午前十時に東京で閣議が開か
れた時は、奉天占領、朝鮮軍増援派兵は既成事実となっていました。
幣原が閣議でできたことは、陸相から事態不拡大の保証を取りつけ、国際連盟にその意向
を伝えることでした。そして、詔勅なしに朝鮮軍が越境出兵したことについては、若槻礼
次郎首相から天皇にお詫(わ)び申し上げて決着をつけることだけでした。
205 :
卵の名無しさん:02/08/01 21:32 ID:rKESGOSe
この会社のインタビューフォームを調べてみてください。
同等性実験で嘘まるだしのデータを発見しました。
皆さんも見つけてみて。
206 :
岡崎久彦:02/08/02 01:59 ID:ZFtLDwub
百年の遺産-日本近代外交史−42
幣原外交の終焉 石原の鬼策に先手打たれる
満州事変勃発(ぼっぱつ)(1931年)に際して、幣原喜重郎も駐支公使の重光葵も手を拱
(こまね)いていたわけではありません。ただ石原莞爾の計画ことごとくが図に当たって、
幣原や重光の動きをことごとに先制してしまったのが実情です。
重光は事変の報が伝わるや、ただちに国民党政府の実力者、宋子文と会談し、「日本政府
は軍を抑えられるのか」と、日中共同委員会による事態処理の宋子文案を幣原に電報しま
す。しかし、2日後に幣原からゴー・サインが来た時は、すでに中国側は、これは日本軍
の計画的行動で、もう手がつけられない、と二国間解決を諦(あきら)めて国際連盟提訴を
決定します。
しかし、連盟での討議は、当初は日本に好意的でした。とくに審議に参加したスチムソン
アメリカ務長官は、幣原を深く信頼していました。「ワシントン会議から満州事変までの
十年間、日本は驚くべき善隣主義の範を垂れた。その幣原外相が強硬政策に反対して敢然
(かんぜん)と戦っているに違いないことを我々は知っていて、彼の仕事を困難にさせるよ
うな手段はとるべきでないと思った」と回想しています。
連盟では、各国の外交官が知恵を絞って、停戦、兵力引き揚げ、話し合いの実現の案を作
製しますが、関東軍の行動がすべて一歩一歩先回りしてしまいます。
事変後ほぼ3日で関東軍は満州の中央部を抑え、朝鮮軍は東部を確保し、残るのは、満州
北部と、長城線に近い西部だけとなります。
207 :
岡崎久彦:02/08/02 02:02 ID:ZFtLDwub
≪閣議では不拡大方針≫
閣議は、常に不拡大方針を堅持して、軍の作戦が拡大する毎に、これを問題としました。
10月に入って関東軍が錦州に向けて進軍しているという情報が入りました。張学良の軍
が西部の錦州に退避するのを追っていく形です。幣原が陸相に、その事実を確かめさせた
ところ、参謀本部の指示のない独断専行であることが判明して、勅令で奉天帰還が命じら
れます。
現地では、幣原による統帥権干犯として憤激が高まり、国内でも野党は、これを政争の具
としました。
他方、日本軍撤退の報を聞いたスチムソンは、「荒馬のような陸軍を引き留めた幣原とい
う男は、実に不敵なものだ。私はそれを非常に頼もしく思い、日本に対しては強圧的な態
度を取らず、幣原の国内的権威を失墜(しっつい)させないよう大いに努めた」と回想して
います。
ここで10月末、関東軍は今度は正式に、西部、北部の制圧の許可を得ようとしますが、
参謀本部は、はっきり不拡大方針を指示します。ここでまた、石原の鬼策が功を奏します。
北部は馬占山などの軍閥が割拠する地域ですが、慎重に構えて動きません。石原は、「兵
を小出しにして負ければ、シナ軍は勝って強気になるし、日本人は意地になる国民性があ
る」と考え、「誰が負け戦(いくさ)を指揮できるか」という板垣征四郎の懸念に対して、
自ら病躯をおして指揮します。
そして、石原と意を通じた朝日新聞が抜け駆けて、敗戦を報道すると、各社の報道合戦と
なり、日本中から関東軍頑張れの声が高まります。他方、馬占山は「救国の英雄」「東洋
のナポレオン」と呼ばれて、全中国から激励、拠金が殺到して、双方引くに引けなくなり
ます。
208 :
岡崎久彦:02/08/02 02:05 ID:ZFtLDwub
そこで参謀本部からも、作戦後早急の撤退を条件としつつも、馬占山攻撃命令が出ると、
第二師団六千名は、えたりやおうと、二万の馬占山軍を撃破して、チチハルに入城します。
意図的に負け戦を演出して、マスコミの操縦までする、こんなことのできる軍人は、空前
絶後といっていいでしょう。
そしてその後、板垣、石原の工作で、馬占山を含む北部各指導者は、シナ本土からの分離
独立を宣言しました。こうなると、早期撤退の問題もなくなり、また満州の独立は、満州
人自身の意思だという既成事実が作られました。
≪世論も幣原支持せず≫
こうなると、もう世論は、幣原非難に集中します。西園寺公望さえも「幣原外交は正統派
で間違いがないと支持してきたが、いかに正しいことでも、国論が挙げて、非なり悪なり
とするに至っては、生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」と宇垣一成に洩
(も)らす状態でした。
209 :
卵の名無しさん:02/08/02 02:06 ID:oLLMm6NR
>>205 >同等性実験で嘘まるだしのデータを発見しました。
ここだけではない。
同様のゾロ多数。
210 :
岡崎久彦:02/08/02 02:07 ID:ZFtLDwub
そして、民政党内閣では、もはや事態をコントロールできなくなって若槻礼次郎内閣は辞
職します。これを聞いたスチムソンは憤然として、「もはや日本と手を携えて満州事変を
解決する望みは全くなくなった。今後アメリカは遠慮することなく、積極的に日本を叩き
つけねばならない」といって、直ちにイギリス外相を電話で呼び出して、アメリカの決意
を告げます。
幣原去って、もう国内の反対もなくなり、関東軍は1月3日に錦州を占領し、余勢を駆っ
て長城線以北を制圧し、わずか三カ月半で全満州を制しました。東京では、もはや熱狂と
歓呼の声しか聞かれませんでした。
そして1月7日、真珠湾攻撃まで、その長い影を落とすスチムソン宣言が発出されます。
それは力によろうと、日支間の合意-日本の圧力によるというのが前提ですが-によろう
と、満州事変勃発以降のいかなる中国領土、主権の変更も認めないというアメリカの決意の表明です。
211 :
卵の名無しさん:02/08/02 04:44 ID:tXETA0Jg
>この会社のインタビューフォームを調べてみてください。
>同等性実験で嘘まるだしのデータを発見しました。
具体的な品名教えてください。
212 :
卵の名無しさん:02/08/02 10:45 ID:6e5IK+P+
地下室の怪人はどうなったんだ???
213 :
卵の名無しさん:02/08/02 12:24 ID:7ypO3DOz
地下室の怪人?????
214 :
岡崎久彦:02/08/02 17:24 ID:BmXRoDbA
百年の遺産-日本近代外交史−43
大正デモクラシー回顧 偏向史観の最大の“犠牲者”
幣原喜重郎去って大正デモクラシーの時代も去ります。振り返ってみて、大正デモクラシ
ーこそ各種偏向史観の最大の犠牲者と言えましょう。 薩長史観、それに続く皇国史観で
は、明治以来の民党は、お上の権威に逆らう不忠不孝の輩(やから)でした。デモクラシー
という言葉が、良い言葉となったのは戦後初めてで、軍国主義時代は、腐敗堕落、イギリ
スアメリカ崇拝の非難のニュアンスのある言葉でした。
戦後の左翼偏向史観となると、それを社会主義や労働運動の芽生えがあった時代として評
価するだけで、特権階級だけがいい目をみて一般大衆は圧制と貧困に苦しんだように描き
ます。「財閥富を誇れども、社禝(しゃしょく)を思ふ心なし」という右翼の史観も同じです。
しかし、そういう偏向史観で書かれたステレオ・タイプを離れて、個人の、家族の遠い記
憶を辿(たど)ってもらうと、結構良い時代だった、という答えが返ってきます。悪い記憶
というと、大正デモクラシーの後の昭和恐慌(きょうこう)の記憶になるようです。
明治の雰囲気を伝えるものとして、軍歌を幾つか紹介しましたが、大正の雰囲気を今に伝
えてくれるものとしては童謡があります。
故郷(ふるさと) 大正三年
朧(おぼろ)月夜 大正三年
浜辺の歌 大正七年
かなりや 大正八年
靴が鳴る 大正八年
青い眼の人形 大正十年
215 :
岡崎久彦:02/08/02 17:24 ID:BmXRoDbA
花嫁人形 大正十二年
月の沙漠 大正十二年
夕焼小焼 大正十二年
証城寺の狸囃子 大正十三年
これほど平和な心の安定から生まれた歌が、他の時代にあるでしょうか。戦後半世紀の日
本の平和は、これだけ心に落ち着きを与える叙情的な芸術を生み出していません。
≪自らの手による平和≫
大正の平和は、日本人が自分の手で達成した平和です。軍人は、日清、日露の戦いを勝ち
抜き、国家の干城としての誇りを持っていました。外交官は、世界の覇権国イギリスと同
盟を結び、国民の安全と繁栄を守る国際環境を創り上げた自負を持っています。そして、
経済、産業界は、自らの手で近代国家日本を創り上げた自信に満ちていました。そして政
党は、自由民権運動以来の苦闘が報いられて、今や国家権力の中心を担っていました。国
民の間では、新たに勃興(ぼっこう)した中産階級が、大日本帝国の興隆に誇りを持ち、社
会の安定に自信を持ち、平和を楽しんだ時代でした。
これは感傷的な少女趣味といえます。しかし、明治の武士の精神に反逆して、臆面(おく
めん)もなく婦女子の心情を歌い上げたのが大正の精神といえます。しかも、それは感傷
だけでなく、山田耕筰の歌曲のような高度の芸術を生み出す潜在力も持っていました。
植民地時代、日本が遺した文化は消え去りつつありますが、今でもわずかに残っている台
湾や韓国の植民地世代の人々が、時として郷愁をもって日本時代を懐かしむ時に、何より
も思い出すのは、この大正時代の歌曲です。どこか人の心に深く触れる芸術的なものがあ
ると言えましょう。
それはまた、精神の自由の産物とも言えます。
216 :
岡崎久彦:02/08/02 17:25 ID:BmXRoDbA
≪日本が誇れる時代≫
明治の親達の愛国主義、国権主義、忠孝の精神に反逆して、これも臆面もなく自由主義、
民主主義、社会主義、あるいは文学では芸術至上主義などという言葉さえ、自由に使われ
たのがこの時代です。
日本の文明は、歴史にも稀な文治主義だった江戸時代、愛国心が横溢(おういつ)した明治
時代の他にも、大正時代にも、日本人が誇りを持って回帰できる一つの原点があったよう
に思います。
政党、軍、官僚の力がバランスしていて、その間にチェック・アンド・バランスが働いて
いました。それはまた、愛国主義と理想主義、国権主義と国際協調主義、エリーティズム
と平等主義のすべての併存とチェック・アンド・バランスの時代だったとも言えます。
これに較べると、今の日本の社会は、軍の力の欠落一つとっても、人類の歴史上、かつて
存在した社会の中で、特異にバランスを欠くところがあり、今後長きにわたって国際、国
内の変動に堪(た)えていけるのか不安を持たせる殆(あやう)さがあります。
日本占領に際して、スチムソン、グルーなどの知日派は大正デモクラシーの復活を考えま
した。しかし、それは日本の歴史に全く無知で、過去をすべて否定して日本を新しく作り
直そうというニューディーラー達と、日本の過去を怨恨(えんこん)でしか見ない戦争裁判
によって、完全に無視され、埋没されてしまいました。
それが占領史観であり、東京裁判史観です。それが占領が終わっても、今度は戦後左翼史
観によって維持、増幅され今日に至っています。まさに偏向史観の最大の犠牲者は大正デ
モクラシーといえましょう。
217 :
:02/08/02 19:14 ID:uuA+t/b4
明治憲法で軍に付け入る隙を与え、それを打ち崩せなかった政府 マスコミって鬱。
今度はマスコミって鬱。
自覚せよ日本人。
昨日は地下室で泊まりました。簡易ベッドもあります。
ちょとした矛盾がありましたが、何とか言い逃れができそうです。
http://www.meiji.co.jp/news/meiserin.htm >明治製菓鰍ニ沢井製薬梶u注射用メイセリン」を共同販売
>本剤の共同販売は、沢井製薬鰍ノとっては初の先発医薬品の発売となりますが、同社の市
>販後調査体制、および情報提供体制の充実に伴い、このたびの合意に至ったものでありま
>す。今後、沢井製薬鰍ナは開業医市場に強みを持つ独自の販売網を活用し、「注射用メイセ
>リン」の学術普及活動と市場浸透を図ってまいります。
これで沢○も新薬メーカーとなった。
>>219 明治もよほど金に困っているみたいだね。
ゾロと組んで恥をさらすだけだね。
221 :
卵の名無しさん:02/08/03 08:21 ID:m4c4BCBc
メイセリンってまだ使われてたのか?
222 :
卵の名無しさん:02/08/03 09:49 ID:cwC0NQyy
全国の病院薬剤部のみなさ〜ん!!
ゾロを育てるために徹底的にいじめたおしましょう!
223 :
岡崎久彦:02/08/03 10:39 ID:IWu7bK+E
百年の遺産-日本近代外交史−44
国際連盟脱退まで 政党政治を離れていった民心
昭和7(1932)年1月の全満州制圧後、同1月に上海事変、2月に総選挙で政友会圧勝、
3月に満州国建国宣言、5月に犬養毅首相暗殺、9月に満州国承認、10月にリットン報
告書、翌昭和8(33)年3月に国際連盟脱退という事態の展開となります。
上海事変は、板垣征四郎の要らざる工作で、ついに陸軍師団の派遣、中国軍との激戦とな
り、連盟で日本の評判を決定的に悪くした事件です。しかし、事態をエスカレートさせた
のは在留邦人の強硬態度でした。反日運動で日頃生命財産を脅(おびや)かされていた在留
邦人としては、日本軍の庇護(ひご)に入った満州が羨ましく、この際「直ちに陸海軍を派
遣し自衛権を発動して抗日運動の絶滅を期すべし」と決議し、中国側が折れて妥協しよう
としても、それを許さないよう政府に圧力をかけます。
派兵実現の際、朝日新聞が「待つこと久し、全上海の邦人蘇(よみがえ)る」と報じたのは、
当時の雰囲気を伝えています。
振り返ってみて満州事変、上海事変とは何であったかというと、中国側が反日侮日政策で、
日本側に武力行使の口実を与えないようにしながら日本人をいびり出そうとしたのに対
し、在留邦人が結束して反発し、日本の軍が裏工作で口実を作って武力行使した事件だっ
たといって一面の真理がありましょう。
2月の総選挙では、政友会が圧勝します。しかし、犬養総理が革新を叫ぶ海軍士官に暗殺
された後は、民意はもはや政党政治を離れていました。
224 :
岡崎久彦:02/08/03 10:40 ID:IWu7bK+E
≪選挙に勝つも腐敗進む≫
その理由は、今も昔も、どの政党政治にもみられるような、与党内の権力争いや、利権漁
りでしたが、満州事変後の高揚し、緊張した民心は、「また政党政治か」と拒絶反応を示
しました。こうした世論を背景に、軍部大臣を得られる見通しも乏しく、ここに大正デモ
クラシーは短い生命を終えます。
もうその後は、内閣も議会も、妥協的態度は軟弱とし、強硬論を全て是とする世論、マス
コミの大勢に乗るだけとなりました。
イギリス人リットンが作った連盟の報告書は、日英同盟の情誼(じょうぎ)がまだ残ってい
る好意的なものでした。満州は他に例のない特殊な地域で、単に一国による他国の侵略と
いう簡単な事件ではなく、また、ただ事件前の状態に戻せばよいというものではないとい
う判断の上に立ち、主権は中国に残したまま、日本の影響力の強い自治を勧告しています。
中国の国民党と深い信頼関係のあった犬養も、同じような線での妥協を考えていたといい
ます。しかし、満州では、すでに板垣、石原莞爾の工作で、馬占山も含む満州諸勢力が集
まって3月1日に満州国独立を宣言し、廃位されていた宣統帝溥儀を迎える既成事実がで
きていました。またも、石原の動きが先を制したのです。
≪既成事実に抵抗なし≫
もう誰も既成事実に抵抗する気持ちはなくなり、日本政府はリットン報告書公表前の9月
15日に満州国を承認し、そして翌年2月リットン報告書が採択されるや、松岡洋右全権
は抗議の告別演説を行い、3月には日本は国際連盟脱退を通告します。
東京裁判では、溥儀は、全ては日本の強制によるものだと証言していますが、それが嘘で
あることは誰の目にも明らかでした。
225 :
岡崎久彦:02/08/03 10:41 ID:IWu7bK+E
廃位された皇帝が父祖の地の皇帝となるのを欲するのは当然で、あの時点で、満州人の溥
儀が中国人のナショナリズムに目覚めて日本に抵抗するのはあり得ない話です。
彼の証言に同席したブレークニー弁護人は「人間に良心があるかぎり、嘘を吐いてそれを
追究されるのは苦痛だ。しかし、良心を打ち砕く利己心の持ち主もいたことを発見した」
と記し、検察側のキーナンも、また被告席の重光葵も同様の感想を残しています。当時日
本は占領軍の厳しい検閲の下で、活字として残っているものはありませんが、巷(ちまた)
では風呂屋でも床屋でも溥儀に対する侮蔑の声が渦巻いていました。
満州国初代総理は、清朝の忠臣鄭孝胥(ていこうしょ)がなりました。清末の大秀才であり
ながら、その後の政権に誘われても仕官せず、溥儀に帝王学の講義を続けた哲人です。
清朝再興の時節を待っての韜晦(とうかい)か、あるいはそれも超越した周の文王の理想国
家の追求か、日本の干渉を意に介する風もなく、日満支問わず接するあらゆる人に寛容な
高士だったといいます。
その後を継いだ張景恵は、日本によるシナ系住民の権利侵害には断固抵抗した剛直な人物
でしたが、典型的な日露戦争世代の親日家でした。張は、ロシアの暴虐とこれを潰滅(か
いめつ)させた日本軍の武勇を目のあたりにして讃嘆(さんたん)していました。
そして敗戦の際には、「世界最強の軍隊が失われた。日本人は戦争の意味を知らなかった。
戦争は談判の手助けだけのものだ。返(かえ)す返(がえ)すも惜しい軍隊を滅ぼした」と慨
嘆し、そしてシベリアの虜囚(りょしゅう)となっても、日本人には逆に慰めの言葉をかけ
たといいます。
溥儀との品格の差は歴然です。日本の敗戦は、この他にも、汪兆銘、チャンドラ・ボース
などの最高級の人物の終わりを完(まっと)うさせませんでした。それぞれの烈士の心情を
思うと哀れです。
226 :
卵の名無しさん:02/08/03 12:38 ID:OATQpmhR
218 :卵の名無しさん :02/08/02 20:12 ID:AgOw886a
昨日は地下室で泊まりました。簡易ベッドもあります。
ちょとした矛盾がありましたが、何とか言い逃れができそうです。
219 :卵の名無しさん :02/08/03 06:53 ID:j4+u+Isd
http://www.meiji.co.jp/news/meiserin.htm >明治製菓鰍ニ沢井製薬梶u注射用メイセリン」を共同販売
>本剤の共同販売は、沢井製薬鰍ノとっては初の先発医薬品の発売となりますが、同社の市
>販後調査体制、および情報提供体制の充実に伴い、このたびの合意に至ったものでありま
>す。今後、沢井製薬鰍ナは開業医市場に強みを持つ独自の販売網を活用し、「注射用メイセ
>リン」の学術普及活動と市場浸透を図ってまいります。
これで沢○も新薬メーカーとなった。
220 :卵の名無しさん :02/08/03 08:07 ID:B2VxE48P
>>219 明治もよほど金に困っているみたいだね。
ゾロと組んで恥をさらすだけだね。
221 :卵の名無しさん :02/08/03 08:21 ID:m4c4BCBc
メイセリンってまだ使われてたのか?
222 :卵の名無しさん :02/08/03 09:49 ID:cwC0NQyy
全国の病院薬剤部のみなさ〜ん!!
ゾロを育てるために徹底的にいじめたおしましょう!
227 :
岡崎久彦:02/08/03 14:09 ID:UiYnQDkw
百年の遺産-日本近代外交史−45
最後の平和への機会 千載一遇のチャンスを逸す
昭和8(1933)年5月、塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれ、長城線南側に非武装地帯を
設定しました。これで日本の満州支配は一応安定します。
この時の日本側署名者だった岡村寧次は「この辺で対外積極策を中止しておけばよかった。
いや、おくべきだった」と痛嘆しています。後年昭和史を振り返って「満州で止まってい
たら」という悔いの言葉が聞かれる毎に必ず引用されるのは、この協定です。
国際的にも、機は熟していました。ルーズベルトアメリカ大統領は、極東の平和を要望す
る声明を出していましたし、北京のイギリス公使は停戦の斡旋(あっせん)を申し出ていま
した。蒋介石の戦略は、もともと安内攘外、つまりまず共産軍を剿滅(そうめつ)するのが
優先でした。
塘沽協定ができると、80万の国府軍は、15万の共産軍の地域を包囲殲滅(せんめつ)作
戦に乗り出し、共産軍はそれまで築いてきた各地のソビエト地区を放棄して、延安に逃(の
が)れます。これが国府側は2万5千里追剿(ついそう)と呼び、中共側は長征という英雄
的な名で呼ぶ大西遷です。
≪国民党中国の良き時代≫
その後、支那事変までの4年間が国民党中国の古き良き時代でした。1928年の北伐完
成から37年までは、黄金の10年と呼ばれ、辛亥革命以来出よう出ようとしていた漢民
族の近代化へのエネルギーが一挙に噴出した時期です。
228 :
岡崎久彦:02/08/03 16:54 ID:94AJZzcp
鉄道、道路などのインフラ整備、産業の振興、教育の普及など目覚ましいものがありまし
た。日本人が郷愁をもって語る「リラの花散る」上海の栄華もこの頃です。今再び上海は
繁栄を謳歌(おうか)していますが、「それは戦争と革命で中断されたものが、トウ小平以
来復活したのだ」とある中国人が言ったそうです。その間、戦争という愚行で失われた人
命、富、そして時間は莫大なものでした。
日本の国際社会復帰は意外に早く、連盟脱退後わずか二週間で世界経済会議へ招請されま
した。当時世界の最大の課題は、世界大不況対策であり、日本はとうてい無視し得ない存
在だったのです。これに参加した石井菊次郎代表に対して、就任早々のルーズベルトは、
「満州の事件は時の解決を待つほかはなく、自(おのずか)ら打開の途もあろう」と言って
います。また、新たに着任した斎藤大使は、ハル国務長官との間で、「友好的な解決が根
本的に困難な問題はない」と合意し、中国国民党内の親日派を勇気づけ、イギリスアメリ
カ派を失望させました。
その後、ピットマン上院議長は「日本が満州と支那の門戸を開放し、長城以南に進出しな
ければアメリカは満足し、それ以上とやかく言わないであろう」と言っています。
これはまさに、連盟脱退時に東郷茂徳欧米局長が長文の意見書で、満州国については機会
均等、門戸開放、満州国以外の地には領土的野心のないことを明らかにすべしと、論じた
のと同じです。
誰が考えてもそれしかない解決策を政府の政策として遂行できなかったことが、大日本帝
国の破滅につながります。戦後、すべては軍が悪かったという史観が支配的でしたが、そ
れは必ずしも正確でなく、新聞、世論が軍よりも先走り、政治がそれに迎合した例も多々
あります。
しかし、昭和10年頃の長城以南に対する軍の介入は、中央の意向を無視した軍の独断専
行であり、それが国策に及ぼした深刻な禍害の責任は、軍が負うべきものです。
229 :
岡崎久彦:02/08/03 16:56 ID:94AJZzcp
もう一つ、惜しんでもあまりあるのは、昭和十年に日本が千載一遇のチャンスをミスした
ことです。当時国民党政府は、経済危機打開のため各国の援助を求め、イギリスはこれに
応じましたが、こと中国となると、日本の頭越しでは、日本から文句がでるので、日イギ
リス共同の援助を提案しました。
イギリスの特使リース・ロスの案は、中国の対外債務の三割ぐらいは、満州分と想定して、
援助の三割は満州分とするが、満州は分離されているので、その分を満州国から中国に払
う形で、満州国を事実上承認させるという、イギリスらしい老練なアイデアです。
≪イギリスの提案に応ぜず≫
外務省は、本省も出先も飛びつきましたが、大蔵省は日本の国際収支が悪いうえに、ロシ
アからの東支鉄道買収にもお金が要るので不可能と言います。須磨彌吉郎南京総領事は、
あきらめきれず、「対支外交に王手がかかっている」と高橋是清蔵相に直訴しますが、「趣
旨はもっともだが、無い袖は振れない」と断られました。
折から上海の為替相場は、いよいよ悪化していたので、イギリスの援助はたちまち即効を
表し、感謝されています。もしここに、日本が一枚噛(か)んでいたら、その後の日満支関
係は、全く変わったものとなっていたでしょう。
しかし、結果としてイギリスの単独援助となってしまったので、中国は俺の縄張りだとい
う日本の建前上抗議せざるを得ず、対中政策の日英協力関係復活のチャンスも同時にミス
してしまいます。
畢竟(ひっきょう)、日本のような貧乏国にとって、軍備を増強し、満州に投資し、ロシア
の鉄道を買収した上に、中国経済まで援(たす)ける力がなかったということです。もちろ
ん、後年その何十倍の軍事費がかかったことを考えれば、安い援助だったのですが、所詮
歴史の後知恵でした。
230 :
卵の名無しさん:02/08/03 20:25 ID:9LnPzjXV
ゾロの弱点
原料は後進国産ばかり
特許で訴えられ販売停止になる場合もある
効き目が悪い場合がある
品質の問題
医薬情報のお粗末さ
レベルの低いMR
231 :
岡崎久彦:02/08/03 22:22 ID:1tX6htHr
百年の遺産-日本近代外交史−46
2.26事件の発生 歯止めない軍国主義化への道
20世紀を生きてきた日本人に何が最も強烈な記憶かと聞くと、2・26事件と答えた人
が多数でした。その間、真珠湾攻撃もあり、原爆の投下も、アメリカ軍の占領もあったの
ですが、それは日本人全部が共通の立場で直面した危機でした。日本人が自分達の住んで
いる社会自体が足元から崩れる予兆に脅(おび)えたのは、同じ春の雪の日、桜田門で井伊
大老が暗殺されて以来のことだったからでしょう。
昭和11(1936)年2月26日、第一師団の歩兵第一、第三連隊を中心とする青年将校、
兵約1500名が、昭和維新を呼号して首相官邸、警視庁などを占拠し、重臣達を襲撃す
るという日本近代史に空前絶後のクーデターを敢行します。
≪日本の革新思想とは≫
昭和維新の思想的背景である革新思想とは何だったのでしょうか。2・26事件のイデオ
ローグとなり、死刑に処せられた北一輝などの思想を、それが打破したいと思っている対
象に沿って整理分類してみると次の通りです。
まず第一は、白人帝国主義に対するアジア主義です。アジア主義は近衛文麿の父で、公家
の俊秀として西園寺公望と並び称されながら早く逝った篤麿、犬養毅などの伝統がありま
す。「現状即ち正義ではない。イギリスがインド人を犬馬の如く扱い、豪州がアジア人を
締め出し、レーニンがシベリアを独占するのも正義ではない」として、「無産階級が流血
に訴えても不正義なる現状を打破するならば、日本が戦争に訴えても国際的不正義を匡(た
だ)すこともまた是認さるべきだ」と、北は、その「日本改造法案大綱」で論じています。
232 :
岡崎久彦:02/08/03 22:26 ID:1tX6htHr
これが近衛文麿の「イギリスアメリカ本位」の世界平和秩序反対、「持てる国」に対する
「持たざる国」の抵抗の正当化にそのままつながります。
第二は、社会主義の影響を色濃く受けた平等主義で、特権階級の廃止などを主張します。
また、自由主義経済下の資本の搾取に対するものとしての統制経済を主張しました。満州
に革新の社会を夢見た軍は、当初は資本家の満州開発参加を拒もうという未熟な発想もし
ます。
いずれにしても満州は計画経済の下に置かれ、やがて日本でも、東条英機などの「統制派」
は、岸信介、和田博雄などの革新官僚と組んで、革新中央集権体制の具体的構想を持つに
至ります。
第三は、議会民主主義に対するものとして、革新派の専制体制であり、これを求めたのが
昭和維新です。
しかし、結局日本の場合は、戦時中はどの国でも多かれ少なかれとる挙国一致体制の一種
としての翼賛体制まではいきましたが、最後まで議会は存在しました。
戦時中の議会でも、明治の自由民権、大正デモクラシーの伝統を継ぐ政治家が、敢然と発
言している例は多々あり、日本が独伊と同じ意味でファシスト体制だったというのには無
理がある状態でした。
冷戦後の世代の人達には、もはや理解できないかもしれませんが、冷戦時はファシズムと
言えば悪の権化、社会主義と言えば人類の未来の理想のように言われたものです。それは
一つには、第二次大戦でアメリカイギリスがソ連と同盟し、独伊と戦った後遺症です。
もう一つは戦後日本とドイツの軍事的弱体化が最大の戦略目標だった共産国のプロパガン
ダの下で、日本の左翼がソ連、中国の社会主義体制を称揚し、日本の再軍備をファシズム
233 :
岡崎久彦:02/08/03 22:27 ID:1tX6htHr
化と呼んだからです。しかし、冷戦も遠い過去になりつつある現在、むしろ、その前の時
代の吉野作造のいう、民主主義に対するものは「旧式の専制的善政主義への復帰論であり、
イタリーのムッソリーニ独裁、ソ連のプロレタリア独裁である」という整理の方が的確で
しょう。
古来、人民の欲するのは良い政治ですが、権力をなるべく広く分散すれば、自(おのずか)
ら良い政治になるという考え方は、そう簡単に人々の腑(ふ)に落ちるものではありません。
民主主義に失望した時に出てくる代替案は、真に国のため、あるいは人民のためを思う優
れた指導者による善政の待望となるわけで、その点、左も右も変わりません。
≪革新的な政治を期待≫
昭和維新の青臭いイデオロギーによる2・26のクーデターは失敗しました。しかし、も
う民心は政党政治を離れ、何らかの革新政治を期待していることは明らかでした。とくに
軍内部では、反乱に対する同情が圧倒的に強く、2・26当初の陸軍大臣の告示は、その
行動を国家を思う至情に基づくものと認め、その趣旨は天皇にも伝えられた、とむしろ反
乱に呼応するようなものでした。
もしあの時に、「朕(ちん)自(みずか)ら近衛師団を率いてこれが鎮定に当たらん」という
昭和天皇の強いご意思がなければ、おそらく形式的な処分があっただけで、反乱軍の思想
に沿った政府ができていたでしょう。
現に2・26事件直後成立した広田弘毅内閣に対し、陸軍は、自由思想を排すること、人
事については自由主義的傾向を有する者の排除を陸相就任の条件とし、組閣後は軍部大臣
現役制の復活を要求して通しています。
まるで、2・26のクーデターに成功したと同じような結果になっています。もう軍国主
義化の潮流は歯止めのない状態になっていました。
234 :
卵の名無しさん:02/08/03 23:29 ID:rarMvWN1
230 :卵の名無しさん :02/08/03 20:25 ID:9LnPzjXV
ゾロの弱点
原料は後進国産ばかり
特許で訴えられ販売停止になる場合もある
効き目が悪い場合がある
品質の問題
医薬情報のお粗末さ
レベルの低いMR
235 :
卵の名無しさん:02/08/03 23:30 ID:rarMvWN1
218 :卵の名無しさん :02/08/02 20:12 ID:AgOw886a
昨日は地下室で泊まりました。簡易ベッドもあります。
ちょとした矛盾がありましたが、何とか言い逃れができそうです。
236 :
卵の名無しさん:02/08/03 23:33 ID:rarMvWN1
211 :卵の名無しさん :02/08/02 04:44 ID:tXETA0Jg
>この会社のインタビューフォームを調べてみてください。
>同等性実験で嘘まるだしのデータを発見しました。
具体的な品名教えてください。
212 :卵の名無しさん :02/08/02 10:45 ID:6e5IK+P+
地下室の怪人はどうなったんだ???
213 :卵の名無しさん :02/08/02 12:24 ID:7ypO3DOz
地下室の怪人?????
237 :
卵の名無しさん:02/08/03 23:36 ID:rarMvWN1
このスレッドはかなり有名になってきえるぞ
238 :
卵の名無しさん:02/08/03 23:40 ID:EDf9Ol13
具体的に書きましょう。
burakusearch埼玉県
241 :
岡崎久彦:02/08/03 23:57 ID:U3OHIPm6
百年の遺産-日本近代外交史−47
迫る戦雲 昭和10、11年 戦略家蒋介石の千慮の一失
当時日支関係が外交面で小康状態だった理由の一つは、蒋介石は剿共(そうきょう)に集中
し、対日関係は行政院長の汪兆銘に委(ゆだ)ねられていたからでもあります。
汪兆銘は、日露戦争時代の日本の情熱にうたれて親日派となったアジア人世代の一人です。
汪兆銘の父は陽明学を好み、汪兆銘が十四歳の時に死ぬまで、毎晩伝習録(王陽明の語録)
を朗読させる日課を怠らなかったといいます。
汪は明治37(1904)年留学生として来日しますが、それはまさに、日露戦争の真っ最
中でした。後年汪は、当時「中国国民のこぞって願ったのは、日本の勝利だった。今日の
現状をみて中日両国はとうてい心から相和することはできないという説をなすものがある
と、私はその度に、昔東京で過ごした日露戦争当時のことを想い起こす」と記しています。
そして汪は、西郷隆盛と勝海舟に深く私淑し、当時康有為(こうゆうい)などの穏健派が革
命による中国国内の分裂を危惧(きぐ)したのに対して、西郷、勝のことを考えれば、そう
心配はない、と信じていたといいます。
≪汪が信じた東洋思想≫
優れた人間同士が理解し、信頼し合えば、いかなる困難も克服できるという東洋思想を最
後まで捨てなかった人です。しかし、帝国主義日本を憎悪の目でしかみない澎湃(ほうは
い)たる中国のナショナリズム、目的のために手段を選ばない共産主義イデオロギー、単
純な拡張主義を信奉する日本軍人の独断専行の前には、汪兆銘の夢見た東洋的理解は行わ
れるべくもありませんでした。それが汪の悲劇でした。
242 :
岡崎久彦:02/08/03 23:58 ID:U3OHIPm6
昭和10(1935)年11月に、汪は抗日派に狙撃されます。生死を見ること昼夜を見る
如し、という王陽明の教えのまま、かねて覚悟のある汪は、逃げもせず従容(しょうよう)
として三弾を受けましたが、そばで見るに見かねた何応欽(かおうきん)が汪を突き飛ばし
て一命を救いました。しかし、重傷を負い、昭和十一年の危機の時期に日支関係は汪を欠
くことになります。
蒋介石は戦略家です。昭和9年の論説では、日本軍は強大で、今中国軍が起(た)つことは
自殺行為だ、しかし、日本はアメリカ、ソ連を相手にいずれは負ける大戦争を起こすから、
その時こそ中国にとって最善の機会だ、と先の先まで見通しています。それは今は戦うな
ということです。
そして、日本に向かっては、中国は辛亥革命以来ナショナリズムの国家となったのであり、
40年前に台湾を失っても何も感じなかった国とは異なる国と認識してほしい、また、革
命期の国家は、指導者や民衆がいるかぎり、たとえ首都を征服されても、それは二義的な
問題に過ぎず、戦い続けるから解決にならない、と正確に警告しています。そして同時に
「21カ条以来の対日悪感情」というが、中国には百世不変の仇恨(きゅうこん)などとい
うものはない、今日本がやっていること、つまり北支工作が中国の感情と尊厳を傷つけて
いるのだ、と日本が考え直して中日友好を築くことを切々と説いています。
たしかに、当時の軍の北支工作のやり方をみていると、それがいかに中国にとって屈辱的
なものか、汪兆銘など親日家にとって挫折感を抱かせるものか、そして共産党剿滅を優先
したい蒋にとって障害となったか、同情の念と、そして孫文、蒋介石と、相次いで日本の
理解を期待した人々の言に耳を傾けなかったことへの悔恨を禁じ得ません。
昭和11年春、陝西省延安に逃避していた中共軍は、山西省に進出しますが、迎え撃った
国府軍に痛撃され、その後方針を転換して、抗日統一戦線の結成を呼びかけます。
蒋はもとより、これは「抗日全面戦争を引き起こさせ、その背後で軍備増強して、機を見
て政府を乗っ取り、全中国を支配する企図」と読み切っていますから、剿共の手を緩めま
せん。
243 :
岡崎久彦:02/08/03 23:58 ID:U3OHIPm6
しかし、満州を逐(お)われてきた張学良の軍は、満州望郷の念が強く、共産側の抗日の宣
伝工作に脆弱(ぜいじゃく)でした。
張学良に戦意がないのを心配した蒋介石は、自ら張と話し合うため、張の根拠地だった西
安に乗り込みますが、逆に早朝、宿舎を張の部下に襲われて軟禁され、学国統一戦線結成
の圧力を受けます。戦略家蒋の千慮の一失でした。
≪主導権は共産党へ≫
ここで主導権は共産党に移ります。中国共産党から相談を受けたスターリンは、毛沢東の
「殺蒋抗日」に反対し、連蒋抗日政策と蒋介石の釈放を指令します。
これは資本主義国と社会主義国との戦争は、いずれ不可避と認めつつ、なるべく長く資本
主義国同士、つまりここでは、国民党と日本を戦わせ、お互いが疲弊するのを待つという、
スターリンとコミンテルンの一貫した基本戦略です。共産党の戦略などは、複雑なようで
実は単純明快なものです。
蒋の釈放に、いかなる条件がついたかはいまだに歴史の秘密です。ただ、その後共産党は、
あたかも国共合作が既成事実のように行動し、国民党側にはもう剿共を継続する気分は失
われました。そして、昭和12年3月1日、国民党と共産党の間に、内戦の停止と抗日の
ための一致協力が合意されます。盧溝橋事件を四カ月後に控えて、共通の敵は日本に絞ら
れたのです。
244 :
岡崎久彦:02/08/04 00:04 ID:0eeSfsEE
百年の遺産-日本近代外交史−48
盧溝橋事件以降 不拡大方針阻む相次ぐ事件
支那事変の発端である昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件は、戦略的にも戦術的
にも、全て中国側によって起こされたものです。それは、日清戦争が日本側が欲した戦争
であり、日本側から先に発砲した戦闘で始まったのと、ちょうど逆のケースです。
こういうと司馬遼太郎史観などの影響で、日清、日露戦争までの日本は善、満州事変以降
の日本は悪と思っておられる方には違和感がありましょう。もともと歴史に善悪是非を持
ち込むべきではないのですが、敢(あ)えて日本を悪としたいならば、その前の北支工作が
中国側の忍耐の限度を超えていたから、というのならば、それなりに正確な史観です。何
も最初の発砲まで、いずれが射(う)ったか不明と中国を庇(かば)う必要はありません。
むしろ、現在の中国共産党政権としては、盧溝橋事件は日本を見通しのない戦争に引きず
り込み、国民党軍を矢面に立たせて消耗させ、中国共産党勝利に道を拓(ひら)いた戦略的
大成功なのですから、誇りこそすれ恥じるところはないはずです。
あるいは、そんなことは百も知りながら、日本側が意図的に侵略を開始したと言って、現
在の日中外交関係で、日本側に負い目を作らせようという発想ならば、この問題はまだ歴
史として語るに早過ぎるということです。
支那事変勃発(ぼっぱつ)の経緯を巨視的に見るために、当時の日本で最も公正、あるいは
むしろ、中国に同情的な観察者である石橋湛山の事変直後の論説を引用します。
「支那の抗日強硬論者は、この一戦によって日本を叩きつけ、日本の勢力を北支、満州か
ら駆逐し得ると考えているかもしれぬ。近年の支那の軍備の素晴らしき充実と全国に沸き
立つ抗日気運には、このような希望を抱かせるに十分であったかに見える。しかし、これ
は多くの公平なる、ことに支那に同情をもつ外国の観察者がいずれも深く憂うるごとく、
支那にとって危険この上なき自惚(うぬぼれ)である」
245 :
卵の名無しさん:02/08/04 00:11 ID:WtKeZI7j
この嵐は完全なガイ◎チですか?
246 :
岡崎久彦:02/08/04 02:35 ID:n1tl4M2t
≪変わってきた中国≫
盧溝橋事件の前年、昭和11年頃から中国の雰囲気は、たしかに変わってきました。もう
日本と一戦交えてもいいという雰囲気が瀰漫(びまん)し、それを背景に、日本の水兵、船
員、在留邦人に対する殺害事件が相次ぎ、8月の成都事件では新聞記者2名を含む3人が
群衆に殴打殺害されます。事件処理の日本側の要求も強硬となり、蒋介石秘録は、10月
にはすでに戦争を予感し、日本が中国を屈服させようというならば、「こちらは、戦いを
もって、屈服せざるところを示し、これを打破する」と、西安事件を待たずして、すでに
ここまでの決意を抱いています。
それまでの張作霖爆殺、満州事変、第一次上海事変、各種の北支工作等の発端となった事
件は、敗戦まではシナ側の挑発による事件と言っていましたが、敗戦後、ことごとく日本
軍が仕組んだ事件だったことが白日の下に曝(さら)されています。
ところが、盧溝橋事件を含む昭和11、12年の諸事件には、日本側の秘密工作の気配も
なく、東京裁判もこの点は何も問題にしていません。中国国民の感情の爆発か、共産党系
の戦略によるものか、いずれにしても全部中国側からの挑発です。
日本軍の規律、過去における工作の手口からみて、盧溝橋で日本側から発砲した可能性は
皆無と言えます。
そして、事件発生後、日本側は政府も軍も不拡大方針を明らかにし、現地でも停戦協定が
できますが、その実施を次々に妨害し、戦争拡大を不可避にしたのは、満州事変の時とち
ょうど逆に、ことごとく中国側です。
7月26日には、広安門事件があります。それは日本軍が北京城内に還ろうとして広安門
を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に銃撃を加えた事件で、
これでは戦争にならない方がおかしい事件です。
247 :
岡崎久彦:02/08/04 02:35 ID:n1tl4M2t
そして8月9日には、上海で大山中尉が保安隊の一斉射撃で殺されます。上海に飛び火す
ると、現地の戦力比からいって、在外邦人の生命が危険に曝されるので、その場合、陸軍
二個師団派兵が陸海軍の間で決まっていました。
しかし、それは上海周辺の強力な中国軍の力を考えれば、全面戦争を意味します。これを
要求しなければならなかった米内光政海相は、その苦衷を緒方竹虎に洩(も)らしています。
≪衝撃走った通州事件≫
上海事件のもう一つの深刻な問題は、それが本来日本の居留民を守るのが目的の保安隊の
反乱だったということであり、もう日本人の安全を保障するものがなくなったということ
です。それより前の7月29日の通州事件こそ在留邦人を恐怖のどん底に突き落とすもの
でした。
通州は長城以南では、日本支配が最も安定した地域として多数の日本人が安心して暮らし
ていました。ところが、日本軍隊が盧溝橋事件で町を離れた留守に、3千人の中国保安隊
が反乱しました。
日本人の死者200名、とくに現場に遺棄された女性の死体に残る意図的な凌辱(りょう
じょく)のあとは、目を蔽(おお)わしめるものがありました。
これでは、全中国の在留邦人が皆殺しにされるか、多年の事業を全部投げ捨てて日本に帰
るか、あるいは戦争か、それ以外の選択肢はない状態となってしまいました。
249 :
岡崎久彦:02/08/04 10:41 ID:aewsPYsE
百年の遺産-日本近代外交史−49
近衛、広田の無為 ドイツの仲介も一夜で反故に
昭和10(1935)年から12年に至る極東の危機の時期、日本の政治と外交は何をして
いたのでしょうか。厳しく言えば、何もしていません。新聞と世論の大勢、それに乗った
軍の突き上げの流れのままに漂っただけでした。
昭和9年にできた岡田啓介内閣の外相をつとめた広田弘毅が2・26事件以降12年1月
まで総理となり、12年6月の近衛文麿内閣の外相も務め、この間の外交を担当します。
広田は外相の時は、和協外交を標榜(ひょうぼう)しますが、さしたる具体策もなく、軍の
北支工作はなすがままにまかせ、外相の時も首相の時も、これを追認し、推進する方針を
決定しています。
≪破局への道を加速≫
また首相になって早々軍部大臣現役制の復活を認め、また陸軍が独走して作った日独防共
協定を、「国民の孤立感を緩和する」ため、薄墨色程度のものなら良いという意見を受け
入れ、将来の枢軸同盟への道を開きます。
広田内閣の後、西園寺は軍を統制する切り札として、宇垣一成を指名しますが、陸軍の反
対で実現しません。
その時、杉山元教育総監は、宇垣に「これと申す確たる理由はないが、なにぶん軍の一部
の連中が騒いで取り鎮めに困るから、大命を拝辞して欲しい」と言っています。
これが当時の雰囲気を象徴するものでしょう。誰も確たる政策も信念もなく、軍の若手の
突き上げに抵抗しなくなっているのです。
250 :
岡崎久彦:02/08/04 10:42 ID:aewsPYsE
近衛文麿となると、大勢順応どころか「軍人に先手を打つ」ことにより主導権を回復しよ
うとして、軍より先走りして積極論を唱え、破局に向かってスピードを速めます。
昭和史を振り返って、大日本帝国を破滅させた責任者は誰かと言えば、自決、刑死した人
の死屍(しし)に鞭打つことになりますが、広田、近衛、それから後に陸相、参謀総長とな
る杉山と、いずれも大事な節目に指導力を発揮せず、大勢順応した不作為の罪を責められ
るべき、この三人と断じていいのではないでしょうか。
それはまた、この三人にとどまらず、昭和前期の人々の通弊でもありました。米内光政、
宇垣一成のような骨のある人が、あまりにも少なかったのが悔やまれます。
此人等妥協を旨と心得て、風を避けつつ、濤(なみ)に押されて
此人等信念もなく理想なし、唯熱に附するの徒輩(とはい)のみ
此人等国を指導せしかと思ふ時、型(人間の幅、深み)の小さきに驚き果てぬ
狷介不羈(けんかいふき)の東郷茂徳が獄中の仲間を痛罵(つうば)した歌です。事態の流れ
を食い止めようと、政府部内で頑張ったのは、外務省の石射猪太郎東亜局長と石原莞爾参
謀本部作戦部長でした。
石射は、満州事変不拡大のための策を広田に進言し、現に広田さえしっかりしていれば、
それが成功するところまで根回しするのですが、広田は閣議で妥協し、石射は辞表を出し
て抵抗します。
石原は、戦略家であると同時に稀にみる思想家でもあります。一旦(いったん)五族協和の
満州国建設という思想体系を作った以上それは一貫させます。そのためには、漢民族に対
し、優位でなく平等の相互尊重関係が基本であり、華北の主権が中華民国にあることを認
め、華北特殊地域なる概念を清算すべしと主張しました。
251 :
岡崎久彦:02/08/04 10:43 ID:aewsPYsE
折から、7月30日に天皇より近衛に「このあたりで外交交渉を」というお言葉もあり、
石射と石原が協力して和平案を作ります。
要は中国側が今後満州国を問題としないという黙約の下に、華北の諸協定は廃止し、その
代わり中国側は反日運動を取り締まるという案です。
10月の駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平仲介の際の日本案は、これに内蒙古の自
治等若干の要求が追加されただけで、ほぼ同じ線でした。これをトラウトマンが蒋介石に
伝えたところ、白崇禧は、「これだけの条件とすると、何のために戦争をしているのか」
と言い、他の列席者もこの提案を支持したといいます。
≪態度変えた杉山陸相≫
ところが12月7日、この条件で交渉していいか、とトラウトマンがもう一度確認を求め
た際、外、陸、海三相会議は確認しますが、翌朝杉山陸相が、この仲介は断ることにした、
総理も同意している、と言います。
石原がすでに満州に転任させられている陸軍内における強硬派の部下の突き上げで一夜に
して約束を反故(ほご)にしたのです。
石射は、何とか復活をはかって、閣議に上げるところまで持っていきますが、閣議では、
華北の諸協定は存続し、華北は特殊地域として行政権は国民党政府に返還せず、しかも戦
費の賠償まで要求するという条件が付加されます。つまり和平はしないということです。
しかも、その間、原案を支持したのは海軍だけで、近衛首相も広田外相も、一言も発言し
ていません。これだけの重要な内容に二人とも何の意見も見識もないのは驚くべきことです。
会議から出た傷心の石射の目に映ったのは、南京陥落を祝う提灯行列でした。
252 :
卵の名無しさん:02/08/04 13:24 ID:racNObiW
小森さんとか岡崎さんとかはこういうところで
自分の文章がこういうふうに使われているということを
知ってるのだろうか?
253 :
岡崎久彦:02/08/04 16:47 ID:kcFgZ+Go
百年の遺産-日本近代外交史−50
南京事件と日本軍 宣伝用の誇大な被害者の数字
支那事変勃発(ぼっぱつ)に際しては、中国側も自ら恃(たの)むところはあったようです。
事実、中国軍と対峙(たいじ)した当初、日本軍は満州事変の時と、まるで別の国の軍隊の
ような士気の高さを感じたといいます。
しかし、いざ戦いとなると、全く問題になりませんでした。日清、日露以来築き上げてき
た日本の軍隊は、おそらく古今東西の歴史でも最強の部類に属する軍隊でした。
日本軍の一個大隊は、中国の一個師団に相当しました。日本軍は朝(あした)に一塞(さい)
を抜き、夕(ゆうべ)に一城を陥(おと)し、国民は熱狂しました。戦後の史観では、こうし
た雰囲気を忘れようとするか、あるいは罪の意識で語ろうとします。しかし、自分の国の
軍隊が勝って嬉しいのは、オリンピックで日本人の選手が勝てば、日本人は誰しも嬉しい
のと同じ、人類本然(ほんねん)の姿です。
ただ、国民がここまで熱狂すると、事変不拡大のような冷静な議論は、よほど戦略的な洞
察力を持つ指導者が明確な指導力を発揮しない限り、かき消されてしまいます。
逆に近衛文麿は、軍に先手を打って国民の歓心を買うことにより、主導権を握ろうという
持論にしたがって、九月には日比谷公会堂で「正義人道のため、東洋百年の大計のために、
彼に一大鉄槌(てっつい)を加える必要に迫られるに至った」と大獅子吼(ししく)し、国民
の喝采を得ました。
254 :
岡崎久彦:02/08/04 16:47 ID:kcFgZ+Go
こうなると、事変不拡大の石原莞爾の声も通らず、参謀本部の堀場一雄が提唱した「按兵
不動論」、つまり敵の首都南京の前で、一旦(いったん)兵を止めて交渉に入るという案も
通らず、出先の軍は一番乗りを競って南京を攻略してしまいます。
かつてビスマルクはウィーン陥落を目前にして兵を止め、寛大な講和を結び、その後半世
紀のドイツの安全と繁栄の背後を固める普墺同盟を作ります。
日本の参謀本部の中にさえ、同様の戦略論があったのに、近衛首相、広田弘毅外相、杉山
元陸相が、これに一顧だに与えず、また同じ時期に石射猪太郎、石原の用意した和平案を
葬り去ったのは、痛恨を通り越して、呆(あき)れ果てたとしか言いようがありません。
≪南京事件を検証する≫
ここでいわゆる南京事件が起こります。
南京事件はいまだにそれが実在したか否かさえ論争が続いています。それは、南京事件を
取り上げた東京裁判があまりにも、一方的な杜撰(ずさん)な裁判であり、平和時の有能な
弁護士から見れば、すべて証拠不十分で却下するのが当然のようなケースだからです。
ただ、通常の占領で起きる以上の規模の越軌が行われたことは認めざるを得ません。
堀場は「一部不軍紀の状態を現出し、南京攻略の結果は10年の恨みを買い、日本軍の威
信を傷つけたり」と書き、石射は「掠奪(りゃくだつ)、強姦(ごうかん)目もあてられぬ惨
状とある。嗚呼(ああ)これが皇軍か」と日記に記し、事件後松井石根将軍は、「お前達は
何ということをしてくれたのか」と嘆(なげ)いたといいます。
どれも本人が、その場で見たわけではないので、裁判次元では伝聞に過ぎませんが、これ
だけ立派な人々の証言を無視して歴史は書けません。
255 :
岡崎久彦:02/08/04 16:48 ID:kcFgZ+Go
他方、被害者が20万人、30万人というような数字は、問題外で荒唐無稽(こうとうむ
けい)です。そんなことは、当時の国共両軍が戦闘の際の相手の虐殺の数と、その残忍さ
を誇大に報じ合っているのをみれば、宣伝上の数字であることは常識でわかります。そん
なものを真実のように取り上げた東京裁判の程度の低さを実証する何よりの証拠です。
実態は今となっては不明ですが、通常の占領より犠牲者の数が多かった一つの理由は、戦
時国際法違反の便衣隊と疑われた人の処刑があり、もう一つには、これも明らかな戦時国
際法違反ですが、どこの戦場でもその場の状況で間々(まま)あることとして「捕虜を取ら
ない」ということがあったようです。
いずれも中国側の当局が逃亡して、占領を受け容れる者がいない事態から生じた混乱の結
果ですが、数字は少なくとも一桁(けた)違いましょう。その他、いくら無礼講、越軌があ
っても、暴行など個人の犯罪的行為の民間人犠牲者が千単位を越したとはとうてい考えら
れません。
256 :
岡崎久彦:02/08/04 16:48 ID:kcFgZ+Go
≪蛮行ばかりは誤り≫
たしかに南京事件は、規模は東京裁判の判断より遥かに小さくても、実在しました。
ただ、戦後の史観が伝えるように日本軍が全中国で、暴虐、凌辱(りょうじょく)のかぎり
を尽くしたというのは誤りです。真っ先に占領した北京では、日本軍は寸毫(すんごう)も
侵さず、36年前の北清事変の白人兵の蛮行を覚えている古老達から、日本軍司令官の銅
像建立の議が上ったといいます。
南京の次の漢口では、岡村寧次司令官は、南京事件を繰り返すなと厳命して、暴行事件は
皆無です。
岡村はその後、焼くな、殺すな、犯すなの三戒を徹底させ、その後占領した諸都市は、最
後に占領した洛陽も含めて歴史的文物は完全に保護され、今でも観光資源となっています。
敗戦後、日本軍が惜しまれながら去ったという話もあり、それは本当でしょう。日本軍の
後にどんな軍閥、土匪(どひ)が来るかもしれず、また共産軍が来れば、旧勢力は抹殺(ま
っさつ)されるわけですから、日本軍が去るのを不安な気持ちで見送ったのは、自然の反
応で何ら驚くことではありません。
257 :
岡崎久彦:02/08/04 17:30 ID:fp0zgP6V
百年の遺産-日本近代外交史−51
枢軸同盟の締結 目をおおわしめる知的頽廃
日独伊三国同盟は、日本を戦争に追い詰めた大きな原因の一つです。真珠湾前の日米交渉
でもアメリカ側が最後までこだわったのは三国同盟です。ただ、この同盟のことを説明す
るのは、愉快な作業ではありません。その中身があまりにもくだらないからです。国が滅
びる時は、こういう知的頽廃(たいはい)も起こるのかと思われるほどのくだらなさです。
その発端の日独防共協定は、まだ外相でなく個人的事務所を持っていたリッペントロップ
が、多分に個人的功名心から日独両国の外務省をバイパスして話を進め、半年経って両国
の外務省が気づいた時は、ヒトラー総統も了承して、もう引き返せないところまできてい
ました。
≪松岡の個人的独走≫
仕上げの枢軸同盟もまた多分に松岡洋右外相の個人的功名心による独走です。1940年
9月4日、松岡は事前の予告もなく四相会議にガリ版20数枚の同盟草案を持ち出します。
そして、まあ交渉だけはしてよいという了承を得るが早いか、9日から交渉を始め19日
には成文を上げ、27日にはベルリンで条約に署名します。
近衛文麿首相は「公爵にはお気の毒」と西園寺には事前に知らせず、「寝耳に水」で同盟
結成の報を聞いた西園寺は、傍(かたわ)らの女性に「もう、お前達も畳(たたみ)の上で死
ねなくなる」と的確に戦争を予言して、その年に死にます。
その時、天皇は「アメリカと戦って負けたらどうする。その時近衛は自分と苦しみを分け
合ってくれるのだろうか」とご下問されています。天皇と西園寺にここまで見えていた将
来が見えていなかった近衛の資質には、明らかに問題があります。
258 :
岡崎久彦:02/08/04 17:31 ID:fp0zgP6V
経緯もさることながら、その目的も支離滅裂(しりめつれつ)です。東郷茂徳は、防共協定
に猛反対しましたが、これと並行してイギリスと政治協定を結ぶという条件を陸軍に呑ま
せて、やっと了承します。実はヒトラーも同じことを考えてリッペントロップにイギリス
の参加を命令しますが、その使命に失敗したリッペントロップは「裏切られた恋人」への
恨(うら)みから、イギリスを目標とする三国同盟を志向するようになり、日本陸軍もこれ
に同調します。
米内海相は、対象がソ連までは良いとしても、イギリスとすることには、「職を賭(と)し
ても」と頑強に反対しました。ところが、松岡となると、今度はソ連を同盟側として、日
本、ソ連、ドイツが世界を南北縦の線に沿って分割するという空想的同盟となります。
しかもその間、平沼騏一郎首相が反共の三国同盟を考えている時は、独ソ不可侵条約でド
イツに裏切られ、松岡が日独ソで世界分割を夢見ている最中に独ソ戦が始まるという、同
盟の信頼関係など全くない支離滅裂な話です。
結局は、防共協定の時「国民の孤立感を緩和する」と言った通り、誰も相手にしてくれな
いはぐれ者が集まる心理効果だけで、戦略的地政学的基盤のない同盟でした。この破滅的
な愚昧(ぐまい)さの中で、後世のわれわれに日本人に対する信頼と希望を持たせてくれた
のは米内光政です。
≪米内光政の見識≫
昭和15(1940)年1月にできた米内内閣は、組閣早々から「枢軸同盟反対の論功行賞」
「対英米媚態(びたい)」外交と呼ばれ、軍や右翼の倒閣、テロリズムの対象となりました
が、米内はビクともしません。4月までに政府部内を固め、グルーアメリカ大使に対して、
「日本の政策は決定したから、もう心配無用である。ファシズムを望み、独伊との提携を
求める分子は鎮圧した」と語っています。
ところが、一旦気勢をそがれた枢軸派の勢いを盛り返させたのは、ヒトラーの成功でした。
259 :
岡崎久彦:02/08/04 17:32 ID:fp0zgP6V
5月にベルギーに侵入したドイツ軍は、イギリス、フランス軍を粉砕し、6月にはパリに
入城します。しかし、米内は「ヒトラーは一代身上だ。身上を棒に振ったところでもとも
とだ。三千年の歴史のある日本の天皇と一代身上者とを、同じ舞台で手を握らせようとは、
とんでもない話だ」と語り、西園寺は「ヒトラーが偉くても長くても10年続くか続かぬ
かの問題だ。ナポレオンもそうだった」と冷静に見ていました。
しかし、陸軍の倒閣運動は露骨でした。畑俊六陸相は組閣の時に、米内と協力するよう、
とくに天皇から優諚を賜(たまわ)っていたので、最後までこの動きに加わりませんでした
が、ついに枢軸国との関係強化と内閣総辞職を求める文書を米内に突きつけます。
米内は淡々と自分の意見は違うといって拒否し、畑は辞職して、陸軍は後任を送らず、米
内内閣は終わります。その時の畑の表情が、あまりに深刻だったので、米内は畑が自殺す
るのではないかと心配したといいます。
実は陸軍の最長老閑院宮を通じてのご命令で、畑は抗し得べくもなかったのですが、畑は
この事情を誰にも語らず、東京裁判でも沈黙を守り、当時の参謀次長の証言でやっと真相
がわかりました。
米内は、東京裁判で畑が突きつけた文書について証言を求められましたが、この忘るべく
もない文書について、「記憶にない」と証言しました。裁判長が新聞の縮刷版を示して「新
聞にも載っているではないか」と追及すると、米内は「字が小さくて読めない」と言いま
した。
占領下の法廷で一個の男児たることを示した米内、畑の態度は、昭和前期の恐るべき知的
頽廃の中で一服の清涼剤の感があります。
260 :
卵の名無しさん:02/08/04 19:08 ID:BSsej5oF
>小森さんとか岡崎さんとかはこういうところで
>自分の文章がこういうふうに使われているということを
>知ってるのだろうか?
知らないだろうね
知ってたら場合にとっては法的な手段をとるかもしれない
261 :
岡崎久彦:02/08/04 20:04 ID:4LKNIDRT
百年の遺産-日本近代外交史−52
土壇場の日米交渉 戦争を欲したルーズベルト
真珠湾攻撃は、ルーズベルトアメリカ大統領が仕掛けた罠(わな)に日本が嵌(は)まったも
のかどうか、今でも日米では、この論争が繰り返し行われています。事前に知っていたか
どうかなど細かい議論はさておき、それはルーズベルトが望んでいたものだったことは間
違いありません。
キッシンジャーは『外交』の中で、ルーズベルトがアメリカをいかに巧みに参戦に持って
いき、その結果自由世界を救ったかを、讃嘆の眼(まなこ)で観察し、ルーズベルトは、ハ
ル・ノートが出た時、日本がこれを受諾する可能性がないと知っていたに違いないと書い
ています。そして、もし日本が攻撃を東南アジアだけに限定し、ヒトラーが対アメリカ宣
戦をしなければ、ルーズベルトの仕事はもっと難しかっただろうが、結局は何とかして参
戦しただろうと言っています。
1937年、支那事変勃発(ぼっぱつ)の3カ月後、ルーズベルトは、いわゆる隔離演説を
します。当時のアメリカの深い孤立主義の中で、用語には注意して、今や世界に蔓延(ま
んえん)している無法という疫病を隔離するという言い方をしていますが、その後のオフ
レコ発言等と併せて今読み直してみると、日独伊などに何らかの圧迫を加える意図を明ら
かにし、国民に対して来(きた)るべき戦争に備える覚悟を要求している演説です。
≪日本追い込むアメリカ≫
ルーズベルトは、その後世論の啓発につとめ、39年には世論の圧力を受けた形で、1月
には航空機等の対日禁輸、7月には日米通商航海条約の廃棄通告までいきました。石油禁
輸をすれば、日本は支那事変を続けられないことは、その頃から指摘されていましたが、
これが41年に真珠湾攻撃に日本を追い込む切り札となります。
262 :
岡崎久彦:02/08/04 20:05 ID:4LKNIDRT
アメリカ世論も徐々に変わり、40年5月には、まだ国民の64%がナチ撲滅(ぼくめつ)
より平和が大事だと思っていたのに、真珠湾攻撃直前には、32%と、完全に賛否が逆転
していました。
ただ、それならば、ルーズベルトはどうせ戦争に持ち込む気だったのだから、何をやって
も無駄だったと考えるのは単純に過ぎます。
ルーズベルトが内心何を考えていようとも、独裁者ではないのですから、内外の情勢、国
民世論の制約があります。たとえば、スペインのファシスト政権は第二次大戦直後の危機
的な時期を生き延び、冷戦のお陰で同盟国扱いとなります。ソ連はバルト三国とポーラン
ドの半分を併せ、フィンランドを侵略して国際連盟から追放されますが、アメリカとの衝
突を避けつつ、36年後には、ヘルシンキ宣言で国境線の現状維持を認められるところま
で漕ぎ着けています。
日本には、真珠湾攻撃を避ける方法があったでしょうか。一つの機会は、アメリカの民間
宗教団体が斡旋(あっせん)した41年4月の日米了解案です。この案に政府、統帥部両方
の全員が賛成したにもかかわらず、ヨーロッパから帰った松岡洋右が、これを潰(つぶ)し
た経緯は、これも言うのも恥ずかしいような松岡の個人的こだわりでした。
松岡洋右という人は、国際政治の判断の粗雑さからいっても、その性格の殆(あや)うさか
らいっても、その責任を問うのに価(あたい)しない低レベルの人物です。むしろ、こんな
人間を国際連盟脱退以来、虚名を博しているという理由で外相に起用し、しかもそれをコ
ントロールもしない近衛文麿の責任が問われるべきでしょう。
しかしこの調停案は、ハル・アメリカ務長官が日本側の主張ばかり取り入れているのに失
望したといいつつも交渉の緒口(いとぐち)とすることを了承したもので、アメリカ側から
抜本的な修正案が出ることは必至で、当時の日米両国の事務当局の意見の相違を考えると、
とうてい交渉でまとまるようなものではありませんでした。
263 :
岡崎久彦:02/08/04 20:05 ID:4LKNIDRT
≪潰れた日米トップ会談≫
唯一のチャンスは近衛・ルーズベルト会談だったように思います。近衛は、グルー駐日ア
メリカ大使に対して、ルーズベルトに会えさえすれば、自分は彼が拒否できない提案を持
っている、合意が成立すれば、自分は天皇陛下にお願いして陸軍に命令していただくつも
りだ、と知日派のドーマンを通じて洩(も)らしています。
提案の内容はわかりませんが、それは当然、中国本土からの撤兵を中心とする提案でしょ
う。陸軍大臣は東条英機でしたが、国威の発揚とか抽象的な理念に酔う人ではなく、詔勅
が出れば、これを実施させるのには一番適任だったかもしれません。
しかし、この提案は、まず事務的に話を詰めてからという、ホーンベックなどの国務省の
意見で潰(つぶ)れます。撤兵などということは、詔勅なしで各省の稟議(りんぎ)でできる
はずもないことですから、事務的になると交渉成功の可能性はなく、戦争しかありません。
その後双方が考えた暫定案は、戦争を数カ月先延ばしにしただけでしょう。ちょうどドイ
ツ軍の前進がモスクワ前面で阻(はば)まれた時なので、日本が政策を転換するチャンスだ
ったという説もありますが、スターリングラードの破局まで、あと一年もあり、皆春季攻
勢に期待していたのだから駄目でしょう。
あとは、どうせ戦争しかないなら、真珠湾攻撃などせずに、もう少し賢い方法がなかった
かという日本側の戦略の問題だけしかありませんでした。
264 :
卵の名無しさん:02/08/04 20:31 ID:bXXmyiAc
260 :卵の名無しさん :02/08/04 19:08 ID:BSsej5oF
>小森さんとか岡崎さんとかはこういうところで
>自分の文章がこういうふうに使われているということを
>知ってるのだろうか?
知らないだろうね
知ってたら場合にとっては法的な手段をとるかもしれない
ここだけでなくてほかのゾロスレッドでもS井製薬のことはろくなことが書かれていないぞ。
ほかも荒らしたほうがよくないかい?
>>265 この荒らしも、S井のパブリック・イメージ失墜を狙った謀略の可能性もある。
およそ正常な性格の者が行う所業とは思えない。
>>266 失墜して困るパブリック・イメージなどありはしない。
単なるぼろ隠し、稚拙な子供の行動。誹謗中傷の一環。
2ch最初の逮捕者が出そうだな。
また、有名になるな。
>>267 現状認識を曲解している。
ゾロの沢○は、そこまでの大物ではなかろう。
269 :
卵の名無しさん:02/08/05 19:44 ID:sMGlEhFB
内部告発おねがいします
270 :
卵の名無しさん:02/08/05 21:11 ID:GOIm/FaD
ゾロにもわずかな良心
すべて吐いてしまおう
271 :
岡崎久彦:02/08/05 23:32 ID:eferGF2c
百年の遺産-日本近代外交史−53
真珠湾攻撃の是非 アメリカ世論の怖さを知らず開戦
戦争は真珠湾奇襲で始まります。世界で初めての空母機動部隊を編成して、太平洋を六千
キロ横断してハワイを攻撃するという山本五十六の破天荒な計画が成功して、アメリカ太
平洋艦隊は、出航中で不在だった空母と潜水艦を除いて、事実上全滅します。
これにも劣らない大きな影響があったのは、アメリカ艦隊の極東来援まで極東防衛の主力
となるはずの英艦隊が、その2日後に、航空攻撃で撃滅されたことで、この報を聞いて、
チャーチルは傍(かたわ)らに人がいなかったのに感謝するぐらい取り乱したといいます。
もうこれで、日本軍の行動を海上で阻止するものは何もなくなりました。
シンガポールは難攻不落の堅塁を誇っていましたが、日本軍はマレー半島のジャングルを
突破し、背後を突きました。ジャングル戦は夜襲と同じで、周りで何が起こっているかわ
からない中で、その場の個人の勇気と義務感に頼る日本軍得意の戦闘であり、日本軍は連
戦連勝しました。
インドネシアでは、伊藤正徳の表現を借りると、ジャワ5千万の住民は日本軍の味方であ
り、オランダ軍は敵地で行動しているに等しく、日本軍はたちまち全土を席捲(せっけん)
しました。それはビルマでも同じでした。
フィリピンでは、マニラを放棄してバターン、コレヒドールに立て篭もったアメリカ軍の
降伏までに時間がかかりましたが、開戦後半年で、西はビルマ、アンダマン諸島、東はラ
バウル、ニューギニア北岸までの全東南アジアは日本の手中に落ちました。
272 :
岡崎久彦:02/08/05 23:37 ID:eferGF2c
≪日露戦争と同じ衝撃≫
全アジアは熱狂し、37年前の日露戦争で、日本がロシア軍を撃破した時と同じ感激と興
奮の波が全アジアに走りました。
問題は、この大勝利のあとどうするかです。外相東郷茂徳は、日本中が戦勝に沸き立って、
いけいけムードとなっている1942年元旦の講話で「力及ばず戦争になってしまったが、
この戦争を日本に最も有利な機会に切り上げるべく、外務省員は他の任務を放擲(ほうて
き)してもそれに尽力して欲しい」と述べ、そして議会でも同様の発言をして咎(とが)め
られ、その発言を速記録から削除されています。
しかし、もはやいかなる和平のチャンスもありませんでした。最終的な勝敗の帰趨(きす
う)は明らかだったからです。
アメリカとイギリスの指導層は真珠湾攻撃の報を聞いて、喜びに沸き立っていました。
チャーチルは、その日「ついにわれわれは勝ったのだ。ヒトラーの運命もこれで終わりだ。
日本は粉々に粉砕されるだろう。これほどの喜びはない」と、その晩は感謝の気持ちで眠
りについています。
ルーズベルト・アメリカ大統領の腹心のホプキンスは、ホワイトハウスの閣議の模様を、
「開戦の空気は意外に緊張したものではなかった。皆、いずれは参戦しなければならない
のだが、日本がその機会を与えてくれたと感じていたからだ。日本人があのようなやり方
で一息にそれをやってのけたので、分裂し迷っていたアメリカの国論は一瞬にして完全に
一致し確固たるものになった」と記しています。
273 :
岡崎久彦:02/08/05 23:39 ID:eferGF2c
もし、和平を調停してくれる第三者がいたとすれば、それは日本が最後まで空しく頼った
ソ連でなく、アメリカの世論だけでした。
石油禁輸は、たしかに戦争の引き金となりましたが、かつてムソリーニはエチオピア征服
の時「石油禁輸は戦争を意味する」と言って、禁輸をさせませんでした。もし日本が、あ
る段階でそれを明言しておいただけで、アメリカ政府は世論、議会から戦争を挑発した責
任を咎められ続けたでしょう。
そして真珠湾攻撃などせず、ハル・ノートを公表して、期限つきの最後通牒(つうちょう)
で石油禁輸の撤回を要求して後、堂々と宣戦していれば、アメリカは戦争できないか、世
論が分裂したまま戦争に入ったことは明らかです。
274 :
岡崎久彦:02/08/05 23:41 ID:eferGF2c
≪硫黄島の善戦も空し≫
その場合、硫黄島で2万名、沖縄で6万名の被害を蒙(こうむ)って戦争が続けられたでし
ょうか。かつて筆者がベトナム戦争を指導したグエン・コー・タックに「ベトナム戦争は
大変だったでしょう」と訊(き)いたところ、「いやあ、あんな易しい戦争はない。われわ
れはアメリカだけが相手だが、敵はわれわれと国内世論の両方を相手に戦争した。アメリ
カは人的被害に耐えられない国だ」と言いました。そこで「アメリカは硫黄島では海兵隊
2万を失った」と言うと、「2万人−−」と絶句して何も言いませんでした。
硫黄島の善戦がアメリカ世論に厭戦(えんせん)気分を生じさせて和平のチャンスを作った
のならば、玉砕した戦士達ももって瞑(めい)すべきものがあります。しかしこれがソ連の
参戦と原爆の使用を促進し、広島、長崎の市民、満州、樺太の邦人の言語を絶する惨苦を
もたらしたのでは、戦死者達の霊も浮かばれません。
戦略が良ければ、戦術の失敗は挽回(ばんかい)できますが、戦略が悪いと戦術的に成功す
ればするほど傷が深くなります。
真珠湾攻撃という戦術的大成功は戦略的大失敗と断ぜざるを得ません。
そして全ての戦略の基礎には、良質の情報と正確な情勢判断があります。日本はアメリカ
という国、とくにアメリカ世論の怖さを知らずに戦いを始めたのです。
百年の遺産-日本近代外交史(54)」
275 :
岡崎久彦:02/08/05 23:44 ID:eferGF2c
【大東亜共栄圏】
アジアの解放が戦争目的に
(産経新聞2002年6月4日掲載)
アジア中が日本の勝利に沸き立っていた一九四二年初、重光葵は駐支大使として南京に赴任しました。
重光は、この機会に日支関係を抜本的に立て直すことを考えました。満州については、南京の政府はすでに満州国を
承認しているので問題はないので、「戦争が終われば、日本軍は完全に撤兵して、いかなる利権も求めない平等な関係
としよう」という方針を決め、重光は度々帰朝しては、この方針を説き、天皇のご嘉納、東条の同意も得ます。
成功した理由は、重光によれば「大戦以来日本人の視野が広くなった」からです。
たしかに既に南方を制したあとで、華北の細々(こまごま)した利権などよりも、アジア人同士の相互信頼関係の方が
大事だと、皆が考えるようになったのは自然の成り行きです。
最終決定が行われた四二年末の御前会議で、杉山元参謀総長は、これは「いわば懺悔(ざんげ)録の如きものなり」と
言って出先の実行を監督するといっています。日本も軍もついに十年の迷夢から醒(さ)めたのです。
それでも遅きに失しました。その時点で戦局はガダルカナルでもスターリングラードでも、もはや挽回(ばんかい)
不可能までに悪化していました。
276 :
岡崎久彦:02/08/05 23:46 ID:eferGF2c
しかし、重光が「時機は失われつつも、また熟した」と記している通り、四三年に外相となった重光の下で、日華基本条約が結ばれ、満州国、タイ、
今後独立するビルマ、フィリピン等を加えて大東亜の同盟が構想され、インドネシアは独立の準備、朝鮮と台湾にも政治参与と自治が考えられるに至ります。
そして四三年十一月に大東亜会議が東京で開催されました。出席者が一様に感じたことは、今までは宗主国との上下の関係しかなく、一度も見たことのない
隣人の顔を初めて見たということでした。
第二次大戦後、新興独立国が次々に国際連合に加盟した時に、その全てが洩(も)らした感想と全く同じです。ついに一人前の対等の人格となったという感想です。
277 :
岡崎久彦:02/08/06 00:08 ID:IzDfMGoY
≪いまだ対立する史観≫
大東亜戦争については、いまだに、それが侵略戦争だったという史観と、アジア解放戦争だったという史観が対立しています。
明らかに動機から言えば、それは自衛戦争です。
「兵は国の大事にして死生の地、存亡の道」(孫子)です。戦争はよくよくのことがなければできません。
百パーセント勝てるのなら別ですが、ひと稼ぎするだけの目的で侵略戦争を始める人もいないし、他方、他民族を隷属(れいぞく)から救おうという利他的な目的で
自分の国の存亡を賭(か)ける人もいません。
やはり、石油禁輸で追い詰められたのです。瀬島龍三氏が、「勝算はあったのか?」と訊(き)かれて、「あの戦争は押し付けられた戦争で、成算があって始めた
戦争ではなかった」と答えた通りです。
したがって、当初は統一した戦争目的があったわけではありません。ビルマ進攻
当初、進攻軍と東条英機首相が独立支援を明言しながら、南方軍総司令官寺内寿一
が時期尚早と言って、ビルマの志士達に挫折感を与えたこともありました。
しかし、重光の新政策が確立された昭和十八年頃から、大東亜戦争の目的がアジア
の解放であることに日本人は誰も疑いを持たなくなっていました。それはどうせ負け
るのなら、というのとも全く違います。昭和十八年ならば、日本国民はまだ皆、必勝
の信念を持っていました。やはり、重光の観察通り、破滅を二年後に控えた大日本
帝国において、日本人が初めて大国民に成長したのです。
他面、アジア諸国の側にとっては、日本の敗勢が濃くなってくると、日本側につい
た独立では、日本が敗れると、独立が奪われる危険があり、むしろ日本に反抗した形
の方が独立に有利となる形勢になってきます。
そして、戦後も米英覇権の世界では、日本の占領政策批判、日本による独立はまや
かしだという史観に迎合する方が安全な時代も続きます。
278 :
岡崎久彦:02/08/06 00:10 ID:IzDfMGoY
≪二つあった日本の貢献≫
たしかに、戦時中の日本軍の尊大さ、とくにその習慣であるビンタへの反発が強かったのは事実です。しかし、全ては民族の独立という至上価値で測られます。
独立する側の種々の事情で日本の評価は高くもなり低くもなります。
戦後日本の史観は、その一方の評価をお互いに引用して論争していますが、そんな
ことは末梢(まつしよう)事でしょう。
日本の貢献は、二つに尽きると言えましょう。
その第一は、有色人種が白人に勝てることを示したことです。それは日露戦争
以来、二十世紀において今回が二度目でした。
第二は、日本人が戦争のやり方を教えたということです。植民地時代、ビルマの
人は刃物の所持さえ禁止されていました。日本は東南アジアで民族語普及などによ
り、民族意識を再興させた上、現地人の自治組織、軍隊を養育しました。
その上に軍事技術だけでなく、敢闘精神を教えました。日本の占領後一年も経った
頃には、もはや日本の真の意図を論じること自体無意味になっていました。
現地の人が、白人が脆(もろ)くも敗退
百年の遺産-日本近代外交史(55)」
279 :
卵の名無しさん:02/08/06 02:19 ID:7OYp+ezm
267 :卵の名無しさん :02/08/05 06:58 ID:zBdfZtoO
>>266 失墜して困るパブリック・イメージなどありはしない。
単なるぼろ隠し、稚拙な子供の行動。誹謗中傷の一環。
2ch最初の逮捕者が出そうだな。
また、有名になるな。
268 :卵の名無しさん :02/08/05 18:38 ID:7Fw3Bj5L
>>267 現状認識を曲解している。
ゾロの沢○は、そこまでの大物ではなかろう。
269 :卵の名無しさん :02/08/05 19:44 ID:sMGlEhFB
内部告発おねがいします
270 :卵の名無しさん :02/08/05 21:11 ID:GOIm/FaD
ゾロにもわずかな良心
すべて吐いてしまおう
280 :
卵の名無しさん:02/08/06 02:55 ID:7OYp+ezm
他にスレッドたてろよ
281 :
卵の名無しさん:02/08/06 03:24 ID:FXCNfiVR
所詮ゾロってこんなもんです。
先発のみなさん、いじめないでください。
あなた方とは住む世界が違います。
生活レベルも違います。
282 :
卵の名無しさん:02/08/06 03:56 ID:FXCNfiVR
それにしても地下室の怪人の話題はどうなったんだろう?
チクリ裏スレッドに書いてくれ。
あっちならレスいっぱいつくよ
地下室はいまプラバの○○で忙しい。
285 :
卵の名無しさん:02/08/06 16:55 ID:B1OEfJWO
うざい糞ゾロ
いい加減な製品売るなよ!
この会社は社長一人が悪者にされてるようだ。
東和は社長一人がいい人のように書かれてる。
この違いはなんなんですか?
287 :
卵の名無しさん:02/08/06 23:01 ID:Sf+PooXE
臨床データとか客観性のないデータなしでよくゾロ薬が使えるもんだと感心します。はい。
288 :
○○○:02/08/06 23:14 ID:swJjIZY6
>287
どうせ○造ですから気にしないでください
>>286 先発凶悪MRにとって、東○の社長より統領さまの方が脅威ってこと。
統領、統領と調子にのるな、リストラ癖の放漫経営者。
いい加減に給料上げる二ダ(怒
291 :
h:02/08/07 07:13 ID:pg9zmS35
一族の利益のために働くのじゃ!
社員の代わりはいくらでもいる。
給料が安いと文句たれるな!
292 :
卵の名無しさん:02/08/07 07:44 ID:UfnqC8e7
沢井のMRは量販店あありの安そうなスーツ着てるけど
なんとかならんのですか?
病院で沢井のMRはすぐ分かると評判です。
293 :
外資:02/08/07 14:12 ID:iXs7qgRs
地下室の怪人以外の話題なら 荒らしは出てこないということなのか
294 :
卵の名無しさん:02/08/07 19:33 ID:w2mG5VcY
捏*はどれぐらいあるのでしょうか?
295 :
ぼー:02/08/07 22:39 ID:0cyKEHby
地下室の怪人スレッド作ろう!
296 :
岡崎久彦:02/08/07 23:25 ID:Yb31aPQB
【敗戦からの教訓】
欧米の植民地支配は覆したが
(産経新聞2002年6月5日掲載)
人間でも国家でも、失敗の経験は貴重なものです。
大失敗は滅多(めった)にするものでも、するべきでもないのですから、それから教訓を
学び取らないテはありません。
しかし、戦後の日本が学んだのは、戦争の悲惨さと、もう戦争は嫌だということだけで、
あれだけの戦争をしながら、これほど学ばなかった国も少ないと思います。
実は、敗戦後幣原喜重郎は、敗戦の原因究明こそ、日本再建にとって重要課題だと考えて、
総理自らが、会長となって戦争調査会を設置しました。ところが、対日理事会が、会に
旧軍人が参加していることを理由として、これは次の戦争に負けないよう準備しているの
だと非難し、幣原は軍人の参加なしでは意味がないと言いましたが、結局は中止となった
経緯があります。
その後は日本人の手による調査は行われず、軍事裁判のなすがままとなりました。
297 :
岡崎久彦:02/08/07 23:28 ID:Yb31aPQB
≪ミッドウェーが転機≫
戦争を振り返ってみると、開戦後わずか六カ月後の一九四二年六月のミッドウェーの敗北
が転機となり、その年秋のガダルカナル戦で敗れてからは、もう勝機はありませんでした。
ミッドウェー攻撃の戦略は、山本五十六の真珠湾攻撃の延長線の上にあります。日米の
戦争は、小兵の力士と小錦の相撲のようなもので、立ち会いに奇襲をかけて相手が
慌(あわ)てているうちに次々に攻め続ける以外に勝機はなく、相手が体勢を立て直して
正面を向いてきたら、もう勝ち目はないという考え方です。日米戦争には反対だが、
やれと言うならばこれしかないという山本の連続決戦思想で、それなりに明快な
考え方ではあるのですが、実際は二度目の攻撃で足を滑らせてしまって、それっきり
になってしまったのが、戦争の経緯です。
戦術的な失敗の原因は、どこかに緒戦の勝利のおごりというか、一挙一動に国の
運命がかかっているという徹底した緊張感−−山本の戦略ならば、当然そうあるべき
ものですが−−の欠如があります。
暗号が解読されていたのは、彼我の能力差でしかたないのですが、索敵をもっと丁寧
にやっておけば、十分勝つチャンスがありました。そして、攻撃機を先に発出させて、
帰着機の収容を後にするという、緊張感があれば当然そうしたであろう措置を怠った
ため、敵の爆撃で全艦火の海になるという、僅(わず)かな手緩(てぬる)い措置の積み重ね
が大破局を招いたのです。
そして、ガダルカナルの敗戦の主因は、ミッドウェーの敗戦がもたらした戦略的な環境
の変化を直視せず、むしろこれを秘匿(ひとく)して、惰性的に行きがかりの作戦を続けた
ことにあります。そして、結局はガダルカナルを諦(あきら)めて、陸軍二万の白骨を残し
て撤収しますが、その間に精強を誇ったラバウル海軍航空隊は二千余機を損耗(そんもう)
してしまい、その後は敗戦まで、日本側は制空権なしという近代戦では絶望的な戦いを
強いられます。
298 :
岡崎久彦:02/08/07 23:29 ID:Yb31aPQB
その後アメリカ軍は、二手に分かれて攻め上ってきます。北はニミッツの率いる海軍、
海兵隊で、南洋群島の島づたいに、四三年夏には、サイパン、グアム、四四年三月には
硫黄島まできます。
南のマッカーサーの部隊は、ニューギニア北岸を西進して、航空戦力のないラバウル
をバイパスして四四年十月にフィリピンに上陸します。
連合国の兵力、資材の15%が対日戦に投入されましたが、それがまた半分ずつに分か
れて攻めてくるのに、どの戦場でも日本側は劣勢でした。とても量的に太刀打ちできる
相手ではありませんでした。
何とか別の戦い方があったでしょうか。真珠湾攻撃という戦略的失敗はアメリカの
世論を完全に敵にまわしてしまいましたが、残る戦い方があるとすれば、それはアメリ
カの世論が、英蘭の植民地帝国を守るための戦争には冷たかったのを利用することぐら
いだったでしょう。
その意味で重光葵のアジア解放政策は対アメリカ世論対策としても正攻法でした。
ミッドウェーで負けた後知恵ではありますが、その前に海軍が考えていたコロンボ
占領作戦をしていれば、どうだったでしょうか。少なくとも東インド洋の制海権は、
日本が取れたでしょう。
299 :
岡崎久彦:02/08/07 23:31 ID:Yb31aPQB
≪別の戦い方を考えると≫
緒戦の勝利後は、インド中反英運動に沸き立っていたので、もし日本が力をインドに向け
ていたらば、その結果は予断を許さないものがあった情勢でした。また、ミッドウェーの
前には、汪兆銘と山東、山西、広西の各軍閥との話し合いも進み、重光の新政策を基礎に、
重慶政府との接触も図られていました。
もし、ベンガル地方が解放されると、アジアには地殻的変化が走り、そこで中国の態度
が変化すると、もう日米戦争の意味がなくなります。しかし、ミッドウェー後、こうした
全ての状況は崩れます。
いずれにしても、日本は早く負け過ぎました。ナポレオンの栄光は十年でしたが、
日本はわずか半年でした。日本人が偉大な国民となった短い時期はあったのですが、
歴史と日本人の心の中に、それを刻(きざ)むには、あまりに短い期間でした。
ウォータロー後三十三年で、欧州のアンシャン・レジームがことごとく覆(くつがえ)
ったように、大東亜戦争後三十年で、アジア、アフリカの欧米植民地支配がことごとく
覆ったのは歴史的真実なのですが…。
百年の遺産-日本近代外交史(56)」
>>295 >地下室の怪人スレッド作ろう!
いずれ現れるよ。
300Gett!!!
301 :
岡崎久彦:02/08/07 23:33 ID:Yb31aPQB
【滅びの叙事詩】
絶望の中での勇戦と覚悟の死
(産経新聞2002年6月6日掲載)
南の島々の日本軍は、制空権を奪われ、輸送船はことごとく沈められて食糧弾薬の補給も
ないまま、次々にアメリカ軍の猛攻に曝(さら)されましたが、その中でそれぞれに日清日露
以来の軍の伝統を恥ずかしめない勇戦をしています。
その名将勇卒の事績の全てを記すことはできないので、その若干の例をもって墓碑銘とし
たいと思います。
絶望的な環境の中で、ニューギニアの東端から西端までのアメリカ軍の進撃に二年を費
(つい)やさせ、その間軍の士気、規律にいささかの乱れも生じさせなかったのは、ラバウ
ルの総司令官今村均と現地ニューギニアの司令官安達二十三の人徳と言って過言でありま
せん。
302 :
岡崎久彦:02/08/07 23:34 ID:Yb31aPQB
≪聖将今村、仁将安達≫
今村は、ジャワから転勤しましたが、ジャワ統治では、現地の人の信頼を集めました。
敗戦後スカルノが、今村の幽囚(ゆうしゅう)された収容所の襲撃解放を企画したほどです。
また、今村は戦犯として巣鴨に服役中、部下と共にマヌス島に服役することを希望し、
マッカーサーが「初めて真の武士道にふれた思い」をして許可しています。今村は刑期
を終えて帰国後も、死ぬまで一坪の小屋に起居して戦争責任を自らに課し、今なお聖将
と慕われています。
ただ、ラバウルは航空隊を失って孤立し、現地の防衛は安達に委(ゆだ)ねられます。
安達は、軍人でありながら、キリスト教の愛を信じ、これを公言して憚(はばか)らず、
兵の名誉を傷つける行動、苛酷(かこく)な命令を厳禁しました。
兵が飢えて倒れるのを「君国のためとは申しながら、わが胸中に沸き返る思いは、ただ
神のみぞ知る」と、堪(た)え難い思いで見てきた安達は、敗戦の際は、ただとぎれとぎ
れに「何とも申し訳ない」と言い、全ての戦後処理を終えた後で、「死んだ十万の将兵
と共に南海の土になる」と言って、軍刀もないので、自らの手で頸(けい)動脈を締めつ
けて死にます。その遺書が読み上げられた時、将兵達は皆、声をあげて泣いたといいます。
303 :
岡崎久彦:02/08/07 23:35 ID:Yb31aPQB
≪真の勝者への戦い≫
硫黄島の戦いこそは、最も壮烈な武勲詩でした。
司令官栗林忠道中将は、アメリカ軍の次の目標は硫黄島と、つとに判断して戦備の充実
に努めていました。かれの戦略は、敵の戦力を硫黄島に拘束して、連合艦隊が駆けつけて、
側面から敵を撃滅するまで持久することでした。ところが、新たに到着した参謀から、
連合艦隊は、すでに潰滅(かいめつ)していると聞いて、もう覚悟は決まりました。
妻には、「私の遺骨は戻らない。しかし、私の霊魂は御身と子供の周辺に戻るでしょう。
長生きして子供の面倒を見て下さい」と書き送ります。少しでも長く持久して本土防衛を
援(たす)けると共に、戦いの勝敗でなく、軍人として、敢闘精神と戦闘能力において、
アメリカ軍に優ることを示し、「本当の勝者」となるための戦いとなりました。
栗林は、それまでの太平洋諸島の両軍の戦いを研究して、硫黄島防衛戦略を構築して、
それを一貫して守りました。
一つは、従来の水際撃破では、味方の砲台の位置がわかって、敵の艦砲で破壊される
ので、敵が上陸、近接して艦砲が味方を撃つのを恐れて撃てなくなるまで待って初めて
砲撃するという原則です。唯一の誤算は南端の海軍砲台が、密集する敵艦船の好目標に
堪(たま)らず発砲して、早速に破壊されたことだけで、それ以外、日本側は洞穴(どう
くつ)深く潜(ひそ)んで無言でした。そして、上陸軍が海岸から四五〇メートル進んだ
ところで、集中砲火を浴びせ、アメリカ軍の戦車の50%は擱坐(かくざ)し、アメリカ兵
の死傷はたちまち25%にのぼりました。
304 :
岡崎久彦:02/08/07 23:37 ID:Yb31aPQB
その後も三段構えの防衛戦毎に猛抵抗を示し、屏風(びょうぶ)山の戦闘では、アメリカ軍
が六回占拠しては、日本軍が五回奪還する肉弾戦が三昼夜にわたり、二段岩の戦闘では、
アメリカ軍千名の一個大隊が九百九十名の死傷者を出して全滅しています。
各戦闘を通じて日本側二万一千の守備隊は全滅、アメリカ側は死傷者二万九千、太平
洋戦争中アメリカ軍の損害が日本側を上まわった唯一の戦闘でした。
アメリカ軍は二月十九日(一九四五年)に攻撃を開始し、二十三日までに戦闘に目鼻
をつけて二月二十四日から沖縄作戦を始める予定でしたが、実に硫黄島の死闘は三月
二十七日まで続きました。
海軍司令官市丸利之助少将の洞穴では、最後の突撃の前に、ルーズベルト宛ての
親書が読み上げられました。「白人とくにアングロ・サクソンは有色人種の犠牲に
おいて世界の富を壟断(ろうだん)している。貴下はすでに繁栄した国なのに、何故
(なぜ)、東洋人が東洋を自らの手で取り戻すのを妨害するのだ……」。この抗議書
は今でもアナポリスの海軍兵学校図書館にあります。
連隊長西竹一男爵は、一九三二年のオリンピックの馬術の金メダリストですが、
終日斬りまくり、北部の断崖(だんがい)に辿(たど)りついて、「バロン・ニシ、
出てきて下さい」というアメリカ側の降伏勧告を聞きながら笑って腹を切ってい
ます。
栗林は、三月二十七日に死んだと推定されますが、戦死か自決かを伝える人
もいません。その勇戦に感じた東京は、六日前に大将に昇進させていますが、
本人はそれを知る由もなく死にました。
百年の遺産-日本近代外交史(57)」
305 :
岡崎久彦:02/08/07 23:38 ID:Yb31aPQB
【最後の地上戦】
沖縄に「特別の高配」なく
(産経新聞2002年6月7日掲載)
太平洋戦争最後の地上戦は、昭和二十(一九四五)年、敗戦の年の七月まで続いたフィリピン
の戦闘と、四月から六月まで続いた沖縄戦です。いずれも戦史に残る本格的大戦闘ですが、
ここでは詳細を書く余裕がありません。読者が、硫黄島の戦闘を思い起こして、同じような
愛国心と自己犠牲の発露があったと思い、戦士達の霊を弔っていただくしかありません。
沖縄で敵に与えた人的損害は、硫黄島に三倍します。
その戦いぶりを讃(たた)えるには、七月に原爆実験成功の報を聞いた時のチャーチルの
言葉を引用しましょう。「私の心の中には、沖縄戦の記憶があった。サムライ精神に満ち
た日本軍を相手に一ヤードずつ日本本土を進むには、百万以上の犠牲が必要だ。私は日本
人の勇気を常に尊敬している。原爆の出現で、日本人は、最後まで戦う義務から、名誉を
保ちつつ解放されるのではないかと思った」
306 :
岡崎久彦:02/08/07 23:40 ID:Yb31aPQB
≪沖縄県民の勇戦≫
ただ一つ、沖縄について書き落とせないのは、沖縄県民の勇戦ぶりです。応召した現地
出身の兵は約三万五千、他に中学生以上は鉄血勤皇隊、女子は従軍看護婦として、戦闘を
支援しました。
海軍司令官大田実は、六月六日の訣別(けつべつ)電報の中で、その実情を長文で紹介
し、最後を「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の高配を賜(たまわ)らんことを」
と結んでいます。二カ月余にわたってアメリカ軍の攻撃を支え、本土上陸を遅らせたこと
の蔭には沖縄県民の勇戦があります。
いわゆる沖縄問題で、在日アメリカ軍基地の重荷云々は一面的な論理です。横須賀の
ように理解をもってアメリカ軍の前方展開を支え、その経済的価値も利用している場所
もあります。
日本の国全体の安全保障の観点なしで、基地を一面的に負担と呼ぶことの背後には、
冷戦中日本の安保体制の弱体化を最大の目標とした左翼共産主義勢力のプロパガンダの
残滓(ざんし)が見られます。
本当の問題は、戦時中沖縄県だけが極端に大きな犠牲を払って日本のために敢闘し
たのに、日本の独立回復後も長く沖縄だけが外国支配に置かれたという点に、日本人
一般が感謝も同情も示さないことに対する当然の怒りが根底にあるのではないでしょ
うか。
戦後には日本人全部が窮乏の底にあり、他を思う余裕がなかったのですが、今と
なって靖国を思い、戦争を思う時、半世紀経って、まだそのままになっている大田
少将の遺言の実現を考え、沖縄県民がそれを受け入れる時になって、初めて沖縄問題
の精神的整理がつくのでしょうが、それは何時(いつ)のことでしょうか。
307 :
岡崎久彦:02/08/07 23:41 ID:Yb31aPQB
沖縄戦のもう一つの特色は特攻です。「カミカゼ」として英語の語彙(ごい)となった
体当たり攻撃は、アメリカ側の報告では、沖縄戦の間、撃沈艦船三十六隻、損傷三百六
十八回、海軍将兵の損耗四千九百七名の損害を与え、一時は、もう戦闘が続けられない
という弱音も出たといいます。
特攻の思想は、戦争の過程でだんだん生まれてきましたが、戦場で個人の判断によ
る決死の体当たりの例は、いくらでもありました。飛行機が被弾炎上して、「もはや
これまで」と覚悟しての自己犠牲の例は、各戦闘で見られました。そして、戦局が悪化
して、今は死に直面していなくても、「いずれ次は俺の番だ」と思うようになれば、
心理的条件は同じとなります。
貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に
未(いま)だ帰らぬ一番機
一番機はチームのリーダーの飛行機です。使命感に満ちた●々(りり)しい若者を
想像させます。そして、その一番機だけが夕焼けの中を西南の空から帰ってこない
のです。
敵艦に突入したのでしょうか。
貴様と俺とは同期の桜
別れ別れに散ろうとも
春の都の靖国神社
春の梢(こずえ)で咲いて会おう
308 :
岡崎久彦:02/08/07 23:43 ID:Yb31aPQB
≪「いい奴から順に−」≫
誰しもが、「散る桜 残る桜も散る桜」という心境になった時代です。
中には周囲の雰囲気にさからえず、いやいや志願した人もいたでしょうが、まだ多数の
志願者から特攻隊員を選ばねばならないほど、士気は盛んでした。
敗戦後、「いい奴から順番に死んでいった」と日本の貴重な人材の喪失が惜しまれた
ほどです。
自ら少年飛行兵だった神坂次郎氏は、二つの文章を引用しています。「彼らは神々
しいまでに純粋だった。あんなに美しい若者の姿を私は見たことがない」−−戸川
幸夫、「これら日本の英雄達は純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてく
れた」−−ベルナール・ミロ。
司令官達も純粋でした。初めて公式に特攻を命じた大西瀧治郎中将は、折々
「君達だけを死なせない」と訓示していましたが、敗戦の翌日、自決します。
彼は割腹後「医者を呼ぶな」と厳命し、若者を死なせた責任を自らに課すために、
長時間激痛に堪(た)えつつ死んだといいます。
その辞世の句は、「これでよし百万年の仮寝かな」でした。やるだけやった、あとは
後世にその精神を残せばよいのだという心情です。(JASRAC出0206391-201)
●=凛の示を禾に
百年の遺産-日本近代外交史(58)」
309 :
岡崎久彦:02/08/07 23:44 ID:Yb31aPQB
【戦争終結への動き】
「もうやめねば…」と鈴木総理
(産経新聞2002年6月8日掲載)
昭和二十(一九四五)年四月七日、特攻出撃した史上最大の戦艦大和は、敵機二百五十機の
雷爆撃を受けて、目的地沖縄に着く前に沈みます。
その日、親任式を終えて総理官邸に入った新総理鈴木貫太郎は、窓外の桜の散るのを見な
がら、自らに問いかけます。「軍人達は、悠久の大義のために桜の散る如く潔(いさぎよ)く
死ぬことを考えている。しかし、国家が滅亡して日本人の義が残るだろうか。カルタゴも
滅びた。その勇武の民は、今いずこにあるのだろうか。一塊の土と化しているのではない
か?」、そして「もうやめねばならない」と考えます。
悠久の歴史観で日本民族の将来を憂(うれ)う、ヒトラーなどの胸には最後まで生まれな
かった考え方です。
そして、外相に東郷茂徳を推します。東郷が、戦争はあと一年続けることも不可能と判断
するが、その点総理が同認識でないようなので協力できないと固辞すると、「その考え方で
よい」と言って任命します。
客観的な情勢判断から政策が出てくるという外交の鉄則を守った東郷も立派ですが、ここに、
言わず語らずして総理、外相間に終戦への合意ができたわけです。
310 :
卵の名無しさん:02/08/07 23:46 ID:A5Wae6FO
日本は多くの犠牲を出し敗北したが、アメリカによって多くの自由を手に入れた。
それも事実。
311 :
岡崎久彦:02/08/07 23:46 ID:Yb31aPQB
≪知日派グルーが動く≫
ただ、その後外務省が試みたソ連を通ずる和平工作は、全くの徒労でした。ソ連の態度は、
二月のヤルタ協定で決まっていました。ヤルタ協定は、トルーマンアメリカ大統領がルーズ
ベルトの死後、金庫を開けて初めて知って驚愕(きょうがく)したもので、日本は知る由もな
かったのですが、ルーズベルトが何故(なぜ)そこまで譲歩したか、いまだに謎であるほど、
日本だけでなく、同盟国中国の利益まで犠牲にして、ソ連に有利な内容でした。
この内容を知って憂慮したのは、知日派のグルー国務次官です。グルーは「もう一刻の
猶予もならない」と考えて、ソ連参戦前の日本降伏の早期実現を考えます。それには天皇制
保全を条件として天皇の詔勅で戦争をやめさせるしかありません。トルーマンは、これを
健全な考えとして陸海軍と協議します。
満州事変の時の国務長官だった老スチムソン陸軍長官は、これを全面的に支持した上で、
一つだけ批判があると言って、日本が幣原喜重郎のような進歩的な指導者を生み出す潜在力
のある国だという点を十分に論じていないと言いました。
古き良き日本の理解者が立派に発言してくれたのです。この発言が重きをなして、会議では
反対はなかったのですが、ある軍事的理由(原爆開発)で、声明発出は見合わせることになりま
した。
もしこの声明が出ていれば、鈴木、東郷、米内は賛成でしょうから、そこで陛下の決断を仰
げば、戦争は終わっていたかもしれません。原爆とソ連の参戦という決め手はまだありません
が、宣言の内容はポツダム宣言より受諾し易くなっていました。
ここまでもってきて声明発出を延期されたグルーの無念は想像にあまりありますが、ポツダ
ム宣言ができたのは、このグルーの努力の下地があったからといいます。ポツダム宣言は、
施行の段階で起草者の意図は踏みにじられますが、無条件降伏は軍隊だけで、対等の主権国間
の合意という形をとっています。
312 :
岡崎久彦:02/08/07 23:48 ID:Yb31aPQB
その間、日本本土爆撃は惨烈を極めます。三月十日以降十九日までに、毎回B29
三百機の大編隊を繰り出し、東京、大阪の大都市を爆撃して二十数万人を殺傷して
二百万人の家を奪いました。第二次大戦の最大の戦時国際法違反の行為ですが、
それは二月のドレスデンの空爆に始まります。つまりドイツに報復能力がなくなって
からです。国際法を支えるものは、しょせん力しかない国際政治の冷厳さの証左です。
その後も終戦までに六十一の都市を焼き尽くし、九月以降は、月間の延べ機数を四倍
にして、残りの都市をことごとく焼き尽くす計画でした。
もし、八月十五日に降伏していなかったら、と思うと肌に粟が生じます。八月六日の
広島、九日の長崎の原爆もその延長線に過ぎません。
原爆の投下には、各方面から疑念の表明もありましたが、最終的にはトルーマンが
決定しました。その理由には、ここでも真珠湾攻撃が使われています。
313 :
岡崎久彦:02/08/07 23:49 ID:Yb31aPQB
≪天皇の決断を仰ぐ≫
原爆とソ連の参戦後、鈴木は時を遷(うつ)さず戦争指導会議を開き、陸軍の継戦論で会議が
まとまらないと、その夜のうちに御前会議を開いて、天皇の決断を仰ぎます。これは昭和史で
誰も敢(あ)えてしなかったことでした。ここで天皇は明確にポツダム宣言受諾の東郷の意見を
支持されます。
そして継戦論のまだ残る十四日の御前会議で、昭和天皇は「皇軍将兵、戦没者遺族、戦災者
の心中を思うと、胸奥の張り裂ける心地がするが、時運の赴くところいかんともしがたい」と
涙ながらに仰せられ、一同御前も憚(はばか)らずどっと泣き伏し、中には身を悶えるものもあっ
たといいます。
最後まで継戦を主張した阿南惟幾陸相は、詔勅に副署したうえで、武人の長として、一点非の
うちどころのない割腹を遂(と)げます。辞世は
大君の深き恵みにあみし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
大日本帝国の終わりを象徴する見事な死でした。
百年の遺産-日本近代外交史(59)」
314 :
岡崎久彦:02/08/07 23:51 ID:Yb31aPQB
【東久邇宮内閣の発足】
リベラルな硬骨漢の皇族
(産経新聞2002年6月10日掲載)
八月十五日正午、終戦の詔勅が放送されました。
徹底抗戦派の抵抗があり、すべての措置は危機一髪の間に行われましたが、放送が済むと
すぐに、鈴木貫太郎内閣は総辞職します。
後任には、まだ不穏な陸海軍の動向を考えると、皇族以外では、この難局を抑え切れない
ということで東久邇宮稔彦王に大命が下ります。
降伏式は、九月二日ミズーリ艦上でおこなわれました。日本歴史上最初の恥辱として誰も
表に立つことを欲しなかったので、重光葵外相自ら、これに当たりました。
その直後にGHQ(連合国軍総司令部)から、驚くべき布告案が提示されます。
それは占領軍の命令に反する者は死刑以下の刑に処するとか、軍票を日本銀行券と同様に
通用させるとか、日本の統治権の剥奪(はくだつ)を意味するものでした。
315 :
岡崎久彦:02/08/07 23:52 ID:Yb31aPQB
本来ポツダム宣言では、無条件降伏は軍隊だけで、民主化等は日本政府の責任で行うこと
になっています。この布告は外務省の必死の工作で差し止めてもらいますが、九月六日、
アメリカ政府は、五百旗頭真(いおきべ まこと)氏の表現を借りれば、「日本の敗戦と
占領をめぐってアメリカ政府が生産した文書のうち最も粗暴なる」文書により、マッカー
サーに対して「日本との関係は、契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくもの
である……日本管理を日本政府を通じて行うのは、それが満足な成果をあげる限りであ
る」と指示してきます。これは新任のアチソン国務長官代理が、日本を甘やかすなと進言
した結果といいます。
≪武装解除で無力に≫
畢竟(ひっきょう)、国際政治は力の関係です。武装解除前ならば、そんなことをしたら
軍の下部がおさまらない、鎮圧するのに百万のアメリカ軍が要(い)るというような説得も
可能でしたが、もう日本側には、何の交渉力も残っていません。
日本はポツダム宣言の契約にしたがって降伏したのだと言ってもしょせんムダです。
あとは日本側の誠意、またはへつらいで、占領軍が文明的に振る舞うのを期待するしか
ありません。これが占領七年間の基本構造となります。
東久邇宮は、皇族の中で、総理、閣僚として使える方といえば、この人しかないと衆目
の一致していた人です。
陸軍士官学校では「皇族は厳しい訓練についていけないことを前提とした差別」に不満
で、自ら厳しい訓練に立ち向かっていました。パリで陸軍大学三年の後、エコール・ポリ
ティクで政治、外交を広く学び、クレマンソーとも交遊しました。
316 :
岡崎久彦:02/08/07 23:53 ID:Yb31aPQB
ある時、当時緊張していた日米関係について彼の意見を問うと、彼は「アメリカは
ドイツを叩いたから、次の戦争では日本を叩く。日本は外交が下手で短気だから、
外交で苦しめて日本から戦争をしかけるようにもっていく。戦争になれば日本は敵
(かな)わないから、我慢して戦争しないように」と忠告しました。
東久邇宮は、真珠湾の前に東条英機にこの話をしましたが、東条は今や勝つチャンス
に賭けるしかない、と言ったといいます。
東久邇宮は、西園寺公望とも親しく、フランス仕込みのリベラルな考えをもち続けて
いました。
就任の言葉では、まず、聖旨を奉戴(ほうたい)して一糸乱れず平和裡に降伏するこ
とを訴えます。もちろんこれが第一の任務です。そして厚木の部隊の反乱を抑え、無事
にマッカーサーを迎える任務を果たします。
そして、次に新日本の建設については、他のことに一切ふれず、活発な言論と公正な
世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言します。
317 :
岡崎久彦:02/08/07 23:54 ID:Yb31aPQB
そして翌日の閣議で、すべての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、
憲兵隊の政治活動を禁止しました。後にマッカーサーと会見した時も、共産党などの
釈放は危険ではないか、と懸念を表明したのはむしろアメリカ側で、東久邇宮は、過激思想
に対しては「言いたいことを言わせた方がよい」と言っています。ただ、東久邇宮内閣は、
自由化政策の方針表明だけで、具体的実施に入る前に退陣します。
一つには占領軍受け入れ、武装解除と復員、応急の戦災復興等に忙殺されたからですが、
同時に内務省には、自由化実施の法制改正に着手するだけの実務上と精神的準備がなかった
からです。このことが結果として東久邇宮内閣辞任の原因となります。
≪最初で最後の抵抗≫
天皇とマッカーサーが並んだ写真が新聞に出た時に、まだ言論統制が残っていた内務省は
新聞を発禁にします。
これを怒ったGHQは、内相や内務警察官僚四千名の罷免を突如発表しました。
自由化政策のためには、内務省の意識改革はいずれ必要なことでしたが、東久邇宮に言わ
せれば、それは自分がすることで、GHQが勝手にすることではありません。副総理格の
緒方竹虎の意見を求めると、「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは
政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」
と言い、東久邇宮も即座に同意して、東久邇宮内閣は終わります。
318 :
岡崎久彦:02/08/07 23:55 ID:Yb31aPQB
【満州の悲劇と「以徳報怨」】
早過ぎた武装解除による惨苦
(産経新聞2002年6月11日掲載)
武装解除してしまった側には、何の交渉力もない。このことは『東京裁判の呪ひ』で、
小堀桂一郎氏が引用したシェークスピアの『ヘンリー四世』の一場面通りです。
国王側は反乱側の条件をことごとく受諾し、反乱軍の兵士が「放課後の学童のように」
嬉々として解散するや、反乱側の指導者を捕らえて極刑に処する話です。
武装放棄した以上、もう相手の文明度に信頼するしかありません。アメリカは、ポツ
ダム宣言の「吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ」という約束を弊履(へいり)の
如く捨て、無条件降伏を強要しましたが、ソ連の軍隊の行動の野蛮さは、そんなこととは
較べものにならない言語に絶するものでした。
ソ連の満州侵略は、突然行われました。日ソ中立条約は、まだ有効期間中ですし、日本
には、まだソ連仲介への期待もありました。
むしろ、全ユーラシア大陸が戦乱の生き地獄と化していた一九四五年前半では、満州は
唯一の楽土で、空襲で家を失い、食糧に窮した日本人の中には、家族で移住する人もいた
時に、突如ソ連軍が侵入してきたのです。
319 :
岡崎久彦:02/08/07 23:56 ID:Yb31aPQB
今から思えば、居留民、婦女子が全部引き揚げるまで武装を維持し、大連の港で武装解除
して、日本に撤兵するよう大本営が命令すればよかったのですが、敗戦の経験の全くない
日本は、武装解除後の苛酷(かこく)な運命など全く予想もしなかったのです。
関東軍総参謀長秦彦三郎は、武装解除の大本営命令にしたがって、「日本軍の名誉と
居留民の保護に万全を期せられたい」と強く申し入れ、ソ連側の快諾を得て降伏しますが、
その約束は一顧だにされません。
ソ連側は、日本人民間人に暴行、掠奪(りゃくだつ)を恣(ほしいまま)にし、民間人死亡者
は十七万六千名にのぼりました。さらにポツダム宣言にも国際法にも違反して、五十七万
五千の日本将兵をソ連に拉致して、強制労働を課した結果、約六万が虐待と栄養不良で死ん
でいます。
ソ連邦が解体して、種々の正直な証言が出ていますが、それについてロシア人のいうこと
は、あの頃はロシア人自身がそういう目に遭っていたということです。共産主義者の非人
道性によってロシア人自身が惨苦を受けていたというのですが、要は武装解除した以上、
勝者のいいなりであり、その時の勝者の人間性によってどんな目にも遭うということです。
勝者による一方的な戦争裁判の下に呻吟(しんぎん)した東郷茂徳は歌っています。
いざ児等よ(よく聞け)戦ふ勿(なか)れ(しかし)戦はば勝つべきものぞゆめな忘れそ
320 :
岡崎久彦:02/08/07 23:57 ID:Yb31aPQB
≪敗戦経験のない悲劇≫
他面、満州の悲劇は、戦後左翼思想の跋扈(ばっこ)する中で、関東軍が入植者を見捨てて
真っ先に逃げたという伝説も生みました。
関東軍は、主要部隊を次々と南方に引き抜かれ、見る影もなく弱体化していましたが、
それでも善く戦っています。東部正面の第百二十四師団は、ソ連軍主力の猛攻を五日間支
えて、牡丹江在留邦人三万人の後退を完了させてから停戦しました。西部の第百七師団も
健闘して邦人を退避させています。
内蒙古の駐蒙軍は邦人引き揚げまで、ソ連軍進駐の猶予を求めたが容れられず、善戦し
て四万の張家口邦人全員引き揚げを完了させています。
もちろん、大本営命令にしたがって早期に武装解除した地域、あるいは軍から遠く離れ
た地域には惨劇もあり、混乱の中、それぞれの環境は千差万別でしたが、軍が故意に邦人
の生命の安全を無視した、などということは、当時の日本人の心情として、とうてい考え
られないことです。
321 :
岡崎久彦:02/08/07 23:58 ID:Yb31aPQB
中国からの引き揚げは対照的でした。部分的な事件は避け難かったとはいえ、
日本軍将兵百十万、在留邦人五十万は、整々と日本に引き揚げました。満州と
違い、本土とさえ違って、日本軍が武力を保持して居留民保護の責任を果た
したのがその直接の原因ですが、それを許したことも含めて、蒋介石の戦略的
考え方がその背後にあります。
322 :
岡崎久彦:02/08/08 00:00 ID:G+C5EKEy
≪必要だった日本軍の協力≫
蒋介石は、もともと中国共産党を剿滅(そうめつ)してから、日本に立ち向かう戦略
でしたが、西安事件と盧溝橋事件で不本意のまま順序が逆になって八年が経過しまし
た。
蒋介石にとって何より必要なのは、日本軍の占領地域と、その武器弾薬が保存され
てそのまま国民党軍に引き渡されることであり、そのためには日本軍による秩序の
維持と整々たる占領地、武器の引き渡しが必要でした。
しかし、それができなかった満州の武器弾薬が中共軍の手に入り、中共軍の反撃
の端緒となるわけです。
八月十四日深更、蒋介石は一人で部屋に閉じ篭もり、「以徳報怨(徳を以(も)って
怨(うら)みに報いる)」の名演説を書き上げます。これを聞いた日本人達は、「やはり
中国人には、とうてい敵(かな)わない」との思いを強くしたといいます。
その背後には、南京事件以降、綱紀厳正につとめた日本軍と現地人との信頼関係が
ありました。
323 :
岡崎久彦:02/08/08 00:00 ID:G+C5EKEy
もし、戦後の偏向史観が説くように、日本軍が中国全土で暴行、凌辱(りょうじょく)
を極め、中国人の怨嗟(えんさ)の的となっていたとしたならば、蒋介石が何と言おうと、
日本人が武器を持っていようと、とてもこうはいかなかったでしょう。
百年の遺産-日本近代外交史(61)」
324 :
岡崎久彦:02/08/08 00:01 ID:G+C5EKEy
【大正デモクラシーの復活】
日本自らの手による改革
(産経新聞2002年6月12日掲載)
ブッシュアメリカ大統領は二〇〇〇年、選挙戦を始めた時の基調演説で述べています。
「われわれは日本を打ち破った国である。その後食糧を配り、憲法を起草し、労働組合を
奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受けたものは、彼らが恐れていた報復ではなく
て慈悲だった」
戦勝国の史観とはこうしたものでしょう。
かつて日本が不敗を誇った頃もそうでした。歴史の細かい襞(ひだ)は切り捨てて民族
の誇りとなる部分だけ、短い表現で語り伝えます。これで国民は、自分の国の偉大さに
酔い、その誇りをもって、さらに偉大な国民であり続けるのです。それ自体決して悪い
ことではないのですが、日本人が自分の国の歴史について真実を求めるのは、それとは
また別のことです。
東久邇宮内閣の後を継いだ幣原喜重郎は、昭和二十(一九四五)年十月九日、親任式
直後の閣議で、当面の政策を決定します。その第二項目以下は、食糧、戦災復興、
外地引き揚げ等、緊急に処置しなければならない問題ばかりですが、それに優先した
第一項目は、ポツダム宣言を受諾した日本の公約である民主主義の復活、強化でした。
325 :
岡崎久彦:02/08/08 00:02 ID:G+C5EKEy
復活、強化という言葉は、イギリスの日本専門家、歴史家のサンソム卿の筆といい
ます。
一般の人の記憶は悲しいほど短く、日本の過去と言えば、軍国主義時代のイメージ
しかないのですが、歴史家は、その前に日本が帰るべき原点、即ち明治維新以来築き
上げた到達点である大正デモクラシーを復活させれば良いことを知っているのです。
その閣議では、すでに東久邇宮内閣が指示した婦人参政権を含む選挙法の改正を
決定しました。その改革は、留学してワイマール共和国を研究してきた堀切善次郎
内相と、大正デモクラシー時代に普選実施に携わった坂千秋次官のコンビで行いま
した。
326 :
岡崎久彦:02/08/08 00:03 ID:G+C5EKEy
≪当初は紳士的なGHQ≫
その日の午後、最初の幣原・マッカーサー会談が行われました。マッカーサーは
あらかじめ準備したペーパーを読み上げ、初めて具体的に民主化要求を示したうえで、
「決して無理を言うつもりはない。あまりに苛酷(かこく)なものがあれば、遠慮なく
言って欲しい」と言います。
GHQ(連合国軍総司令部)はその後、本国の指令で次々に苛酷な要求を出すのですが、
この時点では、マッカーサーは幣原に対して紳士(ジェントルマン)同士としての対応をし
ます。
これは、普仏戦争の後、フランスが敗れたりとはいえ、一流国の矜持(きょうじ)を
もって敗戦に相対した歴史を胸に描いていた幣原としては、期待通りでしたが、やがて
その期待が裏切られていくのが占領時代の経過です。
マッカーサーは、幣原から閣議の説明を聞いて「エクセレント」だ、その通り実行して
欲しいと言い、民主化について、幣原が「自分が閣僚であった十二、三年前には、日本に
もその潮流があった」と言うと、「貴方が閣僚だった時代については自分も同じ話を聞い
ている。
もし、それが続いていれば、このようなことにならなかった。その意味でも新しい政府の
成功を希望する」と述べています。
327 :
岡崎久彦:02/08/08 00:04 ID:G+C5EKEy
≪戦後の史観に挑戦≫
ここで、戦後の偏向史観−−というよりも、国民のほぼ百パーセントが当然のように
思っている史観に挑戦しなければなりません。
一言で言えば、占領下の自由化、民主化の改革は、ほとんど全て、ポツダム宣言に
よって民主主義の復活と強化を公約した日本政府のイニシアチブによるもので、占領軍
の力がなければできなかったことは何もありません。
しかも、その全ては明治憲法下の議会で、明治憲法と何ら抵触することなく採択された
ものであって、新憲法とは何の関係もありません。
改革に着手した時点で、ああいう憲法ができるとは誰一人予想していません。
ポツダム宣言の公約が必要だったかどうかさえわかりません。戦争が終われば、どの
国でも戦時中の言論、結社の統制をはずすのは当然です。また婦人参政権などは、世界
の大勢がここまできていれば、日本ほどの民度があり、議会主義の経験を積んだ国では、
当然の成り行きです。
328 :
岡崎久彦:02/08/08 00:04 ID:G+C5EKEy
労働組合法は早くも十二月に両院を通過しましたが、これも日本政府部内に過去の蓄積
があり、極めて進歩的な内容で、GHQも文句のつけようがありませんでした。
農地改革も、戦前戦中の改革努力の蓄積があり、占領軍の指示を待たず進められました。
不在地主の全廃は誰も異議がなく、在村地主については、松村謙三農相は一町五反歩を
主張しましたが、社会主義者の和田博雄農政局長の方が慎重論で三町歩とし、閣議では
五町歩としました。
これに対して急進主義のソ連が一町歩を主張し、これが通ったのが、唯一の連合国の
介入と言えましょうが、一町歩と五町歩の差が日本の民主化に及ぼした影響は程度の差
だったでしょう。むしろ山林地主、宅地地主に手をつけなかった方が、はるかに大きい
影響を残します。
重光葵は、昭和二十年十一月の日記に書いています。
「占領軍が、新たな指令として共産党の宣伝の下に持ち出した(農地)改革案は、
ほとんど松村案で実行の緒についていたのである。占領軍は日本国民が歓迎する新政策
を、たとえ内容は同じであっても、占領軍の指令による占領政策の一部であることを
押し付けている」
百年の遺産-日本近代外交史(62)」
329 :
岡崎久彦:02/08/08 00:06 ID:G+C5EKEy
【憲法9条と幣原の苦悩】
天皇制護持へ勧進帳を読む
(産経新聞2002年6月13日掲載)
幣原喜重郎は、敗れたりといえども大国という矜持(きょうじ)をもって改革を進めました
が、その最後が、天皇のいわゆる「人間宣言」でした。
昭和天皇のご同意を得て、幣原が案文を作ると、天皇は「結構であるが」とされた上で、
五箇条の御誓文の引用を希望されました。民主化はすでに明治維新以来の大原則だと宣言
することの方を詔書の主目的とするのが、天皇のご意向でした。マッカーサーも詔書の原文
を見て、明治天皇の業績を讃(たた)えたといいます。
年末で人気(ひとけ)がなく暖房のない官邸で、この作業をしていた幣原は急性肺炎で倒れ
ます。そして、新年の三が日が明けて早々に、病床の幣原のもとに突然届いたのは、GHQ
(連合国軍総司令部)の公職追放令でした。追放令はその後何度も出ますが、その時の第一次
追放令だけでも、天皇は「随分苛酷(かこく)なものだ。この通り実行したら、今まで国のた
めに忠実に働いてきた官吏その他も生活ができなくなるのではないか」とご軫念(しんねん)
されたほどです。
330 :
岡崎久彦:02/08/08 00:06 ID:G+C5EKEy
幣原は「マックの奴、理不尽だ」と激昂するばかりで、もう総理を続ける気はありません
でした。幣原内閣は今から見ても、おそらく昭和史上最高の内閣でした。軍や政党の圧力も
なく、大正デモクラシー以来の幣原の盟友達が、将来の身分保障の見通しもなく、国を思う
だけの気持ちで集まった人材主義の内閣でした。その同志の次田大三郎書記官長、堀切善次郎
内相、松村謙三農相等を追放されて、幣原独り残る気など全くありませんでした。
吉田茂外相がマッカーサーの伝言として「あれは自分の発意ではなく、ワシントンの指令
だから仕方がない。これ以上無理を言わないから現内閣で執行してくれ」と伝えても、
「何を言うか、理不尽な」と言うばかりでした。しかし、閣僚達が、自分達はどうなっても
いい、国のためだ、と説得すると、長い沈黙の後ハラハラと涙を流し、留任を決意しました。
331 :
岡崎久彦:02/08/08 00:07 ID:G+C5EKEy
≪矜持も意地も捨てる≫
この時から幣原も変わり、日本も変わりました。
もう日本の過去の伝統も、改革への情熱も、何を言っても空(むな)しい。大国として
の矜持も、紳士としての意地も皆捨てねばならない。必要なのは、敗戦という運命を受諾
する諦念(ていねん)と忍従だけとなってしまったのです。
昭和二十一(一九四六)年一月二十四日、病気から回復した幣原は、ペニシリンのお礼を
兼ねてマッカーサーを訪問しました。
この会談が、マッカーサーの回想録によると、幣原が涙ながらに戦争放棄を提案し、
今は夢想家と呼ばれるかもしれないが、将来は予言者と呼ばれるだろうと言い、憲法九条
の発端となった、と言われる会談です。
この会談の世にも不思議なことは、日本側の記録が皆無だということです。こんなことは
練達の外交官幣原としてはあり得ないことです。
332 :
岡崎久彦:02/08/08 00:07 ID:G+C5EKEy
民主化指令を受けた前年十月九日の会談の幣原自筆による詳細、緻密な記録、四週間後の
二月二十一日の会談では、マッカーサーが「日本は世界で戦争放棄のリーダーシップを取る
べきだ」と言ったのに対して、幣原が「リーダーになっても誰もついてきませんよ」と冷静、
的確に反論している状況についての詳細な閣議報告、それ等に較べれば、歴然たる異常さです。
そして、最も親しい友人にも、死ぬまで−−幣原は平和条約署名のひと月前に死にます−−
「まだ語る時期でない」と言っています。
とすると、三時間の会談で、幣原がペニシリンのお礼以外何も言わなかったという可能性は、
マッカーサーの証言からいっても、まずゼロとして、ほかに何か口が裂けても言えないことが
あったという結論は不可避です。
333 :
岡崎久彦:02/08/08 00:08 ID:G+C5EKEy
≪推測できる会談内容≫
今となれば、会談の内容は十分推測できます。
マッカーサーは、日本進駐前から、対日心理作戦の責任者フェラー准将の意見を
容(い)れて、日本人の抵抗を抑え、占領を成功をさせるためには、天皇制を維持する
しかないと固く決めていました。
しかし、アメリカ本国や連合国の雰囲気は極めて悪く、天皇制を守れるかどうか微妙
な状況でした。これに対しては、連合国が反対しようのない平和主義の憲法を作り、その
中に天皇制存続を書き込まねばなりません。そしてまた、ワシントンとマッカーサーとの
関係から言って、それは日本国民の自発的意志から出たものであって、占領軍の意向は、
何ら関与していない形でなければなりません。
会談前後にマッカーサーが置かれた政治的立場、その前後に表明された彼の意向から
いって、マッカーサーが幣原に言うべきことはこれしかなく、また、それ以外のことは
言ったはずはありません。
334 :
岡崎久彦:02/08/08 00:12 ID:G+C5EKEy
そして、幣原としては、これを受諾しないと、天皇制の護持も危(あや)うく、天皇を
裁判の辱(はずかし)めに遭(あ)わせる恐れがあるとすれば、反対し得べくもなく、それは
あくまでも日本側の意思としましょう、と答えるしかなかったでしょう。
幣原の内心が平和主義的であったかどうかは、もはや全く無関係な話です。それ以後は、
忠臣幣原が死ぬまで非武装平和主義の勧進帳を読み続けたということです。
これが憲法九条が生まれた経緯といって、まず間違いないでしょう。
百年の遺産-日本近代外交史(63)」
335 :
岡崎久彦:02/08/08 00:18 ID:G+C5EKEy
【公職追放の弊害】
明治、大正の育てた人材失う
(産経新聞2002年6月14日掲載)
幣原内閣の後、いよいよ吉田茂が総理として登場するきっかけは、鳩山一郎の公職追放
です。
昭和二十一年四月の戦後最初の総選挙で、鳩山の自由党は第一党となりますが、これは
民政局のケーディスなどの思惑はずれでした。
そもそも幣原喜重郎が憤激し絶望した第一次追放令の一つの目的は、戦後初めて民意を
問うこの選挙で、既成政治家が多く残る可能性を阻止することにありました。
占領中の左派ニューディーラーの思想を代表するマーク・ゲインは当時、「最大の政党
は進歩党で、その主体は東条議会の代議士達であり、つい数カ月前まで日本の軍部と仲良
くやってきた手合いなのだ。次は自由党だが、この党が非自由なることは進歩党が非進歩的
なことと同じである」と言っています。そして、GHQ(連合国軍総司令部)は一月に予定
されていた選挙を三月に延ばすことを指令します。そして三月九日までの公職追放令による
審査で、進歩党に至っては結党時の二百七十四名中、十四名を残して全部追放されます。
336 :
岡崎久彦:02/08/08 00:18 ID:G+C5EKEy
民政局が希望したのは左翼政党です。今でもその立場に同情的な歴史家のダワーは言って
います。「戦後の日本にとって真に不幸なことは、強力な社会民主主義勢力が抬頭してこな
かったことだ。そのため日本では二大政党制が生まれなかった」
しかし日本の政治には、自由民権、大正デモクラシーの伝統があり、戦後国民の大多数が
政治を託そうとしたのは、新奇な左翼的人物でなく、政友会、民政党の流れを汲(く)む気心
のしれた人物達でした。
337 :
岡崎久彦:02/08/08 00:19 ID:G+C5EKEy
≪民意は鳩山と自由党≫
しかも鳩山は、昂然(こうぜん)と反共を宣言し、保守の結集を呼びかけたので、民政局
の逆鱗(げきりん)にふれたのでした。選挙の四日前、ケーディスは戦時中の鳩山の言説の
テキストをゲインに渡し、ゲインはそのコピーを同僚に配って外人記者会見で鳩山を吊(つ)
るし上げましたが、それでも民意は鳩山と自由党を第一党にしました。そこで、鳩山就任の
日にGHQは鳩山の公職追放を指令します。
増田弘氏の名著『公職追放』は、鳩山、石橋湛山等の追放のケース・スタディをして、
「概(おおむ)ね公平に行われた公職追放の中で例外的に」政治的に強権が使われた例とし
ています。
とくに石橋が戦前一貫してリベラリスト、平和主義であった経歴は歴然たるものがあり、
日本側の審査では、何度やっても追放非該当の結論しか出ないのを強引に追放したものです。
たしかに例外的なケースでありますが、それが絶対的権力の本質と言えます。
イギリス統治下のインドでは、イギリス人がインド人を射殺した時に、犬猿などと誤認
して撃ったと判定しています。そんなことが虚構であり、また、例外的な判定であること
は誰でもわかりますが、こういう例外的なこともあり得ると示すことによって、いささか
の反抗的態度も許されないことを、被征服者は知るのです。
338 :
岡崎久彦:02/08/08 00:20 ID:G+C5EKEy
事実、この効果は絶大でした。その直後の第一次吉田内閣の憲法審議において、それが
占領軍の意向だと伝えられるだけで、反対の声は皆無となりました。戦争中は誰もが戦争
に協力したのですから、どんなことを口実に追放されるかわからないからです。憲法は
アメリカ製でも国会は一致して歓迎したという神話とはほど遠い現実でした。そして国民は
言論統制の下で憲法讃歌を聞くだけでした。
339 :
岡崎久彦:02/08/08 00:21 ID:G+C5EKEy
≪二十万余人が追放に≫
追放令は次々に出され、一年半ほどの間に二十万余の日本人が追放されました。
追放は、軍、官、政界だけでなく、出版、産業等の各界に及び、主要会社の常務以上、
明治、大正以来日本の社会が営々として育てあげた指導層をことごとく失いました。
吉田茂はこれでは混乱と共産主義を招くと警告し、GHQ内部でもそれを心配する声も
ありましたが、ワシントンの指示を楯(たて)にとった民政局のケーディスなどの意見で
強行されました。
ケーディスは「これで日本の世代交代が進み、活力が出る」と説くのを常としたといい
ます。その後、マッカーサーもこの論理を使うようになり、いまでは日本の歴史家までが、
追放のプラス面として引用しています。一つのことを繰り返して言い、反論は言論統制に
よって許さない期間が長く続いた場合、一般の思考形式にも影響を与える一例です。
冗談ではありません。ひとの国について全く余計なお世話です。そんな理屈が通るならば、
どの国でも一定基準を設けて首切りすれば、活性化することになります。
340 :
岡崎久彦:02/08/08 00:21 ID:G+C5EKEy
むしろ、歴史の例で言えば、スターリンが、レーニン時代に役職についた人々、即ち理想
主義に燃えた革命世代の人々をことごとく粛清した後のロシアの人心の荒廃ぶりを見ると、
無理をすれば必ず弊害の方が大きいことは明らかです。
むしろ、明治、大正、昭和の初期の平和な時代に深い教養を培(つちか)い、時代の過渡期
を責任ある地位にいて経験した世代が失われ、その後の軍国主義時代に中途半端な役職を務め
た経験しかなく、海外経験も乏しい世代、さらには、その後の個性を没却した軍隊教育を受け
た世代が戦後長きにわたって日本の支配層となった弊害を生んでいます。
百年の遺産-日本近代外交史(64)」
341 :
岡崎久彦:02/08/08 00:22 ID:G+C5EKEy
【勝者の心理と論理】
過去の歴史忘れた占領政策
(産経新聞2002年6月15日掲載)
どうして幣原喜重郎が「理不尽な!」と激怒するような指令が出され、そして、
マッカーサーは「もうこれ以上無理は言わない」と言いつつ、後から後から苛酷(かこく)
な指令を出すのでしょうか。
歴史家ダワーによれば、アチソンがグルー次官に代わった一九四五年八月十一日以来
国務省は変わったのです。知日派に対する最大の侮辱は、マッカーサーの政治顧問として
国務省から任命されたのは、日本専門家でなく、中国専門家だったことです。日本専門家
ならドーマンの出番だったでしょう。国務省がドーマンを支持するような態勢だったな
らば、アメリカの政策は大正デモクラシーの復活が中心となり、幣原にその仕事を大幅に
委(ゆだ)ねたであろうことは十分想像されます。
占領政策が、あれほど乱暴だった背景には、ドイツとの類比もありました。ドイツが敗
(ま)けた時には、ドイツ政府など存在せず、占領軍が主権者であり、行政当局であったわけ
ですから、官吏の任免、司法権の行使も含めて、占領軍は好きなようにできました。
日本の場合は、ポツダム宣言の条件を受諾して占領軍を受け入れたのですから、占領軍の
していいことの法的基礎が違うはずです。
知日派のグルー、ドーマンならば、その差異を徹底してくれたでしょうが、アチソンは
「最も粗暴なる指示」でこれを否定しました。それから後は、戦争裁判を含めてドイツと
同じ扱いになるのです。
342 :
岡崎久彦:02/08/08 00:23 ID:G+C5EKEy
≪意図的に専門家排除≫
ダワーによれば、日本に関する先入観を排除するために日本専門家は意図的に占領行政
の中枢から排除されたようです。
たしかに占領軍の中にも日本専門家はいましたが、ほとんど孤立していました。
その挫折感を書いたのが、ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』です。占領中は
日本語では発禁され、英文でも絶版だったのを近年発掘した伊藤延司氏は、泣きながら
これを翻訳したといいます。
彼女が属した委員会の同僚について、「彼らは個人的には真摯(しんし)で教養のある人達
だったが、日本に関する本は一冊も読んでいなかった。私は彼らの姿勢が怖かった。アメリカ
人が日本を改革するというのなら、日本は今までどういう国だったかを明確かつ具体的に知っ
ていなければならない」と、いつ爆発するかわからない未知の化学物質で実験するようなもの
だと、その無知に恐怖を感じています。
そして、素人的な半可通の議論をことごとく論破しています。たとえば「日本の歴史的な
軍国主義を告発するホーンベックは、一五七八年の秀吉から、一気に捏造(ねつぞう)の可能性
のある一九二七年の田中上奏文に飛躍する」。長く極東政策の最高助言者だったホーンベック
が、この程度の雑駁(ざつぱく)かつ悪意に満ちた日本歴史観を持っていたとすれば戦慄(せん
りつ)すべきことです。日本はひどい連中に思いのままにされたものです。
しかし、ミアーズのような人は疎外された少数で、その声は占領政策には反映されていません。
343 :
岡崎久彦:02/08/08 00:24 ID:G+C5EKEy
≪日本への無知を公言≫
GHQ(連合国軍総司令部)の民政局の中枢を占めていたのは、左翼的ニューディー
ラー達でした。民政局の中で猛威をふるったケーディス大佐は「私は日本の歴史や
文化についていかなる知識もない。私が知っているのは戦争中の残虐行為と、中国、
東南アジアへの拡張だけだ」と言い、「日本側の改革案は病気の枝を刈り込むだけだが、
われわれは根から掘り起こすのだ」と言っています。
たしかに、その木について無知ならば、根から植え代えるしかないでしょう。彼の
盟友マーク・ゲインはもっと端的に言っています。「今の日本は、排外主義のいろいろ
な機関がそのまま残っている未改革の侵略国家である。われわれは建設的な計画に乗り
出すまでにまだまだ破壊しなければならない」「われわれは真珠湾で沈められた何隻かの
老朽戦艦の復讐(ふくしゆう)のために戦争したのではなく、日本が再び戦争しないように
日本を作り変えるというはるかに重大な目的のために戦争をしたのだということを、あま
りにも多くのアメリカ人が忘れている」と、歴史どころか戦争に至る経緯も何も捨て去って、
日本をすっかり作り直すために戦争を戦ったのだと信じているのです。こんな議論が跳梁
(ちようりよう)跋扈(ばつこ)し、それが鳩山一郎追放のように総理の人事まで左右したの
です。
344 :
岡崎久彦:02/08/08 00:25 ID:G+C5EKEy
これに対して、国際政治の現実から対日政策を考えたのは、GHQ内ではウイロビー
情報部長などの軍事専門家であり、国務省では政策企画部の国際戦略家ジョージ・ケナン
でした。彼は、「何より深刻だと思ったのは、全面的な追放で惹起(じゃっき)された事態
だった。理性的に判断すれば、軍国主義者でもなく、ただ戦時中国家のために献身的に奉仕
したというだけで、日本の社会の建設的な発展になくてはならない人々が追放された」と
報告し、冷戦を戦うパートナーとしての日本の地政学的重要性を説き、占領政策の緩和を
進言しています。
その後、アメリカの政策は、冷戦の激化と朝鮮戦争を経て、ケナンの進言した通りとなり、
むしろ日本が左翼勢力の影響でアメリカのパートナーとなるのを遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)
するのが、占領末期及び長い戦後の日本の状況となります。
百年の遺産-日本近代外交史(65)」
この荒らしの頭は逝かれている。
沢●のゾロ薬では直らない。先発を貰え。
この荒らしの頭は逝かれている。
東●のゾロ薬では直らない。統領さまのジェネリック薬を貰え。
347 :
ぼー:02/08/08 21:02 ID:jI6Oiu9e
266 :卵の名無しさん :02/08/05 01:34 ID:nWX+66Pr
>>265 この荒らしも、S井のパブリック・イメージ失墜を狙った謀略の可能性もある。
およそ正常な性格の者が行う所業とは思えない。
267 :卵の名無しさん :02/08/05 06:58 ID:zBdfZtoO
>>266 失墜して困るパブリック・イメージなどありはしない。
単なるぼろ隠し、稚拙な子供の行動。誹謗中傷の一環。
2ch最初の逮捕者が出そうだな。
また、有名になるな。
268 :卵の名無しさん :02/08/05 18:38 ID:7Fw3Bj5L
>>267 現状認識を曲解している。
ゾロの沢○は、そこまでの大物ではなかろう。
269 :卵の名無しさん :02/08/05 19:44 ID:sMGlEhFB
内部告発おねがいします
270 :卵の名無しさん :02/08/05 21:11 ID:GOIm/FaD
ゾロにもわずかな良心
すべて吐いてしまおう
348 :
ぼー:02/08/08 21:10 ID:jI6Oiu9e
265 :卵の名無しさん :02/08/04 22:41 ID:WtKeZI7j
ここだけでなくてほかのゾロスレッドでもS井製薬のことはろくなことが書かれていないぞ。
ほかも荒らしたほうがよくないかい?
266 :卵の名無しさん :02/08/05 01:34 ID:nWX+66Pr
>>265 この荒らしも、S井のパブリック・イメージ失墜を狙った謀略の可能性もある。
およそ正常な性格の者が行う所業とは思えない。
267 :卵の名無しさん :02/08/05 06:58 ID:zBdfZtoO
>>266 失墜して困るパブリック・イメージなどありはしない。
単なるぼろ隠し、稚拙な子供の行動。誹謗中傷の一環。
2ch最初の逮捕者が出そうだな。
また、有名になるな。
349 :
ぼー:02/08/08 21:12 ID:jI6Oiu9e
268 :卵の名無しさん :02/08/05 18:38 ID:7Fw3Bj5L
>>267 現状認識を曲解している。
ゾロの沢○は、そこまでの大物ではなかろう。
269 :卵の名無しさん :02/08/05 19:44 ID:sMGlEhFB
内部告発おねがいします
270 :卵の名無しさん :02/08/05 21:11 ID:GOIm/FaD
ゾロにもわずかな良心
すべて吐いてしまおう
350 :
卵の名無しさん:02/08/08 21:43 ID:tlTjeztq
いかがわいいこといろいろやってるのと違いますか?
いつかばれるぜ
351 :
卵の名無しさん:02/08/08 22:05 ID:SH+KIWQz
S井製薬の場合 地下室の怪人は何人ぐらいいるのですか?
352 :
岡崎久彦:02/08/09 01:17 ID:61sd8v1Y
【第一次吉田内閣】
ドクトリンとは無縁の総裁
(産経新聞2002年6月17日掲載)
鳩山一郎追放の後を受けて、自由党総裁となった吉田茂が組閣の前に直面したのは、まず
食糧問題でした。
昭和二十年度産アメリカは、天候の不順に加えて空爆による生産障害のため前年比三〇%
の減産であり、敗戦によって台湾、朝鮮、満州からの供給も途絶しました。また、敗戦で
政府の権威が失墜し、農民が安い価格での供出を渋って戦時中の半分も供出しません。
主食の配給量は、一人一日二合一勺でした。現在の食生活ならば、副食が豊富ですから、
それで足りますが、ほとんど米しか食べられなかった当時は、一人あたり千カロリーをきる
ことになり、最近の北朝鮮以下の水準でした。
その配給さえ、二十一年春や夏には、供給できる目途(めど)は立たず、国民は迫(せま)り
くる飢餓の恐怖におののいていました。
353 :
岡崎久彦:02/08/09 01:17 ID:61sd8v1Y
≪大きい昭和天皇の役割≫
この解決には、昭和天皇の果たされた役割が大きかったようです。松村謙三の回想によると、
昭和二十年十二月宮中からお召しがあり、天皇から「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を
出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。
その目録を作製させたから、アメリカと話してこれを食糧に代えたい」のお言葉があり、さっそ
く幣原首相がマッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分として
もアメリカとしてもその面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者
を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。
この時点でマッカーサーが紳士として約束したことは相当効果があったと言えます。
実は世界の食糧事情は、その後さらに悪化し、ヨーロッパでも飢餓が囁(ささや)かれ、中国、
インドでは、飢餓が発生しています。普通ならば、敗戦国日本は懲罰的な飢餓を強いられても
不思議でない状況でした。
354 :
岡崎久彦:02/08/09 01:18 ID:61sd8v1Y
二十一年五月一日のメーデー以降「米よこせ」運動が激しくなり、十九日の食糧メーデーには
二十五万人が参加し、坂下門から皇居内にまで押し入りました。
二十日、マッカーサーは「規律なき分子が今開始している暴力の行使は、今後継続を許さない」
と警告する一方、翌二十一日吉田をGHQ(連合国軍総司令部)に招いて、「自分が最高司令官で
あるかぎり、日本国民は一人も餓死させない」と約束します。
その約束通りGHQは、六月、七月にかけて二十万トン、そして八月、九月には、それぞれ
二十万トンの輸入食糧を放出し、ようやく日本は最悪の時期を乗り切ります。東京都民について
は、七、八月が配給の九割以上、六、九月は七割以上が輸入食糧でした。
当時の日本人は、戦勝国アメリカが敗戦国日本の飢餓を救ったこの食糧をみて、「アメリカと
いう国はすごい国だ。とうてい敵(かな)わない」と感じたといいます。今でも日本にある親アメ
リカ感情、信頼感の裏には、一部こういう戦後の経験があると言えます。
このマッカーサーの約束を聞いて、吉田は「さあ、これで内閣を作ってもいいんだ」と側近に
語っています。吉田は大命を受けた時から、「今度の内閣は食糧内閣だ。農林大臣が一番大事だ」
と言って、石黒忠篤、東畑精一、和田博雄などの意見を求めていたのですから、この時の感想は
切なるものがあります。
355 :
岡崎久彦:02/08/09 01:19 ID:61sd8v1Y
赤旗を振る群衆を見ながら、吉田がマッカーサーの動きを今か今かと待っていた気持ちもよく
わかります。
ただ、戦後の吉田神話の中で、わざと組閣を遅延させてマッカーサーの譲歩を引き出したと
いう話がありますが、組閣の経緯からみても、故意の遅延というのは無理です。
またマッカーサーにとっては、陛下への約束から食糧メーデーへの流れが、そうさせたので
あって、吉田内閣の組閣の遅延などが圧力になったとは考えられません。
吉田茂については、その後も数々の吉田神話が生まれています。それは、占領から講和条約
に至る激動期に、七年余にわたって総理を務めたから当然のことではあります。
しかしその中には、戦後の偏向史観と結びついたものもあります。その最たるものは、戦時
中は軍に反抗して投獄されたリベラリストであり、戦後はダレスアメリカ務長官の圧力に抗
して日本の平和憲法を護り、軍備はアメリカに頼り、日本の経済発展に専念するという吉田
ドクトリンを作った、洞察力ある大政治家という神話です。
356 :
岡崎久彦:02/08/09 01:19 ID:61sd8v1Y
≪重光、東郷に一歩譲る≫
吉田茂はそんな人ではありません。外交官としての識見、洞察力では、重光葵、東郷茂徳に
一歩を譲らざるを得ず、またその言動も、満州時代には田中義一より積極的な国権拡張論、
イギリス大使時代には英側が辟易(へきえき)するほどの日英協調論、新憲法審議では不必要な
までの自衛権否定論を唱えるなど、殆(あや)うさがつきまとう人物です。
他面その独特な人間的ゆとりから生まれるユーモア、人間的魅力があり、マッカーサーとの
間によく信頼関係を打ち立て、マッカーサーの占領政策に協力しつつ天皇制を護持し、平和条約
を達成した偉大な功績はあります。
むしろ、英雄崇拝の対象とするよりも、吉田もまた幣原と同じように、占領の困難と屈辱の
中で、苦心惨憺(さんたん)して国益を守った愛国者の一人としての同情と評価が与えられるべ
きでしょう。
百年の遺産-日本近代外交史(66)」
357 :
岡崎久彦:02/08/09 01:36 ID:61sd8v1Y
【新憲法制定まで】
天皇制護持の代償だった「九条」
(産経新聞2002年6月18日掲載)
昭和二十一(一九四六)年一月二十四日の幣原喜重郎との会談で、戦争放棄を日本側の
発意とさせることにしてから、マッカーサーの極秘作戦は一瀉(いっしゃ)千里でした。
さきにモスクワ外相会議は極東委員会を設置し、それに憲法問題を扱う権限を与えること
を決定しました。
そのアメリカ代表になるマッコイが打ち合わせのため一月後半訪日したのに対して、
マッカーサーは「モスクワ協定を忠実に守って憲法問題には介入しない」と言いながら
「日本政府の自発的発意に任せきっている」と、微妙な留保をしています。マッコイは
この留保に気づかず、後で事態の進展に愕然(がくぜん)とします。
このやりとりをみても、幣原が「これは自分の発意だ」と言うことが、マッカーサーの
作戦にとって絶対必要だったことがわかります。
他方、マッカーサーは、二月二十六日の極東委員会発足までに既成事実を作るべく作業を
急ぎます。
358 :
岡崎久彦:02/08/09 01:38 ID:61sd8v1Y
二月三日、マッカーサーは天皇制の維持と戦争放棄を大原則とする憲法案を、二月十三日に
日本側に手交できるよう部下に作業を命じます。
実は日本側は、一月中かかって新憲法案を練りに練って作製し、すでにその英文をGHQ
(連合国軍総司令部)に手交してあったので、十三日のアメリカ側との会合はそのコメントだと
思っていました。
ところが、日本案は受け容(い)れられないと申し渡されたうえ、想像もできない異質の案を
与えられたのです。
359 :
岡崎久彦:02/08/09 01:38 ID:61sd8v1Y
≪アメリカ案は検討もせず≫
日本側の反応は、こんな案は受諾不可能ということでした。受理後一週間閣議で検討すること
もせず、ただ、日本案の真意を説明させて欲しいと要求し続けましたが、ついに二十日中に受諾
するか否かの最後通告を受けます。
そこで、二十一日の幣原・マッカーサー会談で、幣原が「日本がリーダーシップをとっても
誰もついてきませんよ」という懐疑的なコメントをした後は、もう幣原はアメリカ案に抵抗し
ていません。
むしろ、二十二日の閣議では、幣原は日本案とアメリカ案は原則において異ならないと強弁
したらしく、安倍能成文相は「アメリカ案を受諾できないとは言わないが、天皇制や戦争放棄
についての条項は、随分違うではないか」と指摘しています。そんなことは幣原は百も承知
だったでしょう。幣原の心情は哀れです。
今から考えれば、現行憲法、とくに憲法九条は天皇制護持の代償だったと言ってよいでしょう。
従来、ドイツは占領が終わり、独立を回復するまで憲法を制定しなかったのと較べて、日本の
対応が批判されていますが、当時の日本人としては、他の選択肢はなかったでしょう。
360 :
岡崎久彦:02/08/09 01:40 ID:61sd8v1Y
七月二日になっても、極東委員会が決定した原則の選択肢の第一は天皇制の廃止だったような
状況です。極東裁判も進行中です。明治以来の忠君愛国の精神に育てられた日本人としては、
少しでも天皇制を守れなくなるか、あるいは天皇に裁判出廷の辱(はずかし)めを受けさせる可能性
を受諾することは不可能事でした。
当時としてはあり得ない仮定ですが、もし仮に天皇制よりも主権国家の尊厳の方が大事と考えて、
GHQの憲法案を拒否したらどうなっていたでしょうか。ここでマッカーサーの占領政策は大蹉跌
(さてつ)をきたすことになり、そこから先はもうわかりません。冷戦の始まりがまだ一般に認識さ
れず、ソ連の発言力が強い時期です。また折から食糧の端境期を迎え、食糧の放出を懇願しなけれ
ばならない時期です。どんな苦難が待ち構えていたか、今は知る由もありません。ともあれ当時は
誰も彼もが何の迷いもなく天皇制護持の方を選択しました。
憲法最終案は、三月五日の閣議の逐条審議では、種々の意見も出ましたが、もう反対が無益なこ
とは、皆わかっていました。そして三月六日、「朕(ちん)さきにポツダム宣言を受諾せるに伴い」
「憲法に根本的な改正を加えてもって国家再建の礎を定めん」という詔勅(しょうちょく)が下され、
同時に幣原は、「全世界に率先して戦争の絶滅を期すべきであります」と、その後死ぬまで繰り返す
勧進帳を読み上げます。
361 :
岡崎久彦:02/08/09 01:41 ID:61sd8v1Y
≪唯一重大な芦田修正≫
新憲法案は、六月に衆議院に上程され、十月七日可決され、十一月三日公布されました。
その間修正は三十カ所でしたが、ほとんど全ては、GHQの指示によるもので、GHQの意向
だと囁(ささや)かれるだけで、もう誰も異議を唱えず採択されました。唯一日本側の重大な修正
は、憲法九条の芦田修正でした。
この修正で、憲法は自衛戦争を禁止せず、自衛のための軍備を持てるという解釈の余地を残し
ました。
それはまた、自衛権まで否定すべきでないというケーディスの考えと合致し、ケーディスは
二つ返事で、この修正を受諾します。
極東委員会も、この修正が再軍備につながる点に気づき、文民統制条項を挿入させました。
つまり文民統制があれば、自衛のための再軍備を許容するのが極東委員会とGHQの判断
でした。
362 :
岡崎久彦:02/08/09 01:47 ID:61sd8v1Y
しかし、吉田茂は「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われた」などと言って、
国家の正当防衛権を否定する答弁を繰り返します。
芦田均にもケーディスにも極東委員会にも明確に見えていた問題の本質が吉田には
見えていなかったのです。
これがその後の憲法解釈の混乱のもとになります。
百年の遺産-日本近代外交史(67)」
363 :
卵の名無しさん:02/08/09 05:01 ID:+k1KSdJu
地下室の話が出ると必ず出てくるこのガイキチ荒らし
今日は統領さまの地下室視察巡回日です。
365 :
卵の名無しさん:02/08/09 07:41 ID:+jjcvGk5
荒らしはもしかすると地下室の責任者か?
366 :
卵の名無しさん:02/08/09 08:15 ID:PUOBuCxw
知らないうちにゾロスレッド増えたなあ。
ここの荒らしの目的達成か?
ゾロスレッドいくつできた?
368 :
卵の名無しさん:02/08/09 13:51 ID:UNvN6Oiu
給料いくら?
30歳で800万円ぐらいですか?
369 :
卵の名無しさん:02/08/09 19:24 ID:U02TpB4C
効き目悪し
>>367 >ゾロスレッドいくつできた?
STSスレがなくなったね。
栄枯盛衰、人気のないスレは落ちぶれる。
371 :
卵の名無しさん:02/08/09 21:14 ID:GmqNM1aU
>>368
大手のMRで30歳なら年収は750〜800万円
外資のMRで30歳なら年収は850〜900万円ぐらいだ
373 :
卵の名無しさん:02/08/09 22:00 ID:RYvIWWWM
荒らしがでるぞ。
地下室の話題に敏感に反応するのだ、この荒らしは。
374 :
岡崎久彦:02/08/09 23:11 ID:61sd8v1Y
【東京裁判の矛盾】
独との違いをまったく無視
(産経新聞2002年6月19日掲載)
一九四六(昭和二十一)年五月に始まった東京裁判の法的な欠陥の多くは、その半年前に
始まったニュルンベルク裁判を、そのまま踏襲したところから発します。
ドイツの場合は、敗戦で政府が消滅し、裁判条例に「ドイツが無条件降伏した連合国の
至上の立法権に基づく」とある通り、占領軍が絶対権力を持っています。
極端な話、罪刑法定主義は文明国の大原則ですが、主権行為はそんなものにとらわれない
といえば、裁判など面倒なことをせず、勝手に捕まえて縛り首にするのも主権行為です。
裁判中のどんな法的無理もこれで解決できます。
しかし、日本は主権国家としてポツダム宣言を受諾した点、ドイツとは違うのですが、
占領側が強引にその歴史的経緯をご破算にしたのは、すでにみてきた通りです。
375 :
岡崎久彦:02/08/09 23:12 ID:61sd8v1Y
また、対独裁判の大きな動機はユダヤ人のホロコーストでしたが、それが何の関係もない
日本に持ち込まれて、戦時中の越軌事件に過ぎない南京事件までホロコースト並みの意図的
な大虐殺事件に格上げされた、その無理の後遺症がいまだに残っています。
≪独と同じでは死刑なし≫
しかもその結果、量刑がドイツより重くなっています。ドイツの場合、ナチスの凶悪な犯罪
に加担した人は死刑ですが、単に戦争を遂行したという人は死刑になっていません。
ウエッブ裁判長自身、補足意見で、ドイツと異なる基準を用いない限り、日本人は誰も死刑
にならない、と指摘しています。おそらくドイツ人を死刑にしたから、日本人も、という
バランス感覚?がそうさせたのでしょう。
平和時の法治国家の基準で裁判を見直せば、大学の法科一年生でもみつかるような瑕疵(かし)
だらけの裁判でした。
376 :
岡崎久彦:02/08/09 23:12 ID:61sd8v1Y
常識で考えても、平時ならば、公平な裁判で一人を死刑にするのには何年もかかるのに、
数十名の人々の十五年間にわたる行動とその責任を論じ、七人を処刑する裁判を二年半でできる
わけがありません。
これを進める唯一の方法は、最初に検事の陳述で筋書きを示し、都合のいい証言だけを採択し、
筋書きに合わない証言は却下して、筋書き通りの判決を出すしかありません。それがまさに現実
に行われたことでした。
アングロ・サクソン系の法制度も、最も悪い形で適用されました。検察官というのは、大陸系
の法制度では公共の利益を考える公正な態度が要求されますが、英アメリカ系では、弁護側と
対等の立場でお互いの主張を戦わせ、中立公正な裁判官が両者の言い分を聞いて判断を下すと
いう形になっています。
とすると、裁判官が中立国でなく戦勝国側であるということで、すでに英アメリカ系の法制度
は機能不全に陥っているわけです。この点は、ウエッブ裁判長自身が偏った経歴の人物であること
もあって、当初から厳しく指摘されています。
また、英アメリカ法では、検察、弁護両側が勝手に怪しげな証拠を持ち出して素人の陪審員を
惑わすのを防ぐため、公正な裁判官による証拠の採用不採用の権限が強くなっています。
その裁判官が戦勝国側では話になりません。
377 :
岡崎久彦:02/08/09 23:13 ID:61sd8v1Y
≪お粗末な検察側の証拠≫
敗戦後半世紀経った平成七年に、小堀桂一郎氏などが、東京裁判の却下資料を公刊しましたが
、実に厖大(ぼうだい)なものです。それに引き換え、たとえば、南京事件で採用された検察側の
証拠、証人のお粗末さはパール判事が一つ一つ的確に指摘しているところです。
戦争裁判について最も根本的な疑問が投げかけられるのは、法の不遡及(ふそきゅう)の問題です。
つまりある行動の時点で、それが処刑の対象とならない行動は、その後制定された法に反しても
処刑されないという法治国家の大原則です。
ただ、一九三五年のナチスの法律は「健全な国民感情」に従えば処罰することを許しています。
今の日本でも、マスコミの総攻撃(健全なる国民感情?)の下の社会的制裁で、個人の権利、自由が
奪われることは少なくありません。自由主義、個人主義的な発想ならば、こういう場合、個人の
権利、自由を守るのが法治国家ですが、現実は違います。戦争裁判の場合も、戦勝国の国民感情
が入ってくるのは避け難いでしょう。むしろ、偽善的な説明よりも、ナチスの法理論を引用した
方が正直だったかもしれません。
378 :
岡崎久彦:02/08/09 23:14 ID:61sd8v1Y
また、パリ不戦条約の違反を挙げる論もありますが、条約をまとめたケロッグアメリカ務長官
自身、自衛戦争かどうか自分の国が決めると留保している通り、留保の多い条約で、とても裁判
に引用できるような法的根拠たり得ません。また、仮に条約違反としても、その理由で個人を
処刑の対象とするには、法的に大きな飛躍が必要です。
ここでは識者の言を引用しましょう。
「ニュルンベルクは正義ではなく、復讐(ふくしゅう)心の表現であり、戦犯の処刑はアメリカ
の歴史の汚点となり、おなじ過ちが日本で繰り返されないことを望む」−−ロバート・タフト。
この過ちが繰り返されたのです。
「勝者が与える定義によって、いわゆる裁判を行うことは、敗戦者を即時殺戮(さつりく)した
昔とわれわれの時代との間に横たわる数世紀にわたる文明を抹殺するものである」−−パール判事。
百年の遺産-日本近代外交史(68)」
379 :
岡崎久彦:02/08/09 23:16 ID:61sd8v1Y
【東京裁判最大の欠陥】
死後まで屈辱的な戦犯の扱い
(産経新聞2002年6月20日掲載)
東京裁判は、裁判の管轄権、裁判手続きで瑕疵(かし)だらけの裁判でしたが、裁判の内容に
ついて言えばこれまた数多くある欠陥の中で最大のものは、まさに「平和に対する罪」の訴因
第一の「共同謀議」であります。 つまり、被告全員は、昭和二(一九二七)年の田中義一内閣
以来、共同謀議によって極東侵略を計画し、次々に侵略戦争を行ったという主張です。
これについては、どの被告も冗談じゃない、皆ああだこうだ言いながら、状況に押し流されて
こうなったので、意図的な計画があって着々と実行したなどととうてい言えない、と言って、
この主張に終始、苦笑し、冷笑し、憫笑(びんしょう)しました。
380 :
岡崎久彦:02/08/09 23:17 ID:61sd8v1Y
東京裁判がいまだに、誰一人からも尊敬されていない主な理由はここにあります。
検察側もこれに気づいて、「具体的な計画や謀議はなくても、漠然と国家利益のための武力
行使について被告の間に同じような考え方が存在していた」といっていますが、高柳賢三弁
護人に言わせれば、そんなことを言えば、イギリス、フランス、さらにはアメリカ、ロシアの
国家としての発展を担った全ての政治家、将軍は共同謀議の罪に問われることになります。
≪史上最悪の裁判≫
オランダのレーリンク判事は、ウィロビーとテニス仲間でしたが、裁判が終わって別れを告げ
にいった時のウィロビーの言葉を伝えています。
「この裁判は史上最悪の偽善です」「こういう種類の裁判が開かれるのなら、私は自分の息子
に軍に入隊することを禁じるでしょう。もし、日本が置かれたような状況ならば、アメリカも
日本が戦ったように戦うでしょう」
381 :
岡崎久彦:02/08/09 23:17 ID:61sd8v1Y
「ハル・ノートならばモナコといえども戈(ほこ)を取った」とパール判事も引用しています。
最後に刑の執行を命じるのは、マッカーサーの責任でした。マッカーサーの回想録は語って
います。
「私は長い公的生活で、数多くの辛く惨めな任務を果たしてきたが、この判決を審査するほど
不愉快極まるものはなかった。私はこの問題を評価するに必要な卓抜した英知を持っていない。
この問題は人類が歴史以前から解決に苦しんできたものだ。完全な解決は永久にないであろう」
このような裁判で処刑された人々の無念さは想像にあまりあります。彼らは従容として死に
つきました。しかし、それは判決に納得したからではなく、日本の国家と国民に対する敗戦の
責任を感じたからです。
獄中で病死した東郷茂徳は歌っています。
我はここに慎み居れり但(ただ)しこれ御国に対するものとこそ知れ
東条英機の獄中での句と言われるものがあります。
382 :
岡崎久彦:02/08/09 23:18 ID:61sd8v1Y
身を千々に砕きさくとも償(つぐな)えじ栄ゆる御世を堕(おと)せし此の身は
覚悟の上とはいえ、その扱いは最後まで意図的に屈辱的でした。死に際しては何の尊厳も認め
られず、獄衣のまま絞首刑に処せられ、遺骨は家族に渡すことも拒否されました。わずかに、
アメリカ軍が骨灰を捨てたゴミ捨て場を察知した弁護人達が、クリスマスでアメリカ兵の警戒
がゆるんだ夜、骨灰を掬(すく)い上げ、これを愛知県幡豆町三ケ根山頂に葬ったのが「殉國七士墓」
です。
383 :
岡崎久彦:02/08/09 23:19 ID:61sd8v1Y
≪誰もが戦争犠牲者≫
その後、講和条約発効と同時に、服役中の同胞釈放運動が起こり、講和条約の規定を守って
関係各国と交渉して、昭和三十三年までに全員が釈放されました。
これと並行して戦争裁判の刑死者など遺族に対する恩給、年金支給の運動が起こり、当時の
左右社会党を含む全会一致で可決されました。
通常懲役三年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されますが、戦争裁判の刑死者などは
日本国内法の犯罪者でなく、戦争犠牲者であると考える点で、当時の国民には何の迷いもな
かったわけです。
そして、その恩給、年金の対象リストを参考にして、政府は靖国神社への合祀(ごうし)予定者
を選考し、これに従って戦争裁判受刑者は逐次(ちくじ)合祀され、ここに戦争裁判犠牲者の御霊
(みたま)は終(つい)の安住の地を得たわけです。
ちなみに昭和天皇がA級戦犯合祀に反対されたという説があります。前後関係はわかりません
が、昭和天皇のご心情から考えれば、何かの誤聞でしょう。
384 :
岡崎久彦:02/08/09 23:21 ID:61sd8v1Y
実は、昭和二十年九月十一日、アメリカ軍憲兵が東条を逮捕した時、日本側はこれに抗議し
て、以降戦犯の逮捕は占領軍の命令に従って日本側が行うこととしました。そして、閣議では
戦犯の裁判も日本の手で行うことをGHQ(連合国軍総司令部)に要求することを決定しました。
ところが、この決定に昭和天皇から異議がでました。「昨日までひたすら忠誠を尽くした
臣僚を、朕(ちん)の名において処刑することは、朕においては忍びない」
これに対して重光葵が、占領軍がこれに同意する可能性はないが、日本の主権を擁護する
ため要求せざるを得ないとご説明して、やっと「わかった」と仰せられたといいます。
昭和天皇にとっては、東条を含むA級戦犯は全て忠良な臣僚です。その靖国合祀に反対
されることは、昭和天皇のご心情からいって考えられないことです。
百年の遺産-日本近代外交史(69)」
385 :
岡崎久彦:02/08/09 23:22 ID:61sd8v1Y
【『閉された言語空間』】
傷跡深い占領時代の言論統制
(産経新聞2002年6月21日掲載)
江藤淳氏は平成十一年、「いまや残っているのは江藤淳の形骸(けいがい)に過ぎない」という
絶望的、自己否定的な言葉を残して自殺しました。
しかし、その十年前、平成元年に彼が世に問うた『閉された言語空間』こそ後世に残る彼の
事業です。
その冒頭、江藤氏は、文芸評論家として毎日文芸作品を読んでいるうちに、自分達が住んで
いる「言語空間が、奇妙に閉され、かつ奇妙に拘束されている」もどかしさを感じ、そのルーツ
を探って辿(たど)りついたのが、占領時代の言論統制だったといっています。
私自身も、三十年来日本の安全保障を論じてきましたが、最もしばしば受けた批判は
「それは間違っている」という批判でなく、「そんなことを言っていいのか」という警告
でした。私に「いいのか」と訊(き)かれても、返事のしようがありませんが、警告した本人は、
明らかにそういうことを言わない自己統制をしているわけです。私の感じたのは、安全保障論の
禁忌(タブー)でしたが、江藤氏の感じたのは、「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼を
崩壊させようという意図」です。
386 :
岡崎久彦:02/08/09 23:23 ID:61sd8v1Y
文学者にありがちな短絡(たんらく)や思い込みはあるのでしょうが、日本を根こそぎ変えると
いうケーディスなどの意図が言論統制政策に当然反映されていたと考えれば、正確な指摘かも
しれません。
占領軍の検閲は大作業でした。一カ月に扱った資料は、新聞、通信三万、ラジオ・テキスト
二万三千、雑誌四千、その他出版物七千にのぼり、四年間で三億三千万の信書を開封検閲し、
八十万の電話を盗聴したといいます。
そのためには、高度の教育のある日本人五千名を雇用しました。給与は、当時、どんな
日本人の金持ちでも預金は封鎖されて月に五百円しか引き出せなかったのに、九百円ないし
千二百円の高給が支給されました。
その経費は全て終戦処理費ですから、占領軍は、日本国民の税金で金に糸目をつけずに
優秀な人材を集めたわけです。
今はそういう人達の過去は隠されていますが、敗戦の窮乏(きゅうぼう)の中で恥を忍んで
この作業に従事したのでしょう。
387 :
岡崎久彦:02/08/09 23:24 ID:61sd8v1Y
《日米の憲法違反》
そもそも検閲は極秘作業でした。何時(いつ)開始され、何時終わったかも公表されていません。
それは当然です。それはポツダム宣言第十項の「言論、思想の自由の尊重」の違反です。
また、これに従事するアメリカ民にとっては合衆国憲法違反、日本人にとって新憲法違反です。
したがって、検閲が存在するということに言及すること自体が、真っ先に検閲の対象となり、
これが予想外の大きな影響を生み出します。
戦前、戦中の日本の検閲は、削られた部分が××の伏せ字となっていたので、その前後の
文脈から推測すれば、おおよそそのいわんとするところはわかりました。検閲される方も、
自分の考えを譲る必要はなく、昂然(こうぜん)と、削りたければ削れといってもよかったわけです。
しかし占領下の検閲では、文章の基本的な構想、その背後の発想まで変えないと論理的な
文章になりません。それを拒否すれば、文筆を業とする者は生活の資を失います。
388 :
岡崎久彦:02/08/09 23:25 ID:61sd8v1Y
それを毎回するということは思想の改造を強いられることです。
歴史家ダワーは、「日本人は、すぐにその新しいタブーに従って自ら検閲することを覚えた。
誰も最高権力に勝てないことを知っていて、敢(あ)えて挑戦しようとしなかった」「勝者は、
民主主義と言いながら、考え方が一つの方向に統一されるように工作した。あまりにもうまく
それに成功してしまったため、アメリカ人などは、それが日本人の特性であると考えるに至った」
と言っています。
389 :
岡崎久彦:02/08/09 23:25 ID:61sd8v1Y
《占領後も維持、増幅》
そしてそれが七年続いた後、アメリカ自身は左翼的な考えを捨て去ってしまいました。
ところが、今度は日本の左翼の言論、教育により、それが維持、増幅されたため、いまだに
占領初期の政策に迎合することが戦後日本思潮の底流となっていることは、江藤氏が鋭く感じ
取った通りでしょう。
検閲の対象は広範囲にわたります。占領政策批判、東京裁判批判、新憲法制定の経緯などは
もとより、アメリカ英ソ中朝鮮について、戦前からの全ての行動の批判、戦後の日本の悲惨
な世相、占領軍の放恣(ほうし)な行動批判等々にとどまらず、冷戦等外部世界への言及も含
まれました。
ダワーは「連合国はいかなる罪も犯していないという神話は非現実的、超現実的な世界を
生み出した。
390 :
岡崎久彦:02/08/09 23:28 ID:61sd8v1Y
日本人は、アメリカソ同盟はすでに崩壊したこと、中国が国共に分裂したこと、アジアで
反植民地闘争が再び起こっていることなど知らない時間のひずみ(タイム・ワープ)に閉じ込
められ、第二次大戦の勝者のプロパガンダを繰り返し聞かされるだけだった」と書いています。
それはまさに、戦後半世紀の安保論争で痛切に感じられたことです。国の安全というのは、
国際軍事バランスの中で相対的なものですから、まず国際情勢の分析が先にくるべきもの
なのに、日本国内の議論は、外の環境に目をつぶって、過去の戦争の悲惨さと憲法の条文だけ
で議論していました。日本の宿弊である情報軽視の戦後の源流もここにありましょう。
百年の遺産-日本近代外交史(70)」
391 :
岡崎久彦:02/08/09 23:28 ID:61sd8v1Y
【片山内閣と芦田内閣】
民政局に振り回され短命に
(産経新聞2002年6月22日掲載)
昭和二十二(一九四七)年二月一日の二・一ストの前は、共産革命前夜のような雰囲気
でした。それがGHQ(連合国軍総司令部)のスト中止命令で一気に収まったことを考えると、
それは単なる虚勢かムードだったかもしれません。他面、革命というものは、ひょんなこと
から起こりますから、真の危機だったかもしれません。ともあれ、GHQの介入で潮流は
変わり、日本の革命高揚期も短いエピソードに終わります。
四月の総選挙では、社会党が百四十三で第一党、自由党は百三十一、民主党は百二十四
でした。ここで吉田茂は連立の誘いを拒否し野に下ります。これが吉田の政治キャリアの
中で最良の判断でした。
憲法制定もすんで、後継内閣はとくに力を結集する目標がありません。
平和条約を動かすには、まだ機は熟せず、経済は誰がやっても絶望的な状況です。
政治はニューディーラー達が横行跋扈(ばっこ)した時期で、誰がやっても評判が良くなる
はずがありません。事実、国民の絶望が深まるにつれて吉田自由党政権への期待が高まって
いくこととなります。
392 :
岡崎久彦:02/08/09 23:29 ID:61sd8v1Y
≪GHQが内政干渉≫
この間のGHQ民政局の臆面(おくめん)もない内政干渉ぶりは、日本の恥辱だけでなく、
アメリカの恥でもあり、書くのも恥ずかしいくらいです。
片山哲社会党内閣の出現は、もとより左翼ニューディーラー達は歓迎しましたが、その
組閣にまで介入した結果として内閣を潰(つぶ)してしまいます。平野力三農相はダメだと
いうのです。表向きの理由は、平野が戦時中の農民団体の指導者だったことですが、本当の
理由は、平野が吉田とウィロビーに近いことでした。ケーディスは片山が懇願するにも
かかわらず、強引に片山に迫って平野を罷免(ひめん)しますが、その結果、片山内閣は、
平野派四十名の支持を失い、また、今度は社会党党内の発言力が増した左派の統制が困難
となり、辞職してしまいます。
こうなっても、民政局は、当然の順番である吉田自由党に政権を渡すまいとして、芦田均
内閣を示唆します。国会はGHQのご意向ということで芦田を指名します。
393 :
岡崎久彦:02/08/09 23:30 ID:61sd8v1Y
その芦田内閣は、やがて昭電疑獄で倒れますが、その裏には、昭電の日野原節三社長が、
時の権力者芦田内閣と民政局に大規模な接待工作をしたのをとがめようとした、GHQの
反ケーディスの動きがあったといいます。
日本の政治は、まだダワーの言う時間のひずみ(タイムワープ)の中でしたが、国際情勢
は急速に変わり、冷戦は必至の情勢でした。ウィロビーなどの現実主義者からみると、
ケーディスなどのやっていることは、危なっかしくて見ていられなかったのでしょう。
日本という冷戦を勝ち抜くための大きな財産を、むざむざ公職追放、財閥解体で無力化し、
日本国内の左翼勢力を甘やかしてばかりいるのです。
ケーディスは、鳥尾鶴代元子爵夫人を愛人としたりして、「植民地生活(コロニアルライフ)」
を満喫していましたが、ウィロビー系のMP(憲兵)は、警視庁に命じて二人の密会の写真を
得ようとします。警察は二人のキスの現場を撮るまでは成功しますが、物音をたてて気づかれ、
警察の責任者は、ケーディスの逆鱗(げきりん)にふれて左遷された、という植民地的エピソード
さえあります。
394 :
岡崎久彦:02/08/09 23:31 ID:61sd8v1Y
芦田の失脚後も、ケーディスはあきらめず、吉田内閣を阻止しようとして、自由党総裁の
吉田でなく、幹事長の山崎猛を総理とするよう示唆します。GHQのご意向ということで、
それが通りそうな形勢でしたが、吉田は同意せず、山崎は潔く議員を辞職して、票が山崎に
流れる可能性を封じました。そして吉田は、百八十五票で少数単独内閣を組織します。
しかし、一般の吉田自由党への期待は高く、吉田は当然解散総選挙に訴えようとします。
それに対して、野党側から、新憲法の下では、総理による一方的な解散権の行使に疑義が
あるという珍説が出され民政局はそれに乗ります。
そもそも議会民主主義にあっては、総理に解散権があり、議会に不信任案提出の権利が
あるのがチェック・アンド・バランスの基本です。新憲法制定後初めてのケースとはいえ、
知的水準を疑うような話です。
吉田は当然解散強行の姿勢です。そこで民政局は妥協案として、当面の懸案処理をすま
せたうえで、社会党が不信任動議を出して、それを可決して解散することになりました。
これがいわゆる「なれあい解散」です。
395 :
岡崎久彦:02/08/09 23:33 ID:61sd8v1Y
≪再び吉田内閣に≫
ここまでくると何の意味もない、ただ占領軍の容喙(ようかい)能力を示すだけの
内政干渉です。権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する、というアクトン卿
の言葉が思い出されます。
昭和二十四年一月の総選挙では、吉田民自党は二百六十四議席と圧勝します。
ケーディスはその前の年末にワシントンに出張します。このままでは占領の目的が
達成できないと、政府に説くつもりだったようですが、それに成功の見込みなしと見極め
ると、辞表を出して、それきり日本には帰ってきません。
吉田茂の最終勝利です。また、吉田が目ぼしい官僚から立候補させた子飼いの議員が
続々と当選して、吉田長期政権の基盤がここにできます。
百年の遺産-日本近代外交史(71)」
396 :
岡崎久彦:02/08/09 23:34 ID:61sd8v1Y
しかし、時間のひずみ(タイム・ワープ)の中に閉じ込められていた日本ではGHQ
(連合国軍総司令部)の民政局は、日本が再び戦争を起こさないように、日本を抜本的に
改造するという、第二次大戦の延長以外の考え方を遮断しています。
マッカーサーも自分が有力候補である四八年の大統領選を前にして、自分の占領政策
を誤りだというのは、大統領選がらみの政治的陰謀と考えて、ケーディスと一緒になって
反発しました。
しかし、候補選でデューイに敗れたことは、二重の意味で占領政策の転換を促進します。
一つは、ワシントンがマッカーサーの権威に抗して占領政策を変更しやすくなったこと、
もう一つはマッカーサー自身が政治的野心を絶ち、リベラル側世論への配慮が不必要に
なったことです。
397 :
岡崎久彦:02/08/09 23:35 ID:61sd8v1Y
≪動きだす知日派≫
しかし、ケーディス健在の間はペンタゴンやケナンの意見はなかなか通らず、むしろ
影響力があったのは、そもそも占領政策に初めから関与すべきところを疎外されていた
民間の知日派の動きでした。
四八年三月には、グルーを名誉会長とし、ドーマンなどの知日派を集めた対日協議会
が発足します。活動の中心となったのは、ニューズウィークの外交問題編集局長ハリー・カーン
です。カーンは戦前からの日本の指導層と親しいコンプトン・パケナムを東京顧問とします。
パケナムは牧野伸顕などに接触した結果、カーンに対して「日本の占領は失敗に次ぐ失敗
だったことは疑問の余地はない」と報告し、その趣旨の報告をニューズウィークに掲載します。
マッカーサーは激怒しますが、ウィロビーは「自分が書けば一字一句同じものとなろう」
と言ったといいます。
398 :
岡崎久彦:02/08/09 23:36 ID:61sd8v1Y
【「逆コース」を歩む】
占領政策転換、足早に成果
(産経新聞2002年6月24日掲載)
吉田茂の民自党が総選挙に圧勝して吉田長期政権が本格的にスタートする一九四九
(昭和二十四)年になると、世界の情勢ははっきりと変わっていました。
冷戦の到来は、チャーチルのような先覚者は、四六年三月の「鉄のカーテン」演説で、
すでに予想していましたが、四七、八年になると、誰の目にも見える政治的現実となり、
四九年四月には、欧州でNATO(北大西洋条約機構)が発足します。
欧州だけでなく対日政策についても、四七年に陸海軍を統合して発足したペンタゴンや、
国務省で冷戦戦略を論じるジョージ・ケナンの政策企画室は、冷戦に即応した対日戦略の
転換を求めます。
399 :
岡崎久彦:02/08/09 23:37 ID:61sd8v1Y
対日協議会は、アメリカ議会内でも活発な親日ロビーの活動をしますが、要は日本の
経済活動を制限するような諸施策を中止し、日本を経済復興させ、アメリカの良き
パートナーに育成するべきだということです。
カーンはその後、日本の左翼マスコミの憎悪の対象となります。六〇年安保で
全学連世代が、今となっては全く意味もなく憎悪の対象とした岸信介と近く、グラマン
疑惑にもからんで、右翼の黒幕という印象を持たれました。
しかし、それは、日本に好意的なアメリカ人を憎悪の対象とするという戦後日本の
倒錯した心理現象の一例と考えた方が正確でしょう。
400 :
岡崎久彦:02/08/09 23:38 ID:61sd8v1Y
優秀なアメリカ人が、白紙の状態で日本を訪れると、日本人の民度、技術力の高い
のに驚き、何よりも日本人が正直で信頼できるのに感嘆し、アメリカの世界政策の
パートナーとすべきは日本だと感じます。そして、その政策論としては、必然的に
日米同盟の強化と日本の防衛力の強化となります。
ところが、冷戦時代の共産側にとっては、日米同盟と日本の軍事力の弱体化が至上
命令です。
しかし、いざという時に日本を敗りやすくさせておくためという本心を言うはず
もなく、戦後日本の平和主義に訴え、日本のいわゆる進歩的文化人、左翼、マスコミ
がこれを支持し、日本に好意的なアメリカ人の言動を敵視するという倒錯した図式が
生まれます。
401 :
岡崎久彦:02/08/09 23:39 ID:61sd8v1Y
≪倒錯した図式≫
その結果、そうしたアメリカ人の多くは、日本はアテにできないということで日本から
離れるか、あるいは中国中心にアメリカの世界戦略を構築する方向に流れます。こうして
冷戦時代の共産側の戦略、そして、無意識にそれに迎合した左翼の言論、教育が日本の外交
に与えた損失は測り知れないものがあります。
占領政策の転換は、四九年の吉田長期政権の本格的スタートと期を同じくして、足早に
成果を挙げていきます。
賠償は四九年に中止されます。日本軍国主義の背後にあって、これを支えた財閥を解体
するというのは、改革派の執念でしたが、四九年に独占禁止法が改正され、旧財閥グループ
に沿った産業界の再編が可能となります。
402 :
卵の名無しさん:02/08/09 23:39 ID:QG/6h03X
363 :卵の名無しさん :02/08/09 05:01 ID:+k1KSdJu
地下室の話が出ると必ず出てくるこのガイキチ荒らし
364 :卵の名無しさん :02/08/09 07:30 ID:GjxBWkoP
今日は統領さまの地下室視察巡回日です。
365 :卵の名無しさん :02/08/09 07:41 ID:+jjcvGk5
荒らしはもしかすると地下室の責任者か?
366 :卵の名無しさん :02/08/09 08:15 ID:PUOBuCxw
知らないうちにゾロスレッド増えたなあ。
ここの荒らしの目的達成か?
367 :卵の名無しさん :02/08/09 10:41 ID:+eTsExyF
ゾロスレッドいくつできた?
368 :卵の名無しさん :02/08/09 13:51 ID:UNvN6Oiu
給料いくら?
30歳で800万円ぐらいですか?
403 :
岡崎久彦:02/08/09 23:40 ID:61sd8v1Y
追放も、吉田は、従来一貫して公式発言で日本の政治、経済再建のために必要な人物の
復帰を求めていましたが、四九年二月追放解除の訴願審査委員会が設けられ、一年半の審査
で一万余名が追放解除されます。
ちなみに追放は、五〇年以降は平和路線を捨てた共産党に向けられ、追放された共産党
幹部は地下に潜ります。
軍国主義体制を支えたとして、地方分権化された自治警察も、維持経費に苦しみ、ほとんど
自発的に辞退、返上しました。
これが当時のいわゆる「逆コース」と呼ばれたものです。
年の遺産-日本近代外交史(72)」
404 :
卵の名無しさん:02/08/09 23:49 ID:Lp/p1qqf
迷門 沢井製薬スレッドを荒らす荒らしについて熱く語るスレッド というのを
だれか立ち上げてくれませんか?
405 :
岡崎久彦:02/08/09 23:53 ID:61sd8v1Y
【安保条約と平和条約】
マッカーサー、非武装に固執
(産経新聞2002年6月25日掲載)
占領は一九五二年の平和条約で終わります。
この七年間という、世界史上異例に長い占領は日本人の心理構造に後々までも深い傷跡を
残すのですが、他面、講和が遅れて良かったという見方もあります。
当初のアメリカ案は、軍隊は禁止、航空機は軍用民用を問わず禁止、軍備に使える産業や
商船隊は制限して、連合国代表が二十五年間日本に常駐、査察するという条件でした。
もっとも五十年経った今となっても、占領中の憲法はそのまま、靖国、教科書などで近隣国
の干渉を受けている現状を思うと、かえって二十五年間屈辱と不条理に堪(た)えて完全な独立
を回復した方が良かったという考え方もあり得ましょう。人間も国家も万事塞翁(さいおう)が
馬です。
日本側からの提案は、一九四七年九月の芦田均のアイケルバーガー宛(あて)書簡が、安保条約
への第一歩です。
406 :
岡崎久彦:02/08/09 23:53 ID:61sd8v1Y
アイケルバーガーは、アメリカ陸軍第八軍の司令官であり、戦争中の日本軍の勇戦に賞讃を惜し
まず、「日本兵一個大隊を率いて戦ってみたい」と言って憚(はばか)らない武人でした。ソ連が
日本に侵入した場合のことを夜も眠れないくらい心配して、日本軍三−五個師団の再建を提案し、
日本再軍備に反対するマッカーサーに一喝されてしまったこともあります。
彼は近づき難い威厳を維持したマッカーサーと較べて、芦田も含め日本の要人達が心を許して
接触していました。
407 :
岡崎久彦:02/08/09 23:54 ID:61sd8v1Y
≪芦田書簡の見事さ≫
芦田書簡の結論は、日米間の特別協定を結び、日本の防衛をアメリカの手に委(ゆだ)ね、日本
の独立を保障するのが最良の手段だということです。
ここに至る芦田の論理の進め方は緻密(ちみつ)で、その後半世紀の安保論争の問題点を全部論
じているといって過言でありません。さきの憲法九条の芦田修正といい、芦田の頭の整理の良さは
抜群です。
もし、占領時代をずっと支配したのが、吉田とマッカーサーでなく、芦田とアイケルバーガー
だったならば、その後の日本の思想の混乱は避けられたかもしれません。
五〇年になると、元旦のメッセージでマッカーサーは憲法九条の戦争放棄を褒めたたえながら
「挑発されない攻撃に対する固有の正当防衛権は否定できない」と述べ、それに呼応して吉田は、
一月の施政方針演説で「戦争放棄は決して自衛権の放棄を意味しない」と述べます。
408 :
岡崎久彦:02/08/09 23:54 ID:61sd8v1Y
武力なしで自衛権行使となると、アメリカに守ってもらうしかありません。現に吉田はその
演説で、憲法の「平和を愛する諸国民」を「平和を愛する民主主義国家」、つまりアメリカと
言い換えて、それとの相互信頼で日本を守ると言っています。この二つの発言の間に、相互の
連絡や意思疎通は当然あったのでしょう。
吉田はその後、池田勇人蔵相を渡米させ、安保条約を日本からオファーしてもよいという意向
をアメリカ側に伝えますが、それはまた、当時マッカーサーが「日本側から言い出すのならそれで
いい」と洩(も)らしていたのとも符合します。
この背後の経緯は、かつての憲法九条についての幣原・マッカーサー会談の例から考えても、
決して外に出ることはないでしょうが、ともあれ日本側からの提案で日米安保条約を結んで
アメリカ軍駐留を受け容(い)れることについて、五〇年前半に日米間に基本的な了解が成立
しています。
409 :
岡崎久彦:02/08/09 23:55 ID:61sd8v1Y
平和条約といっても、アメリカの最大の関心は安保問題だけで、それ以外、領土、賠償、
中国・台湾の問題等若干はありましたが、解決は困難ではありませんでした。
最後の問題があったとすれば、日本によるアメリカの再軍備要求でした。
ジョン・F・ダレスも、戦後の史観では日本に再軍備を迫った敵役のようになっていますが、
苛酷(かこく)な講和に反対して日本を自由世界の一員に迎え入れようとした日本に好意的な
アメリカ人の一人です。
410 :
岡崎久彦:02/08/09 23:56 ID:61sd8v1Y
≪変質した日本人≫
しかし、日本で会った日本人が皆、「憲法九条で平和を守る」とか「国連に期待する」
というのに当惑したといいます。他の思想を遮断された何年もの占領で日本人の考え方が、
もうここまで変質していたのです。
そしてマッカーサーは、もはや過去の行きがかりと意地でしょうが、朝鮮戦争が始まって
も再軍備反対に固執します。
吉田が独りダレスの圧力に抗したという神話がありますが、マッカーサーの意見が変わら
ない限り、遠くからきたダレスよりもマッカーサーとの信頼関係の方が大事なのは自明の
ことです。
仮定の問題として、もしマッカーサーが自説を変えて再軍備に同調していたらどうで
しょう。
411 :
岡崎久彦:02/08/09 23:57 ID:61sd8v1Y
あと一歩で平和条約というツメの段階にきている吉田としてマッカーサーとダレスの両方
に反対し得べくもなく、また後でだんだんとわかる吉田の考え方として再軍備に反対したはず
もありません。
サンフランシスコの平和条約署名式で、吉田は「この条約は公正にして、史上かつてみざる
寛大なもの」と述べましたが、もちろんこれも占領軍と調整済みの発言でした。
吉田は日本語を途中で読み飛ばして全部読んでいません。自分が心血を注いで書いた文章なら、
読み飛ばしなどするはずもありません。これが占領期最後の屈辱的なパフォーマンスでした。
百年の遺産-日本近代外交史(73)」
412 :
岡崎久彦:02/08/09 23:59 ID:61sd8v1Y
【連載を終わって】
新たなアイデンティティーを
(産経新聞2002年6月26日掲載)
ペリー来航から占領の終わりまで、ちょうど百年、それからまたちょうど五十年経ちま
したが、この間、日本はいまだに自らアイデンティティーを見いだせないでいます。
最近でも、日米同盟の維持に反対でない人々の間でも、反アメリカ的言動が多いのは、
どこかに日本のアイデンティティー、あるいは日本外交の主体性を見いだそうという心情
があるからでしょう。
たしかに、その前の日本には強烈なアイデンティティーがありました。世界に誇る文治
社会を作った徳川三百年、明治の忠君愛国、日本人自らの手で達成した大正デモクラシー、
アジアの霸者(はしゃ)として矜持(きょうじ)を持った戦争期、そして全体を貫くサムライ
精神です。
それが今は失われているのです。
413 :
岡崎久彦:02/08/09 23:59 ID:61sd8v1Y
アメリカと協力しようとしまいと、それは日本が自然権を行使できる自然体の国家となれば、
自分で国益に基づいて判断することです。
それなのに、自分で自分の手を縛っておきながら、自らを責めず、よその国−−日本の
重要な同盟国−−に恨(うら)み言(ごと)を言い、楯ついてみせて主体性を求めるという
惨(みじ)めなことになっているのが現状です。
414 :
岡崎久彦:02/08/10 00:00 ID:g4lgjM+4
≪淵源は占領期≫
その淵源(えんげん)を探ると、それは占領期にあります。占領中の改革の中でも、言論、
結社の自由、婦人参政権、労働組合法、農地解放などは、日本社会成熟の歴史的必然と、
戦争と敗戦という社会の激変の結果として、占領軍の指示や新憲法を待たず、日本側の
イニシアチブで着手され、明治憲法の下に法制化されたもので、これは、そのまま日本の
社会に根づいています。
それに反して、歴史的必然でもなく、日本人の意見でもなかったもの、即ち言論統制、
公職追放はもとより、財閥解体、自治体警察などはすぐ消え去ってしまいました。
結局、日本人がいまだに納得もせず、違和感を持ち続けているのは、憲法九条と東京裁判
です。これに憲法と一体のものとして考えられている教育基本法を加えることもできましょう。
これがアメリカの占領が終わってからも、今度は、国際的国内的左翼勢力によって維持、
増幅、定着されてきたことが問題です。
415 :
岡崎久彦:02/08/10 00:00 ID:g4lgjM+4
憲法九条と東京裁判には、たしかに日本の中の左派、平和主義者の支持はありました。
しかし、それは既成事実があったうえでの支持であり、戦後どの時点をとっても、国民の
自発的意見を問えば、そんなものが国民多数の選択になった可能性は、客観的に言ってゼロ
でした。
憲法九条は、幣原喜重郎以外誰一人関知しないことです。昭和天皇から共産党に至るまで、
日本人の誰の発想にもなかったことです。これに反対すれば、追放される可能性に脅(おび)
えて、国会議員は黙々として賛成し、厳しい言論統制の下で、それが日本側の意思であると、
国民に教え込んだだけです。憲法は押し付けかもしれないが、内容は国民が歓迎したなど
という占領中の宣伝が作った神話とは、ほど遠い実態でした。
東京裁判の判決こそ、日本人は誰一人として関知しないところです。中立国も交えない、
戦勝国だけの裁判官が、日本国民が家も食糧もない窮乏(きゅうぼう)のドン底にあった時期
に、占領軍の絶対権力を背景に、戦時中の宣伝そのままの浅薄な歴史観をもって、敗戦国の
歴史と伝統を凌辱(りょうじょく)し、破壊する快を貪(むさぼ)った、一方的、杜撰(ずさん)極
まる裁判だった、と言って、決して不正確ではないでしょう。
416 :
岡崎久彦:02/08/10 00:02 ID:g4lgjM+4
この憲法を改正すること、それに時間がかかるならば、まずこの憲法による知的頽廃が
生んだ種々の憲法解釈を全て洗い流すこと、そしてすでに平和条約の下の判決執行義務は、
全て終わった東京裁判を過去の歴史とすること、それができて初めて、日本は自らの
アイデンティティーを見いだし、国家としての主体性を回復する基礎ができましょう。
占領後五十年も経って、まだこんな状況なのは不甲斐ないと感じますが、振り返って歴史
の例を見てみると、どうもそういうもののようです。
417 :
岡崎久彦:02/08/10 00:02 ID:g4lgjM+4
≪まだ必要な時間≫
文化の最盛期というのは、古今東西の歴史で、戦乱の百年後に訪れています。
漢の武帝、唐の玄宗の時代、日本の元禄等、皆そうです。どうして百年もかかるのかと
不思議に思っていましたが、戦後五十年の今の日本をみればわかります。
関ケ原の戦い(一六〇〇年)の五十年後といえば、由井正雪の乱(一六五一年)です。関係者
は皆、関ケ原戦後生まれですが、まだ戦争の長い影をひきずっています。
戦乱の影響のかけらもない、井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳、松尾芭蕉、関孝和
など元禄をになう世代が生まれるのは、一六四〇、五〇年代です。
戦後五十年経って国会でも新聞でも議論されているのは、憲法九条といい、靖国といい、
戦争の後遺症がほとんどです。こんなものが残っているかぎり、新しい文化の創造の時期
はまだ来ていないのでしょう。
418 :
岡崎久彦:02/08/10 00:03 ID:g4lgjM+4
われわれの世代の任務は、戦争、占領の残滓(ざんし)を払拭(ふっしょく)し、これから
出てくる新しい世代が、その上に何ものにも捉(とら)われない鮮烈な線が引けるような
真っ白なキャンバスを用意することでしょう。
それが偏向史観排除の真の目的であり、私の念願です。
給料age
420 :
卵の名無しさん:02/08/10 07:00 ID:rbR6zfB8
岡崎久彦 殿
戦勝国による歴史改ザンは人の性(さが)によるものであります。貴殿の
おっしゃるように新しい世代に真っ白なキャンバスを一時的に用意すること
ができましても、鎖国でもしない限り偏向史観の長期間に渡る排除は不可能
と思われます。
421 :
卵の名無しさん:02/08/10 07:26 ID:m8KlwSUX
>404
それはいい考えです。
ここよりも他のスレッドで立ち上げることを考えて見ましょう
422 :
卵の名無しさん:02/08/10 07:30 ID:m8KlwSUX
363 :卵の名無しさん :02/08/09 05:01 ID:+k1KSdJu
地下室の話が出ると必ず出てくるこのガイキチ荒らし
364 :卵の名無しさん :02/08/09 07:30 ID:GjxBWkoP
今日は統領さまの地下室視察巡回日です。
365 :卵の名無しさん :02/08/09 07:41 ID:+jjcvGk5
荒らしはもしかすると地下室の責任者か?
366 :卵の名無しさん :02/08/09 08:15 ID:PUOBuCxw
知らないうちにゾロスレッド増えたなあ。
ここの荒らしの目的達成か?
367 :卵の名無しさん :02/08/09 10:41 ID:+eTsExyF
ゾロスレッドいくつできた?
423 :
卵の名無しさん:02/08/10 09:20 ID:KOEU4XAJ
日本ハムってさっきワイドショーで言ってたけど
35歳の営業で年収は900万円なんだってさ。
424 :
卵の名無しさん:02/08/10 16:16 ID:pwhiep0w
給料はどうでもいい!
地下室の怪人に関する情報希望!
国内大手 vs 外資 vs ゾロ 年収比較しましょう!!
426 :
卵の名無しさん:02/08/10 18:10 ID:NFMCxLvx
いろいろ悪い噂聞いてます。いつかばれるでしょう。
427 :
卵の名無しさん:02/08/10 19:18 ID:vmZf7/nx
具体的に書きましょう。
ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
つぶす材料は事欠きません。
428 :
卵の名無しさん:02/08/10 21:59 ID:K39JL356
給料の問題について語り合いましょう。いったい利益はどに消えるのか?
>>427 >つぶす材料は事欠きません。
それでもしぶとく生き残る。
あいつらゴキブリだもの。
430 :
卵の名無しさん:02/08/11 09:00 ID:kbPlPhn0
>425
年収はゾロが圧倒的に高いはずだ。
開発費ほとんどゼロ、原料激安、人件費わずか、社員の福利厚生なし
ゾロ製品を安く激安で売っても利益はかなり出るバッタ屋商売だ。
431 :
卵の名無しさん:02/08/11 10:05 ID:VcuJwn7Y
噂ですがデータ捏○が相当あるのか?
ばれたら責任者と担当者は逮捕ぐらいでは済まないと思う。
どうなんだ?
地下室チームのみが事実を知っている。
433 :
卵の名無しさん:02/08/11 13:44 ID:j6t9N9jz
話題がバラバラです。
統一しましょう。
434 :
卵の名無しさん:02/08/11 15:16 ID:rOT+rS4C
オレは数年ほど前にこの会社辞めて 今外資のMRやってるんだけど、30歳未満の人は早く転職を考えたほうがいいと断言するよ。
435 :
卵の名無しさん:02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
437 :
卵の名無しさん:02/08/12 00:03 ID:Gr+AZBUm
age
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
439 :
卵の名無しさん:02/08/12 08:00 ID:nf5xdqWw
東+の社長みたいにポケットマネーで特別ボーナスは出るのはいつなんだ?
440 :
卵の名無しさん:02/08/12 08:14 ID:zbr9hDKP
いくら沢井でも今日は休みだろう
沢井じゃないゾロだが、今日は出勤だがね。
ゾロの経営層は一般社員を能無しと思っているから、
ひたすら労働時間を搾取することしか眼中にないようだ。
442 :
卵の名無しさん:02/08/12 13:23 ID:j83ohTsK
社員の暮らしなんてどうでもいい。
ただひたすら一族の利益を追求というのは、ゾロ特有のパターンですね。
443 :
卵の名無しさん:02/08/12 13:43 ID:flzjv6bv
>>440 >いくら沢井でも今日は休みだろう
みたいだね。
荒らしも盆休みで古里へ里帰りか。。。
444 :
卵の名無しさん:02/08/12 15:16 ID:iY73yFQu
今日出勤してる医薬品会社ってあるのか?
445 :
441:02/08/12 15:46 ID:I7lopVm2
>>444 >今日出勤してる医薬品会社ってあるのか?
それがあるんだな、トホホ。
446 :
卵の名無しさん:02/08/12 20:16 ID:VnRyGYp1
明日も出勤じゃ ぼけ!
447 :
卵の名無しさん:02/08/12 21:50 ID:umNF8Sv8
地下室の怪人も明日は出勤か?
448 :
卵の名無しさん:02/08/12 23:02 ID:Gr+AZBUm
東京の○○病院の駐車場で車停めて寝ていた沢○製薬のMRさんへ
10台ぐらいしか停めれないのにもう少し迷惑を考えたまえ
>>446 >明日も出勤じゃ ぼけ!
あぁ、あそこね。
御同情申し上げます。
450 :
卵の名無しさん:02/08/13 08:34 ID:CV9PZQgL
どぶ川サイドホテルでまた研修やるらしい。
意味のない研修をボロい3流ホテルであってますます社員
のやる気をなくすというパターンです。
451 :
卵の名無しさん:02/08/13 12:51 ID:GHcIvXXA
今の劣悪環境 低賃金で 多分 MRが年末に大挙して 退職 予定
452 :
卵の名無しさん:02/08/13 16:42 ID:F+KXX2m8
>450
所長はまた研修いくのか?
全く無意味の研修やっても金の無駄無駄
かかる金をMRの日当に回せ
>>451 MR止めて地下室へ来なさい。そこそこの給料がもらえますよ。
但し、良心の残っている者は駄目。外資か東○でも行きなさい。
454 :
卵の名無しさん:02/08/13 18:41 ID:UB7x56XE
またどぶ川サイドホテルなの?
外資とか大手は社員研修は一流ホテルということに相場が決まってるけど
3流ホテルで研修して浮いたお金は社長のポケットに入るわけか?
455 :
卵の名無しさん:02/08/13 21:04 ID:g9IK+Jdv
地下室の怪人たちも研修受けるのかい?(ワラワラ
456 :
卵の名無しさん:02/08/13 23:49 ID:UB7x56XE
このスレッド 俺の会社でもみんな見てて大笑い
どんな研修するの?
↑
●●コドモクリニックの騙し方。
459 :
卵の名無しさん:02/08/14 08:00 ID:tFSTlZg0
一日1000円以内で暮らす方法
460 :
卵の名無しさん:02/08/14 11:57 ID:6+5a7mIW
土下座の正しいやり方
461 :
卵の名無しさん:02/08/14 17:20 ID:VfKfkYTF
激安の給料で生活する方法。
462 :
卵の名無しさん:02/08/14 19:58 ID:AJBEYonS
捏○と改○の夕べ
463 :
卵の名無しさん:02/08/14 23:17 ID:4yoxEca6
東○はニューオータニで研修会です。
第3回社会保障審議会「医療分科会」議事録
3.議題
・東京女子医科大学病院の安全管理体制の確保状況等について
・その他
4.審議の概要
(事務局)
ただいまから、第3回「社会保障審議会医療分科会」を開会させていただきます。委
員の皆様におかれましては、お忙しい中ご出席をいただき、まことにありがとうござい
ます。なお、本日は黒川委員からご欠席の連絡をいただいておりますので、ご報告申し
上げます。それでは、鴨下分科会長、議事進行をよろしくお願い申し上げます。
○委員
これから議事に入らせていただきます。本日は、東京女子医大病院からヒアリングを
実施し、対応を検討したいと思います。東京女子医大病院の案件につきましては、医療
法第16条の3で定める「特定機能病院の管理者の行うべき事項」の1つであります、「
高度の医療を提供すること」に当たって、同法施行規則第9条の20において、「安全管
理のための体制を確保すること」と規定されているところですが、この点について、分
科会として直接お話を伺う必要があるのではないかということで、本日のヒアリングを
実施することになりました。それでは、早速ヒアリングに入りたいと思います。
女子医大病院長におかれましては、ご多忙の中、ご出席をいただきありがとうござい
ます。まず、昨年末に報道された医療事故の概要、第2に、これまでの安全管理体制の
確保状況、第3に、安全管理体制の改善状況などにつきまして、約30分、あるいは40分
程度ご説明をお願いします。
(女子医大)
このたびは大変ご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした。東京女子医科大学
病院長の林直諒と申します。病院の概要と、主として安全管理のための体制確保の概要
、改善策、経過報告をさせていただきたいと思います。
まず最初に、病院概要ですが、東京女医学校開設が1900年でございます。その後新制
になりましたのが昭和27年、29年に附属日本心臓血圧研究所が設置されております。40
年に附属消化器病・早期がんセンターが設置され、昭和46年に附属脳神経センターが設
置されました。附属の3センターがありまして、大学病院に含まれるという形で、病院
全体の運営になっております。許可病床数は1,423床、医師数が896名、看護婦が1,258
名です。患者数は、平成11年、12年、大体同数ですが、入院患者数が1,257名、外来患
者数が1日平均4,300名でございます。
特に心臓血圧研究所というのは、循環器内科、循環器外科、循環器小児科、循環器小
児外科と、講座が4つございました。今年4月からは、循環器内科と心臓外科の2講座
になりまして、その下に各診療部門として、小児科、小児外科が含まれる形に改組され
ております。
次に、安全管理のための体制確保の概要ですが、「安全管理のための指針の整備状況
」、指針の主な内容ですが、指針は、1「患者の利益を優先する謙虚な姿勢を持ち、臨
床に当たる」。2「特定機能病院として、あくまでも患者中心の、患者のための、患者
に安心していただけるだけの質の高い医療を提供する」。3「本学の創設の思想『至誠
の心』を継承し、患者のための安全管理を確立する」。
委員会の組織規約ですが、1「安全管理委員会は、診療科長及びオブザーバーで構成
する」。2「院内事故防止対策委員会は、病院長が指名する若干名の委員で構成する」
。この2つの委員会は平成12年6月に組織されました。「医療事故発生時の対応」が今
回問題になったと思うのですが、「診療担当科長から直接病院長に連絡を行い、病院長
・副院長・院内事故防止対策委員会委員長・当該診療科の部長が特別部会を設け、対応
する」という形になっておりました。
(2)の「安全管理の体制確保を目的とした医療事故などの院内報告制度の状況」です
が、これは平成12年5月から始まりまして、総件数は12年度9月までは非常に少なくて
、10月、11月、12月もそれほど多くはなかったのです。
これを6カ月ごとに分析することになっておりまして、2001年1月から6月の看護部
集計では、総数が1,623件で、内訳で見ますと、注射薬・内服に関する事故831件、転倒
・転落事故288件、その他の事故504件ということになっております。
(3)の「安全管理の体制確保のための委員会の開催状況」は、平成12年度は回数が8
回、13年度が開催数は9回でございました。院内事故防止対策委員会は、平成12年度開
催が14回、平成13年度の開催数が9回でございました。
安全管理体制の確保のための委員会の活動の主な内容は、安全管理委員会では、「事
故防止対策の妥当性を審議する」となっておりました。院内事故防止対策委員会は、「
院内事故防止のための活動を行う。事故防止に関する教育、収集提供、調査分析、事故
防止対策の構築、提案」となっており、事故防止対策委員会は、かなり活発には行われ
てきております。
続いて(4)の「安全管理の体制確保のための職員研修の開催状況」ですが、平成13年
度の安全管理のための職員研修は、図表のごとく行われており「院内感染予防対策」「
医療事故防止対策講演会」は弁護士の方にご講演をいただいております。他には、「与
薬について」「感染防止について」「病院におけるリスクマネージメント」について、
感染症緊急セミナー「炭素菌について」です。また、12年度5回、11年度も3回です。
研修医に対する研修実施状況ですが、平成13年度は新入医局員を対象に、異状死の取
扱い、リスクマネージメント、感染予防、医師の法律ガイダンス、インフォームド・コ
ンセント、診療記録の意義について、医療廃棄物の取扱いについて、感染対策とその対
応法、生化学検査と基準値、その他でございます。12年度、11年度も大体同じ内容で行
っておりました。
以上のように、研修の主な内容としては、新入医局員及び看護婦に対する事故防止の
観点からの実務講習、また新入医局員及び卒後2年目の研修医に対する弁護士からの法
律ガイダンス講習、全職員に対しましては、弁護士からの医療事故防止策の講習などを
行ってまいりました。以上が、安全管理のための体制確保の概要でございます。
続きまして、安全管理に対する組織ですが、今までは上から理事会、委員長、その下
に医療事故防止の安全対策委員会がございましたが、これとは別に「重大事故対応」「
医事紛争」となっており、これが実際には孤立した形で調査委員会の方へ回っていて、
医療安全管理委員会の方を通らなかったという点、非常に稚拙な結果があったという判
断でございます。
今回の改定では、理事会、委員長、医療安全管理委員会は委員長が責任を持って、そ
のほかに副院長がジェネラルリスクマネージャーとして副委員長となり、委員は部長会
出席者で、臨床系の教授のすべてが含まれておりまして、他に各部の長、事務長、看護
部長、薬剤部長などです。非常に大きな会ですが、今回はとにかくすべてのインシデン
ト・アクシデント、あるいは事故も含めまして、ここを一旦すべて通すことにさせてい
ただきました。
「医療安全対策室」は、今回設置することが決定しまして、3月1日に発足します。
これはジェネラル・マネージャーの副院長が室長で、専任メンバーとしては、看護婦、
事務員が加わります。あとは兼任になりますが、そのほかに顧問弁護士を入れることも
ほぼ決まっており、そのほかに外部的な方を、今交渉中でございます。ここでは、いろ
いろなデータをすべてここで整理して、いろいろな問題点なども分析して、医療安全管
理委員会、一部は院内事故防止対策委員会のほうに流れていきまして、そこでいろいろ
な決定などを行うという形になっております。
この医療安全管理委員会には、そのほかに感染対策委員会、防災対策委員会も含まれ
ております。院内事故防止対策委員会のほうは、委員長、副委員長、代表リスクマネー
ジャーの13名ですが、ここに実務的な医局長クラスの人をリスクマネージャーとして、
ここでも下の各部会から上がってきたいろいろな情報を検討したり、いろいろな報告を
ここも通して、二重、三重に伝えていく形にしました。
また、今度、医療事故防止マニュアルの改善をさせていただきました。先ほどのご説
明と重複しますが、今度ジェネラルリスクマネージャーを新たに作りまして、専ら実務
的なかなり高度の知識を持って、担当副院長ということで当たらさせていただきます。
「安全対策室」の役割、業務内容ですが、インシデント・アクシデントの集計、分析
。資料の整理といろいろな企画、パンフレットの作成、特に力を入れたいと思っている
のは、ここで専任の看護婦が決まっておりますが、この方に報告の少ない部には常に督
促に回っていただくまた、外部情報の収集と周知、これも結構大切で、いろいろな事故
の報告はポツポツとはニュースレター的にはやってきたのですが、それをもう少しきち
んとやりたいということです。関連会議の企画・運営・記録に関する事項。記録がない
とか、そういうのはちょっと困るので、きちんとさせていただきます。また、安全管理
に対する広報・教育・研修に関する事項でございます。
医療安全管理委員会は、非常に大きな会でございまして、部長、各科の分野の人、責
任者が委員長、副委員長ということになります。役割は、事故防止対策の妥当性を審議
する。業務は、月1回の委員会、現状を把握すると同時に、対策案について審議、検討
する。病院全体に周知徹底させる、ということが骨子でございます。
院内事故防止対策委員会の構成は、委員長、副委員長、委員となっておりまして、今
までは各部門の教授が入っていたわけですが、今度は各部門のリスクマネージャー、現
場で医局長クラスの、現場をしっかり把握している人を入れていくことにします。役割
は、全学的または各部署における事故防止対策の妥当性を審議する。これは各部署でも
それぞれの特徴に基づいた安全対策をやっていただきますが、その結果もここに報告し
ていただくことになります。今までもそうでしたが、月に1回開催することにしており
ます。ここで報告されてきた対策案、案件を審議、承認し、その結果を医療安全管理委
員会の大きな所に報告するということにしました。各部門のリスクマネージャー部会も
作りますが、これは説明を省略させていただきます。
475 :
?:02/08/15 07:45 ID:XOsdH9S7
?
476 :
健康食品の害:02/08/15 08:13 ID:L+8JKoNM
中国政府と業界が「やせ薬」検査を強化
◆でも実態把握さえ困難に
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/ne281404.htm 【北京13日=佐伯聡士】 日本で中国製ダイエット食品による健康被害問題が深刻化する中、
中国政府と健康食品業界が市場の監督・検査体制強化に取り組み始めている。ただ、新興市場
の混乱は大きく、違法健康食品の実態把握すら難しい状態で、成果を上げるにはなお時間がか
かりそうだ。
衛生省は先に、中国国内で流通する健康食品から、食欲抑制剤フェンフルラミンなど禁止薬物
が検出されたため、認可を取り消したが、メーカーが認可後、生産過程で勝手に禁止薬物を添
加していたことが判明。
これを受け、衛生省は、市場にある商品の品質チェックを重点とする集中検査活動を年内に実
施する方針を固めた。また、誇大広告を一掃するため、10月1日から、違反メーカーに、生産停
止や罰金などの処罰を科すことを公表している。
さらに、健康食品メーカー約200社と専門家らでつくる「中国保健科技学会」も6月から、市場で
販売されている商品に対する自主的な品質検査に乗り出した。合格した商品は、品質保証証明
を、新聞紙上に公告の形で発表するという。
477 :
健康食品の害:02/08/15 08:14 ID:L+8JKoNM
だが、違法な健康食品の実態把握は簡単ではない。
中国の健康食品市場は、改革・開放政策の発展に伴い、豊かになった沿海地方の大都市を中
心に、1990年代以降、急拡大してきたが、最近は人気商品を模倣したコピー商品の蔓延などにより、市場が混乱状態に陥り、昨年の健康食品の売上額は中国全体で175億元(約2450
億円)で、一昨年の半分程度にまで減少した。
約3000社ある健康食品メーカーのうち「6割以上がすでに死に体の状態」とされる。実際、健
康食品を製造していた浙江省の私営企業家(49)は「粗悪な商品のせいで市場は乱れている。
消費者の信頼が低下している今、続けても仕方がない」として、最近、事業から手をひいた。中
国紙からも「健康食品産業はどうすれば自らを健康にできるのか」(経済日報)との自戒を込め
た論調が出ている。
衛生省の汪建栄・衛生法制監督局副局長も記者会見で、「違法健康食品がどれぐらいあるかは
不明。消費者の訴えがあって初めて商品のサンプル検査を行うが、すべての健康食品を検査す
るのは経費と技術の両面で難しい」と、完全把握が困難なことを認めている。
2002年8月14日 東京読売
446 :卵の名無しさん :02/08/12 20:16 ID:VnRyGYp1
明日も出勤じゃ ぼけ!
447 :卵の名無しさん :02/08/12 21:50 ID:umNF8Sv8
地下室の怪人も明日は出勤か?
448 :卵の名無しさん :02/08/12 23:02 ID:Gr+AZBUm
東京の○○病院の駐車場で車停めて寝ていた沢○製薬のMRさんへ
10台ぐらいしか停めれないのにもう少し迷惑を考えたまえ
449 :卵の名無しさん :02/08/13 07:49 ID:gNi8iUdI
>>446 >明日も出勤じゃ ぼけ!
あぁ、あそこね。
御同情申し上げます。
479 :
卵の名無しさん:02/08/15 08:43 ID:FZYezsNc
429 :卵の名無しさん :02/08/11 03:10 ID:bsActLnb
430 :卵の名無しさん :02/08/11 09:00 ID:kbPlPhn0
>425
年収はゾロが圧倒的に高いはずだ。
開発費ほとんどゼロ、原料激安、人件費わずか、社員の福利厚生なし
ゾロ製品を安く激安で売っても利益はかなり出るバッタ屋商売だ。
431 :卵の名無しさん :02/08/11 10:05 ID:VcuJwn7Y
噂ですがデータ捏○が相当あるのか?
ばれたら責任者と担当者は逮捕ぐらいでは済まないと思う。
どうなんだ?
432 :卵の名無しさん :02/08/11 12:51 ID:FPW1BQIp
地下室チームのみが事実を知っている。
433 :卵の名無しさん :02/08/11 13:44 ID:j6t9N9jz
話題がバラバラです。
統一しましょう。
434 :卵の名無しさん :02/08/11 15:16 ID:rOT+rS4C
オレは数年ほど前にこの会社辞めて 今外資のMRやってるんだけど、30歳未満の人は早く転職を考えたほうがいいと断言するよ。
480 :
卵の名無しさん:02/08/15 08:57 ID:6n+pp2Ae
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
437 :卵の名無しさん :02/08/12 00:03 ID:Gr+AZBUm
age
438 :卵の名無しさん :02/08/12 07:31 ID:FX4pvxYW
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
481 :
健康食品の害:02/08/15 09:07 ID:EWvrSJ5G
482 :
ゾロの害:02/08/15 09:45 ID:4NbAYnaQ
ゾロの欠点
効き目が先発よりも悪いゾロがある。
不純物が先発よりも多くアレルギーを起こす可能性があるゾロがある。
副作用などが発生しても対応できない。
ゾロの長所
MRの給料が激安ですむ。
483 :
jikken:02/08/15 10:24 ID:t5xffvQl
沢井製薬いいと思うよ。
安くていい製品。
それにmrいらないジャン。
なんで、おっさんmrがうじょうじょいるの。
いらねーっつの。カタログ販売で十分だよ。
484 :
健康食品の害:02/08/15 10:57 ID:tlGiX7fd
ここの社長って嘘つきまくるので有名だと当社の専務が言ってました。
485 :
NEWS:02/08/15 11:32 ID:ThNucAEf
武田薬、農薬事業撤退 住友化学と11月に新会社( 8/ 1)
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住友化学工業と武田薬品工業は三十一日、共同出資で農薬事業の新会社「住化武田農薬」を十一月までに設立し、武田薬品の農薬事業を新会社に譲渡すると発表した。
五年後に資本提携を解消して住友化学が新会社の全株式を取得し、住化本体の農薬事業と統合する見込み。武田薬品は農薬事業から撤退する。
コア事業として農薬事業の強化を狙う住友化学と、医療用医薬品に経営資源を集中したい武田薬品の思惑が一致した。
新会社の資本金は約百億円で住化が六〇%、武田薬品が四〇%ずつ出資する。
本社は東京都中央区に置き、会長は住化、社長は武田薬品からそれぞれ出す。
初年度に連結ベースで約三百六十億円の売上高を目指す。
新会社には、武田の農薬事業部門にいる約二百八十人が出向し、住化の一〇〇%子会社化後に転籍する見込み。
武田薬品の農薬事業の売上高は約三百七十億円。
「安定して収益を上げてきた」(武田國男・武田薬品工業社長)が、農薬を取り巻く環境が世界的に厳しさを増すなかで「世界に伍(ご)して発展していくのは至難の業。競争
に耐えうる規模が必要だった」(同)と、住化に事実上、事業売却するのが得策と判断した。
一方、世界の農薬トップ10に国内メーカーとして唯一食い込んでいる住化にとっては「武田の強力な国内販売網を手中にできるし、
住化の海外販売網に武田の農薬をのせることもできる」(米倉弘昌・住友化学工業社長)と、事業拡大が図れるメリットがある。
486 :
NEWS:02/08/15 11:34 ID:ThNucAEf
2002/08/05 (日本工業新聞)
沢井製薬 セフェム系の抗生物質、明治製菓と共同販売( 8/ 5)
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沢井製薬は、明治製菓が開発したセフェム系の抗生物質「注射用メイセリン」を販売することで同社と合意した。
明治製菓は、開業医や中小病院向けに強みを持つ沢井製薬の販売網を活用し、市場浸透を図る。
五日から販売をスタートし、初年度二億円の売上高を目指す。
「注射用メイセリン」は、短時間で強い殺菌力を発揮するほか、細菌増殖が鈍化する時期にも殺菌力を保持する。嫌気性菌も殺菌対象とする特徴があり、明治製菓が八七年から製造・販売してきた。
両社は共同販売体制を敷くことで、さらにきめ細かい情報を医療現場に供給し、使用拡大につなげる。
487 :
卵の名無しさん:02/08/15 12:11 ID:0MWdqGLg
メイセリンってとっくの昔に発売を止めたと思ってたけど、まだ売ってたの?
商品価値ゼロだろ
日本の底力 第2部(1) エーザイ(上) 【アルツハイマー型痴呆症治療薬】研究13年…化合物1000種母に捧げた熱意、世界へ ( 7/11) 2002/07/11 (産経新聞朝刊)
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「落ちる」。製薬業界では、研究を進めていた物質が研究対象から外れることをこう呼ぶ。
新薬開発は、組成調査から始まって合成・発酵・抽出などを繰り返しながら、どのような治療効果が見込めるかを一つずつ確認していく、物質の効用を極める世界である。
だが、薬効が得られなかったり、強い副作用が起きれば、当然ながら「落ちる」。
数百億円単位の資金を注ぎ込み、十年以上の歳月をかけようと、落ちてしまえばその研究からは直接、新薬は生まれない。
「研究者一人が一生のうちで一つの新薬を開発できれば成功」。
製薬業界の関係者がこう口をそろえるのは、表には出ない膨大な研究の蓄積が、一つの新薬を支えるという開発の現状があるからだ。
エーザイが世界に先駆けて開発したアルツハイマー型痴呆(ちほう)症治療薬「アリセプト」。
痴呆症治療に新たな道を開いた薬も、平成九年に世の中に出るまでは、苦難の道があった。
エーザイで新薬開発に取り組んでいた杉本八郎氏(現・創薬第一研究所長)が「痴呆症治療薬を開発したい」との思いに駆られたのは約三十年前のこと。
脳血管性障害による痴呆症と診断された母の姿を目の当たりにしたのがきっかけだった。
「八郎ですよ」と呼びかけても、当時、母は「私にも八郎という息子がいます」と繰り返すばかり。息子すら思い出せなくなった痛々しい母の姿が、杉本さんを奮い立たせた。
だが、最初に手掛けた脳血管性障害に対する後遺症の治療薬開発は、臨床試験で落ちる。高齢者には強い副作用が予想され、「開発は途中で断念せざるを得なかった」のだ。
次に始めたのが、脳の萎縮(いしゅく)が原因となるアルツハイマー型の痴呆症治療薬の開発だった。昭和五十八年になってからだ。
開発にあたり杉本さんが着目したのは、脳内の神経伝達物質「アセチルコリン」の濃度である。
アルツハイマー型痴呆症患者の特徴に、この伝達物質の濃度が減るという報告があったためだ。
減少する要因はアセチルコリンエステラーゼと呼ばれる酵素の作用であることは分かっていた。
このため、杉本さんは「酵素の働きを阻害する物質を作れば、アセチルコリンの減少を防げるはず」と考える。
そして、杉本さんと開発チームは、思いつく限りの阻害物質の合成を重ねる。合成した化合物は、ざっと一千種類。
そして、高脂血症治療薬の開発途中で発見した化合物が「効果的」であることを突き止めた。
だが、発見した化合物への社内の風当たりは強かった。「毒性が強過ぎ、生体内での利用率も低い」。
「落ちるかもしれない」と悩みながらも杉本さんは研究を続け、ついに六十一年末、アリセプトにつながる化合物の合成に成功する。
「失敗の数は勲章だ。たとえ落ちても、挑戦し続けることが研究者には求められる」。
同社の研究開発本部長で常務執行役員の山内博氏は、杉本さんたちの熱意をこう振り返る。
そして平成八年、アリセプトは米国のFDA(食品医薬品局)から承認を取得する。
開発着手から十三年の歳月が経過していた。
◇ ◇ ◇
杉本さんの母は五十三年に亡くなったため、新薬は間に合わなかった。
だがアリセプトは米国をはじめ各国で、世界初のアルツハイマー型痴呆症治療薬として発売され、痴呆症治療に大きく貢献する。
「母の仏壇に開発を報告して、少しは恩返しできたかなと思った」。
杉本さんの熱意が実ったこのアリセプトは、想像を超えて、世界の市場で受け入れられていく。
先行き不安が続く日本経済。しかし製造や流通の現場には、他国の追随を許さぬ数多くの技能、技術がある。
重厚長大産業に焦点を当てた「日本の底力・第一部」に続き、第二部では消費者により近い産業の「底力」を検証する。(日本の底力取材班)
492 :
卵の名無しさん:02/08/15 12:47 ID:XQ4vnvSu
これ賛成です
482 :ゾロの害 :02/08/15 09:45 ID:4NbAYnaQ
ゾロの欠点
効き目が先発よりも悪いゾロがある。
不純物が先発よりも多くアレルギーを起こす可能性があるゾロがある。
副作用などが発生しても対応できない。
ゾロの長所
MRの給料が激安ですむ。
493 :
卵の名無しさん:02/08/15 14:02 ID:XQ4vnvSu
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
437 :卵の名無しさん :02/08/12 00:03 ID:Gr+AZBUm
age
438 :卵の名無しさん :02/08/12 07:31 ID:FX4pvxYW
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
494 :
明治MR:02/08/15 15:05 ID:kd5h00QC
メイセリンって大昔の薬をまだ売ってたのか?
ほとんど売り上げはないはず。
2002/07/12 (産経新聞朝刊)
日本の底力 第2部(2) エーザイ(下) 【アルツハイマー型痴呆症治療薬】申請から承認まで15カ月適用拡大で勝ち残り模索 ( 7/12)
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「彼が開発者です」。アルツハイマー型痴呆(ちほう)症治療薬「アリセプト」が米国で承認されてから三カ月後の平成九年二月。 米国アトランタで開かれた新薬発売の記念大会で、
開発チームを率いた杉本八郎さん(現・創薬第一研究所長)が壇上に登ると、製薬業界の関係者ら二千五百人が
一斉に立ち上がり、盛大な拍手と歓声がわき起こった。
「感動で足が震えた」と杉本さんは振り返るが、それほどアリセプトが製薬業界に与えた衝撃は大きいものだった。
当時の痴呆症患者は、全世界で八百万人以上。それまでは打つ手がなかった痴呆症の治療が「アリセプト登場で飛躍的に進むという期待が膨らんだ」。
医療関係者は振り返っていう。
脳内の神経伝達物質の分解を抑制し、濃度を高めるアリセプトは、軽・中度のアルツハイマー型痴呆症の「進行を遅らせる」効果が大きい。
痴呆症の患者が何よりも恐れるのは、痴呆の進むことだ。進行を抑制出来る新薬の登場は、世界が待ち望む商品だった。
米国を契機に、三十以上の国で販売されたアリセプトは、二年足らずで四百六十億円規模の売上高を記録。各国で高い評価を得る。
しかも、海外での評判は、日本の新薬としての承認も後押しした。
米国などと違い、日本ではアリセプトのような中枢神経関連の医薬品の場合、申請から承認まで二−三年かかることが常識化していた。
だが、アリセプトの場合、申請から承認まで十五カ月で済んだのだ。
厚生労働省が「米国など海外での臨床データも活用した」(同省幹部)ことが要因である。
海外での評判を、当局も無視はできなかった。
もっとも、杉本さんに言わせれば、日本市場への投入について「焦りを感じることはなかった」という。
開発当初から開発チームを激励していた内藤晴夫社長から「国内での臨床試験で、米国以上の治療効果が確認できた」との連絡が入っていたからだ。
平成十一年十月の承認を受けて、国内で発売されたアリセプトは、十三年度に内外合わせ約九百六十億円の売り上げを記録。
同社の連結売上高の二割以上を占める「基幹商品」に駆け上がる。
日本の約百五十万人の痴呆症患者のうち、六十万人がアルツハイマー型の患者とされている。
アリセプトで「今年度は一千百億円突破を見込んでいる」と同社の鼻息も荒い。
もっとも、ライバル各社も手をこまねいているわけではない。
アリセプト追撃にしのぎを削っている。
米ジョンソン・エンド・ジョンソンの日本法人は、欧米で販売されているアルツハイマー型痴呆症治療薬を
日本で承認申請する準備に入り、スイス系のノバルティスファーマや武田薬品工業、藤沢薬品工業などもアルツハイマー型で臨床試験を進めている。
製薬業界の世界規模での再編の嵐が吹き荒れるなかで、アルツハイマー型痴呆症の治療という分野を侵食されれば、
エーザイの前途も厳しい。
これに対し、同社の山内博研究開発本部長はいう。「欧米大手に百貨店方式で対抗しても勝ち目はない。
しかし、得意分野に経営資源を集中、アリセプトのような商品を開発したり、適用を拡大すれば必ず勝ち残れるはずだ」
この言葉を裏付けるように、同社はアリセプトの適用を脳血管性痴呆症にまで拡大するために、米国で承認申請の準備に入った。
臨床試験も進行中だ。勝ち残りに向けた“次の一手”はすでに始まっている。(日本の底力取材班)
>>484 >ここの社長って嘘つきまくるので有名だと当社の専務が言ってました。
統領さまの高潔な思想を理解できないとは、嘆かわしい方々でございます。
500 :
卵の名無しさん:02/08/15 18:46 ID:tchjYD3s
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
501 :
卵の名無しさん:02/08/15 18:54 ID:tchjYD3s
面白いから再掲
452 :卵の名無しさん :02/08/13 16:42 ID:F+KXX2m8
>450
所長はまた研修いくのか?
全く無意味の研修やっても金の無駄無駄
かかる金をMRの日当に回せ
453 :卵の名無しさん :02/08/13 18:10 ID:OZVQgTzm
>>451 MR止めて地下室へ来なさい。そこそこの給料がもらえますよ。
但し、良心の残っている者は駄目。外資か東○でも行きなさい。
454 :卵の名無しさん :02/08/13 18:41 ID:UB7x56XE
またどぶ川サイドホテルなの?
外資とか大手は社員研修は一流ホテルということに相場が決まってるけど
3流ホテルで研修して浮いたお金は社長のポケットに入るわけか?
455 :卵の名無しさん :02/08/13 21:04 ID:g9IK+Jdv
地下室の怪人たちも研修受けるのかい?(ワラワラ
502 :
卵の名無しさん:02/08/15 19:16 ID:IHa3XLcS
どうも話の流れが読めないので順番にペーストしてくれ。
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
504 :
卵の名無しさん:02/08/15 20:47 ID:ESck+5iD
面白いから再掲
452 :卵の名無しさん :02/08/13 16:42 ID:F+KXX2m8
>450
所長はまた研修いくのか?
全く無意味の研修やっても金の無駄無駄
かかる金をMRの日当に回せ
453 :卵の名無しさん :02/08/13 18:10 ID:OZVQgTzm
>>451 MR止めて地下室へ来なさい。そこそこの給料がもらえますよ。
但し、良心の残っている者は駄目。外資か東○でも行きなさい。
454 :卵の名無しさん :02/08/13 18:41 ID:UB7x56XE
またどぶ川サイドホテルなの?
外資とか大手は社員研修は一流ホテルということに相場が決まってるけど
3流ホテルで研修して浮いたお金は社長のポケットに入るわけか?
455 :卵の名無しさん :02/08/13 21:04 ID:g9IK+Jdv
地下室の怪人たちも研修受けるのかい?(ワラワラ
505 :
卵の名無しさん:02/08/15 20:47 ID:ESck+5iD
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
506 :
卵の名無しさん:02/08/15 22:04 ID:QRWMwnod
ゾロもあんまりでしゃばると、大手が潰しにかかてくれんじゃないでしょうか?
ネタはたくさん。
507 :
卵の名無しさん:02/08/15 22:22 ID:IHa3XLcS
438 :卵の名無しさん :02/08/12 07:31 ID:FX4pvxYW
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
494 :明治MR :02/08/15 15:05 ID:kd5h00QC
メイセリンって大昔の薬をまだ売ってたのか?
ほとんど売り上げはないはず。
508 :
卵の名無しさん:02/08/15 22:34 ID:ePPyINPV
東女医大、組織的事故隠し 外部評価委が認定
http://www.yomiuri.co.jp/top/20020815it14.htm 東京女子医大病院(東京都新宿区、林直諒院長)で昨年3月、心臓手術を受けた平柳明香さん(当時12歳)が死亡した医療過誤事件で、
同大が設置した第三者による外部評価委員会は15日、事故調査の中間報告を公表した。
中間報告は、業務上過失致死罪などで起訴された2医師の上司だった主任教授(当時)について、「事故(の発生)と
診療記録の改ざんを黙認した」と認定し、「組織的な事故の隠ぺいが行われていた」と結論づけた。同大学ではこれを受け、
既に退職している主任教授も含め、関係者の処分を16日に発表する。林院長ら病院幹部の管理責任を問う方針。
隠ぺいへの関与が指摘されたのは、事故が起きた当時の同病院日本心臓血圧研究所長で、循環器小児外科の主任教授だった今井康晴名誉教授。
中間報告は、<1>事故後1週間以内に、看護師長が診療記録の改ざんを今井名誉教授に報告している<2>それにもかかわらず、
今井名誉教授は、病院長らに「医療ミスではなく、ウソの記録を作成した事実もない」と報告した――などと認定した。
また、診療記録の改ざんについて、手術スタッフだけでなく、看護部長らも知りながら、何の処置もとらなかったこと、
循環器小児外科に所属しない麻酔科医師も事故の発生を院内報告しなかったことも指摘し、「隠ぺい体質は病院全体の問題」と批判している。 (8月15日21:25)
509 :
卵の名無しさん:02/08/15 22:38 ID:3EInUPhV
女スパイ、提供先は名古屋の研究所( 7/16)
2002/07/16 (夕刊フジ)
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米ハーバード大医学部から新薬開発のための遺伝子試料などを盗み出したとして、米国で元同大研究員の日本人女性ら2人が
逮捕された事件で、試料を提供された企業が医学生物学研究所(名古屋市)であることが15日、分かった。
同研究所は取材に対し「抗体の作成ができるかと持ち掛けられた。
ビジネスとしてではない。産業スパイという事実は存在しない」とコメントした。
元同大研究員の金原加代子(32)、夫で中国籍の研究者チュー・チアンユ(30)両容疑者は1999年12月ごろ、
遺伝子試料を盗み出し、同研究所に提供したとして逮捕されたが、これまで提供先は公表されていなかった。
同研究所によると、96年からハーバード大の研究室と研究協力関係があり、依頼を受け抗体を作成するなどしていた。
99年12月、両容疑者から依頼があり、2000年2月に作成した抗体を返送。5月ごろまでやりとりをしていたが、
それ以降、連絡が取れなくなった。
その後、試料の無断持ち出しを別の研究者から知らされた。チュー容疑者は試料の帰属などについて「問題ない」と説明していたという。
同研究所は保存していた試料などを返却しようと、研究室の教授に連絡したが、返事がなかったため、今も保管しているという。
同研究所は取材に対し「通常の協力の一環であり、共同研究に進む前の研究支援の段階。新規性、特許性があれば共同研究に進むが、
そこまでの機能が分かる前に連絡が取れなくなった。産業スパイという事実は全くない」としている。
同研究所は69年、日本で最初の抗体メーカーとして設立され、96年2月に店頭公開。抗体や臨床検査薬、基礎研究用試薬の
開発・製造・販売を手掛ける。資本金約22億3000万円、2001年3月期の売上高は約33億2800万円。
510 :
卵の名無しさん:02/08/15 22:39 ID:3EInUPhV
【株を読む】元気一杯の後発医薬品社( 7/17)
2002/07/18 (産経新聞夕刊)
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医療費の抑制圧力(薬価引き下げ)を受け、主力の医薬品各社は厳しい状況に追い込まれているが、
後発医薬品(ジェネリック)メーカーは元気一杯である。
後発医薬品とは特許切れの医薬品と同じ成分、薬効の医薬品のこと。
ゾロ品ともいう。新薬に比べ研究開発費が少なくてすむ分、低価格での販売が可能になる。
欧米では後発医薬品の普及が進んでいる。全医薬品に占める後発医薬品の比率はドイツが53.4%、英国が49.0%、米国が42.1%もある。
一方、日本はこの比率が10.8%にすぎない。日本では先発品の方が薬価差益が大きく、病院サイドが先発品を選ぶ
傾向が強いためだ。しかし、日本の国民医療費が30兆円を超えており、少子高齢化の進行、長寿社会の到来などを背景に、一段と増大する見通しにある。
国民医療費のうち、薬剤費は20%超を占めている。厚生労働省は薬剤費を抑えるために、後発医薬品の普及促進策を打ち出している。
しかも、今年度はガスター(消化性潰瘍治療剤)、メバロチン(高脂血症薬)など年商1000億円クラスの大型薬品が相次いで特許切れを迎える。
このメリットを受けるのは日本ケミファ、日本医薬品、東和薬品、富士製薬、沢井製薬などの後発医薬品メーカーである。 (杉村富生)
511 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:14 ID:IHa3XLcS
あらし止めて素直に書き込みを呼んでみようよ。
結構おもしろいよ、ここの書き込み。
メイセリンって30年ほどまえの薬とちがうのですか?
第3回社会保障審議会「医療分科会」
医療安全管理委員会特別部会について、ご説明申し上げます。すべてのインシデント
・アクシデント報告のほか、事故報告、クレーム報告書などは、すべて一括して医療安
全対策室に持ってきまして、整理、振分、集計、分析などを行いまして、医療安全管理
委員会に出すことになります。ここで検討、指導対策指示をします。その結果は、また
問題がある点では、院内事故防止対策委員会にこの一部は結果の諮問がいき、その結果
が各リスクマネージャー部会に通報される形になっております。 また、通達が非常に
困難を極めておりましたので、部長から各部門の人に連絡がいくほかに、医局長会議で
も説明をして、各医局員に十分決定が伝わるようにさせていただきます。いろいろな決
定事項については、さらに病院部長会議で行うという形でございます。
特に特別部会ですが、非常に重症例とか問題の多いのは、医療安全管理委員会から特
別部会に移されまして、ここで検討し、事例によっては事故調査委員会を作る形にしま
した。特別部会の構成は専務理事、病院長、副院長、院内事故防止対策委員会委員長、
病院長指名のメンバー、および外部委員、その他診療科の部長です。役割は重大事故発
生時に、医療安全管理委員会の委員長である病院長の指令の下に、事例に応じて特別に
設置され、速やかに事故対策を行う。
医療事故発生時の対応について、事故の定義と事故発生時の対応をまとめています。
これはとにかく患者生命を最優先するという基本的な姿勢と、対応チームの結成、説明
担当者を決める。これはインフォームド・コンセントが非常に難しい例があって、トラ
ブルの原因になるので、担当者はしっかりした人を当てるということにします。また、
カルテの記録、家族への連絡、患者家族への説明ということです。
病院の事故報告ですが、先ほどの報告の中でもう1つ変わった点は、事故と思われる
事象があった場合は、誰でも直接に報告することを徹底することが重要だと思っており
ます。そこで、「なお、報告者の個人的な責任は一切問われず、院内での報告書の守秘
義務は守られます」ということで、いろいろな事故報告が上がりやすくしていきたいと
思っています。また、監督官庁への届け出、病理解剖の実施、安全委員会特別部会の開
催。重大事故の場合に、医療安全管理委員会特別部会を開催し、事故原因の調査および
以後の対応を決定します。ここがちょっと私も思い悩んでいるところで、どういう人を
さらに入れるか、外部の人を少し入れないと、無理かなという感じもしております。公
表と個人の情報を守るというせめぎ合いもございますので、またいろいろご指導いただ
きたいと思っております。
今まで院内事故防止対策委員会は、具体的にはいろいろなことをいくつか扱ってきた
わけですが、例えば患者識別バンドなども、全手術患者にはずっとやってまいりました
が、現在では、一応入院患者全員に装着することにしております。
あとは、報告制度で今回強調しておりますのは、報告書は所属部署の安全管理委員会
、事故防止対策委員長、安全管理委員会という流れだったのですが、それが今度は、こ
れは誰でもおかしいと思ったのは、是非報告してくれということにしてありますので、
これは直接医療安全対策室で、これはそういう窓口も作る予定です。あまり時間もござ
いませんので、次に、今回の事件の経緯について、ご説明させていただきます。
(女子医大)
このたび報道されました事故につきまして、ご報告させていただきます。
今回の事件は、平成13年3月2日、12歳の少女に対する心房中隔欠損症、および肺動
脈狭窄症の手術を行いまして、2日後の3月5日午前5時20分にお亡くなりになりまし
た。5月9日にご遺族の申立てがございまして、証拠保全が行われました。さらに5月2
6日に、ご遺族から心研の所長宛に、亡くなられた死亡原因を調査してほしいという文
書がまいりました。
そこで、私どもは前の事故マニュアルに従いまして、重大事故についての委員会を開
きました。「○○委員会」とここに書いてございますが、特別部会に類するものと考え
て行ったわけですが、この○○委員会で、心研の内部調査に基づいた死亡原因の報告が
行われまして、これは大変重大な事故であるということで、より詳細な調査をすること
ということで、死亡原因調査委員会の設置が決まりました。6月21日に○○委員会の命
令を受けまして、調査委員会が結成されました。
6月30日に第1回調査委員会を行いまして、心研所長から、5月9日の証拠保全の関
係資料とか診療記録、および心研所長からの内部調査報告をいただきまして、事件の経
緯を検証しました。その結果、この事件の重大さをよく認識するとともに、ご遺族の要
望に添って、できるだけ真実を明らかにするべく、死亡原因の調査を厳正に行うことを
決定して、早速その手続きに入りました。
7月17日、第2回調査委員会を行いまして、この手術に関係したすべての医療関係者
の事情聴取の日程を作成しまして、調査に入ったわけです。8月9日から関係者12名全
員に対して、延べ15時間にわたります事情聴取と、2回にわたって人工心肺装置の実況
検分を、心研の手術室で実際にいろいろ実験を行いながら、徹底した原因調査を行いま
した。その結果、死亡原因がほぼ明らかになりましたので、これをまとめまして、10月
3日にその最終報告を作成しました。10月3日に○○専務理事および理事会に対して、
この死亡原因調査委員会の報告書を提出し、原因を報告しました。さらに、この結果、
ご両親に調査報告書を差し上げて、内容のご説明と謝罪を行うということを決定し、10
月7日に3名が高崎市内に出向きまして、ご両親に調査委員会の報告を行って、同時に
謝罪を行いました。
その後、直接担当した医師、上司らが謝罪に伺いたいということで、いろいろとご遺
族と折衝をしておりましたが、12月8日に病院長、心研所長、新しい心臓血管外科の主
任教授担当医師2名と事務局、合計6名で現地を訪れまして、今回の事故に対する真心
からの謝罪と、墓参をしました。その結果、意を受けられまして、ご遺族からは調査報
告に関する感謝と、その後の対応についていろいろとご要望がございました。
その要望の中には、12月18日にはご遺族から、安全管理についての今回の経験を是非
学会などで報告してほしいということでございましたので、具体的には、今度の3月8
日に第13回日本臨床モニター学会がございますので、その場で、「人工心肺時の静脈リ
ザーバーの内圧モニターの必要性について」ということで、ご報告申し上げることをお
伝えしました。その後、具体的には示談の話が進みまして、お互いに代理者を通じてい
ろいろと交渉が始まったわけですが、最終的には本年に入りまして、2月15日、覚書を
交わしまして、死亡原因を調査する調査委員会の活動というものに、評価を言っていた
だきながら、いくつかのご要望をいただいて、示談書を作成し、示談が締結されました
。
以上が事件の経過ですが、具体的な治療内容、治療経過について、次にご説明申し上
げたいと思います。本件の概要は、昭和63年12月15日生まれの12歳の女性で、3歳時に
診断され治療を受けていた心房中隔欠損症、肺動脈狭窄の根治手術を目的として、2001
年2月24日、東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所病院に入院されまして、3月2
日に根治手術を受けられました。手術終了後ICUに入室しましたが、術後3日目の200
1年3月5日に死亡されました。死亡原因について、主治医より心不全によるものと説
明されましたが、ご遺族はそれに納得できず、その死亡原因の調査と説明を求められて
まいりました。
その後の調査委員会の活動については、先にご報告申し上げたとおりです。治療経過
をご説明申し上げます。1991年1月7日、2歳の時に東京女子医大の心研の外来、循環
器小児科を初診なさいまして、「心房中隔欠損症及び肺動脈狭窄」という診断で、1991
年の3月20日に心臓カテーテル検査を施行されまして、高度の肺動脈弁輪部及び弁上狭
窄を認め、右室圧が左室圧とほぼ同じであったために、同時に経皮的バルン拡張術が施
行されております。その後退院された後は、特に自覚症状はなく経過されておりました
が、2000年の末ごろから疲れやすく、また感冒にかかりやすいことから、再び心研の循
環器小児科外来を受診し、手術治療が必要と診断をされました。2001年2月24日に心房
中隔欠損症、肺動脈狭窄及び三尖弁閉鎖不全の根治手術を目的に、当院に入院されまし
た。同日午後、定例のカンファレンスが行われまして、手術の方針が決定されておりま
す。
手術経過をご説明申し上げます。2001年3月2日午前9時に手術室に入室されまして
、直ちに全身麻酔が導入されました。9時50分に執刀、手術開始がされまして、11時50
分に人工心肺体外循環が開始されました。心臓の手術は、血液がそこに出ていますと心
臓の手術はできません。体外循環によって心臓の中の血液を心臓の中に通さないように
して、心臓をよく見えるようにして手術をするということでないと、手術ができません
。したがいまして、その間全身の循環を維持するために、人工心肺という機械が使われ
まして、体外循環が行われるということでございます。
11時50分に人工心肺が開始されました。心臓は心室細動という状態に置かれまして、
手術が始まっています。最初に肺動脈弁輪部を切開し、萎縮した肺動脈弁の一弁を形成
するという肺動脈弁形成手術が行われまして、12時45分から、いよいよ右心房を切開し
、心房中隔欠損口の閉鎖を行いました。心房中隔欠損口は、約1cmの大きさでございま
したので、直接縫合閉鎖されております。それで、一応大きな所の手術が終わりました
ので、心臓を自己心拍に戻すということで、電気ショックが行われまして、心臓が自己
心拍に戻っております。11時50分から心室細動時間、心臓の循環が止まっていた時間が
、66分ということです。さらに13時20分に肺動脈狭窄に対して、自己心膜を用いて、肺
動脈の形成が行われましたが、このころから人工心肺への脱血、悪い状態が起こりまし
て、脱血管の位置を変えるなど、いろいろとその対応を行いましたが、十分な脱血を得
られることができなくて、人工心肺の回路やシステムには特に問題はなかったというこ
とですが、脱血不良の時間が約10分ないし15分続いていたと思われます。
このころ、麻酔科のドクターは、患者の顔面の異常な腫れと鼻出血に気付いて、術者
に報告しておりまして、術者らも同じころ、脱血管から血液が逆流して、空気がバブル
となって術野に出てくるという異常事態を観察したために、これは大変なことが起こっ
たということで、パニック状態になっております。脱血管からの逆流があったというこ
とで、おそらく人工心肺の回路の内圧が非常に高くなったのではないか、ということが
予想されまして、駆けつけました人工心肺の臨床工学技士は、静脈血の回路の圧の上昇
を止めるために、空気栓を開放する。同時に、回路内圧は急速に低下しまして、その後
は脱血の状態がよくなりまして、最後まで体外循環が順調に行われるに至っております
。
荒らしの岡材(元・古森)くんが里帰りしたと思ったら、
あらたな勢力が台頭してきた。
どうして、そこまで統領様に入れ込むのかな?
その気持ち・考え、理解できないよ。
その後、三尖弁の逆流試験をやりまして、右心房の閉鎖を行って、14時50分に人工心
肺が終了しております。この間ずっと人工心肺を行った時間は、全部で170分というこ
とになります。16時20分には胸部の手術層を閉めまして、16時50分に手術終了しており
ます。手術終了後は、人工呼吸器をつけたまま、ICUへ帰室しましたが、この時の瞳
孔は散大していたということでございます。
術後ICUに入りましてからは、術当日は循環動態は安定しておりましたが、瞳孔は
散大しており、脳障害を心配して、低体温療法を行いながら、経過を観察しておりまし
た。翌日の3月3日、この時も循環動態は安定しておりましたが、瞳孔は散大したまま
で、対光反射も確認できないという状態で、脳障害が疑われたために、CT検査などを
行おうとしましたが、うまくできませんでした。CT検査が使用不可能のため、断念を
しております。
なんだ荒らしの出勤真っ最中か。
あのくだらない統領様と関わりを持とうとするのは、虚しくない?
もっと建設的なことをしようよ。
3月4日午前2時30分、突然の徐脈を生じまして、心停止を起こしましたので、蘇生
術を施行しました。蘇生術を施行した後に、左肺からの出血が生じまして、輸血などを
行って対応しましたが、循環動態は次第に悪化しまして、徐々に血圧低下、多臓器不全
となり、3月5日午前5時20分に永眠されたということでございます。治療経過はこの
ようなことでございまして、調査委員会としましては、以上の臨床経過から、この患者
さんの死亡原因を、心臓手術中に発生した脳循環不全による脳障害によるものと判断を
して、その原因について、いろいろと考察をしました。
術前診断と手術適応については、問題ないということでした。手術方針をカンファレ
ンスで決めて、手術方針についても特に問題はございませんし、手術チームの編成につ
いても、特に問題はございませんでした。ただ、開心術を行いますので、人工心肺の操
作が必要ですが、人工心肺の操作は従来、心研におきましては2つの外科がございまし
て、循環器外科では通常、専任の臨床工学技士によって行われていたのですが、循環器
小児外科においては、臨床工学技士は回路を作るとかという準備だけで、実際には外科
医が直接担当するシステムになっていたということで、本手術におきましても、人工心
肺担当の医師が決まりまして、その医師は卒業後10年というベテランでございましたの
で、人工心肺がその医師に任されました。その後の手術式や手術経過そのものにつきま
しては、特に問題となるところはございませんでした。
528 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:46 ID:IHa3XLcS
430 :卵の名無しさん :02/08/11 09:00 ID:kbPlPhn0
>425
年収はゾロが圧倒的に高いはずだ。
開発費ほとんどゼロ、原料激安、人件費わずか、社員の福利厚生なし
ゾロ製品を安く激安で売っても利益はかなり出るバッタ屋商売だ。
431 :卵の名無しさん :02/08/11 10:05 ID:VcuJwn7Y
噂ですがデータ捏○が相当あるのか?
ばれたら責任者と担当者は逮捕ぐらいでは済まないと思う。
どうなんだ?
432 :卵の名無しさん :02/08/11 12:51 ID:FPW1BQIp
地下室チームのみが事実を知っている。
433 :卵の名無しさん :02/08/11 13:44 ID:j6t9N9jz
話題がバラバラです。
統一しましょう。
434 :卵の名無しさん :02/08/11 15:16 ID:rOT+rS4C
オレは数年ほど前にこの会社辞めて 今外資のMRやってるんだけど、30歳未満の人は早く転職を考えたほうがいいと断言するよ。
本例の死亡原因となったのは、人工心肺装置による体外循環を用いた心臓手術中に合
併した、脳の循環不全による重度の脳障害によるものと判断しました。この脳循環障害
は人工心肺の脱血不良、とりわけ上大静脈からの脱血不良によって、異常な脳鬱血=脳
浮腫が生じて起こったものであろうというふうに推測されましたので、その原因につい
てさらに検討を進めました。
人工心肺を用いる体外循環法は、心臓の手術において無血、血液のない状態で、しか
も心臓が動かない、そういう静止した術野を確保するためには、是非とも必要な補助手
段で、その人工心肺装置は心臓手術中、心臓の拍動を停止させ、その間呼吸および循環
機能を代行する装置です。
開発当初は、心臓外科医によって回路の組立て、操作運転が行われていましたが、現
在ではそれを専門とする臨床工学技士により、通常は管理・点検・整備・運転が行われ
ている施設が多くなっています。基本的な構造は、体内から血液を脱血するシステムと
、脱血された血液を体外で酸素化して、再び体循環へ戻してやる人工肺、送血システム
というものから構成されています。
ごく標準的な落差脱血法のシェーマが書いてありますが、下大静脈、上大静脈に管を
入れまして、脱血管を入れて、そこから脱血をしていくわけです。これは通常はベッド
の落差の圧を利用して、静脈貯血槽へ、回路内に脱血していきます。静脈貯血槽に一旦
ためられましてから、その血液を送血用のローラーポンプで人工肺を通して酸素化して
、さらにその酸素化した血液を体循環へ戻すという装置でございます。心臓の手術中の
術野に出てきます出血とか、そういったものは心内貯血槽、吸引でもって一旦貯血槽に
ためて、それから先ほどの静脈貯血槽の中に入れて、一緒に送血ポンプでもって体外循
環へ戻す、ということになっています。
この脱血法には今申し上げましたように、通常はごく標準的なものは落差脱血法です
。人工心肺回路を普通の脱血でやりますと、どうしても脱血管のサイズを大きくしなけ
れば、十分な脱血が得られませんので、子供の手術についてはなかなか難しいところが
ございます。近年、「陰圧吸引補助脱血法」と呼ばれる方法が普及してきておりまして
、落差脱血と違いますのは、静脈貯血槽の中を陰圧にすることによって、脱血をスムー
ズにするという方式ですから、静脈貯血槽から陰圧をかけるという方式になっておりま
す。
531 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:48 ID:IHa3XLcS
おれも協力します
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
437 :卵の名無しさん :02/08/12 00:03 ID:Gr+AZBUm
age
438 :卵の名無しさん :02/08/12 07:31 ID:FX4pvxYW
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
532 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:49 ID:IHa3XLcS
前の書き込みをペーストしてくださいな。
この脱血不良がどうして起こったかということですが、いろいろ実験を繰り返した結
果、人工心肺の静脈貯血槽への血液は、脱血管から脱血されるものと、術野から吸引に
よって脱血されてくる、空気もたくさん混じっている血液が、静脈貯血槽に入ってきま
す。この回路全体は閉鎖回路でございまして、一部は壁に陰圧がかけられているという
ことで、常時スムーズにいっている場合は、静脈貯血槽の中の圧は、軽い陰圧になって
おります。
ところが、術野からの吸引がどんどん増えて、吸引の回転数がどんどん上がってまい
りますと、静脈貯血槽の中に入ってくる圧が高くなってまいります。そして、壁から吸
引されている陰圧をかけている、陰圧を超える圧がかかってくるようになりますと、当
然回路内の圧は上昇しまして、脱血がスムーズに行えなくなるということになります。
そうやって、脱血不良の状態が生じることになります。ですから、静脈貯血槽、この回
路内の圧が常に陰圧に保たれていることが重要ですが、一方で術野間の吸引がどんどん
増えて、回路内の圧が上がってきますと、自然に回路内の圧が陽圧化していき、脱血が
不良になる。ひいては、逆に脱血管から術野のほうに逆流するということも起こるわけ
です。本件においては、そうった事態が生じたわけです。
534 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:50 ID:plT/LDmJ
三菱ウェルファーマ 勤続15年以上で45歳以上に早期退職優遇( 7/17)
-2002/07/17 (日本工業新聞)
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三菱ウェルファーマは、勤続十五年以上で満四十五歳以上の社員約一千九百人を対象に早期退職優遇制度を導入した。
募集期間は八月三十一日までで、退職日は九月三十日。通常の退職金に加えて、特別退職金を加算するほか、再就職のための支援も行う。
同制度が適用されるのは、合併前の旧ウェルファイドと旧東京田辺製薬の社員。
535 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:51 ID:plT/LDmJ
第一製薬 欧米のファインケミカル事業を再編( 7/18)
2002/07/18 (日本工業新聞)-
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第一製薬は、欧米のファインケミカル事業を再編する。
十月一日付で欧米の販売子会社を、国内のファイルケミカル子会社である第一ファインケミカル(DFK、社長・竹田雄一郎氏、富山県高岡市)の子会社にすることを決めた。
これにより第一製薬グループのファインケミカル事業は資本関係を含めてすべてDFKに統合され、効率的な事業体制を構築する。
DFKの子会社になるのは、米国販売会社のダイイチ・ファインケミカルズ(DFC)と、独販売会社のダイイチ・ファーマシューティカル・ヨーロッパ(DPE)。
DPEは再編に先立ち、現在担当している医療用医薬品の販売を八月末で終了し、ファインケミカル販売に特化する。
欧州での医療用医薬品は英国の開発子会社、ダイイチ・ファーマシューティカルズ(DPL、社長・矢川克郎氏、ロンドン市)が受け継ぐ。
536 :
卵の名無しさん:02/08/15 23:54 ID:plT/LDmJ
BT戦略会議第1回会合 競争力強化へ大綱策定 治験迅速化と人材育成など課題( 7/19)
2002/07/19 (日本工業新聞)
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バイオテクノロジー(BT)を国民生活の向上と産業競争力強化に効果的に結びつけるために発足した
政府の「BT戦略会議」(座長・岸本忠三氏=大阪大学総長)の第一回会合が十八日開かれた。
十二月上旬をめどに「BT戦略大綱」をまとめる。
会議では早速、産業界のメンバーから「産業につながる方策を考えて欲しい」(歌田勝弘・味の素相談役)、「治験のスピードアップや
(医薬)ベンチャー促進の問題の検討を」(藤山朗・藤沢薬品工業会長)など実効的な大綱作りに向け注文がついた。
会議の冒頭で小泉純一郎首相は、「BTおよびライフサイエンスは目覚ましい発展を遂げており、いかに国民の福祉や健康、
産業活性化につなげるか国として取り組むべき戦略を策定していただきたい」と諮問した。
これに対して関係閣僚、学者、産業人らで構成するメンバーからは、「省庁、産学官、分野間の連携・融合」「日本の強い
部分の加速」「技術開発のスピードと人材育成」などの課題が指摘された。また、平田正・協和発酵工業社長からは「医薬開発は
リスクが高く、インセンチブを産業界に与えることが必要」という意見も出された。
八月下旬ごろに開かれる次回会合で起草委員会を設置、本会議で抽出する課題や問題意識を盛り込んだBT戦略大綱案を策定し、
最終的に十二月上旬の本会議で決定する。大綱に個別政策の目標時期を明記するかどうかは今後の議論で決める。
そういうことで回路内の圧の上昇、それは主として術野からの吸引の回転数が上昇し
たことによるものと考えられ、それが第一義的な原因だと考えたわけです。その結果、
臨床工学技士は、静脈貯血槽の回路をオープンにすることにより、静脈内の圧を減少さ
せ、その結果、人工心肺の循環は順調に回復したことになります。
以上のような検討から、結論として死亡原因は、人工心肺中に生じた脱血不良による
、脳循環不全による重度の脳障害が原因である。その脱血不良の直接の原因として考え
られることは、術野からの吸引ポンプの回転数を上げたままで、人工心肺が作動してい
たことによる脱血回路内の圧の上昇、さらにそれを促進する因子としては、陰圧吸引補
助脱血回路に陰圧をかけていたフィルターが目詰まりをし、圧の上昇を一層早めた考え
られます。
現在の人工心肺は、その設計上、術野からの吸引圧、吸引ポンプの回転数を上げた状
態が長く続くと、実験上は、約10分以上、脱血回路内の圧が上昇し、脱血不良を生じる
可能性があり、場合によっては陽圧となって、静脈貯留槽から脱血回路へ空気が逆流す
ることがあり得ます。術者、人工心肺医らはこの辺の認識を十分にしておかなければい
けなかったが、この認識が十分ではなかったのではないかと考えられました。
538 :
卵の名無しさん:02/08/16 00:02 ID:w2t6rWnq
日本の底力 第2部(7) 味の素(上)【アミノ酸技術の拡大】「リジン」液体化に成功欧米メーカー抑え首位 ( 7/23)
2002/07/23 (産経新聞朝刊)
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動物の生命を維持するのに欠かせない「必須アミノ酸」にリジン、スレオニンがある。
これらは飼料用に使われ、飼料添加物として飼料メーカーに供給される。
この飼料用アミノ酸分野で、世界のトップに立つのが、調味料メーカーの味の素である。
味の素は九〇年代はじめ、この事業に相次ぎ参入した欧米化学メーカーと熾烈(しれつ)な競争を繰り広げ、首位の座を盤石なものにした。
成功のカギは、リジンの「液体化技術」の確立だった。
当時は粉末リジンによる粉塵(ふんじん)被害も問題化していたが、液体化でこの問題も解決、欧米勢を突き放すことができたのだ。
さらに、その後の手術中に生じた事態およびその結果生じた脳障害の可能性について
、術後、患者の家族に十分説明をしなかったことがあり、今回のような事態を招くこと
になったと考えられます。
以上のようなことから心研の診療体制として、外科医が直接主治医になって責任を持
って行うという体制が十分でなかったために、術前の患者さんへの説明、術後の術中に
起こった事態への説明など、患者さんの説明が不十分だったことが、1つ大きな問題で
すし、さらに人工心肺などの医療機器の操作が、その専門の臨床工学技士などに十分委
ねることなく、一部専門ではない医師によって行われるという事態があったことも、今
後の課題であろうと考えました。そういったことで調査委員会は、この経過について患
者さんにご報告申し上げ、原因についてのご説明を行ったということです。
以上が本件の手術、その他の治療経過と、そこに生じた人工心肺の事故についての原
因に関することです。
540 :
卵の名無しさん:02/08/16 00:03 ID:w2t6rWnq
「ライバルがいきなり価格を半額にするなど、常識はずれの競争で収益も低下する一方だった」。
味の素で現在、飼料部事業グループ長を務める佐合文久さんは当時を振り返っていう。
佐合さんが、飼料用アミノ酸を製造する味の素の欧州現地法人「味の素ユーロリジン」(パリ)に、営業責任者として赴任したのは九四年のことだ。
佐合さんが赴任する数年前、欧州での飼料用アミノ酸の売り上げは、味の素が七割、協和発酵工業が三割と日本の独占状態だった。
だが、市場拡大とともに九〇年代に入って米国ADMやドイツのBASFといった欧米の大手化学メーカーが市場参入。
激しい競争を繰り広げていた。
○委員
いろいろ専門的な詳しいお話も伺いましたが、これからしばらく質疑応答の時間にし
たいと思います。ご質問があればお願いいたします。
○委員
質問というか教えていただきたいのですが、「より詳細な調査を学内第三者が行うこ
とを決定した」とありますが、「学内第三者」というのはどういう意味ですか。私が聞
きたいのは、心研にいなければ学内第三者だという解釈なのかどうかです。
(女子医大)
そのつもりで書きました。
○委員
それを第三者と言いますか。メンバーを見ると、私どもの知っている先生もだいぶい
らっしゃいますので、女子医大の中の方だと思うのですがね。こういうのを学内でやっ
ても、国民はあまり信用しないということを私は言いたいのです。
例えば、日本医大でもややこしい事件があったときに、学内の先生は全部外して、学
外の先生でやったのですが、そういうやり方は女子医大では話が出なかったのかどうか
も伺いたいのですが。
543 :
卵の名無しさん:02/08/16 00:04 ID:w2t6rWnq
こまるなぁ、間に入れられると、連続性に問題が・・・・
お互い様か・・・・・・・
(女子医大)
これは訂正させていただきます。かなり緊急を要するという判断があり、6月20日で
検討した結果、とにかく虚偽隠ぺいなきように、極めて第三者的な立場でやれというこ
とは申しましたが、確かにご指摘のとおり、純粋な意味では第三者ではなかった、それ
は反省しております。
○委員
技術的には、ご説明していただいたのは、そのとおりだと思います。確かに安全対策
委員会というのは、どこの大学でもやっています。決して珍しい体制ではないと思いま
す。問題は、問題が起きたときからどうしたかということと、ここで審議すべきことか
どうかとは思いますが、国民がいちばん関心を持っているのは、例えば、カルテを改ざ
んしたとか、報告が隠ぺいされたということなのです。国民というのは、そういうこと
で非常に医療に対する不安を持っているわけですから、今日はそのための分科会だと理
解しているのです。
こちらこそこまるなぁ
ところが、先ほどからの説明では、その辺が全くなされていない。ご説明のあった安
全対策なら、前回の審議会から関係してきた委員にとっては、はっきり申して珍しくも
何ともありません。私は今日は『○○新聞』しか見ていませんが、厚生労働大臣も非常
に積極的に、国民に対する安全な医療を提供しようという姿勢を示しているということ
なら、その辺のことをもう少しご説明いただきたいと思います。
(女子医大)
取り扱いについて、その点が非常に苦慮したことですが、非常に稚拙であったと反省
はしております。最初の出だしから内部告発とか、いろいろな要素があって、とにかく
患者様の意向に応じて、ある程度心研がやっていかなければいけないと。最初に心研所
長に患者様のご遺族から、そういうクレームというか、文がきて、それに従ってできる
だけ公正にとはしていたのです。
もう1つは、我々が誤解していた面もありますが、調査が終わり、お詫びに行ったと
きは、このあとは代理人を通して交渉させていただきたいという話がありましたので、
まずそちらのほうが解決したらということが、非常にまずかったとは思っています。た
だプライバシーの問題もちょっとあるのではないかと思った点もあって、こういう結果
になりました。
あとから反省してみますと、もう1つの大きな誤解は、これは公表してくれという意
味が、「これをこのまま世の中に公表してくれ」とおっしゃっている意味なのか、我々
はこの事故がどういうことで起こったかを学会で発表して、今後こういうことがないよ
うにとおっしゃっているという理解が話合いの間ではありましたので、そういう結果に
なってしまったと思います。
○委員
いまお聞きしたのは、そのことではなく、新聞報道では、カルテの改ざんが行われた
というのは、例えば、7を4に直したという具体的な事実まで報道されてしまっている
のです。その報道が間違っているのか、事実改ざんが行われたのか、さらに死亡診断書
も自然死みたいなものが書かれたという報道がされているので、我々としては報道の間
違いであることを望んでいるのですが、そうではなく、報道は合っていて、事実起きた
のかどうかを知りたいということを言っているのだと思います。発表しろとか、しない
とか、そういう話をしているのではなくて、事実を知りたいのです。
(女子医大)
ICUの記録には7が明らかに修正したと思われるような修正で、4mmと修正されて
います。このことについて、いろいろ聞き質しましたが、書いた本人は「あくまでも自
分はそのように判断した」と申しており、一応ここで私は「修正」と書いています。し
かし、一連の全体の事情聴取の中から、どうもこれは脳障害をある程度隠ぺいしようと
いう意図があったのではないかと疑い、そのことを「結論」に書いて報告したわけです
。したがって、その点は非常に深くご遺族にはお詫び申し上げています。カルテが修正
されていたという事実は確かにあり、そのことは私どももよく認識しています。
ただ、新聞報道にありますように、何カ所もたくさんカルテを改ざんしたということ
については、調査委員会は、その時点ではそういった事実は明らかにできませんでした
ので、その点は1カ所だけだと私どもは判断しました。
○委員
これを拝見いたしますと、医師・看護婦に対する教育をかなりやられていた。しかし
ながら、実際に事故が起こってから正しくされていないわけで、全く活かされてないわ
けですが、その辺りはどうお考えになられますか。
(女子医大)
昨年の4月以降は、この機械は使用されておりません。
(女子医大)
安全管理に対する、いろいろなリスクマネージメントに対する教育は行ってきたので
すが、出席者が必ずしも全員ではなく、全員というところのチェックは確かにまずかっ
たのです。結局忙しいものですから、忙しい人は出られない。実際に現場で本当に忙し
く働いている者は出るチャンスが少ないということで、1回だけのチャンスを作るので
は無理だということで、これからは必ず同じ話題について、少なくとも3回は行うこと
を徹底しよう。そのときにできたら研修シール、あるいは研修をしたということのチェ
ックをするようにしていきたいと考えています。特に研修医、新人の看護婦などの新人
職員に対しては、それをやらないと研修をやったという証明書を出さない。すでに職員
になっている上級の者に対しては、出席をしたかどうかによって、研修シールがどのぐ
らいあるかによって査定をし、その後の昇格、昇任などの考慮に入れたいと考えていま
す。
○委員
いかに正直にすぐミスがあれば、それを明らかにすることが大切で、横浜市大のとき
もこれからはそうすべきだということがありましたから、こういった事故が起こったと
きに、すぐ、正直に家族に言うべきです。そうすれば、すべての物事がもっとうまくい
きます。それがやられてなかったというのは、非常に残念です。
○委員
研修は、先生方、看護婦、研修医がいくら講義を受けても、なぜそれをやらなければ
いけないか、なぜそういうことをやってはいけないかという理解は10カ月経たないと分
からないというのです。単に研修シールを渡してもどうなるものではないので、本当に
どうなのだということをどれだけ理解し、なぜそういうことをしてはいけないかを、ど
れだけ理解しているかキャッチしなければいけません。今の説明で、仏作って、魂が入
っているという感じを受けないのです。委員ですからこういうことを言わなければいけ
ないと思いますが、そういう内容のあるチェック機構を、是非お作りいただきたいと思
っています。
553 :
卵の名無しさん:02/08/16 00:21 ID:JP6YWicY
競争でリジン価格は下がるばかり。しかも当時のリジンはすべて粉末状で商品は袋詰めにされていた。
飼料メーカーは、これを小麦などのタンパク質にまぜて製品化するのだが「その攪拌(かくはん)工程で多量の粉塵が発生、健康被害も大きな課題となっていた」と味の素関係者。
そこでユーロリジンが取り組んだのは「リジンの液体化」である。液体化すれば粉塵問題は解決、労災問題も起きないと考えたからだ。
だが課題があった。リジンは液状にして濃縮度を高めていくと、結晶化して固まってしまう欠点があったのだ。「商品化するには結晶化を防止しながら、濃縮度を高めねばならない」と関係者。「製品価格を考えれば、コストをかけられないことも悩みだった」
試行錯誤のなかで九〇年、同社は発酵のノウハウを応用しながら、温度管理を徹底することで50%に濃縮した液体リジンを
作り出すことに成功する。しかも厳しい気候の地域への供給も踏まえ、マイナス一六度でも凍結しない製品に仕上げることができたという。
(女子医大)
いまご指摘いただきましたことは、私も重々身にしみて感じております。ですから、
非常に強い意志を持って進めなければならないと思っております。ただ、今回の事故の
重さというものは、院内では何度も話しており、この間の月曜日の早朝に臨床系の教授
クラスに臨時の安全委員会の招集をかけたところ、95%以上の出席があったので、多少
はいいかなという感じがします。
もう1つは、若手の教育も大事ですが、年をとった人たちの意識改革が非常に難しい
と思い、今度は臨床部長にマニュアル、いろいろなパンフレットが出ていますが、医療
事故対策のテキストブックなどを、その先生方に読んでいただいて、自ら各部署でそう
いう講義をしていただくようにしようかと思っております。
先ほどこの事件もそうですが、速やかにとは、まさしくそれがあって、医療事故自体
は避けられない部分がありますが、それだけですっきり表に出して、きちんとすればそ
れほどでもないのですが、この事件でも本当に医師、患者様の関係が非常に希薄であっ
たと痛切に思っています。特に心研の体制として、内科の先生がずっと経過を見ていて
、術前何日で突然外科医に代わる。術後も、ある程度経つと内科医がまた主治医になる
という、人間関係を作りにくいシステムがあったということで、これも心研のほうでは
、その受持制度も変えていただくようになりました。これは非常に重い事件で、私も痛
切にいろいろ思っていますが、今後ともいろいろご指導いただきたいと思います。
555 :
卵の名無しさん:02/08/16 00:23 ID:JP6YWicY
この液体リジンの評判は当初、決して芳しいものではなかった。
導入には飼料メーカー側にタンク新設などの投資が必要で「余計なコストがかかるモノは買えない。
粉末でいい」と投資負担を嫌う取引先が相次いだのだ。
だが、この問題は粉塵が発生しないという液体リジンのメリットが解決していく。
取引先を液体リジン設備を導入した飼料メーカーの見学会に招待した結果「いかに作業が安全で効率化できるかを十分に訴えることができた」のだ。
「市場ニーズがない」とライバル各社は歯牙にかけなかった液体リジンだが、導入企業は急速に拡大、欧米メーカーもそろって追随した。
だが味の素は先行した強みを発揮し現在、リジン市場全体に占める味の素のシェアは35%と二位ADMを約15ポイント引き離して首位を独走中だ。
「液体リジンを出さなかったら、海外勢に席巻されていたかもしれない」と佐合さん。
リジンは家畜の排泄(はいせつ)物を減らす効果があるだけに「家畜公害に敏感な欧州ではまだまだ、需要は伸びる」と同社の
北村卓三専務も意気込んでいる。(日本の底力取材班)
○委員
私も、今まで委員から出た話と同じ感じを受けています。非常に立派な分厚いマニュ
アルもできているわけですが、それを運用する人の問題です。教育にも少し触れていま
すが、全体からいうと、比較的、技術的な問題点の対応はできていますが、例えば忙し
い人は教育に、あるいは研修に出なくても済むような今の体制をどうするかということ
です。ほかの業界の問題でも新聞記事が出ていますが、モラルの点と言いましょうか、
もし外に情報が漏れなければ何とか中で済ますという価値観が、あったのだろうと思い
ます。今回の医療事故の問題についても、もし外に出なければ、これで済むのではない
かという対応の跡もちょっと見えるのです。
医療事故というのは、どんな注意をしても必ず起こり得る問題だと思います。それを
どんどん公表していくことがそれぞれの患者、国民の信頼にも繋がることです。1人ひ
とりの個人の価値観は違いますが、事故報告の中であまりルールにとらわれず、誰から
でも事故報告ができるようにしたというのがありましたが、それは非常に結構なことで
す。組織全体が事故を隠そうとするのではなく組織の利害にとらわれず、情報公開がで
きるように教育の問題かもしれませんが、お願いしたいと思います。
(女子医大)
その点がいちばんのポイントだと私どもは認識しております。そのために医療安全対
策室という専任の部署を新しく作り、専任部署の職員が常時各部署を巡回しながら、そ
ういった意識の向上、教育の徹底、いろいろな部署の問題点の査定をしていこうという
ことで、医療安全対策室の運営をいかに有効に、強力に行っていくかが、1つの大きポ
イントになかろうかと思って、3月1日から発足しますが、その運営に全力を挙げたい
と思っています。
(女子医大)
付け加えますと、安全対策室には第三者的な人を入れなければ、どういうのを、どう
いう形で公表するかというのは問題で、弁護士1人ともう1人はほぼ決まっていますが
、警察関係、厚生省関係とかいろいろ経験のある方が大体内定しています。本当は個人
的には、もう1人ぐらいジャーナリストの詳しい人なども入れないと難しいかとは思っ
ています。ただ、これは安全対策室にそういう人を入れるのか、そのたびごとに本当の
第三者を入れたほうがいいのかというのは、検討したいと思います。
本質的には医師・患者関係の教育は徹底していかなければならないということで、私
もいろいろ考えてみますと、患者さんは医師を選べるとは言いますが、私も体験があっ
て、例えば、癌になって訪ねてくると、そう選択肢はないのです。気に入らない医師で
も、頭を下げてでも何とか助けてもらいたいという視点も教育の中に取り入れて、医師
のおごりを何とか取り去っていく教育もしなければいけないとは思っています。
○委員
循環器外科ではテクニシャンとうまくいっていたが、循環器小児外科ではうまくいっ
ていなかったということが書いてあります。おそらく同じ心研の中でも、コミュニケー
ションが十分とれていない。全体として組織として、どのように心臓の手術をするのだ
という管理システムというか、安全のためにはこうしなければいけないのだというシス
テムが、やや弱いというか、ドクターの好みなどに任されていたのではないかという気
がします。
私は外から見ているだけで、非常に失礼な言い方かもしれませんが、私どもの目から
見ると、巨大なセンターがたくさんあって、マンモス大学病院だという気がします。心
研の中でさえこうであれば、全体の管理が非常に希薄になっているのではないかという
感じを、今回の事件で受けるのです。
ですから、こういうシステムを作られても、いま何人かの方が言われていましたが、
私どもも苦労しているのですが、現場にいかにそれを浸透させるかは非常に苦労してい
るわけです。マンモスになればなるほど、それは非常に難しいと感じます。それなりの
もっときめの細かい管理体制ができないと、こういうものの再発は防げないのではない
かというのが私の印象です。
この数日の荒らしは手荒びではなく、緻密な計画性が感じられる。
これまでの荒らしが統領様に対する怨嗟が動機なら、これは謀略・工作の匂いがする。
闇の凶悪ゾロMR集団が暗躍か???
(女子医大)
そういう面で末端まで浸透させるというのは、本当に大変ですが、それは教授会、医
局長会など、いくつものルートを使ってやっていかなければいけないと思っています。
あとは各リスクマネージャー、医局長クラスの人たちの検討会といった形のルートから
も行かなければいけないと思っています。
心研については、今後の抱負というか、いま変えていることについてお話しさせて頂
きます。
(女子医大)
私は、女子医大心研の大人と子供の心臓外科が昨年11月に一緒になって心臓血管外科
となり、その責任者という立場です。ただいまの討議の件に関してできるだけ手短に、
今後の方針をお伝えしたいと思います。まず、審議の過程で、いくつか出てきた基本的
な問題点に関してご説明いたします。
心臓の手術に関して、先ほどから問題になっている改ざんとか隠ぺいといったことが
絶対に起きないようにしたいと思います。それから委員の先生からもご指摘がありまし
たように、直ちに問題点に関しは、正直に家族に伝えるという方針は徹底していきたい
と思っています。そのための基本的な教育目標として、私が女子医大に来る前に10年間
おりました前施設において、「病気を診ないで病人を診なさい」、あるいは「病人の家
族を含めたそちら側を見るように」という教育をさせていただき、私自身も教育され、
私自身もしてまいりました。そのような教育方針を徹底していきたいと思います。
今回の体外循環の件に関しては、すでに何回か指摘されていますように、小児の心臓
手術、成人の心臓手術すべてを含めて専門の体外循環技士に運用させる。手術に関して
は心臓外科が行いますが、両者の連携をスムーズに行う。これは手術中ですが、この連
携がスムーズに行かないと、さまざまな問題が生じる可能性がありますので、私自身が
過去10年間経験してきた内容を基に、その点に特に重点を置き、患者さんの安全を第一
に改善を進めていきたいと思っています。以上、簡単ですが、今後の方針に関して説明
いたしました。
荒しさん、懲りないねぇ。
(女子医大)
病院全体の管理体制としては、先ほどご指摘がありましたように、非常にマンモスで
すので、実際には大変運営は難しいものです。したがって、これまで院長と副院長がお
り、副院長は2名でしたが、今年度から3名に増やし、それぞれ担当を分け、できるだ
け全体が見えるように体制を強化しております。
○委員
お話を聞いていて、医療体制にかなり大きな問題があるように感じました。委員会を
増やすとか委員会の体制を作り直すとか、担当者を増すというのも1つのシステムの改
善ですが、東京女子医大においては、内科の先生がかなりの期間診ていて、手術が決ま
った時点で外科医に手渡す。術後も間もなく内科の先生が受け持ちになられるというシ
ステムではないかと思います。A講師も実際に手を触れて患者さんを診察していないと
いうことですし、術後の説明をA講師がしたのか分かりませんが、確かに患者さんと医
師との関係は、極めて希薄です。
委員会を作るのは簡単ですが、こういった医療の流れを変えていくのは非常に難しい
と思います。もっと早く内科の先生が手離しなさいといったことで済むのかどうかです
。
もう1つは、女子医大全体についてですが、心研だけがこのようにシステムを取って
いるのだろうか。大学全体で医療の流れを変えなければ、別のセンターでまた同じよう
なことが起こるという懸念をもちます。・
566 :
最新情報ランキング:02/08/16 00:50 ID:7QEZhdAb
(女子医大)
ほかの科、例えば消化器はそういうことは全くありません。入院の段階から外科的な
治療が必要な場合は外科から来る。外科が主治医になるという形です。
心研についてはだいぶシステムを変えていますので、別途、説明します。
(女子医大)
心研というのができたときから、1つのコンセプトとしては、小児科と内科がある内
科系と外科系が協力体制で1人の患者さんを診ていくというコンセプトがありました。
当初は、手術前、手術後について内科系と外科系が一緒に患者さんを診るという意味で
は、コンセプトとしては素晴らしい面が1つあったのだろうと思います。それが40年近
く経ち、次第にそこの所が一緒に、全く同等に内科系、外科系が診るというところが、
一方に偏ってきていたというのが今回の問題の大きなポイントだと認識しております。
そういう意味で、これは心研の1つのコンセプトとしては独特なシステムだったとこ
ろに、逆に大きな落とし穴があったのです、これをどのように改革したらいいかという
ことは、この4月からずっと心研の大きなテーマで、徹底的に外科系、内科系、それか
ら看護婦さんも含めて議論を進めてきました。
結果としては、内科系、外科系の申し送りを徹底的に、主治医という体制を徹底的に
させることを、いま過渡期としてやっていますが、4月からは病棟も分けるという形を
とるようにしました。これはコンセプトとしては素晴らしいとは思いますが、委員の先
生からご指摘いただきましたように、どうしてもリスポンシビリティー、アカウンタビ
リティーのどこかにピットホールが起こるという意味では、4月1日からは、女子医大
のほかの外科系はみんなそうなっていますので、基本的にはそういう形に全部変えたい
と思います。いまは過渡期にあります。
ただ、最初の心研のコンセプトだった内科系、外科系が一緒に患者を診るというコン
セプトは、病棟を分けてもどうしても充実させたいという意味で、カンファレンス、あ
るいはコンサルタントのシステムを含めて、どのような形を充実させていくかというこ
とも含めて、心研としての改善策としては書きました。そういう形でご指摘のとおり、
私どもとしてはここは完全に変えると考えております。
○委員
最近、いろいろな事故が起こって、そういう医療事故を隠すことはかえって医療のた
めにも、医療の改善、あるいは国民に対する信頼のためにも良くないということは、か
なり認識が広まってきたと思います。それにもかかわらず、こういう立派な大学の関係
の方々が、この事故が公にならないようにいろいろ工作されたことは、何か特別の事情
があったのかを伺いたいと思います。
例えば、吸引ポンプの回転数がかなりの時間上がっていると、脱血不良が生じる可能
性があるということを、この手術に関係された医師が誰もご存じなかったということは
、素人には考えられないことなのですが、こういうことで事故が起こった、患者が生命
を落とされたということになると、医師としては、それが公になれば大変恥ずかしいこ
とで、それを公にならないようにするために、いろいろご苦心なさったのか。そうでは
なく、一般的に事故が起きたということは、大学にとって不名誉なことだから知られた
くないということだったのか、その辺を伺いたいと思います。
(女子医大)
隠ぺいの意図は大学としては全くありませんでした。ただ、この事件がどういう事件
であるかの結論が出たのは10月で、それまで検討の段階で、それが分かって、ご遺族か
ら事件の究明をしてくれというお話があったので、それに沿ってやってきました。その
前の段階でいろいろ発表するのは問題かなという判断でしたが、それは当然間違ってい
たとは思いますが、そういう形できてしまったわけです。隠ぺいとかそういう気持は全
くありませでした。
○委員
新聞の報道は、「手術ミス、隠ぺい」という見出しで出ていますから、是非名誉毀損
で訴えていただいて、きちんと闘っていただかないと、我々医療機関は、特定機能病院
である女子医大が隠ぺいをしたと世間から見られることによって、医療界全体が信頼を
失っていますから、是非きちんと隠ぺいは全くなかったという事実を明らかにして闘っ
てほしい。本当に隠ぺいしていないなら我々も応援したいと思いますから、是非新聞社
を名誉毀損で訴えてください。これは医療界全体の名誉毀損になります。いまおっしゃ
ったように、隠ぺいの事実が全くないなら、是非それをお願いしたい、我々も応援した
いと思います。よろしくお願いいたします。
○委員
もし当事者の患者さんの家族と示談が成立したら、おそらく表に出さないと思います
。そういう意識が今までの医療界だったのです。示談が成立したら、それは何も言わな
いで口を閉じていればいいというのでは、これからの患者さんはかわいそうだと思いま
す。
(女子医大)
これは確かに、新聞の記事についてはいま弁護士とも相談しております。非常に執拗
な取材を繰り返しており、みんな音を上げていたところですし、ないことも随分書かれ
ています。ただ患者様のほうから新聞社へかなりいろいろなことが言われており、新聞
社としてはかなりストーリーを作った上で、取材に来られていたという印象を持ってい
ます。それについてはもう少し検討させていただきます。ただ、我々はがいわば叩かれ
る側で、延々と時間のかかる裁判で、どのぐらいのことになるかというと、今までの誤
報の問題でも、なかなかすっきりした決着に行かないことがありますが、かなり検討は
させていただきます。ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
(女子医大)
病院としましては全く隠ぺいする気持はありませんでしたし、私どもが知ってからは
、極めて積極的に原因の調査と究明に徹底的にかかわってきて、それをできるだけ患者
さんのご遺族にご報告するとともに、全体化しようという努力をしてきたのですが、今
後はいろいろ事故があったりしたときには、できるだけ公開をして、公表するという形
にし、どういう公表の仕方を考えていったらいいのかということで、広報の部署をどの
ようにするか、例えば外部委員を入れることによって公表するのか、逐一報告をすると
いう形にするのかといったところも、いま検討しているところです。
○委員
いまの言葉を確認させていただきますが、病院として隠ぺいの意思はなかったという
のは、つまり、執刀医とか担当者は隠ぺいしたが、隠ぺいした事実が分かってから以降
、病院はそれを隠す意図はなかったという意味ですか。それとも初めから一切担当医も
含めて、病院という言い方ではなく、担当者を含めて、隠ぺいしようとか、そういう事
実はなかったということですか、そこをはっきりさせてください。
(女子医大)
いまかなり厳しい捜査が入っておりますので、隠ぺいというか、犯罪性のことについ
ては、その結果を待って考えたいと思いますが、調査報告書では、一応書き替えの事実
があったとか、これは反省すべきであるということは明記されていますので、ご理解い
ただきたいと思います。
○委員
院内の調査委員会というのは、どういう意味を持つのですか。いま警察が調べている
とか何とかということに対してと、自浄努力をしようとして調査委員会を作ったのでし
ょう。そうしたら隠ぺいしたかしないかというのは、自浄努力の中で明らかになること
ではないですか。何も警察が入ったからどうのこうのという問題ではないと思いますが
ね。
(女子医大)
そのとおりです。ですから、この調査報告書もあとでお読みになっていただくと分か
りますが、少なくとも隠ぺいしようという意図が垣間見えたということで、改ざんの事
実も1つありますし、そういったことがちゃんとした説明もされてないということもあ
りましたので、その辺を結論として挙げていただき、私どもとしては今後そういった現
場の担当医はもちろんのこと、病院全体としても、こういったものを隠ぺいしないで、
すべてを公開し、公表していくという姿勢に変えようということで、いまいろいろシス
テムを変えていますし、教育を変えていきたいと考えています。
(女子医大)
警察のほうというのは、ご遺族から刑事事件にするということで、警察へ話があった
ものですから、そういう形になっています。
○委員
先ほどいろいろ組織を作る中で、適任者がいるならばというお話がありましたが、今
までの論議を聞いていても、組織の問題だと思います。個人的な適性がある人とか、そ
ういう話ではなく、一般の会社なら社風など、組織に入っている人が、一定の特段の教
育を受けなくても共通の組織の価値観を持ってくるのと同じように、病院として個人的
な適性の問題ではなく、知らず知らずのうちに大きな所帯の中で、病院風というのがあ
るとすれば、これは教育によらざるを得ないというか、病院風をどう変えていくかとい
うことが、大事なことだと思います。非常に優れた適性の個人がいるか、組織があるか
ではなく、組織全体の価値観をどう変えていくかというのが大事なことではないかと思
います。
(女子医大)
全くそのとおりだと思いますので、努力して変えていきたいと思っております。
578 :
卵の名無しさん:02/08/16 09:01 ID:PxxuvIeP
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
579 :
卵の名無しさん:02/08/16 09:22 ID:KS0DuEQt
おれも協力
435 :卵の名無しさん :02/08/11 21:14 ID:AuD0meJa
>>434 外資にひっぱられたのですか?
それともS社長のいびりで辞めざるをえなくなったのですか?
後者なら何人も思いつきます。
436 :卵の名無しさん :02/08/11 21:58 ID:Y/pxr49U
>>427 >具体的に書きましょう。
>ゾロもあんまり表に出すぎると、大手が本気になってつぶしにかかってくるでしょう。
>つぶす材料は事欠きません。
たしかに創造とかうわさだけではだめだ。
具合的な例を挙げて問題にしたらどうでしょう?
438 :卵の名無しさん :02/08/12 07:31 ID:FX4pvxYW
中小企業のくせに販売品目が250以上だとぉぉ
大手でもせいぜい30だ。
532 :卵の名無しさん :02/08/15 23:49 ID:IHa3XLcS
前の書き込みをペーストしてくださいな。
580 :
卵の名無しさん:02/08/16 10:03 ID:tQcR3r+J
どうせ 捏○だらけだろう
そのうち問題にしてやるからな
>>578-579 こんな所で荒らさず、新スレに移ったれや。
向こうは閑散として、寂しいものよ。
582 :
卵の名無しさん:02/08/16 14:42 ID:2lgiRp+4
リプルのゾロなんでやらないのですか?
タイヨーはこれで大儲けしてるのに。
583 :
卵の名無しさん:02/08/16 14:55 ID:2lgiRp+4
沢井のMRさんって安い給料でよくやれますね、感心しますよ。
585 :
卵の名無しさん:02/08/16 17:10 ID:l95IAue5
>>583 他社の給料を知らないのではないでしょうか?
今 話題になってる日本ハムが35歳で年収800万円
ぐらいらしいですが、国内薬品メーカーはこれよりも
もう少しいい。外資大手は35歳で1000万円あるところ
はザラです。
586 :
卵の名無しさん:02/08/16 18:07 ID:uh3qCjOd
給料だけがすべてではないと言いたいが、いったい何があるのだろう?
587 :
卵の名無しさん:02/08/16 18:30 ID:bALfDKfC
BT戦略会議第1回会合 競争力強化へ大綱策定 治験迅速化と人材育成など課題
2002/07/19 (日本工業新聞)
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バイオテクノロジー(BT)を国民生活の向上と産業競争力強化に効果的に結びつけるために発足した政府の「BT戦略会議」
(座長・岸本忠三氏=大阪大学総長)の第一回会合が十八日開かれた。
十二月上旬をめどに「BT戦略大綱」をまとめる。
会議では早速、産業界のメンバーから「産業につながる方策を考えて欲しい」(歌田勝弘・味の素相談役)、「治験のスピード
アップや(医薬)ベンチャー促進の問題の検討を」(藤山朗・藤沢薬品工業会長)など実効的な大綱作りに向け注文がついた。
会議の冒頭で小泉純一郎首相は、「BTおよびライフサイエンスは目覚ましい発展を遂げており、いかに国民の福祉や健康、産業
活性化につなげるか国として取り組むべき戦略を策定していただきたい」と諮問した。
これに対して関係閣僚、学者、産業人らで構成するメンバーからは、「省庁、産学官、分野間の連携・融合」「日本の強い
部分の加速」「技術開発のスピードと人材育成」などの課題が指摘された。
また、平田正・協和発酵工業社長からは「医薬開発はリスクが高く、インセンチブを産業界に与えることが必要」という意見も出された。
八月下旬ごろに開かれる次回会合で起草委員会を設置、本会議で抽出する課題や問題意識を盛り込んだBT戦略大綱案を
策定し、最終的に十二月上旬の本会議で決定する。大綱に個別政策の目標時期を明記するかどうかは今後の議論で決める。
>>586 >給料だけがすべてではないと言いたいが、いったい何があるのだろう?
統領さまの人望
第3回社会保障審議会「医療分科会」
(事務局)
今後のこともありますので、ご確認の意味で事務局から質問させていただきます。新
聞などで私どもが見させていだいていると、担当の人の一部から調査委員会の報告書に
ついて、異議があるということで、再調査をしてほしいということが出ていますが、そ
れについて、今後女子医大ではどのような対応をされるのでしょうか。
先ほど来から議論がありまして、隠ぺいという言葉がいいかどうかは別ですが、カル
テの改ざんなども象徴的ですが、5月末に遺族から文書で調査の依頼がくる前に証拠保
全されたり、中ではいろいろあったと思いますが、そこの前の段階でいろいろ出てこな
かったのはなぜか。要するに、死亡の原因の調査としては、この調査委員会は、遺族の
方も評価しているということを伺っていますが、その前の段階の手続、対応については
いろいろ不審を持たれているとも聞いていますが、そこをどのように調べるのか、明ら
かにするのかということが2点目です。
3点目は、今後、基本的には公表していくということが、再三お話に出ましたが、現
段階でいまかかっている案件以外に公表されるべきものというか、出るものがあるのか
ないのかを確認させていただければと思います。
(女子医大)
まず再調査のことに関しては、実際には弁護士から要望書の形で出ているのですが、
その依頼者は、こちらとしては本人を呼んで、事情聴取を十分した上で、この報告書を
作っておりますので、もう1度というのはありません。それからいま捜査段階で、また
我々が調べるのも困難だと思っています。5月に証拠保全という話がありましたが、確
かにその段階では、事実関係を検討していくのに少し時間がかかっていたので、該当者
などについてもいろいろ質問したり、確認をしているうちに、証拠保全というのは結構
いろいろあり、すべてはっきりしたものがありませんので、この件も、それについては
内部である程度調査する時間がかかってしまいました。
(事務局)
3点目は、今日のご意見でも、こういうことはすぐ公表するのが大事だというご意見
が各委員から出て、女子医大も今後はそういう方向だという話はいっぱいありましたが
、いまの時点で公表すべき案件があるのかないのか、されるべきものがあるのかないの
かを確認させていただければと思います。
(女子医大)
先日、厚生労働省医薬局から、最近のインシデント・アクシデントの件数と詳細を報
告しなさいということがあって、先ほど出させていただきました。その中では、重篤な
ケースと死亡したケースがそれぞれあり、いずれも検討したことをご報告させていただ
きましたが、いまのところはそれだけです。
○委員
ほかによろしゅうございますか、1つだけ確認ですが、病院長はご存じなかったのか
もしれませんが、先ほど来の隠ぺいとか改ざんなどは、心研の組織としては、結論とし
てなさらなかったということでよろしいのでしょうか。
(女子医大)
心研としてはもちろんですし、病院としてももちろんです。ただ、現場ではその可能
性があったと。
○委員
あくまでも現場の責任であったということですね。
(女子医大)
やはりそれは全体としての体制の問題もありますので、心研の体制、診療体制そのも
のも見直していこうということでございます。
○委員
よろしゅうございますか。だいぶ時間も経ちましたので、東京女子医大病院からのヒ
アリングはこの辺で止めたいと思います。どうもありがとうございました。
(東京女子医科大学病院関係者退出)
○委員
それでは、予定よりも時間がかかってしまったのですが、少し今後の対応について協
議をいただきたいと思います。その前に事務局からご説明ございますか。
(事務局)
予定よりもだいぶ事実関係の確認とか、委員の先生からのご質問もいただきまして、
今日予定していた時間はほとんど使い切ってしまったような状況ですが、問題としても
う少し十分に審議する必要があるのではないかと思いますので、引き続き日を改めて、
ご審議いただけるような形をお願いできないかと考えておりますが、いかがでしょうか
。
○委員
それでは、お忙しいでしょうが、近いうちにもう1度お集まりいただきたいと思いま
す。
本日はこれで閉会にいたします。どうもありがとうございました。
594 :
通行人:02/08/16 22:21 ID:HOrYnb8X
サワイの社員の皆さん こんにちわ
給料が安くても いいじゃないですか
貧困も 我慢できないものではありません。
経営者一族が金持ちになるなら それはそれでいいじゃないですか
第5回 社会保障審議会医療分科会
・東京女子医科大学病院の安全管理体制の確保状況等について
(事務局)
ただいまから第5回社会保障審議会医療分科会を開催します。
委員の皆さまにおかれましては、お忙しい中、ご出席をいただきまして、誠にありが
とうございます。なお、本日は、黒川委員からご欠席の連絡をいただいております。
議事に入る前に、資料の確認をします。資料としては、議事次第という1枚紙があり
、そのあとに前回の議事録ということです。そのあとに1枚紙とクリップで綴じたもの
と2つ、本日、女子医大病院からの提出資料です。以上ですが、落丁等がありましたら
、事務局にお申し付けいただければと思います。鴨下分科会長、議事進行のほど、よろ
しくお願い申し上げます。
○委員
ただいまより議事に入ります。本日は、前回の議論を踏まえ、改めて東京女子医科大
学病院からヒアリングを実施することになりました。早速、ヒアリングに移りたいと思
います。
病院長におかれましては、ご多忙の中、ご出席いただきまして、ありがとうございま
す。本日は、2月28日にご説明いただいた点も含めて、委員からいろいろと質問をさ
せていただき、ご回答いただければと思います。よろしくお願いします。
前回の審議で疑問等が指摘された事項について、事務局でまとめていただいておりま
すので、その点を最初にご説明いただきたいと思います。よろしくお願いします。
(事務局)
前回、すでにご指摘いただいたことについて、簡単に事務局からまとめて説明をしま
す。
大きく3点ほどあったのかと考えております。1つは、患者、家族、ご遺族の方への
説明の問題についてですが、1回目のヒアリングのときにお伺いした内容と新聞報道等
でいろいろ出てくる内容とで、かなりのギャップのある部分があるというご指摘があり
ました。特にその中でも説明が十分された、ほとんどされてないというようなところが
、いちばんその差が大きいのではないかというようなご指摘があり、どういう時点でど
なたがどういうふうな説明をされているか、というところをポイントにお伺いしたい、
というようなお話が1点あったかと思います。
もう1点は、医師の連携というか、内科系、外科系の連携について、第1回目のヒア
リング、前回のご議論でもご指摘がありましたが、どういうふうな形でなされているの
かというようなことについて、もう少し確認したほうがいいのではないかということで
す。具体的には、例えば、術前に外科系のドクター、麻酔科のドクターが診察されてい
るのかというようなところから、内科系、外科系、麻酔科のドクターの引き継ぎの状況
、あるいは術後、今度はどういう形で引き渡されるのか、フォローされるのかというよ
うなところについて、もう少し詳しくご説明を伺いたいということがあったかと思いま
す。
3点目としては、今日、女子医大病院からご提出があった資料にも関連しますが、死
亡診断書にどういうふうな記載がなされているのかというようなことについて、確認し
たい、あるいはご説明をお伺いしたいというようなことがありましたので、その3つの
点を事前に女子医大病院にもお話させていただいて、今日、準備してきていただいてお
ります。それ以外にありましたら、その後にまた追加でご質問をいただければと思いま
す。
○委員
早速、女子医大から、いまの大きな3点についてご説明いただけますか。
(女子医大)
その前に、ただいま警察の聴取もほとんど終わり、検察庁の実地検分も終了したので
、現在における総括とその後の対応について、最初に述べてよろしいでしょうか。最初
にだいたい15分ぐらいお話します。そのあと、いま問題点として出されたことについて
、お答え申し上げます。
今回の事件は、当病院職員による重大な医療事故があったことであり、それに対する
断罪は真摯に受け止め、今後このような事件を二度と起こさぬよう最大限の努力をして
いくつもりであります。特に当病院では1年間に、延べ数で外来患者数約122万人、入
院延べ数46万人、全身麻酔手術数7,000件の診療に当たらせていただいております。そ
の信頼に応えるためには医療事故を起こさないよう、それ相応の精度の高い安全管理を
何にもまして行わなければならないと決意を新たにしております。この度警察の事情聴
取もほぼ終了いたしましたので、現時点における事件に関する総括と、その後の対応に
ついて上申させていただきたくお願い申し上げます。