621 :
卵の名無しさん:02/07/22 07:28 ID:JNJhbaLf
本社にそんなにいないだろう。アウトソーシング使ってるだろうから本社には10人ぐらいでしょう。
営業もそんなにいないだろう。研究はそんなもんだろう。
工場はもっと多いのとちがいますか?あそこの工場効率悪そう。
622 :
岡崎久彦:02/07/22 21:37 ID:ubgmFBNo
百年の遺産-日本近代外交史−17
【政党政治の揺籃期】 主義と信念に徹した星亨
陸奥宗光の死後、日本の議会政治は試行錯誤を重ねつつ成熟していきます。
日清戦争後の議会運営のため伊藤博文は板垣退助と提携しますが、こうなると当然、与党
を持つことの便利さがわかってきます。すると薩派も改進党と提携して松方・大隈内閣が
できます。
そうなると今度は民党としては代わる代わる利用されるだけではつまらないということに
なって自由党と進歩党を合体して憲政党を作り、伊藤は山県有朋などの反対を押し切って
政権を大隈重信、板垣の憲政党に譲ります。
ここでも伊藤の柔軟さが憲政を救っています。もし山県などの超然主義を貫いていれば、
藩閥内閣は解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備もできず、あえて戦争の準備
をするためには憲政の停止もやむを得なかったかもしれません。
隈板内閣は準備不足でもあり短命で終わりますが、憲法発布の時にプロシャ的超然主義を
標榜して発足した日本の憲政が10年たたずに、ドイツでは第一次大戦で敗れるまで実現
していない政党内閣を作ったのです。日本は再び平和革命に成功したと言えます。
その裏には日本人同士の信頼関係があったのでしょう。伊藤にとって、大隈、板垣は維新
以来の同志です。国を思う心には変わりはないという信頼関係があって初めて政権を譲れ
たのです。
623 :
岡崎久彦:02/07/22 21:38 ID:ubgmFBNo
次いで伊藤は旧自由党系を中心に立憲政友会を作り、自ら総裁になりました。300議席中155議席を占める大政党です。この政友会内閣も準備不足で短命には終わりますが、
この政友会が将来の大正デモクラシーへの大道を開きます。
ところで、この政党の揺籃期にあたって山県有朋などを中心とする藩閥勢力は政党政治に
対する歯止めを考えます。それは軍部大臣現役制と文官任用令です。
文官任用令の方は、政治が役人の人事に容喙(ようかい)できる範囲を狭めたもので、そ
れまでは藩閥が勝手に藩閥の人間ばかり登用していたことを考えると、民党が政権を掌握
した途端に官吏の任免権を政治から奪ったことに対する民党の憤懣(ふんまん)はわかり
ますが、この時決めた政官関係はその後日本では定着しています。
軍部大臣現役制こそは、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた元
凶です。統帥権の独立よりも、実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向に
従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になってしまいました。
政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして山県が作ったこの制度が昭和期になって国
を誤らせることになるのです。
この間の政局で台風の目となるのは、陸奥の子飼いの子分星亨です。
星は、士族階級の出身者を中心とする明治の指導者達の中で例外的に庶民の出でした。左
官屋の父は大酒飲みで家出し、母は乳飲み子の星をかかえて下女奉公をして一時は生活に
疲れて赤坂の溜池に星を投げ込もうかと思ったといいます。
624 :
岡崎久彦:02/07/22 21:39 ID:ubgmFBNo
星は、生涯を通じて、上流階級、士族階級には傲岸不遜(ごうがんふそん)でしたが、自
分の結婚に際しては母と嫁との折り合いを考えて畳屋の娘を貰(もら)うなど、庶民の情
けのある人でした。若い頃から終始陸奥が世話をみて、英国にも留学し、日本人で初めて
英国の弁護士という栄誉ある資格を得て、帰国後、法律事務所を開いて成功します。
星は自由党に入り、知識階級ぶった改進党を嫌悪します。実は、板垣も陸奥も改進党嫌い
でした。改進党は結党に際して自由党の了解を得ようとして、自由党は剛直な正義派だか
ら、穏健な人はついていかないので別動隊を作るのだと説明したのに対し、板垣は「我々
を猟犬としてその獲物を取ろうとするのか、狡猾も甚だしい」と面罵し、改進党側は一言
もなかったといいます。これが自由党と改進党、進歩党、後には政友会と民政党の対立の
歴史的な源です。
板垣が自由党を解党した時、独り解党に反対し、その後も私財を投じて自由民権運動の火
を細々と守ったのは星です。また、第二回議会の衆議院議長として、大選挙干渉をした松
方内閣を苛(いじ)め抜いて潰(つぶ)したのも星ですし、代わった伊藤内閣では内々陸
奥と呼応して条約改正、日清戦争の準備に協力をしました。隈板内閣ができると、駐米公
使だった星は、東京の許可も待たずに帰国し、外相のポストを要求しますが、大隈が星を
警戒して断ると、今度は旧自由党系を分離させて隈板内閣を潰します。そして、その後の
山県内閣では、政府と協力して日露戦争の準備をする中心的役割を果たし、次いで伊藤政
友会内閣にも実力者として入閣しますが、汚職の疑いで辞職します。
星は庶民出身として反骨精神の権化でしたが、他面、金銭を卑しむ士道とは無縁の人であ
り、臆面もなく金を集め、腐敗政治家の代表のように思われ、これを憤った壮士に刺殺さ
れます。
しかし、彼の死後残ったのは借金だけで、私財は全く貯えませんでした。あくまでも、主
義と信念に徹した人でした。
625 :
卵の名無しさん:02/07/22 21:58 ID:QutxXs17
>618
統領さまって、ここの会社は韓国系なの?
626 :
卵の名無しさん:02/07/23 00:08 ID:yIp5/7g0
ろせふぃん なんで売らないの?
東和売りまくってるよ。
627 :
卵の名無しさん:02/07/23 05:25 ID:z8TFnNqi
株価が暴落しそうな感じです。
>>627 上げ底がそんなにもたないよ。
刹那のバブル快楽ヨ
>>627 >株価が暴落しそうな感じです。
ここだけではない。
ゾロ株はすべて。
ユーザーの思惑とは乖離した行政操作の限界。
630 :
卵の名無しさん:02/07/23 08:09 ID:h4TcHfPg
東〇の社長みたいに社長がポケットマネーで社員に安い給料の埋め合わせするって話はどうなったの?
沢○では、統領さまが社員の心の隙間を埋め合わせます。
632 :
卵の名無しさん:02/07/23 20:39 ID:6xF3f8ua
宗教団体なのか?
633 :
岡崎久彦:02/07/23 20:53 ID:1vwuQWzR
百年の遺産-日本近代外交史−18
【小村寿太郎の登場】 強烈な国権意識と度胸の良さ
小村寿太郎という人物を知ることは、戦前日本の指導者の一つの型を知ることにもなりま
す。まず第一に大秀才でした。かつての日本では、若い頃から周囲の誰もが「あいつにだ
けはかなわない」と思うような大秀才を皆が尊敬し、社会のトップになるまで皆が推すの
が普通でした。
新井白石から、戦前の外相幣原喜重郎、重光葵、東郷茂徳までそうでした。むしろ、戦後
日本の反エリート風潮の方が、日本の伝統にも世界でも、あまり例のない特異な現象です。
現在の東京大学の前身である開成学校には、全国300余藩から推挙された若者達が集ま
りましたが、小村は飫肥(おび)藩からただ1人選ばれて入り、その中で50名選ばれた給
費生となり、また、初めての省費外国留学生の中の法科4名の1人に選ばれ、ハーバード
大学に留学します。
開成学校時代に書いた英語の文章が最近アメリカの図書館で発見されましたが、日本が血
を流すことなく明治維新で封建制を廃したのは英仏の歴史と較べても特筆すべき成功であ
り、それは国民の封建領主への忠誠心よりも愛国心の方が強かったからだと論じています。
英語といい、自らの体験に基づいたその論旨といい、20歳前後の若者とは思えない立派
な文章です。
第二は、強烈な国権意識です。既述のように外務省の局長でありながら、クビを覚悟で国
辱と思った条約改正案をロンドン・タイムズに洩(も)らして、これを葬(ほうむ)ったのは
小村でしたし、日清戦争の際「よしっ、この俺が戦争を始めてやろう」と、訓令の到着を
待たず北京の公使館の旗を降ろして引き揚げてしまったのも小村です。そして常に近衛篤
麿、杉浦重剛などの国粋主義者の支持を背後に持っていました。
634 :
岡崎久彦:02/07/23 20:54 ID:1vwuQWzR
政治思想も、民主主義よりも国家政策本位です。当時は議会政治の勃興(ぼっこう)期です
が、「こう政党屋ばかりできては仕方ない。何か中立のしっかりしたもの」が欲しいと言
い、当時高級官僚のお決まりのコースは政党入党(にゅうとう)でしたが、大隈重信総理か
らの誘いを「暑いのに入湯(にゅうとう)などは真っ平」と断っています。
第三に、これも江戸時代以来の日本知識層の風(ふう)として、辺幅(へんぷく)を飾らず、
つまりバンカラでした。小村の貧乏は本人の責任でなく、親の借金を引き継いだためでし
たが、家具のほとんどない家に住み、夏も冬も着古しのフロック・コート一着だけで、昼
食時には袖のほつれ糸を鋏(はさみ)で切るのが習慣でした。夏は暑いだろうと訊(き)かれ
ると、貧乏していると暑さを感じないと答えたといいます。小村の度胸には天性のものも
ありましょうが、これ以上失うものはないという環境もあったでしょう。
小村が日本外交に登場する頃、東アジアの情勢は激変期を迎えていました。その引き金は
日清戦争で、それまで「眠れる獅子」と思っていた清国が小国日本にあっけなく負けたこ
とです。
これをみた帝国主義列強が、これは東洋史では何度も使い古された言葉ですが、それなり
に正確なので使いますと、「死屍に群がる禿鷹(はげたか)のように」清国に襲いかかった
のです。日清戦争の翌年、ロシアは李鴻章を買収して、シベリア鉄道の満州通過と鉄道を
守る駐兵権を獲得し、その翌年ドイツが膠州湾を占領して租借権を認めさせたのに乗じて、
大連、旅順を租借します。ウィッテの回想では、もし清国が同意しなければ、ロシア軍は
行動を起こしてどのみち占領しただろうといっています。するとフランスは広州湾を租借
し、英国は威海衛と九竜半島を租借します。
635 :
岡崎久彦:02/07/23 20:54 ID:1vwuQWzR
日本はまだ、到底列強と争う力はなく、わずかに台湾の対岸の福建省を他国に割譲しない
ことを約束させます。ちなみにアメリカは、その年の大統領選挙のスローガンとして清国
の領土保全政策を掲げますが、選挙後は列強と競って三又湾に貯炭所を求めます。しかし、
それが日本の勢力圏である福建省なので、日本に婉曲に断られて、かえって米国の原則の
一貫性を傷つけないですんだ、という経緯があります。
ここに至って、ついに清国も目覚めます。光緒帝は明治維新にならった変法運動を始めま
すが、これは「百日維新」に終わって、かえって政治の実権は西太后に移ります。他方、
民衆による排外運動も当然起こって、団匪(だんぴ)が跳梁(ちょうりょう)し、外国人の生
命財産を脅(おびや)かしたので、列強は軍艦から水兵を揚げて、これを救おうとしますが、
これに対して西太后の朝廷は、こうなっては「かりそめに生き延びて恥を万古にさらすよ
りも戦って雌雄を決する方が良い」と諸外国に宣戦を布告します。これが北清事変です。
この時、孤立無援の北京城内の外国人は、日本の柴五郎中佐の指揮するわずかな数の義勇
兵で生き延びました。そして、連合軍が北京に入城した際、「北京篭城(ろうじょう)の功
績の半ばはとくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と公正な発言をして日本に讃辞
を送ったマクドナルド英国公使は、後に駐日公使となり、日英同盟の推進のための力とな
ります。
地理的に最も近い日本は、一個師団をおくりますが、白人兵の暴行掠奪(りゃくだつ)が横
行する北京市内で、日本軍は規律厳正で日本軍管轄区に大勢の市民が流入し、また、北京
の家々には暴行を避けるために日の丸が掲げられ、師団長がこれを禁止しなければならな
かったほどでした。
636 :
岡崎久彦:02/07/23 21:05 ID:quLPR7OE
百年の遺産-日本近代外交史−19
【ロシアの東進と日本】 意図見抜いて行動する小村
当時の日露の国力の差を考えると、日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰でした。
当時の鉄や鋼の生産は、日本はロシアの30分の1ぐらいでした。真珠湾の前にウィンス
トン・チャーチルが松岡洋右外相に対して、鋼の生産が700万トンしかない日本が合計
2千万トン生産する英米と戦争できるだろうかと忠告したのと較べても、そのまた10倍
の較差です。陸軍の兵力は、ロシアが日本の約十倍でした。
それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかな
いと覚悟を決めたのは、結局はロシアの意図を正確に把握していたからです。北清事変を
機に、ロシアは満州に進撃します。1900年8月にはチチハル、9月には長春、吉林、
10月1日には奉天を占領して全満州を制圧します。ロシアは、満州を永久占領する意図
のないことを公式文書で声明しますが、小村寿太郎駐露公使は、早くも9月24日の電報
で、「ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう」と分析し、報告して
います。
実は小村はそれよりも早く行動を起こしています。ロシアが満州進撃を開始した7月20
日に、この際日露両国で、韓国と満州がそれぞれの勢力範囲であることを認め合うべきだ
と、本省に意見具申して、10月には自らヤルタに保養中のウィッテを訪れて、それを説
得しようとします。
つまり、ロシアはどうせ満州を取る気なのだから、取ってしまう前のこの時期に、それを
認めてやって、代わりに日本による韓国の自由裁量権を取ろうということです。小村の冷
徹なパワーポリティックスとそれを実現しようとする思い切った行動力の面目躍如たるも
のがあります。
637 :
岡崎久彦:02/07/23 21:06 ID:quLPR7OE
日露戦争の後になってみれば、それはロシアにとって良い取引だったでしょうが、当時の
ロシアは弱小日本など相手にしません。ウィッテの反応は、平たく言えば、ロシアは満州
を取ろうと思えば何時でも取れる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合する
と韓国は隣接地域となるのでロシアの方が日本より大きな利害関係を持つようになる、と
いう返事でした。
ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、次は韓国を
取りにくる、と見極めてロシアと戦うしかないと臍(ほぞ)を固めるのです。これが「満韓
交換論」から「満韓一体論」への転換です。
戦後の史論の中には、ロシアにそこまでの侵略的意図はなかったという論もあります。た
しかにロシアの公式発言だけ引用すればそういう立論も可能でしょう。しかし、そういう
作業は無意味です。ロシアの中央アジア侵略の歴史では、英国から咎(とが)められる度に
永久占領の意図もなく、それ以上進む意図のないことを確約しつつ、結果はどんどん進撃
して併合しています。
ロシアの意図は、普通の帝国主義的発想と、極東の地図を見ればわかる話です。ロシアと
いう国はよくよく因果な国で、西も東も大洋への出口が閉ざされています。ピョートルが
やっとバルト海に出ても、その先にはデンマーク海峡があり、黒海北岸、東岸を制圧して
もダーダネルス海峡があります。東は千島、北海道から対馬に至る日本列島に出口を抑え
られています。ウラジオストクの出口を扼(やく)する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、
というのはツァー(ロシア皇帝)も含めてロシア側が陰に陽に洩らしているところでした。
日本の心配はそれだけではなかったでしょう。もとより文書に残るような公式発言にはあ
り得ないことですが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮を取られたら、次は北海道も対
馬も取られると思っていました。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後
は、いずれそれが正確な判断となったでしょう。
638 :
岡崎久彦:02/07/23 21:06 ID:quLPR7OE
もちろんロシアは、英国が干渉してくることは十分覚悟していたでしょう。しかし、すで
に日英同盟も結ばれ、日露戦争も始まった後で、ウィッテは英国に対して、対日講和条件
として、満州、朝鮮の併合はもちろん、「日本は永久に戦闘力を失わねばならず、太平洋
沿岸のロシアの優越は保障されねばならない」と探りを入れています。強国ロシアの隣で
無防備となるということは、問題の決着でなく、始まりです。「太平洋沿岸のロシアの優
越のため」必要な北海道、対馬などの運命は、ロシアの手に委(ゆだ)ねられるわけです。
この強大かつ危険なロシアに勝つためには、極東がロシア中心部から遠く離れているとい
うロシアの弱みをつくしかありません。それは完成間近で輸送能力も限られているシベリ
ア鉄道で遥かに送られてくるロシア軍が十分に増強される前にたたくことです。事実、も
し開戦が半年遅れていたら、日本の勝ち目はなかったでしょう。
開戦時の小村外相の粒々の苦心が、早く交渉を打ち切って戦争に持ち込むことにあったの
はこのためです。
639 :
おい ゾロ屋:02/07/23 21:09 ID:vzpXwJQ/
quLPR7OE あまりに痛すぎるぜ、どこのメーカーだい?
640 :
岡崎久彦:02/07/23 21:16 ID:axT0dbfb
おまえら、下衆とは関係ない。
641 :
卵の名無しさん:02/07/23 22:28 ID:yIp5/7g0
>639
うちの会社では沢〇の社長本人だというのがもっぱらの噂
642 :
卵の名無しさん:02/07/23 22:39 ID:WVF9a6L0
ありゃりゃ 御見逸れしました<m(__)m>
そこまで天下の大メーカーのS井製薬の統領様が激痛に悩んでおられたとは!!
統領さま、御心痛
644 :
卵の名無しさん:02/07/24 03:54 ID:ygxTuTkt
どうでもいいからポケットマネー提供でイメージを上げてくれ。
東〇の社長を見習いましょう。
645 :
岡崎久彦:02/07/24 05:57 ID:mYDSJbuI
百年の遺産-日本近代外交史−20
【日英同盟英国の思惑】 英国海軍の負担軽減が狙い
19世紀の世界の覇権国英国は、そのほとんどの期間「光輝ある孤立(スプレンディッド
・アイソレイション)」を守ってきました。その孤立を終わらせた最初の同盟国が、非白
人の弱小国日本でした。
どうしてそんなことができたのか、これを英国の側からトラヴェリヤンの『英国史』は淡
々と説明しています。「トラファルガーの戦いから百年間英国に拮抗(きっこう)する海軍
を作った国はなく、ヨーロッパのバランス・オブ・パワーは英国の力を必要とせず維持さ
れたが、二十世紀に入って、世界の軍事バランスは誰か確実な友人を必要とさせた。米国
が最も望ましいが、米国は孤立主義の国是があって不可能であり、そこでロシアの太平洋
岸への進出と中国分割を避けるために日本と同盟した。それは太平洋に大海軍を配備する
必要をなくした……」
これをもう少し詳しく説明すると、英国はそれまで世界のどの地域でも、英国一国の海軍
力で他のすべての海軍力より優越していました。それが光輝ある孤立の基礎条件です。
ところが、極東進出を目指すロシアが新鋭艦をどんどん極東に送るので、戦艦の数だけか
らいうと、英国四隻、ロシア五隻となってしまいました。ロシア側にフランスの一隻が加
わると全く劣勢です。そこで、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)で営々と戦艦五隻を買い揃え
た日本との同盟が解決策となったわけです。逆にここで、日露協調を先に作られると、英
国の覇権は極東では完全に失われることになります。
日英同盟が英国の閣議で討議された時、ビーチ蔵相が「この条約の利益は、英国海軍の負
担を軽減することにある」と言った通りです。
646 :
岡崎久彦:02/07/24 05:57 ID:mYDSJbuI
三国干渉の時に、大英帝国の防衛に貢献できない限り英国との同盟は無理だと言った陸奥
の理論に伊藤が従ったのが臥薪嘗胆時代の大軍拡だと言いますが、それがまさに効果を表
したのです。
戦時予算である明治28年の海軍費が1300万円だったのが、平和になった29年には
3倍の3800万円となり、翌30年には、7600万円と、そのまた倍になっています。
大増税もしましたが清国から取った賠償金の9割は直接間接に軍備に使っています。清国
が本来対日戦に使うべきだったお金を日本が使い、結果として、ロシアの満州併呑、ひい
ては中国の分割を防いだ、ということになります。外交の裏話としては、ドイツから日英
独同盟の示唆があったのが契機となったのも事実ですが、大きな流れとしてロシアのアジ
アにおける膨張を抑えようという日英の国家戦略が噛(か)み合った結果でした。
問題は、むしろ日本側にありました。英国の場合は、長い孤立政策の惰性を離れることに
若干の心理的抵抗があったという程度ですが、日本の場合はロシアを仮想敵とする同盟を
結んで、この恐るべき強大国とはっきり敵対関係に入るかどうかの問題でした。伊藤博文
などの元老はとくに慎重論で日露協調を主張しました。これについて、桂太郎首相は「親
露論はロシアに敵対することは不可能だという考えに基づくものであるが、それは一時の
平和論であってロシアは満州を取れば韓国にも手を出し、いずれは日本と衝突せざるを得
ない。さもなくばロシアのいうがままに屈従するしかない」と観察しています。やはり、
どうせ戦争せざるを得ないのなら、今するしかない、という小村の判断と同じです。
伊藤は日露協調を諦(あきら)めずロシアを訪問しますが、その留守に、小村は歴史的な文
章である小村意見書を元老会議に提出して全員一致で合意させます。意見書は、ロシアの
侵略的意図を的確に分析し、他方大英帝国に同盟することの政治的、経済的、軍事的(特
に海軍力)の重要性をあますところなく説き、幕末以来のアングロ・サクソンかスラブか
の選択に最終的な決着をつけます。これはその後、大東亜戦争で中断されますが、日本の
親英米路線というオーソドクシーをはっきりと掲げた大論文です。
647 :
岡崎久彦:02/07/24 05:58 ID:mYDSJbuI
日英同盟は1902年1月署名され、2月にその内容が公表されます。
その頃ロシアは表向きは撤兵の代償ということを口実にして、満州を実質的にロシアの支
配下におくさまざまな条約の締結を清国側に迫りますが、当時清廷はすでにロシアの脅威
に目覚め、ロシアの要求をその都度日本に通報し、小村はその度に助言してロシアの圧力
に抵抗させています。そして、満州経済を露清銀行の支配下におく執拗(しつよう)な要求
を清国が断固拒否した次の日、ロシアは日英同盟締結の通報を受けています。小村外交の
勝利です。
ここでロシアは一応無条件で満州撤兵を約束せざるを得なくなります。しかし、ウィッテ
が「撤兵は実際上不可能であり、自分ももはやそれを勧告し得ない。撤兵をゼロに等しく
するまで曖昧(あいまい)にする便法がロシアにとって有利である」と言っている通り、約
束を守らず奉天に居座り、かえって兵力を増強します。
ここに至り、日露間に外交交渉による満州問題解決の余地はほとんどなくなってきました。
地下室にはパソコンだけを置いてあります。
649 :
岡崎久彦:02/07/24 07:01 ID:LDpwoiwn
百年の遺産-日本近代外交史−21
【いよいよ日露開戦】 英米が資金と情報で援助
日本は、初めから独りで、ロシアに撤兵を要求しようとしたのではありません。英、独な
どと共同でロシアに申し入れを試みたのですが、両国とも満州については、もう打つ手は
ないと諦めて乗ってこないで、日本が腹を決めて単独でロシアに撤兵要求をしている状態
でした。
米国は清国の領土保全を宣言していたのですが、満州については、結局頼りになりません
でした。実は、その宣言をした国務長官のジョン・ヘイ自身、たった2年前の宣言を守る
気はありませんでした。
ヘイはセオドア・ルーズベルト大統領への書簡で、「我々は、満州については、ロシアに
いかなる反対の態度をもとっていない。逆に、北清におけるロシアの例外的な地位を認め
ている」と書き、ロシア側に「米国の経済活動の自由が満州で保障されさえすれば、米国
政府は満州に関するロシアの行動を妨げぬであろう」と明言しています。
それから30年後の満州事変では、日本が作る既成事実は一切認めないという強硬態度を
取ったのと大きな違いですが、所詮は当時のロシア帝国と満州事変当時の日本との力の差
でしょう。国際政治は畢竟(ひっきょう)は力の世界です。
ただ、ルーズベルト大統領は、「満州におけるロシアの行動に私が怒っていることをロシ
アが知ることに私は何も異存はない」、「満州問題では、私は国民が支持する極限までい
きたい」と洩らして終始日本に同情的でした。しかし、その「極限」は明らかで、ヘイが
判断していた通り、領土保全宣言の実行はとうてい上院の支持を得られない状況でした。
もう日本は単独でロシアの進出を阻止するしかありません。
650 :
岡崎久彦:02/07/24 07:02 ID:LDpwoiwn
1903年秋にはシベリア鉄道は普通貨物の取り扱いを停止して軍事輸送に専念します。
軍事常識では戦争秒読みの段階です。11月には木材伐採という名目でロシア兵が韓国の
竜岩浦を占拠します。これに先立ち、小村は長文の意見書において、万難を排しても韓国
はその一部でもロシアに譲らないということを御前会議で決めていますから、もうそれだ
けで開戦理由はあるわけです。
1904年1月のヘイの日記は「ロシアは日本に何も譲歩しないと決意し、今や日本を粉
砕する時期がきたと考えている」と記しています。
1月末にはそれまで慎重派だった伊藤博文が、自ら筆を取って「ロシアの侵略的意図は明
らかであり、一時的妥協をしても、いずれ衝突は避け難く、力不足と考えて一時の小康を
得るか、国運を賭してロシアの侵略を阻止するかの二者択一しかない」と判断を下し、つ
いに小村などと共通の認識に達します。
それでも明治天皇は「もし失敗したら(国民と祖宗の霊に)申し訳ない」と繰り返され、最
後まで決断をためらわれますが、ロシア艦隊が旅順を出港したとの報もあり、ついに2月
5日に海軍発進令をご裁可になり、同日交渉の断絶を電訓し、2月10日に宣戦の詔勅が
発せられます。
交渉断絶と同時に、小村は対英米工作のため、米国にはハーバードの1年後輩で同じ下宿
に起居した金子堅太郎、英国には伊藤の女婿の末松謙澄を送り、政府、世論の啓発を命じ
ます。
しかし、戦争前はロシアの満州侵略に手の打ちようがないと傍観していた英米は、日本が
戦争の決意を固めると、自(おのずか)ら全面的に支持します。
651 :
岡崎久彦:02/07/24 07:03 ID:LDpwoiwn
何より貴重だったのは、同盟国としての英国の援(たす)けでした。条約の規定で日本がロ
シア1国と戦っている間は、英国は中立でしたが、戦争以外のあらゆる方法で日本を支援
してくれました。戦艦の建造には年月がかかるので、完成した戦艦を日露どちらが買い取
るかは直接軍事バランスの帰趨を決します。英国の造船所で建造中の2戦艦をロシアが買
おうとすると、英国は即金で英海軍用に買ってしまいます。
イタリアで重巡二隻建造の情報をつかんだ英国は、日本にそれを知らせ、日本はロシアよ
りも一日早く手に入れます。これが日進、春日です。
完成は1月8日で、ロシアの地中海艦隊は開戦と同時に撃沈か拿捕(だほ)しようと追尾し
てきます。そこへ英艦アルフレッド号が割って入って日本艦を護(まも)ります。そしてス
エズ運河では、英国当局が日本艦を優先的にインド洋に送り出しました。日進、春日の横
須賀到着は、まさに戦争開始の時で、まるで凱旋(がいせん)将軍を迎えるような国民的歓
迎を受けています。
英米の援助で、特に有り難かったのは資金と情報の援助でした。高橋是清日銀副総裁が起
債のため英国に派遣されましたが、大国ロシアに挑戦する日本債が容易に売れるはずもな
く、はじめは苦労しました。しかし、ロシアのユダヤ人弾圧に反発していたアメリカのユ
ダヤ資本が協力してくれて、英米の市場がそれぞれ半分ずつ引き受けて起債しました。
情報については、日英同盟が成立すると英国は日英軍事協議を提案し、情報の交換に特に
力を入れました。七つの海を支配している英国の情報が、それまで孤立していた小国日本
にとって、どれだけ貴重だったか想像にあまりあります。
日本は、「お金と情報」という戦争に不可欠でありながら、日本の一番弱いところを英米
に補って貰(もら)いながら戦争したのです。
652 :
卵の名無しさん:02/07/24 07:42 ID:ba7weSNM
この荒らしは地下室の怪に激しく反応するという噂は本当みたいですね。
なにか、この荒らし作為的なものを感じる。
653 :
古森義久 ◆kRFqbI1c :02/07/24 12:26 ID:sq4FPdCO
作為はないだろう、前から書いているように
テキストの処理に使っているが、何か?
654 :
古森義久 ◆kRFqbI1c :02/07/24 12:27 ID:sq4FPdCO
487KB
655 :
卵の名無しさん:02/07/24 14:15 ID:FYp8Jpuf
地下室の怪人? さすが ゾロだね
656 :
岡崎久彦:02/07/24 17:08 ID:Je7Nj/id
百年の遺産-日本近代外交史−22
【黒木軍の猛進】 ロシア軍撃破、世界が興奮
日露戦争で何より大事なことは、一日毎に増えていくロシア軍が増える前に早く叩くこと
であり、そのためには、日本軍を少しでも早く満州に送り込むことでした。従って最初の
作戦は朝鮮半島西側の補給路を確保することにあり、開戦早々海軍は仁川沖、旅順沖のロ
シア艦隊を攻撃し、旅順港内に退避させます。
その次は、旅順湾口の狭い水路に老朽船を沈めて出口をふさぐ旅順港閉塞作戦です。湾口
を守る重砲火の中をくぐる危険な作戦ですが、必要人員の百倍の志願があり、中には血書
した者もいました。兵の愛国心がここまで高かったのです。
また、回が重なると当然経験者を重用しようとすることになりますが、東郷平八郎連合艦
隊司令長官は「将校は良いが、兵は同じ人間が行ってはならない」と厳命します。危険な
任務にはエリートがつくべきだというノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)の
精神です。
閉塞作戦自体は失敗しますが、ロシア艦隊は敢(あ)えて港外に待機している日本艦隊に戦
いを挑まず引きこもってしまうので、日本側の軍事輸送は順調に進み、三月には黒木為
(*ためもと)の第一軍を仁川に、五月には奥保鞏(やすかた)の第二軍を遼東半島に上陸さ
せます。
鴨緑江の北岸に陣を築いたロシア軍は、日本軍の到着は5月中旬、兵力は2万と予想して
いましたが、4月中旬には早くも4万の黒木軍が到着し、5月1日に渡河作戦を始めます。
そして、有利な地形に據(よ)って守るロシア軍2万を激戦の末わずか1日で撃破します。
657 :
岡崎久彦:02/07/24 17:09 ID:Je7Nj/id
クロキはクロスキーというポーランド系だという噂(うわさ)も流れ、ロシアでは、クロキ
は混血でロシア人の血が流れているから優秀なのだ、と宣伝したといいます。黄色人種は
劣等人種であり、白人並みの能力を持つはずがないというのが常識だった時代です。
満州に侵入するが早いか、黒木軍は、鳳凰(ほうおう)城、摩天嶺(まてんれい)と、まだ大
本営が作戦を予定していない要衝を次々に占領します。この速い動きは時間と競争のこの
戦争で、敵の準備不足を衝(つ)く絶大な効果がありました。
でも遼陽(りょうよう)の前の弓張嶺には、1万7千の露軍が堅陣を布いていて、これを突
破しないと遼陽の大会戦に間に合いません。ところが、大本営からは砲弾の補給は当分見
込みなしといわれます。砲弾なしの攻城となると、夜陰にまぎれて敵の至近距離に迫って
白兵戦をするしかありませんが、小人数ならともかく、師団規模の夜襲など暗闇で兵の指
揮も困難で、個々人の義務感と勇気に期待せねばならず、世界の戦史でも例のないことで
した。
黒木軍は各将校毎に分担を決め、夜毎に持ち場に潜入して、地形を覚え込ませました。攻
撃の晩は群がる蚊を叩くのも控えつつ1万2千の大軍が粛々と敵の守る山頂を目指しまし
た。戦闘は3時半に始まり、死闘の末、午前11時半には山頂に日章旗を掲げました。世
界戦史に残る弓張嶺の大夜襲です。
658 :
岡崎久彦:02/07/24 17:09 ID:Je7Nj/id
この勝利は、有色人種が近代兵器を用いて正面から白色人種を圧倒した最初の戦闘として
たちまち世界的反響を呼びます。ロンドン・タイムズは、日本軍の勇気、組織、指揮は賞
讃の言葉もないと讃えました。黒木の名は世界中に轟(とどろ)き、メキシコで最大の鉱山
を「黒木将軍鉱」と名付け、カナダでは新設駅に「黒木駅」、新設郵便局に「黒木郵便局」
と名付けました。
黒木軍に従軍した英国のハミルトン中将は、日本軍は「赤子(あかご)のように純粋でライ
オンのように勇敢で、祖先と天皇に対する義務を果たすことだけを考えている」「10回
でも賞讃したい」と言っています。そして「戦う国家以外から偉大な芸術が誕生したこと
は一度もない。私が戦争が芸術の基礎だというのは、それが人類の徳と魅力の基礎だとい
う意味である」という英国の芸術批評家ジョン・ラスキンの言葉を引用しながら、「良い
鉄は釘にしない。良い人は兵隊にならない」と考える中国が、今どういう状態になってい
るかと考え、日本が武士を中心とした精緻な文化を築き上げたことに注目して、日本の文
武の道の教育に感嘆しています。そして「英国の女性は日本の女性の10分の1も民族の
伝統精神を子供に伝えていない」と祖国英国の将来を憂(うれ)いています。
戦後の日本の教育が、占領時代に制定された教育基本法以来、伝統精神を意図的に排除し
ていますが、かつては日本はこういう国だったのです。
日露戦争で発露した日本人の愛国心をみて、自らの国を憂いたのは、英国人だけではあり
ません。「秋風秋雨人を愁殺す」の句で有名な秋▲女史は、出征兵士を送る小旗を振る子
供達の可愛らしさをみて「私はうらやましさのあまり死にたくなった」とまで言い、また
同じく日本の女子教育を讃歎(さんたん)しています。
そして日本人がこんなにも団結して軍人を大事にするからこそ、軍人は生命を捨てて戦争
に赴くのだと、兵隊が蔑視されている中国を歎(なげ)いています。これもまた人民解放軍
に属することが誇りであり特権となった革命後の中国を思うと今昔の感があります。
●=木へんに貞、▲=僅のにんべんを王へん
659 :
岡崎久彦:02/07/24 17:11 ID:Je7Nj/id
百年の遺産-日本近代外交史−23
【遼陽、旅順の戦い】 死闘の連続も涸れぬ愛国心
戦闘はすべて血みどろの戦いでした。両軍の兵士とも、国と自らの名誉のために死を賭し
て戦うのが時代の精神でした。
遼陽(りょうよう)の大会戦は22万5千の露軍に対する13万4千の日本軍の攻撃で始
まります。数からいって無謀な戦いのようですが、敵の数は時間と共に増えるのですから
日本側としては早期決戦以外に選択の余地はありません。
しかし、正面攻撃はことごとく失敗し、日本軍は次第に敵に押される形勢となりました。
軍神橘中佐の奮死もこの時です。この難局を救ったのは、再び東の方から駆けつけた黒木
の第一軍でした。黒木は敵の裏をかいて素早く太子河を渡り、要衝饅頭山(まんじゆうざ
ん)に向かいます。黒木渡河の報を聞いたロシア軍は、饅頭山の死守を命じると同時に主
力を東に転じたので、これで正面の日本軍は救われます。
ロシアの大軍が麓に着いた時は、またも黒木は一足早く饅頭山を占領しています。これに
対するロシア軍の砲撃は凄まじく、ハミルトン中将は「饅頭山は平らに崩され、弓張嶺の
勇士達は全員生き埋めになるかと思われた」と書いています。その後は山頂を取りつ取ら
れつの肉弾戦の繰り返しで、日本に再び取り返された時に、ロシア側は黒木の戦いぶりを
みて大事をとって撤退します。
もし東部正面で敗れると、補給路が遮断される恐れがあったからですが、もともとロシア
側の大戦略は遅滞作戦です。敵に損耗を強(し)いながらチチハルまで引き寄せて殲滅す
れば良いという考えが基本にありますから、危ないことはする必要はないわけです。
660 :
卵の名無しさん:02/07/24 23:31 ID:QN5yYHAr
もうムキになってるね、このガイキチ荒らし。
661 :
岡崎久彦:02/07/24 23:34 ID:yZ1CoIeG
くず相手にムキになるかなぁ
662 :
岡崎久彦:02/07/24 23:40 ID:R/2ml4gW
よく、人生がつまらないとか希望がないという相談に対して、「勉強
がんばったり、何か目標もてば?」とかいうハゲマシをもらうことがあります。
でも、それができないから悩むんじゃないでしょうか。
そして、やる気のでない、目標をもてない自分にまた腹が立つ。
そんな悪循環。
最近、大事な用事をうっかり忘れてしまったり勘違いしてたり、どうでもよくなって
もういいやって思っちゃったりってことが多いです。
そしたらガコーの先生に怒られました。いいかげんにせいと。
なんでも病気のせいにはしたくないけど、私がただ怠惰なだけで情けない
人間なだけなのかもしれないけど、でも病院にいきたくて、カウンセリング受けたくて
しょうがありません。悪いのは私なんです。でもどうしようもなくてどうにもできない。
なんだか、何がいいたいのかわかんないかもしれませんが、ようするに、
自分に非があるのは十分わかってるけど、それを精神的にきてる何かが原因で
治せないっていうかそんな感じで、悪循環になってて希望失いそうってこと。
こんな人って私だけでしょうか。情けないです。。
663 :
卵の名無しさん:02/07/24 23:42 ID:QN5yYHAr
地下室スレッド作ろう!!
664 :
卵の名無しさん:02/07/24 23:53 ID:MPNrk9Bq
超一流地下室の怪人軍団
665 :
岡崎久彦:02/07/25 00:01 ID:sZ/Kcsg7
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
自分は自分、他人は他人
500回くらい声に出して言えば、
悩みは減るであえろう。
666 :
卵の名無しさん:02/07/25 00:16 ID:4en2w1IB
あなたもしかして怪人?
667 :
岡崎久彦:02/07/25 00:37 ID:sZ/Kcsg7
症状:常に疲れていて不安感があり、夕方になるとマシになる。
そして夜眠れない。
初診 予診30分+院長30分
くすり セルシン,ドグマチールが出た。
心理テストを渡される。翌日、やって送る。
2回目 院長30分
心理テストの結果を見せられる。
精神的に混乱している、対人関係が苦手で、内向的、引きこもりの性向があるとか書いてある。
んで、あなたの場合イメージ療法がいいでしょうとか言われる。
それには1回40分あたり料金が5000円弱かかるそうだ。
「他の先生は15000円とっている人もいる、ここは安い」と強調するうえに、
「明日、あさってと早速受けてみなさい、そのあとは週一回ずつでいいから」と
やたら急がせる印象を受けたので警戒し、予約は来週にしておいた。
普通こういうものなんでしょうか。
もうちょっと薬+普通の診察で診てくれるのかと思ってたのですが。
668 :
岡崎久彦:02/07/25 01:22 ID:pCDYonEa
日本側としては、負けたら後がない、薄氷を踏む勝利でした。日本軍の損害2万3千、撤
退していく露軍を追う力はもう日本側には残っていませんでした。
仙台の第二師団がガダルカナルで壊滅するまで、日本最強師団と言われるのは、この日露
戦争と後の満州事変の勇戦のためです。
旅順の戦いこそ最も悲痛なドラマでした。日本国中が一喜一憂して見守る中で、130昼
夜の肉弾攻撃が行われ、死者だけで1万5千、全部で6万の犠牲者を出した戦闘です。
あまりの悲惨さに与謝野晶子が、戦陣の弟に向かって『君死にたまふことなかれ』と呼び
かけたのもこの時です。当時の文学界でも、非愛国的という批判はありましたが、晶子に
対する社会的迫害はありませんでした。
軍国主義時代や、すぐマスコミの非難にさらされる現代の日本に較べて、いかに明治の日
本が溌剌としていたか驚くに価します。他方130日の死闘を戦い抜くということは、前
線の将兵や国民一般の間で最後まで愛国精神の泉が涸れることなしに到底できることでは
ありません。
情理兼ね備う、という言葉があります。「一(ひ)と足ふみて夫(つま)思ひ、ふた足国
を思へども、三足ふたたび夫思ふ、女心に咎(とが)ありや」と歌った大塚楠緒子の詩こ
そ、情理二つながらに言い尽くしています。
与謝野晶子は、その後大正、昭和を通じて、その名を聞くだけで全ての日本の男性が憧(あ
こが)れを持つような女性であり続けました。そして大東亜戦争に際しては「水軍の大尉
となりてわが四郎み軍(いくさ)に往く猛(たけ)く戦え」と歌って我が子を戦場に送っ
ています。硬直した社会の規範やイデオロギーなどに捉(と)らわれず、最後まで自分の
心の赴くままに歌ったひとです。
669 :
岡崎久彦:02/07/25 01:23 ID:pCDYonEa
苦戦の原因は日本側の戦略戦術の拙劣さより、むしろ名将コンドラチェンコが築いた堅城
と彼の指揮下の水も洩らさぬ防備にあったと言えましょう。現に彼の死後、防禦側の士気
は衰えたといいます。名歌『水師営の会見』の中で、乃木、ステッセルの両将軍が「我は
讃えつ かの防備 かれは讃えつ我が武勇」と歌っている通りでした。
通常の方法で何度攻撃しても堅塁は破れず、そのうちにバルチック艦隊が刻々近づいてく
るので、攻撃目標を203高地に変え、7昼夜の言語を絶する死闘でこれを制し、山頂か
らの砲撃で眼下の艦隊を沈めて、連合艦隊にバルチック艦隊迎撃の準備の余裕を与えたの
が戦闘の概略です。
乃木希典は明治天皇崩御の時、見事に古来の作法通り割腹殉死して以来、戦前日本の神、
偶像になります。戦後はその反動で、乃木は妻に自決を強要したという偶像破壊的(アイ
コノクラステイツク)な説まで流れますが、乃木は自決後の夫人の身のふり方にまで配慮
していたことは乃木の遺書に明らかで、夫人が慣れない手で自ら乃木の後を追ったことは
疑いを容(い)れる余地はありません。
乃木の人格の高潔さは、生前からあらゆる証言が一致しています。戦場では兵士と全く同
じ生活をして、満州の厳冬に、他の部屋で暖房を焚くのは許しても、自分の部屋では決し
て焚かせなかったと言います。
長男は南山で戦死し、二男は司令部勤務をさせようという幕僚の配慮も斥けて、203高
地の戦いで戦死させます。当時の市井(しせい)の庶民達は歌っています。
一人息子を と泣いてはすまぬ 二人なくした方もある
670 :
岡崎久彦:
百年の遺産-日本近代外交史−24
【日露戦争の勝利】 非白人世界に大きな影響
1905年3月1日から6昼夜にわたって行われた奉天の戦いでは、ロシア軍は遼陽(り
ようよう)の23万から、もう32万に増えていました。日本側は精一杯の増強と旅順か
ら駆けつけた乃木軍7万を合わせて25万、戦線の長さは100キロに及び、おそらくは
史上最大といえる大会戦でした。
戦いはいずれが勝ちとも言えない力闘でしたが、遼陽の時と同じように日本軍の頑強な戦
いぶりに辟易(へきえき)したロシア軍は、西から北上した乃木軍に包囲されるのを恐れ
て撤退を開始し、あとは猛烈な追撃戦の中でロシア側は戦傷死、行方不明9万(うち2万
は捕虜)、日本側は戦傷死7万の損害を出し、ロシア軍は奉天を明け渡して北に退避しま
した。
形の上では、日本は勝ち続けていましたが、ロシアは軍事的には痛痒(つうよう)は感じ
ませんでした。ナポレオン、後にはヒトラーに勝った戦略で、後退しながら敵の補給線が
伸び切るのを待って勝てば良いわけです。
奉天会戦直後のツァーの御前会議では、海相はバルチック艦隊の勝利に期待し、陸相は歩
兵60個師団が増援可能と述べて、継戦を決定しました。すでに極限まで力を振り絞って
いた日本としては、60個師団増派されては、日本海海戦で勝とうが負けようが、陸上で
は満州はおろか朝鮮半島までロシア軍の進撃を止め得べくもなかったでしょう。
ただ日露戦争では、ナポレオンやヒトラーに対するのと異なる条件がありました。それは
国内の革命機運です。まず旅順の陥落が衝撃を与えました。誰の目にも見える形で、白人
が黄色人種の前に白旗を掲げたのです。